はやし浩司

やゆよ
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はやし浩司

やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜっぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激するか、だ。そこで私は、ここで@自我の追求と、A絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネスをとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価ということになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言えば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。これを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわからない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はがんばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れれば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そういう危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考えてみよう。

(自我の追求)
 教育の世界では、@動機づけ、A忍耐性(努力)、B達成感という、三つの段階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけがうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種をまいて、引き出す』の要領である。
 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。しかしこれは誤解。まったくの誤解。
 三つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱっていく原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)
 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子どもは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもたせすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。
 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここまで飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかしい。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子どもの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。
 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はたから見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだったらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなっていった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかということ。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

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子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

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……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思います。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりましたが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょうか?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるまでにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちなので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価として得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしまいました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

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 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなかった」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、@子どものやる気と、A金銭感覚について、考えてみたい。

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@子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たとえばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができる。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこむ日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。これが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができる。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出していく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

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A子どもの金銭感覚

子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておきます。参考にしてください。

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子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

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参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。

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好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようになる。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪いことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」という。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。たとえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があったからである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかったとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれない。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあっている。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこよさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がいる。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えることを考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はまちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのすっきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツと暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オーストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛にあふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中でみると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことができる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさいよ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づいていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではなく、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あとは負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないようにするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことになる。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのはず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化してきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。

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自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考えないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、@今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。A今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、B一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。

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 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)




やる気のない子ども

子どもの自我を伸ばす法(自我をつぶすな!)
子どもの自我がつぶれるとき
●フロイトの自我論 
フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。
 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。
 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。
 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない子どもといった感じになる。
●自我は引き出す
その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子どもを当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけての時期が重要である。
●要は子どもを信ずる
 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育ての原点はここにある。

(参考)
●フロイトの自我論
 フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)は、自我の強弱によって、人の様子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめて考えてみたのが、次の表である。

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馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。
 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)
 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。
 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。
 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。

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【補足】

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回という組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっとも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心をみるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、それ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていても、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようです。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりしていて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりしすぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおりません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいます。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂きたいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それで終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さらにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースでは、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪くなる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムがまったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわかる。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなかにあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だからといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースでは、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こういう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のCPU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわってはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校から帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすということが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子どもに向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そう言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。しかしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせかけるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊する。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもないが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子どもに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこかに、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うなら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずもない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもなるというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているということ。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないことは、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはまさにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとしない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころには、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっと早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかしよう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわかれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかまりがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへの過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友として受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これは今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたもいっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったとき、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができるというのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさんとの間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じたことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そういう視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

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●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡がなければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩司
(03ー1ー28)

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●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでした。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やまれ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりません。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思います。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。
 
これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?
 
はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

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●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 
 
ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司




遊離

仮面をかぶらせるな

 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわい。
 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいるが、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。
 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。平気な親もいる。「バカ!」と言うことを許せというのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけない。子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放させることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心というのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注意する。  



指しゃぶり

 ある雑誌に、子どもの指しゃぶりについて、特集が組んであった。指しゃぶりの是非論、弊害論、さらには、なおし方まで。苦い食べ物(ヒマシ油)を子どもの指に塗ればよいという意見まであった。しかし……。

 赤ん坊が、母親の乳房を吸いながら、やすらかな眠りにつくのは、そこに性的な快感があるからだと主張したのが、フロイトである。ただ単にそれは、栄養物としての乳を求めるだけのものではない、とも。フロイトは、そういう赤ん坊から母親への愛着行為を、「口愛行動」と呼んだ。

 だからこの時期、口愛行動が不足すると、子どもはその代償行為として、自分の指をしゃぶったり、おしゃぶりを口に含んだりするようになる。ものを口に入れたり、タオルの端をしゃぶるのも、同じように考えてよい。「代償行為」というのは、自分自身の中にたまった欲求不満を、代わりの方法で償うことをいう。

