はやし浩司

401〜500
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司

 401−500

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(401)

忠臣蔵論

 浅野さん(浅野内匠頭)が、吉良さん(吉良上野介)に、どんな恨みがあったかは知らない
が、ナイフ(刀)で切りかかった。傷害事件である。が、ただの傷害事件でなかったのは、何と
いても、場所が悪かった。浅野さんが吉良さんに切りかかったのは、もっとも権威のある場所と
される松之大廊下。今風に言えば、国会の中の廊下のようなところだった。浅野さんは、即
刻、守衛に取り押さえられ、逮捕、拘束。
 ここから問題である。浅野さんは、そのあと死刑(切腹)。「たかが傷害事件で死刑とは!」
と、今の人ならそう思うかもしれない。しかし三〇〇年前(元禄一四年、一七〇一年)の法律で
は、そうなっていた。が、ここで注意しなければならないのは、浅野さんを死刑にしたのは、吉
良さんではない。浅野さんを死刑にしたのは、当時の幕府である。そしてその結果、浅野家は
閉鎖(城地召しあげ)。今風に言えば、法人組織の解散ということになり、その結果、四二九人
(藩士)の失業者が出た。自治体の首長が死刑にあたいするような犯罪を犯したため、その自
治体がつぶれた。もともと何かと問題のある自治体だった。わかりやすく言えばそういうことだ
が、なぜ首長の交代だけですませなかったのか? 少なくとも自治体の職員たちにまで責任を
とらされることはなかった。……と、考えるのはヤボなこと。当時の主従関係は、下の者が上の
者に徹底的な忠誠を誓うことで成りたっていた。今でもその片鱗はヤクザの世界に残ってい
る。親分だけを取り替えるなどということは、制度的にもありえなかった。
 で、いよいよ核心部分。浅野さんの子分たちは、どういうわけか吉良さんに復讐を誓い、最終
的には吉良さんを暗殺した。「吉良さんが浅野さんをいじめたから、浅野さんはやむにやまれ
ず刀を抜いたのだ」というのが、その根拠になっている(「仮名手本忠臣蔵」)。そうでもしなけ
れば、話のつじつまが合わないからだ。なぜなら繰り返すが、浅野さんを処刑にしたのは、吉
良さんではない。幕府である。だったら、なぜ浅野さんの子分たちは、幕府に文句を言わなか
ったのかということになる。「死刑というのは重過ぎる」とか、「吉良が悪いのだ」とか。もっとも
当時は封建時代。幕府にたてつくということは、制度そのもの否定につながる。自分たちが武
士という超特権階級にいながら、その幕府を批判するなどということはありえない。そこで、そ
の矛先を、吉良さんに向けた。
 ……日本人にはなじみのある物語だが、しかしオーストラリア人にはそうでなかった。一度、
この話が友人の中で話題になったとき、私は彼らの質問攻めの中で、最終的には説明できな
くなってしまった。ひとつには、彼らにもそういう主従関係はあるが、契約で成りたっている。つ
まり彼らの論理からすれば、「軽率な振るまいで子分の職場を台なしにした浅野さん自身に、
責任がある」ということになる。
 さてあなたなら、こうした疑問にどう答えるだろうか。彼らにはたいへん理解しがたい物語だ
が、その理解しがたいところが、そのまま日本のわかりにくさの原点にもなっている。「日本異
質論」も、こんなところから生まれた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(402)

政治家へのワイロ

 ある県のある都市での話。もう時効になったと思うから話す。今から三〇年ほど前には、そ
の都市の市議会議員への謝礼は、一回の口利きで、一〇〜一五万円(当時)と相場が決まっ
ていた。たとえば就学前の学校区変更でも、正当な手続きをふむと、最低でも二〜三か月は
かかった。しかしこれではA小学校への入試には間にあわない……というようなとき、そのスジ
の人の紹介で、親は市議会議員の自宅へ走る。そうするとたいてい一、二週間のうちには、学
校区の変更ができた。そのときの謝礼もやはり、一〇〜一五万円だった。もちろんこうしたこと
をよしとしない議員もいただろうが、この話をしてくれた人は、「そういう議員はこの町にはいな
かったなア」と言った。
 今朝の新聞(〇二年六月)によれば、国会議員の鈴木M氏も、同じように謝礼を受け取って
いたという。その額、六〇〇万円! 一回の口利きで、である。しかもその謝礼を払った会社
は、いままでほとんど話題になったことがない会社である。ということは、鈴木M氏は、無数
の、こうした謝礼を受け取っていたのではないかという疑惑がわいてくる。……と言っても、私
は驚かない。三〇年前の市議会議員が一〇万円とするなら、現在の国会議員が六〇〇万円
というのは、それなりに連続性がある。この世界にはこの世界の、ルールや相場というものが
あるらしい。それがよいとか悪いとか言う前に(悪いに決まっているが)、政治というのは、そう
いう「しくみ」で動くらしい。
 だからといって、私は政治家が悪いといっているのではない。私はたびたび自分の頭の中
で、こんなシミュレーションをしてみる。仮に目の前に数一〇〇万円の現金が置かれたとする。
そのときたった一回の電話でそれが自分のものになるとしたら、それを断わる勇気が、私には
あるか、と。で、何度シミュレーションしても答は同じ。「私にはその勇気はない」だった。恐らく
私のように、来月の生活費はともかくも、これから先、老後をどうやって過ごそうかと考えてい
る人なら、多分、私と同じことを考えるだろうと思う。いわんや来月の生活費をどうしようと考え
ている人なら、数一〇〇万でなくても、数一〇万円でもありがたい。あるいはあなたならこういう
ばあい、どうするか?
 こうした人間の弱さをコントロールするには、厳罰主義しかない。たった一回でもワイロを受
け取ったら、一〇年の懲役刑にするとか、そういうふうにする。私にしても、一〇年の懲役刑は
こわい。もしそうなら、数一〇〇〇万円でも、私は受け取らない。机の上に積まれた札束を見
ただけで、私はふるえあがるだろう。
 幸か不幸か(本当のところ、どちらかよくわからないが)、私はいまだかって、そういう苦しい
(?)立場に置かれたことがない。また自分のそうした弱さを知っているから、私は政治家には
なれない。仮にワイロを断わったとすると、あとで後悔するかもしれない。「ああ、あのときもら
っておけばよかった」と。だから要するに、そういう世界とは近づかないことだと心に決めてい
る。ちなみに私は過去三〇年間、無数の子育て相談に応じてきたが、一度だって、お金を請求
したことも、受け取ったこともない。念のため。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(403)

不安の構造

 生きることには不安はつきものか。若いころは若いころで、自分の将来に大きな不安感をも
つ。結婚してからも、そして子どもをもってからも、この不安はつきることがない。それはちょう
ど健康と病気のような関係ではないか。健康だと思っていても、どこかに病気、あるいはそのタ
ネのようなものがある。本当に健康だと思える日のほうが、少ない。言いかえると、その不安が
あるからこそ、人はその不安と戦うことで、生きる力を得る。もしまったく不安のない状態に落と
されたら、その人は生きる気力さえなくしてしまうかもしれない。いや、不安と戦うたびに、人は
強くなる。とくに子育てにおいては、そうだ。こんなことがあった。
 アメリカにいる二男からある日、こんなメールが届いた。「一六輪の大型トラックが、ぼくの車
にバックアップしてきて、ぼくの車はめちゃめちゃになってしまった」と。「バックアップ」の意味
を、私は「追突」ととらえた。私は大事故を想像し、すぐ電話を入れたが、つながらない。ますま
す不安になり、アメリカ人の友人にも、様子を調べるよう依頼した。当時ガールフレンドもいた
ので、そちらにも電話した。が、アメリカは真夜中のことで、思うように連絡がとれない。気ばか
りがあせって、頭の中はパニック状態になった。
 で、(アメリカの)翌朝、電話がやっとつながった。話を聞くと、「ガソリンスタンドで停車してい
たら、前にいた大型トラックがバックしてきて、自分の車の前部にぶつかった」ということだっ
た。「バックアップ」の意味が違っていた。私はひとまず安心したが、それ以後、どういうわけ
か、二男の運転のことでは心配にならなくなった。それまでの私は、「交通事故を起こすのでは
ないか」と、毎日のように、そればかりを心配していた。が、その事件以来、そういう心配をしな
くなった。ほかに以前は、二男が日本とアメリカを往復するたびに、飛行機事故を心配したが、
一度、二男が乗るべき飛行機に乗らず、しかも乗客名簿に名前がないことを知って、おお騒ぎ
したことがある。そのときも、二男はただ飛行機に乗り遅れただけということがわかって、安心
したが、以後、二男の飛行機では心配しなくなった。……などなど。
 親というのは、子どものことで心配させられるたびに、そしてその心配を克服するたびに、大
きく成長(?)するものらしい。「あきらめる」ということかもしれない。つまりそういう形で、人生
の一部、一部を、子どもに手渡しながら、子離れしていく。
 さて今、私は老後のことを考えると、不安でならない。あと一〇年は戦えるとしても、その先の
設計図がまったくわからない。へたをすると、それ以後は収入さえなくなるかもしれない。しか
し、だ。そういう不安があるから、今こうして、仕事をする。懸命に仕事をする。安楽に暮らせる
年金が手に入るとわかったら、恐らくこうまでは仕事をしないだろう。不安であることが悪いこと
ばかりではないようだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(404)

生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。
 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。
 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこ
にいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをして
いる……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価
値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決す
る。
 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。
 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(405)

Nさんの相談より

Nさん(九州福岡)の相談より。「最近、息子(中一)の勉強が空回りしているようです。国語嫌い
がたたって、その影響がすべての科目に出てきています。せっかく買った月刊のワークブック
も、このところやらないまま、たまっていく一方です。このままうちの子がダメになるのではない
かと、心配でなりません。どうしたらいいでしょうか」と。つづいて息子(M君とする)について、詳
しく書かれていた。
M君は小学生のころから、国語が苦手だった。漢字がつまずきの原因だった。そのため本を
読むのが嫌いになった。やさしい性格がかえってわざわい(?)して、競争心が弱く、何でも「ま
あ、まあ」という状態ですますようになった。図書館へ毎週連れていって、読書をするよう指導
はしてみたが、効果は一時的だったように思う。とくに漢字については、(できない)→(逃げる)
の悪循環の中で、ますます苦手になっていった。そしてその結果(?)、社会も理科も、漢字を
使うところでつまずいてしまっている。能力的には、問題はないと思う。頭のやわらかさ、思考
力も、ふつうの子ども以上にある、と。
 国語がすべての科目に影響するということは、よくある。日本のばあい、理科、社会という科
目についても、「理科的な国語」「社会的な国語」と思ったほうがよい。だから国語力(読解力、
表現力、表記力)が落ちると、同時に理科や社会の成績が落ちるということはよくある。反対
に、国語力があがると、同時に理科や社会の成績があがるということもよくある。(もちろん理
科でも、数学的な部分はあるし、数学でも国語的な部分はある。)だから小学校の低学年児に
ついていえば、ここでいう国語力の養成を大切にする。方法としてはすべて、本読みにはじま
り、本読みに終わる。本来ならその方向性に従って、子どもの教育は始まるのだが、この日本
では、書き順だの、トメ、ハネ、ハライだの、そういう「形」ばかりにこだわる。こだわることは、
オーストラリアの教育とくらべてもそれがよくわかる。たった二六文字しかない英語にしても、書
き順など、ない。スペル(つづり)にしても、彼らは実に自由に書いている。一度壁に張られた子
どもたちの作文を見て私は驚いた。そこで先生(小三担当)に「なおさないのですか?」と聞く
と、その先生は笑ってこう言った。「シェークスピアの時代から、正しいスペルというのはありま
せん。大切なのはルール(文法やスペル)ではなく、中身です」と。残念ながら、日本には、こう
いうおおらかさはない。ある小学校の校長は私にこう言った。「林先生は、そうは言うが、書き
順などというのは、最初にしっかり教えないと、なおすことができないのです」と。
 だったら私はあえて言う。書き順など、どうでもよいではないか。「口」という漢字にしても、四
角を書けば、それでよい。どうして日本人よ、そんな常識がわからないのか! 大切なのは、
ルールではなく、中身だ。どうして日本人よ、そんな常識がわからないのか!  ある程度でき
ればそれでよしとする「おおらかさ」が、子どもを伸ばす。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(406)

Nさんの相談より(2)

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そ
ういうときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっ
ているのに、どうして丸をつけるのか!」と。
 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。私の
二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意された。
書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願する
と、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうが
よい」と。そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまっ
た。書き順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなく
なってしまった。
 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が一〇年ほど前、この浜松市であった。その
会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。「U
は、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにMとWは
四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、この
日本にあるとは! そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、二五度傾けて書けと教えら
れたことがある。今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本
の教育はおもしろくない。つまらない。たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚
える前に、文字そのものを嫌いになってしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われ
ているが、その背景に、子どもたちの文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だ
いたいこのコンピュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに
守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子ど
もを型に押し込めようとすればするほど、子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(407)

Nさんの相談より(3)

 正しい文字かどうかということは、つぎのつぎ。文字を通して、子どもの意思が伝われば、そ
れでよし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚え
る。オーストラリアでは、すでに一〇年以上も前に小学三年生から。今ではほとんどの幼稚園
で、コンピュータの授業をしている。一〇年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピ
ーディスクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生
徒が、常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメ
だ、ハネだ、ハライだ! 
 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。左利きにしても、人類の約
五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どちらか一方の大脳が優位に
たっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決まるという
生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決まるが、ど
の説にせよ、左利きが悪いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確
かに右利き用にはできているが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。
 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人
はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)
を、そいでしまう。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(408)

Nさんの相談より(4)

 「書き順などなくせ」という私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハ
ネ、ハライもその一つ。それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれを
しっかりと教えておかないと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。しかし私はこういう意
見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが美しい」と誰が決めた
のか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、勝手に押しつけてもら
っては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝えること。「型」ばかり
にこだわっていると、文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。
私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。
ついでながら、経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇
年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)の
うち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また
同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題
について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二
九%! 
文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日
新聞)とコメントを寄せているが、本当にそうか? それだけの理由か? 日本の子どもたちの
読書嫌いの「根」は、もっと深いとみるべきではないのか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(409)

Nさんの相談より(5)

 アメリカでは、読書指導が、学校での教育のひとつの大きな「柱」になっている。どこの小学
校を訪れても、図書室が学校の中心部、あるいは玄関のすぐ奥にある。図書室には、専門の
司書(ライブラリアン)がいて、子どもたちは週に一度の、読書指導が義務づけられている。私
が「コンパルサリー(義務教育)ですか?」と聞くと、担当の先生は、「そうです」(アーカンソー
州)と笑った。ふつうの教師は大学卒の学位をもった人でもできるが、司書は、大学院を出た
マスターディグリー(修士号)をもった先生があたるとのこと。つまり「それだけ重要」というわけ
である。
 日本でも最近、読み聞かせや、読書指導に力を入れる学校がふえてきた。日本独自の姿勢
というよりは、「外国の教育との、あまりの違い」の差をうめるために、そうなりつつあると考え
るほうが正しい。しかしよい傾向であることには、違いない。言うまでもなく、文字にはふたつの
美しさがある。ひとつは、「形」としての美しさ。もうひとつは、「文」としての美しさ。しかし「形」と
しての美しさは、その道の書道家に任せればよいことであって、「文」としての美しさと比べれ
ば、かぎりなくマイナーな部分である。現に今、私はこうして文章を書いているが、一〇〇%、
パソコンを使って書いている。「形」と「文」は、まったく異質のものである。ある程度は「形」も尊
重しなければならない。しかしそれはあくまでも「ある程度」。文字が文字であり、言葉が言葉で
あるのは、「形」ではなく、「文」であるからにほかならない。
 で、問題は、いかにすれば、子どもを読書好きにさせることができるか、である。これについ
てはいくつかのコツがある。
(1)子どもの方向性をみる……子どもの好きな分野の本を与えるということ。子どもがサッカー
が好きなら、サッカーの本で、よい。よく「夏休みの推薦図書」などという名前にだまされて(失
礼!)、どこか文学もどきの本を、「それがいい本」と錯覚して子どもに与える親がいる。しかし
実際、自分で読んでみることだ。おもしろいか、おもしろくないかということになれば、あれほど
おもしろくない本もない。
(2)レベルをさげる……子どもに与える本は、思い切って一、二年レベルをさげる。もともとレ
ベルなどというものはないはずだが、おかしなことに、この日本にはある。「うちの子は読書が
苦手」と感じたら、レベルをさげる。自分の子どもが小学三年生であったりすると、親は「小学
四年」と書かれた本に手が届くが、そういうちょっとした無理が、子どもを本嫌いにする。
(3)読書を楽しむ……ここが一番重要だが、読書の楽しさを子どもといっしょに味わう。しかし
実際には、今、年中児(四歳)でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせる子
どもが、二〇%はいる。泣き出す子どもすらいる。家庭での無理な指導が、明らかに子どもを
文字嫌いにしていると考えられる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(410)

Nさんの相談より(6)

 中学生になって国語嫌いが表面化すると、その影響は理科、社会、さらには英語という科目
にまで影響する。漢字にしても、理科では、「細胞」を、「さいぼう」とひらがなで書いても、一応
「丸(○)」ということになっているが、誤字で書かれていたりすると、その丸をつけることもでき
ない。さらに英語となると、「私は走る」と、「私は走っている」の意味の違いがわからないと、進
行形を教えることすらできなくなってしまう。最近では「I  AM  RUNNING.」を「私、走っているの
よ」と訳してもよいではないかという意見もある。しかし感覚的でもよいから、「走る」(事実)と、
「走っている」(進行中)の意味の違いがわかっていてそういう訳をつけるのと、意味の違いが
わからないままそういう訳をつけるというのでは、中身はまったく違う。先へ進めば進むほど、
子どもは混乱する。少なくとも、現在の受験英語では、混乱する。
 そこで私は一度こういう症状が子どもに見られたら、もう一度、読書指導をすることにしてい
る。方法としては、毎週一冊、文庫本を読ませるという方法がある。その時期は早ければ早い
ほど、よい。たとえばこの静岡県では、高校入試が受験競争の関門になっているので、遅くとも
中学一年前後にはそれを始める。二年、三年になれば、読書だけをしているというわけにはい
かない。しかも実際には、仮に子どもの同意があったとしても、そうはうまくはいかない。読書を
好きにさせるということよりも、その前に、子どもの心をがんじがらめに取り巻いている「嫌い」
のヒモを、一本ずつ解きほぐさねばならない。その作業が、これまたたいへんである。やり方を
まちがえると、子どもをますます国語嫌いに追いやってしまう。
 が、一つ、望みがないわけではない。実のところ私の二男も三男も、私が「書き順など、どう
でいい」という考え方をしていたこともあり、大の国語嫌いになってしまった。そのため国語のみ
ならず、社会、理科、さらには英語でも苦しんだが、しかしそれも高校へ入ると、消えた。(そう
いう意味では高校はおおらかなところで、三男などは、「口」という漢字にしても、左下から上方
向へ、そこから右へと四角を書いていたが、だれもとがめなかった。今でもほとんどの文字を、
我流で書いている。)それからは自由に、文を読んだり、書いたりするのを楽しむようになっ
た。そういう意味で、「国語嫌い」は一時的なものと考えてよい。それより大切なことは、こまか
いことを、うるさく言い過ぎて、その土台まで崩してしまわないこと。「だれでも苦手なところはあ
る」というような言い方でカバーしてあげることではないのか。たとえそれが、あらゆる科目に影
響を与える国語力であっても、だ。そういうおおらかさがあると、子どもは自分で立ちなおること
ができる。
 何とも実務的な話になってしまったが、(私はこういう話はあまり好きではない)、大学受験を
最終的な目標とするなら、そういうことになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(411)

