はやし浩司

2003−3月〜
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はやし浩司

子育て随筆(701〜900)


子育て随筆byはやし浩司(701)

●夫VS妻

 レストランで食事をしたようなとき、欧米人では、たいてい夫のほうが、代金を支払う。オース
トラリアでも、そうだ。が、この日本では、たいてい妻のほうが、支払う。これについて、一度、オ
ーストラリアの友人に「どうしてか?」と聞いたことがある。それに答えて、その友人は、こう教え
てくれた。

 「オーストラリアでは、夫の地位が、日本とくらべて相対的に、低い。だから夫は自分の地位
を守るために、サイフを、妻に渡さないのではないか」と。具体的には、必要な家計費は、妻側
の申し出に応じて、そのつど、妻に手渡すという。

 私の家庭では、私が得た収入は、一度すべて、ワイフに渡す。渡したあと、ワイフから、小づ
かいという形で、私は昼食代などをもらったりする。私のばあい、「夫の収入」「妻の収入」とい
う観念は、まったくといってよいほど、ない。

 一方、中国では、「夫の収入」「妻の収入」という区別が、欧米人より、さらにはっきりとしてい
る。夫と妻が、たがいの収入を取りあって喧嘩(けんか)することも少なくない。私もあるところ
で、そういう場面に出くわしたことがあるが、それはものすごい喧嘩だった。中国では、夫婦別
姓がふつうだから、そういうことも関係しているのかな、と、そのときは、そう思った。

 夫婦の考え方も、国によって違うらしいが、しかしここに書いたようなことは、あくまでも表面
的なこと。だからといって、欧米人や中国人は、夫婦間がそれだけ冷めているとか、日本人は
反対に濃厚ということではない。夫婦の一心性は、もっと別の尺度でみなければならない。そ
れについて、改めて、ここで考えてみる。

●一心性

 たとえば夫が、何か名誉なことをして、社会的に評価されたとする。そのとき、妻は、どの程
度まで、自分のこととして、それを喜ぶことができるかということ。それがここでいう「一心性」で
ある。大半の妻は、自分のことのように慶ぶだろう。しかしそうでないケースも多い。つまり夫と
妻の一心性は、必ずしも同じではない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

【事例1】
 ある父親が、東京で一人住まいをしている娘(二五歳)に、電子レンジを送った。その父親
が、会社からの帰り道、電気屋で買ったものだ。その父親は、ポケットマネーをはたいて、それ
を買った。

 が、数日後、娘から母親のほうに、礼の電話が入った。そのとき、母親は、「いいんだよ、お
礼なんか……」と言ったが、母親は、父親が買ったということは、一言も言わなかった。それで
電話が終わったあと、その電話を横で聞いていた父親が、母親をなじった。「どうして一言、あ
の電子レンジは、私が買ったものだと言わなかったのだ! お前は、夫の私をバカにしてい
る!」と。

【事例2】
 母親(七六歳)と、同居している長男(四五歳)が、親戚の家に一泊した。帰ってきてから、長
男は、その親戚の家に礼状を書き、地元の産物を送った。そのとき、長男は、長男だけの名
前で、それを送った。そのことについて、母親が、長男を責めた。「どうして、私の名前を書き添
えてくれなかったのだ! 親を粗末にするな!」と。

 この二つの事例を読んで、あなたはどう考えただろうか。(事例1)のほうでは、母親は、一
言、「あれはお父さんが買ってくれたものだよ。お父さんに、お礼を言ってね」と、言うべきだっ
た。また(事例2)では、息子は、母親と連名にすべきだった。……と、もしあなたが考えるよう
なら、それは少し、待ってほしい。

 ここで「一心性」の問題が、生まれる。(事例1)のほうでは、妻は、夫と一心化しているのが
わかる。「夫の行為は、私の行為」と。だから妻は、夫のことは何も言わなかった。一方、夫
は、妻と一心化していない。夫は、心のどこかで、「私の行為」「妻の行為」と、無意識のうちに
も、区別している。(事例2)も、同じように考えられる。(事例2)のほうでは、息子はともかくも、
母親のほうが、息子と一心化していない。

●一心性とは?

 (事例1)を、もう一度、読んでみてほしい。父親は、娘にと、電子レンジを買った。そしてそれ
を娘に送った。それを見て、母親のほうは、「私たちが送った」と考えた。「私が……」という意
識すらなかったかもしれない。一方、父親のほうには、「私が……」という意識がある。実は、こ
こが問題である。父親は、「私が送ったのに、私のことは何も言わなかった。妻は自分だけが
いい子になろうとした」と感じた。だから、「夫の私をバカにしている!」と。

 この事例では、夫は、妻に、心を開いていない。全幅に、信頼もしていない。夫婦でありなが
ら、その間に、見えない壁(かべ)をはさんでいる。が、ここで考えなければならないことは、そ
の壁があることではなく、その壁があることに、夫が、気づいていないということ。多分その夫
は、日ごろ、こう考えているかもしれない。「妻や娘を、食わせてやっているのは、私だ」「私が
仕事をするから、妻や娘は生活ができる」「妻や娘は、私にもっと、感謝すべきだ」「私は一家
の柱だ。主人だ」と。

 こうした考え方を夫がもつのは、その夫の勝手だが、そういう考え方をすればするほど、まわ
りの妻や娘が、さみしい思いをする。夫は、そういう妻や娘のさみしさにすら、気づいていな
い?

●当事者の問題

 この問題は、その当事者である、夫や妻、親や子どもが、それに気づかねばならない。ふつ
うは、そういう状態が定着してしまっていて、当事者たちは、気がつかないでいる。私も、こうし
た一心性の問題に気づいたのは、ごく最近のことだ。こんなことがあった。

【事例3】
 その家には、三〇歳になる長女と、二八歳になる二女がいた。しかし長女は、高校生になる
ころから、拒食症と過食症を繰りかえすようになり、そのままほとんど部屋に閉じこもったまま
になってしまった。体は、骨と皮だけ、という感じになってしまった。母親は、何度も長女を病院
に入院させようとしてが、父親がそれを許さなかった。「近所に、恥ずかしい」「家系にキズがつ
く」というのが、その理由だった。

 が、二女が、結婚することになった。そのときのこと。父親は、あれこれ理由をつけて、長女
を結婚式に出さなかった。そして結婚式では、「長女は、肺炎になりまして……」と、ウソを言っ
た。
 
 この話を聞いたとき、まず私が感じたのは、「どうして?」という疑問。父親は長女の心が変
調したことを、「恥ずかしい」と言う。つまり父親が、長女の病気を受け入れていないのがわか
る。が、この状態で、本当にキズつくのは、長女のほうである。長女がそうなったのも、ひょっと
したら、そういう父親に原因があったのかもしれない。父親が、長女に対して、心を開いていな
い。その結果、長女も、父親に対して、心を開けなくなってしまった。そしてそれが遠因となっ
て、長女は、その病気になってしまった? ……と、いうより、もし長女が、父親や母親に、もっ
とすなおに心を開くことができたら、それほどまでに症状が重くならなくて、すんだかもしれな
い。もう一つ、こんな話もある。これは私の友人から、直接、聞いた話である。その友人(五四
歳・男性)は、こう言った。

 「ぼくは、日曜日など、家の中でブラブラしていると、何か悪いことをしているような気がしま
す。妻や娘たちが、どこかで『何をしているの!』と怒っているように感ずることもあります。妻
はぼくのことを、『貧乏性』と言いますが、自分でもそう思います。いつも何かに追われているよ
うな感じがしてならないのです。妻や娘たちが、私を一家の主人と認めてくれるのは、私がそれ
なりに仕事をしているからなんですね。しかしもし、私が仕事をするのをやめたら、あるいはで
きなくなったら、妻や娘たちの、私に対する態度は、大きく変わると思います。そういう不安感
から、どうしても抜け出ることができません」と。

●チェックテスト 

 心を開いている人も、開いていない人も、何か特別の事情がないかぎり、自分でそれに気づ
くことは、まずない。一方、心を開いている人にしてみれば、開いていない人が想像できない。
心を開くことができない人にしてみれば、開いている人が想像できない。

 夫婦でも、たがいにそれに気づかないということも多い。たとえば夫が、心を開けなく、妻が、
心を開いているというケース。こういうケースでは、「性格が違う」というような言い方で、問題の
本質を見逃してしまう。さらに一〇年、二〇年と結婚生活がつづくと、先にも書いたように、そ
の状態で、人間関係が定着してしまう。

 そこであなた自身を、チェックテストしてみよう。このテストは、夫婦の間の心の開きぐあいを
チェックするものだが、親子の関係も、同じようにチェックできる。

(1)あなたは夫(妻)が、何か特別なことができるようになったとき、それを自分のことのよう
に、喜ぶことができる。
(2)あなたは、どんなことがあっても、夫(妻)が、自分を支えてくれると思っている。またそれを
疑ったことがない。
(3)あなたは、どんな恥ずかしいことや、悲しいことでも、夫(妻)には安心して、話すことができ
る。
(4)あなたはあなたの夫(妻)に、ときには、子どもや赤ん坊のように甘えたり、ダダをこねたり
することができる。
(5)あなたはあなたの夫(妻)は、どんなことがあっても、自分を裏切ることはないと確信してい
る。あるいはそれを疑ったことがない。

 (1)から(5)まで、ほとんどそうであれば、あなたは夫(妻)に対して、心を開いていることにな
る。一心性が高いとみる。しかしつぎの、(6)から(10)まで、ほとんどそうであれば、あなたは
夫(妻)に対して、心を開いていないことになる。一心性が低いとみる。(1)〜(5)と、(6)〜(1
0)の項目は、それぞれ対照的になっている。

(6)「私は私、夫(妻)は夫(妻)」と割りきることが多い。自分のことで、夫(妻)が喜んでみせて
くれても、それは儀礼的なものと思うことが多い。
(7)夫婦といっても、ギブ・アンド・テイクの関係で成りたっていると思う。与えるものがなくなっ
たら、夫(妻)は、自分のもとを去ると思うことがある。
(8)夫婦といえども、そこには限界がある。それは、夫婦としての、たしなみのようなもの。隠し
ごとや秘密があっても、悪くないと思う。
(9)夫(妻)に対して、甘えるということは、あまりしない。夫(妻)には、そういう雰囲気がない。
自分の弱みは、夫(妻)には見せたくない。
(10)夫(妻)は、いつか私を裏切るかもしれない。そういう点では、私は猜疑心(さいぎしん)が
強いし、嫉妬(しっと)深い。

 さてあなたは、夫(妻)や子どもたちに対して、心を開いているだろうか。もしそうならそれでよ
し。そうでないなら、まず、自分の心が閉じていることに気づくこと。すべてはここを原点として、
出発する。

●ついでに、私のこと

 私たち夫婦は、表面的には、心を開きあっている。たがいに言いたいことを言い、したいこと
をしている。まあ、それなりに仲のよい夫婦だ。他人が見れば、そう思うだろう。しかしワイフは
ともかくも、私は、いまだに全幅に、心を開けないでいる。今夜(三月二五日)も、ワイフとその
ことで、話しあった。そして私は謝った。「ぼくたちは、結婚して三〇年になるけど、ぼくは、いま
だにお前には、心を開いていないような気がする。こういう夫をもって、さみしい思いをしている
のは、お前のほうだと思う。ごめんな」と。それに答えて、ワイフは、こう言った。

 「わかっているわ。あなたはかわいそうな人ね。私だけではないわ。もっと他人の親切や、や
さしさを、素直に受けいれればいいのよ。しかし、あなたには、それができないというわけ。そ
れがあなたを、孤独にしていると思うわ」と。

 私がワイフに対してさえ心を開けないというのは、私の乳幼児期のどこかに原因があると思
う。私は、もの心つくころから、ずっと、孤独だった。不安だった。それはともかくも、今も、基本
的には、こうした孤独や不安の上に、自分がいる。もっとも、そう感ずるのは、私の問題。私の
勝手。そういう私という人間を夫にもって、ワイフは苦労をしたと思う。そのあと私が、「しかしお
前も、ぼくのような夫をもって、よく耐えることができたね。ふつうの女性なら、とても耐えられな
かったと思うよ。お前のばあい、あきらめたのか。それとも、ぼくを受け入れたのか?」と聞く
と、ワイフは、こう言った。

 「結婚というのは、夫婦だけの問題ではないでしょ。私の兄弟や家族、あなたの兄弟や家族、
それに子どもたちもいるから……。そういったものが、私たち夫婦の輪郭(りんかく)を作るとい
うこともあるのよ。完ぺきな夫婦なんてものはないのよ。みんな、それぞれが、いろいろな問題
をかかえて、それぞれの輪郭の中で、がんばっているのよ」と。

 ……しかし、人生も半世紀を過ぎてから、それに気づくとは! 私は何という夫だったのか!
 何という人間だったのか! 孤独にせよ、不安にせよ、私が戦ってきた相手は、実は自分自
身が作りだしてきたものだった! 自分の中に、その原因があった! もっとわかりやすく言え
ば、私は一方で、自ら孤独や不安を作りだしながら、もう一方で、それと戦っていただけという
ことになる。

●結論

 お金の払い方から始めて、話がかなり脱線してしまったが、夫婦の一心性を考えていたら、
こういうエッセーになってしまった。脱線はいつものことだが、ただここで言えることは、夫婦の
一心性の問題は、(親子の一心性もそうだが……)、それ自体が、たいへん奥が深く、重要な
問題だということ。

つまり心を開き、心を許しあうから、夫婦という。親子という。口でそう言うのは簡単なことだ
が、しかしそれはそんな簡単な問題ではないということ。簡単な問題ではないということが、ここ
での結論ということになる。何とも、中途半端な結論になってしまったが、このつづきは、また別
の機会に考えてみたい。
(030325)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(702)

スポイルされる子ども

●生意気な子ども

 少し前、「生意気な子ども」というテーマで、エッセーを書いた(マガジン・三月二五日号)。そ
の中で、「ある一定の確率で、こうした子どもは生まれる」「総じてみれば、男子より、女子のほ
うに多い」と書いた。このエッセーについて、何人かのマガジン読者の方から、Eメールをもらっ
た。「うちの娘には、その傾向がある」(静岡県Aさん)、「どうすれば、防げるか」(静岡県Bさん
ほか)、と。

 そこで私は、こうした子どもが、いつごろから、どのようにして生まれるかを、観察してみた。
こういうことができるのは、幼稚園の年中児から、高校三年生まで直接教えている、私の「強
み」でもある。

 で、おおざっぱな報告で恐縮だが、こうした傾向は、だいたい小学二、三年生ごろに現れるこ
とがわかった。特徴としては、@おとなをなめた言動が多くなる(「あんたの授業、つまらない
ね」「毎年、やっていることは、同じだね」)。A世間ずれしたものの考え方をするようになる
(「私も、どうせ結婚するなら、金持ちの人がいい」「私は、おとなになっても働きたくない」)。B
おとなびたものの考え方をする(「先生、あんたも、この不景気でたいへんだね。がんばりな
よ」)。Cおとな社会の「裏」を見たような発言が多くなる。私が筆箱の中に入っていたあやしげ
な小物をつまんで、「これ、何?」と聞いたとき、なまめかしい声で「いいじゃア〜ン。文句あんノ
〜?」と言った子ども(小六女子)などがいた。

 どこか言動がシャキシャキしているので、おとなから見ると、どこかませた子ども、どこかしっ
かりしている子ども、どこかソツのない子どもといった感じになる。総じてみれば、裕福な家庭
の子どもに多い。頭も悪くないから、勉強も、そこそこにできる。決して放任家庭、崩壊家庭の
子どもというわけではない。ほとんど親は、ふつう以上に教育に関心があり、熱心である。

 が、この段階で一つの大きな問題にぶつかる。それを親に告げるべきかどうかという問題で
ある。

●親への報告
 
 こうした問題では、「もしまちがっていたら……」という迷いが、いつもついて回る。親に不要な
心配をかけたり、あるいは親を不安にさせるのは、極力さけなければならない。その前に、説
明をするにしても、時間がかかりすぎる。「生意気な子ども」と言っても、ほとんどの親には、そ
の知識すら、ない。またこのタイプの子どもほど、人前では、むしろ行動的で、積極的。そういう
子どもを評して、「あなたの娘さんは、将来、問題のある子どもになりますよ」などとは、とても
言えない。

 で、私のばあいは、親のほうから相談があるまで、私のほうからは、何も言わないようにして
いる。私ができる範囲で、私が指導するようにしている。しかしここでもまた別の問題にぶつか
る。

 このタイプの子どもは、年齢とともに、基本的な「まじめさ」が、急速に消えていく。私は決して
権威主義者ではない。ないが、しかし、子どもを指導するには、ある程度、「まじめな人間関
係」が必要である。「先生」と、私を敬(うやま)ってくれないと、指導そのものができない。その
まじめさを、子ども自身が否定するようになる。一度こうなると、あとは何を言ってもムダ。少し
おどけてみせたりすると、「くだらネエ〜」。少しやさしく接すると、「うッセ〜」と。粗放な態度を叱
ると、すさんだ目つきで、「文句あんノカ〜」と。

 こうしてこのタイプの子どもは、やがて自ら、私から去っていく。理由など、いくらでもつけられ
る。たいていは、「あの林は、くだらない」「まじめの教えない」「もっとほかの進学塾で、自分を
きたえたい」などと言う。そういうことを知っているから、だからますます私の口はかたくなる。親
に話せなくなる。

●子育ての宿命

 ほとんどの親は、「うちに限って……」「うちの子はだいじょうぶ……」「そういう問題は、他人
の問題であって、私の問題ではない……」と、考えて、その前兆を見落としてしまう。そしてやが
て問題が大きくなる。親の目にも、それがわかるようになる。が、この段階でも、「まさか……」
「まだ何とかなる……」と安易に考えて、親は子どもを叱ったりする。そしてあとはお決まりの悪
循環! 一番底から二番底、そして三番底へと落ちていく。

 しかしこうした宿命は、子育てから切り離すことはできない。本来なら、その前兆が見られた
とき、その段階で、子育てのあり方を、軌道修正しなければならない。しかしたいはんの親に
は、その兆候すら、わからない。そこで私のような立場のものが、何かをしなければならない…
…ということになるが、しかしここでもまた別の問題にぶつかる。

 ほとんどの親は、「勉強ができるようにするのが教育」「いい学校へ入るのが教育」と思ってい
る。そして「心」をどこかへ置き去りにしたまま、「教育」を組みたてる。よい例が進学塾の、進
学指導だ。

今年も、地元のX進学塾では、「A高校、二〇〇人合格、B高校、一五〇人合格……」と、その
成果(?)を、塾の宣伝に大々的に使っている。しかしその陰で、どれだけ多くの子どもが、不
合格になっていることか。また、たとえばA高校だけでも、毎年、五〜一〇%の子どもが、バー
ントアウトしている。そういう事実を、進学塾の経営者たちは、どう考えているのか。さらにメチ
ャメチャな進学競争で、キズつき、暖かい人間的な心をなくす子どもとなると、数知れない。し
かし親たちは、「A高校へ入ってくれれば、それでいい」「A高校へ入ったから、すべてメデタシ」
というような考え方をする。そういう考え方が主流の世界で、何が、心だ! 何が、生意気な子
どもだ! 私の知ったことか! ……というのは、少し言いすぎだが、しかし結局は、そういうこ
とになってしまう。

●チェックテスト

 つぎのような症状が見られたら、生意気な子どもになる前兆を考えてよい。しかしこれは子ど
もの問題というより、親の問題である。ここに書いたことで思い当たることがいくつかあれば、
あなたは子育てのあり方を、かなり反省したほうがよい。

★子どもが乳幼児のときから、不自由を感ずることがない環境で、余裕をもって、子育てをして
きた。そのため、子どもには、したい放題のことをさせてきた。クリスマスや誕生日なども、世間
一般の子どもたちよりは、お金をかけて、おおげさに祝ってきた。

★乳幼児のときから、おとなの世界を楽しませることを、何かにつけて優先してきた。そのため
子育てのし方が、どちらかというと、享楽的になることが多かった。休みごとに、どこかへ旅行
したりするなど。子ども自身の努力よりも、子どもに楽しませることのほうを、大切にしてきた。

★子どもに、おとなびたことをさせることに、あまり抵抗感がない。子どもの髪の毛を茶髪にし
てみたり、高価なドレスを身につけさせるなど。「七五三の祝いを式場した」というような話を聞
くと、それを疑問に思う前に、「うちも、そうしよう」などと考える傾向が強い。

★「子どもをかわいがる」ということは、子どもに不自由な思いをさせないことをいう。そういう子
育て観が、柱になっている。子どもが、わがままなことを言っても、ある程度は、し方のないこ
と。子どもというのは、そういうものだし、わがままを言いあえるということは、大切なこと。それ
に答えてやるのが、親の務めだと思う。こうした努力があれば、いつか親である私は子どもに
感謝され、その分、親子の絆(きずな)は太くなると思う。

★自分自身も、依存心が強い。子どもに甘えられるとき、それが悪いことだと思う前に、「かわ
いい子」「たがいに依存しあうのは、親子の絆が太いから」と思うことが多い。いつかは、私は
子どもの世話になりたいし、もちつもたれつの関係になるのが、理想的だと思う。

 もちろんこういう傾向があるからといって、あなたの子どもが生意気な子どもになるというわけ
ではない。しかし一度、反省してみる必要はある。世界的にみても、日本の子どもほど、スポイ
ルされている子どもも、そうはいない。全体的におかしいので、それに気づく親も少ないし、子
どもにしても、自分がスポイルされているとは思っていない。

 この「生意気な子ども」という問題には、日本の子育てがかかえる、原点的な矛盾が隠されて
いるように思う。決して安易に考えてはいけない。なお、とても残念なことだが、一度、おとな社
会の「裏」を見た子どもは、もとにはもどらない。よい意味でも、悪い意味でも、カゴの外に出た
鳥は、カゴには、もどらない。

 ただし一言。ここでいうようなスポイルされたからといって、子育てが失敗したとか、その子ど
もがダメになるということではない。「スポイル」そのものは、ほかのいろいろな問題とくらべて
も、それほど深刻な問題ではない。少なくとも、子ども自身は、失敗とは思っていない。またこう
した生意気な子どものほうが、今の世の中を、うまく渡りあるくことができる。また仮にここでい
う生意気な子どもになったとしても、たいていは一過性のものとして、終わることが多い。

●終わりに……

 今まで私の前を無数の子どもたちが通りすぎ、それと同じくらい無数の親たちが通りすぎてい
ったが、どの親子もそれぞれに、自分たちのドラマをつくりあげている。もちろん子どもは、スポ
イルされないで育ったほうがよいことは言うまでもない。しかし全体としてみれば、ここにも書い
たように、この問題は、それほど深刻な問題ではない。もし、あなたの子どもがここでいうような
子どもになったら、あるいは、今、そうなら、「これもドラマ」と一歩、退いてみる。そして「うちの
子は、こんなもの」と、あきらめてみる。そういう冷めた視点も、子育てには必要だということ。
そしてあとは、冷たい言い方かもしれないが、子どもの人生は子どもの人生と、割りきる。

 Aさん、Bさん、Eメール、どうもありがとうございました。
(030327)

【事例1】
 印象に残っている女の子に、Tさんという子どもがいた。転勤で、神戸からやってきて、私の
教室には、二年ほど、いた。小学五年生になると同時に、どこかの進学塾へ移っていった。頭
の回転がはやく、その分、勉強もよくできた。

 そのTさんのうわさを再び聞いたのは、それから約三年後のこと。同じ中学へ通っているG君
が、ある日、こう言った。「先生、あのTさん、覚えてる?」と。Tさんのことはよく覚えていた。背
が高く、端正な顔だちをしていた。それにおとなのユーモアをよく理解した。

 が、そのTさん、学校では、たいへんな非行少女だというのだ。私が「まさか!」と言うと、G君
は、「そうだ」と。「勉強中も、机を蹴飛ばして、教室から出ていくこともあるよ」「授業中でも、携
帯電話をかけているよ」と。で、「教室から出て、どこへ行くんだ?」「だれと電話をしている
の?」と聞くと、「そのまま街へ行くってエ」「へんな仲間と、電話で話している」と。

 実のところ、そのTさんについても、「多分、そうなるだろうな」とは、私は心配していた。この
時期、子ども、とくに女の子は、一週間単位で、様子が変わることがある。そういうとき親がそ
の変化に気づき、適切に対処すればよいが、たいていは、その段階で、親は子どもを、はげし
く叱ったり、説教したりする。が、叱れば叱るほど、一時的な効果はあっても、逆効果。門限を
破るようになる(一番底)→外泊するようになる(二番底)→家出する(三番底)→お決まりの非
行コースへと、一挙に進んでしまう。

 Tさんについての情報はほとんどないが、私のところをやめたときは、ちょうどその兆候が、
表に出てくるときだった。印象に残っているのは、ワークブックを忘れたときのこと。私がそれを
注意すると、なまめかしい声で、こう言った。「いいじゃん、先生。そんなことオ〜」と。腰をゆら
しながら、座っている私に体をこすりつけてきた。

 そのTさんは、中三になるとき、父親の転勤とともに、今度は横浜に行ってしまった。一度、連
絡をとって会ってみたいと思っていたが、その希望はかなえられなかった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(703)

緑を求める心、嫌う心

 私の自宅の周辺には、まだ多くの空き地がある。そのため、緑も多い。とくに私の家の前に
は、このあたりの大地主でもあったT家、代々の墓地がある。あたりはすっぽりと緑に包まれて
いる。私は、その緑が好きだったし、自分でも、たくさんの木を植えきた。心のどこかで、「私は
自然保護に貢献している」と思ったこともある。

 が、住んで二六年になると、それぞれの木が大木になってしまった。植えたときは親指ほど
の細い木だったものが、今では、直径三〇センチほどになっている。そしてそういう木の枝が、
私の家や庭を、おおうようになった。しかしこうなると、「緑が好きです」とは、とても言えなくな
る。

 まず芝生が全滅。畑も、花壇も全滅。しかしこうした変化というのは、不思議なもので、私は
その変化にほとんど気づかなかった。が、ある日、昔の写真を見て、驚いた。我が家の庭に、
何と、さんさんと、陽光が降り注いでいるではないか! その陽光の下で、ワイフや子どもたち
が、畑の収穫をしているではないか! とたん、「これではいけない」と思うようなった。

 そこでT家の人に頼んで、少し、木を切ってもらうことにした。が、T家の子孫の人たちはみ
な、今は、東京に住んでいる。ちょっと頼んで切ってもらうというわけにも、いかない。かといっ
て、自分で切るわけにもいかない。下のほうの小枝は切ることはできても、上の方は無理。幸
いなことに、手紙を出すと、T家の人たちは、すぐそれに応じてくれた。業者に頼んで、とりあえ
ずということで、家の周辺の木を切ってくれた。

 ここで私の中に、大きな変化が起きた。それまでは、緑を大切にするために、木を切っては
いけないと考えていた。が、あたりが少し明るくなると、「この状態を維持しなければならない」と
思うようになった。庭に降り注ぐ陽光は、緑と同じくらい大切なもの。それに気づいた。

 それからだ……。私は、少しでも雑草が生えてきたり、小さな木がのびてきたりすると、それ
をこまめに抜くようになった。小枝も切ったり、折ったりするようになった。そのときはそうでなく
ても、数年も放っておくと、またまた庭は、雑木でおおわれてしまう。以前の私とは、大違い。自
分でも、「残酷になったものだ」と思う。思いながら、そうする。

 そこで私は、改めて自分の意識の変化を観察してみる。なぜ小枝を折ることにすら抵抗を覚
えていた私が、平気で、小枝を折ることができるようになったか? また小枝すら折ってはいけ
ないと考えていた私が、小枝の段階で、それを折らねばならないと考えるようになったか? ま
わりの条件が変わったといえば、それだけのことだが、しかし条件が変わったくらいで、意識が
こうも変わるものなのか? 意識だけではない。そういった意識の上に、自分の思想を組みた
てたこともある。自然論を書いたこともある。が、その私が、変わった?

 理由のひとつに、そもそも、「緑が好きだ」というのは、好みの問題。それほど大きな哲学的
根拠があったわけではない。そしてそのときは、陽光のありがたさを、それほど理解していなか
った。が、その陽光が、毎年少しずつなくなり、結果として、庭にほとんどそれが入らなくなっ
た。そこで陽光のありがたさを、改めて思い知らされた。

 これに似たようなことは、人生の中でも、しばしば経験する。少し回りくどい説明になるかもし
れないが、ガソリンスタンドを経営する知人(四〇歳くらい)が、ある日、私にこう言った。

 「林さんは、毎日、時間に決められた仕事をよくしますね。私なんか、そんなふうに時間を決
められたら、それだけでノイローゼになってしまいますよ」と。

 また別の、バス会社で運転手をしている知人(五〇歳くらい)も、こう言った。

 「林さんは、自分で仕事を作るといいますが、私には、とてもできません。私は、だれかにちゃ
んと指示してもらわないと、何もできませんよ」と。

 実は人間の意識というのも、最初は簡単な「好み」の問題から出発する。が、長い時間をか
けて、その人自身の生きザマになってしまう。そうした意識が無数に集合して、一つの思想にな
ることもある。

 しかしここが重要だが、こうした意識の違いというのは、それほど大げさなものではないという
こと。それこそ周囲の条件が変われば、ある時点でコロリと変わるものだということ。思想も、
そうだ。あのドストエフスキーも、モンテーニュも、私と同じようなことを書いている。「思想は現
実的なもの」「移り変わるもの」と。たとえば私のばあい、少し前までは、「緑は大切だ」と思って
いたので、だれかが家の前の森を伐採しようとしたら、それに猛烈に反対したであろう。事実、
一度、ワイフにこんなことを言ったことがある。

 「もし家の前の森がなくなったら、どこかもっと緑の多いところに引っ越しをしよう」「この緑を
守るために、みんなで土地を買いあげよう」と。

 しかしその私の意識は、絶対的なものではなかった。つまり最初の「思いつき」を、そのまま
補強しただけということになる。そしてその最初の意識というのは、何かの哲学があったからそ
ういう意識になったというよりは、「好み」に近いものだった。つまりいいかげんなものだった。

 このことはたとえば、何かの宗教を信じている信者についても言える。たいていの人は、当然
のことながら、その宗教を知り尽くしたあとに、その宗教に身を寄せるのではない。たいていは
人に勧められたりして、割りと軽い気持ち(失礼!)で、入信する。そしてそのうち、その宗教の
世界に、のめりこんでいく。わかりやすく言えば、宗教的意識というのも、そのあとの信仰の中
で、少しずつ補強されていくということ。

 が、どんな意識であれ、そして思想であれ、それは変わりえるもの。また意識や思想というの
は、そういうもの。意識や思想は絶対的なものではない。また絶対的な意識や思想というの
は、ない。今、私やあなたがもっている意識や思想についても、そうだ。そんなわけで、変わる
ことを恐れてはいけない。また変わったからといって、恥じることもない。

……というようなことを考えながら、私は今、雑草を抜いたり、小枝を切ったりしている。「私の
自然保護運動も、たいしたことないな」「私が書いた自然論って、何だったのか」と思いながら
……。ホント!
(030328)

●「人は、思想をとらえようとするが、思想はつねに、人間よりも現実的である」(ドストエフスキ
ー「罪と罰」)
●「日ごとに新たなる思想があり、われわれの心は天気とともに、移り変わる」(モンテーニュ
「随想録」)

【追伸】
 ワイフにこの原稿を読んで聞かせると、こう言った。「なるほど。思想というのは、変わっていく
もんなんだ。歳とともに……」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(704)

家族の絆VS仲間の絆

 日本人は、何かにつけて、「家」単位でものを考える。こうした日本人独特の傾向は、アメリカ
人やオーストラリア人とくらべると、よくわかる。アメリカに住む二男が、こんなことを言った。私
が「アメリカには親戚も家族もいないから、いろいろ不安なこともあるだろう」と話したときのこ
と。

 「アメリカでは、生活に困ったようなときは、教会とか、慈善団体があって、そこが助けてくれ
る。で、自分たちは、そういうときのために、今は、教会とか、慈善団体を通して、困った人を助
けている。それはちょうど、貯金のようなもの。保険と考えている人もいる。こちらでは、貯金を
する人は少ない。その分、保険制度がカバーしている」と。

 日本では、家どうしのつながりの中でするようなことを、アメリカでは、仲間どうしでするという
ことらしい。こうした仲間意識は、反対に、日本人には、理解しがたいものかもしれない。たとえ
ばボランティア活動がある。あちこちの学校で、今、そのボランティア活動を奨励している。が、
日本では、なかなか根づかない? その理由の一つが、そもそも、仲間意識そのものが違う?

 反対に、あまり仲間意識を強くすると、家どうしの絆(きずな)を破壊することになるかもしれな
い。理想としては、両方とも大切にすることだが、人間ができることには、限りがある。英語の
格言にも、「二人の人には、いい顔ができない」というのがある。日本でも、「二兎を追うもの、
一兎も得られず」という。要は、バランスの問題ということか?

 が、その一方で、この日本では、今、家どうしの絆(きずな)が、バラバラになりつつある。家
どうしの絆といっても、親戚づきあいのことだが、今では、親戚づきあいをほとんどしないという
家族も、珍しくない。中学一年生のK君はこう言った。「おじいちゃん、おばあちゃんには、小学
生になってから会ったことがない」と。父方の祖父母のことを言った。そこで「おじいちゃんや、
おばあちゃんは、君に会いたがらないのか?」と聞くと、「別に……」と。そういうケースは、今、
少なくない。

 そこで本来なら、こうした「家」にかわって、たとえばアメリカ式の仲間意識が育たねばならな
いのだが、日本では、そちらのほうがまだ未熟? だからますます日本人は、追いつめられて
いく? ひとりぼっちになっていく? 孤独になっていく?

 どちらがよいというわけではない。所詮(しょせん)、人間は、それぞれが助けあって生きてい
かねばならない。それが家どうしの絆であるにせよ、仲間であるにせよ、中身は同じ。家どうし
の絆をとるか、仲間をとるか? あるいは、バランスよく、間をとるか?

 ついでに小学生三、四年生たち、八人に聞いてみた。祖父母と同居している子ども二人は別
として、残りの六人は、全員、「お母さんのおじいちゃん、おばあちゃんの家へはよく行くが、お
父さんのおじいちゃん、おばあちゃんの家にはあまり行かない」と答えた。母方の祖父母のほう
が、父方の祖父母よりも、密着度が高いというわけである。

 また親類づきあいについては、「いとこと、よく遊ぶ」と答えた子どもが、ほとんどいなかったの
には、驚いた。二人が、「お祭りのとき、ときどき遊ぶ」「おばあちゃんの家の近くにいる」と答え
たのみ。「いとこって、何?」と聞いた子どもさえいた。

 一方、私には六〇人近い、いとこがいる。そしてたがいに濃密な人間関係をつくりあげてい
る。子どものときから、何かにつけて、いとこ、いとこと言って、つきあった。今も、その中の何
人かとは、毎年、行ったり来たりしている。そういう私だから、「親戚づきあいをしていない」「い
とこと遊ばない」という子どもがいるのを知ると、何だか奇異な感じがする。

 そこで大切なことは、人間関係などというものは、人それぞれということ。たがいに認めあい、
尊重しあうということ。自分たちがそうだからといって、相手にそれを求めてはいけない。もちろ
ん強要してもいけない。私のばあいも、ワイフと結婚して、ワイフの親戚づきあいのし方が、私
のそれと、あまりにも異なっていたのには、驚いた。かなりとまどった。このことは反対に、ワイ
フもそうだったと思う。ワイフはいつも、こう言った。「浜松の人は、そこまでの交際はしないわ」
と。

 その上、今度は二男が、アメリカ人の女性と結婚した。結婚そのものは、二人の問題だが、
相手の両親は私たちに合わせようとしたし、私たちは相手の両親に合わせようとした。が、か
えってチグハグになってしまった。向こうでは、結婚に先だって、家族の紹介を、ことこまかに書
面でする習わしがあるという。一方、日本には、結納だとか、そういったものがある。一度は、
手紙の便箋(びんせん)の色について聞いてきたこともある。「日本では、白い紙を使うと失礼
ということになっているそうだが、本当か」と。どこかでそれを聞いたらしく、それで、わざわざ黄
色い便箋を手に入れて、それに家族の紹介を書いてくれたりした。(もちろんそんな風習は、日
本にはない。)

 ただ、こう書くからといって、日本人の人間関係のほうが濃密で、アメリカのほうが希薄だとい
うころではない。私はそうは思わない。「家族」というものに対する考え方そのものが違うし、関
係のもち方も違う。たとえば日本では家族というときは、そこに「家」をからめる。しかしアメリカ
で家族というときは、「家」をからめない。家を守るとか、家を継ぐとかいう発想そのものが、な
い。その上での、家どうしの絆であり、仲間の絆ということになる。

 話をもどす。日本も欧米化の流れの中で、好むと好まざるとにかかわらず、家族のあり方も、
また欧米化する。それはし方ないとしても、一方で、今まで日本がもっていた「よさ」を、どこか
で補わないと、日本人そのものが、宙ぶらりんの状態になってしまう。これは日本人にとって、
たいへん不幸なことでもある。

 そこで私たち夫婦は、今、こんなことに心がけている。私たちについても、実のところ、家どう
しの絆が、年々、薄くなってきている。そういうつながりのない状態で、「家族」という小さな世界
に閉じこもってはいけないということ。仮に家どうしの絆が薄くなったら、その絆にかわって、別
の「つながり」を周囲につくらねばならないということ。ボランティア活動というほど、大げさなも
のでないとしても、何らかの形で、社会にかかわっていかねばならないということ。二男の言葉
を借りるなら、「貯金として」、あるいは「保険として」ということになる。

 方法は、いろいろある。人それぞれだと思う。私はこうして原稿を書き、講演にでかけたりし
ている。地域の仕事としては、子ども会の役員や、自治会の役員なども、してきた。小さな活動
だが、こうした「家」にかわる活動を大きく、ふくらませていく。これからの生き方として、そういう
方向性を、今、考えている。
(030329)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(705)

家、そして故郷

 あなたは「故郷(ふるさと)」という言葉を聞いたとき、心の中に、どんなイメージを、どのように
思い浮かべるだろうか。このエッセーを読む前に、それを、少しだけ、頭の中で、想像してみて
ほしい。

(10、9、8,7,6,5,4,3,2,1……)

 私は、よく夢を見る。そういう夢の中でよく出てくる、故郷というのは、「家」というよりも、その
家を包む、あたりの光景である。「光景」というよりは、そこに現れる人々である。「人々」という
よりは、思い出である。「思い出」というよりは、何らかのわだかまりや、こだわりである。私の
ばあいは、心豊かな、暖かな夢というのは、あまり見ない。

 よい夢も悪い夢もある。よい夢を見たときというのは、それからさめたとき、(あるいは見てい
るときも)、何ともいえない懐かしさや、切なさに包まれる。悪い夢を見たときというのは、何とも
言えない悔恨の念や、緊張感に包まれる。

 しかし私のばあい、こと故郷について言うなら、ここにも書いたように、あまりよいイメージは
ない。母は、今でも、「ここはお前の故郷ではないか!」と、私を叱るが、残念ながら、私はこと
あの故郷について言うなら、よい思い出は、ほとんど、ない。私は毎日、まっ暗になるまで、寺
の境内や、隣の山の中で遊んでいたが、それとて家に帰りたくなかったからだけ? そのころ
の自分の心理状態はよく覚えていないが、家の中には、私の居場所さえなかった。

 ……と書いたところで、今、私の頭の中を横切ったのは、「では、マンション住まいの子どもた
ちはどうか?」という問題。

 これは私の体験だが、厚いコンクリートで包まれたビルの一室というのは、いくら窓が大きく
ても、また見晴らしがよくても、一戸建ての住宅にない、圧迫感がある。私はそういう一室に身
を沈めながら、その圧迫感はどこからくるのか、自分の心の中を観察してみたことがある。

 で、私は、いくつかのことに気づいた。一つは、窓の外へ出られないという、窮屈(きゅうくつ)
感。それに閉じ込められているという、閉塞(へいそく)感。上の階にも、下の階にも人が住んで
いるという、威圧感など。カベが厚い分だけ、そういったものが総合されて、孤立感を誘う。が、
何よりも、圧迫感を与えるのは、「この世界しかない」という恐怖感ではないか。ちょっとベラン
ダに出て、たき火をするというわけにはいかない。ちょっと窓の外へ、生ゴミを捨てるというわけ
にもいかない。(私のばあい、生ゴミはコンポートの中で腐らせ、肥料にしている。)水道が止ま
っても、ガスや電気が止まっても、なすすべがない。一見、便利な世界だが、よい点は、何もな
い。

 ……と書くと、今、マンションに住んでいる人は、怒るかもしれない。「マンションにだって便利
なところがある」「マンション生活は快適だ」と。もちろん、そうだと思うし、マンションには、一戸
建ての住宅にはない、よさもある。それはそれとして、これについて、以前、つぎのような原稿
をまとめたので、参考にしてほしい。マンションに住んでいる人には、かなりショッキングな原稿
かもしれない。

++++++++++++++++++++++

子どもが環境に影響されるとき 

●オムツがはずせない子ども
 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に
なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま
う。

反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の紙
オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後の
不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布オムツは、一度排尿
すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排便感
覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌・九八年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実は同じ雑誌に広告を載せているスポ
ンサーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識
で、それを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠であ
る。

●流産率は三九%!
 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい
うようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定にな
りやすい……? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結
果がある。

たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%、一〇階以上では、三九%(一〜五階は五
〜七%)。流・死産率でも六階以上では、二一%(全体八%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。
マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての
居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの影響を受け
る。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

●紫外線対策を早急に
 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着すぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚が
んの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで
は、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふ
えている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人
は、こう言った。「何も対策を講じていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾ
ンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。

●疑わしきは罰する
 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。子どもの世界は、先手、先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体的に出
るようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫
外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。

※ ……日本の気象庁の調査によると、南極大陸のオゾンホールは、一九八〇年には、面積
がほとんど〇だったものが、一九八五年から九〇年にかけて南極大陸とほぼ同じ大きさにな
り、二〇〇〇年には、それが南極大陸の面積のほぼ二倍にまで拡大しているという。この日本
でも北海道の札幌市での上空オゾンの全量が、約三七〇(m atm-cm)から、三四〇(m atm-
cm)にまで減少しているという。

 なお本文の中の数値とは多少異なるかもしれないが、気象庁は次のように発表している。
「成層圏のオゾンの量が一%減ると、地上に降りそそぐ紫外線Bの量は、一・五%ふえる。国
連環境計画(UNEP)一九九四年の報告によると、オゾン量が一%減少すると、皮膚がんの発
生が二%、白内障の発生が〇・六〜〇・八%ふえると予測している」と。

●危険な高層住宅?
 逢坂文夫氏(東海大学医学部)は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母
親(第一子のみを出生した母親)、一六一五人(回収率、五四%)について調査した。結果は次
のようなものであったという。

 流産割合(全体)       …… 七・七%
     一戸建て       …… 八・二%
     集合住宅(一〜二階) …… 六・九%
     集合住宅(三〜五階) …… 五・六%
     集合住宅(六〜九階) ……一八・八% 
     集合住宅(一〇階以上)……三八・九%

 これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、一〜五階では、一戸建てに住む妊
婦よりも、流産率は低いことがわかる。しかし六階以上になると、流産率は極端に高くなる。ま
た帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が出ている。一戸
建て、一四・九%に対して、六階以上では、二七%など。これについて、逢坂氏は次のようにコ
メントしている。

「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の運動不足に伴い、出生体重値の増加がみられ、その結果
が異常分娩に関与するものと推察される」と。ただし「流産」といっても、その内容はさまざまで
あり、また高層住宅の住人といっても、居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居住空間の広さ
など、その居住形態はさまざまである。その居住形態によっても、影響は違う。逢坂氏はこの
点についても、詳細な調査を行っているが、ここでは割愛する。詳しくは、「保健の科学」第36
巻1994別冊七八一ページ以下に掲載。

●流・死産の原因
 流・死産の原因の一つとして、「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても 逢坂文
夫氏は調査している。

 神経症的傾向割合 全体     …… 七・五%
     一戸建て        …… 五・三%
     集合住宅(一〜二階) …… 一〇・二%
     集合住宅(三〜五階) ……  八・八%
     集合住宅(六階以上) …… 一三・二%

 この結果から、神経症による症状が、高層住宅の六階以上では、一戸建て住宅に住む母親
より、約二・六倍。平均より約二倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果として、逢
坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。たとえば一戸
建て女性の喫煙率、九・〇%。集合住宅の一〜二階、一一・四%。三〜五階、一〇・九%。六
階以上、一七・六%。

+++++++++++++++++++

 こうしたことを考えあわせると、マンションに住んでいる子どものもつ「故郷」は、そうでない子
どものもつ「故郷」とは、異質なものではないかということになる。どこの学校でも、今、「郷土を
愛する」というのが教育の柱になっている。しかしマンションに住んでいる子どもには、郷土の
「土」そのものがない? そこでマンションに住んでいる人は、いつも外へ出ようとする。具体的
な統計があるわけではないが、広い住空間に住んでいる人ほど、外出しない? 狭い住空間
に住んでいる人ほど、よく外出する?

 私たち夫婦も、二間しかないアパートに住んでいたときには、毎日のようにドライブばかりして
いた。食事も、ほとんど外ですましていた。意味もなくデパートをうろついたことも多い。つまりそ
ういう形で、心の中にたまった圧迫感を、解消していたのかもしれない。

 ……となると、子どもたちも、そうなのか。印象に残っている女の子(小一女児)に、Fさんが
いた。Fさんは、いくつかの神経症(爪かみ、髪いじり、夜尿症)の症状のほか、帰宅拒否によ
る症状も見せていた。毎日、学校から帰ってくるときも、目的もないまま、いつも回り道や寄り
道をしていた。何度か、学校から帰ってくるFさんを見かけたことがあるが、家に向かってまっ
すぐという歩き方ではなかった。そのFさんは、高層マンションの最上階に住んでいた。

 そのFさんが、印象に残ったのは、その歩き方に、私自身の子ども時代が重なったからであ
る。私も子どものころ、家に向かって、一目散に帰る……ということは、なかった。回り道や寄り
道をして帰るということが、いつの間にか、当たり前になってしまった。学校の近くの公園や川
原で、一遊びしてから帰ったことも多い。

 そのFさんの家庭は、私が育った家庭のようではない。Fさんは、知的な両親と、経済的にも
恵まれていた。だから私のように、「家」イコール、「故郷」に悪いイメージをもつことはないにし
ても、しかしよいイメージをもつこともない。こう断言してよいものかどうかは、わからないが、そ
の可能性は大きい。あるいははたして、Fさんは、「故郷」という言葉に、どんなイメージをもつ
ようになるのか?

 親が子どもに残せるものに、何があるか。財産か? 名誉か? それとも昔、ロシアの民謡
で歌ったように、たくましい体か? しかし私は、親が子どもに残せる、最高の財産は、やはり
「故郷」だと思う。豊かな愛情に包まれた、暖かい「思い出」だと思う。まだその結論を出す年齢
にはなっていないが、今は、そういう結論になりつつある。

そこであなたも、あなたの子どもが、故郷について、今、どのようなイメージをもち始めている
か、ほんの少しだけ、観察してみたらよい。つまりあなたも一度、子どもの視点で、「今の生活」
が、子どもの心にどのように残っていくかを、想像してみる。もしそれが心豊かで、暖かいもの
であればよし。マンションだとか、一戸建てだから、どうということではない。しかしそれがもし、
好ましくないものであれば、見なおす必要がある。よい「故郷観」を子どもの中につくるのは、親
の、大切な義務の一つと考えてよい。
(030330)

【チェックポイント】
○あなたの子どもは、毎日、意気揚々と、誇らしげに、園や学校から帰ってくるか。
○あなたの子どもは、どこか遠くの親戚をたずねたようなとき、家や故郷の自慢をするか。
○あなたの子どもは、家の中で、思う存分、体や心を休めているか。またその場所はあるか。

°ミ彡彡   ⊂〜〜〜
゜ν0∂〇 _ノノ
°◎_/ ̄⌒―――∩
 ///―――――∫           
⊂⊂/      ∫      無断で、転送、引用、転載は、なさらないでください。
         ∫              よろしくご協力ください。       
【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

低俗文化

 Aという女性歌手がいる。若い人たちの間では、少し前まで、人気、ナンバーワンだった。で、
その歌手が、あるテレビ番組に、レギュラーで出ることになった。(たまたまチャンエルをかえた
ら、レギュラーで出ていることがわかったというほうが、正しいが……。)私は、そのHを見て、
驚いた。目が、死んだ魚の目ように、どんよりとしていた。にごっていた!

 「あれが、A?」と聞くと、ワイフは、「あれがそうよ」と。「あんな女性が、ナンバーワン?」と再
び聞くと、「そうよ」と。その少し前、近くのビデオレンタルショップで、Aという歌手の、巨大なポ
スターを見たことがある。

 地方に住んでいると、「東京文化」という言葉をよく耳にする。経済や産業は別として、こと「文
化」について言うなら、東京文化は、劣悪。醜悪。低劣。しかし悲しいかな、その東京文化が、
この日本を支配している。たとえばAという歌手が、東京という地方だけで有名なら、私はそれ
はそれで構わない。しかしその東京という地方で有名になると、そのまま日本全体で有名にな
る。否応なしに、そうした情報は、私たちの地方にも流れてくる。私たち地方に住む人間には、
そうした情報の選択権すら、ない。

 おかしな発音。
 文章になっていない、言葉。
 思考力もIQも、ゼロ。
 歌も聴いたが、音程がズレている!

 ……私は、Aという女性歌手を見ながら、そう感じた。失礼か失礼でないかということになれ
ば、ああいう低劣な女性歌手を、地方の私たちに押しつけるほうが、よほど、失礼というもの。
が、もし私がここで、そのAという女性歌手の実名を書けば、私は若い人の袋だたきにあうだろ
う。しかしそれ以上に、かわいそうなのは、ああいう女性歌手というより、若い人たち自身であ
る。その背後でうごめくプロダクションの巧みな商魂に、操られるまま操られている。

 もっとも、批判されるべきは、Aという女性歌手だけではない。同じようなタイプのタレントは、
五万といる。ほとんどが、そうであると言ってもよい。だからAという女性歌手だけを批判して
も、意味がない。むしろ、Aという女性歌手にしても、そういう流れの中にいるワンオブゼムにす
ぎない。

 ただかわいそうなのは、ここにも書いたように、若い人たちである。操られていることにすら、
気づいていない。さらに、私のような立場のものが、「君たちは、操られているだけだよ。自分
で考えて、一度、冷静に判断してみてごらん」などと言おうものなら、むしろ私のほうを、排斥し
てしまう。しかしあえて、もう一度、言う。

 みなさん、もう一度、Aという女性歌手にせよ、テレビのバラエティ番組をにぎわすタレントに
せよ、冷静な目で見てみてほしい。たまたま昨夜も、あるバラエティ番組では、女性の「巨乳」を
テーマに取りあげていた。若い人たちには興味あるテーマかもしれないが、ああいう番組を見
て、いかに多くの若者たちが、思考力をなくしていることか! 自分を見失っていることか! 
そしてますます低劣、低俗になっていることか!

 最後にワイフもこう言った。「こんな女性がねえ……?」と。私もそれに応じて、こう言った。
「ぼくには、もう、わけがわからない」と。
(0303031)

【チェックポイント】
○あなたの子どもは、毎日、意気揚々と、誇らしげに、園や学校から帰ってくるか。
○あなたの子どもは、どこか遠くの親戚をたずねたようなとき、家や故郷の自慢をするか。
○あなたの子どもは、家の中で、思う存分、体や心を休めているか。またその場所はあるか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(706)

はやし浩司の子育て格言

●大きな魚は、下を泳ぐ
 ときどき、一〇〇人に一人とか、二〇〇人に一人とかいう、優秀な子どもに出会うことがあ
る。遺伝子そのものが違うのではないかと思われるような子どもである。D君(年中児)もそうだ
った。しかしはじめてD君に会ったとき、私は、D君は、何か問題のある子どもだと思った。何を
言っても、反応がなく、じっと黙ったままだったからだ。しかしやがて、それがとんでもない誤解
だということを知った。D君にしてみれば、あまりにもレベルの低いレッスンに耐えられなかった
だけだった。やがてD君は、飛び級に飛び級を重ねて、小学四年生になるころには、中学生と
一緒に勉強をするようになった。

 こうした飛びぬけて優秀な子どもというのは、目つきを見て判断する。何かテーマを与える
と、それを何度も頭の中で反芻(はんすう)するような様子を見せる。それに人を寄せつけない
集中力と、緊張感をもっている。そのためむしろ、集団の中では、かえって目立たないことが多
い。『大きな魚は、下を泳ぐ』というのは、そういう意味である。


●ほめるな、顔とスタイル

 子どもはほめて、伸ばす。しかしほめるとしても、やさしさと努力にかぎる。頭については、ほ
めてよいときと、そうでないときがあるので、ほめるにしても、慎重にする。

 しかし顔とスタイルは、ほめないほうがよい。小さいときから、「かわいい」「かっこいい」「スタ
イルがいい」などと言われると、関心がそちらのほうばかりにいってしまうようになる。が、それ
だけではすまない。

 こうした外見を重んじる生きザマは、やがてその子どもの生きザマのあらゆる部分に影響を
与えるようになる。見栄、メンツ、体裁、世間体も、そこから生まれる。さらに人生観そのもの
も、ゆがめることがある。言うまでもなく、外見にこだわればこだわるほど、「私は私、人は人」
という生き方ができなくなる。

 ついでに……

 人間の価値は、中身で決まる。わかりやすく言えば、「心」で決まる。外見、つまり「肉体」は、
あくまでも心を包む、入れものにすぎない。……と言うのは、言い過ぎかもしれないが、肉体な
どというものは、どんなに抵抗しても、やがて老化し、衰える。しかし心はそうでない。いつか人
は、肉体から自分を解き放ち、心の豊かさを求めるようになる。またそうでもしないと、「老い」
からくるさみしさと、戦うことができない。

で、その時期は、早ければ早ほどよい。もっとわかりやすく言えば、外見にこだわればこだわる
ほど、心の豊かさを求めるための時間が、犠牲になる。あるいはそのスタートが、遅れる。若
い人には、未来は永遠だが、老人には、過去は、一瞬でしかない。そして老人は自分の過去
を振りかえりながら、残された先の時間も、一瞬であることを知る。「急がねばならない」という
思いは、同時に、「なぜ、もっと早く始めなかったのだ」という思いに変わる。

 子どもたちの人生は、子どもたちの人生だが、しかしできるなら、子どもたちには、あまり回り
道をしてほしくない。できるだけ若いときから、心の豊かさを求めてほしい。そういう願いもこめ
て、私は改めて、こう思う。「ほめるな、顔とスタイル」と。
(030331)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(707)

低俗文化

 Aという女性歌手がいる。若い人たちの間では、少し前まで、人気、ナンバーワンだった。で、
その歌手が、あるテレビ番組に、レギュラーで出ることになった。(たまたまチャンエルをかえた
ら、レギュラーで出ていることがわかったというほうが、正しいが……。)私は、そのHを見て、
驚いた。目が、死んだ魚の目ように、どんよりとしていた。にごっていた!

 「あれが、A?」と聞くと、ワイフは、「あれがそうよ」と。「あんな女性が、ナンバーワン?」と再
び聞くと、「そうよ」と。その少し前、近くのビデオレンタルショップで、Aという歌手の、巨大なポ
スターを見たことがある。

 地方に住んでいると、「東京文化」という言葉をよく耳にする。経済や産業は別として、こと「文
化」について言うなら、東京文化は、劣悪。醜悪。低劣。しかし悲しいかな、その東京文化が、
この日本を支配している。たとえばAという歌手が、東京という地方だけで有名なら、私はそれ
はそれで構わない。しかしその東京という地方で有名になると、そのまま日本全体で有名にな
る。否応なしに、そうした情報は、私たちの地方にも流れてくる。私たち地方に住む人間には、
そうした情報の選択権すら、ない。

 おかしな発音。
 文章になっていない、言葉。
 思考力もIQも、ゼロ。
 歌も聴いたが、音程がズレている!

 ……私は、Aという女性歌手を見ながら、そう感じた。失礼か失礼でないかということになれ
ば、ああいう低劣な女性歌手を、地方の私たちに押しつけるほうが、よほど、失礼というもの。
が、もし私がここで、そのAという女性歌手の実名を書けば、私は若い人の袋だたきにあうだろ
う。しかしそれ以上に、かわいそうなのは、ああいう女性歌手というより、若い人たち自身であ
る。その背後でうごめくプロダクションの巧みな商魂に、操られるまま操られている。

 もっとも、批判されるべきは、Aという女性歌手だけではない。同じようなタイプのタレントは、
五万という。ほとんどが、そうであると言ってもよい。だからAという女性歌手だけを批判して
も、意味がない。むしろ、Aという女性歌手にしても、そういう流れの中にいるワンオブゼムにす
ぎない。

 ただかわいそうなのは、ここにも書いたように、若い人たちである。操られていることにすら、
気づいていない。さらに、私のような立場のものが、「君たちは、操られているだけだよ。自分
で考えて、一度、冷静に判断してみてごらん」などと言おうものなら、むしろ私のほうを、排斥し
てしまう。しかしあえて、もう一度、言う。

 みなさん、もう一度、Aという女性歌手にせよ、テレビのバラエティ番組をにぎわすタレントに
せよ、冷静な目で見てみてほしい。たまたま昨夜も、あるバラエティ番組では、女性の「巨乳」を
テーマに取りあげていた。若い人たちには興味あるテーマかもしれないが、ああいう番組を見
て、いかに多くの若者たちが、思考力をなくしていることか! 自分を見失っていることか! 
そしてますます低劣、低俗になっていることか!

 最後にワイフもこう言った。「こんな女性がねえ……?」と。私もそれに応じて、こう言った。
「ぼくには、もう、わけがわからない」と。
(0303031)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(708)

二人ぼっち

 「ひとりぼっち」と書くときは、「独りぼっち」と書くのが正しい? それとも、「一人ぼっち」? し
かし「ふたりぼっち」は、やはり「二人ぼっち」?

 どちらにせよ、このところ、ワイフとの会話で、この言葉がよく出てくるようになった。「ぼくたち
は、二人ぼっちだし……」とか、「二人ぼっちになってしまったね」とか。

 子育てが終わると、どんとやってくるのが、老後。今でも、何となく子育てはつづいているが、
それは金銭的な援助だけ。実際には、末っ子が大学へ入学したり、社会へ出たりすると同時
に、たいていの人は、子育てを終える。そして、それまで気づかなかった、老後を、そこに感ず
る。

 若いときは、体力も気力も、永遠につづくものと思いがち。老年の人たちがヨボヨボしている
のを見たりすると、「どうしてシャキッとできないのか?」などと、思ったりする。しかしその体力
や気力は、決して、永遠のものではない。

 まず体力だが、これは年齢とともに、少しずつ衰える。同じ運動をしても、若いときのように長
くはつづかない。すぐ疲れる。そしてその疲れが長く、残る。

 気力は、衰えるというよりも、変化する。若いときは、休みになれば、あちこちへ出かけ、変わ
ったことをするのが、楽しかった。しかし老年になると、「どこかでのんびりしたい」「家の中でゴ
ロゴロしていたい」というふうに、意識そのものが変わる。たとえば私は、四〇歳代のはじめの
ころには、山荘づくりに情熱を注いだ。しかし今、同じことをしろと言われても、とてもできない。
その気分にすらなれない。今では、「よく、あんな面倒なことを、毎週、毎週したものだ」と、ヘン
に感心したりする。「面倒なこと」というのは、ユンボを運転し、土地づくりをしたり、石垣を組ん
だりしたことをいう。

 が、それ以上に大きく変化するのは、人間関係ではないか。子育ての最中というのは、子ど
もとの人間関係に埋没してしまうため、その分、外の人たちとの人間関係が、おろそかにな
る。子ども中心の人間関係といってもよい。PTAの活動にしても、子どもの部活動、さらには進
学の問題にしても、その中心には、いつも子どもがいる。

 しかしこうした人間関係は、子どもの巣立ちとともに、消滅する。そして気がついてみると、そ
れ以外の人間関係がない? ここでいう「二人ぼっち」という感覚は、どうやら、そういうところ
から生まれるらしい。

 結局は、残されるのは、夫婦だけ? 私のばあい、それはちょうど、ザワザワした川の流れ
の底に、小石を見つけたような感じだった。何ともおかしなたとえだが、私はそう感じた。若いと
きは、陽光を浴びて、川の表面がキラキラと光る。光るから、川の底が見えない。しかし気がつ
いてみると、その下に、きれいな小石があった。

 「二人ぼっちになってしまったね」と私。
 「そうね」とワイフ。
 「どうせ二人ぼっちだから、うんと、楽しいことをしようか」
 「どんなこと?」
 「手始めに、富士宮へ行ってみないか?」
 「何をしに?」
 「名物の焼きそばを食べるのさ」
 「いいわね」と。

 さて、今は、春休み。四月四日まで、まるまるの休み。今のうちに、二人ぼっちを、うんと楽し
むか……と、そう思った。で、今日は、その富士宮まで行くつもり。さてさて電車で行こうか、車
で行こうか……?
(030331)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(709)

心を開かない子ども

●EAさんの相談から

うちの子(小二)は、ほとんどよその子と、遊びません。他人と関わるのが、苦手なようです。家
の中では、ふつうだと思っていたのですが、このところ、ときどき荒れて、暴言を吐いたり、私に
向かって、突発的に、暴力を振るったりするようになりました。どうしたらよいでしょうか? (佐
賀県・EA、母親)

●子どもらしい、すなおさ

家族も含めて、他人との関わりがうまくできない子どもが、ふえています。要するに、心を開くこ
とができないわけです。子どものばあい、心を開くことができるかどうかは、やさしくしてあげる
と、わかります。心を開くことができる子どもは、やさしくしてあげたり、親切にしてあげたり、ほ
めてあげたりすると、こちらの好意が、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかり
ます。

 先日も、一台の車が自転車に乗っている私の横を通り過ぎました。見ると、うしろの座席に、
五歳くらいの男の子が乗っていました。そこで私が、少しおどけた顔をして見せると、その子ど
もは、ニンマリとうれしそうな顔をしました。他人に対して、心を開くことができる子どもは、そう
いう様子を、自然な形でしてみせます。「自然」というのは、「子どもらしい」という意味です。

 が、心を開くことができない子どもは、その瞬間、いじけたり、つっぱったり、ひがんだり、ひ
ねくれたりします。こちらの思いや、好意が、そのまま拒絶されてしまうわけです。さらにこの症
状がひどくなると、そうした反応そのものまで、しなくなります。心の閉じた子どもと、みます。

●子どもの心は、抱いてみればわかる

 ふつう子どもというのは、心が開いているか、あるいは開くことができるかは、抱いてみるとわ
かります。心を開いている子どもや、開くことができる子どもは、抱いてあげると、スーッとこち
ら側に、身を寄せてきます。そして力を抜いて、体を任せてきます。が、そうでない子どもは、体
をこわばらせ、かたくします。無理に抱いたりすると、まるで、丸太を抱いているかのようなりま
す。

 この話を、ある懇談会ですると、一人の父親がこう言いました。「子どもも、女房も同じです
な」と。

 つまりたがいに心を開きあっているときは、女房も、抱き心地がよいが、そうでないときは、そ
うでない、と。不謹慎な話ですが、まちがってはいないようです。

 が、問題は、ここで終わるわけではありません。心を開けない、あるいは開くことができない
子どもは、それだけ孤立します。いつも追いつめられた孤独感を覚えるようになります。しか
し、この孤独感は、それ自体が、苦痛をともなうもので、人は、そして子どもは、無意識のうち
にも、それを避けようとします。

●自己防衛

 ここでまず、二つのタイプに分かれます。孤独感を、攻撃的に処理しようとするプラス型。孤
独感を受け入れてしまう、マイナス型です。これを心理学の世界では、防衛機制といいます。い
わば心を守るための自己防衛機能のことです。

 プラス型の子どもは、自分の周辺に、強引に「孤独でない環境」をつくろうとします。わがまま
を言ったり、ときには暴力的に、相手を屈服させたりするなど。極端な例としては、家庭内暴力
があります。このタイプの子どもは、よく親に対して、「こんなオレにしたのは、お前だろうが
ア!」と叫びますが、それは、子どもの中で、子ども自身が、心を開くことができない自分と、は
げしく葛藤(かっとう)するためと考えます。

 マイナス型の子どもは、他人との関係が結べない分だけ、他人に対して恐怖感、不信感、拒
絶感を覚えます。そこで他人に対して、依存性をもったり、服従的になったりします。少ないで
すが、相手に同情を求め、相手に「かわいそうな子ども」と思わせることで、自分にとっては、居
心地のよい世界をつくろうとする子どももいます。さらに症状がひどくなると、他人との関わりそ
のものを回避するようになります。極端な例としては、引きこもりがあります。

●EAさんのお子さんは……

 そこでまず、EAさんの子どものばあい、これらのどのタイプの子どもかを、判断しなければな
りません。たとえば「心を開くことができない子ども」というとき、最初に思い浮かぶのが、自閉
症児や、自閉傾向のある子ども、さらには、かん黙児などがいます。しかしこのタイプの子ども
は、いわば症状として、様子がはっきりとわかる子どもをいいます。こうした症状が、その前の
段階で、よくわからない子どもも、少なくありません。

 私は「濃い」「薄い」という言葉を使います。同じ心の問題をかかえていても、その症状が、濃
い子どももいれば、薄い子どももいるということです。先にあげた、家庭内暴力を繰りかえす子
どもにしても、引きこもりを繰りかえす子どもにしても、「濃い」子どももいれば、そうでなく、症状
が軽く、判断がしにくい「薄い」子どももいます。精神医学の世界では、「重い」とか、「軽い」とか
いう言葉を使いますが、私は、これらの言葉が、好きではありません。好きではないというよ
り、症状を適切に説明していません。それで「濃い」「薄い」という言葉を使っています。

 で、その上で、EAさんのお子さを考えると、いわゆる「内弁慶、外幽霊」ということになりま
す。一般的に、他人との関わりがうまくできない子どもは(おとなも)、他人と関わるだけで、精
神的に疲れてしまいます。自分をつくったり、操作したりするようになるからです。

●自分をさらけ出すことができない

 もっとわかりやすく言うと、自分をそのままストレートに出すことに、恐怖感を覚えるからです。
もともと他人を信頼していませんから、他人も、自分の対してそういう目で見ていると考えてしま
うわけです。「こんなことをすれば、他人に笑われる」「こんなことをすれば、他人から、へんな
人間に思われる」と。他人とうまく関われない子どもと言うのは、つまりは他人に対して心を開
けない子どもということになり、さらには、自分をさらけ出すことができない子どもということにな
ります。

 そこでこのタイプの子どもは、外の世界では、自分をつくります。よい子ぶったり、ときには優
等生ぶったりします。いつも他人の目の中で、「自分がどう思われているか」「どう映っている
か」を考えています。心がいつも緊張状態にあると考えてあげてください。その緊張感が、とれ
ない。だから、疲れるわけです。

 問題は、まだつづきます。

●精神疲労

 この緊張状態がつづき、精神的に疲労してくると、子どもは、つぎの三つの方法で、その緊張
状態を解消しようとします。@攻撃型(家の中で、暴言を吐いたり、暴力を振るったりする)、A
内閉型(グズグズしたり、わけのわからないことを言ったりする)、B固執型(ものに異常にこだ
わり、それらを意味もなく集めたり、大切にしたりする)、です。

 EAさんのお子さんは、この中でも、@の攻撃型が疑われます。外の世界で疲れて帰ってくる
分だけ、家の中で、それを解消しようと、荒れるわけです。このタイプの子どもは、外の世界
(学校や塾など)では、たいへんよい子で通ることが多く、また成績も、それなりによいはずで
す。先生に、「しっかりしていますよ」と、ほめられることも、少なくありません。

 が、いただいたメール(注、全文は、掲載を許可してもらえませんでしたので、省略)を読ませ
ていただいた範囲では、いわゆる薄いタイプの、情緒不安定児ということになります。よく誤解
されますが、情緒が不安定だから、情緒不安定児というのではありません。心の緊張状態が、
とれない子どもを、情緒不安定児といいます。その緊張状態の中に、不安や心配が入り込む
と、その心配や不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。つまり情緒が不安定になる
のは、あくまでも、心の緊張感がとれないことによる、結果でしかないということです。

●心の緊張感をとる

 EAさんのお子さんは、そういう点では、心の緊張感がとれない、あるいはとることが苦手、さ
らには、他人に対して、いつも緊張状態にあるとみます。原因は、先にも書いたように、心を開
くことができない、あるいはありのままの自分をさらけ出すことができないところにあります。だ
から疲れる。そしてその疲れた分だけ、それを解消しようと、家の中で荒れるというわけです。

 こうした心のメカニズムがわかれば、おのずと、対処のし方もわかっていただけると思いま
す。

 方法としては、心の緊張感をほぐすということになりますが、しかしこれは口で言うほど、簡単
なことではなりません。というのも、なぜ子どもが、心の緊張感をほぐせないかということになる
と、そのルーツは、乳幼児期まで、さかのぼってしまうからです。

●ルーツは、乳幼児期

 恐らく、お子さんは乳幼児期に、何らかの理由で、神経質な子育て、過干渉、愛情不足など
が背景にあって、子どもの側からみて、全幅に心を開けない状態があったものと、推察されま
す。「自分はどんなことをしても、守られるのだ」「許されるのだ」という、意識しない意識です。
「意識しない意識」というのは、「まったく疑いを抱かない」という意味です。子どもというのは、そ
うした「さらけ出し」をしてはじめて、「心の安心感」を覚えます。覚えるというより、学ぶと言った
ほうが、正確かもしれません。

 つまり乳幼児期に、「安心して、自分をさらけ出すことができなかった」という、無意識の意識
が、心を開くことができない子どもの、根底にあるということ。EAさんのお子さんが、そうだとい
うわけではありませんが、その疑いは、かなり濃厚です。……と言っても、過去をほじくり返して
も、意味はありません。では、どうするか、ですね。

●心の開放を大切に

 最初に、こうした心の問題は、簡単には解決しないということ。これは脳のCPU(中央演算装
置)の問題ですから、子ども自身がそれに気づくということは、まずありません。子ども自身が、
長い人生の中で、無数の経験をしながら、やがて自分で発見するしかありません。恐らくその
時期は、晩年になってからではないでしょうか。それまでは、その子どもといえども、「私は私」
と思ったままでしょう。

 そこでまわりの者、なかんずく親たちがどうするかということです。方法としては、@子どもの
心の開放を考える。……たとえば、家の中で暴言を吐いたり、ときに暴力を振るっても、「あ
あ、この子は外でがんばっているから、家の中では荒れるのだ」と思いなおすことです。力ずく
でそれを押さえつけたり、威圧してはいけません。そうすればするほど、子どもはますます行き
場所をなくしてしまいます。

●ひとり、のんびりとさせる

 つぎにA心の緊張感を取りのぞくことを考える。……このタイプの子どもは、何らかの方法
で、自分の心の中にたまった緊張感を取りのぞこうとしているはずなので、それを観察してみ
てください。何かモノにこだわったり、それを集めたりするなど。あるいは、魚釣りに行くとか、ゲ
ームに夢中になることもあります。そういう行為のほとんどが、親から見れば、つまらないもの
に見えるかもしれませんが、頭から「ダメ!」式に禁止してはいけません。そのときも、「ああ、う
ちの子は、こういう方法で、心の緊張感をほぐそうとしているのだ」と思いなおしてあげてくださ
い。

 三つ目に、Bひとりでいる時間を大切にする。……過関心、干渉、過心配は、かえって子ども
の心を窮屈(きゅうくつ)にしますので、注意してください。学校から帰ってきたら、ひとり、だれ
にも(親にも)干渉されないで、のんびりとくつろげる環境を用意してあげます。親の視線そのも
のを感じさせないようにするのがよいのですが、実際には、これがむずかしいようです。

そこで大切なことは、親自身が、子育てとは離れた世界で、自分のしたいことをすることです。
つまりその結果として子どもから視線をはずすようにします。「何とかしなければ……」とあせれ
ばあせるほど、かえって親自身が、あり地獄の巣の中に落ちてしまいますから、注意してくださ
い。

●スキンシップを大切に

 あとはCスキンシップと食事に注意する。……子どもの心の問題の特効薬は、スキンシップ
です。EAさんのお子さんは、小学二年生ということですから、まだスキンシップが重要であり、
効果的な時期です。添い寝、抱っこ、手つなぎなどは、濃厚にしてあげてください。この際、「抱
きグセがつく」とか、「依存心がつく」とか、そういうことは、あまり考えないようにしてください。子
どもの側からみて、「全幅に心を開いても、だいじょうぶ」という状態をつくるように心がけます。

 しかしここで注意しなければならないことは、仮にこういう状態にしたからといって、明日とか、
来月とかに、症状が消えるわけではないということです。先日も同じようなケースで、相談してき
た母親がいました。それで同じような返事を書いたのですが、その数日後(たったの数日!)、
その母親は、またこんな相談をしてきました。「先生の言ったとおりにしていますが、効果が現
れてきません」と。

●心の問題は、一年単位で

 子どもの心を開放させるというのは、簡単なことではありません。一年や二年、あるいはもっ
と時間がかかることです。子どもの心というのは、一年単位で、観察し、判断しますが、その一
年でも、短いほどです。それこそ気が遠くなるほどの根気が必要ということです。

 それにこうした子どもの心の問題は、たいていは(あるいはまちがいなく)、親自身の姿勢に
原因があるため、それが改められないと、簡単には解決しません。もっとはっきり言えば、あな
たという親自身の問題だということです。あなた自身が、子どもが心を開くのを許していなかっ
た。今も許していない。あなたはひょっとしたら、子どもが乱暴な言葉を使ったとき、「親に向か
って、何よ!」式のことを、言ってはいませんか?

 あとは食生活を改善します。心の緊張感をとると同時に、動揺させないことを考えます。CA
やMGが効果的なことは言うまでもありません。はやし浩司(私)のサイトのどこかに詳しく書い
ておきましたので、参考にしてください。

 全体としてみれば、EAさんのお子さんの症状は、たいへん軽く、いわゆる情緒障害の症状と
しても、たいへん「薄い」ものと考えられます。こういうケースでは、コツは、そういった症状を
「治そう」とか「直そう」と考えるのではなく、「今の状態を、これ以上悪くしない」ことだけを考え
て対処することです。なおそうと思っても、なおるものではありません。はっきり言えば、あきら
める。今のお子さんの様子は、今までの一〇年間の総決算のようなものです。そこでこう考え
てみてください。一〇年後に、これからの一〇年間の総決算が現れる、と。この問題は、そうい
う視点で考えます。あせりは禁物。あせればあせるほど、EAさんも、そしてお子さんも、さらに
底なしの悪循環の世界に落ちてしまいます。どうか、ご注意ください。
(030401)

【追記】
 心を開くことができる、開くことができないの問題は、全人格的な問題ですね。夫婦生活を二
〇年以上もしていながら、心を開けない夫や妻は、いくらでもいます。夫婦生活のどこかに問
題があるというよりは、その人自身の根源的な問題だからです。いわんや、子どもを、や。

 そういう意味では、乳幼児期の子育ては、たいへん重要です。この時期に、子どもの心の方
向性が決まってしまうということです。そして一度決まると、その軌道修正は、ほとんど不可能と
いうことになります。あとは、その子どもが、いつか自分で気がついて、自分で軌道修正するし
かないということになります。しかしそれとて簡単なことではありません。その人自身が、それま
で、無数の失敗と、葛藤(かっとう)を繰り返すことになります。

 あなたはどうですか? あなたはだいじょうぶですか? あなたは他人に対して、心を開いて
いますか? 心を開くことができますか? 他人はともかくも、あなたの夫や妻、あるいはあな
たの子どもに対して、心を開いていますか? 開くことができますか?

 もしそうでないなら、一度、あなたの幼児期をさぐってみてください。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(710)

子どもの書き順について

 どうして日本語には、トメ、ハネ、ハライがあるのか。その上、書き順まである! 加えて、そ
れぞれの字には、微妙なカーブすら、ある! 仮にそれがあるとしても、どうしてこうまで、毛筆
時代の遺物を、かたくなに守らねばならないのか? またその必要はあるのか?

 現在、私たちが書き順(正式には「筆順」という)が、正式に(?)に定められたのは、一九五
八年。時の文部省が通達した、「筆順指導の手びき」による。私が一一歳のときのことだが、
私はそのときのことを、よく覚えている。それまでは、教える先生によって、書き順が異なって
いた。が、その年から、「今までの書き順は、正しくありませんでした。これからはこういう書き
順に統一されました」というようなことになった。

 で、その「筆順指導の手びき」によれば、こうだ。

(1)上から下へ、筆を運ぶ。
(2)左から右へ書いていく。
(3)横画が長く、左払いが短い字では、左払いが先。その逆は横画が先。
(4)字の全体を串刺しするような縦の「│」は最後、など、八つの項目が定められた。

ところで「左」と「右」という字は、書き順が異なる。「左」は、「─」を先に書く。「右」は、「ノ」を先
に書く。この根拠となっているのが、(3)の「横画が長く、左払いが短い字では、左払いが先。
その逆は横画が先」である。しかし私などは、何度、覚えても、この書き順を忘れてしまう。しか
しそれでは生徒を指導できない。そこで自分で、「道路で左右を見るときは、横見てノー、自動
車に気をつけよう」と覚えている。つまり「左右」の「左」という字は、まず「横棒を先に書き、
「右」は、「ノ」を先に書いて、自動車に気をつける、と。(この説明がわからない人は、ここを飛
ばしてほしい。どうせくだらないことだから……。)

 しかしそれにしても、くだらない! まったくくだらない! どうして字を下から上に書いてはい
けないのか。幼児でも、はじめて字を覚えたころの子どもは、みんな下から上に書く。英語のア
ルファベットなどは、ほとんどが下から上に書く。鏡文字(左右反対の文字)や、逆さ文字がい
けないのは、わかる。しかし文字の使命は、見た目の美しさではない。中身だ。

 日本人に一番欠けているもの、それに一番必要なものは、「いいかげんさ」ではないのか。も
っとはっきり言えば、日本人は、あまりにも画一的すぎる。また画一的でありながら、それにす
ら気づいていない。尾崎豊の言葉を借りるなら、まさに「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、そ
れを自由と思い込んでいるだけ。その一つが、ここでいう書き順である。

 もう、やめよう! こういうくだらない教育は! そしてみんなが声をあげればよいのだ。そし
ていつか、子どもたちにこう言えるようにしよう。「書き順はね、だいたい書ければいいのよ。あ
とは、あなたが好きなように書きなさい」と。そういうおおらかさが、子どもの心に風穴をあけ
る。もし、それがまちがっているというのなら、では、あなたは、つぎのテストで、いったい、何点
取れるだろうか?

