はやし浩司

301〜400
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 子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司

 301−400

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(301)

会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、母、会
話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、再び私、子ど
もに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽しかったわね。そうで
しょ。だったら、そう言いなさい」と。
(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ〜、ママとイッチョで、
楽チィワネエ〜」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何になりたい
のかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ〜と、ママのそばにいるわ
よねエ。どこへも行かないわよね〜」と。
(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人だ
ったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセントが身につく
のではと、心配です」と。
(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私はあな
たの親よ!」と。
(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがねエ〜。
こんなことでだいじょうぶですかネ〜?」と。……などなど。
 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに書いた
ような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだし、私はもとも
とこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることは確かだ。(だから電車
などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるようにしている。ホント!) 
 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をしたい
の?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわかる。どちら
がどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発展途上国的であ
る。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言ってもよい。家庭教育の充実
が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、よくわかっていないのでは……? 旧態
依然の親子観が崩壊し、今日本は、新しい家庭教育を求めて模索し始めている段階と言って
もよい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(302)

家庭教育の過渡期

 家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていない。三
〇年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が低下したの
は、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家庭教育そのもの
が混乱しているためと考えるほうが正しい。
 昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういうのを
「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同時に、家庭の
中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実のところ親の権威
の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育観を組み立てられな
かった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでもその症状のひとつにすぎ
ない。
そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひとつ
は、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父親は権威
だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。もうひとつは、「新し
い家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しいとか正しくないとかいう前に、
こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象である。たとえば一九七〇年前後のアメ
リカ。
 戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカンドリーム
の時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経験する。そのこ
ろアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリカ社会を混乱させた。
旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本にたいへんよく似ている。
たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも大きな
テーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちのエネルギー
は、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげしくなった。わかり
やすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、新しい価値観をつく
りだすことができなかった。まただれもそれを提示することができなかった。ここに「混乱」の最
大の原因がある。
 今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあるとみて
よい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリカの親子は、
日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さきにも書いたように、
こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち始めているということ。中
には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私たちが
めざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な価値観
ではない。前に進んでこそ、道は開ける。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(303)

数は生活力

 計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」は、
学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということになると、疑わし
い。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。
 O君(小三)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知らない
が、中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり方で解い
てしまった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかったので、定価の2
割引で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」という問題など。それ
こそあっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のある子どもという。
 が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミカンの
入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」という問題で
も、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、少し内容を変える
と、もう解けなくなってしまう。「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのもの
が弱い。「そんな問題、どうでもいい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げ
てしまう。そんなわけで私は、いつしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」
「取った、取られた」「得をした、損をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて
「数の力」を伸ばすことができる、と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計算力をみ
がいても、また教科書を学んでも、ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほとんどならない。
 ……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在の教
育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしすぎている。
子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、一次方程式だ、二次法手式だ」とやりだすから、話
がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、子どもに勉強を押しつけ
る……。
ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表している。
小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超え
た(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇
〇年度には三五%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこの
ままでいい」とは、だれも考えていない。
むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力を考えた
らよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(304)

風邪薬は予防薬にはならない

 風邪薬をいくらのんでも風邪の予防にはならない。同じように、テストをいくらしても、頭がよく
なるということはない。(テストを受ける要領がうまくなり、見かけの点数があがることはある。)
子どもの「力」は、生活の場で、実体験をともなってはじめて、伸びる。言いかえると、生活の場
で、実体験のともなわない知識教育は、ほとんど意味がない。まったくないとは言わないが、し
かし苦労の割には身につかない。あまりよいたとえではないかもしれないが、たとえば英語教
育がある。
 私は高校生のとき、英語の教師から、「pass(過ぎる)とpurse(サイフ)は発音が違う。よく覚
えておけ」と、教えられたことがある。教師の発音では、どこがどう違うかわからなかった。だか
らテスト勉強では、「passは、パース、purseもパース、発音が違う」などと覚えた。今から思う
と、何ともイイカゲンな勉強法だが、当時はそれが当たり前だった。で、英語のテストの点はよ
かったが、私の話す英語など、まったく役にたたなかった。
 こうした「イイカゲン性」は、ほとんどあらゆる勉強に見られる。そのサエたるものが、受験勉
強。先日も中学生(中三男子)が、「長野の高原野菜、浜名湖のウナギ、富山のチューリップ…
…」と声を出して覚えていた。そこで私が「高原野菜って、何?」と聞くと、「知らない」と。ついで
に私が、「今では浜名湖のウナギはいないぞ。ぜんぶ養殖だし、それにほとんどが中国から輸
入されている」「富山のチューリップより、袋井市にある『ユリの園』のユリのほうが、よっぽどき
れいだ」と言うと、その中学生は吐き捨てるようにこう言った。「いちいちうるさいナ〜。いいの、
これで!」と。
 ともすれば私たちは子どもに勉強を教えながら、その風邪薬のようなことをしてしまう。またそ
れをもって教育と思いこんでしまう。しかししょせん、風邪薬は風邪薬。たくさんのんだからとい
って、風邪の予防にはならない。もちろん健康にもならない。あなたの子どもの勉強も、一度同
じような視点から見つめなおしてみてほしい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(305)

受験の神様?

 日本のどこかに「受験の神様」というのが祭ってあるという。その季節になると、多くの親や受
験生が、その神社を訪れるらしい。しかし……。
 だいたいにおいて、信者に個人的な利益をもたらす神や仏がいるとしたら、インチキと考えて
よい。いわんやそれで信者を金持ちにしたり、受験に合格させたりしたら、ますますインチキと
考えてよい。
 実のところ私も若いころは結構、信仰深い(?)ところがあった。しかしあるとき、『原爆の少
女・サダコ』を読んだときから、自分のために祈ることをやめた。「私より何千倍も真剣に祈っ
た人がいる。私より何千倍も神や仏の力を必要とした人がいる」と、そんなふうに考えたら、も
う祈れなくなってしまった。「私の願いをかなえてくれるくらいなら、私はいいから、サダコのよう
な女性の願いをかなえてやってほしい」とも。
 私は「信仰」を否定するものではない。ないが、信仰するとしたら、それは他人のためにする
ものだと思っている。自分のためではない。あくまでも他人のためだ。言いかえると、自分のた
めに信仰している間は、それは本当の信仰ではない。それがわからなければ、神や仏の立場
になってみればよい。……いや、実のところ、教育というのは、宗教と紙一重のところがある。
私は神や仏は、もともとは教師ではなかったかと思うときがよくあるが、たとえばあなたのとこ
ろへ一人の受験生がやってきて、「先生、どうか○○大学に合格させてください」と言ったとした
ら、あなたは何と答えるだろうか。あるいは「先生、毎晩、あなたの家に向かって、真剣に祈っ
ていますから、どうか願いをかなえてください」と言ったとしたら、あなたは何と答えるだろうか。
きっとあなたはこう言うにちがいない。「バカなことはやめなさい。自分のことは自分でしなさい」
と。もしあなたがその神や仏で、そんなことで受験生の願いをかなえてやったとしたら、その受
験生は、かえってダメになってしまうかもしれない。人間的に堕落してしまうかもしれない。しか
しもしあなたのところへ一人の受験生がやってきて、「ぼくはいいから、不幸な○○さんをどう
か合格させてやってください」と祈ったとしたら、あなたは少しは心を動かされるかもしれない。
 そこで「他人のために祈る」ということになる。が、結局のところ、だれのために祈ったらよい
のか、私にはわからない。わからないから、祈りようがない。つまり私は祈らない。たとえ私に
生死をさまような大病がふりかかったとしても、私は祈らない。もしそれで私の病気を神や仏が
なおしてくれたとしたら、私は反対にその神や仏をうらむ。「そんな力があるなら、どうしてサダ
コを救ってやらなかったのだ!」と。
 要するに「受験の神様」など、インチキだということ。あんなのに祈っても、気休めにもならな
い。「信仰」という名前すら、泣く。こうしてエッセイにするのもバカらしいが、一度は書いておか
ねばならない問題なので、こうして書くことにした。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(306)

善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で
善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師にな
ったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。私は
毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならな
かった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方
をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。
 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分
自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振り返ってみると、自
分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものではな
く、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。
が、しかし本当にそう言いきってよいものか。
 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。
自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねてい
るに違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私
の運命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当
に私なのか、と。
 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は
偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命に
ものを書いている。しかしそれとて考えてみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と
戦うためではないのか。ふと油断すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、
そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうし
てものを書きながら、自分と戦う。……戦っている。
 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあな
ただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっている
かもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにく
い話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のとこ
ろで考えてみることにする。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(307)

教育と医学

 たとえば一人の子どもがいる。彼は「○○症」と言われる子どもである。そういうとき、つまり
その子どもを見る目は、教育と医学ではまったく違う。まず第一に、教育では子どもを診断し、
ついで診断名をくだすことはしない。またしてはならない。だから「そうではないか?」と思いつ
つも、あるいは知っていても知らぬフリをして教育を進める。一方、医学では、まず診断名を確
立し、その上で、「治療」を開始する。
 また指導という段階でも、教育と医学とではまったく違うとらえ方をする。たとえばその子ども
が何かと問題を起こして、クラスを混乱させたとしても、教育ではいつも「全体の問題」として、
それを考える。クラスが混乱したら、「混乱したクラス」を問題にする。が、医学では当然のこと
ながら、個人を対象に治療をすすめる。
 さらに教育では、いつも親や子どもに希望を与えることを大切にする。仮に「たいへんなおり
にくい問題」とわかっていても、「何とかしましょう」と言って、指導を開始する。医学では「治す」
ことを考えるが、教育では、「よりよくする」ことだけを考える。またそれでよしとする。
 こうした教育と医学の違いは、そのつど教師ならだれでも経験することである。が、それが原
因で、教師自身が大きなジレンマに陥ることがある。たとえば「先天的な問題」をもった子ども
がいる。しかしいくらそうでも、教師は、「先天的」という言葉を使わない。「先天的」という言葉を
使うこと自体、教育の放棄、つまり敗北と考える。が、それを親のほうから指摘してくることがあ
る。「うちの子の問題は、先天的なもので、私の育て方の問題ではありません」と。親としては、
精一杯、自分の育て方についての責任を回避する意味でそう言うのだろうが、しかしそう言わ
れてしまうと、教師としてはつぎに打つ手がなくなってしまう。さらに知識だけはやたらと豊富
で、「遺伝子レベルで、この問題は解明されつつあります」とあれこれ説明してくれるが、それで
終わらない。つづけてこう言う。「親に責任があるという世間に偏見の中で苦しんでいる親も多
いはず」と。だれも親の責任など追及していないのだが、そう言う。
 教育と医学は、基本的な部分で違う。しかしそれを混同すると、教育そのものが成り立たなく
なる。教育と医学は、いつも分けて考えなければならない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(308)

意識の違い

 意識は脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、仮に自分の意識がズレていても、それに
気づくことは、まずない。とくに教育の世界では、そうだ。
 今から三〇年前、私はオーストラリアの大学で学んでいたときのことだが、向こうの教授たち
は平気で机の上に座っていた。机に足をかけて座っている教授すらいた。今でこそ笑い話だ
が、こうした光景は当時の日本の常識では考えられないことだった。さらにその少し前、東京オ
リンピックがあった(一九六四年)。その入場式のときのこと。日本の選手団は一糸乱れぬ入
場行進をして、高い評価(?)を受けた。当時ですら、アメリカの選手団はバラバラだった。私
はそのとき高校生だったが、「アメリカの選手たちはだらしない」と思った。しかし……。
 一方、一〇年ほど前だが、こんなこともあった。アメリカ人の女性が私に、「ヒロシ、不気味だ
った」と言って、こんな話をしてくれた。何でもその女性が海で泳いでいたときのこと。どこかの
女子高校生の一団が、海水浴にきたというのだ。「どうして?」と聞くと、その女性は、「みんな、
ブルーの水着を着ていた!」と。つまりその女性は、日本の高校生たちがみな、おそろいのブ
ルーの水着を着ていたことが、不気味だったというのだ。が、私には、その女性の意識が理解
できなかった。「日本ではあたりまえのことだ」とさえ思った。思って、「では、アメリカではどうな
のか」と聞くと、こう言った。「アメリカでは、みんなバラバラの水着を着ている」と。
 このアメリカ人の女性の意識については、それからしばらくしてから、理解できるようになっ
た。ある日のこと、当時のマスコミをにぎわしていたO教団という宗教団体があった。その教団
の信者たちが、どこかふつうでない白い衣装を身にまとい、頭にこれまたふつうでない装置
(?)をつけて、道を歩いていた。その様子がテレビで報道されたときのこと。そのときだ。私に
はそれがぞっとするほど不気味に見えた。と、同時に、「ああ、あのときあのアメリカ人の女性
が感じた不気味さというのは、これだったのだ」と思った。
 意識というのは、そういうものだ。人にはそれぞれに意識があり、その意識を基準にしてもの
を考える。しかしその意識というのは、決して絶対的なものではない。その人の意識というの
は、常に変わるものであり、またそういう前提で自分の意識をとらえる。今、おかしいと思って
いることでも、意識が変わると、おかしくなくなる。反対に、今、おかしくないことでも、意識が変
わると、おかしくなる。たとえば今、北朝鮮の人たちが、一糸乱れぬマスゲームをしているのを
見たりすると、それを美しいと思う前に、心のどこかで違和感を覚えてしまう。が、もし三〇年前
の私なら、それを美しいと思うかもしれないのだが……、などなど。
 進歩するということは、いつも自分の意識を疑ってみることではないか。言いかえると、自分
の意識を疑わない人には、進歩はない。とくに教育の世界では、そうだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(309)

固い粘土は伸びない

 伸びる子どもと伸び悩む子どもの違いといえば、「頭のやわらかさ」。頭のやわらかい子ども
は伸びる。そうでない子どもは伸び悩む。たとえば頭のやわらかい子どもは、多芸多才。趣味
も特技も幅広く、そのつどそれぞれの分野で、自分を楽しませることができる。子どもにいたず
らはつきものだが、そのいたずらも、どこかほのぼのとした子どもらしさを覚えるものが多い。
食パンをくりぬいて、トンネルごっこ。スリッパをつなげて、電車ごっこなど。
 一方伸び悩む子どもは、融通がきかない。ある子どもとこんな会話をしたことがある。子、「ま
ちがえたところはどうするのですか?」、私、「なおせばいい」、子「消しゴムで消すのですか」、
私「そうだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」と。実際、小学三年生の子どもとした会
話である。
 簡単な見分け方としては、ひとりで遊ばせてみるとよい。頭のやわらかい子どもは、身の回り
からつぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。そうでない子どもは、「退屈ウ〜」と
か、「もうおうちに帰ろウ〜」とか言ったりする。遊びそのものが限定されている。また同じ遊び
でも、知恵の発達が遅れ気味の子どもは、とんでもないいたずらをすることが多い。先生のコ
ップに殺虫剤を入れた中学生や、うとうとと居眠りしている先生の顔の下に、シャープペンシル
を突きたてた中学生などがいた。その先生はそのため、あやうく失明するところだった。幼児で
も、コンセントに粘土をつめたり、溶かした絵の具をほかの子どもの頭にかけたりする子ども
がいる。常識によるブレーキが働かないという意味で、心配な子どもということになる。
 頭をやわらかくするためには、意外性を大切にする。子どもの側からみて、「あれっ」と思うよ
うな環境をいつも用意する。私も最近、こんな経験をしたことがある。オーストラリア人の夫婦
を、ホームステイさせたときのこと。彼らは朝食に、白いご飯にチョコレートをかけて食べてい
た。それを見たとき、私の頭の中で「知恵の火花」がバチバチと飛ぶのを感じた。それがここで
いう意外性ということになる。言いかえると、単調で変化のない生活は、子どもの知能の大敵と
考える。生活の中に、いつも新しい刺激を用意するのは、子どもを伸ばす秘訣であると同時
に、親の大切な役目ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(310)

世間体

 Yさん(八四歳女性)という女性がいる。近所では「仏様」と呼ばれている。そのYさんについ
て、娘のKさん(六〇歳)が、こう話してくれた。「いまだにサイフの中には札束を入れて歩くので
すよ」と。つまりその札束を、そのつど、これ見よがしに人に見せつけるのだという。「スーパー
のレジの女の子にさえそれをするから、お母さん、もうそんなことをやめなさいと言うのですが、
もうそれがわかる年齢でもないようです」と。世間体をとりつくろう人は、そこまで神経をつかう。
 ちょうどこの話を聞いたとき、北朝鮮では「アリラン」という祭典が催された(〇二年五月)。ず
いぶんと盛大な祭典だったようだ。その祭典について、読売新聞社の記者が、こんな記事を書
いている(同年五月二日)。「(D百貨店では)、記者団の到着とともに明かりがともり、エレベー
タが動き出した」「取材日程に組み込まれた庶民用のD百貨店も、衣類、電化製品、缶詰、調
味料など品数と種類は多かったが、ただ購入している人はほとんどみかけなかった」「一方、ピ
ョンヤンのアパートが立ち並ぶ一角の食料品店で陳列棚にあったのは、惣菜類入っているらし
い金属製の容器三つだけだった」などなど。読売新聞社の記事だから、それ以上のことは書い
てなかったが、世間体をとりつくろう(国)は、そこまで神経をつかう。
 世間体を気にする人というのは、それだけ自分のない人とみてよい。しかも世間体と自分
は、反比例する。世間体を気にすればするほど、自分がなくなる。先のYさんだが、家計は火
の車だが、冠婚葬祭にだけは惜しみなくお金を使う。法事にしても、たいてい近くの料亭を借り
きって催している。が、それだけではない。本当の悲劇は、世間体を気にする人は、自分がな
い分だけ、他人に心を許さない。他人どころか、身内にすら心を許さない。つまりそれだけ心の
さみしい人とみる。たとえば娘のKさんが、Yさんを旅行に連れていったとする。そのときYさん
にとって大切なのは、「娘が旅行に連れていってくれた」という事実なのだ。自分の仲間たちの
間で、「息子や娘の親孝行ぶり」を、自慢するためである。こう書くと、信じられない人には信じ
られない話かもしれないが、もともと意識そのものがズレているから、このタイプの人はそう考
える。もっというと、世間体を気にする人は、そこまで神経をつかう。
 さてあの北朝鮮。結局は犠牲になっているのは、その国民だと思うのだが、ある女子工員は
こう言っている。「(縫製工場従業員の一人は)、もっと生産性をあげ、将軍様(金正日総書記)
に喜びを与えたい(と話した)」(読売新聞)と。これについては、私もコメントを書くわけにはい
かないので、読者の皆さんで考えてみてほしい。人間は教育(?)によって、ここまでつくられ
る!
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(311)