最後の受験指導

 ある日ふと見ると、三男がさみしそうにパソコンをいじっていた。どこかうわの空という感じだ
った。そこで私が「大学なんてものはね、行ける大学へ行けばいいのだよ」と声をかけると、三
男はしばらく黙ったあと、こう言った。「パパ、ぼくを、中学三年のときのように、しぼってよ」と。
 三男は市内でも一番という進学高校へは入ったものの、ほとんど勉強しなかった。部活に生
徒会活動、そんなことばかりしていた。そのときも高校の文化祭の実行委員長をして、ちょうど
それが終わったときだった。部活も山岳部に属し、その部長を務めていた。中学の終わりまで
は私も三男の成績を知っていたが、高校へ入ってからは成績表すら見たことがなかった。女房
の話では、「英語以外は、クラスでもビリよ」ということだった。三男が苦しんでいる姿が私にも
よくわかった。三男がこれから高校三年生になるという三月のはじめのことだった。
 私は「わかった。しかし明日からではない。これからだよ」と言うと、三男は元気よくうなずい
た。私は受験指導に関しては自信があった。恐らく私の右に出る教師はいないと思っている。
英語にしても、数学にしても、予習なしで高校三年生を教えられる教師は、そんなにいない。
が、私はできた。ポイントもコツも知り尽くしている。しかしそれをさかのぼる一〇年ほど前、大
学の受験指導とは縁を切った。むなしい稼業だった。
 私はその夜、三男の勉強を四時間みた。つぎつぎとプリントをつくり、それを三男につぎつぎ
とさせるという指導法である。私が本気で指導するときは、いつもこの方法をつかう。しかし五
〇歳を過ぎた私には決して楽な指導法ではない。一、二時間もこれをすると、ヘトヘトに疲れ
る。が、私は私よりも、三男の様子が気になった。黙々と従う姿を見ながら、私は私で懸命にプ
リントを作った。が、予定の四時間が終わると、三男はそれまで見せたことがないすがすがしさ
を私に見せた。「明日も四時間するよ」と私が言うと、三男はうれしそうにうなずいた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(412)

三男の受験勉強(2)

 それから一か月、私はかかさず毎晩四〜五時間、三男の受験勉強をみた。土日は、七〜八
時間になることもあった。最初の数週間は英語だけ。それから少しずつ数学へと範囲を広げて
いった。「得意な科目からすればいい」と私は言った。「まず英語をかたづけよう」と。で、英語
は高校三年の教科書は、二週間程度で終わった。つづく数一、数二Bもつぎの数週間で終わ
った。山のようになったプリントを見ながら、三男はうれしそうだった。毎晩勉強が終わると、プ
リントの枚数を札束でも数えるかのように一枚一枚数えていた。しかしさすがの私も体力の限
界を感じ始めていた。三男は私が仕事から帰るのを待ちながら、それまで自分のベッドで眠っ
た。そんなわけで三男の受験勉強を始めるのは、午後一〇時ごろということになった。そして
朝方の二時、三時前後までつづく。三男はともかくも、私も頭を使うため、脳が覚醒してしま
い、眠られない日がつづいた。三か月目に入ると、勉強時間はさらに五時間から六時間へとふ
えた。私も最後の気力をふりしぼって、三男と対峙した。「これが最後の受験指導だ」と。
 そのころになると高校での模擬試験にも、少しずつだが効果が見え始めた。志望校はY大の
工学部建設学科。三男はいつしか宇宙工学をしたいと言っていた。しかしそれまでの模擬試験
の結果はEランク。Aランクが合格圏、Bランクが合格可能圏。Cランクは努力圏。D、Eランク
は番外で、「とても無理」という状態だった。
 が、三男は、私がギブアップしてからも、つまり私は四か月目に入るとき、「とてもつきあいき
れない」と、三男から離れたあとも、ひとりで受験勉強をつづけた。それは私から見ても、もの
すごいがんばり方だった。学校の帰りに、ひとりで予備校の自習室へしのび込み、そこで毎晩
夜一一時まで勉強した。時間数にすれば、毎晩七時間ということになる。あとになって三男はこ
う言った。「毎晩、頭が熱くなりすぎて、気がヘンになりそうだった」と。
 で、夏休みが終わるころには、Cランクになり、Bランクに入るようになった。さらにセンター試
験を受けるころにはAランクになった。その結果だが、三男は、Y大の工学部へ、センター試験
の結果では、学部二位の成績で合格した。東大の工学部へも楽に入れる成績だった。しかし
それが私の最後の受験指導の終わりでもあった。
 三男が合格発表を受けたとき、私は女房にこう言った。「これでぼくは、父親としてやりのこし
たことはない」と。うれしかったというより、親としての満足感のほうが強かった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(413)

子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。
 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのこ
とだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教え
てくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がな
いため、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、
それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。
 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹
いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生
も終わりに近づく。
 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。
 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわ
からなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 子育てとい
うのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいなあ」と思ってし
まう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レストランや新
幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだった
なあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれ
が皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時
代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、
やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(414)

子どもの心が不安定になるとき

 子どもの心をキズつけるものに、恐怖、嫉妬、不安の三つがある。言いかえると、この三つ
は、家庭教育ではタブー。
 はげしい家庭騒動、夫婦げんか、叱責は、そのまま子どもにとっては恐怖体験となる。また
子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭環境で、心をはぐくむことができる。「絶対的」と
いうのは、疑いをいだかないという意味。しかしその安心感がゆらぐと、子どもの心はゆがむ。
すねる、いじける、ひねくれる、つっぱるなど。その一つに赤ちゃんがえりと言われる、よく知ら
れた現象がある。下の子どもが生まれたことなどにより、上の子どもが、赤ちゃんぽくなったり
することをいう。しかしたいていのケースでは、その程度ではすまない。すまないことは、たとえ
ばあなたの夫に愛人ができた状態を想像してみればわかる。あなたは平静でいられるだろう
か。もっともおとなのばあいは、理性の範囲で処理できるが、子どものばあいは、それが本能
の領域まで影響を与える。赤ちゃんがえりがこじれると、精神状態そのものがおかしくなること
がある。
 叱責も、ある一定の範囲、つまり親子のきずながしっかりしていて、その範囲でなされるなら
問題はない。しかしその範囲を超えると、子どもの心に深刻な影響を与える。ある女の子(ニ
歳児)は、母親に強く叱られたのが原因で、一人二役の、ひとり言を言うようになってしまった。
母親は「気持ちが悪い」と言ったが、一度こういう症状を示すと、なおすのは容易ではない。ほ
かにやはり強く叱られたため、自閉傾向(意味もなく、ニヤニヤと笑うなど)を示すようになった
男の子(年中児)もいた。
 とくに〇歳から少年少女期へ移行する満五歳前後までは、この三つについては、慎重でなけ
ればならない。心豊かで、おだやかな家庭環境を大切にする。とくにここにあげたような恐怖体
験は、冒頭にタブーと書いたが、タブー中のタブーと心得る。
 さらに万が一キズつけてしまったら、つぎの二つに注意する。ひとつは、同じようなキズを繰り
返しつけないこと。繰り返せば繰り返すほど、キズは深くなり、長く残る。もう一つはキズのこと
を気にしないこと。このタイプのキズは、遠ざかること(できるだけ忘れること)で、対処する。そ
のほうが立なおりを促す。親が気にすればするほど、やはりキズは深くなり、長く残る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(415)

子はかすがい?

 コの字型の大型のクギを、かすがいという。夫婦の間を、ちょうどそのかすがいのように子ど
もがつなぎとめるので、「子はかすがい」という。しかし本当にそうか? 中には、子どもがいる
ため、離婚したくても離婚できず、悶々と苦しんでいる夫婦がいる。こういうケースでは、子は
かすがいどころか、子は足かせということになる。つまり「子はかすがい」は、「夫婦は別れるも
のではない」が、前提になっている。しかし「夫婦だって別れることもある」が、前提になると、
「子はかすがい」説は吹っ飛んでしまう。多少ニュアンスは違うが、日本には、「子は三界の首
かせ」ということわざもある。「親というのは、子どもを思う心で、一生の自由を奪われるものだ」
(事典)という意味だ。
 どちらにせよ、こうした言い方をすることにより、人はものの本質を見誤る。とくに人と人の関
係は、安易なことわざや、格言で決めてかかってはいけない。日本人はどうしても、ものごとを
「型」にはめて考える傾向が強い。そのほうが考えることを省略できるからだ。便利といえば便
利だが、その便利さに溺れるあまり。自分を見失う。たとえば年配の女性が、わかったようなフ
リをして、「子はかすがいだからねえ」と言ったりする。あなたもそう言われたことがあるだろう。
しかし実のところ、その女性は何もわかっていない。何も考えていない。こうした例は、ほかに
もある。
 「親なら子どもを愛しているはず」「子を思わない親はいない」「親子の縁など、切れるもので
はない」「子が親のめんどうをみるのは当たり前」などなど。こうした言い方は、それなりの家庭
にいる人がよく使う。しかしみながみな、それなりの家庭にいるとはかぎらない。たとえば今、人
知れず、わが子を愛することができず苦しんでいる母親は、七〜一〇%はいる。はっきりとし
た統計があるわけではないが、「子どもなんてうんざり」「わが子でも、もう顔もみたくない」と思
っている親も、同じくらいはいる。さらに「子が親のめんどうをみるのは当たり前」という常識
(?)に甘えて、それを暗に子どもに強制している親となると、いくらでもいる。あるいは子ども
自身がその常識にがんじがらめになって、苦しんでいる人も多い。
 日本人は今、旧来の家庭観から急速に脱皮しようとしている。しかしそのとき、こうした旧来
の常識(?)が、まさに足かせになることが多い。その一例として、ここでは「子はかすがい」と
いうことわざを取りあげたが、新しい家庭観をもつということは、こうした旧来の家庭観がもつク
サリを、ひとつひとつ、ほぐしていくことでもある。それをしないと、結局は、流れそのものが、そ
のつど、せき止められてしまう。「子はかずがいではない」、また「かすがいであってはならな
い」。つまりそういうふうに子どもを利用するのは、子どもに対して、失礼というもの。あなたの
子どもだって、それを望まないだろう。ものごとは、あくまでも本質をみて、考える。判断する。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(416)

フリーハンドの人生
 
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行
論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ
のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの
勝手。子どもの問題。
 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。
 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、
本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ
こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親
はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。
 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 
 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(417)

子離れできない親

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか
しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ
んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分
は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。
「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。
 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言う
のに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言
うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。
 子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見
ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。私たちは親と
いう立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠
牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望
まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。
あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あ
なたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。


 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(418)

考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段
階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では
1分間で、何度進むか」と問いかける。
 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。
 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分
で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。そこ
までヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいと
いった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の
問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力
そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だ
ちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊
富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。ただ「考え
る」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣
そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。
 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。
 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。
 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(419)

考えない子ども(2)

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。しかしこの
分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこない。さらに
特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした子どもにラ
ベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこうした見方
は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、診断では
なく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことがで
きるか」である。
 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。
(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることがで
きるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっていると
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。何かの事件
がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなく
なることがある。それが(2)の状態。パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言
葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。
歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場
だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。
 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(420)

(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事
を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうと
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒ
ーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上
の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどう
でもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。
もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口に
したり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけでは
ない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは
妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「し
なければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。
漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしま
う。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。
思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしよ
うもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、
あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべってい
るようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよ
い。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことな
ら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう
指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプ
の子どもの対処法ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(421)

(2)思考するとき、すぐループ状態になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(し
たく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをし
た。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!
一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学
生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし
刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分
でも何をしているかわからなくなる。
このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時
計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは
分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリ
をする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような
行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはそ
の繰り返し……。
一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいく
つものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたり
すると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこで
あなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろう
か。またどうすることが最善と思うだろうか。
 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すと
いう方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みます
か」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段
階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかっ
た」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときは
それこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1
分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題がで
きるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になって
しまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出
すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するし
かないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(422)

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がな
んだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.
txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接
インストールのこと」と。
このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができ
ない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意
味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何
か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角
の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたよう
に、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげて
ください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、
まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなけ
ればならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。
このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。
そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習
の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンした
ところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、
手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが
一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はない
の」とか言いながら、学習へと誘導していく。
 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか
夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。
占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そ
ういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たない
のかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というの
は、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。
子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子
どもは、受身になる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(423)

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイ


 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについ
てはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。
 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化
という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はス
ムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを
書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴
力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。
 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のア
ルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう
子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚
える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚え
ようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こ
んなことがわかる。「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自
分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶と
いうのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は
覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタ
イプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶とし
て、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするた
めには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が
必要となる。その反復作業をしない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化して
いて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもで
きる。
 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いて
ごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある
種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになる
だけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えて
も、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができて
しまっている。
 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、
ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところ
にある。
 

子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(424)

西暦二一〇〇年の世界

 とても悲しいことだが、二一〇〇年には、人類は滅亡しているのでは……? よく気象学者
は、二一〇〇年までに地球の気温は、三〜四度上昇すると言うが、そんな程度ではすまない
ことは、別の常識。気温が一、二度あがると、不測の事態がまた別の不測の事態を生み、気
温は二次関数的に上昇する。たとえばシベリアのツンドラ地帯の凍土が溶け出す、海流が変
化する、など。その結果、地球の気温は金星並に、四〇〇度近くまでになるという説もある。も
ちろんそうなれば、人類どころか、あらゆる生物が死滅する。いや、ごく一部の生物だけが生
き残る可能性はある。火山地帯のマグマの周辺でも生きている微生物がいるということだか
ら、そういう生物にとっては、四〇〇度なんてものは、どうということはない?
 問題は、人類が滅亡することではない。仮に人類が滅亡しても、ある種の生物が生き残り、
そして人類がそうであったように進化をしつづけ、数億年後には別の知的生物になっている可
能性がある。そういう知的生物が、たとえばゴキブリが進化したゴキブリ人でもよいが、今の人
類の化石を掘り返して、「おおきいな」「すごいね」「この化石は何の化石?」「昔しいた、バカナ
ヒト・ザウルスの化石だよ」というような会話をすればよい。人類はあまりにも勝手なことをしす
ぎた。その結果、人類が滅んだとしても、それこそ自業自得というもの。
 問題はそのことではなく、気温上昇とともに、食料不足、水不足、それにともなく経済的混
乱、各地で勃発する戦争などなど。エイズのような病気がまんえんすることも考えられる。そう
なればなったで、この地球上は、まさに地獄と化する。人類は静かに滅亡する、あるいは滅亡
できるような生き物ではない。わずかな食料を求めて、隣人と殺しあうような絵図が、それこそ
日常茶飯事に起こるようになるかもしれない。
 ……というようなことを考えると、身のまわりの、ありとあらゆる問題が小さく見えてくるから不
思議である。もちろんここに書いたのは、ウソとまでは言えないが、そのまま信じてもらっては
困る。人類には、「知恵」という武器がある。地球の温暖化をおさえるために、地球に亜硫酸ガ
スの傘(かさ)をかぶせるという方法もある。食料不足にしても、遺伝子工学のレベルで、人工
タンパクが合成されるようになるかもしれない。地球温暖化は大きな問題だが、しかし人類が
もつ知恵を信ずることも忘れてはならない。たとえばたった一〇〇年前には不可能と思われて
いたようなことが、今ではつぎつぎと可能になっている。あのドラえもんの時代にさえ不可能と
思われていた「どこでも電話」が、今では携帯電話となって、それをもっていない人のほうが少
ないくらいになった。同じように今は不可能と思われているようなことが、一〇〇年後には、こ
れまたつぎつぎと可能になることだって考えられる。だから「今のレベル」を基準にして、一〇〇
年後を考えてはいけない。が、しかし油断してもいけない。地球温暖化は、決して他人の問題
ではない。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(425)

UFO

 私と女房は、巨大なUFOを目撃している。このことは、新聞のコラム(中日新聞東海版)に書
いたので、興味がある人は、それを読んでほしい。で、そのあと、つまり新聞のコラムに書いた
あと、「同じものを見た」という人物が、二人も名乗り出てきた。見た場所と時間は違っていた
が、地図でそのUFOが飛んだ方向を調べたら、私が見たのは、正確に真西から真東に、そし
て彼らの見たのは、正確に真東から真西に飛んでいることがわかった。それはともかくも、「見
たものは見た」(コラム)。
 しかし、だ。それほどまでに衝撃的な事件であったにもかかわらず、私にとっては、それほど
衝撃的ではなかった。(同じものを見たと名乗り出てきた人には、衝撃的だったようだ。二人と
も、それで人生観が変わってしまったと言っていた。一人は、そのあとインドへ仏教の研究に出
かけている。)私にとっては、子どものころ、飛行機を見たときの衝撃のほうが、ずっと強かっ
たように思う。だから今、あの夜のことを思い出しても、「まあ、確かに見たなあ」という程度の
印象しかない。「見た、見た」と騒がなければならないほど、重大なできごとでもないと思ってい
る。
 しかし改めて考えてみると、やはりこれは重大なことだ。私が見たUFOは、ハバだけでも、一
〜二キロメートルはあった。正確な大きさはわからないが、そこらのジャンボジェットの大きさで
はない。しかもその消え方が、ふつうではなかった。(これについては、先の二人も同じように
証言している。)まるで空の中に、溶け込むかのようにして消えた。私といっしょに目撃した女
房も、「飛行機のようにだんだん遠ざかって消えたのではない」と言っている。……となると、あ
のUFOはいったい、何だったのか?
 私も女房も丸い窓のようなものを見ている。で、それが本当に窓だとすると、あのUFOの中
には、それなりの知的生物がいたということになる。しかもその知的生物は、人間よりはるかに
知的であるはずだ。私が見たUFOは、音もなく、途中からは猛スピードで飛び去っていった。
人間が常識とする乗り物とは、まるで違っていた。いやいや、回りくどい言い方はやめよう。
 宇宙人は、確実に、いる。それも地球からきわめて近い距離に、いる。そして私たち人間を、
どういう形でかはわからないが、観察している。ただ私にはわからないのは、どうしてもっと
堂々と出てこないかということ。人間が混乱するのを避けるためと言う研究家もいるが、もうこ
こまで正体がバレているのだから、出てきてもよいのではないか。あるいはほかに、出てこら
れない理由があるのかもしれない。それは私にはわからないが、しかしコソコソと隠れるように
して地球へくる必要はない。……いや、これとて私の勝手な解釈なのかもしれない。が、少なく
とも私は、以来、「宇宙人はいる」という前提で、ものを考えるようになった。この話は、あくまで
も余談。教育論とは関係ない。ははは。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(426) 

UFO(2)

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、
それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとした
ら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。
「まちがいなく、あれはUFOだった」。
 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたとい
う。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲む
ように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。私がヨタカだと思った
のは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反
対の方向に、音もなく飛び去っていった。
 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOと
は思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、ま
さかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。が、このことを矢追純一氏(U
FO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイ
トで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレク
ターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房はその中の一枚の
写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。
 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見
たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソ
ということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。
 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっ
ても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野
だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国
語にも翻訳されている。そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えて
いる。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、
私はそれについて書いてみた。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(427)

学習内容の三割削減

 学習内容の三割削減が始まった(二〇〇二年春)。具体的には、たとえば小学六年生の算
数では、今までは@分数の掛け算、割り算をしていたのが、分数の足し算、引き算になった。
A円すいや角すいなどの立体の体積の計算をしていたのが、立方体や直方体の体積になっ
た。教える側の実感としても、ガクンと楽になった。三割という数字だけをみると、六年掛ける
〇・三で、一・八年、つまり約二年分の学習内容が削減されたことになる。単純に計算すれば、
今までの小学六年生は、小学四年生のレベルになったことになる。削減のし方にもいろいろあ
るが、これはもう大削減というにふさわしい。
 で、教える側もそうだが、学ぶ子どもたちも驚いた。それぞれの学年の子どもたちが、「簡単
になった」と喜んでいた。が、喜んでいたのは、四月、五月だけ。六月に入ると、もう様子が変
わってきた。学習内容が簡単になったはずなのに、「簡単だ」と言う子どもが減り、前と同じよう
に、「わからない」「できない」という子どもがふえ始めた。つまり削減されたものの、今度はそ
のレベルで、またもとの状態に戻ってしまった。私はこの現象に、改めて驚いた。で、私は、こ
んなことを考えた。
 サングラスをかけると、かけたとたんというのは、サングラスの色に周囲が見える。しかししば
らくかけたままにしていると、やがてサングラスをかけていること自体を忘れる。と、同時に、周
囲の色は、それなりにもとの色のように見えてくる。仮に青いサングラスをかけていても、赤い
花は赤く、ピンクの花はピンクに見えてくる。もちろん青い空も青い空に見えてくる。
 生活もそうで、忙しい人も、そうでない人も、それぞれの生活をしばらくつづけていると、それ
なりにヒマに感じたり、忙しく感じたりする。仕事量がへったとか、あるいは労働時間がへった
からといって、楽になるとは限らない。しばらくそういう状態がつづくと、新しい環境にそれなりに
体もなれてしまう。子どもの世界も、同じ。
 話を戻すが、「ゆとり教育」の名のもとに、今回の三割削減は実施された。しかし本当にそれ
が「ゆとり」になったかどうかと問われれば、私は、なっていないと思う。もう少し時間が経過し
なければ結果ははっきりしないが、しかしこの六月の段階をみても、それは言える。つまり今回
の三割削減は、結局はその一方で、さらに根本的な問題を先送りしただけではないのか。少な
くとも肝心の子どもたちは、楽になったとは思っていない。与えられた環境になれるにつれて、
その環境の中からその「ゆとり」は消える。そしてやがて、もとの状態にもどる……。
 が、ここで考えなければならないのは、こうした削減を繰り返すうちに、日本の子どもたちの
学力はますます低下し、教育水準も低下するということ。日本に追いつけ、日本を追い越せと
がんばっている国にとっては、まことにつごうがよい三割削減だが、それは同時に日本が衰退
することを意味する。日本よ、日本人よ、本当に、それでよいのか。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(428)

