はやし浩司

まみむめも
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はやし浩司

マザーコンプレックス&溺愛

埼玉県のHRさんより、夫の母親依存性に
ついてのメールがありました、それについて
考えてみます。
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こんばんは、今日も浦和は熱帯夜で、寝苦しい夜になりそうです。

ところで、またまた、どうしようもない悩みですが、聞いてください。

私たち夫婦は、結婚して5年になりますが、いつも同じような事で喧嘩をします。
結婚前から、何か主人に対するわだかまりのようなものがあって、いつも葛藤を繰り返していま
す。

主人の実家がすぐ近くにあり、まめに連絡をしてくれたり、夕食を皆で食べたり、いつも気にかけ
てくれて、とてもよくしてくれる両親です。週末になると、電話がかかってくるので、断るのも悪い
し、それほどの理由もないので、いつもどこか行きたくても、結局我慢(と、言っては悪いのです
が、たまには、私たちだけで、出かけたいのです。)してしまいます。

私にとっては、それが大きなストレスとなって、せっかくの休日が、台無しになる事もあります。な
ぜなら、主人は休みも少なくて、たまの休みといえば、いつも実家へ行ったり、行事があったり
で、結婚してから、私たちだけで出かけた事は、ほとんどないような気がします。

主人は、仕事で、家の事はまかせっきりで、近くに両親がいて、心強い事も多いのですが、あま
りにも頼りすぎというか、もっと自分たちの時間を持ちたいと思うのは、私の我がままでしょう
か?

主人は、絶対に親に逆らう事はなく、とてもいい子です。結婚前は、わたしといるより、家族とい
るほうが安心しているように見えました。旅行先で、母親に「今着いた」とか、何度も電話をした
り、新婚旅行も冗談だったのか、一緒に行きたいとまで、言ってました。
(結局、行きませんでしたが。)そんなことがあったからか、少しマザコン?と、思った事も多々あ
ります。

両親も、主人はもちろん、私も息子の事も気にかけてくれますが、あまりに干渉がひどいと、うん
ざりすることもあります。(すみません、愚痴になりました。)

そんな両親に素直に甘えればいいのでしょうが、一方では、もう少し自分たちで行動させてほし
いし、結婚したのだから、そろそろ自分たちでできる事はしたいと思っています。それは、両親に
ではなく、主人にいいかげん気づいて欲しいと思います。いつも、それがうまく主人に伝わらなく
て、困っています。

人それぞれ、結婚に対する価値観は違うと思いますが、親とのかかわりも大切ですが、結婚した
本人同士が、新しい家庭を築くのも大切だと思うのです。先生は、結婚について、どう思われま
すか?

両親との距離感というか、男性からみて、どう思われますか? やっぱり、私の我がままでしょう
か。
(8月10日・浦和市・HR)

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HRさんへ、

 親子の依存性というのは、相互的なものです。親に子どもへの依存性があるときは、同じよう
に子どもにも親への依存性があります。(親に依存性があるため、子どもの依存性に甘くなり、
それが時間をかけて、相互性をもつわけです。)

 HRさんのケースでは、夫と実家の母親の関係が、まさにその相互依存の関係です。こういうケ
ースでは、子どもは、「自分は親孝行で、親思いの、理想的なこども」と思いこんでいるもの。一
方、親は親で、「うちの息子はできのいい、孝行息子」「私は人一倍親の愛情にあふれたいい
親」と思いこんでいるものです。もっとはっきり言えば、子離れできない親、親離れできない子ど
もの、いわゆるベタベタの関係でありながら、互いにそれを「すばらしい関係」と錯覚します。

