はやし浩司

かきくけこ
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はやし浩司

学習机

子どもを勉強に向かわせる法(机は休む場所と考えろ!)
子どもが学習机から離れるとき
●机は休むためにある
 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことができれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、なかなかもとに戻らない。
 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているということになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。
●机は棚のない平机
 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使っていると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがある。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかった。最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかもしれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。
●学習机を置くポイント
 学習机にはいくつかのポイントがある。
@机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
A棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
B座った位置からドアが見えるようにする。C光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。
Dイスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
E窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強できないということもあるので注意する。
 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ちつかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。
 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうところを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。
●相性を見極める
 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子どもは何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともある。



学力

 今朝の新聞にも、子どもの学力についての投書が載っていた。どこかの学習塾で講師のアルバイトをしている大学院生のものだが、「基礎学力の低下予想以上に深刻」(読売新聞朝刊)と。「まず驚いたのが、中学生でも掛け算の九九を完全にマスターしていない生徒が散見されることだ」そうだ。

 実際、子どもたちの学力の低下は、ものすごいものだ。昨日も、小学五年生に、公倍数と公約数を教えたが、(今ではこの単元は、小学六年の二学期に学ぶことになっている)、掛け算の九九があやしい子どもが、二〇%近くもいる。「三・九、24」(本当は、三・九、27)と平気で言ったりする。小学二年で、掛け算の九九を勉強したから、以後、子どもたちが掛け算の九九はできるようになったハズと考えるのは、まったくの誤解。幻想。五年生だから、掛け算の九九ができるハズと考えるのも、まったくの誤解。幻想。以前、掛け算の九九がまだできない中学生が、一五〜二〇%もいるという話を聞いたことがある※。私の実感でも、それくらいはいる。(ただ、どの程度をできる、どの程度をできないというか、その判断の基準がむずかしい。)

 話は変わるが、私はこの三五年間、何らかの形で、英語とは深いつながりをもって生きてきた。そういう自分を振り返っても、三〇歳以後に覚えた単語は、ほとんど記憶に残っていない。覚えるには覚えるのだが、すぐ忘れてしまう。反対に二〇歳前後に覚えた単語は、今でもしっかりと頭の中に残っている。しかしこれは私という、「おとな」の話。脳細胞の老化現象が原因だという。その老化現象に似た現象が、子どもでも起きている?

 そこで改めて調査してみた。もともと私の教室へきている子どもたちは、教育環境的にはレベルの高い子どもが多い。しかしそんな子どもでも、小学三年生で、約二〇%は、掛け算がまだあやしい。掛け算の九九は何とか言えても、「三・八?」と聞いたとき、とっさには答えられない子どもも含めると、もっと多い。多くの親たちは、「うちの子は小学二年のときには、掛け算の九九がスラスラと言えたから、もう掛け算はマスターしたはず」と考える。しかしこれも誤解。幻想。今の子どもたちは、数か月もすると、学んだことそのものまで忘れてしまう。つまりそれだけ覚え方が浅い? 脳にきざまれていない? それとも老化現象に似た現象がすでに始まっている? 理由はよくわからないが、ともかくも、そういうことだ。

 しかし、だ。これはほんの一例にすぎない。今、あらゆる面で、子どもの学力は低下している。知識や、知力だけではない。「自ら学ぶ力」そのものまで低下している。言われたことや、教えられたことはきちんとできるが、その範囲をはずれると、まったくできない。考えようともしない。先のクラスでも、最後に私はこんな問題を出してみた。
 「30から50までの中に、3と5の公倍数はいくつあるか」と。一〇人の子どもがいたが、何とか、考えるそぶりを見せたのは、たったの一人。あとは、「そんな問題、知らない」「解き方を学んでいない」「めんどくさい」と、問題そのものを投げ出してしまった。公倍数など、どうでもよいといった様子を見せた子どももいる。言いかえると、今、子どもに教えるとき、その動機づけをどうするかが大切。ここをいいかげんにすますと、教える割には、効果がない。……などなど。

 話が三段跳びで飛躍するが、こうした学力低下の背景にあるのは、結局は、飽食とぜいたくの中で、子どもを甘やかしてしまったこと。「腹、減ったア!」と叫べば、みなが何とかしてくれる。それと同じように、「わからなイ〜」「この問題、解けないイ〜」と叫べば、みなが何とかしてくれる。そういう環境の中で、子どもたち自身が、自分を見失ってしまった。

 もっともオーストラリアあたりでは、中学一年で、二桁かける二桁の掛け算を学んでいる。日本では小学三年生のレベル(〇一年度までの旧学習指導要領)。掛け算の九九ができないからといって、教育水準が低いということにはならない。
 しかしオーストラリアのばあいは、科目数そのものが多い。どこのグラマースクール(中高一貫寄宿学校)でも、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語の五つの言語の中から選択できるし、芸術にしても、音楽、ドラマ、絵画などが、それぞれ独立した科目になっている。環境保護の科目もあれば、キャンピングという科目もある。もちろんコンピュータという科目もある。数学は、日本と違って、あくまでも教科の一部でしかない。つまりそういう違いも考慮すると、やはり日本の子どもたちの学力の低下は異常である。
(02−9−18)※
 
※(参考)……東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。
この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。



学歴信仰

ある相談より

 ある父親が、こんな相談をしてきた(〇二年一一月)。何でも中学三年生になった娘が、学校のテストで悪い成績を取ってきたというのだ。それについて、その父親は、こう説教したという。

 「お父さん(私)は、仕事をしながら、家族を支えている。仕事をするから、家族が生活できる。家族も大切だが、やはり仕事も大切だ。だからお父さんは、自分のしたいことをがまんしながら、仕事をしている。お前にとっても、いろいろやりたいことはあるだろうが、勉強が、お前の仕事だ。だからまず勉強をしなければならない。今、お前が考えなければならないことは、学校での成績をよくすること。自分の生活を楽しむのは、そのあとだ」と。

 その父親は、この話を切々としながら、最後にこう言った。「私は娘にこう指導しましたが、それでよかったでしょうか?」と。が、私は、しばらく考えて、こう言った。「何から何まで、すべておかしいです」と。

 この父親の言い分は、この日本では、実に説得力がある。たいていの日本人は、こういう話を聞くと、「そのとおり!」と思う。しかし本当にそうか。順に反論してみよう。

●「家族を支えてやっている」「仕事をするから、家族が生活できる」という考え方は、本末が転倒している。今でも、家族(妻)に向かって、「お前たちは、だれのおかげで生活できると思っているのか! オレが仕事をしてやっているから、生活できるんだぞ!」と、暴言を吐く男はいくらでもいる。

 家族が支えてくれるから、男は(女も)、外で仕事ができる。仕事をするために、家族がいるのではない。家族生活を豊かにし、充実させるために、私たちは仕事をする。あくまでも「家族」が主である。たとえばオーストラリア人たちは、土日に家族で週末を楽しむのを、何よりも大切にしている。つまりそういう生活を楽しむために、男は(女も)仕事をする。こうした違いは、たとえば日本の単身赴任という制度に、如実に現れている。

 もう三五年近くも前の話だが、私がメルボルン大学のロースクールのコモンルームでお茶を飲んでいると、ブレナン法学副部長がやってきて、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)という制度があるが、法的な規制はないのかね?」と。そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と叫んだ。

 「支えてやっている」という、実に日本的な、恩着せがましい考え方こそ、問題である。この発想は、親が子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言う発想に通ずる。あるいは、どこがどう違うのか。その背景にあるのは、「夫が上、妻が下」「親が上、子が下」という、まさに日本型上下社会そのものといってよい。

 だからといって私は何も、仕事を否定しているのではない。しかし日本人の意識は、基本的な部分で、イビツである。仕事第一主義が、家族のあり方そのものを、狂わせている。こういうケースは、実に多い。昨年、私が書いた原稿(中日新聞発表ずみ)をここに掲載しておく。

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仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 
二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!
 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち
 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばアメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

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●「まず勉強」という発想が、実に日本的である。私はその父親の話を聞きながら、こういうとき、アメリカ人の親や、オーストラリア人の親なら、何と言うだろうかを考えた。たとえば自分の子どもが、学校で悪い成績をとってきたようなときだ。
 
 日本では、まず親は子どもを叱る。叱らないまでも、「がんばれ!」とか、「こんなことでは、いい学校に入れない!」とか、言う。しかしアメリカ人の親なら、多分、こう言うだろう。「テイク・イット・イージィ(気楽にやりなよ)」と。

 子どもたちは、成績が悪いならなおさら、学校という場で、不愉快な思いをしているはずである。つらい思いをする子どもも多い。そういう子どもが、家に帰ってきて、そこでまた親に説教されたらどうなるか? 私は父親にこう聞いた。

 「もしあなたの給料がさがって、落ち込んでいたとする。その状態で会社から家に帰ったとき、妻が、『何よ、この給料! こんなことでは、いい生活ができないでしょ!』と言ったら、あなたはそれに耐えられるか?」と。するとその父親は、こう言った。「いいや、うちの女房は、そういうことは言わないですよ」と。

 そのとおり。妻は、そういうことは言わない。(平気で言う妻もいるにはいるが……。)またそういうことは、言ってはいけない。しかしその父親は、娘に対しては、その言ってはいけない言葉を言っている。父親としては、娘に緊張感をもたせ、あるいは娘の自覚を促すために、そういったのだろうが、しかしその父親は、結局は、親のエゴを中学三年生の娘に押しつけているだけ。少しも、娘の立場で考えていない。

 これに関して、やはり以前、書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに掲載しておく。

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学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「そのほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談してきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいるアメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めていた。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカではどうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれているのか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。

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 ここまで話すと、父親はこう言った。「先生、そうは言いますが、現実に、受験競争というものがあります。もしうちの娘に、『気楽にやりなよ(テイク・イット・イージィ)』などと言うと、うちの娘は、本当に何もしなくなります。それでも困ります」と。

 本当にそうだろうか。今、世界の教育は、自由化に向けて、どんどんと進歩している。たとえばヨーロッパの大学では、単位はすべて共通化された。ドイツの中学校、高校では、子どもたちはたいてい午前中に授業を終え、そのあと、クラブに通っている。またアメリカでは、入学後の学部変更は自由。大学から大学への転籍も自由になっている。そういう自由化の流れに、ひとり背を向けているのが、日本の教育である。少なくとも、これからは学歴をぶらさげて生きる時代ではない。プロの時代である。またそういうプロが評価される時代である。

 たしかに受験競争はある。日本の子どもたちは、その受験戦争を避けては通れない。それはわかる。しかしその基本なっているのが、「学歴信仰」。ここにも書いたように、日本では、「進学率の高い(?)学校ほど、いい学校(?)」ということになっている。しかしそれは世界の常識ではない。つまり「受験、受験」と言う親ほど、その学歴信仰に頭が侵されていることになる。

 これについても、以前、つぎのような原稿を書いたので、ここに掲載する。この原稿は、私がアメリカの小学校を見学したあとに書いたものである(〇一年五月)。

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アメリカの小学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。写真は、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペリット小学校。生徒数三百七十名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりする。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校独自が、親と相談して決めることができる。オクイン校長に「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかなものです」と笑った。もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによって、親は補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書館での教育を重要視している。この学校でも、図書館には専門の司書を置いて、子供の読書指導にあたっていた。

 授業は一クラス十六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から派遣されたインターンの学生の三人で当たっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけが日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もいくつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実については検定してはならない」(南豪州)ということになっている。アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さらには学校券で運営するバウチャースクールなどがある。行き過ぎた自由化が、問題になっている部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

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ついでに、アメリカの大学についても、レポートしてみた。世界の教育がどういう方向に向かっているかがわかれば、少しは考え方も変わるかもしれない。

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アメリカの大学生

 たいていの日本人は、日本の大学生も、アメリカの大学生も、それほど違わないと思っている。また教育のレベルも、それほど違わないと思っている。しかしそれはウソ。恩師の田丸先生(東大元教授)も、つぎのように書いている。

「アメリカで教授の部屋の前に質問、討論する為に並んで待っている学生達を見ると、質問がほとんどないわが国の大学生と比較して、これは単に風土の違いで済む話ではないと、愕然(がくぜん)とする」と。

 こうした違いをふまえて、さらに「ノーベル化学賞を受けられた野依良治教授が言われている。『日米の学位取得者のレベルの違いは相撲で言えば、三役と十両の違いである』と」とも(〇二年八月)。もちろん日本の学生が十両、アメリカの学生が三役ということになる。

 私の二男も〇一年の五月に、アメリカの州立大学で学位を取って卒業したが、その二男がその少し前、日本に帰国してこう言った。「日本の大学生はアルバイトばかりしているが、アメリカでは考えられない」と。アメリカの州立大学では、どこでも、毎週週末に、その週に学んだことの試験がある。そしてそれが集合されてそのままその学生の成績となる。そういうしくみが確立されている。そのため教える側の教官も必死なら、学ぶ側の学生も必死。学科どころか、学部のスクラップアンドビュルド(廃止と創設)は、日常茶飯事。教官にしても、へたな教え方をしていれば、即、クビということになる。

 ここまで日本の大学教育がだらしなくなった原因については、田丸先生は、「教授の怠慢」を第一にあげる。それについては私は門外漢なので、コメントできないが、結果としてみると、驚きを超えて、あきれてしまう。私の三男にしても、国立大学の工学部に進学したが、こう言っている。「勉強しているのは、理科系の学部の学生だけ。文科系の学部の連中は、勉強のベの字もしていない。とくにひどいのが、教育学部と経済学部」と。理由を聞くと、こう言った。「理科系の学部は、多くても三〇〜四〇人が一クラスになっているが、文科系の学部では、三〇〇〜四〇〇人が一クラスがふつう。ていねいな教育など、もとから期待するほうがおかしい」と。

 日本の教育は、文部省(現在の文部科学省)による中央管制のもと、権利の王国の中で、安閑としすぎた。競争原理はともかくも、まったく危機感のない状態で、言葉は悪いが、のんべんだらりと生きのびてきた。とくに大学教育では、教官たちは、「そこに人がいるから人事」(田丸先生)の中で、まさにトコロ天方式で、人事を順送りにしてきた。何年かすれば、助手は講師になり、講師は助教授になり、そして教授へ、と。それはちょうど、水槽の中にかわれた熱帯魚のような世界と言ってもよい。温度は調整され、酸素もエサも自動的に与えられてきた。田丸先生は、さらにこう書いている。

 「私の友人のノーベル賞候補者は、活発な研究の傍(かたわ)ら、講義前には三回はくり返し練習をするそうである」と。
 日本に、そういう教授はいるだろうか。

 グチばかり言っていてはいけないが、いまだに文部科学省が、自分の権限と管轄にしがみつき、その範囲で教育改革をしようといている。もうそろそろ日本人も、そのおかしさに気づくべきときにきているのではないのか。明治の昔から、日本人は、そういうのが教育と思い込んでいる。あるいは思い込まされている。その結果、日本は、日本の教育はどうなった? いまだに大本営発表しか聞かされていないから、欧米の現状をほとんど知らないでいる。中には、いまだに日本の教育は、世界でも最高水準にあると思い込んでいる人も多い。

 日本の教育は、今からでも遅くないから、自由化すべきである。具体的に、アメリカの常識をここに書いておく。

(1)アメリカの大学には、入学金だの、施設費だの、寄付金はいっさいない。
(2)アメリカの大学生は、入学後、学科、学部の変更は自由である。
(3)アメリカの大学生は、より高度な教育を求めて、大学間の移動を自由にしている。つまり大学の転籍は自由である。
(4)奨学金制度、借金制度が確立していて、アメリカの大学生は、自分で稼いで、自分で勉強するという意識が徹底している。
(5)毎週週末に試験があり、それが集合されて、その学生の成績となる。
(6)魅力のない学科、学部はどんどん廃止され、そのためクビになる教官も多い。教える教官も必死である。教官の身分や地位は、保証されていない。
(7)成績が悪ければ、学生はどんどん落第させられる。

 日本もそういう大学を、三〇年前にはめざすべきだった。私もオーストラリアの大学でそれを知ったとき、(まだ当時は日本は高度成長期のまっただ中にいたから、だれも関心を払わなかったが)、たいへんなショックを受けた。ここに「今からでも遅くない」と一応、書いたが、正直に言えば、「遅すぎた」。今から改革しても、その成果が出るのは、二〇年後? あるいは三〇年後? そのころ日本はアジアの中でも、マイナーな国の一つとして、完全に埋もれてしまっていることだろう。

田丸先生は、ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫氏のつぎのような言葉を引用している。「人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え自分で判断するという訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てる教育をしなければ、二〇五〇年の日本は本当にだめになる」と。 

問題は、そのあと日本は再生するかどうかだが、私はそれも無理だと思う。悲観的なことばかり書いたが、日本人は、そういう現状認識すらしていない。とても残念なことだが……。

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 話がそれたので、もとにもどす。

繰り返すが、結局はこの父親は、自らの学歴信仰を娘に押しつけているだけということになる。しかし大切なのは、「家族」。受験勉強も大切だが、しかしそれと引き換えに、家族を破壊しなければならないほどの、価値はない。

 最後に、なぜこの父親は、娘に受験競争に自分を忘れてしまうのか。それについても、以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたので、掲載する。

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親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 
 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味
 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚いた。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくのは、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ
親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言ってもムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさな言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる
 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまでの二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。

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 ずいぶんと長い反論になったが、今、私たちに求められているのは、親自身の意識改革である。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、明治政府が国策としてかかげた、「学校神話」「学歴信仰」「受験競争」を、いまだに引きずっている。しかしそうした日本独特の教育観は、もう世界では通用しない。少なくとも、世界の常識ではない。

 最後に私はその父親と別れるとき、こう言った。「あなたがもっている意識を変えるのは、簡単なことではないでしょう。しかし今、それを変えないと、日本はいつまでたっても、異質な国として残るだけです。それでよければ、それでもかまいませんが、私はそれではいけないと思います。だからこうしてひとりで、戦っているのです」と。
(02−11−30)



学校恐怖症

子どもが学校恐怖症になるとき
●四つの段階論
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。
@前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。
Aパニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。
B自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。
C回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。
●前兆をいかにとらえるか
 要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、Aのパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、@学校生活起因型、A遊び非行型、B無気力型、C不安など情緒混乱型、D意図的拒否型、E複合型に区分して考えられている。
 またその原因については、@学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、A家庭生活起因型(生活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、B本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ 
 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこの時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。
●ジョンソンの「学校恐怖症」
「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始まる。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。
●学校恐怖症の対処のし方
 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによることが多い。ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずした。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくてすむかもしれない。
 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうちに、症状はますますこじれる。
 第三期に入ったら、@学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けること。A前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、子どもの様子をみる。B最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。C生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。
 回復期に向かう前兆としては、@穏やかな会話ができるようになる、A生活にリズムができ、寝起きが規則正しくなる、B子どもがヒマをもてあますようになる、C家族がいてもいなくいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られたら、回復期は近いとみてよい。
 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。
●不登校は不利なことばかりではない
 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされている。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして学校へ行かなくなった理由として、
友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  


学校恐怖症(2)
より悪くなって……

 子どもの心の問題は、より悪くなって、以前の症状のほうが軽かったことに気づく……を繰り返しながら、ドロ沼に落ちていく。親は(何とかしよう)→(ますます症状が悪化する)→(ますますあせる)の悪循環に陥(おちい)る。一度、こうなると、子どもも、そして親も、行きつくところまで行く。またそこまで行かないと、親は気づかない。
 よい例が、学校恐怖症。心の問題は、外から見えないだけに、判断を見誤りやすい。あるいは子どものことだからと安易に考えやすい。中には「気のせいだ」と決めつけてかかる人もいる。しかし実際には、そんな簡単な問題ではない。