教育の実情

 K県(静岡県ではない)に住む、I氏(私立幼稚園理事長)が、こんな話をしてくれた。何でもI氏
がある小学校の校庭の横に車をとめて、校庭の様子を見ていたときのこと。チャイムの音とも
に、校庭で体育の授業(小五?)が始まったという。見ていると、チャイムの音が鳴り終わって
から、教師と数人の生徒が、とび箱とマットを外へ運びだし始めた。その間、一〇分前後。教
師が生徒を並べて、とび箱のとび方を実演してみせたのは、さらにそのあと一〇分くらいしてか
ら。生徒たちはそれぞれが勝手に動き回り、とても教師の話を聞いているようでもなかったとい
う。で、指導(?)は、同じく一〇分ほどで終わり、そのあとしばらくすると、今度は片づけが始ま
った。で、チャイムが鳴るころには、運動場はきれいに片づいていた……。I氏はこう言った。
「子どもたちがとび箱をとんだのは、正味一〇分もなかったのでは」と。
 ここまで書いて終わると、その教師の指導ぶりを批判する人がいるかもしれない。「何て、だ
らしない授業だ!」と。しかし実際のところ、こうした光景は、今、日本のどこでも見られる。多
かれ少なかれ、ごく標準的な「風景」と言ってもよい。しかし教師だけを責めるわけにはいかな
い。こんな事実もある。
この私ですら、活発盛りの小学生を相手に授業をすると、ものの一時間でヘトヘトに疲れてし
まう。彼らがもつエネルギーは、一人ずつだけをみても、おとなの数倍はある。そういう子ども
を、三〇〜三五人も相手にして指導するというのは、まさに重労働。いかに重労働であるか
は、たった一人の子どもをもてあましているあなた自身が、一番よく知っているはずである。
が、そういう重労働を、学校の教師はそれこそ毎時間している。それも朝八時から、夕方六時
まで。が、それで終わるわけではない。生活指導、家庭教育指導、成績管理などなど。しかも
上からの管理、また管理。ある女性教師(小学校)はこう言った。「毎日、携帯電話に入るメー
ルの返事を書くだけでも、夕食後一時間はかかります」と。また別の女性教師(小学校)は、
「子どもが生きるの死ぬのという家庭問題をかかえて、授業どころではありません」と言った。
「授業中だけが、息を抜ける時間です」と言った男性教師(小学校)もいた。
要するに、日本の教育の問題は、日本自体がかかえる構造的な問題であるということ。現象
面だけをみて、それを問題にしても意味はないということ。その構造的な問題が基本にあって、
ここにあげたK県でのような授業が蔓延(まんえん)化している。言いかえると、その構造的な
問題を解決しないかぎり、日本の教育はよくならなし、改革もない。さらに言えば、日本の未来
に明日はない。なぜならその明日をつくるのは、まさに今の子どもたちだからである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(429)

男の不倫

 歌舞伎役者のG氏(七〇歳、人間国宝)が、五一歳年下の若い女性と、不倫関係(?)にある
という。写真週刊誌にフォーカスされ、それで今(〇二年六月)、世間で騒がれている。昼のワ
イドショーでも取りあげられた。見ると、G氏は悪びれるようすでもなく、ヘラヘラと笑いながら、
「若い女性にもてないようでは、芸もできない」などというようなことを言っていた。おとなの交際
していたのは事実だろう。別れ際、ホテルのドアのところで、G氏はその女性に、チンチンを出
して見せていた(写真週刊誌「F」)。
 が、私が驚いたことはそのことではない。そのワイドショーは街の人の声と称して、一〇人近
い男性にインタビューしていたが、だれひとりとて、そのG氏を責める男がいなかったことだ。責
めるどころか、「うらやましい」「自分もしてみたい」「敬服する」「尊敬する」「芸のこやしになるの
では」と。司会の男まで、「男のカガミ」とまで言い切った。モラルの崩壊というよりも、その前提
となる倫理観も道徳心もない。思考能力さえ、ない。どの人も通俗的な情報を、そのまま受け
売りしているだけ。またそういうことを軽く言うのが、「人生の経験者」とでも思っているようなフ
シすらある。
 不倫するなら、命がけで、しかも哲学をもってすればよい。しかも「この女性しかいない」と、
世界で最高の女性とすればよい。妻が許すとか許さないとかいうことではなく、自分の人間性
をかけてすればよい。もしそれがまちがっているというのなら、人間であることがまちがってい
る……、そこまで言い切れるような、そんな不倫をすればよい。が、七〇歳の老人が、顔中コ
ラーゲンを打ち込んだようなテカテカな顔をして、しかも人間国宝の看板をぶらさげて、何という
ぶざまなことよ。相手の女性は、孫よりも年齢が下? 不倫が発覚しても、一言の哲学めいた
思想を口にすることもできない。日本人も、この程度かと、ただただあきれる。彼は人間国宝と
いう立場で、いったい何を人に教えてきたというのか。彼の妻は、今、日本国の大臣までしてい
る。夫婦そろって、一着数一〇万円もする(多分?)ような服や着物を着て、好き勝手なことを
している。そういうリーダーや政治家に、庶民の、その生活のいったい何がわかるというのか。
 私はあえて言う。G氏は男のカガミでも何でもない。いや、彼が自分の名誉と地位と財力にも
のを言わせて何をしようと、それは彼の勝手。しかし一般庶民のあなたよ、ああいう人物を評
価してはいけない。あなたがああいう人物にシッポを振れば振るほど、それはあなたの敗北を
意味する。それこそああいう人物の思うツボ。彼らはあなたのような、名誉も地位も財力もない
人たちを食いものにして生きているだけ。もし私がここでいうことがまちがっていると思うなら、
あなたが男性なら、あなたの妻や娘に聞いてみることだ。「女性は男のトイレか?」と。あなた
が女性なら、……もう言うまでもないだろう。その怒りを、もっと外に向かって表現してほしい。
 そうそうアメリカでは、一八歳未満の女性とセックスをすれば、理由のいかんを問わず、即逮
捕、即投獄である。G氏の愛人は、ギリギリの一九歳だった。念のため。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(430)

親の自己中心性

 「自己中心」という言葉がある。自分を中心にものを考えることをいう。その自己中心性に
は、二つの方向性がある。@社会的自己中心性と、A時間的自己中心性の二つである。何と
もカタイ話になりそうだが、要するに、自分のまわりのことだけしかものを考えないのが、社会
的自己中心性。自分の時代を中心にしかものを考えないのが、時間的自己中心性という。こ
のAの時間的自己中心性というのは、私が考えた。親を見ているときに気づいた。こんな人が
いた。
 「子どもを育てるのは、自分の老後のため」と、その女性(五〇歳)は言った。もう少し別の言
い方をしたが、結論をまとめると、そういうことになる。つまり「自分の老後のめんどうをみてく
れるような子どもを育てるのが、子育てだ」と。たいへん親意識の強い人だった。「子どもが親
のめんどうをみるのは当たり前」という前提で、すべてを考えていた。だから他人の子どもを評
価するときも、親のそばにいて、親孝行する子どもを、「できのいい子」。そうでない子どもを、
「できの悪い子」とした。つまりその女性は、自分の時代を中心にしかものを考えていない。こ
れが私がいう、時間的自己中心性である。ほかにもこんな例がある。
 ある女性(六〇歳)は、病弱な息子(三〇歳)と二人暮しをしていた。たしかに病弱は病弱だっ
たが、そのためその女性はお決まりの溺愛と過干渉。息子は超マザコンタイプの、ハキのない
男性になった。その男性について、その女性はいつもこう言っている。「私が死ぬときは、息子
も一緒に死にます」と。つまりそれくらい親子のきずなが太く、その女性は親として息子をあと
に残しては死ねない、と。そこで私がその女性に、「息子さんには息子さんの人生というものが
あるでしょう。それはどうするのですか」と聞くと、その女性はこう言った。「息子の心は、私が一
番よく知っています」「私が死ねば、息子は不幸になるだけです」と。
 この女性もまた、自分の時代を中心にしかものを考えていないのがわかる。つぎの世代に、
よりよき時代を残す、あるいは伝えていくという姿勢がどこにもない。一見、息子の将来を心配
しているようにみえるが、その実、子どもの将来など、まるで考えていない。自分が死んだら、
あとは野となれ、山となれというわけである。もし本当に息子の将来を心配するなら、息子を自
立させるために、親としてもっとほかにすることがあるはずである。それもしないで、つまり手厚
い親の庇護(ひご)のもとだけに子どもを置き、その子どもを溺愛するのは、まさにここでいう自
己中心性ということになる。
 こうして自己中心性をふたつに分けて考えると、親が子育てで見せる自己中心性を、もう少し
詳しく理解することができる。あなたも一度、身のまわりの人で、この見方を利用してみてはど
うだろうか。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(431)

親の思い込み

 「残り勉強」というのがある。たとえば勉強がじゅうぶん消化できなかった子どもを、放課後残
して、勉強させるのが、それ。教師はその残り勉強を、子どものためと思ってするかもしれな
い。が、子ども自身は、そうは思わない。バツととらえる。だから教師が子どもを残り勉強させ
ればさせるほど、やり方をまちがえると、かえって子どもをマイナス方向に追いやってしまう。こ
ういうのを意識のズレという。家庭教育でも、同じような意識のズレが起きるときがある。たとえ
ば親が子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言うとき。
 親は子どものため(?)を考えて、「勉強しなさい」と言うかもしれない。しかし一日の学校生活
を終えて、やっと家に帰ってきた子どもに、それを言うのは、どうか? 反対の立場で考えてみ
れば、それがわかる。あなたが外で仕事をして、家に帰ってきたとする。そのときあなたの妻
(あるいは夫)が、あなたに向って、「もっと仕事をしなさい」と言ったら、あなたはどう感ずるだ
ろうか。妻(あるいは夫)が、あなたのためにそう言ってくれると、あなたは思うだろうか。
 一般的に、子どもの前ばかりを歩く親は、何でもかんでも、親が先に決めてしまう。「子どもの
ことは私が一番、よく知っている」と。子どもが保育園や幼稚園へ通うようになると、子どもの気
持ちや意思を確かめることなく、「ほら、算数教室」「ほら、英語教室」とやりだす。やめるときも
そうだ。親が勝手につぎの教室に申し込み書を出したあと、子どもにはこう言う。「来月から
は、今のA教室をやめて、B教室へ行きますからね。B教室の先生のほうが、いい先生だから」
と。
 子どもは親の傲慢(ごうまん)さに、引っ張りまわされているだけ。が、本当の悲劇はここから
始まる。こういうケースでは、親は、「子どもは自分に感謝しているはず」と思い込む。「子ども
の心をつかんでいるはず」と思い込む。そしてそうすることが、子どもにとって最善と思い込む。
しかし思い込みは思い込み。子どもの心はもっと別のところにある。やがて親子はこんな会話
をするようになる。親「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっ
ているの。私が高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ。それがわか
っているの!」、子「いつ、だれがお前にそんなことをしてくれと、頼んだア!」と。
 もっともこのように反発する子どもは、まだよいほうだ。中には、親の言うままになって、かぎ
りなく依存心をもつ子どもがいる。そうなればなったで、それこそ家庭教育は大失敗。子どもが
依存心をもてばもつほど、子どもの自立は遅れる。要するに親の「思い込み」に注意。「子ども
のため」と思い込んでいることでも、結局は子どものためになっていないことは、実に多い。どう
かご注意!


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(432)

依存心という魔物

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの成績は伸び悩む。理由の第一。こ
のタイプの子どもは、与えられることになれ、また与えられてからすることになれている。万事
が受身で、そのため、たとえば自分の頭の中に、自分で「学習の地図」をつくることができな
い。自分が何のために、またどういう方向性をもって勉強しているかが、わからない。どこにい
るかさえわからなくなってしまう子どもすら、いる。こんな小学生(小四男子)がいた。何かの問
題を解いていて、それをまちがえたらしい。
 子「まちがえたところは、消すのですか」、私「そうだ」、子「消しゴムで消すのですか」、私「そ
うだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」、子「計算式も消すのですか」、私「それはい
い」と。
 あるいは中学生になると、こんな会話をする。
 子「今日は、どこを勉強するのですか」、私「この前のつづきをしないさい」、子「……」と。そこ
でどんな勉強を始めるかと待っているのだが、一〇分たっても、二〇分たっても、一向に勉強
を始める気配がない。そこで私がしびれを切らせて、「何か、勉強を始めたら?」とうながすと、
「どこで終わったか、忘れました」と。
 こうした依存性は、すでに年中児(四歳児)のときにあらわれる。原因のほとんどは、過保護
と親の先走り。何でもかんでも、「先へ、先へ」と親が、しすぎるほど用意してしまう。子どもはそ
れに引っ張りまわされているだけ。が、なおたちの悪いことに、そういう親の姿勢を批判して
も、それに気づく親は、まずいない。たいていの親は、「自分は子どものために正しいことをし
ている」と思い込んでいる。しかもそうした世話をするのが、親の務めと誤解している。ある母
親はこう言った。「あの子は、生まれつきああいう子ですから……」と。子どもに生まれつきも、
生まれつきもない。そういう子どもにしたのは、親自身なのだ。それに気づいていない。
 子どもに依存心がつくかどうかは、結局は、子育てのリズムで決まる。そういったリズム(過
保護傾向、先走り傾向)があれば、できるだけ早い時期にそれに気づく。そしてそのリズムを
変える。勉強ができる、できないは、あくまでもその結果でしかない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(433)

今どきの子どもたち

 「騒いでる子どもは、チンチンをハサミで切るぞ」と私が言ったときのこと。一人の女の子(小
五)が、「私にはないわ」と言った。ふつうはここで会話が終わるはずだったが、そのときはそう
ではなかった。すかさず別の男の子が、こう叫んだ。「何、言ってるんだ! クリトリスがあるだ
ろ!」と。
 今どきの子どもたちの性知識は、ふつうではない。先日も、一人の男の子がニヤニヤ笑いな
がら、「先生、フェラって知っている?」と。「何だ、それ!」と言い返すと、「知ってるくせに……」
と、笑いつづけた。
 今どき、小学生で、「セックス」を知らない子どもはいない。これはもう一〇年近くも前のことだ
が、一人の女子中学生が、私にこう聞いた。「先生は純情か?」と。そこで私が「そうだ」と言う
と、「そんなハズないでしょう。子どもがいるクセに!」と。直後、私はその意味がわからなかっ
た。が、しばらく考えてやっと理解できた。さらにこんなことも。
 ある日、一人の女子大生が私に会いたいと電話をかけてきた。「どうしても相談したいことが
ある」と。そこで会って話を聞くと、「先生の知り合いで、私を援助交際してくれる人はいない
か?」と。「先生、あなたでもいい。一か月二〇万円ならいい」と。私の教え子だったが、美しい
女の子だった。……そう思っていた。そういう私の「プライベートな思い」が、どこかで伝わり、そ
れが誤解されてしまったらしい。
 私はもうこの種の話にはうんざり。私とて「ふつうの男」だから、興味がないわけではない。し
かしここまで性が乱れてくると、もう手の施しようがない。それはちょうど、野に放たれた小鳥の
ようなものだ。つかまえることすら、できない。
 ……あのアダムとイブが、禁断の実を食べたという説話は、こういった状況を言ったものか。
しかしここで考え方を一転させて、「性そのものなど、何でもない」という前提に立つと、話が変
わる。思いきって、「性」を、単なる排泄行為と考えてはどうか。毎日小便や大便をするように、
人は、セックスをする、と。アダムとイブについて言うなら、禁断の実を禁断の実とするから、話
がおかしくなる。小鳥について言うなら、カゴの中に閉じ込めておこうとすことのほうが、おかし
い、と。
 この問題については、また別の機会に考える。しかしこんな事実もあることを忘れないでほし
い。アメリカの中西部に、アーカンソー州という州がある。その州に、H州立大学がある。その
H州立大学でのこと。フットボールクラブのメンバー六〇人を調べたところ、そのうち一五人(二
五%)が、HIV(エイズ)検査で陽性だったという(二〇〇〇年)。たいへんな数だし、きわめて深
刻な問題といってもよい。しかしそれはそのまま日本の、近未来の姿でもある。野放しがよいと
いうわけではない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(434)

指導方法

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、@脅
(おど)す方法。もう一つは、A自分で考えさせる方法。
 ほとんどの宗教は、@の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、「こ
の教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ天
国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)
 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗
教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判
断力すらなくす。
 もうひとつの方法は、Aの「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というの
が、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそ
が、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、
である。たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。
あるいは、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽
いことを、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれない
が、実のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に
加工して言葉にしているだけ。「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」その
ものと言ってもよい。だからたいていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることその
ものを放棄している人も、少なくない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙
二先生も、「日本の教育の欠陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。
 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも「パンセ」の中で、「思考こそ
が、人間の偉大さをなす」と書いている。私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の
英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし
自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。
 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私
は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えて
いる。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の
方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。言うまでもなく、私たちの
体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみついている。その常識に
耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間はやがて真理にたどりつく
ことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの参考意見にすぎないが…
…。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(435)

子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(436)

生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、そ
れが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すれば
よい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」という
が、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその
「常識」に問いかけてみればよい。
 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や
倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たと
えば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数一〇万もの
間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生
きていくことができる。
 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。
 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しか
もその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人
も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもってい
る。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静
かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(437)

常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。
 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。
 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって
私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口
論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とその
ときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私
はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だ
った。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車
で家に帰ってきた。
 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。
 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。
 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(438)
 
子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(439)

子どもに善と悪を教えるとき

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の
悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子ども
の世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。つまり子どもの世界をよくしたいと思っ
たら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりや
すい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒
が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。その教師はその教師の
信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、
そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉
強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たち
のように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまった
ら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもし
ろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が
残っている。
 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。
 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通
いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘
が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言っ
た。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許
せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめ
でたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(440)

もの書き屋の年輪

 ものを書くことによって、どこかで年輪を重ねていくように感ずることがある。たとえば私。一
〇年前に書いた文章、二〇年前に書いた文章、さらに三〇年前に書いた文章がある。自分の
書いた文を読みかえすとき大切なことは、文の体裁よりも、そのときどきにおいて、いかに真実
であったか、だ。自分を飾った名文(?)など、意味がない。反対に、いかにヘタでも、そのとき
の自分を正直に書いた文ほど、意味がある。要するに、中身ということ。私はこれを勝手に、
「深み」と呼んでいる。文は、その「深み」で判断するが、これは自分の文に限ったことではな
い。
 他人の文を読むとき、私は「深み」をさぐろうとする。もちろん文のじょうずへたも大切だが、
それよりも大切なのは、「深み」だ。で、そのとき、私はその人の年輪がどこにあるかを知る。
たとえば今、三〇歳の人の書いた文を読んだとする。そのときその文と自分が三〇歳のときの
文とをくらべる。あるいは自分なら、三〇歳のとき、どう書いただろうかと考える。その結果、私
が三〇歳のときの年輪より、深みのある文を書く人がいたとすると、それはそのまま畏敬の念
にかわる。しかし同じ文でも、それが六〇歳の人だと、そうは思わない。もちろん同年齢で、私
より深みのある文を書く人はいくらでもいるし、そういう人の文は、読んでいても気持ちよい。楽
しい。参考になる。とくに分野の違う人の文は、おもしろい。
 ……と、まあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いてしまったが、一方、こんなこともあ
った。ミニコミ誌を自分で発行している人がいた。別の仕事で親しくなったので、ある日私が、こ
う申し出た。「何か、文を書くことで、手伝ってあげましょうか」と。するとその人は、胸を張ってこ
う言った。「君イ〜ネ〜、文というのはね、書けるようになるまでに、一〇年はかかるよ。人に読
んでもらえるような文を書けるようになるまでに、さらに一〇年はかかるよ」と。つまり私の文で
は、ダメだ、と。
つまり文というのは、その人の主観で、その評価が決まる。私の文をうまいと思って読んでくれ
る人もいれば、そうでないと思っている人もいる。だからここが一番大切だが、文を書くときは、
他人の目など気にしないこと。私はそうしている。それがよくても悪くても、私自身だからであ
る。
 
