はやし浩司

あいうえお
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はやし浩司

赤ちゃんがえり

愛情は落差の問題

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃんがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型ということができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教しても意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どうして上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だから文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「五〇%」というのが不満なのだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、一〇〇%だった親の愛情が、五〇%に減ったことが問題なのだ。もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あなたの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとしたら、あなたはそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなたの新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、@様子があまりひどいようであれば、以前と同じように、もう一度一〇〇%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。A症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(五〇%五〇%)を貫き、そのつど、上の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生活にこころがける。



(補足)
赤ちゃんがえりを甘く見ない

 幼児の世界には、「赤ちゃんがえり」というよく知られた現象がある。これは下の子ども(弟、妹)が生まれたことにより、上の子ども(兄、姉)が、赤ちゃんにもどる症状を示すことをいう。本能的な嫉妬心から、もう一度赤ちゃんを演出することにより、親の愛を取り戻そうとするために起きる現象と考えるとわかりやすい。本能的であるため、叱ったり説教しても意味はない。子どもの理性ではどうにもならない問題であるという前提で対処する。

 症状は、おもらししたり、ぐずったり、ネチネチとわけのわからないことを言うタイプと、下の子どもに暴力を振るったりするタイプに分けて考える。前者をマイナス型、後者をプラス型と私は呼んでいるが、このほか情緒がきわめて不安定になり、神経症や恐怖症、さらには原因不明の体の不調を訴えたりすることもある。このタイプの子どもの症状はまさに千差万別で定型がない。月に数度、数日単位で発熱、腹痛、下痢症状を訴えた子ども(年中女児)がいた。あるいは神経が異常に過敏になり、恐怖症、潔癖症、不潔嫌悪症などの症状を一度に発症した子ども(年中男児)もいた。

 こうした赤ちゃんがえりを子どもが示したら、症状の軽重に応じて、対処する。症状がひどいばあいには、もう一度上の子どもに全面的な愛情をもどした上、一からやりなおす。やりなおすというのは、一度そういう状態にもどしてから、一年単位で少しずつ愛情の割合を下の子どもに移していく。コツは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、根気よく子どもの症状に対処すること。年齢的には満四〜五歳にもっとも不安定になり、小学校入学を迎えるころには急速に症状が落ち着いてくる。(それ以後も母親のおっぱいを求めるなどの、残像が残ることはあるが……。)

 多くの親は子どもが赤ちゃんがえりを起こすと、子どもを叱ったり、あるいは「平等だ」というが、上の子どもにしてみれば、「平等」ということ自体、納得できないのだ。また嫉妬は原始的な感情の一つであるため、扱い方をまちがえると、子どもの精神そのものにまで大きな影響を与えるので注意する。先に書いたプラス型の子どものばあい、下の子どもを「殺す」ところまでする。嫉妬がからむと、子どもでもそこまでする。
 要するに赤ちゃんがえりは甘くみてはいけない。



【子どもの嫉妬】

嫉妬はこころをゆがめる

 嫉妬心と闘争心。これら二つの感情は、おそらく人間がきわめて下等な生物であったときからもっていた原始的な感情ではないか。この二つをいじると、子どもの心はゆがむ。とくに嫉妬心は、人間をして、えてして常識ハズレの行動へとかりたてる。

 たとえばいじめ。陰湿ないじめが、長期間にわたって続くときは、この嫉妬を疑ってみる。いろいろなケースがある。K子さん(小四)は、学校で、陰湿なもの隠しに苦しんでした。かばんや上履きなどは言うにおよばず、教科書やノート、運動着さらには通知表まで隠された。そのためK子さんと母親は、転校まで考えていた。が、ひょんなことから、その犯人(こういう言い方は好きではないが……)がわかった。そのもの隠しをしていたのは、そのK子さんの一番の親友と思われていた子どもだった。その子どもは、いつもK子さんの心配をしながら、最後の最後までいっしょになくなったものをさがしてくれていたという。

 K子さんは背も高く、頭もよかった。学校でもたいへん目立つ子どもだった。一方、そのもの隠しをしていた子どもは、背も低く、器量も悪かった。そんなところにその子どもが嫉妬する理由があったのかもしれない。

 またこんなことも。Oさん(中二女子)も、同じようにもの隠しに悩んでいた。私に相談があったので、私はその母親にこう聞いた。「Oさんの一番そばにして、親友と思われる子どもはだれですか?」と。する母親はこう言った。「そう言えば、毎朝、娘を迎えにきてくれる子がいます」と。私はその子どもをまず疑ってみるべきだと話したあと、母親にこう言った。「明日その子が迎えにきたら、その子の目をしっかりと見て、『おばさんは何でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。その母親は翌日、私が言ったとおりにしたが、その日を境に、Oさんのまわりでのもの隠しは、ピタリとなくなった。

 つぎに闘争心だが、いわゆる動物的な、かつ攻撃的な闘争心は、幼児期はできるだけ避ける。幼児期は「静かな心」づくりを大切にする。この時期に一度、攻撃的な闘争心(興奮状態になって、見境なく相手を暴力で攻撃するという闘争心)が身につくと、それをなおすのは容易ではない。スポーツの世界では、こうした闘争心がもてはやされることもある。たとえばサッカーなどでも、能力というよりも、攻撃心の強い子どもほど、よい成績をあげたりする。ある程度の攻撃心は、子どもを伸ばすのに必要だが、幼児期にはそれにも限度があるのでは……? もっともこれ以上のことは、親自身の判断と方針に任せるしかない。それがよいと思う人は、そうすればよいし、それが悪いと思う人は、やめればよい。あくまでも参考意見の一つと考えてほしい。




【補記】06−2月4日

【赤ちゃん返り】

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赤ちゃん返りを決して、安易に
考えてはいけない。

赤ちゃん返りは、子どもの心を
本能的な部分で、ゆがめる。

あるいは、さまざまな情緒障害の
引き金を引くきっかけともなる。

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●ゆがんだ心

 赤ちゃん返りと呼ばれる、よく知られた現象が、子どもの世界には、ある。ところが、である。いろいろな心理学の本を見ても、この「赤ちゃん返り」について書いた本が、ほとんどない。(私は読んだことがない。)

 これほどまでに重要な現象について、それについて書いた本がないというのは、どういうことか。だいたいにおいて、文字すら、定まっていない。「赤ちゃん返り」なのか、それとも「赤ちゃん帰り」なのか。

 私は、一度、子どもが大きくなって、また赤ちゃんの心理状態に戻るという意味で、「返り」という文字を使っている。「返り咲き」の「返り」である。が、中には、「返り咲き」を、「帰り咲き」と書く人もいる。

 となると、「赤ちゃん還り」でも、「赤ちゃん回り」でもよいことになる。しかし私はやはり、「赤ちゃん返り」が正しいと思う。現象的に考えると、そうなる。

 その赤ちゃん返りについて、昨日、「なおりますか?」と聞いてきた母親がいた。しかしこうした、つまり一度ゆがんだ心は、なおらない。そのまま一生、つづく。ただ、表面的には、わからなくなる。そこで私は、「もぐる」という言葉を使う。

 こういう例が、ある。

●もぐる子どもの心

 下の子どもが生まれたことで、情緒が不安定になってしまった女の子(年中児)がいた。心の緊張感が、取れなくなってしまった状態と考えるほうが正しい。このタイプの子どもの心は、いつもある種の緊張状態にある。親に対して絶対的な安心感を覚えることができない。そのため、心が休まることがない。そこへ心配ごとや不安ごとが入ると、それを解消しようと、一気に情緒が不安定になる。

 で、その女の子のばあい、たとえば幼稚園へ出かけるとき、あるいは、おけいこ塾へでかけるとき、決まってぐずったり、泣いたりした。が、一度、出かけてしまえば、ケロッとして、あとは何ごともなかったかのようにすませてしまう。

 そういう姿を見て、その母親も、「二重人格者みたいです。なおるでしょうか?」と。

 そこでその女の子の幼稚園での様子を見ると、ごくふつうの、何も問題のない子どもに見えた。その女の子が、家庭で、赤ちゃん返りを起こしているなどということは、幼稚園の保育士にも、わからないだろう。

 が、この段階で、だれも、その女の子の赤ちゃん返りが(なおった)とは、思わない。その女の子のもう1つの心は、別のところにある。あって、顔を出さないだけである。だから、(もぐる)という言葉を、私は使う。

