はやし浩司

2003−1月〜
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はやし浩司

子育て随筆(501〜600)

子育て随筆byはやし浩司(501)

自殺

 昨夜、友人の奥さんが、声を震わせて電話をしてきた。隣人の一人息子(三五歳)が、クビを
つって、自殺したという。

 原因はよくわからないが、その前日、高校時代の仲間とけんかして、相手にけがを負わせた
という。それでその日は、警察へ出頭することになっていたという。「まじめな人だったから、よ
けいに追いつめられたのでは」と、奥さんは、話していた。

 こういう事件では、まず周囲の人たちがキズつく。「何とかできなかったのか」「私にも原因が
あるのでは」「あのとき相談にのってやればよかった」と。人の死というのは、そういう意味で
は、本当に重い。とくに自分の周囲でこういう事件があると、それから受ける衝撃は、はかり知
れないほど大きい。

 私も小学生のとき、クビつり自殺の現場を見たことがある。山の中腹の小屋の中で、若い男
がクビをつって死んでいた。そのあたりの山は、私たちの遊び場で、そのニュースは、私たち
が一番早く知るところとなった。それで、見てしまった。

 死後何日かたっていたということだったが、クビはかしげたままの状態で、不自然に長くのび
ていた。目や鼻からは、半透明の液体が、つららのように下へダラリとたれさがっていた。私た
ちが見たときは、おとなたちが、ロープから、人形のように硬直した体を、はずすところだった。
そのあとのことは、よく覚えていないが、私たちが、どんなショックを受けたかは、もうここに書く
までもない。

 そうそうもう一つ。これも自殺に関しての話だが、私が金沢で学生生活をしていたとき、最初
に住んでいた下宿の部屋というのは、その家のおやじが、クビつり自殺した部屋だった。私は
その部屋に何と、二年間もいた。しかも、だ。その話を知ったのは、その下宿を出たあとのこ
と。ほかの人からその話を聞かされた。今、思い出しても、あまり気分のよいものではない。
「あの鴨居(かもい)に、ロープをわたして死んだのかな」と。

 ……こう書くからといって、その息子氏の死を、軽く考えているというのではない。むしろ反対
で、自殺という問題は、そのまま私の問題もあるということ。私もよく自殺について考える。だか
らその隣人の長男の話を聞いているときも、「どうして死んだのか」ということよりも、心のどこ
かで、「やはり、クビつり自殺が、一番楽なのかな」と考えたりした。

 さてさて、新年早々、暗い話になってしまった。しかし生きたくても、生きられない人も多いだ
から、やはり自分の命は、粗末にしてはいけない。今、生きている人は、そういう人のために
も、生きる義務がある。そういう人たちがなしえなかった「思い」を、かなえる義務がある。私た
ちの命は、決して、私たち個人のものではない。もっと大きな生命の流れの中にある。それとも
あなたは、自分の手を見て、その手を、自分で作った手だと、自信をもって言えるだろうか。あ
なた自身の命はどうだろうか。あなたは今、生きていることについて、その命を、自分で作った
命だと、自信をもって言えるだろうか。

 それにしても、「死」というのは、いやな問題だ。歳をとると、ますますいやな問題に見えてく
る。

 あの室町時代の僧侶の一休も、こう詠んでいる。

 『門松は冥途(めいど)の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし』と。

 今年も、また一歩、その「冥土の旅」に近づいた。
(03−1−9)

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子育て随筆byはやし浩司(502)

「とぼけ」と「苦笑い」

 日本人独特の問題解決の技法に、「とぼけ」がある。知っていたにもかかわらず、ヌボーッと
した表情で、「ええ、そうでしたか」と言う。笑ってごまかす。責任をはぐらかす。しかしこの「とぼ
け」は、もちろん外国では通用しない。そんなことをすれば、即、不誠実な人間ととらえられる。
人間関係もそれで終わる。

 ところで世の中には、親をだます子どもがいるが、中には、子どもをだます親もいる。子ども
の財産をだまし取って、使い込んでしまう親もいる。この話については、前にも書いた。この話
にはつづきがある。

 最初にこの話を聞いたのは、もう五、六年も前のこと。その子ども氏(男性、四五歳)は、そ
のあとのこととして、こう話してくれた。

 「私はそのあと半年あまり、寝る前になると決まって、心臓の鼓動が高まり、興奮状態になり
ました。親にだまされるというのは、本当につらいことです。毎晩、家内が、冷たいタオルで頭
を冷やしてくれました。

 しかしその半年が過ぎると、私の母への思いは消えました。同時に、怒りも消えました。が、
母を許してはいません。『覆水(ふくすい)、盆に返らず』と言いますが、心というのは、そういう
ものです。ただ残念なのは、それから五年もなるのに、いまだに母は、とぼけていることです。
私や私の家内に、ときどき食べ物を送ってきては、何ごともなかったかのようなフリをしていま
す。一言、『悪かった』と言ってくれれば、私も救われるのですが……」と。

 この母親のとった手は、まさに「とぼけ」。しかしとぼけるのは、その人の勝手だが、とぼけら
れるほうは、そうでない。ばあいによっては、とことんキズつく。少なくとも、私は大嫌い。生理的
に受けつけない。生徒でも、私にそういう態度を見せたら、言いつめる。「どうして?」{なぜ?}
と。インチキかインチキでないかといえば、それほどインチキなことはない。だからこの男性の
気持ちが、痛いほど、よくわかる。
 
 で、この「とぼけ」の延長線上にあるのが、日本人独特の「苦笑い」。二〇年ほど前だが、あ
るイギリス人が、日本で一番不可解なものとして、この「苦笑い」をあげた。その本には、こうあ
った。「どうして日本人は、駅のプラットフォームで、電車に乗り遅れたようなとき、ニヤニヤと笑
うのか」と。

 同じようなことだが、先日も、私は横から飛び出してきた自動車に、あやうく、はね飛ばされそ
うになったことがある。私は自転車に乗っていた。見ると、三〇歳くらいの女性だった。「あぶな
い!」と言いかけて、その女性を見ると、こちらには視線を合わせようともせず、ニヤニヤ笑っ
ていた。私は、思わず、「何が、おかしい!」と怒鳴ってしまったが、もうそのときには、その車
は、かなり先まで行ってしまっていた。

 私は同じ日本人だが、あの「苦笑い」がどうしても理解できない。どうしてそういうとき、日本人
は笑うのか。笑えるのか。

 まだある……と、書きたいが、この話はここまで。日本にもいろいろな文化があるが、「とぼ
け」や「苦笑い」が、日本の文化かといえば、私はそうは思わない。文化というよりは、奇習? 
何であるにせよ、「人間」という原点から考えると、「とぼけ」や「苦笑い」は、その人間性を汚す
ことになる。……と、考えるのは、私だけか。ものごとは、あまりギスギスに考えないほうがよい
のかも? 気楽に考えるときは、気楽に考えればよい。ハハハ。(これは私の苦笑い? 何とも
ヘタクソなオチ。)

●正直ほど、富める遺産はない。(シェークスピア「末よければすべてよし」三幕五場)
●正直は、最良の政策。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

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子育て随筆byはやし浩司(503)

ストレス解消論

 今日、近くのスーパーへ行ったら、遊戯コーナーに、「太鼓たたき」というゲームがあった。画
面に、「叩く」「強く叩く」「フチを叩く」「連打」などの指示が出る。それを見ながら、音楽に合わせ
て太鼓をたたくというゲームである。そこで私とワイフは、二〇〇円を入れて、さっそくそのゲー
ムに挑戦してみることにした。

一曲目は、「炭鉱節」。二曲目が、スイッチを押しまちがえて選んだ、子どもの曲。これが結構、
楽しかった。あとで見ると、手のひらに汗をかいていた。

 「ストレス」という言葉があり、「ストレス解消法」という言葉がある。あの太鼓たたきというゲー
ムは、たしかに、そのストレス解消法としては効果がある。終わったあと、ワイフと笑いあってい
るとき、頭と心の中が、軽くなったのを、ハッキリと感じた。そこで私の「ストレス解消論」。

 ストレスがたまるときというのは、頭全体が、モヤモヤしてくる。そのモヤモヤが、あっちへ飛
び、こっちへ飛ぶというようにして、収拾がつかなくなる。考えなくてもよいことを考えたり、そう
かと思うと、考えなければならないことが、どこかへ行ってしまったりする。そのため心がふさ
ぐ。重くなる。イライラする。

 そこでストレスを解消するためには、まず、「心」を、一点に集中させなければならない。何で
もよい。何かに集中させる。たとえば太鼓たたきゲームでは、画面の指示に、心を集中させ
る。とたん、ほかのことは考えなくなる。そして矢つぎばやに出される指示を追いかけるうちに、
考えることそのものをしなくなる。ほどよい緊張感と、リズミカルな太鼓の音とバックの音楽。そ
れを聞いていると、まさに「我を忘れる」。

 要するに、「頭の中を洗う」ということか。そう言われてみると、私のばあい、ストレスがたまっ
たとき、音楽を聞いたり、あるいは野原を散歩したりしても、あまり効果がない。かえってストレ
スがたまってしまうことがある。汗をかくとよいという説もあるが、ただぼんやりと自転車をこぐと
いうような方法では、あまり効果がない。草刈り機で、バリバリと草を刈るぐらいのことをしない
と、解消法にはならない。何かのことで夢中になり、その結果として、ほかのことを忘れる。頭
の中をカラッポにする。

 ここまで書いて、もう少し専門的に考えてみることにした。せっかく、この文を読んでくれた人
に、申しわけない。

●ストレスのメカニズム
 精神や肉体が、緊張状態におかれると、副腎髄質から、アドレナリンの分泌が始まる。これ
によって、心拍数がふえ、呼吸が早くなる。

 こうした状態が短期間で終われば問題はないが、それが長期間にわたると、体にさまざまな
異変が起きてくる。食欲がなくなったり、精力が減退したり、さらには免疫機能が減退したり、
胃腸障害などを引き起こしたりする。下垂体前葉などから分泌されるホルモンが、影響を与え
るとされる。

 そこでそのストレスと戦うためには、まず、精神や肉体の緊張状態を、いかにしてほぐすかと
いうことが問題になる。それには何といっても、ストレスの原因(ストレッサー)を取り除くこと
が、先決。不安や心配のタネを残したまま、ほかのことでいくら気を紛らわそうとしても、意味は
ない。かえってストレスがたまってしまうということもある。

 しかしこの段階で、ストレスに強い人と、そうでない人に分かれる。警察に呼び出されても、平
気な人もいれば、近所とのトラブルなどの、ほんのささいなことで、悶々と悩む人もいる。その
違いは、その人自身の性質と、慣れが大きくからんでくる。ただここで注意しなければならない
のは、できるだけ「思考パターン」をつくらないということ。

 人間の心は複雑だが、そのくせ、単純なメカニズムで動くことがある。たとえば一度、何かの
ことで恐怖症になると、以後、いろいろな場面で、恐怖症になる人がある。それは心の中に、
「恐怖症」という思考パターンができてしまうと考えるとわかりやすい。このパターンは、いわば
コップのようなもの。そのコップのなかに、「対人」「高所」「閉所」「先端」などが入り込み、対人
恐怖症、高所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症になったりする。

 つまり一度、ストレスに弱くなってしまうと、いろいろな問題で、そのつど、それをストレッサー
としてしまう。そして必要以上に思い悩んだり、苦しんだりする。またここで「慣れ」と書いたの
は、同じようなストレスがつづくと、体のほうが慣れてしまうこともあるということ。たとえば私の
ばあい、三〇歳くらいのとき、はじめて講演に呼ばれたときには、その数日前から不眠で苦し
んだが、今は、反対に寝過ごしてしまうようになった。

 だから結論から言うと、太鼓たたきが、本当にストレス解消法になるかどうかというと、どうも
問題の視点が少し違うかもしれない。ただ、何というか、頭の中を洗うという意味では、効果が
あるということ。それをストレス解消法というなら、そういうことになる。

 遊戯コーナーから買えるとき、振りかえると、私たち夫婦に刺激されたのか、何人かの若い
母親たちが子どもを横に置いて、ゲームを始めるところだった。見ていたかったが、今日は時
間がなかったので、そのまま帰ってきてしまった。「またやろうか?」とワイフに言うと、「やりた
い!」と言った。きっとワイフも、同じ気持ちだったのだろう。
(03−1−9)

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子育て随筆byはやし浩司(504)

三男へ

 三男が、横浜のY大学を、「やめたい」と言い出した。「自分に合わない」と。あれほど宇宙船
の建造にあこがれて入った大学だが、「自分の道とは違う」と。私に相談する前に、そのことで
かなり悩んだらしい。苦しんだらしい。それがわかったから、私には、それに反対する理由な
ど、なかった。「お前のいいようにしなさい」と。

 三男はたいへん気の早い子どもで、昔から、私が言う前から、何でも先にする子どもだった。
ある日のこと、私が庭を見ながら、何気なく、「丸太小屋でも作ろうか」と声をかけたことがあ
る。あれは三男が、小学五年生くらいのことではなかったか。が、三男は、その翌朝から、庭に
穴を掘り始めた。「何をしているんだ?」と聞くと、「基礎の工事だ」と。

 今回も、「お前のいいようにしなさい」と言ったら、もう「予備校へ通う」とか、「つぎの大学はこ
こにする」と言い出した。Y大学にしても、センター試験の結果では、工学部へ学部二位の成績
で入っている。私とワイフは、「もったいない」とは言ったものの、三男は、子どものときから、一
度こうだと言い出したら、人の話など聞かない。そのまま突っ走ってしまう。そういう点は、まさ
に私そっくり。本当にそっくり。私がM物産という会社を飛び出し、幼稚園で働くようになったと
きと、どこも違わない。

 今夜も、三男からメールが入っていた。先週よりも、文面が、明るくなっていた。「もう一度、猛
勉強してみる」とあった。私は、それに返事を書いた。

「Eへ、

あまり無理をするなよ。
K大学を再受験するにしても、あまり気張らないで、
気楽にやりなよ。不合格になっても、めげるなよ。

ロバート・L・スティーブンソンって、知っているか?
『宝島』という本を書いた作者だ。『ジキル博士とハイド氏』という
本も書いた。その彼がね、こう言っているよ。

我らが目的とするのは、成功ではない。
我らが目的とするのは、失敗にめげず、前に進むことだ、と。

まあ、おおいに好きにやりなさい!
人生は、楽しいよ。おもしろいよ。
応援するよ。

お前はいつも、私の人生を楽しませてくれる、
つまりは、私の代役のような友だ。
息子だなんて、思っていないよ。友だよ。

私のために、いろいろ苦労してくれてありがとう!
私には、もうお前がもっているような、
勇気も気力もない。自由もない。
だからお前が、私の代役をしているというわけ。

お前には、私ができなかったことをする力がある。
自分で言うのも何だけど、
私というお前を理解できる友ももっている。
だから、私ができなかったことを、
お前がしてくれれば、うれしい。
私も、お前を通して、もう一度、自分の青春を
楽しませてもらうよ。

人生は一度しかないから、
思う存分、この広い世界で、羽ばたいてみたらいい。
だれにも遠慮することはない。
他人が何と思うと、気にすることはない。
いいか、人生には王道もなければ、正道もない。
大切なのは、自分が納得した人生を歩むことだ。

よく人生を航海にたとえる人がいるけど、
ぼくもそう思う。
荒波もある。嵐もある。
しかしね、それだけに航海も、また楽しいもの。
いろいろなことがあると思うけど、
ときには、美しい海を見たり、
青い空を見たりするのもいいよ。

私はお前の友だからね。
友として、できるかぎりのことはするよ。
だから安心して、前に進みなさい。
そしてお前が、私の知らないことを
発見したら、私に話してほしい。
私は、その日がくるのを楽しみにしているよ。

そうそう夜は時間を決めて寝ること。どんなに眠くなくても
目を閉じていればいい。それで朝がくる。
不規則な生活だけは、してはだめだよ。

はやし浩司

(追伸)
ザウルスでは、インターネットできないことは
知っていた。話しておかなくて悪かった。」

 このメールを出したあと、ワイフにこう言った。「最低でも、あと五年はがんばらなくては」と。
「いざとなったら、今、住んでいる土地と家を売ればいい。少しは残るから、それで二人で老人
ホームへ入ればいい」とも。ワイフは、「そうね」と笑った。そしてこう言った。「死ぬまでに、財産
をちょうど使い切ればそれでいいわ」と。

親というのは、おかしな存在だ。私個人としては、死ぬのがこわい。が、息子たちのことになる
と、「あと五年だけで、いい」と、年月を切ることができる。「そこまで生きて、息子たちを見送っ
たら、そのあと死んでも、悔いはない」と。あるいは「いざとなれば、息子たちのためなら、自分
の命すら、投げ出すこともできる」と。私個人として考えるときと、親として考えるときとでは、
「死」に対する考え方が微妙に違うようだ。ワイフが「そうね、あと五年ね」と答えたとき、私は別
の心で、そんなことを考えた。 
(03−1−9)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(505)

納得道(なっとくどう)と地図

●納得道
 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得して
いるかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そうでなけ
れば、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気分の中で、「何かを
し残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。だから、人は、いつも自分の
したいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組であ
る。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、おもしろ
かった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。その
番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわかってい
るの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。失敗
してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見なが
ら、「この女性は何とせまい世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、すべて、だ
れにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あまりにも通俗
的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、どこか受け売り的。そ
のとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくてもよいよ
うな経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条件がある」という
には、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。これには若いも、老いも
ない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に落ちてしまう。

●地図 
 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人生の
地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだけ高い
視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性の世界もあれ
ば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中で苦
労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子どものときか
ら、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりその人の
考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、低俗な情報
に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」ということがどう
いうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかかることもできな
い。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、何と答えるだろうか。
この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あまりにも狭い。おそらくその女性
は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったのだろう。テレビを通してみる、あのバラ
エティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なことをして
きた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかるのは失礼なことか
もしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケバしい化粧に、ふてぶて
しい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなかった。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来する情
報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考えていない? 考
えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子だった。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」というのは、
「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労
 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽しいこと
よりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見えてくると、そこ
で悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうなら、この日本では、コース
というものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、おとなしくそのコースを進んだほう
が得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、そのコースに背を向けるということにもな
る。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗する確率
のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほうが、はるか
に危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行けばよい。私の
ようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思う。健
康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、しかし結婚
には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、実際問題とし
て、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、徹底して、人生の地
図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、北海道を去るとき、教え子
たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言ったというが、それはそういう意味
である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃えカス
をひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけいに、子どもた
ちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのばして、この広い世界
を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもどる。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、掘りさげ
て考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03−1−10)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(506)

子どもの選択

 もしあなたの娘(成人)が、「私、アダルトビデオに出演する」と、ある日、突然、言い出した
ら、あなたは、それにどのように反応するだろうか。

 「ああ、すばらしいことね」と、それに賛成する親は、いないと思うが、しかしこの世界、それは
わからない。母と娘で、アダルトビデオに出演するようなケースも、ないわけではない。しかし、
ふつうの親なら、反対する。(この「ふつう」という言い方にも、少し抵抗を感ずるが……。)

 ここまで書いて思い出したが、以前、こんな原稿を書いた。「アダルトビデオ」の世界を、超低
俗文化の世界とするなら、この原稿の中に書いた、「マザー・テレサ」の世界は、超高徳文化の
世界ということになる。

+++++++++++++++++++

スランプ

 英語で、デプレッションというと、「うつ状態」をいう。私の友人のR君(オーストラリア人)も、長
い間、そのデプレッションで苦しんだ。「暗いトンネルの中にいたようだった」と、当時を振り返っ
て、彼はそう言う。

 私もときどき、そのうつ状態になる。いくつかトラブルが重なると、そのあと、そうなる。ホッとし
たときに、そうなる。何をするのもおっくうになる。ひどいときは、テレビを見たり、新聞を読んだ
りするのも、いやになる。どこか精神状態がフワフワしたような気分になり、つかみどころがなく
なる。

 もっともそういう状態は、今に始まったことではない。若いときからあった。だからなれたという
か、その状態とうまくつきあう方法を、自分なりに身につけた。その方法、第一、そういう状態に
なったら、さからわず、そのままの状態で、よく眠る。第二、カルシウム剤をたくさんとる。第三、
……。いろいろあるが、その中でも、もっとも効果的なのは、買い物。ほしいものを、バカッと買
ってしまう。もっともあまり高価なものだと、かえって落ち込みがひどくなるので、そこそこの値
段のもの。買い物依存症になる人がいるというが、そんなわけで、私はそういう人の気持ち
が、よく理解できる。私も、その仲間?

 結局は、人間は、何も考えないほうが、生きやすい? 先ほどもテレビを見ていたら、どこか
の鉄道の車掌が、原稿を読みながら、客にあたりの様子を説明しているシーンが出てきた。の
どかな光景だった。今ごろは、紅葉の見ごろ。私はその車掌の、どこかヌボーッとした表情を
見ながら、「この複雑な社会を生きるためには、かえってこの人のほうがいいのかなあ」と、思
わず考えてしまった。言われたことだけを、そこそこにやって、あとはのんびりとその日、その
日を、無難に暮らす……。

 私は私だが、では、その私は、私の息子たちには、どんな人生を歩んでほしいかというと、ひ
ょっとしたら、その車掌のような人生かもしれない。あまり高望みはしない。(しても無理だが…
…。)そこそこの人生を、のんびりと送ってくれれば、それでよい。本人がそれだけの力があ
り、野心もあり、そしてそれを望むなら話は別だが、そうでなければ、健康を大切にしながら、
自分の力の範囲内のことをしてくれれば、それでよい。

 そうそう少し前だが、私はこんなことを思った。インドのマザー・テレサが、大きく話題になって
いたころのこと。私はもし私の息子が、インドへ行って、マザー・テレサのようなことをしたいと
言い出したら、それに賛成するだろうか、と。世界中の人は、マザー・テレサを賞賛していた
が、では、それが人間として、あるべき人間の姿かというと、そうは思わない。……思えなかっ
た。そこで当時当、私は何人かの父母にこう聞いてみた。「あなたは、あなたの息子(娘)に、マ
ザー・テレサと同じようなことをしてほしいですか?」と。すると、全員、「ノー」と答えた。

 話がそれたが、そう考えると、「生きる」ということが、どういうことなのか、またまたわからなく
なってしまう。まあ、あえて言うなら、自分の力の範囲で、自分の力の限界をわきまえ、無理せ
ず、生きていくということか。そういう意味では、私など、恵まれた環境にある。ときどき、自分
の仕事がこんなに楽でよいものかと思うときがある。あるいは私のばあい、職場そのものが、
ストレス発散の場所になっている。自由な時間はたっぷりあるし、私に命令する人は、だれもい
ない。もっともこういう環境をつくったのは、無意識のうちにも、私自身の弱点を避けるためだっ
たかもしれない。もし私が、大きなオフィスビルのどこかで、パソコン相手に、数字とにらめっこ
しているような仕事をしていたとしたら、とっくの昔に発狂していたか、自殺していたかもしれな
い。自殺はしなくても、心筋梗塞か脳内出血で死んでいたかもしれない。

 そういうこともあって、いつしか私は、落ち込みそうになると、いつも、こんな歌を口ずさむよう
になった。

♪……のんびり行こうよ、俺たちは……あせってみたって 同じこと……

 この歌は、小林亜星氏作曲によるもの。日本の高度成長期に、ある石油会社のコマーシャ
ルソングとして、歌われたものである。あなたも気分が滅入ったら、この歌を口ずさんでみた
ら、どうだろうか。少しは気が楽になるかも? そう、私たちはのんびり行こう。あせってみて
も、どうせ同じこと。
(02−11−9)

●今、落ち込んでいる人へ、いっしょに助けあいながら、励ましあいながら、がんばって生きて
いきましょう。人生にはいろいろありますね。まあ、本当にいろいろありますね。私もときどき、
美しい景色をながめていたりすると、「よくがんばっているなあ」と、自分のことがいとおしくなる
ことがあります。みなさんは、いかがですか。

+++++++++++++++++++

話をもどす。

 こうした子どもの選択に、そのつど、親は、とまどい、あきらめ、納得する。ときには反対し、
大ゲンカになり、親子が断絶するというケースもある。「アダルトビデオ」や、「マザー・テレサ」
の世界は、極端な世界だが、その中間あたり(?)の世界ともなると、いくらでもある。

 私も、二男が、中学二年の中ごろ、受験勉強を、「くだらない」と言って放棄してしまったときに
は、少なからず、あわてた。二男には二男なりの考えがあったのだろうが、まだ人生の地図を
もっていなかった。……と、最初は、そう思って、反対した。しかし二男には、二男の考えがあっ
た。

 二男は、こう言った。そのとき、二男は、生徒会の学年代表をしていた。

 「ぼくは、ひとりで朝のあいさつ運動を始めた。毎朝、校門の前に立って、先生やみんなにあ
いさつをした。しかしそれが職員会議でとりあげられ、内申点に加味されるボランティア活動と
認定された。とたん、そのボランティア点がほしいため、校門から、学校の玄関まで、三年生が
ズラリと並ぶようになった。みんなあいさつなどしていない。学校へやってくる先生や、生徒にヤ
ジを飛ばして、からかいあっているだけ。ぼくはそれを見て、『みんな、こんなことまでして、いい
高校へ入りたいのか』と、疑問に思ってしまった」と。

 二男がそう言い終わったとき、私には、もう返す言葉がなかった。二男は、それ以後、そのま
ま、本当に受験勉強を放棄してしまった。それなりの勉強はしたが、あとはしたい放題。結局、
高校を卒業するまで、実に優雅な少年時代を送った。私もいろいろな子どもを見てきたが、二
男ほど、優雅な少年時代を過ごした子どもを、知らない。

 こうした経験から言えることは、親はいつも、子どもをどこまで信じ、どこまで受け入れるかと
いう、その瀬戸際に立たされるということ。その瀬戸際の中で、親も悩み、苦しむ。しかしそれ
は同時に、親自身の世界を広めることにもなる。そして結果として振りかえってみると、そうした
親の悩みや苦しみといったものは、親自身の「限界というカラ」を破るためのものであったこと
がわかる。もっとはっきり言えば、そのカラを破ることによって、親自身も、子どもとともに成長
するということ。

 親には親の、見栄やメンツ、体裁や世間体もある。プライドある。子どもに対する夢や希望も
ある。それ以上に、親には親の価値観がある。生まれ育った環境がある。そういうものが、混
然いったいとなって、「限界というカラ」をつくる。子どもを育てるということは、つまりは、その限
界との戦いといってもよい。

 が、実のところ、そのカラを破るということは、ここにも書いたように、簡単なことではない。親
ははげしく葛藤(かっとう)し、焦燥(しょうそう)し、そして苦悶する。親子によっては、大衝突に
発展するケースも、珍しくない。が、ここで重要なことは、子どもがどんな選択をしても、親は、
親子のパイプだけは切ってはいけないということ。切れば切ったで、子どもは、それこそ進むべ
き指針をなくしてしまう。親としては、つらいところだが、子どもがどんな選択をしても、それを受
け入れ、あきらめることでしかない。あとは日々の生活の中で、許して忘れる。

 ……こう書くと、「そんなことをすれば、うちの子はダメになってしまう」と言う親もいるが、もし
そうなら、では「ダメになるということは、どういうことなのか」を、じっくりと考えてみてほしい。人
間には、ダメな人間も、ダメでない人間もいない。だからダメな子ども、ダメでない子どももいな
い。あなたがもし「ダメ」という言葉を口にしたら、それはどういう意味なのかを、ほんの少しでよ
いから、自問してみたらよい。あなたも、ここでいう「限界というカラ」が、どういうものか、それが
よりはっきりとわかるはずである。

 さて、冒頭の話。もしあなたの娘が、「アダルトビデオに出演する」と言いだしたら、あなたは
何と答えるだろうか。その反対に、「これからインドへ行って、マザー・テレサの遺志を継ぐ」と
言いだしたら、あなたは何と答えるだろうか。どちらにせよ、それを最終的に決めるのは、子ど
も自身。またそれが今まで、あなたのしてきた子育ての結果として、受け入れ、あきらめるしか
ない。
(03−1−10)

(追伸)
 よく生徒たちが、「先生は、アダルトビデオを見るか?」と聞く。そういうとき私は、「君たちの
お父さんと同じだよ。お父さんに聞いてごらん」と逃げる。あるいは、ときには、「もう見あきた。
さんざん見たからね」と答えるときもある。

 しょせん、ああいうものは、「無」。何かの意味を考えるのも、意見を添えるのも、ムダ。あな
たがレストランで食事をしたり、トイレで用を足すのと、どこも違わない。ただしアダルトビデオと
いっても、そこには若い男女が関係してくる。そういう男女の心を守るという点では、安易に考
えてはいけない。とくに女子中高校生たちの、援助交際という売春は許してはいけない。アメリ
カ並みに、二〇歳未満の子どもと性行為をもったら、相手がおとなだったら、即逮捕、投獄とい
う処分を、日本も考えるべき時期にきているのではないか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(507)

子育てポイント

●自意識を育てる
 小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかり
やすく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれ
ば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。
 たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうこ
とをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い
(自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためであ
る。
 ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意
識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎる
と、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようにな
る。
 そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。A
DHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指
導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそ
れまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。
 子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意
識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年
生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつ
ぶさないように指導する。


●幸福な家庭環境で包む
 「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのでは
なく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てがで
きる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験であ
る」と。
 つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわ
りあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形
で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子ど
もを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格
言は正しい。
 まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というの
は、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。
そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。


●親の心は、子の心
 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ
方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。
 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か
って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、
娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。
 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。
 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の
経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。言
いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいものと
悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、自分
自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というより、あ
えて伝える必要はない。あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生
きザマになる。親子というのは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと
いうことになる。

●家庭の緊張感を大切に
 ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子
どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビ
キビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよい
とか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子ども
の目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切
にする。
 しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへ
んのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族
全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司

雑感

 みなさんは、今ごろ、どうお過ごしですか。このところ、イヤなニュースばかり、耳に飛び込ん
できますね。このモヤモヤとした気持ちは、いったい、何でしょうか。胸騒ぎというか、憂うつ感
というか。どれもこれも、あの金正日さんが、悪いのです。

 ところで今朝(一月一一日)は、肌寒い、うす曇り空。風もなく、数日前のような冷気は感じま
せんが、寒いことは寒い。

このところどうも頭の回転が鈍っています。何かを書こうと思うのですが、考えがうまくまとまり
ません。慢性的に扁桃腺を腫らし、ときどき風邪薬をのんでいます。そのせいかもしれません。
本来なら、毎日、数時間もパソコンに向かえば、それでマガジンができていくのですが、時間ば
かりダラダラとかかってしまいます。もっとも、昨夜も、パソコン相手にゲームばかり。マイクロ
ソフト社のFSで、羽田空港上空を飛んだり、あるいは囲碁ゲームをしたりしています。

 そう言えば、このところ、私の周辺では、楽しいことが、ほとんどありません。自分でも、人生
を楽しんでいないというか、楽しめないというか。いとこたちと電話で話しても、どこか暗い話ば
かり。もっともその前に、何を楽しむかという問題もありますが……。おかしなことですが、毎
年、一月、二月は、どこか心が晴れません。これは私の職業病のようなものです。子ども(生
徒)たちの受験を、無意識のうちにも、どこかで気にしているのですね。

 さてさて、暗い雑感になってしまいましたが、どうか皆さんは、明るく、朗らかに。そういう点で
は、このマガジンは、あまりお役にたてないかもしれません。全体にネチネチと暗い? 自分で
もわかっています。そういう性質のマガジンなのです。どうか、あきらめて、お許しください。す
みません。

 孫の写真が、二男から、届いています。興味のある方は、ご覧になってください。二男のホー
ムページに載っています。もしご覧になったら、何か、メッセージを書いてくださると、うれしいで
す。二男も喜ぶと思います。みなさんを利用するようで気が引けますが、どうか、よろしくお願い
します。五月に会えることになっています。成田空港まで、迎えに行くつもりです。

 では、これから山荘のほうへ行ってきます。ワイフが、居間のほうで支度(したく)を始めてい
るようです。部屋を出たり入ったり。いつもの音です。もうすぐ、「行くヨ〜」と声がかかるはずで
す。そんなわけで、今日はここまで。今日は土曜日です。明日から仕事です。
(03−1−11)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(508)

常識論

 風がやんだ。空気が止まった。小春日和(びより)の、うららかな日差し。レモンの葉も動きを
止めたまま、陽光をあびて、白く光っている。アジサイの木が、その下で、去年の枯れた花を残
したまま、静かにたたずんでいる。

 深い緑。その間に乱立する枯れた木々。その向こうには、うすいモヤのかかった山々が、お
だやかなうねりをつくって、息をひそめている。動くものはない。いや、時折、ウグイス色の小鳥
が、きぜわしそうにやってきては、またどこかへと去っていく。「ジョウビタキよ」と、ワイフは言っ
た。

 こうしてぼんやりと、目の前の景色を見ていると、ふと常識の声が聞こえてくる。心の声といっ
てもよい。そしてその常識の声に耳を傾けていると、何が大切で、また何がそうでないかがわ
かる。人間は、万年の昔から、おそらくまだ小さな下等動物だった時代から、その声を頼りに
生きてきた。

 人に親切にしたり、やさしくすれば、心地よい響きがする。しかし人を裏切ったり、キズつけた
りすれば、不快な響きがする。道徳だとか、倫理だとか、はたまた哲学だとか、そういうものを
知らない時代から、人間は、その声に従って生きてきた。今も生きているし、その声を大切に
すれば、これからも生きていくことができる。

 むずかしいことではない。ほんの少しだけ、自分の心に耳を傾けてみればよい。すると、心
は、おかしいものは、おかしいと言う。へんなものは、へんだと言う。一方、気持ちのよいもの
は、気持ちよいと言う。すばらしいものは、すばらしいと言う。言葉ではない理屈でもない。心の
声というのは、もっと感覚的なもの。本能的なもの。心の奥のほうから、聞こえてくる。

 あとはその常識に従って行動すればよい。人に話したり、ものに書いたりすればよい。それ
を繰りかえしているうちに、思いや考えが、モヤの中から、顔を出す。形が見えてくる。

 そこで大切なことは、常識をみがくこと。旅行するのもよい。本や映画を見るのもよい。勉強
したり、音楽を聞くのもよい。ごくふつうの、ごく自然な生活の中で、ごく当たり前の人間として、
生きる。滝に打たれるから、常識がみがかれるとか、火の粉の上を歩くから、常識がみがかれ
るとか、そういうことはない。また、そんなバカなことをしても、意味はない。それがわからなけ
れば、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればよい。山に生える、木や草を見ればよい。だれも、そんな
ことはしていない。

 私たち人間が、まさに自然の一部であるように、私たちもまた、自然に生きればよい。その生
きザマが、自然であればあるほど、また自然に近ければ近いほど、常識は、私たちにいろいろ
話しかけてくれる。何が正しくて、何がそうでないかを、語りかけてくれる。

 私がこのあたりの山々に出入りをするようになって、もう一四年の月日が流れた。来たころ
は、小さな苗木にすぎなかった椿(つばき)も、今では、土手の下で、大きく葉っぱをのばしてい
る。先ほどよりも、照り返しのまぶしさが、目にしみるようになった。見ると、太陽が、ぐんと高く
なっていた。

 私はまず、イスを片づけた。つぎにテーブルの上にのった、コップを片づけた。それからここ
に座るまえに使った、枝切りバサミを片づけた。少し暑くなった。首のあたりが、ほんのりと汗
ばんでいる。この気持ちよさこそが、私たちが今、生きているという証(あかし)でもある。私は
まわりの景色を見ながら、もう一度、大きく息を吸いこんだ。
(03−1−11)

●私たちが求める法にせよ、真理にせよ、それはそんなに遠くにあるのではないにではない
か。それはひょっとしたら、私たち自身の中にあって、私たちに見つけてもらうのを、息をひそ
めて、待っている?
●日々のささいな行為が無数にあつまって、月となり、その月があつまって、年となる。そして
その年々があつまって、やがてその人の人格となる。そのとき真理が見つかるかどうかは、つ
まりは、その人の日々の、ささいな行為によって決まる。ウソをつかない。迷惑をかけない。誠
実に生きる。その瞬間、瞬間の生きザマが、その人の人格を決める。日々の生活の中で、自
分を偽り、他人を偽っていて、どうして真理に到達できるというのか。

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子育て随筆byはやし浩司(509)

見苦しい人たち

●他人に不幸話をする女性
 見苦しい女性(七〇歳)がいる。明けても暮れても、他人の悪口ばかり。他人の不幸が、よほ
ど楽しいらしい。しかしそこは、七〇歳。ただ年をとったわけではない。独特の言い方をする。

 たとえばAさんの失脚を笑うときは、こう言う。
 
 「かわいそうなものですね、Aさんは。あれほどのお屋敷に住んでいたというのに、今は、見る
影もありません。私、Aさんのことを思うと、かわいそうでなりません」と。

 それをいかにも同情したフリをして、言う。ときには、涙声で言うときもある。そういう言い方を
しながら、実は、Aさんの不幸話を、あちこちで、おもしろおかしく広める。

 他人の不幸を笑うものは、今度は、自分が笑われる。しかし自分を笑うのは、実は他人では
ない。自分で自分を追いこむ。それを「笑う」という。たとえばAさんは、若くて死んでいった人た
ちを、「かわいそうだ(ザマーミロ)、かわいそうだ(ザマーミロ)」と笑っていた。だから、自分が、
病院へ入院したような話は、絶対に、人には話さなかった。六〇歳くらいのとき、風呂から出た
ところで倒れたことがあるが、そのときも、「近所に恥ずかしいから」という理由で、救急車を呼
ばなかった。

 これはまた別の女性のことだが、こんなことを言う人(五〇歳男性)がいた。

 その人の母は、静岡県と長野県の県境にある小さな村で、ひとり住まいをしているという。年
も八〇歳になり、このところ健康も思わしくない。そこでその人が、何とか、浜松市内でいっしょ
に住むように説得しているという。が、その女性は、がんとして、首を縦にふらない。理由を聞く
と、その人は、こう話してくれた。

 「母は、昔からその村を出ていく人を、笑っていました。その村に住めなくなることを、敗北者
だと思っていたのですね。母独特の人生観です。それで、今、自分が出ていくことができないの
です」と。

 もう少し卑近な例では、子どもの進学校がある。Bさん(四〇歳女性)は、ことあるごとに、そ
の人の価値を、出身高校で決めていた。「あの人は、X高校ですってねエ〜」と。Bさん自身
は、このあたりでも有名な進学校(こういう言い方は不愉快だが)を出ていたこともある。が、い
よいよ自分の娘が、高校受験を迎えたときのこと。娘には、その「力」がなかった。だから毎
晩、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえしていた。

●地に落ちる人間性
 こうした例は、多い。ひょっとしたら、あなた自身も、日常的に、それをしているかもしれない。
とくにはげしい受験勉強をくぐりぬけた人ほど、注意したらよい。そういう人ほど、自分の価値
や幸福を、相対的に判断するクセが身についている。「同年齢の仲間より、私のほうが地位が
高いから、私は優秀だ」「隣の人より、いい生活をしているから、私は幸福だ」と。

 そしてそういう相対的なものの見方をしていても、それなりに高い生活が維持できればよい。
が、問題は、反対に、同年齢の人より、地位が低くなったとか、隣の人より、生活の質が悪くな
ったとき。このタイプの人は、そうしたものの見方を、冒頭に書いたAさんのように、ゆがめてし
まう。わかりやすく言えば、自分よりさらに不幸な人を見つけてきては、それをおもしろおかしく
笑ったりする。そうすることにより、自分の価値や幸福を確認する。あるいは、自分より高い位
置にいる人を、ことさらねたんだり、うらんだりすることもある。こうなると、その人の人間性は、
地に落ちる。
  
 では、どうするか?

 ここでも大切なのは、やはり「私は私」という、自己の確立である。私たちは、私たちの人生
を、自分で生きる。自分の生きザマを、決して、他人の目の中に置いてはいけない。「他人がど
う思おうが、知ったことではない。どこまでいっても、私は私」と。

 こういう生き方を日ごろからしていれば、少なくとも、Aさんが見せるような見苦しさは避けるこ
とができる。小さな村で、がんとして首を縦にふらないような女性のような生き方は避けること
ができる。さらに子どもの受験勉強に巻きこまれなくてすむ。

●方向性を変えるのは、若いうち
 そこでこのエッセー最後の問題として、こういうことがある。このエッセーを読んでいるあなた
が、若い人なら、それでよい。しかし私のように五〇歳もすぎていると、問題の根は深い。正直
言って、五〇歳をすぎてから、こんなことに気づいても、遅いということ。手遅れ。仮に自分の中
におかしな人間性が潜んでいたとする。そしてそれに気づいたとする。しかしその人間性を変
えるのは、容易なことではない。一〇年単位の時間がかかる。あるいは、もっとかかる。

 それにこういうことも言える。若いうちは、気力で、自分をごまかすことができる。人前で、よ
い人ぶることぐらい、簡単なことはない。もの知り顔で、ニンマリと余裕の笑みを浮かべ、あと
は静かに相手の言ったことに、ウンウンとうなずいていればよい。しかし歳をとると、その気力
が衰えてくる。自分をごまかす力が弱くなる。そうなると、その人自身の人間性が、モロに外に
出てくる。問題は、そのときだ。そのとき、自分の醜さを嘆いても、遅い。

 だから、今、しかもできるだけ若いときから、自分を改めていかねばならない。日々の生活が
月となる。その日々は、できるだけ早いほうがよい。

 かく言う私は、気がつくのが、あまりにも遅すぎた。三〇歳をすぎるころまで、実にいいかげん
な人間だった。今は、まだ気力もあり、そういう自分を必死に押さえこんではいるが、気力が衰
えれば、いつまた、そういう醜い自分が顔を出すかもしれない。そういう意味では、時限爆弾を
かかえているようなものだ。あるいは私もそのうち、Aさんのように、他人の不幸話を、人に、お
もしろおかしく話すようになるかもしれない。そうなりたくはないと思うが、その自信は、ない。
(03−1−11)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 
子育て随筆byはやし浩司(510)

アメリカの子育て事情

●Dからのメール

 当然のことながら、日本とアメリカとでは、子育てや、子育てに対する考え方が、かなり違う。
そんな一面がわかるメールが、嫁のDから届いたので、ここに転載する。この中で、他人の子
どもでも、平気であれこれアドバイスをする女性がいることに、注目してほしい。

I have always believed it giving babies much skin ship. Sage is held and walked around the 
apartment probably a hundred times a day and is always touched when he is on the bed 
playing. I guess we don't have many pictures of us holding him on our website, probably 
because we don't want to be in the pictures very much and because if I take the pictures in 
the daytime, I can't hold him at the same time. But feel assured in knowing that he is given 
skin ship as much as possible.  
When Sage was a few months old, I was with my sister at a restaurant. Sage wanted to be 
held, so I took him out of the carrier. A woman who worked at the restaurant came over to 
me and told me that I shouldn't hold my baby so much, that he will be spoiled. She's able to 
raise her children however she likes, but I felt awkward in her so openly bestowing her 
advice and criticism on me. I don't know if people feel so freely to give their opinion in 
Japan, but I have found that in the U.S., complete strangers will come up to a parent at any 
place and give their opinion on what they think that parent is doing wrong. It's ridiculous. 
Advice from friends and families is a kindness, but from strangers?
 Well, I suppose that they mean well. And I do try to take into consideration what they say.  
But we will only have Sage as a baby and young child for a small amount of time and want 
to cherish the time we will have with him, so he will probably get tired of me touching him so 
much and someday ask me not to embarrass him in front of his friends. 
 スキンシップの大切さは、よくわかっています。セイジは一日に100回は、抱かれていて、ベ
ッドの上で遊ぶときも、何らかの形で、触れ合っています。あまり抱いている写真が、ウェブサ
イトにないのは、写真をとるとき、抱くことができないからです。しかし私は、じゅうぶんなスキン
シップをあげていると思います。

 セイジが数か月のとき、妹とレストランに行きました。セイジが抱っこしてくれとせがみました
ので、抱いてあげました。そしたら一人の女性がやってきて、子どもがスポイルされるので、抱
かないほうがよいと言いました。彼女が自分の子どもの世話をするのは、自由ですが、公然
と、私の子育てを批判するなんて、ひどいと思いました。日本では、こういうことがありますか。
しかし合衆国で、まったく見知らぬ人が、こういう形で、自分の意見を親に言うこともあるという
ことを知りました。バカげています。友や親からのアドバイスはわかりますが、見知らぬ人から
とは?

 まあ、よいように解釈します。そして彼らの意見も尊重します。セイジにしても、こういう時期は
短いし、その時期に恵みを与えたいと思います。できるかぎりスキンシップを与え、セイジがい
やがるまで、そうしようと思います。

●私の返事

From Hiroshi,
Hi!
 It depends on how the baby feels. As to the skin ship it is not a problem whether it is 
sufficient or not, but how much the baby opens his heart to parents. This is more important. 
If the baby opens his heart to you, showing his or her love (attachment) as much as he or 
she can, it is OK. 

 In Japan we seldom interfere with young parents as you were done by a stranger in the 
restaurant with your sister. Like most of other Americans we dislike to be interfered in, 
about which I don't know it is good or not, for people are so indifferent to each other now.

 The reliability and the spoil of children is different matter. It depends on each case. Those 
children who needs skin ship must be given more skin ship as much as possible. But as far 
as I just guess Sage wants or needs more skin ship for he cries a lot. So have a confidence 
that you have been doing very well and you are one of the most wonderful mothers. I 
respect and am proud of you.

 I am sorry if this mail interferes with you which is not my intention. I have no idea to offend 
you in any case, but all of us love all of you.

浩司より

 赤ちゃんによります。スキンシップについては、それがじゅうぶんかどうかというのは、問題で
はありません。問題は、赤ちゃんが、いかに心を開いているかということです。こちらのほうが
重要です。もし赤ちゃんが心を開き、あなたに愛情(愛着行為)を示しているなら、問題はあり
ません。

 日本では、他人の子育てに干渉するということは、めったにありません。多くのアメリカ人のよ
うに、干渉されるのを私たちは嫌います。今、たがいに無関心な人がふえていますので、それ
がよいことかどうかはわかりませんが。

 子どもの依存心と、スポイルは、別問題です。スキンシップを必要とする子どもには、できる
だけ与えます。私が思うところ、セイジは、よく泣きますので、スキンシップは、より必要だと思
います。だから自分に自信をもってください。あなたはすばらしい母親です。私はあなたを尊敬
し、誇りに思います。

 もしこのメールが、あなたを干渉するようなら、ごめんなさい。そういう意図はまったくありませ
ん。私たちはみな、あなたたちみなを、愛しています。
(03−1−11)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(511)

誠実論

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげてあ
った。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。他人
に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、こと足り
る。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないということ。と
なると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大前提として、
自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を見ると、
一〇万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。どう思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いではない。
そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとする。そのとき
だ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」というこ
とがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のものにするのは、
悪いことだ」と。

 この段階で、二つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらってしまおう」
という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういうとき、自分は、どち
らの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面によく
立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなくなってしまう
ことがある。あるいは相反した自分が、二つも三つもあって、どれに誠実であったらよいのか、
わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。本立ちて道
生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこそ、進むべき道
が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にする前に、まず基本的な
道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者が多
く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも私など、もとも
と相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎重でなければならな
い。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思う。今
のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。つまり自分に誠
実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確立しなければならな
い。もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、それこそたいへんなことに
なってしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、それで満足してしまっていたら、こ
の世は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳のない人には、誠実な人間はいないというこ
とになるのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、関係のあ
りそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。駅の構内であ
れば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考えないようにしている。
どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返すようにしている。本当の私は、
もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。だから、教条的に、そう決めている。そ
れはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くような、高邁(こうまい)な境地に達するには、まだ
まだ時間もかかるだろう。一生、到達することはできないかもしれない。だから、そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深い。そ
れがわかってもらえれば、うれしい。
(03−1−11)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(512)

時の流れ

 学生時代、私には、すばらしいガールフレンドがいた。本当にすばらしい人だった。私は、自
分のすべてをかけて、そのガールフレンドに恋をした。

 が、長くはつづかなかった。交際を始めてしばらくすると、ガールフレンドの母親から、私の母
に、電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうよ
うな娘ではありません。娘の結婚にキズがつきますから、交際をやめさせてください」と。

 私の家は、小さな自転車屋。ガールフレンドの家は、従業員が三〇人くらいの会社。地方の
田舎町ということもあって、そういうことで、家の格式が決まっていた。ガールフレンドの母親
は、それを言った。

 で、そのあといろいろあって、ガールフレンドは私から去っていった。が、私はそのガールフレ
ンドを心から消すのに、一〇年以上はかかった。いや、今でもあのころを思い出すと、無数の
光が、脳裏全体を、明るく輝かす。私にとっては、人生の中で、もっとも幸福な時代だった。

 そのガールフレンド。今は、G市に住んでいるというが、もうその程度しか知らない。一度、こ
のH市で、道路ですれ違いざま、顔をあわせたことがあるが、それとて、もう二〇年以上も前の
こと。私にとっては、大切な人だったかもしれないが、そのガールフレンドにしてみれば、私は
その他多くのボーイフレンドの一人にすぎなかったようだ。もともと私は、女性にもてるタイプの
男ではない。

 しかし、なぜ、今、そのガールフレンドのことを書いているかって? 私はときどき、インターネ
ットの検索エンジンを使って、昔の友人や知人をさがすことがある。検索エンジンを使えば、そ
の人の消息が、瞬時にわかる。そのときも、郷里のM市について、検索していた。地図も出て
きた。で、あちこちを見てみたが、そのあるべき会社の名前が消えていた!

 そこで改めて、そのガールフレンドだった女性の父親が経営していた会社を、検索してみた。
が、ヒットなし。私にはもう関係ないことだが、どうしてかザワザワとした胸騒ぎ。そこでM市の
市役所にアクセスして、会社の所在を確かめると、係の男から電話がかかってきた。「あの会
社は、ずいぶんと前につぶれています」と。

 「お宅とは格式が違う」と母親が言った、その会社がない? 不思議な感覚だった。当時の私
は、そう言われても、まったく気にしなかったが、しかし一方で、「家の格式」というものを受け入
れていた。「格式が違うのだから、彼女が去っていってもしかたないこと」と。しかし今、その基
盤となる会社がない? となると、格式というのは、いったい、何だったのか?

 そのガールフレンドは、本当に心のやさしい人だった。みんなは勝気だとか、いばっていると
か、いろいろ言っていたが、私にはそうではなかった。いつだったか、彼女の部屋で、グラタン
を作ってくれたことがある。私はそのとき生まれてはじめて、グラタンという料理を食べた。おい
しかった。そんな楽しい思い出しか残っていない。だから、本来なら、その会社がつぶれたこと
を、喜ぶということはないにしても、同情しなければならない理由など、ないはずだ。が、どうい
うわけか、「ああ、そうですか」で、すますことができなかった。そのガールフレンドが感じたであ
ろう、悲しみや、つらい思いのほうが、気になった。人一倍、親思いの人だったから、なおさら、
私は気になった。

 もっとも私のような人間が、こうして心配すること自体、彼女にとっては、迷惑なことかもしれ
ない。私が今、ここで言っていることや、書いていることは、まさにストーカー行為そのものとい
ってもよい。こんな文章を書いているのを知ったら、おそらく彼女は、こう言うにちがいない。「も
う、私のことは構わないで!」と。

 その気持ちがわかったから、私は(X)をクリックした。クリックして、検索エンジンのウィンドウ
を閉じた。そのとたん、私は、三五年という、ズシリと重い時の流れを感じた。
(03−1−11)

●恋愛は人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外(ほか)に花はない。(坂口安
吾「恋愛論」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(513)

私の北朝鮮論

 北朝鮮のような超独裁国家では、独裁者の精神状態が、そのまま国の姿として、反映され
る。国の姿イコール、独裁者の精神状態と考えてよい。

 そこで今にみる北朝鮮の異常な緊張状態は、それだけ金正日の精神状態が、緊張状態に
あるとみてよい。もっと簡単に言えば、きわめて異常な情緒不安状態にあるとみてよい。よく誤
解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。情緒不安は、あくまでも、外に
現れた症状。情緒不安というのは、心の緊張状態が取れないことをいう。その緊張した状態の
中に、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一挙に、精神状態が不安定
になる。それを情緒不安という。

 まず北朝鮮の内部の問題。昨年の夏(〇二年七月)、北朝鮮政府は、公務員の給料を、そ
れまでの給料から、一挙に、二〇倍に引きあげた。二〇倍である。それまで、たとえば一〇万
円の給料だった人は、二〇〇万円になったことになる。北朝鮮を支配する闇(やみ)経済の実
勢価格に合わせるためである。しかしこんなことをしても、一時的な効果はあっても、すぐその
効果は、消滅する。闇経済のほうも、すぐ二〇倍、三〇倍と、それを追いかける。つまりハイパ
ーインフレの状態になる。はっきり言えば、メチャメチャ。

 その上、経済は壊滅状態。工場の稼働率は、三〇%以下だといわれている。あるいは、ほと
んど稼動していない? アメリカ頼みだった、原油供給は昨年一二月以来、停止されている。
北朝鮮は、年間一〇〇〜一五〇万トンの原油を必要としている。が、そのうちの五〇万トンを
カットされたのだから、痛手は大きい。しかしそれだけではない。慢性的な食料不足。この冬だ
けでも、約二〇〇万人が餓死すると言われている。餓死、一歩手前の人を含めると、その数
倍の人が、飢えで苦しんでいると考えてよい。

 さらに、今、北朝鮮は、表向きはどうであれ、ロシアにも、そしてどうやら中国にも、見放され
つつある。とくにロシアには、完全に見放された。いくらお金を貸しても、返さないのだから、こ
れはしかたない。昨年末、金正日は、中国にさかんにラブコールを送った。しかし中国の江沢
民は、金正日には会わなかった。今の国際情勢の中では、会えなかったというのが、正しい。
そこで金正日は……。

 今ごろは、宮殿のような執務室の地下室で、大酒を飲んで、ギャーギャーと暴れまくっている
に違いない。本来なら、家族がいて、そういう男の心をいやすのだが、悲しいかな、金正日に
は、そういう家族さえいない。定年が二五歳という、喜ばし組の若い女性軍団では、どうしようも
ない。彼女たちは、ただのセックスドール。いくら若い女性が好きでも、糖尿病では、女性のほ
うが満足しない? だからますます金正日の精神状態は、不安定になる。おそらく今ごろは、
側近の部下でさえ、手がつけられないのでは……?

 そこで核開発の再開、ミサイル実験の再開ということになった。が、ここで注意しなければな
らないことは、ニョンビョンの核関連施設にしても、あまりにも旧式で、使いものにならないとい
うこと。しかもこの一〇年間、ほとんど手入れをしていないから、火を入れたとたん、大爆発と
いうことにもなりかねない。これは私の意見ではない。実際、その核関連施設を視察したことの
ある、アメリカの学者の意見である。もしそうなったら、死の灰は、日本海から北海道を経て、
アラスカまで達するといわれている。ああああ!

 以上のような状況の中で、今の北朝鮮の外交戦略は動いている。わかりやすく言えば、今の
北朝鮮の国内事情は、悲しいかな、メチャメチャの上にメチャメチャ。それに合わせて、金正日
の精神状態も、メチャメチャの上にメチャメチャ。もっとわかりやすく言えば、金正日は、もうま
ともではない。狂っている。韓国政府も、日本の外務省も、「まとも」という前提で、北朝鮮との
交渉にあたろうとしているようにみえるが、そのこと自体、無理。幻想。錯覚。

 問題は、北朝鮮や金正日が狂うのは、彼の勝手だが、そのとばっちりが、韓国や日本、さら
にはアメリカにおよぼうとしている。実のところ、一番あぶないのが、日本。北朝鮮からみて、
一番、攻撃しやすい相手は、日本ということになる。戦前の植民地時代の報復を大義名分に
することもできる。それに日本には、自衛権はあっても、交戦権はない。日本を叩いても、叩き
返されることはない。そんなわけで、本当のところ、明日あたり、ミサイルが東京を直撃しても、
おかしくない。

 では、私たち民衆は、どのように考えたらよいか。

 ああいう北朝鮮や、金正日は、必ず、自滅する。遅かれ早かれ……というより、もはや時間
の問題。今の状況そのものが、断末魔の最終症状とみてよい。だから何が起きても、ただ冷
静に。多少の被害が、日本にもおよぶかもしれないが、それでも冷静に。北朝鮮には、一〇〇
万人以上もの軍隊がいるが、海を渡ってまで日本には来られない。これは軍事雑誌からの情
報だが、北朝鮮製の軍用トラックは、最高時速が五〇キロ。(たったの五〇キロ!)北朝鮮の
潜水艦は、もぐっても、せいぜい七〜八メートル。(たったの七〜八メートル)。最新鋭の戦闘
機のMIG29にしても、今、飛べるのは、たったの二機。はっきり言って、これでは戦争にならな
い。

 だから不必要に恐れる必要はない。むしろ私たちが今、すべきことは、金正日や北朝鮮の上
層部を、あわれんでやること。実に、かわいそうな人たちである。世界が「助けてあげる」と言っ
ているのに、そういうやさしさすら、理解できないでいる。そればかりか、世界の良心に、あえて
背を向けている。だれもあんな国、侵略しない。そんな意図もない。韓国ですら、今の状態で
は、併合は困ると言っている。経済格差が、あまりにもひどい。そういうことを金正日は百も承
知の上で、ありもしない危機をあおって、自分の国民を、欺いている。本当にかわいそうな男
だ。

 ただまったく油断していてよいというわけではない。風船にしかけた最近爆弾や化学爆弾は、
実戦配備についたと言われている。小型核爆弾もすでにいくつかもっていて、これも実戦配備
についたといわれている。今のこの時点でも、約二〇〇発のミサイルが、日本に向けられてい
る。爆弾というより、細菌兵器や化学兵器が、その弾頭に積まれているとみるのが、常識であ
る。もしそのうち一発でも、大都市に落ちれば、その被害は、霞ヶ関で起きた、あのサリン事件
の比ではない。一発で、数万人単位の死者が出るといわれている。ゾーッ!

 そうならないよう、日本は極力、アメリカや韓国のうしろに立って、目立たないようにしているし
かない。悲しいかな、現状をあれこれ積み重ねていくと、そうなる。日本の自衛隊にしても、あ
まりにもサラリーマン化しすぎてしまった。日本の憲法は崇高(すうこう)だが、崇高すぎて、こう
した現実には、まったく対応できない。そんなわけで、今は、ただひたすら静かに、金正日が自
滅し、北朝鮮が自滅することを、待つしかない。何とも残酷な言い方だが、それが結局は、今
の北朝鮮の人たちにとっても、最良の解決策にもなる。今の今という、この時点においても、数
十万人単位の人たちが、強制収用所で、過酷な労働に従事しているという。もちろんその中に
は、日本人妻や、拉致(らち)された日本人もいるらしい。そういう人たちを救うためにも、でき
るだけ早く、あの金正日体制を、自然死させねばならない。

 金正日は、まさに「だだをこねている幼児」(アメリカ高官)。しかもきわめて情緒が不安定な
幼児。だからここは、よしよしとなだめながら、しかし北朝鮮側のペースにのらないように、時間
をかけるしかない。そう、だれか、幼児教育の経験のある人が、アメリカの対北朝鮮戦略のア
ドバイザーに加わるとよいかもしれない。より的確に対処できるかもしれない。……このつづき
は、もう少し、様子をみてから書く。
(03−1−12)

●この原稿は、去る一月一二日の朝、書いたものです。国際情勢が、こうまで日に日に変化す
ると、ほんの数日前に書いた原稿ですら、現状にあわなくなることもあります。みなさんが、こ
の原稿をお読みくださるときには、すでに平和になってしまっているかもしれませんし、反対に、
戦争が始まっているかもしれません。どうかそういうことも加味しながら、ひとつの意見として読
んでいただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(514)

正解のない世界

●二枚の絵
玄関先に、一人の男の人(おとな)が立っている。手前に子ども(幼児)がいる。そんな一枚の
絵を見せながら、子ども(年長児)たちに、「この絵の中の二人は、どんな話をしていますか?」
と質問。すると、一人の男の子が、こう答えた。

子「(男の人が)入ってもいいですか?」と言った。
私「でも、玄関は、もうあいているよ」
子「うん、そう」
私「では、子どもは何と言っているの?」
子「帰ってください」
私「ということは、その男の人は、何?」
子「どろぼう」と。

今度は別の絵。一人の女の子(幼児)が、ふとんの中で寝ている。そのそばに男の子(幼児)
が立っている。同じように、「この二人は、どんな話をしていますか?」と質問。すると今度は、
一人の女の子が、こう答えた。

子「(女の子は)遊ぼうと言っている」
私「どこで?」
子「おふとんの中で……」
私「じゃあ、男の子は、何と言っているの?」
子「うふん……」
私「まさか……、ラブラブ?」
子「ちがうわよ!」

 ときとして、子どもたちは、こちらが意図しない考えをもつ。最初の絵は、お客さんが来たとこ
ろを想定し、「こんにちは」「いらしゃいませ」と答えるのを、期待していた。二枚目の絵は、「早く
元気になってね」「ありがとう」と答えるのを、期待していた。しかし子どもたちは、ここに書いた
ように答えた。もちろん私は爆笑。ゲラゲラ笑ってしまったので、授業にならなかった。

●本音と建て前
 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテストに、こ
んなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの絵の中
から、答を選んでください。
(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子どもは、
(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、ひとりの母親がこ
う言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のまわりでウロウロされる
と、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽です」と。つまり建て前では、(2)
が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を出し
た。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテストでは、本
音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界
 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などというもの
は、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解を求めようと
する。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。が、それで終わるわ
けではない。ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生
が、「答のない問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「こ
の世界のできごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解にこだわ
るのか」と笑っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学だが、
T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしまった。この
状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分離方法
を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参考書もちこみ
OKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にするというもくろみがある。当
然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話してくれた。
「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさがってくる。大切なのは、
いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすかです」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだろうか。
そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもたちにかぎらず、
私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろうか。私は子どもたち
の前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につながるものの考え方の、大きな
ヒントが隠されているような気がする。
(03−1−12)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(515)

雑感

●ある母親の相談
 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかなくて、
困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが寝てから、
仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少ないか
らだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「うちは
疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子どもには、心
のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞くと、こう話してく
れた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。そして休
みの日などは、いつもベタベタしています」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的な安
心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだかないとい
う意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ体を起こし
て逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを見せて、抱っこしよ
うとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く
 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かもしれな
いが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の関係を思い
浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開きあっていると
きは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないときは、男の側からみると、
何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたいへん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベッタリと親
に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓の鼓動のリズムま
で同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感に包まれていると考えて
よい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていくというの
であれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、子どもが心を
開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのではない。父親のほうに
ある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。もっとはっきり言えば、父
親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだけ。

●原因は父親の幼児期に
 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。しか
し一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、父親自身
が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。そういう意味
で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケースは、その親の親
が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にまでなっ
た人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が一番、ついで
父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口答えするなどという
ことは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということなどという
ことは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」という意味すら
理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なものの考え方にどっぷ
りとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要でではないでしょうか」など
と、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」を考
えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権威を認
めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は家事はもちろん
のこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子どもの運動会や遊戯会、さら
には父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏の体にしみこんだ「質」のよう
なものだった。「父親がそんなことするものではない」という意識があったのかもしれない。い
や、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の中になかった。

●親像がない?
 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親とみ
てよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の親たち
は、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てなどかまってい
るヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、親像がないため、どうし
ても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形で親像が入っている親は、これ
また自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自身が、
子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここに書いたように、
心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かって」とか、「私は親だ」
という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざしてしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもってい
る土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では明日か
ら、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。私もその母親
と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろうな」と思った。ただ
最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話をしてください」と。
(03−1−12)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(516)

子育てポイント(心を軽くするために)

●どうせ育てなければならないのなら……
 子育ては、まさに重労働。若いとき、私でも、幼児を相手にするのは、二時間が限度。それ
以上になると、ヘトヘトに疲れるか、さもなければ、適当に手を抜くしかなかった。今は、かえっ
てなれたというか、それほど気張らなくなったというか、それほど疲れない。よい先生ぶることも
やめた。そして「どうせ教えるなら、自分も楽しまなくては損」と、そういうふうに考えるようになっ
た。とたん私も楽になったが、子どもたちの表情も、見違えるほど、明るくなった。
 家庭でも、同じ。あなたは親。あなたの子どもの保護者。だったら、あれこれ考えないで、育
てるしかない。で、どうせ育てなければならないのなら、あなたも楽しまなくては損。子どもを受
け入れ、今の人生は、今の人生として、あきらめる。過去を悔やむのも、未来を嘆くのも、ム
ダ。悔やんだり、嘆いたところで、どうにもならないものは、どうにもならない。
 子どもというのは、不思議なもの。何かをしたから、どうかなるということはない。しかし何もし
なくても、自分で育っていくもの。親の気苦労や、心配、さらには不安などといったものは、子ど
もの成長ためには、肥料にもならない。だったら、あなたはあなたで生きていけばよい。あなた
が今、こうしてちゃんと生きているように、あなたの子どもも、三〇年後には、今のあなたのよう
にちゃんと生きている。昔の人は、こう言った。「Que Sera Sera (ケセラセラ)」(映画「知り
すぎていた男」の主題歌)、つまり「なるようにしかならない」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


レット・イット・ビー!

子育てで親が行きづまったとき(中日新聞に掲載済み)

●夫婦とはそういうもの    
 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫
婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかすがい』
とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫婦も
多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。もともと他人の人間
が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままでいることのほうがおかし
い。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことないから、わからな
い」と答える。

●人は人、それぞれ
 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やっ
たわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴
任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(三三歳)は、夫婦でも
別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あるかないかという程度らしい。しかし
「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。要は夫
婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人それぞれ
だし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必要はな
いし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは気にし
てはいけない。

●問題は親子
 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った
人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親
子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 
 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまう
ということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗
した」とか、そんなようにおおげさに考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがま
まに……)」と。それはまさに、「智恵の言葉」だ。
 

++++++++++++++++++++

なお私は、子どもを指導するとき、こんなことに注意している。参考までに。

●笑わせる
 笑いあうことによって、子どもは、心を開きあう。心が開いていないと、いくらほめても、またい
くら指導しても、こちらの気持ちが、子どもの中に、入っていかない。つまり、ムダになる。しか
し心が開いていると、たとえばやさしくしてあげたり、親切にしてあげたりすると、それがそのま
まスーッと、子どもの心の中に染みこんでいくのがわかる。子どもは子どもで、心底、うれしそう
な顔をする。
 また笑うことによって、「学習」というものが本来的にもっている、重圧感を軽くすることができ
る。そして(笑う)イコール(楽しい)という思いが、子どもを前向きに伸ばしていく。
さらに最近の研究では、笑うことにより、脳のホルモン分泌のバランスが改善され、精神的、情
緒的に、よい影響を与えることがわかってきた。とくにストレスをためやすい子どもには、よい。
さらに、「直す」とか、「治す」という言葉は使えないが、軽い心の問題なら、笑わせることで、な
おすこともできる。
 笑うということは、何かにつけ、よいことづくめ。だから私は、一時間のレッスンでも、そのうち
の三〇分は、子どもを笑わせる。ときにはゲラゲラと、大声で笑わせる。
 
●温もりのある教材
 私は教材は、すべて手作りのものを使っている。無数の市販教材もてがけてきたが、私の指
導では使わない。使ったことがない。子どもの心をとらえるためには、手作りが一番。「はやし
浩司」の心が、そのまま子どもたちに伝わる。
 また手作りであるからこそ、教えるポイントや、コツがよくわかる。「ここでこの教材を出せば、
子どもは笑うだろう」「喜ぶだろう」という予想がたつ。
 あとは、「動」と「静」をうまく組みあわせる。子どもたちが興奮状態になって騒ぐときと、反対
に、黙々とデスクワークするときを交互に織りまぜながら、学習効果を高める。「動」のときは、
子どもたちが活発になり、「静」のときは、シーンとする。そういう授業が、理想的な授業というこ
とになる。

●とにかく、ほめる
 私は子どもを指導するとき、最初から最後まで、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。とくに自
信をなくしている子どもは、ほめる。そして心底それを喜びながら、頭をなでる。みんなの前で
ほめる。
 たまたま今日(〇三年一月)も、時計のスケッチをさせたが、子どもたちのほとんどは、最初
は、こわれた時計を描いてくる。しかしそれでも、ほめる。そしてこう言う。「君は、じょうずに描
いたから、今度はもう少し大きい紙をあげるよ」と。今度は、少しだけ大きな紙をあげる。そして
また時計を描いてきたら、「ほほう、前の時計より、ずっとじょうずになったよ」とほめる。指導す
るとしても、最小限に。「こちらの針を、もう少しだけ、長くするといいね」とか、その程度ですま
す。これを繰りかえしながら、そして最終的には、大きくて、きれいな紙を渡し、時計をスケッチ
させる。最後は、「これでおしまい。君は、ゴールへきたよ。おめでとう!」と言って、終わる。
(03−1−12)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(517)

出会い系マガジン

 私のマガジンの読者が、三誌合計で七〇〇人を超えた。うれしかった。みんなで力をあわせ
れば、日本の教育は変わる。子育ては変わる。

 ……と思って、何気なし、マガジンランキングを見た。Eマガのばあい、読者数が九〇〇人を
超えると、上位一〇〇番にランキングされるという。しかしそのとき同時に、あちこちのマガジン
をのぞいて見て、驚いた。出会い系マガジンのばあい、読者数が五〇〇人、七〇〇人というの
は、ザラ。中には一万人を超えるものもある(Eマガ)。

 この世界では、「スケベ心」が、ものを動かす原動力となっている。たとえばビデオにせよ、ビ
デオカメラにせよ、スケベ心があったからこそ、発達したという。CDも、パソコンゲームも、携
帯電話もそうだそうだ。この電子マガジンも、そうかもしれない。しかし、それにしても、フロイト
のいう「性欲論」が、ここでも生きているとは!

