はやし浩司
はやし浩司 子育て随筆(401〜500)
子育て随筆byはやし浩司(401)
子育てポイント ●ぼんやりする 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ドリーム」と いう。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。デイドリームとい うのは、「ぼんやりすること」をいう。 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心のホコリ を払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにしても、エジソンにし ても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デイドリーマー(夢見る人)」とい うニックネームがつけられていた。 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、好まし いことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。 ++++++++++++++++++++++ 子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み) ++++++++++++++++++++++ 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」とい う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・ ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが 不安定になることもある。 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置 いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か せるという方法もある。 また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激 性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保 する。 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、 年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。 (これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。) ++++++++++++++++++++++ ●ハングリー精神を大切に 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習 量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ ど、に。 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学 生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、 一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか? 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩 んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って あげるしかない」と。 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日 本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本 人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ の親は、こう考えるようになる。 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全 体のリズムの中で考えるようにする。 +++++++++++++++++++ 小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み) +++++++++++++++++++ 子どもの金銭感覚 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感 覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期 を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから 先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与 えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す る。 「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、 将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくな ったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。 より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは「子 どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。 それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小 二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行っても らう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてし まう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入り にくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容 そのものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビ にこんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答 えていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚その ものが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり! さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円 のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前 に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し かしこれだけは覚えておくとよい。 五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校 生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えなくてはならな くなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と 度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあな たの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労する のはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。 +++++++++++++++++++++ ●それでも、ゲームを買ってあげたい、あなたへ、 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう すればよい。 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。 そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、 パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。 +++++++++++++++++++++ ●子どもの目を見る 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけない。賢 い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子どもの目は、そ うでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕され た、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の目のような目をしている。あ あいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思うと、ぞっとする。 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみるとよ い。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでなく、どこかフワ フワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいていはこわいから、おとな しくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママに叱られているとき、ポケモンの 歌を、心の中で歌っている」と。 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャとよくしゃべ り、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを言う。このタイプの 子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テレビのバラエティ番組に出 てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なことを、思いついたまま、言葉にしてい るだけ。 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与えたりす ると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきというより、習慣 によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくるのは、親の育て方の問 題ということになる。 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。 ++++++++++++++++ 考える子ども(中日新聞掲載済み) ++++++++++++++++ 人間は考えるアシ パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別 のことである。たとえば、こんな会話。 A「昼に何を食べる?」 B「スパゲティはどう?」 A「いいね。どこの店にする?」 B「今度できた、角の店はどう?」 A「いいね」と。 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も 考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているにすぎな い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで きるということにもならない。 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他 人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私 が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう 言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、間違っ ているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。ある朝幼稚 園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石 の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。 おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから 考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。 +++++++++++++++++++ ●叱るテーマはひとつ 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、おとなの ほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩をしっかりと つかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おどしたり、威圧してはい けない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考えるようにし向ける。 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。とくに大切 だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださない。「いつになっ たら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一度叱ったら、あとはときを 待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親子げんかは、一日で消す』という格 言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日で消せ』。 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこんな ことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子どもを叱ると きは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「たしかに威圧 感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的ではないですね」と。 私も同意見だった。 子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をしっかりと 見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、それで本当に叱 れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を説く人が現れる。 +++++++++++++++++++++ 子どもの叱り方(中日新聞掲載済み) +++++++++++++++++++++ 子どもの叱り方、ほめ方 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの 耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱 るときは、次のことを守る。 (1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため) (2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳から遠い』 と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる (3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定 し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく (4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、 (5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。 幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、 ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれて しまったケースは、いくらでもある。 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、 やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結 果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの 理解を示してあげる。 ++++++++++++++++++++ ●居なおり論 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」「どうで もなれ」「勝手にしろ」と。私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえ ば子どもの夜尿症にしても、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッ コをしたければしろ。あと何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。そ ういうことは、子どもの世界では、よくある。 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。この スジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子どもに、安 心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。……と、どこか、『風が吹けば、オ ケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。心理学の世界にも、フリップ・フロップ理 論というのがある。判断がどっちつかずで、フラフラしている(=フリップ・フロップ状態)ときとい うのは、心もたいへん不安定になる。しかしどちらかへころんでしまえば、心は落ちつく。 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め! 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる! 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ! こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればしているほ ど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むことができる。要する に、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てには、居なおりはつきもの。 それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くなるはず。 ●たくましさは、緊急時をみる 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、その つど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみる。見かけ や、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。こんなことがあっ た。 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、ときには 友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていったときのこと。私が 別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそをかいて、私のところへ飛 んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「たき火が一挙に燃えあがって、こ わくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近くの雑草に燃え移るところだった。私はす かさず足で踏んで火を消したが、それにしても……? Y君のたくましさは、見かけだけだっ た。 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急用がで きた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、家をあけた。 母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も炊事もし てくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」と。こういう子ども を、たくましい子どもという。 ++++++++++++++++++++ 子育て自由論(中日新聞掲載済み) ++++++++++++++++++++ 己こそ、己のよるべ 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経 というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、 自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ よ」と教えている。 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと 「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で 責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基 本は、この「自由」にある。 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」 母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ い」 私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」 母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自 分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自 分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩 いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子 どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。 ●あせりは禁物 子育てをしていて、@あせり、Aイライラ、B子どもの遅れを強く感じたら、親は手を引く。そ れは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態をつづければ、子どもは 勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、神経症から精神を病んで、う つ病になる。が、それだけではすまない。親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしくなる。 では、どうするか? あなたはあなたで、子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自分の 生きがいを見つける。が、それでも「勉強を……」ということなら、プロに任せたほうがよい。多 少、お金を出しても、そのほうが、結局は安あがりになる。 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考えられ る。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メンツ、世間 体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。そういうもの が、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あなたはつぎの項目で、い くつが自分に当てはまるだろうか。 (1)子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはそのつど、子ど もを叱ってしまう。 (2)近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、また問題 があるように見える。 (3)ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」と考える だけで、夜も眠られないときがある。 (4)何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であっても、いつ もおおげさに子どもを叱ってしまう。 (5)子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考えると、家 にいても、気が晴れない。 これらの項目で、三〜四個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と考えてよ い。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見ただけで、カーッ と頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いたように、子育てから手を 引く。 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それは子ど もの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚であったとか、 あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にして、不幸な家庭で育 てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、あなた自身を疑い、心の 中までメスを入れてみる。この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根 は深い。このことについては、また別のところで考える。 ●親とのつきあいは、如水淡交 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、 間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。 数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任 期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま) のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。しかしこの方法も、ひ とつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、できるだけ身近でない人 のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題がある。理由はいく つかある。 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本 では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう とらえている。こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」と いう、利己主義的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、 おかしい。そのため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもない ことになる。 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 二〇年前、三〇年前には、まだ気骨のある 教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師 もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっている うちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先 生たちが萎縮してしまっています」と。こういう状態をつくったのは、結局は、親自身ということに なる。つまり園や学校の先生が、それなりに(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を 責めることもできない。私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。 が、今は、むしろ同情する側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が 抜ける場所です」と、こっそりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろ ん、しつけから、道徳、さらには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほか ならない。 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。 これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。 (1)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個 人的な問題や、相談はしない。 (2)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って はならない。 (3)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子どもの 名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。 (4)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。 (5)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にからま れると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。 (6)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざかる。 見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。できれ ば、どこか「穴」にこもるとよい。 (7)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、へ たに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだけ は、何としても避ける。 ●表情は豊かに 表情のない子どもがふえている。大阪市内で幼稚園を経営するS氏が、こう話してくれた。 「今、幼稚園児で、表情のない子どもや、乏しい子どもが、約二割はいる」と。 少し前に書いた原稿を掲載する。 ++++++++++++++++++ スキンシップ ++++++++++++++++++ よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いている。 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の 角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく 根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく 平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップにしかならないだろ う。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分け て考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップ への誤解と偏見となることが多い。 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対 象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる ことも推察できる、とも。 先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だ が、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合 で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そ うだ。 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい! +++++++++++++++++++++ 一般論として、豊かな親の愛情に包まれて育った子どもは、表情が豊かで、すなお。「すな お」というのは、心の状態と、表情が一致していることをいう。うれいしいときには、うれしそうな 顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。しかし心がゆがんでくると、それが一致しなく なる。すねたり、ひねくれたり、いじけたりする、など。さらに症状が進むと、心と表情が遊離し 始める。うれしいはずなのに、無表情だったり、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。 その子どもが心を開いているかどうかは、抱いてみるとわかる。心を開いている子どもは、抱 くと、スーッと体をすり寄せてくる。しばらく抱いていると、自分の体と一体化し、さらに呼吸のリ ズムまで同じになる。また親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさが、 子どもの心の中に、そのまましみこんでいくのがわかる。本来、子どもというのは、そうでなけ ればならない……という前提で、考える。もしそうでないというなら、……。いろいろな問題が考 えられる。 さて、あなたの子どもは、どうか? 園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただい ま!」と言って、うれしそうな顔をするだろうか。もしそうなら、それだけでも、あなたの子ども は、すばらしい子どもということになる。 ●「何とかしてくれ」言葉 日本語の特徴なのか? 日本人は、おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。 「おなかがすいたア〜、(だから何とかしろ)」というような言い方をする。 幼児「先生、オシッコ!」 私 「オシッコがどうしたの?」 幼児「オシッコがしたい」 私 「ふうん、だったら、そこでしたら?」 幼児「ここでは、いやだ」 私 「どこでしたいの?」 幼児「トイレへ行きたい!」 私 「だったら、最初からそう言おうね」と。 ほかにもいろいろ、ある。「のどがかわいたア〜」「足が痛いイ〜」など。幼児や子どもだけで はない。私の叔母だが、電話で話すたびに、いつもこう言っていた。「オバチャンも、年をとった からね……」と。つまり「年をとったから、何とかしろ」と。 こうした言葉が生まれる背景には、日本人独特の、依存型社会がある。「甘え」という言葉を 使って表現する人もいる。つまりたがいに、ベタベタと依存することにより、支えあっている。ま たそれを美徳と考えている。その一つの例として、たとえば今でも、子どもに向かって、「産んで やった」「育ててやった」と恩を着せる親はいくらでもいる。それに対して、「産んでいただきまし た」「育てていただきました」と言う子どもは、これまたいくらでもいる。ともに自立できない、つま りは依存型親子ということになる。 たがいに依存型世界に生きる人どうしにとっては、その社会は、それなりに居心地がよい。も のごとが、ナーナーで動く。が、若い世代を中心に、「それではいけない」と言う人もふえてき た。そうなると、そこで世代間の対立が生まれる。この対立が、親子関係、さらには家族をぎく しゃくしたものにする。今、この問題は、日本中の、あらゆる場所で、またほとんどの家庭で起 きつつあるといってもよい。 英語国では、親子でも、「お前は、パパに何をしてほしい」「パパは、ぼくに何をしてほしい」と たがいに聞きあっている。これからの日本で求められるのは、こうしたわかりやすさではないの か。だから……。子どもがここでいう「何とかしてくれ」言葉を口にしたら、「それがどうなの?」と 言って、それをたしなめる。これは子どもを自立させる、そして親自身も自立する、第一歩と考 えてよい。 (02−12−13) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(402) 欧米コンプレックス 何か、私が欧米を支持したようなことを書くと、その道の知ったかぶりをする人が、私を批判 するために、決まって使う言葉が、これ。「欧米コンプレックス」。それを口にすることによって、 その人は、私より優位な立場に立ち、私を完全否定しようとする。しかしその実、たいていその 人自身は「欧米」を知らない。つまり知らないまま、この言葉を使って、私を封じ込めようとす る。 実のところ、私はよくそう言われる。「あなたの意見は、欧米コンプレックスのかたまり」「欧米 かぶれ」と。つい先日も、わざわざ私の教室までやってきて、そう言ってきた人※がいた。いわ く、「あなたは、アメリカの学校制度を礼さんしているが、(私は何も礼さんはしていないが… …)、アメリカの学校では、暴力事件が多発し、どこも荒れているではないか。銃による乱射事 件もある。日本がそうなってもいいのか」と。驚いて、「あなたはどこを見て、そう言うのですか」 と聞くと、「ニュースや映画で見た」と。 アメリカの学校にも、問題はある。問題だらけといってもよい。しかしアメリカといっても広い。 中国を含めた、アジア全体ほどの広さがある。インドネシアで暴動が起きたからといって、日本 でも暴動が起きていると思うのは、正しくない。それと同じように、ニューヨークの下町(ダウンタ ウン)の学校が荒れているからといって、中南部の州の学校も荒れていると考えるのは、正しく ない。あのテキサス州だけでも、日本の国土の二倍の広さがある。それに、私は何も、アメリカ の銃社会をまねしろとか、エイズを蔓延(まんえん)させろと言っているのではない。 一方、日本には日本のよさが、たしかにある。私はその「よさ」まで否定しているのではない。 ただ何といっても、日本は極東の島国。しかもつい半世紀前までは、今の北朝鮮とそれほど変 わらない体制をとっていた。今も、その亡霊は、あちこちに生き残っている。民主主義国家とい いながら、本当の民主主義が何であるかさえわかっていない? そういう意味で、日本にもま た問題がある。問題だらけといってもよい。私はそれでは、いけないと言っている。それでは、 世界の人に相手にされないと言っている。決して、欧米コンプレックスをもっているわけではな い。 少しぐらい欧米を知ったからといって、欧米を礼さんするのは許されない。しかし同じように、 ほとんど欧米を知らない人が、相手に向かって、「あなたの意見は、欧米コンプレックスのかた まり」と言うのも、許されない。私が子どものころは、ずっとスケールは小さいが、同じような言 葉に、「都会かぶれ」という言葉があった。どこかの田舎にひっこんだような人が、好んで使っ た言葉だ。そういう人は、自分のコンプレックス(劣等感)をごまかすために、都会的になった 人を、その言葉を使って排斥した。つまりそういう言葉を使うその人自身が、実は、「都会コン プレックス」をもっていたことになる。それが、もう少しスケールが大きくなり、今は、「欧米コンプ レックス」という言葉に置きかわった。つまり、「欧米コンプレックス」という言葉を好んで使う人 ほど、欧米を知らない、つまりは、欧米コンプレックスのかたまりということになる。 (02−12−13) ●(※)その人は四〇歳くらいの女性だった。こうも言った。「アメリカ人は、日本を自分の州に しようとしている。あなたはそういうアメリカ人の意図がわからないのか」と。 ●しかし日本には日本人がいるが、アメリカにはアメリカ人はいない。そこで私が「アメリカ人っ て、どういう人ですか」と聞くと、「ハア〜?」と。まさかその人は、アメリカインディアンをアメリカ 人と言うわけでもあるまい。アメリカはまさに人種のルツボ。アジア人も多いが、その中には日 系人もいる。しかしその日系人も、いろいろな人種の人と結婚していて、日系人をほかのアジ ア人と区別しても、あまり意味がない。私の義理の娘にしても、先祖はフランス人、ドイツ人、ス ペイン人だそうだ。遠い昔には、インディアンの血も混ざっているという。もしアメリカ人が何か と聞かれれば、彼らはこう答えるだろう。「アメリカという土地にいっしょに、住んでいる人」と。 日本人が本来的にもつ、人種意識とは、まったく異質のものと考えてよい。これは、オーストラ リアについても同じ。これらの国は、もともと移民国家なのだ。 ●ここまで説明しても、その女性は私の言っていることが理解できなかったようなので、私はこ う説明した。「『東京人』とだれかが言ったとします。『東京人が、この浜松市を支配しようとして いる』と言ったとします。しかし東京人というのは、どこにいますか。またどういう人を、東京人と 言うのですか」と。あまりよいたとえではないかもしれないが、ニュアンスはそれに近い。 ●今では、「私は薩摩(さつま)の人間だ」「私は長州の人間だ」とかは、言わない。言っても意 味はない。同じように、いつか、遠い未来かもしれないが、「私は日本人だ」「私はアメリカ人 だ」と言っても意味のない時代がやってくる。必ずやってくる。まさにジョン・レノンが、『♪イマジ ン』の中で夢を見た世界だが、私たちがめざすべき世界は、そういう世界である。国境も、戦争 もない世界だ。みんなが友だちで、仲よく暮らす世界だ。ああ、私もその「夢見る人(a dreamer)」なのか。 ●何とも、弁解がましいエッセーになってしまったが、反省すべきところは、反省する。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(403) 北朝鮮 あの北朝鮮が、核開発を再会すると世界に向かって、宣言した(02−12−12)。追いつめ られた北朝鮮が、とうとう捨て身の戦術に出てきたとも言える。「瓦解(がかい)か、戦争か」(読 売新聞)ということを書いている評論家もいる。 一方、書店には、北朝鮮の悪行を書きたてた本が、ズラリと並んでいる。どれも驚愕(きょう がく)すべき内容の本である。強制収容所のような施設もあちこちにあるという。そしてそこで は、日本人や日本人妻のみならず、かなりの数の北朝鮮人もそこで殺されているという。「ドイ ツのナチスがしたような残虐行為が繰りかえされている」と書いている本もある。(このあたり は、立ち読みなので、内容は不正確。) ここまでくると、あの国は、もう救いようがない。狂っているとしか言いようがない。やることな すこと、メチャ、メチャ。しかもそれが、だれの目にも、はっきりとしてきた。ロシアにしても中国 にしても、あきれ果てているにちがいない。この段階で、「北朝鮮は友好国だ」などと、ロシアや 中国が言えば、ロシアや中国が、世界の笑いものになる。 が、問題は、あの金正日という男だ。(昨日のNセンターを見ていたら、キャスターのK氏も、 「あの男」と、「男」と呼び始めたので、私も、それにならう。)独裁者の常として、こうした独裁者 は、自己崩壊する前に、国民の目を外にそらすため、外国に戦争をしかけることが多い。また その可能性が、きわめて高い。おとなしく自己崩壊するなどということは、考えられない。そんな ことをすれば、自分が今までにした悪業の数々が、白日のもとにさらされることになる。 で、その相手は、日本か、それとも韓国か。 ここで仮定だが、もし日本のバックにアメリカがいなければ、北朝鮮は一〇〇%、日本に向 けて戦争をしかけてくるだろうということ。あるいは、とっくの昔に、しかけてきただろうというこ と。私は六八年に、ユネスコの交換学生として、韓国にいたが、そのときですら、韓国の人がも つ日本への敵対心は、ふつうではなかった。もし北朝鮮の人たちの敵対心があのときのまま だとするなら……。想像するだけでも、ゾッとする。 いろいろ言う人がいる。反米を唱える人もいる。しかし今回ほど、日本がアメリカに助けられ た例は、ほかにない。先の米朝会議(02−10−3)で、北朝鮮の姜?柱第一外務次官が、「核 は日本だけを対象にしたものだ(アメリカではない)」と明言したという(「諸君」一月号)。これに 対してアメリカのケリー国務次官補は席を蹴って、立った。……立ってくれた。もし仮に、そのと き、ケリー国務次官補が、席を立ってくれていなかったら、どうなっていたか。さらに仮に、それ が逆の立場だったら、つまり日本の代表に、北朝鮮の高官が、「核兵器は、アメリカに向けた もの。(日本ではない)」と言ったとしたら、どうだっただろうか。日本の政府高官は、席を蹴って 立ったであろうか。北朝鮮としては、敵はアメリカではないということを言いたかったのだろう。 が、それはアメリカには通じなかった。 こうしたアメリカの姿勢に、日本は感謝しなければならない。が、それだけではない。それを 受けて、数日前、アメリカ政府は、大量破壊兵器の拡散防止に関する新戦略の中で、「大量破 壊兵器や長距離ミサイルを開発したり、取得しつつある国家やテロ組織に対しては、先制攻撃 も認める」(九三年度版「包括的大量破壊兵器拡散防止戦略」)と言明した(一一日付「ワシント ンポスト紙」)。そしてその上で、「大量破壊兵器による攻撃には、核兵器による報復も辞さな い」とも。さらにアメリカのブッシュ大統領は、「……アメリカおよび同盟国が、大量破壊兵器で 攻撃されたら、即座に大量の兵器を投入して、徹底的に反撃する」(読売新聞)と述べたとも伝 えられている。この新戦略のもつ意味というか、北朝鮮に与えるショックは、大きい。わかりや すく言えば、「北朝鮮が、仮に日本に対して、核兵器を使うようなことがあれば、北朝鮮を抹殺 する」という意味である。この点でも、日本は助けられた。 北朝鮮の今の金正日体制は、もう崩壊する。まさに瓦解する。時間の問題といってもよい。 ムダな戦争など、してはいけない。する必要もない。が、私たち日本人は、それにともなう混乱 に対しては、心の準備をしておかねばならない。仮に米朝戦争ということになれば、韓国や日 本も、当然、それに巻き込まれる。形の上では、米朝戦争でも、これは実質的には、日本と朝 鮮の戦争である。先の朝鮮動乱とちがって、日本が傍観者であることはありえないし、許され ない。では、どうするか。 とにかく、戦争はしない。とくに北朝鮮とはしない。ああいう愚劣な国は、相手にしない。だか ら外交的には、ノラリクラリと北朝鮮の矛先(ほこさき)をかわしながら、金正日体制が自然死 するようにしむける。そしてそれを待つ。そのときは、北朝鮮内で、内乱のようなものが起こる かもしれないが、それについては傍観する。とにかくああいう狂った国だから、『さわらぬ神に、 たたりなし』。一見、頼りなく見える小泉政権だが、今回の一連の北朝鮮問題に関しては、今の 小泉政権のやり方を、私は支持する。 (02−12−13)※ ●いさましい好戦論には警戒しよう。 ●日本国内におけるテロ活動には警戒しよう。 ●日本国内の、在日朝鮮人の人たちには、やさしく親切にしてあげよう。彼らとて、金正日体 制に翻弄(ほんろう)された犠牲者に過ぎない。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++M ※ 子育て随筆byはやし浩司(404) 心の病気 ●心の病気 「病気」という漢字からもわかるように、病気は、もともと「気の病(やまい)」をいう。とくに東洋 医学では、そのため、体の病と心の病を区別しない。体の病イコール、心の病、心の病イコー ル、体の病と考える。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、要するに、心だって、病気に なる。なってあたりまえ。なったところで、おかしくない。 その心の病気をもった人がふえている? 本当はふえてはいないのかもしれないが、目立つ ようになってきた? 少し前までは、心の病気になることは恥ずかしいことだということで、みな は、隠そうとしてきた。しかしそれを、隠さなくなってきた? だから見た目にはふえてきた? こうした心の病気に対して、まだ無知と誤解が、蔓延(まんえん)している。「無知」というの は、心の病気というものが、どういうもので、またどのように対処したらよいのか、それがよく理 解されていないということ。つぎに「誤解」というのは、どうしても心の病気を軽く考えがちという こと。そのため、すべきことをしなかったり、してはいけないことを、してしまう。 私自身は、どういうわけか、心の病気を広く、まんべんなくもっている。あるいはひょっとした ら、みな、そうなのかもしれない。風邪をひいたり、下痢をしたり、熱を出したり、頭痛になった りするように、だれしも、ときには落ち込んだり、不安になったり、気をもんだり、イライラしたり する。しかしそういう状態がある一定の範囲で収まっているあいだは、問題はない。が、その範 囲を超えて、症状がひどくなるときがある。私のばあいを、書く。 ●はげしい偏頭痛 私は三〇歳前後のころ、はげしい偏頭痛に苦しんだ。きびしい仕事がつづいて、ほっと一息 ついたようなときに、その発作が起きた。それは頭痛と呼べるような頭痛ではなかった。ふとん の中で体を丸めて、「頭を切ってくれ!」と叫んで、四転八転するような頭痛だった。が、当時は まだ偏頭痛のメカニズムもわかっていなかった。総合病院へ行くと、脳腫瘍(しゅよう)と診断さ れた。「明日、入院して、開頭手術」という前々日、別の総合病院へ行くと、そうでないとわかっ て、その手術をしなくてすんだ。が、あのときもし手術をしていたら、今ごろ、どうなっていたこと か……。 で、偏頭痛については、その後、強力な薬が開発されて、発作はそれで抑えられたが、なぜ その発作が起きるかということになると、そこには私自身の心の病気があった。 私は子どものころ、ひどいあがり症で、人前に立つと、よく頭の中がパニック状態になってし まった。よく覚えているのは、中学二年の終わりに、生徒会の会長に立候補したときのこと。そ れまでは、「会長くらい何だ」と思っていたのだが、いざ、あの壇上にのぼってみると、何も話せ なくなってしまった。ある程度、原稿を暗記していたはずなのだが、その原稿など、まるで頭に 思い浮かばなかった。だからかなりトンチンカンなことを言って、その演説を終えたと思う。もち ろん何を話したか、覚えていない。恥をかくというのは、ああいうときの様(さま)を言うのだろ う。私はまさに恥をかいただけ。 こうした傾向は、そのあと、ずっと大学生になるまでつづいた。で、そういう自分を思い起こし てみると、そういう傾向が、すでに幼児期に始まっているのがわかる。私は子どものころ、覚え ているのは、泣いたあと、よくしゃっくりをしていたということ。ヒック、ヒック、と。そのことから、 私はかなりはげしい泣き方をしていたのがわかる。かんしゃく発作をもっていたのかもしれな い。興奮性の強い子どもだったかもしれない。情緒はかなり不安定だったようだ。ちょっとした ことで、すぐパニック状態になった。 つぎによく覚えているのは、暗いトイレでは、用を足せなかったこと。しかたなしに、つまり否 応(いやおう)なしに、自宅のトイレを使っていたが、私は、あのトイレがいやだった。暗くて、臭 かった。台の上にのると、床がブカブカとした。そのこともあって、私は閉所恐怖症になり、つづ いて暗闇恐怖症になり、さらにはそれが転じて、高所恐怖症になったりした。こうした恐怖症 は、一度、頭の中に思考回路(思考パターン)ができると、あれこれ姿を変えて、外に出てくる。 少なくとも、そうでない人よりは、ずっと出やすくなる。最近でも、交通事故をきっかけに、私は 車恐怖症や、スピード恐怖症になった。 ●不安神経症 そんな私が、不安神経症になったのは、何といっても、高校受験や大学受験がある。高校受 験のときは、「勉強しなければ、(家業の)自転車屋を継げ」と脅された。大学受験のときは、 「国立大学でなければ、お金は出せない」と脅された。そういう意味で、私はいつも、何かに脅 されていたような気がするが、それが私の母の指導のし方だったかもしれない。私は、本当に ゆううつな高校時代を過ごした。 が、ここまで書いて私は、自分の生い立ちが、もっと大きな原因だったことを知る。まだ母が 生きているから詳しくは書けないが、私の家庭は、「家庭」としての機能を失っていた。心が休 まる場所すらなかった。食堂をかねた居間はあったが、その横が、そのまま裏口につづく通路 になっていた。落ち着いて体を休めることもできなかった。私は「家庭」にいつも大きな不安を いだいていた。もっといえば、私の心は、何らかの形で、いつも緊張していた。あるいはその緊 張感がとれなかった。よく私は、「愛想のいい子ども」と言われた。しかしその「愛想」にしても、 心の底からにじみ出るような愛想ではなく、自分をごまかすための愛想だった。私は愛想をよく することで、相手の心をたくみに、自分のものにしようとした。相手にうまく取り入ろうとした。 ●私であって、私でない私 そういう私だから、本当の「私」と、外で見せる「私」の間には、距離があった。たとえば私はた しかに愛想がよい子どもだったが、しかし心は許さなかった。愛想をよくしながら、いつも別の 目で、相手を見、相手の行動を観察し、そして相手の心を読んだ。もっと言えば、相手を利用 することだけしか、考えていなかった。これは同時に、私にとっては、たいへん不幸なことだっ た。 私には友人がいなかった。仲よく遊んだり、つきあったりする仲間はいたが、「友」と呼べるよ うな友人はいなかった。実際のところ、今でも、どういう人が「友」であり、どういう人が「友」でな いのか、よくわからない。ただ一人、心を開き、何でも話せ、安心できる人というのは、ワイフし かいないのではとさえ思うときがある。あとは家族だが、私の息子たちは別として、どうもこのと ころ、親戚づきあいもギクシャクとしてきた。親戚といっても、離れて住んでいると、いつの間に か、考え方も生き方も変わってくる。もう少し若ければ、多少の違いを乗り越えて、自分の心を 調整することもできるのだろうが、このところ、それもおっくうになってきた。ときどき、「親戚でも 他人のようなものだなあ」と思うときが多くなった。 他人に心を開けないというのは、そういう状態にいる子どもを見ればわかる。たとえば幼児で も、やさしくしてあげると、本当にうれしそうな顔をして、そのやさしさが、そのままスーッと心の 中にしみていくのがわかる子どもがいる。が、そうでない子どもいる。ものの考え方が、ひねく れている。いじけやすい。すねやすい。つっぱりやすい、など。このタイプの子どもは、相手に 心を開かない。開かないから、こちらからも入っていくことができない。……つまり私は、そうい う子どもだった? ●心の病気との闘い 私はいつも、自分の心の病気と闘っているような感じがする。ときどき、薄い氷の上を、恐る 恐る歩いているような気分になるときがある。ふと油断すると、そのたびに、恐怖症になった り、不安神経症になったり、パニック状態になったりする。うつ病的になることもあるし、そのた め、人に会うのさえ、いやになることもある。まさに何でも、ござれという感じ。 先日も、読者の一人から、そういう相談があったので、私はこう書いた。「私のばあい、精神 が不安定になったら、煮干を腹いっぱい食べ、あとはワイフの乳首をチューチュー吸いながら 寝ます。ハハハ」と。煮干を食べれば、カルシウム分やマグネシウム分を摂取できる。ワイフの 乳首を吸うというのは、それがどんなものであるかは、男性なら、みな知っているはず。あなた が女性で、それがわからなければ、夫に聞いてみたらよい。(そう言えば、女性はかわいそう だ。そういうとき、どうするのか? まさか夫の乳首を吸うわけにもいかないだろう? いや、吸 うときもあるかな……? この話はここまで。) あとは、引き金となるような事件をできるだけ起こさないようにする。私の三男は、買ったば かりの新車のワイパーを、だれかに折られ、それでひどく落ち込んでしまったことがある。私 も、そういう点では、モノによくこだわる。数年前だが、通信販売でパソコンを通信販売で買っ たが、そのパソコンには、買ったときから、小さなスリキズがついていた。私はそれが苦になっ てしかたなかった。そういうことは、ある。だからそういう状態に、自分を追い込まないようにす る。 が、それでも処理できなくなったら……。私のばあいは、真正面から、その問題にぶつかって いく。ときには、けんかすることもある。昔、アパートに住んでいたころ、道をはさんだ向こう側 の住人に、何かといやがらせをされたことがある。話せば長くなるが、そのときも私は相手の 家の中まで乗り込んでいって、けんかをした。ふつうのけんかではない。暴力までは使わなか ったが、大声では、だれにも負けない。そんなけんかだった。 こうして自分の中に、ストレッサー(ストレスの原因)をためないようにしている。つまりこうした 心の病気は、「なおす」という考え方ではなく、「その状態にならない」という方法で、対処してい る。それも心病気と闘うには、大切なことではないか。 ●心の病気を隠さない あなたにせよ、あなたの子どもせよ、仮に心の病気になっても、隠す必要はない。明るくおお らかに構えればよい。またそのほうが、結果的に、はやくなおる。……と、自分のことを書いて いるのか、心の病気について書いているのか、自分でもわからなくなってしまった。言いかえる と、私は「私」のことを話していると、いつもこの「心の病気」の話になってしまう。そういう意味 で、「私」イコール、「心」ということになる。多分、この原稿を読んでいる、あなたもそうかもしれ ない。「あなたは何か?」と聞かれたら、きっとあなたも、あなたの心をテーマにするのではない だろうか。こう決めてかかるのも、失礼な言い方になるかもしれないが、私はそう思う。 結論から言えば、心に問題のない人はいない。病気にならない人もいない。今は病気でなく ても、かつて病気になったとか、あるいはこれから病気になるということもある。だれも、この心 の病気とは無縁ではありえない。だから……。どうせ病気になるなら、明るく、前向きにとらえて いけばよい。決して、うしろ向きにとらえてはいけない。 (02−12−14) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(405) 利己主義 自己中心と、自分本位はちがう。自己中心というのは、自分を中心にしてものを考え、かつま た自分の姿を、客観的にとらえられないことをいう。自己中心的な人は、そのため、「自分が絶 対、正しい」と過信するあまり、その考えを他人に、(もちろん、子どもにも)、押しつけようとす る。あるいはその返す刀で、相手に向かっては、(もちろん、子どもに向かっても)、「あなたは まちがっている」と決めてかかる。 自分本位というのは、わがまま、自分勝手なことをいう。「自分さえよければ……」という考え 方を、いつも優先させる。そのため、独断、偏見、ひとりよがりな考えをもちやすい。「あとは、 知ったことか! 野となれ、山となれ!」と。 問題は、利己主義。「他人の迷惑をかまわず、自分の快楽・利益だけを第一とする考え方」 (日本語大辞典)という意味だが、英語では、エゴイズムという。これが家族の中に入りこむと、 やっかいなことになる。そうでない人には信じられないような話だが、利己主義的な親はいくら でもいる。ある程度は、だれしも、見栄、メンツ、世間体を気にするものだが、利己主義的な親 は、自分のために子どもさえも、その道具に使ってしまう。子どもの将来については、ほとんど 考えない。人格や人間性も認めない。いろいろな特徴がある。 (代償的愛)自分の支配下に子どもを置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいというのが、 代償的愛。一見、「愛」に見えるが、しかし愛ではない。利己主義的な親ほど、「産んでやった」 「育ててやった」「かわいがってやった」と言うが、その実、「子どもを大切にする」ということがど ういうことなのかさえ、わかっていない。このタイプの親は、必要以上に、子どもの世話をやく。 手間をかける。しかしそれは、結局は、子どもを自分に手なずけるためにすぎない。ある母親 は、こう言った。「息子なんて、産むものじゃ、なかった。親なんて、さみしいもんですわ。あんな にかわいがってやったのに、親を捨てるなんて!」と。息子が、大学を卒業したあと、結婚し、 遠くに住むようになったのを、その母親は、そう言った。 (虚栄心)利己主義的な親は、自分の「外見」を必要以上に、飾ろうとする。つくろう。そのた め、子どもも、その道具に使ってしまう。たまたま自分の子どものできがよかったりすると、そ れをことさら見せびらかしたりする。あるいは反対に隠すこともある。ある母親は、「子ども(高 校生)の制服を見られるのがいやだ」という理由で、毎日、自分の子どもの送り迎えを、車でし ていた。さらに息子夫婦をだまして、その財産を使い込んでしまった親すら、いる。息子がそれ に抗議すると、「親が自分の子どもの財産を使って、何が悪い!」と、その母親は居なおったと いう。 (固執性)利己主義的になれば、なるほど、当然のことだが、モノ、金、過去、名誉、地位などに 固執するようになる。「自分のものは、絶対、自分のもの」というような考え方をする。そういう 意味では、計算高くなり、ケチになる。が、それがさらに進むと、「子どものものも自分のもの」 と考えるようになり、さらに子どもそのものも、「自分のモノ」と考えるようになることもある。たと えば親の反対を押し切って結婚した娘に対して、毎晩、「お前をのろい殺してやる」と脅してい る母親すらいる。 こうした利己主義というのは、子育てのみならず、生活の場でも、「心の敵」と考える。それを 自分の中に感じたら、戦う。戦うしかない。生きザマが利己主義的になればなるほど、結局は、 その反射的作用により、その人は、社会からも見放され、ついで家族からも見放される。しか しそれだけではすまない。人生に「真理」があるなら、その真理からも遠ざかってしまう。つまり は時間をムダにする。浪費する。さらに……。利己的な利益にしがみつけばしがみつくほど、 魂そのものまで、束縛してしまう。それはまさに、魂の「死」そのものと言ってもよい。利己主義 を、決して安易に考えてはいけない。 (02−12−14) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(406) 真理とは? イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得 さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由 になれる」と。 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば 「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、 体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ れは死によって、すべてのものを失うからである。いくら、自由を求めても、死の前では、ひとた まりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んで も、死を乗り越えて自由になることはできない。はっきり言えば、死ぬのがこわい。 が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人 は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。が、へたに財産があると、そうは いかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが 気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。 泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私か ら「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ? そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」 を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。もっと言えば、真理が何であるか、その謎 を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言えば、究極の自由を求めることが、真理に到 達する道である。では、どうすればよいのか。 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた 原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。 ++++++++++++++++++++ 無条件の愛 真の自由「無条件の愛」 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由 だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐 怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。 しかし、それは可能なのか…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自 分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし た。 息子「アメリカで就職したい」 私「いいだろ」 息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい る。式には来てくれるか」 私「いいだろ」 息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」 私「いいだろ」と。 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺 さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声 が震えた。 息子「アメリカ国籍を取る」 私「日本人をやめる、ということか…」 息子「そう」 私「…いいだろ」と。 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私 が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が 抜けるほど軽くなったのを知った。 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。 「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け 入れるということ。「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などな い。一文無しの人は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おい でになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は 死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるよ うになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれ を、私に教えてくれた。 +++++++++++++++++ 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。 (自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。 (犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も それに含まれる。 (思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世 界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれな い」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカ ギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた 地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わからない。そこには、ひょ っとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なことに、それ以上の手がか りは、今のところ、ない。 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行 え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。彼の 言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちがって はいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。 (02−12−15) ●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦 「大般涅槃経」)。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(407) 子育てポイント ●過剰期待は、禁物 何が苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。親は励ましのつ もりで、「あんたはやればできるハズ」「まだ何とかなる」「そんなハズはない」と、子どもを追い たてるかもしれない。が、追いたれば追いたてるほど、子どもは、崖っぷちに立たされる。 そこで教訓。「うちの子は、やればできるハズ」と思ったら、すかさず、「うちの子は、やってこ こまで」と思いなおす。(やる・やらない)も力のうち。(やらない)というのは、すでにその力しか ないということ。それがわからなければ、あなた自身のことを思い浮かべてみればよい。 だれしもその限界の中で、懸命に生きている。限界があるのが悪いのではない。その限界が あるから、人は、体や心の健康を維持できる。が、もしその限界を超えればどうなるか? 短 い間ならともかくも、その「ひずみ」は、必ず、症状となって現れる。私も三〇歳前後のころは、 ただひたすらがむしゃらに働いた。休日も、月に一度あるかないかというような状態だった。 で、その結果だが、私は突発性何とかという病気で、左耳の聴力を完全になくしてしまった。 あなたも、そして子どもも、無意識のうちに、その「限界」を感じ、その範囲の中で生きてい る。これは体や心を守るための防衛本能といってもよい。とくに子どものばあいは、「やってこ こまでね」と、あきらめる。そういう親の思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもは伸 び始める。親が「何とかなる」とがんばっている間は、伸びない。 たいていの親は、子育ても終わりに近づくと、こう言う。「いろいろやってはみたけれど、あな たはやっぱりふつうの子どもだったのね。考えてみれば、何のことはない。私だって、ふつうの 人間なのだから」と。 +++++++++++++++++++++ ふつうの価値について、書いたのが、つぎの 原稿(中日新聞掲載済み)です。 +++++++++++++++++++++ 生きる源流に視点を ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、 またしかり。 