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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司

 501−600

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(501)

いこいと、やすらぎと、そして、いやし

 家庭の役目は三つある。@いこい(憩い)、Aやすらぎ(安らぎ)、Bいやし(癒し)。
●いこいというのは、家族との心のふれあいをいう。たがいに心を開いた状態をいう。閉じてい
ては、いこうことはできない。
 心が開いているとき、子どもは自然な形で、親に甘えたり、スキンシップを求めてきたりする。
(甘えたり、スキンシップを求めてくることを悪いことと決めてかかってはいけない。)が、心が閉
じると、「すなおさ」が消える。いじけたり、つっぱったり、すねたり、ひねくれたりする。言いたい
ことを言いあい、したいことをしあうというのが、本来のあるべき家庭の姿ということになる。
●家庭は安らぐ場所でなければならない。そこでテスト。あなたの子どもは、あなたのいるとこ
ろや、あなたの見えるところで、平気で体を休めたりしているだろうか。もしそうなら、それでよ
し。そうではなく、あなたの姿を見ると、どこかへ消えたり、好んであなたのいないところで体を
休めているようなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
●家族はいやしあう。そのために五つの働きがある。助け合い、はげましあい、いたわりあ
い、守りあう、教えあう。
 日本人は、封建時代の昔から、「家」という形にこだわる一方、そのため中身を粗末にしてき
た。そのため「家庭論」とか、「家族論」というのが、ほとんど発達しないまま、現在に至ってい
る。ウソだと思うなら、アメリカへ行って、本屋をのぞいてみるとよい。どこの本屋でも、学校教
育の本と並んで、それと同じくらい数の、家庭教育の本が並んでいる。もともとアメリカでは家
庭教育が発達して、それが学校教育になったという歴史的な背景もある。それはそれだが、ホ
ームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学習する子ども)には、州政府が、教員まで派遣し
て、家庭での学習を指導している(アーカンソー州など、ほとんどの州)。学校という場でも、「よ
き家庭人」を育てるが、教育の柱になっている。
 一方日本では、学校という場が、人間を選別する場として機能してきた。今もその機能は根
強く残っている。そのため「教育」というのが、「受験のための教育」と変貌(へんぼう)し、家庭
教育そのものをゆがめた。それでよいのか悪いのかという議論は、もうそれ自体、無意味とい
ってもよい。今こそ、日本の教育、なかんずく、家庭教育のあり方を考えなおすときではないの
か。
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(502)

あなたの家庭診断(試作)

 あなたの家庭は、子どもの側からみて、家庭として機能しているだろうか。こんな診断テスト
を考えてみた。あなたとあなたの子どもの関係に焦点をあてて、判断してみてほしい。(あなた
にとって居心地のよい家庭でも、子どもにはそうでないケースは、多い。このテストでは、子ども
の側からみた、あなたの家庭を診断する。)
( )去年とくらべて、同じようなリズムで親子の生活が流れている。親は親で、子どもは子ども
で、それぞれのリズムで、生活している。大きな変化はない。(+1)
( )疲れたとき、さみしいとき、つらいときなど、家庭がその「逃げ場」になっているようだ。学校
から帰ってくると、ほっとするような様子を見せる。(+1)
( )子どもはあなたに何でも言いたいことを言えるようだ。あなたの前でも態度も大きく、したい
ことを平気でしているようだ。(+1)
( )何か新しいことができるようになったとき、あるいはよいニュースがあったようなとき、それ
が家族全体の話題になる。たがいにそれを喜びあう雰囲気がある。(+1)
( )家庭の中にも、居場所や逃げ場をもっていて、それぞれが、いてもいなくても、気をつかう
ことなく、体を休めたり、心をいやしたりすることができる。(+1)
 一方、以上の五項目とは反対に……
( )親子のリズムがつかめない。どこかチグハグで、去年と比べても、大きく変化したようだ。
どこか毎日、あたふたとしているうちに過ぎていくといった感じ。(−1)
( )外から帰ってくるようなとき、どこか雰囲気が暗いときがある。気晴らしをするときも、好ん
で外の世界で(あるいは閉じこもって)しているようだ。(−1)
( )あなたの前では静かで、話しかけても、あまり返事をしない。どこかよい子ぶっているとこ
ろがある。何を考えているかわからないときがある。(−1)
( )親子の間に感動が少なくなった。よいニュースがあっても、自分だけの世界にそれを閉じ
こめようとする。自分だけで問題を解決しようとすることが多いようだ。(−1)
( )できるだけ親の顔や姿が見えないところで、体を休めている。家族と顔をあわせるのを避
け、顔を見ると、どこかへ姿を消すことが多い。(−1)
 以上の質問で、プラス・マイナスを合計して、プラス点であればよし。マイナス点であれば、こ
の時点を原点として、一年単位で「よき家庭づくり」を始める。「よき家庭」というのは、そういう
意味で、健康に似ている。怠惰(たいだ)な生活をしていると、すぐ崩壊する。「よい家庭」という
のは、家族が力をあわせて、つくりあげるもの。決して、向こうからやってくるものではない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(503)

まじめな子ども

 基本的なまじめさは、幼児期に決まる。この時期までの、バランスのある生活が、子どもの
「まじめさ」をつくる。ここでいう「バランスのある生活」というのは、心静かで、おだやかな生活
をいう。まずいのは、アンバランスな生活。極端な甘やかしと、極端なきびしさが同居するよう
な生活は、子どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。よくある例は、極端に
きびしい母親と、子育てに無関心な父親、あるいはデレデレに甘い祖父母と、しつけにきびし
い母親との組みあわせ。育児拒否や家庭内騒動がよくないことは、言うまでもない。こういう環
境では、子どもは静かに考えること自体できない。
 そのまじめさは、いかに自分を律するかで決まる。こんな子ども(小四女子)がいた。たまた
まバス停で会ったので、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子
どもはこう言った。「いえ、いりません。これから家に帰って夕ご飯を食べますから」と。こういう
子どもを、まじめな子どもという。
 一方、自分で考える習慣のない子どもは、行動がどこか、常識ハズレになりやすい。あるとき
年長児のクラスで、私が、「ブランコを横取りされたら、君はどうしますか」と聞いたときのこと。
一人の子ども(男児)は、こう言った。「そういうヤツはぶん殴ってやる。どうせ口で言ってもわ
かんねエ〜」と。
 まじめな子どもは、当然のことながら、自分を律する力が強い。よく子どもの非行が話題にな
るが、非行に走るか走らないかは、その子どもの抵抗力による。もっとわかりやすく言えば、抵
抗力に弱い子どもが、非行に走るようになる。で、その抵抗力というのは、ここでいう「自分を
律する力」をいう。まじめな子どもは、誘惑を受けたときも、その誘惑を自分で判断し、一時的
に負けることはあっても、やがてその誘惑に打ちかつ。しかしそうでない子どもは、そのまま誘
惑に負けて、非行へと進む。
 ……だから乳幼児期の教育が重要と書けば、私の手の内が見えてしまう。しかし事実は、そ
のとおりで、私の視点からすると、小学一年生ですら、おおきな子どもに見える。中学生ともな
ると、もう手の届かない、おとなに見える。だから中学生をもつ親から、「どうしたらいいでしょう
か」という相談を受けると、私は実のところ、何と答えてよいのかわからなくなる。「手遅れ」とい
う言葉は使いたくないが、しかしそれに近い印象をもつことは事実だ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(504)

別れぎわの美学

 その月の最後のレッスンのとき。しかもその日の授業が終わったとき、生徒の一人が、私に
メモを渡した。見ると、「今日で、BW(私の教室)をやめます」と。母親の字だった。私はそのメ
モを読んで、体が震えた。「やめる」は、この世界では、クビ切りと同じ。そういうクビ切りを、た
った一枚のメモですますとは!
 ……と言っても、そういうことはこの世界では、日常茶飯事。いちいち怒っていたのでは、仕
事はできない。「元気でね、さようなら」と言い終わるときには、もうその生徒のことは忘れるこ
とにしている。が、それは同時に、私にとっても、決別のときでもある。そういうやめ方をする人
の子どもは、二度と教えない。それは私の意地というよりも、この世界に生きる人間のプライド
のようなものだ。地位や肩書きのない人間は、この日本では軽く見られる。その軽く見られた
分だけ、私は私の生きざまをつらぬく。
 が、当の親には、その意識がない。数週間もすると、またメールを送ってきて、「来週から、ま
たお世話になります」などと言ってきたりする。あるいは図々しくも(?)、今度は兄のことで相談
してきたりする。私はそういうとき、はっきりと「断わります」と言う。が、断われば断わったで、
そういう親ほど、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒り出す。もともと私をその程度
の人間にしか見ていないからだ。
 先日もこんなことがあった。私の書いた原稿を、私に無断で、あちこちに転送した女性がい
た。しかも私の原稿をズタズタにしたうえ、ほとんど一行ごとに、コメントを書き添えて、だ。それ
には「美人はとくね」と、私を揶揄(やゆ)したようなコメントまであった。最終的には、その原稿
は私のところへ回送されてきたが、そのときほど体が怒りで震えたことはない。私はしがないも
の書きだが、女房ですら、そこまではさせない。(女房だって、しない。)以後、その女性とは縁
を切ったが、この女性にも罪(?)の意識はなかった。何度かメールで、「どうして返事をくれな
いのですか」と言ってきた。が、返事など書けるものではない。平気で私信を、それも許可なく
転送する人に、返事など書けない。
 ……と、まあ、他人の批判ばかりしているが、私も他人に対して、同じようなことをするときが
ある。もともと性格がゆがんでいるから、キズつけられるよりも、キズつけることのほうが多い
かもしれない。偉そうなことは言えない。しかしこれだけは言える。
 人と出会うのは、簡単なことだ。しかし別れるときは、そうでない。言いかえると、人のつきあ
いは、別れぎわの美学で決まる。つまりいかに美しく、わだかまりなく別れるかで、その人の価
値が決まる。「価値」というと少しおおげさに聞こえるかもしれないが、人間の価値は、人との
「かかわり」の中で決まる。その「かかわり」は、別れるとき清算される。別れぎわが汚いという
ことは、それまでの「かかわり」を否定することになる。決してメモ一枚で、相手と別れてはいけ
ない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(505)

親に甘えない子ども

 親に甘えることができない子どもは、多い。あなたの子どものことではない。あなた自身のこ
とだ。あなたは自分の親に、甘える、つまり全幅に心を開くことができるか。
 ある母親はこう言った。「今でも親の前へ行くと、気が疲れます」と。「実家へ帰るのが、苦痛
でならない」と言った母親もいた。「両親とも教師で、私は今でも親の前では、いい子ぶっていま
す」「親子なのに、私は親とは儀礼的なつきあいしかできません」と言った母親もいた。親子だ
から、それなりに親密のはずと決めてかかってはいけない。私が知る範囲でも、何割かの母親
は、実の親たちとのつきあいのことで、悩んでいる。
 が、もっと大きな悲劇は、そういう息子や娘をもちながら、とうの親たちは、「できのよい子ど
も」と誤解しているところにある。一人の母親は、こうメールに書いてきた。「私の両親は、私の
ことをできのいい娘と思っているようです。それに私が東京のT大学(国立)を出たことを自慢し
ていますが、私にはそれが不愉快でなりません。両親は私の仮面しか見ていないからです」
と。
 そこで今、あなたとあなたの子どもの関係をみてほしい。あなたの子どもは、あなたに対し
て、全幅に心を開いているだろうか。言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。ある
いは反対に、ひょっとしたら、あなたの前で仮面をかぶってはいないだろうか。あなたの前でよ
い子ぶったり、仮面をかぶっていないだろうか。前者のようであればよし。しかしそうでなけれ
ば、親子のあり方を、かなり反省したほうがよい。とくに権威主義は、親子のあいだに、大きな
キレツを入れる。「私は親だ」「親に向かって、何だ」というような言い方をしていて、どうして子
どもはあなたに心を開くことができるのか。
 繰り返すが、「たがいに心を開いて、わかりあえる」。それが家族の第一の役目である。家族
が家族である理由は、すべてこの一語に行きつく。そのほかの問題は、すべてマイナーな問
題。どうでもよいとは言わないが、しかしこの役目の前では、ささいな問題と考えてよい。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(506)

よい親子でいるために

 心というのは、一度、閉じると、開くのは容易ではない。中学生や高校生でも、親と会話すら
しない子どもは、いくらでもいる。なぜそうなるかは別として、子どもの心を安易に考えてはいけ
ない。一度閉じた心を開くのは、それこそ五年単位の時間と努力を必要とする。成人してから
も、ほとんど会話のない親子はいくらでもいる。私の知人のK氏は、今年三五歳になるが、父
親(六二歳)と、食事すら別々。廊下ですれ違うときも、目をそむけあっている。同居しているだ
けに、ことは深刻である。K氏の妻はこう言った。「毎日が一触即発の状態です。先日も、『殺
す』『殺してみろ』のおおげんかをしました」と。
 そこでもしあなたが、今、あなたの子どもの心が閉じ始めているのを感じたら、できるだけ初
期のうちに、手を打つのがよい。この問題だけは、遅れれば遅れるほど、こじれる。ある母親
は息子(小五)の受験勉強に狂奔しながら、こう言った。「私は息子には、ひどい母親に見える
かもしれません。しかしいつか息子が目的の中学校に入学したとき、私のことを理解し、感謝し
てくれると思います」と。が、残念ながら、そういうことはありえない。絶対にありえない。こういう
ケースのばあい、閉じるどころか、心そのものが破壊される。
 親というのは、皮肉なものだ。自分だって一度は子どもであったにもかかわらず、その子ども
の心がわからない。わからないまま、「子どものことは私が一番よく知っています」と、子どもの
心を、親の立場で決めてしまう。そしてやがて行き着くところまで行き、そこで失敗する。その途
中で、私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「私にかぎって」とか、「うちの子にかぎって」と
か言って、その時期を見逃してしまう。どれもこれも、結局は子どもの心を安易に考えるところ
から始まる。繰り返すが、子どもの心を決して安易に考えてはいけない。
(チェックテスト)
●あなたは子どもの心を安易に考えていないか。
●あなたは子どもの心をつかんでいると誤解していないか。
●あなたは自分のエゴを子どもに押しつけていないか。
 
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(507)

顔の見えない親たち

 まさに顔が見えない。インターネットで、メールを交換していると、「文」だけの関係になる。そ
のためおかしな現象が起きる。
 たとえばA市に住むAさんから、子育ての相談を受けたとする。で、数回、メールを交換したと
する。で、しばらくしたあと、今度はB市に住むBさんから、別の相談を受けたとする。で、同じ
ように数回、メールを交換したとする。こういうことを、全体として、何度も繰り返していると、だ
れがだれだかわからなくなってしまう。当然といえば、当然だが、そんなとき、「以前、相談した
ことのあるC市のCです」というようなメールをもらうと、頭の中が大混乱してしまう。
 ひとつの解決策としては、その人の写真を同時に送ってもらうことだが、まさか「写真を送って
ください」とは、言えない。相手が母親だとまずいが、父親だと、もっとまずい。へんに誤解され
てしまう。たぶんこのことは、相手の人にもそうだろう。「はやし浩司は一対、どんな男なのだろ
う」と思いながら、相談してくる人も多いと思う。今のところどのように解決したらよいのかわか
らないが、そのうちもう少しインターネットが発達すれば、テレビ電話のようなことができるよう
になるかもしれない。そうなれば、たがいに顔を見ながら、メールを打つことができるようになる
だろう。
 そこで私のばあいは、メールをくれる人には、住所と名前を書いてもらうことにしている。これ
はイタズラメールや、ウィルス入りのメールを防ぐ目的もあるが、そうすることで、「個性」を確認
することにしている。が、ここでもおかしな現象が起きる。名前やその人が住んでいる土地で、
その人のイメージが、勝手に頭の中でつくられてしまう。たとえば……(不謹慎だが、相手が母
親だと……)、
京都の京子さんという名前だと、舞妓さんのような女性をイメージしてしまう。大阪のマユミさん
という名前だと、都会的なキャリアウーマンをイメージしてしまう。一方岩手の岩枝さんだと…
…、これは書けない。ともかくも勝手に頭の中でイメージがつくられてしまう。そしてこれが誤解
と偏見の原因となる。
さてさてどうしたらよいものか? ……と思いつつ、今朝も数人の方に、メールの返事を書い
た。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(508)

子どものトラブル解決法(1)

 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。た
とえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまでは
いかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をき
たすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。そういうトラブルが
つづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつのケースを、モデ
ルに考えてみる。
【K君、小三男児のケース】
 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明る
かった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通ってい
たが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。
 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校は
いやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすら
しない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別
人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。
 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰っ
てきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』
というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。
 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の
前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が
多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が
今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断し
なければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化
する。
 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を
解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にや
るべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)
(1)家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかり
と包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなる
ことが多いが、それはそれとして、大目にみる。
(2)食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切に
する。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心
を裏から支えるようにする。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(509)

子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、
学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。
 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症
状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしては
いけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子
どもの症状だけを訴えて、それですます。判断や指導は、プロである先生に任す。それがわか
らなければ、たとえばあなたが病気になったときのことを思い浮かべればよい。あなたはドクタ
ーに、自分の診断名や治療法を話すだろうか。そんなことをしても、意味がない。ないばかり
か、かえって、診断や治療のさまたげになる。学校という社会では、先生は、まさに教育のドク
ター。が、それだけではない。
 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わ
ぬ方向に、飛び火したりする。一〇人もいれば、一人はまともでない親がいる。そのうちさらに
一〇人のうち一人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込む
と、それこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わな
いの」が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルでは
すまなくなる。
 私は、つぎのような格言を考えた。
●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサ
ラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふう
に考えてはいけない。
●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、
その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言う
ことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた
をとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きなキレツが入ることになる。
同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生を責めてはいけない。症
状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を覚悟しているのなら、話
は別だが……。)
●子どもどうしのトラブルは、一に静観、二にがまん。三、四がなくて、五にほかの親に相談…
…「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親
に相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決す
る。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(510)

世間体論

 クイズ……「A氏(六五歳男性)の母親はBさん(他界)。しかし戸籍上は、A氏とBさんは弟姉
になっている。こんなことはありえるだろうか」
 古い世代の人は、このクイズはすぐ解ける。しかし若い世代の人には、むずかしい。つまり昔
の人は、それくらい世間体を気にした。
 先日もある母親から、こんな相談があった。「離婚をしたが、子どもを連れて、実家へは帰れ
ない。どうしたらいいか」と。私が「どうして?」と聞くと、「実家の両親が、世間体もあるから、実
家へ入れるわけにはいかないと言っている」と。つまり娘が離婚し、子ども(孫)を連れて帰って
くることを、親たちは「恥ずかしい」というのだ。
私はこの話を聞いたとき、第一に、その母親のことよりも、その実家の両親のことをかわしそう
に思った。年齢を察するに、私と同じくらいか。その親が、いまだに自分の人生観を確立するこ
とができないでいる! それだけではない。子どもを愛するということが、何であるかさえわかっ
ていない!
 あなたは世間体という魔物を知っているか? この世間体に毒されると、自分を見失う。家族
の心を見失う。この世間体は、もともと戦前の、もしくはそれ以前からの全体主義的なものの
考え方に由来する。みなと同じことをしていれば安心。そうでなければ不安。みなと同じことをし
ている人を受け入れる。そうでない人を排斥する。そういうものの考え方が基本にあって、日本
人は、その世間体を気にするようになった。「世間が笑う」「世間が許さない」という言い方も、
そこから生まれた。
 また子どもを愛するということは、子どもをあるがまま受け入れるということ。この親たちは、
子どもの苦しみや悲しみさえわかっていない。あるいはその苦しみや悲しみを、共有しようとい
う意識さえない。いったいこの親たちは、何のために、どうして子育てをしてきたのか? 娘の
苦しみや悲しみを救うことよりも、世間体のほうが大切にしている。自分のメンツや見てくれ、
体裁のほうが大切にしている。その母親は離婚という状況に追いこまれたが、今どき、離婚な
ど、どうということはない。その両親は、さかんに孫のことを、「かわいそうだ」「あわれだ」と言っ
ているそうだが、本当にかわいそうなのは、孫ではない。娘というその母親でもない。その母親
の両親だ。自分をつかめない、両親だ。
 さて冒頭のクイズ。そのA氏は、私X児(今、この言葉は禁止語になっている)として生まれ
た。そこで世間体を気にしたBさんの父親が、自分の息子として戸籍に入れた。だから戸籍上
は、A氏とBさんは、戸籍上では、弟姉となった。戦前まではよくあったことである。あなたはこ
のクイズが解けただろうか。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(511)

時間論

 久しぶりに、自宅から市内にある教室まで歩いてみた。地図の上では、六キロだが、歩くと七
〇分もかかった。たまたまワールドカップの最中だったので、「前半と後半で、計九〇分間も走
り回るのも、結構たいへんだなあ」と、へんな感心をしながら歩いた。それともうひとつ。「江戸
時代には、みんなこの道を歩いたのかなあ」とも。が、そのうち、「時間」について考えるように
なった。
 車で行けば、一〇〜一五分の距離。それを歩いていくのは、時間のムダなのか。それともム
ダでないのか、と。ときどき若い男が、車で猛スピードで私の横を通り過ぎていったが、それを
見たとき、今度は反対のことを考えた。彼は時間を大切にしているのか。それとも大切にして
いないのか、と。
 話はぐんと現実的になるが、今、平均的な高校生で、一日、四〜五時間(各種調査)は、家で
テレビを見ている。学校での授業を、五〇分かける五時限として、一日、二五〇分。時間にな
おすと、四時間と少し。つまり学校で授業を受ける時間より、家でテレビを見る時間のほうが、
長い。影響ということを考えるなら、子どもたちは学校で受ける影響よりも、テレビでのほうで、
はるかに強い影響を受けている。しかしこういうのを時間のムダというのではないのか。「娯
楽」と言えば聞こえはよいが、低俗なバラエティ番組を見ながら、ギャーギャーと笑うことが、本
当に娯楽なのか。また高校生に、そんな娯楽が必要なのか。……と書くのは、ヤボなことだ
が、私はこのところ、「だからどうなのか?」ということをよく考える。年齢のせいかもしれない。
「急いで帰って、それがどうなのか」とか、「テレビを見て楽しんで、それがどうなのか」と。最近
は、億単位のお金を稼ぐ人の話を聞くと、「必要以上に、お金を稼いで、それがどうなのか」と
考えることもある。これは私のひがみのようなものかもしれない。
 結論から言うと、歩くことは、決してムダではない。健康にもよいが、それ以上に、時間という
ものを、しっかりと自分でつかむことができる。一方、何か理由があって急ぐのならともかくも、
そうでなければ車に乗ることは……? ムダとは言いきれないが、「だからどうなのか」という部
分が、どうしても浮かびあがってこない。若い男が猛スピードで走り去るのを見たときも、そうだ
った。私は「そんなに急いで、どうするのか?」と。
 考えてみれば人生で一番大切な財産は、時間だ。この時間は、お金にはかえられない。で、
そこで重要なことは、いかに自分のものとして、そのときどきの時間をつかむか、だ。いかにし
て納得してすごすかということになるかもしれない。その方法は、人さまざまだが、私のばあ
い、「生きる」ということは、「考える」こと。考えたときが、まさにつかんだ時間ということになる。
だからたとえばつまらないビデオを見たりして時間をムダにしたと感じたりすると、「しまった!」
と思うことがある。
 私はその六キロを歩きながら、そんなことを考えた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(512)

日本の仏教

 日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなったが、東
大のN名誉教授は、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ山脈の北
を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教とは異質
のものである、と。
 私はすべてがそうだとは言わないが、矛盾がないわけではない。たとえば、インドでは男性だ
ったカノンが、日本では観音様という女性になっていること。日本の仏像が、(ガンダーラの仏
像もそうだが)、古代インドの服装ではなく、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシ
アの服装を身につけていること。また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代に
はまだ貨幣はなかったこと、などなど。釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以
外は、どうも?、というものが多い。そういうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味が
ないのではないのか。さらに総じてみれば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受
けている。それが中国の土着宗教と結びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと
言う人もいる。
 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。た
だ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、し
かしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがい
まで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。
 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見
ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つま
り人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、〇二年六月)と。しかし、だ。何もおお
げさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識ではないのか。ほんの
少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。それにその哲学者は、
こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だと、そういうことを釈迦は
教えているのです。すばらしいことです」と。しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺
に、白人や黒人、黄色人種はいなかった!
 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれ
があるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦が
もっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、
どこか違うような気がする。
 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほし
い。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(513)

妻の呼び名

 数年前になくなったが、私のオーストラリアの友人の父親は、彼の妻のことを、いつも「フレッ
ド(Fred)」と呼んでいた。「友」という意味である。
 で、私は家では、「晃子(あきこ)」と名前で呼んでいる。しかし文では、「女房」と書いている。
ところが最近、私はこの「女房」という言い方に、どこか抵抗を覚えるようになった。そこで女房
に相談すると、女房は、「ワイフでいいんじゃない?」と、言った。そこで今日から、女房の呼び
方(書き方)を変えることにした。「ワイフ」にした。
女房……何となく、古臭い。
妻……夫と妻というように、どこかに上下意識があっていけない。
家内……男尊女卑っぽい。
かみさん……どこか古臭い。
ワイフ……まあ、悪くない。
つれそい……どこか男尊女卑的。
フレッド……パクリっぽい。それにいちいち括弧づけで、「フレッド(妻)」と書かねばならない。
 いろいろあるが、そんなわけで、「ワイフ」にした。これからは、この呼び方で統一する。書くと
きも「ワイフ」にする。これなら上下意識も感じられない。ただひとつだけ気になることがある。
どうも本人とのイメージがあわない。私のワイフは、このところますます、「かみさん」風になって
きた。それを「ワイフ」とは? それにワイフが「ワイフ」なら、私は「ダーリン」か? どこかくすぐ
ったい感じがしないでもない。
 ……ともかくも、今日からワイフ。私の原稿で、「女房」と書いてあるのは、二〇〇二年六月二
八日以前のもの。「ワイフ」と書いてあるのは、六月二八日以後のもの。しかもこの子育て O
NE POINT アドバイス!の第513号が、その境目ということになる。どうでもよいことだが…
…。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(514)