【問】つぎの字の中で、「ノ」「─」の順に書く字は、どれか。

  左、右、在、原、布、成、皮

 この問題は、今年、京都市の私立R中学校の入試で出た問題である(読売新聞指摘)。もし
あなたが、この問題で、正解を答えられるなら、私は何も言わない。しかしそうでないなら、あな
たもいっしょに私と声をあげよう。

 「書き順なんか、いらない!」と。

ちなみに、この問題の正解は、「右、布、成、皮」だそうだ。ああ、くだらない。こんなこと試す中
学校なんか、私なら、こちらから願いさげ。行きたくない! 
(030401)

++++++++++++++++++++++++
【参考】
以前、発表した原稿を掲載しておきます。
++++++++++++++++++++++++
エビでタイを釣れ!
教育が型にはまるとき

●「ちゃんと見てほしい」
 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そ
ういうときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっ
ているのに、どうして丸をつけるのか!」と。

●「型」にこだわる日本人
 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。私の
二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意された。
書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願する
と、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうが
よい」と。そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまっ
た。書き順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなく
なってしまった。
 
一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。壁に張ら
れた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生(小
三担当)は、こう話してくれた。「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないの
です。発音が違えば、スペルも違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、
ルール(文法やスペル)ではなく、中身です」と。

●「U」が二画?
 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が一〇年ほど前、この浜松市であった。その
会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。「U
は、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにMとWは
四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、この
日本にあるとは! そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、二五度傾けて書けと教えら
れたことがある。今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本
の教育はおもしろくない。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになっ
てしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの
文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だいたいこのコンピュータの時代に、ハ
ネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体どこに
あるのか。「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子どもを型に押し込めようとすればするほ
ど、子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。

●左利きと右利き
 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それで
よし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚える。オ
ーストラリアでは、すでに一〇年以上も前に小学三年生から。今ではほとんどの幼稚園で、コ
ンピュータの授業をしている。一〇年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーディ
スクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒が、
常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、ハ
ネだ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。左利きにしても、人類の約
五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どちらか一方の大脳が優位に
たっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決まるという
生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決まるが、ど
の説にせよ、左利きが悪いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確
かに右利き用にはできているが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

●エビでタイを釣る
 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人
はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)
を、そいでしまう。

(付記)
●私の意見に対する反論
 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその一つ。
それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教えておかな
いと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌
悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが美しい」と誰が決めたのか? それはその道
の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、勝手に押しつけてもらっては困る。要はバラ
ンスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝えること。「型」ばかりにこだわっていると、
文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。

(参考)
●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇年調査)によ
れば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)のうち、五三%
が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また同じ調査だ
が、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題について無
回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二九%! 文部科
学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)と
コメントを寄せている。

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(711)

ジョーク

 私が今まで、聞いたジョークの中で、「これは!」と思ったのが、これ。

●ジムはクソッタレ!

 ある朝、ジム・クリントン大統領が起きてみると、ホワイトハウスの周囲は、一面の銀世界。
前日から降った雪が、三〇センチほど積もっていた。が、クリントン大統領がふと窓の外をみ
ると、明らかに、小便で書いたと思われる字で、「ジムのクソッタレ!」とあった。

 怒ったクリントン大統領は、FBIの長官を呼びつけ、だれが書いたかを調査するように命じ
た。

 で、数時間後、FBIの長官がクリントン大統領のところにやってきて、こう言った。

 「ミスター大統領、よいニュースと悪いニュースがあります。よいニュースは、あの文字の小便
は、ゴア副大統領のものとわかったということです。しかし悪いニュースがあります」と。

 クリントン大統領は、緊張した様子で、こう言った。「遠慮せず、悪いニュースを言いたまえ」
と。すると、FBIの長官は、こう答えた。「筆跡は、ヒラリー夫人のものと判明しました」と。


●鳴らなかった鈴

ある寺の住職が、老齢になり、つぎの住職をだれにするかで悩んでいた。そこで坊主たちを本
堂に集めて、こう言った。「私の命は、この先、もう長くない。そこでお前たちの中から、つぎの
住職を選ばねばならなくなった」と。

 そこで法主は、坊主たちを裸にさせると、それぞれのチンチンの先に小さな鈴を結ばせた。
そしてこうつづけた。

 「お前たちの中で、一番、煩悩(ぼんのう)を捨て去ったものを、つぎの住職とする」と。

 しばらく坊主たちが静かに座っていると、数人の素っ裸の女が、本堂に入ってきた。そして体
をくねらせて、踊り始めた。とたん、チリチリとあちこちで、鈴がいっせいに、鳴り始めた。それ
を聞いて住職が、「やはりだめか……」と思っていると、一人だけ鈴の鳴らない坊主がいた。そ
こで住職は、その坊主のところに近寄り、こう言った。

 「お前こそ、つぎの住職にふさわしい男だ。よく、がまんした」と。

 するとその坊主は、こう言った。「いえ、ご住職さま、私の鈴は、とっくの昔に、吹っ飛んでしま
ったのです……」と。


●森首相の英語

 森首相が、アメリカのクリントン大統領に会うことになった。そこで急きょ、英会話を習うことに
した。で、外務省の高官が、森首相にこう教えた。

 「大統領に会ったら、『ハウ、アー、ユー?(ごきげんいかがですか)』と言いなさい。そしてそ
のあとクリントン大統領が何かを言ったら、『ミー、ツー(私も、です)』と答えればいいです」と。

 で、クリントン大統領に会うと、森首相は、こう言った。

森「フー・アーユー?(あなたはだれですか)」
ク「私は、ヒラリーの夫です」
森「ミー・ツー(私も、です)」と。

(注、これはジョークではなく、本当にあった話という説もある。)


●亀子という女

昔、亀子という若い女がいた。そのころは、夜這いが、半ば風習のようになっていて、毎晩、亀
子の家には、男たちが夜這いにやってきた。が、気が気でなかったのが、亀子の母。何度亀
子を叱っても、亀子は、それをやめなかった。

 そこで母は、亀子の横で添い寝をすることにした。男が入ってきたら、男を追い払うつもりで
いた。が、亀子はそれを嫌って、母と反対向きに寝た。

 その夜も、一人の男が亀子の部屋に入ってきた。そしていつものようにセックスを始めようと
した。が、まちがえて母の口の中に、アレを入れてしまった。驚いたのは母。母には歯がなかっ
た。

男「オオオ……」
母「フガフガ……」
男「オオ、亀や、亀や」
母「かめん、かめん」
男「亀や、亀や」
母「かめん、かめん」と。
(030402)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(712)

自由

 今さらわかりきったことだが、「北朝鮮は、世界最大規模の監獄体制」(アメリカ・スコット・カー
ペンター国務次官補)(四月一日、外信センターにて)だ、そうだ。「北朝鮮は、最悪的で、もっと
も恐ろしい最大規模の監獄である。北朝鮮の問題は、根本的な問題であり、アメリカとしては、
いかにその状況を解決すべきか、見当もつかない」とも。しかしそれを笑う日本が、では、本当
に自由な国かというと、それは疑わしい。日本は、世界に名だたる、管理国家。管理、管理
の、管理国家。奈良時代の昔から、中央官僚による管理国家。

 自由というのは、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。もちろんこの日本
にも、自由がある。しかしその自由は、まさに「しくまれた自由」(尾崎豊)でしかない。その範囲
で、そこそこのことをする自由は、ある。しかしそれを超えての自由は、ない。昨年、こんなこと
があった。

 アメリカのヒューストン国際空港で、国内便に乗りかえたときのこと。たまたま豪雨で、出発
が、半時間ほど、遅れた。飛行機では、よくあること。で、私とワイフは、そのまま飛行機の中
で出発時間を待った。そのときのことだ。

 飛行機は、双発のターボプロップ機。乗客は、四〇〜五〇人ほどだった。見ると、飛行機の
中で、雨漏りがしているではないか! 多分、排気口のどこからか、雨が逆流してきたに違い
ない。その雨が、ポタポタというより、もう少し大粒の雨が、パラパラと落ちているといった感じ
であった。

 私が驚いたのは、雨漏りしていることもさることながら、その下にいる太った大男が、頭と肩
を雨でぬらしながら、平気で、座席に座っていることだった。ときどき、天井を見あげるようなこ
とはしていたが、それほど、気にしていないといったふう。そこへ一、二度、スチュワーデスがや
ってきて、タオルで座席を拭いたりしていたが、スチュワーデスも、それほどあわてているといっ
たふうでもなかった。

 あいにくと飛行機は満員で、ほかに空いた席もない。多分、スチュワーデスは、「離陸すれ
ば、雨漏りも止まりますから」というようなことを言ったと思う。男はその席に座ったまま、そして
頭から背中を、雨でビショビショにぬらしながら、何と、配られたスナック菓子を食べ始めたの
だ……!

 私とワイフは、その光景を見ながら、「ああ、これが自由なんだなあ」と、どこか場違いな印象
をもった。日本ならこういうとき、乗客は、ワーワーと騒ぐに違いない。「雨が漏る」「服がぬれ
る」「何とかしろ!」と。

 人間は管理されればされるほど、その管理に対して服従的になる。管理する者に対して、依
存性をもつようになる。いわゆる保護と依存の関係が、そこで生まれる。つまり保護と依存の
関係が深まれば深まるほど、一方で、自由を犠牲にすることになる。印象に残っている事件
に、こんなのがあった。

 もう一〇年ほど前のことだが、北九州で、カラカラ天気がつづき、断水騒ぎが起きたことがあ
る。そのときのこと、テレビのカメラに向かって、「(水不足は)行政の怠慢だ。行政は責任をと
れ」と叫んでいた男性(五〇歳くらい)がいた。

 ちょうどそのころ、私とワイフは、山荘に引く水で苦労をしている最中だった。山荘の水は、約
五〇〇メートル離れた山から、パイプで引いた。もちろん工事は、自分たちでしなければならな
かった。その上、少し大雨が降ると、パイプはつまる。雨が少なければ、断水する。「水」という
のは、簡単に手に入るものではない。それをいやというほど、思い知らされていたから、その男
性の言葉を聞いたとき、私は思わず、こう叫んでしまった。「何を、甘ったれたことを言ってい
る!」と。

 そう、保護、依存の関係は、まさに「甘ったれた関係」そのものと言ってもよい。言うまでもな
く、こうした甘ったれた関係に、どっぷりとつかればつかるほど、自由が犠牲になる。自由の価
値がわからなくなる。

 たとえば数年前だが、あのミシシッピー川が大雨で氾濫(はんらん)したことがある。そのとき
州政府は、ミシシッピー川の護岸堤防工事を申し出たが、それに反対したのが、何と地元住民
たちである。その理由が、おもしろい。地元住民たちは、こう言った。「護岸工事をすれば、川
の美観をそこねる。莫大な費用もかかる。こうした洪水は、何十年に一度しかない。家が流さ
れたら、その分、家を補償してくれたほうが、よい。費用も安くつく。税金をムダにしない」と。

 一方同じころ、名古屋市のあるところで、大雨が原因で、浸水騒ぎが起きた。そのときその
地域の住民たちは、「浸水は、行政の怠慢が原因」という理由で、市を訴えた。現在も係争中
らしい。だからといって、名古屋市のその住民たちのしたことがまちがっているというのではな
い。しかしあまりにも、「自由」に対する考え方が違うので、私は驚いた。

 もちろん教育とて例外ではない。日本のように、学校を離れて道はなく、学校以外に道はない
という世界では、学校が、まさにすべてになる。子どもが不登校を起こそうものなら、それだけ
でたいていの親たちは、半狂乱になる。一方、アメリカでは、子どもが落第を勧められると、親
は、喜んで、それに従う。「喜んで」だ。これはウソでも、誇張でもない。むしろ親のほうから、落
第を求めていくケースも多い。「うちの子は、今の勉強がまだよくわかっていないようだから、も
う一年、落第させてくれ」と。

 自由とは何か。もう一度、私たちは静かに考えてみるべきではないだろうか。先日も、北朝鮮
の人たちが、テレビのインタビューに答えて、こう言っていた。「私たちは、将軍様の指導のも
と、豊かな生活を楽しんでいます。自由がないなんていうのは、まったくのウソです」と。そういう
北朝鮮の人たちの意見を聞いていると、「では、日本人はどうなのか」と、そこまで考えてしま
う。北朝鮮の人たちは、外から見た世界はどうであれ、自分たちは自由だと思い込んでいる?

 さて、今、アメリカは、イラクで、戦争をしている。「イラクを解放する」というのが大義名分にな
っているようだが、その背景には、こうした「自由観」の違いがある。「イラクを解放する」と言わ
れても、どうも日本人には、ピンとこない。こないから、日本人は、「アメリカが戦争するのは、
石油の利権のためだ」とか、何とか言う。たしかにそういう側面はないわけではないが、しかし
彼らがもつ自由観は、日本人がもつ自由観とは、根本的な部分で異質なものである。わかりや
すく言えば、その自由観を理解しないかぎり、アメリカがなぜ戦争をするのか、その理由を理解
できない。

 さて、遠く離れたアメリカが、なぜ、アジアの問題に触れ、「北朝鮮は、世界最大規模の監獄
体制だ」と言うのか。言うことができるのか。反対に、なぜ、その隣の国の日本が、それを言わ
ないのか。言うことができないのか。その違いも、結局は、「自由」に対する意識が、アメリカと
日本では違うことに由来する。
(030403)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(713)

いかに老いるか?

 山荘に向かう車の中で、私はS氏の話をした。たまたま今日の午前中、私の家に寄ってくれ
た友人から、S氏の話を聞いた。それをワイフに話した。ワイフは、興味深そうに、私の話に耳
を傾けていた。

●莫大な資産家のS氏

 S氏は、元国立大学教授。現在八一歳。その大学の学部長まで勤めた。そのあと、ある私立
大学の教授を歴任し、現在は、悠々自適の隠居生活。いくらとは書けないが、一般人とはかけ
離れた年金を手にし、ごく最近まで、ある財団の理事長までしていた。が、S氏で驚くのは、そ
のことではない。ある地方都市に、数千坪単位の土地をもっている。「管理と相続税がたいへ
んだから、土地なんかいらないですよ」と、昔、S氏が私に、さも自慢げに、そうこぼしたのを覚
えている。

 そのS氏が、数年前、前立腺ガンを患った。年齢も年齢だからということで、結局、手術はし
なかった。しかしそのガンが、最近、大腸に転移したという。こちらのほうは手術をしないわけ
にはいかないので、その手術をしたという。S氏の妹氏(七八歳)は、こう言った。「転移したと
いうことですから、もうダメでしょう」と。

 しかしそのS氏。私が驚いているのは、そのことではない。何とそのS氏、たった一〇坪足ら
ずの土地のことで、今、T氏という人と、裁判で争っている。T氏はこう言った。「つい先日も、電
話で、私に三〇分以上、怒鳴りました」と。「どんなことで?」と私が聞くと、T氏はこう言った。

 「S氏はこう言うのですね。『あの土地は、私が三〇年来、管理してきたものだ。毎年、シルバ
ー(人材センター)に頼んで、草刈りもしてきた。登記簿がどうなっているか知らないが、取得時
効で、私のものだ。もしお前の土地なら、管理費を全額返せ』と、です」と。

 その土地というのが、私の近所の土地のことで、私は一度、S氏とT氏が、道路をはさんで、
怒鳴りあっているのを、たまたま見かけたことがある。しかしそれはふつうの喧嘩ではなかっ
た。この喧嘩については、以前、私のコラムに書いたので、それはそれとして、私は、S氏の心
情が、どうにもこうにも、理解できない。

 元大学教授。
 現在、八一歳。
 前立腺ガンから、大腸ガンを併発。
 数十億円もの資産家。
 言い忘れたが、子どもはいない。
 現在は、妻と二人暮し。
 そのS氏が、たった一〇坪のことで、裁判を起こし、今、その所有権を争っている!

 私はワイフにこう言った。「S氏の人生って、何だったのだろうね?」と。するとワイフは、こう
言った。

 「歳をとると、がんこになるという人の話は、私は、前にも聞いたことがあるわ」
 「しかし、元教授だぞ。知性や理性のかたまりのような人だぞ」
 「……そうではないということね」
 「しかし、もしぼくが今、S氏なら、つまりS氏の立場なら、もう人と争う気力など、ない」と。

 私とワイフは、車の中で、すっと、S氏について話しあった。そして最後に、私はこう言った。
「どうすればぼくは、S氏のようにならなくてすむだろうか。S氏だけが、特別の老人とは思わな
い。だからひょっとしたら、ぼくもああなるかもしれない。いったい、S氏の人生は、何だったの
かね」と。

●いかに老いるか?

 五〇歳をすぎると、それまでの持病が、どんと前面に出てくる。それまでは体力がそれをカバ
ーしているが、その体力が衰えるためと考えてよい。同じように、六〇歳をすぎると、それまで
の性格が、どんと前面に出てくる。それまでは気力がそれをカバーしているが、その気力が衰
えるためと考えてよい。よい性格なら問題ないが、悪い性格は、困る。つまりごまかしがきかな
くなる。

 善人ぶるのは、簡単なこと。さも知ったかぶりの顔をしながら、にこやかな笑みを浮かべてい
ればよい。あとはきれいごとを並べていればよい。しかし自分の中に潜む醜悪さを消すのは、
簡単なことではない。一度、幼児期や、少年少女期にそれをつくってしまうと、それを消すの
は、一生、不可能とさえ言える。

 が、気力が充実しているときは、そういう醜悪さを、おおい隠すことができる。言ってよいこと
や悪いこと、してよいことや悪いことを、そのつど判断して、自分をよい人間に仕立てることが
できる。また自分でも、よい人間だと思うことができる。

 しかしその気力が衰えてくると、その醜悪さが、そのままモロに前面に出てきてしまう。私は、
その境目は、六〇歳くらいではないかと思う。これは私がそう思うだけで、若い人でも、醜悪な
人はいくらでもいる。そこで問題は、いかにして気力を保つかではなく、いかにして、それまでに
自分の中に潜む醜悪さを消しておくか、である。そしてそれが、結局は、いかに老いるかという
問題につながってくる。

●私の中の醜悪さ

 私はもともと醜悪な人間である。生まれが生まれだから、あまり自分でも期待していない。ウ
ソは平気でついたし、またごまかすのが、日常という環境の中で、幼児期と少年期をすごして
いる。経済的にはそれほど苦労しなかったが、しかし恵まれた環境ではなかった。

 だから私が、よい人間であるはずがない。たまたま今、いろいろな子どもたちに接している
が、私が育ったような環境で育った子どもに、まともな子どもはいない。誠実さや忠誠心はない
から、平気で人を裏切る。悪いことをしても、後悔しない。他人の悲しみや苦しみを見ても、どこ
か平気なところがある。が、そのくせ、あらゆる精神病と情緒障害を、平均的に、かつ、まんべ
んなく、背負っている。私はひがみやすく、いじけやすく、嫉妬深く、猜疑心が強く、その上、も
のの考え方が、ひねくれている。

 私はあるときから、幼児を教えながら、結局は、それは自分との戦いであることを知った。幼
児を知れば知るほど、自分の過去がわかり、またそれがわかればわかるほど、そういう自分
がいやになった。ある時期は、親をうらんだ。今も、その気持ちが消えたわけではないが、母
がことあるごとに、「産んでやった」「育ててやった」「大学を出してやった」と言うたびに、私は自
分の生まれてきた環境を、心底、のろった。

 だから、いつも心のどこかで、ハラハラしている。今は、偉そうな顔をして、講演会場に立った
り、こうして子育て論を書いたりしているが、私のような人間の心は、ボロボロだし、そのボロボ
ロの自分が、いつボロを出すか、わかったものではない。あるいはもうすでに出ているのかもし
れない。もっとも今は、自分の気力で、必死にそれを押さえこんではいるが、その気力も、この
ところ、弱くなってきた。「私」という私のすぐ下で、醜悪な私が、薄気味悪い笑みを浮かべて、
その「私」を見ているのが、よくわかる。 

 歳がくれば、だれでも老いる。この文を読んでいる、あなたも、だ。例外はない。しかしどう老
いるかは、それぞれの人が決める。そしてその結果として、その人の老後が決まる。

 冒頭にあげたS氏の話だが、今のS氏がS氏なのは、老後になって、そうなったというより
は、いよいよごまかしがきかなくなって、そうなったというほうが正しいのでは? 恐らく大学の
教授や学部長を勤めていたころは、それなりに社会的評価も高く、人望もあったに違いない。
しかしそういう部分は、S氏が自分の気力でつくりあげたS氏だったかもしれない。もっと言え
ば、仮面? その仮面の下の本当のS氏は、仮面からは想像もつかないほど、醜悪な人間だ
ったかもしれない。

 私はS氏の話を聞きながら、S氏が、自分の老後の姿に思えてならない。恐らくというよりも、
絶対、S氏が五五歳のときは、私よりはるかにすぐれた人だったに違いない。S氏は、五四歳
のときにその大学の学部長に就任している。そのS氏ですら、このザマ(失礼!)だから、私の
ような者が、今のS氏以上の人間になることなど、考えられない。

 「ぼくも、そのうち、ボロを出すよ」と私。
 「Sさんは、ずっと、人にチヤホヤされてきたでしょう。だからああいう人間になったのよ。あな
たは、だれにもチヤホヤされていないわ」とワイフ。
 「しかし本当のぼくは、小ズルくて、小心者で、どうしようもない」
 「そうねとは、言わないけど、あなたはSさんとは、違うわ」
 「どう違う?」
 「あなたは、それに気づいているもの。Sさんは、今でも、自分の本当の姿に気づいていない
と思うわ」
 「そうだな……」

 気がつくと、車は、山荘につづく小道へと入っていた。私は、車の窓をあけ、春の生暖かい、
草のにおいの混じった陽気を、思いきり肺の中に吸い込んだ。
(030403)

【追記】
 老齢になって、反対に光り輝くようになる人もいる。若いときから、他人にたたかれ、下積み
生活を長くした人ほど、そうではないか。しかしとても残念なことだが、そういう人ほど、社会的
にも経済的にも恵まれない。また光り輝いたからといって、それを認め、評価する人も少ない。
ただの「いい人」で、終わってしまう。日本人全体の精神構造が、そうなっているためではない
か。

 そこで老齢に近づくにつれて、人は、二つの道を選択し始める。ひとつは、それでも我が道を
行くという姿勢を貫く人。かぎりなく自己満足の世界に入る人もいる。ひとつは、過去の栄華
(肩書き、地位、名誉)にしがみつきながら、それを誇りに生きる人。もうひとつ、惰性で、その
日、その日を何となく生きていくという人もいるが、これは論外。

 私のばあい、これはあくまでも私のばあいだが、私はいつももう一人の自分と戦っている。そ
のもう一人の自分が、いつも私にこうささやく。「どうしてお前は、がんばるのか?がんばっても
ムダだぞ。いくらがんばっても、先が知れている。お前が歩いている道は、すでに無数の人が
通った道。だったら、もっと安楽な道を選び、人生を楽しめばいい。人生は短いぞ。お前は、だ
れのためにがんばっているのか。だれもお前のやっていることなど、認めやしない。もっと自分
のためにがんばれ」と。
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(714)

子どもの物欲

 物欲は、満たせば満たすほど、ますます強くなる。物欲を海水にたとえる人もいる。のどのか
わきをとるため海水を飲むと、のどは、ますます焼けるようにかわくという。私は海水を、そうい
う目的で飲んだことがないので、その感じはわからないが、もしそうなら、うまいたとえだと思
う。

 で、子どものばあい、物欲を満たすのは、必要最小限に。とくにお金で満たすやり方は、でき
るだけ避ける。年長児から小学二年くらいにかけて、子どもの金銭感覚は完成する。この時
期、同時に子どもは、お金で物欲を満たす方法を覚える。「お金があれば、何でも手に入る」
と。一度、この方法を覚えてしまうと、子どもはあともどりできなくなる。それだけではない。物欲
は、年齢とともに、際限なく大きくなる。ふくらむ。幼児のころは、一〇〇円、二〇〇円で満足し
ていた子どもでも、高校生になると、一万円、二万円でないと、満足しなくなる。

 そこで教訓。

(1)物欲には、苦労をともなわせる。……子どもが何かをほしがったら、それを手に入れるた
めに、何らかの苦労をさせる。ただし勉強や学習を、それに利用してはいけない。「一〇〇点
を取ったら、小づかいを一〇〇〇円」式の条件は、避ける。

(2)ややハングリーにする。……いつもややハングリーな状態に、子どもを置く。「何か満たさ
れない」という思いが、子どもを伸ばす原動力となる。「子どもにいい思いをさせるのが親の務
め」と、もしあなたが考えているなら、そういう誤解は、早めに取り除く。 

(3)見せる質素、見せぬぜいたく。……子どもの前では、質素であることを旨とする。ぜいたく
をするとしても、子どものいないところで、また見えないところでする。一度ぜいたくを覚えると、
子どもはあともどりができなくなる。

(4)心の豊かさを大切に。……「家族どうしのプレゼントは、買ったものはダメ」というハウスル
ールをつくるのも一案。誕生日にせよ、クリスマスにせよ、それぞれが自分で用意したものを交
換するようにする。「より高価なものであれば、子どもは喜ぶはず」「親に感謝するはず」「家族
の絆は太くなるはず」という考え方は、捨てる。 

(5)モノより思い出。……イギリスの教育格言に、「(子どもの心をつかみたかったら)、釣りザ
オを買ってあげるより、いっしょに釣りに行け」というのがある。モノでは、子どもの心をつかめ
ないということ。これは子育てすべてに当てはまる大鉄則。

(6)貧しいことを恥じない。……貧しいことは、何ら恥ずべきことではない。だから貧しくても、
親は自分を卑下してはいけない。質素な生活は、堂々と誇示すればよい。貧しいからといっ
て、子どもの心がゆがむことはない。まずいのは、親が自分を卑下したとき。そのぎこちなさ
が、子どもの心をゆがめる。また「うちは貧しい」と教える必要もない。つつましく生きる姿や、
堂々と生きる姿が、子どもに前向きに生きる原動力を与える。親は、子どもの前では、いつも、
どこでも、誇り高く生きる。いっぱいのかけソバを、親子で分けてあって食べるような、みじめな
ことはしてはいけない。こういう親の姿は、子どもの心を卑屈にする。

(7)うしろ姿の押し売りはしない。……子育てや生活で苦労している姿を、日本では、「親のうし
ろ姿」という。日本では、そういううしろ姿を見せることを、美徳のように考えている人がいるが、
これは誤解。見せたくなくても、見せてしまうのが、うしろ姿かもしれないが、親は、それを、子
どもに見せてはいけない。親は、子どもの前では、どこまでも誇らしく、どこまでも前向きに、生
きる。

 物欲におぼれた子どもは、いくらでもいる。このタイプの子どもは、自分で自分をコントロール
できなくなる。「ほしい」という思いが、犯罪につながるケースも少なくない。そんなわけで子ども
の物欲には、警戒したほうがよい。

【チェックテスト】

 もしあなたの子どもに、つぎのような症状が見られたら、家庭教育のあり方を、かなり真剣に
反省したほうがよい。

●お年玉でも、小づかいでも、あっという間に使ってしまう。貯金して、より高価なものを買うと
いうよりも、そのときどきにおいて、せつな的に使ってしまうことが多い。

●買ったものを見ると、将来に結びつくものというよりは、享楽的なものが多い。意味のないゲ
ームソフトや、ゲーム類など。

●「ほしい」と言い出したら、そればかりを主張する。そして結局は、何だかんだと、短期間のう
ちに、自分のものにしてしまう。

●子どもの周辺には、以前、買ったものや、もらったものが、散乱している。それらで遊ぶとし
ても、一時的で、あまりものを、大切にしない。あるいは、すぐあきる。同じものをいくつも、買
う。

●値段の高低による価値観がとぼしい。数万円もするようなおもちゃを、他人にくれてやったり
するなど。お金の管理がルーズで、小銭が無造作に箱の中に入っていたりする。

【改善点】

 こうした症状が見られたら、子どもの周辺から、ものを減らす。部屋の中をガラガラにする。
そして生活全般を、努めて質素にする。ものを買わない、買い与えない、など。「ほしい」と言っ
ても、相手にしない。無視する。要するにお金とは無縁の状態を用意する。ただし子どもが中
学生や高校生になってからでは、手遅れ。ここにも書いたように、物欲が、非行の原因となるこ
ともある。徐々に、半年単位で、子どもを包む環境を改善する。
(030403)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(715)

肉体は、私にあって、私ではない

 「私」とは、何か。たとえば、肉体。ほとんどの人は、自分の肉体を見て、それが「私」だと思
う。しかし自分の肉体は、自分のものかもしれないが(本当は、自分のものでもないが……)、
決して「私」ではない。

 私というときの「私」は、肉体ではない。「私」というのは、喜び、怒り、悲しみ、楽しむという、
心の活動をつかさどる精神的主体をいう。

 たとえばあなたの身長が低かったとする。足も短いし、顔も醜い。しかしそれは肉体の問題で
あって、決してそれは「あなた」ではない。わかりやすく言えば、私たちがオレンジジュースとい
うときは、ビンの中身として入っているジュースそのものをいう。ビンではない。仮にビンが、立
方体であっても、円筒形であっても、オレンジジュースは、オレンジジュース。どんな入れ物に
入っていても、そんなことでオレンジジュースの味は変わらない。同じように、「あなた」は、どん
な入れ物に入っていても、その価値は変わらない。

 もちろん肉体あっての「私」。肉体がなければ、「私」そのものは存在しない。だから「私」を守
るために、肉体を鍛(きた)える。が、ここで注意しなければならないことは、その肉体は、飾っ
ても意味はないということ。いわんや整形しても、意味はない。鍛えるということは、健康を維持
するということ。そのための努力は、いくらしても、ムダということはない。

 「私」が、肉体にこだわるかぎり、私は老いる。しかし「私」が、肉体から離れれば、私は老い
ることはない。肉体は、「私」を入れる、ただのビンとわかれば、そのビンが、ピンとはったビン
であっても、反対にシワクチャなビンであっても、ビンは、ビン。その中の「私」とは関係ない。

 反対に、「私」が肉体にこだわるかぎり、老いは必ずやってくる。そしてその老いはさみしいも
のでしかない。どんな美しい女性でも、どんなに化粧をして、整形を繰りかえしても、せいぜい
その老いを数年、ごまかすことができるだけ。先にのばせるだけ。はかない抵抗というか、ム
ダ。肉体にこだわるかぎり、そのさみしさから逃れることはできない。

 「私」というのは、目に見えない存在をいう。目に見える存在ではない。もしあなたが、今、目
に見える肉体を見て、それが「私」と思うなら、あなたには確実に老いがやってくる。そしてその
老いから生まれるさみしさから、逃れることはできない。
(030404)

【追記】
 自分の肉体は、「私のモノ」であって、実は私のモノではない。肉体はまた、決して「私」ではな
い。そのことは、ここに書いたとおりだが、同じように、自分の子どもは、「私の子ども」であっ
て、実は私の子どもではない。子どもの中の子ども、つまり子どもの精神的主体は、あくまでも
子ども自身であって、「私」でも、「私のモノ」でもない。

 今でも、自分の子どもを、「モノ」「私のモノ」と考える親は、多い。自分の妻ですら、「モノ」「私
のモノ」と考える夫すら、いる。中には、妻に向かっては、「食わせてやる」「養ってやる」、子ど
もに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」などと暴言を吐く夫すらいる。

 しかしこういう意識は、きわめて原始民族的ですら、ある。この原始民族性に気づき、いかに
して脱却していくか。それはこれからの日本人にとって、きわめて大切な課題となるだろう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(716)

抱きしめたい人生

 昔、ある友人が、私にこう言った。「男というのは、本当にその女が好きかどうかは、セックス
のあとを見ればわかる。本当に好きな女は、セックスのあとでも抱いたままでいたいもの。そう
でない女は、セックスが終わると、体を離したくなる」と。

 人生も、これに似ている。自分の人生を振りかえってみたとき、光り輝く思い出もあれば、反
対に目をそらしたいような思い出もある。光り輝く思い出というのは、ただひたすら自分を追求
したときのこと。今でも、私の心の中で、さん然と輝く思い出は、飛行機から見た、あの真っ赤
な大地だ。

朝、目をさまして、恐る恐る窓のシェルターをあげると、そこに、オーストラリアの、あの大地が
横たわっていた。ところどころに、黒いシミのようなものが見えた。私は最初、それが湖か何か
だと思った。しかしよく見ると、それははるか下に横たわる、雲の影だった。私は、それがわか
ったとき、胸がはりさけんばかりに興奮した。うれしかった。

 一方、目をそむけたくなるような思い出も、たくさん、ある。自分が不誠実であったとき。人を
あざむいたとき。人をキズつけたとき。欲望に任せて、自分を見失ったとき。考えてみれば、私
の人生は、その連続だった。そこで友人の話。

私はいつか死ぬとき、自分の人生を振りかえりながら、その人生を抱きしめるだろうか。それと
も反対に、……いや、この先は、想像したくない。自分の人生を突き放して死ぬなんてことは、
まさに人生の敗北を認めるようなもの。それだけはしたくない。が、もし本当にそうなら……? 
私は人生をムダにしたことになる。

 生きるということは、人生そのものを愛すること。そしてそのつど、いつも自分の過去を、抱き
しめること。またそういう過去を、その瞬間々々に、つくりだしていくこと。そしてそういう過去が
無数に積み重なったとき、その人の人生が、さん然と、光り輝くようになる。

 さて私は、どうなのか。今、この時点においても、抱きしめたい過去よりも、目をそむけたい
過去のほうが多い。その中のいくつかは、思い出すのもこわい。あるいはそういう思い出から
は逃げようとする。しかしこんな思い出ばかりだったら、私は自分の人生をムダにすることにな
る。あああ、私はどうしたらよいのか?
(030403)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(717)

 山荘で見る星空はすばらしい。圧倒される。町の光にじゃまされることもなく、無数の星々の
輝きを楽しむことができる。そんなとき、ふと私は、「私」の存在を考える。

●時間と空間の超越

 私は、この瞬間、この光の中で生きている。仮に一〇〇年生きても、この地球の歴史からみ
れば、まさに瞬間でしかない。しかも大宇宙のすみの、ゴミのような星の、そのまたゴミのような
惑星に住んでいる。星の数は、中田島(浜松市南の海岸地域)の砂丘にある、砂粒の数より
も、多いそうだ。そういうことも考えると、「私」という存在は、まさに奇跡そのものと言ってもよ
い。

 しかし世の中には、くだらない連中がいるものだ。イラクのフセインにせよ、北朝鮮の金正日
にせよ、どうしてああいう人間が、生まれるのか。そしてああまでたがいに、共通点が多いの
か。宇宙から自分の住んでいる惑星を見ろとか、地球の歴史の中で自分の時間を見ろとか、
そういうヤボなことは言わない。しかしせめて、地球儀をもってきて、その上で自分の国を見る
くらいのことはしたらどうか。

 私には、護衛はいない。その必要もない。地下シェルターもなければ、宮殿もない。名誉にせ
よ、地位にせよ、肩書きにせよ、もともとなくすものは何もないから、何も恐れない。恐れる必
要もない。気楽なものだ。が、その私が、フセインや金正日より小さい人間かということになれ
ば、決してそういうことはない。

 私は、容易に数十億年の地球の歴史が想像できる。私は、容易に中田島の砂丘の砂ツボ
ほどの宇宙の星が、想像できる。その想像力の豊かさや深さは、フセインや金正日には、決し
て負けない。負けないばかりか、彼らが愚かに見える。何とも言えないほど、くだらない連中に
見える。いや、本当のところ、負け犬になりたくないから、懸命になって、そう思いこんでいるだ
けかもしれない。彼らを否定しているだけかもしれない。

 しかしあなたも、ほんの少しだけ、私がここに書いたようなことを、頭の中で想像してみたらよ
い。宇宙や地球の歴史、そして宇宙に散らばる膨大な数の星々。するとイラクだの、北朝鮮だ
のと言っている連中が、実に小さく見えてくる。そしてそれをさらに進めていくと、彼らがむしろ
哀れな人間に見えてくる。何のためにがんばっているかは知らないが、こうした連中が、たった
一つしかない奇跡を、ムダにしているのがわかる。

 「私」という人間は、地球の歴史の中でも、また広大な宇宙の中でも、限りなく小さな人間かも
しれないが、それがわかったとき、「私」という人間は、ありとあらゆる時間と空間を超越するこ
とができる。

 ……と、どこかとんでもないようなことを、今夜も考えた。先ほどワイフが、「外にいると、風邪
をひくわ」と言った。私は、それにうなずいた。うなずいて、そそくさと山荘の中に入った。春とは
いえ、今夜は寒い。シンまで体がツンと冷えているのを、私は知った。
(030405)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(718)

心の柱

 私たちは、何を心の柱にすべきか。それを見まちがえると、とんでもない回り道をすることに
なる。袋小路に入ってしまうこともある。

 名誉か、地位か、財産か、それとも権力か、名声か、肩書きか。しかしこういったものの空し
さは、過去の哲学者や文学者が、こぞって説きあかしている。今さら、私のようなものが、否定
しても始まらない。つまるところ、日々に変化するもの、人間が幻想としてつくりあげたものを、
柱としてはいけないということ。そう、これらのものは、まさに幻想。もし、それがわからなけれ
ば、どこかの動物園でも行って、サルたちの世界を見てみればわかる。

 あのサルの世界には、はっきりとした序列があって、ボスを頂点に、ピラミッド型の社会を形
成している。しかもおもしろいことに、上野動物園のサルも、浜松動物園のサルも、そして犬山
のモンキーセンターのサルも、同じような社会を形成している。つまりサルには、本能として、そ
ういう習性があるらしい。

 人間もサルに似ている。……というより、サルと同じ。その同じ部分に、名誉や地位、財産や
権力などがある。動物園で、ボスをからかったりすると、ボスはキバをむいて、キーッとこちらを
にらんだりする。サルはサルなりに、私たちを威嚇(いかく)し、精一杯、自己主張しているつも
りなのだろう。人間社会からみると、何とも浅はかに見える。

 ……と書いて、心の柱を知るための、ヒントがわかった。つまり心の柱を知るためには、人間
や人間社会を、ちょうど私たちが動物園のサルやサルの社会を見るように、一歩、退いて見
る。その視点は高ければ高いほど、よい。人間や人間社会から離れれば離れるほど、よい。
すると何が大切で、何がそうでないかがわかってくる。

 もっとも、そうしたからといって、すぐ心の柱など、わかるものではない。ほとんどの人は、心
の柱を求めながら、荒野をさまよい歩いているだけかもしれない。もっとも手っ取り早く手に入
れようとするなら、信仰がある。仏教にせよ、キリスト教にせよ、はたまたイスラム教にせよ、信
仰そのものが心の柱になる。……と、信仰の話は別として、私自身も、心の柱をもとめて、さま
よい歩いている。何かそこにあるはずなのだが、どうしてもそれが見えてこない。あと一歩なの
だが、一歩進むと、それがそのまた先に行ってしまう。

 このところ私は、「人生って、こんなものかなあ」と思うことが、多くなった。たいしたことはでき
なかったし、たいしたことはしていないし、これからもたいしたことはできないだろう。そういう私
だから、「では、心の柱とは何か」と聞かれると、正直言って、困ってしまう。名誉や地位があれ
ば、こんなにも苦労はしなかったとすむし、お金も嫌いではない。教育論にせよ、子育て論にせ
よ、どこかやりつくした感じで、このところ疲れを感ずることも多くなった。

 話をもどすが、心の柱というのは、結局は、人生の目的地ということになるのか。道しるべで
もよい。視点が高ければ高いほど、遠くの目的が見えるが、しかしだからといって、それがめざ
すべき目的地とはかぎらない。あるいはそんなものは、ないのかもしれない。何ともあやふやな
結論だが、今は、こういうことしておこう。この先はまた、どこかへ旅行したときにでも、考えた
い。
(030404)

【追記】
 今夜、電話で二〇年来の友人と電話で話しあった。その友人(六〇歳男性)が言うには、「と
にかく、前に進むしかないじゃない」と。なるほど。前に進む、か。

 私たちはモンキーセンターにいるサルと、そんなに違わない。そのサルに、心の柱を求めて
も無理なように、私も含めて人間に、心の柱を求めても、無理なのかもしれない。所詮、愚かな
人間。私たちがせいぜいできることは、その方向に向かって、たとえ一歩でも、あるいは数セン
チでも、前に進むことでしかない。「前に進むしかないんじゃない」という意味はそういう意味
か。私は勝手にそう判断した。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(719)

イラク戦争

 四月四日現在、アメリカ軍は、バグダット近郊の国際空港に近づきつつあるという。NHKの
ニュースによれば、イラクの約四五%は、アメリカ軍の支配下に入ったという。バグダット以外
での戦闘について言えば、アメリカ軍の圧倒的勝利ということになる。

 しかし今度の戦争で驚いたのは、爆弾の威力。ときどきテレビで見る爆弾の爆発力には、た
だただ圧倒される。ドンドン……というようなものではない。(映画の中の爆弾は、ドンドンという
感じで爆発するが……。)パッパッという感じで、巨大なビルが吹っ飛んでしまう。どういう火薬
を使っているかは知らないが、それにしても、ものすごい。

 そしてつぎに驚いたのは、アメリカ軍の物量作戦。東京から青森までの距離(クウェートのク
ウェート市からバグダットまでの距離)を、戦車や輸送トラックが数珠(じゅず)つなぎになってい
るという。アメリカ軍の行動力というか、実行力には、これまた圧倒される。戦争はともかくとし
て、浜松市の郊外で、こうして机を前にしてパチパチとパソコンをたたいている自分が、何だ
か、みじめになる。「私は何をやっているんだろう?」という気分にさえなる。

 こうした戦争について、もちろん反対意見も多い。(あえて賛成する人は少ないが……。)しか
し一方で、世界第二の石油埋蔵量を誇るイラクが、フセインという男が率いる独裁政権の思う
がままになったら、それこそ世界はたいへんなことになる。核兵器を武器に、世界各地でテロ
活動をするということも、あながちありえないことではない。今回の戦争の理由の一つも、そこ
にある。

 「戦争、反対!」と叫ぶのは、簡単なこと。しかしそう叫ぶなら、一〇年後か、二〇年後かは
知らないが、フセインのような男が、世界各地でテロ活動をしても、文句は言わないこと。ある
いは北朝鮮が東京都のドまん中に、ミサイルを撃ち込んできても、文句は言わないこと。つまり
それくらいの覚悟は、必要だということ。またその覚悟があるなら、「戦争、反対!」と叫べばよ
い。「戦争はいやだから、戦争は反対!」と言うくらいなら、そこらの小学生でもできる。

 だからといって私は何も、アメリカ軍によるイラク攻撃を容認しているわけではない。賛成して
いるわけでもない。ただこのところ若いときと違って、「平和」という言葉を言うとき、自分の口
が、たいへん重くなっているのを感ずる。「戦争、反対!」という言葉も、そうだ。前にも書いた
が、平和主義者には、二種類ある。ひとつは、「いざとなったら、戦争も辞さない」という平和主
義者。もうひとつは、「殺されても文句は言わない」という平和主義者。どちらを選ぶかは、個人
の問題だが、私はやはり前者を選ぶ。仮に、北朝鮮が、日本に向けて軍隊を送ってきたら、私
は、戦う。過去のいきさつがどうであれ、私は、戦う。目の前で、自分の家族や子どもたちが殺
されるのは、絶対に許さない!

 本来なら、あのとき、つまりアメリカ軍が開戦する前に、アメリカ軍は、イラク周辺から撤退す
べきだった。国連による査察を強化して、少しずつフセイン体制を、軍事的に弱体化すればよ
かった。そのほうがアメリカの評価も、高まったであろう。しかしアメリカは、開戦してしまった。
してしまった以上、今さら、「戦争、反対!」を訴えても、意味がない。

 昨夜、アメリカ人のW氏夫妻に、こんなメールを書いた。

 「早く戦争が終わり、今以上の犠牲者を出すこともなく、すべてのアメリカ人が無事、アメリカ
にもどってくることを、願っています」と。

 私のばあい、体を張って戦争をしている当事者のアメリカ人に向かって、とても「戦争、反
対!」とは言えない。あるいは、あなたなら、それを言うことができるだろうか。たしかにアメリカ
は、イラクの石油という利権をねらっている。今度の戦争には、そういう側面もないわけではな
い。しかしそのアメリカが勝ち取った利権の上で、あぐらをかいているのは、ほかならぬ、この
日本なのである。「アメリカはズルイ」と言うのなら、日本は、もっとズルイ。そういうことも忘れて
はならない。

 それにしても、今度の戦争は、ものすごい。精密誘導爆弾だけでも、すでに一万発も発射さ
れたという。たった一発で、半径数百メートルの範囲を吹っ飛ばす爆弾も使われているという。
地下三〇メートル近くまで攻撃できる爆弾も使われているという。数日前も、たった一発で、小
山ほどの黒煙があがった映像が、テレビに映しだされた。あまりにも巨大で、とても現実の爆
弾とは思われなかった。ああした爆弾の下で、いかに多くのイラク人が殺されていることか! 
私のような団塊の世代は、ああいう映像を見ると、昔、日本の兵隊たちも、ああしてアメリカ軍
に殺されたのだろうなと思う。……思ってしまう。

 しかしそれにしても、こうなる前に、もっと何とかできなかったのか。そう思いながら、一方で、
北朝鮮の問題を考える。今の私は、何がなんだかわからないほど、混乱している。安易に平和
主義を唱えることもできない。しかし戦争に賛成と言うこともできない。もう少しゆっくりと考え
て、自分の心を整理してみたい。
(030404)

●戦争の準備は、平和を守るもっとも有効な手段のひとつである。(ジョージ・ワシントン)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(720)

涅槃(ねはん)

 仏教には、「涅槃(ねはん)」という言葉がある。「煩悩(ぼんのう)を滅して、苦がなくなった究
極の悟りの境地」(日本語大辞典)という意味。 

 煩悩というのは、「衆生(しゅじょう)の心身を悩ませ、悟りの妨げとなる心の働き」(同)をい
う。わかりやすく言えば、人間の欲望のこと。仏教では、「貪(どん)、瞋(しん)、痴(ち)」の三つ
の弊害(これを三毒)をいう。

 で、この煩悩を頭から、悪と決めてはいけない。たとえば性欲にしても、それがあるから種族
の保存ができる。なかったら、人類は、とっくの昔に滅んでいたことになる。そこで仏教では、
「煩悩は燃やしつくせ」と教える。つまり燃やして燃やして、燃やしつくし、その結果として、「涅
槃の境地」に達せよ、と。

 こういうむずかしい漢字が並ぶと、読むだけでもたいへんだが、要するに、若いときは、した
いことを、思う存分しろということ。セックスにしても、恋人や夫婦の間で、やってやってやりまく
る。そしてその結果として、そのつまらなさを、悟ることができる。そのつまらなさから、脱却す
ることができる。

 そう言えば、子どもの世界でも、子どものころ、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験し
た子どもほど、おとなになってから常識豊かな子どもになることが知られている。つまりワルで
育った子どもほど、あとあと、すばらしい人間になるということ。

 反対に、優等生で育った子どもほど、あとあと何かにつけて、問題を引き起こす。かえって常
識ハズレになり、社会的な不適応を起こすこともある。精神的な未熟性や、不全性が、その子
ども(人)の心をゆがめることもある。

 だからといって、子どもの非行を奨励するわけではないが、こうした一歩、退いた視点が、子
どもを、心豊かな人間に育てる。「勉強」も大切だが、勉強そのものは、子どもを伸ばさない。
子どもを伸ばすのは、「学ぶ心」、そして「ものごとに挑戦していく前向きな姿勢」である。勉強
ができる、できないは、あくまでも、その結果でしかない。

 さて、話をもどす。煩悩だからといって、頭から否定してはいけない。煩悩だろうが、なんだろ
うが、思う存分、したいことをすればよい。して、して、しまくる。そうすれば、やがてその空しさ
がわかる。わかれば、その煩悩と決別することができる。仏教でいう「涅槃の境地」は無理だと
しても、ほぼそれに近い精神状態になるかもしれない。

 話は、ぐんと現実的になるが、よく子どもたちが、私にこう聞く。「先生も、エロビデオを見るの
か?」と。そういうとき私は、こう答えるようにしている。「君たちのお父さんと同じだよ。だからそ
ういうことは、君たちのお父さんに聞きな」と。そしてしばらくしたあと、こうつけ加える。「もう、見
飽きたけどね……」と。これも、いわば、涅槃の境地の一つということになるのかもしれない。
(030404)

【追記】
 煩悩を燃やしつくすといっても、燃えつき症候群は好ましくない。……ですね。そうそう、それ
にしても、スケベ・サイトの多いこと、多いこと! そういうところが発行するスケベ・マガジンな
どは、どれも発行部数が、数万部もあるというから、驚きます。私のマガジンは、やっと合計
で、八三〇部程度。何ともなさけない感じがしないでもありません。

 しかしやがてこれも一巡すれば、私の発行するようなマガジンの読者も、少しはふえるかもし
れません。どうせああいうのは、「無」のマガジン。読者も、それでは満足しなくなるはず。必ず
「心」を求めるようになるはず。そういうときがくるのを信じて、がんばるしかない。……ですね。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(721)

心を開こう!

 自分をさらけ出せない人は多い。他人に対してなら、まだ話がわかるが、夫や子どもに対し
て、もだ。

 このタイプの人は、自分をさらけ出すことに、大きな不安をいだいている。原因は、全幅に相
手を、信頼できないことによる。さらにその原因はといえば、その人の乳幼児期にある。

 子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむことができる。「絶対的」とい
うのは、疑いをもたないという意味。「どんなことをしても、私は守られる」「どんなことをしても、
私は捨てられない」という安心感が、子どもの心を安定させる。

言うまでもなく、たがいの信頼関係は、このさらけだしの上にできる。何を言っても、何をして
も、相手は自分を受け止めてくれる。一方、相手が何を言っても、何をしても、自分はそれを受
け止めることができる。そういう人間関係があってはじめて、たがいに信頼関係を結ぶことがで
きる。

 が、何らかの理由で、この絶対的な安心感をもてなかった子どもは、それ以後、ずっと不安
を基底においた精神状態になる。わかりやすく言えば、自分をさらけ出すことができない。その
ため、相手に合わせて自分をつくったり、飾ったり、ときにはへつらったりする。このタイプの子
どもは、相手をキズつけることを恐れているのではない。自分をさらけだすことで、自分がキズ
つくことを恐れる。

 そして乳幼児期に、一度、そうなると、その精神構造は、ほぼ一生、つづく。

 そこで今、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。あなたは夫(妻)に、安心し
て、すべてをさらけ出すことができるだろうか。あるいはさらけ出しているだろうか。あるいは子
どもに対しては、どうだろうか。さらにあなたの夫(妻)や子どもは、あなたに対して、安心して、
自分をさらけだしているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし、あなたの夫や子どもが、ど
こか仮面をかぶったり、心を隠したり、いい夫やいい子ぶっているようなら、あなたは家庭のあ
り方というより、あなた自身の精神構造を、本気で反省してみる必要がある。

 もし、あなたが、自分をさらけ出すことができないタイプの人なら、勇気を出して、自分をさら
けだしてみよう。心を開いてみよう。まず、あなたが心を開く。すべては、ここから始まる。つま
りあなたが心を開かないで、どうしてあなたの夫(妻)や子どもが、あなたに心を開くことができ
るだろうか。

 気取ることはない。気負うこともない。あなたは、どこまでいっても、あなたなのだ。さあ、あな
たも勇気をだして、自分をさらけだしてみよう。そしてあなた自身の中に潜む、暗い過去を、こ
なごなにつぶしてみよう!

+++++++++++++++++++++

●いい子ぶるのは、やめよう

こう言えば、親が喜ぶだろう。
先生が、ほめてくれるだろう。

こうすれば、友だちにかっこよく見えるだろう。
まわりが、自分のことを、いい子に思ってくれるだろう。

そんな仮面をかぶるのは、もうやめよう。
そんなふうに、自分を作るのは、もうやめよう。

他人がどう思うが、そんなことは気にすることはない。
君は、君。どこまでいっても君は、君。

したいことをすればいい。
言いたいことを言えばいい。

無理をすることはない。
へんにがんばってはいけない。

さあ、君も、今日から、
勇気をだして、いい子ぶるのをやめよう。
ありのままの自分で、生きよう!

++++++++++++++++++++

●いい親ぶるのは、やめよう

いい親でいよう。
いい家庭をつくろう。

こういうのを親の気負いという。
しかし、そんな気負いなど、クソ食らえ!

気負いが強ければ強いほど、
あなたも疲れるが、子どもも疲れる。

あなたは、あなたのまま。
一人の人間として、あなたは生きる。

ただ、親の気負いと、親としての責任は別。
だからといって無責任な親になれということではない。
どうか、誤解のないように!

【追記】
 たまたまこの原稿を書いているとき、こんな事件があった。「一人の中学生が、(親の前で)い
い子ぶるのが嫌になったから、家に放火した」というのだ。

 「埼玉県T署は、自宅に放火したとして、同県T市の市立中学三年の男子生徒(一四)を、現
住建造物等放火容疑で緊急逮捕した。(中略)調べによると、男子生徒は同日午前一時ごろ、
T市内の木造二階建て住宅の二階自室で、毛布にライターで火をつけた疑い。住宅は、二階
部分の約四〇平方メートルを焼失した。男子生徒は、調べに対し、『家でいい子ぶっているの
が嫌になったので、火をつけた』と話しているという。

男子生徒は、四人家族で、出火当時、会社員の父親(51)と母親(46)、高校三年生の姉(1
7)が就寝中で、父親は目にやけどを負う重症、母親も顔などに、軽いやけどを負った」(Y新
聞)。

 他人の目を気にすればするほど、本当の自分と、仮面をかぶった自分が、遊離する。遊離す
るだけなら、ともかくも、本当の自分をさらけ出せないということは、その人にとっても、とても苦
しいことである。この放火をした少年も、そういう苦しさに耐えられなかったのだろう。だからと
いって、放火を肯定するわけではないが、しかし私には、その少年の気持ちがわかるような気
がする。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(722)

浮気する夫、浮気しない夫

 浮気(不倫)する夫は、それだけ忠誠心の弱い男とみる。妻に対する忠誠心が弱いから、浮
気する。モラルの問題とか、道徳の問題とかいう人もいるが、浮気という本能がからむ問題
は、そうしたモラルや道徳で、コントロールできるものではない。

 その忠誠心は、乳幼児期に決まる。この時期、親の愛情をたっぷりと受けて、親子の相互愛
着をしっかりとした子どもほど、忠誠心が強くなる。私はこのことを、二匹の犬を飼ってみて、知
った。

 私の家には、二匹の犬がいる。一匹は、保健所で処分される寸前だったのを、もらってきた
もの。これをA犬とする。もう一匹は、愛犬家のもとで、手厚く育てられた犬。生後三か月のとき
に、もらってきたもの。最初の一週間は、毎晩、私がフトンの中で抱いて寝た。これをB犬とす
る。

 この二匹の犬は、まるで性格が違う。その中の一つが、ここでいう忠誠心。A犬は、まったく
忠誠心がない。裏の戸が少しでもあいていようものなら、たいていそのまま逃げていってしま
う。ときどき追いかけていくのだが、一度は、私の姿を見て、さらに逃げていこうとした。もちろ
ん番犬にはならない。見知らぬ人が来ても、平気な顔をして、シッポを振る。散歩の途中でも、
何度叱っても、道路の中央で、便をする。そういう意味では、本当に始末が悪い。

 一方、B犬のほうは、「してはダメ」ということは、絶対に、しない。散歩のときも、決して道路で
は便をしない。驚いたのは、散歩の途中では、決して、ものも食べないということ。ときどき遠出
をしたときなど、コンビニで牛乳などを買ってあげるのだが、それすら飲まない。もちろんB犬
のほうは、番犬になる。見知らぬ人が家の中に入ってきたりすると、ワンワンとけたたましくほ
える。

 実は人間も犬と同じと考えてよい。何らかの理由で、親の心豊かな愛情を受けられなかった
子どもは、ここでいうA犬のような症状を示す。そこで話が、ぐんと飛躍するが、結婚してから、
浮気するとかしないとかいう問題は、結局は、この忠誠心の問題ということになる。結論から言
えば、忠誠心の強い夫は(妻もそうだが……)、浮気しない。忠誠心が弱い夫は、浮気する。浮
気しても、そこに罪の意識を感じない。あるいはブレーキそのものが働かない。

 中に浮気ばかりしている夫がいる。よくテレビなどでも、そういう夫がよく取りあげられる。もち
ろん浮気といっても、病的な浮気や行為障害としての浮気もある。そういう浮気は別として、そ
ういう点では、浮気は、原罪的なもので、妻が怒ったり、叱ったりしてなおるようなものではな
い。そもそも妻に対する忠誠心そのものが、ない。忠誠心のない夫に、「浮気するな」と言って
も、ムダ。

 そこでこのエッセーを読んでいる人が、妻(女性)なら、あなたの夫が浮気をしているかどうか
を疑う前に、あなたの夫が、どういう乳幼児期を過ごしたかを知るとよい。そしてここでいうB犬
のような家庭環境であったなら、まず夫の浮気を心配する必要はない。しかしA犬のような、家
庭崩壊、育児拒否、夫婦騒動、両親の愛情欠損など経験しているなら、忠誠心そのものがな
いという前提で、考えたらよい。

 たとえば幼児というのは、生後七、八か月くらいから、一年半くらいにかけて、「人見知り」とい
う、よく知られた現象を示す。いわゆる相互愛着がしっかりとなされた子どもほど、この人見知
りという現象が、顕著に現れる。しかし生後まもなくから、施設や保育園などに預けられっぱな
しになった子どもほど、この人見知りという現象が現れない。この「人見知り」という現象は、こ
こでいう忠誠心の、ちょうど裏返しの現象と考えてよい。わかりやすく言うと、人見知りの強かっ
た子どもほど、それだけ忠誠心も強いということになる。そうでなければ、そうでないということ。

 さて、私のことだが、私は、不幸にして不幸な家庭環境に育ったため、いわゆるここでいうA
犬のようなところがある。いつも相手に合わせてシッポを振る。振ってしまう。そしてその分、忠
誠心も弱い。子どものころから、損得の計算をしながら、平気で人を裏切るようなところがあっ
た。(今も、ある?)で、浮気ということになれば、私のような男ほど、浮気をしやすい男はいな
かったと思う。

 そういう私がたまたま、何となくまじめに生きてきたのは、(浮気をしたとか、しなかったと言っ
ているのではない)、一方で、女性恐怖症があったこと。それにもともとモテるタイプの男ではな
かったこと。さらには、そのチャンスが少なかったことによる。(正直に告白するが、今のワイフ
と結婚してからも、ワイフ以外の女性に、心を奪われたことはたびたびある。「男とはそういうも
の」と、自分ではそう思っているが、そうでない男もいるにはいる。本当のところは、よくわから
ないが……。)もしそういうブレーキがなかったら、私は浮気ばかりしていただろうと思う。

 そこで、診断テスト

●あなたの夫(息子)は、忠誠心が強いか?

(1)あなたの夫(息子)は、生後直後から、二歳くらいまでの間、両親のしっかりとした愛情に
包まれながら、心暖かい環境で育てられた。
(2)あなたの夫(息子)は、幼児のとき、人見知りという現象をしっかりと経験してきた。

 (1)と(2)の点について、何ら心配がないなら、あなたの夫(息子)は、ここでいう忠誠心の強
い夫(息子)とみてよい。そうでなければ、そうでない。
 
 ……と、夫(息子)のことばかり書いてきたが、妻(娘)だって、浮気することはある。もしこの
エッセーを読んでいるのが女性なら、あなた自身の夫に対する忠誠心は、どうかを疑ってみた
らよい。あなたは夫に対して、忠誠心が強いだろうか。それとも弱いだろうか。どちらにせよ、
その原因は、あなたの乳幼児期にある。
(030405)

++++++++++++++++
これに関連して、以前書いた原稿
(中日新聞掲載済み)を添付します。
++++++++++++++++

教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る
 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ
 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っ
ている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心
を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり
人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬
だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手
にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一
見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あ
るいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私
実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく
 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(723)

ロード・ツ・パーディション

 トム・ハンクスとポール・ニューマン主演の『ロード・ツ・パーディション』を見た。すばらしい映
画(ビデオ)だった。俳優それぞれの心の動きと個性が、しっかりと表現されていた。最初から
最後まで、安心して見ることができた。

 で、たまたまその映画を見終わって、テレビのチャンネルをかえると、BS放送で、Nという俳
優が主演している、『宮本武蔵』を放映していた。もちろん日本映画である。トム・ハンクスの名
演技のあとだから、よけいにそう思ったのかもしれないが、どうして日本の俳優たちの演技は、
ああまで不自然なのか。無理に力んでしまうため、演技そのものが、わざとらしくなってしまう。

 で、映画界にも、日本独特の権威主義がはびこっている。「有名な俳優だから、演技はすば
らしいはず」という前提で、演技そのものを評価してしまう。反対に、批評を許さない。そしてあ
とは皆で、祭りあげてしまう。

 こうした権威主義のこわいところは、一方的に、その著名人に名声や地位が集まってしまうこ
と。力のある人たちが、犠牲になってしまうということ。そしてその分、たとえば映画の世界で
は、活力そのものが押さえ込まれてしまうということ。このことは、極端な例だが、北朝鮮の映
画を見るとわかる。

 北朝鮮では、映画のラストは、必ずといってよいほど、朝日が昇るシーンで終わる。朝日は、
金XXを象徴しているのだそうだ。しかし一事が万事。映画のあらゆる部分で、こうした検閲が
なされているという。で、結果として、北朝鮮独特の映画になるわけだが、見ていて、本当に、
つまらない。あくびも出ないほど、つまらない。

 もちろんアメリカ映画にも、駄作は多い。このところ粗製らん造という感じで、「これは」と思っ
て選んでも、最後まで見るのは、二、三本に一本。さらにその中でも、「すばらしい」と思う映画
は、四、五本に一本くらいしかない。同じトム・ハンクスの映画でも、でき、ふできがある。たとえ
ば少し前、『グリーン・マイル』を見たが、私は、それほどすばらしい映画だとは思わなかった。
どこか「奇跡の押し売り」という感じさえもった。

 しかし今回の『ロード・ツ・パーディション』は、全体のストーリーの中で、父親と息子の、心こま
やかな交流描写がみごとなほど、表現されていた。私は一本、筋の通った哲学を感ずる映画
が好きだが、この映画には、その哲学を感じた。最後に父親が、命かながら、XXするシーンを
見終わったとき、「なるほど、そのとおり」と、もう一度、自分の心にダメ押しをすることができ
た。(XXの部分は、どうか映画のほうで……。)

 『フォレスト・ガンプ(一期一会)』で見た感動を、私はもう一度、この映画の中で感じることが
できた。好き嫌いもあるだろうが、男っぽい、骨のある映画が好きな人には、お薦め。私の評
価では、五つ星評価で、★★★★(四つ星)。ワイフの評価では、★★★(三つ星)。ワイフの評
価は、いつも辛い。私が「三つ?」と聞きなおすと、「そうねえ、三・五星くらいかな」と笑った。
(030405)

【追記】もちろん日本にも、少ないが、すばらしい俳優がいる。緒方拳や、三国連太郎など。こう
した俳優は、世界に誇るべき日本の名優である。ただそうした名優とは別に、日本映画の悪い
ところは、全体として、演技がわざとらしく、不自然なこと。明らかにIQの低そうな俳優が、知的
な人物を演じてみたり、どこかインチキ臭さそうな俳優が、安っぽい正義感を振りまわしたりす
る。演技だけではない。
 
 昔、『N』という映画があった。おばすて山を描いた映画だった。この映画は、フランスで何と
か賞を受賞したとかで話題になった。しかしもともと「おばすて」という風習は、貧しい農村で生
まれた。食糧が不足し、やむにやまれず、その地域の人は、老人を、山の中に捨てた。

 しかしその映画に出てくる俳優は、皆、丸々というか、ブヨブヨに太っていた。日本映画の不
自然さは、すべてこの一点に集約される。有名な俳優を並べて、名作(?)をつくったが、「飢餓
状態」という切迫感が、私にはまるで伝わってこなかった。

 同じように、Nという俳優が演じた『宮本武蔵』にしても、「剣の達人というのはこういうもの」と
いう、押し売り的な演技ばかりが目立つ。かっこうをつけているだけで、中身がない? 当時す
でに、Nという俳優は、押しも押されぬ大俳優。そのせいか知らないが、かいま見た上半身は、
やはりブヨブヨに太っていた。

 またまたきびしい映画評論をしてしまったが、映画という一つの文化を支えるためには、その
映画文化を支える周囲文化が必要である。しかしその周囲文化をつくるのは、実は、この私た
ち自身である。つまり私たち自身が、もっと目を肥やし、批評力や批判力をもち、同時に高い
文化性をもつ。その結果として、日本でも、すばらしい映画が生まれる。何となく弁解がましい
が、こうした私の辛らつな映画批評は、そのための一つと考えて、許してほしい。日本映画のフ
ァンの方や、Nという俳優のファンの方へ。

●「言うは易し、行うは難し」、つまり批評するのは簡単だが、実際に映画をつくるのは、むず
かしい。……よくわかっているが、しかしもう少し、日本の映画には、がんばってほしい。なおア
メリカやオーストラリアなどの学校には、「ドラマ」という科目があって、子どもたちは、小さいと
きから、演劇を学んでいる。日本では、「役者」の社会的地位が低く、演劇に対する理解も乏し
かった。私が子どものころでさえ、そうした偏見が、まだ根強く残っていた。そのせいかどうか
は知らないが、こと「演劇」という分野においては、日本は、世界からかなり遅れているとみてよ
い。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(724)

F先生へ

拝啓

 お元気ですか。
 こちらは元気です。
 昨日は、突然、思い立って、ワイフと、花見に行ってきました。
 I町に、M山というところがあります。
 その中腹が、花見の名所で、それでそこに行ってきました。

 お手紙、ありがとうございました。
 いろいろご多忙の中、ご活躍なさっておられるようですね。
 うらやましいです。

 私のほうは、今、乳幼児期の心の形成に、たいへん興味をもっています。
 この時期、親は、子どもに、いたたまれないほどの愛情を覚えます。
 その愛情に応じて、さまざまな働きかけをします。
 これを愛着行動と言いますが、実は、乳幼児も、親に向かって、懸命に、愛着行動を繰りか
えしているのですね。

 先日も、スーパーの中を歩いていたら、乳母車を引いた母親を見かけました。
 子どもは、生後、四〜六か月くらいだったと思います。
 母親のほうは、視線をあちこちに配りながら、商品のほうを向いていました。
 しかし子どもを見ると、手足をややバタつかせながら、懸命に、母親に向かって、話しかけて
いるといったふうでした。
 子どもは笑顔を浮かべていました。

 母親のほうは、子どものほうを向いていないのに、です。
 つまり子どもの側から、親に向かって、愛着行動をしていたわけです。

 こうした相互愛着が、親子の絆(きずな)を太くします。
 それは当然ですが、実は、この絆をとおして、子どもは、心の基盤を形成するわけです。

 よい例が、人見知りという現象です。
 子どもは、生後六、七か月前後から、一歳半にかけて、人見知りというよく知られた反応を示
します。
精神医学の世界では、ある種の恐怖反応ということになっていますが、どうやらそれだけでは、
ないようです。
それには、もっと深い意味があるようです。

たとえば施設児の問題があります。
生後直後から、施設などに預けられ、濃密な親の愛情を受けられなかった子どもは、独特の
症状を示すことが知られています。
知恵の発達が遅れがちになる。表情が乏しくなる。貧乏ゆすりなど、独特のクセがつきやすく
なるなど。
その中でも、特徴的なのは、だれにも愛想がよくなるということです。

このタイプの子どもは、特定の人(親)と、太い絆をもつことができないため、不特定多数の人
に愛想をよくすることで、自分の身の保全をはかろうとします。
いわば子どもの、悲しき防御作用と言えるべきものです。

で、当然のことながら、このタイプの子どもは、人見知りをしません。
ふつうの子どもが、人見知りする時期に、このタイプの子どもは、だれにも愛想がよくなるわけ
です。みなに好かれようとします。

さて、問題は、ここから始まります。

子どもの世界では、愛想がよいということは、あまり好ましいことではありません。
私の経験でも、心豊かな環境で、親の愛情を濃密に受けて育った子どもほど、愛想が悪いこと
がわかっています。どこかどっしりとしています。
反対に、そうでない子どもは、どこかセカセカとしています。
相手にへつらうような様子を、よく見せます。

で、長い間、その理由がわかりませんでしたが、どうやらその分かれ道は、このあたりにある
のではないかと思うようになりました。
つまりこうした違いは、生後直後から、満一、二歳前後の、親子関係のあり方に、起因すると
いうこと、です。

この時期、親の濃密な愛情を受けられなかった子どもは、第一に、「さらけ出し」ができなくなり
ます。
「さらけ出し」というのは、言いたいことを言い、したいことをすることをいいます。
そのさらけ出しが、じゅうぶんできてはじめて、子どもは、何をしても許されるのだという、安心
感を覚えます。
そしてこのさらけ出しが、信頼関係をつくる基礎となります。
その信頼関係がうまく、結べないと、やがて子どもは、他人との人間関係をうまく、築けなくなり
ます。精神的に、いわゆる不全状態になるわけです。

こうなると、いろいろな症状が出てきます。

昔、ショーペンハウエルという学者が、こうした現象を説明するために、「二匹のヤマアラシ」の
話を書きました。
ある寒い夜、二匹のヤマアラシが、たがいに体を寄せあって、暖をとろうとしたのですが、近づ
きすぎると、たがいのハリで、キズつけてしまう。
そこで離れるのですが、離れすぎると、今度は、寒くなってしまう。

子どもの世界でも、同じことが起きます。
このタイプの子どもは、精神的な不全感からか、独特の孤独感を覚えます。
つまり、基本的には、さみしがり屋なのです。
が、さみしいと思う反面、他人との人間関係が、うまく、築けない。

そこでこのタイプの子どもは、つぎの四つのタイプに分類された行動をとります。

攻撃型、内閉型、服従型、同情型です。

攻撃型には、二種類あります。
ひとつは、相手の子どもに対して、暴力行為、威圧行為を繰りかえして、屈服させる方法。
もう一つは、自虐的な訓練などをして、相手に自分の力を認めさせる方法。
ガリ勉タイプの子どもや、メチャメチャな練習をする子どもに、このタイプの子どもを多くみるこ
とができます。

内閉型というのは、人との接触を避けるタイプです。
引きこもりなどの、回避性障害もこれに含まれます。
このタイプの子どもは、他人をキズつけるのがこわいから、接触を回避するのではありませ
ん。
自分がキズつくのが、こわいから、回避するのです。

服従型というのは、自分を劣位の立場において、相手に服従することで、居心地のよい世界を
つくろうとするタイプです。
このタイプの子どもは、相手に対して、まさに奴隷のように服従するので、それがわかります。

最後に同情型ですが、私はこれを、老人たちを観察していて、知りました。
かく言う私も、もう老人の仲間に入りつつありますので……。

同情型というのは、相手に同情させることで、相手を自分の思いどおりに動かすというやり方で
す。
よく老人が、息子や娘に向かって、「私も、歳をとったからねえ……」と、弱々しい声で言うとき
がありますね。
あれです。
こうした老人は、信頼関係を基本とした親子関係が結べないため、子どもに同情させることで、
自分の立場を守ろうとするわけです。
もちろん、子どもの世界にも、似たような現象が見られます。

で、こうした症状のほか、たとえば忠誠心や、自律心の問題もあります。

子どもが人見知りする時期に、それがなく、だれにも愛想がよくなってしまうことにより、人間関
係が、うまく結べなくなってしまう。
これについては、ここで説明したとおりですが、問題は、それだけではありません。
その一つが、忠誠心の問題です。

このタイプの子どもは、それだけ忠誠心が弱くなり、親子の絆だけではなく、結婚してからも、
夫婦の絆などを、平気で踏みにじったりします。
病的な浮気グセは別として、私自身は、よく妻や夫を裏切る夫や妻というのは、その忠誠心が
弱い人だと思っています。

もちろん自律心をも弱いので、誘惑にも負けやすくなります。

ともかくも、育児拒否、家庭崩壊、はげしい家庭騒動などを経験すると、子どもは、「不安を基
底とした」心理状態になります。
このタイプの子どもは、何をしても不安なわけです。

不安だから、友だちを攻撃する。
不安だから、猛勉強をする。
不安だから、友だちを避ける。
不安だから、友だちに服従する。
不安だから、友だちに同情を求める、と。

こうした基底的な不安感を、心理学では、基底不安と呼びますが、子どもによっては、夏休み
前に、夏休み後のテストを心配したりするようになります。

こうした不安が基底にありますから、ほかの人を信じられない、ほかの人に心を開けないな
ど、いろいろな症状が出てくるわけです。
いわゆる「いい子ぶる」という症状も、ここから出てきます。

このタイプの子どもは、親や先生が、喜びそうな答を、自分で考えて出します。
たとえば「友だちと仲よくするのは大切なこと」「緑を大切にしましょう」「世界が平和になること
を望みます」などと、親や先生にとって、耳ざわりのよい意見を、つぎつぎと言います。

そういう意見を言えば、他人に評価されることを、よく知っているからです。
「愛想がよい」ということには、こうした、「他人に迎合した仮面づくり」という意味も含まれます。

しかし「いい子ぶる」ことについては、もっと深刻な問題が隠されています。
その状態が、重くなると、そこで人格の分離が始まります。
(本当の自分)と、(仮面の自分)の中で、葛藤が始まるというわけです。

よく情緒に問題のある子どもが、「遊離」という症状を示します。
これは心(情意)と、表情の不一致をいったものですが、同じように、人格の分離が始まると、
心(情意)と、表情が不一致するようになります。

もちろん遊離という現象は、脳の機能的な障害が原因で起こるもので、必ずしもここでこの言
葉を使うのは適切ではないかもしれません。
が、症状面で似ているところがあるので、私は「遊離状態」という言葉で説明しています。

このタイプの子どもは、こうした遊離状態の中で葛藤するため、現象としては、いろいろな問題
を引き起こします。代表的なものとしては、家庭内暴力(攻撃型)、引きこもり(内閉型)、集団
非行(服従型)、グズグズ(同情型)など。

症状は、まったく異なったものですが、共通するのは、(さらけ出しができない)→(心を開くこと
ができない)→(相手と、心豊かな信頼関係が結べない)→(人間関係が築けない)という点で
す。

そしてその原因は、ひとえに、乳幼児期にあるというわけです。

何となく暴論ぽいことを、一挙に書きあげてしまいましたが、しかしこう考えることによって、今
までともすれば現象面に引き回され、バラバラになっていた子どもの心の問題を、一つにまと
めることができます。
また、それで説明がつくようになり、かつ、そのルーツは、実は乳幼児期にあるという結論に達
することができます。

細かい部分では、説明不足で、「アレッ?」と思われるかもしれませんが、もし、何か、補足的
な説明が必要であれば,お申しつけください。
資料などを、お送りします。

長い手紙になってしまいましたが、どうかお許しください。
ここに書いたようなことが、このところ、私の心をとらえてはなしません。
何かの参考にしていただければ、うれしいです。

では、今日は、これで失礼します。
ワイフが、「どうしても、戦場のピアニストを見たい」と言っていますので、これから劇場へ行っ
て、見るつもりです。
昨夜、アカデミー賞の授賞式をしていましたので、その影響だと思います。

では、どうか、お体を大切に!
また手紙を書きます。

敬具

はやし浩司

(030407)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(725)

●好意の返報性

 心理学の世界に、「好意の返報性」という言葉がある。あなたに好意をもっている人には、あ
なたはよい印象をもち、反対に自分に反感をもっている人には、悪い印象をもつようになる。つ
まり相手の心の状態が、こちらがもつ印象に影響を与える。それを好意の返報性という。

 こうした好意の返報性は、子どもには、とくに強く現れる。「この子はいい子だ」と、親や教師
が思っていると、子どもも、その親や教師に、よい印象をもつようになる。反対に、そうでないと
きは、そうでない。この性質をうまく利用すると、子どもを伸ばすことができる。

 私も若いころ、初対面で、「この子は、教えにくい子どもだ」と思ったことがある。そういう子ど
もはたいてい、半年、一年もすると、「林先生なんて、嫌い」「幼稚園へ行きたくない」と言い出し
た。

 そこで私は、初対面のとき、仮にそういう思いが心の中を横切っても、それを打ち消すように
している。そして心底から、「この子はいい子だ」と思いなおすようにしている。すると子どもの
ほうも、やがて私に対してよい印象をもつようになり、「林先生が、好き」と言い出す。しかしそ
れはその子どものためというよりは、私自身のためでもある。私はそうすることで、自分の仕事
をしやすくする。

 そこで教訓。もしあなたが自分の子どもに対して、「うちの子はダメ」「うちの子は心配」と思っ
ているなら、そういう思いは、今すぐ、改める。そして最初はウソでも構わないから、「うちの子
は、すばらしい」「うちの子は、いい子」と思うようにする。これはあなたの子どものためというよ
りは、あなた自身のためである。

+++++++++++++++++++

●好意の返報性(2)

 あなたが周囲の人を嫌ったり、批判したりすると、そのときはあなたに同調する人も現れるか
もしれないが、やがてあなた自身も、嫌われたり、批判されたりするようになる。こうした現象
も、好意の返報性で、説明される。

 たとえばあなたが園や学校の先生を、嫌ったり、批判したりしたとする。あるいは先生の悪口
を言ったとする。その人があなたと親しい人なら、あなたの意見にそのときは、耳を傾けるかも
しれない。しかしやがて、今度は、あなたが嫌われたり、批判されたりするようになる。

 そこであなたが皆に、好かれるためには、この反対のことをすればよい。あなたがあなたの
周囲の人を好きなったり、ほめたりすればよい。そのときは多少、反発する人もいるかもしれ
ないが、やがてあなたは、皆に好かれるようになる。

 家庭では、こんなことを注意する。

 あなたは子どもの前では、夫や家族を、ほめる。楽しいできごとだけを口にして、それを喜
ぶ。そして夫や家族の前では、子どもをほめる。子どものすばらしい面だけにスポットをあて、
それを皆で、たたえる。こうした相互作用が、あなたの評価を高める。それだけではない。家庭
全体が、温もりのある家庭になる。

++++++++++++++++++++

●好意の返報性(3)

英語の格言に、『友を責めるな、行為を責めろ』というのがある。仮にあなたの子どもが、あな
たからみて好ましくない友だちと交際していても、その友だちを責めてはいけない。名前を出し
てはいけない。その友だちの行為の、どこがどう悪いかだけを指摘して、あとは子どもの判断
に任せる。

 それについて以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたので、ここに転載する。この中
で書いた、「遠隔操作」も、好意の返報性の一つと考えてよい。

++++++++++++++++++++

友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。

+++++++++++++++++++++++

●好意の返報性(4)

 子育ての要(かなめ)は、こういうわけで、子どもの叱り方にあるということになる。これについ
ても、以前、こんな原稿(中日新聞発表済)を書いたので、ここに転載する。

+++++++++++++++++++++++

子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)

(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる

(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく

(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、

(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。

また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎ
て子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結
果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの
理解を示してあげる。

++++++++++++++++++++++++

好意の返報性(5)

 「好意」といっても、それがいつも好ましいものとはかぎらない。好意をもたれることで、かえっ
てその人に嫌悪感を覚えることだってある。

 たとえばあなたが財産家であったとする。そういうあなたに、何かのセールスマンが近寄って
きて、あれこれあなたをほめたとする。しかしそういうときあなたは、そのセールスマンの言うこ
となど、信じないだろう。あるいは反対に、そのセールスマンを毛嫌いするかもしれない。この
ばあい、あなたは、セールスマンの行為に、下心があるのを知るからである。

 好意が好意として、返報性をもつためには、同調性が必要である。「同調性」というのは、こ
ちら側もまた、相手の好意に対して、同調するということ。もう少しわかりやすく説明してみよ
う。

 たとえばあなたが、絵を描いて、何かの賞をもらったとする。そのときまったく絵のことを知ら
ないAさんが、その絵を見て、「あなたの絵はすばらしい」と言ったとする。するとあなたは、
「何、言ってるのよ!」と思うかもしれない。あるいは日ごろからあなたの悪口ばかり言っている
Bさんが、同じようにほめたとする。するとそのときも、あなたは、「何、言ってるのよ!」と思う
かもしれない。つまり同調性がないことになる。

 ほかにたとえば、ここでいう下心を、ほめられたほうが感ずると、同調性が消える。つまりそう
いう状態で、相手が、いくら好意を表現しても、効果がない。ないばかりか、かえって逆効果に
なることもある。子どもも、また同じ。

 子どもをほめるときは、それなりに、ほめる側にも、同調性がなければならない。そこでつぎ
のことに注意するとよい。

○おせじ的なほめ方はしない。へつらわない。機嫌をとらない。
○子どもに同調するために、こちら側のレベルもあげる。子どもをほめるときには、なぜほめ
るかという理由を、はっきりともつ。「レベルをあげる」というのは、ほめる側も、それなりの知識
をもつということ。具体的には、なぜほめるか、その理由を、しっかりと子どもに伝えられるよう
にするとよい。「あなたの絵は、見る人をほっとさせるような、やさしさがあるわ。そういうところ
が、審査員の先生たちの心をとらえたのね」と。
○好意には、下心をもたない。心底、無の状態で、子どもをほめる。親にとっては、なかなかむ
ずかしいことかもしれないだが、努めて、そうする。

このように「好意の返報性」といっても、奥が深い。家庭で子どもを指導するときの、一つのコツ
として覚えておくと、役にたつ。
(030407)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(726)

はやし浩司の「健康論」

 何か体の不調が現れると、私はまず第一に、「この症状は以前にもあったか?」と自問する。
そして以前にもあった症状なら、それで安心し、そうでなければ不安になる。いや、ときどき以
前にもあったはずなのに、それを思い出せないときがある。少し前も昼になって鏡を見たら、目
の眼白がまっかだった。理由はわからないが、結膜出血である。とたん、言いようのない不安
感が私を包んだ。遠い昔、同じような症状があったはずだが、どうも思い出せない。女房に聞く
と、「ほら、前にもあったでしょ」と笑ったが、私は笑えない。

 賢明な人は、健康の価値を、それをなくす前に気づく。愚かな人はその価値を、なくしてから
気づく。『健康は第一の富である』と言ったのは、あのエマーソンだが、たしかに健康はすべて
の財産にまさる。いや、中には金銭的な財産をなくして、自ら命を断つ人もいる。が、しかしこう
いうことは言える。「死を前にしたら、すべての財産が無価値になる」と。健康あっての財産であ
る。健康あっての生活であり、健康あっての仕事である。……というようなことは頭の中でもわ
かっている。問題はこのことではなく、その先である。では、健康であればよいのかというと、そ
うでもない。

健康というのは、何かの目的のために有意義に使ってはじめて価値がでる。極端な言い方だ
が、ただ無益に生きても、意味はない。むしろ生きるということを考えるなら、死の恐怖を目前
に感じていたほうが、生きる意味が鮮明にわかる。もっとはっきり言えば、健康と「生きる」こと
は別物である。健康だから生きていることにはならないし、死が近いから生きていないことには
ならない。実はここが重要な点だ。

私の家の近くに、小さな空き地がある。そこは老人たちのかっこうの溜まり場になっている。う
ららかな春の日ともなると、いつも七〜八人の老人たちが、何かをするでもなし、しないでもな
し、一日中何やら話し込んでいる。のどかな光景だが、しかしそれがあるべき老人の姿なの
か? 竹の子の季節になると、交替で見張り番をしている。昨年も私が不用意にその竹やぶ
に入ったら、いきなり一人の老人が飛び出してきて、「お前は、どこのバカだ!」と叫んだ。そう
した老人たちが健康なのかどうかは、外からはわからないが、生きているかどうかという視点
でみると、それは疑わしい。

生きるということは、日々の生活の中で前進することだ。もし今日が昨日と同じ。明日は今日と
同じということになったら、その人はもう「生きていない」ということになる。健康であるとかないと
かいうことは、関係ない。若いとか老人であるとかいうことも関係ない。言い方を換えるなら、若
い人でも「生きていない」人はいくらでもいる。老人でも、あるいは重病人でも「生きている」人は
いくらでもいる。

もちろん健康であることにこしたことはないが、しかし健康は「生きること」の前提ではない。い
わば健康は、その人が当然大切にすべきものであるのに対して、「生きること」は、その人の
心の問題である。わかりやすく言えば、健康はハード、生きることはソフトということになる。いく
らすばらしいハードをもっていても、ソフトがなければ、パソコンにたとえて言うなら、ただの
「箱」。少なくとも私はそういう人生には耐えられない。

……と書いて、私のことだが、私はもう二〇代の後半から自転車通勤を欠かしたことがない。
真冬の寒い夜でも、あるいは多少小雨がパラつくときも、自転車通勤を欠かしたことがない。
健康のためという意識はあまりなかったが、それを欠かすと、とたんに体の調子が悪くなる。一
方、同年齢と思われる男たちが、乗用車で私を追い越したりすると、「いいのかなあ」と思った
りする。健康というのは、それがしっかりとある間から守ってはじめて守れる。病気になってか
ら健康を考えても遅い。老人に近づいてから健康を考えても遅い。そういう意味で、「もっと運
動をしなくてもいいのかなあ」と思った。

で、今、おかげでというか、多少の持病はあるにはあるが、しかし成人病とは無縁だし、生涯に
おいて、病院のベッドで眠ったことは一度もない。しかしそれでも不安はある。冒頭に書いたよ
うに、今までに経験したことがない症状が出たりすると、「ハッ」と思う。とくに私は不安神経症
のところがある。いちどそれが気になると、ずっとそれが気になる。「このまま失明したらどうし
ょう」とか、「もっと悪い病気で、眼球摘出ということにでもなったらどうしよう」とか。が、内心の
どこかで、「そんなはずはない。お前は健康には気を配ってきたではないか」と思いなおして、
それを打ち消す。……打ち消すことができる。そのために二六年間も自転車通勤を続けてき
たのだ!