 人間の行動の基本にあるのが、「性欲」というのが、フロイト学説の柱になっている。たとえば子どもは、この口愛行動のあと、肛門愛、男根愛と、三つの発達段階を経るという。ただここで誤解してはいけないのは、「肛門愛」「男根愛」といっても、肛門を愛したり、男根を愛したりするということではない。「肛門愛」というのは、「排出する快感を味わう愛」、「男根愛」というのは、「性的な快感を、ペニスやクリトリスに感ずる愛」をいう。フロイトはこれらをまとめて、「小児性欲」と呼んだが、こうした「愛」がさまざまに変化して、人間の行動を、裏からコントロールする。

 あまりよい例ではないかもしれないが、もしあなたが他人の、しかもものすごい秘密を握ったとする。するとあなたは、多分、それをだれかに話したい衝動にかられるに違いない。が、この段階で、もしそれを話せないとなると、あなたの心は悶々とした状態になる。ふつうは、そういう状態には、長くは耐えられない。そこであなたはだれかに話す。話して、優越感を覚えたり、自己を顕示したりする。が、それだけではない。そのあと、あなたは心の中がスッキリとしたのを感ずるに違いない。それもここでいう「肛門愛」である。

 男根愛は、そのまま「性器性欲(フロイト)」へと、進展していく。そしてその過程で、男は男として、女は女として、さまざまなドラマを展開する。少し極端な言い方に聞こえるかもしれないが、男のすべての行動の裏には女がいる。女のすべての行動の裏には男がいる。もちろん性倒錯の世界もないわけではない。たとえば男根愛が倒錯すると、露出症になったり、自己愛が転じて、オナニーに固着するようになったりする。これについてもフロイトは詳しく説明しているが、ここでは省略する。

 このように人間の心理と行動は、たいへん複雑なメカニズムで決定される。冒頭の話に戻るなら、「指しゃぶりをさせてよいか」「どうすればやめさせられるか」などという話は、まったくナンセンス。それはちょうど、性的に欲求不満の若妻が、毎晩、オナニーをしているのを見て、その是非論を論ずるようなものである。いわんや「やめさせるにはどうしたらいいか」とは! それともあなたは、その若妻に、「指にタバスコでもつけておきなさい」とで、アドバイスするつもりだろうか。

 指しゃぶりなどというものは、あくまでも症状。その背景に何があるかをさぐらないで、対症療法ばかり考えても意味がない。何が欲求不満の原因になっているかをさぐることこそ、重要である。症状だけをみて、子どもを判断してはいけない。


欲求不満

子どもの欲求不満を防ぐ法(スキンシップでなおせ!)
子どもが欲求不満になるとき
●欲求不満の三タイプ
 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、ふつう、次の三つに分けて考える。
@攻撃・暴力タイプ
 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態にあり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四男児)がいた。あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考える。
A退行・依存タイプ
 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。このタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。
B固着・執着タイプ
 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子どもの未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子どもは幼児がえりを起こしやすくなる。
 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を解消しようとする。
●欲求不満は愛情不足
 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもというのは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。ある子ども(小一男児)はそれまでは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入ったということで、別の部屋で寝るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子どもなりに、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と言ったが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。
●濃厚なスキンシップが有効
 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネシウム分の多い食生活に心がける。
 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップそのものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあい、その心配はまずない。そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよい。子どもの欲求不満症状が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの問題は解決する。



よく泣く子ども

 一〇年ほど前に書いた本の中で、私は「よく泣く子ども」をつぎの五つのタイプに分けた(「子育て格言、ママ一〇〇賢」)。

(1)感受性が強いタイプ 
(2)過保護児タイプ
(3)情緒不安定タイプ
(4)萎縮児タイプ
(5)精神的に未熟なタイプ

 ずいぶんときびしい言葉を使っている。自分でも、そう思う。当時の私は、まだ「子育てのやさしさ」を知らなかった。今の私なら、泣いている子どもを、こんなふうには分類しない。それについては、もう少しあとに書くことにして、その本に従って、よく泣く子どもについて、考えてみる。