 学歴信仰とはよく言ったもので、まさにそれは信仰そのもの。子どもが学校恐怖症を起こしたりすると、親は「学校とは行かねばならないところ」という思いの中で、「行かなければ、落ちこぼれてしまう」という不安感に襲われる。ふつうの不安感ではない。パニック状態になる。しかしその不安感を自分だけの世界に閉じ込めておくならまだしも、それを子どもにぶつけてしまう。「学校へ行きなさい」「いやだ」の大乱闘を繰り返す。そしてこうした大騒動が、子どもの最後の砦(とりで)を破壊してしまう。親子の絆(きずな)という砦である。

 子どもの心の問題にぶつかったら、親はまず、それ以上、症状を悪化させないことだけを考える。そして戦うべきは、子どもの心の問題ではなく、自分自身であると心得る。いろいろな例がある。これは子どもの学校恐怖症に関して、である。

 子どもが不登校を繰り返すと、親は、ここにも書いたように、パニック状態になる。学校神話、あるいは学歴信仰の信奉者ほどそうで、中には半狂乱になる親もいる。「このままではうちの子はダメになってしまう」という、被害妄想にとりつかれ、子どもを叱ったり、あるいは反対に励ましたりしながら、つぎの段階を迎える。

 ふつう不安定な心の状態は、長つづきしない。これは本能的な防御作用ともいえるもので、やがて自らを安定させようとする力が働く。これをフリップ・フロップ理論という。私は勝手に「コロリ理論」と呼んでいるが、一度、どちらかにコロリと倒れてしまえば、心は安定する。学校恐怖症について言えば、親自身が「学校なんて行きたくなければ、行かなくてもいい」と納得してしまえば、親の心は安定する。(もっとも一度コロリと倒れたあと、また反対方向にコロリと倒れることもある。親自身も、「学校なんて……」と思ったり、「やはり学校くらいは行かなくては……」の間を、行ったりきたりする。しかしそれでも、どちらか一方に倒れ、心は安定期に入る。)

 が、ここでまたつぎの問題にぶつかる。子ども自身の問題である。ふつう学校恐怖症になると、子ども自身も、恐怖症と戦いながらも、その一方で、自ら、「学校へ行かねばならない」という自縛(じばく)の念にかられ、その中でもがく。たいていは親のほうが先にあきらめるが、子どもはそれができない。自分で自分をどんどんと追い込んでしまう。ひどくなると、自らにダメ人間のラベルを張ってしまう。こうなると、回復は容易ではない。私はよく「子どもの心の問題は、半年単位、一年単位でみろ」という。短期間での症状に一喜一憂しないことこそ大切だが、しかしこじれると、二年単位、三年単位で症状は推移する。へたをすれば、一生そのまま……ということにもなりかねない。

 要は、どこであきらめるか、である。しかもその時期は、早ければ早いほど、よい。子どもが「今日は、学校へ行きたくない」と言ったとき、「そうね、だれだって、行きたくないときがあるものよ」と言って、軽くすませば、それでよい。それをいちいち大げさに考えるから、話がおかしくなる。「このままではうちの子はダメになる」と大騒ぎするから、症状がこじれる。よく誤解されるが、不登校が不登校になるのは、初期の親の不手際が原因であることが多い。泣き叫んで抵抗する子どもを、無理に車に押し込んで学校へつれて行くなど。たった一度でも、その衝撃が強ければ強いほど、子どもの心に、取り返しがつかないほど、大きなキズをつける。親自身が、子どもを不登校児にしていることに、気づいていない!

 親はよく「私は子どもを愛してします」と言う。「愛していない」とは言わないが、子どもを愛するということは、そんな簡単なことではない。たいていの親は、「愛する」という言葉を使って、子どもを自分の思いどおりにしようとする。これを代償的愛という。いわば愛もどきの愛と思えばよい。親のエゴにもとづいた愛をいう。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔する親。「子どものため」を口実にしながら、その実、自分の見栄、メンツ、世間体のために子どもを利用している。あるいは受験よりはるかに大切な、親子の絆(きずな)を破壊しながら、その破壊していることにすら気づいていない。これは絹のハンカチで、鼻をふいて、そのハンカチを捨てるようなもの。自分自身が学歴信仰というカルトの中で、動かされていることに気づいていない。

 少し過激なことを書いたが、このタイプの親は、こういう言い方でもしないと、自分の愚かさに気づかない。頭にカチンとくる人も多いと思うが、ここに書いたことは、あくまでもあなたやあなたの子どもの心を守るためと、許してほしい。私としては、つぎからつぎへと、同じような相談を受けるため、歯がゆくてならない。そういう苛立(いらだ)ちを、この原稿に中に感じくれれば幸いである。
(02−8−23)
 


家庭教師

 私も二〇代のころ、アルバイトで、家庭教師をした。したというより、それが仕事だった。そういう経験もふまえて、家庭教師について、書く。

 もともとやる気のない子どもは、いくら家庭教師しても、ムダ。親は高い月謝を払うが、それは親の気休めでしかない。教える側が熱意をもって(?)、ガンガンと教えることを親は期待するかもしれないが、それについても、子ども自身がそれを求めていないこともある。求めていないことを、いくらやってもムダ。「勉強時間をつくる」とか、「不安になっている子どもの話し相手になる」という意味はあるが、あってもその程度。

 もちろん子ども側にやる気があるときは、別。そのときは、教えたら教えた分だけ、子どもの頭の中に入っていく。追い込みに入った受験生などは、それだけの問題意識をもっているから、教えやすいというより、家庭教師をする意味がある。そういう子どものばあいは、ガンガンと教える必要はない。方向性だけをつくってやり、あとは「わからなければ聞け」というような指導ですんでしまう。もちろんこまかな技術はある。これは私のやり方だが、英語のばあいは、その子どもの力に合わせて、プリントをどんどんその場で作っていくという教え方をした。もう一つは、子どもの書く速さにあわせて、英語を読み、それを録音するという方法。「毎日、一度はテープを聞いて、英語を書け」というような宿題を与える。数学も、同じような教え方をしたが、自分で教科書を読んで理解させるという方法を、大切にした。(「とりあえず勉強ができるようにするだけ」という、何ともつまらない教育だが、しかし家庭教師に求められているには、そういう教え方。)

 が、能力的にも問題があり、自信をなくしてしまっている子どもは、どうするか。このタイプの子どもは、たいてい(できない)→(勉強しない)→(ますますできない)の悪循環に入っていることが多く、ふつうの指導では、できるようにはならない。ひとつのことを教え、それがやっとできるようになるころには、学校の勉強は、ふたつくらい先へ行っているというようなことが、よくある。しかし本当の問題は、子どもにあるというより、親にある。
 
 自分の子どもがそういう状態にあることを、親が納得していてくれれば、教える側も救われるが、そうでないときは、その家の玄関をくぐるたびに、重苦しい気分になる。ときどき親から、「どうしてうちの子はできないのでしょう」とか、あるいは、「いつになったら効果が出てくるのでしょう」と言われることぐらい、つらいことはない。家庭教師という個人レッスンに、過大な期待を寄せることは、禁物である。

 そこで私なりのチャート図を考えてみた。

(家庭教師は効果があるか)

  (やる気あり)■※教えがいがある            ※効果大
         ■
    ↑    ■
         ■※家庭教師がたいへん(効果が疑問)
  (やる気なし)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
         (能力がない)     →      (能力がある)

 要点を言えば、子ども自身が、それを望んでいるかどうかということ。親が押しつけるケースでは、ほとんどが失敗する。仮にそれを子どもが受け入れたとしても、もともと姿勢が受身だから、ある程度までは効果があっても、それ以上は伸びない。あるときから、均衡状態に入る。「均衡状態」というのは、「身につく分」と「忘れる分」が、均衡状態に入って、進歩そのものが停滞する状態をいう。子どもに英語を教えていると、そういう現象が、共通してどの子どもにも現れる。早い子どもで三か月くらい。遅い子どもでも、一年前後で、その均衡状態に入る。その均衡状態を破るのは、子ども自身の「やる気」ということになる。イギリスの格言に、『馬を水場に連れていくことはできても、(無理に)水を飲ますことはできない』というのは、そういう意味である。

※……子どもやる気があり、それなりの能力があるなら、もちろん効果はある。しかし子どもにやる気がなく、能力がないときは、家庭教師をするのも、たいへん。そのたいへんさは、想像以上のもの。そういうケースのときは、子どもの話し相手、遊び相手になる程度のことしかできないのでは……。
※……もちろん中には、熱心な家庭教師もいる。しかしそれ以上に大切なのは、子どもとの相性ではないか。教える側からすると、親は何を求めているのか。子どもは何を求めているのかを、しっかりと見極めることが大切。ここを見誤ると、かえって子どもを苦しめる結果となる。
(02−9−30)

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そんな家庭教師をしていたときのことを書いたのが、つぎの原稿です。家庭教師を考えるときの参考にしていただければ、うれしいです。

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ドラ息子症候群

 英語の諺(ことわざ)に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう例は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしないのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小三)は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。その場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にかなわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってないようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。こうも言った。「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えることそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこともあった。受験を控えた中三のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまったのである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。そして彼が高校二年生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」と。そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった! とたん私は彼に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。が、M君の父親が、私を救ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。
(中日新聞で発表済み)


家庭内暴力

●壮絶な家庭内暴力

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東京都に住んでいる、Eさんという
母親が、長男の家庭内暴力に
苦しんでいる。

父親と、二男とは、そのため別居。
疲れきったEさんは、「死んでしまいたい」
とまで思うようになったという。

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E様へ

拝復

 パソコン上で原稿を書くと、どこかに記録が残ってしまいます。それがいつか、思わぬ
ところで、表に出てきてしまうことがあります。それでここでは、「E様」とします。お許
しください。

 また、同じような問題をかかえている、ほかの多くの親たちの参考と励みになるよう、
一部、E様からいただいた相談内容を、引用させていただきますが、どうか、ご了解の上、
二部、お許しください。

 E様からのメールを、要約させていただきます。

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【Eより、はやし浩司へ】

 2年前に相談したことがある、東京都のEです。

 現在、兄は、高校1年生、弟は、中学2年生です。以前は、父親と私、子ども2人で、
生活していました。

 その兄、つまり長男のことです。

 中学3年になるころから、暴力がはげしくなり、「こんな俺にしたのは、お前だ」と、私
を殴ったり、蹴ったりします。タバコを吸い始め、髪の毛も茶色に染め始めました。3年
の中ごろから、学校へも、ほとんど行かなくなりました。

 学校の先生から、「排除」という言葉が出てきたのも、そのころです。長男を、学校から
排除するというのです。それで長男の荒れは、ますますひどくなりました。

 そこで父親(私の夫)と、二男は、近くにアパートを借りて、別居。現在は、私と、長
男だけが、いっしょに暮らしています。食事は、私が作り、毎日、父親と二男に届けてい
ます。

 長男の暴力はひどいですが、一線だけは守ってくれているようです。今のところ、指の
骨折程度ですんでいます。

 一応、単位制の通信高校に通っていますが、ほとんど学校へは行っていません。昼夜が
逆転し、夜中に起きてきて、私に、「食事を作れ」「こうなったのは、お前のせいだ」「弟は、
お前と別れて、よくなっただろ」「お前は、この家から出て行け」と、蹴ったりします。

 私の精神はボロボロで、自殺願望も生まれてきました。

 『許して、忘れる』という先生から教えてもらった言葉を口ずさみながら、何とか、そ
れに耐えていますが、本当にこれでいいのでしょうか。一言、アドバイスをしてください。
(東京都・Eより)

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Eさんの転載許可がいただけましたので、
Eさんからのメールを、ほぼそのまま、
ここに紹介します。

上記の内容とダブりますが、お許しください。

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【Eより、はやし浩司へ】


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転載許可がいただけましたので、Eさんからのメールを、
そのまま紹介させていただきます。(6・21)
Eさん、ありがとうございました。

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【Eより、はやし浩司へ】

2年ほど前、当時小学6年生だった。次男の不登校のことでご相談した事がある者です。
長男は、当時、中学2年生でした。

その長男が中3になり、中1とし、弟は同じ中学校に入学してきましたが、そのときもま
だ、弟の学校恐怖症がつづき、学校へは、行けない状況にありました。

そのことで長男は友達から、弟のことで、いろいろとつらいことがあったようです。

家でゴロゴロと寝ている弟をみて登校していく長男でしたが、6月の運動会が終わったあ
たりから、変わってきました。

タバコを、学校帰りに、友達と吸ったり、不良なんだとわざと見せるような行動をとるよ
うになりました。

深夜徘徊をしたり、学校から排除されるようなことを先生に言われたりし、しのともあっ
て、友達も、みんな長男から、引いてしまったようです。孤立してしまいました。

2学期からはほとんど学校へは行かず、受験も拒否。

髪は茶髪、金髪、弟へのプロレスごっこと称しての暴力もはじまり、それを止めないとい
って弟は、容赦ない暴力を私へ向けてきました。

去年の12月に主人と次男は隣町のマンションへ、出て行きました。

次男は中学も変わり、中1の3月までは不登校でしたが、中2になり4月からはまだ1日
も休むことなく楽しく登校できているようです。

長男は卒業式にも出席することなく、一応単位制の通信高校に入学はしましたが、ほとん
ど登校していません。

昼夜が逆転し、夕方ぐらいに起きてきて、夜中にわたしを起こし、飯を作れとか、耳元で、
わざと、うるさい音楽を流したりと、嫌がらせがつづいています。

『お前がこんなにしたんだ、お前が出て行けば俺はよくなる! ○○(次男)もお前から
離れたからよくなっただろう』と、蹴ったり殴ったりします。

それでも手加減はしてくれているようで、いままで病院へ行ったのは右手小指の骨折だけ
です。
私も学校へ行けだとか、昼夜が逆転していることを、なおしなさいとか、言わないように
しています。

次男へは毎日夕食を運んでいます。

自分を高めなければ精神がボロボロになってしまって、自殺願望が強くなるばかりです。
許して、許して忘れるの先生のお言葉を毎日、念仏のように口ずさみ、耐えています。
やがて時間が解決してくださると・・・

先生、それでいいのでしょうか、何も言わず、待つことがいちばんなんですよね。
もし、それでよければ、それでよしとお答えくだされば、とても強い力になります。

孤独に閉鎖された中で戦う私に、後押ししてくださいませんでしょうか。
どうか、よろしくお願いします。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 家庭内暴力 親への暴力 子供の家庭内暴力 子供の暴力 暴力行為 子どもの暴力 子どもの家庭内暴力)


【追伸、Eより、はやし浩司へ】

長男のことについての相談のお返事、ありがとうございました。
ブログへの掲載はかまいません。

昨日も、長男が、弟は、おたくっぽくてかっこ悪いというので、そんなことないよ、かっ
こいいよといったことに腹を立て、殴ったり、ものをこわしたり、網戸を破ってそれにラ
イターで火をつけようとしました。

私はそれに驚き、集合住宅でもあるし、火を出したら大変だと、脅す大河をそれだけはい
けないと叫びました。

私が嫌がる事はわざとやるので、ソファーも火をつけたり、(すぐ消える程度)していたの
で、私がまず、家を出なければと急いで家を出ました。

そして一晩帰宅しませんでした。
長男へはメールで、「火をつけたり、暴力が続くとお互い傷つくし、自分も他人も取り返し
のつかないことになったら大変だから、暴力が治まるまで帰りません。何がそんなに哀し
いのかな・・・みんな、大河を愛しているよ、それはいつまでも変わりません。」
と送りました。

警察の少年サポートセンターの方が暴力からは逃げてください、受けたそのときに家を出
てください、毎日連絡は入れてください、と指導されました。

私も、どうしていいやら家を出て実家に帰ったものの、心配でなりません。
今は荷物を取りに帰宅しています。

次男へ食事も運べませんし、夫がコンビニの弁当を買ってきているようです。
2〜3日したら帰宅しようとは思いますが、どうなんでしょうか。

火をつけたり、そんなまねごとでも危険な事は、許すわけにはいきません。

私は内科でデパスとメイラックスという、不安を取り除くお薬を処方してもらい、寝る前
に飲んでいます。

メイラックスと言う薬は次男も、G大病院思春期外来で処方され、飲んでいました。
長男に、飲ませてはどうでしょうか。

とても、病院に一緒に行ってくれる状態ではありません。
長男が苦しんでいるのはわかります。
だから、強がって仮面をかぶって外に出るのもわかります。
不良になりたがるのも、よくわかります。

私も、そんな格好を非難する言葉や、世間体が悪いだとか、罵るような事を言ってしまい
ました。

反省しています。

それなのに、今からでも大丈夫でしょうか、母と子の関係を修復できるでしょうか。  

今回はご返答ありがとうございました。
私は「許して忘れて、諦める」を念頭に、がんばって母親をやっていきます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Eさんへ】

 家庭内暴力の背景には、つぎのような素因があると考えてください。ざっと、急いで書
きあげたので、不備があるかもしれません。

(1)子ども自身の、うつ病。(心の病気)
(2)子ども自身の人間関係調整機能の喪失。(基本的信頼関係の構築の失敗)
(3)子ども自身の自己管理能力の欠落。(幼児性の持続。わがまま)
(4)子ども自身の二重人格性。(自分とは別の自分による暴力行為)
(5)子ども自身の欲求不満。(性的欲求不満も含まれる。)
(6)子ども自身の生育上の問題。(乳幼児期に「いい子」で通ってしまった。)
(7)下の弟との関係。(「兄」であることから受ける重圧感。欲求不満)

 が、何よりも大きな素因は、(8)自己嫌悪から発生する、自暴自棄的自虐性です。

 このタイプの子どもは、自分の中にある、(自己嫌悪感)を解消したくても、それができ
ないジレンマに陥っていることが多いです。自己管理能力のしっかりしている子ども(人)
は、それを、うまく処理できるのですが、それができません。

 それで弱い母親に対して、「こんなオレにしたのは……!」という言葉が出てきます。つ
まり自分で、自分を嫌っているわけです。(嫌う)というよりも、みなに嫌われているもど
かしさ、本当の自分を認めてもらえないつらさ、それを(暴力)にかえていると思ってく
ださい。

 だから本当に、母親であるあなたを嫌っているというわけではありません。形こそ、少
しいびつですが、暴力的な(甘え)と理解すれば、よいかもしれません。

 もちろんその(甘え)の中には、さまざまな要因がつまっています。

 ここにあげた(人間関係調整機能の喪失)も、そのひとつです。つまり人間関係がじょ
うずに調整できない子どもは、依存的になったり、服従的になったり、同情的になったり
しますが、他者に対して攻撃的になったりします。

 お子さんは、最後の攻撃型タイプということになります。(攻撃型タイプも、他者に対し
て攻撃的になるタイプと、自分に対して自虐的になるタイプがあります。)

 が、心理状態は、いつも、孤独で、心の中に空虚感を覚えていると理解してください。
つまり心の中は、さみしいのです。そのさみしさを、埋めるために、あなたに対して暴力
を振るっているのです。

 ……と書くと、どうして?、と思われるかもしれませんね。

 実は、あなたはお子さんのことを思ったり、心配してはいますが、そのつど、同時に、
お子さんを、突き放すような言動をしているからだと考えてください。これは無意識のう
ちに、そうしているのがふつうです。

 子どもの心というのは、そういう意味では、たいへん敏感です。あなたのささいな言動
から、それをさぐり当ててしまいます。

 そこであなたのお子さんは、ギリギリのところまでしながら、あなたの心を試そうとし
ます。ギリギリのところです。

 家庭内暴力を起こす子どもは、いつもその限界の内側で暴れます。あなたが言う(自制)
という言葉は、それを言います。「これ以上のことをしたら、おしまい」という、その一歩
手前で、暴力を止めます。

 これはお子さんの中に、もう一人の別のお子さんがいて、それを制御しているためと考
えれば、わかっていただけると思います。つまりそのつど、もう一人のお子さんが、「もう、
やめておけ」「そのへんで、ストップしろ」と命令をくだしているわけです。

 それで「指の骨折程度」ですんでいるわけです。

 つまりあなたのお子さんがしていることは、典型的な、「家庭内暴力」ということになり
ます。ですから、今は、つらいかもしれませんが、(お気持ちは察しますが)、問題として
は、とくに変わった問題ではないということです。

 少なくとも、まったく同じような状況で、引きこもりを起こす子どもよりは、立ちなお
るのがずっと楽ですし、立ちなおったあと、むしろ、かえって常識豊かな人間になります。

 私はそういう子どもの例を、何十例も見てきました。ですから、決して希望を捨てず、
あきらめず、短気を起こさず、前に向かって進んでください。必ず、一過性のもので終わ
ります。そしてみな、なにごともなく、終わっていきます。

 『許して、忘れる』……これは何も、まちがっていません。今こそ、あなたの愛という
よりも、深い人間性が、子どもによって確かめられているのです。わかりますか? 

