はやし浩司

はひふへほ
ひとつ戻る 目次に戻る トップページに戻る

はやし浩司

発語障害

子どもの発語障害を考える法(発音教育をせよ!)
子どもの発語障害を考えるとき 
●発音教育をしないのは日本だけ 
 世界広しといえども、幼児期に発音教育をしないのは、日本ぐらいなものではないか。私が生まれ育った岐阜県の美濃地方では、「鮎(あゆ)」を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ・エジ」と発音する。だから、「この鮎は、よい味だ」と言うときは、「このエエうァ、エエ・エジやナモ」と言う。方言が悪いというのではないが、こういう発音を日常的にしていて、それを正しい文に書けと言われても、できるものではない。そんなわけで私は小学生のころ、作文が大の苦手だった。子どもながらに苦労したのを、記憶のどこかで覚えている。まだある。この日本では幼児の発音に甘く、子どもが「デンチャ(電車)」「シュジュメ(すずめ)」と発音しても、それをかえって、「かわいい言い方」と、許してしまう。
●幼児の発語障害
 「発語障害」というときは、構音障害(発音、発語障害)、吃音障害(どもる)、音声障害(ダミ声、鼻声、かすれ声)、それに発音器官に器質的な障害があるばあい(口蓋裂)などを総称していう。しかし現場で「発語障害」というときは、この中の構音障害をいう。たとえば「机」を「チュクエ」、「学校」を「ガッコ」、「バッタ」を「バタ」と言うなど。言葉の一部の音を変えたり、ぬかしたりする。口唇、歯列、舌などの器官を総称して、構音器官という。この構音器官に機能的な障害があると、子どもはここにあげたように独特の発音をするようになる。幼児は、サ行(猿→シャル)、ザ行(ぞうり→ジョーリ)、ラ行(ロケット→ドケット)が苦手だが、これらが正しく発音できれば、よしとする。さらに発音するとき、舌の位置がずれると、サ行がシャ音化(魚→シャカナ)したり、同じくサ行がチャ音化(魚→チャカナ)したりする。ほかにラ行がダ音化することもある。「ラジオ」を「ダジオ」と言うのがそれである。満五歳を一つの目安として、それまでに正しい発音ができるようにする。
●なおしにくい「カ」行障害児
 以上は比較的なおしやすい構音障害だが、なおしにくいのもある。カ行をタ音化するカ行障害(五個→ドト)などは、指導が難しく、なおすのに数年かかることもある。五、六歳児についていえば、全体の五%前後にその傾向がみられる。しかしあまり神経質に指導すると、子どもが自信をなくしたり、さらに失語症になったりするから注意する。少し古い資料だが、アメリカ言語聴覚学会の報告によれば、指導が必要な構音障害児の出現率は、三%とされる(一九五一年)。症状にも軽重があり、ふつう児との線引きも難しいが、その傾向のある子どもまで含めると、「つ」を「チュ」と発音するケースが、約二〇%。何らかの指導が必要と思われる幼児は、約五〜一〇%というのが、私の実感である。
●幼児期から発音教育を!
 こういう発語障害をふせぐためには、子どもが言葉を話すようになったら、息を子どもの顔に吹きかけながら、口の動きを正確にしてみせるとよい。幼児語(自動車→ブーブー、電車→ゴーゴー)などは、かえって発語の発達を遅らせることになるので、注意する。言葉の発達そのものを遅らせることもある。ある男の子(年長児)は、「三輪車」を「シャーシャー」、「押す」を「ドウドウ」と言っていた。だから、「三輪車を押す」は、「シャーシャー、ドウドウ」と。が、それでも発語障害が残ってしまったら……。各市町村の保険センター、もしくは教育委員会に相談窓口があるので、そちらへ問い合わせてみるとよい。

●子どもの発語診断
○この診断シートによって、幼児の発語(発音)の発達程度が診断できます。
【診断方法】
(1)おうちの方が、(もとの言葉)を、ゆっくりと発音してみせ、続いて、子どもに、それを復唱させて診断します。
(2)このとき、子どもがどんな発音をしても、それについてとやかく言ってはいけません。子どもの発音を聞き、その評価にあてはまる個所(欄)に○をつけてください。



反抗

ある母親の相談から
 こんな手紙を受け取った。手紙というより、ある団体が集めた、相談用紙だった。そのひとつ。
 「年中の男のです。ひらがなの書き順がめちゃめちゃ。なおしてあげようとすると、大声で泣いて暴れて抵抗します。それに手と足の指の爪をかむクセがどうしてもなおりません。何かあると、やたらと『頭が痛い』と言い、『じゃあ、病院へ行こうか』と声をかけると、『いい』と言います。おかげで私は毎日、子どもを怒ってばかり。親が怒りすぎるのは、どうしたらよいでしょうか。このところ、私の言うことなど何も聞いてくれません。気にくわないことがあると、手当たり次第にものを投げつけたりします」と。
 順に考えれば、@大声で泣いて暴れるのは、かんしゃく発作。A手と足の指の爪をかむのは、神経症による代償行為。B「頭が痛い」というのは、本当に痛ければ、やはり神経症、もしくは何らかの恐怖症の初期症状。C親が怒ってばかりいるのは、家庭教育そのものが、すでに危険な状態に入っている。D「私の言うことは何も聞いてくれない」というのは、親子断絶の初期症状などなど。E書き順を教えるのが、文字教育と思い込みすぎている点も、気になる。こういう指導法は、子どもを文字嫌いにする。さらには国語嫌いにする。エビでタイをつる前に、エビを食べてしまうような指導法といってもよい。この時期大切なことは、文字は楽しい、本はおもしろいという前向きな姿勢を育てること。トメ、ハネ、ハライをうるさく言い過ぎると、子どもは文字に対して恐怖心をもつことすらある。ちなみに年中児で、「名前を書いてごらん」と指示すると、約二〇%の子どもが、顔を曇らせ、体をこわばらせることがわかっている。中には涙ぐむ子どもすらいる。一度、こうなると、以後、文字(本や国語)が好きになるということは、まずない。
 が、それ以上に気になるのは、この母親は、子どものリズムというものが、まったくわかっていない。いつも「自分が正しい」という大前提で、自分の子育て法を子どもに押しつけている。子どもは子どもで、親にあたふたと引っ張りまわされているだけ。親子の間に、こういう不協和音が流れると、あとはそれが底なしの悪循環となって、家庭教育は完全に崩壊する。あと数年もすれば、体格も大きくなり、親の手には負えなくなる。子どもは「ウッセエ、このババア、サッサと、小づかい、よこせ!」と、言うようになるかもしれない。
 こういうケースでは、@〜Eの症状は、いわば表面的な症状。基本的には、母親が子どものリズムで生活していない。言いかえると、これらの問題を解決しようとするなら、まず子どものリズムで生活すること。親意識が強ければ、それを改める。さらに母親自身に何か大きなわだかまりがあるのかもしれない。あればそれが何であるかを知る。子どもをなおそうと思うのではなく、自分自身をなおす。あとは少し時間がかかるが、それでなおる。年中児といえば、なおすための、そのギリギリの年齢とみてよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

見方を変える

 中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていることそのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのたびに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。
 名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
 ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだけだよ」と。
 ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も一八〇度変わるということだが、「何もかもダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方なのだ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを吸う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うのは、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけなければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。そしてそういうとき親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さえいる。が、そういうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方なのだ。
 今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数一〇億年という歴史の、その瞬間に、同じく数一〇億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ時代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、どんな問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた自身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべての問題は解決する。
 ……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。何とも深刻な話になってしまったが、あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
※……イラン映画「桜桃の味」



反抗期(第一反抗期)

Q:三歳の息子ですが、このところ反抗がひどくて困ります。どう対処したらよいでしょうか。(静岡県G市・MK)

第一反抗期

 あなたの子どもに、第一反抗期は、あったか? 

外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という※。二〜四歳の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 子どもは、この反抗期をとおして、親に対して、絶対的安心感をもつことができるようになる。どんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだという安心感である。この安心感が、親と子どもの間の信頼関係の基本になる。ここでいう「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。

 よく誤解されるが、子どもが親に反抗することは、悪いことではない。悪いのは、子どもがその反抗心を自分の心の中に、おし隠してしまうことである。俗にいう、「いい子ぶる子ども」というのは、それだけ自我の発達※が遅れるのみならず、親も含めて、人と信頼関係が結べない子どもとみる。

 このタイプの子どもは、自分の心を守るために、さまざまな特殊な行為(問題行動)を繰りかえすことが知られている。

●異常な依存心……だれかにベタベタに甘える。だれかれなく、愛想がよくなり、こびを売るようになる。しかし心を開けないため、孤独。不安。他人に対して愛想がよくすることにより、身のまわりに、「自分は愛されている」という環境をつくろうとする。

●引きこもり……人との接触を断ち、自分の世界に閉じこもる。人と接すると、必要以上に気をつかい、神経疲労を起こしやすい。不登校の原因となることもある。つまり人との関係を断ちきることによって、身の保全をはかろうとする。

●異常な敵対心……行動が攻撃的になり、自分以外のすべてのものは、「敵」と位置づけて、排斥したり、否定したりする。非行、集団非行に走るケースも多い。攻撃的に相手を否定することで、自分の優位性を保とうする。

●異常な隷属心……たいていは親に対してだが、その人に異常なまでに隷属する。隷属することによって、身の保全をはかる。このタイプの子どもは、必要以上に相手にへつらったり、ペコペコする。

これらの行為は、子どもによって、さまざまに変化する。しかし共通しているのは、信頼関係が結べないことによる、不安と孤独、焦燥と心配を解消するため、自分の心を守ろうとしている点である。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 そこであなたの子どもチェック。

 あなたの子どもは、二〜四歳の第一反抗期のとき、あなたという親に対して、好き勝手なことをし、また言っていたか。あなたは親として、それを許していたか。もしそうなら、それでよし。しかしもしあなたの子どもが、あなたの前でいい子ぶったり、反抗らしい反抗もしないまま、今に至っているなら、かなり注意したほうがよい。これから先、ここでいうような問題行動を起こす可能性は、たいへん高い。あるいはすでにそれは始まっているかもしれない。

 子どもというのは、それぞれの時期に、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。反抗期はまさにそのカラを脱ぐ時期と考えてよい。それぞれの時期にうまくカラを脱げなかった子どもは、あるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。たいていは激しい摩擦と、軋轢(あつれき)を引き起こす。たとえば家庭内暴力を起こす子どもも、こうしたメカニズムで説明できることが多い。

 だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親としてそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた視点で子どもを見るようにする。
(030303)

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

※……「自我」というのは、要するに、その子どもの「わかりやすさ」をいう。教える側からみると、「つかみどころ」ということになる。自我の発達している子どもは、何を考え、何をしたいかが、外から見ても、たいへんわかりやすい。したいことをし、言いたいことを言う。YES、NOをはっきりと言う。一方、自我の軟弱な子どもは、それがわからない。何を考えているかすら、わからないときがある。どこか仮面をかぶったような感じになる。


反抗期(思春期の反抗)

 
●掲示板への相談から……

 Fさんという方から、こんな書き込みがありました。まず、それをそのまま転載させていただきます。

+++++++++++++++++

朝、子どもを起こして、学校に出すまでが苦労・・・。
放っておけば、いつまでも寝ています。
別に学校なんてつまらないし、部活があるから行くけど
と言う、中2の息子。
疲れたと言って休む事も、月に1回位あります。
夜は11時頃就寝しています。

高校受験もあるし、世の中を舐めきったような態度が許せません。
わがままに育てた私が悪いのでしょうが、このまま本人が自覚するまで待つしかないのでしょうか?
ちなみに土日の部活には、きちんと起きます。

+++++++++++++++++++

 みんなそんなものではないでしょうか。Fさんの息子さんだけが、特別ということでもないでしょうし、またそうであるからといって、特別な子どもというわけでもないでしょう。

 少し前、子どもの反抗期について書きました。もう一度、それをここで書き改めてみます。(前作の改訂版というところです。)

+++++++++++++++++++

●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、吹かすな!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のよりどころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さがし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何らかの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースである。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることがある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとなしいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイプの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全なまま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、みなさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

+++++++++++++++++++++++

以下2作は、先日送った原稿と、ダブります。お許しください。

+++++++++++++++++++++++

●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。(*浜松市AB幼稚園元園長)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考えさせられた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私たち自身の問題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(月刊M誌・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかったのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっているような経験は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、Kさんを笑っているのでも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してかかえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパターンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けないから、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、その一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責めるのは、正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。子どもは、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想とする子ども像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、いろいろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うことも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできないからです。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場で、もっというなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけてみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまうでしょう。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」とか、「お母さんも、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですから、それを一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子どもは、自分の道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子どもを、側面から支えることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが子どもになすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、そういうふうに、考えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行ってはほしくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子どもの間の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題があったかと聞かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗したという点です。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性ということで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の子育てをしてきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよくて、2つとか3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してください。(みんな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みんな、問題だらけですよ。外からは、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの不安や心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏感に感じ取って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番底があります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届かない遠くに行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっしょに、歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえし、(3)ほどよい親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、それまでということです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、自分を光らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、一芸が、子どもを伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分のしたいことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれにまさる、不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、前向きに生きている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かなり親意識の強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう意識をつくりあげられてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられるもの。子どもは、親を踏み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいのです。それが親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっと言えば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということです。あなたの子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、そういうときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そういうときは、「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやがるでしょうが……。)あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むのです。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、ママ」と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)にやって、よい成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんのかかえている問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクしていますが、あなたの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているのです。そういう目で、見てあげてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●宗教心

 頭がボケ始めた兄は、実家にいるころは、欠かさず、その命日には、墓参りをしていた。そのこともあって、私といっしょに住むようになって、しばらくたった、ある日のこと。突然、「墓参りをしたい」と言い出した。

 これには、ハタと困った。

 我が家には、仏壇はあるが、中身は、カラッポ。墓など、どこにもない。

 しかたないので、去年、何かの賞でもらったトロフィーを、兄に渡した。

 「なっ、この上に、観音様がのっているだろ。羽のはえた観音様だよ。おっぱいが、大きいだろ。それだけ、ご利益もあるというわけ。

 この観音様に、毎日、祈るといいよ」と。

 そのトロフィーは、3段になっていて、一番下が地球儀、その上が、提灯様にふくらんだ、球。そしてその上にもう一つ、ローソク立てのようになっていた。女神は、その上で、羽を広げて立っていた。

 さっそく、兄は、そのトロフィーに向って、何やら、祈り始めた。

兄「何て、祈るんだ?」
私「さあ、何でもいいよ。頭がよくなりますように、でもね」
兄「頭は、悪くない」
私「だから、お前は、重症なんだよ」と。

 そして私は兄を、仏壇の前に連れていった。電動で、扉が開閉したり、電気が点灯したりする。兄が祈るのに合わせて、こっそりと、電気をつけてあげたり、扉を開閉させたりしてみせた。それを見て、兄は、「不思議やなあ」と言って、ますます、真剣に祈り始めた。

 「そういうものかあ?」と思ってみたり、「こんなことしていいのかなあ?」と思ってみたりする。

 まあ、私も、一応、真剣なフリをして、兄の横に座って、祈ってみせる。

私「何か、悲しいことや、困ったことがあったら、ここで祈るといい」
兄「わかった」
私「この神様は、ご利益があるぞ。何でも、お前の願いをかなえてくれるからな」
兄「わかった」と。

 居間へもどると、そこでワイフが、洗いものをしていた。「まあ、あんなもんだよ」と私が言うと、ワイフは、笑ってはだめだというふうに、笑い虫を懸命に押しつぶしながら、こう言った。「いいの? あんなウソ言ってエ?」と。

 まだ、私の兄ということで、何かの遠慮をしているようだ。

 少し曇った、どんよりとした空。そのとき、ワイフがこう言った。「お米がなくなったから、あとで、買い物に行こう」と。私は、すかさず、「いいよ」と答えた。


●現実の子どもVS理想的な子ども像

 心理学の世界には、(現実自己)という言葉と、それに対して、(自己概念)という言葉がある。

 「現実の自分」を、(現実自己)という。一方、「私はこうでありたい」「こうあるべきだ」という概念を、(自己概念)という。このギャップは、小さければ小さいほどよい。人間性は、そこで安定する。が、このギャップが大きいとき、そこから劣等感が生まれる(フロイト)。

 同じように、親は、子どもに対して、(現実の子ども)と、(理想的な子ども像)のはざまで、もがき、苦しむ。

 「うちの子は、こうであってほしい」「こうであるべきだ」というのを、理想的な子ども像という。しかし現実には、そうでない……。

 そのギャップが大きければ大きいほど、親は、親として、葛藤する。「私は親だ」という親意識の強い人ほど、そうだ。

 そしてこう悩む。

 「こんなハズはない」「うちの子は、やればできるはず」「できないのは、やらないから」と。

 さらに豪快な(?)親となると、こう言う。「幼児教育が大切です。幼児期からしっかりと教育すれば、東大だって入れます。ノーベル賞だって取れます」と。

 実際、そう言った母親がいた。

 しかし、そういうものではない。そういうものでないことは、何百例も子育てを見てくると、わかる。そこで私は、その母親にこう言った。

 「じゃあ、お母さん、お母さんも勉強して、東大へ入ってみたらいかがでしょうか?」と。

 私は皮肉をこめてそう言った。が、その母親は、照れ笑いをしながら、こう言った。「私は、もう終わりましたから……」と。

 学問に終わりはない。真理の探究となると、さらに、終わりはない。つまり死ぬまで、私たちは前向きに生きていく。探求しつづける。立ち止まったとたん、脳ミソは、腐る。

 そこで教訓。

 親は、子どもに、あるべき理想像を描きやすい。それはわかる。そういう夢や希望があるから、子育ても、また楽しい。しかしそれには条件がある。

 夢や希望をもっても、それを子どもに強要してはならないということ。

 そこで大切なことは、あなたの子どもが、現実には、どうであるかを、しっかりと見きわめること。それについて、少し前にこんな原稿を書いた。

++++++++++++++++++++

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。

しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれないが、子育てというのは、もともとそういうもの。

++++++++++++++++++++++

(後記)

 はからずも最後のところで、私は、こう書いた。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。

 それに早く気づく親を賢明な親という。そうでなく、いつまでも、ムダな抵抗を繰りかえし、悶々と悩む親を、そうでないという。

 ほとんどの親は、子育ても一段落すると、こう言って、自分をなぐさめる。

 「やっぱり、あんたは、ふつうの子だったのね。考えてみれば、何のことはない。私だって、ふつうの人間なのだから」と。

 子育てというのは、そういうもの。ホント!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 
 




非行

子どもの非行を防ぐ法(無理、強制は避けろ!)

子どもが非行に走るとき  

●日々の生活の積み重ねで決まる
 よい子(?)も、そうでない子(?)も、大きな違いがあるようで、それほど違いはない。日々の生活の積み重ねで、よい子はよい子になり、そうでない子はそうでなくなる。たとえば非行。盗み、いじめ、暴力、喫煙、性犯罪、集団非行など。親が「うちの子に限って……」「まさか……」と思っているうちに、子どもは非行に走るようになる。しかもある日、突然に、だ。それはちょうど、ものが臨界点を超えて、突然、爆発するのに似ている。

●こぼれた水は戻らない
 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼるように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮がちに、しかも隠れて悪いことをしていた子どもでも、(叱られる)→(居なおる)→(さらに叱られる)の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきことは、「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれがわからない。「なおそう」とか、「元に戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に無理を重ねる……。

●症状は一挙に悪化する
 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも前兆がないわけではない。その一つ、生活習慣がだらしなくなる。たとえば目標や規則が守れない(貯金を使ってしまう。時間にルーズになる)、自己中心的(ゲームに負けると怒る。わがままで自分勝手)になり、無礼、無作法な態度(おとなをなめるような言動、暴言)が目立つようになる。この段階で家庭騒動、家庭崩壊など、子どもを取り巻く環境が不安定になると、症状は一挙に悪化する。

●特徴
 その特徴としては、@拒否的態度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「イラネエ〜」と拒否する。意識的に拒否するというよりは、条件反射的に拒否する)、A破滅的態度(ものの考え方が、投げやりになり、他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関心になる。他人への迷惑に無頓着になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、B自閉的態度(自分のカラに閉じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「殺」などという、どこか悪魔的な言葉に鋭い反応を示すようになる。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも損なのだ」と話しても、このタイプの子どもにはそれが理解できない。親のサイフからお金を抜き取って、それを使い込むなど)、C野獣的態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツは、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をするようになる)など。心の中はいつも緊張状態にあって、ささいなことで激怒したり、キレやすくなる。また一度激怒したり、キレたりすると、感情をコントロールできなくなることが多い。