 こうした例は、多い。たとえば、いじけやすい子ども、くじけやすい子ども、ひがみやすい子ども、ねたみやすい子ども、すねやすい子どもなどがいる。そういう子どもでも、環境さえそうでなければ、そういった症状は出てこない。時と場合に応じて、そういった症状が外に出てくる。

●程度と症状はさまざま

 赤ちゃん返りも同じように考える。もっとも、その症状には、個人差と、程度の差がある。さらに症状も、(1)ネチネチと赤ちゃんぽくなる退行型、(2)下の子に攻撃的になる攻撃型、(3)服従的になる服従型、(4)ベタベタと甘えたりする依存型、(5)ものの考え方が破滅的になる破滅型などに分類される。

 また同じ赤ちゃんぽくなる退行型にしても、しぐさや動作、ものの言い方まで赤ちゃんぽくなる子どももいれば、ただその時々において、グズグズするだけの子どももいる。またいろいろなタイプが複合することも珍しくない。退行型に依存型が加わるケースは、よく観察される。だからどの程度から赤ちゃん返りといい、またいわないかという判断は、むずかしい。

 さらにこの赤ちゃん返りが、そののち、さまざまな情緒障害(自閉傾向、かん黙症など)の引き金を引くことになることもある。下の子が生まれたあと、心(情意)と表情が、遊離してしまった子ども(年中・女児)もいた。その母親は、「外見からは、何を考えているか、さっぱりわかりません」と心配していた。何があっても、いつもニタニタというか、ニヤニヤと、意味のわからない笑みを浮かべていたからである。

 原因は、本能的な嫉妬心である。

●本能に根ざした嫉妬心

 ここで「本能的」というのは、本人には意識できない、さらに奥深いところで起こる現象という意味である。だからそういう子どもを叱ったり、説教しても、意味がない。たとえば生後まもない赤ちゃんは、エンゼル・スマイルに代表されるように、(かわいさ)を親にアピールすることによって、自分の生存をはかろうとする。

 つまりそれは赤ちゃんの意識的な行為というよりは、遺伝子そのものに組みこまれた。本能的な行為と考えるとわかりやすい。もしこの段階で、親から見捨てられたら、子どもは生きていくことができない。つまり、人類は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 親から見て、かわいいから、親は子育てをする。そうでなければそうでない。

 下の子に、親の愛情を奪われたという危機感をいだいた子どもは、その(かわいさ)を、再現することによって、もう一度、親の愛情を、すべて自分に取りもどそうとする。それが赤ちゃん返りである。

 そのことは、赤ちゃん返りを起こしている子どもを見れば、わかる。

●NSさんのケース

 印象に残っている女の子に、NSさん(当時、年長児)がいた。そのNSさんは、教室でも、片時も、母親から離れようとしなかった。母親のそばにいて、体をクネクネとくねらせながら、ネチネチと甘えていた。

 「ウママア(ママ)、オウチイエ(おうちへ)、カイエリタイ〜(帰りたい)」と。

 それを見て母親はNSさんを強く叱ったりしたのだが、叱れば叱るほど、逆効果。NSさんの症状は、ますますひどくなっていった。「おもらしは、毎晩のようにします」「月に、1、2度は、原因不明の熱を出します」と、母親は言った。

 意識の世界で、自分の体温をコントロールすることはできない。だから私は、本能に近い、無意識の世界によって、彼女はコントロールされていると判断した。ここで「本能的」というのは、そういう意味である。

 そのため対処のし方も、症状の内容と程度に応じて、ちがう。症状が軽ければ、そのまま一過性のものとして終わる。しかし重ければ、もう一度、100%の愛情を上の子に注ぎなおすところから始める。親は、「上の子も下の子も平等です」と言うが、その「平等」が、上の子には、不満なのだ。

 あとは1年単位で、様子をみる。この問題には、本能的な嫉妬心がからんでいるだけに、容易には、なおらない。指導する側からすると、赤ちゃん返りを決して、安易に考えてはいけないということになる。

●なおそうと思わないこと

 さて、冒頭で相談してきた母親だが、「なおりますか?」と聞いた。私は、「なおらない」と答えた。「なおそうと思わないことです」とも。しかしここで2つのことが言える。

 1つは、もぐったまま、そのままわからなくなってしまうということはある。とくに赤ちゃん返りは、その時期特有の症状であり、その子どもが年齢的に成長し、自分を包む世界が変わってくれば、下の子をそれほど意識しなくなる。そのため赤ちゃん返りという、あの特有の症状は、外からはわからなくなる。

 もう1つは、こうした(心のゆがみ)は、別の形に姿を変えやすいということ。たとえばよく「上の子どもは、下の子どもにくらべてケチ」と言われる。生活態度が、防衛的になるために、そうなると考えるとわかりやすい。

 さらに上の子は、いじけやすくなったり、くじけやすくなったり、ひがみやすくなったり、ねたみやすくなったり、すねやすくなったりすることはある。そういう(心のゆがみ)に変化することはある。

 ただここで誤解してはいけないのは、こうした(心のゆがみ)というのは、だれにでもあるということ。多かれ少なかれ、だれでにでも、ある。私も、あなたも、だ。だからそういう(ゆがみ)があるからといって、大げさに考えてはいけない。そういう(ゆがみ)を克服しながら生きていくのが、人間ということにもなる。

 が、本来なら、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始めるのがよい。「ある日、突然、下の子が生まれた」というような状況をつくると、まずい。それがわからなければ、あなたの夫が、ある日突然、愛人を家の中に招き入れたようなケースを想像してみればよい。

 あなたは、果たして平静でいられるだろうか。あるいは夫が、「お前は愛人と、平等にかわいがってやっている」と言っても、あなたはそれに納得するだろうか。下の子が生まれたときの、上の子の心理は、それに近い。

 こうして考えていくと、もうおわかりかと思うが、「嫉妬」には、悪魔的な力がある。赤ちゃん返りがこじれて攻撃的になると、上の子は、下の子を、殺す、あるいは殺す寸前までのことをする。それほどまでに、上の子の心をゆがめることもある。

 重ねて言うが、赤ちゃん返りを、決して安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 赤ちゃん返り 赤ちゃん帰り 赤ちゃんがえり)





赤ちゃん言葉

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その数は日本語より、はるかに少ない。

 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な問題が隠されている。

 先日、遊園地へ行ったら、六〇歳くらいの女性が孫(五歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗り込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホレ、ワー、楽チィーネー」と。

 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をしているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子どもの人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱うことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている! それだけその女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依存心をもたせていることになる。ある女性(六三歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小四男児)に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結局はその子どもを、一人の人間として認めていない。

 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はあるが、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたっては、その差はもっと開く。これは民族性の違いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高校生にしても、日本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ経験のある人なら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを子どものときから、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。
 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとおして、わかってもらえれば幸いである。


悪筆

文字の前に運筆練習を

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせるとよい。一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵のよい点が見なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。ためしにあなたの子どもに丸(○)を描かせてみるとよい。運筆能力の発達した子どもは、きれいな(スムーズな)丸を描く。そうでない子どもは多角形に近い、ぎこちない丸を描く。言うまでもなく、文字は複雑な曲線が組み合わさってできている。その曲線を描く力が、運筆能力ということになる。またぬり絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小さな四角や形を、縦線、横線、あるいは曲線をうまく使ってぬりつぶすことができる。そうでない子どもは、横線なら横線だけで、無造作なぬり方をする。

 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それに中指ではさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支えてもつ。鉛筆をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。(とくに正しいもち方というのはないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使ったとき、手がどうしても疲れやすくなる。)ちなみに年長児で約五〇%が鉛筆を正しく(?)もつことができる。残りの三〇%はクレヨンをもつようにして鉛筆をもつ。残りの二〇%は、それぞれたいへん変則的な方法で鉛筆をもつ。

 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、さらには腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だけで描くことができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことができる。さらに曲線は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人もいるかもしれないが、幼児にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。

 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置いてあげ、自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いたとおりである。


アスペルガー児

【アスペルガー障害】

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症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。

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【はやし浩司より、GN先生へ】

GN先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)として
おきます。

 私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からす
ると、T君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタ
イプと考えてよいのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導
で、症状がこじれてしまっている。私は、そう判断しました。

 以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。

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●文献より

【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】

 自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」
と呼ぶ。

 対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。

 高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。

 圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れ
なかったり、不器用であるため、孤立しやすくなる。

 計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独
創性を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱され
たりすることに対して、著しく、攻撃的になる。

 原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝
の要素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には
最新の注意が必要。

 最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、
行動療法などの治療法がある。


【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持してい
るといわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特
定のものに対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。