 親が子どもを育てるのではありません。親は、子育てで苦しみながら、子どもによって
育てられるのです。

 そこでつぎのことに注意してみてください。

(1)突き放すようなことは言わない。 

 一方でお子さんのことを心配しながら、他方で、お子さんを突き放すようなことを言っ
たり、したりしていませんか? たとえば、「ごめん、ごめん」と口で言いながら、少し、
お子さんの機嫌がよくなると、「もう、あなたなんかイヤ」とか言う、など。

 これは究極の状態ということになりますが、「私はもう殺されてもいい。それでも、私は
あなたを見捨てませんからね」という状態になったとき、あなたのお子さんは、はじめて、
あなたに安心感を覚えるようになります。

 あなたにその覚悟はできていますか。が、あなたには、その覚悟は、まだできていない。
「殺されるのはいやだ」「世間体が悪い」「子育ては、もうこりごり」と。

 あなたのお子さんは、そのスキをついて、家の中で暴れます。満たされない愛への欲求
不満を、あなたにぶつけてきます。ですから、あなたはつぎの言葉だけを、子どもの前で
は、繰りかえします。

 「ごめんなさい。お母さんが、悪かった」「どんなことがあっても、私はあなたを愛しつ
づけます」と。何があっても、最後の最後まで、その言葉を繰りかえします。これはまさ
に、壮絶な根くらべです。

(2)子どもも苦しんでいる。

 あなたには想像できないかもしれませんが、あなたのお子さんも、そういうあなたを見
ながら、苦しんでいます。あなたが苦しんでいる以上に、お子さんも苦しんでいるという
ことです。(今のあなたには、想像できないかもしれませんが……。)

 あなたは、お子さんにとって、最後の(心の拠り所)です。砦(とりで)です。その拠
り所を、自分で破壊しながら、お子さん自身は、自分でそれをよしとはしていないのです。
愛する人(=あなた)をキズつけながら、それをしている、自分が苦しいのです。

 自己嫌悪から自暴自棄になるのは、そのためと考えてください。

 しかも自分に関することが、すべてうまくいかない。中学校の友人たちには嫌われる。
高校へも進めなかった。何をしてよいのかわからない。何をしたいのかもわからない。家
族もバラバラになってしまった。(現実の自分)と、(自分が頭の中に描く自分)が、一致
せず、混乱している。

 それは思春期のお子さんにしてみれば、たいへんな苦しみということになります。

 今のお子さんの心理状態は、そういう状態であると考えてください。つまりあなたが、
それをまず、理解します。その上で、「あなたも苦しんでいるのね」と、子どもを暖かく包
んであげます。

(3)心の病気と考えてください。

 できれば、一度、心療内科を訪れてみてください。今ではすぐれた薬も開発されていて、
お子さんの(突発的なキレ)(異常なこだわり)(うつ症状)などにも、すぐれた効果があ
ります。

 心の病気といっても、脳の機能的な障害ですから、おおげさに考えないこと。決してお
子さんが、このまま人格障害者になるとか、そういうことではありません。いわば、一過
性の、はげしい熱病のようなものです。

 しかも、確実になおる見込みのある熱病です。今までの私の経験からしても、今が山で、
18歳ごろまでには、ウソのように落ち着いてきます。先にも書きましたが、引きこもり
を起こすタイプよりは、ずっと回復も早く、予後(その後の経過)もいいです。

(家庭内暴力を起こすタイプを、「プラス型」というなら、引きこもりを起こすタイプは、
「マイナス型」ということになります。まったく正反対の症状ですが、原因も、対処の
仕方も、同じです。)

 ですから、薬で落ち着かせる部分については、薬に頼ります。あなた自身が、カプセル
の中に入ってしまわないで、他人に任すところは、任せます。

 私はドクターではありませんが、心療内科のドクターも、「うつ病」に準じて、治療を開
始するはずです。

 ただこのときも、注意しなければならないことは、たとえ心療内科へ連れていくとして
も、(突き放すような言動)は、タブーだということです。施設へ入れるとか、入院させる
とか、そういう話は子どもの前では、ぜったいに、してはいけません。

 少し前、子どもの立場で、自分の心の状態を語ってくれた青年がいました。(私のBLO
Gなどに書いておきましたが、ご覧になってくださいましたか? マガジンでも取りあげ
たことがあります。)

 このBLOGの中で、「じじさん」というのは、その青年を批判した男性のことをいいま
す。内容はわからいませんが、多分、その男性は、その青年を、「引きこもりは、怠け病だ」
とでも言ったのではないかと思います。それでその青年が、反発しました。

+++++++++++++++++

【宮沢KさんのBLOGより転載、転載許可済み】

● 引きこもりは、病気だ!

お気楽にやっていきたいのに、今日もシビアになっちまう。

「引きこもり者更生支援施設内で暴行か、引きこもり男性死亡」って事件の話。

不条理日記さんのIMスクールについて、KMさんという人のコメント。

「このケースは、言ってみれば、自信過剰の民間療法の素人が、
癌の治療に手を出したようなものでしょう。
引きこもりの一部は精神科の病気、
それもとても治療の難しい病気なのだという対応が必要です。」

この人が正しい。タイコバン!

それに対して管理人のじじさんが

「引きこもりが病気!?
そのように病気病気言うから病気に甘えて
薬に甘えて医者、病院にあまえて何もできなくなってしまうから
それがひきこもりって、そのまんまの名前の病気になってしまうんではないでは? 」

じじさん、あんたねえ、
KMさんも「引きこもりの一部は」って、言ってるでしょ。
引きこもりには怠けもんも多いけど
正しい? 病気の人も多いの。

世間一般、じじさんと同じように思ってるだろうけど、
メラトニンやコルチゾールの分泌異常とか
前頭葉領域の血流低下とかアセチルコリンの消費量増大とか、
あとはPTSDとか親の共依存とか
かなり脳科学や臨床心理学で解明されてきてる。

やる気だって、脳内の化学物質の反応なんだよ。
無知だよなあ、世間のやつらは。

++++++++++++++++++

●引きこもり者更生支援施設依存症の親

IMスクールの事件じゃ、どうやら家庭内暴力で疲れ果てた家族が
施設に引き渡したらしいね。

精神科の世界で誰にもわからないから閉じ込めるしかない 
今の医学ではそんなもの。

本人が一番辛かったはず、「なんでおれは暴れちまうんだろう」ってね。
原因はあるんだろうが、わたしにはもちろんわからない 

引きこもりに正面から向き合うこともなく、
病理的な勉強も怠り、
甘えだとかやる気がないとかほかの子はちゃんとやってるのに
とか言ってる大人たちが、こんな、社会やこんな子供を作った。 

あんたらこそ、やる気だしてみろよ
薬打って中毒になってみろよ 
病気で足を切断されて足の大切さがわかり、
元通りにならない事をはじめて認める。

どうにもならない事って、その状況にならないとわからない事って、
あるだろう。

自分が正常でございと思ってるすべての連中、
あんたらは
感性が擦り切れて、何も感じられないからこんな世の中で平気でいられるだけだ。
宮沢Kの感性の爪の垢でも飲みやがれ!

この施設がどういう人たちがやってて、
どういうことが行われたかはわからない。
事故だったのかなんだったのかはわからない。
引きこもりにはそれなりの意義があるんだけど
わかってないんだろうな、こんな施設つくるくらいだから
(引きこもりの人生の意義の話は、またこんどね)

 親が、子どもの暴力に耐えかねて
預かってくれる施設があると聞いて喜んで拉致させた。

親がこの施設に依存した。
親と子がいっしょに戦うことをあきらめた。
その結果、子どもは死んだ。
これだけだ。

臭いものにはフタか?
わが子は臭いものか?
誰かにまるごと頼みます、であとは平穏な暮らしが戻るのか?

(暴力で苦しんでる家庭では、
いっぺん親だけでも精神科や心療内科に相談に行くといい。
ハロペリドールなどの精神安定剤の処方で、おおかた静まる。
それからゆっくり時間をかけて話をしていってほしい。
相談するなら素人じゃなく専門家にしないとね。

ただ精神科くらい、医者の当たり外れの大きいところもないから
気に入る医者に出会うまで何人も回ること。

わたしは5つくらい、病院、回って奇跡的にいいドクターに会えて
やっと回復できた。

どうしてこんな無知で精神科の医者やってんの?というのが多い。
答えは「精神科は楽に儲かるから」。
(点数がいろいろ有利なのは事実)

+++++++++++++++++++++

★今日は最後に怠け者へ一言★

じじさんの言ってた、
たんなる「怠け者」の引きこもりやニート、不登校のあんたらに言っておく。
怠け者の末路は悲惨だよ。

生活保護って制度もいつまであるかわかんない。
バス代さえなくて何キロも歩いて病院にきてるおばさん、
家族から見放されて無縁墓地にはいるのを待って
光の入らない4畳半に住んでるおじさん。。。

やっぱ、施設とか、病院って、世の中にすごく必要。
こういう同病者をまじかにみれるもの。

自分の明日が見れるし
いっしょに抜け出そうとする仲間に出会えるもの。

ただし、自分から入りたい、と覚悟するまでが、時間、かかるのね。

これから医学はもっともっと進むよ。
病気かそうでないかは、かんたんに見破られるから
病気のフリもできない。
怠け者にはじじさんだけじゃなく、私も世間も、やさしくないよ。


【宮沢Kさんへ】

 たいへん参考になりました。あなたのような体験をもった人たちが、もっと声をあげれ
ば、IMスクールのような、おかしな更生支援施設(?)は、なくなると思います。

++++++++++++++++++++

【再び、Eさんへ……】 

 ここで宮沢Kさんが、書いていることは、何かの参考になると思います。宮沢Kさんの
BLOGは、今のあなたのお子さんの立場で、自分の過去の経験を語っています。あとで
そのBLOGのアドレスを添付しておきますので、一度、あなたも、のぞいてみられたら
よいかと思います。

 ともかくも、『許して、忘れる』ですよ。

 あなたがこれを乗り切ったとき、あなたはすばらしいものを手にするはずです。つまり
(真の愛)がどういうものであるかを、知るはずです。今は、その試練のとき。あなたの
お子さんは、あなたにそれを教えるために、今、そこにいます。

 決して短気を起こさず、決してあきらめず!

 そうそうあなたの自殺願望ですが、これは育児にかぎらず、介護に疲れた人も、みな覚
えるものです。あなた自身も、一度、心療内科で、精神安定剤を処方してもらうとよいか
もしれません。

 私も、姉に教えられて以来、女性用の精神安定剤をのんでいますが、よくききます。

 なお、あなたからのメールを、こちらで一度手なおしして、私のマガジンに掲載したい
のですが、その許可をいただけませんか。あなたであることは、ぜったいわからないよう
に、書き改めます。

 よろしくお願いします。

【宮沢Kの風・BLOG】

 ここに書いた宮沢KさんのBLOGです。子どもの立場がよくわかり、Eさんの参考に
なると思います。

http://kenjinokaze.livedoor.biz/archives/50669992.html

 どうか、めげないで、がんばってください。必ず解決する問題ですから。約束します。

(つづきは、Eマガのほうで。7月26日号、掲載予定)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●子どもの家庭内暴力で苦しんでいるEさんへ、

 基本的には、心の病気と考えますが、この(病気)にいたるまでに、さまざまな原因や
理由が、そこにからんでいると考えてください。

 糸が複雑にからむようにからんでいるため、それを解きほぐすのは、容易なことではあ
りません。それこそ、乳幼児期からの糸がからんでいることもあります。

 ついでながら、乳幼児期から、(いい子)で通ってきた子どもほど、思春期を迎えるころ
から、この家庭内暴力も含めて、さまざまな問題行動を起こすことがわかっています。

(そういう点でも、子どものころから、(何を考えているかわからない子ども)ほど、心
配な子どもということになりますね。)

 で、その家庭内暴力を起こす子どもの行動には、一定のパターンがあります。

(1)限界状況の把握

 家庭内暴力を繰りかえす子どもの最大の特徴は、自ら、無意識のうちにも、限界状況を
設定するということです。つまり子どもは、「これ以上のことをしたら、おしまい」という、
その限界ギリギリのことまではします。が、しかしそれ以上のことはしません。

 (自分に対する怒り)を、(家族)にぶつけているだけだからです。つまり本当に相手(あ
なたという親や兄弟)を憎んでいるから、暴力行為を繰りかえしているのでないというこ
とです。(自分でも、自分をどうしたらいいかわからない)という思いを、(怒り)に変え
ているだけなのです。

 そういう点では、わがままな子、あるいは、俗な言い方をすれば、「甘ったれた子」とい
うことになります。それだけ、人格の核形成(コア・アイデンティティ)の遅れた子ども
ということになります。

(2)自虐的な愛の確認

 家庭内暴力を起こす子どもは、完ぺきな愛を、家族、なかんずく母親に求めようとしま
す。完ぺきな愛です。「どんなことをしても、自分は許されるのだ」「愛で包んでもらえる
のだ」という愛、です。

 その点、マザーコンタイプの子どもの心理に似ています。で、その完ぺきな愛を確認す
るために、暴力行為を繰りかえします。

 が、暴力行為を加えられるほうは、たまったものではありません。当然のことながら、(子
どもを愛したい)という気持ちと、(子どもから離れたい)という気持ちの間で、はげしく
葛藤します。

 その葛藤の間げきをついて、子どもは暴れます。たとえば親が、「病院へ一度、行ってみ
ようか?」「そんなに私(=母親)が嫌いなら、私は、この家から出て行こうか?」「ひと
りでアパートに住んでみる?」などという言葉を口にすると、突然暴れ出す子どもが多い
のは、そのためです。

 子どもは、その一言に、大きな不安を覚えることになります。

(3)二面性

 家庭内暴力を起こす子どもについて、多くの親たちが、「どうして?」と悩んでしまうの
が、二面性の問題です。

 はげしく暴れながらも、それが収まったようなときには、別人のようにやさしくなった
り、親をいたわったりします。

 実はそうした二面性は、暴力行為を繰りかえしている最中でも、それがあります。ある
男性は、こう言いました。彼は高校時代から青年期にかけて、その家庭内暴力を繰りかえ
しました。

 「親を殴りつけている間も、もう1人の、別のぼくが自分の中にいて、『やめろ』『止め
ろ』と叫んでいた」と。

 そこで私が、「では、どうしてそのとき、暴力をやめなかったのだ?」と聞くと、その男
性は、こう言いました。

 「やめようと思っても、もう1人の自分が、どんどんと勝手に怒ってしまった」「途中で
やめると、かえって、自分がへんな人間に見られるようで、できなかった」「自分でも、ど
うしようもなかった」と。

 で、その男性のばあい、家庭内暴力をやめるきっかけになった事件があったそうです。

 ある夜のこと。その男性は、いつものように自分の母親を殴ったり、蹴ったりしました。
で、そのあとのこと。その男性が、いつものように家を出ようとしたところ、(本当は出る
つもりではなく、庭先にあるガレージの二階に行こうとしたのですが)、母親がその男性を
追いかけてきて、「出て行かないで」「どこへも行かないで」と、泣きながら懇願したそう
です。

 それを見て、その男性は、自分にそんなことまでされて、なおかつ、「出て行かないで」
と泣き叫んだ母親に、自分が求めていたものが、それだったと気がついたというのです。
以後、その男性は、それまでの男性とは別人のように、穏やかになっていったそうです(母
親談)。

(4)緊張状態

 子どもが暴れるメカニズムは、つぎのようです。

 基本的に、子どもの心は、極度の緊張状態にあると考えます。この緊張状態が、日常的
に悶々とつづいています。

 この緊張状態の中に、不安(将来への不安、現実への不安、孤独への不安など)、心配(将
来への心配)などが入りきんでくると、それを解消しようと、心の緊張状態が、一気に倍
加します。

 それが突発的な暴力行為へと発展します。

 ですから、このタイプの子どもについては、(1)緊張状態の緩和を心がける、(2)不
安や心配ごとを持ちこまないということになりますが、ふと言った言葉が、キーワードに
なり、それが子どもを激怒させるということも、少なくありません。

 これはある年長児の女の子の例ですが、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と声を
かけただけで、激変し、あるときは、母親に向かって、包丁まで投げつけたといいます。

 そこで対処のし方ということになります。

 今ではすぐれた薬もあり、またこうした心の病気に対する理解も深まってきましたから、
決して、ひとりでは、悩まないこと。本人は、なかなか行きたがらないかもしれませんが、
よく説得して、一度、心療内科の医院を訪問してみることが、第一です。

 つぎに子どもが暴れだしたら、説教したり、自分の意見を述べたりするのは、タブーと
心得ます。かえって火に油を注ぐようなことになりかねません。ですから、「ごめんなさい」
とだけ言い、それを、どんなことがあっても、繰りかえします。子どもが意見を求めてき
たようなときでも、「ごめんなさい」とだけ言って、それですまします。

 「子どもが暴力行為を始めたら、家から出て、逃げろ」と教える指導員もいるようです
が、私は、反対です。

 そのときはそれですむかもしれませんが、つぎのとき、それが理由で、また暴力が始ま
ることが多いからです。「この前の夜は、ぼくを捨てて、家を出て行ったではないかア!」
「どうして、オレを捨てたア!」とです。

 それまでに苦労してつくりあげた、親子の信頼関係を、破壊することにも、なりかねま
せん。親のほうには、そのつもりはなくても、子どものほうが、そう感じてしまいます。
 
 Eさんの息子さんが、ソファにライターで火をつける行為も、「火をつけて家を燃やした
い」からではなく、「オレをひとりにしておくと、オレはたいへんなことをするぞ」「だか
らオレをひとりにするな」ということを、あなたに伝えたいからです。またそう解釈する
と、あなたのお子さんの心理が、より理解できるのではないでしょうか。

 この問題の根底には、根深い、相互の不信関係(基本的不信関係)がからんでいます。
そしてそれは、どこかにも書きましたが、子どもが、乳幼児期に始まります。

 本来なら、子どもは、親に向かって、言いたいことを言い、したいことをしながら、そ
のつど自分を発散しながら成長するのが、好ましいのですが、それができなかった。それ
が回りまわって、子どもの心を、ゆがめてしまった。それが今、はげしい暴力行為となっ
て、家庭の中で起きている。現状を解説すれば、そういうことになります。

 で、家庭内暴力を経験した子ども(おとな)は、みな、こう言います。

 「あんなことをしたのに、親は、自分を見捨てなかった」「それが自分を立ちなおらせる
きっかけになった」と。

 反対に、そうでないケースも、少なくありません。親のほうが、根をあげてしまい、子
どもを施設へ送ったりするようなケースです。それぞれの親には、それぞれの、やむにや
まれない事情もあるのでしょう。が、それをするのは、最後の最後。またそれをしたから
といって、この問題は、解決しません。

 さらに二番底、三番底へと、子どもは、落ちていきます。

 しかし心の病気と考えれば、気も楽になるはずです。しかも、この病気だけは、必ず、
なおります。そういう病気です。ですから、どうか、短気だけは起こさないでください。
ただ家庭内暴力にかぎらず、どんな(心の病気)もそうですが、1年単位の時間はかかり
ます。それは覚悟しておいてください。

 許して、忘れる。あとは、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、対処す
る」です。静かな無視、暖かい無視を大切に。ほどよい親でいることに心がけます。

 もちろん、「こんなことでは、落ちこぼれになってしまう」とか、「がんばれ」などと、
子どもを、脅したり、励ましたりするのは、タブーです。かえって子どもの心を窮地に追
いこんでしまうことにもなりかねません。

 つまり、その度量の深さによって、あなたのお子さんへの愛情の深さが決まります。子
どもを投げ出したとき、あなたは、親として、はげしい敗北感を味わいます。ですから、
決して、投げ出さないこと。

 谷が深ければ深いほど、そのあと、あなたと息子さんは、すばらしい親子関係を築くこ
とができます。それを信じて、前に進んでください。

 いくつか、役にたちそうな原稿を、ここに添付します。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【アルバムの効用】

 子育てをしていて、苦しいことや悲しいことがあったら、アルバムをのぞくとよいです
よ。あるいは、アルバムを、家の中心に置いてみてください。

 アルバムには、私たちが想像する以上の力があります。理由は簡単です。そこには、楽
しかったとき、うれしかったときが、凝縮されているからです。

 ぜひ、Eさんも、一度、ためしてみてください。それだけで、心が軽くなるはずです。
お子さんへの、愛情も、それで取りもどせるはずです。ひょっとしたら、お子さん自身も、
です。

++++++++++++++++

原稿を一作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++

●子どもの心をはぐくむ法(アルバムをそばに置け!)