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が 助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、 「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解 決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校 を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女 房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切 ることができた。 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子 育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこ にいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをして いる……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価 値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決す る。 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、 「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を 越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。 が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授 業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受 けるたびに、私は頭をかかえてしまう。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 ●子どもは環境で包む ウソか本当かは知らないが、ヨモギでも、麻(あさ)の中でいっしょに育てると、曲がらず、まっ すぐ伸びるという。中国の荀子(じゅんし)(中国戦国時代の儒者、紀元前三一五〜二三〇) も、つぎのように書いている。いわく『蓬(よもぎ)麻の中に生(お)いて扶(たす)けずして、自ず から直し』と。 こうしたたとえ話は、中国人や、そして日本人が、好んでよく使う。が、自然の中には、そうで ないケースもあるので、たまたまヨモギがそうであるからといって、ほかの植物がそうであると はかぎらない。こういうのを「コジツケ」という。『青は藍より出でて、藍より青い』というのも、そう だ。そう言われると、何となく、「そうかなあ」と思ってしまう。しかしそれこそ、相手の思うツボ。 相手は、そういう形で、あなたの批判力を煙に巻く。 しかし、だ。そうは言っても、この荀子の言っていることは、まちがってはいない。子どもはま さに環境の産物。そういう環境におけば、そうなるし、そうでない環境におけば、そうでなくな る。たとえば読書好きの親の子どもは、読書が好きになる。そうでない親の子どもは、そうでな くなる。勉強好きの親の子どもは、勉強が好きになる。そうでない親の子どもは、そうでなくな る。以前、こんなことがあった。 その子ども(小五男児)は、どこかつっぱり始めていた。言葉や態度が乱れ、生活もだらしな くなっていた。母親が何かを言おうとすると、即座に、「ウッセー!」と。そこで相談があったの で、私は、その子どもをしばらく預かることにした。 高校二年生が、四、五人集まるクラスがあった。私はそのクラスに、その子どもを入れてみ た。中学生は、みな、受験生で、緊張感が違った。最初のころは、その子どもはその雰囲気に 圧倒されて、ガチガチだった。しかしそのうち、喜々として勉強するようになった。そして半年も すると、あのつっぱり症状が、ウソのように消えた。理由があった。 あとでその子どもの母親に、話を聞くと、こう教えてくれた。その高校生の中に、野球部の生 徒がいた。その子どもは、その生徒を、理想の先輩をとらえた。自分も野球が好きだったこと もある。「日曜日など、その高校生が出る試合に、いつも応援に行っていました」と。 つまりその子ども(ヨモギ、失礼!)は、高校生(麻?)の中で育つうちに、曲がり始めた心 を、まっすぐ、自ら伸ばしてしまったというのだ。すべての子どもが、このようにうまくいくとはか ぎらないが、しかしこういうケースは、少なくない。子どもは環境で包み、その環境の中で、伸ば す。 ……ということになるが、押しつけではいけない。反対に、『麻でも、ヨモギの中で育てると、か えって曲がってしまうこともある』のでは? 少し前だが、こんなエッセーを書いたことがある。 ++++++++++++++ 私の子育ては、何だったの? ++++++++++++++ 親が子育てで行きづまるとき ●私の子育ては何だったの? ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大 切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし た。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、 読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も 部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんど うがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、 当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費 ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反し て、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最 近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇 歳の女性)と。 ●親のエゴに振り回される子どもたち 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談 があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプ リントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、 時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だ と、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は 何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一 緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日 はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子 どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後 の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。 それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今 度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつ ど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。 ●投書の母親へのアドバイス 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬 ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとは っきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確か めた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするというこ とを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの 私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。この母 親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるい はどこが違うというのか。 ●親の役目 親には三つの役目がある。@よきガイドとしての親、Aよき保護者としての親、そしてBよき 友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれ ないが、Bの「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい 我が家の子育て」というところ。この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう 「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、 居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んで いたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。が、もう一つ問題が残る。 それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。い まだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だっ たの?」という言葉が、それを表している。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 ●子どもを代用品にしない 自分の子どもを、父親のかわり、あるいは母親のかわりに使う人は多い。ある母親は、小学 生の息子に、こう言った。「生活が苦しいのは、お父さんの稼ぎが悪いからよ。お母さん(私)が 苦労するのは、お父さんに生活力がないからよ。あなたはがんばって、いつか、お母さんを楽 にしてね」と。 その母親は、自分の息子を、自分の味方につけたいと思ってそう言ったのだろうが、こういう ケースでは、まちがいなく、息子の心は、母親から離れる。たとえ息子が同意したとしても、今 は、体も小さく、母親の世話にならなければならないから、そうしているだけ。 父親が娘に、母親の代用を求めるケースもあるにはあるが、このように、母親が、息子に、父 親の代用を求めるケースが、圧倒的に多い。その背景には、望まない結婚であったとか、不本 意な結婚であったとか、さらには結婚後、夫婦関係がおかしくなったことなどがある。ただ代用 のし方は、その人によってちがう。さらに代用しながら、それに気づかない親も多い。 子どもの受験勉強に狂奔する親。子どもにベタベタに依存する親。子どもを溺愛する親。子 どもに夢や期待を託す親。あるいは反対に、「あなたはお兄ちゃんだから」と、何かにつけて、 「だから論」を振りまわし、子どもをしばる親など。たいていは心のどこかで、満たされない何か を求めて、そうする。 「子どもの自立」を考えたら、同時に「親の自立」も考える。親が自立しないで、子どもに自立 を求めるのは、酷というもの。あるいは不可能。これは子どものためというより、親自身のため でもある。今、日本の親子関係をとりまく環境が、急速に変わりつつある。自立していく子ども と、自立できない親という図式が、よりはっきりとしてきた。そういう中、結局は、さみしい思いを するのは、親自身ということになる。 私たちは、親として、私たち自身の人生を前向きに生きる。その第一歩が、ここでいう『子ど もを代用品にしない』ということになる。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 ●まず信ずる 子どもは(おとなも)、自分を信じてくれている人の前では、自分のよい面を見せようとする。 そういう子どもの性質をうまく利用して、子どもは、伸ばす。そこであなたは、どうか・ あなたは 子どもを、信じているか? そこでテスト。 Q1:あなたと子どもが通りを歩いていたら、偶然、高校時代の友人が通りかかったとする。そ のときその友人があなたの子どもをしげしげと見て、「いくつ?」と、年齢を聞いたとする。 そのとき自分の子どもに自信のある親は、「まだ一〇歳よ」と、「まだ」という言葉を無意識のう ちにも使う。自信のない親は、「もう……」と言って顔をしかめたりする。 あなた自身はどうか、頭の中で想像してみてほしい。もし後者のようなら、子どもをなおそうと思 うのではなく、あなた自身の心を作りかえることを考える。このタイプの親は、たいてい子どもの 悪い面ばかりをみて、よい面をみようとしない。「あそこが悪い」「ここが悪い」と、欠点ばかりを 指摘する。もしそうなら、今すぐそういう子育て観は改める。 ……ということは、前にも書いた。しかし実際には、子どもを信ずることは、簡単なことではな い。「信ずる」という言葉を使うこと自体、すでに疑っていることになる。そこでここでは、「子ども を信ずることのむずかしさ」について、考えてみる。 英語国では、親はことあるごことに、「私は息子の○○を自慢に思っています」とか、「自慢の 娘です」とか言う。子どもがいる前でも、平気でそう言う。日本語にはない言い方なので、言わ れた私のほうが、とまどってしまうことも多い。たとえばそういうとき日本では、へりくだって、「う ちの愚息です」とか言うのだが……。 同じように、学校の授業などでも、英語国の先生たちは、実によく生徒をほめる。見ていて、 「?」と思うほど、よくほめる。たとえば先生が生徒に、「君は、どう思うか?」と聞く。そのとき生 徒が、かなりトンチンカンなことを言っても、「君の意見は、ユニークでいい」とか、「今までにな い新しい考え方だ」とか言って、ほめる。 が、日本では、そうはいかない。親には親の権威、教師には教師の権威というものがある。 その権威を使って、親や教師は、子どもを指導しようとする。私が子どものころでさえ、学校の 先生や、親に逆らうことなど、考えられなかった。身のまわりは、まさに権威だらけ。もちろんそ の中でも、最高の権威は、教科書であった。当時の日本では、「教科書に書いてある」というだ けで、それこそ泣く子も黙った。そして当時の為政者たちは、その教科書にそって、つまり教科 書どおりの子どもをつくろうとした。今でも、その亡霊は残っている。少し、こまかい話になる が、最近、こんなことを経験した。 今、小数どうしの掛け算は、小学五年生ですることになっている。その掛け算でのこと。たと えば、0・5掛ける0・6は、「0・3」が、正解である。「0・30」は、まちがいということになってい る。しかしどうして「0・30」は、まちがいなのか? 有効数字ということを考えるなら、「0・30」 のほうが、正確ではないのか? そこで子どもたちに聞くと、「教科書がそうなってるウ!」と。 少し話が脱線しそうになってきたので、もとにもどす。要するに、私は権威をもちだすこと自 体、子どもを信じていないということを書きたかった。信じていないから、権威で子どもをしば る。信じていないから、子どもを権威で押さえつける。そういう意味でも、「子どもを信ずる」とい うことは、いろいろな部分にからんでくる。ある部分では、子育ての根幹にまでからんでくる。も っと言えば、この日本では、「子どもは、信ずべき存在ではない」という前提で、親たちは子育 てを始める。そういう意味では、子どもを信じている親など、ほとんどいない。「子どもは親がつ くるもの。そしてそれが家庭教育」と、ほとんどの親は、そう思っている。学校の先生もそうで、 「子どもは学校がつくるもの。そしてそれが学校教育」と、そう思っている? そういう大きな流れがあるから、あなたが子どもを信じられないからといって、それはしかた ないことかもしれない。実のところ、私自身も、現在、大きな問題に直面している。まさに私自 身が、子どもを信じているかどうかをためされているような問題だ。 息子の一人が、今、通っている大学を中退するか、さもなくば学部を変更したいと言い出してい る。別の大学を受験しなおすことも考えているようだ。どうするかは、息子自身の問題だから、 私は、こう言った。「お前の問題だから、自分で考えて、結論を出しなさい」と。しかしそうは言っ たものの、この胸の中の雑音は何か。「もし中退したら、どうなるのか?」「学部変更ということ になると、さらに何年も、大学へ通うことになるのか?」「また受験勉強でもするつもりなの か?」と。 息子のこの問題に直面したとき、まっさきに思い出したのが、私自身のこと。私が、M物産と いう商社をやめて、幼稚園の講師になったとき、母は、電話口でこう言って、泣き崩れてしまっ た。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と。母だけは私を信じてくれると思っていたが、それ は、はかない幻想だった。そういう残念な経験が私にはあるから、私は今、懸命に息子の、心 の支えになってやろうと思っている。私だけは、息子を信じてやろうと思っている。その思いは、 かなりしっかりしているが、しかしそれとは別に、ここでいう「胸の中の雑音」があるのも事実。 まったくないというわけではない。ザワザワしている。しかしそういう雑音があるということ自体、 私は息子を信じていないということになるのか? できれば息子に、「中退する? ああ、それ もいい考えだね」と言ってあげたいが、私には、そこまで言えない。 さてさて、あなたはあなたの子どもを信じているか。本当に信じていると、自信をもって言える か。これは子育ての中でも、たいへん大きなテーマだから、あなたも一度、じっくりと考えてみて ほしい。 (02−12−15) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(408) サービス過剰 子どもに遠慮する親、子どもに気がねする親、子どもの歓心を買う親、子どもの機嫌をとる 親……。ある母親は、こう言った。「私からは言えません。先生のほうから、うちの子(小四男 児)に言ってくれませんか?」と。「どうしてお母さんから、言えないのですか?」と聞くと、「こわ いです……」と。 さらにこんな親もいた。「娘(中三)が、どうしてもB高校へ行くといって困っています。先生の ほうから、何とか、C女子高校へ行くように説得してください。……で、こんなこと、先生にお願 いしたことは、絶対、娘には内緒にしておいてくださいね」と。 サービス過剰が転じて、親はこういう親になるが、このタイプの親は、子どもに嫌われるの を、何よりも恐れる。もともとは子離れできない、依存心の強い親とみる。「私は私」という姿勢 が貫けない。甘い。で、一度こうなると、すでに親子関係は、崩壊しているとみてよい。親子の リズムそのものが、合っていない。 要はこうならないようにする。予防する。なってしまってからでは遅いし、リズムというのは、一 度できると、変えるのは、たいへんむずかしい。が、ほとんどの親は、「自分はだいじょうぶ」と か、「うちの子にかぎって……」とか思っているうちに、そうなる。その前兆症状を見逃してしま う。そしてにっちもさっちもいかなくなってはじめて、それに気づく。 そこであなたは、だいじょうぶか。まだ子育てが始まったばかりのあなたを、少し診断してみ よう。あなたは、つぎの項目のうち、いくつに該当するだろうか。 (1)どちらかというと、サービス精神が旺盛で、子どものためなら、犠牲になることをいとわな い。 (2)子ども中心の生活になっていると感ずることが多い。また結果的そうなっていることが多 い。 (3)親にベタベタと甘える自分の子どもを見ると、いとおしく、かわいい子どもだと思う。 (4)自分自身も親への依存心が強く、何かにつけて、親に相談したり、親の援助を受けること が多い。 (5)何でも子どもがそれを望む前に、自分のほうで用意することが多い。心配先行型の子育て をしている。 これらの五項目のうち、四つとか五つ、該当すれば、あなたはかなり危険な状態にあるとみ てよい。親子のリズムそのものが合っていない。で、こうしたリズムの乱れを感じたら、親が子 どものリズムに合わせるしかない。子どもは、親のリズムに合わせることはできない。ただリズ ムを合わせるといっても、子どもの言いなりになれということではない。子どものリズムに合わ せるということは、子どもの意思や気持ちを確かめながら、そのつど行動することをいう。育児 拒否や放棄が子どもにとってはよくないのと同じように、サービス過剰や溺愛もよくない。必要 なことはするが、やりすぎないということ。そういう姿勢で、子育てのあり方を、もう一度、見なお してみる。 (02−12−15)※ 【追記】●サービス過剰とサービス不足 子育ては、やりすぎてもいけない。しかし不足していても、いけない。ほどほどのところで、必 要なことはするが、限度を超えてはいけない。一方、必要なことをしないのもいけない。そういう 意味で、子育ては、大きく、(サービス過剰)と、(サービス不足)の二つに分けられる。 (サービス過剰)……溺愛、過保護、過干渉、過関心、 (サービス不足)……育児拒否、虐待、冷淡、無視、育児放棄 どちらにせよ、子どもには大きな影響を与える。ただしこうした過不足には、客観的な尺度が ない。だからかなりの(サービス過剰)と思われている親でも、「私は不足している」と思ってい るケースもあるし、反対に、「もっとサービスをしなければ……」と思うような親でも、「私は過剰 だ」と思っているケースもある。自分の子育てを客観的にみるのは、たいへんむずかしい。 そこで私は、「ママ診断」という方法で、母親の子育てを診断するという方法を思いついた。サ イトの中にも、いくつか収録したので、興味のある人は、そちらを見てほしい。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(409) クリスマス わが家のクリスマスも、すっかりさみしくなった。このところ、ワイフと二人だけで祝う年も、多く なった。小さなケーキを買ってきて、何本かローソクを立てて、おたがいに、「メリークリスマ ス!」と言いあって、それでおしまい。正月の元旦には、家族が全員集まるようにはしている が、クリスマスについては、そういう約束はない。息子たちは息子たちで、勝手にそれぞれのク リスマスを楽しんでいる。 クリスマスの最大の楽しみは、やはりプレゼント。しかし今年は、あれほど買わないと誓って いたパソコンを、また買ってしまった。近くの店で投げ売りしたものがあったので、それを買って しまった。〇二年の夏モデルだったが、性能は、悪くない。「誕生日とクリスマスのプレゼントを 合わせてならいい」とワイフが言ってくれたので、買った。今、そのパソコンで、この原稿を書い ている。(気持ちいい!) ワイフへのプレゼントは、まだ決めていない。(この原稿を書いているのは、一二月一六日。) 「クリスマスに何がほしい?」と聞くと、ワイフは、「私はいらない」と。私のワイフは、実に質素な 女性で、ほとんど何もほしがらない。若いときからそうで、それは今も変わっていない。「何か、 ない?」と聞くと、やはり、「……ない」と。私としては、かえってそのほうが困るのだが……。 さて、クリスマス。イエス・キリストの誕生日。例年だと、私にとっては、一番、気ぜわしいころ である。どういうわけか、この前後に、懇談会や講習が重なる。それに年末、年始の準備もし なくてはいけない。もっとも、それもいいかげんになってきたが……。息子たちが子どものころ は、ウスまで買って、毎年、餅つきをしていた。が、この五、六年は、それもしていない。しかし 忙しいのは、変わらない。おせち料理を用意して、やっと一息つけるのが、だいたい一二月三 〇日。 そう言えば、その年末、年始の過ごし方も、このところいいかげんになってきた。「寝ていたほ うがいい」とか、「ビデオでも見よう」とか、そんな過ごし方になってしまった。ただひとつ欠かさな い行事は、映画の『ベン・ハー』を見て、ベートーベンの第九交響曲を聴くこと。学生時代には、 毎年、この第九を歌っていた。その流れから、そうなった。で、その『ベン・ハー』で思い出した が、あのベン・ハーを演じた、チャールトン・ヘストン氏は、今、アルツハイマー型痴呆症と闘っ ているという。私にとっては、俳優というより、ベン・ハーその人だから、こういう話は、本当にさ みしい。 さて、〇三年は、どんな年になるのか。やはり最大の関心ごとは、景気と国際問題。私が住 む浜松市は、工業都市で、ホンダやスズキががんばっている。ホトニクスやローランドもがんば っている。ヤマハもがんばっている。しかしそれでも、街の中は、元気がない。……なくなった。 「まだ、浜松はラッキーなほうだ」と、自分をなぐさめているが。いつまでなぐさめられることや ら。みんな、もうとっくの昔に、息切れしてしまっている。あきらめている。 国際問題については、何と言っても北朝鮮の動向。戦後、日本がズルズルと引き伸ばしてき た、ことなかれ主義が、ここにきて急に、破綻(はたん)しつつある? 日本外交が、まさに正念 場を迎えたという感じだが、どうなることやら? まあ、どうなってもよいように、心がまえだけは しておこう。無責任な言い方に聞こえるかもしれないが、この私がいくら叫んでも、日本は、日 本の政治は、ビクともしない。このところ何かにつけて、気力が弱くなった。私の正義感もいつ までつづくことやら。同時に、何というか、無力感がただようようになった? しかし本当に、神様っているのかなあ……。子どものときから、毎年、クリスマスになると、そ のことばかり考えていた。今もその習慣が残っていて、クリスマスになるたびに、それを考え る。「本当に、神様っているのかなあ……」と。そう思いながら、みんなには、こう言う。「メリーク リスマス!」と。結構、私も、ロマンチストなのかもしれない。 では、みなさん、(今年も)、メリークリスマス! ++++++++++++++++++++ クリスマスについて、書いたのが、つぎの 原稿です。ある本で発表するつもりでいま したが、出版社の編集長の判断で、ボツに なった原稿です。 ++++++++++++++++++++ 神や仏も教育者だと思うとき ●仏壇でサンタクロースに……? 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏 壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、 私にはそれしか思いつかなかった。 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は 一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は 神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がい る。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っ ても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。 ●身勝手な祈り 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間 に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売 が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸 す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。一方、今、小学生たちの間で、占い やおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアク セスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなの だろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」と いうのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だ って持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を 使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こ んな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと ができる!」と。 ●難解な仏教論も教育者の目で見ると ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回 向論である。これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それ は仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽 に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事 典・石田瑞麿氏)となる。しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何が なんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでし まう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことでは ないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ 行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育 するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、 そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。 ●バカげた地獄論 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教 団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地 獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌) と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。 が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら が言うところの慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判 されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうと きでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神 や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらい で、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だ いたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが 地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわ かる。 ●キリストも釈迦も教育者? そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、 と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理 解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生 ……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。 「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをか なえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そ うなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。スーパー パワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学 も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心 境と言ってもよい。 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤 い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり と覚えている。 (02−12−16) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(410) 〇二年を振りかえって…… 今年も、よい年だった……と、今、自分にそう言って聞かせた。健康だったし、大きな事件も なかった。仕事は低調だったが、これはしかたない。結局、何かをしたようで、何もできなかっ た……。この一年、ほとんど進歩もなかった……。去年の自分とくらべても、どこが変わったの か。そんな思いで、この原稿を書いている。 (健康)毎日、一時間前後の運動はした。運動といっても、自転車通勤だが、これは欠かさなか った。体重は、年始には、六八キロだったが、今は六二キロ台に。六キロの減量に成功! 体 が軽く感ずる。 体重を減らすのを決めたのは、老人を観察してみて、それが必要だと感じたから。健康な老 人は、ムダなぜい肉がない。どこかほっそりとして、筋肉が発達している。そうでない老人は、 ブヨブヨとして、体をもてあましている感じ。だから減量しようと決めた。 (仕事)講演は、毎月四、五か所を回った。が、これくらいが限度かもしれない。ワイフは、「月、 三回ぐらいにしておきなよ」と言っている。 講演をしていていやなことは、いつもあとで後悔すること。「ああ言えばよかった」「こう言えば よかった」と思うこと。うれしいのは、講演の感想で、よいことを書いてもらうこと。せっかく会場 に来てもらうのだから、役にたちたいと思う。それだけを考えて話す。 (家族)まあ、つぎからつぎへと、いろいろなことがあった。航海にたとえて言うなら、大波、小 波、水しぶきをかぶりながら進んだという感じ。嵐や台風こそなかったが、終わってみると、結 構、楽しかった。 まあ、活発ざかりの息子を三人もかかえると、あれこれあるもの。子どもが巣立ったから、そ れで子育てはおしまい……とは、いかない。お金もかかる。行事もふえる。人づきあいもふえ る。何かと忙しくなる。 (大きな思い出)とくにないが、電子マガジンを、一日おきに発行したこと。これが生活に、メリ ハリをつけてくれた。たいへんだったが、読んでくれる人がいるかぎり、発行するつもり。 読者が少しずつだがふえたのが、大きな励みになった。今は、毎回、A四サイズで、約二〇 ページ前後のマガジンを発行している。読者数が、約七〇〇人だから、一回で、一万四〇〇〇 枚。一月で、一五回発行しているから、一月で、二一万枚! たいへんな枚数である。改めて インターネットのものすごさに驚く。 (〇三年の抱負)毎年、一応抱負を書くが、あまり意味がない。少しくらい力んだところで、来月 は、今月の繰り返し。同じように、来年は、今年の繰り返し。「来年は〜〜しよう」と思っても、あ まり意味はない。だから今年は、抱負を書かない。……まあ、それでも、来年は、ワイフと、オ ーストラリアへ行ってみたいと思っている。 何かしたいことは……と聞かれると、困る。毎日、したいことをして生きているので、その点で は、ハッピーだと思う。今、したいことは、とにかく、頭の中を走りまわって、新しいことを発見し たい。大きな宝石のような「思想」や、「考え方」を発見したときほど、うれしいことはない。 (目標)だれともけんかしないで、平和に暮らしたい。心の平和を大切にしたい。毎日、新しいこ とを発見したい。自由に考え、自由に生きたい。 トラブルは、こちらが予定していなくても、あるいは、こちらにその気がなくても、向こうからくる ことがある。そういうトラブルは、どうやって避けたらよいのか。よく何かトラブルがあると、「不 徳のいたすところで……」と言う人がいる。たしかにそのとおりで、トラブルがあるということは、 その人自身にも、問題があることが多い。そういう不徳を、どう克服するか。それも〇三年度の 大きなテーマになると思う。 (02−12−16) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(411) たき火 私は、自宅の庭でも、山荘でも、よくたき火をする。地球温暖化が問題になっているから、気 が引けるが、大きなたき火ではない。自宅の庭では、枯れ草や枯れ葉など。山荘のほうでは、 料理のためなどに、少量の枯れ木を燃やす。全体としてみれば、家庭で使うコンロや、ストーブ のガスが出す炭酸ガスとは、比較にならない。(言い訳をしてはいけないが……。) で、自分では、「たき火の名人」と思っている。「名人」というのには、いろいろな意味が含まれ る。まず第一。火をつけるのが、うまい。かなり湿った枯れ草や枯れ葉でも、燃やしてしまう。小 雨の日でも、それをすることができる。 つぎに、火の予想をつかむのが、うまい。これくらいなら、これくらいの火になるだろうという予 想を、正確につかむことができる。たき火で、これを読みまちがえると、たいへんなことになる。 三つ目に、安全。私は安全に、最大の注意を払っている。(当然だが……。)たとえばたき火 のあとは、必ず水をかける。そのとき、いいかげんな消し方をしない。水をかけ、さらに水をか け、「もういいだろう」と思っても、もう一度、水をかける。「火」は、決してなめてかかってはいけ ない。 そこで山荘では、たき火コーナーを、石とセメントで、囲んだ。直径、四メートルくらいの円の 中心に、それをつくった。が、それだけでは安心できない。(実際には、村の人たちに安心して もらえない。)だからそのコーナー全体を、これまた「島」のようにして、三方を道路で囲んだ。 (一方は、南側の土手になっている。)まわりに、消火用に水道の蛇口を二つつけ、さらに、常 時水の入ったバケツを、数個横に置いた。 もちろん何度か、あやうく! ……というような失敗をしたことがある。そういう経験があって、 自称、名人になった。そのたき火には、不思議な魅力がある。 夏の夜など、真っ暗な山の中で、チリチリと小さなたき火をする。その火を見ながら、あれこ れ考える。歌を歌うこともあるし、あるいは何も考えないで、ボーッとしていることもある。だれ か昔、「水は心をしずめる。しかし火は心を鼓舞(こぶ)する」と言ったが、私もそう思う。たき火 の炎を見ていると、心のどこかで原始時代の私の中の自分が、うずうずするのを感ずるときが ある。私という人間がそのまま原点に戻っていくかのように感ずることもある。 あるいは自宅の庭で、たき火をしていると、そこに牧歌的なぬくもりを覚えるときがある。赤い 炎、青白い煙、ただよう燃えた草のにおい……。火の燃え方を気にしながら、つまり心のどこ かでかすかな緊張感を楽しみながら、その中に新しい枯れ草をほうりこむ……。そういうとき、 心は無になる。カラッポになる。軽くなる。いろいろなストレス解消法があるが、たき火は、たし かにその解消法の一つと言ってもよい。ワイフなど見ていても、たき火をしている姿は、どこか 軽やかである。 さて今も、庭のほうから、パチパチという音が聞こえてくる。窓の向こうには、澄んだ青い煙 が、クルクルと小さな渦を描きながら、空にのぼっていくのが見える。犬のハナが、その下を、 行ったり来たりしている。あとで、焼き芋でもするつもりなのだろうか。ワイフが燃えたあとに残 った灰を、丸く集め始めた。それを上から、白い冬の陽光が、明るく照らす。時間がとまってい るかのような錯覚すら覚える。何とものどかな光景である。のどかな、のどかな光景である。つ まりこの「のどかさ」こそが、たき火の最大の魅力ということになる。 (02−12−16) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(412) 「私」と「己(おのれ)」 ●外面世界と内面世界 「私」と「己(おのれ)」は、ちがう。私が勝手にそう思っているだけだが、私は分けて考えてい る。 外面世界で、外に向かった意識が、「私」。これに対して、内面世界で、中に向かった意識 が、「己」。たとえば「私の……」というのは、外面世界で、外の人に向かって使う言葉。「私の 名誉」「私の地位」「私の財産」など。一方、「己の……」というときは、あくまでも、内面世界で、 自分自身に向かって使う言葉。「己の考え」「己の主義」「己の思想」など。 人は、いつも、外面世界と、内面世界という、二つの世界のはざまで生きている。どちらが大 切とか、どちらが優れているとかいうことではない。要は、バランスの問題。外面世界だけを、 世界と思ってはいけない。反対に内面世界だけを、世界とも思ってはいけない。その両者は、 同じくらい広い。深い。そして大切。 この二つの世界では、同じものでも、まったく違った性質をもつ。たとえば「自由」。外面世界 で、いくら「私は自由だ」と叫んだところで、自由はない。「私」がくっついているかぎり、自由は ない。「私の……」といえるものは、いつも、だれかに奪われる心配がある。「私の名誉」にせよ 「私の地位」にせよ、はたまた「私の財産」にせよ、それを得たときから、今度は、なくすことを 心配しなければならない。つまりそのときから、束縛される。 しかし内面世界では、そんなことを、わざわざ叫ばなくてもよい。自由は完全に保障されてい る。だれもあなたの内面世界に、足を踏み入れることはできない。内面世界にいるあなたを、 侵すことはできない。あなたがどんな思想をもっているにせよ、あるいはどんな宗教に身を寄 せているにせよ、あなたがそれを身につけたときから、それはあなた自身のものとなる。 ●優先される外面世界 ただ残念なことは、(それはその人の勝手かもしれないが)、今、あまりにも多くの人が、外面 世界だけを、世界と思い込んで、四苦八苦していること。こうした傾向は、子育てにも反映され る。子どもの外見的な、でき、ふできばかりを気にして、子どもの内面世界での、でき、ふでき は、ほとんど気にしない。同じように、親子関係にしても、見栄えばかり気にして、中身を気にし ない。中には、「いい学校さえ入ってくれれば、親子関係が犠牲になってもかまわない」と言う親 さえいる。あるいは「子どもは、いい学校へ入れば、それで感謝してくれるはず。そのとき親子 関係は修復できる」と。 もっとも、内面世界だけをふくらませもらっても、困る。カルト教団の信者などは、内面世界だ けを、異常にふくらませてしまう。そしてその中だけで生きているから、生きザマそのものが、お かしくなる。常識はずれなことをしながら、それを常識はずれとも思わない。教祖の髪の毛を煎 じて飲んだり、教祖がつかった風呂の湯で、ご飯をたいたりしている。あるいは死んでミイラ化 した死体を、「生きている」と言い張ったりしている。 問題は、ここで二つある。ひとつは、どうすれば、この二つの世界をバランスよく保てるかとい うこと。もうひとつは、どうすれば、内面世界を、より広くすることができるかということ。 (バランスを保つためには、ごくふつうの生活の中で)……私たちの外面世界にせよ、内面世 界にせよ、それはごくふつうの生活の中で、ふつうに生活をすることによって、広くすることがで きる。よく出家すれば、俗世間と決別して、精錬(せいれん)潔白な境地に達することができると 説く人がいる。しかし本当にそうか。むしろそういうことを売り物にして、かえって俗化した人は いくらでもいる。いわんや、滝に打たれたり、針の台座の上に寝たり、はたまた燃えさかる火の 上を歩いたからといって、外面世界や内面世界が、広くなるということは、ありえない。ともすれ ば私たちは、オカルト的な鍛錬(たんれん)法に、あこがれをいだきやすい。神秘的であればあ るほど、魅力的である。が、そういう神秘性に、幻想をいだくのは危険なことでもある。それに ハマると、自分を見失ってしまう。 (内面世界を広くするためには、考える時間を大切に)……内面世界を大きくするゆいいつの 方法は、自ら考えること。思考が人間を深くする。賢くする。人間を人間らしくする。あのパスカ ルが『パンセ』の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったのは、そういう意味である。「考え ること」に疑問をもつ人も多いが、考えるから人間は人間である。考えなかったら、そこらにい る犬やネコと同じ。反対に、「人間は犬やネコとはちがう」というその根拠は何かと言われれ ば、この「考えること」。その部分をのぞけば、人間は、犬やネコとそれほどちがわない。あるい はどこがちがうのか。で、そのためにも、私たちは、考えることを大切にする。あるいはそのた めの時間をつくる。 ●内面世界の深遠性 内面世界の広い人と、内面世界の狭い人のちがいは、簡単にわかる。内面世界の狭い人 は、それだけ動物に近いから、行動や言葉が、それだけ動物的。たとえば男であれば、若い 女性の裸を見ただけで、カーッとなって、その欲望のウズの中に飛び込んでいく。ものの考え 方が短絡的で攻撃的。見るからに浅はか。 ただ皮肉なことに、内面世界の狭い人は、自分が狭いとは思わない。自分では「まとも」と思 っている。自意識そのものが弱いから、自分を客観的に見ることができない。それはちょうど肩 をいからせて歩く、暴力団の組員のようなもの。内面世界の広い人から見れば、こっけいでし かない。が、本人たちは、決してそうは思っていない? 内面世界の広い、狭いは、その人自身が、より広い世界をもつことによってはじめて、わか る。それはちょうど山登りのようなものではないか。より高い山に登るたびに、それまでの山が 低く見える。下から見ると、それほど高くないと思って登った山でも、登ってみると、意外と視野 が開ける。遠くに、広い海まで見えたりする。同じように、内面世界の広い人からは、狭い人が わかるが、狭い人からは、広い人がわからない。もっとわかりやすく言えば、賢い人からは愚 かな人がわかるが、愚かな人からは、賢い人がわからない。愚かな人は、自分が愚かである ことさえ、わからない。 そこでひとつの、問題にぶつかる。では、私自身はどうかという問題。あなた自身はどうかと いう問題に置きかえてもよい。もちろん私もあなたも、山の頂上にいるわけではない。まだその 途中にいるにすぎない。道はいつまでもつづいている。そういう意味でも、内面世界の広さは、 外面世界の宇宙ほどの広さがある。こう私が書くからといって、私の内面世界が、あなたの内 面世界より広いと言うつもりはまったくない。仮に広いとしても(失礼!)、それはひょっとした ら、ドングリの背比べをしているようなもの。数万キロもある道のりで、一歩や二歩、私が先に 歩いたからといって、それがどうだというのか。……と考えて、実は、ここに内面世界の深遠性 がある。 ●さあ、内面世界を進もう! 目の前には、空がある。そしてその空の向こうには、宇宙がある。広大な宇宙だ。それと同じ ように、あなたの思考の中には、もう一つの宇宙がある。これも広大な宇宙だ。それを知るた めには、静かに目を閉じれば、よい。それでよい。目を閉じて、あれこれわき起こってくる、モヤ モヤしたものに、一つずつ、耳を傾ければよい。何でもよい。つまらないこと、いやなこと、悲し いこと、さみしいこと、うれしいこと、楽しいこと、何でもよい。そしてそれらについて、ひとつず つ、自分の考えを織りこんでいけばよい。そのとき、いくつかのコツがある。 ひとつは、どんな簡単なことでもよいから、一つの結論に達したら、それを定理とすること。 「いやなことがあると、気が重くなる」というようなことでもよい。あるいは「暴力映画を見ると、気 分が悪くなる」ということでもよい。そういうふうに、一つずつ、結論を出していく。これは考えを ループさせないためにも、たいへん重要なことである。というのも、こうした考えは、えてして、 ループの環(わ)の中に入りやすく、一度入ると、同じことを繰り返し、繰り返し考えるようにな る。こうなると時間のムダ。前に進めなくなってしまう。ばあいによっては、そこで考えが止まっ てしまう。 もうひとつは、どんなことでもよいから、それについて考える。そのとき、簡単に結論を出して はいけない。「これはどうだろう」「あれはどうだろう」と考えていく。するとそのテーマとは別に、 キラリと光るものを見つけることある。私はこれを勝手に、「思考の宝石」と呼んでいる。実は、 考えることのおもしろさは、ここにある。たとえば私も、こうして「考えること」について書きなが ら、すでにつぎに書くべき、いくつかのテーマを発見した。こうして内面世界を、今度はどんどん と横に広げていく。 ●あとは、それぞれの道を! そのあと、どうなるか? それは私にもわからない。あなたにもわからない。だれにもわから ない。……と書きながら、実は、子どもも同じ。考える子どもにするには、まったく同じ手法をつ かう。そしてそのあと、その子どもがどのように考えるようになるかは、それはお楽しみ。子ども の問題。いつかあなたも、あなたの子どもから、あなたの知らない新しい考えを聞くかもそれな い。しかし、それほど、また楽しいこともない。 何ともまとまりのない原稿になってしまった。「子育て随筆byはやし浩司」集の中に収録する かどうか、かなり迷った。が、「これも私の一部」と思い、収録することにした。これから先、ここ に書いたことを頭の中で反復させながら、さらに煮つめてみたい。 (02−12−16) +++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(413) 賢い人・愚かな人 ●愚かな人 賢い人からは、愚かな人がよくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわからない。さらに 悲劇的なことに、愚かな人は、自分では、決して愚かだとは思っていない。自分の愚かさがわ からないから、愚かな人ということにもなる。もっと言えば、賢い人は、自分の中の愚かさを知 る人と言ってもよい。つまり賢い人は、愚かな人を見ながら、自分の中の愚かさを知り、その愚 かさを克服しようと、前に進む。だから……。賢い人は、どんどん賢くなる。そして結果として、 ますます愚かな人が、よくわかるようになる。 数年前だが、一人の女性(四〇歳くらい)が、私の家に飛び込んできて、こう言った。「日本の 教科書が、どうして日本の悪口を書いているのか? また書かねばならないのか?」と。たま たま教科書問題が、世間をにぎわしているところだった。そこで話を聞くと、こう言った。 「日本の植民地政策は、正しかった。日本が植民地にしてやったおかげで、中国も、韓国も、 あそこまで発展できた。道路も鉄道も整備してやった」 「中国や朝鮮は、自分たちの教科書で日本の悪口ばかり書いている。そういうことは許せな い。もっと日本としても、抗議すべきだ」 「日本が朝鮮や満州を植民地にしたのも、結局は、彼らが日本を攻撃してきたからだ」などな ど。 私はそういう意見そのものよりも、四〇歳前後の若い母親が、そう言ったのには、驚いた。ふ つうこういうことを口にするのは、五〇歳、あるいは六〇歳以上の男性である。しかし、そんな 若い女性が! そうそう、その女性は、こんなことも言った。「アメリカは、日本を自分たちの第 X番目の州に組み入れようとしている。あなたはそういうことが許せるか?」と。 最初のうちは、私もひとつずつ、ていねいに説明していたが、そのうち怒り出したのは、私で はなく、その女性のほうだった。「あんたは、それでも日本人か!」と。そこで私もこう言った。 「私は頭のてっぺんから、足の先まで日本人だ。ほかのだれよりも、この日本のことを心配して いる!」と。 結局、議論にならなかったが、あえて言うなら、もしその女性の論理がとおるとするなら、いつ か日本が、隣のK国ならK国でもよいが、どこかの国に侵略されて、その国の植民地になって も、文句は言えないということになる。自己中心的というか、こういう女性は、相手の立場でも のを考えることができない。まるで謙虚さがない。ただ一方的に、自分の意見を押しつけようと しているだけ。……というのが、その女性の愚かさである。 ●自分の愚かさ その女性の視野は、きわめて狭いものであった。それに無学というか、不勉強というか、私 は、間に、越えがたいほどの距離を感じた。たとえば「日本を攻撃してきたから」という部分に ついて、「いつ、中国や朝鮮が、日本を攻撃してきたのですか?」と私が聞くと、「ハア〜、あん たはそんなことも知らないの?」と、逆に言いかえされてしまった。 が、こうした愚かさは、その女性だけのものではない。相対的な立場で、私自身にもある。… …あった。先日も、大学時代の恩師とメールであれこれ議論するうち、とうとうその恩師を怒ら せてしまった。その恩師は、こう書いてきた。 「君の意見は、レベルが低すぎます。あとで第一級の論文を送ってあげますから、まずそれ を読んで、世界の知性がどのレベルにあるか、それを謙虚に知ることです」と。 で、数日後、その論文が贈られてきた。書いたのは、国立R研究所の主任研究員でもあり、 かつその所長であったM氏が書いたものだった。内容は、日本の科学概論と言えるものだっ た。私はそれを読んで、愕然(がくぜん)とした。あまりにも大きなレベルの違いを感じたから だ。もっとも科学の分野は、私の専門ではないから、そうした違いを感じたとしても、おかしくは ない。たとえば電子工学について言えば、私はパソコンをある程度は操作できる。しかしCPU (中央演算装置)の設計図については、拡大図を見ても、何がなんだか、さっぱりわからない。 あえて言うなら、その論文は、科学を論じながら、CPUの未来像を論じたようなものだった。そ ういう「違い」はある。しかし私は愚かだった……。 そこで私は気がついた。自分の愚かさを知るためには、視野を広く、深くするだけでは、足り ない。まず自分自身に謙虚でなければならない、と。もっと言えば、傲慢(ごうまん)であること 自体、すでにその人(私)は、愚かであるということになる。さらにもっと言えば、愚かな人は、 自分の愚かさに気づかない。私が恩師に、一人前の顔をして、しかも対等のつもりで反論して いたが、まさか自分が、その愚かな人間だったとは! その人(私)が、賢いかどうかは、結局は、相対的な問題にすぎない。下には、下がいるが、 同時に、上には上がいる。だから自分では賢いと思っていても、それは自分でそう思っている だけ……ということになる。つまりこの世の中には、私も含めて愚かな人はいくらでもいるが、 賢い人はいないということになる。仮に賢い人がいるとしても、それは相対的にそうであるにす ぎない。 (02−12−17) ●「愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知る」(シェークスピア「お気に召すま ま」(五幕一場)) ●「偉大なる精神は、偉大なる精神によって形成される。ただし、それは同化するということで はない。むしろ多くの軋轢(あつれき)によって、形成される。ダイヤモンドがダイヤモンドを研 磨するように」(ハイネ「ドイツの宗教と哲学」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(414) 夫婦の会話 夫婦の間でも、ほとんど会話のない人もいるという。寝床はもちろん、寝室まで別という人が いる。人、それぞれだし、それでうまくいっているなら(?)、他人がとやかく言ってはいけない。 言う必要もない。「夫婦のあり方」に、形はない。 で、私たち夫婦は、私の仕事の関係もあって、ほぼ四六時中、いっしょにいる。「四六時中」と いっても、私が市内で、仕事をしているときは別だが、ほとんどの行動をともにしている。風呂 さえも、結婚してからこのかた、いっしょに入っている。たいてい長湯で、ああでもない、こうでも ないと話しながら、ときには一時間以上も、入っている。ふとんにもぐってから、一時間以上、 話すことも少なくない。ワイフは、静かな感じのする女性だが、結構、私とはおしゃべり。そんな わけで、こと「夫婦の会話」ということになれば、私たち夫婦は、会話が多い。顔と顔をあわせ れば、何かをしゃべっている。しっかりと計算したわけではないが、平均して毎日、四時間以上 は会話をしているのではないか。あるいはそれ以上かもしれない。 そのためかどうかは知らないが、当然、よく衝突もする。意見の対立というよりは、ささいな言 動がきっかけとなって、衝突する。若いころは、とっくみあいのけんかもよくした。私は性格的に は、決して、温厚な人間ではない。子どものころから、気は小さいくせに、負けず嫌いで、何か につけてけんかばかりしていた。決してヤワな男ではない。一方、ワイフも、七人兄弟の中で、 もまれて育っている。これまた根性がある。「いやだ」と一度、言い出したら、一歩も引きさがら ない。こういう夫婦だから、衝突しないほうがおかしい。しかしその内容も、変わってきた。 若いころは、同じフトンの中で、ワイフが、腸内ガスを放出すると、私は足で蹴飛ばして、ワイ フを外へ追いだしていた。すなおにあやまればよいのだが、「私じゃ、ない。あんたでしょ!」な どというから、そうした。が、最近は、ワイフの腸内ガスも、自分の腸内ガスのように、まあ、何 とか寛大にとらえることができるようになった。昔、だれだったか、ギリシャの哲学者が、『自分 のウンチは、臭くない』と言ったが、三〇年もいっしょにいると、それに近くなる……らしい。 で、ときどき、こう思う。どちらが先に死ぬかはしらないが、どちらが先に死んでも、たがいに さみしくなるだろうな、と。ときどきワイフにこう聞く。「お前は、ぼくが先に死んだら、どうする? 話し相手もいなくなるぞ」と。するとワイフは、たいていこう言う。「私はだいじょうぶ。友だちがい るから」と。なるほど、女性はそういう意味では強い。しかし男性はそうはいかない。……と思 う。本当は、この問題について、もっと深刻に考えなければならないのかもしれないが、実のと ころあまり考えたくない。「なるようになるだろう」というふうに考えて、忘れるようにしている。ま さか、今から心の準備をしておくというわけにもいかないだろうし……。 会話が多いほうがよいか、少ないほうがよいかということになれば、多いほうがよいに決まっ ている。こう決めてかかるのは正しくないかもしれないが、そのほうが意思の疎通(そつう)がで きる。しかし問題は、会話の中身。あるいはその前提として、たがいの信頼や愛情がなければ ならない。基本的な生きザマも同じでないとまずい。夫がA宗教を信じ、妻がB宗教を信じてい たのでは、うまくいくはずがない。(それでもうまくいっている夫婦も、いるにはいるが……。) これから先、たがいに何年、いっしょに暮らせるかわからないが、今は今で、今のときを大切 に生きたい。残り少ない人生を、心のどこかでヒシヒシと感じながら……。私のばあい、熟年離 婚というのはないと思うが、しかし安心しているわけでもない。そうそう、そういえば、女性の美 しさは、若さではない。たしかにスベスベした若い女性の肌は、美しい。魅力的だ。しかし本当 の女性の美しさは、無数に重なりあったシワの中にある。そのシワを手でのばしながら、その 肌に自分の唇(くちびる)を、はわせる。よくも悪くも、そのシワこそが、私たちの人生。そのシ ワ一本、一本に、私とワイフの人生がきざまれている。いろいろあったが、本当に、いろいろあ ったが、それが私たち夫婦が生きてきた道。それにまさる美しさは、この世界には、存在しな い。 (02−12−17) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(415) 子育てワンポイント ●成長は段階的 子どもの成長は、段階的なもの。何かを教えても、一次曲線的になだらかに伸びるのではな く、段階的(あるいは階段的)に、トントンと伸びていく。とくに「はじめの一歩」のときは、そうで、 子どもはしばらく(観察)→(蓄積)を繰りかえし、それが一定の臨界点にきたとき、つまりある 日を境に、爆発的に伸び始める。たとえば何かのおけいこをさせるとき、子どもによっては、最 初の数か月は、ほとんど反応を示さないことがある。教えても教えても、教えたことが、そのま まどこかへ消えていくような感じになる。 よく短気な親は、この(観察)→(蓄積)の段階で、子どもを叱ったりする。しかし叱れば、子ど もの興味そのものを、そいでしまうことがある。動機そのものを、つぶしてしまうこともある。こ の時期は、一見、伸びが停滞するかのように見えるが、じっと、「待つ」。待って、子どもの中 で、「力」が臨界点に達するのを待つ。待ちながら、一方で、子どもを励ます。ほんの少しでも、 あるいはどんな小さなものでも、進歩が見られたら、ほめる。そういう姿勢が、子どもを伸ば す。 ●成長を喜ぶ 子どもを伸ばすコツは、いっしょに成長を喜ぶ。「もうこんなことができるの!」「どんどんいい 子になるわね!」「今度は、もっとすごいことができるわよ!」とか。そこでテスト。 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、そのつど、あなたに報告にくる だろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、家庭教育のあり方を、かなり反省したほう がよい。今は小さなキレツだが、やがて断絶ということにもなりかねない。 ある家庭には、四人の男の子がいたが、どの子どもも明るく屈託がない。ふつう下の子が、 上の子のおさがりをもらうのを、いやがるものだが、その家庭ではそうでなかった。下の子が、 お兄ちゃんのズボンをもらったりすると、みんなに「見て!」「見て!」と言って、走りまわるの だ。秘訣はすぐわかった。母親が、そのおさがりを下の子どもに与えるとき、母親はこう言って いた。「ああら、すごい! あんたもお兄ちゃんのが、はけるようになったのね。すごい、すご い!」と。 ●名前を大切に 子どもの名前は大切に。ことあるごとに、「あなたの名前は、いい名前」を口グセにする。子ど もの名前が、新聞や雑誌にのったら、それを大切にする。切り抜いてアルバムにしまったり、 高いところに張りつけたりする。そういう姿勢の中から、子どもは名前を大切にするようにな る。そしてそれがやがて、転じて、子どもの自尊心となる。この自尊心が、子どもを前に伸ば す。 何かのことで、道からはみ出しそうなとき、自尊人が、それを踏みとどまらせる。私とて、本当 は、邪悪な人間かもしれない。が、「はやし浩司の名前を汚したくない」という思いが、いろいろ な場面で、ブレーキとなって働く。たとえばこうしてものを書くときも、「はやし浩司」の署名を入 れるときは、その文には、大きな責任を感ずる。決していいかげんな気持にはなれない。 ためしに、あなたの子どもに、こう聞いてみてほしい。「あなたは、自分の名前が好き?」と。 「どう思う?」と聞くのもよい。そのとき子どもが、うれしそうに、「好きだよ」と言えばよし。そうで ないなら、ここに書いたことを参考に、子どもの名前の扱い方について、もう一度、よく考えて みてほしい。 ●喜ばす喜びを 子どもをやさしい子どもにしたかったら、子どもには、喜ばす喜びを教える。たとえばスーパ ーでいっしょに買い物をするときも、「これがあるとお兄ちゃん、喜ぶわよ」「これを妹の○○に 分けてあげると、○○は喜ぶわよ」と。そのつど、だれかを喜ばすように、しむける。 やさしい子どもというのは、だれかを喜ばすことを知っている子どもということになる。こんな 子どもがいた。 幼稚園でみると、いつもだれかを三輪車に乗せ、そのうしろを押していた。見ると、その三輪 車に乗りたいため、ほかの子どもたちが列をつくって待っていた。そこである日、私はその子ど も(年長児)に、こう言った。「たまには、君の乗った三輪車を、だれかに押してもらったら?」 と。するとその子どもは、こう言った。「ぼく、このほうが、楽しいもん」と。 実はその子どもというのは、私の二男だが、二男は、本当に心のやさしい子どもだった。今も そうだ。そういう二男のことを思い出すと、親の私でさえ、心が洗われる。またそういう思い出 が、私の心を豊かにしてくれる。 ●スキンシップを大切に スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。これから先、 科学的研究がさらに進み、やがてスキンシップのもつ、不思議な力が解明されていくだろうが、 しかし現象としては、すでに証明されている。 よく「抱きグセ」が問題になるが、抱きグセは、問題ではない。抱くことによって象徴される、依 存心が問題なのである。しかしその依存心は、スキンシップが多いからつくものでも、また少な いからつかないものでもない。スキンシップと依存心は、まったく別のもの。少なくとも、分けて 考える。 日本人は、もともとスキンシップの少ない(少なすぎる)民族である。南米などを旅するとわか るが、向こうの親子は、(夫婦も)、本当にいつも、しかも日常的にベタベタしている。こちらが 見ていても、恥ずかしくなるほど、ベタベタしている。で、何か問題があるかというと、そういうこ とはない。 むしろ、スキンシップを受けつけない子どものほうが、心配。心のどこかに大きな問題をかか えているとみてよい。たとえば心の緊張感がとれないタイプの子どもは、親が抱こうとしても、心 を許さない。許さないだけ、抱かれようとしない。(反対に、心を開き、心を許している子ども は、抱くと、そのまま体を親のほうに、すり寄せてくる。)この話を、ある会合の席で話したら、一 人の父親が、こう言った。「子どもも女房も、同じですなあ」と。 つまり夫婦でも、たがいの心が親密なときは、妻でも抱きごこちがよいが、そうでないときは、 そうでない、と。「夫婦げんかのあとなどは、妻でも、丸太のように感ずるときがあります」とも言 った。不謹慎な話だが、どこは的(まと)を得ている。 そこであなたも一度、子どもを抱いてみてほしい。しばらくして子どもが、あなたの体と一体化 するようなら、それでよし。ふつう一体化すると、呼吸のリズムまで同じになる。が、そうでない なら、スキンシップをふやし、どこかに何かのわだかまりがないかをさぐってみる。 ●口グセに注意する あなたは日ごろ、子どもに向かって、どんなことを言っているだろうか。口グセにしていること を、少しだけ、思い浮かべてみてほしい。長い時間をかけて、あなたの子どもは、その口グセ どおりの子どもになる。口グセを、決して軽くみてはいけない。理由が、ある。 子どもの心は、カガミのようなもの。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、 あなたを思う』というのがある。つまりあなたがあなたの子どもを、「いい子」と思っていると、あ なたの子どもも、あなたのことを「いい親」と思っているもの。そうでなければそうでない。そして こういうたがいの思いが、長い時間をかけて、たがいの心をつくる。 口グセというのは、まさにあなたの「心」ということになる。そしてその口グセが、よいものであ れば、それでよし。そうでなければ、今からすぐ、その口グセを改める。とくに、子どもをマイナ スに引っぱるような口グセには注意する。「あなたはダメね」「いつになったら……」「どうしてこ んなことができないの」は、タブー。 ●ペットを飼う もしあなたにその余裕があれば、子どもにはペットを飼わせる。子どもはペットをとおして、多 くのことを学ぶ。犬やネコが代表的なものだが、ウサギ、小鳥、ハムスターなどもある。ペットを ていねいに飼い、心をかよわせている子どもは、どこかほかの子どもと違う。ほっとするような 温かさを感ずる。 が、そのペットが無理なら、温かい素材でできた、ぬいぐるみを与える。私の調査でも、約八 〇%の子どもが、(男女の区別なく、年中児〜小学高学年児)、日常的にぬいぐるみと親しん でいることがわかっている。が、それだけではない。 子どもに母性が(父性でもよいが)、それが育っているかどうかを知るためには、ぬいぐるみ をもたせてみればわかる。心豊かな環境で、親の愛情をしっかりと受けて育ったような子ども は、ぬいぐるみを見せると、さもいとおしいといった様子で、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せた りする。そうでない子どもは、そうでない。同じく私の調査だが、約八〇%の子どもは、ぬいぐる みを見せると、心温かい反応を示す。しかし二〇%の子どもは、ほとんど反応を示さない。中 には、ぬいぐるみを見せたとたん、キックしたり、放り投げる子どももいる。 ●上の子教育を大切に 子どもの心の中でも、嫉妬心と攻撃心は、できるだけいじらないほうがよい。これらのもの は、原始的な感情であるだけに、扱い方をまちがえると、そのまま子どもの心をゆがめること にもなりかねない。よくある例が、赤ちゃんがえりという現象。 下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よく知られ ている。それまでしなかった夜尿症を再び始めたり、あるいは話し方そのものまで、赤ちゃんぽ くなったりするなど。これは下の子への嫉妬心が、本能的な部分で、子どもの脳をいじるためと 考えられる。そういうとき、親は、よく、「上の子どもも、下の子どもも、平等にかわいがっていま す」と言うが、上の子にしてみれば、平等ということが、不満。それまで一〇〇%受けた愛情 が、半分に減ったことが問題なのだ。 本来は、そうならないよう、下の子どもを妊娠したときから、少しずつ、上の子教育を始める。 コツは、下の子が生まれるのを、少しずつ、楽しみにさせるようにしむける。「あなたの弟か な? 妹かな?」「生まれたら、いっしょに遊んであげてね」と。まずいのは、いつの間にか、下 の子が生まれたというような状況にすること。 ある母親は、下の子の出産のとき、上の子を立ちあわせたというが、それも一つの方法かも しれない。参考までに。 (02−12−17)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(416) 考える人 ●「考える」こと 「考える」ということと、「動物的」ということとは、反比例する。これを計算式で、表現すると、 (考える)=(定数)/(動物的)ということになる。(こんな公式を作っても、意味ないが……。) つまり人間は考えれば考えるほど、動物的ではなくなるということ。動物が動物であるのは、 考えないから。一方、人間が人間であるのは、考えるから。だから公式にするまでもなく、こん なことは当然といえば、当然。 そこで改めて、「考える」ということは、どういうことなのかを、考えてみる。……と考えて、最初 に思いつくのが、「言葉」。私のばあい、(おそらく、ほとんどの人にとっても、そうではないかと 思うが……)、言葉があるから考えられる。もっとも言葉がなくても、考えることはできる。絵画 や音楽、さらに芸術の世界では、言葉というのは、それほど重要な意味をもたない。が、私にと っては、「考える」ことイコール、「言葉」ということになる。たとえば今、私はこうして文を書いて いるが、「書く」ということが、「考える」ということになる。実際、こうして書いているとき以外、私 はほとんどものを考えない。……考えることができない。ヒラメキのようなものは、しばしば感ず るが、しかしそれは「考え」ではない。 ●考える人 考える人からは、考えない人が、よくわかる。(多分、考えない人からは、考える人がわから ないだろうが……。)たとえば、考えない人は、どこか動物的。ものの考え方が、短絡的。直感 的。浅い。それにすぐ感情的になる。子どもでも、「スベリ台を、下からあがってきた子がいま す。どうしますか?」と聞くと、「そういうヤツは、ぶん殴ってやればいい」と答える子どもがいる。 原因はいろいろあるが、そういうような発想をする。 一方、考えない人は、その分、反応が鈍くなる。子どもでもそうで、考える子どもは、どこか様 子が重い。「重い」というのは、何かテーマを与えたりすると、それを頭の中で反芻(はんすう) するようなしぐさを見せる。もっとも、それは相対的なもので、考えない子どもと比較してみて、 はじめてわかる。考えない子どもは、ペラペラと調子はよいものの、中身がない。 ……となると、「考える・考えない」は、能力の問題というよりは、習慣の問題ということにな る。あるいは教育の問題といってもよい。たとえば日本では、学校の授業でも、「わかった か?」「では、つぎ!」が、教え方の基本的な形になっている。しかしアメリカでは、「君はどう思 う?」「それはいい考えだ!」が、教え方の基本になっている。この「形」は、家庭でも同じで、こ うした形の違いが、やがて独特の日本人像をつくったともいえる。つまり日本人は、その構造 からして、もともと、考える人間をつくる構造になっていない。 ●違った意見 日本人が、考えない民族であることは、世界へ出てみると、よくわかる。あるいは、小学生で もよい。外国の小学生とくらべてみてもわかる。ひとつの基準として、それぞれの子どもが、ど の程度、違った意見をもっているかが、ある。それを知れば、それがわかる。 たとえばオーストラリア人の子どもに、「将来、何になりたい?」と聞くと、それぞれが、てんで バラバラなことを言い出す。中には、「イタリアの女王様になりたい」と言う子ども(女児)もい る。おそらく一〇人に聞けば、一〇人の意見が出てくるのでは……。しかし日本では、子どもの 意見というのは、そのときどきにおいて、流行に流される。そして子どもたちのものの考え方 は、ある一定のパターンに集約される。……することができる。 少し話がそれるが、この私の意見を補足するために、こんなことを書いておきたい。 七〇年代に、中国の北京大学へ留学したオーストラリア人の友人がいた。その友人が、北京 から帰ってきて、こう言った。「向こうでは、みな、テープレコーダーみたいだった」と。つまりど の学生も、同じ意見しか言わなかったというのだ。こうした傾向は、独裁国家ほど、顕著にな る。ほかの意見をもたせない。もつことを許さない。つまりそもそも考える人間を必要としていな い。 では、日本はどうか。日本はどうだったか。日本も戦前は、今の北朝鮮のようなものだった。 あるいは江戸時代は、今の北朝鮮以上に北朝鮮的だった。こうした傾向は、私が子どものとき ですら、何かにつけて、まだ色濃く残っていた。よく覚えているのは、政府を批判しただけで、父 や母から、それをとがめられたこと。あるいは「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られたこ と。岐阜県の田舎のほうでは、言論の自由はもちろん、思想の自由すらなかった。 ●考える人間にするために こう考えると、日本人が考えない民族であることは、民族性というよりも、長くつづいた封建時 代と、そのあとの君主(天皇)官僚制度の中で、「ものを考えない国民」に飼育されたためという ことになる。