はやし浩司

なにぬねの
ひとつ戻る 目次に戻る トップページに戻る

はやし浩司

仲間はずれ

仲間に入れない子ども

 小学生の低学年児でも、仲間がワイワイ騒いでいるとき、その輪に入ることができず、その周囲で静かにしている子どもは、一〇人の中に二人はいる。適当に相づちを打ったり、軽く反応することはあっても、自分から話題を投げかけたり、話してかけていくことはない。対人恐怖症とか、性格的に萎縮しているといったふうでもない。で、よく観察すると、いくつかの特徴があるのがわかる。そのひとつが、自分の周囲を小さくすることで、防衛線をはるということ。静かにおとなしくすることによって、自分に話題の火の粉がかからないようにしているのがわかる。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
 心はいつも緊張していて、その緊張をほぐすことができない。もっと心を開けばよいのにと思うが、その前の段階で、心をふさいでしまう。だからといって社会性がまったくないわけではない。別の集団や、あるいは小人数の気を許した仲間の間では、結構騒いだりすることができる。一方、情緒の何らかの障害があるとき、たとえばここにあげた対人恐怖症の子どものばあいは、集団がかわっても心を開くことができない。
 そこでこの段階で、二つの仮説が考えられる。ひとつは、このタイプの子どもを、軽い情緒障害と位置づける考え方。もうひとつは、まったく別の症状と位置づける考え方。心の緊張感がとれないというのは、情緒障害児に共通してみられる症状で、それが「障害」と呼べるほども重くないと考えることには合理性がある。実際のところ、かん黙児が、自分の周囲に防衛線を張り、他者の侵入を許さないという症状と、どこか似ている。
 また「まったく別の症状」と位置づけるのは、言うまでもなく、それが「問題だ」と言えるほどの問題ではないことによる。このタイプの子どもはどこにでもいるし、またいたところでどうということはない。ただ親の中には、「どうしてうちの子は、みんなの輪の中に入っていけないのでしょうか」と相談してくるケースは多い。また集団の中では精神的に疲労しやすく、その分、家へ帰ってからなどに、親の前では乱暴な言葉をつかったり、ぐずったりすることはある。が、その程度。集団から離れると、このタイプの子どもは再び自分の世界に戻ることができる。
 ……というように子どもの心の世界は、複雑で、それだけにまだ未解明の部分が多い。だから「おもしろい」というのは不謹慎な言い方になるかもしれないが、「さらに調べてみよう」という気にはなる。そういう意味では心がひかれる。
 ついでながら、この問題について言うなら、集団になじめないからといって、おおげさに考える必要はない。だれしも得意、不得意というのはある。集団の中でワイワイ騒ぐから、それでよいということにはならない。騒げないからいけないということにもならない。そういう視点で、自分の子どもは自分の子どもと割り切ることも、大切である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ほかの子どもとじょうずにつきあう法

 子どもの社会性は、同年齢の子どもとの接触の中で、鍛(きた)えられる。たとえば双子の子どもがいる。一般論として、双子は、いつももう一人の兄弟(姉妹)との間で鍛えられるので、その社会性があることが知られている。わかりやすく言えば、ほかの子どもとも、じょうずにつきあう技術にたけている。
 その社会性は、つぎのようにして判断する。
 たとえばブランコを横取りされたようなとき、社会性のある子どもは、その相手に向かって、「どうして取るのよ! 私、今、使っているでしょ!」と、やり返すことができる。そうでない子どもは、たとえば柔和な笑みを浮かべて、ブランコを明け渡してしまったりする。
 社会性のある子どもには、つぎのような特徴がある。@他人に対して押すときは押し(自己主張し)、引くときは引く(遠慮する)という行動が明確で、わかりやすい。ワーワーと自己主張しても、まちがっているとわかると、「そうね」などといって、自分の非をすなおに認める。人格の「核」が明確で、教える側からすると、「この子はこういう子」という「つかみどころ」が、はっきりしている。
 Aだれに対しても、心を開くことができ、性格のゆがみ(ひねくれ、いじけ、つっぱり、ひがみなど)がない。心を開いている子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。子どもらしく、うれしそうな顔をして、それにこたえる。
 B以前、嫌われる子どもについて、調べたことがある。その結果、不潔で臭い子ども。陰湿で性格が暗く、静かな子ども。性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名について調査)。このタイプの子どもは、嫌われるだけではなく、いじめの対象ともなるから注意する。
 子どもの社会性をつくるためには、乳幼児期から、心静かで、愛情豊かな環境で、同年齢の子どもと一緒に遊ばせるのがよい。子どもの世界というのは、いわば動物の世界のようなもの。キズつけたり、キズつけられたりしながら、互いに成長する。親としてはつらいところだが、そうした環境が、子どもをたくましくする。まずいのは、親子だけのマンツーマンだけの環境で育てること。「ものわかりのよい世界」は、それだけ居心地がよい世界かもしれないが、それは子どもにとって、決して好ましい世界ではない。
 こうした社会性は、年長児(満六歳)前後には決まる。この時期、社会性のある子どもは、その先もずっと社会性のある子どもになる。そうでない子どもはそうでない。それ以後は、どちらにせよ、そういう子どもだと認めたうえで、対処するしかない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