心の貧しい人たち

 金持ちでも心の豊かな人。金持ちでも心の貧しい人。貧乏でも心の豊かな人がいる。最高級
車を乗り回しながら、ゴミを窓の外にポイと捨てる人は、金持ちでも心の貧しい人。清貧を大切
にしながら、近所の清掃をしている人は、貧乏でも心の豊かな人ということになる。しかし問題
は、貧乏で、心の貧しい人だ。そういう人はいくらでもいる。
 ただここで誤解しないでほしいのは、人はすべてここでいう四つのタイプに分けられるという
のではない。人は、そのつど、いろいろなタイプに変化するということ。あなたや私にしても、心
が豊かな面もあれば、貧しい面もあるということ。さらに金持ちかどうかは、あくまでも相対的な
ものでしかない。いくら貧乏といっても、五〇年ほど前の日本人のような貧乏な人は少ないし、
どこかの貧しい国の人よりは、はるかによい生活をしている人はいくらでもいる。
 で、そういう前提で、心の貧しい人を考えるが、そういう人は、実のところ、いくらでもいる。見
栄、メンツ、世間体にこだわる人というのは、それだけで心の貧しい人と言ってよい。このタイ
プの人は、いつも他人の目の中で生きているから、ものの価値観や幸福感も、相対的なもの
でしかない。自分より不幸な境遇にいる人をさがしだしてきては、そういった人を見くだすことに
よって、自分の立場を守ろうとする。だから会話も独特のものとなる。「あの家の息子さんは、
引きこもりなんですってねえ。先生の息子さんでも、そうなるのですねえ」「あの家は昔からの財
産家だったのですが、今は見る影もないですねえ」とか。他人の不幸や失敗が、いつも話のタ
ネとなる。中には一見、同情するフリをしながら、ことさらそれを笑う人もいる。「かわいそうなも
のですねえ。人間はああも落ちぶれたくはないものです」と。こういう人を心の貧しい人という。
 つまるところ自分自身や自分の生きざまに、いかに誇りをもつかということだが、心の貧しい
人は、他人の不幸を笑った分だけ、今度は、自分で自分のクビをしめることになる。ある女性
(八〇歳)は、老人ホームへ入ることを、最後の最後までこばんでいた。理由は簡単だ。その
女性はそれまで、老人ホームへ入る仲間をさんざん笑ってきた。人生の落伍者であるかのよう
にさえ言ったこともある。「あわれなもんだ、あわれなもんだ」と。
 学歴や地位、名誉、さらには家柄にこだわるということは、それだけでも自分を小さくする。
が、それだけではすまない。こだわりすぎると、心を貧しくする。「形」を整えようとするあまり、
自分を見失う。B氏(六〇歳、現在退職中)は、ある日私にこう言った。「ぼくは努力によって、こ
こまでの人間になったが、君は実力で、ここまでの人間になったのだねえ」と。自分のことを、
「ここまでの人間」という愚かな人は少ない。B氏は過去の学歴におぼれるあまり、自分を見失
っていた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(312)

考える人、考えない人

 私が五〇歳を過ぎたためかもしれない。しかしこの年齢になると、考える人と考えない人が、
はっきりとわかるようになる。考える人は独特の話し方をする。独特の様子を見せる。反対に
考えない人は、独特の話し方をする。独特の様子を見せる。ただこの時点で大切なことは、考
える人からは考えない人がどういうものかはよくわかるが、恐らく、考えない人からは、考える
人がどういう人なのかはわからないだろうということ。それはちょうど、賢い人からは愚かな人
がよくわかるが、愚かな人には、賢い人がどういう人かわからないのに似ている。(私が、考え
ない人がよくわかると書いても、私がその賢い人と言っているのではない。誤解のないように…
…。)
 考えない人というのは、どこかペラペラと調子がよいだけで、話している内容に深みやハバが
ない。何かを問いかけても、表面的な答しか返ってこない。通俗的というか、こちらの予想通り
の答であったりする。そういうとき私は、その人の意見の違いに驚くというよりは、互いの間の
「距離」を感じて、思わず身を引いてしまう。「この人からは何も得るものはないぞ」と。あるいは
「この人を説得するのは、不可能だ」とさえ思うときもある。とくに相手が、五〇歳とか六〇歳の
人であったりすると、絶望感すら覚える。先日も私に向かって、「子どもが親のめんどうをみる
のは当たり前でしょう」「親なら子どもを愛しているはず」「子どもは親に従って当然」と言った人
がいた。言葉ではそのつど、「そうですね」と返事をしたものの、もうそれ以上、議論する気には
なれなかった。「どうぞ、ご勝手に」という気分に襲われた。
 一方、考える人というのは、何を話しかけても、こちらの言葉が相手の脳の中に深く沈んでい
くのがわかる。それは子どもでもそうで、ひとつの問題を投げかけても、いろいろな方向から考
えようとする。たとえば「人をいじめることは悪いことだよね」と話しかけたとする。するとよく考
える子どもは、そのまま深く黙りこくってしまったりする。あれこれ自分の周囲で起きているいじ
めを思い出しているふうでもあるし、自分自身の経験を思い出しているふうでもある。そしてそ
の一方で、私がどの程度の答を求めているかをさぐろうとする。
 ……ということになると、考えるか考えないかは、習慣の違いということになる。能力ではな
い。その習慣の違いが、長い時間をかけて、考える人とそうでない人を分ける。そしてそれが
人生の晩年になると、はっきりとわかるようになる。そしてそのことを裏返すと、人生の晩年に
なってから気づいたのでは、もう遅いということ。習慣というのは、一朝一夕にはできるもので
はないし、また突然、変えられるものではない。冒頭で「五〇歳」という数字をあげたが、この年
齢というのは、その節目ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(313)

思考回路

 東京へ行くことになった。そこで私がまずしたことは、JRの浜松駅に電話をして、発車時刻を
調べること。が、なかなか電話はつながらない。が、そのとき気がついた。今では電話などしな
くても、インターネットを使えば、発車時刻など即座にわかる。思考回路というのはそういうもの
で、一度、できると、それを改めるのは容易ではない。私は昔から、電車の発車時刻は、電話
をして確かめていた。それが今になっても、つづいている?
 実のところ、思考回路には、便利な面もある。人間の行動をパターン化することにより、行動
そのものをスムーズにする。たとえばテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を手にするとき、右
手でとろうか、左手でとろうかなどと考えてからとる人は、いない。自然に右手が出て、そしてい
つものように茶碗をもちあげる。しかしその思考回路にハマりすぎると、それ以外の考え方が
できなくなってしまう。そういうとき思考回路は、かえって思考のじゃまになる。
 が、思考回路があることが問題ではない。問題は、その思考回路が、柔軟なものかどうかと
いうこと。たとえば子どもたちの行動パターンを観察すると、おもしろい連続性を発見すること
がある。たとえばポケモンカードがある。年齢的には小学校の低学年児に人気がある。それが
中学年になると遊戯王になり、高学年になると、マジックザギャザリング(通称「マジギャザ」)に
なる。より複雑なゲームになるというよりは、子どもたち自身が、ひとつの思考回路にハマって
いるといったほうが正しい。友人関係にせよ、遊び仲間にせよ、さらにはごく日常的な会話にせ
よ、全体としてひとつの思考回路となっているから、途中で、それを変えるのは容易なことでは
ない。仮にカードゲームから離れて、趣味が読書に向かうとしたら、それまでの環境すべてを
変えなければならない。
 ……と書いて、実はこれはおとなの問題でもある。思考回路というのは、歳をとればとるほど
柔軟性をなくす。冒頭にあげた例がそのひとつ。そこで問題は、いかにして思考回路の柔軟性
を確保するかということ。いろいろな刺激を与えればよいことは、私にもわかるが、体そのもの
が新しい刺激を受けつけないということもある。日常的な行動そのものがパターン化されてい
る現状で、どうすれば新しい刺激を自分に与えることができるのか。もっとも私のばあいは、た
とえば旅行で、たとえば読書でと、そういったところで刺激を受けるようにしている。が、本当の
問題は、このことでもない。本当の問題は、いかにすれば固定した思考回路をつくらないです
むか、だ。あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じこ
とをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。自分の中にひとつの思考回路
を感じたら、その思考回路そのものと戦う。そしてそれをつくらないようにする。そういうのを自
由といい、進歩という。行動面はともかくも、思想面では、思考回路は、思考そのものの障害と
なることもある。そういう視点で自分の思考回路をながめる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(314)

あなたは裁判官

(ケース)Aさん(四〇歳女性)は、Bさん(四五歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、
こう言った。AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさ
い」と誘ったという。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫
がBさんに向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。それに
対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃない!」と
反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。
(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直
な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けと
めた。一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があ
いさつ言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。
相手が断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。そのとき大切なことは、誘われたほうは、あ
いまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り方をすると、かえって誘ったほうが困ってしま
う。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」という言葉がある。昼食は簡単にすますという習
慣である。恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出
してもらえるなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件に
なった?
(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では
何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。私な
らまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。あるいは
どうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をしろ」は、な
い。つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。
Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受
け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけ
ればならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!
 私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感
じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(315)

心をゆがめる子ども

 これはあくまでも教える側からの観察だが、心をゆがめ始める子どもには、いくつかの特徴
がある。その中でも最大の特徴は、@心がつかめなくなるということ。もう少し具体的には、何
を考えているかわからない子どもといった感じになる。よい子ぶったり、見た目にはよくできた
子といった印象を与えることが多い。静かで従順、何を言いつけても、それに黙って従ったりす
る。この段階で、多くの先生は、「いい子」というレッテルを張ってしまい、子どものもつ問題を
見落としてしまう。そしてある日突然、それが大きな問題になり、「えっ!」と驚く……。不登校
がその一例。あとになって「そう言えば……」と思い当たることもあるにはあるが、それまでは
たいていの教師はその前兆にすら気づかない。
 つぎにA「すなおさ」が消える。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときには、二つの
意味がある。一つは、心の状態と表情が一致していること。悲しいときには悲しそうな顔をす
る。うれしいときにはうれしそうな顔をする、など。が、それが一致しなくなると、いわゆる心と表
情の「遊離」が始まる。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコと笑ったりするなど。
 もう一つは、「心のゆがみ」がないこと。いじける、ひがむ、つっぱる、ひねくれるなどの心の
ゆがみがない子どもを、すなおな子どもという。心がいつもオープンになっていて、やさしくして
あげたり、親切にしてあげると、それがそのままスーッと子どもの心の中にしみこんできくのが
わかる。が、心がゆがんでくると、どこかでそのやさしさや親切がねじまげられてしまう。私「こ
のお菓子、食べる?」、子、「どうせ宿題をさせたいのでしょう」と。
 家庭でも、こうした症状が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方を
かなり真剣に反省する。そしてここが重要だが、子どもの中に心のゆがみを感じたら、「今の
状態をより悪くしないこと」だけを考え、一年単位でその推移を見守ること。あせればあせるほ
ど、逆効果で、一度(何かをする)→(ますます症状が悪化する)の悪循環に入ると、あとは底
無しのドロ沼に落ちてしまう。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(316)

心を開かない子ども

 心を開かない子ども……と、書いて、実はあなた自身のこと。あなたはだれかに対して、一人
だけでもよいが、心を開くことができるだろうか。あるいはそういう人がいるだろうか。「心を開
く」ということは、そういう意味でもたいへんむずかしい。実のところ、この私にしても、「この人
だけになら心を開くことができる」と思える人は、ほとんどいない。どうしても自分をさらけ出すこ
とができない。そのためどうしても自分を作ってしまう。
 そこで「本当の自分」とは何かを考えてみる。……この間、一〇数分の時間が過ぎたが、本
当の自分と言われると、そこでまたハタと困ってしまう。本当の私は、小心者で、小ずるく、無
責任で、冷酷で、自分勝手。そういう自分がつぎつぎと浮かんでくる。しかしそういう自分をさら
け出すことはできない。だれかと接するときは、どこかでそういう自分と戦わねばならない。あり
のままの自分をさらけ出したら、相手もびっくりするだろう。
 ここから先はたいへん不謹慎な話になるが、異性と、裸になってセックスをするときは、ひょっ
としたら、心を開いた状態なのかもしれない。肉体や感情や、それに欲望をさらけ出している
と、ついでに心までさらけ出すことになる。もっともその前提として、互いに愛しあっていなけれ
ばならない。自分の欲望を満たすために、心を偽るようでは、心をさらけ出したことにはならな
い。「私はどうなってもいい」という思いの中で、自分をさらけ出してこそはじめて、心を開いたこ
とになる。
 ……と、書いて、子どもの話にもどる。親子だから、互いに心を開きあっているとは限らな
い。親のほうはともかくも、子どものほうが心を閉ざすケースはいくらでもある。「親がこわかっ
た」「親の前にすわると緊張する」「親に会うと疲れる」「実家には帰りたくない」「何か言われる
と、反発してしまう」など。若い母親でも、約三〜四割の人が、そういう悩みをかかえている。子
どもの立場でみて、親にどうしても心を開くことができないというのだ。そこでさらに問題を掘り
さげて、あなたという親と、あなたの子どもの関係はどうかということ。あなたは子どもに心を開
いているだろうか。反対にあなたの子どもはあなたに心を開いているだろうか。こういう質問を
すると、たいていの人は、「うちはだいじょうぶ」と言うが、だいじょうぶでないことは、実はあな
た自身が一番よく知っている。それともあなたは、あなたの親に対して、全幅の心を開いている
と自信をもって言えるだろうか。
 「心を開く」ということは、そんな簡単な問題ではない。またそんなふうに簡単に考えてもらって
は困る。私の経験では、生涯、心を開くことができる相手というのは、ほんの数人ではないかと
思う。あるいはもっと少ない……? こちらが心を開いても、相手が開かないとか、その反対の
こともある。なかなかうまくいかないのが人間関係だが、それはそのまま親子についても言え
る。はたしてあなたは本当にだいじょうぶか?



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(317)

西郷隆盛が理想の教育者?

 ある教育雑誌に、ある県会議員の教育改革論(?)が載っていた。いわく「西郷隆盛(明治維
新の元勲)こそが、私の尊敬する人物。彼の思想にこそ、これからの教育の指針が隠されてい
る」(雑誌「K」)と。いろいろ理由は書かれていたが、私はこういう意見を読むと、生理的な嫌悪
感を覚える。イギリス人がトラファルガーの海戦(一八〇五年)で勝利を収めた、ネルソン提督
をあがめるようなものだ。気持ちはわからないでもないが、どうしてものの考え方が、こうもうし
ろ向きなのだろうとさえ思ってしまう。
 西郷隆盛が西郷隆盛であったのは、あの時代の人物だったからにほかならない。西郷隆盛
をたたえるということは、あの時代を肯定することにもなる。もちろん歴史は歴史だし、歴史上
の人物は、それなりに評価しなければならない。しかし西郷隆盛に教育論を求めるとは……?
 彼は、大久保利通、木戸孝允らと並んで、明治維新の三傑とは言われたが、少なくとも民主
主義のために戦った人物ではない。平和や自由や平等のために戦った人物でもない。わかり
やすく言えば、武士階級の権威や権力の温存を求めて戦った人物である。
 ……というような反論をしても、この日本では意味がない。私のほうが異端児になってしまう。
先日も、「あなたは日本の歴史を否定するのか。それでもあなたは日本人か」と言ってきた人
がいた。しかし私は何も日本の歴史を否定しているのではない。それに私は上から下まで、完
全な日本人だ。日本の文化や風土、民族はこの上なく愛している。しかしそのことと体制を愛
するということは別のことである。西郷隆盛にしても、明治から大正、昭和における歴史の教科
書の中で、そのときどきの体制につごうがよいように美化された偉人(?)にすぎない。その結
果が、あの軍国主義であり、さらにその結果があの戦争であるとするなら、なぜ今、西郷隆盛
なのかという疑問を私がもったところで、それは当然のことではないのか。
 こうした復古主義は、社会の世相が混乱するたびに姿を現す。今がそうだが、こうした復古
主義がはびこればはびこるほど、「進歩」が停滞する。しかし私たちがすべきことは、「新しい家
庭観」の創設であって、決して復古主義的な家庭観ではない。改革の思想は、いつも混乱の中
から生まれる。混乱を恐れてはいけない。混乱の中から何かを生み出すという姿勢が、この混
乱を抜け出る唯一の方法である。
……何とも、カタイ話になってしまったが、読者のみなさんも、こうした復古主義にだけはじゅう
ぶん、注意してほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(318)

国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう三〇年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学
していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が
いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。
 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと
う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスな
ら行きたいが、九九%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外
国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。
 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。
 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日
本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉
を使った。
 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。
 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。
こうした職業観などというものは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それ
ぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そうい
うものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼
稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「浩ち
ャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだが、その
一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子どもの間で
は、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはならな
い。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(319)

ホームスクール

 アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅
で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日
本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九
七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合でふ
え、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達しただろうと言われている。それを指導しているの
が、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」とい
う理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりして
いる。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け
入れを表明している(LIFレポートより)。
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。
 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。
 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(320)

二番目の子は、親と疎遠?