 また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。

 特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こだわり、
興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。


【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】

 ……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。

(1)社会性の問題

 自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をすれ
ば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした他人の
感情を推し量るのが、非常に苦手。)

(2)コミュニケーションの問題

 言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イントネーシ
ョンの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)

(3)想像力の遅れ

 1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。

 これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー症候
群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しにくいことをい
う。

 すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生
まれつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。


【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6〜7歳に顕著になる。ほとんど
男児のみにみられる障害である。

 言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や
容貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが
多い。

 特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以
上と推定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。ま
た、多くの全体的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。

 青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断
基準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。

 治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶ
ん社会に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療に
おいても、社会福祉的な領域が重要になる。

 ……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、
それぞれの診断は困難である。

症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アスペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)

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●親自身の問題

 こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているか
どうかということです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切
な対処法で、子どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話し
ません。

 無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。

 T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母
親が、かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、
じゅうぶん、考えられます。

 T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところか
ら発生したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察
記録といった感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、
「うちの子は、生まれつきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容で
すね。

 で、私の経験を話します。

●私の経験より

【U君(小3児)のケース】

 U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知られてい
ないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児科医のアスペル
ガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始めたのは、90年代に
入ってからです。)

 最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられません
でした。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。

(1)ほかの子どもと仲間になれない

 そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、
結局は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、
軽い回避性障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからで
す。

(2)ずば抜けた算数の力

 計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平
均児より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、
メチャメチャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通していま
す。こまかい作業が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になるこ
ともあります。

(3)極端な自己閉鎖性

 U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありまし
た。(軽いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題など
で、まちがいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。

(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、
それを塗りつぶしてあったりしました。)

 こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、
自己閉鎖性があったことになります。

 幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。
ですからそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、
当時は、「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。

●治療は考えない

 こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関
することは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。

 「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半年、ある
いは1年単位で、様子をみる」です。

 で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」とか、「直
そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよくなれば、すぐ無
理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あとは、その繰りかえし。
そんな感じがします。

 U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という言葉
がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子どもを指導してき
ました。

 (最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)

 その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいという
ことです。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、
それを利用し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせると
いうことはできます。

 子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。

 しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気
な態度のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを
指摘しただけで、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざ
いな態度で、「ウルセー」と、言い返してきたこともあります。

 そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その態度
は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味です。

 先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が
書いてありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読む
と、担任の教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、
ここにあります。

子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつ
うの態度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。

●親側の問題

 で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりませ
ん。親というのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そうい
う母親がよく使う言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。

 「うちの子は、生まれつき、こうです」と。

 子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、
親を責めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているか
らです。懸命にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校
児です。

 子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親は
パニック状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。
この無理が、症状を悪化させてしまいます。

 たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。

 で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪けれ
ば、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど長期化しな
くてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験してきました。

●年単位の観察を

 先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちす
ぎるのではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単
位で、症状の推移をみていかなければなりません。

 「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単
位、月単位の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したと
ころで、これまた意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があり
ます。

 簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに
納得し、(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、
給食におおきなわだかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしま
うのです。

 それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状
態にしてしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。

 ……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれ
てしまっていると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親が
それに納得し、指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった
記録がありません。

 ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。し
かし、これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだ
してもらい、そうであると親自身が納得しなければなりません。

 で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私が指導
してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知らぬフリ」をし
て、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診断名をくだすということ
は、絶対に、ありえません。またしてはなりません。

 が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別で
す。そのときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しかしそれ
までは、知らぬフリ、です。

 ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと
心配してきた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうことは、し
ばしばあります。

●親の無知

 で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。し
かしこれも、むずかしいですね。

 最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞い
てみたのですが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知
り、がく然としたことがあります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。

 つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガ
ー障害であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになっ
たのは、ここ5、6年のことですから……。

 以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、
考えられます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会が
あれば、そっと遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。

 あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の
微細障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」
な子どもがふえているのは、そのためだ、と。

 あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。
ありがとうございました。


敬具


                                はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アスペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガーの子ども)



頭のよい子
 
 五〇人に一人とか、それ以上の中に一人という、頭のよい子どもが、いる。よく「能力は平等だ」という人がいるが、こと知的能力についていえば、平等ではない。専門的に言えば、「脳の神経シナプスは、非同時的に発達する」※という。この「非同時性」が、子どもの「差」となって表れる。

 で、その頭のよい子どもの特徴としては、@目つきが鋭く、静かに落ち着いている、A集中力があって、いったん集中し始めると、他人を寄せつけない気迫を見せる、B言葉を頭の中で反すうする(何度もかみくだく)ため、それだけ言葉が重くなる傾向を示す、など。動作もどこか鈍くなることが多い。

 ここでいうB「言葉を反すうする」というのは、同時進行の形でいろいろなことを考えることをいう。たとえば「地球が暖かくなることをどう思うか」と問いかけると、知的能力の「深さ」によって、子どもの反応は大きく変化する。

レベル0……「暖かくなる」という意味そのものが理解できない。
レベル1……「暖かくなっていい」などと言って、そのレベルで思考を停止する。
レベル2……「暖かくなって、冬なども過ごしやすくなる」などと言って、自分にとってつごうのよいことだけを考える。
レベル3……「暖かくなると、困ることもある」などと言って、問題点をあれこれさぐる。
レベル4……「どうして暖かくなるのか」とか、「どうして困るのか」などと言って、いろいろな情報を集めて、それを分析しようとする。
レベル5……問題の深刻さが理解でき、「どうすればいいのか」「どんな問題が起きるのか」「どう対処したらいいのか」というレベルまで考えを切りこんでいく。

 こうしたレベルは、作文を書かせてみればわかる。考えの「深い」子どもは、その片りんを文のはしばしで、それを示す。

 中学生について言うなら、ほとんどの子どもが、レベル0〜2の範囲に入る。「五〇〇字程度の作文を書いてください」と指示しても、すぐ書き始める子どもは少ない。これは日ごろから、「考える」という習慣そのものがないためと思われる。

※シナプスの過剰生産と選択は脳の異なった部分で異なった速度で進むらしい。(Huttenlocher and Dabholkar, 1997) 本来の視覚皮質ではシナプスの密度は比較的速やかにピークに達する。 中間の正面の外皮では、明らかにより高度な認識の働きをするところであるが、その過程は更にゆっくりと進み;シナプス生成は誕生より前に始まり、シナプスの密度は5,6歳の年齢まで増え続く。

※ 選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相当するものであるが、更にそれに続く4,5年続き、初期の青年期で終わる。 このように脳の部分で異なった速度で進むことはそれぞれの皮質のニューロンでも異なったインプットを受けて異なった速度で進む可能性が高い。(Juraska, 1982, on animal studies 参照)

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頭のよい子(2)

 実際に中学生(一〜三年生、一〇人)に、「地球温暖化について」というテーマで作文を書かせてみた。

 最初の一〇分間で、作文を書き始めた子どもは、ゼロ。一〇分ぐらいたってから、何となく鉛筆を動かし始めた子どもは、二人だけ。あとは黙ったまま。そこで強く促すと、残りの六人が、何かを書き始めた。しかし残った二人は、体をぶらぶらさせるだけ。私が「思っていることを書けばいい」と言うと、「だって、何を書いたらいいのか、わかんないもん」(女子二人)と。

 二〇分後、まだ書いている途中だったが、そこで中断。以下、子どもたちの書いた作文を紹介する。(句読点を含めて、原文のまま)

(M女、中一)「いままで夏は暑いのに地球温暖化がすすんでいったらどうなってしまうのだろう。まだ6月なのにこんなに暑くて、7時ごろまでひがのぼっていて、明るい。今年は桜がさくのもきょ年より何日もはやかったから、何年かたったら、冬ごろでも暑いかもしれない」

(T女、中一)「今、学校でも、総合の時間に地球環境や、温暖化についてやっています。私は地球温暖化の一番いけない理由は、地球が汚れてしまったことだと思います。車や工場から出た有害ガスが、地球の森林をなくしてしまったりしたことだと思います。外国では日本よりもっと早くから行動をおこしている国もあると聞いたので、日本もいろいろなことをして、温暖化が少しでもなくなるようにしたらいいのにと思いました。私も身近な事から環境が悪く……」

(J君、中二)「南極や北極の氷がとけて大洪水になり人間などが住むばしょがなくなる……」
(G君、中三)「ここら5,6年だけでもかなり変化があったので危機感を感じている。『あと、どのぐらいで人間は住めなくなるのだろうか?』『なぜこのようなことになる前に気がつかなかったのだろう?』こんなことを考えると恐ろしくなる」