嫌われっ子、親の責任?

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、@不潔で臭い子ども。A陰湿で性格が暗く、静かな子ども。B性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名について調査)。
 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」「髪の毛が汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばかりほじっている」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽい」など。子どもというのは、おとなより、においに敏感なようだ。
 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何もしゃべらない」など。「静か」というのもあった。私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味だ」と。
 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自慢話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」など。一人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。
 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いということ。特に@の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌われっ子、親の責任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。
 A君(中一)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親もそれに悩んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭とも言えない、何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に問題があるようだが、本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風呂では、体をよく洗うのだぞ」と。が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたという思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出ていってしまった。
 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなでるが、中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこで忠告しようと思ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!
 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑にからみあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたちが考えているほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でしかない。ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも嫌われているということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。いじめの問題についても、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界を論ずる傾向がある。が、それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、ここであえて、嫌われっ子の問題を取りあげてみた。



生意気な子ども

 生意気な子どもというのは、どこにもいる。ふつうの生意気ではない。教師を教師とも思わない。おとなやおとなの世界を、完全に軽蔑(けいべつ)しきっているような子どもである。私の経験では、思春期を迎えた女子に多いように思うが、もちろん男子にもいる。

 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。

+++++++++++++++++

生意気な子どもたち

子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、もらっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学三年生だ。もの知りで、勉強だけは、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえている。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえるか、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言った。「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」と。母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほかにも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとなになったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。やはりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くなり、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリートと言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはいけない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

+++++++++++++++++++++

 こうした子どもが、ある一定の割合で、現れるというのは、たいへん興味深い。概して、@頭がよく、それなりに勉強がよくできる。A一人っ子か、裕福な家庭で、わがままに育てられている。B親自身が、子どもの教育に過関心で、「勉強がすべて」という価値観をもっている。原因はともあれ、こうした環境が、子どもの心をゆがめる。

ここで「軽蔑しきっている」という言葉を使ったが、ふつうの軽蔑ではない。子どもというのは、そのときどきにおいて、親や先生に向かって、「ジジイ」とか、「ババア」とか言う。しかし大半は、冗談とわかるような言い方をする。だから言われたほうも、軽くそれを受け流すことができる。しかしこのタイプの子どもには、まったくそれが感じられない。子どもらしい、かわいらしさが、まったく消える。

さげすんだ目つき、横柄な態度と言葉、おとなをなめきった態度など。私に向かっても、「このヘンタイ野郎!」と言って、腹を蹴ってきた女の子(小六)もいた。そういうトゲトゲしいことを、平気で言ったり、したりするようになる。

 問題は、なぜそういう子どもになるかということよりも、親自身が、それに気づいていないということ。親自身の価値観が、一般社会とは価値観がズレているから、説明すらできない。私がその子どもの問題点を指摘しようとしても、この原稿の中にも書いたように、「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」というようなことを言う。「勉強さえできれば、うちの子は、いい子」というような考え方をしている。

 その上、このタイプの子どもは、概して頭がいい(?)。勉強だけは、よくできる。教師の前と、親の前で、別々の人間を演じながら、その双方をうまく操る。こんなことがあった。Hさんという小六になった女の子がいた。それほど裕福な家庭ではなかったが、一人娘で、わがままいっぱいに育てられていた。

 そのHさんの態度が、粗放化し始めたのは、その一年ほど前からのことだった。皆が、どっと笑うようなときども、その笑い声にまじって、「くだらねえこと、言ってるんじゃねえよ。時間のムダだろオ!」と。