 私も、ごくふつうの男だし、ふつうにはスケベ心がある。そんなわけで浮気心がないわけでは
ない。だから出会い系マガジンをながめていると、ふと、私も応募してみたいという気持ちには
なる。しかし年齢が問題。五五歳の男というのは、まずいない。たいていは二〇歳代から三〇
歳代。たまに四〇歳代の人がいる程度。

♂ 55歳男性
星座 サソリ座
趣味 サイクリング、作曲、パソコン
性格 明朗、さわやか、ときどき、憂うつ
メモ 浜松周辺の方で、いつでも気軽に、楽しく話ができる方

 ……と、想像して、ハタと困った。「会って、何をするか」と。……と書くのも、ヤボなこと。人は
人の温もりを求める。つながりを求める。その方法として、一番。手っ取り早く、わかりやすい
のが、セックスということになる。男も、女も、体が交わったとたん、一〇年来、二〇年来の親
友になった気分になる。征服による満足感、排泄したという爽快(そうかい)感。いや、それ以
上に、セックスから得られる快感は、ほかでは味わうことができない。支配欲、独占欲も、同時
に生まれるが、ともかくも、セックスには、そういう力がある。魔力と言ってもよい。そう、まさに
魔力。人の心を狂わす、魔力。

 ……と、書くのは、結局は、負け惜しみかもしれない。年齢もあるが、もともと私はそのタイプ
の男ではない。いつもそういう男女の外の世界を、指をくわえたまま通りすぎてきた。私のワイ
フでさえ、「あんたは、かわいそうな人ね。何をするにも、三枚目で、ムードがないから」と言う。
結婚して以来、ずっとそう言われているから、ますます自信をなくした。

 ……と、考えて、またまたハタと気がついた。私はひょっとしたら、ワイフに、そう教育された
のかもしれない。いわゆる「マイナスの教育」というのだ。子どもでも、「あなたはダメな子」と言
われつづけると、本当に、そのダメな子になる。自分で自分をダメな人間と思いこむことによ
り、自ら、そのダメな人間になる。ダメな人間どうしが集まって、居心地のよい世界をつくる。一
度そういう世界に入ってしまうと、そうでない世界を遠ざけるようになる。そしてあとはその悪循
環。ますますダメな人間になっていく。同じように、夫も、「あなたは三枚目」と、妻に言われつづ
けると、本当に、その三枚目になってしまう? 今の私がそうだ。 

 まあ、私のマガジンは、言うなれば、マジメマガジン。読んでもおもしろくないし、あまり実益も
ない。効果もない。「教育」「子育て」というだけで、敬遠される。出会い系マガジンとは、もともと
性質が違う。……と、そう自分をなぐさめながら、画面を閉じた。読者の方が多いというのは、
たしかに励みになる。しかしその数にこだわる必要は、ない。またこだわってはいけない。この
文を書く、私は私。この文を読んでくれる、読者は読者。問題は、量ではなく、たがいをつなぐ、
心の質。そのことだけを考えて、マガジンを出せばよい。私がすべきことは、私の経験や知識
を、すべて吐き出すこと。あとの判断は、読者の方が決める。どう利用し、どう応用するかは、
読者の方が決める。私ではない。
(03−1−13)

●色は人を迷わさず。勝手に人が迷う。(金瓶梅」)
●禁欲主義といふやつは、矛盾を秘めた教へで、いわば生きてゐながら、生きるなと命ずるや
うなものである。(坪内逍遥「断片」)
●愛欲より憂いを生じ、愛欲より畏(おそ)れを生ず。愛欲を離れた人に憂いなし。(釈迦「法句
経」)
●世間の人は虎(とら)を、性欲の虎を放し飼ひにして、どうかすると、その背に乗って滅亡の
谷に落ちる。(森鴎外「断片」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(518)

居心地のよい世界

 ある程度の年齢になると、人は、居心地のよい世界を求め、その世界に住むようになる。冒
険や変化よりも、安穏(あんのん)や反復を好むようになる。言いかえると、そのどちらに自分
が近いかで、自分の若さと老化を知ることができる。

 昔、だれだったか、こんなことを書いた人がいた。「丸太小屋を建てるなら、五〇歳までが勝
負です。それ以後になると、建てようとする気力そのものが、消えうせます」と。

 その記事を読んだとき私はまだ、四〇歳のはじめごろだった。だからそのときは、「そういうも
のかなあ」と思っていた。しかし実際、私が五〇歳を過ぎてみると、「そのとおりだ」と思うように
なった。

 丸太小屋を建てるというのは、たいへんな重労働。毎週、土日は山に入って、工事をしなけ
ればならない。体力も、気力も、ふつうでは、できない。それ以上に、「建てたい」という強烈な
パワーも必要だ。

 私も、六年をかけて、土地づくりから、石組み、道路づくりを、自分でした。そういうものを作る
楽しみもさることながら、完成したときの喜びを想像するのは、もっと楽しかった。ある日、家の
敷地に、大きなイスをもってきて、そのイスの上に立って、まわりの景色を見たことがある。「家
ができれば、家の中から、こういう景色を見ることができる」と。齢をとると、そういう想像力も、
急速に衰えていく。

 そこで改めて、自分に問うてみる。私は、今、居心地のよい世界を求めているか、と。またそ
れはどの程度か、と。

 そう言えば、もう一つ、自分を知るバロメータがある。私は、四〇歳になるころまで、「いつか
はオーストラリアに移住しよう」と、そればかりを考えていた。そのため、たいへん中途半端な
生き方になってしまったが、それはそれとして、四〇歳を過ぎるころから、その考えは、これま
た急速に、なりを潜(ひそ)めた。「日本で住んだほうが楽だ」という思いが、やがて強くなり、
「オーストラリアに住んで何になる」「旅行で行けばいいや」という思いが、反対に強くなった。私
の気力は、そのころを境に、転換期を迎えたことになる。

 そこで改めて、居心地のよい世界とは何かを考えてみる。

 まず慣れ親しんだ環境ということになるが、これには二つの意味がある。物理的な環境と、精
神的な環境である。物理的な環境というのは、土地、風俗、習慣、言葉、生活、仕事ということ
になる。

 しかし問題は、精神的環境である。たとえば私は今、自分の心の中をのぞいてみたとき、ど
こかで居心地の悪い思想や、哲学を、避けているのがわかる。一五年ほど前には、いくつかの
カルト教団を相手に、雑誌や新聞、さらには本まで書いて、戦ったことがある。それはまさに壮
絶(そうぜう)な戦いだった。いつ殺されても、おかしくないような状態だった。が、今は、もうそう
いうことをするのが、めんどうになった。おっくうになった。

 私はこうして毎日、いろいろなことを考え、そして文章にしているが、書きたいことを書いてい
るだけ? 気がついてみたら、そうなってしまっていた。つまりこれが私の、精神的に慣れ親し
んだ環境ということになる。

 そこで今度は、あなた自身はどうかと考えてみてほしい。多分、このエッセーを読んでいる人
は、私より若い人が多いと思う。読者からのメールを見ても、大半は女性だと思う。あなたは
今、どの程度、冒険や変化を求め、一方で安穏や反復を求めているだろうかということ。

私の印象では、これには、かなりの個人差があると思う。すでに二〇歳くらいで、安穏や反復
を求める人もいれば、五〇歳前後になっても、冒険や変化を求める人もいる。こと精神的な若
さということになれば、それは年齢という数字ではない。二〇歳でも老人は、老人。五〇歳でも
青年は青年ということになる。

 どちらがよいかということになれば、当然、冒険や変化を求めて生きるほうがよいに決まって
いる。前向きに生きるというのは、そういうことをいう。またそのほうが、人生を、何倍も濃く、か
つ長く生きることができる。そしてその分、あなた自身の人生を明るく輝かすことができる。

 では、どうすれば、私たちは、精神的な環境の中で、若さを保つことができるか。私のばあい
は、たいへんラッキーなことに、ほとんど毎日、何らかの形で、幼児や小学生と、直接接してい
る。これが私には、たいへんプラスに働いている。ふと油断すると、自分自身を、まだ中学生く
らいに思うときさえある。

 しかしこれはあくまでも私の特権のようなもの。そこで私は、今、このエッセーを読んでいる人
に子どもがいるなら、こう提案したい。「子どもを子どもと思うのではなく、友として迎え、子ども
の横に立ち、子どもと一緒に、人生をもう一度、楽しみなさい」と。

 遠慮することはない。気負うこともない。親だというメンツだの、権威など、クソ食らえ! ……
そういう思いで、もう一度、子どもの世界に飛びこんでみる。そうすれば、あなたは今、もうすで
にどこかで求め始めている居心地のよい世界を、粉々に破壊できるかもしれない。

「ママ、いっしょにマジギャザしようか」
「いいわねえ」
「パパ、今度、モー娘のコンサートに行こうよ」
「よし、行こう。おもしろそうだ」と。

 いつかは、老後はやってくる。そしていつかは、居心地のよい世界を求め、そこに住むように
なる。これは人というより、あらゆる動物がもつ、宿命のようなものかもしれない。あのサケだっ
て、太平洋を旅したあと、最後は自分の故郷の川に戻って死ぬというではないか。

 ただその時期は、私たちの心がまえと意志によって、遅らせることはできる。ひょっとしたら、
六〇歳になっても、七〇歳になっても、精神的な世界で、冒険と変化を求めつづけることがで
きるかもしれない。

 ところでこんな話もある。私の山荘仲間に、T氏(同じ五五歳)がいる。彼は、一軒の山小屋を
すべて手作りで建てた人だが、このところ、彼の山荘を訪れても、いつもいない。工事も、この
五年ほど、ストップしたまま。ほとんど進んでいない。一〇年ほど前には、いつも行ったり来たり
しながら、たがいに励ましていたのだが……。そういえば、いつか、T氏がこう言ったのを覚え
ている。

 「林さん、こういう生活が楽しいのも、子どもたちが小さいうちだけですね。子どもたちが大きく
なると、もうこういうところへ来てくれません」と。T氏には二人の娘がいたが、娘たちが小学生
のときは、毎週のように山荘へ来て、あれこれ手伝ってくれたという。しかしその娘も、中学生、
高校生となると、山荘には見向きもしなくなったという。それで、「山荘ライフの楽しみも、半減し
ました」と。

 そのT氏のことを考えながら、「さあて、これからも冒険をするぞ! 居心地のよい世界を求
めないぞ!」と、今、私も叫んでみた。どこか頼りない声で……。
(03−1−13)

●幼児は、ガラガラ太鼓を喜び、人形に夢中になる。少し大きくなると、活発に動き、今度は、
無意味な音の大きい玩具を好むようになる。青年は僧衣、勲章、黄金を喜び、さらに老年にな
ると、念珠や祈祷(きとう)書をもてあそぶようになる。いずれも他愛なきことは同じ。やがて人
はみな、疲れ果てて、眠りにつき、それで人生の悲しい遊びは終わる。(ポープ「人間論」)
※ポープ……Alexander Pope 、1688−1744、イギリスの詩人

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(519)

子どもの心をつかむ

 私が子どものとき、学校の先生が、「明日は、臨時休校だ」なんて言うと、みんな、飛びあがっ
て、それを喜んだ。今の子どもたちも、そうだ。私が「台風がくる」などと言うと、「(台風のおか
げで)、学校が休みになる」と喜ぶ。

 もちろん毎日が、こうでは、まずい。しかし子どもたちの本音はそこにある。子どもの心をつ
かみたかったら、子どもの本音をつく。こんなことがあった。

 中学生たちを教えているときのこと。生徒たちがみな、数学の問題をかかえて、憂うつそうな
表情をしていた。そこでふと、私が、「勉強なんて、つまらないよね」と言うと、みんなが、いっせ
いに表情を明るくした。そしてニコニコ笑いながら、「先生も、そう思う?」と。

 子どもたちは、その本音を必死に隠しながら、生きている。で、私は、いつから、子どもたち
がそうなるかを、調べたことがある。

 まず小学生(小五男児)たちにこう聞いてみた。「君たちは、女の人のオッパイが好きか?」
と。正直に告白するが、オッパイの嫌いな男の子はいない。私も好きだった。が、全員、「嫌い
だヨ〜」と。そこで私が、「本当のことを言え」とたたみかけると、「先生は、ヘンタイだあ」と。

 今度は年長男児たちに、同じ質問をしてみた。すると小学生たちのようには反発しないが、ど
こか恥ずかしそうな顔をして、「嫌い」とか言う。で、「本当のことを言え」と言うと、やはり、「嫌い
だよ」と。

 さらに年中男児たちにも、聞いてみた。が、今度は、あからさまには「嫌い」という子どもはい
なかった。「ううん」とか、「好きじゃない」とか言った。そこで私が、「ウソをついてはダメだ。好き
だったら、好きと言いなさい」と言うと、小さな声で、「好きだよ……」と。

 どうやら子どもたちは、このあたりを境にして、本音を隠し始めるようだ。自意識が芽生え、そ
の意識で、自分をごまかし始める。

 あなたにも子ども時代があった。そしてそのとき、あなたは子どもの目で世界を見ながら、必
死になって本音を隠して生きていた。今も、そうかもしれない。人間は社会的動物だから、そう
いう面があることは決して悪いことではない。しかしそれは同時に、自分を見失う原因にもな
る。よい人ぶったり、自分を飾るようになる。

 だからあなたも、たまには、童心に返り、本音をさらけ出してみてはどうだろう。遠慮すること
はない。遠慮する必要もない。

「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」
「学校が休みになると、うれしかった」
「好きな人ができたときには、ずっと、いっしょに、そばにいたかった」と。

 日常的に、子どもに本音で接している親もいるが、もしそうでないなら、あなたも一度、本音を
子どもに語ってみたらよい。今、親子でも、心を開きあわない人がふえている。そうなれば、ま
さに家庭は家庭としての機能を失う。親子について言うなら、断絶の一歩、手前! そうならな
いためにも、ときにはあなたも、自分をさらけ出してみる。気負うことはない。親だと思うことも
ない。あなたはありのままのあなたを、子どもにぶつけてみる。

 少し前だが、こんな原稿(中日新聞発表済み)書いたことがある。この原稿は、もともと心の
通いあっている親子について書いたもの。もちろん行き過ぎもよくないが、心が開きあっている
と、親の心は、そのまま子どもの心となる。

++++++++++++++++++++++++++

親の心は子どもの心

 一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、そのま
ま口にします。こわくてなりません」と。話を聞くと、こうだ。お母さんが内心で、同居している義
母のことを、「汚い」と思ったとする。するとその娘が、義母に向かって、「汚いから、あっちへ行
っていてよ」と言う。またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。す
るとその娘が、客に向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。

 昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関係にあ
るときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。子どもは子ど
もで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。こんな簡単なテスト法がある。ま
ず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の場所で、「山、川、家」を描いてみる。そ
してそれが終わったら、親子の絵を見比べてみる。できれば他人の絵とも見比べてみるとよ
い。濃密な関係にある親子ほど、実によく似た絵を描く。二〇〜三〇組に一組は、まったく同じ
絵を描く。親子というのは、そういうものだ。

 こういう例はほかにもある。たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っていたと
する。するといつしか息子も、そう思うようになる。あるいは母親が、「この世の中で一番大切な
ものは、お金だ」と思っていたとする。すると、子どももそう思うようになる。つまり子どもの「心」
を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。

 かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。……強かっ
た。「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。いつも「男は……」
「女は……」というものの考え方をしていた。その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外
国へ出て……、という経験の中で、自分を変えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を
変えるのは、容易なことではなかった。今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残ってい
て、私を苦しめる。油断していると、つい口に出てしまう。

 かたい話になってしまったが、こんなこともあった。先日、新幹線に乗っていたときのこと。うし
ろに座った母と娘がこんな会話を始めた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたようだが、
話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。呼吸がピタリと合っている。

 だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。「あなたと娘さんは、すばらしい親子関係に
ありますね。せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘さんの心づく
りを考えたらいい。あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あなたの娘さんに、そっ
くりそのまま伝えることができますよ」と。 

++++++++++++++++++++++++

 その点、『クレヨンしんちゃん』の母親の、みさえの生き方は、参考になる。コミック『クレヨンし
んちゃん』の中には、こんなシーンがある(V16)。

九州の父「日本人の朝は、昔から、ご飯とみそ汁に決まっとるたい……」
みさえ「文句あるなら、九州に帰ればよかでしょ!」
秋田の父「やーい、実の娘に怒られてやんの。へへ〜んだ」
みさえ(秋田の父に向かって)「黙れ、ひからびたゆで玉子!」
秋田の父「ひ……ひからびた、ゆで……。ひど〜い」
九州の父「みさえ、口が過ぎるたい」
みさえ「やかましいわ。一年中、雪景色頭!」

 ここでいう「ゆで玉子」というのは、ツルツル頭をいう。また「雪景色頭」というのは、そういう様
子の白髪の頭をいう。

 あなたも、一度、そんな生き方をしてみてはどうだろうか。
(03−1−13)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

■【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司……

●No.47「休息を求めて疲れる」(E−マガより転載)

 「休息を求めて疲れる」。イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞に
 もなっている格言でもある。「いつか楽になろう、なろうと思っているうち
 に、歳をとってしまい、結局は何もできなくなる」という意味である。「や
 っと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとり
 で、四国八十八か所を巡礼をしてみたい、と。そういう話を聞くと、私はす
 ぐ、こう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

 私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないこ
 とはしなかった。名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そん
 なものにどれほどの意味があるというのか。私たちは生きるために稼ぐ。稼
 ぐために働く。これが原点だ。だからXX部長の名前で稼いだ一〇〇万円も、
 幼稚園の講師で稼いだ一〇〇万円も、一〇〇万円は一〇〇万円。問題は、そ
 のお金でどう生きるか、だ。サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうま
 で会社という組織に、こだわるのか。

 未来のためにいつも「今」を犠牲にする。そういう生き方をしていると、い
 つまでたっても自分の時間をつかめない。たとえばそれは子どもの世界を見
 ればわかる。幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学
 のため、またその先の大学は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
 子どものときからそういうのが生活のパターンになっているから、それを途
中で変えることはできない。いつまでたっても「今」をつかめない。つかめ
ないまま、人生を終える。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。学生時代、テスト週間になるとよ
 くこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。しか
 し実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。どこか抑圧され
 た緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
 ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。先の「四国八十
 八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
 ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。私の経験では、多分、その人
 は四国八十八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気力は消え
 うせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。「今」というときをいかに充実
 させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。そのためにも、
 「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。いや、その
生き方は、すでに子ども時代に決まる。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(520)

子どもの愛着行為

はやし先生へ、
おはようございます、埼玉県T市に住むマガジン読者です。

ところで、E-メールマガジンで、たびたびテーマを募集していますが、前々から、『アメリカでは、
生まれたての赤ちゃんでも、夜寝る時には、夫婦の寝室とは別で、子供部屋で寝る』と言われ
ているし、アメリカのファミリードラマやアニメでも、かなり小さい子供でも、ちゃんと自分の部屋
を持ち、ベッドで寝ていますが、「ほんとうかしら?」と、疑問をもっています。

現在三男は一才を過ぎていますが、おっぱいを飲みながら寝るので、私と同じ布団で寝ていま
すし、もっと月齢が小さい時などは、二時間おきの授乳だったので、いちいち起きて、ベビーベ
ッドで寝ている子を抱き上げて授乳することすら苦痛でした。

先生の御二男の方はベビーはどのような環境で、寝ているのでしょうか? すごく興味がありま
す。それとまじえて、子供と親が別々の部屋で寝始める頃の見極めと注意点などもアドバイス
して頂きたいです。

友人の子は、寝室を別にしたとたん、首が曲がったまま元に戻らなくなり、整体等、通ったので
すが、なかなか治らず、寝室をまた親と同じにしたら、ピタリと治ったそうです。

+++++++++++++++++++++

●アメリカの子育て

 アメリカといっても、アジア全域ほど広く、また移民国家であるため、アメリカ人といっても、ど
ういう人をアメリカ人というのか、必ずしも明確ではありません。もちろんアジア系アメリカ人も
多く、その中の一部には、日系アメリカ人もいます。さらに同じ白人でも、父親がフランス人、母
親がウクライナ人、祖父がスコットランド人で、祖母がイタリア人という家庭は、いくらでもありま
す。

 で、その中でも、アングロサクソン系のアメリカ人にかぎっているなら、ご指摘のように、赤ん
坊のときから、寝室を分けるのが、ふつうのようです。アングロサクソン系というのは、いわゆ
るイギリス系のアメリカ人です。ふつう私たちがアメリカ人というとき、もっともポピュラーに想像
する、白人のアメリカ人です。

 二男の嫁も、そのアングロサクソン系のアメリカ人で、代々、アメリカの中南部で暮らしてきた
家族です。ただ私の二男のばあいは、大きな二部屋だけのアパートで、別々の部屋ということ
はありませんでした。大きなベビーバッグの中に赤ん坊を寝させていました。しかし夜泣きがひ
どいので、私のワイフのアドバイスで、夫婦のベッドの間で、川の字のようにして寝させました。
そうしたら夜泣きが収まったそうです。

 ご質問の件について、私は専門ではないので、よくわかりませんが、今までに私が書いた原
稿をあちこちから集めてみましたので、参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++++

●子どもの愛着行動

 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知られた
現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることがわかっ
てきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児の発育
には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥が現れ
る。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示
す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒
否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由
で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の
分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、育児拒否的
な行為(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。

●スキンシップは魔法の力 
 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう二〇年ほ
ど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の
講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。「うちの施設では、とにかく『抱く』とい
う方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も忘れた。
が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言いかえる
と、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心の問題」があるとみてよい。

 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。
許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら
丸太を抱いているような気分になる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと
身を寄せる。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じ
になることがある。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子ども
も女房も同じですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうで
ないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。

●大切な「甘える」という行為
 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、
濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自
然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることがで
きる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染
み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●先手を打って自分を守る
 このタイプの子どもは、「信じられるのは自分だけ」というような考え方をする。誰かに親切に
されても、それを受け入れる前に、それをはねのけてしまう。ものの考え方がいじけ、すなおさ
が消える。「あの人が私に親切なのは、私が持っている本がほしいからよ」と。自分からその人
を遠ざけてしまうこともある。あるいは自分に関心のある人に対してわざと意地悪をする。心の
防御作用と言えるもので、その人に裏切られて自分の心がキズつくのを恐れるため、先手を
打って、自分の心を防衛しようとする。そのためどうしても自分のカラにこもりやすい。異常な
自尊心や嫉妬心、虚栄心をもちやすい。あるいは何らかのきっかけで、ふつうでないケチにな
ることもある。こだわりが強くなり、お金や物に執着したりする。完ぺき主義から、拒食症になっ
た女の子(中三)もいた、などなど。

 もしあなたの子どもが、あなたという親に甘えることを知らないなら、あなたの子育てのし方の
どこかに、大きな問題があるとみてよい。今は目立たないかもしれないが、やがて深刻な問題
になる。その危険性は高い。

●行きづまりを感じたら、抱く
 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行
きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなとき
である。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばら
くは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も
安定する。

(参考)
●抱かれない子どもが急増!
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。
「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研
究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。
 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

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●スキンシップ

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いているではないか。
 
一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく
平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップでしかないだろう。こ
の日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分けて考
えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップへの
誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシ
ップがたっぷり必要だが、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇
人に三人程度の割合で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部
病院・堀内たけし氏)そうだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

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 あちこちから原稿を集めたため、内容がバラバラになってしまいましたが、こうして改めて考
えてなおしてみると、スキンシップは、必要であるかないかということになれば、必要であるに決
まっているということになります。

 で、ご質問の「量」ですが、それはあくまでも子どもをみて、判断するしかないのではないでし
ょうか。とくに子どもの情緒の安定度をみながら、判断します。つぎの原稿は、子どもの欲求不
満について書いたものです。この中でも、少し、スキンシップについて触れてみました。

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子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ
 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

@攻撃・暴力タイプ
 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ
野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩す
る、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)
に分けて考える。

A退行・依存タイプ
 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

B固着・執着タイプ
 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近
多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起
こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切
そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう
言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子ども
の未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子ども
は幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足
 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。あ
る子ども(小一男児)はそれまでは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入っ
たということで、別の部屋で寝るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その
子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子どもなり
に、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と言っ
たが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効
 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよ
い。子どもの欲求不満症状が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの
問題は解決する。

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 最後にスキンシップは、量ではなく、質の問題です。ベタベタのスキンシップがよいわけでは
ありません。とくに母親側に、何らかの情緒的欠陥があり、子どもを溺愛するようなばあいは、
警戒しなければなりません。このばあいは、子どもがスキンシップをもとめるのではなく、親が、
自分の不安定さを代償的に補うために、子どもを日常的に抱いたりします。溺愛ママがその一
例です。

 メールだけでは、内容はよくわかりませんが、以上のことを参考に、あなたのお子さんや、ス
キンシップを考えてみていただければ、うれしいです。また何か、おわかりにならないことがあ
れば、ご連絡ください。なお、いただきましたメールは、少しこちらで改変し、一月二二日号のマ
ガジンに掲載させていただきたいのですが、よろしくご了解ください。

 では、これで失礼します。

 はやし浩司
(03−1−14)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


雑感

 今日、一日で、雑誌用の原稿、一二か月分を、ほぼまとめました。ほどよい疲れと同時に、
虚脱感。原稿を書くのは好きですが、今日は、少し疲れました。まとめたといっても、これから
一週間ほどかけて、推敲しまくります。よい原稿になるかどうかは、その推敲で決まります。

 そういえば、マガジンのほうは、その推敲をする間もなく、どんどん掲載しています。だからい
いかげんなところがあるかもしれませんが、決して手を抜いているわけではありません。いつも
全力投球です。お読みになってくださっている文章が、そういう意味では、ありのままの、はや
し浩司です。

 文章を書くとき、注意しているのは、「わかりやすい文章」を書くということです。論文のような
カタイ文章を書くのは、意外と楽なんですよ。書けといわれれば、いくらでも書けます。むずかし
いのは、むずかしいことをいかに、平易な言葉と文章で書くかということです。一文を書くのに、
数分ずつ悩みながら書くときもあります。

 ……しかし、どんな人が私の文章を読んでくださっているのか。それがわからないので、とき
どき、困るときがあります。わかれば、その人に合わせて、文章を書くのですが……。

 今日は午後からは小雨で、いつもの運動量の半分しか、運動ができませんでした。しかしこ
こ数日は、ばっちりと運動しましたので、体は快調です。ただ今は、眠いです。時刻は一〇時を
少し回ったところですが、今夜はそんなわけで、早めに寝ます。

 明日もいつもどおりの日課をこなして、元気でがんばります。

 では、今日の雑感は、ここまで。おやすみなさい。

 みなさんも、どうか、お元気で。
(03−1−14)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(521)

子育て相談

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はやし浩司先生へ

●保育園VS幼稚園

娘のKは、生後六か月の頃から保育園に通っています。

今から考えれば笑い話なのですが、初めての育児でどうしたらよいかわからず
一人で悩んでどうにかなりそうだったので、六か月で育児休暇を切り上げ、
保育園に入れ、仕事に復帰したのです。

保育園の先生方は、私の悩みを聞いてくれたり、色々なアドバイスをしてくれました。

娘のKは、人見知りしない子だったので(今もですが)どの先生にでも抱っこされて、
大変かわいがってもらいました。(今もです)。

娘のKも、異年齢のお友達と遊びながら、時にはお姉ちゃん、時には妹となり、楽しく遊んでい
ます。保育園に入れて良かったと感じています。

ところが、最近、一部のお母さん方に「Kちゃんは、どこの幼稚園に行くの?」と聞かれるので
す。

小学校まで今の保育園のままだと答えると、「えー!」と驚かれます。

「SSの幼稚園はひらがなを教える」とか「AA幼稚園は算数を教える」と言うのです。

更に「保育園出身では授業中じっと座っていられない」と・・・。
私達(夫婦)は、今の保育園で十分満足していますし、ひらがなや簡単な算数なら
普段の生活の中で少しずつ覚えていくと考えています。
(実際、ひらがなは自然と覚えていきましたし、数字にも興味津々です。)

幼稚園出身児に比べ、保育園出身児は授業中じっと座っていられないのでしょうか?
小学校でじっと座っていられるように、今から訓練(?)させるなんて、おかしいような気がする
のですが・・・。
それとも私達がおかしい・・・?

先生のお時間がある時にご意見を聞かせて頂ければ嬉しいです。
長々とすみませんでした。
(佐賀県U市、TEより)

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はやし浩司より、TEさんへ、

 保育園児だからとか、幼稚園児だからという区別は、まったくナンセンスです。最近では、教
育カリキュラムにしても、保育園の幼稚園化が進み、区別できなくなっているのが、現状です。
保育園は旧厚生省管轄、幼稚園は旧文部省管轄という点だけをのぞけば、外から見たところ
では、区別できません。保育園と幼稚園の一本化が叫ばれる理由は、こんなところにもありま
す。(保育時間などの違いは、ありますが……。)

 さらに保育園児だから、じっと座っていることができないとか、幼稚園児だから、座っているこ
とができるとか、そういう区別も、ナンセンスです。問題の「根」は、もっと別のところにありま
す。まったく関係ないと断言できます。

 で、先取り教育と幼児教育、さらに早期教育は区別して考えます。小学校で勉強することを、
先に教えるのが、先取り教育。今、私の住む地方でも、掛け算の九九を教えている幼稚園が
あります。典型的な先取り教育です。
 
 幼児教育は、幼児期にしておくべきことを教える教育です。それについては、私の専門です
から、またマガジンを参考にしてください。

 で、早期教育ですが、これには、いろいろな意味が含まれます。(こういうふうに、区別して考
えるのは、正しくないかもしれませんが……。)たとえば音感やある種のスポーツなどは、かな
り早い時期から訓練を開始したほうがよいと言われています。たとえばピアノ演奏の練習など
は、満一〇歳を過ぎてから始めても、遅いと言われています。だから早い時期から、教育を始
める……。これが早期教育です。

 文字、数の学習については、私のサイトのあちこちに書いていますので、どうか参考にしてく
ださい。大切なのは、この時期、できる、できないではなく、前向きな姿勢が育っているかどう
か、です。文字や数を見たとき、逃げ腰になっているようであれば、失敗ということです。そのた
めにも、この時期は、「楽しい」ということだけを教え、あとは子ども自身がもつ力に任せます。
これが幼児教育です。

 あまりよい回答になっていないかもしれませんが、私は、TEさんの今のやり方で、よいと思い
ます。もちろんすぐれた教育を実践している幼稚園も多いので、一度、見学などをなさってみら
れたらいかがでしょうか。あくまでも「先生」「園」「園長」を見て、判断なさることだと思います。
園の選び方などは、たまたま一月七日号のマガジンに、簡単に書いておきました。どうか、参
考にしてください。

 なおいただきましたメールを、マガジンに転載しますが、よろしくご了解ください。ご都合の悪
い部分があれば、改めます。

                                はやし浩司
(03−1−15)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司M

子育て随筆byはやし浩司(522)

父親、ヨセフ

●存在感の薄い、ヨセフ
 イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説に
よると、ヨセフは、マリアと婚姻関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとされる。ま
た一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知らせなか
ったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死んでい
る。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であったのか、
と。

 この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のよう
な門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみた
い。

●母親は絶対
 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方
法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母
親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。
このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。

 たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればか
りか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いを
もつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちが
いない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。

 実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえな
れば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女に
は、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。もし男も女も、同等の快感であ
ったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想される「重荷」を考えたら、とても
割にあわない。たとえば男というのは、そのセックスの途中であっても、冷静に、女の反応を楽
しむことができる。しかし女はそうではない。無我夢中というか、我を忘れてセックスの快感に
酔いしびれる。またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深
い。恐らく長い間の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと予
想される「重荷」を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがあるから、女も、
あと先のことを考えることなく、セックスに没頭することができる?

 となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはでき
る。

●親は、母親だけ?
 人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代において
は、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたの
は、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかっ
たのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると
考えられなくもない。

 で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在するこ
とがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高
さを、ことさら美化している。しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が
確立した、「現代」から見た視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛
盾する。おかしい。おかしいから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?

 しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、
家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、…
…つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであっ
たと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改めら
れたのは、戦後のことである。

●母親と父親は平等ではない?
 こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のも
のでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意
識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と
疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この
子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映さ
れるかのように、子どもの心となる。

 つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっ
とあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が
確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しず
く」。

 そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父
親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意
識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいな
い。

●母親は父親を立てる
 で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子
どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、@子どもが父親と
の関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と
子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。

 つぎにA母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高め
る。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手
を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さ
んにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子ども
は、父親像を学ぶ。身につける。

●父親ヨセフの苦悩
 こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるために
マリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということ
になる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? 
……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。ある
いは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。

 妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめる
と、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状
況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗
り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」というような論陣を張るが、それはあくまでも結
果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人物になったから言えることであって、そうでなか
ったら、そうでなかったであろう。

 いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親
のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イ
エス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいは
それこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか? 

 「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マ
リア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきか
っけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにで
も、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(523)

意識

 その立場になると、その立場の考え方や意識が生まれる。その「生まれる」ことは、当然だと
しても、それが一般社会から遊離し始めることも、珍しくない。H市の市役所に三〇年近く勤め
る、S氏はこう言った。「林さん、H市は、工員の町だよ。工員に金をもたせてはいけないよ。だ
から娯楽施設をたくさん作って、お金を使わさせなければなりません」と。市役所に長く勤める
と、自分が公僕であるという意識すら忘れるようだ。そう言えば、少し前、家庭訪問をしながら
小口の掛け金を集める業務を、「ドブさらい」と言った銀行マンがいた。

 こうした意識は、その地位や立場が高くなればなるほど、遊離する。そこで問題は、二つあ
る。ひとつは、遊離した側の問題。もうひとつは、それをみる私たち庶民の問題である。

(遊離した側の問題)
 研究にたずさわる人を、教育者と呼んでよいのかどうかという問題もあるが、この日本では、
研究ですぐれた業績をあげた人を、そのまま教育者としてたたえる傾向がある。私も、数多く
の、その「教育者」に会ってきたが、もちろんたいはんは、すぐれた人格と、高邁(こうまい)な
思想をもっている。しかし中には、肩書きや地位だけをぶらさげて、必要以上にいばったり、人
を見くだしている人がいる。私に、「君は偉そうなことを言っているが、文部省あたりから仕事が
回ってくれば、喜んでシッポを振るくちではないのかね?」と、メールを書いてきた某大学教授
がいた。どこかの会議で、私が無肩書きとわかったとたん、態度を急変した、某元大学学長も
いた。

 そういう人を見ていると、意識的にそうしているというよりは、その意識を超えた世界で、そう
しているのがわかる。「見くだしている」という自覚すら、ない。

 問題は、なぜ人はそうなるかということ。私にもこんな経験がある。以前書いた原稿を転載す
る。

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臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘
れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践
(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれ
た。「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われてい
る。しかし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、
世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換
えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を
基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分
の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなく
ても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事
休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければなら
ない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外
側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければ
ならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいてい
はグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、そ
れなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなく
なってしまう。

が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいことはない。私が知っている人の中でも、有名
になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢(ごうまん)になり、自分を見失ってしまった人はい
くらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたく
ないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。
もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければなら
ない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。

私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことがで
きる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転
手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点
だ」と思いなおすようにしている。

++++++++++++++++++++++

 もっともこんなことを、私が悩んでもしかたないことかもしれない。私は死ぬまで、今のままだ
ろうし、今のままの私を変えるつもりはない。問題は、そういう立場や地位にいる人をみる、私
たち自身の中にある。

(それをみる庶民の問題)
 その立場や地位にいる人が、どんな意識をもっているかは、それはその人の勝手。私たちが
とやかく言う問題ではない。問題は、@自分たちの意識で、そういう人の意識を推しはかった
り、判断してはいけないということ。つぎにAそういう人たちに、利用されてはいけないというこ
と。

 よい例が、たとえば日本の首相が、靖国神社を参拝するのと、一般庶民が参拝するのとで
は、意識はまるで違うだろうということ。首相の心の中まではのぞくことはできないが、おそらく
首相には、「自分は選ばれしもの」イコール、特別な存在であるという意識があると思う。また
その意識が頂点に達している。そういう意識が背景にあって、靖国神社を参拝するのと、私た
ちが参拝するのとでは、まったく意味が違う。えてして私たちは、自分たちの意識で、相手を判
断する。それはまちがってはいないが、しかしそれこそ、同時に、相手の思うツボ。こういう立
場にいる人は、それをうまく利用して、自分の立場や地位を保全し、かつ自分の利益とする。

 こんなことがあった。

 夜のニュース番組の中で、消費税が問題になった。ゆくゆくは、現行五%から一六%にまで
引きあげられるのだという。そうでもしないと、今の日本の国家経済を支えることはできないら
しい。そこで解説者が、「毎年一%ずつあげるという案もあります」とコメントを述べた。するとそ
の司会者は、「毎年ですかア……」と、にわかに顔を曇らせ、「私たちの生活はたいへんになり
ますね」と、ポツリと言った(〇三年一月)。

 しかし、だ。その司会者は、その番組だけでも、毎年、一億から二億円の収入があるという。
講演や司会業を含めたら、その数倍はある。そういう人が、「顔を曇らせる?」。私は思わず吹
き出してしまった。「何、言ってるんだ!」と。

 はっきり断言する。その司会者に、庶民感覚など、みじんもない。あるわけがない。仮にあっ
たとしても、そんなものは、とうの昔に、吹っ飛んでいる。こうした意識というのは、数年で変わ
る。早い人だと、もっと早く変わる。彼が顔を曇らせたのは、あくまでもジャスチャ。庶民を食い
ものにするジェスチャにすぎない。本当に正直な人なら、こう言うだろう。「おかげで私なんか
は、年収が二億円ありますから、消費税が二〇%になっても、どうということはないのですが…
…」と。つまりこの時点で、私たちは自分の意識で相手をみることにより、そのまま相手に利用
されていることになる。

 何とも皮肉なエッセーになってしまったが、(それだけ私がひがんでいるのかもしれないが…
…)、こうした意識の違いを理解するということは、そのまま相手を、よりよく理解する手だてに
はなる。私のばあい、初対面のときなど、相手の立場をそれとなく知ることで、相手の意識をで
きるだけさぐるようにしている。もっとも私の場合、子どものときから、それがうまく、すぐ相手に
合わせることができる。これは悲しきホスピタリズム(施設児症候群)の結果かもしれない。

 そして一方では、自分自身の意識の変化には、注意している。言うまでもなく、意識が遊離す
ればするほど、それは一般常識から意識が遊離することを意味する。「常識論」を、人生論の
根幹におく私としては、これはまことにまずい。遊離すればするほど、人生の真理から遠ざか
ることになる。そのことは、以前に書いたエッセーの中にも書いた。

 さて、あなたはどんな意識をもっているだろうか。あなたの夫や妻は、どうだろうか。もしどこ
か傲慢(ごうまん)な意識をもっているようなら、そういう自分とは戦ったほうがよい。傲慢にな
ればなるほど、自分を見失う。人生をムダにする。
(03−1−16)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(524)

真理は「下」から見る

 人生の真理は、最底辺(ボトム)にある。私はこれを、「ボトム真理教」と読んでいる。(冗
談!) そのボトムから遊離したとたん、その人は真理から遠ざかる。言いかえると、いかにし
て自分の視点を「下」に置くか。それは生きる上で、いつも大きなテーマになる。

 たとえば私は一応「教育」の世界を歩いてきた。今も、歩いている。しかし私が歩いている世
界は、教育の中でも、まさにボトム。これ以下はないというボトム。今でこそ、多少、意見を聞い
てもらえるようになったが、以前はそうではない。虫けらの「ム」にもならないような立場だった。
同僚の女性教師にひっぱたかれたことは、何度かある。父親たちに怒鳴られたり、叱られたこ
とは数、知れない。殴られたことさえある。そういう世界に生きてきたから、そういう世界でしか
わからないものを、知ることができた。

 もちろんだからといって、そういう私が正統派だと言うつもりはない。しかし私からみると、た
いはんの教育者の教育論の甘いこと、甘いこと。どう甘いかは、書き始めたら、キリがない。子
育て相談のQ&Aにしても、まず、勉強不足。経験不足。それに何よりも、親や子どもの視点で
ものを考えていない。で、今、私のような人間がいて、こうして子育て論を書いているが、こうい
う原稿の中に、私がしてきた経験を感じてくれれば、うれしい。

 ……とまたまた、グチっぽくなってしまった。それがわかってもらえないから歯がゆいというよ
りも、実のところ、この日本の現状には、少しうんざりしている。とくに教育の世界はそうで、私
のような人間がいくら叫んでも、ビクともしない。カベは厚い。むしろ私のような人間は、日本と
いう社会には、必要でない人間なのかもしれない。いくら受験勉強の弊害を説いても、文部科
学省が、それを利用している現状では、どうしようもない。もしこの日本から、受験競争が消え
たらどうなる? 受験塾や進学塾は消えるが、同時に、日本の教育は崩壊する?

 これは教育の話だが、しかし人生も、また同じ。人生論を語るとき、「上」から見た人生論な
ど、一片の価値もない。上に出れば出るほど、自分を見失う。上に出ることが悪いと言ってい
るのではない。大切なのは、出ても、「下」の心を忘れないこと。もっと言えば、いかにすれば、
私たちは、下の心を忘れずにいることができるかということ。その努力だけは、いつもどこかで
しておかないと、自分の考えそのものが、真理から遊離してしまう。

 たとえば卑近な例だが、昔、ことあるごとに、「今の親は、なっていない」とか、「親のしつけが
なっていない」と、こぼす教師がいた。四五歳くらいの女性(当時)だったが、その女性は独身
だった。で、私は結婚はしていたが、まだ子どもをもっていなかった。それでその教師に同調
し、「そうですね」などと、言っていた。その教師の言うことには、一理あると思っていた。しかし
そういう傲慢(ごうまん)な考え方は、自分で子どもをもってみると、あとかたもなく、消えてい
た。

 反対に、もう少し高度な(?)話になると、こんなこともある。そのまま書けないので、少しデフ
ォルメするが、内容は、ほぼ正しい。

 今、日本の理科教育は、大きなデッドロックに乗りあげている。これは事実で、日本の子ども
たちの理科離れは、かなり深刻な状況にあると考えてよい。それで今、全国規模の研究会が
あちこちでなされている。そんな中、ある研究会に出ると、一人の教授が私にこう言った。私も
どこかの大学の教授だと思ったらしい。いわく、「問題は、どうやって現場の高校教師たちを、
おだてて、教育に専念させるかですよ」と。

 私はこの言葉を聞いて、ムッとした。「おだてる」という言い方が気に入らなかった。大学の教
授のほうが、高校の教師より「上」という意識が、まる見えだったからだ。一般世間が、「大学の
教授のほうが、高校の教師より上だ」と思うのは、それは世間の勝手だが、大学の教授自身
がそう思うようになったら、おしまい。今でこそ、そういう風潮は多少やわらいだが、三〇年前に
は、もっとひどかった、教育の世界には、明確な序列があって、高校教師の下が中学教師、中
学教師の下が小学教師となっていた。幼稚園教師は、番外。どこで何を発表しても、相手にも
されなかった。

 何が正しいか正しくないかということを知るためには、自分の視点を一度、「下」に置いてみな
ければならない。そしてものごとは、下から見る。「上」から見てはいけない。真理を探究するも
のにとっては、傲慢は、最大の敵。傲慢になったとたん、その真理を見失う。
(03−1−17)※

●外に出てはいけない。あなた自身の身に立ちかえりなさい。内なる人にこそ、真理は宿りま
す。(アウグスティヌス「真の宗教」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(525)

Uさんのこと

Uさんと知りあって、もう八年になる。私が書いた本に、書評を送ってくれたのが、きっかけだっ
た。

 そのUさん(滋賀県O市在住)には、二人の子どもがいる。上の男の子は、今、中学二年生。
下の女の子は、小学五年生。上の男の子が、不登校を繰りかえすようになって、もう四年の月
日が流れた。終わってみれば四年など、あっという間だが、しかしその渦中にいる親や、子ど
もにとっては、そうではない。が、その長男の問題が片づかないうちに、今度は、下の女の子ま
で、不登校のきざしを見せ始めたという。


 先日、そのUさんから、こんなメールが届いた。

「はやし先生へ、
いよいよ、妹も不登校突入の模様です。
今日は家で二人がそれぞれに相手をせめたりけんかしたり、
マイナスの要因がぐるぐる渦巻いています。
どうしてか?、といつも考えています。
私の心の中にあるもののせいでしょうか?
学校信仰?、だけではなく、子どもも私も、
社会からの村八分を恐れて、
その恐怖から荒れるのではないでしょうか?
では私にいったいなにができるのでしょうか?
主人は週末は三日間いました。
彼も一緒になってめげています。
つぎの土曜日は学校の相談会に行く予定ですが……。

誰に話しても解決されるわけはないですね。
本当にすみません。

滋賀県O市Uより」と。

●私の息子たち
 私の息子の一人も、小学校の高学年のとき、毎年春先になると、不登校を繰り返した。「学
校恐怖症」による不登校ではなかったが、それでも三月から、夏休み前まで、ほとんど学校へ
行かなかった。

 しかし私もワイフも、ただの一度も、「がんばって学校へ行こう」などと息子に言ったことはな
い。むしろ「行きたくなければ、行かなくていい」と言った。不登校の原因がわかっていたから
だ。

 息子は、ひどい花粉症だった。そのため、夜も熟睡できなかった。私は病院の無菌室で使う
ようなビニールハウスを自分でつくり、それで息子のベッドをおおってやったこともある。空気
は、水槽用のポンプを使って、ビニールハウスに入れた。が、それでも症状は収まらなかっ
た。毎朝、顔中をパンパンにはらし、フラフラになって起きてくる息子に向かって、どうして「学
校へ行きなさい」と言えるだろうか。

 こうした状況で、私が、「行きたくなければ、行かなくていい」と、ふつうの親(?)とは違ったこ
とを言えた理由は、いくつかある。

 ひとつは、学校教育に、大きな期待をもっていなかったこと。(だからといって学校教育を否
定しているのではない。誤解のないように。)「いざとなれば、私が家庭教師をすればいい」と考
えていた。が、やはり何といっても、一番の理由は、「こいつは、生きているだけでいい」という
思いがあったからだった。その息子は、五歳のとき、あやうく水難事故で命を落すところだっ
た。生きているということ自体、奇跡に近いものだった。そのため、その息子のばあい、それ以
前も、それ以後も、「生きているだけでいい」が、子育ての基本になっている。

 同じような経験だが、今度はもう一人の息子に、同じような事件が起きた。いきさつはともかく
も、そのときは、さらに最悪のことを予想していたので、「何だ、そんなことか!」ですますことが
できた。……と書いただけでは、よくわからないと思う。もう少しだけ、詳しく書く。こういうこと
だ。

 たまたまそのとき、私は、HIV(エイズ)についての原稿を書いていた。今、急速な勢いで、陽
性者がふえている。とくに若者を中心に、ふえている。 

 京都大学のK教授の推計によれば、二〇〇二年、HIV(エイズ)の陽性者は、若者を中心
に、一万五〇〇〇人に達するだろうと言われている。そしてこの数は、今後二〇一〇年までの
八年間で、数倍以上の、五万人にまでふえるという(NHKのニュース解説・一一月四日夜放
送)。ここ一〇年のうちに、数万人単位でふえ、二〇一五年までに、陽性者は一五万人以上
(推計)になるという。

 それで息子の一人に電話をした。「気をつけるように」と言いたかった。しかし息子は、不在だ
った。そこで私は電話に伝言を残した。あれこれHIVの恐ろしさを説明した。が、その直後、そ
の息子から電話が入った。受話器をとると、「パパ、どうしても話したいことがある。ごめん!」
と。泣き声である。私は背筋が凍りつくのを覚えた。「どうした?」と聞いても、なかなか言わな
い。そこで私のほうが、こう切り出した。「何か、……困ったことでもあるのか?……病気のこと
か……?」と。

 すると息子は、こう言った。「ううん、ちがう。そんなことではない。大学を、落第してしまった…
…」と。とたん、私の中を風がスーッと通りぬけた。「何だ、そんなことか!」と。だからおもむろ
にこう言った。「まあ、そんなことはよくあることだ。気にするな。のんびり一年間、休暇だと思っ
て、好きなことをしなさい」と。

●希望も、絶望も、ただの虚妄
 希望にせよ、絶望にせよ、そんなものは、まさに虚妄。希望だと思うから希望は希望になり、
絶望だと思うから、絶望は絶望になる。とくに子どもの世界はそうで、子どもの世界には、希望
も、そして絶望もない。あえて言うなら、「生きている」ということ自体が奇跡で、それにまさる希
望などない。そして生きている以上、絶望など、ない。

 話はぐんと現実的になるが、どうして日本の親たちは、こうまで子どもの不登校を問題にする
のか? アメリカだけでも、学校へ行かず、家庭で勉強している、いわゆるホームスクーラー
が、毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇万人を超えた(〇一年度末推計)。九七年度に
は、一〇〇万人だったから、それまでの四、五年間で、倍にふえたことになる(LIF報告)。そん
なわけで子どもが学校へ行くのをいやがるとしたら、子どもに問題があるのではなく、学校、つ
まり今の教育制度のほうに問題がある。北海道のハシから沖縄のハシまで、画一、平等という
ことが、おかしい。あるいは何でもかんでも学校という発想が、おかしい。学校というワクに入ら
ないから、その子どもは落ちこぼれという考え方が、おかしい。

●意識の違い
 ……と書いても、Uさんには、何の助にもならない。それはわかっている。Uさんが願っている
ことは、「二人の子どもが、何とか、ふつうの子ども(ふつうの子どもというのはいないのだが…
…)のように学校へ行くこと」なのだ。そういうUさんに向かって、「行かなくてもいいじゃない」と
は、とても言えない。言えないが、意識というのは、そういうもの。一方の意識からみると、他方
の意識が、信じられないほど遠くにあるように思う。しかしその他方の意識からみると、一方の
意識が、信じられないほど遠くにあるように思う。どちらが正しいというのではない。またどちら
がまちがっているというのでも、ない。大切なのは、意識というのは、普遍的なものでも、また絶
対的なものでもないということ。今の意識がそうであるかといって、自分が正しく、相手がまちが
っていると思ってはいけない。そういう意味では、意識などというのは、実にいいかげんなもの
である。

 よい例が、カルトを信仰している信者たち。外の世界の人から見ると、とんでもないことをして
いるのだが、本人たちには、その自覚は、まったくない。むしろ「自分たちこそ、絶対正しい」と
いう確信のもと、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたはまちがっている」と断言する。そ
して愚にもつかない、バカげたことを平気でする。あるいは人間ロボットとなって、指導者の言
いなりになって動く。

 で、ある日、私は一人の信者にこう聞いてみた。「あなたは、一度、自分たちの指導者を疑っ
てみたらどうですか?」と。するとその信者はこう言った。「H教導様は、絶対に正しい。神の啓
示を受けられた方です。それに万巻の書物を読んでおられる」と。こうしたオメデタさは、たいて
いどのカルト教団の信者にも共通している。つまり思想を注入してもらうかわりに、自ら考える
ことを放棄してしまう。

 話がそれたが、意識というのは、そういうふうにして作られる。「私は私」といくら思っても、そ
の人を取りまく、もろもろの環境が、その人の意識を作っていく。たいていは合理的なものだ
が、そこに不純物がまざることがある。あるいは自分を超えた、もっと大きな力によって、流さ
れることもある。私が最初にそれをはっきりと意識したのは、私が学生のときだった。そのこと
を書いたのが、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。

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本物の自由を求めて

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●自由とは「自らに由る」こと
 オーストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由る」という意味だ。こんなこと
があった。

 夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一人、二、
三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっていた。で、私
たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑いながら黙って受け
取ってくれた。消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メ
−トルは吹っ飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこん
なこともあった。

 一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその朝、ガ
ールフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び込み、ベッド
ごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運んだ。公園といっ
ても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでい
たが、私たちは無視した。あとで振り返ると、二人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っ
ていた。それを見て、私たちは笑った。公園にいた人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。
風に舞うシーツが、やたらと白かった。

●「外交官はブタの仕事」
 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可
をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と
言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイ
ギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブタ」という言葉を使った。あ
の国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったくち
がっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内で、と考えていたようだ。
 
また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入
るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、
伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍
人になることイコ−ル、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があ
った。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。
またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英
雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民
地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本
へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するも
のがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。私たち戦後生まれの団塊の世代は、
就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと
信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知
らされた。時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

++++++++++++++++++++++++

●Uさんについて
 さてUさんの話。Uさんは、「社会からの村八分」という言葉を使っている。私には理解できな
い言葉だが、Uさんにしてもれば、きわめて深刻な問題に違いない。社会というのは、それ自
体、巨大な怪物。しかも得たいの知れない、怪物。たいていの人は、毎日の生活に追われるま
ま、何がなんだか、さっぱりわからない状態で生きている。ほとんどの人は、その社会に必死
にぶらさがりながら、懸命に生きている。が、その社会からはじき飛ばされたとしたら……。そ
れは恐怖以外の、何ものでもない。「村八分」という言葉は、そういうところから出ている。

 が、私の意識は、Uさんとは、まったく違う。
 
 その違いを話す前に、ここに少し書いた、アメリカのホームスクールについて書く。私の二男
の嫁の母親が、そのホームスクールの指導員をしている。学校へ行かないホームスクーラー
でも、希望すれば、州政府から指導員を派遣してもらえる。その母親が教えているのが、「家
庭経理(ホーム・エコノミー)」。それはそれとして、なぜ、アメリカでは、ホームスクールが力をも
っているかといえば、その理由は移民時代にまで、さかのぼる。

 もともとヘンピなところに家を構える人たちが多かった。だから「教育は家庭で」という考え方
が強い。そしてつぎのステップとして、親たちが集まって、学校を開いた。教師を雇った。これ
がアメリカの学校の原点である。だからPTAという組織にしても、親たちの権限は、日本とは比
較にならないほど、強い。教師の任命権から罷免(ひめん)権までもっている。カリキュラムの
内容にまで、口をはさむ。日本では、学校あっての生徒だが、アメリカでは、生徒あっての学校
である。

 そういうアメリカだから、「学校なんて」という考え方が強い。まさに「行きたくなければ行かなく
てもいい」という発想も、そこから生まれる。たまたま私とワイフが、向こうの児童館(アーカンソ
ー州、リトルロック市)を訪れていたら、そのホームスクーラーの一行が、遠足できていた。地
域のホームスクーラーたちが集まって、ときどきこうした行事をしているらしい。私が見たとこ
ろ、ピクニックみたいで、みんな、実に楽しそうだった。

 さて、そういう意識をもったアメリカ人が、もしUさんのメールを読んだら、どう思うだろうか。ま
だ私は理解できるが、おそらく理解さえできないのでは? 「どうして学校へ行かないことが、村
八分なのか?」と。こうした意識の違いが理解できないなら、もう一つ、こんな例がある。

 アメリカでは、学校の先生が子どもの親に、落第をすすめると、親は、それに喜んで従う。
「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落
第を頼みにいくこともある。が、日本では、こうはいかない。こうはいかないことは、あなたなら
わかるはず。

 それについて書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞経済済み)。以前にも取りあげたので、
前にも読んでくれた方は、とばしてほしい。

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家族の心が犠牲になるとき 

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●子どもの心を忘れる親
 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち
は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな
相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい
るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義
 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、
家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され
る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち
 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く
を妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当して
いるケースは、わずか一%でしかなかったという。子どものしつけや親の世話でも、六割が妻
の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で
七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわか
ったという。内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は
比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない
人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、
積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、
家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を
平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義
 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの
は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ
のまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通
の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれ
が回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観
 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四
〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四
五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本
人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して
ほしい。

+++++++++++++++++++++

 つまりところ、子どもの不登校の問題は、子どもの問題ではない。親の意識の問題である。
「不登校は悪である」という前提で考え、またそのワクから出られないから、本来、問題でない
ものが、問題になってしまう。また親がそう思っているから、子どもの側にしても、その緊張感
からのがれることができない。だからいつまでも、ドタバタ劇(失礼!)がつづいてしまう。

+++++++++++++++++++++++

Uさんへ、

 つまるところ、Uさんが、どうやってUさん自身の緊張感を取るかということではないでしょう
か。それには、Uさん自身の価値観を変え、意識を変えることしかないと思います。この緊張感
がある以上、二人のお子さんも、その緊張感から解放されることはないでしょう。

 それにもうひとつ気になるのは、青年期の「心の風邪」について、どこか安易に考えておられ
ること。そうでないかもしれませんが、それでも足りないということ。この風邪は、数年から一〇
年単位で、症状が推移します。一年や二年で、症状が改善するということはありえません。い
え、本来なら、数か月で解決するはずの問題なのですが、その数か月のうちに、症状をこじら
せてしまうというケースが、たいへん多い。ちょっとした無理が、やっとよくなりかけた状態を破
壊する。それを繰りかえすうちに、症状がますますこじれる。そのため、ここでいうように、数年
から一〇年単位となってしまう……。どこかUさんの行動が、せっかちな(ごめんなさい!)の
が、たいへん気になります。 

 もうひとつは、子どもが不登校を繰りかえすと、親に与えるその重圧感は、相当なものです。
これは当然のことです。そこで今度は、親自身の心のケアが必要になってきます。ふつうは、
(この言い方は、いつも抵抗がありますが……)、夫婦がたがいに、ちょうどピンポン玉を渡し
たりもらったりするように、その重圧感を分担します。が、Uさんのばあい、Uさんというあなた
ひとりが、それを背負っているということです。

 そこでUさんのようなケースでは、えてして、母親がその重圧感を、子どもとの間で、ピンポン
玉のやりとりをするようになります。これは病院でいうなら、病院のドクターが、治療法を患者に
相談するようなものです。「早くよくなってくれなければ、困ります。どうすれば、あなたはよくなり
ますか?」と。患者だって、そんなことを相談されたら、困りますよね。子どももそうです。本来
なら心のよりどころとしたい親が、グラグラしているのですから……。

 こう書くと、Uさんの責任のように思われるかもしれませんが、そんなことを言っているのでは
ありません。Uさんは、もうじゅうぶんすぎるほど、苦しんだ。努力もした。ただ私はこの種の問
題は、母親ひとりだけの力では、どうにもならないということを言いたいのです。夫の協力が不
可欠だということです。ご事情もあるのでしょうが、家族が危機的な状況にあるにもかかわら
ず、夫が単身赴任というのは、そもそも無理があるのではないでしょうか。単身赴任をしている
あなたの夫の気持ちが、私には、どうしても理解できませせん。

 たいへんよく似たケースですが、昨年、こんなことがありました。神奈川県のF市に住んでい
る友人のことです。彼のばあいは、二人の娘さんのうち、上の子が、中学へ入ると同時に不登
校。しかしそんなとき、夫はたまたま大阪へ転勤命令。引越しも考えたと言いますが、家のロー
ンも残っていた。それに、「子どもの進学にさしさわりがある」ということで、担任赴任という形に
なってしまいました。友人は、「一応、社宅は用意してくれてはいるんだが……」とは言っていま
したが、とても家族がいっしょに住めるような社宅でもなかったようです。

 で、結局、その子どもは、ほとんど学校には行かず、三年がすぎました。が、母親は最後の
最後まで、高校進学にこだわりました。いえ、こだわったかどうかは、本当のところはわかりま
せんが、相談を受けているとき、「どうしてこうまで学校にこだわるのか」と感じたことは、よくあ
ります。「進学どころの問題ではないのに……」と。

 何とかそれで、高校には入りました。子ども自身も喜んでいたので、友人夫婦もこれで解決
するかもしれないとほっと一息ついたのも、つかの間。一か月もすると、また不登校。母親はこ
う言いました。「最初の不登校のときより、数倍のショックを受けました」と。

 が、この状態に、最初にダウンしたのが、母親ではなく、父親である夫でした。赴任先の大阪
で、「もう、ダメだ!」と。それで会社を退職し、神奈川県のF市にもどってきました。その友人
は、こう言いました。「林君、単身赴任なんてものはね、男の地獄だよ。ぼくなんかね、精神状
態そのものが、おかしくなってしまったよ。毎晩、三時間もかけて、ご飯を一粒ずつ食べたこと
もあるよ。それで、こんなことをしていたら、頭がヘンになると思い、会社をやめたよ」と。

 それから数年。今、その上の女の子は、高校は中退。今は富士山ろくにある観光牧場で、み
やげもののデザインを考えたり、その販売の仕事をしています。先日、母親と電話で話したの
ですが、「あの子には、もともとああいう道があったのですね。それに気づくのに、ずいぶんと回
り道をしました」と。以前とはくらべものにならないほど、明るい声でした。

 この友人の話が、Uさんに参考になるかどうかはわかりませんが、この問題だけは、どこかで
腹を決めないと、先へは進めないということです。「まだ何とかなる」「何とかしよう」と考えてい
る間は、親自身がその緊張感から解放されることはありません。そして親が緊張すれば、子ど
もも緊張する。その緊張感から解放されない。子どもというのは、そういう点では、たいへん敏
感で、いくら親が自分の心を隠しても、あるいは隠そうとしても、その心の奥を読んでしまいま
す。

 子ども側にも、問題がないわけではありません。ひとつは、子ども自身が、「学校とは行かね
ばならないところ」と自分を追いつめているケース。もうひとつは、自分の将来に、不安をいだ
いているケースです。このばあい、安易に説得しても、効果がないばかりか、かえって子どもを
袋小路に追いやってしまいますから、注意してください。子どもにも子どもの意識があり、それ
を変えるのは、容易ではないということです。親の意識が変わっても、子どもの意識もすぐ変わ
るということは、ありません。あるいは変わらないかもしれない。変わるとしても、長い時間がか
かります。

 ところで、なぜ私たち日本人は、こうまで「学校」にこだわるのでしょうか。世界的にみても、異
常としか言いようがありません。あるいは「学校」に、幻想をいだいている。「行かねばならな
い」というクサリで、親も子どもも、体をがんじがらめにしている。私は、内情を知り尽くしていま
すから、(だからといって教育や学校を否定しているわけではないのですが……)、幻想が幻想
とわかるわけです。あるいは自分が中学生や高校生のころには、そういう幻想をもっていまし
たから、よけいに幻想が幻想とわかるわけです。

 しかしその呪縛(じゅばく)から逃れるのは簡単ではないようですね。親もたいへんですが、子
どもたちも、です。ここまで書いて、以前書いた、「尾崎豊の卒業論」(中日新聞発表済み)を思
い出しました。お読みいただいたと思いますが、改めて、ここに転載しておきます。

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●尾崎豊の「卒業」論

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学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに貧しい人たちへの寄金を訴える。こういうのを
見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先
を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すとい
う行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。い
や、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!
 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

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●生きる原点に視点を……
 本当なら、Uさん自身も、尾崎豊のように、「学校なんか、クソ食らえ!」と叫んでみたらいいと
思うのです。あるいは、一度、尾崎豊の「卒業」を聞いてみられたらいかがでしょうか。少しは胸
の中が、スカッとするかもしれませんよ。何度も聞いていると、少しずつですが、意識が変わっ
てくるかもしれません。試してみてください。

 話をもとにもどしますが、Uさんは、もうじゅうぶん苦しみました。しかしね、Uさんを苦しめた
のは、Uさんのお子さんではない。Uさん自身でもない。Uさんを苦しめたのは、実は、Uさん自
身の中にある、「つくられた意識」だということです。私がここで言えることは、「勇気をもって、
その意識とは決別しなさい」ということ。今のUさんには、想像もつかないことかもしれません
が、その先には、明るい出口があります。そして今と同じように、さわやかな空気があり、明る
い太陽があります。何も変わらないのです。シャンドル(ハンガリーの詩人、1823−49)はこ
う書いています。

『絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じ』(「希望論」)と。

 あの魯迅も、まったく同じことを書いているのは、たいへん興味深いですね。こう書いていま
す。

『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と。

 このあたりが賢人たちの共通した意見のようです。わかりやすく言うと、絶望にせよ、希望に
せよ、そういうものは、勝手に人間が作りだしたものにすぎないということ。大切なことは、その
向こうにあるものを見失わないということ。Uさんの立場で言うなら、お子さんたちとの絆(きず
な)を、見失ってはいけないということ。そう、今、ここにあなたがいて、子どもたちがいる。その
重要さを忘れてはいけないということです。繰りかえしますが、まさにそれは「奇跡」なのです。
その奇跡にまさる希望など、あるはずもないのです。

 いつもストレートに書きすぎるため、気分を悪くなさったところもあるかもしれませんが、どうか
この手紙を、前向きにとらえてください。決してあなたはひとりではない。私がいます。ずっと私
が、あなたのそばにいますから、勇気をもって、前に進んでください。いくらでも力になります。
いつか、Uさんが、「そういうこともありました」と笑う日がくるまで、力になります。いっしょに、が
んばりましょう!

はやし浩司
(03−1−18)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(526)

閉ざされた心

●心を開く人、開けない人
 心を開くということは、開くことができる人には簡単なことらしい。しかし開くことができない人
には、簡単ではない。開くということが、どういうことさえわからない。その前に、その自覚さえな
い。

 このことは、子どもを見ればわかる。子どもにももちろん、心を開くことができる子どもと、そう
でない子どもがいる。心を開くことができる子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげた
りすると、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。心底、
うれしそうな顔をする。

 心を開かない子どもは、そうした親切ややさしさが、すなおにしみこんでいかない。心のゆが
みを伴うことが多い。ひねくれたり、いじけたり、すねたり、つっぱったりする。簡単な見分け方
としては、抱いてみればわかる。心を開いている子どもは、抱いてあげると、そのまま力を抜い
て、体をすり寄せてくる。そうでない子どもは、そうでない。あるいは甘え方を見ればわかる。心
を開いている子どもは、甘え方が自然。「自然」というのは、子どもらしいということ。全幅に自
分の心を開いて甘える。そうでない子どもは、そうでない。

●乳幼児期に決まる「心」
 この違いは、どうやら乳児期に決まるらしい。親の豊かな愛に恵まれて育った子どもは、心を
開くことができる。そうでない子どもは、心の開き方すら知らないまま、大きくなる。もう少し専門
的には、そのカギを握るのは、「愛着(attachment)」ということになる。最近の研究では、乳児
から親への愛着行動があることがわかってきた(※)。それまでは、愛着行動は、親から乳児
への一方通行と考えられていた。その乳児から親への愛着行動が妨げられると、子どもに
は、さまざまな反応が現れることがわかっている。

 つい最近もらったメールには、こんなのがあった。それまでは、その子どもは、父親と母親で
寝ていた。が、事情があって、子どもをベビーベッドに移した。とたん、その子どもの首がまが
ったまま、もとに戻らなくなったという。そこで母親は整体師のところへ連れていったが、なおら
なかった。しかし、また前のように、川の字になって寝たとたん、首がなおったという。

 こうした例は、本当に多い。子どもの心は、私たちが考えるよりはるかに複雑で、デリケート。
「たかが子どもではないか」と、安易に考えてはいけない。

●それは私たちの問題
 ……が、問題は、このことではない。子どもの問題は、実は、私たちおとなの問題でもある。
あなたにも子ども時代があった。そしてその子ども時代の結果として、今のあなたがいる。言い
かえると、あなた自身はどうかということ。というのも、「心」というのは、乳幼児期に決まり、そ
のあと、その心は、そのまま生涯つづくということ。途中で、変わるということは、まず、ない。つ
まりあなた自身が、心豊かで、愛情あふれる家庭で育ったのなら、よし。そうでないなら、あな
たの心のどこかに、その「ゆがみ」があるということ。こう断言するのは、たいへん危険なことか
もしれないが、そう疑ってみる価値は、じゅうぶん、ある。

 あなたは心を開くことを知っているか。心を開く人をもっているか。だれかに対して、心を開く
ことができるか。

 実はこれは私にとっても、ずっと大きなテーマだった。私は子どものころ、愛想のよい子ども
とよく言われた。しかしその「愛想のよさ」は、むしろ自分の不幸な過去が原因であることを知っ
た。話せば長くなるが、幼児教育という世界に飛び込んでみて、それがわかった。と、同時に、
私は心を開くことができない、さみしい人間であることを知った。氷だけの冷たい世界に住んで
いるのを知った。

 そういう私と結婚して、一番不幸だったのは、私のワイフではなかったか。それなりの愛情を
感じ、それなりの自覚をもって結婚はしたが、ワイフに対して本当に心を開いていたかという
と、そうではなかったような気がする。「どこか他人のような夫婦」とまではいかなかったが、私
は妻に甘えなかった。妻は妻で、私に甘えなかった。そのためよく対立した。けんかもした。妻
を受け入れる前に、私の思いどおりにならない妻を、ときには憎んだり、さげすんだりした。私
はワイフを全幅には、信じていなかった。よくワイフを疑い、その分だけ、嫉妬(しっと)した。

 しかしそれは妻に原因があったからではない。実は私に原因があった。が、それに気づくだ
けでも、何年もかかった。はっきりと自覚したのは、私が三五歳を過ぎてからではないか。同時
に、そのころから私は、自分の心を開くことを考えた。閉ざされた心の扉を開き、暖かい春の
風を入れようとした。方法はいろいろあった。しかしどのひとつも、決して楽な道ではなかった。
たとえばこんなことがあった。

●私のばあい
 私はずっと、幼児教育論を書いてきた。子育て論も書いてきた。しかし私にはひとつの不文
律があった。「決して、タダでは、私の知りえた情報を教えない」という不文律である。それまで
の虐(しいたげ)られた立場もあった。だれにも相手にされなかったこともある。とくにこの教育
の世界は、「権威」がモノを言う。どんなアホみたいな意見でも、「大学の教授が言った」という
だけで、私の意見は、スミに追いやられた。一方、親たちも、私の意見には耳を傾けなかっ
た。私はいじけ、ひがみ、そしてつっぱった。しかしそれはまさに、私の「地」でもあった。乳幼
児期にできた、「冷たい心」そのものでもあった。

そう、あのころの私は、どんなに困っている人がいても、またどんなに私がその情報をもってい
ても、決してタダでは、教えなかった。話を聞きながらも、当時の私は、「知ったことか」と。そう
いう人を見捨てるようなことを平気でしていた。……できた。つまり私は、「心を開く」ということ
ができなかった。「愛想がいい」と言われながらも、私はただ仮面をかぶっていただけ。

 しかしそれはまちがっていた。そのまちがいに気づき、そのまちがいを克服するために、私
が、どれほど苦労したかは、また別の機会に書くことにして、今もまだ、その過程にある。今年
満五六歳になるというのに、まだつづいている。たとえば今も、こうして原稿を書いている。電
子マガジンに載せるためである。しかしふと油断すると、あのころの自分が頭をもたげる。「ど
うしてこんなことをしているのか?」「無料で、子育て情報を流すとは、お前は、お人好しだな」
と。「心」というのは、そういうもの。昔の人は、『三つ子の魂、百まで』と言ったが、それはまさに
正しい。「百まで」というのは、「一生」という意味である。

 もしあなたが、自分の心を開くことができればそれでよし。また夫であるにせよ、妻であるに
せよ、そういう人がいればそれでよし。しかしもしそうでないなら、この問題は、これから先、あ
なたの一生をかけて解決する問題。解決しなければならない問題と考えてよい。

●自己診断してみよう
 もしあなたが、つぎの項目のうち、五つ以上、あてはまるなら、まずあなたの過去を冷静にみ
てみるとよい。この問題を解決するためには、まずあなた自身がそうであることに、気づくこと。
問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振り回
されること。もしあなたが妻なら、それでさみしい思いをしているのは、あなたの夫ということに
なる。あなたの子どもということになる。

【心を開けない人】
(1)外の世界で、自分をつくることが多く、そのため人と会うと、疲れやすい。
(2)いつも人間関係を計算し、自分の得にならない人とは、つきあわない。
(3)夫や妻以外に、心を割って話せる人がいない。友人がほとんどいない。
(4)他人の不幸な話を聞いても、ピンとこない。不幸な話を楽しむことができる。
(5)甘えたいとは思いつつ、いつも心のどこかでブレーキが働いてしまう。
(6)ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりしやすい。すなおになれない。
(7)捨てられる前に捨て、裏切られる前に裏切るというものの考え方をしやすい。
(8)人にやさしくされても、「どうして?」と、いつも相手の意図を疑ってしまう。
(9)疑い深く、ねたみやすい。夫や妻に対して、嫉妬(しっと)しやすい。
(10)ひとりになると、孤独感がひしひしと自分を襲い、不安になる。
(03−1−18)

※…… 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知
られた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることが
わかってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児
の発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥
が現れる。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示
す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒
否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由
で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の
分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、親の育児拒
否的な態度(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。

●さあ、あなたも心を開いて、外に解き放とう! 勇気を出して、みんなを迎え入れよう! 春
の暖かいそよ風のように! 明るくさんさんと輝く夏の太陽のように! みんなの心を、あなた
の温もりで、包んであげよう!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(527)

子どもの情緒

「先生、ご無沙汰しております。
以前、四歳の息子のかん黙について相談させていただきました岐阜のSSです。
現在は五歳六か月になりました。

その後、保母に「言ってごらん」等の声かけをやめてもらったところ、たった三日で彼に笑顔が
戻り、保育園へ行かないというのも治りました。

しかし、慣れるとまたしゃべらそうとしたりの繰り返しで、なかなかうまくいきません。
一度ぽつりとしゃべったのを聞いたパートの先生がうれしくて、「もっと聞かせてよ」という具合
に朝夕のあいさつを強要し、おかげでまた、登園拒否になってしまいました。

先月、口唇裂の修正手術のために二週間入院したのですが、そのことを保母が、ほかの子ど
もたちに伝えたところ、「しゃべれるようになる?」と聞かれ、「そうかもよ」と言い、子どもたちは
「手術をしたらしゃべれる」という認識となったようです。

本人もです。「手術したらしゃべれるようになるよね!」と張り切っていました。

構造的なことと精神的なものは関係ありません。もともと発語について構造的な問題はありま
せん。本人が「しゃべれる」という気持ちになって、本当に他の人としゃべれたら本当にうれしい
ことです。

でも、逆のことを考えたら・・・。

術後、「まだしゃべられないよ」、しばらくして「テープが取れたらしゃべれるよ」と。

抜糸も終わった今はもう、このことにはふれません。

でも、保育園へ行くと私も子どもたちに「しゃべれるようになった?」と聞かれるので、本人もき
っと聞かれているのだろうと思います。

三歳までの間に一〇回以上の入院(完全看護)を経験しているので、母子分離不安が強く、風
邪、入院、冬休みと続き、「保育所へ行かない!」と、かなりの抵抗をするようになりました。

毎朝、布団から出ない、服を着せる→脱ぐ、カバンの中身を出して投げる→入れるの繰りかえ
しを、一時間から二時間ほど、母子で行います。もちろん食事なんて取れません。

やってるうちに私も悲しくなり泣いたり、怒ったり。
だんだん手を上げるまでの時間も短くなってきています。
ここまでして保育園に連れて行く理由を探しても見つからないのですが、保育園に行って、私
の姿が見えなくなると朝の準備もできるし、保育園での生活も楽しんでいるそうです。

今日は服も首を通しただけの状態で、裸足で連れて行きました。
見えなければ見えないで楽しくできるのならば、一度休ませたらクセになる・・・と思って、何とか
やっていますが、毎朝保育所から一人で帰宅すると、ものすごい疲労感と脱力感に教われま
す。

いつまでつづくのか、これで本当にいいのだろうか?