 上から順に、M女は、温暖化の事例を集めているにすぎない。レベル2〜3。
 T女は、温暖化の理由を懸命にさぐろうとしている。レベル3。
 J君は、具体的に原因をとらえ、結果について考えようとしている。レベル3。
 G君は、危機を感覚的にとらえているが、分析性がない。レベル2。

 何も書かなかった子どもが、レベル0ということにはならないが、外から観察すると、思考がループ状態に入っているのがわかる。言いかえると、思考力のない子どもというのは、きわめて浅いレベルで、思考がループ状態に入る子どもということになる。





頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が載った。「ガムをかむと頭がよくなる」と。この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、その話を母親たちの席で話すと、「では……」と言って、それを実行する人が何人か出た。で、その結果だが、たとえばN君は、数年のうちに本当に頭がよくなってしまった。I君もそうだった。これらの子どもは、年中児のときからかみ始め、小学一、二年になるころには、はっきりとわかるほどその効果が表れてきた。N君もI君も、幼稚園児のときは、ほとんど目立たない子どもだった。どこかボーッとしていて、反応も鈍かった。が、小学二年生のころには、一〇人中、一、二番を争うほど、積極的な子どもになっていた。

 で、それからもこの方法を、私は何一〇人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してきたが、とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんやりしているタイプの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしまう子どもなど。

 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだけではない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ごろになると、急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガムをかむことによって、それをなおすことができる。五、六歳になってもまだ昼寝グセが残っているようなら、一度ガムをかませてみるとよい。

 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また一つのガムを最低でも三〇分はかむように指導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心配しなければならない。息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけてしまうようなこともある。走ったり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなどの指導も大切である。もちろんかんだガムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも守らせるようにしたい。


あと片づけとあと始末

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」は、あと片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」は、あと始末。日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。これは日本人の国民性のようなもの。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよりも、ものごとをナーナーですまそうとする。

 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。子ども部屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。冷蔵庫から出したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひどく叱られる。そうそう以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「ヒロシ、日本の子どもたちは、皆、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子化している」という意味だ。そこで私が「君はどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。

 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせているのだが、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャワーを浴びても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしないのだよ」と。

 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界になってしまう。アメリカの作家のソローも、こう言っている。「ビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャンの頭に座るほうが、休まる」と。しかしあと始末は別。子どもにはどんどんとあと始末をさせる。そういう習慣が、責任感の強い子どもをつくる。


家出

逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがその逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子どもが逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはならない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所として大切にする。


いじめ

いじめの陰に嫉妬
 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけに扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさいね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、またその子どもを放り投げて倒す。以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになったという。ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師だったということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言って笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。(A)

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われていたUという女の子だった。それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。(B)

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょうか」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、身近にいる子どもをまず疑ってみる。そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。(C)


依存と愛着

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この二つを混同している人がいる。つまりベタベタと親に甘えるのを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを愛着という。子どもが依存をもつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法としては、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜いて、体そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない子どもは、親に抱かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かしら丸太を抱いているような感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査によると、四分の一もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバンドだ」と言う。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 子どもは、生後七、八か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわれているが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着が不足すると、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。ホスピタリズムという現象を指摘する学者もいる。いわゆる親の愛情が不足していることが原因で、独得の症状を示すことをいう。だれにも愛想がよくなる、表情が乏しくなる、知恵の発達が遅れ気味になる、など。貧乏ゆすりなどの、独得の症状を示すこともあるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるから、愛着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということにはならない。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依存するのは、大切なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強いほど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い感じがする)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。もともと日本人は、親子でも、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあうことが、理想の親子と考えている人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、何でも自立して行動する子どもを、かわいげのない「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえると、よく「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独特の子育て観にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。依存型社会は、ある意味で温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、「互いになれあいの社会」でもある。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも事実で、この日本を一歩外へ出ると。こうした依存性は、まったく通用しない。それこそ生き馬の目を抜くような世界が待っている。そういうことも心のどこかで考えながら、日本人も自分たちの子育てを組み立てる必要があるのではないか。あくまでも一つの意見にすぎないが……。
(02−10−18)※


育児ノイローゼ

育児ノイローゼから自分を守る法(夫よ、妻を理解せよ!)

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    
 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところで、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」
 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そしてこう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ
 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、
C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、
H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠
 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまったり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。それではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。

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夫たちよ、
「男は仕事だけをしていれば、それでいい」と考えて
いるなら、それこそ、偏見。その偏見が、少しずつだ
ふぁ、夫婦の間に、キレツを入れる。


夫に不満?

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をしていないとみてよい。この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もいるという(同調査)。

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことがない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそのまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いるが、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。

 「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。


一芸

一芸を大切に

 子どもには一芸をもたせる。「一芸」というのは、子どもの側からすれば、「これだけは絶対に人には負けない」というもの。周囲の側からすれば、「このことについては、あいつにかなうものはいない」というもの。この一芸が子どもを伸ばす。あるいは子どもを側面から支える。中には、「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、成績がさがる。

 一芸は、見つけるもの。この一芸は、つくろうとしてつくれるものではない。子どもの日ごろの様子を観察していると、「これは!」というものに気がつく。それが一芸。ある女の子(一歳)は、風呂の中でも平気で湯にもぐって遊んでいた。そこで母親がその子どもを水泳教室へ入れてみたが、案の定、「水を得た魚」のように泳ぎ始めた。また別の男の子(五歳児)は、父親が新車を購入すると、スイッチに興味をもち、「このスイッチは何だ」と聞きつづけた。そこで私に相談があったので、パソコンを買ってあげることをすすめた。この子どもも予想通り、パソコンに夢中になり、やがて小学三年生になるころには、ベーシック言語で、自分でつくったゲームで遊ぶようになった。

 ただし同じ一芸でも、ゲームがうまいとか、カードをたくさん集めるとかいうのは、ここでいう一芸ではない。一芸というのは、将来に向って創造的なもの、あるいは努力と練習によって、より光る要素のあるものをいう。そういう一芸を子どもの中に見つけたら、思い切り時間とお金をかける。この「思い切りのよさ」が、子どもの一芸を伸ばす。

 さらにその一芸が、子どもの天職になることもある。ある男の子(高校生)は、ほとんど学校へ行かなかった。毎日、近くの公園でゴルフばかりしていた。しかし一〇年後、会ってみると、彼はゴルフのプロコーチになっていた。当時私は四〇歳前後だったが、そのときすでに、私の年収の何倍ものお金を稼いでいた。同じように中学時代、手芸ばかりしている女の子がいた。学校ではほとんど目立たなかったが、今、市内の中心部で、大きなブテイックの店を構えている。一芸には、そういう意味も含まれる。


ウソ

ウソ(虚言)と虚言(空想的虚言)

ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。


(補足)(ほかで発表した原稿です)

子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。@空想的虚言(妄想)、A行為障害による虚言、それにB虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。

@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。
A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。


内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。


右脳教育

子どもの脳を守る法(右脳教育を盲信するな!)
親が右脳教育を信奉するとき
●左脳と右脳
 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。@インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、A受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像化)、B見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、C計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない
たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。
しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだわりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳
 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に
 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者
 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

(参考)
●右脳と左脳の働きについて
右脳左脳
●顔やものの、形の認識●直感的、総合的にものを考える●想像的、創造的な考え●音楽や芸術など●情緒的な感情●話すこと●言葉の理解●論理や数学的な考え  ●分析的な考え方●読む、書く●計算をする

              
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「脳のしくみ」(日本実業出版社・新井康允氏)より


脳の乱舞を防ぐ法(イメージ文化に気をつけろ!)
子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども
 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級
 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ
 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

 日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?
 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する
 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊
 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。一九九九年一月になされた日教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。
 北海道のある地方都市で、小学一年生七〇名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……一九人
 教師の指示を行動に移せない       ……一七人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……九人、など(同大会)。

●心を病む教師たち
 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人から二二〇人程度で推移していたが、九七年度は、二六一人。さらに九八年度は三五五人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。
この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患者は、一六一九人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策
 現在全国の二一自治体では、学級崩壊が問題化している小学一年クラスについて、クラスを一クラス三〇人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている(共同通信社まとめ)。また小学六年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学一、二年について、新潟県と秋田県がいずれも一クラスを三〇人に、香川県では四〇人いるクラスを、二人担任制にし、今後五年間でこの上限を三六人まで引きさげる予定だという。福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小一でクラスが三〇〜三六人のばあいでも、もう一人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校では、六年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分県では、中学一年と三年の英語の授業を、一クラス二〇人程度で実施している(二〇〇一年度調べ)。