親の支配意識

 あなたは今、親だ。それはわかる。しかし親といっても、その意識は、みな違う。たとえば子ど
もを支配したいという意識がある。支配意識という。その意識は、人によってみな、違う。そこで
テスト。
 あなたの子ども(小学生〜中学生)が、何かの賞金で、少し高額のお金を手にしたとする。そ
のとき、あなたはそのお金をどう思うだろうか。
 @子どものお金だから、私には、関係ないと思う。どう使おうと、子どもの勝手。私の知ったこ
とではない。A子どものものは、私のもの。当然、私が使う権利があると思う。使い道について
は、私が指示する。あるいは私のお金として使う。 
 ここに書いたのは、極端な例で、もちろんその中間もある。しかし支配意識の強い親ほど、A
のように考える。いろいろな例がある。
 ある女性(55歳)は夫が死んだあと、小さな店を継いだが、ときどきその店を手伝っていた自
分の娘(既婚、夫と別場所に住む)には、ほとんど給料を払わなかった。
 ある女性(七〇歳)はこう言った。「私は今の家に嫁いで四五年になるが、夫にさえ、嫁いだこ
ろは、お手伝いか、女C(この語は今、禁止語になっている)のようにしかあつかってもらえなか
った」※と。
 ある母親(七五歳)は、自分の息子のできがよいのを喜び、息子を自慢のタネにして、友人た
ちの間で、いばっている。「あの息子を育てたのは、私だ」と。
 支配意識の強い親ほど、「私のものは、私のもの。私の子どもは、私のもの。だから私の子
どものものは、私のもの」という考え方をする。「自分の娘だから、給料など払う必要はない」
「嫁は、家に嫁いできたのだから、まず家のために働くべき」「老後は、息子や娘の自慢話をす
るのが、何よりも楽しみ」と。
 しかしこうした考え方は、一方で、子どもの人格や人権を否定することになる。どう否定する
かということではない。支配意識をもつこと自体、否定していることになる。言いかえると、子ど
もの人格や人権を認めるためには、親自身が、この支配意識から抜け出さなければならな
い。もっと言えば、「あなたの人生はあなたのもの。どこまでいっても、あなたのもの」と、一〇
〇%の人生を子どもに手渡してこそ、子どもの人格や人権を認めたということになる。
 さてあなたの支配意識は、どの程度だろうか。だれにでも、ある程度の支配意識はある。
が、もしあなたが「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という言葉を、日常的に使って
いるようなら、一度、この支配意識を疑ってみたらよい。
※……このケースは、夫が妻に対して支配意識の強いケースである。あなたは妻に対して、ど
の程度の支配意識をもっているか。反対にあなたの夫は、あなたに対してどの程度の支配意
識をもっているか。それを知るのも、何かの役にたつかもしれない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(515) 

偏見と誤解

 教育の世界には、偏見と誤解が満ちあふれている。ここでひとつ、「心の実験」をしてみよう。
 あなたは「はやし浩司」という人間を、どう見ているだろうか。たぶん、あなたは私のことを、ま
じめで、融通のきかないカタブツ人間と思っているだろう。教育問題を論じているから、なおさら
そういうタイプの人間だと思っている。あるいはもっと別のイメージをもっているかもしれない。
あなたが私をどういう目で見ているか、だいたいのところ察しはつく。しかしつぎの文を読んで
ほしい。
 「いつも寝る前に、バイアグラと鉄分を含んだ鉄剤をのんでいた男がいた。朝起きると、彼の
頭はいつも北の方角をさしていたという。また別の老人は、いつもバイアグラを、一錠だけのん
でいた。ドクターが、『バイアグラは二錠のまないと効果がない』と言ったら、その老人は、こう
答えた。『いえ、わしは、小便するとき、足元をぬらさないためにのんでいるだけでサ』と。カトリ
ックの神父学校では、もちろんバイアグラは厳禁。小便のあと、あれを何回まで振ってよいかも
決まっている。聞くところによると、三回まではよいそうだ。四回以上は、マスターベーションに
なるからダメだそうだ」(オーストラリアのB君のメールより)。
 この文を読んで、たいていの人は、強いショックを受けるにちがいない。もちろんこれはつくり
話である。私とて男だから、この程度のメールのやりとりは、いつもしている。が、問題はその
ことではない。
 このときあなたの頭の中では、バチバチと偏見と誤解がショートを起こして火花を飛び散って
いるにちがいない。「教育評論家が何てことを書くのだ!」「バイアグラをテーマにするなんて、
どういうことだ!」と。
 さて、本題。偏見と誤解について。私たちは日常的な常識(私がいう「常識論」の常識とは別)
の中で生きている。そしてその常識が、一方でひとつの固定観念をつくる。固定観念がまちが
っているというのではない。その固定観念が、ときとして偏見と誤解を生む。教育の世界はとく
にそうだ。その中でも最大のものは、教職は聖職であるという偏見と誤解。中には、教師のこと
を、牧師か出家者のように思っている人がいる。私も教育の世界をかいまみて三二年になる
が、これほどまでの偏見と誤解が満ちあふれた世界はほかに知らない。しかし教師といって
も、あなたやあなたの夫や妻と、どこも違わない。違うほうがおかしい。大学で教育言論を履修
したとか、多少の実習を受けたということをのぞけば、会社へ入社した社員と、どこも違わな
い。
 実は、教育論もそうだ。本来、教育論は、もっと生々しく、もっと人間くさいもの。教育を「教
育」として構えてしまうから、話がおかしくなる。そのおかしさを、逆説的にわかってほしかった
から、あえてここで「心の実験」をしてみた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(516)

同性愛

 「君には好きな子がいないのか?」と聞くと、J君(高一男子)は、さみしそうにうなずいた。ピリ
ッとした緊張感が走ったが、心のどこかで私の話を拒絶したのかもしれない。あるいは罪の意
識をもっていたのかもしれない。
 J君は、決してもてないタイプの男ではない。色白で、整った顔立ちをしていた。その気になれ
ば、いくらでもガールフレンドなどできたであろう。で、そこでまた、「女の子に興味がないの
か?」と聞くと、J君は黙ったまま、下を向いてしまった。
 この時期に、同性愛者かどうかの傾向がはっきりする。私は女子の同性愛については、まっ
たくわからないが、男子のそれはよくわかる。私が「男」であることによるためかもしれない。本
能的な部分で、それをかぎ分けることができる。私は「濃い男」か、「薄い男」かと聞かれれば、
「濃い男」だ。女性から遠い位置にいる男を、「濃い男」、女性に近い位置にいる男を、「薄い
男」という。これは私が勝手に作った言葉だが、つまり私自身が濃い男であるがゆえに、そうで
ない薄い男がよくわかる。
 こういうケースでは、私としてはなすべきことは、何もない。あるがままを認めて、あるがまま
を受け入れるしかない。いつかオーストラリアの友人がこう言ったのを覚えている。「白人の男
性の、約三分の一は、同性愛者だ」と。日本では、そこまで多くないかもしれないが、しかし「い
ない」わけではない。それに同性愛者といっても、いろいろなタイプがある。私の知人の中に
は、同性愛者でありながら、一方で平穏な結婚生活を営んでいる人もいる。
 J君が、どのようなタイプなのかはわからない。心の奥まで、私とてのぞくことはできない。た
だ「できれば……」という思いが働いて、教育の場で何とかできないものかということは考える。
ときどき冗談をまじえながら、「女性のヌード写真くらいはもっているだろ?」とか、自分の失敗
談を話したりして、それとなく反応をみるのだが、まったくと言ってよいほど、そういう話には乗
ってこない。「親に報告すべきか」ということで迷うこともあるが、しかしそれをしたところで、そ
れがどうだというのか? そもそも同性愛は、まちがっているのか? それはいけないことなの
か?
 私はさまざまな問題にかかわってきたが、こと「性」の問題については、「我、関せず」を貫い
ている。さらに最近は、この問題は、教育の問題ではないとさえ考え始めている。もっと言え
ば、性の問題は、教育の向こうにある問題、と。ただ、子どもが同性愛者になる前の段階とし
て、いろいろなすべきことはあるように思う。環境、なかんずく父母の性格や子育て観が大きく
影響することは考えられる。しかしその分野まで、教育が踏み込むのは、はたして正しいことな
のか。許されるべきことなのか。
 J君を前にするたびに、私は深く考え込んでしまう。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(517)

同性愛者になる子ども

 実のところ、この問題は、今日、はじめて考える。だからこの原稿は、あくまでもこれからの叩
き台でしかない。あるいは「入り口」と考えてほしい。不勉強で、まちがっているかもしれない。
 男子の同性愛傾向は、いくつかのパターンに分けられる。@女の子に興味をもたないタイ
プ、A女の子を嫌悪するタイプ、B男子に興味をもつタイプ、C自分が「男」というより、「女」と
思っているタイプ。いろいろなケースがあった。 
タイプ@女の子に興味をもたないタイプ……フロイト風に段階的に分類するなら、男子は肛門
期以後、乳房期(乳房に強い関心とあこがれをもつ)、女性器期(女性の性器に強い関心をも
つ)、接触期(女性との肉体的接触に強くひかれ、それを求める)という段階を経て、性にめざ
める。このうち女の子に興味がないタイプは、肛門期以後、ここにあげたような、段階的興味を
もたない。「おっぱい」の話をすると、小学校の低学年児でも恥ずかしそうにニヤニヤするが。
そういった反応がない。中学生になっても、女体や女性器に興味をもたない。女の子とは、そ
れなりに「友」としてつきあうが、それ以上の関係には発展しない。
タイプA女の子を嫌悪するタイプ……女性そのものに嫌悪感をもち、そのため女性には関心
があっても、女性を女性と意識すると同時に、恐怖心に襲われる。強度の母親恐怖症など、何
らかの環境的理由が、子どもにそういう恐怖心をもたせる。これは女子のケースだが、印象に
残っている女の子(中学生)に、こんな子どもがいた。その女の子は、男を男とも思わないとい
うか、完全に男を軽蔑していた。原因は家庭環境にあった。父親は静かでおとなしく、まったく
風采のあがらない人だった。一方、母親は、あらゆる会の会長を務めるなど、まさにバリバリ
のやり手ママといったふうだった。その女の子は、そういう環境の中で、母親の、ものの考え方
や男性観をそっくりそのまま受け継いでいた。同じように母親の存在感が強過ぎることが原因
で、女性恐怖症になる男子は少なくない。
タイプB男子に興味をもつ……こうした同性愛的傾向は、それぞれの時期に、一時的に見ら
れることはよくある。が、その程度が著しく超え、男子に興味をもち、理想の男性に強いあこが
れをもつ。よくあるケースは、兵士やスポーツ選手、さらに筋肉的な男性を理想像と思い、そう
いう男性に傾注する。男性としての自己コンプレックスの変形とも考えられる。
タイプC自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ……独特のしぐさを見せるようになる
ので、それと区別できる。隣の子どもが何かの拍子に、足を蹴られたとき、「イヤ〜ン」という声
を出した子ども(小四男子)がいた。歩き方も、どこかナヨナヨしていて、女性的なものを身につ
けたり、ほしがったりする。花柄のパンツ、花柄のノートや下敷きをもっていた男子高校生もい
た。
 こうした子どもへの対処法は、ケースバイケースだが、残念ながら私は指導した経験がない
ので、これ以上のことはわからない。これからのテーマとしたい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(518)

家族のルール、一〇か条

●ルール1……家族へのプレゼントは、お金で買ったものはだめ。とくに誕生日、クリスマスな
ど、心のお祝いをするときは、お金で買ったものはだめ。家族の間で、たがいにそう取り決め
ておく。
●ルール2……食事のあとしまつは、それぞれがする。使った食器、食べ残したものは、それ
ぞれが自分で始末する。食器を洗い、フキンでふいて、それを棚へしまうまで、個人の責任と
する。
●ルール3……たがいを判定(ジャッジ)しない。相手の意見は聞き、自分の意見は言っても、
たがいを評価したり、判定したりしない。「あなたはダメな子ね」式の人格攻撃はタブー中のタ
ブー。
●ルール4……家族の言い争いは一日で消す。どんな言い争いをしても、その争いは一日で
すます。あとでむしかえしたり、「この前も……」という言い方はしてはいけない。あれこ過去も
ちだすのはタブー。
●ルール5……家族の悪口は言わない。どんなばあいも、家族で、家族の悪口は言わない。
不平、不満も言わない。不平や不満があるときは、本人だけに言い、その範囲でおさめる。
「あなたのお父さんはだらしないね」式の批判は、タブー。
●ルール6……喜びあい、ほめあうときは皆の前でする。何かよいニュースがあったら、おお
げさに喜びあい、ほめあう。「忠告はひそかに、賞賛は公(おおやけ)に」(シルス)と言った、古
代ローマの劇作家がいた。
●ルール7……家族の秘密をあばかない。個人あての手紙、メール、メモなどは、絶対に見な
い。携帯電話を調べたり、バッグの中をのぞいたり、子ども部屋を調べたりするのは、タブー。
そういうことをしなければならないという状況になったら、すでに家族は破壊されたとみる。夫婦
でも、このルールは守る。
●ルール8……家族は、助け合い、はげましあい、いたわりあい、守りあう、教えあう。これに
もうひとつ。「家族は同居する」。単身赴任などという状態は、あってはならない
●という前提で、考える。仕事は大切だが、家族のために仕事を犠牲にしてはいけない。皆が
そういう意識をもったとき、日本のこのゆがんだ制度は、改善される。
●ルール9……家族にはウソは言わない。隠しごとはしない。いつもすべて話せというわけで
はない。自分から言う必要がないと判断すれば言わなくてもよい。しかし聞かれたら、ウソは言
わない。隠しごとはしない。どうしても言いたくなければ、黙っていればよい。
●ルール10……命令、禁止命令はしない。夫婦の間はもちろんのこと、親子の間でも、命令
はしない。しかしこれを守るのは実際にはたいへんむずかしい。だからあくまでも努力目標とい
うことになる。そういう前提で、できるだけ命令口調はひかえる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(519)

他人に左右されない人生

 個性とは……、他人に左右されない人生をいう。人間は個性的に生きるから人間。言いかえ
ると、他人の目を意識した人生ほど、つまらないものはない。人生そのものを、棒に振ることに
もなる。はたから見ても、それほど見苦しい生き方もない。
 たとえば「出世」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、その裏で、他人の目を意識した言
葉はない。こうした言葉に毒されると、自分を見失う。自分だけではない。政治家や役人に利
用されると、国の方向性すらゆがむ。最近でも、鈴木Mという代議士がいる。出世欲にとりつ
かれた餓鬼(がき)としか、言いようがない。ああいう政治家の見苦しさを、私たちは今ここで、
しっかりと頭に焼きつけておかねばならない。
 たとえば「偉い」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、人間の上下を位置づける言葉はな
い。この日本では、「偉い人」というときは、地位の高い人や、肩書きのある人をいう。よい例が
水戸黄門だが、どうして水戸黄門は偉いのか。どうして民衆は、彼に頭をさげるのか。英語国
では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)」という言い方
をする。だから親は子どもにこう言う。「尊敬される人になりなさい」と。「偉い人」と、「尊敬され
る人」との間には、越えがたいほど大きなへだたりがある。「尊敬される人」というときには、地
位や肩書きには関係ない。
 たとえば「立派」という言葉がある。この言葉のおかしさは、今の中国をみればわかる。あの
国では、国をあげて「立派な国民」づくりに狂奔している。少し前の日本にそっくりと言ってもよ
い。「立派になる」というのは、偉い人になって出世することを意味する。
 たとえば「世間体」という言葉がある。日本人は皆と同じことをしていれば安心、そうでなけれ
ば不安と、どこか全体主義的な生き方をよい生き方としている。そのため幸福観も相対的なも
ので、「皆よりいい生活をしているから幸福」「皆より悪い生活をしているから不幸」という考え
方をする。しかしそういうものの考え方が強くなればなるほど、自分を見失う。
 私たちは今、生きている。たった一度しかない人生を、この大宇宙の中で、しかも何十億年と
いう時間の、その瞬間を生きている。だったら、思いっきり、自分らしく生きよう。私は私だ。あ
なたはあなただ。もしそれがまちがっているというのなら、それを言う人のほうがまちがってい
る。たとえ神や仏でも、この生き方をじゃますることはできない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(520)

変わった性意識

 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子
だ。そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くとい
う。しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。私はその話を聞いて、こう
言った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どういうことだか、君たちにわ
かるか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは明るく笑いながら、こう言っ
た。「先生、古〜イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。
 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればした
で、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。す
ると女房はこう言った。「ふ〜ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。私はその
一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという間ぎわに
なって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。「これは君たちを教えたことのある、一
人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行ってはダメだ」と。するとその女子高校生は
しばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あんたが連れてってヨ。あんたは車の運転
ができないのでしょ!」と。
 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっき
り言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。私たち団塊の世代にと
っては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊ばれるのは女と考え
る。しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代になった。だから時
折、援助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が理解できる常識の
範囲を超えている。ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わ
ったという前提で議論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の
母問題にも一定の結論を出す。やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし
方についての指導をすることも考えなくてはならない。厚生省の調査によると、女子高校生の
三九%が性交渉を経験し、一〇代の中絶者は、三万五〇〇〇人に達したという(九九年)。し
かしこの数字とて、控え目なものだ。つまりこの問題だけは、「おさえる」という視点では解決し
ないし、おさえても意味がない。ただ許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人た
ちを食いものにして、金を儲けたり遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者
を食いものにするとは、何ごとぞ!、と。私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になっ
てしまうが、こういうおとなたちは厳罰に処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもっ
たら、即、逮捕する、とか。しかしこういう考え方そのものも、もう古いのかもしれない。
 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所
詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(521)

買ったものはダメ!

 オーストラリアの友人の家を訪れてみると、日本にはない習慣があるのを知る。そのひとつ、
「プレゼントは、買ったものはダメ」。
クリスマスや家族の誕生日はもちろんのこと、遠方からやってきた客のみやげまで、「買ったも
のはダメ」と決めている家庭も多い。アメリカというと、映画などで、豪華なプレゼントを交換して
いるシーンをよく見かけるが、質素な家庭のほうが多いのでは。そういう家庭では、「買ったも
のはダメ」と決めているところが多い。私もときどきプレゼント(みやげ)をもらうが、「プレゼント
は豪華なものほどよい」という習慣になれた私には、正直言って、「あれっ」と思うようなものが
ある。
オーストラリアのM君の家に行ったときは、粘土で子どもたちが作ってくれたトカゲの置きも
の。
同じくB君の家に行ったときは、乾燥させた花で作った絵。
同じくR君の家に行ったときは、石をきれいにペインティングしたもの。
同じくD君の家に行ったときは、D君が描いたガラス絵。
ときどき、本やぬいぐるみをもらうこともあるが、豪華といっても、せいぜいその程度。また向こ
うには、スプーン(スーバニア・スプーンという)を交換するという習慣があって、スプーンをあげ
たり、もらったりすることはある。
しかしよくよく考えてみると、「買ったものはダメ」というルールは、すばらしいルールではない
か。プレゼントを渡すという、もともとの意味にも合致している。つまり「心のこもったプレゼント
ほどよい」という考え方にたつなら(当然だが)、その人の真心(まごころ)が感じられるものの
ほうがよい。お金を出してデパートのようなところで買ったものは、(日本人なら、「お金を稼ぐ
のに苦労をしたから」と考えがちだが)、一見価値があるようで、その実、ない。まったく、ない。
 ……と考えて、では、盆暮れのつけ届けは何かということになってしまう。しかし考えてみれ
ば、これほど日本の悪しき、無意味な習慣はない? 上下関係のある人の間で、下のものが
上の人につけ届けをするということは、ワイロということにもなりかねない。いや、ワイロ、その
もの。日本は戦後の高度成長期の中で、日本独特の拝金主義をうみ、それが日本人の心まで
毒してしまった? その一例が、盆や暮れのつけ届けということになる。
 なるほど! 私はここまで書いて、決心した。今年からは、盆や暮れのつけ届けは断ることに
した。同時に、私は今年からつけ届けは全面的にやめることにした。ああ、私自身がいつの間
にか、日本の悪しき習慣にどっぷりとつかっていた!
 ……と、まだ少し迷いはあるが、この問題は、これから掘りさげて考えてみたい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(522)

日本の拝金主義

 豪華なプレゼントであればあるほど、喜ぶ人。真心がこもっていると考える人。もらったプレ
ゼントを値踏みし、その価値(値段)で、相手の自分に対する思いを判断する人。反対に、安い
プレゼントであれば、憤慨し、「バカにするな」と怒る人。ていねいな礼状を書きながら、心の奥
で、つぎのプレゼントを期待する人。
 一方、豪華なプレゼントであればあるほど、相手は喜び、感謝しているはずと誤解する人。相
手の心をつかんだと誤解する人。盆や暮れのつけ届けの季節になると、相手をランク分けし、
そのランクに応じて、プレゼントの価格を決めている人。「A、B、Cさんは、一万円のもの。D、
E、Fさんは、五〇〇〇円のもの。G、H、Iさんは、三〇〇〇円のものでいい」と。
 日本人よ、いつから私たちは、かくも心さみしい拝金主義者になってしまったのか? もしあ
なたが「下」の立場で、「上」の立場のものに、プレゼントを渡せば、それは立派なワイロだ。そ
ういう愚劣な習慣が、めぐりめぐって、政治家へのワイロになる。そういうあなたが、どうしてあ
の悪徳政治家たちを責めることができるのか。
 中には、「お金を稼ぐのに苦労をする。その稼いだお金で、プレゼントを買うのだから、結果
的に、自分の苦労で感謝の念を表現していることになる」と言う人がいる。いや、実際、そう考
えていたのは私だ。しかしこの論法はおかしい。では、その苦労しているとき、本当にその相手
のことを思いながら苦労したのかということになる。稼ぐときは、ただがむしゃらに稼いで、あと
でそのお金を分配しているにすぎない。感謝の気持ちなど、どこにもない。むしろその分配する
とき、相手の価値を金銭的な尺度でランク分けすることによって、自分自身の心をドロで汚して
いる!
 もちろんビジネスの世界には、独特の慣習がある。盆や暮れのつけ届けが、ビジネスの世界
の人間関係をスムーズにするという人もいる。しかしそのルーツをさぐれば、結局は「上」のも
のへのワイロにすぎない。盆や暮れのつけ届けが、すばらしい習慣だといえる根拠はどこにも
ない。あるいはあなたは外国の人に、「これが日本の文化です」と、堂々とそれを胸を張って自
慢できるとでもいうのか。
 この不況下。年々、盆や暮れのつけ届けの売りあげが減っているという。(一方、ミニバブル
で、高級品ほど売れているという話もあるが……。)小売業の人には痛手かもしれないが、こ
れを機会に、盆や暮れのつけ届けについて考えてみることもよいことだ。私たちは戦後の高度
成長期に、デパートやスーパーにする、巧みな商戦に踊らされていただけかもしれない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(523)

「高級海苔(のり)」というプレゼント

 まず宣言! 私は今年から、盆や暮れのつけ届けを受け取るのを、全面的に、断ることにし
た。今までは、一応断ってきたが、どこかあいまいな言い方をしてきた。相手に対する思いやり
からだった。あまりあからさまに断ると、かえって相手が気分を悪くするのではないかということ
を考えた。しかし今年からは、それもやめる。礼状を書くとき、明確にその旨を記(しる)すこと
にする。(送り返すということも考えたが、それは現実的ではない。)
 そして私の心の中に潜む邪悪な心……たとえば、もらったプレゼントを値踏みして、その価
値(値段)で喜んだり、憤慨する、そういう邪悪な心を、徹底的に、たたきつぶす。たいていそう
いうプレゼントは、どこかのデパートから配送されてきたもので、包装箱の横に、「XX・三〇」と
か、「YY・五〇」とか書いてある。それで値段がわかるしくみになっている。私はついついそうい
う数字を見てしまう。そういうクセがついてしまった。ああ、そういう自分の見苦しさ。ああ、いや
だ!
 ……考えてみれば、盆や暮れのプレゼントで、それをもらってうれしかったことは、あまりな
い。たとえば「高級海苔」というプレゼントがある。名刺よりやや大きく切った海苔を、乾燥剤と
もに、袋に入れ、さらにその袋をいくつか集めて、豪華な缶に入れる。さらにその缶を、これま
た豪華な化粧箱に入れる。それをさらにまた、きれいな包装紙で包んで、高級品に仕立てる。
しかしこれこそ、まさに盆や暮れのプレゼントの象徴といってもよい。中身(心)がまるでない。
ないばかりか、もらったほうだって困る。食べ終わったあとには、食べた分の何一〇倍ものゴミ
が、山のように残る。重さで計算すれば、正味食べる分は、一〇〇分の一もないのではない
か。
 菓子類や酒類も、似たようなものだ。見た目の包装だけは、やたらと豪華。それに私は甘い
食べ物は食べない。酒も一滴も飲めない。肉類もほとんど食べない。そういう私の習慣を無視
して、一方的にそういうものを送られても、困るだけ。
 ……と考えて、私も、だれかに盆や暮れのつけ届けをすることを、今年から全面的に廃止す
ることにした。たまたま収入も激減したから、私の家の実情にもあっている。大不況下の日本
だから、相手の人も許してくれるだろう。いや、そういうことではなく、ひとつの哲学として、廃止
する。もうこういう愚劣な慣習は、つぎの世代に残してはいけない。そのためにも、まず「先生」
と呼ばれる人が、それを廃止しなければならない。多少、仕事に影響が出るかもしれない。私
を不愉快に思う人がいるかもしれない。しかしそういう人は、もともとその程度の人だ。……と
思うことにする。気にすることはない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(525)

子どもの非行

 スペインに住む、K氏より、こんなメールが届いた。私はこのメールを読んで、「うむう」と、考
え込んでしまった。そのひとつ。子どもの非行に、夜間外出がある。もう三〇年ほど前だが、こ
のS県でも、子どもの夜間外出を減らすため、子どもたちは部活などで、夜、七時ごろまで学
校に拘束されることになった(中学生)。当時はそれなりに説得力はあったが、聞くところによる
と、それは「塾つぶし」のためでもあったという。つまり帰校時刻を遅くすることによって、学校側
は子どもたちが塾へ行く時間をなくした、と。
 それはさておき、このメールを読むと、非行とは何か、そこまで考えさせられる。日本の基準
で考えると、スペインの子どもは、みな、非行少年、少女ということになってしまうのだが……?
「今は日が長く、夏休みに入ったので、外では子どもたち夜の一〇時位まで遊んでいます。ア
パートの子供たちが平気で夜八時ごろ、U子を遊びに誘いにきます。スペインは日本より二時
間〜三時間位、食事時間が遅いのです。昼は二時位からスタートですし、レストランですと食事
が長いので、午後四時半位まで食事をしています。夜は九時半から一〇時から食事するのが
普通です。住み始めたとき、あまりに遅くまで小学生が遊んでいるので、「君たち、何時にご飯
食べるの」と聞いて、「一〇時」と言われ、あぜんとしたことがあります。今では家族全員、スペ
イン時間で行動しています」(K氏のメールより)
 このメールの中には、「昼は二時位からスタートですし、レストランですと食事が長いので、午
後四時半位まで食事をしています」とある。この話は私も知っていた。反対に外国の友人たち
に、「ヒロシたちは、どうしてそんなに食事の時間が短いのか」と聞かれたことがよくある。また
彼らの夏休みは長く、たいていは一か月以上、どこかのバンガローなどに住んで、バカンスを
過ごす。ものの考え方が、日本人とは基本的な部分で、違う。
かくして私も、今、食事はどうあるべきか。また、この夏休みをどう過ごすべきか、真剣に考え
始めている。「うむう」とうなりながら……。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(526)

