勉強が苦手
●勉強が苦手……といっても、いろいろなタイプがあります。
(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ、など。
まだほかにもいろいろなタイプの子どもがいるかもしれませんが、ここではよく
観察される四つのタイプの子どもについて、考えてみます。
考えない子ども
「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。
この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げてしまうタイプである。
懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。
今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。
そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。
結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰り返し。
そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。
勉強が苦手な子ども
勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。
しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で大切なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。
そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。
(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができる点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。
何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。
パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。
歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。
勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。
(1)思考力そのものが散漫なタイプ
思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。
もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。
思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!
一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。
このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますかという問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。
一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。
ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。
しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。
このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。
そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。
このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。
思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴力を使って解決しようとするかも?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。
子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のアルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。が、このタイプの子どもは、その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。
原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができてしまっている。
記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところにある。
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子どもに勉強ぐせをつける法(五悪に気をつけろ!)
子どもが勉強から逃げるとき
●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉
子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しかしその実、何もしていない。何も考えていない。次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつぶすなど。
●一時間で計算問題を数問!
こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワークブックを持ってきた。見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよくできるようになると思っていたらしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易でない。
●意欲を奪う五つの原因
子どもから学習意欲を奪うものに、@過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、A過関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、B過剰期待(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、C過干渉(何でも親が先に決めてしまう)、それにD与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。
たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれは誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでなければやはり逆効果。
要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほうが、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。
ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。
●変わる「勉強」への意識
もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」から、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそれを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリーダーになった。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられるから、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別にして、今はそういう時代なのだ。
……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。
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| / \ |│ちぇ〜 │
q ・ ・ p│つまんないの〜│
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/Σ▽乃\ ┘
(│ : │)
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子どものやる気を引き出す法(四悪を避けろ!)
子どもがやる気をなくすとき
●学習の四悪
子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テストで百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「お隣のA君は、もうカタカナが書けるのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実にやる気をなくす。勉強嫌いになる。
●無理・強制・条件・比較
@無理……子どもに与える教材やワークは、子どもの能力より、ワンランクさげるのがコツ。できる、できないよりも、子どもが勉強を楽しんだかどうかを大切にする。イギリスの格言にも、『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』というのがある。前向きに学習する子どもは伸びるし、そうでない子どもは伸びない。しかも子どもというのは一度うしろ向きになると、いくら時間とお金をかけても、一方的にムダになるだけ。親があせればあせるほど、かえって勉強から遠ざかってしまう。そういうのをこの世界では、「空回り」というが、この空回りを感じたら、さらに思いきって内容をワンランクさげる。
A強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要するに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。
B条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもしれないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、「勉強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」という意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生すらいた。そうなる。反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、「勉強は自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局は子どもを自立させる原動力となる。
C比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そうなればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。
……というのは、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族も少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代を経験したためにそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だから、私は幸福」「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。たとえば日本人は、「あなたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりすると、それだけでへんに納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要するに、無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目で見れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。 |