 しかし、ここが問題ですが、たいていは、こうした依存性そのものが、親子の、人生観の基本に
なっていることが多く、それを否定すると、それこそ、たいへんなことになりますから注意してくだ
さい。HRさんについて言えば、夫に対して、「親をとるか、妻をとるか」の択一を迫ることになりま
す。実際、こういうケースで、それが原因で離婚したり、あるいは妻側が、自殺未遂にまで追い込
まれたケースがあります。夫にしてみれば、「親が第一、妻は第二」、あるいは、「どんなことがあ
っても、子どもは親のめんどうをみるべき」「そのため妻が犠牲になってもかまわない」ということ
になります。

 こうした日本人独特の親子関係は、「根」が深く、簡単には解決しません。さらにHRさんの夫の
ように、マザコン(失礼!)的な男性のばあい、生まれながらにして、そういう子どもになるよう、
体のシンまで、相互依存性がしみこんでいますから、本人がそれに気づくことすら、むずかしい
のです。

 しかし症状としては、まだ軽いほうです。私の知っているケースでは、実家へ帰るたびに、妻の
目を盗んで、こっそりと母親と風呂に入ったり、母親のふとんの中で寝ていた男性がいました。
新婚旅行にすら、本当についてきた母親もいました。はたから見れば、おかしな関係ですが、本
人たちから見れば、ほかの人たちのほうがおかしく見えるのです。そういう意味では、まさにカル
ト的ですね。

 さて、こういうケースでは、どうするか、ですが、幸いなことに、目下、別居しているのですから、
問題の一つは解決しています。
 つぎにマザコン的であることを、どうやって夫に気づかせるかですが、今までのケースでは、こ
れは不可能とさえ言ってもよいでしょう。気づかせるにしても、一〇年単位の長い、時間がかかり
ます。ここにも書いたように、夫の人生観の基本にもなっているからです。私の知人の中にも、こ
のタイプの男性は少なからずいます。五〇歳以上の男は、多かれ少なかれ、たいていこのタイプ
の男とみてよいようです。たいていはマザコン的であることを、「親孝行」という言葉を使って、ご
まかします。

 そこで今度はあなた側の選択ということになります。そういう夫と環境を受け入れるか、受け入
れないかの選択です。で、こういうケースでは、受け入れるしかないですね。あきらめて……。し
かし改善策はないわけではありません。こういう環境を、あなたとあなたの家族のために利用す
るのです。「悪いこと」と決めてかかるのではなく、よい面をみつけて、あなたのために利用する
のです。HRさんが書いておられるように、「安心のための保険」のように考えてはどうでしょう
か。

 ただ私が一番心配するのは、人間の心はカガミのようなものですから、多分(というより、確実
に)、あなたの夫の母親は、あなたに対して、よい印象をもっていないということです。あなたの側
からみれば、「疲れる。ストレスがたまる」ということですが、夫の母親にしてみれば、「できの悪
い嫁」ということになります。これが高じると、泥沼の、嫁VS姑戦争に発展しますから、ご注意く
ださい。そうなると、ストレスは、底なしにたまります。

 ひとつの方法は、あなたにそれだけの勇気があるならの話ですが、思い切って、母親と話し合
ってみるという手もあります。しかしこのばあいも、母親がそれを理解するかどうかという問題が
あります。反対に、あなたのほうが、はじき飛ばされてしまうかもしれません。そういう意味で、ベ
タベタの相互依存の関係にある親子に、割って入るのは、たいへん危険なことです。

 やはり、あなたの立場では、受け入れるしかないかもしれません。それこそ一〇年単位で、自
分の気持ちを伝え、一〇年単位で、夫に気づいてもらうしかないでしょう。悪いことばかりではな
いので、思い切って目をつぶるところは、つぶる……。この問題だけは、本当に「根」が深いで
す。いくつか原稿を張りつけておきますから、どうか、参考にしてください。
 
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子育て随筆byはやし浩司

あなたの夫のマザコン度診断

あなたの夫のマザコン度(母親への依存性)の診断をします。依存性は、それ自体、自立性と対
照的位置にある問題で、このテストで高得点だった人ほど、自立心の軟弱な男性とみます。