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見なが
ら、成長していく喜びを知る。それだけではない。

子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。

ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お
兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらに
して父親なのだ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年
長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子
どもは、まずいない。

哺乳ビンを見せながら、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、
たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。

記憶が記憶として残り始めるのは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。このころを境
にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて
「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさ
って」という概念は、年長児にならないとわからない。

が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概
念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバ
ムには、不思議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバム
を見ていた。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを
見ていた。

つまりアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらい
ときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、
まさに宝の本。が、それだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに
父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。
それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だ
が、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の
写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生
ぐらいのときのことだったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあ
った。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んで
いた。

それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、
恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバ
ムを見入っているのを知った。

ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そし
てそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情を
しているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにア
ルバムを置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニュー
ズウィーク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えら
れていた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられてい
る」(ワシントン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達
なため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長
期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかし
メルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけ
ということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行っ
た場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよく
ある。これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起き
る現象と考えるとわかりやすい。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

親の口グセが子どもを伸ばすとき

●相変わらずワルだったが……  

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。そうい
う性質を利用して、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 昔、私が勤めていた幼稚園にどうしようもないワルの子ども(年中男児)がいた。友だ
ちを泣かす、けがをさせるは、日常茶飯事。それを注意する先生にも、キックしたり、カ
バンを投げつけたりしていた。どの先生も手を焼いていた。

が、ある日、ふと見ると、その子どもが友だちにクレヨンを貸しているのが目にとまっ
た。私はすかさずその子どもをほめた。「君は、やさしい子だね」と。数日後もまた目が
合ったので、私はまたほめた。「君は、やさしい子だね」と。それからもその子どもはワ
ルはワルのままだったが、しかしどういうわけか、私の姿を見ると、パッとそのワルを
やめた。そしてニコニコと笑いながら、「センセー」と手を振ったりした。

●子どもの心はカガミ

 しかしウソはいけない。子どもとて心はおとな。信ずるときには本気で信ずる。「あなた
はよい子だ」という「思い」が、まっすぐ伝わったとき、その子どももまた、まっすぐ伸
び始める。

 正直に告白する。私が幼稚園で教え始めたころ、年に何人かの子どもは、私をこわがっ
て幼稚園へ来なくなってしまった。そういう子どもというのは、初対面のとき、私が「い
やな子ども」と思った子どもだった。つまりそういう思いが、いつの間にか子どもに伝わ
ってしまっていた。人間関係というのは、そういうものだ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う』というのが
ある。つまりあなたが相手をよい人だと思っていると、相手も、あなたをよい人だと思
うようになる。いやな人だと思っていると、相手も、あなたをいやな人だと思うように
なる。

一週間や二週間なら、何とかごまかしてつきあうということもできるが、一か月、二か
月となると、そうはいかない。いわんや半年、一年をや。思いというのは、長い時間を
かけて、必ず相手に伝わってしまう。では、どうするか。

 相手が子どもなら、こちらが先に折れるしかない。私のばあいは、「どうせこれから一年
もつきあうのだから、楽しくやろう」ということで、折れるようにした。それは自分の職
場を楽しくするためにも、必要だった。もっともそれが自然な形でできるようになったの
は、三〇歳も過ぎてからだったが、それからは子どもたちの表情が、年々、みちがえるほ
ど明るくなっていったのを覚えている。そこで家庭では、こんなことを注意したらよい。

●前向きな暗示が心を変える

 まず「あなたはよい子」「あなたはどんどんよくなる」「あなたはすばらしい人になる」
を口グセにする。子どもが幼児であればあるほど、そう言う。もしあなたが「うちの子は、
だめな子」と思っているなら、なおさらそうする。

最初はウソでもよい。そうしてまず自分の心を作りかえる。人間関係というのは、不思
議なものだ。日ごろの口グセどおりの関係になる。互いの心がそういう方向に向いてい
くからだ。が、それだけではない。相手は相手で、あなたの期待に答えようとする。相
手が子どものときはなおさらで、そういう思いが、子どもを伸ばす。こんなことがあっ
た。

 その家には四人の男ばかりの兄弟がいたのだが、下の子が上の子の「おさがり」のズボ
ンや服をもらうたびに、下の子がそれを喜んで、「見て、見て!」と、私たちに見せにくる
のだ。ふつう下の子は上の子のおさがりをいやがるものだとばかり思っていた私には、意
外だった。そこで調べてみると、その秘訣は母親の言葉にあることがわかった。

母親は下の子に兄のおさがりを着せるたびに、こう言っていた。「ほら、あんたもお兄ち
ゃんのものがはけるようになったわね。すごいわね!」と。母親はそれを心底、喜んで
みせていた。そこでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、あるいは何かよいニュ
ースがあるたびに、「見て、見て!」「聞いて、聞いて!」と、あなたに報告にくるだろう
か。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、親子のあり方を少し反省してみたほう
がよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
前向きな働きかけ 強化の原理 子どもを伸ばす 伸びやかな子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それま
ではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない
不安に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受
験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つ
い先日も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。
「一学期の期末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人
中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほ
しい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻み
に震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、
最難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したの
に驚いた。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に
気がつくのは、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由
はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされ
た。たいていはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからな
い。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できない
ものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がい
る。「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代では
ない」と言ってもムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。

親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査
でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったと
き、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに対して、「(子
どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子ども
の意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子ども
は親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生
に話す」はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相
談相手でなければならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績
だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉
強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってから
だ。試験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、
違った方向に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行
こうよ、オレたちは。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。
……とたん、少しおおげさな言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。
気づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。
それまでの二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中
学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていな
いだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。
あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返
ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あ
なたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。

受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
受験の再現)



過保護

  親が子どもに手をかけすぎるとき   

●「どうして泣かすのですか!」 
 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。
S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。
●親が先生に指導のポイント
 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。
●泣き明かした母親
 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。
●「先生、こわい!」
 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今でも、そうだ。そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。
●自分勝手でわがまま
 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が遅れる。
 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。
●「心配」が過保護の原因
 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動面で過保護にするケースなどがある。
 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。
 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にしているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されることになる。
●じょうずに手を抜く
 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。
『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。
『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。
 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにならない。これは子どもを育てるときの常識である。


過剰行動

砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。
原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考え、砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処する。
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。


考える子ども

思考と情報

●思考
 人間の脳が、ほかの動物と、大きく違うところは、「連合野」と呼ばれる部分が、広いこと。この連合野は「思考作用の座」と考えられ、「新・新皮質」と呼ぶこともある。

 この連合野は、@前頭連合野、A側頭連合野、B頭頂連合野の三つに分けられる。これらの連合野でいちばんよく知られているのが、言語機能。この連合野のある部分が、何らかの原因でキズつけられると、「他人の言う言葉は理解できても、自分ではしゃべれなくなります」(新井康允氏)という。この言語中枢は、「大部分の人は左半球にあり、とくに右利きの人では、九〇〜九六%が、左半球にあります」(同)という。

 この言語中枢の働きからもわかるように、連合野の働きは、「入ってきた生の情報を、理化し、解釈し、判断し、ばあいによっては、行動に移す働きをもち、運動野や感覚野より、次元の高い働きをもっていると考えられています」(同)と。たとえば前頭連合野は、大脳皮質の約二五%をしめ、「この部分が損傷を受けると、移り気になり、責任感も薄く、野心もなくなり、節度に欠け、人格が以前とまったく変わってしまうこともあります」(同)と。そしてその結果、「複雑な行動が時間を追って、順序よく組み合わせて行うことができなくなります」という。新井康允氏はこうした働きを総合して、「いうなれば前頭葉は行動のプログラマー」と結論づけている(「脳のしくみ」、日本実業出版社)。

●記憶
 一方、情報の蓄積は、「記憶」と呼ばれ、その記憶は、記憶の内容により、@認知記憶(一度読んだことがある本の内容を覚えている)と、A手続記憶(パソコンのキーボードを、あまり考えずにたたくことができる)、さらに、記憶している時間から、B短期記憶(短い時間、記憶している)と、C長期記憶(古い過去のことを記憶している)に分けられる。

 これらの記憶は、脳の機能の分野でも、先の思考をつかさどる「大脳連合野」とは、まったく別の部分で、蓄積される。新井康允氏は、アメリカであった例をあげて、こう説明している。「側頭葉内側部を海馬を含めて両側を削除された患者がいました。しかしこの手術の結果、その人は、日常生活でのできごとがまったく記憶に残らず、起こるそばから忘れてしまいました。ただ昔の記憶は残っていて、話すことはできます。そのため現在では、このような手術は行われていません」(同書)と。

 わかりやすく言えば、B短期記憶は、海馬でなされるということ。もし海馬が破壊されると、短期の認知記憶ができなくなるということ。それにひきかえ、手続記憶は、体の運動能力とも関連し、「海馬とは無関係でなされ、小脳を中心とした神経回路でなされる」(同)ということらしい。となると、問題は、「では、短期の認知記憶はどこに蓄えられるか」ということ。

 これについては、「大脳連合野に蓄えられると考えられていますが、大脳連合野といっても、非常に広く、さらなる研究が必要です。おそらく認知のタイプによって、異なった場所が関与しているのでしょう」(同書)とのこと。

●思考の深さ
 脳の分野でも、思考と記憶は、まったく別の分野でなされるということ。さらにその思考は、大脳皮質でなされるものの、成長とともに、厚くなることが知られている。しかしここで注意しなければならないことは、人間の神経細胞は生まれたときから、約一〇〇万個でそれ以後、ふえることはないということ。その神経細胞がふえないのに、大脳皮質が厚くなるのは、個々の神経細胞が大きくなり、それにともなう「シナプス(配線)」が、より成長し複雑になることによる。たとえば一個の神経細胞には、それぞれ、約一〇万個のシナプスがある。そこで一〇〇万掛ける、一〇万で、約一〇の一五乗のシナプスがあることになる。つまり一〇〇〇兆個のシナプスがあることになる。この数は、DNAの遺伝子情報の、一〇の九乗〜一〇乗よりも多いことになる。実は、ここに思考の深遠さがある。つまり人間の思考は、わかりやすく言えば、DNAの遺伝子情報の外にあるということ。さらにわかりやすく言えば、この「自由度」が、人間の思考のハバと深さを決めるということになる。

●思考と情報 
 思考と情報が質的にまったく異質のものである。田丸謙二氏は、有機ゴム開発の例をあげて、つぎのように説明している。

「以前に大阪大学の有機化学のK先生が話しておられた。昔から天然ゴムを人工的に作ろうとしてどれだけの一流の有機化学者たちが時間と労力とを費やして努力をしてきたかわからないと言う。(ことに第一次世界大戦の頃マレイシアからの天然ゴムが、イギリス海軍の海上封鎖によりドイツに輸入できなくなり、車のタイヤなどのゴム製品にこと欠いて大変な努力を傾けたが成功しなかったそうである。) 
しかし、その後第二次大戦中にデュポンで合成ゴムの製造に成功したのであるが、それを知って、大学院生にやらせてみたら、三か月で立派にできてきたという。
最初の物を作り出すのには膨大の努力を長年かけてきたものでも、一旦知ってしまえば、それとは全く比較にならない少ない努力で大学院生でも簡単に作れるのである」

 私たちは思考と情報、つまり「もの知り」(田丸謙二氏)を、同列において、それを混同する傾向が強い。とくにこの日本では、「『学問をする』ことをマナブというし、マネブともいう。真似(まね)をすることが学問の本質とされてきたわけである」と。そして知識偏重型の教育システムが生まれた。田丸謙二は、さらにつぎのように述べている。

 「わが国での教育はおのずから知識偏重の傾向が生まれ、全体を支配してきたのであリ、その傾向は現実に現在も強く支配的に残っている。学問をすることは知識を取り入れることであって、自分の頭で考えだすことではないと決めてかかっていた部分が少なくなかった。それは正に何千年来の歴史から来る所産なのである。「物知り」が珍重され、「学力」と言うとどれだけの知識があるか、が問われるのである。したがって、学校の入学試験もそのように仕組まれ、その結果として自分で考える能力よりも暗記の強い人が、成功者として、出世をする仕組みになっていて、その意味での学閥もおのずからできあがってくる。 教育界の指導者たちも、現場の教師たちも、おのずから自分たちの持ちあわせている「学力」をつけさせることが教育であると無意識的に考え、学校での勉強もおのずから『解ったか、覚えておけ』の一方的な教え込み方式になるのである」 

 少し話が脱線したが、思考(考える力)と情報(知識の量)は、まったく異質のものであり、それゆえに、思考力のあるなしと、情報量(記憶)の多い少ないは、まったく異質のものである。言いかえると、情報量が多いからといって、頭がよい(思考力がある)ということにはならない。反対に情報量が少ないからといって、頭が悪いということにもならない。私たちが子どもの教育を考えるとき、まずもって、思考と情報を分けて考えなければならない理由は、ここにある。

参考……田丸謙二氏(二〇〇一年度、日本学士院賞受賞者)「文明の後進国であった日本のこれから」
新井康允氏(人間総合科学大学教授)「脳のしくみ」(日本実業出版社)
(02−9−30)※

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思考と知識を区別せよ(中日新聞に発表済み)

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの
 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)
●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年、田丸謙二氏指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

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考えることが好きな子ども、きらいな子ども

 その子どもが考えることが好きな子どもかどうかは、小学一年のころには、すでにはっきりとする。この時期、考えることが好きな子どもは、好き。考えることの楽しさを知っている。そうでない子どもは、そうでない。表面的な様子にだまされてはいけない。たとえばペラペラとよくしゃべるから頭がよいとか、反応がはやいから、頭がよいということにはならない。

 私は今日小学二年生で、こんな実験をしてみた。つぎのような数列を見せ、□の中には、どんな数字が入るかという問題である。

問、□の中には、どんな数(かず)が入るか。
    1、2、4、7、11、□

 この問題は、小学二年生には無理。それはわかっているが、私は子どもたちの反応をみたかった。そこでしばらく様子をみると、何とか考えようとする子どもが、一〇人中、四人。考えているフリはするが、深く考えようとしない子どもが、三人前後。残りの三人は、あれこれ思いついた数字を口にするだけで、ほとんど考えようとしない。「5かな、7かな……?」と勝手なことを言っているだけ。一人の子どもは、「これ、足し算? それとも引き算?」と聞いた。

 たいていの親は、ペラペラと調子よくしゃべる子どもを、頭のよい子と誤解する。しかしこのタイプの子どもは、脳に飛来する情報を、適当に言葉にしてしゃべっているだけ。もっと言えば、頭の中はカラッポ。よい例が、夜のバラエティ番組に出てくるお笑いタレントたち。一見反応がすばやく、頭がよいように見えるが、その実、何も考えていない。たまに気のきいたことを言うが、それとて、どこかで仕入れた情報の受け売りにすぎない。

 考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのためほとんどの人は、考えることを無意識のうちにも避けようとする。よい例が、数学の証明問題である。もし今、あなたが数学の証明問題を解けと言われたら、あなたはどうするだろうか。あれこれ理由をつけて、その問題から逃げるに違いない。あるいは近くに答があるなら、それを写して、それですますかもしれない。

 当然のことながら、考える子どもとそうでない子どもは、やがて大きな差となって表れる。この時期に分かれる。考える子どもは、思考することの楽しさを覚え、自ら脳を鍛えるようになる。そうでない子どもは、そうでない。そしてこの違いが、一年たち、二年たち、さらに一〇年もつづくと、大きな差となる。考える子どもは、あらゆる方向に触覚を延ばし、そしてあらゆる場面で考える。そうでない子どもは、そうでない。どちらがよいかということは、もう明白。聞くだけヤボ。子どもは、そのはじめの分かれ道に入る前に、考える子どもにする。その方向づけをする。つまりそれが幼児教育ということになる。では、どうするか。

(パズルの応用)
 特別の理由がないかぎり、子どもというのは、考えることが好きとみる。それはちょうど、広い庭を見ると、思わず走りたくなるという、あの衝動に似ている。そういう意味では、子どもは知的な刺激に飢えている。そこでひとつの方法として、私は知的パズルを与えることを提案する。私も勉強が嫌いという子どもに対しては、パズルを積極的に与えることによって、まず「考えることを好きにさせる」という指導をする。少し回り道になるかもしれないが、長い目で見て、そのほうが効果的である。たとえばアメリカの小学校では、国語(米語)の授業でも、パズルから子どもを導入する。「この中で、Aで始まる動物はどれ?」「Eで終わる動物はどれ?」(小学一年生)と。こうしたパズル的な教え方が、アメリカの小学校の教育の基本にもなっている。「教え育てる」が基本になっている日本の教育と、「種をまいて引き出す(エデュース)」が基本になっている欧米の教育の違いと言ってもよい。アメリカの教育法がよいばかりではないが、ひとつの参考にはなる。
(02−10−7)

【追記】
 子どもの考える力は、親の影響が大きい。子どもは、親の考える様子を見ながら、自分の中に考えるという習慣を養う。が、それだけでは足りない。子どもを考える子どもにするには、それなりの指導が必要である。子どもに向かっては、いつも、「どう思う?」「どうしたらいいの?」「どうして?」と問いかけながら、一緒に考えるようにするとよい。しかもこうした考える力は、長い時間をかけて熟成されるもので、根気と努力が必要である。子どものばあい、考えの深い子どもは、何かテーマを与えたりすると、目つきがそのつど静かに沈むので、わかる。
 
 このところ、世間では右脳教育なるものが、もてはやされ、どこかカルト化しているような感じがする。が、論理や分析をつかさどるのは左脳である。ペラペラと軽いことを言い、頭の中にひらめたまま、奇想天外なことを言うから、頭がよいということにはならない。この種の教育法には、じゅうぶん注意してほしい。

 そこでおとなの問題。これはあるアメリカで発行された、大人用の「知能テスト」の問題集に載っている問題である。一度、童心に返って(?)、考えてみてほしい。

 4・5・7・11・19・□




がんこな子ども

 「がんこな子ども」というときは、ふつう、つぎの二つのタイプを考える。@自分のカラにこもり、かたくなな態度や様子を示す。ある男の子(年長児)は、幼稚園で、いつも同じ席でないと座ろうとしなかった。また別の男の子(年長児)は、毎朝、いつも同じズボンでないと、幼稚園へ行かなかった。ほかに二年間、毎朝迎えにきてくれる幼稚園の先生に、一度もあいさつをしなかった子どももいた。