と、書いて、しかしそこにそれでは満足できない自分を知る。健康でない人には、たいへんぜい
たくな話かもしれないが、「だからどうなの?」という問題に、そこでぶつかってしまう。たとえば
今私は、最新型のパソコンをもっている。ペンチアム四の二ギガヘルツのすごいパソコンだ。し
かしワープロで使う程度なら、実のところこんなすごいパソコンはいらない。一昔前の中古パソ
コンでも、じゅうぶんだ。もちろん最新型であることはすばらしいことだが、健康もそれに似てい
る。「だからどうなのか?」という部分を煮詰めないと、健康論もただの健康論で終わってしま
う。

話が繰り返しになってきたので、ここで私の健康論はやめる。ただ私にもわかっている。今あ
る健康にしても、それは薄い氷の上に建つ城のようなものだということ、を。また健康をなくせ
ば、当然心も影響を受けて、まともに考えられなくなるということ、をも。そういう意味で、私にと
っては「健康である」ことと、「生きる」ことは競争のようなものだ。時間との勝負といってもよい。
この「健康な」状態はいつまで続くかわからない。五年か、一〇年か。それとも一年か。私はそ
の間に生きなければならない。一歩でも二歩でも、前に進まねばならない。まだまだ知りたいこ
とは山のようにある。少なくとも空き地にたむろして、竹の子の見張り番をするようなことだけは
したくない。そしてとてもぜいたくな言い方に聞こえるかもしれないが、そのための健康であると
するなら、私は健康なんかいらない。(再)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(727)

こだわる人たち

 家柄や学歴にこだわる人は多い。地位や肩書きにこだわる人も多い。人はそれぞれだが、
この「こだわり」が強ければ強いほど、現実の自分を見失う。言うならばこれらはバーチャル
(仮想現実)の世界。そういうものにこだわっている人は、テレビゲームに夢中になっている子
どもと、どこも違いはしない。あるいはどこがどう違うというのか。

 人は生きるために食べる。食べるために働き、仕事をする。それが人間の原点だ。生きる本
分だ。しかしバーチャルな世界に生きている人にはそれがわからない。仕事をするために生き
ている。中には仕事のために生きることそのものを犠牲にする人さえいる。いや、仕事がムダ
と言っているのではない。要は「今」をどう生きるかであり、その本分を忘れてはいけないという
こと。こんな人がいる。

 マクドナルドといえば、世界最大のハンバーガーチェーンだが、その創始者は、R・マクドナル
ド氏。九八年の七月に八九歳でなくなっているが、その少し前、彼はテレビのインタビューに答
えてこう言っている。氏は、一九四〇年にハンバーガーショップを始めたが、それからまもなく、
一九五〇年にはレストランの権利を、R・クロウ氏に売り渡している。それについて、レポーター
が、「損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。「もしあのままあの会社にいたら、今ごろは
ニューヨークのオフィスで、弁護士と会計士に囲まれて、つまらない生活をしていることでしょ
う。(農場でのんびりと暮らしている)今の生活のほうが、ずっと幸せです」と。

 子どもの教育も同じ。たしかにこの日本には学歴社会があり、それにまつわる受験競争もあ
る。それはそれだが、ではなぜ私たちが子どもを教育するかといえば、心豊かで幸福な生活を
送ってほしいからだ。その本分を忘れてはいけない。その本分を忘れると、学歴や受験のため
に子育てをすることになってしまう。言うなれば教育そのものをゲーム化してしまう。そして本来
大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを、大切だと思い込んでしまう。しかしそれ
は同時に、子ども自身が子どもの人生を見失うことになる。

 先日も姉(六〇歳)と話したら、こんなことを言った。このところ姉の友だちがポツリポツリとな
くなっていくという。それについて、「どの人も仕事だけが人生のような人だった。何のために生
きてきたのかねえ」と。生きる本分を忘れた人の生き様は、それ自体、さみしいものだ。その人
が生きたはずの「人生」がどこからも浮かびあがってこない。それこそ「ただ生きた」というだけ
になってしまう。それともあなたは、あなたの子どもにそういう人生を送らせたいと思っている
か。いやいやその前に、あなた自身は生きる本分を忘れないで生きているだろうか。一度、自
問してみてほしい。(再)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(728)

賢い人、愚かな人

 どんな山にも登ってみるものだ。低い山だと思ってみても、登ってみると意外と視野が広い。
たとえば浜松市の北西に舘山寺温泉という温泉街がある。その温泉街の反対側に、小さな湖
をはさんで大草山という山がある。ロープウエィで一〇分足らずで登れる小さな山だが、そんな
山でも浜松市はもちろんのこと、遠くは太平洋すら一望できる。

 人もそうだ。どんなささいなことでもよい。賢くなった状態から、そうでない人を見ると、その人
の愚かさがぐんとよくわかる。しかし愚かな人にはそれがわからない。対等だと思っている。も
っとはっきり言えば、賢い人には愚かな人がわかるが、愚かな人には賢い人がわからない。

 ……と考えて、実は人は、もちろん私も、賢い部分と愚かな部分をいつも同時にもっている。
さらに賢いか愚かかということは、あくまでも相対的なものでしかない。私より賢い人はいくらで
もいる。つまり私が賢いと思っているのは、それは愚かな人に対してだけである。一方、そうい
う私を愚かだと思っている人はいくらでもいる。

たとえば同じAさんならAさんとくらべても、「この部分はAさんより賢いぞ」と思う部分もあれば、
「そうでない」という部分もある。さらに自分のことについても、同じことが言える。何か新しいこ
とがわかったとする。すると、それまでの自分が愚かに見えることがある。それは無数の道を
同時に走るマラソンのようなものだ。一本の道をマラソンで走るなら、Aさんが一番、Bさんが二
番と、その順位がよくわかる。だれが賢くて、だれがそうでないか、よくわかる。が、無数の道を
同時に走ったら、それはわからない。少し入り組んだ話になってしまったが、要は、いかにして
人は賢くなるかということ。

 方法はいくらでもある。しかしここで重要なことは、技術や知識では人は賢くならないというこ
と。いくらすぐれた技術にたけていたとしても、また世界中の科学者の名前を知っていたとして
も、それは「賢い」とは言わない。もっとわかりやすい例で言えばこうだ。たとえば一人の幼稚
園児が、剣玉をスイスイとしてみせても、また掛け算の九九をソラでペラペラと言っても、賢い
子どもとは言わない。となると、人の賢さは何によって決まるかということ。ここが重要だ。一つ
の方法としては、人間が本来的にもっている「愚かさ」を、徹底的に追及するという方法があ
る。その愚かさを追及することによって、他方で賢さを浮かびあがらせる。

 たとえば夜の繁華街を歩く。そこにはケバケバしいネオンサインが立ち並び、遊ぶ男と遊ぶ
女が、あたかもゾンビのように動き回っている。せっかくすばらしい健康と、明晰(めいせき)な
頭脳をもちながら、彼らは流れ行く「時」を、流れていくままムダにしている。あるいは威圧や暴
力を売り物にして、他人から金銭をまきあげている人がいる。ウソやゴマカシばかりをして、コ
ソコソと生きている人がいる。もっと身近な例では、空き缶やゴミを空き地へ平気で捨てていく
人がいる。こういう行為に愚かさの原型があるとするなら、賢くなるためには、そうした世界か
らの脱却をめざせばよい。しかしここ別の問題が起きる。仮に脱却するとしても、学校の先生
が子どもたちに校則のようにあたえるような、教条主義ではいけない。一つ、夜遊びはしないこ
と。二つ、暴力を振るわないこと。三つ、ウソはつかないこと。四つ、ゴミを捨てないこと、と。

 こうした教条を守る人は、一見賢い人に見えるかもしれないが、しかし賢い人とは言わない。
人の賢さというのは、もっと根源的なもので、その人の底辺から上に向かって湧き出るようなも
のをいう。つまりそういう「教え」があるからするのではなく、「自らがつかんだ知恵」によってし
なければならない。「知性」や「智慧」と言ってもよい。問題のすべては、ここに集まる。「自らが
つかんだ知恵」だ。(再)
 
++++++++++++++++
以前掲載した原稿を、再掲載します。
以前、お読みくださった方は、とば
してください。
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知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。

私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人は
こう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行
くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、
「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思ってい
た。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考え
て、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの
 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある
子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わな
い。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言ってい
る。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、
教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)
●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本
になっている。戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わ
っていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育
である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけ
ん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人に
よっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らな
い。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるというこ
とは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜
九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」
(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。
                                                        
                                                        
                                                        
                                                        
                                                        
                                                        
                                                        
                                                        
                                                        
                    
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(729)

人は生きるも裸

 「裸の王様」という寓話(ぐうわ)がある。王様は立派な衣服を身に着けていると思っていた
が、王様が裸であることを見抜いたのは、子どもたちだった。通俗世間の人の目はごまかせて
も、子どもの目はごまかせない。

先日も「来週は講演で東京へ行くことになっている」と話したら、ぐるりとあたりを見回したあと、
「どうしてあんたなんかが……」と言った子ども(中二女子)がいた。私はいつもそういう目にさら
されているから、そう言われても気にしない。「さあね、きっと人選ミスだよ」と笑うと、その子ど
もも、「そうだよねえ」とうれしそうに笑った。それが裸の王様を見抜いた子どもの目だ。

 肩書きや地位やあれば、こうまでバカにされなくてすむだろうなと思うことは、しばしばある。
事実、この日本では、肩書きや地位やものを言う。そしてそれにぶらさがって生きている人は、
いくらでもいる。一度、どこかでそういう肩書きや地位を身につけると、あとは、次から次へと、
死ぬまで要職が回ってくる……。

しかし肩書きや地位にどれほどの意味があるというのか。たとえばだれかが箱いっぱいのサツ
マイモを届けてくれたとする。地位や肩書きのある人は、そういう好意を、果たして好意と受け
取れるだろうか。どこかで「下心」を感ずるに違いない。一方、私のような、何の地位も肩書き
もない人間は、そういう好意を好意として、すなおに受け入れることができる。(再)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(730)

定年後

 定年まぎわの人には、ひとつの大きな特徴がある。多分内側に見せる顔は、もっと別の顔な
のだろうが、外側に向かっては悲しいほど、虚勢を張ってみせる。「定年退職をしたら、地元の
郷里に帰って市長でもしようかな」と言った銀行マンがいた。「国際特許の翻訳会社でもおこし
て、今の会社の顧問をする」と言った大手の自動車会社の社員もいた。しかし悲しいかな、そ
こはサラリーマン。その人がその人なのは、「会社」という看板を背負っているからにほかなら
ない。また定年まぎわの人は、それなりにその会社でもある程度の地位にいる人が多い。自
分という存在が、会社というワクを飛び越えてしまう。それで自分の姿を見失う。

 が、現実はすぐやってくる。たいていの人は、「こんなはずはない」「こんなはずではなかった」
と思いつつ、その現実をいやというほど見せつけられる。退職と同時に、山のように届いてい
た盆暮れのつけ届けは消え、訪れる人もめっきりと減る。自分が優秀だと思い込んでいた
「力」も、現実の世界ではまったく通用しない。それもそのはずだ。その人が優秀だったのは、
「会社」という小さな、特殊な世界でのこと。そのワクの中での処理にはたけていたのかもしれ
ないが、そんな力など、広い世界から見れば、何でもない。その「何でもない」という部分が、わ
かっていない。

 で、そのあと、このタイプの人は大きく分けて、二つの道を歩む。一つは、過去の経歴を忘
れ、人生を再出発する人。もう一つは、過去の経歴にしがみつき、その亡霊を引きずって生き
る人。もともと肩書きや地位とは無縁だった人は別だが、しかし肩書きや地位が立派(?)だっ
た人ほど、退職後、社会に同化できない。できないまま、悶々とした日々を過ごす?

M氏(六三歳)は、退職まで、県の出先機関の「副長」まで勤めた人である。何かの違反を取り
締まっていたが、そのため現役時代には、暴力団の幹部ですらMさんの前では、借りてきた猫
の子のようにおとなしかったという。が、六〇歳で退職。それまでも近所の人には、あいさつも
しなかったが、その傾向は退職後さらに強くなった。いくつかの民間会社に再就職を試みた
が、どれもていねいに(?)断られてしまった。

 「私はすぐれた人間だ」と思うのは自尊心だが、その返す刀で、「ほかの人は劣っている」と
思うのは、自己中心性の表れとみる。「私は私」と思うのは、個人主義だが、「相手も私に合わ
せるべきだ」と考えるのは自己中心性の表れとみる。人も老人になると、この自己中心性が強
くなる。脳の老化現象ともいえるものだが、アルツハイマーの初期症状の一つでもあるそうだ。
(物忘れがひどくなるという主症状のほか、繊細さの欠如、がんこになるなど。)

言い換えると、この自己中心性とどう戦うかが、脳の老化の防止策にもなる(?)。いや、防止
にはならないかもしれないが、少なくとも人に嫌われないですむ。私の遠い親戚に、こんな男性
がいた。中学校の校長を最後に、あとは悠々自適の生活をしていたが、会う人ごとに、「君は
何をしているのかね?」と。そしてその人が、その男性より肩書きや地位の高い人だと、必要
以上にペコペコし、そうでないと威張ってみせた。私にもそうだった。私が「幼稚園で働いていま
す」と言うと、こう言った。「君はどうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事にありつけなか
ったのだろう」と。こういう人は嫌われる。その男性は数年前、八〇歳近くになって他界したが、
葬式から帰ってきた母がこう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。
  
その人の進歩はいつどのようにして停止するのか。ものを書いていると、それがよくわかる。た
とえば私は、毎日いろいろなことを考えているようで、実際には堂々巡りをしているときがあ
る。教育もそうだ。ある日気がついてみると、一〇年前、あるいは二〇年前と同じことをしてい
ることに気づくときがある。こういった部分については、私の進歩はその時点で停止しているこ
とになる。

 そういった視点で見ると、人がまた別の角度から見えてくる。この人はどこまで進歩している
だろうか。あるいはこの人はその人のどの時点で進歩を止めているだろうか。そういう視点で
その人を見ることができるようになる。ただ「進歩」といっても、二種類ある。一つは、常に新し
い分野に進歩していくという意味での「進歩」と、今の専門分野をどこまでほりさげていくかとい
う意味での「進歩」である。この二つはよく似ているようだが、実のところまったく異質のもので
ある。

 たとえば医療の分野に興味をもった人が、そのあと今度は法律の分野に興味をもつというの
は、前者だ。一方、その分野の研究者が自分の研究を限りなく掘り下げていくというのは、後
者だ。どちらにせよ、人は油断すると、その進歩を自ら停止してしまう。そしてある一定の限ら
れた範囲だけで、それを繰り返すようになる。こうなるとその人はもう死んだも同然……といっ
た状態になる。毎日、読む新聞はといえば、スポーツ新聞だけ、仕事から帰ってくると野球中
継を見て、たまの休みは一日中、パチンコ屋でヒマをつぶす。これは極端な例だが、そういう
人に「進歩」を求めても意味がない。(実際、野球にしても、毎年大きな変化があるようで、一〇
年前、二〇年前の野球と、どこも違わない。パチンコにしてもそうだ。)

 これは職業には関係ない。たとえばここに証券マンがいたとする。彼は毎日、証券業務に追
われていたとする。しかしある時期までくると、その業務はそれまでの繰り返しになる。マイナー
な変化はあるだろうが、それは「進歩」と言えるほどの変化ではない。世間一般の「仕事」という
業務からみると、ささいな変化だ。そこでその証券マンは、さらに専門化していくが、それはまさ
に重箱の底をほじるような世界へと入っていくようなものだ。自分自身では「進歩」と思い込ん
でいるかもしれないが、それは本当に「進歩」と言えるようなものなのか。

 一方、農家のお百姓さんがいる。「百姓」というだけあって、オールマイティだ。そのオールマ
イティさは、プロのお百姓さんに会ってみるとわかる。私の親しい友人にKさんという人がいる。
農業高校を出たあと、農業一筋の人だが、彼のオールマイティさには、驚くしかない。農業はも
ちろんのこと、大工仕事から、土木作業、農機具の修理まで何でもこなす。先日遊びに行った
ら、庭先で、工具を研磨機で研いでいた。もちろん山村の生活で使うようなありとあらゆる道具
に精通している。その上自然相手の生活だから、そのつど作物は変わる。キーウィ生産もして
いるし、花木の生産もしている。そういうKさんともなると、いつもどこかで挑戦的に進歩してい
るのがわかる。こと、生きる力ということになれば、Kさんのほうが、はるかに、その力がある。

 そこで私はこう考えた。専門的にその世界へどんどんと入っていってつかむのが、「知識」。
一方、外の世界へ常識の世界を広げていくのが、「教養」と。そういう意味で知識と教養は別物
である。そして知識のある人が必ずしも、教養があるということにはならない。反対に教養のあ
る人が知識があるということにもならない。こんなことを言った人がいる。『知識と教養は別物で
す。……教養を身につけた人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに多く見出される』と。福
田恒存という人が「伝統に対する心構」の中で書いている一節である。

このことは子どもを見ればすぐわかる。勉強ができるから人格的にすぐれた人物ということに
はならない。むしろ勉強のできない子どものほうにこそ、人格的にすぐれた子どもを見ることが
多い。(そもそもこの日本では、人格的にすぐれた子どもほど、あの受験勉強になじまない。こ
れは日本の教育そのものがかかえる、致命的な欠陥といってもよい。)

 ところが進歩をしようとしても、今度は脳の物理的な限界を感ずることがある。記憶という分
野にしても、自分でもはっきりとそれがわかるほど、年々退化している。そして構造そのものも
退化するというか、がんこになることがわかる。自分では進歩しつづけたいと思いつつ、それが
どこか限界に達しつつあるように感ずる。進歩をこころがけていない人はなおさらで、その人は
その時点で完全に停止してしまう。

これも一つの例だが、私の近所には定年退職したあと、のんびりと(?)年金生活をしている人
が何人かいる。しかし彼らの生活を見ていると、五年前、さらには一〇年前の生活とどこも違
わない。それはちょうど、子どもがブロックで遊びながら、小さな家を作っては、また壊すという
作業に似ている。壊したあとから、また同じものを作っているから、何となく生きているようには
見えるが、また小さな家を作ってはこわしてしまう。そんな感じだ。

 生きるということは、それ自体が、生きるための大きなテーマである。しかし生きるだけでは
足りない。人はいつも、どう生きるかを模索しなければならない。たとえていうなら、生きること
は、ビン。どう生きるかは、中身ということになる。どちらが欠けても、人生には意味がない。
(再)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(731)

自己中心的な人たち

 自己中心性の強い人は、自分を中心に世界が回っていると錯覚する。自分だけが、唯一の
人間であり、もっとも尊い存在だと錯覚する。そしてこのタイプの人は、他人をも客観的にみる
ことができないから、相手がまちがっていると一度、思い込むと、その相手を徹底的に攻撃し
たり排斥したりする。

子どもはある時期、この自己中心的なものの考え方をする。ある男の子(小一)は、こう言っ
た。「ぼくが前を向いているときは、うしろの景色は消えてなくなる。しかしうしろを向いたとき、
またうしろの景色が現れる」と。そこで私が、「君が前を向いていても、うしろの景色はちゃんと
あるよ。ぼくが見ているからまちがいない」と言うと、「それはおかしい。先生だって、消えてなく
なっているはずだ」と。そこでさらに「でも、声はするだろ」と言うと、「それは声だけだ。姿はない
はずだ」と。

 こうした幼稚な自己中心性は、実はおとなにもよく観察される。確たる統計があるわけではな
いが、老人になればなるほど、この自己中心性が強くなるのでは。こんな女性(七〇歳)がい
る。その女性は、郷里の田舎町から外の町へ引っ越していく人を、ことごとく「逃げていった」と
いうような言い方で、軽蔑するのだ。実のところ私にもそう言ったので、私はあきれて、それ以
上、何も言えなくなってしまった。その女性にしてみれば、その町こそが、世界の中心なのだ。
そのため、その町から引っ越していく人は、皆、負け犬(ルーザー)ということになる。

 「私はすばらしい人間だ」と思うのは、自尊心だが、その返す刀で、「相手は自分より劣ってい
る」と思うのは自己中心性。「私は私」という生き方を貫くのは、個人主義だが、その生き方を
相手に押しつけたり、「相手の生き方には価値がない」と思うのは、自己中心性。その自己中
心性のあるなしは、たとえばものの話し方をみればわかる。たいていは極端なものの言い方を
する。

先日もある女性(三五歳)が私のところにやってきて、こう言った。何かのことで、その女性は、
どうやら友人と喧嘩をしたらしい。それはそれでよくあることだが、こう言った。「あの人の叔父
は、市議会議員をしているというではありませんか。あんな人の叔父が、議員というもの、おか
しなことです。私、今度の選挙では、絶対、あの議員を落選させてやります」と。

 さらにこの自己中心性が強くなった状態が、カルトである。一度私もあるカルト教団をある本
の中で批判したことがあるのだが、以後、執拗な攻撃にさらされた。「はやしは地獄へ落ちる」
とか、「あの夫婦は離婚状態だ」とか、まあ、とんでもないことをさんざんと言われた。彼らにし
てみれば、自分や自分たちの世界が絶対であり、それ以外の人や世界は、「まちがっている」
ということになる。そして彼らの世界を批判する私のような人間を、「悪魔の手先」として否定す
る。

 ……と書いて、この問題は、結局は自分自身の問題でもある。ここにも書いたように、老人に
なればなるほど、この自己中心性が強くなる(?)。言い換えると、老人になればなるほど、自
分の中の自己中心性を見抜き、それと戦わねばならない。で、そこで考える。その方法はある
のか、と。またどうすれば、それと戦うことができるか、と。

(自己中心性の発見)
 もともと私のように「評論」をするものには、自己中心性が強い人が多い。(私もそうかもしれ
ないが……?)自己中心性があるから、評論できるということにもなる。一本、スジを通すという
ことは、そういうことになる。

そこで一つの尺度だが、自分の意見が批判されたとき、どのように反応するかで、自己中心性
がわかるのではないかということ。自己中心性の強い人は、自分の意見が批判されるのを許
さない。あるいはふつうでない反応を示す。ある女性(五〇歳)は、自分のまちがいを指摘され
たとき、ヒステリー状態になってしまった。それを目撃した知人は、「狂人のようだった」と言っ
た。

そうでない人は、批判されても、「そういう意見もあるのかな」というふうに、相手の意見を受け
入れることができる。あるいは批判されても、即座に相手のレベルを見抜き、それが取るに足
りないものであれば、無視することができる。要するに、相手や相手の生き方をどの程度容認
することができるかで、自己中心性を知ることができる。

(自己中心性との戦い)
 で、自分の中にそういう自己中心性を発見したら、どうやってそういう自分と戦うか。「まあ、
いいや」と居直なおることもできるが、しかし自己中心的になればなるほど、結局はどこかゆが
んだ世界へ入ってしまう。居なおるのは、たいへん危険なことでもある。そこで一つの方法は、
できるだけいろいろな人と接し、いろいろな情報を得ることなのだが、どうもそれだけでは足り
ないような気がする。情報といっても、それは一つの刺激に過ぎない。大切なことは、いかに大
きく、広いポケットを自分の心の中に用意するかだ。これがないと、せっかくの情報が、自分の
体の中にしみ込んでこない……? そこでこれはあくまでも私のばあいだが、私はこうしてい
る。

 まずものを考えても、これが絶対だとは思わないようにしている。仮に「1足す1は、2」と言っ
たところで、心のどこかで「そうかな?」と思うようにしている。(だからといって、「1足す1は、
3」という人を容認するわけではないが……。)実際のところ、「これは正しい」と思って書いた自
分の文であっても、数年を経て読んでみると、「おかしい」と思うことはよくある。そういう意味で
も、ものを書くのは大切なことかもしれない。つまりそういう形で、自分を絶対化しないことにこ
ころがけている。

 つぎに悪意をもって私を批判する人は別として、他人の批判はすなおに受け入れる。あるい
は批判されても、それがどんなものであれ、それから感ずる不愉快さが心の中から消えるま
で、「文」の中でその批判と戦う。そういう意味では、その「個人」は相手にしない。相手にして
も、ほとんど意味はない。形としては相手を無視する。相手は相手だし、私はその相手に対し
て、その相手のまちがいを指摘してあげなければならない責任はない。

先日もメールで、「先祖を否定するような教育者はまちがっている。あちこちの学校で講演する
資格はない」と言ってきた女性(四〇歳くらい)がいた。こうしたケースでも、その女性など相手
にしても意味はない。その人はその人だ。その人はその人の人生観でもって、そう言う。また
それなりに価値のある意見ならともかくも、そもそもレベルが低すぎる。乾電池のつなぎ方も知
らない子どもが、発光ダイオードの色の悪さを問題にするようなものだ。だから無視する。

しかしこの時点で大切なことは、そういう人もいるということを、心の中で受け入れるということ。
世の中、賢い人ばかりではない。親鸞も言っているように、愚かな人を導くところに、法の意味
がある。評論の意味がある。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(732)

先生を雑務から解放しよう!

全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのた
め休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍、さ
らにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。

 理由の第一は、多忙。今、教師は忙し過ぎる。雑務に続く雑務。ある教師(小二担任)はこう
言った。「教材研究? そんな時間がどこにありますか。唯一息を抜ける時間は授業中だけで
す」と。が、それだけではない。こんなこともある。

 俗に「アルツハイマー」と呼ばれる病気がある。脳障害の病気の一つ※だが、その初期症状
は、ひどい物忘れ。が、その初期症状のそのまた初期症状というのがあるそうだ。@がんこ
(自分の意見をゆずらない)、A自己中心性(自分が正しいと確信する)、B繊細さの欠落(ズ
ケズケとものを言う)など。しかも、だ。四〇歳から、全体の五%前後の人にその傾向が見られ
るようになるという※。

四〇歳といえば、子どもがちょうど中学生になるころ。一クラスに三〇人の生徒がいたとする
と、六〇人の親がいることになり、そのうち三人が、あぶない(?)ということになる。家族の一
人がアルツハイマーになると、その周囲の家族もたいへんだが、そのまた外にいる人も、何ら
かの影響を受ける。たとえば学校の先生。

 ある日一人の母親が、私のところへやってきて、こう言った。「小学校で英語教育をするとい
うが、そんな教育は必要ない。日本語もまだ満足に話せない子どもに、英語教育するのは、お
かしい」と。ものすごい剣幕である。しかしそれはそれから続いた不毛の議論の、ほんの始まり
に過ぎなかった。

「学校五日制はやめたほうがよい」「中高一貫教育には疑問がある」など。毎月のように電話
やメールで、あれこれ言ってきた。が、そのうち私のほうが疲れてしまい、適当に答えている
と、最後はこう言った。「あんたは教育評論家だそうだが、その資格はない。あんたが本を書け
ば書くほど、社会に害毒を流すことになる」と。これには私も怒った。怒って電話をすると、夫が
出て、こう言った。「すみません、すべてわかっています」と。そして数日後、夫から手紙が届い
たが、それにはこうあった。「妻の様子がおかしいので、今、病院へ通っているところです」と。
もっとも私のばあい、それまでにもこのタイプの親は最初ではなかったので、それほどキズつ
かないですんだが、若い未経験の先生だと、そうはいかない。とことん神経をすりへらす。

 結論から言えば、学校の先生には、まず授業に専念してもらう。そういう環境を用意する。ち
ょうど医療機関におけるドクターのよう、だ。原則として、先生を雑務から解放する。だいたい
今のように、教育はもちろんのこと、しつけから果ては、子どもの心の問題、さらには家庭問題
まで押しつけるほうがおかしい。ある先生はこう言った。「毎晩親たちからのメールの返事を書
くだけで、一時間くらいとられます」と。こんな状態で、今の先生に「よい授業」を期待するほうが
おかしい。

たとえばカナダ(バンクーバー市など)では、親が先生に直接連絡をとることすらできない。また
原則として先生は、授業以外のことでは一切責任をとらないことになっている。日本も方向性と
しては。やがてそうするべきではないか。(1132)(再)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(733)

私がおかしいのか?

●よかった?

 イラク戦争で、がぜんアメリカが優勢になってきた。このところ朝、起きると、一番にテレビに
スイッチを入れる。その日のニュースを見る(四月八日)。

 私は今度の戦争について、開戦前は、「開戦は思いとどまったほうがよい」「アメリカは、もう
少し待って、国連による査察の様子みたほうがよい」と考えていた。しかし始まってしまってから
は、「アメリカに早く勝ってほしい」「早く終わればいい」と考えるようになった。そんな私だから、
それから三週間足らずで、アメリカ軍が、フセイン大統領の宮殿に進駐したことについて、よか
ったと思っている。

 が、ここで大きな問題にぶつかった。「よかった」という言い方をしてよいものか、どうかという
問題である。

 そこで報道番組に出てくる、コメンテーターの意見に耳を傾けてみた。しかし、だ。だれ一人と
して、「よかった」と言う人がいない。「アメリカ軍による大量殺戮(さつりく)」「大義名分のない戦
争」「ここらでもう一度、今回の戦争を洗いなおしてみる必要がある」(四月八日朝のワイドショ
ー各局)と。中には、「イスラエルも査察すべきですね」「アメリカだって、数万発の核兵器をもっ
ているわけだから、偉そうなことは言えない」という意見もあった。

 そこで私は、考えてしまった。私がおかしいのか、それとも、みなが、おかしいのか、と。しか
しどう心の中をさまよってみても、私は「よかった」と思う気持ちが消えない。戦争に賛成してい
るわけではないが、しかし宮殿の中庭で寝そべっている二人のアメリカ兵の姿が、画面にうつ
し出されたとき、「よかった」と、思った。ワイフとこんな会話をした。

私「ぼくが、おかしいのか?」
ワ「私も、よかったと思っているわ」
私「しかし、だれも、そんなこと言わないよ」
ワ「そう言えば、そうね。おかしいわね」
私「戦争と病気は、似ている」
ワ「どう?」
私「病気になる前は、病気にならないように、あれこれ気をつかう。しかしね、病気になったら、
今度は、早く治ることを考える。で、早く治れば、よかったと思う。ぼくの気持ちは、それに近い」
と。

 日本はアメリカの同盟国になっている。日本の自衛隊も、ペルシャ湾に派遣されている。危
険度は小さいとはいえ、危険は危険。そういう現実の中で、まるでアメリカが勝ってはいけない
ような論調ばかりが目立つ。どうしてか? もし仮に、今度の戦争が泥沼にでも入っていたとし
たら、こうしたコメンテーターたちは、「それみろ!」とばかり、アメリカをこきおろすに違いない。
 
●変化した私の平和主義

 私は正直に告白するが、今回の北朝鮮による核開発問題が起きてから、平和に対する考え
方が、大きく変わってしまった。それまでは、「他国と仲よくするのが平和主義」「他国を侵略し
ないのが平和主義」と考えていた。

 しかし現実は、そんな甘いものではない。北朝鮮は、明らかに日本攻撃を企てている。ミサイ
ルをもち、そのミサイルに載せる核兵器を開発している。彼らにも彼らなりの理由があるのだ
ろう。そういう理由や、過去のいきさつがどうであれ、しかし私は、それを許さない。絶対に、許
さない。

 北朝鮮がふつうの国なら、まだ話しあいということも考えられるが、しかし北朝鮮は、金XXに
よる独裁国家。ああいう国や、ああいう指導者には、まともな論理は通じない。その金XXとや
ることなすこと、何から何までよく似ているのが、イラクのフセイン大統領。それに、もし、フセイ
ン大統領のような独裁者が、中東の原油を牛耳るようになったら、その影響を一番受けるの
は、ほからならぬ、この日本なのである。たとえばもし、あのとき、つまり先の湾岸戦争で、イラ
クがクウェートを併合していたとしたら、あの地域はどうなっていたかを、ほんの少しだけ、頭の
中で想像してみればよい。日本は、そのあとも、今と同じように、クウェートから石油を輸入でき
ていただろうか。

 こうした私に対して、「相手がだれであろうとも、石油は買えばいい。中東と日本は離れてい
る。日本には関係ない」という意見もある。しかしもしそういう論理がまかりとおるなら、逆に、ヨ
ーロッパ各国が、「北朝鮮とヨーロッパは離れている。ヨーロッパには関係ない」「北朝鮮がミサ
イルや核兵器を開発しても、私たちには関係ない」と言ったとしても、日本は、何も文句を言え
ないことになる。

●アメリカだけが同盟国?

 悲しいかな、今という現状の中で、ゆいいつ日本を同盟国と認めてくれるのは、アメリカしか
いない。ブッシュ大統領には、いろいろ言いたいこともあるが、あのブッシュ大統領は、「同盟
国(日本)が、大量破壊兵器(核兵器など)で攻撃されたら、同盟国(日本)を守るために、アメ
リカはただちに報復する」(〇二年末)と言ってくれた。本当にそうしてくれるかどうかは別とし
て、「大統領のこの言葉が、北朝鮮に対して、たいへんな抑止力になっているのは事実」(小泉
首相)。

日本という国は、アジアの中では、アメリカ以上に嫌われている。なぜ、嫌われているかという
ことについて、その理由など、ここに改めて書くまでもない。あるいは、日本が核攻撃されたと
き、中国やロシアは、北朝鮮を制裁してくれるとでもいうのだろうか。韓国にいたっては、北朝
鮮といっしょになって、日本に攻めこんでくるかもしれない。

 そういうアメリカが、今、体を張って、イラクと戦争をしている。だれだって戦争などいやだ。こ
の気持ちは、アメリカ人も同じだろう。しかしいやだという論理だけで、戦争反対を訴えても意
味がない。意味がないことは、今の日本と北朝鮮の関係をみればわかる。

 「日本と北朝鮮が戦争になれば、韓国は、日本の味方をしてくれるの?」とワイフ。
 「それはありえない。韓国はむしろ、北朝鮮の側に立つ」と私。
 「……北朝鮮が核兵器をもったら、日本は、北朝鮮の言いなりね」
 「まさに、そのとおりだ。日本は何もできなくなる。あるいは本当に攻撃されるかもしれない」
 「そうなっては困るわ」
 「そうだ。だから今は、アメリカにはがんばってもらうしかない」

 こういう感想をもつ、私がおかしいのか? 「よかった」と思う、私がおかしいのか? 今日も
また、アメリカ人の知人のRK氏に、つぎのようなメールを書いた。

 「日本の報道各社は、アメリカの勝利は目前と報道しています。喜んでいます。早くこの戦争
が終わり、ほかのアメリカ人たちが、無事、イラクから戻ってくることを心から願っています」と。
(030408)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(734)

『戦場のピアニスト』

 エイドリアン・ブロディ主演の『戦場のピアニスト』を、劇場で見てきた。すばらしい映画だっ
た。最初から最後まで、ハラハラさせられっぱなしだったが、その一方で、あれこれと考えさせ
られる映画だった。実話にもとづいているという。監督のロマン・ポランスキー自身の体験も織
り込まれているという。見ていて、それだけに迫力のある映画だった。全編を通して、あちこち
に流れるショパンの名曲の数々もすばらしかった。家に帰ってから、改めて、CDを聞きなおし
た。

 見終わってから、ワイフが、こう言った。「ドイツは、なぜあんなひどいことをしたのかしら?」
と。それを聞いて、私は以前書いた原稿を思い出した。つぎの原稿が、それである(末尾に添
付)。

 ただ敗戦と同時に、ドイツは連合国によってバラバラに解体されてしまった。まったくあとかた
もないほどまでに、だ。「ヨーロッパのドイツ化をめざしたドイツは、戦後は、完全にヨーロッパ
化された」と説明する学者もいる。

 一方、日本は、ほとんどそのまま、戦後に引き継がれた。たとえば旧文部省にしても、あれほ
どまでの軍国主義教育を推し進めてきたにもかかわらず、戦前から戦後にかけて、クビになっ
た文部官僚は一人もいない。それが日本にとってよかったのか悪かったのかという話は別とし
て、ドイツと日本が、戦後、まったく別の道を歩むようになった理由は、ここにある。

 つまりドイツは、ヨーロッパに対して、はっきりと責任をとった形で、戦後復興を始めた。かた
や日本は、責任の所在そのものを、あいまいにしたまま、戦後復興を始めた。そのせいかどう
かは知らないが、今でも、日本人の中には、「日本の(中国や朝鮮に対する)植民地政策は、
正しかった」と主張する人は、多い。

 『戦場のピアニスト』は、映画だから、ある部分は誇張され、またある部分はそうでないかもし
れない。しかし映画とはいえ、あまりの残虐さに、映画であることを忘れ、私はときどき目を伏
せてしまった。そのため、そのつど映画の主題そのものが、どこかへ飛んでしまったのは残念
だった。

 すばらしい映画だったが、正直言って、そんなわけで見終わったあとの感じは、あまりよくな
かった。アカデミー賞(脚本賞、主演男優賞)を受賞した作品ではあるが、娯楽としてみる映画
ではない。たとえば数年前に大ヒットした、『タイタニック』のような心地よさは、感じなかった。
「もう一度見たいか?」と聞かれたら、私は「ノー」と答えるだろう。『戦場のピアニスト』は、私に
とっては、そういう映画だった。
(030408)

++++++++++++++++++++++

●日本はだいじょうぶか?

 ……そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、一〇〇万単位の外国人不
法入国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さ
で、日本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本
の人口の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな
生活をし始めたとしよう。もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかな
い。

が、彼らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかり
と払わないとする。そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のことと
して考えてみてほしい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったこ
ろのドイツは、まさにそういう状況だった。つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂っ
たということ。この日本が狂わないという保証はどこにもない

++++++++++++++++++++++

●戦争の責任論

 日本政府は戦後、一貫して自らの戦争責任を認めていない。責任論ということになると、その
責任は、天皇まで行ってしまう。象徴天皇を憲法にいだく日本としては、これは誠に都合が悪
い。そこで戦後、政府は、たとえば「一億総ざんげ」という言葉を使って、その責任を国民に押
しつけた。戦争責任は時の政府にではなく、国民にあるとしたわけである。が、それでは「日本
はますます国際社会から孤立し、近隣諸国との友好関係は維持できなくなってしまう」(小泉総
理大臣)。そこで、二〇〇一年の八月、小泉総理大臣は、「先の大戦で、わが国は、多くの
国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」(第五六回全国戦没者追悼
式)と述べ、「わが国」という言葉を使って、その戦争責任(加害主体)は「政府」にあることを、
戦後はじめて認めた。が、しかし戦後、六〇年近くもたってからというのでは、あまりにも遅すぎ
る。

(参考)
 この「平和教育を語るとき」の原稿と同時に書いたのが、次の「杉原千畝副領事のビザ発給
事件」である。

●杉原千畝副領事のビザ発給事件 C
 「一九四〇年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫
害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人六〇〇〇人に対して、ビザ(査証)を発給し
た。これに対して一九八五年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられ
る勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行二〇世紀
デザイン切手第九集より)。

●たたえること自体、偽善
 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、一一〇〇万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュ
ビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約四〇〇万人ものユダ
ヤ人が虐殺されたとされる。杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起き
たものだが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。郵政省発行の記念切
手にもなったことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっ
ては偽善そのものと言ってよい。

●杉原副領事のしたことは、越権行為?
 当時日本とドイツは、日独防共協定(一九三六年)、日独伊防共協定(三七年)を結んだあ
と、日独伊三国同盟(四〇年)まで結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原副領事
のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定
違反の疑いすらある。杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がし
たことはまちがっていると言うに等しい。その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今
になって杉原副領事を善人としてたたえるのは、まさに偽善。

いやこう書くからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。問
題は、その先と言ったらとよいのか、その中味である。当時の日本といえば、ドイツ以上にドイ
ツ的だった。しかも今になっても、その体質はほとんど変わっていない。どこかで日本があの戦
争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及したというのであれば、話はわかる。そう
した事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為をたたえるというのは、「今の日本人と戦
争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくらい、おかしなことなのだ。

●日本はだいじょうぶか?
 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、一〇〇万単位の外国人不法入
国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日
本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口
の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし
始めたとしよう。もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。

が、彼らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかり
と払わないとする。そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のことと
して考えてみてほしい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったこ
ろのドイツは、まさにそういう状況だった。つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂っ
たということ。この日本が狂わないという保証はどこにもない。現に二〇〇〇年の夏、東京都
の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、総
合(治安)防災訓練までしている(二〇〇〇年九月)。石原都知事のような日本を代表する文化
人ですら、そうなのだ。

●「日本の発展はこれ以上望めない」
 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日
本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。そしてそれを受け
てその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣
言した。日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果
論。チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。

石原都知事の発言は、「私たち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いません
よ」と言っているのに等しい。多くの経済学者は、二〇一五年には日本と中国の経済的立場は
逆転するだろうと予測している。そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かね
ばならない。そういうことも考えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石
原都知事の発言を考える必要があるのではないだろうか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(735)

迎合主義

 四月九日、イラクのバグダットに侵攻したアメリカ軍は、バグダットのほぼ全域をその支配下
においた。朝のテレビ報道を見ていると、例によって例のごとく、コメンテーターたちは、安っぽ
い平和論をふりかざしながら、さも深刻そうな顔で、戦争を批判していた。

 が、一転、今度は、ニューヨーク・ヤンキーズに移籍した松井選手が、満塁ホームランを打っ
たというニュースにかわった。とたん、それまでの深刻な顔を吹き飛ばし、立ち並んだコメンテ
ーターたちが、一斉に、「ヤッター!」と飛びあがった。司会者と女性、それに丸い虫メガネのよ
うなメガネをかけたコメンテーターの、三人だった。

 私はふと、こんな意地悪なことを考えた。こういうとき、もし「私はプロ野球には興味はありま
せんからと言ったら、どうなるか」と。しかしそれにしても、彼らの感情の切りかえの早さには、
驚いた。私は一視聴者にすぎないが、それでもとてもああまで早くは、感情を切りかえることが
できない。「戦争」という、限りなく深刻なテーマを考えたあと、松井選手のニュースになったとた
ん、小おどりしてみせる……。私は、そのとき、ふと、「ああ、この人たちも、結局は、踊らされ
ているだけだ」と思った。

 ……実のところ、こう書く私は、すぐ相手の意見に合わせてしまうようなところがある。こういう
のを迎合主義という。私はいつからか、そういう自分がいやになり、そうであってはいけないと
思うようになった。しかしその迎合主義的な体質が、私から消えたわけではない。今でも、油断
すると、自分の主義主張を、平気でねじまげてしまう。ときどき、「私には、主義主張がないの
かもしれない」と思うことさえある。

 彼ら三人が、満面に笑顔を浮かべているのを見ながら、「この人たちは、本当に、そうまでう
れしいのか」と思った。同時に、つい先ほどまで、戦争の問題を、深刻そうに話していたが、同
じように、「本当に、深刻に思っていたのか」と思った。私がそうであるから、彼らも、そうである
とは思いたくないが、ひょっとしたら彼らは、そのときどきに、視聴者という相手に迎合している
だけかもしれない。

 まさか、戦争の話のとき、「アメリカ軍が勝ちそうでよかったですね」とは、言えない。それは
わかる。一方、松井選手の話のとき、「たかがボールのゲームでしょう」とも、言えない。それも
わかる。私は三人のコメンテーターたちを見ながら、そしてそこに自分自身のことを重ねなが
ら、別のところ、「どうして日本人は、みな、こうまで迎合主義なんだろう」と思った。

 昔から日本では、「長いものには巻かれろ」と教える。その前は、聖徳太子ですら、「和を以っ
て貴しと為す」と言っている。日本人独特の、集団帰属意識が、こうした言葉に集約されてい
る。そうした傾向は、実は、子どもの世界でも、よく見られる。以前、ポケモンが全盛期のころ、
「ピカチュウのどこがかわいいの?」と言っただけで、私は子どもたちの袋だたきにあってしま
った。

 みなと同じことをしていれば、この日本は、安全。すごしやすい。しかしみなと変わったことを
したとたん、集団そのものから排斥されてしまう。冒頭にあげた三人のコメンテーターとて例外
ではない。ちょうど相撲や歌舞伎のように、ある一定の「形」が決まって、その形の中で動いて
いるだけ。戦争の話になったら、適当にマユをしかめて見せる。そして松井選手の話になった
ら、パッと表情を明るくして見せる。そういう「形」に、自分たちを、まさに「迎合」させている。

 そこで改めて「個性とは何か」について、考えてみる。あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」
の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをしていると感じたら、自分
が変わるとき」と。
 
 さあて、私は、どうしようか。あえて、私は、アメリカ軍が勝っていることを喜んで見せようか。
松井選手の活躍には、無視して見せようか。(いや、本当は気になるが、小躍りして喜ぶような
ニュースではない。ヤンキーズが勝っても負けても、松井選手が活躍すればそれでよいという
応援のし方は、まさに島国的! 私には、こうした日本人の心理が、どうにもこうにも、理解で
きない。ホント!)

 聖徳太子で思い出したのが、つぎの原稿。以前、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++++
 
『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生
 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをして
いると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか
 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない?

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇
〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある
日、だれに書いたかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金
沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではな
い。そのとき私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返って
も、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをすることもない。あくまでも「私は私」。そういう生き方
を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。

(追記)
 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生き
ることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生
と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができ
る。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死
すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはない
ということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

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もう一つ、おまけに……。

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個性とはバイタリティ(中日新聞発表済み)

 頭からちょうちんをぶらさげて、キンキラ金の化粧をすることを、個性とは言わない。個性とは
バイタリティ。「私は私」という生きざまを貫くバイタリティをいう。結果としてその人は自分流の
生きざまを作るが、それはあくまでも結果。私の友人のことを書く。

 私はある時期、二人の仲間と、ある財界人のブレーンとして働いたことがある。一人はAK氏
(日本人)。日韓ユネスコ交換学生の一年、先輩。もう一人はPL氏(オーストラリア人)。メルボ
ルン大学時代の一年、後輩。私たちは札幌オリンピック(七二年)のあとの、国家プロジェクト
の企画を任された。が、ニクソンショックで計画はとん挫。私たちは散り散りになったが、それ
から二〇年後。AK氏は四〇歳そこそこの若さで、日本ペプシコの副社長に就任。またPL氏
は、オーストラリアで「ベンティーン」という宝石加工販売会社を起こし、やはり四〇歳そこそこ
の若さで、巨億の財を築いた。オーストラリア政府から、取り扱い高ナンバーワンで、表彰され
ている。

 三〇年前の当時を思い出して、彼らが特別の人間であったかどうかと言われても、私はそう
は思わない。見た感じでも、ごくふつうの青年だった。しいて言えば、彼らはいつも何かの目標
をもっていたし、その目標に向かってつき進む、強烈なバイタリティをもっていた。AK氏は副社
長になったあと、あのマイケル・ジャクソンを販売促進のために日本へ連れてきた。PL氏は稼
ぐだけ稼いだあと、会社を売り払い、今はシドニー郊外で、悠々自適の隠居生活をしている。
生きざまを見たばあい、私は彼らほど個性的な生き方をしている人を、ほかに知らない。が、
問題がないわけではない。

 実は私のことだが、この私とて、当時は彼らに勝るとも劣らないほどの、バイタリティをもって
いた。が、結果としてみると、彼ら二人は個性の花を開かせることができたが、私はできなかっ
た。理由は簡単だ。AK氏は、その後、外資系の会社を渡り歩いた。PL氏は、オーストラリアへ
帰った。つまり彼らの周囲には、彼らのバイタリティを受け入れる環境があった。しかし私には
なかった。私が「幼稚園の教師になる」と告げたとき、母は電話口の向こうで、泣き崩れてしま
った。学生時代の友人(?)たちは、「あのはやしは頭がおかしい」と笑った。高校時代の担任
まで、同窓会で会うと、「お前だけはわけのわからない人生を送っているな」と、冷ややかに言
ってのけた。

 世間は、「個性を伸ばせ」という。しかし個性とは何か、まず第一に、それがわかっていない。
次に個性をもった人間を、受け入れる度量も、ない。この三〇年間で日本もかなり変わった
が、しかし欧米とくらべると、貧弱だ。いまだに肩書き社会に出世主義。それに権威主義がハ
バをきかせている。組織に属さず、肩書きもない人間は、この日本では相手にされない。い
や、その前に排斥されてしまう。

 そんなわけで、個性を伸ばすということは、教育だけの問題ではない。せいぜい教育でできる
ことといえば、バイタリティを大切にすること。繰り返すが、その後、その子どもがどんな「人」に
なるかは、子ども自身の問題であって、教育の問題ではない。
(030409)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(736)

家庭は兵舎

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。「育児
で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。が、最
大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。ある男性
は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なのか」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。これも私の経験だが、私も若いころ
は、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごとに、キャンプをしたり、クリスマス会
を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、三五歳を過ぎるころから、それが
できなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の
中における、自己愛の喪失を例にあげている。つまり一般世間から、隔離された状態に長くい
ると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失するという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育
児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、
子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を
数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」な
どの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」
「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あ
り」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%で
あったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中
で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方を
する。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。
(030409)

●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから
大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なお
さらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛であ
る。

Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(740)

女性的マゾヒズム

 ときとして、夫や家族に対して、異常といえるほどまでに、献身的な女性がいる。このタイプの
女性は、まさに身を粉々にして夫や子どもに仕える。仕えるだけではない。夫の暴力や、不
倫、さらに貧困であることにも、一言も不平をもらすことなく、朝から晩まで、懸命に働く。

 Hさん(六〇歳女性)が、そうである。二人の子どもはそれぞれ独立し、結婚している。孫も三
人、いる。そのHさんは、いつもこう言う。「私は、夫や子どもが、幸福になればそれでいいので
す」と。昔は、こういう女性を、理想の女性とした。女性のカガミとした。しかしその心理は、そん
な単純なものではない。

 マゾヒズムという言葉がある。「肉体的、精神的苦痛を与えられることに、性的満足を見いだ
す異常性欲の一種」(日本語大辞典)のことをいう。もともとは、オーストリアの作家のザッヘ
ル・マゾッホの名に由来する。わかりやすく言えば、自分の肉体や、精神をわざと苦しめなが
ら、そこに性的な快感を覚えることをいう。ふつうは、性的な意味で、肉体的な苦痛を楽しむこ
とをいう。しかし肉体ばかりではない。

 こんな例がある。

 A子(二五歳)は、B男(三〇歳)と、恋愛関係にあった。しかしたび重なる婚約の申し込み対
して、A子は、それをかたくなに拒みつづけていた。B男が理由を聞くと、「私には、学歴もない
し、貧しい家の娘。あなたの結婚相手としてふさわしくない」と。そしてA子は、ある日突然、B男
に一通の手紙を残し、そのままひとり、イギリスへ旅立ってしまった。その手紙には、こうあっ
た。「私は、あなたのことを忘れるため、イギリスに行きます。向こうで英語の勉強をして、ソー
シャルワーカーになります。あなたは、あなたにふさわしい女性を見つけて、どうか幸せになっ
てください」と。

 B男は、こう言う。「別れる理由などないし、なぜA子が、好んで、自らより困難な道を選ぶの
か、わからない。A子は、いつも自分で自分を、悲劇の主人公にしてしまうようなところがある」
と。

 これがここでいう「女性的マゾヒズム」である。もう少しわかりやすい例では、映画『タイタニッ
ク』を、一〇回も見たという若い女性がいた。あの映画は、アカデミー賞を総ナメにしたすばら
しい映画だが、しかし一〇回とは! 

 実は、その若い女性は、その映画がすばらしかったから、一〇回も見たのではない。自分の
精神を痛め、涙を流すという快感を味わうために、その映画を、繰りかえし見たのである。「何
度も見ても、涙が出る」、「涙を流す場面が決まっていて、そこで思いっきり泣くと、そのあと気
分がスッキリする」と。

 こうした女性的マゾヒズムは、多かれ少なかれ、ほとんどの女性にあるとみてよい。そしてそ
れが高じて、異常なまでに、夫や子どもに献身的になることがある。冒頭にあげたHさんは、ほ
かにたとえば、自分の衣類はほとんど買ったことがない。いつも粗末なものばかりを食べてい
る。しかし異常心理は、異常心理。「今どき……」という言い方は適切ではないかもしれない
が、今どき、こういう生き方は、サマにならない。

 問題は、なぜ女性には、女性的マゾヒズムがあるかということ。(もちろん男性にも、似たよう
な症状を示す人はいる。)フロイトは、「無意識的罪悪感に起因する、自己処罰心理」が、原因
であると説明する。つまり自分では気づいていないが、心のどこかに大きな心的外傷があっ
て、自ら「私は幸福であってはいけない」と、決めつけてしまうことによるというのだ。

 実はHさんは、自分の不注意で、実の妹を、交通事故でなくしている。(本当は、不注意でも
何でもなく、Hさんが、そう思い込んでいるだけだが……。)Hさんが、五歳のとき、妹が、四歳
のときのことだった。で、Hさんは、ずっとそのことを心のどこかで負い目に思っていたのかもし
れない。それ以後、ことあるごとに、自らより困難な道、より不幸な道ばかりを選ぶようになっ
た。美しい人だったが、結婚した相手は、酒グセがわるく、定職をもたない男だった。その男
は、女性関係も、だらしなかった。

 さて、あなたはどうだろうか。あなたは「私は、幸福になるべき人間だ」「みなは、私を幸福に
なって当然と考えている」と思っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし心のどこか
で、幸福になることを、自ら避けているようなら、一度、ここに書いたことを参考に、自分の心の
中をのぞいてみるとよい。それが何であるにせよ、自分で自分を痛めつけても意味はない。当
然のことだが、ここでいう女性的マゾヒズムなるものは、ないならないで、そのほうがよいに決
まっている。
(030409)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(741)

変わる子どもたちの世界

●テクノストレス

 テクノストレスという言葉がある。コンピュータに代表されるハイテクと、人間の関係が不調に
なったときに感ずるストレスをいう。このストレスが、一方で、人間どうしのつきあい方にまで、
影響を与えている。

●たとえば携帯電話。

 携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているの
で、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並
べると……

@マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情
報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の
意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化す
る。たとえば以前は、まず自分の名前を名乗ってから、電話をかけたり、手紙を書いたりした。
しかし今は、住所はもちろんのこと、名前すら名乗らない人がふえている。

Aリセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の
世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無
視する。ある日、突然、人間関係をゼロにしてしまう。

Bオセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方
をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。

Cマトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温の
感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロール
しようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。ある高校生は、こう言った。
「環境が破壊されても、青い空はコンピュータで再現できる」と。ものの考え方が、当然のことな
がら、現実離れしてくる。

D字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が
「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわ
からない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりす
る。

E携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話
に固執する。ある高校生は、教科書を忘れても、家にとりに戻らないが、携帯電話を忘れる
と、昼間でも、家にとりに戻るという。四六時中、かたときも、携帯電話を自分の体から離さな
い子どもは多い。

Fカプセル症候群……メール用語、メールの世界だけでしか通用しない用語だけで会話をしよ
うとする。またそれを知らない人を、よそ者として排斥しようとする。言葉の短縮、隠語、絵文
字、独特の表現など。

Gワイヤレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能化、
愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。情報が多す
ぎる反面、自分にとってつごうのよい情報しか取り入れないため、ものの考え方が、偏(かた
よ)る。そのためきわめて狭い範囲の専門知識はもつことはあっても、総合的な判断ができなく
なる。

Hグラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざその
人と直接対面すると、何も話せない。家の中でさえ、携帯電話で会話(?)している若い夫婦も
いるという。さらに日常会話そのものが、携帯電話的な会話になることもある。「エッヘ〜」「ギョ
ッ!」「ウソ〜!」と。ものの考え方がイメージ先行型になる。

Iボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層の世界まで入り込んでい
る。小学生の間でも、「フェラ(フェラチオ)」「クリ(クリニングス、クリトリス)」などという言葉は、
今では常識。「性」そのものが、ギャグ化されつつある。

J情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考力が浅くなり、ものの
考え方が直観的になる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。

Kほかに、親指人間現象、会話能力欠如現象、言葉の短文化現象、感情の短絡化現象、文
字のマンガ化現象などがある。

通学電車の中。昔は高校生や中学生の笑い声やはしゃぐ声が聞こえた。が、今は違う。誰も
が黙々と携帯電話のボタンを押している。携帯電話をもっていない子どもも、もっている子ども
に遠慮して何も話しかけない。静かだ。しかしおかしい……?

今では中学生の約六〇%、高校生の約八〇%が携帯電話をもっている(〇一年)。すでに「持
ち物」という範囲を超え、携帯電話は子どもたちの間では必需品にすらなりつつある。「携帯電
話がないと、仲間ハズレにされる」「友だちができない」と言った中校生もいる。もちろんそれが
子どもたちに与える影響は大きい。今どき、テレクラ・ナンパ・援助交際を問題にするほうがお
かしい。有害な性情報は、容赦なく子どもたちの世界に入り込んでいる。携帯電話には便利な
部分もあるが、その一方で、子どもたちの心までむしばみ始めていることを忘れてはならない。

●時代の流れ

問題は、こうした変化をどうとらえるかだが、鉄則の第一、逆らっても、意味がないということ。
鉄則の第二、こうした問題は、私たちがどうこうしようとして、それでどうにかなる問題ではない
ということ。実のところ、私たち自身ですら、その流れの中にある。

 私たちが小学生のころは、マンガが、大きな問題になった。一度は、県全体で、「マンガ禁止
令」なるものも出されたこともある(G県)。「マンガは読んではダメ」と。当時、すでに手塚治虫
氏が活躍していたから、この禁止令が、いかにおかしなものであったかがわかる。

 こうした変化は、まさにときの流れそのもの。かつ同時に、旧世代から、いつも攻撃される。
私の祖父は、いつも、「今どきの若いものは……」と言った。同じように、その祖父も、若いこ
ろ、そのまた祖父から、「今どきの若いものは……」と言われた。

 で、その「流れ」を知る私たちとしては、その流れに添ったものの考え方を、理解することでし
かない。今となって、「携帯電話はだめだ」「パソコンゲームをやらせてはだめだ」と言ったとこ
ろで、意味はない。仮に百歩譲って考えても、正すべきは、子どもの世界ではなく、私たちおと
なの世界である。たとえば援助交際にしても、援助交際をする女子高校生や中学生を責めて
も意味はない。責めるべきは、おとな自身である。たとえ携帯電話が、そのための道具になっ
ていたとしても、携帯電話を取りあげても、意味はない。

 今の時代を生きる子どもや若者たちは、三〇年後、あるいは五〇年後には、今の私たちの
知る世界とは、まったく違った世界をつくるに違いない。しかしそれがどんな世界であれ、それ
はその世界に住む、その人たちの世界である。少なくとも、「現在」という今を生きる私たちが、
とやかくいう問題ではない。

 ここで取りあげた、テクノストレスにしても、問題は、そういうストレスがあるということではな
く、それをどう解決していくかということである。

●私のばあい
 
 このところ無性に、携帯電話がほしくなった。今まで、二度ほどためしに購入してみたが、そ
のつど、息子たちに取られてしまった。が、それから、もう、四年になる。

 私は子どものころから、機械いじりが好きで、いつも機械をバラバラにして遊んでいた。そう
いう名残が今でもあって、機能がいっぱいついた電気製品を見たりすると、今でも、ゾクゾクす
る。で、最近の携帯電話では、動画が送受信できることはもちろんのこと、カメラつきのまであ
るという。こうなると私の好奇心が、黙っていない。何としても、そのカメラつきの携帯電話が、
ほしい……。と、考えて、さて本題。

 つまるところ、私が結局は、その「流れ」の中にあることがわかる。そういう私を見て、「林は、
おかしい」と言うなら、それを言う人のほうがおかしい。そしてさらにその結果として、私がデジ
タルカメラつきの携帯電話をもち歩き、かつ人間関係に影響が出てきたとしても、そのときは、
そのとき。時代は、そのときをベースとして、またつぎの流れの中に入っていく。

 そういう点では、私は現実主義者。現実というものを、まず肯定的にとらえる。そしてその上
で、未来を考えていく。空理空論は、私がもっとも嫌うところ。空想は好きだが、夢想するの
は、あまり得意ではない。もともと、というか、子どものころから、たいへん理屈っぽい人間。

 そこでこのエッセーの結論としては、人間を取り巻く環境は今、急速に変化しつつあるし、そう
した変化については、謙虚に耳を傾ける。その結果として、また別の価値観が生まれたとして
も、それはそれとして受け入れる。大切なことは、旧態の価値観を若い世代に、押しつけない
こと。私のばあい、たとえばこれだけは、若い人に向かっては、言わないようにしている。「今ど
きの、若いものは……」という言葉である。私は、若いころ、そういう言葉を、さんざん浴びせか
けられた。だから、つぎの世代の人たちには、この言葉だけは、言いたくない。

 そうそうあの山本五十六も、「書簡」の中で、こう書いている。「『いまの若い者は』などと、口
はばたきことを申すまじ」と。
(030410)

●「一般的に言って、ひとつの世代は、その世代中に産み出された世界観によって生きるより
も、むしろ、前時代に産み出された世界観によって生きるものである」(シュヴァイツアー「文化
と倫理」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(742)

現実を見よう!

●よかった!

 四月一〇日(木曜日)、衝撃的なニュースが、イラクのバグダットから飛び込んできた。何とあ
のフセイン大統領の銅像が、民衆によって、引き倒されたというのだ。そこで今朝の各新聞
は、「フセイン政権、崩壊」と、報じた。

 よかった! 本当によかった!

 私が親米派か、そうでないかと問われれば、親米派に決まっている。私の二男も孫も、アメリ
カ人。二男の嫁も、アメリカ人。どうして反米派になれるだろうか。だからといって、アメリカのす
ることすべてに賛成しているわけではない。今度の対イラク戦争についても、開戦には反対だ
った。「アメリカは国際的な合意ができるまで、待つべきだ」と。しかしひとたび戦争が始まって
からは、「早くアメリカの勝利で終わればいい」と考えるようになった。何だかんだと言ったとこ
ろで、アメリカは日本の唯一の同盟国。仮に北朝鮮が日本に戦争をしかけてきたら、どこが日
本の味方をしてくれるというのか。味方までしてくれなくても、間に立ってくれるというのか。中国
か? ノー。ロシアか? ノー。フランスやドイツか? ノー。韓国にいたっては、むしろ北朝鮮
側に立つ。

●反米国家、韓国?
 
 そういう現実を前にして、反米を唱えるのは、どうか。その前に日本はひとり立ちしなければ
ならない。そのひとり立ちすらできないのに、反米を唱えるというのは、あまりにも現実離れして
いる。よい例が、隣の韓国である。

 現在のノ・ムヒョン大統領は、反米を唱えて、政権の座についた。何十万人というデモ隊を組
織し、その中央で、巨大な星条旗をビリビリに破いてみせた。(このデモが、ノ・ムヒョン氏によ
って組織されたものかどうかは、明らかではない。しかし組織的な反米デモであったことは事
実。またあれほどのデモは、政党単位のバックアッパがなければ、組織できるものではない。
ノ・ムヒョン氏は、その反米デモの流れにのって、今の政権の座を勝ち取った。)

 そのせいか、ノ・ムヒョン氏の大統領当選が確実になったときでも、アメリカのブッシュ大統領
は、しばらく沈黙を守った。とても「おめでとう」と言えなかったのだろう。

 しかし三八度線に張りついて韓国を防衛しているのは、ほかならぬアメリカである。その数、
三万七〇〇〇人から八〇〇〇人。言うなれば、アメリカは体を張って、最前線で北朝鮮でにら
みをきかしている。北朝鮮が韓国を攻めるとき、イの一番に攻撃されるのが、最前線のアメリ
カ軍である。「アメリカ軍、人質論」も、こういうところから生まれた。

 で、ノ・ムヒョン氏が大統領に就任すると、すぐ始まったのが、アメリカ軍の削減問題。アメリカ
のほうが言い出した。「われわれは、韓国民が望まないなら、いつでも撤退する」(アメリカ軍高
官)と。アメリカにしてみれば、当然のこと。「出て行け」と言うような国を、どうして命がけで守ら
ねばならないのか。冷戦時代ならいざ知らず。今のアメリカにしてみれば、韓国に軍隊を駐留
しなければならない理由など、どこにもない。

しかしこれにあわてたのが、ほかならぬ、ノ・ムヒョン政権。四月九日、ハンナラ党を中心とする
国会議員、一三三人が連名で、「駐韓米軍撤去反対の集会」を開いた。つまり「撤去してもらっ
ては困る」と。

 しかしこれほど身勝手な集会もない。一方で反米を唱え、一方で、今までのようにアメリカ軍
に最前線で盾(たて)になれ、と。私はアメリカ人ではないが、末端のアメリカ兵だって、こんな
身勝手さを知れば、怒るだろう。事実、そのあとアメリカは、一方的に、今後一〇年をかけて、
アメリカ軍を半減する、アメリカ軍を、漢江の南(後方)に移動すると決めてしまった。

 こうした米韓の動きに対して、@韓国の若者たちは、日本の若者たち以上に、平和ボケして
いる。A反米闘争をしても、アメリカは韓国から出て行かないだろうという甘えが、韓国民にあ
ったという説もある。どういう説であるにせよ、韓国は、とんでもないミスをおかした。韓国に
は、韓国の事情や立場があるのだろうが、何がミスかといって、ノ・ムヒョン氏を大統領にすえ
たのが、最大のミスである。

●現実を見ない日本

 同じように日本も、今、たいへんな立場に置かれている。北朝鮮は、約二〇〇発のミサイル
を、日本に向けて設置している。いくら彼らの武器が旧式であるとはいっても、仮に東京都のど
真ん中で、核兵器が爆発すれば、その瞬間から日本の政治経済は、完全にマヒする。現にあ
の金XXは、「日本は存在させてはならない国だ」と、言明している。

こういう現状の中で、日本はどうあるべきか、また日本をどう守るべきか。しかし悲しいかな、
今は、アメリカに泣きつくしかない。もっと言えば、たまたま今、日本が平和なのは、日本人が
平和を守っているからでも、また守ってきたからでもない。平和を愛する民族だからでもない。
かろうじて日本が平和を保っていられるのは、アメリカ軍が、日本に駐留しているからにほかな
らない。

 私たちは、もっと正直に、そしてすなおに現実を見なければならない。日本の置かれた立場、
日本の力、そして周囲の状況など。が、それだけでは足りない。つまり東洋の島国で、自分さ
えよければと、こっそりと金儲けをしているだけでは、いけないということ。世界の中で、日本が
どうあるべきかということに視野を広げなければならない。

●日本にとってのイラク戦争

 さて、今度のアメリカとイラクの戦争について、この日本では、きわめて反米的な意見ばかり
が目立つ。その中でも興味をひいたのが、月刊誌の『SP誌』(4・23号)である。たまたま今週
発売になったが、タイトルだけでもすごい。「空爆の爪痕(つめあと)・ブッシュ憎しの怨念」「ホン
ネは国連無視の自国主導」「アメリカは、必ずしっぺ返しをくらうだろう」と。国際評論家のON
氏ですら、「イラク戦争はルールなき、戦争の実験場と化した」と題して、「戦争はドロ沼化し、
長期化する」(同誌)などと書いている。

 さらに漫画家のKY氏となると、もっとすごい。「あまりにも道義に反した戦争を支持すること
が、大きく国益を損ねることを考えておくべきだった」「この(イラク戦争は)長期化する」「もはや
バグダットを包囲するだけで勝てるという見とおしは甘い」「凄惨な市街戦が始まるに違いない」
(同誌)と。そして最後は、「日本は(アメリカの)侵略戦争を支持したという現実を、知るときがく
る」と、まさに書きたい放題。小泉首相の答弁を、「こんなフ抜けた演説を……」と酷評したの
ち、「アホだ」と言いきっている。

 まるでアメリカが悪の化身か、さもなければ、アメリカがイラクで戦争するのは、まちがってい
る、あるいは勝つことはありえないという論調である。まさかこうまで劇的にイラクが崩壊すると
は、思っていなかったのだろう。雑誌に書かれた記事は、出版という手続きがあるため、早くて
も一週間程度の期間を置かねばならない。そのため、こういう時差(タイムラグ)が生じた。そ
れにしても、同盟国アメリカが戦っている戦争に対して、何という書き方! 