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子どもの心をテレビから守る法(子どもをテレビから守れ!)
暴力番組を考えるとき  

●まき散らされたゴミ
 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴミをまき散らした……。
 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこかの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。監督のF氏も、「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では野放し。先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。
子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」、母「お母さんは見ないからね」、子「ううん、ぼく一人でみるから……」、母「……」と。見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム
 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。が、そのため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良識ということになる。が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化している。言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。先のB氏のような人が、フランス政府や東京都から、日本や東京都を代表する「文化人」として、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)
●テレビづけの子どもたち
「ファミリス」の調査によれば、小学三、四年生で四五・七%の子どもが、また小学五、六年生で五九・三%の子どもが、それぞれ毎日二時間以上もテレビをみているという。さらに小学三、四年生で七一%の子どもが、また小学五、六年生で八三・三%の子どもが、それぞれ毎日一時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児童について調査・二〇〇一年)。さらに二時間以上テレビゲームをしている子どもも、三、四年生で一九・三%、五、六年生で四一・七%! これらのデータから、約六〜七割前後の子どもが、毎日三時間程度、テレビを見たり、テレビゲームをしていることがわかる。



エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタとの間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王となり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶし、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思想のキーワード」(講談社現代新書))。つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライバルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するということも、これに含まれる。)

 私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本ではそのまま当てはめて考えることはできない。その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく進む。現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そのものが、ぼやけてくる。つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」という、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろな意味において、明確ではない。少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあいによっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(しっと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そうでもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶がある。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそばの、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆがんだ嫉妬心だ。そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがある。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるという程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。
(02−11−12)

●夫婦が仲よすぎるのも考えもの? ひょっとしたら、あなたの子どもは、そういうあなたたち夫婦を見ながら、さみしく思っているかもしれない。



おてんばな子

男の子・女の子

●アンドロゲン
 「うちの娘(小三)は、おてんばで、遊びも、女の子のものというよりは、男の子のものばかり。人形でも、ほとんど遊びません。スカートをはくのも、いやがります。どうしたらいいですか」(熊本県M市H)というメールをもらった。

 これはサルの実験だが、妊娠中のメスザルに、アンドロゲンという性ホルモンを注射したところ、そのメスザルから生まれてきた、メスのサルは、明らかに男性的な遊びをするようになったという(アメリカ・ウィスコンシン大学の研究レポート)。

 このように、「男の的」「女の子的」というのは、遺伝子によるものというよりは、アンドロゲンというホルモンによるものであることは、よく知られている。人間のばあいでも、副腎過形成という先天的な病気になると、体内でアンドロゲンが過剰に分泌され、女児でも、「男の子的な遊びを好むようになる」になることが報告されている(新井康允氏「脳のしくみ」)。(これに対して、男の子が男の的になるのは、胎児期に自分の精巣から分泌されるアンドロゲンによるものと考えられている。)

 ここでいう「男の子的」「女の子的」というのは、だいたい、つぎのような尺度でみるとよい。

☆男の子的(男の子の遊びの行動パターン)……攻撃的、暴力的、闘争的、能動的。
☆女の子的(女の子の遊びの行動パターン)……保守的、家庭的、平和的、受動的。

わかりやすく言うと、男の子は、乗り物や闘争的な遊びやスポーツに興味を示し、女の子は、ままごとや、おしゃれ、技術的な体操に興味を示すということになる。が、こうしたパターンが、そのまま子どもによっては、当てはまらないときがある。冒頭の相談もその一例である。

●私のばあい
 私は小学六年生になるまで、女の子と遊んだ経験がほとんどないという、まあ、どちらかというとイビツな環境の中で、育った。女の子と遊ぶことなど、考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」と呼ばれた。私の生まれ育った世界では、「女たらし」と言われることくらい、不名誉なことはなかった。そんな私だったが、小学三年生か四年生のころ、無性に、人形がほしくなったことがある。愛情に飢えていたのかもしれない。で、ある日、そのことを、大阪に住む叔母にこっそりと話すと、叔母は、一体の人形をつくって送ってくれた。私は以後、その人形を毎晩、抱いて寝た。

 だからといって、私に同性愛的な趣向があるということではない。私は男の中でも「濃い男」だと思う。「濃い、薄い」というのは、かなりスケベなほうの男ということ。同性にはまったく興味はない。好きか嫌いかと言われれば、若いときは、セックスほど楽しいものはなかった。

 こうした経験があるから、私は、「男の子的」「女の子的」という言い方には、どこか抵抗を覚える。男の子だって、女の子の遊びをしてもかまわないし、女の子だって、男の子の遊びをしてもかまわない。……と考えていた。今も基本的には、その考え方は変わっていないが、問題なのは、男児の女性化である。このことについては、別のところで書いたが、それには環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)が影響しているという説もある。たいへん深刻な問題と考えてよい。

 ただ私の経験では、こと、おてんばな女の子について言えば、それは思春期までのことであり、その時期に入ると、女の子は、急速に、女性ぽくなっていくことがわかっている。しかもおてんばであった女の子ほど、そうで、教育的には、ほとんど問題はない。印象に残っている女の子に、Sさんという女の子がいた。

●胸を平気で見せていたSさん
 Sさんは、セーラー服を着た、男の子だった。私の教室へ来ても、夏の暑い日だと、平気で制服を脱いで、シャツ一枚になっていた。小学五年生ともなると、胸もかなり大きくなる。そこで私が「服を着ろ。女の子が、そういうかっこうをするもんじゃない!」と叱ると、「暑いから、いいだろ」と。そこで別の机の上に脱いである制服を、私がSさんに投げて渡すと、「うるせエーナー、着ればいいんだろ、着ればアー」と。

 母親もそういうSさんに、かなり悩んでいた。家の近くに材木店の空き地があるのだが、そこで毎日、真っ暗になるまで、男の子たちとサッカーをしているというのだ。「あんたは、チンチンを私のおなかの中で忘れてきたのね」と母親が言うと、「ちゃんと産まネーから、こういうことになるんだよ」と言い返していたという。

 が、そのSさんが、急速に変化したのは、六年生になってからだ。その時期のことはよく覚えていないが、中学一年生になるころには、別人のようになっていた。記憶に残っているのは、笑い方まで変わってしまったこと。それまでは、足を広げて、ゲラゲラと大声で笑うタイプの子どもだったのだが、気がつくと、足をすぼめて、フフフと、顔をかしげて笑うタイプの子どもになっていた。生理か何かが始まって、体内のホルモンが、大きく変化したのかもしれない。そのときは勝手にそう思ったが、その変わりように、私は驚いた。

 で、ある日、私はSさんに、こう言った。「あんたは、少し前まで、メチャメチャおてんばだったけど、どうして、そんなに変わったの?」と。するとSさんは、恥ずかしそうに顔をゆるめて、こう言った。「そんなこといいでしょ。もう忘れて……フフフ」と。

そのSさんは、少し前まで、近くの保育園で保育士をしていて、最近結婚したと聞いている。

 だから……。この時期、つまり幼児期から少女期にかけて、女の子が男の子的な遊びをするからといって、それほど深刻になることはない。……というのが、私の結論ということになる。少なくとも、思春期を迎えたときどうなるかを見きわめるまで、今は、静かに様子をみる。それ以後のことは、また別に考えたらよい。
(02−11−29)


おねしょ

子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」についても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほとんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということになる。



おむつと高層住宅

子どもが環境に影響されるとき 

●オムツがはずせない子ども
 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布オムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌・九八年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実は同じ雑誌に広告を載せているスポンサーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

●流産率は三九%!
 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい……? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%、一〇階以上では、三九%(一〜五階は五〜七%)。流・死産率でも六階以上では、二一%(全体八%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

●紫外線対策を早急に
 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよい。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓着。無頓着すぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアでは、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。

●疑わしきは罰する
 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰する」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体的に出るようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。