 そこで私はHさんを強く、たしなめた。が、たびたびそういうことが重なったので、ある日こう言った。「一度、君のお母さんに相談するよ」と。が、それから一か月もたたないうちに、母親から電話があって、「今度六年生になりますから、どこか進学塾へ移ります」と。

 こういうことはよくあること。Hさんは、家で、私の先手をとったわけである。こういうケースでは、子どもは、まず、家で私の悪口を言い始める。悪口をさんざん言って、親をして、「林はくだらない教師」と思わせるように、しむけていく。あるいは子ども自身が、「もっと、高度な勉強をしたい。だからもっとレベルの高い、進学塾に行きたい」とか何とか言うときもある。こういう仕事を三〇年以上もしていると、そういった子どもの心が手に取るようにわかる。

 で、そのときも迷った。本当のことを言うべきかどうか、と。しかし結局は、何も言わなかった。言う必要もない。私の世界にかぎらず、教育の世界には、「一〇%のニヒリズム」という言葉がある。どんなに教育に没頭しても、最後の一〇%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心も、ズタズタにされてしまう。

 その日が最後のレッスンというとき、そのHさんが、また暴言を吐いた。「あんたの教え方は、ヘタクソって、言ってんだよ。今日でこの教室を、やめてヤラー、このバカヤロー!」と。そのときは、私も遠慮せず、Hさんをたしなめた。しっかりと、にらみつけながら、こう言った。「なぜ、私が怒っているか、わかっているね。これから先、君は、どんな人間になるかは知らないが、私のこの目だけは忘れないほうがいいよ」と。

 それがよいか悪いかということになれば、悪いに決まっているが、このタイプの子どもほど、この受験社会を、スイスイとくぐり抜けていく。そして結果として、日本の支配階層をつくり、日本という社会をつくっていく。で、私は、いつも、こういう子どもだけは作ってはいけないと思っている。思っているが、どういうわけか、ある一定の割合で、こういう子どもができてしまう。これも現代の教育がかかえる、矛盾の一つということになる。
(030315)

【生意気な子どもにしないためのアドバイス】

 生意気な子どもイコール、ドラ息子、ドラ娘と考えてよい。そのドラ息子には、つぎのような特徴がある。

●ドラ息子症候群

@ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

Aものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。


Bものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。Cバランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。

 こうした子どもにしないために……。これは以前、中日新聞で発表した記事である。
++++++++++++++++++++

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?
 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●一〇〇%スポイルされている日本の子ども?
 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。

つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●原因は家庭教育に
 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に
 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。

生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力
 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる
 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの一〇分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む
 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むことをいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に
 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。@生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。B忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。C生活のルールを守らせる。D不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、Eバランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを忘れてはならない。



二番目の子

二番目の子は、親と疎遠?

 「三人兄弟の第二子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大学大学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞〇二年五月)という。
 同大学院認知行動科学研究所が、全国の三人兄弟の大学生男女一二九人に、一か月に何回、両親に電話するかを聞いたところ、
 長子…… 6・9回
 第二子……4・6回
 末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。男女別に分けても、傾向は同じだったという。さらにその報告によれば、「出生順位と親子関係について、一九九八年にカナダで行われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の子どもは両親をあまり親しい人物と考えていないという結果が出ている」という。理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占できる期間があり、末子も、その後に弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析している。そして「一方、じゅうぶんに手をかけてもらっていない中間の子どもは、両親への清密度を減らす」とも。
 ……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査によれば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこちの本の中で、そう書いてきた。が、問題はその先。
 嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、愛想がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ようになり、仮面をかぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に引こうとする。が、さらにその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、何を考えているかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」が出てくるようになる。タイプとしては、@暴力的、攻撃的になるプラス型と、Aジクジクと内へこもるマイナス型に分けることができる。大切なことはそういう状態になる前に、子ども自身が今、どう状態なのかを親側が知ることである。ここにも書いたように、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心はゆがむ。
 さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両親への清密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の子だけに特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」と。