 アメリカを批判するのは、簡単なこと。反米を唱え、安っぽい平和主義を唱えるのも簡単。戦
争に賛成する人など、いない。いるわけがない。だれだって争いはいやだ。殺しあいとなれば、
なおさらだ。しかし、北朝鮮が日本めがけて核攻撃をしようとしている今、だれが、それを止め
てくれるというのか。平和ボケも、ほどほどにしておかないと、それこそ、日本は世界の笑いも
の。あの『NC』の司会者のKH氏ですら、堂々とこう言い放った。「アメリカだって核兵器をもっ
ているじゃありませんか」(〇三年三月)と。つまり「北朝鮮に核開発を放棄しろなどと偉そうな
ことを、アメリカには言う資格はない」と。まったくノー天気。あきれるほど、ノー天気。

 「アメリカは原油の利権を確保するために、イラクに戦争をしかけた」と主張する人もいる。先
のKY氏は、「アメリカは確実に侵略者なのである」「フセインが中東で英雄化するだけだ」と書
いている(「SP誌」)。しかし日本は、そのアメリカが確保した利権の上にあぐらをかいて、アラ
ブの国々から原油を輸入している。クウェートの例を出すまでもない。もしあの湾岸戦争で、ア
メリカが介入していなければ、今ごろ日本は、原油の最大の輸入先を失っていたことになる。
相手が独裁者であろうがなかろうが、原油さえ売ってもらえれば、文句はないという論理は、あ
まりにも島国的である。

 どうして日本は、日本人は、アメリカ軍が今度の戦争で圧勝したことを、もっとすなおに喜ば
ないのか。何も、戦争を喜べというわけではない。同盟国、アメリカが勝ったことを喜び、強圧
的なフセイン政権が倒れたことを喜ぶ。だいたいこの日本だって、ペルシャ湾に、自衛隊を派
遣しているではないか。後方支援とはいえ、危険な任務であることには、違いない。その自衛
隊が、これで日本に無事に帰ってくることができる。どうしてそういう事実を、もっとすなおに喜
ばないのか。「よかったね」と。

 今日の新聞の朝刊には、アメリカ軍を見て、喜ぶイラク国民の姿も載っていた。テレビでは、
アメリカ兵に花束を渡す女性や、キスする子どもの姿も映し出された。『SP誌』で、アメリカ軍を
さんざんこきおろしたOM氏やKY氏は、そういうイラク国民の姿を見て、今ごろは、どう思って
いるのか。私は気になったので、この原稿を書く前に、『NC』のコメンテーターが何と言うか耳
を傾けてみた。いわく、「喜んでいるのは一部の人たちだけです。そうでない人は、家の中で静
かにしています」(四月一〇日夜)と。「殺戮(さつりく)の首都」という文字は、ニュースの間、画
面からずっと消えなかった。『NC』のいう「殺戮」というのは、「アメリカ軍による、イラク国民の
殺戮」という意味である。さらに「殺戮」というのは、「むごく人を殺すこと」(広辞苑)という意味で
ある。

●やがてくる正念場

 さあて、問題は、日本は、どうやってこの日本を、あの北朝鮮から守るか、だ。すでに北朝鮮
は、核兵器を保有している。アメリカは、そうした核兵器が、テロリストの手に渡ることを恐れて
いるようだが、日本に向けて使われる可能性のほうが、もっと高い。北朝鮮のような独裁政権
は自然死させるのが一番よいのだが、肝心の韓国が、それを望んでいない。ロシアからパイプ
ラインを引いてやるとか、食糧援助をするとか、さらにはアメリカが止めた原油を提供すると
か、復興支援をするとかまで言い出している。先の南北首脳会の前日には、金XXに、数百億
円の現金すら手渡している。韓国の政権内部には、北朝鮮の核兵器容認論まであるという。
「すでに保有している核兵器については、黙認する」と。日本にとっては、とんでもない意見であ
る。

 しかしここで日本は、もう一歩、踏み込んで考えなければならない。もし韓国と北朝鮮が、平
和統一ということになったら、日本はどうなるか、と。わかりやすく言えば、徹底した反日感情を
もった強大な軍事国家が、日本のすぐ隣に出現することになる。ふつうの反日感情ではない。
そのときも日本は、ノー天気に、「平和を守ります」「平和が大切です」などと言っておられるだ
ろうか。
 
 日本は、まさに正念場を迎えつつある。今が正念場というわけではない。しかし腹をくくって、
覚悟しなければならないときが、刻一刻と、近づきつつある。少なくともあの北朝鮮が、理不尽
なことを言って戦争をしかけてきたら、それとは戦わねばならない。アメリカに守ってくれとか、
日本の若者たちに、戦争に行けというのではない。私が行く。私たちが行く。志願兵となって、
行く。日本と、日本の子どもたちと、そして日本の自由と平和を守るために!
(030410)

【注】この原稿は、去る四月一〇日に書いたものです。この原稿を発表するときには、世界情
勢はさらに一歩、動いているかもしれません。

 また私は決して、戦争を肯定しろと言っているのでもありません。またその前に、やるべきこ
とは、いくらでもあります。たとえば私が考えているのは、カード型ラジオを、風船か何かにつけ
て、北朝鮮に飛ばすという方法です。太陽電池で受信できるラジオなら、北朝鮮でも使えるでし
ょう。適当な風の吹く日に、船で北朝鮮の沖あいで、それを飛ばせばよいのです。そんなことも
考えています。

●妥協による平和は、たいてい長つづきしない。(ウィンフィールド・スコット「語録」)
●あなたが平和を求めるなら、戦いの準備をすることだ。長い平和よりも、短い平和を求め
ろ。(ニーチェ「ツァラトゥストラ」)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(743)

●教室から(1) 

 方言もあるのだろうが、このあたりの子どもは、「あ」と「お」の発音が、はっきりしない。「え」
に近い「あ」、「う」に近い「お」を発音する。そこできのう、子どもたち(年長児)に、「『う』の音
は、お父さんとチュウするような口にして、言うんだよ」と言ったら、すかさず、Aさん(女児)が、
こう言った。「私、パパと、チュウしたことないもん」と。

 そこで私が、「エッ、ないの? 今度してもらいなさいよ」と言うと、となりの席の子ども(女児)
が、「パパとママは、いつもチュウしいる!」と。すると別の子ども(女児)が、ニヤニヤしなが
ら、「私、チュウするところを、見たことあるもんね」と。

 クラス中が、騒然としてしまった。「どこで?」「いとこの結婚式で、いとこがみんなの前でチュ
ウしていた!」と。

 年長児くらいから、こういう話がわかるようになる。そこでさらに私が、「パパのこと、好きだっ
たら、君たちのほうから、チュウしてと言えばいい」と言うと、一人の子ども(女児)が、真顔で、
「私、林先生(私!)のほうが、好き!」と。

 そこで私は神妙な顔をして、こう言った。「あのね、ぼくには、女房も子どもも、それに今度は
孫もいるから、あきらめてね」と。その子どもは、どこかポカンとした表情で、私のほうを見てい
た。

●教室から(2)

 子どもは、落書きが好きなんですね。禁止しても意味がない? いくら注意しても、これは子
どもの本能(?)のようなもの。放ってほくと、机はもちろん、壁などにも落書きする。

 そこで私は、教室の特製ノートをつくり、最終ページは、落書きコーナーにした。またそれぞれ
の机には、透明のシートを置き、その下に、落書き用の紙を置いた。子どもたちが自由に落書
きができるようにした。

 こうして落書きコーナーをつくってあげると、子どもは、そこに落書きをするようになる。とた
ん、ほかの場所での落書きが、ほとんど、なくなった。

 こうした指導法は、幼児のばあい、いろいろな場面に応用できる。「押してだめなら、思いきっ
て、引いてみる」の要領である。

 たとえば指しゃぶり。「指をしゃぶってはダメ」ではなく、大きな指の模型を渡して、「この指を
吸ってごらん」とか、あるいは哺乳ビンを渡して、「これをしゃぶってみる」と言うなど。ときどき、
「おいしそうな指だね。先生にもなめさせて」言うときもある。子どもの世界では、できrだけ、
「〜〜いてはダメ」式の、禁止命令は避ける。

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(744)

R君の悩み

●自分で自分を追いこむ

 中学三年生のR君は、こう言った。「今度の期末テストがこわい」と。「どうして?」と聞くと、
「悪い点を取るのがこわい」と。

 このところR君は、元気がない。話しかけても、うわの空。反応がない。ときどき恥ずかしそう
に、にっこりと笑うだけ。あとは、ため息ばかりついている。

 私「点が悪いと、お父さんに叱られるのか?」
 R「ううん」
 私「じゃあ、お母さんか?」
 R「ちがう……」
 私「じゃあ、どうしてこわいの?」
 R「ぼくは、今、こうしてがんばっている。これだけがんばっているのに、もし悪い点だったら、
ぼくは、自分に自信をなくしてしまう。ぼくは、それでおしまい。それがこわい」と。

 そこで私は、こう言った。「あのね、今日、がんばったから、明日、いい結果が出るということ
はないよ。何か月も、あるいは何年も先に、結果が出るということもある。だから、そんなふうに
考えてはいけないよ」と。

 R君は、自分で自分を追いつめていた。R君自身が、学歴カルトの信者になっている。だれか
が、R君をそういう子どもにしむけたというわけではない。家庭の雰囲気、学校の雰囲気、そし
て友だちの雰囲気などなど。そういう雰囲気の中で、R君は今のR君になった。このタイプの子
どもに、「学校なんか、どこでもいいじゃないか」などと言うのは、その信仰を信じている人に、
「あなたの信仰はまちがっている」と言うに等しい。かえってその子どもを、混乱状態におとしい
れてしまう。

●気うつ症
 
 抑圧された精神状態が長くつづくと、子どもでも気うつ症になる。見た目にも、暗く沈み、元気
がなくなる。しかしこういう症状が、だれの目にもわかるようになったときというのは、すでにか
なり心が病んでいるとみる。つまりそうなる前に、親が、その前兆をとらえ、適切に対処しなけ
ればならない。

が、実のところ、これがむずかしい。前兆をとらえるのがむずかしいのではなく、仮に前兆があ
っても、ほとんどの親は、それを無視してしまう。「気のせいだ」「わがままだ」「疲れているだけ」
と。さらには「一時的なもの」「そのうちなおるだろう」と、安易に考えてしまう。

 たとえばその前兆として、つぎのようなものがある。

(1)感情の起伏がはげしくなる。……ちょっとしたことで、カッと怒りだしたり、そうかと思うと、ソ
ファの上で、ぼんやりとしているなど。親子の会話が少なくなり、親からみて、「何を考えている
かわからない」といったふうになる。R君の母親も、「このところ家では、何も話してくれなくなり
ました」と言っていた。

(2)疲れ(倦怠感)を訴える。……何をしても、「疲れた」と言う。子どものばあい、体力を使って
疲れたようなときには、「眠い」という。子どもが「疲れた」というときは、精神的疲労をいう。ちょ
っとしたことで、その疲れを訴えることが、多くなる。

(3)いろいろな神経症を発症する。……神経症は、千差万別で定型がない。不眠、早朝覚醒、
悪夢、腹痛、頭痛、脚痛のほか、「おかしな行為だ」と思ったら、神経症を疑ってみる。(検索サ
イトで、「はやし浩司 神経症」で検索。)

(4)生活態度がだらしなくなる。……部屋が散らかったり、身のまわりのことが、ぞんざいにな
る。髪の毛がボサボサになる、体臭、口臭がひどくなる、何日も、風呂に入らなかったりするな
ど。約束を忘れたり、「うっかり事故」が多くなる。

(5)生活習慣が乱れる。……夜と昼が逆転したり、その前の段階として、真夜中まで起きてい
て、朝、起きられないなど。反対に、日中、ぼんやりするなどの症状が見られることもある。R
君は、こう言った。「ときどき、授業中でも、眠っている」と。

(6)行動に統制がとれなくなる。……目的そのものを喪失するため、「あれをしてみたい」「これ
をしてみたい」などといって、そのつど、周囲のものを引き回す。しかしもともと目的がはっきり
しないため、しばらくすると、また別のものに移動していく。R君は、そのため、その前後の半年
間だけでも、二回も塾をかえ、今度は「インターネット学習をしたい」と言いだしている。が、そ
れも一巡すると、目的そのものを喪失する。「何をしたいの?」と聞いても、「わからない」などと
言ったりする。

(7)体型が変化することもある。……こうした状態が長くつづくと、子どもによっては、気うつ症
独特の雰囲気をもつようになる。顔中が、ぽってりと太ったり、動作が緩慢(かんまん)になった
りするなど。R君のばあいも、どこか水太りのような感じになり、顔色もどんよりと曇り、子どもら
しい、生彩が消えた。

 そのR君が、大きく変化したのは、冒頭にあげた期末試験の直後だった。R君は、ポツリとこ
う言った。「先生、何もできなかったよ……」と。

●テスト中、眠ってしまったR君

 期末試験のとき、テスト用紙を見たとき、R君は、その内容が、今まで勉強してきた内容と、
まったく違っているのを知った。中学二年のレベルでは、たとえばその時期、二次方程式、あ
るいはその文章題が出ることになっていた。しかし第一問は、「一個50円のミカン、一個100
円のリンゴ、一個500円のメロンがある。全部で、10個、金額も、1000円以内におさめた
い。全部で何通りの買い方があるか」と。

 最近は、中学校でも、この種の問題がふえた。「できる・できない」をみるのではなく、「考える
かどうか」を試す。それはそれとしてよい傾向だが、しかしR君は、それまで見たこともない問題
にとまどった。とたん、パニック! 「頭の中が、真っ白になりました」と言った。

 この時点で、注意しなければならないことがある。

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識のうちに
も、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

●具現理論

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。つまり
彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守らなけれ
ば、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おかしなこ
と」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。つまり占いが当たった
わけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

●R君の具現理論

 R君は、テストの前から、「今度のテストで失敗すれば、自分はおしまいだ」という暗示を、自
分にかけた。そして懸命に、そのテストに向けて、勉強した。しかしその勉強は、自らがしたくて
した勉強ではない。「しなければ、自分はダメになる」という強迫観念の中で、いわば追いたて
られてした勉強である。
 
 で、その強迫観念が、テスト用紙を見たとき、頂点に達した。が、見たこともない問題ばか
り! ふつうならこういうとき、「何とか別の方法で……」と考えるが、R君のばあい、自ら、「失
敗する」という暗示を同時にかけてしまったのかもしれない。そこでパニック状態になってしまっ
た。

 私「どうして、考えようとしなかったの?」
 R「見たこともない問題で、どうしたらいいかわからなくなってしまった」
 私「でも、君の力で、解ける問題だよ」
 R「しばらく問題を見つめていたら、眠くなってしまった」
 私「眠い……?」
 R「そう、それで、ぼく、眠ってしまった」
 私「テスト中に、か?」
 R「うん……」と。

 心がパニック状態になると、今度は、心の防衛機能が働く。これを心理学の世界では、「防衛
機制」という。この防衛機制には、攻撃型(人やものごとに攻撃的、暴力的になる。自虐的な攻
撃型もある)、回避型(人と接するのを避けるようになる。引きこもる)、同情型(弱い自分を演
出して、相手を同情させながら、相手をコントロールする)、服従型(徹底的に相手に忠誠を誓
い、自分にとって、居心地のよい世界をつくる)などがある。

 R君のばあいは、ここでいう回避型と考えてよい。パニック状態になったとき、そのパニック状
態を回避するために、眠ってしまったというわけである。

●R君の父親に会う

 私はR君の家にでかけた。R君の家は、昔からの呉服店で、父親は、自らその店先で仕事を
していた。感じのよい人だった。あらかじめ母親にも話してあったので、母親もそこにいた。時
計は、夜の一〇時を示していた。まだどこか肌寒さが残っていた。

 父「思い当たることはないのですが……。無理に勉強を強いたわけでもありませんし。本人に
は、好きなようにしなさいと言っているのですよ」
 私「いえ、決して、お父さんやお母さんのせいだと言っているのではありません」
 母「ただ、あの子が通っている学校が学校でしょ。みんな、進学の話ばかりしているのです。
それで自分で自分を追いこんだのかもしれません」
 私「そういうことは、よくあります」

 しかしこういう問題では、だれかを責めても意味はない。もちろん本人の責任でもない。

 私「私が心配するのは、このままでは、本人が、バーントアウトしてしまうことです」
 父「バーントアウト?」
 私「そうです。燃え尽きてしまうということです」
 父「どういうことですか?」
 私「完全な無気力状態になってしまうということです。まったく何もしないで、ぼんやりとしてし
まうということです。しかしそれだけではありません。その前後に、いろいろな神経症による症
状が出てくることもあります。情緒障害や、精神障害の遠因になることもあります」
 母「このところ、そう言えば、あれほど好きだった、サッカーをやめたいと言いだしています」
 父「そうなんですよ。理由を聞いても言わないし……」
 私「私が今、ここで言えることは、サッカーはやめないほうがいいということ。今ここでやめる
と、それこそ糸の切れた凧(たこ)のようになってしまいます」
 父「糸の切れた凧、ですか?」
 私「無気力状態が、一挙に加速するということです」
 
●どうすればよいのか?

幸いR君のばあいは、症状が軽かった。両親も理解してくれた。まだR君には、自分の意識
で、自分をコントロールする力をもっていた。こうした子どもの気うつ状態は、長くつづけばつづ
くほど、回復がより困難になる。私はつぎのようにアドバイスした。

(1)学校から帰ってきたら、ひとりでぼんやりできる時間をふやす。周囲の人があれこれ気を
つかうのは、かえって逆効果。子どもの側から見て、親の視線をまったく感じないようにするの
が望ましい。とくに土日の過ごし方は、本人のまったくの自由にする。

(2)学校での成績のでき、ふできは、あきらめる。「がんばれ」式の励まし、「こんなことでは…
…!」式のおどしは、禁物。「よくがんばっているね」式の理解を、示してあげる。

(3)負担を少しずつ、減らす。急に減らすと、今度は、立ちなおりができなくなる。学習塾も、週
二回程度にする。サッカー部は、やめないほうがよい。

(4)Ca、Mg分の多い食生活に心がけ、生活のリズムは大切にする。無理な夜更かし、不規
則な生活は禁物。一度サイクルが狂い始めると、どんどん狂っていくので、注意する。

(5)なおそうと考えるのではなく、今の状態をより悪化させないことだけを考える。一か月単位
で、様子をみる。数日単位で、瞬間的になおったかのように見えるときもあるが、そういう姿に
だまされてはいけない。説教したり、叱ったりするのは、タブー。

 実のところ、ここで「症状が軽かった」と書いたが、私自身は、「間にあった」と、ほっとしてい
る。あと数か月とか、半年放置していたら、R君は、もう少し深刻な状態になっていたかもしれ
ない。一番考えられるのは、引きこもりによる不登校である。あるいはその程度では、すまなか
ったかもしれない。今のところ、学校へは、何とか通っているので、この状態をじょうずに保て
ば、R君は、このまま立ちなおっていくものと思われる。
(030412)

【追記】何か目標にしていることを、頭の中で具体的に描いてみる。たとえば自分が、何かの競
技で一等賞をとり、表彰されている姿を、想像するなど。具体的であればあるほど、よい。そう
すると、無意識下の自分が、無意識のうちに自分を動かし、その目標を達成することができ
る。この方法は、多くの学者が効果があると、実証している。これも、ここで私が言う「具現理
論」で説明できる。

【注】勝手に「具現理論」と名づけたが、心理学の世界には、専門用語がすでにあるかもしれな
い。勉強不足を、許してほしい。
(030413)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(745)

浜松祭り

 毎年、五月三、四、五日の三日間、このあたりでも最大規模の祭りが、この浜松で催される。
「浜松祭り」である。私も、二〇代のころは、よく「練り」に出た。「練り」というのは、「ワッショ、ワ
ッショ」という掛け声とともに、屋台の前後を練ることをいう。しかし悲しいかな、私は、「よそ
者」。どこかで違和感を覚えるようになり、それ以後は、もっぱら観客に徹している。

 浜松祭りの見どこから、何といっても「凧(たこ)あげ」。今は、中田島砂丘を舞台にして、無数
の凧が、糸切り合戦をする。おもしろいといえばおもしろいが、やはり浜松祭りは、自分で参加
したほうが、おもしろい。祭りにもいろいろあるが、浜松祭りは、参加型の祭り。見て楽しむ祭り
ではない。

 しかしこの一〇年ほど、こんなことを書くと、浜松の人には叱られるかもしれないが、私はそ
の連休中は、山荘にこもって、好き勝手なことをすることにしている。客が来たときは、祭りを
案内するが、その客がいないときは、逃げる。祭りが嫌いというのではない。私は人ごみが苦
手。例年、五〇万人前後の観光客がくるという。ものすごい数である。そういう人たちを見る
と、祭りを楽しむ前に、目が回ってしまう。

 しかしこの浜松祭りは、この三〇年間だけも、大きく変わった。

その一。三〇年ほど前には、練りに出る女性は、ほとんどいなかった。今は、約半数近くが、
女性! 

その二。また三〇年前には、練りどうしが、衝突。そのままそこで、けが人が出るほどの喧嘩
になった。救急車の音がひっきりなしに聞こえていた。が、今は、警察の管理下に置かれてい
る。

その三。そのためか、祭りに出る人まで、管理されるようになった。祭りの衣装をつけていない
とダメとか、いろいろある。昔のように、その町内のハッピを着て、こっそりその町内の人になり
すまして出るなどということができなくなった。

 そんなわけで、浜松祭りから、野性的なおもしろさは、完全に消えた。ある意味で、学校の運
動会のようになってしまった。こうした変化を歓迎する人もいるが、嘆く人もいる。「キバを抜か
れたライオンみたい」と。

 で、その浜松祭りが、今年も近づいてきた。町内ごとに、ラッパや、太鼓の練習が聞こえてく
るようになった。私のワイフなどは、根っからの浜松っ子だから、今でもこう言う。「私、あのラッ
パの音を聞くと、今でも、体がムズムズする」と。祭りというのは、そういうものか。更年期に入
り、倦怠(けんたい)期も過ぎているのに、祭りのラッパには、体が反応するようだ。

 さて、今年の連休はいそがしい。予定がいくつか入っている。久しぶりに、御殿屋台(ごてん
やたい、このあたりでは、そう呼んでいる)でも見に行くか。四日、五日の夜は、市内を五〇〜
七〇の屋台が並ぶ。私はいつも、今のザザシティの反対側あたりに立って見ることにしてい
る。皆さんも、どうぞ。そうそう御殿屋台を見るなら、天気にもよるが、五日の夜がよい。午後七
〜八時前後が、いつも最高に盛りあがる。
(030413)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(746)

北朝鮮レポート

 あちこちのウェブサイトをのぞいていたら、北朝鮮系の、日本S団体が出しているサイトをヒッ
トした。どんなことを考えているかと思い、興味があったので、読んでみた(四月一二日)。

●将軍様(金XXのこと)が、拉致(らち)事件を認め、謝罪した。にもかかわらず、日本人は、
将軍様を責めている。謝罪したにもかかわらず、責任をいまだに追及するのは、将軍様に対し
て、失敬だ。

●アメリカでさえ、政治と人道支援を区別し、北朝鮮に食糧援助をしている。にもかかわらず、
日本政府が、食糧援助をしないのは、どういうことか、などなど。

要するに、「わが国の将軍様に、謝罪させたのは失敬だ」「日本政府は、わが国に食糧援助を
しろ」ということらしい。「わが国」という言葉は使っていなかったが、この文章を書いた人は、日
本に長く(?)住みながら、心はまったくの北朝鮮人。日本人が北朝鮮を受け入れていない以
上に、日本を受け入れていない。私はあきれるより先に、どうしてこういう発想で、ものを考えら
れるのか、そちらのほうを不思議に思った。

金XXは、北朝鮮では、すばらしい人かもしれないが、そういう価値観を、日本人の私たちに押
しつけてもらっては困る。それに「援助するのが当たり前」という発想で、ものごとを考えてもら
うのも困る。「謙虚になれ」とまでは、言わないが、もう少し、北朝鮮系の在日朝鮮人の人たち
は、謙虚になってほしい。

 北朝鮮の人たちが、困っているのは、よくわかる。今年(〇三年)も、約一〇〇〜一五〇万ト
ンの穀物が不足するという(世界食糧計画・WFP)。もともと正確な統計がない国だから、本当
のところいくら不足するか、わからないという。しかしたいへんな量であることには違いない。
「子どもの七〇%が栄養失調。満七歳で、平均身長が一〇五センチしかない。こうした栄養不
足は、次世代にまで、深刻な影響をもたらすだろう」(WFP)とのこと。北朝鮮の軍隊を取材し
た日本のあるカメラマンも、こう言った。「どの男性も、日本人より、一回り小さいので驚いた。
おとなでも平均身長は、一五五〜一六〇センチくらいしかないのではないか」と。そう言えば、
あの金XXも、いつもハイヒール靴を愛用しているという。

 北朝鮮の人たちには、同情する。しかし日本に向けて、二〇〇発(中国側の発表では、一〇
〇発)以上ものミサイルを向けているという現状の中では、どうにもこうにも、その同情を、理解
や援助に結びつけることができない。過去において、日本は歳によっては、一〇〇万トン以上
もの食糧援助をしている。しかし北朝鮮は、礼どころか、恩を仇(あだ)で返すようなことを平気
でしてきた。あるいは援助が少しでも遅れがちになると、「約束が違う」と、日本を非難した。あ
る外務省高官は、こう言った。「援助しているのに、叱られるなんて、考えたこともなかった」と。

 S団体が出しているサイトの記事の中にも、そういうニュアンスが読み取れる。「援助しないの
は、どういうことか」と。ワイフにこのことを話すと、「何を、甘ったれたことを言っているんでしょ
うね」と。そう、完全に、甘ったれている。しかし問題は、こうした異常なまでの依存性が、いっ
たいどこから生まれてくるかということ。心理学の世界でも、被害妄想にとりつかれた人が、よく
こうした依存性をもつことはよく知られている。「私が失敗したのは、社会のせい。だから社会
は、私を保護すべきだ」と。金XXの心理も、これに近いのでは……? 独裁国家だから、指導
者の心理が、そのまま国家の姿勢として、反映される。

 北朝鮮を、「たかり国家」(SG氏)と評する学者もいる。かつてはソ連や、東欧諸国の援助に
頼っていた。それが中国になり、今度は、アメリカや韓国になった。最後は、日本というわけで
ある。そういう体質が、脈々と流れているから、たかりながらも、それが「たかり」とさえ気づか
なくなっている?

 さてさて、どうしたものか。拉致問題は、解決していない。金XXは、謝罪したが、それとて、当
然のことではないのか。で、食糧援助だが、今のこの状況の中では、たいへんむずかしい。朝
鮮日報(韓国系新聞社)の報道によれば、韓国が送った肥料は、もっぱらケシ畑(韓国側の発
表では、「楊貴妃」、つまり大麻栽培)で使われているという。つまり麻薬の生産に回っていると
いう。まさに一事が万事。今のままでは、世界が何をしても、北朝鮮に対しては、「援助」ではな
く、「悪の幇助(ほうじょ)」になってしまう。

 さて昨日(四月一二日)、北朝鮮が、突然、「各問題について、多国間協議に応じてもよい」と
言いだした。この突然の変化について、あれこれ言われているが、アメリカの強硬な姿勢に、
金XXが恐れをなしたと考えるのが、正しい。(韓国側の発表では、中国側から、強力な働きか
けがあったという。)しかしこうした見せかけの変化に、だまされてはいけない。その下に、何
か、あるはずである。北朝鮮は、まさに謀略国家。自国の民衆さえ、平気でだましつづけてい
る国である。世界をだますなどということは、朝飯前。私には、核兵器を完成させるための、時
間稼ぎにしか見えないのだが……。
(030413)

●北朝鮮の食糧事情……
 「北朝鮮の2002年11月から2003年10月の食料需要は前年対比6万トン増の632万トン
となろう。これに対して北朝鮮の穀物総生産量見通しは413万トンとなる見通しで、219万トン
の供給不足となる見通しであると見られている。現在、世界食糧計画の支援穀物51万トン、
各国からの食糧支援25万トン程度が見込まれているが、これらを考慮しても北朝鮮の穀物は
140万トン強の不足となるものと見られている。北朝鮮は国際社会の食糧支援が今年も不可
欠な状況にあると見るべき」(韓国政府・統一部と農業振興庁)とのこと。

【注】北朝鮮情勢は、日々に変化します。この原稿は、去る四月一三日に書いたものです。どう
かそういうことをご考慮のうえ、お読みください。

 一般論として、教育の世界(学校や幼稚園)では、政治と宗教の話は、タブー中のタブーにな
っています。しかし私は、どの団体にも属していません。どの組織からも、恩恵を受けていませ
ん。ですから、このように政治問題について自由に発言することができます。私は、こういう自
由を、大切にしたいです。よろしくご声援ください。

【追記】今回のイラク戦争で、「?」と思ったのは、朝のワイドショーの連中たちが、みな、「フセ
インさん」「クサイさん」「ウダイさん」と、「……さん」づけで呼んでいたこと。今朝(一四日)も、ま
だ「フセインさん」と、「……さん」づけで呼んでいる人がいた。

 戦争に反対する気持ちは理解できる。イラクに同情する気持ちも、理解できる。しかし現に戦
争が始まり、日本の自衛隊がペルシャ湾に派遣されている今、いわば敵国の指導者を、「……
さん」づけで呼ぶ心理は、いったい、どういうとこころからくるのか。残念ながら、私には、理解
できない。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(747)

外国人用パス

 JRでは、外国人用に、21日間、列車乗り放題の、フリーパスを販売している。ただし日本国
内では、販売していない。しかも日本人は、ダメ。

 それによると、普通車用パスが、59600円、グリーン車用パスが、79600円。

 少し計算してみて、私は驚いた。安い! グリーン車乗り放題(もちろん新幹線も)パスのば
あいでも、一日、約3800円。その3800円で、日本中が、グリーン車で旅行できる。しかも当
然のことながら、すべて座席指定!

 で、さらに調べてみると、各国も、同じようなことをしているのがわかった。たとえばヨーロッパ
も、同じようなことをしている。外国へ行って、同じように列車による旅をしようと思ったら、この
方法がよいかも。頭の中に入れておこう。

 ……と書いて、指が止まってしまった。これ以上、書くことがない。

いや、こんなことを調べたのは、今度七月に、オーストラリアの友人夫妻が、我が家へくるから
だ。目的は、八月六日に、広島で原水爆反対の運動に参加して、パレードに出るため。それま
で、日本のあちこちを「気が向くまま(follow the nose)」旅行したいという。で、国によっても違う
が、オーストラリアやアメリカでは、飛行機で移動するのが、好ましい。何といっても、広い。一
方、日本では、鉄道網が発達している。「車はどうか?」と聞いてきたので、「車はやめたほうが
よい。道路が、クモの巣のようにからんでいる」と教えてやった。

 オーストラリアのその友人のばあい、数年おきくらいに、外国を旅行している。今、五三歳だ
が、そのつど約二か月くらいをかけて旅行している。うらやましいと思うと同時に、いつも、「どう
して、そんなに長く休暇が取れるのだろう」と思うことがある。……と、言いながら、実は、そこ
には、こんなカラクリがある。

 オーストラリアでは、ある一定額以上の年収になると、とたんに税率が高くなる。そこで従業
員を雇う企業は、社員の給料を一定額以下に抑え、それを超えた差額分は、会社の利益とし
て社内でプールしておく。そして数年ごとに、会社は、そのプールしたお金を使って、その社員
を、海外へ、「出張」という名目で、派遣する。出張といっても、もちろん中身は、旅行。社員
は、全額会社負担という形で、世界を旅行する。だから彼らは、長期間の休暇を取ることがで
きる。うらやましい!

 そういう友人たちを見ていて、若いころ気づいたことは、彼らは、休暇を、心いっぱい楽しむ
姿勢ができているということ。日本人とは、そもそも、原点が違う。オーストラリア人は、「生きる
ために仕事をする」。一方、日本人は、「仕事をするために生きる」。この違いは、大きい。

 たとえば彼らは、こう言う。「土日に、家族と楽しく過ごすために、週日は仕事をする」と。わか
りやすく言えば、「自分の生活を楽しむために、仕事をする」と。あくまでも家庭が「主」、仕事が
「従」というわけである。これに対して日本では……。ここに改めて書くまでもない。だから彼ら
の発想からすれば、家庭を犠牲にしてまで仕事をするということは、考えられない。

 「日本人なら、休暇になると、仕事の心配ばかりするよね」と私。
 「ゆっくりと休暇を楽しむことができないのよ」とワイフ。
 「そうだ。たまに旅行しても、『もったいないから』といって、名所、旧跡を急いで回ったりする。
そしてその証拠にと、写真ばかりとっている」
 「でも、今の若い人たちは、変わってきたわよ」
 「そうだな。どんどん変わってきている。ゆっくりと時間を楽しむという姿勢も、生まれてきた」

 ……外国人パスの話から、何か話をつづけようとしたら、こんなエッセーになってしまった。何
とも支離滅裂なエッセーになりそうなので、この話は、ここまで。ついでに、「旅行」にまつわる、
名言をいくつか。

●旅は、私にとって、精神の若返りの泉。(アンデルセン「自叙伝」)
●人が旅をするのは、到達するためではなく、旅行するためである。(ゲーテ「格言と反省」)
●母国を決して離れない者は、偏見に満ちている。(ゴールドーニ「パメラ」)

さあ、すばらしい季節になった。私も、旅行をするぞ!
(030414)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(748)

さだまさしの「案山子(かかし)」

 さだまさしのヒット曲に、『案山子(かかし)』がある。「♪元気でいるか、町には慣れたか、友
達出来たか、寂しかないか、お金はあるか、今度いつ帰る……」という、あの歌である。

 すばらしい曲だ。この歌を聴いて、しんみりする人も多いはず。それは事実だが、この歌は別
として、こうした名曲を評論するのは、実際のところ、気が引ける。数年か前も、私が、窪田聡
の『かあさんの歌』を新聞で批評したら、何人かの人から、抗議の電話をもらった。ある中学校
で、講演をしたときもそうだった。そのあとPTA会長に、「私はいい歌だと思います」と、逆に批
判(非難?)されてしまった。

 しかし、だ。この歌には、子離れできない父親の心情、甘えてもらいたいという父親の心情、
子育てが終わって、何か虚しい父親の心情が、切々と織り込まれている。一番、気になるの
は、「お金はあるか……」という部分。ほかのところでは、「♪"金頼む"の一言でもいい」とあ
る。

 親子関係が良好なときは、こういう言い方は、たしかに子どもの心を動かす。しかしそうでな
いケースもある。たとえばあなたが親の過干渉、過関心、あるいは溺愛を息苦しいほどに感じ
ていたとする。そしてそういう親の呪縛から逃れたいと、親のもとを離れたとする。そして、やっ
とひとりになることができた。そういうとき、父親から、こういう手紙をもらったら、あなたはそれ
をどう感ずるだろうか。

 ある意味で、この歌は、父親から子どもへの、一方的な愛の押し売りを表したものと考えてよ
い。もしそれがわからなければ、子どもの立場で考えてみればよい。

 あなたは、今、生活で困っている。お金がない。お金がほしい。そういうとき父親から手紙が
きて、「お金はあるか?」と。ケースによっては、つまり親子関係が良好でない状態なら、こうい
う手紙はイヤミに聞こえる。

 だいたい、そもそも良好な関係なら、父親は、こんな手紙を書かない。書く必要もない。子ど
ものほうから、「今月は、もうお金がなくなった。少し助けてほしい」と、すなおに、心を開いて言
ってくるはず。そうでないから、親のほうが、どこか遠慮がちに、どこか押し売り的になる。「♪"
金頼む"の一言でもいい」となる。もう少し分析すると、こうなる。

 この父親は、息子(娘)に、「金頼む」と言ってほしいのだ。頭をさげてほしいのだ。そして頼ま
れることによって、自分の父親としての立場を確認したいのだ。実は、こういう言い方は、日本
人独特の、子育て観に、深く根ざしている。日本では、子どもを育てながら、子どもに対して
は、「親がいなければ、あなたは生きていかれない」という意識をもたせるようにする。恩を着
せようとする。よい例が、「産んでやった」「育ててやった」という言葉である。

 この歌の中でも、父親は、こんな会話ができることを期待しているかもしれない。

父「頼むと言え」
子「……うん、お父さん、頼む」
父「そうか、では、助けてやろう」と。

 仮に内心で、そう思っていたとしても、しかし父親が息子に、手紙で書くようなことではない。
いや、実のところ私は、自分の子どもたちがまだ小さいころは、この歌が好きだった。CDも買
った。しかし実際、息子たちが巣立ち始めると、この歌に対する印象が一変した。あるときは、
「何という、女々しい歌」とさえ思った。

 たしかに遠く離れて住む息子(娘)をもつと、その心配はつきない。しかしそれ以上に大切な
ことは、息子(娘)に、自分のことで心配をかけないことだ。先日も、こんなことがあった。

 息子の一人が、軽い事故を起こしたらしい。それをずいぶんとあとになってから私に話したの
で、「どうして私に言わなかったのだ!」と責めたら、息子はこう言った。「パパやママに、いらぬ
心配をかけたくなかったから」と。それを聞いたとき、それはそのまま私たち夫婦の気持ちであ
ることを知った。私たち夫婦も、そのつど、いろいろな問題をかかえている。しかしそのほとん
どは、息子たちには、話していない。いらぬ心配をかけたくないからだ。

 そういうたがいの思いやりというか、やさしさが、良好な親子には必要である。あるいは良好
な関係にあれば、そういう思いやりや、やさしさが、自然と、生まれてくる。そしてそれが相乗効
果となり、たがいの人間関係を、よりよくする。そしてそういう関係になると、たがいに「便りがな
いのは、よい知らせ(No news is a good news)」となる。が、その均衡が崩れたというか、「♪"
金頼む"の一言でもいい」とは? 何とも日本人の琴線に触れる言い方ではあるが、そんなわ
けで私は、この歌の中に、自立できない、もっと言えば、子離れできない、未熟な父親を感じて
しまう。

 「さだまさしの案山子(かかし)では、最後にはこうある。『♪手紙が無理なら、電話でもいい』
と」と、私。
 「かなり親子関係が、こわれているわね」とワイフ。
 「そうなんだよな。そのあとは、『♪"金頼む"の一言でもいい。お前の笑顔を待ちわびる、お
ふくろに聴かせてやってくれ』とある。何だか息子か娘か知らないが、親と喧嘩して、家出した
ような雰囲気なんだよな」
 「そう言えば、そうね」
 「ふつうなら、……こういう言い方は好きではないけど、ふつうなら、親は、子育てから解放さ
れて、ほっとしてもいいはずなんだけどさ」
 「そういう親もいるわ。私の友だちの、Kさんね。あの人なんか、いつも子どもは子どもで勝手
にやればいい。自分たちも子どもの世話にはならないと言っているわ」
 「そういうふうに考える親がふえてきた。しかしこういう曲を聴いて、涙を流す人も多いというこ
と。それにもう一言付け加えるなら、この父親は卑怯だよね」
 「どうして?」
 「だってさ、自分が子どもに会いたいのに、『お前の笑顔を待ちわびる、おふくろに……』と、
妻のせいにしている。自分で会いたかったら、自分でそう言えばいい。この父親という人は、き
っと気の小さい人なんだろうね」
 「そうね。このタイプの父親は、自分では、いい父親でいたいのよ」
 「そうだね」

 ……とまたまた、日本の名曲を、たたいてしまった。批判もふえることだろう。叱られるのを覚
悟で、今まで私が批評して書いた原稿を、ふたつ、ここに添付しておく。ともに中日新聞で発表
済のものである。

+++++++++++++++++++++

@日本人の依存性を考えるとき 

●森進一の『おくふろさん』
 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たち
は、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日
本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独
立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係
 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできな
い。できないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてく
れるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼ
したミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこ
と。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてき
た。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるの
よ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」
 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう
だろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、そ
れである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜
(だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。
もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」
子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ
……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、
日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

+++++++++++++++++++++

A子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行
論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ
のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの
勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?
 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、
本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ
こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親
はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子
 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか
しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ
んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分
は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」
 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! 

……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うのに、「D家(け)は…
…」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡
取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言
葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない
 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる
 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命
に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六
年)は、次のようになっている。
 フィリッピン ……八一%(一一か国中、最高)
 韓国     ……六七%
 タイ     ……五九%
 ドイツ    ……三八%
 スウェーデン ……三七%
 日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読
むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 
(030414)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(749)

SARS

 「SARS」という、新型肺炎が流行している。「コロナウィルス」と言われても、ピンとこないが、
そういうウィルスらしい。このところウィルスのこわさは、コンピュータウィルスで、いやというほ
ど思い知らされているから、……関係ない、か。

 その新型肺炎の発生源は、どうやら中国の広東省あたりらしい。あのあたりでは、動物の家
畜や魚の養殖などに、めちゃめちゃ構成物質を使うという。そのためウィルスが、突然変異し
たのでは……?、というのが、私の考えだが、本当のところは、わからない。

 それがどういうウィルスであれ、恐ろしい肺炎であることには違いない。何よりもこわいのは、
死亡率が高いことと、空気感染すること。数千人の感染者に対して、約一〇〇人程度の死亡
率らしい。仮に一億人が感染すれば、五〇〇万人程度が死亡することになる。日本でも、死者
が一万人を超えるようになれば、パニック状態になるだろう。この新型肺炎を軽く見てはいけな
い。

 それにしても、よくもまあ、こういう病気が、つぎからつぎへと生まれるものだ。科学や化学の
発達で、人間生活は便利になったが、その一方で、こうした病気をつくり出しているとしたら? 
だからといって、科学や化学を否定してはいけないが、人間は、何かしら、壮大なムダをしてい
るような気がしてならない。たとえば……。

 ワイフなんかは、距離的にして一キロもないような公民館へ、車で出かけて行っては、テニス
をしている。「運動のため」と言っているが、もしそうなら歩いていけばよい。そして汗を流したあ
とは、おなががすいたといっては、何かを食べ、今度は、太るといけないからといって、何やら
高価なダイエット食を食べている。どちらかというと、家の中では、ゴロゴロしているほう。洗濯
は、全自動の洗濯機に任せきり。料理も、このところ、簡単にできるものが多くなった。

 要するに人間は、一時的な便利さを求めて、一方で、副産物として別の問題をつくりだしてい
る。そしてその問題を解決するために、あれこれ、もともとしなくてもよいような苦労をしている。
今度の新型肺炎を見ていると、私にはそんな感じがしてならない。

 そこでこうした問題については、二つの考え方がある。ひとつは、そういうムダにブレーキを
かけるというシステムを、つくること。何か新しいことを始めようとするときは、将来起こりうる危
険性を、あらかじめ予測する。「これはいいぞ」と思ったら、「これは、どういう問題を起こすか」
を同時に考える。そしてその問題についての、予防策をこうじておく。

 もうひとつは、生活をいつも、原点に立ち返って考えるようにする。原点というのは、原始生
活のこと。原始生活にもどれということではない。しかし人間の生活は、原点ではどうであった
かを考えることは、とても大切なこと。私はこのことを、自分で山荘生活をするようになって気づ
いた。

 たとえばあのあたりの女性たちは、実によく歩く。道といっても、山道。そういうところをスタス
タと歩く。もちろん農作業もある。山荘の裏で、毎日のように畑を耕している女性は、今年、八
〇歳だという。そういう環境の中では、運動不足は考えなくてもよい。ダイエットも考えなくても
いい。町の人のように、ポテポテと太った人は、ほとんどいない。(いることは、いるが、少な
い。)

 さて、SARSはまだ、よい。今のところ、何とか防げそうな感じになってきた。しかしたとえば、
空気伝染するようなエイズのような病気が現れたらとしたら! しかも伝染力が、きわめて強い
としたら! そういう可能性はないとは言えない。現に今、K国は、生物兵器をもっているとい
う。週刊誌(P誌、今週号)によれば、その生物兵器を、東京都で使われたら、都民の三分の
一から四分の一が死亡するということだそうだ。そういう細菌も実際にあるから、油断は禁物。

 五月に、アメリカにいる二男夫婦が、日本へ来るという。「SARSがはやっているから、様子
をみろ」とメールを書いたら、「そうする」とのこと。我が家も、決してSARSとは無縁ではない。
何とか早く、収束すればよいと、心から願っている。
(030415)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(750)

子どもの心理(1)

●子どもの不安は、親がつくる

 私の教室でも、ニコニコ笑いながらくる子どもは、その表情も明るい。反対にそうでないとき
は、暗い。一般論として、子どもの不安感は、親がつくると考えてよい。それがもっとも顕著に
現れるのは、小学校入試である。

 入試に不合格になったようなとき、極端に落ちこむ子どもと、そうでなく、平気な子どもがい
る。もちろん子ども自身は、入試がどういうものであるか、あるいは合格、不合格がどういうも
のであるか、知らない。知らないから、本来なら不合格になったところで、子どもはそれによっ
て、影響を受けるはずもない。

 子どもは、まわりの人たち、なかんずく母親の様子を見て、自分の置かれた立場を知る。た
とえば不合格になり、母親がそのまま寝込んでしまうようなケースがある。子どもはそういう母
親の姿を見て、自分がとんでもないことをしてしまったのを知る。……知らされる。

 あるいはその前の段階として、親が緊張すればするほど、子どものほうも緊張する。そして不
合格になり、親の緊張感が崩れたとき、子どもの緊張感も崩れる。そしてそのとき子どもの心
も不安定になる。このことは犬を観察してみるとわかる。

私の飼っている犬の一匹は、ポインターという猟犬である。この犬は、私の心の様子に応じて、
敏感に反応する。私が庭の向こうを見つめ、じっと緊張したようなフリをしてみせると、犬のほう
も、ピタリと動きを止め、私が見ている方向を見る。犬は犬で、私の様子を参考にしながら、周
囲の状況を判断している。

 子どもの前では、親は、自分の不安や心配を見せない。これは子育ての鉄則。とくに子ども
が乳幼児期においては、そうで、この時期、親の精神状態が日常的に不安定になると、子ども
は、その影響をまともに受ける。子どもは不安を基底としたものの考え方をするようになり、そ
れがそのまま子どもの心の中で、ほぼ一生残ることになる。

 おとなの中にも、「子どものときから何をしていても、いつも、不安だった」「仕事の休みなど
で、遊んでいると、かえって不安になる」「これから先のことを考えると、言いようのない不安に
かられる」という人がいる。そういう人は、乳幼児期のこの時期に原因があると考えてよい。

 A氏(四〇歳・男性)は、何をしていても不安でならない。せっかくの休みでも、考えるのは、仕
事のことばかり。家族とどこかへでかけても、「こんなことをしていていいのだろうか」と、そんな
ことばかり考える。で、A氏は、休みでも、会社へ行き、仕事をすることがあるという。そういうA
氏に、妻は不満でならない。ある日、私にこう言った。「ときどき、かわいそうになるときがあり
ます」と。

 で、いつごろからそういう不安になったかを聞くと、A氏は、「もの心つくころから、そうでした」
とのこと。で、A氏は、そういうA氏になったのは、自分に責任があるからだと思っていた。しか
しこういうケースでも、まず疑ってみるべきは、A氏自身の乳幼児期。とくに母親の心理状態が
どうであったかということ。それについてA氏は、こう言った。

 「当時、私の親たちは、離婚状態でした。いつ離婚してもおかしくなかったのですが、世間体
を気にして、それもできなかったようです。毎晩、喧嘩ばかりしていました」と。そういう不安定な
家庭環境が、A氏の心に大きな影響を与えたものと思われる。

 親は、子どもの前では、朗らかに。明るくする。子どもを育てるということは、そういうことをい
う。


●愛着(アタッチメント)

 昔は、子どもは、親に依存するものと考えた。「保護と依存が、親子のあるべき人間関係」と
考える人もいた。今でも、親のことを、「保護者」というが、それはそういう考え方に根ざしてい
る。

 その後、しばらくすると、「マザーリング(愛撫)」という言葉が生まれた。親子の関係は、親側
からの濃厚な愛情と、スキンシップが基本という考え方である。今でも、この考え方を支持する
人は多い。しかしさらに最近になって、親子の関係は、必ずしも、親から子どもへの一方的なも
のではなく、子どもの側からも、親に対して「働きかけ」があるのが、わかってきた。この働きか
けを、「アタッチメント(働きかけ)」という※。

 もっともこの言葉は、英語の世界では、昔からよく使われている言葉である。もともと「アタッ
チメント」というのは、「くっつく」という意味。日本語になおすと、「甘える」というニュアンスに近
い。「うちの息子には、強いマザー・アタッチメント(母親への密着)がある(My son is having 
Mother Attachment)」というような言い方をする。「親から離れられない子ども」という意味で、
「人見知り」あるいは「分離不安」的な症状を示す子どもにも、この言葉が使われる。

 この子どもの側からのアタッチメント(愛着行動)に対して、親が、それにじゅうぶん答えてや
らないと、子どもは、さまざまな問題を引き起こすことがわかっている。親の拒否的な育児態
度、冷淡、無視、暴力、威圧、虐待が、悪いことは、言うまでもない。そこで大切なことは、子ど
も側からの愛着行動(親に向かってほほえむ、手足をバタつかす、甘える、親の体に触れたが
る、意味もなくぐずる)が見られたら、親は、それにていねいに応じてあげねばならないというこ
と。たいていは、しばらく静かに抱いてやると、そのまま落ちつく。

 中には、「甘えん坊になりませんか?」「抱きグセがつくのでは?」と心配する人もいるが、子
どもがスキンシップを求め、愛着行動を示す背景には、それなりの理由があるはずである。そ
ういう前提で、子どもの心を大切にする。もちろんベタベタのスキンシップや溺愛がよくないこと
は、言うまでもない。密度の濃い、質の高いスキンシップを大切にする。

※…… 母親は新生児を愛し、いつくしむ。これを愛着行動(attachment)という。これはよく知
られた現象だが、最近の研究では、新生児の側からも、母親に「働きかけ行動」があることが
わかってきた(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。こうした母子間の相互作用が、新生児
の発育には必要不可欠であり、それが阻害されると、子どもには顕著な情緒的、精神的欠陥
が現れる。その一例が、「人見知り」。

 子どもは生後六か月前後から、一年数か月にかけて、人見知りするという特異な症状を示
す。一種の恐怖反応で、見知らぬ人に近寄られたり、抱かれたりすると、それをこばんだり、拒
否したりする。しかしこの段階で、母子間の相互作用が不完全であったり、それが何らの理由
で阻害されると、「依存うつ型」に似た症状を示すことも知られている。基本的には、母子間の
分離不安(separation anxiety)は、こうした背景があって、それが置き去り、迷子、親の育児拒
否的な態度(子どもの誤解によるものも含む)などがきっかけによって起こると考えられる。


●スキンシップには、魔法の力

 スキンシップには、魔法の力がある。「未知の力」と言ってもよい。そのスキンシップが不足す
ると、さまざまな弊害が現れることは、よく知られている。それはそれとして、その一方で、子ど
もの心のことで、「どこかおかしい」と感じたら、スキンシップをふやしてみる。抱く、手をつなぐ、
添い寝をするなど。たいていの問題は、それで解決する。

 同じ親でも、母親と子どもの関係は、特別なものである。その関係は、父親との関係とは、決
して同一のものでも、同質のものでもない。子どもにとって、母親は、「自分の命」そのもの。一
方、父親は、「精液、一滴」の関係でしかない。フロイトも、「血統空想」という言葉を使って、「自
分と父親との関係を疑う子どもはいても、母親との関係を疑うものはいない」と説明している。

 ここでいうスキンシップは、母親が子どもに与えるスキンシップをいう。父親のスキンシップ
は、どうなのかという意見もよく聞くが、そういう意味では、父親が子どもに与えるスキンシップ
は、補助的なものと考えてよい。子どもは、母親とのスキンシップに、@保護、A安全、B心の
安定、Cやすらぎ、D休息を求める。子どもの脳の中で、エンドロフィン系、エンケファリン系の
麻薬様の物質が分泌されているのだろう。胸に抱かれた子どもは、ある種の陶酔感にひたっ
ているのがわかる。

 大切なことは、スキンシップを求めてくる子どもには、ていねいに応じてあげるということ。求
めてくる背景には、それなりの理由や原因があるとみる。「うるさい」式に拒絶してはいけない。
(030415)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(751)

塾長ブルース

 大手、あるいは中堅の進学塾で講師をしていると、自分のしていることが、バカらしく思えると
きがある。給料は、意外なほど、安い。月額二〇万円から三〇万円。若い新任の講師だと、一
五万円前後。しかし教える生徒数は、一クラス、二〇人〜三〇人。大手の進学塾では、四〇
人というところも少なくない。給料が安いのは、年齢が若いことによる。この世界では、経験よ
りも、生徒の人気のほうが重視される。年配のおじいさんぽい講師は、お呼びではない。(……
という。)

一人、二万円〜三万円の月謝。中間の数字で計算しても、六三万円(2.5万円X25人)稼い
で、講師が受けとるのは、二五万円ということになる。差し引き、三八万円は、経営者の収入と
いうことになる。実際には、塾生二〇〇人前後の中堅塾で、講師数は、四〜五人だから、講師
一人当たり、四〇人前後の生徒を受けもつことになる。そういうことを知れば知るほど、講師
は、自分のしていることが、バラらしく思えてくる。(……という。)

 塾の講師になる人は、もともと計算が得意な人が多い。そこでしばらく講師をしていると、た
いていの講師は、こう考えるようになる。「こんなに儲かるなら、自分でしたほうがよい」と。力
(?)のある講師ほど、そういうふうに考える。(……という。)

 そこで講師は、生徒を教えながら、一方で、独立することを考える。進学塾といっても、いつも
経営者が見ているわけではない。生徒から、住所と名前を聞きだすことぐらい、わけがない。
あるいは名簿は、事務局に聞けば、手に入る。(ふつうは教えないことになっているが……。)

 講師はこう考える。「生徒が一〇人で、今の給料分がカバーできる。だったら、一〇人、生徒
を連れてやめれば、生活には困らない。一〇人以上になるなら、もっと儲かる」と。そこで進学
塾で教えるかたわら、独立するための教室を、物色する。塾というのは、机とイス、それに黒板
があれば、何とか開業できる。小さな塾なら、五〇万円もあれば、じゅうぶん。一応の形はでき
る。

 一度そういう計画ができると、講師は、自分と生徒の関係づくりに精をだす。こまめに生徒や
父母と連絡をとりあい、相談にのったりする。自分が退職すると同時に、生徒が自分について
きてくれるようにするためである。

 そしていよいよ決行の日。たいていは、二月とか、三月の年度末。講師は、自分が勤めてい
た進学塾に、退職届を出す。理由など、どうでもよい。要するに独立が目的なのだ。と、同時
に、自分の教え子たちに、手紙を出す。「今度、独立することにしました。ついては、○○町に、
XX進学塾を開くことになりました。今後は、どうかそちらへおいでください」と。

 この方法は、たいていうまくいく。講師が退職すると同時に、ほとんどの生徒はその講師につ
いていく。それまでに濃密な人間関係ができているためである。生徒も、「今までどおり、あの
先生に習えるなら」「月謝も割安」「ていねいに教えてもらえるかも」と考える。

 こうして一年目は、無事(?)、営業できる。その余力で、二年目も何とか、営業できる。しか
し問題は、三年目から。

 この世界、やはり資金力がものをいう。今では、四色刷りの豪華なチラシでないと、生徒は集
まらない。一色刷りや二色刷りでは、相手にもされない。それに進学塾は、情報量が信用の基
盤。模擬試験をするにしても、一塾だけのデータだけではどうにもならない。(小塾が集まって
情報を交換している地域もあるにはあるが……。)

 三年目になると、とたんに生徒が減り始める。そこで講師は、週二回を三回、四回と、レッス
ン日をふやす。これは塾の常套(じょうとう)手段である。あるいは対象学年を、さげる。それま
では小六から教えていたのを、小五からにしたり、小四からにしたりする。(……という。)

 しかしそうなれば、仕事量ばかりがふえて、その分、それに見あっただけの収入がふえない。
疲ればかりがたまり、同時にやる気も半減する。……あとは、この悪循環。(……という。)

 こうして五年、生き残る塾は、五〇%。一〇年、生き残る塾は、さらにそのうちの五〇%とな
る。実際には、一〇年をめどに、ほとんどの塾は、つぶれる。(……という。)

 こうした塾は、あなたのまわりにもあるはず。大手の進学塾の横で、個人の塾が新しく生まれ
たら、その塾は、こうして生まれた塾と考えてよい。こういう塾では、開業と同時に、「どうしてあ
んなに生徒が集まるのだろう?」と思うくらい、最初は、生徒が多い。

 しかし世の中、そんなに甘くない。ある中堅の進学塾の経営者が、こう話してくれた。

 「うちの塾では、生徒の人気度で、その講師を評価します。やはり若くてハンサムな講師ほ
ど、いいようです。で、そうでない講師は、わざと独立を促して、退職するように仕向けます。た
しかに生徒を連れていかれるのは、つらいですが、それはいわば退職金のようなものです。こ
れは進学塾が構造的にもつ、宿命のようなものです。しかたないですね」と。

 実際には、いくつかの教室があるときには、講師を定期的に移動させることにより、講師と生
徒が個人的なパイプをつくるのを防ぐ。経営者の目を盗んで、生徒を連れだす講師も講師な
ら、経営者も経営者だ。そこには、「教育」の理念など、ひとかけらもない?
(030415)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(752)

進学塾ブルース

 今年のはじめ、最後まで入っていた、進学塾のグループから、抜けた。進学塾といっても、た
いはんは金儲け主義。しかし私が所属していた、K研究団体は、まじめな、アカデミックな団体
だった。それで二〇年近くも、そこに所属していた。 

 「抜けた」のには、大きな理由は、ない。もともとその研究会は、東京都と埼玉県を中心とす
る団体で、距離的にも、遠かった。毎月、会合があったが、私のばあい、年一回程度、参加す
るのが精一杯。何となく、疎遠になり、それで抜けた。

 アカデミックな団体であることはすばらしい。しかしそういうところで議論していると、いつもあ
る種のむなしさを感じた。皆は、「教育とは……」「日本の教育とは……」と、まさに口角にアワ
をとばして、意見を戦わせていた。が、あるとき、みなの討論を横で聞いているとき、ふとこんな
ことを思った。「こんなことを議論して何になるのだろう」と。また別のときは、「どうせ、私たち
は、だれにも相手にされていないのに」と。

 そう、私たちは、世間的には、まったく相手にされていなかった。団体そのものが、公的に認
知されているわけではない。どこからの補助も、援助もない。さらに、だれに頼まれているわけ
でもない。つまりいくら意見を述べても、ただの自己満足? それぞれの塾に子どもを通わせ
る父母にしても、そんな意見など、聞きたくもないだろう。

 生きる誇りをもつことは、大切なことだ。高邁な思想と哲学をもって、意見を戦わせることは、
大切なことだ。しかしそれが自己満足の世界にはいったとき、そしてさらにそれが、他人に対し
て、押しつけ的になったとき、その思想や哲学は、地に落ちる。

その団体の中にも、どういうわけか、私を目の仇(かたき)にして、ああでもない、こうでもないと
議論を吹っかけてくる男がいた。一度は、私に、「あんたは知識をひけらかす、バカだ」と言っ
た。酒の勢いもあったが、私はその男と議論する前に、「どうぞ、ご勝手に」と思ってしまった。
「どうぞ、ご勝手に、そう思いたければ、思え」と。いくつか彼の書いた作文(論文と言えるような
ものではない)を読んだことがあるが、あまりの不勉強に、驚いたことがある。そのためその男
を説得しようなどという気持ちが、どうしても起きなかった。

 しかし二〇年もつきあっていると、そのうちの何人かの人とは、親しくなる。私にとっては、す
ばらしい人たちだ。人間として、すばらしい。しかしそういう団体を抜けると言うことは、同時に、
そういう人たちとの「別れ」を意味する。それはつらい。まあ、もっともそれで、ズルズルと、二〇
年もつきあったという面もないわけではないが……。しかしこのところ、それ以上に、そういうい
いかげんな人間関係をつづける自分が、いやになった。「つきあっておけば、何かの役にたつ
だろう」という思いがなかったわけではない。しかしそういう思いは、いわば心のススのようなも
の。そういうススが、自分でもいやになった。

 こうして、昨年は、埼玉県下の、「M会」(塾連盟)。愛知県下の、「S会(塾連盟)から抜けた。
二年前には、東京都の「D会」(幼児教室の会)と、「P会」(文筆家クラブ)から抜けた。で、今
度、最後まで所属していた、K研究団体を抜けた。そんなわけで今は、どこにも所属していな
い。まったくのフリー。

 ふと、さみしくなることもあるが、そのかわり、新しい人たちとのつきあいも、始めている。今
は、できるだけ、異業種というか、私の仕事は関係ない人とのつきあいを大切にしている。こと
「教育」「子育て」については、私はもう、やりすぎるほど、やった。だからこれからは、別の世界
の人たちとのつきあってみたい。そういう思いもあって、K研究団体から抜けた。

 さようなら、K研究会のみなさん。それから私に「知識をひけらかすバカ」と言った、Oさん。あ
なたのおかげで、私も目が覚めました。ありがとう。私はそのとおりの人間でした。どうか、ご活
躍を!
(030416)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(753)

母親の力

 世話だけすれば、それで子どもが育つと考えるのは、まちがい。子どもは、世話をしてやるだ
けでは育たない。生きることさえできない。

 生後まもなくから、施設に預けられ、多人数の子ども用ベッドで並べられて育てられたような
子どものばあい、死亡率がきわめて高いということは、以前から指摘されている。(程度の問題
もあり、具体的な数字を出すことはできないが、これは発達心理学の世界では、常識。)が、そ
ういう子どもでも、母親的な愛情を注いでみたところ、死亡率がぐんとさがったという。(これも
常識。)

 つまり母親というのは、ただ単に、子どものミルクを与え、子どもを大きくするためだけの存
在ではないということ。母親とのつながりが、子どもの命そのものを守るということになる。その
「つながりのない状態」を、「マターナル・デプリィベイション(deprivation)」という。日本語では、
「はく奪(だつ)」と訳す。「母親の愛情がはく奪された状態」ということで、デプリィベイションとい
う。

 このデプリィベイションは、子どもの心に深刻な影響を与える。最近問題になっている、表情
のない子ども、笑わない子ども、感情表現ができない子ども、さらにはサイレントベービなども、
このデプリィベイションが原因と言われている。あるいはそれ以前の段階として、表情が乏し
い、知恵の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどの、独特のクセが身につきやすくなるなど
を指摘する学者もいる。

 そういう意味では、乳幼児期には、母親は子どもに対して、積極的に働きかけること。スキン
シップのほか、語りかけ、身辺の世話など。こうした一連の接触が、子どもに生きる力を与え
る。決して、安易に考えてはいけない。
(030417)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(754)

雑感

 北京に住んでいる日本人留学生が、こんな報告を届けてくれた。

 今、中国では、SARS(新型肺炎)が、ご存知のように、大流行している。それでその留学生
が言うには、「リアル・アメリカンは、みな、アメリカへ帰ってしまった。北京に残っているアメリカ
人は、中国系アメリカ人とか、そういうアメリカ人だけ」と。

 理由は、明白。「アメリカでは、治療費がべらぼうに高いから。へたに病気になると、親の財
産ですら吹っ飛んでしまうから」だそうだ。ちなみに、二男が、昨年、アメリカで虫歯になり、二
本、歯の治療をしてもらったが、その費用が、約三〇〇〇ドル。日本円で、約四〇万円!

 そのかわり、向こうでは、医療保険が発達している。そのあと、病院で発行する領収書を、し
かるべきところに提出すると、その分、保険会社が治療費を払ってくれる。そういうしくみはあ
るにはあるが、それにしても、高額! 「アメリカでは、簡単には病気になれない」と、よく言わ
れるが、本当にそうだ。(ああ、日本人で、よかった!)

 そのアメリカで思い出したが、あの「チップ制度」というのは、ほんとうにいやなもの。支払額
の、一〇〜一五%が、チップの相場ということになっている。ふと忘れて、チップを払わないで
いたりすると、彼らは露骨に、不愉快な表情をしてみせる。そういうとき私は、「しまった!」と思
うのだが、それと同時に、それまでの楽しい気分が、半減してしまう。(ああ、日本人で、よかっ
た!)

 で、レストランでも、そのチップをめぐって、店員どうしが客の奪いあいをする。たとえばAとい
う客が、最初に、Bという店員に注文を出したとする。すると、その店員は、ずっとAという客の
めんどうをみる。Aという客も、ずっとBという店員をとおして、オーダーを出さねばならない。途
中で、Cという店員をつかまえてオーダーを出しても、Cという店員は、見向きもしてくれない。あ
とでAという店員と、もめるのが、いやだからだ。そういうことがわかっているから、客のほうも、
最初に声をかけてくれた店員にだけ、オーダーを出す。

 これはレストランでの話しだが、こうした気配りは、どこでも必要。とくにうるさいのは、ホテ
ル。ドアボーイ、カウンター、レストランなど、そのつど、気をつかわねばならない。そのかわり
親しくなると、こまめにめんどうをみてくれる。そういうことはあるが、やはりうるさいと言えば、う
るさい。あるアメリカ人の友人は、こう言った。私が「日本のいいところはどこか?」と聞いたと
きのこと。「チップを払わなくてもいいところだ」と。その気持ちは、ヨ〜クわかる。

 さて冒頭の話。私はアメリカへ行くときは、いつも最高額の保険をかけることにしている。最
高額といっても、一〇日間の保険で、五〜六万円程度だが、それで三〜五〇〇〇万円程度ま
での治療費をカバーしてくれる。三〇〇〇万円の治療費というと、たいへんな重病を想像する
人もいるかもしれないが、虫歯一本で、数一〇万円という国である。油断できない。みなさん
も、アメリカへ行くときは、くれぐれも、ご用心を!
(030417)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(755)

子どもの警戒心(子どもの心理)

 新しい場所へ連れていったようなとき、@周囲をキョロキョロ見ながら、警戒する子どもと、A
まるで無頓着で、平気で振るまう子どもがいる。場所や年齢にもよるが、子どもが三〜四歳前
後なら、警戒する子どものほうが望ましい。多動性の強い子どもや、知恵の発達が遅れがちの
子どもほど、警戒心が薄い。薄い分だけ、平気な顔をしている。が、それだけではない。

 親子の絆(きずな)の太さは、親が子どもから離れたときの様子を観察すれば、わかる。子ど
もだけ残して、親が、その場を離れ、子どもの見えないところに移動する。そのとき親がいなく
なったことで、B不安感や警戒心を顔に出す子どもと、C平気で、そのまま遊びつづける子ど
もがいる。子どもの側からの愛着(アタッチメント)が強い子どもほど、親がいなくなると、不安な
様子を見せる。一方、そうでない子ども、つまり親子の結びつきが弱い子どもほど、平気な顔
をしている。

 さらに、今度は、しばらくして再び、親が子どものところに戻ってみる。そのときD親の姿を見
て、うれしそうな顔をして、親を迎える子ども、E親がいなかったことを責め、ぐずったり、怒り
つづける子ども、さらにFまったく平気な顔をしている子どもがいる。 

 親子の信頼関係がしっかりしている子どもは、Dのような様子を見せる。しかし親子の関係
に不安感を覚えている子どもは、Eのような様子を見せる。さらに親の育児拒否、冷淡、無視
などが日常化しているようなばあいには、Fのような様子を見せる。言うまでもなく、Dのようで
あるのが、親子の関係として、望ましい。

 さて、今度は、おとなの話。先日、こんなことを話してくれた女性(四〇歳、家庭の主婦)がい
た。何でも彼女の夫は、短気だというのだ。「私が車で駅へ迎えに行くときでも、一〇分とか一
五分、遅れただけで、機嫌が悪くなるのです。『道路が渋滞(じゅうたい)していたので、遅れ
た』とあやまっても、わかってくれません。私をガミガミと叱りつづけます。どうしてでしょうか」
と。

 この夫のケースでは、まず夫の態度そのものもが、幼児性をおびていることに注目してほし
い。迎えにきてくれた妻に対して、機嫌が悪いのが、それ。この夫は、感情のコントロールが、
うまくできないらしい。私はこの話を聞いたとき、「おとなも子どもも、同じだな」と思った。この夫
を、上の@〜Fのどれかに当てはめると、Eの「親がいなかったことを責め、ぐずったり、怒り
つづける子ども」に相当する。この夫のばあい、ひょっとしたら、そうした不安定性は、幼児期
からつづいているのかもしれない。もしそうなら、原因は、乳幼児期の親子関係にあると考えて
よい。

 さて、あなたの子どもは、どうだろうか。(……どうだっただろうか。)ほどよい警戒心があった
だろうか。あるいはあなたとの関係はどうだろうか。園や学校から帰ってきたようなとき、あなた
の顔や姿を見て、うれしそうな顔をするだろうか。ほっとするような様子を見せるだろうか。もし
そうなら、それでよし。が、そうでないなら……。しかしこの問題は、子どもが乳幼児期のころの
問題。この世界には、「手遅れ」ということもある。要は、できるだけ早い時期にそれに気づき、
適切に対処するということ。子どもが、三、四歳になってからでは、ことこの問題については、
手遅れ! あとは「うちの子は、こういう子なんだ」と、あきらめて、それを受け入れるしかない。
(030417)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(756)

自己誇示と自尊感情

 四歳にもなると、未熟で未経験な部分はあるが、その基本的な精神構造は、おとなのそれと
同じとみてよい。このころの子どもでも、嫉妬(しっと)はするし、名誉心も誇りもある。自尊心
(自尊感情)もあれば、劣等感もある。

 ところで感情には、二種類、ある。他人に対する感情と、自分自身に対する感情である。「あ
の人は好き」「あの人は嫌い」というのが、他人に対する感情。「自分はすばらしい」「ときどき
自分がいやになる」というのは、自分に対する感情。自分に対する感情のことを、「自我感情」
という。

 この自我感情は、生後一年くらいから芽生え始め、以後、急速に発達する。自己誇示や自尊
感情は、こうした過程で生まれる。

【自己誇示】

 人間は、他者とのかかわりなくしては生きていかれない。とくに子どもはそうで、その他者は、
(親)→(園の先生)→(友だち)と、年齢とともにワクを広げていく。「認められたい」「優位に立
ちたい」「目立ちたい」「注目されたい」など。

 子どもを伸ばすコツは、この自尊感情を、うまく利用すること。「自分はすばらしい」と子ども自
身が自覚したとき、子どもは、自らの力で伸び始める。そのためにも、子どもは、ほめる。遠慮
せずに、ほめる。たとえば子どもが、はじめてぬり絵をしたようなとき、はじめて絵を描いたよう
なとき、はじめてピアノの鍵盤をたたいたようなとき、さらには、はじめて文字を書いたようなと
き。そういうとき、「じょうずだね」と言ってみる。その一言が、子どもを伸ばす原動力となる。

 この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、望ましい。何か新しいテーマを見せたよう
なとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくればよし。「いやだ」「やりたくない」と、逃げ腰に
なるのは好ましくない。親は、そういう逃げ腰になる子どもについて、「生まれつきそうだ」と言う
が、そういう子どもにしたのは、親自身である。(「生まれつきそうだ」というのは、無責任な親
が、自分の責任を回避するために、よく使う言葉。こういう言葉を口にする、親は、卑怯だ!)

【自尊感情】

 子どものばあい、自尊感情は、「名前」を使って、指導する。「あなたの名前は、すばらしい名
前だ」「いい名前だ」「名前を大切にしようね」と。

 たとえば子どもの名前の出た、新聞や雑誌は、切り抜いて高いところに飾る、アルバムに張
るなど。そういう親の行為を通して、子どもは、自分を大切にすることを学ぶ。この自尊感情
が、子どもの倫理、道徳の基本になるのみならず、子ども自身の生きる原動力になることがあ
る。

 これは私のばあいだが、原稿などに「はやし浩司」の署名を入れるときには、今でも、ピンと
した緊張感が走る。「いいかげんなことは書けないぞ」「書いたことについては、責任をとるぞ」
と。

 よく盗作問題が、世間をにぎわす。数年前も、ある自然派作家(?)が、盗作問題で話題にな
った。東北なまりの独特の話し方をする、一見、純朴そうな男だった。当時は超売れっ子で、毎
週のようにテレビに出ていた。で、当の作家は、盗作が発覚すると、テレビ画面の前で、「相手
の方に許していただきました」と、オイオイと泣いてみせた。で、そのとき私は、「どうしてああい
うことができるのだろう?」と思った。盗作も盗作だが、みなの前で泣いてみせる行為も行為
だ!

 ものを書くとき、一番神経をつかうのが、この盗用問題である。(盗作など、言語道断!)疑
われるのもいやだ。だから私のばあい、だれかほかの人が、同じようなことを言い出したら、自
説でもひっこめるようにしている。それにこんなこともある。

 よく、何かと話題を届けてくれる人がいる。それはそれでたいへん参考になるのだが、たまた
ま似たような話題で原稿を書いたりすると、「どうして私のことを書くのですか!」と言われてし
まう。そういう面でも、神経をつかわねばならない。(プライバシーに関することは避けなければ
ならないのは、当然だが……。)

 話がそれたが、「はやし浩司」の名前を載せるということは、同時に、自分を大切にするという
ことでもある。ただ、これには、問題がないわけではない。

 自己誇示にせよ、自尊感情にせよ、一つまちがえると、自己中心となりやすい。これについて
はまた別の機会に考えるとして、しかしこれはもう少し大きくなったばあい。子どもが自己意識
で自分をコントロールできるようになれば、自己誇示も自尊感情もコントロールするようにな
る。それまでは、ここにも書いたように、子どもはややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよい結
果を招く。(もちろんうぬぼれすぎは、困るが……。)
(030418)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
 
子育て随筆byはやし浩司(757)
 
アメリカ、北朝鮮に核施設の解体を要求へ 

 四月一八日(金)、北朝鮮問題に関して、TBSは、つぎのように報道した。
 「北朝鮮の核開発を巡り、 23日に中国の北京で開かれる アメリカ・中国・北朝鮮の 三か国
協議で、アメリカ政府は、北朝鮮にすべての核施設の解体と核開発計画の全面放棄を求める 
方針をかためた。

 これは17日付けの ニューヨーク・タイムズが 報じたもの。それによると、 ブッシュ大統領
は、 3か国協議にのぞむ アメリカの代表団に対し、北朝鮮の核開発計画は 凍結だけでは不
十分で、ヨンビョンにある核施設すべての即時解体と、核開発計画の全面放棄を迫るよう 指
示したという。

 また、大統領は15日、 パウエル国務長官に核開発の脅威が 払しょくされるまで、北朝鮮と
いかなる条約も結ぶ用意がないとの考えを 伝えたという」(以上、TBS報道より)と。

 一方、同日(一八日)、昼のNHKニュースでは、「パウエル国防長官は、北朝鮮に多額の資
金援助をしている、中国と日本は、北朝鮮に対して、もっと指導力を発揮すべきだと述べた」と
伝えている。会議に先だって、アメリカ側が強硬姿勢に出たともとれる。一方、韓国はかねてか
ら、「核施設の凍結でじゅうぶん」という主張を繰り返してきた。しかし「凍結(現状維持)」と「廃
棄」では、まるで意味が違う。わかりやすく言えば、アメリカは、やる気らしい!

 私たちはこの北朝鮮問題を、「ああいうおかしな国が、核武装したらどうなるか」という前提で
考えなければならない。異常な独裁国家、完全な全体主義、それに恐怖政治。彼らが口にす
る「外国の脅威」というのは、自国民をだますための方便にすぎない。今の日本に、北朝鮮を
侵略する意図など、毛頭ない。ないことは百も承知の上で、日本に向けて、約二〇〇発ものノ
ドンミサイルを設置している。

 核兵器は別として、こうしたミサイルが生物兵器、化学兵器を搭載しているのは、もう常識。
もし仮に生物兵器搭載のノドンミサイルが、数発東京都に撃ちこまれたら、東京都の人口の三
分の一から四分の一が、死亡するという。私が住んでいる浜松市とて無事ではない。北朝鮮の
攻撃目標として、リストアップされている。この浜松市には、自衛隊基地があり、ここにはエー
ワックス(早期空中警戒機)が数機配備されている。

 私は北朝鮮の良識を信じたいが、しかしその良識が通じないから、そら恐ろしさを覚える。と
きどき金XXを迎える市民の様子が、テレビなどで報道されるが、皆、狂ったように、そして同じ
笑みを浮かべて旗を振っている。ああいうのを見ると、不気味としか、言いようがない。

いろいろいきさつはある。日本も、過去にまちがいを犯した。朝鮮が、韓国と北朝鮮に分断さ
れたのも、もとはといえば、日本に責任がある。だから、日本も遠慮すべきところは、遠慮す
る。謙虚になるべきところは、謙虚になる。しかしそれでも、今度の大量破壊兵器(核、生物、
化学兵器)の問題は、別である。私たち日本人にも、妥協できるところと、できないところがあ
る。妥協してもよいところと、してはいけないところがある。

 願わくば、北朝鮮が、アメリカの要求に、すなおに応じてくれること。そして核兵器を廃棄し、
核施設を放棄してくれること。さらに願わくば、現在の金XX体制が崩壊し、北朝鮮の人たち
が、恐怖政治から解放されること。で、問題は、はたしてそういう状態になるかどうかというこ
と。

 私のカンでは、(あくまでもカンだが……)、もうすでにアメリカと中国の間には、何らかの密約
ができているのではないかということ。昨年末より、金XXがたびたび北京へ使者を送り、中朝
首脳会談を申しいれてきたが、中国側がそれを断りつづけてきたこと。一方、中国の要人が、
頻繁に、ホワイトハウスを訪問していること。この二つを考えあわせると、中国と北朝鮮の関係
は、外の世界から想像する以上に、崩壊していると考えるのが正しい。一時的であるにせよ、
中国は北朝鮮への原油を停止したこともある。さらに中国側はすでに脱北者を中心に、特別
キャンプをつくり、反政府組織を訓練しているという情報さえある。

 では、日本と韓国はどうか。日本はともかくも、アメリカは、韓国については、完全に見かぎっ
ている。「選挙という手続きを経て、民主主義国家の韓国に反米政権ができたのだから、これ
は韓国民の総意であると理解する」というようなことを、ホワイトハウスの高官が言っている。つ
まり「これからは、韓国抜きで、北朝鮮問題を考える」と。もっと言えば、「アメリカと北朝鮮が戦
争状態になり、その結果、韓国がその戦争に巻き込まれても、知ったことか」と。

 日本については、何かと、お金を出し渋っていることについて、アメリカは、かなり不愉快に思
っているらしい。悲しいかな、日本には、そのお金がない。それがパウエル国防長官の、「中国
と日本は、北朝鮮に対して、もっと指導力を発揮すべきだ」という言葉である。「お前たちも、い
つまでもアメリカに頼ってばかりいないで、少しは、自分で何とかしろ」と。

 日本や韓国は、北朝鮮の暴走を心配しているが、北朝鮮の軍部はともかくも、金XXには、そ
の度胸も、勇気もない。ハイヒール靴をはいて身を飾るような男である。どうして自分の命をか
けて、戦争などできるだろうか。……と言っても、油断は禁物。過去の歴史の中でも、たいてい
の戦争は、ささいな偶発事件が引き金となって起きている。ブッシュ大統領や金XXには、その
気がなくても、戦争が起きる可能性はきわめて高い。

 そこで私たちは、何をすべきなのか。

(1)北朝鮮に対しては、き然とした態度で臨む。とくに核兵器、核開発関連施設については、
「廃棄」を、明確な形で、要求する。
(2)国内では、一刻も早く、防災訓練を実施する。とくに北朝鮮の攻撃目標としてリストアップさ
れている市町村は、生物兵器、化学兵器に対して、それなりの準備と、防災訓練をする。(たと
えば浜松市などは、国の指導がなくても、独自の見解と立場で、こうした訓練をすればよい。)

 この中で、(1)について、ともすれば日本人は、「とりあえず、日本さえよければ」という考え方
をしがちである。たとえば「シアトル・マリナーズが勝っても負けても関係ない。イチローだけが
活躍してくれれば」「ニューヨーク・ヤンキーズが勝っても負けても関係ない。松井だけが活躍し
てくれれば」と考えがちである。今回の一連の北朝鮮問題についても、「アメリカが何とかしてく
れるだろう」と考えている人は多い。つまりこの国際性のなさこそが、日本人の最大の問題でも
ある。何度も繰りかえすが、東京で核兵器が使われてからでは、遅いのである。

 さてこうしたアメリカの動きに対して、北朝鮮は、どう反応するだろうか。相も変わらず、虚勢
をはりつづけるだろうか。さらに核開発や軍事衝突をにおわせ、アメリカを恫喝(どうかつ)しつ
づけるだろうか。あるいは反対に、コロリと、アメリカ側の要求をのむ可能性もある。どちらに
せよ、二三日の会談が注目される。
(030418)

【注】この原稿は、去る四月一八日に書いたものです。この原稿をマガジンで発表するころに
は、情勢が大きく変化しているかもしれません。(四月二六日号として、配信予約を入れま
す。)※
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(758)

生まれつき、そうです

 親と話していると、よく「うちの子は、生まれつきそうです」と言う人がいる。健康のことならとも
かくも、性格や、できのよし悪しについて、そう言う。しかし私は、子どもの立場であえて、言う。
子どもの人権を守るためにあえて、言う。「生まれつきを口実にする親は、卑怯だ!」と。

 親が「生まれつきそうだ」と言う背景には、親の責任のがれがある。「私には関係ありません」
「私のせいではありません」と。さらにその背景といえば、親自身の精神的未熟性、もしくは子
どもへの愛情の欠落がある。Yさん(五四歳・女性)がそうだ。

 Yさんの息子は、今年二五歳になる。まったく目立たないと言えるほど、静かな人である。ハ
キもないし、存在感もない。が、それ以上に生活力もない。ナヨナヨしているというか、何を話し
かけても、ニコニコ笑っているだけ。明らかに、親(とくに母親)の過干渉と、過関心、それに情
緒的な不安定さが、その息子を、そういう息子にした。

 そのYさん、息子の話になると、きまって、つまり私のほうから聞く前に、こう言う。「あの子
は、生まれつき、ああですからねえ」と。私はこういう言葉を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。
繰りかえすが、生まれたばかりの赤子を見て、その子どもが、どういう性格かわかる人など、
絶対にいない。性質も、そうだ。それを「生まれつき!」とは!

