はやし浩司

たちつてと
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はやし浩司

これからの大学教育

●世の中の流れを見すえながら、子どもたちの未来を考えよう!

 ヨーロッパでは、大学はほぼ完全に共通化されたといってもよい。どこの大学で、どのように勉強しても、単位そのものが共通化されている。そのためA大学で勉強しようが、B大学で勉強しようが、単位には関係ない。この日本でも、大学がグループをつくり、同じように単位の交換を始めたところが多い。が、出遅れること、三〇年。少なくとも私がオーストラリアで留学生活をしているときには、すでにそれは世界の常識だった。

 アメリカでは、大学への入学後、学部の変更は自由。大学から大学への転籍も自由。私立、公立の区別はない。しかもそうした転籍が、即日にできる。そのため学生は、より高度な勉強を求めて(その反対もあるが……)、大学から大学へと、自由に渡り歩いている。しかも今、それが国際間でなされつつある。

 そういう意味では、日本だけが取り残されたとみてよい。いまだに受験戦争があること自体、その証拠ということになる。向こうの学生は、その道のプロになるため大学で勉強する。しかし日本の学生は、学歴を得るために勉強する。この違いは大きい。日本も大きく変わりつつあるが、まだその風潮は根強く残っている。

 で、さらに……。学歴志向といえば、台湾の学歴信仰にはものすごいものがある。初対面でも、「あなたはどこの大学の出身ですか」と聞くことが多い。そして四年制の大学を卒業した程度では、プロと認めてもらえない。……というような風潮がある。これは私の個人的な印象だが、台湾をよく知る人は、みなそう言っている。「台湾では、修士号か博士号をもっていないと、相手にされません」と。しかし実のところ、この日本でも、そういう方向に向かって動いている。

 「本物の勉強は、大学院に入らないとできない」と、東大の元教授が、話してくれた。大学での勉強は、上から与えられるもの。しかし大学院はそうではない。「だから余裕と、力があるなら、これからは大学院へ行きなさい」と。
 その大学院は、以前は、A大学の卒業生が、A大学の大学院へ進み、その大学で助手、助教授、教授と昇進するのが習わしになっていた。が、今は、違う。A大学を出たあと、試験を受けて、B大学の大学院へ進むというのが、ふつうになってきている。たとえば東工大を卒業したあと、東大の大学院へ進むなど。この大学院については、国際化がかなり進んでいるとみてよい。日本の大学を卒業したあと、外国の大学院へ進む学生もふえている。

 今、日本の大学制度は大きく変わりつつある。またその流れは加速されることはあって、逆戻りすることはない。恐らく二〇年後には、アメリカ並に、三〇年後にはヨーロッパ並になるだろう。言うまでもなく、それが世界の常識だからである。
(01−9−21)※

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子育て随筆byはやし浩司(116)

日本の英語教育

 先日、日本の中学校で英語を教えているオーストラリア人と、食事をした。その中で、「日本の教育をどう思うか」と質問すると、そのオーストラリア人はこう言った。「日本の教育は、何からなにまで、リジッドだ」と。「リジッド」というのは、「rigid」ということ。正確に訳をつけると、「堅い、硬直した、厳格な、堅苦しい、がんこな」(研究社・ライトハウス英和辞典)ということになる。そこで私が、「あなたはどこを見て、そう思うのか」と聞くと、いろいろ話してくれた。その中でも、印象に残ったのは、つぎのことだった。
 「私が生徒たちを連れて、教室の外へ出ようとしたら、ほかの先生に止められた。そこでどうしてダメなのかと聞くと、許可されていないからと。これはおかしい。どうして生徒を教室の外に連れ出してはダメなのか。オーストラリアでは、みなしているのに」と。
 そこで三人の日本の高校生に聞いてみた。「君たちは、小中学校のとき、体育の授業とかは別にして、ほかの授業で、野外で授業をしたことがあるか」と。すると三人とも、「ない」と答えた。日本の教育と、欧米の教育とは、基本的な部分で発想が違うようだ。

 実は、この浜松市でも、昔、野外授業を試みた先生がいた。私が浜松に住むようにまもなくのことだったが、市内の中心部にあるM小学校の先生だった。隣は動物園になっていたし、その一角に、浜松城公園もあった。その先生は、ときどき生徒を連れて、その公園の中で授業をしていた。まだそういう自由が、ある程度容認される時代だった。が、それに「待った!」をかけたのが、ほかならぬ父母たちだった。父母たちは、「子どもの勉強にさしさわりがある」「遅れる」「勉強とは異質のもの」と主張した。で、結局は、私の記憶では、数か月くらいで、その授業はとりやめになってしまった。

 確かに日本の教育は、リジッドである。北海道から、沖縄まで、平等、画一教育が基本になっている。戦後の、世界に追いつけ、追い越せという時代には、そういう教育でもよかったが、もうこれからの教育ではない。こんな話もある。

 小学校での英語教育が検討されるようになって、もう一七年の月日が流れた。(あるいはそれ以前からもあったのかもしれないが、私が知ったのは、雑誌「ハローワールド」(学研)の企画に入ったそのころだった。)そのときから、「英語教育は必要か否か」という議論が、あちこちでなされた。しかしこういう議論そのものが、ナンセンス。

 英語を勉強したい子どもがいる。英語を勉強したくない子どももいる。英語を教えたい先生がいる。英語を教えたくない先生もいる。子どもに英語を学ばせたい親がいる。子どもに英語を学ばせたくない親もいる。だったら、なぜ、英語教育を自由化しないのか、……ということになる。その分、学校を少し早めに終わり、希望者だけ、学校の中、あるいは外で教えればよい。月謝はドイツのように、チャイルド・マネー(月額二三〇ドイツマルク・約一万五〇〇〇)という形で払えばよい。日本中の先生や親たちの意思統一を図っていたら、それこそ一〇年単位で、月日は流れてしまう。そしてその間に、日本はどこまで遅れることやら。ちなみに、東証の上場企業の中から、今、外国企業はどんどんと撤退している※。