 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(441)

神々との対話
 
 女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶときに、神
の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房がこう言っ
た。「ほかの人たちはどうなるの?」と。
 地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」という説
が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(たった数年!)は、
ふつうではない。この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度
にまでなってしまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三〜四度。最大
で六度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」がやっ
てくる。
 「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
 「どうして?」と女房。
 「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれば、だれ
だって神様を信ずるようになる」
 「死んでからでは、遅いということ?」
 「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。それ
から信じても、遅くはない」
 「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているのではない
かしら」
 私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や海を
泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほうがまちがって
いる。たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとしてい
る。医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を治したり、神
の国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめてしまう。あのトルストイ
も『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いている。
 しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間どこ
ろか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほうがおかしい。
あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。
 この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究極の
命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なものであって
も、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」がある。神様
に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなものだ。あとの判断は、
それこそ神様に任せればよい。


子育て ONE POINT (442)

子どもに生きる意味を教えるとき 

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの
高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たか
がボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、そ
れほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この
世の中に一体、どれだけいるだろうか。
 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ
の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争
と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。
 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に
意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの
箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。
 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。
 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生
の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日
その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私た
ちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教える
ことがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手
たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味は
ない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶ
し。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私た
ちに教えてくれる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(443)

頭のよい子

 五〇人に一人とか、それ以上の中に一人という、頭のよい子どもが、いる。よく「能力は平等
だ」という人がいるが、こと知的能力についていえば、平等ではない。専門的に言えば、「脳の
神経シナプスは、非同時的に発達する」※という。この「非同時性」が、子どもの「差」となって
表れる。
 で、その頭のよい子どもの特徴としては、@目つきが鋭く、静かに落ち着いている、A集中力
があって、いったん集中し始めると、他人を寄せつけない気迫を見せる、B言葉を頭の中で反
すうする(何度もかみくだく)ため、それだけ言葉が重くなる傾向を示す、など。動作もどこか鈍
くなることが多い。
 ここでいうB「言葉を反すうする」というのは、同時進行の形でいろいろなことを考えることを
いう。たとえば「地球が暖かくなることをどう思うか」と問いかけると、知的能力の「深さ」によっ
て、子どもの反応は大きく変化する。
レベル0……「暖かくなる」という意味そのものが理解できない。
レベル1……「暖かくなっていい」などと言って、そのレベルで思考を停止する。
レベル2……「暖かくなって、冬なども過ごしやすくなる」などと言って、自分にとってつごうのよ
いことだけを考える。
レベル3……「暖かくなると、困ることもある」などと言って、問題点をあれこれさぐる。
レベル4……「どうして暖かくなるのか」とか、「どうして困るのか」などと言って、いろいろな情報
を集めて、それを分析しようとする。
レベル5……問題の深刻さが理解でき、「どうすればいいのか」「どんな問題が起きるのか」「ど
う対処したらいいのか」というレベルまで考えを切りこんでいく。
 こうしたレベルは、作文を書かせてみればわかる。考えの「深い」子どもは、その片りんを文
のはしばしで、それを示す。
 中学生について言うなら、ほとんどの子どもが、レベル0〜2の範囲に入る。「五〇〇字程度
の作文を書いてください」と指示しても、すぐ書き始める子どもは少ない。これは日ごろから、
「考える」という習慣そのものがないためと思われる。

※シナプスの過剰生産と選択は脳の異なった部分で異なった速度で進むらしい。
(Huttenlocher and Dabholkar, 1997) 本来の視覚皮質ではシナプスの密度は比較的速やかに
ピークに達する。 中間の正面の外皮では、明らかにより高度な認識の働きをするところである
が、その過程は更にゆっくりと進み;シナプス生成は誕生より前に始まり、シナプスの密度は5,
6歳の年齢まで増え続く。
※ 選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相当するものであるが、更にそれに続く4,
5年続き、初期の青年期で終わる。 このように脳の部分で異なった速度で進むことはそれぞ
れの皮質のニューロンでも異なったインプットを受けて異なった速度で進む可能性が高い。
(Juraska, 1982, on animal studies 参照)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(444)

頭のよい子(2)

 実際に中学生(一〜三年生、一〇人)に、「地球温暖化について」というテーマで作文を書か
せてみた。
 最初の一〇分間で、作文を書き始めた子どもは、ゼロ。一〇分ぐらいたってから、何となく鉛
筆を動かし始めた子どもは、二人だけ。あとは黙ったまま。そこで強く促すと、残りの六人が、
何かを書き始めた。しかし残った二人は、体をぶらぶらさせるだけ。私が「思っていることを書
けばいい」と言うと、「だって、何を書いたらいいのか、わかんないもん」(女子二人)と。
 二〇分後、まだ書いている途中だったが、そこで中断。以下、子どもたちの書いた作文を紹
介する。(句読点を含めて、原文のまま)
(M女、中一)「いままで夏は暑いのに地球温暖化がすすんでいったらどうなってしまうのだろ
う。まだ6月なのにこんなに暑くて、7時ごろまでひがのぼっていて、明るい。今年は桜がさくの
もきょ年より何日もはやかったから、何年かたったら、冬ごろでも暑いかもしれない」
(T女、中一)「今、学校でも、総合の時間に地球環境や、温暖化についてやっています。私は
地球温暖化の一番いけない理由は、地球が汚れてしまったことだと思います。車や工場から
出た有害ガスが、地球の森林をなくしてしまったりしたことだと思います。外国では日本よりもっ
と早くから行動をおこしている国もあると聞いたので、日本もいろいろなことをして、温暖化が
少しでもなくなるようにしたらいいのにと思いました。私も身近な事から環境が悪く……」
(J君、中二)「南極や北極の氷がとけて大洪水になり人間などが住むばしょがなくなる……」
(G君、中三)「ここら5,6年だけでもかなり変化があったので危機感を感じている。『あと、どの
ぐらいで人間は住めなくなるのだろうか?』『なぜこのようなことになる前に気がつかなかったの
だろう?』こんなことを考えると恐ろしくなる」
 上から順に、M女は、温暖化の事例を集めているにすぎない。レベル2〜3。
 T女は、温暖化の理由を懸命にさぐろうとしている。レベル3。
 J君は、具体的に原因をとらえ、結果について考えようとしている。レベル3。
 G君は、危機を感覚的にとらえているが、分析性がない。レベル2。
 何も書かなかった子どもが、レベル0ということにはならないが、外から観察すると、思考が
ループ状態に入っているのがわかる。言いかえると、思考力のない子どもというのは、きわめ
て浅いレベルで、思考がループ状態に入る子どもということになる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(445)

母親が育児ノイローゼになるとき

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭
をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中
で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。
 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしな
い」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさん
に任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。
 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。
 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。@生気感情(ハツラツとした感情)の
沈滞、A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の
低下)、B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪
失、日常活動への興味の喪失)、C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進む
と、Aさんのように、D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、Fささいなことで極度の不安状態にな
る(不安障害)、G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロー
ルができなくなる(感情障害)、H他人との接触を嫌う(回避性障害)、I過食や拒食(摂食障
害)を起こしたりするようになる。Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある
(妄想性)。こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につ
ながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。
 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。
 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(446)

母親がアイドリングするとき 
 
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四
歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような
恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始
め、数年後、これまた何となく結婚した。
  R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道
の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人
公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の
叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に
無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、
キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを
認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。
  昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こ
んな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしま
った。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買
う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今
氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」
への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、
いつまでも重く、心をふさぐ。
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、
道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になるこ
とはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、な
い。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終
着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(447)

保守的な人々

 「日本軍が満州を侵略し、満州兵の抵抗を受けた」というようなことを、原稿に書いたときのこ
と。その雑誌の編集者が電話をかけてきて、こう言った。「はやしさん、日本軍は満州なんか、
侵略していませんよ」と。驚いて、「どうしてですか」と聞くと、その編集者はこう言った。「第一、
当時、満州にはだれも住んでいなかった。無人の荒野だった。だから日本がそこへ入り、開拓
してやったのです。だから、当然、満州兵などいなかった。あとになって中国は勝手に『満州は
中国の領土だ』『日本軍と戦ったのは中国兵だ』と言い出しただけです」と。さらに私が驚いて
いると、こうも言った。「中国にせよ、朝鮮にせよ、日本が進駐してやったおかげで、発展するこ
とができたのですよ。港もつくってやったし、道路や鉄道もつくってやった」「もし日本が進駐しな
ければ、ロシアやアメリカに侵略され、中国はもっと悲惨なめにあっていたはずです」と。
 もしこの論理が通るなら、どんな侵略戦争も正当化されてしまう。仮に明日、どこかの国が日
本を侵略してきても、だれも文句が言えない。
 で、私がそう反論すると、その編集者はこう言った。「あなたはそれでも日本人か。日本がま
ちがっていたと言うのは勝手だが、それを言うということは、自ら、日本人であることを否定す
ることと同じですよ」と。
 悲しいかな、こういう保守的な人は、実際にはいる。しかもその編集者と言うのは、年配の人
ではない。あとで年齢を聞いたら、三五歳ということだった。あなたはこの編集者の意見をどう
思うか。
 そうそうそれ以後、その雑誌社から執筆依頼が途絶えて、ちょうど二年になる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(448)

肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。
 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」
と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていた
らしい。
 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。が、
その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団のし
たことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだのと
同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある日、ひ
とりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それでも
日本人は頭をさげるのか」と。
 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のう
ちにそうしているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものとい
うことになる。
 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明
しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しな
いとき、それは親子の間に大きなキレツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほ
ど、子どもは親の前で仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から
離れる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中に
は、権威主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあ
るほど、その親子関係はぎくしゃくしているはずである。
 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(449)

夫に不満?

 先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなんか、冷蔵庫から
牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳な
んて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除
はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときは
どうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。
 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五
〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳
以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をして
いないとみてよい。この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くも
っている。男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんな
ところへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自ら
が、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もい
るという(同調査)。
 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査
では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という
夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。
※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。
 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(450)

男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリ
ーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であ
るからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっと
ベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。
 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らさ
れた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。
つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。このことを女房に話す
と、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、
ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だ
から」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっ
ている。ベッテルグレン女史は、それを言った。
 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、
女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念す
べきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した
「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。
「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家
事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(451)

ワールドカップに思う

 ワールドカップは、いわば世界的な祭(まつり)。その祭には、「熱狂」はつきものだが、しかし
その熱狂ぶりは、ふつうの祭とは、かなり違う。つまり「熱狂」そのものが、演出されたものであ
るということ。そのことは、選手をかいま見ただけで、涙を流して喜ぶサポーターたちの姿を見
ればわかる。彼らはアイドルという虚像に涙を流しているにすぎない。
 たとえば今、窓の外に一本の栗の木がある。秋になると色があせ、一枚ずつ、葉を落とす。
そのときその葉が落ちることには、だれも関心を払わない。が、この段階で、一枚一枚の葉に
それぞれの国名をつけ、最後まで残った「葉」が勝ちということにしたとする。つまりこの段階で
ゲーム性が生まれる。が、これではまだ「熱狂」は生まれない。そこでこうする。最後まで勝ち
残った葉(国)には、栄誉を与えるとする。そしてマスメディアを使って、世界中に報道する。こ
の段階で、その道の解説者たちが、もっともらしいコメントを語れば、ゲームはさらにおもしろく
なる。「A国の葉は、根元が太いですね。ただ色が少しあせているので、風に弱いでしょう。しか
しB国の葉は、面積がやや小さい。風には有利に働くでしょう」とか。
 が、ここでひとつ、重要な要素を忘れてはいけない。ゲームである以上、人間が介在しなけれ
ばならない。そこで「選手」の登場ということになる。このゲームでは、名前を「栗の葉落とし」と
するが、この栗の葉ゲームでは、たとえば栗の木の下から、息を吹きかける選手を考えたらど
うか。各国から肺活量の大きい選手にきてもらい、下から息を吹きかける。そして相手の国の
葉を、その息で落とす……。
 一枚ずつ葉が落ちるごとに、世界中がまさに一喜一憂する。自分の応援する国の葉が先に
落ちれば、ため息と落胆の嘆き。相手の応援する国の葉が先に落ちれば、笑いと歓喜の叫
び。こうして「熱狂」は少しずつ、増幅され、やがて最終局面を迎える。最後の二枚だけ、葉が
残ったとする。一枚は「X国」と書かれた葉。もう一枚は「Y国」と書かれた葉。下から息を吹き
かける選手は、ますます真剣になる。一息吹きかけるごとに、そして葉がゆれるごとに、轟音
のようなエールとブー音が入りまざる。
 が、問題は、なぜ実際には、ワールドカップというゲームには世界中が熱狂し、栗の葉ゲー
ムには、世界中が熱狂しないかということ。この違いはどこからくるのか。つまりその「違い」を
つくるのが、演出ということになる。ワールドカップは、そういう意味では、巧みな演出によって
つくられたゲームということになる。が、問題はこのことではない。
 この時点で、「私」自身が、その演出によって、踊らされるということ。いつの間にか、自分自
身もその熱狂の「輪」にハマってしまい、自分が自分でなくなってしまう。ゲームだからよいよう
なものの、それがもし別のものであったら……。考えるだけでも、どこかソラ恐ろしい感じがす
る。感じがするが、ああああ、今日もそのワールドカップが気になってしかたない。六月一四
日。今日で予選リーグが終了する。日本、よくやっている!


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(452)

教師は聖職者か?

 知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとな
ったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。
 この性欲をコントロールすることは、不可能? よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするとい
うが、禁欲などできるものではないし、またそれをしたところで、それがどうだというのか。知性
(大脳新新皮質)の活動が、すばらしくなるということはない。もともと脳の中でも、機能する部
分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性はアンドロゲンで、女性はエストロゲンと
プロゲステロンによって、コントロールされている。)あるいはホルモンをコントロールすれば、
性行動そのものもコントロールできることになるが、それは可能なのか。いや、可能かどうかを
論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性欲があるから、聖職者や出家者として失格
だとか、性欲がないから失格でないと考えるほうが、おかしい。
 私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さ
んと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、
性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日
常生活の中でうまくコントロールできるかどうかということ。これについては、まさに「知性」がか
らんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行動」の間には、一定の距離がある。この距離こそ
が、知性ということになる。
 ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近
は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着
に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。そういうとき目のやり場
に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを相談すると、その教師は
こう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。
 一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、と
もかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性が
あるということにはならないが、しかしこんなことはある。
 私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろ
んのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をし
てきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。つまり平常心で、風呂の
中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)とくに相手を、「母親」と意識し
たとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい現象だと思う。長い前置きにな
ったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私はこうした議論そのものが、ナン
センスだと思う。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(453)

古い世代との対立

 講演をしていると、いろいろな人から抗議を受ける。(たいていは質問という形だが、「私はそ
うは思わない」「林の意見にはついていけない」というのが多い。そういうのも含めて、ここでは
「抗議」と呼んでいる。)
 しかしそのほとんどは、五〇代、六〇代の男性からのもの。私の意見は、世の男性たちに
は、支持されないようだ。この数か月だけでも、こんな抗議があった。
●「『母さんの歌』(窪田聡作詞、作曲)の歌はすばらしい歌だ」(私は何も、その歌を否定して
いるのではない。)
●「父親は家で、威厳があることこそ重要だ」(威厳というのは、互いの間に尊敬の念があって
はじめて生まれる。親の権威を一方的に子どもに押しつけるのはどうか。)
●「子どもの人生は子どものものとはいうが、実際には、子どもに老後のめんどうをみてもらわ
ねばならない」(親孝行を否定しているのではない。強要してはいけないと言っている。)
●「妻たちに、ヘンな知恵をつけてほしくない。そうでなくても、妻と両親(祖父母)との関係がむ
ずかしい」(言語道断!)
●「林は親孝行を否定するが、親孝行は日本人の美徳である」(献身的、犠牲的な孝行を、子
どもに求めてはいけない。強要してはいけない。あくまでも「心」の問題。心を通いあわせること
こそ、真の孝行ではないのか。)
●「夫は仕事で疲れて帰ってくる。その上、家事を分担せよというのは、現実的ではない」(最
初から何もしなくてよいという意識と、分担しなければならないが、それができないという意識で
は、おのずと違いがでてくる。夫は、家事、育児のたいへんさをもっと理解すべきと私は言って
いる。)
●「産んでいただきましたと子どもが親に感謝するのは、当然だ」(恩着せがましい子育ては、
親子の間にキレツを入れることになるから注意したいと私は言っている。それでもかまわない
というのなら、私もかまわない。)
●「親子のきずなは切れない。親子の縁など、切れない」(しかしそういう日本的な常識(?)の
中で苦しんでいる子どもも多い。こうした常識を子どもに押しつけてはいけない。)
●「母性は本能だ。どんな親でも、子どもを愛しているはず」(もしそうなら、虐待などないはず
だが……。)
●「子どもにもっときびしくし、子どもをきたえるべきだ」(きびしくすれば、それでよいという考え
では、これからの子どもを指導することはできない。)
●「子どもの世界が乱れているのは、甘やかしが原因。親が子どもの友になるなんて、とんで
もない」(ひとりの人間として、認めようと、私は言っている。)ほか。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(454)

スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。
 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。
 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本の特異性は、外国の
子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学
校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こういう
国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけて、
仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものできる仕
事が減った。私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言っ
た。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。
料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれ
ます」と。こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、で
はそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。
 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、
乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あ
なたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日
本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパ
ルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ども
にすべき教育ではない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(455)

人生の後悔

 ときどき自分の過去を振りかえり、「しまった!」と思うことがある。このところ、それがふえて
きた。
 「後悔」という言葉がある。私にとっての後悔は、K社という放送会社で、犬のようにペコペコ
とシッポを振って仕事をしていたこと。たいした才能(タレント性)があったわけではないのに、
「何かある」という見返りだけをいつも期待しながら、結局は、五年以上、あの会社で働いてし
まった。会社に問題があるというよりは、K社の人たちである。まさに受験競争を勝ち抜いてき
ただけという人ばかりで、しかも目が上ばかり向いていた。その上、中央意識が強く、権威主
義で、どの人もいばっていた。多少の収入は得たが、総合すれば、働いた時間掛けるパートタ
イムの時間給より、少なかったのでは? 皮肉なことに、儲けたといえば、そのK社の株で儲け
たお金のほうが多かったように思う。情報だけは、あれこれ入ったし、私は社員ではなかった
から、株を買うことができた。
 時間をムダにした……。今でも、あの時代を思い出すと、そんな思いが、ぐっと胸をしめつけ
る。私にはもっとほかにすべきことがあった。できることがあった。もっともそれはK社の責任で
はない。私が愚かだった。無知だった。それに今、こうして後悔するのは、自分自身の残りの
人生が、「少なくなった」と思えるほどまでに、押し迫ってきたからだ。いや、それだけではない。
私はときどき、「忙しいですか?」と人に聞かれる。そういうとき私は、「忙しくはないですが、時
間がありません」と答える。そこに遠い道があるのを知れば知るほど、その時間がないのを知
る。その時間を、あまりにもムダにしすぎた。
 が、本当に私を「しまった!」と思わせるのは、そのことではない。ここに書いたように、「シッ
ポを振ってしまった」ということ。関係の社員には、盆暮れのつけ届けを欠かしたことがない。
一方、彼らはまた、弱い立場の私を見越して、さんざん私を利用した。延べにすれば、一〇〇
人以上もの社員が、飲み食いをするだけのために、この浜松へやってきた。もちろんこちらが
望んで接待したこともあるが、ほとんどは一方的なものだった。そういう人たちを接待しなが
ら、「犬」のように振る舞った自分を、今、ただただ後悔する。
 考えてみれば、彼らとて、K社という看板を背負っただけの、ただの「人」。私はそれにもっと
早く気づくべきだった。戦後の高度成長期に、私たち日本人は、「大企業」についてある種の幻
想をいだいた。その社員にも、同じような幻想をいだいた。つまり考えてみれば何のことはな
い。私自身も、その幻想にとりつかれていた。いや、大企業はともかくも、そこで働く社員たち
が、それだけ高次元な人たちかということになれば、そういうことはまったくない。あるはずもな
い。
 この文を最後に、私はK社のOBの人も含めて、K社の人たちすべてと、絶縁する。二度とあ
のK社の玄関をくぐることはない。さようなら!


