これからの大学教育
●世の中の流れを見すえながら、子どもたちの未来を考えよう!
ヨーロッパでは、大学はほぼ完全に共通化されたといってもよい。どこの大学で、どのように勉強しても、単位そのものが共通化されている。そのためA大学で勉強しようが、B大学で勉強しようが、単位には関係ない。この日本でも、大学がグループをつくり、同じように単位の交換を始めたところが多い。が、出遅れること、三〇年。少なくとも私がオーストラリアで留学生活をしているときには、すでにそれは世界の常識だった。
アメリカでは、大学への入学後、学部の変更は自由。大学から大学への転籍も自由。私立、公立の区別はない。しかもそうした転籍が、即日にできる。そのため学生は、より高度な勉強を求めて(その反対もあるが……)、大学から大学へと、自由に渡り歩いている。しかも今、それが国際間でなされつつある。
そういう意味では、日本だけが取り残されたとみてよい。いまだに受験戦争があること自体、その証拠ということになる。向こうの学生は、その道のプロになるため大学で勉強する。しかし日本の学生は、学歴を得るために勉強する。この違いは大きい。日本も大きく変わりつつあるが、まだその風潮は根強く残っている。
で、さらに……。学歴志向といえば、台湾の学歴信仰にはものすごいものがある。初対面でも、「あなたはどこの大学の出身ですか」と聞くことが多い。そして四年制の大学を卒業した程度では、プロと認めてもらえない。……というような風潮がある。これは私の個人的な印象だが、台湾をよく知る人は、みなそう言っている。「台湾では、修士号か博士号をもっていないと、相手にされません」と。しかし実のところ、この日本でも、そういう方向に向かって動いている。
「本物の勉強は、大学院に入らないとできない」と、東大の元教授が、話してくれた。大学での勉強は、上から与えられるもの。しかし大学院はそうではない。「だから余裕と、力があるなら、これからは大学院へ行きなさい」と。
その大学院は、以前は、A大学の卒業生が、A大学の大学院へ進み、その大学で助手、助教授、教授と昇進するのが習わしになっていた。が、今は、違う。A大学を出たあと、試験を受けて、B大学の大学院へ進むというのが、ふつうになってきている。たとえば東工大を卒業したあと、東大の大学院へ進むなど。この大学院については、国際化がかなり進んでいるとみてよい。日本の大学を卒業したあと、外国の大学院へ進む学生もふえている。
今、日本の大学制度は大きく変わりつつある。またその流れは加速されることはあって、逆戻りすることはない。恐らく二〇年後には、アメリカ並に、三〇年後にはヨーロッパ並になるだろう。言うまでもなく、それが世界の常識だからである。
(01−9−21)※
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子育て随筆byはやし浩司(116)
日本の英語教育
先日、日本の中学校で英語を教えているオーストラリア人と、食事をした。その中で、「日本の教育をどう思うか」と質問すると、そのオーストラリア人はこう言った。「日本の教育は、何からなにまで、リジッドだ」と。「リジッド」というのは、「rigid」ということ。正確に訳をつけると、「堅い、硬直した、厳格な、堅苦しい、がんこな」(研究社・ライトハウス英和辞典)ということになる。そこで私が、「あなたはどこを見て、そう思うのか」と聞くと、いろいろ話してくれた。その中でも、印象に残ったのは、つぎのことだった。
「私が生徒たちを連れて、教室の外へ出ようとしたら、ほかの先生に止められた。そこでどうしてダメなのかと聞くと、許可されていないからと。これはおかしい。どうして生徒を教室の外に連れ出してはダメなのか。オーストラリアでは、みなしているのに」と。
そこで三人の日本の高校生に聞いてみた。「君たちは、小中学校のとき、体育の授業とかは別にして、ほかの授業で、野外で授業をしたことがあるか」と。すると三人とも、「ない」と答えた。日本の教育と、欧米の教育とは、基本的な部分で発想が違うようだ。
実は、この浜松市でも、昔、野外授業を試みた先生がいた。私が浜松に住むようにまもなくのことだったが、市内の中心部にあるM小学校の先生だった。隣は動物園になっていたし、その一角に、浜松城公園もあった。その先生は、ときどき生徒を連れて、その公園の中で授業をしていた。まだそういう自由が、ある程度容認される時代だった。が、それに「待った!」をかけたのが、ほかならぬ父母たちだった。父母たちは、「子どもの勉強にさしさわりがある」「遅れる」「勉強とは異質のもの」と主張した。で、結局は、私の記憶では、数か月くらいで、その授業はとりやめになってしまった。
確かに日本の教育は、リジッドである。北海道から、沖縄まで、平等、画一教育が基本になっている。戦後の、世界に追いつけ、追い越せという時代には、そういう教育でもよかったが、もうこれからの教育ではない。こんな話もある。
小学校での英語教育が検討されるようになって、もう一七年の月日が流れた。(あるいはそれ以前からもあったのかもしれないが、私が知ったのは、雑誌「ハローワールド」(学研)の企画に入ったそのころだった。)そのときから、「英語教育は必要か否か」という議論が、あちこちでなされた。しかしこういう議論そのものが、ナンセンス。
英語を勉強したい子どもがいる。英語を勉強したくない子どももいる。英語を教えたい先生がいる。英語を教えたくない先生もいる。子どもに英語を学ばせたい親がいる。子どもに英語を学ばせたくない親もいる。だったら、なぜ、英語教育を自由化しないのか、……ということになる。その分、学校を少し早めに終わり、希望者だけ、学校の中、あるいは外で教えればよい。月謝はドイツのように、チャイルド・マネー(月額二三〇ドイツマルク・約一万五〇〇〇)という形で払えばよい。日本中の先生や親たちの意思統一を図っていたら、それこそ一〇年単位で、月日は流れてしまう。そしてその間に、日本はどこまで遅れることやら。ちなみに、東証の上場企業の中から、今、外国企業はどんどんと撤退している※。
オーストラリア人の先生は、「リジッド」と言ったが、そのリジッドさがなくならない限り、日本の教育に明日はない。子どもは窒息し、先生は窒息し、ついで教育が窒息する。
●遅れた教育改革
二〇〇二年一月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの三六社。この数はピーク時の約三分の一(九〇年は一二五社)。さらに二〇〇二年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。
これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。
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