(1)感受性が強いタイプ 
 子どもは大きく、@敏感児とA鈍感児(知的な活動が、鈍感というのではない)に分けて考える。神経が繊細な子どもと、そうでない子どもと思えばよい。敏感児のうち、さらに神経が過敏になり、ふつうの指導がなじまない子どもを、過敏児という。昔の言葉を借りるなら、「神経質な子ども」ということになる。
 このタイプの子どもは、いつも精神が緊張状態にあって、ささいなことで、突発的に泣き出したりする。子どものばあい、精神が緊張状態にあるかどうかは、抱いてみればわかる。抱いたとき、そのままスーッと体をすり寄せてくるようなら、よし。しかし緊張状態にある子どもは、心を許さない。許さないから、抱いても、それをがんこに拒絶したりする。敏感児であるにせよ、鈍感児であるにせよ、その子どもがもって生まれた気質と理解して、無理をしないこと。

(2)過保護児タイプ
 過保護児は、社会性がないため、何か自分の処理できないことがあると、混乱状態になる。ふつう子どもが泣くときは、@ワーワー泣きながら攻撃的な姿勢を見せる子ども(プラス型)か、Aグズグズしたり、ジクジクしたりして、心が内閉する様子を見せる子ども(マイナス型)のどちらかになる。
 過保護児タイプの子どもは、このうち、マイナス型の泣き方を示すことが多い。外界からの刺激に対して、自分のカラを厚くして、それから身を守ろうとする。これを防衛機制という。この防衛機制が、極端な形になったものが、引きこもりということになる。もちろん過保護児がみな、引きこもりを起こすというのではない。ないが、社会性のない子どもは、どうしても、内へ内へと、こもる傾向を示す。たとえばブランコを横取りされたとき、「どうして取るのだ!」と言い返すことができればよい。しかしそれができないから、心の中にストレスをためてしまう。

(3)情緒不安定タイプ
 情緒不安というのは、心の緊張感がとれないことをいう。緊張した状態の中に、不安や心配が入り込むと、その不安や心配を解決しようと、一挙に情緒が不安定になる。それを情緒不安という。
 先にも書いたように、攻撃的になるプラス型と、ジクジクとするマイナス型に分けて考えるとよい。あるいは自分の緊張感をほぐすために、モノに固執したりすることもある。さらにその不安定さを解消しようと、代償的(つぐない的)に、指しゃぶりをしたり、髪いじりをしたりする子どももいる。

(4)萎縮児タイプ
 親の威圧的な過干渉や、過関心が日常的につづくと、子どもの精神は、萎縮する。子どもらしいハツラツとした様子が消え、顔色もどんよりと曇ってくる。
 子どもの精神が萎縮してくると、みながドッと笑うようなときでも、笑うことができず、クックッと小声で笑ったりする。さらに萎縮してくると、さまざまな「ゆがんだ症状」が出てくる。たとえば心の状態と、表情がチグハグになるなど。悲しいはずなのに、無表情であったり、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑ったりするなど。これを「遊離」というが、こういう状態になると、親は、「うちの子はグズで」とか、「何を考えているかわからない」などと言ったりする。が、原因は、家庭にあると思い、家庭のあり方、とくに親子関係を、かなり真剣に反省すること。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、ほうっておいても、ハツラツとした子どもになる。人間には、もともとそういう力が備わっている。中に、「うちの子は、生まれつきグズで……」と言う親がいるが、生まれつきグズな子どもは、絶対にいない。またそれがわかる人も、絶対にいない。

(5)精神的に未熟なタイプ
 子どもの心の発達をみるときは、@情緒の安定性と、A精神の完成度をみる。精神の完成度というのは、その年齢の子どもらしい、人格の「核」形成ができていることをいう。
 核形成が進むと、「この子どもは、こういう子ども」というとらえどころが、はっきりしてくる。しかしそれがないと、それがわからなくなる。全体に幼稚性が残り、約束や目標が守れないなどの退行性が見られることが多い。子どものばあい、「幼い感じがする」というのであれば、精神的な発達が未熟であることを疑ってみる。溺愛、過保護などが日常的につづくと、子どもの精神の発達が遅れることがあるので注意する。