 「三人兄弟の第二子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大学大
学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞〇二年五月)という。
 同大学院認知行動科学研究所が、全国の三人兄弟の大学生男女一二九人に、一か月に何
回、両親に電話するかを聞いたところ、
 長子…… 6・9回
 第二子……4・6回
 末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。男女別に分けても、傾向は同じだった
という。さらにその報告によれば、「出生順位と親子関係について、一九九八年にカナダで行
われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の子どもは両親をあまり親しい人物と考えてい
ないという結果が出ている」という。理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占で
きる期間があり、末子も、その後に弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析して
いる。そして「一方、じゅうぶんに手をかけてもらっていない中間の子どもは、両親への清密度
を減らす」とも。
 ……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査によれ
ば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこちの本の中で、
そう書いてきた。が、問題はその先。
 嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、愛想
がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ようになり、仮面をか
ぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に引こうとする。が、さら
にその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、何を考えてい
るかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやすくなる、いじけやすく
なる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」が出てくるようになる。タイプと
しては、@暴力的、攻撃的になるプラス型と、Aジクジクと内へこもるマイナス型に分けること
ができる。大切なことはそういう状態になる前に、子ども自身が今、どう状態なのかを親側が知
ることである。ここにも書いたように、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心はゆがむ。
 さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両親へ
の清密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の子だけに
特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」と。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(321)

ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。
中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもがいる。しかし
そういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員
は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。
 J氏という今年五〇歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順
で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまってい
る。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言
わない。何もできない。その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういう
J氏でありながら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年七五歳になる母親のあとばかり追い
かけている。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くと
ころによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべ
て、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくとも
この二〇年間は、遊んでばかりいる。
 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なも
ので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だっ
た」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自
分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、
まさに悲劇としか言いようがない。J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り
離そうと何度も試みた。それについては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに
応じなかった。いつものように、「お母ちゃんが怒るから……」と。
 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」と
いう関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本
的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばる
のは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何
をしてもよいというわけではない。子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待され
ても虐待されても、子どもは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく
言われる。そういう子どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。
ケダモノだ。いや、ケダモノでもそこまではしない。
 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わ
ってくる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(322)

人格の分離

 日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子どもの世
界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位置づけてしま
い、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペ
ットを育てるかのような育て方をする。その結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子
イコールよい子と位置づける。そうでない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
(例1)ある女性(七〇歳くらい)は、孫(六歳くらい)に向かってこう言っていた。「オイチイネ(お
いしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ(おいしいね)」と。子どもを完全
に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫
なら、何と言うだろうか。「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。
(例2)ある女性(七〇歳くらい)は、孫(一〇歳くらい)に電話をかけて、こう言った。「おばあち
ゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買ってあげるよ」と。最近は、そ
の孫がその女性にところに遊びにこなくなったらしい。それでその女性は、モノやお金で子ども
を釣ろうとした。が、しかしもしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子ども
と、バカにするな」と叫ぶかもしれない。 
 こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりとおって
いる。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法として、だれ
も問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。未熟で未経験かもし
れないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視点が、日本人の子育て観
にはない。
 子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見えるが、そ
の実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、日本独特の子
育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」ということになるが、こ
れについては別のところで考える。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(323)

伸びる子ども

 あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。
( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。 
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。
 以上、二〇問のうち、二〇問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということになる。もし
○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。あるいはもしあ
なたの子どもがまだ、〇〜二歳であれば、ここに書いたようなことを、三〜四歳にはできるよう
に、子育ての目標にするとよい。五〜六歳になったとき、全問(○)というのであれば、あなたの
子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもになる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(324)

伸ばす子育て

 子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、問題
はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつぶしてしまう
子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集中する。
 その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と思うケ
ースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い視線が子
どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやりながらも、「どうし
てうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。あるいは親の過剰期待や、子どもへの
過負担から、子どもが無気力状態になるケースもある。小学校の低学年で一度そういった症
状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可能とさえ言ってよい。しかしそういう状態にな
ってもまだ、親は、「何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。で、私が学習に何とか興
味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」とか「さらに」とか言って無理を
する。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。さらに大きな悪循環の中で、やがて子ど
もはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪化して、情緒障害や精神障害に進む子どももい
る。もうこうなると、打つ手はかぎられてくる。(実際には、打つ手はほとんどない。)
 が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私に任せ
てほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばかりに、またまた
無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。がまんできない。「こ
のままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれしてしまう。そしてそれが最後
の「糸」を切ってしまう。
 問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかということ。
そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。これは子育て
にまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命との戦いであるといっ
てもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。おかしい。そう、その狂い
やおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、賢い親ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(325)

ずる休みの勧め

 「学校は行かねばならないところ」と考えるのは、まちがい。私たち日本人は明治以後、徹底
してそう教育を受けているから、「学校」という言葉に独特の響きを感ずる。先日もテレビを見
ていたら、戦場の跡地でうろうろしている子ども(一〇歳くらい)に向かって、「学校はどうしてい
るの?」と聞いていたレポーターがいた(アフガニスタンで、〇二年四月)。その少し前も、その
シーズンになると、海がめの卵を食用に採取している子どもたちが紹介されていた。南米のあ
る地域の子どもたちだった。その子どもたちに向かっても、レポーターが「学校は行かなくても
いいの?」(NHKテレビ)と。
 日本人は子どもを見れば、すぐ「学校」「学校」と言う。うるさいほど、そう言う。しかしそういう
国民性が、一方で、子どもをもつ親たちをがんじがらめにしている。先日も子どもの不登校で
悩んでいる親が相談にやってきた。そこで私が「学校なんか、行きたくなければ行かなくてもい
いのに」と言うと、その親は目を白黒させて驚いていた。「そんなことをすれば休みグセがつき
ませんか」とか、「学校の勉強に遅れてしまいます」とか。しかし心配はご無用。
 学校へ行くから学力や知力がつくということにもならないし、行かないから学力や知力がつか
ないということもない。さらにその子どもの人間性ということになると、学校はまったく関係ない。
むしろ幼稚園児のほうが、規則やルールをよく守る。正義感も強い。それが中学生や高校生
なると、どこかおかしくなってくる。「スリッパを並べてくれ!」などと頼もうものなら、即座に、「ど
うしてぼくがしなければいかんのか!」という声がはね返ってくる。人間性そのものがおかしくな
る子どもは、いくらでもいる。
 そこでずる休みの勧め。ときどき学校はサボって、家族で旅行すればよい。私たち家族もよく
した。平日にでかけると、たいていどこの遊園地も行楽地もガラあきで、のんびりと旅行するこ
とができた。またそういうときこそ、「子どもを教育しているのだ」という充実感を味わうことがで
きる。よく「そんなことをすれば、サボりぐせがつきませんか?」と心配する人がいた。が、それ
も心配ご無用。たいていその翌日、子どもたちはすがすがしい表情で学校へでかけていった。
ウソだと思うなら、あなたも一度、試してみることだ。こういう話を読んで、目を白黒させている
人ほど、一度、勇気をもってサボってみるとよい。あなたも明治以後体をがんじがらめにしてい
る束縛の鎖を、少しは解き放つことができるかもしれない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(326)
 
コンピュータウィルス

 このところ(〇二年五月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一応、二
重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウィルス攻撃を
受けながら、いろいろなことを考える。
 よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対策を論じ
ていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウィルスをばらまい
て楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、それほど強い正義感がある
とも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男と、そんなに違うとも思えない。
どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男になっていたかもしれない。人間のも
つ正義感などというものは、そういうものだ。
 もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なのだろう
が、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっともこの私でも、簡単
なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ちあげのプログラムを組み込
めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖のプログラムを書き込めばよい。
言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二男にしても、高校生のとき、すでに自
分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治していた。だからたいしたことないと言えばた
いしたことはないが、それにしても「もったいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。
 つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルスが入った
メールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連絡が入る。問題
はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@××からのメール、
件名△△にはウィルスが混入していました……」と。そこで私は、その相手に対して、その内容
を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はそのつど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィ
ルスに汚染されている可能性があります」などと、返信を打っていた。しかしこのところそれが
多くなり、そういう親切がわずらわしくなってきた。で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロ
バイダーからの報告そのものを削除するようにしている。で、ハタと考える。「私もクールになっ
たものだ」と。いや、こうしたクールさは、コンピュータの世界では常識で、へたな温情(スケベ
心)をもつと、命取りにすらなりかねない。(事実、過去において、何度かそういう経験があるが
……。)だから、あやしげなメールは、容赦なく削除する。しなければならない。そしてそれがど
こかで、私が本来もっている、やさしい人間性(?)を削ってしまうように感ずるのだ。あああ…
…。
 このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(327)

子どもの世界(1)

 子どもを、未熟で未完成、そのうえ幼稚であると、おとなの世界から切り離してしまう。つまり
子どもを一人の人格者として認めるのではなく、不完全な「半人前」な人間として位置づけてし
まう。日本の子育ての最大の欠陥は、ここにある。
 そのため日本では、親が子どもを育てるときも、その前提として子どもを人間として認めてい
ないから、あたかもペットを育てるかのようにして、子どもを育てる。たとえば親は、まず子ども
に対して、目いっぱい、よい思いや楽しい思いをさせる。そしてそのあと、「もっとよい思いや楽
しい思いをしたかったら、親の言うことを聞きなさい。聞けば、もっと楽しいことがある」というよ
うなしつけ方をする。
 欧米ではこれが逆で、欧米の親たちは、生まれながらにして子どもを一人の人格者として認
める。認めたうえで、「よい思いや楽しい思いをしたかったら、まず苦労をしなさい」と子どもをし
つける。その一例として「家事」がある。私がよく知っている、オーストラリアやアメリカの子ども
にしても、実によく家事を手伝っている。料理はともかくも、食後のあと片づけは、たいてい子ど
もの仕事になっている。
 その結果、この日本では、独特の「保護と依存」関係が生まれる。保護はともかくも、問題は
「依存」。あるアメリカ人の教育家は、日本の子育てを批評して、かつてこう言った。「日本人
は、自分の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着すぎる」と。その教育家の名前
を忘れてしまったのは、たいへん残念だが、そのためこの日本では、親にベタベタと甘える子
どもイコール、かわいい子イコール、よい子とした。一方、独立心が旺盛で、自立した子ども
を、「鬼の子」として嫌う。そしてさらにその結果、この日本ではいわゆる「恩着せがましい子育
て法」が、当たり前になっている。しかも悲劇的なことに、それがあまりにも当たり前であるた
め、子どもに対して恩着せがましい子育てをしながら、それにすら気づかないというケースが多
い。
 数年前、演歌歌手のI氏が、NHKの「母を語る」というテレビ番組の中で、こう言っていた。
「私は女手一つで育てられました。その母親の恩にこたえようと、東京に出て、歌手になりまし
た」と。
 私はこのI氏の話を聞きながら、最初は、I氏の母親はすばらしい母親だと思った。しかしその
うち、それは番組が始まってから一〇分くらいたってからのことだが、「果たしてこのI氏の母親
は、本当にすばらしい母親なのか?」と思うようになった。I氏は半ば涙ながらに、「私は母親に
産んでもらいました。育ててもらいました」とさかんに言っていたが、そう無意識のうちにも思わ
せてしまったのは、母親自身ではないかと考えるようになった。母親自身が、子どもに恩を着
せる形で、「産んでやった」「育ててやった」と思わせてしまったのではないか、と。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(328)

子どもの世界(2)

 子どもの依存性は、必ずしも子どもから親への一方的なものではない。親自身にも、「だれ
かに依存したい」という潜在的な願望があるとみる。その願望が姿を変えて、子どもの依存心
に甘くなる。
 ある女性(六〇歳)は、通りで会うと私にこう言った。「息子なんて育てるもんじゃないですね。
息子は横浜の嫁に取られて、今、横浜に住んでいます」と。「親なんてさみしいもんですわ」とも
言った。こうした女性の背景にあるのは、子どもを「モノ」あるいは、「財産」と考える意識であ
る。こうした名残は、「嫁にもらう」とか、「嫁にくれてやる」という言い方などに見られる。それは
ともかくも、その女性はそのあとこう言った。「息子は小さいときから、かわいがってやったので
すがねえ」と。
 もっともこの段階で、子どもも親の価値観に同化すれば、何も問題はない。それはそれでうま
くいく。親は子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う。子どもは子どもで、「産んでいた
だきました」「育てていただきました」と言う。そういう親子はうまくいく。しかしいつもいつも子ど
もが親の考えに同化するとは限らない。問題はそのときだ。こうした価値観の違いは、宗教戦
争に似た様相をおびることがある。互いに妥協しない。妥協できない。親子でも価値観が衝突
すると、行きつくところまで行く。もっともそこまで至らなくても、無意識であるにせよ、親の押し
つけがましい子育て観は、親子の間にキレツを入れることが多い。ある男性(四〇歳)はこう言
った。「何がいやかといって、おやじに、『お前には大学の学費だけでも、三〇〇〇万円もかけ
たからな』と言われるくらいいやなことはない」と。
 つまり依存型の子育てを受けた子どもは、自分が今度は親になったとき、子どもに対して依
存型の子育てをするのみならず、自分自身も子どもに依存するようになる。親が壮年期には、
親自身がもつパワーでそれほど依存心は目立たないが、老年期になると、それが出てくる。冒
頭にあげた女性がその例である。
 子どもの自立を考えるなら、同時に親自身も自立しなければならない。子どもに向かって、
「あなたはあなたの人生を生きなさい」と教える前に、親自身も「私は私の人生を生きる」という
姿勢を見せなければならない。わかりやすく言えば、親が自立しないで、どうやって子どもの自
立を求めることができるかということになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(329)

老いては子に従え

 昔から「老いては子に従え」(「老いては則ち子に従う」(龍樹「大智度論」))という。しかし本当
にそうか? この格言を裏から読むと、「老いるまでは、子に従わなくてもよい」という意味にな
る。もしそうなら、これほどごう慢な考え方もない。
 ある女性(七〇歳)は、息子(四〇歳)の通帳から無断で預金を引き出し、それを使ってしまっ
た。そのことが発覚すると、その女性は、「親が先祖を守るために、子どもの貯金を使って何
が悪い」と居なおったという。問題はそのあとだが、その女性の周囲の人たちの意見は、二つ
に分かれた。「たとえ親でもまちがったことをしたら、子どもに謝るべきだ」という意見と、「親だ
から子どもに謝る必要はない」という意見である。このケースで、「老いては子に従え」というこ
とを声高に言う人ほど、後者の考え方をする。つまり「親には従え」と。
 が、この「老いては子に従え」という考え方には、もう一つの問題が隠されている。つまり依存
性の問題である。「子に従う」というのは、まさに「依存性」の表れそのものといってよい。「老い
たら子どもにめんどうをみてもらわねばならないから、子どもには従え」という考え方が、その
底流にある。しかし本当にそれでよいのか? 
 老いても子どもに従う必要はない。親は親で、それこそ死ぬまで前向きに生きればよい。もち
ろん親ががんこになり、自分の考えを子どもに押しつけるのはよくないが、そんなことは親子に
限らず、どんな世界でも常識ではないか。この格言が生まれた背景には、「いつまでも親風(=
親の権威)を吹かすのはよくない。老いたら親風を吹かすのをやめろ」という意味がこめられて
いる。つまり親の権威主義が、その前提にある。となると、もともとこの格言は、権威主義的な
ものの考え方が基本になっていることを示す。言いかえると、権威主義的な親子関係を否定す
る家庭では、そもそもこの格言は必要ないということになる。
 少しまわりくどい言い方になってしまったが、私たちはときとして安易に過去をひきずってしま
うことがある。たとえばこの格言にしても、今でも広く使われている。しかし無意識であるにせ
よ、「老いては子に従え」と言いつつ、その一方で、親の権威主義を肯定し、さらにその背後で
過去の封建主義的な体質を引きずってしまう。それがこわい。そこでどうだろう。あえてこう言
いなおしてみたら……。
 「老いたら、親は自分の生きザマを確立し、それを子どもに手本として見せよう」と。
 ちなみに小学六年生一〇人に、「親でもまちがったことをしたら、子どもに謝るべきか」と聞い
たところ、全員が、「当然だ」と答えた。いくらあなたが権威主義者でも、もう子の流れを変える
ことはできない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(330)

ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう
「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよ
い。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。
 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではな
いか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、こ
れまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしている
だけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分
に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。
考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えるこ
とにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似てい
る。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答
そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無
意識のうちにも、考えることを避けようとする。言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える
習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何
か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこ
と、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。
 人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなって
しまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、
そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、@その
方法と、A内容である。これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の
考えが、ループ状態(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思
っている。一度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止し
てしまう。それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問
題と小さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよ
いような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさま
ざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人
間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であ
ることの放棄といってもよい。
人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(331)

プラス型とマイナス型

 情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張
状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒
が不安定になる。で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずっ
たりするタイプの子どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を
解消しようとする動き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、
後者をマイナス型として考えるようにしている。
 ……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。この言葉を最初に使
うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。子どもの世界には、「分
離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混
乱状態)になったりする。年長児についていうなら、一五〜二〇人に一人くらいの割で経験す
る。その子どもを調べていたときのことだが、症状が、@興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイプ
と、Aオドオドし混乱状態になるタイプの子どもがいることがわかった。そのときワーワーと外
に向かって叫ぶ子どもを、私は「プラス型」、内にこもって、混乱状態になる子どもを、「マイナス
型」とした。
 この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれ
るタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すように
なるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えるこ
とができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識
ハズレになりやすいなど。
 ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラ
ス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。いじめに
ついても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプをマイナス
型に分けるなど。また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引きこもってし
まう子どもをマイナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状を別とする
と、共通点が多い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。
 こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん
役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。
 
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(332)

親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。
 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし
た。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、
読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も
部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんど
うがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、
当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費
ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反し
て、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最
近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇
歳の女性)と。
 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプ
リントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、
時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だ
と、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は
何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一
緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。
 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。
それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今
度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつ
ど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(333)

親が子育てでいきづまるときA

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとは
っきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確か
めた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするというこ
とを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの
私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母
親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるい
はどこが違うというのか。
 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、@「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大
前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。そして「……のハズ」というハズ論で、子ど
もの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハ
ズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、「NO!」の
サインを出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはね
のけてしまう。
 このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けな
いから、それがわかる。私「明日の休みはどう過ごしますか?」、母「夫の仕事が休みだから、
近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、私「緑花木センター……です
か?」、母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから
……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息
子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。
 親には三つの役目がある。@よきガイドとしての親、Aよき保護者としての親、そしてBよき
友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれ
ないが、Bの「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい
我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう
「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、
居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んで
いたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。が、もう一つ問題が残る。
それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。い
まだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だっ
たの?」という言葉が、それを表している。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(334)

マザコン人間

 マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好
きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらで
もある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、「おふくろさ
ん」。世界広しと言えども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす
民族は、そうはいない。
 そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコン
タイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプ
の息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互い
にそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。意識のズレという
のはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなたのような他人がと
やかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人たちである。男性
の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコンであることに気
づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているというのだ。何かある
と、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもあるという。しかし彼
女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議すると、
「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、まったく取
りあおうとしないという。
 いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザ
コン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像し
がちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と
同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくな
い。このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」
と決めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」
と、それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化す
る一方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。つぎの問題は、このとき起きる。
息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないときには、互いがはげしく衝突す
る。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。こうした基本的な価値観の衝突
は、「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断絶」する。
 マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコ
ン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(335)

親は絶対か?