 オーストラリア人の先生は、「リジッド」と言ったが、そのリジッドさがなくならない限り、日本の教育に明日はない。子どもは窒息し、先生は窒息し、ついで教育が窒息する。

●遅れた教育改革

 二〇〇二年一月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの三六社。この数はピーク時の約三分の一(九〇年は一二五社)。さらに二〇〇二年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。





体罰

バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決めておく。頭は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。で、こうした体罰は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねないので、気をつける。そのためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているなら、「バツはお尻」と、何度も復唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。三七人の子どもたち(小学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。圧倒的に多いのが、「親に叩かれる」(二〇人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほか、「チビクル」「殴る」「パンチ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れられる」「家からの追い出し」という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行くと言って出て行くと、たいて親がさがしにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみに、「出て行け」と言われたことがある子どもは、一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしているものを、親が取りあげるという。一人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。さらに「しばられる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。その話を聞いた別の子どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、みな、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせられる」「頭の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというのもあった」と私が言うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてきぼり」「ものを投げつけられる」など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろしいことだそうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその話を聞いて、しんみりとしてしまった。




多動児

子どもの多動性を考える法(バイタリティを信じろ!)
子どもの多動性を考えるとき
●抑えがきかない子ども 
 集中力欠如型多動性児(ADHD児)と言われるタイプの子どもがいる。無遠慮(隣の家へあがりこんで、勝手に冷蔵庫の中の物を食べる)、無警戒(塀の中にいる飼い犬に手を出して、かまれる)、無頓着(一階の屋根の上から下へ飛びおりる)などの特徴がある。ふつう意味のないことをペラペラとしゃべり続ける、多弁性をともなう。が、何といっても最大の特徴は、抑えがきかないということ。強く制止しても、その場だけの効果しかない。一分もしないうちに、また騒ぎだす。たいていは乳幼児期からきびしいしつけを受けているため、叱られるということに対して免疫性ができている。それがますます指導を難しくする。
 このタイプの子どもの指導でたいへんなのは、「秩序」そのものを破壊してしまうこと。勝手に騒いで、授業をメチャメチャにしてしまう。それだけではない。その子どもだけを集中的に指導していると、ほかの子どもたちが神経質になってしまう。私もこんな失敗をしたことがある。その子ども(年長男児)を何とか抑えようと四苦八苦していたのだが、ふと横を見ると、隣の女の子が涙ぐんでいた。「どうしたの?」と聞くと、小さい声で、「先生がこわい……」と。
●DSM・Wのマニュアルより
 出現率は、小学校の低学年児では、二〇人に一人ぐらいだが、症状にも軽重があり、その傾向のある子どもまで含めると、一〇人に一人ぐらいの割合で経験する。学習面での特徴としては、@ここにあげた多動性(めまぐるしく動き回る)のほか、A注意力持続困難(注意力が散漫で、先生の話が聞けない。集中できない。根気が続かない)、B衝動性(衝動的行為が多く、突発的に叫んだり暴れたりする)があげられている(アメリカ、障害児診断マニュアル、DSM・Wより)。
●「ママのパンティね、花柄パンティよ!」
 能力的には、遅れが目立つ子どもが約七割、ある特定の分野に、ふつう程度以上の能力を見せる子どもが約三割と私はみている。が、問題はそのことではなく、親自身にその自覚がほとんどないということ。このタイプの子どもは、乳幼児期には、何ごとにつけ天衣無縫。言うことなすこと活発で、そのためほとんどの親は、自分の子どもをむしろ優秀な子どもと誤解する。これがまた指導を難しくする。Mさん(年中児)もそうだった。赤ちゃんのときから、柱にヒモでつながれて育った。そのMさん、参観日のとき、突然、「今日のママのパンティね、花柄パンティよ!」と叫んだ。言ってよいことと悪いことの区別がつかない。が、Mさんの母親は、遊戯会の日まで、天才児と信じていた。その遊戯会でのこと。Mさんは、一人だけ皆から離れて、舞台の前で、ほかの子どもたちに向かって、アッカンベーを繰り返した。そこで私に相談があったので、私は、Mさんが、活発型遅進児の疑いがあると告げた。もう二五年近くも前のことで、当時は多動児という言葉すら、まだ一般的ではなかった。その説明をすると、母親はその場で泣き崩れてしまった。
●教師の経験や技量は関係ない
 脳の機能変調説が有力で、アメリカでは別の施設に移した上で、薬物治療までしている。しかし効果は一時的。たとえば「リタリン」という薬を与えて治療しているそうだが、その薬にしても、三〜四時間しか効果がないといわれている。この日本でも薬物療法をするところがふえてはいるが、現場指導が中心。たとえばこの静岡県では、現場の教師に指導が任されている。補助教員や学校ボランティアの付き添いを制度化している市町村もあるが、しかしこの方法では、おのずと限界がある。仮にこのタイプの子どもが、一クラス(三五名)に二〜三名もいると、先にも書いたように、クラスそのものがメチャメチャになってしまう。これには教師の経験や技量は、あまり関係ない。
●もちまえのバイタリティが、よい作用に!
 ……こう書くと、このタイプの子どもには未来はない、ということになるが、そうではない。小学三、四年生を過ぎると、それ以後は、自分で自分をコントロールするようになる。騒々しさは残ることは多いが、見た目にはわかりにくくなる。持ち前のバイタリティが、よい方向に作用することもある。集団教育になじまないというだけで、それを除けば子どもとしては、まったく問題はない。つまりそういう視点に立って、仮にここでいうような症状があっても、乳幼児期は、それ以上に、症状をこじらせないことに心がける。こじらせればこじらせるほど、その分、立ちなおりが遅れる。