 もうひとつは、A「自分が絶対正しい」と、かたくなになることをいう。このタイプの子どもは、その返す刀で、「相手は絶対にまちがっている」と主張する。そして結果として、自分の思いどおりにならないと気がすまない。あるいは自分の思いどおりにしてしまう。教える側からみると、ともに何を考えているかわからないタイプの子どもということになる。ふつう心と表情が遊離するため、柔和な表情や、穏やかそうな顔つきになることが多い。

 こうした「がんこさ」は、子どもにとっては好ましくない。子どもの心に何か変調が起きると、子どもはがんこになる。で、その対照的な位置にある子どもが、「すなおな子ども」ということになる。心と表情が一致している子ども、心のゆがみのない子どもを、すなおな子どもという。うれしいときは心底、うれしそうな表情をする。悲しいときは、心底悲しそうな表情をする。親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の奥にしみこんでいくのがわかる。なおここでいう「心にゆがみのある子ども」というのは、ひねくれたり、つっぱったり、いじけたりしやすい子どもをいう。
 
 子どもにこうしたがんこな様子が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭環境、とくに親子関係を反省する。もちろん生来の問題もあるが、コツは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。私はこのタイプの子どもを預かったときには、とにかく大声で笑わせることだけを考えて指導する。実際、その「大声で笑う」という行為には、不思議な力がある。もしあなたの子どもが、ここでいうような「がんこさ」を見せたら、どんな方法でもよいから、大声で笑わせることに心がけたらよい。大声で声を出させるのもよい。


緩慢行動

子どもの緩慢行動

 子どもには子どもらしい、自然な動きというものがある。どこかどうというわけではないが、その自然さが消えたら、何か心の変調を疑ってみる。その一つが、緩慢行動。
 抑圧された精神状態が、日常的につづくと、子どもは独特の症状を示すようになる。たとえば緩慢行動。緩慢動作ともいう。動作そのものが鈍くなり、機敏な行動ができなくなる。全体にノソノソ、あるいはノロノロとした動きになる。たとえばB君が忘れものをしたとする。そのとき先生が、A君に向かって、「これ、B君にもっていってあげて!」と言ったとする。ふつうなら(「ふつう」という言い方は適切ではないが……)、子どもはパッと腰をあげ、B君のあとを追いかけたりする。しかしこのタイプの子どもは、それができない。明らかにワンテンポ遅れた様子で、ノソノソと立ちあがったりする。そこで先生のほうが、またA君に向かって、「急いで!」と号令をかけるのだが、その号令にも反応しない。よく観察すると、体の動きそのものが、子どもの意思とは無関係に動いているのがわかる。
 こうした症状が見られたら、家庭教育のあり方をかなり反省する。威圧的な過関心や過干渉など。ほかに@顔から生彩が消え、A子どもらしいハツラツさが消え、Bため息、無気力症状など、気うつ症的な症状をともなうことが多い。緩慢行動を、神経症の一つにあげる学者も多い。
 こうしたケースで、指導がむずかしいのは、子どもというより、親にその自覚がないこと。たいていの親は、「生まれつき」という言葉を使う。そして動作が緩慢なのは、子ども自身の問題であるとして、子どもを叱ったりする。しかし叱れば叱るほど逆効果。子どもの動作はますます緩慢になる。また原因は、家庭環境全体にあるので、その家庭環境全体を改めなければならない。しかし実際問題として、それは不可能に近い。子どもをなおすより、親をなおすほうが、ずっとむずかしい。




かん黙児(緘黙児)

悪循環から抜け出る法(身勝手を捨てろ!)
教師が子育ての宿命を感ずるとき
●かん黙児の子ども
 かん黙児の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。その無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。指導といっても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神経をつかう。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。が、その年の年末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたことは、「いかにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談してきた。「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心理療法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってしまいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者が二人では、私の頭が混乱します」と。
●経過は一年単位でみる
 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽かったことに気づく。あとはその繰り返し。私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝ってはいけません。子どもと視線を合わせてもいけません」と言った。が、親には一か月でも長い。一週間でも長い。そういう気持ちはわかるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、どうだったか」と。一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわからない。最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってしまう。初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれば、「障害」という言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えていた。
●「そんな冷たいこと言わないでください!」
 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どもがかん黙児とわかった。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだわっている。もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってください」と言うと、母親は突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 私を突き放すようなことを言わないでください!」と。
●親は自分で失敗して気づく
 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいていの親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化させる。それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態になっている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だが、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

(参考)
●かん黙児
 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二〇人に一人以上は経験する。
 ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子どもや、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。
 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもはかん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっかけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。
 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。
かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりすると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいがヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どうしてハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子どもの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。



気うつ症の子ども

 もうあれから三年になるだろうか。夏休みの間だけ、預かってほしいと頼まれたので、私はその子ども(中二男子)を、一か月だけ教えた。そのときの記録が、ファイルの中から出てきた。

A君の症状

●子どもらしいハツラツとしたハキがない。何かを問いかければ、ニンマリと笑ってそれに答えるが、どこか痛々しい。
●「何が心配だ」と聞くと、「テスト」と答える。頭の中は、テストのことばかりといったふう。「がんばって、それでだめなら、いいじゃない」と言うと、「夏休みあけのテストで悪かったら、ガックリすると思う。そういう自分がこわい」と。
●「どんな夢を見るの?」と聞くと、「ときどき、こわい夢」と。そこで「どんな内容かな?」と聞くと、「内容は覚えていない。でも、こわい夢」と。何度問いただしても、「こわい夢」というだけで、内容はわからなかった。
●「家では、だれがこわい人から?」と聞くと、「お父さん」と。「どうして?」と聞くと、「テストの点が悪いと、しかられる」と。
●「今、一番、何をしたいのかな?」と聞くと、「写真を撮りたい」と。彼の趣味は、カメラをいじることだった。写真を撮るというよりも、毎日、自分のカメラをみがいていた。カメラは、一五台くらいもっているとのこと。
●学習は、すべて受け身。私が「〜〜しよう」と声をかけないと、そのままじっと座っているだけといったふう。無気力。「最近、大声で笑ったことがあるか?」と聞くと、「あまりない」と。
●「睡眠はどうかな?」と聞くと、「ときどき、朝の三時か四時ごろまで眠られないことがある」「朝早く、目が覚めてしまうことがある」と。
●「家の中で、一番、気が休まるところはどこかな?」と聞くと、「ふとんの中……」と。「お母さんはこわくないの?」と聞くと、「お母さんもお父さんの仕事を手伝っているから、家にいない」と。
●「食事はどう?」と聞くと、「このところあまり食べない」と。しかしA君は、ポッテリと太った肥満型タイプ。水泳部に属しているということだが、筋肉のしまりがない。「結構、太っているんじゃないの? 何を食べているの?」と聞くと、「あまり食べていない」と。この年齢の子どもは、もう少し身なりに神経をつかうものだが、髪の毛はボサボサ。無精ひげはのび放題のびていた。強い口臭もあった。

A君の症状で一番気になったのは、ここにも書いたように、ハツラツさがなく、どこかもの思いげに、暗く沈んでいたこと。ため息ばかりついて、私が指示しなければ、何も自分ではしようとしなかったこと。一度は、本人が何かをするまで待っていたことがあるが、ほぼ三〇分間、何もしないでボーッと座ったままだった。

 こういうケースでも、私はドクターではないから、「診断」するということはできない。夏休みが終わる少し前、迎えに来た母親に、「負担を軽くしてあげたほうがいいのでは……」と言うと、母親は笑いながら、「今が、(受験勉強では)一番、大切な時期ですから、あの子にはがんばってもらわないと」と言った。

 結局、子育てというのは、行き着くところまで行かないと、親は気づかない。たいていの親は、「うちの子に限って」「まさか……」「うちはだいじょうぶ」と思って、その場、その場で無理をしてしまう。この無理が、子どもをやがて、奈落の底にたたき落としてしまう。私は別れるとき、「この子は、もう勉強についてはあきらめたほうがよい。またそうすることがその子どものために最善」と思った。思ったが、結局は言えなかった。

 ……それから三年。久しぶりにその子どものうわさを聞いた。今は、私立高校(このあたりでも、公立高校よりもランクが下と言われるD高校)に通っているということだそうだ。「元気かな?」と聞くと、彼をよく知っている高校生はこう言った。「うん、あいつは元気だよ」と。私はほっとすると同時に、「そんなはずはない」と思った。何か大きな問題をかかえているはず。しかしそれ以上は、聞かなかった。かえってこの時期、不登校でも起こしてくれたほうが、あとあとの症状は軽くすむ。問題を先送りにすればするほど、症状は重くなり、なおすのに長期化する。今、青年期に、精神的な問題を起こす子どもが、ものすごくふえている。「ものすごく」としか書きようがないが、あなたの周辺にも、一人や二人は必ずいるはず。私はそれを心配した。

(子どもの気うつ症)

●親の過負担、神経質な過関心、威圧的な過干渉、価値観の押しつけ、権威主義が、慢性的につづくのが原因として起こる。
●気うつ症に先立って、神経症を起こすことが知られている。チック、吃音(どもり)、夜尿、頻尿など。腹痛、頭痛もよく知られた症状である。
●症状としては、ノイローゼ、うつ病に準じて考えられている。

@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、
C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。
さらにその状態が進むと、
Dぼんやりとして事故を起こす(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
G同じようにささいなことで激怒したり、ぐすったりする(感情障害)、
H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。

要はその前兆をいかにとらえるかだが、これがむずかしい。多分、あなたも、「うちの子はだいじょうぶ」「私はだいじょうぶ」と思っている。親というのは、そういうもので、自分で失敗し、行きつくところまで行かないと、わからない。自分では気がつかない。これは子育てが本来的にもつ、宿命のようなものと考えてよい。
(03−1−25)※


気負い

親の気負い、子の気負い

●子の気負い
 「親だから……」と気負うのを、親の気負いという。それはよく知られているが、「子だから……」という気負いもある。これを子の気負いという。

●相互依存性 
 こうした気負いは、相互的なもの。決して、一方的なものではない。親としての気負いの強い人ほど、一方で、子としての気負いが強い。「よい親であろう」と思う反面、「よい子どもであろう」とする。だからどちらを向いても、疲れる。

 こうした気負いの背景にあるのが、依存性。もう少しわかりやすい言葉でいうと、「甘え」。親に対しては、しっかりと親離れできていない。一方、子どもに対しては、しっかりと子離れできていない。結果として、どこかベタベタの人間関係になる。

 このベタベタの人間関係が、祖父母→親→自分→子へと、脈々とつながっている。だからふつう、その中にいる人は、それに気づかない。それがその人にとっては、ふつうの人間関係であり、またたいていのばあい、それが「あるべき人間関係」と考える。

●ある男性のケース
 長野県に住む、ある男性は、今、家族の問題で悩んでいる。両親に生活力がないことが大きな問題だった。とくにその男性の父親は、何かにつけて、彼ににグチをいう。「今の若いものは先祖を粗末にする」「親に対して、口答えする」「嫁が、仕事を手伝ってくれない」と。

 こうした父親の不平、不満を聞きながら、その男性は、ますます悶々と悩む。「両親たちは、長い間、リンゴ農園をして、苦労をしました」「畑でいっしょに仕事をしている風景を見ると、皆さん、いい夫婦ですねと言います」と。

 しかしそういうグチを、父親がその男性という子どもにぶつけること自体、おかしい。仮にぶつけたとしても、子どもが悩むところまで、子どもを追いこんではいけない。その男性は、たいへん生真面目(きまじめ)な人なのだろう。そういう父親のグチを聞きながら、適当にそれを聞き流すということができない。

●未熟な人間性
 依存型家庭につかっていると、依存性が強い分だけ、代々、子どもは精神的に自立できなくなる。自立できないまま、それがひとつの「生活」として定着してしまう。

 たとえば日本には「かわいい」という言葉がある。「かわいい子ども」「子どもをかわいがる」というような使い方をする。

 しかし日本語で「かわいい子ども」と言うときは、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子どもという。自立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、かわいい子どもとは、あまり言わない。

 また「子どもをかわいがる」というのは、子どもに楽をさせること。子どもによい思いをさせることをいう。

 こういう子ども観を前提に、親は子どもを育てる。そしてその結果として、子どもは自立できない、つまりは、人間的に未熟なまま、おとなになっていく。

●親の支配
 依存型家庭では、子どもが親に依存する一方、親は、子どもに依存する。その依存性も、相互的なもの。自分自身の依存性が強いため、同時に子どもが自分に依存性をもつことに甘くなる。その相互作用が、たがいの依存性を高める。

 しかし親が、子どもに依存するわけにはいかない。そこで親は、その依存性をカモフラージュしようとする。つまり子どもに依存したいという思いを、別の「形」に変える。方法としては、@命令、A同情、B権威、C脅迫、D服従がある。

@命令……支配意欲が強く、親のほうが優位な立場にいるときは、子どもに命令をしながら、親は子どもに依存する。「あんたは、この家の跡取りなんだから、しっかり勉強しなさい!」と言うのが、それ。
A同情……支配意欲が強く、親のほうが劣位な立場にいるときは、、子どもに同情させながら、結果的に、子どもに依存する。「お母さんも、歳をとったからね……」と弱々しい言い方で言うのが、それ。
B権威……封建的な親の権威をふりかざし、問答無用に、子どもを屈服させる。そして「親は絶対」という意識を子どもに植えつけることで、子どもに依存する。「親に向かって、何てこと言うの!」と、子どもを罵倒(ばとう)するのが、それ。
C脅迫……脅迫するためによく使われるのが、宗教。「親にさからうものは、地獄へ落ちる」「親不孝者は、不幸になる」などという。「あんたが不幸になるのを、墓場で笑ってやる」と言った母親すら、いた。
D服従……子どもに隷属することで、子どもに依存する。親側が明らかに劣位な立場にたち、それが長期化すると、親でも、子どもに服従的になる。「老いては子に従えと言いますから……」と、ヘラヘラと笑って子どもに従うのが、それ。

●親であるという幻想
 人間の自己意識は、三〇歳くらいまでに完成すると言われている。言いかえると、少し乱暴な言い方になるが、三〇歳をすぎると、人間としての進歩は、そこで停滞すると考えてよい。そうでない人も多いが、たいていの人は、その年齢あたりで、ループ状態に入る。それまでの過去を、繰りかえすようになる。

 たとえば三〇歳の母親と、五歳の子どもの「差」は、歴然としてあるが、六〇歳の母親と、三五歳の子どもの「差」は、ほとんどない。しかし親も子どもも、それに気づかない。この段階で、「親だから……」という幻想にしがみつく。

 つまり親は、「親だから……」という幻想にしがみつき、いつも子どもを「下」に見ようとする。一方、子どもは子どもで、「親だから……」という幻想にしがみつき、親を必要以上に美化したり、絶対化しようとする。

 しかし親も、子どもも、三〇歳をすぎたら、その「差」は、ほとんどないとみてよい。中には、努力によって、それ以後、さらに高い境地に達する親もいる。しかし反対に、かなり早い時期に、親よりはるかに高い境地に達する子どももいる。

 そういうことはあるが、親意識の強い親、あるいはそういう親に育てられた子どもほど、この幻想をいだきやすい。この幻想にしばられればしばられるほど、「一人の人間としての親」、「一人の人間としての子ども」として、相手をみることができなくなる。

●先の男性のケース
 先の男性のケースの背景にあるのは、結局は、親離れできない彼自身といってもよい。その男性は、実家の両親の問題に悩みながら、結局は、その実家にしがみついている。そういう彼にしたのは、彼の両親、さらには彼の祖父母ということになる。つまり大きな流れの中で、その男性は、その男性になった。

 なぜ、その男性は、「両親の問題は、両親の問題」と、割り切ることができないのか? 一方、その男性の両親は、「私たちの問題は、私たちの問題」と、割り切ることができないのか? その男性は、両親の問題を分担することで、結局は両親に依存している。一方、彼の両親は、自分の問題を息子の彼に話すことで、彼に依存している。

 本来なら、その男性は、両親の問題にまで、首をつっこむべきではない。一方、親は、自分たちの問題で、息子を悩ませてはいけない。どこかで一線を引かないと、それこそ、人間関係が、ドロドロになってしまう。

●批判
 こうした私の意見に対して、「林の意見は、ドライすぎる」と批判する人がいる。「親子というのは、そういうものではない」と。

少し話はそれるが、ここまで書いて、こんな問題を思い出した。親は子どものプライバシーの、どこまで介入してよいかという問題である。ある母親は、「子どものカバンの中まで調べてよい」と言った。別の母親は、「たとえ自分の子どもでも、子ども部屋には勝手に入ってはいけない」と言った。どちらが正しいかということについては、また別の機会に考えるとして、私が言っていることは、本当にドライなのか? このことは、反対の立場で考えてみればわかる。

 あなたは、いつかあなたの子どもが、あなたの問題で、今のS氏のように悩んだとする。そのときあなたは、それでよいと思うだろうか。それとも、それではいけないと思うだろうか。S氏は、メールで、こう書いてきた。

 「息子(中学一年)には、今の私のように、私の問題では悩んでほしくありません」と。

 私は、それが親としての、当然の気持ちではないかと思う。またそういう気持ちを、ドライとは、決して言わない。

●カルト抜き
 こうした生きザマの問題は、思想の根幹部分にまで、深く根をおろしている。ここでいう依存性にしても、その人自身の生きザマと、密接にからんでいる。だからそれを改めるのは容易ではない。それから抜け出るのは、さらに容易ではない。

 しかも親子であるにせよ、そういう人間関係が、生活のパターンとして、定着している。生きザマを変えるということは、そういう生活のあらゆる部分に影響がおよんでくる。

 これは一例だが、Y氏(五〇歳男性)は、子どものころ、母親に溺愛された。それは異常な溺愛だったという。そこでY氏は、典型的なマザコンになってしまったが、それに気づき、自分の中のマザコン性を自分の体質から消すのに、一〇年以上もかかったという。

 親子関係というのは、そういうもの。それを改めるにしても、口で言うほど、簡単なことではない。それはいわばカルト教の信者から、カルトを抜くような苦痛と努力、それに忍耐が必要である。時間もかかる。

●因縁を断つ
 そんなわけで、私たちが親としてせいぜいできるここといえば、そうした「カルト」を、子どもの代には伝えないということ程度でしかない。少し古臭い言い方になるが、昔の人は、それを「因縁を断つ」と言った。

 その男性についていえば、仮に彼がそうであっても、同じ苦痛や悩みを、子どもに伝えてはいけない。つまり彼自身は、親離れできない親、子離れできない子どもであったとしても、子どもは、親離れさせ、ついでその子どもが親になったときには、子離れできる子どもにしなければならない。

 しかしこと、彼の子どもについて言えば、ここに書いたような問題があることに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみてよい。このあと、多少、時間はかかるが、それで問題は解決する。

 私はその男性に、こうメールを書いた。

 「勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみたらいかがでしょうか。つらいかもしれませんが、これはつぎの代で、あなたの子どもに同じような悩みや苦しみを与えないためです」と。
(030306)※


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親の気負い、子どもの気負い(2)
 