しかもそれがあまりにも長くつづいたので、「考えない」ということが、社会のスミズ ミまで、根をおろしてしまった。あるいは、脳の構造そのものにまで、影響を与えてしまった。 言いかえると、日本人を考える国民にするということは、同時に、こうした過去の亡霊との決 別を意味する。またその決別なくして、日本人を考える国民にすることはできない。教育の世 界では、いかにして、中央による思想管理を排除するかということにもなる。家庭においては、 いかにして、価値観の多様性を、親がもつかということになる。たとえば教科書問題をひとつ取 りあげても、いまどき、検定制度があること自体、おかしい。国としては、「まちがったことを教 えたくない」という意図があるのだろうが、それは同時に、「思想統一」につながる。繰り返す が、中央政府が、思想を統一しようとすればするほど、それは国民から考える力を奪うことに なる。 今、この日本で大切なことは、たとえば「A」というテキストで学んだ子どもと、「B」というテキス トで学んだ子どもが、たがいに自由に意見を対立させ、討論することである。「考える」という習 慣は、そういう軋轢(あつれき)の中から、生まれる。 家庭においても、同じで、今のように、「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」と親が 考えているような状態の中で、どうやって子どもの個性を伸ばすことができるというのか。親自 身が、ガチガチの思想にこりかたまっていて、子どもに向かって、「個性をもて」「もっと考えろ」 は、ない。 ●「考える」こと 「考える」というテーマは、実は、このように奥が深い。そしてそのテーマは、個人の問題とい うだけではなく、社会や家庭など、あらゆる部分にからんでくる。もちろん「考える」ことによっ て、人間は、より人間らしくなる。つまり「人間とは何か」というテーマにもからんでくる。 ……と書いても、こんなことは、実は、常識。識者の意見を並べてみる。 よく知られているのが、パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者、数学者)。『人間は考 えるアシである』(「パンセ」)と書いた、あのパスカルである。『人間は一本のアシにすぎない。 自然のうちで、もっともひ弱いアシにすぎない。しかし、それは考えるアシである』と。彼は、同じ 本の中で、こうも書いている。『思考が人間の偉大さをなす』と。「考えるから、人間は人間であ り、そこに人間の偉大さがある」という。 そのパスカルと、どこかで接点があったのかもしれない。さらに思考の重要性を、完結させた のが、デカルト(一五九六〜一六五〇、フランスの哲学者)。『われ思う、ゆえにわれあり』(「方 法序説」)という、有名な言葉を残している。「私は考えるから、私はここに存在するのだ」と。も うこの言葉を疑う人は、だれもいまい。 「考えること」を、決して、粗末(そまつ)にしてはいけない。生きることの「柱」にしてもよいほ ど、重要な問題と言っても、決して言い過ぎではない。 (02−12−18) 【追記】 ●一般論として、人間は、そのレベルに応じて、自分のまわりに仲間をつくる。そこで、では、 そのレベルとは何かということになると、思考の深さということになる。思考の深い人は、深い 人どうしで集まる。思考の深い人は、浅い人の間にいると、落ち着かない。同じように、思考の 浅い人は、浅い人どうしで集まる。思考の浅い人は、深い人の間にいると、落ち着かない。実 は、子どもの世界もそうで、もしあなたがあなたの子どもを客観的に、どういう子どもであるか を知りたかったら、あなたの子どもが、今、どんな友だちとつきあっているかを見ればよい。 ●それはさておき、子どもでも、考える子どもと、考えない子どもは、かなり早い時期に分かれ る。小学一年生くらいの段階で、かなりはっきりしてくる。考える子どもは、考えることそのもの を楽しむ。そうでない子どもは、考えることから逃げる。こうした子どもの違いは、かなり早い時 期に決まるのでは。おそらく生後まもなくからの、親の接し方によって決まる? 要するに、子 どもを考える子どもにしたかったら、親の過干渉などで、子どもを振りまわさないこと。いつも親 のほうが一歩、退いて、子どもが自分で自分の考えを言うまで、待つ。この「待つ」という姿勢 が、子どもを、考える子どもにする。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(417) 散骨について 少し前、オーストラリアの友人の母親がなくなった。それでしばらくあとに、その墓参りに行っ てきた。そこでのこと。宗派にもよるが、その友人の母親の墓のある墓地は、全体がバラ園に なっていた。「お墓は?」と聞くと、「灰はそのあたりにまいた」と。つまり墓石を建てたり、遺骨 を埋葬するのではなく、簡単な石板に名前を刻み、それを埋め、そのまわりに遺灰をまいたと いうのだ。「母が、美しいバラを咲かせてくれる」とも言った。「日本では、花をもってきて、墓に 供(そな)える」と話すと、「こちらでは、バラを切って、もって帰って家の中に飾る」と。そのとき は、北半球(日本)と、南半球(オーストラリア)では、ものの考え方も、一八〇度違うのかなあと 考え、その程度で終わってしまった。 で、少し前、電子マガジンで、「私が死んだら、遺灰は海にでもまいてくれればいい」と書い た。それについて、またまた反論が届いた。多分、どこかの宗教団体に属する人だと思う。「そ れではあなたは成仏(じょうぶつ)できない。それに海を、人間の遺灰で汚してはいけない。君 は、環境保護をどのように考えているのか」と。年齢はわからないが、栃木県に住む男性から のものだった。 残念ながら、私には「成仏」という意味がわからない。わからないから、反論のしようがない。 ただ、「海を汚す」ということについては、ナンセンス。海には、数一〇万種類の生物と、それ掛 ける、数万トンから数一〇〇万トンもの生物が住んでいる。(このあたりの数字は、あくまでも 私の推計。実際には、もっと多いと思う。)そういう生物が、日々に生まれ、そして日々に死んで いる。そういう死骸が、海の底では、まるで雪のように、下から上にのぼりながら、フワフワとた だよっているという。「死骸(しがい)」ということになれば、人間の遺灰など、ものの比ではな い。 さらに地上で生きる人間だって、その排泄物を、日々に海にたれ流している。毎日、約五〇〇 グラムのウンチを排泄すれば、一〇〇日間で、約五〇キロ(人間一人分)のウンチを排泄する ことになる。こうしたウンチ、つまりは、人間の脱け殻が、毎日、海へそのまま流されている。遺 骨や遺灰にせよ、それが仮に一キロあったとしても、それを海にまいて、それがどうだというの か。またそれが、どうして海をよごすことになるのか。 遺骨が遺骨として、意味をもつのは、つぎの世代でも、せいぜい二、三世代まで。しかし意味 をもつかどうかを決めるのは、私ではない。私の息子たちであり、孫たちなのだ。その息子た ちや、孫たちが、「意味がない」と思えば、それはそれでしかたのないこと。反対に、大切にした いと思うなら、それはそれでもよい。どちらにせよ、それを決めるのは、私ではない。息子たち や、孫たち。「海に捨てたい」と思えば、私の遺骨など、海へ捨ててもらって、一向にかまわな い。あるいは花壇をつくって、そこにまいてもらってもよい。きれいな花を咲かせてやる。 私自身は、あの世があるにせよ、ないにせよ、はたまた遺骨に魂が宿るにせよ、宿らないに せよ、あの狭い墓の中に閉じ込められるよりは、広い海のほうがよい。できれば宇宙でもよ い。ロケットにのせてもらい、太陽の中に溶け込んでもよい。あるいは宇宙のかなたでもよい。 どうせ時間も空間もない世界に行くのだから、そのほうがスリルがあっておもしろい。遺骨をあ と、五〇年も預かってもらえば、そういうことも可能になるそうだから、何とか息子たちに、そう してもらいたいと願っている。 人それぞれだし、それぞれの考え方があって、当然。またその考えも、考え方も、国によって 違う。私は私。あなたはあなた。その栃木県の男性は、その男性。どの考えや考え方が正しい とか、正しくないとか、そういうことではない。大切なことは、それぞれの人が、それぞれの人の 考えや考え方を尊重すること。だから……。私はあなたの考えや考え方を否定しない。だから どうかあなたも、私や私の考え方を否定しないでほしい。 (02−12−18) ●「多くの宗教は、たがいに相反している。だから、ひとつを除いて、ほかはみな虚偽であると 言う。どの宗教も、それ自身の権威にもとづいて信じられることを欲し、それを信じないものを、 おどす」(パスカル「パンセ」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(418) あなたは農耕民族、それとも遊牧民族? 世界にはいろいろな宗教があって、またそれぞれにいろいろな宗派がある。そのため死者の まつり方も、違う。形式や様式だけではなく、基本的な考え方そのものが違うときがある。たと えば同じキリスト教でも、石棺に入れて埋葬するところもあるし、遺灰にして、墓石の周辺にまく というのもある。土葬にしてその上に、墓石にして、十字架を立てるというのもある。日本から 見ていると、「日本の埋葬のし方と同じではないか」と思う人もいるかもしれないが、しかし意識 は、まるで違う。 日本では、「先祖を守る」という意識で、つまり生者が、死者に仕えるという立場で、死者をま つる。生きている人よりも、死んだ人を大切に考える傾向が強い。一方、キリスト教国では、 「先祖」という概念が、ほとんどない。あくまでも「神」中心の世界を考えている。死者について も、神のもとに召されたと考えるが、それでおしまい。死んだ人よりも、生きている人を大切に する。また死んでいく人も、そう考えながら、死んでいく? 私はこのことを、友人の母の墓参り をして、知った。 友人はキリスト教の中でも、プロテスタント系に属している。オーストラリアにも、カトリック系と プロテスタント系があって、たがいに仲が悪い。だから友人の母の墓地がそうであるからといっ て、すべてがそうであるということではない。それにあの国は、移民国家。実にさまざまな形の 墓地がある。 しかし友人の母の墓は、地面に石で作ったプレートをはめこんだ、質素なもの。全体が細長 い花壇のようになっていて、あたり一面、バラ園になっていた。「お墓は?」と聞くと、「灰はその あたりにまいた」と。「母が、美しいバラを咲かせてくれる」とも言った。「日本では、花をもってき て、墓に供(そな)える」と話すと、「こちらでは、バラを切って、家へもって帰る」と。そのときは、 北半球(日本)と、南半球(オーストラリア)では、ものの考え方も、一八〇度違うのかなあと考 え、その程度で終わってしまった。 花を供える日本。花をもって帰るオーストラリア。その意識は一八〇度違うというよりも、越え がたいほど大きな距離を感ずる。どちらがよいとか悪いとか、どちらが正しいとかまちがってい るとか、そういうことではない。ともに、この違いは文明そのものに深く根ざしている。総じてみ れば、環太平洋の民族は、日本人も含めて、先祖崇拝意識が強い。「先祖あっての、私」と考 える。 一方、西洋文明を背負った民族は、「神が、私を守ってくれる」と考える? これは農耕民族 と、遊牧民族の違いといってもよい。(正確には、そうした民族性が、それぞれの宗教を、自分 たちに合うよう改変していった?) 農耕民族は、どうしても土着性が強く、先祖という考え方 が、なじみやすい。一方、遊牧民族は、いつも移動し、ほかの部族との血の交流を繰り返すた め、先祖という考え方が、そもそもなじまない。もっと言えば、農耕民族は、墓をつくりやすい立 場にあるが、遊牧民族は、墓をつくりにくい立場にある。だから墓への依存性が、まるで違う。 これは私の勝手な解釈によるものだが、それほどまちがっていないと思う。ただ誤解しないで ほしいのは、だからといって、日本がどうとか、西洋がどうとか言っているのではない。ただここ で私が言いたいのは、こうした死者のまつり方、死者の考え方にしても、考え方は決してひとつ ではないということ。意識だって、民族によって、違う。 さらに一言。この日本でも、その土地になじんで、農耕民族的な考え方をそのまましている人 もいる。一方、転勤を繰りかえしたり、あるいは郷里と疎遠(そえん)になり、その土地々々で、 それぞれの人になじんで暮らす、遊牧民族的な人もいる。またそういう人がふえてきたというこ と。つまり意識そのものが、旧来の日本人型の人もいれば、そうでない人もいるといこと。私は たまたまどこか遊牧民的な生き方になってしまったから、先祖崇拝意識は、ほかの人とくらべ ても、たしかに弱い。それは認めるが、しかし弱いというだけで、やはり日本人であることには、 違いない。私の中の何割かは、まさに農耕民族的。盆や正月には、いつも特別なものを感ず る。「墓」についても、いつも心のどこかでこだわっている? さて、そこであなた自身は、つぎの二種類の考え方のうち、どちらに近いだろうか。少しだけ 自己診断してみると、おもしろい。 (農耕民族型)盆や暮れの墓参りは、先祖を守るという意味で、無意識のうちにも、重要視して いる。「先祖あっての自分」と考えるし、土地にしても、「先祖が残してくれた土地」と考える。「先 祖を粗末にする人間にはまともな人間はいない」と思うこともある。子育ての基本は、先祖をて いねいにまつり、手を合わせるところから始まる。 (遊牧民族型)墓にはこだわらない。先祖意識はほとんど、ない。自分の遺骨の扱い方は、子 どもたちに任す。子どもたちも子どもたちで、巣だったあとは、自分の居場所を決め、そこに住 めばよい。死んだ人よりも、生きている人のほうが大切と思う。故郷は故郷として大切にはする が、その故郷という土地には、あまりこだわらない。 あなたがどちらのタイプであるにせよ、大切なことは、「私は私」と思うこと。そしてその一方、 相手の考えや考え方も、尊重するということ。もちろん農耕民族型の死生観にも、また遊牧民 族型の死生観にも、それぞれよい面もあれば、悪い面もある。そういうのをたがいに認めあい ながら、自分の人生観を組みたてていく。そのあとは、どこまでいっても、個人の問題である。 (02−12−18) ●日本の仏教(大乗仏教)には、ヒンズー教、チベット密教、中国の土着宗教が、原型をとどめ ないほどまでに混在している。「大乗非仏説(大乗仏教は、釈迦仏教にあらずという説)」(中村 元氏)も、そういう背景から生まれた。が、それだけではない。さらに日本の仏教は、日本の風 土に適応させる形で、ズタズタに改変された。和式仏教のもつ、独特の儀式主義、権威主義、 先祖崇拝主義も、そこから生まれた。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(419) オナラ論 ●夫婦のオナラ 何かの文士たちが集まる席で、一人の男が、いきなり、私にこう聞いた。「林君、君の奥さん は、君の前でオナラをするかね?」と。 私が「ハアー?」ととまどっていると、さらにまた、「するかね?」と。そこで私が、「……ええ、う ちのワイフは、そういうことはしないです……」と答えると、まわりにいた男たちまでが、一斉 に、「そらあ、かわいそうだ、かわいそうだ。あんたの奥さんは、かわいそうだ。オナラをしない のかねエ?」と。つまり夫の前で、オナラをすることができない妻というのは、かわいそうだとい うのだ。ナルホド! 「オナラ」には、別の意味がある。つまりオナラは、いやなもの。とくに他人のオナラほど、い やなものはない。そのいやなものを、受け入れることができるかどうかで、たがいの人間関係 を評価できる? そこでテスト。あなたは、あなたの妻や夫のオナラを、受け入れることができ るか。たとえば居間でいっしょにテレビを見ていたとする。そのとき、あなたの夫か妻が、豪快 に、プリプリと出したとする。結構、臭いもキツイ。そういうときあなたは、それに対して、どのよ うな反応を示すだろうか。あるいは反対に、あなた自身は、妻や夫の前で、豪快に、プリプリと 出すことができるだろうか。 ……と、書いて、実は、オナラは、ひとつの象徴にすぎない。オナラの問題をつきつめていく と、ここにも書いたように、そこに夫婦の人間関係が浮かびあがってくる。夫や妻のオナラと同 じように、あなたは夫や妻の、(いやな面)を、受け入れることができるかということ。夫婦といっ ても、もともとは他人。恋愛時代はともかくも、それをすぎると、一対一の人間関係が基本にな る。そのとき相手の(いやな面)を、どこまで受け入れることができるか。それで、夫なり、妻の 愛情の深さが決まる。 ある夫は、妻との口論が絶えなかった。原因は、いつもささいなことだった。夫が何かを言う と、即座に妻が、あれこれ言いわけをした。それが夫にはがまんできなかった。 夫「手紙を出しておいてくれたか?」 妻「雨が降ったから……」 夫「だから、出してくれたのか?」 妻「雨が降ったからと言ったでしょ」 夫「出してないのか?」 妻「行こうと思ったけど、行けなかった。しかたないでしょ!」と。 一言、「ごめんなさい」と言えばそれですむのだが、その妻は、どこか根性がひねくれていた。 生い立ちが貧しかったこともある。 こういうケースでも、夫が妻をどこまで受け入れるかで、その愛情の深さが決まる。「そういう 女だ」と思うことで、納得し、あきらめるか、それとも、「何だ! その言い方は!」ということで、 けんかになるか。その違いはどこにあるかと言えば、結局は、オナラの問題ということになる。 この夫婦のばあいは、夫は、妻のオナラを受け入れていなかった。夫はこう言った。「女房は、 何かにつけてすぐ私に反抗する。心の奥底では、私を憎んでいるせいかもしれない。どちらか とういうと、女房にとっては、不本意な結婚だったから」と。 ●親子のオナラ 親子のオナラ論を話す前に、前に書いた原稿を転載する。 +++++++++++++++++++++ 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛す る心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言ってい た。 しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛 することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ ずらわしくてしかたない」とかなど。私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母 親は、約一〇%(私の母親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査で も、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして 「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇 人・二〇〇〇年)そうだ。 妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしている という。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、 「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞ れについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段 階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のう ちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。) だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少 し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が 高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い 時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。つまり生まれなが らにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由と は言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包 まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。 このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知 らない親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にある のではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまり にもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかない ということになる。 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子 どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生 み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。 +++++++++++++++++++ この原稿をここに掲載した意図は、もうおわかりかと思う。「親子だから……」という理由だけ で、人間関係を決めてかかってはいけない。ほとんどの親は、自分の子どものウンチやオシッ コを汚いとは思わない。ある父親は、子どもがウンチをしたとき、それを思わず、手で受け止め たという。また別の父親は、体中、子どものウンチにまみれてしまったという。いっしょに子ども と、風呂へ入れているときのことだった。しかし、中には、子どものウンチやオシッコを、汚いと 思っている親もいるということ。 ●そこであなたのこと そこであなたのこと。夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、あなたはあなた。全幅の愛情が あれば、それに越したことはないが、しかし、それがないからといって、無理をしてはいけない。 「臭かったら臭い」と言えばよい。「いやだったら、いやだ」と言えばよい。万事、自然体でいけ ばよい。 問題は、そういうあなたにあるのではなく、そういうあなたに気づかないまま、それに振りまわ されること。そしていつも、同じ、失敗を繰りかえすこと。何かの「わだかまり」や、「こだわり」が あれば、なおさらで、こうしたわだかまりや、こだわりは、あなたの心を裏からあやつる。これ が、こわい。たとえば「夫のオナラは、どうしてもいやだ」「夫が鼻クソをほじっているのを見る と、ぞっとする」「夫が使ったタオルは、どうしても使えない」「夫の下着と自分の下着を、いっし ょに洗濯をすることができない」「夫の寝息が、うるさくて眠られない」というのであれば、何か、 大きなわだかまりや、こだわりが、あなたの中にないかをさぐってみる。そういうわだかまりや、 こだわりが、あなたの夫婦関係を、ギクシャクしたものに、しているはずである。 親子の同じ。「親だから子どもを愛しなければならない」と、気負うことはない。もちろん全幅 に愛していれば、それに越したことはない。しかしこれも、無理をしていはいけない。無理をす る必要も、ない。万事、自然体でいけばよい。 ……と書くと、絶望的に感ずる人もいるかもしれない。「自然体で考えたら、離婚になってしま う」とか、「親子がバラバラになってしまう」と。しかしそうではない。もうひとつ、大きな「救い」が ある。それは、「人間関係」という救いである。一対一の人間関係という救いである。今、あなた がどういう状態であるにせよ、その状態から、今度は、一対一の人間関係を発展させることが できる。「夫婦」とか、「親子」とかいうワクで考えるのではなく、「対等の人間」として考える。わ かりやすくいえば、近くにいて、親しい「友」と考えることができる。 そういうふうに考えて成功している夫婦や親子は、いくらでもいる。別々の場所に住んでい て、別々の仕事をしながら、仲のよい夫婦は、多い。若いのに、ほとんどセックスをしなくても、 仲のよい夫婦は、これまた多い。生活時間が違い、寝室も別々という夫婦となると、さらに多 い。夫婦に形はない。どんな形であれ、たがいにそれに納得し、たがいがそれでハッピーなら、 それでよい。 親子も、また同じ。子どもをこの世に引き出した以上、それなりの責任はとらねばならない。 それは親として、当然のこと。しかしそこから先には、「形」はない。もともと日本人は、形が好 きな民族だから、何かにつけて、形の中でものを考えようとする。しかし形に押しこめようとす ればするほど、あなたも苦しむが、子どもも苦しむ。が、この時点で、子どもを「友」として、受け 入れてしまえば、ものの考え方が逆転する。いや、逆転しないまでも、あなたの気分は、はるか に楽になるはず。 ●ワイフのこと 家に帰ってから、しばらくしたある日のこと。私は、おそるおそる、ワイフにこう言った。「あの な、おまえは、あまりぼくの前でオナラをしないけど、したかったら、すればいいよ」と。 私のワイフは、そういう点では、あまり融通のきかない女性。まじめというより、カタブツ人間。 私がそう言うと、「何を言いだすの!」というような顔をして、驚いた。で、私は、先の文士たち の集まる会での話をした。「みんなが、お前のことを、かわいそうだと言ったからね」と。 かく言う、私は、ワイフの前でも、平気でオナラを出す。鼻クソだってほじるし、言いたいことも 平気で言う。遠慮したり、隠したりすることは、ほとんど、ない。しかしワイフは、どこか私の前で は、いつも遠慮している? そういう意味では、心を隠している? ひょっとしたら、別に愛人が いて……? (多分、それはないと思うが……。しかし昔からこう言う。『知らぬは亭主ばかりな い』(江戸川柳)と。) で、この会話はこれで終わったが、それから数日後のこと。私の言ったことが、やはりワイフ も気になっていたらしい。何かのついでに、ワイフが、ふとこうもらした。 「私ね、あのあと、いろいろ考えてみたけど、やっぱり、私は、あなたの前ではオナラはできな いわ。それはあなたとの関係がどうのこうのとか、夫婦だからどうのこうのということではなく、 女のたしなみのようなものではないかと思うの……」と。どこか説得力があるようで、ないような 弁解だったが、私はあまり深く考えず、「そういう考え方もあるのかなあ」と、そのときはそれで 終わってしまった。 ワイフがそう考えるなら、それはそれでよいのではないか。ついでだが、そのあと、私の教室 の生徒たちに、こう聞いてみた。「みんなのお母さんは、君たちの前で、オナラをするか?」と。 すると、全員、「するする、臭い、臭い」と答えた。幼児クラスの生徒も、小学生クラスの生徒 も、全員、そう答えた。答えたので、私も自信をもって、こう言った。「君たちのお母さんは、いい お母さんだなあ」と。しかしこれは余談。 (02−12−19) ●「羞恥心は塩のやうなものである。それは微妙な問題に味をつけ、情趣をひとしほに深くす る」(萩原朔太郎「虚妄の正義」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(420) 子育てポイント ●緩慢(かんまん)行動に、注意 私が最初に、子どもの緩慢行動に気づいたのは、三〇年近くも前のこと。 ある日A君(小三)が、忘れものをしたので、近くにいたB君(小三)に、「これをもっていってあ げて!」と叫んだ。私はB君が、パッと行動するものだとばかり思っていた。が、B君の行動 は、意外なものだった。ゆっくりと腰をあげ、まず自分のものを片づけ、おもむろに、イスを引い て立ちあがった。それではまにあわない。そこで私は「おいおい、A君は帰ってしまうぞ。急 げ!」と号令をかけた。が、B君は、とくに気にするようでもなし、これまたゆっくりと歩き始めた ……。ノソノソと……。 親はそういう子どもを見ながら、「うちの子はグズで」とか、「のろい」とか言う。ふつうは、親子 のリズムがあっていないだけと考えるが、しかしもう少し深刻なケースもある。それがここでいう 緩慢行動である。 一般的に、子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。腹痛、下痢、頭痛 などの体の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指 しゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強 迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、夜尿症、頻尿症な ど。緩慢行動も、その一つということになる。わかりやすく言えば、心をふさぐ抑圧感が、慢性 化すると、子どもの行動は鈍くなる。さらにその行動そのものが長期化すると、それがその子 どもの特性(特質?)そのものになってしまう。こうなるとなおすのがむずかしくなるだけではな く、一生つづくことにもなりかねない。 あなたの子どもは、あなたが何かを頼んだり、号令をかけたとき、機敏に行動できるだろう か。もしそうなら、それでよし。しかしどこか重く、ノソノソしているなら、一度、この緩慢行動を疑 ってみたらよい。 ●イライラゲームにご注意 最近、ゲームに没頭している子どもの脳について、いろいろな報告が出されている。脳の機 能的CTスキャンが発達し、脳の活動部を、リアルタイムで観察できるようになったこともある。 それによっても、ゲームに没頭している子どもの脳は、ある特異な部分だけが興奮状態にな り、それ以外の部分は休眠状態になることがわかってきた。つまり子どもがゲームに没頭した ところで、それが子どもの脳を、正常に発達させるということは、大脳生理学の分野で考えて も、ありえない。 一人、ゲーム狂いの子ども(小一)がいた。道を歩いていても、ゲーム機を手にして、指先で カチャカチャとそれを動かしていた。両親が共働きで、その子どもに目が届かなかったこともあ る。その子どもはまさに、四六時中、ゲームをしていた。 その子どもだけを見て判断するのは、正しくない。しかしその子ども特有の、ふつうでない症 状がいくつかあった。たとえばゲームをしていないときは、燃え尽きたようにボンヤリしている が、何かのことで、突発的に興奮状態になった。ギャーというものすごい声をあげて騒いだりし た。そのときの様子が、ふつうでないため、あれこれ抑えると、今度は一転、またボンヤリして しまう。慢性的な睡眠不足児の症状や、かんしゃく発作の症状とも違う。キレる子ども特有の、 いわゆる錯乱(さくらん)状態とも違う。過剰行動児とも違う。どこかふつうでない。心の緊張状 態が、短い時間の間に大きく乱れ、緊張しているときに何かあると、突発的に興奮状態になる といったふうだった。もちろん静かな思考力は、ほとんどなかった。 そこで母親に会って話を聞くと、「夜中でも、ガバッと起きて、ゲームをしていることもありま す」とのこと。 こうなったら、もちろんゲームを遠ざけるのがよいが、無理にゲームを取りあげたりすると、 今度は、禁断症状が現れる。これは別の子ども(小五男児)のケースだが、母親が、無理にゲ ームを取りあげたとき、その子どもは、母親を殺す寸前までのことをして、暴れまくったという。 ゲームにもいろいろあるが、反射運動型の、やればやるほど、イライラがつのるようなゲーム は、子どもには避けたほうがよい。とくに、就学前の幼児には避けたほうがよい。本当は、「そ んなバカなゲームを、子どもに与えるな!」と言いたいが、立場上、そこまでは書けない。あと はみなさんの、判断に任せる。 ●いいかげんさの勧め 子育ては『まじめ七割、いいかげん三割』と覚えておく。いいかげんであることが悪いのでは ない。子どもはそのいいかげんな部分で、息を抜く。伸びる。たとえば「毎日手を洗いなさいよ」 と言いながらも、言うだけにとどめる。仮に病気になったら、病院へ行けばよい。虫歯だってそ うだ。「歯をみがきなさいよ」と言いながらも、適当にしてすます。虫歯になったら、歯医者へ行 けばよい。子どもは虫歯になって、「痛い」ことを知る。痛いことがわかれば、自分でみがくよう になる。 ……こう書くと、「何て、いいかげんなことを!」と思う人も多いかもしれない。しかし今、あまり にも、親たちは子育てに神経質になりすぎている。そしてその神経質さが、子育てをゆがめ、 ついで子どもを萎縮させてしまっている。そういう現状を私は知っているから、あえて、常識 (?)に抵抗してみた。 これはずっと先の話だが、今、自己管理ができない大学生がふえている。子どものときから ずっと勉強しかしてこなかったような、優秀な(?)子どもほど、そうなる。大学生になり、ひとり で生活を始めたとたん、生活が乱れる。三食はすべてコンビニ食。炊事、洗濯はしない。でき ない。睡眠時間も乱れる。そのため、精神そのものを病むようになる子どもも多い。 子どもを自立させるということは、子育てからいかにして、手を抜くかということ。手を抜けば 抜くほど、子どもは自立する。子どもというのは、そういう意味でも、皮肉なもの。たとえば子ど もは使えば使うほど、たくましい子どもになる。生活力も、それで身につく。一方、子どもは、か わいがればかわいがるほど、スポイルされ、ドラ息子、ドラ娘になる。同じように、親が手を抜 けば抜くほど、もっと言えば、いいかげんになればなるほど、子どもは自立する。 とくに日本では、「子どもをかわいがる」ということは、「子どもをかわいい子どもにする」という ふうに考える人が多い。無意識のうちにも、そう育てる。そして「子どもに楽をさせること」、「子 どもにいい思いをさせること」が、親の愛の証(あかし)と考えている人がいる。しかし、これは 誤解。まったくの誤解。 あなたが自分の子育てをしていて、心のどこかで、「いいかげんかなあ」と迷ったら、すかさ ず、「これでいい」と、思いなおす。そういう思いが、子どもを伸ばす。 (02−12−19) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(421) チャットルーム マガジン読者のために、チャットルームを解説した。今日(一二月一九日)が、その初日。で、 告示した午前一〇時。しばらく待ってみたが、訪問してくれた人は、ゼロ。さらに三〇分後、し ばらく待ってみたが、やはりゼロ。居間におりてきて、ワイフに、「だれもきてくれなかった」と話 すと、「あんたも、バカねえ」と。「あんたと話したい人なんて、いないわよ」とも。ナルホド! 結構、その直前までドキドキしていたのに! まあ、そういうものか。考えてみれば、仮にだれ かの「入室」があったとしても、何を話せばよいのか。「こんにちは」ではおかしいし、「何か、ご 用ですか」も、おかしい。私は、それにつづく会話をまったく、考えていなかった。ドジといえば、 ドジ。私には、こんな苦い経験がある。 私が中学二年生のときのこと。私は、Kさんという、すばらしい女の子に恋をした。初恋だっ た。本当に好きだった。で、くる日もくる日も、考えるのはそのKさんのことばかり。Kさんの住む 家のほうを見ては、ときに涙までこぼしていた。 で、私はそんなある日、決意をした。電話をかけることにした。簡単に「決意した」と書いた が、その緊張感たるもの、相当なものだった。よく覚えていないが、数日前から、食事ものどを 通らなくなっていたと思う。そしてその運命の日がきた。 私は学校から帰ると、自転車に乗った。乗って、駅の横にあった公衆電話に向かった。家に も電話はあったが、家の電話は使う気にはなれなかった。で、公衆電話から、電話をすること にした。そのあたりのことは、今でもよく覚えている。私の緊張感は、最高レベルにまでなって いた。ドキドキなんていうものではない。心臓は、はりさけんばかりに、鼓動していた。全身、汗 だらけ。緊張で、体中がかたくなっていた。で、思い切って電話した。それはもう、高いビルから 飛び降りるような思いだった。 ベルがなる。二度、三度……。声がした。Kさんの母親の声だった。私は言った。「Yさん(名 前)はいますか?」と。母親は私がだれかもたしかめず、向こうにむかってこう叫んだ。「Y子! 電話よ!」と。 首をしめられるような沈黙。長い時間。私は受話器をもとにもどうそうとする自分と、必死に 戦った。「もうだめだ」と何度か思ったあと、そのKさんが、電話に出た。 「もしもし……、Kです」 「……林です……」と。 そこまで言って、私ははじめて気がついた。本当にはじめて気がついた。私は電話をすること だけを考えていた。しかしそのあとのことは何も考えていなかった。Kさんは、何度も、「何か 用?」と聞いたが、私は何も答えられなかった。で、最後は、受話器をもとに戻そうとする自分 に負けて、そのまま受話器を置いた。それでおしまい。 ……今度のチャットルームでも、同じ、失敗をした? チャットルームを開くことは考えていた が、どう利用するか。あるいは利用してくれる人が、どう利用してくれるか、それについては、ま ったく考えていなかった。ドジといえば、ドジ。これほど、ドジな話はない。ああああ。 ●「チャットルーム」は、毎日午前一〇時〜に、利用してくださる方は、どうぞ利用してください。 毎週月曜日の午前一〇時には、私もできるだけ参加するようにします。よろしくお願いします。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(422) 北朝鮮問題、裏から読む(本音論) 私はフリー。地位も役職もないから、失うものは何もない。だからいつも本音を書くことができ る。そうそう昔、ある宗教団体の機関紙をアルバイトで作っていたことがあるが、あのとき感じ た、息苦しさといったらなかった。一言一句、それこそ、重箱の底をほじくりかえすような検閲を 受けた。何しろ、役職に応じて、敬語だけでも、一〇種類以上。名前の順位をまちがえただけ で、大目玉。その団体に敵対する評論家の本を紹介しただけで、数千部の機関紙が、すべて 廃棄処分にされたこともある。同じ原稿を書くにしても、宗教団体の機関紙づくりは、もうコリゴ リ。 で、その本音で、今の国際問題を考えてみる。 ●アメリカの本音 現在、韓国には、四万人弱のアメリカ兵が駐留している。一応、国連軍ということになってい るが、実際には、アメリカ軍。そのアメリカ軍について、アメリカ国内に、「人質論」がある。韓国 にアメリカ兵がいるため、アメリカは北朝鮮に対して、手も足も出せないでいるというのだ。へ たに手を出せば、まず最初に、これら四万人弱のアメリカ兵が、北朝鮮の攻撃目標になる。い くら北朝鮮にその力がないといっても、アメリカ兵に、かなりの数の死傷者がでる。 ●韓国の本音 北朝鮮の矛先(ほこさき)を、何としても、自分たちからはずしたい。金大中氏がとった「太陽 政策」は、表向きは、太陽政策だが、それはそのまま、その返す刀で、日本やアメリカに敵意 を向ける政策でしかない。現に今、金大中政権になってから、北朝鮮の韓国非難は激減し、か わって日本やアメリカが矢面に立たされている。 仮に日本と北朝鮮との間で戦争が始まれば、一〇〇%、韓国は、北朝鮮側につく。そこまで いかないにしても、絶対に、日本側にはつかない。日本人は、「韓国は日本の味方」と思ってい るが、そんなことはありえない。ありえないことは、韓国人なら、みな、知っている。現に、前回 の選挙戦の最終局面で、ノ・ムヒョン氏は、こう述べている。「アメリカと北朝鮮との間で戦争と いう事態になれば、韓国は中立的な立場を取る」と。 ●日本の本音 かりに韓国と北朝鮮が平和統一したとなると、日本にとっては、たいへんなことになる。すぐと なりに、強大な軍事国家が誕生することになる。しかも筋金入りの軍事国家。彼らのほとんど は、三年から十年の徴兵制を経験している。銃の扱い方はもちろん、爆弾、大砲の使い方、さ らにはハンドミサイルの使い方まで精通している。そんな国が日本に押し寄せてきたら、どうな るか。そういうのを、この日本では、「火を見るより明らか」という。日本は、ひとたまりもない。 ●アメリカの本音 さらにアメリカの本音をいえば、敵は北朝鮮ではなく、中国。軍事的には、北朝鮮など、もの の数ではない。空母四隻で、北朝鮮を制圧できるという専門家もいる。しかし問題は、中国。ア メリカとしては、何としても、その中国をおさえこみたい。少なくとも、今のロシア程度までには、 おさえこみたい。北朝鮮問題は、その一部にすぎない。 ●ロシアの本音 ロシアは、北朝鮮など、どうでもよいと思っている。貿易のパートナーとしては、すでに韓国を 選んでいる。前回の金正日との会談でも、プーチン大統領は、「今までの借金を返さなけれ ば、これ以上、軍用部品を送らない」と言ったという。そこであわてた金正日は、日本からマネ ーを取ることを画策した。それが今回の、小泉首相との会談である。 ロシアがほしいのは、ジャパンマネー。日本がそのため、さらに経済的困難に直面すれば、 まさに一石二鳥。この考え方は、中国にも、さらに韓国にも共通している。中国も、韓国も、す でにジャパンマネーをあてこんで、北朝鮮の経済特区に、かなりの投資をしている。 ●中国の本音 一応北朝鮮とは同盟関係を保っているが、北朝鮮は、かなりのお荷物。同盟を誇示すれば するほど、国際的な立場が悪くなる。だから金正日から、あれこれラブコールがあっても、ノラ リクラリとかわすしかない。韓国はすでに重要な貿易相手国。利益を考えるなら、北朝鮮から 得る利益は、もうほとんど、ない。 が、アメリカとの関係で、北朝鮮とは同盟関係を保つしかない。しかし本音を言えば、北朝鮮 全体が韓国化され、そのあとアメリカ軍が撤退すれば、まさに思うツボ。今度は逆に、韓国を、 中国化できる。 ●北朝鮮の本音 自国経済は、壊滅状態。独裁政権は、崩壊寸前。あの金正日は、自分の王宮を手放すほど の度胸も、勇気もない。しかし軍部からのつきあげが、このところ激しくなっている? だから何 としても、その不満を、外の世界に回避しなければならない。そこで戦争ということになるが、も っとも組しやすい相手となれば、日本しかない。日本には自衛権はあっても、交戦権はない。 つまり安全、無害。だから何らかの口実をつくって、日本と開戦したい。日本が何かをすれば、 それを口実に戦争ができる。今、それを手ぐすねひいてまっている。 ●再び、日本の本音 日本にも自衛隊がいるが、どうも頼りない。サラリーマン化した軍隊に、何ができるというの か? だから戦争はしたくない。できない。ゆいいつの頼みの綱は、アメリカ。しかしこのとこ ろ、韓国とアメリカの間は、どこかギクシャクしている。これは日本にとっては、たいへんまず い。アメリカからみると、日本も、韓国も、似たようなもの。少なくともふつうのアメリカ人は、そう 思っている。韓国人が、アメリカ国旗を燃やしたりすれば、アメリカ人の対アジア人感情は、一 挙に悪化する。 だから北朝鮮の好戦的態度は、ノラリクラリとかわしながら、アメリカの「ご威光」にすがるし かない。「日本を核攻撃したら、アメリカが報復するぞ」と。せいぜい北朝鮮をおどすぐらいが、 関の山。 ●アメリカの本音 アジアの問題は、アジア人で解決しろというところか。ベトナム戦争で、手痛い失敗を経験して いるから、イラクの制裁のように、北朝鮮を制裁するわけにはいかない。その気もない。あるい はアフリカでも、同じように失敗している。日本や韓国を、北朝鮮から守っても、利益はほとん どない。またアメリカ国内におけるアジア人の地位は、ユダヤ人とくらべても、比較にならない ほど、小さい。つまりアメリカは、日本人や韓国人のためには、動かない。動きたくない。逆の 立場で考えてみればよい。日本の自衛隊が、南米のハシにあるK国から、同じくハシにあるJ 国を守るために、血を流すようなことをするだろうか。 仮に日本と北朝鮮が交戦状態になっても、あくまでも主役は日本としたい。日本を側面から 助けつつも、決して、表舞台には出ない。出たくない。アメリカにしてみれば、日本を助けなけ ればならない、義理もない。ことあるごとに、日本は、憲法を盾にとって、国際貢献をほとんどし てこなかった。今ごろあわてて、アラビア海へ、イージス艦を派遣しても、その意図は見えみ え。 ●私たち日本人の本音 金正日には、もううんざり。人のことはかまわなくていいから、まず自国の国民ぐらい、満足に 食べさせてやったらどうか。ああでもない、こうでもないと、人のことは言わないで、もう少しまと もなことをしたらどうか。日本の朝銀から朝鮮総連を経て、北朝鮮に渡ったお金だけでも、一兆 円近くになるという。日本から百数一〇万トンもの食料を援助してもらいながら、核兵器はない だろう。ミサイルはないだろ。覚せい剤はないだろ。拉致(らち)はないだろ。その間、北朝鮮 は、日本に何をしてくれた? 日本のみならず、世界に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。 北朝鮮を侵略する意図など、日本にも、アメリカにもあるわけがない。タダでも、あんな国は、 いらない。かえってお荷物になるだけ。日本やアメリカの、ありもしない脅威をかきたてて、自 分の独裁体制を維持しようなどというのは、あまりにも姑息(こそく)。金正日も、少しは、自分 に恥じたらよい。 以上、独断と偏見による、本音論だが、こうして本音論を書けるのも、私がフリーの立場にあ るから。ほんの一つでも肩書きや、役職をもっていたら、書いただけで、クビが吹っ飛んでしま う。そういう意味では、「フリー」というのも、悪くない。それに、日本には、まだこういう言論の自 由がある。書きたいことが書ける。こういう自由は、大切にしよう。 しかしここに書いた本音は、私は、まさにそれぞれの国の本音だと思う。こういう本音を重ね あわせながら国際問題を考えると、国際情勢も、すっきりとよくわかるのでは? あくまでも参 考意見として……。が、それにしても、最大の問題男は、あの金正日。金正日率いる、北朝 鮮。日本も、そろそろ腹を決める時期にきているのではないだろうか。ああ、これでもし、日本 が北朝鮮の植民地にでもなったら、私はイの一番に、政治犯収容所(強制収容所)送りにされ る。ああ、どうしよう? (02−12−19) ●北朝鮮の政治犯収容所は、それはそれは恐ろしいところだそうだ。本屋で何冊か立ち読み したが、あまりのむごさに、買う気が引っこんでしまった(安明哲著「図説・北朝鮮収容所」(双 葉社)ほか)。残酷というか、これが現実かと、わが目を疑ってしまった。ナチスドイツがアウシ ュビッツに作った「ユダヤ人絶滅工場」(強制収容所)より、なおタチが悪いと書いてある本もあ った。それらの本に書かれてあるのが事実とするなら、そのとおりだと思う。 ●ロシアにせよ中国にせよ、今、北朝鮮を助ければ、いつかその汚名に泣くときがくるだろう。 そういうことも考えて、ロシアや中国も行動したらよい。またそのとき、生きていれば、金正日は 国際法廷の場で、裁かれることになる。必ず、そうなる。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(432) ゴールの向こうに 子どもが、やっとのことで大学へ入った。まあまあの大学で、親もひと安心……と言いたい が、今はそういう時代ではない。 子どもが大学へ入ったからといって、それで安心はできない。つぎからつぎへと、いろいろ問 題が起きてくる。大学へ通うだけではない。事故もある。病気もある。事件もある。すんなりと大 学を出て、就職というわけにも、いかない。それが今の世相である。 もちろん予想していなかった出費もかかる。学費だけではすまない。落第すれば、その分、 学費は倍増する。借りた車で、交通事故をおこせば、賠償だのなんだので、これまたお金がか かる。無免許で事件を起こせば、即、退学処分。しかもそのあと始末に、一〇〇万円単位、さ らには一〇〇〇万円単位のお金がかかる。親の上に、容赦なく、ふりかかる。 ……と、どうも暗い話になってしまったが、思うようにならないのが、この世の中。思うように 育ってくれないのが、今の子どもたち。そこでどうだろう、こう考えたら。つまり「思うようにならな いのが、子ども」という前提で、子育てを考える。そう考えれば、あなたも、ずっと気が楽になる はず。気負いもとれるはず。こんな相談があった。 女子大生をもつ母親からのものだった。その学生は、東京で、ひとり暮らしをしていた。地元 のS進学高校を卒業したあと、T女子大学に進学した。中学時代は、生徒会の副会長までし た。ピアノコンクールでは、県代表に選ばれたこともある。ここまではすべてが順調だった。だ れもが、そう思っていた。しかしその学生は、大学二年生になるころから様子がおかしくなって きた。 夜、なかなか連絡がとれない日がつづいた。母親が「何をしているの?」と聞くと、「家庭教師 をしている」「図書館でレポートをまとめている」と。そのつど、もっともらしい理由を口にしてい た。しかし実際には、風俗店でホステスをしていた。遊興費を稼ぐためである。が、ここで話が 終わったわけではない。夏休みに、東南アジアへ行くと言い出した。「友だちと行く」ということだ ったが、これまた実際には、風俗店で知りあった、男性と行っていた。文科系の学部に籍を置 いていたが、そんなわけで、ほとんど講義には出ず、つぎつぎと単位を落としていった。 が、本当の悲劇はそのあと、起きた。もうすぐクリスマスというあるとき。その学生は、妊娠し ていることがわかった。「だれの子ども?」と聞いても、「わからない」と。そのときすでに妊娠五 か月をすぎていて、中絶もむずかしい状態だった。が、それだけではなかった。検査をしてみる と、いくつかの性病のほか、C型肝炎にも感染していることがわかった。今、その学生は、地元 のH市で年末を過ごしながら、大学を中退するかどうかで悩んでいる。母親は、「家に置いてお くわけにはいきません」と言っているが、一方で、「東京へひとりで戻すこともできません」とも。 今、こういうケースは、少なくない。いくらでもある。親自身が、絶望のどん底にたたき落とさ れ、どう判断するか、その判断の糸口すら見つからない。考えれば考えるほど、頭の中が混乱 してしまう……というようなケースだ。 要するに、こういう場面になったら、過去を振りかえらない。そして未来に希望を託さない。 今、そこにいる子どもをそのまま受け入れて、それを認めて、その範囲で全力を尽くす。その 結果として、明日は必ずくるし、来月も来年も、必ずくる。親としては、いろいろつらいだろうが、 とにかく、今、できることを、今、するしかない。あとのことは考えない。考えてもしかたない。 親の苦労や心配は、尽きることはない。いつまでもつづく。息子や娘が結婚してからも、つづ く。孫が生まれてからもつづく。それこそ、親が死ぬまでつづく。子育てというのは、そういうもの だが、これまた不思議なことに、ちょうど今のあなたが今、そこにいるように、あなたの子ども は子どもで、そのときは、そこにいる。つまりそれを延々と繰りかえしながら、私の人生は流 れ、子どもたちの人生は流れる。昔からこう言うではないか。『案ずるより産むがやすし』と。子 育ては、まさにその連続。なるようにはならないのが、子育てだが、しかしそれでもどうにかなっ ていくのが、子育て。あとはその繰りかえし。だから「今」だけをしっかりと見つめて、あとは前に 向かって進んで行く。結局は、それしかない。 みなさん、がんばりましょう! Life is beautiful! (02−12−19) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(433) 依存心と依頼心 ●甘えの関係 依存性の強い人は、自分自身も、だれかに依存されることを望む。意識的にというよりは、 無意識的に、そうする。あるいはそうであることが、当たり前になっているから、自分でそれに 気づくことはない。 そういう意味では、依存心というのは、相互的なもの。親子の関係でいえば、依存心の強い 親は、子どもが自分に依存することに、どうしても甘くなる。このタイプの親は、親にベタベタ甘 える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子とする。こうした相互性は、なぜ生まれる か。理由は、簡単。自分自身も、子どものとき、そういう子育てを受けからにほかならない。だ から自分自身も、親への依存心が強い。が、それだけでは、すまない。それが依頼心である。 「依頼心」というのは、適切な言葉ではない。ほかによい言葉が見つからなかったから、この 言葉を使った。こういうことだ。 依存心の強い人は、一方で、だれかに頼られることに、生きがいを感ずる。それをまた生き がいにする。それを、ここでは、「依頼心」という。(不適切だが……。ほかに何というのか。言 葉が思いつかない。あえて言うなら、被依頼心?)一見、依存心と、依頼心は、正反対にみえ るが、その構造は、同じ。映画『男はつらいよ』の主人公、『寅さん』を例にあげて、考えてみよ う。 ●映画『寅さん』論 渥美清氏が演じた、『男はつらいよ』は、日本が生み出した名作である。いつも全体として、 ほのぼのとした温もりに包まれている。だれもがやさしく、だれもがよい人である。そしてみんな が助けあい、なぐさめあっている。私たち日本人は、そういう映画に、牧歌的な温もりを感ず る。しかし見方を、少し変えると、評価は一転する。寅さんは、本当に自立した人間と言えるの か。あるいは望ましい人間像といえるのか。 寅さんは、どこまでも未熟で、未完成な人間である。精神的にも、情緒的にも、未熟で、未完 成である。「童心」と言えば聞こえはよいが、子どものまま大きくなった、おとな? もっとも映画 の中の寅さんは、渥美清氏という名優によって演じられているため、渥美清氏自身の知性や 人間性が混在している。しかし寅さんの生きザマを客観的にみると、ここに書いたようなことに なる。 その寅さんは、いつもお人よし。だれかに頼まれると、ホイホイと引きうけてしまう。実はそれ が、ここでいう依頼心なのである。寅さんは、だれかに頼られることによって、自分の立場をつ くっている。そしてそのつど、そのだれかのために、働く。そしてそれがドラマの「柱」になってい る。そこでなぜ寅さんが、そこまでお人よしなのかといえば、実は自分自身もだれかに依存した いという思いがあるからと言ってよい。自分自身の依存心が強いから、だれかが反対に、自分 に依存してくることについて、どうしても甘くなる。 ……と言っても、それが映画『男はつらいよ』のおもしろさにもなっている。寅さんは、自分で も解決できないような、大きな問題をかかえては、そのつど四苦八苦する。その奮闘ぶりがお もしろい。そのドジぶりがおもしろい。だからそれを否定したら、映画そのものが、成りたたなく なってしまう。だからそれは否定しないが、問題は、その先である。 なぜ日本人は、映画『男はつらいよ』をおもしろいと思うのかという問題である。それは言うま でもなく、あの映画に、日本人は共感を覚えるから。自分たちの心情を、あの映画の中に投影 させ、寅さん自身の中に、自分の人格を移植するからである。そして自分自身を、寅さんの中 に確認する。つまりあの映画が、日本の国策映画のようにもなっているということは、とりもな おさず、日本人全体が、精神的に未熟で未完成で、依存心が強く、かつ、ここでいう依頼心が 強い民族ということになる(失礼!)。 ただここで誤解しないでほしいのは、だからといって、私は日本人がおかしいとか、まちがっ ているとか言っているのではない。日本人は日本人だし、世界の人は世界の人だということ。 ただこうした日本人独得の民族性というのは、どこまでいっても、日本人独得のものでしかない ということ。少なくとも、世界の中では、こうした「甘さ」は通用しない。さらに「寅さんは、自由気 ままに生きる人間」として評価する人もいるが、自由とは、もともと「自らに由る」という意味。そ ういう意味では、寅さんは、本当の意味で、自由に生きていることにはならない。もし寅さんが、 自由人ということになってしまうと、これは極論だが、日本では、ホームレスの人こそ、本当の 自由人ということになってしまう? こうして映画『男はつらいよ』を批評することは、日本では、たいへん勇気のいることである。 私のほうが、むしろ袋叩きにあうかもしれない。しかしそこは冷静に、もう一度考えてなおして みてほしい。「寅さんは、本当に自立した人間か」と。そういう視点から見つめなおすと、私がこ こで説明していることの意味が理解してもらえると思う。 ●日本民族独得の心情 さて話をもどす。依存心は相互的なものであると同時に、その依存心は、ここでいう依頼心 と、表裏の関係にある。切っても切れない関係と言ってもよい。そこであなたはどうか。あなた の子育てはどうか。さらにあなたの子どもはどうかという視点で、考えてみよう。 あなたは子どもに依存していないか。あなたの子育ては、どこかベタベタしていないか。そし てあなたの子どもは、あなたから自立しているか。もしそうならそれでよい……というふうには 書けないが、私はそういう姿勢が、今までの日本人には欠けていたのではないかと思う。先に も書いたが、そういう姿勢は、日本の国内では通用するが、世界では通用しない。日本という 風土の中で、依存型社会にどっぷりとつかってしまった人にとっては、子どもが自立していくの を見るのは、さみしいことかもしれない。事実、それはそのとおりで、私とて、いつもそのさみし さと戦っている。できれば、依存型社会でも何でもよいから、たがいにベタベタの人間関係の中 で、子どもに甘え、甘えられて生きていきたい。「温もり」ということになるなら、そういう人間関 係のほうが、ずっと居心地(いごこち)がよい。しかしそれでは、日本人は、国内のみならず、世 界という場でも、いつまでたっても自立できないままで終わってしまう。私は、それではいけない と思っている。だからあえて、この文を書いてみた。 あとは、みなさんの判断の問題になると思う。まあ、そんな考え方もあるのかなという思いで、 この原稿を読んでもらえば、うれしい。私ももう一度、じっくりとこの問題について考えてみる。こ こに書いたことは、服でいえば、仮縫いのようなものと思ってもらえばうれしい。あるいはあなた も、身近の人と、この問題について、話しあってみてほしい。おもしろいテーマになると思う。 最語に一言。つけ加えるが、私はあの渥美清氏が、数年前なくなったのを知ったとき、何とい うか、ガクリと力が抜けてしまったのを覚えている。私の心の中で生きていた温もりが消えたよ うにも感じた。私は、そういう温もりまで、否定しているのではない。どうかどうか、誤解しないで ほしい。 (02−12−19) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(434) 世にも不思議な留学記(番外編) 私が書いた、『世にも不思議な留学記』が、好評のようだ。現在、金沢学生新聞のほうで、連 載してもらっている。一部は、『はやし浩司の世界』というマガジンのほうで、紹介した。で、その 留学記には、いくつかの番外編がある。「番外編」というのは、発表するのに、どこか抵抗を感 じた原稿である。俗にいう、ボツ原。その中の一つが、「ペンシル・ペニス」。 ●ペンシル・ペニス オーストラリア人のもつ「肌」感覚は、明らかに日本人のそれとは異なっていた。簡単に言え ば、彼らは平気で、裸になる。こんなことがあった。 車、二台でドライブに行ったときのこと。男が五、六人に、女が、三、四人いた。暑くなり始め た初夏のころだった。海沿いに走っていくと、きれいなビーチが見えた。とたん、車を止めて、 みなが、「泳ごう!」と、叫んだ。そう叫ぶのは勝手だが、私は水着を用意していなかった。で、 車の中でもじもじしていると、もう全員が、海に向かって走りだしていた。走りながら、つぎつぎ と着ていた服を脱いでいた。全員、素っ裸である。 が、私は、彼らのあとを追いかける勇気はなかった。みなは、「ヒロシ、来い、来い!」と叫ん でいた。しかし私にはどうしてもできなかった。 あとになって、一人が私にこう聞いた。「ヒロシは、どうしてこなかったのか?」と。私はそのと きどうしてそう答えたのかは知らないが、こう答えた。「日本には、武士道というものがあって、 簡単には、人前では、アレを見せてはいけないことになっている」と。が、この事件がきっかけ で、私には、「ペンシル・ペニス」というニックネームがつけられてしまった。「ヒロシのは、ペンシ ルペニス。だから、裸になれなかった」と。 ●ペニスの大きさくらべ ペニスの性能は、大きさではなく、膨張率、それに硬度で決まる。そこである日私は、私をペ ンシルペニスと呼び始めた、K君を私の部屋に呼んだ。そしてこう言った。「君のと、どちらが性 能がよいかくらべてみようではないか」と。K君は、半ば笑いながら、すぐ、それに応じてくれ た。 私とK君は、背中あわせに立ち、下半身を出して、アレに刺激を加えた。そしてほどよくその 状態になったとき、アレに石膏(せっこう)を塗った。アレの型をとって、それで大きさを比べる ためである。 ……五分くらいたったであろうか。一〇分くらいかもしれない。とにかく気がついたときには、石 膏が半分くらいかたまり始めていた。で、それをゆっくりとはずそうと思ったとたん、激痛が走っ た。陰毛が石膏に入り込み、型がはずれなくなってしまっていた。K君も、同じだった。大部分 の石膏は割ってはずしたが、根元のは、はずれなかった。あいにくナイフも、ハサミも、手元に なかった。 ●同性愛者 オーストラリアでは、同性愛者は、「プフタ」と呼ばれて、軽蔑されていた(失礼!)。少なくとも 「プフタ」と呼ばれることくらい、不名誉なことはなかった。まだ同性愛者に対する理解のない時 代だった。 私とK君は、石膏を、シャワールームで流して落とすことにした。しかし石膏の重みで、体が ゆれるたびに激痛が走る。私たちはそれぞれ下半身をタオルで隠した。隠した状態で、両手で 石膏を包むようにして、支えた。 私たちはドアの隙間から、だれもいないことを確かめると、廊下におどり出た。しかし運が悪か った。あろうことか、うしろ側に、一人の学生が立っていた。そして私たちを見ると、悲鳴に近い ような大声をあげた。何しろ二人とも、うしろからは、お尻がまる見えだった! そのあと、どうなったか? 私とK君は、予定どおり、シャワールームにかけこみ、そこで湯を 流しながら、石膏を無事、はずした。しかしそれとは別に、私とK君は、今度は、「プフタ」と呼ば れるようになってしまった。 そのK君、今は、オーストラリアのM大学で教授をしている。専門が、社会人類学というから、 あのときの経験が少しは役に立ったのかもしれない。 (02−12−19)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(435) 絶望論 巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破壊さ れるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。 SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、足元を すくわれるような絶望感を味わうに違いない。自分が何であるかさえわからない絶望感と言っ てもよい。だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにいるかさえわからな い。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突するという大げさな話は 別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。そしてそのつど人々は何らかの形で、日々に、 その絶望感を味わう。 仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。社会情 勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。人間には、希望もあ るが、同時に絶望もある。しかしこの二つは、対等ではない。希望からは絶望は生まれない が、希望は、絶望の中から生まれる。人々はそのつど、絶望しながら、その中から懸命に希望 を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となっていく。 SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗って、 宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をはずす。そし てハッピーエンド。 が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。ハッピー エンドで終わることなど、十に一つもない。たいていは何とかしようともがけばもがくほど、その ままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりから小さな希望を見出し、 それにしがみついていく……。 何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思うから、絶 望は絶望になる。しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。つまり、「今」をそのま ま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやすく言えば、そのつど、 「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することはない。 仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気になっても、 結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれても、これまた 結構、と。少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、 絶望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、虚妄(き ょもう)ということになる。いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれない が、「絶望は虚妄である」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(一八八一〜一九三六・中国の 作家、評論家)である。彼は、こんな言葉を残している。 『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」) が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そのまま受 け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるのか。あるいは 死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについては、私はまだよくわ からない。が、こんなことはあった。 昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽にな れると思うのは、立派な希望だよ」と。私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つまり、絶望した ら、死ぬのだろうね」と言ったときのことだ。しかしもし、絶望が虚妄であるとするなら、「死ねば 楽になれるという希望」もまた、虚妄ということになる。つまり「死に向かう希望」など、ありえな い。もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、決して希望ではない」ということになる。この点か らも、N君の言ったことは、まちがっているということになる……? もう一度、この問題は、頭 を冷やして、別のところで考えてみたい。 (02−12−20) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(436) 受験期の心がまえ 子どもの受験は、受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。こ んな中学生(女子)がいた。 「ここ一番!」というときになると、決まって、「私は、どうせダメだもん」と言って逃げてしまうの だ。そこである日、理由を聞くと、こう言った。「どうせ私はS小学校の入試に落ちたもんね」と。 その中学生は、七、八年前の失敗を、まだ気にしていた! が、実は、そのように気にしたのは、その子ども自身ではない。まわりの親たちが、気にし た。それをその子どもが見て、自分でも気にするようになった。 この時期の子どもには、まだ「受験」「合格」「不合格」を、客観的に判断する能力は、ない。 たとえば子どもが受験で失敗し、不合格になったとき、不合格がどういうものであるかを教える のは、まわりの親たちである。子どもはその様子を見て、不合格というのが、どういうものであ るかを知る。 ある母親は、息子(年長児)が、S小学校の入試に失敗したあと、数日間、寝こんでしまった。 また別の夫婦は、それがきっかけで離婚騒動を起こした。そのあと幼稚園を長期にわたって 休んだ親もいるし、何と、自殺を図った親もいる。子どもは、そういう親たちの動揺を見て、不 合格というのが、どういうものであるかを知る。……知らされる。 そこで子どもの受験は、合格を考えて準備するのではなく、不合格を考えて準備する。そして そのときこそ、親の真価が試されるときと、覚悟する。仮に失敗しても、それは親の範囲だけで とどめ、その段階で、握りつぶす。そして振り向いたその顔で、子どもには明るいこう言う。「さ あ、これからどこかでおいしいものを食べてこようね」と。そういう姿勢が、子どもの心を守る。 親子のきずなを守る。 (02−12−20) ++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(437) 受験は淡々と 人間が人間を選別する。受験の基本は、ここにある。しかしそれは恐ろしく、非人間的なこと でもある。それゆえに、受験期の子どもをもった親は、理解しがたい恐怖感と、そして不安感を 覚える。 こうした子どもの受験戦争に巻きこまれ、精神をおかしくする親も、少なくない。とくに長男、 長女のときは、そうなる。「学校の定期テストのたびに、お粥しかのどを通りません」と言った母 親がいた。「進学塾の明かりを見ただけで、血がカーッとのぼるのを感じました」と言った母親 もいた。 しかしこうしたときこそ、親が親である、その本分を試される。たいていの親は、「子どもを愛 しています」と言うが、本当のところ、それが「愛」であるかどうかは、疑わしい。子どもを自分の 支配下において、子どもを思いどおりにしたいという愛を、代償的愛というが、ほとんどの親 は、代償的愛をもって、子どもを愛していると錯覚する。しかし代償的愛は、代償的愛。真の愛 ではない。 たとえば子どもが、学校のテストで悪い点をとってきたとする。家の中でも元気がない。そうい うとき、あなたは何といって、子どもに声をかけるだろうか。「何よ、この点数は!」と、あなたは 言うだろうか。あるいは「こんなことで、どうするの!」と、あなたは言うだろうか。ほかにもいろ いろな言い方があるが、英語酷では、こういうとき、「TAKE IT EASY!」と言う。日本語に訳 せば、「気楽にしな」という意味になる。 この話をある会合ですると、ひとりの母親が笑いながら、こう言った。「そんなこと言えば、うち の子、本当に、何もしなくなってしまいます」と。一方、子どもは子どもで、こう言った。「もしもう ちの親がそんなことを言ったら、いよいよ見放されてしまったかと、かえって不安になる」と。そ う言ったのは中学生だが、それを聞いた私は、思わず笑ってしまった。しかしこれだけは言え る。「勉強しなさい!」と子どもを叱るのは、親の勝手だが、しかしその言葉ほど、親子の間に ヒビを入れる言葉はない。反対の立場で考えてみればよい。 あなたが作った夕食の料理をみて、あなたの夫が、「何だ、こんな料理。まずいぞ。六五点 だ。平均点以下だ!」と言ったら、あなたはそれに耐えられるだろうか。が、それだけではすま ない。 あなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」と言えば言うほど、その責任は、親がとらねばな らない。今、大学生でも、親に感謝しながら、大学へ通っている子どもなど、さがさなければな らないほど、少ない。お金を渡せば、そのときだけ、「ありがとう」と言うかもしれないが、本当に 感謝しているかどうかは、わからない。中には、「親がうるセ〜から、大学へ行ってやる」と豪語 (?)する高校生すら、いる。 そんなわけで、子どもの受験は、淡々とすますのがよい。親のためでもあるし、子どものため でもある。さらに親子の絆(きずな)を守るためでもある。この日本では、受験競争は避けては 通れない道だが、その受験戦争で、家族の心がバラバラになってしまったら、それこそ、大失 敗というもの。また家族の心を犠牲にするだけの価値は、受験競争には、ない。 (02−12−20) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(438) ♪夕焼け、小焼け 幼児クラスで、「♪夕焼け、小焼け」を歌った。歌いながら、こんなことを、子どもたちに聞いて みた。 私「これは、朝の歌かな、夜の歌かな?」 子「夜の歌!」 私「でも、真っ暗ではないよね」 子「もうすぐ、夜になるの」 私「山には、何があるの?」 子「お寺!」 私「お寺の何が鳴るの?」 子「鐘!」 私「どんな音?」 子「キンコンカンコーン」 私は、こういう発想が、大好き。とても楽しい。ふと、こう思った。「日本の寺も、いつまでもゴ ーン、ゴーンにこだわっていないで、たまにはキンコンカンコンーにしてみてはどうか」と。 「伝統」とは、何か? 長くつづいた、固定化した文化を伝統というのか。当然、そこには、人 間の経験が蓄積されている。あとの世界に生きる人は、その蓄積の上に、自分の進歩を組み たてる。そういう意味では、伝統には、伝統としての意味がある。便利だ。が、その伝統が、反 対に、進歩の足カセになることもある。とくに「伝統」の名のもとに、それがループ状態になり、 考えることを放棄してしまったばあいに、弊害が出る。 ……と考えると、この世界には、守るべき伝統と、そうでない伝統があるのがわかる。あえて 言うなら、善玉伝統と、悪玉伝統ということになる。それに意味のない、無害伝統もある。そこ で、自分なりにこれら三つを分類してみようと考えて、ハタと困ってしまった。頭の中では分類で きると思ったが、それぞれの伝統そのものに、善玉的な部分と、悪玉的な部分が共存している のがわかった。たとえば、「地域の風習」。 たとえば私が山荘を構えた、S村では、まだほんの一〇年前まで、その地域の最長老の家 に、毎月一回、その村の若い嫁たちが、食事を届けるという風習が残っていたそうだ。明治時 代や大正時代の話ではない。平成時代に入ってからの、「今」である。 こうした風習は、善玉伝統なのか、それとも悪玉伝統なのか。はたまた意味のない、無害伝 統なのか。私が「どうして今は、しないのですか」と聞くと、当時自治会長をしていたN氏は、こう 言った。「若い嫁さんたちが、いやがりましてね」と。つまり若い女性たちの意識には、そぐわな くなったというのだ。たしかに想像するだけでも、息苦しい。しかも毎月となると、手間もたいへ んだ。