 一般論として、自己中心的な親ほど、この言葉をよく口にする。「私は何も悪くない」「私は絶
対に正しい」と思いこんでいる。自分の子育てを静かに省みるということがない。しかしこの時
点でも、親に、愛があれば、まだ救われる。子どもを愛することによって、自分と、よりきびしく
対峙(たいじ)することができる。つまり子どもの悲しみや苦しみを共有することができる。しか
しその愛もないとなると、そのまま子どもを突きはなしてしまう。「生まれつき、そうです」と。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。もしあなたに何かの問題
があったとする。それについて、あなたの親が、「あなたは生まれつき、そうだ」と言ったとす
る。そのとき、あなたはその言葉に耐えられるだろうか。あなたの親は、「あなたの問題は、生
まれつきのものだから、どうしようもない。あきらめろ」と言っているのである。しかしこの言葉
ほど、残酷な言葉は、ない。

 で、Yさんに私はこう言った。「そんなことを言ったら、息子さんがかわいそうですよ」と。私は
精一杯の抗議の気持ちをこめてそう言ったのだが、Yさんは、こう言った。「そうなんです。あの
子は、かわいそうな子です」と。

 そういうYさんでも、人前では、「息子がかわいい」と、公言してはばからない。しかしYさんが
言う「かわいい」というのは、溺愛、もしくは、代償的愛のことをいう。もっと言えば、自分勝手な
愛。子どもを自分の支配下において、思いどおりにしたいだけ。Yさんは、自分の心を慰める道
具として、息子を利用しているだけ。

 ……しかし、それにしても、いやな言葉だ。この言葉は、そのまま幼児教育の否定、さらには
子育てや教育そのものの否定につながる。実際、親にそう言われると、返す言葉がない。「そ
うですね」とはもちろん言えない。一方、反論したくても、あまりにも遠い距離感を覚えてしまう。
「こういう親に、それがまちがっていることを教えるには、一〇年かかるだろうな」と。

 あなたのまわりにも、一人や二人、「生まれつき」という言葉を使う人はいるはずだ。もしそう
なら、私がここに書いたことを参考に、その人の心を観察してみるとよい。
(030419)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(759)

Q:子ども(小六)の受験のことを考えると、不安でなりません。育児ノイローゼ? 不安神経
症? あれこれ考えていると、自分をどう取り戻したらいいのか、わからなくなります。(TE、東
京都・母親)

A:不安の構造について、今回は、少し別の角度から考えてみます。

●拒否恐怖

似たものの夫婦という言葉がある。夫婦というのは、どこか、たがいに釣りあいがとれている。
それもそのはず。そもそも結婚するに際して、たがいに、自分と釣りあいのとれた相手を選
ぶ。

 人は、何かのことで拒否されると、そこに恐怖感を覚える。これを「拒否恐怖」という。そこで
人には、無意識のうちにも、この拒否されることを、自ら避けようとする性質がある。たとえば
目の前に、あなたから見て、たいへんかっこいい男がいたとする。マナーもよい。たとえて言う
なら、ベッカムさまのような男だ。

 そういう男に、あなたは交際を申し込むだろうか。いや、申し込んでも、断られることがわかっ
ている。そういうときは、あなたは、交際を申し込むようなことはしない。「どうせ、ダメだから」
と。一見、あきらめたかのように見えるが、しかし本当のところは、あきらめたのではない。断ら
れ、自分の自尊感情(プライド)がキズつくのがこわいから、申し込まないだけだ。

 その拒否恐怖は、自尊感情と深く結びついている。反対の立場で、考えてみよう。もしあなた
から見て、あなたとは不釣あいなほど、かっこ悪い男から交際を申し込まれたとする。するとあ
なたはきっと、こう思うに違いない。「バカにしないいでよ。私はあんたのような男と、つきあうよ
うな女ではないわ」と。

 交際を申し込んで、断られるというのは、自尊感情を、ひどくキズつけることになる。一方、自
分にふさわしくない男から、交際を申し込まれても、自尊感情は、キズつく。そこで男と女は、そ
れぞれ、ほどほどのところで釣りあいのとれた相手を選び、そして交際する。結婚する。つまり
こうして、似たもの夫婦ができあがる。

 もっとわかりやすく言えば、人には、それぞれ自尊レベルがある。その自尊レベルをはるか
に超えたとき、そこで人は拒否恐怖を感ずるということ。そしてそれが不安や心配の原因とな
る。

 実は、子どもの受験競争にも、この拒否恐怖がついて回る。「子どものため」とは言うが、そ
の実、親は、自分自身の中に潜む拒否恐怖にかられて、子どもの受験勉強に狂奔する。「S中
学に落ちたらどうしよう」「A高校に落ちたらどうしよう」と。子どもが選別されるという、選別恐
怖。子どもの将来が見えないという、盲目恐怖。それに自分だけが取り残されていくように感ず
る、孤立恐怖。この三つが、親の心をむしばむ。

 で、この拒否恐怖も、それをさらに解剖してみると、その根底に、自尊感情があることがわか
る。もし子どもが、最初から、その力のところで、ほどほどの進学校をめざせば、こうした拒否
恐怖は起きない。しかし子どもがC中学へ入れそうだとわかると、親は、「何とかB中学へ」と考
える。B中学へ入れそうだとわかると、今度は、「何とかA中学へ」と考える。親はギリギリのと
ころで、つまり子どもの実力がやっと届く学校を選ぶ。

 仮にC中学しか入れないとわかっているなら、一か八かでカケのような受験をするケースは
別として、親は、決して最上位のS中学の受験を望まない。不合格になれば、親としての自尊
感情にキズつくからだ。しかし学校の先生が、D中学を勧めたとすると、今度は、反対の立場
で、反発する。「うちの子は、D中学へ入るような子どもではありません」と。

 そこでもし、あなたが子どもの受験のことで、ここでいう拒否恐怖を味わっているなら、一度あ
なた自身の自尊感情を、解剖してみるとよい。つまり子どもの受験勉強で、もしあなたが悩ん
だり苦しんだりしているなら、それは子どもの問題ではなく、あなた自身の問題だということ。あ
なた自身の自尊感情が、いわば自作自演の形で、あなたの中に、問題を作っているだけという
ことになる。

 やがてあなたの子どもは、子どもの力に見あったところで、ほどほどの人生を歩むようにな
る。それが悪いというのではない。しかし今のあなたが、自分の力に見あったところで、ほどほ
どの人生を歩んでいるように、子どももそうなる。夫婦にも、似たもの夫婦というのがあるのと
同じように、子どもにも似たもの人生というものがある。要は、それぞれの立場で、幸福になる
こと。そしてその幸福とは、本来、自尊感情とは、無縁のものである。ベッカムさまと結婚した
から、幸福になれるというものでも、また、ベッカムさまと結婚できなかったから、不幸になると
いうものではない。同じように、A中学に合格したから、幸福になれるというものでも、また、A中
学に合格できなかったから、不幸になるというものでもない。もっとわかりやすく言えば、自尊
感情というのは、まさに幻想。その人が勝手につくりあげた、幻想にすぎない。それに気づけ
ば、ここでいう拒否恐怖から、自分を解放することができる。

 さてTEさんへ、

 自尊感情がだれにでもあるように、こうした不安や心配は、子育てにはつきものです。みんな
平気そうな顔をしていますが、しかし同時に、みな、人知れず、こうした不安や心配と戦ってい
ます。決して、TEさん、あなただけがそうではないのです。

 そこでどうでしょう。こう考えたら? あなたの心の中で、(あくまでもあなたの心の中だけです
が)、子どもに対する自尊レベルを、一つさげるのです。B中学へ入れそうだったら、「C中学で
もいい」と思いなおすようにします。この世界には、『あきらめは悟りの境地』という言葉があり
ます。不思議なことですが、子どもというのは、親が「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と思
っている間は、伸びません。しかし「まあ、うちの子はこんなものだ」と思ったとたん、伸び始め
ます。が、それだけではありません。

 あなた自身が、ここでいう拒否恐怖から解放されます。わかりやすく言えば、心に風穴があ
き、そこを風が通るようになります。不安や心配も、それで半減するはずです。
(030419)

++++++++++++++++++
これに関連して、以前発表した原稿(中日新聞
掲載済み)を、ここに張りつけておきます。
++++++++++++++++++

あきらめは悟りの境地

 子育てをしていると、「もうダメだ」と、絶望するときがしばしばある。あって当たり前。子育てと
いうのは、そういうもの。親はそうい絶望感をそのつど味わいながら、つまり一つずつ山を乗り
越えながら、次の親になっていく。そういう意味で、日常的なトラブルなど、何でもない。進学問
題や不登校、引きこもりにしても、その山を乗り越えてみると、何でもない。重い神経症や情緒
障害にしても、やはり何でもない。山というのはそういうもの。要は、どのようにして、その山を
乗り越えるかということ。

 少し話はそれるが、子どもが山をころげ落ちるとき(?)というのは、次々と悪いことが重なっ
て落ちる。自閉傾向のある子ども(年中女児)がいた。その症状がやっとよくなりかけたときの
こと。その子どもはヘルニアの手術を受けることになった。医師が無理に親から引き離したた
め、それが大きなショックとなってしまった。その子どもは目的もなく、徘徊するようになってしま
った。が、その直後、今度は同居していた祖母が急死。葬儀のドタバタで、症状がまた悪化。
その母親はこう言った。「もう何がなんだか、わけがわからなくなってしまいました」と。

 山を乗り越えるときは、誰しも、一度は極度の緊張状態になる。それも恐ろしいほどの重圧
感である。混乱状態といってもよい。冒頭にあげた絶望感というのがそれだが、そういう状態
が一巡すると、……と言うより、限界状況を越えると、親はあきらめの境地に達する。それは
不思議なほど、おおらかで、広い世界。すべてを受け入れ、すべてを許す世界。その世界へ入
ると、それまでの問題が、「何だ、こんなことだったのか」と思えてくる。ほとんどの人が経験す
る、子どもの進学問題でそれを考えてみよう。

 多かれ少なかれ日本人は皆、学歴信仰の信者。だからどの人も、子どもの進学問題にはか
なり神経質になる。江戸時代以来の職業による身分意識も、残っている。人間や仕事に上下
などあるはずもないのに、その呪縛から逃れることができない。だから自分の子どもが下位層
(?)へ入っていくというのは、あるいは入っていくかもしれないというのは、親にとっては恐怖以
外の何ものでもない。だからたいていの親は、子どもの進学問題に狂奔する。「進学塾のこう
こうとした明かりを見ただけで、足元からすくわれるような不安感を覚えます」と言った母親が
いた。「息子(中三)のテスト週間になると、お粥しかのどを通りません」と言った母親もいた。私
の知っている人の中には、息子が高校受験に失敗したあと、自殺を図った母親だっている!

 が、それもやがて終わる。具体的には、入試も終わり、子どもの「形」が決まったところで終
わる。終わったところで、親はしばらくすると、ものすごく静かな世界を迎える。それはまさに
「悟りの境地」。つまり親は、山を越え、さらに高い境地に達したことを意味する。そしてその境
地から過去を振り返ると、それまでの自分がいかに小さく、狭い世界で右往左往していたかが
わかる。あとはこの繰り返し。苦しんでは山を登り、また苦しんでは山を登る。それを繰り返し
ながら、親は、真の親になる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(760)

利己と利他

 自分への利益誘導を、「利己」という。他人への利益誘導を、「利他」という。一見、正反対に
見える人間の反応だが、方向性が、違うだけ。「根」は、同じ。利益誘導が自分に向かえば、利
己。他人に向かえば、利他。ここまでは常識だが、しかし、利己は利己のままだが、利他は、
結局は、利己にかえってくる。

 子どもは、成長過程において、乳児期の段階では、利己的な行動パターンが中心。自分へ
の利益を求めて、泣いたり、ぐずったりする。しかしやがて幼児期に入ると、他人を喜ばすこと
を覚え、そしてそれが結局は、自分にとっても、楽しいことであることを学ぶ。たとえばよく、幼
い子どもが、何か新しいことができるようになったとき、母親に向かって、「見て、見て、お母さ
ん、できるようになった!」と言ってくることがある。はじめて自転車に乗れるようになったとき。
はじめて文字が読めるようになったとき、など。

 これは(新しいことができる)→(母親が喜んでくれる)→(母親が喜んでくれれば、自分もうれ
しい)という心理作用による。子どもは、母親を喜ばすこと(=利他)によって、自分を満足させ
ている(=利己)のが、わかる。しかしこの段階で、もし子どもにとって、喜んでくれる人がいな
ければ、子どもは、利己を利他に結びつけることができないことになる。つまり利己の世界だけ
で、自分を満足させることになってしまう。

 ところで人間の美しさは、いかに利他的に生きるかで決まる。他人をいたわり、他人を思い
やり、他人に同情する。そういう自分を離れた行為のハバが広ければ広いほど、その人の生
き方も、充実してくる。神の世界でいう愛、仏の世界でいう慈悲も、その延長線上にある。

 一方、利己的であればあるほど、その人の生きザマは見苦しくなる。どう見苦しいかは、今さ
ら、ここに書くまでもない。が、見苦しいだけではない。その人自身も、孤独の世界で、悶絶す
ることになる。自分を理解してくれる人がいない。自分を喜んでくれる人がいない。さらには自
分を愛してくれる人がいない。それはまさに「無間地獄」そのものということになる。

 で、教育の世界では、子どもたちを、いかにして利他的にするかが、たいへん重要なテーマと
なる。当然のことながら、利他的な人がふえればふえるほど、私たちの住む、この世界は、住
みやすくなる。まわりの人だけではない。その人自身にとっても、住みやすくなる。

 そこで最初の話にもどる。利他的な子どもにするには、どうしたらよいかだが、実は、そのカ
ギを握るのは、母親ということになる。子どもの側から見て、自分の成長を喜んでくれる人がい
てはじめて、子どもはそこで、利己を、利他に転換することができる。園や学校の教師でも、母
親の代用をすることはできるのだろうが、その時期、つまり子どもが利己から利他への転換を
学ぶ時期は、もっと早い段階である。おそらく〇歳〜一、二歳までの時期ではないか。その時
期は、どうしても母親と子どもの関係が、主体となる。

 子どもがはじめて自分の足で立つ。そのとき、母親が(父親も)、喜ぶ。ほめる。子どもがはじ
めて、はう。そのとき、母親が(父親も)、喜ぶ。そういう母親の姿を見て、子どもは、利己を利
他に転換することができる。

 結論は、もうおわかりかと思う。子どもを、利他的な人間、つまり心のやさしい、人の心の痛
みのわかる子どもにしたかったら、方法は簡単。子どもの成長を、そのつど心底、喜んでみせ
る。そういう母親側からの働きかけ(ストローク)があってはじめて、子どもは、利己的な人間か
ら抜け出て、利他的な人間になることができる。

【追記@】
 乳幼児期に、自分の成長を喜んでくれる人が、周囲にいないというのは、その子どもにとって
も、きわめて不幸なことである。利己を利他に転換できないまま、(あるいはその技術を身につ
けないまま)、子どもは大きくなってしまう。

 そういう利己的な子どもがどうなるかは、ここに改めて書くまでもない。そこで今、私たちが周
囲の人たちを見回してみたとき、心の暖かい人もいれば、冷たい人もいる。あるいは話してい
ると、ほっとするような親しみを覚える人もいれば、表面的なつきあいしかできない人もいる。

 で、そういう人が、どのような心理状態が基本になっているかを観察してみるとよい。その一
つの方法が、利己的か、利他的かということ。当然のことながら、利己的な人ほど、年齢を重
ねれば重ねるほど、他人とのつきあいが希薄になる。利他的な人ほど、濃厚になる。(仕事や
商売などの、利害関係をともなう人間関係は、別。)

 さらにその人が、どのような乳幼児期をすごしたかを観察してみるとよい。親の愛情をたっぷ
りと受けて、心豊かな環境で育った人は、当然のことながら、利他的になる。しかし不幸にして
不幸な家庭に育った人ほど、利己的になる。さらに……。

 親自身が無意識のうちにも、子どもを利己的な人間にすることがある。たとえば子どもがせっ
かく文字らしきものを書いたにもかかわらず、「何よ? この字は! もっとじょうずに書けない
の! となりの○○君は、もうカタカナが書けるのよ!」と。親が子どもの成長を喜ぶどころか、
子どもの成長そのものを否定してしまう。そうなれば子どもの心が冷たくなって、当然。こういう
ことは、乳幼児期には、絶対に、あってはならない。

【追記A】
 こうして考えていくと、この問題も、結局は、私たち自身の問題であることに気づく。「では私
は、どうなのか?」と。

 私自身(はやし浩司)は、心の冷たい人間である。利己的であるか、利他的であるかというこ
とになれば、利己的な人間である。少なくとも、若いころは、ずっとそうだった。

 その原因は、やはり、私自身の乳幼児期にあるのだと思うが、記憶がないため、それはよく
わからない。ただそれほど冷たい人間ではなかったように思う。小学生五、六年生のとき、『フ
ランダースの犬』という本を読んだとき、読みながら、オイオイと泣いたのをよく覚えている。

 その私が、きわめて利己的な人間になったのは、あの受験勉強が原因だと思う。そのときは
それがわからなかったが、今、こうして自分の過去を振りかえってみると、それがよくわかる。
私は高校生のころ、ライバルの仲間が病気か何かで学校を休んだりすると、心のどこかで「よ
かった」と思ったのを覚えている。心のゆがんだ、何ともつまらない人間であったことが、こうい
う事実からもわかる。

 さて、このエッセーを読んでいる、あなた自身は、どうか?
(030422)

●子どもの成長は、そのつど、心底喜んでみせてあげよう。あなたの子どもは、心暖かく、やさ
しい子どもになる。
●子どもを、安易に、受験勉強や競争で追ってはいけない。あなたの子どもの心は、そのつ
ど、少しずつ破壊される。

【補足】

●あなたは利己型人間? それとも利他型人間?

つぎの項目のうち、丸が多いほうが、あなたの「型」ということになる。

( )いつも心のどこかで、損得の計算をしているようなところがある。損になることは、できるだ
け避けようとする傾向が強い。
( )他人の失敗や苦労を耳にしても、「自分はだいじょうぶ」とか、「あの人はバカだから」と、
割り切って考えることができる。
( )人にしてあげることより、してもらうことのほうが多い。してあげるときも、心のどこかでいつ
も見返りを期待する。それがないと、怒ったり、不愉快になったりする。
( )他人に心を許すということはしない。「渡る世間は鬼ばかり」というような考え方をすること
が多い。見知らぬ人には、とくに警戒する。
( )孤独を感ずることが多い。ときどき自分が死んでも、だれも悲しんでくれないだろうと思うと
きがある。【以上、利己型人間】

( )近所とのつきあい、自治会やPTAの仕事など、損得を忘れて行動できる。奉仕精神が旺
盛で、見返りなど、最初から期待していない。
( )よく「お人好し」と評されることがある。頼まれれば、何でも引き受けてしまう。そのため結
局は、あれこれと、いらぬ苦労することが多い。
( )他人が喜ぶ顔を見ると、うれしい。他人でも、かわいそうな人がいると、何とかしてあげた
いと思うことが多い。
( )何でも信じやすいほうで、よく人にだまされる。が、だまされても、自分が悪いと思って、あ
きらめることができる。
( )何かと、知人や友人から相談を受けることが多い。年齢とともに、仕事以外で知りあった
同年齢の友人が、ふえてきた。【以上、利他型人間】

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(761)

信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(762)

感情の発達

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳〜一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後〜二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後〜五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(763)

子どもの論理

 つぎの文を、子ども(三〜四歳児)の前で、読んでみてほしい。

【文1】コップにミルクが入っています。そのミルクを、ナイフで半分に切って、ママと分けて食べ
ました。

【文2】お父さんは、めがねをかけていますが、女の人です。だから、いつも赤い車に乗ってい
ます。

【文3】電車に乗るときは、ほかの人の迷惑にならないように、服をぬいで、きちんとクツを並べ
て乗ります。

【文4】今日は寒いので、家の中で扇風機をつけました。外を見たら雪が降っていたので、庭で
プール遊びをしました。

【文5】買い物に行きましたが、お金が足りなかったので、ジュースを買うことができませんでし
た。それでしかたないので、ジュースを三本、買いました。

 これら五つの文を読みながら、子どもの反応を観察する。論理的に考えるクセのある子ども
は、そのつど、「ここがおかしい」「そこがおかしい」と言う。そうでない子どもは、そうでない。

 もう一つは、紙とクレヨン(ペン)を渡し、つぎのように指示して、絵をかかせる。なおこのテス
トでは、ひとつのものをかいているとき、つぎに何をかくかを教えてはならない。

(1)「山をかいてごらん」と言って、子どもに山の絵をかかせる。
(2)(山の絵をかき終えたら)、「今度は、川をかいてごらん」と言って、その絵のどこかに、川を
かかせる。
(3)(川の絵を書き終えたら)、「今度は、おうちをかいてごらん」と言って、その絵のどこかに、
家の絵をかかせる。

 無意識のうちにも、論理的に考えることができる子どもは、山の下に川をかく。山のどこかに
家をのせるようにしてかく。そうでない子どもは、山の上に川をかいたりする。あるいは山よりも
家を大きくかいたりする。

 子どもの論理性は、満四歳ぐらいから急速に発達する。この時期、論理的に考えることがで
きる子どもは、そのまま論理的に考えるのが得意になる。そうでない子どもは、そうでない。

 こうした子どもの論理性は、母親の影響が大きい。一般論として、過干渉(ガミガミと、押しつ
けがましい子育て)が日常化すると、子どもは、自分で静かに考えることができなくなる。非常
識になることもある。もちろん母親自身の論理性も影響を与える。ある母親は、あらゆること
を、神様のせいにしていた。

子「どうして雨は降るの?」
母「神様が、そうしているからよ」
子「どうして、お星様は落ちてこないの?」
母「神様がそうしているからよ」
子「どうして海は青いの?」
母「神様が、そういうふうにしたからよ」と。

 こうした言い方は、一見、答のように見えるが、その実、まったく答になっていないのがわか
る。少し誇張して書いたが、こういう言い方は、よく見られる。ある子ども(年中児)が母親に、
「なぜ、テレビは映るの?」と聞いたときのこと。その母親は、こう言った。「映るようにできてい
るからよ。映らないのは、テレビとは言わないのよ」と。

 この時期、子どもは、「なぜ」「どうして」を、よく口にする。そうした質問には、ていねいに答え
てやるとよい。そういう姿勢が、子どもの論理性を育てる。このテストで、「うちの子は、どう
も?」と思ったら、なおさらである。
(030422)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(764)

モラトリアム人間

 一九七〇年ごろから、若者たちの間で、おかしな現象が見られるようになった。その一つが、
モラトリアム現象。おとなとしての自覚がなく、定職ももたず、親の家で、ぶらぶらしている。責
任感もとぼしく、目的意識も薄い。そういう症状をかかえた若者を、「モラトリアム人間」と言っ
た。もともと「モラトリアム」というのは、「国家の非常時に、債務を一定期間、猶予(ゆうよ)する
こと」をいう。それが転じて、心理学の世界では、「人間が成長して、なお社会的義務の遂行を
猶予される期間」(日本語大辞典)となった。「おとなになるのを猶予された人間」ということにな
る。

 モラトリアム人間……つまりわかりやすく言えば、「スネかじり人間」のこと。それまでは、二〇
歳を過ぎればおとなとみなされ、子どもは親の手を離れ、自立していった。しかしそれが二五
歳になり、三〇歳になった。今では、三〇歳を過ぎても自立できず、親に生活のめんどうをみ
てもらっている男性、女性がいる。

 結婚して子どもをもったからといって、自立したことにはならない。結婚式の費用、新居の費
用、さらには子どもの養育費まで、親(子どもからみれば祖父母)の世話になっている人もい
る。

 こうしたモラトリアム人間について、以前は、それがまちがっているという前提で、議論がなさ
れた。しかし当時のモラトリアム人間が、今は親になり、その親が、二〇歳代、三〇歳代の子
どもをもつようになった。そのため今では、ごく一般的に見られる現象になり、社会にすっかり
定着(?)してしまった感がある。しかし、やはり、おかしいものは、おかしい。

 あるA氏(四五歳・父親)は、今でも、実家から毎月、五〜一〇万円の生活費の援助を受けて
いる。子どもが二人いるが、上は小学六年生。下が小学四年生。「今の給料では、とてもやっ
ていけない」というのが、その理由らしい。しかしAさんは、市内の高級マンションに住み、大型
のバンを所有している。親から援助を受けるくらいなら、生活の「質」を落とせばよいとだれしも
考えるが、A氏には、そういう意識は、まったくない。

 そこで、なぜこういう現象が生まれるか、少し掘りさげてみる。で、最初に頭に浮かんだことに
こんなことがある。

 数年前だが、この大不況下、正月のお年玉を、五〇万円ももらった子どもがいた。小学一年
生の男児だった。五〇万円、である。その金額にも驚いたが、私はふと、こんなことを考えた。

 私自身の息子は、うまく就職ができず、そのときは、アルバイトで生活費を稼いでいた。時給
八〇〇円とか、一〇〇〇円のアルバイトである。そのアルバイトで、五〇万円を稼ごうと思った
ら、何か月もかかる。そこで「こういう子ども、つまりお年玉で五〇万円ももらうような子どもが、
将来、おとなになったら、アルバイトなど、バカ臭くてできなくなるだろうな」と。

 まさに日本型の子育てが、ここに集約されている。今でも、「子どもにいい思いをさせるのが、
親の愛の証(あかし)」と考えている人がいる。「子どもには、苦労させたくない」と考えている人
も多い。またそうすることで、親子のパイプが太くなると考える。その結果が、五〇万円!、で
ある。

 もっともこれは極端な例だが、これを薄めたような話なら、いくらでもある。私はここでいうモラ
トリアム人間というのは、その延長線上にいるような気がしてならない。もっとわかりやすく言え
ば、モラトリアム人間に、責任があるのではなく、そういう人間をつくった、親のほうに責任があ
る。A氏にしても、恐らく子どものときから、「蝶よ、花よ」と育てられたにちがいない。私たちか
ら見れば、高級マンションであり、大型のバンだが、A氏の両親にしてみれば、それが「標準」
なのだ。だからひょっとしたらA氏が援助を求めているのではなく、親のほうが望んで、援助を
しているのではないか?

 ひところは、モラトリアム人間は、社会の話題になった。しかし今では、その言葉を知る人さえ
少なくなってきた。これも時代の流れか。あるいはもう一つ先の時代に進んでしまったのか。し
っかりとした統計結果があるわけではないが、私の近所でも、親の自宅から仕事に通っている
若者(二〇〜三〇歳代)がふえている。話を聞くと、「小額の生活費を親に渡している若者」
が、約半数。しかし残りの約半数は、生活費を一円も渡していないという。三〇年前には、ほん
の一部だったモラトリアム人間が、今では、当たり前というわけである。しかし……。

【追記】私などは、二三歳ごろから、収入の約半額を、実家の母に仕送りしていた。しかし今に
いたるまで、母は、そのことをだれにも話していない。私の実姉ですら、「何も聞いていない」と
言う。そこで数年前、実姉のいる前で、母に、「お母さん、ぼくが、若いときから、毎月お金を仕
送りをしていたのを覚えている?」と聞いてみた。が、母は、「覚えていないなあ」と逃げてしまっ
た。母を責めているのではない。母には、母親としてのプライドがあるのだろう。それを認める
ことは、そのプライドにキズをつけることになる。だから、私は笑ってその場を、ごまかした。実
姉も、笑ってごまかした。母も、苦笑いして、その場をごまかした。私にとって、家族というの
は、そういうもの。今の若い人には、想像もつかないだろうが……。
(030423)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(765)

●埼玉県のMさん(小一男児をもつ母親)より、こんな相談をもらった。「うちの子は、いつも仲
間の間で、子分的な存在です。とくにその中のA君(同年齢)に命令されてばかりいる。こんな
ことでいいでしょうか」と。

●居心地のよい世界

 人は、無意識のうちにも、自分にとって居心地のよい世界をつくろうとする習性がある。(当
然だが……)。子どものばあい、大きく分けて、つぎの四つの世界を考えるとよい。

【攻撃型世界】攻撃的に仲間を支配しようとする。暴力を振るったり、威圧したりする。このタイ
プの子どもは、相手の子どもをこわがらせることで、自分にとって居心地のよい世界をつくろう
とする。

 ただこの攻撃性は、他人に向かうときと、自分自身に向かうときがある。他人に対しては、暴
力的になるが、自分に向かうときは、自虐的になる。メチャメチャなガリ勉をしたり、スポーツの
練習をしたりするなど。そういう形、つまり相手に自分を認めさせることで、自分の立場をつく
る。そして結果として、相手を支配しようとする。

【服従型社会】相手に徹底的に服従することで、居心地のよい世界をつくろうとする。一見、き
ゅうくつな世界に見えるが、服従していれば自分の安全は保障される。あれこれ悩む必要もな
い。 

【依存型世界】いわゆる甘えることで、自分にとって居心地のよい世界をつくる。わざとバカなフ
リをしたり、みなの前でおどけて見せたりする。困難にぶつかったり、いやなことがあったりする
と、だれかに助けを求めて、その場から逃げようとする。いわゆる「甘えん坊」と言われる子ど
もが、このタイプ。その年齢に比して、人格の形成が遅れる。

【同情型世界】相手に同情させることによって、結果として、相手を自分の思いどおりに動かそ
うとする。悲劇の主人公、弱者、敗者を演ずることが多い。わざと弱々しい言い方をしてみせた
り、涙をこぼしたりする。

 これらの症状は、どれもまったく別な症状に見えるが、「居心地のよい世界」をつくろうという
点では、共通している。私はこのことをTさん(中一、女子)という女の子を観察していて気づい
た。

 Tさんは、これら四つの世界を、相手に応じて、たくみに使い分けていた。ときには攻撃的に
なったり、ときには依存的になったり。また別のときは、弱々しい悲劇の主人公を演じて見せた
りするなど。Tさんのばあいは、自分より明らかに弱い立場にいる相手には、暴力的になった
り、威圧的になったりした。そうでないときは、依存型になったり、服従型になったりした。さらに
相手が、体力や能力面で、自分よりはるかに優位な立場にいるとわかると、今度は一転、同
情型になったりした。

●Mさんのケース

 Mさんは、自分の子どもが「子分的」であることを悩んでいる。「親としてつらい」ともあった。し
かしここで注意しなければならないのは、子ども自身は、そういう状態であることを、何とも思っ
ていないということ。「つらい」と思うのは、親だけであって、子どもではない。子分の立場で、相
手の言うように動いているというのは、決して居心地の悪い世界ではない。むしろ、ここにも書
いたように、居心地のよい世界である。

 そこでもしそういう状態が、親から見て心配なら、まったく別の世界で、別の人間関係を考え
るのがよい。子どもの世界では、一度、人間関係が固定化すると、それを変えるのは容易では
ない。そこで一芸論(とくに秀でた一芸を伸ばす)などが有効である。また今まで同年齢、もしく
は年齢が上の子どもとの交際が中心であったなら、何かの方法で、年少の子どもとの交際を
積極的に応援するという方法もある。

 ただ子分的であるということは、悪いことばかりではない。今度は別の世界で、立場が変わっ
たようなとき、子分、つまり弱者の立場が、よりよく理解できるようになる。人は子分になって、
はじめて親分になることができる。子分の気持ちがよく理解でき、それだけ子分の心の把握が
できるようになるからである。

 どちらにせよ、子どもの人間関係は一つと考えてはいけない。今のA君との関係は、あくまで
もその中の一つにすぎない。子ども自身もこれからどんどんワクを広げていく。またそういう状
態になるよう、親も積極的に、子どもの交友関係を広げるようにする。この問題は、「A君との
交友関係をどうこうしよう」と考えるのではなく、「A君とは別の交友関係を、新しく作っていく。そ
してその結果として、A君との交友関係を、ワンオブゼムにする」という姿勢で、対処する。

 学校でもA君だけ、家へ帰ってからもA君だけというのは、好ましくない。どこかスポーツクラ
ブや、おけいこ教室など、A君とは関係のない、別の世界を用意してあげる。それをとおして、
子どもの周囲に、別の人間関係をつくる。そして結果として、A君から遠ざかる。
(030423)※

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(766)

不安神経症

 私のばあい、ふとしたことで、不安発作が起きる。不安神経症というのらしい。たとえば今が
そうで、今日は今朝から、こまかい事件が、いくつか重なった。それが理由で、今のようになっ
た。

 まず第一。今、中国の北京で、アメリカ、中国、北朝鮮の三者会談がなされている。そんな会
談のことなど心配しても、どうしようもないのだが、気になる。第二。詳しくは書けないが、先月
ある事件が起きた。いや、そのときはそれを知らず、その人に協力してしまった。が、その人
は、あるカルト団体の幹部だった。そのことが今朝、わかった。第三。今度家の裏の電線が、
六六〇〇ボルトの高圧線に変更になった。私の家の一番近いところからは、五メートル前後の
ところを、その高圧線が走っている。今、電磁波の弊害が、あちこちで指摘されている。六六〇
〇ボルトとわかったとたん、ゾーッとした。そのゾーッとした気持ちがそのまま、不安発作になっ
てしまった。

 心臓がドキドキする。胸の下に、何かしらボールが入ったような気分になる。汗をかくほどで
はないが、どこか手足の裏が、熱くなったようになる。落ちつかない。不安が不安を呼び、その
また不安がまた別の不安を呼ぶ。不安の連鎖というか、被害妄想というか。

 こういうときはワイフに助けを求める。「お前は、どう思う?」と。そういうような言い方をする。
するとワイフは、「考えすぎよ」「明日、電力会社に電話をしてみたら」と言う。そこでさらに「お前
は、不安にならないのか」と聞くと、「そりゃあ、心配は心配だけど、心配してもどうにもならない
でしょう」と。こういう会話を、何度も繰りかえす。

 私のばあい、こういう状態が長くつづくと、気が変になりそうになる。中途半端な状態には耐
えられない。そこでこういうときは、真正面からぶつかっていく。発想を変えるというか、最終的
な結論まで、その場で出すようにしている。

 「北朝鮮と戦争になったら、戦えばいい」「志願する」と。「あのカルト教団の男とは、縁を切れ
ばいい」「二度と連絡をとらない」と。そして電磁波については、「電力会社と直談判する」「それ
がダメなら、どこか別の場所に、引っ越せばいい」と。

 こうして自分の頭の中のモヤモヤを、一つずつ、整理していく。……と書いて気づいたが、私
のばあい、こうして文に書くのが、一つの解決法になっているようだ。ここまで書いて自分の心
の中をのぞいてみたが、先ほどよりも、ずっと静かになっている。ザワザワした不安感が消え
ている。

 今、時刻は、午前〇時半。四月二四日になったところだ。先ほど、ふとんの中に入ったが、眠
られなかった。ワイフに「薬をのんでくる」と言って、台所で薬をのんでから、そのままこの書斎
に入ってきた。薬といっても、漢方薬の胃薬。漢方薬の胃薬の多くには、精神を安らかにする
作用がある。そうそう、昔、かかりつけのドクターが、何かの精神薬をくれたが、私には、まった
くきかなかった。きかなかったというより、副作用が強くて、のめなかった。あとでドクターに聞い
たら、「熟睡剤」と教えてくれた。つまり、精神が不安定になったら、よく眠れということか。

 だいぶ心が静かになってきた。よかった。不安発作が起きると、「死んだらどうなる」「死んだ
らどうしょう」と、そんなところまで考えてしまう。おかしなことだ。

 ……でも、みなさん。人間は死んだら、どうなるのでしょうね。死ぬのはこわくないが、死ぬま
での自分が、こわい。私のような人間は、不安のウズの中で、苦しむのだろうと思う。……とい
うようなことを書くところをみると、まだ私の不安発作は、完全には収まっていないようだ。先ほ
どワイフは、こう言った。「朝になれば、忘れているわ」と。ワイフは、私のことをよく知っている。

(自己カルテ)
●数か月に一度くらいの割合で起きる。
●原因はささいなこと。それがどんどん大きくなってしまう。
●たいてい数時間はつづく。
●被害妄想、不安妄想にとりつかれる。
●問題の軽重の判断がつかなくなる。ささいな問題と、重大な問題が、頭の中でゴチャゴチャ
になってしまう。
●じっとしていることができなくなる。攻撃的に処理したくなる。
●あとになって思い出し、「どうしてあんなことで悩んだのだろう」と思うことが多い。しかしその
悩んでいる最中は、反対に、「どうしてみなは、この問題で悩まないのだろう」と思う。どちらの
自分が本当の自分か、わからなくなる。あるいは頭の中に、二人の自分がいるように感ずる。

では、みなさん、お休みなさい。
(030424)

【追記】
 上のエッセーを昨夜書いた。今朝は、やはりこわい夢を見た。どこかのホテルのロビーにい
る夢だった。飛行機が離陸する時刻まで、時間がない。まわりを見ると、みな、もうリムジンに
乗って行ってしまった。「タクシーで行けば、間にあう」と思っているが、そのタクシーが、見つか
らない。ワイフや子どもたちは、まだ部屋でしたくをしているようだ。ハラハラ、ドキドキ……。い
やな夢だった。

 こういう夢を見るときは、強迫観念に襲われているとき。精神状態がたいへん不安定になっ
ている。

 そこで朝から、行動、開始! まず中部電力へ、一番のり。しかしどうして電力会社の人たち
というのは、みな、低姿勢で、親切なのか。いろいろ話すと、午前中に、二人の男が、ガウス計
(電磁場測定器)をもって、私の家に計測に来てくれた。

 家の中で、0.1ミリガウス。窓の外で、0.2ミリガウス。電線から離れた部屋では、0・05ミリ
ガウス。スウェーデンでは、2ミリガウスが安全基準。(2ミリガウス以上になると、子どものばあ
い、小児ガン(白血病)の発症率が、二倍くらいになるらしい。ただし日本の安全基準は、50ガ
ウス。つまりスウェーデンの基準の25000倍!) ついでに電子レンジにスイッチを入れ、そ
のすぐ外で測定してもらった。それで35ミリガウス。部屋の中で、電気とテレビをつけると、0・
3ミリガウスくらい。つまり0・1〜0・2ミリガウス程度なら、「ほぼ問題ない」ということになった。
(注※)

 それがわかったとたん、クーッとおなかがすいた。で、ワイフと、今度できた、Gハッチンという
レストランへ行った。が、玄関にも人があふれるほどの混雑ぶり。しかたないので、となりのサ
イXXXというイタリアレストランへ。一番安いハンバーグが290円。ライスの小が、100円。あ
と、何とかサラダと、トマトスパゲッティを注文して、計1100円(二人分)。今日の昼食は安くあ
がった。のどにつかえていた「かたまり」も消えて、おいしかった。

 ともかくも、ほっと、一安心。しかし「昨夜は、どうしてあんなことで悩んだのだろう」と、今は、
そう思う。心もときどき、変調するということか。では、みなさんも、どうか「お心」を大事に!
(030424)
 
(注※)ここに書いた数値は、あくまでも私の家での数値。私の家の前の電柱のつぎの電柱
で、6600ボルトの電線は、終点になっている。つまり6600ボルトといっても、このあたり10
世帯程度が使う電流しか流れていない。また測定したのは、電気の使用量がもっとも少ない春
の昼時。そのためさらに数値は低く出たようだ。

 もし、あなたの家の近くに、高圧電線があり、その電線を使って、近くの工場などが稼動して
いるときは、かなりの電流が流れているはず。そのときはここで示したような、0・1とか0・2ミリ
ガウス程度ではすまないはず。心配なら、一度、もよりの電力会社まででかけて行って、測定し
てもらうとよい。ただ残念ながら、この日本では、高い数値が出たからといって、ほとんど、打つ
手がないのが現状。シールド素材も販売されているが、私が調査したところ、20%前後のカッ
トしかできないとのこと。「要は、高圧電線の近くには、家を建てないこと」(Sシールド製造会
社・相談室)だそうだ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(767)

雑感

 このところ、予期していなかった出費が重なった。まず木を切っていたら、切った枝がメガネ
に当り、メガネが落ちて割れた。メガネ屋へ行き、レンズをかえてもらうことにした。その費用
が、29000円。硬質ガラスの高級品(?)にした。そうでないと、メガネがビンの底のようにな
ってしまう。結構、私も、見栄えを気にする。

 つぎにこのところテレビの映りが、急速に悪くなってきた。雨の日などは、ザーザーと画面が
乱れて、何も映らないときがある。そこで電気屋さんになおしてもらうことにした。その費用が、
50000円。これには、アンテナ代が含まれている。

 さらに……。いろいろあるが、生きていくだけでも、結構、お金がかかる。ときどき「どうしてこ
うも、お金がかかるのだろう」と思うことがある。しかしそう考えることは、同時に、老後の不安
でもある。へたに長生きすれば、みんなに迷惑がかかってしまう、と。かと言って、早く死ぬこと
もできない。できないというより、方法がわからない。まさか自殺するというわけにもいかない。
死ぬ前の日まで元気で仕事をしていて、翌日の朝になったら、フトンの中で死んでいる……と
いうのが、理想か?

 老人になることによって、好むと好まざるとにかかわらず、いろいろな状況が、大きく変化す
る。

 まず体力、気力が減退する。当然、収入が減り、交際範囲が狭くなる。が、私のばあい、そ
れ以上にこわいのは、頭の活動そのものが、鈍くなること。私にとって「生きる」ことは、「考え
る」こと。明日が今日と同じ、来年が今年と同じというようになったら、私は生きる希望をなくす
だろう。すでに私の年齢で、頭の活動が低調になり、どこかボケ始めたような人が、私のまわり
にも、何人かいる。ギョッ!

 ただ幸いなことに、私は毎日、幼児や小学生と接している。そして好き勝手なことを言って
は、ワイワイと騒いでいる。そういう職場から得る刺激は、何もにもかえがたい。こちらがボーッ
としていたくても、子どもたちが、それを許してくれない。

 しかしそれにしても、こうまで老後がきびしいものとは、思ってもみなかった。三〇歳代のころ
は、「老後なんて、ずっと先の話」と思っていた。四〇歳代のころは、「今のうちにうんと稼いで、
老後は、悠々自適(ゆうゆうじてき)の隠居生活をしよう」と思っていた。しかし五〇歳になって
みると、とたんに老後が、そこに見えてくる。しかしその老後というのは、悠々自適どころか、ま
さに不安と心配、それに喪失の恐怖そのもの。そういうものが、まとめて、どんと自分に押し寄
せてくる。

 今は「出費」程度ですむが、これからはもっと、予期していなかったできごと、予期していなか
った変化が、つぎつぎと起こるにちがいない。問題は、私には、それに耐えうる力があるかどう
かということ。たとえば「出費」については、今のところまだ現役で仕事をしているから、何とか
なるが、国民年金程度の年金生活者になったら、とても今のような生活はできない。29000
円のレンズを買ったら、それだけで年金の半額は、パー。

 老後のさみしさを表現した、識者は多い。その中でも、アミエルは、「日記」の中で、こう書い
ている。

 「いかに老人に成長するかを知ることは、英知の傑作であり、生活の中の偉大な技術におけ
る、もっともむずかしい章のひとつである」と。

 アミエル(Henri Frederic Amiel、1828〜81)という人は、スイス人の哲学者。今から一五〇
年ほど前に活躍した人である。「人生には、いろいろな章(段階)があるが、老人の章は、もっ
ともむずかしい」と。日本でも、最近、「いかにじょうずに老いるか」というテーマで論ずる人が、
多くなった。しかしアミエルに言わせると、「いかに老いるか」ということは、「いかにしてそれま
で得た英知を、そこに結集させるか」ということになる。つまりそのための戦いが、老後というこ
とになる?

 英知を結集できればよいが、しかしその前にボケてしまったら……? このところ少し自信が
なくなってきた。若いころなら、「予期せぬ……」などということは、ほとんどなかった。しかし今
は、その「予期」すら、ままならなくなってきた。それだけ注意力が、散漫になってきたということ
か。ギョッ!
(030425)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(768)

理解と怒り

 親が、自分の子どもに理解を示すとき。反対に、親が子どもに怒りを示すとき。一見、正反対
に見える親の反応だが、その違いは、まさに紙一重(かみひとえ)。

 たとえば子ども(幼児)が、お茶をこぼしたシーンを思い浮かべてみよう。おかげでテーブル
やじゅうたんは、びしょ濡れ!

【理解するとき】
 あなたの子どもは、ずっと病気で伏せていた。このところやっと元気になった。一時は、もうだ
めかと思ったこともある。しかし今は、生きていてくれるだけでもよい。そんなとき、子どもがや
っとの思いで、テーブルに手をかけ、その上にあったお茶をこぼした。

【怒りを示すとき】
 いくら叱っても、子どもが部屋の中で、ドトンバタンと暴れて遊んでいた。おかげで部屋中に、
ホコリが舞いあがっている。今日は、朝から風邪気味で、気分が重い。そんなとき、子どもがテ
ーブルにぶつかり、その上にあったお茶がこぼれた。

 「お茶をこぼす」という同じ行為でも、その子どもを包む状況によって、親の反応は、まるで違
う。「理解するとき」は、「あら、あぶなかったわ。やけどしなかった?」となる。しかし「怒りを示
すとき」は、「どうして、お茶をこぼすの! だめじゃない!」となる。

 こうした現象は、日常的に観察される。逆に、そうした親の反応を観察することによって、親
の心理状態をさぐることができる。

 たとえば今度は、子ども(小学生)が、学校のテストで、ひどい点をもらってきたばあいを、思
い浮かべてみよう。あなたはそれを知った瞬間、どのように感ずるだろうか。

【理解するとき】
 いつも自分の子どもは、能力以上にがんばっているので、「まあ、しかたない」と思う。「時に
は、こういうこともある」と思う。それに今度のテストのときは、調子が悪かったようだし、そうい
うこともあるのかとあきらめることができる。


【怒りを示すとき】
 いつも自分の能力を出し切っていないように思う。もう少しがんばれば、もっとよい点を取れ
るはず。テストの点数が悪いのは、努力不足。それに自覚がたりない。このところゲームばか
りしている。そういうときは、やはり子どもを叱るのがいいと思う。

 理解するときと、怒りを示すときの違いは、実は、最初のほんの「瞬間」で決まることがわか
る。道で言えば、どちらの分かれ道に入るかで、決まる。一方は「理解する道」、もう一方は「怒
りを示す道」。そしてつぎの瞬間には、それぞれの道を、一挙に進んでしまう。ふつう、あと戻り
はできない。そして「理解する道」へ入った親は、子どもを何かにつけて、子どもを理解しようと
する。「怒りを示す道」へ入った親は、子どもを何かにつけて、叱ろうとする。

 それはいわば条件反射のようなもの。いちいち頭で考えている人はいない。考える前に、ど
ちらかの道に入る。よく「頭の中ではわかっているのですが、ついその場になると、カッとなって
しまって……」という人がいる。それはそういう理由による。

 そこでどちらの道に入るか? その瞬間の判断が、子育てを楽しくもし、また子育てをいやな
ものにする。そこでもしあなたが、いつも同じパターンで子育てに失敗しているようなら、あなた
自身の心の作りかえをする。方法としては、つぎの方法がある。

(1)まず、自分の中に潜む、わだかまり、こだわりに気づく。
(2)自分の心に、ふだんから、そのわだかまりやこだわりとは、反対のことを念ずる。「うちの
子はダメな子」と思っているなら、今からでも遅くないから、「うちの子はすばらしい子」と思いな
おし、それを何度も、心の中で念ずる。
(3)子どもに向かっては、前向きの暗示(ストローク)をかけていく。「あなたはすばらしくなった
わ」「去年より、ずっといい子になったわ」「お母さん、楽しいわ」と。最初はウソだと感じても、そ
れを繰りかえす。心というのは、一見単純なようで、複雑。しかし同時に、複雑なようで、単純。
自分の心をだますのは、それほどむずかしいことではない。

 さて、あなたはどうか? 子育てが楽しいだろうか。楽しんでいるだろうか。あなたの子どもは
生き生きとしているだろうか。毎日、楽しそうにしているだろうか。もしそうなら、それでよし。し
かしそうでないなら、ここに書いたことを参考に、一度、あなた自身の心を作りかえることを考
えてみたらよい。実のところ、よい親になるか、それとも悪い親になるかは、紙一重。最初の、
その瞬間の心のもち方で決まる?
(030425)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(769)

映画「ダークブルー」を見る

 私のような飛行機ファンには、たまらない映画。それが「ダークブルー」(Dark Blue Worl
d)。おもしろかった。すばらしかった。それにストーリーもしっかりしていた。見終わったあと、
「いい映画を見た」という充実感が、心を満たした。

 映画に出てくる飛行機は、一部の爆撃機をのぞいて、すべて本物だった。確証はないが、そ
う思う。模型だとか、CGとかで作った映像とかではない。あるいはひょっとしたらそうだったか
もしれないが、私には見ぬけなかった。私は、子どものころ、戦闘機のパイロットにあこがれ
た。そういう思いが、映画の主人公と心が一体化し、共鳴した。

 私は映画を見ながら、今日(四月二五日)、全世界を流れた衝撃的なニュースのことを、とき
どき考えていた。今朝のテレビのニュースによれば、あの北朝鮮が、核兵器の所有を公式に
認めたというのだ。しかもCNNの報道によれば、核実験まですると言明したという。いったい、
あの国は、どこまで狂えば、気がすむのか。

 「ダークブルー」の主人公は、チェコスロバキア空軍のパイロット。しかしナチスドイツの侵攻
とともに、イギリスに渡り、今度は、イギリス空軍のパイロットとして活躍する。が、戦後、チェコ
スロバキアに戻るとそのパイロットは、反乱を起こす可能性のある人物として、そのまま投獄さ
れてしまった。チェコスロバキアは、戦後、ソ連共産党の支配下に入った。

 この映画を見ていて感じたことは、「戦争」というのは、こちらの意思に関係なく、向こうからや
ってくるものだということ。とくに「平和だ」「平和だ」と叫んでいる国ほど、あぶない? ひょっとし
たら、今の日本が、そうかもしれない。こういう危機的な状況になっても、手も足も出せない。こ
れから先、日本は、いろいろな場面で、北朝鮮の核兵器にビクビクしながら、生きていかねば
ならない。もっとも、北朝鮮が道理のわかる国なら、問題はない。その道理が通じない国だか
ら、ますます不安になる。

 できるだけ早く金XX体制を、自然死に追いこむ。数か月単位の短期間でもよい。あらゆる援
助を停止する。……と今まで、私は考えてきたが、今となっては、もう遅い。北朝鮮は、「経済
制裁は、戦線布告とみなす」と、勝手なことを言っている。本気かどうかは別にして、ああいう狂
った国家は、何をしでかすか、わかったものではない。

 「ダークブルー」の中の主人公は、戦前はナチスドイツと、戦後は、ソ連共産党の圧制と戦
う。考えてみれば、よいことなしの一生であった。私はそのパイロットの立場で、映画の間中、
「私なら、できるか」と自問しつづけた。「私なら、命をかけて、自由や平和のために戦うことが
できるか」と。子どものころあこがれた戦闘機のパイロットだっただけに、そう考えることには、
切々とした現実味があった。

 ただ救われるのは、今、北朝鮮が、崩壊状態にあるということ。エネルギー、食糧問題もさる
ことながら、経済政策も崩壊し、軍部そのものも、崩壊状態になりつつあるという。兵隊たちま
で栄養失調状態で、脱走兵があとを断たないと噂(うわさ)されている(朝鮮日報ほか)。同じ全
体主義国家といっても、ナチスドイツや、旧日本陸軍と、並べて考えることはできない。そう言
えば、オーストラリアの国防省で働いていたK君(オーストラリア人)が、先日、メールでこう書い
てきた。「北朝鮮が、コラプス(崩壊)するのは、時間の問題だ。だからあまり心配するな」と。ホ
ント! 早く崩壊してほしい。

 真っ青な空。真っ白な雲。眼下に広がる、緑の野原。その中を数機ずつ、戦闘機がかたまっ
て矢のように飛ぶ。戦争映画とはいえ、その美しさに、思わず息をのむ。昔、子どものころ、
「飛行機に乗っていて死ぬなら本望」と思ったことがあるが、それはまさしく「死んでも本望」の
世界だった。想像どおりの世界と言ってもよい。もしあなたが飛行機ファンなら、「ダークブル
ー」は、絶対に見逃してはいけない映画である。
(030425)※

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(770)

SARS

 4月20日……1435人
 4月23日……3763人
 4月24日……4439人
 4月27日……4836人(27日の数字のみ、WHOより)

 この数字は、中国当局が公式に発表した、中国国内(香港を含む)のSARS(新型肺炎)の、
感染者数である。もちろん死亡者数も、それにあわせて急上昇。とくに65歳以上の感染者とな
ると、死亡率は、25%前後になるという。ゾーッ! しかしそれにしても、この数字は何だ! 
単純に計算しても、毎日、750人(平均)ずつふえていることになる。このまま加速度的に感染
者がふえていけば、やがて、……想像するだけでも、そら怖ろしい状態になる。

 さて日本だが、4月25日現在、この日本でも、2人の感染者が確認されているという(WH
O)。「たった2人!」と考えてはいけない。こうした感染症の怖いところは、隠れ感染者がいる
ということ。さらに潜伏期間があり、その間に、どんどんと感染していくこと。日本が中国のあと
を追いかけるのは、もはや時間の問題といってよい。ゾーッ!

 そこで私は今日から、つぎのことを守る。
 
(1)人ごみは、避ける。
(2)街へ行くときは、マスクをする。
(3)最近、渡航してきた外国人との接触を、避ける。

 それにしても、いやな時代に突入した。ワイフも昨日、寝る前にこう言った。「何もいいことな
いわね」と。北朝鮮の核兵器だの、株価暴落だの、その上、SARSだの。楽天的なワイフです
ら、「いいことないわね」と。そうそう昨夜、テレビでエイズの報道もしていたが、今では、ごくふ
つうの病気になりつつあるという。その報道は、エイズの母子感染をテーマにしていたが、日本
も、いつの間にか、こうなってしまった!

 そこで、とりあえずは、自己防衛するしかない。

【北朝鮮の核問題】
 金XXが、核兵器の開発をやめるわけがない……というのが、おおかたの識者の見解であ
る。(昨日、仕事の帰りに、近くの書店で四〜五冊の週刊誌と、二〜三冊の月刊誌をかたっ端
から、立ち読みしてきた。)

 そこで今朝(二六日)、インターネットでアメリカの動きをさぐってみると、アメリカは北朝鮮の
経済制裁から海上封鎖も視野に入れ始めているという。先制攻撃も辞さないという。

 そうなれば、最悪のばあい、米朝戦争ということになり、当然のことながら、日本本土も戦場
化する。こわいのは、ミサイルなどの直接攻撃というよりは、日本国内に潜んでいる工作員た
ちによる破壊工作である。韓国に亡命した、北朝鮮の元工作員によれば、日本にはすでに10
0〜200人の工作員がいて、その日を待っているという。

 危機的な状況になったら、まず子どもたちを、安全な場所に疎開させ、外出を避けるしかな
い。あとは燃料と食料の確保だけは、しっかりとしておく。

【株価暴落】
 日本の経済が、瀕死(ひんし)の状態にあることは、もう言うまでもない。言うなれば年収の二
五倍もの借金をかかえた多重債務者が、その日その日を、新しい借金で、食いつないでいる
ようなもの。ノー天気な子ども(日本人)が、そういう親から、少しずつ小遣いをせびり、ガール
(ボーイ)フレンドと遊びまくっているようなもの。株価暴落は、あくまでも、その結果でしかない。
(経済学者は、株価がさがると、景気が悪くなると、逆のことばかり言っているが……。)

 私はもう、もともとたいした金額ではなかったが、銀行には、ほとんど預金していない。それら
のお金をどうしたかということについては、ここには書けないが、しかし今の金利水準で、貯金
したところで、それがどうだと言うのか。定期金利(一年)で、0・05%! 100万円を1年間預
けて、利息がたったの、500円! しかもそこから税を引かれると、手取りは、約400円! 
銀行がいつ閉鎖されてもおかしくないような状況の中で、たった400円のために、100万円を
人質に出すわけにはいかない。

 要するに危険と思われている銀行には、お金を預けないということ。あとはできるだけ質素な
生活を、さらに心がけるしかない。先手、先手で、生活のレベルをさげていく。支出を抑えてい
く。

【SARS】
 SARSについては、すでにここに書いたとおり。「もう少し世間が騒がしくなってから、予防し
よう」という発想では、絶対に予防はできない。自分のことは、自分で守る。そういう姿勢を貫
く。

 ……と、暗い話ばかり書いたので、数年前の私の失敗談を披露する。

 豊橋で、名鉄電車に乗ったときのこと。特急の指定席に乗った。が、となりの婦人(五〇歳く
らい)が、ゴホンゴホンと咳(せき)をしていた。たまたまインフルエンザが猛威を振るっていた
ので、私は、即座に、席を立った。立って、少しうしろの、あいている席にすわった。

 そこへ車掌が、切符を調べにやってきた。車掌は、私の切符を見ながら、こう言った。

車「このセキは……」
私(小声で)「セキがひどいものですから……」
車(あたりを見回しながら)「セキがひどい? ……ですか?」
私(小声で)「だから、その、私のセキのとなりの女性のセキがひどいものですから……」
車「ここは、あなたのセキではありません」
私(小声で)「わかっています。……ここに座ってはいけませんか?」
車「いいですが、どなたか来たら、自分のセキにもどってください」と。

 席(せき)と咳(せき)の話だった。

 では、みなさん、これからは、覚悟して、この大波を越えていきましょう。人生は、まさに航
海。今は船が、大嵐の中に入ったようなとき。心して、前に進みましょう! 決して負けてはだ
めですよ。いっしょに、がんばりましょう! 負けるものか!
(030426)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(771)

北朝鮮、包囲網

みんなで守ろう、日本の平和、そして子どもたちの安全

 現在、北朝鮮を国家として承認している国は、ヨーロッパでは、以下の国々である。私は、さ
っそく、これらの国の大使館に、手紙を書いた。以下が、その手紙。もしみなさんの中に、ここ
ろざしを同じにする方がいらっしゃれば、この手紙をコピーし、かつそれぞれのみなさんの気持
ちを添えて、大使館に送ってほしい。(XXX部は、各自、ご記入ください。)

++++++++以下、文面、コピーして、お使いください++++++++++++

在日英国大使館

大使閣下、殿

拝啓

 突然、このような手紙を出す、非礼をお許しください。
 
 私は、日本に住む日本人の、林 浩司というものです。私はこのたび4月23日から中国の北
京で行われました、アメリカ、中国、北朝鮮三国の会談の中における、北朝鮮高官の、核兵器
保有発言、ならびに核開発継続発言を、深く憂慮しています。

 つきまして、貴国は、北朝鮮、つまり朝鮮民主主義共和国を国家として承認し、深い国交関
係にありますが、こうした関係を、再考していただけないものかと思い、このような手紙をさしあ
げることにしました。

 世界が、こういう無謀な独裁国家の、それ以上に無謀な行為に対して、抗議の声をあげ、何
らかの政治的圧力を加えるのは、世界の平和を守るという視点からも、たいへん重要なことか
と思います。その一つとして、国交断絶、承認取り消しなどの、北朝鮮に対する政治的制裁が
あります。まず私たちがすべきこととして、私はそれを切に望みます。

 よろしくご検討の上、貴国本国政府の関係各位に、私のこうした意思と希望をお伝えくださる
よう、お願い申し上げます。

敬具


              〒432−8061浜松市XXXXXXXX
                     пiFax)053−XXX−XXXXX

                         4月28日 2003年


Her Britannic Majesty's Embassy in Japan

His Excellency Sir Stephen John Gomersall KCMG

Dear Sir,
 
Please allow my irreverence to write to you on such an occasion but I am (Mr.) Hiroshi 
Hayashi, who is very anxious about the nuclear weapon possession and the nucleus 
development continuation of North Korea, which has been revealed by a North Korean high-
ranking official during the talk of USA, China, the North Korea, done this time in Beijing in 
China from April 23rd. I strongly oppose against North Korea's possession of nuclear 
weapons. 

The world should raise, I am sure, the voice of the protest to such a kind of reckless act 
and such a reckless dictatorial state as well. And also I am sure that to apply some political 
pressure against North Korea is a very important thing from the viewpoint to keep peace in 
the world, the pressure which may include the political punishment such as to extinct the 
diplomatic relations or to cancel political relationship..

I would appreciate your kind attention and examination to this letter, if you could pass this 
letter to the high officials of your country soonest in your convenient occasion, for which I 
thank you very much.

  Sincerely Yours,

  Hiroshi Hayashi
  XXXX Hamamatsu-city 432-8061, Japan 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

資料(1)

北朝鮮承認国(ヨーロッパ)

スウェーデン
フィンランド
デンマーク
オーストリア
ポルトガル
イタリア
イギリス
オランダ
ベルギー
スペイン
ドイツ
ルクセンブルグ
ギリシヤ


資料(2)

各国、在日大使館住所

今回、私は、北朝鮮に特に影響力のある、以下の三か国に、この手紙を出しました。

●在日英国大使館
Her Britannic Majesty's Embassy in Japan
〒102‐8381 千代田区一番町1
 
特命全権大使:スティーヴン・ジョン・ゴマソール 閣下
His Excellency Sir Stephen John Gomersall KCMG

●在日フランス大使館
〒106-8514 東京都
港区南麻布4-11-44 

ベルナール・ド・モンフェラン大使閣下

●在日イタリア大使館
〒108- 8302
東京都港区三田2丁目5番地4号

H.E. Mr. Gabriele Menegatti 大使閣下

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(772)

覆面(ふくめん)サイト

 私は知らなかった。ときどき私の原稿を紹介してくれるというので、頼まれるまま、原稿を載
せてもらっていた。しかしそのサイトが、あるカルト教団に運営されていたとは!

 それを知ったのは、偶然だった。しかし私は、むしろそれを教えてくれた人のほうを疑った。し
かし私自身があちこちを調べてみると、やはりそのサイトは、カルト教団によって運営されてい
ることがわかった。それを確信したとたん、ドキッ!

 おかげでその日は、そのときから、不快感が心に張りついたままだった。いくら信仰の自由
があるとはいえ、カルト教団は、別。その教団も少し前、ある事件を引き起こし、マスコミで騒が
れたことがある。

 こういう教団は、本当にズルイ。無垢(むく)な顔をして、私たちに近づいてくる。そしてスキを
みて、自分たちの世界に、私たちを取りこもうとする。自分たちが正しいと思うなら、もっと正々
堂々とすればよい。しかしどこかに「うしろめたさ」があるのだろう。あるいはもっと別の下心が
あるのか? それはわからないが、この世界、油断もスキもあったものではない。

 しかしよく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者
がいるから、カルト教団がある。世の中には、だまされるのがいやだという人もいる。こういう人
は、まだ、まとも。しかし一方、世の中には、一抹の幸福感とひきかえに、だまされてもかまわ
ないと思っている人もいる。こういう人が、カルト教団に集まる。

 カルトがカルトとしてこわいのは、組織信仰。信者はいつの間にか、その組織の人間ロボット
となって動いてしまう。動かされているとは気づかないまま、動かされてしまう。一度、こんな会
話をしたことがある。ある仏教系のカルト教団に属する信者との会話である。

私「あなたがたは、自分たちの教祖を疑ってみたことがありますか」
信「ありません。あの教祖様は、絶対です」
私「しかし人間でしょ」
信「あの教祖様は、釈迦の生まれ変わりです」
私「証拠はあるのですか?」
信「経文に、そういう教祖様が今の世に出現すると書いてあります」
私「だからといって、その人が釈迦の生まれ変わりということにはならないでしょ」
信「いえ、その経文の中から、そのことを教祖様は自ら発見なさったのです。だから教祖様は、
釈迦です」
私「……?」と。

 こういう不毛の議論が延々とつづく。つかみどころがない。まさにああ言えば、こう言う。はぐ
らかされてしまう。住んでいる「知性」の次元そのものが違う。

 だからといって、こう書いている私が正統派だと言うつもりはない。しかし今、私はここでこれ
だけは明言できる。

 私は現在、どこの宗教団体にも属していない。会合にも出ていない。機関紙やその種の団体
が発行する雑誌なども、読んでいない。聖書も、経典も一通りもってはいるが、それはあくまで
も参考資料。「無神論者」と断言できるほど、強い人間ではないが、ほぼそれに近い。

 みなさんも、くれぐれも、カルト教団には、ご注意ください。彼らは虎視眈々(こしたんたん)と、
あなたの純朴な心をねらっています。
(030426)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(773)

新緑

 今は、春。今日は、四月二六日。土曜日。時刻は、正確には午後二時三四分。

 少し前、ワイフと風呂に入った。出るとき、風呂の湯で、いろいろなものを洗濯した。少し前ま
で洗濯機があったが、市内の自宅の洗濯機が壊れたので、それで自宅のほうへもっていって
しまった。だから今は、洗濯は、風呂の残り湯でしている。

 出てから、トマトジュースを飲んだ。あまりおいしくなかった。そのあとウーロン茶で、胃をごま
かした。

 そして今、山の中から聞こえてくる鳥たちの声を聞きながら、こうしてレポートを書いている。

 チョットコイ、チョットコイと鳴くのは、コジュケイ。ときどき姿を見かけるが、ウズラのような鳥
だ。
 ホーケキョと鳴くのは、もちろんウグイス。
 カラスも、ものうげに、カーカーと鳴いている。
 それにたぶん、コガラか、シジュウカラだと思うが、ときどきチッチッ、ツーピクツーピクと鳴い
ている。のどかな昼さがり。ふと見あげると、山々の景色が飛びこんでくる。山荘ライフは、これ
からが本番。秋もすばらしいが、やはり若芽がいっせいに吹き出す、今ごろが、最高。

 ワイフは、少し前、散歩にでかけた。歩き方が、少し、どこかバーサン臭くなった。ポテポテと
した歩き方をする。ワイフも、今では、XX歳。若いころは、赤いミニスカートをはいて、さかんに
私を挑発していたのに……。

こういう生活が、あと何年できるのだろうか。ふと山々の燃えるような緑を見ながら、そんなこと
を考える。私が死んだあとも、またそのあとも、こうして自然は残り、その営みを繰りかえすの
だろうな、と。一〇〇年後も、二〇〇年後も。そう思ったとたん、自分が小さく見えた。

数えても意味はないが、緑の色は、決して一色ではない。「無数」と言ってもよいほど、それぞ
れの色は違う。濃い緑もあれば、薄い緑もある。黄色に近い緑もあれば、紺色に近い緑もあ
る。目の前のツバキの葉などは、岸辺に打ち寄せる小波のように、キラキラと輝いている。そ
れにここから見える森の木々は、どれもそれぞれの表情をもっている。サラサラした木。刺繍
(ししゅう)のようにボコボコした木。ツンツンとした木に、軽やかな木など。

 ときどき、小さな虫が空を横切る。下のほうにある竹やぶの竹が、大きくゆれる。またウグイ
スが鳴いた。カラスも鳴いた。春がすみというか、遠くの山々は、青白いモヤの中に包まれてい
る。その上に、水色の空が広がっている。隣の静岡市では、今日の気温は、七月上旬並みの
気温だったという。どこか蒸し暑いはずだ。春というより、もう初夏? 四月なのに? そう思い
ながら、また外を見る。ぼんやりする。

 ワイフが散歩から帰ってきた。「シイタケは取れた?」と聞くと、「今年は、もうおしまい。腐って
いた」と。

 そろそろ帰りじたくをしなければならない。結構、これがめんどう。戸締りだけでない。ゴミを
始末して、食器を洗って、それにときには、掃除もしなければならない。

では、山荘からのレポートはここまで。さようなら。
(030426)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(774)

私は、ひょっとしたら……

 スーパーなどで、レジの女性が、代金をまちがえたときのこと。一〇〇〇円のものを、二〇〇
〇円と打ちまちがえたときは、私はすぐ文句を言った。しかし二〇〇〇円のものを、一〇〇〇
円と打ちまちがえたときには、私はそのままだまっていた。

 今の話ではない。私が二〇歳代のころの話である。その点私のワイフなんかは、正直な女
で、「これは一〇〇〇円ではなく、二〇〇〇円です」などと言って、お金をつけたして払ってい
た。そこで私はある日、ワイフをこう叱った。「向こうがまちがえて安くしたときは、だまっていれ
ばいい」と。

 しかしそれから三〇年。今から振りかえってみると、どうしてあんなことができたのだろうと思
う。今の私は、そういうことが、とてもできない。きのうも、こんなことがあった。

 隣の空き地の竹やぶから、大きな竹が伸びてきた。伸びたというより、風でたれさがってき
た。そして私の家をこすり始めた。そこで私は宵闇(よいやみ)にまぎれて、竹を切ることした。
本来なら、一言、隣人に断らなければならないが、隣人は、今、東京に住んでいる。それに重
病をわずらっている。

 そこで私は、まあいいだろうと自分に言い聞かせながら、竹やぶにおりた。そこで一本、切っ
た。ついでにもう一本、切った。さらにもう一本。とたん、心臓がドキドキし始めた。何かしら悪
いことをしているような気分になり、さらにもう少しすると、罪を犯しているような気分になった。

 とても不愉快な気分だった。何とも言えない、重苦しい気分だった。若いころの私なら、何で
も、「まあ、いいだろう」というような軽い気持ちで、かなりきわどいことでも、平気でできた。もと
もと私の「性」は、あまりよくない。そのため、今でも、行動のはじめには、「まあ、いいだろう」と
考えることがある。しかしいざ、実行に移ると、とたんに気持ちがしぼんでしまう。

 そのことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。「あんたも、変わったね」と。

 そう、私は変わった? 私は、自分では悪人だと思っている。ずっと、そう思ってきた。私の中
では、邪悪な私が、いつも私に、「おいでおいで」と、手招きしている。若いころは、銀行強盗の
計画を練るのが、ひそかな楽しみの一つだった。どこかで銀行強盗があり、犯人がつかまった
りすると、「ドジなやつだ。私なら、こうするのに」などと思ったりした。

 しかしあるときから、そういう自分が、いやになった。自己嫌悪というのか。いろいろな思い出
があるが、ずるいことをして自分の欲望を満足させたときの私ほど、いやなものはない。本当
のところは、思い出したくもない。ちょうど歩いていて、嫌いな人が住んでいる家を避けるよう
に、そういう思い出に近づくと、それを迂回(うかい)して逃げてしまう。

 が、五〇歳をすぎるころから、自分がこわくなってきた。「今に、ボロが出るぞ。いくら善人ぶ
っていても、仮面がはがれて、みなは、お前の正体を知るぞ」と。私はいつもどこかで、もう一
人の邪悪な自分と戦ってきたように思う。しかしそういう邪悪な自分というのは、そうは簡単に
は消えない。

 しかし今、ほんの少しだが、希望が見えてきた。ひょっとしたら、私は、いい人間になれるかも
しれない、と。私は自分では、悪人だと思ってきたが、そういう悪人と決別することができるかも
しれない、と。そこでワイフにこう言った。

「なあ、お前、ぼくね、ひょっとしたら、いい人になれるかもしれないよ」と。するとワイフは、「どう
して?」と。

 「だってね、今のぼくなら、レジの女性が代金を打ちまちがえたら、正直に、まちがっています
と言うことができる」と。

 するとワイフは、ケラケラと笑ってこう言った。「何よ、そんなこと。あのね、そんなことは、当た
り前のことじゃない。あんた、バカみたい」と。

 なるほど。私はそのバカみたいなことで、若いころ、ずいぶんと時間をムダにした。遠回りを
した。しかしそれにしても、五〇歳を過ぎてから、それに気づくとは! 私のような人間を、本物
のバカというのか。ホント!
(030426)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(775)

子どもの人間関係

 子どもどうしの人間関係に悩んでいる親は、多い。「いつも子分的だ」「つきあっている子ども
が、あまり好ましい子どもではない」「このところよくない遊びを覚えて困る」と。あるいは反対
に、「友だちと遊ばない」「友だちがいない」というのもある。

 田中熊次郎という学者は、子どもの友人関係を、つぎの四つに分けて考えている(1975)。

@相互的接近、A同情・愛着、B尊敬・共鳴、C集団的教導。

 子どもは、最初、友人を、自分の生活範囲の中で求めようとする。近所である。いつもいっし
ょに遊ぶ。親どうしが、友だちである。通園路が同じである。たまたま園で横の席に座った。お
けいこ塾でいっしょになる、など。これが@の相互的接近。

 つぎに子どもは、好きとか嫌いとか、自分の好みで、友だちを選ぶようになる。フィーリングが
あう、かっこいい、いっしょにいると楽しい、趣味や興味が同じ、悩みを分かちあえる、助けても
らえるなど。これがAの同情・愛着。

 さらに年齢が進むと、今度は、相手を、尊敬できるか、共鳴できるかという点で見るようにな
る。そして相手の能力を尊敬したり、主義主張に共鳴したりして、友に選ぶようになる。Aの同
情・愛着による友人選びが、いわば外見にこだわったものであるとするなら、今度は、中身に
こだわったものとういうことになる。これがBの尊敬・共鳴。

 子どもの社会性がましてくると、個人から集団への帰順が大きくなる。そしてその集団的利益
の中で、友人を選ぶようになる。たとえば野球チームの仲間と、そのチームを支えるために友
人関係を結ぶなど。たがいに励ましあったり、力を認めあったりする。これがCの集団的教
導。

 田中氏の調査によれば、@とAには、年齢とともに、減少し、BとCは、年齢とともに増大す
るという。つまり最初は、相互的接近、同情・愛着で友人を選んでいた子どもも、小学校に入っ
たころから、だんだん尊敬・共鳴、集団的教導という視点で、友人を選ぶようになる、と。

つまり幼児期の友人関係は、絶対的なものではなく、その友人関係は、質的にも、年齢ととも
に、大きく変化するということである。だから「幼児期の今」だけを見て、子どもの友人関係を判
断してはいけない。また、それがこれからもずっとつづくと考えてはいけない。

【サブカルチャのすすめ】
 その一方で、ごく一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験
した子どもほど、おとなになってから、常識豊かな子どもになることが知られている。この時期、
優等生だったり、いい子ぶっている子どもほど、あとあと問題を起こすことも知られている。

 だから「悪いことをしなさい」と子どもに言うこともできないが、しかし親側が、ある程度の「心
の広さ」を用意することは大切なことである。私はこれを「心の免疫性」と呼んでいる。反対に、
この免疫性がないと、子どもは、いわゆる「温室育ち」になり、外の世界ですぐ風邪をひくタイプ
の子どもになってしまう。

 もしあなたから見て、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあい始めたら、鉄則はた
だ一つ。『友を責めるな、行為を責めろ』(イギリスの教育格言)である。(S県A市のTさんへ、
マガジンのほうでは、たびたび取りあげてきましたが、質問がありましたので、原稿を、ここに
添付しておきます。)

【よくも悪くも、子どもの世界】
 親は、子どもの世界のどの程度まで介入すべきなのか。また介入できるのかという問題は、
よく私たちの間でも話題になる。

 しかし結論から言えば、子どもが親離れを始める小学三年生(満八歳)あたりをめどにして、
親も、子離れを始めなければならないということ。そしてその時期をすぎたら、原則として、子ど
もの友人関係には、介入しない。

 こうした問題で、一番こわいのは、「親の押しつけ」。「あの子はいい子だから、つきあっては
ダメ」「この子は、悪い子だから、つきあってはダメ」と。こうした親の姿勢は、一事が万事と考
えてよい。いわゆる過干渉ママ、過関心ママの一形態ということになる。こうした姿勢に、威
圧、暴力が加わると、その弊害は、確実に子どもに現れる。三〇歳を過ぎた息子の縁談を、こ
とごとく破壊していた母親(六〇歳)がいた。「あんな女と結婚すると、財産を食いつぶされる」
「財産を奪われる」と。その息子は、ハキのない、ナヨナヨした男性だったが、そういう男性にし
たのは、ほかならぬその母親自身であった。

 親にもできることと、できないことがある。その「できないこと」に気づき、その分、いかに子ど
もを受け入れるかで、親の度量が決まる。「子どもは自分のモノ」という所有意識の強い親ほ
ど、子どもの世界に介入しようとする。もしそうなら、子どもの友人の問題は、子どもの問題で
はなく、あなた自身の問題ということになる。
 
+++++++++++++(付録)+++++++++++

●友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、
子どもに、「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた
を取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。
友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子
どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子ども
は窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうする
か。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。

++++++++++++++付録++++++++++++++

●先生は年上の子ども

 私はときどき、年少の子どもを年長の子どもの間に置いて、学習させることがある。たとえば
小学五年生の子どもを、中学生の間に座らせて勉強させるなど。しばらくの間はそれにとまど
うが、やがてそれになれてくると、子どもに変化が現れてくる。こんなことがあった。

 N君はどこかつっぱり始めたようなところがあった。目つきが鋭くなり、使う言葉が乱暴になる
など。そこで親と相談して、中学生の間に座らせてみることにした。で、それから数か月後、気
がついてみると、N君のつっぱり症状はウソのように消えていた。あとで母親に話を聞くと、こう
教えてくれた。N君の趣味はサッカー。その一緒にすわった中学生の中に、サッカー選手がい
たのだ。N君は毎回家へ帰ると、親たちにその中学生の話ばかりしていたという。それがよか
った。N君はいつしかその中学生をまねるようになり、勉強グセまでもらってしまった。母親はこ
う言った。「サッカーの試合があったりすると、こっそりと隠れて応援に行っていたようです」と。

 何が子どもに影響を与えるかといって、同年齢あるいはそれよりもやや上の子どもほど影響
をあたえるものはない。そこでもしあなたの周辺に、@一〜二歳年上で、Aめんどうみのよい
子どもがいたら、無理をしてでもよいから、その子どもと遊ばせるとよい。「無理をして」というの
は、親どうしが友だちになったり、仲よくしながらという意味である。あなたの子どもはその子ど
もの影響を受けて、すばらしい子どもになる。

 もちろん悪い友だちもいる。親はよく一方的に交際を制限したり、相手の子どもを責めたりす
るが、そうすればしたで、それは子どもに向っては、友を取るか、親を取るかの二者択一を迫
るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよいが、友を取ればその時点で親子の間に大
きなキレツを入れることになる。そういうときは、どこがどう悪いかだけを話し、あとは子どもの
判断に任せるようにする。
(030427)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(776)

常識は疑う

●お日様は、赤!