不幸にして不幸に育った人ほど、「いい親でなければならない」「いい家庭をつくらねばならない」という気負いが強い。その気負いが親子関係をぎくしゃくさせる。そして結果として、よい家庭づくりに失敗しやすい。
 親ばかりではない。子ども自身が、「いい子でいなければならない」という気負いをもつことがある。たいていはこうした気負いはプラスに作用するが、しかしその気負いが強すぎると、子ども自身が疲れてしまう。疲れるならまだしも、あるとき突然、プッツンということにもなりかねない。これがこわい。
 子どもにかぎらず、人は、無意識のうちにも、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとする。もっとも手っ取り早い方法は、「いい人ぶること」。弱者のフリをする。庶民の味方のフリをする。善人のフリをする。遠慮深く、控え目な人間のフリをする。正義や道徳をことさらおおげさに説き、返す刀で悪人を批判しながら、自分はよい人間であるということを強調する。
 実のところこうした「フリ」は、ものを書く人間が一番おちいりやすいワナでもある。そういう自分をよく知っているから、私は他人の、そうしたフリを見抜くことができる。だれとはここに書けないが、そのタイプの人はいくらでもいる。いやいや、私自身がそうかもしれない。私はいつもこうして偉そうな(?)文章を書いているが、本当の私を知ったら、皆さんは驚くかもしれない。情緒は不安定だし、精神力も弱い。私はひょっとしたら、懸命に教育者のフリをして生きているだけかもしれない。しかしこういう自分は長くはつづかない。やがてボロが出る。私が今、一番恐れているのは、そういうボロが、いつ、どのような形で出てくるか、だ。
 話は脱線したが、子どもを見るときは、そのフリを見抜かねばならない。「この子どもは、本当の自分の姿をさらけ出しているか。それとも自分をごまかしているか」と。本当の自分をさらけ出しているなら、それでよし。そうでなければ、心の開放をまず第一に考えて指導する。もっとも効果的な方法は、大声で笑わせること。大声で笑うと、同時に、心が開放される。そして互いに心を開くことができる。気負いがとれる。
 結論を言えば、「気負い」などというのは、できるだけないほうがよい。とくに家族の中では、ないほうがよい。家族はあるがまま。たがいにあるがままをさらけ出し、あるがままを受け入れる。気負うことはない。その気楽さが、家族の風通しをよくする。「親だからとか、子どもだから」という「だから」論。「親だから〜〜のはず、子どもだから〜〜のはず」という「はず」論。「親は〜〜すべき、子どもは〜〜すべき」という、「べき」論は、それがあればあるほど、結局は、親子関係をぎくしゃくさせる。
 そこで私のこと。私もこうしてものを書いているが、気負うのはもうやめる。気負えば気負うほど、疲れる。これからは、さらに(?)、あるがままの自分を書くことにする。それでだめなら、それはそれでしかたのないことだ。


帰宅拒否

 不登校ばかりが話題になるが、それと同じくらい問題なのが、帰宅拒否。今、園でも学校でも、家に帰りたがらない子どもがふえている。もっとも子どものばあい、「帰りたくない」とは言わない。態度や行動で、それを示す。そこでもしあなたの子どもが、毎日家に帰ってくるのが、不自然に遅いとか、回り道をしてくるとか、あるいはいつも友だちの家に寄ってくるというのであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。こんな子ども(年長男児)がいた。
 帰りのバスの時刻になると、決まってどこかへ隠れてしまうのだ。炊事室の中や、園舎の裏など。で、そのたびに幼稚園中が大騒ぎ。やがて先生が手を焼き、親に迎えにきてほしいという手紙を出したが、このケースで、まず疑ってみるべきは、帰宅拒否である。「家に帰りたくない」という思いが、子どもをしてこうした行動をとらせるようになる。
 もちろん原因は、家庭にある。家そのものが狭いとか窮屈ということもあるが、子どもの側からみて、息が抜けない、気が休まらないなど。それをまず疑ってみる。親の神経質な過干渉、過関心が原因となることも多い。ほかに家庭騒動、不和、崩壊などもある。家庭が家庭として機能していないとみる。
 そこでテスト。あなたの子どもは、園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただいま!」と、意気揚々と帰ってくるだろうか。もしそうならそれでよい。しかしここに書いたように、様子がへんだと感じたら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。こうした状態が長く続けば続くほど、子どもの心に深刻な影響を与える。最悪のばあいには、外泊、家出、さらには集団非行へと進みかねない。
 前にも書いたが、「家庭(ホーム)」は、子どもにとっては、心をいやし、心を休める場所でなければならない。またそれができてこそ、「家庭」という。そういう家庭を用意するのは、親の義務と考えてよい。


気難しい子

Q:うちの子(年長男児)は、小さいときから気難しく、育てるのがたいへんでした。このところさらにそれが激しくなり、ささいなことにこだわって、ああでもない、こうでもないと文句ばかり言います。ズボンでも、自分の気にいったのでないと、はきません。これから先、どのように対処したらよいでしょうか。(島田市KMより)

A:気難しいということは、それだけでも情緒が、かなり不安定であるとみます。原因は無数にあるのでしょうが、そういう原因の上にさらに原因が重なり、今のような症状になったと考えられます。つまり原因がどうこうということを言っても、意味がありません。

 このタイプの子どもは、それだけ(親も含めて)、人に心を開けない子どもとみます。ためしに気難しくなっていると感じているときに、そっと抱いてみてください。心を開いている子どもは、力を抜いて、体をすりよせてきます。そうでない子どもは、体をこわばらせます。

 ところで子どもの情緒不安は、大きく分けてつぎの三つのケースを考えます。@攻撃型、暴力型、A引きこもり型、ぐずり型、そしてBモノにこだわる固着型、ものごとにこだわる固執型です。KMさんのお子さんは、この中の三つ目のタイプかと思われます。

 で、情緒不安というのは、心の緊張感がとれない状態と考えてください。言いかえると、気難しくなっているときは、子どもの心を開くことだけを考えてください。それには、スキンシップが効果的です。気難しくなっていると感じたとき、少し強引にでもよいですから、子どもを抱いてみてください。少し抵抗するような様子を見せるかもしれませんが、しばらくそのまま抱いてみます。しばらくすると、やがて体の力を抜き、あなたにそのまま身を任すようになります。

 そのとき、

(1)抵抗するような様子を見せるが、すぐうれしそうに身を任す……それほど心配しなくてもよい。日常的に、スキンシップをふやす。

(2)いつまでも体をこわばらせたままで、身を任せない。あるいは抱かれることを、がんこに拒否する。こうした症状が、いつまでもつづく……かなり根気が必要。子どもの心を溶かすことだけを考え、濃密なスキンシップを繰りかえす。威圧的な過干渉、神経質な過関心、強圧的な指導、暴力、暴行などは厳禁。子どもの側からみて、ほっと安心できるような家庭環境と、その温もりを大切にする。親の視線や干渉を極力減らし、子どもがしたいようにさせる。こうした時期を、半年とか一年間つづける。「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考えて対処する。

 子どもが気難しい症状をみせているときは、無理をしないこと。コツは、やりたいようにさせ、一方で、言うべきことは言いながらも、ただひたすら「待つ」という姿勢を大切にします。説教したり、叱っても意味がないばかりか、かえって症状をこじらせてしまうので注意します。

 このとき子どもの側から、愛着行動(親に愛情を求めるような様子やしぐさ)を見せたら、それを拒まず、子どもが満足するまでスキンシップや、温かい話しかけを与えます。親のほうから、ベタベタすればよいというものではありません。

 こうした気難しさは、子どもの自意識が発達してくると、自然になおってきます。子ども自身が自分で自分をコントロールするようになるからです。時期的には小学三、四年生をひとつのめどにします。そのころを境に、急速に症状が収まってくるはずです。そこで大切なことは、それまでに今以上に、症状をこじらせないこと。こじらせると、その分、たちなおるのが遅くなります。

 子どもに何か問題があると、親は子どもをなおそうとします。しかし子どもの症状は、あくまでも結果。(もちろんそうでないケースもありますが……。)とくに心の問題は、親のあり方、家庭環境のあり方、子育てのし方を、まず反省します。


虐待

ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもがいる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。
 J氏という今年五〇歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまっている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言わない。何もできない。その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありながら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年七五歳になる母親のあとばかり追いかけている。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くところによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくともこの二〇年間は、遊んでばかりいる。
 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それについては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものように、「お母ちゃんが怒るから……」と。
 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばるのは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけではない。子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。いや、ケダモノでもそこまではしない。
 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わってくる。


キレる子ども

部屋の中はまるでクモの巣みたい!

砂糖は白い麻薬

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏にな
り、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると
考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された
砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ
白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そ
のインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑
制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったと
きのことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてで
しょう?」と。U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過
剰行動性が強くみられた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみ
る。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それ
で残したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。
そこで計算してみるとU君は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していること
がわかった。かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめ
た。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをく
れ、ビスケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻
薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれ
だった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指
示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のよう
に、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを問いかけ
ても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。
母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」
と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖の
ないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなく
ても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜
一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮
性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて
手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウム
の多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメも
と。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえる
ほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸
食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ
排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。
たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスク
リーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるた
め)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよ
くするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をお
だやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりすると
き、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れ
て対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分
な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなど
ということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂
糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、
それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイ
ライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなど
の原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のよ
うに愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖
の量が多く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白
砂糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の
脳水腫をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神
疲労しやすく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の
発育は不良、機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。
子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)



(実際あった、ケースより)

「私に包丁を投げつけます!」・発作的に暴れる子ども

 ある日の午後。一人の母親がやってきて、青ざめた顔で、こう言った。「娘(年中
児)が、包丁を投げつけます! どうしたらよいでしょうか」と。話を聞くと、どう
やら「ピアノのレッスン」というのが、キーワードになっているようだった。母親が
その言葉を口にしただけで、子どもは激変した。「その直前までは、ふだんと変わり
ないのですが、私が『ピアノのレッスンをしようね』と言ったとたん、別人のように
なって暴れるのです」と。

 典型的なかんしゃく発作による家庭内暴力である。このタイプの子どもは、幼稚園
や保育園などの「外」の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずることが多
い。柔和でおとなしく、静かで、その上、従順だ。しかもたいてい繊細な感覚をもっ
ていて、頭も悪くない。ほとんどの先生は、「ものわかりがよく、すなおなよい子」
という評価をくだす。しかしこの「よい子」というのが、クセ者である。子どもはそ
の「よい子」を演じながら、その分、大きなストレスを自分の中にため込む。そして
そのストレスが心をゆがめる。つまり表情とは裏腹に、心はいつも緊張状態にあっ
て、それが何らかの形で刺激されたとき、暴発する。ふつうの激怒と違うのは、子ど
も自身の人格が変わってしまったかのようになること。瞬間的にそうなる。表情も、
冷たく、すごみのある顔つきになる。

 ついでながら子どもの、そしておとなの人格というのは、さまざまな経験や体験、
それに苦労を通して完成される。つまり生まれながらにして、人格者というのはいな
いし、いわんや幼児では、さらにいない。もしあなたが、どこかの幼児を見て、「よ
くできた子」という印象を受けたら、それは仮面と思って、まずまちがいない。つま
り表面的な様子には、だまされないこと。

 ふつう情緒の安定している子どもは、外の世界でも、また家の中の世界でも、同じ
ような様子を見せる。言いかえると、もし外の世界と家の中の世界と、子どもが別人
のようであると感じたら、その子どもの情緒には、どこか問題があると思ってよい。
あるいは子どもの情緒は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときを見て、判断
する。運動会のあとでも、いつもと変わりないというのであれば、情緒の安定した子
どもとみる。不安定な子どもはそういうとき、ぐずったり、神経質になったりする。

 なお私はその母親には、こうアドバイスした。「カルシウムやマグネシウム分の多
い食生活にこころがけながら、スキンシップを大切にすること。次に、これ以上、症
状をこじらせないように、家ではおさえつけないこと。暴れたら、『ああ、この子は
外の世界では、がんばっているのだ』と思いなおして、温かく包んであげること。
叱ったり、怒ったりしないで、言うべきことは冷静に言いながらも、その範囲にとど
めること。このタイプの子どもは、スレスレのところまではしますが、しかし一線を
こえて、あなたに危害を加えるようなことはしません。暴れたからといって、あわて
ないこと。ピアノのレッスンについては、もちろん、もう何も言ってはいけません」
と。

【補足】……


虚言、虚言癖

子どものウソをつぶす法(過干渉を避けろ!)
子どもがウソをつくとき
●ウソにもいろいろ
 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。
 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。
 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。
●空想の世界に生きる子ども
 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。
●「お前は自分の生徒を疑うのか!」
 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常識では考えられなかった。そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまかに話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?
 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞いた。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落としたという金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことがたびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、そのつど、どこかつじつまが合わなかった。そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。
ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引きさがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」といくら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。
●空中の楼閣に住まわすな
 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。
●ウソは、静かに問いつめる
 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。
 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのいい子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側から見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。
 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまうことになるから注意する。


恐怖症

こわがる子どもを考える法(恐怖症を軽く考えるな!)
子どもが恐怖症になるとき
●九死に一生
 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じた。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。
 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがある。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふつう、次の三つに分けて考える。
@対人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて行ったような場所でも、わがもの顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(学校恐怖症)などの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会えない、人と話せないなどの症状が表れることもある。
A場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。これはある子ども(小一男児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始めるという。親から相談があったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにある、トンネルらしいということがわかった。その子どもは閉所恐怖症だった。実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができなかった。それと関係があるかどうかは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。
Bそのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわがる、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶって見せただけで、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、一五人に一人はいる(年中児)。ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多い。これも私のことだが、私は三〇歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのためそれ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、いつも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原因になる。また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表れる。高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パターン)ができるためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機恐怖症になり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。
●忘れるのが一番
 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私のときも、その事故から数日間は、車の速度が五〇キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とはわかっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言いきかせることで、克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学
不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者もいる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりやすい。



金銭感覚

子どもの金銭感覚を考える法(ぜいたくをさせるな!)
子どもの金銭感覚が決まるとき
●結婚式のお金がなかった
 一〇万円のお金が残ったとき、私は女房に聞いた。「このお金で香港へ行きたいか。それとも結婚式をしたいか」と。すると女房は、小さな声でこう言った。「香港へ行きたい……」と。当時の私はほとんど毎週のように、台北や香港へ行っていた。マニラやシンガポールまで足をのばすこともあった。いくつかの会社の翻訳や通訳、それに貿易の仕事を手伝っていた。そこでその仕事の一つに、女房を連れて行くことにした。そんなわけで私たちは結婚式をしていない。……と言うより、そのお金がなかった。
●ホテルで七五三の披露宴
 それから二八年あまり。二〇〇〇年のある昼、テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルでする親がいるという。豪華な披露宴に、豪華な食事と引き出物。費用は一人あたり、二万円から三万円だという。見るとまだあどけない子どもが、これまた豪華な衣装を身にまとい、結婚式の新郎新婦よろしく、皆の前であいさつをしていた。私と女房はそれを見ながら、言葉を失った。
 その私たち。何かをやり残した思いで、新婚時代を終えた。若いころ女房はよく、「一度でいいから、花嫁衣裳を着てみたい」とこぼした。そこでちょうど私が三〇歳になったとき、あるいは四〇歳になったとき、披露宴だけはしようという話がもちあがった。しかしそのつど身内の親たちの死と重なって、流れてしまった。さすがに四〇歳も半ばを過ぎ、髪の毛に白髪が混じるようになると、女房も結婚式のことは言わなくなった。
●現実感をなくす子ども
 ぜいたくに慣れれば慣れるほど、子どもは「現実感」をなくす。お金や物は、天から降ってくるものだと思うようになる。子ども自身が将来、おとなになってからも、それだけの生活を維持できればよい。が、そうでなければ、苦労するのは、結局は子ども自身ということになる。いや、親だって苦労する。今では、成人式の費用は、たいてい親が出す。女性の晴れ着のばあい、貸衣装でそろえても、一五万円から二〇万円(浜松市内の貸衣装店主の話)。上限はない。さらに社会人になったときの新居の費用、結婚式の費用すらも、親が負担する。七五三の祝宴ですら、ホテルで豪華に催すご時世である。どうしてそのときになって、「自分の費用は自分で払え」と、子どもに言えるだろうか。が、それだけではすまない。
●ストーブは一日中、つけっぱなし 
 現実感をなくした子どもは、「親の苦労」というものがどういうものか、わからなくなる。感謝もしない。「してもらって当然」と考える。ある母親が大阪で学生生活をしている息子のアパートを訪ねてみたときのこと。それほど裕福な家庭ではない。その母親は息子が大学に入学すると同時に、近くのスーパーでパートの仕事を始めた。母親は驚いた。春先だったというが、電気ストーブは一日中、つけっぱなし。携帯電話の電話料も月に三万円近くもかかっていた。「バイクがほしい」と言ったのでお金を送ったのだが、その息子は、三〇万円もするキンキラキンのアメリカンスタイルのバイクを買っていたという。「中古のソフトバイクなら、三〜四万円でありますよ」と私が言うと、その母親は、「あら、ソ〜ウ!」と驚いていた。
●「私なら出席しないわ」
 人は人それぞれだが、ここから先は、私と女房の会話をそのまま書く。私が七五三の様子を見てあきれていると、女房はこう言った。「何かおかしいわ」と。こうも言った。「私なら、あんな披露宴、招待されても行かないわ」と。私は私でこう言った。「幼児のときから、あんなにぜいたくに育てれば、苦労するのは子どもだ」と。「子どもを大切にするということは、子どもを王様にすることではない。金をかけて、楽をさせることではない。親としてやるべきことが違う」と。しかしこれは、結婚式ができなかった私たち夫婦の、ひがみかもしれない。私と女房はその報道を見ながら、何度もため息をついた。



計算力

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせてほしい。早く数えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることができる。そうでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても遅くなる。
 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよい。最初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン……」になり、さらに「イ、ニ、サ……」となる。さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数えることができるようになる。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個くらいのものを、瞬時に数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎となる。たとえば、「3+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算するなど。
 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うちの子は計算が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習をしてみるとよい。ただし一言。
 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数の力があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難しい足し算や引き算をする子どもがいる。親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではない)、それは少し待ってほしい。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単なことではない。子どもというのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得をした、損をした」という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもをして、算数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も忘れないように!


ゲーム

子どもをゲームから守る法(商魂から子どもを救え!)
子どもがゲームづけになるとき
●ゲームづけの子どもたち 
 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学三年生で、約二五%以上の男児がハマっている(二〇〇〇年一一月、小三児五三名中一三名、浜松市内)。ある日、一人の子ども(小三男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを三枚集めて、融合させる。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が九〇〇〇になる」と。子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、一パック五枚入りで、一五〇円から三三〇円程度で販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。
●ポケモンからマジギャザまで
 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学一、二年になった。そこで当時ハマった子どもたち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中二)いわく、「今はマジギャザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(一五枚で五〇〇円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、五枚で二〇〇円)は、一〇〇〇枚近く集めたそうだ。マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよくわからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通している。
●現実感を喪失する子どもたち
 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからない生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している二〇歳代の女性までいた(NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはいけない。その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがどう違うというのか。ゲームには、そういう危険な面も隠されている。
●思考回路はそのまま
 で、浜松市内の中学一年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、多かれ少なかれハマっているのがわかった。一人が平均約一〇〇〇枚のカードを持っている。中には一万枚も持っている子どももいる。マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバージョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよくて、プレミヤのついたカードは、四万円。印刷ミスのも、四万円の価値がある」と。さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい二〇歳以上のおとなばかりだよ」とも。
 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったということ。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに四万円も払ったりする!
●子どもをダシに金儲け
 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間一〇〇億円から二〇〇億円の市場になっているという(経済誌)。しかしこれはあくまでも表の数字。闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そうしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。

(注)この原稿を書いた二〇〇一年はじめには発売中止になっていたが、二〇〇一年の終わりには再び発売されているとのこと。

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(補足)

「ゲームはやめなさい」

 よくある相談。「うちの子は、毎日、ゲームばかりしている。『勉強しなさい』と言っても、しない。どうしたらいいか」と。

 こういう相談をしながら、親は自分の矛盾に気づいていない。もしこのままの状態で、親子の立場が逆転したら、子どもは親に向かって、こう言うだろう。「うちの子は勉強ばかりしている。『ゲームをしなさい』と言っても、しない。どうしたらいいか」と。

 こういうケースで、一番気になるのは、親が一方的に、子どもの価値観を否定していること。「ゲームはだめ」「ゲームは悪い」と。そういうふうに否定しておきながら、今度は、一方的に、自分の価値観を子どもに押しつけている。「勉強しなさい」と。

 ……こう書くと、「ゲーム」と「勉強」は、同じではない。立場が違うと考える人がいるかもしれない。しかしその判断とて、実は、親の価値判断でしかない。「ゲームは大切なものではない。趣味だ。娯楽だ。遊びだ。しかし勉強は、子どもにとって大切なもの。すべきもの。必要なもの。義務だ」と。

 が、子どもは子ども。おとなの価値観は、おとなにならないとわからない。だから「ゲームは、遊び。勉強は、大切なもの」と言ったところで、子どもにはわからない。実は、ここで親子の意識のズレが生まれる。子どもの立場を、もう少しわかりやすく言えば、こうなる。「ぼくの言うことは何も聞いてくれない。なのに、どうして親の言うことは聞かねばならないのか」と。では、どうするか?