以上のことを保母と懇談などで話をしても「過保護な親」のレッテルを貼られていますので、言
えば言うほど悪い方へ向いているようです。

子どもがどうこうよりも、見えない障害を解ってもらえない、障害をもっているお子さんをお持ち
の母親どうしでも、「親としゃべれるだけ、いいじゃない」と相談も聞いてもらえない。

自分自身の心の余裕の問題のような気がします。

「待つ」ことができなくなってきました。

保育園が悪いわけではなく、私と離れるのが保育園だけなので、母子分離不安だと思います。

ほか、通院や母子通園などは、自分から起きてきて、着替えもちゃんとできます。

公立の保育園をやめ、最初からやり直した方がいいのでしょうか?
強制的に分離されていたあの頃の時間に立ち戻って、徐々に手を離していく。
それも必要なのかと思ったりします。

「生きてるだけでいいじゃない」と思っていたあの頃。
病院を出て、健常者の社会で生きていくためにはそれだけではいけないようです。
精神面が置き去りのまま、就学まであと一年という中で頑張っています。

「お母さんがいなくても、全然平気でしたよ」と、保母さんは言います。
本当に平気なのだろうか。見えなくなって気持ちの切り替えがちゃんとできているのなら、保育
園をやめないほうがいいし、無理にでも連れて行けばいい。

どっちつかずの態度が一番悪いと知りつつも、迷ってばかりの毎日です。
何かアドバイスを頂けたらと思い、メールしました。
どうぞよろしくご指導ください。」
(岐阜市SSより)

++++++++++++++++++++++++++++

SSさんへ

 メール、ありがとうございました。

 以前いただいたメールはさておき、ここではかん黙症と分離不安を中心に考えていきます。
少しSSさんの相談の件とは離れますが、お許しください。

 かん黙も含めて、「ふつうでない(何も、どこかにふつうがあるわけではないのですが……)症
状」を子どもが見せても、まず第一に、子どもには、その自覚はないということです。自分を客
観的に見ることができないからです。だから「しゃべりなさい」「どうしてしゃべらないの」「ほかの
子は、みんなしゃべっているでしょ」式の言い方をしても、無意味だということです。

 しかしもうすぐ、子どもに自意識が育ってきます。自分の姿を、客観的に見ることができる能
力と言ってもよいでしょう。だいたい小学三、四年生ごろだと思ってください。そのころになると、
自分と他人の違いを、自分で判断できるようになります。「ぼくは、ほかの子と違うぞ」「こんなこ
とをしていると、損をするぞ」とです。

 そういう自意識が育ってくると、自分で自分をコントロールするようになります。そうなると、こ
の種の心の問題は、急速に改善します。ほとんどのかん黙症の子どもが、この時期を境に、
症状が消えるのは、そのためです。ただ、情緒不安症状(心の緊張感が取れない、取りにく
い、緊張しやすい)は、そのまま残ります。しかしこれは多かれ少なかれ、だれにでもあること
で、しかたのないことですね。

 問題は、今、そういう症状があることではなく、この時期、あれこれ無理をして、症状をこじら
せてしまうことです。かん黙児(こう診断名をつけることは許されませんが、一般論として)のば
あい、自信喪失になったり、かん黙とは別の失語症になったりすることもあります。ですから今
は、こじらせないことだけを考えて、気楽に構えてください。ここに書きましたように、時期がくれ
ばなおります。そしてその時期まで、あと三、四年です。

 そんなわけで、今、「あなたはおかしい」式のラベルを張らないこと。子どもに、わからせない
ことです。残念ながら、保育園では、ほかの子どもたちが、「しゃべれるようになる?」とか、勝
手に騒いでいるようですが、これは、少しまずいですね。保育園でも話題にしないよう、つまり
無視してくれるよう、保母さんに話してみられてはいかがでしょうか。

 育児は、そうでなくても、たいへんな重労働です。「ものすごい疲労感と脱力感に教われます」
というのは、何もSSさんだけのことではありません。いろいろな調査によっても、約七〇%強
の母親たちが、そう感じています。つまり育児というのは、もともとそういうものだという前提で
つきあうしかないようです。

 で、かん黙にせよ、分離不安にせよ、ポイントは、いかにして子どもの心の緊張感をとるかと
いうことです。それには、まず子どもを絶対的な安心感、全幅的な愛情で包むことです。「絶対
的」というのは、子どもの側からみて、「不安や疑いをいだかない」という意味です。最近の研究
では、こうした子どもの情緒の問題は、生後まもなくから乳児期の、親の接し方のどこかに問
題があったからということがわかってきました(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。しかし過
去をとやかく言っても、はじまりません。

 今もそうで、子どもに示す愛情の質、とくにスキンシップの質を高めます。濃厚なスキンシップ
が効果的なことは言うまでもありません。多少の抱きグセがつくかもしれませんが、子どもが望
む間は、手をつなぐ、抱っこしてあげる、添い寝をしてあげるなど、そのつどスキンシップを農
耕にしてください。中に「依存心がつくからダメだ」という人もいますが、スキンシップと依存心は
関係ありません。むしろスキンシップを繰りかえすことにより、ストレスが多いと出るホルモン
が、抑制されることがわかっています(マイアミ大学、T・フィールド博士ら)。さらにサイレントベ
ビーの名づけ親である、柳沢さとし氏は、こう述べています。

「母親たちは、添い寝やおんぶをしなくなった。抱きグセがつくからよくないという誤解も根強
い。(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 概してみても、日本人は、スキンシップの少ない民族です。ですからSSさんが、思い切ってス
キンシップを多くしても、国際標準からは、まだほど遠いほど少ないとみてよいのです。遠慮せ
ず、お子さんを抱きなさい。今しかないですよ。子どもの肌のぬくもりを感ずることができるの
は!

 「健常者」という言葉は、いやですね。日本人がアメリカ人を見て、「ガイジン」というのに似て
います。

 私の長男は、今、知的な障害者のある人たちが集まって運営する会社で、指導者としての仕
事をしています。彼が自ら選んだ仕事ですが、「みんな、まじめな人たちばかりだ。一日だっ
て、休む人はいない」と言っています。まじめにまさる美徳はありませんね。長男は、障害のあ
る人たちに、むしろいろいろなことを教えられているようです。つまりですね、今日があり、明日
があるように、一〇年後にも、二〇年後にも、「今日」はあります。まったく今と同じような「今
日」があります。ですから、恐れないで、必要以上に心配しないで、前に進んでください。世間
の人たちは、決して冷たい人ばかりではないですよ。このマガジンを読んでいる読者の方々み
な、(多分)、SSさんの味方ですよ。みんなが、あなたのお子さんを守ります。またそういう社会
を作ります。みんなで、めざそうではありませんか! 心豊かな、弱者に温かい社会を、です!

 今日は今日で、やるべきことをやりましょう。懸命に、です。虚脱感や脱力感を覚えたら、「よ
くやった」と自分で自分をほめてあげましょう。それでいいのです。「これでいいのか?」と迷っ
たら、すかさず、「やるべきことはやった」と自分をなぐさめます。私はいつもそうしています。だ
って、先のことを悩んでも、しかたないですよね。どうせ生きていかなければならないのですか
ら……。

 あまりよい回答になっていないかもしれませんが、もしまだマガジンをお読みでないようでした
ら、ぜひ、ご購読ください。無料です。申し込みは、「はやし浩司のホームページ」から、「マガジ
ンコーナー」へ。どうぞおいでください。

 なお、勝手にメールを転載させていただくことにしましたが、どうかご了解ください。一月二六
日号に掲載させていただく予定です。つごうの悪いところがあれば、至急、お知らせください。
改めます。
(03−1−18)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

以前書いた原稿を転載します。
これは母親側の失敗例を書いたものです。
もちろんSSさんのことではありません。
こういう失敗もあるという立場でお読み
くだされば、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++++++++

かん黙児

悪循環から抜け出る法(身勝手を捨てろ!)
教師が子育ての宿命を感ずるとき

●かん黙児の子ども
 かん黙児の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。そ
の無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。指導とい
っても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神経をつか
う。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。が、その年の年
末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたことは、「いかにし
て、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談してきた。「心理
療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心理療
法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってしまいま
すので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者が二
人では、私の頭が混乱します」と。

●経過は一年単位でみる
 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽か
ったことに気づく。あとはその繰り返し。私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝っ
てはいけません。子どもと視線を合わせてもいけません」と言った。が、親には一か月でも長
い。一週間でも長い。そういう気持ちはわかるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出
す。一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情
緒障害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、ど
うだったか」と。一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、
親にはそれもわからない。最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。ある
いは太いパイプを作ってしまう。初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適
切な処置をすれば、「障害」という言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を
聞いたとき、別のことを考えていた。

●「そんな冷たいこと言わないでください!」
 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どもがかん黙児とわか
った。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音楽教
室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。それが今度は、「心理療法士にか
かっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます」と。母親自身が、子どもを受
け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだわっている。もうこうなると、私に指
導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってください」と言うと、母親は
突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 私を突き放すようなこ
とを言わないでください!」と。

●親は自分で失敗して気づく
 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいてい
の親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化
させる。それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状
態になっている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい
言い方だが、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

(参考)
●かん黙児
 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。

●ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。

 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。

 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。
かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(528)

雑感

 今日、ワイフに、車の中で、こんなふうに、話しかけた。

 「あと、一〇年か、二〇年か、何年生きられるかわからないけど、これからは、思いっきり、心
豊かな人生を送ろうね。おたがいに、思いっきり、心を開いて、思いっきり、言いたいことを言っ
て、したいことをしようね」と。

 するとワイフは、こう言った。

 「あなたの言うことは、いつもジジ臭い。まだ五五歳でしょ! あなたは若いときから、言うこと
だけはジジ臭いと思っていたけど、ますますジジ臭くなったわ」と。

 驚いて、「どうしてジジ臭い?」と聞くと、「あなたの年齢で、そんなこと言う人はいないわよ」
と。

 「じゃ、どういうふうに考えればいい?」
 「そんな、明日にでも死ぬようなことを言うから、おかしいのよ」
 「本当に、明日、死ぬかもしれないよ。交通事故か何かで……」
 「簡単には死なないわよ」
 「わからないぞ、それは……。くも膜下出血で死んだ友人もいる」
 「だからジジ臭いの。そんな死ぬことばかり考えている人はいないの!」
 「お前は考えないのか?」
 「考えるわけないでしょ。私は八五歳まで生きるの!」
 「まだ三〇年もあるぞ」
 「そうよ。だから、考えないの!」

 どうしてうちのワイフは、こうも楽天的なのかと思う。情緒不安や精神不安とは無縁の女性
で、いつもフトンに入ると、朝までイビキをかいて寝ている。私はときどき、夜中にワイフを起こ
して、「眠られないよ」とこぼすことがある。が、結婚して以来三〇年、ワイフが私に対してそうし
たことは、一度もない。だいたい夢すら見ないという。(見るのだそうだが、起きると同時に忘れ
るのだそうだ。)

 「ぼくはね、お前と違って、はるかに真理に近いところにいるよ」
 「死ぬことばかり考えるのが、真理なの?」
 「時間がないということ……」
 「いくらでも、あるじゃない?」
 「ない!」
 「ある! だからあんたはかわいそうな人なの。いつも何かに追われている。そういうのを、
貧乏性というのよ」
 「まあ、追われているのではなくて、考えるのが趣味みたいになっているからね」
 「そうね」
 「そうだな」

 途中、左を、左ハンドルの外車が走りぬけた。それを見て、ワイフが、「あれっ、あの車、左シ
ートよ」と。そこで私が、「左シートとは言わないの。左ウィンドウって言うの」と。が、しばらく考え
て、二人で笑った。

 「ぼくら二人とも、アルツハイマーみたいだね。左ハンドルを、左シートとか、左ウィンドウとか
……」
 「そうね、外車なんて、縁がないから……」
 「そうだね」と。

 見ると、澄んだ空気の向こうに、きれいな夕日が沈むところだった。明るい橙色の光線が、幾
重にも重なって、車の窓の中に注いでいた。
(03−1−17)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(529)

乳幼児にも記憶がある!

 まず、あなたの記憶を、できるだけ過去へたどってみてほしい。あなたは何歳ぐらいまで、自
分の記憶をたどることができるだろうか。

 小学生のころの記憶は、かなりはっきりしているし、数も多い。何らかの条件、たとえば「遠足
のとき」「漢字を勉強しているとき」「お父さんにおんぶしてもらったとき」という条件をつけると、
いろいろな記憶が、まさにイモづる式に引き出されてくる。

 しかしその記憶も、幼児期に入ると、ぐんと少なくなる。あっても断片的で、しかもはっきりしな
い。

 こういう経験から、従来、乳幼児期には、記憶は蓄積されないというのが、定説であった。し
かしこれはまちがっていた!

 たとえば五歳児(年中児)に、「あなたは小さいころ、お父さんとDランドへ行ったのを覚えてい
る?」と質問すると、「覚えている」と言うことがある。あらかじめ父母に調査票を渡し、何歳ご
ろ、何をしたかということを書きこんでもらっている。それを見て質問するわけだが、この時期、
二、三年前でのことなら、かなり正確に覚えている。「お父さんと、おばあちゃんと行った」とか、
「お母さんもいた」とか。

 「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌
二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 それまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 このことは重要な意味をもつ。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになるというのは、ほぼ定説になったとみて
よい。つまり子どもは、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になった
とき、自分も子育てができるようになる。たとえば不幸にして不幸な家庭に育った親というの
は、どうしても子育てがぎこちなくなる。「いい親でいよう」「いい家庭をつくろう」という気負いば
かりが先行し、そうなる。

 ふつう子育ての世界をみていて、極端に甘い親、あるいは反対に、極端にきびしい親と言う
のは、いわゆる「親像」のない親とみる。自分の頭の中に、親というのがどういうものであるか、
その像がきざまれていない。もっと言えば、そのため、自然な形での子育てができない。

 で、そうした記憶、つまり自分が親から受けた子育ての記憶が、どこにどう蓄積されるかとい
う問題が、従来よりあった。A・メルツォフらの研究は、それに結論をくだしたわけだが、乳幼児
期に子どもが受けた体験も、当然、「学習」という形で、記憶に残ることになる。ただ現象的に、
「忘れた」という形になるのは、記憶として再生できないからというにすぎない。

 乳幼児にも、記憶がある。新生児にも、ある。「うちの子は赤ん坊だから、何も記憶していな
いだろう」と考えるのは、まったくの誤解。そればかりか、今、子どもは、自分がどんな子育てを
受けているかを、しっかりと記憶している。そしてそれが基礎となって、自分が親になったとき、
今度は、それを再現する形で、子育てができるようになる。「乳幼児にも記憶がある」という事
実は、そういう意味で、たいへん重要な意味をもつ。
(03−1−19)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(530)

アメリカの育児、「ファーバー方式(FEBER METHOD)」

●ファーバー方式
 新生児の夜泣きの対処のしかたについて、アメリカには、「ファーバー方式」というのがある。
それについての紹介文を転載する。ファーバーというのは、その考案者の博士の名前をいう。
(義理の娘が通う、母親学級のテキストからの転載)

Your baby is crying, and wakes up several times during the night. Your'e exhausted, and 
haven't had a descent night sleep, what are you going to do?  Ferberizing your baby will 
help your child sleep through the night and will help you from going mad from lack of sleep. 
Dr. Ferber, a leading pediatric sleep disorder specialist, has come up with a method 
guarantee to get your child sleeping through the night. 
 あなたの赤ちゃんが泣き、毎晩何度も起こされる。
 あなたは消耗し、安らかな眠りを得られない。
 そういうとき、どうしますか?
 睡眠障害のスペシャリストのファーバー博士が、あなたの赤ちゃんが眠るのを助けます。
The Ferber method is a progressive method and it calls for the parents to let their babies 
cry for a set period of time before comforting or "checking in on their child". Although the 
Ferber method does work for some parents, others think that it is to rigid. It is important to 
read the book and to decide for yourself. Some of the mothers in my classes have modified 
his method to fit their schedules and tolerance levels.

ファーバー方式は、泣いている赤ちゃんをなぐさめたり、「あれこれ原因さがしをする」前に、あ
る程度泣かせるという方式です。
ファーバー方式は、有効なときもありますが、しかし厳格すぎるという人もいます。
大切なことは、あなた自身が自分で本を読み、判断することです。
私の(母親教室の)母親たちは、自分たちの忍耐力のレベルにあわせて、このファーバー方式
を修正して、応用しています。

 Dr. Ferber is the first one to tell parents that his method can take a toll on the family. So
me parents cannot bear to hear their children cry for extended periods of time. Ferber 
states in his book that in order for his approach to work it is very important to stick with 
the routine. There are no exceptions unless your are traveling , your child is sick or you 
have company at your house. If you disrupt your babies sleep schedule and they start to 
wake up during the night again you will probably have to referberize the child. 
ファーバー博士は、この方式は、母親の負担を減らすものだと、述べています。
母親によっては、(忍耐の限界を超えて)赤ちゃんが泣きつづけることに耐えられない。
ファーバー博士は、この本の中で、この方式を応用するためには、日常生活をそのままつづけ
ることが重要だといいます。
旅行中とか、赤ちゃんが病気とか、来客中とかいうのであれば別ですが、例外はないといいま
す。
もし赤ちゃんの睡眠スケジュールを乱すと、赤ちゃんをあやすために、また夜中に起きなけれ
ばならなくなります。

 In his method Dr. Ferber suggest that after a loving pre-bedtime routine that you put 
your child to sleep while your baby is still awake. Putting your child to sleep while he/she is 
still awake is very important and this will teach them to go to sleep on their own.

この方式の中で、ファーバー博士は、赤ちゃんがまだ目をさましていても、赤ちゃんを寝さか
せ、いつもの就眠儀式をすることを提案しています。

まだ目をさましている赤ちゃんを寝させることは、とても重要なことで、このことが、赤ちゃんが
自分で眠ることを教えます。

 Ferber suggests that children be at least 5 months old before you try to ferberize them. 
Your baby must not be sick, or on any medications that will interfere with his/her sleeping 
when you start the method. Once your child is in bed leave the room and if she/he cries, 
wait a certain amount of time before you check on your child again.(the waiting time is 
outlined in his book, 

ファーバー博士は、少なくとも五か月未満の赤ちゃんは、この方式を応用してみるとよいと言っ
ています。
この方式をはじめるときは、まず赤ちゃんが病気でないないことが前提となります。
赤ちゃんがベッドに入ったら、赤ちゃんが泣いても、(親は)部屋を出ます。
そしてしばらく様子をみます。
(その時間については、本の中のガイドに従ってください。)

(Solve Your Child's Sleep Problems). After the "waiting time" check in on your child but do 
not rock, feed or pick her/him up. Soothe your child only with your voice. Gradually increase 
the amount of time between the visits to your child's room. Eventually (usually within a 
week) your child will realize that crying means nothing more than a brief check from you. He 
or she will learn to sleep on his/her own through the night and you will also get the sleep 
that you have been deprived of for so long. 

赤ちゃんの睡眠問題を解くために……
しばらく待ってみて、赤ちゃんをチェックし、赤ちゃんを抱いてあげます。
あなたの声で、赤ちゃんをあやします。
少しずつ、赤ちゃんの部屋を訪問する時間を長くしていきます。
結果として(ふつう一週間単位で)赤ちゃんは、泣いても無駄ということを学びます。
そして赤ちゃんは夜の間、眠るようになります。
あなたも眠られるようになります。

 Ferber states that it's ok for your child to throw a tantrum or to cry for extended periods 
of time this will not hurt your child. He/she will realize that crying will get them nowhere. To 
ferberize or not ferberize is a decision that only you and your partner can make. Here's 
what some parents are saying about the Ferber Method.

ファーバー博士は、赤ちゃんがかんしゃくを起こし、ある程度の間泣いても、この方式は、赤ち
ゃんを傷つけないといいます。
赤ちゃんは泣いても、何も解決しないことに気づきます。
ファーバー方式を使うにせよ、しないにせよ、それはあなたが決めることです。
ここにいくつかコメントがあります。

" I hated it. I just couldn't ! let my child cry not even for 5 minutes". Jody 

「この方式は、嫌いです。私は五分だって、子どもには泣かせることはできません」

" I was so exhausted I couldn't do anything. His method saved my life." Sonia 

「私は疲労しました。彼の方式は、私を救いました」

"It's great to have a formula to follow. It worked with all my kids." Maria 

 「すばらしい方式です。私の子どもたちには、有効でした」

●はやし浩司より
 このファーバー方式は、アメリカでは広く知られている。子育て(parenting)の指導法として
も、一定の地位を確立しつつある。
 
 私も、外国へ行くと、よく書店をのぞいてみる。向こうでは、いわゆる「教育書」と「育児書」
が、ほぼ、同じ割合で、並んで書店に並んでいる。一方、この日本では、育児書の多くは、書
店の目立たないところに、ひっそりと並んでいる。このあたりにも、「家庭教育」に対する認識の
違いがある。つまりこの日本では、「何でも幼稚園や保育園で……」という考え方が強く、一
方、欧米では、「子育ては家庭で……」という考え方が強い。
(03−1−19)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(531)

変わる親の意識

 読売新聞社が、親子の意識調査をした(02年12月)。それによれば、子どもの将来像につ
いて、最近の親たちは、つぎのように考えているという。

 一九歳以下の子どもがいるという親に、「あなたは、自分のお子さんに、どんな人生を送って
ほしいと思いますか」と聞いたところ、結果はつぎのようであったという。

     幸せな家庭を築く    ……82%
     好きな仕事に就く    ……70%
     人のためになることをする……51%
     趣味などを楽しむ    ……31%
     金持ちになる       ……8%
     出世する         ……4%●
     有名になる        ……1%

 さらに「あなたは、自分のお子さんが成長していく上で、とくにどんなことを望みますか」につい
ては、

     人の痛みがわかる人間になる……60%    
     健康な体をつくる     ……50%
     責任感の強い人間になる  ……44%
     ルールやマナーを身につける……41%
     自立心を身につける    ……29%
     ものごとに粘り強く取り組む……24%
     友だちをたくさんつくる  ……21%
     学力をしっかりと身につける……19%●

 この中でとくに注意したいのは、「出世する」が、たったの4%、また「学力を身につける」が、
最下位のたったの19%であること(●印)。

 このことは、今、急速に、日本人の教育観が変化していることを意味する。旧来型の出世主
義が崩壊し、かわって家族主義が台頭し、そしてそれに呼応するかのように、「学力中心の教
育観」が、やはり崩壊し始めているということ。若い親たちを中心に、まさに「サイレント革命」の
完成期にきたとみてよい。

 問題はこうした変化があるということではなく、一部、そのため、旧来型の教育観をも親と、そ
れを受け入れない子どもたちの間で、はげしい対立が起きているということ。年々少なくなって
きているとはいえ、まだなくなったわけではない。今でも、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘
を繰りかえしている親子は、いくらでもいる。

 私はこの調査結果をみて、痛快に思ったのは、「出世する」が、最下位のたったの4%だった
こと。私たちが子どものころは、「(人に認められるような)立派な人になれ」「(社会のために)、
社会で役にたつ人になれ」と、それこそ耳にタコができるほど、さんざん言われた。学校の卒業
式などでも、決まり文句になっていた。戦前の「国のため」が、戦後は、「社会のため」に置きか
わっただけ。大きく変わったように見えるが、中身は、何も変わらなかった。

 しかし今は、たったの4%! バンザーイ! 「出世なんて、クソ食らえ!」だ。個人が出世主
義に溺れるのはかまわないが、それが政治や学問の世界で利用されると、とんでもないことに
なる。日本の針路そのものが、狂う。それがわからなければ、あの田中K氏を見ろ。あの鈴木
M氏を見ろ。

 もちろん名誉や地位は、それなりに意味がある。肩書きもそうだ。しかし人が、まっさきにそ
れを求めたら、その人は見苦しくなるだけ。あくまでも、それは結果。懸命に生きた、その結
果。名誉や地位や、それに肩書きは、あとからついてくるもの。子どもたちには、いつも、そう
言いたい。
(03−1−19)

●成功して満足するのではない。満足していたから、成功したのである。(アラン「幸福語録」)
●成功は結果であって、目的ではない。(フローベル「随想」)
●人が気に入るかどうか、それを気にしない人が、世の中で成功できる。(キンケル「詩」)

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子育て随筆byはやし浩司(532)

雑談

●コンパクトな生活
 「老後」がそこに見えてくると、ものの考え方が変わってくる。そのひとつ。何かにつけ、もの
の考え方がコンパクトになってくる。店でモノを手にしても、「こんなもの、あってもしかたないな」
とか、「どこへ置くのか」と、そんなふうに考えてしまう。

 夫婦二人になれば、広い家は必要ない。それを支えるだけの収入が保障されるなら、それで
もかまわない。が、私のばあい、その保証はない。それを思うと、気が重くなる。家にしても、寝
室と、居間をかねた台所、それに小さな仕事部屋があればよい。

 今の土地と家を売って、町の中のマンションに移るという方法もある。オーストラリアの田舎で
は、そういう生き方をする人も多い。私もそれを、ときどき考える。「どこかマンションに移ろう
か」と。町の中の便利なところがよい。近くにスーパーもあり、バス停もある。病院もあり、……
まあ、ぜいたくは言わない。あとは職場に近ければよい。

 となると、ぼう大な数の本はどうする? 本だけでも、今のままだと八畳間が必要。テレビも
大型だから、やはり同じような部屋が必要。それに家財道具の数々。大工道具だけでも、いく
箱もある。ほかに電動ノコに電動カンナ、電動チェーンソーに電動ドリルもある。こういうもの
は、どうする? しかたないから、処分する。本も、本当に必要なものを残して、処分する。テレ
ビは、今度買うときは、小さくてもよいから、液晶テレビにする。食器も、二人分ずつあればよ
い。箸もスプーンも。あとは処分する。

 こう考えていくと、何だかさみしくなる。どんどん自分が小さくなる。小さくなって消えていく。「そ
うであってはいけない」と思うが、これだけはどうしようもない。コンパクトな生活にして、その
分、より安心感のある生活にしたい。生活費にしても、今のように毎月ギリギリというのでは、
不安だ。心配だ。老後はある程度、余裕のある生活にしたい。そのためには、当然、生活の質
を落とし、無駄を削らねばならない。……と、いろいろ考える。

 ああ、またジジ臭くなった。どうしてこうも、ジジ臭いことを考えるのか。しかしそう考えるのは、
あくまでも外の「形」。心の中は、そうではない。心の中は、コンパクトにする必要はない。また
そんなことは、みじんも考えていない。むしろ生活がコンパクトになる分だけ、心の中は広くした
い。これは私の意地のようなもの。死ぬまで、この広さは確保したい。

++++++++++++++++++++

 ここまで書いていたら、オーストラリアの友人たち二人から、つづけて電話が入った。メルボ
ルンに住むD君と、アデレードに住むR君。このところオーストラリアは、かってない大型の山火
事(ブッシュ・ファイア)に見舞われている。そこであれこれ心配して、メールを書いたら、電話が
かかってきた。「だいじょうぶだ」「心配ない」と。反対に、D君には、「北朝鮮がおかしいが、日
本はだいじょうぶか?」と聞かれてしまった。D君は、以前、オーストラリア国防省に勤めていた
ことがある。「心配だ」と答えたら、「あの国は、もうすぐ崩壊(コラプス)するだろう」と。ホント。
はやく崩壊してほしい。

++++++++++++++++++++

●いろいろあって……
 日々の生活は、どうしてこうもわずらわしいのか。よくもまあ、こうまでつぎからつぎへと、いろ
いろなことがあるものだ。私のようなものが、国際情勢を心配したところで、どうにもならない。
しかしそれも気になる。つぎに家族の問題、親類の問題、近隣の問題などなど。今日はワイフ
が風邪気味で、夕食は私が作った。洗い物がまだしてない。それも気になる。

 こういう日々の生活の中で、生きがいや、さらには夢や希望を、どうやってもてばよいのか。
いや、生きがいのある人は、まだ幸せなほうだ。ほとんどの人は、生きがいどころか、その生
きがいをどこに求めるか、それすらわからないでいる? それは無数の砂粒の中から、小さな
宝石をさがすようなもの。毎日、砂をかきわけながら、生きがいという、小さな小さな宝石をさが
す……。しかしその宝石が見つかれば、まだよいほうだ。たいていは、見つからない。「やっぱ
り、今日もダメだった」と思いながら、毎晩、目を閉じる。

●人間の生活には目的はない。生きていること自体が、その目的である。(アルツイバシェフ
「サーニン」)
●長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のた
めに生きたことになるのだろう。(有吉佐和子「恍惚の人」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(533)

子育てポイント

●ふつうこそ、最善
 ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。賢明な
人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。
 そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。それま
ではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったことがある。その
ため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと歩いている人が信じら
れなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それまでとは違って見えたことはな
い。
 子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。できるな
ら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値がわかる。平凡
は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の中で光り輝くのは、
平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。
 今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、つら
い。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、それは喜びに
変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。
こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦労も知
らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に入れておくとよい。
子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの成長を
望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と望みながら、同
時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその子育てが終わると、とたん
に、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れが、容赦なく、あなたを責め始め
る。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。それは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよ
い。
 私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく過ごす
ことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、何と味気なく、
つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てがほぼ終わりかけたときに
気づいた。
子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値がある。そ
のときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う私も、偉そうなこ
とは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさに愚かな人ということにな
る。


●子育ては目標さがし
「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはない。そのと
きどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態で、どうして子育てが
できるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを聞いて、言いようのない不安
にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、と。
 目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心の地
図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広ければ広い
ほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。
 問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に対し
て、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受けた子育てが
最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そして自分だけの子ども
観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと。そういう点では、「私の子どものことは私が
一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、正しい」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやす
い。この世界には、そういうジンクス(=悪い縁起)がある。つまり心の地図を広くするために
は、謙虚であればあるほど、よい。
 そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒントとし
て、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立させることこそ、ま
さに子育ての目標である、と。
 これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよき家庭
人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリアでも、カナダでも、
ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、私が直接、確認した。フラン
ス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導するのですか?」と聞いたときのこと。
「そんなのは、常識です」と。
 日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。歴史は
歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代の圧制暴君
たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、殺されたこと
か! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖政治の時代だっ
た。それを忘れてはならない。
 話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会から、
能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そして出世
主義社会から、家族主義社会へ。
 地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。そしてそ
の地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」ということになる。


●限界を知る
 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分のことな
らともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほ
ど、子どもを苦しめるものはない。そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思った
ら、すかさず「やってここまで」と思いなおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなも
の」とあきらめる。その思いっきりのよさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、
その時点から、子どもは前向きに伸び始める。
 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」などと
言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときから、親の言い
方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんばっている、よくがんば
ったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。子ども自身が、その限界のカベ
を破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のことで考えてみればよい。
 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただってやる
気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「もっと働きな
さい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。
 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の無
理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態度は
大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学に……」と
思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とかA中学に……」とな
る。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理することないよ」となる。
 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いということ
(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりにも多いという
こと(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊してしま
う親があまりにも多いということ(失礼)。さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親
があまりにも多いということ(失礼!)。またそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりに
も多いということ(失礼)。それを避けるためにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。
限界を認める。親としては、つらい作業だが、その度量の深さが、親の愛の深さということにな
る。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子どもも
少なくない。ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、
自分のわがままをとおしていた。その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠し
た。先生にほめられたことだけを話し、叱られたことは話さなかった。
 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君が
いちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言った。その
男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。しかしその男の子は、それを父親には言わ
なかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなることを、その男の子はよく知っていた。
 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮面がはが
れたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子どものほうが自ら
親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。

●仮面に注意
 もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよい。それ
は、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、いない。「でき
がいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た結果として決まること
で、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。
 ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先生の
指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこんだ。たしか
に優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。小学五年生のときのこと。これ
から夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテストのことを心配していた。私が「そん
な先のことは心配してはいけない」と何度も言ったのだが、その女の子にしてみれば、それが
彼女のリズムだった。母親にも私はそう言ったが、母親はむしろそれを喜んでいるふうだった。
「あの子は、大学の医学部へ行くと言っています。あの子の望みをかなえさせてあげたいです」
と。
 しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害(過食、
拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引きこもるように
なってしまった。
 こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、それに気
づかない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子どもで、親がそう思
うの分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
 もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの子ども
は、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。

(1)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくできる。マナ
ーもわきまえている。人前では礼儀正しい。
(2)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生の指示
に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。
(3)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、ぐずったり
することも少なく、独立心が旺盛にみえる。
(4)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現することが少
ない。万事にがまん強い。
(5)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このまま優秀な
まま、おとなになっていくと思うことが多い。

 子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければならな
い。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。もちろん
子ども自身の問題もある。仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くことができない子
どもとみる。しかしそれとて、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互愛着行動のどこかに
問題があったとみる。子どもの側からみて、満たされない愛、あるいは大きなわだかまりや、欲
求不満が、その背景にあったとみる。
 しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子どもの
心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。その時期は早
ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……というより、なおす
のは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうからである。そういう覚悟で、
時間をかけて対処する。
 しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう言っ
た。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩連続でと
まることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰ってきます」と。
 この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているという。そ
のため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、本当に多
い。
 そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、いいか
げんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさいほど自己主張
し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいなら、むしろそれを喜ん
だらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、そういうもの。そうであるべ
き。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。
(03−1−20)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(534)

●【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司

●No.48「こまかい指導は、子どもをつぶす」(
(メールマガジン「週刊E'news浜松」2003/1/20 No.003-003/2324
 毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344より、転載)
 
文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や
 書き順は言うにおよばず、逆さ文字、鏡文字など。このとき大切なことは、
 こまかい指導はしないこと。日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、
 ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の名残をこうまでこだわらねばな
 らない必要はない。……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美
 しさを否定するのか」と言う人が必ずいる。あるいは「はじめに書き順など
 をしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人がいる。しか
 し文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しく
 ない」というのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコン
 が発達してくると、書き順とは何か、そこまで考えてしまう。

 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた
 作文を見て、私はびっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなもの
 がいっぱいあった。そこで私がそのクラスの先生(小三担当)に、「なおさ
 ないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピアの時代
 から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。また
 ルール(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸
 をつけないでほしい。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切な
 ことは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」という思いを、子どもがもつ
 こと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイプの親
 や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に
 今、「作文は大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子ど
 もは少ない。よく日本のアニメは世界一というが、その背景に子どもたちの
 作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれない。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところ
 はなおせばよい。またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子
 どもを勉強好きにする。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
★浜松市のホットな情報は、「週刊E'news浜松」で!

(補足)もともと「学ぶ」は、「マネブ(まねをする)」に、由来するという。つまり日本では、「先人
のマネをする」が、「学ぶ」の基本になっている。そのひとつが、日本独特の「型」教育。日本人
は、子どもを、型にあてはめることを教育と思い込んでいる。少なくとも、その傾向は、外国と
比べても、はるかに強い。そのよい例が、英語の書き順。
 たとえば「U」は、まず左半半分を上から下へ書き、つぎに右半分を上から下に書いて、底の
部分でつなげる。つまり二画だそうだ。同じように、「M」「W」は、四画だそうだ。こういう英語国
にもない書き順が、日本にはある! 驚くというより、あきれる。ホント!
 そのため、日本では、今でも、先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。アメ
リカやオーストラリアでは、先生は、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と授業を進める。こ
の違いは、大きい。またその根は、深い。
 もうトメ、ハネ、ハライなど、もうなくしたらよい。それを守りたいという人に任せて、少なくとも、
学校教育の場からは、なくしたらよい。(もう二〇年前から、私は、そう主張しているのだが…
…。)書き順にしても、それにこだわらなければならない理由など、もう、ない。守りたい人が守
ればよい。守りたくない人は、守らなくてもよい。それよりももっと大切なことがある。その「大切
な部分」を、教えるのが教育ということになる。この「ワンポイントアドバイス」の中では、それを
書いた。
 ただこういう私の意見に対して、「日本語の美しさを君は否定するのか?」という反論もある
のも、事実。とくに書道教育関係者からの反論が、ものすごい。しかしこのアドバイスの中にも
書いたように、「美しい」とか、「美しくない」とか思うのは、その人の勝手。それを他人、なかん
ずく子どもに押しつけるのは、どうか。私は、トメ、ハネ、ハライがあるから文字が美しいとか、
ないから美しくないとか、そういうふうには、思わない。みなさんは、この問題を、どう考えるだろ
うか?
(03−1−21)

●国語の勉強は、読書に始まり、読書に終わる。アメリカの小中学校へ行って驚くのは、どの
学校にも、図書室が、学校の中心部にあること。(たいていは玄関を入ると、そのすぐ近くにあ
る。)そして小学校の場合、週一回は、「ライブラリー」という勉強がある。これはまさに読書指
導の時間と思えばよい。さらに驚くべきことは、この読書指導をする教師は、ふつうの教師より
もワンランク上の、「修士号取得者」があたることになっている。このあたりにも、日本とアメリカ
の教育に対する考え方の違いが、大きく出ている。もちろん、アメリカには、英語の書き順など
ない。(また書き順と構えなければならないほど、文字の数がない。)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(535)

親の愛情不足?

Q:私がテレビを見ていると、四歳の娘がすぐひざの上にのってきます。どう対処したらいいで
しょうか。(父親、IセンターA保育園での講演後の質問より)

A:よく誤解されるが、親に愛情がないから、子どもが愛情不足の症状(欲求不満など)を示す
のではない。子ども側から、働きかけがあり、そのとき、親が拒否的な態度に出たりすると、子
どもは愛情不足の症状を示すようになる。もう少しわかりやすく説明すると、こうなる。

 親子の愛情(愛着行動)は、相互的なものである。親は子どもに対して、愛着行動を示す。た
とえば子どもを抱きあげ、「かわいい、かわいい」と言って、頬ずりするのがそれ。一方、ここで
重要なのは、子どもも、親に対して愛着行動を示すということ。最近の研究では、生まれたば
かりの新生児ですら、親に対して、愛着行動を働きかけていることがわかっている(イギリス、
ボウルビー、ケンネル※)。親に微笑みかけたり、手足をバタつかせたり、あるいは泣いて甘え
たりするなど。

 この子どもからの愛着行動の働きかけがあったとき、親がそれを受け止めてやるかやらない
かで、愛情不足かどうかが決まる。つまりこのとき、子どもの側から見て、それを親に受け入れ
てもらえないとき、その時点で、子どもは「不満足感」を、欲求不満症状に変える。このことは、
つぎの点で重要な意味をもつ。

(愛情表現)子どもを抱きながら、「かわいい、かわいい」と言って、頬ずりするのは、ここにも書
いたように、親側から子どもへの愛着行動ということになる。しかしそのとき、子どもがそれを
望んでいないとしたら、子ども側からみれば、それは迷惑な行為ということになる。親は、「子ど
もは喜んでいるハズ」「うれしがっているハズ」と考えてそうするが、それは親の身勝手というも
の。またそういうことをしたからといって、子どもが満足したり、深い親の愛を感ずるということ
にはならない。それがわからなければ、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたが妻で、今、部屋を掃除していたとする。そのとき夫がうしろからやってきて、あな
たにその気もないのに、あなたを抱き、「愛している、愛している」と、体中をさわり始めたとす
る。そのとき、あなたは夫に愛されていると感じ、それを喜ぶだろうか。喜ぶ人もいるかもしれ
ないが、しかし大半は、それを迷惑に思うに違いない。

 しかしあなたが反対に、体の中に燃えるものを感じ、それとなく夫の体に触れたとする。その
ときあなたの夫が、「うるさいな……」というような表情をして、あなたの体を払いのけたとする。
つまり夫に拒否されたとする。そのときあなたはどう感ずるだろうか。

 つまり子どもも同じで、子どもが愛情不足を感ずるのは、子ども側から何かの働きかけをし、
それが親に拒否されたときである。言いかえると、子どもが何らかの形で、親に対して愛着行
動の働きかけがあったときこそ、親側の愛情表現の見せどころということになる。いくつかの例
で考えてみる。

●子どもが親のひざの上に座ろうとするとき
●子どもが親に甘え、体をすりよせてくるとき
●子どもがぐずり、わけのわからないことを言って、ダダをこねるとき
●何か新しいことができるようになて、それを親に見せにきたようなとき

こうした働きかけは、必ずしも平和的なものばかりではない。中には、わざと親を困らせたり、
あるいは攻撃的、暴力的な方法で表現する子どももいる。こういうときどのように対処したらよ
いかは、また別に考えるとして、基本的には、子どもの心を大切に受け止めてあげること。つま
り相談(冒頭)のケースでは、父親は、ある程度子どもが満足するまで、そのままの姿勢を保つ
のがよい。

 というのも、こうしたケースでは、子どもが親のひざに抱かれたいと思うのは、あくまでも症状
とみる。もっと言えば、情緒を安定させるための、代償行為と考える。だからこの段階で、父親
が、娘を拒否すれば、その時点で、子どもの情緒は一挙に不安定になる。言いかえると、子ど
もはこうした代償行為(よく知られた例に、指しゃぶりなどがある)を繰りかえすことで、自分の
情緒を安定させようとする。もっと言えば、「なぜ抱かれてくるか」という原因をさぐってみること
こそ大切。その原因を放置したまま、症状だけを攻撃しても意味はない。それはたとえて言うな
ら、肺炎で熱を出して苦しんでいる子どもに、「熱をさます」という理由で、水をかけるようなも
の。

(愛情は量ではなく質)よく「私は子どもを愛せない」と悩む親がいる。しかし問題は、愛せない
ことではない。問題は、子どもが親に対して何らかの愛着行動を働きかけてきたとき、それに
答えることができるかどうかである。つまりその答え方ができれば、それでよし。しかしそれが
できないときに、問題が起きる。たとえば子どもが、母親の服のゾデを引っぱりながら、「ママ
〜」と甘えてきたとする。そのとき大切なのは、その瞬間だけでもよいから、子どもの甘えを受
け止めてあげること。そして子どもの側からみて、「絶対的な安心感」を覚えられるような状態
にすること。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。

 そういう意味では、愛情は、量の問題ではなく、質の問題である。ベタベタの愛情が、好まし
いわけではない。先にも書いたように、親側の一方的な愛情は、子どもにとっては、迷惑ですら
ある。つまり愛情が多いからよいというのでも、また少ないから悪いというのでもない。要は、子
どもがそれで安心感を得られるかどうかである。その点だけ注意すれば、「子どもを愛していな
い」ということに悩む必要はない。(愛していれば、それに越し
たことはないが……。)

 結論から言えば、子どもが親のひざのなかに入ってきて、甘えるしぐさを見せたら、子どもが
ある程度満足するまで、抱いてあげる。子どもにとって、父親のひざは、まさにいこいの場。体
を休め、心をいやす場。それだけではない。親子の情愛も、それで深めることができる。また
親の立場からしても、子どもの体のぬくもりを感ずることは、とても大切なことである。こういう
時期は、その渦中にいると、長く見えるが、終わってみると、あっという間のできごと。あとあと
人生の中で、光り輝くすばらしい瞬間となる。だからそういう時期は、そういう時期として、子育
てとは別に、大切にしたらよい。
(03−1−21)

※……母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知ら
れた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることがわ
かってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児の
発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥が
現れるという。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
子育て随筆byはやし浩司(536)

マリアの処女懐胎について

 マリアの処女解体について、オーストラリアの友人(M大学教授、D・K氏)から、こんな情報が
入ったので、報告する。

Dear Hiroshi,

Thank you for your phone call and for your concern. Melbourne is in no
danger. The fires are about 300 kilometers away. There was a lot of
smoke over Melbourne yesterday but today the sky is clear.
Australia will have severe bush fires about every 20 years I think.
As for the virgin birth and Mary, some scholars say this is based on a
mistranslation of the Greek New Testament. They say the word should be
be "young woman" not "virgin". Roman Catholics believe in the Virgin
Mary but many other Christians have a different view of this. There has
been a lot of discussion of this in recent years.
Dennis

浩司へ

心配してくれてありがとう。
メルボルンは心配ありません。
山火事からは300キロ離れています。
昨日は煙が届きましたが、今日の空はきれいです。
オーストラリアは20年ごとに、大きな山火事に襲われます。

処女懐胎をメアリー(マリア)についてですが、
「ギリシャ語の新約聖書の誤訳である」という説もあります。
その語は、「処女(バージン)」ではなく、「若い女性」と翻訳すべきだというのです。
ローマカトリック教会は、「処女」を信じていますが、多くのほかの
宗派は、違った見解をもっています。
最近、この点についての議論がたくさんなされています。
DDより

+++++++++++++++

 こうした誤訳の中で、私自身が発見したものに、つぎのようものがある。

 ミケランジェロが彫刻した「ダビデ王の像」には、額のところに、二つのコブ状の角(つの)が
ある。それとよく似た角が、中国の神農(炎帝のこと。黄帝はこの炎帝を倒して位についたとさ
れる。神農は、漢方医学の神様と言われている)の額にもある。不思議な一致である。そこで
その共通点の根拠をさぐってみたところ、ミケランジェロは、当時の常識に従って、ダビデ王の
額にコブ状の角をつくったのがわかった。しかし、それは「角」ではなく、「光線(RAY)」だった。
つまり誤訳だった。つまりダビデ王は、頭から光線を出していたという。その「光線」が「角」と誤
訳され、ヨーロッパには、「コブ状の角」として伝わった。それでミケランジェロは、ダビデ王の額
に、コブ状の角をつくった。話せば長くなるが、結論を簡単に言えば、そういうことになる。

 こうした誤訳を私自身も確認しているので、「若い女性」を、「処女」と誤訳したと聞いても、私
は驚かない。キリスト教徒の人には悪いが、こうした誤訳は、聖書(とくに旧約聖書)の中には、
いたるところにある。

+++++++++++++++

 さて本題。

 あなたが夫であるとする。結婚という結婚ではないにしても、一応結婚していたとする。同棲
(どうせい)という形でもよい。ともかくも、ある日、突然、妻が妊娠した。あなたには、セックスを
した覚えはない。そこであなたは妻に、「だれの子だ!」と問いつめた。すると妻は、「神の子
だ」と。

 このとき、妻の言葉をそのまま受け入れるのは、たいへんなことだ。私なら、「何をバカなこと
を言うか!」と、妻を一蹴(いっしゅう)するに違いない。が、ヨセフは、父親として、イエスを受け
入れた。そしてイエスを育てた。それはたいへんな苦悩であったに違いない。「違いない」と書く
のも、はばかれるが、しかし私なら、耐えられない。一説によると、マリアは神の啓示を受けた
というが、ヨセフは受けていない。またヨセフは、一説によると、イエスが神の子としての仕事を
始める前に、他界している。私は、オーストラリアの友人にそのことについて聞いた。「ヨセフ
は、君たちの世界では、どう理解されているのか」と。それについての返事が、冒頭にあげた、
メールである。

 あなたはこの問題を、どう考えるだろうか。「おもしろい問題」と言うと少し語弊がある。キリス
ト教徒の人たちは、不愉快に思うかもしれない。しかし考えるテーマとしては、おもしろい。この
問題は、これから先、機会を見つけて考えてみたい。また新しい情報が入ったら、報告する。
なお、D君の意見では、「マリアを祭るのは、主にローマンカトリックだ」とのこと。参考までに。

++++++++++++++

Dear my friend, DD,

Thank you for your mail.
The reason why I have been interested in Maria and Joseph, Mother and Father of Jesus 
Christ is that the concept of family is different between mothers and children, and between 
fathers and children. I mean hereby that the Austrian psychologist Dr. Froid once wrote in is 
book, that the relationship between mothers and children is stable but the relation between 
fathers and children is less stable. Then I have come to notice that in Christianity people 
worship Maria, not but so often Joseph. So I wondered why? Wasn't Joseph a father of 
Jesus Christ? Everybody says the father of Jesus Christ is God himself, not Joseph. If not 
then, what was he? For what he was with Maria and Jesus Christ? Some people say that 
Joseph was not met by angels as Maria was, and Joseph passed away before Jesus Christ 
started his job as a son of God. Then what was Joseph? Could he accept Maria with Jesus 
Christ? If I had been Joseph, I would not have been able to accept it, but frankly would 
have kicked out my wife when she had said that she had got pregnant but the baby was not 
my son. I can understand the concept of marriage was not the same as we have now. But 
still there are lots of un-understandable facts, about which I asked you over the phone. So I 
have been thinking about this. Thank you for your comments, which is very helpful.

Hiroshi

メール、ありがとう。
なぜ今、ぼくがマリアとヨセフに興味があるかといえば、母親と子ども、父親と子どもの関係
は、違うのではないかということを考えているからです。
フロイトも、そう言っています。
キリスト教では、マリアを祭りますが、それに比べてヨセフの影は、薄いですね。
それでキリスト教国では、どのように考えているかと興味をもったわけです。
ヨセフは、イエスの父親ではなかったのか、と。
一説によると、ヨセフは、マリアのように、神の啓示を受けていない。
またイエスが神の子としての仕事を始める前に、ヨセフは死んでいる。
となると、ますますわからなくなります。当時の結婚の形態が今と違うことは、ぼくにも理解でき
ます。
しかし理解できない面もたくさんあります。で、このことをずっと考えていました。コメントを送っ
てくれて、ありがとう。

浩司より
(03−1−21)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(537)


親の悩み

 オーストラリアの別の友人のJJから、こんなメールが届いている。このところ息子(23歳)の
婚約のことで悩んでいる。毎日のように、メールを交換している。今朝も、こんなメールが、届
いた。

 JJが言うには、息子(SS)の婚約者(LL)と、彼のワイフ(NN)と娘(RR)との折り合いが悪いと
いうことらしい。息子の婚約者が、あからさまに、息子に、「私は、あんたのお母さんと、妹が嫌
い」と言っているらしい。それで友人のJJは、その調整に苦しんでいる。これは私が何度かアド
バイスしたあとの、友人からのメールである。

「Thanks for your reply.

We have essentially taken the view that you have advised.

基本的には、君の忠告に従う。

NN(his wife) in particular has spoken her mind to SS (his son) and LL(his fiance) in her 
usual very frank manner. Now the engagement is announced she has decided to "step out 
of the picture", not interfere any more and give what support is necessary.

私の妻はいつものフランクな言い方で、息子とフィアンセには、話しかけてはいる。しかし婚約
が発表されてしまった今、フィアンセは、「写真の中から飛び出した」(いい子ぶるのをやめた)
ようだ。で、私は彼らにあまり干渉しないで、必要なことはする。

I don't think LL is a particularly Bad person, just that she lives on her emotions and needs 
all attention focused on her. Especially SS's. NN and RR (his daughter) are a bit more 
skeptical about her.

フィアンセは、とくに悪い女性ではないと思う。ただ彼女は息子の関心を自分にひきたいため、
感情に任せて生きている。それで妻や妹は、彼女に懐疑的になっている。

I find I can't "connect" with LL. There is not much feeling comfortable or communicating 
easily with her.

フィアンセのLLとよい関係を保つことはできない。彼女といっしょにいても、私は居心地は悪い
し、気が休まらない。

Let's hope they both "grow up" and see the world and particularly NN and RR in less 
black and white terms.

彼らが成長し、彼女がワイフや娘を、あまり白黒はっきりとした目で見ないようにするのを望む
しかない。

My job is to keep talking to SS and LL and try to push them gently in the right direction. 
There is no particular "bust up" between them and me.

私がすべきことは、息子やフィアンセが、ワイフや娘に正しい方向でやさしく接するように、話す
こと。彼らと私の間は、とくに悪いというわけではない。

Things are even more complicated though, since RR 's new boyfriend, DD, is partners with 
SS in a building construction business. Worse than that he is a long time friend and ex-
boyfriend of LL's!!!!

が、さらに悪いことに、もっと事情は複雑。というのも、娘の新しいボーイフレンドのDDは、息子
のSSの仕事仲間。そのボーイフレンドのDDは、息子のフィアンセのLLの、前のボーイフレン
ド!!! 長くつきあっていた。

Oh what a tangled web we weave!!!

何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!

JJ

JJより」

 こうしたメールの内容はともかくも、私がいつも不思議に思うのは、つぎのこと。

このJJ君にしても、日本では考えられないほど、すばらしい環境の中に住んでいる。今度新し
い二階建ての家を建てたが、周囲には、ほかに家が見当たらない。少し離れたところには、小
さな湖がある。もちろんそれも彼の敷地の一部である。奥さんは女医で、自分は、政府の農業
指導員をしている。息子はアデレード大学を卒業し、建築技術者。娘は、今、同じ大学の医学
部に通っている。そういう彼が、「どうして悩むのか?」と。

「ない人」には、ないことがわかるが、「ある人」には、あることがわからない。私から見れば、そ
の友人は、まさに夢のような生活をしている。いや、私も若いころ、いつかオーストラリアに移
住して、そんな生活をしてみたいと何度も思った。しかしその友人にしてみれば、それがふつう
の生活であり、何でもない生活ということになる。だから私はこうしたメールを交換しながらも、
つい、こう言いそうになる。「君たちはうらやましいような生活をしているのだから、まずそれに
感謝しなければいけない。息子が多少、気に入らない女性と結婚することになっても、がまんし
なければいけない」と。

  しかし、もちろん、当の本人にとっては、そうではない。深刻な問題である。私にはその「深
刻さ」が、不思議でならない。

●幸福というのは、遠くの未来にあるかぎり光彩を放つが、つかまえてみると、もう何でもな
い。……幸福を追っかけるなどは、言葉のうえ以外には、不可能なことなのである。(エミール・
アラン「幸福語録」、1861−1951、フランスの哲学者)

アランは、「幸福などというものは、手にしたとたん、幸福ではなくなる」と。……となると、これ
は、そのまま私たちの問題となる。今、私は幸福でないと思っている部分は多い。しかしその
中には、人もうらやむような幸福があるかもしれないということ。それについては、老子(中国、
道家の根本書物、「老子道徳経」ともいう)は、こんなふうに書いている。

●不幸は、幸福の上に立ち、幸福は不幸の上に横たわる、と。

つまり不幸があるから、幸福がわかり、幸福があるから、不幸がわかる、と。もう少しわかりや
すい例では、他人の不幸を見ながら、自分の幸福を実感する人は、いくらでもいる。そういう点
では、人間は残酷な生きものである。ラ・ロシェフーコ(フランス人作家)も、「われわれはみな、
他人の不幸を平気で見ていられるほど、強い」(「道徳的反省」)と言っている。

これらは、いわゆる幸福相対論だが、相対論だけではすまされないところが、幸福論の、また
深遠なるところである。こう書いている神学者がいる。

●ささいなことで喜びをもちうることは、子どものみではなく、不幸な者の、高貴な特権である。
(リチャード・ローテ「箴言(しんげん)」、1799−1867、ドイツの神学者)

少し皮肉的な言い方だが、ローテが言っているのは、こういうことだ。

 子どもはささいなことで喜ぶ。同じように不幸な人は、身のまわりから、ささいな喜びをさがし
て、それを幸福とすることができる、と。つまり幸福というのは、相対的なものであると同時に、
視点の違いによって、どうにでもなるということ。幸福だと思っている人でも、視点を変えてさが
せば、不幸なことはいくらでもある。同じように不幸だと思っている人でも、視点を変えてさがせ
ば、幸福なことはいくらでもある。もっと言えば、「幸福」などというものは、得体の知れないも
の。さらに言えば、実体のない幻想ということになる。

 友人のメールを読みながら、その内容もさることながら、私は幸福論について、改めて考えて
なおしてみた。多くの文人や哲学者たちが、人生最大のテーマとして考え、そして考えてきた
「幸福論」。これで結論が出たわけではないが、今日はここまででひとつの区切りとしたい。こ
のつづきは、また別の機会に考えてみる。

 しかしそれにしても、まずい。娘のボーイフレンドが、息子のフィアンセの、元ボーイフレンドと
いうのは! 向こうで「ボーイフレンド」というときは、性的関係のある人をいう。日本では、こう
いうのを、「腐れ縁」という。こういう腐れ縁は、何かにつけてトラブルのもと。しかしこの問題だ
けは、親でもフタをすることはできない。言うべきことは言いながらも、あとは様子を見るしかな
い。まさに「何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!」ということになる。
(03−1−22)
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(538)

大勇と小勇(孟子)

 三年間、その床屋には通った。ただ幸いなことに(?)、その床屋のオヤジとは、ほとんど会
話を交わさなかった。私はいつも、床屋では、目を閉じて、眠ったフリをしている。

 その床屋で、ずっと、気になることがある。横に、電子レンジ大の消毒箱がおいてあるのだ
が、私はこの三年間、その箱が開いたり、閉じたりしたのを見たことがない。言うまでもなく、カ
ミソリは、一度使ったら、そのつど消毒しなければならない。あのカミソリほど、危険なものはな
い。とくに注意しなければならないのは、ウィルス性の感染症。カミソリを介して、人から人へと
感染する。

 孟子(中国戦国時代の思想家)は、『勇にも、大勇、小勇の区別あり』と書いている(「孟
子」)。勇気といっても、大きな勇気と小さな勇気があるという意味だが、私は今日も、その床屋
で、目を閉じながら、それを考えた。「こういうとき、オヤジに、忠告すべきかどうか」と。「私に勇
気があるなら、一度、消毒のことを、言うべきだ」と。

 しかし結果として、私は、それをオヤジに言うことができなかった。「こんなことを言うと、気分
を悪くするだろうな」「必ずしも、感染するとはかぎらない」「一応相手はプロだ。プロとしての立
場は尊重しなければならない」と。考えてみれば、小さな勇気だが、どうしても、それができなか
った。……どうしてできなかったのか? 

 かく言う私は、昔から、こわいもの知らず。相手が大きければ大きいほど、ムラムラと勇気が
わいてくる。小学五年生のときは、たったひとりで、一〇人前後の悪ガキを相手にして、けんか
をしたこともある。(私も悪ガキだったが……。)気が小さいくせに、そういう場になると、ハラが
座ってしまう。が、その私が、床屋で悶々と悩んでいる。「ヒゲ剃(そ)りはいいです」と断りかけ
たが、もうそのとき、オヤジは、首のうしろを剃り始めていた。

 私は心を決めた。「ちょうど今日で、スタンプカードは、いっぱいになる」と。スタンプカードがい
っぱいになったところで、○千円引きになる。それを考えた。考えながら、「今日で、この床屋と
はおさらば」と。「三年間通った床屋だったが、オヤジと親しくならなくてよかった」とも。

 そこで改めて、小勇と大勇について考えてみる。床屋のオヤジに小言をいうのは、まさにそ
の小勇ということになる。たいした勇気ではない。一方、巨大なカルト教団を相手に、筆で戦う
のは大勇ということになる。これは命がけだ。私には、そういう大勇はあるが、小勇はない? 
床屋の事件をみても、それは言える。なぜか。大勇のある人は、当然、小勇もあるはず。私の
常識でも、そうなる。しかし実際には、それがない?

 そこで私は気がついた。大勇のある人は、ささいなことは相手にしない。……ということでは
なく、そういうことをするのが、めんどうなのだ。人間に与えられた時間やエネルギーには、か
ぎりがある。そうした時間やエネルギーを一つのことに使えば、どうしても別のところで使うのが
おっくうになる。小さな町の、小さな床屋のオヤジを相手に、正義感を振りまわしたところで、そ
れがどうだというのだ。どうせ不愉快と思うなら、もっと別のところで不愉快と思いたい。おかし
な論理だが、私はそう思った。つまり大勇と小勇は、本質的に、別なもの。

 そこで天下の『孟子』を補足する。

●小勇のないものに、大勇はない。しかし大勇があるから、小勇があるとはかぎらない。
●大勇に使う時間とエネルギーは、小勇に使う時間とエネルギーは、等しい。小勇に使う時間
とエネルギーがあったら、大勇に使え。

しかしこれでは私の正義感は収まらない。さっそく静岡県庁の生活衛生室に手紙を書くことに
した。

+++++++++++++++

静岡県庁
生活衛生室

関係各位殿

拝啓

●調髪のあとの、髭剃りについて……

 私は現在、この浜松市に住むものです。そして調髪のため、随時、近所の理髪店に通ってい
るものです。つきまして、気がついたことがあり、貴組合の指導と指示により、改善していただ
きたい点がありますので、ここに手紙で、申し入れることにしました。

 調髪のあと、髭剃りをしてもらっていますが、そのとき使用するカミソリの消毒が、どこの店で
も、なおざりになっているように思います。私がこの数年間通った理髪店でも、私はあの消毒
箱の扉が開閉したのを、見たことがありません。その理髪店では、たいてい(というより、すべ
て)、前の人を剃ったカミソリを、簡単に洗い流したあと、そのまま、つぎの客の肌にあてて使っ
ています。

 昨今、ウィルス性の感染症がマスコミでも話題になっていますが、こうした行為は、感染症の
伝染という意味でも、たいへん危険なことかと思います。またそういう心配を、利用者全体がも
つようになったら、理髪業界全体にとっても、大きなイメージダウンになると思います。理髪店
では、何よりも衛生状態が、重要視されるのではないでしょうか。よろしくご判断の上、適切に
ご指導くださればうれしく思います。

                                敬具
 
 
                            浜松市     林 浩司

+++++++++++++++

 さてあなたの住む町では、事情はどうだろうか。あなた(あるいはあなたの夫や子どもたち)
が通う床屋では、そのつど器具を消毒しているだろうか。もしそうでないなら、この手紙をコピ
ーして、県庁の担当課まで出したらよい。(担当の課は、県によって名称が異なる。)

 なお、こうした手紙を出す以上、今日を最後に、私はその床屋へ行くのをやめることにした。
もしこの手紙を書いたのが私とわかれば、あのオヤジは、私の首を切るかもしれない。こう見
えても、私は気が小さい。

 なお、いろいろ調べてみたが、こういうケースでは、理容師組合(各県に、県単位で、「理容生
活衛生同業組合」というのがある)にこうした手紙を書いても、あまり意味がないそうだ(県庁に
勤める友人のアドバイス)。皆さんの地域でも同じような問題があれば、その監督指導にあた
る、県の生活衛生部(静岡県のばあい)に、抗議の手紙を書いたらよい。「私は関係ない」と言
ってはいけない。床屋へ行くのは、おとなだけではない。子どもたちだって、行く。
(03−1−22)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(539)

雑感

 六月に静岡市で講演会をもつ。私はどうしてもその講演会を、成功させたい。「成功」というの
は、心残りなく、自分を出しきるということ。講演をしていて、一番、つらいのは、終わったあと、
「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔すること。どこか中途半端なまま終わるこ
と。正直に告白するが、そういう意味では、私はいまだかって、一度とて成功したためしがな
い。

 それに「アメリカのある学者がこう言っています」などという、いいかげんな言い方はしたくな
い。言うとしても、きちんと、「マイアミ大学の、T・フィールド博士はこう言っています」という言い
方をしたい。そのためにも、下調べをしっかりとしておきたい。

 ここで「静岡市」にこだわるのは、静岡県の静岡市、つまり県庁所在地だからである。同じ静
岡県の中でも、浜松市で講演するのと、静岡市で講演するのとでは、意味が違う。それに私の
講演では、東は大井川を越えると、とたんに集まりが悪くなる。さらにその東にある静岡市とな
ると、もっと悪くなる。恐らく予定の半分も集まらないだろう。だからよけいに、成功させたい。

 しかし私はときどき、こう思う。講演のため、数百人もの人を前にしたときだ。「どうしてこの私
がこんなところにいるのだろう?」と。それは実におかしな気分だ。「この人たちは、何を求め
て、ここに来ているのだろう」と思うこともある。だから私は、来てくれた人には、思いっきり、役
にたつ話をすることにしている。私利私欲という言葉があるが、講演では、「私」そのものを捨
てる。かっこよくみせようとか、飾ろうという気持ちも捨てる。こういうとき政治家だったら、自分
をより高く売りつけて、票に結びつけようとするだろう。が、私には、そういった目的もない。よく
主催の方が本を売ってくれると申し出てくれることもあるが、ほとんどのばあい、私のほうが、
それを断っている。そういう場を利用して、本を売りつけるというのは、私のやり方ではない。

 ひとつ心配なことがある。それはこの数年、体力や気力が急速に衰えてきたこと。講演の途
中で、ふと自分でも何を話しているかわからなくなるときがある。あるいは頭の中がボーッとし
てきて、話し方そのものがいいかげんになることもある。言葉が浮かんでこなかったり、話そう
と思っていたことを忘れてしまうこともある。こうした傾向は、これから先、ますます強くなるので
は……?