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(456)

薬物の使用は個人の自由?

 文部科学省の調査によれば、覚せい剤などの薬物使用について、「他人に迷惑をかけてい
ないので、個人の自由」とする割合は、つぎのようであったという(平成一二年、小学校の高学
年、中高校生生、計七三〇〇〇人について、一一月調査)。
 高校一年生……一〇・七%
 高校二年生……一一・五%
 高校三年生……一三・〇%、と。
 学年があがるごとに、割合が高くなるが、同様の傾向は、高校生女子のほか、小中学生でも
みられる。つまり、学年があがるにつれて、「心のタガ」がよりはずれるということ? 同じ調査
によれば、「薬物を使ったり、もったりすることを『悪いことだ』と答えた高校生はつぎのようであ
った。
 高校一年生……五九・九%
 高校二年生……五七・二%
 高校三年生……五五・六%、と。
 反対に、学年があがるごとに、割合が低くなっている。
 よく「日本はアメリカとくらべて、薬物を使用する子どもが少ない。自由主義のアメリカのほう
が、かえって善悪の判断のできない子どもにする」と言われる。しかしこの日本で、たまたま薬
物の使用が少ないのは、子どもたちの善悪の判断によるものというよりは、取り締まりのきび
しさによるところが大きい。もし仮に、アメリカ並に、薬物が一般社会に蔓延(まんえん)するよ
うになったら、日本の若者たちは、はるかに急速に薬物に浸透していくと思われる。ひとつの例
として、援助交際と呼ばれる「売春」がある。
 問題は、学年が高くなるにつれて、なぜこうした「善悪」の判断にうとくなり、また自分にブレー
キをかけることができなくなるか、である。神戸大学のK教授は、「さまざまな悩みをかかえる高
校生が、薬物使用に共感できる部分があるいからだろう」(日本教育新聞))とコメントを寄せて
いるが、私はもっと問題の「根」は深いと思う。これについては、また別の機会に考えてみるこ
とにする。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(457)

善玉依存心、悪玉依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きていかれない、か弱き存在なのか。もちろんその程度
は、人さまざま。何かにどっぷりと依存しながら生きている人もいれば、そうでない人もいる。し
かし本当の問題は、何に依存するか、だ。
 その依存心には、善玉依存心と悪玉依存心がある。悪玉のほうが話しやすいので、悪玉依
存心について先に書く。
モノ、金、地位、名誉、財産など、自分を離れたものに依存するのを、悪玉依存心という。家
柄、宗教に依存するもの、これに含めてよい。このタイプの依存は、その対象物がゆらいだと
き、自分自身もゆらぐという心配がある。これは極端な例だが、熱心な信仰者が、その信仰に
疑問をもったとき、精神的な混乱(狂乱)状態になることはよく知られている。
 しかし自分自身に依存するのには、そういう心配はない。そういう意味で、自分自身に依存す
ることを、善玉依存心という。こんなことがある。
 私はときどき講演している最中に、多くの聴衆を前にして、ふとこんなことを思う。「どうして私
がこんなところに立っているのだろう」と。私には私を背後から支える、名誉も地位も肩書きも
ない。何もない。そういう私が、なぜ立っているか、と。そういうときかろうじて私を支えているの
は、「私ほど、子育ての現場を踏んだ人間はいない」という思いと、「私は今朝も朝、五時から
原稿を書いたではないか。そんなことをしている人間がほかにいない」というなぐさめである。
そのつど、心のどこかで自分を励ましながら、自分を立てなおす。
自分に依存するというのは、だれにも「私の中から私を奪えない」ということ。そういう意味で
は、強い。悪玉依存心と違って、なくすことを心配する必要はない。裏切られることもない。だ
から……と書くと、手前味噌のようになってしまうが、同じ依存心をもつなら、善玉依存心のほ
うがよいに決まっている。
 で、問題は、夫(あるいは妻)や、子どもに依存するのはどうかという問題。私たちは依存した
くなくても、いつの間にか依存することになるかもしれないが、原則としては依存しないほうがよ
いのでは……? 家族については、どうなのかという問題については、まだ私にもよくわからな
いので、また別の機会に考えることにする。
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(458)

短絡的な子育て法

大阪にある、とあるリトルリーグでの光景。子どもたちが広いグランドで、野球をしている。掛け
声だけは一人前? 独特のホーホーという声を空になびかせて、練習に励んでいる。しかし…
…。
 監督やコーチへの接待、食事の用意はもちろんのこと、準備もあと始末も、すべて同行して
いる母親たちの役目。子どもたちがグランドへ入るころには、ベースも並べられ、ボールも用
意されている。試合が終われば終わったで、それを片づけるのも、母親たちの役目。そういう
姿を見て、大阪市で幼稚園を経営しているS氏は、こう言った。「何かがおかしいですね」「高校
の野球部で監督をしている友人がね、『リトルリーグで育った部員は、扱いにくい』と言ってまし
たよ」と話してくれた。S氏によれば、そういう「甘い環境」で育った子どもは、野球はうまいかも
しれないが、「何もできない」のだそうだ。
 「もっと子どもにきびしくせよ」という意見が、今、あちこちからわきあがっている。武士道や、
スパルタ方式の教育法を説く人もいる。わがままで自分勝手な子どもがふえてきたことが、そ
の理由である。しかし頭からこういうことを、子どもに押しつけても、意味はない。もっとはっきり
言えば、あまりにも短絡的。
 子どもがわがままで、自分勝手になったのには、もっと別の理由や原因がある。そういう理由
や原因を考えないで、現象面だけをみて、いきなり「きびしくせよ」というのは、どうか? たとえ
ばこの日本では、「あと片づけ」にはうるさいが、「あと始末」には、甘い。たとえば子どもが食事
をしたあと、その食器を洗わせる、フキンでふかせる、食器棚にしまわせる親は少ない。風呂
から出るときも、タオルを洗わせる、アワを流させる、タブにフタをさせる親は少ない。起きたと
きも、ベッドをなおさせる、パジャマをたたませる親は少ない。こうした家庭教育は、日本以外
の世界では常識なのだが、この日本ではしない。とくに男性や子どもが、ひどい。今でも「男は
仕事だけしていればいい」とか、「子どもは勉強だけをしていればいい」と考えている人は、母
親も含めて多い。これだけが理由ではないが、こうしたスキをついて、子どもは、ドラ息子化、ド
ラ娘化する。
 短絡的なものの考え方は、一見、威勢がよく、わかりやすい。が、えてしてものの本質を見誤
らせる。中には、大声で怒鳴り散らし、親や子どもを罵倒しながら、子どもの不登校をなおす人
もいるそうだ。しかしその陰で、どれほど子どもは心をゆがめることか。一五年ほど前にも、Tヨ
ットスクールというのがあった。海に中へ子どもを突き落として、子どもの心を「なおす」(?)と
いうスクールだった。そのため何人かの死者も出たのだが、ときどきこういう「とんでもない教
育法」(?)が、世に現れては消える。
 みなさんも、どうか、こうした教育法には、くれぐれも注意してほしい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(459)

バーチャルリアリィティの世界(ショートストーリィ)

 講演会場へ入ったら、たまたまどこかの劇団がリハーサルをしていた。予定の時刻まで、ま
だ時間があった。私はそのリハーサルを、うしろのほうの席で見ることにした。神様をテーマに
した、風刺劇のようだった。中央に身をかがめた神様らしき人を、多くの若者が取り囲んで、何
やら大声で叫びあっていた。
 ふと人の気配を感じてうしろを見ると、一人の同年齢の男がそこにすわっていた。瞬間、目と
目があった。少し座席の位置が高かったこともある。私を見おろすようにして、「あなたは?」と
その男は私に聞いた。私も劇団の関係者だと思ったらしい。そこで私が、「いえ、夕方ここで講
演することになっているものです」と言うと、その男は返事もしないで、そのまま黙ってしまった。
 舞台では、ひっきりなしに会話が飛び交っていた。いわゆる「劇団演技」といわれるもので、ど
こかわざとらしく、どこか不自然な演技だった。一人の男がこう叫んだ。「神は幻想だ」「神こ
そ、我々の発明品だ」と。
 どれくらい時間が流れただろうか。三時からは、私たちがその会場を使うことになっている。
時計を見ると、その三時になるところだった。また人の気配を感じてうしろを見ると、先ほどの
男が席を立つところだった。また視線があったので、軽く会釈すると、再びその男が私に話し
かけてきた。
 「あなたは神か?」と。この質問には驚いたが、私は「あなたがそう思うのなら、それに近い」
と言ってしまった。言うべき言葉ではなかった。するとその男は、またあの笑みを浮かべて、こ
う言った。
 「あんたのような頭のおかしい人間がいるから、世の中がおかしくなる。だいたい神などという
ものは、存在しない。この見えるもの、感ずるもの、聞こえるものが、すべて。それを現実とい
う。あなたのような神ぶったインテリこそ、人間の敵だ」
 能弁な男だった。私が「それがこの劇のテーマですか」と聞くと、「そうだ」と。そして席を立ち
ながら、こう言った。まさに神すらも恐れない、ふてぶてしい言い方だった。「あんたは本物のバ
カだよ。ここで講演の講師をするらしいが、あんたのようなバカがする講演に、どれだけの意味
があるというのか」と。そこで私が、「あなたの見ている世界が、すべて幻想だったら、あなたは
どうしますか」と聞くと、「バカな……ありえない」と。
 そこで私はぐっと息を吸い込んだ。ときどき、夢を見ながら、それが夢だと気づくときがある。
そのときがそうだった。そして目をゆっくりと開いた。白い光が視界全体に広がった。先ほどの
男の動きが止まったと思うと同時に、その顔が光に包まれた。私はさらに大きく目を開いた。
朝だった。時計の時刻は七時半を示していた。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(460)

見えない過去

 あなたの、ごく日常的な生活を、できれば他人の目で観察してみてほしい。「私は私」と決め
てかかる前に、謙虚な気持ちで、観察してみてほしい。そのとき、あなたはそれでも、「私は私」
と言いきることができるだろうか。
 私たちは無数の過去をもっている。もっているだけならまだしも、その過去に引きずりまわさ
れている。つまり日常的な生活というのは、あくまでもその結果でしかない。たとえば……。
 NHKに『昼どき、日本』※という番組があった。司会者とタレントが、地方を訪れ、その地方
の名物や名物料理を楽しむという番組であった。私はあの番組が、どうしても好きになれなか
った。しばらく見ていると、やがて不愉快になった。が、長い間、その理由がわからなかった。
が、ある日、その理由に気づいた。
 私は若いころ、あるテレビ放送局で下請けの仕事を手伝ったことがある。そのときのこと。私
は「いつか、大きな仕事をさせてもらえるのではないか」「テレビの表舞台に立たせてもらえる
のではないか」という期待をもっていた。そのため、犬のようにシッポを振った。いや、まさに犬
そのものだった。
 一方、テレビ局の人たちは、そういう私の「下心」を見抜いていた。そして何だかんだと理由を
つけては、この浜松へやってきた。いわゆる「たかり」である。私は内心ではたかりと知りつつ
も、飲み食いの接待はもちろんのこと、さらには宿泊のめんどうまでみた。短い期間だったが、
延べにすれば、一〇〇人以上もの人を接待しただろうか。が、結局は利用されただけ。
 あの『昼どき、日本』を見ているとき、私は無意識のうちにも、あの当時の「東京人」のずうず
うしさを思い出していたのかもしれない。慣れた口調で、ぺラぺラと調子のよいことを言って、
地方の人間をおだてる。「おしいですね」「こんなところに住んでみたいですね」「空気は新鮮
で、うらやましい」と。地方の人間は地方の人間で、その言葉に乗せられるまま、相手がNHK
の人間というだけで、手厚くもてなす。……それはまさに、自分自身の姿でもあった。
 これはほんの一例だが、私たちはそのつど、過去のわだかまりにこだわりながら生きてい
る。ひょっとしたら、「私」という部分のほうが少ないのかもしれない。趣味や好みはもちろんの
こと、不安になったり、悩んだり、苦しんだりすることも、すべて、どこかで過去のこだわりにつ
ながっている。そこでもあなたが、心のどこかに「自分でない私」を見つけたら、それが自分の
過去とどこかで結びついていないかをさぐってみるとよい。何か、あるはずである。私はそれを
「見えない過去」と呼んでいる。その過去に気づくことは、自分を知る、第一歩でもある。それは
ある意味で、こわいことかもしれないが、勇気を出して、自分を見つめてみる。たいていの心の
問題は、それで解決する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(461)

子を思う、親心

 遠くに離れて暮らす息子や娘に、@「帰ってきてくれ」とそのつど懇願する親もいれば、A「親
や家のことは心配しなくてもいいから、帰ってくるな」と言い放つ親もいる。あなたというより、あ
なたの親は、どちらのタイプだろうか。
 少し乱暴な言い方かもしれないが、結論を先に言えば、子離れできず、依存心の強い親は、
@のタイプということになる。旧来型の日本人は、たいていこのタイプとみてよい。一方、独立
心が旺盛で、前向きに生きている親は、Aのタイプということになる。
【依存型の親】自分でもだれかに依存したいという、潜在的な願望が、無意識にも、子どもの依
存性を容認するようになる。このタイプの親は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい
子イコール、よい子とする。そしてそのつど、これまた無意識のうちにも、子どもに対して、「産
んでやった」「育ててやった」と、恩を着せる。(子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもら
った」と言うようになり、さらに「親のめんどうをみるのは子の役目」などと公言したりする。自分
自身が、マザコンになっているケースも多い。)
【非依存型の親】子育てをしながらも、じょうずに子離れをする。「私の人生は私のもの」という
考え方が強く、その一方で、子どもには、「あなたの人生はあなたのもの」という考え方をする。
外国で活躍している息子に対して、「私が死ぬまで、日本に帰ってくるな」と言いつけた親もい
た。このタイプの親は、自分の子どもが自分のために犠牲的になるのを、望まない。そういう犠
牲的な姿をみると、かえってそれをつらく思ったりする。
 あなたや、あなたの親がどちらのタイプであるにせよ、これは意識の中でも、脳のCPU(中央
演算部)にかかわる問題。だからたがいに、たがいが理解できない。@のタイプの親からみれ
ば、遠くで生活する子どもを、「親不孝な子ども」ととらえる。一方、Aのタイプの親からみれ
ば、@の親の心が理解できない。どちらも「親心」が基本にはなっているとはいうものの、依存
性があるかないかで、子どもへの対処のし方が、一八〇度違う。
 さてさて、あなたというより、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(462)

自然教育について

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」と言うのは勝手だが、しかしそれを外国の人
に押しつけてはいけない。
 外国を歩いてみると、彼らの自然観は、日本人と一八〇度違うのがわかる。日本以外のほと
んどの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。彼らはあ
のジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼らにすれば、自然は、「脅威」であり、
「敵」なのだ。このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、「自然を
大切にしましょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と笑われる。
 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、
たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけ
ない。そこで発想を変える。
 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、
地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。私が
ある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科目です
か」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。このキャンピングという科
目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(すべ)を学ぶ。ここでも、「自然
は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。
 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかし
こういうことは言える。だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。
自分たちでさんざん自然を破壊しておいて、他人に向かっては、「大切にしましょう」と。破壊し
ないまでも、破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。こういう身勝手さ
は、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜園をしたり、植
樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そういう言い方
は、本当に、田舎の人を怒らせる。そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水が
あったくらいで、川の護岸工事などしないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受
け入れること。それをしないで、「何が、自然を守る」だ!
 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。この
ことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の
視点から考えるべきことなのである。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(463)

自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているか
らではない。日本人がそれを守ったからでもない。浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層
ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみるとよい。四〇数階の展望台から見ると、眼下
に浜松市が一望できる。が、皮肉なことに、そこから見る浜松市は、まるでゴミの山。あそこか
ら浜松市を見て、浜松市が美しい町だと思う人は、まずいない。
 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国
であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人が
もつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装
し、ブロックで、カベを塗り固めている。そういう現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教
育だ」ということになる。
 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さ
らには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。構造的な問題というのは、市の土木
予算が、二〇〜三〇%(浜松市の土木建設費)もあるということ。日本人の思考回路というの
は、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでいる誤解をいう。たとえばアメリカの
ミズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流している。二〇〇〇年
※の夏にも大洪水を起こした。しかし当の住人たちは、護岸工事に反対している。理由の第一
は、「自然の景観を破壊する」である。そして行政当局も、護岸工事にお金をかけるよりも、そ
のつど被害を受けた家に補償したほうが安いと計算して、工事をしないでいる。今、日本人に
求められているのは、そういう発想である。
 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。ク
ーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。少
なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手とい
うもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(464)

自然教育について(3)

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季
節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。
 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で四〇分足らずのところだが、この二つの生活
はまるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であること
が、当たり前。大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナ
リが落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路
舗装も浄化槽の清掃も、自分でする。こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかも
しれない。しかし実際には、T村での生活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きてい
る」という実感がともなう。庭に出したベンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶ
ホトトギスを見ていると、生きている喜びさえ覚える。
 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな
る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、とも
かくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。女房は「あなたも歳よ
…」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように思
う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そういう自
分に、だ。
 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす
ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。
数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な
ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。
 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(465)(56)

ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星
は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この
詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を見た
だけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声
高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。
 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ
ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四
〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。
 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社
会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕
著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県で
は、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。
 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住
む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつこと
である。少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切
にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。(はやし浩司のサイト:
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(466)

日本の常識、世界の非常識

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよく
ある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならな
い。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、
子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。
●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では
「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がい
る。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとす
る。
●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場に
いるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。
その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというも
のは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。
●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちが
ってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越
え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん
人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係
のないこと。子育てにかこつける必要はない。
●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的
な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも
子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。た
がいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲にな
るのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊
敬される」という関係をめざす。
●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきまし
た」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そう
いうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして
恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わさせてしまう。いわゆ
る依存型子育てというのが、それ。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(467)

日本の常識、世界の非常識(2)

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=
巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわ
からないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ
伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこと
をしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ一九歳の舞妓を、「仕事のこやし」と称して、
手玉にして遊ぶこともできる。
●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。
●「森進一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民
族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい
人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論に
はじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分の
マザコン性を正当化する傾向がある。
●「かあさんの歌」論……窪田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待
ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙
を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買
っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村の
みんなと温泉に行ってくるよ」だ。
●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二
三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、二三・三%もいることがわかった。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(468)

おふくろさん

 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たち
は、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日
本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独
立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ
着はもちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、
教室に戻ってきたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出す
こともできない。できないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰
かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになっ
てしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりす
るなど。
 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこ
と。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてき
た。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるの
よ。じゃましないでね」と。
 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう
だろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、そ
れである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜
(だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。
もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなおしなさい」子「ケシ
で消してからするのですか」私「そうだ」子「きれいに消すのですか」私「そうだ」子「全部消すの
ですか」私「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。実際私が、小学四年生の男児とし
た会話である。こういう問答が、いつまでも続く。
 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ
……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、
日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(469)

夫婦の別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した(二〇〇一年)。それによると、同制度導入のための法律改正に賛成
するという回答は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査(九六年)では
反対派が多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用す
る法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)にあがっ
たというのだ。
調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・
八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が
高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感
に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱ま
る」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。ただ、夫婦別姓が子供に与える影響につい
ては、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、「影響はない」の二六・八%を大きく上回っ
た。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は
六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したば
あいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は一八・二%にとど
まったという。
わかりやすく言えば、若い人ほど夫婦別姓に賛成だということだが、夫婦別姓が問題になるこ
と自体、私たちの世代では考えられないことであった。「結婚した女性は、その家に入るもの」
という考え方が、常識でもあった。言いかえると、今、私たちが経験しつつある変化は、まさに
革命的とも言えるものである。それこそ一〇〇〇年単位でつづいた日本の常識が、ここでひっ
くり返ろうとしている。そうした目で、この問題を考える必要がある。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(470)

