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 子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司

  201−300


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(201)

教育と指導

 私の最大のジレンマ。それは私の説く教育論など、だれも求めてはいないということ。また社
会的にも一片の価値もないということ。傍観者が見れば、私という物好きな男が、社会のかた
すみで勝手にほえているに過ぎない。しかも私がいくら訴えても、社会は微動だにしない……。
 だいたいにおいて私のようなものが、教育を説くこと自体おこがましい。常日ごろの生活にお
いて、人に教えるようなこと、あるいは教えられるようなことは何一つ、していない。たまたま子
どもを教えてきたというだけだが、それは教えるというよりは、指導。しかし指導は教育ではな
い。よく受験塾を経営しながら教育論を説く人がいるが、それはまるで暴力団の組員が平和論
を説くようなもの。いくら偉そうなことを言っても、どこかチグハグで説得力がない。彼らは教育
など、していない。受験指導をしているにすぎない。
そこで私こう考えるようにしている。教育と指導は別のものである、と。しかしこの二つを分ける
のはむずかしい。そこでさらにこう考えるようにしている。指導は指導して考え、その指導から
生まれるより人間的な指導を「教育」と。が、これでもわかりにくい。一つの例をあげて考えてみ
よう。
 たとえば一人の青年が自動車教習所へ通ったとする。その自動車教習所では、生徒に車の
運転のし方を教える。運転ができるようにするのが、その目的だ。で、その青年が運転できる
ようになったとする。そこで問題は、その青年はその教習を受ける段階で、何かを学んだかと
いうこと。結論から言えば、何も学んでいない。学んでいないから、それは教育ではない。……
となると、またわからなくなる。そこでまた視点を変えて考えてみる。
 一人の幼稚園児が一生懸命、穴を掘っていたとする。そこで私が「何をしているの?」と声を
かけたとする。するとその子どもが、「石の赤ちゃんをさがしている」と答えたとする。その子ど
もは石は土の中から生まれるものと思っていた。そこで私が「そうだね、きっと赤ちゃんがいる
かもしれないね」と言う。するとその子どもはますます懸命に穴を掘り始める。これは私が実際
経験したエピソードだが、これは教育だ。私は子どもの考えを認め、子どもに考えるヒントを与
えた。子どもは子どもなりの考えで、自分の説を証明しようと穴を掘りつづけた。この段階で、
子どもはまちがっているとか、まちがっていないとかいう判断は、それをくだすこと自体、まちが
っている。
 今、単なる指導を教育と誤解しているケースがあまりにも多い。たとえば受験指導をしなが
ら、それが教育と思い込んでいる教師すらいる。しかし教育と指導は、本質的に異質なもので
ある。どこでどう分けるかは、ここに書いたように、たいへん微妙な問題を含んでいるため、一
概には言えない。が、しかし心のどこかで分けて考える必要はある。でないと、何がなんだか、
わけがわからなくなってしまう。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(202)

いい学校から、いい家庭へ

 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る
親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主
義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家
庭」であり「家族」。こんな家族がいる。
 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。
そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親
は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画
をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、年齢的には中学二年生のとき
に、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。
 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破
壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でも
ふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親は
こう言った。「いえ、私が多少嫌われてもし方ないことです。息子さえいい中学へ入ってくれれ
ば。息子もいい学校へ入ってくれれば、私を許してくれるでしょう」と。このタイプの親の頭の中
には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレているから、私のような
意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出てくるような世界のような
もの。現実と仮想世界が入れ替わり、仮想世界に住みながら、そこが仮想世界だとすら気が
つかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを大切だと思い込んでしま
う。
 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友
だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族
のきずなこそ財産だよ」ということになる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(203)

疑いをいだかない愛

 子どもというのは、絶対的な愛があってはじめて心をはぐくむことができる。「絶対的」という
のは、「疑いをいだかない」という意味。言いかえると、子どもが家族の愛に疑問や不安をもっ
たりすると、その心は確実にゆがむ。たとえば親の冷淡、無視、拒否的態度が日常的につづく
と、子どもはいわゆる愛情飢餓の状態になり、さまざまな不安定症状を表すことが知られてい
る。ぐずったり、反対にイライラと怒りっぽくなったりするなど。そしてそれがさらに慢性化する
と、性格そのものがゆがむことが多い。すねたり、いじけたり、ひねくれたりするなど。がんこに
なったり、いじっぱりになったりすることもある。この段階になると、神経症による症状を訴える
ことも多い。が、それではすまない。こんなことがあった。
 小学一年生の女の子だが、断続的に不登校を繰り返していた。最初は「不登校かもしれな
い」と母親は心配したが、「断続的」という点で、学校恐怖症による不登校とは区別される。で、
ときどきその子を学校へつれていくのだが、母親が教室の中にいる間は、それなりにおとなしく
授業を受けることができる。が、見えなくなったとたん、ギャーッと泣いてあとを追いかけたりす
る。それだけを見れば今度は、分離不安ということになる。が、どうも分離不安の様子とも違っ
た。で、さらに観察してみると、ほかにネチネチと母親に甘えるという症状もあることがわかって
きた。そこで調べてみると、案の定、原因はどうやら下の弟(四歳)らしいということがわかって
きた。赤ちゃんがえりである。こうしたケースでも、表面的な症状だけをみると、判断をまちがえ
る。
 ふつう子どもがわけの分からない症状を示したら、愛情問題を疑ってみる。この赤ちゃんが
えりにしても、本能的な嫉妬心がその背景にあるとみる。下の子どもに向けられた愛情をもう
一度取り戻そうと、子どもは本能的に赤ちゃんを演じてみせる。本能的であるがため、説得し
たり叱ってもムダで、対処のし方がまずいとこじれにこじれてしまう。それこそありとあらゆる情
緒不安症状を示すようになる。その女の子にしても、親たちが下の子ばかりをかわいがるのを
見て、自分への愛情に大きな不安を感じたのだろう。親は「平等だ」というが、平等ということそ
のものが、上の子どもには納得できないのだ。
 ……などなど。これはほんの一例にすぎないが、子どもというのは愛情がからむ問題には、
きわめて敏感に反応する。そういう意味でも、子どもの側からみて、「疑いをいだかない家庭環
境」をいつも大切にする。と、同時に、子どもが見せる症状だけをみて判断すると、子どもの心
を見失う。子どもの心は私たちが思うより、もう少し複雑である。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(204)

愛情は落差の問題

 親が子どもに与える愛情に、絶対的な尺度はない。どの程度、どれだけ深く与えればよいと
いう基準はない。しかし子どもは、その「落差」にはきわめて敏感に反応する。たとえばよく知ら
れた現象に赤ちゃんがえりがある。下の子どもが生まれたことがきっかけとなって、子どもが
急に赤ちゃんぽくなる症状をいう。言葉や言い方そのものが赤ちゃんぽくなったり、おねしょを
したり、指しゃぶりをしたりするようになったりする。(反対に、下の子に攻撃的に出る子どもも
いる。)こういうケースでは、ほとんどの親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっている」
と言う。「だから文句はないはずだ」と。しかし上の子どもにしてみれば、それまで一〇〇あった
愛情が、半分の五〇に減ったことが問題なのだ。つまり子どもへの愛情の問題は、量ではな
く、落差の問題である。
 子どもが赤ちゃんがえりを起こしたら、その症状に応じて、つぎのように対処する。症状がた
いへん重く、複雑な症状を示し始めたら、もう一度全幅の愛情を上の子どもに注ぐ。そして様
子をみながら、少しずつ手を抜きながら、その分、下の子どもに愛情を分け与えていく。症状
が軽く、子どもの自意識でコントロールできるようなら、子どもを説得しながら、平等をつづけ
る。
 また下の子どもに暴力を振るうなど、攻撃的な様子がみられたら、スキンシップを濃厚にして
みる。このケースでも、叱れば叱るほど、逆効果。本能的な嫉妬心が原因であるだけに、叱っ
ても意味がない。ないばかりか、症状をますますこじらせる。
 ふつうはこうした赤ちゃんがえりを起こさないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育
を始める。たとえば上の子が下の子の誕生を楽しみにさせるような雰囲気づくりをするなど。ま
ずいのはある日突然、下の子が生まれたというような状態にすること。子どもの側からみて、
嫉妬するのは当然。また嫉妬がいかに恐ろしいものであるかは、いまさらここで説明する必要
はないと思う。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(205)

愛想は悪くて当たり前
 
 子どもは生後六か月くらいから一歳半にかけて、人見知りする時期がある。見知らぬ人に近
寄られたり抱かれたりすると、ワーワー泣いて抵抗したり、いやがったりする。じっと相手を見
すえることもある。しかしこれはきわめて自然な反応であり、それをおかしいとか、悪いとか決
めてかかってはいけない。この時期をとおして子どもは親との絆(きずな)を深める。(あるいは
もっと本能的な意味があるのかもしれないが、私にはよくわからない。)
 ふつう穏やかな家庭で、豊かな愛情を受けて育った子どもほど、静かな落ち着きを示す。ど
っしりしているというか、態度が大きい。反対に不安定な家庭で、愛情飢餓の状態で育てられ
た子どもほど、反対にヘラヘラとし、見た目には愛想がよくなることがある。一見人なつっこくみ
えるが、その実だれにも心を許さない。許さない分だけ、心は冷たい。あるいは自分がキズつく
のを恐れるあまり、先に自分から相手をキズつけて遠ざかろうとする。たとえば自分が好意を
寄せている相手に、わざと意地悪をして嫌われる、など。どこかものの考え方がゆがんでくる。
私はこのことを、二匹の犬を自分で飼ってみて発見した。
 一匹は保健所で処分される寸前にもらってきた犬。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のも
とで手厚く育てられた犬。これをB犬とする。この二匹の犬はまるで性格が違う。A犬は育児拒
否を経験した犬。一方B犬は愛情をたっぷりと受けた犬。A犬はだれにでもシッポを振るので
番犬にはならない。いつもどこかオドオドしている。一方B犬は忠誠心も強く、見知らぬ人が家
の中へ入ってきたりすると、ワンワンとほえる。態度も大きい。ガムをかんでいたりすると、私
が呼んでも、返事もしない。つまりそれだけ安心しているということか。だから人間の子どもも
……、というのは、少し危険な意見かもしれないが、それほどまちがっていないような気がす
る。冒頭にあげた子どもが人見知りする時期に、親の愛情が希薄で、たとえば施設に入れら
れて育ったような子どもは、どこかA犬のような様子を見せる。が、人見知りがはげしく、「うち
の子は人見知りが強くて困ります」と言った子どもほど、B犬のような様子を見せる。(そういう
意味で、本能的な意味があるかもしれないと先に書いた。)
昔から「愛想がいい子はいい子」と言うが、そんな単純な問題でもない。子どもの「愛想」にもい
ろいろな問題が隠されている。それがわかってほしかった。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(206)

子どもへの虐待

 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛す
る心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言ってい
た。しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は
愛することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、
わずらわしくてしかたない」とかなど。私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる
母親は、約一〇%(私の母親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調
査でも、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そ
して「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五
〇〇人・二〇〇〇年)そうだ。
妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしている
という。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞ
れについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段
階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のう
ちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。)
 だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少
し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が
高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い
時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。つまり生まれなが
らにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由と
は言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包
まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。この
ことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知らな
い親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にあるの
ではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまりに
もないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかないと
いうことになる。
 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子
どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生
み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(207)

あきらめは悟りの境地

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。
またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。
 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路
に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。要はどの段階で、親があきらめるかだが、
その時期は早ければ早いほどよい。……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、
自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、自分が失敗
するとは思っていない。「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくと
ころまで行く。また行きつくところまで行かないと気がつかない。
 要は子どもの限界をどこで知るかということ。それがわかれば親も納得し、その段階であきら
める。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならでき
るか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだった
か」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向か
って、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。
 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あ
なたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差
値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。また
そういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを叱っ
たら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近
い。
 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を
読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親
は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだ
が、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり
始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめて
みてほしい。それで道は開ける。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(208) 

悪筆、言ってなおらず

 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきり
とわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子
どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズ
な丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。(縦線を描くと
きと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横
線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これから
がきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたい
へんということ。)
 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。そもそも運筆能力
のない子どもに書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになるが、今度は時
間ばかりかかって、先へ進めなくなってしまう。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さ
についていけない子どもはいくらでもいる。以前、M君(小二男児)がいた。文字はきれいだ
が、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく
注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を
見て心底驚いた。文字がめちゃめちゃだったのだ。しかしそれがM君の本来の文字だった。
 運筆能力を養うためには、塗り絵がよい。塗り絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。その
塗り絵で訓練すると、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。
そうなればしめたもの。(塗り絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうと
するから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもには塗り絵をさせ
る。あとあと文字がきれいに書けるようになる。
 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。
鉛筆は、親指とひとさし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそ
れが正しいもち方ということにはならないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を
教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつように
してもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかってい
る(筆者調査)。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(209)

ふつうこそ最善

 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づ
き、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさ
もまたしかり。
 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったの
は奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは
変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでい
い」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登
校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつ
ど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。
 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点など)を見ろ」というのではな
い。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するか
ら不思議である。またそれで解決しない問題はない。
 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性
(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小
便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、
黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたというのだ。私は幸運にも、
生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの
気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えることがある。
 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外
は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年も
していると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友
人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁
だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」
と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通したものではないか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(210)

それ以上、何を望むか

 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言
う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに
答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」
と。
 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そう
いう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではない
か。それ以上、何を望むのか」と。
 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査
によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何ら
かの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に
走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。七%という数字が大きいか小さいか、評
価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものである
ことには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考え
るほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っ
ている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。
 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつ
まらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子ども
は私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入
れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん
悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてく
れた。もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠
に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じ
がする。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ
問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのお
かげで、私の人生は楽しかったよ」と。
 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に
進めばよい。
 
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(211)

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。
 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。
 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、
子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。お
ばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しか
ったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。
 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。
 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(212)

汗はかかせる

 最近の子どもたちは驚くほど、暑さに弱い。夏場でも、冷房がある生活のほうが当たり前にな
っている。……というようなグチは、今さら言ってもしかたない。そこでここでは話を一歩進め
て、「文明」とは何かを考える。
 私の女房も、週二回テニスクラブへ行くのに、車を使っている。距離は五〇〇メートルもな
い。運動ということを考えるなら、歩いていったほうが、よっぽど運動になる。しかしこういう「矛
盾」は、今、日常生活の中にありあふれている。たとえばダイエット食品がある。こんにゃくで作
った焼きそばとかスパゲッティなどがある。ラーメンもあるが、どれも値段は本物の焼きそばや
スパゲティより高い。腸をゆるくするダイエット食品もいろいろあるが、しかしどれも高価なもの
ばかり。中には一回分、数百円。一か月もつづけると、数万円という食品もある。一方で食べ
るだけ食べておいて、そのまた一方で、ダイエット食品をとる。これも矛盾だ。しかし最大の矛
盾は、洗濯は全自動の洗濯機にさせ、料理も電子レンジですましながら、一方で運動不足を
理由にスポーツセンターへ通うことだ。冒頭にあげた子どももそうだ。夏の間中、冷房のきいた
部屋の中ばかりにいれば、当然体は弱くなる。冷房のない部屋だと暑苦しいのか手で胸をか
きむしる子どもなど、今どき珍しくもなんともない。中には青白い顔をして、ハーハーとあえぐ子
どももいる。……というようなグチも、今さら言ってもしかたない。こうした文明には、いつも大き
な矛盾がともなう。要はこうした矛盾と、どうつきあっていくかだが、これについても今さらここに
書いてもしかたない。さらに一歩、話を進める。
 文明生活の中で一番こわいのは、こうしたもろもろの矛盾を、矛盾と感じなくなってしまったと
きだ。矛盾が当たり前になり、その矛盾がさらに巨大な矛盾を生み出す。それを「矛盾」と知っ
ていればまだ救われるが、その矛盾が矛盾とわからなくなれば、ひょっとしたら人間の存在そ
のものが矛盾ということになるかもしれない。それはまさしく人間そのものが矛盾の中で自己崩
壊することを意味する。それはちょうど暴走族のようなものだ。車という最先端の知恵と技術が
結集された「文明の利器」を使いながら、多くの人たちに迷惑をかける。やっていることは、野
性のサル以下。が、彼らはそうした矛盾に気づいていない。人間全体が、その暴走族と同じこ
とをしないとも限らない。これがこわい。
 ……とまあ、話がどんどんと飛躍してしまったが、子どもはできるだけ自然の中で、不便を感
じさせながら育てるのがよい。夏は夏で、どんどんと汗をかかせる。そのほうが健康によいこと
は、当然ではないか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(213)

あせる親は結論も早い

 あるおけいこ塾の先生が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親
ほど、要注意です。そういう親ほど、これまたワーワーと言って去っていきます」と。ある学校の
先生も、同じことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけています」と。私にも、つきあいた
い親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関係。この信頼関係が
あれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっとも私のばあいは、そ
の信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。が、学校の先生はそう
はいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、心臓が踊るということもある
という。
 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書きたくない。私の世界では、親
はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者かつ支援者である。いわばお客さんのような
もの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いてい
たら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。
 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができるとこと。ものの売り買いと
は違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だか
ら教育を商売と同じように考えることはできない。またしてはならない。そこでいくつかのポイン
トがある。
@先生とつきあうときは如水淡水……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、一
切、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まる
ということは、ない。
A過剰期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。思って、やりたい放題のこと
をする人も多い。しかしこれはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞ
けば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもな
い。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提で
つきあう。
B別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別
れるときを美しくする。美しい別れを方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくす
るということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ
方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう
思ったとたん、信頼関係は崩壊する。

 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(214)

遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」を書いたのはロバート・フルグラムだ
が、それは当たらずとも、はずれてもいない。「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というの
は、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。オーストラリアではその砂場にしても、木のク
ズを敷き詰めているところもある。日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった
砂場を想像しないほうがよい。また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知
識を、たいていは学校の教室の外で身につける。実はこの私がそうだった。
 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわ
かるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまでは私の過去はただの過
去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。いわんや、自分という人間
が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり私という人間は、あの寺
の境内でできた。
 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリ
ンチもしたし、つかまればリンチもされた。しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつ
をして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐ
らいはした。つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかっ
たか。競技場の外で争っても意味がない。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らず
のうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。
 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しかし
それは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起き
ている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡
単に理解することができる。もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりと
は理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要
な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(215)

思考回路

 人間にはだれしも思考回路というのがある。たとえば暴力団の男たちは、ものごとを何でも
暴力で解決しようとする。一方私は文を書くのが好きだから、何か問題が起きたりすると、すぐ
文を書いて解決しようとする。こういのを思考回路という。
 こういう思考回路は子どもにもあって、また子どもによって思考回路はそれぞれ違う。たとえ
ば年長児あたりに、「あなたはブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」と聞く。する
と子どもたちはそれぞれ自分の思考回路を使って、その問いに答えようとする。「順番に使え
ばよい」「横取りはさせない」など。しかし中には、「ぶん殴ってやればいい」と言う子どもいる。
これは余談だが、あとでその子どもの父親は元ヤクザだっということがわかった。その父親の
左手の小指は欠損していた
 で、問題はいかにしてよい思考回路を子どもの中につくっていくかということ。いや、それを話
す前にこんなことがある。以前、「たまごっち」という電子ゲームがはやったことがある。ほとん
どの子どもがそれにハマったが、そのたまごっちのブームが去ると、今度はそれがポケモンに
なり、今ではさら遊戯王になったり、マジックザギャザリングになったりしている。それぞれは
別々のゲームだが、思考性という点では、連続性がある。この連続性をつくりあげているの
が、ここでいう思考回路ということになる。
 そこで幼児教育で注意しなければならないことは、粗悪な思考回路をつくらないということ。一
度それができると、以後、ずっとその子どものものの考え方を支配するようになる。たとえばこ
んな子ども(中学男子)がいた。ある日窓の外をぼんやりと見ているので、「何を考えているの
だ」と声をかけると、こう言った。「先生、ぼくはあのビルを超能力を使って、破壊してみたい」
と。彼は幼児のときからものの考え方が現実離れしていた。うらないやまじないばかりを信じ、
魔法とか魔術に強い関心をもっていた。つまりそれが彼の思考回路ということになり、だからそ
れが転じて、「超能力使って破壊してみたい」となる。
 言いかえると、幼児期には子どもの論理性を育てることを大切にする。もっとわかりやすく言
えば、子どもに何かもの教えるときは、「何をどう教えたか」とか「どれくらい覚えたか」ではな
く、子どもの心の中にどのような思考回路ができつつあるかをみる。そしてそれが論理的なも
のであればよし、しかし先に書いたように粗悪なものであれば、それは避ける。
 幼児教育の一つの方向性として、思考回路について考えてみた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(216)

構造的な問題

国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学生
の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第五位。以下、オー
ストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次い
で第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。
また偏差値(日本……世界の平均点を五〇〇点としたとき、数学五七九点、理科五五〇点)
だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学
校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持し
ていると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。
 こうした現状の中で、学校五日制が実施され、ゆとり教育の中で学習要領そのものが三割削
減されようとしている。今以上に、日本の子どもの学力が低下することは、もう避けられそうに
もない。が、本当の問題は、学力ではない。思考力である。学力と思考力は本来異質のもので
あり、学力(知識)があるからといって、思考力があるとはかぎらない。しかし日本の子どもたち
は、その思考力においても、低下する傾向にある……? たとえば東京大学大学院教授の苅
谷剛彦氏は、同じ調査結果をふまえて、文部科学省の徳久氏とは対照的に、「今の改革でだ
いじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べている。ちなみに、「数学が好き」と
答えた割合は、日本の中学が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビ
リ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビ
リ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から
三・一時間にふえている。同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第三回学習基本
調査」によれば、次のようになっている(二〇〇一年五月と六月に小、中、高校生約八七〇〇
人について調査)。
学習時間が三〇分以下……小学生 四〇・三%
                中学生 三〇・七%
                高校生 三七・一% 
家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……二三・一%
 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていること
が、これらの調査でわかる。が、それにしても小学生よりも高校生のほうが、勉強時間が短い
とは! それはともかくも、日本がもつ教育の問題は、もっと構造的なものではないか。これに
ついては別のところで考えるが、ここでは事実だけをあげるにとどめる。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(217)

知識と学力

 もの知りの人間が、賢い人間ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、こ
れを混同すると、教育そのものが混乱する。たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口
にしたとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、
頭のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が三台でタイヤの数は一二」
と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。さらにその計算方法を自分で
考えだしたとしたら、頭のよい子ということになる。
 ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。
教育の体系そのものがそうなっている。あるいは入試内容にしても、学力をためすというより
は、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的に
はこの構図は明治以来、変わっていない。たとえば今でこそやや少なくなったが、三〇年前に
はどこに進学高校にはいわゆる頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉
強しかできない、頭の中は勉強だらけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイ
と一流大学の一流学部(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は
進学塾の講師をしながら、そのときはそのときで、少なからず疑問に思ったことがある。「こん
なことでいいのか」と。
 では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一
番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今まで
の一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを
新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。そのとき「知識」は除外する。知識は学
力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気づくはずだ。もともと学ぶということには
ある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いてい
る。だからたいていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学
力とはそういうものであり、また学力を養うということはそういうことである。つまりそれだけむず
かしいということ。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、あなたにとって子ども
の教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(218)

頭をよくする方法

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリ
ッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、
その実験をしているのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶
かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、
とんでもないいたずらをする。
 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、
ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを
年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってし
まった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果
がある。……と思う。
 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ち
ゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣
味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボー
ルの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかった。で、母親にそ
の理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだったため、近所
の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な子どもにした
かったら、できるだけはだしで育てるとよい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(219)

読書のしつけ

 子どもの読書のしつけについて、いくつかのコツがある。
@まず方向性を知る……子どもには子どもの方向性がある。その方向性をうまく利用する。た
とえばサッカーが好きな子どもには、サッカーの本を与える。ゲームが好きな子どもなら、ゲー
ムの攻略本でもよい。児童文学書などを無理に与えても、たいてい失敗する。私もあの文学者
の書いた本が、どうも性に合わない。最近はほとんど読んだことがない。(これはたまたま私が
出会った文学者というのが、どの人もまともでないという印象を受けたためだと思う。)
Aレベルをさげる……つぎに子どもに与える本は、思い切って一、二年、レベルをさげる。親
は書店へ行くと、どうしても一、二年レベルの高い本に手を子どもに買い与えようとする。しかし
ちょっとしたこの無理が、子どもを本から遠ざける。しかし子どもを本好きにさせようと考えるな
ら、レベルをさげる。(もともとレベルというのは、いいかげんなものだということもあるが、いわ
ゆる児童文学者というのは、本当に子どものレベルを知っていて本を書いているのではない。
せいぜい漢字の使い方で、年齢別にしているに過ぎない。)
B教科書がよい……本を買うなら、少し大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っ
ている。どうせ買い与えるなら、教科書がよい。内容も吟味されているが、値段も安い。何も国
語の教科書に限らない。算数でも社会でもよい。理科でもよい。最近の教科書は子どもが楽し
みやすいように工夫してあるので、読み物としてもそれなりにおもしろい。
Cまず親が読んでみせる……子どもに本を与えるときは、まず親がおもしろそうに読んでみせ
る。これを動機づけという。動機づけがうまくいくと、あとは子どもが自らの力で本を読むように
なる。こうなればしめたもので、あとは子ども自身に任せればよい。
 なおちなみに経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇
年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)の
うち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また
同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題
について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二
九%! 文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれ
る」(毎日新聞)とコメントを寄せている。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(220)

あと一歩でやめる

 子どもを勉強好きにするコツがこれ。「あと一歩でやめる」。これにはいろいろな意味が含ま
れる。
 与えすぎない……学習量を、子どもの能力が一〇とみたら、八か九、できれば七のところで
やめる。親は「一一、もしくはせめて一二」と無理をするが、この無理が続くと、子どもは確実に
勉強嫌いになる。こんな相談があった。その子どもは毎日プリント学習を三枚することになって
いるのだが、何とか二枚はするのだが、三枚目になると時間ばかりかかって先へ進まないとい
う。それで「どうしたらいいか」と。答は簡単。そういうときは二枚でやめる。仮にその子どもがス
ラスラと三枚もしたら、親は今度は「四枚!」と枚数をふやすに違いない。子どもはそれを知っ
ている。
 三〇分やって、勉強らしきことは五分……受験生でもないなら、三〇分間机に向かって、
丸々三〇分勉強する子どもなど、いない。勉強というと、戦前の軍国主義教育のなごりなの
か、子どもは黙々と勉強するものだと思っている人は多い。しかしそれはまったくの誤解。よほ
どのプロでも、幼児(年長児)を、三〇分間学習にひきつけておくのは、至難のわざといっても
よい。だからあなたの子どもが三〇分間くらいなら座っていることができるなら、勉強はその三
〇分以内できりあげる。一〇分でも二〇分でもよい。その中で、五分くらいで勉強らしきことを
したと思ったら、それでよしとする。
 レベルをさげる……家でする学習は、思い切ってレベルをさげる。ワークブックにしても、文
字が大きく、やりやすいものを選ぶ。簡単なものでよい。子どもにとって大切なことは、達成
感。「やり終えた」という満足感を大切にする。
 やってここまで……ほとんどの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。しかしや
る、やらないも「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思う。
また親というのは、たまに子どもが一〇〇点を取ってくると、「やはりうちの子は……」と思い、
悪い点を取ってくると、「そんなはずはない」と思うもの。しかし子どもの能力も、その一歩手前
で判断するとよい。八〇点を取ってきたら、七〇点くらいと思う。七〇点を取ってきたら、六〇
点と思うなど。一歩退いた見方が、子どもの心に余裕を生む。それが子どもを伸ばす原動力に
なる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(221)

個性は生きザマ

 個性は生きザマの問題。服装ではない。外観でもない。中に子どもを茶パツにし、(茶パツが
悪いといっているのではない)、「個性です」という親がいるが、そういうのは個性とは言わな
い。個性というのは生きザマだ。その人がどんな人生観をもち、どんな生き方をしているかが
個性だ。その生きザマが光る人を、個性のある人という。服装や外観は、あくまでもその結果
でしかない。
 私ははからずもある国家プロジェクトの会議のメンバーに選ばれたことがある。行政担当者
の人選ミスによるものだが、その会議のメンバーは、私をのぞいて、そうそうたるメンバーであ
った。日本を代表するような哲学者や科学者、それに毎晩テレビに顔を出すキャスターもい
た。その中でもとくに私の印象に残ったのが、養老猛司氏であった。解剖学が専門だと聞いて
いる。で、会議で見ると、頭はボサボサ、ブレザーのスーツも、どこかごくふつうのブレザーであ
った。もし電車の中で横に並んでも、だれもあの養老氏とは思わないだろう。私なんかふだん
はそんなことを気にしたこともないのに、会議のたびに、何を着ていこうかとか、そんなことば
かり気にしていた。(会議のたびに一〇〜二〇人の取材人が押し寄せたこともある。)が、養老
氏は、まったくのふだん着。それだけを見てそう判断するのは、軽率かもしれないが、「ああ、
大物は違うな」と、そのときはそう思った。そういうのを個性という。
 子どもでも個性の光る子どもと、そうでない子どもがいる。どこがどう違うかといえば、要する
に自分をもっているかどうかということ。もう少しわかりやすく言えば、「つかみどころ」ということ
になる。個性をもっている子どもは、子どもながらにそのつかみどころがはっきりとしている。方
向性や志向性がはっきりしていて、その方向性や志向性に向かって、前向きに取り組んでい
る。もっと言えば、内に秘めたバイタリティというか、そういうエネルギーを感ずる。もちろん子ど
もの段階では、その子どもがどんな個性をもつようになるかまではわからない。わからないが、
個性をもつだろうということはわかる。
 このことはつまり、子どもの個性を伸ばすということは、子ども自身がもつ方向性や志向性を
認め、そのバイタリティを前向きに引き出すということにもなる。結果、その子どもがどういう個
性を光らせるようになるかは、あくまでもその子ども自身の問題であって、教師はもちろんのこ
と、ひょっとしたら親ですら関知しえない問題かもしれない。あくまでも子ども自身が決める問題
なのだ。
 ……しかし実際のところ、「私は私」という生きザマを貫くことは、この日本ではたいへん難し
い。日本の社会そのものが、個性を認めるほど社会的に成熟していないこともある。このこと
については、また別のところで考える。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(222)

アルバムをそばに置く

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を
学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お
兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親
なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども
(年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子ども
は、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いて
も、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるの
は、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の
概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日
が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、
一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解す
るのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な
力がある。
 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま
りアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真
にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、そ
れだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見
る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようにな
る。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、
私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たと
きのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだ
ったと思う。
 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあっ
た。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情を
しているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバム
を置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(223)

前向きの暗示を

 子どもを伸ばす秘訣の一つ、それはいつも子どもには前向き(プラス)の暗示をかける。「あ
なたはどんどんいい子になる」「あなたはどんどん伸びている」「あなたは以前のあなたよりす
ばらしい」と。まちがってもうしろ向き(マイナス)の暗示をかけてはいけない。いわんや、「あな
たはやっぱりダメな子」式の、人格攻撃はタブー中のタブー。これはもう、言葉による虐待と考
えてよい。そこで子どもを伸ばす話術。いろいろある。
@頭ごなしの禁止命令はしない……「○○をしてはダメ」式の禁止命令は、できるだけ少なくす
る。「指しゃぶりはダメ」「騒いではダメ」など。そういうときは私のばあい、「おいしそうな指ね、
先生にもなめさせてね」「お尻がかゆい人は騒いでいていい」などと言うようにしている。頭ごな
しの禁止命令が日常化すると、子どもの心は内閉する。(あるいは粗放化する子どももいる。)
Aいつも具体性をもたせる……「静かにしないさい」ではなく、「口を閉じていなさい」と言う。「し
っかりとあいさつをしないさ」ではなく、「体をまげて、自分の足を見なさい」と言うなど。具体性
のない指示は、子どもには意味がないと思うこと。
Bそして子どもには、いつも「あなたはすばらしい子」という前提で話しかける。何か失敗して
も、「あなたらしくはないわね」「いろいろなときがあるわね」とか言うなど。そのためには、まず
あなた自身の心をつくりかえなければならない。もし心のどこかで不安だ、心配だと思っている
なら、そういう不安や心配を取り除く。それがあると結果として、そういうあなたの心は子どもに
伝わってしまう。そしてそれがマイナスの暗示になってしまう。
 つまるところ子どもを伸ばすということは、子どもを信ずるということ。しかし子どもを信ずるこ
とは、たいへんむずかしい。子育てでも、最大のテーマではないか。そんなことも考えながら、
前向きの暗示とは何か、それを考えてみるとよい。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(224)

新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所という
ことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。江戸時代という時代のスケールがその
まま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「きびしさ」。関所破りがいかに重罪であっ
たかは、かかげられた史料を読めばわかる。つかまれば死罪だが、その関所破りを助けたも
のも同程度の罪が着せられた。新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬
けにして新居までもどされ、そこでさらにはりつけに処せられたこともある。移動の自由がいか
にきびしく制限されていたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いたこと
がある。
 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の
随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」とい
うような記述があったことである。当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事
はいっさいなかった。私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまっ
た。「江戸時代が自由な時代だったア?」と。
 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつ
とは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは
自由だ」(報道)と言っている。あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家
だ」と主張している。(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)現在の私たちが、「江
戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメント)と言うことは、「北朝
鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。私たちが知りたいのは、江戸時代
がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。新居の関所はその象徴ということに
なる。たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新
居町だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。関所がそれくらい
身分の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだが、批判の対象に
こそなれ、何ら自慢すべきことではない。
 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう
意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をと
おして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよ
い。何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化
してはいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、
これまた美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。私
がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。
(※こまかい点は、聞き覚えなので、事実と違うかもしれない。)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(125)

