はやし浩司

人格の完成度テスト
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はやし浩司

【子どもの人格完成度テスト】(EQ論の応用)



★湖西市WD中学校校長ならびに、先生と父母のみなさんの協力を得て、

「人格完成度テスト」の集計結果が出ましたので、報告します。



 WD中学校のみなさん、ご協力、ありがとうございました。



**************************



まず、みなさんのお子さんについて、どんな様子か、採点して

みてください。これで、あなたのお子さんのおおまかな、人格

完成度を知ることができます。



**************************



(テスト方法)



 それぞれの項目(☆)について、0点〜4点までの、5段階になっています。



 0点……まったく、そうでないとき。(反対の様子であるとき。)

 4点……まったく、そのとおりであるとき。



 中間のときは、2点として、採点してください。

あるいは2点と4点の中間と思われるときは、3点として計算します。

あとで、得点を合計します。その合計点が、

あなたのお子さんの、性格ということになります。



++++++++++++++++++++

あなたの子どもは……
点数
(1)協調
(共鳴性)
☆親が苦労したり、苦しんでいると、言わなくても、すぐ力を貸してくれる。
     (0点、1点、2点、3点、4点の範囲で採点してください。以下、同じ))


☆他人に対して、同情的で、ボランティア活動などを、喜んでする。



☆仲間や友人に対して、やさしい。気をつかい、相手をキズつけたりしない。

12
(2)自己
管理能力
☆善悪の判断が強く、正義感が旺盛。まちがったことが嫌い。 



☆社会のルール(交通ルールなど)や、約束や目標を、しっかりと守っている。



☆誘惑に強く、その場、その場で、しっかりと自分を律して行動できる。

12
(3)安定
た人間性
☆勤勉で、努力家。何でも、コツコツと、がんばる。



☆言われたことに従順で、まちがえたときでも、すなおにそれを認める。



☆友人の数が多く、また交際範囲も広い。いつも仲間と仲よく遊んでいる。

12
(4)情緒
の安定性
性 ☆感情の起伏があまりない。いつも平常心で、安定して家族と接している。



☆わかりやすい性格をしている。心の中の状態が、外から、よくわかる。



☆落ちついた、もの静かな子どもといった印象を与える。めったに動じない。 

12
(5)知的
開放性
☆好奇心、生活力とも旺盛で、多芸多才。ものごとに挑戦的。



☆知的な遊びを好み、読書、研究、探求が好き。著作、音楽や絵画を好む。



☆広く政治や経済、日本や世界、さらに環境問題や宇宙の話題に興味をもっている。


12
  以上、総合計点60満点中、(      )点

各項目(☆)の、合計点と、全体の総合計点が、あなたの子どもの得点ということになります。



++++++++++++++++++++++++

 

各(1)〜(5)の各合計点……12点(4点x3)

 総合計点  ……60点で、集計



++++++++++++++++++++++++


【基礎調査結果】

 共鳴性  自己管  人間性  安定性  開放性 
男子  
12〜13歳  6.93   7.87   7.07  6.14   4.71 
13〜14歳  7.27   6.94   6.88   6.79  4.67
14〜15歳   7.00  7.54  7.38  7.29  5.46
15〜16歳  7.14   7.18  6.91   6.41  5.05 

 共鳴性  自己管  人間性  安定性  開放性 
女子
12〜13歳  7.83  8.58  7.75   7.25   7.17 
13〜14歳  7.45  7.88  6.90  7.09  4.94
14〜15歳  7.23  7.80   6.77   7.23  5.65 
15〜16歳  7 .39  8.00  7.72  6.00  6.83

(男子)総合点
12〜13歳(男)……32.1

13〜14歳(男)……32.5

14〜15歳(男)……34.7

15〜16歳(男)……32.7

(女子)総合点
12〜13歳(女)……38.6

13〜14歳(女)……34.3

14〜15歳(女)……34.7

15〜16歳(女)……35.9

(調査日……2004年12月 有効サンプル数 男女合計・187人)





【判断のし方】

 平均点より得点が大きければ、相対的にみて、あなたの子どもの人格の完成度は、より高い
とみます。男子中学生であれば、33点前後を、平均点とみて、判断してください。女子であ
れば、35点前後を、平均点とみて、判断してください。



 しかし平均点より得点が小さければ、あなたの子どもの人格の完成度は、より低いとみま
す。

(グラフなどは、「はやし浩司のHP」のほうに、収録しておきます。)

(はやし浩司 人格の完成度 完成度テスト 集計結果 人格テスト 人格完成度テスト EQテ
スト 人格の完成度))