(付記)
●読者からの抗議
 この原稿を新聞で発表した直後、一人の母親から、猛烈な抗議の電話をもらった。長い電話だった。内容は次のようなものだった。「私の子ども(小四男児)は多動児だ」、「多動児を一方的に悪いと決めつけないでほしい」、「先生がたの熱心な指導で、改善している」、「そういう先生の熱意と努力を、あなたは無視している」、「だから文中の『教師の技量や経験は、あまり関係ない』という個所を訂正してほしい」と。
 誤解があるといけないので、申し添えるが、私は三〇歳のときから四〇歳になるまで、毎年二〜四人のこのタイプの子どもを預かって指導したことがある。私のほうから頼んで教室に来てもらったこともあり、費用は一円も受け取っていない。そういう経験の上で、この文を書いた。確かに新聞紙上では、あちこちを切りつめて発表したので、こまかい点では配慮が足りなかった。それについては、その母親に謝った。
●誰がそう診断したか?
 しかしここで一つの大きな疑問にぶつかる。その母親は、「私の子どもは多動児だ」と言ったが、誰がそのような診断をしたかという疑問である。学校の教師でないことは確かだ。どこかの医療機関が診断したとしても、まだADHD児の診断基準すら確立されていないこの日本で、どうやって診断したというのだろうか。多動性があるからといって、多動児ということにはならない。風邪をひけば熱が出るが、熱があるからといって風邪とは限らない。それと同じ理屈だ。私も親や子どもの前で、多動児という言葉を使ったことは一度もない。
●知らぬフリをして教えるのが教育
 教育にははっきりわからなくてもよいことは山ほどある。またわかっていても、知らぬフリをして教えるということもある。病気の世界では、まず診断名をくだし、つづいてその診断名にもとづいて治療を開始する。しかし教育の世界では、診断名をくだすこと自体、ありえない。治療法もないのに、診断名だけをくだすことは許されないのだ。それにそもそも教育は治療ではない。また治療であってはならない。仮に一つのクラスが多動性児によって混乱したとしても、教育者が考えるべきことは、クラスの立てなおしであって、その子どもの治療ではない。ただ親が、こうした資料をもとに、それとなく自分の子どもがそうではないかと知ることは必要である。そしてそういう知識をもとに、それぞれの専門機関に相談してみることは必要である。ここに書いたことは、そういう目的で使ってほしい。

(参考)
●多動児の診断基準
 多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)の診断基準は、二〇〇一年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏ら委託して、そのひな型が作成されたばかりで、先にも書いたように、いまだこの日本には、多動児の診断基準はないというのが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しないということになる。一般に多動児というときは、落ちつきなく動き回るという多動性のある子どもをいうことになる。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児ということになるが、ここでは区別して考える。
(チェック項目)
1234567891011行動が幼い注意が続かない落ちつきがない混乱する考えにふける衝動的神経質体がひきつる成績が悪い不器用一点をみつめる
 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」)は、次のようになっている。

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる  ……1点、
当てはまらない       ……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」
●私の診断基準
この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動児が多動児であるのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えがきけば、多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動性のある子どもは行動が突発的に過剰になるというだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。また活発型の自閉症児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状でしかない。
私は次のようなチェックリストを考えた。



男児の女性化

環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)と、男児の女性化

 小学校の低学年児について言えば、いじめられて泣くのは男の子、いじめるのは女の子という、図式がすっかり定着してしまっている。それについて、以前書いた原稿を、先に転載する。

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進む男児の女性化(中日新聞に掲載済み)

 この話とて、もう一五年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいたので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もいた。さらにこんな事件があった。市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々と、いたずらされたというのだ。その高校生は店内で五、六人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では一人で舞台でギター演奏したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのはたいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。「うちの息子(小二)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小一のときに、ウンチを教室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられていることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手というのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなにも、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らしくという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかしい。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、六〇%を超えた(九八年、浜松市教育委員会調べ)。現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導しても、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとたまりもなかった。果たして日本の未来は?

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 こうした男児の女性化について、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)原因説がある。ここでいう「環境ホルモン」という言葉は、NHKが放送番組用に作った言葉で、正確には「内分泌かく乱化学物質」という。

 この環境ホルモンは、ホルモンそのものではない。「生体のホルモン受容体に作用するなどして、ニセのホルモンとして働いたり、その反対に、ホルモン受容体をブロックすることで、ホルモン本来の作用を妨げたりする化学物質」(福島章著「子どもの脳が危ない」・PHP新書)ということになる。

 その結果、環境ホルモンは、さまざまな影響を、体におよぼす。そのうちでも、近年、問題になっているのが、生殖機能への影響である。福島章氏の「子どもの脳が危ない」に書かれている事例を、ここにあげてみる。

●多摩川のコイの七割が、メスであった(九一年)。しかもオスの精巣の発達が不完全であり、雌雄同体のコイも発見された。原因は洗剤などに含まれる、ノニルフェノールだと言われている。
●イギリスでは、ニジマスやローチという魚のオスの精巣がやはり不完全であった。原因はやはりノニルフェノールと言われているが、ピルに含まれている女性ホルモンという説もある。
●カナダのセントローレンス川では、白鯨のオスがメス化して、メスの妊娠率が低下しただけではなく、ガンが多発していることがわかった。
●アメリカでは、ハクトウワシの孵化率が低下した。アジサシやカモメなどの鳥類では、オスのメス化が進んでいる。
●フロリダ州のミッシシッピーワニのペニスが小さくなり、精巣機能が低下し、血中のテストステロン(男性ホルモン)が低下しているのがわかった。

さらに人間に与える影響としては、「男子の精子数が減少しているだけでなく、元気がなくなった」という報告も、多いという。たとえば、「九一年に、デンマークのスキャケベック博士は、ここ五〇年の間に、男性の一回の射精に含まれる精子数が、一ミリリットルあたり、一億一〇〇〇万から、六〇〇〇万に、四二%も減少し、さらに受胎に必要な精子数二〇〇〇万以下の男性は、この間に三倍に増加した」(同書)そうだ。