拝金主義

 子どものころ、母の実家へ行くのが、何よりの楽しみだった。実家は、岐阜県の板取村という
ところにあった。が、それから三〇年。私が三〇数歳になったときのことだが、その実家が、大
きく変わっていたのに気づいた。
 子どものころ、よく母と伯父は、縁側でこんな話をしていた。「今年のワサビは生育がいい。ア
ユも今年はたくさんとれそうだ」と。しかし三〇年たって再び実家へ行くと、会話はすっかり変わ
っていた。すべてがお金にまつわる話ばかりだった。「あそこの土地は二〇〇万円で売れた。
川向こうのAさんは、山を売って、一億円儲けた。あの岩を、三〇〇万円でほしいと言った、名
古屋の業者がいた」など。私はいくらそういう時代とはいえ、こんな田舎までお金に毒されてい
ることを知って、驚いた。
 が、最大の悲劇は、何といっても、人間関係まで、金銭的な尺度でおしはかろうという風潮が
生まれたことだ。よい例が、盆や暮れのつけ届け。いくらかのお金をもって、デパートへでかけ
る。そしてそこで、プレゼントを値踏みする。しかし実際には、プレゼントを値踏みしているので
はない。送る相手の価値を値踏みしている。「Aさんは一万円、Bさんは五〇〇〇円、Cさんは
三〇〇〇円」と。一方、それを受け取るほうは、箱の横に書かれた数字を見ながら、自分の価
値を知る。「あの人は私を五〇〇〇円に見てくれる。この人は、三〇〇〇円」と。こういう醜いこ
とをしながら、それを醜いとも思わない。こういうおかしなことをしながら、それをおかしいとも思
わない。日本人の心は、そこまで商業主義に毒されている。見苦しくなっている!
 中元や歳暮の贈りものの縁起について、百科事典はつぎのように書いている。もともとは「中
元」というのは、「三元の一つ。陰暦七月一五日の称。元来、中国の道教の説による習俗であ
ったが、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され、この日、半年生存の無事を祝うとともに、仏
に物を供え、死者の霊の冥幅を祈る。その時期の贈り物(を、中元という)」(小学館「国語大辞
典」)と。しかしこんな縁起など、どうでもよい。仮にそれが日本の文化であるとしても、世界にと
ても誇れるような文化ではない。それともあなたは、世界の人に向かって、それをまねしなさい
と、自信をもって言えるだろうか。
 ものごとはあまりギズギス考えてはいけないという意見もある。私のワイフもそう言っている。
「あまりむずかしいことは考えないで、あげたい人にはあげ、くれる人からはもらっておけばい
いのでは」と。実のところ、私もこう書きながら、「適当にすませばいいのでは」という思いもない
わけではない。しかしこうした愚かで、意味のない習慣は、つぎの世代に残してはいけない。ム
ダかムダでないかと言われれば、これほどムダな慣習はない。
あくまでもひとつの参考意見として、このエッセイを考えてほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(526)

金権主義

 私が子どものころには、まだ「盆暮れ払い」というのが、残っていた。物々交換というのも、そ
れほど珍しくなかった。私の実家は、小さな自転車屋だったが、よく父は、自転車の修理にや
ってきた客と、将棋をさしていたことがある。たった半世紀前のことだが、まだこの日本には、
そういう牧歌的なぬくもりが残っていた。
 が、その町にも、スーパーができるようになった。「主婦の店」という店だった。私が小学五年
生ごろのことではなかったか。私はその店の中を歩き、その店の巨大さに驚いた。が、それは
ほんの「始まり」にすぎなかった。
 私が中学生になるころには、さらに巨大な店が、町から少し離れたところにできた。「J」という
店だった。しかしその店のやり方は、もうめちゃめちゃだった。
 当時、私の町には、テリトリーというものがあった。だれが決めたわけでもないのだが、私の
父は、それを守っていた。「ヒロシ、ここから先は、○○自転車屋さんの縄張りだからな」と言っ
たのを、今でもよく覚えている。自転車を売るにしても、自分のテリトリーだけにしていた。仮
に、そのテリトリーの外で自転車が売れたときには、相手の自転車屋の人に見つからないよう
に、夜中に、こっそりと自転車を届けていた。
 が、Jという店のやり方は、そうした慣習を、こなごなに破壊した。テリトリーなど、どこにもな
かった。しかも私の家の仕入れ値より安い価格で自転車を売った。おかげで私の自転車屋は
致命的な打撃を受けた。かろうじて店じまいしなかったのは、家族経営であったこと。それまで
の蓄(たくわ)えが、少しあったからにほかならない。父はますます酒に溺れ、それと同時に、ま
すます客足は遠のいていった。
 戦後の日本では、「社長」とか、「金持ち」とかいうだけで、一目、おかれた。お金をもつことは
善であり、正義であると、徹底的に教え込まれた。これもだれが教えたわけではないが、大き
な流れの中で、そう教えられた。そしてつぎつぎと商業は巨大化し、その一方で私の父のような
人間は、「負け犬」として、社会のスミに追いやられた。が、それは同時に、日本人がもってい
た、「あの牧歌的なぬくもり」の終わりでもあった。
 お金を儲けることが悪いと言っているのではない。ただここで私が言いたいのは、私の父は
決して負け犬ではないということ。そしてそれとは反対に、大きな商売をして、全国に店を構え
るような人は、決して勝ち組ではないということ。日本人はどうしても、無批判なまま、秀吉や信
長をたたえてしまう。そうした心情が、今、こうした成功者(?)を無批判にたたえてしまう。そう
した無批判な社会観は、危険ですらある。私はそれを言いたかった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(527)

禁煙指導

 子どもに向かって、「タバコはやめなさい」と言うのは簡単。しかしそういう教師が、一方で、親
からのつけ届けを受け取っている。一応、それなりの断わりの手紙を書く人もいるが、どこか
はっきりしない。そういう教師が、「盆や暮れのつけ届けを受け取るのをやめなさい」と、だれか
に言われたとする。そのときその教師は、「はい、やめます」と言うだろうか。ごく最近も、T私立
大学の医学部が、合格発表の前に親たちから寄付金を受け取っていたという事件が発覚した
(二〇〇二年六月)。ハンパな額ではない。一人あたり、三〇〇〇〜五〇〇〇万円。学生(=
親の職業)によっては、もっと高額だったという。教育の頂点に立つような大学ですら、そのザ
マだから、あとは推してはかるべし。
 私も昨年までは、盆や暮れのつけ届けを受け取っていた。偉そうなことは言えない。で、その
つど、礼状と断りの手紙を書いていた。しかしはっきりと断っていたわけではない。どこかあい
まいな断り方だった。……と思う。自分の意識がそうだった。しかし今年からは、はっきりと断る
ことにした。そしてつけ届けをくれた人には、その旨手紙で(ハガキではなく、手紙で)、断ること
にした。……断っている。
 が、ここで自分の心に大きな変化が生ずるのを感じた。一通、一通、手紙を書くたびに、「も
らえるものはもらっておけばいい」という、邪悪な気持ち。それが消えた。と同時に、すがすがし
い風が、心の中を吹きぬけた。それは実に心地よい風だった。それはちょうど、ススで汚れた
窓ガラスを、タオルでふいたような気分といってもよい。不思議と、「損をした」という気持ちは起
きなかった。いや、実のところ、断りの手紙を書き、ポストに入れるまで、心のどこかに迷いの
ようなものがあった。最後の最後まで、「お前は、正直バカだ」という邪悪な心が、それに抵抗し
た。が、私はポストに入れた!
 自分の中に潜む、悪習を消すのは容易なことではない。私たちは子どもに向かって、「タバコ
をやめなさい」とは言う。しかしその私たち自身が、別のところで、別の邪悪な慣習を引きずっ
ている。そしてそれを改めようともしない。それこそ、本当に、何を偉そうに、ということになるの
ではないのか。
 子どもの禁煙指導と、中元の贈り物は、そのどこかでつながっている。そんなつながりを感じ
ながら、このエッセイを書いた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(528)

山荘に客を迎える

 そのシーズンになると、ときどき、友人が山荘を訪れてくれる。もっとも山荘を建てた七年前
は、うれしくて毎週のようにパーティを開いた。しかしここ数年は、その数は、ぐんと減った。理
由の第一は、疲れること。
 私はもともとあまり社交的ではない。他人からみると、社交的に見えるかもしれないが、本当
の私は、そうでない。外の世界では、どうしても私は自分をかざる。ごまかす。そのかざって、ご
まかした分だけ、疲れる。
 で、あるときから、客の迎え方を変えた。「迎える」のではなく、「任す」ことにした。たとえば食
事にしても、材料は用意するが、料理はできるだけ客に任すことにした。「こういう材料がありま
すが、どうしますか」と。するとたいてい皆、喜んで料理してくれる。最初は、どこか申し訳ない
気持ちもあったが、そのうち、そのほうが、客も喜んでくれることを知った。とくに人数が多いと
きは、そうだ。
 実は、家庭教育も、これに似たところがある。子どもを育てるということは、いかに手を抜くか
ということ。任すところは任せて、あとは手を抜く。しかも子どもというのは皮肉なもので、手を
抜けば抜くほど、たくましく自立していく。子ども自身も、そのほうが楽しい。生き生きする。要
は、いかに手を抜くか、だ。その抜き方がじょうずな親を、子育てじょうずな親という。
 実は、今度の日曜日も、東京から二人の客がくる。そこで昨日、近くの漁港まででかけていっ
て、材料を仕入れてきた。ザザエにクルマえび、それにイカにハマグリなど。漁港で買うと、市
価の半額以下で買える。私はバーベキューにしたらおいしいと思うが、それは客次第だ。一人
は、刺身もつくれる人だから、きっとおいしい料理を作ってくれるに違いない。……とまあ、ホス
トの私がそういうことを期待していてはいけないのかもしれないが、そう思っている。……とま
あ、考えて客を迎えると疲れない。子育ても疲れない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(529)

タイムトラベル

 突然、一人の少女からメールが入った。オーストラリア人のソフィという少女だった。「小学校
で日本語の勉強をしているから、日本のことを教えてほしい」と。その少女は、友人の妹の子ど
もだった。私はそのメールの返事を書いているとき、なつかしさで涙がこぼれた。
 私は留学時代、休暇になると友人の牧場で過ごした。アデレードから北へ一〇〇キロほどの
ところにある、ナンタワラというところだった。そこでの生活は、私にとっては、まさに夢のような
生活だった。昼は一日中、あの牧場を歩き回った。夜は夜で、寝るのもおしんで、ディンゴー
(野生化した犬)の、遠吠えを聞いた。その友人の妹が、イーボンという女の子だった。当時、
小学四年生くらいだった。
 そのあたりでは、子どもたちは無線で勉強していた。週に一、二度、スクーリングといって、近
くの学校で授業を受けていたが、集団教育はそれだけ。何といっても隣の家まで、数キロという
土地がらである。(たまたま隣の家が接近していたので、数キロだが、実際には友人の牧場だ
けでも、一〇キロ四方はあった。)たいていは親に学校まで、車で送り迎えしてもらっていた
が、馬で行くこともあった。馬のほうが牧場を横切っていくので、時間的には早く学校に着くとい
うことだった。
 その妹、つまりイーボンの娘が、ソフィという少女だった。私はそのソフィに返事を書いている
とき、ソフィとイーボンが区別つかなくなってしまった。名前こそ違うが、しかし現在から過去に
向かってメールを書いている。……そんな思いが、頭から離れなかった。いや、もう少し親密に
交際していれば、そういう錯覚もないのだろう。が、一〇年単位で時間が途切れると、その一
〇年ずつが、どこかでくっついてしまう。今という「時」が、そのまま三〇年前とくっついてしまう。
 友人の父親は数年前になくなった。あのナンタワラも砂漠化が進み、友人一家も、もう二〇
年前に、今の土地に移り住んだ。もうあの時代は、さがしても、どこにもない。が、その時代か
ら、一人の少女が生まれ、その少女に、私はメールを書いている。それはまさしく、私にとって
は、タイムトラベルそのもの。私はあのときという過去に向かって、あのときの未来から、イー
ボンにメールを書いている。それは本当に不思議な経験だった。
 「あなたのお母さんのイーボンは、本当に心のやさしい、すてきな女の子でした。いつもナンタ
ワラでは親切にしてもらいました。いつか日本へ来るようなことがあれば、ぜひ、私の家に来る
ように伝えてください。いつでも大歓迎します。心から大歓迎します。ヒロシより」と。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(530)

因果な商売

 まだ掛け算もあやしい子ども(小四)がいた。この学年で、掛け算があやしいというのは、致
命的といってもよい。小学三年で二桁掛ける二桁の掛け算、小学四年で割り算へと進む(旧教
科書)。掛け算があやしいということは、すべてにそれが影響してくる。
 このタイプの子どもは、当然のことながら、学校でも自信をなくしていることが多い。まず自信
をもたせることが、指導の中心になる。その子どももそういう方針で教えることにした。一番よ
い方法は、一学年レベルをさげること。が、親は、それに猛烈に抵抗した。「学年をさげれば、
本人がキズつきます。プライドも許さないでしょう。何とか、四年生のクラスで教えてほしい」と。
 で、私は四年生のクラスへ、その子どもを入れた。が、何かにつけて、その子どもが、クラス
全体の足を引っ張った。そしてそういう状態が、数か月から半年とつづくと、クラス全体の雰囲
気がこわれてしまう。しかしその子どもにとっては、居心地のよい世界だった。やがて何とか、
その学年の授業にはついていけるようになった。が、とたん、「BW(私の教室を)やめます」
と。
 この世界。できる子どもほど、やめ方がドライ。しかしできない子どもは、もっとドライ。少しで
もできるようになると、「もっと……」とか「さらに……」と考えて、大きな進学塾へと移っていく。
そういう気持ちはわからないでもないが、しかし結局はキズつくのは、私だけ。「こんなことな
ら、はじめっから、引きうけなければよかった」と思うことさえある。
 もっともこんなことは日常茶飯事で、それでキズついていたら、この仕事は務まらない。「君
は、よくがんばったね。どこへ行っても、もうだいじょうぶだよ」と言い終わると同時に、その子ど
ものことは忘れる。私はやるべきことはした。悔いはない。あとはその子どもの問題。親の問
題。私の問題ではない。
 ただこういうことは言える。こういう仕事を、三〇年もしていると、子どもの将来が手に取るよ
うにわかるときがある。その子どものときも、そうだ。「ここ数か月はだいじょうぶだとしても、半
年後には、またもとの状態にもどるだろうな」と思った。私の教室は、教室といっても、一クラ
ス、五〜八人程度。月謝も、合計しても、学生の家庭教師代より安い。そういう子どもが、一ク
ラス、二〇〜三〇人もいる進学塾へ入れば、どうなるか? ……この先は書きたくない。親自
身が、自分で失敗して、それを知るしかない。
 ごく最近、私の友人(四五歳)が、二〇年務めた進学塾の講師をやめて、パソコンのソフト会
社を起こした。その友人はこう言っている。「二度と、あんな仕事はしたくない。もうコリゴリ」と。
「あんな仕事」というのは、進学指導をいう。その気持ちは、よくわかる。痛いほど、よくわかる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(531)

おかしな計算

 先日も小学生たちが騒いでいたので、「静かにしなさい。今、先生(私)は、四五センチメート
ル、怒っている」と言ったら、子どもたちは「何、それ?」と。「つまりこれくらい怒っている」と、両
手でそのハバを示してみたのだが、「それはおかしい。怒っているのを、センチで言うなんて、
おかしい」と。たしかにおかしい。しかしそれと同じようなおかしなことを、おとなたちが今、平気
でしている?
 今は、そういうシーズン。いくらかのお金をもってデパートへ行く。そして「AさんとBさんは、七
〇〇〇円。CさんとDさんは、五〇〇〇円。EさんとFさんは三〇〇〇円でいい」と。人間関係
を、お金という尺度ではかっている。しかし考えてみれば、これほどおかしなことはない。 
 プレゼントをもらうほうもそうだ。最近では少なくなったが、たいていは箱の横に数字が書いて
ある。三〇とか、五〇とか。そういう数字をみて、「Aさんは三〇〇〇円、Bさんは五〇〇〇円」
とかいう。相手の心を、お金という尺度ではかろうとする。しかし考えてみれば、これほどおかし
なことはない。
 もっともこうした関係がビジネスの世界でのことならよいが、これが家庭に入ると、親子関係
そのものまでおかしくなる。今、成人男女で、将来、どうしても親のめんどうをみると答えている
若者は、一九%(総理府、平成九年)しかいない。あの合理主義のかたまりであるかのような
アメリカの若者でさえ、六三%。東南アジアの国々の若者では、何と七〇〜八〇%。日本の若
者のほとんどは、「生活力に応じて、みる」(六六%・平成六年)と答えている。これを裏から読
むと、「余裕がなければみない」ということになるのだが……。つまり親の恩も金次第。親のめ
んどうも遺産しだいということになる。
 考えてみれば、これもおかしなことだ。親の恩も金次第ということがおかしいと言っているので
はない。今の若者たちは、世界でも類のないほど、飽食とぜいたくを経験した子どもである。も
っとも恵まれた環境で育った子どもである。その子どもたちが、「生活力に余裕があれば、み
る」と。戦後の私たちは、高度成長という未曾有の経済的発展をなしとげたが、その一方でなく
したものも多い。そのひとつが、人間らしい心ということになる。
 ……とまあ、否定的なことばかり言ってもしかたないので、ひとつの提案。オーストラリアの友
人の家では、「プレゼントは買ったものではだめ」という習慣がある。それが徹底しているた
め、客でいく私のようなものにさえ、みやげに手作りのものをくれる。日本人の私たちからみる
と、「あれっ」と思うようなものだが、それが彼らの常識ということになる。えてして日本人は、豪
かなプレゼントであればあるほど、相手の心をつかんだはずと考える。親子であれば、きずな
が太くなったと考える。しかしこれは誤解。あるいはかえって逆効果。が、「買ったものではだ
め」という習慣が徹底すると、ものの考え方が一八〇度変わる。一度、試してみる価値はあ
る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(532)

心理テスト

 こんな心理テストを考えてみた。以前、何かの本で読んだテストだが、それを参考に、子ども
用(小学生用)に、つくりなおしてみた。
「一人の女の子が、夜遅くまで、ネコさんと公園で遊んでいました。お母さんは『早く帰っておい
で』と言ったのですが、ネコさんが、『もっと遊ぼう』と言って、女の子を帰してくれませんでした。
が、あたりがまっ暗になったので、ネコさんと別れて、家に帰ることにしました。女の子が家に
向かって歩いていると、橋の上に、オオカミがいました。そこで女の子は、橋の近くに仲のよい
犬さんが住んでいたのを思い出し、犬さんの家に行き、一緒に行ってほしいと頼みました。犬さ
んは、『夜はこわいからイヤだ』と言って、それを断りました。しかたないので、女の子は、橋を
走って渡ることにしました。が、女の子は、オオカミにつかまり、食べられてしまいました」
 この文を子どもの前で、ゆっくりと二度読み、「このお話の中で、一番悪いのはだれかな」と聞
いてみる。子どもが、「悪い」と言った相手によって、子どもの心理を知ることができる。
ネコ……ものの考え方が受動的。依存心、依頼心が強い。行動も追従的かつ服従的。
犬……正義感が強く、ものの考え方が積極的。クラスでもリーダー的な存在。
オオカミ……単純。ものごとを深く考えない。短絡的なものの考え方をする。
女の子……善悪の倫理観が強く、自分を律する力が強い。責任感も強い。
 低学年児ほど、ネコ、オオカミが悪いと答え、高学年になればなるほど、犬、女の子が悪いと
答えるようになる。※
 なお子どもの善悪の判断力は、年中から年長児にかけて、急速に発達する。こんなテストを
してみると、それがわかる。
 「男の子が歩いていると、お金を拾いました。その男の子は、そのお金でアイスを買って、公
園でみんなに分けてあげました。みんなは、『ありがとう』と言って、喜んで食べました。この男
の子は、いい子ですか、悪い子ですか」と。
 このテストをすると、年中児のほとんどは、「いい子」と答える。年長児でも、三〜四割の子ど
もは、「いい子」と答える。しかしその段階で、「お金を拾ったら、そのお金はどうしますか?」
「拾ったお金をつかってもいいのかな?」「アイスを、子どもが勝手に食べてもいいのかな?」
「お母さんが、食べてもいいと言っていないものを、食べてもいいのかな?」などと問いかける
と、ほとんどの子どもは、「やっぱり悪い子だ」と言う。もっともこうした道理がわからない子ども
も、年長児で一〜二割はいる。日常的に、静かに考える習慣のない子どもとみる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(533)

心理テスト(2)

先のテストで、小四〜中学生、二〇人の子どもの意見を聞いてみた。
「犬が悪い。いっしょに女の子についていってあげなかったから。女の子が困っているのだか
ら、ついていってあげるべきだった」(小四女子)
「ネコが悪い。夜遅くまで遊んでいた。女の子をもっと早く、家に帰してあげるべき」(小四女子)
「女の子が悪い。ネコさんの挑発にのったのが悪い。ネコさんにもっとはっきりと断るべきだっ
た。ネコというのは、オオカミとグルかもしれない」(小四男子)
「ネコが悪い。自分勝手だと思う。女の子としつこくいっしょに遊ぼうとした。だからオオカミに食
べられてしまった」(小四女子)
「ネコが悪い。夜遅くまで遊んでいたから」(小四女子)
「オオカミが悪い。女の子を食べたから」(小四男子)
 最後の男の子が、「オオカミが悪い」と発言したら、いっしょにいた小四の子どもたち全員(五
人)が、「タンジュ〜ン(単純)!」と声をあげた。これもひとつの意見と考えてよい。
「女の子が悪い。帰ろうと思えば帰れたのに、帰らなかったのは女の子の責任」(小五男子)
「ネコが悪い。女の子が帰りたいと言ったのに帰してあげなかったので、ネコが悪い。女の子
の責任ではない」(中一女子)
「女の子が悪い。自分の意思で帰らなかった女の子が悪い。オオカミに食べられたのは、自業
自得。しかたのないこと」(中三男子)
「オオカミが悪い。女の子を食べたのはオオカミ。何といってもオオカミが悪い」(中三女子)

ほかに、一五人(小六〜中一、計二五人)の集計を加えると、結果はつぎようになった。
  女の子……10人(40%)
              ネコ …… 8人(32%)
              オオカミ… 5人(20%)
              イヌ …… 2人( 8%)、ということになった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(534)

名前と自尊心

 自分を大切にする。それが子どもの自尊心につながり、この自尊心が、子どもの道徳や倫理
の基礎となる。その第一歩が、「名前を大切にする」。
 子どもの名前は、大切にする。子どもの名前が書いてあるものは、粗末にあつかわない。新
聞や雑誌に、子どもの名前が出たら、その新聞や雑誌は、ていねいにあつかう。切り抜いて壁
に張ったり、アルバムにしまったりする。そして日ごろから、「あなたの名前はいい名前ね」「あ
なたの名前を大切にしようね」と教える。子どもは自分の名前を大切にすることから、自分を大
切にすることを学ぶ。まちがっても、子どもの名前を茶化したり、からかってはいけない。名前
は、その子どもの人格そのものと考える。
 実のところ、この私も、自分の名前(はやし浩司)だけは大切にしている。人格的にも、道徳
的にもボロボロの人間だが、名前を大切にすることによって、かろうじて自分を支えている。
「名前を汚したくない」という思いが、いろいろな場面で、心のブレーキとして働くことが多い。そ
れは他人の目に届くとか、届かないとかいうことではない。たとえばこうして文を書いているが、
いまだかって(当然だが)、他人の文章を盗用したことは一度もない。だれにも読んでもらえな
い文とわかっていても、それはしない。できない。もしそれをしたら、そのとき、「はやし浩司」と
いう「私」は終わる。
 一方、こんな子どもがいた、その家は、女の子ばかりの三人姉妹。上から、麗菜、晴美、み
どり。その「みどり」という子ども(小四)にある日、「名前を漢字で書いてごらん」と指示すると、
その女の子はさみしそうにこう言った。「だって私には漢字がないもん」と。女の子が三人もつ
づくと、親もそういう気持ちになるらしい。しかしこういうことは、本来、あってはならない。
 そう言えば以前、自分の子どもに、「魔王」とかそんなような名前をつけた、親がいた。とんで
もない名前である。ときどきこうした私の常識では理解できない親が現れる。あまりにも私の常
識からはずれているため、論ずることもできない。ただ、今ごろあの子どもはどうしているかと、
ときどき考える。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(535)

親の気負い、子どもの気負い

 不幸にして不幸に育った人ほど、「いい親でなければならない」「いい家庭をつくらねばならな
い」という気負いが強い。その気負いが親子関係をぎくしゃくさせる。そして結果として、よい家
庭づくりに失敗しやすい。
 親ばかりではない。子ども自身が、「いい子でいなければならない」という気負いをもつことが
ある。たいていはこうした気負いはプラスに作用するが、しかしその気負いが強すぎると、子ど
も自身が疲れてしまう。疲れるならまだしも、あるとき突然、プッツンということにもなりかねな
い。これがこわい。
 子どもにかぎらず、人は、無意識のうちにも、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとす
る。もっとも手っ取り早い方法は、「いい人ぶること」。弱者のフリをする。庶民の味方のフリを
する。善人のフリをする。遠慮深く、控え目な人間のフリをする。正義や道徳をことさらおおげさ
に説き、返す刀で悪人を批判しながら、自分はよい人間であるということを強調する。
 実のところこうした「フリ」は、ものを書く人間が一番おちいりやすいワナでもある。そういう自
分をよく知っているから、私は他人の、そうしたフリを見抜くことができる。だれとはここに書け
ないが、そのタイプの人はいくらでもいる。いやいや、私自身がそうかもしれない。私はいつも
こうして偉そうな(?)文章を書いているが、本当の私を知ったら、皆さんは驚くかもしれない。
情緒は不安定だし、精神力も弱い。私はひょっとしたら、懸命に教育者のフリをして生きている
だけかもしれない。しかしこういう自分は長くはつづかない。やがてボロが出る。私が今、一番
恐れているのは、そういうボロが、いつ、どのような形で出てくるか、だ。
 話は脱線したが、子どもを見るときは、そのフリを見抜かねばならない。「この子どもは、本
当の自分の姿をさらけ出しているか。それとも自分をごまかしているか」と。本当の自分をさら
け出しているなら、それでよし。そうでなければ、心の開放をまず第一に考えて指導する。もっ
とも効果的な方法は、大声で笑わせること。大声で笑うと、同時に、心が開放される。そして互
いに心を開くことができる。気負いがとれる。
 結論を言えば、「気負い」などというのは、できるだけないほうがよい。とくに家族の中では、
ないほうがよい。家族はあるがまま。たがいにあるがままをさらけ出し、あるがままを受け入れ
る。気負うことはない。その気楽さが、家族の風通しをよくする。「親だからとか、子どもだから」
という「だから」論。「親だから〜〜のはず、子どもだから〜〜のはず」という「はず」論。「親は
〜〜すべき、子どもは〜〜すべき」という、「べき」論は、それがあればあるほど、結局は、親
子関係をぎくしゃくさせる。
 そこで私のこと。私もこうしてものを書いているが、気負うのはもうやめる。気負えば気負うほ
ど、疲れる。これからは、さらに(?)、あるがままの自分を書くことにする。それでだめなら、そ
れはそれでしかたのないことだ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(536)