便利な世界

 便利さはそれになれると、感覚がマヒする。私のきわめて身の回りのことを書く。
 一〇年近く前から私はワープロを使うようになった。いや、もう一五年になるかもしれない。当
初私は、その便利さに圧倒された。そのワープロが今度は、パソコンにかわった。私はこれま
たその便利さに圧倒された。文を書くだけではなく、原稿の送受信まで、それこそ瞬時にやって
のける。そこで私はさらに便利にするため、周辺機器を買いそろえた。プリンターやスキャナー
はもちろんのこと、ほとんどの周辺機器はとりそろえた。で、今では私の部屋は、足の踏み場
もないほどコード類が走り回っている。パソコンだけで六台だから、どの程度のコードかは、わ
かる人ならわかると思う。
 が、便利というのは恐ろしいものだ。そのつど格段に私の仕事は便利になったが、気がつい
てみると、最近ではマウスをクリックするだけでも、不便に感ずるのだ。ワープロの時代は文書
をそのつどフロッピーに保存し、プリントのたびに紙をワープロに設置した。印刷時間も今の五
〜六倍はかかったのではないか。もちろん原稿は封筒に入れ、真夜中でも速達で出すため、
郵便局まで車を走らせた。(それでも当時は当時で便利になったものだと喜んでいた!)それ
がマウスをクリックするだけでも、不便に感ずる? たとえばOCRというソフトがある。スキャナ
ーに原稿をはさんで、それをスキャンすると、その原稿の文字をパソコンの中に取り込んでくれ
る。昔のように原稿を見ながら、それをカチャカチャとキーボードをたたいて入力する必要な
ど、もうない。ないにもかかわらず、それがめんどうなのだ。女房からひとつの仕事を頼まれて
いるが、「まだア?」とこのところ毎日のように催促されている。やる気になれば、五分程度で、
数枚の原稿を読み取ることができるというのに!
 だいたいにおいて書斎に座ったら最後、動くのは指先だけ。体を動かさねばならないようなこ
とは、めったにない。それこそ紙の補給ぐらいなものか。だからこういう世界にどっぷりとつかっ
てしまうと、体を動かすこと、たとえば立ちあがってすわることが重労働に思われるから不思議
である。
 ……と考えて、これはもう現代文明に共通する「矛盾」ではないかと思っている。考えてみれ
ば、ありとあらゆるものがそうなのである。しかし人間はあくことなく、さらなる便利さを求めて動
き回っている。これを進歩というか、はたまた後退というのかは、私にはわからないが、大きな
矛盾であることには違いない。あるいはそれは本当に人間が求めているものかどうかは、大き
な疑問の残るところでもある。
 私は今、この文をその書斎で書きながら、やがて私はその便利さにどこまで体がなれてしま
うか、それをそら恐ろしくすら思い始めている。やがて指を動かすことすらめんどうに感ずるよ
うになってしまったら……? それももう時間の問題のような気がするが……。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(226) 
 
案ずるより産むがやすし

 心配性の親というのは、たしかにいる。しかし「心配性」というのは、不安神経症のことか。さ
らにはうつ病の「不安発作」ということも考えられる。感情のコントロールができなければ、感情
障害ということにもなる。このタイプの親は頭の中でつぎつぎと不安のタネをつくり、そしてそれ
を限りなく増大させる。「被害妄想」という言葉があるが、まさにその妄想のウズに巻き込まれ
てしまう。
 あるとき一人の母親が私のところへ来て、こう相談した。何でも幼稚園の下の階が、炊事室
になっているという。その母親の子どもの教室がその真上にあって、「火事にでもなったら、た
いへん」と。その幼稚園には避難用として一応、大きなスベリ台が二階から地上へとつながっ
ているが、「それでは不安だ」とも。私が「幼稚園は一応どこも、消防署の検査を受けているは
ずです」と言ったが、それでも納得しなかった。「地震のときはどうなのか」とか「子どもがスベリ
台をこわがったらどうするのか」と。こんな母親もいた。
 息子がアメリカへ一年間留学することになったという。それについて、「心配で夜も眠られな
い」と。その母親はアメリカで何か事件が起きると、すべてアメリカ中で同じような事件が起きて
いると思ってしまうらしい。そこで私が「テキサス州といっても、日本の二倍の広さがあります」
「インドネシアで地震があると、日本も壊滅状態になったと考えるアメリカ人も少なくありませ
ん。それと同じことです」と説明したが、やはり納得しなかった。アジア全域を含めても、アメリカ
大陸より小さい。愉快だった(失礼!)だったのは、たまたまその母親はブルースウィルスの
「ダイハード」という映画を見たらしい。その映画を例にとって、「アメリカは恐ろしい国ですから」
と。(もしそんな心配をするなら、ビートたけしの「バトルロワイヤル」を見て、「これが日本の中
学校だ」と思うようなものだが……。)ともかくも、心配する人は、そこまで心配する。
 そこで格言。「案ずるより産むがやすし」。ここでいう意味とは少しはずれるかもしれないの
で、この格言を少し言いかえるとこうなる。「案ずるより任すがやすし」と。子どもというのは、親
の心配の外で成長するもの。心配したからといってどうにもならない。心配しないからといって、
どうにかなるものでもない。子育てにはこうした心配はつきもの。そういう意味で、子育てという
のはいつも自分との戦い。自分が心配だからといって、その心配を子どもにぶつけてはいけな
い。ぶつけるというのは、それはもう親のエゴでしかない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(227)

威圧で閉じる子どもの耳

 叱られじょうずな子どもがいる。親や先生が叱るときだけ、いかにも反省していますというよう
な態度を示す。元気なさそうに頭をうなだれたりする。しかしそういう様子にだまされてはいけな
い。(「だます」という言い方には少し御幣があるかもしれないが……。)子どもの心というのは、
もっと別の角度からみる。あるいは子どもを叱るというのは、もっと別のことと考える。
 子どもの叱り方は、子育ての要(かなめ)。叱り方ひとつで、伸びる子どもも伸びなくなってし
まう。あるいは反対に子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。そこでその叱り方。たとえば
「威圧で閉じる子どもの耳」と覚えておく。親が威圧的になればなるほど、子どもの耳は閉じる
ということ。そして一度閉じると、あとはいくら叱っても意味がないということ。実際こんな子ども
(小五男児)がおた。親に叱られるときは、いつも心の中で「ポケモン言えるかな」を歌っている
と。「ポケモン言えるかな」は、ポケモンの名前を連ねただけの意味のない歌だが、意味がない
だけにそういうときに役にたつらしい? 子どもを叱るときには、つぎのようなことに注意すると
よい。
@視線を子どもの目線の高さまで落とす。A子どもの体を両手で固定し、視線をしっかりと子
どもの視線にあわせる。B何度も大切なことだけを繰り返し、怒鳴ったり暴力を加えてはいけ
ない。Cすぐには効果をもとめず、言うだけ言ったらあとは時間がすぎるのを待つ。そしてここ
が重要だが、D子どもは決して叱りっぱなしにしてはいけない。子どもが言ったことを守れるよ
うになったら、「ほらできるわね」とほめて仕上げる。
 親の威圧が日常的につづくと、子どもは俗にいう「常識ハズレ」になりやすい。自分で静かに
考えて行動するということができなくなるためと考える。友だちの誕生日に、酒粕を包んで送っ
た子ども(小三男児)や、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)などがいた。そういう
ことを平気でするようになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(228)

よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。
 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びを
する女の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解
がないように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば
悪い面もある。こんなことがあった。
K君(小五)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出さ
れていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、
私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。で、そうして一年ぐらいがたったある夜の
こと、私はK君と母親の三人でたまたま話しあうことになった。が、私はK君が悪い子だとはど
うしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談
がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K
君はやがてすばらしい子どもになるだろうから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間
後のこと。私が一人で教室にいると、いつもより三〇分も早くK君がやってきた。「どうしたん
だ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。
 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。要は子ども自
身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子で
あり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方になってしまっ
たが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この
世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。
 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(229)

子どもの家出

 子どもの家出といっても、一様ではない。まず目的のない家出と、目的のある家出に分ける。
目的がないかあるかは、もちものを見ればわかる。目的のない家出は、身の回りのありとあら
ゆるものをもって、家から一方向に遠ざかるという特徴がある。S君(年長児)は、買い物バッ
グの中に、サイフから大根、おもちゃから人形、ビデオテープなど、手当たり次第につめて家出
した。親が気がついて追いかけたときには、数キロ先を黙々と下を向きながら歩いていたとい
う。一方、目的のある家出は、その先で何をするかがはっきりわかるものをもって、家を出る。
サッカーの試合を見るための家出は、試合の応援のグッズをもっていくなど。
 目的のある家出は、それほど心配しなくてもよい。だれしも一度や二度は経験する。しかし目
的のない家出は、家庭にかなり深刻な問題があるとみる。子ども自身が家庭の中に居場所が
ないばかりか、家庭が家庭として機能していないなど。たいていこのタイプの子どもは、同時に
帰宅拒否(なかなか家に帰りたがらない)や、いろいろな神経症などの症状をあわせもつ。で、
こうした症状はできるだけ初期症状の段階で、それを知り、家庭のあり方そのものを反省す
る。そこでテスト。
 あなたの子どもが園や学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めているか、それ
を静かに観察してみてほしい。そのときあなたの子どもがあなたのいる前で、あなたの存在を
気にせず体を休めているならよい。しかしあなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくとか、ある
いは好んであなたのいないところで体を休めるようであれば、あなたと子どもの関係はかなり
危険な状態にあるとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて大きな断絶となる可
能性が高い。
 子どもが小学校へ通うようになったら、家庭は「しつけの場」から、「いこいの場」、「心をいや
す場」へと、変化しなければならない。またそれが家庭のあるべき姿ということになる。家出を
決して軽くみてはいけない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(230)

現場主義

 絵でもアトリエで描く絵と、現場で写生しながら描く絵がある。(それ以外にもあるが……。)教
育論も、部屋に閉じこもって書く教育論と、現場で子どもたちを見ながら書く教育論がある。私
のばあい、子どもたちを直接見ながらでないと、その教育論が書けない。たとえば一週間も休
みがつづいたりすると、原稿そのものが書けなくなることがある。(教育論というよりは、子育て
論に近いが……。)そういう私の教育論の書き方を、私は勝手に、現場主義と呼んでいる。
 この現場主義にはいろいろな意味がある。生々しい話は現場でないと書けないという意味の
ほか、現場でないと、「発見」「修正」「発展」を繰り返すことができないという意味。たとえばどう
も様子がほかの子どもと違う子どもを見つけたとする。それは「発見」ということになる。で、原
因をあれこれ考えながら、一つの仮説を頭の中で考える。もっとも三〇年以上も子どもたちを
見つづけていると、どの子どもも、ある一定のパターンに分類することができる。そのパターン
に分類しながら、自分の意見をまとめる。しかし簡単にはまとめられない。子どもとて、人間。
いろいろな環境や要因が複雑にからみあっている。同じ過保護児といっても、症状はまさに千
差万別。そこで自分の意見に、修正や訂正を加える。そのときも目の前に子どもを見ていない
とできない。その修正や訂正を加えながら、さらにその奥へと切り込んでいく。これが「発展」と
いうことになる。
 これは私が教育論を書くときの「方法」であるが、それは同時に私の「強み」でもある。ほとん
どの教育評論家は、実際には子どもと接していないか、あるいは接していても、その量そのも
のがきわめて少ない。大学の教授と言われる人になると、ほとんど接していない。先日もある
幼稚園で講演をしたら、「○○大学附属幼稚園」となっていた。園長はその大学の教授というこ
とだった。そこで私が「園長はよく来るのですか」と聞くと、女性の副園長(実際にはその副園長
がその幼稚園を取りしきっている)は、こう言った。「たまにね。それに来ても、お客様ですから
……」と。で、その道の専門家と議論しても、「私ほど現場を踏んだものはいない」という事実
が、私をうしろから支えてくれる。
 私は毎日、子どもたちと接している。もしそういう経験がなかったら、私はこうまで自分の意見
をまとめることはできなかっただろうと思う。それにまだある。子どものことで何かわからないこ
とがあると、私はすぐ、子どもたちに問いかけることにしている。本でもなければ、参考書でもな
い。子どもたち自身にである。つまり子どもたち自身が私の先生ということになる。考えてみれ
ば、これも現場主義ということか。
 少しコマーシャル的になったが、ここに書いているようなアドバイスは、私の現場主義から生
まれたものである。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(231)

子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行っ
た。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはい
やだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親
は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。
 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。「おと
なでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなったというか。
英語では、EGOとか、SELFとかいう。心理学の世界では、「自我」という。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリと
している。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。
 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。がんこについては、
別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを
言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(232)

子どもの自我

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。
 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展
望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行
動できる。
 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや
占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな
る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。
 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自
我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。
その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき
環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。反対に、威圧的な過干渉(親の価
値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子どもを当てはめようとする)、過関心
(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子ど
もの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがた
いへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児
から満四〜五歳にかけての時期が重要である。
 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質
は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかし
い。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育
ての原点はここにある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(233)

いじめられっ子は徳をつむ?

 世の中にはいじめる人、いじめられる人がいる。またいじめられる人が、どこかでだれかをい
じめ、いじめる人が、どこかでだれかにいじめられるということもある。意識していじめたりする
こともあるが、意識しないでいじめることもある。人間関係はそれだけ複雑だが、子どもの世界
もまたしかり。いじめる側が絶対的な悪であり、加害者ということにはならない。いじめられる側
が絶対的な善であり、被害者ということにもならない。いじめのない世界は理想だが、しかしい
じめのない世界はない。それは人間も含めて、すべての動物が共通してもつ宿命のようなもの
ではないか。このことは飼っている犬をみてもわかる。つまり「いじめ」という表面に表れた症状
だけをみて、いわば対症療法するだけではこの問題は解決しないということ。いじめの「根」は
もっと深く、大きい。最近の傾向としては、ささいないじめまで、「そら、いじめだ!」と大騒ぎす
る親が多いということ。もちろん問題とすべきような大きないじめもあるが、大半は、子どもどう
しのトラブルと考えてよい。子どもは(そしておとなも)、それぞれの摩擦や衝突、解決や和解を
とおして成長する。
 ただこういうことは言える。いじめる側はいつも何か大切なものをなくし、いじめられる側はい
つも何か大切なものを手に入れるということ。以前、O君という中学生がいた。彼はやさしくて、
だれにも親切な子どもだった。ある日学生服をみると、背中にいっぱい落書きがしてあった。
「どうしたの?」と聞くと、O君は、「いいんです。ふざけていただけです」と笑ってごまかしてい
た。明らかに皆のいじめにあっていたが、そのためか、O君にはおとなの私をもほっとさせるよ
うな人間味があった。で、その結果ということになるが、大学は、学校の推薦を受け、日本でも
一、二を争う私立大学へ入学した。高校の先生たちも、私が感じたのと同じ印象をO君にもっ
たためではないか。私もいつか、「こういうO君のような子どもが成功しない世界があったとした
ら、その世界のほうがまちがっている」と思ったことがある。
 もちろんいじめられて心がゆがむ子どもも少なくない。いじけたり、ひがんだり、あるいはそれ
が原因で不登校を起こしたりすることもある。皆が皆、O君のようになるというわけではない。
そういう意味でも、いじめは大きな問題だし、無視してよいというわけではない。が、もし、少なく
ともアメリカのように、日本人も、「学校とは行かねばならないところ」という呪縛から少しは解
放されたら、少しはこの問題の見方も変わってくるのではないか。アメリカではホームスクーラ
ーが、二〇〇一年の終わりには二〇〇万人を超えたと言われている。つまり教育の硬直化
が、いじめの問題をより深刻化させているとも考えられなくはない。そういう視点でも、この問題
は考えてみるべきではないのか。あくまでもひとつの参考的意見にすぎないが……。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(234)

ホームスクール

アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で
子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本
では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七
年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合でふ
え、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。それを指導しているの
が、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」とい
う理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりして
いる。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け
入れを表明している(LIFレポートより)。
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。
 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、つぎのように反論している。いわく、「民主主義国家において
は、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍
事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。
 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。


 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(235)

いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんの
こと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑って
いるのもいるかもしれない。
 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。子
どもはこのいたずらとジョークが大好きで、一般論として融通のハバが広い子どもほど、いた
ずらやジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというの
は、あまり好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも
通じない。こんなことがあった。
 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食
べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでくださ
い」と。私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を
食べたときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。
あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみ
せたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年
中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話
で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなくたたいたというではありませんか! 先生は体罰
反対ではなかったのではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。
 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を
入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立て
た中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がず
れていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かない
という点で、好ましいいたずらとはいえない。
 頭のやわらかい子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でも
おとなのジョークを理解することができる。ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポー
ターには、女の人はいないんだってエ」と言ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞い
たので、私が「だって、アル・ゼン・チンだもんねえ」と言った。言ったあと、「無理かな」と思った
が、一人だけニヤッと笑った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(236)

一芸論

 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろ
なことがあった。S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異
常なまでの興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげること
をすすめた。パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめり
こみ、小学三年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまで
になった。Tさん(二歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいた
という。そこで母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ
始めた。そのTさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。
 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではない
が、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助け
る」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。M君(高校生)は、不登校
を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園で、ゴルフばかりしてい
た。で、それから一〇年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう言った。「先生、ぼくの
ほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコーチになっていた。
 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、
「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「こ
れについては、あいつしかできない」という状態にする。
 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデ
ルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(237)

一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は
大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」と
いうもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんな
ケースがある。
 H君(中一)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績が
さがったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしま
った。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、
食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍く
なってしまった……。
 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されて
いることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それ
を奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。H君は学校で疲れた心を、音楽を
作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまったのだから、H君の症状は当然とい
えば当然の結果でもあった。
 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の
子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそう
であるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。
 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって
進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学へ
の転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学
生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされてい
る。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(238)

フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ

 勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ
勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその
実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を一〇〜三〇分もかけてするなど。あるい
は描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというの
は、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしな
がら時間をつぶすことをいう。小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復は
たいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強
制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やれ
ばできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをし
て、勉強から遠ざける。
 では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子ども
の能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学一年生でも早過ぎ
るということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし一年
生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、
自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたよう
に修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)
 が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではい
つもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先
生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学二年生で、このタイ
プの子どもは、二〇人もいれば必ず一人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望
むべくもない。
 要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興
味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせな
がら、少しずつ学習に向かわせる。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させ
るのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子
どもの勉強を考えること。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(239)

勉強が苦手な子ども

 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣ってい
る子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不
良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。最近よく話題になる子どもに、
学習障害児(LD児)というのもいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応用が
きかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。
 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもの
のところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっている
ということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということその
ものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっ
ている子どももいる。原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困
難にする。どの親も、「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私が
それを指摘すると、「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後
から、それがわかる人などいない!)
 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあ
って、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」
というのは、国際的な基準からしてという意味。)こういうばあいでも、本来なら子どもの能力に
あわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。ス
ポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがい
る一方、不得意な子どもがいてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方ができな
い。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。このことが、本来何でもないはずの問題
を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってし
まう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の教育はゆ
がんでいる。
……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強
などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもを見るための一つの視点として、ここに書い
たことを考えてみるとよい。少しは見方が変わると思う。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(240)
 