☆ あなたの夫は、日ごろから、どの程度、母親と連絡を取りあっていますか。
ささいな日常的なことまで報告し、母親の判断で行動している……5点
何かできごとがあると、母親に報告したり、電話をかけている……3点
ほとんど母親を無視している。妻と相談して決めている……0点

☆ あなたの家計について、あなたの母親はどの程度把握していますか。
   すべて母親任せ(自営業)、あるいはほとんど把握されている……5点
   給料は母親から渡される(自営業)、あるいは母親が干渉してくる……3点
   母親はいっさい関係ない。母親も干渉してこない……0点

☆ あなたの夫の人生観はどうですか。
   親孝行をすることを第一に考え、それ以外は考えられない……5点
   妻よりも、母親の立場を、日ごろから尊重している……3点
   妻を第一に考え、母親と妻と対立するときは、妻側に立つ……0点

☆ あなたの夫の生活のリズムはどうですか。
   すべてが親中心で動いているふう。妻はあくまでも夫の付属品……5点
   何をするにも、母親が目立つ。ときどき妻の立場がなくなる……3点
   母親の存在感はほとんどない。母親は母親で勝手に生活している……0点

☆ 今までのあなたの生活で、いくつ当てはまりますか。

・ 結婚式、会場などは親に相談して決めた。
・ 新居の生活などは、そのつど親に相談して決めた。
・ 子どもの名前は、親に相談して決めた。
・ 子どもの行事には必ずといってよいほど母親が口や顔を出す。
・ あなたの夫はあなたよりも、母親の味付けのほうを好むようだ。

     以上、五個当てはまる……5点
        三個当てはまる……3点
        〇個あてはまる……0点

☆ あなたの夫の母親への隷属性はいかがですか。こんな状況を想定してみてください。あなた
が夫と子どもたちだけで、旅行を計画していました。で、その数日前になって母親から電話があ
り、母親も、一緒に旅行に行きたいとあなたの夫に言ったとします。そのとき、あなたはそれを渋
ったのですが、そのとき、あなたの夫は……
   
母親も連れていくと言う。妻であるあなたが反対することはできない。……5点
   一応あなたに相談するものの、母親を連れて行くことになる……3点
   家族旅行だからということで断る。わだかまりも残らない……0点

 マザコンタイプの男(夫)といっても、外見からはわからない。結構外の世界では、ダンディ(男
っぽく)で、仕事をバリバリするような人でも、家庭へ入ると、マザコンタイプの人はいくらでもい
る。(このタイプの男性は、かえって外の世界では反対の自分を演ずることが多い。)
 で、多くの女性は、結婚してみて、夫の素顔を知ることになるが、問題は、夫にも、また夫の母
親にも、その自覚がないこと。たがいに理想の親子関係だと思っていることが多い。中には、ベ
タベタの依存性を、外の世界に向かって、誇る人もいる。「新婚旅行には、母親も連れていって
あげました。母親も、西ジャワの夕日を見たいと言いましたので」と。新婚旅行先から、母親に、
その日のできごとを、毎日報告していた夫もいた。脳のCPU(中央演算装置)が、狂っているた
め、そうなる。……そういうことが平気でできる。
 一方、母親は母親で、保護意識が強くなる。保護と依存は、ちょうど表と裏の関係にある。だか
ら何かにつけて、「保護」の名のもとに、夫とあなたの生活に干渉してくる。このタイプの母親にし
てみれば、妻は夫の付属品でしかない。だから妻が夫の母親の意に反したことをしようものな
ら、母親は、夫に向かって、「あんな女、離婚しなさい」となる。

 さてこのテストで、合計点15点以上なら、あなたの夫は、かなりのマザコンタイプの男とみてよ
い。もしそうなら、まず夫自身に、自分がマザコンタイプの男であることを気づかせる。しかしこの
問題は、ここにも書いたように、脳のCPUの問題でもあり、かつ夫の人生観と深くからんでいる
ため、それを気づかせるだけでも容易ではない。恐らく、このテスト結果を見せただけで、このテ
ストと私に、猛反発するに違いない。「あなたは日本人の美徳である、親孝行を否定するのか」
と、怒ってきた男性すらいた。

 この問題だけは、一〇年単位で考える必要がある。
(02−8−11)

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どうしてうちの子を泣かすのですかア!