エセ文化人

 週刊誌だが、T氏という文化人のコラムを読んで驚いた。ことあるごとに、日本を代表する文
化人として表彰されている人物である。
 そのコラムは、ワールドカップの前に書かれたものだが、要するにめちゃくちゃ。「予選リーグ
を勝ち抜くためには、ロシアにボールを配れ。ベルギーには経済援助をちらつかせよ。チュニ
ジアには……」と。(もっと内容はひどいものだったが、正確に記憶して書かねばならないような
記事ではない。)こうした意見でも冗談ですむところが、あの人物の人徳(?)といえば人徳だ
が、しかし日本の若者たちは、こういう人物の言うことのほうを真に受けてしまう。ものごとを、
まじめに考えなくなってしまう。
 実際、この日本。まじめに考えるよりも、ギャグのほうが若者に受ける。反対にまじめな意見
ほど、「ダサイ」と、はねのけられてしまう。ためしに大学生や高校生に、政治の話をもちかけて
みたらよい。「一〇年後の日本をどう思う?」というような話でもよい。少し前だが、私が女子高
校生のグループに、「日本がかかえる借金をどう思う?」と聞いたときのこと。その高校生たち
は口々にこう言った。「私ら、そんな借金、関係ないもんネ〜」と。
 決してそのタイプの高校生ではない。私が図書館で会った高校生である。たまたまテスト週
間で、図書館へ来ていた高校生である。
 ……と考えながら、私はときどき、ふとまじめに生きるのがバカらしくなることがある。いや、
自分ではそれほどまじめな人間とは思っていないが、しかし懸命に自分を支えながら生きてい
る。酒やタバコはもちろんのこと、夜遊びもしたことがない。商社マン時代のほんの一時期をの
ぞいて、バーとかキャバレーとか、そういうところへも行ったことはない。借金もつくらなかった
し、払うべきお金は、一週間以上先へのばしたことは一度もない。道路へゴミはもちろん、ツバ
を吐いたこともない。人に迷惑をかけたことはないとは言えないが、記憶の中では、ない。今で
も、電話相談はもちろん、メールによる相談でも、すべて答えている。一度だって断ったことは
ない。お金を受け取ったこともない。(だからといって、「まじめ」ということにはならないことは、
自分でもわかっている。たぶんT氏のような人から見れば、私は「バカ」に見えるのだろうが…
…。)
 が、T氏という人は、世俗的な人気を背景に、好き勝手なことをし、書いている。原稿料にして
も、私たちの想像をはるかに超えたものだろう。が、T氏という人に腹がたつのは、そういうこと
ではない。文化人という顔をしながら、目立たないところで懸命に私たちがつくっているものを、
平気で破壊していることだ。それはちょうど、清掃した海辺に、大きなトラックがやってきて、ゴ
ミをまきちらすようなもの。無力感すら覚える。しかし日本中がこの無力感に襲われたら、それ
こそ日本はおしまい。そういう日本だけは作ってはいけない。いや、もうこの日本は、そのおし
まいに近づきつつあるのでは……と心配する。皆さんも一度でよいから、T氏のような人物が、
本当に文化人なのかどうか、冷静に考えてみてほしい。 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(537)

子どもの発達

 幼児教育と一口でいうが、同じ幼児でも、乳幼児と幼児、就学前の幼児は、まったく違う。違
うから、私はたとえば乳幼児について聞かれても、ほとんどわからない。(常識程度にはわかっ
ても、人に話せるほど、わからない。)
 そこで私なりに、この時期の子どもの発達段階を考えてみた。
【乳幼児期】乳児から満四歳前後の子どもをいう。満四歳くらいから、子どもは、少年少女期へ
の移行期に入る。満四・〇歳ごろから、知的好奇心がきわめて活発になり、満四・五歳くらい
から、ほうっておいても文字数に大きな興味を示すようになる。まだ乳幼児期の延長期とみる。
【移行期】満四・五歳くらいから、子どもは少年少女期への移行期に入る。何かにつけて生意
気になり、自己主張が強くなる。子ども扱いをされたくないという思いと、まだ親の庇護下にい
たいという、ふたつの矛盾した願望が混在し、子どもの情緒は不安定になる。怒りっぽくなった
り、ぐずりやすくなる。
【少年少女期】満五・五歳児くらいになると、少年少女期へ移行する。この時期になると、子ど
もの人格の「核」形成がすすみ、「この子はこういう子だ」という形がしっかりと見えてくる。過干
渉、溺愛が日常化すると、この核形成が遅れ、いわゆる幼児性がそのまま持続することが多
い。
 この中でとくに大切なのは、【移行期】である。この時期に、いかに教育するかが、その子ども
の一生を左右する。フロイトのいう自我(SELF)もこの時期に形成されるが、知的能力の急激
な発達にあわせて、論理性、分析能力などもこの時期に養われる。この時期はとくに、静かで
穏やかな生活を大切にし、心豊かで温かい愛情を子どもに注ぐことを忘れてはならない。人格
の核形成のみならず、子どもの性格、方向性もこの時期に決まる。言い換えると、@この時期
までにそうでなくても、この時期をうまく利用すると、子どもを作り変えることができる。Aこの時
期を通りすぎたら、反対にその子どもはそういう子どもと認めたうえで、子どもの性質や性格を
いじってはいけない。無理をすればするほど、たとえば子どもは自信をなくし、親が望むのとは
別の方向へすすむ。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(538)

私の過去(高町時代)

 浜松市へきたころの私は、お金になることは何でもした。翻訳に通訳、家庭教師に代筆、進
学塾で講師をしたり、楽器メーカーの貿易部の顧問もしたりした。午前中は幼稚園に勤め、午
後からは、そういう意味では好き勝手なことをした。そんなとき、小さな塾を開いた。
 浜松市内の中心部に、中央図書館がある。その図書館の近くに、高町公民館という公民館
があった。今もある。畳敷きの、全体でも二〇畳前後の公民館だった。私は週二回、この公民
館を借りて、塾を開いた。生徒は、四人。みんな女子高校生だった。今から思い出しても、あの
ときの高校生たちよりまじめな(?)高校生は、それ以後、出会ったことがない。みんな時間通
りきて、ただひたすら黙々と勉強してくれた。私も、懸命というより、必死だった。何よりも生徒
がふえることを願ったが、結局、そのあと一年半の間、生徒は四人のままだった。
 塾を開くのに、私はほとんど抵抗がなかった。「教えるころでお金を受け取る」ということに抵
抗を感ずる人も多いが、私はそういう意味では平気だった。学生時代、一番尊敬した人物が、
正木猛氏(現在八八歳、岐阜県美濃市で健在)という人だったということもある。塾の教師だっ
た。それにむしろ「自由な教育」ということを考えるなら、塾のほうが自由だった。当時、よく言
われたことに、こんなことがあった。「塾の教師は、生徒を殴(なぐ)ってもよい。しかし学校の教
師はいけない」と。殴れば殴ったで、その生徒は、そのつぎからは塾へ来なくなる。そういう逃
げ場がある。しかし学校では、その逃げ場がない。「逃げ場がない状態で、生徒を殴るのは、
卑怯」と。しかし塾には、もっと大きな違いがある。
 塾は生徒に、一度、頭をさげる。「さげる」という言い方はおかしいが、少なくとも月謝を受け
取るときは、頭をさげる。「教えさせていただきます」という姿勢から、教育がスタートする。「生
徒は向こうからやってくるものだ」と考える(多分?)学校教育とは、ここが違う。つまり熱心か
熱心でないかということになると、塾教育は、熱心にやらなければ、経営そのものが成りたたな
い。あるいはそのまま閉鎖。きびしさが違う。が、結果的にみると、それが私のばあいにはよい
方向に作用した。学校で言えば、毎日が参観授業のようなものだった。幼稚園での仕事にして
も、毎日、教材を用意しないと、授業そのものができなかった。
 今でも、あの高町の公民館のあたりを通り過ぎると、ふとそちらのほうを見る。なつかしいと
いうよりも、そのつど、どっと、重苦しい暗雲のようなものが心をふさぐ。そのときの生徒は四人
とも、東京でも一、二を争う女子大学へと進学していった。が、どこかすっきりしない。理由はよ
くわからないが、そのころの私は、経済的にも、社会的にも、どん底だったことによるのではな
いか。多分……?



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(539)

私の過去(ゴーストライター時代)

 私は、当時、いろいろな人のゴーストライターをしていた。その中には、全国的に有名なドクタ
ーや、美容研究家がいた。彼らのために月刊誌や週刊誌の記事、単行本などの原稿を書いて
いた。研究論文まで書いていた。単行本だけでも、五〜七冊は書いただろうか。月刊誌や週刊
誌ともなると、数知れない。当時一人のドクターは、テレビの全国放送で、いつも二〜三本のレ
ギュラー番組をもっていたから、その企画の原稿も書いていた。しかしそれは、お金にはなった
が、むなしい稼業だった。
 「娼婦」と呼ばれる女性がいる。体を売って、お金を稼ぐ。しかしゴーストライターは、魂を売っ
て、お金を稼ぐ。そのとき私は、そう感じた。いや、ゴーストライターといっても、いろいろある。
本人にまずしゃべってもらい、それをテープレコーダに録音し、それから原稿に起こすというゴ
ーストライタ〜がいる。よくテレビタレントが暴露本などを出すことがあるが、そういう本は、たい
ていこうしてできた本とみてよい。そういう本であれば、魂を売るということはない。しかしその
一線を超えて、よい本を書こうとすると、そうはいかない。自分で取材し、それをまとめ、さらに
思想でつつむ。そこまですると、どうしても自分の「心」が入ってしまう。問題はその「心」だ。
 ゴーストライタ〜を平気で使う人というのは、もともとそのレベルの人とみてよい。少なくとも文
士ではない。そういうレベルの人のために、自分の心を売るというのは、まさに屈辱(くつじょく)
でしかない。何という敗北感。何という無力感。何という虚しさ。そういうものが、一文書くたび
に、どっと胸をしめつける。私のばあいも、毎日がそれらとの戦いだった。が、それだけではな
い。ゴーストライターとして自分の心をその中に織り込むということは、その心は二度と使えな
いことを意味する。あとで自分の名前で、同じようなことを書けば、そのまま盗作ということにな
ってしまう。言いかえると、もの書きとしての自分の命を、そこで断つことを意味する。
 だから二七歳ぐらいのとき、私はゴーストライターの仕事はやめた。しかし、だ。この世の中、
どこがどうおかしいのかわからないが、私がゴーストライターで書いた本は、本当によく売れ
た。著者(?)の知名度もあって、本当によく売れた。しかし、だ。一方、私が自分の名前で出し
た本は、売れなかった。どれもパッとしないまま、たいていは初版で絶版。よくワイフは、「あな
たは世間を逆恨みしているのよ」と言うが、本当のところ、逆恨みもしたくなる。中には、出版社
へ原稿を売り渡し、その本に、著名なタレントの名前を載せて出した本がある。私が手にした
のは、その原稿料のみ。しかしその本は一〇万部以上も売れた! 結果、そのタレントは、一
〇〇〇万円近い印税を手にした。こういうことはこの世界では、珍しくない。
 私は以後、一度も他人のために文を書いたことがない。ときどき頼まれて、「では……」と書
き始めることもあるが、どうしても筆が進まない。今もそうだ。いくらお金を積まれても、もう二度
とゴーストライターはしたくない。できない。しない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(540)

心の抵抗

弱者は自分より不幸な人をさがしだして喜び、強者は自分より幸福な人をさがしだしてねた
む。
 この格言は私が以前考えた格言だが、しかしよくよく考えてみれば、これほど日本的な格言
はない。幸福観そのものが、相対的でしかない。いつも他人の目を気にして生きていると、こう
した幸福観をもつようになる。問題は、なぜ私がこのような格言を考えたか、だ。
 当時、私は、世間体を気にする人を頭におきながら、この格言を考えた。世間体を気にする
人は、ものの考え方が相対的で、「他人より給料が多いから、私は能力がある。リッチだ」「他
人より給料が少ないから、私は劣っている。貧しい」と考える傾向がある。いつもどこかに「平
均(ふつう)」というものの基準があって、それを尺度にして、自分を判断したり、他人を判断し
たりする。
 で、さらに今、その当時の自分を分析すると、こんなことがわかる。なぜ、私という人間が、こ
うまで世間体を気にするかということ。さらに世間体に代表される生き方を、こうまで気にする
かということ。それにはつぎのような理由がある。
 ひとつは、私が生まれ育った岐阜の地方では、世間体という言葉が、きわめて日常的に使わ
れていたということ。「世間が笑う」「世間が許さない」とか、など。耳にタコができるほど、その
言葉を聞かされた。私は子どものときから、その言葉が嫌いで、よく母に、「世間が何だ!」「世
間が何をしてくれる!」と反発したのをよく覚えている。が、それだけではない。
 当時、(今もそうだが)、学校での成績は、「順位」で評価された。「他人よりよい点数であれば
優秀」「他人より悪い点数であれば劣っている」と。私は中学時代、学年、五五〇人中、成績で
は二番になったことがなかった、九教科の合計点でも、いつも二番との差が、三〇〜八〇点は
あった。まさにガリ勉そのもので、先生たちが「一科目でもいいから、林を追い抜け」とほかの
生徒にハッパをかけていたのを、よく覚えている。が、高校へ入ると、一転した。私は岐阜市内
の進学高校へ入りたかったが、母がそれを許してくれなかった。そのため地元の、それほどレ
ベルの高くない高校に入ることになった。私には不本意な高校だった。
 そういう高校だったから、一年のころは遊んでいても、成績はいつもトップだった。が、何より
も不愉快だったのは、テストごとに、毎回成績と名前と順位が、カベに張り出されることだった。
私はそれを見るたびに、何かしら、いつもだれかに追われているような脅迫感を感じた。で、あ
る夜、学校へ忍び込み、その張り紙を破ったことがある。そういう思いが、今でも残っている、
残っていて、今でも順位で判断されることに、生理的な嫌悪感を覚える。「私は私、どこまでい
っても私」という思いも、そういう経験の中で熟成された。この格言には、そういう私の、心の抵
抗が織り込まれている。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(541)

不況時代の、子育て論

 本格的な大不況が、近づいてきた。昨夜(〇二年七月四日)、書店で三冊の週刊誌を買って
きた。アメリカにいる二男に送るためである。週刊新潮、週刊文春、週刊朝日の三誌である。
その三誌が、まるで呼吸を合わせたかのように、日本経済の破綻(はたん)を予告している。
あの堺屋氏(経済企画庁元長官)まで、悲観的なことを書いている(文春)。大不況がやってく
るのは、もう確実で、しかも秒読み段階に入ったとみてよい。
 が、経済がどうなるかを考えるのは、このコラムの目的ではない。問題は、そういう大不況に
なったら、子育てをどう考えたらよいか、だ。と、言っても、私たちの世代は、すでに暗くて、貧し
い時代をすでに経験している。私は昭和二二年生まれ。堺屋氏がいうところの、まさに「団塊
の世代」。子どものころ記憶にあるのは、毎日、空腹だったこと。みながみな、そうだった。だか
ら私や私の家族が貧乏だったという思いは、どこにもない。そういう自分を思い出しながら、大
不況下の子育てはどうあるべきかを考えてみる。
(1)子どもは親が気にするほど、貧乏を気にしない…貧乏を気にするのは、親であって、子ど
もではない。子どもはそういう意味で、環境をあるがまま受け入れ、適応する能力をもってい
る。貧乏であることを、子どもに恥じることはない。恥じてはいけない。
(2)親は卑屈にならない……いくら貧乏になっても、親は卑屈になってはいけない。親が卑屈
になると、子どもの心は「貧しく」※なる。一杯のかけそばを、分けあって食べるような、そういう
卑屈なことをしてはいけない。親は親で、前向きに気高く生きる。
(3)貧乏を楽しむ……貧乏なら貧乏で過ごし方がある。見え、体裁、メンツを捨てる。世間体な
ど、気にしてはいけない。「私は私」という生きザマを大切にする。日本がこの不況から抜け出
る日はやってくる。そのとき同じスタートラインに立ったとき、あなたの生きザマは、子どもを伸
ばす大きな原動力となる。
(4)金銭的価値観とは決別する……「プレゼントは買ったものはダメ」「買う前にリサイクル」
「不便であるのが当たり前」などを、ハウス・ルールにする。今までの金銭的価値観からものの
考え方を転換する。家の中はスッキリ、ムダなくをモットーとする。
(5)家族の意義をたてなおす……家族は励ましあい、助けあい、教えあい、いたわりあい、支
えあう。そういう家族をものの考え方の中心におく。「家族がいちばん大切」ということを、日常
的に子どもに言う。貧乏だからといって、このきずなは壊れない。むしろ貧乏であればあるほ
ど、そしてその貧乏を楽しめば楽しむほど、家族のきずはな深まる。
(6)質素であることを誇りにする……質素であることを恥じることはない。むしろ誇るべきことで
ある。自動車には乗らず、自転車に乗る。バリバリのブランド品で身を包むのではなく、ヨレヨ
レの雑貨品を使う。それこそが人間の気高さの象徴である。

※貧乏と、心の貧しさは別。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(542)

不況時代の、子育て論(2)

 貧乏でこわいのは、見え、メンツ、世間体。この三つに毒されると、愛すべき貧乏が、憎むべ
き貧乏に変身する。そればかりではない。自分で自分を見失ってしまう。他人の目の中で生き
る人生ほど、はたから見ても、見苦しいものはない。そのためにもできるだけ早い時期に、「私
は私」という、自分の生きザマを確立する。自分が自分であるかぎり、貧乏など、何でもない。
 むしろ貧乏であるほうが、他人の心がよくわかる。そしてそのわかった分だけ、心のつながり
ができる。悲しみや苦しみを、互いに共有するからだ。見苦しいといえば、少し前までテレビに
よく出ていた、元野球監督の妻のSがいた。脱税で逮捕されるまで、まさにしたい放題、言いた
い放題のことをしていた。顔中に、人間がもつあらゆる醜悪さを、塗りたくったような女性だっ
た。
 私たちが今すべきことは、ああいう人間の醜さを、しっかりと記憶にとどめておくことだ。また
ああいう人間を評価しないこと。その女性は億単位のお金を右から左へ動かしていたという。
超の上に超がつく金持ちだったかもしれないが、軽蔑すべき人間というのは、まさにああいう人
間をいう。
 貧乏であることは、何ら恥ずべきことではない。むしろ誇るべきことかもしれない。質素につ
つましく生きることは、それ自体が美徳であり、すばらしいこと。ただし、貧乏と、心の貧しさは
違う。いくらベンツの大型車に乗っていても、タバコの吸殻を窓から外へ捨てる人は、心の貧し
い人という。いくら豪かな家に住んでいても、自分より弱い立場の人をさげすみ、罵倒する人
は、心の貧しい人という。いくら貧乏になっても、その心の貧しい人になってはいけない。
 私とて、お金は嫌いではない。いつも心のどこかで、いつかはお金持ちになりたいと願ってい
る。本を出版するときも、「売れればいい」と、いつも願うのは、自分の考えがより多くの人に理
解されることを願うというよりは、印税が少しでも多く入ることを願うからだ。しかしこんなことは
守っている。月によって、いつもの月よりも多くの収入が入ることがある。そういうときでも、い
つものように、最低限の生活を守るようにしている。車だって、動けばよい。服だって、着られ
ればよい。食べものだって、食べられればよい。ときにぜいたくをすることはあるが、それはあ
くまでも「ときには」という話である。
 私には退職金はない。天下り先もない。年金もない。息子たちの世話にはならない。すべて
が「ないないづくし」だから、いつか必ず、私は貧乏になる。長生きすればするほど、貧乏にな
る。それがわかっているから、今からその貧乏になるための準備をしている。が、それは同時
に、やがてやってくる大不況の準備のためでもある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(543)

霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。
 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなけ
ればならない。数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。しかしその問題が「解けないことを証明す
る」のは、至難のワザである。
 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。非公式の調査でも、約七〇〜
八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。「信ずる」といっても、度合い
があるから、一概には論ずることはできない。で、それはそれとして、子どもの世界でも、占い
やまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。またこの出版不況の中でも、そう
いった類(たぐい)の本だけは不況知らず。たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万
件ものアクセスがあるという(二〇〇一年秋)。
 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。
私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を一八〇度変えなければならない。これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじ
のようなものだ。宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。「当たる
かもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。もちろん当たれば、もうけも
の。そのときはそのときで考えればよい。
 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。見たことも、感じたこともないの
だから、これはしかたない。で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけ
もの。それから霊の存在を信じても遅くはない。何と言っても、霊の世界は無限(?) 時間的
にも、空間的にも、無限(?) そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足り
ない小さなもの(?) 
 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。だからこの世界を、まず大切にしたい。神様
や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。ただ
言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。人間
として懸命に生きる。そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様の
ほうこそ、まちがっている。
 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。私は私。どこまでいっても、私は私。
 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(544)

宗教について(1)
 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。
 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は
一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は
神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がい
る。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っ
ても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。
 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。一方、今、小学生たちの間で、占い
やおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアク
セスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなの
だろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」と
いうのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だ
って持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を
使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化
するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめてい
たので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があ
れば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(545)

宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回
向論である。これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それ
は仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽
に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事
典・石田瑞麿氏)となる。しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何が
なんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでし
まう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことでは
ないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ
行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。
 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育
するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、
そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(546)

宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。
 が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判
されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうと
きでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神
や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらい
で、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だ
いたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが
地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわ
かる。
 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生
……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをか
なえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そ
うなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。スーパー
パワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学
も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心
境と言ってもよい。
 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(547)

宗教について(4)
 
 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども
(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たった
からだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不
足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒
鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その
一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。
 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人に
は、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理という
のは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところで
す」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わな
い。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。
 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(548)

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定さ
れたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるもの
ではない。
 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ
だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい
る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。
 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」とい
う言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判
断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないとい
うより、もとから考えの中に入っていない。
 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(549)

孤独

 孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されな
い。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されな
い。……あなたは、そんな孤独を知っているか? もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだ
け、自分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわ
かれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。
 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あな
たの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇
万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。
 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、
どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出し
てみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。
 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこま
でも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみ
る。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。
 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで
心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かに
する。一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を
冷たくし、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。静
かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言え
ばよい。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独か
ら、逃れることができる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(550)

常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、
あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の
心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。
 手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして
今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけるこ
とはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心
に従えばよい。
 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻ら
ない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけて
みた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本
当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝
たい」と。
 そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだ
った。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワ
イフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。
 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ご
まかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手が
あなたに心を開くことができるのか。
 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができな
いから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認
め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をは
ったりする。
おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのよ
うに見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最
初の一歩となる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(551)

耐性のない子どもたち

一人の生徒(小四)が、レッスンの途中でトイレに行った。が、すぐ帰ってきてしまった。理由を
聞くと、「ゴキブリがいたから」と。
 あるいは別の日。私の家に遊びに来ていた中学生(中二女子)が、突然タクシーを呼んでくれ
と言った。理由を聞いても言わない。しかたないので、タクシーを呼んだ。で、それからしばらく
してから母親に理由を聞くと、こう話してくれた。「あの子は、便座型のトイレだと、よそのトイレ
が使えないのです」と。
 私が小学生のころは、ボットン便所が当たり前だった。トイレットペーパーすらなかった。学校
のトイレでは、新聞紙をノート大に切った紙がヒモでぶらさげてあって、それを使った。もっと
も、そのままでは使えない。使う前に、一度、手でもんで、ほぐさなければならない。だからトイ
レでは、その新聞紙をクシャクシャとほぐす音が、いつも聞こえていた。
 私が経験したような貧しい時代が、よい時代とは思っていない。しかし今の子どもたちより
は、生活に対して、はるかに耐性があった。が、問題は耐性がなくなったことではない。今のよ
うな豊かな生活が維持できれば、それでよし。しかし生活がマイナス方向に進みはじめたとき、
果たして今の子どもに、それを乗り切る力があるかということ。仮に明日から、「トイレはボット
ン便所にします」と宣言したら、子どもたちはパニック状態になってしまうかもしれない。もっとも
これは極端なケースだが、しかし便利さに溺れるあまり、自分を見失っている子どもは多い。
 もう一〇年も前だが、高校生たちと旅行をしたことがある。が、帰るときになると、みな、手ぶ
らである。驚いて「荷物はどうしたの?」と聞くと、「宅急便に預けた」と。で、このことを当時、あ
る雑誌のコラムに書こうとしたら、編集長がこう言った。「林さん、知らなかったのですか。今で
は、それが常識ですよ」と。
 夏になると、青い顔をして、苦しそうにハーハーとあえいでいる子どもは、いくらでもいる。「ク
ーラーがないと、何もできない」のだそうだ。皆さんはご存知ないかもしれないが、今では、小さ
なハエが一匹教室に入ってきただけで、クラスはパニック状態になる。いわんやゴキブリとなる
と、大騒動! 私はそういう状態をみるたびに、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。いうまで
もなく、子どもたちには、山を登る力はある。しかし山をくだる力はない。いかにして山をくだる
力を教えていくかも、教育の大切な役目ではないのか。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(552)

山をくだる力

 教育というと、山を登ることばかり教える。たとえば少し前まで、「勉強して、いい大学へ入れ」
と教える親や先生は、いくらでもいたが、子どもがすべったときの、心のケアまで考える親や教
師はいなかった。みながみな、合格することだけを考えて、子どもの尻を叩いた。しかし山の登
り方に劣らず大切なことは、山の下り方である。こんな女の子(中学生)がいた。
 何でも「ここ一番!」というときになると、自ら手を引いてしまうのである。「私は、どうせダメだ
もん」と。そこで「どうして」と聞くと、こう話してくれた。「だって、私はA小学校の入試に落ちたモ
ン」と。その子どもは、六年以上も前に、A小学校の入試に失敗したことを、気にしていた。しか
しこういうことは本来、あってはならない。
 子どもに向かって、「伸びろ!」とハッパをかけるのは、簡単なことだ。しかしその過程で、挫
折し、キズつく子どもがいる。そういう子どもはどうすればよいのか。もっと言えば、日本人は、
目が上ばかり向いているから、弱者のことは考えない。ひところ昔までは、たとえば大学入試
についても、「落ちたら落ちた生徒が悪い。あとは自分で考えろ」というのが、ごく一般的な考え
方だった。成功者をワーワーともてはやす一方、失敗者を容赦なく切り捨てた。……今も、切り
捨てている。中には自分が弱者であるにもかかわらず、その弱者であることを忘れてしまって
いる人がいる。
 私の母がそうだった。昔、「おしん」というテレビドラマがあった。貧しい家の少女が、全国チェ
ーンにまで、自分の店を育てるというドラマである。数年前に倒産した、ヤオハンジャパンの社
長の、Kさんがモデルと言われている。そのヤオハングループのスーパーが、私の家の近くに
でき、そのため私の家は閉店に近い状態に追い込まれた。しかし当時の母は、毎日、涙をこ
ぼしながら、「おしん」を見ていた!
 こうした日本人独特の「おめでたさ」というのは、結局は体制側によってつくられたものと考え
てよい。なかんずく教育そのものが、そうなっている。山に登ることばかり教えるから、目が上
ばかり向くようになる。下を見ない。下がわからない。さらに自分自身が弱者であるにもかかわ
らず、その弱者であることすら忘れて、強者をたたえてしまう。
 山をくだる教育がどういうものかは、それからゆっくり考えることにして、これはまさに、日本
の教育がもつ最大の欠陥といってもよい。今でも、「勉強ができないのは、できない子どもが悪
い」と平気で言う人は、いくらでもいる。しかしこうした教育観は、基本的な部分で、まちがって
いる!