「今」の価値を忘れない

 未来はあるという。過去はあるという。……しかし、どこにあるのか? 「未来はある」と思って
いる人も、「過去はある」と思っている人も、もう一度、冷静に考えてみてほしい。どこにあるの
か、と。未来にせよ、過去にせよ、それは人間がバーチャルな世界で勝手につくりあげた概念
で、実のところ、どこにもない。あるのは「今」という現実のみ。どこまでも、どこまでも「今」とい
う現実のみ。「現在」はあくまでも、いままでの「結果」でしかない。そして未来があるとするな
ら、それは「現在」の結果でしかない。
 ……とまあ、こんなことを書くと、「はやし浩司は頭がおかしい」と思う人がいるかもしれない。
私とて、こう書きながら、そこまで厳格に考えているわけではない。ただ人間は、過去にしばら
れるのもよくないし、また未来のために今を犠牲にするのもよくないということ。あくまでも「今」
を大切にして生きる。どこまでも、どこまでも、「今」を大切にして生きる。もう少しわかりやすい
例で考えてみよう。
 一人の子どもがいる。その子どもは、今、懸命に遊んでいる。大切なことは、その子どもが
今、懸命に生きているという事実なのだ。一方、こういう子どもがいる。幼稚園児のときは、小
学校入学のため、小学校生のときは中学や高校へ入学するため。そして高校生のときは大学
へ入学するため。さらに大学生のときは就職するためと、いつも未来(?)のために「今」を犠
牲にしている。人生が永遠に保証されるならまだしも、しかしこういう生き方をしていると、いつ
までたっても「今」をつかむことができない。気がついたときには、人生が終わっていた……、
と。中には自分の子ども(中一男子)に向かって、こんなことを言う親だっている。「あんたを高
い月謝を払って、幼稚園児のときから英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と。その子
どもがはじめての英語のテストで、悪い成績をとってきたときのことだった。こうしたものの考え
方は、どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人は、独特の過去観、未来観
をもっている。来世、前世思想に代表される、日本独特の仏教観の影響とも考えられる。「空
から伊勢神宮の御札が降ってきた。こりゃなんか、ええことがあるぞ。まあ、ええじゃないか」
と。
 今には今の価値がある。大切なことは、今というこの時点において、いかに自分を燃焼させ
て生きるかということ。結果は結果。結果かはあとからついてくる。ついてこなくてもかまわな
い。今やるべきことを、懸命にすればよい。「今を生きる」というのは、そういうことをいう。
 
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(241)

ええじゃないか

 慶応八年(一八六七)というから、まさに幕末のころ。名古屋市周辺で、奇妙な踊りが流行し
た。きっかけは伊勢神宮の御札が天から降ってきたためと言われているが、もちろんそれは
言い伝えに過ぎない。人々は狂ったように踊りだした。「ええじゃないか、ええじゃないか」と。言
い伝えによると、女は男装、男は女装し、太鼓や三味線をならし、踊り狂ったという。「群集が
地主である庄屋や金持ちの商人の家へ土足で入り込む。で、なぜか押し込まれたほうは、酒
や肴(さかな)を際限なく振る舞った。押し入った人々は金品をまき散らし、これくれてもええじ
ゃないかともち去る。で、取られたほうは、それやってもええじゃないかとやってしまう。役人が
止めようとしても、まったく聞き入れない。踊りくたびれると、だれの家でもかまわず寝てしま
い、目が覚めると、またええじゃないかと踊りだす。このええじゃないかはウワサはウワサを呼
び、東海道筋から東に江戸、横浜、静岡。西は京都、大阪、西宮にまで及んだ」(マスダ組「歴
史概論」)という。
 この「ええじゃないか」について、「この大騒動をカモフラージュして、倒幕派は着々と江戸幕
府打倒の動きを進めていた」(同「歴史概論」という説もあるが、私はそういう政治的背景は、
当時の日本にはなかったと思う。結果として、倒幕運動に利用したという動きはあったかもしれ
ないが、そうした高度な政治意識というのは、近年になって生まれたもの。江戸幕府があった
東京で起きたとか、薩摩、長州の息がかかった京都で起きたというのなら話もわかる。しかしこ
のええじゃないかは、名古屋市周辺で起きているということを忘れてはならない。
 それはともかくも、その根底に、鬱積した民衆の不平や不満があったことは事実だ。しかし当
時の日本は、いくら幕末とはいえ、それを訴える自由もなければ方法もなかった。三〇〇年も
続いた封建体制の中で、民衆は骨のズイまで「魂」を抜かれていた。「自由」が何であるかさえ
わからない状態で、この運動は起きた。が、私はこの運動こそが、まさに現世逃避の象徴では
なかったかと思う。「この世はどうなってもええじゃないか。あの世があるではないか」と。それ
はまさに前世、来世論で組み立てられた日本の仏教の教えを、そのまま象徴していたともとれ
る。 
 このええじゃないかが、幕末の話でないことは、映画化もされ、また日本各地で、イベントとし
て再現されていることでもわかる。「これこそ日本人のやさしさ」と美化する動きさえある。しかし
本当にそうか? そうあってよいのか? 「今」という現実を直視するのが苦手な日本人が、現
実逃避の新たなる手段として利用しているとも考えられるのだが、皆さんはどう考えるだろう
か。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(242)

子どもの創造力

二〇〇二年の三月、「サイエンス」におもしろい研究結果が載った。何でもギャンブルで負けた
りすると、「頭が熱くなる」というのが、科学的に実証されたというのだ。アメリカ・ミシガン大学
のW・ゲーリング博士らの研究によると、「勝敗の表示から、平均〇・二六五秒後から、脳の前
頭葉皮質部から、強い神経系処理信号が出る」という。しかもそれは「勝ったときよりも、負け
たときのほうが信号が強く出る傾向があった」というのだ。私はこの論文を読んで、別のことを
考えた。
よく子どもの創造力が話題になる。「子どもの創造力を育てるにはどうしたらいいか」と。もちろ
ん環境や教育によるところも大きいが、それだけでは足りない。人というのは、追いつめられ、
崖っぷちに立たされてはじめて、自分の能力をふるい立たせることができる。創造力もそこか
ら生まれる。反対に、水温が調整され、酸素もエサも自動的に与えられるような環境では、伸
びる芽そのものが出てこない。伸びる力も育たない。たとえば私のことだが、今までに何度か
幼児教育から足を洗おうと思ったことがある。収入ということを考えるなら、もっとお金になる仕
事はほかにいくらでもある。しかしそのたびに、「今までの経験を文にまとめたい」という強い願
いが私を襲った。それは文を書くという甘いものではなく、もっと切羽つまったものだったような
気がする。だからこそ文を書き、それを本にすることができた。(ひょっとしたら、今もそうかもし
れない。体力的な衰えを感ずる今、年齢的にその崖っぷちに立たされているような気がする。)
つまり勝負で負けると、前頭葉皮質部からの信号が強くなることからもわかるように、追いこま
れると、それまで活動していなかった脳の機能が全開状態になる(?)。そしてそれが何とかし
なければならないという生活上の必要性とあいまって、新しい創造力へとつながっていく……。
もちろんこれは私の推論でしかない。しかし経験上、それを裏づけるような話はいくらでもあ
る。たとえばベートーベンにせよ、もし彼が満ち足りた裕福な生活をしていたら、あの第九交響
楽ができたかどうかは疑わしい。言いかえると、子どもの能力を引き出すためには、子どもも
ある程度は、崖っぷちに立たせねばならない。具体的には子どもはいつもややハングリーな状
態におく。与えすぎややりすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうこと。どこか不満足
な状態をつくりながら、それをうまく利用しながら子どもを伸ばす。
まとまりのない話になてつぃまったが、サイエンスの論文を見ながら、そんなことを考えた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(243)

習うより慣れる

私の三男は、人前で話をするのが苦手だった。しかしその三男が児童会の会長に選ばれ、宿
泊訓練の場であいさつをすることになったときのこと。三男はその数日前から食事もしなくな
り、当日も睡眠不足でフラフラの状態でその訓練にでかけていった。結果、それなりにうまくで
きたのだろう。以後、人前で話すのが平気になってしまったようだ。つまりそういう積み重ねをし
ながら、子どもは成長していく。私も実のところ子どものころ、人前で話すのが得意ではなかっ
た。大学生のときもそうだった。好きか嫌いかと問われれば、好きではなかった。英語でいえ
ば、ナーバス、つまりあがり症だった。が、その私がこわいもの知らずになったのには、理由が
ある。
今の私はどんな場に出ても、おじけづくということはない。相手が総理大臣でも、多分、平気で
話ができるとだろうと思う。その理由としては、学生時代、オーストラリアのメルボルン大学で幸
運にも、そういう人たちに囲まれて生活したという体験がある。各国の元首や外務大臣たちが
毎週のように晩餐会に来たし、ノーベル賞級の研究者たちも、数週間単位でよくとまっていっ
た。日本の政治家もよくきた。そういう中で私は学生という身分ではあったが、「頂点」をその時
点で見てしまった。ただそのあと、日本へ帰ってきてから、私は社会的にも経済的にもどん底
状態にほうりこまれ、そのギャップに苦しむことになったが、それはそれとして、人生全体で総
決算するなら、幸運だったということになる。自分では絵を描かないが、絵の鑑定士としては、
最高の作品がどういうものであるかくらいは、わかるようになった。
要するに習うより慣れろということだが、人というのは、一つずつ階段をのぼるようにして、成長
していく。そのときどきでは苦しい思いはするが、その思いをしながら、つぎのステップへと進ん
でいく。たいていの人はその苦しさに耐えかねて、その段階でつぎのステップに進むのを放棄
してしまう。(私も偉そうなことは言えないが……。)もっともそれが自分のことであれば、それを
判断するのは自分の勝手だが、今まさに伸びていこうとする子どもについては、親として別の
考え方をしなければならない。子どもが伸びていくのをみるのは楽しみなことであるのと同時
に、結構、つらいことでもあるということ。とくに子どもが苦しんでいるときはそうだ。つい、「そん
なにがんばらなくてもいい」と言いそうになるときもある。三男が宿泊訓練に行くときもそうだっ
た。学校の先生に、「会長をもう辞退させてやってほしい」と、ほとんど手紙を出す寸前のところ
まで私と女房は追い込まれた。もっとも三男が成長したというよりは、私たち夫婦が、三男によ
って成長させられたというのが正しいかもしれない。そのあと同じようなことがあるたびに、私た
ち夫婦もまた、平気でそれを乗り越えることができるようになった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(244)

子どもの嫉妬

 嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、
その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみれば
わかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」という
のは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあ
い、行動となって表れる。
 嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこ
になったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもあ
る。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいに
は、それが相手に向けられたときには、「殺す」ということろまでする。残虐かつ陰湿になるの
が特徴で、容赦しないのが特徴。弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにし
て頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ
込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の
子(小二)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺
してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどが
ある。
 ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするとき
は、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せ
るかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。
 乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにす
る。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親が
よく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(245)

子どもの闘争心

 年長児でも、「このヤロー」「てめえエ〜」と言いながら、興奮状態になって飛びかかってくる子
どもは少なくない。興奮といっても、ふつうの興奮ではない。狂暴性をおびる。目つきそのもの
が鋭くなり、別人のようになってしまうこともある。N君(年長児)がそうだ。
 別の子ども(年長男児)が騒いでいたので、その子どもを制するために席を離れたとたん、何
を誤解したのか、N君が私に飛びかかってきた。私も最初はふざけて飛びかかってきたのかと
思ったが、そうではなかった。私を足で蹴りあげたが、それはまさに全身の力をふりしぼって、
というような蹴り方だった。あまりのはげしさに驚いて、N君を私は抱きこもうとしたが、今度は
爪をたてて私の顔にそれを突き刺してきた。人間の子どもというより、野獣そのものだった…
…。
 ある程度の闘争心は、この時期、よい方向に作用する。闘争心がまったくないというのも、決
して好ましいことではない。ドッジボールなどをさせても、ただウロウロと逃げ回るだけでは、試
合にもならない。しかしその闘争心が度を超すと、ここでいうN君のようになる。特徴としては、
闘争心そのものがむきだしになり、いわゆるキレタ状態になる。心理学的には、そう状態にお
ける錯乱と説明されているが、そうした説明はともかくも、こうした動物的な闘争心は、幼児期
には決して好ましいものではない。興奮性が強くなると、冷静な判断そのものができなくなる。
 人間も昔は動物であった(今もそうだが……)という前提で考えるなら、人間にも原始的な本
能というのは、いくつか残っている。生殖本能や食欲本能など。闘争本能もその一つということ
になる。しかしこうした本能は、あまり早い時期にはいじらないほうがよい。とくに闘争本能はそ
うで、いじればいじるほど子どもはより野獣的になる。そして野獣的になればなるほど、いわゆ
る人間としての教育がむずかしくなる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(246)

権威主義者

 その人が権威主義的なものの考え方をする人かどうかは、電話のかけ方をみればわかる。
権威主義的なものの考え方をする人は、無意識のうちにも、人間の上下関係を心の中でつく
る。それが電話の応対のし方に表れる。目上の人や、地位、肩書きのある人には必要以上に
ペコペコし、そうでない人にはいばってみせる。私の伯父がそうで、相手によって電話のかけ方
が、まるで別人のように変わるからおもしろい。(政治家の中にも、そういう人がいる。選挙のと
きは、米つきバッタのようにペコペコし、当選し、大臣になったとたん、ふんぞり返って歩くなど。
その歩き方が、まさに絵に描いたような偉ぶった歩き方なので、おもしろい。)
 そのほかにたとえば、あなた自身の「印象」をさぐってみればわかる。あなたが自分の印象の
中で、どこか堂々としていて、立派と感ずる人は、権威主義的なものの考え方をする人とみて
よい。このタイプの人は、日ごろから世間的な見栄を大切にする。あるいは外から見た自分に
注意を払う。そのため他人には、立派に見える。(「立派」という言い方そのものが、封建時代
からの名残である。)
 親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶるようになる。そしてそ
の分だけ、子どもの心は親から離れる。仮にうまくいっている家庭があるとしても、それは子ど
も自身がきわめて従順か、あるいは子ども自身も権威主義的なものの考え方を受け入れてし
まっているかのどちらかにすぎない。たいてい親子関係はぎくしゃくしてくる。キレツから断絶へ
と進むことも多い。
 ……と決めてかかるいのは、危険な面もあるが、もうこれからは親が親の権威で子育てをす
る時代ではない。江戸時代や明治の昔ならともかくも、葵の紋章だけで、相手にひれふしたり、
相手をひれ伏させるような時代ではない。またそういう時代であってはいけない。私もいろいろ
な、その世界では第一線級の人たちに会ったが、そういう人ほど、腰が低くどこか頼りない。相
手がだれでも、様子が変わるということはない。つまりそれだけ自分自身を知っている人という
ことになるのか。生きザマのひとつの参考にはなる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

 

子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(247)

無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。
 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。
 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る人も
いれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩
を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私は
このことを講演活動をつづけていて発見した。
 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」という
のを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日の
こと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさ
かのぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じ
た。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。
 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年前より
進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろう
か。こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこと
だ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失
礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし
犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だか
ら犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。
 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマ
について考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返
して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(248)

宗教のもつ愚鈍性

 ある宗教を信仰している人は、それなりに穏やかな顔をしている。表情やしぐさまで違ってく
る人がいる。さらに見るからにどっしりと、落ち着いている人もいる。思想というのはそういうも
ので、他人のそれであっても、「絶対正しい」と思われるものを脳に注入されると、脳というのは
それで満足してしまう。が、同時に、自ら思考することをやめてしまう。一度そうなると、まさに
上意下達方式のもと、「上」から「下」へ一方的に思想が注入される。これがこわい。
 ……と言っても、私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。しか
し宗教や信仰には、高邁な哲学と引き換えに、その人をして自ら考えさせるのをやめさせてし
まうという側面がある。それは否定できない。中には、その宗教の批判を一切許さない宗教が
ある。(たいていの宗教はそうだが……。)疑っただけで、「地獄へ落ちる」とか、その宗教から
離れただけで、「バチが当たる」と脅す宗教団体もある。が、それでも私は宗教を否定している
のではない。信仰を否定しているのでもない。それぞれの人は、それぞれの思いの中で、宗教
や信仰に身を寄せる。この私とて、今は何とかがんばっているが、やがてそれができなくなった
ら、宗教や信仰に身を寄せるかもしれない。私が知っている哲学者や文学者の中には、死の
直前になって入信した人が何人かいる。私がそういう人たちより強いという自信は、今のところ
私にはまったくない。
 しかしこれだけは言える。仮に宗教や信仰をしても、自ら考えることはやめてはいけない。あ
る男性はこう言った。私が「少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか」と聞いたときの
こと。「あの先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいない」と。こうした愚鈍性が見ら
れたら、それはまさにその人の敗北でしかない。他人の意見は他人の意見。参考にはしても、
自分のものにしてはいけない。それはちょうど、借金ばかりで建てた家に住むようなものだ。借
金ばかりで買った車に乗るようなものだ。家や車ならまだよいが、人生はそうであってはいけな
い。いわんや自分の「魂」まで売り渡してはいけない。たとえ不完全でも、人間は自らの足で立
ちあがるからこそ、そこに生きる価値がある。医学も政治も社会も科学も、どれも不完全なも
のばかりだが、その不完全さを一つずつ克服していくから、人間なのである。生きるドラマもそ
こから生まれる。
 もっとも、愚鈍でもよい。その日その日を、平和で無事に過ごせれば、それでよいという人も
少なくない。もしあなたがそうなら、私はこれ以上何も言うことはない。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(249)