伸び悩む子ども

子どもの能力を伸ばす法(プラスの暗示をかけろ!)
子どもが伸びるとき
●伸びる子どもの四条件
 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。@好奇心が旺盛、A忍耐力がある、B生活力がある、C思考が柔軟(頭がやわらかい)。
@好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、身のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多才。友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。何か新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」とか言ったりする。
A忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといって、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。そういう仕事でもいやがらずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。あるいは欲望をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さないなど。こんな子ども(小三女児)がいた。たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか?」と声をかけると、こう言った。「これから家で食事をするからいいです」と。こういう子どもを忍耐力のある子どもという。この忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)→(できない)→(いやがる)→(ますますできない)の悪循環の中で、伸び悩む。
B生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹の世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせればできるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン(アメリカの詩人、「自然論」の著者、一八〇三〜八二)も、『教育に秘法があるとするなら、それは生活を尊重することである』と書いている。
C思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずらでも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬいてトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。
 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態になり、子どもの心がつかみにくくなる。
●子どもを伸ばすために
子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示をかけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あなたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。もしあなたが、「うちの子は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは「あなたはダメになる」式のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな子ね」式の、その子どもの人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。
その上で、@あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする(好奇心をますため)。またA「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝いはさせる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる(忍耐力や生活力をつけるため)。そしてB子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場では、「アレッ!」と思うような意外性を大切にする。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いことによる。マンネリ化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言えない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
【補足】

あとで伸びる子、伸び悩む子

 中学や高校の後半になって、学習面で、伸びる子と伸び悩む子がいる。どこがどう違うか?

 まず伸び悩む子どもだが、自分で勉強していくという姿勢そのものがない。依存心が強く、だれかに指示してもらわないと、何もできない。子どものときから、手取り、足取り、指導されていると、子どもはそうなる。

 私の本業は、学習塾だから偉そうなことは言えないが、子どもは、その塾づけにしてはいけない。子どもを塾づけにすれば、ある学年までは伸びるが、そのあと、伸び悩む。そこで私のばあい、子どもが高学年になればなるほど、「自分で勉強しなさい。わからないところだけをもってきなさい」というような教え方をする。一見、冷たい教え方に見えるかもしれないが、そのほうが、結局は、子どものためになる。

 まずいのは、子どもを塾づけにし、依存心をもたせてしまうこと。もっとも、ずるい進学塾などは、親も子どもも、むしろ塾づけにすることによって、塾から離れられなくする。そのためにどうするかということを、彼らは、企業戦略の一つとして、毎日のように研究している。簡単な方法としては、「この塾を離れたら、勉強ができなくなりますよ」「成績がさがりますよ」という状態にする。方法は、いくらでもある。

 ……こういう話は苦手なので、ここまでにしておく。私はそういう意味で、知りすぎている。詳しく書けば、同業の仲間を裏切ることにもなる。私の姿勢はどうであれ、仲間は仲間だ。それにいくら「私だけは違う!」と叫んでみても、世間は、そうはみてくれない。とくにこの日本では、地位や肩書きだけで、相手を判断する。その傾向が強い。

 しかし大切なことは、子ども自身が、自ら伸びていくように、その方向性と原動力をつくること。そして子どもに任すところは、思いきって任す。親としては、やりすぎない。その限度をしっかりと守る。

 もちろんそれでも伸び悩む子どもというのは、いる。しかしあなたにも限界があるように、そして限界があったように、だれにでも限界はある。その限界を認めて、あとは子ども自身に任す。もっとはっきり言えば、あきらめる。まずいのは、「まだ何とかなる」「うちの子はやればできるはず」と、子どもを追いたてること。そして伸びる芽まで、反対に摘んでしまうこと。

 では、どうするか……? それを説明するのが、私の役目ということになる。これからそれについて、一つずつ説明していきたい。

●リズムを守り、無理をしない。
 学習面で子どもを伸ばすためには、リズムをつくり、そのリズムを守る。毎日のリズム、毎週のリズム、そして学期ごとのリズム、と。そのリズムは、ときに単調で、退屈なものだが、そのリズムの中で、子ども自身が変化するのを、辛抱強く、待つ。そういう意味で、学習塾を利用するのは、悪いことではない。

 コツは、決して、無理をしないこと。子どもの能力が、七とか八のレベルなら、家庭での学習は、五とか六のレベルで進める。大切なのは、子ども自身が感ずる達成感である。あるいは低学年児であれば、満足感ということになる。「できる・できない」ではなく、「どう楽しんだ」かを大切にする。

●本読みが、すべての学習の基本
 小学生のばあい、理科も社会科も、「理科的な国語」「社会科的な国語」と考えるとよい。つまり本を読んで理解するが、理科や社会科の力の基本になる。反対に、本を読んで理解するということが苦手だと、ほとんどの科目に、その影響が出てくる。

 そんなわけで、読書を、家庭教育の中心にすえるとよい。アメリカの小中学校でも、読書(ライブラリー)の授業を、たいへん重要視している。学校の図書室も、たいてい玄関を入ると、すぐのところにある。