 こうした影響からか、人間についても、男性の性衝動が弱くなったという報告もある。男児の女子化が、その流れの中にあるとしたら、これはたいへん深刻な問題と考えてよい。

 そこで私たち親は、この問題に対して、どう対処したらよいかだが、とりあえず注意すべきことは、食器や調理道具から、プラスチック製品を取り除くということ。とくにプラスチック製品が、何らかの形で、熱湯とふれるようなときが、危険だという。環境ホルモン、つまり内分泌かく乱化学物質の大半は、これらのプラスチック製品から溶けでるという。カップヌードルなども、発泡スチロールの容器の中から一度、陶器の茶碗などに移してから、熱湯をかけるとよい。

 なお女性のばあい、最近若い人の乳がんがふえているが、その原因も、ここにあげたノニルフェノールではないかと言われている。注意するにこしたことはない。
(02−11−26)

●世の男性諸君よ、スケベであることを喜ぼうではないか。もっともっとスケベになって、妻たちを、ハッピーにしてあげようではないか。種族を後世に残すために。


断絶

親子の断絶を防ぐ法(子どものうしろを歩け!)
親子の断絶が始まるとき 
●最初は小さな亀裂
最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って……」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。
 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!
……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されているはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。
●休まるのは風呂の中
あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休まる場所としてあげたのが、@風呂の中、Aトイレの中、それにBふとんの中だそうだ(学外研・九八年報告)。
●断絶の三要素
 親子を断絶させるものに、三つある。@権威主義、A相互不信、それにBリズムの乱れ。
@権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のもと、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心は離れる。
A相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなものだ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。
Bリズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、@あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかしA子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにもなりかねない。
このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。
●リズム論
子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは騒音でしかない。
このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くということ。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきにミルクを与えることになっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親もいる。たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、なかなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとなになってからも、だ。
ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。
●子どものうしろを歩く
 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、七八・八%、「母親のようになりたくない」は、七一・五%であった。この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた五五%の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、では残りの約四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(参考)
●親子の断絶診断テスト 
 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育てを診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの心の中を知るのが、このテスト。

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【補足】

断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという五つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその機能を果たさなくなる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こういう状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)。もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。
 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべてマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えてはいけない。
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親子の断絶の三要素、@リズムの乱れ

 親子を断絶させる三つの要素に、@リズムの乱れ、A価値観の衝突、それにB相互不信がある。
 まず@リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子どもを妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセットレコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生まれると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの口に押し込む親がいる。「もうすぐ三時間五〇分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かないのかしら……。もう四時間なのに……」と。
 そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知っている」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考える。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。
 私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。
 いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そしてそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。
つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを三枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子どもは、それを知っている。

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親子の断絶の三要素、A価値観の衝突

 日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存性をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。たとえばこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子どもの自立は遅れる。が、この日本では、「依存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながらに、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と言っていた。私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらしい人だなと思った。しかし一〇分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるのを感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがある。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?
 で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そのまま子育てに反映される。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることだ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った六〇歳くらいの女性が、五歳くらいの孫にこう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすることが、子どもを愛することだと誤解している人は多い。
 そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、一九%に過ぎない(総理府、平成九年調査)。どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつけても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観の衝突へと進む。

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親子の断絶の三要素、B信頼関係の喪失

 子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れるということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。
 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミのようなものだ。イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなたのことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思っていると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。
 昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子どもが床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ〜!」と言って手を振ったりした。
 子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を繰り返す。子どもに向かっては、「あなたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返す。これを数か月、あるいは半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもはその「いい子」になっている。
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親子のリズムを取り戻すために(1)

 昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には三つの役目がある。一つ目は親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロテクター)として。そして三つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。
 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つが、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(六〇歳くらい)が、五歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチョ、楽チイネ」と。五歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱いしてよいものか。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。
 日本には親意識という言葉がある。この親意識には、二つの意味がある。一つは「親としての自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう一つは、「私は親だ」式に、子どもに向かって親の権威を押しつける親意識。この親意識が強ければ強いほど、親は、子どもの横に立つことができなくなる。というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国という特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語すらない。あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言うまでもなく、この日本ではたった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに徹底した支配、従属関係を築く。
 が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも二〇〇万枚(CBSソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、三〇〇万枚以上」ということだそうだ。あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。

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親子のリズムを取り戻すために(2)

 尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なのか」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラス壊して回った」と歌う。問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそれにかわる新しい価値観をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親や母親の混乱の原因となっていった。
 最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろな統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学六年生までにたったの一度しかない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい……! 
 教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それにかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。
 で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方をつくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくてはいけないと考える。
 そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。子どもに向かって、「〜〜しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と甘くささやくのではなく、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心を確かめながら行動する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子どものうしろを歩く。こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。
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価値観の衝突を防ぐにはどうするか(1)

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じているから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でもこのタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。
 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのドラマは視聴率を、二〇%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど痛快な番組はない?
 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。
 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(七〇歳)は、息子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあててしまった。息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を使って何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子どもに頭をさげるべきではない」という意見。
 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほとんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観が対立したとき、それはそのまま衝突となる。
 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもしれないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれないが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶった分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツが入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。
 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方ではない。ちなみに、小学生六年生一〇人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さんが、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝るべきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もう流れを変えることはできない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(346)

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価値観の衝突を防ぐにはどうするか(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。たとえば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのものが何とかしてくれるのだろう。同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わない。「先生、おしっこオ〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそこまで依存性の強い民族ということにもなる。で、こうした依存性の強い子どもが生まれる背景には、それを容認する甘い家庭環境がある。もっと言えば、親自身も、潜在的にだれかに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。もっとも親が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。ある女性(六五歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々しい声でこう言う。「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。
 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのものだから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけない。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。
 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。
 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である。(ほかにフィリッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、タイ五九%、ドイツ三八%、スウェーデン三七%、日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。)欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみるべきではないのか。
 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立はないというkとおになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。