 「泣く」というのは、心にうっ積したストレスを発散し、心を安定させるための、代償行為と考えてよい。子どもによっては、泣くことによって、自分の心を調整する。もちろんかんしゃく発作や、キレた状態(一時的な精神錯乱)になって泣く子どももいるが、それはここでは考えない。ふつうよく泣く子ども、その前の段階として、よくグズる。子どものグズリについては、また別のところで考える。

 最後に、こうして「よく泣く子ども」を分類して考えたが、分類したところで、ほとんど実際には、役にたたない。子どもが泣くというのは、本来、あってはいけないこと。少なくとも私は、ここ一〇年、私の教室で、子どもを泣かせたことは、一度もない。そんなわけで、一〇年前にこれについて書いたときには、それなりに意気込んで書いたが、ここでは、「まあ、そういうこともあるか」という程度に考えてほしい。今から思うと、「よくもまあ、こんな冷酷な分類ができたものだ」と、思う。ホント!


横を見る子ども

横を見るのも学習のうち

 授業中、横を見て作業をすませる子どもは多い。親からの相談も多い。「うちの子は、横ばかり見ています……」と。

 横を見るといっても、さまざまなケースがある。@わからなくて見る、遅進児タイプ、Aたしかめながらする、慎重タイプ、Bずるい考えでみる、盗み見タイプ、それにCほかの子どものことが気になる、世話好きタイプ。

@わからなくて見る、遅進児タイプ……学習が遅れがちになると、子どもはその場をごまかそうと、横を見て作業をすますようになる。このタイプの子どもは、となりの子どもの答案を丸写しにしたりするので、それがわかる。本来そうならないように、ていねいな指導が必要だが、実際には、そこまで目がゆきとどかない。またこういった状態が、一年、二年とつづくようになると、盗み見のしかたがうまくなり、先生でも気がつかないことが多い。

Aたしかめながらする、慎重タイプ……わかっていても、一度、となりを見ないと気がすまないタイプ。まちがえることに、ある種の恐怖感を覚えるタイプで、そのため、全体に伸びやかさがない。家庭などでの、こまごまとした、神経質な指導が原因と考えてよい。

Bずるい考えでみる、盗み見タイプ……何かにつけてめんどうくさがり屋で、他人のものを盗んで、簡単にすまそうというタイプ。根気がなく、あきっぽい性格とみる。あるいは忍耐力に欠ける、ドラ息子タイプ。

Cほかの子どものことが気になる、世話好きタイプ……このタイプの子どもは、自分のことはそっちのけで、他人の世話ばかりする。そしてああでもない、こうでもないと口を出す。隣の子どもがまちがえたりすると、「ここがちがうでしょ」「こうでしょ」と言うのでわかる。

 問題は、@のようなタイプの子ども。本来なら、一学年でも、学年をさげて、その子どもの能力にあったクラスに入れるのが望ましい。しかしそれができないというのであれば、家庭での学習指導をしっかりとするしかない。またそれだけに、自信をなくし、やる気をなくし、さらに心までキズついているケースが多いので、心のケアも忘れてはならない。叱ったり、あるいは不自然に励ましたりするのは、禁物。その子どもの立場になって、子どもが納得するまで教えてあげるのがよい。


わがままな子ども

●「どうして泣かすのですか!」 
 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。
S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。
●親が先生に指導のポイント
 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。
●泣き明かした母親
 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。
●「先生、こわい!」
 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今でも、そうだ。そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。
●自分勝手でわがまま
 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が遅れる。
 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。
●「心配」が過保護の原因
 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動面で過保護にするケースなどがある。
 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。
 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にしているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されることになる。
●じょうずに手を抜く
 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。
『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。
『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。
 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにならない。これは子どもを育てるときの常識である。