 問題は、いかにして本を読ませるかだが、親がテレビを見ながら、子どもに向かって、「本を読みなさい」は、ない。親自身が、日常的に本に接すること。そういう姿勢が、子どもを本好きにする。

 ただ漢字と、計算練習は、別に、毎日少しずつしたほうがよい。しかし量に注意する。小学校の低学年児では、毎日一〇〜二〇分が限度ではないか。高学年児でも三〇分を限度とする。子どもにもよるが、毎日の課題は、過負担にならないようにするのが、コツ。

●月刊ワークブックを利用する
 現在、多くの月刊ワークブックが市販されている。チャレンジ、毎日の学習、ポピー、トレーニングペーパー、エースなど。ここに名前をあげた教材は、どれも編集面ですぐれた教材である。選ぶとしたら、この中のものを、推薦する。ただ子どもの好みやレベルの問題があり、どれがどうとは言えないが、だいたいつぎのような基準で選べばよい。

(チャレンジ)総合雑誌的で、子どもを楽しませる内容になっている。分厚い雑誌風の教材が送られてくるが、子どもが実際取り組む内容は、見た目ほど、多くない。程度は、中レベル。中学生、高校生用の「進研ゼミ」と連動していて、大学受験まで段階的につながっているので安心。(ベネッセコーポレーション)

(毎日の学習)学習月刊雑誌としては、無駄のない編集になっている。勉強を意識した内容になっている。幅広い親子に支持され、長い年月をかけて熟成された教材と言える。程度は、中のやや上レベル。(学研)

(ポピー)「ポピー」というやさしいネームから連想されるように、量も少なく、レベルもやや低いが、子どもには、その分、負担が軽い。とりあえず月刊教材を……と考えている人には、選んで失敗がない。低学年児で、その気になれば、一時間程度ですませてしまう。親がそばについていれば、予習用としても使える。(全家研)

(トレーニングペーパー)量も多く、本格的な月刊教材。遊びがほとんどない。かなり勉強ぐせのしっかりした子ども向き。レベルは、高いが、ステップアップ方式で編集されているので、それをこなしていくうち、そのレベルまで到達できるようになっている。家庭教師などと併用すると、効果が大きい。(教育社)

(エース)量も、内容も中レベル。子どもに負担がない編集になっている。学研の「毎日の学習」に似た編集になっているが、「毎日の学習」より、ややレベルが低い。しかし値段が手ごろなので、もっとも無難な教材といえる。(リコー)

 以上、あなたの子どもの学力が心配なら、ポピーかエースを。まあまあふつう程度の学力があるなら、毎日の学習かチャレンジを。トップレベルをねらうなら、トレーニングペーパーを、ということになる。値段的に手ごろなのは、エースかポピー。子どもの様子をみて、選ぶとよい。

●段階的に組みたてる
 子どもの教育はマラソンに似ている。スタートから飛び出すと、息切れしてしまう。あるいはいつまでものんびりと走っているわけにはいかない。おおむね、つぎのようなステップを頭に置きながら、家庭教育を組みたてるとよい。

(小学一、二年児)「勉強は楽しい」ということだけを考えて、家庭学習を考える。この時期は、「遊び半分、勉強半分」という考える。「勉強は、勉強部屋で、学習机に向かってするもの」という固定観念は、あまり意味がない。

(小学三、四年児)リズムを大切にする。大きな変動は好ましくない。親があせって、リズムを乱したりすると、学習そのものが大きな影響を受けるので注意する。子どもが自覚するまで辛抱強く待つ。学校での学習がわかる程度にしながら、淡々と日々を過ごす。この時期は、無理をしない。

(小学五、六年児)この時期になって、子どもに「勉強しよう」「もっとしなければ」という意欲が現れてくる。その意欲に応じて、学習塾や進学塾をじょうずに利用するとよい。まずいのは、子どもの意思を確かめないまま、親が子どもを引き回すこと。この時期、一度子どもの「やる気」を折ると、それを回復するのは、かなりむずかしい。子どもといいながら、すでに半分はおとなとみて、子どもの心を大切にする。

●子どもの「力」を知る
 自分の子どもの能力が、どの程度かを知るのは、とても大切なこと。と、同時に、それを知るのはたいへんむずかしい。そこで簡単なチェックテスト。つぎの項目で、あなたの子どもについて、あてはまるのに、(○)をつけてみてほしい。