 生きている証(あかし)として、私は講演活動をつづける。私にとって生きることは考えること。
考えるということは、書くこと。その結果として、私の意見に耳を傾けてくれる人がいるなら、私
は自分の経験と能力を、そういう人にささげる。本当のところ、「メリット」を考えても、それは、
あまりない。もちろん「仕事」にはならない。しかし以前のように、疑問をもつことは少なくなっ
た。三〇代のころは、「なぜ講演をするのか」「なぜしているのか」ということを、よく考えた。が、
今は、それはない。そういうことは、ほとんど考えない。今は、やるべきことのひとつとして、講
演活動を考えている。

どうせやがて消えてなくなる体。心。そして命。死ねば、二度と見ることもないこの世界だが、そ
こに生きたという証になれば、私はそれでよい。

++++++++++++++++

●このマガジンの読者の方で、静岡市周辺に住んでおられる方がいらっしゃれば、どうか、講
演会においでください。まだ私が元気なうちに、私の話を聞いてください。一生懸命、みなさん
の子育てで役立つ話をします!
03年6月24日(火) アイセル21 午前10時〜12時
        主催  静岡市文化振興課 電話054−246−6136
(03−1−22)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(540)



●Mさんへ

 死ぬことを考えてはいけませんよ。私も、落ち込んだようなとき、ときどき「死」について考えま
す。しかしそういうときは、すかさず、「ああ、これは病気なんだ。心が病んでいるからなんだ」と
思いなおして、それ以上、「死」について考えないようにしています。

 心だって、病気になるのです。それはインフルエンザになって、高熱を発するようなものです。
そのときの健康状態を基準にして、自分の健康を考えてはいけません。同じように心が風邪を
ひいたときも、そのときの精神状態を基準にして、あれこれ考えてはいけません。そういうとき
は、静かに、嵐が去るのを待つ。それがコツです。

 そうですね。自殺する人は、決して、「死にたい」とは言いませんね。「〜〜したい」という意欲
があるときは、まだ死ねないものです。子どもでも、「死にたい」「死んでやる」とかいう子ども
は、死にません。

 しかしこわいのは、「もう生きていてもムダ」と思ったり、「生きていて何になるのだろう」と疑問
をもったときです。子どもでも、そういうことを口にするようになったら、注意してください。衝動
的に、死を選ぶことがあります。いえいえ、これは私でも、Mさんでも、同じです。少し、「死」に
ついて、考えてみます。

                              はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++

●死

 私が大学に入学したとき、一年先輩が、私に一冊の本をくれた。それが阿部次郎の書いた、
『三太郎の日記』だった。かなり分厚く、しかも難解な本で、結局、読みきれなかったが、その
中に、こんな一節があった。

『死は生の自然な継続である。最も良き生の後に最も悪しき死が来るべき理由がない。……
死に対する最良の準備が最もよく生きることに在るは疑ひがない』

 わかりやすく言えば、死の準備をしながら生きることは、最良の人生を送るためには必要だ
と。阿部次郎はそう書いている。つまり私たちは、今、元気で健康だからこそ、「死」について考
える。考える価値がある。また考えなければならない。それはいわば心の保険のようなもので
はないか。「死」を前にしたとき、それに動じないようにするためには、どうすればよいか。が、
それだけではない。死について、日ごろから考えておくことは、結局は、今の自分の「生」を充
実させることにもなる。私はこれを、「死の自覚」と呼んでいる。

 そのことは、若い人を見ればわかる。若い人は元気だ。健康だ。「死」とは無縁の世界に生き
ている。しかしそういう若い人を見ていて気づくことは、「人間的な薄っぺらさ」。その薄っぺらさ
を笑ってはいけないが、しかしそれはたとえて言うなら、時間という財産を、食い散らして生きて
いるようにも見える。私自身もそうであったから偉そうなことは言えないが、もったいないという
より、ノーブレイン(思考力なし)に見える(失礼!)。しかしそういう若い人でも、あるとき、「死」
に気づき、そして「生」に気づく。そして賢くなる。

 要は、その時期ということになる。もちろん早ければ早いほどよい。若ければ若いほど、よ
い。それに気づいたときから、その人は「生きる」ことを考えるようになる。いや、生きるだけな
ら、それはそれだけのこと。大切なのは、中身。ソクラテス(ギリシャの哲学者)も、『もっとも尊
重しなければならないことは、生きることではない。いかによく生きるかである』(「クリトン」)と
言っている。ただ生きるだけでは意味がない。「よく生きるか」ということこそ、重要である、と。

そこで「死の自覚」ということになる。ただ誤解しないでほしいのは、これにはきわめて個人差
があるということ。年齢は、あまり関係ない。若くして、「生きる」ことに目覚める人もいれば、年
老いてから目覚める人もいる。ただ、「死」の恐怖を味わってからでは、遅いということ。これも
たとえて言うなら、火事になってから、あわてて消火器の使い方を習うようなもの。火事になる
ずっと前から、火事になってもよいように準備して生きる。その心構えをつくりながら生きる。そ
れが大切。

 だから阿部次郎は、『死に対する最良の準備が最もよく生きること』と書いている。つまり今、
「死」について考えることは、「生」を充実させるためには、大切なことだ、と。先にも書いたが、
あなたが若くて、健康なら、なおさらだ。繰りかえすが、不治の病を宣告されてから、あわてて
死を考え、それから生を考えても、遅い。

 ただ、「死」そのものについての考え方には、いろいろある。その中でもおもしろい考え方をし
ているのが、エピクロス(ギリシャの哲学者)。彼はこう書き残している。

『死というものは、存在しない。なぜならば、私たちが存在するかぎり、死は存在しない。死が
存在するときは、私たちはもはや存在しなからだ』

 この論理はたいへんわかりやすい。エピクロスは、「生きているかぎり、死はない。しかし死ん
だときは、もう私たちは存在しないのだから、死を感ずることもない。つまり死は、私という個人
にかぎっていうなら、存在しない」と。ナルホド! エピクロスに言わせれば、死の恐怖など、ナ
ンセンスということになる。事実、多くの先人たちもそう書き残している。「死そのものよりも、死
についての想像の方が、はるかに我々を恐怖せしむる」(「愛の無常について」)と書いた、亀
井勝一郎。「死の恐怖は、死そのものよりも怖ろしい」(「箴言」)と書いた、シルスなどがいる。

 ……となると、話がまた振りだしに戻ってしまう。私たちが「死」というのは、「死の恐怖」という
ことになる。では、その恐怖とは何かということになれば、喪失の恐怖ということになる。言うま
でもなく、死は、私たちからあらゆるものを奪う。肉体や精神や、そして魂までも。私たちがいく
ら心の中で、「私は自由だ」と叫んだところで、その自由すら奪っていく。

 もちろんそういう「死の恐怖」に対して、抵抗してもムダ。だれしもかぎりある命の中で懸命に
生きている。死は、「おとなも、子どもも、利口もバカも、貧者も富者も、すべて平等である」(ロ
レンハーゲン「蛙鼠合戦」)ということになる。だれしも死ぬ。私も、あなたも、みんな例外なく、
だ。そこで、大切なことは、やはり「準備」ということになる。そしてその準備をして生きること
が、一方で、とりもなおさず、私たちの「生」を充実させることになる。

●二つの死生観

 「死後の世界」については、大きく分けて二つの考え方がある。「魂は不滅」という考え方。も
うひとつは、「魂も、肉体とともに滅ぶ」という考え方。前者は、ほとんどの宗教団体がとる考え
方である。広い意味で、前世論、来世論、天国論、地獄論などは、こうした考え方を背景にして
生まれた。

 一方、いわゆる実存主義(プラグマティズム)は、後者を基礎として発達した。どちらが正しい
とか、正しくないという議論は、意味がない。あの世にしても、「あの世がある」と言う人は、いく
らでもいる。しかし「あの世がない」ことを証明できる人はいない。だからだれかが、「あの世が
あります」と言ったら、「はあ、そうですか」としか、言いようがない。数学の世界でも、「答を出
す」ことは簡単なこと。しかし「答(解)がない」ことを証明するのはむずかしい。同じように、あの
世がないことを証明するのは、至難のワザ。だから私はいつもこう考える。

 私はあの世も、来世も、天国も見たことがない。だから一応、今は、そういうものは「ない」と
いう前提で生きる。死んだとき、あの世にせよ、来世にせよ、天国にせよ、あればもうけもの。
またそのときはそのときで、考える。前にもどこかに書いたが、それは宝くじのようなもの。当る
ことをアテにして、高額なものを買う愚かな人はいない。買うとしても、宝くじが当ってから。同じ
ように、今は、そういうものは「ない」という前提で、精一杯、自分らしく生きる。

 そういう私を見て、神様にせよ、仏様にせよ、「あなたはずいぶんと勝手なことをしましたね」
と言ったら、私はこう答える。「はい、そのとおりです」と。そしてその上で、神様や仏様が、「あ
なたはまちがっていた」と言ったら、私はまっさきに、それに抗議する。そしてこう言う。「だった
ら、あなたのほうがまちがっている」と。

 本当のところ、今の私は、そういうものは、「ない」と思う。見たこともない世界を信じろという
ほうが、ムリ。本当のところはわからないが、「ない」と思う。それだけしか、ここでは言いようが
ない。

 だから今の私の考えによれば、人間は、死んだらおしまいということになる。すべておしまい。
だから、人間は、最後の最後まで、自分の人生を生きる。たった一つしかない人生だから、最
後の最後まで、大切に生きる。シラーも言っているように、「生きるのも一瞬、死ぬのも一瞬」
だ。だったら、死ぬ一瞬は、最後の最後でよい。

+++++++++++++++++++

●Mさんへ

 どんな言い方をしても、あなたの慰めにもならないと思います。あなたはあなただし、あなた
自身も、「私の気持ちなど、だれにもわからない」と考えていると思います。そのとおりです。あ
なたの気持ちを理解できる人は、だれもいないと思います。だから安易に、私は「死ぬことを考
えてはだめ」とか、「がんばって」とか、言いたくありません。また私がそう言ったところで、あな
たを苦しめるだけです。わかっています。

 私も、ときどきひどく落ちこんだりすると、「生きていてもムダ」と思うことがあります。しかしそ
ういうとき、私は、自分でも病気とわかるので、そのままじっとしています。そのことは冒頭に書
いたとおりです。で、もう少し具体的には、たいていそういう状態になるのは、夜で、しかも寝る
前ですから、そのままふとんをかぶって目を閉じます。風邪をひいたとき、葛根湯(かっこんと
う)を飲むと、汗がジワジワと出てきますね。そのときコツは、体の熱を冷まさないように、じっと
ふとんの中で耐えることです。漢方では、汗が熱邪を発散させるというような考え方をします。
だから汗を出します。それと同じように考えて、ふとんの中で、じっとがまんします。 

 やがていつの間にか眠ってしまい、朝がやってきます。Mさんも、すでに経験があると思いま
すが、朝、目をさますと、その前の夜の苦しみがウソのように消え、心がシーンと静まりかえっ
ているのがわかります。私はそういうとき、「ああ、これが私の本当の心だ」と思うようにしてい
ます。そうです。それが本当の心です。しばらくすると、またあれこれと雑音が心の中に入って
きて、心の中がザワザワしてきますが、それはそれでしかたのないことです。が、そのときで
も、何度も、自分に言ってきかせます。「朝、目を覚ましたときの私が本物の私だ」とです。

 こうした対処のし方が、参考になるかどうかわかりませんが、Mさんも、一度、試してみてくだ
さい。そうそう言い忘れましたが、アメリカ人のうち、約三分の一が、デプレッション、つまり「う
つ症状」に悩んでいるということです。日本人も、ほぼ同数とみてよいでしょう。多いですね。だ
から「自分がおかしい」と思う必要はありません。この世界、まともに生きていたら、だれだって
「うつ状態」になるのです。そういう前提で考えます。かりに「うつ病」になっても、何ら恥ずかし
いことではありません。うつ病のことを、「まじめ病」というくらいです。まじめに生きようとすれば
するほど、みなそうなるのです。もちろんMさん、あなたがうつ病と言っているのではありませ
ん。誤解しないでください。悶々と悩んでいる状態を、「うつ症状」というのです。

 本当に、この世の中、わずらわしいことばかりです。私も、このところ、心がふさいでいます。
どうも気分が晴れません。原因は、あの金正日さんです。あのK国のことを考えると、言葉では
表現しがたい不快感に襲われます。何というか、心臓のカベを、クギでキーキーと削られるよう
な不快感です。いやですね。会談などに顔を出してくる、K国の代表団の、あの様子を見てくだ
さい。民衆が何百万人も餓死しているというのに、尊大ぶって、いばっています。イスからうしろ
に倒れんばかりに、ふんぞり返っています。それがこっけいなほど、不自然です。どうしてああ
いう態度ができるのでしょうか? あの国が自滅したら、みんなで乾杯しましょう。そうなる前
に、韓国や日本に戦争をしかけてくるかもしれませんね。それを考えると、ますます気が重くな
ります。そんなわけで、どちらにせよ、つまり戦争になるにせよ、ならないにせよ、最近は、K国
のニュースはできるだけ横目で見て、考えないようにしています。(考えても、どうにもなりませ
んし……。)

 Mさんにも、Mさんがそうなるについて、何か原因があることと思います。私の印象では、ただ
の育児ノイローゼだけではないと思います。もう少し、深いところに、別の原因があるように思
います。それを静かにさぐってみるのも、大切なことではないでしょうか。かなり勇気のいる作
業ですが、さぐってみるだけの価値はあります。原因がわかれば、あとは時間が解決してくれ
ます。

ここに書いた私の考え方が有効だとは思いませんが、参考にはなると思います。最後にひとつ
だけわかってほしいのは、つらい思いをしているのは、Mさんだけではないということです。それ
だけは、心にとめておいてください。それでは、またメールをください。返事を書きます。おやす
みなさい。
(03−1−23)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(541)


子育て随筆byはやし浩司(541)

モノと金

 テレビの人気番組に、「○○鑑定団」というのがある。それぞれがもち寄ったものを鑑定し、
それに値段をつけるという番組である。そしてその値段が、持ち込んだ人の予想を超えて高い
ものであったりすると、鐘を鳴らしたり、太鼓をたたいたりする。

 以前、私はひどく落ち込んでいたことがある。いろいろ事件が重なった。その上、やることな
すこと、裏目裏目に出て、自信をなくしていた。そのときのこと。たまたまテレビのスイッチを入
れると、その「○○鑑定団」という番組が目に飛び込んできた。結構、おもしろい番組で、それ
なりに楽しんでいたはずだが、そのときは違った。私は、「何と、意味のない番組か!」と思って
しまった。

 モノにこだわり、それに値段をつける。すべてが、モノと、お金で動いている。まさに現代の日
本を象徴するかのような番組だが、番組全体というより、見る人全体が、そういうゲームの世
界にハマっているから、そのおかしさに気づくことはない。たとえば一人の住人が一枚の絵を
持ち込んだ。有名な(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)Aという画家が描いたもので
ある。

 そういうとき、その絵は、当然のことながら、高い評価を受け、高い値段がつく。つまり財産的
価値があるということになる。で、それを知って、その絵を持ち込んだ人は、歓声をあげて喜
ぶ。「ええ、二五〇万円ですか!」と。

(疑問@)こうしたものの見方は、それがある一定の範囲にとどまっていれば問題はない。しか
しそれがその範囲を超えたとき、その人の価値観をも狂わす。つまりモノの価値を、本質的な
尺度でみるのではなく、知名度、稀少度、鑑定結果で判断するようになる。こうなると、何のた
めのモノかわからなくなる。

(疑問A)仮に価値があるものとしても、それを金銭的な「数字」に置きかえることのおかしさを
どう処理したらよいのか。それは盆暮れのつけ届けを選ぶとき、相手の価値を値ぶみするよう
なもの。「Aさんは、五〇〇〇円のモノ、Bさんは、四〇〇〇円のモノ、でもCさんは、三〇〇〇
円のモノでいい」と。日本人なら、だれもがそうしているから、だれも疑問に思わない。が、しか
しこれほど、反道徳的な行為はない。つまりその延長線上に、「○○鑑定団」がある。

(疑問B)高価なものであればあるほど価値があると思うのは、その人の勝手だが、今度はそ
れが、心の中でどう処理されるかが問題になる。ヘタをすれば、ものの本質を見失ってしまう。
たとえば一〇〇万円の価値のある絵と、一万円の価値しかない絵があったとする。そのとき、
こうした価値判断にハマっている人は、恐らく一〇〇万円の絵のほうがすばらしいと思い込ん
でしまう。そしてその分だけ、一万円の絵に隠されている価値に気づかなくなってしまう。

しかしここで大切なことは、「あなた」という自分だ。あなたが描いた絵なら、いくらで売れるか、
考えてみたらよい。私もいつか、あの番組を見ながら、そう考えたことがある。そしてハタと気
づいた。「私の絵なんか、一〇〇円でも買ってもらえないだろう。だとするなら、私は一〇〇円
の価値しかないのか」と。そう、そういう考え方にハマると、結局は、だれかに操られるまま、自
分を見失ってしまう。

(疑問C)価値のある人(?)のモノには、価値がある。……ということは、価値のないあなた
(失礼!)には、価値がないということになる。これは恐るべき隷属意識と言ってもよい。有名
人の描いたものを、ホイホイと喜ぶのは、一方で、その有名人に隷属することを意味する。

 私たちにとって大切なことは、他人がどう思おうが、またどう評価されようが、「私は私」という
道をつらぬくことである。なぜそうするかと言えば、心の中の世界を、より広く旅をするためであ
る。仮に絵であれ、モノであれ、大切なことは、それを手にしたり、見たときに、心がどう反応す
るか、だ。もっとはっきり言えば、心の反応のないものは、いくら高価であっても、意味がない。
また反応しない人にとっては、そういうものは、まさに宝のもち腐れ。

 もちろんこういう番組は、もともとは娯楽番組。深い意味などないし、また深く考える必要もな
い。そのときどきを、せつな的に楽しむことができれば、それでよい。しかしそのときは、いつも
と違ってみえた。いや、それ以後は、あの番組を、あまり見なくなった。自分の心がどこか、モノ
と金に毒されていくように感じるからだ。
(03−1−23)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(542)

脳腫瘍(しゅよう)

「死」を前にすると、当然のことながら、すべてのものが、輝きを失う。無価値になる。意味がな
くなる。「死」は、まさに恐怖だが、同時に、「生きる」ということがどういうことなのかを、教えてく
れる。「真実」が何であるかを、教えてくれる。

 私も病院のベッドで寝たことこそないが、事故や病気で、何度か死の恐怖を味わったことが
ある。それはまさに「恐怖」で、できるなら、ああいう恐怖は、あまり味わいたくない。体の中をス
ースーと風が通り抜けるような恐怖である。

 しかしそのあと、私はいつも、自分の人生観が大きく変わったのを感じた。いや、そのときと
いうより、あとで振り返ってみると、そのときを契機(けいき)にして変わったのがわかる。こんな
ことがあった。

 三〇歳を過ぎたころだった。私は毎日のようにはげしい頭痛に苦しんだ。薬をのんでも、体
が受けつけなかった。のんだとたん、ゲーゲーとあげてしまった。そこで市内のS総合病院(私
立病院)へ行くと、検査、検査の、また検査。結果、「即入院、開頭手術」ということになった。担
当の外科医に、「どんな手術ですか?」と聞くと、「術後一か月は、石膏で頭を固めます」と言わ
れた。私は、それがどんな手術か、それでわかった。

 その病院からどのようにして家に帰ったかは覚えていない。途中でワイフが、私を拾ってくれ
たが、「幽霊みたいだった」とあとで言った。

 その夜は、数歳になったばかりの長男の顔を見ながら、一晩中、泣き明かした。泣いたとい
っても、涙はほとんど出なかった。泣いても泣いても、泣ききれない悲しさだった。私は「頭」だ
けの人間になってしまい、体が消えたかのように感じた。そのときだった。おかしなことに、体
の中を、スースーと風が通り抜けていくのを感じた。医師は私には言わなかったが、脳腫瘍と
いうことは、雰囲気からわかった。

 で、その翌日の朝、私は、大学の先輩のM氏に電話した。事情を話した。M氏は、そのとき、
大学病院を出て、市内の北部で産婦人科医院を開いていた。M氏は、すぐ、元同僚のK医師を
紹介してくれた。K医師はその大学病院で、教授をしていた。「このあたりでも一番力のある脳
外科医ですから」と。

 私は幸運なことに、その翌日、そのK医師に直接、精密検査をしてもらうことになった。精密
検査といっても、まだレントゲンしかない時代である。仮に私の頭の中に、そういうものがあると
しても、はっきりとわからなかっただろう。しかし検査の結果は、「おかしいですね。何もないで
すね」だった。

 おかしい……? それを聞きたかったのは、私のほうだった。あのS総合病院では、たしかに
白い陰が写っていた。左側頭部の耳の上あたりだ。私がそれを言うと、K医師は、「そのあたり
を何枚もとってみましたが、何もないですね」と。

 私はうれしかった。不思議と、S総合病院の外科医をうらむ気が起きなかった。怒る気も起き
なかった。そのままS病院で手術を受けていたら、脳ミソのいくらかは切り取られていたかもし
れない。そのあとの私はなかったかもしれない。今でもあのときのことを思い出すと、ゾッとす
る。しかしそれでも、うらんだり、怒る気は起きなかった。何かしら命びろいしたような感じだっ
た。体中にのしかかっていた重石(おもし)が、いっぺんに吹き飛んだような感じだった。心も軽
くなった。廊下へ飛び出すと、そこにワイフがいた。私を見て、ワイフの顔が、急に明るくなった
のを覚えている。

 相変わらず頭痛は残っていたが、今から思うと、インフルエンザ、偏頭痛、それに花粉症の
三つが、同時期に私を襲ったのが原因ではないかと思う。この三つが、交互に症状をからませ
て、あのときのあの症状をつくった。そのあと、大学病院のK医師がくれた薬をのんだが、翌々
日の朝には、頭痛は消えていた。あとで「あれは何の薬だったのですか?」と聞くと、K医師は
笑いながら、「ただの風邪薬です」と。

 私はそのときの事件があってから、たしかにものの考え方が変わった。人の病気に涙もろく
なったというか、同情しやすくなったというか、はたまた私の中に、それまではなかった自分が
できたというか。「いい経験をした」とは思いたくないが、しかしあの経験のおかげで、生きるこ
とについての考え方が変わった。
 
 こうした経験は、大病をわずらい、生死の境をさまよった人なら、だれでもするものらしい。そ
のあと、いろいろな人に話を聞いたが、みな、異口同音にそう言う。そういう意味では、私のし
た経験など、ままごとのようなものだ。もとはと言えば、S総合病院のあの外科医の誤診による
もの。私はそれに、ただ過剰反応しただけということになる。しかしその結果、私は何が大切
で、何がそうでないかを、いろいろ考えるようになった。そしてその結果として、今、自分の過去
を振り返ると、たしかにあのときのあの事件が、私の方向性を変える大きな契機になったのが
わかる。いやいや、そのあと、生きているとことの喜びというか、その充実感を、それまでの何
倍も強く感ずることができるようになった。アンゲルス・ジレジウス(ドイツ、詩人、1624〜77)
も、『生をもたらす死ほどすばらしいものはなく、死から生まれる生ほど高貴なものはない』と書
いているが、まさにその通りだと思う。どこかノー天気な意見に思えなくもないが、たしかにその
通りだと思う。
(03−1−24)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(543)

子育てポイント

●子どもの世界は、社会の縮図

 おとなの世界に四割の善があり、一方四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善が
あり、一方四割の悪がある。これについては、私はたびたび書いてきたので、「子育てストレス
が、子どもをつぶす」(リヨン社)からの原稿を転載する。

++++++++++++++++

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に
対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親
は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも
しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話
が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

●子どもの世界だけの問題ではない
 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘
もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた
ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはし
ないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、
その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆ
がめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

++++++++++++++++

 この中で「テレクラ」を書いたが、今はもちろんテレクラの時代ではない。「出会い系サイト」と
いうのが五万とあって、そこでいろいろな交際ができるようになっている。方法はより巧妙にな
り、かつ地下にもぐった。

 またこの原稿の中で、私は「善悪論」を展開したが、すでに何度もこの善悪論については書
いてきたので、ここでは省略する。そこでおとなの私たちは、子どもには、どうあるべきかという
ことだが、結局は、この問題は、私たち自身がどうあるべきかという問題に行きつく。子どもの
問題は、決して子どもだけの問題ではない。それについても、この原稿の中に書いた。

 ただここで言えることは、五五歳という私の年齢からみると、六歳の幼児も、二〇歳の青年
も、また三五歳の親も、違うようで、実際にはそれほど違わないということ。知識や経験は、も
ちろん年齢とともに、豊富になるが、こと「人間性」ということになると、それほど違わない。(そ
れぞれの年齢の人は、「私は幼児とは違う」と言うかもしれないが……。)つまりあなたや二〇
歳の青年がバカでないように、幼児もバカではない。一方、幼児に愚かな面があるように、あな
たや二〇歳の青年にも愚かな面がある。それぞれの人には、賢い面もあれば、愚かな面もあ
る。その割合は、幼児も、二〇歳の青年も、そして三五歳の親も、変わらない。

 もちろんだからといって、五五歳の私が、より賢いと言っているのではない。それを「悪」と決
めてかかってよいかどうかはわからないが、しかしたとえば私にだって、浮気心はある。どこか
のすてきな女性と、裸で肌をすり合わせてみたいという欲望は、ある。これは本能であって、ど
うしようもない。おなかがすいたとき、おいしいものを食べたいという欲求と同じ。私はその知人
に会ったとき、内心のどこかで、「うらやましい」と思ったのを覚えている。その男はこう言った。
「林、若い女のおっぱいはいいぞ。お前は触りたいと思わないのか?」と。

 ただそれを行動に移すかどうかという点で、ほかの人とは違うのかもしれない。めんどうとい
うより、私には自信がない。それにそういう世界とは、縁がなかった。今もない。が、チャンスが
あれば、考え方が変わったかもしれない。私はもともといいかげんな人間だし、道徳性も倫理
性も低い。意思も弱い。それに何かにつけて優柔不断。頼まれれば、何だってしてしまう。そう
いう自分をよく知っているから、そういう世界には近づかないようにしている。

 そんなわけで、私は子ども(生徒)たちがまちがったことをしても、あまり大声で怒ることがで
きない。「偉そうなことは言えない」というブレーキが、いつも働く。そういう意味では私は、ただ
のお人好しのおとな(教師)? あるいはただの臆病(おくびょう)者?

 またこの原稿の最後の部分で、私は「よいことをするから善人になるのではない。悪いことを
しないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる」と書いた。これに
ついては、この原稿を中日新聞に発表したあとも、何度も考えなおしてみた。で、結論は、「や
はり正しい」。

 この部分を書くとき、私は、一人の男(六〇歳)を念頭に置いた。その男は、本当に人のよい
男で、まじめで、目立たない男だった。で、近所では、「仏」とあだなされていた。しかし私はい
つか、その男が、まったくのノーブレイン(思考力なし人間)であること知った。何も考えていな
いのである。主義どころか、自分の意見ももっていなかった。そこである日、私はその男を見な
がら、こう思った。「この人は本当に仏なのか。いや、違う。ただのノーブレインにすぎないので
は……」と。

 その結論は、やはり、ノーブレインだった。で、私はそういう男を、善人と位置づけることに、
大きな抵抗を覚えた。その男は、自分のまわりの世界をどんどんと削り、削ることで、身のまわ
りをきれいにしているだけだった。つまり悪いこともしなければ、よいこともしない。もしそういう
男を善人としてしまったら、「では人間とは何か」という問題にまで行きついてしまう。だからこの
原稿に書いたような結論になった。「悪いことをしないから、善人というわけでもない」と。

 私たちは生きている。生きている以上、いろいろなしがらみや、こだわりが生まれる。多くの
問題もそこから生まれる。私たちは、それらと戦う。戦わねばならない。つまりそういう戦いの
中から、「善」が生まれる。自分の世界に閉じこもり、悪いこともしないが、よいこともしないとい
うのであれば、その人は善人ではない。人間は人間とのかかわりの中で、はじめて善人にな
る。……なることができる。

善人が善人であるためには、一人の人間として、ごくふつうの生活をする。そしてその中で、ま
わりの悪や自分自身の悪と戦う。不完全で邪悪であることを恥じることはない。未熟で未経験
であることを恥じることはない。失敗や誤解することを恥じることはない。恥ずべきことは、そう
いうまわりの悪や自分と戦わないことである。そういう気持ちをこの原稿の中に織り込んだ。前
にも読んでくれた方には、恐縮だが、もう一度、そういう視点でこの原稿を読んでくれればうれ
しい。
(03−1−24)

●※……ノーブレイン……英語で「ノーブレイン」というときは、考える力があっても、考えない
人のことをいう。いわゆる「考えない人間」ということ。英語国では、「考えるから人間」という常
識が、日本とは比較にならないほど、一般化している。バカとか、アホとかいう意味とも違う。わ
かりやすく言えば、「常識ハズレ」のこと。自分で冷静に考えて行動できない人間のことをいう。
よくオーストラリアの友人のD君がこの言葉を使っていた。それで私もときどき使うようになっ
た。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(544)

Rという宗教団体?

 このところ「R」という得体の知れない宗教団体が、世間をにぎわしている。「地球上の全生命
は宇宙人が遺伝子工学でつくったと主張している宗教団体」(TBS)である。

 私はこの宗教団体を知ったとき、最初に思ったのは、「どうして宗教団体になるのか」という
疑問だった。一般論としては、科学性が高まれば高まるほど、その科学性は、宗教というもの
が本来的に内含する非科学性と衝突する。もっとわかりやすく言えば、科学と宗教は、本来、
相容れない関係にある。仮に「地球上の全生命は宇宙人が遺伝子工学でつくった」としても、
それはそれとして、ありえない話ではない。いつか科学的に証明される時代がくるかもしれな
い。しかし宗教的な立場で、「信ずる」とか、「信じない」とかいうテーマではない。

 もっともこうした例は、過去にないわけではない。私が追跡調査した事件に、一九九七年に
起きた、『ハイアー・ソース』事件がある。

++++++++++++++++++++

謎の集団自殺事件

 九七年の三月下旬。巨大なすい星が地球に接近してきた。ヘール・ボップすい星である。今
世紀最大のすい星とも言われ、春が終わるころには、巨大な尾を北西の空に見せるようにな
った。

 このすい星はその前後、数か月にわたって、地上でも観測されたが、そのすい星が去るのに
時を合わせて、アメリカで奇妙な集団自殺事件が発生した。第一報は、九七年三月二七日に
もたらされた。毎日新聞は、次のように伝えている。

大邸宅で集団自殺?

【ニューヨーク二六日】
●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外で、二六日午後三時一五分(日本時間二七日午前八
時一五分)ごろ、集団自殺とみられる多数の遺体が発見され、地元のシェリフ(保安官)事務所
は、少なくとも、三九人の男性の遺体を確認したことを明らかにした。

●男性は一八歳から二四歳で、宗教関係者とみられる。カナダのケベック州でも、二二日、宗
教関係者ら五人が集団自殺しており、警察当局は、二つの事件の関連を調べている。

●現場は、サンディエゴの北、三二キロの高級住宅地ランチョ・サンタフェにある豪邸。地元テ
レビ局によると、邸宅は牧場に囲まれ、プールやテニスコートもついている。昨年一〇月から
グループが借り、近所の人の話によると、邸内には、五〜一〇人程度の白人の中年男女が暮
らしていたという。

●死亡した男性らは、いずれも黒っぽいズボンに、テニスシューズ姿。外傷はなく、手をわきに
そろえ、うつ伏せに倒れていたという。

 続く翌二八日の毎日新聞には次のようにある。

ヘール・ボップとともに旅立つ
インターネットに"遺書"(米の集団自殺)

●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外のランチョ・サンタフェで二六日発見された、宗教カルト
グループ三九人の集団自殺事件で、グループがインターネットに「遺書」のような声明を残して
いたことが二七日、わかった。

●声明は、「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」と
いう内容で、空想科学的色彩の強い同グループが、すい星の接近に触発されて、集団自殺を
はかった可能性が強くなった。

●地元の報道などによると、グループは、『ハイアー・ソース』という名で、ホームページのデザ
インなどを行う、インターネットサービス会社を経営。自分たちも『天国の門』と名づけたホーム
ページをもち、教義を詳述していた。

●グループはこの中で、「ヘール・ボップすい星の接近は、我々が待ち望んだ標識だ」と述べ、
あの世へ旅立つ喜びを独自の教義で説いていた。

●一方、警察当局は、同日夕までに、三九人の死者のうち、二一人が女性。一八人が男性で
あったと発表。全員、男性とした前日の情報を訂正した。年齢も二〇歳から七二歳までと幅広
く、メンバーには黒人二人や、ヒスパニック系の人々、カナダ人一人も含まれていた。

●集団自殺は三つのグループに分け、順番にアルコール(ウオッカ)と睡眠薬の服用で行われ
た。いずれも死体の足もとに、スーツケースが置かれ、旅立ちを示唆していた。

 この事件について、読売新聞も同じように報道しているが、毎日新聞の記事にない部分を補
足しておく。

●不動産業者によると、いつも宗教的な儀式のようなものが、行われていたという。ランチョ・
サンタフェは、太平洋を見おろす丘陵地帯にあり、「サンディエゴのビバリーヒルズ」とも呼ばれ
ている。現場の邸宅はヤシの木に囲まれ、広大な敷地には、テニスコートやプールがあり、ワ
ゴン車三台と、トラック一台が止めてあった。(二七日)

●遺体の三九人は、頭から胸にかけて、紫の布をかけて横たわっていた。遺体には女性も含
まれている。邸宅所有者の弁護士は、「借り主は、天使として米中西部に送りこまれたと信じて
いる宗教団体で、『WWWハイアー・ソース』と名のっていた」と語った。

●NBCテレビによると、この集団は、二二年前から活動。脱退したメンバーに、二五日、送ら
れたビデオテープの中で、地球を離れ、ヘール・ボップすい星の陰に隠れている宇宙船(UF
O)に乗るという別れのあいさつをしている。(二八日)

 この事件の特徴は、たいへん科学的な側面をもったカルト教団によって引き起こされたという
ことだ。インターネットを使って、信者を集めたり、教義を説くという点も、今までの方式とはち
がうし、すい星とともに、宇宙への旅に出るという発想も、SF的である。新聞記事によれば、
「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」とある。

 この新聞記事だけで、彼らの教義の内容を判断することはできないが、この記事からだけで
も、彼らの教義が、いくつかの点で常識に、はずれていることがわかる。たとえば、宇宙船とい
う「物体」とランデブーするという発想。しかもその宇宙船は、すい星の陰に隠れているという発
想。死体の足もとに、スーツケースが置かれていたという事実。宇宙船(UFO)とともに、「あの
世」へ行くという発想、などなど。私はこの記事を読んだとき、「どうして、UFOが、隠れなけれ
ばならないのだ!」と、思わずつぶやいてしまった。あの世へ行くこともできるような宇宙の超
生命体が、地球人がごときに隠れてコソコソする必要はないし、信者にしても、仮に霊となって
行くのなら、スーツケースは必要ない。自分たちでスペースシャトルでも買い取って、それでそ
の宇宙船に行くというのなら、まだ話はわかるが、「死んで行く」という発想は、どうにもこうにも
理解できない。

 この事件で、三九名もの、アメリカ人の若者が、狂った指導者の犠牲者になった。アメリカの
ABC放送は、その教団の周辺の人たちからもインタビューを集めていたが、どの人たちも、
「会えば、感じのいい若者たちでした」と言っていたのが印象的であった。つまりこういう不可思
議な集団自殺事件を引き起こすような連中だから、日ごろから、挙動がおかしかったかといえ
ば、「そういうことはなかった」という。「会えば、軽くあいさつもしてくれましたし、教団の内部も
案内してくれたこともあります」と、一人の納入業者は答えていた。

 この種の事件が起きると、たいていの人は、「頭のおかしな人たちが起こした事件だから」と
いうことで、自分の頭の中を整理してしまう。そして「自分たちは正常だ」と思いなおした上で、
事件があったことそのものを忘れてしまう。事実このヘール・ボップすい星にまつわる集団自殺
事件は、すい星が西の空に消えると同時に、人々の脳裏から消えた。

 が、本当に私たちは正常と言えるのだろうか。この種の事件と、無関係と言えるのだろうか。
あるいはこの種の事件は、日本では起きないと言えるのだろうか。また子どもたちはそういうカ
ルト教団と、無縁でいられるのだろうか。答えは「ノー」。すでにこの日本でも、世界を驚愕させ
るような事件が起きている。地下鉄サリン事件もその中に、含まれる。小さなカルト教団がから
んだ、小さな事件となると、無数にある。「日本だけは別だ」とか、「日本だけは正常だ」と考え
るのは、あまりにも早計である。となると、もう一度、この集団自殺事件について、考えてみな
ければならない。よく知られた事件としては、七八年の一一月一八日に、南米のガイアナで起
きた、人民寺院信徒による集団自殺事件がある。この事件では、何と九一四人もの信者が、
集団自殺をしている。なぜ、こんな忌まわしい事件が起きたのか。あるいは起きるのか。なぜ
か?

+++++++++++++++++

 この先は、また別の機会に書くことにして、その宗教団体が、クローン人間を、つぎつぎと誕
生させているから、話がおかしくなってきた。その中には、日本人(?)の子どももいるという
(?)。

 この問題は、これからしばらく考えてみたいと思う。とりあえず「R」という宗教団体についての
資料を集めるところから始めたい。今の段階では、「?」マークを、一〇〇個くらいつけたい気
持ちだが、たぶん、それは一〇〇〇個になるかもしれない。どう考えても、私の常識には合わ
ない。死んでミイラ化した人間を、「生きている」とがんばった、あのLSという宗教団体とどこか
よく似ている(?)。
(03−1−25)

●人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない。(三木清「断片」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(545)

東京があぶない!

 このところ、K国が、この日本に対しては、ナリを潜めている。表立った攻撃、非難をしてこな
い。しかし……。

 世界は、K国に核開発の放棄を迫っている。しかしK国が、核開発を放棄することは不可能。
ありえない。理由は簡単。核開発の放棄には、当然のことながら、核査察をともなう。核査察を
許すということは、軍事機密を暴露することに等しい。先軍政治(軍主体の政治体制)をとって
いるK国が、軍を弱体化させることは、同時に国家体制の崩壊を意味する。現にK国は、「核
放棄せよということは、わが国に武装解除を迫るようなもの」と述べている(〇三年一月、朝鮮
労働党新聞)。

 いや、すでにK国は、核兵器をもっている。アメリカのCIAも、韓国のKCIAも、そう認識してい
る。どういう情報源かはわからないが、衆議院議員の西村眞吾氏も、「北朝鮮は核兵器を五発
もっている」(「諸君〇三・一月号」と断言している。また先の南北会談(〇三年一月)でも、北朝
鮮側の代表団は、さかんに「核兵器は作らない」と言っていた。しかし「もっていない」とか、「も
たない」とかは言わなかった。つまりK国は核兵器をすでにもっている。ならば、よけいに核査
察はさせない。つまりK国は核開発の放棄はしない。

 となると、その核兵器は、どこに使われるかということになる。これについては、先の米朝協
議(〇二年一〇月)で、K国の高官は、アメリカのケリー国務次官補に、はっきりとこう言明して
いる。「核は日本だけを対象としたものだ」(姜?柱第一外務次官)と。つまり「日本を攻撃するた
めに、核兵器をもっている」と。

 以上の理由だけではないが、今、日本は戦後最大の、危機的状況にあるとみてよい。そして
K国は、今、日本攻撃のチャンスを、虎視眈々(こしたんたん)とねらっている。問題は、その時
期と方法だが、もし私が金正日なら、アメリカがイラク攻撃を始めたとき、あるいはその戦争が
泥沼化し始めたとき。あるいは、国連安保理でK国の制裁が議決されたときを考える。K国そ
のものが、今、危機的状態にある。国家経済は行きづまり、エネルギー不足、食料不足で、体
制そのものが、壊滅状態にある(読売新聞)。が、独裁国家の常として、K国は、決して自滅の
道を選ばない。自滅ということになると、いままでの悪行の数々が、白日のもとにさらけ出され
ることになる。

 そこでなぜ日本かという問題がある。これも理由は簡単。今、K国が戦争をしかけても、ゆい
いつ大義名分がたつ国が、日本だからである。実際以上に怨念をかきたてている面もある
が、K国には、日本によって植民地にされたという歴史がある。「植民地時代への報復」という
ことになれば、少なくとも、韓国や中国には、言い分けがたつ。韓国や中国を黙らせることもで
きる。うまくいけば、味方に引き込むこともできる。それ以上に、K国の国民を鼓舞(こぶ)する
ことができる。日本を攻撃すれば、金正日は、そのままK国のみならず、韓国も含めた朝鮮半
島全体の英雄になる。

 問題はアメリカだが、アメリカが日本のために戦ってくれると考えるのは、甘い。いや、その
前に、日本が核攻撃されたら、日本の経済は壊滅してしまう。同時に世界経済は、大混乱。ア
メリカとて無事ではすまない。

 そこでシミュレーションしてみると、この段階では、韓国は、アメリカ参戦については反対す
る。ヘタにアメリカの味方をすれば、今度はソウルが核攻撃される。韓国にしてみれば、K国は
同朋の国。しかし日本は、いまでも敵国なのだ。アメリカは、韓国の反対を押しきってまで、K
国に反撃はしない。何といっても、韓国には四万人弱のアメリカ兵がいる。そしてそのアメリカ
兵たちは、三八度線をはさんで、最前線にいる。アメリカとて、これらの兵隊を、危険にさらす
わけにはいかない。そこで反撃するとすれば、国連軍を組織して、中国やロシアを巻き込んで
ということになるが、それには時間がかかる。

 ここで誤解してはいけないのは、仮に日朝戦争になったとしても、韓国は、日本の側にはつ
かないということ。中国もつかない。現に韓国の次期大統領のノ氏は、「仮に米朝戦争になって
も、韓国は中立を守る」と、選挙運動中に、そう公約している。韓国に駐留してくれているアメリ
カにさえ、そうなのだ。いわんや日本の側に立つわけがない。

 また日本には自衛権はあっても、交戦権はない。要するに、「日本はやられても、やり返すこ
とができない」。K国にすれば、もっとも安全な敵ということになる。もっと言えば、K国が日本を
奇襲攻撃しても、日本は、それに文句も言えない。なぜなら真珠湾攻撃という前例をつくったの
は、ほかならぬこの日本だからである。

 こうした事実を積み重ねていくと、K国の日本攻撃は、ますます現実味をおびてくる。そして当
然のことながら、K国が日本を攻撃するとすれば、大阪や名古屋ではない。もちろん東京であ
る。いつかK国が、「日本を攻撃するとすれば、皇居だ」と言っていたのを覚えている。つまり東
京のど真ん中。このあたりには、日本の政治、経済の中枢部が集まっている。核攻撃された
ら、その瞬間から、日本の行政、経済、防衛機能は完全に停止する。考えてみれば、こうまで
無防備な国は、ほかにない。アメリカですら、ホワイトハウスにせよ、国防省にせよ、CIAにせ
よ、それぞれをバラバラに置いている。またそれが世界の常識でもある。
 
 それはさておき、それ以上に不思議なのは、日本人の危機感のなさである。こういう状態に
なっても、ノー天気に、のんきな国会討論を繰り返している。ただ一つ注目される発言として
は、K外務大臣が、こう言ったことだ。「K国のミサイルは、早ければ七、八分で日本に到達す
る。だからミサイルが発射されてからでは遅い。発射される前に、相手側を攻撃するのも、法
理上は、防衛の中に含まれる」(〇三年一月・国会答弁で)と。考えてみれば、K外務大臣の発
言は、たいへんな発言だが、今の段階では、その発言を問題にする議員はひとりもいない。

 さて、こういう現状のもと。私たち日本人は、どう考えたらよいのか。

 まず注意すべきは、アメリカがイラク攻撃をいつ、どのような形で始めるか。つぎに国連安保
理での審理が、いつどのような形で始まるか、だ。K国は、そのスキマをねらって、日本を攻撃
してくる。方法はいくらでもある。一番可能性の高いのは、戦闘機による自爆攻撃。つぎに小型
船舶による自爆攻撃。つぎにミサイル攻撃。その中でも、もっとも警戒すべきは、小型船舶に
よる自爆攻撃ではないか。たとえば一〇〇トンクラスの小さな漁船に核兵器をしのばせ、東京
湾までもってきて、そこで爆発させる、とか。戦闘機による攻撃は、目立ちすぎるし、またミサイ
ルにしても、まだ搭載可能な核兵器は完成していないというのが、おおかたの見方である。

 私にしても、この問題は、今日はじめて考える問題なので、いいかげんな言い方しかできない
が、常識的に考えると、こうなる。

(戦争の危機が迫ったら……)
●預金はできるだけ現金化しておく。
●保存食をできるだけ買い込んでおく。
●何らかの形で、ガソリンを確保しておく。
●家族の避難場所を確保しておく。あるいは家族と、万が一の連絡場所、集合場所を話しあっ
ておく。

(戦争が始まれば……)
●円は大暴落、物価は急上昇する。仮に東京が攻撃されたとなると、その瞬間から、日本の
国としての機能は、すべて停止する。結果、経済は大混乱、同時に、円は大暴落。それにあわ
せて物価は、急上昇する。
●K国からの新たなる攻撃、テロに警戒する。
●外出をひかえ、細菌兵器、化学兵器に警戒する。現在この日本には、約二〇〇人のK国工
作員が潜んでいると言われている。こうした工作員が、何らかの形で、破壊工作、あるいは武
装蜂起する可能性がきわめて高い。

(しばらくしたら……)
●みんなで、自由と正義を守るために、立ちあがろう。それぞれの地域で、軍団をつくって、上
陸してくるK国の兵隊と戦おう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(546)

気うつ症の子ども

 もうあれから三年になるだろうか。夏休みの間だけ、預かってほしいと頼まれたので、私はそ
の子ども(中二男子)を、一か月だけ教えた。そのときの記録が、ファイルの中から出てきた。

A君の症状

●子どもらしいハツラツとしたハキがない。何かを問いかければ、ニンマリと笑ってそれに答え
るが、どこか痛々しい。
●「何が心配だ」と聞くと、「テスト」と答える。頭の中は、テストのことばかりといったふう。「がん
ばって、それでだめなら、いいじゃない」と言うと、「夏休みあけのテストで悪かったら、ガックリ
すると思う。そういう自分がこわい」と。
●「どんな夢を見るの?」と聞くと、「ときどき、こわい夢」と。そこで「どんな内容かな?」と聞く
と、「内容は覚えていない。でも、こわい夢」と。何度問いただしても、「こわい夢」というだけで、
内容はわからなかった。
●「家では、だれがこわい人から?」と聞くと、「お父さん」と。「どうして?」と聞くと、「テストの点
が悪いと、しかられる」と。
●「今、一番、何をしたいのかな?」と聞くと、「写真を撮りたい」と。彼の趣味は、カメラをいじる
ことだった。写真を撮るというよりも、毎日、自分のカメラをみがいていた。カメラは、一五台くら
いもっているとのこと。
●学習は、すべて受け身。私が「〜〜しよう」と声をかけないと、そのままじっと座っているだけ
といったふう。無気力。「最近、大声で笑ったことがあるか?」と聞くと、「あまりない」と。
●「睡眠はどうかな?」と聞くと、「ときどき、朝の三時か四時ごろまで眠られないことがある」
「朝早く、目が覚めてしまうことがある」と。
●「家の中で、一番、気が休まるところはどこかな?」と聞くと、「ふとんの中……」と。「お母さん
はこわくないの?」と聞くと、「お母さんもお父さんの仕事を手伝っているから、家にいない」と。
●「食事はどう?」と聞くと、「このところあまり食べない」と。しかしA君は、ポッテリと太った肥
満型タイプ。水泳部に属しているということだが、筋肉のしまりがない。「結構、太っているんじ
ゃないの? 何を食べているの?」と聞くと、「あまり食べていない」と。この年齢の子どもは、も
う少し身なりに神経をつかうものだが、髪の毛はボサボサ。無精ひげはのび放題のびていた。
強い口臭もあった。

A君の症状で一番気になったのは、ここにも書いたように、ハツラツさがなく、どこかもの思い
げに、暗く沈んでいたこと。ため息ばかりついて、私が指示しなければ、何も自分ではしようとし
なかったこと。一度は、本人が何かをするまで待っていたことがあるが、ほぼ三〇分間、何もし
ないでボーッと座ったままだった。

 こういうケースでも、私はドクターではないから、「診断」するということはできない。夏休みが
終わる少し前、迎えに来た母親に、「負担を軽くしてあげたほうがいいのでは……」と言うと、母
親は笑いながら、「今が、(受験勉強では)一番、大切な時期ですから、あの子にはがんばって
もらわないと」と言った。

 結局、子育てというのは、行き着くところまで行かないと、親は気づかない。たいていの親は、
「うちの子に限って」「まさか……」「うちはだいじょうぶ」と思って、その場、その場で無理をして
しまう。この無理が、子どもをやがて、奈落の底にたたき落としてしまう。私は別れるとき、「こ
の子は、もう勉強についてはあきらめたほうがよい。またそうすることがその子どものために最
善」と思った。思ったが、結局は言えなかった。

 ……それから三年。久しぶりにその子どものうわさを聞いた。今は、私立高校(このあたりで
も、公立高校よりもランクが下と言われるD高校)に通っているということだそうだ。「元気か
な?」と聞くと、彼をよく知っている高校生はこう言った。「うん、あいつは元気だよ」と。私はほ
っとすると同時に、「そんなはずはない」と思った。何か大きな問題をかかえているはず。しかし
それ以上は、聞かなかった。かえってこの時期、不登校でも起こしてくれたほうが、あとあとの
症状は軽くすむ。問題を先送りにすればするほど、症状は重くなり、なおすのに長期化する。
今、青年期に、精神的な問題を起こす子どもが、ものすごくふえている。「ものすごく」としか書
きようがないが、あなたの周辺にも、一人や二人は必ずいるはず。私はそれを心配した。

(子どもの気うつ症)

●親の過負担、神経質な過関心、威圧的な過干渉、価値観の押しつけ、権威主義が、慢性的
につづくのが原因として起こる。
●気うつ症に先立って、神経症を起こすことが知られている。チック、吃音(どもり)、夜尿、頻
尿など。腹痛、頭痛もよく知られた症状である。
●症状としては、ノイローゼ、うつ病に準じて考えられている。

@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日
常活動への興味の喪失)、
C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。
さらにその状態が進むと、
Dぼんやりとして事故を起こす(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
G同じようにささいなことで激怒したり、ぐすったりする(感情障害)、
H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見られ
たら、黄信号ととらえる。

要はその前兆をいかにとらえるかだが、これがむずかしい。多分、あなたも、「うちの子はだい
じょうぶ」「私はだいじょうぶ」と思っている。親というのは、そういうもので、自分で失敗し、行き
つくところまで行かないと、わからない。自分では気がつかない。これは子育てが本来的にも
つ、宿命のようなものと考えてよい。
(03−1−25)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(547)

●笑い話

 ある日一人の男が、そのあたりでも有名な精神科医のところへやってきた。そしてこう言っ
た。
 「ドクター、私は、夜もよく眠られません。人と顔を合わせるのも、おっくうになりました。生きて
いるのもつらいです。どうしたらいいでしょうか」と。
 するとその精神科医は、こう言った。「そういうときは、笑うことです。大声で笑うことです。そう
言えば、遊園地に道化師ショーというのがありますから、あそこへ行ってみたらどうでしょう。あ
そこには、おもしろい道化師がいます。みんな、腹をかかえて笑っています。あなたもあそこへ
行って、大声で笑ってみてはどうでしょうか」と。
 するとその男は、こう言った。「いえ、ドクター、それが私にはできないのです。私がその道化
師ですから……」と。

●私のばあい
 
 私にもこんな経験がある。浜松に住むようになって、近所のH内科医院にずっと世話になって
いるが、ある日、そのドクターに、こう相談した。
 「先生、最近、こまかいことが気になると、そればかりを考え、頭から離れないことがありま
す。どうしてでしょう?」と。
 するとそのH医師は、あれこれ症状を並べ始めた。「夜、眠られないでしょう」「はい」「朝、早く
目が覚めることがあるでしょう」「はい」「気が滅入って、テレビや新聞を見るのもいやになること
があるでしょう」「はい」と。
 私はさすがドクターだと感心した。よくもまあ、他人の症状がこうまで、正確にわかるものだ
と。そこで私はそのH医師にこう言った。「さすが、先生ですね。よく私の症状がわかりますね」
と。するとそのドクターは、こう言った。「いえね、林さん、実は私もそうなんですよ、ハハハ」と。

●自分のこと

 子育てをしていると、子どもの中に、自分の過去を見るときがある。「ある」というより、その連
続。そういうとき私はいつも、「自分もそうだったから……」と、ヘンに納得してしまう。たとえば
息子の一人が、金庫から、一〇万円単位のお金を盗み、それを使っていたことがある。そのと
きも、私は息子を叱りながらも、「ああ、私もそういうことをしたことがある」と思った。一〇万円
という大金ではないが、私も子どものころ、五円とか、一〇円とか、ときどき店の金庫から、お
金を盗んで使ったことがある。

 こういう心の操作は、子育てをしていく上では、とても大切なことだ。ふつうは、「自分はどうだ
ったか」「自分ならできるか」「自分ならどうするだろうか」という視点で見る。そうすると、それま
では見えていなかった子どもの心が見えてくる。

 最近でも、子ども(生徒)たちが、カード集めに夢中になっているのを見たときのこと。私はふ
と、自分の子ども時代を思い出した。私が子どものころは、相撲取りのカードとか、プロ野球の
選手のカードを集めていた。岐阜のほうでは、パンコと呼んでいたが、メンコも人気があった。
そういう記憶が心のどこかに残っているから、「くだらないから、やめろ」とは、とても言えない。
一応叱りながらも、心のどこかでそれを許す。

 実はこうした操作は、それができる親には、ごく自然にできるものだが、できない親にはでき
ない。とくに子ども時代、とくに悪いこともしなかったという親ほど、できない。それだけ許容範
囲が狭いということになる。さらに子ども時代、優等生だったという親ほど、できない。そういう
意味では、子ども時代に、男の子でいえば、わんぱくで、いろいろなサブカルチャ(非行などの
下位文化)を経験した子どもほど、親になると、よい親になる。

 私も、子ども時代、とくに小学六年生ごろまでは、目いっぱい、わんぱく少年で育った。わが
ままで、傲慢で、自分勝手で、自己中心的な部分もあったが、それだけに、子どもの世界を広
く知っていた。当時、子どもの世界で流行した遊びは、すべて経験した。そういう私だから、今、
わんぱくな男の子を見たりすると、正直言って、ほっとするような懐(なつ)かしさを覚える。つい
先日も、こんなことがあった。

 今、S君(小三)という子ども(生徒)が、私の教室に来ている。存在感のある子どもで、ワー
ワーと騒いでばかりいる。その子どもが実に楽しい。ユーモアのセンスも抜群だし、感受性も強
い。親はホトホト手を焼いているようだが、私はそうでない。その子どもをからかったり、反対に
からかわれていたりすると、そのままストレスがどこかへ吹っ飛んでしまう。そんなある日、母
親がやってきて、こう言った。

 「先生、すみません。うちの子はああいう子で、何かとたいへんでしょう」と。

 そこで私はこう言った。「いいえ、ぜんぜん。S君は、私の子ども時代、そっくりの少年です。
かえって教えやすいです」と。そう、私はそのS君の心が、まさに手に取るようにわかる。わか
るから、教えやすい。

(補足)
 もちろん嫌いなタイプもある。ネチネチしたり、グズグズしたりするタイプ。いい子ぶるタイプ。
つげ口をする子どもなど、卑怯(ひきょう)なことをするタイプ。とくに私はつげ口が嫌い。私にあ
れこれつげ口をしてくる子どももいるが、そういうときは、「つげ口をするのはもっと悪いこと。自
分で相手に文句を言いなさい」とはねのけることにしている。ホント。つげ口は、いやなもの!

【あなたのチェックテスト】

 あなたの子育て失敗危険度をチェックしてみよう。あなたの子ども時代は、どうであったか。

(1)ずっと優等生で、勉強もよくでき、親にも、期待された。
(2)それなりの範囲の、できのよい友だちとだけいつも、つきあっていた。
(3)中学、高校、大学と、わりとスンナリと、進学した。
(4)結婚も、みなに祝福され、これといって問題なく、した。
(5)今の生活は、平均以上だと思うし、これといって問題はない。

 このテストで、三〜四個、当てはまるようであれば、それだけ子育ての許容範囲がせまいと
みる。あなたの子どもがその範囲に収まっていれば問題はないが、その範囲を超えたとき、あ
なたはそうでない人より大きなショックを受ける。そしてそのショックが、家庭騒動、さらには親
子の間にキレツを入れる原因となる。くれぐれも、ご注意!
(03−1−25)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(548)

相撲(すもう)

 私は子どものころ、相撲が大好きだった。私だけではない。日本中が、大好きだった。テレビ
で相撲の中継が始まると、みな、テレビの前に集まった。相撲は、まさに日本の国技だった。

 しかしそれから五〇年。この模様は、すっかり変わった。今では、子どもでも、相撲を見る子
どもは、ほとんどいない。実のところ、私も、この三〇年、ほとんど見ていない。何がどう変わっ
たのかは知らないが、興味をなくした。

 そういう中、先日、横綱のT関が、引退した。そのニュースは、NHKの昼の定時ニュースのト
ップで、報じられた(〇三年一月)。私は時計を見ていたが、そのニュースだけで六分間! そ
してそのあと、怒涛のように、T関のニュース、またニュース。NHKでも、その夜、T関の特集を
組んで報道していた。

 しかし、だ。たかが横綱が引退したくらいのことで、そんなに大騒ぎしなければならないのだろ
うか。常識で考えても、おかしい。「国技」ということはわかるが、それほどまでに国技にこだわ
らなければならない理由など、どこにもない。たとえば今は、冬場所だが、BS放送でも、午後
一時前後から、夕方六時前後まで、実況中継している。毎日、五時間である! NHKと日本
相撲協会の関係は、きわめて深い。どう深いかは、また別のところで書くとして、何ともうさん臭
いものを感ずる。で、その結果、相撲業界の裏では、億単位の現金が乱舞しているという。と
きどきマスコミにも漏れ、そのつど話題になるが、そういうのはまさに氷山の一角? 数年前だ
が、「金による八百長は、日常茶飯事」と暴露した、元力士もいた。

 私は何も、相撲の実況中継に反対しているのではない。しかし「程度」というものがある。今、
日本人の何%の人が、そういう実況中継を、午後一時から見たがっているのか、一度調査し
てみたらよい。報道の世界にも、需要と供給のバランスというものがあるのではないのか。相
撲の実況中継に毎日五時間も取られる分だけ、ほかの報道がなおざりになる。少なくとも、ま
だ観客がほとんどいないうちから、中継を始めなければならない理由など、ない。ちなみに昨
年(〇二年一一月場所)の観客動員数は、六割前後※(1)(読売新聞)。どの場所も空席ばか
りが目立つ、さみしい状況となっている。

 相撲は残念ながら、スポーツではない。興行である。興行である以上、金儲けが目的。金儲
けが悪いと言っているのではない。金儲けなら金儲けでよいが、だったら、そこには一線を引く
べきではないのか。こうまで国やNHKが、相撲協会を助けなければならない理由など、ない。
また、助けてはいけない。反対にスポーツというなら、もう少しわかりやすくしてはどうか。少なく
とも柔道とか、剣道のように、だ。今のやり方は、税金の使われ方という意味においても、公平
さを欠いている。少なくとも、民主的ではない。

 ……こう書くと、「相撲こそ、日本の伝統文化だ」と反論する人がいる。型、型、型でがんじが
らめになった、あの相撲を、だ。ならば、私は反対に問題にしたい。なぜ、日本人は、こうまで
「型」にこだわるのか、と。型が文化であると思い込んでいる人すら、いる。あるいは型を守るこ
とが、伝統文化を守ることだと錯覚している人すら、いる。しかし型は文化ではない。文化とい
うのは、観念をいう。考え方をいう。たとえばベネディクトは、『菊と刀』の中で、「キリスト教的欧
米文化は、罪の文化である。日本の文化は、恥の文化である」と書いている。そういうのを文
化という。

 だからといって繰りかえすが、私は相撲を否定しているのではない。それを守りたいという人
がいて、それを守るという人がいるなら、それはそれでよいことだ。私のような人間がとやかく
言っても始まらない。相撲によく似ているが、私も学生時代、宝生(ほうしょう)クラブという、謡
(うたい)のクラブに入っていた。京都の能舞台で、うなったこともある。それはそれで結構楽し
かったし、よい思い出になっている。

 ただ私が心配するのは、型にこだわるあまり、日本人は、どうしても生きザマがうしろ向きに
なりやすいということ。ときには型が、ブレーキになることもある。何かにつけて型を決めてから
行動しようとする。そのため、その分、進歩が遅れてしまう。決しておおげさなことを言っている
のではない。あの堺屋太一氏も、「(日本の社会)は、厳しい新規参入の制限、伝統的様式に
よる規格化、独占の管理機構(日本相撲協会)という、市場原理の働かない(相撲型社会であ
る)」(講談社刊「大変な時代」)と書いている。堺屋氏は相撲型社会を決して、ほめているので
はない。「このままでは日本はダメになる」と警告しているのである。

教育の世界とて、例外ではない。たとえば文字の、トメ、ハネ、ハライがある。その上、書き順
まである。こういうものに子どもたちは神経をすり減らしているから、文字を書いて考えたり、自
分を表現したりすることが、どうしてもなおざりになってしまう。恐らく世界でも、もっとも思考能
力のない民族はといえば、私たち日本人ではないのか。ロンドン大学の森嶋名誉教授も、そう
書いている。「(日本の学生は)、自分で考え、判断する訓練が、もっとも欠如している※(2)」
と。

 相撲から文化論、さらには教育論にまで、話が飛躍してしまったが、NHKや日本相撲協会
が、必死になって、観客需要をつくろうとしても、それは無理というもの。なぜなら、それを決め
るのは、一部の指導者ではなく、私たち民衆だからである。いくら「相撲はおもしろぞ」と私たち
を扇動しようとしても、私たちが「おもしろくない」と思えば、それまでのこと。その意識そのもの
が、まさに文化ということになる。

 冒頭にも書いたように、私も子どものころは、相撲が大好きだった。そういう私でも、このとこ
ろ相撲が低調ということについて、それほど悲しいという思いはない。理由のひとつとして、金
まみれのスキャンダルがつづいたこと。今の今でも、ここにも書いたように、相撲業界の裏で
は、億単位の現金が乱舞しているという。そういう話を聞かされるたびに、「結局は私たちは、
だれかの金儲けのために利用されただけ」という思いにかられる。つまり私のばあい、そういう
思いが消えないかぎり、再び相撲が好きになることはないと思う。
(03−1−25)

※(1)……〇二年一一月場所、観客動員数(読売新聞調べ)
    初日     ……6310人
    二日目〜六日目……5050人〜5850人
         (満席で8720人)

※(2)……ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育
である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけ
ん」・九八年)と。

●伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るもの
はまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。(三木清「哲学ノート」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(549)

伝統論

 伝統は、それ自体は、経験の集合である。先人たちの積み重ねてきた知恵や情報が、その
中には、ぎっしりとつまっている。

 しかしその伝統にしばられるのは、正しくない。伝統は、いつも、よりよい伝統によって置き換
えられなければならない。またそうであるなら、それ以前の伝統が否定されても、何ら悲しむべ
きことではない。なぜなら、伝統そのものも、無数の取捨選択の結果でしかないからである。相
撲を例にあげて考えてみよう。

 相撲はまさに日本の伝統的スポーツ。しかしその相撲は、ある日突然現れ、そして完成した
わけではない。今に見る相撲になるまでに、無数の人たちと、無数の試行錯誤が繰りかえされ
た。しかしどこかで完成されたわけではない。今の今も、その試行錯誤の過程にあるとみるの
が正しい。だとするなら、過去にこだわるあまり、「完成した」とみるのは正しくない。改良すべき
点があるなら、どんどんと改良していったらよい。

 たとえば相撲では、けがをする人が絶えない。理由は、土俵が上に盛りあがっているから
だ。だったらなぜ、土俵を地面と同じ高さにしないのか。あるいは、ころんでもけがをしないよう
に、同じ高さのワクを広げてもよい。またあのマワシにしても、どうしてそれがパンツではいけな
いのか。こういう意見はどこか極論に聞こえるかもしれないが、「過程」というのは、そういう意
味である。過去にこだわりすぎるあまり、試行錯誤する過程を否定してはいけない。

 もちろん伝統を頭から否定してはいけない。それはいわば、無数の石で積みあげられた塔の
ようなもの。こわすのは、だれにだってできる。それに簡単だ。大切なことは、こわすならこわす
で、それに代わるもの、あるいはもっとすばらしいものを用意しなければならない。「相撲はつ
まらないからやめてしまえ」と言ってはいけない。私たちが考えるべきことは、「どうすれば、もっ
とおもしろくできるか」ということ。

 もっとも相撲のばあい、「伝統」という言葉を、逆手にとって利用している面がある。「伝統だ
から守ろう」という立場ではなく、「伝統だから守るべき」、さらには、「伝統だから、ありがたく思
え」というふうにである。この傲慢(ごうまん)さは、いったい、どこからくるのか。

私はその理由の一つとして、「興行」という名のもとの「金儲け」をあげる。つまり今の相撲は、
伝統を守ろうとか、守らないとかいうレベルの話ではなく、むしろ「伝統」という言葉を利用して、
金儲けの道具に使われている。よい例が、外人力士たちだ。彼らは日本の伝統を守るため
に、日本へやってきて、力士になったのではない。ボランティア精神など、みじんもない。あくま
でも、金儲けだ。わかりやすいと言えばわかりやすいが、そのわかりやすい分だけ、そこに不
純なものが、にじみ出てくる。その不純なものを、おおい隠すために、むしろ「伝統」という言葉
が利用されている。

 だったら、なぜ、相撲を、もっと前向きにとらえないのか。柔道や空手のように、国際的なスポ
ーツにするという方法もある。少なくとも、組織まで、かたくなに守らねばならないという理由は
ない。もっとも組織にメスを入れたら、その組織の中で安穏としていた人には、大打撃になる。
だから当然のことながら抵抗するだろう。つまりその抵抗の道具として、ここでも「伝統」という
言葉が利用されている。

 こうした例は、日本の中に、無数に残っている。相撲だけではない。伝統という言葉を利用し
て、既得権を守る。排他的になる。独善的になる。そして改革をこばむ。三木清(哲学者、189
7−1945)は、それではいけないと言っている。彼はこう書いている。「伝統が創造されるとい
ふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るものはまた伝統を毀(こわ)し
得るものでなければならぬ」(「哲学ノート」)と。つまり伝統というのは、形を変え、また壊しうる
ものでなければならない、と。

 私たち日本人は、「伝統」という言葉にあまりにも、おびえすぎているのではないのか。あるい
は、子どものときから、ことあるごとに、そう洗脳されつづけてきた? あなたも子どものころ、
学校や近隣で、耳にタコができるほど、「伝統を守ろう」という言葉を聞かされてきたと思う。そ
してその結果、ちょうどどこかの宗教団体の信者が、本尊におびえるように、「伝統」という言葉
におびえるようになってしまった? しかし何も恐れることはない。もし今までの伝統より、すば
らしいものを用意できるなら、その伝統にこだわる必要はない。またこだわってはいけない。

 そこでここでの結論として、私はこう考える。

 伝統とは、それ自体が、伝統の種である。種であるから、心のどこかにまいてこそ、意味があ
る。やがて実をつけることができる。決してその種を手の中で、握ったままにしておいてはいけ
ない。握ったままにすれば、腐るだけ。腐って滅びるだけ。
(03−1−25)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(550)

洗脳

 K国では、幼稚園児のときから、「将軍様は偉大」と、徹底的に洗脳されているという。ときお
りかいま見るテレビ報道でも、それを知ることができる。

 では、日本人の私たちはどうか? たいていの人は、日本は民主主義国家だから、K国とは
違うと思っている。たしかにK国とは違うが、国際的に見れば、日本もK国も、それほど違わな
い。少なくとも戦前の日本は、今のK国以上に、K国的であった。その日本が、戦後、戦前の日
本を清算したかといえば、そういう事実はまったく、ない。よい例が、あの文部省。あれほどす
さまじい軍国主義教育を最先端でしておきながら、戦前から戦後にかけて、クビになった文部
官僚は、ただの一人もいない。

 その点、よく日本はドイツとよく比較される。日本は日本で、アジアの日本化をめざした。ドイ
ツはドイツで、ヨーロッパのドイツ化をめざした。しかしともに、世界の、手痛い反撃を受けた。
結果、ドイツは、すべてを清算した。一度国家を、こなごなに分解し、今度は、ドイツのヨーロッ
パ化を受け入れた。が、日本は違った。今にいたるまで、日本のアジア化をガンとして、拒否し
つづけている。子どもでも、自分がアジア人だと思っている子どもは、まずいない。

 洗脳というのは、こわいものだ。知らず知らずのうちに、価値のあるものを価値がないと思い
込み、反対に、価値のないものを価値があるものと、思い込まされる。しかももっとこわいこと
に、洗脳する側にしても、洗脳しているという意識がないまま、それをする。恐らくK国の幼稚園
の教師にしても、子どもたちを洗脳しているという意識はないと思う。教師とて、心底、洗脳され
きっている。

 そこで私たち日本人の脳に、メスを入れてみよう。

 先日も、子ども(小三児童)たちが、「偉い人」という話を勝手にし始めた。そこで私が、「日本
で一番、偉い人はだれかな?」と話しかけてみた。すると一人の子どもが、「総理大臣」と答え
た。が、もう一人の子どもが、それをさえぎるように、「バカだなあ、お前。日本で一番、偉い人
は天皇だ」と。

 こういう話はたいへん微妙な話なので、私はここでさえぎった。こういう議論は、そういう議論
をしたというだけで、父母のヒンシュクを買う。が、私はそのとき、こう考えた。子どもでも、「偉
い」という言葉を使うのだなあ、と。

 日本で「偉い」というときは、「位が上」ということ。奈良時代の昔から、日本は官僚主義国家
で、その頂点に、天皇が君臨してきた。そういう意味では、「天皇がいちばん偉い」ということに
なる。今でも、この状態は何も、変わっていない。しかし問題は、このことではなく、いつ、どこ
で、子どもたちはこのような意識をもつようになるか、である。

 もう一〇年ほど前だろうか。天皇がこのH市へやってきたことがある。ちょうど夕方のころで、
市内のホテルに宿泊するために、やってきた。そのときのこと。上空にはヘリコプターが舞い、
道路はすべて閉鎖された。沿道にはほぼ数メートルごとに警察官が並び、皆が日本の旗をも
っていた。そこへ天皇らの乗った車がやってきたが、もちろん信号は、すべて無視。しっかりと
数えていなかったからわからないが、車だけでも、五〇台近くはつらなっていた。そして天皇の
乗った車。その姿を見ると、あちこちから「バンザーイ」の歓声、また歓声!

 こういう状況を見て、子どもたちは、「天皇は偉い」と思うようになる。そしてそれが脳裏に焼
きつけられる。実は私もそうで、小学二年生くらいのとき、道路に並んで天皇を迎えたことがあ
る。当時は、そのため、学校は休み。休みというより、強制的に並ばされた。そのときの思い出
が強烈に脳裏に焼きついているから、今の今でも、天皇について書くのは、どうもはばかれ
る。ここでも、「天皇」と書くべきなのか、「陛下」と書くべきなのか、迷っている。

 それはさておき、K国の幼稚園児たちを見ていると、手段や方法こそ違うが、「洗脳」という意
味においては、それほど、違わないのではないかと思う。少なくとも、私は、子どものころ、今の
K国の子どもたちが洗脳されているように、洗脳された? 今の今でも、日本の天皇制を考え
ると、「日本には天皇は絶対必要だ」という思いと、「人間は生まれながらにして、みな、平等の
はず」という思いが、頭の中でバチバチと火花を散らす。そしてこうして天皇について書くだけで
も、言いようのない緊張感に包まれる。インターネットの意識調査では、「天皇制は必要ない」と
考えている若者が、六〇〜七〇%前後いるという(E社調査)。これはインターネットをしている
若者という意味で、平均的な若者の意見ではないが、私には、こういう議論そのものができな
い。

 先の会話でも、つづけてほかの子どもたちが私にこう聞いた。「先生、どうして天皇は偉い
の?」と。しかし私はその質問には答えられなかった。だからこう言った。「そういう話は、おうち
でお父さんやお母さんとしてね。ぼくには、わからないから」と。

 さて、読者のみなさんは、どうだろうか。いや、天皇制が必要とか必要でないとか、そういうこ
とではない。みなさんも、何かのことで、洗脳されてはいないだろうかということ。自分で、それ
が正しいとか、大切とか、思い込んでいるだけというようなことである。ざっと、思いつくままあげ
ても、つぎのようなものがある。

親孝行論
伝統論
親の威厳論
偉人論
出世論
義理論
人情論

 もちろん、こういったものを、頭から否定してはいけない。ただ何も考えずに、それらを受け入
れてしまうのも、よくない。一度、あなたのもつ「常識」に照らしあわせて、それが正しいものな
のか、あるいは大切なものなのか、疑ってみる必要はある。私は、K国の子どもたちの授業風
景を見ながら、それを考えた。
(03−1−26)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(551)

「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よく似
たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人とは言わな
い。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打
ちこわし、……関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝
国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚す
ら覚える。しかし……?    

実際のところ、それから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ
恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生
活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶
安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は関係者はもちろんのこと、親類縁者す
べてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼
ばれた」(中日新聞コラム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美
化される一方、彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家
康像」は、あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた
自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが
地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心
のどこかで引きずっていることになる。そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉
が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消
えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。少し前、幼
稚園児を前にして、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識がある間
は、日本の民主主義は完成しない。
(03−1−26)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(552)

アメリカ様々の時代

 韓国のソウル市から観光バスに乗ると、約一時間ほどで、板門店に到着する。北朝鮮との国
境である三八度線上に、それはある。その板門店周辺は、いわゆる国連軍の管轄になってい
る。国連軍といっても、実際には、大半がアメリカ軍。私が訪れたときも、道路の両側いたると
ころに、迷彩色の服を着たアメリカ兵が、うようよといた。

 わかりやすく言うと、その地域は、まさに最前線。そのあたりに約三万八〇〇〇人のアメリカ
軍(ボーイズ)と、その家族が住んでいる。もっとわかりやすく言うと、韓国のために、アメリカ軍
が最前線で、北朝鮮ににらみをきかしている。

 その韓国で、反米闘争が起きている。先の韓国大統領選挙の前後には、一〇万人単位のデ
モ隊が、ソウルの町を占拠した。発端は、女子中学生の交通事故だという。その気持ちはわ
からないでもないが、それがなぜ反米闘争にまで発展したのか。さらにテレビ報道などのよる
と、デモ隊はアメリカの国旗を破ったり、燃やしたりしている。アメリカ軍の基地には火炎瓶まで
投げ込まれた!