その地域の女性たちは、ほとんどが共働きをしている。時間をつくるのも、これまた、た いへんだ。 しかし一方、こうした風習には、牧歌的な温もりを感ずるのも、事実。現代人が忘れてしまっ た、人のつながりさえ感ずる。どこかアメリカのインディアン的でもあるし、どこかオーストラリア のアボリジニー的でもある。(本当のところ、彼らにそういう風習があるかどうかは、知らないが ……。)私には、そうした風習が、「おかしい」とか、「まちがっている」とか言う勇気はない。 さて子どもたちの話。私はこう言った。「そうだね、キンコンカンコーンだね。それは楽しいね。 もしそういうお寺があったら、みんなも喜ぶね」と。日本のお寺も、「お寺らしさ」にこだわるので はなく、「自分らしさ」を追求してみたらどうなのだろうか。……というのは、暴論だが、どうして 「ゴーン、ゴーン」ではよくて、「キンコンカンコーン」ではダメなのかという問題の中には、伝統 がかかえる本質的な問題が隠されているような気がする。 (02−12−21)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司 子育て随筆byはやし浩司(439) 学ぶ心のない子どもたち 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに 考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ 化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳 に入らない。 私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」 子「三角関係だ、三角関係だ!」 私「何、それ?」 子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」 私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」 子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」 私「やっちまえ、って、どういうこと?」 子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。 これは小学五年生たちと、実際した会話である。 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テ レビを、毎日四〜五時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、一日中、テレビ を見ている子どももいる。よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がな い。たとえば毎日四時間テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均 値は、二時間となる。だから「平均的な子どもは、二時間、テレビを見ている」などというのは、 ナンセンス。毎日、四時間、テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだ まされてはいけない。 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその 一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソ の中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考え ようとする姿勢そのものが、ない。 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なく とも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。このタイプの子どもは、自分自身が何ら かの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、 その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先に言えば、そういうことになるが、問題 は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。K君(小五男児)を例にとっ て、考えてみよう。 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加 工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、一日中、テレビを見てい る。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え 方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子ども のときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になっ た。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということにな る。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたの で、ここでは省略する。 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそ うでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子ど もも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。とても残念なことだが、こうした子 どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そして新しいタイプの日本人像をつ くりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけではない。おとなの世界でも、ギ ャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもいる。中には、あちこちから「文化人」 (?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、ますます「白痴化」(大宅壮一)しつ つあるとみてよい。とても残念なことだが……。 (02−12−21) ●まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。 ●あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよ う。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(440) 裸の王様 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王 様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実 にも、そういう例は、いくらでもある。 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ〜、どうしてあ んたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を 見抜いた、純真な心ということになる。 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。 H市は、市の中心部に、四〇〇億円とか五〇〇億円とかをかけて、商業開発ビルを建設し た。映画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。当初は、結構なにぎ わいをみせたが、それは数か月の間だけ。二フロアをぶちぬいて、子ども向けの児童館も作っ たが、まだ一年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装にかけた費用が五億円 というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石でおおわれている。も ちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。で、その児童館について、ふ と、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。すると子どもたち(小学生)は、 「行かなア〜イ」「つまらなア〜イ」「一度、行っただけエ〜」と。 私の教室は、一八坪しかない。たった一八坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い 方にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アル バイトの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を 稼ぐだけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得に なることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成して いる。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさり と、「つまらナ〜イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そう だ」と。 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ一〇〇〇兆円になる。日本人一人あた り、一億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、四人家族なら、四億円の 借金ということになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を 重ねて、道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、こ の国を、どうしようとしているのか? もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。 が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金 を背負わされている。いつかあの児童館には、五億円もかかったことを知らされたとき、子ども たちは何と思うだろうか。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをし たからだ」と、怒るだろうか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私 も救われるのだが……。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一 つ、ふえただけ? あああ。 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか? 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、崩壊する。そして かつて経験したことがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることにな る。が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったり の、つまりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなる だけ。となると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるし かない。そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのな いこと。私たち自身が、そういう国をつくってしまった! ただ願わくば、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しな ければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身 が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。 自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそ ういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目 は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。 すなおな気持ちで……。 (02−12−21) ●子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。 ●おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(441) 私はドンキホーテ セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・一五四七〜一六一六・スペインの小 説家)の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家とい うか、妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするとい う物語である。 この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。自らを騎士と思い こみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでし まう。そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗っ て、旅に出る……。 こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。実のところ、この私にもある。よく ワイフは私にこう言う。「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを 言うね」と。最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。私があれこれ国際情勢を心配 するからだ。 が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したとこ ろで、日本や世界は、ビクともしない。もともと、だれも私など、相手にしていない。それはいや というほどわかっているが、しかし、私はそうではない。「そうではない」というのは、相手にされ ていると誤解しているというのではない。私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレ ーキをかけることができないということ。そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。 あるいはどこが違うのか。 よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。私塾の経営者といっても、 経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者 も、少ないが、いる。私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう 経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。 私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。しかし、いくら議論しても、まったく無意 味。それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。 あるいはそれ以下かもしれない。論じたところで、マスターベーションにもならない。しかしそれ でも、私たちは議論をつづける。まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。あるいは頭 の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。だれにも相手にされず、ただひた すら、自分で自分をなぐさめる……。 その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。ジプシーたちの芝居を、現 実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでい くドンキホーテ。それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのも のと言ってもよい。 さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。「役にたってい る」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。読んでもらっているかどうか さえ、わからない。しかしそれでも、私は書いている。考えてみれば小さな世界だが、しかし私 の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 国連の事務総長より高い? ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう 思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。 これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。だれにも相手にされなくても、書き つづける。おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私な のだ。だから書きつづける。 (02−12−21) ●毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。それは頭の回転というのは、そのときのコン ディションによって違うということ。毎日、微妙に変化する。で、調子のよいときは、それでよい のだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にから れる。そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。こわいのは、ア ルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるの では……という期待もある。 ●ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化し たとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、 どんどんとボケていく……。そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者し かいないのでは。あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。「林の書いて いる文は、このところ駄作ばかり」と。……実は、私自身もこのところそう思うようになってき た。ああ、どうしよう!! ●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」) ●命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」) ●自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばなら ない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」) ●パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」) ●裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス 「ドン・キホーテ」) ●真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(442) Kさん夫婦 Kさんは、今では珍しい、専業農家を営んでいる。「珍しい」というのは、このあたりでは、専業 農家の人は、ほとんどいないということ。数年前までは、もっぱらミカンを栽培していた。が、高 齢になったこともあって、今は花木に主流を移している。その分、ミカンは少なくなった。 そのKさんは、いつも奥さんと二人で仕事をしている。何をするにも、二人といった感じ。そう いうKさん夫婦を見ていると、「ああ、これが夫婦の、もともとの、あるべき姿なんだなあ」と思 う。言いかえると、夫は会社勤め、妻はもっぱら家事、あるいは共働きというのは、もともとある べき姿ではないということになる。このことは、外国の夫婦と、くらべてみても、わかる。 たとえば同じサラリーマンにしても、夫婦の密着度は、国によって違う。オーストラリアの友人 も、長い間、サラリーマンをしているが、若いころは昼食を食べるためにも、家に帰っていた。 あるいは奥さんが、夫の会社の近くまでやってきて、いっしょに昼食を食べていた。「今は?」と 聞くと、「今は、(たがいに歳をとり)、めんどうになった。(I can't be bothered so muc h.)」と。その違いがきわまったものが、単身赴任ということになるが、オーストラリアでは、今 も、昔も、日本型の担任赴任など、考えられない。 こう考えていくと、夫婦とは何かという問題にまで、発展してしまう。いくら「夫婦には形はな い」とは言うものの、「ではなぜ、男と女は結婚するのか」ということまで考えていくと、夫婦に も、ある程度の「形」があるのではないかということになる。もちろんその形にこだわるのも、よ くない。反対に今、いわゆる「形だけの夫婦」が、多い。多すぎる。 そこでKさん夫婦を見てみると、たがいに夫婦というよりは、仲のよい友だちといった感じが する。たがいに仕事をしているときでも、助けあうとか、いたわりあうとか、そういう意識はない ように思う。ただ淡々と自分のことをしているだけといったふう。若い夫婦のように、「愛してい る」とか、「愛されている」とか、そういうイチャイチャしたムードはもちろんない。あえて言うな ら、たがいに空気のような存在? が、それでいて、二人の呼吸がピタリとあっている。 ……となると、夫婦というのは、その「呼吸」ということになる。呼吸があっていれば、夫婦。呼 吸があっていなければ、夫婦ではない? 形があるとするなら、それが夫婦の、あるべき形と いうことになる。外見ではなく、あくまでも中身。中身さえあれば、それを包む形には、それほど 意味はない。 これからの日本は、夫婦がこうした中身のある夫婦になれるよう、少しずつでも、そのしくみ を変えていかねばならない。たとえば夫が同僚と飲み食いするときでも、妻が同席するとか、あ るいは夫の仕事を手伝うために、たまには妻も会社へいき、アルバイトをする、とか。住居と職 場を近づけるとか、あるいは在宅ワークを、もっとポピューラーにするとか。方法はいくらでもあ る。少なくとも、今までのように、夫の仕事のために、妻のみならず、家族全体が犠牲になるよ うな、あるいはそれを当然とするような社会のあり方は、お・か・し・い。 Kさんの家で、ミカンを数箱分けてもらいながら、私はそんなことを考えていた。 (02−12−22) ●結婚、つまり両性の結合は、それ自体はもっとも小さな社会の一つだとしても、もっとも大規 模な政府の存在そのものとなる源泉である。(ベンジャミン・フランクリン) ●強い家族をもてば、米国はより強くなる。(クリントン元大統領) ●すべての幸福な家庭は、たがいによく似ているが、不幸な家庭は、それもが、それぞれの流 儀で、不幸である。(トルストイ「アンナ・カレーニア」) ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(443) 新聞の投書から…… 少し前、M新聞の朝刊にこんな投書が載っていた。今では、新聞記事でも、そのまま転載す ることはできない。著作権の問題がからむ。で、少し内容を変えて、ここに紹介する。 「私にとって、記憶に残る大切な日。それは、姉と結婚したいと言って、一人の男性が、私の 家にたずねてきた日。だれも姉の結婚に反対したわけではないが、父は、そのあと一日中、押 し黙ったまま、背中を丸めて、テレビを見ていた。母も、台所で洗いものをしながら、ハンカチで 顔を押さえて泣いていた。それから一週間ほど、私の家は、重苦しい雰囲気に包まれた。冷や やかなムードになり、母はふて寝を繰りかえし、口数も少なくなった。私も怒ったり、泣いたりし た。姉がいなくなるという、さみしさに、家族それぞれが、それぞれの方法で耐えていた」と。 長女の結婚について、家族の狼狽(ろうばい)ぶりが、よくわかる。しかし私は、この投書を読 んだとき、「どうして?」という気持ちが、先にきてしまった。「どうして、家族は、長女の結婚を、 そのようにとらえたのか?」と。 結婚の申しこみが、あまりにも急なことだったので、心の準備ができていなかったのか。長女 が、まだ若くて、結婚を考える年齢ではなかったのか。長女が、一家の中では、大切な存在だ ったので、それがつらかったのか。いろいろ考えられる。その家族には、その家族しかわから ない、心の事情というものがある。が、私が「どうして?」と思ったのは、そのとき、家族のだれ か一人でも、結婚の申しこみを、喜ぶことはできなかったのかということ。投書を出した二女ま で、「おとなげない態度を、姉にしてしまった」と書いている。どうして? まさか長女にとって、 不本意な結婚というわけでもなかったと思う。投書の終わりは、こうなっている。「今では元気な 三児の母。これからも幸せを願わずにはいられない」と。 まず考えられるのは、日本人は昔から、娘の結婚を、「取られる」ととらえること。今でも、「娘 を、嫁にくくれてやる」とか、「嫁をもらう」とか言う人がいる。いわゆる娘に対して、モノ意識をも っているとも考えられる。しかし、どうもそれだけではないようだ。私はこの投書を読んだとき、 たがいの間に流れる、ベタベタの人間関係を感じた。子離れできない親、兄弟離れできない 妹、そしてそれをつなぐ、相互の依存関係。それが悪いと言っているのではない。(悪いと言っ ているようなものだが……。)それが日本の家族であり、その家族には、外国にはない、温もり がある。 たとえば、私の母は、いくら「いらない」と言っても、朝ごはんを用意してくれる。「急いで帰る から、朝食は食べない」と言っても、だ。実家の土間で靴をはきかけていると、母はこう言う。 「いいから、食べていけ」と。 一方、アメリカでは、こうはいかない。「〜〜してくれ」「〜〜してほしい」と、いちいち言わなけ れば、何もしてくれない。へたに、「朝食はいい」などと言おうものなら、本当に、何もしてくれな い。日本人の私からみると、アッケラカンとしすぎていて、どこかもの足りない。 こうした違いが積もりに積もって、たがいの国民性をつくる。そしてそれが家族のあり方、さら に家族の関係にまで影響をおよぼす。 もしこの段階で、つまり「一人の男性が、私の家にたずねてきた日」に、もう少し、親は親で自 立していたら、親の見方は変わったのではないだろうか。二女は二女で自立していたら、二女 の見方は変わったのではないだろうか。全体として、もう少し、長女の結婚を前向きに喜び、前 向きに祝うことができたのではないだろうか。「おめでとう! よかったね! 幸せになって ね!」と。私には、「そうあるべきだ」とまで書く勇気はないが、しかし私がもっている感覚とは、 ずいぶんと違うように思う。もっとも、私には娘がいない。だから娘をもった親の気持ちはわか らない。だから軽率なことは書けないが、どう頭の中でシミュレーションしてみても、そのときの その父親のような心境にはならない……と思う。 さて、みなさんは、どうだろうか。親の立場というよりも、自分自身を娘の立場に置いて、考え てみてほしい。あなたに恋人がいた。結婚を考えるようになった。そこで相手の男が、自分の 両親に会いにきた。そして承諾を求めた。とたん、一転して家庭の中が暗くなってしまった! 険悪なムードが流れ、たがいにピリピリし始めた。しかしだれも結婚に反対しているわけではな い。が、そういうムードになってしまった! この先は、その投書の人に失礼になるので、書けない。しかしこれだけは言える。日本には 日本の、これから克服していかねばならない問題は、山のようにある。この投書の中には、そ れを考えさせる、ひとつのヒントが隠されている。もう一度、みなさんも、この投書を、じっくりと 読んでみてほしい。 (02−12−22) ●女……それは男の活動にとっては、大きな(つまづき)の石となる。女を恋しながら、何かを することは、むずかしい。しかし、ここに恋が妨げにならない唯一の方法がある。それは恋する 女と結婚することである。(トルストイ「アンナ・カレーニア」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(444) 胸騒ぎ この胸騒ぎは、何か? どこかザワザワする。落ち着かない。 原因は、どうも北朝鮮のようだ。あの国は、この九月から、ハイパーインフレに見舞われ、国 家経済は、まさに壊滅状態。今年は食料不足で、さらなる餓死者が出るかもしれないという。 が、独裁国家の常として、静かには、自滅しない。たいていは自分の失政をごまかすたに、 国民の目を外へ向けようとする。つまり戦争を考える。その矛先(ほこさき)が、日本というわけ である。 今日も夕方のテレビニュースで、北朝鮮問題を取りあげていた(02−12−22)。それによる と、すでに核兵器は配備済みだという。しかもミサイルに搭載できるところまで、開発が進んで いるという。目標は、もちろん東京。そして日本各地の自衛隊基地。この浜松市も、ターゲット に入っているかもしれない。ゾーッ! 今回の大統領選挙で、韓国の新大統領は、選挙運動中に、「仮に米朝戦争になっても、韓国 は中立の立場をとる」と、公言している。つまり日米韓の三国の間に、大きなキレツが入った。 こうなると、日本は日本で、覚悟を決めるしかない。そしてそれが、私の胸騒ぎの、大きな原因 となっている。 同じく今朝のニュースを見ると、K元防衛庁長官の秘書が、五〇〇〇万円近いワイロを受け 取っていたと報道されていた。例によって例のごとく、K元防衛庁長官は、「秘書のやったこと」 と逃げている。あああ。こんなことで、自衛隊は、日本を守れるのか。日本の政府は、国民を 守れるのか。恐らく政治家や官僚は、戦争にでもなれば、イの一番に、東京から逃げ出すに違 いない。 ザワザワ、ザワザワ、ザワザワ……。 私一人が騒いだところで、どうにかなる問題ではない。私一人が心配したところで、どうにか なる問題ではない。それはわかっているが、しかし一方、「われ、関せず」と、無関心でいること もできない。どうしたらよいのだ! (要求@)国民に、簡易防毒衣服とマスクを、支給せよ。 (要求A)細菌兵器に対して、予防接種を開始せよ。 (要求B)戦争を想定した、避難訓練を実施せよ。 ……と書きつつ、自分や家族の身の安全は、私たち自身で守るしかない。いつも最悪の事 態を想定しながら、その対処法を考える。さあて、どうするか? ここが思案のしどころ。 (私案@)自警団、自衛団の発足。地域の人と連合して、防衛協力をする。 (私案A)簡易防毒衣服を、自作する。大きなビニールの袋があれば、できる。 (私案B)食料や避難場所の確保を、組織的にする。また家族で連絡しあっておく。 日本の平和は、まさに風前のともしび。しかし日本の平和が、かくも薄い氷の上にあったと は、私も予想さえしていなかった。いやいや、その氷は、私の予想以上に薄かったと書くべき か。 ●戦争によってもたらされるものは、また、戦争によってもち去られるであろう。(ジューベル 「パンセ」) ●平時における賢者は、戦争に備える。(ホメロス「諷刺詩」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(445) コロラドの月 夜、犬が騒いだので、庭へ出てみた。美しい夜だった。つんと冷たい風。澄み切った星空。 中学生のとき、コーラス部で、「コロラドの月」という歌を歌った。簡単な曲だった。しかしあの ころの私は、まだ見ぬ外国に、限りないロマンをいだいていた。いや、まだ知らぬ恋に、限りな いロマンをいだいていたと言うべきか。「♪……君よ、こよ、うるわしき……」と。 そのせいか知らないが、昔、飛行機の上からはじめてコロラド川を見たときには、本当に感 激した。「ああ、あのときの川だ」と。……そんなことはどうでもよいが、こういう静かな夜は、ど ういうわけか、「コロラドの月」が、自然と鼻歌となって出てくる。 あのときの、あの仲間はどうしているかな……とふと、思う。先生は、どうしているかなと、ふ と、思う。おかしな話だが、あのときコーラス部の顧問をしていた、Sという先生は、そのあと、 女生徒に手を出して、新聞沙汰(ざた)になり、教職を追われたという。しかし私には、よい先生 だった。ユーモアがあって、お茶目で……。きっと魔がさしたのだろう。 男子の部員は、四〜五人しかいなかった。あとは全員、女子。その中に佐藤君という後輩が いた。歌手になった野口五郎という人の、兄だった。今はどこかで作曲の仕事をしているという ことだが、それ以後、音信はない。 こういう夜は、無性に、人が恋しくなる。それは過ぎ去りし日々への郷愁か。それとも、人生 の終盤にやってきた自分への悔恨か。若いころの思い出が、ツユと消えたように、私もまた、 つぎの瞬間には、ツユと消えるのか。そんなはがゆさが、こうしてあのころの思い出を、輝かせ る。 そう、今、脳裏に飛来したのは、コンクールに行くときの私たちだ。みんなでゾロゾロと、どこ かの会場に向かっている。並んでいるわけではないが、前のほうに、女子が、歩いている。コ ーラス部には、美しい人が集まっていた。Iさん、Tさん、Yさんなど。その女子たちが、明るく、声 を張りあげて、何やらはしゃいでいる。初夏の陽光を、まばゆいばかりに浴びながら……。 遠い昔のような気もするし、つい先日のことだったような気もする。時間でみれば、ちょうど四 〇年も前のことだが、その実感が、まったくない。ただ私だけが、いつの間にか、歳をとったよ うな感じがする。記憶はそのままなのに、肌からはハリが消え、シワもふえた。頭は、もう白髪 だらけだ。そんな私が、気分だけは中学生のままで、コロラドの月を口ずさむ……。 ♪コロラドの月(Moonlight On The Colorado) キング作曲(近藤玲二訳詞) コロラドの月の夜 一人ゆく岸辺に 思い出を運びくる はるかなる流れよ 若き日いまは去りて 君はいずこに コロラドの月の夜 はかなく夢はかえる コロラドの山の端に 涙ぐむ星かげ 今もなお忘れられぬ うるわしき瞳よ 夜空に君の幸を 遠く祈れば コロラドの山の端に はかなく夢はかえる 部屋にもどって、コタツのふとんを肩までかぶせた。体はシンまで冷えているはずなのに、ど こか心の中だけは、ポカポカしている。私はさらにふとんを深く、顔までかぶせると、そのまま 眠ってしまった。甘い夢に包まれて……。 (02−12−23) ●少し前、アメリカに行ったとき、二男が、「パパ、コロラド州はいいところだよ。いっしょに来て 住まないか」と言ってくれた。私がもう少し若くて、それにアメリカに人種偏見がなければ、そう しただろう。が、今の私には、もうその気力はない。今ある世界の中で、今ある自分を大切にし て生きたい。「冒険」ということになれば、私は、若いころ、さんざんしてきた。思い残すことは、 ほとんどない。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(446) ある老人の苦悩 ●ドラ息子 その老人(八二歳)には、二人の息子がいた。長男は、今、四五歳。二男は、今、四〇歳。長 男は、市内で、小さなレストランを開いている。二男は、隣のM県の県立病院で、ドクターをして いる。 その老人は、長男と同居している。もともと何かと問題のある長男で、高校を卒業したあと は、仕事をするでもなし、しないでもなし、十年近く、ブラブラしていた。老人は、元国鉄職員。 毎月の年金は、約三二万円。そこそこの生活をするのには、困らないはずだったが、長男は、 その老人のスネをかじりつづけた。が、それだけではなかった。 長男は、金庫から、老人の貯金通帳を盗み、そこから勝手にお金を引き出し、遊興費に使っ たりしていた。車を買ったり、趣味のモデルガンを買ったりなど。が、やがて老人の妻が倒れ、 死んだ。老人が、七五歳のときのことだった。 が、相変わらず、長男は遊びつづけた。ときどきアルバイトらしいことはしていたが、生活費 は、一円も入れなかった。まったくのドラ息子。とんでもないドラ息子。しかしそんな息子でも、 他人には、やさしかった。おだやかな男だった。とくに女性には、親切だった。結婚こそしなか ったが、そんなわけで、老人の家には、いつも若い女が出入りしていた。 老人の財産は、自宅の土地(一〇〇坪)と家。それに遺産で相続した、畑が六〇〇坪あまり あった。長男は、この財産に目をつけた。ああでもないこうでもないと理由をつけては、その土 地を担保に、借金を重ねた。そのとき老人は、どこか頭の働きが鈍くなり始めていて、こまかい 計算ができなくなっていた。が、気がついたときには、その畑は、宅地に転用され、さらに人手 に渡っていた。 二男はドクターをしていたが、ほとんど実家には帰ってこなかった。長男が二男を避けた。何 かにつけてできの悪い長男、何かにつけてできのよい二男。そういう関係で、良好な兄弟関係 など、育つはずがない。そういう長男だったが、ある日、その老人は私にこう言った。「昔から、 できの悪い子どもほど、かわいいと言いますね。そのとおりですよ。S(二男)は、どこへいって も、ひとりで、しっかりやっていく子どもです。心配していません。しかしY(長男)は、そうではあ りません。だからよけいにかわいいです」と。 今でも長男は、その老人の目を盗んでは、サイフからお金を抜き取っているという。小さな金 庫もあるが、長男は、合いかぎをもっているらしい。しかしそれを知りつつ、その老人は、「ま あ、いいじゃないですか……」と。「どうせ、すべて長男のものになるのですから」と。 ●リズムでできる人間関係 親に依存する子ども。子どもに依存する親。こうした依存関係は、一度できると、一方的なも のになる。……なりやすい。尽くす側と、尽くされる側の立場が、はっきりしてくる。 ある女性(七六歳)は、生活費のすべてを、息子(四九歳)に依存していた。息子は見るにみ かねて、そうしていたが、今では、それが当たり前になってしまっている。息子はこう言う。「母 にお金を渡すと、決まってこう言います。『大切に、つかわさせてもらうからね』と。まるで私がお 金を出すのが当然というような言い方をします」と。 一方、ここに書いたようなドラ息子がいる。ただ親からむしりと取るというだけの子どもであ る。それなりに社会性もあり、責任感もある子どもなのだが、親に対してだけは、そうでない。 「してもらうのが当然」と考える。このケースでは、親が子どもに尽くしていることになる。 問題は、なぜ、そうした依存関係が、「尽くす側」と、「尽くされる側」に、分かれるかというこ と。そこで調べてみると、最初は、ごくささいなことで始まるのがわかる。たとえば、「教える世 界」でも、こんなことがある。 定規を忘れる子どもがいる。そこで私は、いくつか定規を買いそろえておく。忘れた子ども に、貸してやるためである。しかしそういうことをすると、とたんに、定規を忘れる子どもがふえ る。一度、こういう関係ができると、それを改めるのは、容易ではない。ある日突然、「もう定規 は貸してやらない」などと言おうものなら、大混騒動になってしまう。 さらに定規を用意しておくと、そのままもって帰ってしまう子どもが出てくる。「盗む」という意識 からではない。無意識のまま、自分のケースに入れて、もって帰る。そこで毎月のように新しい 定規を買い足して、補充することになる。が、ここで終わるわけではない。子どもは定規を粗末 に扱うようになる。あちこちで使うたびに、定規をなくすようになる。そしてそのたびに、私のとこ ろから定規をもって帰る……。 こうして定規について、「尽くす側」と、「尽くされる側」の立場ができる。もっともこれは定規と いう、教育の中の、ほんの一部の「部分」にすぎない。しかしこうした関係が無数に積み重なっ て、やがてそれが人間関係をつくる。子育てのリズムというのはそういうもので、一事が万事。 最初は小さな流れが、無数に集まって、やがて大きな流れになる。で、一度そうなると、その流 れを変えるのは、もう、容易なことではない。 ●小さな流れのときに…… 大切なことは、「尽くす側」にしても、「尽くされる側」にしても、そういう流れをつくらないこと。 わかりやすく言えば、サービス過剰も、またサービス不足も、子育てでは、決して好ましいもの ではないということ。とくに親としては、サービス過剰に注意する。サービス過剰は、決して子ど ものためにならないばかりか、結局は、そのツケは、親に戻ってくる。苦労するのは、親自身と いうこと。 家庭では、こんなことに注意するとよい。 (1)一〇%のニヒリズムを大切に……全幅に子どもを愛するということと、全幅に子どもに尽く すということは、まったくの別問題。いつも心のどこかで、「子どもは子どもで、勝手に生きれば いい」と、冷たい心をもつ。割合としては、一〇%くらいか。これを「一〇%のニヒリズム」とい う。 (2)必要なことと、そうでないことを分ける……子どもに何かをしてあげるときは、「子どもにと って、それが必要なことか、そうでないか」を、まず頭の中で考えるようにする。これはちょっと したコツで、それを覚えると、できるようになる。そして「不必要」と感じたら、ぐんと自分をおさえ る。あるいはしない。 (3)自分自身の中の依存性を知る……依存性というのは、体にしみついたシミのようなものだ から、それを正したり、消すのは容易ではない。しかしそれに気づくだけでも、方向を変えるこ とはできる。もし今のあなたが、親になっても、あなたの両親に対して、どこかベタベタしている ようなら、あなたは無意識のうちにも、同じように、子どもにベタベタの関係を求めていることが 多い。そしてその分、子どもは子どもで、あなたに対して依存心をもちやすくなっていると思って よい。 (4)「必要な訓練(トレーニング)はするが、その限度をわきまえている親のみが、真の家族の 喜びを与えられる」(バートランド・ラッセル)の言葉を、かみしめる。子育ては、いつもこの「限 度」との戦いである。溺愛も、過保護も、過干渉も、過関心も、その限度を忘れたときに、問題 になる。 (02−12−23) ●イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二 〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬 し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たち のみが、家族の真の喜びを与えられる」と。 +++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(447) 元気をなくす高校生 一人の女子高校生が、肩を落として、教室へ入ってきた。つくり笑いをしているものの、元気 がない。「どうだった?」と聞くと、「だめだった……」と。模擬テストの結果が悪かったらしい。 その女子高校生は高校生なりに、がんばった。夏休みの間は、「一日一冊勉強」をこころが けた。一日一冊というのは、ワークや参考書を、一日に一冊するという勉強法をいう。たいへん な負担だが、しかしそれをやりこなせば、それなりに効果が出るはずだった。しかしその間に、 父親が経営する会社が倒産するという事態をむかえた。母親は、その間、実家に帰った。その 女子高校生だけは、受験も近いということで、父親のそばにいたが、とても勉強どころではなか った。そのあとのテストである。 「君はよくがんばったよ」と声をかけると、「先生、何もわからなくなってしまった……」と。「どう いうこと?」と聞くと、「得意な英語も、何もわからなくなってしまった」と。そこで私が「そんなは ずはない。君の力は、ぼくが信じている。それを信じて、くじけないで、今やるべきことすればい い」と。 しかし一度、こういう無気力症状が出てくると、それから抜け出させるのは、容易ではない。 励ませば励ますほど、逆効果になる。もちろんおどすのは、タブー。が、それ以上に心配なの は、こうした無気力症状が出てくると、勉強そのものが、空回りをしてしまう。勉強しているはず なのに、何も頭に入らなくなってしまう。テストでは、わかるはずの問題、解けるはずの問題ま で、わからなくなったり、解けなくなってしまう。こうなると、成績は一挙に、さがる。 今、こうして受験勉強の途中で、つまづき、キズつき、そしてそのまま倒れていく子どもは、た いへん多い。まじめな子どもほど、そうなるというのは、悲劇的ですら、ある。もちろんそうなる までに、いろいろな原因や背景がある。しかしそういう問題を別としても、受験勉強には、そう いう面があることは、否定できない。つまり「勉強」という言葉が、どこかひとり歩きをしてしま い、本来子どものためであるはずの「勉強」が、子どものためのものではなくなってしまってい る。もっと言えば、子どもたちは、学ぶ楽しさを覚えないまま、その勉強に追われている。子ど もの側からみれば、勉強が、子どもを苦しめる責め具になっている。諸悪の根源は、すべてこ こにある。 この女子高校生は近い未来の、あなたの子どもの姿といってよい。「うちの子はだいじょうぶ ……」「うちの子にかぎって……」と、もし今、あなたがそう思っているとするなら、それは「甘い」 の一言。 おおざっぱに分けて、高校生の六〇%は、家でも、ほとんど勉強などしていない。大学進学を 考えて、受験勉強を本気でしている子どもは、一〇〜一五%。勉強を、そこそこにしている子ど もは、二五〜三〇%。あるいは、もっと少ない。しかもその勉強している子どものうち、約半数 が、この女子高校生のような状態と考えてよい。ほとんどの高校生は、「入れる大学の、入れ る学部」という視点で、大学を選んでいる。先日も、ある女子高校生がこう言った。「私、B大学 の国際関係学部へ行く」と。そこで「何、それ? どんな勉強をするの?」と聞くと、「知らない… …。そこなら入れる」と。これが現実である。まぎれもない現実である。 否定的なことばかり書いたが、日本の教育は、基本的な部分で、本当に、おかしい。おかし いまま、日本の風土の中に定着し、今にみる、受験体制をつくった。私やあなたがそうであった ように、子どもたちもまた、その犠牲者にすぎない。 その女子高校生は、一枚のプリントと取り組んでいた。ときおりため息をついていた。どこか 上(うわ)の空といったふうだった。私とて、何もできない。そのまま静かにその高校生の勉強を 見守るしかなかった。 (02−12−23) ●幸福になる道は、決して一つではない。曲がりくねった道、わき道、回り道。道はいろいろあ っても、しかし幸福には、変わりない。決してあせらないこと。もともとまっすぐな道なんてもの は、ない。不幸だと思っても、そこがゴールと思ってはいけない。そこが幸福につながる道へ の、出発点なのだ。(はやし浩司「語録」) ●雨降って、地かたまる(イソップ「寓話」) ●われらの目的は、成功ではない。失敗にたゆまずして進むことである。(スティーブンソン「語 録」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(448) 家族のために 「家族のため」と思いながら、懸命にふんばっている人は多い。必死になって、自分を支えて いる人は多い。この私とて、もし守るべき家族がいなかったら、いまごろは、ホームレスか何か になって、公園のベンチの上で寝ているだろう。いや、ときどきホームレスの人を見ると、ほっ とするような親近感を覚える。多少、「形」こそ違うが、「中身」は同じ。どこも違わない。 ……こう書くからといって、決してホームレスの人を、バカにしているのではない。人生は、無数 の歯車の中で、動く。運・不運というよりも、そういう無数の歯車を、すべて把握(はあく)するの は、不可能。そのため狂うときには、狂う。しかし狂ったからといって、その人の責任ではない。 仮にその人がホームレスになったからといって、その人の責任ではない。また今、ホームレス でないからといって、私はホームレスの人とは違うと思うのは、正しくない。 私たち夫婦も、どれだけ険悪なムードになっても、息子たちの前では、平静を装う。仲のよい フリをして、心配をかけないようにしている。仕事にしても、家族のためと思うから、多少の無理 もできる。無理をしても、苦にならない。もう少し若いころには、息子たちのほしがりそうなもの を手に入れたとき、私は息子たちの喜ぶ顔を早く見たくて、家路を急いだことがある。家族とい うのは、そういう形で、私を支えてくれた。今も支えてくれている。 ……と、書いて、今、こんな問題が起きつつある。私の家は、築二六年になる。二六年という と、それほどボロ家ではないと思う人もいるかもれない。しかし実際には、ボロボロ。いまでいう 欠陥住宅で、新築当初から、ドアも開き戸も、満足に開けたり閉めたりできなかった。ピンポン 玉を置いたら、あちこちにころがっていった。新築後、数か月目に台風がやってきて、そのと き、八畳間の天井が、天井さら、どさっと落ちてきたこともある。(ホント!) その建築会社は、私たちの家を建てたあと、そのまま倒産。その上、その親会社は、暴力団 が経営する建設会社。あれこれ文句を言ったが、結局、何もしてもらえなかった。で、そういう 状態で、二六年がすぎた。 ところが、である。たまたまある建築会社の見学会に行き、そこで住所と名前を書いたら、何 と、「金賞」が当たったのである。生涯において、クジなど、めったに当たったことがない私が、 である。これには驚いた。三〇〇〇人近い応募者の中から、五人だけという。(もっともそれが 建築会社の手かもしれないが……?) 金賞といっても、坪単価を、一三万円ほど安くしてくれるというもの。たとえば坪単価三八万 円の家が、二五万円になる、と。こういうデフレの時期だから、家を建てるというのは、ある意 味でチャンスかもしれない。金利も安い。五〇〇万円借りても、月々の返済額は二万円と少し だそうだ。仕事は、ジリ貧、斜陽、先細りだが、しかし今のままのボロ家では、あと一〇年も耐 えられそうにもない。雨戸など、引いたとたん、こわれてしまう。そこで……、思い切って…… と、考えたが、この不景気感は、何ともしがたい。 いや、私たち夫婦だけなら、今のボロ家で、一向に構わない。ワイフも、そう言っている。しか し来年五月に、二男夫婦が、孫をつれてアメリカから帰ってくる。それを思ったとたん、ムラム ラとやる気が起きてきた。改築する気が起きてきた。「今が、チャンスだ!」と。 こうして「家族」が、そのつど私を動かす。今までも、繰り返し、動かしてきた。懸命になったこ とも、必死になったこともある。そこで最初の話。もし私に家族がいなかったら、私はこうまで自 分を動かすことはなかっただろうと思う。また動かなかった。だから、もしその家族がいなかっ たら、私はまちがいなく、今ごろはホームレスになっていたと思う。それは推察ではない。本当 にそう思う。私はもともとそういう人間なのだ。 (02−12−24) ●実際に建てるかどうかは、まだ未定です! +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(449) 不安神経症 ●私のばあい 国際情勢がおかしい。経済状況もよくない。ふと気がつくと、今まで経験したこともないよう な、痛みがある。もしや……と思う。それに、何かにつけて、忙しい。すべきことは山のようにあ るのに、どれもはかどらない……。 そういうとき、どっと不安感が、押し寄せてくる。何をしても、心の中がフワフワした状態にな る。つかみどころがない。何も状況は悪くなっていないはずなのに、「変わった」「悪くなった」と 思う。あるいは「本当は問題はあったのだが、今まで、それに気がつかなかっただけ」と思う。 一度、こういう状況になると、「なぜ生きているのか」とか、「生きていて、何になるのか」とか、 そんなことを考えてしまう。「この先、生きていかれるだろうか」とか、「今まで何のために生きて きたのだろうか」とも考えこともある。こういうのを、一般では、「うつ」という。ひどくなったのを、 「うつ病」という。 私のばあい、何かのきっかけで、よくそうなる。大きな事件ではない。ささいなことで、そうな る。それをしばらく考えていると、やがて悶々とした袋小路に入ってしまう。そうなると、自分の 姿が客観的に見えなくなる。わからなくなる。小さな問題と大きな問題の区別ができなくなる。 それこそ悩まなくてもよいような問題で、悩んでしまう。 ●解消法 幸運にも、本当に幸運にも、私のワイフは、たいへん情緒の安定した女性である。結婚して から三〇年、今までにただの一度も、自分を取り乱して、泣いたり叫んだりしたことはない。私 とちがい、クソまじめ。融通がきかないところはあるが、そのため、私には、よい「カガミ」になっ ている。カガミというのは、私は自分の姿を、ワイフの心の中に映して、自分の姿を見ることが できる。 たとえば自分の精神状態がおかしくなったら、「いま、ぼくはおかしいか?」と聞く。するとワイ フは、「そうね、ピリピリしているわね」と、アドバイスしてくれる。あるいは、問題の大小がわか らなくなったときは、「どう思う?」と聞く。するとワイフは、「何でもない問題よ」と教えてくれる。 たとえば少し前、私が市内で借りている駐車場のことで、隣人とトラブルになったことがある。 いつもその隣人は、私の駐車場のほうへ、ギリギリに駐車してくる。反対側は大きくあけたまま である。そのため、私のほうは、車の乗りおりさえ、たいへん窮屈(きゅうくつ)な思いをしなけ ればならなかった。 こういうとき、である。文句を言えば、それで問題は解決する。しかし隣人は、どこかがんこそ うな男だ。が、悪い人ではない。「どう言おうか」「何と言おうか」と考えているうちに、その袋小 路に入ってしまう。「まあ、がまんすればそれですむことだから、穏便にすまそう」という気持ち も働く。それに文句を言わねばならないほど、大きな問題でもない。 そんなとき、また別の問題が起きてきた。そのときも、私が書いた本のことで、それを読んだ 人から、抗議のメールが入った。「会って話をしたいから、会わせろ」と。さらに、つぎの問題が 起きてきた。夜、寝るときになったら、右腕の関節の筋肉が、勝手にピクピクと動き始めた。い つか脳腫瘍(しゅよう)でもそうなると、何かの本でそう読んだことがある。こういうことが重なる と、頭の中がパニック状態になる。わけがわからなくなる。 で、そういうときは、まず、ワイフに相談する。が、それですぐ解決するわけではない。そのと きはそのときで、「ワイフのほうが、まちがっている」というような心理状態になる。「ワイフは、 何もわかっていない」と思うこともある。どういうわけだか、「自分が正しくて、ほかの人は無知 だ」というふうに思うこともある。が、私のほうがふつうではない。ないことは、長い間の経験で わかるようになった。こういうのを、医学の世界では、病識というらしい。「自分でおかしいこと が意識できること」をいう。私のばあい、まだその病識がしっかりしているから、まだよい。もし この病識がなくなったら……! ゾーッ! ●まじめ病 現代生活というのは、まじめな人ほど、生きにくい。そういうしくみになっている。反対に、どこ かズボラで、ずるく、ふてぶてしい人ほど、生きやすい。このことは子どもの世界を見ればわか る。子どもの世界でも、繊細(せんさい)で、感受性が強く、まじめな子どもほど、何かと、集団 になじめない。生きにくい。ストレスから、いろいろな問題をひき起こす。 その「生きにくさ」が、私のような人間を、一方で大量生産している。一説によると、アメリカ人 のうち、約三分の一がそうだといわれている。つまりそれくらい、現代生活には、「ひずみ」があ る。つまりそれくらい、私のような人間は多い。ひょっとしたら、あなたもそうかもしれない。あな たの夫や妻がそうかもしれない。だからこうした状態を、「まじめ病」と呼ぶ人もいる。病気の 「病」という文字を使うのはいやだが、こじらすとたしかに病気になる。 だから私は、もう気にしない。私は私だ。こういう私が私なのだ。いくら注意していても、風邪 をひくときは、ひく。同じように、心も、落ちこむときは、落ちこむ。しかたのないこと。どうしよう もないこと。ただ私のばあい、一つだけ注意していることがある。 自分が落ちこんでいると感じたときは、自分で自分に、「今は、おかしい。正常ではない。だ から今は、判断をくだしてはいけない」と、言い聞かせるようにしている。これは長い間、自分の 心の欠陥(けっかん)と戦っているうちに身につけた、私の生きる処世術のようなものである。 (02−12−24) ●悲しみは、知識である。多く知れば知るほど、恐ろしき真実を知り、嘆くことになる。なぜなら 知識の木は、生命の木ではないからである。(パスカル「パンセ」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(450) BW教室、 ●新年中児、新年長児のみなさんへ、 「BW教室」の「BW」は、「ブレイン・ワーク」という意味。「知能ワーク」という意味である。昔、 「主婦と生活」という雑誌社に、井上K氏という編集長がいた。その編集長が、私の教室を紹介 してくれるとき、「林教室ではおもしろくないなあ」と言ったので、その場で「BW教室」とした。今 では、この名前が、たいへん気にいっている。 私の教室では、年間を四四レッスンに分け、毎回、まったくちがった授業をしている。四月か ら順に並べてみる。(「まなぶくん・幼児教室」(学研)では、四八のテーマに分け、商品化したこ ともある。) あいさつ……大きな声を出せるように指導する。 ちえあそび……考える楽しさを教える。 もじ……文字のもつおもしろさをわからせる。 かず……数の基本について。 ことば……言葉を音に分解したりして、言葉の遊び。 おおきい、ちいさい……大小の判断、数の大小。 かぞく……家族の関係と、役割について。 とおい・ちかい……遠近感覚から、距離を数値で表すところまで。 おえかき……絵の話。絵の描き方など。 かたち……形の基本、形遊びなど。 いろ……色の世界、色づかい、ぬり絵あそび。 えいご……英語だけで、授業を展開。 きのう、きょう……時間の世界と、きのう、今日の感覚。 おはなし……紙しばいづくりと、発表。 ながい、みじかい……長い、短いの判断。 いいこと、わるいこと……善悪の判断と、その感覚。 おんかん……音遊び、音感遊び。 さぎょう……こまかい手作業をとおした、遊び。 しごと……家庭における役割と、手伝いについて。 しつけ……基本的なマナーほか。 きせつ……四季と、一二か月の話など。 えんぎ……体や手足をつかった表現力。 ほんよみ……読書指導。 どうぶつ……虫、魚、けもの、鳥の特徴と分類。 はな、き……植物の基本。 こうさく……工作の楽しさと、箱づくり。 うた……歌唱指導とみなの前での表現力、ほか。 こう書くと、つまらない内容に思う人もいるかもしれないが、実際には、子どもたちを笑わせな がら、授業を進める。「笑えば伸びる」が、BW教室の持論でもある。もしあなたが興味をもって くれるなら、授業はすべて公開しているので、見学にきてほしい。あなたは子どもたちの伸びや かな様子に、必ず驚くだろう。これはウソでも、誇張でもない。この教室の授業には、私の三三 年のキャリアがこめられている。ここまでカリキュラムを作りあげるのに、それだけで一〇年以 上かかった。もちろん教材類は、すべて手作り。毎回一〇〇枚以上の教材を使っている。自信 がある。 (見学を希望してくださる方へ) 053−452−8039まで伝言を残してください。 あるいは、「はやし浩司のサイト」から、メールで。 追って、日時などを、連絡します。 現在、二〇〇三年度四月からの、新年中児、新年長児のみなさんを募集しています。 「さあ、どうだ! これがはやし浩司の世界だ!」と言えるような、個性的な教室です。決し て、みなさんの期待を裏切るようなことはしません。どうか一度、ご訪問ください。 (場所、浜松市伝馬町311−1、TKビル、3階です。) (02−12−24) ●机もイスも、自分で作った。温もりのある教室をめざした。 ●こどもがおもちゃ箱に入ったような錯覚を覚える教室にした。 ●私の教育の哲学のようなものを、BW教室に感じていただければ、うれしい。 ●子どもは、人の父(ワーズワース「われ見るとき、わが心は、はずむ」) ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(451) 挑戦的に生きる 人間というのは、うしろ向きに生き始めると、どこまでもうしろ向きになる? そしてものごと を、悲観的に、かつ悪いほうばかりに考える? 気力も弱くなり、その分、保守的になる? 変 化よりも、安泰(あんたい)を好むようになる? 人間の「やる気」を生むのは、脳の中でも、辺縁系にある帯状回という組織だそうだ。この帯 状回がうまく機能すれば、やる気が出てくる。しかしそうでなければ、そうでない。つまり「やる 気」も、大脳生理学の分野で、生理の一つとして説明されるようになってきた。しかし……。 「しかし……」と書いたのは、いくらそうだとわかったところで、「人間」というものを全体として 見たときには、考え方も変わってくる。たとえば私の電子マガジンを例にとって、考えてみよう。 私は今のところ、二日おきに、電子マガジンを発行している。この発行について、一番の励み になっているのは、毎回、少しずつだが、読者がふえていること。「新しい読者を失望させたくな い」という思いが、ともすればいいかげんな気持ちになりそうな私を、いましめる。そしてそれが 「やる気」へとつながっていく。 この段階で、(読者がふえる)→(喜びになる)→(快感に思う)というのは、脳の中で、どういう メカニズムが働くことによるのか。ふつう(快感)は、脳の中に、エンドロフィンとかエンケファリ ンとか、麻薬様の物質が放出されることによって、生まれる。が、その前提となる(喜び)は、脳 のどの部分で、どのようにして生まれるのか。それがわかれば、ここでいう(やる気)は、どのよ うにすれば引き出せるかがわかる。 ……が、残念ながら、私にはわからない。私には、ここまでしか書けない。しかし経験的に は、こういうことは言える。 冒頭で、うしろ向きな生き方について書いたが、やる気を起こすためには、その反対のことを すればよいのではないか、と。要するに前向きに生きるということだが、もう少し具体的には、 挑戦的に生きるということ。「やってくだけろ」式に生きるということ。それは決して、むずかしい ことではない。これは私の経験だが、ほんの少しの思い切りがあれば、それができる。清水の 舞台から飛びおりる……というような、おおげさなことではない。風に向かって、「さあ、こい!」 と叫ぶ程度でよい。たったそれだけのことだが、それで私たちの生き様は、ドミノ倒しのドミノの ように、つぎつぎと変わっていく。 人間というのは、前向きに生き始めると、どこまでも前向きになる? そしてものごとを、楽観 的に、かつよいほうばかりに考える? 気力も強くなり、その分、革新的になる? 安泰よりも、 変化を好むようになる? ……私は、いつも自分にそう言い聞かせながら、生きている。本当のところは、よくわからな いが……。 (02−12−25) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(452) 恐怖 その数日前から、少しおかしいとは感じていた。しかしその夜になって、症状がはっきりと現 れてきた。右腕の関節の内側が、勝手にはげしくけいれんするようになった。シャツをまくって 見ると、血管を含めた筋肉が、そのつどギクギクと動くのがわかる。 先日、大学の同窓会に出たら、ひとり、脳腫瘍(しゅよう)になった男がいた。その男が、自分 の病歴を、あれこれと話してくれた。手術についても。幸い、彼のばあい、手術が成功して、そ うして同窓会に顔を出すことができたわけだが、話を聞いているうちに、背筋が何度もこおりつ くのを覚えた。本や雑誌、あるいは人づてに聞く話とは、迫力がちがう。その中で、その男は、 「脳腫瘍の二大症状は、はげしい頭痛と、しびれだ」と言った。これはあくまでも、彼が経験した 症状だが……。 私は、勝手にけいれんを繰り返す腕を見ながら、やがて言いようのない恐怖にかられた。「も しや……」と思いつつ、「そんなはずはない……」と、一方で打ち消す。この繰り返し。そしてそ のたびに、言いようのない恐怖が、増幅される。 私はそのとき、「死」について考えた。時計を見ると、もう夜中の一時。床についた直後には、 心地よい眠気があったが、こうなると、眠気など、どこかへ吹っ飛んでしまう。横で寝ていたワイ フを起こして、症状について話した。ワイフは、「筋肉痛じゃないの」と、寝とぼけたことを言っ た。「湿布薬でも張っておいたら」とも。私は起きて、湿布薬を張った。しかしけいれんは収まら なかった。 こういう心理状態になると、ものの考え方が、極端にうしろ向きになる。「自分は今まで、何を してきたのだろう」という思い。「このまま生きていて、何になるだろう」という思い。そういう思い が、つぎからつぎへと現れては消える。同時に、無数の後悔が、これまたつぎからつぎへと現 れては消える。「あの人に、もっと親切にしてあげればよかった」「あの人を、許してあげればよ かった」と。が、その中でも一番、後悔したのは、脳腫瘍になった男に対する、私の態度だっ た。私はその男の話を聞きながら、恐怖は感じていたが、どこか興味本位だった。彼も、どこ か茶化して話したこともある。私はそういう深刻な話を聞きながらも、同情することさえしなかっ た。私は自分の恐怖をヒシヒシと感じながら、そういうふうに恐怖を覚えるのは、きっとそのせ いだと思った。 で、翌日、起きると、ウソのように症状は消えていた。それから数日、症状は出なかった。さら にそれから数日も、症状は出なかった。そういうことから、原因は、パソコンの使いすぎというこ とになった。とくに今度新しく買ったパソコンは、キーボード部が高く、その分、手や腕を宙に浮 かした状態で使う。それがよくなかったらしい。が、それはそれとして、私はまた新しい学習をし た。 「死の恐怖」を前にすると、懸命に生きてきた自分など、まったく価値がないということ。もちろ ん名声(私には名声はないが……)や、地位、肩書き(これらもないが……)もまったく価値が ないということ。そういうものは、一片の助けにもならない。まったくならない。そして私は、その 状態のとき、「さあ、死よ、おいでになりましたか」とは、とても思えなかった。死の恐怖を前にし て、ガタガタになってしまった。と、同時に、私という人間は、その程度かと、改めて思い知らさ れた。 おかげで今日は健康だった。おかげでこのところ、毎日、自分の健康を、それまで以上に実 感できるようになった。そしてそういう思いが、私をして、以前にもまして、考え、書かせるように なった。「元気なうちに、とことん考えてやるぞ。とことん書いてやるぞ」と。腕がけいれんでダメ になっても、かまうものか! (02−12−25) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(453) 幸福への道 三男が苦しんでいる。三年間、通った大学だが、「自分には合わない」と言い出している。理 由は無数にあるのだろう。落第したことも、大きな理由かもしれない。あるいはそれ以前にも、 いろいろあった? ワイフは、「一応、休学届けということにしたら?」と話している。私もそう思 うが、しかしすべては三男が決めること。 ちょうどクリスマスイブの夜だった。今年のクリスマスも、ワイフと二人だけ。長男が仕事から 帰ってくるのを待ったが、残業とかで、いなかった。 ハッピーバースディ、ツー、ユー! ハッピーバースディ、ツー、ユー! ハッピーバースディ、ディア、イエス・キリスト! ハッピーバースディ、ツー、ユー! しばらくしてから、まず二男に電話をした。家にはいなかった。留守番電話に伝言を残した。 クリスマス休暇には、デニーズの家に行くと言っていた。つづいて三男のアパートに電話をし た。三男も留守だった。伝言を残した。 「幸福になる道はひとつではないよ。回り道も寄り道もある。わき道もある。でも、どんな道で も、全部、幸福につながっているよ。もともとね、まっすぐな道なんてものは、ないよ。お前はお 前で、判断すればいい。学部変更ができなければ、退学もいいだろう。自分で決めな。どんな 判断でも、パパは、お前を支持するからね」と。 私もずっと、わき道ばかり歩いてきた。浜松へきてからは、そうだった。一度だって、王道を 歩いたことがない。でも、私は自由だった。いつもしたいことができた。今も、している。私が頭 をさげなければならない人は、だれもいない。公的な保護も恩恵も、一切、受けていない。ずっ と、私だけの力で生きてきた。が、その私が不幸だったかといえば、決してそうではない。不幸 というのは実感できるものだが、幸福というのは、それがなくなってはじめてわかる。私は、そう いう意味で、不幸になったことはない。つまり幸福だった。 たいしたことはできなかった。そういう思いは、いつもある。不完全燃焼したままの人生だっ たような気もする。しかし思い残すことは、ほとんどない。だれが私のかわりに生きても、また 何度生きても、その人生は、こんなものだったと思う。これが限界だったと思う。私はやるべき ことはした。できることはした。それ以上、私は何を望むのか。何を望むことができるのか。 やがて長男が仕事から帰ってきた。プレゼントで買ってきた手袋を渡すと、うれしそうに、何 度もはめたり、はずしたりしていた。そしてもう一度、みんなで、あの歌を歌った。 ハッピーバースディ、ツー、ユー! ハッピーバースディ、ツー、ユー! ハッピーバースディ、ディア、イエス・キリスト! ハッピーバースディ、ツー、ユー! 内心では、こんなふざけた歌を歌うと、デニーズの両親は怒るだろうなと思いながら歌った。 あちらの家族は、サザン・バプティストの熱心な信者だ。長男は、宣教師をしているという。「来 年からは、やっぱりこの歌はやめて、『きよし、この夜』を歌うことにしよう」と、ワイフに言うと、 ワイフは軽く笑った。 (02−12−25) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(454) 世間体という世界 ●人、それぞれ…… 私はタバコを吸わない。だから、タバコを吸う人の気持ちが、ほとんど理解できない。あんな ムダなものを吸って、デタラメな税金を払って、病気になる。ガンになる。家は煙で茶色にな る。カーテンもジュータンも、ソファも汚れる。それに臭い。が、なぜ人は、タバコを吸うのか。 同じように、私は世間体を気にしない。だから、世間体を気にする人の気持ちが、ほとんど理 解できない。世間体を気にする人は、ことあるごとに、「世間、世間」というが、その世間は何を してくれる? 世間体を気にすればするほど、自分がどこかへ行ってしまう。人生をムダにす る。が、なぜ、人は世間体を気にするのか。 ……と、今までは考えていた。しかしタバコの味は、タバコを吸う人しかわからない。同じよう に世間体を気にする人の気持ちは、世間体を気にする人しか、わからない。人は、それぞれ の思いをもって、考え、行動する。私のような部外者が、あれこれ言っても、はじまらない。 そこで、タバコは、ともかくも、もう一度、世間体について考えてみる。人は、なぜ世間体を気 にするか? そこには何か、理由があるのか? ●世間体という世界 世間体を気にする人は、当然のことながら、他人のことを、人一倍、気にする。気にかける。 もともとは面倒みのよい、世話好きな人とみる。そのため詮索(せんさく)好きで、他人の話に、 何かにつけてクビをつっこむ。ある女性(六五歳)は、その近所の人のことは、すべて知ってい る。家族構成はもちろん、息子や娘の嫁ぎ先、さらには就職先まで。つまりその女性は、そうい う形で、相手の家庭の内部事情を知りつくすことで、自分の立場を確保している。 相手を知りつくすということは、相手の弱みをにぎることになる。そしてその弱みを握れば、そ の分だけ、自分は優越的な位置に立つことができる。そういう点では、世間体を気にする人 は、総じて、自意識過剰であり、そのためどうしても、ものの考え方が自己中心的になりやす い。あるいは世間の中心に自分がいると錯覚する。世間体にコリコリにかたまっている人にす れば、自分が裁判官であり、さらには神なのだ。 実は、ここに世間体を気にする人の、心のメカニズムがある。実に簡単なメカニズムである。 つまり世間体を気にする人は、自分自身も相手に対しては、その「世間体」として働く。ときに は、相手をたたえ、ときには、相手をけなす。またときには、相手に同情し、ときには、相手を 笑う。つまり相互にそうしあうことで、自分たちの人間関係を濃密にしている。その人間関係こ そが、世間体を気にする人どうしの、「心のつながり」になっている。 ●孤独という無間地獄 孤独を前にすると、かなり精神的に強い人でも、ひとたまりもない。孤独を、無間地獄の一つ に考える人もいる。それはまさに地獄そのものといってよい。ふつうの地獄ではない。そのため 自分の命すら断つ人もいる。人はなぜ人とのつながりを求めるかといえば、それはとりもなおさ ず、孤独と戦うためである。孤独が、すべての「人間的なつながり」の原点にあるといってもよ い。つまり孤独が、あらゆる人間の行動のすべてを操っている。で、孤独から逃れるため、あ るいは孤独と戦うため、人は、心の世界をさまよう。 ところが、世間体を気にする人は、ここにも書いたように、濃密な人間関係をもっている。一 見、窮屈(きゅうくつ)な世界に見えるが、その濃密な人間関係の中に身をおくと、孤独感がぐ んとやわらぐ。それは実に、「甘美な世界」でもある。私は麻薬を知らないが、麻薬で心をまぎ らわすような、そんな世界と言ってもよい。 ……と書くと、「つながりというなら、親子でも、夫婦でもあるではないか」と反論する人がいる かもしれない。何も、世間という他人の中に求めなくてもよいではないか、と。しかしこのタイプ の人にしてみれば、「世間体の世界」そのものが、生きがいになっている。もっと言えば、世間 に映る自分の姿が、そのままステータスになっている。そのため当然のことながら、世間体を 気にする人は、メンツ、見栄、体裁にこだわる。が、それだけではない。 ●独特の世界 先の女性(六五歳)と話していると、一種独得の世界に住んでいるのがわかる。バーチャルな 世界というか、それに近い世界である。その女性のばあいも、自分自身の価値を、他人の目 の中に置き、他人に注目されればされるほど、死後の世界も、豊かになると考えている。