 黒板(私はテレビ画面を使っている)に、景色を描き、黄色い太陽を描いたら、即座に子ども
たち(小二児)が、「お日様は、黄色ではない!」と。そこで私が、「じゃあ、何色かな?」と聞く
と、全員、「赤だ、赤だ!」と。

 しばらく間をおいて、私はこう言った。「本当に、赤? 君たちは、お日様を見たことがある
の?」と聞くと、「見た」「赤だ」と。

 そこで私が、「アメリカでは、黄色だよ」と教えてやると、「へんな、お日様」「おかしい」と。さら
に「中国では、白だ」と教えてやると、さらに「それは、おかしい。お日様が白だってエ〜」と。教
室の中が、騒然となってしまった。

 「白」という漢字は、もともと「日」という漢字から派生している。「日」に、光線を表す線が上に
ついて、「白」となった。だから中国では、太陽は、白ということになる。そのことを、漢字を書き
ながら説明してやったのだが、「やっぱり、おかしい。お日様は、赤だよ」と。

私「本当に赤かな?」
子「赤だ」
私「どこで見たの」
子「夕日は、真っ赤な赤だ」

 日本の子どもたちは、夕日を見て、太陽の色は赤だと思っている。そこでさらに「昼はどうな
の?」と聞くと、「赤だ」と。たまたまその日は、雨。外を見ることができなかったので、私はこう
言った。「今度、天気のよい日に、お日様は、本当はどんな色か、調べてみてよ。だけどね、お
日様をじっと見ていてはいけないよ。チラッと見て、色を調べるんだよ」と。

●つくられる常識

 色彩感覚にかぎらず、私たちが「常識」と思っていることのほとんどは、自分でつくった常識と
いうよりは、まわりの人から、与えられるものである。たとえば日本では、「私」と指さすとき、自
分の鼻先を指さす。そこで私は、こうした常識がいつごろからできるのかを調べてみたことがあ
る。

小学二年生……全員、鼻先を指さす。
小学一年生……全員、鼻先を指さす。
年長児  ……ほとんどが、鼻先を指さすが、迷う子どもも多い。
年中児  ……鼻先を指さす子どもが、半分くらい。あとは、バラバラ。

 この「指さす」というジェスチャは、どうやら年中児(満五歳)から、年長児(満六歳)にかけて
身につくと考えられる。「ひとつ、ふたつ……」と、指で数える数え方も、そうだ。だいたいこの時
期に身につくと考えられる。日本人は、人さし指から順に一本ずつ指を伸ばすという、独特の
数え方をする。

 色彩感覚や、ジェスチャだけではない。たまたま同じ日、年長児のM君が、こう言った。「幼稚
園で、一番、偉い人は、園長先生だよ」と。そこで私が、「どうして偉いの?」と聞くと、「わかん
ない……」と。M君は、「偉い」という意味もわからず、多分、親たちの言ったことをまねしなが
ら、そう言ったのだろう。しかしこういう経験をとおして、子どもたちは、「園長先生は偉い」とい
う常識を身につけていく。

 もちろん常識が悪いというのではない。その常識があるから、日常生活のほとんどが、スム
ーズに流れる。ふだんの生活の中で、いちいち迷ったり、考えたりするのは、めんどうなこと
だ。しかし時として、その常識が、目を曇らすことがある。親子関係についても、今でも、こんな
常識を、口にする人は多い。

「親だから、子どもを愛しているはず」
「親孝行は、子どもの義務」
「母性本能は、本能で、だれにでもある」
「夫は仕事、妻は家事」

 常識が、格言になっていることもある。

「子はかすがい」
「子は、親のうしろ姿を見て育つ」
「子とフグリは、荷にならず」(フグリ……陰嚢のこと)
「子の恥は、親の恥」ほか。

 こうした常識のどこがおかしいかということについては、また別の機会に考える。しかし安易
にこうした常識を、正しいと思ってはいけない。そしてさらに、こうした常識を、絶対と思っては
いけない。常識は、いつも疑ってみる。とくにこの日本では、子育てにまつわる常識には、おか
しなものが多い。

 さてあなたは、太陽と言えば、何色の太陽を描くだろうか。
(030427)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(777)

砂場論

●遊びが子どもの仕事

 「すべては幼稚園から始まった」という本の中で、「人生で必要な知識はすべて砂場で学ん
だ」と書いたのはロバート・フルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。「当たら
ず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。オー
ストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう砂場、つ
まりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また「はずれていない」と
いうのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。実は
この私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわ
かるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまでは私の過去はただの過
去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。いわんや、自分という人間
が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり私という人間は、あの寺
の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリ
ンチもしたし、つかまればリンチもされた。しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつ
をして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐ
らいはした。つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかっ
たか。競技場の外で争っても意味がない。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らず
のうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。

しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で
起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけ
て、簡単に理解することができる。もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまです
んなりとは理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生
で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中にお
いて、従順な子どもにすることをいう。日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」
が基本になっている。その「民づくり」をすること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団
教育であると、先生も、そして親も誤解している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこ
とをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんば
って、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、な
ど。そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでい
くのが、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可
能なのである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」と
か、「遅れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

 こうした問題について書いたのが、つぎの原稿である。なおこの原稿は、P社の雑誌に発表
する予定でいたが、P社のほうから、ほかの原稿にしてほしいと言われたので、ボツになった経
緯がある。理由はよくわからないが……。今までここに書いたことと、内容的に少しダブルとこ
ろもあるが、許してほしい。

++++++++++++++++

●養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一
人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。
「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。

原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵
琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三〜四月に、
長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれ
はアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、た
き火がメラメラと急に燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。
小さな虫が机の上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそう
だ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。

カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをい
う。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団
の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え
方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風
景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それ
ぞれが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、
そのボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほか
の子どもたちは、そのボスの命令に従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮に
そういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い
出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的
な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たち
の残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本
来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。

++++++++++++++++++++

 総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』という言
葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守
護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。せっかく「砂
場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その場をつぶしてしまう。

 が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。
(030427)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【付録@】

子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本
能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。モズが来ると、親スズメがまず逃げ
る。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。スズメたちがモズから逃げるのは、
本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるものなら、親スズメと同時か、場合に
よっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたよう
にして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事
をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子
レンジで温めればすんでしまう。水は水道、ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機です
んでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。同じよう
に野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さに慣れ
るあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような知識
を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。

私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分
や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。もうこうなると、教えている私のほう
がバカバカらしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こうした事実をとらえて、
私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ちている」(学外研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、
子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするの
が、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【付録A】

壮絶な家庭内暴力

 T君は私の教え子だった。両親は共に中学校の教師をしていた。私は七、八年ぶりにそのT
君(中二)のうわさを耳にした。たまたまその隣家の人が、私の生徒の父母だったからだ。いわ
く、「家の中の戸や、ガラスはすべてはずしてあります」「お父さんもお母さんも、廊下を通るとき
は、はって通るのだそうです」「お母さんは、中学校の教師を退職しました」と。私は壮絶な家庭
内暴力を、頭の中に思い浮かべた。

 T君はものわかりのよい「よい子(?)」だった。砂場でスコップを横取りされても、そのまま渡
してしまうような子どもで、やさしく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。しかし私は、T君の心
に、いつもモヤのような膜がかかっているのが気になっていた。

 よく誤解されるが、幼児教育の世界で「すなおな子ども」というときは、「自分の思っていること
や考えていることを,ストレートに表現できる子ども」のことをいう。従順で、ものわかりのよい
子どもを、すなおな子どもとは、決して言わない。むしろこのタイプの子どもは、心に受けるスト
レスを内へ内へとためこんでしまうため、心をゆがめやすい。T君はまさにそんなタイプの子ど
もだった。

 症状は正反対だが、しかしこの家庭内暴力と同列に置いて考えるのが、「引きこもり」であ
る。家の中に引きこもるという症状に合わせて、夜と昼の逆転現象、無感動、無表情などの症
状が現われてくる。しかし心はいつも緊張状態にあるため、ふとしたきっかけで爆発的に怒っ
たり、暴れたりする。少年期に発症すると、そのまま学校へ行かなくなってしまうことが多い。こ
のタイプの子どもも、やはり外の世界では、信じられないほど「よい子(?)」を演ずる。

 そのT君について、こんな思い出がある。私がT君の心のゆがみを、お母さんに告げようとし
たときのことである。いや、その前に一度、こんなことがあった。私が幼稚園の別のクラスで授
業をしていると、T君はいつもこっそりと自分の教室を抜け出し、私の教室へ来て、学習してい
た。T君の担任が、よく連れ戻しに来た。そこである日、私はT君のお母さんに電話をした。「私
の教室へよこしませんか」と。それに答えてT君のお母さんは猛烈に怒って、「勝手に誘わない
でほしい。うちにはうちの教育方針というものがあるから」と。しかしT君はそれからしばらくし
て、私の教室へ来るようになった。家でT君が、「行きたい」と、せがんだからだと思う。以後私
は、一年半の間、T君を教えた。

 で、その「ゆがみ」を告げようとしたときのこと。お母さんはこう言った。「あんたは、私たちが
お願いしていることだけをしてくれればいい」と。つまり「余計なお節介だ」と。

 子どもの心のゆがみは、できるだけ早い時期に知り、そして対処するのがよい。しかし現実
にはそれは不可能に近い。指摘する私たちにしても、「もしまちがっていたら……」という迷い
がある。「このまま何とかやり過ごそう」という、ことなかれ主義も働く。が、何と言っても、親自
身にその自覚がない。知識もない。どの人も、行きつくところまで行って、自分で気づくしかな
い。教育にはどうしても、そんな面がつきまとう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(778)

異常気象

 このところ、SARS(新型肺炎)だとか、北朝鮮問題とか、何かと世相が、騒がしい。で、そう
いう騒がしさにまぎれて、おととい(4月17日)、静岡県のS町で、31・5度という、観測史上は
じまって以来という、気温を記録した。たしか昨年(02年)は、5月末に、30度を超えたと思う。
そのときも、「観測史上はじめて」という言葉を聞いたような気がする。(あいまいな記憶で、申
し訳ありません。)それが今年は、去年より、約40日も、早まったことになる!

 私が子どものころは、30度を超えるのは、毎年梅雨あけの、7月に入ってからだった。それ
がふつうだった(岐阜県)。30度を超えると、「真夏日」ということになり、川で泳ぐのが許され
た。しかしそれとて、梅雨があけてからのこと。だいたい7月10〜15日過ぎのことだった。しか
し今では、4月の中旬に、30度を超える!? ゾーッ!

 気象庁には、「平年並み」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんな言葉はな
い。気象庁がいう平年並みというのは、過去30年間の平均気温をいう。だからもし30年ごと
に5度ずつ気温が上昇したとしても、平年並は、平年並になってしまう? 「今年の気温は平年
並みです」と。

 しかし地球温暖化は、確実に進行している。しかも予想より、はるかに早いペースで進行して
いる。数字の上では、この半世紀で、1度前後しか上昇していないというが、実感は、とてもそ
んなものではない。気象庁は、ひょっとしたら、世界の指導者と申しあわせて、ウソを言ってい
るのではないのか? ……つまりそう思ってもおかしくないほど、実感気温とかけ離れている。

 たとえば気象庁の記録によれば、2000〜02年度においてさえ、この浜松市での最高気温
は、31度前後(8月)ということになっている。しかしこんなのは、まっかなウソ。昨年は、わりと
涼しかったほうだが、それでも浜松市内では、連日、40度近くは、あった。「今日の最高気温
は、32度でした」などと報道されるたびに、私は温度計を見ながら、「どこの気温のことを言っ
ているのか?」と思った。

 しかしそれにしても、深刻な話である。地球温暖化が進めば、やがて地球は火星のようにな
ると言う人もいる。今のまま温暖化が進めば、その可能性は、きわめて高い。そこまでいかなく
ても、あと10年もすれば、2〜3月期に、30度を超えるようになるかもしれない。そうなれば日
本の気象状態は、完全に狂う。

……と、まあ、地球温暖化の問題を考えていると、SARSや北朝鮮の問題が、小さく見えてくる
から不思議である。それにSARSや北朝鮮の問題は、まだ人間の力で何とかなる。が、地球
温暖化はそうではない。人類滅亡どころか、すべての生物が死滅する。だから、地球温暖化を
考えていると、「どう解決するか」ということよりも、「どう静かに滅亡するか」という問題になって
しまう。いや、滅亡するなら滅亡するで、かまわない。問題は、それまでのプロセス。人間は、
決して静かには滅亡しないだろう。恐らく(というより、確実に)、まさに地獄を経験するに違いな
い。秩序やモラルは崩壊し、殺人や暴力が、日常的に横行するようになる。略奪や殺人が、日
常的に横行するようになるかもしれない。知能が高い分だけ、「末期」は、悲惨(ひさん)なもの
になる。

 そこで人類には希望がないのかというと、方法がないわけではない。一つは宇宙へ飛び出す
という方法。もう一つは、人類がたくわえた知識や知恵を、コンピュータの形で後世に残すとい
う方法。地球の周辺に、亜硫酸ガスをまいて、それで太陽光線をさえぎるという方法。あるいは
太平洋のど真ん中で、数千発の核兵器を爆発させて、地球の大気に「穴」をあけるという方法
などがある。どこかSF的だが、しかしすでにそういう方向で考えている科学者もいるという。い
ざとなれば、方法はいくらでもある?

 しかしまあ、人間も、好き勝手なことをしたものだ。もっとも、私たちおとなは、自業自得として
の結果だから、あきらめることができるが、かわいそうなのは、子どもたちである。これから
先、どういう未来を経験することやら? 申し訳ないことをしたと思うのと同時に、考えれば考え
るほど、気が重くなる。たいへん悲観的なことを言うが、この問題だけは、もうくるべきところま
できたような感じがする。単純な問題ではないだけに、どこから手をつけてよいのかさえわから
ない。たとえばこんなこともある。

 「地上オゾン(対流圏オゾン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。種々の排気ガスや煙
が化学的に反応して、それが地上オゾンになるという。温室効果ガスの一つだが、その地上オ
ゾンが、5%ふえると、農作物が約20%減少するという※。そこであの北朝鮮だが、近年、農
業生産が慢性的に不振状態にあるという。その原因のひとつが、地上オゾンではないかと言
われている。もちろん韓国も影響を受けているらしい。もちろんその発生源は、中国、ロシア。
日本も、沖縄あたりに影響が出始めているという。農作物だけではない。森林も影響を受け
る。そしてその結果として、ますます地球の温暖化は進む……。あああ。
(030419……この原稿は、去る、4月19日に書いたものです。)

※……この数値は、ある科学者から直接、会話の中で聞いたもので、確たる根拠があるわけ
ではありません。ただ沖縄地方における地上オゾン濃度の上昇率と、農作物の減少率が根拠
になっていると、その科学者は言っていました。(了解をもらっていないので、名前を出すことが
できません。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(779)

選挙

 今日(四月二七日)、浜松市長と市議会議員の選挙に行ってきた。あとでニュースを聞いた
ら、投票率は、四五%前後だったという。私もでかけるとき、ワイフに、「今日はやめようか?」
と声をかけた。今度の選挙は、どうも盛りあがりがない。するとワイフは、「選挙に行かないな
んて、あんたは非国民よ!」と。

 市長はXX氏にしようと決めていたから問題はなかったが、市議会議員は、決めていなかっ
た。で、公民館のポスターを見るまで、だれにしょうかと迷った。ポスターを見ても、迷った。本
来なら、こういう状態なら、投票はしないほうがよいのかもしれない。しかし白票を入れるという
のも、どうか。そこで候補者のポスターがズラリと並んだ掲示板の前で、候補者選びをすること
にした。 

A氏……にこやかな顔で、歯をむきだしにして笑っていた。きれいな歯だった。「この年で、こん
なきれいな歯の人は、珍しいね」と私。「きっと、修正しているのよ」とワイフ。「修正って?」「今
では、写真技術が発達したから、どんなことでもできるのよ。顔のシミを消したり、シワを消した
り……。そんなことは何でもないのよ」と。ただ英語でも、笑うは、ラーフ。ほほえむは、スマイ
ル。しかし歯を出してニヤけるのは、スニアという。「あざ笑う」という意味もある。ちなみにアメ
リカ人やオーストラリア人は、カメラの前では、めったに歯を出して笑わない。子どもでも、親
に、「口を閉じて笑いなさい」と、よく叱られる。「この人は歯を出して笑っているから、やめよう
か」と声をかけると、ワイフは、「そうね」と。だからA氏はやめた。(これは偏見か?)……こうし
て、歯を出して笑っている候補者は、すべて除外した。

B氏……どこかヤクザぽい。数年前に亡くなった演歌歌手のM氏によく似ていた。どこかIQも
低そう。「北朝鮮問題をどう思いますか?」と質問しても、「義理と人情で……」と言いそうな雰
囲気。ほかの職業ならいざ知らず、社会のリーダーになる人は、全身からにじみ出るような知
性がないとダメ。(だから私のような人間は政治家に向かない?)「こういう人は、議会の質問
書まで、役人にこっそりと書いてもらっているんだよ、きっと……」とワイフに言うと、「そうね。こ
の人はやめよう」と。……こうして、どこかヤクザっぽい候補者は、すべて除外した。

Cさん……女性。名前は、かわいい名前で、タレント風。しかし写真を見て、ワイフがこう言っ
た。「なんだ、すごいオバサンだア」と。(自分だって、オバサンのくせに!)「私、この人、三〇
歳くらいかと思っていた」と。「いや、この写真だって、一〇年前のものかもしれないぞ。女性の
中には、そういうことをする人は多い。雑誌に載せる写真でも、中には二〇年前の写真を出版
社に送ってくる人もいる」と私。「それに、XXXX(この部分は、その候補者の名誉の問題がある
ために書けない)」と。だからCさんも、やめた。……こうして、名前と顔が一致しない候補者
は、すべて除外した。

D氏……ポスターのセンスがよかった。どれも似たようなものだが、ポイントで入っているマーク
がよい。「この人にしようか?」とワイフに声をかけると、じっと見ながら、ワイフがこう言った。
「この人、どこかインチキ臭い?」と。「どこが?」と聞くと、「目つきが悪い。私、男の顔はよくわ
かる。こういう男は不誠実」と。……こうして、ワイフがダメだという候補者は、すべて除外した。

E氏……顔が真っ茶色。テカテカと光っていた。「この人は、きっと肝臓病だぞ。肝臓ガンかもし
れない。少なくとも、肝硬変にかかっている」と。「先が長くないわ」「そうだ。だからやめよう」と。
政治家は、まず健康でなければならない。不健康な人は、精神も腐る。「腹黒い人は、政治家
には向かない」と。……こうして、不健康に見える候補者は、すべて除外した。

F氏……たいへん動物的な顔をしていた。まさにゴリラのような顔をしていた。「しかし個性的な
顔だな、この人。浜松にも、こういう個性的な人がいるんだね」と私。「でも、こういう人は、名前
だけにして、顔写真はやめるべきだと思うわ」「どうして?」「公害のようなものよ。自分が同じ日
本人かと思うと、なさけなくなるわ」と。ワイフも、結構、ひどいことを言う。……こうして、個性的
すぎる風貌(ふうぼう)の候補者は、すべて除外した。

 で、結局、最後の最後まで、私は迷いに迷って、YY氏にした。どこか私の顔に似ていた。「私
の顔に似ている人には、悪い人はいない」と、勝手にそう思った。今回は、政党は関係なし。年
齢も性別も関係なし。ワイフは、ZZ氏に投票したようだ。前から、テニスクラブのコーチから頼
まれていたらしい。「あの人しか、いなかった……」と。

 公民館から出たあと、家具屋を回った。台所の食器戸棚がほしいと、前からワイフが言って
いた。近くのE屋、S家具を回ったが、客はほとんどいなかった。客の少ない家具屋は、何とな
くボラれそうで、こわい。そこで少し遠かったが、浜松市の北東にある、NTRという店に行っ
た。で、驚いた。安い! 全体的に、E屋、S家具の値段の、五〜七割程度。「ここで買おう」と
は決めたが、今日は買わなかった。大きな買い物は、こうして迷うのが楽しい。買ってしまえ
ば、その楽しみがなくなる。……と迷って、もう三か月になる。選挙も、家具選びも同じだなあと
思って、NTRを出た。

【追記】何とも不謹慎な候補者選びで、すみません。お許しください。つい先日、県議会議員選
挙があったばかりで、市議会選挙のことは、まったく頭にありませんでした。それでこういうこと
になってしまいました。ただ私のばあい、選挙違反ぽい接近のし方をしてくる候補者、小ズルさ
を感ずる候補者には、絶対、票を入れないことにしています。
(030427)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(780)

教室の改造

 今度、教室を改造することにした。そう決心した。理由は、気分刷新(さっしん)。それに今の
教室には、少し、あきた。机も、イスも、すべて手作りで用意したが、一〇年も使っていると、疲
れがしみつく。で、何とかしようと、一年近く、悩んだ。その結果である。

 今度の連休が終わったら、手始めに、カーペトを張りかえる。つぎに、机とイス。今度は家具
屋で、新調する。カーペットがブルーなら、机とイスは、白がよい。全体にモノトーンにして、上
品な感じにしたい。こういう時勢だから、冒険といえば、冒険だが、私も今の仕事を、あと何年
つづけられるか、わからない。ここらで失敗したところで、どうということはない。今まで、ほぼ三
四年間、こうして無事、仕事ができたことに感謝している。いろいろあったが、窮地に立たされ
るようなことはなかった。波風が立ったときは、あるにはあったが、何とか、乗り切ってきた。そ
う、いろいろあった。

 たとえば……。世間一般並に、離婚の危機もあった。家族の問題、親子の問題、それに近所
や友人との問題もあった。教室の経営も、何度か、崖ぷちに立たされたこともある。そういう意
味では、いつもどこか、不完全燃焼のままのような人生だった。が、あまりぜいたくは言えな
い。うらむことより、感謝することのほうが多い。遺産が入ったとか、宝くじに当たったとか、そう
いうことは、まったくなかった。しかしとくに損をしたとか、被害をこうむったということもない。家
族みなが、健康に恵まれた。成績風に言うなら、優もなく不可もなく、及第点というところか。
 
 そこで教室の改造。私のこの仕事は、私の代で終わる。後継者はいない。弟子もいない。私
はたったひとりで、今まで生きてきた。死ぬときもひとり。それで私の経験は、消える。私の知
識も、消える。すべてが、消える。少しおおげさに聞こえるかもしれないが、そんなわけで、これ
が私の最後の改造になるかもしれない。「……かもしれない」ではなく、内心では、確信してい
る。ただそう断言するほどの勇気は、ない。ないので、「かもしれない」と逃げる。ひょっとした
ら、何かよいことがあるかもしれない。そしていつか、自分を完全燃焼できるときがくるかもしれ
ない。そういう希望はある。ここで「最後の改造」と断言してしまうと、そういう希望と決別するこ
とになってしまう。

 今日も、何枚か、設計図を描いてみた。「こうすれば、子どもたちが喜ぶだろう」と考えなが
ら、設計図を描くのは、楽しい。あとはビルのオーナーに相談するだけ。ここは頭をフルパワー
にして、取り組んでみよう。
(030428)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(781)

白装束集団

 またまた「?」な、カルト教団が現れた。テレビの報道によれば、「白装束集団」だという。衣
服も白なら、車も白。道路沿いの木々も、みんな白。「白は、電磁波をはねかえすから」という
のが、彼らの主張らしい。そして「(どこかの)共産ゲリラが、スカラー電磁波で攻撃してくる。だ
から各地を移動しながら、それを防いでいる」「(今年の)五月一五日に、すい星(惑星?)が大
接近する。そのとき地球は、大災害に襲われる」と。

 まあ、よくもまあ、こういう「?」な集団が、つぎからつぎへと現れるものだ。キリがない。どこか
科学的で、それでいて、まったく非科学的。どこか論理的で、それでいて、まったく非論理的。
反論するのもバカらしいが、問題は、なぜ人間は、こういう愚かなことを繰りかえすかというこ
と。そのあたりにメスを入れないと、結局はモグラ叩きのようなことになってしまう。あっちが顔
を出すから、ピシャリ。こっちが顔を出すから、ピシャリ、と。いつまでたっても、解決しない。

 もう少し情報を集めてみるが、とりあえず、五月一五日が、楽しみ。すい星(惑星)など、接近
してこない。大災害など、起きるわけがない。もっとも何も起きなければ起きないで、カルト教団
の連中は、こう弁解する。「私たちの信仰で、危機を回避することができました。私たちが世界
を救ったのです」と。それが彼らの常套(じょうとう)手段。今まで、そう言って責任逃れをしてき
たカルト教団は、いくらでもある。実に、オメデタイ人たちである。どうぞ、ご勝手に!

●どうすれば、子どもたちをカルトから守ることができるか

 カルトのこわいところは、ある日、突然、ふとしたきっかけで、ごくふつうの子どもが、入信して
しまうこと。その深刻さは、その外の世界にいる人には、想像もつかない。「息子を返せ」「娘を
返せ」と叫ぶ親たちの姿には、悲痛なものがある。

また最近、多いのは、妻がある日、突然、カルトに身を寄せてしまうケース。いくら信仰の自由
と言っても、カルトは話が、別。ある夫は、妻にこう言われた。「あんたと私は、前世の因縁では
結ばれていなかった。もともと結婚する仲ではなかった。かろうじて私たちが夫婦でいられるの
は、私の信仰のおかげよ。あなたにはそれがわからないの!」と。もしあなたがある日、妻
(夫)にそう言われたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。

 私は私なりに、こうした子どもがどうして生まれ、どのような過程を経て、カルトに走るようにな
っていくかを調べたことがある。話せば長くなるが、その背景に、超能力だの、心霊だの、神秘
体験だの、わけのわからないものがある。そういうものへの「あこがれ」が、やがて「容認」とな
り、そして「信仰」へと進んでいく。

だから子どもたちの前では、(自信がなくても)、一度は、そういうものをはっきりと否定してやら
ねばならない。また否定した生きザマを見せてやらなければならない。「超能力? そんなもの
は、ない!」「霊? そんなものは、ない!」と。こうした毅然(きぜん)とした親の姿勢が、子ども
の中に、「合理の道」をつくる。合理の道というのは、ものごとを合理的に考える道筋をいう。こ
の道筋がないと、子どもは、とんでもない世界に入ってしまう。

 世相があやしくなればなるほど、ますますこの種のカルト教団が生まれる。そしてその分、よ
り多くの若者たちが犠牲になっていく。今、世間をにぎわせ始めた、白装束集団も、その一つ。
決して、他人ごとに思ってはいけない。
(030428)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(782)

子どものけんか

 子どもどうしのけんかにも、段階論がある。@身体的暴力期、A言語的暴力期、それにB心
理的暴力期の三つである。また内容的に分けて、@攻撃型(外に向かって暴力を振るう)、A
内向型(陰湿な策略を練る)がある。

 身体的な暴力というのは、相手に向かって、たたく、なぐる、蹴るなどの行為をいう。言語的な
暴力というのは、「バカ」「アホ」などの言葉による暴力をいう。そして心理的な暴力というのは、
いじめや、無視などの方法で、相手を心理的に追いつめる暴力をいう。

 幼児期は、このうち、身体的暴力期からやがて、言語的暴力期へと進んでいく。心理的暴力
期に進む子どもは、まずいない。大切なことは、それぞれの時期に、それぞれのけんかを、ほ
どよく経験しておくということ。今では、子どもどうしの暴力に過剰反応する親が多く、身体的暴
力を「悪」と決めつけて、それをおさえこんでしまう。しかしこうした親の姿勢は、かえって子ども
の心の発育を、つぶしてしまう。私自身の経験を書く。

 私が子どものころは、けんかは、日常茶飯事だった。私のまわりでは、いつもけんかがあっ
た。ささいなことで口論となり、そのまま取っくみあいのけんかになった。なぐりあいもあったが、
けがをすることはめったになかった。要は相手を威嚇(いかく)し、相手のやる気をうばえば勝
ち。私のばあい、そういう意味でのけんかには、めったに負けたことはない。

 けんかに勝つには、コツがある。最初にひるんだほうが、負け。最初に、大声をあげて、手を
振りまわし、そして頭からつっこんでいく。本当はこわいが、こちらがおびえている様子は、見
せてはいけない。

 もちろん負けることもある。そのときは、私のばあいは、あまり争わず、さっさと負けた。こうし
た関係から、私たちの世界には上下意識が生まれた。しかしその意識は、固定的なものでは
ない。学校での上下関係、公園や境内での上下関係、近所での上下関係など。同じ相手で
も、学校では子分、境内でのゲームでは、親分ということはよくあった。

 しかし今、振りかえってみると、あのころの私が、今の私の原点になっているように思う。私は
子どものころから、言いたいことを言い、したいことをした。そういう姿勢がほかの子どもとの衝
突に発展し、けんかになった。しかしけんかをすることで、ますます私は言いたいことを言い、し
たいことをした。今も、基本的には、この姿勢は変わりない。

 そんなわけで、幼児期は、子どもどうしのけんかは、どんどんさせたらよい。もっと具体的に
は、言いたいことを言わせ、したいことをさせる。そしてその結果、ほかの子どもと衝突しても、
それはそれとして、おおらかにかまえる。子どもは、けんかという衝突を繰りかえしながら、社
会生活における問題解決の技法を身につける。

 たとえばブランコを横取りされたようなとき。横取りされたほうは、けんかをしてもよい。あるい
は相手が、何かずるいことをしたようなとき。ずるいことをされたほうは、けんかをしてもよい。
そういうけんかは、必要なけんかである。ときに暴力沙汰(ざた)になることもあるが、それもと
きには、必要。けがをすることもある。私もよくけがをした。頭には、いくつかの大きなキズが、
今でもいくつか残っている。

 子どもは、削って伸ばす。最初から悪いことをさせないのではなく、悪いこともさせながら、そ
れがどう悪いかを教えていく。けんかも、その一つ。まずけんかをさせる。そしてそのあと、どう
してけんかが悪いかを教える。まず何でもさせてみて、そのあと、その悪い部分を削るようにし
て、子どもを伸ばしていく。それがここでいう「削って伸ばす」の意味である。

 小学生になってからのけんかについては、また別の機会に考えてみる。
(030428)

●相手が理不尽なことを言って、こぶしを振りあげてきたら、それには、抵抗する。たたかれた
ら、たたかれたままというのは、平和主義でも何でもない。ただの臆病(おくびょう)という。この
日本では、あたりさわりなく、静かに暮らすことを平和主義と思っている人は多い。しかしけん
かをしないから、平和主義者というのではない。平和を守るから、平和主義者というのでもな
い。平和を守るために積極的に戦う人を、平和主義者という。「いざとなったら、戦争も辞さな
い」と。もしそれがいやなら、座して死を待てばよい。……と、私のこうした平和主義についての
ものの考え方も、子どものころのけんかが原点になっているような気がする。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(783)

イノシシ

 岐阜県G町に住む、いとこが、イノシシの肉を送ってくれた。赤い肉で、その周囲を分厚い脂
肪が取り囲んでいた。電話をすると、「脂肪を捨ててはだめだ。その脂肪がおいしいから」との
こと。

 この原稿を書いているときは、まだそのイノシシの肉を食べていない。明日か、あさって、食
べようと思う。そのイノシシには、こんな話がある。

 山荘の近くで、Kさんという農家の人が、野菜をつくっている。ゆるやかな山の斜面を利用し
て、段々畑風の畑で、それをつくっている。(そういうのを段々畑というが……。)その畑を見た
とき、山の斜面の上側に、二本の金属パイプが横に並べてあった。高さは、三〇〜四〇センチ
くらいだろうか。それを見て私が、「これは何?」と聞くと、Kさんが、「イノシシよけだよ」と。

 私は驚いた。畑がよくイノシシに荒らされるという話は聞いていた。しかしそんな程度のフェン
スで防げるとは思えない。そこで私が「こんな高さなら、イノシシはジャンプするでしょう?」と。
するとKさんは、「しないよ」と。さらに私が、「では、回り込んで畑の中に入ってくるでしょう?」と
言うと、「イノシシには、そんな知恵はないね」と。

 畑を囲むなら、「コ」の字型にフェンスをつくらなければ、意味がない。私はそう考えた。が、K
さんは、それについても、こう言った。「昔から、猪突猛進というだろ。イノシシは、直進しかしな
いよ。ジャンプするという知恵もないし、回り込んで畑へ入るという知恵もないよ。イノシシよけ
には、これでじゅうぶんだよ」と。ナルホド!

 相手がイヌやネコなら、こうはいかない。もう少し賢い。サルになると、もう人間そのものと言
ってよい。しかしイノシシが、そこまでバカだとは、思ってもいなかった。「イノシシって、バカです
ね」と言うと、Kさんは、うれしそうに、「バカだね」と笑った。

 そのバカなイノシシの肉を食べる。以前食べた人の話では、とてつもなく、おいしいそうだ。と
くに野生のイノシシは、格別だという。いとこに料理のし方を聞いたら、「味噌煮か、ステーキだ
ね」とのこと。多分、私はステーキにして食べると思う。明日が楽しみだ。
(030428)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(784)

心を守る

 人間の心は、不安(悲しみや心配)には、たいへんもろい。仮に心を不安にさせるようなこと
が起きると、人は、@その不安と戦う、A不安を忘れる、Bどこか別の世界に逃げこみ、その
不安から遠ざかろうとする、C別の陶酔感を用意して、その不安をやわらげようとする。(これ
を代償行為という。)つまり自分の心を、不安から守ろうとする。これを心理学の世界では、「防
衛機制」という。

 この防衛機制の中でも代表的なものが、「抑圧」と「隔離」(フロイト学説)である。

●抑圧
 抑圧というのは、自分の不安を、心のどこかに押さえ込んでしまうことをいう。たとえばいやな
ことがあったりすると、人はそれを、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、無意識の
世界に、閉じ込めようとする。フロイトは、ヒステリー患者を調べていて、それを知ったという
が、こうした現象は、私たちも、ごくふつうに、日常的に経験する。たとえばいやなことがあった
りすると、できるだけそれについては、考えないようにする。あるいは気分転換のために外出し
たり、散歩したりする。いやなこと自体は、それで解決するわけではないが、意識のすみにお
いやることで、そのいやなことから遠ざかることができる。

しかしその不安が、さらに大きなものであったりすると、外出や散歩程度では、遠ざかることは
できない。そこで人は、さらに別の方法で、その不安を、忘れようとする。子どものばあい、不
安の内容に応じて、陶酔感を覚える方法(指しゃぶりやオナニーなどの代償行為)や、攻撃的
あるいは逃避的な方法(引きこもりや不登校など)などがある。年齢が大きくなるにつれて、よ
り過激な方法をとることもあるが、基本的には、このパターンは変わらない。

(幼児期、少年少女期によく見られる、代償行為)
 指しゃぶり、爪かみ、鉛筆かじり、髪いじり
 スポーツやゲーム、オナニー、異物挿入など。

 こうした抑圧状態が長くつづくと、いろいろな神経症による症状が現れてくる。ただし神経症
による症状は、千差万別で、定型がない。チックや吃音(どもり)も、それに含まれる。「どうも、
うちの子は、おかしい」とか、「ふつうでない」と感じたら、この神経症を疑ってみる。が、さらに
進行すると、強迫観念(手洗いグセ、潔癖症、各種の嫌悪症)や情緒障害(かん黙、自閉症、
引きこもり、不登校)、さらには精神障害へと発展することもある。

 ふつうは、そういう状態になる前に、さまざまな防衛機制が働き、自ら自分の心を救済しよう
とする。だれかに不安を訴えたり、泣いたり、叫んだりする。もちろん不安そのものと戦うことも
ある。神秘主義におちいったり、何かの信仰に走るケースもある。

 私の知人の中にも、自分の妻をなくしたあと、その不安を解消するために、毎日一心不乱
に、仏壇の前で祈っている人がいた。その人は、信仰に没頭することで、自分の中の不安(悲
しみや心配)と戦っていた。信仰をする人の心理も、こうした「抑圧」で、説明できることが多い。
その一例として、カルトがある。

 カルトを信仰している人は、もともと「逃避」が目的だから、その宗教が正しいとか正しくないと
かは、あまり問題にしない。その人にとって大切なことは、その宗教に服従(隷従)することによ
って、身の保全を求め、ついで、不安から自らを遠ざかることにある。だからまわりの人が、
「あなたはだまされている」と説得しても、意味がない。カルトを信仰している人は、だまされたく
て、だまされている。それが彼らにとっては、居心地のよい世界だからである。

●隔離
 わかりやすく言えば、「とぼけ」のこと。そのとぼけが、極端になったのを、「隔離」という。

 Y氏(五〇歳)に会った友人が、かなり驚いた様子で、こう話してくれた。Y氏はそのとき、多額
の借金をかかえ、家庭も崩壊状態だった。そのY氏が、まったく平然としていたというのだ。

 「いやあ、そういう状態だから、かなり落ちこんでいるのかと思って、心配したのですが、本人
は、ケロリとしているのですね。いろいろ話しかけても、まるで他人ごとといったふうでした。借
金のことも、『もう解決した』『来月には、借金は、すべて返せる』と言うのですね。本当は、まっ
たく逆の状態なのに、ですね。何だか、こちらがキツネにつままれたような気分になりました」
と。

 中学生でも、来週はテストだというのに、平然としている子どもがいる。中には、入学試験が
もうすぐだというのに、まったく意に介していなかのように振るまう子どもすらいる。このタイプの
子どもは、「試験」といういやなものを、自分の心から隔離することによって、その不安を解消し
ようとする。ただ単に、「逃げる」というのとは、違う。「逃げる」という意識すら感じさせないほど
までに、平然としている。ここにあげたY氏のように、まったく別人格をもつこともある。このタイ
プの子どもは、独得の会話をするのでわかる。

私「来週、テストがあるんだろ?」
子「そうみたいね」
私「心配じゃないのか?」
子「心配しても、し方ないでしょ」
私「勉強しなくていいのか?」
子「しても、どうにもならないし」
私「でも、遊んでいていいわけじゃ、ないだろ?」
が、突然、激怒して、子「……うるさいわね。もう、いいから、放っておいてエ! 先生がそんな
こと言ったら、私、死んでしまうからねエ!」と。

 つまりどんどんと追及していくと、最後のところで、猛然と反発してくる。自分の心を開かれる
ことへの抵抗と考えてよい。「せっかく忘れようと努力しているのに、ほじくりかえさないで!」と
いうことか。

 また、何かのことで相手を責めたりすると、よく「心の古キズに触れられた」と言って、激怒す
る人がいる。あるいは何かのことで、とぼけていることを追及したりすると、突然、自分を取り
乱す人がいる。そういう人の心理も、この「隔離」で、説明できる。

 抑圧にせよ、隔離にせよ、子どもの世界では、よく見られる現象である。ただ少年少女期に、
こうした抑圧や隔離を、日常的にするようになると、その後遺症は、生涯つづくことになる。頭
の中に、「思考プロセス」ができるためである。このタイプの人は、何か不安(悲しみや心配)が
あると、それ自体と戦うというよりは、それを無理に抑圧したり、隔離したりする。そして結果と
して、どこか言動が反社会的になったり、チグハグになったりする。

 大切なことは、子どもの心を、安易に追いつめないこと。一見タフに見える子どもの心だが、
もろいときには、もろい。とくに幼児期は、愛情問題。少年少女期は、受験問題に注意する。
(030429)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(785)

Kさんへ

人生では、いろいろなことが起きますね。
私なんか、小さな鍵穴を通して、いつも他人の
人生をのぞいているだけような人間なので、
あまり偉そうなことは言えません。
が、しかしね、よく考えてみると、希望にせよ、
その反対側にある絶望にせよ、人間が
勝手につくりあげた幻想にすぎないのでは
ないかと思うことが多くなりました。
希望を希望と思うから、希望は希望になり
絶望を絶望と思うから、絶望は絶望になる。
 
これは実のところ、私自身の問題なのです。
この問題を何とか、クリアしないと、私自身の
老後は悲惨なものになってしまいます。
へたをすれば、孤独の世界で、悶絶死です。

しかし、ふと我が身を振りかえってみても、
何もない。私を支えるものが、何もない。
夢中で生きてきたつもりなのですが、何もない。
絶望があるとしたら、私のような人間こそ、
絶望のかたまりということになります。
ゾーッ!

いろいろ考えています。
とにかく前向きに生きていくしかないし……。
過去は悩まない。明日は、放っておいても
必ずやってくる。だからやはり、「今」を懸命に
生きるしかない。今日できること、今日やるべきことを
やるしかない。そう思っています。
明日のことを悩んでも仕方ないですよね……。
 
「女性にとって、家庭は兵役と同じ」と言った哲学者がいましたが、
大半の女性にとっては、そうではないでしょうか。
最近、やっとそこまで女性の心がわかるようになりました。
皆さんの意見を聞いているうちに、です。
 
しかし、ね。この日本で生きること自体、実のところ
兵役のようなものです。ふと心や体を休めたとたん、
生きていくことすら、できなくなってしまう。
みんな、それがこわくて、あくせくと生きている。
心や体を、休めることさえ許されない。
「自由だ」「自由だ」と言いますが、本当に私たちは、
自由なのでしょうか。

先日、イギリスのジェームズ・ホーア氏という人が
こう言っていました。北朝鮮のイギリス大使館の元大使です。
「北朝鮮の高官たちは、みな、自分たちは地上の楽園に住んでいると
思いこんでいる。そういう意識を変えるのは、切実な問題だ」(朝鮮日報)と。

あの北朝鮮でも、政府の高官たちは、自分の国を、「地上の楽園」と
信じているというのです。たしかに高官たちにとっては楽園かもしれませんが、
しかし、こうした近視眼性は、いったいどこから生まれるのでしょうか。

その北朝鮮とくらべると、日本はずっと自由の国ということになりますが、
ひょっとしたら、そう思っているのは、私たちだけかもしれない?
ちょうど北朝鮮の人たちが、自分たちの国を楽園と思っているように、です。
 
ああ、どこか南海の孤島でですね、男も女も、裸で、
のんびりと、魚でもとって生活ができたらいいですね。
労働時間は、一日三時間でじゅうぶん。仕事は
天気次第と。そういうのを自由というのでしょうか。
若いころは、そういう原始的な生活には、価値がないと考えていましたが、
このところ、そうではないのではと思うようになりました。
むしろ現代生活のほうが、どこかおかしい、とです。
価値がないとは言いませんが、その価値そのものが、
幻想かもしれないということです。
たとえば希望にせよ、絶望にせよ、
それらは幻想によってつくられた価値でしかない?
現代人は、その幻想に振りまわされているだけ?
 
だからといって、文明を否定するわけではありませんが、
「だから、どうなの?」という部分がない生き方には、
正直言って、うんざりし始めています。

おいしいものを食べた。……だからどうなの?
楽しい思いをした。……だからどうなの?
きれいな家に住んでいる。……だからどうなの?
高級車を買った。……だからどうなの?
生活は、あらゆる面で便利になった。……だからどうなの、と。

私の生きザマの、どこかが、まちがっている。
私の考え方の、どこかが、おかしい。
しかし、それがわからない。
あと一歩でわかるところにきているような気がしますが、
どうにもこうにも、それに手が届かない。

考えてみれば、何のことはない。
私自身が、まさに幻想のかたまりのような人間です。
その幻想に、今日も振りまわされて、
希望だの、絶望だのと言っている。
ごく日常的に、喜んだり、悲しんだりしている。

しかしね、もっとこわいのは、
このことではないです。
「このまま一生を終えるのか」と思うことが、
こわいです。幻想にとりつかれたまま、です。
Kさんは、若いですから、そういうことは
お考えにならないかもしれませんが、
来年は、今年より、さらに頭の働きが鈍るというのは、
私の年齢では恐怖です。
ますますその幻想と戦うことができなくなるからです、
いやですね。本当に。

だから……。
Kさんの悩みには、まったく答えることができません。
私自身が、まったくわかっていないのですから……。
ただね、今、逃げることもできないから、
がんばって生きていくしかないですね。
生きていきましょう。
その先には、きっと何かがあるでしょう。
それを信じて、生きていきましょう。

と、また、何とも無責任な答になってしまいましたが、
どうか、お許しください。

では、お体を大切に。今日は、これで失礼します。

はやし浩司
(030429)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(786)

夫婦分離不安

 今年六五歳になるA氏が、心筋梗塞(こうそく)になった。治療のほうはうまくすんだが、その
あとのこと。A氏は、妻の姿が、ほんの少し見えなくなるだけで、極度の不安状態になるという。
だからA氏の妻は、トイレにも行けない。買い物にも行けないという状態らしい。

 私はこの話を聞いて、「母子分離不安ではなく、夫婦分離不安だ」と思った。決してからかっ
ているのではない。むしろ事実は逆で、切々と、痛いほど、そのA氏の気持ちがわかる。

 いつだっただろうか。私はある日、こう思った。「おとなも、子どもと同じだ」と。が、それからし
ばらくすると、「おとなと子どもを、区別をするほうがおかしい」と思うようになった。が、さらにあ
る日、こんなことに気づいた。「みんな、私は私と思っているが、実はみんな、乳幼児期の自分
を引きずっているだけ」と。

 たとえばここで「母子分離不安」という言葉を使った。しかしこの現象は、子どもだけのもので
はない。ある日、ひとりの女性(三五歳)が、私のところへやってきて、こう言った。

 「私は、夫の帰りが遅くなっただけで、言いようのない不安に襲われます。おかしなものです
ね」と。

 話を聞くと、こうだ。夫は、毎日、決まった時刻に職場から帰ってくる。で、その女性は毎日、
決まった時刻に夕食を用意し、夫の帰りを待つ。が、ときどき、何かの用事で、夫の帰宅時刻
が遅くなることがある。そのときのこと。その女性は、「言いようのない不安に襲われる」と。

 そこでさらにいろいろと話を聞いてみると、その女性はこんなことを言った。「私は、子どもの
ころ、母親の姿が見えなくなると、泣きながら、母親のあとを追いかけたのを覚えています」と。
症状からすると、母子分離不安だが、そこへ現在の症状を重ねあわせてみると、その女性が
感ずる不安には、一連性があるのがわかる。

 その女性のばあい、幼児期に経験した母子分離不安が、そのまま夫婦分離不安になったと
考えられる。つまり容器は、「母子」から「夫婦」へと変わったが、中身は同じというわけである。

 こうした例は無数にあるし、その無数の例が集まって、今の私やあなたがいる。よく「幼児期
はおとなとは関係ない」とか言う人がいる。先日も、私がある人に、「私という人間は、幼児期に
できます」と話したら、その人は、大きな声で笑いながら、こう言った。「そんなはずはないでしょ
う」と。

 しかし、実際には、私たちおとなは、幼児期の抜けガラのようなもの。抜けガラであることすら
気づかないで、「私は私」と思っているだけ。以前の私なら、こうもはっきりと断言できなかった
が、今は、違う。はっきりと、そう断言できる。冒頭にあげたA氏にしても、今のA氏がA氏のよ
うであるのは、幼児期にそうなったためと考えられる。事実、A氏の生いたちをよく知る人が、こ
う話してくれた。

 「A氏の父親というのは、代書人(今でいう司法書士)で、かなり力のある人でした。昔の人で
したから、権威主義的なものの考え方をしていたのかもしれません。A氏も、まさに男尊女卑の
かたまりのような人ですが、それは父親の影響ではないかと思います」と。

 A氏はそういう環境の中で、どこかで母子分離不安を経験したのかもしれない。そしてそれが
六〇年という歳月を経て、別の形で現れた。ともに共通するのは、「不安」である。子どものこ
ろは、母親がいなくなることで不安を覚えたが、今は、健康のことで不安になる。そしてその不
安を、昔も今も、A氏はうまく心の中で処理できない。それが今のA氏の症状となって現れてい
る。

 そんなわけで、あなたも、「私は私」と決めつけてしまわないで、一度、あなた自身の幼児期を
のぞいてみるとよい。あなたもきっと、それまで知らなかった、別の「あなた自身」を発見すると
思う。実は、幼児教育のおもしろさは、ここにある。
(030429)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(787)

さつまあんまき

 鹿児島に住む友人が、「さつまあんまき」という食べ物を送ってくれた。(実名を出して、すみ
ません。)鹿児島県の銘菓だそうだ。しかし菓子というより、もち米を練ってつくった、少し変わ
ったおにぎりといった感じの食べ物である。

で、私がもらったのは、鹿児島県K郡にある「U」という商店(本舗)がつくった「さつまあんまき」
である。(あるいはこの商店でしか、作っていないのかもしれない。)私も、これをはじめて食べ
たが、本当に、おいしかった。食べ方のしおりが入っていたので、そのとおりに電子レンジで温
め、きなこをつけて食べた。

 しおりには、こうある。「もち米と、灰あくに、一晩つけ込み、それを竹皮に包んでしばり、六時
間ほど、ゆっくりと炊きあげます。灰あくの抜き方や火加減で風味が決まり……」と。何といって
も、歴史が違う。食べならが、ズシリと、その「時」の重みを感じた。「その由来は、文禄・慶長
の役にさかのぼる」ともある。文禄・慶長の役といえば、1592〜1598年に当たる。

 それぞれの地方には、こうした土着の産物が、残っている。かたくなまでに昔の製法を守り、
なおかつ、長い年月を生き延びてきた。そういう産物である。私はときどきそういう産物を食べ
ながら、「どうしてこういうものが、残っているのか」と考え、その一方で、「なるほど、こういうも
のだから、今まで残ることができた」と納得する。

 「さつまあんまき」についても、最近の菓子に見られるような派手さは、まったくない。竹の皮
にしても、その中身にしても、自然そのままの色である。こういう手法で作ったら、こうなるだろ
うという風格そのままである。私がもらったのは、木箱に入っていたが、それを除いたら、ムダ
な包装も、まったくない。竹の皮をほどいたら、そのまま「さつまあんまき」が出てきた。

私「これはおいしい」
ワ「本当!」
私「甘さも、ちょうどいい」
ワ「ほら、炭の香りがするわ」
私「本当だ!」

 ワイフは、しおりを片手に、「フンフン」とうなずきながら食べていた。私も、「もう一切れ、もう
一切れ」と言って、結局、一つ、全部食べてしまった。いろいろなものを食べてきたが、食べ物
に限らず、こういう「本物」に出会ったときというのは、本当にうれしい。「がんばって生きてきた
人たちがいるんだなあ」という思いが、そのまま「自分も生きていてよかった」という思いに変わ
る。

 しかしそれにしても、久々に、おいしいものを食べた。皆さんも、もし機会があれば、そして鹿
児島県のK町のほうへ行くことがあったら、この「さつまあんまき」を食べてみたらどうだろうか。
私のばあい、食べながら、何というか、「私も日本人だった」「日本人でよかった」ということを、
しみじみと、思い知らされた。
(030430)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(788)

昇華(しょうか)

 満たされない気持ちがあると、人は、そのエネルギーを、何かほかのことで発散しようとす
る。このことは、たとえば暴走族を見ていると、わかる。決して暴走行為を容認するわけではな
いが、彼らもまた、自分たちのもつエネルギーをもてあましている。そのもてあましたエネルギ
ーを、暴走という行為で表現している。

 こうしたエネルギーは、その人を悪い方向に向かわせるケースもあるが、ふつうは、その人
自身を前向きに伸ばす原動力となることが多い。こうしたエネルギーの転嫁(てんか)を、心理
学では、「昇華」という。いろいろな事例がある。

 ある母親は、下の娘が小学一年生になったのをきっかけに、手芸の店を出した。仲間が、そ
れに協力してくれた。それまでその母親は、何かしら満たされないものを、感じていたという。も
ともとはデザイナーの仕事をしたかったというが、結婚と同時に家庭に入り、その夢はつぶされ
た。その母親は、そういう悶々とした思いを、その店を出すことで、吹っ切ろうとした。

 ……などなど。いくつかの事例を書こうと思ったが、改めてここに書くまでもない。ひょっとした
ら、あなた自身も、今、そういう状態にいるかもしれない。実のところ、私も、そうだ。

 私は、少し前まで、原稿の発表先に苦労した。今でも苦労しているが、インターネットでマガジ
ンを発行するようになってから、気持ちが大きく変わった。以前は、「気に入ってもらえるような
ことを書こう」という気持ちが強かったが、今は、「今までの経験を、みなさんに伝えよう」とか、
「命があるかぎり書こう」という気持ちに変わった。発表先をさがす苦労がなくなった分だけ、さ
らに、つまり私がもつエネルギーを、書くことにぶつけることができるようになった。

 それに目標ができた。現在、第219号を発行したところだが、何としても1000号までつづけ
たい。二日おきに発行しても、まだ……?、エーと、四年以上かかる!? しかしその「1000
号までつづけよう」という気持ちが、ここでいう昇華ということになる。私は自分の中のエネルギ
ーを、「1000号まで発行する」という目標にぶつけることができる。

 実のところ、ここに子育ての原点というか、コツがある。どんな子どもも、それぞれ、エネルギ
ーは平等にもっている。そしてここが大切だが、どんな子どもでも、そのエネルギーを、プラス
の方向に使いたいと願っている。そういう子どものエネルギーを、じょうずに引き出し、それに
方向性をつけてあげる。それがうまくできれば、子どもは伸びるし、そうでなければ、そうでな
い。方法は、いろいろある。励ます、プラスのストローク(働きかけ)をしてみる、プラスの暗示を
かける、など。が、その前提として、子どもは認め、理解し、そして受け入れる。

(認める)子どもも、三、四歳になると、得意分野と不得意分野が現れてくる。このとき大切なの
は、不得意分野には目を閉じ、得意分野だけを見て、それを伸ばすということ。私がいう『一芸
論』も、ここで応用できる。

(理解する)子どもは、ときとして、親から見て「?」と思うようなことに興味をもったりする。この
とき大切なのは、親の価値観だけで子どもを判断したり、あるいは親の価値観を押しつけては
いけないということ。「子どものことは、何でも、私が一番よく知っている」と思っている親ほど、
注意する。

(受け入れる)子どもにどんな問題があっても、また問題を起こしても、子どもは、許して忘れ
る。その度量の広さが、子どもへの愛情の深さとなる。そのためにも、あきらめるべきことは、
さっさとあきらめる。そのまま子どもは受け入れる。「まだ何とかなる」と思っているうちは、あな
たにも、そして子どもにも、安穏なる日々はやってこない。「うちの子は、まあ、こんなものだ」と
思うようにする。その時期は、早ければ早いほどよい。小学校の低学年でも、早すぎるというこ
とはない。あなたがへたにがんばればがんばるほど、子どもは伸びない。それだけではない。
やがて親子の関係は、ぎくしゃくしたものになる。

●「幼児時代をもつということは、一つの生を生きる前に、無数の生を生きるということである」
(リルケ「パリの手紙」)
●「朝に昼の証(あかし)がわかるように、幼児時代を見れば成人の証がわかる」(ミルトン「楽
園回復」)
(030430)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(789)

神経症

 子どもの神経症の原因について、さまざまなことが言われている。しかし簡単に言えば、(〜
〜をしたい)という願望と、(〜〜してはいけない)という禁止命令が、子どもの中で衝突したと
き、そのはざ間で、神経症が起こると考えるとわかりやすい。

 だから子どもが、チックや吃音(どもり)、夜尿症や爪かみ、手洗いグセやかみつきなどの神
経症による症状を見せたら、子どもの中のこの二つの衝突(これを「心理的葛藤」という)をさぐ
ってみるとよい。

 ある子ども(年中児)は、水曜日の午後遅くに見たいテレビ番組があった。しかし母親が、音
楽教室へその子どもを通わせることにした。子どもは「テレビが見られなくなる」と訴えたが、母
親は、「急いで帰ってくれば、間にあう」と説得した。子どもは、母親に言われるまま、それに納
得した。

 が、音楽教室へ通いはじめると、何かとレッスンが遅れ、ときには、その番組を見ることがで
きなくなってしまった。とたん、その子どもは、わけのわからないことを言ってぐずるようになり、
ときには、ささいなことで、激怒するようになった。

 この子どものケースでは、(テレビを見たい)という欲求と、(レッスンを受けなければならな
い)という抑圧感が、真正面からぶつかったことになる。そしてその葛藤が、情緒を不安定にし
たと考えられる。子ども自身の抵抗力や、忍耐力の問題もあるので、一概には言えないが、こ
うした「衝突」には、親は、慎重に対処しなければならない。慢性化すると、ここでいう神経症に
よる症状が現れてくる。

 ……と書きながら、教育には、大きな限界がある。その一つは、診断名をつけるのは、タブー
であるということ。明らかにそうであるとわかっていても、現場では、一応、「知らないフリ」をし
て教える。もう一つは、親からの質問が、具体的にあるまで、その問題には、いっさい触れては
ならないということ。そういう点で一番困るのは、親から、「最近、うちの子はどうでしょうか?」と
聞かれること。

 私のばあい、すかさず、「おうちではどうですか?」と聞き返すことにしている。そうすること
で、親が何を、どの程度知りたがっているのか、さぐりを入れることにしている。そして親が望
む範囲のことで、また親のレベルに合わせて、相談にのる。この時点でも、それ以上のこと
は、決して言ってはならない。

 だから実際には、神経症とわかっていても、教える私の側からは、何も言わない。言わない
で、できる範囲で、その子どもを「なおす」ことを考える。しかし最近でも、こんなことがあった。

 その子ども(年長児)には、軽いチックがあった。ときどき、ギクッギクッと、首を不自然にかし
げていた。そういう症状を知って、ある日、一人の母親がこう相談してきた。「先生、あのヘンな
クセは、なおらないでしょうか。いくら叱っても、なおりません」と。

私「あれは、クセではないと思います」
母「クセじゃない?」
私「はあ、クセではないと思います」
母「じゃあ、何ですか?」
私「神経症のようなものではないかと思っています」
母「神経症で、どうしてクビが動くのですか」
私「そういうことは、よくあります。どこかで神経を使っているのでしょうね」
母「そんなことはありません。いつもあの子のしたいようにさせています」
私「子どもの心は、おとなが考えるより、ずっとデリケートですよ。チックという言葉を知っていま
すか?」
母「聞いたことはあります」
私「チックを疑ってみたらどうでしょうか」
母「あの子は、チックではありません」
私「はあ……。チックではないですか……」

 ついでにチックとクセのちがい。筋肉の不随意な痙攣(けいれん)をチックという。一方、クセ
には、ふつう快感をともなう。それを繰りかえしている子どもは、陶酔感にひたる。指しゃぶりに
しても、しゃぶっている子どもは、気持ちよさそうな顔をする。

 ついでに一言。チックか、チックでないか、そんな簡単なことも見分けられないで、幼児教育
を三〇年もつづけている人は、いない。しかしそれでも、私たちは診断名をくだしてはいけな
い。(診断名をつけることができるのは、この日本では、ドクターだけ。)教育をする者は、いつ
も素人(しろうと)のフリをして、子どもに対峙する。これは教育の大鉄則。
(030430)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(790)

TR先生へ

拝啓

 お手紙、ありがとうございました。
 現場、復帰、おめでとうございます。よかったですね。やはり、子どもたちの声を聞いていてこ
そ、「私たち」があるのだと思います。委員会に閉じこもって、先生たちの管理をするというの
は、TR先生らしくないですよね。

 私も、いつの間にか、メインの収入源が、幼児教室になってしまいました。何度も、「この三月
でやめよう」と思ったことはあるのですが、結局、三〇年以上もつづけてしまいました。つづけ
たというより、やめられなかったのだと思います。私のように一匹オオカミで生きているの人間
には、健康管理が、何よりも重要になります。本を書いたり、教材を作ったりするのは、当時
は、結構、よい収入になりました。ときどき、「どうしてこんな安い月謝で、教えなければならな
いのか」と思ったこともあります。しかしもし規則正しく、街へ出て、仕事をしなければ、私のこと
ですから、たいへんだらしない生活になってしまっていただろうと思います。

 で、自宅から仕事場までは、ちょうど自転車で三〇分。往復、一時間です。私はほとんど毎
日、自転車で通っていますが、それがよい運動になっています。おかげで、この年齢になって
も、成人病とは無縁。また幼児教室の特質というか、子どもたちのパワーをそのままもらうこと
ができます。気分が落ち込んでいるときもありますが、子どもたちがそれを許してくれません。
で、最近は、「教える」とか「指導する」とかいうよりも、「いっしょに遊ぶ」という姿勢に変わって
きています。

 実のところ、この不況で、私の仕事も大きく影響を受けています。バブル経済のころは、市内
だけでも、一〇〜一五か所の幼児教室がありました。が、今、残っているのは、私のところだ
けです。いや、本当に、あのころはいやな時代でした。私のところが、月謝を六〇〇〇円とか、
六五〇〇円とかで、しかも生徒数は、一クラス、多くても六〜七人だったのですが、どこからか
教材を買ってきて、派手な宣伝で生徒を集めた教室が、一万二〇〇〇円とか、教室によって
は、二万円もとっていたのですから。ちなみに、私の教室は、過去において、一度もチラシを配
ったとか、宣伝をしたとかいうことはありません。「生徒がいなくなれば、それでやめ」と、どこか
冷めた気持ちで、少なくともこの二〇年、やってきました。

 私の教室は、すべて手作りです。机もイスも、です。もちろん教材は、すべて画用紙を切った
り張ったりして作っています。自分で、市販の教材を作ったこともありますが、それらを子ども
や父母に買わせたことは、一度もありません。正直言って、こういう誠意に、どれほどの意味が
あるのだろうと思うこともありました。が、しかし、とにかく、そうしてきました。

 何となく暗い話がつづきましたが、今度、少し、教室の模様替えをしようと考えています。私の
教室は、しかけがたくさんあり、「おもちゃ箱をひっくりかえしたような教室」になっています。そ
れを今度は、山小屋風にしようと考えています。しかけもたくさん作ります。目下、ちょうど、そ
の案をねっているところです。あと何年、仕事がつづけられるかわかりませんが、たとえば、線
香花火が、最後にパチンとはじけるように、美しくはじけてみたいと思っています。

 今、一番興味があるのは、幼児の発達心理学です。もともと出身は法学生で、心理学は、学
生時代に少しかじっただけですが、この分野は、本当におもしろいです。何というか、まさに「自
分さがし」なのですね。幼児を調べていけばいくほど、そこに「自分」がいることがわかります。
どうして心理学者にならなかったのかと、今になって悔やまれます。しかしものの考え方として
は、法律の勉強はムダではなかったと思っています。論理的にものごと考えていくという点で
は、かなり役に立っています。

 ほかに……。何といっても今は、北朝鮮の核問題と、SARSが、気になります。また「白装束
集団」というわけのわからない集団も気になります。一五年ほど前、あるカルト教団を相手に、
猛烈に戦ったことがあります。本も五冊書きました。雑誌や、週刊誌にも記事を書きました。ど
うして信者たちは、ああいったわけのわからないものに、心を奪われていくのでしょうか。それ
に興味をもったのがきっかけです。しかしまるでこれでは、モグラたたきのモグラですね。つぎ
からつぎへと、理解に苦しむものが生まれてきます。内心のどこかでは、「もう一度、やってみ
るか」という思いもないわけではありませんが、しかしああいう連中を相手にすると、本当に疲
れます。もう少し若ければ、黙ってはいないと思いますが、実のところ、このところ、少し疲れを
覚えるようになりました。「どうでもなれ」とか、「好きにしたら」とか、考えることも、しばしばで
す。ただ私の性格上、放ってはおけないというところです。で、今は、情報集めと、傍観です。

 で、先生のほうは、お元気ですか。私のほうは、おかげで、何とか元気でがんばっています。
昨夜も、猛烈な西風が吹いていましたが、その風にさからって、四〇分近く、自転車をこぎまし
た。こういう日は、さすがに疲れます。疲れるというより、全身が、ほどよく痛くなります。ほかに
運動をしていないため、いくらつらくても、これだけはやめるわけにはいきません。そうそう昨夜
は、それまでの天候が一転して、寒かったですね。またコタツにスイッチを入れました。おととい
は、七月上旬の気候だと言っていたのに、昨日は、また三月に逆戻り? 体調を崩す人も多い
と思います。先生も、どうか、お気をつけください。

 私の家族は、今のところ、問題なく、平和です。お嬢様はいかがですか。もう新婚、三年目?
 お元気ですか。私のところも、二男が、昨年、子どもをもうけ、無事(?)、私は祖父になりまし
た。今はアメリカに住んでいるため、祖父になったという実感はありませんが、それ以上に、自
分がその年齢になったという実感もありません。『人の老いて行くことを、だれが成長と考える
か。老いは成長でもなく進歩でもない。ただ変化である』と書いたのは、萩原朔太郎(桃李の
道)ですが、しみじみと「そうだなあ」と思っています。まあ、本当のところは、「なるようにしかな
らないだろう」と思いつつ、今日一日をがんばっているだけといったところですが……。

 ところで連休は、どうお過ごしですか。私のほうは、予定はありません。ひょっとしたら、下呂
のいとこが遊びにくるかもしれません。おととい電話で一時間ほど、話しました。子どものころ
からの悪ガキ仲間です。彼とは、本当に悪いことばかりしていました。しかし五〇年もたつと、
彼のようないとこが、一番、心を割って話せるのですね。ふつうなら見栄とか体裁で隠すような
話でも、彼には、話せるのです。そのいとこが、昨年、一億円もかけて、自宅を改築しました。
その金額から、彼がその道の成功者だということがわかってもらえると思います。こういう時代
に、です。けやきの囲炉裏を作ったと、自慢していましたから、今度、見に行ってやるつもりで
す。

 今朝は、不用意にも、午前二時に目が覚めてしまいました。理由は簡単です。昨夜は寒かっ
たからコタツを入れて寝た。しかし夜半に暖かくなり、それで暑くなって目が覚めてしまったとい
うわけです。で、この手紙を書いたあと、ある雑誌社(ベネッセ社)から依頼のあった原稿をまと
めて、また寝るつもりでいます。「子育て感の違い」というタイトルですが、「子育て観」と書くほう
が正しいのではと思っています。まあ、どちらでもよいのですが……。

 一度、山荘においでになりませんか。五月の中ごろの乾いた日には、ホトトギスが空を舞うよ
うになります。それに三週目には、ジャスミンが、一斉に咲き誇ります。それが終わると、今度
は野イチゴと、ビワの季節に入ります。これからの山の生活は、まさにシーズンです。先生のご
都合に合わせて、スケジュールをとります。土日は、たいてい自由になります。私の手料理の
昼食を一緒に食べていただければと願っています。いかがでしょうか。一度、「明日、行く」と
か、思い立ったときに、そのようにご連絡いただければ、ワイフと、お迎えにあがります。楽し
みにしています。

 奥様、お嬢様に、よろしくお伝えください。今日は、これで失礼します。

敬具


                                はやし浩司
                                 五月一日

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(791)

お母さん方からの、Q&A特集

●夫との違い
1 夫の怒りかたが荒っぽくて困っている。できれば話して(言葉で)わからせたいのに、夫は
怒鳴ったり、手をあげることも・・・。

★『夫婦は一枚岩』というのが、子育ての鉄則です。夫婦で意見の衝突があっても、子どもの
前では見せないようにします。また『船頭は一人』という鉄則もあります。こういうケースでは、
母親は、まず父親を立てる。決して男尊女卑的なことを言っているのではありません。たがい
に高度な次元で尊敬しあってこそ、それを「平等」といいます。子どもの前では、「お父さんがそ
う言っているから、そうしなさい」と、あくまでも父親の側に立ちます。納得がいかないことがあ
れば、子どもが寝静まったあとにでも、「私はこう思うけど……」と、意見の調整をします。

★そうでなくても、むずかしいのが子育て。これから先、夫婦の心がバラバラで、どうして子育
てができるというのでしょうか。なおこういうケースでは、夫が怒鳴ったり、手をあげたりしそうで
あれば、その前に、夫の言いたそうなことを前もって、言うようにします。いわゆる夫の機先を
制するということです。「そんなことをすると、お父さんに叱られますよ!」と。夫に抵抗すればす
るほど、夫の心は、あなたや子どもから離れていきます。これは子どもの問題というより、夫婦
の問題かもしれません。どこか夫婦の間に、すきま風が吹いていませんか。私には、そちらの
ほうが気になります。

★なお、親子の信頼感は、「一貫性」で決まります。E・H・エリクソンという心理学者も、「親(とく
に母親)の安定的態度が、基本的信頼関係を結ぶ基礎である」というようなことを言っていま
す。要するに親の心がグラグラしていては、親子の間で、信頼関係を結ぶことができないだけ
ではなく、つづいて、子どもは、園や学校の先生、さらには友人との信頼関係を結べなくなりま
す。よきにつけ、悪しきにつけ、親は、一本スジの通った子育てをします。


2 食事中のマナーについて。夫はテレビを見ながら食べている。でも、子どもには、ごはんを
食べるときはテレビを消しなさい」と言ってあるので、子どもの教育上、夫にはテレビを消して、
協力して欲しい。

★子育ての世界には、メジャーな問題と、マイナーな問題があります。家庭の役目は、家族が
外の世界で疲れた心と体をいやすことです。そのために「家庭はどうあるべきか」を考えるの
は、メジャーな問題。「家庭でのこまごまとした、ルール」は、マイナーな問題ということになりま
す。マイナーな問題に引き回されていると、メジャーな問題を見失うことがあります。そこでこう
したマイナーな問題は、言うべきことは言いながらも、あとは適当に! その時と、場所になれ
ばできればよいと考えて、おおらかに構えます。

★また子どもの世界には、『まじめ八割、いいかげん二割』という鉄則があります。「歯をみが
きなさい」と言いながらも、心のどこかで、「虫歯になったら、歯医者へ行けばいい」と思うように
します。虫歯の痛さを知って、子どもは歯をみがくことの大切さを学びます。それだけではあり
ません。子どもは、そのいいかげんな部分で、羽を伸ばします。子育てでまずいのは、神経質
な完ぺき主義。家庭が家庭としての機能を果たさなくなるばかりか、子どもの心をつぶしてしま
います。さらに子どものことで、こまごまとしたことが気になり始めたら、あなた自身の育児ノイ
ローゼを疑ってみます。

★「しつけ」と「ルール」は違います。「しつけ」は、自律規範のことをいいます。この自律規範
は、初期のころは、親から与えられますが、やがて子どもは、自分で考え、自分で判断し、自
分で行動するようになります。子どもをしつけるということは、いかにして子どもを自律させるか
ということ。一方、ルールは、あくまでもルール。むしろ『ルールがないから家庭』と言います。ま
たイギリスの教育格言にも、『無能な教師ほど、ルールを好む』というのもあります。これを言い
かえると、『無能な母親ほど、ルールを好む』(失礼!)となります。

★ルールは、つくるとしても、家庭では最小限に。夫の立場で言うなら、「家に帰ってきてから
は、のんびりとテレビでも見ながら、食事をしたい」ということではないでしょうか。私なら妻か
ら、そんなこまごまとしたルールを言われたら、気がヘンになります。なお、「食事中はテレビを
見ない」というのは、マナーでも何でもありません。「マナー」というのは、「他人の心を害さない
こと」を言います。そういうマナーは大切ですが、「テレビを見ながら、食事をしてはいけない」と
いうのは、マナーではありません。いわんや「教育上……」と、おおげさに構えなければならな
いような、問題ではありません。ちなみに、私は、毎日、テレビを見ながら、夕食を食べていま
す。

★要するに子育てをするときは、いつもメジャーな視点を忘れないこと。いつも、「より大切なこ
とは何か」と考えながら、します。そういう視点が、あなたを親として、大きな人間にします。こま
かいルールで、がんじがらめになっている家庭からは、大きな子どもは生まれません。


3 子どもの習い事など。園のお友だちなどを見ると、習い事をさせる人もけっこういます。子ど
ももやりたがっていることだし、私としては何かやらせてもいいのでは? とおもっているけど、
夫は「まだ早い。子どもはのびのび遊んでいればいい」と。この感覚の違いって、これからもも
めごとの原因になりそうで・・・。

★親には、三つの役目があります。子どもの前を歩く。子どものガイドとして。子どものうしろを
歩く。子どもの保護者として。そして子どもの横を歩く。子どもの友として。日本の親は、子ども
の前やうしろを歩くことは得意ですが、子どもの横を歩くのが苦手。そういう発想そのものがあ
りません。こういう相談のケースでも、「(子どもに)やらせる」という発想そのものが、気になり
ます。大切なことは、子どもの方向性を見極めながら、「あなたはどう思うの?」と、そのつど、
子どもの心を確かめながら、行動することです。習い事をするかしないかは、あくまでもその結
果です。

★で、習い事をするにしても、この時期は、「楽しませること」を考えてします。(できる、できな
い)ではなく、(楽しんだかどうか)をみます。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす原動力と
なります。もう少し専門的には、「プラスのストローク(働きかけ)」を大切にするということです。

★この時期は、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよい結果を生みます。ですからそのつ
ど、「あなたはよくできる」「あなたはもっとできるようになる」と、プラスの暗示をかけていきま
す。ほかに『一芸論』(子どもに一芸をもたせる。一芸を伸ばす)や、『才能は作るものではな
く、見つけるもの』という鉄則もあります。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ママ友だちとの違い
1 何かトラブルがあると「うちの子にかぎって、そんなことはしない!」と、決まって言う母親が
いる。自分の子が原因になっていても、よその子から疑うなんて。「他人は他人」と思っていて
も、やっぱり頭にきちゃう!

★反面教師という言葉があります。あなたのまわりに「親バカ」(失礼!)がいたら、いつも「自
分はどうか?」と自問してみます。そういう親を非難するのではなく、自分自身が伸びるために
利用します。このケースでも、「頭にきちゃう」ではなく、「親というのはそういうもの。ならば自分
はどうなのか?」という視点でみるようにします。そうすれば、少しは怒りがおさまるはずです。

★このケースで気になるのは、むしろ相手側の親子です。「うちの子にかぎって」と思っている
親ほど、子どもの心がわかっていない。それだけではない。ひょっとしたら、その子どもは、親
の前で、いい子ぶっているだけ? こういうのを「仮面」といいます。さらにひどくなると、心(情
意)と、表情や言動が遊離するようになります。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコ笑う
など。こうなると、親の側から見ても、自分の子どもが何を考えているかわからなくなります。親
子断絶の初期症状と考えて、警戒します。

★信頼関係を築くためには、(さらけ出し)→(心を開く)というプロセスを踏みます。「どんな恥
ずかしいことでも、たがいに言いあえる」「何をしても、何を言っても、たがいに許しあえる」とい
う関係があってはじめて、信頼関係を築くことができます。親子とて、例外ではありません。しか
し今、信頼関係どころか、親子でも、心を開けないケースが、ふえています。先日も、私に、「う
ちの子(小二男児)がこわいです。私のほうから、あれこれ言うことができないので、先生のほ
うから言ってください」と言ってきた、母親がいました。

★一方、心を開けない子どもは、開けない分だけ、心をゆがめます。いじける、ひがむ、つっぱ
る、ひねくれるなど。それを防ぐためにも、子どもには、まず言いたいことを言わせ、したいこと
をさせます。その上で、よい面を伸ばし、悪い面を削るようにします。相手側の親子には、そう
いう姿勢が感じられません。ひょっとしたら溺愛ママ? 自分の心のすき間を埋めるために、子
どもを利用しているだけ? そういう視点で見てあげると、さらに怒りがおさまるかもしれませ
ん。


2 育児論に自信があり、「私の子育ては正しくて間違いはない!」と言ってはばからないママ
が園にいる。みんなそれぞれなのに、人の子育てにも口を出してくる始末。もう、ほっといてほ
しいのに。

★ほかの親とのつきあいは、『如水淡交』が原則。「淡く水のように」という意味です。中に、自
己中心的で、押しつけ的なことを言ってくる親もいますが、そういう親とは、サラサラと水のよう
に交際するのが、コツです。この世界、その底流では、親たちのドロドロの、それこそ血みどろ
の戦いがウズを巻いています。それに巻き込まれると、かなり神経の太い人でも、参ってしま
います。だから交際するとしても、園や学校の行事の範囲だけにとどめます。決して深入りして
はいけません。間に子どもがいるため、一度、こじれると、この種の問題は、とことんこじれま
す。もしどうしても、ということなら、あなたの子どもが通っている園や学校とは、直接関係ない
世界に住んでいる親と交際するようにします。

★ただ子育てで注意しなければならないのは、カプセル化です。カプセル化というのは、親子
だけの狭い世界でマンツーマンの生活をすることいいます。そしてその世界だけで、独自の価
値観を熟成してしまう……。家族が、ちょうど小さなカプセルに閉じ込められるようになるので、
カプセル化といいます。一度カプセル化すると、同じ過干渉でも、極端な過干渉、あるいは同じ
溺愛でも、極端な溺愛になりますから、注意します。それを防ぐためにも、自分のまわりは、い
つも風通しをよくしておきます。つまりたがいの情報を交換することは悪いことではありません
ので、「ほっといて!」ではなく、「また教えてね!」というような、つきあい方に切りかえてみては
どうでしょうか。


3 うちによく遊びに来る子が、まったくしつけされていない。人の家の冷蔵庫を勝手にあけた
り、寝室(入ってはダメと言ってある所)に入ったり・・・。しかも、それを見ても、本人の親は何も
注意しない!「おたくのしつけ、どうなってるの!」って感じ。「もうこないで!」と言いたいが、子
ども同士は仲がいいので、言えない。

★こういうときの鉄則は、ただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』です。相手の子どもの行
動のどこか、どのように悪いかを、子どもに話しても、決して相手の子どもの名前を出してはい
けないということです。「よそのうちの冷蔵庫を勝手にあけるのはよくないね」「そのおうちの人
が入ってはいけないという部屋に入ってはいけないね」と、です。こういうケースで、「○○君と
は遊んではダメ」と、子どもに言うことは、子どもに、「親を取るか、子どもを取るか」の択一を
迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。そうでなければ、あなたとあなたの子
どもの間に大きなキレツを入れることになりますから、注意してください。なおこの鉄則は、これ
から先、あなたの子どもがおとなになるまで、有効です。

★で、あえて言うなら、あなたの子どもは、その子どもといっしょにいることが、楽しいのです。
子どもというのは、無意識のうちにも、居心地のよい仲間とつきあいます。つまり『類は友を呼
ぶ』です。そこで大切なことは、あなたの子どもにとって、どこがどう居心地がよいかを知ること
です。ひょっとしたら、あなたのほうが、ガミガミとこまかいしつけをし過ぎていませんか。……
そうではないと思いますが、そんなことも疑ってみることも、ときには大切です。

★これから先、あなたの子どもは、無数の人間関係を、いろいろな場所で結びながら、その間
でのやりくり、つまり社会性を身につけていきます。そういう意味では、悪友もまた、必要なので
す。社会に対する免疫性も、そこから生まれます。だからといって悪いことを容認せよというわ
けではありませんが、一般論として、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほ
ど、社会人になってから常識豊かな人になることも、よく知られています。「悪いからダメ」式
に、子どもを押さえつけるのではなく、その子どもを反面教師として、ここで書いたことを参考
に、相手の子どもを利用してみてはどうでしょうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●義父母・父母との違い
1 子どものほしがるものは何でも与えてしまう姑。特に、お菓子やおもちゃは、わが家なりの
ルールを決めて、守らせたいのに。今まで一生懸命に言い聞かせてきたのが無駄になる!

★昔の人は、「子どもにいい思いをさせるのが、親の愛の証(あかし)」「いい思いをさせれば、
子どもは親に感謝し、それで絆(きずな)は太くなるはず」と考えて、子育てをしました。今でも、
日本は、その流れの中にあります。だから今でも、誕生日やクリスマスなどに、より高価なプレ
ゼントであればあるほど、あるいは子どものほしがるものを与えれば与えるほど、子どもの心
をとらえるはずと考える人は少なくありません。しかしこれは誤解。むしろ、逆効果。イギリスの
格言に、『子どもには、釣竿を買ってあげるより、いっしょに釣りに行け』というのがあります。つ
まり子どもの心をつかみたかったら、モノより、思い出というわけです。しかし戦後のひもじい時
代を生きた人ほど、モノにこだわる傾向があります。「何でも買い与える」という姑の姿勢の中
に、その亡霊を見ることができます。

★また昔の人は、「親(祖父母)にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい
子」と考える傾向があります。そして独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼の子」
として嫌いました。今でも、そういう目で子どもを見る人は少なくありません。あなたの姑がそう
だとは言いませんが、つまりこうした問題は、子育ての根幹にかかわる問題なので、簡単には
なおらないということです。あなたの姑も、子ども(孫)の歓心を買うことにより、「いいおばあち
ゃん」でいたいのかもしれません。そこでどうでしょうか。この私の答を、一度、姑さんに読んで
もらっては? しかし子育てには、その人の全人格が集約されていますから、ここにも書いたよ
うに、簡単にはなおりません。時間をかけて、ゆっくりと説得するという姿勢が大切です。


2 嫁と舅・姑の違いって必ずあるし、それはしかたないことと割り切っています。でも、我慢し
て「ノー」と言えないのでは、ストレスもたまるいっぽう。同居するとますます増えそうなこのモヤ
モヤ。がまんにも限度があると思うから、それを越えてしまったときがこわい!

★もう、同居している? それともしていない? 祖父母との同居問題は、最終的に、「別居
か、もしくは離婚か」というところまで覚悟できないなら、あきらめて、受け入れるしかありませ
ん。たしかに問題もありますが、メリットとデメリットを天秤(てんびん)にかけてみると、メリット
のほうが多いはず。私の調査でも、子どもの出産前から同居しているケースでは、ほぼ、一〇
〇%の母親が、「同居してよかった」と認めています。

★問題は途中同居(つまり子どもがある程度大きくなってからの同居)ですが、このばあいも、
祖父母との同居を前向きに生かして、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。仕
事でも、趣味でも、スポーツでも。「おじいちゃんやおばあちゃんが、いっしょにいてくださるの
で、助かります」とか何とか言って、です。祖父母の甘やかしが理由で、子どもに影響が出るこ
ともありますが、全体からみれば、マイナーな問題です。子ども自身の自己意識が育ってくれ
ば、克服できる問題ですので、あまり深刻に考えないようにしてください。

★なお、「嫌われるおじいちゃん、おばあちゃん」について、私は以前、その理由を調査してみ
たことがあります。その結果わかったことは、理由の第一は、健康問題。つぎに「子どもの教育
に口を出す」でした。今、日本の子育ては、大きな過渡期にあります。(孫の教育に口を出す祖
父母の時代)から、(祖父母は祖父母で、自分の人生を生きる時代)へと、変化しつつありま
す。そこで今は今で、そのストレスをしっかりと実感しておき、今度は、あなたが祖父母になっ
たとき、(その時代は、あっという間にやってきますが……)、そういうストレスを、つぎの若い夫
婦に与えないようにします。


3 何かあると自分の子育て論で迫る母。「昔は8か月でオムツが取れた」とか「昔は○○だっ
たのに」など、自分の時代にことを持ち出して、いい加減なことばかり。時代は進んでいるの!
 今のやり方をもっと認めて!