●プラス型とマイナス型
 もっともこうした症状が「表」に出る子どもは、まだよいほうだ。中には「内」にこもる子どもがいる。前者をプラス型というなら、後者はマイナス型ということになる。威圧的な家庭環境、親の過干渉、過関心が日常的に続くと、子どもの心は閉塞的になり、マイナス型になる。家の中に引きこもったり、陰湿ないじめや、動物への虐待などを日常的に繰り返したりする。妄想をもちやすく、ものの考え方が極端になりやすい。私がA君(小一)に、「ブランコを横取りされました。そういうときあなたはどうしますか」と聞いたときのこと。A君はこうつぶやいた。「そういうヤツは、ぶん殴ってやればいい。どうせ口で言ってもわかんねえ」と。

●家庭生活の猛省を!
 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければならない。しかしこれが難しい。たいていの親は原因を外へ求めようとする。「友だちが悪い」「うちの子は、そそのかされているだけ」と。しかし反省すべきは、まず家庭のあり方である。で、このタイプの親は、大きく次の二つのタイプに分けることができる。

@エリートタイプ……一つは、エリート意識が強く、他人の話に耳を傾けないタイプ。独断意識が強い(※)。このタイプの親は、私のような立場の者がアドバイスしても、ムダ。「子どものことは私が一番よく知っている」という確信のもと、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたには本当のことがわかっていない」と、はねのけてしまう。本来そうならないためにも、ほかの父母との交流を多くして、風通しをよくしなければならない。が、その交流もしない。あるいはしても形式的。見栄、メンツ、世間体を優先させてしまう。

A無責任タイプ……もう一つは、無責任で無教養なタイプ。その自覚がないだけではなく、さらに強制的に子どもをなおそうとする。暴力を加えることも多い。家庭の秩序そのものが、崩壊している。ある中学校の校長は私にこう言った。「本当はこのタイプの親ほど、懇談会などにも出席してほしいのですが、このタイプの親ほど来てくれません」と。子育てそのものから逃げてしまう。あるいは子どもの言いなりになってしまう。あとはこの悪循環。盲目的な溺愛が、子どもの変化を見落としてしまうこともある。私が「どうもよくない遊びをしているようですよ」と話したとき、「私では何も言えません。先生のほうから言ってください」と頼んできた母親もいた。

●最後の「糸」を切らない
 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨てられた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛していますからね」「どんなことがあっても、私はあなたのそばにいますからね」という姿勢を、徹底的に貫く。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおらせる。そのためにも最後の「糸」は切ってはいけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧のように、子どもは心のより所をなくしてしまう。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なおそう」とは思わないこと。現在の症状を今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様子をみる。

 一般に、この非行も含めて、「心の問題」は、一年単位(一年でも短いほうだが……)で、その推移を見守る。無理をすれば、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状はさらにドロ沼化する。そしてその分、子どもの立ちなおりは遅れる。

※……特に最近の傾向として、「@外からとくに指摘される外形的問題は見られない、A親は高学歴で経済的に安定している、B教育熱心で学校にも協力的である、C親の過保護、過度の期待が潜在している」(日本教育新聞社・教育ファイル)ということも指摘されている。

(参考)
●ふえる「いきなり型」の非行
 二〇〇一年度版『青少年白書』によれば、「最近の少年非行の特徴として、凶悪犯で検挙された少年のうち、過去に非行歴のない少年が全体の約半数を占めている」という。白書はそれについて、「一見おとなしくて目立たない『ふつうの子』が、内面に不満やストレスを抱え、それが爆発して起きる『いきなり型』の非行が新たに生じてきている」と分析している。

 そして最近の非行少年の共通点として、@自己中心的な価値観をもち、規範意識や被害者に対する贖罪感(罪をあがなう意識)が低い、Aコミュニケーション能力が低いことをあげている。その要因としては、「少年の内面的な特徴について、対人関係がうまく結べないことをあげ、パソコンや携帯電話の普及で、性や暴力に関する有害情報に接しやすい環境になっている」と、パソコンや携帯電話の弊害を指摘している。ちなみに浜松市の西隣に湖西市という人口が四万人の町がある。その町の高校三年生に聞いてみたところ、二クラス計七二人のうち、携帯電話を持っていないのは、五人のみだそうだ(二〇〇一年一一月)。普及率は、九四%ということになる。「携帯電話を持っていない人はどういう人か」と質問すると、「友だちがいないヤツ」「変わり者」「つきあいの悪いヤツ」という答が返ってきた。



家庭は心いやす場所

 子どもの世界は、@家庭を中心とする第一世界、A園や学校を中心とする第二世界、そしてB友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世界を中心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)

 第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならない。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。その結果、子どもは独特の症状を示すようになる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安として……。)

(第一段階)秘密が多くなる。つごうの悪いことや、失敗を、隠すようになる。親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズしてはっきりしない」とかいうような様子になる。

(第二段階)親の存在を、あからさまに嫌うようになり、帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たとえば園や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に自分の部屋に引きこもるような様子を見せる。夜間の外出が目立つようになり、門限がルーズになる。

(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだけもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、集団による徘徊など。親子の関係は、いつも一触即発の状態になり、ささいなことで大喧嘩になる。会話そのものができなくなる。

 最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、非行や、子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親が無理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重くなる。

 要はこうならないように、@家庭は心をいやす場であることを大切にし、A子ども自身の「逃げ場」を大切にする。ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになるが、その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はその逃げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけない。子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。



「生徒の持ちものを検査をせよ?」・逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出ということにもなりかねない。そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけない。子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱られると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということになる。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかっていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れて、家出した。これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意する。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの考え方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちものを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの中など、のぞけるものではない。私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。



子どもを一人の人間としてみる

 子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなってあらわれる。

 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くなり、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。「おばあちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママには内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もいた。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認めること。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう視点で、子どもをみる。育てる。

 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だけ、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言えば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう子だ」というつかみどろころのことを、「核」というが、そのつかみどころが遅れる。教える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じになる。そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、おとなになる。このことはたとえば同年齢の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生は、まるでおとなと子どもほどの違いがある。

 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。「別格」というと、聞こえはよいが、実際には、一人の人間として認めてもらえなかった。で、女性は戦後、その地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終わるわけではない。こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。そして今度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世代連鎖はつづく……。

 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そうであってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。日本型の子育て観は、決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させるという意味では、いろいろと問題がある。それがわかってほしい。



親像

 子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子どもに冷淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。

 このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入っていない人とみる。つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子どもも疲れる。そしてその結果、子育てで失敗しやすい。

 しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人のほうが少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失敗を繰り返すこと。たとえば暴力がある。子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を受けたケースが多い。これを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てというのは、親から子どもへと代々、繰り返される。

 そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因を自分の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になるころから、自分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言って遠ざけてきた。また別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そういう過去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこう言う。「子育てのし方がわかりません」と。

 が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめることがでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気負いが強いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てをしながらも、いつも心のどこかに戸惑いを感じていた。しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分をコントロールできるようになった。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の自分は子どもを受け入れていないぞ」と。「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間が解決してくれる。繰り返すが、まずいのは、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることである。

(補足)

子どもの抵抗力をます法(東洋医学の発想で防げ!)
子どもが非行に抵抗するとき 
●あやしげな男だった
 あやしげな男だった。最初は印鑑を売りたいと言っていたが、話をきいていると、「疲れがとれる、いい薬がありますよ」と。私はピンときたので、その男には、そのまま帰ってもらった。
 西洋医学では「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻撃する」という治療原則を打ちたてる。これに対して東洋医学では、「結核になったのは、体が結核菌に敗れたからだ」と考える。だから「体質を強化する」という治療原則を打ちたてる。人体に足りないものを補ったり、体質改善を試みたりする。これは病気の話だが、「悪」についても、同じように考えることができる。私がたまたまその男の話に乗らなかったのは、私にはそれをはねのけるだけの抵抗力があったからにほかならない。
●非行は東洋医学的な発想で 
 子どもの非行についても、また同じ。非行そのものと戦う方法もあるが、子どもの中に抵抗力を養うという方法もある。たとえばその年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚えてくる。最初はささいな好奇心から始まるが、問題はこのときだ。たいていの親は叱ったりする。で、さらにそのあと、誘惑に負けて、そのまま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をはねのける子どももいる。東洋医学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないかは、抵抗力の問題」ということになる。そういう意味では予防的ということになるが、実は東洋医学の本質はここにある。東洋医学はもともとは、「病気になってから頼る医学」というよりは、「病気になる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「より病気を悪くしない医学」と考えてもよい。ではどうするか。
●子育ての基本は自由
 子育ての基本は、自由。自由とは、もともと「自らに由る」という意味。つまり子どもには、自分で考えさせ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。乳幼児期からでも、早すぎるということはない。自分で考えさせる時間を大切にし、頭からガミガミと押しつける過干渉、子どもの側からみて、息が抜けない過関心、「私は親だ」式の権威主義は避ける。暴力や威圧がよくないことは言うまでもない。「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」「どう始末したらいいの?」と、いつも問いかけながら、要は子どものリズムに合わせて「待つ」。こういう姿勢が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力のある子どもにする。



好ましくない友人とつきあいはじめたら……

友を責めるな、行為を責めよ

あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうするだろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こういうことだ。
 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。
こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふかしすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむける。そしてあとは時を待つ。……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。
 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモアがあっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。
 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。



敏捷性

はだし教育を大切に

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、いつも最後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、ほとんど、はだしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見られたこともあります」と。その子どもは二歳になるときには、うしろ向きにスキップして走ることができたそうだ。
 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、どうして敏捷性を養うことができるというのか。一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。敏捷な子どもは、スタスタとリズミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手すりにつかまって一段ずつ、恐る恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児で一〇人に一人はいる。あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。敏捷な子どもは、ピョンピョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。そうでない子どもはそうでない。もしあなたの子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも遅くないから、はだしにするとよい。あるいはよくころぶ(※)とか、動作がどこか遅いというようなときも、はだしにするとよい。(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、はだしをいやがるが、そうであるならなおさら、はだしにしてみる。)
 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない子どもに、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。

(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そういうときは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようであれば、一度小児科のドクターに相談してみるとよい。)


ファーバー方式

アメリカの育児、「ファーバー方式(FEBER METHOD)」

●ファーバー方式
 新生児の夜泣きの対処のしかたについて、アメリカには、「ファーバー方式」というのがある。それについての紹介文を転載する。ファーバーというのは、その考案者の博士の名前をいう。(義理の娘が通う、母親学級のテキストからの転載)

Your baby is crying, and wakes up several times during the night. Your'e exhausted, and haven't had a descent night sleep, what are you going to do?  Ferberizing your baby will help your child sleep through the night and will help you from going mad from lack of sleep. Dr. Ferber, a leading pediatric sleep disorder specialist, has come up with a method guarantee to get your child sleeping through the night. 
 あなたの赤ちゃんが泣き、毎晩何度も起こされる。
 あなたは消耗し、安らかな眠りを得られない。
 そういうとき、どうしますか?
 睡眠障害のスペシャリストのファーバー博士が、あなたの赤ちゃんが眠るのを助けます。
The Ferber method is a progressive method and it calls for the parents to let their babies cry for a set period of time before comforting or "checking in on their child". Although the Ferber method does work for some parents, others think that it is to rigid. It is important to read the book and to decide for yourself. Some of the mothers in my classes have modified his method to fit their schedules and tolerance levels.