具体 的には、葬式のあり方を、たいへん気にしている。まだ六五歳だというのに、会うひとごとに、 「私が死んだら、線香の一本でもあげにきてください」を、口グセにしている。そういう意味で は、このタイプの人にとっては、子どもも、そして妻や夫も、自分を飾る道具にすぎない。 このように世間体というのは、それを気にする人の心の中では、その人の価値観、人生観、 さらには死生観と深く結びついている。が、ただ結びついているだけではない。こうしたつなが りをもつことによって、孤独という地獄に対して、みなが団結して共同戦線を張ることになる。ひ とりではできないが、皆といっしょなら、こわくない、と。 ●あくまでも相手の立場で だから世間体を気にする人に向かって、「くだらないから、やめなさい」と言っても意味がな い。ないばかりか、ばあいによっては、それを言うことによって、その人を窮地(きゅうち)に追 いこむことになる。つまり口で言うほど、この問題は、簡単なことではない。とくに他人の目の中 で生きている人にとってそうである。他人の目を否定するということは、そのままその人を否定 することになる。軍人に向かって、「勲章など、無意味ですよ」と言うのと同じになる。あるいは 公務員に向かって、「肩書きや地位など、無意味ですよ」と言うのと同じになる。 要するに生きザマの問題ということになる。「世間体」についての問題が、一筋縄ではいかな いことがわかってもらえれば、うれしい。この問題は、日本の風土、文化、歴史に深く根ざして いる。 (02−12−25)※ ●因習にぜんぜん屈しない男女から成りたつ世界のほうが、みんなが画一的になるような社 会よりも、おもしろいであろう。(バートランド・ラッセル「幸福の征服」) ●皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき。(マーク・トウェーン「ト ム・ソーヤの冒険」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ M 子育て随筆byはやし浩司(455) 子育てポイント ●叱っても、威圧しない 『威圧で閉じる、子どもの耳』と覚えておく。威圧すれば、子どもの耳は閉じてしまい、一度、 その状態になると、あとは叱っても意味がない。 よく親や先生に叱られて、しおらしくしている子どもがいる。しかし反省しているからそうしている のではなく、こわいから、そうしているだけ。中には、叱られじょうずな子どもがいる。先生が何 か叱りそうになると、パッと土下座して、「すみません」と、床に頭をこすりつけるなど。多分、親 の前でもそうしているのだろう。が、このタイプの子どもほど、何も反省していない。その場をの がれたいがため、そしているだけ。 子どもを叱るときは、恐怖心を与えてはいけない。言うべきことを淡々と言い、あとは時間を まつ。 ●「核」攻撃はしない 子どもを叱るときでも、その子どもの人格の根幹、つまり「核」にふれるような攻撃はしてはい けない。「あなたはやっぱりダメな子ね」「あんたなんか、いないほうがよい」など。 子どもにもよるが、核に近ければ近いほど、子どもはキズつく。親は、励ましたり、自覚させる ためにそう言っているだけと思っているかもしれないが、受け止める子どものほうは、そうでは ない。私も子どものころ、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」とよく言われた。しかしその言葉 ほど、私を追いつめる言葉はなかった。つまりそれが私にとっては、「核攻撃」だった。 ●恐怖感は禁物 恐怖感、とくに極度の恐怖感は、子どもの心をゆがめる。はげしい夫婦げんか、暴力、虐 待、育児拒否など。親は「たった一度」と思うかもしれないが、そのたった一度で、大きな心の キズを負う子どもは、いくらでもいる。 ある女の子(二歳)は、はげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役のひとりごとを言うよう になってしまった。母親は「気味が悪い」と言ったが、その女の子は、精神そのものが、分裂し てしまった。 また別の男の子(四歳児)は、お湯をこぼしたことを、祖父にはげしく叱られた。それが原因 で、その男の子は、自閉症を誘発してしまった。 こうしたケースで共通しているのは、「恐怖」である。親や祖父は「叱っただけ」と思うかもしれ ないが、子どもは、それを「恐怖」ととらえる。あくまでも子どもの立場で考える。 ●引き金を引かない インフルエンザは、インフルエンザの菌が原因で起こる。同じように、心の病気は、ショックが 原因で起こる。だれでも、その条件さえ整えば、風邪をひく。同じように、どんな子どもでも、ショ ックを与えると、心の病気を引き起こす。つまり心の病気にかからない子どもは、いない。そう いう前提で、子どもの心は考える。 先生に叱られたのが原因で、チックや夜尿症になる子どもは、いくらでもいる。迷子を経験し たあと、分離不安になってしまう子どもも多い。そんなわけで子どもに与えるショックには、注意 する。とくに満四・五歳前の子どもには、注意する。 ほとんどの親は、ショックを与えながら、その与えたことにすら気づかないでいる。よくある例 は、泣き叫ぶ子どもを無理に車に押し込め、学校へつれていくケース。親は「不登校児になっ たらたいへん!」と思ってそうするが、そのたった一度のショックこそが、子どもを本物の不登 校児にしてしまう。そしてそのあと、「A君が悪い」「先生が悪い」と言い出す。(もちろんそうでな いケースも多いが……。) どんな子どもにも、心の問題は潜んでいる。問題のない子どもは、いない。だから引き金は 引かない。 ●親の情緒不安定は、百害のもと 何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。長い時間をかけて、子どもにさ まざまな影響を与える。もっとも、親自身が、それに気づいていれば、まだよい。大半の親は、 自分がそうであることに気がつかないまま、それを繰り返す。 子どもの側からみて、とらえどころのない親の心は、子どもの心を、かぎりなく不安にする。そ の不安がつづくと、子どもは心のよりどころをなくす。「よりどころ」というのは、絶対的な安心感 を得られる場所のこと。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。子どもは、この絶 対的な安心感のある場所があってはじめて、やさしく、おだやかな心をはぐくむことができる。 もしあなたが自分自身の不安定さを感じたら、基本的には、子育てから遠ざかるのがよい。 「今の私は、おかしい」と感じたら、なおさらである。これは子育ての問題というよりは、親自身 の問題ということになる。 ●家庭教育は、心づくり 子ども(幼児)にものを教えるときは、何をどう教えたかではなく、また何をどう覚えたかでは なく、何をどう楽しんだかを考えながら、する。そういう意味で、子どもの家庭教育は、すべて、 「心づくり」と考える。「楽しい」「楽しかった」という思いが、やがて子どもを伸ばす原動力とな り、子どもを前向きにひっぱっていく。 よく子育ては、「北風と太陽」にたとえられる。北風というのは、威圧、強制、無理などが日常 化した育て方をいう。一方、太陽というのが、ここでいう「心づくり」をいう。家庭学習では、太陽 がよいに決まっている。 こう書くと、「それではまにあいません」という親がいる。「心づくりをしていると、遅れてしまう」 と言うのである。しかしそれも子どもの「力」のうち。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。子ど もの学習には、ある程度の無理はつきものだが、コツは、無理を加えるにしても、そのおおら かさを、食いつぶしてしまわないこと。ほどほどのところで、あきらめ、ほどほどのところでやめ る。 子どもがあなたと勉強らしきことをしたあと、「ああ、楽しかった」と言えば、それでよし。そうで なければ、勉強のやり方そのものを、反省する。 ●神経疲労に注意 子どもは、神経疲労には、たいへんもろい。それこそ、昼間、一〇分程度神経をつかわせた だけで、ヘトヘトに疲れてしまう。五分でも、疲れる子どもは、疲れる。病院で診察を受けただ けで疲れる子ども、おけいこ塾の見学に行っただけで疲れる子ども、先生にきつく叱られただ けで疲れる子どもなど。決して、安易に考えてはいけない。 子どもは神経疲れを起こすと、わけもなくぐずったり(マイナス型)、暴言を吐いたり、暴れたり する(プラス型)。吐く息が臭くなったり、腹痛や下痢などを繰り返す子どももいる。どちらにせ よ、そういう形で、自分の中にたまったストレスを発散させようとする。だからそれを悪いことと 決めてかかって、子どもをおさえつけるようなことはしてはいけない。 もし子どもが神経疲れの症状を見せたら、ひとり、のんびりとくつろげるような環境を用意す る。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果になるので注意する。あとはスキンシップを多く して、CA分、MG分の多い食生活に心がける。 ●あきらめることを恐れない 子どもというのは、親が何かをすれば伸びるというものではない。しかし何もしなくても、伸び る。しかし親があせればあせるほど、実際には、逆効果。かえって伸びる芽をつんでしまうこと もある。しかし親には、それがわからない。「まだ何とかなる」「うちの子はやればできるはず」 と、子どもを追いたてる。で、結局、行き着くところまで、行く。また行かないと、親も気がつかな い。 こわいのは、子どもには、二番底、三番底があるということ。たとえば進学希望校にしても、B 中学からC中学へレベルを落としたとする。そのとき、親は、C中学へレベルを落としたことで、 子どもを責める。しかしこの状態で、子どもを責めれば、今度は、D中学、E中学へと落ちてい く。実際、こういうケースは、多い。 が、親が、「まあ、こんなものだ」とあきらめたとたん、その時点を起点として、子どもは伸び 始める。だから、子どもの勉強では、あきらめることを恐れてはいけない。もちろんだからとい って、子どもに好き勝手なことをさせろとか、子育てを忘れろということではない。「あきらめる」 ということは、「受け入れる」ということ。つまりその度量の広さこそが、親の「愛」の深さというこ とになる。 (02−12−26)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(456) 消息 古い名刺入れが出てきた。私が学生時代から、社会へ出てから、四、五年の間に知りあった 人たちだ。名前は、何となく覚えているが、顔まではよく思い出せない。 で、そのまま名刺入れを、机のスミに置いておいた。いつしか再び、それは本の間に埋もれ た。が、ある日、仕事のあいまに、その中の名前を、インターネットの検索ページを使って検索 してみた。簡単な肩書きと、名前を入れると、その人に関係のあるサイトや、ページが一覧表と なって出てくる。 Mさん……今では、M物産という商社の子会社で、社長をしている。 Iさん……横浜で整形外科医をしている。 Iさん……昔は、Aという繊維会社にいたが、ヒットなし。 Oさん……愛知県のA高校に勤めていたが、ヒットなし。そのかわり、Oさんの個人のホーム ページに当る。トップページに、大型バイクの写真が載っている。学生時代から、バイクが趣味 だった。 Hさん……K大学の経済学部を卒業したので、今ごろは活躍していてもおかしくないのだが、 まったくヒットなし。どうしたのだろう。 Kさん……O大学文学部で、ドイツ文学の教授をしている。 Oさん……製紙会社の社長をしている、などなど。 この三〇年間、まったく音信のなかった人たちである。それだけに、そういう人たちの「今」を 知ると、その間の「時の流れ」を、強く感ずる。あっという間の三〇年間だが、同時に、その三 〇年間は、私を変え、みんなを変えた。浦島太郎は、乙姫様にもらった玉手箱をあけて、あっ という間に、おじいさんになってしまったが、私の心境も、それに近いものだった。 ただ、ここでおかしな心境も経験した。その中の何人かは、個人のホームページをもってい た。今はそういう時代だが、しかし私はただホームページをのぞくだけで、掲示板にメモを残す ことも、また書かれたアドレスにメールを書くこともしなかった。本当なら、なつかしいのだから、 メールを書いてもよさそうなものだが、しかし、しなかった。なぜだろう。 いろいろ理由がある? 一つは、こちらはたまたま相手を見つけたが、相手にとっては、そう でない。私がいきなりメールを書いたりすると、驚くかもしれない。あるいはめんどうに思うかも しれない。インターネットは、手ごろだが、その手ごろさが、かえってわざわいする。再びつきあ うとしても、それなりの覚悟が必要。その覚悟もないまま、「やあ、元気?」だけでは、すまされ ない。かえって失礼というもの。 二つ目に、どこか新しい出会いがめんどうになった。新しい人に会って、交際をはじめても、 心のどこかで、「また一からスタートか……」と思うと、気が重くなる。私は人との出会いも多く知 っているが、またそれと同じくらい、別れも知っている。それに人とのつきあいも、おのずと限界 がある。マナーがある。若いときのように、人間関係を食い散らして進むということは、もうでき ない。それよりも、今は、古い友人を、最後までていねいに育てたいという気持ちのほうが強 い。 それにもう一つの理由は、これが本当の理由かもしれないが、相手の状態がよくわからない のに、こちらから興味本位で、メールを書くことは許されない。成功した人(?)もいれば、失敗 した人(?)もいる。何かの会で、たがいに納得した状態で会って、消息を聞きあうのなら、話 は別だ。が、そうでないなら、やはりすべきではない。みながみな、心が、今、オープンな状態 にあるとはかぎらない。 ……と考えて、今度は、私のことを考えた。私もホームページを公開しているので、ひょっとし たら、昔の私を知っている人で、私のホームページをのぞいている人もいるかもしれない。そう いう人が、突然、私にメールを送ってきたとする。いや、実際、そういうことはよくある。たいてい は昔の教え子たちである。「先生、見ましたよ」とか何とか、メールで書いてくる。私のばあい は、正直言って、それがうれしい。迷惑だと思ったことはない。が、もし私が、今、仕事の面と か、健康の面で大きな問題をかかえていたら、どうだろうか。私ははたして今と同じような心境 で、そうしたメールを読むことができるだろうか。 私は一通りあちこちのページをながめたあと、(x)をクリックして、検索ページを閉じた。「みん な、がんばっているんだなあ」という思い。「私もがんばろう」という思い。そういう思いを心のど こかで強く感じたとき、このエッセーを書き始めた。 (02−12−26) ●知り合い……相手が貧乏だったり、無名であったばあいには、顔見知りくらいだと言われる が、相手が金持ちであったり、有名であったばあいには、親密な人だと言われる人間関係をい う。(ピアス「悪魔の辞典」) ●世の中には、三種類の友がいる。諸君を愛する友。諸君を忘れる友。諸君を憎む友。(シャ ンフォール「格言と反省」) ●苦しみをともにするのではなく、楽しみをともにすることが、友人をつくる。(ニーチェ「人間的 な、あまりに人間的な」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(457) 真理と孤独 キリストや釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われ たか? もっと言えば、孤独ではなかったか? キリストにも釈迦にも、弟子はいた。しかし師と弟子の関係は、あくまでも師と弟子の関係。 師は、あくまでも智慧(ちえ)を与える人。弟子は、あくまでもその智慧を受け取る人。弟子たち はそれでよいとしても、師であるキリストや釈迦は、どうだったのか? それでよかったのか? 真理の荒野をひとりで歩くことは、それ自体は、スリリングで楽しい。しかし同時に、それは孤 独な世界でもある。(私が求めている真理など、真理ではないかもしれないが、それでもそう感 ずることがよくある。)とくに、現実の世界に引き戻されたとき、その孤独を強く感ずる。「人生 は……」などと考えていたところへ、幼児がやってきて、「先生、ママがいなア〜イ」と。 そこで心の調整をしなければならないが、私のばあい、思索の世界から離れたときは、その 反動からか、今度は極端に、バカになる。バカになって、心の緊張感を解く。孤独から離れる。 もしあなたが、私の近くへやってきて、私を知ったら、私のことを、ひょうきんで、おもしろい男だ と思うだろう。私は子どものみならず、おとなに対しても、笑わせ名人で、いつも周囲の人たち をゲラゲラ笑わせている。私のワイフですら、「あんたといると、退屈しない」と言っている。昨夜 も寝るまで、ワイフを笑わせてやった。 が、反対に、そういう外での私しか知らない人は、私の作品を読んだりすると、「これ、本当に あなたの文ですか?」と聞いたりする。そこまではっきりと言わないまでも、驚く人は多い。「あ の『はやし浩司』って、あなたのことでしたか?」と言った人もいる。 が、キリストや釈迦は、そうではない。あるいはひょっとしたら、ひょうきんで、おもしろい人だ ったかもしれないが、そういう話は、伝わっていない。……となると、やはり、キリストや釈迦 は、どうやって、孤独と戦ったかということになる。ふつうなら……という言い方はしてはいけな いのだろうが、しかしふつうなら、何らかの形で自分の心をいやさないと、とても孤独には、耐 えられない。 もっともキリストにせよ、釈迦にせよ、私たちをはるかに超越した世界に住んでいたのだか ら、孤独ということはなかったかもしれない。……となると、また別の問題が生まれてくる。 もし、仮に、だ。もし、あなたが、ある惑星に落とされたとする。そしてその惑星は、サルの惑 星で、サルたちが、サルのまま、野蛮な生活をしていたとする。一方、あなたには、知性があ る。言葉もある。道徳も、倫理もある。もしあなたがそういう世界に落とされたとしたら、あなた はどうなるだろうか。あなたは神や仏のように祭られるだろう。しかしあなたはその世界がも つ、孤独に耐えられるだろうか。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。 幼児教育をしていて、ゆいいつ、つまらないと思うのは、いくら幼児と接しても、私と幼児の間 には、人間関係が生まれないということ。この点、大学生や高校生を教える先生は、うらやまし い。教えながら、人間対人間の関係になる。そこから人間関係が生まれる。が、幼児教育に は、それがない。で、そういう幼児だけの世界にいると、ときどき、言いようのない孤独感に襲 われるときがある。私が考えていることの、数千分の一も、子どもたちには伝わらない。説明し てあげようと思うときもあるが、あまりの「へだたり」に、呆然(ぼうぜん)とする。 つまり、人は、その世界を超越すればするほど、その分だけ、孤独になる? キリストや釈迦 のような「人」であれば、なおさらだ。となると、話は、また振りだしに戻ってしまう。「キリストや 釈迦は、多くの人を救った。しかしキリストや釈迦自身は、どうだったか? 救われたか? も っと言えば、孤独ではなかったか?」と。 もちろんキリストや釈迦を、私たちと同列に置くことはできない。本当にそうであったかどうか は、私にはわからないが、彼らは真理に到達した「人」たちである。もしそうなら、その時点で、 孤独からは解放され、その時点で、さらに真の自由を手に入れていたことになる。あるいは、 キリストや釈迦は、私たちが考えもつかないような世界で、もっと別の考え方をしていたのかも しれない。 考えていくと、この問題は、結局は、私自身の問題ということになる。真理などというのは、簡 単に見つかるものではない。恐らく私が、何百年も生き、そして考えつづけたとしても、見つか らないだろう。もしそうであるとするなら、私はその真理に到達するまで、つまり死ぬまで、その 一方で、この孤独と戦わねばならない。もちろん、キリストや釈迦のように、真理に到達すれ ば、あらゆる孤独から解放されるのだろう。が、そうでないとしたら、一生、解放されることはな い? しかも、だ。皮肉なことに、真理に近づけば近づくほど、ほかの人たちからの孤立感が 大きくなり、そしてその分だけ、孤独感はますます強くなる? そういう意味で、真理と孤独は、密接に関連している。紙にたとえて言うなら、表と裏の関係と いってもよい。世界の賢者たちも、この二つの問題で、頭を悩ました。いくつかをひろってみよ う。 ●この世の中で、いちばん強い人間とは、孤独で、ただひとり立つ者なのだ。(イプセン「民衆 の敵」) ●われは孤独である。われは自由である。わらは、われ自らの王である。(カント「断片」) ●つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただ一人(ひとり)あるのみこそよ けれ。(吉田兼好「徒然草」) ●孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である。(ショーペンハウエル「幸福のための警句」) ●人はひとりぼっちで死ぬ。だから、ひとりぼっちであるかのごとく行為すべき。(パスカル「パ ンセ」) 簡単に「孤独」と言うが、孤独がもつ問題は、そういう意味でも、かぎりなく大きい。人生にお ける最大のテーマと言ってもよい。そうそうあの佐藤春夫(一八九二〜一九六四、詩人・作家) は、こう書いている。『神は人間に孤独を与へた。然も同時に人間に孤独ではゐられない性質 も与へた』と。この言葉のもつ意味は、重い。 (02−12−27) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(458) 心の変化 このところ、少しずつだが、自分の心が変化しつつあるのを感ずる。年齢のせいかもしれな い。そうでないかもしれない。それを最初に知ったのは、家具屋で、家具を選んでいるときだっ た。そのとき、ふと、「どうせ、あと二〇年、もてばいい」と思った。「三〇年とか四〇年も、もつ 必要はない。どうせそのころ私は、死んでいる」と。 こうしたものの考え方は、日ごとにふくらんでいった。つぎに、それを強く感じたのは、テレビ を見ていたときのことだった。 台湾の実業家だが、日本で骨董(こっとう)を買い集めているという。何でもこの日本には、中 国でも珍しい、中国の骨董品が、あちこちに眠っているという。それはそれだが、その実業家 は、七〇歳近い女性だった。もちろん、ケタはずれの大金持ち。テレビのレポーターが、「もう どれくらい、買ったのですか?」と聞くと、笑いながら、「毎年、数億円分は買っている」と言っ た。 私はその番組を見ているとき、ふと、「そんなもの買って、どうするのだろう?」と思った。…… 思ってしまった。とたん、あの気持ち。「どうせ、あと一〇年も、生きていないのに……」と。 私はこのところ、モノにこだわる気持ちが、急速に薄れていくのを感ずる。「どうでもいい」とま では、思わないが、モノがもつ限界を強く感ずる。今、住んでいる家にしても、心のどこかで、 「まあ、死ぬまで、もてばいい」とか、「死んだら、息子たちが勝手に処分すればいい」とか、そ んなふうに考えるようになった。そういったモノに、自分の時間やエネルギーをかけることが、 空しく感ずるようになった。「残された時間は、あまりにも少ない。だったら、そのエネルギー を、もっと別のことに使いたい」と。 ここまで書いて、昔、金沢に住んでいた、骨董屋のT氏という老人を思い出した。今の石川県 庁の前の大通りに、店を構えていた老人である。骨董屋を営んでいたが、たいへんな収集家 で、どの部屋も、茶碗や置き物で、足の踏み場さえなかった。私はいつしかその老人と友人に なり、大学を卒業するときは、いくつかの骨董品を分けてもらった。その中には、江戸時代の 錦絵や、版画などもあった。 が、それから一〇年後。ある日、その老人の店をたずねると、その老人はすでになくなってい た。それからさらに一〇年後。その店をおとずれると、その店はなくなり、駐車場になってい た。私はその駐車場を道路からみやりながら、「あの老人は、どこへ消えたのか?」「あの店 は、どこへ消えたのか?」と思った。が、それ以上に強く思ったのは、「あの骨董の山は、どこ へ消えたのか?」だった。広重や歌麿(うたまろ)の浮世絵だけでも、数一〇枚はあった。豊国 や豊春などの浮世絵ともなると、数えきれないほどあった。そのほかに、茶器や茶碗などな ど。 そのT氏は、そのときでさえ、八〇歳近い老人だった。で、彼は自分の道楽として、あるいは 商売として、骨董品を買い集めていた。が、骨董品の立場からみると、ただT氏を経由しただ け? それらの骨董品は、今、無数のバイヤーに売りさばかれ、それぞれの手に渡っているに ちがいない。と、なると、骨董品とは何かということになってしまう。そのときはたまたまT氏の手 もとに多く集まったが、別にT氏の手元にあっても、また、なくても、かまわなかったということに なる。こう書くと、T氏には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、T氏は、骨董品に操 られるまま、自分の人生をムダにしたことになる? ……と、書くのは、自分でも言い過ぎだとわかっている。わかっているが、しかしモノには、不 思議な魔力がある。モノにとらわれると、何が大切で、何が大切でないかが、わからなくなって しまう。が、それだけではない。大切なものを粗末にしたり、反対に、大切でないものを、大切 だと思いこんでしまう。そしてそのモノに振りまわされるうちに、時間をムダにし、ついで人生を ムダにしてしまう。 私とて、モノは嫌いではない。財産になる。しかしこのところ、「死ぬまで、何とか、生きていら れれば、それでいい」と思うようになった。と、同時に、もしモノにかけるお金があるなら、もっと 別のことに、有効に使いたいと思うようになった。考えてみれば、それだけのことだが、そうした 思いは、このところ日ましに強くなっている。少なくとも、若いころのように、モノには、こだわら なくなった。 (02−12−27) 【追記】この原稿を読んで聞かせると、ワイフは、こう言った。「パソコンだって、モノじゃなアー イ?」と。 たしかにそうだが、パソコンは、道具。ただのモノではない。私がパソコンにこだわる理由は、 性能が違うから。だいたいパソコンほど、財産にならないものはない。五年もすれば、ただの 箱。ちなみに、五年前に買ったシャープのメビウスは、当時は、二四万円で買ったが、今では、 値段もつかない……? 買ってくれる人もいない……? 売るつもりはないが……。 そう言えば、今、おかしなことに気づいた。私はあのT氏から、広重の東海道五三次の版画 を一枚、分けてもらったことがある。三〇年近くも前のことだが、当時の値段で、二八万円だっ た。そのあと、あちこちで鑑定してもらったが、どうやらそれは贋作(がんさく・ニセモノ)らしいと いうことがわかった。で、最近まで、何とか二八万円を取り返したいと考えていたが、どうしてそ ういう気が起きたのか? 一方、パソコンにかけた二四万円は、おしいとは思わない。しかしその版画にかけた二八万 円は、おしいと思う。なぜか。なぜなのか? 広重の版画は、そのあと、ずっとわが家の寝室を 飾っている。パソコンのように、「使った」という意識はないが、「役にはたった」という思いはあ る。しかし同じモノなのに、私自身の意識は、まるで違う。なぜか。この問題は、また別のところ で、ゆっくりと考えてみたい。 ●鳥は木にすむ。木のひきき事をおぢて上枝にすむ。しかれどもえにばかされて網にかかる。 人も又是(かく)の如し。(鳥は木に住む。低いところに住むのをこわがり、高い枝に住む。しか し餌(欲望)にだまされて、低いところにおりてきて、網にかかる。人間もまた同じ。)(日蓮「佐 渡御書」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(459) ひねくれ症状 ●Aさんのケース Aさん(小学生)は、どういう生いたちで、どういう環境で育ったのかは、わからない。たまたま その子どもの家庭は、大人数で、そういう家庭にありがちな、日常的な欲求不満が、そういう子 どもにしたのかもしれない。 そのAさんは、独特の会話をする。私が何かのことで、Aさんを、責めたとすると、すぐ私に切 りかえしてくる。 私「こんなところに線引きを出したままにしておいては、ダメだよ」 A「Bさんが、使ったもん!」 私「でも、(戸棚から)出してきたのは、あなただから、あなたが片づけるんだ」 A「私が使ったあと、Bさんが使ったから、Bさんが、片づければいい」 私「それはわかった。でも、Bさんはもう帰ったから、あなたが片づけるんだ」 A「どうして、私が片づけなくちゃ、いけないの!」と。 ひねくれ症状の最大の特徴は、すなおさの欠落。相手の言うこと、考えることに、いちいち反 論する。が、本人には、その自覚がない。私が、「すなおに、人の言うことが聞けないのか?」 などと言うと、すかさず、「私にも反論する権利がある!」と切りかえしてくる。そこでさらに内容 を説明しようとすると、相手が説明をし始める前から、ああでもない、こうでもないと、反論す る。 このタイプの子どもをよく観察してみると、脳のCPU(中央演算装置)が、ズレているのがわ かる。つまりそうであるのが、当たり前といったような様子を見せる。それはちょうど、青色のサ ングラスをずっとかけている人が、サングラスをかけていることを忘れてしまうのに似ている。 サングラスでも、長くかけていると、周囲の色は、それなりにいろいろな色に見えてくる。 ●中身は同じ このAさんの問題を考えているとき、私は、それは自分自身の問題であることを知った。私 は、どういうわけか、そういう意味では、すなおすぎるほど、すなおなところがある。何かのこと でだれかに指摘されたりすると、まず最初に謝ってしまう。謝る必要もないときでも、謝ってしま う。 私は子どものときから、「浩司は、愛想のいい子どもだ」と、みなに、よく言われたが、それに は、私自身の不幸な生いたちが関係している。私は、そういう形で、人に迎合し、その人の歓 心を買っていた。わかりやすく言えば、だれにでもシッポを振っていた。よい子どもを演じてい た。 たとえば先のAさんのようなケースでは、私なら、こういう会話をするだろう。 先生「こんなところに線引きを出したままにしておいては、ダメだよ」 私 「ごめんさない。すぐ片づけます」 が、問題がないわけではない。 そういう自分だから、別の面で問題が生じてくる。私は、一見、すなおな子どもだったが、(今 もそうだが)、別のところで、心をゆがめやすい。たとえば面従腹背(面と向かっては、従順だ が、裏では、相手に違背したことをする)という言葉がある。私などは、まさにその典型だった。 その場だけは、何とかうまく丸めてやりすごすのだが、あとになって、「そうでない」と思い、それ とは反対のことをしてしまう。 たとえばこういうケースでも、子ども時代の私なら、その線引きを片づけながら、内心では「ど うしてボクが片づけなければいかんのか」「あの、Bさんめ、ボクにこんなことをさせて」「あの先 生め、何で、こんなことをさせるのか」などと思っただろう。 つまり「ひねくれている」という点では、Aさんも、私も、同じ。症状は逆だが、しかし中身は同 じ。Aさんは、その症状を、いわばプラス型に変えた。私は、いわばマイナス型に変えた。 ●自分を知る 自分を知ることは、本当にむずかしい。それについて、以前、こんなエッセーを書いたので、先 に、紹介する。 +++++++++++++++++++ 汝(なんじ)自身を知れ 「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難し い。こんなことがあった。 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学 校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。 ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな 子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない 子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあっ たし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」 ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。 話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部 分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに 振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをす るかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のど こかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。 「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ れに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつ までも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。 ++++++++++++++++++++ 「自分を知る」といっても、二つの意味がある。自分のよさを知るという意味と、自分の欠点を 知るという意味である。 自分のよさを知らずして、損をしている人も多いが、反対に、自分の欠点を知らずして、損を している人も、これまた多い。そこで問題は、いかにして自分のよさや、欠点に気づくかというこ と。ひとつのバロメーターとして、こんなことを書いている人がいる。だれだったかは忘れたが、 いわく、『長く友情を保てない者は、自己の欠陥を疑え』と。 他人は、自分を忠実に映すカガミのようなもの。自分に対する他人の反応を知れば、自分の 姿が見えてくる。そのひとつが、「友情」というわけである。少し、ショッキングな自己診断になる が、こんな自己診断テストを考えてみた。 (1)あなたは自分の趣味や思想と異なる人とでも、気軽に話をすることができるか。 (2)あなたには、同窓生は別として、一〇年とか二〇年単位でつきあっている人がいるか。 (3)あなたは集団の中へ入ると、人気者になるか、それとものけ者になるか。 仕事をしている男性のばあいは、日常的に、いろいろな軋轢(あつれき)の中で、いつも自分 を見つめる立場に立たされる。その分、人間的に、練られる。またそれがないと、仕事そのも のが、できなくなることも多い。しかし家庭に入った女性には、それがない。ない分だけ、どうし ても独善的になり、ひとりよがりになりやすい。そして自分では気がつかないうちにカプセルの 中に閉じこもってしまう……。 もしこの診断テストで、交友関係がごく限られているとか、友情を長くつづけられないとか、さ らに集団へ入ると気が疲れる、あるいはすぐけんかしてしまうというのであれば、あなた自身の 「欠陥」を疑ってみる。 さて冒頭のAさん(小学生)だが、彼女が自分の欠陥(失礼!)に気がつくのは、いつのことに なることやら。おとなになってからか? ノー。結婚してからか? ノー。 もしAさんが自分の欠陥に気づくことがあるとするなら、おそらく人生も晩年になってからでは ないか。あるいはそのときですら、気づかないかもしれない。つまり、『自分を知る』ということ は、それくらいむずかしい。 (02−12−28) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(460) 無用の長物 今から二〇年ほど前のこと。一台の大型トラックが、わが家の前に止まった。何かと思ってみ ると、「座卓はいらないか?」と。「四国から来た」という。案内されるまま荷台を見ると、原木を 切り出したままの座卓。その中でも、とくに目立ったのが、トチの木をそのまま削ったもの。トラ の模様のようになっていて、それが両端を飾っていた。厚さは一五センチもあった。「樹齢、五 〇〇年です」と言った。 値段を聞くと、「四〇万円でいい」と。「貯金しておくより、財産になる」とも。そこでどういうわけ か、その座卓を買ってしまった。が、それから二〇年。そのテーブルは、わが家の居間にデー ンと居座ることになった。が、大きいだけで、使いものにならない。それに重い。二〇〇キロ以 上はあるのでは。三〇〇キロはあるかも? この間、「何とかしよう」「何とかしなければ」と、ずっと思ってきた。今も思っている。しかし無 用の長物とは、そういう座卓をいう。テーブルといいながら、実際には、物置台。今はパソコン と、プリンターがその上にのっている。売るにしても、売り先がない。こういう時代だから、買っ てくれる人もいないだろう。 そこで考えた。その座卓は、たしかに無用の長物だが、わが家には、同じような無用の長物 が、ゴロゴロしている。一、二度使っただけで、あとは倉庫や物置にしまわれているのだけで も、かなりある。たとえばテントやバーベーキューセットなど。そう言えば、当時の私は、毎週の ようにいろいろなモノを買いこんでいた。近くに大型の雑貨点があったこともある。少し不便を 感ずると、モノを買い足すという生活がつづいた。そのテーブルもそんなときに買った。 その反動というわけでもないが、私は山荘のほうでは、ほとんどモノを買っていない。どの部 屋もガランとしている。不便を感ずることも多いが、その不便さが、これまた楽しい。いや、それ 以上に、広々とした空間は、それだけで気持ちがよい。どういうわけだか、解放感がある。どこ かの旅館へ行ったような気分になる。 そこで私はさらに考えた。モノというのは、人間の豊かさとは関係ないのでは、と。少なくとも、 心の豊かさとは関係がない? さらにモノがあれば、本当に生活は便利になるのか、とも。もち ろん生活に必要なモノは、多い。それはそれだが、それを離れたモノは、どうなのか? たとえ ばざっと見回してみても、この部屋の中には、大きな食堂テーブルがある。イスは、六脚もあ る。家族は五人なので、最大でも五脚でよいはず。しかもめったに六脚も使うことはない。それ に冒頭で書いた、無用の長物。テレビのまわりには、大型スピーカーだけでも、四個も並んで いる。……などなど。こうしたものがなければ、この部屋は、もっと広々と使えるはず。全体で、 一六畳の広さがある。 もっともそれに気づいてからは、ほとんどモノを買っていない。とくにあの座卓を買ってから は、買っていない。そうして考えてみると、無用の長物と嫌っている座卓だが、ひとつだけ役に たっていることがわかった。それは、その座卓を買ったことを後悔したこと。そしてその後悔 が、その後、ムダなモノを買う、大きなブレーキになったこと。何かを買おうとするたびに、私の 頭に、その座卓が思い浮かんだ。そして、「ムダになるから買うのをやめよう」と。 ……とまあ、今は、そういうふうに自分をなぐさめながら、その座卓をとらえている。 (02−12−28) ●テーブルを買ってくれる人はいませんか? 大きな料亭でも使えるような立派なテーブルで す。ホント! ●欲望を限定することのほうが、それを満たすことよりも、はるかに誇りに足ることである。(メ レ「格言」)(メレ……1610−84、フランスのモラリスト) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(461) 講演の感想 先日、K市のD小学校で、講演をさせてもらった。その講演の感想が、届いた。その中に、こ んなのがあった。原文のまま、紹介する。 「私はいろいろな本もたくさん読んできました。いろいろな講演会も聞いてきました。しかし、ど れも役にたたないものばかり。今度のはやし浩司の講演も、まったく役にたちません。『あなた の子育て、だいじょうぶ?』というタイトルも気に入りません。いらぬ、おせっかいです。私の子 育てが、最高です。私が正しいのです。それとも、はやし浩司が、私の子どもを育ててくれると いうのですか。他人の子育て論なんか、もう二度と聞きたくありません」 英語の格言に、『二人の人に、よい顔はできない』というのがある。何をするにも、好意的にと らえてくれる人と、そうでない人がいるということだが、私はこの感想を読んだとき、心底、残念 に思った。いや、私の講演が悪く評価されたことに、ではない。(そういうことは、よくあるので、 もう慣れっこになっている。)この母親自身に、「学ぶ姿勢」がないことに、である。この母親は、 こう書いている。「他人の子育て論なんか……」と。 何か、ほかに理由とか、原因があるのか。それについては、わからない。あるいは強い信念 とか、信仰をもっているのかもしれない。その母親は、「私の子育てが、最高です」と断言してい る。しかし考えてみれば、この私だって、自分が正しいと思うから、こうしてエッセーを書いてい る。もう少し正確には、「正しいと思うこと」を書いている。だからその母親が、「私が正しいで す」と言ったところで、私は驚かない。しかし同時に、「それでいいのかなあ」と思ったのも事 実。 その母親のことは、ここに書いた以上のことは、まったくわからない。わからないから、この母 親のことは別として、一般論として、こういうことは言える。 子育てで一番、こわいのは、独善と独断。一組の親子という、その世界だけで、ひとりよがり な子育てをすると、たいてい失敗する。(だからといって、その母親が子育てで失敗すると言っ ているのではない。誤解がないように。これはあくまでも、一般論。)理由がある。 子どもというのは、あなたから生まれるが、生まれたとたん、無限の多様性をもっている。そ れがわからなければ、世の中を、ぐるりと見回してみればよい。あなたのまわりには、いろいろ な人がいる。いろいろな性格をもって、いろいろな生活をしている。子どももまたそうで、その子 どもがどのような人になり、どのような生活をするようになるかは、子ども自身の問題。子育て には、いつも大きな限界がある。 そこで親は、いつも子どもの多様性を、心のどこかで認めながら、育てる。それがないと、つ まりその多様性を認めないと、過干渉になったり、過関心になったりする。つまり親は自分の 子どもを、自分の思いどおりに育てようとする。が、ここにも書いたように、子どもは、そうでは ない。で、こうなると、たがいの間に不協和音が流れるようになる。それが子育てのリズムにな り、やがてキレツ、さらには断絶へと進んでいく。 そういう点では、たとえば交際範囲が広く、多芸多才な親ほど、子育てがじょうずということに なる。つまりそれだけ子どもへの許容範囲も広いということになる。さらに無数の挫折を繰り返 した親ほど、これまた子育てがじょうずということになる。これはある心理学者が本の中に書い ていることだが、若いとき、サブカルチャ(非行など、王道からはずれた、落ちこぼれ文化)を経 験した人ほど、社会人になってから、常識豊かな人間になるそうだ。むしろ、子どものときから ずっと優等生で、サブカルチャを経験したことがない人ほど、社会人になってから、問題を起こ す、とも。親も、そうで、優等生のまま、一流大学、一流企業へ入り、スイスイと親になった人ほ ど、子育てで失敗しやすい。このタイプの親は、自分の価値観を、子どもに押しつけようとする 傾向が強い。その押しつけが、子育てをギクシャクさせる。 繰り返すが、だからといって、この母親が、子育てで失敗すると書いているのではない。たぶ ん、その母親は、私の考えがおよばないほど、すばらしい女性なのだろう。それはそれとして、 しかし子育てにおいては、謙虚であればあるほどよい。この私とて、決して、一例や二例の子 育てをとおして、こうした文を書いているのではない。無数の子育てに関わってきた。そういう 経験をもとにして書いている。 ここから先は、読者の方の判断ということになる。そういうはやし浩司を信頼するかどうか は、私の問題ではない。私は自分の仕事をとおして、わかったこと、経験したことを、書いてい る。話している。またそれに基づいて講演をしている。それを利用するかしないかは、ひとえ に、読者の方の判断による。とても残念なことだが、それはもう、私がとやかく言う問題ではな い。 (02−12−28) ●「サブカルチャ」……下位文化のこと。ある社会の支配的、伝統的文化に対し、非行少年、ヒ ッピーなどの特定の社会集団に生まれ育つ、独特の文化のこと。(日本語大辞典) ●おおむね大きな誤りの底には、高慢があるものである。(ラスキン「断片」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(462) 私はだれの子? ある読者から、こんな相談があった。何でもその読者は、父と母の間でできた子どもではな く、父の父、つまり祖父と母の間にできた子どもだというのだ。それで「複雑な気持ちを、どう整 理したらよいか」と。富山市に住む四五歳の男性からであった。 この相談を受けたとき、私には、その男性を理解するだけの、「心のポケット」がないことを知 った。心のポケットというのは、他人の悲しみや苦しみを理解するためのポケットをいう。同じよ うな経験をしていれば、ポケットができる。が、同じような経験をしていなければ、ポケットはで きない。その心のポケットがないと、その悲しみや苦しみを理解することはできない。共有する ことはできない。 その男性はこう言った。「『まあ、そんなことどうでもいいや』という気持ちと、『母を許せない』 という気持ちが、いつも交互に私を襲います」と。 ここから先は、私が想像して書くにすぎない。仮に私が、父の子どもではなく、祖父と母の間 にできた子どもであったとしたら……。そのときの親子関係、家族関係にもよるが、それなりに 幸福な家庭であれば、私だったら、不問に付すと思う。あくまでも、そう思うだけだが、昔は(今 も?)、そういうことはよくあった。人間の関係は、いつも必ず、スッキリとしているわけではな い。またスッキリしていないからといって、おかしいとか、まちがっているとか、言ってはいけな い。 が、もしそのことを、父親が知っていたとしたら……? あやしんだだけでもよい。もしそうな ら、父親の受けた衝撃や苦悩は、いかばかりなものか。私がその父親なら、とても耐えられな いと思う。狂い死にするかもしれない。つまりそういうことを考えると、その祖父と母親のした行 為は、許されるものではない。つまり、とても、「おかしいとか、まちがっているとかは言えない」 とは、言えなくなってしまう。そこでその男性に聞くと、こう教えてくれた。 「晩年の父は、毎晩、酒に溺れ、母を殴る、蹴るの暴行を加えていました。祖父の墓参りをし たこともありません」と。 このことから、父親は、祖父と母親の関係を知っていたのかもしれない。富山市というのは、 そういう意味では、まだ古い因習が根強く残っている地域である。スッキリさせたくても、スッキ リさせることができない事情がいろいろあったようだ。 しかし、こと、その男性の立場でいうなら、受け入れるしかない。幸いにも(?)、今は、その祖 父も、父親もなくなっているということだ。今さら自分の過去をほじくりかえしても、意味がない。 ただ問題がないわけではないという。その男性は、まだ生きている母親が、どうしても許せない というのだ。「盆や暮れには帰省するのですが、いつもどこか他人のような話になってしまいま す」と。 こういうケースでは、やはり、自然体でいくしかない。無理をすることはない。「心」というのは そういうもので、「こうでなくてはいけない」とか、「こうであってはいけない」と思えば思うほど、結 局は、自分自身を苦しめることになる。苦しむのが悪いのではない。苦しむことで、自分の心を 偽り、ゆがめることが悪い。だから自然体でいくしかない。「母親を許せない」と思うなら、それ はそれでよい。そしてそういう態度が、母親に対して出たとしても、それもそれでよい。しかたの ないこと。それはその男性の問題というより、母親の問題なのだ。 あまりよい答になっていないのは、わかる。冒頭にも書いたように、私には、その男性を理解 するために必要な心のポケットをもっていない。もっていないから、アドバイスのしようがない。 だからこれはあくまでも、参考的意見。「まあ、そういう考え方もあるのかなあ」という程度に、 考えてほしい。あるいは、もしあなたがこういう相談を受けたら、あなたはどのように答えるだろ うか。もし同じような経験をもっている人がいたら、一度、私あてに連絡をしてほしい。 (02−12−28) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(463) 親子、それぞれ 親子にも、形はない。そんな話を、昨夜、いとこと、電話で話した。愛知県S市に住む、いとこ である。 いとこ(六一歳、女性)は、こう言った。「同窓会へやってきても、実家の親にも会わず、その まま帰っていく人もいるのよ。私、その話を聞いて、うらやましいと思ったわ」と。 つまり同窓会に出席するため、実家のある郷里へ帰ってきても、同窓会が終わると、そのま ま東京や大阪へ帰っていく人がいるという。それをいとこは、「うらやましい」と。「私なんか、いく つになっても、実家の重圧感から、逃れることができないわ」とも。 この話をワイフにすると、ワイフは、こう言った。「私の知りあいにも、もう一〇年近く、実家に 帰っていない人がいるわ。弟の息子の結婚式に行ったら、そこに親がいたとか、ね。そういう ふうにサバサバと人は、いくらでもいるわ」と。 一方、ベタベタの親子関係をつづけながら、それをベタベタとも思わない人も多い。親は、そ ういう子どもを、「かわいい子」「親孝行のいい子」と位置づける。子どもは子どもで、それがあ るべき子どもの姿と考える。親子といえども、人間どうしのつきあいだから、どういう関係になっ ても、おかしくない。 ただここで言えることは、「親子だから……」という、「ダカラ論」。「親子だから、こうあるべき だ……」という、「ベキ論」。さらに「親子だから、こういうはず……」という、「ハズ論」で、親子関 係をしばってはいけないということ。万事、自然体で考えればよい。そしてその結果として、一 〇年間、会わなくなっても、あるいはベタベタの関係になっても、それはそれ。その親子が、そ れでよいのなら、他人がとやかく言う必要はない。また言ってはならない。 いとこは、こう言った。「結局は、夫婦の仲がよければ、それでいいのね。夫婦の仲がよけれ ば、子どもは子どもと割り切ることができるのね。夫婦の仲が悪いとき、親は、子離れできなく なるのね」と。つまり親は親で自立する。そのカギは、夫婦の仲のよさにあるというわけであ る。私が「ぼくなんか、葬式でG県へ帰っても、あちこちの家に寄らないと、ああでもない、こうで もないと文句を言われる。うるさくてかないません」と言うと、「本当に、そういうことっていやア〜 ネ」と。 さてあなたは、サバサバ派だろうか、ベタベタ派だろうか。少しだけ、自己診断してみたら、お もしろいと思う。 (サバサバ派)親は親で自立している。好き勝手なことをしている。子どものあなたに、何も期 待していない。あなたはあなたで、勝手に生きている。親子のつきあいはあるが、ときどき消息 を聞きあう程度。何か大きな問題が起きたとき、相談しあう程度。たがいに、それでよいと割り 切っているし、それ以上、深く考えない。 (ベタベタ派)たがいに何があっても、報告しあっている。相談しあったりしている。甘えたり、甘 えられたりしている。明けても暮れても、親がいないと、話にならない。親は親で、何かにつけ て、あなたに干渉してくる。そういう親をあなたはすばらしい親だと思っている。自分でも、孝行 息子(娘)と思っている。 要するに、どんな関係だろうが、親子がそれに納得し、それでたがいにうまくいっていれば、 それでよいということ。しかし問題は、そういう親子関係に、第三者が介入するときである。たと えば結婚して、そういう関係の中に、妻、もしくは夫が入ってくるとき。妻側が、サバサバ派、夫 側が、ベタベタ派というとき。多くの悲喜劇は、そこから生まれる。ある母親はこう言った。「夫 は、典型的なマザコンで、毎晩、仕事から帰ってくると、その日にあったことを、私に話す前に、 母親に電話をして話しています。私はあきれていますが、夫には、それがわからないようです。 私がそれを責めると、『お前もたまには、実家の親に電話をして、親孝行をしろ!』と言いかえ されてしまいます」と。 どちらにせよ、つまりあなたがサバサバ派であるにせよ、ベタベタ派であるにせよ、脳のCPU (中央演算装置)の問題であるために、それに自分で気づくことは、まず、ない。どの人も、自 分では、「私はふつうだ」「それが当たり前のこと」と思っている。 (02−12−19) ●愛する者と暮らすには、ひとつの秘訣がある。相手を変えようとしてはならないことが、それ である。(シャルドンヌ「エヴァ」) ●妻は絶えず夫に服従することにより、夫を支配する。(フラー「神聖な国・不敬な国」) ●妻が夫に夢中なときは、万事がうまくいく。(イギリスの格言) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(464) 母校意識 S県のある町で、旧校舎の保存を求めて、町側と父母が対立している。で、町側が折れ、保 存を前提に、仮校舎の建設をした。そこで仮校舎に引っ越し、ということになったが、これにも 保存を求める父母側が反対した。そこで「三学期の授業を保存が決まった本校舎で行うか」 「当分は仮設の校舎を使うか」で、今度は父母どうしが、はげしく対立しているという(〇二年一 二月末)。 この事件の背景には、何か、もっと大きな問題が隠されているようだ。表面的な部分だけを みて判断すると、まちがいのもととなる。それにこのH市でも、小学校の統廃合について、市側 と住民側が対立しているところがある。この問題は、部外者が考えるほど、単純ではない。た いへんデリケートな問題と考えてよい。日本人にとっては、「学校」というのは、特別の存在。日 本人がもつ母校意識には、独特のものがある。 H市のとなりにI町という町がある。そのI町にあるA小学校で講演をしたときのこと。校長が学 校のあちこちを案内してくれた。「この校門は、地元のX氏が、私財を投じて作ってくれたもので す。基礎の石を見てください。これほど立派な石は、このあたりでも珍しいです」「あの石垣を見 てください。あの石垣は、村の人たちが総出でつくってくれたものです」「学校のまわりの花壇 は、このあたりの人たちが、毎日、交代で世話をしてくれています」と。 学校といっても、いろいろあるようだ。そしてこのA小学校のように、その地域の人たちの熱 い思いが、織りこまれているところがある。そういうところで、「母校意識など、今どきムダなこ と」などと言おうものなら、それだけで袋叩きにあう。 問題はこのことではなく、問題は、その先、というか、その中味。なぜ、日本人は、こうまで学 校にこだわるかということ。その手がかりとして、私の子ども時代のことを書く。 私が子どものころ、学校は、まだ絶対的な存在だった。学校の先生も、また絶対的な存在だ った。当時はまだ、戦前の軍国主義教育の面影が強く残っているころで、民主教育と言いなが ら、親たちの学校をみる目は、戦前のままだった。そういう中、たとえば生徒が、学校の先生に さからうなどということは、考えられなかった。それこそ「裸になれ」と命令されたら、女子でも、 裸になった。これは事実で、私たちが中学生のときは、健康診断や体力測定のほか、体格検 査というおかしな検査もあった(G県M第一中学校)。これは体育教師と担任教師の前で、一人 ずつ、パンツ一枚の姿で、「体格(?)」を検査されるというものだった。そしてとくに体格のよい 生徒は、八ミリカメラで、体中を撮影されたりした。もちろん女子も、だ。 私がここで言いたいのは、今でも、その「絶対性」の片鱗(へんりん)が、残っているというこ と。そしてその片鱗が、あちこちで姿を変えて、今の母校意識というものをつくりあげている。ひ ょっとしたら、冒頭にあげた校舎建てかえ問題もそのひとつかもしれない。部外者の私から見 れば、「もう少し、気楽に考えたらよいのでは」と思うのだが、そうはいかない。その気楽さの前 にたちはだかるのが、ここでいう絶対性である。H市で起きている、学校の統廃合の問題に も、ここでいう絶対性がからんでいる? ……こう書くと、飛躍した意見に思う人がいるかもしれないが、不登校児の問題にも、この絶 対性がからんでいる。子どもが不登校児になったりすると、たいていの親は、まさに狂乱状態 になる。なぜそうなのかと言えば、やはりそこに、「学校とは行かねばならないところ」という絶 対性があるからではないのか。 私の個人的な意見としては、母校意識というのは、その源(みなもと)で、江戸時代の身分制 度と結びついていると思う。思うから、過度な母校意識は、それなりに警戒したほうがよいと思 う。今でも、公官庁を中心に、そして学術の世界でも、学閥や学歴意識が、きわめて根強い残 っている。そういう意味での母校意識、もう少し正確に言えば、日本独特の「絶対性」は、もう、 なくすべき時代にきている。 ヨーロッパでは、大学での単位は、完全に共通化された。高校、中学にしても、転籍は自由。 そういう時代が目の前にきている。だから私は、それほど、母校にこだわる必要はもうないの ではないかと思う。思うだけで、それ以上のことは言えない。というのも、冒頭に書いたように、 この問題には、デリケートな部分、もっと言えば、私のような部外者では理解できないような、 「住民たちの熱い思い」が、そこにこめられている。そういう熱い思いは思いとして、理解してあ げなければならないし、尊重してあげねばならない。ものごとは、何でもかんでも合理的にとい うわけにはいかない。またそういうふうに考えてはいけない。 何ともあいまいな、どこか奥歯にものがはさまったかのような結論になってしまったが、要す るにこの問題は、当事者たちがみな、納得する形で解決するのが好ましい。一方的に、だれか が決めるのではなく、また同じように一方的に反対するのではなく、話しあうのが好ましい。時 間はいくらかかってもよい。また時間はかければかけるほどよい。これはまさに「意識」の問 題。その意識を理解し、変えるには、当然、時間がかかる。 (02−12−29) 【追記】 先日、中学生たちが歌を歌ってくれと頼んだので、私は、舟木一夫の「高校三年生」を歌って やった。すると数分も歌わないうちに、皆が、「もう、やめろ、やめろ!」と。一人、「先生が高校 生のときは、そんなつまらない歌を歌っていたの?」と言った子どもがいた。たしかにそうかもし れないが、私にとっては、そうではない。それがここでいう「熱い思い」なのである。仮につまら ない歌であるにしても、それが私の人生の一部。だから頭から「つまらない」と否定されると、私 自身の過去を否定されたかのような気分になる。私がここでいう「デリケートな問題」というの は、そういう「思い」にからんだ問題をいう。決して安易に考えてはいけない。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(465) ハンゲシャシン湯(とう) 先日、学生時代の恩師が、私の家に寄ってくれた。日本学士院賞を受賞したこともある、世 界的な科学者である。その恩師が、こっそりとこう教えてくれた。「ガンの予防には、ハンゲシャ シン湯がいいということです。壊れたDNAを修復する成分が、ハンゲシャシン湯には含まれて います」と。 ハンゲシャシン湯というのは、胃薬としてよく知られた漢方薬である。女性の精神不安にも効 くという人もいる。さっそくその場で、私が生薬を組みあわせて方剤してみせると、恩師は、「ど うして、君がこんなことができるのですか」と驚いた。実のところ、私は、漢方のプロ。たいてい の漢方薬なら、自宅で処方できる。ホント! で、恩師は、毎朝、ほんの微量だが、そのハンゲシャシン湯をのんでいるという。「林君も、も し私の言うことを信じるようなら、のんでみなさい」と。もちろん信ずる。……信じた。で、それ以 後、ときどき、ハンゲシャシン湯を方剤し、自分たちで、煎じてのんでいる。もしみなさんも、私 の言葉を信ずるなら、ハンゲシャシン湯をのんでみたらよい。高価な漢方薬ではないので、気 楽にのめると思う。その恩師のばあい、市販のハンゲシャシン湯を、毎朝、ほんの微量を、口 の先で溶かしてのんでいるという。「その程度でいいのですか?」と聞くと、「この薬は、微量で いいのです」とのこと。 いまさら言うまでもないが、漢方薬には、未知の力が無数に含まれている。漢方薬を分析す ることで、いかに多くの新薬が開発されたことか。今も、つぎつぎと開発されている。このハンゲ シャシン湯もそうだ。その中に、壊れたDNAを修復する作用のある成分が発見されたというの が、何ともおもしろい。 エッセーではなく、特ダネ情報として、ここに記録しておく。 (02−12−29)※ ●半夏瀉心湯(ハンゲシャシントウ)……胃内の停水を去り、嘔吐を止め、胃腸の炎症を去 る。健胃、胃腸機能を回復させる作用もある。胃腸炎、胃潰瘍、胃下垂症、胃腸カタル、消化 不良、口内炎、つわりにも効く。(はやし浩司著「目で見る漢方診断」より) ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(466) かわいい子、かわいがる 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽 をさせること」を意味する。一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘 える子ども」を意味する。反対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」 と言う。地方によっては、独立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味 であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日 本独特の言葉と考えてよい。 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。静岡市に住む読者から届いたものだが、内容 を、まとめると、こうなる。 その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期まで は、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つよう になった。きっかけは、結婚だったという。 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし た」(男性の伯父の言葉)そうだ。そしてことあるごとに、「息子は、静岡の嫁に取られてしまい ました」「親なんて、さみしいものですわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたとい う。 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気 づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその 男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。結果、その男性は、妻を取っ たのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始めたというのだ。「親を粗末 にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子とは、縁を切るからな」と か。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかってきたという。 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう にも使われる。 その男性は、こう言う。 「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味 です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。たとえば 今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの一度も遊 戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、おばあちゃ ん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。たとえば長男は、あまり母が好きではな いようです。あまり母には、甘えません。だから母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判し ます。私の子どもに対する母の態度を見ていると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』とい うことが、よくわかります」と。 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。 (02−12−30) ●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(467) 親風、親像、親意識 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親 意識である。 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強 いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして くる。 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子 育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像 という。 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい 親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い 親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼 な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ る。『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚 者というべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢 い親だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。子ども が親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけてしまう。 ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだから」と いう、上下関係を意識している。 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、 混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。 一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時 代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世 代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私 は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、 「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然 体で考えればよい。 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。 (02−12−30) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(468) 私の限界 先日、大学時代の友人に会ったら、こう言った。「林君、ぼくはね、あと一〇年、健康だという 保証をもらったら、その一〇年間、暴れまくってやる。しかしその保証がない。だから暴れるこ ともできない」と。 そのときは、私は彼の言葉を理解できなかった。彼はこう言ったのだ。つまりだれしも、明日 のわからない生活をしている。そういう不安があるかぎり、がんばろうとしても、がんばることが できない。そこには、おのずと限界がある、と。 こうした「限界」は、だれにでもある。ただその形や中身は、さまざま。人、それぞれ。私にも ある。いや、このところ、自分の限界を、ヒシヒシと感ずることが多くなった。「私の人生は、ま あ、こんなものだ」という、あきらめ。「これから先、どうがんばっても、たいしたことはできないだ ろう」という、あきらめ。「一〇年後には、頭はボケる。二〇年後には、さらにボケる」という、あ きらめ。そういう「あきらめ」が、毎日のように、私を襲う。 ときどきワイフは、私にこう聞く。「あなたは一体、何がどうなればいいと考えているの?」と。 名誉も、地位も、権力も、それにお金もほしい。とくにお金は、嫌いではない。いくらでもほし い。しかし私が求めているのは、そういうものではない。仮にそういうものが、手に入ったとして も、私は決して満足しないだろう。 私がほしいのは、真理だ。なぜ私がここにいて、何のためにここに生きているか、その答が ほしい。 少し前、こんな原稿を書いた。 +++++++++++++++++++++++++++++ 子どもに生きる意味を教えるとき(中日新聞掲載済み) ●高校野球に学ぶこと 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの 高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たか がボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、そ れほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この 世の中に一体、どれだけいるだろうか。 ●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争 と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の 目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進 むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に 意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。 映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの 箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。 ●懸命に生きることに価値がある そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、 それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。 命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが 宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、 そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命 に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生 の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日 その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私た ちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教える ことがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手 たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味は ない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶ し。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私た ちに教えてくれる。 ++++++++++++++++++++++++++ この原稿を書いたとき、本当のところ、それほど深く考えて書いたわけではない。今、読み返 しても、「結構、生意気なことを書いているなあ」と、そんなふうに思ってしまう。仮にここに書い たように、「懸命に生きた」としても、それがどうなのかという問題もある。「どうせたった一度し かない人生だから、のんびりと、好き勝手なことをして生きればいいのではないか」と。とくに自 分の限界を感じたときは、そうだ。「残り少ない人生だから、のんびりやれ」という意見と、「残り 少ない人生だから急げ」という意見が、私の心の中で、複雑に交錯する。 いや、それ以上に限界を感ずるのは、「こんなことをしていて、何になるのか」という限界であ る。どうせ真理など、たどりつけるわけがないし、仮に真理にたどりついたとしても、それがどう だというのかという疑問もある。それはちょうど、ひとりで歩く旅のようなものだ。歩いても歩いて も、その先には、さらに遠い道がつづく。 ただ私が、その友人とちがうところは、たとえ明日がなくても、今日は今日で、前に進むという こと。進むしかないということ。私のばあいは、「明日の保証」など、考えたこともない。明日は、 必ず、今日の結果として、やってくる。友人は、健康のことを考えてそう言ったのだろうが、その 健康にしても、私は私なりに、精一杯、気をつかっている。 毎日、一時間程度の運動は欠かしたことがない。寒い夜などは、身を切られるような冷機を 感ずることもある。それでも、運動にでかける。食べ物にも注意している。心の安静にも気をつ かっている。酒も飲まない。タバコも吸わない。私は、今、やるべきこと、できることを、自分なり に精一杯している。その結果として、明日があるのだから、明日のことは、心配してもはじまら ない。つまり病気になっても、それなりにあきらめもつく。 しかし考えてみれば、だれしも、その限界の中で、ともすればその限界に押しつぶされそうに なりながら、もがいて生きているのかもしれない。「まだ、何とかなる」「何とか、したい」と。私が いう「生きる意味」というのは、そこから生まれる。もし私たちが今、限界を受け入れてしまった ら、私たちの人生は、その段階で止まってしまう。