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(553)

織田信長論

 先日もテレビを見ていたら、こう言った知事(M県)がいた。「私は信長の生き方に共感を覚
えます。今の日本に必要なのは、信長型の政治家です」と。
 信長のもとで、いかに多くの善良な庶民が苦しみ、犠牲になったことか。京都の川原では、毎
日四〇〜五〇人もの人が処刑されたという記録も残っている。少し冷静に歴史を見れば、彼
がまともな人間でなかったことは、だれにだってわかるはずだ。私たちはともすれば、あの時代
を、信長の目でしか見ない。が、一度でもよいから、信長にクビを切られる庶民の立場で見て
はどうだろうか。県知事という、権力のトップに立ったような人には、信長は理想かもしれない
が、しかし私はゴメン。もし今、信長型の政治家が出てきたら、徹底的に私は戦う。
 日本以外の多くの国々では、外国の勢力によって、圧制に苦しんだという歴史がある。そうい
う国々で、そうした外国勢力をたたえるようなドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあ
う。あのオーストラリアでさえ、英国総督府時代のイギリスを美化するだけで、袋叩きにあう。し
かし信長やそれにつづく封建領主たちのした圧制は、植民地の統治者でもしなかったような圧
政である。ウソだと思うなら、一度、新居町(静岡県浜名湖の西にある町)の関所跡へ行ってみ
ることだ。当時は関所破りをしたというだけで、一族すべてが処刑された。そんな記録が残って
いる。
圧制は圧制でも、信長は日本人だったから許されるという論理は、それ自体、おかしい。もし
仮に信長が、朝鮮の李朝の出身者だったら、今ごろはどう評価されていることやら。ほんの少
しだけでもよいから、それを想像してみてほしい。それともあなたは、それでも信長をたたえる
だろうか。もしそうなら、鎌倉時代に、日本を襲った、蒙古のチンギスハン(モンゴル帝国の創
始者、元の太祖)をたたえたらよい。信長より、ずっとスケールが大きい。
 歴史は歴史だから、それなりの評価は大切である。しかしそれ以上に大切なことは、その歴
史を冷静に評価することである。あのナポレオンは、「歴史はみなが合意のもとにつくった、作
り話である」(ナポレオン「語録」)と書いている。ときには、そういう冷めた目も大切である。で、
ないと、「歴史は繰り返す」(ツキュディデス「歴史」)ということになりかねない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(554)

孤独(2)

 私は子どものころから、愛想のよい人間と言われてきた。しかしそれは仮面。本当の私は、
人嫌いで、むずかしがり屋で、わがまま。自分勝手で、傲慢(ごうまん)。だから友だちの数は、
少ない。本当に心を開いて、何でも話せる人というのは、ワイフくらいしかいないのでは……。
あとは郷里にいる姉。そういう意味では、私は、実にさみしい人間。孤独な人間。
 そんな私だから、ときどき、こう考える。もしワイフや姉がいなくなったら、私はどうなるか、と。
まず第一に、私は生きる力をなくすだろう。第二に、今のような精神状態を保つことはできなく
なるだろう。第三に、……?
 私の知人のI氏(五一歳)は、妻を病気でなくしたあと、自分も精神病院へ入ってしまった。約
六か月入院していたが、そのあと、別人のようになってしまった。私との関係は、ここで切れた
が、それから数年たって消息を聞くと、I氏はそのあと、全国を旅して回ったという。I氏には暗く
て、苦しい六か月だったに違いない。これに似た話だが、昔、長谷川一夫という俳優がいた。
日本人で彼の名前を知らない人はいなかった。そういう俳優だったが、妻が死んだあと、その
あと数か月で、自分も死んでしまった。毎日、毎晩、妻の仏壇の前で、彼女の死を悲しんでい
たという。
 私たちはひとりでは生きられない。仮にあなたが巨億の富を手にして、あらゆる権力を手にし
たとしても、ひとりだったら、孤独に打ち克つことはできない。たいした富もない、権力もない私
がこう結論づけるのは、危険なことだが、こんなことは常識。少し頭を働かせば、だれにだって
わかる。
 そこで改めて、生きる意味を考える。私たちは、どうして生きているか、と。あるいはどうすれ
ば、生きることにまつわる孤独から、自分を解放することができるか、と。あるいはそもそも生
きる意味など、考える必要はないのか、と。「あるがままを生きて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それでいい」と言う人もいる。「そのときはそのときだから、ジタバタしても、しかたないではない
か」と。実のところ、私もできれば、そうしたいと思っている。今は、今なりに、結構、ハッピーな
のだから、それでよいではないか、と。しかしこういう生き方は、あとでドンとツケが回ってくるの
ではないかと、それがこわい。
 こうした恐怖感から逃れるために、ひとつの方法としては、宗教がある。神や仏に身を寄せて
しまえば、それはそれなりに楽になれる。実際には、同じ信仰をする仲間どうしが、たがいに慰
めあい、いたわりあうことで、楽になれる。しかし今の私には、それもできない。いや、とても残
念なことだが、いまだかって、そういう宗教にめぐりあっていない。
 ああ、私は神や仏にすら、見放された人間なのか。ああ、私はそこまで孤独な人間なのか。
私はこの孤独から、いったいどうすれば逃れることができるのか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(555) 

自己分析

 わかっているようで、わからないのが、自分。自分を知ることはむずかしい。「私は私」と思っ
ている人でも、本当のところは、わかっていない。私のばあい、仕事がらいつも子どもを見てい
るので、子どもを通して、自分を知ることができる。その私のこと。
(帰宅拒否)私は子どものころ、いつも真っ暗になるまで、寺の境内や道路で遊んでいた。ある
いは学校から帰ってくるときも、まっすぐ家に帰ったことは、一度もなかった。そういう思い出か
ら、私は帰宅拒否児だったと判断できる。
(かんしゃく発作)私は泣いたあと、よくしゃっくりをしていた。かなりはげしく泣かないと、そのあ
としゃっくりが出るということはない。私は興奮性の強い子どもだったようだ。そういうことから、
私は家庭教育の失敗による、かんしゃく発作の持ち主だったことがわかる。
(ひねくれ症状)私は中学生のころ、気がある女の子の前へくると、わざと無視したり、意地悪
をした記憶がある。小学五年生のときには、一人の女の子のノートに落書きをして、泣かせて
しまったことがある。そういう思い出から、私はものの考え方が、かなりひねくれていたことがわ
かる。
(分離不安)今でも、ときどき夜になると、言いようのない不安感に襲われることがある。ひとり
取り残されたかのような不安感だ。人づきあいは、あまりよくない割には、ひとりでいるのが苦
手。子どものころ、母親のあとをいつもついて回っていたのを覚えている。そういうことから、私
は分離不安だったようだ。
(情緒不安定)私は寝るとき、貝殻でつくったボタンを指でいじるクセがあった。小学三、四年生
までそれがつづいた。そのボタンをいじっていると、気持ちよかった。これは固執型の情緒不
安定児によく見られる症状である。そういう症状から、私は情緒が不安定な子どもだったよう
だ。
(愛情飢餓)小学三年生ぐらいのときだった。人形がほしくてほしくてたまらなかったときがあ
る。しかし「男が人形で遊ぶなんて」と言われそうで、なかなかそれを言えなかった。で、伯母に
内緒で作ってもらい、その人形を毎晩、抱いて寝た。一方、よく「浩司は愛想がいい」と言われ
た。相手に合わせて、シッポを振る(相手に取り入る)のがうまかった。そういう思い出から、私
はかなり愛情に飢えていたと判断できる。
 いろいろ問題がある私だが、考えてみれば、それも当然。父親は数晩おきに酒を飲んで暴
れた。私にはそれが恐怖だった。母親は母親で、虚栄心のかたまりのような女性で、見栄やメ
ンツばかりを気にしていた。戦後の混乱期のことで、親たちも生きていくだけで精一杯。戦争の
後遺症を多かれ少なかれ、どの人も引きずっていた。私はそういう時代に生まれ、そしてここ
に書いたような子どもになった。
 あなたも私がここに書いたことを参考にして、自分の過去をさぐってみてはどうだろうか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(556)

自己分析(2)

 自分を知るためには、まず(1)過去の思い出を静かにさぐってみる。子どものとき、あなたは
自分がどういう行動をしたかなど。あるいは相手の人が、どのように反応したかでもよい。先生
があなたのことで何かを言ったことでもよい。あるいはあなたの父親や母親の口グセでもよ
い。つぎに(2)そういったことを手がかりに、自分の分析を始める。そのときある程度の知識が
必要となる。恐怖症、神経症、情緒不安など。そしてある程度、自分の症状が類型化できた
ら、(3)なぜそうなったかを、考えてみる。そのときとくに大切なのか、あなたが生まれ育った、
家庭環境である。父母はどういう状態だったか。家庭はどういう状態だったか。あなたと父母の
関係はどうだったか。父母に対して、どのような感情をもっていたか、など。
 こうした自己分析をする理由は、二つある。ひとつは、「今の自分」を、よりよく知るため。今、
あなたは「私は私」と思っているかもしれないが、実のところ、「過去につくられた部分」のほう
が大きい。しかし問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去があることに気づかな
いまま、その過去に振りまわされること。そして同じ失敗を繰り返すこと。いじけやすい、ものの
考え方がひねくれている、つっぱっている、ひがみやすい、など。しかしもしあなたが自分の過
去に気づけば、こうした問題は、そのあと多少の時間はかかるかもしれないが、それで解決す
る。
 もうひとつの理由は、子育ては、親から子どもへと、伝播(でんぱ)しやすい。「世代連鎖」と呼
ぶ人もいる。その連鎖が、よいものでればよいが、そうでないものもある。たとえば子どもを愛
せない、子どもに暴力を振るなど。もしそうであれば、そういう連鎖は、できるだけあなたの代
で、断ち切る。そのためにも、なぜ今、あなたが子どもを愛せないか、なぜ今、あなたが子ども
に暴力を振るうかを知る。この問題も、あなたが自分の過去に気づけば、そのあと多少の時間
はかかるかもしれないが、それで解決する。
 自分を知ることは、おもしろいことでもあるが、同時にこわいことでもある。しかしさらに自分
を知ると、人間自身がもつおもしろさに、あなたも気がつくはず。ついで子育ての深遠さに気づ
き、子育てがどうあるべきかに気づくはず。ぜひあなたも、自分さがしをしてみてほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(557)

子育て論

 このところ、ほぼ二日おきにマガジンを発行している。うるさく思っている人も多いかと思う。も
しそうなら、適当に読んでくださるか、フィルタリング※して、ヒマなときにでも読んでくだされば、
うれしい。
 さあて、本論。こうして毎日子育て論を書いていると、ネタが切れるときがある。頭の中がカラ
ッポになる。で、パソコンに向かっても、何も頭に浮かんでこない。そこで「これでマガジンもし
ばらく休みだな」と思ったりする。しかし、不思議なものだ。町の中へ行き、そこで教室で子ども
たちの顔を見たとたん、頭の中にムラムラと、書きたいことがわいてくる。これは不思議な現象
だ。
 このことから、私はひとつの教訓を学んだ。子育て論は、現場を離れては書けないというこ
と。また現場を離れた子育て論は、意味がないということ。たとえば昔、Tという日本でも有名な
教育家がいた。私も何冊か彼の本を読んだことがあるが、現役時代の彼の本は、たしかにお
もしろかった。しかし現役を離れ、引退し、さらに有名人になってからの彼の本は、違った。ど
れも美辞麗句ばかりで、読むに耐えないものばかりだった。
 言いかえると、私が一番恐れているのは、この点である。もし私の周囲から子どもたちの声
が聞こえなくなったら、多分、私はもう子育て論は書けないだろうと思う。だからときどき私はワ
イフにこう言う。「死ぬまでぼくは、教える仕事をやめることができない。教えるのをやめたら、
そのとき、はやし浩司も終わる」と。……実のところ、毎年、どこか鋭さが消えていくように感ず
る。気力も、集中力も弱くなったように感ずる。何か目標をもたなければと思っているが、その
目標すらかすんできた。ときどき「時間との勝負」と思うことが多くなった。
 今も、「うるさいマガジンと思われているだろうな」と考えつつ、つぎのマガジンを考えている。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

※……フィルタリングというのは、受信したメールを自動的により分けて、別のフォルダーに格
納することをいう。方法は、(ツール)→(メッセージルール)→(メール)→(メールルール)か
ら、「件名に指定した言葉が含まれるばあい」にチェックを入れる→「指定したフォルダに移動
する」にチェックを入れる→「指定した言葉が含まれる」をクリックして、そこに「はやし浩司」と
入れる、「指定したフォルダ」のところから、移動先のフォルダを決める。これで私からのうるさ
いマガジンは、すべて別フォルダに格納される。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(558)

自分であって自分でない部分
 
 子育てには、「自分であって自分である部分」と、「自分であって自分でない部分」がある。問
題は、「自分であって自分でない部分」。それがわからないと、自分で失敗しながら、その失敗
に気づかないまま、その失敗を繰り返すことになる。子育てはそういう意味で、「頭で考えてす
る部分」と、「条件反射的に、何も考えないでする部分」がある。その「何も考えないでする部
分」が、よい部分であればよし。しかしたいていは悪い部分。その悪い部分が、あなたを裏から
あやつる。それがこわい。子育てで失敗する人というのは、その悪い部分に操(あやつ)られて
いる人とみてよい。よい例が、子どもへの暴力、暴行、虐待。子どもに暴力、暴行、虐待を繰り
返す人は、自分自身もそれらを親から受けた人が多い。これを「世代伝播(でんぱ)」という。そ
れを防ぐためにも、自分の過去を冷静に見る。それは勇気がいることだが、しかし「何も考えな
いでする部分」がわからないままだと、この問題は解決しない。
 一方、子育てで失敗する人というのは、たいていパターンが決まっている。「子どものことは
私が一番よく知っている」とか、「私は私。私の子育てが一番正しい」と言う。それだけ自己中
心的ということになる。つまり自己中心的であればあるほど、人は自分を見失う。子どもの姿を
見失う。そして結果として失敗する。いろいろな例がある。
 その母親には二人の息子がいた。異常とも思えるような家庭学習を強制し、結果、兄のほう
は高校へ入学したとたん、バーントアウト。そしてそのまま引きこもり。ふつうなら親も、ここで
自分の失敗に気づくものだが、しかしその母親は違っていた。弟にはさらにきびしい学習を強
制した。兄のときは、「勉強しなさい!」「うるさい!」の親子げんかが毎晩のようにつづいた
が、弟のときは、そのけんかもなかった。そのため弟は、中学二年のときに心の病気になり、
そのまま入院。が、この段階になっても、母親は自分のした行為に気づかなかった。「子どもが
そうなのは、生まれつき。私はそれをなおそうとしただけ」と言い張った。
 今は、その兄弟は、父親の実家に預けられ、そこから兄は高校へ通っている。弟は、リハビ
リに通っている。こうした例は、あなたのまわりにも、ひとつやふたつは、あるはず。が、それと
て、結局は、つまり母親がそうなのは、母親自身が「自分であって自分でない部分」を、無意識
のまま引きずっているだけ。そういう意味では、本当の被害者は、母親自身ということになる。
 どうか、どうか、みなさんも、気をつけてほしい。あなたにとって一番大切なのは、子どもの明
るい笑顔。それこそが、家族の基本であることを、どうか忘れないでほしい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(559)

子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、意味
を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。
●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い
 八問のうち、五〜六問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心をしっ
かりと、つかんでいる。
 正解は、つぎ。
○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一
枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」
 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・ホワイトド
ラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワ
イトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。あなたの子どもは目を白黒させ
て、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試してみてほしい。女子だったら、「私、かごちゃ
ん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コ
ツは、さりげなく、サラリと子どもの前で言うこと。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(560)

はじめの一歩

 子どもの方向性は、「はじめの一歩」で決まる。……と言いきるのは、少し問題があるが、し
かしほぼまちがいがない。たとえば私の二男は大のサシミ嫌い。恐らく幼児のころ、魚のサシミ
を食べていやな思いをしたためだろう。生臭いサシミを食べたとかなど。そしてそういう経験
が、つぎつぎと重なって、ますますサシミ嫌いになっていった……?
 食べ物だけではない。「勉強」もそうだ。何らかの理由で、子どもは一度勉強嫌いになると、
それ以後、好きになるということは、まず、ない。あるいは同じ勉強をさせようとしても、そうでな
い子どもの何倍もの努力が必要となる。たとえば今、年中児(満五歳児)で、「名前をひらがな
で書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせる子どもは、一〇人のうち、一〜二人は必ず、
いる。中には涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して、何らかの恐怖心をもっているためと
考えてよい。そういう子どもが、その先、たとえば小学校などで、国語が好きになるということ
は、まず、ない。(絶望的とは言わないが、好きになるのは、たいへんむずかしい。)
 そういうわけで、子どもに経験させることは、何でも、はじめの一歩を大切にする。このはじめ
の一歩がうまくいけば、あとが楽。子どもは自分で伸びる。コツは、無理をしないこと。子どもの
リズムに合わせて、慎重に進める。が、これがむずかしい。先日もある母親が、こう言って相
談にきた。
 「うちの子(小一男子)は、『39は30と□』という問題ができない。みんなはできるのに、どうし
てできないか」と。そしてたまたまそばにいた息子に向かって、「どうしてこんな簡単な問題がで
きないの!」と。勉強が、子どもを責める道具になっている! しかし一度、この悪循環におち
いると、あとは底なしの悪循環。(親が叱る)→(子どもはますます勉強嫌いになる)→(ますま
す叱る)の悪循環で、ドロ沼に落ちる。
 この子どものケースでは、私はその母親にこう聞いた。「あなたは自分の子どもが、どうであ
れば、満足するのですか?」と。すると母親は、こう言った。「こんな簡単なことができないで
は、困る」と。そこでさらに、「どうして、だれが困るのですか?」と聞くと、「勉強ができないと、
子どもが困る」と。で、また私が、「子どもが困っているのですか?」と聞くと、「今に、困るように
なるはずだ」と。しかし実際には、その困る原因を、母親自身がつくっている! はじめの一歩
のところで、子どものやる気そのものをつぶしてしまっている。母親は、それに気づいていな
い!
 幼児期は、子どもの方向性をつくるための、大切な時期。ものごとは、すべて慎重にするこ
と。この世界では、こう言う。「はじめよければ、すべてよし」と。肝(きも)に銘じてほしい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(561)

言葉能力

 日本人の男性と国際結婚した母親がいた。台湾から来た人だった。が、たいへん教育熱心
な人(?)で、子ども(小一男児)がテストで、まちがえたりすると、そのつど子どもをはげしく叱
っていた。ふつうの叱り方ではない。たいていは「どうして、こんなの、できない!」「できる
わ!」の大騒動になった。 
 そこで私に相談があった。そのときその子どもは、小学二年生になっていた。しかし原因は
はっきりしていた。その子どもは頭のよい子どもだったが、しかし言葉能力が不足していた。文
章題が読めなかった。たとえば「3足す4(3+4)」と「3が4つ(3×4)」の区別がつかなかっ
た。母親が家の中では中国語を話していたこともある。しかしそれ以上に、母親の日本語能力
が、問題だった。私と話すときも、「先生、息子、ダメ。算数、できない。どうして。これ、困る、
ね」と。
 そこで私は、「お子さんの言葉能力に、問題があります」と言った。するとその母親は猛烈に
反発して、「うちの子、日本語、だいじょうぶ。話せる、あるよ」と。……と書くと、簡単な会話の
ように思う人がいるかもしれないが、こうした押し問答が、延々と三〇分近くもつづいた。説明
するのに時間もかかったが、そのたびにその母親は、ああでもないこうでもないと反論した。
「うちの子は、私が教えたら、できた。どうして学校では、できない、あるか」「中国では、一年生
で、20までの数の足し引き算ができる」「うちの子、頭、いい。できないはず、ない」と。が、何よ
りもその母親で不愉快だったのは、異常なまでの教育に対する、過関心だった。子どものささ
いなミスをとらえて、それをことさらおおげさに問題にしていた。私が「この時期は、学ぶことを
楽しむことのほうが大切です。もっとおおらかに構えてください」と言ったのだが、最後の最後ま
で、「おおらか」という意味さえわかってもらえなかった。
この母親のケースは、極端なケースだが、しかしこれを薄めたケースとなると、いくらでもある。
子どもが勉強できない原因は母親にある。しかし母親はそれに気づいていない。気づかないば
かりか、このタイプの母親は、その責任は子どもにある、学校にあると主張する。そして結果と
して、子どもの伸びる芽すら、自ら摘んでしまう……。
 この母親とはそのあとも、いろいろあった。で、やがて私のほうが疲れてしまい、最後は、「ど
うぞ、自分で教育してください」と、サジを投げてしまった。そのあとその母親と子どもがどうなっ
たか、消息は聞いていない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(562)

あせる親

 子育ては競争と考えている人がいる。が、このタイプの親は、自分ではそれを意識していな
い。自分では、「ごく当たり前のことをしているだけ」と思っている。だからよけいに、指導がむ
ずかしい。
 つぎのような症状に、思い当たるようであれば、あなたはここでいう「あせる親」と考えてよ
い。
●近所や知り合いの子どもが、英会話教室や算数教室に通っているという話を聞くだけで、言
いようのない不安感に襲われる。自分の子どもだけが取り残されていくように感ずる(不安、妄
想)。
●明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。テストでまちがえたりすると、そ
れが気になって、夜も眠られないことがある。こまかいことが気になる(過関心)。
●学校や塾の先生と顔を合わせるたびに、すかさず「うちの子、どうですか」と聞く。あるいは
子どもの問題点を並び立て、「どうしたらいいでしょうか」と聞くことが多い(心配過剰)。
●日常的に、子どもの意思を自分で確かめることをしない。「うちの子どものことは、私が一番
よく知っている」と思う。子どもに対する親意識が強い。子どもには命令口調が多い(過干渉)。
 こういう状態(過関心、過干渉、心配過剰、不安、妄想)が、長くつづくと、親自身の精神状態
がおかしくなる。この段階から、育児ノイローゼ、うつ病に進む人も多い。しかしその前に、子ど
もがおかしくなる。性格が内閉したり、萎縮したりする。反対にはげしい家庭内暴力に発展する
こともある。そうなると、もう、勉強どころではない。
 要はいかに早く、その初期症状に気づくか、だ。が、冒頭にも書いたように、親自身がそれに
気づくことは、まずない。私のような立場のものが、「お母さん、あせってはダメ。今は、子ども
が楽しむことだけを考えてしなさい。幼稚園から帰ってきたら、よくがんばったわねとほめなさ
い」と指導しても、ムダ。つぎに会うときには、すっかりそれを忘れている。そして前と同じ会話
を繰り返す。「うちの子は、ダメでねえ……」と。
 子どもというのは、親があせっても、どうかなるものではない。しかしほうっておいても育つ。
そうした冷めた目が、一方で、子どもを伸ばす。もしあなたが今、自分の子育てで、あせりを感
ずるようなら、こう考えてほしい。「親のあせり、百害あって、一利なし」と。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(563)

日本の教育の元凶

 私は子どものころ、チャンバラ映画が好きだった。が、ある日のこと。Nという日本を代表する
俳優の映画をみていたときのこと。日本のチャンバラ映画は、かっこうばかりで、中身がないこ
とに気づいた。Nは、いかにも強そうなかっこうばかりをしているだけ。刀を振り回すと、相手が
その刀の中に入り、自動的に(?)倒れていった。
 一方、同じころ、ブルース・リーの映画を見た。彼の演技は衝撃的だった。映画を見ていると
き、自分の手足が勝手に動いた。ブルース・リーの演技には、それだけ中身がぎっしりとつまっ
ていた。
 こうした日本映画と、外国映画の違いを一言で言えば、権威主義と実力主義の違いというこ
とになる。映画だけではない。当時の日本には、(今も……)、その権威主義が、色濃く残って
いた。とくに教育の世界はそうで、たとえば同じ教師にも、歴然とした「格」があった。一番偉い
のが、大学の教授、つぎが高校の教師で、つぎが中学校の教師、小学校の教師と。幼稚園の
教師は番外で、評価の対象にもならなかった。こんなことがあった。
 ある日東京のW大学の教授が、この浜松へやってきて、幼児教育について講演をした。私も
聞いたが、最初から最後まで、トンチンカンな講演だった。あとで話を聞くと、その教授は、乳
児のハイハイ(歩行)のし方を研究している教授ということだった。乳幼児のハイハイを調べる
と、爬(は)虫類(ワニやトカゲなど)の歩き方を同じだという。それはそれとしておもしろい話だ
が、そういう教授が、「幼児教育とは……」と講演をするから、話がおかしくなる。
 では、今、この日本が実力主義の世界になったかというと、それは疑わしい。いまだに権威
主義がハバをきかせている。よい例が日本のNHK。まさに権威主義のかたまりといっても過
言ではない。どう権威主義的かということについては、外国の放送局とくらべてみるとわかる。
たとえば日本のNHKは、アメリカのNBCと、北朝鮮のピョンヤン放送の中間あたりにあるので
は? ひとつずつの番組を見ていると、それなりに民主的な感じはする。が、たとえばオースト
ラリアなどにしばらく住み、その状態で、日本のNHKを思い出すと、そういう印象をもつ。地位
や肩書きのある人には、どこかペコペコし、そうでない人には、どこか「出してやる」という傲(ご
う)慢さを感ずる。
 こうした権威主義がいつごろ日本に生まれたかという問題は、いまさら論じても意味はない。
大切なことは、こうした権威主義が、一方で日本が進むべき道の、大きな障害になっていると
いうこと。もっと言えば、権威主義は、「自由」や「平等」の大敵になっている。しかしそれだけで
はすまない。権威のある人は、必要以上に「得」をし、そうでない人は「損」をする。そしてこの
不公平感が、結局は日本の学歴社会の温床になっている。教育そのものをゆがめる元凶にな
っている。権威主義を考えるときには、そういう問題も含まれる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(564)

私の人間性

 子育てが終わると、どんとやってくるのが、老後。それまで何とかごまかしてきた持病が、ど
んと吹き出す。持病だけではない。その人の人間性まで、どんと吹き出す。気力が弱くなり、ご
まかしがきかなくなるためと考えてよい。
 で、私のこと。まず健康だが、こうなってみると、長い間、運動をつづけてきたことが、喜びと
なって返ってくる。私はもう三〇年近く、自転車通勤をしている。数日も自転車に乗らないでい
ると、体のほうがそれを求める。おかげで成人病とは無縁。まったく健康というわけではない
が、しかし同年齢の友人や知人とくらべても、健康なほうだ。
 問題は、人間性。私は若いころ、ずいぶんといいかげんな人間だった。目先の利益のためな
ら、平気で正義をねじまげた。人をだましたり、キズつけたりしたこともある。言うなれば小ズル
イ男で、そういうことが平気でできた。私は自分の中にそういう邪悪な部分があることを知って
いる。今は、かろうじてそういう自分を抑え込んでいるが、いつまたそういう自分が出てこないと
もかぎらない。いや、ときどき、顔を出す。
 先日も、コンビニの前で、サイフを拾った。善良な人なら、そういうサイフを、すぐその店に届
けたりするのだろう。しかし私は、一瞬、迷った。迷って、サイフの中を見てしまった。が、幸い
なことに(?)、中味は免許証とカード、それに小銭だけだった。だから店にそのまま渡すことが
できた。が、しかし、もしあのサイフの中に、一〇万円とか二〇万円が入っていたとしたら、どう
だったか……。私はもっと迷ったかもしれない。つまりこれが私の中の邪悪な部分である。
 そこで私は気がついた。健康と同じように、人間性もまた、日々の鍛錬(たんれん)によって
つくられるものだ、と。安易なだらしない生活を繰り返していれば、人間性も影響を受ける。は
っきり言えば、悪くなる。そして結果として、その人は、見苦しい人間になる。いや、鍛錬といっ
ても、むずかしいことではない。ごく日常的な、ほんのささいなことでよい。たとえばウソをつか
ない。ゴマかさない。人に意地悪をしない。ゴミを捨てない。人に迷惑をかけない。社会のルー
ルを守る、など。常識的なことを、ふつうに守ればよい。そういう積み重ねが、積もりにつもっ
て、その人の人間性をつくる。
 さて私はどうか? このところときどき自分がこわくなる。今はこうして自分の気力で、自分を
抑え込んでいる。しかしその気力が弱くなったとき、自分の人間性が、モロに外に出てくる。そ
のときどんな自分が、外に出てくることやら? プロ野球の元監督の妻に、Sという女性がい
る。人間がもつあらゆる醜悪さを顔中に塗りたくったような女性だ。先ごろ脱税で逮捕された
が、あの女性を見ていると、ああはなりたくないものだと思う。しかしその自信は、私にはない。
ひとつまちがえば、私だってああいう人間になる? それが今、こわい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(565)