 あなたが「親は絶対」と思うのは、あなたの勝手だが、それをあなたの子どもに押しつけては
いけない。えてして人間は、自分の潜在的な願望を、ちょうどカガミのように、その反対側に自
分の姿を焼きつけることがある。「親は絶対」と思いながら、その一方で、「子どもにも自分のこ
とをそう思ってほしい」という願望を焼きつける。このタイプの人は、もともと権威主義的なもの
の考え方をする。「親が絶対」という考え方そのものが、権威主義的であると考えてよい。親を
必要以上に美化する一方、その親を批判する人を許さない。自分の子どもでも、それを許さな
い。子どもが何かを反発しようものなら、「親に向って、何だ!」となる。
 しかし本当に、親は絶対か? 実のところ、私もその「親」になってみて気づいたが、親といっ
ても、中身はボロボロ。他人どころか、自分の子どもにさえ、尊敬されるべき人間とは思ってい
ない。(決して、かっこうつけて言っているのではない。本心でそう思っている。)だからいつか
(今でも)、自分の息子たちが私を美化しようものなら、私はこう言うだろう。「バカなことを考え
るな。私は私だ。もっと中身を見てくれ」と。いわんや私を権威化し、息子たちに「父の言うこと
は絶対正しい」などと言われたら、私が困る。私はいつもこうしてものを書きながらも、どこか流
動的な自分を知る。明日、自分の思想が変わることはないが、一〇年後にはわからない。変
わるかもしれない。事実、一〇年前に書いた自分の文を読んでみたとき、「どうしてこんなこと
を考えたのだろう」と思うときがよくある。私はそういう自分をよく知っているから、今の私が絶
対だとは思っていない。
 繰り返すが、あなたが「親は絶対」と思うのは、あなたの勝手だが、それをあなたの子どもに
押しつけてはいけない。えてして人間は、自分の考えに溺れるあまり、自分が親であることをよ
いことに、子どもを苦しめることがある。「私は親だ」という論理をふりかざし、つまりそれを逆手
にとって子どもを苦しめている親はいくらでもいる。さらにタチの悪いことに、親が権威主義的
であればあるほど、親自身は自分の子どもの心を見失う。この私ですら権威主義的なものの
考え方をする人と出会うと、「説得してやろう」などという考えは吹っ飛んでしまう。絶望感すら覚
える。互いの間に、あまりにも大きなミゾを感ずる。親子の関係なら、なおさらである。親が権
威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶる。そしてその仮面をかぶった
分だけ、心が離れる。つまり親が「私の子は、親思いのいい子だ」と思っているほど、子どもは
そうは思っていない。現に今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もい
る。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一
〇年)。あなたはこの事実をどう考えるか。
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子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(336)

親孝行論

 先日も、「林先生は、親孝行を否定するのか。先祖を大切にするのは、日本人が伝統的にも
つ美徳。評論家として許せない!」と言ってきた女性(三六歳)がいた。しかし私は何も、親孝
行を否定しているのではない。私は「子どもは親のめんどうをみるべきだ」式の安易な親子論、
さらには「先祖を祭らない子孫は滅びる」式の安易な先祖論は、人によっては、その人を苦し
めることにもなるから注意しなさいと言っているのである。
たとえば私は二三歳のときから、収入の三〇〜五〇%を、実家(岐阜県M市)へ納めてきた。
幼稚園での給料は二万円だった。(大卒の初任給が六万円弱の時代)。そういうときでも、実
家に、毎月三〜五万円。盆暮れには二〇〜三〇万円のお金を置いてきた。長男が生まれたと
きも、見舞いにきた母に、二五万円を渡した(もらったのではない!) 四五歳のときまでそうし
てきた。(四五歳のときは、仕送り額を毎月一〇万円にしてもらったが……。)法事や葬式、香
典、税金もすべて私が払ってきた。(すべて!) 実家の家も新築の費用もすべて私が出した。
私の時代には、こういうことは当たり前(?)だった。が、その重圧感というのは相当なものだっ
た。だからというわけではないが、私は自分の息子たちには、そんな思いはさせたくない。どん
なに貧乏をしても、息子たちには負担をかけさせたくない。私はひとりの親として、そう考える。
 で、今、日本に出稼ぎにきているフィッリピンの人やタイの人が、日本で稼いで、母国へ仕送
りをしているという話を聞くと、その孝行ぶりをたたえるというよりは、思わず「たいへんだろう
な」と思ってしまう。心から同情する。……と、同時に、こうした後進国性は、早く日本から消し
たほうがよいと思う。が、こうした後進国性は、それを支える周囲の文化を改善しないかぎり、
なおらない。私とて、自分で仕送りをしたくてしたというよりは、「子どもが親や先祖のめんどうを
みるのは当然」という、当時の世論(=常識?)を心のどこかで感じながら、それに従っただけ
だ。しかしそんな世論や常識のほうがまちがっている。おかしい。それとも日本の社会は、まだ
アフリカの何とか部族の社会と同じレベルとでもいうのだろうか。
 ここまでくると、もう宗教戦争のようにすらなる。家や先祖を中心に家族を考えるか、個人を
中心に家族を考えるかの違いといってもよい。この段階ではどちらが正しいとか、まちがってい
るとかいうことにはならない。要はそれぞれの人が、それぞれの家庭で、平和で仲よく、楽しく
過ごせればよい。だから私がここで書いているようなことに納得できないからといって、私を責
めないでほしい。私もあなたの意見は尊重するし、そのためあなたを責めることはしない。だか
ら私があなたの意見を尊重するように、あなたも私の意見を尊重してほしい。
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子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(337)

子どもを使うということ

 忍耐力を養うためには、子どもは使う。ただ、「子どもを使う」といっても、何をどの程度させ
ればよいということではない。子どもを使うということは、家庭の緊張感の中に、子どもを巻き
込むことをいう。たとえばこんなテスト。
 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって運んでみてほしい。そのときあなたの子どもがそれ
を見て、「ママ手伝ってあげる!」と言って飛んでくればよし。そうでなく、見て見ぬフリをしたり、
テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘と
みてよい。今は体も小さく、あなたの前でおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手
に負えなくなる。
 昔、幼稚園で、母親たちの何かの集会があったときのこと。やってくる母親たちにスリッパを
出してあげていた子ども(年長男児)がいた。だれかに頼まれたわけではない。で、その子ども
は集会が始まると、今度は、炊事室へ行き、炊事室のおばさんに、お茶を出すからお茶をつく
ってほしいとまで言ったという。たまたま彼の母親がその場にいたが、その母親は笑いながら、
こう言った。「うちの子はよく気がつくのですよ。先日は何かのセールスの人にまで、お茶を出し
ていました」と。
 このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がともなう。そ
の苦痛を乗り越える力が、ここでいう「忍耐力」だからである。その忍耐力があるかないかも、
簡単なテストでわかる。試しに子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを始末して!」と。
あるいは風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。あそのとき「ハーイ」と言って、手で始末で
きれば、あなたの子どもはかなり忍耐力のある子どもとみる。そうでない子どもは、「いやだ」
「やりたくない」とか言って逃げる。年齢が大きくなると、「自分でしな」「どうしてぼくがしなければ
いかんのか!」と言うようになる。そうなると、このしつけをするのは、もう手遅れ。
 皮肉なことに子どもというのは、使えば使うほど、すばらしい子どもになる。一方、楽をさせれ
ばさせるほど、ドラ息子、ドラ娘になる。そういう意味でも、日本人は、「子どもを大切にする」と
いうことが、まだよくわかっていない? さらに「子どもをかわいがる」ということが、まだよくわか
っていない? 子どもにベタベタの依存心をもたせながら、それがかわいがることだというふう
に誤解している人はいくらでもいる。しかしそうなればなったで、苦労するのは結局は子ども自
身であることを忘れてはいけない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(338)

三つの失敗

 子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。
ある母親が娘(高校一年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて母親を
無視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわか
っているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでし
ょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。「いつ、だれがあんたに
そんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その一。
 父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校三年生になった娘に、
父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。「こうなった
のは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 私を大学へやる
のは、あんたの役目でしょ」と。そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼ん
で、「お父さんのことをわかってあげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときか
ら、さんざん勉強しろ、勉強しろと言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもない
のに、進学塾へ入れさせられた。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどう
だったとそんなことばかり。この状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『もう勉
強しなくていい』って、どういうこと。そんなことを言うの許されるの!」と。これが失敗、その二。
 Yさん(女性四〇歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医者にする
のが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかりとした設計図を
もち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさんにしてみれば、明けて
も暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「うるさい」の取っ組みあいもしたと
いう。が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさんは
息子に勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思いはどこか
にありましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許してくれると思って
いました」と。で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽
きてしまった。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に
「家庭教師でも何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣いて頼
んだが、程度ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その三.
 こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失敗、あ
るいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(339)

断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがあ
る。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあ
い、教えあい、守りあい、支えあうという五つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその
機能を果たさなくなる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあ
う。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこ
で親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こうい
う状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれ
に反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない
状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父
親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆
らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくない
が、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江
戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込
まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついてい
る人は少なくない。
 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子
どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親
は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子
どもの受験競争に狂奔する親すらいる。価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見
よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という
状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあ
い、教えあい、守りあい、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あ
との問題はすべてマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考
えてはいけない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(340)

親子の断絶の三要素、@リズムの乱れ

 親子を断絶させる三つの要素に、@リズムの乱れ、A価値観の衝突、それにB相互不信が
ある。
 まず@リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子どもを
妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセットレ
コーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生まれ
ると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの口
に押し込む親がいる。「もうすぐ三時間五〇分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かないの
かしら……。もう四時間なのに……」と。
 そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」
「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知ってい
る」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考え
る。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。このタイプの母親
は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親は、子どもの横か、
うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手をぐいぐいと引きなが
ら歩く。あるいはこんな会話をする。
 私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、
会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう
言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込ん
できて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。
 いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そ
してそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるよ
うになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連
れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをし
てくれと頼んだ!」と。
つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があっ
た。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリント
を三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間
ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。こうしたケースでは、私
は「プリントは二枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを
三枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子どもは、それを知ってい
る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(341)

親子の断絶の三要素、A価値観の衝突

 日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識うちにも依存性を
もたせ、それが子育ての基本であると考えている。たとえばこの日本では、親にベタベタと甘え
る子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思
わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場に
ある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子どもの自立は遅れる。が、この日本では、「依
存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番
組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながら
に、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京
へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と
言っていた。私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親
はすばらしい人だなと思った。しかし一〇分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き
起こってくるのを感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親
は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたの
かもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』と
いうのがある。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はな
い?
 で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、
子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子
どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そ
のまま子育てに反映される。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせること
だ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先
日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った六〇歳くらいの女性が、五歳くらいの孫に
こう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすること
が、子どもを愛することだと誤解している人は多い。
 そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日
本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若
い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、一九%に過ぎない(総
理府、平成九年調査)。どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつ
けても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観
の衝突へと進む。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(342)

親子の断絶の三要素、B信頼関係の喪失

 子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れ
るということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子
どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。
 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは
長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミの
ようなものだ。イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」
というのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなた
のことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思ってい
ると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。
 昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日
常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子ども
が床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさ
ずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数
日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。
いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけ
ると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ〜!」と言って手を振ったりした。
 子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を
信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、
子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日
からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を
繰り返す。子どもに向かっては、「あなたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返
す。これを数か月、あるいは半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言える
ようになったとき、あなたの子どもはその「いい子」になっている。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(343)

親子のリズムを取り戻すために(1)

 昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には三つの役目がある。一つ目は親は
子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロ
テクター)として。そして三つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。
 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つ
が、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前
の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。
たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(六〇歳くらい)
が、五歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチ
ョ、楽チイネ」と。五歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱
いしてよいものか。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。
同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大
切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関
係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。
子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。
 日本には親意識という言葉がある。この親意識には、二つの意味がある。一つは「親として
の自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう一つは、「私は親だ」式に、子ど
もに向かって親の権威を押しつける親意識。この親意識が強ければ強いほど、親は、子ども
の横に立つことができなくなる。というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男
が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国と
いう特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語
すらない。あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言
うまでもなく、この日本ではたった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに
徹底した支配、従属関係を築く。
 が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一
例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも二〇〇万枚(CBS
ソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、三〇〇万枚以上」という
ことだそうだ。あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の
世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代
(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(344)

親子のリズムを取り戻すために(2)

 尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なの
か」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。
そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラ
ス壊して回った」と歌う。問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそ
れにかわる新しい価値観をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親
や母親の混乱の原因となっていった。
 最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろ
な統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤ
ボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが
食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学六年生までにたったの一度し
かない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい
……! 
 教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それ
にかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。
教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親
が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと
思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。
 で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え
方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方を
つくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくては
いけないと考える。
 そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。
基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの
前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。子どもに向かって、「〜
〜しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と甘くささやくのではな
く、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心を確かめながら行動
する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子どものうしろを歩く。こう
した謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(345)

価値観の衝突を防ぐにはどうするか(1)

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも
このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。
 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド
ラマは視聴率を、二〇%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど
痛快な番組はない?
 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」
と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。
 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(七〇歳)は、
息子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済に
あててしまった。息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子
のお金を使って何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。
「たとえ親でも悪いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことが
あっても、子どもに頭をさげるべきではない」という意見。
 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観
が対立したとき、それはそのまま衝突となる。
 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし
れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。ここにも書いたように、下のものが
上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれないが、たいていは下のものは、上の
ものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶった分だけ、上のものは下のものの心
がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツが入る。そしてそのキレツが長い時
間をかけて、断絶となる。
 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生六年生一〇人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん
が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親
なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝る
べきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もう流れを変えることはできない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(346)

価値観の衝突を防ぐにはどうするか(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。たとえ
ば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかが
すいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのものが何
とかしてくれるのだろう。同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わ
ない。「先生、おしっこオ〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日
本人はそこまで依存性の強い民族ということにもなる。で、こうした依存性の強い子どもが生ま
れる背景には、それを容認する甘い家庭環境がある。もっと言えば、親自身も、潜在的にだれ
かに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。もっとも親
が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。ある女性(六五
歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々しい声でこう言う。
「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。
 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのもの
だから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、
自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そ
んなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を
果たしたことになる。親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、
強要するのもいけない。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心
配をするというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。
 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には
日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。
 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなこと
をしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%
にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメ
リカでは、何と六三%である。(ほかにフィリッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、
タイ五九%、ドイツ三八%、スウェーデン三七%、日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応
じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということ
になるのだが……。)欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、
大きな転換期にきているとみるべきではないのか。
 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないというkとおになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(347)

子どもを信ずるということ@
 
 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか
……? その方法はあるのか……? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、
ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育て
の中で、私はこんな経験をした。
 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカの
この地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、
私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段
階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなか
った。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメ
リカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……い
いだろ」と。
 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。
 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由など
ない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私
は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができ
るようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子が
それを、私に教えてくれた。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(348)

子どもを信ずるということA

 人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう言った。
「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らし
いが、それはともかく、私は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたよう
に思う。「フォ・ギブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」
は、「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」と。
 ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の頭の中
を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子ど
もはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任ではないか」と。とたん、私
はその「何」が、何であるかがわかった。
 あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許してやれば、
喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その人に許してもらえ
れば、あなたの心が軽くなる人たちだ。つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と
(許される人)の関係で成り立っている。そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいや
なことを忘れることができたら、この世の中は何とすばらしい世の中になることか。……と言っ
ても、私のような凡人には、そこまでできない。できないが、自分の子どもに対してなら、でき
る。私はいつしか、できの悪い息子たちのことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で念
ずるようになった。「許して忘れる」と。つまりその「何」についてだが、私はこう解釈した。「人に
愛を与えるために許し、人から愛を得るために忘れる」と。子どもについて言えば、「子どもに
愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」と。これは私の勝手な解釈による
ものだが、しかし子どもを愛するということは、そういうことではないだろうか。そしてその度量、
言いかえると、どこまで子どもを許し、そしてどこまで忘れることができるかによって、親の愛の
深さが決まる……。
 もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子どもに好き勝手
なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかにあなたの子どもができ
が悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた自身のこととして、受け入れ
てしまえということ。「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考
えている間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。一方、あなたの子どももまた、心を開
かない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえば、あなたの子どもも救われるが、
あなたも救われる。何だかこみいった話をしてしまったようだが、子育てがどこかギクシャクし
たら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけで、あなたはその先に、
出口の光を見いだすはずだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(349)

子育ての目標

 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人
には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、
そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだ
けでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。
 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。
 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私
は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そう
いうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じ
ゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。
 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせい
ぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部
屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いてい
る。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。
が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。
 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもた
ちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度
をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こうい
う家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(350)

内政不干渉の原則

 それぞれの家庭には、外から図り知ることができない複雑な事情がある。一方、私たちはそ
れぞれが家庭をもち、子どもをもち、一つの生活をもっている。しかしそれはあくまでも「一
つ」。その一つを基準にして、他人の家庭をのぞいてはいけない。いわんや批判したり、節介を
してはいけない。それぞれの人は、ぞれぞれに懸命に生きている。あなたがそれらの人を、経
済的に援助しているとか、社会的にめんどうをみているというのなら話は別だが、そうでなけれ
ば、内政干渉はやめたほうがよい。
 私にも一人の知人(五五歳男性)がいる。実にノー天気な男で、いつも他人の不幸に顔をつ
っこんでは、あれこれ説教しては楽しんでいる。自分では、いっぱしの人生経験者だと思ってい
るらしい。昔、私が家を新築するときやってきて、コンクリートの基礎を見ながらこう言った。「こ
こは六畳間ですかあ。六畳間はせまいから、使いものになりませんね。それに廊下が暗いです
よ。日当たりが悪いから……」と。やがて家が建つとまたやってきて、こう言った。「ここは風当
たりが強いですね。これではいけない。西側に塀をつくるといい。ははは、やっぱり六畳間は使
い勝手が悪いでしょう。それに南側には大きな木を植えるといい」と。
 それからも私の家にトラブルが起きるたびに、どこから聞きつけてくるのか、そのつどやって
きてあれこれ説教した。「林君も、郷里にお母さんを残してたいへんですね。子どもが親のめん
どうをみるのは当たり前ですから、そろそろ実家へ帰ることも考えなくてはいけませんね」と。こ
ちらの生活の根幹にかかわるような問題を、ズケズケと平気で言う。で、ある日とうとう私のほ
うがキレた。キレて、「二度と電話をしてこないでほしい」と言い切った。が、そういうノー天気な
人には、こちらの気持ちなどまるでわからない。半年もするとまた電話がかかってきて、「今
度、いっしょに台湾へ行きませんか。安いコースがありますから……」と。
 こういう人は例外だとしても、他人の心に無神経な人はいくらでもいる。先日も私にこう言った
元幼稚園教師がいた。「林先生の息子さんは、今どちらの大学に? 先生の息子さんのことで
すから、さぞかしいい大学に行っておられることでしょうね」と。思わず「高校は中退で、今は家
でゴロゴロしています」とウソを言いそうになったがやめた。こういうウソは相手を喜ばすだけ
だ。もともとこのタイプの人は、こちらの心配など、何もしていない。いわゆる「アラ(欠点)」をさ
がしては、そのアラをまた別の人に伝えては楽しんでいるだけ。先の知人も、口が軽いことこ
の上なし。何かを相談したら最後。その話は一夜のうちに皆に伝わってしまう……。
 内政不可侵の原則。それを守るか守らないかは、あなたの勝手だが、これだけは言える。そ
れを守らないと、あなたは確実に嫌われる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(351)

孤独論

 私のようにもともと「うつ型気質」の人間にとっては、孤独ほど、恐ろしいものはない。何かの
仕事をやり終え、ほっと気を抜いたようなとき、心も弱くなる。ひとりだけポツンと取り残された
ような孤独を覚える。これは私だけが感ずる孤独なのか、それとも人間が等しく感ずる孤独な
のかはわからない。が、いろいろな人の本を読んでも、それほど大きな違いはないように思う。
(本当のところは他人の心の中に入ったことがないので、わからないが……。)で、ときどき一
番身近にいる女房に、「お前はどうなのか」と確かめることがある。もっとも私の女房は、本当
にタフで、精神的にも安定している。「私は体は女だけど、心は男よ」とよく言うが、本当にそう
だと思う。一方私は、繊細で、そのつどいろいろなことを考える。ときに考えすぎて、身動きがと
れなくなることもあるが、私はそういうタイプの人間だ。そういう意味では、精神的にもタフでな
いし、情緒も不安定だ。一日のうちにも、周囲の状況に応じて、気分がよく変わる。
 で、これから先、どうやってその孤独を処理したらよいのか、ときどき考える。子どもたちはや
がて巣立っていくだろう。女房とて、ひょっとしたら、私より先に死ぬかもしれない。そうなったと
き、私はどう過ごせばよいのか。多分そのころは老人ホームかどこかで、のんびりとはいかな
いが、まあまあ、そこそこの老人生活を送っているに違いない。しかしその生活が望ましい生
活だとは思っていない。できれば心の許しあえる人と、いつまでもいつまでも語りあっていた
い。死ぬまでというより、夜、床に入ってから、眠るまで、だ。死ぬときになったら、私はジタバタ
したくない。今のところ自信はないが、しかし今はそう思う。
 こういうとき何か、信じられる宗教があればよいと思う。実際、アメリカのジムは、敬虔なクリ
スチャンだが、彼は人里離れた牧場で、今は妻だけと暮らしている。ああいう生活を見ると、彼
の宗教が、彼の孤独をやわらげているのではないかと思う。(こういう言い方は失礼な言い方
だが……。)つまり私なら、そのさみしさに、とても耐えられないだろうと思う。
 もちろん孤独に勝つ方法もある。夢や希望をもつことだ。それに友情や、少しキザない言い
方かもしれないが、「愛」だって、それがあれば、孤独はやわらぐ。で、そういうものを、総合的
に提供してくれるのが、「家族」ということになる。名誉や地位ではない。肩書きでもない。「家
族」だ。
 考えてみれば、私の人生はずっと孤独だった。これからも孤独だろう。だからこそ、私は家族
のありがたみを知っている。つまり私の「家族主義」は、こうした私の心の弱さを補うために生
まれたと言ってもよいのではないか。
さて、皆さんは、今、孤独だろうか。それとも孤独でないだろうか。が、もしあなたが孤独なら、
「孤独なのはあなただけではない」ということだけは、わかってほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(352)