子育ては子離れ(失敗危険度★★★★★)

●そのうちメソメソと……
 子育てを考えたら、その一方で同時に、子離れを考える。「育ててやろう」と考えたら、その一
方で同時に、「どうやって手を抜くか」を考える。そのバランスよさが子どもを自立させる。こんな
ことがあった。

 帰りのしたくの時間になっても、D君(年中児)はそのまま立っているだけ。机の上のものをしま
うようにと指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そこであれこれ手振り
身振りでそれを示すと、D君はそのうちメソメソと泣き出してしまった。多分そうすれば、家ではだ
れかが助けてくれるのだろう。が、運の悪いことに、その日にかぎって、たまたま母親がD君を迎
えにきていた。D君の泣き声を聞くと教室へ飛び込んできて、私にこう言った。「どうしてうちの子
を泣かすのですかア!」と。

●遅れる「核」形成
 このタイプの親は、子どもの世話をするのを生きがいにしている。あるいは手をかけることが、
親の愛の証(あかし)と誤解している。しかし親が子どもに手をかければかけるほど、子どもはひ
弱になる。俗にいう「温室育ち」になり、「外に出すとすぐ風邪をひく」。

特徴としては、@人格の「核」形成が遅れる。ふつう子どもというのは、その年齢になるとその年
齢にふさわしい「つかみどころ」ができてくる。しかしそのつかみどころがなく、教える側からする
と、どういう子どもなのかわかりにくい。A依存心が強くなる。何かにつけて人に頼るようになる。
自分で判断して、自分で行動をとれなくなる。先日も新聞の投書欄で、「就職先がないのは、社
会の責任だ」と書いていた大学生がいた。そういうものの考え方をするようになる。B精神的にも
ろくなる。ちょっとしたことでキズついたり、いじけたり、くじけたりしやすくなる。C全体に柔和でや
さしく、「いい子」という印象を与えるが、同時に子どもから本来人間がもっているはずの野生味
が消える。

●何でも半分
 人間の世界を生き抜くためには、ある程度のたくましさが必要である。たとえばモチまきのと
き、ぼんやりと突っ立っていては、モチは拾えない。生きていくときも、そうだ。そのたくましさを、
どうやって子どもに身につけさせるかも、子育てでは重要なポイントとなる。もしあなたの子ども
が、先のD君のようであるなら、つぎのような格言が役にたつ。

 「何でも半分」……子どもにしてあげることは、何でも半分にして、それですます。靴下でも片方
だけはかせて、もう片方は自分ではかせる。あるいは服でも途中まで着させて、あとは子どもに
任す、など。

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「先生、私、異常でしょうか?」

溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んでくれると、
私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。主人なんか、いてもい
なくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答えて、こう言った。「異常です」と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親は自分の
子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、泣き明かしたとい
う。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見ると、いとおしくて、ほお
ずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみる。
そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子どもに恵ま
れたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の死や事故がきっか
けで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、夫や家庭、他人や社会に向
けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママの典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」母親、会話に割り込み
ながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにいるわよねエ。そうよねエ〜」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気がない。
幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、生活習慣がだら
しなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格の核形成が遅れる。ここで
いう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といってもよい。子どもは年長児の中ごろから、
少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときになっても、「この子はこういう子だ」という輪
郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくなる。ちょうどひざに抱かれたペットのようだから、私は
「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになるケース。
以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、ママ」と言って、母親
のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一つは、その反動からか、やが
て親に猛烈に反発するようになるケース。ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともな
うことが多い。乳幼児期から少年少女期への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかっ
たために、そうなる。だからたいていの親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だっ
たんです。どうして、こんな子どもになってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。しかしそ
れはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、何もない。

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ママ診断

あなたは溺愛ママ?