 

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【EQ論】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。 

(1) 自己管理能力
(2) 良好な対人関係
(3) 他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。 

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が含まれる。 

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせない。 

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その時点で、これまた迷うかもしれない。 

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それに含まれるかもしれない。 

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。 

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。 

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。 

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。 

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。 

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、飛行機恐怖症など。 

 精神的な欠陥もある。 

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれない。) 

 具体的には、パニック状態になってしまう。 

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。 

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコントロールしていくということ。 

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。 

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度は、低いということになる。 

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人ということになる。 

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。 

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠のいてしまう。 

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。 

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒したのを、見たことがない。) 

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。 

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局は、だめだった。 

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。 

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。 

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考えてみたい。 




●感情的知能(EQ)
 
 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。


 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、その子どもの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭のよい子どもイコール、社会に適応できる子どもとは、かぎらない。



わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。



(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。



 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全体的な雰囲気で判断する。



 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」と考えたら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。



 そこで私の自己判定。





(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。



 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりする反面、協調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。



(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。



 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコントロールしてしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。



(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。



 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症(基底不安)型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほうへと考えてしまう。取りこし苦労をしやすい。



(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。



 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じに、自分を客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。



(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。



 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにくらべて、柔軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。



(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。



 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦いながら、無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまかして生きていると思う。



 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がないことがわかる。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきりと判定することができない。



 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であるということ。



 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでいて、負けず嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。



 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と思いながら、別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という世界でもそうなのかもしれない。



 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、どこかの橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に合っているのかもしれない。



 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあげたとも考えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげること)によるものかもしれない。



 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。



 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬席はとれない。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価がものをいう。



 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。たとえば、「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」と。現在でも、大学入試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での面接試験(人物評価)がなされているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていない。

 

 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。

(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emotional Quality)

●子どもの社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。 

(1) 共感性 
(2) 自己認知力 
(3) 自己統制力 
(4) 粘り強さ 
(5) 楽観性 
(6) 柔軟性 

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。 

 順に考えてみよう。 

(1) 共感性 

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。 

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。 

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。 

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。 

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。 

(2) 自己認知力 

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。 

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。 

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。 

(3) 自己統制力 

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。 

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。 

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。 

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。 

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。 

(4) 粘り強さ 

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。 

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。 

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。 

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。 

(5) 楽観性 

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。 

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。 

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。 

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。 

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。 

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。 

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。 

(6) 柔軟性 

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。 

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。 

+++++++++++++++++++ 

●子どもの意地 

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。 

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。 

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。 

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。 
  
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではないが……。) 

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。 

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。 

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。 

++++++++++++++++++ 

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。 

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。 

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。 

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。 

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。 

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが……。) 

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。 

【子ども診断テスト】 

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。 
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。 
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。 
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。 
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。 
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。 
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。 

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子どもとみる。 
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度) 


 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Education、by JESDA Websiteより転写。) 

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【人格の完成度】(補足)
●強者のジコチュー、弱者のジコチュー



 その人の人格の完成度は、利己から、利他への移動度で測る。わかりやすく言えば、いかに、他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性などができるかによって、その人の人格の完成度を知ることができる。



 いいかえると、自分勝手で、ジコチューな人は、それだけものの考え方が、利己的で、人格の完成度が低いということになる。



 ……というようなことは、何度も書いてきた。そこでここでは、その先について、考えてみたい。



●学歴と人格の完成度



 当然のことながら、学歴と、人格の完成度は、一致しない。……しないというより、関係ない。



 ここにも書いたように、人格の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって、知る。他人の悲しみや苦しみを理解し、その他人の立場になって、同情したり、共鳴したりできるかによって、知る。それが自然な形で、できる人を、人格の完成度の高い人という。



 たとえばガムシャラに、勉強をして、よい大学に入ったとか、同じくガムシャラに、仕事をして、社会的な名声や地位を得たからといって、その人の人格の完成度は高いということにはならない。



