やる気論
人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜっぺき)性。
大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激するか、だ。そこで私は、ここで@自我の追求と、A絶壁性をあげる。
自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネスをとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価ということになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言えば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。
しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。これを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわからない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はがんばる。が、それがなければ、そうでない。
さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自我が原動力になっていることはまちがいない。
つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れれば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そういう危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだろうと思う。
そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考えてみよう。
(自我の追求)
教育の世界では、@動機づけ、A忍耐性(努力)、B達成感という、三つの段階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけがうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種をまいて、引き出す』の要領である。
忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。しかしこれは誤解。まったくの誤解。
三つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱっていく原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。
(絶壁性)
酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子どもは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもたせすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。
そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここまで飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかしい。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子どもの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。
とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。E君という子どもだが、こんなことがあった。
小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はたから見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだったらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなっていった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。
つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかということ。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。
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子どものやる気
●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。
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……2才の娘がいます。
「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思います。
今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりましたが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょうか?
つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるまでにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?
個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちなので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。
金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価として得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大変難しいと思いました。
お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。
「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしまいました。
(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)
以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。
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こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなかった」「説明不足だった」という思いである。
講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、結論だけを話し、それで終わってしまう。
しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、@子どものやる気と、A金銭感覚について、考えてみたい。
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@子どものやる気
子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。
この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足させられること」。この二つで、決まる。
たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹感を満足させる。……子どもは、それで満足する。
これが主体性のはじまりである。
この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たとえばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方に、大きな影響を与えると言われている。
この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができる。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。
つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。
たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこむ日光によって、明るくキラキラと輝いている。
そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて乳を求める行為である。
そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。これが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。
このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引き出される。
こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができる。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。
これをチャート化すると、こうなる。
(主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出していく。
どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。
言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。
私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」が介在する余地があるということになる。
それについては、また機会があれば、説明したい。
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A子どもの金銭感覚
子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておきます。参考にしてください。
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子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!
●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。
●一〇〇倍論
そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。
●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。
先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。
●この話はどこかおかしい
一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。
●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。
●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
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参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。
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好子(こうし)と嫌子(けんし)
何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようになる。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。
反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪いことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」という。
もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。たとえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があったからである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかったとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれない。
これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあっている。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。
たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこよさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。
このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がいる。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。
体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えることを考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はまちがっている。
そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのすっきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?
たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツと暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。
反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オーストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛にあふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で生き延びることができた。
言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの世界を総じてみればわかる。
私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中でみると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことができる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。
ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさいよ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づいていない。
結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではなく、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あとは負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないようにするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことになる。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのはず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本では、リーダーになれない?
……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化してきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。
ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。
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自己嫌悪
ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんからのものだった。
自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春期には、よく見られる現象である。
しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。
一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。
が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行などがある。
だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。
問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。
Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果となってしまった。
Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。
やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。
このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。
軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考えないことをいう。
心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、@今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。A今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、B一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。
また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。
以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。
こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。
しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。
ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。
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たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)
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