ワークブック

●ワークブックは、自分で買わせる
 意外と盲点なのが、ワークブック。子どもに合っていないワークブックを買ったため、その子どもの勉強がストップしてしまうということは、よくある。そこで、いくつかのコツ。

(1)家庭でするワークブックは、子どもの能力の範囲にある、やりやすく、簡単なもので、やや量が少なめのものを選ぶ。……大切なのは、「やり終えた」という達成感。この達成感を、大切にしながら、子どもを前向きに引っぱっていく。親は書店でワークブックを選ぶとき、ややむずかしく、量が多く、字がこまかいものを選ぶ傾向が強いが、そういう小さな無理が、子どもを勉強嫌いにする。

(2)書店でワークブックを選ぶときは、子どもに選ばせる。……ワークブックは、大工の道具のようなもの。よいワークブック(参考書)を自分で選ぶというのは、大工が自分にあった、よい道具を選ぶのに似ている。子どもが小さいうちは、親が選ぶことが多いが、大きくなったら、自分で選ばせる。そういう選眼力を養うのも、たいへん重要なこと。

(3)半分はお絵かきになってもよい。……ワークブックなどというのは、もともといいかげんな編集方針のもと、いいかげんな制作者がつくる。以前、そういったワークブックの制作をしていた「私」がそう言うのだから、まちがいない。だから、あまりこまごまとしたことを、神経質に言わないこと。ほぼできていれば、よしとする。計算問題でも、だいたいできていれば、よしとする。こういうおおらかさが、子どもを伸ばす。

(4)ワークブックを選ぶときは、一番の問題と、そのページの最後の問題を見る。……まず一番の問題を見る。つぎに、そのページの最後の問題を見る。そのときの難易度の「差」を、「落差」という。この落差が大きいワークブックは、買ってはいけない。たとえば一番の問題は、だれにでもできるような簡単な問題。しかしそのページの最後の問題は、おとなが頭をひねってもできないような問題になっている、など。こういうワークブックは、かかえたら最後、子どもは確実に勉強嫌いになる。大手の出版社が、下請け会社のプロダクションに制作させているワークブックには、この手のものが多いから、注意する。

(5)ワークブックは相性を大切にする。……子どもとの相性が悪いと感じたら、そのワークブックは、思い切って、捨てる。「もったいない」とか、「まだ残っている」とか、言って、子どもにさせてはいけない。もともとワークブックは、トイレットペーパーと同じ、消耗品。たしかに捨てるのはもったいないが、しかしそういうワークブックをかかえて、子どもが勉強嫌いになってしまったら、もっと、もったいない。

(6)月刊雑誌をじょうずに利用する。……今、一〇種類ほどの月刊ワークブックが出回っている。値段、レベル、量など、それぞれまちまちだが、子どもの能力と、やる気に合わせて選ぶとよい。ただしここにも書いたように、大切なことは、無理をしないこと。時間的には、一か月分でも、計三〜四時間でできてしまうようなワークブックが好ましい。小学生のばあい、家での学習時間は、三〇分〜一時間程度を限度とする。またその範囲でできる学習量にする。コツは、サッと始めて、パッパッと終わらせるようにする。ダラ勉、フリ勉、時間ツブシが見られたら、思い切って、勉強時間を、半分程度にする。

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中日新聞掲載済みの原稿より……
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子どもを勉強好きにする法(学ぶことを楽しませろ!)
子どもがワークをするとき 

●西田ひかるさんが高校一年生
 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に創刊時からかかわり、その後「知恵遊び」を一〇年間ほど、協力させてもらった。「協力」というのもおおげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。

この雑誌は両誌で、当時毎月四七万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指導にかかわってきた。バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする世界初の教材、「TOM」(全一〇巻)や、「まなぶくん・幼児教室」(全四八巻)なども手がけた。一四年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌も毎月二七万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長のOK氏が横浜のアメリカンハイスクールで見つけてきたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名の、高校一年生だった。