マザコン型人間

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。こ
のうち本能的な愛と代償的愛に溺れた状態を、溺愛という。そしてその溺愛がつづくと、いわゆ
る溺愛児と呼ばれる子どもが生まれる。
 その溺愛児は、たいていつぎのような経過をたどる。ひとつはそのまま溺愛児のままおとな
になるタイプ。もうひとつは、その途中で、急変するタイプ。ふつうの急変ではない。たいていは
げしい家庭内暴力をともなう。
 で、そのまま進むと、いわゆるマザーコンプレックス(マザコン)タイプのおとなになる。おとな
になっても、何かにつけて、「ママ、ママ」とか、「お母さん、お母さん」と言うようになる。このマザ
コンタイプの人の特徴は、@マザコン的であることを、理想の息子と思い込むこと。(圧倒的に
母と息子の関係が多いので、ここでは母と息子の関係で考える。)それはちょうど溺愛ママが、
溺愛を、「親の深い愛」と誤解するのに似ている。そして献身的かつ犠牲的に、母親に尽くすこ
とを美徳とし、それを他人に誇る。これも溺愛ママが、自分の溺愛ぶりを他人に誇示するのに
似ている。
 つぎにA自分のマザコンぶりを正当化するため、このタイプの男性は、親を徹底的に美化し
ようとする。「そういうすばらしい親だから、自分が親に尽くすのは、正しいことだ」と。そういう前
提を自分の中につくる。そのために、親のささいな言動をとらえて、それをおおげさに評価する
ことが多い。これを「誇大視化」という。「巨大視化」という言葉を使う人もいる。「私の母は、○
○のとき、こう言って、私を導いてくれました」とかなど。カルト教団の信者たちが、よく自分たち
の指導者を誇大視することがあるが、それに似ている。「親孝行こそ最大の美徳」と説く人は、
たいていこのタイプの男性とみてよい。G氏(五四歳男性)もそうだ。何かにつけて、一〇年ほ
ど前に死んだ自分の母親を自慢する。だれかが批判めいたことを言おうものなら、猛烈にそれ
に反発する。あるいは自分を悪者にしたてても、死んだ母親をかばおうとする。
 マザコンタイプの人は、自分では結構ハッピーなのだろうが、問題は、そのため、たいていは
夫婦関係がおかしくなる。妻が、夫のマザコンぶりに耐えられないというケースが多い。しかし
悲劇はそれで終わらない。マザコンタイプの夫は、自分でそれに気づくことは、まずない。「親
をとるか、妻をとるか」と迫られたりすると、「親をとる」とか、「当然、親」と答えたりする。反対
に妻に、「親のめんどうをしっかりみてくれなければ、離婚する」などと言うこともある。そもそも
結婚するとき、婚約者に「(私と結婚するなら)親のめんどうをみること」というような条件を出す
ことが多い。親は親で、そういう息子を、できのよい息子と喜ぶ。あとはこの繰り返し。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(471)

マザコン・テスト

 つぎの一二の質問項目のうち、六つ以上、当てはまれば、かなりのマザコン人間とみてよ
い。(権威主義的なものの考え方が混在しているタイプのマザコン人間)
( )いつも生活の中心に親がいる。親がいないと何も始まらないという感じ。重要なことは、何
でも親に相談したり、報告したりする。
( )「親は絶対」という意識が強く、親に反抗したり、親を粗末にするということは、考えられな
い。献身的かつ犠牲的な親孝行をするのが、子どもの務めと考えている。
( )「親を選ぶか、妻を選ぶか」という択一に迫られたようなとき、「親!」と当然のように考え
る。そういう意味では、妻は、親の前では家政婦のような存在でしかない。
( )親の悪口を言ったりする人を許さない。あるいは徹底的に反論し、それを「息子のカガミ」
と、かえって他人に誇示することが多い。
( )常日ごろから、「産んでいただきました」「育てていただきました」と、親に感謝することを美
徳とする。また自分の息子や娘にも、同じように思うように求める。
( )親を喜ばすことを、最大の目標とし、一方親は親で、そういう息子を、「親孝行で、できのい
い息子」と評価することが多い。
( )家庭や家族の中での上下意識が強く、自分の親には服従的である一方、自分の子どもが
反抗したりすると、「親に向かって何だ!」というような言い方をする。
( )妻や家族といるよりも親といるほうが、なごやかな雰囲気になり、安心しているような様子
や表情を見せる。
( )自分の妻よりも、母親のほうに、より広く心を開くことができる。悲しいことやつらいことが
あると、妻に相談するよりも先に、母親に相談することが多い。
( )森進一の「おふくろさん」を聞いたりすると、涙を流さんばかりに感動したり、それを「すばら
しい歌」と評価する。
( )親の間では、まさに「子ども」といった感じになる。親は親で、まるで子ども扱いをし、またそ
う扱われることを当然と納得している。
( )親を必要以上に美化することが多い。親のささいな部分をとらえて、親のすばらしさ、ある
いは自分の親のすばらしさを強調する。
 こうしたマザコン人間に、それを指摘すると、猛烈に反発するので、注意すること。マザコンで
あること自体が、その人の人生観の基本になっていることが多い。したがって妻の立場でいう
なら、仮に夫がマザコン人間であるなら、それを受け入れるしかない。この問題は対処のし方
をまちがえると、たいへんな家庭騒動に発展する。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(472)

いかに子離れするか

 いかに子どもを育てるかという問題と、いかに子離れするかという問題は、本来、同等のも
の。しかしこの日本では、後者(子離れ)は、なおざりにされ、むしろ、親は子離れなどすべきで
はないという考え方が支配的である。「親子の縁は切れるものいではない」という言い方をする
人もいる。そしてその返す刀で、子どもが親離れすることを、「悪」と決めてかかる。あるいはそ
れを許さない。
 こうした風習は、地方の山村地域ほど顕著で、私が生まれ育った岐阜県の地方では、親に
ベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。そして独立心が旺盛で、
親を親とも思わない子どもを、鬼ッ子として忌(い)み嫌う。こうした傾向は、旧来型の日本の社
会ではふつうに見られることで、多かれ少なかれ、ほとんどの日本人に残っている。そしてそれ
が全体として、日本独特の親子関係をつくる。
 たとえば日本人は子どもを育てるとき、子どもによい思いをさせることが、親子のきずなを太
くする方法のひとつと考える。またそうすることで、子どもは親に感謝しているはずと考える。た
がいの依存心を何よりも大切にする。(甘え、甘えられる)関係といってもよい。それがあるべ
き親子の理想の姿と考えている人も多い。
 一般論として、子どもが依存心をもつことに無トンチャンクな親というのは、自分自身も潜在
的に、だれかに依存したいという潜在的な願望をもっている。つまりその潜在的な願望が、子
どもの依存心に甘くなるというわけである。そしてそれがさらに全体として、日本型の子育て法
として、親から子へと、代々と受けつがれていく……。
 が、ここにきて、その「流れ」に大きな変化がみられるようになった。若い世代を中心に、欧米
型の個人主義が台頭し、旧来型の親子関係を否定する動きである。尾崎豊の言葉を借りるな
ら、「しくまれた自由からの卒業」(「卒業」)ということになる。が、それは同時に、そのまま家庭
教育に混乱となってはねかえってきた。結果として「家庭の教育力は低下した」(S県教育委員
会)が、しかし実際には、家庭の教育力は低下していない。むしろ教育力は高くなっている。親
子のふれあいの時間は、四〇年前、三〇年前とくらべても、飛躍的にふえている。問題は、教
育力の低下ではなく、新しい価値観になじめない親たち、新しい価値観を認めない親たちにあ
る。さらにもっと言えば、古い価値観を否定はしたものの、それにかわる価値観を作りだすこと
ができない親たちにある。
 話がそれたが、子どもを育てるということは、いかに子離れしていくかという、その一言に尽き
る。いつもこの二つの問題は、常に同時進行の形で、処理されるべき問題なのである。日本人
は子離れ、親離れの問題を、あまりにも軽んじてきた。論ずる人も、(私をのぞいて)いない。し
かしそれでは、今の日本をおおう、もろもろの問題は解決しない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(473)

代償的不満

 ある女性がこう言った。「私の夫は、あと片づけをほとんどしません。親から、そういう教育を
受けていないからです」と。こういうのを代償的不満という。本来の不満を覆い隠しながら、別
の不満にすりかえる不満と考えればよい。で、どこが代償的不満?
 このケースのばあい、(夫があと片づけをしない)という不満が、本来の不満。しかしこの女性
は、それを(親からそういう教育を受けていない)という形にすりかえている。が、実のところ、こ
れも代償的不満。
 このケースのばあい、(夫そのものへの不満)、さらには、恐らく(夫の両親への不満)も、そ
の背景にある。つまりそうい不満が、姿を変えて、(教育を受けていない)(あと片づけしない)と
いう不満へとなっていった。
 こうした代償的不満は、子育ての世界では、ごくふつう見られる。よくあるケースが、学校の
先生に対する親の不満。「私の子どもの先生は、宿題の出し方が不規則で、気分的で困りま
す」など。こういうケースでは、その背景に、(自分の子どもをていねいにみてくれないという不
満)、さらには、恐らく(自分の子どもの学力が思うように伸びないという不満)も、ある。こうした
不満が、姿を変えて、先生への批判へとなっていく。
 また子どももそうだ。たとえば子どもは、塾などへ行きたくなくなると、「行きたくない」とは言わ
ない。そういうときは、塾の先生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきを
する」「さぼって雑誌を読んでいた」など。つまりそういうことを親に言いながら、親をして、「そん
ならやめなさい」と言うようにしむける。A君(小五)は、学校の先生に、「今度宿題をやってこな
かったら、親に電話する」と脅されたのがきっかけで、その日から毎日、学校の先生の悪口を
言うようになった。いわば先手を打ったということになるが、こうしたケースは日常茶飯事。 
 子どもの意見に耳を傾けるのは、大切なことだが、しかし本来の原因(問題)がどこにあるか
を判断することも忘れてはいけない。そのひとつのヒントが、ここでいう代償的不満。この言葉
を知っているだけでも、子どもの心がよりはっきりと読めるようになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(474)

臨機応変に行動する

 私の印象に残っている事件に、こういうのがあった。
 ある日、自分の教室へ入ると、A組のA先生のチョーク箱が、起き忘れてあった。そこで園庭
で遊んでいた、ひとりの女の子(年長児)をつかまえて、そのチョーク箱を、A組のA先生のとこ
ろへもっていってくれるように頼んだ。その女の子は、「ハーイ」と元気な声でそれに応じてくれ
たが、心配だったのでその女の子を見ていると、その女の子は、またチョーク箱をもってかえっ
てきてしまった。
 そこで私が、「どうしてチョーク箱をもって帰ってきたの?」と聞くと、その女の子はこう言った。
「だって、A組に先生がいなかったもん」と。当時、園舎はコの字型の廊下になっていて、その
女の子が走っていく様子がよくわかった。その廊下で、帰ってくるとき、その女の子は、A先生
とすれちがっていた。そこでまた私が、「廊下ですれちがったとき、どうしてA先生に渡してくれ
なかったの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「だって、先生は、教室にいなかったもん」
と。
 その女の子は、(A組でA先生に渡す)ということにこだわった。その気持ちはわからないでも
ないが、チョーク箱を渡すという目的からすれば、その女の子の行動は、どこか的がはずれて
いる。こういう例は、ほかにもある。
 B君が教室に忘れ物をしたときのこと。私は近くにいたC君(年長児)に「これをB君にもって
いってあげて」と頼んだ。C君はすぐ追いかけたものの、これまたすぐ戻ってきてしまった。「どう
したの?」と聞くと、C君はこう言った。「もういなかった」と。C君は、うわばきをはいていた。そ
れで「外(庭)へは出られなかった」と。C君は、B君を呼びとめようと思えば、それができたはず
である。しかしC君は、それを思いつかなかった?
 このタイプの子どもは、頭がかたいというふうにも考えるが、もうひとつは社会性の不足という
ことも考えられる。その場、その場で臨機応変にものを考えることができない。もっと言えば、
頭の中で大局的にものを考えることができない。言われたことは忠実にするが、「なぜ自分が
そうしなければならないか」、また「その目的は何か」ということが考えられない。威圧的な過干
渉、親の先走り、心配先行型の子育てが日常化すると、子どもは自分で考えることができなく
なり、ここでいうような症状を示すようになる。
 もしあなたが「うちの子の行動は、いつもどこか的がはずれている」と感ずるなら、子どもの問
題というよりは、育てかたの問題と考え、反省する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(475)

タレントの世界

 ときどき「タレントになりたい」という子どもがいる。そういうとき私は、「よしなさい」と言うことに
している。理由がある。
 私は若いころ、いろいろなテレビ番組の企画を書いていた。そのとき、ときどきモデルが必要
なときがあった。そのときのこと。これから先は、事実だけを書く。
 モデルが必要なときは、テレビ局の正面玄関とは別にある、裏玄関の掲示板に、メモを張
る。「Aショー、○月○日、水着モデル、一名」と。するとそのメモを、通称「人買いのおばちゃ
ん」という人が読み、あちこちからモデルを集めてくる。たいていは年配の女性がその仕事をし
ていたので、「おばちゃん」と呼んでいた。で、全国放送ともなると、一回の募集で、二〇〜三〇
人の若い女性が集まった。
 そういうときは、その場でオーディションを開く。N局のばあい、別棟の二階がそういう部屋に
あてられていた。その部屋の一室に、女の子たちを並べる。そしてディレクターが、こう声をか
ける。「ハーイ、上を脱いで!」と。すると女の子たちが、一斉に服を脱ぎ始める。中にはモジモ
ジしている女の子もいる。するとディレクターがつづいて、そういう女の子に対しては、「あんた
とあんたは、もう帰っていい」と。
 で、その中から、もっともスタイルのよい女の子を選ぶ。一度、裸にするのは、「テレビに出た
ときの度胸を試すため」だ、そうだ。が、ここで終わるわけではない。
 ある夜、その翌日出演予定の、Kというタレントとホテルの一室で打ち合わせをしていたとき
のこと。突然、連絡なしに、モデルの女の子がそのホテルへたずねてきた。人買いのおばちゃ
んに連れられてやってきた。一応「あいさつにきた」ということだったが、実は一夜をそのKとい
うタレントと過ごすためである。当時はそうしたあいさつ(?)は、半ば常識だった。つまりモデル
志望の女の子は、そういう形で、体を売りながら、マスコミの世界で自分の立場をつくってい
た?
 それから二五年になる。今は、状況も違うだろう。システムも変わったかもしれない。モデルと
かタレントとかいっても、いろいろなレベルの人がいる。だからみながみな、こうしたオーディシ
ョンやあいさつ(?)をしているわけではない。しかしその世界は、私たちがテレビ画面から見る
のとは大違い。少なくとも二五年前には、その背後ではドス黒い人間の欲望と、策謀が渦巻い
ていた。きれいか汚いかと言われれば、あれほど汚い世界はなかった。だから私は言う。「よし
なさい」と。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(476)

言葉教育

 私はときどき、英語で原稿を書く。そこで書いたあと、アメリカやオーストラリアの友人に添削
を頼む。だが、ここでおもしろい現象に出あう。どの人も、「それで意味がわかるから、このまま
でいい」と、なおしてくれない。「文法のミスはないか?」と聞くと、「あるが、それでわかるからい
い」と。こうしたおおらかさは、日本には、ない。
 最近、あることがあって、アメリカの友人が、冷やし中華のことを書いてきた。日本で食べた、
冷やし中華がおいしかったので、そのレシピを教えてほしい、と。そのときのことだが、彼は、
「中華」を、「tyuka」と書いてきた。正しくは、「chuka」か? ……と考えたところで、私はハタと
自分の愚かさに気づいた。そんなのは、どちらでもよいではないか、と。しかもそういうことにこ
だわるのは、日本人の悪いクセだ。実際、世界広しといえども、日本人ほど「形」や「型」にこだ
わる民族はいない。いないものは、いないのであって、どうしようもない。アメリカでも、オースト
ラリアでも、子どもたちの作文を見ても、あちらの先生は、スペルや文法(ルール)のまちがい
には、ほとんど関心を払わない。大切なのは、中身という考え方が徹底している。ウソだと思う
なら、ここに私が書いていることを、あなたの周囲にいるアメリカ人やオーストラリア人に確か
めてみることだ。「言葉教育」に対して、考え方が基本的な部分で違う。日本の教育は、子ども
たちが将来、文法学者になるためには、きわめてすぐれた体系をもっている。しかし将来、文
法学者になる子どもは、いったい、何%いるというのか。数学にしても、英語にしても、そうだ。
日本の教育は、将来数学者や、英語の文法学者になるのは、きわめてすぐれた体系をもって
いる。しかし、将来そういう道に進む子どもは、何%いるというのか?
 日本の教育は、もともとどこかのエラーイ大学の先生たちが作った。だからおもしろくない。だ
から役にたたない。言葉教育(作文、読書)についても、同じ。茶道や華道ではあるまいし、もっ
とおおらかでいいのではないのか。大切なのは、いかに考え、いかに的確に表現し、いかに正
しく相手に自分の気持ちを伝えるか、あるいはいかに正しく相手の気持ちを知るか、だ。本筋
を忘れたとき、教育は基本的な部分でゆがむ。日本の教育は、その本筋を忘れている。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(477)

東京文化

 この浜松では、何でも「東京からきた」というだけで、ありがたがる。その傾向がきわめて強
い。悲しき、田舎根性というのである。そしてその返す刀で、同じ地方に住む、仲間の価値を認
めない。あるいは軽く見る。タレントの世界には、こんな合言葉がある。「東京で有名になって、
地方で稼げ」と。
 しかし皆さん、少し冷静に考えてみてほしい。本当に東京文化は、すぐれているか、と。考え
てみれば、あんなゴチャゴチャした、コンクリートの巨大なゴミ箱の中(失礼!)に住んでいるよ
うな人たちから、すぐれた文化など生まれるはずはない。そのことは朝のワイドショーを垣間
(かいま)見ればわかるはず。彼らがおりなすドラマには、一片の知性も理性もない。犬や猫で
も、あそこまではしないという、痴話(ちわ)話ばかり。が、悲劇は、ここで終わらない。
 先日もある出版社へ原稿を持ちこんだら、そこの若い編集者がこう言った。「地方紙ではね
え……」と。私がC新聞でコラムを書いてますと自己紹介したときのことだ。「地方紙でいくらコ
ラムを書いても、意味がない」と。そういうことを、そこらの若い編集者が言うからおかしい。中
身をまるで見ない。中身で判断しない。テレビに出ているかとか、知名度はどうかとか、そうい
うことでしか、人を判断しない。
 この傾向は、実はこの浜松という地方でも、同じ。私は以前、G社という出版社で、幼児教室
向けの教材一式をつくった。全部で四八巻である。その教材を使って、近くの幼児教室が教室
を始めた。私としてはそれを喜ばねばならないところだが、聞くところによると、その教室では、
私の名前を消して、その教材を使っているという。同じ浜松に住む人間が作った教材では、価
値がないとでも思っているのだろうか。(あるいはもっと別の理由があるのかもしれない。)
 日本は奈良時代の昔から、中央集権国家。すべてが、中央から地方へと、上位下達方式で
流れている。その逆はめったにない。魂そのものまで抜かれてしまっているから、それを疑問
に思う人すらいない。これをうまく利用すると、日本ではうまく金儲けができる。しかしその陰
で、いかに多くの善良な文化が犠牲になっていることか。差し引きすれば、損害のほうがはる
かに大きい。
つい先日も、あるタレントが、浜松市内で講演をして帰った。どこかのスポーツジムに属するタ
レントだそうだが、実に軽薄な感じのする男だった。そういう男が、この浜松で「教育講演」をす
るおかしさを、あなたには理解できるだろうか。聞くところによると、一回の講演料が、八〇万
円! プラス宿泊費その他である。彼らにしてみれば、地方こそ、よいカモなのだ。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(478)