 むしろ、実際には、その逆のことが多い。



 多くの親は、そして教育にたずさわる人は、「勉強ができる子どもイコール、人格的にもすぐれた子ども」と考えやすい。しかしこれはまったくの、誤解。ウソ。偏見。幻想。



●二種類のジコチュー



 自分のことしか考えられないという人は、多い。自分勝手で、わがまま。世間では、こういうタイプの人を、やや軽蔑の念をこめて、「ジコチュー(自己中心的な人)」という。



 このジコチューにも、二種類、ある。強者のジコチューと、弱者のジコチューである。



 先に書いた、自分のことだけを考えて成功したような人は、強者のジコチューということになる。これに対して、弱者のジコチューというのもある。



 先日、ある女性(年齢、不詳)から、突然、電話がかかってきた。「講演会を聞いたものです」とだけしか、その女性は、言わなかった。



 が、電話を受け取ると、ただ一方的に話すのみ。



「うちの子が勉強しません」

「受験が迫っています」

「夫が、私を叱ります」

「私は子どものころ、勉強ができなくて、よく母に叱られました」と。



 で、あれこれひと通り話すと、あいさつも何もないまま、プツンと電話を切ってしまう。



 そして、翌日も、同じような電話をかけてくる。そして同じような内容の繰りかえし。



 要するにその女性は、「何とかしてくれ」「何とかしてほしい」と言っている。たいへん依存心の強い人ということになる。そして一見、子どもの将来を心配しているようなフリをしている。が、その実、自分のことしか考えていない。



 私の迷惑など、計算外といったふう。こういうジコチューを、弱者のジコチューという。



●弱者のジコチュー



 昔から、困った人があがく姿を、「藁(わら)にもすがる」という。つまりその時点で、その困った人は、ここでいう弱者のジコチューになる。



 生活が行きづまった人。

 大病をわずらった人。

 大きな問題をかかえた人。

 経済的に追いつめられた人、ほか。



 このタイプの人は、当然のことながら、自分のことしか考えない。……考えられない。自分のことを考えるだけで、精一杯。他人のことや、他人の立場や心情を考える余裕など、ない。



 先日も、ある学校の先生(中学2年担任)のところに、一人の母親から、電話がかかってきたという。時計を見ると、夜中の1時。「うちの娘が家出をしてしまいましたア。いっしょに、さがしてくださア〜い!」と。



 その先生は、「時間外のことは知らない」と言いたかったが、断るわけにもいかなかった。夜が明けるまで、その母親といっしょに、その子どもをさがしたという。



 その母親にしてみれば、自分の娘のことを心配するだけで、精一杯。先生の都合や、迷惑など、考える余裕すらなかったということになる。



●ジコチュー診断



 いかにすれば、「利己」から、「利他」へ、脱却できるか? 自分自身を転換できるか?子育ての場では、それは教育や指導によるものということになる。が、これは子どもだけの問題ではない。おとなや親の問題ということにもなる。



 そこで大切なのは、その人自身の努力である。



 まず、自分が、ジコチューであることに気づく。強者のジコチューであるにせよ、弱者のジコチューであるにせよ、それに気づく。すべてはここからはじまる。



 が、多くのばあい、つまりほとんどの人は、自分が自己中心的でありながら、それに気づかない。そこでまず、自己診断テスト。



( )他人と会話をしていても、いつも自分のことばかり話す傾向が強い。

( )他人の不幸話や、失敗話を聞くと、優越感を覚えたり、ときに楽しく思う。

( )自分が損をするようなことは、しない。犠牲になることも好まない。

( )無料奉仕、ボランティア活動、町内の仕事など、ほとんど、したことがない。

( )自分の権利を主張することが多く、侵害されると、猛烈に反発する。

( )友人が少なく、人との交流も、ほとんどしない。いつも孤独で、さみしい。



 ここに書いたようなことがいくつか当てはまれば、かなりのジコチューとみてよい。



●ジコチューを知る



 ジコチューの問題は、これはあらゆる心の問題と共通しているが、それに気づけば、そのほとんどが解決したとみる。



 その気づく方法の一つとして、他人を観察してみるという方法もある。



 幸いなことに、私は、毎日、多くの子どもたちに接している。親たちにも接している。そういう環境の中で、「この子どもは、ジコチューだな」「この親は、ジコチューだ」と気づくことが多い。



 概して言えば、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、ジコチューとみてよい。自分のことしか、考えていない。自分の子どものことしか、考えていない。そしてその結果として、受験競争を勝ち抜いた子どもほど、ジコチューになりやすい。



受験競争というのは、もともとそういうものだが、しかしつまり、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、それだけ人格の完成度が低い人ということになる。



 そういう視点でみていくと、あなたのまわりにも、ジコチューな人と、そうでない人がいるのがわかるはず。電話で話しても、一方的に自分のことばかり話すだけ。他人の苦労話や不幸な話を聞いても、型どおりの返事だけ。心に響かない……。