ファーバー方式は、泣いている赤ちゃんをなぐさめたり、「あれこれ原因さがしをする」前に、ある程度泣かせるという方式です。
ファーバー方式は、有効なときもありますが、しかし厳格すぎるという人もいます。
大切なことは、あなた自身が自分で本を読み、判断することです。
私の(母親教室の)母親たちは、自分たちの忍耐力のレベルにあわせて、このファーバー方式を修正して、応用しています。

 Dr. Ferber is the first one to tell parents that his method can take a toll on the family. Some parents cannot bear to hear their children cry for extended periods of time. Ferber states in his book that in order for his approach to work it is very important to stick with the routine. There are no exceptions unless your are traveling , your child is sick or you have company at your house. If you disrupt your babies sleep schedule and they start to wake up during the night again you will probably have to referberize the child. 
ファーバー博士は、この方式は、母親の負担を減らすものだと、述べています。
母親によっては、(忍耐の限界を超えて)赤ちゃんが泣きつづけることに耐えられない。
ファーバー博士は、この本の中で、この方式を応用するためには、日常生活をそのままつづけることが重要だといいます。
旅行中とか、赤ちゃんが病気とか、来客中とかいうのであれば別ですが、例外はないといいます。
もし赤ちゃんの睡眠スケジュールを乱すと、赤ちゃんをあやすために、また夜中に起きなければならなくなります。

 In his method Dr. Ferber suggest that after a loving pre-bedtime routine that you put your child to sleep while your baby is still awake. Putting your child to sleep while he/she is still awake is very important and this will teach them to go to sleep on their own.

この方式の中で、ファーバー博士は、赤ちゃんがまだ目をさましていても、赤ちゃんを寝さかせ、いつもの就眠儀式をすることを提案しています。

まだ目をさましている赤ちゃんを寝させることは、とても重要なことで、このことが、赤ちゃんが自分で眠ることを教えます。

 Ferber suggests that children be at least 5 months old before you try to ferberize them. Your baby must not be sick, or on any medications that will interfere with his/her sleeping when you start the method. Once your child is in bed leave the room and if she/he cries, wait a certain amount of time before you check on your child again.(the waiting time is outlined in his book, 

ファーバー博士は、少なくとも五か月未満の赤ちゃんは、この方式を応用してみるとよいと言っています。
この方式をはじめるときは、まず赤ちゃんが病気でないないことが前提となります。
赤ちゃんがベッドに入ったら、赤ちゃんが泣いても、(親は)部屋を出ます。
そしてしばらく様子をみます。
(その時間については、本の中のガイドに従ってください。)

(Solve Your Child's Sleep Problems). After the "waiting time" check in on your child but do not rock, feed or pick her/him up. Soothe your child only with your voice. Gradually increase the amount of time between the visits to your child's room. Eventually (usually within a week) your child will realize that crying means nothing more than a brief check from you. He or she will learn to sleep on his/her own through the night and you will also get the sleep that you have been deprived of for so long. 

赤ちゃんの睡眠問題を解くために……
しばらく待ってみて、赤ちゃんをチェックし、赤ちゃんを抱いてあげます。
あなたの声で、赤ちゃんをあやします。
少しずつ、赤ちゃんの部屋を訪問する時間を長くしていきます。
結果として(ふつう一週間単位で)赤ちゃんは、泣いても無駄ということを学びます。
そして赤ちゃんは夜の間、眠るようになります。
あなたも眠られるようになります。

 Ferber states that it's ok for your child to throw a tantrum or to cry for extended periods of time this will not hurt your child. He/she will realize that crying will get them nowhere. To ferberize or not ferberize is a decision that only you and your partner can make. Here's what some parents are saying about the Ferber Method.

ファーバー博士は、赤ちゃんがかんしゃくを起こし、ある程度の間泣いても、この方式は、赤ちゃんを傷つけないといいます。
赤ちゃんは泣いても、何も解決しないことに気づきます。
ファーバー方式を使うにせよ、しないにせよ、それはあなたが決めることです。
ここにいくつかコメントがあります。

" I hated it. I just couldn't ! let my child cry not even for 5 minutes". Jody 

「この方式は、嫌いです。私は五分だって、子どもには泣かせることはできません」

" I was so exhausted I couldn't do anything. His method saved my life." Sonia 

「私は疲労しました。彼の方式は、私を救いました」

"It's great to have a formula to follow. It worked with all my kids." Maria 

 「すばらしい方式です。私の子どもたちには、有効でした」


++++++++++++++++++++++

以上の訳について、読者の方より、「訳がおかしい」
という指摘をもらった。
東京M区に住んでいる、SKさんという方からです。
ご指摘ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++

【SKさんより……】

ファーバー方式の和訳についてひと言。英文の解釈が少し違うような気がするのですが、もう一度注意深く読むと良いかと……特に Ferber suggests that children be at least 5 months old before you try to ferberize them. とAfter the "waiting time" check in on your child but do not rock, feed or pick her/him up. のくだりです。私には、「赤ちゃんが少なくとも五ヶ月に達していること」と「抱き上げたりおっぱいなどを与えるな」と解釈できるのですが……

+++++++++++++++++++++
(はやし浩司 ファーバー方式 Feber Method 子どもの夜泣き 子供の夜泣き 夜泣き)





父性と母性

子どもの親像を育てる法(ぬいぐるみを抱かせろ!)
子どもに母性や父性が育つとき
●ぬいぐるみでわかる母性 
 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわか
る。しかもそれが、三〜五歳のときにわかる。父性や母性(父性と母性を区別するのも、おか
しなことだが……)が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さも
いとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関
心、無感動。抱き方もぎこちない。中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子ど
ももいる。ちなみに小三児の約八〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数
が「大好き」と答えている。
●男児もぬいぐるみで遊ぶ
 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラ
リアに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。つまり子どものとき
から、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学
ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そん
なわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが代表
的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわ
らかい素材でできた、温もりのあるものがよい。
●悪しき日本の偏見
 日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは
偏見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬ
いぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときか
ら、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、そ
の目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、ここでいう人形ではな
い。
 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。その一つの例が、五月人形。弓矢
をもった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった軍
人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからない
ほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、
あの日本独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。
●ぬいぐるみで育つ母性と父性
 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの
考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ
ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー
ッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言
いかえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。
 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ
めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と
思っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子ども
は親になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。



不登校

子どもの不登校を防ぐ法(前兆を見落とすな!)
子どもが学校恐怖症になるとき
●四つの段階論
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。
@前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。
Aパニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。
B自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。
C回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。
●前兆をいかにとらえるか
 要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、Aのパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、@学校生活起因型、A遊び非行型、B無気力型、C不安など情緒混乱型、D意図的拒否型、E複合型に区分して考えられている。
 またその原因については、@学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、A家庭生活起因型(生活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、B本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ 
 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこの時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。
●ジョンソンの「学校恐怖症」
「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始まる。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。
●学校恐怖症の対処のし方
 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによることが多い。ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずした。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくてすむかもしれない。
 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうちに、症状はますますこじれる。
 第三期に入ったら、@学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けること。A前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、子どもの様子をみる。B最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。C生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。
 回復期に向かう前兆としては、@穏やかな会話ができるようになる、A生活にリズムができ、寝起きが規則正しくなる、B子どもがヒマをもてあますようになる、C家族がいてもいなくいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られたら、回復期は近いとみてよい。
 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。
●不登校は不利なことばかりではない
 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされている。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして学校へ行かなくなった理由として、
友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

子どもの問題、親の問題

 子どもがある朝、突然、「学校へ行きたくない!」などと言おうものなら、たいていの親は、狂乱状態になる。それまでは意識したことがなくても、そのとたん、学歴信仰、学校神話、受験競争が、どっと怒涛(どとう)のように、親にのしかかる。

 もっとも親が狂乱状態になるのは、親の勝手。親の問題。しかしこの段階で、ほとんどの親は、それを自分の中に収めることができない。できないまま、不安や心配を、子どもにぶつけてしまう。極度の不安状態が、妄想を呼び、その妄想がさらに混乱状態に拍車をかけることもある。「このままでは、うちの子はダメになってしまう!」「落ちこぼれてしまう!」と。

 もしこの段階で、親が、子どもに向かって、「あら、そうね。だれだって、ときには学校なんか行きたくないこともあるのよ」「休みたかったら休みなさい」「お母さんと、いっしょに、動物園でも行かない? きっとガラガラよ」とでも、言うことができれば、そのあと、子どもの症状は、それほど重くならないですむかもしれない。が、そうはいかない。ある母親は、トイレに逃げ込んだ子どもを、ドライバーでドアをはずし、そこからひきずり出して学校へ連れていった。子どもは、大声で泣き叫んで、それに抵抗した。

 この段階で、さらに悲劇的なのは、親自身に、子どもの症状を悪化させているという自覚がないこと。ほとんどの親は、「子どものため」と思いつつ、無理に学校へ連れていったり、叱ったり、説教したりする。この無理が、本当のところ、不登校の最大の原因と言ってもよい。