誇大視化

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼
ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さ
らにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。
 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつ
うに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつう
に見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。
 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチ
がついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座ってい
なさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。が、ここでハ
プニングが起きた。そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに顔をうずめ
て、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。
 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私
はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。それから三か月もたった
ある日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙
が添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、
今すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。
 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親
は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それです
ますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。たしかに私は失敗をした。しかし
そういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れていたら、教育そのものができな
い。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そういう一部の失敗をことさら大げさ
にとらえ、それでもって、相手を否定する。ふつうの否定ではない。全人格すら否定する。
 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。
「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視
化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(479)

子どもの人権

 私は幼児教育をするようになって、三二年になる。三二年もしていると、いつも幼児の視点
で、この世界を見る。そういう視点から見ると、あのNHKの『お母さんといっしょ』など、恥ずか
しくて見ていられない。おとなが、動物のぬいぐるみを着て、「♪おなかをゴロゴロ、ポンポンポ
ン……」などと言って、子どもを踊らせている。それを見たりすると、「子どもをバカにするな!」
と、思わず叫びそうになる。子どもの意思や気持ちなど、まるで無視。動物の飼育でも、あそこ
までしない。こんなことがあった。
 その日はたまたまKさん(年中女児)の、母親が参観にきていた。そのためか、Kさんはいつ
もよりはりきって、「ハーイ」と元気な声で手をあげて、私の質問に答えた。そこで私は少し大げ
さにKさんをほめた。ほめて、みなに、手をたたかせた。するとKさんが、スーッと細い涙を流し
た。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。で、授業が終わって
からKさんに、「どうして泣いたのかな?」と聞くと、Kさんはこう言った。「私がほめられたから、
お母さんが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきてしまった」と。
Kさんは、自分のために涙を流したのではなく、お母さんの気持ちになって涙を流していたの
だ! この事件以来、私は幼児を見る目を変えた。
 幼児はたしかに未熟で未経験だ。しかしそれをのぞけば、私たちおとなとどこも違わない。嫉
妬(しっと)もするし、自尊心もある。日本人の子育てで、一番問題なのは、子どもを子どもの世
界に閉じ込め、子ども扱いすることで、その人権を無視すること。こんなこともあった。
 ある女性(六〇歳くらい)が、小学四年生くらいの女の子(孫)に、電話をかけてこう言った。
「おばあちゃんのところへ、遊びに来てよ。お小遣いをあげるから。ほしいものを買ってあげる
から」と。
 一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、その女性のしていることは、エサで、孫の
気持ちを釣っていることに等しい。こういうことが平気でできるところに、またそういうことをする
のに、何の疑問ももたないところに、日本型の子育ての問題点が隠されている。
 さてあなたもそういう視点で、あの『お母さんといっしょ』を見てほしい。うむを言わせず、一方
的に子どもを踊らせている。子どもに「踊ろうか」と声をかけているふうでもないし、ほめている
ふうでもない。ただ一方的に、まねをさせているだけ。少なくとも私はこの三二年間、幼児をあ
のように指導したことは一度もない。幼児にも、人権というものがある。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(480)

私の政治信条

 こういう仕事をしていると、よく政治信条を聞かれる。左翼系であっても、右翼系であってもい
けないということだが、それについて、ここでウソ隠しなく、明白にしておく。
 私は自分では「浮動票の王様」と呼んでいる。選挙のたびに支持政党が変わる。しかも私が
支持した政党が、そのつど、躍進する。それでいつしか自分をそう呼ぶようになった。 
 ここ一〇年だけでも、選挙で自民党に入れたことも、公明党に入れたこともある。共産党に
入れたこともあるし、自由党や民主党に入れたこともある。政治はいつも流動的であるべきだ
し、またそれが「自由の象徴」と、私は思っている。よく浮動票層を、「いいかげんな人」と評す
る人がいるが、浮動票層であることは、何ら恥ずべきことではない。……と、私は勝手に考え
ている。もっともこうして浮動票層でいられるのは、そのスジの団体とは、一切かかわりをもた
ないことによる。あちこちの教育委員会から招かれて講演をすることはあるが、だからといっ
て、私はいわゆる「保守層」でもない。
 私が抵抗しているのは、旧型の日本人社会である。封建時代の遺物の清算、全体主義的思
考の清算、権威主義社会の清算などなど。私たち日本人の、ものの考え方そのものの変革と
いってもよい。しかしこれらは政治とは本来、関係がない。そして私は同時に、男女の平等社
会と、家族主義を訴える。その先には、「世界から相手にされる日本」があり、さらにその先に
は、「日本人のグローバル化」がある。今でも、この日本は、世界から見ると、どこかおかしい。
どこか異質。つい先日も、ワールドカップで日本チームを監督したフランス人のフィリップ・トル
シエ監督は、日本を去るにあたって、外国の新聞社にこう語っている。「さらば、不可解な国
(日本)」(読売新聞、〇二年六月)と。この「不可解さ」があるかぎり、日本はいつまでたって
も、世界から受け入れられることはない。
 もちろんそういう私に対して、反論も多い。ときどき、そういった内容の抗議も届く。「あなたは
それでも日本人か!」と、手紙で怒ってきた女性(四〇歳)もいた。「先祖を否定するような者
は、教育講演をする資格はない」とも。(私は一度だって、先祖を否定したことはないのだが…
…。)
 これからも私は、政治活動をするつもりはない。どこかの団体に属するつもりもない。私はい
つも自分の身の回りをフリーにすることで、「自由」を守ってきた。だれかに遠慮したり、だれか
の利益を守るようなことはしたくない。(「したくない」と言いながら、結構しているが……。それ
が私の弱点でもある。そういう意味では、ずいぶんといいかげんなところがある。)
 まだまだ書きたいことはあるが、これ以上書いても、堂々巡りになるだけ。教育は宗教、哲
学、科学など、あらゆる面に関係するが、同時にあらゆる政党とも関係する。ひとつの政党に
こだわらねばならない理由そのものがない。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(481)

家庭での学習指導のコツ

 子どもの学習を指導するときには、コツがある。まさに奥義(おうぎ)の公開……というのは、
大げさだが、そのコツにはつぎのようなものがある。
(1)子どものリズムをつかむ……それぞれの子どもには、それぞれの子どものリズムがある。
このリズムをつかむ。たとえば五分も勉強すると、もう気が散ってしまい、ザワザワする子ども
もいれば、三〇〜六〇分くらいなら、平気で学習に集中できる子どももいる。要は無理をしない
ということ。集中力が長くつづかないようなら、六〇分、いっしょにすわって、五〜一〇分、勉強
らしきことをすれば、よしとする。「勉強というのは、黙々とすべきもの」という先入観があれば、
それは改める。
(2)イライラしたら手を引く……子ども横に座っていて、イライラするようなら、手を引く。親のイ
ライラほど、子どもに悪影響を与えるものはない。一回や二回ならともかくも、そういう状態が、
半年とか、数年もつづくようなら、あなたには子どもを指導する資格はないと思うこと。子どもを
勉強好きにする最大のコツは、子どもを楽しませること。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子ども
は、よく学ぶ」というのがある。
(3)レベルをさげる……家庭での学習は、思いきってレベルをさげる。親はどうしても、「より高
度なことを」と思うかもしれないが、そのちょっとした無理が、子どもの勉強ぐせをそいでしまう。
できるようするのではなく、やりとげたという達成感を大切にする。そしてここが大切だが、いつ
も終わるときは、ほめて仕上げる。「この前より、できるようになった」「ずいぶんと進歩した」な
どと言う。
(4)こまかいミスは、無視する……全体として、ほぼできれば、それでよしとする。こまかいミス
などは、無視する。一見、いいかげんな指導に見えるかもしれないが、もともと勉強というの
は、そういうもの。ワークにしても、半分はお絵描きになってもよいと考える。「適当にやる」とい
う姿勢は、決して悪いことではない。子どもはその「適当さ」の中で、息を抜く。自分を伸ばす。
(5)好きな勉強をさせる……家での学習は、好きな学習をさせる。一科目でも、得意科目がで
きると、その科目があとの科目を引きあげるということは、よく見られる現象。嫌いな科目や、
苦手な科目を伸ばそうと考えたら、まず好きな科目を、伸ばす。オールマイティな人間をめざす
と、たいてい失敗する。「やりたい勉強をすればいいのよ」というような言い方で、子どもを指導
する。
(6)依存心をつけない……子どもが親に頼る傾向がみられたら、親は親で、好き勝手なことを
すればよい。ときにはバカな親のフリをして、子どもの自立を促すのもよい。依存心がつけば、
ある段階から伸び悩むので注意する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(482)

肩書き社会

 この日本では、肩書きで、ものが動く。人の価値、さらにはその中身まで、肩書きで判断す
る。これはいわば世界の常識で、長くつづいた身分制度という封建意識が、その底流にある。
が、それだけでは終わらない。
 長い間、その肩書き社会にどっぷりとつかっていると、自分の姿を見失う。ある役人(官僚)
は、こう言った。「私ももうすぐ定年でね。定年退職をしたら、長野のイナカへ帰って、村長でも
やろうかな、ははは」と。「村長でも」と、「でも」と言うところが恐ろしい。
 一般論として、肩書き社会を生きる人は、それだけ上下意識が強く、上下意識が強いという
ことは、それだけ権威主義的なものの考え方をするということ。このタイプの人は、独特の考え
方をするから、それがわかる。
 まず無意識のうちにも、人の上下を判断する。応対のし方が、相手によって変わる。自分よ
り目上の人には、ペコペコする反面、自分の支配下にある、目下の人には、尊大ぶったり、い
ばったりする。電話のかけ方を見れば、それがわかる。「ハイハイ、かしこまりました。仰せのと
おりにいたします」と言ったあと、私のような肩書きのないものに対しては、「君イ〜ネ〜、そう
は言ってもネ〜」と。
 家庭でも、ものの考え方が権威主義的だから、「親に向かって何だ!」というような言い方が
多くなる。「親が上」「夫が上」と。そういう上下関係の中に自分を置かないと、落ち着かない。
が、その分だけ、親として、夫として、よい家庭づくりに失敗しやすい。
 が、さらに悲劇はつづく。自分自身の価値すらも、その肩書きで決めるから、その肩書きか
ら、自分を解き放つことができない。定年退職をしたあとも、その肩書きを引きずって生きる人
は少なくない。私のいとこの義父がそうだった。退職したときは、国の出先機関の「長」まで勤
めた人だが、死ぬまで、本当に死ぬまで、その肩書きにこだわっていた。私が「幼稚園で働い
ています」と言ったときのこと。その人は私にこう言った。「どうせ、学生運動か何かをしてい
て、ロクな仕事につけなかったんだろう」と。幼稚園の教師の仕事は、「ロクな仕事ではない」
と。
 肩書きを引きずって生きるのは、その人の勝手。しかしその分だけ、結局は自分でさみしい
思いをするだけ。つい先日、ここに書いたいとこの義父が八〇歳の年齢でなくなった。が、葬式
に出た母はこう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。実際、この私も、「ロクな仕事」と
言われてから、その義父の家には、一度も行かなかった。会いたいという気すら、まったく起き
なかった。「死んだ」と聞いたときも、「ああ、そう」ですんでしまった。心の通わない人の死という
のは、そういうものかもしれない。権威主義的なものの考え方をする人は、自ら人の心を閉ざ
す。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(483)

いびつな行動

 こんな興味深い実験がある。日本体育大学名誉教授の正木健雄氏(教育生理学)らがした
実験だが、つぎのようなものだ。
 子どもにゴム球をもたせ、ランプの色により、握ったり放させたりさせ、指示どおりにできるか
どうかを調べた実験である。
 で、指示どおり、切り替えが正確にできるタイプを、「活発型」、握ってよいときに握らないの
を、「抑制型」、反対に握ってはいけないときに握るのを、「興奮型」とした。
 その結果、一九六九年に調べたところ、@幼児段階では、興奮も抑制も弱く、A小学校低学
年では興奮が強くなり、その後、B気持ちを抑える力がつくことがわかったという(読売新聞、
〇二年六月)。
 ところが、である。四年前に同じ調査をしてみたところ、六九年には見られなかった抑制型
が、小学一年生について、二〇%も現れたというのだ(長野県内、幼児〜中学生、四五〇人を
対象にした調査)。
 わかりやすく言うと、六九年にはいなかったが、四年前(一九九八年)には、「握ってよいとき
に握らない子どもが」、小学一年生で、二〇%も現れたということになる※。そしてその結果、
「ふだんはおとなしいが、ささいなきっかけで、抑えがとれると、興奮する。通常の発達過程を
たどらず、いびつな行動となって現れる」(同新聞)子どもがふえている、と。原因としては、「食
生活、生活リズムなどさまざまな理由が考えられるが、外での遊び、ふれあう機会が減ってい
るためではないか」(信州大・寺沢宏次氏)とも。つまり運動や遊びなどで、仲間と体を動かすこ
とで、前頭葉が発達するが、それがないため、「いびつな行動」となる、と。
 実際、今、すなおな感情表現ができない子ども(幼稚園児)は、約二〇%はいる。皆がどっと
笑うようなときでも、笑わない子どもも、約二〇%はいる。この実験で、「二〇%」という数字が
出てきたのは、たいへん興味深い。これらの現象は、どこかで連動しているのかもしれない。

※……小学生で、興奮型の子どもが多い学年……1969年、二年生
                       1998年、六年生
         興奮型の割合(六年   ……1969年、25%
                       1998年、55%
 「興奮型が低学年から高学年に移り、割合がふえた。興奮する力が育ったあと、抑える力が
つくパターンが、崩れているようだ」(前述、正木健雄氏)とのこと。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(484)

自閉文化

 以前、こまかい丸だけをつなげて、黙々と絵を描いている女の子(年中児)がいた。担任の先
生に、「あの子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生は、「根気のあるいい子でねえ」と言っ
た。しかしそういうのは「根気」とは言わない。「自閉」という。自閉症の初期によくみられる症状
のひとつである。
 ところで石川県の金沢市には、いくつかの伝統工芸がある。蒔絵(まきえ)にはじまり、金銀
細工、九谷焼など。全体の特徴としては、精緻(せいち)の一語に尽きる。しかし「精緻」と言え
ば聞こえはよいが、その実体は、「自閉文化」? 強権と圧制による恐怖政治の中で、民衆の
心は限りなく自閉した。NHKの大河ドラマなどを見ていると、前田の藩主たちは結構、ものわ
かりのよい人物に描かれているが、ああいうものに、だまされてはいけない。たとえば金沢市
には、尾張町とか近江町とかいう地名が残っている。昔、それぞれの地方から、強制的に移住
させられた人たちがつくった町である。つまり当時の人たちは、それくらい過酷な生活を強いら
れた。
 一方、アメリアのテキサス州へ行ってみるとよい。ホテルに泊まってみるとよい。見た目には
結構、美しいものをつくるが、どれもこれも、実におおざっぱ。ホテルの家具にしても、裏から見
ると、「これが家具?」と、自分の目を疑いたくなるほど、おおざっぱ。金沢の文化を、自閉文化
というなら、テキサス州の文化は、開放文化ということになる。人間の心が外へ、外へと向かっ
ている。
 ……だからといって、日本の文化を否定しているのではない。しかしそれを「すばらしい」と評
価する前に、「どうしてそういう文化が生まれたのか」ということを疑ってみる必要はある。たと
えば歌舞伎にしても、封建時代には、きわめて限定された世界で、きわめて限定された範囲の
演劇しか許されなかった。演ずる人ですら、きわめて限定されていた。今でも、家元制度という
のだけが残り、それが伝統文化(?)として、代々と受け継がれている。私たちはそういう文化
だけをみて、「すばらしい」と評価しがちだが、その陰で、どれだけ多くの民衆の、そしてその数
に等しい創造的な文化が抑圧されたかを忘れてはならない。
 子どもの世界を見ていると、日本の文化そのものが見えてくることがある。私はあの女の子
のことを思い出すたびに、そこに金沢の文化をダブらせてしまう。金沢で学生生活を送ったと
いうこともある。「はたして金沢の伝統工芸は、幸せな民衆が生み出した文化であったか」と。
むしろ私は、そこに行き場をなくした、民衆の「怒り」を感ずる……と言うのは、少し考えすぎか
もしれないが、しかし少なくとも、外に向かった伸びやかさは、ない。あなたも今度金沢へ行っ
たら、そういう目で、あの工芸品を見てほしい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(485)

消息

 インターネットで、ときどき、昔の知人を検索する。ヤフーの検索をつかえば、瞬時に、消息
が検索できる。本当に、瞬時だ。で、消息の消えた人。あるいは活躍している人など。消息が
消えたというのは、おおげさだが、要するに検索で見つからない人のこと。「どうしたのかな?」
と、考えてしまう。とくに恩師の消息を検索するときは、ある種の緊張感が走る。「もう亡くなって
しまったのでは……」という心配が、いつもつきまとう。
 もちろん活躍している人もいる。都市の総合大学で、教授になったり、学部長になった人もい
る。ビジネスの世界で、大輪の花を咲かせた人もいる。マスコミの世界で活躍している人もい
る。そういう人がいることは、本当にうれしい。見つけるたびに、女房に、「あの人はねえ……」
と、その人のエピソードを話す。
 一方、本当に亡くなってしまった人もいる。心配なときは、関係機関や、その所属先に電話を
入れて、たしかめている。若いころ世話になった、当時の年配の人は、大半がもうこの世の人
ではない。「いつかお礼に行こう」と思ってはいたが、自分の時間以上に早く、こうした人たちの
時間は、過ぎていった。三〇代、四〇代のころは、自分の人生を生きるだけで精一杯。過去を
振り返る余裕すらなかった。いや、時間が過ぎているという実感すらなかった。いつまでも、い
つでも、「その人」は、そこにいるものとばかり思っていた。が、「その人」は、もういない……。
 が、例外(?)もある。郷里の美濃市に住む、M氏だ。私が中学生のときであった、塾の先生
だが、当時すでに五〇歳前後の人だった。たいへんな気骨の持ち主で、一方で市議会議員を
したりしていた。市長選には何度も出馬した。年賀状ですら、元旦に自分で配達していた。夏に
なると、毎日、川で泳いでいたし、正月には山の上から凧をあげていた。ふつうの人ではなか
った。
 その恩師から、久しぶりに小冊子が届いた。見ると、「満八八歳の喜寿のときに書いた冊子」
という。その人の健康法、人生論などがつづられていた。若々しい文章だった。私はそれを読
んでうれしくなった。こう書いてあったからだ。「ものを書く力は、年齢とともに、かえって鋭くなっ
た」と。私は、ものを書く力(力というより、「鋭さ」)が消えるのが、何よりもこわい。「その力は、
年齢とともに、鋭くなった」と。
 ……と、その人の消息を知るたびに、人生の悲哀を、しみじみと感ずる。昔、ジャン・ダルジ
ー(フランスの詩人)が、「人、来たりて、また去る」と歌ったが、その意味がよくわかるようにな
った。インターネットには、そういう「力」もあるようだ。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(486)

リストラ

 ある日突然、解雇を言い渡される……。
 それから受ける衝撃は、たいへんなものだ。実のところ、私も、そういう辛酸(しんさん)を何
度かなめさせられたことがある。(今は詳しくは書けないが、いつか時期がきたら、書くつも
り。)
それは、何というか、全人格、全人生を否定されたかのような衝撃だ。よくリストラされた人の
自殺が新聞で報道されるが、その衝撃は、そういった類(たぐい)のものと言ってよい。生はん
かなものではない。歳をとってからのほうほどそうで、怒りを通り越して、絶望感すら覚える。し
かし私のばあい、いつもそれをバネにしてきた。生来の負けず嫌いの性格もある。よく「林は、
ころんでもタダでは起きないな」と言われたが、そういうガッツ精神も、背景にある。
この世界には、「復讐」という言葉がある。私が使う「復讐」というのは、少し意味が違うが、そう
いうときはいつも、私は復讐を誓ってきた。
 復讐にも、二種類ある。他人に対する復讐と自分に向かう復讐。私のばあい、その相手を徹
底的に無視する。これが他人に対する復讐。解雇されたからといって、ジタバタしない。表面的
には、冷静さを保つ。ジタバタすれば、それは相手に対して負けを認めることになる。理由も聞
かない。もちろん異議も唱えない。「どうぞ、ご勝手に」という態度をつらぬく。……つらぬいた。
いくら解雇されても、自尊心までは捨てない。
 で、つぎに大切なことは、自分に対する復讐だ。自分の力なさ、思慮のなさ、さらに油断をの
ろう。のろって、のろって、のろいまくる。その復讐は、「どうしてお前はそういうことをされたの
だ」という思いから、始まる。そしてつぎに、徹底的に相手を分析する。女房は「無視しなさい
よ」とよく言ったが、私は分析した。相手の性格、知力、能力など。そして結論として、その相手
に負けている部分があれば、それ以上の自分になることで、自分の中の敗北感を消した。で、
ここで大切なのは、あくまでも相手の中身だ。肩書きや地位ではない。そういうものには勝ち目
がないし、そんなものを問題にしても意味はない。あくまでも中身だ。自分の中に、相手を克服
したと思えるほどまでに、自分自身を昇華する。(これは多分に、うぬぼれと思いあがりによる
ものかもしれないが、それはそれで構わない。)そうすることで、悲しみや、怒りや、そして屈辱
感を乗り越える……。
 今、いろいろと苦しい思いやつらい思いをしている人も多いと思うが、どうか負けないでほし
い。私はほんの一時期を除いて、人生の底辺を、それこそいつもバカにされて生きてきた。そ
ういうものには、そういうものの、哲学がある。一般世間の哲学とは違ったものかもしれない
が、ここに書いた生きざまは、そういう哲学から生まれた。参考になればうれしい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(487)