 親は親で、一度、子どもの立場に、自分を置いてみる。子どもがゲームをしていたら、「ゲームはだめ」ではなく、「ママも、いっしょにゲームをしたい」と言ってみる。それはあなたにとっては苦痛なことかもしれないが、しかしやってみる。その苦痛を乗り越えたとき、子どもも、あなたの言うことを聞くようになる。「勉強しようね」「うん」と。

 こうした手法は、私の教室でもよく使う。子どもの心をつかみたかったら、一度、子どもの世界に入ってみる。男の子だったら、マジギャザや遊戯王、デュエルマスターズカード。女の子だったら、浜崎あゆみやプリクラ、マニキュアや香水の話をしてみる。少しは予習してからのほうがよい。

 たとえば「アルカディアス(攻撃力は12500)は強いね。でも、能力で一番強いのは、バロム(攻撃力は12000)だね。バロムが出た瞬間、相手のモンスターはすべて破壊されるよね。だから結局は、バロムが最強かな。パックは、○○(店の名)で売っているよね。パックは一五〇円だったよね」と言ってみる。「必ずキラカード(キラキラ光るカード)が二枚でるのは、勝負パックだね」と言ってみるのもよい。女の子だったら、「あんたも交換ノートしてる?」と。子どもはあなたを、尊敬の目つきで見るようになるだろう。で、一通り、こういう話をしたあと、「じゃあ、今度は、ママの話を聞いてほしい」と言う。子どもたちは催眠術にでもかかったかのように、あなたの話を聞くようになる。

 もうおわかりかと思う。「ゲームは、ダメ。勉強しなさい」では、説得力はない。またそういう言い方をすればするほど、子どもは、あなたに反発するようになる。だから冒頭のような質問をもらったら、その回答は、こうなる。

 「子どもがゲームばかりしていたら、あなたもいっしょに、ゲームをしてみなさい。そしてそれが一段落したら、『今度は、いっしょに勉強してみる?』と声をかけてみる。一方的に、ゲームを否定してはいけない。勉強を押しつけてはいけてはいけない。そんなことをすれば、かえって子どもは、それに反発するようになるだけ。つまりますます勉強をしなくなる」と。



ケチな子ども

 長男や長女など、一番年長の子は、ケチになりやすい。それは下の子が生まれると同時に、生活環境が守勢に回るからと考えてよい。親のほうは「平等にかわいがりました」と言うが、長男や長女にしてみれば、「平等」ということが不満なのだ。それまで一〇〇%あった自分への愛情や関心、さらにはモノやプレゼントが、半分の五〇%に減ったことが不満なのだ。そういう意味で、『愛情は落差の問題』と覚えておくとよい。
 が、ケチだけではない。長男や長女は、「してもらう」ことになれているため、どこへ行っても、またどんな場所でも、「してもらう」のが当然と考える。「当然」というのは、無意識のうちにも、そうであるべきと考える。だから態度がどうしても大きくなる。(本当は大きく見えるだけかもしれない。本人にはその自覚はない。)加えて甘やかされて育っていることが多いから、他人への配慮も少なくなる。昔から『総領の甚六』というが、それはそういったサマをいったもの。
 が、問題はこの先。一度こうした態度が身につくと、その態度は、それこそ死ぬまでつづく。このケチにしても、途中で、それがなおるということは、まず、ない。たとえば兄弟会か何かで集まっても、長男や長女が費用を率先して支払うということは、まず、ない。たいていは下のものに払わせるか、割り勘を主張する。長男や長女は、自分のものが減るとか、取られるということには、敏感に反応する。
 一方、二番目の子どもや、さらに末っ子は、これに対して、モノやお金に執着心がない。そのため、寛大になる。あくまでも比較の問題だが、たいていはどこの家庭でも、それが顕著に表れる。「兄貴はケチだが、弟はキップがよい」と。
 ただしケチと、質素は別。ケチというのは、モノやお金への執着心や依存心をいう。質素というのは、つつましく生きる生きザマそのものをいう。だからケチな人というのは、自分では結構ハデな生活をすることが多い。ブランド品を身につけたり、高級車を乗り回すなど。質素な人は、お金のあるなしにかかわらず、そういったハデさを求めない。
 そうそう、こんなケチな人がいた。ある日、その人の家を訪れてみて驚いた。何と、コンドームが洗って干してあった! 世の中にはいろいろなケチがいるが、コンドームを洗って使う人は少ない。しかも堂々と! 何回か外食に誘ったことがあるが、一度だって、自分で支払ったことはない。いつも「林さん、ごちそうさま」ですんでしまった。で、家の中は、ガラクタだらけ。破れたズボンまで、大切にしまっていた。モノを捨てられない性分らしい。その人も、やはり長男だった。


行為障害

ADHD児について

 ADHD児の原因について、「内部分泌攪乱(かくらん)物質などの化学物質が、子どもの脳が発達する時期である、妊娠期や授乳期に子どもの体の中に入って、危険がもたらされる可能性が高い」(奥田洋一郎・朝日新聞・99年5月)というのが、最近の定説になりつつある。つまりADHD児は、脳そのものがダメージを受けた、精神障害のひとつである、と。

 となると、その症状は、学童期にもっとも顕著にあらわれるものの、「おとなになってからも残る」ということになる。実際、ADHD児といっても、知的障害をともなうケースと、知的障害をともなわないケースがある。また「脳の微細な障害」によって、症状も「多彩である」(以上、福島章「子どもの脳があぶない」PHP)ということらしい。

 が、これはあくまでも精神医学の話。育児の世界では少し違った見方をする。たとえば子どもには、自意識というのがある。「私は私」と自覚する意識である。この自意識が発達してくると、子どもは自分で自分をコントロールするようになる。

 この自意識には、強弱があり、仮に脳の機質障害による行為障害があっても、その自意識を強くすることで、障害といえるものを克服することができる。事実、この自意識が発達してくる小学三、四年生を境として、ADHD児特有の症状は、急速に消滅し、外見的にはわかりにくくなることが多い。子ども自身が、「こういうことをすると、みなに迷惑をかける」「こういうことをすると、先生に叱られる」「こういうことをすると、みんなに嫌われて、損をする」と、コントロールするからである。むしろ問題は、ADHD児であることではなく、それ以前の段階で、無理な指導や、威圧的な指導が、症状を取り返しがつかないほどまでに、こじらせてしまうことである。
 
(教訓)
●妊娠期、授乳期に親が食べるものには注意しよう。
●子どもの自意識を、じょうずに育てよう。

 ついでに子どもの行為障害(CONDUCT DISORDER、略してCD)について、つぎのような診断基準が発表されている(DSM式診断基準)。

 他者の基本的人権の侵害、または年齢相応の重要な社会規範や規制を侵害する行動パターンが見られる。以下の15項目のうち、3つ以上が当てはまれば、行為障害と診断される。各項目、末尾(かっこ)内の数字は、小学5年生、10人に対して、私が聞き取り調査した結果の数字。「そういうことをしたことがある」と答えた子どもの数である。

(1)他人に対するいじめ、脅迫、威嚇(いかく)。(5)
(2)取っ組み合いのけんか。(0)
(3)凶器を使用して、他人に重大な身体的危害を加える。(1)
(4)他人の体に対して、残酷な行為をする。(0)
(5)動物の体に対して、残酷な行為をする。(1)
(6)強盗。(0)
(7)性行為を強いる。(0)
(8)放火。(0)
(9)器物損壊。(2)
(10)他人の住居、建造物、自動車の中への侵入。(0)
(11)嘘をつく、人をだます。(0)
(12)万引き、侵入盗以外の窃盗、深夜の外出がしばしば。(0)
(13)外泊が二回以上。(0)
(14)不登校(一三歳未満から)。(0)

 さらにADHD児が、おとなになってからの症状としては、つぎのようなものがあるという(DSM―W、「反社会的人格障害」)。

 他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、(一五歳以前に行為障害の履歴があり)、以下の症状のうち、三つ以上によって示される。

(1)法律に違反する行動を繰り返し、逮捕される。
(2)人をだます傾向がある。自分の利益や快楽のために嘘をつき、偽名を使い、人をだますことをくりかえす。
(3)衝動的で、将来の計画を立てられない。
(4)易怒性と攻撃性。けんかや暴力をくりかえす。
(5)自分や他人の安全を考えない、向こう見ずさ。
(6)一貫した無責任さ。仕事をつづけず、経済的な義務を果たさない。
(7)良心の呵責(かしゃく)の欠如。これは他人をいじめたり、傷つけたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。

 もちろんADHD児がすべて、ここにあげるような反社会的人格障害をもつようになるというわけではない。大半は、そのままふつうの人間(健常人)として、一般的な社会生活を営むようになる。


心を開かない子ども

心を許さない子ども

 無視、冷淡、親の拒否的態度は、子どもに深刻な影響を与える。乳幼児期に、心のさらけ出しができないため、親のみならず、他人と良好な人間関係を結べなくなる。子どもは、絶対的な信頼関係のある親子関係の中で、心をはぐくむことができる。「絶対的な信頼関係」というのは、どんなことをしても、また何をしても、許されるという信頼関係である。親に対して疑いをいだかない安心感をいう。

 この信頼関係が欠落すると、子どもは絶対的な安心感を得られなくなり、不安を基底とした心理状態になる。これを「基底不安」というが、その不安を解消しようと、子どもはさまざまな方法で、心を防衛する。@服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、A攻撃的態度(威圧したり、暴力で相手を屈服させる)、B回避的行動(引きこもる)、C依存的行動(同情を求める)などがある。これを「防衛機制」という。

 このタイプの子どもは、孤独と不安を繰りかえしながら、そのつど相手を求めたり、拒絶したりする。まさに「近づけば遠ざかり、遠ざかれば近づく」の人間関係をつくる。本人はそれでよいとしても、困惑するのは、周囲の人たちである。あるときはベタベタと近づいてきたかと思うと、つぎに会うと、一転、冷酷な態度をとったりする。親しみと憎しみ、依存と拒絶、密着と離反、親切と不親切が、同居しているように感ずることもある。

 が、悲劇はつづく。

 他者とのつながりがうまく結べない分だけ、独善的、独断的な行動が多くなる。一見すると主体的な生き方に見えるかもしれないが、その主体そのものがない。私の印象に残っている女の子(中二)に、Bさんという子どもがいた。

 Bさんは、がんばり屋だった。能力的には、それほどでもなかったが、そのため勉強も、よくできた。親は、そんなBさんを、よくほめた。先生も、ほめた。とくに気になったのは、融通(ゆうづう)がきかなかったこと。ジョークを言っても、通じない。このタイプの子どもは、自分だけのカラに閉じこもりやすく、がんこになりやすい。

 そのBさんが、ここに書いた、決して心を許さないタイプの子どもだった。そのときまでに、すでに私のところへ五、六年、通っていたが、いつも心を風呂敷で包んだような感じがした。俗にいう「いい子」ではあったが、何を考えているか、よくわからなかった。

 決して勉強が好きというわけではなかった。しかしBさんにとっての勉強は、まさに自己主張の道具だった。(勉強ができる)=(優秀であるという証明)=(みなにチヤホヤされる)というように、である。ここにも書いたように、一見、主体性があるようで、どこにもない。Bさんは、いつも自分の評価を他人の目の中でしていた。

 もうおわかりかと思う。このBさんが、とっていた一連の行為は、自分の心の中の不安を解消するためであった。勉強という手段を用いて、他人に対して優位に立つことにより、自分にとって居心地のよい世界を、まわりに作るためであった。先にあげた防衛機制の中の、A攻撃的態度の一つということになる。

 Bさんは、勉強がよくできる分だけ、孤独だった。友だちもいなかった。しかも自分より目立つ仲間は、すべてライバルだった。Bさんの前で、ほかの子どもをほめたりすると、嫉妬心からか、Bさんは、よく顔をしかめた。が、そのBさんが、ある日、とうとう勉強でつまずいてしまった。最初は「勉強がわからない」と、よくこぼした。つぎに数か月先のテストのことを心配したりした。親はBさんに頼まれるまま、進学塾をもう一つふやし、家庭教師もつけた。しかしそうすればするほど、Bさんの勉強は空回りをし始めた。

 とたん、Bさんは、プツンしてしまった。ふつうの燃え尽き症候群と違うのは、無気力症状は出てこないこと。別の形で、攻撃的になるということ。Bさんのケースでは、そのまま、本当にあっという間に、非行の道へ入ってしまった。髪の毛を染め、ツメにマニキュアをし、そしてあやしげな下着を身につけるようになった。と、同時に、私の教室をやめた。しばらくしてから、ほかの子どもたちに、Bさんが、学校でも札つきのワルになったという話を聞いた。

 Bさんを知る、ほかの母親たちは、こう言う。「えっ? あのBさんが、ですか?」と。実のところ、この私ですら、その変化に驚いたほどである。授業中でも、先生を汚い言葉で罵倒(ばとう)して、部屋から出て行くこともあるという。

 ……では、どうするかということではない。あなたの子どもは、だいじょうぶかということ。あなたの子どもは、乳幼児のとき(二〜四歳の第一反抗期)から、あなたに対して、好き勝手なことをしていただろうか。わがままというのではない。言いたいことを言い、したいことをしたかということ。もしそうなら、それでよし。しかし乳幼児のとき、どこかおとなしく、仮面をかぶり、手がかからない子どもだったとしたら、ここでいう「心を許せない子ども」を疑ってみたらよい。そして今は、その「いい子」かもしれないが、そのうちそうでなくなるかもしれないと、警戒をしたほうがよい。

 心の問題は、簡単にはなおらない。なおらないが、警戒するだけでも、仮に問題が起きたときでも、原因がわかっているから、対処しやすいはず。またあなたの子どもが〇〜二歳であるなら、これからの反抗期を、うまく通り過ぎることを考える。この時期は、子どもの心を形成するという意味で、きわめて重要な時期である。

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●心を開く人、開けない人
 心を開くということは、開くことができる人には簡単なことらしい。しかし開くことができない人には、簡単ではない。開くということが、どういうことさえわからない。その前に、その自覚さえない。

 このことは、子どもを見ればわかる。子どもにももちろん、心を開くことができる子どもと、そうでない子どもがいる。心を開くことができる子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげたりすると、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。心底、うれしそうな顔をする。

 心を開かない子どもは、そうした親切ややさしさが、すなおにしみこんでいかない。心のゆがみを伴うことが多い。ひねくれたり、いじけたり、すねたり、つっぱったりする。簡単な見分け方としては、抱いてみればわかる。心を開いている子どもは、抱いてあげると、そのまま力を抜いて、体をすり寄せてくる。そうでない子どもは、そうでない。あるいは甘え方を見ればわかる。心を開いている子どもは、甘え方が自然。「自然」というのは、子どもらしいということ。全幅に自分の心を開いて甘える。そうでない子どもは、そうでない。

●乳幼児期に決まる「心」
 この違いは、どうやら乳児期に決まるらしい。親の豊かな愛に恵まれて育った子どもは、心を開くことができる。そうでない子どもは、心の開き方すら知らないまま、大きくなる。もう少し専門的には、そのカギを握るのは、「愛着(attachment)」ということになる。最近の研究では、乳児から親への愛着行動があることがわかってきた(※)。それまでは、愛着行動は、親から乳児への一方通行と考えられていた。その乳児から親への愛着行動が妨げられると、子どもには、さまざまな反応が現れることがわかっている。

 つい最近もらったメールには、こんなのがあった。それまでは、その子どもは、父親と母親で寝ていた。が、事情があって、子どもをベビーベッドに移した。とたん、その子どもの首がまがったまま、もとに戻らなくなったという。そこで母親は整体師のところへ連れていったが、なおらなかった。しかし、また前のように、川の字になって寝たとたん、首がなおったという。

 こうした例は、本当に多い。子どもの心は、私たちが考えるよりはるかに複雑で、デリケート。「たかが子どもではないか」と、安易に考えてはいけない。

●それは私たちの問題
 ……が、問題は、このことではない。子どもの問題は、実は、私たちおとなの問題でもある。あなたにも子ども時代があった。そしてその子ども時代の結果として、今のあなたがいる。言いかえると、あなた自身はどうかということ。というのも、「心」というのは、乳幼児期に決まり、そのあと、その心は、そのまま生涯つづくということ。途中で、変わるということは、まず、ない。つまりあなた自身が、心豊かで、愛情あふれる家庭で育ったのなら、よし。そうでないなら、あなたの心のどこかに、その「ゆがみ」があるということ。こう断言するのは、たいへん危険なことかもしれないが、そう疑ってみる価値は、じゅうぶん、ある。

 あなたは心を開くことを知っているか。心を開く人をもっているか。だれかに対して、心を開くことができるか。

 実はこれは私にとっても、ずっと大きなテーマだった。私は子どものころ、愛想のよい子どもとよく言われた。しかしその「愛想のよさ」は、むしろ自分の不幸な過去が原因であることを知った。話せば長くなるが、幼児教育という世界に飛び込んでみて、それがわかった。と、同時に、私は心を開くことができない、さみしい人間であることを知った。氷だけの冷たい世界に住んでいるのを知った。

 そういう私と結婚して、一番不幸だったのは、私のワイフではなかったか。それなりの愛情を感じ、それなりの自覚をもって結婚はしたが、ワイフに対して本当に心を開いていたかというと、そうではなかったような気がする。「どこか他人のような夫婦」とまではいかなかったが、私は妻に甘えなかった。妻は妻で、私に甘えなかった。そのためよく対立した。けんかもした。妻を受け入れる前に、私の思いどおりにならない妻を、ときには憎んだり、さげすんだりした。私はワイフを全幅には、信じていなかった。よくワイフを疑い、その分だけ、嫉妬(しっと)した。

 しかしそれは妻に原因があったからではない。実は私に原因があった。が、それに気づくだけでも、何年もかかった。はっきりと自覚したのは、私が三五歳を過ぎてからではないか。同時に、そのころから私は、自分の心を開くことを考えた。閉ざされた心の扉を開き、暖かい春の風を入れようとした。方法はいろいろあった。しかしどのひとつも、決して楽な道ではなかった。たとえばこんなことがあった。

●私のばあい
 私はずっと、幼児教育論を書いてきた。子育て論も書いてきた。しかし私にはひとつの不文律があった。「決して、タダでは、私の知りえた情報を教えない」という不文律である。それまでの虐(しいたげ)られた立場もあった。だれにも相手にされなかったこともある。とくにこの教育の世界は、「権威」がモノを言う。どんなアホみたいな意見でも、「大学の教授が言った」というだけで、私の意見は、スミに追いやられた。一方、親たちも、私の意見には耳を傾けなかった。私はいじけ、ひがみ、そしてつっぱった。しかしそれはまさに、私の「地」でもあった。乳幼児期にできた、「冷たい心」そのものでもあった。

そう、あのころの私は、どんなに困っている人がいても、またどんなに私がその情報をもっていても、決してタダでは、教えなかった。話を聞きながらも、当時の私は、「知ったことか」と。そういう人を見捨てるようなことを平気でしていた。……できた。つまり私は、「心を開く」ということができなかった。「愛想がいい」と言われながらも、私はただ仮面をかぶっていただけ。

 しかしそれはまちがっていた。そのまちがいに気づき、そのまちがいを克服するために、私が、どれほど苦労したかは、また別の機会に書くことにして、今もまだ、その過程にある。今年満五六歳になるというのに、まだつづいている。たとえば今も、こうして原稿を書いている。電子マガジンに載せるためである。しかしふと油断すると、あのころの自分が頭をもたげる。「どうしてこんなことをしているのか?」「無料で、子育て情報を流すとは、お前は、お人好しだな」と。「心」というのは、そういうもの。昔の人は、『三つ子の魂、百まで』と言ったが、それはまさに正しい。「百まで」というのは、「一生」という意味である。

 もしあなたが、自分の心を開くことができればそれでよし。また夫であるにせよ、妻であるにせよ、そういう人がいればそれでよし。しかしもしそうでないなら、この問題は、これから先、あなたの一生をかけて解決する問題。解決しなければならない問題と考えてよい。

●自己診断してみよう
 もしあなたが、つぎの項目のうち、五つ以上、あてはまるなら、まずあなたの過去を冷静にみてみるとよい。この問題を解決するためには、まずあなた自身がそうであることに、気づくこと。問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振り回されること。もしあなたが妻なら、それでさみしい思いをしているのは、あなたの夫ということになる。あなたの子どもということになる。

【心を開けない人】
(1)外の世界で、自分をつくることが多く、そのため人と会うと、疲れやすい。
(2)いつも人間関係を計算し、自分の得にならない人とは、つきあわない。
(3)夫や妻以外に、心を割って話せる人がいない。友人がほとんどいない。
(4)他人の不幸な話を聞いても、ピンとこない。不幸な話を楽しむことができる。
(5)甘えたいとは思いつつ、いつも心のどこかでブレーキが働いてしまう。
(6)ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりしやすい。すなおになれない。
(7)捨てられる前に捨て、裏切られる前に裏切るというものの考え方をしやすい。
(8)人にやさしくされても、「どうして?」と、いつも相手の意図を疑ってしまう。
(9)疑い深く、ねたみやすい。夫や妻に対して、嫉妬(しっと)しやすい。
(10)ひとりになると、孤独感がひしひしと自分を襲い、不安になる。
(03−1−18)

※…… 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知られた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることがわかってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児の発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥が現れる。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、親の育児拒否的な態度(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。

●さあ、あなたも心を開いて、外に解き放とう! 勇気を出して、みんなを迎え入れよう! 春の暖かいそよ風のように! 明るくさんさんと輝く夏の太陽のように! みんなの心を、あなたの温もりで、包んであげよう!