●三種類の愛
 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。本
能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母親は
赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛で、そ
の愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅亡して
いたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。一
方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。相
手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じように考え
てよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだけ。

●子どもは許して忘れる
三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識した
とき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語では
『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また子ども
に問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに真の愛と
いうことになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは親
側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、騒
動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛す
るようになる。

●溺愛児の特徴
 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。@幼児性の
持続(年齢に比して幼い感じがする)、A人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」というつかみ
どころがはっきりしない)、B服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで自分勝
手)、C退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。全体にちょ
うどひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット児」(失礼!)と
呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのはその年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長していく。たとえば
幼児だと、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中
間反抗期と呼ぶ人もいる。幼児期から少年少女期への移行期と考えるとわかりやすい。しかし
溺愛児にはそれがなく、そのためちょうど問題を先送りする形で、体だけは大きくなる。そしてい
つかそれまでのツケを払う形で、一挙にそのカラを脱ごうとする。しかしふつうの脱ぎ方ではな
い。たいていはげしい家庭内騒動、あるいは暴力をともなう。が、子どもの成長ということを考え
るなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラを脱げない子どもは、そのまま溺愛児として、たとえ
ば超マザコンタイプの子どもになったりする。結婚してからも実家へ帰ると母親と一緒に風呂へ
入ったり、母親のふとんの中で寝るなど。昔、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなたが好きだっ
た』の主人公)という男性がいたが、そうなる。

●じょうずな子離れを!
 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もいる。が、
溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと自分で確認するこ
と。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを生きがいにしない。子ども
に手間、ヒマ、時間をかけないの三原則を守り、子育てから離れる。 

(診断テストは、省略)

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依存心をつける子育て

 森進一の歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多
い。しかし……。

 「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺愛児。それ
はよく知られているが、もう一つのタイプがある。親を溺愛する溺愛児というのが、それ。簡単に
言えば、親離れできない子どもということになるが、その根は深い。Nさん(女性)は、六〇歳を過
ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りびたりになっている。親のめんどうをあれこれ
みている。親から見れば、孝行娘ということになる。Nさん自身も、そう言われるのを喜んでい
る。いわく、「年老いた母の姿を見ると、つらくてなりません。もし魔法の力が私にあるなら、母を
五〇歳若くしてあげたい」と。

 話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよく言わ
れる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで一冊の本になってしまう。が、あえ
て言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるようにして子どもを育
てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。「親は一番大切な存在
だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるのだ」とかいうようなことを、繰り返し
繰り返し子どもに教える。教えるというより、子どもの体に染み込ませる。そして反対に、独立心
が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。あるいは親不孝者として、排斥す
る。

こうして日本では、親に対してベタベタの依存心をもった子どもが生まれる。が、それは多分に原
始的でもある。少なくとも欧米的ではない。あるいはあなたはよい歳をして、「♪おふくろさんよ、
おふくろさんよ……」と涙を流している欧米人が想像できるだろうか。むしろ現実は反対で、欧米
人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立させることを、子育ての最大の目標に
している。生後まもなくから、寝室そのものまで別にするのがふつうだ。親子という上下意識がな
いのはもちろんのこと、子どもが赤ん坊のときから、「私は私、あなたはあなた」というものの考え
方を徹底する。たとえ親子でも、「私の人生は私のものだから、子どもにじゃまされたくない」と考
える。

こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人だし、欧
米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、実は私も心情
的には、親近感を覚える。しかしこれだけはここに書いておきたい。親思いのあなた。親は絶対
だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標にしているあなた。そういうあなたの
「思い」は、乳幼児期に親によって作られたものだということ。しかもそれを作ったのは、あなたの
親自身であり、その親も、日本という風土の中で作られた子育て法に従っただけに過ぎないとい
うこと。言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流れて
いる。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、『おふくろさん』
を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。