★『若い人は、老人をアホだと思うが、老人は、若い人をアホだと思う』と言ったのは、アメリカ
の詩人のチャップマンです。「時代は進んでいる」と思うのは、若い人だけ(失礼!)。数十万年
もつづいた子育てが、一世代くらいの時間で変わるはずもないのです。いえ、私は、このこと
を、古い世代にも、若い世代にも言いたいのです。子育てに「今のやり方」も、「昔のやり方」も
ないのです。もしそう見えるなら、疑うべきは、あなた自身の視野の狭さです(失礼!)。

★もっともだからといって、あなたの姑の子育て観を容認しているのではありません。子離れど
ころか、孫離れさえできていない? いや、それ以上に、すでに姑とあなたの関係は、危険な
状態に入っているかもしれません。やはりイギリスの格言に、『相手は、あなたが相手を思うよ
うに、あなたを思う』というのがあります。これを心理学では、「好意の返報性」と呼んでいます。
つまりあなたが、姑を「昔風の子育てを押しつけて、いやな人」と思っているということは、まっ
たく反対の立場で、姑も、あなたのことを、「今風、今風って、何よ。いやな嫁」と思っているとい
うことです。

★実のところ子育てでまずいのは、個々の問題ではなく、こうしたギクシャクした人間関係で
す。つまりこうした不協和音が、子育て全体をゆがめることにもなりかねません。そこでどうでし
ょうか。こういうケースでは、姑を、「お母さんは、すばらしいですね。なるほど、そうですか!」と
もちあげてみるのです。最初は、ウソでもかまいません。それをつづけていると、やがて姑も、
「よくできた、いい嫁だ」となります。そしてそういう関係が、子育てのみならず、家庭そのものを
明るくします。どうせ同居しなければならないのなら、割り切って、そうします。こんな小さな地球
の、こんな狭い日本の、そのまたちっぽけな家庭の中で、いがみあっていても、し方ないでしょ
う!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て観の違い

 子育てにかぎらず、ものの考え方や価値観のちがいは、あらゆる場所で、ごく日常的に起き
ます。ここにあげたもののほか、園や学校の先生との衝突やズレ、もっと大きくは、国の教育と
の衝突やズレなど。

 しかしこうした考え方や価値観のちがいを感じたときの鉄則は、それと戦うのではなく、それ
を乗り越えるということです。夫との対立、ママ友だちとの対立、さらには、祖父母との対立にし
ても、それと争っても意味はありません。「対立する」ということは、相手と同レベルであるという
ことを意味します。相手はまちがっていると思えば、相手も、あなたをまちがっていると思うも
の。そういう状態では、争えば争うほど、袋小路に入ってしまいます。では、どうするか?

 相手が納得するような、さらに高次元なものの考え方や価値観を、こちら側が追求します。そ
して結果として、相手のものの考え方や価値観を乗り越えます。相手が、それに気づいたと
き、対立は、ごく自然な形で、消滅します。たとえば……。

●山には登る

 遠くから見ると、低く見える山でも、登ってみると、意外と視野が広く見えるもの。子育ても、そ
の山登りに似ています。つまり高い山に登れば登るほど、それまでの自分がいかに小さな世
界で、右往左往していたかがわかります。

 そこでもし、相手がだれであるにせよ、その相手と子育ての見方、考え方で衝突したら、自分
の視野を高めることだけを考えます。相手の人が、つまらないと思えるなら、なおさらです。衝
突するということは、自分も相手と同じレベルだと認めるようなもの。しかしあなたが一歩、先に
出れば、相手が、小さく、とるに足りない相手とわかるはずです。たとえば私は、幼児や、暴走
族の若者たちに、「バカ!」と言われても、気にしません。もとから相手にしていないからです。
要するに、相手の子育て観を気にしないほどまでに、自分の子育て観を高めるということ。そ
の一つのヒントとして、「許して、忘れる」があります。

●子育ては、「許して、忘れる」の連続

 子どもへの愛情の深さは、どこまで子どもを許し、忘れるかで決まります。つまりどの度量の
広さこそが、親の愛の深さということになります。その「許して、忘れる」、英語では、「フォ・ギブ
&フォ・ゲッツ」と言います。「フォ・ギブ」という単語をよく見ると、「与える・ため」とも訳せます。
また「フォ・ゲッツ」は、「得る・ため」と訳せます。つまり「許して、忘れる」は、「子どもに愛を与
えるため、許し、子どもから愛を得るため、忘れる」ということになります。

 もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろということではありません。ここでい
う「許して、忘れる」は、子どもにどんな問題があっても、また何か問題が起きても、子どもは、
ありのまま受け入れ、認め、そして許すということです。そういう視点で、もう一度、あなたの身
のまわりで起きている問題をながめてみてください。あらゆる問題が、ささいな問題に見えてく
るはずです。

●さらに自分を高めるために……

 子育てをしていて、道に迷ったら、つぎの四つの方向から、子どもをみます。まず未来をみ
る。あなたは子どもを育てているのではない。あなたは、子どもに子どもの育て方を教える。そ
れが子育てだ、とです。「あなたが親になったら、こういうふうに子ども(あなたからみれば孫)を
育てるのですよ。お母さんは、今、その見本を見せてあげるから、よく見ておくのですよ」と。そ
して同時に、「幸せな家庭というのは、こういうものですよ」「家族というのは、こういうふうに助
けあうのですよ」と。

 つぎに子育てをしながら、自分の過去をみます。もしあなたが、恵まれた環境で、何不自由な
く、両親の温かい愛に包まれて育てられたのなら、それでよし。そうでないなら(大半の人が、
そうですが……)、心のどこかがゆがんでいないかを冷静に判断します。ゆがんでいることが、
問題ではありません。そのゆがみに気づかないまま、同じ失敗を繰りかえすことが、問題で
す。しかしこの問題は、そういう過去があったということに気づくだけでも、そのほとんどが解決
したとみます。

 三つ目に、自分の子育てを「上」からみます。その視点は高ければ高いほど、よいということ
になります。まず近くの人の子育てをのぞいてもます。つぎに親戚や友人など。さらに世界の子
育てなど。子育てをしていて一番、こわいのは、「うちの子のことは、私が、一番よく知ってい
る」という過信と誤解。そして独断と偏見の世界に入ることです。子どもはたしかにあなたから
生まれますが、生まれたときから、別の人格をもった、一人の人間です。もっと言えば、世の中
にいる無数の人たちの一人、ということです。つまり子どものもつ可能性にせよ、人間性にせ
よ、あなたには、わかっている部分より、わかっていない部分のほうが、はるかに多いというこ
とです。そういう一歩退いた、謙虚な見方が、子どもを伸びやかな子どもにします。

 最後に、自分の心の中をのぞいてみます。ある母親は、自分の子ども(二歳男児)が、生死
の境をさまようような病気になったとき、「私の命は、どうなってもよい。私の命と交換してでもよ
いから、あの子の命を救ってほしい」と、願ったといいます。こうした「自分の命すらも、おしくな
い」という至上の愛は、まさに人は、子どもをもってはじめて知ります。子どもは、ただの子ども
ではない。あなたに、もっと大切なことを教えるために、今、あなたのそばにいる……。つまり
あなたが子どもを育てるのではない。子どもが、あなたを育てます。これから先、あなたは幾多
の山を越え、谷を越える。平凡は美徳ですが、平凡から何も生まれません。子育ては重労働で
す。ある心理学者は、「母親にとっての家庭は兵舎と同じ」というようなことを書いていますが、
楽な子育てというのはありません。しかしそういう苦労が、無数のドラマをつくり、あなたの人生
を、心豊かなものにします。立ちはだかる困難を恐れないこと。今、あなたのまわりで起きつつ
ある、さまざまな問題は、その第一歩ということになります。逃げるのではなく、勇気を出して、
そうした問題と取りくんでみてください。応援します。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(792)

心のエアーポケット

 ときどき、愚にもつかないようなカルト教団が、世間をにぎわす。足の裏をみて病気を診断す
るとか、魔法のツボで、悪い因縁を断つとか。さらには、教祖の髪の毛を煎じて飲んでみたりす
る、など。ミイラ化した死体を前にして、「まだ生きている」とがんばった教団もあった。最近で
は、白装束に身をかため、電磁波攻撃から身を守るという集団も現れた。このニュースは、中
国でも大きく報じられたらしい。北京に住む友人(中国人)が、その集団について、メールで、こ
う書いてきた。「こちらは今、SARS問題で、たいへんだ。日本は、平和でいいね」と。

 こうしたカルト教団を調べていくと、ごくふつうの人が、ある日、突然、ふとしたきっかけで信者
となっていくことがわかる。それも、話してみると、まったくふつうの人。「どうしてこの人が…
…?」と思うこともある。その教団に属していることをのぞけば、どこもおかしいところがない。

 私は、いつしか、人間の脳には、エアーポケットのようなものがあるのではないかと思うように
なった。盲点というべきか、欠陥というべきか。その世界にスッポリと入ってしまうと、常識その
ものをなくしてしまう。当然、思考力も停止する。そしてそのまま、指導者の言いなりになってし
まう。

 問題は、その指導者だが、たいてい、どこか頭がおかしい。昔、こんなことがあった。私の実
家が属する寺に、毎週、ものすごい形相の女性がやってきた。年齢は四五歳前後だったであ
ろうか。髪はぼさぼざ、顔は赤茶けていた。眼光だけがやたらと鋭く、じっとにらまれたりする
と、みなは、それだけで震えあがってしまった。

 その女性が、檀家が集まったようなとき、ときどきやってきて、それなりの意見を言うことがあ
った。「それが、仏の道じゃあ!」「邪念を、捨てなされ!」「あなたがたは、成仏、できんぞ!」
と。すると、ほかの人たちは、一斉に黙ってしまう。よくカリスマ性という言葉が使われるが、そ
の女性には、そのカリスマ性があった。言っていることは支離滅裂で、何を言っているか、意味
がよくわからなかったが、その態度には不思議な威厳があった。言うことには、何となく、意味
があるような感じた。

 が、あとで住職に、「あの人はどういう人ですか?」と聞いたら、こう話してくれた。「ずっと精神
病院に入院しているのですがね、ときどき病室を抜け出し、ここへ来るのです」と。

 だいたい、「足の裏で病気が治る」とか、「念力で病気が治る」とかいうのは、インチキ。それ
はそれとして、大切なことは、つまりどうしてそういうカルトが生まれるかということではなく、そう
いう教団の犠牲にならないためには、どうしたらよいかということ。「私はだいじょうぶ」と思って
いる人だって、あぶない。それだけ警戒心が弱いので、ふとスキをつかれたようなとき、そのま
まカルトにのめり込んでしまう。こうした脳のエアーポケットは、ひょっとした、私も、あなたも、み
な、平等にもっている。

 ただここで誤解してはいけないのは、そうした教団があるから、信者がいるのではないという
こと。そういう教団を求める信者がいるから、教団が生まれ、そして育つということ。私たちはと
もすれば、「信者をだます教団は悪だ」という前提でものを考えるが、実際にはそうではなく、
「だまされたい」と思う信者がいるから、教団は勢力を伸ばす。事実、カルト教団の信者たち
は、みな、どの人も、実に和気あいあいとしている。楽しそうである。ある信者は、こう言った。
「私たちは、親子以上の親子。兄弟以上の、兄弟です」と。この温もりが、たがいの信者を結び
つける。

 だからそうした人に向かって、「あなたがたはまちがっている」とか、「あなたがたはだまされ
ている」と言っても、意味はない。彼らは彼らで、だまされていることを楽しんでいる。その教団
の教えが正しいかどうかを考える前に、その問題そのものを、脳の片すみにおいやってしま
う。こういうのを心理学では、「隔離」というが、要するに自分にとって都合の悪いことは、自ら、
考えないようにしてしている。

 そこで大切なことは、まず、こうしたカルト教団には近づかないこと。「おかしい」とか、「あやし
い」と感じたら、とにかく近づかない。「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。カルト
に染まるかどうかという問題は、理性の問題ではなく、免疫性の問題だからである。むしろ「私
はあぶない」と思っている人ほど、警戒心が強く、カルトに対して抵抗力をもっている。そういう
抵抗力があればよいが、たいていの人には、それがない。だから、『君子、あやうきに近寄ら
ず』、である。

 ただこわいのは、彼らは、自分の身分や素性を隠して、あなたに近づいてくることが多いとい
うこと。何かのバザーだと思って行ったら、教団への入信をしつこく勧められたというようなこと
は、よくある。こうした子育てサイトの中にも、そういうサイトが無数にある。ほとんどがどこかの
宗教がらみのサイトと考えてよい。(またそうでないと、情熱と資金がつづかない?)いつの間
にか、その教団の餌食になっているということも、決してありえない話ではない。

 ……と書くと、「はやし浩司のサイトはだじようぶか?」ということになる。

 私は、……、もう読んでおわかりかと思う。私は、きわめて論理的な人間で、実存主義者とい
うよりは、合理主義者、あるいは現実主義者である。神秘とか、心霊とか、そういうものは、体
質的に受け入れることができない。神や仏の話はよくするが、私は哲学として、その生きザマ
を論ずることはあっても、信仰の対象として、とらえたことはない。もちろん来世論や前世論な
ど、まったく信じていない。運勢論や運命論、占いやまじないなどは、論外。もとから頭の中に、
ない。

 ……しかし、これもひょっとしたら、カルトかもしれない。無神論も、立派な宗教? あのピア
ス(アメリカのジャーナリスト)も、『無宗教……世界中の、もっとも偉大な信仰の中で、もっとも
重要な信仰』と、書いている。つまり無宗教という宗教を、私は信仰しているのかもしれない。と
なると、これも立派なカルト? ゾーッ!

 ただ私のばあい、道に迷ったようなときは、とことん常識を追求するようにしている。あるいは
静かに自分の中の常識に語りかけてみる。すると直感ではあるが、おかしいものは、おかしい
と感じ、そうでないものは、心地よく感ずる。そういう意味では、私は常識論者? これはあの
バートランド・ラッセル(イギリスの哲学者、兼ノーベル文学賞受賞者)の影響かもしれない。私
は学生時代、ラッセルの本を、片っ端から読んだ。そのラッセルは、「偉大な常識人」と評され
ていた。

 かなり話が脱線したが、とにかくカルト教団を笑う前に、彼らもまた、心のかわきを覚えた、あ
われな人だと思って、同情する。私やあなたと、どこも違わない。私やあなただって、ほんの少
し狂えば、明日にだって、カルトの信者になるかもしれない。つまりそう思うことが、結局は、自
分自身の中の常識を守ることになる。
(030502)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(793)

 Q: 私はK女子大学、幼児教育学科四年のMNと申します。突然このようなメールをして申し
訳ありません。私、過保護、過干渉について興味がありまして、自分が母親になった事を想定
して『ママ診断』やってみました。とてもおもしろいものであり、私は過保護傾向にあるということ
がわかりました。そこで質問なんですが、この『子育て診断』の本というのは、販売しているので
しょうか? 

 また、過保護、過干渉とはどのようなもので、どう違うのだと思われますか? 私、このことに
ついて卒業研究をしようと考えております。(東京都・SUより)

A:お問いあわせ、ありがとうございました。結論から言えば、「過保護」「過干渉」などの用語
は、定義づけされた言葉ではありません。従って、発達心理学の世界でも、また幼児教育の世
界でも、辞典にすら、載っていないというのが現状です。

 しかし現実に、子育ての現場では、過保護や過干渉は、話題になります。しかしここにも書い
たように、そもそも定義づけされていませんから、それについて本来なら、論じようがないので
す。そこで過保護や過干渉について考えるときには、まずこの「定義づけ」から出発しなければ
なりません。

【過保護】
 私は、心配過剰、サービス過剰、関心過剰を、過保護の原点においています。が、ここでもま
た別の問題にぶつかってしまいます。何をもって「過剰」というかという問題です。私は、「平均」
という尺度を用いて、過保護か過保護でないかを区別していますが、もちろんそれが正しいと
は思っていません。総じてみれば、日本人の子育て観は、国際標準からしても、かなり過保護
的です。これは子どもを「財産」と考える古来の子育て観が残っているためです。

 つぎに私は過保護の内容を、その様態に応じて、生活面、行動面、精神面の三つに分けて
考えています。(もっと細分化できますが、実益があまりありませんので、私はこの三つを柱に
考えています。)というのも、親によって、過保護と言っても、内容はさまざまであり、またそれぞ
れにおいて、強弱があるからです。食事面で過保護にしながら、行動面では放任というケース
も珍しくありません。

 つぎに原因ですが、過保護の原因は、いうまでもなく、心配過剰です。その心配過剰が転じ
て、子どもに対しては、過保護という様態になって現れます。心配過剰が原因とするなら、過保
護は、あくまでも症状というわけです。そこで問題は、心配の原因もさることながら、今度は、親
自身の情緒や精神状態も問題になってきます。さらに風土的な背景も問題になってきます。

 で、こうした背景から、いわゆる過保護児が生まれてきますが、いわゆる昔から「温室育ち」
と言われるタイプの子どもは、ここでいう精神面での過保護児をいいます。私はその特徴とし
て、たとえば社会性の欠落、人格形成の遅れ、幼児性の持続、退行性などをあげます。耐久
性のなさもありますが、「温室育ちは、外では、すぐ風邪をひく」と言われるのは、そのためで
す。詳しい症状については、別のところ(はやし浩司のサイトの随所)に書いておきましたので、
そちらを参考にしてください。ただこうした症状は、たとえば溺愛児(この定義も、なされていま
せん)の症状と、多くの部分で重なり、こうした症状があるから、過保護児ということにもなりま
せん。

 以上のような視点をふみはずすと、過保護児を論じながら、何を論じているかわからなくなり
ますので、注意してください。なお、こうした問題、つまり定義されていない現象は、教育の世界
では、よくあることです。ここがたとえば心理学や医学と異なる点です。ですから定義づけされ
ていないから、論じても無駄とか、あるいは意味がないと、決めてかかってはいけません。教育
の一つの目的は、子どもを健やかに成長させることです。それを疎外する要因の一つとして過
保護があるなら、私たちは、それについては前向きに論じていかねばなりません。

【過干渉】
 同じように過干渉の問題があります。よく誤解されますが、口うるさいのは、過干渉とは言い
ません。過保護ニせよ、過干渉にせよ、それが子どもに悪影響があるから、問題となります。し
かしただ単に口うるさいというだけであれば、子どもには、それほど影響はありません。せいぜ
い親や教師の指示に対して免疫性ができ、指示にうとくなる程度です。「〜〜しなさい!」と、か
なり強く言わないと、指示に従わない、など。

 過干渉が過干渉として問題になるのは、子どもに、精神の萎縮性がみられるときです。多く
の内閉児、萎縮児の原因に、親の威圧的な育児態度、強引、傲慢な押しつけ的姿勢があるこ
とは、以前から指摘されています。過干渉は、こうした育児態度を総称したものということにな
ります。そこで、では過干渉とは何かということになれば、私は、親の強引かつ威圧的な育児
姿勢をあげます。

 が、ここでもまた問題にぶつかってしまいます。そういう育児姿勢があるから、子どもが過干
渉児特有の症状を見せるかといえば、そうではないということです。そこで親たちを観察してみ
ますと、安定的な育児態度の親と、そうでない親がいるのがわかります。「そうでない親」という
のは、そのときの気分の状態によって、不安定に育児態度が変わる親をいいます。子どもが
同じようにお茶をこぼしても、あるときは、ニコニコ笑いながら、「ダメよ」と言っていた親が、別
の日には、大声で怒鳴り散らすなど。こうした不安定な育児姿勢は、子どもをかぎりなく不安に
させ、それが子どもの心を萎縮させます。

 ただこの時点で、たいへん興味深いのは、同じような環境で育てられながら、まったく反対の
症状をもった子どもが生まれるということです。よくある例は、兄が萎縮化し、弟がかえって粗
放化するというケースです。私は長い間、その理由がわかりませんでしたが、簡単に言えば、
子ども自身の生命力の問題だと、やがて気がつきました。親の過干渉に対してやりこめられて
しまったタイプと、その過干渉を、たくましくやり返してしまったタイプの違いと考えると、わかり
やすいでしょう。兄のほうでは何かと神経質な子育てをするが、弟のほうでは、余裕のある子
育てをするというように、親側の育児姿勢の変化によることもあります。

 で、さらにその原因をさぐっていくと、過干渉タイプの親には、一つの共通点があるのがわか
ります。それが「不安」です。

 過保護が心配を基底とするなら、過干渉は不安を基底とすると考えると、ちょうどうまく対比
できて、わかりやすいかもしれません。子ども、育児に対する不安が、親をして、過干渉に走ら
せるというわけです。そしてその不安は何かというと、いわゆる「基底不安」の問題にぶつかり
ます。その基底不安が、いろいろ姿を変えて、子どもへの過干渉的な育児態度となって現れる
わけです。もっと言えば、親自身が、子どもと、信頼関係を結べないということです。

 理由はいろいろあります。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか。さらに
は、親自身の乳幼児期の原体験が原因となることもあります。私はこれを総称して、「わだか
まり」と呼んでいます。その何らかのわだかまりが、親の育児姿勢をゆがめるというわけです。

【目的は、子どもの健やかな発育】
 過保護にせよ、過干渉にせよ、こうした問題を考える目的は、子どもを健やかに発育させる
ことにあります。ここで過保護や過干渉を定義づける意味は、そこにあります。たとえば過保護
にしても、「心配」が原因とわかれば、その心配を除去してやることによって、親の過保護を是
正することができます。過干渉では、「不安」を除去してやることによって、親の過干渉を是正
することができます。そして結果として、過保護や過干渉が原因で起こる、子どもの症状を軽
減してやることができます。

私の定義づけには、多少(かなり)強引な面もありますが、そういう意味では、実益があります。
もっと言えば、現場では、役にたつということです。いつか、あなたも幼児教育の現場に立つこ
とがあると思いますが、そのとき、私がここに書いたことを参考に、子どもたちをながめてみて
ください。きっと「なるほど、そうだったのか」と思われることと思います。

 以上ですが、詳しくは、私のサイトのあちこちに書いておきましたので、また参考にしてみてく
ださい。メールおよび、お問いあわせ、ありがとうございました。今日は、これで失礼します。
(030502)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(794)

しつけとは

 自分で、自分を律することを、「自律規範」という。その自律規範ができるようにすることを、
「しつけ」という。

 乳幼児期は、親があれこれ指示し、教え、さとす。それは当然のことだが、しかし同時に、子
ども自身が自分で考え、自分で行動し、さらに自分で責任をとるように仕向けなければならな
い。それを「しつけ」という。ただし、「〜〜しなさい」「〜〜してはだめ」式の、一方的な押しつけ
は、ここでいう「しつけ」ではない。

 よく誤解されるが、マナーを守らせることは、しつけではない。先日も、「うちの子は、テレビを
見ながら、食事をする。父親も、いっしょに見ながら食事をしている。子どもの教育上、よくない
から、何としてもやめさせたいが、どうしたらいいか」と、相談してきた若い母親がいた。

 しかしテレビを見ながら、どうして食事をしてはいけないのか。テレビを見ていたら、食事に集
中できないということか。あるいは消化に悪いとでもいうのか。食事のとき、家族の会話がなく
なるからというのなら、まだわかる。が、もしそうなら、テレビをほかの場所へ移せばよい。嘆く
べきは、食堂とテレビのある居間がいっしょになっているような狭い家であって、マナーではな
い(失礼!)。ちなみに私の家も、その狭い家。居間と食堂の間に壁がない。だから私はいつ
も、テレビを見ながら、食事をしている。

 マナーというのは、他人を不愉快にしないための、「心くばり」をいう。人前で鼻くそをほじらな
とか、道路にツバをはかないとか、紙くずをそこらに捨てないとか、そういうことをいう。そういう
マナーなら、いくら口うるさく言ってもかまない。しかしそれとて、子ども自身が自分で考えて、守
らなければ意味はない。親がうるさいから、親のいるところだけで守るというのであれば、マナ
ーではない。

 この若い母親は、「教育上」という言葉を使った。しかしこんなことは、教育上の問題でも、何
でもない。「教育」というのは、まさに「教え育てる」こと。英語では、「エデュケーション」という。も
ともと「引き出す」を意味する、「エデュース」に由来する。

 子育てをしていて、一番こわいのは、近視眼的になること。身のまわりにささいなことに振りま
わされるうちに、大局的なものの見方を見失ってしまう。いろいろな例がある。

●親に向かって、「ババア」とか、悪い言葉を使う。
●箸の持ち方がおかしい。
●幼稚園で、先生の話を聞いていない。
●忘れ物が多い、など。

こうした問題は、子育てにはいつもついてまわるが、しかし、それはそれとして、どこかで一線
を引かないと、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。それは相談を受ける私のほうも
そうで、たとえて言うなら、下ばかり見ながら歩いていて、森の中で道に迷うようなもの。

 そういうときは、思い切って、視野を高くしてみる。空から地図を見るようなつもりで、自分の
子育てをながめてみる。「教育」という言葉は、そういうときに使う言葉であって、こういう、テレ
ビうんぬんという問題で使う言葉ではない。

 さて、そこで本題。私はときどき、こう思う。私たちは子どもに向かって、自律規範という言葉
を使うが、では、私なら、できるか、と。あるいはあなたならどうだろうか。「テレビを見ながら、
食事をしてはだめ」と言うくらいだから、その人は、さぞかし、すばらしい生活をしているに違い
ない。テーブルには、いつもキャンドルがともされ、BGMには、ショパンかモーツアルトの曲が
流れる。静かにときが流れ、父親と子どもが、食事中も、こんな会話をする。「お父様、その水
差しを渡していただけませんか?」「はい、どうぞ」「お父様、ありがとうございます」と。

 大切なことは、言うべきことは言いながらも、あとは子ども自身の判断に任せるということ。そ
ういう「時」と「場所」になったら、それなりにできれば、それでよしとする。反対に、あまりこまご
まとしたことを、神経質に言えば、むしろ家庭が家庭としての機能を失ってしまう。言うまでもな
く、家庭というのは、疲れた心と体をいやす場所。せめて家の中くらいでは、自由に、好き勝手
なことをしたい。……させてあげたい。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いたが、実のところ、こういう相談をもらうたびに、私は頭
をかかえてしまう。「くだらない」とまでは、言いたくないが、しかしそれに近い。少なくとも、私が
考えなければならないような問題ではない。……と思う。(ごめん!)
(030503)

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子育て随筆byはやし浩司(795)

雑感

 近所のTさんの家に、孫(三歳女児)が遊びにきた。一か月も遊んでいったという。それにつ
いて、Tさんは、こう言った。「(孫たちが帰るとき)またおいでよとは言ったが、もうしばらく、コリ
ゴリ」と。

 そのTさんが、その孫に歌を歌ってあげたそうだ。「♪まさかり、かついだ、金太郎。熊にまた
がり、お馬のけいこ……」と。すると、すかさずその孫がこう言ったそうだ。「ママって、馬な
の?」と。母親の名前は、その「恵子(けいこ)」だった。

 たいていの人は、「孫はかわいい」という。しかし同じく、たいていの人は、「孫のめんどうはみ
たくない」という。こんな悲劇もある。山荘の近くに住む、Uさんが、今度、総ヒノキ造りの家を建
てた。が、畑から家に帰って、びっくり仰天。三歳になる孫が遊びにきていて、縁側で三輪車に
乗っていたというのだ。おかげで、自慢の縁側は、キズだらけ! 「孫のしたことだから、怒れ
ないしね」と、Uさんは、笑っていた。

 さて、先のTさんだが、こう言った。「まあ、よくしゃべる子どもで、一日中、ペチャペチャとしゃ
べっていて、うるさくてしかたありませんでした」と。これについて、こんな事実がある。

 昔から「女は、おしゃべり」と言う。それについて、新井康允氏という研究者は、「女性はおし
ゃべり」というタイトルで、こう書いている(「脳のしくみ」日本実業出版社)。

「女性には、(脳の)右半球にも言語機能に関係する部位があるのではという考えが、生まれま
す。心理テストでも、言語機能の左半球への集中化の度合いが女性のほうが男性より少ない
ということが報告されています。
 (中略)
 さらにウェルニッケの言語中枢部分の神経細胞の密度を男女で調べた結果では、女性のほ
うが、その部分の神経細胞の密度が男性より高いという報告もあります。
 これらのことを総合すると、ハードウェア的にも、ソフトウェア的にも、女性のほうが、言葉を
理解するのに有利な状況にあることがわかります」と。

 たしかに子どもでも、概してみれば、男子より女子のほうが、ペチャペチャとおしゃべりするよ
うだ。もちろん男子にもおしゃべりな子どももいるが、声がかん高い分だけ、女子のほうがうる
さく感ずる。

 さて、私は、「♪お馬のけいこ」という話を聞いて、笑った。この種の話は、パクリ(他人の話を
盗んでくること)が多いが、これはオリジナルな話。それだけに笑った。「なるほど、お馬のけい
こか」と。私も子どものとき、ある歌で、「♪声かけた、声かけた……」と歌ったとき、「どうして、
肥えをかけるのか?」と思ったのを覚えている。私の田舎では、し尿を腐らせたものを、「肥え」
と呼んだ。肥料のかわりに使っていた。

 で、冒頭の話。私も、もう孫育ては、したくない。「かわいい」とは思うが、あまり孫育てにはか
かわりたくない。「コリゴリ」という気持ちになるかどうかは別にして、一か月もつきあったら、気
がヘンになると思う。まだ経験はないが……。
(030503)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(796)

北朝鮮

 北朝鮮の国家衛生検閲院(名前が、仰々しい!)のチェ院長は、こんな声明を発表した。い
わく、「強力な指導部を組織したので、SARSの感染者は北朝鮮では、一人たりとも、発生して
いない」(四月二九日)と。何でもあの北朝鮮では、SARS発生国からの帰国者は、そのまま一
〇日間、隔離しているそうだ(朝鮮日報)。

 しかし油断大敵。中国と北朝鮮の国境を越えて、SARSが北朝鮮に侵入するのは、時間の
問題。ウランバートルと天津も、今日(五月三日)、WHOによって、SARS感染地域に指定さ
れた。もし仮に、SARSが北朝鮮に侵入したら、北朝鮮は、さらに壊滅的な打撃を受けるに違
いない。食糧難で、北朝鮮の人たちの体力や抵抗力は、かなり落ちている。その上、医薬品も
ない。数年前だが、北朝鮮では、ガンすらも、赤チンで治療しているという話を聞いたことがあ
る。いくら医療費が、ただだからといっても、赤チンでガンを治療するとは!。

 しかしそれにしても、かわいそうなのは、北朝鮮の人たちである。金XXの独裁政治の犠牲に
なっている。大砲や戦闘機を買うお金があれば、食糧を買えばよい。が、金XXは、武器ばかり
買っている。が、北朝鮮の人たちは、独裁者の犠牲になりながら、犠牲になっていることにすら
気づいていない? 本気かどうかは知らないが、北朝鮮の人たちは、みな、「将軍様(金XXの
こと)のおかげ」と、何かにつけて、そう言っている。それはカルト教団の信者に似ている。指導
者の餌食になり、指導者のロボットになりながら、自分では、「まとも」と思い込んでいる。とこと
んお金をまきあげられながら、「幸福になった」と喜んでいる。

 こうした北朝鮮やその国の人たちをながめていると、本当にいろいろ考えさせられる。人間
自体がもつ弱さというか、もろさというか。あるいは盲点というか、欠陥というか。そしてさらに、
「では私たちはどうなのか?」と考えることによって、今まで気づかなかったことを、気づかされ
る。私のばあい、オーストラリアへ渡ったとき、「戦前における日本人の法意識」が、その研究
テーマだった。しかし結論は、「わからない」だった。「どうして日本人は、全体主義の中で、あ
あまで道を踏みはずしてしまったか」について、「わからない」だった。

 しかし皮肉なことに、それから三〇年。今の北朝鮮を見るとことによって、はからずも、それ
が「わかった」。「それ」というのは、「戦前における日本人の法意識」である。

 今の北朝鮮は、まさに戦前の日本そのものと言ってよい。心のどこかでは、「違うはずだ」と
思ってはみるが、しかし北朝鮮を知れば知るほど、戦前の日本そのもの。あるいは、どこがど
う違うというのか。

 だから私は、今の北朝鮮を見ても、どうしても笑うことができない。「君たちはまちがっている」
とも、言えない。戦後のどこかで、日本が戦前の日本を反省していれば話も違ってくるが、日本
自身は、それをしていない。していないばかりか、今でも、「戦前の日本は正しかった」と主張す
る人は多い。そういう現状の中で、今、私たちは、どうしてあの北朝鮮に向かって、「君たちは、
まちがっている」と言うことができるだろうか。

 「強力な指導部を組織したので、SARSの感染者は北朝鮮では、一人たりとも、発生してい
ない」と、虚勢を張る北朝鮮。それがあまりにも虚勢に見えるから、おかしい。そして悲しい。
「もう、バカな虚勢を張るのは、およしなさい」と言いたいが、そんな声など、彼らには絶対に届
かない。最後の最後まで、虚勢を張り、その虚勢の重みに耐えかねて、やがて崩壊するだろ
う。どこまでもあわれで、かわいそうな国なのである。あの北朝鮮は……。
(030504)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(797)

ほどほどの人生

 何ごとも、極端というのは、よくない。何ごとも、ほどほどに。それが結局は、常識というもので
はないか。

 昔、マザーテレサという女性が、世界中で騒がれていたころのこと。私はふと、こんなことを
考えた。「もし、私の息子が、インドへ行き、マザーテレサと同じ仕事をしたいと言いだしたら、
私は親として、それに賛成するだろうか」と。

 このつづきを話す前に、利己と利他という言葉がある。利己は、利己主義、利他は、利他主
義となる。利己主義と利他主義は、一見、正反対に見えるが、その実、違いは紙一重。方向性
が逆なだけである。だからその人が利己主義だからといって、その人を責めることもできない
し、反対に、その人が利他主義だからといって、その人をほめることもできない。要は、極端で
なければ、それでよいということ。人というのは、ときに利己主義的になったり、またときには、
利他主義的になったりしながら、生きている。

 そこでもう一度、マザーテレサについて考えてみる。マザーテレサは、徹底した利他主義者と
言ってもよい。自分の財産と言えるものは、サリーとバケツ一個だけだったという。あとはすべ
て貧しい人たちのために、付与してしまった。そういう点では、マザーテレサは、徹底した、つま
り極端な利他主義者ということになる。

 そこで問題は、何がマザーテレサをして、そうまで徹底した利他主義者にしたかだが、それに
は、彼女自身の信仰がからんでくる。マザーテレサは、神の教え(?)に従い、すべてをなげう
った。それはわかる。しかしそうした信仰性は、何もマザーテレサだけに限ったものではない。
言うまでもなく、ここでいう信仰性は、今度は、狂信性とまさに紙一重。同じころ日本中を騒が
せていたカルト教団の信者の中にも、家族やすべての財産をなげうって、信仰に埋没した人
は、いくらでもいる。そういうカルト教団の信者と、マザーテレサとは、どこがどう違うというの
か。またどこでどのように線を引けばよいのか。……ということになってしまう。

 もちろんだからといって、マザーテレサを批判しているのではない。マザーテレサは、まさに
神の領域に入った人である。私たち凡人をはるかに超越した人である。実際、マザーテレサに
よって心を救われた人は、数知れない。私たちはときとして、恵まれた立場で、ちょうど空から
地上を見るようにして、不幸な人を見る。しかしこうした見方では、地上で、はいつくばるように
して苦しんでいる人の心までは、理解できない。しかしマザーテレサは、その地上で、自ら、は
いつくばりながら、苦しんでいる人を救った。

 が、それでも、何か、心にひかかる。それが最初の問題である。「もし、私の息子が、インドへ
行き、マザーテレサと同じ仕事をしたいと言いだしたら、私は親として、それに賛成するだろう
か」と。

 私は、一応、「ノー」と答えるだろうと思う。強制はしないが、そう言う。そして多分、そのあと息
子にこう言うだろう。「人を救う道は、いろいろある。決して、一つではない。ただ大切なことは、
極端にならないこと。人は、いつも、ほどほどのところで生きている。バランスをとりながら、生
きている。過去においても、そうだった。これからも、そうだ。ほどほどの人生の中で、その目
的を見出すところに、生きる価値がある。釈迦も中庸(ちゅうよう)という言葉を使って、それを
説明している」と。

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「マザーテレサは、マザーテレサよ。あの人はすばらしい人よ。それでいいのじゃ、ない」と。

 簡単に言えば、そういうことか。人は、人、それぞれ。みな、自分の道を懸命に生きている。
私も、あなたも。ワイフはこうも言った。「私たちは私たちで、常識を大切にしながら、懸命に生
きれば、それでいいのよ」と。「それは、ぼくの言葉だ」と言うと、ワイフは、「そう?」と言って笑
った。

 むずかしいことではない。私たちの心の中には、その常識が、すでに宿っている。あとはその
常識に、静かに耳を傾ければよい。人に親切にしたり、やさしくすれば、心地よい響きがする。
人をだましたり、意地悪したりすれば、いやな響きがする。それが常識。私たちは過去数十万
年もの間、その常識に従って生きてきた。もし仲間をだましたり、殺したりするのが楽しかった
ら、人類は、とっくの昔に絶滅していたことになる。今、ここにこうして私たちがいるという事実そ
のものが、私たち人間が、生きる価値のある、正しい常識をもった生き物という証拠そのもの
に、ほかならない。体が進化するように、その数十万年という時の流れの中で、心も進化を重
ねてきた。その結果が、今なのだ。

 言いかえると、あなたのまわりで、もし極端な生き方をしている人がいたら、そういう人は、ま
ず疑ってかかってみてよい。たとえば「修行」という言葉がある。好んで、凍るように冷たい滝の
水に打たれてみたり、好んで、燃えさかる炎の上を歩いてみたり。そういうことをしたからといっ
て、真理に到達できるというものではない。またしないからといって、真理に到達できないという
のでもない。私たちがもとめる「真理」というのは、ひょっとしたら、私のたちのすぐそばにあっ
て、私たちに見つけてもらうため、息を潜めて静かに待っている? 私にはよくわからないが、
今は、そう思う。

 ほどほどの人生を恥じることはない。ほどほどの人生であることを、悲しむことはない。むし
ろ、ほどほどの人生であることは、すばらしいことなのだ。朝、目をさます。窓から、白い朝の陽
光が目の中に飛びこんでくる。どこかぼんやりとした目を軽くこすりばがら、時計を見て、「もう
少し……」と思って、目を閉じる。しかしやがて目覚ましが鳴って、「起きなければ……」と思い
つつ、腹の底にぐいと力を入れる。そういう日々の繰り返しの中に、私たちがさがし求めてい
る、真理が隠されている? 反対に、もしそういう人生が無意味だというのなら、人間は過去、
数十万年もの間、何のために生きてきたのかということになる。さらに私たちの身のまわりに
生きる、ありとあらゆる命は、何のために生きているかということになる。

 まだまだ書きたいことはあるが、今日は、ここまで。この先は、またの機会に書いてみたい。
(030505)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(798)

浜松祭り

 五月五日の夕方。予定どおりに、浜松祭りを見るために、街まで行った。そしてこれまた予定
通りに、デジタル写真をたくさんとった。友人や息子たちに送るためである。

 太鼓の音は、いつ聞いても、胸を躍らせる。ほかの楽器にはない、不思議な響きがある。何
というか、眠っていた野生の本能をたたき起こすかのような、響きである。そういう太鼓や、そ
れにラッパの音に合わせて、大群衆がかけ声とともに、行軍する。私などはもう慣れたほうだ
からそういうことはないが、はじめてみた人は、その迫力に圧倒されるに違いない。

 帰りに、ワイフと二人で、Hという店で、焼きそばを食べた。それに明日、ある友人を訪問する
ことになっているので、その手土産(みやげ)を買った。家を出るときは、どこかのどが痛くて調
子が悪かったが、祭りの迫力で我を忘れたせいか、家に帰ってきたときには、かえって調子が
よくなっていた。これも祭りのおかげ?

 二〇代のころは、よく祭りに出た。しかしその中でも、一番楽しかったのは、一〇人くらいの
グループで、勝手に、町内を練り歩いたこと。浜松市の北西部から、南西部まで、ほぼ市内を
縦断するように、練(ね)ったことがある。「練る」というのは、このたりの言葉で、「ワッセ、ワッ
セ」とかけ声をかけながら、独特の歩き方で歩くことをいう。

 途中、ラブホテルを見つけると、そのラブホテルの周囲をぐるぐると回ってみたり、関係のな
い町内の屋台の周辺を練ってみたりした。リーダーをしてくれたのは、今はなくなったが、Iさん
という男だった。一度、台風が浜松へやってきたとき、夜中に、私のアパートに助けにきてくれ
たことがある。いい人だった。

 あと覚えているのは、その翌日は、声はガラガラ、体中、筋肉痛でゴチゴチになっていたこ
と。が、今は、そんなふうにして勝手に練ることはできないらしい。それがよいか悪いかは別に
して、今の浜松祭りには、昔のような野生臭さは、ない。おそろいの衣装に、提灯。それに腕に
は、許可証まで縫いこんでいる。各町内の先頭には、無線機をもった男が立ち、そのつど、ど
こかと連絡を取りあっている。祭りといえば、祭りだが、どこかもの足りない。そう感じているの
は、私だけだろうか。

 明日から、また仕事。連休は、かくして無事、終わった。今年も、どこへも旅行には、行かな
かった。行きたくもなかった。連休中は、どこへ行っても割高だし、それに混雑している。だから
私のばあい、自宅で静かに過ごすことにしている。

 ……ということで、今日の日記は、これでおしまい。そうそう祭りを見ていて、もう一つ、感じた
ことがある。「ああ、私の世代は、もう終わった」と実感したこと。祭りで見る人は、見知らぬ若
い人ばかり。そういう人たちが、元気いっぱい、練っているのをみると、どんどん自分が、ワキ
に追いやられていくように感じた。
(030505)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(799)

●短い瞬間

 オーストラリアの友人のR君が、「作者不詳」として、こんな詩を送ってくれた。訳は、私が感じ
たまま、つまり原文を読んで感じたまま、直感でつけた。どうか「誤訳」と、笑わないでほしい。

I read of a man who stood to speak
  At the funeral of a friend
  He referred to the dates on her tombstone
  From the beginning to the end.

友の葬式の日、皆の前で、
私は、追悼の言葉を述べた男の話を読んだことがある。
その男は、その女性の、生まれた日と、
死んだ日について、話した。

  He noted that first came her date of birth
  And spoke the following date with tears,
  But he said what mattered most of all
  Was the dash between those years.

その男は、彼女が生まれた日付を言った。
そして涙ながらに、つづく死んだ日付について話した。
しかし、誕生と死の間の
その時の流れの、何と短いことよ。

  For that dash represents all the time
  That she spent alive on earth...
  And now only those who loved her
  Know what that little line is worth.

その日付から日付までが、すべての時を表し、
彼女が、この地上で生きたことを示す。
いまや彼女を愛した人たちのみが、
その一行に、彼女のすべての価値を知る。

  For it matters not how much we own;
  The cars ... the house ... the cash,
  What matters is how we live and love
  And how we spend the dash.

どれだけ私たちがもっているか。
車や、家や、お金にせよ、そんなことは問題ではない。
大切なことは、いかに生きて、いかに愛して、
その短い瞬間を、どう過ごしたか、だ。

  So think about it long and hard
  Are there things you'd like to change?
  For you never know how much time is left,
  That can still be rearranged.

だから深く、静かに考えてみたらよい。
あなたには、変えたいものがあるか、と。
残された時間は、あまりにも少ない。
やりなおしがきくのは、今しかない。

  If we could just slow down enough
  To consider what's true and real,
  And always try to understand
  The way other people feel.

何が真実で、何が本物か、それを考えるために、
ほんの少しだけ時間をスローダウンすしてみるがよい。
そしていつも、ほかの人たちの感じ方を
理解してみるがよい。

  And be less quick to anger,
  And show appreciation more
  And love the people in our lives
  Like we'd never loved before.

怒りを鎮めよ、
もっと人に愛を示せ、
私たちの人生の中の人々をもっと愛せよ、
私たちが愛されたことがないほどまでに人を、愛せよ。

  If we treat others with respect
  And more often wear a smile...
  Remembering that this special dash
  Might only last a little while.

ほかの人を敬うなら、
そしてもっと微笑むなら、
この短い瞬間は、もう少しだけ、
長くつづくだろう。

  So when your eulogy's been read
  With your life's actions to rehash...
  Would you be proud of the things they say
  About how you spent your Dash?
  (Author Unknown)

あなたを作り変えるなら、いつか、あなたの葬儀で、
あなたの賛美が読まれるとき、
彼らが口にすることを、あなたは誇りに思うだろう。
あなたがその短い瞬間をどう過ごしたかについて……。
(作者不詳)

 当然のことながら、詩の翻訳ほど、むずかしいものはない。そこでこの作者には悪いが、この
詩を読んで、私が感じたままを、私の感覚で、詩にしてみる。うまくできるかどうかはわからない
が、やってみる。

●短い瞬間(改作)

墓石に、刻まれし
生年月日と、享年月日。
その一行の、何と重いことよ。
それがその人の人生の、すべて。

一人の男が、皆の前に立ち、
その墓石の日付を、
涙ながらに、
悲しみをこめて読んだ。

名誉や地位や財産に
どれほどの意味があるというのか。
大切なことは、いかにその人が、
自分の人生を生きたか、だ。

愛する者よ、愛されし者よ、
あなたが愛された以上に、
人を愛せよ。
さらにさらに、人を愛せよ。

何と、人生の短きことよ。
何と、人生のはかなきことよ。
今、変わらずして、
あなたはいつ変わる?

人をうらむな、
人を怒るな、
ほんの少しだけ、
心を許して、あとは忘れよ。

やがていつか、人が
あなたの墓石の一行を読むとき、
あなたは、その人たちの心を、
暖かく包むであろう。
 (作者不詳の英詩を改作)

 (030505)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(800)

錯誤行為

 人は、ときとして、思ってもみないことを、言ったり、したりする。言ったり、したあと、どうしてあ
んなことを言ったのだろうと悔やんだり、あるいは、どうしてあんなことをしたのだろうと悔やん
だりする。とくに、夫婦や、親子の間では、それがよく起こる。

 心理学の世界では、これを「錯誤行為」と呼ぶ。日本語にも、「ついポロリと本音が出てしまっ
て……」というのが、ある。それである。が、私のばあい、このところ、その「ポロリ」が多くなっ
た?

 で、子育てでは、いつもこの錯誤行為がついてまわる。よくあるケースは、「頭の中ではわか
っているのですが、ついその場になると……」というのである。「先生の話を聞いていると、そう
いうときは、そうしなければならないとわかっているのですが、つい、カーッとなってしまって…
…」と。

 これは(そうでなくてはいけない)という自分と、(そうあってほしい)という自分が、頭の中で、
人格を混乱させるために起きる現象と考えると、わかりやすい。もう少しわかりやすい例で考え
てみよう。

 相手の老人は、このところ体調が悪いようだ。年齢も八五歳だという。顔色も悪い。歩くのや
っとという感じである。そういう老人と、しばらく話し込み、帰りぎわ、「長い間、おじゃましました」
と言うつもりだった。が、頭の中で、どこがどう混信したのか、私は「長生きをして、おじゃましま
した」と言ってしまったことがある。とっさに言いなおしてはみたが、バツの悪さは消えなかっ
た。

 これはその老人のことを、内心ではよく思っていないことが原因と考えてよい。その老人の息
子(五〇歳)から、いつもその老人の悪口を聞いていた。わがままで、いばっていた。あらかじ
め与えられた情報が、私の頭のどこかにあって、それが「長生きをして、おじゃましました」とい
う言い方になってしまった? つまりこれがここでいう、錯誤行為ということになる。

 こうした錯誤行為は、当然のことながら、気が緩んだときに、起こりやすい。それにもう一つ。
年齢とともに、自分をコントロールしようとする気力が弱くなる。その気力が弱くなっても、錯誤
行為は起こりやすい。ほかに緊張がつづいたようなとき。疲れたようなときなどにも起こりやす
い。

 さらに問題はつづく。「ポロリと本音が出る」というのは、「ボロが出る」ということにもなる。年
齢とともに、自分をごまかそうという気力が薄れ、ボロが出やすくなる。いくら善人ぶっていて
も、中身が中身なら、いつまでも人を欺(あざむ)けるものではない。私は、このところ、それが
気になってしかたない。

 私は、もともと素性があまりよくない。気が小さくて、小ずるい。忠誠心もないし、人には心を
開かない。謙虚はふりをしているが、野心満々。誠実なふりをしているが、邪悪な自分を押し
殺すのが精一杯。情緒は不安定だし、精神力も、弱い。そういう私が、必死になって、虚勢を
張って善人ぶっている。

 もっとも善人ぶることぐらい、簡単なことはない。さも知ったかぶりの顔をしながら、にこやか
な笑みを浮かべていればよい。瞬間だけなら、私だって、世界の哲学者らしく演ずることはでき
る。しかしそういう自分は、長つづき、しない。

 同じように、今は、一応、善人で通っている。もちろん犯罪歴はないし、金銭で人に迷惑をか
けたことはない。しかし私の限界はここまで。そういう自分が、これから先、ボロを出す。シッポ
を出す。化けの皮がはがれる。私は、それがこわい。つまり錯誤行為がこわいのではなく、錯
誤行為によって、自分がさらけ出されるのが、こわい。

 私は気がつくのが遅すぎた。もっと早い時期に気づいていれば、もう少し何とかなったかもし
れない。だから私が予想する、私の老後は、実に悲惨なものだ。友もいなく、目的もなく、積み
重ねてきた実績も誇りもなく、ただ孤独の世界で、静かに死を待つだけ。それが今、すぐそこに
見える。私にとって、「錯誤行為」というのは、そういう意味では、切実な問題なのである。
(030506)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(801)

転移

 以前、こんなことがあった。

 そのとき私は、ある男と、かなりはげしく対立していた。ワイフも巻き込んだ、大騒動になって
いた。そのときのこと。その男はブルーの大型車に乗っていたのだが、街を歩いていて、ブル
ーの大型車を見かけるたびに、ぞっとしたのを覚えている。もちろんブルーの大型車など、いく
らでも走っている。その男の車ではないとわかっていても、どういうわけか、ぞっとした。

 こういうのを心理学では、「転移」と呼ぶ。一つの感情が、まったく別のときと場所で、本人の
意思とは関係なく、同じような条件が重なったとき、再現されることをいう。ただし再現といって
も、本人には、その意識は、ほとんどない。もう少し深刻な問題では、こんなことがある。

 ある男性(四五歳)は、どういうわけだか、結婚できなかった。まわりの人がいくらすすめて
も、結婚できなかった。縁談の話まではいくつかあったが、いつもその直前で、破談になってし
まった。同性愛者ではなかったが、しかし女性に対して、原罪的な恐怖感をもっていた。その男
性は、こう言った。「性欲はふつうにあるのですが、どうしても女性を抱くことができない」と。

 彼が結婚に踏みきれなかった原因は、実は母親にあった。母親は、当時としては珍しい女性
議員で、市議会でも先頭に立って、はげしい政治活動をしていた。恐らくその男性は、そういう
母親をみて、自分の中にゆがんだ女性像をつくってしまったに違いない。その男性は、こうも言
った。「ぼくには、ロリコン趣味があります。おかしいでしょう」と。女性恐怖症の男性が、ロリコ
ンになりやすいことは、心理学的にも証明されている。

 しかしこうした現象も、「転移」という言葉で説明できる。その男性は、女性をまじかにしたと
き、その女性の中に、子どものころのきびしい母親を思い出していたのかもしれない。あるい
はもっとほかに、乳幼児のある時期に、具体的な何かがあったのかもしれない。女性への恐
怖心だけではなく、憎しみや、嫌悪感など。「女性の太い腕を見るとぞっとする一方、女性の大
きい尻で、思いっきり顔をおさけつけてもらうと、気持ちがいい」とも言った。感じ方が、かなりマ
ゾ的であった。

 こうしたケースでは、実際に、その男性が、女性に対して恐怖感なり、嫌悪感を覚えていると
きに、「子どものころ、同じような思いをしませんでしたか?」というような誘導のし方で、その人
の深層心理をさぐる。そしてその男性が、「そう言えば子どものころ……」というような話をすれ
ば、しめたもの。まず、心をゆがめた原因が何であるかを、本人自身に気づかせること。それ
が、治療の第一歩になる。

 もちろん反対の転移もある。これは厳密な意味での転移と言えるかどうかは別にして、私に
は、こんな経験がある。

 私は今でも、パソコンのキーボードを見ると、何とも言えないなつかしさがこみあげてくる。そ
うした思いは、実は、中学二年生のときにつくられた。私は念願のタイプライターを買ってもら
い、毎日、それをピカピカにみがいて大切にしていた。だからよく人の話として聞くような、つま
りキーボードに対する恐怖症のようなものは、私にはない。

 言いかえると、こうした転移、もしくは転移に似た心の現象をうまく利用すると、子どもを、じょ
うずに導くことができる。要するに子どもの中に、前向きな姿勢を育てるということになるが、そ
れが子どもを伸ばすための最大のコツということになる。
(030506)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(802)

崩壊する北朝鮮

 朝鮮日報(韓国系報道新聞社)は、北朝鮮について、詳細な情報を報道している。それをま
とめると、つぎのようになる(「北朝鮮レポート」)。

●北朝鮮の飢餓状態は、九〇年後半の状況に似てきた。
●農民市場の米価格は、以下のように、上昇している。
    02年 7月……1キロあたり、44ウォンに設定(経済改善管理措置)
    03年はじめ、1キロあたり、120〜150ウォンに上昇
    03年 4月……1キロあたり、230ウォンに上昇
  (一般勤労者の一か月の平均給与は、2000〜2500ウォン)
●ハムフン市では、軍需産業で働く労働者以外、米の配給は停止されている。軍需工場以外
の労働者は、給料も支払われていない。
●金日成の誕生日(4月15日)にも、例年なら、肉1キロ、サラダ油1キロ、酒1ビン、タバコ5
箱、卵一人一個、アメ1袋が配給されたが、今年は、ピョンヤン以外では、配給は停止されて
いる。
●やせたコッチェビ(浮浪少年)が、地方の駅周辺に多数たむろしている。
●数か月以内に各国からの食料援助がなければ、今年も数十万人もの餓死者が出るものと
予想される、と。

現在、北朝鮮の食糧事情と経済事情は、深刻というレベルを超え、悲惨な状態になっているら
しい。餓死者が数十万人いるということは、その周辺に、その予備軍とも言える人たちが、一
〇倍はいるということになる。一〇倍の数百万人となれば、全人口の数割ということになる。そ
れだけではない。その周辺では、モラルや秩序の崩壊も起こる。こんな「地上の楽園」が、どこ
にある?

 ……と言いつつ、どういうわけか、同情心があまりわいてこない。そのかわり、へたに金XXを
援助すれば、こういう状態を長引かせるだけという思いが強い。むしろその一方で、「北朝鮮の
人たちのためにも、早くこういう状態を終わらせなければ」と願う。そのためにも、どうせ兵糧攻
めにするなら、世界が掛け声を合わせて、一、二の三!、で終わらせるのがよい。数か月の飢
餓状態なら、人は耐えられるが、数年となると、そうはいかない。

 それにしても、やっかいなことになった。すなおに「助けてください」と言えばよいものを、反対
に、核兵器で世界を脅している。それだけではない。彼の意に反した人を、金XXは、つぎつぎ
と処刑しているという。そしてその数は、一説によると、数十万人以上と言われている。とんで
もない独裁者である。救いようがないバカというのは、ああいう金XXのような人間を言うのだろ
う。私は神ではないが、もし神なら、ああいう人間を、まっさきに地獄へ落とす。

 唯一、救いなのは、表向きはどうであれ、中国がアメリカに同調し始めたこと。韓国の動き
は、このところ迷走しているが、少なくとも、アメリカは韓国を見放し始めた。「韓国がどう思うと
も、やるべきことはやる」というのが、アメリカの姿勢らしい。アルゼンチンについで、西側で最
大の反米国家の韓国を、命をかけて守らなければならない義務は、アメリカにはない。アメリカ
の政府高官たちも、それに気づき始めた。

 問題は、私たちの国の日本だ。このままズルズルと先延ばしすればするほど、ことは、複雑
になる。さりとて、今すぐ、何かができるわけではない。だれだって戦争はいやだし、したくな
い。そこで一番望ましいのは、北朝鮮の人たちが、心を開いてくれること。もちろん日本人の私
たちに、北朝鮮を侵略する意図など、毛頭ない。もし日本のどこかに、そういうアホなことを計
画する人がいたら、この私が許さない。そういうことを、何らかの方法で、北朝鮮の人たちに直
接、伝える方法はないものか。

 ……とあれこれ考えるが、どれもこれも袋小路に入ってしまう。そして北朝鮮の現状を知れば
知るほど、北朝鮮がかかえる問題というよりは、人間自体がかかえる問題に、行きづまりを覚
えてしまう。人間の愚かさというか、限界というか、そういうものを感じてしまう。

 さあ、どうするか。近く、アメリカのブッシュ大統領と、韓国のノムヒョン大統領の会談がある。
とりあえずは、それに注目したい。もしこの会談で、米韓の決裂がはっきりすれば、日本は、そ
れなりの覚悟をするしかない。ノムヒョン大統領が、どこまで現実を認識するかにかかっている
が、それはあまり期待できない。ノムヒョン大統領自身は、アメリカよりも、北朝鮮により近い。
「同胞」だからしかたないにしても、考えようによっては、韓国と北朝鮮をまとめて、北朝鮮と呼
んでもよいのかもしれない。もしそうならそうで、日本にとっては、ますますやっかいなことにな
る。はからずも、アメリカの高官たちは今、日本にこう言っている。「日本も、いつまでもアメリカ
に頼っていないで、自分で準備せよ」と。しかし残念ながら、今の日本には、その準備どころ
か、その危機感すら、ない。
(030507)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(803)

竹は、木か、草か?

 私の家の周辺には、たくさんの空き地がある。その一角に、竹やぶがある。今ごろの季節に
は、竹の子が取れて、それなりに役には立っているが、しかこのところ、その竹やぶの竹がふ
えすぎた。家の敷地のすぐ横まで生えてきて、風の強い日には、壁をこするようになった。そこ
で切ることにしたが……。

 もし雑草なら、何の迷いもなく、刈る。しかし竹となると、そうはいかない。一応、隣人に許可
を求めなければならない。しかし隣人は、遠くに住んでいる。その上、高齢。

 近所の人に相談すると、「勝手に切ってもいいじゃないの」と。思い悩んでいたら、たまたま、
その隣人の弟という人に出会ったので、「切ってもいいですか?」と声をかけると、「どうぞ、どう
ぞ」と。そこで竹を少し切ることにしたが、しかしどういうわけか、抵抗を感じた。冒頭に書いた
ように、雑草を刈るのとは、かなり感覚が違う。しかし毎年、少しずつでも切っていかないと、竹
というのは、どんどんふえる。いくら許可をもらったからといって、地主の弟だ。もし文句を言わ
れたら、どうしょう? ……と、そこまで考えてしまった。

 そこで改めて考えてみる。竹は、木か、それとも雑草か、と。法律的には、所有権になじむ立
木(たちぎ)か、それとも所有権になじまない雑草かということになる。

 もし竹やぶの竹を、意図的に栽培し、商業ベースで伐採、販売していれば、まちがいなく「立
木」ということになる。勝手に切り倒すことは、それ自体、財産権の侵害行為になる。しかしこの
あたりの竹は、ほとんどが、自然発生。地主の弟も、そう言っていた。となると、雑草ということ
になる。雑草ということなら、いくら切っても、罪にはならない。むしろ感謝されるはず。

 そこで私はこう考えた。まず切り倒した竹は、そのまま、そこに並べておく。もち帰ったりしな
い。また一応、弟という身内の人の許可はもらっているので、何か問題が起きたら、その旨、
相手に伝える。「弟さんが、いいと言ってくれましたので」と。しかし近所の人は、私が無断で切
っていると思うかもしれない。「あの林は、地主が遠くに住んでいることをいいことに、勝手に竹
を切っている」と。そういうふうに誤解されるのもいやだ。

 ……と考えながら、家の周囲の竹を、何本か切ったが、どうも、気がひける。心の中で、「雑
草だ、雑草だ」と念じても、その声がどこかへ消えてしまう。やはり、竹というのは、木なのか。
どうも心の中が、すっきりしない。
(030507)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(804)

老子の道徳経を読む

 恩師のK先生(医学博士)が、老子を読むようにと手紙で、勧めてくれた。K先生は、今年、八
四歳になる。健康であるとはいえないが、その年齢の人にしては、元気。思考能力もしかっりし
ている。K先生は、手紙の冒頭で、老子道徳経のつぎの一節をあげた。

人を知る者は智、自ずから知る者は明。 
人に勝つ者は力有り、自ずから勝つ者は強し。 
足るを知る者は富み、強(つと)め行う者は志有り。 
其の所を失わざる者は久しく、死して亡びざる者は寿(いのちなが)し(第三三章)。

 K先生は、とくに『死して亡びざる者は寿(いのちなが)し』のところに注目し、その一例として、
釈迦をあげた。「現在になっても、釈迦の誕生日を祝うということが、命、長しの意味だ」と。ま
たK先生の手紙には、こうあった。

 「開巻第一に飛び込んできたのは、『死して亡びざる者は寿(命、長)し』という言葉であった。
『老子眞解』の著者、志賀先生もこの王弼(おうひつ)注老子道徳経の、この一語に心が惹か
れたと、述懐しておられる。

 第一章から入ると、道の道とすべきは、常の道に非ずという句があり、私はいきなり一撃をく
らった形になり、先へ進むことができなくなった。無名は転地の始、有名は万物の母、凡て有
は皆、無から始まる。このあと、常無欲、常有欲、更に玄となり、妙となり、無為と議論がつづく
が、私自身は理科出身で、漢学の意味もよく理解できず、論理学の素養もなくて、よくわからな
い」と。

 私は、老子に触れるのは、これがはじめて。常識程度には知っていたが、それはあくまでも
常識。まったくの門外漢と言ったほうが正しい。しかし、だ。五五歳にして、はじめて老子を精読
することになろうとは! 道徳経は、三七章まである。分量は、それほど多くないから、解説書
を頼りに、ざっと読むだけなら、一時間もかからない。私は道徳経を読みながら、その内容もさ
ることながら、「私は何をしてきたのか?」という思いにかられた。

 この世の中には、当然のことだが、私が知っていることより、知らないことのほうが、はるか
に多い。もちろんその大半は、知る必要もない、愚劣なことばかり。が、しかし中には、そうでな
いものもある。時間というのが無限にあるなら、愚劣なことに時間を費やすのも悪くない。が、
時間にかぎりがある今、愚劣なことで時間を無駄にするヒマはない。……と、まあ、そんなふう
に考えながら、自分なりにがんばってきたが、それにしても、こうまで知らないことがあったと
は! 道徳経を読みながら、その内容よりも、私は、むしろそちらのほうに、驚いた。

 そう、私は、こう思った。老子の道徳経を読むのは、恐らく人生において、これが最初で最後
になるだろう、と。これから先、老子の研究家になるというのなら、話もまた違ってくるが、私に
はそのつもりはない。ここで老子を読んで、もしこの先、時間があれば、孔子から順に、ほかの
思想家の思想に触れてみたい。そういう思いは、たとえて言うなら、無数の本を前にして、ある
本の第一ページを読み始めたようなものだ。同じ本を読みかえすような時間があったら、でき
るだけ別の本を読んでみたい。

 私はT先生の手紙を、一言一句、パソコンで打ちなおした。大切な文章を精読するには、これ
にまさる方法はない。またそのほうが、記憶にもよく残る。永久に保存できる。で、あとで見た
ら、A四用紙、四〇字かける三六行の分量で、六ページもあった。

 もちろん老子のような世界的な思想家のすべてを、たった一日で理解することなど、不可能。
それは、よくわかっている。しかし今、それくらいのペースでしても、私は死ぬまでに、世界の思
想の、何万分の一にも到達できないだろう。何億分の一かもしれない。だから今夜、私は、K
先生の手紙と同時に、道徳経を真剣に読んだ。

 K先生の手紙を、ここに引用する。

 「第三十章、三十一章において、戦争について老子の教えが書かれていることに、私は興味
をもった。老子が生きた時代は、だいたい二千五百年前にさかのぼる。時代的には周末、春
秋戦国時代と考えられている。

 周王室の権力が、しだいに衰退して、諸侯が天下を争って、戦争を繰り返していた時代でも
ある。最近の国どうしの戦争とくらべると、小さいかもしれないが、紛争を武力によって解決しよ
うとする考え方は、同じである。

 老子の無為自然の道の考え方に反しているという点では、同一である。老子の言葉を、少し
引用させていただく。

以道佐人主者、不以兵強天下。
其事好還。
師之所処、荊蕀生焉、
大軍之後、必有凶年。
善者果而已、不敢以取強。
果而勿衿、果而勿伐、
果而勿驕、果而不得已、果而勿強。
物壮則老。
是謂不道。
不道早已。
  
 著者の全訳をお借りして、わかりやすく言えば、つぎのようになる。

「この道で、人君を輔ける者さえ、武力で天下を強くしない。その為すところは、為為に還る。戦
争で田畑が荒れ、いばらが生える。大戦争のあとには、必ず凶作の年がある。善く戦争をする
者は、難を救うことだけで、あえて強くなろうとしない。難を救うも、驕(おご)り高ぶらない。武力
の暴気起は一時的なもので、この道は早く止む。

 戦争によって多くの人が死亡し、負傷する。工場や農場生産物が失われことも大きく、戦争
によって失われる損害は、はかり知れない。東西の歴史書を見れば、有史以来、戦争は絶え
間なく行われている。そして住民は、すべて平和を願っている。

 老子より少し遅れるが、ヨーロッパでも同じように戦争が行われている。ローマ帝国でも、アク
チウムの海戦で、オクタビヤヌスが勝利し、ローマに凱旋したとき、ローマ市民は平和になった
ことを歓喜して迎えた。

 これから永久に戦争のない時代になったと言って、平和の祭壇を捨てて喜んだという。しかし
これも、内乱につぐ内乱によって、いつの間にか、こわされてしまったということを、何かの歴史
の書で読んだことがある。

 老子でなくても、誠に悲しい人間の宿命ではないだろうか」と。

 若いときには、時間は、永遠にあると思うもの。それは貯金に似ている。どんな人でも、生ま
れたときには、億万長者。使っても、使っても、使いきれない。しかし四〇歳、五〇歳となってい
くと、その貯金が、急速に減り始める。ある日気がついてみたら、残高が、ほとんどゼロに近い
ということもある。とたん、焦燥(あせり)と、悔恨(こうかい)が、どっと心をふさぐ。「急がなけれ
ば」という思いと、「時間をムダにした」という思いが、交互にやってくる。

 もしこの文を読んでいる人が若い人なら、今からでも早すぎることはない。早すぎることはな
いから、今日から真理の探究を始めたらよい。まさに『少年、老いやすく、学、なりがたし』(朱
子、1130−1200)である。

(参考)
少年老い易く
学成り難し
一寸の光陰
軽んずべからず
未だ覚めず
池塘春草の夢
階前の梧葉
已に秋声
(030508)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(805)

教室の改造

 今日は、Tレンターカー会社で、小型トラックを借りてきた。大きなテーブルを運ぶためであ
る。レンタル料は、六時間で、六〇〇〇円。プラス消費税と、ガソリン代。

 テーブルを、今度、教室で、私の机として使うことにした。大のおとな六人が、ゆったりと座れ
るほど大きなテーブルだ。しかし今では、無用の長物。それで、教室で使うことにした。そのテ
ーブルを運びながら、ワイフと、こんな会話をした。

私「生活には、こうした緊張感が、必要だね」
ワ「私たちには、このところ、こうした緊張感が、なかったわね」
私「そういう意味では、ラッキーだったのかな?」
ワ「そうね、みんな健康だったし、大きな問題もなかった」
私「あるフランスの哲学者は、『平凡は美徳』と言っている」
ワ「平凡であることには、すばらしい価値が隠されているということね」
私「そうだね。しかし問題がないわけではない。その時点で時間が止まってしまう」
ワ「でも、それは、ぜいたくな悩みよ」

 ここでいう「緊張感」というのは、あれこれ前向きに、考えたり、準備したりすることをいう。た
だその日を無難に過ごそうと思えば、それは決してむずかしいことではない。しかしそういう生
活が長くつづくと、どこかだらけてくる。そのだらけが、どこか時間を停滞させる。

 そこで教室の改造ということになった。本当は、ほかにいろいろ理由があったが、結果的に、
そうなった。とたん、忘れかけていた緊張感が、どっと押し寄せてきた。やらなければならない
ことが、たくさんできた。明日は、F市で講演だが、あさっては、机やイスを、家具店で買ってこ
なければならない。自前で作ることも可能だが、もうそれだけの体力はない。丸ノコを操作した
り、電気カンナを使うのは、結構、たいへんだ。それにビスを手でしめるのも、だ。

 が、本音を言えば、どこか自信がない。「本当に改造できるのだろうか」という迷いがある。以
前の私は、もっと自信家で、こわいもの知らずだった。そのことは木を登るときにも感じた。子
どものころは、木登りがうまく、一〇メートル近い木でも平気で登ったりした。しかしつい先日、
あることで山荘の前の木に登ろうかと考えたときのこと。どうしても、それができなくなってしまっ
た。「体がついてくるだろうか」「腕だけで、木にぶらさがれるだろうか」などと考えているうちに、
木に登れなくなってしまった。つまり、自分に自信がなくなってしまった。

 しかしやるしかない。生徒たちには、「今度、大改造する」と、宣言してしまった。みんな、「ビ
フォー、アフターだ」と楽しみにしている。最近、テレビなどで、家の改造番組が、よく紹介されて
いる。生徒たちは、それを言った。

 そんな今日(五月八日)、教室へ二人の親が、見学にやってきた。うれしかった。教室に入る
かどうかは、まだわからないが、しかしこうした動きが、ふと、私の気力を呼び戻してくれる。「よ
うし、がっかりさせないぞ!」と。

 BW教室のみなさん、これからも、よろしくお願いします。
(030508)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(806)

ことわざ

 いろいろなことわざがある。「ことわざ辞典」を、パッとめくり、「ナ」の項を見ただけでも、ズラ
リと出てくる。その中の最初の三つ。

なせば成る……その気でやれば、できないことはない。
何もが辛抱……どんなことをするにも、辛抱が大切。
習い性となる……あとから身についた習慣が、その人の性質になる、ほか。

 こうしたことわざの多くは、子育てのポイントを端的に表現していて、役にたつ。しかし使い方
をまちがえると、教条的になり、かえって思考力を奪うことにもなりかねない。とくに子育てにお
いては、押しつけがましくなることもある。わかりやすく言えば、親はどうしても自分にとってつご
うのうよいことわざだけを、口にしやすい。

 私の耳に残っていることわざに、こんなのがある。どれも私の親や伯父、伯母がよく口にして
いたものである。

親の意見と、ナズビの花は、千に一つもムダがない……親の言うことにはムダがない。
親の意見と、冷や酒は、あとできく……そのときは、親の意見の価値はわからないもの。
親の恩は、子をもって知る……自分で子どもをもって、親の恩を知る。
親思う心にまさる、親心……子どもが親を思うより、親が子どもを思う気持ちのほうが強い。

 私の時代には、親は絶対的な存在だった。今でも、そう考えている人は多い。いや、それが
まちがっているというのではない。当時は、そういう「秩序」の中で、家庭はもちろん、親類も、
地域も、それで動いていた。たとえば私が子どものころは、風呂に入る順序も、祖父、父、兄…
…というふうに決まっていた。食事でも、一番大きな魚から順に、同じように決まっていた。こう
したことわざを読んでいると、当時の様子が、つぎつぎと頭の中に浮かんでくる。

 母は、よくこう言った。私が何か、口答えしたりすると、「親の意見と、ナズビの花は、千に一
つもムダがないでな!」と。つまり、「私の言うことは、すべて大切だから、聞け!」と。「親の意
見と、冷や酒は、あとできく」とも言った。ほかによく耳に残っているものに、「孝行のしたい時分
に、親はなし」というのもあった。今から思うと、何とも手前勝手なことわざばかりだったが、当
時は、それを疑問にも思わなかった。

 こうしたことわざを聞いて、「そうだ」と思う人もいれば、「???」と思う人もいる。とくに、つぎ
の二つは、そうだ。「親の恩は、子をもって知る」と「親思う心にまさる、親心」。

「親の恩は、子をもって知る」というのは、子どもに向かって、「お前も自分で苦労すれば、親の
ありがたさがわかるだろう」という意味。また「親思う心にまさる、親心」というのは、「だからお
前も、親のことをもっと思え」という意味。

 そういう意味では、昔の子育ては、自立した人間を育てるというよりは、親のめんどうをみる
子どもを育てるのが目的だったようだ。「親孝行」という言葉も、そういう目的のためにさかんに
使われた。つまり親のめんどうをみる子どもは、よい子であり、そうでない子どもは、できそこな
いと。実際には、子どもたちは、つぎのようにして洗脳された。

 親戚が集まると、伯父や伯母たちは、決まって、近所の息子や娘の話をした。自分の息子や
娘たちのいる前で、である。

伯父「Aさんの息子は、いい息子や。今度、親たちを○○温泉に連れていったそうだ」
伯母「そうかな。それはいい息子やな。しかしBさんの娘は、いかん。あの娘は、家を出たきり、
もう一年も、帰ってこないそうや」
伯父「しかし何といっても、Cさんとこの息子は、最高や。今度、親のために、離れを建ててやっ
たそうや」
伯母「ほう、それはすごいことや。息子は、そういう子どもにせないかんなあ」と。

 見えみえの意図を感じながらも、子どもたちは、自分たちがどうあるべきかを教えられていっ
た。ただおもしろいのは、そういう子どもたちが、いつしかおとなになり、親になると、今度は、
同じような話を、自分の子どもの前でしていることである。つまりは私のいとこたちということに
なるが、そのいとこたちが、そういう話をする。

こういうもの世代伝播(でんぱ)というのか? よきにつけ、悪しきにつけ、子育ては、こうして繰
りかえされていく。そしてそういう繰りかえしの中から、ことわざが生まれてくる。それがよいこと
なのか、悪いことなのかは、別にして……。
(030509)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(807)

固着

 日本人は、「心」を大切にする民族である。おそらく世界一ではないか。もっともデリケートな
民族と言ってもよい。たとえば心理学を勉強していると、「こんなこと、日本では常識ではない
か」と思うような場面に、よくであう。その一つが、「固着」。

 心理学で固着というのは、何らかの精神的外傷を受けた人が、無意識のうちにも、その外傷
に支配されることをいう。たとえば子どものころ、身体のことで、みなにからかわれた人が、そ
の後、自分の容姿を過剰なまでに気にするようになる。あるいは自分の容姿のことで、悶々と
悩みつづけ、人との接触を避けるようになる、など。容姿にこだわりながら、自分自身は、どう
してこだわっているのかわからない。あるいはこだわっているという意識そのものが、ない。

 ……と書くと、どこか仰々しいが、日本語では、これを簡単に、「わだかまり」、もしくは、「こだ
わり」という。「固着」という名前をつけるから、かえって話がわかりにくくなる。「結婚のとき、い
ろいろありましてね。それが今でも、夫婦の間のわだかまりになっています」などというときの、
わだかまりである。

 わだかまりが大きければ大きいほど、それにこだわるあまり、自分の心を解放ですることが
できなくなる。どこかしら束縛されたような状態になる。そういう状態を、心理学では、「固着」と
いう。

 そこで、その固着、つまり、わだかまりについて……。

 このわだかまりというのは、人間の心を裏から操(あやつ)る。しかし操られるほうは、ふつ
う、操られていることにすら、気づかない。あくまでも、自分の意思でそうしていると思っている。
ときどき、「なぜ、自分はこんなことをしているのだろう」と思うことはあるが、それでも気づくこと
はない。いろいろな例がある。

 ある母親は、小学一年生の息子が、母親の服のそでをつかんだだけで、その息子を、「イヤ
ー!」と叫んで、手で払いのけていた。ときには、押し倒してしまうこともあった。自分でもなぜ
そうするかわからないと言っていたが、何度か、カウンセリングするうちに、理由がわかった。

 その母親は、独身時代、一人の男のストーカー行為に苦しんでいた。高校時代の友人たちと
東北を旅したときも、その男は、見え隠れしながら、その母親についてきたという。で、いろいろ
あって、その母親は、その男と結婚してしまった。本来なら、結婚などしてはいけなかったが、
その母親はこう言った。「結婚を断ったら、事件になったかもしれません。実家の両親に迷惑を
かけたくなかったし、私ひとりががまんすればいいと思い、結婚しました」と。その母親は、心の
やさしい人だった。

 が、当然のことながら、それにつづく結婚生活は、味気ないものだった。そこでその母親がつ
ぎにとった方法は、子どもをつくることだった。「子はかすがいといいますから、子どもができれ
ば、何とかなると思いました」と。その子どもが、小学一年生の息子だった。

 この母親のばあい、息子が母親にまとわりついたとたん、無意識のうちにも、独身時代の不
愉快な経験が、その母親の中でよみがえったことになる。そしてそれが、その母親を裏から操
っていたということになる。そして「いやだ」という思いだけが独走し、子どもを手で払いのける
……。

 こうしたわだかまりは、大小さまざま、それぞれの人に無数にある。わだかまりがない人は、
いない。もちろん、あなたにもある。しかし問題は、そういうわだかまりがあるということではな
く、そのわだかまりに振りまわされ、同じような失敗を繰りかえすこと。そこで今度は、あなた自
身のことを振りかえってみてほしい。あなたは、日々の生活のどこかで、いつも同じように、同
じようなパターンで、失敗していないだろうか。子育てでだけではない。夫婦げんかにせよ、近
隣とのトラブルにせよ、何でも、そうだ。もしそうなら、あなたの心のどこかに潜む、わだかまり
を、さぐってみるとよい。この問題は、そのわだかまりが何であるかがわかるだけで、そのあ
と、しばらく時間がかかるが、それで解決する。
(030510)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(808)

固定観念

 総じてみれば、私たちの日常的な生活のほとんどは、過去の自分を引きずっているようなも
の。「私は私」と思っている部分にしても、実際には、私でない部分が多い。たとえば今日、私
は、教室の模様がえのため、いくつかの家具屋を回った。一番迷ったのは、教室の入り口に
置くカウンターと、下駄箱だった。しかしそういうものは、家具屋には置いてない。

 そこで私は発想を変えた。カウンターは、二つの同じ戸棚を背中合わせに重ねてつくればよ
い。接着剤でくっつける。また下駄箱は、本箱を利用すればよい。棚には、何かクッションを入
れる、と。しかしたったこれだけのことがわかるまでに、数時間もかかった。「カウンターはどこ
にある?」「下駄箱はどこにある?」と。そのとき私は、「カウンターというのは、カウンターでな
ければならない」「下駄箱は、下駄箱でなければならない」という固定観念しかもっていなかっ
た。

 で、こうした固定観念というのは、当然のことながら、過去の私の生活の中で、つくりあげられ
てきたものである。そしていつの間にか、「カウンターというのは、こういうものでなければならな
い」「下駄箱というのは、こういうものでなければならない」と、自分で思いこんでしまった。

 実は、ぐんと現実的な話になるが、……と言うより、かなり飛躍するが、子育ては、まさに固
定観念のかたまりのようなもの。とくに今、子育てを始めたばかりの、若い父親や母親はそうで
ある。ほとんどの父親や母親は、「子育てというのは、こういうものだ」「子どもというのは、こう
でなければならない」と、考える。しかしそれが本当に正しいかどうかとなると、「??」である。

たとえば今度、二男に子どもが生まれた。私の初孫である。その二男を見ていると、本人たち
は気づいていないだろうが、私が二男にしたのと、そっくり同じことを、自分の子どもにしている
のがわかる。遊具の与え方にせよ、抱き方にせよ、あやし方にせよ、多少形は違うが、中身
は、ほとんど同じと言ってよい。つまり二男は二男なりに、自分の中でつくりあげた固定観念に
応じて、子育てをしているにすぎない。

 ……となると、「私」とは、何かということになる。つまり「私は私」と思っている部分は、「私」の
中の、ほんの一部にすぎないということ。その大部分は、「私であって、私でない部分」というこ
とになる。このことは、大脳生理学の分野でも証明されている。意識として自覚できる部分は、
脳全体の中では、数十万分の一に過ぎないという。つまり脳のほとんどの部分は、私たちの意
識とは、まったく関係なく動いている。いや、むしろその意識ですら、「私であって、私でない部
分」に動かされていることも多い。その一つが、ここでいう固定観念である。

 そこで私は気がついた。「私であって私である部分」をもつためには、自分の中に潜む固定
観念を、こなごなになるほどまでに、破壊しなければならない、と。何かにつけて私たちは、も
のごとを「こうでなければならない」「こうあるべきだ」と考えやすい。しかしそう考えることは、
「私であって、私でない部分」に、引きずり回されることになる。つまりそうであるなら、いつまで
も自分を解放することができない。

 ……とまあ、何とも、むずかしい話を書いてしまった。ここまで読んでくださった方には、たい
へん申しわけないと思っている。そこでここでは、こう考えてほしい。

 子どもを考え、子育てを考えるときは、できるだけ固定観念を、もたないようにする。この固
定観念があればあるほど、子育てのワクは狭くなり、そして子どもも、小さくなる。それだけでは
ない。そのワクにとらわればとらわれるほど、そのワクの中で苦しむことになる。たとえば子ど
もが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。なぜそうなるかといえば、
「学校とは行かねばならないところ」という固定観念にしばられるからである。

 しかしこの段階で、親が、「行きたくなければ行かなくてもいい」「学校だけがすべてではない」
「勉強より心のほうが大切だ」と考えることができれば、もう少しおおらかに子どもの不登校を
考えることができる。つまり固定観念から抜け出るということが、その人の心を悩みから解放す
るということになる。

 で、もう一度、むずかしい話に戻るが、要するに、自由になるということは、いかにして、「私」
を、「私であって、私でない部分」から、解放するかということに行き着く。私は、今日、家具屋で
家具を見ながら、別の心で、そんなことを考えていた。
(030510)

●「真の自由を手に入れようとするならば、心中の奴隷を除去することから、始めねばならな
い」(梁啓超「新民説」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(809) 

Gという霊能者

 先日、Gという霊能者が死んだ。私はその女性を、直接は知らないが、その女性に関して
は、こんな話がある。

 私のたいへん親しい友人に、M氏(四八歳)がいる。昔からの茶園農家だが、どういうわけだ
か、同居している父親との折りあいが悪い。結婚もした。子どもも二人いる。しかしこの三〇年
間、父親とはほとんど会話すらないという。

 そこでGという霊能者に、おうかがいを立てることにした。その費用が、三〇分間で、二〇万
円! 今から一〇年ほど前のことだが、それにしても高額である。当時、Gという霊能者は、ほ
とんど毎週のようにテレビに出ていた。超有名人であった。

 ここから先は、Gという霊能者の名誉のこともあるから、正確に書く。

 Gという霊能者は、私の友人にこう言ったという。「あなたの家には、神様と仏様がまつってあ
りますね。どちらか一つにしなさい。神様と仏様がけんかをしている。それが、家庭不和の原因
だ」と。

 しかしそのあたりの農家は、みな、神様と仏様の両方をまつっている。まつっていない家のほ
うが、少ない。私の実家も、店を入るとすぐに、神棚があって、その横には、大黒様がまつって
ある。そしてつぎの部屋には仏壇が置いてある。(だから私の家は、騒動が絶えなかったの
か?)