子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。
(1)ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先生(私)を
好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、腕組みをして私をにら
んだ。「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と聞く
と、「だって、私、先生が好きなんだもん」と。マレにですが、私も子どもに好かれることがある
のです。
(2)私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」と聞くと、
皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「ええと、三足す二で……」
と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あんた、それでも本当に先生?」と。
(3)指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、もっと
かっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少しばかりキザなしゃ
ぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。するとその子は、本当にそう
いうしゃぶり方をするようになった。私は少しからかってやっただけなのだが……。
(4)私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジジイ
ー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「もっと悪い言葉を教えて
やろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。子どもたちは「使わない、使
わない」と約束したので、こう言ってやった。「ビダンシ」と。それからというもの、子どもたちは
私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。
(5)算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男児)
が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女が一人の関係
だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ〜、女が二人で、男が一人だよオ〜」と。とたん、教室
が収拾がつかなくなってしまった。私が、「今どきの子どもは、何を考えているんだ!」と叱る
と、こんな歌を歌い始めた。「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三時、夕食深夜……」と。「何だ、
その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ〜、遅れてるウ〜」と。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(353)

心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしいときはうれ
しいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をそのままぶつけることが
できる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。
 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳)がいきなり私にこう聞いた。「林君、
君のワイフは、君の前で『おなら』を出すかね?」と。驚いて私が、「うちの女房はそういうことは
しないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで一斉に、「そりゃあ、かわいそう
だ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。
 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。子どもが
悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使えないほどまで
に、子どもを追いつめてはいけない。一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に
心を開いているのだ」と、それを許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんな
ことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を
豊かにする。
 そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを受け止める
「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、同じように親のほうも
心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。どちらか一方が、心の窓を閉
じていたのでは、心を通いあわせることはできない。R氏(四五歳)はこう言う。「私の母(六五
歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこれ世間体をとりつくろいま
す。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもその本音が母の心のカベにぶつかっ
て、そこではね返されてしまいます。私もさみしいですが、母もかわいそうな人です」と。
 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。そして同
じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めているかということ。も
しあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソをついたり、さ
らには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた自身のことを反省す
る。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、相手の心をそのまま受け
入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、家族ということになる。
 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまりぼく
の前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えてこう言った。
「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だと思うわ」と。ま
あ、世の中にはいろいろな考え方がある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(354)

心を開く(2)

 心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相手に対し
ては、相手のすべてを受け入れるということ。少しきわどい話になって恐縮だが、『おなら』があ
る。ふつう自分のおならは、気にならない。小学生に聞いても、全員が例外なく、「自分のは、
いいにおいだ」と言う。しかし問題は、自分以外の人のおならだ。
 もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であっても、そ
れは関係ない。しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。さらに親しい
友人や、尊敬する人になると変ってくる。昔、恩師のM先生(女性)がこう話してくれた。「私は
女学生のとき、好きな先生がいた。好きで好きでたまらなかった。が、その先生がある日、私
のノートを上からのぞいたとき、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私はその鼻くそを見たと
き、どういうわけかうれしくてならなかった」と。相手を受け入れるといういことは、そういうことを
いう?
 そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入れて
いるだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻がおならを出
したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならのように、「いいにお
い」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。実のところ、私も女房の
おならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くもたってからだ。自分のにおいのよ
うに感ずることができるようになったのは、ごく最近になってからだ。女房はめったに私の前で
はしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。で、若いころはふとんの中でそれ
されると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息をしたり、ときには窓を開け放って、ガス
を追い出したりしていた。今も「平気」とまではいかないが、「またやったな」という思いながら
も、そのまま眠ることができる。
 問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。こういう
とき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。親に受け入れてもらえない
子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえると、親にすら心を開いてもらえない子
どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。そういう意味で、子どもは心の冷たい子どもに
なる。もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を見せ
るようになる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、消える。へん
に愛想がよくなることもある。そういう意味で、もしあなたがあなたの子どもに心を閉じているな
ら、それは「あるべき」親の姿勢ではない。「努力して」というほど簡単な問題ではないかもしれ
ないが、しかしあなたの子どものためにも努力する。
 方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これを日常
的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(355)

女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きで
しかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、二割
近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(二〇〇〇)によると、「掃除、洗
濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上。「夫も家事や育児を平
等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる。が、その反面、「反対だ」と答えた女性
も二三・三%もいる。
 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事を負担
することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家事を平等に
負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしていればそれでい
い」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってくる。今の日本の現状
は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに居なおりすぎている。
中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の中でデーンと座っていれば
いい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、その仕事第一主義におぼれ
るあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。
 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演のあと、私
にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)が言うと、家
族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくしていてくれなければ、困
るのです」と。男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができ
ますか」とも。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こ
うも言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきている
のです。むずかしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。
 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ三〇歳そこそこの男性。今の日
本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認めていない。
その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身の考え方のほう
が、よっぽど後進国的だ。それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずが
ない。夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家
庭動向調査」(一九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・
七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている
(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五
二・五%もいた。当然だ。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(356)

わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しかし実際
には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約二〇万倍※もの潜在意識によって
「動かされている」。こんなことがあった。
 J君(小三)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜日にいっしょ
に釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんかが始まってしまうの
です。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、まず息子がワーツと泣き声を
あげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』という声が聞こえてくるのです」と。
 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪いことを
していないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞くと、父親は父
親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J君が人をバカにした
ような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」と。
 そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑談して
いると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、いじめにあっ
ていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだった」と。J君の父
親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったのだが)、J君の父親は、
無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中に感じていた。そしてそれ
がこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。
 こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。わだかまり
にせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあやつる。子育ても
まさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると思い込んでいるが、結
局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。問題は繰り返すことではなく、その中
でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの形で、子育てに悪い影響を与えることであ
る。が、これも本当の問題ではない。だれだって、無数のわだかまりをかかえている。わだかま
りのない人など、いない。そこで本当の問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そ
のわだかまりに振りまわされるまま、同じ失敗を繰り返すことである。
 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じように失
敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。何かあるは
ずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間がかかるが、それ
で問題は解決する。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(357)

お人よしは、命取り

このところ毎日のように、ウィルス入りのメールが届く。私のばあい、まずプロバイダーが、ウィ
ルス検査をしてくれる。この段階でウィルスが入っていると、そのメールを削除したり修復したり
してくれる。(たいていはそのまま削除され、「削除しました」という連絡だけが私に届く。)が、そ
れでもすり抜けてくるメールがある。それについては、今度は私のパソコン自体で検査する。こ
の段階で、ウィルスが混入していれば、同じように削除する。で、それでも安心できない。私は
さらにパソコンを使い分ける。あるいはプレウィンドウ画面に表示する前に、(?)と思われるメ
ールは削除するという方法で対処している。が、だ。それでもすり抜けてくるメールがある。
私はメールアドレスを公開しているため、(ふつうは、こういう公開はしてはいけない)、悪意を
もった人からの攻撃を受けることがある。つい先日もその攻撃を受けた。あたかも読者からの
質問のような体裁を整えたメールだった。「うむ……?」と迷ったが、うかつにも開いてしまっ
た。恐らく市販のウィルス検査ソフトにひかからないように、自分で改変したウィルスだったのだ
ろう。とたんパソコンの動きがおかしくなった。もっともそれほど悪質なウィルスではなかったよ
うで(?)、簡単な操作で修復できたが、ウィルスによってはシステム全体を破壊されることもあ
る。
インターネットの世界では、お人よしは命取りになる。「あやしい」と思ったら、即、削除、また削
除。これしかない。しかし、それは口で言うほど、簡単なことではない。自分の中に本来的にあ
る、「人格」、つまり私のばあい、「お人よし」との戦いでもある。「ひょっとしたら子育てで困って
いる人からのメールかもしれない」「少し(件名)がおかしいが、まだパソコンになれていない人
からのものかもしれない」と思ってしまう。そのメールを開いたときもそうだ。そう思って開くと、
わけのわからない相談内容。一応子育ての相談ということになっていたが、どこかトンチンカン
な内容だった。「しまった!」と思ったときには、もう遅かった。
私は改めて、こんなメモをパソコンの上に張りつけた。「あやしげなメールは、即、削除。お人よ
しは命取り」と。しかしそれを張りつけたとき、別のところで、自分の人格がまた一つ削られたよ
うな気がした。「私はもともとそんなクールな人間ではないのになあ」と。しかしそうであるからこ
そ、また心に誓う。「あやしげなメールは、即、削除」と。そういうことを誓わねばならないところ
に、インターネットの問題点が隠されている。 
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子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(358)

子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子どもは、
やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔を
する。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこの
「表情」には、いろいろな問題が隠されている。
 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、全体
の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題もあり、一概
に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ的確ではない
かと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変えない。うれしいときも
悲しいときも、無表情のまま行動する、など。
 原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビをじっと
見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときでも、またこわが
っているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ入ってからもそう
で、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あたかもテレビでも見ている
かのような感じで先生の方をじっと見ている。このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱
く、母音だけで言葉を話すなどの特徴もある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」という
ような話し方をする。こうした症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見て
いましたね」と言うことがある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タ
ネを明かせば、何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて園や
学校生活になれてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。
 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊離であ
る。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無表情のままで
ある、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れることが多い。たとえ
ばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたまま、心の中ではまった
く別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離現象が現れたら、かなり深刻な問
題として、子どもの心を考える。
とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いやだったら
「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみやすい子どもをすな
おな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(359)

親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのまま、スーッ
と心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、一般に、「親しみ
のもてる子ども」という。一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感
ずる子どももいる。ものの考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子
「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲
があるから、いい天気ではない」と。
 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうかという
こと。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の交流が、互
いの親近感をます。そうでなければそうでない。
 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、親し
みのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと思っている
だろうか。こんなチェックテストを用意してみた。
(1)あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したくないことに
ついては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。
(2)あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求めてきたり、
甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。
(3)あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもがなごやか
な言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。
 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているということに
なる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方を反省する。
「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピリピリと子どもを監
視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに対して心を開いていない
ばあいがある。子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険
な状態であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけるな
どの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに心を開か
ないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。
 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考えてい
るかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしているだけで、はっ
きりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。もしそうなればなった
で、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを考えるときには、そういう問
題も含まれる。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(360)

被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(三二歳女性)が、子ども(四歳)と道
路を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられてしまった。子ど
もはひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少なくてすんだが、やがて
深刻な後遺症があらわれた。子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしま
った。事故のとき、脳のある部分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、
その事故から五、六年になるが、その状態はほとんどかわっていない」と。
 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。@他人の話は他人の話と
して、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。A「自分の子どもでなくてよかった」と思
い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。ふつうは(「ふつう」はという
言い方は、適切でないかもしれないが)、@のように考える。しかし心配性の人は、Aのように
考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広げていく。「歩道といっても安全ではない」「うち
の子もフラフラと歩くタイプだから心配だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」な
ど。
 もしあなたがここでいうAのタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていないかを反省す
る。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのものをゆがめること
が多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。ある母親は、子ども
(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れた。そこで心配になり、そ
のクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多くあたると、おとになってから皮膚
ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小六)が修学旅行に行っている間、心配で一睡も
できなかったという。「どうして?」と私が聞くと、「あの子が皆にいじめられているのではないか
と心配でなりませんでした」と。
 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄想性が
他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中一)が不登校
児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩のようにB男の母親に
電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではない。夜中の二時とか三時。しかも
その電話が、ときには一時間とか二時間も続いたという。
 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパターンで
考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれに気づき、そこ
でブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたがAのように考える傾向があれ
ば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかける。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(361)

心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今
でいう、アルコール依存症だったのか? 三〜四日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大
声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっ
くり返したこともある。私と六歳年上の姉は、そのたびに二階の奥にある物干し台に身を潜
め、私は「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。
 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、
一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。
が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回さ
れることである。たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定
になると、夜がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛で
ならない。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう
自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じ
ながらも、気力でカバーしてしまった。が、五〇歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えて
くる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということがわかってくる。
 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そ
んなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつ
も、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私
は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなけ
れば、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私を
つくった。
 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。
が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうこと
は言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。
さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにし
て、キズ口は深くなる。私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなか
っただろうと思う。しかし父は、先にも書いたように、三〜四日ごとに酒を飲んで暴れた。だから
五四歳になった今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉
ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。五
四歳になった今でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけな
い。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(362)
 
「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の経営者(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責してい
る場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その経
営者が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言
葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流
すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。
 私はその経営者の、そういう言い方は卑怯だと思う。強い立場のものが、一方的に弱い立場
のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするなら、子どもは
親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間関係。昔の
人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。切れないと思
っているのは、親だけで、また親はその幻想の上に安住してしまい、子どもの心を見失うケー
スはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれのおかげでメシを食っ
ていかれるか、それがわかっているか」と言うのと同じ。たしかにそうかもしれないが、夫がそ
れを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を教えるのは、親
として当たり前のことではないか。
 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア
ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間
としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育て
をすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊
かなものになる。私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやっ
た」という意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言
うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気
持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。
 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ
くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親
孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん
なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ
の重圧感で苦しんだからだ。
 私はそんなわけで、先の経営者の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(363)

親孝行否定論者?

 私はよく親孝行否定論者と誤解される。ときどきEメールでも、そう書いてくる人がいる。しか
し事実は逆で、私は二四歳のときから、収入の約五〇〜三〇%を、岐阜の実家に仕送りして
きた。四五歳のときまでそれを続けた。記憶にあるかぎりでは、少なくとも二七歳のときから、
実家での冠婚葬祭、法事の費用、改築の費用なども、すべて負担してきた。田舎のことで、そ
ういう行事だけはことさら派手にする。法事にしても、たいてい料亭を借りきってする。私には
決して楽な額ではなかった。そのつどいつも、貯金通帳はカラになった。
 私がなぜそうしたかということだが、だれかが私に命令したというわけではない。私は「子が
親のめんどうをみるのは当たり前」「子が家の心配をするのは当たり前」という、当時の世間的
な常識(?)を心のどこかで感じたからこそ、それをしてきた。しかしそれはものすごい重圧感
だった。女房はただの一度も不平や不満を漏らさなかったが、経済的負担感も、相当なものだ
った。私はそういう重圧感なり負担感を知っているからこそ、自分の息子たちには、そういう思
いをさせたくない。だから私は自分の息子たちに、あえて言う。「親孝行? ……そんなバカな
ことは考えなくていい。家の心配? ……そんなバカなことは考えなくていい。お前たちはお前
たちで、自分の人生を思いっきり、前向きに生きろ。たった一度しかない人生だから、思う存分
生きろ」と。
 子どもが親や家のために犠牲になるのは、決して美徳ではない。もしそれが美徳なら、子ど
もは子どもで自分の人生を犠牲にすることになり、それがまた順送りに繰り返され、結局はど
の世代も、自分の人生をつかめなくなってしまう。いや、あなたはひょっとしたら、親や家のた
めに犠牲になっているかもしれない。しかしあなたはそれを、あなたの子どもに求めてはいけ
ない。強要してはいけない。親子といえども、人間関係が基本。その人間関係の中から、自然
に互いの尊敬心が生まれ、その上で、子どもが親の心配をしたり、家のめんどうをみるという
のであれば、それはまた別の問題。もっといえば、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親
に孝行しないからとか、家のめんどうをみないからといって、その子どもを責めてはいけない。
それぞれの親子や家庭には、あなたがいくら知恵をふりしぼっても、理解できない複雑な事情
が潜んでいる。たとえばE氏(五八歳)。E氏はこのところ父の世話を疎遠にしているが、それに
ついて親類の叔父や叔母たちに、電話で「子が親のめんどうをみるのは当たり前だろ」と、説
教されている。E氏はこう言う。「私は父の子ではないのです。祖父と母の間に生まれた、不倫
の子なんです。私の家庭にはそういう複雑ないきさつがあるのです。しかしそういう話を、親類
の人に話せますか。父もまだ生きていますから」と。
 安易な親孝行論は、その人を苦しめることもある。この結論は、今でも一歩も譲る気はない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(364)

安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故
郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみる
のはあたりまえ」など。しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるい
はそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の
子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている(東京都精神医学
総合研究所の調査・〇〇年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、
兄と接していると苦痛でならない」とか。
 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に
帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の
子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」
「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。たまたまあなた
が心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみ
てはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きず
って生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそうい
う人のほうが、多い。
 K市に住むYさん(三八歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんを
もうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待
を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのこ
ろには母の居場所もわからなかったという。Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸
福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが
想像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事
をしてよいかわからなかった。
 「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日
本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何
が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。安易に、つまり何も
考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの
日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。
こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもな
りかねない。
 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのも
のをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基
本である。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(365)

アメリカ論

 よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主義を口
にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁判ザタになっ
ているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。
 これに反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家族がし
っかりしているとはならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女性ががまんして
いるからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想もまだ残ってい
る。たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだ
けで即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近くにいるオースト
ラリア人に聞いてみることだ。
 つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。アメリカ
には、それこそ地区ごとに、「コートハウス」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数万の小さな
町にさえ、ある。そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断し
てもらおうではないか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっている
から、夫婦であっても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。
 さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると主張し
ている人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本の二倍の広さ
がある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。一方、アメリカ人の目から見ると、
日本も東南アジアも区別できない。区別されない。インドネシアで暴動が起きると、アメリカ人
は、日本もそれに巻き込まれていると思う。同じようにカルフォニア州の一都市で何か事件が
起きたとしても、決して、アメリカ全土で起きているわけではない。先日もアメリカへ行ったら、
知人のF氏(アメリカ人)はこう言った。「日本人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるので
は」と。そして「ハリウッド映画だけを見て、それがアメリカと思ってほしくない」とも。
 たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘れては
いけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。それは東京には
「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。先のテキサス州では、人口の四〇%がヒスパ
ニックが占めている。もちろん中国系、日系などのアジア人も多い。白人ばかりがアメリカ人で
はないことは、常識だ。そういう他民族が集合して、「アメリカ人」というアメリカ人をつくってい
る。単一民族しか知らない日本人とでは、そもそも「国民」意識そのものがちがう。言いかえる
と、日本人対アメリカ人というように、そもそも対等に考えることすら正しくない。
 冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(366)