※ ……日本の気象庁の調査によると、南極大陸のオゾンホールは、一九八〇年には、面積がほとんど〇だったものが、一九八五年から九〇年にかけて南極大陸とほぼ同じ大きさになり、二〇〇〇年には、それが南極大陸の面積のほぼ二倍にまで拡大しているという。この日本でも北海道の札幌市での上空オゾンの全量が、約三七〇(m atm-cm)から、三四〇(m atm-cm)にまで減少しているという。
 なお本文の中の数値とは多少異なるかもしれないが、気象庁は次のように発表している。「成層圏のオゾンの量が一%減ると、地上に降りそそぐ紫外線Bの量は、一・五%ふえる。国連環境計画(UNEP)一九九四年の報告によると、オゾン量が一%減少すると、皮膚がんの発生が二%、白内障の発生が〇・六〜〇・八%ふえると予測している」と。

●危険な高層住宅?
 逢坂文夫氏(東海大学医学部)は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母親(第一子のみを出生した母親)、一六一五人(回収率、五四%)について調査した。結果は次のようなものであったという。

 流産割合(全体)       …… 七・七%
     一戸建て       …… 八・二%
     集合住宅(一〜二階) …… 六・九%
     集合住宅(三〜五階) …… 五・六%
     集合住宅(六〜九階) ……一八・八% 
     集合住宅(一〇階以上)……三八・九%

 これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、一〜五階では、一戸建てに住む妊婦よりも、流産率は低いことがわかる。しかし六階以上になると、流産率は極端に高くなる。また帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が出ている。一戸建て、一四・九%に対して、六階以上では、二七%など。これについて、逢坂氏は次のようにコメントしている。「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の運動不足に伴い、出生体重値の増加がみられ、その結果が異常分娩に関与するものと推察される」と。ただし「流産」といっても、その内容はさまざまであり、また高層住宅の住人といっても、居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居住空間の広さなど、その居住形態はさまざまである。その居住形態によっても、影響は違う。逢坂氏はこの点についても、詳細な調査を行っているが、ここでは割愛する。詳しくは、「保健の科学」第36巻1994別冊七八一ページ以下に掲載。

●流・死産の原因
 流・死産の原因の一つとして、「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても 逢坂文夫氏は調査している。

 神経症的傾向割合 全体     …… 七・五%
     一戸建て        …… 五・三%
     集合住宅(一〜二階) …… 一〇・二%
     集合住宅(三〜五階) ……  八・八%
     集合住宅(六階以上) …… 一三・二%

 この結果から、神経症による症状が、高層住宅の六階以上では、一戸建て住宅に住む母親より、約二・六倍。平均より約二倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果として、逢坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。たとえば一戸建て女性の喫煙率、九・〇%。集合住宅の一〜二階、一一・四%。三〜五階、一〇・九%。六階以上、一七・六%。

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子どもの環境を考える法(高層住宅に気をつけろ!)
子どもが環境に影響されるときA 

●大きな反響
 先に「疑わしきは罰する」の中で、「高層住宅の一〇階以上に住む妊婦の流産率は、三九%」「(マンションなど高層住宅に住む人で)、マタニティブルー(妊娠関連うつ病)になる人は、一戸建ての家に住む人の四倍」などと書いた。このコラムは新聞(中日新聞・二〇〇一年春)に発表したが、大きな反響を呼んだ。と同時に、多くの人に不安を与えてしまった。報道部の人ですら、「本当ですか?」「建設会社から、抗議がきたのでは……」と言ってきた。しかしそこに書いたことに、まちがいはない。私はそのコラムを書くにあたって、前もってそれぞれの研究者と手紙で連絡を取り、元となる論文を入手した。しかもある程度の反響は予測できたので、担当のI氏には論文のコピーを渡しておいた。

●心理的な風通しをよくする
 ただし流産の原因については、高層住宅とそのまま結びつけることはできない。高層住宅のもつ問題点を知り、対応策を考えれば、流産は防げる。逢坂氏も流産率が高いことについて、「居住階の上昇に伴い、外に出る頻度(高さによる心理的、生理的、物理的影響)が減少する」(「保健の科学」第三六巻一九九四別冊七八三)と述べている。高層階に住んでいると、どうしても外出する機会がへる。人との接触もへる。それが心理的なストレスを増大させる。胎児の発育にも悪い影響を与える。そういういろいろな要因が重なって、それが流産につながる、と。このことを言いかえると、高層階に住んでいても、できるだけ外出し、人との交流を深めるなど、心理的な風通しをよくすれば、流産は防げるということになる。事実、高層階になればなるほど、心理的なストレスが大きくなることは、ほかの多くの研究者も指摘している。

●マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳
 たとえば平均死亡年齢について、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅の住人の平均死亡年齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大学中尾哲也氏・「日本木材学会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指摘する研究者もいる。

●好ましい木造住宅?
 マウスを使った実験だが、コンクリート住宅と木造住宅について、静岡大学農学部水野秀夫氏は、興味深い実験をしている。水野氏の実験によれば、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇日の生存率は、八五・一%。しかしコンクリートゲージで育てたばあいは、たったの六・九%ということだそうだ。水野氏は、気温条件など、さまざまな環境下で実験を繰り返したということだが、「あいにくとその論文は手元にはない」とのことだった。
 ただこの実験結果をもって、コンクリート住宅が、人間の住環境としてふさわしくないとは断言できない。マウスと人間とでは、生活習慣そのものが違う。電話で私が、「マウスはものをかじるという習性があるが、ものをかじれないという強度のストレスが、生存率に影響しているのではないか」と言うと、水野氏は、「それについては知らない」と言った。また私の原稿について、水野氏は、「私はコンクリート住宅と木造住宅の住環境については調査はしたが、だからといって高層住宅が危険とまでは言っていない」と言った。水野氏の言うとおりである。
 ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が遅いなどということも指摘されている(前述、水野氏)。さらに高層住宅にいる幼児は、体温そのものが低く、三六度以下の子どもが多い(「子どもの健康と生活環境」V四一・小児科別冊)など。こういう事実をふまえて、私は、「子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境から心理的な影響を受ける」と書いた。

●結局は私たちの問題
 こうした事実があるにもかかわらず、日本の政府は、ほとんど対策をとっていない。一人、「そうは言っても、都会で一戸建てを求めるのは難しいです」「日本の住宅事情を考えると、高層住宅を否定することもできません」と言った人もいた。しかしここから先は、参考にする、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。ただこういうことは言える。あなたや子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こうした建設がらみの問題では、国は、まったくあてにならない。


親意識

悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、たいていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」という)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いながら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということになる。以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
          悪玉親意識 → 非依存型親意識
                     依存型親意識 →  押しつけ型親意識
                                  コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それは当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあなたの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、おもしろいのでは……。


親の愛

●本能的な愛が消えるとき
 親が子どもに感ずる愛には、@本能的な愛、A代償的愛、それにB真の愛の三つがある。
 このうち本能的な愛というのは、生まれてきた新生児に感ずるような愛をいう。赤子がオギャーオギャーと泣くと、親はいたたまれないような気持ちになる。それが本能的な愛である。本能が悪いのではない。この本能があるから、親は子どもを育てる。

 少しきわどい話になるが、その年齢の男女が異性に感ずる愛も、これと同種のものと考えてよい。私もある時期、女性の足の線を見ただけで、ムラムラと発情したのを覚えている。クソまじめ風に見える私ですら、そうなのだから、あとは推してはかるべし。しかしそういう本能があるから、男は女の体を求め、結婚し、そして子どもをもうける。もしこの本能がなかったら、人類はとっくの昔に滅亡していた。

 同じように、親は赤子にいたたまれないような愛を感ずる。ある母親は、こう言った。「眠っている子どもの顔を見ていると、そのまま食べてしまいたいような衝動にかられる」と。また別の父親は、こう言った。「おむつを取り替えているとき、突然、赤ん坊がウンチを出した。私はそれを汚いとも思わず、手で受け止めた」と。

 従来、こうした親から子どもへの働きかけは、一方的なものと思われてきた。しかし最近の研究では、実は子どもの側からも、親に働きかけがあるというのだ。これを相互愛着という(M.H.Claus,J.H.Kennell;1976)。つまり子どもは子どもで、自らかわいらしさを演出しながら、親の心を自分に引き寄せようとする。しかしそれも若い男女を見ればわかる。男は女に欲情を覚えるが、一方、女は女で、無意識的であるにせよ、意識的であるにせよ、男を自分に引き寄せようとする。胸元を大きくあけて、乳房を見えるようにしたり、スカートのたけを短くして、太ももを見えるようにしたりするなど。