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【補足】

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あなたはあなたの夫(妻)や子どもに心を開いているか。
子どもや夫(妻)と、よい信頼関係を結んでいるか。
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●ショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」

 寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつきすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体を温めあった。

 これがショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話である。しかしこれと同じようなことは、夫婦の間でも、そして親子の間でもある。

 男と女は、結婚する。電撃に打たれるような衝撃を受け、相思相愛で結婚したというケースは別として、中には、孤独からのがれるために結婚する人も珍しくない。もともとは他人への依存性が強い人で、心のスキ間を埋めるために結婚する。しかしこのタイプの人は、一方で、人づきあいが苦手。結婚はしたものの、結婚生活そのものが、わずらわしくてしかたない。だから、たがいにつかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで関係を保つ。

 親子でも、似たようなケースがある。子どもがそばにいないと不安でならない。「ママ、ママ」と甘えてくれる間は、うれしい。しかしそれが一定の限度を超え、子どもがずっとそばにいると、うるさくてしかたない。「子どもを愛している」という自覚はどこかにはあるが、しかし一方で、「できるだけ早く、子育てから解放されたい」と願っている。そのため親子関係も、どこかつかず離れずの関係になる。

 奈良県のHYさん(母親)からの相談に、こんなのがあった。何でも夫がそばにいないと、さみしく思うのだが、しかしたまの日曜日など、夫が一日中、家の中でゴロゴロしているのを見ると、わずらわしくてならないというのだ。いわく「ときどき私は、夫なんかいてもいなくても、どちらでもよいと思うことがあります。しかしそのくせ夫が、そばにいないとさみしくて、気がへんになってしまうのです」と。

 結論を先に言えば、このタイプの人は、乳幼児期の家庭環境に問題があったとみる。ふつう子ども(人)というのは、絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境の中で、心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう環境があってはじめて、子ども(人)は心の開き方を学び、そこから、たがいの信頼関係の結び方を学ぶ。が、何らかの理由で、その「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」が阻害されると、子ども(人)は心を開けなくなり、ついで人との信頼関係を、じょうずに結べなくなる。

ここでいうHYさんは、まさにそのタイプの女性と考えてよい。HYさんは、夫や子どもにすら、心を開くことができない。つまり信頼関係を結ぶことができない。そしてそれが夫婦関係や、親子関係にまで影響を与えている。

 一般的に、心を開くことができない子ども(人)は、人と接するのが苦手。表面的には、快活にふるまい、社交的になることはあるが、その分、精神疲労を起こしやすい。数時間、町内の人といっしょに活動しただけで、ヘトヘトに疲れてしまったりする。しかしその一方で、心を開くことができないため、孤独。さみしがり屋。ここにも書いたように、もともと他人への依存性も強い。近くにだれかがいないと、自分の心を保つことさえできない。つまり、ここでショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話にもどる。このタイプの人は、孤独(寒さ)から逃れるために人(温もり)を求める。しかし人に近づきすぎると、自分がキズつく。それを恐れるあまり、今度はそばには近寄れない。つまりつかず離れずの関係になる。

●「密着」と「離反」

このタイプの子ども(人)の最大の特徴は、そのため人づきあいが、どこかぎこちなくなること。ほどほどのところで、ほどよい人間関係を築くことができない。あるとき急に接近してきたかと思うと、今度は、同じように急に離れていく。これを心理学の世界では、「密着」「離反」という。

幼稚園の世界にも、『急速になれなれしてくる親には、要注意』という言いまわしがある。たとえばある日突然、幼稚園へやってきて、「ここの幼稚園が気に入りました。すばらしい幼稚園です。来年からうちの息子をここへ入れます。下にももう一人、子どもがいますが、その子どももここに入れます」などとワーワーと騒ぐ。しかしそういう親ほど、離れていくのも早い。

 つまりこのタイプの子ども(人)は、相手を自分の思わくだけで、引きずりまわしてしまう。引きずりまわすほうは、それでかまわないが、引きずりまわされるほうは、たまらない。私も若いとき、こんな経験をしたことがある。

 ある会社の社内報の編集を手伝っていた。社長じきじきの依頼で、それなりに張り切って仕事をしていた。が、その社長は、大の電話魔。真夜中であろうが、早朝であろうが、電話をかけてきて、あれこれ私に指示してきた。それだけではない。そのつど怒涛(どとう)のように、「君はすばらしい」「今度香港へ出張してほしい」「私がもっているアパートを君に使ってもらいたい」「君の作る会報は一級だ。ついては予算を倍増したい」などと言う。

 最初のうちはそれを真に受けて、ワイフと二人で喜びあったが、そのうちどうも様子がおかしいのに気がついた。私がそれらの話を煮つめるため、社長の自宅へ行くと、今度は、ああでもない、こうでもないと私の仕事にケチをつけて、「だから約束は守れない」と言い出しりした。まさに私が遠ざかれば、近づいてきて、私が近づいていけば、遠ざかる……という感じだった。

 その社長は、いわゆる心を許さないタイプの社長だった。俗な言い方をすれば、コロコロと気分が変わる。私の立場からすると、つかみどころがない。その社長は、まさに密着と離反を繰りかえしていたことになる。
 
●さらけ出す
 
 信頼関係を結ぶためには、自分をさらけ出す。さらけ出しても、平気である。そういう自分への確信をもつ。本来ならこうした信頼関係の原型は、乳幼児期に形成される。それが先に書いた、「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」ということになる。子ども(人)は、そういう環境の中で、とくに親子関係の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。またさらけだしても、安心できることを学ぶ。

 が、それが阻害されることがある。原因はいろいろあるが、その原因はともかくも、子ども(人)側からみて、自分をさらけ出せなくなってしまう。さらけ出すことに自信がなくなるケースもあるが、さらけ出すことに恐怖感を覚えることもある。母親に向かって「ババア」と言ってみた。とたん、母親に殴られたとかなど。そういう無数の経験が積み重なって、自分をさらけ出せなくなることもある。

 こういうことが重なると、子ども(人)は、仮面をかぶるようになる。自分を隠すようになる。たいていは「いい子」ぶりながら、無理をするようになる。よくある例は、幼児期に、園の先生たちに「いい子だ」「いい子だ」とほめられるようなケース。このタイプの子ども(人)は、いい子ぶることで、自分の身の保全をはかる。相手(親や教師)に取り入るのがうまくなり、またその分、相手の期待にこたえようとする。この無理が無数に重なって、やがて子どもの心をゆがめる。

 そういう意味では、幼児期から少年少女期にかけて、「いい子」で通った子どもほど、心配ということになる。勉強もよくできる。言われたことは、ソツなくやりこなす。園でも学校でも、いつもリーダー格で、問題を起こすということもない。もちろん本来的に「いい子」というケースもないわけではないが、たいていは「無理をしている」と考えたほうがよい。

 しかし問題は子ども(人)というより、あなた自身かもしれない。あなた自身は、夫(あるいは妻)や子どもの前で、自分をさらけ出すことができるかということ。わかりやすい例では、あなたは夫(あるいは妻)の前でも、平気でプリプリっと、おならを出すことができるか。あるいは悲しいときやさみしいとき、自分の心を、すなおにそのまま表現できるか。それができればよし。しかしそれができないようであれば、当然のことながら、子どももそれができなくなる。

 人というのは、自分がしていることには、寛容になる。していないことには、寛容になれない。常、日ごろから、自分をさらけ出すことになれている親は、子どもがそれをしたとき、それを自然な形で受け止めることができる。しかし自分をさらけ出すことができない親は、子どもがそれをするのを許さないばかりか、子どもが自分をさらけ出したりすると、それを悪いことだと決めてかかってしまう。おさえてしまう。そしてその結果として、親が、子どもに仮面をかぶるようにしむけてしまう。

●チェックテスト

 そこであなた自身をチェックテストしてみよう。

(1)あなたは夫(あるいは妻)の前で、したいことをし、言いたいことが言えるか。
(2)あなたは他人の中でも、それほど気をつかわず、自分をさらけ出すことができるか。
(3)あなたはあなたの親に対して、したいことをし、言いたいことをズケズケと言えるか。
(4)あなたは自分の子どもに対して、したいことをし、言いたいことを言えるか。
(5)あなたの子どもはあなたに対して、したいことをし、言いたいことを言っているか。

 このテストで、四〜五個、「YES」と答えたあなたは、いつもみなに、心を開いている人ということになる。信頼関係の結び方もうまく、人間関係もスムーズ。そのため友人も多いはず。

 しかしそうでなければ、まず「心を開く」ことから、始める。あなたの心を取り巻いている無数のクサリを、一本ずつ解き放していく。根気のいる作業だが、しかし不可能ではない。もしあなたがこのタイプの子ども(人)なら、夫(もしくは妻)の協力を得て、少しずつ心を開く訓練をする。

方法としては、夫(あるいは妻)の前で、したいことをする。言いたいことを言う。自分をさらけ出してみる。というのも、この問題だけは、決してあなただけの問題ではすまない。そういう心の開けないあなたといっしょに住むことによって、さみしい思いをしているのは、実はあなたの夫(妻)であることを忘れてはいけない。さらにあなたという親が、そういう状態であるのに、どうして子どもに、「心を開け」と言えるだろうか。

 何でもないことのようだが、心を開くことができる人は、それをいとも簡単に、しかも自然な形でできる。そうでない人には、そうでない。この問題は、その子ども(人)の乳幼児期までさかのぼるほど、もともと「根」の深い問題である。

 夫婦にせよ、親子にせよ、その基本は、ゆるぎない信頼関係で決まる。その信頼関係を結ぶためにも、まずあなたは、あなたの心を開き、その心を空に解き放ってみる。勇気を出して、自分をさらけ出してみる。自分を飾ることはない。自分をつくることはない。気負う必要もない。あなたはあなたのままでよい。そういう自分を、すなおにさらけ出してみる。

 そこはすがすがしいほど、広い世界。青い空がどこまでも、どこまでもつづく、広い世界。あなたも心を取り巻いているクサリを解き放ち、その広い世界を、思う存分、羽ばたいてみよう! もし今、あなたが心の開けない人ならば……。
(030213)




個性

今を生きる子育て論
 頭からちょうちんをぶらさげて、キンキラ金の化粧をすることを、個性とは言わない。個性とはバイタリティ。「私は私」という生きざまを貫くバイタリティをいう。結果としてその人は自分流の生きざまを作るが、それはあくまでも結果。私の友人のことを書く。
 私はある時期、二人の仲間と、ある財界人のブレーンとして働いたことがある。一人は秋元氏。日韓ユネスコ交換学生の一年、先輩。もう一人はピーター氏。メルボルン大学時代の一年、後輩。私たちは札幌オリンピック(七二年)のあとの、国家プロジェクトの企画を任された。が、ニクソンショックで計画はとん挫。私たちは散り散りになったが、それから二〇年後。秋元氏は四〇歳そこそこの若さで、日本ペプシコの副社長に就任。またピーター氏は、オーストラリアで「ベンティーン」という宝石加工販売会社を起こし、やはり四〇歳そこそこの若さで、巨億の財を築いた。オーストラリア政府から、取り扱い高ナンバーワンで、表彰されている。
 三〇年前の当時を思い出して、彼らが特別の人間であったかどうかと言われても、私はそうは思わない。見た感じでも、ごくふつうの青年だった。しいて言えば、彼らはいつも何かの目標をもっていたし、その目標に向かってつき進む、強烈なバイタリティをもっていた。秋元氏は副社長になったあと、あのマイケル・ジャクソンを販売促進のために日本へ連れてきた。ピーター氏は稼ぐだけ稼いだあと、会社を売り払い、今はシドニー郊外で、悠々自適の隠居生活をしている。生きざまを見たばあい、私は彼らほど個性的な生き方をしている人を、ほかに知らない。が、問題がないわけではない。
 実は私のことだが、この私とて、当時は彼らに勝るとも劣らないほどの、バイタリティをもっていた。が、結果としてみると、彼ら二人は個性の花を開かせることができたが、私はできなかった。理由は簡単だ。秋元氏は、その後、外資系の会社を渡り歩いた。ピーター氏は、オーストラリアへ帰った。つまり彼らの周囲には、彼らのバイタリティを受け入れる環境があった。しかし私にはなかった。私が「幼稚園の教師になる」と告げたとき、母は電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。学生時代の友人(?)たちは、「あのはやしは頭がおかしい」と笑った。高校時代の担任まで、同窓会で会うと、「お前だけはわけのわからない人生を送っているな」と、冷ややかに言ってのけた。
 世間は、「個性を伸ばせ」という。しかし個性とは何か、まず第一に、それがわかっていない。次に個性をもった人間を、受け入れる度量も、ない。この三〇年間で日本もかなり変わったが、しかし欧米とくらべると、貧弱だ。いまだに肩書き社会に出世主義。それに権威主義がハバをきかせている。組織に属さず、肩書きもない人間は、この日本では相手にされない。いや、その前に排斥されてしまう。
 そんなわけで、個性を伸ばすということは、教育だけの問題ではない。せいぜい教育でできることといえば、バイタリティを大切にすること。繰り返すが、その後、その子どもがどんな「人」になるかは、子ども自身の問題であって、教育の問題ではない。


こづかい

子どもに与えるものは、一〇〇倍

 子どもの金銭感覚は、幼稚園の年長児から小学二年ぐらいにかけて完成する。「ふえた」「減った」「トクをした」「損をした」など。お金で物欲を満たす、その満たし方まで、この時期に覚えてしまう。そういうわけでこの時期の金銭感覚が狂うと、あとがたいへん。そこで、子どもに買い与えるものは、心の中で一〇〇倍するとよい。たとえば一〇〇円のものは一万円。一〇〇〇円のものは一〇万円、と。つまり子どもが一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものから得る満足感と同じということ。一〇〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一〇万円のものから得る満足感と同じということ。この時期に、一〇〇〇円や一万円のものをホイホイと買い与えていると、やがて子どもが大きくなり、高校生や大学生になったとき、それこそ一〇万円のものや、一〇〇万円のものを買い与えないと、満足しなくなる。もしあなたにそれだけの財力があれば話は別だが、安易な気持ちで買い与えるようなことは、やめたほうがよい。
 また「より高価なものを買ってあげればあげるほど、深い親の愛のあかし」と考えている人がいる。戦後のあのひもじい時期を過ごした人ほど、この傾向が強い。しかしこれはまったくの誤解。ではどうするか。
 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、魚釣りに釣れていけ』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、子どもにものを買い与えるより、魚釣りに行けという意味だが、これは子育ての基本でもある。多くの親は、「高価なものを買い与えてやったから、子どもは親に感謝しているはず」と考える。しかし実際には、感謝などしていない。「ありがとう」とは言うが、その場だけ。あるいはたいていのばあい、かえって逆効果。
 子どもの場合、不自由やひもじさ、さらには思いどおりにならないことが、子どもの生活力を養う原動力となる。また子どもの心をとらえるということは、もっと別のこと。そういうことも考えながら、子どもの金銭教育を考える。


言葉能力、読解力

子どもの国語力を伸ばす法(会話能力を磨け!)
子どもの国語力が決まるとき
●幼児期に、どう指導したらいいの?
 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うかを調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。
@使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」というような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。
A使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「まあまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。
B正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のようにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上にイ〜、白い……へへへへ」と。
 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのことを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダメネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!
●国語能力は幼児期に決まる
 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしていて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。
 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いているからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」として認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。
●幼児教育は大学教育より奥が深い
 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかってもらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思っている人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。



子どもの心

心のメカニズム

*****************
少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。
*****************

 まず、前に私が書いたエッセーを読んでみてほしい。この中で、私は「気持ちよさ」とか、「ここちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのものと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょうど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(たいじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。その扁桃体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究でわかってきた。もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に信号を送り、それを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感に包まれるというのだ。ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに五〇円のお金を渡したことが、扁桃体に信号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひとつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私は二三、四歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数十種類ほど発見されている。その麻薬様物質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されることで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ずるのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出するためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうして、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられていた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられたこともある。しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維持だけではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。そうなると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっていたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもちろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そして誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということになる。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむという内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふつうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」というのも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によって、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえばニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレスだと言われている。何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドという物質が分泌される。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を体の中で引き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづくと、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまでも「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレスにさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。イギリスにも、『抑圧は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があれば煮つめてみるが、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるのがよい。そしてそれが、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が重複するが、許してほしい。

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみて息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因となることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなくすのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもない。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そういう残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復するとしても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02−11−23)

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ここまでの原稿に関連して、この八月にマガジンで配送した原稿を、送ります。前に読んでくださった方は、とばしてください。

子育て随筆byはやし浩司

性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数十万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、よく出会う。たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれて、さまざまな感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。確かに知的活動(大脳連合野の新新皮質部)と、情動活動は、違う。たとえば一人の幼児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみると、それは知的な判断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしていることがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく四〜六歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であることがわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれながらにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正しい。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもにはならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわかる。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやがれ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していたはずである。つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人であるという証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この一、二年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によっては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば一〇分もたたないうちに、無数の小さなアリが集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかっているのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っているだけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではないように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はアリたちにも、同じような作用が働いているのではないかと思った。つまりアリたちは、ただ単に行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感じているのではないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういった重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅していたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じているに違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をすることができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか



子離れ

子離れできない親

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととして、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。
「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたはどう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまうに違いない。
 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきである。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。
 子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。
 

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