「日本の教育はバカげている」・日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。
 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しか
し問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」
と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加
えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。
 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。
 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリ
カ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒
がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒というこ
とになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エ
デュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。同じ「教育」といって
も、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日
本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオース
トラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校が
よい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。
 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(367)

家族のつながりを守る法

二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のス
ポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を
決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。
 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、六年間も続いた。
 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫
は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲に
いた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。
 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。
 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。
 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こ
しただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービ
ン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくま
でには、まだまだ道は遠い。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(368)

事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこ
う書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならな
い。Yさん(四五歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも三〇〇個近く並ぶ旧家にYさんは
嫁いだ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、七〇歳になる祖父母、Yさ
ん夫婦、それに一男一女の三世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居してい
る。が、そのことが問題ではない。
 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居
といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。しかし問題はこのことではな
い。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われています。手を抜くと祖父の機嫌が
悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりにはできないのです」と。しかしこ
れも問題ではない。Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政
婦。「孫」というのとは、跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、
叔父、叔母、それに甥や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんや
になります。私など、その間、横になって休むこともできません」と。たまたま息子(中三)のでき
がよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言っているそうだ。「うちは本家だ
から、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。
 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実を
つくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうこと
でもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。一度、たまたま祖父だけが家に残り、そ
のときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったという事件があった。「事件」というのもお
おげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だった。激怒した祖父は、Yさんの夫を電
話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前ら、先祖を、何だと思っている!」と。
 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻き
ついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なも
のだ。で、私はこう思う。日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中
身は、アフリカかどこかの地方の、○○民族とそれほど違わないのでは、と。もちろん伝統や
文化はあるだろう。それはそれとして大切にしなければならないが、しかし今はもう、そういうも
のを個人に押しつける時代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その人の勝手だが、
それを受け継ぐかどうかは、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私たちはその世界
まで、立ち入ることはできない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(368)

事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は
崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。実際、妻に向かって
「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れても、「K先生、K先生」
と言い出したからだ。夫(四一歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思うのですが、基本的な
ところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言ってるの』というような態
度をして、私を無視します」と。では、どうするか?
 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。排他性(他の思想を否定する)、情報の遮断性(他の思想を遮断する)、組織信仰化(個人
よりも組織の力を重要視する)、迷信性(外から見ると?と思うようなことを信ずる)、利益論と
バチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。巨大視化(自説を正当化するた
め、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者もいる。
 信仰のし方としては、催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、反復性(皆がよってたか
って同じことを口にする)、隔離性(ほかの世界から隔離する)、布教の義務化(布教すればす
るほど利益があると教える)、献金の奨励(結局は金儲け?)、妄想性と攻撃性(自分たちを批
判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。その結果、カルトやその信者
は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがある。極端なケースでは、ミイラ
化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬を製造していた団体、さらに
足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団体などがあった。
 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと
いうこと。みな、それぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それ
については謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言っ
てはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみ
や苦しみを共有することでしかない。
 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ
て、この問題は解決する。「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人
もいるが、妻が入信したとき、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで
夫が信仰に反対すればするほど、夫婦関係はさらに崩壊する。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(370)

後手、後手の日本の教育改革

 約六〇%の中学生は、「勉強で苦労するくらいなら、部活を一生懸命して、推薦で高校へ入
ったほうが楽」と考えている。また同じく約六〇%の中学生は、「進学校へ入ると勉強でしぼら
れるので、進学校ではない高校に入り、のんびりと好きなことをしたい」と考えている。(静岡県
では高校入試が、入試選抜の要になっている。これらの数字は、中学校の校長たちのほぼ一
致した見方と考えてよい。)
 こうした傾向は進学高校でもみられる。以前は勉強がよくでき、テストの点が高い子どもほ
ど、周囲のものに尊敬され、クラスのリーダーになった。が、今は、ちがう。ある日私が中間層
にいる子どもたちに、「君たちもがんばって、(そういう成績優秀な連中を)負かしてみろ」と言っ
たときのこと。全員(七人)がこう言った。「ぼくらはあんなヘンなヤツとはちがう」と。勉強がよく
できる子どもを、「ヘンなヤツ」というのだ。
 夢があるとかないとかいうことになれば、今の中高校生たちは、本当に夢がない。また別の
日、中学生たち(七人)に、「君たちもがんばって宇宙飛行士になってみろ。宇宙飛行士のMさ
んも、そう言っているぞ」と言うと、とたん、みながこう言った。「どうせ、なれないもんネ〜」と。
 こうした現実を、一体今の親たちは、どれだけ知っているだろうか。いや、すでに親たち自身
も同じように考えているのかもしれない。こうした傾向はすでに二〇年以上も前からみられたこ
とであり、今に始まったことではない。ひょっとしたら中学生や高校生をもつ親の何割かも、ここ
にあげた中高校生のように考えているかもしれない。「どうせ勉強なんかしてもムダ」とか、「勉
強ができたところで、それがどうなのか」と。さらに今の親たちの世代は、長渕剛や尾崎豊の世
代。「学校」に対するアレルギー反応が強い世代とみてよい。「学校」と聞いただけで、拒絶反
応を示す親はいくらでもいる。
 問題は、なぜ日本がこうなってしまったかということよりも、こうした変化に、日本の教育が対
応しきれていないということ。いまだに旧態依然の教育制度と教育観を背負ったまま、それを
親や子どもたちに押しつけようとしている。「改革」といっても、マイナーチェンジばかり。とても
抜本的とはいいがたいものばかり。すべてが後手、後手に回って、教育そのものがあたふたと
しているといった感じになっている。
 こうした問題に対処するには、私は教育の自由化しかない。たとえば基礎的な学習は学校
で、それ以外の学習はクラブで、というように分業する。学校は午前中で終わり、午後はそれ
ぞれの子どもはクラブに通う。学校内部にクラブがあっても、かまわない。先生がクラブの指導
をしても、かまわない。各種スポーツクラブのほか、釣りクラブ、演劇クラブなど、さまざまなクラ
ブが考えられる。月謝はドイツ並みに、一〇〇〇円程度にする。方法はいくらでもある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(371)

知識と思考は別

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度でき
た、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしい
と話していたな」と。
 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行
くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、
「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思ってい
た。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考え
て、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。
 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある
子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わな
い。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言ってい
る。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、
教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(372)

日本の教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本
になっている。戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わ
っていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育
である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけ
ん」・九八年)と警告している。
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛く
なることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけ
でイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けよう
とする。
 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるというこ
とは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜
九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」
(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(373)

攻撃的に生きる人、防衛的に生きる人

 ほぼ三〇年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、S氏から、そ
の三〇年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。会話そのものがかみあわない。話が
表面的な部分で流れていくといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。
 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日
で五万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今
のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)
 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う
子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間
の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。
 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。
 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口
にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこ
る)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえ
ばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。
 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分
からない子どもといった感じになる。
 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし二〇年、三〇年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようにな
る。それが「結果」として表れてくるからだ。先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからな
いかもしれないが)、今のS氏は、この三〇年間の生きざまの結果でしかない。攻撃的に生き
る人と、防衛的に生きる人とでは、自ずと結果はちがってくる。
 帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」
と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(374)

思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方
診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。
 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力
 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分が
それぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというの
だ(伊藤正男氏)。たとえば……。
 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する
 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される
古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用を
コントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すの
は危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけ
ると、つぎのようになる。
 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情
報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方で
いう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に
思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。もちろんいくら
頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、帯状回という
ことになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い人」というとき
は、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のことをいう。が、
考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切である。それぞ
れが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけである。
 
 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一
部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では
「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(375)

考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によると
ころが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がな
いということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはい
る。おとなでも考える力のないおとなはいる。
 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたとき
のこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三
個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言っ
た。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。
 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄
なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべってい
るかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来す
る情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。まれに気のきいたことを言うこ
ともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。あるいは他人の言ったことを受け売りしている
だけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみればわかる。目つきそのもの
が、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからといって、そういうタレントたち
が軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言っているのでもない。)
 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざり
にされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにするこ
と」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進
める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親
で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生
によく質問するのですよ」と言う。)その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりに
できる子どもを、「よくできる子」と評価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイス
イと泳いでいく。しかしこんなのは教育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、
こうした指導を教育と思い込んでしまったところにある。
 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」
を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。ま
たそうでなければならない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(376)

子どもを一人の人間としてみる

 子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなって
あらわれる。
 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くな
り、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤
解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。「おばあ
ちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママに
は内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もい
た。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。
 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認める
こと。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう
視点で、子どもをみる。育てる。
 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従
の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だ
け、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言え
ば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。子どもを子どもあつかいすれば
するほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう子だ」というつかみどろころのこ
とを、「核」というが、そのつかみどころ.がわかりにくくなる。教える側からすると、「何を考えて
いるかわからない子」という感じになる。そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼
稚ぽくなる。わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、おとなになる。このことはたとえば
同年齢の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生
は、まるでおとなと子どもほどの違いがある。
 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。
「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。女性は戦後、その地位を確
立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終わるわけではない。こうし
て子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。そして今度は自分が受け
た子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世代連鎖はつづく……。
 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと
言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そう
であってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。日本型の子育て観は、
決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させるという意味では、いろい
ろと問題がある。それがわかってほしかった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(377)

親像

 子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子どもに冷
淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。
 このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入っていない
人とみる。つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい家庭をつくろ
う」「いい親でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子どもも疲れる。そしてその
結果、子育てで失敗しやすい。
 しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人のほう
が少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失敗を繰り
返すこと。たとえば暴力がある。子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を
受けたケースが多い。これを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てと
いうのは、親から子どもへと代々、繰り返される。
 そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因を自分
の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になるころから、自
分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言って遠ざけてきた。ま
た別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そういう過
去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこう言う。「子育ての
し方がわかりません」と。
 が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめること
がでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気負いが強
いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てをしながらも、い
つも心のどこかに戸惑いを感じていた。しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分
をコントロールできるようになった。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の
自分は子どもを受け入れていないぞ」と。「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間
が解決してくれる。繰り返すが、まずいのは、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その
過去に振りまわされることである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(378)

家庭は心いやす場所

 子どもの世界は、@家庭を中心とする第一世界、A園や学校を中心とする第二世界、そして
B友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世界を中
心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)
 第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭
は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならな
い。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第
三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。その結果、子どもは独特の症状を示すよう
になる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安として……。)
(第一段階)親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠
す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズ
してはっきりしない」とかいうような様子になる。
(第二段階)帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たとえば園
や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつ
も緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に自分の部屋に
引きこもるような様子を見せる。
(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだ
けもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にか
なったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、など。
 最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、
子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親がますます無
理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重く
なる。
 要はこうならないように、@家庭は心をいやす場であることを大切にし、A子ども自身の「逃
げ場」を大切にする。ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになるが、
その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はその逃
げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけない。
子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心を守
る。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(379)

家族の悪口は言わない

 ある母親は娘(小四)に、いつもこう言っていた。「お父さんは、ただの倉庫番よ。お父さんの
給料が少ないから、お母さん、苦労しているのよ」と。「お父さんは大学を出てないから、苦労し
てるのよ。あなたはお父さんのような苦労をしないでね」と言った母親もいた。
 母親は、自分の子どもを味方にしたり、自分の夢や希望をかなえてもらいため、そう言ってい
たのだろうが、そういう言い方をすると、娘は父親の言うことは聞かなくなるばかりか、それ以
上に母親の言うことを聞かなくなる。仮にそのとき、娘が同情したり、納得するフリを見せたとし
ても、それはあくまでもフリ。夫婦が一枚岩でも子育てがむずかしい時代に、こういう状態で、
どうして満足な子育てができるというのか。
 たとえそうであっても、母親は子どもの前では、父親を立てる。決して封建的なことを言ってい
るのではない。互いに高めあって、つまり高度な次元で尊敬しあってはじめて、「平等」が成り
立つ。こういうケースでも、母親は子どもにはこう言う。「お父さんは、私たちのためにがんばっ
ていてくれるのよ」とか、「お母さんはお父さんの考え方が好きよ。会社でもみんなに尊敬され
ているのよ」と。
 同じように、学校の先生についても、悪口を言ってはいけない。子どもが何か、悪口を言って
も、相づちを打ってもいけない。「あなたたちが悪いからでしょ」と言って、はねのける。あなた
が学校の先生の悪口を言うと、その言葉はどんな形であれ、(あるいは子どもの態度をとおし
て)、先生に伝わる。教育は人間関係で決まる。そういう話が先生に伝わると、先生は確実に
やる気をなくす。そればかりではない。子ども自身が、先生に従わなくなる。そうなればなったと
き、教育は崩壊する。
 親にせよ、先生にせよ、悪口は、それを言えば言うほど、その人を見苦しくする。子育てにつ
いて言えば、マイナスになることはあっても、プラスになることは何もない。とくに子どもの前で
は、だれの悪口にせよ、言わないことこそ、賢明。子どもの前では、その人のよい面だけを見
て、それをほめるようにする。そういう姿勢が、他方で子どもを伸ばす。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(380)

子育てのコツ@

 子どもの運動能力は、敏捷(びんしょう)性で決まる。敏捷性があれば、ほぼどのスポーツも
できるようになる。反対にその敏捷性がないと、努力の割には、スポーツはうまくならない。で、
その敏捷性を育てるには、子どもは、はだしにして育てる。反対に、靴下に分厚い靴底の靴を
はかせて、どうやって敏捷性を育てるというのか。それがわからなければ、分厚い手袋をはめ
て、パソコンのキーボードやピアノの鍵盤をたたいてみればよい。しかもその時期というのは、
〇〜二歳までに決まる。ある子ども(男児)は二歳のときには、うしろむきにスキップして走るこ
とができた。お母さんに秘訣を聞くと、「うちの子は雨の日でもはだしで遊んでいます」ということ
だった。
 子どもの国語力は、母親が決める。もっと正確には、母親の会話能力が決める。将来、国語
が得意な子どもにしたかったら、「ほら、バス、バス、靴は?」という言い方ではなく、「もうすぐ
バスがきます。あなたは靴をはいて、外でバスを待ちます」と、正しい言い方で言い切ってあげ
る。こうした日常的な会話が、子どもの国語力の基礎となる。その時期も、やはり〇〜二歳が
重要。この時期、できるだけ赤ちゃん言葉を避け、できるだけ豊かな言葉で話しかける。たとえ
ば夕日を見ても、「きれい、きれい」だけではなく、「すばらしいね。感動的だね。ロマンチックだ
ね」などと、いろいろな言い方で言いかえてみる、など。
 心のやさしい子どもにしたかったら、心豊かで、穏やかな家庭環境を大切にする。子どもは
絶対的な安心感(つまり子どもの側からみて、疑いをいだかない安心感)の中で、心をはぐく
む。『慈愛は母のひざに始まる』と言ったのは※だが、全幅の信頼感と、全幅の愛情に包まれ
て育った子どもは、話していても、ほっとするようなぬくもりを覚える。心が開いているから、親
切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのまま子どもの心にしみこ
んでいくのがわかる。あとは会話の中で、だれかを喜ばすことを教えていけばよい。たとえば買
い物に行っても、「これがあるとパパは、きっと喜ぶわね」「これを買ってあげるけど、半分はお
姉さんに分けてあげようね」と。やさしい子どもというのは、自然な形で、だれかを喜ばすことが
できる子どものことをいう。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(381)

子育てのコツA

 もう一五年ほど前のことだが、「サイエンス」という雑誌に、「ガムをかむと頭がよくなる」という
研究論文が発表された。ガムをかむことにより、脳への血行が刺激され、ついで脳の活動が
活発になる。その結果、頭がよくなるというものだった。素人の私が考えても、合理性のある内
容だった。そこでこの話を懇談会の席ですると、数人の母親が、「では……」と言って、毎日子
どもにガムをかませるようになった。
 その結果だが、A君(ガムをかみ始めたのは年中児のとき)は、小学三年生になるころには、
本当に頭がよくなってしまった。もう一人そういう男の子もいたが、この方法は、どこかボンヤリ
していて、ものごとに対する反応の鈍い子どもに有効である。(こう断言するのは危険なことか
もしれないが、A君について言えば、年中児のときには、まるで反応がなく、一〇人中でも最下
位をフラフラしているような子どもだった。その子どもが小学三年になるころには、反対に、一
〇人中でも、最上位になるほど反応が鋭くなった。)
 計算力は、訓練で伸びる。訓練すればするほど、計算は速くなる。で、その計算力を伸ばす
カギが、「早数え」。言いかえると、幼児期は、この早数えの練習をするとよい。たとえば手をパ
ンパンと叩いて、それを数えさせるなど。少し練習すると、一〇秒前後の間に、三〇くらいまで
のものを数えることができるようになる。最初は「ひとつ、ふたつ……」と数えていた子どもが、
「イチ、ニイ……」、さらに「イ、ニ……」と進み、やがて「ピッ、ピッ……」と信号化して数えること
ができるようになる。こうなると、「2+3」の問題も、「ピッ、ピッと、ピッ、ピッ、ピッで5!」と計
算できるようになる。反対に早数えが苦手な子どもに、足し算や引き算を教えても、苦労の割
には計算は速くならない。
 少し暑くなると、体をくねくねさせ、座っているだけでもたいへんと思われる子どもがでてくる。
中には机の上のぺたんと体をふせてしまう子どももいる。そういう子どもを見ると、親は、「どう
してうちの子は、ああも行儀が悪いのでしょうか」と言う。そして子どもに向かっては、「もっと行
儀よくしなさい」と叱る。しかしこれは行儀の問題ではない。このタイプの子どもは、まずカルシ
ウム不足を疑ってみる。
 筋肉の緊張を保つのが、カルシウムイオンである。たとえば指を動かすとき、脳の指令を受
けて、指の神経はカルシウムイオンを放出する。このカルシウムイオンが、筋肉を動かす。(実
際にはもう少し複雑なメカニズムでだが、簡単に言えばそういうことになる。)が、このカリシウ
ムイオンが不足すると、筋肉が緊張を保つことができなくなり、ついで姿勢が悪くなる。もしあな
たの子どもにそのような症状が出ていたら、@骨っぽい食生活にこころがけ、Aカルシウムの
大敵であるリン酸食品を減らし、B白砂糖の多い、甘い食生活を改める。子どもによっては、
数日から一週間のうちに、みちがえるほど姿勢がよくなる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(382)