自転車通勤

 二九歳のときまで住んでいたアパートからも、それ以後移り住んだ今の自宅からも、町中の
職場まで、七キロある。私はその七キロを、自転車通勤をするようになって、もう三〇年にな
る。時間にすれば、片道、約二〇分。のんびり走れば三〇分。若いころは一五分で走ったこと
もある。
 そういう自転車通勤を、たいへんだと思う人も多い。私が「○○町から自転車で通っていま
す」などと言うと、「それはたいへんですね」と言う人もいる。しかし実際には、楽しい。仕事が終
わって、自転車にまたがると、そのとたん、言いようのない解放感が身を包む。が、それだけで
はない。最近では、数日も自転車に乗らないでいると、体のほうがそれを求めるようになる。
「ジョギング中毒」という言葉がある。走ることそのものが中毒のようになり、走らないと、かえっ
てイライラすることをいう。同じ中毒でも、これは好ましい中毒ということになるが、自転車にも
それがある。乗って走ることが、快感なのだ。とくに長い坂をノンブレーキでくだりおりる爽快
(そうかい)感は、何ものにもかえがたい。真冬の厳寒期には、ときどきつらいと思うことはある
が、その時期をのぞけば、楽しい。
 体を動かすことを習慣にすると、その習慣が、脳内にある種の変化をもたらすようだ。麻薬に
似た脳内物質をつくり、それがその人を気持ちよくする、とか。たとえば山荘の近くにKさんとい
う、働き者の人がいる。毎日、朝から晩まで、あれこれと体を動かしている。「百姓(百の仕事
をする人)」とはよく言ったもので、農業はもちろんのこと、土木、建築、まさに何でもござれとい
うような人である。先日Kさんの家を訪れたら、研磨(けんま)機で、農具を磨いていた。
 Kさんを観察してみると、あのKさんも、働くというよりは、体を動かすことによる快感を楽しん
でいるのがわかる。ウソだと思うなら、夏の暑い日に、Kさんが汗をタオルでぬぐっている姿を
見てみればよい。実に晴れ晴れとした、すがすがしい表情をしている。
 そこで重要なことは、いかにして、そういう習慣を自分の中につくるかということ。つけ刃(やい
ば)ではいけない。その前の段階として、それこそ数年単位の忍耐と努力が必要である。その
段階を通りぬけると、やがてそれが習慣となり、ここでいう「中毒性」をおびてくる。そうなれば
あとは、自発的に体のほうが動いてくれる。そしてその結果として、健康を維持することができ
る。
 いや、ひとつだけわからないことがある。その自転車通勤だが、夏休みなど、一週間も自転
車に乗らないでいると、多分、ふつうの人以上に、体の調子が悪くなってしまう? 体がだるくな
り、起きているのもつらいと思うこともある。頭が重くなることもある。これはどういう作用による
ものなのか。今度そういうことがあったら、もう少し自分をよく観察してみる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(566)

健康、ふえることのない貯金

 私は中学生のとき、成績は、一科目をのぞいてオール一〇だった。一学年(五五〇人)で、
一〇がもらえるのは、一科目につき、二人だけだった。その一科目というのは、保健体育だっ
た。運動は苦手だったが、ペーパーテストで点を稼いでいたため、成績は九だった。
 その保健体育で一〇をとっていた男がいた。幼なじみの男で、運動だけはバツグンという男
だった。鉄棒、跳び箱、マット運動、まさに何でもござれという感じだった。体育の授業のとき、
皆の前で、鉄棒の大車輪を披露したこともある。
 その男が、数年前、五二歳という若さで、肺がんで死んだ。奥さんはこう言った。「ご存知のよ
うに、超の上に超がつくようなヘビースモーカーで、最後は苦しみました」と。その男は大酒飲
みでも知られていた。同窓会でも彼の酒豪ぶりが話題になったほどである。つまりその男は、
(多分?)、自分の健康を過信するあまり、タバコに溺れ、そして酒に溺れた。私はその男の死
を聞いたとき、改めて健康とは何か、考えさせられた。
 長生きをすることを健康というのではない。それはわかる。健康だから、長生きできるという
ことにもならない。それもわかる。となると、健康とは何か。あえて言うなら、病気でない状態と
いうことになるが、そもそも健康を定義づけること自体、意味がないのかもしれない。そこで自
分のことを考えてみる。
 最近、私は自分の気力が、とみに弱くなったのを感ずる。こうして文を書いていても、集中力
は一時間もつづかない。一時間も書いていると、眠くなったり、頭がぼんやりとしてくる。若いこ
ろは、数時間、あるいはそれ以上の間、文を書いていても平気だった。毎晩、真夜中の二時、
三時まで文を書いていたこともある。が、今は、一時間も書いたりすると、ソファやふとんの上
でゴロリと横になることが多い。健康といえば健康だが、しかししたいことが思うようにできない
のは、つらい。つまりすでに半病人?
 そういう私からみると、若い人は、健康でよいと思う。うらやましいと思ったことはない。もった
いないと思うことはある。若い人が、つまらないことで時間を浪費しているのを見たりすると、そ
う思う。私も若いころはそう思ったが、健康なんてものは、いくらでもあると思っている。歳をとっ
ても、自分だけは健康のままだと思っている。しかしそういう状態は、長つづきしない。健康とい
うのはそういうもので、それに溺れると、健康そのものまでつぶれてしまう。
 ここまで書いて、ひとつの教訓を学んだ。つまり健康というのは、ふえることのない貯金であ
る、と。つまり使い方をまちがえると、あっという間になくなってしまう。しかしじょうずに使えば、
長もちする。要は使いかたの問題ということになる。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(567)

勉強神話 

 私は少なくとも、高校一年までは、ガリ勉中のガリ勉だった。勉強が好きとか好きでないとか
そういうことではなく、いつもどこかで追いまくられながら勉強をしていた。母はそのつど、私に
こう言った。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」と。私には「死ね」と言われるよりも恐ろしい
言葉だった。
 そういう自分を振り返って、言えることがたくさんある。まず第一に、学校の勉強で学ぶこと
は、世の中の知識のほんの一部に過ぎないということ。そのことは、毎年、年末に出る総合事
典を見ればわかる。私は「イミダス」※という事典を買っているが、ある日、こんなことを調べて
みた。「学校で学ぶ分野は、このイミダスの中の何分の一か」と。で、調べてみて驚いた。歴史
にせよ、科学にせよ、はたまた文学にせよ数学にせよ、学校で学ぶ知識は、多くみても、二〇
分の一もない、と。あるいはさらに厳密にみれば、もっと少ない。つまり勉強ができるからといっ
て、その人が、人一倍、すばらしい知識をもっているとは限らない。私の従兄弟(いとこ)のN氏
は、勉強は苦手だったが、魚釣りにかけては、彼の右に出るものはいなかった。一緒に山を歩
いていても、つぎつぎと木の実を私にとってくれた。そういう知識は、学校の勉強の中には含ま
れていなかった。
 つぎに勉強ができるから、人格的にすぐれた人物ということにはならない。むしろ今、(かつて
の私がそうだったが)、勉強しかしない、勉強しかできないという子どものほうが、人格的にも問
題があることがわかってきている。私も教える立場から、いろいろな子どもに接してきたが、ど
こかヘンな子どもほど、勉強がよくできた。また飛びぬけて勉強ができる子どもほど、どこかヘ
ンだった。しかしそういう子どもほど、スイスイと受験勉強をやりこなし、一流大学の一流学部
へ進学していった。今でも、医師だ、弁護士だというと、どこか高邁(こうまい)な人物を想像す
るが、それはまったくの幻想。ウソ。むしろ、人格的にすぐれた子どもほど、あの受験勉強にな
じまず、その途中で脱落していく。子どもを大学へ送り出す立場にあった私が、そして無数の
子どもたちを見送ってきた私がそう言うのだから、まちがいない。
 勉強には、勉強神話がある。この神話が、今でも、子どもはともかくも、親の世界を支配して
いる。この勉強神話をどこかで打ち破るのも、私の使命と考えている。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(568)

魚釣り論

 私も子どものころは、よく魚釣りに行った。が、ある日、いつだったか、多分小学校の五、六
年生のときだったと思う。自分が釣った魚を見ながら、「魚も痛いだろうな」と思ったことがあ
る。口先を針でひっかけられ、糸の先でもがいているのを見たときだ。が、そう思ったとたん、
つまりその日から、魚釣りができなくなってしまった。そこで伯父や伯母に、「魚は痛くないの
か」と聞くと、皆、こう言った。「魚には神経はないから」と。しかしこれはウソだ。
 魚の脳波を調べてみると、魚は釣られたとき、激痛を感ずることがわかっている。その脳波
の波形は、人間が感ずる激痛とどこも違わない。つまり魚も痛がっている。考えてみれば、そ
れは当然で、その痛さは、あなたの口に、親指と人さし指大の釣り針をひっかけ、吊りあげら
れたときのことを想像すればよい。ただ魚は声を出すことができないから、人間のようにその
激痛を訴えないだけだ。が、それだけではない。
 これは私が熱帯魚を飼うようになって知ったことだが、あの魚という生き物は、人間が思って
いるよりはるかに利口である。大きさが五ミリもない稚魚でも、二、三日も飼うと、人間がいつ、
どのようにしてエサをくれるか覚えてしまう。たとえばエサを入れるときに、スプーンでカチャカ
チャと水槽を叩くと、その音だけで、エサが落ちるところに集まってくる。
 さらにこれはテレビでの実験だが、あのタコにしても、犬程度(あるいはそれ以上)の知能が
あるという。目の前でビンにエサを入れ、それをフタをしてみせると、タコはたった一回でそれを
覚え、自分でフタをあけ、そのエサを取り出してしまう。(ビンのフタは、ネジ式のフタだった。)
 こういうことを考えあわせると、人間は、何と残酷なことを、しかも平気でしているかということ
になる。生きるために魚釣りをするならまだしも、レジャーのために魚釣りをしている! もっと
はっきり言えば、レジャーで魚釣りをするなどという残酷なことは、即刻、禁止したらよい。魚は
おもちゃではない、生き物だ。……と言うのは、少し言い過ぎだが、しかし人間は、もう少し遠
慮深くあってもよいのではないか。それがわからなければ、魚を釣ったとき、心のどこかで、
「痛くないのか」と、自問してみるとよい。あなたにも、ひょっとしたら、太古の昔、魚だったという
記憶があるかもしれない。そういう記憶が、あなたの残酷な行為に、ブレーキをかけるかもしれ
ない。ちなみに、私は大学一年生のときに、アミで魚をとったのを最後に、それ以後ただの一
度も、魚釣りをしたことがない。今でもテレビで魚釣りのシーンが飛びこんできたりすると、すぐ
チャンネルをかえる。とても見ていられない。「かわいそうだ」「痛そうだ」と、そんなことばかり考
える。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(569)

携帯電話(ショートストーリー)

 ある男が山に入った。五〇年という長い年月の間、山の中で修行をした。そしてその結果、
その男は、テレパシーを使えるようになった。自分の思い浮かべた簡単な絵を、相手に伝える
ことができるようになった。その男は自分の能力に喜んで、山をおりた。自分の能力で、世間
の人たちを驚かしてやろうと考えた。その能力で、金儲けをしてやろうと考えた。
 しかしちまたへおりてきて、その男は驚いた。どの人も小さな箱をもっていて、だれとでも自由
に会話をしていた。「それは何か」と聞くと、みなは、こう言った。「携帯電話」と。が、その男が
本当に驚いたのは、そのことではない。その携帯電話を使って、若い女が、こんな会話をして
いたからだ。「ねえ、今夜のおかず、何にする? ううん、それでいいわ。じゃあ、それを作って
待っているからね」と。
 その男は、自分が五〇年もかかって得た能力が、携帯電話一台にもおよばないことを知っ
た。しかもその能力を使って、夕食の献立を相談しているとは! がっかりして街の中を歩いて
いると、テレビ局の前にやってきた。見ると何人かの超能力のポスターがはってあった。そこで
その男は、受け付けの女性に、自分にも超能力があることを話した。その話を聞いて、ひとり
のディレクターがやってきた。男が実演をしてみせると、ディレクターは喜んで、その男をテレビ
に出演させることにした。
 男は、テレビ番組の中で実演をしてみせた。こちらの部屋にいるだれかが選んだ数字を、隣
の部屋にいる別の男に、その数字を伝えるという実演だった。しかしそれは決して楽な実演で
はなかった。実演に入る前に、その男はいつものように座禅を組み、半時間あまりも神経を集
中させなければならなかった。そしてひとつ数字を送るたびに、全身から体力と気力が、ごっそ
りと抜け落ちていくのを感じた。が、実演は大成功だった。彼はいちやく有名人となり、そのた
めあちこちからショーの仕事が舞い込むようになった。
 今もその男は、超能力者として、日本全国でショーをしながら回っている。ただし仕事の打ち
合わせのためには、超能力ではなく、携帯電話を使っているが……。
 
(教訓)こうした矛盾は、現代社会にはつきもの。ムダなことをしながら、それをムダとも思わな
い。実はそこに現代社会の最大の矛盾がある。 
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(570)

家庭の教育力は低下したか

 二〇〇一年の秋、国立教育政策研究所が、こんな調査をした。全国一二〇〇〇人に、郵送
でアンケート方式で調査したものだが、その結果、
●コミュニケーションについて、幼児期に(子どもを)を抱き寄せたり、スキンシップをしていた
……
          若い世代……96%
          高年世代……86%
●しつけについて、小学校入学までに子どもがひとりで、歯みがきができた……
          若い世代……21%(だいたいできた……62%)
          中堅世代……33%(だいたいできた……80%)
          高年世代……47%(だいたいできた……88%)
●しつけでもっとも悩んだこととして、三世代とも、「ほかの子どもとじょうずにつきあうこと」だ
が、ほかに、
          若い世代……わがままをなおすこと……11%
 ほかに子育てについて、若い世代は、「楽しくできた」(86%)、「生きがいがもてた」(7
8%)、「がまんすることがたくさんあった」(55%)、「わからないことがたくさんあった」(63%)
と答えている。
 また家庭の教育力が低下しているかという質問については、「その通り」「ある程度」を合わ
せると、
          若い世代……55%
          中堅世代……66%
          高年世代……72%
 こうした結果から、読売新聞は、「家庭のしつけ、若いほど低下?」(〇二年七月)と結論づけ
ている。しかし本当にそうか?
 何度もこうしたコラムの中で書いてきたが、家庭教育は確かに混乱はしているが、しかし教
育力は低下していない。価値観が衝突し、その結果混乱し、その混乱により、さらにその結果
として、低下しているようにみえるが、これは一時的な過渡期の現象とみてよい。こうした現象
は一九七〇年代のアメリカ、それにつづくオーストラリアでも見られた現象である。つまり旧世
代の価値観が否定され、新世代の価値観が台頭するとき、家庭教育は混乱する。今の日本
がまさにその時期とみてよい。「混乱」を「低下」とみるのは、あまりにも短絡的な見方である。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)           
          


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(571)

ほかの子どもとじょうずにつきあう法

 子どもの社会性は、同年齢の子どもとの接触の中で、鍛(きた)えられる。たとえば双子の子
どもがいる。一般論として、双子は、いつももう一人の兄弟(姉妹)との間で鍛えられるので、そ
の社会性があることが知られている。わかりやすく言えば、ほかの子どもとも、じょうずにつき
あう技術にたけている。
 その社会性は、つぎのようにして判断する。
 たとえばブランコを横取りされたようなとき、社会性のある子どもは、その相手に向かって、
「どうして取るのよ! 私、今、使っているでしょ!」と、やり返すことができる。そうでない子ども
は、たとえば柔和な笑みを浮かべて、ブランコを明け渡してしまったりする。
 社会性のある子どもには、つぎのような特徴がある。@他人に対して押すときは押し(自己主
張し)、引くときは引く(遠慮する)という行動が明確で、わかりやすい。ワーワーと自己主張して
も、まちがっているとわかると、「そうね」などといって、自分の非をすなおに認める。人格の
「核」が明確で、教える側からすると、「この子はこういう子」という「つかみどころ」が、はっきり
している。
 Aだれに対しても、心を開くことができ、性格のゆがみ(ひねくれ、いじけ、つっぱり、ひがみ
など)がない。心を開いている子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切
ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。子どもらしく、うれしそうな
顔をして、それにこたえる。
 B以前、嫌われる子どもについて、調べたことがある。その結果、不潔で臭い子ども。陰湿で
性格が暗く、静かな子ども。性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名につい
て調査)。このタイプの子どもは、嫌われるだけではなく、いじめの対象ともなるから注意する。
 子どもの社会性をつくるためには、乳幼児期から、心静かで、愛情豊かな環境で、同年齢の
子どもと一緒に遊ばせるのがよい。子どもの世界というのは、いわば動物の世界のようなも
の。キズつけたり、キズつけられたりしながら、互いに成長する。親としてはつらいところだが、
そうした環境が、子どもをたくましくする。まずいのは、親子だけのマンツーマンだけの環境で
育てること。「ものわかりのよい世界」は、それだけ居心地がよい世界かもしれないが、それは
子どもにとって、決して好ましい世界ではない。
 こうした社会性は、年長児(満六歳)前後には決まる。この時期、社会性のある子どもは、そ
の先もずっと社会性のある子どもになる。そうでない子どもはそうでない。それ以後は、どちら
にせよ、そういう子どもだと認めたうえで、対処するしかない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(572)

「あの子は臭い!」・嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、@不潔で臭い子ども。A陰湿で性格
が暗く、静かな子ども。B性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名について
調査)。
 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」「髪の毛が
汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばかりほじってい
る」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽい」など。子どもと
いうのは、おとなより、においに敏感なようだ。
 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何もしゃべ
らない」など。「静か」というのもあった。私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいでは
ないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味だ」と。
 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自慢
話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」など。一
人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。
 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いということ。
特に@の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌われっ子、親の責
任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。
 A君(中一)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親もそれに悩
んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭とも言えない、
何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に問題があるようだ
が、本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風
呂では、体をよく洗うのだぞ」と。が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にして
いることを言われたという思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのま
ま教室から出ていってしまった。
 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなでるが、
中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこで忠告しようと思
ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!
 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑にから
みあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたちが考えている
ほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でしかない。ここにあ
げる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも嫌われているという
ことにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。いじめの問題についても、とも
すれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界を論ずる傾向がある。が、それだ
けでは足りない。それをわかってほしかったから、ここであえて、嫌われっ子の問題を取りあげ
てみた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(573)

子どものわがまま(1)

●「どうして泣かすのですか!」 
 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中
に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。
そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。
S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、
その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかしその日は運の悪いことに、た
またまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込
んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、
すご味のある声だった。
●親が先生に指導のポイント
 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。第一
に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるい
は子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっ
ているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書い
て渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういう
ときには、こう指導してください」と。
●泣き明かした母親
 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
反対に遠ざけてしまう。S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満
をもったらしい。そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってし
まった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をし
たときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意
してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(574)

子どものわがまま(2)

●「先生、こわい!」
 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて
逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だ
った。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今で
も、そうだ。そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わな
い。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほう
が、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。
●自分勝手でわがまま
 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が
遅れる。
 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイ
プの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、
ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけ
で育ったような感じになる。人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温
室の外へ出ると、「すぐ風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自
立した行動ができない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。
高価なものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱
く、誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしま
う)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(575)

子どものわがまま(3)

●「心配」が過保護の原因
 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そし
てその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動
面で過保護にするケースなどがある。
 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA
君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ
行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけ
で、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくな
る。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。
 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にして
いるかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されるこ
とになる。
●じょうずに手を抜く
 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずに
だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。
『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。
『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。が、その時期に溺愛と過
保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわか
りのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもの
で、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべき
ときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。
 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにな
らない。これは子どもを育てるときの常識である。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(576)

日本人の笑い

 先日、横道から飛び出した車と、あやうく衝突しようになった。見ると、三〇歳くらいの女性だ
った。「あぶない!」と思ってその女性を見ると、女性は視線をそらしたまま、ニヤニヤ笑ってい
た。いわゆる苦笑い(?)である。
 この笑いほど、世界で理解されない笑いはない。ほかにプラットホームで、電車に乗り遅れた
人が笑う。打者にデッドボールを当てたピッチャーが笑う、テストの点で悪い点をとった子ども
が笑う、など。外国では、日本人の苦笑いは、相手をバカにした笑いととらえられる。それが原
因で、けんかになることもある。
 なぜ、こういうとき日本人は笑うかということを考える前に、こんな笑いもある。
 日本語を覚えたての外国人は、当然のことながら、よくまちがえる。この前もテレビを見てい
たら、「辛抱する」というべきところを、「チン棒する」と言っていた外国人がいた。お笑い番組だ
ったので、わざとまちがえて視聴者を笑わせていたのだろう。が、こういうとき日本人は実によ
く笑う。ゲラゲラと笑う。しかし、外国人は笑わない。こういうとき笑うと、相手をバカにしたことに
なる。私にもこんな経験がある。
 留学時代、みなの前で歌を歌うことになった。私は「七つの水仙」(ブラザーズフォーの名曲)
を歌った。がその中で、「crust(パンの耳)」と歌うべきところを、「xxxxx(股の隠語)」と歌って
しまった。私は友人のギター演奏で気持ちよく歌っていたのだが、その箇所になると、オースト
ラリアの友人たちはみな、一斉に口を押さえた。あとでその理由を聞いて笑ったのは、むしろ
私のほうあった。彼らにしてもれば、他人の失敗を笑うことは、タブー中のタブーなのだ。
 日本人は自分の失敗をごまかすために笑う。同時に相手がまちがえると、自分の優位性を
示すために笑う。これもルーツをたどれば、長くつづいた封建時代にある? 抑圧された環境
の中で、民族としての心までゆがんでしまった。今の若い人には信じられないような話だが、私
が子どものころには、たとえば身体に障害のある人をも、蔑視語を使って、平気で笑ってい
た。ごく最近まで、外国の人を見ると、「ガイジン、ガイジン」と笑っていた。
 何でもないようなことだが、「笑い」も国によって、違う。そして日本人の笑いは、決して世界の
標準ではない。少なくとも、外国では、「他人の不幸や失敗を笑ってはいけない」と、親は子ども
に教える。しかしこんなことは、人間として常識ではないか。
 日本人の笑いについて、考えてみた。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
 
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(577)

NHKの大河ドラマ

 歴史は歴史として、正しく評価しなければならない。しかし必要以上に、美化してはいけない。
とくにあの封建時代を美化していはいけない。
 昨日(二〇〇二年七月)も、NHKの大河ドラマの『利家とまつ』を見た。しかし前田利家といえ
ば、これまた類をみないほどの圧制暴君だった。どう暴君であったかは、また別のところに書く
ことにして、あの金沢城の中には、少し前まで刀の試し切りをした場所まで残っていた。つまり
新しい刀ができると、利家らは生きている人間を裸にしてつりさげ、その人間をその刀で切って
いたという! NHKの大河ドラマを見ていると、利家たちはきわめて人間味にあふれた、知的
な人物に描かれているが、本当にそうか? そのまま信じてしまうのは、たいへん危険なことで
もある。
 だいたいあの当時の封建領主は、今の暴力団のようなもの。まともな人間を想像するほうが
おかしい。いわんや民衆のために、民衆のことを考えて戦ったのではない。刀をもった人間が
いかに恐ろしい存在であったかは、数年前、佐賀県で起きたバスジャック事件を思い出せばわ
かる。あのときは、刃渡り四〇センチの包丁をもったたった一人の少年に、日本中がおびえ
た。利家の時代といえば、ほんの一部の為政者にすべての富が集中する一方、ほとんどの民
衆は、恐怖政治のもと、極貧の生活を強いられた。しかもそういう時代が、そのあと、三〇〇年
もつづいた! 
 封建時代を美化するということは、時代の流れそのものを逆行させることになる。たとえば今
にみる、日本独特の男尊女卑思想、家制度、職業による差別意識(身分制度)、上下意識、さ
らには権威主義、出世主義などなど、こうした問題はすべて、あの時代に由来する。役人によ
る官僚政治も、その一つに加えてよい。が、それだけではない。
 一〇年ほど前、浜松市の駅前に、これまた豪華な高層ビルが建った。建築費が二〇〇〇億
円とも三〇〇〇億円とも言われている。(同じころ東京都庁ビルが建ったが、それは一七〇〇
億円。国立劇場は四〇〇億円。)土地代を含めたら、もっとになる。いったいいくらの税金が使
われたのか。使われなかったのか。複雑なカラクリがあって、私のような市民には知る由もな
い。が、それにしても、ムダな建物である。地下にある二つのホールをのぞけば、あとは事務
所とホテル。展望台にしても、今は閑古鳥が鳴いている。そのビルについて、市役所で部長を
している知人にそれとなく抗議すると、その知人はこう言った。「ああいう建物は建てられるとき
に建てておけばいいのです。江戸時代の城のようなものです。後世に残るのは、ああいう建物
です」と。封建時代の築城精神がこうした人たちの心の中に生きている! 私はそれに驚い
た!
 あの時代はいくら美化しても、美化しきれるものではない。美化すればするほど、自己矛盾に
陥(おちい)ってしまう。そんな冷めた目であの番組を見ているのは、私だけだろうか。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(578)

私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くの
に、わざと反対回りに乗るなど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行っ
たこともある。一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方
を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。
 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。その
ときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、た
いていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころは
みなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。しかしある夜のこと、ふと
「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだ
れもいなかった。そこで私は心の実験をした。
 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、
横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。それはおもしろい
実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、どの人もバカ(失
礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、一三〇〜一五〇%くら
いになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗ったようなと
きには、イスにすわれないしくみになっていた。
 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなってい
る格言である。その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に
飛び乗る。が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。
 ……それから三〇年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度
成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような
人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。しかし今、多くの仲間や知
人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒマになったと思ったら、人
生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。私とて、そういう部分がないわけで
はない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなことは、しばしばしてきた。しかしあのと
き、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔しているかもしれない。そのあと間もな
く、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をやめるきっかけのひとつ
になったことは、まちがいない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(579)