 が、親にはそれもわからない。子どもの言い分だけを真に受けて、「学校が悪い」「先生が悪い」「友だちが悪い」と言い出す。そして子どもに向かっては、「どうして学校へ行かないの!」と叱ったりする。……あとは、この繰り返し。その結果、本来、数週間ですむはずだった不登校が、数か月になり、数年になる。こうした心の問題は、症状をこじらせればこじらすほど、立ちなおるのに、時間がかかる。

 ではなぜ、親は、そうまで狂乱状態になるか、である。とくに日ごろから、エリート意識が強く、教育熱心で、完ぺき主義の親ほど、そうなる。単純に考えれば、それだけ学歴信仰なり学校神話の信奉者ということになるが、どうもそれだけではないようだ。

 その理由は、要するに、このタイプの親は、他人の不幸を笑うことで、自分の幸福を実感するという傾向が強いということ。子どもの世界には、「他人の子どもを笑った分だけ、自分の子どもが同じ立場に置かれたとき、その親は数百倍苦しむ」という大鉄則がある。もっと言えば、このタイプの親ほど、ものの考え方が自己中心的で、自分のことや、自分の子どものことしか考えない。そして他人が不幸になればなるほど、あるいは他人が不幸な目にあえばあうほど、相対的に、自分は幸福だと思う。もともと学歴信仰には、相対的価値観がともなう。「私は四番。あの人は、一〇番。だから私のほうが優秀」と。だから、いきおい、心に余裕がなくなる。そして自分の子どもが、その「不幸な立場」(本当は不幸でも何でもない)に置かれたりすると、狂乱状態になる。

 そこで今度はあなた自身のこと。

 あなたは絶対に、他人の不幸を笑ってはいけない。不幸の最中にいる相手を、さげすんだりしてはいけない。「ああ自分の子どもでなくて、よかった」と、喜んでもいけない。胸をなでおろしてもいけない。仮に今、あなたの子どもに、何も問題がなくても、今、あなたがすべきことは、相手の立場で、ものを考え、その悲しみや苦しみを共有することだ。しかしそれはあなたが今度、その立場に置かれたとき、(いつかそうなる可能性は、じゅうぶんあるが)、あなたの悲しみや苦しみを軽くするためではない。そんな薄っぺらい目的のためではない。

 あなたが今、他人の悲しみや苦しみを共有することによって、あなたは自分の心を、広くすることができる。それは未来のためではない。やがてやってくるかもしれない、悲しみや苦しみに対する準備でもない。まさに、今のあなたのためである。というのも、この種類の問題は、姿や形を変え、大小さまざま、ごく日常的にやってくる。つまりそのつど、親としてのあなたの心は、試される。が、そのためだけでもない。

 残念ながら、子どもの不登校の問題で私のところへやってくるほとんどの親は、自分のことや、自分の子どものことしか考えていない。それはわかるが、その度量の狭さというか、浅さを感ずると、アドバイスするほうも、どうアドバイスしてよいかわからなくなる。その親の人生観そのもののカベというか、それを感じてしまう。しかしそのカベの問題は、子どもの不登校がもつ問題とは比較にならないほど、大きい。学歴信仰や学校神話に、コリコリにかたまっている人を、どうやって説得しろというのか? どうやって親の人生観や価値観を変えろというのか?

 子どもに何か問題が起きると、親は、自分と切り離して、それを子どもの問題と位置づける。しかし本当のところ、子どもの問題のほとんどは、このように親の問題である。それに気づくかどうかは、結局は、親自身の度量の広さというか、深さの問題ということになる。そのために、「今」、あなたは身の回りを見て、いろいろな問題で苦しんだり、悲しんだりしている親や子どもの立場になって、その問題を共有する。もちろんそういうことをしておけば、あなたやあなたの子どもが、同じような問題をかかえ、同じような立場に置かれたとき、その問題を、もっと軽くすますことができる。しかしそれとて、あくまでも、結果にすぎない。大切なのは、「今」、あなたの度量を広くし、深くすること。

人間が本来的にもつ「やさしさ」は、そういう度量の広さ、深さから生まれる。そういうやさしさが、あなたの心にあふれたとき、あなたは子どものすべての問題から解放される。問題が問題となる前に、問題そのものが、粉々に粉砕(ふんさい)される。もちろん子どもの不登校など、何でもなくなる。仮にあなたの子どもが不登校児になっても、ウソのように軽く、すますことができる。
(02−11−11)

●他人の不幸をおもしろおかしく、話題にしてはいけない。
●他人の不幸を、できるだけ共有し、その人の立場で考えてあげよう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

不登校

 名古屋市に住んでいるKさんの相談を受けるようになって、もう六年になる? お嬢さんが、中学二年生になったという。はやいものだ。そのKさんから、久しぶりに、メールが届いた。

●Kさんからのメール
林先生へ

お忙しい中早速お返事ありがとうございます。

小学校低学年の頃、行きたくないときはパニックを起こしたり、死にたいとまでいい、家の中でも暴れたりして大騒ぎしていたのに、今はまったくそういうことはありません。

(私ももう無理に行かせるということはできないと、すぐあきらめるため、トラブルにならないのですが……。)

でもそういう意味では、彼女も自分をコントロールするよう努力しているのかもしれません。

昨日朝、学校の先生から「明日はパン工場に見学に行きその準備があるので熱がないなら来るように」という電話があり、うかつにも、嫌がる娘にその電話を渡してしまいました。
そのとき、娘は、初めて涙を流し、電話に対し「無言」で抵抗をしました。

そのあと、泣きながら、「学校を辞めたい。もうだめだ。やめたくないが女子ソフトクラブも辞めなければならない。(学校のソフト部の同級生がたくさん通っているため)、もう私のことはほうっておいて」と訴えました。

これはだめだ、と思いました。
あの電話がなければ、週に二、三回でも学校に行っていたかもしれません。
その電話の前までは、パン工場に行くのは楽しみだったので行く、といっていたのです。
(過去のことを話すのは愚かなことでしたね)

私は、娘の心で問題になったことを尋ねましたが頑として答えません。
それで、そんなにいやなら行かなくてよいこと、あなたの居場所はここにあるということ、ママは必ず味方をすること、
早急に自分だけの判断で結論を急がないことだけを伝えました。

一か月になるか一年になるか三年になるか。
私の、娘とのでなく、私自身との戦いがこれから始まると思うと、ぐらっとします。

でも学校に行かせなければ、行くかしら、と思っていたときは夜全然眠れませんでしたが、昨日の晩は行かせなくてよい
と思い、よく眠れました。

夫は大阪で単身赴任。相変わらず出張も多く、今月は一五日間出張です。
電話で話しますが、きっと彼女のいう問題は些細なことで、本当に行かせることをまったくあきらめていいのか?、とその判断がまだ納得できていません。

ただ近くにいるのが私なので、私の判断に従わざるを得ないのでしょう。
私は夫によく娘に対しナビゲートしすぎだといわれます。
荒れてほしくないと思うあまり、先回りしてこうではないか? こうしたら?、と言っているといいます。

気をつけるようにはしているのですが……

●はやし浩司より、Kさんへ、
 引きこもり的な症状をみせ、それが原因(?)で、学校恐怖症的な症状を見せたら、本来なら、鉄則は、ただひとつ。「わずらわしさからの解放」です。最近、C君(二六歳)が、八年間もの引きこもりから抜け出て、やっと、何とか会社勤めができるようになりました。そのC君が、自分を振りかえって、こう言っています。その内容を、まとめてみます。

(1)(引きこもっている状態のときは)、何もかまってほしくなかった。何がいやかって、親の心配そうな顔をみるのが、一番、いやだった。
(2)まわりの者が、あれこれ心配してくれる気持ちは、よくわかったが、それがわずらわしくて、しかたなかった。
(3)自分で何とかしようと思えば思うほど、そのたびに、ますます症状が悪化していくのが、よくわかった。
(4)子どもの引きこもりに悩んでいる親たちには、こう言いたい。「子どものことは忘れて、自分たちは自分たちで、好き勝手なことをすればいい」と。

 C君は、高校を卒業すると同時に、発症し、大学は数か月で中退。(最初は休学届けを出したが、二年後に中退。)以後、自宅に帰り、しばらく不規則な生活を繰り返したあと、そのまま自分の部屋に引きこもるようになった。C君の闘病歴。

(1)最初の半年くらいは、ほとんど部屋から出てこなかった。生活は、昼と夜が逆転し、昼間はひたすら寝て、夜になると起きてきた。
(2)家族との会話はほとんどなく、母親のささいな言葉で、C君は激怒。母親はこう言った。「まさに一触即発の状態で、こわくて何も言えませんでした」と。
(3)こういう状態が、三〜四年つづいた。ときどき、中学時代の友人が、遊びにきてくれたが、その友人だけが、唯一の「窓」だった。
(4)過食と拒食を周期的に繰り返し、そのたびに、プクッと太ったり、反対にやせたりした。
(5)精神科で処方された薬をのんだこともあるが、はげしい吐き気、気分の悪さ(胸苦しさ)などの副作用があったので、途中で服用をやめた。やめたあと、再び、症状が悪化したこともある。
(6)C君が、幼児がえり現象を見せたのは、四年目くらいではなかったかとのこと。最初は、ガンダム人形などで遊び、その遊びが、数か月単位で、少年期、青年期へと変わっていった。
(7)やがて車の免許を取ると言い出し、免許を取得。それ以後は、ときどき外出するようになり、いくつかのアルバイトを経たのち、今の仕事についた。

 このC君の例でもわかるように、こうした心の問題は、少なくとも一年単位でみなければなりません。同じ時期、Aさんという高校一年生の女の子も、拒食症から、高校を中退しましたが、そのAさんも、同じような経過をたどっています。外から心の中がわからないだけに、まわりのものは、どうしても安易に考えがちですが、心の問題というのは、そういうものです。

 自意識という言葉がありますが、こういうケースでは、この自意識が、二つの方向に作用します。(そういう自分であってはいけないから、なおそうという自意識)という自意識が、(なおそうという自意識)と、(かえって自分はダメな人間と追い込んでいく自意識)に分裂してしまうのです。それは想像を絶する、心の葛藤(かっとう)と言ってもよいでしょう。わかりやすく言えば、(なおそう)と思えば思うほど、自分を、底なしの暗闇の中に追い込んでしまうのです。Aさんは、あるときメールで、こう書いてきました。