親孝行論

 ある地方の、ある老人ホームの責任者から聞いた話。そのホームでは、(どこでもそうだそう
だが)、老人たちはいつも、息子や娘の孝行話ばかりを自慢しあっているという。孝行息子や
孝行娘をもった老人は、それを自慢げに誇示し、そうでない老人は毎晩のように悔しがってい
るというのだ。そこで私が「どういう子どもを、孝行息子や孝行娘というのですか」と聞くと、こう
話してくれた。「要するに親にいかに尽くすかで決まるんですなア」と。つまり親への犠牲度、忠
誠度、貢献度、献身度、服従度で決まるという。老人たちのさみしい気持ちはわからないわけ
ではないが、それにしても、それ以上にさみしい話ではないか。私はその話を聞いたとき、まず
最初に、「私はそうはなりたくない」と思った。
 この日本では親孝行が、美徳のひとつになっている。子育てや教育の中心に考えている人も
少なくない。しかし親孝行するかしないかは、子どもの問題。子どもの勝手。少なくともそれは、
親が求めるものではない。いわんや子どもにそれを強制したり、押しつけてはいけない。親子
といえども、そこは人間関係。親孝行があるとするなら、それはそういう人間関係から、自然に
発生するものでなければならない。親孝行をしないからといって、その子どもが否定されたり、
またしたからといって、その子どもの価値をあげるようなことはしてはいけない。人にはそれぞ
れの思いがある。複雑な家庭環境や、さらに複雑な過去を背負っている人はいくらでもいる。
(親をだます子どもはいるが、世の中には子どもをだます親だっている。例外とはいえ、子ども
を殺す親だっているのだ!)むしろ日本人で問題なのは、安易な孝行論をふりかざし、子ども
に向かっては「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を子どもに押し売りしてしまうこと。子
どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまうこと。結局は、親
も子どもも、自立できない親、自立できない子どもになってしまう。それが日本人独特の親子関
係といえばそれまでだが、しかしそれは決して世界の標準ではない。極東の、アジアの小さな
島国でしか通用しない、親子関係といってもよい。
 ……と書くと、決まって「はやしの意見は、欧米かぶれしている」と言う人がいる。しかし事実
は逆で、日本の若者で、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えているのは、二〇%もい
ない。アメリカも含めて、欧米の若者たちはどこも六〇%以上である(総理府調査)。
 日本は今、大きな過渡期にきている。形だけの親子、形だけの家族から、人間関係を基本
に置いた親子、人間関係を基本に置いた家族への移行期ととらえてよい。それはもう欧米化と
いうより、グローバル化といってもよい。日本人が好む孝行論も、そのグローバル化の中で、も
う一度考えてみる必要があるのではないだろうか。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(250)

代償的過保護

 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが重なっ
て、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下におい
て、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば過保護もどきの
過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。
 代償的過保護の特徴は、@親の支配意識が強く、A子どもを自分の思いどおりにしたいとい
う意欲が強い。そのためB心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。C子どもを人間というよ
りは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなどがある。
このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでい
るケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わ
からないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。
ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強
引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつ
ど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もい
るし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が三〇〇〇万円かかったから、それ
を返すまで家を出るな」と。結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった
親もいた。そうでない親には信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょ
っとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、
いろいろな面があり、その中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。もし
そうなら、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先が代償的過保
護でないかを、冷静に判断してみる。この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつく
だけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的
過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立
できないひ弱な子どもにしたりする。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(251)

上見てきりなし

 戦前の教科書に載っていた説話らしい。『上見てきりなし、下見てきりなし』といった。つまり人
というのは、上ばかり見ていると、その欲望や不満は際限なくつづき、安穏たる日々はやって
こない。一方、下には下に、自分より不幸な人はいくらでもいるから、最後の最後まで夢や希
望は捨ててはいけない、と。「なるほど……」と思いたいが、この格言はどこかおかしい。人に
あきらめと慰めを同時に教えながら、その実、幸福感や価値観に「上下」の差別をつけてい
る。「上とは何か」「下とは何か」ということをはっきりさせないまま、この格言をそのまま鵜呑み
にするのは危険なことでもある。あるいは「上を見て何が悪い」「下とは何だ。失敬ではないか」
と言われたら、あなたはどう反論するのか。
 それはさておき、子どもに何か大きな問題が生じたときは、子どもは、「下から見る」。「下(欠
点や弱点)を見ろ」というのではない。「下から見る」。子どもが生きているという原点から子ども
を見る。するとほぼありとあらゆる問題が、その場で解決するから不思議である。いや、私と
て、何度かこの言葉に救われたことか。
だいたいにおいて、親の悩みや苦しみなどというものは、「上」から見るから始まる。「何とかな
らないか」「もっと何とかしたい」「まだ何とかなる」「何とかしなければならない」と。しかしその視
点を一転させ、「私は生きている」「子どもも生きている」「生きていること自体が奇跡だ」「生き
ることはすばらしいことだ」という視点で見ると、ものの考え方が一八〇度変わる。そしてそれ
までの自分が、小さな世界で右も左もわからず右往左往していたのに気づく。とくに私の二男
は、一度海でおぼれて死にかけたことがある。今、二男が生きていることだけでも奇跡のよう
なものだ。そういう視点でみると、「不登校が何だ」「進学が何だ」となる。それは決してあきらめ
ろと言っているのではない。人というのは、自分たちがつくりあげたバーチャルな世界で、本来
大切でないものを大切と思い込み、本来大切なものを、大切でないと粗末にすることが多い。
「下」からその人間社会をみると、本来、何が大切で、何が大切でないかがよくわかる。それに
気づく。そういう意味で、「子どもは下から見る」。
 あなたもあなたの子育てで、どこか行きづまったら、この格言を思い出してみてほしい。心が
必ず楽になるはずである。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(252)

知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。認知記憶というのは、過
去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなど
の、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。で、それぞれの記憶は、脳
の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は大脳連合野(連合野といって
も、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運動」として小脳を中心とした
神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参考、新井康允氏)。
 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさん
がAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボ
ールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。これらが瞬時に相互
に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け
止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階で、手で受け止める
ことができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁
系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしながら、そのつど、
「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつ
ける。
 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考
がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的
に作用するという。
 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。もっと言え
ば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる子どもとい
うことにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはならない。そ
のことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(253)

思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえに
われあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル
(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を
書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。
 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことでは
ない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせなが
ら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子ど
もたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。もっともこの段階でも、知的遊戯を
楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救われる。大半の子どもは、「解け」と
言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテルを張られてしまう。だからま
すます思考するということに、苦痛を感じてしまう。が、これは数学の問題だが、しかし多かれ
少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛がついて回る。それで結論が得られ
れば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。そこで大半の人は、無意識のう
ちにも、考えることを避けようとする。一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。
●ループ性……一〇年一律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観
など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手
が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。
●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方
が極端になったり、かたよったりするようになる。
 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢
的な問題もある。私も五〇歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰
えたから、その分時間もかかるし、それに切り込みに鋭さがなくなったように感ずる。そういうこ
とはある。
 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、二〇歳代で思考が停止
する人もいれば、六〇歳、七〇歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それま
でにどのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育て
る構造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしてい
る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(254)

詰め込み教育

 どこかの本山の小僧たち。机を「コ」の字型に並べて、読経の練習をしている。その本山で
は、どこでもそうだが、徹底した上意下達方式のもと、小僧たちはこれまた徹底的に教義を叩
き込まれる。疑問をもつことはもちろんのこと、質問することすら許されない。反感をもったら最
後、即、本山から叩き出される。
 日本の教育のルーツは、寺子屋。その寺子屋のルーツは、その本山教育にある。明治※
年、学校教育法が施行されたが、この教育方法は、軍国主義の台頭とともに、さらに強化され
た。それがどういう教育であったかは、いまさらここに書くまでもない。
 で、戦後日本の教育は変わったかというと、それは疑わしい。いや、教育を変えようとする動
きはあるにはあったが、日本人、つまり親たちの意識は変わらなかった。その親たちが、学歴
社会を復活させ、受験競争を復活させた。「何だかんだといっても、やはり学歴ですから」とい
う、いわばなし崩し的な教育観が、戦後の教育改革をことごとく失敗させた。いろいろ言われて
いるが、学校教育はまさにそのウズの中で翻弄(ほんろう)されたに過ぎない。
 教育法とてその流れから出ることができなかった。独創的なアイデアをもった教師がいたとし
ても、「受験勉強にさしさわりがある」という理由で、かえって排斥されてしまった。そういう例
は、数多くある。たとえばM小学校(浜松市)の教師は、毎日のように隣の公園へ生徒たちを
つれていき、そこで野外教室を開いた。しかしそれにストップをかけたのは、ほかならぬ親たち
であった。だから今、戦後六〇年近くにもなろうというのに、いまだに詰め込み教育が、教育の
「柱」としてなされている。私の知人の東大の元教授は、高校の理科の授業を参観したあと、つ
ぎのような印象をもらしている。「先生のしていることは『どうだ、解ったか? 覚えておけ』と、ま
さに一方通行です。それで入試に成功するのです。生徒たちは授業を受けるし方はそうやって
先生の言うことを理解し覚えることと思っています。そのやり方が困ったことに大学に持ち込ま
れます。ですから講義中に学生からの質問はないのです。考えながら講義を聴く習慣がないの
です。アメリカの大学生たちとはおお違いです」と。この授業の形態そのものが、本山教育その
ものと言ってもよい。
 ほとんどの親たちも、そして子どもたちも、そういうのが教育だと思い込んでいるし、さらに悲
劇的なことに、教師自身も、そういうのが教育だと受け入れてしまっている。もちろんこうした教
育を変えようとする動きもあるが、社会全体の力はそれ以上に大きい。体制の流れというのは
そういうもので、一朝一夕には変えられない。私立高校でも大学受験に背を向ければ、あっと
いう間に閉鎖に追い込まれる。悲しいかな、それが日本の現実なのだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(256)
 
図書指導の充実を

 「考える子ども」を育てる人の方法として、図書指導がある。アメリカのほとんどの小学校で
は、週一回、一時間程度の図書指導をしている。彼らはそれを「ライブラリィ(の時間)」と呼ん
でいる。それを指導ずるのが、専門のライブラリアン(司書)。そのライブラリアンが、生徒一人
ひとりの方向性とレベルに合わせて、本を貸し与え、その読書指導をしている。私の息子の嫁
の母親が、その仕事をしている。その母親に話を聞くと、こう教えてくれた。「毎週その子に合
わせた本を貸し与え、つぎの週に、その本についてのレポートを書かせている」と。私が「ライ
ブラリィの授業は、必須科目か」と聞くと、「そうだ」と。
 アメリカでは、移民国家というだけあって、多様性を認めない教育というのは、それ自体が反
アメリカ的であると判断される。日本でいう画一教育など、考えられない。今では、人種、性別、
皮膚の色などで相手を差別しようものなら、それだけで処罰される。あらゆる公文書にも、その
ように明記してある。(明記しなければならないというのは、それだけまだ差別意識が残ってい
るということにもなるが……。)
学校教育とて例外ではない。今、アメリカでは、学校の設立そのものが自由化されている。ま
た学校にしても、親と教師が話しあって、自分たちでカリキュラムを組むこともできる。日本の
教育も自由化されつつあるとはいえ、「今」というこの段階においても、比較にならない。つまり
アメリカでは、制度的にも、子どもたちのもつ「自由意識」が最大限、尊重されている。東大の
元教授が「日本の大学生とアメリカの大学生はおお違いです」というときの「違い」は、こうした
背景から生まれるものとみてよい。
 ただもう一点補足するなら、アメリカも含めてほとんどの欧米の国々では、大学生は、受講す
る講座について、一講座ずつ「買う」という意識がある。(まとめて買うということがふつうだが…
…。)しかもその「買う」ための費用には奨学金であてる。そのため彼らにしてみれば、「どこの
大学へ入ったか」ということよりも、「どこでどの程度の奨学金を得るか」ということのほうが、重
要な関心ごとになる。こうしたシステムの上に大学教育が成り立っているから、学ぶ学生も必
死なら、教える教官も必死である。講座を買ってくれる学生がいなければ、その講座は閉鎖さ
れる。つまり教官自身が職を失うということになる。日本の大学生のように、親のスネをかじっ
て……、というのとはまさに「おお違い」というわけである。
 子どもの多様性を認めるとか認めないとかいう議論は、もう古い。子どもというのは生まれな
がらにして、多様であるという前提で、教育を組み立てる。一律の算数教育、一律の国語教
育、そして一律の学年制。そのどれをとっても、もう時代錯誤としか言いようがない。そのひと
つの例として、「ライブラリー」の授業をあげてみた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(256)

子どもの携帯電話を考える

 携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているの
で、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並
べると……
@マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情
報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の
意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化す
る。
Aリセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の
世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無
視する。
Bオセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方
をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。
Cマトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温の
感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロール
しようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。
D字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が
「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわ
からない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりす
る。
E携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話
に固執する。
Fカプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会話をしよう
とする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。
Gワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能化、
愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。
Hグラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざその
人と直接対面すると、何も話せない。
Iボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透している。
J情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考回路も軽くなる。会話
能力の低下、思考能力の低下をきたす。
K親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマンガ化、ムダ話がな
くなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(257)

ウソ(虚言)と虚言(空想的虚言)

ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつ
くウソ「空想的虚言」は、区別して考える。
 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。
 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。
 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、そ
の母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなこと
を言ってもらっては困ります!」と。
 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。
 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間
に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りない
リアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実
であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自
覚しないのが、その特徴である。
 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(258)

子どもの緩慢行動

 子どもには子どもらしい、自然な動きというものがある。どこかどうというわけではないが、そ
の自然さが消えたら、何か心の変調を疑ってみる。その一つが、緩慢行動。
 抑圧された精神状態が、日常的につづくと、子どもは独特の症状を示すようになる。たとえば
緩慢行動。緩慢動作ともいう。動作そのものが鈍くなり、機敏な行動ができなくなる。全体にノ
ソノソ、あるいはノロノロとした動きになる。たとえばB君が忘れものをしたとする。そのとき先生
が、A君に向かって、「これ、B君にもっていってあげて!」と言ったとする。ふつうなら(「ふつう」
という言い方は適切ではないが……)、子どもはパッと腰をあげ、B君のあとを追いかけたりす
る。しかしこのタイプの子どもは、それができない。明らかにワンテンポ遅れた様子で、ノソノソ
と立ちあがったりする。そこで先生のほうが、またA君に向かって、「急いで!」と号令をかける
のだが、その号令にも反応しない。よく観察すると、体の動きそのものが、子どもの意思とは無
関係に動いているのがわかる。
 こうした症状が見られたら、家庭教育のあり方をかなり反省する。威圧的な過関心や過干渉
など。ほかに@顔から生彩が消え、A子どもらしいハツラツさが消え、Bため息、無気力症状
など、気うつ症的な症状をともなうことが多い。緩慢行動を、神経症の一つにあげる学者も多
い。
 こうしたケースで、指導がむずかしいのは、子どもというより、親にその自覚がないこと。たい
ていの親は、「生まれつき」という言葉を使う。そして動作が緩慢なのは、子ども自身の問題で
あるとして、子どもを叱ったりする。しかし叱れば叱るほど逆効果。子どもの動作はますます緩
慢になる。また原因は、家庭環境全体にあるので、その家庭環境全体を改めなければならな
い。しかし実際問題として、それは不可能に近い。子どもをなおすより、親をなおすほうが、ず
っとむずかしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(259)

子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。@空想的虚言(妄想)、A行為障害による虚
言、それにB虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたか
も現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による
症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並
べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考え
る。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。
 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な
要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症に
よる症状は、つぎの三つに分けて考える。
@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつ
く)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを
言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。
A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。
B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処す
る。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな
家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思
い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化さ
せないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(260)

子育てじょうずな親

 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」
「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をい
う。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。
 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がな
い。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致
していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。
 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。
子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子ど
もと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌
を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌
う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じた
りする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。
 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形
を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういう
リズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くな
いから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほ
ど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。
数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。子どもがあ
なたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかな
い。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(261)

内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子
のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考え
る。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるの
が、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。た
とえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。
 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な
症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなる
ことがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりや
すい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。
 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会
経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけ
んかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう
変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。
 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうこと
によって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子ど
もの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずっ
たり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。こういう様子がみられたら、それを
なおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、
心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学
校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるよう
なことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。
 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせ
る。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえな
い。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(262)

灯をともして、引き出す

 恩師が教えてくれた言葉だ。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流れの
教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。
 一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか
言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本
では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米で
は、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、
いろいろな場面で表れる。
 たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しか
しアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、
子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。一方、アメリカでは、子どものときから、子ども
の言葉で子どもに話させる。わかりやすく言えば、日本の教育は、まず学校があって教師がい
る。そこへ生徒がやってくるという図式で成り立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、
その周囲に教師がいて、学校があるという図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれない
が、要するに「学校中心」か、「子ども中心」かという話になる。だから……。
 たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほう
から落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディで
きていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日
本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。
 同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧
米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度
考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(263)

大学の独立法人化

 やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないとい
う理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。アメリカではもう三
〇年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、
学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラ
ップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気
がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。
 たまたまある日、二人の学生が遊びにきた。二〇〇一年にアメリカの州立大学を卒業したA
君。もう一人は一九九九年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚い
た。「よくアルバイトをする時間があるな」と。アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは
考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くま
で勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単
位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)その
お金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい
講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。私も一度、オース
トラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。
「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。
そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取
っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、い
い」と。だから教えるほうも必死だ。
 きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。
できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人
事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになった
が、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに二〇年後、三〇年後とい
うことになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることや
ら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(264)