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子どもを信ずるということ@
 
 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。
 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのこの地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。
 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。
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子どもを信ずるということA

 人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らしいが、それはともかく、私は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたように思う。「フォ・ギブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」と。
 ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の頭の中を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任ではないか」と。とたん、私はその「何」が、何であるかがわかった。
 あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許してやれば、喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その人に許してもらえれば、あなたの心が軽くなる人たちだ。つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と(許される人)の関係で成り立っている。そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいやなことを忘れることができたら、この世の中は何とすばらしい世の中になることか。……と言っても、私のような凡人には、そこまでできない。できないが、自分の子どもに対してなら、できる。私はいつしか、できの悪い息子たちのことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で念ずるようになった。「許して忘れる」と。つまりその「何」についてだが、私はこう解釈した。「人に愛を与えるために許し、人から愛を得るために忘れる」と。子どもについて言えば、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」と。これは私の勝手な解釈によるものだが、しかし子どもを愛するということは、そういうことではないだろうか。そしてその度量、言いかえると、どこまで子どもを許し、そしてどこまで忘れることができるかによって、親の愛の深さが決まる……。
 もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子どもに好き勝手なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかにあなたの子どもができが悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた自身のこととして、受け入れてしまえということ。「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考えている間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。一方、あなたの子どももまた、心を開かない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえば、あなたの子どもも救われるが、あなたも救われる。何だかこみいった話をしてしまったようだが、子育てがどこかギクシャクしたら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけで、あなたはその先に、出口の光を見いだすはずだ。

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チック

子どものチックを考える法(クセと誤解するな!)
子どもがチックになるとき
●チックの子ども 
 チックと呼ばれる、よく知られた症状がある。幼児の一〇人に一人ぐらいの割合で経験する。「筋肉の習慣性れん縮」とも呼ばれ、筋肉の無目的な運動のことをいう。子どもの意思とは無関係に起こる。時と場所を選ばないのが特徴で、これをチックの不随意性という。たいていは首から上に症状が出る。首をギクギクと動かす、目をまばたきさせる、眼球をクルクル動かす、咳払いをする、のどをウッウッとうならせるなど。つばを吐く、つばをそでにこすりつけるというのもある。上体をグイグイと動かしたり、さらにひどくなると全身がけいれん状態になり、呼吸困難におちいることもある。稀に数種類のチックを、同時に発症することもある。七〜八歳をピークとして発症するが、おかしな行為をするなと感じたら、このチックを疑ってみる。症状は千差万別で、そのためたいていの親は、それを「変なクセ」と誤解する。しかしチックはクセではない。だから注意をしたり、叱っても意味がない。ないだけではなく、親が神経質になればなるほど、症状はひどくなる。
●回り道をして賢くなる?
 ……というようなことは、私たちの世界では常識中の常識なのだが、どんな親も、親になったときから、すべてを一から始める。チックを知らないからといって、恥じることはない。ただ子育てには謙虚であってほしい。あなたは何でも知っているつもりかもしれないが、知らないことのほうが多い。こんな子ども(年長女児)がいた。その子どもは、母親が何度注意をしても、つばを服のそでにこすりつけていた。そのため、服のそでは、唾液でベタベタ。そこで私はその母親に、「チックです」と告げたが、母親は私の言うことなど信じなかった。病院へ連れていき、脳波検査をした上、脳のCTスキャンまでとって調べた。異常など見つかるはずはない。そのあともう一度、私に相談があった。親というのはそういうもので、それぞれが回り道をしながら、一つずつ賢くなっていく。
●原因は神経質な子育て
 原因は神経質な子育て。親の拘束的(子どもをしばりつける)かつ権威主義的な過干渉(「親の言うことを聞きなさい」式に、親の価値観を一方的に押しつける)、あるいは親の完ぺき主義(こまかいことまできちんとさせる)などがある。子どもの側からみて息が抜けない環境が、子どもの心をふさぐ。一般的には一人っ子に多いとされるのは、それだけ親の関心が子どもに集中するため。しかもその原因のほとんどは、親自身にある。が、それも親にはわからない。完ぺきであることを、理想的な親の姿であると誤解している。あるいは「自分はふつうだ」と思い込んでいる。その誤解や思い込みが強ければ強いほど、人の話に耳を傾けない。それがますます子育てを独善的なものにする。が、それで悲劇は終わらない。
チックはいわば、黄信号。その症状が進むと、神経症、さらには情緒障害、さらにひどくなると、精神障害にすらなりかねない。が、子どもの心の問題は、より悪くなってから、前の症状が軽かったことに気づく。親はそのときの症状だけをみて、子どもをなおそうとするが、そういう近視眼的なものの見方が、かえって症状を悪化させる。そしてあとは底無しの悪循環。
●症状はすぐには消えない
 チックについて言うなら、仮に親が猛省したとしても、症状だけはそれ以後もしばらく残る。子どもによっては数年、あるいはもっと長く続く。クセとして定着してしまうこともある。おとなでもチック症状をみせる人は、いくらでもいる。日本を代表するような有名人でも、ときどき眼球をクルクルさせたり、首を不自然に回したりする人はいくらでもいる。心というのはそういうもので、一度キズがつくと、なかなかなおらない。

(参考)
●チックの症状
 チックの症状は、千差万別だが、たいていは首から上の頭部に症状が表れる。ふつうでないと思われるようなクセが続いたら、このチックを疑ってみる。


長男・二男

二番目の子は、親と疎遠?