 私は何も、アメリカの肩をもつわけではないが、ここまでされると、アメリカ軍も、立つ瀬ない。
私がアメリカ人なら、「ならば、どうぞご勝手に!」と言って、韓国から出て行く。しかし、だ。もし
アメリカ軍が韓国から出て行けば、その翌日には、北朝鮮が、韓国になだれ込んでくるだろう。
今まで、かろうじて平和が保たれたのは、そのあたりにアメリカ軍がいたからにほかならない。
韓国の人には悪いが、どうしてこんな簡単な道理がわからない?

 日本もそうだ。となりの北朝鮮が核兵器をすでにもち、それを「日本に使う」と言っているの
に、平和だの、憲法だのと言っている。自衛隊の海外派遣反対だの、戦争反対だのと言って
いる。平時で、何もないときならいざ知らず、今は、そういうときではない。さらに仮に北朝鮮
が、韓半島を統一したら、日本は、どうなる? その翌日から、日本は今度は、強大な軍事大
国を相手にしなければならなくなる。軍隊をあわせると、何と二〇〇万人近くになる。核兵器も
生物兵器ももっている。その上、日本への憎しみは深い。そのときアメリカがバックになけれ
ば、日本など、あっという間に北朝鮮に占領されてしまうだろう。日本の人には悪いが、どうして
こんな簡単な道理がわからない?

 今、大切なことは、核兵器が、まさに世界に拡散しようとしていること。そのことに注意を払う
べきだということ。そのうちそこらの活動家ですら核兵器を手に入れて、国をおどしたり、民を
おどしたりするようになるかもしれない。実際に爆発させて、罪もない人たちを、一度に何一〇
万人も殺すようになるかもしれない。世界が今、そういう歴史の転換期に立っているというこ
と。アメリカのやり方には、たしかに傲慢(ごうまん)で強引な面はあるが、しかしそのアメリカを
除いて、そういう流れを食い止めてくれる国が、ほかにどこにある? 少なくとも、この時点にお
いて、日本を守ってくれる国が、ほかにどこにある? 先ごろ日本のK外務大臣がブッシュ大
統領に会ったとき、ブッシュ大統領は、「同盟国(日本)が(北朝鮮の)大量破壊兵器で攻撃さ
れたら、アメリカは同盟国(日本)のために、ただちに反撃する」と言ってくれた。そんなことを言
ってくれる国が、ほかにどこにある? (反対に、「アメリカが攻撃されたら、日本はただちにそ
の国に対して反撃する」と、日本の首相は言うだろうか。)

 私の初孫が生まれた。まん丸の目をしたかわいい赤ん坊だ。その孫はアメリカ人だが、いく
らアメリカ人でも、日本のために戦争にやってくると言ったら、私はこう言うだろう。「やめなさ
い。こんなところまできて、命を落とすことはない。私たちで何とかするから」と。それともあなた
なら、自分の息子を、キューバからベネズエラを守るために、ベネズエラへ送ることができると
でもいうのだろうか? 

 よく誤解されるが、アメリカには、アメリカ人と呼ばれるアメリカ人はいない。まさにあの国は、
人種のルツボ。白人もいるが、同じくらいの数のヒスパニック、黒人もいる。アジア人もいて、日
系人もいる。先日も私の事務所に、「あんたは、アメリカが日本を第○○番目の州にしようとも
くろんでいるのが、わからないのですか!」と怒鳴り込んできた、女性(四〇歳くらい)がいた。
これは本当の話で、ウソではない。しかしアメリカ人に、そんな意思など、毛頭ない。ないこと
は、しばらくアメリカ人とつきあってみればわかる。よく北朝鮮は、「日本はわが国を再び侵略し
ようとしている」と言うが、日本人にそんな意思は、毛頭ない。ないことは、あなた自身が一番よ
く知っている。

 そろそろ日本も、腹を決めるべき時期に来ているのではないのか。日本だけがよい子で、無
事ですまそうとしても、そうはいかない。やるべきことはやる。またやらねばならない。民主党の
K代表は、「アメリカ追従外交※」を批判したが、日本の今の立場は、それしかない。もとはとい
えば、戦後処理をしっかりとしてこなかった、官僚政治の責任ということになるが、今は、その
責任を問うべき時期でもない。少なくとも今、私たちは、「座して死を待つ」(K外務大臣)わけに
はいかないのだ。
(03−1−26)

※……アメリカのイラク攻撃に、小泉総理が明確な国会答弁を避けたことについて、民主党の
K代表は、「アメリカの顔色を伺ってしか物を言えない」と批判した。いわく「小泉さんの政策は、
あるいは政権は、経済政策においては、もう0点どころかマイナス100点でありますが、残念
ながら外交政策においてもですね、従来のいわゆるアメリカの顔色を伺ってしかものが言えな
い、従来型自民党政治から一歩も出ていない。このことをあえて申し上げなければなりません」
(〇三年一月)と。

(追記)もちろんここの私が書いたことが、取り越し苦労で終わればよい。またそうなることを、
心から願っている。しかし油断してはいけない。そういう思いをこめて、この原稿を書いた。

(北朝鮮の現状)原油を止められ、首都のピヨンヤンでも、凍死者が続出しているという。いわ
んや地方では……? 今年の冬だけでも、凍死者、餓死者が、数百万人も出ると予想されて
いる。経済は壊滅状態。昨年(〇二年)の経済改革(?)の失敗で、ハイパーインフレ。しかも
軍隊内部でも脱走兵が続出しているという(以上、「週刊現代」)。だからこそ、今、北朝鮮があ
ぶない。ミサイル実験と称して、日本にミサイルを撃ち込んでくる可能性は、じゅうぶん、ある。
みなさん、注意しましょう!

+++++++++++++++++

われわれは、自由のために戦ったことがあるか。
われわれは、正義のために戦ったことがあるか。
われわれは、過去の過ちを、反省したことがあるか。
われわれは、過去の失敗を、学んだことがあるか。
さあ、仲間よ、自由と正義のために、戦おう。
過去の過ちと、過去の失敗を乗り越えて!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(553)

暴論は疑う

 少し前、子どもの不登校や情緒障害を、怒鳴り散らして「治す(?)」という指導者がいた。テ
レビでも何度か紹介されたことがあるが、ただただ(?)クェスチョンマークだけが並ぶような指
導法だった。

 ときとしてこういう暴論が、世間をにぎわす。少し前には、Tヨットスクールというのがあった。
死者まで出す、めちゃめちゃな指導法だったが、当初は、マスコミにも取りあげられ、結構話題
になった。
 
 私はずっと子育てや、育児論を最前線で見てきたが、結論はただひとつ。「暴論は疑う」だ。

 子どもの心は、ときとしてガラス箱のように、デリケートでこわれやすい。そしてこわれた心
は、こわれたガラス箱のように、簡単には、もとに戻らない。それこそ一年単位の時間と努力
が必要。それを数回、怒鳴っただけで治す(?)とは! 私もその指導者が書いた本を、二冊
買って読んだが、正直言って、「?」の本だった。一冊は、自分が高校生のとき、父親の車を盗
んで、無免許で乗り回したとか、そういう話が書いてあった。つまり「そういう経験が、今、役に
たっている」と。

 それ以上のことは私にはわからないので、反論のしようがないが、子育てには、近道も抜け
道もない。あるとすれば、あなたがそこにいて、子どもがそこにいるという事実。その事実だけ
を冷静に見つめて、子育てをすればよい。仮に子どもに問題があったとしても、「なおそう」と
か、「なおしてやろう」とか、さらには、「なおさなければ」と思う必要はない。今ある事実を、ある
がままに受け入れて、その中で、あなたとあなたの子どもの人間関係をつくればよい。

 つぎの原稿は、こうした暴論について書いたもの。

+++++++++++++++++++++++

(暴論@)
スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない!)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本独特のおかしさは、
外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもた
ちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こ
ういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけ
て、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものでき
る仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせれ
ばいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レン
ジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうス
キをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ
息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、
乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あ
なたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日
本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパ
ルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ども
にすべき教育ではない。

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(暴論A)
「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の評論家(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責してい
る場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その評
論家が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言
葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流
すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその評論家の、そういう言い方は卑怯(ひきょう)だと思う。強い立場のものが、一方的
に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするな
ら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間
関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。
切れないと思っているのは、親だけで、親はその幻想の上に安住しているだけ。そのため子ど
もの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれの
おかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか!」と言うのと同じ。たしかにそうか
もしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに
言葉を教えるのは、親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア
ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間
としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育て
をすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊
かなものになる。私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやっ
た」という意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言
うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気
持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ
くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親
孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん
なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ
の重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の評論家の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。

++++++++++++++++++++++++

(暴論B)(少し前に掲載した原稿です)
子どもにはナイフを渡せ!

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書
いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。

●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひ
っこめざるをえなかったのだろう。ナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評
論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にあ
る。

●ゴーストライターの書いた本
 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家が
いた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆
箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解する
ことも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ること
ができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよ
いものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイ
レを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま
私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、
こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑
誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になっ
たことがある。

●タレント教授の出世術
 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生
に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そし
て本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライタ
ーをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこ
んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、
こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」
と。もちろん私はそれを断った。
が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊あ
った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ
れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ
ふれていた。

●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に
ある。

●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。
 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子ども
と関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子
どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!

 さらに子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととし
て考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あな
たはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。
 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。

++++++++++++++++++++++

 こうした暴論がなぜ生まれるか。その背景には、独断と独善がある。だからといって、私の意
見が正論とは思わないが、私のばあい、すべての授業を公開することで、つまりいつも親の視
線と監視のもとに自分の教育を置くことで、そのつど軌道修正してきた。いまだかって、非公開
で授業をしたことはないし、参観を断ったことがない。これは教育を組みたてるときには、たい
へん重要なことだと思う。あえていうなら、世間的な常識の注入ということになる。これがない
と、教育者も評論家も、軌道を踏みはずすことになる。理由は、簡単。英語でも、教師のこと
を、「子どもの王(King of Kids)」という。つまり独裁者。世間的な常識の注入がないと、その独
裁者になりやすい。
(03−1−26)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(552)

自然教育

 地球温暖化の問題は、年々、深刻さをましている。しかしこういう言い方は、ほかの国の人た
ちには失礼かもしれないが、日本ほど、ラッキーな国はない。

 四方を海に囲まれ、しかも中央には、三〇〇〇メートル級の山々を連ねている。これから
先、地球温暖化の問題が起きてくるとしても、日本に被害がおよぶのは、最後の最後。海面上
昇にしても、また水不足にしても、当面は心配ない。が、油断してはいけない。そのひとつ。食
料とエネルギーの確保。

 ……というようなことは、私が書いても意味がない。そこでここでは、もう一歩、先に話を進め
る。

 いろいろ誤解があるようだが、世界の中でも、日本人ほど、自然に対して破壊的な民族は、
そうはいない。よく「日本人は自然を愛する民族だ」というが、これはウソ。日本に緑が多いの
は、たまたま放っておいても緑だけは育つという、恵まれた環境だからにほかならない。

 つぎに「自然を大切にしましょう」と、声高に叫ぶのは勝手だが、その「自然」がやさしいの
は、ごく限られた国々でしかない。たとえばアラブの、つまり砂漠の国々へ行って、「自然を大
切に」などと言おうものなら、「お前、アホか!」と言われる。ほとんどの国では、自然というの
は、人間が戦うべき「脅威」ということになっている。つまり、これらの点でも、日本は、本当にラ
ッキーな国である。

 しかしもともと日本人は、自然に対して、受け身の民族であった。が、その姿勢が大きく変化
したのは、戦後のことである。それについて書いたのが、つぎのエッセー。

+++++++++++++++++++++++

この私の自然論は、少し難解なため、興味のある方だけ、
お読みください。

+++++++++++++++++++++++

自然論

 フランシス・ベーコン(1561−1626、イギリスの哲学者)は、「ノーヴェム・オルガヌム」の中
で、こう書いている。「まず、自然に従え。そして自然を征服せよ」と。このベーコンの自然論の
基本は、人間と自然を、相対した関係に置いているというところ、つまり人間がその意識の中
で、自然とは別の存在であると位置づけているところにある。

それまでのイギリスは、ある意味で自然に翻弄されつづけていたとも言える。つまりベーコン
は、人間の意識を自然から乖離(かいり)させることこそが、人間の意識の確立と考えた※。こ
の考えは、その後多くの自然科学者に支持され、そしてそれはその後さらに、イギリスの海洋
冒険主義、植民地政策、さらには1740年ごろから始まった産業革命の原動力となっていっ
た。

 一方、ドイツはまったく別の道を歩んだ。ベーコンの死後から約100年後に生まれたゲーテ
(1749−1832)ですら、こう書き残している。「自然は絶えずわれわれと語るが、その秘密を
打ち明けはしない。われわれは常に自然に働きかけ、しかもそれを支配する、何の力ももって
いない」(「自然に関する断片」)と。さらにこうも言っている。「神と自然から離れて行動すること
は困難であり、危険でもある。なぜなら、われわれは自然をとおしてのみ、神を意識するからで
ある」(「シュトラースヴェルグ時代の感想」)と。

ここでゲーテがいう「神」とは、まさに「自己の魂との対面」そのものと考えてよい。つまり自己の
魂と対面するにしても、自然から離れてはありえないと。こうしたイギリスとドイツの違いは、海
洋民族と農耕民族の違いに求めることもできる。海洋民族にとって自然は、常に脅威であり、
農耕民族にとっては自然は、常に感嘆でしかない。海洋民族にとっては自然は、常に戦うべき
相手であり、農耕民族にとっては自然は、常に受け入れるべき相手でしかない。が、問題は、
イギリスでも、ドイツでもない。私たち日本人はどうだったかということ。

 日本人は元来農耕民族である。ドイツと違う点があるとするなら、日本は徳川時代という、世
界の歴史の中でも類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治を体験したということ。そのためその
民族は、限りなく従順化された。日本人独特の隷属的な相互依存性はこうして説明されるが、
それに反してイギリス人は、人間と自然を分離し、人間が自然にアクティブに挑戦していくこと
を善とした。ドイツ人はしかし自然を受け入れ、やがてやってくる産業革命の息吹をどこかで感
じながらも、自然との同居をめざした。

ドイツ人が「自然主義」を口にするとき、それは、自然への畏敬の念を意味する。「自然にある
すべてのものは法とともに行動する」「大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証する」(「断
片」)と書いたカント(1724−1804)に、その一例を見ることができる。一方、日本人は、自然
を従うべき相手として、自らを自然の中に組み入れてしまった。その考えを象徴するのが、長
岡半太郎(1865−1950)である。物理学者の彼ですら、こんな随筆を残している。「自然に
人情は露ほども無い。之に抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる。之に順ふものは、恩恵に浴
する」と。

日本人は自然の僕(しもべ)になることによって、自然をその中に受け入れるというきわめてパ
ッシブな方法を選んだ。が、この自然観は、戦後、アメリカ式の民主主義が導入されると同時
に、大きく変貌することになる。その象徴的なできごとが、田中角栄元首相(1972年・自民党
総裁に就任)の「日本列島改造論」(都市政策大綱、新全総、国土庁の設置、さらには新全総
総点検作業を含む)である。

 田中角栄氏の無鉄砲とも思える、短絡的な国家主義が、当時の日本に受け入れられたの
は、「展望」をなくした日本人の拝金思想があったことは、だれも疑いようがない。しかしこれは
同時に、イギリスからアメリカを経て日本に導入されたベーコンイズムの始まりでもあった。日
本人は自らを自然と分離することによって、その改造論を正当化した。それはまさに欧米では
すでに禁句となりつつあった、ハーヴェィズム(「文明とは、要するに自然に対する一連の勝利
のことである」とハーヴェィ※2は説いた)の再来といってもよい。

日本人の自然破壊は、これまた世界の歴史でも類をみないほど、容赦ないものであった。そ
れはちょうどそれまでに鬱積していた不満が、一挙に爆発したかのようにみえる。だれもが競
って、野や山を削ってそれをコンクリートのかたまりに変えた。たとえば埼玉県のばあい、昭和
三五年からの四〇年間だけでも、約二九万ヘクタールから、約二一万ヘクタールへと、森林や
農地の約三〇%が消失している※3。田中角栄氏が首相に就任した1972年以来、さらにそ
れが加速された。(イギリスにおいても、ベーコンの時代に深刻な森林の減少を経験してい
る。)そこで台頭したのが、自然調和論であるが、この調和論とて、ベーコンイズムの変形でし
かない。基本的には、人間と自然を対照的な存在としてとらえている点では、何ら変わりない。
そこで私たちがめざすべきは、調和論ではなく、ベーコンイズムの放棄である。そして人間を自
然の一部として再認識することである。私が好きな一節にこんなのがある。ファーブルの「昆虫
記」の中の文章である。

「人間というものは、進歩に進歩を重ねたあげくの果てに、文明と名づけられるものの行き過ぎ
によって自滅して、つぶれてしまう日がくるように思われる」と。

ファーブルはまさにベーコンイズムの限界、もっと言えばベーコン流の文明論の限界を指摘し
たともいえる。言い換えると、ベーコンイズムの放棄は、結局は自然救済につながり、かつ人
間救済につながる。人間は自然と調和するのではない。人間は自然と融和する。そして融和す
ることによってのみ、自らの存在を確立できる。自然であることの不完全、自然であることの不
便さ、自然であることの不都合を受け入れる。そして人間自身もまた、自然の一部であること
を認識する。たとえば野原に道を一本通すにしても、そこに住む生きとし生きるすべての動植
物の許可をもってする。そういう姿勢があってこそ、人間は、この地球という大自然の中で生き
延びることができる。
 
※……ベーコンは「知識は力である」という有名な言葉を残している。「ベーコンは、ルネッサン
ス以来、革新的な試行に哲学的根拠を与えた人物としても知られ、『自然科学の主目的は、人
生を豊かにすることにある』とし、その目標を『自然を制御し、操作すること』においた。この哲
学が、自然科学のイメージを高め、将来における科学の応用、さらには技術や工学の可能性
を探求するための哲学的根拠となった」(金沢工業大学蔵書目録解説より)。

※2……ウィリアム・ハーヴェイ(1578−1657)、医学会のコペルニクスとも言われる人物。
彼は「自然の支配者であり、所有者としての役割は、人類に捧げられたものである」と説いた。

※3……埼玉県の「森林および農地」は、昭和35年に296・224ヘクタールであったが、平成
11年現在は、211・568ヘクタールになっている(「彩の国豊かな自然環境づくり計画基礎調
査解説書」平成九年度版)。

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上の原稿を、もう少しわかりやすく書いたのが
つぎの原稿です。新聞で発表するつもりでしたが
編集者の意向で、ボツになった原稿です。どうして
ボツになったか、わかりますか?

+++++++++++++++++++++++++

ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星
は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この
詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を見た
だけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声
高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ
ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四
〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社
会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕
著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県で
は、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住
む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつこと
である。少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切
にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。

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 「自然教育」と簡単に言うが、おとなの私たちがさんざん好き勝手なことをしておきながら、子
どもに向かって、「自然を大切にしましょう」は、ない。それこそおとなの身勝手というもの。しか
し実際には、いろいろな問題がある。

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●自然への雑感

 私の自宅の前は、小さな森になっている。古くからある、このあたりの大地主の墓地にもなっ
ている。私はここに住んで、もう二六年になるが、住み始めたころは、そうではなかった。小さ
な木がまばらに生えている程度だった。が、この二六年間で、すっかり様子が変わった。

 私は庭で、畑も、花壇もつくっていた。庭一面には、芝生も植えていた。しかし最初に、畑が
全滅。つぎに花壇も全滅。七、八年前には、芝生も枯れはてた。墓地の木々が大きくなり、や
がて巨木になり、日陰が、私の庭全体をおおうようになった。

 で、地主にあれこれ相談した。が、地主が東京に住んでいることもあり、なかなかことが、は
かどらなかった。が、いよいよ大木の枝が、私の庭のほうまで容赦なく入り込んでくるようにな
った。そこで木を伐採してもらうことにした。

 そのときだ。他人の土地の森とはいえ、この二六年間、なれ親しんだ森である。枝を切っても
らうにしても、どこか抵抗があった。もちろん切ったのは、業者だが、それでも抵抗があった。
畑も花壇もつぶれたが、しかし本当のところ、私は緑が嫌いではない。居間から見ると、窓全
体に、墓地の緑が飛びこんでくる。いつだったか、F市の友人が私の家に遊びに来たとき、「ど
こかの別荘地みたいですね」と言ったのを覚えている。私はそれを聞いて、うれしかった。

 が、家の周囲の木は、切ってもらった。バッサ、バッサと。おかげで少しは明るくなったが、さ
っそく近所の人が何人かやってきて、こう言った。「よく、今まで、がまんしましたね」と。それを
聞いて私は、「緑に対する考え方も、人によって違うのだな」と思った。都会地域では、緑を嫌う
人も、少なくない。「ゴミ(葉のこと)が出る」「枯れ葉が家のトイをつまらせる」「日陰になる」と
か。私自身は、葉や枯れ葉がゴミだと思ったことは一度もないのだが……。

 緑を守ることだけが、自然を守ることではない。ほかにもいろいろ方法はある。しかし木を育
てるというのは、たいへんわかりやすい。少なくとも、私はずっと、そう考えてきた。実のところ、
その墓地の森に、いろいろな木をこっそりと植えてきたのは、この私だ。しかしこのところ、つま
り、とくに周囲の木を切ってもらってから、少し考え方が変わってきた。自然を守るということ
は、そういうことではないのではないか、と。たとえて言うなら、ペットの動物を飼ったり、家畜の
動物を育てているからといって、動物を愛護していることにはならない。同じように、自分の目
を楽しませるために、木を、家のまわりに植えたからといって、自然を保護したことにはならな
い?

 自然保護というのは、もっとシビアなもの。私のばあい、あくまでも結果論だが、この三〇年
以上、自転車通勤していることが、それではないか。最初は、自然保護などということは、みじ
んも考えていなかった。あくまでも健康のためだった。しかしあるときから、自然保護を意識す
るようになった。「私はみんなより、空気を汚していないぞ」という思いをもつようになった。それ
はある種の優越感だった。たとえば自転車に乗っていて、バリバリと音をたてながら、猛スピー
ドで通りすぎる車を見たりすると、その運転手が、どこかアホ(失礼!)に見えた。(多分、相手
は、自転車に乗っている私を、アホに思っているだろうが……。)

 つまり自然保護というのは、意識の問題であって、行動の問題ではない。意識があれば、行
動は、あとからついてくる。何となく、意味のないことを、回りくどく書いているような気分になっ
たので、この話はここでやめるが、要するに、自然保護というのは、そんな甘いものではないと
いうこと。私が墓地の森に木を植えたような行為くらいでは、自然保護にはならないということ。
そういうこと。……ということで、この話は、ここまでにしておく。
(03−1−26)

●自然の自然は自然なり。自然主義者の自然は不自然なり。(内村鑑三「聖書之研究」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(554)

雑感(03−1−26)

 今日は日曜日(一月二六日)。このところ寒い日がつづいている。私は子どものころから、寒
さが苦手で、こういう朝は、本当につらい。血圧も低いから、よけい寒さがこたえる。

 朝、起きると、ワイフがこう言った。「ゆうべは、臭かった……」と。夕飯で、生ニンニクを食べ
たのが悪かった。そこで少し気取って、「その苦痛に一晩中耐えてくれた、君の忍耐力に感謝
する」と言うと、ワイフは、「いやあネー」というような顔をして笑った。

 昨日は昼からノドが痛かった。インフルエンザにかかってはいけないと思い、夕食に、生ニン
ニクを白いご飯にのせて、食べた。生ニンニクは胃によくないと言う人もいるが、私は胃だけ
は、ほんとうにじょうぶ。いつか死んだら体をバラバラにして献体しようと思っているが、私の胃
袋をもらった人は、ラッキーだと思う。ほかに……。

腎臓……これは調子よい。○○○
心臓……まあまあ調子よい。○○
角膜……白内障がすでに二〇%くらい進んでいるそうだ。△
肝臓……酒が飲めない。○

 ワイフはすでに、献体の提供をすでに届けている。私も友人のドクターに勧められているが、
「そのうち……」と言いながら、もう一〇年になる。どうも自分の裸体には、自信がない。とくに
ペニス。「小さなペニス!」と若い看護婦に笑われるのはいやだ。(ペニスというのは、膨張率と
硬度で性能が決まる。見た目の大きさではない! それに持続力だ! ……念のため。)

 そういうことを考えながら、ワイフに、「ペニスの献体はないのかね?」と聞くと、「あんたのな
んか……」と言いかけて、言葉をつまらせた。つまらせながら、「どういう人が、ペニスの移植を
受けるの?」と。うまく、ごまかした。

 「たとえば、交通事故でペニスをなくしたとか、インポになったとか、……あるいは、女の人で
性転換した人も、ほしがるかもしれない」と私。「あるいは、ぼくが先に死んだら、ペニスをホル
マリン漬けにして、記念にもっているというのはどうだ?」と。

 「あら、いやだ。そんなもの、見たくもない」
 「見たくない?」
 「そう、もう、興味はない」
 「へえ、お前も、更年期だね」
 「どうして?」
 「更年期になると、性欲が急速に減退する」
 「もう、とっくの昔に、そうなっているわ」
 「ああ、そう……」

 ……どうしてニンニクの話が、こんな話になったかって? それにはちゃんと理由がある。私
には、ニンニクは、強烈な強壮剤。とくに生ニンニクを、三、四かけらも食べた夜は、一晩中、
卑猥(ひわい)な夢を見る。精力モリモリといった状態になる。……と、ここまで書いて、映倫ス
トップ。この話のつづきは、適当に想像してほしい。いやしくも、このマガジンは、教育マガジ
ン。子育てマガジン。女性の読者も多いはず。

 ではこれから、郵便局へ速達を出しにいき、そのあと、あれこれ買い物をしてくる。寒いが、
空は気持ちよく晴れている。ニンニクのおかげで、足腰は、軽やか。ハイ。
(03−1−26)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

 
子育て随筆byはやし浩司(555)

処世術

 この地区に住むようになって、二六年になる。早いものだ。おかげで、この地区は、よい人た
ちばかりで、大きなトラブルもなく、無事、過ごすことができた。聞くところによると、近隣とのトラ
ブルが原因で、余儀なく引っ越しをさせられる家族もいるそうだ。私がワイフに「悪い人がいなく
て、よかったね」と言うと、「みんな、あんたをこわがっているだけよ」と。つまり私が悪い人?

 そう言えば、このあたりでは、私がもっとも古株。ここへ引っ越してきたころは、このあたり
は、まさに荒地の野原。二階からは遠く、太平洋が一望できた。が、今は違う。住宅が密集し
て、すっかり様子が変わった。宅地の値段にしても、私が買ったときには、坪、一二万円弱だっ
た。それがバブルのころは、八〇〜一〇〇万円。今は、値段がわからないが、およそ四〇万
円前後ではないか。それ以上のところもあるし、それ以下のところもある。

 この団地のよいところは、静かなこと。いろいろと問題がないわけではないが、どれもがまん
できる範囲。つぎに緑が割りと多く、交通の便利も悪くない。市内の一等地とはくらべようもない
が、私のようなものには、ぜいたくな土地かもしれない。もともと高望みはできない身分。私とワ
イフのばあい、親の遺産などというものには、まったくの無縁だった。むしろ祖父や父の葬儀の
ときには、ごっそりと母に、お金をもっていかれた。正直に告白するが、その種のお金は、ワイ
フの父親が死んだとき、義理の兄から、一〇万円をもらっただけ。だから、今、こういう団地に
住みながらも、ヘンに自分で納得することができる。「われながら、よくがんばったほうだ」と。

 「家庭」というのは、その人にとっての「逃げ場」。その逃げ場で、人は体を休め、心をいや
す。そのため、家庭、もしくはその周辺でトラブルがあるというのは、その逃げ場を台なしにす
ることになる。これはその人にとって、決定的に、マズイ! ……と私はいつも考えているの
で、家庭内部はもちろんのこと、周辺でのトラブルには、いつも気をつかう。要するに、ただひ
たすら、がまん。何があっても、がまん。ことを荒だてないようにしている。逃げ場を守るために
は、よき住民であること。すべてこの一語につきる。

 こうした考え方は、実は、子育てにも必要で、子どもにとって、安心できる家庭を用意するの
は、親の義務とさえ断言してもよい。そこで一度、あなたの家庭を診断してみるとよい。子ども
の視点で、子どもの目を通して、あなたの家庭はどうかを知る。はたしてあなたの家庭は、子
どもにとって、しっかりと逃げ場になっているだろうか、と。何かにつけて外出ばかりしていると
か、帰宅時刻がいつも不自然に乱れるとか、あるいはいつも家族のだれかと衝突ばかりして
いるというのであれば、一度、あなたの家庭を反省してみたらよい。

学校にもいろいろ問題はあるかもしれないが、もし家庭が、体を休め、心をいやす機能をはた
しているなら、問題が問題となる前に、その問題は解決するはずである。たとえば子どもの不
登校にしても、不登校が問題ではなく、子ども自身が家庭で、そういうキズついた心をいやすこ
とができないということこそ、問題なのである。たいていの親は、親の立場だけで、子どもに向
かって、「学校へ行きなさい!」と無理をするが、その無理が、子どもの逃げ場をつぶしてしま
う。

 こうした近隣の世界では、ことを荒だてると、たとえそれで問題を解決できたとしても、そのあ
と大きなしこりが残る。表面的には問題は解決したかのように見えるが、そのしこりだけはいつ
までも残る。そのしこりが、回りまわって、いつ「江戸の敵(かたき)を、長崎で討(う)つ」というこ
とにもなりかねない。それは生活していく上で、大きな不安材料になる。だからこうしたトラブル
は、作る前から避けたほうがよい。どこか小市民的な生き方のように見えるかもしれないが、こ
れは、私の処世術でもある。
(03−1−27)

●最も賢い処世術は社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をするこ
とである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(556)

いやされる家庭

 「客がしたいようにさせる」、それが最高の客のもてなし方。あれこれ気をつかうのは、一見、
親切に見えるが、かえってその人の居心地を悪くしてしまう。私はこのことを、オーストラリア人
の友人の家に泊まったとき、学んだ。

 夏の暑い日だった。朝起きると、もうだれもいなかった。しかたないので、台所へ行くと、メモ
があった。「グッドモーニング、ヒロシ。朝食は冷蔵庫に」と。そこで冷蔵庫をあけると、何と日本
製のカップヌードルがあった。そのあたりでは、たいへん珍しいものらしい。友人が、私のため
に、百キロ近くも車を走らせて手に入れてくれた。

 この話を別のオーストラリアの友人にすると、その友人はこう言った。「オーストラリアでは、
家族として迎えるのが、客の最高の迎え方だ。あなたの好きなままに(as you like)という迎え
方がある」と。たとえば冷蔵庫でも、部屋でも、すべて客の意のままに使わせてやるのがよい
と。「ヒロシ、君が朝、起きたとき、だれもいなかったというのも、もてなし方のひとつだ」と。「日
本では考えられない」と言うと、「だれもいないほうが、気が楽だろ。のんびりと、くつろぐことが
できる」と。ナルホド!

 しかしなれないうちは、何かしら粗末に扱われているような気がする。日本人はやはり、あれ
これこまやかに気をつかってもらうほうがよい? しかし反対に、外国の客を迎えるときは、注
意したほうがよい。ときどき分きざみのスケジュールをたてて接待する人がいるが、あれは、や
めたほうがよい。かえってうるさがられる? 中には、それを好む外国人もいるので、何とも言
えないが……。

 実は、これは子どもにも当てはまる。子どもがおとなになり、家を出たあとのことだが、ときど
き、子どもは、あなたの家、つまり実家へ帰ってくることがある。体を休め、心をいやすために
帰ってくる。そういうときは、何も言わず、子どもがしたいようにさせる。あれこれ気をつかうの
は、やめたほうがよい。あなたという親は親で、いつものリズムで、好き勝手なことをするのが
よい。……とまあ、内政干渉ぽいことを書いてしまったが、その点、オーストラリア人の客の迎
え方は、参考になる。

 私もそのうち、オーストラリア人の作法になれてきた。だからD君の別荘(ビーチハウス)に泊
めてもらったときには、朝早くひとりで起きて、裏の林(ブッシュ)を散歩した。R君の牧場に泊
めてもらったときは、一晩中、ディンゴー(野犬)の鳴き声に耳を傾けていた。そういうふうに、
自分のやり方で、自分の休暇を楽しむ。つまりそういうことを客としてできるということが、最高
の喜びだった。もちろん寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。そして起きてみると、そこに
カップヌードルが用意してある。決してぜいたくな料理ではないが、その心づかいが、うれしい。
私は今、オーストラリアの友人たちのことを思い出しながら、家庭もまた、本来、そうあるべきで
はないかと考えている。
(03−1−27)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(557)

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回と
いう組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。
脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっ
とも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心を
みるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、そ
れ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていて
も、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようで
す。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりして
いて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりし
すぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常
もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおり
ません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいま
す。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂き
たいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり
「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それ
で終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめ
ざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さ
らにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、
鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースで
は、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪く
なる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムが
まったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。
つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわか
る。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、
子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子
どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなか
にあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに
気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だか
らといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目
立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースで
は、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こう
いう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が
疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のC
PU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわっ
てはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと
思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親
のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校か
ら帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。
学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすというこ
とが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子ども
に向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そ
う言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という
生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生
き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっ
ても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も
終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、
よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。し
かしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせか
けるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何
とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育
て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊す
る。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもな
いが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、
さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子ど
もに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切
なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこか
に、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ
「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うな
ら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずも
ない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、
すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもな
るというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした
親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているというこ
と。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないこと
は、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、
アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸
になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲ
ームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはま
さにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強
しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとし
ない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その
失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけ
ても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、
子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」
と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子
どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころに
は、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっ
と早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかし
よう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何
とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。
私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわ
かれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒
るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかま
りがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定
だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへ
の過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友と
して受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護
者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本
人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これ
は今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたも
いっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲ
ームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったと
き、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一
方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができる
というのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方
もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさん
との間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じた
ことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値
に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そうい
う視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

+++++++++++++++++

●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに
書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、
二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡が
なければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩

(03−1−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見
出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでし
た。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やま
れ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりま
せん。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思いま
す。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。
 
これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?
 
はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

++++++++++++++++++

●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 
 
ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司

     匚二コ/
     彡彡ミ
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     \▽丿
≡    /く\
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≡ 〈《◎》∨二〈《◎》〉
  \_/   \_/自転車で、今日も健康!
        皆で乗ろう、自転車!  はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
子育て随筆byはやし浩司(558)

■【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 、より転載-

●No.49 子をもって知る子育ての深さ

 「家のしつけがなっていない」「親がだらしない」などと平気で口にする人
 は、自分で子育てをしたことがない人とみてよい。自分で子育てをしてみる
 と、この考えが消える。「クレヨンしんちゃん」の中に、こんなシーンがあ
 る。

 向こうから二人の高校生が歩いてくる。それを見た母親のみさえが、「何よ、
 あのかっこうは。親の顔を見てみたい」と。するとその高校生たちが、しん
 のすけを見て、こう叫ぶ。「何だ、こいつ。親の顔を見てみたい」※と。み
 さえがその方向を見ると、しんのすけがチンチン丸出しで歩いてくる……。

 思うようにならないのが子育て。もちろん成功する人もいるが、失敗する人
 のほうがはるかに多い。しかし成功したからといって、それはその人の力と
 いうよりは、子ども自身の力によるところが大きい。反対に、失敗したから
 といって、その人の責任ではない。その人はその人なりに、一生懸命してい
 るのだ。一生懸命しても、あるいは皮肉なことに一生懸命すればするほど、
 子どもだけがどんどんわき道に入ってしまう……。子育てというのは、もと
 もとそういうもの。

 そこでどうだろう、こう考えたら。失敗を失敗と思うから失敗であって、子
 育てには失敗などない、と。たとえばこんな教授がいた。それまでは受験雑
 誌などにエッセイを書いていたし、彼の書いた「受験攻略法」(仮称)は、
 数一〇万部を超えるベストセラーになった。が、彼の息子のうち、長男は京
 大に入ったが、二男は京都のある私立大学に入った。それについてその教授
 は、「私は二男を、東大もしくは京大へ入れることができなかった。教育に
 失敗した」と、「失敗」という言葉を使って、「受験攻略法」について書く
 のをやめてしまった。「失敗」という言葉がそういうふうにも使われること
 もある。

 自分の子育てにはもちろんのこと、他人の子育てにも謙虚であること。この
 世界には、こんな鉄則がある。「他人の子育てを笑うものは、いつか自分が
 笑われる」と。たとえばAさんはいつも、その出身高校でその人を判断して
 いた。「あの親は結構、教育熱心でしたけど、息子さんはC高校ですってね
 エ」と。しかしいざ自分の娘(中三)が受験となったときのこと。娘にはそ
 の力がなかった。だからAさんは、毎晩のように娘と、「勉強しなさい」「
 うるさい」の大乱闘を繰り返すことになった。こうした例はあなたのまわり
 にも、一つや二つは必ずあるはずだ。だから繰り返す。他人の子育てには謙
 虚であること。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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 この「子をもって知る子育ての深さ」には、私のこんな思いを織り込んだ。

 私の勤めていた幼稚園に、年配の教師が何人かいた。その中の一人が、いつも、こう言って
いた。「今の親は、なっていない」と。私も若かったから、それに同調して、「そうです、そうです」
と言っていた。しかし自分で子どもを育て始めてみると、その考え方は、あっという間に吹き飛
んでしまった。子育てというのは、理屈どおりにはいかないもの。思いどおりにはいかないも
の。その年配の教師は、生涯、独身で通した人だが、だからこそ、親のもつきびしさを知らなか
った。

 子育ての世界には、『言うは易(やす)し、行うは難(かた)し』という言葉がある。またこの格
言ほど、「そうだ」と思える格言は少ない。そういう格言を念頭に置きながら、このエッセーを読
んでもらえるとうれしい。
(03−1−28)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(559)

思い込みと、気休め

 近くの森で、木の伐採(ばっさい)が始まった。三人の男たちが、朝早くからやってきた。そし
て木を切り始めた……。

 とたん、一人の男がもっていたノコギリの歯が、根元でポキリと折れた。それでその男は、ど
こか心配そうな顔をして、木からスルスルとおりてきた。そしてこう言った。「この木は、こわい
ね。タタリがあるかもね」と。冗談ぽい言い方だったが、どこか真剣だった。

 すると親分格の男が、もう一人の若い男にこう言った。「いいから、お神酒(みき)買ってこい
や」と。言われた男は、車に飛び乗り、どこかへ行った。

 その間、残った二人の男は、木陰ですわったまま、何かを話していた。が、もう一人の男がお
神酒を買ってくると、何やら儀式を始めた。お神酒を木の根元にまいて、かしわ手を打ち、打っ
たまま、目を閉じて、祈った。

 小春日和の、うららかな朝だった。風はなかった。私はその光景を、一部始終、横で見てい
た。で、こう考えた。

 ノコギリが折れたのは、偶然だ。最近のノコギリは、ステンレスでできている。しかも取り替え
られるようになっている。使い捨てになった分だけ、モノが悪い。つまり折れやすい。

 タタリがあるというのは、ウソ。思い込み。仮にそんなパワーが木にあるのなら、地球温暖化
など、あっという間に止まるはず。世界中の木々が、生死を左右されるという状況の中で、枝を
切るくらいのことで、人にタタるはずがない。

 お神酒をまくというのは、まさに気休め。思い込みと気休めは、いつもペアになっている。思
い込んだ分だけ、人は、どこかで、気休めをする。迷信も、そこから生まれる。そしてそれが無
数に集まって、ときには宗教になり、ときにはカルトになる。

 ……と理屈で考えれば、そういうことになる。が、そのときだ。私も、理屈ではそうわかってい
ても、どこか不安になった。心のどこかがヒンヤリとするような不安感だった。いくら理屈ではそ
うだとわかっていても、あまり気持ちのよい話ではない。折れたノコギリを見ると、たしかに不自
然な折れ方をしている。男はこう言った。

 「いやあ、それほど力を入れたわけではないのにね。ノコを木に当てて、二、三度、引いただ
けだがね」と。その男は、折れたのは、自分のせいではないと言いたかったのもしれない。しか
しステンレスのノコギリは、硬い分だけ、不自然な力が加わると、ポキリと折れる。……と思う。

 いや、この迷いこそが、私の迷いでもある。まだまだ私の修行は足りない。くだらないことだ
が、いくら幽霊などいないとわかっていても、昔から、夜、墓場の前を歩くのは、苦手だった。こ
わかった。そのこわさを吹っ切ったとき、私は、真の勇者になれるかもしれない。……とまあ、
そんなふうに、おおげさなことを考えていた。

 そこで男たちと別れたが、家の中に入ると、朝の陽光をあびて、ポカポカと暖かかった。しば
らくすると、電動ノコの音も聞こえだした。そのあとは、伐採も、順調に進んでいったらしい。
(03−1−28)

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子育て随筆byはやし浩司(560)

「ゲームはやめなさい」

 よくある相談。「うちの子は、毎日、ゲームばかりしている。『勉強しなさい』と言っても、しな
い。どうしたらいいか」と。

 こういう相談をしながら、親は自分の矛盾に気づいていない。もしこのままの状態で、親子の
立場が逆転したら、子どもは親に向かって、こう言うだろう。「うちの子は勉強ばかりしている。
『ゲームをしなさい』と言っても、しない。どうしたらいいか」と。

 こういうケースで、一番気になるのは、親が一方的に、子どもの価値観を否定していること。
「ゲームはだめ」「ゲームは悪い」と。そういうふうに否定しておきながら、今度は、一方的に、
自分の価値観を子どもに押しつけている。「勉強しなさい」と。

 ……こう書くと、「ゲーム」と「勉強」は、同じではない。立場が違うと考える人がいるかもしれ
ない。しかしその判断とて、実は、親の価値判断でしかない。「ゲームは大切なものではない。
趣味だ。娯楽だ。遊びだ。しかし勉強は、子どもにとって大切なもの。すべきもの。必要なも
の。義務だ」と。

 が、子どもは子ども。おとなの価値観は、おとなにならないとわからない。だから「ゲームは、
遊び。勉強は、大切なもの」と言ったところで、子どもにはわからない。実は、ここで親子の意
識のズレが生まれる。子どもの立場を、もう少しわかりやすく言えば、こうなる。「ぼくの言うこと
は何も聞いてくれない。なのに、どうして親の言うことは聞かねばならないのか」と。では、どう
するか?

 親は親で、一度、子どもの立場に、自分を置いてみる。子どもがゲームをしていたら、「ゲー
ムはだめ」ではなく、「ママも、いっしょにゲームをしたい」と言ってみる。それはあなたにとって
は苦痛なことかもしれないが、しかしやってみる。その苦痛を乗り越えたとき、子どもも、あなた
の言うことを聞くようになる。「勉強しようね」「うん」と。

 こうした手法は、私の教室でもよく使う。子どもの心をつかみたかったら、一度、子どもの世
界に入ってみる。男の子だったら、マジギャザや遊戯王、デュエルマスターズカード。女の子だ
ったら、浜崎あゆみやプリクラ、マニキュアや香水の話をしてみる。少しは予習してからのほう
がよい。

 たとえば「アルカディアス(攻撃力は12500)は強いね。でも、能力で一番強いのは、バロム
(攻撃力は12000)だね。バロムが出た瞬間、相手のモンスターはすべて破壊されるよね。だ
から結局は、バロムが最強かな。パックは、○○(店の名)で売っているよね。パックは一五〇
円だったよね」と言ってみる。「必ずキラカード(キラキラ光るカード)が二枚でるのは、勝負パッ
クだね」と言ってみるのもよい。女の子だったら、「あんたも交換ノートしてる?」と。子どもはあ
なたを、尊敬の目つきで見るようになるだろう。で、一通り、こういう話をしたあと、「じゃあ、今
度は、ママの話を聞いてほしい」と言う。子どもたちは催眠術にでもかかったかのように、あな
たの話を聞くようになる。

 もうおわかりかと思う。「ゲームは、ダメ。勉強しなさい」では、説得力はない。またそういう言
い方をすればするほど、子どもは、あなたに反発するようになる。だから冒頭のような質問をも
らったら、その回答は、こうなる。

 「子どもがゲームばかりしていたら、あなたもいっしょに、ゲームをしてみなさい。そしてそれ
が一段落したら、『今度は、いっしょに勉強してみる?』と声をかけてみる。一方的に、ゲームを
否定してはいけない。勉強を押しつけてはいけてはいけない。そんなことをすれば、かえって子
どもは、それに反発するようになるだけ。つまりますます勉強をしなくなる」と。
(03−2−28)※

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子育て随筆byはやし浩司(561)

世にも不思議な留学記

日本の因習、そしてN子

●「あなたにはついていけない」
ハウスでは、ほとんどの雑用は、メイドがしてくれた。掃除、ワックスがけ、ベッドメーキング、シ
ーツの取り替えなど。ただ洗濯だけは自分でしなければならなかった。その洗濯ルームは、カ
レッジの一番奥、つまり裏手にあった。
 日本には、ひとり、ガールフレンドがいた。地元の高校の同級生で、名前をN子と言った。美
しい人だった。ともに大学四年生のときに再会し、N子はともかくも、私は電撃に打たれるよう
な衝撃を受け、恋をした。しかし長つづきはしなかった。しばらく交際していると、相手の母親か
ら私の母に電話があった。「うちの娘は、お宅のような(自転車屋の)息子と、つきあうような娘
ではない。将来の結婚にキズがつくから、交際をやめさせてほしい」と。Nの家は、従業員三〇
人ほどの、製紙工場を営んでいた。つまり「格が違う」と。私の母は、この電話に激怒したが、
私は気にしなかった。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。私が羽田
を飛び立つとき、N子は空港で見送ってくれた。しかしそれがそのまま別れになってしまった。

●常識のカラ
 私は洗濯室の窓に手をかけ、外を見ていた。深い木々の間を、スズメが飛び交っていた。イ
ングリッシュ・スパッロウという種類のスズメで、日本のスズメと、顔が少し違う。英国から持ち
こまれたスズメだという。私はそのスズメを目で追いかけながら、足元をすくわれるような絶望
感を覚えていた。歯がゆかった。何が悪かったのかは私にはわからないが、Nは、最後の手
紙でこう書いていた。「あなたにはついていけない。私のことを忘れて、あなたの道を進んでくだ
さい」と。あわてて電話をしたが、母親が取りついでくれなかった。
 日本とオーストラリア、オーストラリアと日本。今でこそ、高校の修学旅行で行く国になった
が、当時は、そうでない。手紙ですら、一週間から一〇日はかかった。電話すら、ままならなか
った。日本はまだ貧しかった。私はさらに貧しかった。だから私は、精一杯の虚勢を張って、ハ
ウスでの留学生生活ぶりを、そのつどN子に手紙で書いて知らせた。しかしその生活は、当時
の常識とは、あまりにもかけ離れていた。今から思うと、私以上に、N子はショックを受けてい
たのかもしれない。それもわからず、私は何度も、「オーストラリアへ来ないか」と誘いの手紙を
書いた。が、そのことにしても、当時の常識では考えられないことだった。いわんや地方の田舎
町。私はともかくも、N子は、その常識のカラを破ることはできなかった。

●心の海
 「スズメだって、海を渡ったのに…」と、日記には、書いてある。もっとも羽田からメルボルンま
で、往復の旅費だけでも、五〇万円弱。大卒の初任給がやっと五万円を超えたという時代であ
る。日本人には、飛行機に乗ることさえ、むずかしかった。
 「スズメだって海を渡ったのに、どうして日本人は、海を渡れないのか。海といっても、心の海
だ。世間体だの因習だの、どうしてそんなものが大切なのか。どうしてそんなものにしばられる
のか。こちらの学生は、みな、自らの責任で自由を謳歌している。日本人にこの自由がわかる
ようになるのは、五〇年先か、それとも一〇〇年先か」と。
 人間の記憶というのは、不思議なものだ。今でも、あの洗濯ルームを思い出すと、あのとき
の思いが、そのまま心の中によみがえってくる。それは怖ろしいほどの距離感。私がN子との
間に感じた距離感は、そのまま私と日本の間に感じた距離感でもあった。その距離感が絶望
感に変わったとき、私はそのまま、「N子のことは忘れよう」と、心に決めた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

性能は膨張率と硬度で決まる

●裸文化の違い
 オーストラリア人のもつ「肌」感覚は、明らかに日本人のそれとは異なっていた。簡単に言え
ば、彼らは平気で、裸になる。こんなことがあった。
 車、二台でドライブに行ったときのこと。男が五、六人に、女が、三、四人いた。暑くなり始め
た初夏のころだった。海沿いに走っていくと、きれいなビーチが見えてきた。とたん、車を止め
て、みなが、「泳ごう!」と言い出した。私は水着を用意していなかった。車の中でもじもじして
いると、もう全員が、海に向かって走りだしていた。走りながら、つぎつぎと着ていた服を脱いで
いた。全員、素っ裸である。
 が、私は、彼らのあとを追いかける勇気はなかった。みなは、「ヒロシ、来い、来い!」と叫ん
でいた。しかし私にはどうしてもできなかった。
 あとになって一人が、私にこう聞いた。「ヒロシは、どうしてこなかったのか?」と。私はそのと
きどうしてそう答えたのかは知らないが、こう答えた。「日本には、武士道というものがあって、
簡単には、人前では、アレ(ディック)を見せてはいけないことになっている」と。が、この事件が
きっかけで、私には、「ペンシル・ペニス」というニックネームがつけられてしまった。「ヒロシの
は、ペンシルペニス。だから、裸になれなかった」と。

●性能をくらべる
 ペニスの「性」能は、見た目の大きさではない。膨張率、それに硬度で決まる。そこである日
私は、私をペンシルペニスと呼び始めたK君の部屋に行き、そしてこう言った。「君のと、どちら
が性能がよいかくらべてみようではないか」と。K君は、「フン」と、低い声で笑いながら、すぐ、
それに応じてくれた。
 私とK君は、背中あわせに立ち、下半身を出して、アレに刺激を加えた。そしてほどよくその
状態になったとき、アレに石膏(せっこう)を塗った。アレの型をとって、それで大きさを比べる
ためである。
…五分くらいたったであろうか。一〇分くらいかもしれない。とにかく気がついたときには、石膏
はほとんどかたまっていた。で、それをゆっくりとはずそうと思ったが、そのとたん、激痛が走っ
た。石膏に陰毛や皮膚が入り込み、型がはずれなくなってしまっていた。K君も、同じだった。
私たちの予定では、型ができた状態で、アレが小さくなれば、そのままスッポリと抜けるはずだ
った。が、そうはうまくいかなかった。その上、あいにくナイフも、ハサミもなかった。

●同性愛者
オーストラリアでは、同性愛者は、「プフタ」と呼ばれて、軽蔑されていた(失礼!)。少なくとも
「プフタ」と呼ばれることくらい、不名誉なことはない。まだ同性愛者に対する理解のない時代だ
った。
 私とK君は、石膏を、シャワールームで流して落とすことにした。しかし石膏の重みで、体が
ゆれるたびに激痛が走る。私たちはそれぞれ下半身をタオルで隠した。隠した状態で、両手で
石膏を包むようにして、支えた。
私たちはドアの隙間から、だれもいないことを確かめると、廊下におどり出た。しかし運が悪か
った。あろうことか、うしろ側に、一人の学生が立っていた。そして私たちを見ると、悲鳴に近い
ような大声をあげた。「ブラディ、アニマル!」と。何しろ二人とも、うしろからは、尻がまる見え
だった!
 そのあと、どうなったか? 私とK君は、予定どおり、シャワールームにかけこみ、そこで湯を
流しながら、石膏をはずした。おかげで「ペンシルペニス」というニックネームも消えたが、しか
しそれとは引き換えに、今度は、私とK君は、「プフタ」と呼ばれるようになってしまった。
 そのK君、今は、オーストラリアのN大学で教授をしている。専門が、人類学というから、あの
ときの経験が少しは役に立ったのかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

日本の常識、世界の常識

●忠臣蔵論
 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。中には、「空手を教え
てくれ」「ハラキリ(切腹)のし方を教えてくれ」というのもあった。あるいは「弾丸列車(新幹線)
は、時速一五〇マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬の馬は、コースを、オーストラリ
アとは逆に回る。なぜだ」と。さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあ
った。話を聞くと、「カルピス」という飲料を誤解していたことが原因とわかった。カウは、「牛」、
ピスは、ズバリ、「小便」という意味である。
 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、四、五人の学生が私を囲んで、こう
聞いた。「忠臣蔵を説明してほしい」と。いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこ
で浅野は逮捕、投獄、そして切腹。ここまではわかる。しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復
讐をしたのか」と。加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。そ
れに死刑を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府に
抗議すればよい。また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボ
スに責任を追及しないのか、と。
 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、
水戸黄門に頭をさげるのか。水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。私が、
「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。
 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たと
えばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。体中を鉄板でおおい、たった一人
で、総督府の役人と戦った男である。イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという
人物がいた。

●日本の単身赴任
 法学部でもこんなことが話題になった。ロースクールの一室で、みながお茶を飲んでいるとき
のこと。ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言っ
た。短期出張は、単身赴任が原則だった)という制度があるが、法的な規制はないのかね?」
と。そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされ
て、何が仕事か!」と叫んだ。
 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるか
ぎり、絶対にわからない。が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰
ってきてからのことである。

●泣き崩れた母
 私が三井物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのとき
すでに三井物産を退職していたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしま
った。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア〜」と。だか
らといって、母を責めているわけではない。母は母で、当時の常識に従って、そう言っただけ
だ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支えてくれると思っていた。が、その一言で、私は
すっかり自信をなくし、それから三〇歳を過ぎるまで、私は、外の世界では、幼稚園の教師をし
ていることを隠した。一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話したら
話したで、みな、「どうして?」と首をかしげてしまった。
 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかな
らぬ、オーストラリアの友人たちである。みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と言っ
てくれた。その言葉がなかったら、今の私はなかったと思う。
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


金沢大学の学生の皆さんへ、

エピローグ(青春時代)  

 チャンスを食い散らし、健康を食い散らし、そして時間を食い散らす。それが青春時代という
ものか。そのときはわからない。わからないまま、無我夢中で突っ走る。しかしその青春時代も
やがて色あせ、闇の中に消えていく。
 私が人生の中で最高に輝いたのは、留学生試験に合格したときだった。金沢大学は、指定
校にはなっていなかった。しかし私は強引に受験した。二次、三次と合格し、最終は、東京での
面接試験だった。東大の学生が二人、慶応の学生が一人、それに私だった。私だけが大学四
年生で、あとは大学院生だった。確率は四分の一。で、結果は合格。その知らせを電話で受け
たときは、飛びあがって喜んだ。同時に、私の前には、一本の道が開けた。それはまっすぐ、
未来につながっていた。留学でハクをつけ、商社マンになり、あとは出世街道をのぼりつめる
……。そしてその喜びは、日々に増幅され、北国新聞社の取材を受けたとき、頂点に達した。
地方版だったが、紙面の四分の一ほどをさいて、私を紹介してくれた。「金大(指定校外)の林
君、みごと留学生試験に合格」と。七〇年二月のことだった。私には、こわいものは、何もなか
った。
 今、あの時代を思い出してみると、私は私で、どこも変わっていないはずなのに、ほろ苦さだ
けが、心の中に充満する。もしあのときにもう一度戻ることができたら、私はもう少し慎重に、
足場を踏みならしながら、前に進んだであろう。しかしそのときは、わからない。青春時代は、
決して人生の出発点ではない。人生の原点そのもの。人生のすべてそのもの。私はおぼつか
ない声で、その青春時代に向かって、こう呼びかける。「お前は、どこにいる?」と。すると別の
声が、「ここにいる」と答える。が、本当のところ、自分がどこにいるかわからない……。
 いつだったか、ガールフレンドのジルと、バイクに乗っていて、転倒したことがある。ホンダの
カブだったが、ギアのチェンジのし方が日本のそれとは違っていた。それで二人は、道路のわ
き道に投げ出された。幸い芝生の上で、ケガはなかった。が、起きあがろうとすると、背中に乗
ったジルが、こう言った。「このままでいましょう」と。私は言われるまま、ジルの肌の温もりを感
じながら、じっと、そのままにしていた。そんなできごとが、遠い昔のような気もするし、つい昨
日のような気もする。何がなんだかわからないまま過ぎた、私の青春時代。ただ私は懸命だっ
た。無我夢中だった。その青春時代は、ボロボロだったかもしれないが、今、私の人生の中
で、光り輝いている。
 人生の目的? あのトルストイは、主人公ピエールの口を借りて、こう書いている。『(人間の
最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずる
こと』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の
意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォ
レストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その
味は)わからないのよ』と。
 前回で、『世にも不思議な留学記』は終わった。実のところ、この原稿は、私がオーストラリア
にいるときから書き始めたもの。しかし発表する機会もなく、ただ無益に、三〇年の歳月が流
れた。しかし今、こうして皆さんに読んでいただけるようになったことを、心から感謝すると同時
に、喜んでいる。最後になったが、編集部の太田明氏には、心からお礼の言葉を捧げたい。最
後に学生のみなさんに、一言だけ、こう伝えたい。
 「懸命に生きてください。ただただひたすら懸命に生きてください。それが人生です」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

豊かな生活、そして帰国

●モーニングコール
 「ヒロ〜シ、ヒロ〜シ」と、朝になると、隣の別荘のジュリーがやってきて、私を呼んだ。すると
横にいたデニスが、私をからかって、「ヒロシ、モーニングコールだ」と。
 遠くには、一日中、潮騒の音が聞こえる。目を開けると、まばゆいばかりの朝の光線。さわや
かなそよ風。描きかけた油絵が、部屋のすみに立っている。
日本がここまで豊かになるとは、当時、だれが予想しただろうか。私は「日本がオーストラリア
の生活水準になるには、五〇年はかかる。あるいは永遠に不可能」とさえ思っていた。前の晩
も、デニスの父親が、自宅でピーターオツール主演の『アラビヤのロレンス』を見せてくれた。ま
だビデオなどない時代で、フィルムは、仲間の映写技師から借りたものだった。起きると食卓
には、盛りつけられたパンや果物。戸棚には、何一〇種類ものドイツ製のビール。そして週末
は、こうして海のそばの別荘(ビーチハウス)で過ごす。
 「デニス、ぼくは、やはり日本へ帰るよ」
 「こちらで就職しないのか?」
 「週給五五ドル※だという。高卒の給料だ」
 「しかし君は、学位をもっている」
 「日本の学位は、オーストラリアでは認められない」

●日本へ帰る
 私は日本にいる親や、別れたN子のことを考えていた。いや、それ以上に、日本のことを考え
ていた。オーストラリアから見ると、どうしようもないほど小さな島国だが、しかし私の国だ。この
ところメルボルンの町の中を歩いていても、どこかフワフワと足が浮いたような状態になる。み
なは親切だが、しかしその親切は、ある一定の限度まで。私はアジア人だ。背が低く、肌の黄
色いアジア人だ。それから生まれる違和感は、どうしようもなかった。
 しばらくすると、またジュリーが呼んだ。「ヒロ〜シ」と。するとデニスがこう言った。「ヒロシ、気
をつけろ。彼女はまだ中学生だ」と。「わかっている」と私。週末になるとジュリーの一家もこうし
て別荘にやってくる。いつしか私とも知りあいになり、何度か夕食もごちそうになった。が、も
し、その私が、仮にいつか、たとえばジュリーと恋仲になり、結婚……ということになったら、多
分、ジュリーの両親の態度は、急変するだろう。私がジュリーの一家とつきあうとしても、どんな
ことがあっても、その一歩手前で止めなければならない。
 デニスとビーチに出ると、ジュリーがそこに立っていた。私は何枚か、ジュリーの写真をとっ
た。その一枚が、これである。その後、デニスの別荘のあたりは山火事(ブッシュファイア)で燃
えた。ジュリーの別荘も燃えて、その後、音信はない。本名は、ジュリー・ピーターズ。今、彼女
は、四五歳前後になっているはずである。きっとすばらしい人生を送っていることと思う。オー
ストラリアの青い空のように、抜けるほど明るく、陽気な女の子だった。
(※当時のレートは、一ドルが四〇〇円。日本の大卒の初任給は、五〜六万円だった。) 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ベトナム戦争

●徴兵はクジ引きで
 徴兵は、クジ引きで決まった。そのクジで決まった誕生日の若者が徴兵され、そしてベトナム
へ行った。学生とて、例外ではない。が、そこは陽気なオーストラリア人。南ベトナムとオースト
ラリアを往復しながら、ちゃっかりと金を稼いでいるのもいた。とくに人気商品だったのが、日本
製のステレオデッキ。それにカメラ。サイゴンで買ったときの値段の数倍で、メルボルンで売れ
た。兵士がもちこむものには、原則として関税がかけられなかった。
 そんな中、クリスという学生がベトナムから戻ってきた。こう言った。「戦場から帰ってくると、
みんなサイゴンで女を買うんだ」「女を買う?」「そうだ。そしてね、みんな、一晩中、女の乳首を
吸っているんだ」「セックスはしないのか?」「とても、する気にはなれないよ。ただ吸うだけ」「吸
ってどうするんだ?」「気を休めるのさ」と。
 モノの話が出たからついでに。私もいくつかの電気製品を買ったが、どれも日本人には考え
られないようなものばかりだった。ニクロム線丸出しの湯沸かし器、真空管が並んだラジオな
ど。しかしそのうち、彼らがほとんどモノにはこだわっていないことがわかった。少なくとも日本
人のようには、こだわっていない。いつか「こういう国では産業は発展しないだろな」と思ったこ
とがあるが、そのときすでにオーストラリアは、経済リセッション(後退)に入っていた。

●オーストラリア人のベトナム戦争
 ベトナム戦争。日本でみるベトナム戦争と、オーストラリアでみるベトナム戦争は、まるで違っ
ていた。緊張感だけではない。だれもが口では、「ムダな戦争」とは言っていたが、一方で、「自
由と正義を守るのは、ぼくたちの義務」と言っていた。そういう会話の中で、とくに気になったの
は、「無関心」という単語。オーストラリアでは「政治に無関心」ということは、それだけでも非難
の対象になった。地方の田舎町へ行ったときのことだが、中学生ですら、「あの橋には、○○
万ドルも税金を使った」と話していた。ベトナム戦争は、そういう意識の延長戦上にあった。
 「日本はなぜ兵隊を送らないのか?」「日本は憲法で禁じられている」「しかしこれはアジアの
問題だろ?」「……」と。毎日のように私は議論を吹っかけられた。彼らがそうする背景には、
「いつ戦場へ送り出されるかわからない」といった恐怖感があった。真剣さが違った。私がいい
かげんな返事をしていると、平気で非難の眼を私に投げかけた。

●日本は変わったか?
 それから三四年。世界も変わったが、日本も変わった。しかしその後、日本がアジアを受け
入れるようになったかどうかということになると、それは疑わしい。先日もテレビ討論会で、一人
のアフリカ人が、小学生(五年生くらい)に向かって、「君たちはアジア人だろ!」と言いったとき
のこと。その小学生は、「違う。ぼくは日本人だ」と。そこで再び、「君たちの肌は黄色いだろ!」
と言うと、今度は、「黄色ではない。肌色だ!」と。こうした国際感覚のズレは、まだ残っている。
三五年前は、もっとすごかった。日本人で、自分がアジア人だと思っている日本人は、まずい
なかった。半ば嘲笑的に、「黄色い白人」と呼ばれていたが、日本人は、それをむしろ誇りに思
っていた? しかしアジア人はアジア人。この事実を受け入れないかぎり、日本はいつまでたっ
ても、アジアの一員にはなれない。
 「このままでは、日本がソ連に侵略されても、だれも助けにきてくれないだろう」と、クリスと会
った夜の日記に、私はそう書いた。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(562)

情報

 このところ北朝鮮が気になる。心配だ。そこで私は最近、軍事雑誌ばかり読んでいる。情報
を収集するためである。「いったい、北朝鮮の軍事力は、どの程度なのか?」と。

 しかし読めば読むほど、そして知れば知るほど、あまりのお粗末さに、あきれてしまう。たとえ
ば軍艦の数にしても、実戦能力のある船は、数隻しかないという。1975年竣工したフリゲート
艦「ナジン」、1955年ソ連より引き渡されたコルベット「トラル」など。しかも二〇年以上も前に
建造された老朽船ばかり。自衛隊が空撮した写真をみると、あちこちサビだらけ。「整備も悪い
ので、使いものにならない」とのこと。

 戦闘機のMIG29(最新鋭機)にしても、今、飛べるのは、たったの二機しかないそうだそうだ
(週刊誌)。あとは使いものならない旧式の戦闘機ばかり。しかも大半が部品不足で、飛べる
状態にはないという。また潜水艦だけはこのところ急ピッチで建造しているらしいが、ミゼット級
潜水艦で、潜水能力はたったの七〜八メートル。これでは潜水艦というより、もぐって進む小型
戦闘艦といった感じだ。少なくとも、空軍力、海軍力をみるかぎり、日本の敵ではない。恐れる
に足りず。

 問題は、核兵器、細菌兵器、それに化学兵器。北朝鮮は、核兵器については五個、細菌兵
器や化学兵器については、大量に保有しているという。もちろんミサイルももっている。今、日
本人を不安にさせているのは、この部分である。しかし残念ながら、まったくといってよいほど、
情報がない。

 さらに不安にさせるのは、日本に潜伏している工作員たち。二〇〇人という説が一般的だ
が、一〇〇人という人もいる。北朝鮮からの暗号指令が、そのつど、二〇〇人分前後あるとい
うのが、その根拠になっている(重村智計著「北朝鮮データブック」)。またこのところ朝鮮総連
との関係がとりざたされているが、その朝鮮総連を隠れミノに、こういう連中が、どうやら好き
勝手なことをしているらしい。その工作員たちが、そのうち何をしでかすか、わからない。今の
北朝鮮をみればわかるが、まともな常識が通ずる連中ではない。一説によると、「そのとき」、
日本国内で、武装蜂起するかもしれないという。仮に東京駅構内で、天然痘の細菌をバラまか
れたら、どれくらいの被害者が出ることやら。数十万人から数百万人の死者が出ると予測する
人もいる。

 私たちは今、たいへんな危機的状況の中にいる。これはどう考えても事実で、私の憶測でも
妄想でも、ない。ただそういう現実が起きないことを願うばかりだが、しかし北朝鮮情勢は、ま
すます混沌としてきた。北朝鮮国内自体が、まさに壊滅状態。エネルギーがカットされた上(何
も、アメリカがカットしたのではない。今まで無償で援助していたのを、止めただけ)、経済はハ
イパーインフレの嵐の中。首都ピョンヤンでも凍死者が出るほどだという(週刊誌)。今年あた
りも、百万人単位の餓死者が出ると予測する人がいる。ああいう閉鎖国家だから、詳しい情報
は伝わってこないが、現実はかなり悲惨な状況らしい。

 ……と考えていくと、不安と安堵が、入りまざった感じになる。(だからといって、北朝鮮の人
たちが苦しんでいるのを、喜んでいるのではない。彼らとて、金正日とその取り巻きたちの犠牲
者にすぎない。誤解のないように。)

 要するに不安を取り除くには、情報しかない。それがよい情報であれ、悪い情報であれ、情
報を手に入れて、自分なりに分析する。……と書いて、「子育ても同じ」と書くと、まさに我田引
水ということになるが、そういう意味では、国際情勢も、子育ても、よく似ている。それほど違わ
ない。一つの参考にはなる。
(03−1−30)

●私の心得……そのときになったら、外出をひかえる。とくに中心部など、人ごみの多いところ
へは行かない。飛行機や電車に乗るのもひかえる。

(日本・北朝鮮データベース)

日本のGDP ……4兆1500億ドル(01年)
北朝鮮のGNP……   150億ドル(00年)

日本の国防費 ……   411億ドル(01年)
北朝鮮の国防費……    13億ドル(01年)

日本の海軍力 ……潜水艦       ……16隻
         ヘリ護衛艦      ……4隻
         ミサイル護衛艦A   ……9隻
         ミサイル護衛艦B  ……30隻
         護衛艦       ……10隻
         揚陸艦        ……5隻
         ミサイル艦      ……5隻
         機雷戦艦艇     ……31隻

北朝鮮海軍力 ……潜水艦       ……22隻
         ミゼット潜水艦   ……62隻
         フリゲート      ……3隻
         コルベット      ……5隻
         ミサイル艇     ……24隻
         機雷戦艦艇     ……10隻

●危機的な経済状況が長期にわたって続いており、過去二〇年間、ミゼット潜水艦以外の戦
闘戦艦の新造は、ほとんど確認されていない。就役中とされる各種戦艦も、性能面の老朽化
が著しい上、劣悪な整備状態にあると伝えられており、正規海軍としての実戦力は、極めて低
い。このような状況下では。工作船などによる特殊作戦の支援以外に選択肢がないのも当然
といえよう。(「世界の艦船」03年3月号より)

●日本には北朝鮮系の人やその子どもたちがたくさん住んでいる。しかしそういう人を責めた
り、攻撃しても、意味がない。意味がないばかりか、それをすれば、即、私たち自身もまた、あ
の金正日のレベルまで人間性を落とすことになる。またいくら彼らが祖国、北朝鮮を恋慕して
いるからといって、そのことと、一連の北朝鮮問題とは関係がない。ここにも書いたように、彼
らとて、金正日という独裁者とその取り巻きたちの犠牲者に過ぎない。今、日本人に求められ
ているのは、そういう人たちの悲しみや苦しみを理解することである。共有することである。決
して安易な反北朝鮮感情を振り回してはいけない。仮に北朝鮮と戦争をすることになっても、
敵は、北朝鮮ではない。敵は、私たち自身である。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(563)

外国人の子育て観

 日本に住むX国人の子育て観を見ていると、すさまじいものを感ずる。三〇年前、四〇年前
の日本人そのものと言ってもよい。功利的で合理的。子育てそのものが、ビジネス化してい
る。制度の中で、いかに「利益」を追求するという姿勢が徹底している。ある進学塾の講師がこ
う言った。「ある日突然、子ども(六年生)を連れてきて、週、何回教えてくれるかと聞いた。そ
れでうちは週二回だというと、『それじゃあ、B塾のほうが安い。あそこは週三回で、○万円だ』
と言った。ものの考え方が、私たちと少し違うようだ」と。

 私にも同じような経験がある。数年前のことだが、年末になったころ、一人の母親が子ども
(年長児)を連れてきた。……という話は、ここには書けない。しかしそういう母親を見ている
と、あたかも三〇年前、四〇年前の日本にタイムスリップしたかのように感ずる。あの時代は、
教育そのものが、餅まきの餅取りのようになっていた。「学校」が餅をまくと、下にはいつくばっ
た「親」たちが、血相を変えて餅を拾い集める……。そんな雰囲気だった。教育論や子育て論
などをいくら説いてもムダ。その虚しさを、私はイヤというほど、味わっている。たとえば一年か
かって、子育て論を話したとする。しかし一年たって、「このお母さんは、精神的にも成長しただ
ろうな」と思っていた矢先、こう言う。「先生、うちの子、A小学校に合格するでしょうか」と。

 それに外国の人には、(当然だが)、私はタダの塾講師。明確な序列意識をもっていて、平気
で私を最下位に置く。しかもX国人にしても、そう言えば、Y国人にしても、どこか日本人をさげ
すんでいるようなところがある。「バカにされたくない」とか、「日本人には負けたくない」という思
いが、逆に攻撃的になるのかもしれない。あるいは「金(月謝)を払ったのだから、あなたは使
用人」というふうに、考えるのかもしれない。あるY国人の母親は私にこう言った。「あんたは、
黙って、娘の勉強だけみてくれればいい。(余計なことは言うな)」と。私がその子ども(小四)の
態度が、どこか粗放的になってきたことを告げようとしたときのことである。

 こう書くからといって、決して人種偏見的なことを書いているのではない。もちろんたいはんの
X国人やY国人の方は、よい人ばかりである。しかし日本人ならそういうとき、そういうことは言
わないだろうな思うような会話をすることも事実で、それがときには、衝突することもある。……
という話はここまで。

こういう微妙な話は、これ以上、書けない。ただ私がここで言えることは、日本国籍を取り、日
本で住んでいるなら、もう少し、日本人や日本の社会を信頼してほしいということ。仮に子ども
に問題があったとしても、今の日本人は、「X国人だから、Y国人だから……」というものの考え
方はしない。中には愚かな日本人がいて、差別意識をもっているかもしれないが、ほとんどの
日本人は、そうでない。だからあまり気負わないで、つまり肩の力を抜いて、日本人の社会に
溶け込んでほしい。少なくともこの日本では、過去の学歴社会は終わりつつある。かわって欧
米型の円熟社会になりつつある。日本の多くの親たちは、自分たちの過去を振り返りつつ、
「何が本当に大切で、何が大切でないのか」ということに、今、気づき始めている。自分たちの
価値観を、ストレートに日本の社会に持ち込むのではなく、もう少しだけ、謙虚な心で、日本の
子育て観に耳を傾けてほしい。でないと、結局は、居心地の悪い思いをするのは、私たちでは
なく、あなたやあなたの子どもたちということになる。
(03−1−31)※

(追記)X国人やY国人の人たちの子育て観をみていると、それはちょうど、三〇年前、四〇年
前に、欧米人が日本人にみた子育て観ではないかと思う。日本人は日本人で、無我夢中だっ
た。懸命だった。それはわかる。私の母とて、ある時期、狂ったように私をあちこち連れて回っ
たことがある。自分では本などまったく読んだこともない母が、である。こうしたおかしさは、ま
だこの日本にも残っているが、しかし今、日本人自身が、そのおかしさに気づき始めている。こ
の動きは、今後加速されることはあっても、後退することはない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(564)

悪玉親意識

 親意識には善玉と悪玉がある。「私は親だから、子どもを育てる義務がある」と自覚するの
は、善玉親意識。「あんたは子どもだから……」と、子どもに向かって親風を吹かすのを、悪玉
親意識という。問題は、悪玉親意識。

 悪玉親意識の背景には、日本独特の上下意識がある。「親が上で、子どもが下」と。そしてさ
らにその背景には、子どもを人間として見るのではなく、親の所有物としてとらえる見方があ
る。先日も新聞の投書欄に、「子どもは宝……」と書いている人がいた。もう少し端的には、「子
宝」という言葉がある。しかし子どもは、本当に宝? 宝モノ?