不思議な世界

 不思議な世界だった。何とも現実離れした世界だった。ふと油断すると、そのまま夢の世界
に引きずり込まれていくような世界だった。
 私はある会議のメンバーに選ばれた。私が選ばれたのは、明かに主催者の人選ミスによる
ものだった。で、私以外は、この日本でもそれぞれの分野で一、二を争うような著名人ばかり
だった。東大の宇宙工学の松井教授、哲学者の山折氏、解剖学の養老氏などなど。アーティ
ストの藤井フミヤ氏もいたし、キャスターの草野さんもいた。会議の途中でだれかが、「ここにい
る方は、講演をしても、一時間数百万円。ワンステージ、数千万円の方たちです」と言ったが、
私以外は、まさにそういう人物ばかりだった。
 そういう人たちの間にすわっていると、おかしな気分に襲われる。第一に、「同じ人間のはず
だが」という思い。つぎに「どこが違うのだろう」という思い。さらに「限りなく自分が小さくなって
いく」という思い。そういう思いが、それぞれの方向からやってきて、頭の中で複雑に交錯する。
が、もうこうなると会議どころではない。「私は今まで何をしてきたのだろう」という悔恨の念すら
襲ってくる。
 が、やがて私は気づいた。たとえば本の数にしても、あるいは私が歩んできた道にしても、私
は何も劣るものではない、と。……と、書くと、「何をうぬぼれたことを!」と思う人がいるかもし
れない。しかしこれだけははっきりと言える。日本人にはコースがある。そのコースに、それも
最初の段階で乗れば、あとは想像以上に楽な人生を送ることができる。公立大学のばあい、
ほうっておいても、助手、講師、助教授、教授。さらには学部長……と、トコロテン方式で肩書
きが待っている。そしてそのあとも、例外なく天下り先が待っている。あの旧文部省だけでも一
八〇〇団体近い外郭団体がある。で、その上で、有名になるかどうかは、まさに紙一重の「運」
である。その運に、二つ、三つと恵まれれば、あとはもう……。これ以上のことを書くと、会議に
出た人たちに失礼なので書けないが、この日本という国は、そういうしくみの中で動いている。
 会議が、三回目、四回目とつづくうちに、私はそれに気づいた。私と彼らの間にあるのは、
「運」だけだ、と。力ではない。「運」だ、と。とたん、私の心の中をスーッと風が通るのを感じた。
私はあやうく、夢の世界に引きずりこまれるところだった。現実を忘れるところだった。「私は
私」という、あの私の哲学を忘れることころだった。これは決して負け惜しみではない。敗北を
認めたということでもない。
 ……が、考えてみれば、こういう世界があるから、結局は学歴社会はなくならない。そのため
の受験競争はなくならないし、教育のひずみもなおらない。だいたいにおいて、講演料が数百
万円なんて、(少しオーバーだろうが)、……? そちらの世界のほうが狂っている! 本当に、
本当に、不思議な世界だった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(265)

バーチャルリアリティの世界

 先日、日曜日の昼のあるテレビ番組によく出てくる、R氏と会った。たまたま新幹線の駅まで
同行し、プラットホームで別れた。そのときのこと。入ってくる列車、出て行く列車の中で、その
K氏を見ると、みながK氏に手をふるのだ。もちろん見知らぬ人ばかり。「有名になる」ということ
には恐ろしい力がある。
 で、その瞬間だが、私の中に二つの心が混在するのがわかった。ひとつは「私も有名になっ
てみたいものだな」という思い。もうひとつは、「有名になるというのも、うるさいことだな」という
思い。もっともこうしたタレントのばあいは、有名というより、「顔」そのものが看板のようなもの
だから、有名の意味が多少違うかもしれない。それはともかくも、「有名人の世界」というのが、
まさにバーチャルな世界をいう。しかしそれには恐ろしいほどの魅力がある。先日も子どもたち
(小学四年生)に、「君たちもテレビに出てみたいか」と声をかけると、みないっせいに、こう言っ
た。「出タ〜イ」と。
 バーチャルな世界……それはちょうどゲームの世界のようなもの。ゲームの世界で、得点を
多く取り、勝ったり負けたりしながら、喜んだり悲しんだりする気分に似ている。実体はない。つ
かみどころもない。もちろんテレビに出るというのは、それまでにそれなりの苦労と努力があっ
たのだろうが、しかしそれ以上に苦労と努力している人は、いくらでもいる。どこがどう違うかと
いえば、それは「運」でしかない。その運に、二つ、三つと恵まれた人がこうした「有名人」にな
れる。決して、実力や努力ではない。「運」だ。
 そこで考えてみると、この世界は、まさにバーチャルなものが氾濫しているのがわかる。氾濫
しすぎていて、何がバーチャルで、何がそうでないかがわからなくなってきている。その区別す
らつかない人も多い。いや、この私だって、その「私」を忘れてしまうこともある。「私は私」であ
り、「私はここにいる」のが私なのだが、それを忘れてしまう。あまり偉そうなことは言えない。そ
の証拠が、「私も有名になってみたいものだ」という思い。少しは生活が楽になるかもしれな
い。本だって売れるし、その分、より多くの人に私の意見を聞いてもらうことができる。しかし、
それが何だというのか。どこまでいっても、私は私であり、バーチャルな世界があっても、また
なくても、私に変わりはないのだ!
 そのR氏と別れて、私は別の新幹線に乗ったが、ものの一〇分もすると、もうひとつの自分に
戻ることができた。そしてそのもうひとつの自分が、「何てバカなことを考えたのだ」と、私を叱っ
た。R氏はR氏、私は私なのだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(266)

馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。
 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつ
として説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種
族維持などを維持するための機関と考えられていた。)
 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。
 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。
 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(267)

水槽の中の魚

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう一四年目になる。平成元年に飼い始めたから、一四
年という数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう
考える。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一
生、水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。
 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知っ
てはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。あの時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。それは客
観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは疑わし
い。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。だ
から外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなものでは
ないか。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北朝鮮の
人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国
だと思っているかも知れない。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部の
エリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。
 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな
意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の
中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。たとえば私が、三
井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、「はやしは頭が狂っ
た」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそんな中でも、私を支え
てくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択だ!」と。こうした意
識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人には、外で呼
吸をするくらい当たり前のことなのだ。そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。たと
えば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少
し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどとい
うのは、ないということか?
 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(268)

人間は動物

 このところおかしな現象が身のまわりで起きている。たとえばレストランで食事をしたとする。
そこで人々が食事をしている人を見ていると、そういう人たちが人間というより、動物に見えてく
るのだ。みながみなではないが、しかし一〇人もいると、そのうち七〜八人が、そう見えてくる。
(だからといってそういう人たちをバカにしているというのではない。誤解がないように!)「食べ
る」という、動物全体に共通する行為を見ていることもある。それはあるが、しかしそのときだ。
私は人間は動物と同じと感ずると同時に、動物も人間と同じと感ずる。どちらでもよいが、人間
と動物を区別するものが何なのか、それがその瞬間わからなくなる。(だからといって人間が愚
かだと言っているのでもない。誤解がないように。)
 たとえばきのうも、ななめ向こうの席で、ひとりスポーツウェアの中学生が食事をしていた。弟
らしき子どももその横にいたが、その弟はよく見えなかった。反対側に父親もいた。私がその
中学生が気になったのは、ハンバーグののった皿に、直接口をつけ、フォークでその料理をガ
ツガツと口の中にかき込んでいたからだ。(欧米の習慣では、皿に口をつけて食べるのは、最
悪のマナーということになっている。実際にはそういう食べ方をする人はいない。)で、その様子
を観察すると、食事を楽しむというよりは、まさに胃袋にモノを詰め込んでいるといったふう。し
かも目つきが死んだ魚のようで、その上表情がなく、正直言って、不気味だった。
 私が女房に、「人間が万物の霊長だというのは、ウソだね」と話すと、女房もそれに同意し
た。いや、人間が動物的であることが悪いのではない。人間も一度、自分たちは動物であると
いう視点で、見なおす必要があるということ。人間だけが特別の存在であると考えるほうがお
かしい。つまりその上で、教育がどうあるべきかを考えるということ。よく「日本の教育は子ども
に考えることを教えない」という。しかし日本に住んでいると、それがよくわからない。「考える」
という言葉の意味すら、よくわかっていないのでは? 人間が人間なのは、考えるからであっ
て、言いかえると、考えなければ、人間は人間としての価値をなくす。日本の教育には、そうい
う基本的な視点が欠けている。
 ……話が脱線したが、こんな格言もある。「思考はヒゲのようなものである。成長するまでは
生えない」(ヴォルテール「断片」)と。教育にも限界があるということか。あるいはひょっとした
ら、何もしないことが教育になるのかもしれない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(269)

学力の低下が心配?

 二〇〇二年三月末の読売新聞社の調査によれば、小中学校の教科内容が削減されること
に対して、六七%もの人がそれに反対していることがわかった。「新学習指導要領、削減反対
六七%、完全学校週五日制、反対六〇%(賛成三六%)」など。とくに教科内容の削減につい
ては、小学校高学年児をもつ親の七一%が、また中学生をもつ親の七三%が反対しているこ
とがわかった。で、問題はその理由だが、トップは、「学力が低下する」。これが六九%。小学
校の高学年児をもつ親の七六%、中学生をもつ親の七四%が、そう答えている。読売新聞は
「学力低下に対する危機感をもっているため」と分析しているが、本当にそうか。これらの親た
ちは、本当に「学力が低下する」ことを心配しているのか。
 実は、これらの親たちが、学力の低下を心配しているというのは、ウソ。まったくのウソ。これ
らの親たちが心配していることは、「学力の低下」ではなく、「自分の子どもが受験競争で不利
になる」ことを心配しているのだ。簡単に「三割削減」というが、三割といえば、六年掛ける0・三
で、約一・八年分ということになる。わかりやすく言えば、小学校の六年間のうち、約二年分が
削減されるということになる。これからは今まで小学四年で勉強していたことを、六年でするこ
とになる。私立小学校や中学校は「削減しない」と言っているから、この差は大きい。受験とい
うことになったら、公立学校へ通っている子どもは、絶対に不利である。親たちが心配している
点は、すべてこの一点に集中する。
 今、日本の教育はにっちもさっちも、たちゆかなくなってきている。中学一年生で、私の推計
でも、掛け算の九九がまだじゅうぶんでない子どもが、二〇%弱もいる(推計……というのも、
掛け算の九九は言えても、瞬間に「サンパ?」と聞かれても答えられない子どもも多い。ほとん
ど九九を言えない子どももいれば、ところどころあやしい子どももいる。調査をするにも、基準
の設定がむずかしい。)週刊ポスト誌(〇二年四月一二日号によれば、小学校の六年生で、
「九九のできない子ども」は、「二〜三割はいる」)ということだそうだ。全体として、約二〇%の
中学生は、掛け算の九九すら満足にできないとみてよい。そういう子どもが、一方で、一次方
程式だの二次方程式だのを学んでいるおかしさを、あなたは想像できるだろうか。ともかくも、
「三割削減」は、こうした現状の中から生まれた。
 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、「なぜ親たちが心配するか」というこ
と。もっと言えば、受験勉強の深層部分にメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。なぜ
親たちは、自分の子どもが受験競争で不利になることを心配するか、である。それは当然のこ
とながら、「受験」という制度が、この日本では人間選別の手段として使われているからにほか
ならない。さらに言えば、この日本には、受験で得をする人、損をする人、それがはっきりとし
ている。そういう不公平社会があることこそが問題なのだ。そこにメスを入れないかぎり、この
問題は解決しない。絶対に解決しない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(270)

ぬり絵

 以前、一時期、ぬり絵が子どもたちの世界から消えたことがある。中に「子どもたちをぬり絵
というワクの中に閉じ込めてはいけない」などと、とんでもないことを言う教育家も現れたりし
た。しかしぬり絵には、すばらしい効果がある。
@運筆能力を養う……手でペンや鉛筆をもって絵や文字をかくという能力は、いわば特殊な能
力である。ある程度の指導と訓練があってはじめて、それができるようになる。しかもその時期
は、かなりはやい時期で、年中児(五歳児)になるころには、すでにその能力は定着する。だか
ら子どもにペンをもたせるようになったら、ぬり絵をすることをすすめる。子どもはこまかいとこ
ろを、縦線、横線、あるいは円い線を使いながら塗りつぶすことを覚える。文字の学習に入る
前に、ぬり絵をするとよい。
A色彩感覚……たとえば白黒の線だけでかいた、森や家や川のある絵をわたし、子どもに色
をぬらせてみてほしい。色彩感覚が豊かな子どもは、色づかいが自然で、おとなが見てもほっ
とするような色づかいで色をぬる。そうでない子どもは、たとえば紫色の空、茶色の川、黒い家
など、どこかぞっとするような色をぬる。(緑の木を茶色にぬったりすれば、色覚障害が疑われ
るが……。)その色彩感覚も、ぬり絵で養うことができる。
いくつかの注意点もある。そのひとつは、常識の押しつけをしないということ。「髪の毛は黒でし
ょ!」「川は青でしょ!」式の押しつけは禁物。またこの時期、子どもは周期的に自分の好きな
色をつかうことが多い。ある時期は青ばかりで。それが終わると今度は紫ばかりで、というよう
に。よくある現象なので、あまり神経質になる必要はない。
幼児心理学の世界では、色づかいによって幼児の心理を判断するという方法もある。私は三
〇年間、この問題を考えてきたが、結論は、「?」。中にもっともらしい解説をつける人もいる
が、私はいつも「?」マークをつけている。それはちょうど、「赤い服の人は情熱的で、青い服の
人は心が冷たい」と判断するようなものだ。服の色などというのは、そのときの気分で決まる。
幼児の心理は、もっと別の方法でさぐるべきではないのか。またそのほうが、正確に判断する
ことができる。ただこういうことは言える。子どもというのは、心理的に大きく変化するとき、つい
で色好みが変化することもある。しかしこのばあいも、子どもが思春期になってからのことで、
幼児にあてはめることはできない。
(注)色覚障害者……男性に多く見られる劣性遺伝で、黄色人種は男性の5%、女性は0.
2%。(白人は8%、黒人は1%)と言われている。つまり、日本人男性の5%、男性の人口が5
123万人(95年調べ)なので、その5%=約256万人が、色覚障害者ということになる(厚生
労働省「手引き」より)。 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(271)

早期教育と先取り教育

 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。悪いのは「やり方」である。たとえば極端な
例として、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが
胎教だが、胎教そのものよりも、悪いのは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望み
もしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、ま
ったく無視。こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。それ
が悪い。まだ子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はやっ
ている英語教育もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになるこ
とは何もない。
 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解して
いる。年中児に漢字を教えたり、掛け算の九九を覚えさせたりするなど。もっとも漢字をテーマ
にすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字はおもしろいテーマだ。そ
れをつかった応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を見せるが、漢字を教
えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。た
だこの日本では、「知識や知恵をつけさせるのが教育」ということになっている。そして早期教
育とは、知識や知恵をつけさせることだと多くの親は思っている。これは誤解というよりも、世
界の常識からは大きくかけ離れている。
 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどう
かは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な
教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなこと
を書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でも
ない。この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということにな
る。その幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、
バカげている。
 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児
教育の三つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(272)

知恵の発達のバロメーター

 幼児というのは、そのときどきにおいて、ちょうど昆虫が脱皮するように成長する。精神の発
達だけではない。知恵の発達もそうだ。たとえば四歳以前の子どもは、文字にほとんど興味を
示さない。ところが満四・五歳を過ぎることから、急速に文字に興味を示し始める。(だからとい
って四歳以前の子どもに、文字学習が無駄であると言っているのではない。四歳以前は、たと
えば親が本を読んであげるなどの、読み聞かせが大切。そういう下地があってはじめて、子ど
もはやがて文字に興味をもつようになる。)この時期、子どもは文字をまねて書くようになるが、
もちろん文字の「形」にはなっていない。クルクルと丸を描いたり、それを重ねたような図形を
描いたりする。この時期をうまくとらえると、子どもは文字に興味をもつようになり、ついで自分
でも文字を書きはじめる。コツは、あれこれルール(形や書き順など)はうるさく言わないこと。
文字を書く楽しみを何よりも大切にする。
 ……というように、幼児は段階的な発達をするが、そこでひとつの基準として、つぎのように
考えるとよい。
 形……三角と四角を組み合わせたような図形を子どもに見せ、それを別の紙に書き写させ
てみる。形の弁別ができない子どもが、三角とも四角ともわからないグニャグニャの形を描く。
しかし四歳前後から、形の弁別ができるようになり、何となく三角、何となく四角というような図
形を描けるようになる。
 数字……ほとんどの子どもは、数字から文字の世界に入る。最初は、「1」「2」など。自分の
名前を書こうとする子どももいる。そのとき同時に、子どもは1から10までを数えるようになり、
少しの指導で30までなら数えることができるようになる。年中児の終わりで30まで、年長児の
終わりで100までを目標にするとよい。「多い、少ない」「ふえた、減った」の感覚から、「得をし
た、損をした」も理解できるようになる。
 ただ文字といっても「8」「9」は、幼児にはたいへんむずかしい。年長児でも正しく書ける子ど
もは、全体の六〇〜七〇%とみる。
 ひらがな、カタカナ……年長児(満六歳児)の約八〇%弱(夏休みの段階)が、ほぼ自由にひ
らがなを読み書きできる。しかし一方で、文字に対して恐怖心をもつ子どもも、この時期急増す
る。家庭での無理な学習が原因と考えてよい。それはともかくも、この時期までに子どもは、と
くに教えなくても、いつの間にかひらがなを読めるようになった、というふうにして文字を読み書
きできるようになる。
 これはあくまでもひとつの目安であり、個人差もある。大切なことは子どものリズムをうまくつ
かみ、無理をしないこと。そのリズムにうまくのれば、子どもは伸びやかに成長するし、そうでな
ければそうでない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(273)