自分を知るバロメーター

人間というのは、相手と同等のときは、その相手に腹もたつ。しかし自分が相手を超えたという
実感のあるときは、腹もたたない。言いかえると、これをうまく利用すると、あなたのレベルを、
それで知ることができる。
たとえば今、あなたに不愉快に思っている相手がいたとする。「いやなヤツだ」とか、「顔を見た
だけで、けんかをしそうになる」とか。もしそうなら、あなたも、その相手と同等の人物にすぎな
いということ。あなたから見て、あなたよりはるかに「下」にいる人は、あなたは相手にしないは
ず。あなたと同等だから、あなたは相手にする……。このことは、子どもの世界を観察してみる
と、よくわかる。
たとえば「子どものいじめ」。いじめる側は、いじめる相手を「下」において、その相手をいじめ
る。本人は優越感を感じているかもしれないが、実際には、いじめる側のほうがレベルが低
い。が、その「いじめられる側」が、運動や学力で、相手を超えると、そのいじめが消える。子ど
もどうしでも、相手に一目をおくようになるためである。だからよく子ども自身から、いじめの相
談を受けると、私はその子どもにつぎのように言うようにしている。「君が苦しいのは、それは
君が、相手と同じレベルの人間だからだよ。だから相手が君に対して一目おくほど、君が彼ら
を通り越せばいい。それがその苦しみと戦う唯一の方法だ」と。(だからといって、いじめを肯定
しているわけではない。)
もちろんいじめといっても、内容は複雑だし、当の本人は深刻な問題だ。ここに書くほど、簡単
な問題ではない。しかし私のばあい、いつも、いじめられることで、さらに自分をたくましくしてき
た。そして不思議なことだが、いじめられている最中というのは、その相手をうらんだり、憎んだ
りするが、自分が相手を超えてしまうと、その相手に対して、親近感すらもつようになる。相手
を「のむ」というのは、そういうことをいう。
 そこで私はいつもこう考えるようにしている。「今、一番不愉快に思っていることはだれか」と。
……いや、もっとも、不愉快に思っている人は、(あくまでも今のところだが……)、近辺にはい
ない。私が今、不愉快に思っているのは、日本の政治や、日本の社会にはびこるカルト(教団)
だ。「敵は大きければ大きいほどよい」とは、よく言うが、大きな敵をもてばもつほど、身の回り
のささいなことが気にならなくなる。(だからといって、私が大物だとは思っていない。これは私
の処世術のようなもの。ささいなことが気になったら、その時点で、できるだけ大きな敵につい
て考える。そして結果として、そのささいなことを忘れ、それから遠ざかる。)
 少しかっこうのよいことを書いたが、この方法は、自分のレベルを知るのに、とてもよい方法
だと思う。一度、あなたも試してみたらどうだろうか。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(488)

水戸黄門論

 テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、「控え
おろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。今でも、視聴率が二〇〜二五%もある
というから、驚きである。
 で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山市正と
井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。隠居した光圀は、水戸の郊外、西山村に移り
住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二人を連れて、関東を漫遊したという。それが
芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中では、二人の家来は、
佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)になっている。)
 徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。それ
はさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの助けをし
たりして、大活躍をする。日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」と思うかとい
うところに、大きな問題が隠されている。以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロ
シ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。そこで私が「水戸黄門は悪
いことはしないよ」と言うと、「それはおかしい」と。
 考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だったら、そ
の権威と権力を使って、したい放題のことができる。だれか文句を言う人がいたら、それこそ
「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。民衆の私たちは、水戸黄門の善行のみをみて、そ
れをたたえるが、権威や権力というのは、ひとつ使われ方がまちがうと、とんでもないことにな
る。だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用して
いる。身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。善行も何も、ない。「頂
点にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ幻想ではないの
か。長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。もっと言え
ば、あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度を是認し、さ
らに権威主義を是認していることになるのでは……? あるいは権威や権力に、あこがれをい
だいている……?
 教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。こうした権威や権力は、その世界に住
んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、いかに多くの民衆が犠牲になっている
ことか。
むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線ではなく、
その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。あなたもあのドラマ
を見る目が変わるはずである。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(489)

講演について

 講演をするたびに、あとで後悔する。私はもともと早口なので、「早口でしゃべってしまった」と
か、反対に、「あれを言い忘れた、これを言い忘れた」と。しかしそれ以上に心配するのは、
「来てくれた人の役にたてただろうか」ということ。中には遠いところからわざわざ来てくれた人
もいただろう。仕事のつごうをつけて来てくれた人もいただろう。そんなことばかり考える。
 で、最近は、講演の前に、「一生懸命しよう」とは思わないことにしている。そう思えば思うほ
ど、あとで後悔する。それを発見した。そこで最近は、どんな小さな講演でも、「今日が最後だ
から、そう思ってしろ」と、自分に言い聞かせている。そう言い聞かせて講演をすると、講演が
終わったとき、「無事、終わってよかった」と。何だかその先に、まだ人生があるのを知って、ほ
っとする。
 ただこういうことは言える。多分、(私も他人の講演を聞いたとき、そう思ったが)、聞きに来て
くれる人は、私が楽にしゃべっているように思うかもしれない。しかし実際には、重労働。脳の
マラソンのようなものではないかと思っている。時間にすれば二時間かもしれないが、その前
後の調整がたいへん。前日くらいから体調を整え、当日は、講演の前にはほとんど食事をとら
ないことにしている。これは私の低血圧によるもので、胃袋にモノが入ると、眠くなってしまうか
らである。実際、ある講演では、その前に出してもらった昼食をとったため、講演中に瞬間だ
が、眠ってしまったことがある。
 体調を整えるということは、実のところたいへんなことでもある。これも一度だが、風邪ぎみ
で、その朝、風邪薬をのんでしまった。おかげで頭がボーッとしてしまい、途中で何を話してい
るかわからなくなってしまったこともある。全市をあげての大会のような講演会だったので、あ
のときほど自分の風邪をのろったことはない。
 また講演しているときは、同時に三つの脳が働く。その話題についてしゃべっている脳。全体
の地図のように働いている脳。それに聴衆の反応を見る脳である。この三つの脳が同時にう
まく働かないと、それこそ講演の内容がめちゃめちゃになってしまう。体や脳のコンディションが
悪いと、これがうまく働かなくなる。
 講演もなれの問題。三〇歳のころは、講演というだけで、数日前から不眠症になってしまっ
た。一度、有料の講演会をしたことがあるが、そのときも、数日前から不眠症になってしまっ
た。が、今は、そういうことはない。ただこういうことは言える。話しとしてする講演というのは、
書いた文による内容とくらべると、内容が「浅い」ということ。これは話すことにまつわる限界の
ようなものかもしれない。だから本当のところ、私は、講演よりも、書いたものを読んでもらいた
い。そのほうが、私としては安心できる。

 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(490)

キレる子ども

 文部科学省が、「キレる子どもの生育歴に関する研究」を発表した(〇二年六月)。それによ
れば、「突発的に暴力をふるうなど、キレた子どもの八割近くに、過保護や行き過ぎた干渉、放
任といった家庭での不適切な対応があったことがわかった」という。
 その研究によれば、こうした子どもたちの性格は、@耐性欠如型(ささいなことにがまんでき
ないタイプ)、A不満型(おとなしく目立たないが、不満をためこむタイプ)、B攻撃型(衝動的で
自制心に欠けるタイプ)の三つに分類されたという。そしてその割合は、つぎのようであったと
いう(キレたと思われる子ども、六五四件について調査。うち男子の報告例が、五七四人で全
体の88%)。
    耐性欠如型……70%
    不満型……  30%
    攻撃型……  42% 
 で、生育状況を類型化したところ、つぎのようになったという。
 不適切な養育態度(全体の76%)……過度の統制(きびしすぎるしつけ)……19%
                 ……過保護……14%
                 ……放任 ……15%
 さらに六割を超える子どもに、「家庭での緊張感」がみられ、その内訳は、
                 ……両親の離婚……25%
                 ……両親の不仲……13%
                 ……本人と家族の不仲……16%
 また家庭内での暴力、体罰を受けたケースも、全体の24%にのぼり、また全体の四分の一
の子どもに、孤立やいじめなどの「友人関係の問題」がみられたという。興味深い点は、「耐性
欠如型では、子どもを過度に統制しようとする母親と、育児に無関心な父親という組み合わせ
が多い」「不満型では、幼少期は『いい子』だが、そののち、不満型になる」という点を指摘して
いること。
 こうした分類方法は、子どもの世界を「上」からみる人が好んで用いる手法である。(明治時
代、動植物学というと、その分類が主体であった。その手法の範囲を一歩も出ていない。)しか
し実際には、現場ではまったくといってよいほど、役にたたない。たとえば「学習面で遅れの目
立つ子どもを、愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言葉は好きではない)、発育不良
型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性があり、学習に集中できない)
などに分けて考えるのに似ている(教育小辞典)。だからどうなのかという部分が、まるで浮か
びあがってこない。「分類するのは簡単だが、では実際、指導してみたらいかがでしょうか」とい
うことになる。キレる子どもを考えるには、もっと別の手法を使うべきである。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(491)

キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。つまり脳間伝達物質であるセロトニン
が異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令を狂わすという(生化学者、ミラー博
士ほか)。アメリカでは、もう二〇年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言
うとこうだ。たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが
多量に分泌され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという
(岩手大学の大澤名誉教授ほか)。
 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。
 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。リン酸をとると、せっかく摂取したカル
シウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。一方、昔からイギリスでは、『カルシ
ウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カルシウムは精神安定剤として使われてい
た。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消えたら、まずこのカルシウム不足を疑っ
てみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足してくると、筋肉の緊張感が持続できず、座
っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさせたりする。
 ここに書いたのはあくまでも一つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を一本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。体重一五キロの子どもに缶ジュースを
一本与えるということは、体重六〇キロのおとなが、同じ缶ジュースを四本飲むのに等しい。お
となでも四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。もしどうしても
「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂糖を勧める。黒砂糖には天然のミ
ネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうような弊害は起きない。ついでに一
言。
 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。その地方では
どこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水代わりに牛乳を
飲んでいた。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(492)

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。
 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。
 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でし
ょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽
しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いな
さい」と。
 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、すぐ風邪をひく。
 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(493) 

キレる子ども

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった
机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、
すごんでいた……。
 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五
六〜一九二六)だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって
交互に、あるいはケースによっては、重複して起こることが多い。それはそれとして、このキレ
た状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若
い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満した状態を、「キレる」と言うこと
が多い。ここでは区別して考える。)
 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊
張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」と
いう思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではな
いか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。言いかえると、このタイプの子
どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さない。周囲に気をつかうなど。表
情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、その裏で心をゆがめる子ども
は少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何
を考えているかわからない子ども」といった感じになる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(494)

すなおな子ども論 

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不
愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。
しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑
ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、
「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくできた子どもというのは、
いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でた
め、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知られた例としては、家庭内暴力を起こす
子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコの子のようにおとなしい。
 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、@濃厚
なスキンシップをふやし、A食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネシ
ウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。リン酸は、せっかく摂取したカル
シウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサ
ー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(495)

育児疲れ

 育児だけならともかくも、つぎからつぎへと雑用が飛び込んでくる。何がなにやらわけがわか
らなくなる。わずらわしいことも多い。おまけに昨夜は下の子ども(二歳)が夜泣きをして、今日
は睡眠不足。夫は仕事だけ。朝早く家を出て、帰りはいつも深夜。しかも最近は、夫との関係
もどこかぎくしゃくしている。会話もない。家計もたいへん。今日も、通路へのゴミ出しのことで、
隣の人とトラブル。それに息子(小二)の通う学校の先生が、どうも気に入らない。気分的で、
つかみどころがない。息子のことで相談しても、ヘラヘラしているだけ。頭の中は情報だらけな
のに、どれが大切で、どれがそうでないかもわからない。何をしても、イライラがつのるばかり。
ああ、私はどうしたらいいの?
 今、ほとんどの母親たちは疲れている。日本女子社会教育会がした調査でも、七二%の母
親が、「子どものことでイライラする」と答えている。うち七%は、「いつもイライラする」と答えて
いる(平成七年)。
 キレる子どもが問題になっているが、キレるのは、子どもだけではない。母親だって、キレ
る。キレて、何が悪い! だいたい「男は仕事、女は家事」と、だれが決めた! 仕事をしてい
たほうが、よっぽど気が楽! 世の男どもよ、「仕事、仕事」と、偉そうな顔をするな! ……
と、少し熱くなりすぎたが、世の女性たちの本音は、こんなところにある。
 問題は、こうしたイライラを、どう解消するか、だ。子どものできがよければ、まだ多少は救わ
れるが、できが悪いと、さらにイライラは倍加される。
【第一段階】子どもに八つ当たりをする、グチを言う、暴言をはく、子どもに体罰を加える、怒鳴
り散らす。感情のコントロールが、不安定になる。
【第二段階】何をするにも無気力になる、元気がなくなる、返事をしても上の空、むなしい、つま
らない、やる気が出てこない。感情が抑制される。
 この第二段階になると、いろいろな神経症(頭重、頭痛、肩こり、腹痛など)を併発し、さらに
進むと、回避性障害(人と会うのを避ける)、節食障害(過食、拒食など)、行為障害(万引き、
ムダ買い)などの、精神障害が現れるようになる。こうなると育児ノイローゼと呼んでもよい。
 そこで解消法。もっとも効果的な解消法は、「汗をかく」こと。無我夢中で汗をかくような方法
がよい。東洋医学でも、「気」がうっ積するときは、「発散」という方法で、病気をなおす。湯液(と
うえき)を用いる方法もあるが、簡単に発散させる方法としては、「発汗」がある。うっ積した
「気」は、汗とともに、体外へ出る。論理的ではないが、現象的には、正しい。
 あなたもイライラしたら、どこかで思いっきり、汗をかいてみるとよい。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(496)

子育て、はじめの一歩

 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)
は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。
 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを
端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。
 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テ
レビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否
か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがあ
る。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。
善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと
子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識
というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことを
いう。
 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同
じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導
し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導す
ることも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識
は禁物である。あればじゃまになる。親子もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親
だから……」「子どもだから……」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの
姿を見失う原因となる。日本人は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あ
るいは夫婦の間ですら)、この上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがい
の間にキレツを入れ、さらにはたがいを断絶させる。
 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、そ
の「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれま
で考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み
出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考え
ることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意
識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなも
のがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。
 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきた
い。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(497)

私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実のところ、
私は三〇歳〜三五歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多い頻度で、偏頭
痛の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってくれ!」と叫んで、ふ
とんの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったものでないとわかるまい。
 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相談した
医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術まで予定し
た)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味では、まさに毎日
がストレスとの戦いでもあった。
 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。
 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレスの原因)
となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、一日一回にすると
か、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。
 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の研究もしていたので、あ
らゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が開発されて、
それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できるだけのまないように
している。
 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をかくと、か
えって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切って汗をかく。運
動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、バンバ
ンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかしい」と感じた
ら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下半身は毎日、自転車
できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかかない。しかし上半身は、ほ
とんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使うため、汗をかくのではないか……と、勝
手にそう解釈している。
 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメーターでも
ある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重くなったから、
仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。
 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多いの
で、参考のために書いた。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(498)

スキンシップ

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いているではないか。
 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシップを嫌う。避ける。「抱きぐせがつ
くと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の角
度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱きぐ
せがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく根
拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく平
均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップでしかないだろう。この
日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分けて考え
なければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップへの誤
解と偏見となることが多い。
 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢慧(さとし)氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶ
をあまりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤
ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。
 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。
 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシ
ップがたっぷり必要だが、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇
人に三人程度の割合で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部
病院・堀内勁(たけし氏))そうだ。
 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(499)

真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学
生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。
 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を
運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろう
か。私はただただそれを見て、あきれるばかり。その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、
少し離れたところにあるプラズマテレビの画面をながめたりしているだけ。その女を手伝おうと
もしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといったふうだった。
 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつも
りですか?」と。
 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わ
ない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事
は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日
常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。
 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみて
も大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!
 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女
にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育とい
うよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべき
だ」というようなことを言ったら、ある男性から反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲
れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を手伝うというのは現実的ではない」と。
 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方
便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のは
ず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレ
ストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」
と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、
いないとかいうこととは関係、ない。
 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(500)

意識の違い

 昔、ブラジルのサンパウロへ行ったときのこと。まだ日本人の観光客が珍しい時代で、行く
先々で、日系人が声をかけてきた。「あなたはどこから来ましたか。私の父はY県から来まし
た」と。
 正直言って、私にはそれが耳障りだった。うるさかった。だから心の中で、こう思った。「日系
人、日系人というが、ブラジル人ではないのか。どうしてブラジル人としてブラジル社会に溶け
込まないのか」と。たとえばブラジルにもドイツ系移民がいた。しかし彼らは移民したつぎの日
から、「私たちはブラジル人だ」と言いだす。
 で、その話を帰国してから、当時、六〇歳くらいの男性に話した。私は当然その男性は、私
に同意してくれるものとばかり思っていた。が、その男性は、私の話を聞くと、私に急に怒り出
した。「君は、ブラジルに移民した日本人の気持ちが理解できないのかね。向こうの人が、日
本人の君を見て、なつかしいと思ったのだよ。それをうるさいとは何だ。どの国に移民しても、
日本人は日本人だ」と。
 意識の違いというのは恐ろしい。私はその男性の剣幕に押されてしまった。当時の私は二七
歳。何かまちがったことを言ってしまったようで、そのまま小さくなった。しかし……。
 カナダのプロ野球選手が、アメリカの球団に移籍してプレーするようになったら、その時点か
ら、その選手はアメリカ人になる。カナダの放送局が、その選手を追いかけ回すようなことはし
ない。が、日本では、このところ毎日のように、アメリカンリーグで活躍する日本人選手が報道
されている。アメリカという国は、もともと移民国家。その中にはアジア系アメリカ人も何割かは
いる。日系人もそのうちの何割かはいる。たまたまプロ野球で活躍しているからといって、「日
本人、日本人」と言うのはどうか。アメリカ人の男性と結婚した、ユキコという女性は、私にこう
言った。「イチロー、イチローと騒いでいる日系人もいるが、彼らは、アメリカ社会に同化できな
い日系人ですよ」と。
 どちらが正しいとかまちがっているとかいうことではない。ブラジル社会で、「日系人、日系
人」と言っている日系人と、アメリカで活躍する日本人選手を、「日本人、日本人」と言っている
日本人は、その底流でつながっている。ともに日本という島国の中でしか、世界を見ていない。
ちなみにアメリカでは、選手の人種や国籍を口にするのは、タブー。人種差別になると考える
からである。
私はたまたま野茂が完封試合をしたとき、アメリカにいた。が、アナウンサーは最後の最後ま
で、野茂が日本人だということは口にしなかった(〇一年四月)。ただ試合の最後で、「日本人
のファンが喜んでいます」と、間接的な表現で、野茂が日本人ということをにおわせていた。ア
メリカ人ですら、そこまで気をつかって、野茂を、アメリカ社会に迎え入れようとしている。が、当
の日本人は、あえてそれに逆行するようなことをして騒いでいる。皆さんには、このおかしさが
わかるだろうか。

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