 この相互愛着が何らかの理由で、阻害されると、子どもの側に、いろいろな問題が生じてくる。たとえば施設児の問題(ホスピタリズム)がある。生後まもなくから、親の愛を感じないで育った子どもは、独特の症状を示すことがわかっている。感情の起伏がとぼしくなる、愛想はよいが心を開かない、知恵の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどの独特のクセが身につきやすいなど。もう少し大きくなると、赤ちゃんがえりという現象もある。下の子どもが生まれたりすると、上の子どもが急に赤ちゃんぽくなることがある。これは子どもが本能的な部分で、自らを赤ちゃんに戻し、親の愛を取り戻そうとする行為と理解すると、わかりやすい。

 その本能的な愛は、決して長くは続かない。中には、溺愛という形で、長くつづく親もいるが、ふつうは、子どもが三、四歳になるころには、あるいはもっと早い時期に、消える。ひとつのバロメーターとして、子どものウンチがある。あなたは子どものウンチを、いつごろから汚いと思うようになっただろうか。一度、こうしたアンケート調査をしてみるとおもしろいと思うが、私が聞いた範囲では、だいたい三、四歳ぐらいではないか。それ以後、母親でも、子どものウンチを急速に汚いと思うようになる。

 問題は、その本能的な愛が消えるにつれて、それと反比例する形で、別の形の愛が生まれてくる。それが代償的愛である。一見愛に見えるが、愛ではない。いわば、愛もどきの愛と考えるとわかりやすい。たいていの親は、代償的愛をもって、親の愛と誤解する。……している。

●代償的愛
 代用的愛というのは、親自身の心のすき間を埋めるための愛と考えるとわかりやすい。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思う愛のことをいう。一見、子どもを愛しているかのように見えるし、親自身もそう思いこんでいるケースが多い。たとえば近所の同年齢の子どもが英会話教室に通うようになったとする。そのとき「あら、たいへん。うちの子も」と考えて、自分の子どもも、その英会話教室に通わせたとする。その原動力になるのが、代償的愛である。このとき親は、「子どものため」と言いながら、結局は、自分の不安を解消するために、そうしているにすぎない。

 もっとも代償的愛がすべて悪いわけではない。代償的愛は、真の愛への、ワンステップと考えることができる。たとえば男が女に向かって、(セックスをしたい)という欲望を満たすために、「愛」という言葉を使ったとする。このばあいも、代償的愛だが、その愛は、やがて真の愛へと昇華する可能性を秘めている。子どものばあいもそうで、たいていの親は、代償的愛をきっかけとして、やがて真の愛へと進んでいく。こんな例がある。

 ある母親は、子ども(六歳男児)の受験勉強に狂奔した。明けても暮れても、受験のことばかり。まさになりふり構わずといった状態だった。が、受験は失敗。その夜のこと。あとで母親は、私にこう話してくれた。
 「子どもの寝顔を見たとき、あまりの美しさに心を奪われました。神々しい顔というのは、ああいう顔をいうのですね。私はその顔を見て、自分の醜さを思い知らされました」と。
 この母親も、代償的愛から出発し、真の愛へと一歩近づいたことになる。

 ここで誤解しないでほしいのは、本能的な愛、代償的愛、それに真の愛は、たがいに対立するものではないということ。たいていの親は、この三者を同時進行の形で、もっている。本能的な愛をもちながら、一方で代償的愛的な部分をもつとか、あるいは一方で真の愛を感じながら、本能的な愛に翻弄(ほんろう)されるなど。実際のところ、どこからどこまでが本能的な愛で、どこからどこまでが代償的愛なのか、わからないときがある。またそういうふうに分けたところで、あまり意味はない。ただ、代償的愛を繰り返しながら、それを親の愛と誤解するのは、まずい。これにもいろいろな例がある。

 ある母親(五五歳)は、自分の長男(三〇歳)の縁談話がもちあがるたびに、それに猛烈に反対し、破談にしてしまっていた。長男の体が弱かったこともある。しかし母親は、「あんな女では、財産が食いつぶされる」「あの女は家系が悪い」「あの女は、素性が知れない」とか言っては、それに反対した。一見、母親は長男の心配をしているかのように見えるが、実は自分のわがままを通していただけである。その母親もことあるごとに、「子どもはかわいいものだ」と言っていた。

 こうした代償的愛が、極端になったものが、いわゆるストーカーである。ストーカー行為を繰り返す男(女も)は、相手の迷惑などというのは考えていない。行為自体がきわめて自己中心的で、一方的なもの。そして異常な過関心、過干渉をもつことが、相手への深い愛の証(あかし)であると錯覚する。これは他人という、男女の間の問題だが、しかし同じような行為が、親子の間でもなされることがある。こんな例がある。

●ストーカー行為を繰り返す母親
 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居することになった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していたのが、娘の実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも……」と考えていたが、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、二年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家庭騒動の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、珍しくない。しかしここからが違った。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)による復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当たった!」「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた人生を返せ!」と。それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、はやく死んでしまえ!」「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろってやる!」「親を不幸にしたものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではない。どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、○○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあんたを見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が買ってあげたものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が悪くなると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、フラフラするわ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえるのに」「もう、長いこと会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしくないわよ」「明日あたり、私の通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

 こうした傾向は、どんな親にもある。要は程度の問題ということになる。そこであなたの代償的愛の度合いを、自己診断してみよう。

●代償的愛
 つぎの項目のうち、五個以上あてはまれば、あなたの子どもに対する愛は、代償的愛と疑ってみてよい。

○子どもに対して、日ごろから、「産んでやった」「育ててやった」という意識をもつことが多い。
○親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考える傾向が強く、そういう親子関係が理想だと思う。
○日ごろから子どもの行動のみならず、自分に対してどのように思っているかが気になる。子どもの心をさぐることも多い。
○「私は親だ」という親意識が強く、おけいこごとでも何でも、親の自分が先に決め、子どもの行動を決めることが多い。
○子どもの前で、自分を美化したり、虚勢をはったりすることがある。子どもの前では、よい親を演ずることが多い。
○子どもが自分から離れていくのを許さない。あるいは、離れていこうとする子どもの心が理解できない。
○親子関係は絶対的なもので、どんなことがあっても、切れるものではないと確信している。「親子の縁を切る」などというのは、ありえない。
○子どもは親に尽くすべき存在と考えることが多い。またそれをしない子どもは、親不孝者と考えてよい。
○子どもの将来についての責任は、親がもつべきだと考える。子どもの婚約者、仕事、生活について、親がアドバイスするのは、当然と思う。
○明けても暮れても、子どものことが気になることがある。子どもが何か失敗をしたり、事故にでもあうのではないかと、ハラハラすることが多い。
○子どものこまかいことが気になり、子どもが失敗すると、必要以上におおげさにしかったり、問題にしたりすることがある。

自分の代償的愛に気づいたら、……というより、この問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、子どもに対して代償的愛を繰り返しながら、それにすら気づかないでいる。中には、それが真の愛と誤解している人もいる。「私は親のカガミだ」と。しかし何度も繰り返すが、代償的愛は、「愛」ではない。親の自己中心的な、身勝手な愛にすぎない。

●真の愛
 真の愛については、ここでは省略する。かわりに中日新聞に掲載した記事を、ここに転載する。

無条件の愛

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。
息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」私「日本人をやめる、ということか…」息子「そう」「…いいだろ」と。私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。
(02−9−24)※



親離れ・子離れ

●子どもが親離れするとき
 子どもは、小学三〜四年を境に、友だちとの世界を、急速にふくらませる。交友関係が広くなり、友だちの数もふえる。この変化とともに、子どもは、急速に親離れを始める。それまでは学校でのできごとを話していた子どもも、話さなくなったり、父親と一緒に風呂に入っていた子どもも、それをいやがるようになる。

 子どもはそういう過程を経て、少年少女期から、おとなになるための準備を始める。しかしたいていの親は、子離れの時期と方法がわからず、その段階で戸惑う。日本のばあい、親が子離れする時期は、外国とくらべても、遅い。平均して子どもが中学生くらいになってからとみてよい。しかしこの時期のズレが、多くの、実に日本型の悲喜劇を生みだす。そのひとつが、子どもの受験戦争。子どもはとっくの昔に親離れを始めているのに、親は、それが理解できず、子どもの受験戦争に巻き込まれ、それに奔走する。(巻き込まれるというより、自ら飛び込んでいく?)その意識のズレが、親子の間に深くて大きなキレツを入れることもある。親は子どものためと思って、子どもの受験勉強に奔走するが、子どもから見れば、ありがた迷惑。この「迷惑」が、親には理解できない。