遠慮

 以前『遠慮は黄信号』という格言を考えた。子どもの中にその遠慮を感じたら、親子関係は
かなり危険な状態にあると判断してよい。
 ふつう、満ち足りた家庭環境の中で、親の濃厚な愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、
見るからにどっしりとしている。態度も大きく、ときにふてぶてしくさえ見える。反対にそうでない
子どもはどこか、コセコセしている。よく誤解されるが、だれにでも愛嬌がよいとか、愛想がよ
いとかいうのは、子どもの世界ではあまり好ましいことではない。このタイプの子どもは、そうい
う形で相手の心に取り入ろうとする。しかし本当のところは心を許していない。気を抜かない。
だから子ども自身も疲れるが、つきあうほうも疲れる。
 遠慮するというのは、その心を許さない状態と考えてよい。もっとも他人との関係なら、ある
程度の遠慮はつきものだし、むしろ遠慮なくわがもの顔でふるまうほうが問題となることもあ
る。たとえば多動児(ADHD児)の特徴のひとつとして、無遠慮、無警戒がある。しかし本来心
を許すべき相手に心を許さないとか、許せないとかいうのは、それ自体がたいへんなストレスと
なってかえってくる。親子とて例外ではない。「実家の親に会うだけで、神経がすり減る」「正月
に実家に向かうだけで言いようのない緊張感に襲われる」などと言った母親がいた。
 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうか冷静に判断してみてほしい。あなたの子ども
はあなたの前で態度も大きく、図々しいだろうか。あなたのいる前で、平気で好き勝手なことを
しているだろうか。ときに体を休め、ときにあなたに甘えてくるだろうか。もしそうならそれでよ
し。しかしどこかあなたの目を気にしたり、あなたの機嫌をうかがうようなところがあれば、あな
たは今の子育てをかなり反省したほうがよい。今は、一見、何ごともなくうまくいっているように
見えるかもしれないが、やがてあなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツが入る。そしてそ
れが断絶につながるかもしれない。
 ただしこの問題は、あなたはそれに気づいたとしても、解決するのに、半年とか一年とか、長
い時間がかかる。子どもの年齢が大きければ、もっとかかる。そういう前提で、あなたの子育
てのあり方を反省する。 
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(274)

追えば追うほど、心を削る

 私に月謝袋を渡すとき、爪先でポンとはじいて、「おい、あんた、あんたのほしいのはこれだ
ろ」と言った高校生がいた。市内でも一番という進学高校に通う子どもだった。私が黙っている
と、「とっておきな」と。私は生涯において、三度、生徒を殴ったことがある。そのときがそのうち
の一度になった。
 父親はそのときある教育団体の職員をしていた。母親は結婚するまで、中学校の教師をして
いた。教育熱心な家庭だったが、どこかでその歯車がズレたらしい。その原因がすべて受験競
争にあるとは言えないが、受験競争に関係ないとはもっと言えない。その子どもも、小さいとき
から「勉強づけの生活」をしてきた。
 受験教育の弊害をあげたらきりがないが、そのうちのひとつが、子どもから温かい人間的な
心を奪うこと。『追えば追うほど、心を削る』という格言を私は考えたが、子どもを受験で追えば
追うほど、子どもから温かいぬくもりが消える。ものの考え方が功利的、打算的になる。勝っ
た、負けたという計算だけが頭の中を支配する。そういう状態になると、「教育」という言葉は、
もう通用しない。指導だ。教育ではなく、指導ということになる。「どうすればよい点を取れるか」
「どうすればよい(?)大学へ入れるか」と。
 この日本では、受験競争は避けて通れない道かもしれないが、子どもに受験勉強をさせると
きのは、一方で子どもの心をケアすることを忘れてはならない。でないと、結局はそのツケは私
たち自身が払うことになる。少し前だが、私にこう言った市の職員がいた。彼はその市の市役
所でも部長職にあったが、いわく、「はやしさん、このH市は工員の町だよ。工員というのはね、
お金をもつと働かなくなるよ。工員には金をもたせてはいけないよ。だからたくさん遊ぶところを
つくって、もっているお金を吐き出させるのだよ」と。もし日本中がそんなエリートばかりになっ
たら、この国はいったいどうなるのだろうか。
 で、先の高校生だが、その直後、父親と母親につれられて謝罪にきた。結果的にみれば、そ
れがよかった。その子どもはその事件を契機に、みちがえるほど人が変わった。礼儀正しくな
り、ものごしもやわらかくなった。私の教室(教室といっても、三〜四人の小さな教室だが……)
へは、高校三年の終わりまできてくれたが、その分、私との人間関係も太くなった。今でもとき
どき消息を聞くが、現在は埼玉県で高校の教師をしているという。きっとすばらしい教師をして
いることと思う。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(275)

遅れたら、「核」づくり

 ときとして子どもは、学校の勉強に遅れることがある。(「遅れる」という言い方は、本当に不
愉快だが……。)それはちょっとした油断でそうなるが、そうなったときの鉄則が、これ。「核」を
つくる。
 たとえば算数の力が遅れたとする。たとえば小一で足し算、引き算につまづいて、子どもが
自信をなくしたようなとき。そういうときは、つぎに学ぶ掛け算なら掛け算を、前もって徹底的に
教える。あれこれ全体に教えるのではなく、掛け算なら掛け算を、「これなら人には絶対負けな
い」という状態にする。つまり立ちなおりのきっかけをつくる。私はこれを「核づくり」と呼んでい
る。
 これは一例だが、この方法は、子どもが何かでつまづいたとき、いろいろに応用できる。どこ
かに書いた「一芸論」もそうだが、反対に子どもをオールマイティにしようとすると、失敗する。さ
らに言いかえると、子どもがつまづくというのは、そもそも親側に問題があるとみる。親が子ど
もをオールマイティにしようとして、結局は子どもを袋小路に追い込んでしまう。
年長児を過ぎるころから、子どもにも得意、不得意ができてくる。できて当たり前。この当たり
前のことがわからない。算数も、英語も、その上、体操も、音楽も……とやりだす。こうした無
理が、……というより、飽食的な子育て観が子どものやる気をつぶす。そして子どもはあちこち
で、同時多発的につまづき始める。わかりやすく言えば、「二兎を追うもの、一兎も得られず」と
いうことだが、そういうときは、「一兎」に的をしぼる。算数も国語もと考えるのではなく、まず算
数なら算数だけとする。その算数の中でも、掛け算なら掛け算だけとする。
子どもというのはおもしろいもので、得意な一教科が沈みはじめると、ほかの教科全体も沈み
はじめる。が、一教科だけがぐんぐんと伸び始めると、ほかの教科もそれにつられて伸びると
いうことがよくある。ほかの教科をとくに勉強しなかったとか、したというわけでもないのに、そう
なる。たとえば英語だけがぐんぐんと伸び始めると、数学をとくに勉強したわけでもないのに、
数学も伸び始めるなど。私はこれを「相乗効果」と呼んでいるが、こうした現象は子どもの世界
では珍しいことではない。そういうことも考えながら、「核」づくりを大切にする。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(276)

子どもの理性

 「理性」とは、善と悪を両方に置き、その善悪の判断に従って冷静に考えたり行動したりする
感覚のことを、理性という。簡単に言えば、「バランス感覚」ということになる。このバランス感覚
に欠けると、子どもは極端なものの考え方をするようになる。
 「地球の人口は多すぎるから、核兵器か何かで、人口の半分を殺せばいい」と言った男子高
校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になって、黒い喪服を着てみたい」と言った
女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をして、みじんも恥じなくなる。
 子どもの理性は、かなり早い時期にできる。年長児の段階では、かなり決まっている。たとえ
ば「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」という問題を出したとき、バランス感覚
のすぐれている子どもは、「順番を待ってもらう」とか、「先生に言いつける」とか言う。しかし中
には、「そういうヤツはぶん殴ってやる」とか言う子どもがいる。そこで私が「どうして?」と聞く
と、「どうせ、そういうヤツは口で言っても、わからネエ」と。
 このバランス感覚は、静かで穏やかな家庭環境ではぐくまれる。もちろん愛情も大切だが、
それ以上に大切なのは、子ども自身が静かに考えて行動する環境があるかどうか、だ。神経
質な過関心、威圧的な過干渉、さらには家庭騒動や家庭崩壊などがあると、子どもは心の落
ち着きをなくし、ついでそのバランス感覚をなくす。さらにたとえば極端に甘い父親、極端にき
びしい父親が同居するようなばあいにも、子どもはこのバランス感覚をなくすこともある。J君
(中一)がそうだった。ある日私にこう言った。「先生、おれの親父ね、毎晩ひとりでこっそりと、
エロビデオ、見てるんだよ。先生も見てるのか?」と。言ってよいことと悪いことの区別すらつか
ない。昔からの裕福な家庭で、外見からは問題があるようには見えなかった。しかしいろいろ
話を聞くと、家庭をかえりみない父親、教育熱心な母親、それにデレデレに甘い祖父母と同居
していることがわかった。つまりJ君の家庭では、J君に対してそれぞれがてんでバラバラな接
し方をしていた。それが原因だった。
 理性のこわいところは、それは一度破壊されると、以後、修復がたいへんむずかしくなるとい
うこと。その後の経験で、理性的な判断力が育つことはあるかもしれないが、それは古いキズ
の上にかさぶたができるようなものではないか。さらに幼児期に一度心がすさむと、それをな
おすのは、不可能とさえ言える。要はそういう状態にまで子どもを追いつめないということ。幼
児期に一度キズついた心は、顔についたキズのようで、消えることはない。
 ついでに一言。理性はつくるのに、数年かかるが、こわすのは、半日でよい。それくらいデリ
ケートなものであることを忘れてはならない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(277)

教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。たとえばアメリ
カ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。
(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)そこで調べてみると、小学生の全員は、自分
の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。
つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられな
くても教えられてしまうことになる。
 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この
教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもという
のは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの
教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。
 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。先日も中学生たちに、
「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどう
か」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」
と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。
 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(278)

親のうしろ姿

 生活のために苦労している親の姿。子育てのために苦労している親の姿。そういうのを日本
では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を、子どもに見せることを、この日本では美徳
のように考えている人がいる。しかしこれはまちがい。親が見せたくなくても見せてしまうのが、
親のうしろ姿。子どもが見たくなくても見てしまうのが、親のうしろ姿。親のうしろ姿というのはそ
ういうものだが、しかし中には、うしろ姿を見せながら、親の恩(?)を押し売りする人がいる。
「産んでやった」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらっ
た」と、恩を着せられてしまう。
 子育ての目標は、子どもを自立させること。そして親は、一度は子どもに対して、「あなたの
人生はあなたのものだから、思う存分、あなたの人生を生きなさい」と肩を叩いてあげてこそ、
親の義務を果たしたことになる。安易な孝行論や、「家」制度で、子どもをしばってはいけない。
いわんやそれを子どもに求めたり、強制してはいけない。子どもの人生は、あくまでも子どもの
人生。もちろん子どもがおとなになって、そのあと親のめんどうをみるとか、家の心配をすると
いうのであれば、それはあくまでも子どもの勝手。子どもの問題。
 日本の親たちは子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着。たとえば日本では親
にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコールよい子とする。そして独立心が旺盛で、
親になつかない(?)子どもを、「鬼っ子」として嫌う。そのため日本の親は子どもを育てるとき、
ちょうど、飼い犬を手なずけるかのようにして、子どもを育てる。エサを見せてはひっこめ、また
見せてはひっこめる。それでもそのエサをねだったら、ころあいを見はかりながら、おもむろ
に、つまり恩着せがましくエサを与えるというように、である。結果、子どもは親なしでは生きて
いかれないということを、徹底的に教え込まれる。そしてそれがやがて、ここでいう依存心へな
っていく。
 よく日本は依存型社会だと言われる。「生きるのは私」と考えるよりも先に、「人に何とかして
もらおう」とか、「人が何とかしてくれるだろう」と考える。どこかでいつも他人に甘えるような生き
方をする。あるいは集団にならないと、力が発揮できない。日本はこのままでよいという人に
は、私は何も言わないが、子育ての目標は、子どもを自立させること。そういう視点に立つな
ら、親のうしろ姿は見せない。親は親で、どこまでも気高く生きる。それが結局は、長い目で見
て、親と子どものきずなを深めることになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(279)

おどしは理性の敵

 子どもをわざと不安にさせる。わざと孤立させる。あるいはおどす。日本人には日本人独特
の子育て法というのがある。
一五年ほど前だが、私はT教授が書いた本を読んで、体中が怒りで震えたことがある。当時
(今も?)、日本を代表する教育評論家だった。いわく、「親子のきずなを深めるためには、遊
園地などで子どもをわざと迷子にしてみればよい」と。とんでもない教育法である。当時の日本
人は、この程度の教育論(失礼!)を読んで納得したかもしれないが、それにしてもお粗末。も
しあとで「わざと」であったことを子どもが知ったら、その時点で親子のきずなは、こなごなに破
壊される。いや、そういう卑怯なやり方ができるということ自体、その人の人間性そのものを疑
ってよい。親は子どもには、どこまでも誠実でなければならない。たとえ子どもが親を裏切った
としても、親は子どもに誠実でなければならない。それがまた親の親としての愛の深さを決め
る。
話を戻すが、こうした方法は、子育てでは邪道。手っ取りばやく子どもをしつけるには、それな
りの効果があるが、長い目で見れば、逆効果。よくある例が、デパートなどで泣き叫ぶ子どもに
向かって、「あなたを置いてきますからね」とか、「あんたを捨てますからね」と言う親がいる。親
としては軽いおどしのつもりで言うかもしれないが、子どもはそれを本気にしてますます大声で
泣き叫ぶ……。そういうとき子どもは、わかっていて泣き叫ぶのではない。恐怖心にかられて
泣き叫ぶ。だからしつけとしての効果はまったくないばかりか、ばあいによっては、子どもの理
性そのものを破壊する。
 そこで「おどしは、理性の敵」を覚えておく。おどしが日常化すればするほど、子どもから、静
かに善悪を判断するというバランス感覚が消える。ものの考え方が極端になったり、先鋭化し
たりする。いや、その前に、おどさなければ子どもがあなたの言うことを聞かないというのであ
れば、もうすでにあなたと子どもの関係は、かなり危険な常態にあるとみてよい。やがてあなた
の子どもは、あなたの手に負えなくなる。 
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(280)

未来を楽しみにさせる

 子どもを伸ばす秘訣の一つは、いつも「未来を楽しみにさせる」こと。明日は今日よりよくなる
という希望が、子どもを伸ばす。そのために子どもには、いつも前向き(プラス)の暗示をかけ
る。「あなたは去年よりすばらしい子になった」「来年はもっとすばらしい子になる」と。
 前向きに伸びている子どもは表情も生き生きとしていて、明るい。何か新しいことができるよ
うになるたびに、親に向かって、「見て!」「見て!」と言い寄ってくる。そうでない子どもは暗
い。そこでテスト。あなたの子どもはつぎのうちのどちらだろうか。
何か新しいことをやってみないと提案したとき、@「やる」とか「やりたい」と言って、すぐくいつい
てくる。A「いやだ」とか「やりたくない」とか言って、すぐ逃げ腰になる。その中間もあるだろう
が、もしあなたの子どもが@のようなら、よし。Aのようなら、あなたの子育てをかなり反省した
ほうがよい。その一つの方法に、あなたの心を作り変えるというのがある。
 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。ウソではいけない。親子というのはそ
ういうもので、長い時間をかけて、あなたの心はそっくりそのままあなたの子どもに伝わる。そ
こでもしあなたが「うちの子は何をしても心配だ」と思っているなら、こうする。「あなたはいい子
だ」を口グセにする。子どもの顔を見たら、そう言う。最初はどこかぎこちなく、とまどいを覚え
るかもしれないが、あなたがその言葉を自然に言えるようになったとき、あなたの子どももまた
その「いい子」になっている。
 話が少しそれるが、以前、「小学校へ行きたくない」という園児が続出したことがある。理由を
聞くと、「花子さんがいるから」と。『学校の怪談』に出てくる花子さんのことだった。おとなは興
味本位にこういうテレビ番組をつくるかもしれないが、子どもに与える影響を、少しは考えてほ
しい。幼児期には、こういうことはあってはならない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(281)