 「(母親が)『あんたを見ていると、つらい』と言うが、それを言われる私は、もっとつらかった」と。

 そこで大切なのは、「わずらわしさからの解放」です。子どもの世界から、わずらわしいことを徹底的に排除します。具体的には、子どもの側から見て、親の視線や心配をまったく感じさせないほどまで、子どもの周囲から「家族の気配」を消すことです。C君の両親は、私のアドバイスに従い、つぎのようにしました。

 たとえばC君が、夕方起きてきたとします。簡単なあいさつはしても、母親はそのまま、自分の仕事をつづけ、C君をあたかも、「空気」のように扱ったそうです。食事の世話とか、衣服の世話はしたそうですが、親は親で、好き勝手なことをした。もっともそういう状態になるのに、一、二年はかかったといいますが、それを振り返って、母親も、そしてC君自身も、「それがよかった」と言っています。

 心の問題は、どこかであせってなおそうと思うと、そのつど、かえって症状をこじらせてしまいますから、注意します。そしてその分、立ちなおりを遅らせます。よくある例が、子どもの不登校にしても、泣き叫んで抵抗する子どもを、無理やり車につめこんで学校へつれて行くケース。親の気持ちは理解できないわけではありませんが、その「一撃」が、取り返しがつかないほど、大きなキズを子どもの心につけてしまうのです。この段階で、「そうね、だれだって、学校なんか、行きたくないこともあるのよ。しばらく学校を休んで、ママと楽しくすごしましょう」と、親が言っていたら、あるいは、言うことができたら、それほど症状がこじれなくてすんだかもしれません。そういうケースは、いくらでもあります。

 しかし、この問題は、不思議ですね。先のC君も、そのときは、親は、暗くて長いトンネルに入り、「どうしてうちの子だけが……」と苦しんだそうですが、終わってみると、笑い話になったそうです。親子の絆(パイプ)も、それで太くなったと言っています。

 それに少し前までは、学歴信仰や学校神話がまだ残っていて、それで苦しむ親や子どももいましたが、今は、もうそういう時代ではありません。価値観が変わったというより、日本人もやっと、欧米並みの価値観をもつようになってきました。アメリカでは、ホームスクーラーが、今年、二〇〇万人に達するだろうと言われています。高校を卒業するまで、一度も学校へ通わなかったホームスクーラーに対しても、入学を許可する大学が、世界で一〇〇〇校を超えました。ヨーロッパでは、大学の単位の共通化が進み、今では、どこの大学で、どの学部で勉強しても、「単位は同じ」という状態になりました。教育の自由化、多様化は、もう世界の常識なのです。

 そういうことを考えると、「学校とは行かねばならないところ」と考えている日本の親たちの、何というか化石のような観念は、驚きでしかありません。まさに世界の笑いものですが、笑われていることすら、わかっていないのですから、これまた悲劇ですね。

 大切なことは、こうした愚劣な社会的通念で、親子のきずなを犠牲にしてはいけないということです。またきずなを犠牲にするだけの価値はありません。あなたにしても、あなたのお嬢さんにしても、たった一度しかない人生ですから、もっと自由に、もっと気楽に、この広い世界を羽ばたこうではありませんか。ひょっとしたら、あなたのお嬢さんは、体をはって、あなたに真の自由は何か、それを教えようとしているのかもしれませんよ。

 いまどき、不登校なんて、何でもないということ。あんな窮屈な世界(つまり学校)で、おとなしくしておられる子どものほうが、おかしいのです。私なら、一日で、不登校児になります。ホント! それとも、あなたなら、行けますか? イギリスのある教育者は、「学校教育は、監獄生活。子どもは小学校入学と同時に、一〇年の刑を科せられる」と書いています。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれませんが、この問題は、ほんの少し視点を変えれば、何でもない問題だということが、あなたにもわかるはずです。

 だから、「戦い」などと、恐ろしい言葉は使わないで、つまりもっと肩の力を抜いて、気楽に考えてください。そんなおおげさな問題ではないのです。学校の勉強など、できても、またできなくても、どうということはないのです。みんな、明治以後、政府によってつくられた、「幻想」を信じ込まされているだけです。もともと価値がないものを、価値があると思い込まされているだけです。たとえば隣の韓国では、約二年半の徴兵時代の成績で、そのあとの人生(就職先)が大きく決まります。だから若者たちは、必死なのですが、それをよしとしない若者がいたところで、少しもおかしくはないですね。むしろそういう若者のほうが、正常かもしれない? 日本の教育にも、そういう矛盾が、山のようにあります。

 だからといって学校教育を否定するわけではありませんが、山に登る道は一つではないし、また一つと考える必要もないのです。もっとおおらかに考えたらいかがでしょうか。

 メール、ありがとうございました。また何かあれば、ご連絡ください。
(02−11−28)

●みんなで力をあわせて、狂った日本の常識を変えましょう!



ぶりっ子(優等生?)

●あなたの子どもは、よい子? それとも優等生?
 ……しかし、そのよい子、優等生にも、思わぬ落とし穴がある!

+++++++++++++++++++++++++++++ 

子どもの反動形成

 抑圧された「自分」が長くつづくと、その人は、本来の「自分」とは逆の「自分」を、徹底的に演ずるようになる。これを心理学の世界では、「反動形成」という。学校の教師を例にとって、考えてみる。

今でも、聖職者意識をもっている教師は多い。そういう教師が、聖職者は、禁欲的でなければならないというイメージをもったとする。するとその教師は、そのイメージに従って、徹底的に、禁欲者であろうとする。自らを、そうしむける。そして結果として、生徒が「セックス」という言葉を口にしただけで、それを露骨に嫌ったり、そういう会話をたしなめたりするようになる。

 子どもでも、幼いときから、「あなたはお兄ちゃんだから……(お姉ちゃんだから……)」と言われつづけると、本来の自分を押し殺して、別の子どもを演ずるようになることがある。そして「さすが、お兄ちゃんだね……(お姉ちゃんだね……)」とか、ほめられたりすると、さらに別の自分を演ずるようになる。もちろん本人には、演じているという意識はない。

 もちろんすべての反動形成が悪いわけではない。その反動形成が、よいほうに作用して、その人や子どもを伸ばすこともある。たとえば何かの欲求不満をもっていて、その欲求不満を克服するため、別の自分を演ずることがある。つい先日までヘビースモーカーだった人が、自分が禁煙したとたん、猛烈な嫌煙家になるなど。そういうことはあるが、しかしどこか不自然になることが多い。

 たとえばウーマンリブ闘争の闘士のような女性に、Z女史という人がいる。マスコミにもよく顔を出し、相手の男性に向かって、「それはセクハラだ! 謝れ!」とか、「女性蔑視発言だから、取り消せ!」などと言って騒いでいる。一見、女性の代表のような顔をしているが、しかしあのZ女史ほど、「女」を感じさせない女性はない。動作やものの言い方まで、男性そのもの。おそらく子どものときから、「女の子」に扱ってもらったことがないのだろう。それから生まれる欲求不満が、Z女史をして、今のZ女史にしたと考えられなくもない(失礼!)。

一方、子どもの世界でも、「ブリッ子」という、よく知られた言葉がある。

 勉強もよくできる。スポーツも万能。その上、容姿もきれい。そこで親や先生から、「あなたはすばらしい子」と、言われる。で、このタイプの子どもは、そういう親や教師、さらには周囲の仲間からの期待に答えようと、ますます拍車をかけて、よい子を演ずるようになる。

 まだ小学生なのに、「地球の環境を守るのは大切なことです」「皆が、平和に暮らすことは大切なことです」「弱い人を助けるのは、私たちすべての義務です」などと、言ったりする。あるいはいじめの現場を目撃したりすると、いじめている子どもに向かって、「そういうことをして、恥ずかしくないの!」と、まさに優等生ぶって見せる。

 しかしこうした反動形成が問題になるのは、その底流に、抑圧された自己欺瞞(ぎまん)があるということ。はっきり言えば、エセ。それだけではない。本当の自分をどこか別のところに置き、別の自分を演ずるというのは、それ自体、たいへん疲れることである。その「疲れ」が、ある一定の範囲内に収まっていれば問題はないが、その限界を超えたとき、この反動形成は、一挙に崩壊する。

 たとえば小学生の間は優等生だったが、中学生になったとたん、集団少年(少女)になるというケースは、よくある。J君(中三男子)が、そうだった。

 J君は小学六年生のときには、その学校の児童会長までした。夏期合宿のときは、リーダーとして、大活躍した。しかし中学へ入ったとたん、そこでプツン。夜な夜な、コンビニの前で、ほかの仲間とたむろするようになってしまった。やがてタバコを覚え、さらにシンナーまで覚えてしまった。あとはお決まりの外泊と、家出。親は「どうして?」と、深刻な表情で相談にきたが、こういうケースは、決して珍しくない。

 そこで子どものばあい、こんなことに注意したらよい。

 子どものばあい、(心の状態)と、(外に現れる表情や様子)が、一致している子どもを、すなおな子どもという。しかし何らかの理由で、それが一致しなくなることがある。ここにあげたブリッ子も、その一つ。子どもが、どこかで無理をしているなと感じたら、できるだけ早い時期に、そういう無理から解放してあげること。早ければ早いほどよい。いわんや、子どもを、「お兄ちゃんだから……(お姉ちゃんだから……)」と、安易な「ダカラ論」で、追いつめてはいけない。

 子どもの世界でこわいのは、仮面と遊離。これについては、また別のところで考えるが、要するに、子どもは、子どもらしいのが一番。そういう自然さを大切にする。「この子は、よくできた子だな」と思ったら、まず疑ってかかるのがよい。
(030319)

【追記】
 このエッセーを書いていて、私自身も、ここでいう「自己欺瞞」に気づいた。私は考えてみれば、自己欺瞞だらけの人間である。今、思い出した話に、こんなのがある。

 私は子どものころ、台風が好きだった。台風がやってくると聞いただけで、ワクワクした。しかしそのことを、だれにも話せなかった。子どもながらに、そういう自分はおかしいと思っていた。

 で、子どもたちを教えるようになってからも、自分をだましつづけた。とても子どもたちの前で、「先生は、台風が好きだ」とは言えなかった。しかし、だ。台風が好きなのは、私だけではないことを知った。