子育てのコツB

 子どもの運筆能力は、丸(○)を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムー
ズなきれいな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。
ちなみに縦線を描くときときと、横線を描くときは、手や指、手首の動きはまったく違う。幼児は
縦線が苦手で、かつ曲線となると、かなり練習をしないと描けない。
 その運筆能力を養うには、ぬり絵が最適。こまかい部分を、縦線、横線、曲線をまじえなが
ら、ていねいにぬるように指導する。この運筆能力のあるなしは、満四〜五歳前後にはわかる
ようになる。この時期の訓練を大切にする。それ以後は、書きグセが定着してしまい、なおす
のがむずかしくなる。
 母性(父性でもよい)のあるなしは、ぬいぐるみの人形を、そっと手渡してみるとわかる。母性
が育っている子どもは、そのぬいぐるみを、さもいとおしいといった様子で、じょうずに抱く。中
には頬をすりよせたり、赤ちゃんの世話をするような様子を見せる子どももいる。しかし母性の
育っていない子どもは、ぬいぐるみを見せても反応を示さないばかりか、中には投げて遊んだ
り、足でキックしたりする子どももいる。全体の約八〇%が、ぬいぐるみに温かい反応を示し、
約二〇%が反応を示さないことがわかっている(年長児〜小学三年生)。
 ぬいぐるみには不思議な力がある。もし「うちの子は心配だ」と思っているなら、一度、ぬいぐ
るみを与えてみるとよい。コツは、一度子どもの前で、大切そうにそのぬいぐるみの世話をす
る様子を見せてから渡すこと。あるいは世話のし方を教えるとよい。まずいのは買ってきたま
ま、袋に入れてポイと渡すこと。ちなみに約八〇%の子どもが、日常的にぬいぐるみと遊び、そ
のうち約半数が、「ぬいぐるみ大好き!」と答えている。
 子どもの知的好奇心を伸ばすためには、「アレッ!」と思う意外性を多くする。「マンネリ化し
た単調な生活は、知的好奇心の敵」と思うこと。決してお金をかけrということではない。意外性
は、日常生活のほんのささいなところにある。ある母親は、おもちゃのトラックの上に、お寿司
を並べた。また別の母親は、毎日違った弁当を、子どものために用意した。私も以前、オース
トラリアの友人がホームステイしたとき、彼らが白いご飯の上に、ココアとミルクをかけて食べ
ているのをみて、心底驚いたことがある。こうした意外性が、子どもの知的好奇心を刺激する。
 なお最近よく右脳教育が話題になるが、一方で、頭の中でイメージが乱舞してしまい、ものご
とを論理的かつ分析的に考えられない子どもがふえていることを忘れてはならない。「テレビな
どの映像文化が過剰なまでに子どもの世界を包んでいる今、あえて右脳教育は必要ないので
はないか」(九州T氏)という疑問も多く出されている。私もこの意見には賛成である。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(383)

子育てに溺れる親たち

 テレビのクイズ番組。テーマは、どこかの国の料理道具。それをことさらおおげさに取り上げ
て、ああでもない、こうでもないという議論がつづく。ヒマつぶしには、それなりにおもしろいが、
そういう情報がいったい、何の役にたつというのだろうか。……と考えるのは、ヤボなことだ。
が、幼児教育にも、同じような側面がある。
 二〇〇二年の五月。私の手元にはいくつかの女性雑誌がある。その中からいくつかの記事
を拾ってみると……。「私は冷え性です。おむつをかえるとき、子どもがかわいそうです。どうす
れば手を温めることができますか」「階段をおりるとき、三歳の子どもは、一段ごとすわりながら
おります。手すりを使っておりるようにさせるには、どうすればいいでしょうか」「遊戯会で、親子
のきずなを深めるビデオのとり方を教えて」と。
 こうした情報は、一見役にたつかのようにみえるが、その実、へたをすると、情報の洪水に巻
き込まれてしまい、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。それはちょうど中華料理と和
食とイタリア料理をミキサーにかけて、ぐちゃぐちゃにしてしまうようなものだ。が、それではすま
ない。こうした情報に溺れると、思考能力そのものが停止する。一見考えているようだが、その
つど情報に引きまわされ、自分がどこへ向かっているのかさえわからなくなってしまう。まさに
「溺れた状態」になる。
 そこで子育てをするときには、いつも目標を定め、方向性をもたせる。「形」をつくれとか、「設
計図」をつくれというのではない。いつも自分の子育てを高い視点からみおろし、自分が今、ど
こにいるかを知る。それはちょうど、旅をするときの地図のようなものだ。それがないと、迷子
になるばかりか、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。たとえば不登校の問題。
 たいていの親は自分の子どもが不登校児になったりすると、狂乱状態になる。その気持ちは
わからないでもないが、今、アメリカだけでも、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学
習する子ども)が二〇〇万人を超えたとされる。ドイツやイタリアではクラブ制度(日本でいえば
各種おけいこ塾)が、学校教育と同じ、あるいはそれ以上に整備されている。カナダもオースト
ラリアもそうだ。さらにアメリカでは、学校の設立そのものが自由化され、バウチャースクール、
チャータースクールなどもある。「不登校を悪」と決めてかかること自体、時代遅れ。時代錯
誤。国際常識にはずれている。だからといって不登校を支持するわけではないが、しかしそう
いう視点でみると、不登校に対する見方も変わってくる。高い視点でものを考えるというのはそ
ういうことをいう。またそういう視点があると、少なくとも、「狂乱状態」にはならないですむ。
 テレビのクイズ番組を見ながら、あなたも一度、ここに書いたようなことを考えてみてほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(384)

今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。
 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論の
ある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映る
のは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、
心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そ
ういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切では
ないのか。
 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。
 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(385)

今を生きる子育て論A

 仕事をしているときは、休みの日のことばかり。それはわかる。しかしこのタイプの人は、休
みになると、今度は仕事のことしか考えない。だから休みの日を、休みの日として休むことがで
きない。もともと「今」を生きるという姿勢そのものがない。いつも「今」を未来のために犠牲に
するという生き方をする。しかしこういう生き方は、すでに子どものときから始まり、そして老人
になってからもつづく。
 A氏(五八歳)は、いつもこう言っている。「私は退職したら、女房とシベリア鉄道に乗り、モス
クワまで行く」と。しかし私は、A氏は、退職してからも、モスクワまでは行かないだろうと思う。
仮に行ったとしても、その道中では、帰国後の心配ばかりするに違いない。「今を生きる」という
生きザマにせよ、「未来のために今を犠牲にする」という生きザマにせよ、それはまさに「生き
ザマ」の問題であって、そんなに簡単に変えられるものではない。A氏について言うなら、今ま
で、「未来のために今を犠牲にする」という生き方を日常的にしてきた。そのA氏が退職したと
たん、その生きザマを変えて、「今を生きる」などということは、できるはずもない。
 ……そこで私たち自身はどうなのかという問題にぶつかる。私たちは本当に「今」を生きてい
るだろうか。あるいはあなたの子どもでもよい。私たちは自分の子どもに、「今を大切にしろ」と
教えているだろうか。子どもたちはそれにこたえて、今を大切に生きているだろうか。ある母親
はこう言った。「日曜日などに子どもが家でゴロゴロしていると、つい、『宿題はやったの?』、
『今度のテストはだいじょうぶなの?』と言ってしまう」と。親として子どもの「明日」を心配してそ
う言うが、こうした言い方は、少しずつだが、しかし確実に積み重なって、その子どもの生きザ
マをつくる。子ども自身もいつか、「休むのは、仕事のため」と考えるようになる。
 当然のことだが、人生には限りがある。しかしいつか突然、その人生が終わるわけではな
い。健康も少しずつむしばまれ、気力も弱くなる。先のA氏にしても、定年後があるとは限らな
い。この私にしても、五〇歳をすぎるころから、ガクンと気力が落ちたように思う。何かにつけて
新しいことをするのが、おっくうになってきた。
 日本人は戦後、ある意味で、「今をがむしゃらに犠牲にして」生きてきた。会社人間、企業戦
士という言葉もそこから生まれ、それがまたもてはやされた。そういう親たちが、第二世代をつ
くり、今、第三世代をつくりつつある。こうした生きザマに疑問をもつ人もふえてはきたが、しか
し一方で、その生きザマを引きずっている人も多い。仕事第一主義が悪いというわけではない
が、今でも「仕事」を理由に、平気で家族を犠牲にし、人生そのものまで犠牲にしている人も多
い。仕事は大切なものだが、「何のために仕事をするのか」という原点を忘れると、人生そのも
のまで棒に振ってしまうことになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(386)

飼い犬について

 私の事務所から白い三階建てのビルが見える。ある資産家の自宅らしいが、その二階の一
室は犬専用の部屋になっている。ときおり大きな犬が、顔だけを外に出して、通りを行きかう人
をながめている。が、夏場になると、恐らく一日中クーラーをかけっぱなしにしているのだろう。
窓は閉じられ、外に顔を出すこともない。
 一方、私の家では、二匹の犬は、庭で放し飼いにしている。庭の広さは、畑も含めて、ちょう
ど一〇〇坪。周囲は小さな森に囲まれ、犬たちにはそれほど悪い環境ではない。しかしそんな
私でも、ときどき犬たちに申し訳なく思うときがある。とくに一匹はポインターで、走るために生
まれてきたような犬だ。そんな犬が、思う存分走ることもできないでいる。女房はときどきこう言
う。「こんなところに飼われるために生まれてきた犬ではないのにね」と。
 どちらの犬が幸せで、どちらの犬がそうでないかということを言っているのではない。私はそ
のビルに住む犬や、自分の家の犬を思い浮かべながら、一方で、人間の子どもはどうなのか
と考える。先日、大阪へ行ってきたが、帰るとき、ちょうど帰校時の男子高校生たちと電車に乗
りあわせた。どの高校生も、それがファッションと言わんばかりに、だらしないかっこうをしてい
た。そのうち何人かは携帯電話を手にもって、だれかと連絡をとりあっていた。窓の外はビル
またビル。おとなたちはじっと目を閉じたり、下を向いたりして、何かに耐えているといったふう
だった。と、そのとき、一人の高校生が携帯電話のメールを読みながら、隣の席に座っている
高校生にこう言った。「チッ、おい、お前、マージャン、来れるか?」と。話の内容からすると、一
人メンバーが何かの用事で欠けたらしい。隣の高校生はそれに対して断ることもできないとい
ったふうに、元気のない声で「うん」と答えていた。が、それは何とも言われないほど退廃的な
光景だった。
 犬にとっても、人間にとっても、あるべき環境とは何か。またどういう環境こそが、犬や人間に
はふさわしいのか。ビルに住む犬も、私の庭に住む犬も、(相対的には、私の家の犬のほうが
幸せということになるのかもしれないが)、犬にとっては、不幸といってもよい環境かもしれな
い。同じように、大阪で見かけた高校生にとっても、不幸といってもよい環境かもしれない。そ
の証拠というわけではないが、私が大阪で見た高校生は、どの高校生も、死んだ魚の目のよう
な目つきをしていた。あたりをキョロキョロと見まわしながら、若い女性を見つけると、そちらに
ドロリとした鉛色の視線を投げかけていた。
 ……と考えて、「私はどうなのか」という問題にぶつかる。私はこの時代に、この国に生まれ
た。歴史の中でも、世界の中でも、これほど恵まれた時代はない。文句をつけるほうがおかし
い。しかしそうであるにもかかわらず、心の充足感がないのはなぜか。どこか私自身がビルに
住む犬のような気がする。私の家の庭に住む犬のような気がする。あるいは大阪でみかけた
高校生のような気がする。どうしてか? どうしてなのか?



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(387)

今を生きる子育て論B

 頭からちょうちんをぶらさげて、キンキラ金の化粧をすることを、個性とは言わない。個性とは
バイタリティ。「私は私」という生きざまを貫くバイタリティをいう。結果としてその人は自分流の
生きざまを作るが、それはあくまでも結果。私の友人のことを書く。
 私はある時期、二人の仲間と、ある財界人のブレーンとして働いたことがある。一人は秋元
氏。日韓ユネスコ交換学生の一年、先輩。もう一人はピーター氏。メルボルン大学時代の一
年、後輩。私たちは札幌オリンピック(七二年)のあとの、国家プロジェクトの企画を任された。
が、ニクソンショックで計画はとん挫。私たちは散り散りになったが、それから二〇年後。秋元
氏は四〇歳そこそこの若さで、日本ペプシコの副社長に就任。またピーター氏は、オーストラリ
アで「ベンティーン」という宝石加工販売会社を起こし、やはり四〇歳そこそこの若さで、巨億の
財を築いた。オーストラリア政府から、取り扱い高ナンバーワンで、表彰されている。
 三〇年前の当時を思い出して、彼らが特別の人間であったかどうかと言われても、私はそう
は思わない。見た感じでも、ごくふつうの青年だった。しいて言えば、彼らはいつも何かの目標
をもっていたし、その目標に向かってつき進む、強烈なバイタリティをもっていた。秋元氏は副
社長になったあと、あのマイケル・ジャクソンを販売促進のために日本へ連れてきた。ピーター
氏は稼ぐだけ稼いだあと、会社を売り払い、今はシドニー郊外で、悠々自適の隠居生活をして
いる。生きざまを見たばあい、私は彼らほど個性的な生き方をしている人を、ほかに知らな
い。が、問題がないわけではない。
 実は私のことだが、この私とて、当時は彼らに勝るとも劣らないほどの、バイタリティをもって
いた。が、結果としてみると、彼ら二人は個性の花を開かせることができたが、私はできなかっ
た。理由は簡単だ。秋元氏は、その後、外資系の会社を渡り歩いた。ピーター氏は、オースト
ラリアへ帰った。つまり彼らの周囲には、彼らのバイタリティを受け入れる環境があった。しか
し私にはなかった。私が「幼稚園の教師になる」と告げたとき、母は電話口の向こうで、泣き崩
れてしまった。学生時代の友人(?)たちは、「あのはやしは頭がおかしい」と笑った。高校時代
の担任まで、同窓会で会うと、「お前だけはわけのわからない人生を送っているな」と、冷やや
かに言ってのけた。
 世間は、「個性を伸ばせ」という。しかし個性とは何か、まず第一に、それがわかっていない。
次に個性をもった人間を、受け入れる度量も、ない。この三〇年間で日本もかなり変わった
が、しかし欧米とくらべると、貧弱だ。いまだに肩書き社会に出世主義。それに権威主義がハ
バをきかせている。組織に属さず、肩書きもない人間は、この日本では相手にされない。い
や、その前に排斥されてしまう。
 そんなわけで、個性を伸ばすということは、教育だけの問題ではない。せいぜい教育でできる
ことといえば、バイタリティを大切にすること。繰り返すが、その後、その子どもがどんな「人」に
なるかは、子ども自身の問題であって、教育の問題ではない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(388)

今を生きる子育て論C「子どもたちへ」

見てごらん、やさしくゆれる緑の木々
感じてごらん、肌をさする初夏のそよ風
聞いてごらん、楽しく遊ぶ小鳥のさえずり
それが「今」なんだよ

明日があるって?
昨日があるって?
本当かな?
本当にあるのかな?
あるというのなら、どこにあるのかな?

「明日」というクサリを解き放ってみようよ
「昨日」というクサリを解き放ってみようよ
解き放って、「今」を懸命に生きてみようよ
「明日」がなくても、悲しむことはないよ
「昨日」がどんなものであっても、嘆くことはないよ
明日がどんなものであれ、今の君は、今の君
昨日がどんなものであれ、今の君は、今の君

大きく息を吸って
目をしっかりと開いて
地面を強く足でたたいて
「今」を懸命に生きてみようよ
結果など、気にすることはないよ
結果はかならずあとからついてくる
心も体も、あとからついてくる

だからね、「今」を大切に生きようよ
ただひたすら自分に誠実に
ただひたすら自分に正直に
ただひたすら自分に素直に
だってね、今、ぼくたちはこうして生きているのだから……



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(389)

心の貧しい若者たち

 こんなバラエティ番組があった。
若いカップルのうち、男が携帯電話をテーブルに置いたまま、席を離れる。時間は一〇分だ
が、その間に相手の女性が、それを盗み見するかどうかを確かめるという番組である。喫茶店
かどこかの一室だが、あちこちに隠しカメラがセットしてあり、女性の行動はもちろん、さらにど
こを盗み見しているかまでわかるようになっていた(〇二年五月)。
 何とも低俗きわまりない番組だが、それ以上に、司会の男といい、出てくる男女といい、こうし
てコメントするのも、なさけないほど低劣な出演者だった。一片の知性も理性も感じなかった。
それはともかく、案の定というか、その番組で顔を出した女性の全員が、その盗み見をしてい
た。中には何のためらいもなく、平気で盗み見している女性もいた。結論は、「あなたの恋人
も、あなたの携帯電話を盗み見している」(レポーター)ということだった。その番組を見終わっ
たあと、私は何とも言われない不快感に襲われた。「人を信じろ」という内容の番組ならともか
く、「人を疑え」という内容の番組だった。こういう番組が、何の恥じらいも抵抗もなく、テレビと
いう最新機器を使って、全国に垂れ流される恐ろしさ。この浜松でも、地方都市の悲しさという
か、「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。地方都市の地方に住む人が、その地
方をバカにしているから話にならない。あるいは地方の価値を認めていない。タレントの世界に
は、こんな隠語がある。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。
 話はそれたが、私はその番組を見ながら、「時間をムダにしたくない」という思いから、こんな
ことを考えた。
 一般論から言えば、「誠実さのない人」「道徳心や倫理観に欠ける人」は、心の貧しい幼少期
を過ごしたとみてよい。犬でも、愛犬家のもとで手厚い愛情を受けて育った犬ほど、忠誠心が
強くなる。態度も大きく、どっしりとした落ち着きがある。そうでない犬は、忠誠心も弱い。だれ
にでもヘラヘラとシッポを振る。同じように、こういう番組の中で、平気で相手の携帯電話を盗
み見する女性というのは、それだけ心の貧しい家庭環境で育った女性とみてよい。そういう意
味では、かわいそうな女性ということになる。生まれながらにして、「人を疑う」という姿勢が身に
ついている。一見美しいファッションに身を包んでいたが、その目つきには醜悪さが満ちあふ
れていた。いや、もう一歩踏み込むと、こんなことも言える。
 ああいう番組をプロデュースすることができる人間もまた、心のさみしい人たちだということ。
恐らく受験戦争だけを勝ち抜いて、テレビ局という花形企業に就職したのだろう。頭はキレる
が、心を育てることができなかった……? 日本の思想や文化をリードしているという誇りも自
負心もない。ただただ「これでいいのか?」という疑問ばかりが残る、あと味の悪い番組だっ
た。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(390)

子どもを伸ばす会話術

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える)
●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。
●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)
●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。
●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句)
●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う)
●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。
●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る)
●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。
●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。
●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。
●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。
●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
のプラスの暗示をかける)
●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる)
 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、
直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法な
ど。あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子ども
には、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えて
あげようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子
どもに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(391)