●子離れのふたつの面
 そこでここではもう一歩、話を進める。その子離れには、二つの面がある。ひとつは、親自身の自立。もうひとつは、子どもへの依存性からの脱却。この二つのうち、どちらが欠けても、親は子離れに失敗する。

(1)親自身の自立……親自身が、社会的、あるいは経済的に自立する。母親のばあいは、精神的にも自立する。そのため情緒的な未熟性(不安定)や、精神的な欠陥(うつ病気質など)があれば、当然、それと戦う。精神的な自立性がないと、溺愛や育児ノイローゼに陥(おちい)りやすく、子離れができなくなってしまう。親自身が自分の目標に向かって、前向きに生きていく。そういうたくましさを身につける。 

(2)依存性からの脱却……子どもへの依存性は、多かれ少なかれ、だれしももっている。しかしその依存性が強くなると、子どもの自立を無意識のうちにも、さまたげようとする。「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を押し売りすることもある。安易な孝行論を美化し、それを子どもに求めることもある。「私は私で生きていく。あなたはあなたで生きていきなさい」という割りきりが、子育てには必要である。

●Yさん(六〇歳)のケース
(ケースA)
 Yさん(六〇歳)は、小さな雑貨店を経営していた。しかし一五年前に夫が死ぬ前から、家計は火の車。長男が同居していたが、その長男は体が弱く、ほとんど仕事ができなかった。そこでYさんは、隣町に住む二男から、毎月、一定の金額の援助を受けていた。が、このところの不況で、それもままならなくなってきた。

 そんなある日、二男夫婦が、中国での合弁事業のため、二年半ほど、中国に行くことになった。そのとき、二男夫婦は、貯金通帳や土地の権利書などを、Yさんに預けて中国に旅立った。が、半年後に帰ってみると、通帳からは一〇〇万円単位のお金が引き出され、土地は他人に転売されていた。そのことを二男がYさんに迫ると、Yさんは、こう言ったという。「親が、先祖を守るために、子どもの財産を使って、何が悪い」「子どもなら先祖を守るのは当たり前」と。さらに二男が、「生活費として渡した一〇〇万円はどうした?」と聞くと、「そんなものもらった覚えはない」と。最後までとぼけたという。二男は、中国へ旅立つ前、Yさんに一〇〇万円を渡していた。

 Yさんの精神構造を、まず考えてみよう。このタイプの人は、独特の価値観をもっている。信仰といってもよい。こうした独特の価値観をもっている人を相手にするときは、ふつうの論理をぶつけても、意味がない。さらにYさんのように、六〇歳にもなると、説得してどうのこうのということは、不可能と考えてよい。傷口に盛りあがったカサブタのように、脳そのものが硬直している。

 で、こうした「先祖信仰」というのは、原始民族が共通してもつ思想で、日本民族とて例外ではない。あるいはその一環? アイヌ民族、アメリカインディアン、南米のインディオなど、ちょうど太平洋を取り巻く環太平洋の民族に、その意識が強い? こうした先祖信仰では、「先祖あっての私」と考える。だから私も先祖の僕(しもべ)なら、そのまた子どもは、そのまた僕となる。「先祖を守るために、子どもの財産を使って、何が悪い」という発想は、そういうところから生まれる。が、Yさんのケースでは、もう一つ考えなければならないことがある。それがここでいう「依存性」である。

●日本人が民族性としてもつ依存性
 今でも、精神的に自立できない親は多い。「今でも」というのは、私の年代より古い世代では、親子でもたがいに依存しあうのが、ごく自然な形であった。そのため親は無意識のうちにも、子どもに恩を着せ、一方、子どもは、親を美化することで、自分の依存性を正当化する。「私の親はすばらしい人だ(った)」と公然と言う人は、たいていこのタイプの人とみてよい。

先日もテレビを見ていたら、一人のタレント(五五歳)の様子が紹介されていた。その中で、そのタレントは、こう言っていた。「私の母はいつも、『上見てキリなし、下見てキリなし』と言っていました。私はその母の言葉を思い出すことで、どんな苦しいときも乗り切ることができました」と。しかしこの言葉自体は、戦前の国語の教科書に載っていた言葉で、彼の母親が考え出したものではない。(彼は、彼の母親が考えた言葉だと思っているようだったが……。)こうした美化は、とくにマザコンタイプの男性が、好んでよく用いる手法である。つまり美化することで、自分のマザコン性を正当化する。結婚してからも、妻に、「私がこうであるのは、それだけ母がすばらしいからだ」と言う男は珍しくない。

 で、こうした依存性は相互的なもので、どちらか一方が一方に対して、一方的ということは、まず、ない。親自身が依存性が強く、そういう依存性が、子どもが依存性をもつことを容認してしまうたとえば依存心の強い子どもがいる。よくそういう子どもよく調べてみると、親自身も依存性が強いのがわかる。このことは、子どもを判断するとき、重要な指針となる。印象に残った事件にこんなのがあった。

●D君(年中児)のケース
 D君(年中児)という男の子がいた。柔和でやさしい表情をしていたが、ハキがない。で、ある日のこと。片づけの時間になっても、D君は、いっこうに片づけようとしない。「片づける」という意味すらわからないようであった。そこで私があれこれ、ジェスチャで片づける様子をしてみせ、片づけるように促した。が、そのうちD君はメソメソと泣き出してしまった。多分、家でそうすれば、みなが助けてくれるのだろう。しかしこういうとき、その涙にだまされてはいけない。そういうときは今度は、「泣いてもムダ」ということを教えるしかない。

 しかしその日にかぎって、運の悪いことに(?)、D君の母親が直接、迎えにきていた。母親はD君の泣き声を聞きつけ、教室へ飛び込んできた。そしてていねいだが、すご味のある声でこう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか」と。

 このD君のケースでは、D君がきわめて依存性の強い子どもであることがわかる。自立心のあるなしでみれば、同年齢の子どもとくらべても、きわめて弱い。そこで私はそれを母親に相談しようと思ったが、母親の意識そのものがズレている。「どうしてうちの子を泣かすのですか」という言葉が、それを表している。つまり相談どころか、説明のしようがない。間に、どうしようもないほど遠い距離を感ずる。長い間、母親に接していると、そういうことが直感的にわかるようになる。

 つまりD君の依存心が強いのは、母親側にそれを容認する姿勢がある。つまり母親自身が依存性の強い人とみる。そしてこの相互作用が、D君をD君のような子どもにした。

●悪玉親意識
 さて先のYさん(六〇歳)に話を戻す。このタイプの人は、「私は親だ」という親意識が強い反面、その返す刀で、子どもには隷属性を求める。子どもをモノ、さらには財産と考える人もいる。その親意識が、自分に向かうならまだよい。「私は親だから、親としての責任を果たす」というのがそれ。私はこれを善玉親意識と呼んでいる。しかしその親意識が子どもに向かったとき、それは親風となる。「親風を吹かす」という言葉の「親風」。私はこれを悪玉親意識と呼んでいる。

子どもに隷属性を求めるということは、子どもの中に、自分の居場所をつくることを意味する。つまりそれがここでいう依存性である。だからこのタイプは、無意識のうちにも、子どもに親孝行を求め、また親の立場で、孝行する子どもを高く評価する。「うちのセガレは、孝行息子でねえ」と。まさにYさんが、そのタイプの女性だった。私にもある日、街で会うと、こう言った。「先生、息子なんて育てるものじゃないですねえ。息子は嫁に取られてしまいましたよ。親なんて、さみしいものですわ」と。

●伝播する親子意識
 簡単に「子離れ」というが、その中身は深く、大きい。人によっては、子離れは、そんな簡単なことではない。「人によっては」というのは、子離れがじょうずな人は、本当にじょうずに子離れしていく。しかしできない人はできない。どこにその違いがあるかといえば、結局はその人が生まれ育った環境による。その人自身が、子離れのじょうずな親に育てられたら、じょうずに子離れできる。そうでなければそうでない。つまり子離れも、世代伝播(でんぱ)する。

 そこで最後にこういうことが言える。ここであなたの親はどうであったかということを思い起こしてみてほしい。あなたの親はあなたに対して、じょうずに子離れしたであろうか。もしそうであるなら、それでよい。しかしそうでないなら、今度はあなたが子離れで、ギクシャクする可能性がある。またそういう前提で、あなた自身の子離れを考えてみるとよい。
(02−10−8)※


音読と黙読

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集めて、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょう」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつかさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理解する。つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。ある研究団体の調査によれば、黙読にすると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちることが」わかっている(国立国語研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、もっとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろんのこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみてはいけない。

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