 アメリカ人の友人が、ある日、私にこう言った。「ヒロシ、台風がくると、楽しいね。ぼくは台風がやってくると、ベランダにイスを置いて、ものが飛んでいくのを見ている」と。そのアメリカ人の家は、高層マンションの八階にあった。

 そのアメリカ人の話を聞いて、私は、「ナーンだ、そういうことだったのか」と思った。そしてそのときから、私は、子どもたちに向かって、正直に、「先生は、台風が好きだよ」と言うことができるようになった。

 台風がやってくるたびに被害にあう人も多いので、こういった話は、軽々にはできない。しかし「教師」という仕事には、こうした自己欺瞞が、好むと好まざるとにかかわらず、無数にからみついてくる。自己欺瞞のかたまりと言ってもよい。しかし、だ。こういう自己欺瞞は、疲れる。本当に疲れる。自己欺瞞だけならまだしも、反動形成をするうち、自分を見失ってしまうこともある。だから私はあるときから、自分をだますことをやめた。ありのままの自分を、できるだけ外に出すようにした。子どもたちと直接、接しているときは、とくにそうだ。 

 ……しかし、こうして考えてみると、人間だれしも、ありのまま生きるということは、むずかしいことだとわかる。みんな、それぞれの立場で、自分をごまかしながら生きている? それが悪いというのではないが、しかしこうしたごまかしは、できるだけ少ないほうがよい。ごまかせばごまかすほど、自分を見失う。時間をムダにする。

+++++++++++++++++++++

【子どもの反動形成についての補足】

●自我の分裂

 こうした反動形成で、こわいのは、実は、ここに書いたことだけではない。それが度を超すと、自我そのものが分裂してしまう。優等生を例にあげて考えてみる。

 優等生と呼ばれる子どもは、一種独特のものの考え方をしているのがわかる。主体的なフリをしながら、どこにも主体性がない。

 たとえばだれかが、教室のスミで、別のだれかをいじめていたとする。それを見たとき優等生は、自らの正義感で、そのいじめを止めるのではない。まず頭の中で、模範解答を作り、その模範解答に従って行動しようとする。「こういうときは、止めなければいけない。また止めるのが正解」「止めなければ、あとで、先生に自分が責められる」「自分は、そういういじめを止めなければならない義務がある」と。つまり自分の意思ではない、別の自分に動かされて、そうする。ほかに……

○先生に意見を求められる。→できるだけ、すばらしい答を出して、みなを感心させてやりたい。
○何かの役をする。→自分がその役をするのは、当然のこと。みなの期待に答えたい。
○友だちが困っている。→まず自分が、模範を示すべき。そうすればみなから、尊敬される、と。

 さらにたとえば進学を考えるときも、勉強したいからではなく、優等生として、それにふさわしいコースを自分で想定し、そのコースに自分を当てはめようとする。いつも自分の意思というよりは、そういう自分を上から見ているもう一人の、別の自分の意思に従って、自分の行動を決めようとする。「私にふさわしいのは、A大学のA学部。そこへ入れば、親も喜ぶし、先生も納得するだろう」と。

●幼児期にできる方向性

こうした方向性は、実は、すでに幼児期にできる。しかもそうした方向性をつくるのは、子ども自身というよりも、親である。ある子ども(男子高校生)は、こう言った。

 「ぼくは、自分の子ども時代を振りかえってみたとき、自分がどこにもいなかったような気がする。食事にしても、食べたいから食べたのではなく、朝食時間や夕食時間になったから食べただけ。寝る時間も、そうだ。幼稚園の先生に、きちんとあいさつをすると、先生や親は喜んだが、ぼく自身は、自分がロボットだと感じたこともある。塾へもいくつか通ったが、親が行けと言ったから行っただけ。そこでよい成績をとってくると、親は喜んだが、いつか、そうして親を喜ばすのが、ぼくの義務のようになってしまった。また親が喜んでいる間だけ、自分は自分でいることができた。また自分の立場を守ることができた」と。

 この子どもも、優等生だった。親も、そう思い、喜んでいた。しかし自分の中に、自分でない自分をもつことは、たいへん危険なことでもある。度を超すと、そのまま自我が分裂してしまう。そして自分でない自分に、自分が振り回されてしまう。子どもによっては、ある日突然、自暴自棄になって暴れたり、反対に、他人との交流ができなくなり、引きこもってしまったりするようになる。そこまで進むことはないにしても、たいていは、思春期を迎えるころから、自分自身と、自分の中の自分でない自分との間で、はげしい葛藤(かっとう)を繰りかえすようになる。

 そういう意味でも、幼児期において、「いい子」と呼ばれる子どもほど、警戒して観察してみる必要がある。そこであなたの子どものチェックテスト。ここに書いたようなことで、いくつか思い当たるような点があれば、あなたの子どもは、かなり無理をしている子どもということになる。

(1)うちの子は、優等生で、よくできた子と思うことが多い。ものの道理をよくわきまえているし、しっかりしている。どこへ出しても、恥ずかしくない。
(2)幼稚園の先生や小学校の先生にも、よくほめられる。いろいろな仕事を与えられ、それをソツなくこなしているようだ。ほかの父母にもほめられることが多い。
(3)概して、親に従順で、たいていは親の決めた設計図や、スケジュールに従って行動してくれる。今のところ、順調にコースに乗っているようだ。
(4)ときどき、「アレッ!」と思うようなアンバランスなところがあるにはある。一〇〇点をとった答案用紙の裏に、むごたらしい悪魔の絵を描いたりするなど。
(5)ときどき何を考えているかわからないときがある。喜怒哀楽の感情を押し殺してしまうようなところがある。親の前でも、静か。親に従順で、あまり反抗しない。
 
 これは補足の補足ということになるが、この話を、ある懇談会でしたら、ひとりの母親がこう言った。「私が、その優等生でした。今も、その後遺症に苦しんでします」と。そういうケースも、少なくない。さて、あなたはだいじょうぶか?


分離不安

分離不安

ある母親から

「明日9月1日から2学期がはじまるのですが、
うちの子年少児は親から離れられず困っています。
1学期も離れると大泣きして離れられませんでした。
どうしたらできるようになるのでしょうか?」
(東京板橋区・UYより)

 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知られた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に働き行動があることがわかってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児の発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥が現れる。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、育児拒否的な行為(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。

 分離不安は、私の経験でも、年中児(満五歳児)、年長児(満六歳児)で、一五〜二〇人に起こることがわかっている。症状にも軽重があり、また発症する場所などもそれぞれで、この数字は、あくまでも推計である。親の顔や姿が見えなくなっただけで、ギャーッとものすごい形相で追いかける子どももいれば、待ち合い場所に母親が現れなかったときなどに混乱状態になる子どももいる。
 症状は、@突発的に興奮状態になり、攻撃的に親のあとを追いかけるプラス型、A混乱状態になり、オドオドとしたり、サメザメと泣くマイナス型に分けて考える。全体に半々と私は見ている。

 対処方法は、子どもの恐怖症に準じて、対処する。無理をしても意味がない。無理をすれば、かえって恐怖心を増長させ、症状をこじらせる。そのこじらせた分だけ、立ちなおりが遅れる。また強い指示を与えて、子どもにきびしく接すると、一時的に症状が消えたように見えることがある(仮性治癒)。しかし症状が消えても、治ったわけではない。症状が、子どもの心の奥にもぐったとみる。恐怖症と同じように、簡単には治らない。ばあいによっては、数年単位で経過と様子をみる。自意識が発達し、セルフコントロールできるようになると、分離不安による表面的な症状は、急速に消失する。その時期は満六歳以後とみる。

 恐怖症もそうだが、この分離不安による発作的症状は、おとなになってからも残ることが多い。ある女性(四〇歳)はこう言った。「今でも夫の帰りが、少し遅くなっただけで、言いようのない不安感に襲われます」と。分離不安というのは、そういうもの。
(02−9−1)

追記

分離不安になったら、治そうという考えは捨て、できるだけ子どもと行動をともにする。家庭では絶対的な安心感(疑いをいだかない安心感)を与えることに注意する。Ca、Mgの多い食生活にこころがけるだけでも、興奮状態はかなり軽減されるので、食生活を改善することも忘れてはならない。
親が子育てで失敗しておきながら、子どもを治すという発想は、親の身勝手でしかない。そういう視点で、この問題はみること。泣き叫んで幼稚園へ行くのを拒否するようであれば、行かなければよい。「行かねばならない」という、発想を修正する。が、どうしても行かせたいなら、一緒に幼稚園へ行けばよい。幼稚園の先生によっては、「集団に慣れさせます」とか言って、無理に引き離し、無理に子どもたちの中に入れようとする先生もいる。そういうときは事情をていねいに話し、ほかの子ども以上に、心温かいケアを頼むようにする。とにかく無理をしないが、原則である。繰り返すが、一度キズついた心はそんなに簡単には治らない。またそのキズは、何らかの形で、一生残る。決して安易に考えてはいけない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

子どもの分離不安を考える法(症状に注意せよ!)
子どもが分離不安になるとき

●親子のきずなに感動した!?     
 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラムニストの書いたものだが、いわく、「うちの娘(三歳)をはじめて幼稚園へ連れていったときのこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さに感動した」と。そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、「親子の絆の深さ」に感動したと言うのだ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症状。「別れをつらがって泣く子どもの姿」では、ない。
●分離不安は不安発作
 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声をあげて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイナス型)に分けて考える。似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立恐怖)もいるが、それはともかくも、分離不安の子どもは多い。四〜六歳児についていうなら、一五〜二〇人に一人くらいの割合で経験する。親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静かに落ちついている。が、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと、ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりする。
●過去に何らかの事件
 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっかけとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で入院したことや、置き去り、迷子を経験して、分離不安になった子どももいる。さらには育児拒否、冷淡、無視、親の暴力、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子どもの側からみて、「捨てられるのでは……」という被害妄想が、分離不安の原因と考えるとわかりやすい。無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理をすればかえって症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくするとやがて静かに収まることが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し症状が表れる。
●鉄則は無理をしない
 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしているのがわかる。「いいかげんにしなさい」「私はもう行きますからね!」と。こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます強く被害妄想をもつようになる。分離不安を神経症の一つに分類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。
 分離不安は四〜五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたように、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が予定より遅くなっただけで、言いようのない不安発作に襲われます」と。姿や形を変えて、おとなになってからも症状が表れることがある。