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ペットのような子ども

(自立できない子ども)

 母親のAさんは、入るクラスをまちがえたのではないかと思うくらい、自分の子ども(年中児)が
幼稚に見えた。柔和でおっとりしているが、覇気がない。皆がワーワーと騒ぐようなときでも、ニコ
ニコしているだけ。子どもというより、赤ちゃんに近いという印象を受けた。が、Aさんは、それを
二月生まれのせいにした。「うちの子は、早生まれだからだ」と。

 溺愛と過保護。それに手をかけ過ぎると、子どもは特有の症状を見せるようになる。ちょうど膝
に抱かれたペットのような子どもになるので、私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そう
いった感じになる。このタイプの子どもは、人格の「核」形成が遅れる。核というのは、いわば「つ
かみどころ」をいう。子どもというのは、その年齢になると、その年齢にふさわしいつかみどころ
ができてくる。しかしペット児には、それがない。幼稚に見えるのは、そのためである。

 このタイプの子どもの指導が難しいのは、親にその自覚がないこと。溺愛を「深い愛」と誤解
し、子どもを過保護にし、手をかけることを、「子どもを大切にすることだ」と誤解している。あるい
はそれを親の生きがいにしている。たとえばこのタイプの子どもは、後かたづけができない。皆
が机の上のものをカバンにしまうというときも、どうしてよいかわからず、突っ立っているだけ。そ
こで先生が、「早くしまおうね」と何度も促すと、今度はメソメソと泣き出してしまう。泣けば誰かが
何とかしてくれるということを、このタイプの子どもはよく心得ている。だから泣く。が、それも親は
わからない。子どもが泣いたことだけを取りあげて、「どうして泣かすのですか!」と、先生に食っ
てかかってくる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。そういう視点に立
つと、Aさんの子育ては、完全に道からはずれている。そればかりではない。このタイプの子ども
は、(手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますますひ弱にな
っていく。が、この段階でも、それに気づく親はいない。子どもがひ弱なのは、生まれつきのもの
で、育て方に原因があるのではない、と。子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイン
ト」を書いて渡した母親がいた。「うちの子は、こうこうですから、こういうときには、こう指導してく
ださい」と。あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうし
てですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、
心配で心配で……」と。

 このタイプの子どもは、やがて豹変するタイプと、その後「いい子(?)」のままでおとなになるタ
イプの二つに分かれる。私は七対三の割合とみているが、豹変するといっても、ふつうの変化で
はない。激しい家庭内暴力を伴うことが多い。子どもというのは、成長の段階で、カラを脱ぐよう
にして大きくなる。そのカラを脱ぐべきときに脱がなかった……。それが大きなツケとなって返っ
てくるというわけである。


夢想する子ども

「夢」論

 「夢」という言葉は、もともとあいまいな言葉である。「空想」「希望」という意味もある。英語では、「ドリーム」というが、日本語と同じように使うときもある。あのキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、黒人の公民権運動の指導者)も、「I have a dream……(私は夢をもっている……)」という有名な演説を残している(六三年八月、リンカーン記念堂前で)。

 しかし子どものばあい、「夢」と「現実」は区別する。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはいけない』というのがある。つまり空想するのはよいが、それに子どもがハマるようであれば、注意せよ、と。

 そこで調べてみると、いろいろな思想家も、夢について論じているのがわかる。その中でも近代思想の基礎をつくった、ジューベル(一七五四〜一八二四、フランスの哲学者)は、『パンセ』の中で、つぎのように書いている。

 『学識なくして空想(夢)をもつものは、翼をもっているが、足をもっていない』
 『空想(夢)は魂の眠りである』と。

 これを子どもの世界に当てはめて考えてみると、つぎのようになる。

 子どもというのは、満四・五歳前後から急速に、理屈ぽくなる。「なぜ、どうして?」という会話がふえるのもこのころである。つまりこの時期をとおして、子どもは、「論理」を学ぶ。A=B、B=C、だからA=Cと。言いかえると、この時期の接し方が、その子どものものの考え方に、大きな影響を与える。この時期に、ものの考え方が論理的になった子どもは、以後、ずっと論理的なものの考え方をするようになるし、そうでない子どもは、そうでない。