 「三人兄弟の第二子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大学大学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞〇二年五月)という。
 同大学院認知行動科学研究所が、全国の三人兄弟の大学生男女一二九人に、一か月に何回、両親に電話するかを聞いたところ、
 長子…… 6・9回
 第二子……4・6回
 末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。男女別に分けても、傾向は同じだったという。さらにその報告によれば、「出生順位と親子関係について、一九九八年にカナダで行われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の子どもは両親をあまり親しい人物と考えていないという結果が出ている」という。理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占できる期間があり、末子も、その後に弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析している。そして「一方、じゅうぶんに手をかけてもらっていない中間の子どもは、両親への清密度を減らす」とも。
 ……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査によれば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこちの本の中で、そう書いてきた。が、問題はその先。
 嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、愛想がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ようになり、仮面をかぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に引こうとする。が、さらにその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、何を考えているかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」が出てくるようになる。タイプとしては、@暴力的、攻撃的になるプラス型と、Aジクジクと内へこもるマイナス型に分けることができる。大切なことはそういう状態になる前に、子ども自身が今、どう状態なのかを親側が知ることである。ここにも書いたように、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心はゆがむ。
 さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両親への清密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の子だけに特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」と。


直観像素質者

 「直観像」という言葉がある。視覚的にとらえたものを、瞬時に頭に焼きつけてしまうことをいう。右脳教育の分野でも、しばしば使われる言葉である。たとえば瞬間に見ただけで、漢字や英語の単語を暗記してしまうなど。しかし、それが人間にとって好ましい能力かどうかということになると、それは疑わしい。

 この直観像というのは、まさに両刃の剣。よい方面で使われればよいが、悪い方面で使われると、子どもに、予想できないショックを与える。たとえば幼児の世界には、「お面恐怖症」と呼ばれる、よく知られた現象がある。年中児でも、一〇〜一五人に一人くらいの割合で出現する。このタイプの子どもは、先生が、お面をかぶってみせただけで、泣きだしてしまう。

 このタイプの子どもをよく観察してみると、目でとらえた情報が頭の中に入った段階で、現実と空想の区別がつかなくなってしまうのがわかる。私が、「これはお面だよ。何でもないのだよ」といくら説明をしても、「こわい、こわい」と言って、泣きだしてしまう。ただこわがるというのではない。明かに、おびえた様子を見せる。ふつうの人には、ただのお面でも、このタイプの子どもには、そうではない。お面から受ける印象が強烈すぎて、脳の中で、お面がお面として分離できないためと考えてよい。印象に残っている子どもに、P君という子どもがいた。

 P君は年中児のとき、私がお面をかぶろうとしただけで、「こわいから、いやだ」と言って、それをこばんだ。おばけとか、怪獣のお面はもちろんのこと、鬼、さらには、動物のお面までこわがった。

 そのP君が、小学二年生になったときのこと。P君がふと、こう言った。「ぼくは、映画を見たことがない」と。P君がそれを言ったとき、私はP君が年中児のとき、お面恐怖症であったことを思い出した。そこであれこれ聞くと、こう言った。

P君「ぼくは、こわいから、映画を見ない」
私 「どうして?」
P君「スクリーンがはげしいから」
私 「はげしい?」
P君「とくに、予告がこわい。殺しあいとか、そういうのがある」
私 「ビデオはいいの?」
P君「ビデオはそんなにこわくない」
私 「どうして?」
P君「うちで見るから、こわくない」

 P君が映画をこわがるのは、映像から受ける印象が、ふつうの子どもとは違うからと考えてよい。ふつうおとなは、(おとなでも直観像素質者はいるが)、視覚でとらえた像を、無意識のうちにも、それが現実のものかどうかを判断しながら見る。たとえばテレビの中の人が血を流していても、それは現実の血とは区別して考える。しかし直観像素質者は、その区別ができない。区別ができないから、現実にあったこととして、映像を脳の中に焼きつけてしまう。よい例が、あの『淳君殺害事件』を引き起こした、少年Aである。少年Aは、その直観像素質者であるという鑑定結果がくだされている。

 このところ、右も左も、右脳教育ブーム。まだそれが安全だと確認されたわけでもないのに、何かしらそれがすばらしい教育でもあるかのように、もてはやされている。ここでいう直観像もその一つだが、しかし私たちは、子どもの教育には、もう少し慎重であるべきではないのか。ある右脳教育団体の案内書には、こうある。「この教育を受けた子どもたちが、一〇年後、二〇年後には、東大の赤門を、ぞくぞくとくぐることになるでしょう」と。もしそれが東大の赤門であればよいが、精神病院の玄関だったら、どうするのか? この問題は、また別の機会に、もう少し深く掘りさげて考えてみたい。
(02−12−2)

(追記)たまたまこの原稿を書いているとき、その少年Aの手記が報道された。参考までに、その手記を転載する(TBSニュースより)

「改めて事件の動機を説明すれば、自分がそこにいるという証拠がほしかったということになります。当時の僕は、そこにいるという実感が持てず、幽霊みたいにスカスカした感じで何か起こして、世間が騒げば自分がいるという実感が持てると考えたのだと思います」

 「一番大事なのは、被害者のことを一生忘れないことだと思います。被害者の気持ちは、自分の想像を超えるものだと思いますが、その痛みや悲しみに近づき、少しでも僕に背負わせてほしいという気持ちです」(少年A 中等少年院の報告から)

 「振り返ってみると、僕たち母子は人間であり、女性である前に、母親という役割を演じている母と、無意識のうちに息子という役割を押しつけられ、演じている僕だったように思います。もっと生身の人間対人間の関係を持ちたかったようにも思うのです」(以上、少年A 中等少年院の報告から)