拾ったサイフ

 生徒(小四男児)三人と、街の中を歩いているときのこと。道路にサイフが落ちていた。見た
目には立派なサイフだった。生徒がいる手前、ここはかっこよく始末しなければいけないと思
い、中身を調べた。どこかの高校生のサイフだった。身分証明書と、ビデオショップのカード、
コンビニのカードが入っていた。お金はなかった。が、そのカードの中にはさんであるものを見
て、私は驚いた。何と、コンドームが二つ入っていた! 生徒たちが「何が入っている?」と聞
いたが、私は答えられなかった。そんな私の気持ちが理解できないまま、子どもたちは「交番
へもっていこう」と、私にせがんだ。
 私はその場で考えこんでしまった。私が高校生のときは、ガールフレンドの手を握ったことも
なかった。コンドームというものが、あることすら知らなかった。私はそのサイフを手にしたま
ま、交番のほうに向かって歩いた。歩きながら、いろいろなことを考えた。
 「高校に届ければ、中身がわかってしまう。その高校生は、何らかの処分を受けるかもしれな
い」「だれかがお金を抜いたあと、また捨てたサイフに違いない」「いったい、この高校生は、毎
日、何を考えている」などなど。交番といっても、駅前の交番まで、五〇〇メートルはある。
 途中、……といっても、それが目的だったが、生徒たちとコンビニへ入った。いくつかの文房
具を買ったあと、レジの男に、サイフを拾ったことを話した。内心では、その男がサイフを預か
ってくれないかと願ったが、その男はこう言った。「駅前に交番がありますよ」と。再び私はその
サイフをもって、通りに出た。生徒たちは、すっかり交番まで行く気になっている。が、そのとき
のことだ。私はときどき、クソまじめに生きているのが、バカらしくなるときがある。そのときがそ
うだった。私はこう考えた。
 「コンドームを持ち歩くような高校生のために、どうして私が、そのサイフを交番へ届けなけれ
ばならないのか」と。しかもお金が入っているならまだしも、カラのサイフだ。サイフという「形」を
とれば、ただのゴミ。そう思った瞬間、決心した。私は身分証明書だけが、少し気がかりだった
が、そのサイフをゴミ箱に捨てることにした。子どもたちに、「このサイフは捨てるよ」と言うと、
「どうして?」と聞いた。「だって、お金なんか、入っていないからね」「……」「お金が入っていな
ければ、交番へ届けてもしかたないし……」「……だって、先生、サイフだよ」「そうだな……。ど
うしようか?」
 そのとき一人の生徒が、こんな名案を出した。「だったら、落ちていたところに、また置いてお
けばいい」と。なるほど! それならだれも文句は言わない。私たちは体をUターンさせると、も
とあった場所にもどった。ちょうどその前に自動販売機があった。私はサイフをその販売機の
上に置いた。「これなら落とした人が戻ってくるかもしれない」と。
 翌日見ると、そのサイフはなくなっていた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(580)

ケチな子ども

 長男や長女など、一番年長の子は、ケチになりやすい。それは下の子が生まれると同時に、
生活環境が守勢に回るからと考えてよい。親のほうは「平等にかわいがりました」と言うが、長
男や長女にしてみれば、「平等」ということが不満なのだ。それまで一〇〇%あった自分への
愛情や関心、さらにはモノやプレゼントが、半分の五〇%に減ったことが不満なのだ。そういう
意味で、『愛情は落差の問題』と覚えておくとよい。
 が、ケチだけではない。長男や長女は、「してもらう」ことになれているため、どこへ行っても、
またどんな場所でも、「してもらう」のが当然と考える。「当然」というのは、無意識のうちにも、そ
うであるべきと考える。だから態度がどうしても大きくなる。(本当は大きく見えるだけかもしれ
ない。本人にはその自覚はない。)加えて甘やかされて育っていることが多いから、他人への
配慮も少なくなる。昔から『総領の甚六』というが、それはそういったサマをいったもの。
 が、問題はこの先。一度こうした態度が身につくと、その態度は、それこそ死ぬまでつづく。こ
のケチにしても、途中で、それがなおるということは、まず、ない。たとえば兄弟会か何かで集
まっても、長男や長女が費用を率先して支払うということは、まず、ない。たいていは下のもの
に払わせるか、割り勘を主張する。長男や長女は、自分のものが減るとか、取られるというこ
とには、敏感に反応する。
 一方、二番目の子どもや、さらに末っ子は、これに対して、モノやお金に執着心がない。その
ため、寛大になる。あくまでも比較の問題だが、たいていはどこの家庭でも、それが顕著に表
れる。「兄貴はケチだが、弟はキップがよい」と。
 ただしケチと、質素は別。ケチというのは、モノやお金への執着心や依存心をいう。質素とい
うのは、つつましく生きる生きザマそのものをいう。だからケチな人というのは、自分では結構
ハデな生活をすることが多い。ブランド品を身につけたり、高級車を乗り回すなど。質素な人
は、お金のあるなしにかかわらず、そういったハデさを求めない。
 そうそう、こんなケチな人がいた。ある日、その人の家を訪れてみて驚いた。何と、コンドーム
が洗って干してあった! 世の中にはいろいろなケチがいるが、コンドームを洗って使う人は
少ない。しかも堂々と! 何回か外食に誘ったことがあるが、一度だって、自分で支払ったこと
はない。いつも「林さん、ごちそうさま」ですんでしまった。で、家の中は、ガラクタだらけ。破れ
たズボンまで、大切にしまっていた。モノを捨てられない性分らしい。その人も、やはり長男だっ
た。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
 

 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(581)

忘れ物が多い子ども

 忘れ物が多い子どもといっても、一様ではない。@注意力そのものが散漫な子ども、Aモノ
に執着心がなく、モノのあつかいが、ぞんざいな子ども、B生活習慣そのものが、乱れている
子ども、C大脳の機能そのものに問題があると思われる子ども、など。ほかに無気力な子ど
も、知恵の発達そのものが遅れている子ども、親の過干渉で精神が萎縮している子どもも忘
れ物が多い。
●注意力が散漫な子ども……ひとつのことに夢中になると、ほかのことを忘れてしまうタイプ。
「今日のレッスンはおしまい」などと先生が言うと、帰ることだけを考えて、まっすぐ教室から出
ていってしまうタイプ。いつも机の上に、ノートやテキストを置き忘れていく。
●モノに執着心のない子ども……このタイプの子どもは、自分のモノ、他人のモノという感覚が
うとい。飽食とぜいたくの中で、モノをふんだんに与えられて育った子どもとみる。忘れるという
よりは、平気でなくすといったふうになる。いくら鉛筆を買ってあげても、すぐなくしてしまうという
子どもは、このタイプを疑ってみる。
●生活習慣がだらしない子ども……心からバランス感覚(ものごとの善悪を静かに考えて判断
する能力)がなくなると、子どもの言動は極端になりやすい。たとえば「文句のあるヤツはぶっ
殺してやる」式のものの考え方をする。そして一方、生活習慣や態度がだらしなくなる。モノの
あつかいが乱暴になったり、ぞんざいになったりする。他人の心を静かに思いやるなどの繊細
さが消えることが多い。考え方も投げやりになり、その結果として、忘れ物が多くなる。非行化
する、その一歩手前の症状とみる。
●大脳の機能に問題があると思われる子ども……このタイプの子どもは、忘れ物が病的にな
ることが多い。バッグや帽子をどこかへ置くのだが、置いた先から、どこへ置いたかを忘れてし
まう。そこで親は子どもにメモをもたせたりするが、今度は、そのメモをどこかへ置き忘れてし
まう。いつも何かのさがしものをしているといったタイプの子ども。
 どのタイプの子どもにせよ、忘れ物をしたからといって、子どもを叱ってもあまり意味がない。
全体としてみれば、忘れ物というのは、子どもの世界ではごく日常的にみられる現象で、それ
ほどおおげさに考える必要はない。とくに幼児や小学校の低学年児は、記憶の内容に、優劣
をつけることができないため、(つまりどれが大切な情報で、どれが大切でない情報かを区別
することができないので)、忘れ物が多くなる。たとえば先生から「これをお母さんに渡して」と受
け取った手紙も、友だちから「B子に渡して」と受け取った手紙も、この時期の子どもには、同じ
手紙でしかない。新しい情報が入るたびに、古い情報を忘れるということもある。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(582) 

モデルケース

 こうしたコラムを書くとき、一番、神経をつかうのは、具体例を挿入するときである。私たちの
世界には、医師や弁護士、公務員のような守秘義務というのはないが、しかしそれに似たもの
はある。あるというより、それを守らないと、たいへんなことになる。
 そこで私はつぎのような手法をとる。具体例として、よい例としてあげるときでも、二つのケー
スをひとつにしたり、反対にひとつのケースを二つに分けたりする。私自身が実際経験したケ
ースでも、「聞いた話」にしたり、あるいは反対に「聞いた話」を、私自身が経験したようにする。
(人から聞いた話は、私のばあい、めったに取りあげないが……。)
 問題は、悪い例である。これには神経をつかう。名前や住居を変えるのは当然のことなが
ら、時代を変えたり、背景を変えたり、ストーリーを変えたりする。たいていはもとの形がわから
ないほどまでに変える。さらに前後を入れ替えたり、ほかの話を混ぜたりする。その人自身が
私のコラムを読んでも、自分のことだとは思わないだろう……というところまで変える。いわん
や他人が読んで、その人とわかるようなことを書くと、それこそたいへんなことになる。そんなわ
けでよく、「ここに書いてあることは本当ですか?」と聞かれることがあるが、答は半分イエス
で、半分ノーということになる。これは子育てコラムを書く人間の、最低のルールでもある。
 ただときどき、本当のことをズバリと書くときがある。抗議の気持ちをこめて書くときは、遠慮
しない。以前、陰湿ないじめにあっていた幼児(年中女児)がいた。しかもいつもその女の子を
足蹴りにしていじめていたのは、その幼稚園でPTA会長をしている女性だった。その女性は自
由に幼稚園へ出入りできる立場をうまく利用して、その女の子をいじめていた。(いじめというよ
り、虐待と言ったほうがよいかもしれない。)その話を書いたときには、事実を書いた。そのコラ
ムは地元の新聞にも載ったが、身に覚えのあるその女性は、それを読んで、さぞかしゾーッと
したことだろうと思う。
 またよく「事実は小説よりも奇なり」と言われるが、あまりにもありえない話を書くときは、事実
を書くようにしている。……などなど。結構、この仕事も神経をつかう仕事なのである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(583)

いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、
恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけ
に扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。
 市内のある幼稚園でこんなことがあった。その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしてい
た。その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘
(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。その子ど
もの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさいね」と作
り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、またその子
どもを放り投げて倒す。以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にし
ておびえるようになったという。ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、そ
れとなく話をしてみたが、その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士
が、同じ病院に勤める医師だったということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問
いただすことができなかった。似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、
隣人の子ども(三歳男児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた
私の母にすると、母は、こう言って笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであっ
たからね」と。(A)
 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも
最後まで学校に残って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさん
は、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、どう
みてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキを
ねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。(B)
 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、
その母親は、「そういえば、毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイス
した。「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何で
も知っていますからね』とだけ言いなさい」と。その母親は、私のアドバイス通りに、その子ども
にそう言った。以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。(C)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(584)

子どもを伸ばすために

 「取った、取られた」、「ふえた、減った」、「得をした、損をした」、そんな感覚を通して、子ども
は数の世界でいうところの、「考える力」を養う。よく誤解されるが、計算力があるから「考える
力」があるということにはならない。計算力は訓練で伸びるが、「考える力」は、訓練では伸びな
い。そういう意味で、「考える力」は生活と密接に関係する。言いかえると、「考える力」は、生活
を通して養う。ワークブックやドリルがムダとは言わないが、しかし生活力のともなわない「力」
は、いわばメッキのようなもの。やがてすぐ、「はげる」。
 ……ということは、この世界では常識だが、では、どうすれば、生活の中で、そうした緊張感
ができるか、だ。ふつう一人っ子は、「取った、取られた」の経験が少ないから、ここでいう「考
える力」が弱くなると考えがち。しかし実際には、そういうことはない。要は環境の問題。もっと
言えば、育て方の問題ということになる。
 コツは、子どもをややハングリーな状態におく。質素な生活を旨とし、日常的に手伝いをよくさ
せる。子どもというのは皮肉なもので、手をかけ、お金をかけ、時間(ヒマ)をかければかける
ほど、ドラ息子化する。が、反対に、使えば使うほど、生活力や忍耐力のある子どもになる。学
習面でも伸びる。学習にはある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力だか
らである。そしてその時期は、二〜四歳までが勝負。四・五〜五・五歳の移行期を過ぎると、急
速にこのしつけはできなくなる。へたに子どもに仕事を頼もうものなら、「自分のことは自分でし
な!」と言われる。
 ……というくらい、この時期の、この時期までのしつけが、重要である。たいていの親は、そ
の重要性を知ることなく、子どもを甘やかしたり、楽にさせたりする。平気で高価なものを、買
い与える。遊園地や行楽地へ連れて行き、よい思いをさせることが、親子の絆(きずな)を太く
することだと誤解している。が、その実、子どもを子どもあつかいしている。子どもをかわいがっ
ているようで、子どもの人格をふみにじっている。それにすら気づかないでいる。
 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として認め、その人格を尊重すること
である。たとえばおけいこ塾へ入れるときも、一度は子どもの意思を確かめることだ。一方で、
そういう親の謙虚な気持ちが、親子の絆を太くする。
 子どもを伸ばすということは、いかにして子ども自身がもつ「伸びようとする力」を引き出すか
で決まる。子どもというのは、親や教師が伸ばそうと思って伸びるものではないし、そう思えば
思うほど、これまた皮肉なことに、子どもは伸び悩む。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(585)

シンプルライフのすすめ

 今朝(〇二年七月のある朝)も、子育ての相談で、午前中のほとんどがつぶれてしまった。大
津市に住む人からのものだった。途中、「電話料はだいじょうぶだろうか?」と何度も心配する
ほど、長い電話だった。生活も、それほど楽ではない人のようだった。
 こうした相談を受けるたびに、どうして子育てが、こうも複雑になってしまったのかと思う。本
来なら、人間の生活はもっとシンプルなはず。それと同時に、子育てももっとシンプルなはず。
しかしこうして受ける相談は、それも深刻なものばかり。そしてその深刻な分だけ、内容が複
雑!
 私たちは文明と引き換えに、何かもっと大切なものをなくしてしまった。そのひとつが、シンプ
ルライフではないか。複雑であるがゆえに、何か価値あることをしていると思いがちだが、その
実、無価値なものを追いかけているだけ……ということが多い。ムダも多い。たとえば飽食とぜ
いたくの中で、食べるものは食べながら、一方でダイエットのためにお金を使う。近くのスーパ
ーへ行くだけでも車に乗りながら、夜はアスレチッククラブに通う。車にしても、一部屋もあるよ
うな大きな車。スーパーへ行くのに、クーラー、ソファなど、家財道具いっさいを運ぶようなこと
を、平気でしている。生活をシンプルにするということは、こういうケースでは、食事の量を減ら
し、スーパーへは歩いていくことを意味する。生活そのものを単純化することを意味する。
 ……と書いて、子育ての話に戻る。こうまで子育てが複雑になってしまったのは、一方でムダ
なことをしながら、そのムダなことの穴埋めをするために、さらにムダなことをしているためと考
えてよい。たとえば子育ての目標は、子どもを自立させること。しかし一方で、自立させることを
じゃましながら、他方で、「どうしたらいいか」と悩む。よい例が過干渉であり、過関心だ。過負
担で、オーバーヒートさせてておきながら、他方で、「どうしてうちの子はハキがないのでしょう
か」と。
 人間は、数一〇万年という気が遠くなるほどの年月を経て、ここまで進化してきた。数一〇万
年である! その人間の質が、ここ一〇〇年、あるいは一〇〇〇年で変わったと考えるほうが
おかしい。子育てにしてもそうで、変わったと考えるほうがおかしい。本来、子育てというのは、
もっとシンプルなものであったはず。そういう視点に立ち返って子育てをもう一度ながめてみる
と、私たちはムダにムダを重ねながら、子育てを不必要に複雑にしているだけということがわ
かる。冒頭にあげた相談も、そうだった。その母親は、子どもの問題点だけをあれこれあげな
がら、「どうしたらいいでしょうか」「どうしたらいいでしょうか」と悩んでいた。「鼻をほじってばか
りいるので、顔の輪郭がくずれるのでは」ということまで悩んでいた。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(585)

映画

 劇場で映画を見るとどうなるかを、子どもたち(小学四〜六年生)に聞いてみた。
    見ると、たいてい頭が痛くなる……1人
    見ると、ときどき痛くなる  ……2人
    ほぼ何ともない       ……2人(そのときの体の調子によるとのこと)
    何ともない         ……4人
    眠くなったりする      ……1人
 この質問をした背景に、私自身は、「いつも痛くなる」ということがある。先日もデパートで、子
どもたちがテレビゲーム(「スーパーマリオ・サンシャイン」)をしているのを、横で見ていたが、
それだけで、私は頭が痛くなってしまった。どういうメカニズムによるのかはわからないが、日
常的でない刺激が、脳にダメージを与えるらしい。年齢的な問題もある。最近では家庭でビデ
オを見ていても、頭痛が起きることがある。いや、子どもだって無難ではない。この調査でもわ
かるように、一〇人中、三人までが、「痛くなる」「ときどき痛くなる」と答えている。
 ここでいう「日常的でない刺激」というのは、はげしい光の点滅による刺激をいう。その刺激
が脳にある種の緊張感をつくり、その緊張感が頭痛を起こすということは、容易に察しがつく。
よい例が、九七年に起きた「ポケモンパニック事件」である。その年の一二月一六日、テレビ東
京系列のポケモンを見ていた子どもが、光過敏性てんかんという、わけのわからない症状を示
して倒れた。はげしいけいれんと、嘔吐。その日の午後一一時までにNHKが確認したところ、
埼玉県下だけでも、五九人。全国で三八二人。さらに翌々日の一八日までには、その数は全
国で、〇歳児から五八歳の人まで、七五〇人にもなった。気分が悪くなったという被害者まで
含めると、全国で一万人以上! 大阪では発作を起こして、呼吸障害になった上、意識不明の
重症におちいった五歳の子ども(女児)もいた。「酸素不足により脳障害の後遺症が残るかもし
れない」(大阪府立病院)と。たかが映画ではないかと、軽く片づけることはできない。
 が、問題はここで終わらない。こうした刺激が、子どもから、「論理的にものを考える力」をう
ばう危険性すらある。今、授業中、イメージが乱舞してしまい、静かな指導になじまない子ども
が急増している。これはあくまでも私の推察だが、その理由の一つに、ここでいう「日常的でな
い刺激」があるのでは……? 法律の世界には、「疑わしきは罰せず」という不文律がある。し
かし子どもの世界では、「疑わしきは、先手先手で、どんどん罰する」。それが原則である。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(587)

子どもの脳が乱舞するとき

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突
然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。
その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こち
らの頭のほうがヘンになる。
 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに
数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。
 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病
欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答し
ている。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九
〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」
(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたり
する」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(588)

「荒れ」から「新しい荒れ」

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。
日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてそ
の結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ず
る」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。
 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期
に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレ
ビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしません
でした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎ
る。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎ
る。
 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直
感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつか
さどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こ
うした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えている
ことはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということにな
る。
 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(589)

私が子どものころの「女」

 私が子どものときですら、男子が女子と遊ぶということ自体、考えられなかった。そのため
か、私には、女子と遊んだ記憶がない。どこにもない。ないものはないのであって、どうしようも
ない。遊べば遊んだで、「女たらし」と呼ばれ、そのまま皆から、仲間はずれにされた。男女の
境(さかい)がはっきりしていたというのではなく、その根底に、はげしい女性蔑視のものの考え
方があった。「女」は人間ではなかった!
 Tさん(七八歳女性)は、夫と結婚し、昔からに旧家に嫁いできた。二四歳のときのことだっ
た。そのころを振り返って、Tさんはこう言う。「私なんか、一人の人間にあつかってもらったこと
はなかった。女中かそれ以下の存在でしかなかった」と。いわんや夫の仕事に口を出したり、
意見を述べるなどということは、ありえなかった。仮に夫が愛人を自宅へ連れてきても、文句を
言うことすらできなかった。Tさんの家でも実際、それに近いことはあったらしいが、当時は、そ
ういう時代だった。「時代」といっても、今からたった半世紀前のことである。
 で、この状態は、今、急速に変わりつつある。が、まだその過渡期といってもよい。都会はと
もかくも、地方へ行くと、この傾向はいまだに残っている。少し前、九州のある都市で講演させ
てもらったが、主催者の人がこう話してくれた。「このあたりでは、今でも、嫁が嫁の実家に帰る
ときは、シーツをもたせる習(なら)わしになっています」と。つまり娘が実家へ帰るとしても、実
家のシーツは使わせてもらえない、と。いや、都会でも、こうした男尊女卑思想は、根強く残っ
ている。今でも「男は仕事、女は家事」と平気で言う人は、いくらでもある。しかし家事は仕事で
はないとでもいうのだろうか。あるいは仕事をしている夫が偉くて、家事をしている妻は、そうで
ないというのだろうか。こうした偏見が、日本の家庭に、いまだに暗い影を落としている。
 ただこの問題を考えるとき、二つのポイントがある。ひとつは、そういう男尊女卑社会につい
て、男たちの意識が、ほとんどないということ。脳のCPUがいかれているから、男たちがそれを
自分で気がつくということは、ほとんど、ない。ふたつめに、そういう男尊女卑社会を、肝心の
女性たちが受け入れてしまっているということがある。女性にしても、骨のズイまで、魂を抜か
れてしまっている! こういう男性や女性のものの考え方を変えるのは、容易なことではない。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(590)

かわりのハシゴ論

 学歴信仰という言葉がある。「信仰」とはよく言ったもの。それはまさに信仰。
 ところで、宗教的指導者が、信者を指導するとき、よく使うのが、神や仏の権威を利用する手
法である。「私はこう思う」と言っても、だれもついてこない。が、「聖書にはこう書いてある」「経
典にはこう書いてある」と言えば、だれも逆らわない。その逆らわないことをうまく利用しなが
ら、宗教的指導者は、結局は、自分の利益につなげる。金銭的利益もあるが、自分の名誉を
高めたり、さらには政治的発言力を高めたりすることもある。
 よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、
宗教が生まれる。彼らの多くは、何かの救いを求めて、宗教に身を寄せる。だからそういう信
者に向かって、「あなたがたの宗教はまちがっている」と言っても、意味はない。ハシゴをはず
す(=宗教を否定する)のは簡単なことだが、何かかわりのハシゴを用意しないままハシゴをは
ずすのは、危険なことでもある。そうした配慮がないと、困るのは信者自身ということになる。
 教育論もこれに似たところがある。いまだに権威主義が、学校教育の「柱」になっている。神
や仏こそもちださないが、「文部科学省」という名前さえ出せば、教師も親も、「ハハアー」とそ
れに従う。学校五日制にしても、学習要領三割削減にしても、一般の民は、「上」から命令され
るまま、それに従うだけ。
さらに受験競争について言えば、これはたしかにおかしい。まちがっている。たとえば進学塾で
していることは、指導ではあっても、決して教育ではない。そういう進学塾を否定するのは、簡
単なことだ。しかし今の、この日本の不公平社会をそのままにしておいて、進学塾を否定しても
意味はない。その入り口で、受験競争に勝ったというだけで、生涯、その恩恵に浴している人
はいくらでもいる。たとえばあのN銀行が倒産したとき、政府は、四兆円という税金を、その銀
行に注いだ。行員二〇〇〇人足らずの銀行だったから、行員一人当たり、二〇億円の支援と
いうことになる。二〇億円である! 国家公務員の天下り問題については、もうここに改めて書
くまでもない。こういうバカげたことを一方でしながら、学歴無用論をいくら説いても意味がな
い。進学塾を攻撃しても、意味がない。 
 宗教がかかえる問題と、教育がかかえる問題は、どこか似ている。そしてそれを支える信者
と親も、どこか似ている。カルトをカルトとも気づかず妄信する信者がいる一方、学歴信仰を信
仰と気づかず妄信する親がいる。言いかえると、学齢信仰を妄信している親に向かって、「あ
なたはまちがっている」と言うのは、カルトを信仰している信者に向かって、「あなたはまちがっ
ている」と言うのと同じということ。それくらいこの問題の「根」は深い。またそういう覚悟をもっ
て、この問題は考える必要がある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(591)

弁証法的教育論

 弁証法、つまり問答形式で、相手の矛盾をつきながら、自説の正当性を主張する論法を弁
証法という。昔、ギリシアのエレア学派のゼノンが用いた論法だが、有名なのは、ソクラテスの
問答形式による弁証法である。
 この弁証法を、教育論に使ってみると、こうなる。
 教育には権威が必要であると説く人がいる。一方、権威は必要ないと説く人がいる。一見対
等の議論に見えるかもしれないが、決して対等ではない。権威があれば、教育がしやすいのは
当然のことで、これを否定すると、それまで権威にたよっていた教育は崩壊の危機に立たされ
る。(日本の教育は、まさにこの権威の上に成り立っている。)そこで権威は必要ないと説く人
は、ただ必要ないと説くだけでは足りない。それによる教育の混乱についてまで責任を負わね
ばならない。
 そこで弁証法の登場である。権威は必要ないと説く人は、一度、「必要である」という立場に
自分を置く。そしてその立場で、「権威」の矛盾をついていく。「どうして教科書は絶対なのか」
「どうして学校は行かねばならないところなのか」「どうして学校の先生は偉いのか」「偉いという
のは、どういうことなのか」と。そしてそうした疑問に、相手が答えられればよし。しかしそういう
疑問、さらには矛盾に相手が答えられなければ、相手の説がまちがっているということになる。
 が、この段階で、相手がこちらの疑問につぎつぎと答えることができたとすると、今度は相手
の説が正しいということになるとが、ただ正しいというだけではない。それ以上に、正当性が裏
づけられることになる。つまり弁証法というのは、そういう方法で、自説の絶対性を証明するた
めに利用されることもある。
 ついでながら、私は「教育には権威など必要ない」と説くものの一人である。しかしよく誤解さ
れるが、「権威」と「尊敬」は、別である。教師個人は、尊敬されるべき存在であっても、決して
「偉い」存在ではない。権威を否定するからといって、尊敬されることを忘れてはならない。それ
は当然のことである。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(592)

生きる力

 こう書くからといって、公務員の人は気分を悪くしないでほしい。多分、悪くするだろうが、しか
しここは聞いてほしい。
 今、教育の目標のひとつが、「生きる力」を養うことになっている。どこへ行っても、「上」のほ
うから、話題になる。しかし皮肉なことに、今、もっともその力に欠けるのが、教育の世界では
ないのか。生きる力は、その人がよりきびしい状況に置かれてはじめて、その人自身からわき
出てくるもの。教えられてできるものではない。
 よく学校の先生と話していると、学校の先生は塾を批判する。もちろん塾にも多くの問題があ
る。しかし学校の先生と、塾の先生の大きな違いは、そもそも生徒集めのきびしさから始まる。
学校の先生にすれば、生徒は向こうからやってくるもの。塾の先生にすれば、生徒は、一人ず
つ、頭をさげてきてもらうもの。こういう前提で始まるから、当然、立場も違う。学校で勉強がで
きなければ、子どもの責任、親の責任ということになるが、塾で勉強ができなければ、即、ク
ビ! 塾の先生の立場でいうなら、退職金はもちろん、年金も、天下り先もない。このきびしさ
は、そのまま授業に反映される。
 そこでまた、生きる力について。それぞれの世界にはそれぞれのきびしさがある。それはわ
かる。しかしたとえば私たちが、近くの市の出先機関へ出向いたようなとき、まず驚くのが、そ
の「だらしなさ」である。必要以上に多いと思われる職員が、仕事をしているふうでもなし、して
いないふうでもなし、どこかダラダラしながら時間をつぶしている。掃除にしても、外部の清掃
業者がしている。一方、生徒数が、三〇〇人を超える塾(私立幼稚園)でも、外部の清掃業者
に掃除を委託しているところは、まず、ない。たいていは塾の教師が、交替で受けもっている。
塾長(園長)自らが掃除を率先して行っているところも、多い。
 生きる力というのは、人が絶壁に立たされてはじめて生まれる。子どもでも水槽の中で、エサ
を与えられ、温度調整までされているような環境(失礼!)の中では、生きる力は生まれない。
言いかえると、本当にたくましい子どもを育てようと思うなら、一度、水槽から出し、子ども自身
を絶壁に立たせなければならない。そしてもし子どもに教えることがあるとするなら、子どもに
向かって、「生きる力をもちなさい」と言うのではなく、親や教師自身が自ら絶壁に立ち、そのき
びしさに立ち向かう姿を子どもに見せることである。それをしないで、つまり自分たちは水槽の
中で、安穏な生活をしながら、子どもにだけ生きる力を求めるのは、あまりにも身勝手というも
のではないか。
私の言っていることで気分を悪くする人もいるかもしれないが、その前に、一度この問題を冷
静に考えてみてほしい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(593)