 ジューベルがいう「足」というのは、「論理」と考えてよい。日本語でも、現実離れしていることを、「地に足がついていない」と言う。「現実」と「論理」というのは、車の両輪のようなもの。現実的なものは、論理的だし、論理的なものは、現実的である。つまりジューベルも、空想するのはその人の勝手だが、学識のない人がする空想は、論理的ではないと言っている。

 子どもでもそうで、超能力だの、魔術だのと言っている子どもほど、非現実的なものの考え方をする傾向が強い。少し前だが、教室の窓から、遠くのビルをながめながら、一心にわけのわからない呪文を唱えている中学生(男子)がいた。そこで私が、「何をしているのか?」と声をかけると、「先生、ぼくは超能力で、あのビルを爆破してみたい」と。

 しかしこうした「足のない空想」は、子どもにとっては、危険ですらある。論理がないというだけならまだしも、架空の論理をつくりあげてしまうことがある。よい例が、今にみるカルト教団である。死んだ人間を生きていると主張し、その死体がミイラ化しても、まだ生きていると言い張った教団があった。あるいは教祖の髪の毛を煎じて飲んでいる教団もあった。はたから見れば、実に非論理的な世界だが、それにハマった人には、それがわからない。いわんや、子どもをや!

 そこでジューベルは、『空想は魂の眠りである』と言い切った。足のない空想にふければふけるほど、魂は眠ってしまうということ。それをもう少し常識的に考えると、こうなる。

人間が人間であるのは、考えるからである。パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者)もそう言っている。『思考が人間の偉大さをなす』(「パンセ」)と。わかりやすく言えば、思考するから人間である。「生きる」意味もそこから生まれる。もし人間が思考することをやめてしまったら、その人、つまりその人、つまり魂は死んだことになる。空想は、その魂を殺すところまではしないが、眠らせてしまう、と。

 たとえばもし、私が、今ここで、今日のことが不安だからといって、星占いに頼ったら、どうなるか。何かの事故にあわないようにと、何かのまじないをしたらどうなるか。多分、その時点で、私は考えることをやめてしまうだろう。が、それは同時に、自分自身への敗北でもある。さらにほとんどのことを、占いやまじないに頼るようになれば、自分自身を否定することにもなりかねない。そのためにも、魂は眠らせてはいけない。そのためにも、足のない空想はしてはいけない。

 さて、子どもの「夢」に話をもどす。子どもが空想の世界に自分をおき、あれこれまったく違った角度から、自分の世界を見ることは、まちがってはいない。しかしその前提として、「論理」がなければならない。「学識」でもよい。それがないと、どこからどこまでが現実で、どこから先が空想なのか、それがわからなくなってしまう。それは子どもの世界としては、たいへんまずい。ものごとを論理的に考えられなくなるだけではなく、先にも書いたように、自らを空想の世界へ、追いこんでしまうこともある。そして結果として、わけのわからないことを言いだす。こんな子ども(小五女児)がいた。

 私がある日、ふと、「頭が痛い」と言うと、「じゃあ、先生、なおしてあげる」と。肩でもたたいてくれるのかと思っていたら、そうではなく、じっと目を閉じて、手のひらを私にかざし始めた。「それは何?」と聞くと、「だまっていて。だまっていないと、パワーが集中できない」と。あとで聞くと、そうして手をかざすと、どんな病気でもなおるというのだが、私はそうは思わなかった。だから、「そんなのだったら、いい」と言うと、「先生は、バチが当たって、もっと頭が痛くなる」と、今度は私をおどした。