が、同時に、それは人生に敗北したことを意 味する。 別れぎわ私は友人にこう言った。「だいじょうぶだよ、君は。一〇年後も二〇年後も、今と同じ ようにピンピンしているよ」と。その友人はうれしそうに手を振りながら、「林、お前も元気で な!」と。私も、それにこたえて、大きく手を振った。 (02−12−31) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(469) 希望論 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、め ざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、まさに希望と 相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペ テン師である。私のばあい、希望をなくしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」) と言った、シャンフォールがいる。 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。 もう一〇年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子どもたちの 世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯王、マジギ ャザというカードゲームに移り変わってきている。 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。一度私 が操作をまちがえて、あのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そのときその女の子 (小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。つまりその女の子は、たま ごっちが死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よくわか る。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たちが、勝手に つくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、ときに絶望したりす る。 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。キリス ト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神よ、こうして 邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらなかったのか」と。それ に対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに転載す る。 ++++++++++++++++++++ 子どもに善と悪を教えるとき ●四割の善と四割の悪 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪 がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの 世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。 つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子 どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校 の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放 り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に 対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親 は、少ない。 ●善悪のハバから生まれる人間のドラマ 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話 が残っている。 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、 最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい 人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」 と。 ●子どもの世界だけの問題ではない 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問 題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは どれほどそれと闘っているだろうか。 私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘 もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはし ないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、 その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆ がめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。 ●悪と戦って、はじめて善人 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。 悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、 大きく変わる。子どもの世界も変わる。 ++++++++++++++++++++++ このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜた。そ れはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人 間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によ ってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それが希望だ」と教えている。 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だらく)」という 言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、希望論であり、絶 望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をする。冒頭に書いた、アリ ストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶望論を説いた。が、私は今 のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひかれる。「人間は、努力によって、 神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう人間に なるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気がする。言いか えると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望論や絶望論は、たし かに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこう言った。授業の前に、遊戯 王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心はハッピ ーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。ゲームはゲー ムだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線を引かないと、時間 をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、はるかに大切ものだよ。 それだけは、忘れてはいけないよ」と。 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否定するの は、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、心を休めたり、癒 (いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではない。またそれがかなわない からといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで一線を引くこと。でないと、自分を 見失うことになる。時間をムダにすることになる。 (02−12−31) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(470) 北朝鮮 一二月三〇日、北朝鮮が、プルトニウムの抽出が可能な核再処理施設を、一〜二カ月以内に 再稼働させるとIAEA( 国際原子力機関)に 通告してきていた。 もし北朝鮮が現在保管している使用済み核燃料棒八〇〇〇本を、放射化学研究所で処理 すれば、核爆弾五個分に当たるプルトニウムを抽出できるとされ、IAEAのエルバラダイ事務 局長は、施設の再稼働について「最も憂慮する事態」 と表明した。 もうこの段階にくると、「まさか、北朝鮮は、そんなことまでしないだろう」と考えるのは、甘い 幻想でしかない。独裁者の常として、自分の失政をごまかすため、北朝鮮は、外に戦争をしか ける。その矛先(ほかさき)が、アメリカであり、日本というわけである。 ここで注意しなければならないのは、韓国と中国の動向である。が、韓国は、すでに日米の 連携(れんけ)プレーからは、脱落しかかっている。実にたくみな外交プレーである。つまり太陽 政策をかかげることにより、「仮に米朝戦争になっても、韓国は中立を守る」(次期、盧大統領 の選挙中の公約)と。金大中大統領も、「共産国家に対する抑圧や孤立化が成功したことはな い」(一二月三〇日) と述べ、アメリカが検討している 封じ込め政策には 反対の意向を示し た。(北朝鮮は、もはや共産主義国家ではない。独裁国家である。念のため。) つぎに中国だが、アメリカはともかくも、あわてふためく日本を見ながら、「いい気味だ」と思っ ているにちがいない。理由はともかくも、アジアにおける日本という国は、そういう国なのであ る。だからいかに北朝鮮がおかしな国であっても、中国は、おいそれとは動かない。中国の指 導部にいる政治家たちは、みな、日本による植民地時代を覚えている。 となると、日本は、ここまでくれば、アメリカと一蓮托生(いちれんたくしょう)。運命を共同する しかない。仮に今、日本のバックにアメリカがいなければ、北朝鮮は、イの一番に、東京都のど 真ん中で、核爆弾を爆発させるだろう。方法はいくらでもある。漁船に忍ばせて爆発させると か、あるいは戦闘機に積んで、自爆させるとか。ミサイルだけが、運搬方法ではない。 私は日本の防衛能力を信じたいが、完全にサラリーマン化した自衛隊に、どれほどの防衛 能力があることやら。いや、自衛隊を責めても意味はない。そういう国をつくったのは、ほかな らぬ私たち自身だからである。では、私たちはどうするべきか。 徹底した水際防衛作戦をとるしかない。公海上の臨検には問題があるとしても、領海内の臨 検には、問題はないはずである。私は今日からでも早くないから、北朝鮮から出航してきた漁 船、貨物船などは、徹底的にマークしたらよいと思う。そして少しでもおかしな行動を見せたら、 即、臨検。繰り返すが、東京都のど真ん中で、核爆弾が爆発してからは、遅いのである。 もしそれに対して、北朝鮮が、それ以上に不穏な行動を示したら、日本も覚悟するしかない。 腹を決める。もう北朝鮮問題は、そこまできている。戦争は私たちが望むところではないが、し かし向こうが攻めてくるというのなら、戦うしかない。が、その前に、私たちも、すべきことがあ る。 私は、東京の中華人民共和国駐日本大使館に、つぎのような手紙を書いた。みなさんも、こ れを参考に、中国大使館に手紙を書いたらどうだろうか。AからBまでをコピーし、各自の感 想、意見を添えたらよいと思う。北朝鮮の動向のカギを握るのは、もう中国しかない。 ++++++++++++++++++++++A 中華人民共和国駐日本大使館 12月31日 武大偉大使並びに、 国際問題担当部各位へ 拝啓 突然、このような手紙を出す、非礼をお許しください。 私たちは、朝鮮民主主義人民共和国による、核開発を深く憂慮し、心から反対しています。 こういう形で、核兵器が世界に拡散することは、私たちの国のみならず、貴国、ならびに世界 の未来についても、たいへん危険なことだと確信しています。 ご存知のように、北朝鮮による核開発を阻止できるかどうかは、もう貴国、中華人民共和国 の政治的裁量にゆだねられています。どうかこの点をご留意の上、北朝鮮による核開発阻止 に向けて、貴国が貴国のリーダーシップを発揮してくださることを、心より願います。貴国のご 協力に、感謝します。 敬具 People's Republic of China Embassy in Tokyo Mr. 武大偉, High Excellency And to whom it may concern about the international problem Dear Sirs, Excuse us to write a letter on such a sudden occasion, but we are the Japanese, who apprehend deeply the nuclear development by the Democratic People's Republic of Korea, and are opposing from the bottom of my heart against it. We are sure that it is very dangerous also about the future in not only my country but your country and the rest of the world, that a nuclear weapon is being spread in the world in such forms. It is already left to political discretion of your country, the People's Republic of China whether the nuclear development by Democratic People's Republic of Korea can be prevented as far as we know. We wish from the heart that your country demonstrates the leadership of your country towards the nuclear development prevention by Democratic People's Republic of Korea, for which we thank you very much. Sincerely yours はやし浩司 Hiroshi Hayashi +++++++++++++++++++++++++B 手紙のあて先 〒106−0046 東京都港区元麻布3−4−33 中華人民共和国駐日本大使館 武大偉大使閣下 ++++++++++++++++++++++++ ただ残念なのは、この場におよんでも、「日本の植民地政策は正しかった」「中国にせよ、朝 鮮にせよ、日本が植民地にしたおかげで発展できた」「鉄道も道路も建設してやった」などと、 戦前のあの時代を、正当化しようとしている人がいることだ。もしこんな論理がまかり通るな ら、逆の立場で、日本が同じことをされても、だれも文句を言えないことになる。どうして日本人 よ、それがわからない? ちなみに現在、中国大使館のホームページのトップには、「小泉首相の靖国参拝問題」が取 りあげられている(〇二年一二月三一日)。いくら日本人が「そうでない」と叫んでも、中国の人 にしてみれば、日本は、日本人は、戦前の反省など、みじんもしていないと映る。つまりそうい うことを一方でしておきながら、中国に向かって、「北朝鮮の暴走を、何とかくい止めてほしい」 は、ない。私はこの、中国大使館への手紙を書くとき、それを強く思った。 (02−12−31) ●このところ毎日のように北朝鮮の動向が変化する。このエッセーがみなさんに読まれる頃に は、国際情勢が、大きく変わっているかもしれない。 ●北朝鮮は、どういう形かは知らないが、すでに核兵器をもっているとみるべきではないのか。 今回の一連の行動は、それをカモフラージュするための行動と考えてよい。つまり「私たちは、 〇三年はじめから、やむをえず核開発を始めた」と。と、するなら、数か月後には、核兵器を開 発したことしに、〇三年内に、日本海の真ん中あたりで、核実験をするつもりでいるとみてよ い。私の予想が当たらないことを願っているが……。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(471) 今日は、風邪 夜中から、軽い頭痛が始まった。ワイフが言うには、寒いのに散歩に行ったから、と。で、 朝、起きて軽く朝食をすますと、「B」という風邪薬をのんだ。症状がひどいときにのむ薬であ る。(ふだんは、カッコン湯かマオウ湯ですます。カッコン湯は、風邪のひきはじめ、マオウ湯 は、風邪の症状がこじれたときにのむ。カッコン湯をのむと、汗がジワジワと出てくるので、そ れを利用して、風邪(ふうじゃ)を発散させる。これ、漢方の常識あるね。) で、今日は大晦日(おおみそか)というのに、一日中、部屋の中。風も強くて、庭掃除もできな い。さりとて、部屋の中で、することもなし。雑誌を読んだり、テレビを見たりして、ブラブラす る。幸い、頭痛はなくなったが、どこかもの足りない。大晦日という実感が、どこにもない。明日 から、二〇〇三年というのに……。 人間というのは、おかしな動物だ。(私だけかもしれないが……。)こうして文を書くのは、苦 痛ではないが、どういうわけだか、手紙を書くのは苦痛。返事を書かないでたまっている手紙 だけでも、今、手元に五、六通はある。どうしても後回しになってしまう。どうしてか? と、今、時刻をみると、午後四時ちょうど。すでに外はどこか薄暗い。寒々とした冬の風が、 窓の外の栗の木をゆらしている。ワイフは、先ほどからおせち料理を、箱につめている。その においが、二階のこの部屋まで伝わってくる。おなかはすいていない。食欲は、あまりない。午 後からは、お茶ばかり飲んでいる。もう二リットルは飲んだかもしれない。私は血圧が低いせい か、お茶をよく飲む。飲まないと、調子が悪くなる。 さてさて、それにしても大晦日。あとで、今年、一年を振り返ってみよう。それを原稿にまとめ てみよう。明日からの正月も、同じようにサエない正月になりそうだ。今年は旅行もしない。(こ こ数年、していないが……。)とくに予定もなし。ワイフが、「ビデオでも借りてこようか」と言っ た。何ともつまらない正月になりそうだ。しかたないかな。これも不景気が悪いのだ! (二〇〇二年を振り返って……) ☆今年は、電子マガジンに挑戦した。後半は、二日おきに発行した。結構、ハードだったが、そ の分、気持ちが充実していた。こういうふうに、やるべきことを決めて、とりかかるというのは、 よいことだ。おかげで肝心の本の出版のほうは、おろそかになってしまった。どうせこういう時 期だから、私の本など、売れない。出版社にかえって迷惑をかけることになる。これは負け惜し み。 ☆家族は、みな、健康だった。いろいろ問題はあったが、問題と意識することもなく、淡々と過 ごせたのは、よかった。あくせくしても、同じこと。現状をすなおに受け入れ、万事、自然体でい けばよい。願いや欲は、多ければ多いほど、心の状態は不安定になる。つまり願いや欲は、 ほどほどに。これは私への戒(いまし)め。 ☆仕事は、低調だった。しかし「低調」と言えるだけ、まだ幸せなほうだ。リストラで、仕事をなく した人も多い。そういう人は、どうやって生活しているのだろう。生活というよりも、どうやって精 神状態を平常に保っているのだろう。どうかめげないで、がんばってほしい。私などは、万年失 業者のような立場だから、「失業」と言われても、ピンとこない。そういう意味では、私はたくまし い? ☆二〇〇二年を振り返っても、その前の〇一年、さらには〇〇年とくらべても、どこといって、 そんなに違わない。この五、六年は、同じようなリズムで流れている。フランスのある哲学者 (名前は忘れた)は、『平凡は美徳』と書いている。「日々に平凡であることは、それ自体、すば らしいことだ」と。多少、疑問もないわけではないが、今は、その言葉をすなおに受け入れよう。 ☆とにかく、今日は、大晦日。二〇〇二年よ、さらば。しかしおおざっぱに振り返っても、今年 も、何かをしたようで、結局は、何もできなかった。そんな思いだけが、ふと心をふさぐ。あああ あ。ハッピー・ニュー・イヤー! +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(472) 受験勉強 受験勉強は、「勉強」ではない。ただ言われた知識を吸収して、それをいかにうまく吐き出す か。それで決まる。それが受験勉強。 問題は、受験勉強がそういうものであるということではなく、そういう受験勉強で、人間の価値 が決まってしまうということ。「価値」という言い方には、語弊があるが、一般世間の人は、そう 考えている。 昔、とんでもないほど、ヘンチクリンな高校生がいた。どうヘンチクリンかは書けないが、私は その子どもを、頼まれるまま、二年間、教えた。週二回の家庭教師だった。で、その子どもは、 やたらと頭だけはよかったが、中味はどこか狂っていた。その高校生は、やがてS大学の医学 部に合格したが、親たちの感謝の言葉とは裏腹に、私はその合格を、どうしても喜ぶ気にはな れなかった。むしろ「これでいいのかなあ」と、疑問に思った。 つぎにその子どもの消息を聞いたのは、一〇年ほどたってから。そのときその子どもは、M 大学の大学病院で講師をしていた。が、さらに一〇年後。その子ども(「子ども」という言い方 は、適切ではないが……)は、驚いたことに、H市内で、開業した。私はその話を聞いたとき、 ワイフにこう言った。「どんなことがあっても、あの医院だけは行くな」と。 私は無数の子どもたちをみてきた。若いころは、受験塾の講師もしていたから、同じく無数の 受験生を、大学へ送ってきた。しかしあのころの自分を振りかえって言えることは、「もう受験 指導など、こりごり」ということ。ああいう指導を、何の疑問ももたずにできる講師、つまり受験 屋というのは、やはりどこか頭がヘンチクリンと考えてよい。まともな人間なら、数年で、気が狂 ってしまう。 たとえば…… 合格した子どもに向かって、「おめでとう」を言ったあとに、振りかえって、不合格だった子ども に、「残念だったね」と言う。まさに金の切れ目が、縁の切れ目。「教育」と言いながら、どこにも 教育の要素など、ない。受験指導は、あくまでも「指導」。もっとはっきり言えば、要領の問題。 小ズルイことを、スイスイとうまくできる子どもほど、有利。またそういうことを教えるのが、受験 指導。 つい先日も、その種の本の広告が、新聞に大きく載っていた。並べてみる。 「スイスイ、一流大学、必勝法」(仮題)とか。 ●直感で、「できない」と思った問題には手をつけるな。 ●面接では、あたりさわりのないことを言え。奇抜なことを言うな。 ●時間配分をまちがえるな。簡単な問題はミスをするな。 ●作文テストは、減点法で勝負、など。 たしかにその通りだが、こうまで堂々と書かれると、「どうか?」と思ってしまう。しかし現実に 受験競争がある以上、それにさからってもしかたない。が、どこか低レベル。「本当に、これで いいのかな?」と思うほど、低レベル。ワイフにそのことを話すと、「こういう人間を見ない教育 はこわいわね」と。私も、そう思う。 もっとも、今、受験生をもつ親や、受験勉強で苦しんでいる子どもに向かって、こんなことを言 ってもはじまらない。それはちょうど、金持ちが、「お金なんてむなしいものです」と言うのに似て いる? どこかの大学の総長が、「学歴制度なんて、もうありません」と言うのに似ている? そ のお金や学歴を、死ぬほど乞い求めているいる人だっている。 しかし今、それこそワラをもつかみたい思いで苦しんでいる人に向かって、受験の心得と は? それはちょうどガンで苦しんでいる人に向かって、あやしげなガン治療薬を売りつけるよ うなものだ。そもそも、こういう受験屋に向かって、良心を求めるのがおかしい? だから批判 したり、批評したりしても、ムダ? 日本の教育制度は、どこか狂っている。その狂った教育制度の中から、これまた狂った子ど もたちが生まれている。それだけではない。この狂った教育制度が、いかに親子のきずなを破 壊し、ついで家庭を破壊していることか。そしてそれほど「力」のない人が、王座に君臨する一 方、まじめで良心的な人たちが、食いものになっていることか。たとえばこの日本では、人生の 入り口でほんの少しだけがんばって、公務員になれば、あとは死ぬまで、地位と収入が保証さ れる。仕事も役職も、つぎつぎと回ってくる。しかしその入り口をはずすと、一生、そういう仕事 には、ありつけない。ガードはかたい。採用試験すら受けられない。まず、その採用試験すら、 ない。それともあなたは、職安の掲示板に、「○○公民館、館長職、募集中」などという張り紙 を見たことがあるとでも言うのだろうか。 この日本では、どんな形でもよい。役人のポストがあれば、それについたほうが、絶対、有 利。得。安全。無事。生涯、食いはぐれることはない。しかしみなが、そう思ったら、この日本は どうなる? みなが、そう思って、公務員になったら、この日本はどうなる? そういう社会の入 り口に、実は、受験競争がある。言いかえると、受験勉強も、ヘンチクリンな子どもも、結局 は、その狂った社会の申し子にすぎない。その狂った社会が、今の日本の社会の基盤になっ ている。 ……と、またまた頭が熱くなってしまった。少し過激な意見になってしまった。自分でもわかっ ている。しかしこれだけは言える。 どんな年齢になっても、またどんな回り道をしても、その人がその時点からがんばったとき、 その人の実力が認められるような社会にしないと、本当に日本はダメになるということ。そんな にがんばらなくても、公的な保護や恩恵を受けてヌクヌクと生きている人が、ふえればふえるほ ど、本当に日本はダメになるということ。それでもよいなら、私は、もう何も言わない。そろそ ろ、私の心の中には、こんな思いが芽生え始めている。「どうぞ、ご勝手に!」と。「もう、知った ことか!」と。あるいは、尾崎豊の言葉を借りるなら、「クソ食らえ!」か。このところ、こういう問 題を考えるのも、疲れてきた。 (02−12−31) ●こう書くと弁解がましく聞こえるかもしれないが、私は何も、公務員の人を、個人攻撃してい るわけではない。だからあなたがもし公務員でも、あるいはあなたの近くに公務員の人がいる としても、そういう人に、この問題をあてはめないでほしい。数年前も、「あなたはそう言うが、 私の夫は、公務員として、その責務をまじめに果している。そういう人もいるということを忘れな いでほしい」という抗議の手紙をもらったことがある。それには長々と、その夫の一日のスケジ ュールまで書かれていた。しかし私が問題としているのは、個々の公務員といわれている人の 問題ではなく、あまりにも肥大化しすぎた公務員社会、もっと言えば強大化しすぎた官僚制度 である。ここにメスを入れないと、日本の社会は、本当にダメになる。それを言っている。どうか 誤解のないようにしてほしい。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(473) 性欲 若いころ、私は女の人の太ももを見ただけで、発情してしまったことがある。そのとき自転車 に乗っていたが、下半身のふくらみを、隠すのに、苦労した。その女性は、私の前を歩いてい た。そのとき、風のいたずらか何かで、チラッと、太ももが見えた。それでムラムラときた。私が 一九歳のときではなかったか。 私は長い間、それをだれにも言えず、悩んだ。しかしやがて、男なら、だれしもそうなることを 知って、ほっとした。もっとも、女性の体のどこを見て発情するかは、人それぞれらしい。私の 昔の知人の中には、女性の尻を見ると、発情するという男がいた。しかもブヨブヨと大きければ 大きいほど、よいと言った。 私のばあいは……と、書きかけたが、この話は書けない。ただいつも不思議だと思うのは、 どうして男というのは、女性の性器に、こうまで恋慕をいだくのかということ。私はあるとき、ふと こう思ったことがある。同じように複雑な形をしているのに、どうして耳には、恋慕をいだかない のか、と。複雑な形ということでは、性器には劣らない。しかし男というのは、耳には恋慕をいだ かない。しかし性器には恋慕をいだく。それこそ好きな女性の性器なら、一晩中でも見つめて いたいと思ったこともある。(「思う」ともかけないし、「思った」とも書けない。これは微妙な問題 である。だからあえて、ここでは、「思ったこともある」とした。) が、それにも年齢がからんでくる。私のばあいは、(やはり、書いてしまった!)、五〇歳をす ぎるころから、女性の見方が、急速に変化した。女性というより、「女性の体」と言ったほうが、 正しいかもしれない。まず第一、男も女も、若いころ思ったほど、違わないことに気づいた。性 器の構造にしても、それほど、違わない? たとえば若いころは、風呂屋の番台に座れるな ら、死んでも本望だと思ったことがある。しかし今の私は、「たぶん、三〇分も座っていたら、退 屈するだろうな」と思う。そういう変化である。 で、ワイフに、「お前はどうなのか?」とよく聞く。が、私のワイフは、もともと女性の体をした 「男」のような女で、ワイフの意見は、あまり参考にならない。ワイフは、子どものころも、男ば かりと遊んでいたそうだ。(私は、女と遊んだ記憶すらない。) ……と、まあ、なぜこんな文章を書き始めたかだが、たまたま読んでいた聖書に、こんな一節 があったからだ。 『およそ、婦(おんな)を見て、色情を起こすものは、心の中、すでに姦淫(かんいん)したるな り』(「新約聖書」マタイ伝五章二八節)と。 もしそうなら、私は一年中、姦淫していたことになる。今も、していることになる。ゾーッ! し かし、だ。それが悪いことなのだろうか。いや、その前に、色情などというものは、人間自身が コントロールできるものなのだろうか。色情などというものは、人間が人間である前から、生物 としての人間に備わっているもの。つまりそれがあるから、人間は、生殖活動を繰り返し、今の 今まで存続できた。もし色情がなければ、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。 そこで改めて、性欲について考えてみる。 私たちの行動のすべての裏に、性欲がある。私の意見ではない。あのフロイトもそう言ってい る。この性欲が、さまざまな形に姿を変え、裏から私たちの行動を操っている。しかしこんなこ とは心理学者の分析を待つまでもなく、常識。私たちの行動の陰には、いつも異性がいる。男 であれば、女が。女であれば、男がいる。 たとえば若い男女が、見てくれを気にするのも、身を飾るのも、何かのことで目立ちたがるの も、結局は、そこに異性がいるから。私たちおとなは、その若い男女の延長線上にいる。行動 も、その延長線上にある。私たちの行動の一つずつを分析したとき、その延長線上にない行 動をさがすほうが、むずかしい。仮に年をとって、異性を意識しないようになっても、行動だけ はその延長線上に残る。 こうした心理は、私もときどき、経験する。たとえば私はこうして子育てエッセーを書いている とき、ふとそこに女性の顔を想像することがある。男性ではない。女性だ。だれということでは ない。具体的にだれかの顔を思い浮かべることはない。しかし女性である。その女性に話しか けるようにして、書く。そのとき私は、甘ったるい感覚に包まれる。淡い恋心に似た、甘ったるさ である。私にものを書かせている背景のどこかに、異性の存在があることは否定できない。そ のことは、こんなことでもわかる。 こういう仕事をしていると、いろいろな人から相談を受ける。こういう言い方は不謹慎に聞こえ るかもしれないが、そういうとき、女性からの相談のほうが、男性からの相談より、どこか力が 入る。(だからといって、男性からの相談を軽視しているということではない。)ウソ隠しなく言え ば、そういうことになる。 そういうこともあって、私は性欲を否定しない。反対に、人間から、この性欲を奪ってしまった ら、それこそ人間は、味気なく、おもしろくない生き物になってしまう。歌も歌わなくなる。恋文も 書かなくなる。絵も描かなくなる。人間は人間である前に、動物なのだ。 だからここはイエス・キリストには悪いが、『婦(おんな)を見て、色情を起こすことは悪いこと だ』というのなら、どうしてそれが悪いことなのかと反論したい。人間は道徳的な動物だが、完 ぺきな生き物ではない。しかしその完ぺきでないところから、無数のドラマが生まれる。そのド ラマが、人間の生活を豊かでおもしろいものにしている。もし人間が、すべて天使のようになっ てしまったら、人間の社会は、何と味気なく、つまらないものになってしまうことか。 もちろんだからといって、勝手気ままな性欲を容認するということではない。それをコントロー ルするのは、また別の倫理ということになる。これについては、また別のところで考えてみた い。 (02−12−31) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(474) 一月一日 二〇〇三年一月一日。よく晴れ渡った、よい朝だ。午前六時半に目がさめた。暗闇の外を見 ると、ほんのりと色づいた空に、一筋の雲。「これなら、ご来光がおがめるぞ」と、思った。 ワイフを起こす。息子を起こす。どこか頭の中はスッキリしないが、これは睡眠不足によるも の。お茶を飲んで、気分を取りなおす。一昨日は風邪のせいか、頭痛があった。風邪薬をのん だら、頭痛はおさまったが、ほかの症状は残った。どこか調子が悪いのは、そのせいかもしれ ない。何ともさえない、元旦だ。 テレビを見る。あちこちのチャンネルで、テレビ討論をしていた。経済問題、国際問題など。 たまたま見ていたら、こんなシーンが、目に入った。 一人の学者(三五歳くらい)が、意見を言った直後のこと、別の学者(四〇歳くらい)が、鼻先 でフンと笑ったようなしぐさを見せた。「何だ、そんな意見か」というような笑い方だった。ふてぶ てしい態度だった。よく日本人が、討論の場で見せるしぐさである。「そんなことは知っている」 「そんな程度か」「バカなこと言うな」と。いろいろな意味に解釈されるが、しかしああいう笑いは やめたほうがよい。笑うほうは、相手より優越的な立場にいることを示すために、そうする。し かし同時に、それは意見を述べる人に対して、失敬というもの。 二年前だが、どこかの討論会で、私が意見を述べたとき、やはり同じようなしぐさを見せる男 がいた。どこかの女子大学で講師をしている男だった。そこで私は、すかさず、こう言った。「あ なたには、あなたの意見があるのでしょう。しかしそういう笑いはやめたほうがよい。失敬では ないですか」と。するとその男は、こう言った。「あんたも、知識をひけらかすもんじゃ、ないよ」 と。 私は何も知識をひけらかしてなどは、いなかった。そんな若い男に、そんな意識をもつことは ない。ありえない。私は、テレビ討論を見ながら、あのときの男の顔を思い出していた。本当に イヤな男だった。私が何を言っても、ニンマリと笑いながら、鼻先でフンと笑っていた。あとで聞 いたら、あれがあの男のクセだということだったが、それにしても、不愉快だった。 ……と、まあ、新年、最初のエッセーにしては、暗い話を書いてしまったが、これも睡眠不足 のせいか。いつもなら、この時間には、夢を見ている。私はしばらく討論会に耳を傾ける。で、 こう思った。 みんないろいろな意見を述べているが、述べながら、それぞれがそれぞれの立場で、日本の こと、日本の未来のことを心配しているのだなあ、と。心強くも思ったが、その一方で、百家争 鳴というか、どこかまとまりがない。「こんなことでは、意見の一致はできないだろうな」と思っ た。とくに気になったのは、低劣なレベルで、それが低劣だとも気づかないまま、自分の意見を 主張している人が多いこと。「低劣」というのは、「勉強不足」ということ。「もう少し、勉強してか ら意見を述べたほうがいい」と、私は感じた。そういう人たちが、対等の立場になって、ワーワ ーと意見を言う。それでは、まとまる話も、まとまらなくなる。 ワイフは居間で、何やらガチャガチャと、料理を始めたようだ。テレビを消して、私は、この原 稿を書き始めた。どこかひんやりとした、よい朝だ。そう言えば、まだ言っていなかった。これか ら居間へ行って、みんなに、こう言うつもり。「あけまして、おめでとう」と。何といっても、今日 は、一月一日なのだ。気持ちよくすごしたい。 (03−1−1)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++M 子育て随筆byはやし浩司(475) 脅迫観念 自営業者にも、弱点がある。それは明日をもわからない状態で、日々の生活に追われるこ と。とくに最近のように、不景気が蔓延(まんえん)し、先が見えない状態になると、不安感だけ が勝手に増幅してしまう。こうなると、「来月はどうなるのだろう」「来年はどうなるのだろう」と、 そんなことばかりを、考えるようになる。 先日、N市で、半時間ほど、タクシーに乗った。その運転手がこう話してくれた。何でもその人 は、その数か月前まで、縫製会社の社長をしていたという。いわく、「タクシーの運転手のほう が、ずっと気楽でいいです。縫製会社を経営していたときは、自分の仕事をしているのか、社 員の仕事をつくってやっているのか、わからない状態でした。毎日、その仕事づくりに追われて いました」と。 こうした状態が長くつづくと、人は、強迫観念をもつようになる。「強迫観念」というのは、もとも とは、ある特定の考えが、反復的に思い浮かぶことをいうが、いつも心のどこかに、不安感が 張りつき、何かに追われているような心理状態をいう。忘れようと、もがけばもがくほど、それ が心をふさぐ。で、一度、こうなると、息がつけない。気が抜けない。気が休まらない。落ち着か ないといった症状が出てくる。身体的症状としては、頭痛、頭重、不眠、早朝覚醒など。先の運 転手も、「毎日、本当に、そのまま息がつまるのではないかと思った」と言った。 もっともだれしも、そうなるわけではない。もともと不安神経症や恐怖症などがある人が、そう なる。そういう思考パターンが脳の中にできていて、その思考パターンの中に、強迫観念が、ス ッポリと入ってしまう。 こうした強迫観念は、もちろん母親にもある。子どもにもある。とくに受験生をかかえた親や、 子ども自身が、そうなりやすい。休みなど、子どもが家の中でゴロゴロしていると、それを見た だけで、言いようのない不安に襲われたり、焦燥感(あせり)を覚えたりする親は、少なくない。 で、こうしたケースを調べていくと、親自身も、自分の受験時代に、強迫観念をもっていたこと がわかる。その記憶が、脳のどこかに刻まれていて、自分の子どもがその年齢になると、その つど、再現される。これを私は勝手に、『記憶の再現』と呼んでいる。つまり親というのは、自分 の子育てをしながら、自分が受けた子育てを再現する。たとえば子どもが幼児のときは、自分 が幼児期に受けた子育てを。子どもが少年少女のときは、自分が少年少女期に受けた子育て を、というように、である。 こうした強迫観念は、まずそれが強迫観念であることに気づくこと。決して、正常な心理状態 ではない。そこで簡単なテスト。 (1)毎日、心のどこかに不安感がペッタリと張りついているようで、心が晴れない。 (2)「これから先、どうなるのだろう?」と、不安に思うことが多い。 (3)何かにつけて、あせりを感じ、じっとしていると、時間をムダにしたように思う。 (4)のんびりしている人を見たりすると、かえって不思議に思うことがある。 (5)何かにつけてイライラすることが多く、子どもについ、カーッとなりやすい。 このタイプの人は、夢の中でも、だれかに追われる夢、取り残される夢、遅れる夢を見る。私 もごく最近まで、試験会場でテストができない夢をよく見た。しかしこれは強迫観念というより、 私の職業病のようなもの。生徒たちの受験シーズンが近づくと、今でも、心の状態が不安定に なる。 で、幼児でも、この強迫観念をもつことがある。昨年、幼児(年長児)一〇人くらいに、「君た ちはこわい夢を見るか?」と聞いたところ、約半数の子どもが。「見る」と答えた。そこでどんな 夢かと聞くと、こう話してくれた。「ワニに追いかけられる夢」「UFOが上から襲ってくる夢」「おば けの夢」「大きな鐘が落ちてくる夢」など。幼児だから、心温かい夢を見ていると考えるのは、ど うやらウソのようだ。 問題は、親や子どもに強迫観念があるということではなく、そういう観念があることに気づか ないまま、それに振り回されること。そして自分でも、何がなんだかわからないような状態で、 子どもにきびしくしたりすること。もしあなたがいつも同じようなパターンで、子どもを叱ったり、 怒鳴ったりしているようなら、一度、この強迫観念を疑ってみたらよい。 もっともこれは強迫観念にかぎらず、子育て全般についても言えること。賢い親は、自分の弱 点や欠点を知っている親ということになる(失礼!) さて、現在、こういう不安定な時代になると、私のような自営業者は、二重、三重の重荷を背 負うことになる。「明日、事故にでもあったら、それで万事休す」と。しかしそれだけに生きるの に慎重になる。健康や交通安全には気をつかう。強迫観念が悪いばかりではない。別の面 で、よいほうに作用することもある。ほどよい生活の緊張感も、そこから生まれる。要するに、 強迫観念とは、うまくつきあうということ。そこでこれは私のばあいだが、つぎのようにしている。 (1)不安を感じたら、その不安の原因を知る。そして自分が納得いくまで、その問題について 調べる。たとえば最近では、北朝鮮の核問題がある。私は書店で数冊の本を買い込み、北朝 鮮の実情を調べた。つぎに軍事雑誌を買ってきて、日本の防衛能力を、調べた。それですべ ての不安が消えたわけではないが、そうすることで、かなり気分が楽になった。 (2)時間の配分を、うまくする、やるときはやる。しかし休むときは、休む。こうした時間の配分 をうまくすることで、自分の心をリラックスさせる時間をもつようにする。たとえば土日は、子育 て相談をいっさい、受けない。あるいは子ども(生徒)の顔を、いっさい見ないようにする、など。 あとは趣味の時間をふやし、その問題そのものを忘れるようにしている。 (3)食べ物に気をつかう。私のばあいは、心理状態が不安定になったら、骨っぽい食べ物をた くさんとるようにしている。さらにおかしいと感じたときは、CA剤を服用するようにしている。が、 何よりも大切なことは、自分でそういう状態になっていることに気づくこと。そしてそれに気づい たら、ものごとの判断をくださない。行動を自制する。 ここに書いたのは、あくまでも、私の個人的な方法。あとはワイフとドライブをしたり、バカ話を したりしてすごす。そう、私のばあい、何がよいかといって、直接子どもたちと接して、ワイワイ やるのが、一番よい。これは私の特権のようなもの。しかしこのところ、本当にいやなことばか り、つづく。経済問題も、国際問題も、どこか混沌(こんとん)としてきた。何とかならないもの か? (03−1−1) ●恐怖は、いつも無知から発生する。(エマーソン「アメリカの学者」) ●小心な人は、危険の怒る前に恐れる。おくびょうな人は、危険の起こっているときに恐れる。 大胆な人は、危険が去ってから恐れる。(リヒター「断片」) ●わたしたちが恐れなければならない、ただひとつのことは、恐怖そのものである。(フランクリ ン・ルーズベルト「大統領就任演説・1933」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(476) ハナとの散歩 ハナは、私の愛犬。ひどく人相は悪いが、私には、かわいい。ポインターという種類である。 イギリスで猟犬として開発(?)された犬だそうだ。嗅覚はよいらしい。精悍(せいかん)で、よく 走る。 私はハナと散歩するときは、自転車で、でかける。とても歩いて、つきあえるような犬ではな い。ハナにしてみれば、歩いている人間は、人間にとってのカメのようなものではないか。 そのハナは、一見、ふてぶてしく見えるが、気だてはやさしい。気も小さい。超の上に「超」が つくような愛犬家のところで育てられた犬で、生後三か月目に、わが家へ来た。最初の一週間 は、私が毎晩、抱いて寝た。つぎの二か月は、居間のソファの上で育てた。それからは、もう一 匹の飼い犬のクッキー(雑種)に、世話をまかせた。クッキーもやさしい犬で、懸命にハナの世 話をした。 そのハナと生活していて、いろいろ気づいたことがある。簡単に言えば、人間と犬は、それほ ど違わないということ。知能にしても、「考える」という部分を除けば、それほど違わない。たい ていどんな場所でも、一度、行けば覚えてしまう。それはこんなことから、わかる。 たとえば散歩に連れていく。そのとき、その家の前にくると、ハナに向かってワンワンとほえる 犬がいる。そのときハナは、一瞬、警戒したり、散歩のリズムを乱したりする。しかし二度目に その家の近くにくると、その犬がいることを気にして、散歩のリズムを、前もって変えたりする。 感情にしても、ハナには、人間と同じ、喜怒哀楽の情がある。嫉妬(しっと)もするし、自尊心 もある。嫉妬はともかくも、その自尊心は、こんなことからわかる。 ハナと散歩をしているとき、どこかの飼い犬が、ハナに向かって、ワンワンとほえたりする。す ると、ハナは、背筋をピンと張り、頭を上にのばす。いわゆる「かっこうをつけるようなしぐさ」を する。ハーハーとあえいでいるようなときでも、それを止める。これ見よがしな走り方をするとき もある。そのとき顔を前に向けたまま、横目でその犬のほうを見ることもある。 ハナには、いくつか、理解できないクセがある。そのひとつは、絶対に、散歩中には、便をし ないこと。ほかの犬は、平気でするらしいが、ハナはしない。それにときどき、軽いエサをもって 散歩にいくこともあったが、散歩中、つまり家の外では、絶対にエサを食べない。好物の牛乳 を、コンビニで買って与えたこともあるが、口すら、つけない。これはハナの、どういう心理によ るものか。 もともと走るために生まれてきたような犬だから、当然のことながら、よく走る。で、私はときど きこう考える。もし犬にサッカーのし方を教えたら、人間で、犬のチームに勝てるチームはない だろうな、と。ときどき、タオルを取りあって、ハナと遊ぶが、ハナには絶対に勝てない。タオル と遊んでいるので、それを取ろうとソーッと近づくが、いつも寸でのところで逃げられる。そのへ んの「間」の読み方は、実にうまい。人間にも、すぐれた面は多いが、しかし犬にも、多い。全 体をならして平均値をとったら、人間も犬も、それほど違わないのでは……。 ……と、同じ話の繰りかえしになったので、この話はここまで。私の家族の一人の、ハナを紹 介した。 (03−1−1) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(477) 私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの 作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと もと体の弱い人だったらしい。四四歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。 そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に めげず、前に進むことである』(語録)と。 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ うだ!」と。 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で も、すぐ応用できる。 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に 進むことだ』と。 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし た。 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの がわかる。一七歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科 に転じ、二五歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニ アで知りあった、一一歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、三〇歳のときで ある。小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そし てそのあと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。 こうした生き方を、一〇〇年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがす ばらしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたステ ィーブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、 生まれない。 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。 ●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」) ●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同) ●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世 の言葉) (03−1−1) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(478) 晩年論 HIVの陽性者になっても、すぐ死ぬとはかぎらない。適切な治療をすれば、一〇年、二〇年 と、生きながらえることができる。要するに、発症を抑えるということだそうだが、私は少し前、 この話をあるドクターから聞いたとき、「では、私はどうなのか?」と考えた。 私は現在、満五五歳。一応平均寿命で計算すれば、あと二二年※は生きられることになる。 しかしその二二年間、ずっと健康というわけではない。その前日まで元気で、その日ポックリと 死ぬというふうには、いかない。多分、これも平均的な老人をみるとわかるが、その前、五〜一 〇年は、闘病生活をすることになる。ということは、私がまあまあ元気なのは、これから先、長く ても、一〇〜一五年ということになる。つまり立場は、HIVの陽性者と、どこも違わない。 が、二〇代の若い人が、HIVの陽性者になったら、人生を悲観する。私だったら、悲観して、 頭がおかしくなっただろう。しかし今、私は、同じような立場だが、それほど悲観しない。この違 いは、どこからくるのか。 これはあくまでも私のばあいだが、もし神様がいて、私に、もう一度同じ人生を繰りかえせと 言ったら、私は、多分、断るだろうと思う。今の思考状態のまま、青春時代にもどれるなら話は 別だが、しかしあんな無知で、無学で、未熟で、未経験な、動物のような世界にもどれと言われ ても、困る。とくにあの高校時代は、ごめん。あの高校時代にもどるくらいなら、死んだほうが、 まし。本気でそう思っている。 そういう自分の心理を分析してみると、いろいろ気がつくことがある。まず、生きる気力そのも のが、薄れてきたこと。変化や冒険よりも、静かな安定を望むようになってきている。行動に、 融通がきかなくなってきている。行動範囲が、狭くなってきている。今まで経験した範囲のこと で、それを繰りかえすことはできるが、その範囲を超えると、とたんに、不器用になる。「それで はいけない」と思うこともあるが、それよりも大きな力が、私に働くようになる。 こうした変化は、たとえば人間関係にもあらわれる。一度、その人との人間関係がこじれる と、修復しようという気力そのものが、生まれてこない。むしろ、こちらから積極的に、切ってし まうこともある。多分、それは、時間に限りを感ずるためではないか。「もう、ムダにする時間は ない」という思いが、私をして、そうさせる。 あとは、居直りが強くなる。「私は私だ」と。中には私のことを、よく思っていない人がいる。 (そういう人は多い!)しかしこのところ、「そう思いたければ、勝手にそう思え」と考えるようにし ている。ここでも、あまり修復しようという思いは、生まれてこない。そういうことをするのがめん どうというより、そういうことをしている時間がない。ヒマがない。 ……で、こうした自分自身の老人性と、どう戦うか、である。そのときポイントとなるのが、や はり健康である。体の健康もさることながら、心の健康である。この年齢になると、心も病みや すい。そういう人は、いくらでもいる。いや、すでに私の心も病んできるのかもしれない。今のと ころ、多分、だいじょうぶだとは思うが、心の健康を守ることが、老人性と戦うひとつの方法で はないか。恩師のT先生は、「(老人性と戦うには)、新しい情報を入れることです」と言ったが、 私もそう思う。常に、新しいことに興味をもち、それにチャレンジしていく。そういう前向きな姿勢 が、心の健康を保つ。 体の健康は、これは適切な運動をすることで守る。心の健康は、毎日、前向きな生き方をす ることで守る。なるほど! ……と、自分で感心していては、しかたないが、今、そういう結論に 達した。 話がどんどんと脱線してしまったが、要するに、平均寿命とか、老人性とか、そういうことは考 えてはいけない。晩年論も、くだらない。もともとそういうものは、人間が勝手に決めた尺度に すぎない。私は、いつでも、どこでも、何歳になっても、私なのだ。だから私は、HIVの陽性者に なった若い人のようには、自分の人生を悲観しない。する必要もない。とにかく毎日を、ただひ たすら燃焼させて生きていく。それだけのこと。 (03−1−2) ●四〇歳は青年の老齢期であり、五〇歳は老年の青春期である。(ユーゴー「断片」) ※厚生省が「1999年簡易生命表」によると、日本人の平均寿命は、女性が83.99歳、男性が77. 1歳、男女平均で80.55歳) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(479) 依存心 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言 わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(六七歳)は、だれかに電話をする たびに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何 とかしろ)と、相手に要求していることになる。 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、 ある女性(六〇歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「アメリカが何 とかしてくれますよ」と。 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、 助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。一見、なごやかな世界に見え るかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだけ。総じて言えば、日本人が もつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が結集したものとみてよい。 「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌 われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好んで使われる言葉である。 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。 ●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは 相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」 と、「ハズ論」で行動することが多い。 ●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世 界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで すまそうとする。 ●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で きのよい子と位置づける。 ●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン性) を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的であればあるほど、 美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくことは、まずない。だれ かが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。 依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、 日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して いない。あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代 の全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界から みて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が 国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。 (03−1−2) ●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(480) 演歌の世界 〇二年度も、最後の部分だけだが、NHKの紅白歌合戦を見た。私が子どものころは、視聴 率も、八〇%以上あったという。あの番組は、まさに国民的番組であった。が、今は、見る影も ない。どういうわけだか、おもしろくない。時代が変わったのか? 私の趣向が変わったのか? それとも番組自体が、つまらないのか? こう書くと、紅白歌合戦を楽しんだ人には失礼になるかもしれない。「何、言ってるの! 私は 楽しんだわ」と。 こういうエッセーを書くとき、一番神経をつかうのは、「私はこうだから……」という理由だけ で、ものごとを決めてかかってはいけないということ。個人的な好き嫌いを、ほかの人に押しつ けてはいけない。紅白歌合戦についても、そうで、「私がそう思うから」という理由だけで、「つま らない」と書いてはいけない。それに「つまらない」と書く以上、それにかわる案なり、方法を提 示しなければならない。批判したり、批評したりする程度なら、だれにでもできる。 「紅白」の紅白というのは、もともと、女性の生理の血の赤と、男性の精液の白を意味してい るそうだ。外国では通用しない、日本独特の色彩観である。(あるいは中国からきた色彩観 か?)たとえばアメリカでは、結婚式でも、花婿、花嫁以外は、男性はダークのスーツだが、女 性は、ブルーとかオレンジに、色がある程度、限定されている。これは花嫁の美しさを目立た せるためではないか。日本でも、結婚式では、そういう気配りをする。……というように、あれこ れ思い浮かべても、「男は白、女は赤」という場面は見たことがない。そう言えば、私の二男の 結婚式で驚いたのは、列席してくれた男性たちが、皆、黒いネクタイをしていたことだ。「日本で は、葬式のときに黒いネクタイをする」と言いかけたが、この話は、だれにもしなかった。 さて、本題。紅白歌合戦では、最後(トリ)を、演歌歌手が占めた。男性は、演歌歌手のK氏に つづいて、I氏。女性は、Iさんだった。私が紅白歌合戦をつまらないと思ったのは、もともと演歌 が好きでないこともある。人間の心を、安っぽい論理で、決めてかかるところが、好きでない。 酒、夜、女、雨が、テーマになることも多い。私は酒は飲めない。夜は苦手。女は関係ないし、 雨より、青い空が好き。それに若いころから、義理とか人情とかいう言葉が好きではなかった。 昔、『甘えの構造』という本を書いた土居健郎氏は、「人情は依存性を歓迎し、義理は人々を 依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルである日本の社会は、かくして甘えの弥慢 化した世界であった」と述べている(「甘えの構造」)。そういう点では、演歌は、どれもネチネチ している。カラッとしていない。 ……とまあ、私は、またまたひどいことを書いてしまった。日本の民族的音楽である、演歌を 批判してしまった。きっとこのエッセーを読んで、怒っている人もいることだろう。もしそうなら、 許してほしい。だからといって、私が正しいとか、こうあるべきだとかと書いているのではない。 あくまでもひとつの意見として読んでほしい。 ただこうした私の趣向の背景、つまり演歌がどうしても好きになれない理由には、こんなこと がある。 私の父は酒乱で、数日おきに酒を飲んで暴れた。そしてそれは私が五歳くらいのときから、 私が中学二年生くらいになるときまでつづいた。そのあとは、父も肝臓を悪くし、酒が飲めなく なったが、そんなわけで、私は今でも、酒臭い人間が、大嫌い。ゾッとするほど、大嫌い。だか ら何かの理由で、酒場のようなところに入ると、その酒臭さに、耐えられなくなる。演歌は、そう いう酒場のようなところで歌われることが多い。カラオケができてからは、なお一層、その傾向 が強くなった。だから、演歌を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。この嫌悪感だけは、どうしよう もない。演歌に、そういうイメージが焼きついてしまった。そう言えば、ワイフと結婚する前も、 私はワイフにこう聞いた。「あなたは、演歌が好きですか?」と。するとワイフは、「大嫌い」と。 それだけではないが、それで私はワイフと、安心して結婚することができた。 ただ、美空ひばりだけは好きだった。とくに「悲しい酒」だけは、好きだった。美空ひばりは、 演歌歌手というレベルを超えた歌手だった。「悲しい酒」にハマったときは、ワイフといっしょに 風呂につかりながら、歌い方を何時間も練習した。これは私の唯一の例外か? (03−1−2) ●あとで聞いたら、〇二年度の紅白歌合戦は、演歌ばかりではなかったそうだ。しかしたまた ま私が見たときは、演歌ばかりだった。不運な偶然が重なったのかもしれない。少なくとも、こ こ一五年くらいは、紅白歌合戦は、ほとんど見ていない。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(481) 正月二日 たき火をしようと居間におりたが、外を見ると、強風。そこでワイフに、ふと、「ドライブでもして こようか?」と声をかけると、「いいね」と。そこで正月二日だったが、ドライブにでかけた。 車は、トヨタのビッツ。私たちは、勝手に、「ビンツ」と呼んでいる。ドイツのベンツをもじって、 そう呼んでいる。 コースは、浜松市内から、国道一号線に入り、そこからバイパスを通って、新居まで行く。そ してそこから浜名湖一周コースに入る。このコースだと、ドライブをしている間中、右側に海が 見える。 途中、浜名湖鉄道のK駅で、昼食。駅を改造したレストランで、マスコミにもよく紹介される。 料理は……と書きたいが、ここから先は書けない。(だからといって、推薦しているわけではな いので、誤解のないように!) それからまた走って、細江町へ抜け、そこから姫街道を通って、市内へもどる。時間にして、 ちょうど二時間半のコースだった。ちょっとドライブというときには、よい距離だ。気分転換にな る。 途中、ワイフといろいろな話をする。たいていは、くだらないバカ話だが、ときどき哲学的な話 もする。あとは、ただひたすら雑談、また雑談。「若いときは、よくドライブをしたわね」とワイフ。 「そうだね、毎晩したね」と私。 私たちは、よく真夜中にドライブにでかけた。夜中の一一時とか、一二時に、である。そして あちこちを回ったあと、明け方に帰ってくることもあった。自由業とは、まさに私のような仕事を いう。そういう点では、私たちは、本当に好き勝手なことができた。 当時は、貯金もしなかった。翻訳料で少しでも、予定外のお金が手に入ったりすると、そのお 金をもって、隣の浜北市の旅館で一泊してきたりした。そして翌日は、また幼稚園へ……。収 入も、仕事も不安定だったが、私たちには、こわいものは、何もなかった。不安もなかった。今 でも、こうしてドライブをしていると、あのころの自由奔放(ほんぽう)さが、そのまま心の中によ みがえってくる。 明日からは、人に会わなければならない。行かねばならないところもいくつかある。それに正 月明けの仕事の準備もしなければならない。こうしてゆっくりと原稿を書けるのも、今夜まで。 ……といっても、こういうふうにヒマなときほど、原稿は書けないもの。頭の回転がどこか鈍る。 私は、仕事をしていたほうが、頭の調子はよいようだ。だから、今は、こんなどうしようもない駄 文しか、書けない。ここまで読んでくれた人には申し訳ないと思う。どうか許してほしい。 (03−1−2)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(482) 人生は、無数の選択 ときどきふと、考える。どうして今の私は、今の私なのか、と。そして同時に、「もし、あのとき ……」とも考える。「もし、あのとき、別の選択をしていたら、私の人生は、大きく変わっていた かもしれない」と。 しかし私は、こうも考える。私はそのつど、無数の選択を繰り返してきた。それはC・ダーウィ ンの進化論のようなものだ。今の私は、そういう無数の選択をくぐりぬけながら、今の私になっ た。しかしその選択をしたのは、私自身であって、ほかのだれでもない、と。 たとえば私があのままM物産という商社で働いていたら、私は「社畜」(会社の家畜という意 味)になって、いまごろは、狂い死にしていたかもしれない。私という人間は、そういうタイプの 人間だった。いや、死なないまでも、今ごろはどこかの精神病院に入院しているか、心筋梗塞 (こうそく)か何かで、倒れていたかもしれない。つまり私がM物産という会社を飛び出したの は、私自身が、そういう未来を避けるために、そのように選択したからだ。 だから、ひょっとしたら、私でなくても、私のような人間が、同じような立場に置かれたら、やは り私と同じような運命をたどったであろうということ。そう、それを「運命」というなら、たしかに運 命というのは、ある。 私は、結局は、たいした人間にはなれなかった。これからもなれそうもない。このH市という、 地方都市にうずもれて、このまま人生を終えることになる。それは私の本望ではないが、しかし これが私の限界なのだ。私は私なりに、精一杯、生きてきた。その精一杯生きる過程で、無数 の選択を繰り返してきた。今も、毎日のように選択を繰り返している。しかしいくらがんばって も、その限界を超えた選択は、私にはできない。 たとえばこの正月になって、どうも体の調子が悪い。原因は、運動不足だということはよくわ かっている。しかし私ができることといえば、せいぜい、犬のハナと散歩に行くこと。本当なら、 トレーナーを着て、一〇キロくらいランニングするのがよいのだろうが、この寒さでは、それもで きない。する気が起きない。そこで私は、自分の限界を感ずる。その限界の中で、私はハナと の散歩を選択した。つまり、こうして、無数の選択が積み重なって、私の運命が決まっていく。 いろいろ私自身についての不満もある。後悔というほどのものではないが、「ああすればよか った」「こうすればよかった」と思うこともある。しかし私はそのつど、最善を尽くしてきた。そのと きどきに、その限界の中で、最善の選択を繰りかえしてきた。その結果が、今の私であるとす るなら、私には、ほかにどんな道があったというのか。 もちろん私にも、その限界を超えた「夢」がある。しかし夢は夢。しょせん、かなわぬ夢。そこ には私の実力がからんでくる。運、不運もある。私の精神的欠陥や性格的欠陥もある。そうい うものを総合的に考えてみると、やはり今が、限界。この程度が限界。あるいは今以上に、私 は、何を望むことができるのか。 私が今、できることは、その限界状況と戦いながら、よりよい選択をそのつど、していくしかな い。たとえばハナと散歩にでかけても、いつもより距離をのばしてみるとか。いつもより、より速 くいっしょに走ってみるとか。ささいなことだが、こうした選択をすることで、明日が決まる。だか ら過去をほじくりかえして、後悔しても、意味はない。後悔する必要もない。あの宮本武蔵も、 『我が事に於て後悔せず』(「独行道」)と書いているが、私も、自分のことでは、後悔しない。… …したくない。 (03−1−2)※ (追記)ときどきワイフにこう聞く。「お前は、ぼくと結婚して、後悔していないか? もっと別の人 生を歩きたかったのではないないか?」と。するとワイフは、「これが私の人生だから」と言う。 ときどき、「私は家族のみんなが、それぞれ幸せになってくれれば、それでいいの」と言うときも ある。そこでさらに私が、「何か、やり残したことはないか?」と聞くと、「私は家族が幸せになる のを見届けたいだけ」と。実は、私も同じように考えるようになってきた。残りの人生は、家族 や、ほかの人たちのために使いたい。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 新年のごあいさつ ●2003年になりました 2003年になりました。お元気ですか。 今年も、がんばって、このマガジンを発行することにしました。よろしくお願いします。1月6日 (月曜日)から、昨年と同じように、また騒々しくなりますが、どうかお許しの上、ご愛読ください ますよう、お願いします。 ●私の正月 私の正月は、本当にサエないものです。ここ数年は、旅行もせず、ときどき外出しては、人に 会ったり買い物をしたりして過ごしています。息子たちも、それぞれ自分の予定をもち、勝手な 行動をするようになりました。「元旦だけは、家族は集まろう」と、約束したこともありますが、ど うやらそれは、私だけの約束だったようです。 私は正月になると、正月太りを、繰りかえします。運動不足と、食べすぎです。この10日間だ けで、何と、1・5キロも太ってしまいました。ギョッ! それで早速、今夜から食事を減らしまし た。 ●休みになると鈍くなる? 今、風呂から出て、気分がよくなりましたから、この原稿を書き始めました。昨日まで、どうも 風邪っぽくて、調子が悪かったです。で、明日から、バリバリと原稿を書いてみたいです。しか しおかしなものですね。休みになると、とたん、頭の回転が鈍くなります。いろいろテーマはある のですが、まずもって深く考えることができません。それに原稿を書き始めても、うまくまとめる ことができません。少し書いていると、集中力が弱くなっているためか、自分でも何を書いてい るかわからなくなります。 やはり子育て論というのは、子どもの声を直接聞いていないと、書けないものですね。目の前 で子どもたちが、ギャーギャーと騒いでくれると、とたん、アイディアが、無数にひらめていてき ます。が、今は、ダメです。風呂あがりということもあって、眠いです。よけいに頭がボンヤリとし ています。 ●思いついたまま で、あれこれ思いついたままを書いてみます。 今、コタツのスイッチを、入れたところです。入れ忘れていました。あと、目のまわりがかゆか ったので、少し、かきました。 2003年になったはずなのに、あまり実感がありません。先ほど、風呂の中で、ワイフに、「も う休みはいらないから、早く仕事をしたい」ともらしました。こうしてしばらく子どもたちから離れ ていると、早く会いたいと思うようになります。ワイフは、「あんたは、貧乏性ね」とよく言います が、別に、仕事イコール、お金儲けと考えて、会いたいわけではありません。いつか書いたかも しれませんが、私にとって、教えること自体が、ストレス発散になるのです。 ●私の仕事? しかしおかしな仕事だと、よく思います。年末は、子どもたちをつれて、ハンバーガーショップ やラーメン屋で行きました。そこで、まあ、俗な言い方をすれば、サボって遊んでばかりいたわ けですが、子どもたちの喜びようといったら、ありませんでした。たった500円前後の食事で、 あそこまで喜んでくれるとは! またそのあと、父母たちから、電話で、「ありがとうございまし た」「ありがとうございました」と。仕事をサボって、感謝される仕事というのも、そうはないと思 います。ワイフにそのことを話すと、「いい仕事ね」だって。ははは。 うれしかったのは、年賀状で、いくつかの出版社から、仕事の打診があったこと。こういう不 景気な時代ですから、うれしかったです。「年明けに連絡します」というのもありました。楽しみ です。今なら、本当によい原稿が書けると思います。脂(あぶら)が、のり切っていますから。 ●パソコンを相手にするのが楽しい またまた貧乏性的なことを書いてしましましたが、実のところ原稿を書くのも楽しいですが、こ うしてパソコンを相手にしているのも楽しいです。今、この原稿を書いているパソコンは、あちこ ちを改造して、メチャメチャ性能がよくしてあります。で、気持ちよく動いてくれます。それが私に は楽しいのです。先月買ったパソコンは、もう三男に取られてしまいました。「貸してくれ」という から、「いいよ」と。それでおしまい。で、またこのパソコンを使っています。ええと、これはフジツ ーのFMVC815W、です。17インチのワイド画面。PEN4、1・5ギガ、メモリーは、512に増 設。USB2端子もふたつ増設し、もろもろの機器が接続してあります。 ●今日は1月4日 ところで昨日(3日)の天気は、おかしな天気でしたね。ここ浜松では、朝起きてみると、寒々 とした曇天。昼ごろにはカラッと晴れて、夕方から大粒の雨。