 多分投書の人は、「子どもは大切だ」という意味で、「宝」と書いたのだろう。しかしそれでも、
モノはモノ。私はこういう言葉を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。それはちょうど、どこかの国
の元首が、スピーチの中で、私たちに向かって、「わが民」と言うのに似ている。元首がそう思
うのは、その元首の勝手だが、私はその元首のモノではない。財産ではない。いわんや所有
物ではない。

 そこで改めて、考えてみる。子どもは、親のモノなのか? 同じような考え方だが、今でも、妻
を夫の所有物のようにとらえている人がいる。A氏は今年七〇歳になるが、いまだかって妻を
一度だって、外に出したことはない。妻が友だちと旅行に行くことすら、許したことがない。もっ
とおかしなことに、妻の実家にさえ泊まらせたこともない。が、A氏本人は、壮年期には、ほとん
ど家にいなかった。外に愛人もいたという。つまり自分は好き勝手なことをしておきながら、妻
には、それを許さなかった。

 こういうのを私の世界では、代償的愛という。自分勝手な愛をいう。愛もどきの愛と思えばよ
い。一見、愛しているように見えるが、結局は、自分の心のスキ間を埋めるために、子どもや
妻を利用しているだけ。子どもや妻を、自分の思い通りにしたいだけ。よい例が、子どもの受
験競争に狂奔する親。「子どものため」と言いながら、自分の不安や心配を解消するために、
そうしている。

 まわりくどい言い方はやめよう。子どもは、モノではない。だからあなたの所有物ではない。
問題は、子どもをモノのように考えることではなく、いまだにそういうふうに考える親が多いとい
うこと。アフリカのどこかの国では、娘が結婚するについて、娘とヤギを交換するそうだ。そうい
う風習を見ると、日本人は笑うが、それがどっこい。この日本でも、同じような風習が残ってい
る。今でも、「嫁をもらう」とか、「嫁にくれてやる」とか言う人はいくらでもいる。結納金という制
度にしても、もとはと言えば、娘をモノとみるところから始まっている。

 子どもは一人の人間である。まったくあなたと同じ、一人の人間である。だから子どもだって、
悩むときには悩む。苦しむときには苦しむ。たしかに未熟で未経験かもしれないが、それを除
けば、あなたとどこも違わない。が、どうしてか、悪玉親意識の強い人ほど、子どもを子どもと
みる。「子どもなど、親の意思でどうにでもなる」と考える。

 「先生、どうしてうちの子は、勉強しないのでしょう。テレビゲームばかりしています」と。そこで
私が、「あなたは勉強が好きでしたか?」と聞くと、「私はもう、終わりましたから」と。さらに、「で
は、あなたもテレビゲームをしてみればいいでしょう。お子さんといっしょに、楽しんでみたら」と
言うと、「私はゲームは嫌いです」と。

 この親の言い分は、すべておかしい。自分が嫌いだった勉強を、子どもに押しつけている。さ
らに「ゲームは悪いこと、ムダなこと」と決めてかかっている。子どものもつ趣味や価値観を一
方的に否定しておいて、親の価値観を子どもに押しつけている。そのおかしさに気づいていな
い。

 もっとも勉強や趣味ならまだよい。それほど害はない。中には、心の病気で苦しんでいる子ど
もに向かって、「子どもだから……」「気のもちよう……」と安易に考える人がいる。よい例が、
学校恐怖症の子どもである。私自身も、恐怖症になったことがあるので、そのときの子どもの
気持ちがよくわかる。この年齢になっても、ふとしたことで恐怖症になってしまう。頭の中に思考
パターンができているため、と考えるとわかりやすい。しかしそれは決して、「気のもちよう…
…」などという軽いものではない。

 たとえば私は三〇歳少し前に、飛行機事故に遭遇している。そのときは、「ああ、こわかった
……」ですんだが、それ以後、しばらく飛行機に乗れなくなってしまった。いや、乗るには乗られ
るのだが、先方の現地で、不眠症になってしまう。だから結果的に、飛行機に乗られなくなって
しまった。そういう思考パターンがあるから、たとえば車に乗っていてヒヤッとするようなことが
あると、しばらくは車にも乗られなくなってしまう。ほかに、高いところ(高所恐怖症)やトンネル
(閉所恐怖症)も、苦手である。

 何度も繰り返すが、日本人は、子どもを一人の人間ととらえるのが、たいへん苦手な民族で
ある。「子どもはかわいい」と言いつつ、子どもに楽をさせたり、子どもによい思いをさせること
が、子どもをかわいがることだと誤解している親も多い。そして親にベタベタ甘える子どもイコ
ール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、子どもは子どもで、自らを、親の所有物とと
らえ、何ら疑問に思わないでいる。つまり持ちつ、持たれつの関係ということになる。

 しかしこういう親子関係は、今、急速に崩壊しつつある。日本の社会全体から、権威主義が
崩壊し、ついで、親の権威も崩壊しつつある。こういう傾向を嘆く世代も多いが、しかし権威主
義など、クソ食らえ! 少なくとも、これからは夫婦であれ、親子であれ、教師と生徒の関係で
あれ、権威で相手をしばる時代ではない。またそういう時代であってはならない。

 だから……。あなたも勇気をもって、悪玉親意識を捨てよう。子どもに向かって、親風吹かす
のをやめよう。あなたは一人の人間として、子どもに尊敬され、またあなたの子どもを、一人の
人間として尊敬しよう。そういう人間関係を基本に、新しい親子関係を築こう。
(03−2−2)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(565)

子どもに問題が起きたとき

Sさんへ、

 Sさんが、「落ち込んでいる」という。原因は、私のマガジン。私が気うつ症の子どもについて
書いた記事が、すべて自分の子どもに当てはまるという。ムダなものを買う(行為障害)、ささい
なことでカッとなりやすい(感情障害)、ささいなことで、極度の不安状態になる(不安障害)な
ど。Sさんの娘さん(中学生)も、ときどき「生きていて何になるの?」と言うらしい。それでSさん
は、「母親をもうやめます。友だちになります」と。

 ときどき私の書いた記事が、読者の方を、不安にしてしまうことがあるようだ。これはまった
く、私の不注意以外の何ものでもない。原則として、こうした記事を書くときは、アドバイスを添
える。反対にアドバイスのできないようなテーマについては、書かない。この点について、まず
もって、Sさんに私は謝らなければならない。その上で、改めて、この問題について、考えてみ
る。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Sさんの娘さんが、気うつ症と言っているので
はない。たまたま症状のいくつかが重なったということだけ。その上で、つまり、Sさんの問題と
は別に、「子どもに問題が起きたとき」を考えてみる。

(子どもは信ずる)
 裏切られても、裏切られても、子どもを信ずる。裏切られても、また裏切るだろうなとわかって
いても、さらに内心では疑っていても、しかし子どもの前では、信ずる。信じているフリをする。
また裏切られても、何も言わない。その度量の深さこそが、親の愛の深さということになる。
 私の家庭でも、どの息子とは書けないが、よく息子の一人が、サイフや金庫から、お金を盗
んで使っていた。一、二度はきびしく叱ったが、しっかり管理をしなかった私たちにも落ち度が
ある。で、管理をしっかりするようになったが、それでも、盗んで使っていた。どこか行為障害的
な臭いのする盗みだったから、私たちは、それに耐えるしかなかった。子どもを叱るのはいや
だったが、それ以上に、同じ屋根の下で家族を疑うのは、もっといやだった。「盗まれるのでは
ないか」と心配するのは、さらにいやだった。だからルーズになったというわけではないが、そ
のうち、「盗みたければ盗みなさい」という気持ちになった。まあ、子どもの盗みなどというの
は、ハシカのようなもの。その時期が過ぎれば、何ごともなくすんでしまう。

(子どもは許す)
 子どもは許して忘れる。どんな問題が起きても、許して忘れる。ただひたすら、これを繰りか
えす。どんなに転んでも、子どもは子ども。あなたの子ども。他人の子どもなら、「はい、さような
ら」と言うこともできるが、自分の子どもでは、それもできない。だったら、親のほうがあきらめ
て、つきあうしかない。ときには子どもに言いたいこともあるだろう。子どもを叱りたいこともある
だろう。しかしそういうときでも、許して忘れる。
 親子というのは、決して一様ではない。同じ家に住みながら、ほとんど会話をしない親子は、
いくらでもいる。程度の差もあるが、今、何割かの家庭がそうであるといってよいほど、多い。
話しかけても一触即発。親は「静かに話すことができない」と言う。子どもは子どもで、「いちい
ちうるさい」と言う。親子であるがゆえに、確執も深く、わだかまりも大きい。

(子どもは受け入れる)
 どんな問題があっても、またその問題がどんなに大きなものであっても、受け入れる。「何と
かしよう」とか、「なおそう」などとは、考えてはいけない。「今の状態」を受け入れる。そして仮に
子どもに問題があるとしても、それ以上、悪くしないことだけを考える。
 この「受け入れる」には、二つの意味がある。ひとつは、子どもを受け入れるという意味。もう
ひとつは、あなた自身の子育てを受け入れるという意味。
 子どもとて、一人の人間。あなたの思うようにはいかない。いかなくて、当たり前。だから「うち
の子は、まあ、こんなもの」と受け入れる。
 もう一つは、あなた自身の子育てを受け入れる。親だからと無理に気負うことはない。できな
いことは、できないと言えばよい。したくないことは、したくないと言えばよい。仮に子どもを好き
になれないなら、なれないで構わない。そういう自分をすなおに受け入れる。あなたが気負えば
気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。その疲れが、親子の間をギクシャクさせる。
 中に、子どもの子育てで失敗すると、夫婦でたがいに責めあうケースがある。「あんたが悪
い!」「お前が悪い!」と。こういうときは、全体として、つまりもう少し高い視野から自分の子育
てをながめてみる。だいたい問題のない子どもはいない。問題のない家庭もない。しかしみん
な、その範囲で、精一杯、がんばっている。あなたもがんばっている。だからこう思えばよい。
「私はやれるだけのことをしている。それ以上、何ができるのか」と。それがここでいう「あなた
自身の子育てを受け入れる」ということになる。
 
(子どもは認める)
 子どもを伸ばすコツは、悪い面をなおそうと考えるのではなく、よい面だけを見て、それをさら
に伸ばす。とくに完ぺき主義の親は、注意する。どうしても悪い面ばかりを見て、それをことさら
大げさに問題にする。が、それでも問題が解決しなかったら……。
 子どもが生きている。あなたも生きている。そういう原点に自分を置いて、そこから子育てを
見つめなおしてみる。子育てには、希望もあるが絶望もある。どちらにせよ、そういうものは、
まさに虚妄。人間が勝手につくりだしたもの。しかし生きているという原点に立ち返ってみると、
あらゆる問題が解決する。
 子育ても終わりに近づくと、たいていの親は、夢も希望も、ほとんど削られ、やがてこう思うよ
うになる。「人に迷惑さえかけなければ」とか、「健康でいてさえくれれば」と。もともと子育てとい
うのはそういうもの。百に一つくらい明るいことがあれば、じょうでき。

(子どもはあきらめる)
 悪い面については、あきらめる。「まだ何とかなる」「何とかしよう」と思えば思うほど、実際に
は逆効果。底なしの悪循環に入って、やがて身動きがとれなくなる。とくに不幸にして不幸な家
庭に育った人ほど、注意する。「よい家庭をつくろう」「よい親子関係をつくろう」「よい子どもにし
よう」と、自分を追い込んでしまう。そして頭の中で、設計図をつくり、その設計図に子どもを、
押しはめようとする。この無理が、さらに悪循環を加速させる。
 仮に今、あなたの子どもに問題があるとしても、それを「底」と思ってはいけない。底の下に
は、二番底、三番底がある。が、親にはそれがわからない。わからないまま、無理をして、その
二番底、三番底へと落ちていく。子どもの非行を例にとるまでもない。
 要は、どこで、どの段階であきらめるかということになる。実のところ、その時期は、早ければ
早いほどよい。満五、六歳でも、早すぎることはない。「まだ、幼児ですよ!」と驚く人もいるが、
私はそうは思わない。この時期、子どもは、乳幼児期から少年少女期へ移行する。人格の
「核」、つまり、「この子はこういう子だ」という、「つかみどころ」ができてくる。得意分野、不得意
分野も、はっきりしてくる。そういう「核」が見えたら、子どもの心や性格、それに能力の方向性
は、いじらないほうがよい。

(親は、バカなフリをする)
 親はときとしてバカな親を演じながら、子どもの自立を促す。バカであることを恥じることはな
い。私もときどき生徒たちを教えながら、そのバカなフリをする。生徒たちに、「こんな先生に習
うくらいなら、自分で勉強したほうがマシ」と思わせながら、生徒の自立を促す。
 親の権威など、ドブに捨てればよい。気負うことはない。立派なフリをすることもない。気楽に
構え、「私は私」と、自分を貫けばよい。Sさんも、「母親であることをやめます」と書いている
が、そのとおり。なぜそこまでSさんが母親にこだわるかといえば、ひょっとしたら、Sさんは、本
物の母親というのがどういうものか知らないからと考えてよい。どこかで勝手に、母親像をつく
ってしまった。空想かもしれないし、幻想かもしれない。しかしもともと「母親像」などというもの
はない。それがわからなければ、「日本人像とは何か」「妻像とは何か」「教師像とは何か」「人
間像とは何か」を考えてみればよい。いや、考えるだけ、ムダ。もともとそういうものは、存在し
ない。
 多くの日本人は、自ら勝手に作り出した「親像」で苦しんでいる。こういうのを、「ダカラ論」とい
う。「親だから……」「子どもだから……」と。繰りかえすが、そういったものは、もともと幻想。幻
想に振りまわされてはいけない。
(03−2−2)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(566)

学習を拒否する人たち

 パン屋での光景。一人の女性(七〇歳くらい)が、パンをひとつもちあげた。それを見た夫ら
しい男(七五歳くらい)が、こう言った。「それはな、ソーセージ」「はあ……」「ソーセージ……」
「何でな?」「だからそれはソーセージ」と。男は、「それはソーセージ入りのパンだから、ダメ
だ」と言いたかったのだろう。何ともほほえましい光景だったが、しかしそれが私たち夫婦の近
未来像とわかったとき、心底、ゾーッとした。

 こういう老夫婦に、人生論を説いても意味がない。理解できない。だいたい言葉が通じない。
が、そのとき、私は「ああはなりたくない」と思いながら、その一方で、「どうしてああなってしまう
のだろう」と思った。頭脳も体の筋肉と同じなら、年齢相応に、ボケたとしても、おかしくない。し
かし同じような年齢の人でも、頭脳のほうは明晰(めいせき)な人はいくらでもいる。恩師のT教
授は、今年八〇歳になるが、英語の論文でも平気で読みこなしている。その違いは、どこから
くるのか?

 若い人でも、また子どもでも、考えることが好きな人もいれば、そうでない人もいる。私は老人
たちのこうした違いは、すでに若いとき、もっと言えば子どものときに決まるのではないかと思
っている。

 たとえば以前、私は、伸びる子どもの四条件※について書いた。その要素の一つが、好奇心
である。この好奇心が旺盛な子どもは、伸びる。そうでない子どもは、伸び悩む。が、それだけ
ではない。この好奇心が、考える原動力となる。そしてそれが基盤となって、その後、大きな差
となって現れる。

 先日も、ある男性(五五歳)と、ほぼ三〇年ぶりに会った。会って、いっしょに食事をした。
が、いくら話し込んでも、こちら側に伝わってくるものが、何もない。不思議なほど、何もない。
話を聞くとこう言った。読む新聞はスポーツ新聞だけ。仕事から帰ってくると、野球中継を見る
のが、唯一の楽しみ。休みの日は、釣りかパチンコ。それで一日を過ごす、と。そういう男性
に、釣り論やスポーツ論を聞くだけヤボ。彼はただそれを「楽しんでいる」だけ。

 私はパン屋で見た夫婦は、こういう男性の延長線上にあるのでは、と思った。ただ誤解しな
いでほしいのは、だからといって、その夫婦や、男性の生き方がまちがっているとか、おかしい
と言っているのではない。まただからといって、私が正しいと言っているのでもない。こうした
「差」は、あくまでも相対的なもので、別のだれかから見れば、今度は私がそのボケ中年に見
えるかもしれない。

 しかし……、だ。頭がボケてしまって、死を待つだけの人生に、どれほどの意味があるという
のか。当の本人たちは、それなりにハッピーなのかもしれないが、「生きる」ということは、もっと
別のことではないのか。あるいはそういうふうにボケていくことを避けられないとするなら、そう
ならそうで、ボケる前に、人は徹底的に自分を燃焼させなければならない。……となると、やは
り子どもの問題にぶつかってしまう。

 今、考えることを嫌う子どもがふえている。前にも書いたように、考えることには、ある種の苦
痛がともなう。それにめんどうだ。そのため、たいていの人は、たいていのばあい、自ら考える
ことを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。子どもとて例外ではない。子ども
だから考えるのが好きだろうと思うのは、とんでもない誤解である。先日のH市郊外にある、H
中学校で講演をさせてもらったが、そこの校長が、こっそりとこう話してくれた。「うちの中学で
も、約六〇%が、勉強を放棄してしまっています。勉強で苦労するくらいなら、部活でがんばっ
て、推薦で高校へ入ったほうが楽だと考えていますよ」と。

 勉強が嫌いな子どもイコール、考えない子どもということにはならないが、勉強が嫌いな子ど
もは、学ぶことを嫌う子どもと考えてほぼ、まちがいない。そして学ぶことが嫌いな子どもは、そ
の分、考えることが苦手と考えてほぼ、まちがいない。どこか無理な三段論法に見えるかもし
れないが、要するに、勉強と学習、学習と思考力は、密接に関連している。そのことは少し難
解な数学の問題を出してみればわかる。考えるという習慣そのものがない子どもは、「やりたく
ない」「わからない」と逃げてしまう。

 こうした子どものときからの「違い」が、そのあと、積もりに積もって、大きな差となって現れ
る。考える人間と、考えない人間。どちらがよいとか、悪いとかいうことではない。これはあくま
でも、私の意見だが、人間は考えるから人間である。人間が人間として、生きる価値もそこか
ら生まれる。が、もしその人が考えることをやめてしまったら……。もうその人は人間ではない
……というところまでは、言い切れないが、少なくとも生きる意味のほとんどを、なくすことにな
る。

 最後に、脳を使えば使うほど、大脳皮質は、厚くなる。神経細胞そのものの数はふえないの
だが、細胞体自体が大きくなり、樹状突起が複雑に分岐し、そこにほかの入力繊維がはいっ
てくる、グリアが増殖することなどによるとされる。それには、年齢は関係ないそうだ。つまり老
人になっても、脳を使うことによって、頭脳を明晰に保つことは可能だそうだ。私はこの説を信
じたいし、信じている。
(03−2−2)

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伸びる子どもの四条件
子どもの能力を伸ばす法

プラスの暗示をかけろ!)
子どもが伸びるとき

●伸びる子どもの四条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。@好奇心が旺盛、A忍耐力がある、B生活力
がある、C思考が柔軟(頭がやわらかい)。

@好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、身
のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多才。
友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。何か
新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。反対
に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」とか
言ったりする。

A忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。
そういう仕事でもいやがらずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもという
ことになる。あるいは欲望をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあって
も、手を出さないなど。こんな子ども(小三女児)がいた。たまたまバス停で会ったので、「缶ジ
ュースを買ってあげようか?」と声をかけると、こう言った。「これから家で食事をするからいい
です」と。こういう子どもを忍耐力のある子どもという。この忍耐力がないと、子どもは学習面で
も、(しない)→(できない)→(いやがる)→(ますますできない)の悪循環の中で、伸び悩む。

B生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹の
世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれば
できるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン(ア
メリカの詩人、「自然論」の著者、一八〇三〜八二)も、『教育に秘法があるとするなら、それは
生活を尊重することである』と書いている。

C思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために
子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。もしあなたが、「うちの子
は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは「あなたはダメになる」式
のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな子ね」式の、その子ども
の人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、@あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする(好
奇心をますため)。またA「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝いはさ
せる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる(忍耐
力や生活力をつけるため)。そしてB子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場では、
「アレッ!」と思うような意外性を大切にする。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるの
は、それだけ刺激が多いことによる。マンネリ化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のた
めには、好ましい環境とは言えない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(567)

本能論

 ツバメの雄は、雌の尾羽の長さに、魅力を感ずるらしい。そこである研究者が、メスの尾羽を
切ってみたところ、そのツバメは、その季節の間、雄に相手にされなかったそうだ。同じよう
に、コオロギなどは、触覚(ヒゲ)の長さで、美人、不美人が決まるそうだ。

 サルについては、メスは、お尻の赤さで決まるそうだ。赤ければ赤いほど、美人ということに
なるのだそうだが、赤いだけではいけない。シワが多ければ多いほど、また深ければ深いほど
よいそうだ。(以上、本屋での立ち読み情報。)

 で、人間はどうか。人間とサルは仲間だから、同じような反応を示すらしい。これは私という
個人の話だが、私は昔から、赤いタイトスカートの女性に弱い。そういう女性を見ると、ムラム
ラとくる。……ときた。黒いスカートや、青いスカートはダメ。とくに何も感じないのが、茶色のス
カート。嫌悪感すら覚える。長い間、その理由がわからなかったが、サルの話を読んで、納得
した。

 人間の心理は、意外と単純なもの。自動車屋の男が、少し前、こう話してくれた。「車のバック
を見ると、ヒップがぐんと上にあがっている車と、そうでない車がある。男は車を選ぶとき、無意
識のうちにも、ヒップがあがった車を選ぶ」と。

 そういう話を思い出しながら、通り過ぎる車をながめてみた。たとえばトヨタのスパシオなど
は、たしかにヒップがあがっている。ホンダのレジェンドなどは、さがってはいないが、平ら。比
べてみると、たしかにスパシオのほうが、どこか魅力的な感じがする。

 そう言えば昔、コカコーラのビンは、女性の体に似せて、形を決めたという。とたん、売り上げ
が倍増したとか。よく知られた有名な話である。フロイトの言葉を借りるまでもなく、人間の行動
は、いつも、どこかで、性欲に支配されている? たれさがった尻(失礼!)より、あがった尻の
ほうが、若々しい。多分、自動車会社も、そういうことをどこかで考えながら、車のデザインを考
えているに違いない。

 こうした本能は、当然のことながら、だれにでもある。問題は、どこからどこまでが本能のな
せるワザであり、どこから先が、知性がなさえるワザかということ。たとえば性的に欲求不満ぎ
みの女性は、無意識のうちにも、スーパーでバナナを買い込むそうだ。(そう言えば、私のワイ
フも、このところ毎日のように、バナナを買ってくる。ギョッ!) バナナを買うというのは、その
時点では、知的な判断ということになる。しかしその裏で、実は本能がその人を操っている? 
こんな話もある。

人間が一番求める色は、緑や青だそうだ。それは太古の昔、人間が、サル、さらにその前は
魚だったことによるのかもしれない。そして一番安心できる色は、明るいベージュという説もあ
る。家のカベにせよ、内装の色にせよ、ベージュ系が多いのは、そのためと考えられている。
で、その理由がおもしろい。一説によると、あくまでも一説だが、人間は健康なウンチの色に、
一番の安心感を覚えるのだそうだ。ウンチは、言うまでもなく、健康のバロメーター。ナルホ
ド!

 こうした本能があるのは、し方ないとしても、本能に溺れると、ロクなことはない。いや、それ
以上にこわいのは、知性が、本能の影響を受けて、まちがった方向に進むこと。昔から哲学の
世界では、これが大きなテーマになっている。「まちがってものを考えるより、盲目であったほう
がよい」と言った、ハーバート。「無知は決して悪を生まない。危険な罪悪を生むのは、ただ誤
謬(ごびゅう)の観念である」と言った、ルソーなどがいる。要するに知性も、使い方をまちがえ
ると、危険ということ。本能的な叫び声を、自らの声と誤解して、それに知性をかぶせてはいけ
ない。

 ……と言っても、人間は知性だけでは生きてはいけない。またそれではおもしろくない。赤い
タイトスカートを見て、ムラムラとしても、それはそれでよいことではないか。食事にしても、健康
バランス栄養食は、たしかに体にはよいが、しかしおいしくない。体にはよくないとはわかって
いても、赤ちょうちんで食べる串焼きはおいしい。湯気のたったラーメンはおししい。脂(あぶ
ら)が飛び跳ねているビフテキはおいしい。そのおいしく感じさせる部分が、実は、本能というこ
とになる。

 何だか自分でも、何を書いているかわからなくなってきたので、この話はここまで。ただこれ
だけは言える。若いころは、何かにつけて、性欲が、私を支配していたように思う。もっともそ
れに気づいたのは、その性欲が薄れ始めた、五〇歳になってからのことだが、それがこの年
齢になると、よくわかる。そのため時間をムダにしたなという思いもあるにはあるが、同時に、
楽しかったという思いもある。よい例が、恋だ。初恋だ。だから私は、人間が本来的にもつ本能
を否定しない。本能が、人間の生活を、おもしろく楽しいものにしている。ときに豊かなものにし
ている。あなたはどんな本能をもっているだろうか。あなたも一度、自分の本能をのぞいてみた
らおもしろい。
(03−2−2)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(568)

アパート

 その近くの小学校で講演があったので、ほぼ三〇年ぶりに、昔住んでいたアパートをたずね
てみた。二階建ての長屋で、私たちの部屋は、一階の、通りから二つ目の部屋だった。その通
りに車を止めて、そのアパートを見たとき、胸がしめつけられた。

そのアパートで長男は生まれたが、母は二晩だけ、ワイフと長男の世話をしてくれた。最初は
一週間の予定だったが、狭くて、おとな三人が泊まれるようなアパートではなかった。四畳と六
畳、それに三畳ほどのキッチンしかなかった。

 トタン板の雨戸。さびた金具に、色あせたカベ。どこかゆがみ始めた屋根。いくつかには、人
の気配すらしなかった。横にいたワイフが、「昔のままね」と言った。私は声が出なかった。「あ
んなところに住んでいたのか……」と、そう思ったとたん、どんと重いものが、心をふさいだ。そ
の気持ちを察してか、ワイフが、「昔は、もう少しきれいだったわ」と言った。私は「うん」と答え
た。

こう書くからといって、私は何も母を責めているのではない。それが当時の常識だったし、私は
何も疑わず、そうしていた。子どもとして、それは当然の義務だと考えていた。

母はワイフや生まれたばかりの長男の世話をしてくれたが、私が二四万円のお金を渡すと、い
つものように、「もう帰るから」と言って、そのまま郷里へ帰っていった。それでまた、私の貯金
通帳はカラになった。私はそれを思い出しながら、ワイフにこう言った。

 「もし息子のだれかが、ああいうアパートに住んでいて、子どもが生まれたとする。そのときお
前は、その息子から、お金をもっていくようなことができるか?」と。するとワイフは、遠慮がち
な声でこう言った。「あなたのお母さんは、特別よ」と。

 当時の私は、自分の収入の約半分を、毎月、母に送り届けていた。実家での冠婚葬祭の費
用は、すべて私が負担してきた。そればかりではない。盆暮れに帰るたびに、二〇万円とか三
〇万円のお金を置いてきた。母は一応、断るフリをしたが、決して、本気ではなかった。そのつ
ど、「ふるさとを、お前の代わりに守ってやるからな」と言った。私は、そうしてほしいとは思った
ことはない。母独特の口実だと思っていた。

 それから三〇年。先月、実家に帰って母に会った。お茶を飲みながら、それとなく母にこう聞
いてみた。「母ちゃん、ぼくが毎月、母ちゃんにお金を送ったのを覚えている?」と。すると母
は、しばらく考えたフリをしながら、「覚えておらんな」と、ポツリと言った。本当に忘れたのか、
それとも、ただ忘れたフリをしているのか。昔から母は、そういう人だった。

 車を動かそうとすると、隣の家から、七〇歳くらいの女性が出てきた。私は窓をあけて、話し
かけた。「昔、このアパートに住んでいたものですが、ここの大家さんは元気ですか」と。すると
その女性はこう言った。「Fさんね。あの人は、もう一〇年前にN病院へ移り、そこでなくなった
ということですよ」と。N病院というのは、痴呆老人の入る病院である。その話を聞くと、「すみま
せん」と私は言って、車の窓を閉めた。冬の冷たい風が、その瞬間、頬を横切った。

 車が細い路地を抜けて電車通りに出るとき、ワイフがまた言った。「昔は、もう少しきれいだっ
たわ……」と。
(03−2−3)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(569)

子どもの肥満は、三歳児のときに決まる?

 「子どもの肥満の問題は、三歳児の生活習慣の乱れが原因」(03年1月)という調査結果が
発表された。

 発表したのは、富山医科薬科大学の研究チームだが、それによればこうだ(約一万人の子
どもたちについて、七年間の追跡調査)。

●三歳児のときに、「朝食を時々食べる」「おやつの時間を決めていない」というグループは、
「朝食を毎日食べる」「おやつの時間を決めている」というグループより、小学四年時に肥満に
なる例が、1・2〜1・8倍多い。

●とくにファーストフードやインスタント食品を多くとるほど、肥満の割合が高かった。

●また三歳児に、睡眠時間が11時間以上だったグループにくらべ、9時間未満のグループ
は、肥満が1・5倍多くなり、睡眠量が少ないと、肥満になりやすいことが判明。またそうした睡
眠習慣は、約半数が小四になってもかわらず、就学後も継続する傾向にある。
 
 子どもの肥満が、その後の健康によくないことは、今では、常識。小児肥満は、おとなになっ
てからの心疾患や高血圧の原因とされる。ちなみに、国民栄養調査(九七年)によれば、小中
学生の約10・7%が肥満で、七八年の7・2%から増加傾向にある。肥満児のうち約10%は、
高血圧、糖尿病などの合併症があるとされる。(以上読売新聞より)

 幼児の世界にも、慢性的な睡眠不足児というのは、たしかにいる。それについて書いた原稿
(中日新聞発表済み)が、つぎの原稿。

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「では今夜から早く寝させます」・睡眠不足の子ども

 睡眠不足の子どもがふえている。日中、うつろな目つきで、ぼんやりしている。突発的にキャ
ーキャーと声をあげて、興奮することはあっても、すぐスーッと潮が引くように元気がなくなって
しまう。顔色もどんより曇っていて、生彩がない。睡眠不足がどの程度、知能の発育に影響を
与えるかということについては、定説がない。ないが、集中力が続かないため、当然、学習効
果は著しく低下する。ちなみに睡眠時間(眠ってから目を覚ますまで)は、年中児で平均一〇時
間一五分。年長児で一〇時間。小学生になると、睡眠時間は急速に短くなる。

 原因の大半は不規則な生活習慣。「今日は土曜日だからいいだろう」と考えて、週に一度で
も夜ふかしをすると、睡眠時間も不安定になる。ある女の子(年長児)は、おばあさんに育てら
れていた。夜もおとな並に遅くまで起きていて、朝は朝で、おばあさんと一緒に起きていた。つ
まりそれが原因で睡眠不足になってしまった。また別の子ども(年長児)は、アレルギー性疾患
が原因で熟睡できなかった。腹の中のギョウ虫が原因で睡眠不足になったケースもある。で、
睡眠不足を指摘すると、たいていの親は、「では今夜から早く寝させます」などと言うが、そんな
簡単なことではない。早く寝させれば寝させた分だけ、子どもは早く目を覚ましてしまう。体内時
計が、そうなっているからである。そんなわけで、『睡眠不足、なおすに半年』と心得ること。生
活習慣というのは、そういうもので、一度できあがると、改めるのがたいへん難しい。

 なお子どもというのは、寝る前にいつも同じ行為を繰り返すという習性がある。これを欧米で
は、「ベッド・タイム・ゲーム」と呼んで、たいへん大切にしている。子どもはこの時間を通して、
「昼間の現実の世界」から、「夜の闇の世界」へ戻るために、心を整える。このしつけが悪い
と、子どもは、なかなか寝つかなくなり、それが原因で睡眠不足になることがある。まずいのは
子どもを寝室へ閉じ込め、いきなり電器を消してしまうような行為。こういう乱暴なことが日常化
すると、子どもは眠ることに恐怖心をもつようになり、床へつくことを拒否するようになる。ひど
いばあいには、情緒が不安定になることもある。毎晩夜ふかしをしたり、理由もないのにぐずっ
たりする、というのであれば、このベッドタイムゲームのしつけの失敗を疑ってみる。そこで教
訓。

 子どもを寝つかせるときは、ベッドタイムゲームを習慣化する。軽く添い寝をしてあげる。本を
読んであげる。やさしく語りかけてあげる、など。コツは、同じようなことを毎晩繰り返すようにす
ること。次にぬいぐるみを置いてあげるなど、子どもをさみしがらせないようにする。それに興
奮させないことも大切だ。年少であればあるほど、静かで穏やかな環境を用意する。できれば
夕食後は、テレビやゲームは避ける。なおこの睡眠不足と昼寝グセは、よく混同されるが、昼
寝グセの残っている子どもは、その時刻になると、パタリと眠ってしまうから区別できる。もし満
五歳を過ぎても昼寝グセが残っているようならば、その時間の間、ガムをかませるなどの方法
で対処する。

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富山医科薬科大学の研究チームの調査結果を知って、思い当たることがいくつかある。私は
肥満になることによって、そういう症状を示すと思っていたが、肥満タイプの子ども(とくに、ポッ
テリとどこかむくんだように太っている子ども)は、いつも眠そうな様子を見せる。私は以前、そ
れを勝手に「満腹症状」と呼んでいた。ちょうど満腹した人が、ゲップを出しながら、ウトウトと眠
り始める様子に似ていたからである。私は太っているからそういう症状を示すと思っていたが、
そうではなく、この調査結果によれば、もともと睡眠不足だから、そうなるということになる?

 また三歳児で睡眠時間が九時間以下の子どもがいるということに、私は驚いた。私の調査で
は、「睡眠時間(眠ってから目を覚ますまで)は、年中児で平均一〇時間一五分。年長児で一
〇時間」ということがわかっている。しかしこれでも、熟睡時間。九時間以下になると、どういう
影響が出るのか、私には想像もつかない。あるいは、この研究チームが調査したような結果に
なるのかもしれない。(睡眠時間が九時間以下という子どもが、何%いるのかということはわか
らないが、きわめて少数ではないのか。私が調査したときには、年中児(満五歳児)でも、九時
間以下という子どもは、いなかった。)

 どちらにせよ、またまた『三つ子の魂、百まで』が、実証された形になった。(この格言は、差
別を生むということで、公式には使えないことになっている。念のため。)私も、三歳までの家庭
のあり方、家庭教育のあり方が、子どもの心身の発育に、きわめて重要な影響を与えるという
ことを感じている。反対に、四歳や五歳になってからでは、「手遅れ」と感ずることも多い。

 むずかしい話はさておき、昔から、『寝る子は育つ』という。それは事実で、よく寝るということ
だけでも、子どもの心身は、健やかに育っていることを意味する。子どもの睡眠時間を、おろそ
かに考えてはいけない。
(03−2−3)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(570)

子どもの学力

 新学習指導要領によって、〇二年度から、教育内容は大幅に削減された。それについて、公
立の小中学校の教師について調査したところ、約七割が、「削減のしすぎ」と答えていることが
わかった(ベネッセ教育研究所)。

 「削減のしすぎ」と答えた小学校の教師……67・3%
             中学校の教師……71・7%

 「子どもの学力低下が起きる」と答えた小学校教師……76・0%
                   中学校教師……87・1%

 「新学習指導要領の見直しが必要」と答えた小学校教師……73・4%
                     中学校教師……82・4%

 この結果を見て、私はいくつかのことを考えた。まず、こうした新学習指導要領の変更にせ
よ、ほとんどの変更が、文部科学省の、局長、課長レベルの通達だけで、なされていること。わ
かりやすく言えば、ほんの一部の官僚たちの意向によって決定されていること。

 つぎに現実問題として、削減された直後の、〇二年四月には、教える私自身が、「こんなに簡
単になってよいものか?」と思ったほどである。簡単なテストをしても、皆、一〇〇点という状況
だった。しかしそれも数か月だけのこと。やがて夏休みが終わるころになると、またもとのよう
に、できる子とできない子が現れ始めた。そしてほぼ一年がたってみると、新学習指導要領は
何だったのかという状況になっている。 

 一度のびたゴムは、もとには戻らない。この段階になって、再び、削減した内容をもとに戻す
などということは、不可能。新学習指導要領では、約三割削減されたということだが、仮に一割
復活させるというだけでも、現場は、大混乱するに違いない。それ以上に、子どもが応じないだ
ろう。

 で、三つ目の問題として、こうした混乱の責任は、だれが取るのかという問題。多分、文部官
僚のことだから、責任逃れのための諮問(しもん)機関※ぐらいは作ったかもしれない。いわゆ
る有識者による諮問機関というのである。官僚たちは、自分たちの権威を守り、自分たちのし
たいことをし、お墨付きをもらうために、こうした諮問機関を実にたくみに利用する。東大の元
教授ですら、「だいたい諮問機関のメンバーが、どういう基準で選ばれるのか、それすらわから
ない」と暴露している。

 グチを言っても始まらないが、現場の教師や子ども、それに親たちこそ、えらい迷惑。毎月の
ように変わる教育方針に振り回されるだけ。見かけはともかくも、最前線に立つ教師たちは、
みんなやる気をなくしている。そういう現実が、まったくわかっていない。

 今でも小学二年で掛け算を学ぶことになっている。それはそれとして、二〇年前、三〇年前
には、学校の教師は、残り勉強をさせてでも、子どもに掛け算の九九を暗記させていた。しか
し今は、違う。「適当」というと誤解があるが、まさに適当。「一応教えるが、覚えるか覚えない
かは、子どもたちの問題」と、どこか突き放したような教え方になってきている。(これは私の、
あくまでも個人的な印象だが……。)

 だから掛け算の学習が終わると、子どもたちはそのまま九九すら、忘れてしまう。これも私の
実感だが、その直後ですら、約二〇%の子どもは、満足に九九すら言えないのではないか。ど
の程度を、「できない」と言うかについても、議論はあるが……。

 だから小学三年生で、割り算を学ぶことになっているが、その前に、もう一度、掛け算の九九
を復習しなければならない。しかし現実には、その時間はない。だから九九がわからない子ど
もを残したまま、割り算の学習に入っていく。つまりこんなことを繰りかえしていたら、日本の子
どもたちの学力は、ますます低下していくだけ!

 親たちは、「小学二年で掛け算を学んだから、うちの子は、掛け算はできるはず」と考える。
あるいは「掛け算の九九を、ペラペラとソラで言えるから、掛け算はできるはず」と考える。しか
しこれはまったくの誤解。子どもだって、忘れるものは忘れる。掛け算の九九にしても、数か月
も使わなければ、忘れる。

 また九九をソラで言えるからといって、掛け算をマスターしたことにはならない。中には、「2×
3」は、「2+2+2」という意味ということすら理解していない子どももいる。そういう子どもが割
り算の学習に入ったら、どうなる?

 日本の教育は、今、危機的な状況にある。が、それだけではすまない。教育のこわいところ
は、その結果が、二〇年後、三〇年後に出てくるということ。つまりその分、責任の所在がわ
からなくなってしまうということ。そしてさらにこわいところは、仮に今、すばらしい教育をしたとし
ても、その成果が出てくるのは、やはり二〇年後、三〇年後ということ。こうしたことを言いかえ
ると、「日本の未来は、今の子どもたちを見ればわかる」ということになる。

 この先はまた別の機会に書くとして、今、構造改革(官僚政治の是正)が、もっとも必要なの
は、実は文部科学省なのである。そういうことが、日本の政府も国民も、まったくわかっていな
い。一つの例をあげる。

 もう一五年ほど前だろうか。世界中で、コンピュータ教育が始まった。私が印象に残っている
のは、一二年前にオーストラリアへ行ったときのこと。地方の小さな小学校を訪れたが、そこで
は何と小学三年生からコンピュータが必須だった。それからさらに数年後には、中学校での宿
題すら、フロッピーディスクで提出するのが、当たり前になっていた。

 が、日本では、実験的に数台もしくは、一〇台前後が、選ばれた小学校や中学校に置かれ
ていただけ。「日本でもコンピュータ教育を」という声が、通産省(当時)あがったが、それに「待
った」をかけたのが、何と、時の文部省である。理由は、「教員免許をもった教員がいない」と。
教員がいなければ、工学部卒の学生を教員にすればよい。……とだれしも考えるが、そういう
常識が通らないのが、日本の文部行政である。何をするにも、資格だの、許可だの、認可がい
る。教育学部で教授を育てるのに、二〇年かかる。そんなのを待っていたら、その間に、世界
はどこまで進む?

 その結果、日本のコンピュータ教育は、アジアの中ですらも、最下位になってしまった。台湾
や韓国にすら、大きく差をつけられてしまった。

 ここに書いたことは、私の記憶をたどりながら書いたことなので、細部ではまちがっているか
もしれない。しかし大筋では、まちがっていない。つまりこういうこと無数に繰りかえしながら、日
本の教育は、どんどんと遅れていく。少し前に書いた、少しショッキングなエッセーを転載する。
この原稿は、C新聞に載せてもらうつもりでいたが、編集者の意向でボツになったという経緯が
ある。

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学力は低下している?

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた割
合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二で
あった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。
一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一
時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見。あるいは文部科学省を批判した
意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがな
い。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、
二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた
子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)
国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

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みんなで考えよう、日本の教育改革

●遅れた教育改革
 二〇〇二年一月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの三六社。この
数はピーク時の約三分の一(九〇年は一二五社)。さらに二〇〇二年に入って、マクドナルド
社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。理由は「売り上げ減少」
と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳
料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かに
つけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今
どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしま
つ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績
は、一六五か国中一五〇位・九九年)。日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわ
からないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準
は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何
ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京
大・西村)だそうだ。

●日本の現状
 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い
分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。オーストラ
リアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数える
ほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(注、この原稿を書いたのは、〇一年)。
ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日
本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗
末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小
一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でし
た」と。

●低下する教育力
 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。日本では
大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり
何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験
制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学
生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向
に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえ
た。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から
 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね
ばならない。が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。

南オーストラリア州にしても、すでに一〇年以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業
をしている。メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フ
ランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。も
ちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュ
ータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の
科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須
科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減して
いるという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。
「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあ
ります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界
 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任
す。せめて県単位に任す。だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を
支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人
が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教
育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められ
るためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもし
れない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(六五歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日
本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、
ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないの
に、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るの
はムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっ
かりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育
 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえばルイサ・
E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、四歳児から子どもを預かり、
コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのこと
について聞くと、こう教えてくれた。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応で
きる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館の
S・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたち
を育てること」(長野県経営者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、
学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通
っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系
 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だから
だ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こういう教育を「教育」と思い込まされている日
本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそうだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思
を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわ
っているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほと
んどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、
嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 
 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。こう
した教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上
で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないの
か」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子ど
もたちは納得しないだろう。現に今、中学生の五六・五%が、この数学も含めて、「どうしてこん
なことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレー
ション・「第三回学習基本調査」二〇〇一年)。

●教育を自由化せよ
 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こ
ういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教え
たい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから
学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要
はないという人もいる。要は、それぞれの自由にすればよい。

今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、そ
の上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようと
している。ある教師(小学五年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所で
す」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた
教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができ
る環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で
考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は
学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が
徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。だからたとえば
親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教
師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が
分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++

 暗い話ばかり書いたが、日本の教育がなぜこうなってしまったかといえば、実は、その責任
は、私たち親にある。何の疑問ももたないまま、また何も考えないまま、今まで、お上(かみ)の
言うとおりにしてきた。「日本の未来は、私たちがつくる。そのための子育てであり、教育だ」と
いう視点が、あまりにも欠けていた。そういう受動的な姿勢が、結果的に、今の現状をつくって
しまった。

 これはあくまでも私の個人的な見解だが、今の文部科学省に改革を求め、それを待っていた
ら、さらにここ一〇年、二〇年を浪費することになる。つまり間にあわない。だったら、一人ひと
りの親が、自主的に自分の子育て法を組み立て、自分で子育てを始めるしかない。いわば教
育のゲリラ闘争のようなものだが、残念ながら、私はそれしか方法がないのではと思う。それ
が私の今の結論である。このつづきは、読者の皆さんの意見をもう少し聞きながら、再度、考
えてみる。
(03−2−3)

●教育とは自然の性、すなわち天性に従うことでなければならない。国家あるいは社会のため
を目標とし、国民とか公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。(ルソー「エミー
ル」)
●忍耐力をもたねばならないようであれば、教育者としては失格である。子どもには愛情と、喜
びをもたねばならない。(ペスタロッチ「口頭による意見」)
●よき官僚は、悪しき政治家である。(ヴェーバー「職業としての政治」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(571)

会話のない親子

 昼食のとき、ワイフとテレビを見ていたら、こんな番組があった(〇三・二月)。何でもその相
談した女性の夫が、その女性とほとんど会話をしないという。話しかけても、無表情、無感動、
無視、冷淡。子どもが病気になったときでさえ、「オレには関係ない」と。それでその女性は、
「離婚したい」「慰謝料が取れるか?」と。

 テレビの番組だから、つまり出演者が演技をしていたから、正確にはわからないが、子どもで
も、こういう子どもは、多い。

●親と会話をしない。無口、無言でいることが多い。
●話しかけると、うるさそうな表情や迷惑そうな態度をとる。
●さらに話しかけると、一触即発。「こわくて何も言えない」と訴える親もいる。
●会話がないので、何を考えているかわからない。
●旅行に誘ったりしても、反応がない。いやがる。
●無表情、無感動。誕生日を祝ってあげても、喜ばない。
●外の世界では、結構楽しそうにして、友だちとはふつうの会話をしている。
●しかし家の中では、ブスッとして、あいさつもしない。
●家の中では、一日中、テレビを見たり、ゲームをしたりする。
●家族との関わりがなく、家の手伝いなど、ほとんどしない。
●家族が困っていても、冷淡。平気で無視する。

症状的には、「うつ」を疑う。脳の機能(たとえば辺縁系の扁桃体ほか)の変調を疑う。そしてこ
れらの症状が顕著になったときは、「病気」もしくは、「障害」を疑う。つまり子どもがこうした症
状を示すからといって、説教したり、叱っても意味はない。病気は病気。インフルエンザにかか
って、熱を出している状態を思い浮かべればよい。もともと子どもの意思で、どうにかなる問題
ではない。

 で、さらにこうした症状が慢性化すると、それが子どもの性格の一部になったり、親子の生活
のパターンそのものになったりする。そうなると、改善するのは、容易ではない。ヘタをすると…
…というより、たいていそうなるが、その症状とパターンは、一生つづく。

 本来なら、こうならないよう、その初期の段階で、親がそれに気づかねばならない。しかし実
際には、不可能。(こういう私の原稿を読んでくれている人は別。そのためにこういう原稿を書
いている。)たいていの親は、「うちの子にかぎって」とか、「まだ何とかなる」とか考えながら、そ
の前兆を見逃してしまう。それにその前兆は、かなり早い段階で現れる。幼児期から小学校の
低学年時に現れる。この時期というのは、まだ子どもも小さく、親が強く叱れば、それなりに子
どもも従う。だからますますその前兆を見逃してしまう。

 よくあるのは、親が日常的に威圧的な過干渉を繰りかえすケース。静かで従順に従う自分の
子どもを見ながら、「うちの子はできがよい」とか、「しつけがしっかりしているから」と誤解する。
この誤解が、積もり積もって、子どもの心をゆがめる。

 よく子どもの家庭でのしつけが話題になるが、私は、「家庭でのしつけ」には、懐疑的である。
私など、家庭の中では、実にチャランポラン。客がこないときは、昼過ぎまで、パジャマ姿でい
ることがある。そういう私の姿を見て、「林はだらしない」と思ってもらっては困る。家庭というの
は、そういうものではないのか。チャランポラン、おおいに結構ということになる。

そこで早期診断だが、もしあなたの子どもが、つぎのようであればよい。

○日ごろから、親に向かって、言いたいこと、したいことをしている。
○甘え方や愛情の求め方が自然である。「自然」というのは、子どもらしいということ。
○あなたのいる前でも、平気で体を休めたり、心をいやしたりしている。態度が大きい。
○はっきりと自己主張をし、親がまちがったことをしたりすると、怒ったりする。
○よいニュースがあると、それをうれしそうに、親に話したりする。
○失敗したり、親に叱られたりしても、あまり気にする様子もみせない。

要するに、「いい子」ぶらないということ。子どもで一番こわいのは、仮面。親の前で、本心を見
せないこと。隠すこと。飾ること。この症状がさらにひどくなると、心と表情が、遊離するようにな
る。怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 こうした症状が見られたら、家庭のあり方をかなり強く反省する。「私は親だ」という親意識を
捨て、子どもの横に友として立つ。そして親としての気負いをとり、バカになる。バカになって、
子どもの心を開く。……といっても、これは簡単なことではない。親自身の価値観を一八〇度
転換しなければならない。また一度、閉じた心を開くには、一年単位の時間がかかる。それこ
そ、想像を絶する根気との戦いということになる。

 もっとも、今。親子でも会話のない家庭はいくらでもある。程度の差もあるが、何割の家庭が
そうであるといえるほど、多い。だから親子で会話がないからといって、失敗したとか、そういう
ふうに考えてはいけない。もともと親子には、そういう宿命がついてまわる。あの芥川龍之介さ
えも、『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまってゐる』(「侏儒の言葉」)と書いてい
る。

 私は、その番組を見ながら、ワイフとこんな会話をした。

「あの夫は、心の病気にかかっていると考えるべきではないか」
「日本では、ああいう男性や夫婦に相談にのるカウンセラーがいないからね」
「そう、いきなり、離婚だの、慰謝料という話になってしまう。そういう相談にのる窓口がどこか
にあればいいんだけどね……」と。

 それにしても、安っぽい番組だった。コメンテーター(お笑いタレント)はさかんに、「離婚した
らいい……」「妻も悪い……」と言っていた。それに答えて司会者も、「そうですね。離婚しかな
いね」と。どれもあまりにも通俗的な、つまり表面的な意見でしかなかったのが、残念だった。
(03―2−3)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(572)

ぜいたくな相談

 ときどきぜいたくな相談(?)をしてくる人がいる。たった今も、あった。小学五年生のKさんの
お母さんからだ。いわく「うちの娘は、ここが悪い」「あそこが悪い」と。

 しかしKさんは、すばらしい子どもだ。総合点をつけるとしたら、満点をあげてもよい。好奇心
も旺盛で、生活力もある。活発で、行動的。性格も安定しているし、それに明るい。心を開いて
いるから、その分、「ゆがみ」もない。すなおで、裏がない。屈託がない。もちろん勉強も、よくで
きる。友だちにも好かれ、人気者。が、さらにすばらしいのは、表情が、いつも輝いていること。
生き生きしている。が、お母さんは、「うちの子は、ダメで……」と。

 問題のある子どもは多い。しかしそういうお母さんは、お母さんで、問題のある子どもを知ら
ない。知らないから、自分の子どもにささいな欠点をみつけては、ことさら大げさにそれを問題
にする。「学校の参観日で見ると、授業中に話ばかりしている」「テストの見なおしをしない」「計
算問題を、まちがえる」など。「悪い点を取ったりすると、それを隠す」とも言った。私はそのつ
ど、「何でもないことです」と言うのだが、お母さんは、納得しない。さらに「ここが悪い」「あそこ
が悪い」と。

 実のところ、同じ相談でも、こういう相談は、気が楽でよい。相手の言うことを一つずつ打ち消
しながら、子どもをほめればよい。「Kさんは、いい子ですよ」「すばらしい子ですよ」「ほめてあ
げてくださいよ」と。そして私はこう言った。

 「今、何かと問題のある子どもが、多いです。そういう中で、Kさんのような子どもは、本当に
少ないです。むしろ、お母さんは、それに感謝しなければいけません。悪い面を見るのではな
く、いい面を見て、それをほめてあげてください。情緒も安定しているし、精神的にも問題はあ
りません。Kさんは、やがてお母さんの、すばらしい友人になります」と。

 すると今度は、お母さん自身が、「私は過干渉ママです。そうであってはいけないと思うので
すが、ついつい子どもに口を出してしまいます。どうしたらいいでしょうか」と言い出した。自分
についても、「ここが悪い」「あそこが悪い」と。

 それについても、私はこう言った。「お母さんは、過干渉ママではありません。お子さんを見れ
ばわかります。すばらしいお母さんです。だからKさんは、ああいうすばらしい子どもになったの
です。今の子育ては、完ぺきではないかもしれませんが、最善です。今のままでいいですよ。ど
うか自信をもってください」と。

 すばらしい子どもでは、そのよさは、すばらしさの中に消えてしまう。毎日ごちそうを食べてい
る人には、ごちそうのおしさがわからない。それに似た現象が起きる。が、それに加えて、親の
希望には、際限がない。「もっと」とか、「さらに」とか、言い出す。それ自体は悪いことではない
が、それが過剰期待になったとき、かえって子どもの伸びる芽を摘んでしまうことがある。幸い
にもKさんのケースでは、お母さんはそう言いながらも、良好な親子関係を保っている。Kさん
は、ときどき笑いながらこう言う。「うちのママは、本当にうるさいんだから」と。

 もちろんKさんと反対のケースもある。問題だらけなのに、それに気づかない親である。それ
については、また別の機会に書く。
(03−2−3)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(573)

パキスタンのH氏と話す

 二月三日、知り合って五年になる、パキスタン人のH氏と、昼食をとりながら話す。途中から、
アイルランド人のW氏も合流。すぐ話は、核兵器と北朝鮮問題になった。忘れないうちに、その
会話をここに記録する。

私「パキスタンは、核兵器をもっている。なぜ放棄しないのか?」
H「日本だって、もっている」
私「日本はもっていない」
H「もっている。日本にいるアメリカ軍がもっているということは、もっているということだ」
私「もっているとしても、日本ではない」
H「そんな論理は、世界で通用しない。少し前、日本の外務大臣も、パキスタンに核兵器の放
棄を迫ったが、日本に、そんなことを言う資格はない」
私「パキスタン政府は、日本の外務大臣に何と答えたのか」
H「無視した。相手にしなかった」

私「北朝鮮の核兵器をどう思うか」
H「北朝鮮も、アメリカの核兵器を脅威に思っている」
私「しかしアメリカと北朝鮮は、対等ではない。北朝鮮は、独裁国家だ」
H「それはわかる。しかし中国には、脅威を与えている」
私「本当に、中国は脅威に感じているか」
H「マレーシアの首相も、そう言っている」
W「ぼくは日本にくる前、二年間、北京にいた。中国人は、日本に駐留するアメリカ軍を、大き
な脅威に感じている。昨年四月にあった、アメリカ軍のスパイ機侵入事件のときは、中国は一
時、臨戦態勢に入った。君は知らなかったのか」
私「日本人は、気がつかなかったと思う。ぼくはそのとき、アメリカにいた」
W「だから、君たち日本人は、理解できない。あのスパイ機は沖縄から飛んできたものだ」

私「しかしもし日本からアメリカ軍がいなくなったら、韓国と北朝鮮が日本に攻めてくる。中国も
それに加わる可能性が大きい」
H「だったら、日本は自分で自分の国を守ればよい」
私「しかし法律(憲法)で、それが禁じられている」
H「だから日本は、ずるい(スニーキィ)」
私「どうしてずるいのか」
H「もっと貧しい国でも、自分の国は自分で守っている。マレーシアもタイもベトナムもだ。インド
もパキスタンも、自分で守っている」

私「日本が中国の植民地になったら、どうする」
H「そうなってもし方ない。日本は、それくらいの悪いことをした」
私「しかし日本人のほとんどは、悪いことをしたとは思っていない」
H「そこがわからないところだ。日本人は、三〇〇万人以上の外国人を殺している」
私「戦争だ。日本人も三〇〇万人、死んでいる」
H「日本がしかけた戦争だ」
W「K首相は、日本人の墓参り(靖国参拝のこと)ばかりしている。どうして日本人は、戦争で殺
された外国人たちの墓参りをしないのか」
私「していると思う。首相は、決して反省していないわけではないと思う」
H「そうは、思えない」
W「ぼくも、日本の首相が反省しているとは思えない」

H「日本が好きだから、改めて忠告する。日本は、戦争責任を認めるべきだ」
私「認めていないわけではない」
H「公式には認めていない」
私「日本は戦争の責任をとっていない。それはたいへん残念なことだと思う。それは認める」
H「どうして責任をとらないのか」
私「天皇にまで責任が及ぶからだ」
H「ドイツは、ヒットラーが死んだあと、責任をとった」
私「ドイツと日本とでは事情が違う」
H「違わない」
私「違う。天皇が戦争をしかけたわけではない」
H「その論理も、日本の外では通用しない」

私「今は、アメリカが日本を守っている」
H「日本がお金を払っているからだ」
私「同盟関係にあるからだ」
H「同盟ではない。日本はアメリカにくっつくコバンザメだ」
私「言いなりということか」
H「そうだ。ドイツは、アメリカの言いなりではない。アフガニスタンの攻撃では、日本は加担した
が、加担すべきではなかった」
私「同盟関係にあるからだ。ブッシュ大統領は、日本が北朝鮮に攻撃されたら、報復すると言
ってくれた。ギブアンドテイクという言葉がある」
H「その言葉なら、ぼくも知っている」
私「アメリカが攻撃されたら、日本もそれ相応に、アメリカに協力しなければならない」

H「同盟というのは、対等の国どうしが結ぶ条約だ。ならば日本も、ワシントンに、軍事基地を
置かせてもらえばいい」
私「日本は、戦争に負けて、成りゆきでこうなった」
H「そこが日本のずるいところだ」
私「じゃあ、日本はどうすればいい?」
H「アメリカには出ていってもらい、日本は日本で、強力な軍隊をもてばいい」
W「ほかの国々と対等になればいい」
私「法律(憲法)で禁じられている」
HとW「だったら、今度は中国の植民地になるしかない。中国が日本を植民地にしたところで、
だれも中国を非難しないだろう」
私「……」

 この会話の中で、「日本のアメリカ軍が、ほかのアジアの国々、とくに中国に大きな脅威を与
えている」という意見には、驚いた。私もそれには気づかなかった。そういう意味でも、日本人
は、相手の立場でものを考えるのが苦手。自己中心的というか、島国というか。私も正直言っ
て、日本に駐留するアメリカ軍が、ほかのアジアの国々に脅威を与えているとは考えたこともな
かった。(アメリカが脅威を与えているとは思ったことはあるが……。)

 最後に別れるとき、H氏はこう言った。「ミスター林、君は、ほかの日本人とは、少し違う」と。
その言葉を聞いたとき、私はほめられたのか、けなされたのか、わからなかった。別れたあ
と、しばらくすると、胃のあたりがチクチクと痛んだ。私なりに結構、神経を使ったらしい。
(03−2−3)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


■【連載】:子育てワンポイントアドバイス by はやし浩司 ---------------

●最終回 親は自分の過去を再現する

 子どもが受験期を迎えると、たいていの親は言いようのない不安感に襲われ
 る。自分自身が自分の受験期にいやな思いをした人ほどそうで、記憶という
 のは、そういうもの。親は子育てをしながら、自分の過去を再現する。

 もっとも親が不安になるのは、親の勝手だが、その不安感を子どもにぶつけ
 てはいけない。ぶつけてもいけない。今はそういう時代ではない。むしろ受
 験そのものがもつ弊害というか、子どもの心への悪影響のほうが問題にされ
 始めている。親子関係そのものを破壊することも多い。しかし親子関係を犠
 牲にするほどの価値が受験にあるかというと、それは疑わしい。日本人が「
 何が本当に大切で、何が大切でないか」ということを、少しずつだが考え始
 めている。その一つの表れとして、一九九九年に文部省がした調査では、「
 もっとも大切にすべきもの」として、約四〇%が「家族」をあげた。さらに
 一九九五年ごろを境として、全国の塾数、塾の講師数ともに減少に転じてい
 る(通産省資料)。長引く不況と少子化が原因だが、それ以上に、「エリー
 トの凋落(ちょうらく)」が大きな影を落としている。Y証券会社という日
 本を代表するような証券会社が倒産したとき、そのときの社長が、「みんな、
 私が悪いんです」と、子どものように泣いてみせた。そう、あのとき日本の
 エリート神話は崩壊した!