●演技としての同情



 話は少し脱線するが、人間は、経験をつむことによって、人格者を演ずることができるようになる。一つの例が、ニュース番組の中の、ニュースキャスターたちである。



 悲しい事故の報道をしながら、どこか暗くて、つらい表情をしてみせる。「犠牲者は、病院で手当てを受けていますが、中には、重症の方もいるようです……」と。



 しかしつぎの瞬間、今度は、ニュースが変わると、同時に、がらりと明るい表情になり、「では、今夜のプロ野球の結果です。あのM選手が、満塁ホームランを打ちました!」と話す。



 人間の心はそれほど、器用にできていない。わずか数分(あるいは数秒)のうちに、悲しい気持ちが楽しい気持ちになったり、あるいはその反対になったりすることなど、ありえない。つまりニュースキャスターたちは、そのつど、ニュースの内容に応じて、演技しているだけということになる。



 こうした演技は、日常的に経験する。が、それだけではない。



 演技を重ねていると、それが仮面になり、さらにその人の中に、別の人格を形成することがある。心理学では、こうした現象を、「反動形成」という。



 たとえば「私は教師だ」「聖職者だ」と自分に言ってきかせていると、いつの間にか、自分の中に、(私でない私)をつくりあげてしまう。それにふさわしい人間になろうと思っているうちに、自分の中に、架空の自分をつくりあげてしまう。



 しかし仮面は仮面。一見、人格者風の人間にはなるが、もちろん、ホンモノではない。



 利己から利他へ移行するためには、その人自身が、苦労を重ね、悲しみや苦しみを経験しなければならない。私の恩師のT先生は、それを、「心のポケット」と呼んだ。



●心のポケット



 相手に同調するにせよ、同情するにせよ、それができるようになるためには、自分自身も、同じような経験をしていなければならない。



 たとえば自分の子どもを、交通事故か何かでなくした人がいたとする。その人は、深い悲しみを味わうわけだが、その悲しみは、その経験のない人には、理解できない。同じような経験をした人だけが、その人の悲しみを理解できる。



 一つの悲しみや苦しみを経験すると、同じような悲しみや苦しみをもった他人の心を、理解できるようになる。



 これを「心のポケット」という。



 この心のポケットの多い人、深い人、そういう人ほど、他人の悲しみや苦しみを、自分のものとして、受け入れることができる。



 が、だれしも、こうした悲しみや苦しみを、経験するわけではない。ほとんどの人は、できるだけそれを避けようとする。悩みや苦労もなく、平和に、のんびりと暮らしたいと願っている。



 となると、ここで一つの矛盾が生まれる。



●矛盾



 わかりやすく言えば、人は、悲しみや苦しみを経験してはじめて、他人に悲しみや苦しみを理解できるようになる。そしてその同情性や、同調性が、自分を利己から利他へと導く。



 その利他が大きくなればなるほど、人格の完成度が高くなる。



 しかし、その一方で、人間は、悲しみや苦しみを、避けたいと思っている。またそのために努力している。



 ということは、生活が豊かになり、生活の質が高くなればなるほど、悲しみや苦しみを経験することがすくなくなる。そしてそれと同時に、人格の完成度は低くなるということになる。



 もっとわかりやすく言えば、苦労が多ければ多いほど、人格の完成度が高くなるということだが、苦労を望んで求める人などいない。あるいは苦労をした人が、すべて人格者になるというわけではない。中には、むしろ邪悪な人になっていくケースもある。



 こうした矛盾を、どう考えたらよいのか。それに心のポケットといっても、不幸には、定型がない。まさに千差万別。「同じような苦労」といっても、それはどこか似ているというだけで、苦労の内容は、みなちがう。



 この問題については、また別の機会に考えてみる。今は、「矛盾」とだけにしておく。が、ヒントがないわけではない。



●愛と慈悲



 キリスト教には、「愛」という言葉がある。仏教には、「慈悲」という言葉がある。



 その愛にせよ、慈悲にせよ、その中身といえば、突きつめれば、結局は、いかにすれば相手の立場で、悲しみや苦しみを共有できるかによって、決まる。他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性こそが、まさに愛であり、慈悲ということになる。



 言いかえると、キリスト教にせよ、仏教にせよ、こういった宗教は、愛や慈悲という言葉を使って、その人の人格の完成をもとめているということになる。



 こうした宗教では、自らは、悲しみや苦しみを経験することなく、人の心の中に、心のポケットをつくろうとする。私自身は、信仰者ではないから、それ以上のことはわからない。



 そこで改めて、私なりのやり方を、考えてみる。私のばあい、宗教にその方法を求めるというのは、最後の最後にしたい。



●ジコチューとの戦い



 そこで考えてみると、自分のジコチューと戦うためには、いくつかの方法があることがわかる。



 最初に思いつくのは、自己犠牲と、周囲への貢献。無料奉仕活動や、ボランティア活動がそれにあたる。とくに、悲しみや苦しみを背負った人の立場で、ものを考え、行動する。そしてその悲しみや、苦しみを、自分のものとして共有する。