( )ときどき、こんなこともわかっていないのと思うことがある。学校のテストでも、とんでもないミスをしたり、トンチンカンな答を書いたりすることが多い。
( )何となく毎回、そのつどごまかしてテストをしているような感じ。丸がついている問題でも、あとで聞くと、まったく理解していないことがある。
( )学校の先生と話しても、ほとんどほめられることがない。クラスの仲間たちにも、軽く見られているようなところがある。
( )家ではあきっぽく、無理に勉強をさせても、時間ばかりかかって、ほとんど何もしない。フリ勉、ダラ勉が目につく。何ごとにつけ、集中力がない。
( )いつ見ても、机のまわりが雑然としている。勉強をしているという雰囲気が、あまり感じられない。学校での様子を聞いても、「まあまあ」というような、あいまいな言い方をして、逃げてしまう。
( )いつも、つきあっている仲間の子は、どの子も、できの悪そうな感じがする。趣味も享楽的、退廃的。静かで知的な会話をすることができない。
( )趣味のハバもせまく、いつも同じ仲間と、同じようなことをしている。本といっても、読むのはマンガばかり。作文や漢字が苦手。
( )ワークブックや教材を買い与えても、ほとんどしない。(月刊教材もたまっていく一方。)
( )何かを教えても、時間ばかりかかる。またやっとできるようになったと思っても、つぎの週には、きれいに忘れてしまっていることが多い。万事に逃げ腰。事務的。やる気がほとんどない。
( )幼児のときから、何かにつけて、遅れがち。言葉の発達、文字、数への興味など。そのつど苦労をさせられた。親子のリズムがあまり合っていないと感ずることが多い。

 このテストで、

【○が8〜10個】?????
【○が5〜 7個】かなり能力的(学習面での)に心配な子どもとみる。(失礼!)
【○が2〜 4個】平均的な能力の子どもと思われる。
【○が0〜 1個】かなり優秀な子どもとみてよい。

 ここで、かなりきわどいことを書いてしまったが、能力を見誤ると、かえって伸びる芽を摘んでしまう。そういう意味で、子どもの能力を的確に知るのは、子どもの能力を伸ばすための必要不可欠な第一歩ということになる。この能力を見誤ると、(無理をする)→(ますます勉強が苦手になる)の悪循環の中で、子どもの成績はますますさがる。

 小学三、四年生になると、子どもの学力も、かなり正確にわかっていくる。レベルも定着してくる。そのレベルの範囲で、プラスアルファの部分として「伸び」を考えるのは、それは当然だとしても、あくまでもプラスアルファ。そういう視点で、子どもの学習をみる。
(030226)※



伸びる子ども

 あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。
( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。 
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。
 以上、二〇問のうち、二〇問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということになる。もし○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。あるいはもしあなたの子どもがまだ、〇〜二歳であれば、ここに書いたようなことを、三〜四歳にはできるように、子育ての目標にするとよい。五〜六歳になったとき、全問(○)というのであれば、あなたの子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

伸ばす子育て

 子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、問題はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつぶしてしまう子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集中する。
 その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と思うケースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い視線が子どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやりながらも、「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。あるいは親の過剰期待や、子どもへの過負担から、子どもが無気力状態になるケースもある。小学校の低学年で一度そういった症状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可能とさえ言ってよい。しかしそういう状態になってもまだ、親は、「何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。で、私が学習に何とか興味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」とか「さらに」とか言って無理をする。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。さらに大きな悪循環の中で、やがて子どもはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪化して、情緒障害や精神障害に進む子どももいる。もうこうなると、打つ手はかぎられてくる。(実際には、打つ手はほとんどない。)
 が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私に任せてほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばかりに、またまた無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。がまんできない。「このままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれしてしまう。そしてそれが最後の「糸」を切ってしまう。
 問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかということ。そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。これは子育てにまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命との戦いであるといってもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。おかしい。そう、その狂いやおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、賢い親ということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

子どもを伸ばす会話術

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える)
●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。
●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するのですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)
●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。
●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁句)
●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、基本的に違う)
●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。
●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避ける)
●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっと喜ぶわ」と言う。
●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに教えてね」と言う。
●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。
●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言う。
●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向きのプラスの暗示をかける)
●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠点を積極的にほめる)
 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法ではなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法など。あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子どもには、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えてあげようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子どもに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。


  TOP   MENU