溺愛

子どもを溺愛児にしない法(溺愛を誤解するな!)
親が愛に溺れるとき 
●溺愛は、愛ではない
 溺愛は愛ではない。代償的愛という。いわば自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手な愛のことだと思えばよい。この溺愛がふつうの愛と違う点は、@親子の間にカベがないこと。こんなことがあった。
参観授業でのこと。A君(年長児)がB君(年長児)に向かって、「バカ!」と言ったときのことである。その直後、うしろに並んでいた母親たちの間から、「バカとは、何よ!」という声が聞こえてきた。またこんな例も。ある母親が私のところにやってきて、こう言った。「先生、私、娘(年中児)が、風邪で幼稚園を休んでくれると、うれしいのです。一日中、娘の世話ができると思うと、うれしいのです。それにね、先生、私、主人なんかいてもいなくても、どちらでもいいような気がします。娘さえ、いてくれれば。それでね、先生、私、異常でしょうか?」と。私はしばらく考えてこう答えた。「異常です」と。
ほかに中学三年の息子が初恋をしたことについて、激しく嫉妬した母親もいた。ふつうの嫉妬ではない。その母親は、相手の女の子の写真を私の前に並べながら、人目もはばからず、大声で泣き叫んだ。「こんな女のどこがいいのですか!」と。
 次にA溺愛する親は、その溺愛を、えてして「親の深い愛」と誤解する。ある高校の山岳部の懇談会で、先生が親たちに向かって、「皆さんは、お子さんが汚した登山靴をどうしていますか」と聞いたときのこと。それに答えて一人の母親がまっ先に手をあげて、こう言った。「この靴が息子を無事、私のところに返してくれたのだと思うと、ただただいとおしくて、頬ずりしています!」と。
●精神的な弱さが原因
 親が溺愛に走る背景には、親自身の精神的な弱さと、情緒的な欠陥がある。それがたとえば生活への不安や、夫への満たされない愛、あるいは子どもの事故や病気が引き金となって、親は溺愛に走るようになる。が、溺愛に走るのは親の勝手だとしても、その影響は、子どもに表れる。子どもはいわゆる溺愛児と呼ばれる子どもになる。特徴としては、@幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、A退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的になる)、B服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、C柔和でおとなしく、満足げでハキがなくなる。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わるわけではない。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてある時、そのカラを一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」、母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。
●生きがいを別に
 この溺愛を防ぐためには、親自身が子どもから目を離さなければならない。しかし実際には難しい。このタイプの親ほど、「子離れをしよう」とあせればあせるほど、子育てのアリ地獄へと落ちていく……。では、どうするか。親自身が、子育てとは別に、別の場所で生きがいを求める。ボランティア活動でも、仕事でも。子育て以外に、没頭できるものを別に求める。ある母親は手芸の店を開いた。また別の母親は、医療事務の講師を始めた。そういう形で、その結果として、子どもから離れる。子どもを忘れ、ついで子育てを忘れる。 



動機づけ

動機づけの四悪

 子どもを勉強を遠ざける四悪に、無理、強制、比較、それに条件がある。能力を超えた学習を押しつけることを無理。時間や量を決め、それを押しつけることを強制。無理や強制が日常化すれば、子どもが勉強嫌いになって当然。さらに……。
 「A君はもうひらがな書けるのよ」とか、「お兄ちゃんはあなたの年齢のときには、算数は一〇〇点ばかりだったのよ」というのを、比較という。この比較は一度クセになると、あらゆる面でするようになるから注意する。勉強嫌いになるだけならまだしも、子どもから「私は私」というものの考え方をうばう。
 日本人は本当に他人の目をよく気にする。長くつづいた封建時代の名残(なごり)とも言える。他人と違ったことをすることができない。あるいは自分と違ったことをする人を、排斥する。そして幸福感も相対的なもので、「隣の人よりいい生活だから、幸せ」「隣の人より悪い生活だから、不幸」というような考え方をする。ここでいう「比較」というのは、そういう日本人独特のものの考え方と深く結びついている。
 つぎに「条件」。「成績があがったら、自転車を買ってあげる」「一〇〇点をとったら、お小遣いを一〇〇〇円あげる」など、何かの条件をつけて子どもを釣るのを、条件という。この条件も、一度クセになると、習慣になるから注意する。が、それだけではすまない。条件が日常化すると、子どもから「勉強は自分のためにするもの」という意識をうばう。そして子どもが小さいうちはまだしも、この条件はやがてエスカレートし、中学生になると、バイク。さらに大学生になると、自動車となる。そうなればなったで、苦労するのはあたな自身だ。実際、今、親に感謝しながら高校に通っている高校生はいない。大学生でも少ない。中には、「親がうるさいから大学へ行ってやる」と豪語する高校生すらいる。そうなる。
 子どものほうから何か条件をつけてくることもあるかもしれないが、そういうときは、「あなたのためでしょ」とはねのける。こういう毅然(きぜん)とした態度が、結局は子ども自立させる。
 ともかくも無理、強制、比較、それに条件は子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、それだけに弊害も大きい。