仲間に入れない子ども

 小学生の低学年児でも、仲間がワイワイ騒いでいるとき、その輪に入ることができず、その
周囲で静かにしている子どもは、一〇人の中に二人はいる。適当に相づちを打ったり、軽く反
応することはあっても、自分から話題を投げかけたり、話してかけていくことはない。対人恐怖
症とか、性格的に萎縮しているといったふうでもない。で、よく観察すると、いくつかの特徴があ
るのがわかる。そのひとつが、自分の周囲を小さくすることで、防衛線をはるということ。静か
におとなしくすることによって、自分に話題の火の粉がかからないようにしているのがわかる。
そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
 心はいつも緊張していて、その緊張をほぐすことができない。もっと心を開けばよいのにと思
うが、その前の段階で、心をふさいでしまう。だからといって社会性がまったくないわけではな
い。別の集団や、あるいは小人数の気を許した仲間の間では、結構騒いだりすることができ
る。一方、情緒の何らかの障害があるとき、たとえばここにあげた対人恐怖症の子どものばあ
いは、集団がかわっても心を開くことができない。
 そこでこの段階で、二つの仮説が考えられる。ひとつは、このタイプの子どもを、軽い情緒障
害と位置づける考え方。もうひとつは、まったく別の症状と位置づける考え方。心の緊張感がと
れないというのは、情緒障害児に共通してみられる症状で、それが「障害」と呼べるほども重く
ないと考えることには合理性がある。実際のところ、かん黙児が、自分の周囲に防衛線を張
り、他者の侵入を許さないという症状と、どこか似ている。
 また「まったく別の症状」と位置づけるのは、言うまでもなく、それが「問題だ」と言えるほどの
問題ではないことによる。このタイプの子どもはどこにでもいるし、またいたところでどうというこ
とはない。ただ親の中には、「どうしてうちの子は、みんなの輪の中に入っていけないのでしょう
か」と相談してくるケースは多い。また集団の中では精神的に疲労しやすく、その分、家へ帰っ
てからなどに、親の前では乱暴な言葉をつかったり、ぐずったりすることはある。が、その程
度。集団から離れると、このタイプの子どもは再び自分の世界に戻ることができる。
 ……というように子どもの心の世界は、複雑で、それだけにまだ未解明の部分が多い。だか
ら「おもしろい」というのは不謹慎な言い方になるかもしれないが、「さらに調べてみよう」という
気にはなる。そういう意味では心がひかれる。
 ついでながら、この問題について言うなら、集団になじめないからといって、おおげさに考える
必要はない。だれしも得意、不得意というのはある。集団の中でワイワイ騒ぐから、それでよい
ということにはならない。騒げないからいけないということにもならない。そういう視点で、自分
の子どもは自分の子どもと割り切ることも、大切である。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(392)

ある母親の相談から

 こんな手紙を受け取った。手紙というより、ある団体が集めた、相談用紙だった。そのひと
つ。
 「年中の男のです。ひらがなの書き順がめちゃめちゃ。なおしてあげようとすると、大声で泣
いて暴れて抵抗します。それに手と足の指の爪をかむクセがどうしてもなおりません。何かあ
ると、やたらと『頭が痛い』と言い、『じゃあ、病院へ行こうか』と声をかけると、『いい』と言いま
す。おかげで私は毎日、子どもを怒ってばかり。親が怒りすぎるのは、どうしたらよいでしょう
か。このところ、私の言うことなど何も聞いてくれません。気にくわないことがあると、手当たり
次第にものを投げつけたりします」と。
 順に考えれば、@大声で泣いて暴れるのは、かんしゃく発作。A手と足の指の爪をかむの
は、神経症による代償行為。B「頭が痛い」というのは、本当に痛ければ、やはり神経症、もし
くは何らかの恐怖症の初期症状。C親が怒ってばかりいるのは、家庭教育そのものが、すで
に危険な状態に入っている。D「私の言うことは何も聞いてくれない」というのは、親子断絶の
初期症状などなど。E書き順を教えるのが、文字教育と思い込みすぎている点も、気になる。
こういう指導法は、子どもを文字嫌いにする。さらには国語嫌いにする。エビでタイをつる前
に、エビを食べてしまうような指導法といってもよい。この時期大切なことは、文字は楽しい、本
はおもしろいという前向きな姿勢を育てること。トメ、ハネ、ハライをうるさく言い過ぎると、子ど
もは文字に対して恐怖心をもつことすらある。ちなみに年中児で、「名前を書いてごらん」と指
示すると、約二〇%の子どもが、顔を曇らせ、体をこわばらせることがわかっている。中には
涙ぐむ子どもすらいる。一度、こうなると、以後、文字(本や国語)が好きになるということは、ま
ずない。
 が、それ以上に気になるのは、この母親は、子どものリズムというものが、まったくわかって
いない。いつも「自分が正しい」という大前提で、自分の子育て法を子どもに押しつけている。
子どもは子どもで、親にあたふたと引っ張りまわされているだけ。親子の間に、こういう不協和
音が流れると、あとはそれが底なしの悪循環となって、家庭教育は完全に崩壊する。あと数年
もすれば、体格も大きくなり、親の手には負えなくなる。子どもは「ウッセエ、このババア、サッ
サと、小づかい、よこせ!」と、言うようになるかもしれない。
 こういうケースでは、@〜Eの症状は、いわば表面的な症状。基本的には、母親が子どもの
リズムで生活していない。言いかえると、これらの問題を解決しようとするなら、まず子どものリ
ズムで生活すること。親意識が強ければ、それを改める。さらに母親自身に何か大きなわだか
まりがあるのかもしれない。あればそれが何であるかを知る。子どもをなおそうと思うのではな
く、自分自身をなおす。あとは少し時間がかかるが、それでなおる。年中児といえば、なおすた
めの、そのギリギリの年齢とみてよい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(393)

親をなおす、子をなおす

 子どもに何か問題があると、ほとんどの親は子どもをなおそうとする。「うちの子はハキがあ
りません」「うちの子は消極的です」「うちの子は内弁慶です」「うちの子は勉強をしたがりませ
ん」「うちの子は乱暴です」などなど。もちろん情緒障害児や精神障害児と呼ばれる子どもは別
だが、こうしたケースでは、子どもをなおそうと思わないこと。まず親自身が自らをなおす。こん
なケースがある。
 その母親の子ども(小五女児)が、親のはげしい過干渉と過負担から、ある日突然、無気力
症候群におちいり、そのまま学校へ行かなくなってしまった。私にあれこれ相談があったが、そ
の一方で、その母親は中二の息子の受験競争に狂奔していた。その相談があった夜も、「こ
れから息子を塾へ迎えにいかねばなりませんから」と、あわただしく私の家から出ていった。
「兄は別」と考えているようだったが、その兄だって妹のようになる確率はきわめて高い。
 さらに親というのは身勝手なもの(失礼!)。少しよくなると、「もっと」とか、「さらに」とか言い
出す。やっと長い不登校から抜け出し、何とか学校へ行くようになった子ども(小二男児)がい
た。そんなある日、居間で新聞を読んでいると、母親から電話がかかってきた。てっきり礼の電
話だと思って受話器をとると、母親はこう言った。「何とか午前中は授業を受けるようになった
のですが、どうしても給食はいやだと言って、給食を食べようとしません。学校から電話がかか
ってきて、今は、保健室にいるそうです。何とか給食を食べるようにさせたいのですが……」
と。
 もっとも子どものことがよくわかっていてくれるなら、私も救われる。しかし実際には、子ども
のことがまったくわかっていない親も多い。以前、場面かん黙児の子ども(年中男児)がいた。
ふとしたきっかけで、貝殻を閉ざすように、かん黙してしまう。たまたま母親が参観にきていた
ので、子どもの問題点に気づいてもらおうと、その子どもがかん黙する姿を、それとなく見ても
らった。が、その夜、母親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたはうちの息子を萎
縮させてしまった。あんな子どもにしてしまったのは、あなたのせいだ。どうしてくれる!」と。
 子どもの問題という言葉はよく聞かれる。しかし実際には、子どもの問題イコール、親の問題
である。これはもう三〇年以上も子どもの問題にかかわってきた「私」の結論ととらえてもらって
よい。少なくとも、子どもだけを見ていたのでは、子どもの問題は解決しない。
(私は過去三〇年以上、無数の子育て相談に応じてきたが、こうした子育て相談で、だれから
も、一円の報酬も受けたことはない。受け取ったこともない。念のため。)
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(394)

皆さんからの質問

Q:どうして受験競争はなくならないのか?
A:歴然とした不公平社会があるから。この日本、学歴で得をする人は、死ぬまで得をする。そ
うでない人は、死ぬまで損をする.この不公平社会があるかぎり、受験競争はつづく。
Q:受験勉強が日本人の学力をあげているのではないのか。
A:受験勉強をして学力をあげているのは、ほんの一〇〜一五%の子どもたちだけ。残りの子
どもたちが、どんどんギブアップしていくので、全体を平均化すると、日本の子どもの学力はか
えって低い。
Q:こうした現状を打開するためには、どうすればよいのか?
A:子どもの多様性にあわせて、教育を多様化する。しかしそれを中央の文部科学省だけでコ
ントロールするのは、不可能。教育の自由化は、地方の行政単位、さらには規制をゆるめ、学
校単位に任せればよい。
Q:多様化といっても、学校だけで応ずるのには限度があるのでは?
A:YES! ドイツやイタリア、カナダのようにクラブ制度を充実させればよい。これらの国で
は、クラブが学校教育と同じくらい充実し、重要な比重を占めている。
Q:月謝はどうするのか?
A:たとえばドイツでは、子ども一人当り、一律、二三〇ドイツマルク(約一万五〇〇〇円・月)
支払われている。この「子どもマネー」は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われて
いる。親たちはこのお金を月謝にあてている。月謝はどのクラブも一〇〇〇円程度。学校の中
にもクラブはある。
Q:たとえば小学校での英語教育はどう考えたらいいのか?
A:英語を学びたい子どもがいる。学びたくない子どももいる。学ばせたい親がいる。学ばせた
くない親もいる。北海道から沖縄まで、みな、同じ教育という発想が、もう前近代的。学校では
基礎教科だけを教え、あとは民間に任せればよい。英語クラブだけではなく、中国語クラブが
あってもよい。フランス語クラブやドイツ語クラブもあってもよい。
Q:教科書はどうすればいいのか?
A:検定制度をもうけているのは、先進国の中では日本だけ。「テキスト」と名称を変え、学校ご
との判断に任せればよい。
Q:そんなことをすれば、教育がバラバラになってしまうのでは?
A:それこそまさに全体主義的な考え方。アメリカもドイツもフランスもカナダも、そしてオースト
ラリアも、バラバラにはなっていない!
Q:あなたがそんなことを浜松市という地方都市で叫んでも、意味がないのでは?
A:そう、まったくその通り。こういうのを「犬の遠吠え」という。日本は奈良時代の昔から中央集
権国家。だから、地方の声など、まったく意味がない。ワオー、ワオー!



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(395)

問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での
講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教え
る側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかしいとい
う思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。それに「あなたの子ではな
いか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに自分の子どもは、自分の子
どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわけで、たまたまあなたの子育
てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。相手が大学の教授であったりす
ると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない
(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。それこそ
ただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。その無意識
であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。
 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『教育論は、教育で失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役にた
つ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、
ほとんど役にたたない。が、一般世間の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話
をもとに自分の子育てを組みたてる。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべっ
たときのことなど考えない。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺
症が残るなどということは考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。
 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い
人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から
読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。そういう
意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう視点が、いつかあ
なたの子育てを救うことになる。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(396) 

弱者の立場で考える

 学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中
でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考え
ていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコー
スがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。
宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。
実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。
 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(397)

日本の武士道を説く人たち

 江戸時代に山鹿素行という人物が、「武教小学」という本を書いた。これは朱子の「小学」を
模範として、武士の子弟のしつけ教育を目的として書かれた本である。内容は、@夙起夜寝、
A燕居、B言語応退、C行往坐臥、D衣食居、E財宝器物、F飲食色欲、G放鷹狩猟、H興
受、I子孫教戒の一〇章からなっている。この目録からもわかるように、この本は行儀作法な
ど日常や健康への心がまえを説いたものだと思えばよい。またここでいう小学というのは、内
篇と外篇の分かれ、内篇は、@立教、A明倫、B敬身、C稽古の四巻、また外篇は、D嘉
言、E善行の、計六巻から成り立っている。その中の一節を、とりあげてみる。
 「横渠張先生いわく、小児を教ふるには、
  まず、安祥恭敬ならしむるを要す。
  今世、学講せず、男女幼より便ち、
  驕惰に懐了し、長ずるに至りて益々狂狼なり、
  ただ未だすべて子弟のことを
  なさざるがために、すなわち、その親において、
  己の物我ありて肯て屈下せず、病根常にあり」(「嘉言」)と。
 わかりやすく言うと、「横渠張先生がいわれるには、子どもを教育しようとしたら、まず人に対
して従順に、人をつつしみ敬うことを教える。が、最近は、学問もせず、男の子も女の子も、幼
いころから怠惰で、歳をとるにつれて、ますます狂暴になっていく。こうした子弟の教育をしない
ことにあわせて、つまり親自身も我欲が強く、頭をさげることをしないところに、問題の原因が
ある」と。(何とも意味不明な難解な文章なので、訳は適当につけた。)
 この教育書について、私はあえてここでは何もコメントをつけない。ただこういうことは言え
る。「意識」というのは、いいかげんなものだということ。私はこの山鹿素行の「武教小学」を読
んでいたとき、それなりに説得力があるのに驚いた。「正しい」とか、「まちがっている」とかいう
ことではなく、「住み心地の違い」のようなものだ。日本の家もスペインの家も、住んでみると、
それなりに住み心地は悪くない。家の形や間取り、使い勝手はまったく違うはずなのに、しばら
く住んでみると、それがわからなくなる。意識も同じようなもので、少しだけ自分の視点を変えて
もると、山鹿素行の「武教小学」も、それなりに「おもしろい」ということ。
 あとは読者のみなさんの判断に任せる。
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子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(398)

アメリカの家族主義、そして日本

 一九七〇年はじめ、アメリカは、ベトナム戦争でつまずく。それは戦後、アメリカがはじめて経
験した手痛い「つまずき」でもあった。が、話したいことはこのことではない。そのつまずきと平
行して、あのヒッピー運動に代表される「カウンター・カルチャ」の時代をアメリカは迎えることに
なる。「アメリカン・ドリーム」の酔いからさめると同時に、それまでの価値観が、ことごとく否定さ
れ始めた。離婚率の増加、同性愛、未婚の母、麻薬、性道徳の乱れなど。まさにアメリカは混
乱の時期を迎えたわけだが、ここでアメリカは二つの道に分かれた。一つは、新しい価値観の
創造、もう一つは、古きよき家族主義の復活である。前者はともかくも、後者は、ベンジャミン・
フランクリンの家族主義に代表されるものの考え方で、それ以前からアメリカ人の精神的バッ
クボーンにもなっていた。そのためこの家族主義は割とすんなりとアメリカ人に支持された。た
とえばそれを受けてアメリカのクリントン大統領は、「強い家族をもてば、アメリカはより強くな
る」(金沢学生新聞社説指摘)と述べている。
 で、それから約三〇年。日本は、ちょうど三〇年遅れで、アメリカのあとを追いかけている。
平成元年とともに始まった大不況とともに、日本は、前後はじめて「つまずき」を経験したが、そ
れはベトナム戦争で敗北したころのアメリカそのものと言ってよい。エリート社会の崩壊、既存
価値観の否定、さらに家族の崩壊と離婚率の増加などなど。教育そのものもデッドロック(暗
礁)に乗りあげた。ただこの時点で、アメリカと日本の違いは、アメリカは社会そのものを自由
化競争の波の中に置くことで、民間活力を最大限利用したということ。一方、日本は、明治以
来の官僚機構の中で、いわば「コップの中の改革」をめざしたということ。たとえば教育にして
も、アメリカでは学校の設立そのものも、自由化した。一方、日本では、少子化などを理由に、
設立の認可基準をさらに強化した。この違いがやがてどう出るかは、もう少し時間の流れをみ
なければわからないが、ここでアメリカと同じように、日本も二つの道を歩み始めたというの
は、たいへんおもしろい。一つは、新しい価値観の創造。もう一つは、古きよき時代(?)への
復活である。ただしその内容は、アメリカと正反対である。日本でいう新しい価値観の創造は、
いわゆる家族主義の台頭であり、一方、古きよき時代への復活は、旧来型の封建意識へもど
ることを意味する。これは極端な例だが、日本の教育者の中には、「武士道こそ、日本古来の
文化」と称して、家庭教育そのものを、その「文化」に復帰させようという動きすらある。
 これからの日本がどの道を進むかは、実際のところ私にはわからない。しかしこれだけは言
える。世界には「世界の流れ」というものがある。そしてその流れは、「グローバル化」をめざし
てつき進んでいる。その流れは、もうだれにも止めることはできない。



子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(399)

悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。
 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。
これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。
 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママ
は苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに
豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということにな
る。以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生
の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後
者ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(400)

講演について

 私は昨夜、ふとんの中で、女房とこんな話をした。「講演なんかして、何になるのだろう?」と。
すると女房は、「ボランティア活動と考えればいいのでは……」と。私は一度はそれに納得した
が、このところ疲れを感ずることも多くなった。よく誤解されるが、聴衆が二〇人の会場で講演
するのも、五〇〇人の会場で講演するのも、疲れる度合いは同じである。またいくら講演料が
安くても、私のばあいは、手を抜かない。講演を聞きにきてくれる人とは、その時点で一対一の
関係になる。人数が少ないから、あるいは講演料が安いからという理由で、いいかげんな講演
をすることは許されない。……しない。
 では、何のために講演をするのか? 私のばあい講演をしても、地位(もとからない)、肩書
き(これもない)、収入(収入を考えたら、とてもできない)のメリットは、ほとんど、ない。あるとす
れば名誉ということになる。しかし名誉などというのは、あとからやってくるもの(あるいはやって
こないかもしれない)で、名誉のために講演するというもの、おかしな話だ。で、私はこんなふう
に考えた。
 私は「考えること」イコール、「人生」だと思っている。そのために毎日、こうしてものを考えて
いる。それは前にも書いたが、未踏の荒野を歩くことに似ている。毎日が新しい発見の連続で
あり、またひとつの発見をすると、さらにその向こうに新しい荒野があるのを知る。で、私にとっ
ての生きがいは、その荒野を歩くことだ。それはそれだが、今度は歩いたからどうなのかという
問題が出てくる。私だけが知った荒野は、はたして私だけのものにしてよいかという問題であ
る。だいたいにおいてものを書くというのは、その先で、読んでくれる人がいるかもしれないとい
う期待があるからだ。実際には、自分の考えをまとめるために書くのだが、文字にするというの
には、そういう意味が含まれる。
 で、私が考えたことや、私が知ったことが、だれかの役にたてればそれでよいのでは……と。
あまりむずかしく考える必要はない。役にたてばそれでよい。役にたたなければそれでもよい。
判断するのは、会場に来てくれた人だ。私ではない。私が私であるように、人はそれぞれだ。
……となると、またわからなくなってしまう。私は何のために講演をしているのか、と。
 「自分の考えを他人に聞いてもらえるというのは、最高のぜいたくよ」と女房。
 「それはわかっている」と、私。
 「今、やるべきことをやればいいのよ」と女房。
 「それもわかっている」と、私。
 ただこの夏からは、講演の回数を、月三回程度におさえることにした。月四回となると、それ
だけで休日がなくなってしまう。私のばあいは、退職金も年金も、天下り先もない。収入は収入
で、別に稼がねばならない。講演で疲れて仕事ができなくなるというのは、たいへんつらい。そ
う言い終わると、女房は「そうね」と言って、電気を消した。

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