●さて本題
 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがある。私はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。私の意見を聞いてもらうのは、そのあとだ。で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、「ワークやドリルなど、半分はお絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやドリルほどいいかげんなものはない」とも書いた。そのことについて、何人かの人から、「おかしい」「それはまちがっている」という意見をもらった。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教材に携わってきた「私」がそう言うのだから、まちがいない。

●平均点は六〇点
まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次の次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベルを想定して、プロット(構成)を立てる。その年齢の子ども上位一〇%と下位一〇%は、対象からはずす。残りの八〇%の子どもが、ほぼ無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が六〇点ぐらいになるような問題を考える。幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案をまとめる。小学生用であれば、教科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほんの少しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じてもらえないかもしれないが、二五年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育ワークで、その後、東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

●半分がお絵かきになってもよい
 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばならないことかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になっているのを見ると、私としてはつらい。……つらかった。私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よりも大切にした。同じ迷路の問題でも、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、あるいは意外性をそこにまぜた。たとえば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷路になっているとか。あの「幼児の学習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月三〇〇枚以上の原案をかいていた。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子どもが学ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。


忘れ物が多い子ども

 忘れ物が多い子どもといっても、一様ではない。@注意力そのものが散漫な子ども、Aモノに執着心がなく、モノのあつかいが、ぞんざいな子ども、B生活習慣そのものが、乱れている子ども、C大脳の機能そのものに問題があると思われる子ども、など。ほかに無気力な子ども、知恵の発達そのものが遅れている子ども、親の過干渉で精神が萎縮している子どもも忘れ物が多い。
●注意力が散漫な子ども……ひとつのことに夢中になると、ほかのことを忘れてしまうタイプ。「今日のレッスンはおしまい」などと先生が言うと、帰ることだけを考えて、まっすぐ教室から出ていってしまうタイプ。いつも机の上に、ノートやテキストを置き忘れていく。
●モノに執着心のない子ども……このタイプの子どもは、自分のモノ、他人のモノという感覚がうとい。飽食とぜいたくの中で、モノをふんだんに与えられて育った子どもとみる。忘れるというよりは、平気でなくすといったふうになる。いくら鉛筆を買ってあげても、すぐなくしてしまうという子どもは、このタイプを疑ってみる。
●生活習慣がだらしない子ども……心からバランス感覚(ものごとの善悪を静かに考えて判断する能力)がなくなると、子どもの言動は極端になりやすい。たとえば「文句のあるヤツはぶっ殺してやる」式のものの考え方をする。そして一方、生活習慣や態度がだらしなくなる。モノのあつかいが乱暴になったり、ぞんざいになったりする。他人の心を静かに思いやるなどの繊細さが消えることが多い。考え方も投げやりになり、その結果として、忘れ物が多くなる。非行化する、その一歩手前の症状とみる。
●大脳の機能に問題があると思われる子ども……このタイプの子どもは、忘れ物が病的になることが多い。バッグや帽子をどこかへ置くのだが、置いた先から、どこへ置いたかを忘れてしまう。そこで親は子どもにメモをもたせたりするが、今度は、そのメモをどこかへ置き忘れてしまう。いつも何かのさがしものをしているといったタイプの子ども。
 どのタイプの子どもにせよ、忘れ物をしたからといって、子どもを叱ってもあまり意味がない。全体としてみれば、忘れ物というのは、子どもの世界ではごく日常的にみられる現象で、それほどおおげさに考える必要はない。とくに幼児や小学校の低学年児は、記憶の内容に、優劣をつけることができないため、(つまりどれが大切な情報で、どれが大切でない情報かを区別することができないので)、忘れ物が多くなる。たとえば先生から「これをお母さんに渡して」と受け取った手紙も、友だちから「B子に渡して」と受け取った手紙も、この時期の子どもには、同じ手紙でしかない。新しい情報が入るたびに、古い情報を忘れるということもある。

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