死は厳粛に

●子どもにとっての死とは
 「死」をどう定義するかによってもちがうが、三歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。
飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く」と言った子ども(三歳男児)
がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(三歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言っ
た子ども(三歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようになるのは、三歳以後だが、しかし
その概念はおとなとはかなり違ったものである。三〜七歳の子どもにとって「死」は、生活の一
部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死す
ら平気でやり過ごすことがある。
 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終を迎えたとき、
子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。ちなみに小学五
年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、八人全員が、「こわくない」
「私は死なない」と答えた。一人「六〇歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がい
た。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいや
だ」「それは困る」と答えた。
●死があるから生きる喜びが
 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。もてあそんで
もいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼っていた小鳥が死
んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは
「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。死があるから生が
ある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていねいにとむらうという
ことは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、子どもは生きるこ
と、さらには命そのものまで粗末にするようになる。
 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/) 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(594)

世間体は子育てを見苦しくする

●親のメンツと世間体
 今でも世間体を気にする人は多い。しかし世間体を気にすればするほど、それは他人の目
の中で生きることになる。そしてそれは同時に、自分の人生をムダにすることになる。
 生きる美しさというのは、いかにその人がその人らしい人生を送っているかで決まる。が、他
人の目の中で生きる人には、それがない。ないばかりか、皮肉なことに、はた(=世間)から見
ても、それほど見苦しい人生はない。私の知人に、こんな女性(七〇歳)がいる。ことあるごと
に「世間」という言葉を使う。「世間が笑う」「世間体が悪い」「世間が許さない」など。長くつづい
た封建時代の悪弊とも言える。あの江戸時代には、人々は、他人と変わったことをすることす
ら許されなかった。
 もっともこうした生きざまが、その人個人のものであれば、問題はない。が、こうしたものの考
え方が子育ての領域に入ってくると、話がかなりおかしくなる。ある母親は、毎朝、自分の娘
(高一)を車で駅まで送っていた。近所に娘の学校の制服を見られるのが恥ずかしいというの
が、その理由だった。
またこれは隣の豊橋市でのことだが、そこでは市内のS進学高校に入れなかった子どもは、名
古屋市のB高校に入学するのが習わしになっているという。豊橋市に住んでいる友人が、そう
話してくれた。B高校は全寮制。S進学高校に入れなかった子どもは、親のメンツのために
(?)B高校へ進学する……ということらしい。(もちろんそうでないケースも多いと思うが…
…。)
●世間が何だ!
 しかしそれですめばよいが、こうした親の生きざまは、やがて親子の間に深刻なキレツを入
れることになる。子どもというのは、「どんなことがあっても、親は私を守ってくれる」という安心
感があってはじめて、豊かな心をはぐくむことができる。親にしても、「どんなことがあっても、私
は子どもを支えます」というのが、真の愛情ということになる。もっと言えば、「世間が何と言おう
と、また世間が何と思おうと、私はあなたを守りますからね」という確たる信念が、親子のきず
なを深める。が、こうした生きざまは、子どもの側に疑念や不信感をもたせ、ついで、心に大き
なキズを入れることになる。たいていはそのまま親子の断絶へとつながっていく。
 「世間」という言葉が頭をかすめたら、すかさずこう思いなおしてみたらよい。「あなたはあな
たよ」と。たったこれだけのことだが、それであなたはあなたの子どもの心を守ることになる。親
子のきずなもそれで太くなる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/) 



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(595)

知識はメッキ

 私も法律の勉強を、五年間もした。私にとっては、おもしろくない勉強だった。いくつかの資格
はとったが、卒業後、その資格を生かしたことはただの一度もない。で、それから三〇年。同
窓会に出て、法曹の道に進んだ仲間と話しても、会話がうまくかみあわない。つまりそれだけ
「法律」とは遠ざかってしまったということ。専門用語を忘れてしまったということもある。では、
私の法律の勉強がムダだったのかというと、そうでもない。ものの考え方というか、論理的に思
考を積み重ねていくクセだけは残った。反対によく雑誌などで他人の教育論を読んだりする
が、ときどきあまりの論理性のなさに、驚くことがある。中には感情論だけで教育論を組み立て
ている人がいる。つまりそういうことがわかるということは、やはり私が法律の勉強をしたため
とみてよい。
 あのアインシュタイン(一八七九〜一九五五、ドイツの物理学者)は、こう言っている。「教育と
は、学校で習ったことをすべて忘れ去ったあとに残っているものをいう」(「教育について」)と。
学校で習ったことを忘れたからといって、教育がムダだったということにはならない。むしろ「忘
れる」ことを理由に、教育を否定する人のほうが、問題だ。……と言っても、知識教育をそのま
ま肯定することもできない。知識そのものは、生きるための武器であり、ないよりはあったほう
がよい。しかし知識が多いからといって、アインシュタインが言うところの、「あとに残っているも
の」になるとは限らない。大切なのは、その中身であり、思考プロセスということになる。
 こうした前提で、子どもの教育を考えると、教育がどうあるべきかがわかってくる。たとえばこ
んなことがある。中学生に教えているとき、その子どもがもっている能力のほんの少し先の問
題を出してみると、ただ「できない」「わからない」「まだ習ってない」とこぼし、自分では考えよう
ともしない子どもがいる。が、反対にあちこちテキストを見ながら、調べ始める子どもいる。この
時点で重要なことは、「その問題が解ける、解けない」ということではない。「解くためにどのよう
な思考プロセスを働かすか」ということである。もちろん「できない」とこぼす子どもより、調べだ
す子どものほうがすばらしい。またそういう方向に子どもを導くのが、教育ということになる。
 教えられてできるようになるのが、知識教育。しかしそれで得た知識は、メッキのようなもの。
時間がたてば、必ずはげる。しかし思考プロセスは残る。残ってあらゆる場面で、それが働くよ
うになる。たとえば私のことだが、先に書いたように、いつもものごとを論理的に考えるクセだ
けは残った。こういった文章を書くについても、あいまいな言い方だけはしていないつもりであ
る。あいまいなことは書かないというよりも、書く前に筆を止めてしまう。自分なりに結論が出た
部分のみを書くようにしている。そういう姿勢こそが私が学生時代に受けた「教育」ということに
なる。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(596)

先生と話すときは、わが子は他人 

●話しにくい親たち
 親と話していて、「うちではふつうです」「K塾では問題がありません」と言われることぐらい、会
話がしにくいことはない。たとえば、私「このところ元気がありませんが……」、母「家ではふつう
です」、私「どこかで無理をしていませんか」、母「K塾では問題なく、やっています」と。
 先生と話すときは、わが子でも他人と思うこと。そう思うことで、親は聞き上手になり、あなた
の知らない子どもの別の面を知ることができる。たとえば子どもが問題を起こしたりすると、ほ
とんどの親は、「うちの子にかぎって!」とか、「友だちに誘われただけ」とか言う。しかし大半
は、その子ども自身が主犯格(失礼!)とみてよい。子どもを疑えということではない。子どもと
いうのはそういうもので、問題を起こす子どもほど、親の前では自分を隠す。ごまかす。
 溺愛ママと呼ばれる母親ほど、親子の間にカベがない。一体化している。だから子どもに何
か問題が起きたりすると、母親は自分のこととして考えてしまう。先生に何か問題がありますな
どと言われたりすると、自分に問題があると言われたように思う。思うから、「子ども(私)には
問題はありません」となる。しかしこういう盲目性が強ければ強いほど、親は子どもの姿を見失
う。そして結果として、子どもの問題点を見逃してしまうことになる。
●先生は本音でほめる
 先生というのは、学校の先生も塾の先生も限らず、子どもをほめるときには、本音でほめる。
しかし問題を指摘するときは、かなり遠慮がちに指摘する。つまり何か先生のほうから問題を
指摘されたときには、かなり大きな問題と思ってまちがいない。そういう謙虚さが、子どもの問
題を知るてがかりとなる。言いかえると、子育てじょうずな人というのは、一方で聞きじょうず。
自分のみならず、自分の子どもをいつも客観的にみようとする。会話をしていても、「先生の意
見ではどうですか?」「どうしたらいいでしょうか?」「先生はどう思いますか?」という言葉がよく
出てくる。そうでない人はそうでない。中には、「あんたはいらんこと、言わないでくれ」と言った
母親すらいた。しかしそう言われると、教師としてできることは、もう何もない。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(597)

互いに別世界

●子育てには基準がない
 子育てには尺度がない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハりやすい。こんなことがあった。S君(年中児)とい
う、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに負けただけで、机
を蹴っておおあばれしたりした。そこである日、私は母親にこう言った。「もっと家事を分担さ
せ、子どもをつかいなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」と。そこで驚
いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれま
す」と。
 一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事
は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。
「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。
 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はS君とY君に接したので、その違いがよけいに
強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。
●風通しをよくする
 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも
かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースがある。先日も、学校の勉強につ
いていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども(小五女児)をもった親が、こう相談してき
た。「今度学習内容が三割削減されるというが、それでは学力がさがるのではないかと心配
だ」と。その母親は、「私立中学では今までどおり教えるというが、それは不公平だ」とも言った
が、こうしたおめでたさ(失礼!)は、多かれ少なかれ、どの親ももっている。それはというも
の、結局は、互いに別世界に住んでいるからにほかならない。互いにもう少し風通しがよけれ
ば、こうした誤解は防げるのだが……。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(598)

船頭は一人

●父親の悪口は言わない
 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。
「お父さんの給料が少ないでしょう。だからお母さんは、苦労しているのよ」と。あるいは「お父さ
んは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」と。母親としては
娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れるだけならま
だしも、母親の指示に従わなくなる。
 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。たとえば何か重要な決断を迫られた
ようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよ
う」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。父、子どもに向かって、
「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」、母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。こういう
会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。「お父さ
んがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子どものいない
ところで調整する。子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いか
らでしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるな
ら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の
大原則。
●夫婦は一枚岩
 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう
書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。しか
し夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せて
はならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。
 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。古いことを言うようだが、
そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築
き、よい家庭をもつことができる。欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の
最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。(はやし浩司のサ
イト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(599)

子どもが伸びるとき、つぶれるとき

 子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。「威圧で閉じる子どもの耳」と
覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているから、そ
うしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱るとき
は、次のことを守る。
 @人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)、A大声で怒鳴らない。その
かわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」と覚えておく。話した説教が、
脳に届くには、時間がかかる。B相手が幼児のばあいは、幼児の目線にまで、おとなの体を
低くする(威圧感を与えないため)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの
体を、しっかりと親の両手で固定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避
ける。特に頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。C興奮状態
になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、D叱ったことについて、子どもが守
れるようになったら、「ほら、できるわね」と、ほめてしあげる。
 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、「忠告は秘かに、賞賛は公(おおや
け)に」と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのと
き頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子
どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほ
うがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にする
ようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」につ
いては、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子どもが
うぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。
 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがん
ばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子ども
から、やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブ
ー。結果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら、「あなたはよくがんばった」式
の前向きの理解を示してあげる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(600)

子育てリズム論

●子どもの心を大切に●子どものうしろを歩こう
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。
 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、@あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかしA子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂か
もしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親ほど、親意識が強
い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでも
しようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が
勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前では従順に従
う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長く
は続かない。
 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい
のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいまいなことを言うの
を許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張す
る。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。
 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、
実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の
会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人
生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。
早ければ早いほどよい。もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているような
ら、今日からでも、子どもの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなた
は子育てのリズムを変えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができ
る。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(601)

常識は偏見のかたまり

●ふえるホームスクール●おけいこ塾は悪?
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。
●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教
材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政
府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多い
が、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を
超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われてい
る。それを指導しているのが、「LIF」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそ
できる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足を
したりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子ど
もの受け入れを表明している。
●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだ
が、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中に
あって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を軽減するた
めに、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマ
ネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われ
る。こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特
性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住
所はもちろん、電話番号すら親には教えない。
 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っていることでも、世界
ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(602)

あのとき母だけでも…

●問題の根源は深い●封建時代の亡霊と戦う
 あのとき、もし、母だけでも私を支えていてくれてていたら…。が、母は「浩ちゃん、あんたは
道を誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私が「幼稚園で働いている」と
言ったときのことだ。
 日本人はまだあの封建時代を清算しいていない。その一つが、職業による差別意識。この
日本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそうで、どんな仕事がそうでな
いかはここに書くことはできない。が、日本人なら皆、それを知っている。先日も大手の食品会
社に勤める友人が、こんなことを言った。何でもスーパーでの売り子を募集するのだが、若い
女性で応募してくる人がいなくて、困っている、と。彼は「嘆かわしいことだ」と言ったので、私は
彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さんをそういうところで働かせることができるか」と。い
や、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方すら、封建時代の亡霊といっても
よい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中身
は、「自分や、自分の子どもだけは別!」という差別意識でしかない。が、それだけではすまな
い。こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。この日本には
よい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進学率の高い学校をいい、
進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」に直結している学校をいう。
 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入ってみると、事
情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が渦巻いていた。それに職場は
まさに「女」の世界。しっとと縄張り。ねたみといじめが、これまた渦巻いていた。私とて何度、
年配の教師にひっぱたかれたことか!
 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるものとばかり思って
いた。が、母は、「あんたは道を誤ったア」と。その一言で私は、どん底に叩き落とされてしまっ
た。それからというもの、私は毎日、「死んではだめだ」と、自分に言って聞かせねばならなか
った。いや、これとて母を責めているのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言った
だけだ。
 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根源は、もっと深
く、そして別のところにある。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(603)

よい先生VS悪い先生

●子どもたちが無意識のうちに判断している
 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」と
いう立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心
を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、
それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事のストレス」を問題にする人がいる。しかし私の場合、職場
そのものが、ストレス解消の場となっている。
 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しな
いでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく、
未経験だが、決して、幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中
で、自分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべき
ことではない。特に私の場合、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や
出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の輸出入を手伝った
り、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園や学校の先生には、心
のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少ない。
 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる
先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に
権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしてい
るのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。それはちょうど美しい花を見て、それ
を美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあ
るごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先
生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明るさが消える。
 そこでよい先生かどうかを見分ける簡単な方法…。休み時間などの様子を、そっと観察して
みればよい。そのとき、子どもたちが先生の体にまとわりついて、楽しそうにはしゃいでいれ
ば、よい先生。そうでなければ、そうでない先生。よい先生かどうかは、実は子どもたち自身
が、無意識のうちに判断している。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(604)

水槽の中の熱帯魚

●フリーター撲滅論に反論
 水槽の中の熱帯魚。結構、楽しそうに生きている。外から見ると、狭い世界だが、熱帯魚た
ちにはそれを知る由もない。生まれたときから死ぬまで、その世界がすべて。その世界しか知
らない。
 最近、「フリーター撲滅論」を唱える高校の元校長が現われた(2001年末)。いわく「フリータ
ーはまともな仕事ではない」と。この情報がインターネットで流れてきたとき、私は久々に熱い
怒りを覚えた。「撲滅」なんて、とんでもない。私はそのフリーターを、三〇年近くしてきた。若い
ころ「幼稚園の講師をしています」と言ったら、「どうせお前は学生運動か何かをしていて、ロク
な仕事につけなかったのだろ」と言った人すらいた。
 元校長には悪いが、酸素も与えられ、温度も調整され、食事も自動的に与えられて生きてき
たような人に、私のようなフリーターのきびしさがわかってたまるか! 私の世界では、明日、
病気か事故で倒れれば、それで万事休す。おしまい。私を判断するのは、私だけ。そういう意
味でも孤独な世界だ。地位も肩書きも名誉もない。退職金も年金も天下り先もない。すべてが
「ないない」づくし。もしフリーターという仕事が、「社会的に不利だ」というのなら、それは社会の
しくみのほうが、おかしいのだ。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない
人は、私のように、ほとんど受けない。そういう不公平な社会のほうがおかしいのだ。アメリカ
の多くの学校では、学校の教師といえども、一年契約の更新制をとっているところが多い。そ
の元校長は、そういうきびしさを、一度でも体験したことがあるのか。
 ……だからといって、私はその元校長の人生がつまらないものであったと言うつもりはない。
そんな失礼なことは言わない。それが礼儀というものではないか。が、もし私が彼に向かって、
「組織の歯車になって、つまらない人生を送りましたね。たった一度しかない人生を、ムダにし
ましたね」と言ったら、その元校長は怒るに違いない。彼が言う「撲滅論」は、立場こそ逆だが、
それと同じことだ。いやいや、彼のような人間が、フリーターのような仕事を認めることは、自分
の敗北を認めることになる。だからこそ、彼は、「撲滅論」を唱えるのだ。
 水槽があるかどうかということは、水槽の外に出てみてはじめてわかる。きびしさもそれでわ
かる今も熱帯魚を見ながら、私はそう考える。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(605)

アメリカの小学校

●教育の自由化は世界の流れ●楽しさのある学校
 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。写真は、アメリカ中南部に
ある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペリット小学校。児童数三七
〇名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりする。
 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガ
イダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めることができる。オクイン校長に、「ガイダ
ンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかなものです」と笑った。もちろん日本で
いう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教え
る。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスであ
る。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによ
って、親は補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をしていること。また
欧米では、図書室での教育を重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置い
て、子どもの読書指導にあたっていた。
 授業は、一クラス一六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学か
ら派遣されたインターンの学生の三人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ
が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい
くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。
 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。アメリカには、家庭で教えるホー
ムスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さらには学校券で運営するバウチ
ャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になっている部分もあるが、こうした「自
由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(606)

世界の文化論

●日本の自閉文化VSアメリカの開放文化
 子どもを見ていると、世界の文化が見えるときがある。昔、ある幼稚園へ行くと、一人の女の
子(年中児)が、小さな丸だけをつなげて、黙々と絵を描いていた。そこで担任の先生に、「あ
の子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生はこう言った。「根気のあるいい子ですよ」と。し
かしその子は、本当に「いい子」か? 内閉した心が、行き場をなくすと、子どもはそういう症状
を示す。自閉症の初期症状と言ってもよい。一方、伸びやかな子どもは、何かにつけて、大ざ
っぱ。
…という知識があると、文化の見方も変わってくる。たとえば金沢。その金沢の伝統工芸を、一
口で言えば、「精緻(せいち)」。実にこまかい細工を、ていねいする。まき絵や金箔工芸は言う
におよばず、和菓子にまで、その伝統は生きている。そうした工芸は高く評価されているが、し
かしその背景には、押しつぶされた人間の「自我」がある。あの前田藩を美化する人も多い
が、しかし実際には、あの前田藩という時代は、日本でも、そして世界でも類を見ないほど、暗
黒かつ恐怖政治の時代であった。今でも金沢市には尾張町とか近江町とかいう町名がある。
それぞれの地方から強制的に移住させられた人が住んだ町内である。また金沢城の中には、
藩主が、生身の人間をぶらさげて、刀の試し切りをしたところも残っている。そういう世界では、
民衆は内閉するしかなかった…。
一方これとは対照的なのが、アメリカ中南部地方。テキサス州を例にとればよい。あそこでは、
すべてがもう、大ざっぱ。やることなすこと、すべてが大ざっぱだから、恐れ入る。家具にして
も、表向きは結構見栄えのするものを作る。が、内側から見ると、ア然とする。どうア然とする
かは、機会があれば、ご自身で確かめてみてほしい。言い換えると、テキサスの人に、精緻な
仕事を期待しても無理。不可能。絶対にできない。そういう雰囲気すら、ない。レストランの料
理にしても、量だけはやたらと多いが、料理というより、あれは家畜のエサ(失礼!)。    
金沢の文化と、テキサスの文化は、きわめて対照的である。しかしそれはとりもなおさず、日本
人とアメリカ人の違い。さらには、日本の歴史とアメリカの歴史の違いでもある。で、結論から
言えば、日本の文化は、内閉文化。アメリカの文化は、開放文化ということになる。これは子ど
もの世界から見た、世界の文化論ということになる。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(607)

過去を再現する親たち

●魂の解放●親子関係を犠牲にしないために
 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に
襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。受験にま
つわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子
どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。
 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。…どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に
入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動か
ない。頭が働かない。時間だけが刻々とすぎる…。
 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親
に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのも
のが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それだけではな
い。こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも、「父親を尊敬し
ていない」と答えた中高校生は、五五%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高校生
は、八十%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてればたてるほど、
子どもの心は親から離れる。
 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会
場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩く
ようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あ
せってみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。…とたん、少し大げさな言い方だ
が、私の魂は解放された!
 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、
その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで…。まず自分の過去に気づく。それ
で問題は解決する。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみ
てほしい。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(608)

日本は民主主義国家

●肥大化し続ける公務員社会●受験競争の温床
オーストラリアで学生が使うテキストに、「日本は官僚主義国家」と書いてあるのがあった。「君
主(天皇)官僚主義国家」というのもあった。私はそれに猛反発した。が、それから三十年…
…。日本はやはり官僚主義国家だった。世界で、日本が民主主義国家だと思っているのは、
恐らく日本人だけではないのか。
 よく政府は、「日本の公務員の数は欧米とくらべても、それほど多くはない」と言う。しかしこれ
はウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば、確かにそうだが、日本にはこれ以外
に、公団、公社、特殊法人、電気ガスなどの独占的公益事業団体、政府系金融機関がある。
これだけでも、日本人のうち、七〜八人に一人が、公務員もしくは、準公務員ということになる
(徳岡孝夫氏)。が、実際には、これだけではない。これらの公務員の天下り先として機能す
る、事業所、協会、センター、各種研究機関、社団、財団などがある。あの旧文部省だけでも、
こうした外郭団体が、一八〇〇近くもある。こうした団体が日本の社会そのものを、がんじがら
めにしている。国の借金だけでも六六六兆円(国の税収は五〇兆円)。そのほか、特殊法人の
負債額が二五五兆円(〇〇年)。そこで構造改革……ということになるが、これがまた容易で
はない。明治の昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、
すでにできあがっている。たとえば全国四七都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元
中央官僚。七〜九の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長
の多くも、元中央官僚。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もいる。こういう日本
の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口にするほうが、おかしい。実際、こうした団体
の職員数は、今の今も肥大化し続けている。
 しかし、問題はこのことではない。こうした世界では、この不況などどこ吹く風。完全な終身雇
用に年功序列。満額の退職金に年金。生涯を保障される天下り先が用意されている。つまりこ
うした不公平社会が、学歴社会の温床となり、それがそのまま日本の教育そのものをゆがめ
ている。ある父親はこう言った。「息子には、できるなら役人になってほしい」と。そのためか今
では、ちょっとした(失礼!)公務員試験でも倍率が百倍を超える。なぜそうなのかというところ
にメスを入れない限り、日本の教育に明日はない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(609)

神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。漢方(東
洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わない
が、しかしこの本がその原点にあることは間違いない。
 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆
であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(きはく)という学者の問答形式で書かれてい
るが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質問、さらには矛盾に
つぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。
 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」とい
う形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書い
ている。
 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な権威と
いうことになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分もあるが……。)岐
伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由がある。
 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢書
「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたことが正しいか
どうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって
「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかという疑問はある。が、それは
さておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。科学である以
上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。その科学に矛盾が
生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点のまちがい
もない)にキズがつくことになる。ここが宗教という哲学と大きく違う点である。つまり黄帝内経
の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。
 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。しかし断片的
な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。たとえばこ
の私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるもの
は、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。もう少しわかりやすい例で言え
ば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはできない。できないというより、たい
へん困難なことである。つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよいが)といいながら、体系化で
きるほどまでに完成されていない。これは実は聖書についても同じことが言えるが……。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(610)

黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎの
ような記述があることを知ったときのことだ。
 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。これを訳すと、「地は人の下に
あります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、
虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、
こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の中にある」と。「地が、人の下にある」というには、常
識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加えたかというのも、おもしろいが)、「太虚の中
にある」というのは、当時の常識と考えてよいのか。漢書「藝文志」という図書目録が編纂され
たのは、前一世紀ということになると、少なくとも、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に
唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだとしても、西暦七六二年の常識ではなかったは
ずである。ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮
内氏も、「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考
えるのが正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。気のひとつであ
る。その気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚という。今風に言えば、まさに真空の
状態ということになる。
 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿
って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋
天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。恐らく事実
は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さんには苦
心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)その証
拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。つまりわざと医学書
らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。さらに百歩譲って、もしこの部分
が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこんなところに書く必要はない。この
文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べているのである。王冰としても、散逸し
た黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかったのではないかと思う。
 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時の私
は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえ
た。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五〇〇年。今から
五五〇〇年前ということになる。(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正
しくないが……。)少なくとも、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、
まちがいない。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(611)

黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文
句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。
 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の
訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたも
との位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほう
では、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には
一年のずれを生じます……」とある。薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経
(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。一方、
王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。この部分もそう
だが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が見られ
る。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳している。たとえば……
 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこ
にもない!)
 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたとも
とれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。中国
には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。そういう時代
に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをしたため、弾圧された人
すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の回転について」)。宇宙創造に
関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。さらに中国では、中国式権威主義
がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。そういう時代的背景を忘れ
てはいけない。
 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければ
ならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについ
て、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」と
いうように反論する。しかしこの視点はおかしい。もしこの部分が、あからさまに地球説をい
い、地動説をいっていたとしたら、まっさきに削除されたであろうということ。それにゆえにあい
まいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるがゆえに、今に残ったというふうに考えられ
る。今、あいまいだからといって、さらにその内容を負(マイナス)の方向に引くことは許されな
い。私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、その向
こうにある事実を見ることなのである。「そういうふうにも解釈できる」という言いかたではなく、
「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(612)

三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上
の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあ
る。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。
 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷
わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三六五日余で
一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。
 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、医
学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、そん
な常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。こう
ある。
 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きにつ
いて聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。いわんや大
気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほ
うが正しい。その理由はいくつかある。
 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く
必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。
 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改め
て書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそま
さに木に竹をつぐような文章になってしまう!
 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はお
ろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう前提で訳し
ている。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部
分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれ
は正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。もし「左右に(回
って)」と訳すと、意味がすっきりする。
 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもど
る」と。
 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つまり右
転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。つまり左転し
ている。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったも
のである。
***************完********************* 
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