本当の問題

 この日本では、一度コースにのってしまえば、役職は向こうからやってくる。そうでない人から
見れば、夢のまた夢のような役職ですら、町内の役職が回ってくるように回ってくる。そしてそ
の役職をそれなりにうまくやりこなしていると、いわゆる「出世」できる。こういうのを日本では、
学歴社会という。「学歴」という言い方に問題があるなら、コース社会と言ってもよい。不公平社
会と言ってもよい。
 こうして出世(?)した人の中には、もちろん力のある人もいるが、しかし大半は、コースという
「波」に乗っただけとみてよい。つまり「運」。が、問題は、こうしたコースがあることもさることな
がら、こうしたコースは、代々、それぞれの人に受け継がれ、それをまたつぎの代に残している
ということ。コースにのるということは、生活が安定するばかりではなく、それ自体、たいへん居
心地のよい世界でもある。地位や名声が高ければ高いほど、あがめたてまつられる。その人
が発する一言一句、一挙一動が注目される。
 信じられないような話かもしれないが、こうして出世した人は、講演にしても、一時間で一〇〇
万円をくだらない。テレビや雑誌に出るような人だと、もっと高額になる。事実を一つ、書く。もう
二〇年ほど前だが、私はいろいろな人のゴーストライターをしていた。書いた本は、一〇〜二
〇冊はある(冊数が不明なのは、半分だけ書いたというのもあるから)。ほとんどは初版だけで
絶版になったが、何冊かは結構売れた。その中でもあるドクターの名前で書いた一冊だけは、
専門書だったが、年間、数一〇万部も売れた。そのドクターにとっては、最初で、今にいたるま
で最後の本だったが、しかしそのドクターは、私が書いた本をぶらさげて講演するようになっ
た。そのときの講演料が一日、二〇万円。大卒の初任給が一〇万円前後の時代だった。日本
にはこういう社会が、歴然として存在する。
 ……というような話なら、あなたもどこかで聞いたことがあると思う。しかし本当の問題は、こ
うした不公平社会があるということではない。本当の問題は、そういう社会を容認している「私
たち」自身にある。ひょっとしたら、あなたも、「あわよくばそうなりたいものだ」と思っているかも
しれない。そういう「思い」が、結局はこうした社会を容認し、支えてしまう。が、ここで大きな問
題にぶつかる。では、そういう社会がまったくなくなってしてまったら、それはそれでよいのかと
いう問題である。不公平であることそのものが、目標になることがある。社会を動かす原動力
になることもある。そこで言えることは、不公平なら不公平でもよいが、それが合理的なもので
あればよいということ。その人の努力や能力が、正当に評価されるなら問題はない。が、いび
つな不公平がはびこればはびこるほど、他方で、もともと正当に評価されるべき人が正当に評
価されなくなってしまう。それこそが本当の問題ということになる。そしてそういう社会がはびこ
れば、人はまじめに働くことをやめ、社会そのものが崩壊する。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(282)

見方を変える

 中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていること
そのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのた
びに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。
 名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
 ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹
が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。
するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだ
けだよ」と。
 ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も一八〇度変わるということだが、「何もかも
ダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方な
のだ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを
吸う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うの
は、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけ
なければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。そしてそういうと
き親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さえいる。が、そう
いうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方なのだ。
 今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数一〇億年という歴史の、その
瞬間に、同じく数一〇億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ
時代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、ど
んな問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた
自身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべて
の問題は解決する。
 ……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの
考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は
「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は
一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後
の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。何とも深刻な話になってしまったが、
あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
※……イラン映画「桜桃の味」



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(283)
 
子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓
がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活
発になる。が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲
不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされ
る」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。
 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どもの
ばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」についても、夜尿(お
ねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私がそれを指摘す
ると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、
夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経
が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受
けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。
 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそう
いうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問
題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるか
らといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの
中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所
が、「家庭」ということになる。
 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を
反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子
どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。た
いていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感
ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょに
ついても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。そ
してあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということにな
る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(284)

男らしさ、女らしさ

 男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られてい
る。男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、
ある程度の性差があることも知られている。そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はよ
り女性的な遊びを求めるということらしい。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男
性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)
男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。た
とえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。その友人には二人の娘がいたのだが、
その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかりほしがる」と。そこでその友人は、「男と女
というのは、生まれながらにして違う部分もあるのではないか」と。
 が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別
をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこ
んなことはある。ごく最近、あった事件だ。
 私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからか
っても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や
肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中
のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)が、女児の
中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてくるのだ。しか
しそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為は誤解を生
む。その女の子(小三)もそうだった。何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイス
に座って休んでいると、平気でそのひざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもか
わした。が、ところが、である。その女の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私に
ヘンなことをする」と言いふらしているというのだ。私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女
は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(うわさ)は決定的にまずい。親に言うべきか
どうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視しなさい」と。
 この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には
微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしそ
の微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。昔の日本人はそう考えたが、あく
までもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男らしく」「女らしく」と言うだけで、差
別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代はすぐそこまできている。そういう前
提で、この問題は考えたらよい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(285)

親子とは

 東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、
その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。ある男性(四五歳)は、母親(七六歳)
に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にその通帳からお金を引き出し、全額、
自分の借金の返済にあててしまった。その男性(四五歳)が、たまたま半年あまり、アメリカへ
行っている間のできごとだった。帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」
と迫ったが、母親はこう言ったという。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い!
 親子の縁など切れるものではない!」と。しかしその事件があって、その息子は親との縁を
切った。一〇か月近くも苦しんだあとの結果だった。今年五〇歳になるその男性はこう言う。
「母はその一〇か月の間、ほとぼりを冷まそうとしたのですが、私のほうはその一〇か月で心
の整理をしました」と。
 その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づ
けることはできないが、しかしこれだけは言える。いろいろな家族がいる。そしてその中身も人
それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。
あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを一人の人間としてみるときがくる。一方、あな
たの子どももあなたをいつか、一人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」
に耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して
永遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味
で、親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。
 とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互
いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」
のかわからないことをいう。ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子
のその男性に、お金を無心にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくると
いう。その男性はこうつづける。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはそ
の方法しかないのでしょうが、私はもう母から解放されたいのです」と。
 親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこ
の問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの
芥川龍之介は、こう書いている。
 「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの
参考にはなる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(286)

ユニバーサルスタジオ

 大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれ
ていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「タ
ーミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感
じなかったわけではない。
 その一つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パ
ビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい……
という願いはもっている。しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んで
しまった。つまり「いまどき、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させ
るとしたら、少なくともユニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。となると、そ
のためにどういう方向性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回
れば回るほど、絶望的にならざるをえなかった。
 つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいも
のかという疑問。私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中
に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。当然のことながら、ユニバー
サルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までもが、完全に抜かれてしまってい
る。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまたアメリカ風のみやげを買う。けば
けばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これまたロックンロールであったり、ジ
ャズであったりする。こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感ずるだろうか。いや、ほかの国
のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客が、何割かがそうであるというぐ
らい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本でアメリカを見ているのだ!
 ……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにする
と、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。三〇〇万人の日本人がそ
のために死に、同じく三〇〇万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何の
ために死んだのか」と。
 女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も五〇歳を過ぎ
ると、そうは小回りがきかなくなる。脳みそをカラッポにして楽しむというわけにはいかない。と
きどきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(287)

大声で笑わせる

 「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。「笑う」という行為に
は、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいな
い。反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑
わせることによって、それがなおることがある。そのため私は教室では、子どもを笑わせること
だけを考えて授業を進める。五〇分一単位の授業だが、五〇分間、笑わせつづけることも珍
しくない。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもし
ここに書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)
 笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくして
はいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえ
ば粘土のボール四個と、四本のひごで四角形を作ってみせる。そのとき、空中でそれを作って
みせると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこ
れ口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくで
きない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラ
ゲラと笑う。
 「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子ども
の前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園
元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。「子どもの前に立つ
ときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあいは、服装の乱れを絶対
に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M先生についてはありえ
なかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。
 それから三〇年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになっ
てしまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合ってい
る。実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえる
と、先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほ
ど威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶっ
ても、しかたない。
 私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(288)

子どもへの禁止命令 
 
 「〜〜をしてはダメ」「〜〜はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多け
れば多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規
則を好む」というのがある。
 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえ
ば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒
ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。また指しゃ
ぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と
声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなっ
た分だけ、子どもは心を閉ざす。
 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけで
はない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも
学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがある。心が緊張すると、それだけ大脳の活動
が制限されるということか。私は勝手にそう解釈しているが、そういう意味でも、「緊張」は避け
たほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生み出す。
 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性
があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以
前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。
 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子ど
もたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだ
が、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しか
し一人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう四年になるが、(というのも、こ
の話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、そ
の子どもは、今、飛び級で二年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子ども
は、どうしても伸び悩む。
 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(289)

依存心と自立心

 アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこ
ち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。そういうとき日本人ならすぐ、通り
の人に声をかけて、今いる場所を聞く。そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かない
か?」と声をかけたのだが、その友人はけげんそうな顔をするだけで、何も答えなかった。で、
それが気になっていたので、別のある日、アメリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれ
を聞くと、こう教えてくれた。「アメリカ人は、人に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞く
のは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」と。つまり「そういう習慣はない」と。
 よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へ
は、この道をまっすぐ行って、二本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というの
は、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。それとも皆さんの中で、いま
だかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよいが)、道路で道を聞かれたこ
とがあるだろうか。少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道なんか聞かない。彼らはま
ず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。つまりそれだけ自立心
が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本人なら皆、そうだが)、
それだけ依存心が強いということ。
 もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカは
アメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこ
のまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけ
ないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識
とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。
 私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車を
その中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生た
ちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、20ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバ
イトになっていた。二男は「同じ学生だから」ということで、一〇ドルにしてもらったというが、こう
いうドライさというのは、日本人は理解できないものだ。しかしそれが世界の常識でもある。
 日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(290)

あるがままを受け入れる

 親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入
れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないこ
とは、親ならだれしも知っている。
 で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるが
ままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさ
らけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。
 Tさん(五五歳)は、息子(四〇歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼
まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の
理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。
 この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親で
ありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。し
かしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子であり
ながら心を開いていないことになる。しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことがで
きない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう
状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなった
で、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。
 少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきず
なを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しい
ものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければなら
ない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっ
ているということになる。
 ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといっ
て、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻
滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。しかしそうなったとしても、それはしかたないこ
と。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、そ
れだけきびしいことだということ。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てるこ
と」という人がいる。そんなことは当然のことで、それをしなければ、結局は子どもにあきられ
る。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自
分をみがくことを忘れてはならない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(291)

依存性の二つの側面

 依存性には、二つの側面がある。@相互依存性と、A依存性の伝播(連鎖)である。相互依
存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまただ
れかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるため
に、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。
 つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいと
いうこと。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子
どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け
継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。
 何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。
 たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べた
い」とは言わない。「おなかがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こ
うした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い
方をする。ある女性(六〇歳)は、いつも自分の息子(三五歳)にこう言っている。「私も歳をとっ
たからねエ〜」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。
 ……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと
言うのを避ける民族だと。しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに
依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それ
が依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。
 で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。一
人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生
活の中でもよく観察される。このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分
に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言
いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。
 こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子
育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょ
うどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に
無頓着になる。
 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標に
するなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでも
ない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(292)

赤ちゃん言葉

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」
と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その
数は日本語より、はるかに少ない。
 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な
問題が隠されている。
 先日、遊園地へ行ったら、六〇歳くらいの女性が孫(五歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗
り込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の
話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホ
レ、ワー、楽チィーネー」と。
 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をし
ているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子ども
の人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱う
ことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている! それだけその
女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依
存心をもたせていることになる。ある女性(六三歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小四男児)
に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。
それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結局はその子
どもを、一人の人間として認めていない。
 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを
一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はある
が、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影
響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが
同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべ
ると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたっては、その差はもっと開く。これは民族性の違
いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高校生にしても、日
本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ経験のある人な
ら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを子どものときか
ら、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。
 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとお
して、わかってもらえれば幸いである。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(293)

依存心と人格

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの自立は遅れる。そしてその分、人
格の「核」形成が遅れる。よく過保護児は子どもっぽいと言われるが、それはそういう理由によ
る。
 人格というのは、ガケっぷちに立たされるような緊張感があって、はじめて完成する。いわゆ
る温室のようなぬるま湯につかっていては、育たない。そういう意味では、依存心を助長するよ
うな甘い環境は、人格形成の大敵と考えてよい。
 で、その人格。わかりやすく言えば、「つかみどころ」をいう。「この子どもはこういう子どもだ」
という、「輪郭」と言ってもよい。よきにつけ、悪しきにつけ、人格の完成している子どもは、それ
がはっきりしている。そうでない子どもは、どこかネチネチとし、つかみどころがない。「この子
どもは何を考えているのかわからない」といった感じの子どもになる。そのため教える側からす
ると、一見おとなしく従順で教えやすくみえるが、実際には教えにくい。たとえば学習用のプリン
トを渡したとする。そのとき輪郭のはっきりしている子どもは、「もうやりたくない。今日は疲れ
た」などと言う。そう言いながら、自分の意思を相手に明確に伝えようとする。しかし輪郭のはっ
きりしない子どもは、黙ってそれに従ったりする。従いながら、どこかで心をゆがめる。それが
教育をむずかしくする。
 が、問題は、子どもというより、親にある。設計図の違いといえばそれまでだが、依存心が強
く、従順で服従的な子どもを「いい子」と考える親は多い。もう一〇年近くも前になるだろうか、
私の教室をのぞき、「こん荒れた教室とは思いませんでした」と言った母親がいた。見るとその
母親がつれてきた子ども(小二女児)は、まるでハキがなく、見るからに精神そのものが萎縮し
ているといったふうだった。表情も乏しく、皆がどっと笑うようなときでも、笑うことすらできなかっ
た。そういう子どもがよい子と信じている母親からみると、ワーワーと自己主張し、言いたいこと
を言っている子どもは、「荒れた」ということになる。私は思わず、「あなたの子育て観はまちが
っている」と言いかけたが、やめた。親は、結局は自分で失敗してみるまで、それを失敗とは気
づかない。それまでは私のような立場の人間がいくら指導しても、ムダ。しかも私の生徒ならま
だしも、見学に来ただけだ。私にはそれ以上の責任はない。
 総じて言えば、日本人は自分の子どもに手をかけすぎ。そうした日本人独特の子育て法が、
日本人の国民性にまで影響を与えている。が、それだけではない。日本人の考え方そのもの
にも影響を与えている。その一つが、日本人の「依存心」ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(294)

心の風邪……いかにして「無」になるか

 夢や期待がある間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたと
きはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になっ
たときから、子どもは立ちなおり始める。親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思ってい
る間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。
 ある高校生(高二女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくら
い、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときか
ら、高校には通っていなかった。こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の
存在を感じさせないほどまで、親が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だ
から、勝手にしなさい。そのかわり私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という
親の姿勢が伝わったとき、子どもの心はゆるむ。こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が
軽かった」という状態を繰りかえしながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、
あとは何をしても裏目、裏目に出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にす
る。ポイントはいくつかある。
@子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきたよ
うなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだろう
か。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、心と
体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。
A症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾
向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。
月単位ではない。もちろん週単位でもない。親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれな
いが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということ
は、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単
位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと。
B必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問
題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」にな
る。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけ
で、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的
な対処法ということになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(295)

自分を知る

 教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。た
とえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。
「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の
過去を知ることがある。
 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。
私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が
汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山
荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。
私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてし
まうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きを
して、その女の子を泣かせてしまったことがある。その女の子にフラれる前に、私のほうが先
手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きた
かったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだった
ようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。
が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問題
は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気
がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。このタイプの
親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に
操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかける
ことができない。
「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし
まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな
ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ
れに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつ
までも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」に出
会うことができるかもしれない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(296)

親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば
園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。
そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとした
ら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。
子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそうい
う話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそうい
うばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。一つの基準として、あなたの子ども
が、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなたの子ども
は園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもと
にして、どの子どもを招待するかどうかを決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも
多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。
一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮
だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということが
わかった(小学生三〜五年生、二〇人に聞き取り調査)。
@いじめっ子、A乱暴な子、B不潔な子、C無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、だれに
も迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」という
答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもということに
なる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。やさしい
子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。
 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私は
こう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(297)

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王
の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やは
りその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるた
めに長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉
を別の意味に使っている。
 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、
世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換
えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を
基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分
の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。
 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなく
ても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事
休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければなら
ない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外
側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければ
ならない。
 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいてい
はグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、そ
れなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなく
なってしまう。が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。私が知っている人
の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった人
はいくらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなり
たくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということにな
る。もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければ
ならない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを小
さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが私
にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロ
ー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすよう
にしている。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(298)

親は外に大きく

 生きザマにも二種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に
変えてもよい。前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考
ということになる。たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、
過去の栄光にしがみつくようになる。たとえば退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだ
わるのがそれ。退職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそ
んなことを気にしていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、
「自分は大切にされるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自
分の家柄にこだわる人も同じように考えてよい。
 実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人
もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きにな
ったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。
一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続く
と、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますま
すにっちもさっちもいかなくなってしまう。
 こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大
きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。大きくなる方法はいくらでもある。仕
事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくっ
て、身近なささいな敵は相手にしないようにする。私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に
本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわかったが、しかしそれも終わってみると、いつ
の間にか、私はこわいもの知らずなっていた。あるいは私は三〇歳くらいのときから、あちこち
で講演活動をしている。最初のころは、より大きな講演会場になればなるほど、神経をすり減
らしたものだ。数日前から不眠症になってしまったこともある。しかしそれを繰り返すうちに、や
はりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、そういう方法で大きくすることができる。
 自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どもの
ためでもあるが、結局は自分のためでもある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(299)

互いに別世界

 世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。し
かしその世界の中にいる人には、それがわからない。それはいわば信仰の世界のようなも
の。その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界
そのものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。が、そ
の信仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信
仰にも、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、
現に今、この日本だけでも約二〇万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそ
が絶対正しい」と言って、しのぎを削っている。二〇万という数は全国の美容院の数とほぼ同
じ。
 子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起
こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を
必死になって隠そうとする。自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。
しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるよ
うになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたの
だろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その
外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。
 ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、
勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。「勇気を出して」というのは、実際、一つの信
仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはも
のすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。たとえば
たいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展
開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だから
よけいに、勇気がいる。
 同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混
乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少
なくない。だから勇気がいる。しかし……。
 仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正
しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで
眠らせてはいけない。子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静
な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子
どもを見失うことになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(300)

バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフ
リをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強した
ほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親に
なればよい。
 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味
が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ
一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。映画『フォレストガンプ』
の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃ
ないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたこ
とにはならない。
 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないと
きがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふ
れるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手
にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。が、バカな親というのは、それが
ちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つま
り「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりする
と、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。
 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子ども
が言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そうい
うこともふまえた上で考える。私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。し
かしそういうときは、こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイ
だ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大
切である。
  
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