 もちろん子育てには不安がついてまわる。子どもの将来はだいじょうぶだろ
 うか、と。そして一方、この日本には不公平格差が歴然としてある。そのコ
 ースに入った人は、必要以上に得をし、そうでない人は、公的な保護をまっ
 たくといってよいほど受けない。こうした不公平感を親たちは日常的に感じ
 ているから、ついつい子どもには「勉強しなさい」と言ってしまう。しかし
 この時点でも、おかしいのは社会であって、子どもではない。戦うべき相手
 は社会であって、子どもではない。

 話がそれたが、親は子育てをしながら、結局は、子どもの年齢ごとに自分の
 子育てを再現する。自分が受けた子育てを繰り返すといってもよい。しかし
 それがよいものであれば問題はないが、そうでないものだったら、再現しな
 いほうがよい。いや、本当の問題はこのことではない。本当の問題は再現し
 ているということにすら気づかないまま、自分の中の「過去」に振りまわさ
 れることだ。そしていつも同じような失敗を繰り返す。あなたもそういう視
 点で、一度あなたの心の中をのぞいてみてほしい。

 ☆はやし浩司のサイト: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ 

 ※「子育てワンポイントアドバイス」は今回をもって終了です。お読みいた
  だきありがとうございました。なお、近日、はやし氏の新連載を開始する
  予定です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(574)

ギブ意識と、テイク意識

 ギブ、つまり「与える」意識と、テイク、つまり「もらう」意識は、平等ではない。

 与えたほうは、「与えた」という意識をしっかりともつ。しかしもらうほうは、「もらった」という意
識を、すぐ忘れる。もう少しわかりやすい例では、世話をしたほうは、「世話をしてやった」という
意識を、しっかりともつ。しかし世話をされたほうは、「世話をしてもらった」という意識を、すぐ
忘れる。

 これと似た意識に、被害者意識と加害者意識がある。たとえば「いじめ」にしても、いじめられ
たほうは、それを忘れない。しかしいじめたほうは、ときには、いじめたという意識すらもたない
ことが多い。

 私にもこんな経験がある。最近、親類のAさんと、どこかギクシャクしてきた。そこである日、
ワイフに、そのことを話すと、ワイフはこう言った。「でも、あの人には世話になったのよ」と。そ
こで私が、「どんなことで?」と聞くと、あれこれいろいろ話してくれた。(内容についてはここで
は書けない。)で、私も、それを思い出し、「そうだったなあ」と。

 一方、私も「してやったこと」は、よく覚えている。「あれをしてやった」とか、「これをしてやっ
た」とか。で、相手が、それに応じないようなとき、「あの人も恩知らずだ」と思ったりする。つま
り人間というのは、「してやったこと」については、過大評価し、「してもらったこと」には、過小評
価する。そういう傾向が強い。つまり「ギブ、つまり『与える』意識と、テイク、つまり『もらう』意識
は、平等ではない」ということになる。

 このことは、処世術としては、重要な意味をもつ。

 まず「してやること」については、それを過大評価しないように、心がける。いわゆる恩に着せ
ないということ。できるだけ早く忘れるようにする。一方、「してもらうこと」については、それを過
小評価しないように、心がける。いわゆる恩を忘れないということ。できるだけ心にとめておくよ
うにする。それぞれどの程度にすればよいのかという問題もあるが、そう心がけることで、ちょ
うどバランスがとれる。

 私のばあい、台所の壁に、一枚の小さな紙を張りつけている。それには、世話になった人の
名前を書きこむようにしている。このところ何かにつけて、ものをすぐ忘れるようになったので、
こうした作業は欠かせない。そして何らかの形で、そのつど恩返しをするようにしている。

 一方、不愉快な人や、不愉快なできごとは、すぐ忘れるようにしている。若いころは、ブラック
リストなるものを作って、その人を、「一生、のろってやる(冗談!)」と思ったこともあるが、そう
いうことをすれば、精神が腐(くさ)るだけ。時間のムダ。だからやめた。

 ただし、子どもに対しては、この処世術は、応用してはいけない。親は、子どもに対しては、い
つも無心。無我。見返りを求めない。損得の計算をしないから親子という。恩を着せたり、着さ
せられたりしないから親子という。親子の間には、ギブアンドテイクの論理は、通用しない。ま
たそれを考えてはいけない。これは子育ての常識。
(03−2−4)

●真にすばらしいものは、値段が安い。有害なものほど、値段が高い。(ソロー「断片」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(575)

「産んでやった」という意識

 Aさん(母親、六〇歳)は、いつも息子(三五歳)にこう言っていた。「お前を産んでやったでな」
「育ててやったでな」「大学まで出してやったでな」と。それがAさんの口ぐせでもあった。

 正月にそのAさんの息子に会うことがあったので、その後、どうなったか、それとなく聞いてみ
た。息子は、こう言った。「いやな言葉ですね。今でもときどき、そう言われます」と。

 「産んでやった」と、子どもの恩を着せる親は、今でも少なくない。問題は、なぜ恩着せるかだ
が、その原点に、望まない結婚、望まない出産があったとみてよい。「産みたくはなかったが、
いやいや産んでやった」「育てたくなかったが、いやいや育ててやった」「大学を出してやりたく
なかったが、いやいや苦労して出してやった」と。さらにその背景には、子どもを、人間としてみ
るのではなく、モノ、もしくは財産とみる考え方がある。

 もっとも、子どもがその言葉をすなおに受け入れてしまえば、問題はない。「産んでいただき
ました」「育てていただきました」「大学を出していただきました」と。そういう人も、いるにはい
る。たいていこのタイプの人は、親への依存性が強く、一方、その依存性を隠すために、ある
いは正当化するために、親を美化する傾向が強い。「私の親はすばらしい親だ。だからその親
を尊敬し、親に孝行するのは当然だ」と。

 自分の親を絶対だと思うのは、その人の勝手だが、その価値観を、子どもに押しつけてはい
けない。一般論として、先祖崇拝意識の強い人ほど、自分の子どもにも、それを強いることが
多い。B氏(七五歳)は、ことあるごとにこう言っている。「今の若いものは、先祖を大切にしな
い。先祖を先祖とも思わない」と。B氏のいう「先祖」というのは、結局は自分のことをいう。

 そこでチェックテスト。

(1)子どもに向かって、「親に向かって」とか、「何だ、その態度は」と言うことがある。
(2)親を粗末にする子どもは、不幸になる。できそこないだと思う。
(3)親は絶対的なもので、悪口を言ったり、批判してはいけないと思う。
(4)親孝行は美徳であり、子育ての要に親孝行がある。そういう子どもにしたい。
(5)「先祖」という言葉をよく使う。先祖あっての子孫だと考えやすい。

 こうした考え方が、まちがっているというのではない。ただ問題は、あなたの子どもがそれを
受け入れないとしたら、どうするかということ。方法は二つある。強引に押しつけるか、反対に
親のほうがあきらめる。もちろんその中間もある。たがいに妥協するという方法もある。しかし
このテストで、三〜五個、当てはまるようなら、あなた自身というより、あなたの子どもの心の中
をのぞいてみたらよい。ひょっとしたら、あなたの子どもの心は、すでにあなたの手の届かない
遠くにいってしまっているかもしれない。それだけではない。とくにこのタイプの親ほど、自分で
は、「私はすばらしい親だ」と思い込みやすい。つまりその分だけ、自分の姿や子どもの心が
見えない。見えないから、失敗しやすい。

 実のところ、私も子どものころ、母に「産んでやった」「育ててやった」と、それこそ耳にタコが
できるほど、聞かされた。当時は、どこの親もそうではなかったか。数年前、従兄弟(いとこ)会
があったので、一人、二人に聞いてみたが、従兄弟たちもそう言われたと言った。で、ある日、
私はそれに猛反発した。私が高校生のときではなかったかと思う。「いつ産んでくれと、頼んだ
ア!」と。それはただの反発ではなかったと思う。私はそう反発しながら、私は私を取り巻いて
いるクサリをはずしたかった。少し大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、それはまさに自
由への叫び声だった……。

 と、言っても、それでクサリがはずれたわけではない。今でも、そのクサリは、私の体に巻き
ついたまま。このクサリだけは、簡単には、はずれない。親だけの問題ではない。家の問題。
先祖や墓の問題。兄弟や親類の問題。さらに近所の問題もある。そういうものが無数に、しか
も複雑にからんで、体をしめつける。それはいつ晴れるともわからない、曇った空のようなも
の。心のカベにペタリと張りついて取れない。もがいても、もがいても、取れない。

 私は自分の息子たちには、そういうクサリを感じてほしくない。できるだけ感じてほしくない。
そういう願いをこめて、このエッセーを書いた。
(03−2−5)

●建前は、それを守っている限りは、他の人々の好意をあてにできるので、少なくともその分
だけは、甘えが満たされる。(土居健郎「甘えの構造」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(576)

雑感(北朝鮮問題)

 今日(二月四日)のニュースによると、アメリカ軍は、日本海に空母を展開するという。もちろ
ん空母一隻だけがくるわけではない。空母を取り囲んで、駆逐艦や護衛艦など。補給艦や潜
水艦も配備される。戦艦も含まれる。相当な軍事的圧力といってよい。「北朝鮮に脅威を与え
ない」という理由で、北朝鮮から一〇〇〇キロ離れたところに空母を置くというが、脅威を与え
ないというわけにはいかない。恐らく北朝鮮の政権内部は、てんやわんやの状態だろう。

 が、北朝鮮の今後の動向を決めるのは、実は、金正日ではない。国内情勢である。独裁者
の常として、独裁者自身は、自分の安泰を最優先に考える。だから、皮肉なことに、たいてい
は国外に向かっては、平和主義者。独裁者が外に向かって戦争をしかけるときは、国内にお
いて、自分の立場があやうくなったときである。

 こういう視点でみると、現在の北朝鮮問題は、まさに危機的状況にあると考えてよい。原油は
不足し、食料も不足している。経済はハイパーインフレ。軍の統制もままならない状態だとい
う。北朝鮮内部が、まさに壊滅状態だとするなら、金正日に残された方法は、ただひとつ。外に
向かって、戦争に打って出るしかない。

 ところでこうした北朝鮮の動向に大きな影響を与えるのが、中国とロシアということになるが、
ロシアは、北朝鮮を、完全に見限っている。問題は中国だが、中国自身も、北朝鮮と一線を引
き始めている。韓国系の朝鮮日報によれば、北朝鮮内部の中国のスパイ網が崩壊し、その報
復として、中国国内の北朝鮮のスパイ網も、大きな打撃を受けているという。たがいの関係は
かなりギクシャクし始めているらしい。一応友好国ということになっているが、中国も、北朝鮮を
もてあましているとみるのが、正しい。

 北朝鮮の孤立化はますます進んでいる。……というより、完全に孤立してしまった。ふつうな
ら北朝鮮の崩壊は、時間の問題ということになるが、そこはカルト国家。いわば、たがいの信
仰で結束している。そうは簡単には崩壊しない。この日本だって、これだけ構造改革、つまり官
僚政治の是正が求められているのに、ビクとも動かない。外から見れば、それがわかるのだ
が、日本人には、それがわからない。同じように、北朝鮮の人たちも、自分がわからない。「自
分たちは、まともだ」と思っている。

 春先から、北朝鮮の食糧問題は、ますます深刻化するという※。昨日(二月四日)、WFP(国
連世界食糧計画)が、食糧援助を各国に求め始めた。〇三年度も約一〇〇万トンの穀物が不
足すると言われている。が、肝心の農業生産力が、今年はさらに低下する可能性が高い。農
機具の老朽化もさることながら、燃料が不足している。かんがい用のポンプも使えないため、
水田に水も供給できないところもあるという。つまりすべてが、やることなすこと、裏目、裏目に
出ている。

 いまや金正日は、自分の王朝の保身しか考えていない。愚かで、あわれな独裁者である。本
来なら北朝鮮の人たちによって、袋叩きにあってもおかしくない立場だが、それを恐怖政治で
押さえこんでいる。少しでも批判的なことを口にすれば、即、逮捕。収容所送りだそうだ。そうい
うことが平気でできる指導者が、なりふりかまわず、瀬戸際外交を繰り返している。それに日本
やアメリカが翻弄(ほんろう)されている。このあたりの言葉で言うなら、「えらい、迷惑」をこうむ
っている。

 このままでは戦争は、不可避。頼みの綱は、中国とロシアしかない。あるいは内部崩壊かク
ーデター。いや、それ以上に気になるのは、こうした緊張感の中で、今まさに、北朝鮮内部で
は、地獄絵図が繰りかえされているということ。モラルや道徳、マナーは崩壊し、わずかな食料
を奪いあって、殺しあいすら起きているという。仮に、このまま平和的に問題が解決しても、そ
の心の後遺症は、これから先、何世代もつづく。すでに栄養不良による低身長にいたっては、
約六〇%の子どもに、その傾向が見られるという。

 アメリカの気持ちもわからないでもないが、北朝鮮など、本気で相手にしなければならない国
ではない。ないが、しかし核兵器は別である。ああいうものを世界に拡散してくれたら、それこ
そ世界はめちゃめちゃになってしまう。「言うことを聞かなければ、東京に原爆を落とす」と言わ
れたら、そのとき日本は、何とする? 今の北朝鮮は、そういうことが平気でできる国なのであ
る。

 平和であるほうがよいに決まっている。しかしここは日本にとっても、正念場。腹をくくってとり
かかるしかない。
(03−2−5)

※北朝鮮全体の16パーセントの子どもが急性の栄養失調でひどく衰弱しており、62パーセント
もの子ども達が多かれ少なかれ発育不良(慢性の栄養失調)だと判明。(『朝鮮民主主義人民
共和国政府と共同して行なわれた欧州連合、ユニセフ、世界食糧計画による栄養調査の報告
書』(1998年11月)参照)※

※昨日の報道番組で、NセンターのK氏が、「アメリカだって核兵器をもっているではないか。
そのアメリカがほかの国に、核兵器をもつなというのはおかしい」と言っていた。しかし何もアメ
リカの核を容認するわけではないが、この論理はおかしい。今では、パキスタンや北朝鮮のよ
うな国ですら、核兵器を作ることができる。お金もかからない。そのうちどこかのゲリラですら、
作ることができるようになるだろう。そういう時代になったからこそ、だれかがそれを抑制しなけ
ればならない。もしアメリカから核兵器がなくなれば、だれがそれを抑制するのか。だれもアメ
リカの言うことなど聞かなくなる。つまり歯止めそのものがなくなってしまう。ものごとは、もう少
し、現実的に考えるべきではないのか。もちろん最終的には、世界中から核兵器を廃絶しなけ
ればならない。そのワンステップとして、今以上に、核兵器をもつ国を、ふやしてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(577)

ある宗教団体の機関紙

 もう二〇年ほど前になる。私は、アルバイトで、ある宗教団体の機関紙を編集していたことが
ある。N市に本部を置く、信者数約X万人ほどの団体である。結構、お金にはなったが、その息
苦しさといったらなかった。たった一語、あるいはたった一句まちがえただけで、原稿をつき返
されたことがある。あるいは機関紙の紹介コーナーで、その団体に反目する作家の本を評論し
ただけで、すべて廃棄処分にされたこともある。印刷も終え、配布するままになっていた機関紙
を、である。

 こうした宗教団体では、当然のことながら、すべての指示命令が、トップから信者へ、上意下
達方式でなされる。下位信者が、上位信者に意見を言うなどということ自体、ありえない。また
その団体では、信仰歴の長いものほど位が上になるというしくみになっていた。四〇歳代の男
性が、二〇歳代の女性の前で、それこそ畳に頭をこすりつけるようにしてあいさつをしている姿
を、見かけたこともある。

 もともと信仰というのは、心の中でするもの。もっと言えば、どこまでいっても、個人の問題。
組織があるとしても、それは「心」を同じにする人たちの交流の場でしかない。しかしこうした団
体では、組織の利益や目的が、個人の利益や目的よりも優先される。ときには、個人が組織
のロボットとして、利用される。

 ……という話を書くのが、ここでの目的ではない。私はいろいろな文章を書いてきたが、あの
息苦しさだけは、もうこりごり。心の監獄に入れられたような息苦しさだった。(監獄に入ったこ
とはないが……。)ものを書くときは、まず心を解き放つ。すると文章というのは、あとから、ちょ
うど清水が岩の間からわき出るように、ついて出てくる。もちろん考えながら書くということもあ
るが、実際には、感性を大切にする。カンのようなもの。「ここに何かがあるぞ」という思いで、
書いていく。

 が、宗教団体の機関紙では、そうでない。「これを書いたら怒られるぞ」「あれを書くとまずい
な」と、そんなことばかり考える。さらに「こういうふうに書いたら、喜ばれる」「これを入れると、
信者がふえる」と、そんなことを考えるときもある。能力的には楽な仕事だった。仕事の大半
は、だれかが書いた原稿を、読みやすく、わかりやすく書きなおすというものだった。文体や文
調を整えたり、漢字や仮名づかいを統一したりするなど。それでも神経をつかった。

 結局、この仕事は、半年でやめた。それにはひとつの事件があった。それについてはここに
は書けないが、(実のところ、もうそれまでにやめると心に決めていたが)、とにかくやめた。
が、そのとき感じた解放感は、今でも忘れることができない。心と頭の上にあった、重石(おも
し)が、いっぺんに吹き飛んだような解放感だった。
 
 ……なぜこんなエッセーを書いたかって? それには理由がある。ワイフガ購読している
「M」という雑誌に、こんな記事があったからだ。ある女性作家の書いたエッセーだが、趣旨は
こうだ。

 「原稿というのは、出版社や編集者の目を通り抜けて、活字になる。またそういうきびしい
『目』を通り抜けるから、価値が生まれる。……インターネットで、日記を公開したり、マガジン
を出している人がいるが、そういう人の書いた文章には、その価値がない」と。

わかりやすく言えば、「出版社や編集者の目を通らない文章には価値がない」ということだが、
しかしその「目」のおかげで、書きたいことも書けなくなることがある。むしろそちらの弊害のほ
うが、大きいのでは? 宗教団体の機関紙のようなことはないにしても、それを薄めたようなこ
とはある? かたや電子マガジンは、気が楽。書きたいことが書ける。瞬時に、発表できる。そ
の気軽さが、ときには、欠点になることもある。しかし「私は、この女性の言っていることは正し
くない!」と思った。思ったから、このエッセーを書き始めた。内容的には、あまりかみあわない
が、それがここでいう、「カン」ということになる。

 「インターネットのおかげで、文が、はじめて本物の自由を得た」と私。
 「書きたいことが書けるから?」とワイフ。
 「それもあるけど、発表したいことが発表できる」
 「でも、読む人がいなければ、しかたないわね」
 「一人でもいれば、それでいい。今までは、それもできなかった」
 「一人もいなくなってしまったら……?」
 「お前がいる」
 「……」
 
 私はこれからも自由を大切にしながら、原稿を書いていきたい。と、まあ、どこか小学生が作
文で書くような結論になってしまったが、今は、そう思う。
(02−2−6)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(578)

雑談

 大型店の前を車で通ったときのこと。ワイフが、こう聞いた。「多目的トイレって、何?」と。店
のどこかに、「多目的トイレ」と書いてあったそうだ。それで私が、「お尻を洗ってくれるだけでな
く、オナニーもしてくれるんだって」と言うと、「フン」と笑った・

 しかし多目的トイレって、何だ? ……と思って、インターネットの検索エンジンを使って調べ
てみた。

 「多目的トイレというのは、身体の不自由なかたが利用しやすいように、さまざまに工夫して
あるトイレのこと。手すり、洗浄ボタン、巻紙、呼び出しボタンはすべて便器に座った状態での
位置で、できるようになっている」(S社のコマーシャル)とのこと。ナルホド!

 ……と、まあ、実にくだらないことを考えている。こういう文章は、文章の中でも、ゴミのような
もの。書いても意味はないし、読んでもらうのもつらい。おたがいに時間のムダ。

 今、一番、心配しなければならないのは、国際問題。世界は、イラク問題一色だが、それ以
上にこわいのは、北朝鮮問題。もう二年ほど前だが、こんな原稿を書いて、新聞(中日新聞)に
発表したことがある。

+++++++++++++++++++++++

最近の女子高校生は…?

 市立図書館で、女子高校生六人に聞いてみた。「君たちは将来、何をしたいか」と。私は当
然、キャリアウーマン的な人生観をもっているものとばかり思っていた。が、五人までがこう答
えた。「結婚して、はやく家庭に入りターイ」「家庭でダンナの帰りを待ちながら、料理しターイ」
と。私が「家庭の主婦になるということか」と聞くと、「そうだヨー」と。そこでさらに「仕事はしない
のか?」と聞くと、「したくないヨー。ダンナの給料だけでやっていきたいヨー」と。

 見た感じ、ごく普通の高校生である。ちょうどテスト週間で、図書館に来ていた。私は質問を
変えて、「では、どんな男と結婚したいか」と聞いた。すると一人が、「一にマスク、二に経済力
……。『これオヤジのマンション』と言うような金持ちの息子がいい」と言った。私が「心はどうす
る。結婚するというのは、心の問題だよ」と言うと、「マスクのいい人は、心もいいに決まってル
ー」と。

 あれこれ話したが、政治の話を持ちだすと、「ダサーイ」とはねのけられてしまった。私「国の
借金が七百兆円もあるんだよ。一人六百万円だよ。君たちの借金なんだよ。それはどうする
の?」。高校生「私ら、そんな話、関係ないもんネー」「そうよネー」と。さらに「もしK国が日本へ
攻めてきたら、どうするの?」と聞くと、「どうして、攻めてくるのサ〜? 私ら、な〜んも、悪いこ
としてないのにサ〜」と。

 言いたいことは山ほどある。あるが、こういう現実を見せつけられると、自分をのろいたくな
る。五十歳をすぎても、日本の将来を心配している自分が、なさけなくなる。少し飛躍した感想
かもしれないが、なぜあの三島由紀夫が腹を切ったか、その心情がよくわかる。私たちはこう
いう高校生をつくるために、がんばってきたのか、と。

 少し前だが、こんなこともあった。あるキャンプ場で国旗の掲揚をしたときのこと。何人かの
高校生が、「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」を口ずさんでいるのを聞いた。アメリカの
国歌である。日本の国歌には言いたいこともいろいろあるが、しかし今、日本の若者たちがこ
こまで脱線しているかと思うと、ゾッとする。そう、何かが狂っている。しかし相手は子どもだ。
日本の将来をになう子どもだ。そういう子どもをさして、「失敗作」と、どうして言えるだろうか。
子どもを笑うということは、即、自分を笑うということになる。そんなことは、私にはとてもできな
い。

 ……何ともやりようのない空しさを感じながら、私は図書館を出た。

+++++++++++++++++++++++

 私は、一九六八年にUNESCOの交換学生といて、韓国にいた。そのときの経験だが、韓国
人が日本に対してもっている憎しみには、ものすごいものがあった。当然といえば、当然だ。日
本人がいかに弁解したところで、日本が朝鮮半島でした悪業の数々は、弁解できるものではな
い。私たちはいくつかの大学を回ったが、行く先々で、日本攻撃の矢面に立たされた。

 それから三五年。この憎しみは、基本的には消えていない。消えかかるたびに、古傷をえぐ
るように、歴代の首相たちが靖国神社を参拝したり、教科書を書きかえたりしている。だからい
まだに、日本といえば、韓国や中国では、「歴史認識」が、最大の問題となっている。ウソだと
思うなら、在日本中国大使館のホームページや、「朝鮮日報」(韓国系新聞社)のホームページ
をのぞいてみればよい。日本人が日本を見る見方と、韓国や中国の人が日本を見る目は、ま
ったくちがう。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 ある日突然、平和な日本に、北朝鮮の大軍が押し寄せてきた。ものすごい軍隊である。そし
てその軍隊にものを言わせ、日本人が日本語を話すのを禁止した。そして金日成の銅像に毎
日参拝することを強制した。一応日本の政府はあるが、北朝鮮の傀儡(かいらい)政権。北朝
鮮にたてつくと、即、逮捕。裁判なしで処刑もしくは投獄。

 こういうことを三〇年近くもしてきて、無事ですむはずはない。韓国の人や中国の人の、日本
への憎しみは、そういう歴史の中から生まれた。

 ……だからといって、現在の北朝鮮を肯定するわけではない。今の北朝鮮は、むしろそうい
う憎しみを、自分の独裁政権維持のために利用している。それはそれだが、しかし日本も反省
すべき点は反省しなければならない。でないと、日本はいつまでたっても、(現にそうだが…
…)、アジアの中の異端児として残ってしまう。相手にされない。仮に日本と北朝鮮が戦争状態
に入っても、中国はもちろんのこと、韓国ですら、日本の味方にはなってくれない。北朝鮮はた
しかに孤立しているが、同じように日本も、アジアの中では孤立している。

 今、日本はたいへん危機的な状況にある。このままいけば、もう戦争は避けられない。ただ
の戦争ではない。北朝鮮は、日本に向けて核兵器を使うと言明している。最後の望みは、アメ
リカと北朝鮮の最終会談である。この会談で、たがいにどの程度妥協するかだが、今の段階
では、その妥協すらむずかしい。日本としては、どんな取り引きをしてでも、中国やロシアに仲
介を頼むしかない。あるいは中国やロシアを巻き込んで、共同責任者になってもらうしかない。

 本来なら日本は韓国と共同歩調をとらねばならないが、今、韓国は、日本をまったく無視した
形で、独自の対北朝鮮外交を進めている。アメリカや日本を自分と切り離し、自分だけ安全圏
に置こうという考え方である。ズルイと言えばズルイが、しかし韓国には韓国の立場がある。韓
国を責めるわけにはいかない。

 日本の選択肢は、もうほとんど残されていない。今、この段階では、日本は、好むと好まざる
とにかかわらず、日米軍児同盟にしがみつき、アメリカの力に頼るしかない。軍事面だけでは
なく、情報面においても、だ。いろいろな意見はあるだろうが、ここは一蓮托生(いちれんたくし
ょう)。日米関係にヒビを入れるのは、決定的にまずい。イラク問題についても、アメリカはその
イラクで自らの血を流そうとしている。そういう現実を前にして、「イラクでの戦争は反対。しかし
日本を守ってくれ」は、ない。つまり今、日本が直面している危機は、それほどまでに差し迫っ
ている。

 それにしても、私たちは、子どもたちにいったい、何を教えてきたというのか。高校生でもよ
い。大学生でもよい。「北朝鮮が日本にミサイルを打ちくるかもしれない」などと言うと、いまどき
の子どもたちは、こう言う。「何でサー。オレたち、なんも、悪いことしてネーのにサー」と。つい
で四人の高校生にも聞いてみた。「どうして北朝鮮が日本に向けて、ミサイルを設置しているか
わかるか」と。すると全員、「わからない」と答えた。

 このノー天気ぶりこそが、日本の教育の最大の欠陥でもある。私たちがなぜ歴史を学ぶかと
いえば、過去の失敗の中から、未来に生きる教訓を学ぶためである。しかしその学習そのも
のが機能していない。「一四九二年、コロンブス、アメリカ大陸発見」というようなことを学ぶの
が、歴史だと思いこんでいる。今回の北朝鮮問題をきっかけに、もう一度、歴史教育がどうあ
るべきかを考えてみるのも大切ではないか。
(030207)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(579) 

生きがいは子ども?

 結婚一〇年未満の主婦にとって、最大の生きがいは、「子ども」だそうだ。乳酸菌飲料のY社
がした調査結果によると、つぎのようになっている。

【生きがいについて】

結婚10年未満の主婦  子どもが生きがい……70・3%
            夫が生きがい  ……52・4%

結婚10〜20年    食べること   ……44・6%
            趣味      ……39・2% 
夫が生きがい  ……32・3%
  
結婚20年以上     夫が生きがい  ……30・4%
(乳酸菌飲料大手のY社 20〜50歳代、400人について調査(03年2月))

 この調査で注目すべきは、結婚暦が10年ごとに、「夫が生きがい」が、50%から30%に低
下しているということ。「30%しかいないの!」とも言えるし、「30%もいるの!」とも言える。も
っともこの問題は、もともと白黒をはっきりつけられるような問題ではない。一日の流れを見て
も、「夫が生きがい」になっている時間もあれば、「忘れてしまっている」時間もあるだろう。つま
りこうした調査は、あまり意味がない。だいたい「生きがい」という言い方が、オーバー。不適
切。どこか女性をバカにしたようなニュアンスすら、感じられる。高邁(こうまい)なボランティア
精神をもって、高徳な生き方をしている女性は、いくらでもいる。

 が、しかし、それでも、結婚10年未満の主婦たちにとって、最大の関心ごとは、「子ども」(7
0%)であることには違いないようだ。それはそれとして、しかしこの数字にも、大きな落とし穴
がある。どこに落とし穴があるか、わかるだろうか?

 この調査は、結婚した女性全体についてしたもので、子どもをもっている主婦にかぎってした
ものでないということ。1935年〜60年に生まれた女性について言えば、「子どもがいない主
婦の割合」は、約10%前後で推移している(国立統計経済研究所(INSEE)の調査)。つまり
こと「子ども」について言えば、最初から10%の主婦については、除外して考えなければならな
い。

 だからこの「70・3%」という数値を補正すると、こうなる。

 70・3÷(1−0・1)=78・1%

 つまりこと子どもをもっている主婦について言えば、78%、さらに四捨五入して、約80%の
主婦が、「子どもを生きがい」にしているということになる。しかしこんなことは、常識。(「生きが
い」という言い方にも、問題はある。ここは「日々の生活の中心的関心ごと」と言うべきではない
のか。)

 この調査では、数字も気になったが、どこかいいかげんなところも気になった。もう少しわかり
やすい例で考えてみよう。たとえばこんな調査。

 「インフルエンザにかかった子どもを調べたら、50%が、女子だった。だから女子は、インフ
ルエンザにかかりやすい」と。しかし子どもの50%が、女子なのだ。つまりこういう調査は意味
がない。同じように、このY社がした調査には、どこか、「?マーク」がつきまとう。

 調査結果をいろいろ分析してみようと思ったが、そんなわけで、このY社の調査結果は、参考
にはなったが、あまり役にたたなかった。
(030207)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(580)

BW教室の見学について

 このところ毎日のように、私の教室(BW教室)へ、見学の人がくる。今は、そういう時期だ
が、そうして見学してもらうことは、とても大切なことだ。私の教室の「よさ」というか、「独自性」
を理解してもらえる。が、歓迎しない見学もある。同業者によるスパイ見学である。

 長い間、こういう仕事をしていると、スパイ見学かどうかは、すぐわかる。視線が違う。スパイ
見学をする人は、視線があちこちに飛ぶ。つまり部屋の様子を観察する。そうでない、つまり子
どもの教育を考えている人の視線は、私に集中する。またスパイ見学の人は、あれこれもっと
もらしい理由を並べて、資料をごっそりともって帰る。あるいは規約や月謝ばかりを気にする。
しかしこちら側としては、そういう見学でも、差別することはできない。「どうぞ、ご自由に」という
ことになる。

 私の教室のばあい、四月の新年度に、どさっと生徒を集めてスタートするわけではない。たい
ていは三〜四人の生徒でスタートする。そういう状態で、まず「核となる子どもづくり」をする。と
くにていねいな指導をする。そしてそういう子どもを作った状態で、一人、二人と生徒をふやし
ていく。半年くらいをかけて、生徒を一〇人前後にする。

 子ども、とくに年中児(四歳)は、最初、数か月、反応のない時期がつづく。教えても、あるい
は笑わせようとしても、反応がない。私はこの時期を、「情報の蓄積期」と考えている。子ども
は、この時期を通して、情報を蓄積する。そしてそれが臨界点へきたとき、子どもは、その時点
を境に、飛躍的に伸び始める。だからこの時期は、短気は禁物。ただひたすら、教えるべきこ
とは教えながら、じっとその時期がくるのを待つ。

 が、たいていの親にはそれがわからない。途中から入ってきたような親ほど、そうで、ほかの
子どもと比較しながら、「どうしてうちの子は……?」と悩む。見学をしながら、うしろでイライラし
ているのが、よくわかる。ときにその視線が、ヤリのように、私の心を突き刺すことがある。レッ
スンそのものが、やりにくくなることもある。こういう鋭い視線は、子どもにとっても、好ましくな
い。

 今日も、一人、見学にくるという連絡が入った。毎年、こういうことを繰りかえしながら、私は
年齢を重ねていく。そうそう、一般の人には、正月の一月から新年度かもしれないが、私にとっ
ては、四月一日が新年度ということになる。毎年三月三一日の夜には、ワイフと二人だけで、
乾杯をすることにしている。

さてさて、こういう不景気な時代。来年度はどういうことになることやら……。何とか来年度も、
無事、仕事ができればよいが……と、今は、そう思っている。バブル経済のころは、市内だけ
も、一〇数か所の幼児教室があったが、今、生き残っているのは、私の教室だけになった。わ
れながら、しぶとい教室だと思っている。そう言えば、この二年間、スパイ見学の人は、来なく
なったが……。
(030207)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(581)

新家族主義

 ここ数年、日本人の意識が急速に変化しつつある。おそろしいほどの勢いといってもよい。ま
さにサイレント革命進行中! ひとつの例だが、99年の春、文部省がした調査では、「もっとも
大切にすべきもの」として、40%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社
がした調査では、それが45%になった。たった一年足らずの間に、5ポイントもふえたことにな
る。

 これで驚いてはいけない。それからほぼ三年。さらに読売新聞社による、親子の意識調査に
よれば、子どもの将来像について、最近の親たちは、つぎのように考えていることがわかった
(02年12月)。

 一九歳以下の子どもがいるという親に、「あなたは、自分のお子さんに、どんな人生を送って
ほしいと思いますか」と聞いたところ、

     幸せな家庭を築く    ……82%
     好きな仕事に就く    ……70%、と。

 ここで注目すべきことは、「幸せな家庭を築く」が、82%にまでなったということ。ほんの三〇
年前の日本人には、考えられなかったことだ。

(家族主義)
 先の文部省調査(40%)が発表されたその夜、ニュース番組の中で、K氏は、「日本人も小
市民的になりましたね」と批評した(99年春)。しかし「家族を大切にする」というのは、決して小
市民的な考え方ではない。むしろ子育ての要(かなめ)と位置づけても、何ら遜色ない、重要な
ポリシーである。世界の常識でもある。日本人は、むしろ、今まで、その家族をないがしろにし
すぎてきた。

 小市民的でないということは、たとえば「家族」は、愛国心の原点にもなりうるということ。ただ
日本では、「愛国心」というとき、そこに「国」という文字を入れる。が、英語で「愛国心」、つまり
「ペイトリアティズム」と言うときは、もともと「父なる大地を愛する」を意味する。わかりやすく言
えば、英語で言うところに愛国心は、日本でいう、愛郷心に近い。無数の家族愛が集まって郷
土愛になり、それが高じて愛国心になる、と。その一例が、メル・ギブソンが主演する『パトリオ
ット』という映画であった。

 あの映画の中では、家族のために戦う一人の父親がテーマになっている。日本では「パトリ
オット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ここにも書いたように、ラテン語
の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。「家族のためな
ら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大切にするという
ことには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国心の原点にも
なっている。

(自立したよき家庭人論)
 日本では明治以来(あるいはそれ以前から)、出世主義が教育の柱になってきた。今でも、
その風潮は残っている。「立派な社会人」思想である。このことは、ちょうど約三〇年遅れで日
本の教育を追いかけている中国を見ればわかる。隣の中国では、今「立派な国民」思想がもて
はやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北京
第三三中学校教師談)。その姿は、まさしく一昔前の、日本の姿だが、そういう姿を見ると、「あ
あ、私たちもそうだった」とわかる。

 こうした日本独特の教育観は、さまざまな分野に影響を与えている。たとえばひとつの比較だ
が、ニュージーランドでは、小中学校は、午後三時には終わる。そのあと子どもたちは家に帰
り、夕食が終わるまで、家事を手伝うのが日課になっている。具体的なデータはないが、調査
するまでもなく、ニュージーランドでは、それは常識。が、この日本では、子どもが「勉強する」
「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。おとなでも、「仕事がある」と言えば、すべてが
免除される。出世主義の世界では、勉強や仕事が、何かにつけて優先される。

(あと始末論)
 こんなこともある。こまかい話だが、日本では何かにつけて、「あと片づけ」が話題になる。し
かし英語国では、「あと片づけ」については、ほとんど問題にならない。そのかわり彼らは、「あ
と始末」にはうるさい。たとえば子どもが、ミキサーを使ってジュースを作ったようなとき。コップ
の始末、果物の皮の始末、さらには、ミキサーを洗って片づけるところまで、子どもにさせる。
これも「自立したよき家庭人を育てる」という意識が背景にあるからと考えてよい。

 しかしこうした子育て観は、そのまま国家の姿勢として反映されることもある。日本人は、昔
から、『和ももって、貴(とうと)しとなす』という。それはそれとして、ひとつの美徳ではあるが、そ
のため責任ということについては、たいへん甘い。相手の責任を追及することも甘いが、自分
の責任についても、甘い。わかりやすく言えば、ものごとを、たがいに、ナーナーですまそうとす
る。こうした日本の姿勢は、ときとして「無責任な国」として、外国人にはとらえられる。

(学歴信仰の原点にも)
 もちろん教育とて無縁ではない。日本型の出世主義が、一方で学歴信仰を生み、受験競争
を生んだことは言うまでもない。さらに「偉い人」というときの、偉人思想もある。日本では、地
位や立場のある人を「偉い人」という。地位や立場のない人については、あまり「偉い人」とは
言わない。一方英語国では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン(尊敬
される人)」という言い方をする。

 要するに、子どもの教育の原点に何を置くかによって、子育てのあり方も、大きく変わるとい
うこと。

(アメリカのばあい)
 一九七〇年はじめ、アメリカは、ベトナム戦争でつまずく。それは戦後、アメリカがはじめて経
験した手痛い「つまずき」でもあった。そのつまずきと並行して、あのヒッピー運動に代表される
「カウンター・カルチャ(非行などの下位文化)」の時代を、アメリカは迎えることになる。

 そのときアメリカでは、「アメリカン・ドリーム」の酔いからさめると同時に、それまでの価値観
が、ことごとく否定され始めた。離婚率の増加、同性愛、未婚の母、麻薬、性道徳の乱れが、
それに拍車をかけた。まさにアメリカは混乱の時代を迎えたわけだが、ここでそれを解決する
ために、アメリカは二つの道を模索した。

 一つは、新しい価値観の創造。もう一つは、古きよき家族主義の復活である。前者はともかく
も、後者は、ベンジャミン・フランクリンの家族主義※に代表されるものの考え方で、それ以前
からアメリカ人の精神的バックボーンにもなっていた。そのためこの家族主義は割とすんなりと
アメリカ人に支持された。たとえばそれを受けてアメリカのクリントン大統領は、「強い家族をも
てば、アメリカはより強くなる」と述べている。私はこれを、新家族主義の台頭と考えた。

(これからの日本)
 読売新聞の調査を見てもわかるように、日本人の意識は、大きく変わりつつある。この動き
は今後、加速されることはあっても、後退することはない。アメリカが七〇年代後半で求めた、
新家族主義が、この日本で主流になるだろう。それは好むと好まざるとにかかわらず、これか
らの日本のみならず、世界が進むべき道ととらえてよい。

 そこでどうだろう。あなたも今日から、自分の子どもにこう言ってみては。

 「家族を大切にしよう」「一番大切なのは、家族だ」と。この一言が、日本の子育てを変える。
日本の教育を変える。
(030207)※

※……結婚、つまり両性の結合は、それ自体はもっとも小さな社会の一つだとしても、もっとも
大規模な政府の存在そのものとなる源泉である。(ベンジャミン・フランクリン)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


うちの子は問題をよく読みません
音読と黙読は違う(失敗危険度★★)(1293)

●子どもの読解力
 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。
●音読と黙読
 話は少しそれるが、音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度自
分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳(ウェルニッケの言語
中枢)がそれをつかさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して
文の内容を理解する。つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限
らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで
子どもが文字をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法
は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。国立国語研究所の調査によると、黙読にする
と、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちるそうだ。
●読解力は、学習の基本
 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別
の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」
ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、も
っとも効果的な方法である。
 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがるということはよくある。決して軽くみてはいけない。



++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

隠しごとがないのが、いい親子?
逃げ場を大切に(失敗危険度★★★★★)

●逃げ場で心をいやす
 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。
またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴
がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した
子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出る
ので、区別できる。)
●逃げ場は神聖不可侵
 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。
●子どもの人格を守る
 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。「隠しごとがないほど、
いい親子」と言う人さえいる。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが
老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカ
バンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そ
ういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。
 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(582)

よく気がつく子、気がつかない子

 周囲にいつも触覚やアンテナを張り、そのつどよく気がつく子がいる。一方、どこかぼんやり
していて、まったくと言ってよいほど、周囲に注意を払わない子もいる。

 たとえば別の机の上に、A君の忘れ物があったとする。それを目ざとく見つけて、「これA君の
だ!」と言って、それをもって教室を飛びだす子がいる。しかし同じような状況でも、まったく関
心を払わない子もいる。

 あるいは掃除をさせても、棚の上のゴミなどにも気がつき、それを取りのぞいたり、きれいに
する子がいる。が、言われたことだけを、その範囲でしかしない子もいる。こんなことがあった。

 クリスマスツリーを飾ったときのこと。Aさん(小五女児)が、「先生、臭い!」と。「どうした
の?」と聞くと、「何かがこげている」と。そこで調べてみたが、よくわからない。が、その女の子
は、「電気の臭い」と。で、さらに調べてみると、コンセントのところで、電線がむき出しになって
いた。その少し前、誰かが足か何かをひっかけて、コードを無理に引っぱったらしい。それで電
線がむき出しになった。知らないでいたら、火事になっていたかもしれない。

 そのときのこと。私はもう一人の女の子のほうが気になった。Aさんが、「臭い」と言って、あち
こちその原因をさがしている間、「私は関係ない」というような顔をして、平気な顔をしていた。ど
こかぼんやりしていた。何が問題なのかさえわかっていないようだった。

 こうした「違い」は、なぜ生まれるか。よく気がつく子は、一つの行動をしても、いつも頭の中で
は別の行動、つまり可能性や危険性を考えながら行動する。一方、気がつかない子は、視野
が狭い。ほとんど考えないで行動する。頭のよしあしも、関係しているようだ。こんな事件があ
った。

 その家には灯油のポリ容器と、ガソリンのポリ容器があった。いや、もともとはガソリンのポリ
容器はなかったが、娘(二三歳)が、自分の車用に使っていたガソリン用のポリ容器をそこに
置いた。少しガソリンが残っていた。それを知らず、母親が、そのポリ容器に、灯油を入れた。
家の中のストーブに移すために、である。

 ……このあと、その直前に、父親がそれに気づいたからよいようなもの、気づかなかったら、
大惨事になっていた。父親はいつも使っているポリ容器と色が違っていたので、それで気づい
た。

 この事件では、娘の不注意、さらに母親の不注意が責められるべきである。灯油のポリ容器
とガソリンのポリ容器を並べて置く娘の、思慮のなさ。また灯油のポリ容器と並べて置いてある
からといって、中身を確かめることもなく、それに灯油を入れる母親の思慮のなさ。日ごろから
自分で考えるクセのない人、つまり気がつかない人は、こういうことを平気でする。

 もうおわかりかと思うが、よく気がつく子と、そうでない子の違いはといえば、「考えるクセ」が
あるかないかの違いということになる。「利口」という言葉があるが、利口な子どもは、よく気が
つく。つまりそれだけ日ごろから、考えるクセが身についている。

 問題は、気がつかない子。このタイプの子どもは、子どもに限らず、おとなもそうだが、自分
でそれに気づくことはまずない。つまり利口な人からは、そうでない人がわかるが、そうでない
人からは、利口な人がわからない。だから叱ったり、説教しても、ムダ。仮にそのことだけはで
きるようになっても、これは脳全体の問題だから、つぎつぎと同じような失敗を繰り返す。たとえ
ば父親が娘に、「ガソリンのポリ容器を、灯油のポリ容器と同じところに置いてはダメ」と言った
とする。そのときはそれでその問題は解決するかもしれないが、まさに一事が万事。その娘
は、別のところで、また違った問題を引き起こす。

 子どもでも、いろいろ考えながら行動する子がいる。しかしほとんど考えないで行動する子も
いる。当然のことながら、前者の子どものほうが好ましいということになるが、しかし問題がない
わけではない。考える子がどうこうというよりも、この世界、実のところ、あまり考えないで生き
るほうが、生きやすい。これはあくまでも総じてみた話だが、どこかぼんやりと、どこか間が抜
けたような人(失礼!)のほうが、生きやすい。気も楽だ。子どももそうで、あれこれよく気がつく
子は、それだけ神経も繊細で、何かと問題を起こしやすい。だから本当のところ、子どもについ
て言えば、どちらがよいのか、私にはわからない。

「この前のテスト、何点だったの?」
「ううん、もう忘れた……」
「できたの?」
「多分ね。いつもよりね」
「そのテスト、どこにあるの?」
「ええと、どこだっけ? もう捨てた……」
「捨てたの?」
「そう、どこかへ捨てた」
「どこに?」
「さがせば、どこかにあると思う……」と。

 私も、そういう生き方をしてみたい。わずらわしいことを、すべて忘れて……!
(030208)

●もっともすばらしい処世術は、妥協することなく、適応することである。(ジンメル「断想」)
●諸君は、いっしょにいる人よりも、決して利口に思われてはいけない。また物知りに思わせて
はいけない。(それが最上の処世術だ。)(チェスターフィールド「書簡」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(583)

楽天的な生き方

 ものごとは、まじめに考えれば考えるほど、悲観的になる。ならざるをえない。このところ、右
を見ても、左を見ても、暗い話ばかり。そこでここでは、少し発想を変えて、明るく考えてみる。

●K国の金XXさん
 トップバッターは、あのノータリン男。自分の失政を、日本やアメリカのせいにしている。韓国
へ亡命したFさんも言っている。「マレに見る、おく病者」だ、そうだ。今ごろは、毎晩酒を飲ん
で、夜な夜な、側近たちをわめき散らしているに違いない。
 まあ、金XXさん、やれるもんなら、やってみなさい。たった一発でも、日本へミサイルを撃ち
込んだら、それでおしまい。日本だって、黙っていないぞ。世界だって、黙っていないぞ。世界
中から袋叩きにあうだけ。ハハハ!

●日本の経済
 何だかんだといっても、日本の実力は、ナンバーワン。まだまだ捨てたものではない。この実
力は、まだ一〇年や二〇年はゆるがない。そのうち経済問題も解決し、日本は再出発を始め
る。何といっても、日本には資産がある。対外資産がある。要するに金持ちということ。いまだ
に貿易収支は、毎年、黒字の黒字。ぼう大な黒字。すばらしいことだ。この実力がある間は、
日本は絶対に沈没しない。ハハハ!

●教育の問題
 日本の子どもたちの質は、高い。それに社会は、安全。優もないが、不可もない。何といって
も、日本の子どもたちは、まじめ。勤勉。すなお。従順。悪くとれば、いくらでも悪くとれる。しか
し中身は、すばらしい。町ですれ違っても、みんな明るい笑顔をしている。ナイフをもって暴れて
いる子どもなど、いない。
 学力はたしかに落ちているが、これからは情報は、インターネットで得る時代。もの知りや、
頭でっかちの人間は、不要。計算力が落ちたくらい、何だ。そういうときは、計算機を使えばよ
い。ハハハ!
 
●不況
 貧乏生活、大いに結構。人間、生きていくのに、それほど、お金はかからない。貧乏であれ
ばあるほど、真理がわかる。ものの道理がわかる。みんなでもっと、貧乏を楽しもう。生活がで
きなくなれば、財産を売ればよい。どうせ人間、いつも裸。生まれたときも裸。死ぬときも裸。裸
になれば、失うものはない。
 日本はまだ恵まれている。時給八〇〇円でもよいと言えば、仕事はいくらでもある。あのK国
では、毎日一〇時間も働いて、月額給料が、??円だそうだ。(為替レートがわからないから
計算できない。しかし日本円で一万円もあれば、一年間生活できるそうだ。逆算すると、月額
給料は、一〇〇〇円以下?)日本の給料が、よすぎるのだ! ハハハ!

●温暖化
 日本はだいじょうぶ。最後までだいじょうぶ。四方を温暖な海に囲まれ、中央には三〇〇〇メ
ートル級の山々が連なっている。水の心配もない。本当にラッキーな国だ。アメリカ大陸が砂漠
になっても、ヨーロッパ大陸がメチャメチャになっても、日本だけは生き残る。緑は豊富。それ
までに世界も動きだすだろう。
 仮に気温が一〇度あがっても、ことこの日本に関して言えば、かえって作物がふえる。食料
が豊富になる。ハハハ!

●人口問題
 少子化で、これから日本の人口はどんどん減っていくそうだ。二一〇〇年までに、今の人口
の三分の一になると予測する人もいる。しかし人口爆発が予測される世界にあって、これは望
ましいことだ。その分、日本人は、集約された知能集団として生き残ればよい。つまり頭で勝負
だ。
 人口が少なくなれば、その分、環境にゆとりが生まれる。最終的には、スウェーデンか、ニュ
ージーランドのような国になるかも。あるいはそういう国をめざせばよい。ハハハ!

 さあ、みなさん、日本の未来は明るい。顔を太陽に向けて、歩こう! ヘレン・ケラーもそう言
っている。多少のデコボコ道はあるかもしれないが、あまりクヨクヨせず、みんなで力をあわせ
て、乗り切ろう! まあ、ここらで戦争の一つや二つ、経験しても、そんなことでめげることはな
い。どこかのアホがバカなこと言って戦争をしかけてくるなら、受けて立ってやろうではないか。
逃げまわれば、それこそ、相手の思うツボ。まだまだ団塊の世代は、元気。がんばっている。
あと一〇年は、だいじょうぶ。私たちが、日本の機関車になる。もう一度、マキを入れて、前に
進んでやる! そう、団塊の世代を甘く見てはいけませんぞ。ハハハハハ! もう一度、ハハ
ハハハ!
(030208)

●顔を太陽に向けていれば、自分の影を見ることはない。(ヘレン・ケラー「自叙伝」)
●魂を殺す唯一の主義がある。それは悲観主義である。(バッカン「断片」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(584)

どこかの国の、ある独裁者の精神分析

●回避性障害……どんどんと他国との接触を遮断していく。自ら宮殿のどこか地下室に引きこ
もってしまっている。こういうのを回避性障害という。
●被害妄想……日本やアメリカに、そんな意図は毛頭ない。ないことは、ほんの少しだけわれ
われとつきあってみればわかる。それを「不可侵条約だ」なんだと、勝手に騒いでいる。こうい
うのを被害妄想という。
●感情障害……いちいちピリピリと反応する。自分たちは言いたい放題のこと言い、さんざん
世界を不安にさせておきながら、他国がちょっと何かものを言うと、大騒ぎする。こういうのを感
情障害という。
●行為障害……ムダなものばかり作っている。核兵器にニセ札に覚せい剤。まともなものは
作らない。どこか行動がゆがんでいる。こういうのを行為障害という。
●精神障害……何か月も何年も無言を保ったかと思うと、ニコニコと笑ってみなの前に顔を出
す。何を考えているか、わからない。つかみどころがない。つまりそのつど、人間性がコロコロ
と変わる。こういうのを精神障害という。
●情緒障害……飛行機がこわいからといって、わざわざ数千キロを一週間もかけて、列車で
旅をする。まさに極度の恐怖症だが、こういうのを情緒障害という。

インターネットやマガジンでは、個人を誹謗(ひぼう)してはいけないことになっている。だからこ
の話は、ここまで。しかしそれにしてもかわいそうなのは、その国の人たち。国全体が収容所
のようになっているという。本気で言っているのか、あるいは言わせられているのか、あるいは
言わなければ処刑されるので、言っているのかはわからないが、涙まで流して、「万歳、万
歳!」と叫んでいる。そういう姿を見ると、かわいそうになる。あわれになる。

 戦前の日本もそうだったから、偉そうなことは言えないが、今のK国を見ていると、いろいろと
考えさせられる。本当にいろいろ考えさせられる。

【K国の独裁者に送る、世界の賢人たちの言葉】

●あらゆる力をもつものは、すべてを恐れる。(コルネイユ「シナー四幕二場」)
●羊が何匹いるかは、狼(おおかみ)には、関係なし。(ヴェルギリウス「農耕詩」)
●独裁とは、一為政者が、その権力を人々の利益のためではなく、彼自身の個人的な目的の
ために、彼自身の利益、彼自身の欲望のために用いることである。(ロック「市民政治論」)
(030209)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(585)

重い気分

 今朝は、起きたときから、気分が重い。ときどき私は、こういう状態になる。理由はいろいろ
ある。毎年、この季節になると、花粉症が始まる。花粉症そのものは、ほとんど治ったが、完全
に治ったわけではない。時期のはじめ、数日から一週間ほど、症状が出る。

 それに何かについて、二〜三月は、いやな時期だ。生徒たちの受験期に重なる。それに新
年度の準備もしなければならない。不況で、私の仕事も大きく影響を受けている。何とか来年
度も仕事はできそうだが、再来年のことになると、まったくわからない。

 で、こういうときは、せっかくのチャンス(?)だから、自分を静かに観察してみる。「気分が重
い」ということは、どういうことなのか、と。

●気が晴れない……憂うつ感が、心というより、頭のどこかに張りついたような状態になる。
「重い」というより、「反応が鈍く」なる。何か楽しいこと、おもしろいことを考えても、「よいこらし
ょ」という感じになる。
●ため息が多くなる……自分では気づかないが、ため息が多くなる。少し前、生徒にそう言わ
れて気づいたことがある。「先生、今日は、ため息ばかりついている!」と。考え込んだとき、息
を止める。それで、無意識のうちに、息苦しくなって、ため息をつくようになるらしい。
●悲観的になる……ものごとを悪いほうへ、悪いほうへと考える。こまかいことを考える。そし
てささいなことが気になり、それを繰りかえし考えるようになる。たいていは袋小路に入って、身
動きがとれなくなる。
●頭が重くなる……感覚的にではなく、本当に、頭が重くなる。頭痛まではいかないが、その一
歩、手前の状態になる。とくに頭の前のほうが重くなる。額の中央部あたりである。ふつうの頭
痛では、前のほうが痛くなるということは、風邪をのぞいて、ない。(風邪のときは、こめかみあ
たりが痛くなる。)

こういう状態になったら、私のばあい、無理をせず、横になって、好き勝手なことをするようしに
ている。あるいはブラブラと、何も考えないで、散歩する。趣味の雑誌を読む。しかし何よりもよ
いのは、直接、生徒(幼児)たちとワイワイと騒ぐこと。たまたま今日は日曜日で、それができな
い。生徒たちとワイワイとやり始めると、たいてい数分のうちには、もとに戻ってしまうのだが…
…。ああ、明日(月曜日)が、待ちどおしい。
(030209)

●喜怒哀楽がはげしいと、感情のみならず、その行動力まで、滅ぼす。喜びにふけるものは、
また悲しみにもふける。それが世の習い。ともすれば、悲しみが喜び、喜びが悲しむ。(シェー
クスピア「ハムレット」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(586)

自衛策

 今日、お米を合計で、六〇キロ購入してきた。わが家は、一か月約一〇キロ消費するから、
六か月分ということになる。ほかにインスタントラーメンなど、四〇食分。全部で、三万円ほどの
出費。これから先、何があるかわからない。とりあえず自分たちの生活は、自分たちで防衛す
るしかない。

 心配なのは、三男が横浜に住んでいること。米軍横須賀基地に近い。電話で「何かあった
ら、バイクで、まっすぐ戻ってくること」と連絡した。三男は笑っていたが、笑いのまま終われば
よい。朝鮮日報(韓国系新聞・二月七日)によると、「戦争はもう不可避」(ピョンヤンを取材した
イギリス人記者)という状態らしい。北朝鮮は、もうあと戻りできないところまできている。R国務
副長官ですら、「北朝鮮は、すでに一〜二発の核弾頭をもっている」と認めている。そしてそれ
らは、日本に向けられているという。北朝鮮以上の緊張感をもって、日本も防衛体制を整えね
ばならない。

 仮に日朝戦争ということになっても、日本を助けてくれる国は、アメリカ以外にない。韓国です
ら、中立を守るという。中国は、もちろん北朝鮮の側に立つか、もしくは静観。ロシアも、静観。
が、そのアメリカですら、すぐには手が出せない。朝鮮半島に駐留するアメリカ軍は、約四万
人。それだけのアメリカ兵を危険にさらすわけにはいかない。日本は、北朝鮮以上に今、孤立
している。

 水はどうする? 電気、ガスはどうする? ……いろいろな問題が起きてくる。仮に東京の中
心が核攻撃を受けたら、日本の経済はもちろんのこと、政治的機能はすべてマヒする。今度だ
けは、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれるだろう」では、すまない。しかも日本が得意芸と
する「先延ばし」も、許されない。R国防副長官は、「五月までに北朝鮮が保有する核物質は、
核弾頭五〜六個分にふえる」と警告している(二月九日)。放置すればするほど、核弾頭の数
はふえる。

 唯一の解決策は、中国に北朝鮮を説得してもらうこと。あるいは中国にも、責任を分担しても
らうこと。しかしその中国の力にも、限界がある。このところ表向きはともあれ、中国と北朝鮮
の関係は、ギクシャクしている。それ以上のペースで、北朝鮮自らが、孤立化の道を、歩み始
めている。いや、それ以上に、北朝鮮の国家体制は崩壊状態。「破綻状態」(読売新聞)。そう
いうとき独裁者は、独裁者の常として、外に戦争をしかける。今の北朝鮮にとって、開戦の大
義名分がたつ国は、この日本をおいてほかにない。

 今、日本が置かれている立場を考えると、教育どころではない。子育てどころではない。だか
らどうしても、エッセーを書き始めると、北朝鮮の問題になってしまう。が、私が個人としてでき
ることには、限りがある。「日本のために何かをしたい」と思っても、現実には、何もできない。
結局は、「私」という個人を守るしかない。とりあえず、明日、市内の銀行へ行って、手持ちの日
本円を、ドルに交換してもらってくる。ご存知の方も多いと思うが、今、大手の銀行には、自動
販売機のように、円を投入すると、ドル紙幣に変換してくれる機械が置いてある(静岡銀行本
店など)。

 東京が攻撃されれば、その日から、インターネットも停止する。だからこのエッセーを読んで
もらえるということは、まだ一応の平和が保たれているということ。またこのエッセーをみなさん
に配信するのは、二月の一七日。そのころIAEAは、北朝鮮の核問題を国連の安保理に付託
している。どうなっていることやら……? 私にはまったく予測もつかないが、北朝鮮が劇的に
態度を軟化してくれていることを、切に望む。
 
(追伸)私は、二〇代のころ、ほとんど毎週のように外国を飛び歩いていた。その外国から帰っ
てくると、日本だけが、温室もしくは、熱帯魚が住んでいる水槽のように見えた。そういう経験か
らしても、今の日本は、のんき過ぎる。私には、この「のんきさ」のほうが、不思議でならない。
私が首相なら、都市機能をまず地方に分散する。東京都の中心部や、米軍の基地周辺に住
んでいる住民を、疎開させる。またその旨、第一級の警告を発する。東京が核攻撃を受けてか
らでは、あまりにも遅い。遅すぎる!
(030209)

●人類から愛国主義者をなくすまで、平和な世界はこないだろう。(バーナードショー「語録」)
●ある国が平和であるためには、他国の平和もまた保障されねばならない。この狭い、相互に
結合した世界にあっては、戦争も、自由も、平和も、すべてたがいに連動している。(ネール
「一つの世界をめざして」)
●平和というのは、人間の世界には、存在しない。しいて言えば、平和というのは、戦争が終
わった直後か、まだ戦争の始まらないときをいう。(魯迅)

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まやかしの平和主義者に注意しよう。
私にはこんな経験がある。

私は学生時代、ベトナム戦争に反対
していた。しかし実際、そのベトナ
ム戦争から帰ってきた、オーストラ
リアの兵士には、とても「反対」と
は言えなかった。逆に、「ぼくたち
はアジアの平和のために戦っている。
どうして日本は、兵士を送らないの
か」と言われたとき、反論すること
ができなかった。そのときのことを
書いたのが、つぎのエッセーである。

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世にも不思議な留学記
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ベトナム戦争

●徴兵はクジ引きで
 徴兵は、クジ引きで決まった。そのクジで決まった誕生日の若者が徴兵され、そしてベトナム
へ行った。学生とて、例外ではない。が、そこは陽気なオーストラリア人。南ベトナムとオースト
ラリアを往復しながら、ちゃっかりと金を稼いでいるのもいた。とくに人気商品だったのが、日本
製のステレオデッキ。それにカメラ。サイゴンで買ったときの値段の数倍で、メルボルンで売れ
た。兵士が持ちこむものには、原則として関税がかけられなかった。

 そんな中、クリスという男がベトナムから戻ってきた。こう言った。「戦場から帰ってくると、み
んなサイゴンで女を買うんだ」「女を買う?」「そうだ。そしてね、みんな、一晩中、女の乳首を吸
っているんだ」「セックスはしないのか?」「とても、する気にはなれないよ。ただ吸うだけ」「吸っ
てどうするんだ?」「気を休めるのさ」と。
 
●オーストラリア人のベトナム戦争
 ベトナム戦争。日本でみるベトナム戦争と、オーストラリアでみるベトナム戦争は、まるで違っ
ていた。緊張感だけではない。だれもが口では、「ムダな戦争」とは言っていたが、一方で、「自
由と正義を守るのは、ぼくたちの義務」と言っていた。そういう会話の中で、とくに気になったの
は、「無関心」という単語。オーストラリアでは「政治に無関心」ということは、それだけでも非難
の対象になった。地方の田舎町へ行ったときのことだが、小さな子どもですら、「あの橋には、
○○万ドルも税金を使った」「この図書館には、○○万ドル使った」と話していた。彼らがいう民
主主義というのは、そういう意識の延長線上にあった。

 「日本はなぜ兵士を送らないのか?」「日本は憲法で禁じられている」「しかしこれはアジアの
問題だろ。君たちの問題ではないか!」「……」と。毎日のように私は議論を吹っかけられた。
私が、いくら、ただの留学生だと言っても、彼らは容赦しなかった。ときには数人でやってきて、
怒鳴り散らされたこともある。彼らにしてみれば、私が「日本」なのだ。もっとも彼らがそうする
背景には、「いつ戦場へ送り出されるかわからない」といった恐怖感があった。日本人の私と
は真剣さが違った。

●日本は変わったか?
 それから三四年。世界も変わったが、日本も変わった。しかしその後、日本がアジアを受け
入れるようになったかどうかということになると、それは疑わしい。先日もテレビ討論会で、一人
のアフリカ人が、小学生(六年生くらい)に向かって、「君たちはアジア人だろ!」と言ったときの
こと。その小学生は、こう言った。「違う。ぼくは日本人だ」と。そこで再び、「君たちの肌は黄色
いだろ!」と言うと、「黄色ではない。肌色だ!」と。こうした国際感覚のズレは、まだ残ってい
る。三五年前は、もっとすごかった。日本人で、自分がアジア人だと思っている人は、まずいな
かった。半ば嘲笑的に、「黄色い白人」と呼ばれていたが、日本人は、それをむしろ誇りに思っ
ていた? しかしアジア人はアジア人。この事実を受け入れないかぎり、日本はいつまでたって
も、アジアの一員にはなれない。

 話はそれたが、ベトナム戦争についても、彼らの論理は明快だ。クリスと会った夜、私は日記
にこう書いた。

「戦争に行く勇気のあるものだけが、平和を口にすることができるという。戦争に行くのがこわ
いから、戦争に反対するというのは、この国では許されない。もっと言えば、この国では、兵士
となって戦争を経験したものだけが、平和を口にすることができる。そうでないものが平和を唱
えると、卑怯者と思われる。戦争と平和は、紙でいえば、表と裏の関係らしい。平和を守るため
に戦争するという、一見、矛盾した論理が、この国では常識になっている。そんなわけで私は、
クリスに、ベトナム戦争反対とは、どうしても言えなかった」と。

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子どもの平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和
を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほ
とんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を
書いているときも、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(〇三年二月八日)があった。疑問が
ないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに
利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、
平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まってい
る。しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、
戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている
人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)
は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの五八年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人
がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦
後、五八年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力
をもった国に、保護されていたからにほかならない。もし日本がアメリカの保護下になかった
ら、六〇年代には、中国に。七〇年代には、韓国や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろ
う。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、
おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対し
て、してしまった。しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めて
いない。中には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を
容認するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まっ
たくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやす
い。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流
では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。つまり、平和を口にするも
のは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだけ
が、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バ
カげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子ど
もに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環
境保護宣言でもよい。そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういう
ことを言わせてはいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守り
ます」などと言っている。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そ
んなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見る
と、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子ど
もたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあるとでもいうのだろうか。
残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家
か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎのように話し
ている。「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったり
できなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかったと思
っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちお
となの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(587)

 静岡県の教育委員会が学校向けに配布している雑誌に「ファミリス」という雑誌がある。とき
どき各県へ出向き、その県で同じような雑誌を見せてもらうことがあるが、ファミリスは、その中
でも光っている。そのファミリスに原稿を書かせてもらうようになって、もう三年になる。で、この
三月号に、つぎの原稿を載せてもらった。

 しかし……。こういうことがあるのかと、自分でも自信をなくしてしまったが、中身の原稿だ
け、私の方で、取り違えてしまった。昨年一二月号の原稿で、「神経質ママ」を取りあげたが、
そのときの原稿と、今回の「完ぺきママ」の原稿を、取り違えてしまった。私は連載の依頼を受
けると、たいていその連載分をまとめて出版社に届けることにしている。それでこういうミスが
起きてしまった。

 このマガジンを読んでくださっている方の中には、ファミリスを購読してくださっている方も多い
と思うが、どうかお許しいただきたい。

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あなたは神経質ママ?
(「ファミリス3月号」より転載)

●子育てはリズム
 子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、子どもを妊娠したときから始まる。リズムが
あることが悪いというのではない。問題はそのリズムがあっていないとき。どんな名曲でも、二
つの曲を同時に演奏すれば、騒音でしかない。そのリズムは、親子を外から観察すると、すぐ
わかる。

●子どものリズムと親のリズム
 子どもが「ほしい」と泣き出す前にミルクを与える親がいる。しかし泣き出してから、おもむろ
にミルクを用意する親もいる。子どもが歩くようになると、子どもの手をぐいぐいと引きながら、
子どもの前を歩く親がいる。しかし子どもの横かうしろに回りながら、子どもの歩調にあわせて
歩く親もいる。子どもがさらに大きくなると、子どもが「したい」と言う前に、おけいこ教室の申し
込みをする親がいる。しかしそのつど子どもの意思を確かめながら、申し込みをする親もい
る。やめるときもそうだ。子どもの意思などお構いなしにやめる親がいる。しかしそのつど子ど
もと話しあいながらやめる親もいる。

●リズムは一事が万事
こうしたリズムは一事が万事。形こそ違うが、いつも同じパターンで繰り返しつづく。こんなこと
があった。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちの子は、ああいう(グズな)子でしょ。だから夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思
うのですが、どうでしょうか」と。そこで私が「本人は行きたがっているのですか?」と聞くと、「そ
れが行きたがらないので困っているのです」と。

●子どものリズムで考える
 子どもを伸ばす秘訣は、子どものリズムでものを考えること。もしあなたが「うちの子はグズで
……」と思っているなら、それは子どもがグズなのではなく、あなたがあなたの子どもをそういう
子どもにしただけ。何でもかんでも子どもの一歩先を歩こうとすると、子どもはグズになる。しか
し一歩、あとを歩くだけで、あなたの子どもはまったく別の子どもになる。要は親が子どものリ
ズムにあわせるということだが、これがむずかしい。リズムというのはそういうもので、その人
の生活のリズムそのものになっていることが多い。中には子どもの世話をすることを、生活の
「柱」にしている人がいる。口では「世話がかかってたいへん」とこぼしながら、手をかけること
を生きがいにしている!

●不信感を疑ってみる
 親がせっかちになる背景には、母親自身の性格もあるが、一方で子どもへの根深い不信感
がある。こんなテストがある。

あなたと子どもが通りを歩いていたら、偶然、高校時代の友人が通りかかったとする。そのとき
その友人があなたの子どもをしげしげと見て、「いくつ?」と、年齢を聞いたとする。そのとき自
分の子どもに自信のある親は、「まだ一〇歳よ」と、「まだ」という言葉を無意識のうちにも使う。
自信のない親は、「もう……」と言って顔をしかめたりする。あなた自身はどうか、頭の中で想
像してみてほしい。もし後者のようなら、子どもをなおそうと思うのではなく、あなた自身の心を
作りかえることを考える。このタイプの親は、たいてい子どもの悪い面ばかりをみて、よい面を
みようとしない。「あそこが悪い」「ここが悪い」と、欠点ばかりを指摘する。もしそうなら、今すぐ
そういう子育て観は改める。

●謙虚な姿勢が子どもの心を開く
このテストで高得点だった人は、生活全体を一度見なおしてみる。そして今日からでも遅くない
から、子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。アメリカでは、親子でもこんな会話をしている。
母「あなたはママに今日、何をしてほしいの?」、子「ママは今日、ぼくに何をしてほしいの?」
と。こういう謙虚さが子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

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 本誌ファミリスのほうでは、具体的な診断テストをつけた。興味のある方は、どうか本誌のほ
うを! 子育てで一番こわいのは、独善と独断。自分の姿を客観的に知るためには、こうした
診断テストが効果的。
(030210)※  

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 

子育て随筆byはやし浩司(588)

本を出版するということ

 この大不況下。出版界とて例外ではない。もう七、八年前から、初版の発行部数(最初に発
行する印刷部数のこと)が、極端に少なくなった。大手の出版社でも、それまでは一万〜一万
五〇〇〇部(初版)というのが当たり前だった。それが今では、六〇〇〇部とか、ばあいによっ
ては四〇〇〇部になってしまった。中小の出版社では、さらに少ない。

 発行部数が少ないということは、それだけ著者への収入(印税)が少なくなるということ。が、
さらに深刻な問題もある。売れない本は、取次店が、取り次いでくれない。あるいは売れないと
わかると、一、二か月も待たない間に、書店から本を引きあげてしまう。このため毎月の出版
点数の少ない弱小の出版社や、宣伝力のない出版社は、書店に本を並べてもらうことさえでき
ない。(本というのは、出版社→取次店→取次店と契約のある書店という経路を経て、書店に
並ぶ。)

それでも書店に並べてもらおうと思うと、いわゆる出版社から取次店への卸(おろ)し価格をさ
らにさげるか、保証金なるものを取次店に払わねばならない。保証金というのは、本が売れな
かったばあいの、違約金のようなもの。書店から出版社への返本率(たとえば一〇〇〇冊書
店に並べてもらい、五〇〇冊が返本されれば、返本率は、五〇%ということになる)が高いば
あいには、この保証金は、没収される。取次店も、タダで本を並べてくれるわけではない。こう
なると、弱小出版社の経営は、ますます苦しくなる。

 こうしたシワ寄せは、即、著者にやってくる。一五年ほど前までは、出版と同時に、印税が著
者に入った。が、今は違う。実際に売れた部数分の印税しか入らない。たとえば五〇〇〇部印
刷して、半年で二〇〇〇部しか売れなかったとする。すると、その二〇〇〇部分の印税しか、
手に入らない。しかも支払いは、半年先、さらに一年先。あるいは、印税が、現物支給という形
で相殺(そうさい)されるということも多い。印税のかわりに、その分だけ、本で支給されるという
のがそれ。たとえば印税が、五〇万円だったとする。するとその五〇万円分、自分で自分の本
を買う。

 こうなると、本を出す人など、いなくなってしまう。少なくとも本を出版しながら生計をたててい
る人にとっては、たいへんきびしい。よほどの知名度か、話題性がないと、本は売れない。一
方、出版社は、どこもリストラ、またリストラ。しかし出版社というのは、不思議と倒産しない。知
的(ソフト)産業の強みというか、ふつうの製造業とは、少し、内容が違う。仮に在庫をかかえて
も、「本」という在庫は腐ったりするようなことはない。少しずつ切り売りすれば、何とか会社だ
けは維持できる。

 そこで最近ふえているのが、自費出版を手伝うという出版会社。よく「あなたの本を出しませ
んか」という広告が新聞などに出るが、それがそういう会社。著者に制作費を負担させることに
より、リスクを回避する。ズルイといえばズルイ。巧妙といえば巧妙。そういう出版社へ原稿を
送ると、たいていこんな返事がくる。

 「すばらしい原稿です。当社でぜひ出版させてください。つきまして貴殿に、制作費、宣伝費
○百万円を負担していただきたいのです。これは初版のみの負担で、重版になれば、契約し
た印税をお支払いします。貴殿の本は、全国紙などで紹介します。こうしてベストセラーになっ
た本も何冊かあります」と。

 かく言う私も、本当に今、きびしい。きびしいが、今は、インターネットという手段がある。イン
ターネットで、自分の意見を発表できる。インターネットは、お金にはならないが、もともと原稿
でお金を稼ごうという意識はあまりないので、どうということはない。(これは多分に私の強が
り?)それだけ下積みが長かったということ。今も、下積み。これからもずっと下積み。だから
自分の意見が発表できるということだけでも、感謝している。(これは、本当!)