(付記)
●分離不安は小児うつ病?
子どもは離乳期に入ると、母親から身体的に分離し始め、父親や周囲の者との心理的つながりを求めるようになる。自我の芽生え、自立心、道徳的善悪の意識などがこの時期に始まる。そしてさらに三歳前後になると、母親から心理的にも分離しようとするが、この時期に、母子の間に問題があると、この心理的分離がスムーズにいかず、分離不安を起こすと考えられている(クラウスほか)。小児うつ病の一形態と考える学者も多い。症状がこじれると、慢性的な発熱、情緒不安症状、さらには神経症による諸症状を示すこともある。



平和教育

子どもと平和を考える法(自分の中の敵と戦え!)
子どもに平和を語るとき 
●私の伯父は七三一部隊の教授だった 
平和教育について一言……。
私の伯父は関東軍第七三一部隊の教授だった。残虐非道な生体実験をした、あの細菌兵器研究部隊である。そのことがある本で暴露されたとき、伯母はその本を私に見せながら、人目もはばからず、大声で泣いた。「父ちゃん(伯父)が死んでいて、よかったア〜」と。伯父はその少し前、脳内出血で死んでいた。
●「貴様ア! 何抜かすかア!」
 ドイツのナチスは、一一〇〇万人のユダヤ人絶滅計画をたて、あのアウシュビッツの強制収容所だけで、四〇〇万人のユダヤ人を殺した。そういう事実を見て、多くの日本人は、「私たち日本人はそういうことをしない」と言う。しかし本当にそうか? ゲーテやシラー、さらにはベートーベンまで生んだドイツですら狂った。この日本も狂った。狂って、同じようなことをした。それがあの七三一部隊である。が、伯父は私が知る限り、どこまでも穏やかでやさしい人だった。囲碁のし方を教えてくれた。漁業組合の長もしていたので、よく鵜飼の舟にも乗せてくれた。いや、一度だけ、こんなことがあった。
ある夜、伯父と一緒に夕食をとっていたときのこと。伯父が新聞の切り抜きを見せてくれた。見ると、伯父がたった一人で中国軍と戦い、三〇名の満州兵を殺したという記事だった。当時としてもたいへんな武勲で、そのため伯父は国から勲章をもらった。記事はそのときのものだった。が、私が「おじさん、人を殺した話など自慢してはダメだ」と言うと、伯父は突然激怒して、「貴様ア! 何抜かすかア!」と叫んで、私を殴った。その夜私は、泣きながら家に帰った。
●敵は私たち自身の中に
 もしどこかの国と戦争をすることになっても、敵はその国ではない。その国の人たちでもない。敵は、戦争そのものである。あの伯父にしても、私にとっては父のような存在だった。家も近かった。いつだったか私は私の血の中に伯父の血が流れているのを知り、自分の胸をかきむしったことがある。時代が少し違えば、私がその教授になっていたかもしれない。いや、戦争が伯父のような人間を作った。伯父を変えた。繰り返すが伯父は、どこまでも穏やかでやさしい人だった。倒れたときも、中学校で剣道の指導をしていた。伯父だって、戦争の犠牲者なのだ。戦争という魔物に狂わされた被害者なのだ。つまり戦争には、そういう魔性がある。その魔性を知ること。その魔性を教えること。そしてその魔性と戦うこと。敵は私たちの中にいる。それを忘れて、平和教育は語れない。

(付記)
●戦争の責任論
 日本政府は戦後、一貫して自らの戦争責任を認めていない。責任論ということになると、その責任は、天皇まで行ってしまう。象徴天皇を憲法にいだく日本としては、これは誠に都合が悪い。そこで戦後、政府は、たとえば「一億総ざんげ」という言葉を使って、その責任を国民に押しつけた。戦争責任は時の政府にではなく、国民にあるとしたわけである。が、それでは「日本はますます国際社会から孤立し、近隣諸国との友好関係は維持できなくなってしまう」(小泉総理大臣)。そこで、二〇〇一年の八月、小泉総理大臣は、「先の大戦で、わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」(第五六回全国戦没者追悼式)と述べ、「わが国」という言葉を使って、その戦争責任(加害主体)は「政府」にあることを、戦後はじめて認めた。が、しかし戦後、六〇年近くもたってからというのでは、あまりにも遅すぎるのではないだろうか。

(参考)
 この「平和教育を語るとき」の原稿と同時に書いたのが、次の「杉原千畝副領事のビザ発給事件」である。
●杉原千畝副領事のビザ発給事件 C
 「一九四〇年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人六〇〇〇人に対して、ビザ(査証)を発給した。これに対して一九八五年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられる勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行二〇世紀デザイン切手第九集より)。
●たたえること自体、偽善
 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、一一〇〇万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約四〇〇万人ものユダヤ人が虐殺されたとされる。杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。郵政省発行の記念切手にもなったことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっては偽善そのものと言ってよい。
●杉原副領事のしたことは、越権行為?
 当時日本とドイツは、日独防共協定(一九三六年)、日独伊防共協定(三七年)を結んだあと、日独伊三国同盟(四〇年)まで結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原副領事のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定違反の疑いすらある。杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がしたことはまちがっていると言うに等しい。その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今になって杉原副領事を善人としてたたえるのは、まさに偽善。いやこう書くからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。問題は、その先と言ったらとよいのか、その中味である。当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっても、その体質はほとんど変わっていない。どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及したというのであれば、話はわかる。そうした事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為をたたえるというのは、「今の日本人と戦争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくらい、おかしなことなのだ。
●日本はだいじょうぶか?
 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、一〇〇万単位の外国人不法入国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めたとしよう。もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払わないとする。そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のこととして考えてみてほしい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさにそういう状況だった。つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったということ。この日本が狂わないという保証はどこにもない。現に二〇〇〇年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(二〇〇〇年九月)。石原都知事のような日本を代表する文化人ですら、そうなのだ。
●「日本の発展はこれ以上望めない」
 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。そしてそれを受けてその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣言した。日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、「私たち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いませんよ」と言っているのに等しい。多くの経済学者は、二〇一五年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測している。そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。そういうことも考えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の発言を考える必要があるのではないだろうか。



勉強が苦手

●勉強が苦手……といっても、いろいろなタイプがあります。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ、など。

  まだほかにもいろいろなタイプの子どもがいるかもしれませんが、ここではよく
  観察される四つのタイプの子どもについて、考えてみます。


考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。

 今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。



勉強が苦手な子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

 しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で大切なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができる点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

 何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

 パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

 歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。


(1)思考力そのものが散漫なタイプ

 思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

 もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

 思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。


(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

 何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

 一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。

 このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますかという問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。

 一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。

 しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。


(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

 パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。

 このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

 そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。


(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴力を使って解決しようとするかも?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のアルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

 「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。が、このタイプの子どもは、その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができてしまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところにある。
 

*************************************

子どもに勉強ぐせをつける法(五悪に気をつけろ!)

子どもが勉強から逃げるとき 

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉
 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しかしその実、何もしていない。何も考えていない。次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつぶすなど。

●一時間で計算問題を数問!
 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワークブックを持ってきた。見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよくできるようになると思っていたらしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易でない。

●意欲を奪う五つの原因
 子どもから学習意欲を奪うものに、@過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、A過関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、B過剰期待(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、C過干渉(何でも親が先に決めてしまう)、それにD与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれは誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでなければやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほうが、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

●変わる「勉強」への意識
 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」から、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそれを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリーダーになった。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられるから、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別にして、今はそういう時代なのだ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。

 MMMMM ┌───────┐
| / \ |│ちぇ〜    │
q ・ ・ p│つまんないの〜│
(″ △ ゛)└──┬────┘
  /Σ▽乃\   ┘
 (│ : │)
  └───┘

**************************************

子どものやる気を引き出す法(四悪を避けろ!)

子どもがやる気をなくすとき 

●学習の四悪
 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テストで百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「お隣のA君は、もうカタカナが書けるのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実にやる気をなくす。勉強嫌いになる。

●無理・強制・条件・比較
@無理……子どもに与える教材やワークは、子どもの能力より、ワンランクさげるのがコツ。できる、できないよりも、子どもが勉強を楽しんだかどうかを大切にする。イギリスの格言にも、『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』というのがある。前向きに学習する子どもは伸びるし、そうでない子どもは伸びない。しかも子どもというのは一度うしろ向きになると、いくら時間とお金をかけても、一方的にムダになるだけ。親があせればあせるほど、かえって勉強から遠ざかってしまう。そういうのをこの世界では、「空回り」というが、この空回りを感じたら、さらに思いきって内容をワンランクさげる。

A強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要するに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。

B条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもしれないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、「勉強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」という意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生すらいた。そうなる。反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、「勉強は自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局は子どもを自立させる原動力となる。

C比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そうなればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。

 ……というのは、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族も少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代を経験したためにそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だから、私は幸福」「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。たとえば日本人は、「あなたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりすると、それだけでへんに納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要するに、無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目で見れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。


勉強部屋

勉強部屋は開放感がポイント

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結果、ドアから
一番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。子どもというのは無意識のうちに
も、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図書室全体が見渡せた。このこと
から、子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよい。
@机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよ
い。ドアが背中側にあると、落ち着かない。
A棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。
B光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法もあ
るが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。
C机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れ
などを用意する。
 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、
それが子どもを勉強嫌いにすることもある。
 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。
フワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。また
座ると前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそ
のイスでは、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れて
しまう。一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためでは
なく、休むためにある。それを忘れてはならない。
 子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求
めるようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前につ
いては、ケースバイケースで考える。


ホームスクール

 アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達しただろうと言われている。それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。
 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。
 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生では、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。


本嫌いの子ども

子どもを本好きにする法(方向性は図書館で知れ!)
子どもの方向性を知るとき 
●図書館でわかる子どもの方向性
 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。
●無理をしない
 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一〜二年、レベルをさげる。親というのは、どうしても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子どもには、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。
●動機づけを大切に
 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。
●文字を音にかえているだけ?
 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい。本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら読んでいる子どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目がフワフワした感じになる。さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿し絵をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。
●文字の使命は心を伝えること
 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なかなかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかおいしい』『なかなかなきやまない』」と。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、一〇人に三人はいる。

(付記)
●私の記事への反論
 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人からだった。
 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フランス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならしばらく聞いていると、イライラしてくるはずだ。

  TOP   MENU