大きな前線が、駆け足で通りぬけ たという感じです。少し離れた御殿場(ごてんば)というところでは、雪が降ったそうです。ここ浜 松では、めったに雪は降りません。まったく降らないといったほうが正しいかもしれません。み なさんのところは、どうですか? しかし今、ふと、思いました。この手紙を読んでくださっている方は、男性なのだろうか、それ とも女性なのだろうか、と。私は気持ちの上では、どこか女性の方に書いているような感じです が、しかし男性の方も意識しています。となると、頭の中が、少し混乱してきます。 ●講演をしますよ! 私はあちこちで講演などさせていただきますが、たいていどの会場も、女性ばかりです。たま に男性がチラホラきてくださるという感じです。幼稚園での職場でも、女性ばかりでしたから、 「親」というと、私のばあいは、「母親」ということになります。ですから、こうしてマガジンを発行し ていても、読者の大半は、女性だろうと思っています。が、ですね、私にあれこれメールをくださ る方は、男性の方が多いのです。これはどういう理由によるものでしょうか。よくわかりません。 今、講演の話を書きましたが、もし私のようなものでよければ、どうか講演に呼んでください。 どこへでも、喜んでおうかがします。よく講演料を心配なさる方もいらっしゃいますが、はやし浩 司は、いつもご予算の範囲内でさせていただいています。それに講演料がいくらでも、不平不 満を言ったことはありません。どんな少人数の会場でも、決して手を抜かないのが、はやし浩 司です。どうか、どうか、よろしくお願いします。 ●マガシンで商売はダメ 少しコマーシャルになってしまいました。こういうマガジンでは、物品の販売などは、してはい けないそうです。要するに、営利行為だけのためには使ってはいけないそうです。ということ は、こういうふうに、講演させてくださいとお願いするのもいけないということになるのですか。マ ガジン発行のページには、「警告」と書いてあり、そこには、「違反したばあいには、即刻、発行 を停止する」と、恐ろしいことが書いてあります。どうか、そうならないように、願っています。 仕事といえば、やはり私も収入がないと、生きていかれない立場にあります。当然ですが、し かしまあ、何となく、こうして30年以上、無事に生きのびてくることができました。そういう意味 ではラッキーだったかもしれません。大きな病気も事故もなく、今日までやってこられました。こ れから先のことはわかりませんが、多分、今年も、去年と同じように時は流れていくだろうと思 います。 ●いろいろありますが…… もちろんその一方で、心配なことや、不安なこともあります。これはみなさんと、同じです。今 は、北朝鮮の問題と日本の経済問題が心をふさいでいます。考えても、どうにもならないことは よくわかっていますが、しかし頭から離れることがありません。あの金正日という男は、本当に どうしようもないですね。テレビに顔が出てくるだけで、ゾーッとします。昨日、アメリカのブッシ ュ大統領が、「相手にしたくない男だ」と言ったそうですが、まったく同感です。 さてさて、長いあいさつになってしまいましたが、今年も、よろしくお願いします。原稿は、いく つか書きためてあります。一応、1月10日分までは、すでに発行予約をしておきました。明日 からは、1月12日号用の原稿ということになります。どうか、お楽しみ……と書きながら、私の マガジンは、あまり楽しくないことは、よくわかっています。どこかヒネクレていて、どこか暗い? 自分でもそれがよくわかっています。いろいろなテーマで書きながらも、そのときの精神状態 が、そのまま原稿に反映されてしまいます。書く側としては、これがこわいですね。いくら自分を 飾っても、自分の本性がそのまま、モロに出てきてしまいます。 ●ありのままの情報を そうそうマガジンをこうして発行していると、もうウソがつけなくなってしまいます。ウソを書いて いると疲れるし、それにあちこちでボロが出ますね。そういう自分がこわいときがありますが、 そういうときは、「ええい、ままよ」よ、思い切って書いてしまいます。「どう思われようが、知った ことか!」と、です。ということは、日ごろから、自分を鍛えておかないと、いけないということに なるのでしょうか。日ごろ、いいかげんな生き方をしていると、それがそのまま文の中に表れて しまいます。(正しくは「現れる」? それとも「表れる」? ……日本語って、本当にむずかしで すね。) ともかくも、今年も、こうして始まりました。みなさん、前向きに生きていきましょう! いろいろ 問題はありますが、今日やるべきことをやる。明日は必ず、やってきます。……と、自分にも、 そう言い聞かせながら、この「あいさつ号」を発行します。 ●よろしくお願いします そうそう、最後になりましたが、もしこのマガジンに興味をもってくださいそうな人がいらっしゃ れば、どうか紹介していただけませんか。そのかわり、私は、今までの経験を、すべてみなさん に提供します。読者の方がふえるということは、私にとっては、本当に心強い励みになります。 どうか、どうか、よろしくお願いします。言い忘れましたが、こうして生きがいを私にくださってい る、みなさんに、心から感謝しています。ありがとうございます。みなさんのご多幸と、ご健康 を、心から念願しています。 では、また6日に、お会いしましょう! そうそう毎週月曜日、午前10時JUSTには、チャット ルームへおいでください。お待ちしています。ほとんど推敲しないまま、この手紙を送信します。 誤字、脱字、おかしなところはお許しください。 1月4日 午前0時15分 はやし浩司 ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(483) 電子マガジンのこと 読者の皆さんへ、 このマガジンをとおして、私は、私が経験してきた知識や情報を、あますことなくお伝えできれ ばと願っています。「私が経験した」というより、私の前を通りすぎた、無数のお母さんたちや子 どもたちの経験です。 こうした子育て情報で、与える側も、そしてそれを受け取る側も、もっとも注意しなければなら ないことは、それが一部に偏(かたよ)りすぎていてはいけないということです。中には、自分の 周囲だけの子育てをみて、子育て論を組み立てる人もいます。まちがってはいませんが、しか しそういう情報をもとに、自分の子育てを組み立てると、たいてい失敗します。 少し辛らつな批評になると思いますが、今まででも、こんなことがありました。 ある女流作家(コラムニスト)の育児論ですが、その作家が娘(三歳)と、幼稚園で別れたと き、その娘が大声で泣きじゃくったというのです。それを見て、その作家は、「親子のきずなの 深さに感動した」と書いていましたが、それは、「きずな」でも何でもありません。ただの分離不 安です。 またある日本ではよく知られている幼児教育家であるK元教授は、たった数か月、幼稚園で 幼児心理の調査をしたことがあるだけです。私も経歴を調べてみたことがありますが、幼児教 育に直接たずさわったという記録は、どこにもありませんでした。 さらにこれもよく知られている幼児教育家の、R元教授は、ラジオのトーク番組の中で、ポロリ とこんなことをもらしていました。「私は三人の孫をとおして、幼児教育を学びました」と。たっ た、三人、です! それともあなたは、あなたの幼稚園で、大学の先生が、幼児といっしょに、 遊戯をしたり、手をたたいている姿を見たことがありますか? まだ、あります。外国の大学では、お金さえ出せば、博士号を売ってくれる大学はいくらでも あります。私のところにさえ、毎年のように、その種の勧誘の手紙が来ます。昨年(〇二年)だ けでも、カナダのA大学、ハワイのI大学などからきました。「貴殿を名誉教授に推薦します。ま たご希望であれば、講座をもっていただきます」と。相場は、五〇〜一〇〇万円です。そういう ところで入手した博士号をぶらさげて、「○○学博士」と、自分を飾っている自称教育家(?)は いくらでもいます。 私が、自分の子育て論を書こうと思いたったのは、ここに書いた、K元教授の本を読んだとき のことです。そのときのことを書いたエッセーが、つぎのものです。この原稿の一部は、中日新 聞に発表させていただきました。私は彼の本を読んで、怒りで、カーッと体が熱くなるのを覚え ました。そのときです。私は自分の育児論を書いてみようと思いたちました。「批評することぐら いなら、だれにでもできる。それにかわる育児論を提示することこそ、大切だ」と。 ++++++++++++++++++++ 誤解と無知 ●墓では人骨を見せろ? ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の 本を手にしていた。よく知られたH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気を起 こす法」(仮称)。 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お 墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにも、こんなことが 書いてあった。 ●遊園地では子どもを迷子にさせろ? 「親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい」、 「家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい」など。 本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は 子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚 いた。 ●子どもにはナイフをもたせろ? その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子 どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、自説をひっこめざるをえなかった のだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表 するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。 ●ゴーストライターの書いた本 これはまた別の元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論 家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢 は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理 解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を 知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為 をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家 ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。 たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を 聞くと、こう教えてくれた。 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専 用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)「子どもの頭をよくする献立」(仮称)は、 やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われた。表に出ることはなかったが、出版界 ではかなり話題になった。 ●タレント教授の錬金術 こうした教授、つまりタレント教授たちは、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に 入れる。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分 の原稿にする。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイ プのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がF社に原稿を持ちこ んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、 こう言った。「あのう、Y大学のG名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」 と。もちろん私はそれを断った。 が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでF社の本が山積みになって いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、二〜三冊あ った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ ふれていた。 ●インチキと断言してもよい こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では 常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に ある。 ●私の反論 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して おく。 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔(とむら)うことで教える。ペットでも何で も、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を 通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。 親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育 ての世界ではまさに邪道! また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして 考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなた はどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家 の意見については、もう書いた。 ●批判力をもたない母親たち しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。 ++++++++++++++++++++++++ ついでに、ここに書いた「女流作家」について書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに転載 しておきます。 ++++++++++++++++++++++++ 子どもの分離不安 女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラムニスト のものだが、いわく、「うちの娘(三歳)を初めて幼稚園へ連れて行った時のこと。娘は激しく泣 きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆(きずな)の深さに感動した」と。 そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、感動したと言うのだ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症状。「別れをつらがっ て泣く子どもの姿」ではない。 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声を 上げて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイ ナス型)に分けて考える。似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立 恐怖)もいるが、それはともかくも、分離不安の子どもは多い。四−六歳児についていうなら、 十五〜二十人に一人ぐらいの割合で経験する。親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静 かに落ち着いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと、ものすごい声を張り上げ て、その後を追いかけたりする。 原因は……、というより、分離不安の子どもを見ていくと、必ずといってよいほど、そのきっか けとなった事件が、過去にあるのが分かる。激しい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で 入院したことや、置き去り、迷子を経験して、分離不安になった子どももいる。さらには育児拒 否、親の暴力、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子どもの側からみて、 「捨てられるのでは…」という被害妄想が、分離不安の原因と考えると分かりやすい。無意識 下で起こる現象であるため、叱(しか)ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集 団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理をすればかえって 症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくす るとやがて静かに収まることが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」の である。一度キズついた心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつ ど繰り返し症状が表れる。 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場で優しく丁寧に説得を繰 り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子を観察す ると、たいてい親の方が短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしているのが分か る。「いい加減にしなさい!」「私はもう行きますからね」と。こういう親子のリズムの乱れが、症 状を悪化させる。子どもはますます被害妄想を持つようになる。分離不安を神経症の一つに分 類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。 分離不安は四−五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたよう に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が 予定より遅くなっただけで、言いようのない不安に襲われます」と。姿や形を変えて、大人にな ってからも症状が現れることがある。 ++++++++++++++++++++++++ 新年早々、何とも辛らつなエッセーになってしまいましたが、気分を悪くなさった方は、どうか お許しください。何かジョークとか、笑い話、あるいは楽しい話をとも考えましたが、いきなりこう いう話になってしまいました。 こう書くからといって、私が正統派だなどというつもりはありません。しかし一定の育児論を書 くには、それなりの現場経験が必要です。しかもその経験というのは、最前線での経験でなけ ればなりません。親に叱られたり、殴られたり、あるいは子どもの問題で、一晩中あちこちを車 で走り回ったり……。そういう経験が無数に積み重なって、一つの「論」になるのです。 今年一年、どういうことになるかわかりませんが、私は私なりの方法で、自分を主張していこ うと思います。そしてその主張をとおして、みなさんの子育てのどこかで、このマガジンが、お役 にたてることを、心から願っています。これからもよろしくお願いします。 はやし浩司 (03−1−3) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(484) ある不登校児 今、一人の不登校児が近くにいる。高校二年生の男子である。たいへん優秀な高校生で、不 登校児になるまで、これといって、まったく問題はなかった。親も、「子育てが楽でした」と言って いる。 その子どもを観察してみると、いろいろなことがわかる。これは「今」という時点から見た、断 片的な症状にすぎないが、こういうことだ。 まず学校へ行っていないということをのぞいて、まったく問題があるようには見えないこと。ふ だんのまま起きて、ふだんのまま生活している。そしてふだんのまま親と会話をしている。音楽 を聞いたり、ビデオを見たりしている。友だちに電話もかけているし、ときどき町の中へもでか けていく。映画をみてくる。が、どうしてか、学校にだけは行けない。 そういう子どもを見て、親は、ただただ「どうして?」と首をかしげる。が、ほかに症状がない わけではない。どこか心がつかみにくくなっている。何を考えているか、わからないような状態 にはよくなる。ブスッと黙りこんだり、もの思いにふけったりする。何かを話しかけると、不気味 にニンマリと笑ったりする。母親の話だと、ときどき突発的に激怒したりすることはあるという が、私の前では、そういうこともない。ほかに「短気になった」と、母親は話してくれた。「いつも どこかピリピリしています」と。 ほかに、運動はあまりしないので、太り始めた。生活が不規則になって、ときどき真夜中ま で、さらに朝方まで起きていることもある。行動が突発的になり、計画性がなくなった。思いつき で行動する。ときどき食べたいものだけ、そればかりを食べる、など。正月用に買っておいたス ルメを、一晩で五枚も食べてしまったこともあるという。 この高校生のばあい、学校恐怖症の第三期※にいるものと思われるが、しかし第二期のパ ニック期は、思い当たらないという。母親と父親が、たいへん静かで、穏やかな人であったため ではないか。その子どもが朝、「学校へ行きたくない」と言ったとき、そこで無理をしなかった。 この子どもは、回復するのが、それほどむずかしいとは思わない。それでも、一、二年はか かり、最悪(最悪でもないのだが……)のばあい、中退ということにもなるかもしれない。しかし それえ以上、症状がこじれるということはないと思う。私は母親に、こうアドバイスした。 「最初に、最悪の状態を想定し、すべてをあきらめなさい」と。具体的には、高校の中退、大 学進学を断念する。そしてこれから先、闘病生活は、短くても二年はつづく、と。幸いなことに、 その母親はこう言った。「わかっています。覚悟しています。それよりも、あの子がこれ以上苦 しまないことだけを願っています。きっとあの子も、こうなる前、人知れず、苦しんだのですね」 と。 たいへん断片的な報告でしかないが、この母親の対処のし方には、満点をつけたい。 (03−1−3) ※第三期……学校恐怖症の症状の、第三期をいう。 (参考、無断転載を禁じます!) 学校恐怖症、四つの段階論 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉 症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状 を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し ている。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。 心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかり やすくしたのが次である。 @前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐 き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になる と、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学 校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除す ると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど 移動するのが特徴。 Aパニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂った ように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一 転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌 っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と 思うことが多い。 B自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的 態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不 安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子 どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 C回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊び に行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて 登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるように なり、序々にその期間が長くなる。 ●前兆をいかにとらえるか 要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親は ひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化さ せ、Aのパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行き たくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子 どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればする ほど、症状はこじれる。悪化する。 ※……不登校の態様は、一般に教育現場では、@学校生活起因型、A遊び非行型、B無気 力型、C不安など情緒混乱型、D意図的拒否型、E複合型に区分して考えられている。 またその原因については、@学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、A家庭生活起因型(生活環境の 変化、親子関係、家庭内不和)、B本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日本 教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを 外の世界から見た区分のし方でしかない。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 子育て随筆byはやし浩司(485) おかしな国、日本 「お金がないから、道路は作れない」という政府。しかしそれに地方自治団体や、族議員たち が猛反発。中には、「地方をつぶす気か!」と叫ぶ議員も(〇三年一月)。 こういうやり取りを聞いていると、日本の民主主義は、どこにあるのかとさえ思ってしまう。私 たち民衆は、道路なんか、いらない。ほしいと思ったこともない。ないよりはあったほうがよいに 決まっているが、しかしこんな論理で、湯水のごとくお金を使っていたら、この日本は、どうな る? ところで、今、話題の北朝鮮。あの国にも、選挙制度があるというから、お笑いである。一応 あの国も、朝鮮民主主義人民共和国。「民主主義」を歌っている。その選挙について、重村智 計氏は、つぎのように書いている(「北朝鮮データブック」講談社現代新書)。 「北朝鮮の選挙区は、定員一人で候補者も一人だ。その候補者に賛成か反対かを投票する ことになる。選挙区の投票者名簿を作る段階で、海外在住者やその日、投票に来られない人 は除外される。 そして投票日になると、地区の責任者が全員投票が行われるように命じ、点検、監督すると いわれる。北朝鮮から韓国に亡命した住人の話では、候補者に賛成なら何も書かずに投票 し、反対なら×印を書いて投票するという。しかし立会人が見ている前では、エンピツを手にす ることは、できないという。もし反対票を投じれば逮捕されるか、あとで調査を受ける」(同書一 四一頁)と。 一読してわかるように、「こんなのは選挙とは言わない」。 しかしこの日本は、いったいどうなのか。私が住んでいるこの地域でも、政治は、官僚や財界 (土建業)と深く結びついている。地方自治体の町や村レベルでも、この形式は同じ。スケール が大きいか、小さいかの違いだけである。しかも奈良時代の昔から、日本は中央集権国家。 中央から天くだってきた官僚や役人が、知事や市長、さらには国会議員を努めるしくみができ あがってしまっている。 こういう日本の「しくみ」を批評して、重村氏も、「どんな国でも、その国の伝統や価値観に基 づいたシステムが生まれ、一定の行動様式が存在する。例えば、日本の天皇制や、日本型の 政治は、他の国ではなかなか理解できないだろう」(同三二頁)と書いている。つまりそういう日 本の社会にどっぷりとつかっていると、日本の政治を客観的に見ることができないばかりでは なく、そういう日本人が、北朝鮮を見ると、「まちがった判断をくだしやすい」(同書)から、気を つけろ、と。 そういう点では、「日本が民主主義国家だ」と思っているのは、恐らく、日本人だけではないの か。私が学んだオーストラリアの大学でも、テキストには、「日本は、官僚主義国家」と書いてあ った。あるいは「君主(天皇)官僚主義国家」となっているのもあった。事実、私がかいま見た、 彼らの民主主義国家は、日本のそれとは、まったく異質のものであった。もっと言えば、オース トラリア人の目から見ると、北朝鮮の選挙制度も、日本の選挙制度も、それほど、違わない。 選挙などというのは、「形」だけ。その形を利用して、北朝鮮の独裁者は、好き勝手なことをし 放題、している。日本でも、官僚たちは、好き勝手なことを、し放題している。その結果が、冒 頭に書いた、道路工事である。民衆の願いや希望、さらに意思と、政治が完全に、遊離してし まっている。 この正月も、この地域の市議会議員が、選挙用ポスターと、パンフをもってあいさつに回って きた。こういうのが議員活動と思い込んでいる議員も議員なら、それを受け入れる私たちも私 たちである。今年もあちこちの成人式には、ズラリと政治家たちが、壇上に顔を並べるのだろ う。しかしこういうのが議員活動を思い込んでいる議員も議員なら、それを受け入れる私たちも 私たちである。どこにも主義主張がない。その前に、どこにも議論がない。そしてこれが「細胞」 とするなら、そういう細胞が無数に集まって、市議会を構成し、県議会を構成し、国会を構成す る。 日本が真の民主主義国家になるのは、いつのことやら。その前に、日本人が、この日本のお かしさに気がつくのは、いつのことやら。恐らく、北朝鮮の人たちも、自分では、民主主義国家 と思っているだろう。疑問に思う人もいないだろう。何といっても、あの国の正式名称は、朝鮮 「民主主義」人民共和国なのだから。 (03−1−4) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(486) 雑談(1−4号) 正月四日。土曜日。ポカリとあいた、静寂のとき。今朝は起きたときから軽い頭痛。のどが痛 い。早速、うがいをする。 ほかの人たちは、どのように新年を迎えただろうか。子どもが小さいうちは、何かと騒々しく、 あわただしいもの。しかしその子育ても終わると、とたんに、正月も静かになる。それがよいこ となのか、悪いことなのか? 昼から夕方近くまで、もう一度寝なおして、起きる。いろいろ外出する予定もあったが、取りや め。こういうときは、ニンニクを食べるのがよいが、ふいの来客があるかもしれないので、それ もできない。 台所におりてきて、軽い昼食を食べる。正月の餅と、残ったおせち料理。この一〇日間で、 一・五キロも太ってしまった。ほぼペットボトル一本分ということになる。このままいけば、一月 の終わりには、プラス四・五キロ。また元どおりになってしまう! ギョッ! そのあとワイフと、世間話を始める。これという話ではない。このところ会話もどこか、単調に なってきた。話す内容も、繰りかえしが多くなった。「今日は、風が強いなあ」「ああ、そうねエ」 「今夜も寒くなりそうだ」「そうねエ」と。 倦怠期? 更年期? 初老のうつ病夫婦? いろいろ考えられるが、こういうのを平凡という のか。日々は、ものうげに、ゆっくりと流れる。どこから始まり、どこで終わるということもない。 「あとでドライブしようか?」 「どこへ?」 「買い物がてら、そのへんを……」 「いいわね」 外を見ると、もう夕暮れ。白っぽい夕日と、冬の風。庭の前に立つ松の木が、大きく波うつよ うに揺れている。物干しざおにかけられたタオルも、ハタハタとひらめいている。見慣れた景色 だが、その見慣れすぎたところが、どうもしっくりこない。二〇〇三年になったばかりというの に、どこも違わない。 電灯をつけるのを忘れた。薄暗い部屋の中。言い忘れたが、私は暗いのが平気。子どもの ころから、薄暗い家で住んでいたせいかもしれない。家は、北側の店になっている部分と、裏 の住居になっている部分の二つに分かれていた。店のほうは大正時代に建てられたものだ が、裏の住居は、江戸時代に建てられた蔵を改造した家だった。天井をはう電線も、むきだし のままだった。どの部屋にも、二〇ワットの電気が、一本しかついていなかった。 「この家も、古くなったな」 「二五年もてば、いいほうだって、大工さんが言ってたわ」 「二五年かア」 「粗製濫造の時代だったからね」 「ところで今、どの家も、トイレには、ウオシュレットがついているってサ」 「そうらしいわね。このあたりでも、ないのはうちだけよ」 「そうかア」 あいかわらずつづく意味のない会話。気のない返事。ときおり聞こえる、風の音。そのとき息 子が、部屋に入ってきた。いつものように電気がつき、テレビにスイッチが入って、そこで静寂 はおしまい。 「テレビでも見ようか?」 「ああ、そうね」と。 (03−1−4) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(487) 子育てポイント ●アルバムは見せよう 子どものいつも手や目が届くところに、アルバムを置いておく。アルバムというのは、楽しい 思い出がつまった、宝石箱。子どもはそのアルバムを見て、心をいやす。それだけではない。 おとなは、過去をなつかしんでアルバムを見るが、子どもは、未来を知るためにアルバムを見 る。ある子どもは、父親の子ども時代の写真を見て、「これはお兄ちゃんだ」と言い張った。自 分が成長していく、喜びを、その中に見る。 アルバムには、不思議な力がある。どう不思議かは、あなた自身が発見してみればよい。 ●ベッドタイムゲームを大切に 子どもは毎晩寝る前に、同じ習慣を繰りかえして眠りにつくという習性がある。これを英語で は、「ベッドタイムゲーム」という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ること に恐怖心をいだいたりする。ばあいによっては、情緒不安の原因ともなる。 コツは、毎晩、同じことを繰りかえすようにする。本を読んであげたり、軽く添い寝をしてあげ たりするなど。まずいのは、いきなり子どもをベッドに押し込め、電気を消すような乱暴な行為。 子どもは眠ることそのものに、恐怖心をもつようになる。 ●冷蔵庫をカラにする 子どもの小食で悩んでいる親は多い。食が少ない、遅い、好き嫌いがはげしいなど。そういう ときは、まず冷蔵庫をカラにする。身の回りから食料を片づける。徹底して、それをする。とくに 菓子類、甘い食品など、俗に言うジャンクフードなどは、思い切って捨てる。「もったいない」と 思ったら、なおさらそうする。その「思い」が、つぎからのまちがった買い物習慣を改める。 そして母親が料理で作ったもの以外、食べるものがないという状態にする。これを数か月〜 半年、つづける。たいていの小食は、それでなおる。 ●カルシウムを大切に 子どもの食生活では、カルシウム分、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。要する に、海産物を中心とした献立にする。 とくに子どもの情緒が不安定になったら、まずカルシウム分の多い食生活にする。ちょっとし たことでピリピリしたり、怒ったり、反対にわけもわからないままぐずったりするようなとき、効果 がある。戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていたという。 ●歩かせる 子どもは、何かにつけて、歩かせる。歩くことが、体力をつける基本と考える。 昔、オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。「旅は、歩け」と。つまり歩くことにより、もちろ ん健康になるが、それだけ印象も深くなる。まわりの景色や状況が、より鮮明に記憶に残る。 ウソだと思うなら、あなた自身の記憶の中をさぐってみればよい。あなたの記憶の中には、無 数の思い出があるが、その中でも、そういうときの思い出が、より印象強く残っているかを、知 ればよい。歩くことにより、五感(見る、聞く、感ずる、かぐ、考える)全体が、より強く刺激される ためである。 ●クーラーを避ける 都会ではそうはいかないかもしれない。しかしクーラーは、できるだけ避ける。私の家は、ク ーラーなしで、やってきた。そのためか、息子たちも、かえってクーラーの不自然な冷気を嫌う ようになった。ああいうものは、なければなくても、すむものか? 反対に、夏など、クーラーがないと、苦しそうにハーハーとあえぐ子どもが多いのには、驚か される。胸をかきむしる子どもさえいる。話を聞くと、家では、一日中、クーラーをつけっぱなし だという。 子どもの健康もさることながら、こういうぜいたくな生活に慣れきってしまった子どもは、将来 どうなるのか? そんなことも少しは、考えたほうがよい。 ●子育ては楽しむ 子育ての最大のコツは、子育てを楽しむ。「育てよう」「育ててやろう」と考えるのではなく、「い っしょに楽しむ」。そういう姿勢が、子どもを伸ばす。 もしあなたが子育てをしていて、それを負担に感じたり、不愉快に感じたら、親子断絶の第一 歩と考えてよい。それだけではない。長い時間をかけて、あなたの子どもの表情は、確実に暗 くなる。 どうせ育てなければならないのだったら、はじめから、楽しむ。それだけのこと。 ●外で遊ばせる 子どもは、外で遊ぶのが、基本。しかし今、外で遊ぶ子どもは、ほとんどいない。田舎に住む 子どもほど、そうで、原因は、テレビゲーム。 こうした現状を嘆いてもしかたないが、しかし、それでも子どもは、できるだけ外で遊ばせる。 努めて、そうする。子どもは外で遊ぶことにより、……。この部分を書き始めたら、とても数行 ではすまないが、ともかくも、そうする。あなたの子どもが日曜日になると、外へ元気よく遊びに 行くようなら、それだけでも、あなたの子どもの心は、まっすぐ伸びていることになる。 ●ウソはていねいにつぶす 子どものウソにもいろいろあるが、子どものウソは、ていねいにつぶす。叱ったり、威圧した り、さらに脅したりすれば、そのときは効果(?)があるかもしれないが、それは一時的。子ども は、ますますウソがうまくなる。 子どもがウソをついたら、「なぜ」「どうして」だけを聞きかえしながら、それですます。子どもが 親のお金を盗んだようなときも同じように対処する。そういう意味で、子育ては、まさに根くら べ。その根くらべに、親は負けてはいけない。 ●子どもは使う 子どもは使えば使うほど、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、それで養われる。 が、それだけではない。勉強もできるようになる。もともと勉強には、ある程度の苦痛がともな う。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力ということになる。 もっとも使うといっても、親がソファに寝そべっていて、「新聞をもってこい」は、ない。生活自 体がもつ緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。「これをしなければ、家族のみんなが 困る」という意識をどこかで、もたせるようにする。 ●「いいかげんさ」を大切に 子育てでは、「いいかげんさ」を、大切にする。そのいいかげんな部分で、子どもは羽を休 め、そして心をいやす。 たとえば「歯をみがきなさい」とは言いながらも、適当にすます。虫歯になれば、歯医者へ行 けばよい。痛い思いをして、子どもははじめて歯磨きの大切さを知る。子育てには、こういうい いかげんさが大切。先日、ある大学の教授(国立)がこう話してくれた。「うちの大学へくる学生 は、たしかに頭はいいが、自活する力がない。三食を、コンビニ食ですまし、健康を害する学 生はいくらでもいる」と。 ●親は外に伸びる 子育てじょうずな親と、そうでない親の違いは、親自身の社交は範囲によって決まる。社交範 囲の広い親は、それだけ人間関係の許容範囲が広いということになる。つまり子どもに対して も、度量が広い。反対に、社交範囲の狭い親は、許容範囲が狭く、どうしても子どもにギクシャ クしてしまう。それが、親子関係をゆがめる。 子どもはあなたから生まれるが、同時にそのときから、一人の人間である。一人の人間であ る以上、無限の可能性をもっている。決してあなたの世界だけで、子どもを見てはいけない。 育ててはいけない。 ●互いに別世界 親どうしの会話を聞いていると、互いに別世界というような会話をしていることがよくある。「あ あら、信じられませんわ」「いえ、私だって……」と。 子どもが親に向かって反抗するのを絶対許さないという親もいれば、反対に、まったく平気な 親もいる。反抗するのを許さない親からみれば、反抗する子どもというより、それを許す親がい ることが信じられない。反対に、平気な親からすれば、子どものことでカリカリする親がいること が信じられない。つまりたがいに別世界。 こういう「別世界」を感じたら、一度、あなた自身の子育てを謙虚に反省してみるとよい。たい ていあなたの子育てのほうが、ふつうでない。とくに「私が絶対、正しい」と思っている人ほど、 要注意。 ●生活の音を大切に 大根を切る音。味噌汁がにえる音。風の音。ドアの音。一見何でもないように見えるかもしれ ないが、「音」には、不思議な力がある。少し前、何かの調査で、「あなたは二一世紀に何を残 したいですか」という質問を、インターネットで募集したことがある。そのとき、この「音」に関する ものが、一番多かった。「水車の音」「ヒグラシの声」など。 子どもには、「何の音かな」「どんな音かな」と、語りかける程度でよい。子どもが、音に関心を もち、興味をもつようにしむける。ほかに、味や臭いもある。私もよく教室で、子どもたちに、い ろいろな葉の味や臭いを調べさせる。子どもたちは、「臭い」とか、「いいにおい」とか言うが、そ うした新発見が、子どもの知能をかぎりなく刺激する。 (03−1−4) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(488) 雑談 正月料理にあきて、私が「茶漬けを食べたい」と言うと、ワイフは、「私は、おじや」と。そこで 私が、「お前は、ばばや」と言うと、「失礼ね!」と。 たまたまその夜、BSで、『マジソン郡の橋』(映画)をやっていた。「イーストウッドが演ずると、 どうしてああも、かっこういいのかねえ」と言うと、ワイフは、「ムードが違うわ」と。そこで頭にき たので、「オレは、チンケード(キンケード)だ。お前は、ババチェスカ(フランチェスカ)だ」と。言 い終わって「しまった!」と思ったが、すかさずワイフが、「だからあんたはダメなのよ」と。 私は、言葉が汚い。生徒(女子)が、「先生、シャーペンの芯(しん)が、ナ〜イ」と言ったりする と、「何? チンがない?」と言い返してしまう。こういうのをセクハラというのか。あるいは、教 室には、楽器がたくさん置いてある。よく子どもたちが、ベルを鳴らすので、こう言ってやる。「う るさい! チンチン、鳴らすな!」と。こういうのもセクハラというのか。 若いころは、こういう言葉を使うのが、どこか気が引けたが、今は、平気になってしまった。つ まりますますムードがなくなってしまった。(もともとムードとは無縁の男だったが……。) ……こういう話はやめよう。マガジンに載せるような話ではない。せっかく読んでくれる人に、 申しわけない。時間をムダにしてしまう。で、少し気を取りなおして……。 私はもともと、欲求不満のかたまりのような男だった。当時は、そういう時代だった。自由奔 放(ほんぽう)なセックスを肯定するわけではないが、しかし抑圧的でありすぎるのもよくない。 私が高校生のときには、デートすら、どこか禁止されているような雰囲気だった。だから女性と の下着をかいま見ただけで、鼻血ブーッ。女体の解剖図を見ただけで、鼻血ブーッ。風呂屋の 番台のハシから、女性の足を、チラリと見ただけで、鼻血ブーッ。すべてが、鼻血ブーッの世界 だった。 そういう点では、今の若い人たちは、うらやましい……とは、残念ながら思わない。しょせん、 「セックスは無」。意味があるようで、まったく、ない。それはトイレで、大便をしたり小便をしたり するようなもの。あるいは、カフェで、食事をするようなもの。大切なのは愛だ。愛こそ大切だ。 本当に好きだった女性とのセックスは、あとあとますます光り輝くもの。そうでないのは、鉛色 になって、やがて色あせ、そして不快な思い出として残る。つまり排泄行為としての、セックスに は、意味がない。刹那(せつな)的な快感はあるかもしれないが、意味はない。 ……とは言いつつ、人間も、動物。本能がある。その本能まで押し殺してしまってはいけな い。と、まあ、少し前に書いた話と同じになってきたから、この話は、ここまでにする。 さてさて、私もワイフも、ますます色気をなくしてきた。チンケードに、ババチェスカでは、どうし ようもない。そうそう私が、そう言ったら、ワイフはこう言った。「あんたは、そういう言葉をつくる 名人ね」と。長い間、幼児を相手にしていると、そういうことも、うまくなるようだ。 (03−1−4)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(489) 子育てポイント ●温もりのある園を 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子 どもをやらないほうがよい。 ●園は、先生を見て選ぶ 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園 は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという ような園は、さける。 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、 よい。 ●男児は男児 男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子 は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取 っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって いる。 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ とと決めてかかってはいけない。 ●負けるが勝ち 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子 どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、 「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるよう に見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ れなりに深刻なケースと考えてよい。さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほ かの世界でのことなら、ともかくも、あなたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子ど もにとって、すみやすい世界を、何よりも優先する。だから、『負けるが勝ち』。 ●我流に注意 子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」 「他人の育児論は役にたたない」と。 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気 づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と 思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない… …」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求 める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。 その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。 ●二番底、三番底に注意 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと 考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの 世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを 繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三 番底がある。では、どうするか? そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。 ●信仰に注意 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫 婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊 状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、 行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した 上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集 団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始 めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした りする。 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた めの、大原則。 ●機嫌を取らない 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない ことは、言うまでもない。) そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、 あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの 親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子 どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育 児観は、捨てたほうがよい。 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた と子どものパイプを太くする。 ●いつも我が身をみる 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、 子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって ほしいです」と。 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て をするときの、コツ。 ●本物を与える 子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」 というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそ うする」。 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ りも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。こうした低俗、軽薄文化が、今、 この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかということ。このままでよいかというこ と。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれば、子どもには、できるだけ本物 を与えたり、見せたり、聞かせたりする。 ●親が生きがいをもつ 子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは 結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言 える。 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響 を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。 それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな る。 ●仮面に注意 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見 られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト レスをためやすい。 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。 ●聞き上手になる 子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして 他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ レーションする。そうでない親は、そうでない。 親と話していて、(教える立場で)、何がいやかといって、すぐカリカリすること。 私「最近、元気がありませんが……」 親「うちでは元気があります」 私「何か、問題がありませんか?」 親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。 子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ になる。 ●親の悪口は言わない あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結 果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。 父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家 族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。 ●無菌状態に注意 子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子 は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、 つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学 ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。 子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も 身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。 ●子どもは削って伸ばす 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。 たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を 盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも いる。 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で 考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように なる。 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの 「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。 ●「偉い」を廃語に 日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い 人。わかるかな?」と言っていた。 しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という 言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、 ほとんど問題にならない。 この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用 される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。そこでどうだろう。も う「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かっては、「偉い人になりな さい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのようだが、こうした小さな 変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることができる。 ●訓練(指導)と教育は別 この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、 教育ではない。 訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い 込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教 育の最大の悲劇がある。 一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも 訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。 教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。 私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を 繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。 むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、 混同してはいけない。 (02−1−6) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(490) 心の中のゴミ 人間は、体の中にある、不要なものを、無意識のうちにも外へ排出しようとする。その原点 (深層心理)となっているのが、大便や小便だという。心の中もそうだそうで、人間は、心の中に ゴミがたまると、やはり無意識のうちにも、それを外に排出しようとする。私の意見ではない。 あのフロイトがそう言っている。わかりやすく言えば、人間は、本来、隠しごとができないという こと。心の中を何かがふさぎ、モヤモヤしてくると、何らかの方法で、それを吐き出そうとする。 吐き出すことで、心の中をスッキリさせようとする。 子どもの心も、同じように考えてよい。子どもは、いつも心の中を掃除しながら、自分をコント ロールする。問題は、吐き出すということではなく、吐き出せない子どもがふえているというこ と。その方法がつかめず、悶々としている子どもは、多い。そういう子どもほど、一方で、心を ゆがめやすい。 たとえば口の悪さ。子どもの口が悪いのは、あたりまえ。親に向かって、「バカ!」「ババ ア!」とか言う。そういう口の悪さを許せというわけではないが、そういうことが言えないほどま でに、子どもを抑えつけてはいけないということ。 とくに人前で、よい子ぶる子どもほど、注意する。これを教育の世界では、「仮面」というが、 何かにつけて優等生という子どもほど、心の中にゴミをためやすい。一見、育てやすいが、親 がそう思いこめば、思いこむほど、そのツケは、大きくふくらんでいく。しかもあとになればなる ほど、問題は大きくなっていく。一般論として、少年少女期から青年期にかけて、サブカルチャ (下位文化)、つまり非行などを経験した子どもほど、おとになると、かえって常識豊かで、善良 な市民になることが知られている。これも私の意見ではない。教育の世界では、常識。つまり それだけ、このタイプの子どもほど、心の中のゴミの吐き出し方を知っているということになる。 このことは、子育ての中で、つぎのように応用できる。 子どもの心の中に、どんなゴミがたまっているかを、知る。とくに自意識が強く、自制心の強 い子どもほど、ゴミをためていると考える。そういう前提で考える。つぎにそういう子どもなら、ど ういう形で、ゴミを吐き出しているかを、観察する。どんな子どもでも、何らかの形で、ゴミを吐 き出そうとする。そしてどこかで、そのゴミを吐き出している。趣味とか、ゲームとか。ここで重 要なことは、その吐き出し方が、じゅうぶんなものかどうかということ。そういう場をとおして、言 いたいことを、思う存分言い、したいことを、思う存分しているかということ。もしそうなら、それ はそれでよし。そうでなければ、そうでない。 もしあなたの子どもが、外の世界ではともかくも、あなたの前で、よい子ぶっているようなとこ ろを感じたら、あなたは家庭のあり方を、かなり反省したほうがよい。方法としては、ここに書い たように、ゴミを吐きださせるようにする。もっとわかりやすく言えば、子どもの側からみて、言 いたいことを、思う存分言い、したいことを、思う存分することができるような環境を用意する。 しかし子どもというのは、一度、仮面をかぶると、その仮面をはがすのは容易ではない。家庭 のあり方を改めても、数年単位の時間がかかる。またそういう覚悟で、対処する。……本来な ら、子どもをそういう状況に追いこまないようにする。 ところで、こんな女性(三五歳)がいる。実家の父親や母親を前にすると、神経をすり減らすと いうのだ。だから「正月などに、実家へ帰るのが苦痛でならない」と。しかしもっと大きな悲劇 は、そういう女性の心に、実家の父親や母親が、気がついていないということ。「私のことを、で きのいい娘と信じています」と。その女性のばあいも、他人に対して、いまだに心を開くことがで きないという。こうも言った。「人前に出ると、どうしても自分をつくってしまいます。そしてその 分、神経を、ヘトヘトになるまで、すり減らします」と。 さて、あなたはどうか。あなたは自分の心の中のゴミを、日ごろ、思う存分吐き出しているだ ろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、あなたというより、それがあなたの子どもに 悪い影響を与えていないかを、疑ってみたらよい。 (03−1−5) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 子育て随筆byはやし浩司(491) 暴力におびえる子ども 体罰といえば、体罰だが、私は、ときどき、しゃもじ(ご飯をすくうしゃもじ)で、子どもの背中を 叩いて回ることがある。姿勢の悪い子どもや、ふざけている子どもに対してそうする。(しかし、 たいていはイスを叩くだけで、子どもの背中を叩くことはめったにない。音だけはバッシとする が、まったく痛くない。念のため。) そのしゃもじで叩くフリをしただけで、異常におびえる子どもがいる。「こわいから、やめて!」 と、叫ぶ子どももいる。一種の恐怖症だが、この恐怖反応は、おおきく分けて、つぎの三つのタ イプに分けられる。 (1)暴力に対して、攻撃的におびえるタイプ(プラス型)……このタイプの子どもは、大声で「こ わいから、やめて!」と叫んで、逃げ回ったりする。K君(小五)も、このタイプ。日ごろは活発 で、わんぱくなのだが、私がしゃもじを振りあげたとたん、ワーワーと叫びながら、それにおび え、抵抗する。 (2)暴力に対して、ビクビクとするタイプ(マイナス型)……もともと静かなタイプの子どもに多い が、しゃもじを振りあげると、オドオドしたり、ビクビクしたりする。「君は、何も悪いことをしてい ないから、心配しなくてもいいよ」となだめるのだが、ほとんど効果がない。ほかの子どもが叩 かれるのを見たり、音を聞いただけで、ガタガタと体を震わせたりする。 (3)逆ギレするタイプ(混乱型)……突発的に攻撃的になり、顔色を変える。俗にいう、「逆ギ レ」の状態になる。まったく別人のように、すごんだ目つきや顔つきになる。反抗といっても、ふ つうの反抗ではない。錯乱(さくらん)状態になる。しゃもじをもつ私に対して、とびかかってきた りする。力まかせに、私を殴ったり、蹴ったりする。あたりのものを、ギャーッと叫んで、ひっくり 返すこともある。 これらの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、家庭で、はげしい体罰を加えられているか、 過去において、体罰を加えられた経験があるのがわかる。何らかの形で、はげしい暴力行為 を目撃して、それで恐怖心をもつようになる子どもも珍しくない。 【A君(小四)のケース】 A君は、幼児のころ、彼自身は、体罰を受けた経験はないのだが、母親が父親に殴られたり 蹴られているのを、何度も目撃している。現在は離婚していて、母親の手で育てられている。そ のためと考えてよいが、A君は、ここでいう三番目の「逆ギレするタイプ」の症状を見せる。一 度、私がしゃもじを振りあげながら、ほかの子どもを「叩くぞ、叩くぞ!」とおどしていたら、いき なり横から、私に飛びかかってきた。私はそのA君の顔を見て、ゾッとした。別人のように、すさ んだ鋭い目つきをしていたからだ。そして「暴力はやめろ!」と叫んで、容赦なく私を足で蹴っ た。 子どもの恐怖反応は、さまざまな場所で、さまざまな形で現れる。ここでいう暴力に対する恐 怖反応は、決して珍しくない。小学校の低学年児で、一〇人に一人くらいの割合で経験する。 こうした恐怖症を子どもが見せたら、対処法は、ただ一つ。できるだけ、恐怖症を心の中で再 現させないようにする。「気のせい」「気はもちよう」と安易に考えてはいけない。子ども自身が 自意識でコントロールできるようになるまで、できるだけその問題には、触れないようにする。 つまり、時間を待つ。「なおそう」とか、「なおしてやろう」と考えてはいけない。無理をすればす るほど、逆効果。かえって症状をこじらせることになるから、注意する。 (03−1−5) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(492) かっこいい人 若いころ、オーストラリアのブリスベーン空港(クィーンズランド州)で飛行機に乗った。日本へ 帰るためである。そのときのこと。空港使用料というのを払わなければならなかった。たしかオ ーストラリアドルで、一〇ドル(当時のレートで、四〇〇〇円)だったと思う。私は残ったドルをす べて円にかえていて、オーストラリアドルをもっていなかった。困り果てて、女性の係官の前で モジモジしていると、一人の男が、うしろからサッと、その一〇ドルを出してくれた。見ると、二人 連れだった。一人は、三五歳くらいの中国系アメリカ人。もう一人は、明らかにその秘書と思わ れる、同じ歳くらいの男だった。二人とも、ニンマリと笑っていたが、私は、あまりのかっこうよさ に、言葉を失っていた。「ありがとう」とは言ったが、そのまま別れてしまった。 つぎによく覚えているのは、その二人が、どこか窓の向こうを並んで歩いている姿だった。秘 書らしき男がカバンをもち、あれこれもう一人の男に話しかけていた。 私の記憶はここで途絶えるが、今でもあのシーンを思い出すと、胸がしめつけられる。何とい う不覚。何という不手際。私はその男の名前すら聞かなかった。だから今日の今日まで、お礼 をいうことすらできないでいる。それが今、あの男を思い浮かべるたびに、モヤモヤとした思い が、私の胸をしめつける。 私はサラリーマンには、なれない男である。他人に雇われるということが、どうしてもできな い。しかし心の中では、いつもこう思っていた。あのときのあの男なら、私は、サラリーマンとし て、仕えることができただろう、と。本当に瞬間のできごとで、それ以上のことは何もなかった。 が、私は男として、その男に、ほれた。不謹慎な言い方だが、本当に、ほれた。 以後、逆に、自分がその男の立場に立たされることがあると、私は、よくお金を出してやる。 自動販売機で小銭が足りなくて困っている人を見たとき。駅で切符を買うとき、やはり小銭がな くて困っている人を見たとき。外国でもよくする。チップの小銭をもっていない人を見かけたと き、など。しかし私は決して、自分をかっこよく見せるために、そうしているのではない。あのと き私を助けてくれた、あの男への恩返しのためだ。いや、本当のところは、どこかモヤモヤとし た思いを、ふっきるためかもしれない。しかし、だ。何度それを繰りかえしても、このモヤモヤだ けは、晴れることがない。今の今でも、ペッタリとそれが心のカベに張りついている。「ああ、名 前ぐらい、聞いておくべきだった」と。 今ごろ、あのときのあの男は、どうしているだろうと、よく考える。きっと今では、世界をリード するビジネスマンになっているにちがいない。ああいうことが、あれほどまでにスマートにできる アジア人は、そうはいない。私は、あのかっこよさだけは、どうしても忘れることができない。ど うしても……。 そうそう、それ以後は、だれかに何かのことで助けてもらったりすると、その人の名前と住所 を聞くことにしている。必ず聞くことにしている。相手が「いいです、いいです」と言っても、私は 食いさがる。そしてあとで、礼状を書くようにしている。なぜ、そうするかって? 理由は簡単。 あのときあの男にそれをしなかったからだ。そういう失敗だけは、二度と繰りかえしたくない。 (03−1−5) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(493) 母親の役目 子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、絶 対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」という実 感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい一〇歳前後から)が発達して くると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、自分は父親の子どもで はないかもしれない」と思う子どもも少なくない。ある男の子(小五)は、こう言った。「ママが、も っとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福になれた」と。 こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福にな れた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚したの!」と、迫る 子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは、絶対 に生まれていなかったことになるのだが……。 このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。わか りやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。もちろん中に は、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。だから父親と母親 が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方をする。歌にしても、母 親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。 たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろさん』に しても、母親をたたえる歌である。最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだした が、そういう歌は例外と考えてよい。つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親という のは、どこかたたえにくい? このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをたたえる信 者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッセーを書き始 めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄いのかしら?」と言った のが、きっかけになった。 話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。子ど もにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、どんなこ とで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父さんがいないと、ど んなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。 そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして結果とし て、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければならない。この仕 事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。方法としては、母親の 立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけはしないこと。もっと言えば、家庭 教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせるようにする。「これは大切な問題だか ら、お父さんに判断してもらいましょうね」「お父さんががんばってくれるから、みんなが安心して 生活ができるのよ」とか。 決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに高い次 元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが父親なら、そ の反対のことをすればよい。 しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。それは 今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親の威厳を回 復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」をもちだしても、子ど も自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」という意味での、平等論という ことになる。 またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太くする かが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラバラになって しまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存在感が薄いことが 知られている。もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくは ないが、失敗する確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今から太く しておく。そしてそれをするのは、母親の役目ということになる。 (03−1−5) 【追記】 よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題では ない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。問題の 「根」は、もっと深い。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(494) 先祖を自慢する人たち ●先祖意識 「私は○○藩の家老の子孫だ」「私の先祖はもとは、関が原で徳川の軍勢と戦ったことのあ る武士だ」と。自分の先祖を自慢する人は多い。たいていは父方の名字を手がかりに、そう言 う。根拠など、ほとんど、ない。自分で勝手に、そう思いこんでいるだけ。フロイトが言う「血統空 想」とは、少しニュアンスが違うが、こうした先祖崇拝は、その延長線上にあると考えてよい。子 どもが、「私は、もともとは高貴な生まれの人間だ」とか、「ぼくは宇宙人の子孫だ」と言うのと、 よく似ている。つまりそのように、自分を偉大な(?)先祖と結びつけることのよって、自分は特 別の存在と思いこむ。(もちろん中には、本当に、そういう家系の人もいるが……。) しかしこの時点で、たとえば母方の先祖、あるいは、父方の先祖にしても、その中に、町人や 農民がいたことは、あまり問題にしない。(実際には、町民や農民の血のほうが、濃いかもしれ ない。)自分の先祖を自慢する人には、たいていこの種の身勝手さが、見え隠れする。 もちろん英語国にも、これに似た血統空想は、ある。(もともとこの言葉は、フロイトによって、 ヨーロッパで使われるようになった。)よく外国の友人と話していると、話題になる。しかし日本 のそれとは、内容が少し違うようだ。日本人が先祖を意識する背景には、「位(くらい)」があ る。位の高い人ほど、偉い、つまり、自分の価値は高いと考える。しかし英語国の人は、たとえ ば「イギリスの王立陶器工場で、技師をしていた男の子孫だ」とか、「○○年にアイルランドから やってきた、最初の移住民の子孫だ」とかいうような言い方をする。空想しても、誇るべき対象 が、日本人とは違うということ。 こうした違いの背景にあるのは、言うまでもなく、日本人独特の、権威主義がある。わかりや すく言えば、水戸黄門のあれである。それについて、以前、つぎのようなエッセー(中日新聞に 発表済み)を書いたので、転載する。 +++++++++++++++++++++ 権威主義の象徴 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう場面を見ると、「痛 快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。「もし水 戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米で は、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長 男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度 か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今の若い者は、 先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男 で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとし たことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだっ た。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言 ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先 祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であっ た。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子 どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積 もり積もって、親子の間にミゾを作った。 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。 だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保 護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな い。権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり 「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的な ものになる。そのため子どもは心を閉ざす。 Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるの が一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになってい る。それを否定するということは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。もしあな たが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あ って一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。 ++++++++++++++++++++++++ ●依存心 人間は、何かに依存しなければ生きてはいかれない生物なのかもしれない。それぞれの人 が、何かに依存している。で、少し前、その「依存」について、自分なりに分析してみた。依存と いっても、何に依存するかで、生きザマがまったく違ってくる。 (1)モノ、お金、名誉、地位、財産に依存するタイプ (2)自分自身に依存するタイプ (3)家族や親類など、人に依存するタイプ (4)宗教に依存するタイプ このうち、自分の先祖を誇る人は、(1)の「名誉、地位に依存するタイプ」ということになる。 実のところ、このタイプの人は多い。少し前も、「今度、伯父が、選挙に出馬することになりまし たから」と言って、選挙用のポスターをもってきた人がいた。しかしその人は、伯父の選挙を本 当に応援しているのではない。そういう言い方をして、「自分の家系には、こういう人がいる」と いうことを、自慢していただけである。 しかし考えてみれば、しょせん、ドングリの背くらべ。○○藩の家老の子孫だろうが、田舎の 百姓の子孫だろうが、結局は、「生まれた穴がほんの少し違うだけ」(モーツアルト「フィガロの 結婚」)。私なんかは、名字が「林」ということからもわかるように、先祖はただの百姓。依存しよ うにも、しようがない。 そうそう、私の母にこのことを言うと、母はいつも本気で怒っていた。母は、N家という武家の 血筋を引く家系で生まれ育った。だから「うちの先祖は百姓だった」などと言おうものなら、「違 う、武家だ! ヘンなこと言うな!」と。そういう点では、母も、人一倍、先祖にこだわっていた。 話はそれたが、この問題は、「誇り」とも、深く関連してくる。オーストラリアに留学しているこ ろ、こんなことがあった。 ●独特のモノ意識 K大学から、医学部で講師をしている二人の男が、大学へやってきた。そこで私がメルボル ン市内をあちこち案内してあげた。が、目ざといというか、つぎつぎと日本製を見つけては、「あ れは、日本の車だ」「あれは、日本のカメラだ」と。 そこで私にいろいろ話しかけてきた。で、そのとき私がどうそれに答えたかは忘れてしまった が、最後には、その男たちを、怒らせてしまったようだ。その中の一人がこう言った。「君は、日 本人だろ。同じ、日本人が作ったものを喜ばないのか」と。当時の日記には、こうある。 「Dさん(ドクターの一人)は、私に『君は、ヘンに欧米かぶれしている。君のような日本人が、 こういうところで研究生をしていることが信じられない。もっと日本人に誇りをもて』と言った。私 から見れば、どうして日本製があることが、そんなにうれしいのか理解できない。結局は、それ こそまさに、欧米コンプレックスの裏返しではないのか」 このドクターたちも、やはり(1)の「モノ、お金に依存するタイプ」ということになる。戦後の高 度成長期の中で、このタイプの人は、まさに大量生産された。今でも、「モノやお金のほうが、 家族や人間関係より大切だ」と考えている人は、いくらでもいる。 いや、こう書くからといって、それが悪いと言っているのではない。人、それぞれ。私のよう に、依存するものがない人間は、一見、たくましく見えるかもしれないが、実のところ、心の中 はボロボロ。自分がボロボロである分だけ、その自分自身に依存することもできない。だから 毎日が、不安でならない。ちょっとしたことで、つまづいたり、キズついたりする。実のところ、と きどき、こう思う。「何か、本物の宗教があれば、信仰してみたい」と。そう、何が楽かといって、 神や仏に依存することぐらい、楽なことはない。 ただこういうことは言える。 いまだに日本人の多くは、封建時代の亡霊を引きずっている。日本独特の権威主義もそうだ が、人間が人間を見る前に、地位だの肩書きだの、そういうもので人間を判断している。そして そういう亡霊が、教育の世界にも残っていて、教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめてい る。ここでいう先祖意識も、そういう亡霊の一つと考えてよい。そういうものに依存すればする ほど、あなたは自分自身を見失う。子どもの姿を見失う。 (02−2−6) ●著名な祖先しか誇るもののない人間は、ジャガイモのようなものだ。その人間のもつ、唯一 のよい部分は、地下に眠る。(オヴァベリ「断片」) ●祖先のうちで奴隷でなかった者もなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者もいなか った。(ヘレン・ケラー「自叙伝」) ●私の父は混血児だった。父の親父は黒人だった。そして、私の祖先は、猿だった。(デュー マ「お前の父はだれか」) こうした考え方とは対照的に、江戸時代の学者の中江藤樹は、「翁問答」の中で、こう書いてい る。参考までに……。 「家をおこすも子孫なり。家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁盛をもと むるは、あくなくて行くことをねがふにひとし」と。「人」より、「家」のほうが大切ということ。中江 藤樹はそう書き残している。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(495) 雑談 まず、「週刊E'news浜松」に載せてもらった、原稿を転載します。 浜松の情報は、ここから手に入りますので、浜松のことを もっと知りたい人は、いかがでしょうか。 ○メールマガジン「週刊E'news浜松」2003/1/6 No.003-001/2338 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344 編集発行:E'news編集部 連絡先:Office'Eiyu 杉本英雄 浜松市渡瀬町256 E-mail: enews@eiyus.com URL: http://www.eiyus.com/Enews/ +++++++++++++++++++++++++++ ■連載:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 ------------------- ●No.46「子どもは環境で包む」 私はときどき、たとえば小学五、六年生の子どもを、中学生のクラスに座ら せて勉強させることがある。何かを教えるのではなく、「好きな勉強をしな さい。本読みでも、宿題でもいい」と言って、子どもの自由に任せる。(ク ラスといっても、私のばあいは、一クラス、五〜六名の小さなクラスだが… …。)この方法は、下の子どもが上の子どもの勉強グセを受け継ぐには、た いへん効果的である。週一回程度でも、数か月もすると、下の子どもは上の 子どもを見習って、黙々と勉強するようになる。実際、私はこの方法で、ツ ッパリ始めた子どもをなおしたこともあるし、騒々しくて落ち着かない子ど もをなおしたことがある。 それはそれとして、子どもを指導したいと考えたら、環境で包む。……包む ことを考える。釣り好きの親の子どもは、釣りが好きになる。読書好きの親 の子どもは、読書が好きになる。社交的な親の子どもは社交的になる。しか し押しつけはいけない。親が本を読まないのに、「うちの子はどうして本を 読まないでしょう」は、ない。子どもというのはそういうもので、親の考え 方や感じ方をそのまま受け継いでしまう。たとえば今あなたが、「男なんて つまらないもの」とか、「うちの夫はだらしない」などと思っていると、あ なたの娘もそう思うようになる。これは一つのテストだが、こんなことをし てみると、親子の密着度を知ることができる。 紙と鉛筆を用意し、まずあなたが山、川、木を二本、家、雲、太陽を描いて みる。そしてその絵をどこかへ隠し、つぎに子どもに、同じように山、川、 木を二本、家、雲、太陽を描かせてみる。子どもの絵ができあがったら、あ なたの絵と見比べてみる。親子の密着度が高い親子ほど、実によく似た絵を かく。年長児で三〇組に一組は、ほとんど同じ絵を描く。 子どもに何かをさせようと思ったら、まず自分でしてみる。環境で包む。そ ういう姿が、子どもを前向きに伸ばす。ただし一言。あなたが努力しても、 子どもがそれに乗ってこなければ、それはそれでおしまい。あのレオナルド ・ダ・ビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこな うように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』 と。何ごとも無理強いは禁物。子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ 取りながら成長するもの。そういう前提で、子育てを考えること。 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ ++++++++++++++++++++++++++ ●1月6日のこと このところ、冬休みで、子どもたちの声を聞いていないので、どんどん自分が、ネクラになっ ていくのを、感じます。老人臭くなるというか、フケるというか。私はよくワイフに、「あんたは貫 禄がないわね」と言われますが、そういう意味では、私には子どもっぽいところがあります。そ の子どもっぽさが、自分でも消えていくのがわかります。 それにやはり運動不足。このところ、ハナ(犬)との散歩も、あまりしていません。寒いと、どう してもおっくうになります。「今日一日くらいはいいか」という思いが、二日になり、三日になりま す。自分自身をもう少し、機械的にコントロールできたら、よいのにと思うのですが、人間には、 刺激が強いことを、本能的に避けようとする習性があるようですね。つまり運動すれば体によ いことはわかっている。わかっているが、冬の冷気に身をさらすのは、つらい。そのつらさが、 ブレーキとして働いてしまうというわけです。 今日も何かと忙しかった。午前中は、人と会う約束が二つありました。午後からも、いかねば ならないところが一か所。それに私の教室(BW教室)の修理など。帰りに、ワイフと二人で、29 0円の牛丼を食べました。が、ここで扁桃腺が腫れはじめ、寒気で、ダウン。家に帰ってから、 午後8時ごろまで、フトンの中で寝ました。 私は子どものころから、扁桃腺をよく腫らします。今も、その状態は変わっていませんが、こ の扁桃腺が、私の健康のバロメーターとして働きます。風邪のひきはじめなどでは、まず扁桃 腺がおかしくなります。ゾクゾクと寒気がして、背筋が急に冷えてきます。(この寒気は、暖かい フトンに入っても消えない、不思議な寒気です。)そうなると、「あぶないぞ」と思って、養生しま す。おかげで、風邪など、病気で、教室を休んだことは、めったにありません。一年に一回、あ るかないかというところです。 さて、そのフトンの中で寝ているときのこと。私は寝る前は、よく宇宙のことを想像します。学 生のころは、SF(科学空想)小説が、大好きでした。そのせいかもしれません。で、今日も、そ の宇宙のことを考えて寝ました。しかし今日の私は、かなり過激でした。 宇宙人と力を合わせて、私が地球上の独裁者をこらしめるという内容でした。もちろんターゲ ットは、あの金正日。あの男を、宇宙の大法廷に引き出して、みんなで裁判するというもの。こ れが結構、おもしろかった。みんなの前に立ったら、メソメソ泣き始めたりして。もちろん金正日 が、です。まわりの様子は、そう言えば、映画『スーパーマン』に出てきたシーンでした。悪人三 人が、裁判を受けて、カガミに閉じ込められて、宇宙へ放り出されるという映画がありました ね。みなさんは、ご覧になったことがありますか? あのシーンです。 で、なかなか寝つかれず苦労しましたが、ふと気がつくと、あたりは、真っ暗。起きて時計を 見たら、もう夜の8時! 風邪薬には、催眠作用のあるものがあるので、そのためかもしれま せん。「結構、寝たね」とワイフに言うと、「よく寝ていたわよ」と。計算すると、三時間は眠ってい たことになります。 で、ワイフが、「静岡市のR幼稚園から、講演依頼があったわよ」と。うれしかった。R幼稚園で の講演は、これで計4回目になります。最初は、『テレビ寺子屋』という番組で、行ったのがきっ かけでした。回数を重ねて読んでくださるということは、気に入っていただけたということかな。 講演をしていて、一番、つらいのは、いつも講演が終わるたびに、ああ言えばよかった、こう 言えばよかったと後悔することです。で、ここ数年は、講演のたびに、「今日が最後だ」と自分 に言って聞かせるようにしています。ときどき、年齢のせいか、講演の途中で、集中力がふと 消えかかりそうになることがあります。そのときも、そう。「今日が最後だ」と言い聞かせなが ら、自分をふるい立たせるようにしています。それでも、いまだかって、一度だって、満足して終 わったことはないのですが……。 それから軽い夕食を食べて、(昨日、私が山荘のほうで作ったカレーの残り)、書斎に入って、 14日発刊予定のマガジンの原稿を書き始めました。この原稿が、その一部です。何とも内容 のない原稿で、読んでいただくのもつらいですが、私の別の一面を知っていただくのもよいかと 思っています。いかがですか? そうそう今日、中国へ行ってきた友人が、みやげにと、何かの石碑の拓本をくれました。あ と、中国のお菓子とお茶。拓本は、額縁に飾っておこうと思います。お茶は、まだ飲んでいませ ん。お菓子は、おいしかった。ここ数年、中国のお菓子が、急速にアカ抜けてきました。センス がよくなったというか、そういう感じです。一〇年前には、正直言って、もらうたびに、「食べてい いものかどうか」と、迷ったこともあります。Rさん、ありがとう! ほかにロンドンで留学している、Aさんからメールが入っていて、その返事を書きました。いろ いろ人生のことを考えているようです。この日本では、あまり考えない子どものほうが、生きや すいようですね。本当は、こんなことではいけないのですが……。 そうそう、今日もチャットルームで、10時に待っていましたが、訪問者はゼロでした。次回 は、1月20日(月曜日)を予定しています。気がむいたら、ぜひ、おいでください。では、おやす みなさい。 (03−1−6) ●ほとんど考えないまま、思いついたことを書きました。文章の乱れなど、お許しください。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(496) 指しゃぶり ある雑誌に、子どもの指しゃぶりについて、特集が組んであった。指しゃぶりの是非論、弊害 論、さらには、なおし方まで。苦い食べ物(ヒマシ油)を子どもの指に塗ればよいという意見まで あった。しかし……。 赤ん坊が、母親の乳房を吸いながら、やすらかな眠りにつくのは、そこに性的な快感がある からだと主張したのが、フロイトである。ただ単にそれは、栄養物としての乳を求めるだけのも のではない、とも。フロイトは、そういう赤ん坊から母親への愛着行為を、「口愛行動」と呼ん だ。 だからこの時期、口愛行動が不足すると、子どもはその代償行為として、自分の指をしゃぶ ったり、おしゃぶりを口に含んだりするようになる。ものを口に入れたり、タオルの端をしゃぶる のも、同じように考えてよい。「代償行為」というのは、自分自身の中にたまった欲求不満を、 代わりの方法で償うことをいう。 人間の行動の基本にあるのが、「性欲」というのが、フロイト学説の柱になっている。たとえば 子どもは、この口愛行動のあと、肛門愛、男根愛と、三つの発達段階を経るという。ただここで 誤解してはいけないのは、「肛門愛」「男根愛」といっても、肛門を愛したり、男根を愛したりする ということではない。「肛門愛」というのは、「排出する快感を味わう愛」、「男根愛」というのは、 「性的な快感を、ペニスやクリトリスに感ずる愛」をいう。フロイトはこれらをまとめて、「小児性 欲」と呼んだが、こうした「愛」がさまざまに変化して、人間の行動を、裏からコントロールする。 あまりよい例ではないかもしれないが、もしあなたが他人の、しかもものすごい秘密を握った とする。するとあなたは、多分、それをだれかに話したい衝動にかられるに違いない。が、この 段階で、もしそれを話せないとなると、あなたの心は悶々とした状態になる。ふつうは、そういう 状態には、長くは耐えられない。そこであなたはだれかに話す。話して、優越感を覚えたり、自 己を顕示したりする。が、それだけではない。そのあと、あなたは心の中がスッキリとしたのを 感ずるに違いない。それもここでいう「肛門愛」である。 男根愛は、そのまま「性器性欲(フロイト)」へと、進展していく。そしてその過程で、男は男とし て、女は女として、さまざまなドラマを展開する。少し極端な言い方に聞こえるかもしれないが、 男のすべての行動の裏には女がいる。女のすべての行動の裏には男がいる。もちろん性倒錯 の世界もないわけではない。たとえば男根愛が倒錯すると、露出症になったり、自己愛が転じ て、オナニーに固着するようになったりする。これについてもフロイトは詳しく説明しているが、 ここでは省略する。 このように人間の心理と行動は、たいへん複雑なメカニズムで決定される。冒頭の話に戻る なら、「指しゃぶりをさせてよいか」「どうすればやめさせられるか」などという話は、まったくナン センス。それはちょうど、性的に欲求不満の若妻が、毎晩、オナニーをしているのを見て、その 是非論を論ずるようなものである。いわんや「やめさせるにはどうしたらいいか」とは! それと もあなたは、その若妻に、「指にタバスコでもつけておきなさい」とで、アドバイスするつもりだろ うか。 指しゃぶりなどというものは、あくまでも症状。その背景に何があるかをさぐらないで、対症療 法ばかり考えても意味がない。何が欲求不満の原因になっているかをさぐることこそ、重要で ある。症状だけをみて、子どもを判断してはいけない。 (03−1−7)※ ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 M 子育て随筆byはやし浩司(497) メルボルンにいる、Kさんへ いろいろつらいことがあったのだね。 無理をすることはないよ。 ぼくも、いつも食事はひとりでとることにしている。 うるさいからね。「ふつうでなくてはいけない」 なんて、思うことはないよ。 だいたい「ふつう」なんてものは ないのだからね。 幸福になる道は、一つではないよ。 回り道も、わき道も、寄り道もあるよ。 だいたいね、まっすぐな道なんてものは ないよ。 しかしね、どの道も、みんな幸福につながっているよ。 だから安心して、したいことしたらいい。 そのうち、君のことを本当に理解してくれる やさしい人が現れるよ。それを信じて前に 進んだらいい。「今」できることを、 今、一生懸命にすればいい。 必ず、明日はやってくる。そしてね、 明日になったら、明日は明日で、 また、そのときできることを、 一生懸命すればいい。 だから、明日のことは、悩まない。 クヨクヨしない。 君は、とてもすてきな人だからね。 ぼくは、それを知っているよ。 覚えているかな。 ぼくが教室で、「さあ、来い!」と手を広げたら、 君は、うれしそうに、ぼくの腕の中に飛び込んできたね。 あれは、君が、小学三年生のときではなかったかな。 ぼくは、君の明るい笑顔がとても好きだった。 ぼくはね、正直に告白しますが、 女の子を抱いたのは、生涯で、 あのときが最初で、最後です。 男の子は平気で、抱いたりしますが、 女の子は、したことがありません。 幼稚園で教えているときも、そうです。 背中をたたいたり、頭をなでたりすることはありますが、 手でさえ、さわったことはありません。 その君が、こんなに苦しむなんて……! それをつらがっているのは、君だけではないよ。 きっとどこかで歯車が、狂ったのだろうね。 しかしね、心の風邪なんてものは、だれでもなるもの。 しかもね、まじめな人ほど、なるもの。 だけどね、この苦しみを乗り越えたとき、 あなたは、まちがいなく、すばらしい人になっているよ。 つまり、今は、トンネルの中にいるということ。 あるいは、もうトンネルから出たのかな。 出るところかな。 前を見てごらん。きっと、大きな光が見えるはずだよ。 ではね。 無理をしないこと。 ふつうになろうと思わないこと。 君は、君。君でいいの! わかった? あとは野菜をたくさん食べて、偏食をしないこと。 コンビニ食ばかり食べては、だめだよ。 オーストラリア人は陽気だから、 心を開いてぶつかっていきなさい。 そうそう、アイルランドの民謡を聞くときが あったら、よく聞いておいてくださいね。 そういう機会があちこちにあるはずだから……。 きっと君も、好きになるよ。 (03−1−7) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(498) 正義 ●ワイロは、タクシー券 大学の同窓会に出た。同級生の多くは、公務員になった。そういう友人たちは、今、役所で、 それなりの地位についている。その中の一人が、こんな話をしてくれた。 P県Q市。人口は五〇万人くらい。ときどき中央から、官僚が何かの仕事でやってくる。その 友人の仕事は、そういう官僚を接待して、いかに地方交付税交付金を多く取るか、ということら しい。 「ワイロは、今、タクシー券だよな。市役所の玄関を出るとき、タクシー券を渡すんだよ。だい たい一〇万円のタクシー券と決まっていてね。相手さんは、そのタクシー券を、使わず、そのま ま駅前の金券ショップで、換金する。中には、歩いて駅まで帰るのもいるよ。たいした距離じ ゃ、ないからね」と。 こういう話はストレートには書けない。かなりデフォルメした。その友人に迷惑がかかるといけ ない。 しかし今、こうした官官接待は、この世界では常識化している。夜の接待についても、その友 人は、こう言った。「何日もかけて会議をするよりも、一晩、いっしょに温泉でも行って、飲み明 かしたほうが、話がよくまとまる。かえって、そのほうが安くつくんだよな」と。ときどきおこぼれ のような話が外にもれ出て、マスコミの話題になるが、ああいうのは、まさに氷山の一角。しか し問題は、その先。 こういう話をすると、日本人の多くは、それを正そうと思う前に、「あわよくば自分も」と考え る。私もそういう場面に、何度も出くわしたことがある。直接経験したのは、こんなことだ。 ……と思って、書こうと思ったが、書けない。どう書いても、その人やその団体と特定できてし まう。だからこの話は、ここまで。ここではさらにその先を書く。 ●日本人の欠けるもの 日本人に今、一番欠けているものは何かと聞かれれば、正義ということになる。自由や平等 は、ある程度、国際水準に近づいている。しかし正義は、そうでない。日本人は何をするのも、 どこかインチキ臭い(失礼!)。 先日、東京の知人が、こんなことをメールで教えてくれた。何かの雑誌に、こんな記事が載っ ていたという。つまり「失策の穴埋めに、公的資金を使い」、「お金を前借するために、国際を 発行する」と。冒頭にあげた、地方交付税交付金は、まさに「地方自治化阻害金」ということに なる。地方は、このお金がほしいため、中央に頭をさげる。全国の都道府県の知事のうち、半 数以上(四五人中、約三〇人)が、元中央官僚という理由も、ここにある。 公的資金→失策穴埋め 国債→前借り 構造改革→ミッション・インプッシブル 地方交付税交付金→地方自治化阻害金 外務省→害務省(以上、『宝島』より) 日本をリードする立場の人が、インチキをし放題しているのだから、あとはおして図るべし。 何かにつけて、正義よりも、利益が優先される。だいたい子どものときから、そういう教育を受 けていない。そればかりか、日本では、いまだに「ウソも方便」という言葉が、大手を振って、ま かりとおっている。「人を法の真理に導くためには、ウソも許される」という仏教の経典からきて いる言葉らしい。しかしウソで人を導いて、それでよいものか。またそれで導いて、本当に導い たことになるのか。 ●飛騨の昼茶漬け 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛 騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし 道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。 そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え る。この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さ あ、大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけ にもいかない。 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っている かもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先 へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太 子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性 をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ について、日本人とオーストラリア人とでは、寛容度がまったく違うということを思い知らされ た。 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし 日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。 そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、 悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。 ●私はウソつきだった 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私 の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。その理由のひとつは、大阪商人の流れを くんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売では、ウソが当たり前。このウソを、いかにじ ょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は毎日、そういうウソを見て育った。 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言 う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には 変えられない。 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接 しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか を考えてみてほしい。もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはい けません」と、日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけ ない。……とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日 本人の子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎ わ、一〇万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう か。さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろう か。私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直 に言えば、そういうことになる。つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つ まりそれは私自身の欠陥というより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなた は、子どものころ、学校で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。 (03−1−7) ●日本人のこうした国民性は、長くつづいた封建制度の結果というのが、私の持論である。今 の北朝鮮のような時代が、三〇〇年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に正 直に生きる」ということそのものが、不可能だった。それについては、もう何度も書いてきたの で、ここでは省略する。ただここで言えることは、決して、あの封建時代を美化してはいけない ということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価はしなくてはいけない。しかし美化すれ ばするほど、日本人の精神構造は、後退する。 (03−1−7) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(499) ヒネクレ症状(2) ●ヒネクレた子ども どこかヒネクレた子ども(小四)がいる。何かにつけて、すなおでない。その子どもと話をして いると、こちらの頭のほうが、おかしくなる。 私「今日はいい天気だね」(A) 子「……あそこに雲がある!」 私「雲があっても、いい天気だよ」 子「……雲があるから、いい天気ではない」(B) この会話は、私があちこちの本に書いた会話である。ここでは、その先を書く。 こういうヒネクレ症状が一度、出てくると、その症状は、ほぼ一生、つづく。だいたいその子ど も(人)に、その自覚がない。自分では、まともだと思い込んでいる。だからいくら指摘しても、意 味がない。脳のCPU(中央演算装置)が狂っているため、自分ではそれがわからない。 私「あなたね、そういう言い方ばかりしていると、みんなに嫌われるよ」 子「どうして? 私は正しいと思ったことを言っているだけよ」 私「でもね、ぼくがいい天気だと言ったら、『あら、そうね』と、それですませば、いいじゃない?」 子「どうして、そんなことで私を責めるの? 先生のほうが、おかしい」 私「天気の話は、ぼくが言い出したことだから、あなたはそれに応じれば、それでいい」 子「どうして? 雲があるから、私は雲があると言ったのよ」 私「雲の話をしているのではない」 子「もう、いい。わかったわ。私が『いい天気』と、そう言えば、それでいいのね」 私「そういう話ではない」 子「どうして、そんなことで私を怒るの!」 私「……?」 自分の姿を客観的に知るのは、本当にむずかしい。本当にむずかしい。しかし方法がないわ けではない。 ●自分を知る まず自分の生いたちを静かに、振りかえってみる。もしあなたが心豊かで、穏やかな環境で、 かつ親の愛情をたっぷりと受けて、何ひとつ問題なく育ったのなら、問題はない。しかしそうで ないなら、あなたの心の中に、何らかのキズがあるとみる。トラウマ(心的外傷)と言えるほどの キズではなくても、無数にあるとみる。まず、そのキズがどんなものであるかを知る。 つぎに自分の心のゆがみをさぐってみる。ツッパリやすい。いじけやすい。嫉妬しやすい。ひ がみやすい。ヒネクレたものの考え方をしやすい、など。何かあるはずである。そしてそのと き、自分の姿が客観的にみることができなければ、そのときどきの他人の反応を思い出してみ ればよい。あなたに対して、親や兄弟、さらにはあなたの周囲の人たちは、どのように反応した か。それをさぐってみる。そしてそれを手がかりに、自分を知る。 たとえば私には、こんなことがあった。私が小学二年生のときだった。私はその日、自分の 弁当を忘れた。そこで昼食時間に、みなが、少しずつ、お弁当を分けてくれた。それを指示した のは、多分、先生だったと思う。しかしそれはよく覚えていない。私がよく覚えているのは、だれ かの弁当箱のフタだったと思うが、それにもられたご飯。しかし私はどうしても、それを食べる ことができなかった。「食べるのはいやだ」というような言い方で、それを拒否したと思う。 そういう私から、当時の私は、かなりヒネクレた子どもだったことがわかる。意地っぱりだった かもしれない。みんなの親切を、そのまま受け入れることができなかった。そこで私のばあい、 今、昔の私に似たタイプの子どもに出会ったりすると、その子どもが、どうしてそうなったかをさ ぐろうとする。そしてその子どもの、生いたちや心理をさぐろうとする。そうすることで、子ども時 代の「私」を知る。 ●今も残る、子どものころの私 で、そういう「すなおでない私」は、今でもある。残っている。そしてときどき、顔を出す。……こ う書くと、自分を知ることを、簡単なことのように思う人がいるかもしれないが、簡単ではない。 私がそういう自分に気がついたのは、少なくとも三五歳を過ぎてから。あるいは四〇歳近くにな ってからである。それまでは気がつかなかった。脳のCPUというのは、そういうもので、かなり 努力しないと、その「狂い」に気づくことはない。 さて冒頭に書いた子どもの例だが、これは実際にあった話ではない。ありそうな会話を、自分 なりに想像して書いたものである。(AからBまでの会話は、昔、幼稚園で、年長児の女の子と した会話である。)で、こういうとき、あなたなら、どんな会話をするかを、少しだけ頭の中で、思 い浮かべてみてほしい。もしあなたの心に、ゆがみがないなら、あなたはきっとこんな会話をす るに違いない。 私「今日はいい天気だね」 子「そう、気持ちいいわね」 私「どこかすがすがしいね」 子「ホント。毎日がこうだといいね」 どちらの会話のほうが好ましいかは、言うまでもない。そしてここで私が言わんとすることは、 もうわかってもらえたと思う。何でもないことのようだが、心というのはそういうもの。あなたの心 の状態で、相手は気持ちよくなったり、反対に、気分を悪くしたりする。もしあなたの周囲の人 が、あなたといると、いつもトゲトゲしくなるようだったら、周囲の人に原因を求めるのではなく、 あなた自身に原因を求めてみたらよい。相手を責めるのではない。相手が悪いと思うのではな い。原因は、あなた自身にある。自分を知るということは、つまりは、自分自身に対して、謙虚 になること。「私のことは、私が一番よく知っている」と思いこんでいる人ほど、一度、自分の心 の中をのぞいてみてほしい。 (03−1−7) 【追記】 親子げんかの絶えない家庭があった。その家庭では、いつも同じようなパターンでけんかが 始まったという。 母「だれ、こんなところにコップを置いたのは」 子「ママだって、この前、ここにコップを置いたじゃ、ないか」 母「あなただったら、ちゃんとシンクの中に入れておいて」 子「うるさいなあ。入れておけばいいんだろ、入れておけば!」 母「何よ、その言い方」 子「コップぐらいのことで、カリカリするなって」 母「私は、あなたの言い方に怒っているのよ」 子「たかが、コップだろが……」 そしてあとは、いつもの大げんか。母親はこう言う。「うちの子は、どうしてすなおに、ごめんと いえないのかしら」と。子どもは子どもでこう言う。「ママは、いつもささいなことで、ぼくを怒る」 と。あなたなら、この親子げんかをどうみるだろうか。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩 司 子育て随筆byはやし浩司(500) 子育てワンポイント ●質素を旨(むね)とする 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見 せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ いたくを、経験させない。 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い あう生活を、質素な生活という。 ●うしろ姿を押し売りしない 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ 姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。 子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの 姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自 立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。 ●死は厳粛に 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の 悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反 射的効果として、「生」を大切にするためである。 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、 それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか うようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そ ういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれな い」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判 断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。 ●一喜一憂しない 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む 世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘 れるかという、その深さのこと。 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂 しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手 なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること ができるかということ。 ●「今」を大切に 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現 実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明 日は、その結果として、必ずやってくる。 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努 力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝 かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小 学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのでは ない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、 「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、 精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、 豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人 生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。 ●『休息を求めて疲れる』 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と いうこと。 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。 長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車 に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの 一五分である。 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って 休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を あとにずらせばよい。 ●生きる源流を大切に 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、 解決する。 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が 助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私 は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ た。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きて いるだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパ イプを太くした。 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると よい。それですべての問題は解決する。 ●モノより思い出 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤 解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。 物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万 円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、 満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた ほうがよい。 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。) ●よき友になる よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、 ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった い何なのか。 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを 歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日 本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手? そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関 係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子 どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気 負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく る。 ●先輩をもつ あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理 をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消 する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメ リットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、 その人の子どもの影響を受けて、伸びる。 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。 ●子どもの先生は、子ども あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間 という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な がら、勉強するということは、それなりに重要である。 ●指示は具体的に 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。 ●友を責めるな(中日新聞発表済み) あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの 鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい うことだ。 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、 「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を 否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。 コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ る。そしてあとは時を待つ。 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この 格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自 分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。 しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭 で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調 べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを 疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、 と思わせるような、名格言である。 ●仕事に誇りを あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間 一般の基準など、気にしてはいけない。) ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さん は、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になる のか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになること は、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、 従わなくなる。 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感 を与え、子どもを伸ばす。 ++++++++++++++++++++++ これに関連して、中日新聞掲載記事から ++++++++++++++++++++++ おとななんかに、なりたくない」・未来を脅さない 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。 原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻 そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って も意味がない。 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで チョ。ダメだと言うんでチョ」と。 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、 勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ でいうような幼児がえりを起こすようになる。 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」 と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、 『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家 業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校 では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方 の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶 するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼 児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。 +++++++++++++++++++++ ●逃げ場を大切に どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃 げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠 因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近 くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるもの をすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、 ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出 は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。) 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。 が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで 平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の 立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい う次元の話ではない。 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵 の場所として大切にする。 ●守護霊にならない 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊 んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た とえば……。 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親 は親どうしで勝手なことをしたらよい。 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに 服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自 立させる。 ●同居は、出産前に ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を してみた。結果わかったことは、@子どもの教育に口を出さない、A健康であることがわかっ た。ついでにした調査では、こんなこともわかった。 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から 同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し たほうがよい。 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。 ●許して忘れる 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ るようになった。うれしいことだ。 ++++++++++++++++++++++ もう、一〇年近く前に書いた原稿を転載します。 中日新聞に掲載済み ++++++++++++++++++++++ 生きる源流に視点を ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、 またしかり。 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が 助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、 「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解 決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校 を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女 房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切 ることができた。 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種 はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」 というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす ようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なこと をし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何 でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それがで きたとき、すべての問題が解決する。 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、 「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を 越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。 が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授 業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受 けるたびに、私は頭をかかえてしまう。 +++++++++++++++++++++ 代償的愛(雑誌「ファミリス」に書いた原稿から転載) ●三種類の愛 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。 本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母 親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛 で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅 亡していたことになる。 つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。 一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ け。 ●子どもは許して忘れる 三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語 では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また 子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに 真の愛ということになる。 それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは 親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、 騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛 するようになる。 ++++++++++++++++++++++++ ●管理・規則は家庭教育の敵 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な 親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!) 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、 いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい て。 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関 係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう なれば、ますます信頼関係は崩壊する。 が、それだけではない。 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪 の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処 のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族 の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。 +++++++++++++++++++++++++ これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を ここに転載します。 ++++++++++++++++++++++++++ 親が子どもを叱るとき ●「出て行け」は、ほうび 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、 「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家 から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間 どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき 地でも、平気で暮らす、と。 ●皆で渡ればこわくない この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、 欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と 違ったことをするのが、自由」と。 ●変わる日本人 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。 そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら しく、と。それだけではない。 日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ 来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配 者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。 ●ふえるフリーターたち たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日 本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二% もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。 「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前 のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに 「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そ のものが、今、着実に変わろうとしている。 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの 少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。 ※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、 卒業後の進路をフリーターとした高校生……一二% 就職 ……三四% 専門学校 ……二八% 大学・短大 ……二二% また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全 体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、 就職、進学断念型 ……三三% 目的追求型 ……二三% 自由志向型 ……一五%、だそうだ。 ●フリーター撲滅論まで…… こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ + 雑談 今年、年賀状を出さなかった人から、「どうしたの?」という電話を、何本かもらった。私に何 か、あったと思ったらしい。心配かけて、申し訳ない気持ちに襲われた。やはりずっと年賀状を くれている人には、来年からも年賀状を出すことにした。反省! 今日は、ワイフと街まで、買い物に行ってきた。最初は、映画を見ようと思っていたが、雑踏 を見たら、軽い頭痛。そこでいつものように、「Kとも」という串かつ屋で、ランチを食べたあと、 そのあたりをフラフラして帰ってきた。時刻は三時ごろ。 途中、ある漢方薬局へ行ったら、そこの店主が、「林先生じゃ、ないですか」と声をかけられ てしまった。「先生の(漢方の)本を、二冊もっています」と。薬剤師の女性も、「あの本はいいで す」と笑っていた。驚いた。そこでいくつかとっておきの情報を、話してやった。 私は新聞などに自分の写真を載せるときは、わざと、私らしくない写真を載せる。だから顔と 名前が一致することは、めったにないのだが……。 「Kマート」というパソコンショップへ行ったら、福袋をまだ売っていた。5000円のを4000円 で売っていた。で、買った。中身は、パソコンソフトが、5〜6本。ほしかったソフトなので、得を した気分になった。 家へ帰って、しばらくパソコンを打っていると、やはり軽い頭痛。私は人ごみが苦手。風邪薬 をのんで、症状をごまかす。この雑談を書き終えたら、庭の木を少し、始末するつもり。運動に なる。そう、あとでハナを散歩に連れていくつもり。 外は何となく、薄暗くなってきた。どこか寒々とした風景。私はこういう景色が本当に、苦手。 明るい太陽の光が、さんさんと輝いているほうが、好き。だれでもそうだろうが……。多分? しばらく休んだあと、買ってきたソフトを、あちこちのパソコンに組み込んでみる。おもしろそう だ。ワイフは、英会話のソフトが気に入ったようだ。私は、アンチウィルスのソフトを、今度新しく 買ったパソコンに。プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、その必要はな いのだが……。要するに、これは用心のため。それとも気休めのため? どこかへ旅行に行きたい。しかし……。まだまだ子どもの学費がかかるとき。少し、がまんす る。それにこのところ、何かと、出費がかさむ。今日も、ワイフに、「家計はだいじょうぶ?」と聞 くと、「何とかなるわ」と。ワイフは、楽天的すぎるほど、楽天的。あるいはすでにボケが始まっ ている? ゾーッ! こうして私の正月休みも、終わり。結構、原稿を書き溜めたので、しばらくは、ほかの仕事が できる。……といっても、今は、マガジン用の原稿を書くのが、何よりも楽しい。どういうわけだ か、楽しい。どうしてだろう? お金にはならないが、(失礼!)、そのお金にならないところが楽 しい。何というか、無私、無欲で原稿を書くことができる。コビを売らなくてもよい。思ったことが 書ける。だから楽しい。 今日もいくつか、相談のメールが入っていた。しかし、これは私からのお願い。どうかどうか、 お名前と、簡単な住所だけでも、お書きください。決して外にもらすことはしません。ただ、お名 前とか住所がないと、回答を書いていても、どこか不安になってしまうのです。ハイ。 さてさてどうしたものか。こうしてコタツに入ってパソコンをたたいていると、またまた眠くなって きた。で、居間のほうへおりていくと、また目がさめる。これもまた、どうしたものか。 さあて、今夜もワイフと、バンバン、セックスでもするか! 四時間くらいかけて、タップリと、 ……というのは、ウソ。読者の皆さんを、最後に、ドキッとさせたかっただけ。もう、その元気は ない。では、雑談は、ここまで。バ〜イ! (03−1−8) +++++++++++++++++++++++++++++++++++はや
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