 が、それでもやはり、年に何冊かは、本を出したい。インターネットは、「形」として残らない。
本は、「形」として残る。それにいくらインターネットが普及したからといって、まだ本のもつ簡便
さにはかなわない。今でも私は新しい本を出版するたびに、その本を抱いて寝るが、そういう
喜びは、インターネットには、ない。

 さて、〇二年度は、一冊しか本を出せなかった。もう一つ、企画までのぼったが、その後、途
中で進行が止まってしまった。こういう不景気な時代だから、しかたない。で、今年も、また別の
企画で、動き始めた。どういう反応が出てくるかは、これからの努力。がんばってやってみるし
かない。そうそう、私自身はいまだかって一度も、自費出版というのは、したことがない。自費
出版をしたことがある方には、失礼な言い方になるかもしれないが、「自分でお金を出して出版
する」というのは、やはり邪道。少なくとも、プロのもの書きは、自費出版はしない。いや、プロと
かプロでないとかいうことではなく、これはものを書く人間のプライドのようなもの。私には、まだ
そのプライドが、かろうじて残っている? 本当にかろうじてだが……。

 それにしても、この閉塞感。何とかならないものか。今の日本、何からなにまで、沈滞してい
る。何をするにも、「ダメだろうな」という思いばかりが先にたつ。しかしこれではいけない。いけ
ないと思うから、がんばる。そう、がんばるしかない。ここで私のようなものが、発言をやめた
ら、本当にこの日本はダメになってしまう! ……少しおおげさに聞こえるかもしれないが、今
は、そう思っている。
(030211)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(589)

あわれみの心

●善と悪は対等ではない
善があるから悪がある。悪があるから善がある。しかし善と悪は、決して対等ではない。善人
でいることは、簡単なこと。善人ぶることは、もっと簡単なこと。しかし自分の中の悪と戦うの
は、難しい。悪を追い払うのは、もっと難しい。

 ……ここまでなら、だれにだってわかる。問題は、その先。つまりその先がわからないと、人
間はいつまでも善悪論の渦(うず)に巻き込まれる。そこから一歩も抜け出られなくなる。いつ
までも堂々巡りを繰りかえすことになる。

 最大の関心ごとである、北朝鮮問題を例にあげて考えてみよう。

●北朝鮮問題にたとえると……
 極東アジアは、今、戦後最大の危機に見舞われている。まさに一触即発。明日、朝鮮半島で
戦争が起きてもおかしくないという状態である。そしてひとたび戦争が起きれば、数日の内に、
「一〇〇万人以上が死傷する」(朝鮮日報)とも言われている。

 この時点で、北朝鮮は「悪」ということになる。一方、その北朝鮮に対して、懸命に説得活動
をつづけている韓国は、「善」ということになる。日本のみならず、国際社会も、おおむねそのよ
うな見方をしている。

 が、ここまでなら、だれにだってわかる。核兵器の開発をつづけ、化学兵器や生物兵器を生
産している北朝鮮は、まさに「悪」ということになる。それについては、そのとおりだと思う。しか
しこの見方では、今ある危機的な状況を、一時的に回避することはできても、基本的な問題を
解決することはできない。

●もう少し高い視点から
 そこで見方を、もう少し、深めてみる。高い視点から見るといってもよい。するとこうなる。

 北朝鮮は「悪」だが、悪いのは北朝鮮ではない。指導者である金XXと、一部の取り巻き連中
である。その指導部が、自分たちの失政をごまかすために、国民を欺(あざむ)き、世界を不
安におとしいれている。そういう意味では、一番の犠牲者は、北朝鮮の国民自身ということにな
る。

 が、それでも問題は解決しない。そこでさらに視点を高めてみる。

 今の北朝鮮は、世界でも例をみないほどの、最貧国。人口の一〇%以上が餓死し、六〇%
以上が栄養失調というような国は、ほかにない。国家経済は破綻し、原油を買うお金もない。
そういう北朝鮮が、精一杯の虚勢を張り、一人前の国に見せている。だれにも相手にされない
から、相手にしてもらおうと、懸命にもがいている。

●あわれみの心
 そこまで踏み込んで北朝鮮をながめてみると、かわいそうという思いが、やがてあわれみに
変化していくのがわかる。同じように金XXにしても、そういう視点でみると、取るに足りない、あ
われな男に見えてくる。そういう視点に立つと、善とか悪とか、そういうものの見方そのものが、
吹き飛んでしまう。

 もうおわかりかと思う。善悪論の先にあるのが、「あわれみ」ということになる。このあわれみ
の心をもてば、善にしても、また悪にしても、それ自体が意味をもたなくなる。要するにあわれ
みの心をもつことにより、善と悪を超越することができる。北朝鮮の問題にしても、「悪」が悪で
なくなってしまう。

 が、問題がないわけではない。相手をあわれむためには、あわれむこちら側が、はるかに高
い立場に立たねばならない。相手の苦しみや悲しみを理解し、相手の立場でものを考え、相手
の心を、さらに寛大な心で包んでやらなければならない。表面的に同情したりする程度では足
りない。人間的に、相手よりも一歩も二歩も、先を行かねばならない。

●善悪論は意味がない?
 こう考えていくと、善が善であり、悪が悪であるのは、そのレベルの世界での善悪論にすぎな
いということになる。そのレベルにいるから、そのレベルで、善や悪が問題になる。が、そのレ
ベルを超えれば、善悪論そのものが、意味を失ってしまう。

たとえば暴走族のグループどうしが、縄張りを争って、戦ったとする。そのレベルでは、たがい
に正義を主張し、それなりの善悪論をふりかざして、そうする。しかしひとたび視点を高くもつ
と、暴走族の存在そのものが、無意味に見えてくる。彼らがいうところの善悪論が、無意味に
見えてくる。つまり善と悪というのは、それ自体、超越しえるものということになる。となると、善
にせよ、悪にせよ、決して絶対的なものではない。もっと言えば、絶対的な善というのは存在し
ないし、一方、絶対的な悪というのは、存在しないということになる。

 たとえばここにも書いたように、「北朝鮮の人たちはかわいそうな人たちだ」「金XXは、あわ
れな人だ」と思うことにより、「北朝鮮は悪だ。金XXは悪だ」という善悪論から、抜け出ることが
できる。が、この時点で、北朝鮮は悪だ、金XXは悪だという善悪論だけに振りまわされると、
自分も彼らと同じレベルまで低劣になってしまうのみならず、問題の本質そのものを見失ってし
まう。仮にここで、「北朝鮮は悪だ」という論理だけを振りかざして戦争すれば、その時点で、さ
らに私たちもそのレベルにまで落ちてしまう。

●独善と憎しみ
 もちろん私たちは、「座して死を待つ」(K外務大臣)わけにはいかない。相手が襲ってくるなら
ば、その相手から家族や子どもを守らねばならない。しかしそのときでも、私たちは相手をあ
われむ。あわれむことにより、相手よりも上の立場に立つことができる。またそうすることで、善
を超越し、悪を超越することができる。そして善悪を超越したとき、私たちは、同時に悪を憎む
憎しみからも、自分を解放することができる。そしてその悪の反対側にある善からも、自分を
解放することができる。

 安易な善悪論に振りまわされてはいけない。善にひたり、悪を憎むというのは、一見わかり
やすい論理だが、決してそのレベルで、善悪論を振りかざしてはいけない。なぜなら善は、そ
れを善と思った瞬間から、独善となり、その人が進むべき方向を誤らせる。一方悪を憎む心か
らは、憎しみしか生まれない。独善であるにせよ、憎しみであるにせよ、それでは問題は、まっ
たく解決しない。

 まとまりのないエッセーになってしまったが、このつづきは、またあとで考えることにする。た
だここで、私は、@「絶対的な善、絶対的な悪というのは、存在しないこと」、つぎにA「独善に
せよ、悪を憎む心にせよ、どちらにせよ、それでは問題は解決しないこと」を、発見した。さらに
私はB「あわれむ心は、善と悪を超越した世界にあること」を発見した。さらにC「人間的な優
位性は、あわれみの深さによって決まること」を発見した。今日の成果としては、まずまずでは
ないか。
(030211)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(590)

●絶対的な善

 宗教の世界には、絶対的な善というのは存在するらしい。またそうであるからこそ、宗教とい
うのは、存在する。しかしこの日本だけでも、約二〇万団体もの宗教団体がある。その数は、
全国の美容院の数とほぼ同じ。つまりそれぞれの宗教団体が、「私の宗教こそが絶対的な善
である」と主張している。

 そこで私が、毎日、二つの宗教法人を調べたとしても、二七三年もかかる。世界中の宗教団
体を調べたら、もっとかかる。これでは死ぬまでに、とてもまにあわない。

 もともと善というのは、相対的なもの。一方に悪があるから、善がある。が、それだけではな
い。善というのは、その善がある、その世界でしか、存在しえない。つまりレベルの問題があ
る。

 たとえば暴走族たちの世界にも、善は存在する。北朝鮮のような独裁国家にも、善は存在す
る。さらに未熟で未完成だが、子どもたちの世界にも、善は存在する。もちろんあやしげなカル
ト教団にも、善は存在する。それぞれがそれぞれの善を主張している。

 ここまで考えてくると、その先は、ふたつの道に分かれる。ひとつは、そもそも絶対的な善は
存在しないという考え方。もうひとつは、絶対的な善というのは、無数に存在するという考え方。
あるいは、こうして善とは何か、それを考えること自体、無意味なのかもしれない。たとえば子
どもの世界には、「よい子論」というのがある。

+++++++++++++++++

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びを
する女の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解
がないように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば
悪い面もある。こんなことがあった。

K君(小五)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出さ
れていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、
私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。で、そうして一年ぐらいがたったある夜の
こと、私はK君と母親の三人でたまたま話しあうことになった。が、私はK君が悪い子だとはど
うしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談
がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。それで私は母親に、「今はたいへんでしょうが、K
君はやがてすばらしい子どもになるだろうから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間
後のこと。私が一人で教室にいると、いつもより三〇分も早くK君がやってきた。「どうしたん
だ?」と聞くと、K君はニコニコと笑いながら、こう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。要は子ども自
身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子で
あり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方になってしまっ
たが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この
世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。

++++++++++++++++++++

 こう書くと、すべての宗教を否定することになるかもしれない。が、しかし、私は今の段階で
は、「絶対的な善は存在しない」という前提で、ものを考えたい。ひょっとしたらあるのかもしれ
ないが、それ以上にこわいのは、ひとつの善を、絶対的な善と誤解すること。これを独善という
が、独善の世界にはまりこむと、かえって自分を見失ってしまう。よい例がカルト教団である。
反社会的行為を繰りかえしながら、それが反社会的行為だとすら、気がつかなくなってしまう。

 毒ガスをまき散らすようなカルト教団は別としても、それを薄めたようなことを平気でするよう
な教団はいくらでもある。たとえば日曜日になると、大きなカバンをぶらさげて、私の家に、どこ
かの教団の信者がよく布教にやってくる。あなたの家にもきたことがあるかもしれない。ああい
う人たちを見ていると、人間というより、ロボットという感じがする。どの人も、満ち足りたよう
な、やさしい表情をしているので、よけいに、そう思う。

 信仰によって、人は、その教団が教えるところの「絶対的善」を、頭の中に注入される。それ
はたいへん心地よくも、甘美な世界である。とたん、それまでの自分が小さく、つまらない人間
に見えてくる。まわりの人たちも、あわれで悲しい存在に見えてくる。ある信者(仏教系)はこう
言った。「暗い穴からはい出て、広い世界に出たような気分でした」と。

 これを信仰的錯覚(さっかく)という。またこれがあるから、人は信仰に走る。またこれがある
から、全国に、二〇万という宗教団体がある。しかしそれは絶対的善ではない。もちろん真理
でもない。わかりやすく言えば、「信仰的思い込み」。その思い込みがはげしければはげしいほ
ど、その人は、自分を見失う。

●こわい独善の世界

 「私は絶対、正しい」と思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、「あなたはまちがってい
る」と、相手を否定する。これを独善という。

 独善がこわいのは、その独善が、政治の世界などでひとり歩きを始めたとき。北朝鮮を例に
あげるまでもない。戦前の日本を例にあげるまでもない。戦前の日本は、「大東亜共栄圏」なる
構想を勝手にかかげて、アジア全体を日本化しようとした。それは日本にとっては、居心地の
よい世界かもしれないが、相手の国にとっては、迷惑なことである。日本は、その迷惑ささえ、
理解できなかった。もしそれがわからなければ、今、数十万人もの軍隊を連れて、北朝鮮が日
本へやってきたことを想像してみればよい。あの金XXが、「日本を北朝鮮の植民地する」と宣
言したとき、あなたはそれに納得するだろうか。

 その独善を避けるためには、二つの方法がある。ひとつは、謙虚になること。いつも「私はま
ちがっているかもしれない」という視点で、ものを考える。もうひとつは、自分自身を、いつも最
下層の立場に置くこと。おごり高ぶってはいけない。いつも「私は最低の人間だ」という視点で、
ものを考える。
 
●こわい憎しみの世界

 世の中には無頓着な人がいるものだ。先日も自転車で歩道を走っていたら、その歩道をふさ
ぐ形で、車が駐車してあった。一方は木の植え込み。他方は民家の塀。おかげで私は七、八メ
ートル近くの道を一度もどって、道路を迂回(うかい)しなければならなかった。

 その無頓着な人は、このばあい、「悪」ということになる。で、私は内心で、ふと、注意してやろ
うと考えた。多分、その人はその家の中に入っていったのだろう。が、つぎの瞬間、それがめ
んどうになった。さらにつぎの瞬間、どうでもよくなった。私はそういう自分の心の変化を観察し
ながら、「憎しみ」の原点は、そんなところにあると知った。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(591)

●「週刊E'news浜松」

 「週刊E'news浜松」という電子マガジンがある。発行部数が、2300以上というからすごい。
現在、浜松市内でも、いろいろなタウン誌があるが、実読者数2300というのは、驚異的と言っ
てもよい。(たいていのタウン誌は、発行部数を、かなりごまかしている。たとえば印刷部数が、
数千部しかないのに、公称発行部数を、二万部とか、三万部とかと偽っているところがある。し
かしその数千部にしても、本当に読まれているわけではない。書店の棚を飾ったあと、九五%
以上は廃棄処分にされている。そういう意味で、電子マガジンの2300部というのは、すご
い!)

 このマガジンに、原稿を寄稿させてもらうようになって、もう一年になる。で、前回で「子育てポ
イント」が終了し、今回から、「ママ100景」を掲載してもらうことになった。かなりキツイ内容の
原稿である。「キツイ」というのは、「辛口」ということ。私は本来、子育て最前線で活躍している
母親を批判するのは、あまり得意ではない。批判することはあっても、その向こうに、「子ども
のため」という思いをこめて批判する。しかし今回のシリーズは、そうではない?

 そんなわけで掲載してもらうかどうか、かなり迷った原稿であるが、これも現在の子育ての一
側面ということで、掲載してもらうことにした。

+++++++++++++++++++

■【寄稿】:給食もレストラン感覚で! ---------------------------------

●足の裏をみるのですかア
 「最近の母親たちはバッグを平気でベッドの上に置く」と、ある小児科の医
 師が怒っていた。が、それだけではない。「子どもをベッドに寝させてくだ
 さい」と言うと、今度はスリッパをはかせたままベッドの上に……!そこで
 看護婦が、「スリッパをぬがせてください」と言うと、その母親は、「足の
 裏をみるのですかア」と。

●最近の親たち
 こういう非常識な母親はいくらでもいる。幼稚園へ入園するについても、最
 近の母親で、「入れていただけますか?」と聞く親はまずいない。当然入園
 できるという前提で、幼稚園へやってくる。中には幼稚園へやってきて、見
 学だの、体験学習だの、さらには給食の試食までしていく親がいるという。
 帰りぎわに主任の教師が、恐る恐る、「入園はどうしますか?」と聞くと、
 「もう二、三か所、あちこちの幼稚園を回って決めるワ」と。私にもこんな
 経験がある。

●一回休みましたから
 そのころ園長の指示で、希望者だけを集めて特別講座を開いていた。わずか
 だったが、別に講座費(月額三〇〇〇円)をとっていた。が、それがよくな
 かった。五月の連休が重なって、その子ども(年中女児)のクラスだけが、
 月三回になってしまった。それについて、その母親から、「補講してほしい」
 と。しかしたまたま月三回になったのは、私の責任ではない。そこで「補講
 はしません」というと、今度はその父親が電話に出てきて、こう言った。「
 月四回ということで、講座費を払っている。三回しかしないというのは、サ
 ギだ。ついては、お前をサギ罪で訴える」と。市内で歯科医師をしている父
 親からの電話だった。

 あるいは同じころ、たまたま月一回を病気か何かで休んだ子ども(年長男児)
 がいた。よくあることだが、あとでみると、講座費がちょうど四分の三の、
 二二五〇円になっていた。いや、そのときはそれに気づかず、「お金が足り
 ませんが……」と言うと、その母親は平然とこう言った。「一回休みました
 から」と。

●給食もレストラン感覚で
 もっともこの程度の非常識はこの世界では常識。先日も神奈川県のU幼稚園
 で講演をさせてもらったのだが、その園長がこっそりとこう教えてくれた。
 「今では、昼の給食もレストラン感覚で出してやらないと親は納得しないの
 ですよ」と。「子どもに給仕をさせないのですか?」と聞くと、「とんでも
 ない! スープでヤケドでもしようものなら、親が怒鳴り込んできます」と。

 今、子育ての世界では、非常識が常識になってしまっている。しかも何が常
 識で、何が非常識なのか、それさえわからなくなってきている。

++++++++++++++++++++++

 この原稿の中で、私をサギ罪で訴えると息巻いた父親の話を書いたが、これは一〇〇%、
事実である。その人と特定できる部分については、内容を変えたが、実際にあった話である。

 この世界、つまり子どもの教育の世界では、その底流で、親たちのドス黒い欲望が、ウズを
巻いている。「教育」と言いながら、それがどこかで人間の「欲望」と結びついているためと考え
てよい。そのひとつが、受験競争。この受験競争に巻きこまれると、親はもちろんのこと、かな
りタフな教師でも、かなり神経をすり減らす。一〇年ほど、進学塾の講師を経験したことがある
友人のF氏は、こう言った。「もうコリゴリです」と。

 今、どこの幼稚園(公立)にも、精神科に通院している教師は、一人や二人は、必ずいる。入
院してしまう教師だっている。親のほうは、「うちの子だけ……」と考えてそうするかもしれない
が、子どもを預かるほうは、そうではない。一度に数人の親たちから苦情を訴えられたりする
と、パニック状態になってしまう。若い教師ならなおさらだ。しかも、中には、「ふつうでない親」
がいる。ここに書いたように、一回、講座を休んだだけで、「サギ罪だ」と騒ぐ親だっている。こ
ういう親にからまれると、トコトン神経をすり減らす。

 で、こうして辛口風に批判はしたが、しかし決して、そういう親たちを、ダメだと言っているので
はない。こうした親たちも、これから先、自分の子育てをしながら、そして幾多の苦労を重ねな
がら、賢くなっていく。それについて、今回のシリーズの中で書ければと願っている。中には、
「よくもまあ、こんなことを書いて!」と不愉快に思う人がいるかもしれないが、それがこのエッ
セーの目的でないことだけは、わかってほしい。
(030212)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(592)

気難しい子ども

Q:うちの子(年長男児)は、小さいときから気難しく、育てるのがたいへんでした。このところさ
らにそれが激しくなり、ささいなことにこだわって、ああでもない、こうでもないと文句ばかり言い
ます。ズボンでも、自分の気にいったのでないと、はきません。これから先、どのように対処し
たらよいでしょうか。(島田市KMより)

A:気難しいということは、それだけでも情緒が、かなり不安定であるとみます。原因は無数に
あるのでしょうが、そういう原因の上にさらに原因が重なり、今のような症状になったと考えられ
ます。つまり原因がどうこうということを言っても、意味がありません。

 このタイプの子どもは、それだけ(親も含めて)、人に心を開けない子どもとみます。ためしに
気難しくなっていると感じているときに、そっと抱いてみてください。心を開いている子どもは、
力を抜いて、体をすりよせてきます。そうでない子どもは、体をこわばらせます。

 ところで子どもの情緒不安は、大きく分けてつぎの三つのケースを考えます。@攻撃型、暴
力型、A引きこもり型、ぐずり型、そしてBモノにこだわる固着型、ものごとにこだわる固執型
です。KMさんのお子さんは、この中の三つ目のタイプかと思われます。

 で、情緒不安というのは、心の緊張感がとれない状態と考えてください。言いかえると、気難
しくなっているときは、子どもの心を開くことだけを考えてください。それには、スキンシップが効
果的です。気難しくなっていると感じたとき、少し強引にでもよいですから、子どもを抱いてみて
ください。少し抵抗するような様子を見せるかもしれませんが、しばらくそのまま抱いてみます。
しばらくすると、やがて体の力を抜き、あなたにそのまま身を任すようになります。

 そのとき、

(1)抵抗するような様子を見せるが、すぐうれしそうに身を任す……それほど心配しなくてもよ
い。日常的に、スキンシップをふやす。

(2)いつまでも体をこわばらせたままで、身を任せない。あるいは抱かれることを、がんこに拒
否する。こうした症状が、いつまでもつづく……かなり根気が必要。子どもの心を溶かすことだ
けを考え、濃密なスキンシップを繰りかえす。威圧的な過干渉、神経質な過関心、強圧的な指
導、暴力、暴行などは厳禁。子どもの側からみて、ほっと安心できるような家庭環境と、その温
もりを大切にする。親の視線や干渉を極力減らし、子どもがしたいようにさせる。こうした時期
を、半年とか一年間つづける。「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないこと
だけ」を考えて対処する。

 子どもが気難しい症状をみせているときは、無理をしないこと。コツは、やりたいようにさせ、
一方で、言うべきことは言いながらも、ただひたすら「待つ」という姿勢を大切にします。説教し
たり、叱っても意味がないばかりか、かえって症状をこじらせてしまうので注意します。

 このとき子どもの側から、愛着行動(親に愛情を求めるような様子やしぐさ)を見せたら、それ
を拒まず、子どもが満足するまでスキンシップや、温かい話しかけを与えます。親のほうから、
ベタベタすればよいというものではありません。

 こうした気難しさは、子どもの自意識が発達してくると、自然になおってきます。子ども自身が
自分で自分をコントロールするようになるからです。時期的には小学三、四年生をひとつのめ
どにします。そのころを境に、急速に症状が収まってくるはずです。そこで大切なことは、それ
までに今以上に、症状をこじらせないこと。こじらせると、その分、たちなおるのが遅くなりま
す。

 子どもに何か問題があると、親は子どもをなおそうとします。しかし子どもの症状は、あくまで
も結果。(もちろんそうでないケースもありますが……。)とくに心の問題は、親のあり方、家庭
環境のあり方、子育てのし方を、まず反省します。
(030212)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(593)

++++++++++++++++
あなたはあなたの夫(妻)や子どもに心を開いているか。
子どもや夫(妻)と、よい信頼関係を結んでいるか。
++++++++++++++++

●ショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」

 寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった。

 これがショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話である。しかしこれと同じようなことは、
夫婦の間でも、そして親子の間でもある。

 男と女は、結婚する。電撃に打たれるような衝撃を受け、相思相愛で結婚したというケースは
別として、中には、孤独からのがれるために結婚する人も珍しくない。もともとは他人への依存
性が強い人で、心のスキ間を埋めるために結婚する。しかしこのタイプの人は、一方で、人づ
きあいが苦手。結婚はしたものの、結婚生活そのものが、わずらわしくてしかたない。だから、
たがいにつかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで関係を保つ。

 親子でも、似たようなケースがある。子どもがそばにいないと不安でならない。「ママ、ママ」と
甘えてくれる間は、うれしい。しかしそれが一定の限度を超え、子どもがずっとそばにいると、う
るさくてしかたない。「子どもを愛している」という自覚はどこかにはあるが、しかし一方で、「で
きるだけ早く、子育てから解放されたい」と願っている。そのため親子関係も、どこかつかず離
れずの関係になる。

 奈良県のHYさん(母親)からの相談に、こんなのがあった。何でも夫がそばにいないと、さみ
しく思うのだが、しかしたまの日曜日など、夫が一日中、家の中でゴロゴロしているのを見る
と、わずらわしくてならないというのだ。いわく「ときどき私は、夫なんかいてもいなくても、どちら
でもよいと思うことがあります。しかしそのくせ夫が、そばにいないとさみしくて、気がへんになっ
てしまうのです」と。

 結論を先に言えば、このタイプの人は、乳幼児期の家庭環境に問題があったとみる。ふつう
子ども(人)というのは、絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境の中で、心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう環境があってはじめ
て、子ども(人)は心の開き方を学び、そこから、たがいの信頼関係の結び方を学ぶ。が、何ら
かの理由で、その「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」が阻害されると、子ども(人)は
心を開けなくなり、ついで人との信頼関係を、じょうずに結べなくなる。

ここでいうHYさんは、まさにそのタイプの女性と考えてよい。HYさんは、夫や子どもにすら、心
を開くことができない。つまり信頼関係を結ぶことができない。そしてそれが夫婦関係や、親子
関係にまで影響を与えている。

 一般的に、心を開くことができない子ども(人)は、人と接するのが苦手。表面的には、快活
にふるまい、社交的になることはあるが、その分、精神疲労を起こしやすい。数時間、町内の
人といっしょに活動しただけで、ヘトヘトに疲れてしまったりする。しかしその一方で、心を開くこ
とができないため、孤独。さみしがり屋。ここにも書いたように、もともと他人への依存性も強
い。近くにだれかがいないと、自分の心を保つことさえできない。つまり、ここでショーペンハウ
エルの「二匹のヤマアラシ」の話にもどる。このタイプの人は、孤独(寒さ)から逃れるために人
(温もり)を求める。しかし人に近づきすぎると、自分がキズつく。それを恐れるあまり、今度は
そばには近寄れない。つまりつかず離れずの関係になる。

●「密着」と「離反」

このタイプの子ども(人)の最大の特徴は、そのため人づきあいが、どこかぎこちなくなること。
ほどほどのところで、ほどよい人間関係を築くことができない。あるとき急に接近してきたかと
思うと、今度は、同じように急に離れていく。これを心理学の世界では、「密着」「離反」という。

幼稚園の世界にも、『急速になれなれしてくる親には、要注意』という言いまわしがある。たとえ
ばある日突然、幼稚園へやってきて、「ここの幼稚園が気に入りました。すばらしい幼稚園で
す。来年からうちの息子をここへ入れます。下にももう一人、子どもがいますが、その子どもも
ここに入れます」などとワーワーと騒ぐ。しかしそういう親ほど、離れていくのも早い。

 つまりこのタイプの子ども(人)は、相手を自分の思わくだけで、引きずりまわしてしまう。引き
ずりまわすほうは、それでかまわないが、引きずりまわされるほうは、たまらない。私も若いと
き、こんな経験をしたことがある。

 ある会社の社内報の編集を手伝っていた。社長じきじきの依頼で、それなりに張り切って仕
事をしていた。が、その社長は、大の電話魔。真夜中であろうが、早朝であろうが、電話をかけ
てきて、あれこれ私に指示してきた。それだけではない。そのつど怒涛(どとう)のように、「君
はすばらしい」「今度香港へ出張してほしい」「私がもっているアパートを君に使ってもらいたい」
「君の作る会報は一級だ。ついては予算を倍増したい」などと言う。

 最初のうちはそれを真に受けて、ワイフと二人で喜びあったが、そのうちどうも様子がおかし
いのに気がついた。私がそれらの話を煮つめるため、社長の自宅へ行くと、今度は、ああでも
ない、こうでもないと私の仕事にケチをつけて、「だから約束は守れない」と言い出しりした。ま
さに私が遠ざかれば、近づいてきて、私が近づいていけば、遠ざかる……という感じだった。

 その社長は、いわゆる心を許さないタイプの社長だった。俗な言い方をすれば、コロコロと気
分が変わる。私の立場からすると、つかみどころがない。その社長は、まさに密着と離反を繰
りかえしていたことになる。
 
●さらけ出す
 
 信頼関係を結ぶためには、自分をさらけ出す。さらけ出しても、平気である。そういう自分へ
の確信をもつ。本来ならこうした信頼関係の原型は、乳幼児期に形成される。それが先に書い
た、「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」ということになる。子ども(人)は、そういう環境
の中で、とくに親子関係の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。またさらけだしても、安心できる
ことを学ぶ。

 が、それが阻害されることがある。原因はいろいろあるが、その原因はともかくも、子ども
(人)側からみて、自分をさらけ出せなくなってしまう。さらけ出すことに自信がなくなるケースも
あるが、さらけ出すことに恐怖感を覚えることもある。母親に向かって「ババア」と言ってみた。
とたん、母親に殴られたとかなど。そういう無数の経験が積み重なって、自分をさらけ出せなく
なることもある。

 こういうことが重なると、子ども(人)は、仮面をかぶるようになる。自分を隠すようになる。た
いていは「いい子」ぶりながら、無理をするようになる。よくある例は、幼児期に、園の先生たち
に「いい子だ」「いい子だ」とほめられるようなケース。このタイプの子ども(人)は、いい子ぶる
ことで、自分の身の保全をはかる。相手(親や教師)に取り入るのがうまくなり、またその分、相
手の期待にこたえようとする。この無理が無数に重なって、やがて子どもの心をゆがめる。

 そういう意味では、幼児期から少年少女期にかけて、「いい子」で通った子どもほど、心配と
いうことになる。勉強もよくできる。言われたことは、ソツなくやりこなす。園でも学校でも、いつ
もリーダー格で、問題を起こすということもない。もちろん本来的に「いい子」というケースもない
わけではないが、たいていは「無理をしている」と考えたほうがよい。

 しかし問題は子ども(人)というより、あなた自身かもしれない。あなた自身は、夫(あるいは
妻)や子どもの前で、自分をさらけ出すことができるかということ。わかりやすい例では、あなた
は夫(あるいは妻)の前でも、平気でプリプリっと、おならを出すことができるか。あるいは悲し
いときやさみしいとき、自分の心を、すなおにそのまま表現できるか。それができればよし。し
かしそれができないようであれば、当然のことながら、子どももそれができなくなる。

 人というのは、自分がしていることには、寛容になる。していないことには、寛容になれない。
常、日ごろから、自分をさらけ出すことになれている親は、子どもがそれをしたとき、それを自
然な形で受け止めることができる。しかし自分をさらけ出すことができない親は、子どもがそれ
をするのを許さないばかりか、子どもが自分をさらけ出したりすると、それを悪いことだと決め
てかかってしまう。おさえてしまう。そしてその結果として、親が、子どもに仮面をかぶるようにし
むけてしまう。

●チェックテスト

 そこであなた自身をチェックテストしてみよう。

(1)あなたは夫(あるいは妻)の前で、したいことをし、言いたいことが言えるか。
(2)あなたは他人の中でも、それほど気をつかわず、自分をさらけ出すことができるか。
(3)あなたはあなたの親に対して、したいことをし、言いたいことをズケズケと言えるか。
(4)あなたは自分の子どもに対して、したいことをし、言いたいことを言えるか。
(5)あなたの子どもはあなたに対して、したいことをし、言いたいことを言っているか。

 このテストで、四〜五個、「YES」と答えたあなたは、いつもみなに、心を開いている人という
ことになる。信頼関係の結び方もうまく、人間関係もスムーズ。そのため友人も多いはず。

 しかしそうでなければ、まず「心を開く」ことから、始める。あなたの心を取り巻いている無数
のクサリを、一本ずつ解き放していく。根気のいる作業だが、しかし不可能ではない。もしあな
たがこのタイプの子ども(人)なら、夫(もしくは妻)の協力を得て、少しずつ心を開く訓練をす
る。

方法としては、夫(あるいは妻)の前で、したいことをする。言いたいことを言う。自分をさらけ出
してみる。というのも、この問題だけは、決してあなただけの問題ではすまない。そういう心の
開けないあなたといっしょに住むことによって、さみしい思いをしているのは、実はあなたの夫
(妻)であることを忘れてはいけない。さらにあなたという親が、そういう状態であるのに、どうし
て子どもに、「心を開け」と言えるだろうか。

 何でもないことのようだが、心を開くことができる人は、それをいとも簡単に、しかも自然な形
でできる。そうでない人には、そうでない。この問題は、その子ども(人)の乳幼児期までさかの
ぼるほど、もともと「根」の深い問題である。

 夫婦にせよ、親子にせよ、その基本は、ゆるぎない信頼関係で決まる。その信頼関係を結ぶ
ためにも、まずあなたは、あなたの心を開き、その心を空に解き放ってみる。勇気を出して、自
分をさらけ出してみる。自分を飾ることはない。自分をつくることはない。気負う必要もない。あ
なたはあなたのままでよい。そういう自分を、すなおにさらけ出してみる。

 そこはすがすがしいほど、広い世界。青い空がどこまでも、どこまでもつづく、広い世界。あな
たも心を取り巻いているクサリを解き放ち、その広い世界を、思う存分、羽ばたいてみよう! 
もし今、あなたが心の開けない人ならば……。
(030213)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(594)

赤ちゃんがえり

北海道在住のESさんからの相談

 北海道在住のESさんから、こんな相談が届いた。

「二年ほど前にはやし先生にご著書をお贈りいただいた北海道K郡のESと申します。
その節は有難うございました。あれ以来、先生のホームページとEマガジンを楽しく読ませてい
ただき、子育ての参考にさせていただいております。    

日々、子育ての奥の深さを実感すると同時に、子供を冷静に見る、距離をおいて見ることの大
切さも知ったように思います。とはいえ、ご相談があり、メールをさせていただきました。

現在、七歳の女の子(長女)、四歳の男の子(長男)、一歳の男の子(二男)がおります。
七歳の子は年少、年長と幼稚園に馴染みにくく、表情も硬く、じっと人をみすえるようなところも
あり、子供というよりは大人を相手にしているような気持ちになったものですが
年長になった頃から友達も増え、表情が生き生きと見違えるようになりました。弟に対しても以
前とは違いとてもやさしくお姉さんらしくなりました。

これも先生の子育て論がとても参考になっていたことも大きいと、嬉しく思っています。

四歳の男の子ですが、最近、しつこいほどに@「お兄ちゃんになりたくない」、「大人になりたく
ない」、まだ学校は先のことにもかかわらず「学校に行きたくない」、「勉強したくない」と言い困
っています。A弟が生まれ赤ちゃんがえりしたのかなあとは思うものの、あまりにしつこさに閉
口してしまいます。

三人いると、確かにその子に充分手をかけてやれないのは事実ですが、Bわたしとしては不
安にさせるような言動はないつもりです。

「〜したくない」といえば、「いいよ」と理解は示しているつもりなのですが……
性格は幼稚園では、明るく、友達ともよく遊び、活発なようです。Cが、ここ二〜三か月あまり
元気がないようで、先生にも甘えているようです。今日も園に用事でいった時も恥ずかしそうな
さびしそうな表情で笑いかけてきて、少し胸が痛みました。

D家では、明るく元気なものの神経質なところがあります。例えば、手足などの少しの汚れを
気にしたり、傷ともいえないような傷を気にしたりです。そして冗談が通じにくいのか笑わそうと
していったことにいじけたり、腹をたてたりです。同じことを姉にいった場合、笑ってくれます。

長男の否定的なところを、もっと明るいほうへ向くようにしてやりたいと思うのですが、親とし
て、どう接してやればよいでしょうか?

やまに登ったり、木の実を拾ったり、と外へ出ることがもともと好きですので、E主人とは、その
ようなところへ連れ出してやるのが長男の気持ちを解消させるのかなあとは話しています。

どうぞアドバイスをよろしくお願いいたします。」

【はやし浩司よりESさんへ】

 ご無沙汰しています。メール、ありがとうございました。少し、考えてみます。

@「お兄ちゃんになりたくない」、「大人になりたくない」、まだ学校は先のことにもかかわらず
「学校に行きたくない」、「勉強したくない」と言い困っています。

 ここで一番需要なポイントは、四歳の子どもが、「お兄ちゃんになりたくない」と言っている点で
す。この言葉は「お兄ちゃんでいるのは、いやだ」とも解釈できます。どこかで「兄」としてのプレ
ッシャーを感じているのかもしれません。赤ちゃんがえりを起こした子どもに、ときどき観察され
る発言です。

 赤ちゃんがえりというのは、一種の恐怖反応と理解されています。「捨てられた」「捨てられる
のでは」という妄想性が、子どもの心をゆがめます。小児うつ病(依存型うつ病)のひとつと考え
る学者もいます。どちらにせよ、下の子が生まれたことが原因による嫉妬がからむため、叱っ
たり、説教したりしても、意味はありません。少し極端な考え方ですが、もしあなたの夫がある
日突然、愛人を家に連れてきて、「今日からいっしょに住む」と言ったら、あなたはどうするでし
ょうか。子どもの置かれた立場は、それに似た立場と考えてよいでしょう。赤ちゃんがえりを、
決して、安易に考えてはいけません。

A弟が生まれ赤ちゃんがえりしたのかなあとは思うものの、あまりにしつこさに閉口してしまい
ます。

 嫉妬がからむと、おとなでも、本態的に狂うということは、よくあります。「本態的」というのは、
人間性そのものまで影響を受けるということです。乳幼児のばあい、嫉妬心をいじるのは、タブ
ー中のタブーです。で、ESさんの子どものように、赤ちゃんげりの症状が、「親が閉口するほ
ど、症状がしつこくなる」ことは、珍しくありません。子どもによっては、下の子を殺す寸前のこと
までします。この点においても、赤ちゃんがえりを、安易に考えてはいけません。

B私としては不安にさせるような言動はないつもりです。「〜したくない」といえば、「いいよ」と理
解は示しているつもりなのですが……

 これは赤ちゃんがえりとは、別の問題です。子どもは、いろいろわがままを言いながら、親の
愛情を確認したり、確かめたりします。赤ちゃんがえりの症状は子どもの欲求不満に準じて、
攻撃型(下の子いじめ)、内閉型(言動が赤ちゃんぽくなる)、固着型(ものにこだわる)に分け
て考えます。子どもによっては、そのつど、いろいろな症状を示すこともあります。ときに下の子
をいじめたり、あるいは親に甘えたりするなど。心の緊張感がとれないため、ささいなことで、キ
レたり、激怒したり、かんしゃく発作を起こしたりすることもあります。

 赤ちゃんがえりと、わがままは区別して考えます。つまりそれがわがままによるものであれ
ば、親は親として、き然とした態度でのぞみます。一般的には、わがままは無視します。わがま
まを言ってもムダという雰囲気をつくります。

 ただし子どものほうから愛情を求めてきたようなときには、それには、こまめに、かつていね
いに応じてあげてください。

Cが、ここ二〜三か月あまり元気がないようで、先生にも甘えているようです。今日も園に用事
でいった時も恥ずかしそうなさびしそうな表情で笑いかけてきて、少し胸が痛みました。

 基本的には愛情不足と考えてよいでしょう。親は「みな平等にかわいがっているから問題は
ないはず」と考えがちですが、子どもの側からすれば、「平等」ということが納得できないので
す。先の例で、あなたの夫が、「おまえも愛人も平等にかわいがっている」と言っても、あなたは
それに納得するでしょうか。

D家では、明るく元気なものの神経質なところがあります。例えば、手足などの少しの汚れを
気にしたり、傷ともいえないような傷を気にしたりです。そして冗談が通じにくいのか笑わそうと
していったことにいじけたり、腹をたてたりです。同じことを姉にいった場合、笑ってくれます。

 いくつか神経症による症状も出ていると思われます。神経症の原稿は、ここに張りつけてお
きますので参考にしてください。

E主人とは、そのようなところへ連れ出してやるのが長男の気持ちを解消させるのかなあとは
話しています。

 最後に、この問題は、結局は、子どもに、いかにすれば安心感を与えることができるかという
点に行きつきます。おとな的な発想で、「外へ連れ出せばよいのでは」と考えることはムダでは
ありませんが、方向性が少し違うように思います。あくまでもお子さんの気持ちを大切に、お子
さんの気持ちを確かめながら行動するのがよいかと思います。強引にあちこちへ連れまわす
のは、かえって逆効果になるのではと心配しています。

++++++++++++++++++++++
参考@(子どもの欲求不満)

子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ
 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

@攻撃・暴力タイプ
 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ
野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩す
る、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)
に分けて考える。

A退行・依存タイプ
 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

B固着・執着タイプ
 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近
多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起
こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切
そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう
言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子ども
の未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子ども
は幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足
 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。あ
る子ども(小一男児)はそれまでは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入っ
たということで、別の部屋で寝るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その
子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子どもなり
に、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と言っ
たが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効
 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよ
い。子どもの欲求不満症状が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの
問題は解決する。

++++++++++++++++++++++
参考A(幼児がえり)

おとななんかに、なりたくない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。
原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。
 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

+++++++++++++++++++
参考B(子どもの神経症)(中日新聞発表済み)

子どもの神経症

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。ふつう子どもの神経症は、@精神
面、A身体面、B行動面の三つの分野に分けて考える。そこであなたの子どもをチェック。次
の症状の中で思い当たる症状(太字)があれば、丸(○)をつけてみてほしい。

 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での神経症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の神経症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での神経症に先だって、身体面で
の神経症が現われることが多い。

 行動面の神経症……神経症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この神経症を疑ってみる。ただし一言。こう
した症状が現われたからといって、子どもを叱ってはいけない。叱っても意味がないばかりか、
叱れば叱るほど、逆効果。神経症は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期
待など、いろいろある。

 さて診断。丸の数が、一〇個以上……あなたの子どもの心はボロボロ。家庭環境を猛省す
る必要がある。九〜五個……赤信号。子どもの心はかなりキズついている。四〜一個……注
意信号。見た目の症状が軽いからといって、油断してはならない。

+++++++++++++++++
参考C(子どもへの愛情)

愛情は落差の問題

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という
ことができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教して
も意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ
から文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「五〇%」というのが不満
なのだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、一〇〇%だった親の愛情が、五〇%に減ったこ
とが問題なのだ。もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」では
なく「落差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよ
い。あなたの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言った
としたら、あなたはそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽
しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなた
の新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれ
たというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。
ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、@様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度一〇〇%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。
A症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(五〇%五〇%)を貫き、そのつど、上
の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生
活にこころがける。

+++++++++++++++++++++
参考D(赤ちゃんがえり)

赤ちゃんがえりを甘く見ない

 幼児の世界には、「赤ちゃんがえり」というよく知られた現象がある。これは下の子ども(弟、
妹)が生まれたことにより、上の子ども(兄、姉)が、赤ちゃんにもどる症状を示すことをいう。本
能的な嫉妬心から、もう一度赤ちゃんを演出することにより、親の愛を取り戻そうとするために
起きる現象と考えるとわかりやすい。本能的であるため、叱ったり説教しても意味はない。子ど
もの理性ではどうにもならない問題であるという前提で対処する。

 症状は、おもらししたり、ぐずったり、ネチネチとわけのわからないことを言うタイプと、下の子
どもに暴力を振るったりするタイプに分けて考える。前者をマイナス型、後者をプラス型と私は
呼んでいるが、このほか情緒がきわめて不安定になり、神経症や恐怖症、さらには原因不明
の体の不調を訴えたりすることもある。このタイプの子どもの症状はまさに千差万別で定型が
ない。月に数度、数日単位で発熱、腹痛、下痢症状を訴えた子ども(年中女児)がいた。ある
いは神経が異常に過敏になり、恐怖症、潔癖症、不潔嫌悪症などの症状を一度に発症した子
ども(年中男児)もいた。

 こうした赤ちゃんがえりを子どもが示したら、症状の軽重に応じて、対処する。症状がひどい
ばあいには、もう一度上の子どもに全面的な愛情をもどした上、一からやりなおす。やりなおす
というのは、一度そういう状態にもどしてから、一年単位で少しずつ愛情の割合を下の子ども
に移していく。コツは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、根気よく子どもの症状に対
処すること。年齢的には満四〜五歳にもっとも不安定になり、小学校入学を迎えるころには急
速に症状が落ち着いてくる。(それ以後も母親のおっぱいを求めるなどの、残像が残ることは
あるが……。)

 多くの親は子どもが赤ちゃんがえりを起こすと、子どもを叱ったり、あるいは「平等だ」という
が、上の子どもにしてみれば、「平等」ということ自体、納得できないのだ。また嫉妬は原始的
な感情の一つであるため、扱い方をまちがえると、子どもの精神そのものにまで大きな影響を
与えるので注意する。先に書いたプラス型の子どものばあい、下の子どもを「殺す」ところまで
する。嫉妬がからむと、子どもでもそこまでする。
 要するに赤ちゃんがえりは甘くみてはいけない。
(030213)

読者のみなさんへ、……無断での転載、転用はご遠慮ください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(595)

●不安な世相

 北朝鮮の情報は、朝鮮日報(韓国系の報道新聞社)のサイトを開くと、よくわかる。北朝鮮も
そうだが、韓国も、まさに戦争一色。一触即発。今朝の報道によれば、「戦争が始まれば、初
日で一〇〇万人単位の死傷者が出る」(二月一一日)とあった。たいへんなことだ。

 もちろん日本とて、無事ですまない。北朝鮮の第一攻撃目標は、東京とソウルになっている。
それこそ戦争になれば、「雨、アラレのように北朝鮮のミサイルや爆弾が飛んでくる」(同新聞)
とある。

 ……で、こういう報道というのは、見たくはない。読みたくはない。しかし気になる。だからつい
つい読んでしまう。そしてその結果、あれこれ考えてしまう。言いようのない不安にかられる。仮
に東京が核攻撃を受けたとしたら、その瞬間から、日本の国家としての機能はマヒする。

 そこで私は私自身のことを考える。「私自身」というのは、こうした国際的な不安が、私自身の
精神状態にどのような影響を与えているかということ。たしかにこのところ、どこかピリピリして
いる。テレビやラジオのニュースを聞いていても、「北朝鮮」という言葉を耳にしただけで、ツン
とした緊張感が走る。金XXの顔が瞬間、テレビに映っただけで、ムッとした不快感に襲われ
る。だから私としては、このところ、北朝鮮のことは考えないようにしている。私ひとりが心配し
たところでどうにかなる問題ではない。仮に東京やソウルが「火の海」になったとしても、この浜
松市が攻撃されるのは、そのつぎ。その間に、何か、手を打つことができる。(この意見は、ま
ったくもって無責任だと思う。きっと東京やソウルに住んでいる人は怒るだろうが、しかし私とし
ては、そう思ってこの不安をぬぐい去るしかない。)

 被害妄想……不安が不安を呼び、心配が心配を呼ぶ。あれこれと考えなくてもよいことまで
考えてしまう。こういうのを被害妄想という。妄想が妄想で終わればよいが、こうした妄想は、
やがて増幅され、自分の意識ではコントロールできなくなる。いわゆるパニック状態になる。一
度こうなると、正常な判断ができなくなるばかりではなく、ささいな問題と、大きな問題の区別す
らできなくなってしまう。それこそ玄関先にころがっている犬のフンを見て激怒したり、反対に、
今すべき仕事が、どうでもよくなってしまったりする。

 私もよくパニック状態になる。ほかのことではならないが、自分の健康問題にぶつかったりす
ると、そうなる。たとえばガン検診か何かで、陽性、もしくは要精密検査という結果が出たりする
と、さあ、たいへん! 寝ても起きても、考えるのは、そのことばかり。夢の中でもうなされるこ
とがある。だからそういう検査結果が出たときには、すぐかかりつけのドクターのところへ行くこ
とにしている。そしてその場で、精密検査をしてもらうことにしている。

 それほどひどくはないが、このところ北朝鮮問題を考えていると、軽いパニック状態になって
しまう。私個人では、何ともできないところが歯がゆい。情報も入ってこない。それであれこれ
考えていると、頭の中が北朝鮮の問題でいっぱいになってしまう。

 で、そういうときは、ワイフに相談することにしている。ワイフというのは、マレに見る楽天的な
女性で、私には、よきアドバイザーである。

私「北朝鮮が戦争をしかけてきたら、どうする?」
ワ「あんな国、あっという間に負けるわよ」
私「ミサイルが飛んできたら、どうする?」
ワ「ガソリンがないのでしょ。だったら飛ばせないわよ」
私「あのな、ミサイルは、ガソリンでは、飛ばないの!」
ワ「どうせ、日本に当りっこないわよ」
私「核爆弾を積んでいたら、どうする?」
ワ「発射する前に、暴発するわよ」

 すべてがこの調子だから、すごい。しかしものごとは、そう考えるべきなのかもしれない。そこ
で改めて、私は考えた。

 ものごとを見るときには、二つの「目」がある。ひとつは悪い方に悪い方に考えていく考え方。
もう一つは、よい方によい方に考えていく考え方。たとえば子どもを見るときもそうで、そのとき
の気分で方向がまったく違うということはよくある。あるいは兄と弟に対しても、同じ自分の子ど
もなのに、方向がまったく違うということはよくある。同じように失敗しても、兄だと「いつになっ
たら!」と叱りとばすのに、弟だと「またやったわね」と、笑ってすますなど。

●悲観論者と楽観論者

 一枚の絵がある。その絵には、家があって、窓に父親と母親が、シルエット(影絵)で描かれ
ている。見方によっては、夫婦げんかをしているようにも見えるし、二人で踊っているようにも見
える。そしてその手前に、子どもの姿が、同じようにシルエットで描かれている。子どもの向き
はわからない。家のほうを向いているようにも見えるし、反対のほうを向いているようにも見え
る。外には、ヒューヒューと風が吹いている……。

 このテストでわかることは、悲観論者は、ものごとを悪いほうから見て、悪いほうへ悪いほう
へと考えていく。父親と母親は夫婦げんかをしている。子どもはこわくなって家の外に出た。し
かし外は寒く、どうしたらよいかわからないでいる。このままだと、子どもはこごえ死んでしまう
かもしれない、と。

 一方楽観論者は、ものごとをよいほうから見て、よいほうよいほうへと考えていく。父親と母親
は、宝くじか何か当たって、大喜びしている。外から帰ってきた子どもはそれを見て、親たちの
あまりの喜びように驚いている、と。

 一般的に悲観論者は、結末を悪くもっていく。一方、楽観論者は、ハッピーエンドにもってい
く。が、それだけではない。悲観論者は、ものの考え方が受け身になる。このばあいも、「子ど
もは家から追い出される」「こごえ死ぬ」というような考え方をする。つまり結果はいつも、自分
以外のものによってもたらされると考える。これに対して楽観論者は、ものの考え方が能動的
になる。「自分も親たちの喜びの輪の中に入りたい」「一緒に喜ぶ」というような考え方をする。
「今日は、家族でお祝いをする」というように考えることもある。いつも結果は、自分たちでつく
るものという考え方をする。
 
 ためしにこの絵を見せて、子ども(小六男女)たちに物語を書かせてみた。いろいろな答がか
えってきた。これらの答の中では、結末に注目してほしい。ハッピーエンドで終わった話には、
(○)、悲劇で終わった話には、(●)をつけておいた。

(A君)あるところに家があった。家の外で遊んでいる子どもが一人と、お父さん、お母さんの家
族だ。そこに台風がやってきた。お母さんは、雨戸をしめた。お父さんは、外で遊んでいる子ど
もを呼んだ。三人は家の中にこもって、台風がやむのを待っていた。三人は仲よくすごした。
(○)

(B君)ある冬の、風の強い日、家の中でA君とBさんが鬼ごっこをしていました。そこにC君が
やってきました。C君は家の中の様子をみていたが、風が強かったので、声をかけてみること
にしました。しかしA君とBさんは、鬼ごっこに夢中で、気づいてくれませんでした。C君はしょぼ
んとなって、風の強い中、ひとりで帰っていきました。(●)

(C君)家の中と外で、鬼ごっこをしています。一人は外の庭で、「もういいかい」と言っていま
す。あとの二人は、逃げているとちゅうです。一人はドアのところの倉庫で待とうと思っていて、
もう一人は、家の屋根うらにかくれて、階段をのぼろうとしています。これからどうなるのでしょ
う。

(Dさん)あるところに、仲のよい女の子二組が、遊んでしました。女の子は姉妹ではありませ
ん。毎日のように遊びました。でも、さみしがりやの女の子がいつも、その二人の遊びを見てい
ました。その女の子は、みんなの嫌われものです。でもある日、勇気をもって、「いっしょに遊ぼ
う」と言って、三人、みんなで仲よく遊びました。(○)

(Eさん)嵐の日に、小屋の中に二人がいました。そこに小さな小人がきて、入れてほしがって
います。(家の中の)一人は、入れてあげようと言っていますが、もう一人は、入れないと言って
います。言い争っているうちに、小さな小人は、どこかに行ってしまいました。(●)

(Fさん)ここに男の子と、お父さんと、お母さんの三人家族が住んでいます。ある日男の子は、
たいへんないたずらをしてしまいました。それで外にしめだされてしまいました。が、仲なおりを
して、男の子は家の中に入れてもらいました。(○)

(G君)冬の寒い夜、二人の人があったかそうな家の中で、楽しそうにおどっている。それを家
の外から、子どもが寒そうに見ている。それに気づいた(家の中の)二人が、笑っているとこ
ろ。(●)

(H君)昔、山のおくに、家がありました。家族三人でくらしていました。ある日、夫が酒をのみ、
よっぱらいながら、夜おそく帰ってきました。すると家の中で待っていた妻が、夫になぐりかかろ
うとしました。その音で子どもが起きてしまい、妻は夫をなぐることができませんでした。妻は、
「子どもが見るところではないから、外に行っていなさい」と言いました。子どもは、ねていて、も
の音で起きたので、とうぜん、パジャマすがたで、「寒い、寒い」と言って、外へ行きました。強
い風が吹いていました。妻は夫のことで頭がいっぱいらしい。(●)

(I君)ぼくはこの日、母にしかられて、外に出された。そこへ父が帰ってきた。父は、「なぜ、あ
の子を外へ出したのか」と聞いた。そこで母は、「あの子をしかったのよ」と。そこで夫婦げんか
になってしまった。ぼくは、本当はぼくが一番悪いと思いつつ、そのけんかを見て見ぬフリをし
ていた。けんかはいつのまにか終わった。窓のところに父と母が立っていたので、やさしい言
葉をかけてもらえるかと思っていたら、父にまでしかられてしまった。(●)

(J君)ぼくは無言で家を飛び出した。小学二年生のぼくのいるべきところはわかる。ぼくはしば
らく外にいたほうがいい。「アナタ! また飲んできたわね」と母。「ウルセー。飲んできて悪い
かよ。だいたい!」と父。
 いつもこんな調子で二時間はあばれている。ぼくは悲しくなる。今の今までいっしょに笑って
いたのに、一八〇度変わってけんかする。子どもにとっては、何が何だかわからない。ついに
がまんできなくて、ぼくは叫んだ。「やめて!」と。父と母は、けんかをやめて、無言でそこに立
っていた。(○)

 どちらがよいかということになれば、もちろん悲観論よりは、楽観論のほうがよいに決まって
いる。しかし悲観論が悪いばかりではない。ものには表と裏があるように、ものごとも、ときに
は裏から見て考えることも必要である。楽観論ばかりが先行しても困る。要はバランスの問題
ということか。ただこのところ私は、どうもものごとを悲観的に考える傾向が強くなったように思
う。ものごとを悪いほうに悪いほうに考えて、あれこれ気を病んだり、心配したりする。できるだ
け楽観的にものを考えようとするが、それについてはまた別の機会に考えてみることにする。
(030212)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(596)

「心をさらけ出す」についての補足

 最近、セックスレス夫婦がふえているという。三〇歳代の若い夫婦でも、年に数えるほどし
か、セックスをしないという人もいる。あるいはセックスをしても、事務的で、淡白?

 セックスほど、自分をさらけ出す手段はない。セックスをうまく利用すれば、夫婦の関係は、さ
らに濃密なものになる。信頼関係も深まる。しかし若い夫婦の中には、自分をさらけ出すことに
抵抗を覚える人がいるという。このタイプの人は、自分のしたいこと、してほしいことを口にする
ことができない。恥ずかしいというレベルの問題ではなく、それを口にすることで、相手がキズ
つくのではないかと恐れる。あるいは自分のプライドがキズつくのではないかと恐れる。しかし
それでは、自分をさらけ出すことはできない。またそれでは夫婦とは言えない。

 あなたはあなただ。あなたの夫(妻)は、夫(妻)だ。多少、あるいはかなり性癖がおかしくて
も、そんなことを気にしてはいけない。変態であろうが、なかろうが、そんなことを気にしてはい
けない。あなたはしたいことをしたいと言えばよい。すればよい。してほしいことをしてほしいと
言えばよい。隠すことはない。飾ることはない。あるがままをさらけ出す。

 ある男性は、(私のことではない!)、妻の膣の中にワインを入れて、それを飲んでみたいと
妻に申し出た。しかしそれに対して、妻が露骨に不愉快な顔をして、それを拒んだ。「あなた
は、おかしい」と妻は言った。とたん、その男性のプライドは大きくキズつけられた。その男性
は、自信をなくした。妻に不信感までもつようになった。

 ある女性は、(私のワイフのことではない!)、結婚記念日ということで、エステサロンへ行
き、全身をピカピカに磨いた。そのとき美容員にすすめられて、ほんのわずかな陰毛だけを残
して、あとは全部、きれいに剃ってもらった。夫に喜んでもらうためだった。しかしその夜、夫は
妻の下半身を見て、ゲラゲラと笑った。とたん、その女性のプライドは大きくキズつけられた。
その女性は、自信をなくした。夫に不信感までもつようになった。

 しかし本当の問題は、このことではない。なぜ、今、自分をさらけ出すことができない夫や、妻
がふえているかということ。そのため夫婦でありながら、たがいの信頼関係をうまく結ぶことが
できないでいる。とくに「性」については、偏見や誤解が多い。「変態」という言葉も、そういう偏
見や誤解から生まれた。

 話は少しそれるが、小学生たちに、「君たちは、オッパイが好きか?」と聞くと、ほとんどの子
どもは、「嫌い!」と答える。しかしこと男児について言うなら、オッパイの嫌いな子どもなどいな
い。だから「ウソをつくな。好きなら好きだと言え」と迫ると、「先生は、変態だ〜ア」と言う。

 そこで今度は年長児たちに、「君たちは、オッパイが好きか?」と聞くと、少しとまどった様子
を見せたあと、恥ずかしそうに、「嫌いだヨ〜」と言う。そこで同じように、「ウソをつくな。好きな
ら好きだと言え」と迫ると、「嫌いだヨ〜」と言う。が、年中児だと、「正直に言いなさい」と迫る
と、「うん、好きだよ」と言う。どうやらこのあたりで、人は、自分をごまかすという技術を身につ
けるようだ。性について、偏見や誤解をもち始めるようだ。

 これに対して、セックスレス夫婦というのは、性欲そのものが弱いからという説もある。しかし
常識で考えて、食欲に個人差がないのと同じように、性欲に個人差などあるわけがない。ある
としたら、夫婦の信頼関係がすでに崩壊しているか、さもなければ、どちらかの肉体的欠陥を
疑ってみたらよい。健康な男女なら、ふつうの性欲がある。性欲が強いか弱いかということにな
れば、それはあくまでも方向性の問題。その方向性がゆがむと、ポルノビデオを見ながらマス
ターベーションをすることはできても、本番のセックスはできない……というようなことはある。

 さて本題。あなたと夫(妻)は、夫婦だ。もしあなたが、自分をさらけ出すことができないタイプ
の人なら、そしてもしあなたが、他人との信頼関係を結ぶのが苦手なタイプの人なら、今日か
ら(今夜から)でも遅くないから、あるがままの自分を、あなたの夫(妻)にさらけ出してみよう。
どんなことをしたいのか、あるいはどんなことをしてほしいのか、それをしっかりと頭の中に描き
ながら、それをあなたの夫(妻)に求めてみよう。遠慮することはない。恥ずかしがることはな
い。あなたは何もかも捨てて、体でぶつかってみる。変態、おおいに結構。もともとセックスに
は、ノーマルも、アブノーマルもない。そんな基準をもつこと自体、おかしい。

 仮に今、あなたの夫(妻)が、かなりアブノーマルに見えても、そんなに心配しなくてもよい。五
〇歳をすぎると、急速に性欲はしぼんでくる。そうなると、かなり変態的な人でも、変態的でなく
なる。もともと性などいうのは、そういうもの。だから今は、先のことは気にしないで、おおいに
セックスを楽しんだらよい。とことん楽しんだらよい。
(030213)※

(追記)私も、このところ、あるがままの自分を書いている。できるだけ自分をさらけ出そうとし
ている。文をとおして、読者のみなさんと信頼関係が結べるかどうかはわからないが、ひとつの
実験として、そうしている。ワイフは、このエッセーを読んで聞かせたら、「ポルノみたい」と言っ
たが、たしかにポルノみたいだ。こういう文は、マガジン社でカットされるかもしれない。
(030214)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 
子育て随筆byはやし浩司(597)

さらけ出す

 オーストラリア人の家庭へ行ったときのこと。食後、ふと見ると、その家の奥さんが、だんなさ
んのひざの上に、抱かれるようにして、もたれかかっていた。が、子どもたち(高校生の女の子
と、私の友人の大学生)は、平気な顔をして、私と、会話をつづけていた。

 今から三五年ほど前に見た、光景である。その光景を見て、私がいかに驚いたかは、もうこ
こに書くまでもない。当時の日本の常識では、考えられない光景であった。今でも、珍しい。当
時ですら、向こうの大学生たちは、大学の構内を歩きながらでも、抱きあったり、キスをしてい
た。

 もっとも欧米人が、みな、こうした「さらけ出し」を、平気でできるわけではない。そのためアメ
リカなどでは、離婚率の増加とともに、結婚カウンセラーの数が急増しているという。こうしたカ
ウンセリングでは、主に夫婦の間の信頼関係の結び方の指導に重点を置いているという。今、
その信頼関係が結べない夫婦がふえている。もちろん、この日本でも、ふえている。

 結婚したあと、夫婦の会話がない。セックスもない。夫は家事、育児をすべて妻に任せ、自分
は、知らぬ顔。妻は妻で、家庭に閉じ込められ、爆発寸前。夫にせよ、妻にせよ、その原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるとみる。この時期、子どもは、絶対的に安心できる家庭環境
の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。自分をさらけ出しても、だいじょうぶだという安心感を学
ぶ。そしてそれが基本となって、信頼関係の結び方を学ぶ。

 自分をさらけ出すから、信頼関係が結べるということにはならないが、しかしさらけ出さないこ
とには、結べない。あるがままの自分を、相手にさらけ出す。それはたがいの信頼関係を結
ぶ、大前提ということになる。

 そういう意味では、私が見た、あのオーストラリア人夫婦の光景は、参考になる。反対に、日
本の夫婦だったら、どういう反応を示すかということを考えてみればよい。たとえばあなたたち
夫婦は、どうだろうか。

(1)デパートやスーパーでも、平気で手をつないで歩くことができる。
(2)子どもの前でも、平気で抱きあってみせることができる。
(3)客の前でも、平気で、抱きあったり、キスしてみせることができる。

 いろいろなレベルがあるだろうが、日本では、こうした行為を、「はしたない」と否定する。しか
し「はしたない」とは何か? どうしてそれが悪いことなのか? 私たちも一度、そういう原点に
立ち返って、この問題を考えなおしてみる必要がある。

 なお私のこうした意見に対して、「アメリカのほうが離婚率が高いではないか」と反論する人が
いる。「日本より、はるかにさらけ出しをしているアメリカ人のほうが、離婚率が高い。つまり日
本の夫婦のほうが、たがいの関係がしっかりしている」と。

 この反論が、いかに虚構に満ちたものかは、あなたが妻の立場にいるなら、すぐわかるは
ず。日本の夫婦の離婚率がまだ低いのは、夫婦の関係がそれだけしっかりしているからでは
なく、とくに妻側が、がまんしているからにほかならない。いまだに、男尊女卑の思想は、この
日本に根強く残っている。もし日本の妻たちの意識が、アメリカ並になったら、離婚率は、アメ
リカの離婚率を、はるかに超える。

 私たちは、夫婦の間だけでも、そして子どもの前でも、もっと自分をさらけ出してもよい。言い
たいことを言い、したいことをする。夫意識など、くそ食らえ。妻意識など、くそ食らえ。親の権
威など、くそ食らえ。親意識など、くそ食らえ! まずあるがままをさらけ出す。他人のばあい
は、そうはいかないが、夫婦や、親子の間では、かまわない。それが家族の特権でもある。とく
に、つぎのような人は、そうしたらよい。

(1)他人と接していると、気をつかい、精神疲労を起こしやすい。
(2)親だから(夫だから、妻だから)という意識が強く、何かにつけて気負ってしまう。
(3)夫婦の間でも、「それはいけないこと」というようなブレーキが働くことが多い。
(4)友人が少なく、さみしがり屋なのに、友人と良好な関係をつくるのが苦手。
(5)いつも自分をよく見せようと、心のどこかで緊張してしまう。あるいは自分を飾る。

 さあ、あなたも、たった一度しかない人生だから、思う存分、自分をさらけ出して生きたらよ
い。あるがままの自分で、あるがままに生きたらよい。だれにも遠慮することはない。無理をす
ることはない。それで相手がダメだというのなら、こちらから相手を蹴飛ばしてやればよい。よ
い人ぶったりしてはいけない。自分を飾ったり、ごまかしてはいけない。さあ、あなたもあなたの
心を取り巻いている、無数のクサリを解き放ってみよう。たった一度しかない人生だから、思う
存分、自分の人生を生きてみよう! 英語国では、こう言う。「心を解き放て! 体はあとから
ついてくる!」と。よい言葉だ。
(030214)

●自由が新しい宗教であり、それが全世界に広がることは、まちがいない。(ハイネ「イギリス
断片」)
●人は生まれながらにして、自由かつ平等である。(フランス人権宣言)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(598)

人民の自由は、国家の強さに比例する

 またまたかいま見た。K国の金XXが、どこかへ列車で、でかけたときのこと。窓の向こうに、
無数の民衆がいて、狂ったようにその列車を追いかけていた。それはまさに、「狂ったように」
である。

 しかしそういう姿を、以前、私はどこかで見たことがある。この日本でも、だ。一度は、どこか
の宗教団体へ取材に行ったときのこと。たまたまその日、「教導様」と呼ばれる指導者が、会
場へ来ていた。それを見て、とくに女性たちが、狂ったように、「センセー、センセー」と叫んで
いた。もう一度は、このH市へ、天皇がやってきたときのこと。車で通り過ぎただけだが、そのと
きも、近くにいた一群の人たちが、「バンザーイ、バンザーイ」と叫んでいた。

 ルソーは、「社会契約論」の中で、こう書いている。「人民の自由は、国家の強さに比例する」
と。つまり人民の自由が大きければ大きいほど、その国家は強い国家だということ。一方、国
家が大きければ大きいほど、人民は自由だということ。

 ここで「大きい国家」というのは、何も、面積が大きいとか、人口が多いということではない。も
ちろん軍事力や経済力があるということでもない。「大きい」ということは、それだけ「ふところが
大きい」ということ。「度量が広い」ということ。そういう視点で見ると、あのK国の小さいこと、小
さいこと。こっけいなほど、小さい。

 ……と書いて、実は、家庭も、そうである。ルソーのこの言葉をもじると、「家族の自由は、家
庭の強さに比例する」となる。

 信頼関係の強固な家庭では、家族はより大きな自由を楽しむことができる。そうでない家庭
は、どこか窮屈。英語の格言にも、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。信頼関係
がなくなると、どうしても親は規則に頼るようになる。しかし規則がないから、家庭という。体を
休め、心をいやすことができるから、家庭という。

 最近よく、「しつけは家庭で」という言葉を聞くが、子どもがある程度大きくなったら、家庭は、
しつけの場から、憩いの場へと変化する。そのため家庭では、規則はできるだけ少なくする。
規則が多ければ多いほど、家庭は憩いの場としての機能を、失う。子どもをしつけるとしても、
あくまでも親子の信頼関係による。その信頼関係がないまま、しつけに走れば、どうしても規則
ばかりに頼るようになる。

 国も家庭も、「自由」が基本。生きるということは、まさに自由の追求といってもよい。その自
由を教えるのは、国ではない。学校や教科書ではない。実は家庭である。そういう意味でも、
家庭のもつ「ふところ」は、大きければ大きいほどよい。子どもはそのふところの中で、自由を
学ぶ。
(030214)

【追記】国の権威にせよ、親の権威にせよ、民衆や子どもを黙らせるには、便利な道具であ
る。権威は、それ自体が、抑圧的。しかしその陰で、民衆や子どもは、心をゆがめる。イギリス
の格言に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。表面的な従順さにだまされてはいけない。

 たとえば家庭にあっては、親が権威主義的であればあるほど、子どもは自分の心を隠す。ご
まかす。つくる。飾る。そうなれば、親子でも、命令・服従、保護・依存の関係になる。子ども側
がそれを受けいれればそれでよいが、そうでないとき、親子の間には大きなキレツが入る。全
体のトータルバランスを考えるなら、親が権威主義的であることによるメリットよりも、デメリット
のほうがはるかに大きい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(599)

いい子でいること

 いい子でいることは、たいへん。私は、たまたま勉強がよくできた。そのため、親のみなら
ず、親戚の人たちからも、期待された。私はいつしか、その期待にこたえることだけを考えるよ
うになった。つまりその期待にふさわしい未来しか、考えることができなくなってしまった。

 高校は、田舎の高校だったが、入学試験の成績は一位だった。そのため入学式では、式辞
を読まされた。が、それからが地獄だった。担任の教師は、ことあるごとに、「林に追いつけ、
林を追い越せ」と、みなをけしかけた。私の性格もあったのだろうが、私はそのうちすぐ、仲間
から浮いてしまった。

 そんなとき、私自身は、もともと理科系の頭で、将来は、建築設計士を望んでいた。もしそれ
がかなわないなら、大工でもよいと考えていた。しかしそのときすでに、たいへんおかしなことだ
が、大工になる道は、閉ざされていた。今と違って、大工の社会的地位は、それほど高くなかっ
た。もし私が「大工になる」とでも言ったら、親や親戚の人たちは、それを許してくれなかっただ
ろう。私がそれを口にできる雰囲気すら、なかった。

 しかしそれは同時に、ものすごい重圧感だった。親戚の伯父は、私にいつもこう言った。「浩
司、お前がいれば、姉(母のこと)も安心だな」「浩司、お前が、林の家のめんどうをみるんだ
な」と。いつしか私は、それが当然のことだと思うようになった。いや、それを意識したことはな
いが、それを疑ったこともなかった。

 しかしそうした期待は、五〇歳をすぎた現在も、つづいている。今でも、親戚の人間が集まっ
たりすると、私はそういう目でしか、見られない。「私はふつうの人間だ」と思っていても、何か
につけて、ほかの親戚の人たちとくらべられる。が、そういう親戚たちが、私を支えるファンかと
いうと、決してそうではない。いとこの中には、面従腹背というか、表では私に愛想よく振舞いな
がら、陰では悪口を言っている人もいる。親戚で目立つ分だけ、何かにつけて、ねたまれる?

 私はあるときから、いい子でいることをやめた。意識的に、それを拒絶するようにした。それ
までは冠婚葬祭でも、どこか私だけ、みなより多く費用を負担していたが、それもやめた。こう
いう仕事をしているから、それなりに目立つらしいが、しかしこと親戚の間では、それも苦痛で
しかない。無頓着ないとこは、「浩司は、出世したなあ」とか言うが、私自身はまったくそうは思
っていない。だいたいにおいて、「出世」という言葉が、大嫌い。ぞっとするほど、嫌い。私自身
は、そういう言葉を使ったことすらない。

 で、今、私の周辺には、その「いい子」(?)が、結構いる。小学四年生のA子さん。中学二年
生のB君。そして高校二年生のC君など。彼らもまた、親の期待を一身に集めて、それなりに
がんばっている。しかし私は同時に、彼らのもつ重圧感もわかる。だからときどき、私はこう言
う。「無理をすることはないよ。気楽にやりなよ。勉強なんてものはね、適当にやればいいんだ
から」と。もちろん彼らには、私の意図が理解できない。だから私がそう言うと、どの子どもも、
どこか驚いたような表情を見せる。それはそうだろう。しかしいつか、彼らもまた、その重圧感
と戦う日がくる。そしてそのとき、私が言っている意味が理解できる。私は心のどこかでそれを
期待しつつ、そう言う。
(030214)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

                            
子育て随筆byはやし浩司(600)

インタラクティブ・アクション

 人間は、無意識のうちにも、心の状態をジェスチャで表現する。これを英語で、インタラクティ
ブ・アクションという。日本語で何というかは知らないが、あえて訳せば、「無意識下の反応行
動」ということか。

 先日、K県のO氏という男と議論していたときのこと。いつも私にかなりの反発心をもっている
男である。私が懸命に何かを説明しても、O氏は、腕ぐみをし、体をややうしろへそらしたまま。
視線をこちらへ合わせようともせず、どこかうっすらと笑みを浮かべていた。

 これがインタラクティブ・アクションである。O氏は、どういうわけか、私に、はげしい敵対心を
もっている。それが態度や動作、行動となって、無意識のうちにも、外に出てくる。このタイプの
人は、人間の価値を、第一印象だけで決めてしまう。最初に「いやなヤツ」と思ったりすると、そ
のあと、ずっとその印象だけで人を判断する。だから私が何を説明しても、ムダ。すべてを否
定的にとらえようとする。

 子どもの心をのぞくときは、そのインタラクティブ・アクションを見ればよい。簡単な方法として
は、子どもに話しかけてみる。心がつうじあっているときは、こちらの話していることが、スーッ
と、子どもの心の中にしみこんでいくのがわかる。そうでないときは、そうでない。

(1)視線を合わせようとしない。視線が固定する。
(2)体をこわばらせたまま、反応しない。
(3)無表情、無感動、沈黙を守る。
(4)呼吸を押し殺す。緊張感が消えない。反応がぎこちなくなる。
(5)腕組みする、体をそらす、目を閉じるなど、独特のジェスチャをする。

 こうしたインタラクティブ・アクションが見られたら、子どもの心は閉じているとみる。こういう状
態では、何を説明してもムダ。言うべきことは言いながらも、その場からは離れたほうがよい。
ふつう子どもでも、こうしたインタラクティブ・アクションを見せると、親(教師)のほうもイライラし
てくる。

 一方、こういうことも言える。相手の心をつかみたかったら、逆のインタラクティブ・アクション
を試みる。たとえば心がつうじあっているときは、つぎのような反応を示す。

(1)視線を合わせ、こちらのほうに体を乗りだしてくる。
(2)体の筋肉の緊張感がとれ、なめらかな動きになる。
(3)一言一言に、敏感に反応し、相づちを打ったりする。
(4)呼吸が速くなり、表情が明るくなる。
(5)体をすりよせてきたり、甘えたりするなど、独特のジェスチャをする。

 つまりこれを逆に、演じてみせる。相手が何かを話しかけてきたら、視線を合わせ、体を乗り
出してみせたりする。相手のジェスチャをたくみにまねながら、ややそれよりもオーバーに繰り
かえしてみせる。あるいは相手よりもやや速いテンポで、反応してみせる。相手が手を振りあ
げながら話したら、それをまねて、こちらも手を振りあげながら話してみる、など。相手は、あな
たに好印象をもつはずである。

 こんな実験をした人がいる。

 A、B、C、D、Eの五人の人を前に並べて、一人の講師に講義をさせる。A、C、Eの三人に
は、ずっと、腕組みをさせ、無表情、無反応のままでいてもらう。B、Dの二人には、講師の話
に応じて、そのつど敏感に反応してもらう。相づちを打ったり、適当に笑ってもらうなど。あとで
講師に、五人の人の写真を見せ、「どの人にあなたは好感を覚えますか」と質問すると、その
講師は、BとDの二人を選んだという。昔、何かの本で読んだ話なので、内容は正確ではない
かもしれない。しかしおおむね、こんなような実験だった。つまり相手に好感をもってもらうため
には、積極的に反応してみせればよいということになる。

 このことは、子どもをカウンセリングしているときに、私がしばしば用いる方法である。子ども
の心をつかむために、積極的に、「そうだね」「そうだよ」と反応してみせる。子どもは私に好印
象をもち、心を開いてくれる。もちろん、この方法は、家庭でも応用できる。子どもが何かを話
しかけてきたら、子どもがそうである以上に、積極的に反応してみせる。子どもはあなたのそう
いう態度に好印象をもち、より心を開くはずである。「このところうちの子は、学校での様子をあ
まり話さなくなった」と思って人にとは、とくに有効である。一度、試してみてほしい。
(030214)


 

 







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