 ……といっても、もちろん、それは簡単なことではない。このこと自体が、生きることのテーマそのものといってもよい。



 が、それだけでは足りない。



 精神の完成のためには、毎日の、たえまない研鑽(けんさん)が必要である。いつも前向きに戦っていく。自分をみがいていく。



 というのも、精神の完成度は、立ち止まったとたん、その時点から後退し始める。それは流れる水のようなものではないか。よだんだとたん、水は腐り始める。「私は完成された人間だ」と思ったとたん、愚劣な人間になっていく人は、少なくない。



 そのためには、いつも考える。考えて考えて、前に進む。そうすることによって、脳の中を流れる水を、腐らせないですむ。釈迦は、そういう姿勢を、『精進(しょうじん)』という言葉を使って説明した。



 そう言えば、キリスト教にも、(ゴール)という言葉はない。「10年、教会に通ったから、もうあなたは教会には、こなくていい」というような話は、聞いたことがない。信者は、それこそ死ぬまで、たとえば日曜日には、教会へ通ったりする。



 キリスト教でも、やはり毎日の研鑽を、信者に教えているのかもしれない。(こんな軽率な意見を書くと、その道の専門家の人に、叱られるかもしれないが……。)



●人生の目標 



 こうして考えていくと、どこまで「利他」を達成できるかが、人生の目標ということになる。ひょっとしたら、私たちが生きている意味や、目的も、そのあたりにあるのかもしれない。



(とうとう、シッポをつかんだぞ!)



 かなり不謹慎な言い方をしたが、今、私は、心の中で、そう叫んだ。「私たちはなぜ、今、ここに生きているのか」「生きる目的は何なのか」「何を求めて生きているのか」という、人間がかかえる最大の課題についての(シッポ)である。



 私は、その(シッポ)をつかんだような気がする。



 もちろんまだ、その(シッポ)をつかんだだけというだけで、その方法もよくわかっていない。それにそれを実践するというのは、まったくの別の問題。



 さらにその先には、何があるか、私にも、皆目見当もつかない。またそういう状態になったとき、私の心境や思想がどうなるか、それもわからない。しかし方向性だけは見えたような気がする。



 とりあえずは、日々の生活の中で、「利己」から「利他」への転換を、少しずつ始める。今は、それしかない。



 何とも中途半端なエッセーになってしまった。先ほど、このエッセーを読みかえしてみたが、文章も稚拙で、矛盾だらけ。マガジンに掲載するのをやめようかとも思ったが、この数日間、ほとんど原稿を書いていないということもあって、あえて掲載してみることにした。



 改めて、つまり少し時間をおいて、この問題については、考えてみたい。



 なおこのあとに、以前書いた原稿を3作(中日新聞発表済み)を添付すいておく。参考にしてほしい。



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子どもに生きる意味を教えるとき 



●高校野球に学ぶこと



 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。



私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。



●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか



 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。



それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。



 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。



つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。



●懸命に生きることに価値がある



 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。



その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。



 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。



いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。



さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。



そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。



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子育てのすばらしさを教えられるとき



●子をもって知る至上の愛    



 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。



●自分の中の命の流れ



 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分の中に父がいる」という思いである。



私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。



先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。



つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。



●神の愛と仏の慈悲



 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。



いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。



これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。



●神や仏の使者



 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。



が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。



つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。



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●真理



 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由になれる」と。



 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。



 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、それは死によって、すべてのものを失うからである。



いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。はっきり言えば、死ぬのがこわい。



が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。



が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?



 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえると、真の自由を求めるのが、真理ということになる。



もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言えば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。



 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。



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●無条件の愛



真の自由「無条件の愛」



 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。



 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 



 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。



 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。



息子「アメリカで就職したい」

私「いいだろ」

息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。式には来てくれるか」

私「いいだろ」

息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」

私「いいだろ」と。



 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。



息子「アメリカ国籍を取る」

私「日本人をやめる、ということか…」

息子「そう」

私「…いいだろ」と。



 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。



 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。



「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。



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 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つは、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。



(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れて、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私たちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。



(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもっている、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」という意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」もそれに含まれる。



(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かった意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれにも奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。



 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれない」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。



財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わからない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なことに、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。



 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。彼の言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちがってはいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。

(02−12−15)



●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦「大般涅槃経」)。

(040505)