仲間はずれ
仲間に入れない子ども
小学生の低学年児でも、仲間がワイワイ騒いでいるとき、その輪に入ることができず、その周囲で静かにしている子どもは、一〇人の中に二人はいる。適当に相づちを打ったり、軽く反応することはあっても、自分から話題を投げかけたり、話してかけていくことはない。対人恐怖症とか、性格的に萎縮しているといったふうでもない。で、よく観察すると、いくつかの特徴があるのがわかる。そのひとつが、自分の周囲を小さくすることで、防衛線をはるということ。静かにおとなしくすることによって、自分に話題の火の粉がかからないようにしているのがわかる。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
心はいつも緊張していて、その緊張をほぐすことができない。もっと心を開けばよいのにと思うが、その前の段階で、心をふさいでしまう。だからといって社会性がまったくないわけではない。別の集団や、あるいは小人数の気を許した仲間の間では、結構騒いだりすることができる。一方、情緒の何らかの障害があるとき、たとえばここにあげた対人恐怖症の子どものばあいは、集団がかわっても心を開くことができない。
そこでこの段階で、二つの仮説が考えられる。ひとつは、このタイプの子どもを、軽い情緒障害と位置づける考え方。もうひとつは、まったく別の症状と位置づける考え方。心の緊張感がとれないというのは、情緒障害児に共通してみられる症状で、それが「障害」と呼べるほども重くないと考えることには合理性がある。実際のところ、かん黙児が、自分の周囲に防衛線を張り、他者の侵入を許さないという症状と、どこか似ている。
また「まったく別の症状」と位置づけるのは、言うまでもなく、それが「問題だ」と言えるほどの問題ではないことによる。このタイプの子どもはどこにでもいるし、またいたところでどうということはない。ただ親の中には、「どうしてうちの子は、みんなの輪の中に入っていけないのでしょうか」と相談してくるケースは多い。また集団の中では精神的に疲労しやすく、その分、家へ帰ってからなどに、親の前では乱暴な言葉をつかったり、ぐずったりすることはある。が、その程度。集団から離れると、このタイプの子どもは再び自分の世界に戻ることができる。
……というように子どもの心の世界は、複雑で、それだけにまだ未解明の部分が多い。だから「おもしろい」というのは不謹慎な言い方になるかもしれないが、「さらに調べてみよう」という気にはなる。そういう意味では心がひかれる。
ついでながら、この問題について言うなら、集団になじめないからといって、おおげさに考える必要はない。だれしも得意、不得意というのはある。集団の中でワイワイ騒ぐから、それでよいということにはならない。騒げないからいけないということにもならない。そういう視点で、自分の子どもは自分の子どもと割り切ることも、大切である。
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ほかの子どもとじょうずにつきあう法
子どもの社会性は、同年齢の子どもとの接触の中で、鍛(きた)えられる。たとえば双子の子どもがいる。一般論として、双子は、いつももう一人の兄弟(姉妹)との間で鍛えられるので、その社会性があることが知られている。わかりやすく言えば、ほかの子どもとも、じょうずにつきあう技術にたけている。
その社会性は、つぎのようにして判断する。
たとえばブランコを横取りされたようなとき、社会性のある子どもは、その相手に向かって、「どうして取るのよ! 私、今、使っているでしょ!」と、やり返すことができる。そうでない子どもは、たとえば柔和な笑みを浮かべて、ブランコを明け渡してしまったりする。
社会性のある子どもには、つぎのような特徴がある。@他人に対して押すときは押し(自己主張し)、引くときは引く(遠慮する)という行動が明確で、わかりやすい。ワーワーと自己主張しても、まちがっているとわかると、「そうね」などといって、自分の非をすなおに認める。人格の「核」が明確で、教える側からすると、「この子はこういう子」という「つかみどころ」が、はっきりしている。
Aだれに対しても、心を開くことができ、性格のゆがみ(ひねくれ、いじけ、つっぱり、ひがみなど)がない。心を開いている子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。子どもらしく、うれしそうな顔をして、それにこたえる。
B以前、嫌われる子どもについて、調べたことがある。その結果、不潔で臭い子ども。陰湿で性格が暗く、静かな子ども。性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名について調査)。このタイプの子どもは、嫌われるだけではなく、いじめの対象ともなるから注意する。
子どもの社会性をつくるためには、乳幼児期から、心静かで、愛情豊かな環境で、同年齢の子どもと一緒に遊ばせるのがよい。子どもの世界というのは、いわば動物の世界のようなもの。キズつけたり、キズつけられたりしながら、互いに成長する。親としてはつらいところだが、そうした環境が、子どもをたくましくする。まずいのは、親子だけのマンツーマンだけの環境で育てること。「ものわかりのよい世界」は、それだけ居心地がよい世界かもしれないが、それは子どもにとって、決して好ましい世界ではない。
こうした社会性は、年長児(満六歳)前後には決まる。この時期、社会性のある子どもは、その先もずっと社会性のある子どもになる。そうでない子どもはそうでない。それ以後は、どちらにせよ、そういう子どもだと認めたうえで、対処するしかない。
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嫌われっ子、親の責任?
「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、@不潔で臭い子ども。A陰湿で性格が暗く、静かな子ども。B性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名について調査)。
不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」「髪の毛が汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばかりほじっている」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽい」など。子どもというのは、おとなより、においに敏感なようだ。
陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何もしゃべらない」など。「静か」というのもあった。私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味だ」と。
またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自慢話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」など。一人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。
ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いということ。特に@の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌われっ子、親の責任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。
A君(中一)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親もそれに悩んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭とも言えない、何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に問題があるようだが、本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風呂では、体をよく洗うのだぞ」と。が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたという思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出ていってしまった。
幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなでるが、中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこで忠告しようと思ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!
子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑にからみあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたちが考えているほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でしかない。ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも嫌われているということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。いじめの問題についても、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界を論ずる傾向がある。が、それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、ここであえて、嫌われっ子の問題を取りあげてみた。
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