子どもが空想(夢)の世界にハマるようであれば、逆に、「なぜ、どうして」を繰り返しながら、子どもを現実の世界に引きもどすようにする。その時期は、早ければ早いほど、よい。年齢的には、小学一、二年生ごろまでではないか。それ以後は、自意識が強くなり、なおすのがむずかしくなる。
(02−11−26)

●空想するのは子どもの自由だが、子どもがその世界にハマるようなら注意せよ。

(追記)
 あなたも思いきって、迷信を捨ててみよう。占いや、まじないを、捨ててみよう。勇気を出して、捨ててみよう。そんなものに支配されてはいけない。そんなものをあてにしてはいけない。あなたは、どこまでいっても、あなたなのだ。あなたは自分の人生を、自分で生きるのだ。



燃え尽き

  子どもの心が燃え尽きるとき   

●「助けてほしい」   
 ある夜遅く、突然、電話がかかってきた。受話器を取ると、相手の母親はこう言った。「先生、助けてほしい。うちの息子(高二)が、勉強しなくなってしまった。家庭教師でも何でもいいから、してほしい」と。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみるか、少ないとみるか?
●燃え尽きる子ども
 原因の第一は、家庭教育の失敗。「勉強しろ、勉強しろ」と追いたてられた子どもが、やっとのことで目的を果たしたとたん、燃え尽きることが多い。気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴えるようになる。概してまじめで、従順な子どもほど、そうなりやすい。で、一度そうなると、その症状は数年単位で推移する。脳の機能そのものが変調する。ほとんどの親は、ことの深刻さに気づかない。気づかないまま、次の無理をする。これが悪循環となって、症状はさらに悪化する。その母親は、「このままではうちの子は、大学へ進学できなくなってしまう」と泣き崩れていたが、その程度ですめば、まだよいほうだ。
●原因は家庭、そして親
 親の過関心と過干渉がその背景にあるが、さらにその原因はと言えば、親自身の不安神経症などがある。親が自分で不安になるのは、親の勝手だが、その不安をそのまま子どもにぶつけてしまう。「今、勉強しなければ、うちの子はダメになってしまう!」と。そして子どもに対して、しすぎるほどしてしまう。ある母親は、毎晩、子ども(中三男子)に、つきっきりで勉強を教えた。いや、教えるというよりは、ガミガミ、キリキリと、子どもを叱り続けた。子どもは子どもで、高校へ行けなくなるという恐怖から、それに従った。が、それにも限界がある。言われたことはしたが、効果はゼロ。だから母親は、ますますあせった。あとでその母親は、こう述懐する。「無理をしているという思いはありました。が、すべて子どものためだと信じ、目的の高校へ入れば、それで万事解決すると思っていました。子どもも私に感謝してくれると思っていました」と。
●休養を大切に
 教育は失敗してみて、はじめて失敗だったと気づく。その前の段階で、私のような立場の者が、あれこれとアドバイスをしてもムダ。中には、「他人の子どものことだから、何とでも言えますよ」と、怒ってしまった親もいる。私が、「進学はあきらめたほうがよい」と言ったときのことだ。そして無理に無理を重ねる。が、さらに親というのは、身勝手なものだ。子どもがそういう状態になっても、たいていの親は自分の非を認めない。「先生の指導が悪い」とか、「学校が合っていない」とか言いだす。「わかっていたら、どうしてもっとしっかりと、アドバイスしてくれなかったのだ」と、私に食ってかかってきた父親もいた。
 一度こうした症状を示したら、休息と休養に心がける。「高校ぐらい出ておかないと」式の脅しや、「がんばればできる」式の励ましは禁物。今よりも症状を悪化させないことだけを考えながら、一にがまん、二にがまん。あとは静かに「子どものやる気」が回復するのを待つ。



問題児

問題のある子ども
 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分を小さくする。よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。
 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場でいうなら、『教育論は、教育で失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。が、一般世間の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組みたてる。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。
 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、もっと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。

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弱者の立場で考える

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。
宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。
実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。
 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


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