同性愛

 「君には好きな子がいないのか?」と聞くと、J君(高一男子)は、さみしそうにうなずいた。ピリッとした緊張感が走ったが、心のどこかで私の話を拒絶したのかもしれない。あるいは罪の意識をもっていたのかもしれない。
 J君は、決してもてないタイプの男ではない。色白で、整った顔立ちをしていた。その気になれば、いくらでもガールフレンドなどできたであろう。で、そこでまた、「女の子に興味がないのか?」と聞くと、J君は黙ったまま、下を向いてしまった。
 この時期に、同性愛者かどうかの傾向がはっきりする。私は女子の同性愛については、まったくわからないが、男子のそれはよくわかる。私が「男」であることによるためかもしれない。本能的な部分で、それをかぎ分けることができる。私は「濃い男」か、「薄い男」かと聞かれれば、「濃い男」だ。女性から遠い位置にいる男を、「濃い男」、女性に近い位置にいる男を、「薄い男」という。これは私が勝手に作った言葉だが、つまり私自身が濃い男であるがゆえに、そうでない薄い男がよくわかる。
 こういうケースでは、私としてはなすべきことは、何もない。あるがままを認めて、あるがままを受け入れるしかない。いつかオーストラリアの友人がこう言ったのを覚えている。「白人の男性の、約三分の一は、同性愛者だ」と。日本では、そこまで多くないかもしれないが、しかし「いない」わけではない。それに同性愛者といっても、いろいろなタイプがある。私の知人の中には、同性愛者でありながら、一方で平穏な結婚生活を営んでいる人もいる。
 J君が、どのようなタイプなのかはわからない。心の奥まで、私とてのぞくことはできない。ただ「できれば……」という思いが働いて、教育の場で何とかできないものかということは考える。ときどき冗談をまじえながら、「女性のヌード写真くらいはもっているだろ?」とか、自分の失敗談を話したりして、それとなく反応をみるのだが、まったくと言ってよいほど、そういう話には乗ってこない。「親に報告すべきか」ということで迷うこともあるが、しかしそれをしたところで、それがどうだというのか? そもそも同性愛は、まちがっているのか? それはいけないことなのか?
 私はさまざまな問題にかかわってきたが、こと「性」の問題については、「我、関せず」を貫いている。さらに最近は、この問題は、教育の問題ではないとさえ考え始めている。もっと言えば、性の問題は、教育の向こうにある問題、と。ただ、子どもが同性愛者になる前の段階として、いろいろなすべきことはあるように思う。環境、なかんずく父母の性格や子育て観が大きく影響することは考えられる。しかしその分野まで、教育が踏み込むのは、はたして正しいことなのか。許されるべきことなのか。
 J君を前にするたびに、私は深く考え込んでしまう。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(517)
同性愛者になる子ども
 実のところ、この問題は、今日、はじめて考える。だからこの原稿は、あくまでもこれからの叩き台でしかない。あるいは「入り口」と考えてほしい。不勉強で、まちがっているかもしれない。
 男子の同性愛傾向は、いくつかのパターンに分けられる。@女の子に興味をもたないタイプ、A女の子を嫌悪するタイプ、B男子に興味をもつタイプ、C自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ。いろいろなケースがあった。 
タイプ@女の子に興味をもたないタイプ……フロイト風に段階的に分類するなら、男子は肛門期以後、乳房期(乳房に強い関心とあこがれをもつ)、女性器期(女性の性器に強い関心をもつ)、接触期(女性との肉体的接触に強くひかれ、それを求める)という段階を経て、性にめざめる。このうち女の子に興味がないタイプは、肛門期以後、ここにあげたような、段階的興味をもたない。「おっぱい」の話をすると、小学校の低学年児でも恥ずかしそうにニヤニヤするが。そういった反応がない。中学生になっても、女体や女性器に興味をもたない。女の子とは、それなりに「友」としてつきあうが、それ以上の関係には発展しない。
タイプA女の子を嫌悪するタイプ……女性そのものに嫌悪感をもち、そのため女性には関心があっても、女性を女性と意識すると同時に、恐怖心に襲われる。強度の母親恐怖症など、何らかの環境的理由が、子どもにそういう恐怖心をもたせる。これは女子のケースだが、印象に残っている女の子(中学生)に、こんな子どもがいた。その女の子は、男を男とも思わないというか、完全に男を軽蔑していた。原因は家庭環境にあった。父親は静かでおとなしく、まったく風采のあがらない人だった。一方、母親は、あらゆる会の会長を務めるなど、まさにバリバリのやり手ママといったふうだった。その女の子は、そういう環境の中で、母親の、ものの考え方や男性観をそっくりそのまま受け継いでいた。同じように母親の存在感が強過ぎることが原因で、女性恐怖症になる男子は少なくない。
タイプB男子に興味をもつ……こうした同性愛的傾向は、それぞれの時期に、一時的に見られることはよくある。が、その程度が著しく超え、男子に興味をもち、理想の男性に強いあこがれをもつ。よくあるケースは、兵士やスポーツ選手、さらに筋肉的な男性を理想像と思い、そういう男性に傾注する。男性としての自己コンプレックスの変形とも考えられる。
タイプC自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ……独特のしぐさを見せるようになるので、それと区別できる。隣の子どもが何かの拍子に、足を蹴られたとき、「イヤ〜ン」という声を出した子ども(小四男子)がいた。歩き方も、どこかナヨナヨしていて、女性的なものを身につけたり、ほしがったりする。花柄のパンツ、花柄のノートや下敷きをもっていた男子高校生もいた。
 こうした子どもへの対処法は、ケースバイケースだが、残念ながら私は指導した経験がないので、これ以上のことはわからない。これからのテーマとしたい。


トラブル

子どものトラブル解決法(1)
 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。たとえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまではいかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をきたすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。そういうトラブルがつづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつのケースを、モデルに考えてみる。
【K君、小三男児のケース】
 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明るかった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通っていたが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。
 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校はいやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすらしない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。
 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰ってきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。
 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断しなければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化する。
 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にやるべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)
(1)家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかりと包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなることが多いが、それはそれとして、大目にみる。
(2)食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切にする。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心を裏から支えるようにする。

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子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。
 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしてはいけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子どもの症状だけを訴えて、それですます。判断や指導は、プロである先生に任す。それがわからなければ、たとえばあなたが病気になったときのことを思い浮かべればよい。あなたはドクターに、自分の診断名や治療法を話すだろうか。そんなことをしても、意味がない。ないばかりか、かえって、診断や治療のさまたげになる。学校という社会では、先生は、まさに教育のドクター。が、それだけではない。
 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わぬ方向に、飛び火したりする。一〇人もいれば、一人はまともでない親がいる。そのうちさらに一〇人のうち一人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込むと、それこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わないの」が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルではすまなくなる。
 私は、つぎのような格言を考えた。
●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふうに考えてはいけない。
●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言うことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたをとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きなキレツが入ることになる。同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生を責めてはいけない。症状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を覚悟しているのなら、話は別だが……。)
●子どもどうしのトラブルは、一に静観、二にがまん。三、四がなくて、五にほかの親に相談……「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決する。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。


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