 そこでその友人は家に帰って、「神様か、仏様の、どちらかを捨てる」と言い出した。とたん、
いつもの大げんか! 最後は、「殺す」「殺してやる」の大騒動になってしまった!

 この一連の話は、すべておかしい。私はその友人にこう言った。

私「二〇万円なんて、大金でしょう?」
友「しかし、あんな有名な人にみてもらえるなら、安いと思ってね」
私「テレビに出ているだけでしょう?」
友「ほかの霊能者よりは、いいと思ってね」
私「だいたい人間の心などというものは、人間自身が決めるもの。神様や仏様ではない」
友「霊ではないのか?」
私「そんなものはない。かりにあるとしても、いちいち人間のことなど、気にしない」
友「しかし世の中には、不思議なことがいっぱいある」
私「不可思議なものは、何でも霊のしわざにしたがるもの。しかしそうするということは、自分の
理性を否定するのと同じでしょう」

 順に考えてみよう。

 仮に霊界なるものがあったとしよう。しかしその世界に住む霊たちが、人間界の人間のことな
ど、気にするだろうか。神様にせよ、仏様にせよ、まつったからご利益があるというのなら、そ
の神様や仏様は、インチキと断言してよい。自分をまつってくれた人間だけに、こっそりとご利
益を与えるというのは、そもそも神様や仏様のすることではない。悪魔のすることである。ワイ
ロをもらって、政治に手心を加える悪徳政治家と、どこかどう違うというのか。
 
 つぎに神様と仏様がけんかをしているという、発想がおもしろい。まさにマンガ的。どう反論し
ようかと、しばらく考えてみたが、あまりにもバカげていて、反論する気にもなれない。ただ日本
人は、どうしても「家」にこだわりやすい。だから、神様と仏様が、その家の中でけんかをしたと
いう話を聞くと、どこかありそうな話に思うかもしれない。「家」の中で、神様と仏様が、たがいに
勢力を求めてけんかした、と。が、もしそれほど「家」にこだわらない民族の家庭では、神様や
仏様は、どうするのだろうか。たとえば私の家もそうだ。しかしそれにしても……? もうひとつ
おまけに、「??」。

 ときどき、異常なまでに思いこみのはげしい子どもというのは、ときどきいる。一度、こうだと
思ったら、かたくなまでに、それに固執する。そして自説をがんとして、曲げない。一〇年ほど
前だが、「幽霊を見た」と言った女の子(小三)がいた。話を聞くと、ことこまかく、それを説明し
てくれた。こう書くのは、Gという霊能者に失礼かもしれないが、Gという霊能者は、そういう子ど
もの延長線上にいるのではないか。

 ここから先は、信ずる、信じないという話になってくるので、私には何とも言えないが、私はそ
ういうものは「ない」という前提で生きている。私の人生の中でも、ほとんど考えたことがない。
子どものころは、ふつうの子どものように、幽霊やお化けをこわがった覚えがある。今も、とき
どき何かのことで、ゾーッとすることはある。そういうことはあるが、それ以後、運命論や運勢
論、前世論や来世論など、自分の中へ取り入れたことは、一度もない。だから……。霊界だ
の、霊能者だのと言っている人を見ると、「この人たちは本気なのだろうか?」と、そう思ってし
まう。

 さてGという霊能者だが、どこか宗教性をおびた人だったから、これから先、その霊能者を信
奉する人たちが生まれてくることはじゅうぶん、考えられる。「私はGの生まれ変わり」と主張す
る人も出てくるかもしれない。あるいはもっと別の霊能者たちが、「三〇分、二〇万円」の後釜
をねらって、続々と生まれてくるかもしれない。しかしそこに、人間の愚かさというよりは、人間
の織りなすドラマのおもしろさがある。私たちに直接害がないなら、つまりあくまでも、そういう
条件つきだが、ドラマはドラマとして楽しめばよい。

●「私は、彼岸(悟りを開いた理想の世界)を信じない。彼岸なんてものは、存在しない。枯れ
た木々は永久に死に、凍死した鳥は二度とよみがえらない」(ヘッセ「ナルチスとゴルトムント」)
(030511)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(810)

北朝鮮VS韓国

 今日は、五月一一日、日曜日。もうすぐブッシュ大統領とノ・ムヒョン大統領の、首脳会談が
始まる。この会談は、アメリカと韓国のみならず、日本を含めた極東アジアの平和と安全にとっ
ては、きわめて重要な会談になる。(今日の午後、ノ・ムヒョン大統領が、アメリカへ向うことに
なてちる。)

 だいたいにおいて、あの韓国に、反米親北政権が誕生したこと自体、私には、信じられなか
った。韓国の教職員組合は、日本のそれよりはるかに左傾化している。ノ・ムヒョン政権は、そ
の結果生まれたとも言えるが、それにしても……?

 今のノ・ムヒョン氏は、大統領選挙のとき、反米を唱えながら、米軍基地撤退を公約にかか
げた。そして選挙演説の中では、「仮に米朝戦争になっても、韓国は中立を守る」などと、とん
でもないことまで口にしている。さらに数十万人のデモ隊を組織し、その中央で、巨大な星条旗
をビリビリに破いてみせるようなパフォーマンスまでしてみせた。

 それだけではない。アメリカに向かって、「これからはアメリカとは対等につきあう」とか、「アメ
リカと北朝鮮の仲介役を、韓国がする」などと言った。この一言は、ブッシュ政権を激怒させ
た。それもそのはず。三八度線をはさんで、最前線で、韓国を守っているのは、ほかならぬア
メリカ兵たちだからである。しかもその数、三万六〇〇〇人!

 そこでアメリカは、ノ・ムヒョン政権誕生と同時に、アメリカ軍の撤退を決めてしまった。表向き
は、最前線からプサン市、テグ市周辺への後方移動ということになっているが、実質的には、
撤退である。
 
 これにあわてたのが韓国政府。まさかアメリカがそこまでやるとは、思っていなかったのだろ
う。そこで韓国政府は、韓国軍にはまだその準備ができていないことを理由に、今度は、一
転、撤退に反対し始めた。撤退計画そのものの延期まで求めている。さらに撤退反対集会を
起こしたり、首相を米軍基地へ慰問に行かせたりしている。

 しかし、ときすでに遅し。北朝鮮との南北会談は決裂。多国間協議からも、韓国ははずされ
てしまった。あの北朝鮮も国際オンチなら、韓国も、それに劣らないほど、国際オンチ。最近に
なって、やっと「アメリカと日本と共同して……」と言い出したが、それまでは、日本の「ニ」の字
もなかった。つまり、日本を、完全に無視!

 こうなれば、日本は、アメリカと共同歩調をとるしかない。わかりやすく言えば、韓国は、準北
朝鮮。そう思ってまちがいない。アメリカはともかくも、仮に日朝戦争といことにでもなれば、韓
国は、北朝鮮側につく。いきさつはどうであれ、もともと韓国という国は、そういう国なのであ
る。

 そういう状況の中で、ノ・ムヒョン大統領は、ブッシュ大統領と会談する。かなり下手(したで)
に出るしかないのだろうが、どこまで下手に出るか? そこが今回の会談のポイントとなる。韓
国にとっては、アメリカは必要な国だが、アメリカにとっては、韓国は必要な国ではない。最前
線で、体を張って守らねばならない理由など、アメリカにはどこにもない。それをノ・ムヒョン大
統領は、どこまで自覚しているか。会談が決裂することは、まずないが、ノ・ムヒョン氏が従来
の路線を変えないかぎり、米韓のキレツは決定的なものになる。すべては、ノ・ムヒョン大統領
が、どこまで現実主義的なものの考え方ができるかにかかっている。

 核開発をつづける北朝鮮。その北朝鮮の高官は、「核兵器は日本をターゲットにしたもの」
と、ことあるごとに明言している。北朝鮮に、それだけの能力があるかどうかは別にして、日本
人の危機感のなさも、これまた問題である。東京都の真ん中で、原爆が炸裂(さくれつ)した
ら、日本はどうなるか。それをほんの少しだけ、想像してみればよい。それでももしあなたが、
「北朝鮮は、そこまでしないだろう」とか、「アメリカがその前に何とかしてくれるだろう」と考えて
いるとしたら、それは大きなまちがい。今の今も、数十万人の自国民を餓死させ、数十万人の
自国民を強制収容所に送っている金XXである。東京に原爆を撃ちこむことぐらい、わけがな
い。

 北朝鮮が、まともな国でないことは、もうだれの目にも明らかである。国全体が、カルト化して
いて、まともな常識すら通じない。どこかの評論家が、巨大なオウムSR教のような国だと評し
たが、まさにそのとおり。あるイギリス人(元駐朝大使)も、「ピョンヤンに住む政府高官たち
は、自分たちの国が、地上の楽園だと本気で信じている」と言っている。

 今の北朝鮮が、北朝鮮のようであることについては、日本にも責任がある。それはそれとし
て、しかし私たちは私たちで、この日本や、そこに住む子どもたちを守らねばならない。先日
も、ある子ども(小五男児)が、私にこう聞いた。「先生、北朝鮮は、本当に日本に攻めてくる
の? だいしょうぶ?」と。それに答えて私は、こう言った。「何も心配しなくてもいいよ。ぼくが
いるからね。ぼくが戦って、君たちを守るからね」と。すると、その子どもはホッと安心したような
表情を見せ、そのあと、うれしそうな顔で笑った。
(0305011)

(注)この原稿は、去る五月一一日に書いたものです。発表するころには、世界の情勢が大き
く変わっているかもしれません。もしそうなら、どうかお許しください。)

●「平時における賢者は、常に戦争に備える」(ホメロス「諷刺詩」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(811)

心の病気

 心も、ときに病気になる。その代表的なものに、@抑うつ神経症、A不安神経症、B強迫神
経症、C心気神経症、D恐怖症などがある。この中でとくに@抑うつ神経症を、「心の風邪」と
言う人がいる。となると、A不安神経症は、下痢、B強迫神経症は、頭痛、C心気神経症は、
胃炎、D恐怖症は、二日酔いということか。あまりよいたとえではないかもしれないが、要する
に、だれでも、下痢をしたり、頭痛になったりするように、簡単に不安神経症になったり、強迫
神経症になったりするということ。

 私のばあい、いつもこのどれかを経験している。

@抑うつ神経症
ときどきワイフが先に死んだら、どうしようかと考える。ひとりで生きていく自信は、私には、まっ
たくない。しかし一度、そう考えだすと、生きる目的すら、なくしてしまう。今までの人生があっと
いう間に終わったように、これからの人生も、あっという間に終わってしまうだろうとか、私の老
後は、孤独であわれなものになるだろうとか、そんなことまで考える。ただ私のばあい、病識
(自分で病気とわかること)があるので、それなりに対処できる。「今の私は、本当の自分では
ない」と考えて、カルシウム剤をたくさんとって、睡眠時間を長くしたりする。軽いばあいには、
たいてい翌朝にはなおっている。心がふさいで重苦しく、晴れないことを、抑うつ神経症という。

A不安神経症
一度、パソコンにウィルスが侵入したのではないかと、大あわてしたことがある。心臓はドキド
キし、体中から冷や汗が出た。最終的には、パソコンをリカバリーをすることで問題を解決した
が、夜中に始めて、一段落したころには朝になっていた。ほかに私はちょっとしたことで、被害
妄想がとりとめなく大きくなることがある。つぎつぎとものごとを悪いほうへ、悪いほうへ考えて
しまう。俗にいう、とりこし苦労タイプの人間である。あとになって、「どうしてあんなことで悩んだ
のだろう」と思うことが多い。突発的にはげしい不安感に襲われ、呼吸が苦しくなったり、動悸
がはげしくなることを、不安神経症という。

B強迫神経症
山荘には、防犯装置と、自動火災連絡装置が設置してある。自動火災連絡装置というのは、
山荘内で、ガス漏れや火災があったとき、私の自宅のほうに電話がかかってくるしくみの装置
をいう。で、一度だけだが、それがかかってきたことがある。私はあわてて山荘へ向ったが、そ
のときは、本当に生きた心地がしなかった。途中、携帯電話で隣人に電話をしたが、あいにくと
隣人は不在。が、その直後からおかしな現象が起きた。山荘でたき火をしたあとなど、水で火
を消すのだが、いくら消しても、どこかもの足りなさを覚えた。たき火コーナーが、プールのよう
に水びたしになっても、不安感が消えなかったこともある。自分の意思に反して、勝手に悩んだ
り、心配したりすることを、強迫神経症という。

C心気神経症
今まで経験しなかったような病状が現れたりすると、「もしや」と思うことがある。数か月前だ
が、生徒たちからたくさんのチョコレートをもらった。そのチョコレートを食べ過ぎたせいか、脳
が一時的に覚醒(興奮)状態になってしまった。(私は本当はチョコレートは食べられない体
質。)脳が勝手に乱舞してしまった。私はそのときはチョコレートのせいだとはわからなかった
ので、脳腫瘍ではないかと疑ってしまった。とたん、極度の不安状態になってしまった。ワイフ
が「何でもないわよ」となだめてくれたが、私はフトンの中で、体を丸めてガタガタ震えていた。
悪い病気にかかってしまったのではないかと、極度の不安状態になることを、心気神経症とい
う。

D恐怖症
私には高所恐怖症や閉所恐怖症にあわせて、飛行機恐怖症などがある。恐怖症というのは、
一度なると、いろいろな形で現れてくる。数年前は、あやうく交通事故を起こしかけたが、その
あと、私は自転車に乗られなくなってしまった。夜、自転車で道路を走っていたが、走っている
車が、どれも私のほうに向って走ってくるように感じた。私は数百メートル走っては自転車から
おり、また走ってはおりた。あとでみたら、手が、汗でべっとりと濡れていた。何かとくべつのこ
とで、ものごとに激しい恐怖感を覚えることを、恐怖症という。ほかに動物恐怖症、お面恐怖
症、先端恐怖症などもある。

 私のばあい、肉体的には健康だが、精神的にはあまり健康ではない。よく落ちこむし、ときに
激怒して、自分がわからなくなることがある。ここにあげた恐怖症にせよ、強迫神経症にせよ、
いろいろな形で、よく経験する。

 こういう心の病気になったとき、こわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うためか、狂っ
ている私のほうが正しいのか、そうでないときの私のほうが正しいのか、それがわからなくなる
こと。たとえば抑うつ状態になったとき、かえってそうでない人のほうが、おかしく見えるときが
ある。私のことで言うなら、落ちこんでいる自分のほうが、本当の自分のように思うことがある。
そして「今まで落ちこまなかったのは、私がバカだったから」というような考え方をしてしまう。

 また恐怖症にせよ、心気神経症にせよ、私の経験からしても、自分ではコントロールできない
ということ。自分に「だいじょうぶだ」と何度言い聞かせても、もう一人別の自分が、それを打ち
消してしまう。あるいは頭の中ではだいじょうぶと思っていても、体は勝手に動いてしまう。もう
二〇年近くも前のことだが、私はテレビのアンテナをつけるために、屋根にあがったことがあ
る。しかしおりるとき、勝手に足がすくんでしまい、それ以上、動けなくなってしまった。結局、近
くの電気屋さんに来てもらい、助けてもらったが、そのときも、いくら「だいじょうぶだ」と自分に
言ってきかせても、自分では、どうしようもなかった。

 だから……。今、いろいろな心の病気をかかえた子どもに接すると、そういう子どもの心の状
態がよくわかる。親は、「気のせいだ」「気はもちようだ」などと言うが、私はそうは言わない。先
日も「トンネルがこわい」と訴えてきた小学生(小一男児)がいた。その子どもに接したときも、
私は、こう言った。「こわいよね。ぼくもトンネルがこわくて、ときどき入れないときがある。天井
がコンクリートか何かで、しっかりしていればいいけど、岩がむき出しであったりすると、ぞっと
するね」と。

 熱を出して苦しんでいる子どもに無理をさせないように、心の病気にかかっている子どもに無
理をしてはいけない。心の病気は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向があるが、
決して安易に考えてはいけない。こじらせればこじらせるほど、立ちなおりがむずかしくなる。
(030511)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(812)

母の日

 五月一一日(日曜日)は、母の日だった。
 
 つぎの日の朝、つまり今日、ワイフに「息子たちから何か言ってきたか?」と聞くと、ワイフは
さみしそうに、「ううん……」と。が、そのあと、すぐこうつけたした。「きっと、今日あたり、何か言
ってくるわ。毎年、電話をくれるから……」と。

 昨日(母の日)も、近くのスーパーで買い物をしていると、ワイフはこう言った。「早く家に帰ら
なければ」と。「どうして?」と聞くと、「電話がかかってくるかもしれないから」と。しかしその電話
はなかった。そのつどワイフは、留守番電話をのぞいていたようだが、それもなかった。夜遅く
まで、電話を待っていたが、やはり電話はなかった。

 「薄情なやつらだな。ぼくがメールで文句を言ってやろうか」と言うと、ワイフは、「いいよ、そん
なことしなくても」と答えた。で、パソコンに向ったが、やはりメールは出せなかった。こういうこと
は、親のほうから、請求するものではない。

私「きっと、あいつら忙しいのだよ」
ワ「そうでしょ」
私「便りのないのが、いい便りというからね」
ワ「みんな、元気でやってくれれば、それでいいのよ」と。

 親子で、たがいに気をつかうのも、たいへんなことだ。気楽にやればいい。それはわかるが、
こういうことを繰りかえしながら、親子の関係も疎遠になり、やがて別の人間関係に変化してい
く。(親子の関係)から、(一対一の人間関係)へ、……というほど、大げさなものではないかも
しれないが、それはちょうど、接(つ)ぎ木した木から、別の木が育つようなもの。親子が、いつ
までも、幼少年期のままの親子関係でいるほうが、おかしい。

私「ところで、母の日のつぎの日は、何の日か知っているか?」
ワ「今日のこと? 何の日? ヒヒの日?」
私「何だ、それ?」
ワ「ハハのつぎだから、ヒヒ」
私「バカめ。ちがう。妻の日だって」
ワ「妻の日?」
私「なぐさめてやるんだよ、夫が……。子どもたちに無視された、かわいそうな妻たちを、ね」

 その日の夕方、買い物から帰ってくると、ワイフは、まっすぐ留守番電話のほうに歩いていっ
た。そしていつものように電話をのぞくと、「ああ、入っている!」と。再生すると、アメリカに住
む、二男からのものだった。「旅行中で、電話できなかった。ごめん」「母の日、ありがとう」とあ
った。ワイフはそれを聞きながら、「やっぱり、Sだけは、覚えていてくれた」と、ポツリ。私が「よ
かったね」と声をかけると、ワイフはうれしそうに笑った。
(0305129)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(813)

教室の模様替え(2)

 今日は、テーブルにハケで色を塗った。しかしムラができた。そこで今度は、スプレーを買っ
てきて、その上に塗り重ねた。が、ところどころ、表面が盛りあがってしまった。「アレッ」と思っ
て、もう一度ペンキの説明書きをみると、ハケで縫ったほうは、水性ペンキ。スプレーのほう
は、油性ペンキになっていた。

 つぎに五〇センチ角になったジュータンをしきつめた。一枚、二八〇円。一平方メートル張る
のに、四枚。全体で、一七坪の教室だから、エーと……。

 そのジュータンを一枚ずつ張っていったが、途中で、少しずつ、列がずれてきた。教室全体
が、正確な長方形でないためらしい。思ったよりむずかしかった。

 夕方一時間ほど、時間があったので、ワイフと二人で、近くの電気屋へ行き、テレビを選ぶ。
私の教室では、テレビ画面を、黒板がわりにしている。今度は、パソコンと連動させ、ハイテク
なレッスンをめざす。

私「画面は三二インチにしたい」
ワ「大きいわね。それに値段も一〇万円を超えるわよ」
私「大きければ大きいほど、見やすいし……。今度の教室に、今までの経験のすべてを燃やし
つくしたい」
ワ「燃やしつくす?」
私「そう、今の仕事ができるのも、あと一〇年だと思う」
ワ「一〇年……?」
私「この一〇年で、ぼくの経験のすべてを出しつくす。これが幼児教育だと言えるような幼児教
育をしてみる。つまり総決算というわけ」と。

 そのあと棚を六個、家具屋から届けてみらう。配置に悩んだが、一つの壁に向けてズラリと
並べたら、うまく収まった。あとは小物入れ用の棚をいくつか用意すればよい。

 ほかにイスは、回転式のものにした。生徒が使う机は、上下が調整できる可変式のものにし
た。私の教室は、幼稚園の年中児から高校三年生までやってくる。今まではそれぞれの机を
用意していた。

 夜のクラスで、中学生たちに、「今度、この教室を、大改造する」と宣言すると、みな、「どうや
ってエ?」と、いぶかしがった。(本当は改造ではなく、移動。しかしそれは内緒!)

 そんな中、小さな事件が起きた。

 ジュータン屋へ行き、足りないジュータンを注文していると、そこへ行きつけの自転車屋のお
かみさんが、やってきた。そしてヘラヘラと笑いながら、こう言った。「アーラ、林先生。まだ幼児
教室、やってんのオ?」と。いつもなら軽いあいさつをするところだったが、私はその一言に、
ムッときた。だから少し間をおいて、こう言った。「奥さん、それは失礼な言い方ですよ。私は二
〇年近く、あなたの家で自転車を買っているのですから」と。

 するとそのおかみさんは、まったく悪びれる様子もなく、相変わらずヘラヘラと笑いながら、
「そうですようねエ〜、失礼ですよねえ。ホント、ホント」と。そこで私は、さらに頭にきたので、
「もしあなたがだれかに、『まだ、自転車屋、やってるの?』と言われたら、あなたは怒りません
か」と言うと、「ホント、ホント」と笑いつづけた。

 ジュータン屋を出たところで、ワイフが待っていた。ワイフにそのことを話すと、「ああいう低劣
な人間は、無視しなさいよ」と。しかししばらくの間、怒りが収まらなかった。このところ毎日のよ
うに、教室の模様替えに四苦八苦している。そういう私に、何という失敬な言葉! 自転車屋だ
から低劣というのではない。私もその自転車屋の息子である。低劣というのには、二つの意味
がある。自分の愚かさを知らないこと。他人の賢さを知らないこと。(だからといって、私が賢い
というのではない。)

 が、やはり、結論は、相手にしない、だった。

私「電話で文句言ってやろうかと思った」
ワ「やめなさいよ。あなたが相手にしなければならないような人ではないから」
私「しかし、頭にきた。もうあの自転車屋では、二度と自転車を買ってやらないぞ」
ワ「そうね」と。

 さて明日は、テレビを買う。ほかに小物入れをいくつか買う。また朝から、いそがしい。で、お
そらく、今回の模様替えが、私の生涯において、最後になるだろう。あとは、なるようにしかなら
ない。生徒がいれば、このまま教える。いなくなれば、教室をたたんで、オーストラリアへ移住
する。大切なことは、そのつど懸命に生きること。たとえ乞食(失礼!)になっても、乞食として
懸命に生きる。この日本で成功するかしないかは、本人の能力と努力というよりは、運とコネ。
失敗したからといって、その人の能力が劣っているとか、努力が足りなかったということではな
い。この国では、もともと不公平が基盤になっている。その不公平をうまく利用した人が、成功
し、そうでない人は、失敗する。

 そうそう帰りにワイフもこう言った。「やれるだけのことはやってみましょうよ。それでだめな
ら、しかたないわね。ほとんどの幼児教室がつぶれた中で、あなたの教室だけは残っている。
それがあなたの力よ」と。

 そんなわけで、今回の模様替えは、どこかさみしい。先が見えないというか、先を考えれば考
えるほど、その先がしぼんでしまう。「それではいけない」とは思うが、しかしその閉塞感だけ
は、どうしようもない。
(030513)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(814)

不安なあなたへ

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、
サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲
気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不
安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗
り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性
ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか
った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ
ればいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と
言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒
ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をして
も、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ
リジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いた
けど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなか
ったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一
周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間
を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ
こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着
く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子
どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん
なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。
子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば
あいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の
子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし
まうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ
もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ
て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない
ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど
も自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発
するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる
ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう
ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな
る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく
ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ
とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手
を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限
定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ
ばならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもり
が、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることす
ら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」
だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらし
い。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほ
しくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題
が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す
るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと
えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり
をしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した
りしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親
の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子
ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ
親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと
で考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた
はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか
押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。
何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇
歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて
さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら
れた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな
る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親
子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは
母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母
は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三
歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた
たき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職
業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい
仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子
は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド
タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの
というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお
もしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消え
てなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょ
に、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる
問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子
だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か
ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、
一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、
「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ
ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があった
ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので
はないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が
あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな
かったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的
な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味
です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか
いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから
です。さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の
子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信
頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子ど
もに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなりま
す。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと
いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に
心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という
ことになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て
については黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用
います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を
知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づか
ないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうこと
をするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、
不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな
たが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい
るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して
いるのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、@許容の範囲と、A好意の返報性の二つです。

 @許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせま
いほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験です
が、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然で
すが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事その
ものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好きにな
ります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ
いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一
度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一
度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど
も自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので
す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と
いうわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき
ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。
たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利
はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし
ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち
の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、A好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って
いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自
分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま
す悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて
みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に
もつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい
嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た
がいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま
す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま
で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪
い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと
信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、
それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま
す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま
ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ
ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま
す。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき
ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう
いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ
ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前
の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち
とつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと
喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あ
なたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子ども
はあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をど
こかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切
りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不
思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま
す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな
はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの
子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、
わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(815)

頭痛

 昨日は、朝から教室づくり。ジュータンを張り、イスの加工をした。イスの加工というのは、ふ
つうサイズのイスを、幼児用に脚を短くしたということ。朝、一〇時ごろから始めて、夕方四時ご
ろ、終わった。途中、ある団体の幹部の方たちと、今度の講演の打ちあわせをした。終わった
ころには、それほど暑い日ではなかったが、汗だくだくになっていた。

 帰りに、Sという最近できたイタリアンレストランで昼食兼夕食をとる。そこまではすこぶる快
調。で、家に帰ってパソコンに向かったとたん、猛烈な睡魔に襲われた。そのとき眠ればよか
った。が、そこでどういうわけか、無理に体を起こしてしまった。とたん、前頭部に上からシャワ
ーを浴びるような痛みを感じた。吐き気もあった。

 最初は、すぐ収まるだろうと考えていた。が、時間とともに痛みがひどくなった。「以前にも似
たような症状があった」と思いつつ、しかしあまり経験しない頭痛だけに、不安になった。

 で、風呂に入った。が、痛みはそのままだった。いつもは一一時前後に床に入るが、九時に
床に入った。が、頭痛がひどくて眠られなかった。一〇時ごろ一度起きて、ジュースをコップ一
ぱい飲む。しかし頭痛はそのまま。ますますひどくなった。髪の毛をかきむしるような頭痛だっ
た。湿布薬をひたいと首に、ペタペタ張ったが、あまり効果がなかった。

 偏頭痛の痛さではない。どこか二日酔いのような痛さだった。……と書いて今、原因がわか
った。あの料理だ。レストランで食べた、あの肉料理だ。あの料理に、ワインが使われてい
た! そうだ、二日酔いだ!

 私は一滴も酒を飲めない。奈良漬けを食べただけで、二日酔いになる。いわんやワインを、
や。それも一度火にかけたワインは、私にとっては、毒薬そのもの。一番最近は、金沢の友人
が送ってくれたフグのカス漬けを食べて、二日酔いになったことがある。何しろビールを、コップ
の三分の一飲んだだけで、三日酔いになるほどである。

 それはさておき、昨夜は、その原因がわからないまま、フトンの中で四転八転した。ズキンズ
キンとつきあげるような痛み。しかし二日酔いの頭痛は、眠っている間は、収まる。(偏頭痛
は、夢の中でも痛い。)そんなわけで眠ることはできたが、しかし目をさますたびに、また頭痛
が、暗い穴の底からわきあがるように始まる。

 朝になってはじめて頭痛薬を飲んだ。そしてまたフトンの中に。昼ごろになってやっと痛みが
収まってきた。しかし原因がわからなかった。ワイフも、今になって、「くも膜下出血じゃないか
と、心配したわ」と言う。ホント。私も、実はそれを心配した。「ああ、これで私もおしまいか」と。

 それにしても、ひどい頭痛だった。もう酒は、こりごり。本当に、こりごり。
(030516)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(816)

キズと、じょうずにつきあう

●前夫の子どもにつらく当たる母親

 だれしも、心にキズ(心的外傷)がある。ない人は、いない。問題は、そうしたキズがあるとい
うことではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回まわされること。たとえばフロイ
トは、ヒステリー患者について調べ、「治療した一八人について、その原因は、幼児期の性的
外傷体験がその原因である」(1896年)と発表したことがある。

 フロイトのこの意見は、当時としては突飛もないものに考えられた。仲がよかったブロイエル
という医師も、フロイトのこの意見に反発し、フロイトのもとを離れている。

 それはさておき、私たちの言動は、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、何らかの
形で、自分の過去と深く結びついている。ある母親から、こんなメールが届いた。その母親に
は、小学四年生になる息子と、三歳になる娘がいる。上の息子は、学生結婚したときにできた
子どもだが、その後しばらくして離婚。下の娘は、再婚してできた子どもである。その上の息子
について、「横顔が、離婚した前夫そっくりで、どうしても好きになれません。ときどき上の息子
につらく当たることがあります」(愛知県在住、MN)と。

 この母親のケースでは、その母親が、なぜ、上の息子につらく当たるか、その理由がほぼわ
かっている。「その息子は、自分を捨てた男との間にできた子」というわけである。「そして前夫
そっくりな横顔を見るたびに、その夫との生活を思い出し、不愉快になる」と。

 こうした心のキズは、ちょうど顔についた切りキズのようなもの。一度ついたら、簡単に消えな
い……というより、生涯、消えることはない。もう少し、その母親の心理を分析してみよう。

 その母親は、学生結婚をした。周囲の反対もそれなりにあったのだろう。そういう意味では、
大恋愛だったと思われる。しかし若気のいたりというか、その準備ができていなかった。その自
覚もまだじゅうぶんでなかった。やがて男が去るという形で、その結婚は破局を迎える。

 しかしここで誤解してはいけないのは、離婚そのものが、キズとなったわけではないというこ
と。恐らくそのキズは、その母親自身の、精神的混乱と、将来への不安が重なってできたもの
と思われる。小さな乳児をかかえ、路頭に放り出されたのだから、当然と言えば、当然。家族
や世間の冷視は相当なものであっただろう。いくら大恋愛とはいえ、その母親は、心の一部
で、自分の行為を悔やんだにちがいない。つまり心のキズは、そうした一連の騒動の中でつい
たものと思われる。

 だからその母親は、こう訴えている。「私のキズは、消えるでしょうか。またどうすれば消える
でしょうか」と。

 しかしここにも書いたように、心のキズは、簡単には消えない。軽いキズなら、忘れるという方
法で遠ざかることはできる。しかし大きなキズとなると、そうはいかない。私のばあいも、いろい
ろなキズがある。

●私のキズ

 私の父は、今でいうアルコール依存症だった。ふだんはやさしく、静かな父だったが、酒を飲
むと、人が変わった。大声でわめき散らし、家具を手当たりしだい、こわした。目の前で母が殴
られたり、蹴られたりしたのを、何度も見たことがある。

 そんな中、私の人生の中で、最大の事件があった。その夜、私と姉は、父の恐ろしさから逃
れるため、物干し台の一番奥に逃げた。そこへ父が母をさがすためにやってきて、いつものよ
うに大声で怒鳴った。父は隣の部屋まで来ていた。私はそのとき、「姉ちゃん、こわいよ、姉ち
ゃん、こわいよ」と、体を震わせて泣いた。私が六歳のときのことである。

 この事件はそれで終わった。私も、こうした恐怖体験が、そのあと、自分の心に大きなキズを
残したということに、気づくことはなかった、しかしいろいろな場面で、ひょっとしたらあの夜のこ
とが原因ではないかと思うことが、いくつかあった。夜が苦手とか、酒臭い男が嫌いとか、な
ど。しかしその中でも、自分ではどうしてそうなるか、わからないものに、不安発作があった。

 私はワイフと結婚してからも、ときどき、極度の不安発作に苦しんだ。夜、床についてから、し
ばらくすると、それが起きた。ふだんは、「暗闇が苦手」という程度だった。しかし一度そういう
状態になると、体がガタガタと震えだした。私は体を丸めて、その言いようのない恐怖をどうす
ることもできなかった。が、ある夜のこと。

 私がワイフに、父のアルコール依存症について話していたときのこと。いつしか話は、父の酒
乱の話になり、やがてあの夜の話になった。と、そのときのことである。私がワイフに、「あの
夜、ぼくは『姉ちゃん、こわいよ』と泣いたよ」と話したときのこと。例のあの発作が起きた。「姉
ちゃん、こわいよ」と言ったところで、言葉がつづかなくなってしまった。私はただわけもわから
ず、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわいよ」と、叫びながら、体をガタガタと震わせた。

 私は私の不安発作は、その症状からして、あの夜のできごとが原因であったことを知った。
私はあの夜、体をガタガタと震わせて、その恐怖におびえた。そしてそういう私から、思い出だ
けが消え、症状だけが残った。それが私の不安発作というわけである。

 が、あの夜を思い出したとき、あの夜の恐怖体験がよみがえった。そしてそれと同時に、同じ
症状が起きた。私はこれらのことから、私の不安発作の原因は、あの夜の恐怖体験であった
ことを知った。

●心のキズとは、じょうずにつきあう

 心のキズは、簡単には消えない。現に私のばあい、あれからもう半世紀になるが、今でもそ
のキズは残っている。ただ以前とは違い、私の不安発作の原因がわかっているため、そういう
状態になっても、意味もなくおびえるということは、なくなった。またそのため、回数は、ぐんと減
った。若いころは、一年に数回、ひどいときには、一か月のうちに、数回起きたが、今では、数
年に一度になった。しかも今は、発作が起きても、「また始まったな」とか、そんなふうに考え
て、短時間ですますことができるようになった。

 そこでこれは、あくまでも私の個人的体験からの教訓だが、こうしたキズは、消そうと思わな
いこと。消すのではなく、じょうずにつきあうこと。居直るというか、そういうふうにして対処する。
「私は私だ」と。

 こうしたキズは、多かれ少なかれ、だれにでもある。あったからといって、恥じることはない。
隠さねばならないようなことでもない。(だから私は、こうして自分のキズについて書いてい
る!)とくに私のような団塊の世代、つまり戦後の混乱期に生まれた人間は、みな、もってい
る。私の子ども時代というのは、今のアフガニスタンか、イラクのような状態ではなかったか。
あるいはもっと悪かった。親たちですら、自分たちが食べていくだけで精一杯。家庭とか、家族
とか、子どもの心とか、そんなことを考える余裕など、どこにもなかった。

 さて冒頭の母親の話にもどる。その母親は、なぜ上の息子につらく当たるか、その原因がす
でにわかっている。こういうケースでは、問題は、ほぼ解決したとみてよい。ただこの先、「つら
く当たる」という症状だけは、しばらくつづく。ここにも書いたように、心のキズは消えない。そし
てそのキズは、何かにつけて、その人を裏から操る。もともと無意識下の行動だから、それを
コントロールするのは、容易ではない。

 しかしやがて時間が解決してくれる。もしできるなら、こうしたキズは、世代伝播(でんぱ)しや
すいから、こうしたキズは、つぎの世代(=上の息子)には、伝えないようにする。親がつらく当
たることにより、子ども自身もそれでキズつく。そして今度は、その子どもがいつか、自分のキ
ズで苦しむことになる。それは避けなければならない。

 さあ、あなたも居なおったらよい。
 みんなあるのさ、心のキズ。
 そのキズを背負って生きるのが人生、と。
(0305017)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(817)

こわれた心

 親子でも、人間関係は、こわれるときには、こわれる。しかしここで親子のズレが生まれる。

 親のほうは、何とか修復しようとするが、子どものほうは、そういう親の姿勢そのものを、うる
さく感ずる。つまり親が何とかしようとあせればあせるほど、逆効果。その関係は、ますます破
壊される。

 ある母親(五六歳)は、そのさみしさに耐えかねて、ほとんど毎日、近くの神社に参拝したとい
う。「どうか、息子が、心を入れかえてくれますように」と。つまりその母親は、そういう形で、親
子の関係を、修復しようとした。しかしそれを聞いた息子のほうは、ますます母親を疎遠に感じ
たという。

 こわれた親子関係について悩んでいる人は多い。ほとんどは親のほうだが、しかし昔から、
こう言うではないか。『覆水、盆にかえらず』と。一度こぼれた水は、盆にはもどらないという意
味である。

 こういうケースでは、親はあきらめて、そういう状態を受け入れるしかない。受け入れて、あと
は、時間を待つ。親がせいぜいできることと言えば、ドアだけはあけておくということ。子どもが
いつか戻ってきたとき、子どもが入れるドアだけは、用意しておくということ。そのとき親は、もう
この世の人ではないかもしれないが、そのドアを閉ざすことだけは、してはならない。

 日本では、昔から、『親子の縁は切れない』というような言い方をして、親子の関係を絶対し
する傾向が強い。とくにマザコンタイプの息子や娘ほどそうで、つまり親を絶対視することによ
って、自分のマザコン性を正当化しようとする。「私の親は、私がそうするにふさわしいほど、す
ばらしい親だ」とである。ある男性(五七歳)は、だれかが彼の死んだ親を批判しただけで、激
怒してみせた。「おれの親を悪く言うヤツは許さん!」と。つまり彼はそう言うことによって、自分
のマザコン性を正当化していた。

 一方、そういう世俗的な常識にしばられて、自分を失格人間と思いこんでいる息子や娘も多
い。親に孝行しないことを、心のトゲに思っている人も少なくない。(私は「孝行」という言葉その
ものに、大きな疑問をもっている。)周囲の人も、「親のめんどうをみるのは、当然」というような
言い方で、そういう息子や娘を責める。しかし、だ。

 親子の関係がこわれるには、それなりの理由がある。そしてそのほとんどは、他人がはかり
知ることができないほど、根が深く、そして大きい。たしかに親子の関係は、ふつうの人間関係
とは違う。その違いを乗り越えて、こわれるのだから、そこにいたる確執には、相当なものがあ
る。ある男性(四八歳)はこう言った。

 「私は母とは、もう二〇年、会っていません。親戚の人たちは、あれこれ心配してくれますが、
いらぬ節介というものです。実は私は、父との間にできた子どもではなく、母と祖父との間にで
きた子どもなのです。しかしそんな話を、親戚のだれにできますか」と。

 親子といえども、それを最後につなぐのは、純然たる人間関係である。「親子」という関係に、
親も、そして子どもも、甘えてはいけない。またそれを理由にして、相手をしばってはいけない。
たがいに尊敬し、尊敬される関係をめざす。しかしそれができないからといって、失敗したと
か、そういうふうに考えてはいけない。「私は私」であるということは、「私の家族は、私の家
族」。私に「形」はないように、家族にも「形」はない、もちろん親子にも「形」はない。その形で、
自分をしばってはいけない。子どもをしばってはいけない。他人をしばってはいけない。

●王国を統治するよりも、家庭を治めるほうが、むずかしい。(モンテーニュ「随筆集」)
●家庭よ、閉ざされた家庭よ、私は汝(なんじ)を憎む。(ジイド「地の糧」)
(030517)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(818)

パソコン

 近くの隣人の奥さんが、パソコンを始めた。今、週に一回、パソコン教室に通っているという。
まず手始めは、ワードによる文書作成。

 が、まったくの素人。笑えてくるほど、素人。まず初日。パソコン教室で与えられた宿題ができ
ないからといって、私の家にやってきた。行ってみると、フロッピーに保存したデータが読み出
せないとのことだった。

 「まず、ワードを起動して、ファイルを開きます。ここに3・5インチディスクとあるから、それを
クリックします。ついで、『すべてのファイル』をクリックすると、文書の一覧表が出てきます。そ
の中から、文書を選びます」と。

 また翌日、今度は、「パソコンがこわれたから、みてほしい」と言って、やってきた。また行って
みると、フロッピーが入れたままになっていた。機種によっては、フロッピーを入れたままだと、
パソコン自体が立ちあがらないことがある。そこでフロッピーを抜いてから、再度、エンターキ
ーを叩いてやった……、などなど。

 が、またその翌日も。今度はプリンターを買ったが、動かないと言ってきた。その奥さんは、
パソコンを電気製品か何かのように思っているらしい。プリンターは、つないだだけでは、動か
ない。「ドライバーは?」と聞くと、「ある」と。そこで「もってきて」と言うと、ネジ回しのドライバー
をもってきた。

 しかし買いそろえたものだけは、すごい。いきなりデジタルカメラも買ったし、それにY社の無
線ルーターまでもっていた。「インターネットはするの?」と聞くと、臆面もなく、「はい」と。しかし
これも電話線につないだまま。「どこか、プロバイダーに申し込みはしたのですか?」と聞くと、
「電話局にですか?」と。私はものすごい絶望感を覚えた。

 こういうケースでは、あまり深入りしないほうがよい。へたに深入りすると、つぎつぎと相談が
もちかけられる。まさに相談の洪水。その上、万が一、パソコンにウィルスでも侵入しようもの
なら、すべて私の責任になってしまう。クワバラ、クワバラ。

 デジタルカメラにしても、記録媒体(メディア)も買ってないし、パソコンに接続するメディアリー
ダーも買ってない。どうやって写真をパソコンに取り入れるのだろうか……と、心配するのも、
ヤボなこと。その奥さんは、カメラさえあれば、それでOKと考えているようだ。

 「ダンナさんは、パソコンをしてないのですか?」と聞くと、「わからないことは、林さんに聞けと
言っています」とのこと。それはそうかもしれないが、ここまで落差があると、どこからどう教え
たらよいのか、皆目、見当すらつかない。

 ワイフに相談すると、「あの人ならワードで文章を打てるようになるまでに、一年はかかるわ」
と。かなりの電気オンチらしい。が、悪い人ではない。昨夜は、お皿いっぱいの料理を届けてく
れた。気持ちはヨークわかるが、食べれば食べるほど、私は、どこか気が重くなった。

 さていつか、その奥さんが、インターネットをするようになり、私のマガジンを購読するようにな
るかもしれない。そのとき、この文章を読んだら、その奥さんは、私をどう思うだろうか。まあ、
多分、そのときは、私を許してくれるだろうと思う。そう思いながら、先ほども、その奥さんの家
に行ってきた。今度はいきなり、「私も自分のホームページをつくりたい。どうしたらいいか」だ
った。私はまたまた心底、ゾーッとした。
(030517)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(819)

子どもの強迫観念

 五、六年前だが、近くの湖で、水死体があがった。若い男だったという。自殺らしかった。が、
その直後から、近くの小学校で、「こわいから、学校へ行きたくない」という子どもが、続出し
た。

 子どもは、ふとしたことから、この脅迫的恐怖を感じやすい。これは一五年ほど前のことだ
が、「学校の花子さん」というテレビ番組がはやったときのこと。やはり「小学校へ入学したくな
い」という園児が続出した。「学校には、花子さんがいるから、行きたくない」と。

 こうした強迫観念が、一時的かつ一過性のもので終わればよいが、そうでないときもある。子
どもによっては、こうした強迫観念を、さらに頭の中でふくらませてしまう。さらに現実と空想の
区別がつかなくなってしまうこともある。直観像素質者と呼ばれるタイプの子どもである。

 このタイプの子どもは、論理や分析が苦手で、その反面、空想の世界にハマってしまう。よく
知られたケースとして、淳君殺害事件を起こした少年Aがいる。その少年Aなどは、ビジュアル
な感覚だけが異常に発達し、現実と空想の世界がわからなくなってしまったと考えられている。

 結論を先に言えば、こうした恐怖体験は、乳幼児期には、避ける。受け取る子ども側の感受
性の問題もあるが、当然のことながら繊細で、デリケートな子どもほど、その影響を受けやす
い。私の経験では、自意識が芽生え、自己管理ができるようになる満六歳前後までは、子ども
は、穏やかな環境で、静かに育てるのがよい。それ以後は、子ども自身が、理性の範囲で、情
報を選択したり、取捨したりするようになる。ただし、こんな例もあるから注意してほしい。

 ある父親が、第二次大戦中の実録ビデオを借りてきて、小学三年生になる息子に見せた。
戦争の残虐さを教えるためである。が、その子どもは、かえって残虐なシーンに興味をもつよう
になってしまった。ノートに描く絵は、その種類のものばかり。会話も、その種類のものばかり。
テレビなどでも、残虐なシーンが出てくると、目を輝かせて見るようになってしまったという。

 一度、乳幼児期に強迫観念を経験した子どもは、いろいろな場面で強迫観念をもちやすくな
る。思考プロセスができるためと考えるとわかりやすい。そんなわけで、子どもに与える情報に
は、親はもっと慎重でなければならない。
(030517)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(820)

学力を伸ばす法・30の鉄則・BYはやし浩司

 今日、近くの書店で、何冊か本を買ってきた。ほかに、その本屋で目についたのが、「子ども
の学力を伸ばす法」というようなタイトルの本。何冊か、並んで平積みにしてあった。こういう時
代だから、そういう本のほうがよく売れるのだろう。

 そこで私も考えてみた。多分、マガジンの読者の中には、子どもの学力で悩んでいる人も多
いはず。そういうニーズに答えるのも、私の役目かもしれない。

(鉄則1)学習のリズムをつくる

 子どもの学習にリズムをつくる。毎日の学習、毎週の学習、毎月の学習というように、一日単
位、週単位、月単位のリズムをつくる。毎日の学習は、学校から帰ってきたら、一定時間勉強
する。週単位の学習は、土日をうまく活用しながら、組み立てる。また月単位の学習は、月刊
雑誌などを利用して、組み立てる。

(鉄則2)無理をしない

 家庭での学習は、決して無理をしないこと。三〇分くらいなら勉強しそうだったら、思い切って
一五分程度にする。一時間くらいなら勉強しそうだったら、思い切って三〇分にするなど。家で
の学習は、復習を中心として、子どもの能力よりワンランクさげたものにするのがコツ。

(鉄則3)ワークブック選びは、慎重に

 ワークブックは、大工さんにとっての道具のようなもの。やりやすく、子どもに負担のないもの
を選ぶこと。字がこまかいとか、難解なのとか、量が多いのは、避ける。またワークブックは、
一番の問題と、最後の問題を見て、選ぶ。一番が極端に簡単で、最後の問題が極端にむずか
しいようなのは、避ける。これを「問題の落差」という。その落差の大きいワークブックは、避け
る。たった一冊のワークブックが、子どものやる気を奪ってしまうということは、よくある。

(鉄則4)本読みが、基本

 国語は当然だが、理科にせよ、社会にせよ、理科的な国語、社会的な国語と考える。つまり
「本読み」が、学習の基本であることを忘れてはならない。言いかえると、国語力がない子ども
は、理科も、社会も苦手になる。そこで一つの方法として、図書館を利用する。毎週決められ
た曜日の、決められた時間に、子どもといっしょに図書館で、一、二時間過ごすとよい。最初は
「勉強」をあまり意識せず、子どもと遊ぶつもりで行く。また子どもがどんな本を読んでも、干渉
したり、あれこれ指示してはいけない。子どもに読書習慣を身につけさせるには、半年単位の
時間がかかると思うこと。

(鉄則5)毎日、少しずつが、コツ

 漢字と計算練習は、毎日、少しずつするのがコツ。しかしその時間は、小学校の高学年で
も、一五〜三〇分程度が限度。学校から帰ってきたらすぐするとか、生活の中で習慣化すると
よい。このばあいも、無理をしないこと。子どもの立場で、「楽にできる」ことが、何よりも大切。

(鉄則6)無理、強制は最小限に

 能力を超えた学習を与えることを、無理という。罰則などをもうけて、子どもに学習を強いる
のを、強制という。こうした無理や強制は、子どもの指導には、ある程度必要だが、子どものや
る気を奪ってしまうほど、無理をしたり、強制してはいけない。

(鉄則7)条件、比較はタブー

 「これだけしたら、〜〜を買ってあげる」「おこづかいをあげる」式の条件は、タブー。「勉強は
あなたのため」「自分のためにするもの」という姿勢を貫く。また「〜〜君は、もう掛け算ができ
るのよ」「私が子どものころは……」式の比較も、タブー。一時的な効果はあっても、長い目で
見て、子どものやる気を、確実につぶす。

(鉄則8)先生との相性をよくする

 子どもの前では、学校の先生をほめる。「あなたの先生は、すばらしい先生よ」と。先生の悪
口、批判は、タブー。あなたが子どもに言った言葉は、必ず先生に伝わる。それだけではな
い。もしあなたが学校の先生を批判したりすると、子どもは学校の先生の指示に従わなくなる。

(鉄則9)王道、近道はないと思う
 
 技術的なコツというのは、いくらでもある。しかし「勉強」には、王道も近道もないと思うこと。た
とえばどこかの進学塾が、夏期特訓などと称して、めちゃめちゃな指導をすることがある。一時
的な効果はあっても、それまでかかってつくりあげた学習のリズムは、その時点でこなごなに
破壊される。そうしたデメリットもよく考えて、子どもの学習は考えること。

(鉄則10)量より、質

 子どもの勉強は、本格的な受験期をのぞいて、「量より、質」と考えること。時間が多ければ
多いほど、よいというものではない。学習の量が多ければ多いほど、よいというものでもない。
短時間で、ぱっぱっとすますほうが、好ましいことは言うまでもない。「うちの子は、もっとやれ
ばできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおすこと。

(鉄則11)フリ勉、ダラ勉に注意

 子どもがオーバーヒートしてくると、独特の症状を示す。その一つが、フリ勉、ダラ勉。フリ勉
というのは、「いかにも勉強しています」という様子だけをとりつくろうこと。ダラ勉というのは、時
間ばかりダラダラとかけて、ほとんど先へ進まないことをいう。こうした症状が見られたら、思い
切って、学習量を半分以下に減らす。その時期は早ければ早いほど、よい。

(鉄則12)一芸をもたせる

 「勉強、一本!」という子どももいるが、しかしこのタイプの子どもは、一度、勉強でつまずく
と、あとは坂をころげ落ちるかのように成績がさがる。そういうときのため、……というわけでは
ないが、子どもには、一芸をもたせる。スポーツでも、趣味でもよい。その一芸が、子どもの心
を支える。これからは一芸の時代であることも、忘れてはならない。

(鉄則13)ほどほどのところで、あきらめる

 あきらめることによって、子どもに対する姿勢が、一八〇度変わる。「まだ何とかなる」「そん
なはずはない」と、親が思っている間は、子どもは伸びない。しかしあきらめたとたん、それが
「よくやっている」「こんなものだ」という見方に変わる。子どもの学習では、あきらめることを恐
れてはいけない。

(鉄則14)「核」をつくる

 オールマイティな子どもを求めない。もしあなたの子どもが今、勉強で行きづまっているような
ら、一科目だけ、集中的に指導する。そのとき、一番の得意科目を選ぶとよい。あるいは算数
なら算数で、掛け算だけをとくに得意にするという方法もある。これを「核づくり」という。この核
を育てながら、少しずつ、ワクを広げていく。

(鉄則15)自学の心を大切に

 塾を利用することは悪いことではない。しかし大切なことは、塾に依存しないこと。ずるい塾
は、親や子どもに依存心をもたせることによって、経営の安定化をはかる。「この塾をやめた
ら、成績はさがる」という恐怖心を、いつも与えるようにしている。しかし勉強の基本は、「自
学」。自分で本やテキストを読んで、理解する。そういう姿勢を大切にする。

(鉄則16)バカな親のフリをする

 子どもを伸ばすコツは、いつも子どもに、前向きの暗示をかけること。「あなたはこの前より、
できるようになった」「どんどんすばらしくなる」と。そのため、時期がきたら、親はバカなフリをし
て、子どもの自立を促す。子どもの側からみて、「こんなバカな親に頼るくらいなら、自分でした
ほうがマシ」と思わせるようにする。私も、小学三、四年生を境に、生徒たちに、そう思わせな
がら、自立を促すようにしている。

(鉄則17)子どもを楽しまる

 あなたの子どもが勉強嫌いなら、今は、楽しませることだけを考える。いっしょに机の横にす
わり、子どもに好き勝手なことをさせる。一時間座って、五〜一〇分、勉強らしきことをすれ
ば、しめたものと思うこと。決して、カリカリしてはいけない。「勉強は楽しい」という思いが、子ど
もを、前向きに引っぱっていく。

(鉄則18)先入観を捨てる

 勉強というのは、勉強机の前で、黙々とするものという先入観をもっている人は、今でも多
い。しかしアメリカなどでは、図書室でも、子どもたちはみな、寝そべって本を読んだりしてい
る。日本人は何かにつけて、「型」を気にする民族。勉強にも、勉強の「型」があるというわけで
ある。しかしそういう型など、クソ食らえ!……と考えること。

(鉄則19)未来に希望をもたせる

 「フランスで、ルーブル博物館を見たいね」「ウィーンでコンサートに行きたいね」「オーストラリ
アで、カンガルーを見たいね」というような前向きな、夢を、子どもにいつも語ること。子どもの
「力」の範囲にある夢を語ること。「宇宙飛行士のM氏のように、宇宙飛行士になろうね」式の
言い方は、かえって子どもの夢をつぶすから、注意する。

(鉄則20)未来をおどさない

 「こんなことでは、あなたはS中学へ入れない」「このままではダメになる」式のおどしは、タブ
ー中のタブー。ある愚かな母親は、子どもをホームレスの人がいるところへつれていき、「あな
たも勉強しないと、ああなるのよ」と教えたという。こうしたおどしは、絶対にしてはならない。

(鉄則21)受験屋のエサにならない

 進学塾の説明会などに行くと、まずビデオを見せられる。たいていは受験勉強のビデオだ
が、後半は、不合格になって力を落とす母親や子どもの姿。つまりそういうシーンを見せること
によって、親や子どもに恐怖心を与える。大手の進学塾ほど、こうした戦略を、組織的にする
ので、注意。

(鉄則22)設計図を、押しつけない

 親がある程度の設計図をもつことはしかたないにしても、その設計図を、子どもに、押しつけ
てはいけない。「子どもは子ども」と思うこと。仮に設計図があるとしても、その設計図は、常に
変更可能なものであること。また変更することを、恐れてはいけない。その時点、時点で考えな
おせばよい。

(鉄則23)安定した安心感を与える

 子どもの適応能力には、すばらしいものがある。しかし一方、子どもは愛情問題には、たい
へんもろい。家庭がぐらつくようなとがあると、その影響は、ぞのまま子どもの学習態度に現れ
る。子どもに勉強してもらいたかったら、親は親で、自ら、家庭を安定させること。そのための
努力を怠らないこと。家庭がガタガタで、子どもに向かっては、「勉強しなさい!」は、ない。

(鉄則24)環境で包む

 「うちの子は、どうしても勉強しない」と悩んだら、子どもは環境で包む。まず親が、自ら勉強
する姿勢を手本として、見せる。本を読んだり、新しいことにチャレンジしてみせる。この方法
は、少し時間がかかるが、子どもに勉強グセをつけるには、もっとも効果的である。私も、勉強
グセのない子どもを、よく、年上の子どもたちの教室の中に置き、好きな勉強をさせることがあ
る。

(鉄則25)達成感を大切に

 どんな勉強でも、結果ではなく、「やりとげた」という達成感を大切にする。結果は、あくまでも
結果。たとえばワークブックでも、まず簡単なものを与え、「やりとげた」という満足感を覚えさ
せるようにする。結果は、気にしない。なお、こまかいミスは、大目に。一〇問、計算問題をし
て、八〜九問正解だったら、大きな丸をつけてやる。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。

(鉄則26)追い討ちをかけない

 学校での成績が悪かったようなとき、子どもに向かって、「どうしてこんな点しか取れないの」
式の追い討ちをかけてはいけない。子どもは子どもで、じゅうぶん、苦しんでいる。だから言う
べきことは、「あなたはよくがんばったわ」「気を楽にしなさい」である。とくに落ちこんでいる子ど
もに向かって、「がんばれ」式の励ましは、禁物。

(鉄則27)見え、メンツ、世間体と戦う

 見え、メンツ、世間体……どれも同じようなものだが、この三つから解放されたら、子育てに
まつわる悩みのほとんどは、解決する。親は、この三つのしがらみの中で、もがき、苦しむ。あ
なたがもし、心のどこかで他人の目を感じたら、まずあなたがすべきことは、その視野の狭さと
戦うことである。

(鉄則28)時期とタイミングを待つ

 イギリスの格言に、『馬を水場につれていくことはできても、水を飲ませることはできない』とい
うのがある。最終的に勉強するかしないかを決めるのは、子ども自身ということ。つまりあと
は、子ども自身がやる気を起こすまで、じっとがまんする。そして時期とタイミングを待つ。

(鉄則29)受験カルトと戦う

 最近では、白い衣装をまとったカルト教団が話題になっている。そういう教団のおかしさは、
だれにでもわかるが、実はごくふつうの親でも、そのカルトに染まることがある。たとえば日本
がもつ、受験競争というのは、まさにそのカルト。それに気づくかどうかは、結局は視野の広さ
ということになる。アメリカでは、学校の先生に落第を勧められると、親はそれに喜んで従う。
「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。「そのほうが子どものため」と考えるからである。こうした
違いがなぜ生まれるかということを考えていくと、その先に、日本のカルトが見えてくる。

(鉄則30)家族の絆(きずな)を守る

 どんなに子どもの受験勉強に狂奔しても、家族の絆だけは、守ること。決して犠牲にしてはい
けない。中に「私は嫌われてもいい。息子がいい中学に入ってくれさえすればそれでいい」と言
う親がいる。しかしこの考え方は、基本的な部分で狂っている。家族の絆は、親として守らなけ
ればならない、最後の砦(とりで)である。それを犠牲にして、子どもの勉強は、ない。

 ここに書いたようなことは、いわば常識のようなもの。しかし同時に、それは正攻法でもある。
中に特異な方法を説いて、「こうすれば、あなたの子どもの学力は伸びる」などと主張する人も
いるが、そういうのは、まず疑ってかかってよい。私は書店に並んだ本について、表紙だけは
見たが、中は読まなかった。内容については、だいたい察しがつく。たとえばこういう感じでは
ないか?

●テストでは、やさしい問題は、多少時間を余計にかけて、確実にこなせ。
●消しゴムを使うヒマがあったら、一本線を引いて先へ進め。
●難しい問題は、一度読んだあと、ほかの問題が終わったあと、再度チャレンジせよ。
●作文では、常識的なことを書け。奇異な意見は、かえって試験官の印象を悪くする。
●面接では、短い文章で、的確に答えろ。まわりくどい言い方はしない。わからないことは、「わ
かりません」と、すなおに言え、など。

それがよいのか悪いのかは別にして、(それが現実だから)、こうしたハウツーものの本のほう
が、よく売れる。私も、今より二〇歳若ければ、そういう本を書いたかもしれない。しかし今は、
時間がない。そう思いながら、私は、その書店から出た。
(030517)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(821)

ジャスミン

 今、山荘の周辺では、野生のジャスミンが咲き誇っている。甘い香りが、あたり一面を包んで
いる。上品でやさしい香り。いくらかいでもあきない。

朝早く起きて、マガジン用の原稿を書いていると、ワイフが茶碗一杯の野イチゴをもってきてく
れた。「小さなアリがいるかもしれないから……」と言ったが、私は気にしない。私はもともと、
野性的な男なのだ。そんな私が、ジャスミンの香りにうっとりとする?

 ウグイス(ホーケキョ)、コジュケイ(チョットコイ、チョットコイ)、それに今朝はまだ薄暗いうち
から、ホトトギス(テッペン・カケタカー)も鳴いた。遠くではカラスも鳴いている。どこか初夏を感
じさせる、冷たいが生暖かさの混ざった風。そして燃えるような木々の緑。

 昨夜は遅くまで、ワイフと、ビデオを見ていた。実にくだらないビデオだった。あくびも出ないほ
ど、つまらないビデオだった。しかし見ていたのは、ほかにすることもなかったから。で、そのと
き、せんべいを食べ過ぎたためだろう。今朝は、まったく食欲がない。「今朝は、朝食はいらな
いから」とワイフに言うと、「私もいらない」と。

 そうそう今朝は、もう一つ、仕事をした。山荘周辺には、ジャリを敷きつめているが、その間
から、こまかい雑草が無数に出てきた。それで先ほど、除草剤をまいた。友人のT氏は、「手で
抜けばいい」といつか言ったが、このところ、それがめんどうになった。それで除草剤をジョーロ
にとかして、ダイナミックにザーッとかけた。
 
 で、今は、五月一八日、日曜日、午前一〇時ちょうど。うすぐもり。これから服を着がえて、山
荘の掃除を少しする。それから……、今のところ、予定はなし。ここでT氏の話が出たので、T
氏の山荘へ行ってみようかと考えている。車で四〇分くらいのところにある。しばらく行っていな
い。隣に、陶芸の釜を置く小屋を作ったということだ。ワイフの体のコンディションを聞いてから
決める。

 しかし明日は愛知県のB町で講演。今日は無理をしないでおこう。先週は、F市で講演をさせ
てもらったが、途中で鼻がつまってしまい、その息苦しさといったら、なかった。明日は、そうい
うことはあってはならない。ついでだが、私は講演がある日には、こんなことに注意している。

(1)食事を減らす……私はもともと低血圧なので、胃に何かが入ると、すぐ眠くなってしまう。数
年前だが、大阪市で講演したときは、講演の途中だが、一瞬、眠ってしまった。講演の前に、
出された昼食を食べたのが悪かった。

(2)運動をする……脳細胞を刺激するために、運動をする。ぼんやりした頭では、講演はでき
ない。これは私のばあいだけかもしれないが、講演している最中には、二つの脳が同時に働
く。講演の内容を考えている脳と、そしてそういう自分を客観的に外から見ながら、それをコン
トロールする脳の二つである。前者は、講演の内容そのものということになるが、後者は、「あ
と残り時間は二〇分、急げ」「この話は、時間がないので、カット」というように、私に指示を与え
る。ぼんやりしていると、とくに後者の脳が機能しなくなる。

(3)朝風呂に入る……どんなに寒い朝でも、シャワーをあびるか、朝風呂に入ることにしてい
る。頭をしゃきっとするためである。

(4)原稿を書く……講演の内容とは関係ない文章を書く。これは私の話し言葉を正確にするた
めである。私は講演では、「エート」とか、「アノー」とか、「マア」とかいうようなあいまいな表現
は、一切使わない。そのまま原稿に起こしてもおかしくない言い方をするようにしている。その
ために、講演の前には、文章を書き、自分の頭の中の言葉力を整えることにしている。

(5)手を抜かない……当然のことだが、私は、どんな講演でも、またどんな小さな講演でも、手
を抜かない。「今日が最後だ。明日は、交通事故で死ぬかもしれない」と自分に言ってきかせ
る。ときどき途中で、疲れて、気が遠くなりそうなこともある。そういうとき、自分をふるいたたせ
るために、そう言ってきかせる。

 ……とまあ、大きく脱線してしまったが、しかしそのくせ、今まで、一度たりとも、満足に終わっ
た講演はない。いつも終わるたびに、「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔す
る。これは講演自体がもつ、限界のようなものか。同じように舞台に立つのだが、そういう点で
は、歌手はいいなと思うことがある。いつも同じ歌を歌えばよいのだから……。

 今、ワイフがやってきて、「帰る?」と聞いた。「ウン」と私は答えた。掃除を少しして、帰る。七
月には、B君(オーストラリア人)が、ここに泊まることになっている。昨日、電話で話したら、「ワ
イフがヒロシの山荘に泊まりたいと言っているから」とのこと。「君の近くには山はないのか?」
と聞いたら、「四〇〇キロ先にある」と。では……。

 みなさんに、このすばらしいジャスミンの香りが届けられないのが、残念!
(030518)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(822)

悪妻、毒妻

 夫婦の関係が冷えたら、離婚。それはわかる。しかし離婚しないで、がんばっている(?)妻
もいる。

 Y子(四〇歳)は、今から一〇年ほど前、一五歳年上の男性と結婚した。見合いだった。婚期
の遅れた息子のために、息子の父親が設定したものだった。

 で、その見合いはうまくいった(?)。二人は、結婚した。しばらくはY子は、それなりに新婚生
活を楽しんだ。が、数か月もすると、たがいの間はぎくしゃくし始め、半年もすると、「形だけの
結婚生活」(息子)になってしまった。理由は無数にあったが、この際、理由は、あまり関係な
い。

 この一〇年の間に、Y子はたびたび息子とけんかを繰りかえし、実家にもどっている。実家
は、四国のK県にあった。それでも二人の間には、二人の子どもが生まれた。Y子が、突然、
強くなったのは、下の子どもが生まれてからだった。

 「強くなった」というのは、強引に、義父、つまり息子の両親の財産を求め始めたことをいう。
義父は、昔からの財産家で、静岡市の郊外の一等地に、数一〇〇坪単位の土地を、いくつか
もっていた。Y子は、手始めに、息子名義の預金通帳を、自分に渡すように要求した。しかしそ
の通帳は、義父が、いわば息子の名前を借りて預金していたものだ。が、Y子は、納得しなか
った。「夫名義のものは、私のもの」と。

 つぎにY子は、長男が小学校に入学するについて、義父の家から学校へ通わせたいと申しで
た。義父は、そのあたりでもきわだって目立つほどの豪邸に住んでいた。所有していた土地の
一部が、区画整理にかかり、その補償金で建てた家だった。

 が、これに義父の妻が反対した。妻は、Y子の下心を見抜いていた。が、これにY子は激怒し
た。「祖母なら、孫のめんどうをみるべきだ」と。

 こうしたトラブルは、当事者の神経を、とことんすりへらす。義父は、その間に、一度軽い脳梗
塞を起こして倒れている。妻も、胃腸を悪くして、数週間、入院している。が、それ以上に義父
と妻を悲しませたのは、Y子が、二人の子どもを切り離してしまったことだ。義父は、私にこう言
った。

 「電話をかけても、孫たちを、電話口にも出してくれないのです。以前は、孫たちのほうから、
毎日のように電話がかかってきたのですが、それも止めているようです」と。

 Y子は、義父と妻を、わざとさみしがらせることで、自分の要求を通そうとしていた? が、そ
んなときY子に、大事件がもちあがった。何とその義父と妻のいる家に、夫の妹夫婦が同居す
ることになったのだ。

 夫の妹、つまり義理の妹は、鎌倉に住んでいたが、いろいろ事情があって、静岡市にもどっ
てきた。(本当のところは、義父の妻が呼び寄せたのかもしれない。)しかもその妹と、Y子は、
仲が悪い。とたん、Y子のもくろみは、総崩れになりそうになった(?)。

 このケースは、ここまで。目下、現在進行中。これから先、どうなるか私にもわからない。しか
し似たようなケースは、いくらでもある。

●頼りない財産家の息子。
●その息子と結婚した、妻。
●妻がやがて目をつけるのは、夫の両親の財産。
●その財産をめぐって、醜い骨肉の争い。

こういうケースで興味深いのは、妻の意識の中に、夫がいないということ。夫を飛び越えて、義
父母と妻の関係になること。本来なら離婚したほうがよいのだが、離婚はしない。(このY子の
ケースでは、夫も離婚をしぶっている。だからY子は、ますます高姿勢になっている。)「義父の
財産イコール、夫のものイコール私のもの」と考える。

 こうした感覚がなぜ生まれるかかだが、それにはY子自身の人生観がからんでくる。(はたし
て人生観などという高邁なものがあるかどうかは、別にして……。)Y子はY子なりに、殺伐(さ
つばつ)とした結婚生活の中で、「マネーがすべて」という感覚を身につけたのだろう。

 しかしこういうのを悪妻というのではないか。毒妻といってもよい。私は「男」だから、どうして
も「夫」の立場でものごとを考えてしまう。しかし本当に悪いのは、夫のほうかもしれない。Y子
にしても、「私の人生はどうなるの!」「私の人生を返して!」と言いたいのかもしれない。これ
から先、二人の息子の将来を考えるなら、なおさらだ。

 一般論として、結婚生活に失敗した人は、夫にせよ、妻にせよ、その代償として、別の世界
で、何かを求め始める。そのため自分を高める人もいれば、低める人もいる。ソクラテスも、夫
の立場で、こう言っている。『汝が良妻をもたば、幸福者にならん。しかし悪妻をもたば、哲学
者にならん』(卓談)と。(ソクラテスの妻も、きっと悪妻だったのだろう。)で、このソクラテスの
言葉を妻の立場でいうと、こうなる。『汝が良夫をもたば、幸福者にならん。しかし悪夫をもた
ば、毒妻にならん』と。

 ああ、世の親たちよ、財産のないことを、もっとすなおに喜ぼうではないか。
(030518)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(823)

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 マガジンの原稿は、たいてい朝早く起きて書くことにしている。あるいは土日など、休みの日
に、できるだけたくさん、書きためておくことにしている。毎回、A4サイズの用紙(40字x36行)
で、15枚前後を目標に、みなさんに送信している。足りないときは、以前書いた原稿で、できる
だけ未発表のものを送るようにしている。

 目標は、ただ一つ。第1000号まで、つづけること。今日現在(五月一八日)、第225号だか
ら、あと775号! 1000号につづくあとのことは、考えていない。多分、1000号まで出せ
ば、私は自分のすべてを吐き出せると思う。それ以後は、ひからびたがい骨? しかしそれま
でエネルギーがつづくだろうか? 健康はどうだろうか? いろいろ考える。しかし今は、やるし
かない。迷っているヒマは、ない。

 読者のみなさんへ、これからも一生懸命書いていきます。どうか、一行でもよいですから、ご
購読ください。よろしくお願いします。みなさんと、この広い宇宙の、そしてその瞬間に、こうして
小さな接点をもつことができたことを、心から感謝しています。
(030518)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(824)

I中学校での講演会

 私が住む浜松市I町は、世帯数4500軒、人口12000人を超える、大町内である。もともと
はI村と呼ばれていた。そのI町のI中学校区と、I小学校で、今年、つづけて講演することになっ
た。が、講演依頼を受けたとき、ほかでは感じなかった、緊張感を覚えた。なぜか?

 「地元」という言葉がある。私にとって、このI町は、地元である。毎日、その町の中に住んで、
買い物をしたり、生活をしている。三〇年近くも住んでいると、ほとんどの人と、顔見知りにな
る。相手も、私の顔くらいは、知っている。そういうI町の中の、I中学校での、講演である!

 ワイフに、「緊張するよ」とこぼすと、「そうね、みんなあなたのこと知っているから」と。「敵にな
るような人をつくらなくてよかった」と話すと、「そうね」と。

 私はもともと、何かにつけて、けんかをしかけていくタイプの人間である。しかしこの地元で
は、静かにしていた。とくに私の近隣の人たちとは、おだやかに(多分?)過ごしてきた。私の
家庭や近隣は、いわばアンタッチャブルの聖域。こういうところでトラブルを起こすと、心安らか
に住めなくなる。

「しかし、やりにくいね」と私。
「だいじょうぶよ」とワイフ。
「みんな、ぼくのことを知るよ。買い物も、平気でできなくなるよ」
「そうね、それは困るわね」
「それに、中には、何、偉そうなこと言って、と思う人も出てくる」
「それは、ありえるわね。だったら、偉そうなことは言わなければいいのよ」
「そうだな。ありのまま、普段着の自分を話せばいい」
「そうよ、自分の身の丈(たけ)を超えなければいいのよ」と。

 私は、いつも、ありのままの自分を話すようにしている。それは問題ないにしても、これから
先、少し窮屈になる。そのことだけは、覚悟しておかねばならない。この三〇年間、子ども会の
副会長や、自治会の会計や書記などの仕事は、ひと通り、してきた。一度I中学校のPTA会長
を頼まれたことはあるが、それは時間のつごうで断った。しかし正直に言って、私はこのI町の
中では、ひっそりと、目立たないように生きてきた。一度、I中学校から、間接的に講演の依頼
があったこともある。息子を通しての依頼だった。それで返事をしないでいたら、そのままにな
ってしまった。

 私が講演で話せることは、自分の、ある意味で特殊な経験しかない。その経験だけは、人に
負けない。あともうひとつは、これは私だけのことではないが、その生きザマ。私なりに懸命に
生きてきた。……と、かた苦しく考えるのはやめて、いつものように気楽にやろう。私がすべき
ことは、聞きにきてくれた人の、役にたつことなのだ。

「しかしね、I中学校での講演は、人生の最後の最後で、つまりもうこれが最後の講演会という
ときにしたかった」と私。
「気持ちはわかるわ」とワイフ。
「ぼくにとっては、この町は、一番、大切な町だ。まだこの先、いろいろあるだろうと思う。それを
思うと、まだずっとあとでもいいような気がする。もっと自分が何であるか、それがわかってから
でも遅くない」
「その気持ちも、わかるわ」
「あと一歩で、その自分がわかりそうな気がするが、どうも手が届かない。この歯がゆさが残っ
ているかぎり、この地元だけは、汚(けが)したくない」
「そうね……」と。

 そう言いながらも、I中学校での講演会は、六月一四日(土)と決まった。これから、関係者の
方と打ちあわせをすることになっている。今は今で、全力を尽くすしかない。今は今で、自分の
すべてを出しきるしかない。近くの人は、どうかおいでください。よろしくお願いします。
(030520)

【講演日時】
6月14日、土曜日、午前10:00〜より、浜松市入野中学校

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(825)

ショーペンハウエルの宗教論

 ショーペンハウエルは、いつも鋭いことを言う。

●宗教はホタルのようなもの。光るためには暗闇を必要とする(「断片」)。
●宗教は無知の子どもである。その母よりは永くは生き延びることはできない(「断片」)。

ショーペンハウエルという人は、ドイツの哲学者。1788〜1860年の人である。少し古い世代
の学生たちは、「デカンショ節」というのを、よく歌った。「♪デンカンショ、デカンショで半年過ぎ
る、ヨイヨイ。あとの半年や、寝て過ぎる」と。その「デカンショ」というのは、「デカルト」「カント」
「ショーペンハウエル」の三人の哲学者をいう。

 まず「宗教はホタルのようなもの」という。「暗闇があって、はじめて光る」という。ここでいう暗
闇とは、「不幸、不遇」をいう。

 つぎにどんな宗教も、「その母よりも永くは生き延びることができない」という。母というのは、
たとえばキリストや釈迦のことをいう。つまりいくら高邁(こまい)な宗教論にせよ、高徳な宗教
家にせよ、キリストや釈迦を超えることはできない、と。

 ……と書いて、筆が止まってしまった。「なるほど!」という思いと、「そうかな?」という迷いが
交互に現れた。ゲーテなどは、遺稿の中で、こう書いている。『学問と芸術をもっているもの
は、同時に宗教をもっている。学問と芸術をもたないものは、宗教をもて』と。ゲーテは、敬虔
(けいけん)なクリスチャンであった。つまり、ゲーテは、学問や芸術と同じ位置に宗教を置いて
いた。宗教を、そういうふうにとらえる人もいる。

 つぎに「母よりも永くは生き延びることはできない」の部分についてだが、生き延びるかどうか
を決めるのは、あくまでも「大衆」。キリスト自身や釈迦自身の力によるものではない。たとえば
日本にも、内村鑑三のようなすぐれた宗教家がいた。しかしいくら彼の卓見がすぐれたもので
はあっても、今、内村鑑三の教えを受け継ぐものは少ない。彼自身が言う「時代の思潮」(「所
感十年」)に逆らうことはできない。

 となると、ここで二つの考え方ができる。ひとつは、神や仏が、かえって人間の可能性をつぶ
してしまっているのではないかという考え方。もう一つは、宗教も、結局は大衆によって作られ
るという考え方。……と、これは私の悪いクセだ。ものごとを、何でも複雑に考えてしまう。読ん
でいる読者も、そう思うかもしれない。だからこの話は、ここまで。

 要するに先のことはあまり考えないで、楽天的に、「今」を懸命に生きる。明日は、放っておい
ても、必ずやってくる。結果も、ついてくる。だからあせってもいけない。クヨクヨ悩んでもいけな
い。神や仏の教えにしても、よいものは、どんどんもらう。「宗教」だの、「信仰」だのと、おおげ
さに考える必要はない。

だれだって満天の星空を見れば、神々しい気持ちになる。若葉がいっせいに吹きだした春の
山々を歩けば、仏のやすらぎと満足感を覚える。そういうときは、そういうときで、すなおに、神
や仏の存在を感ずればよい。ショーペンハウエルが言うような、「暗闇」はごめだし、神や仏に
挑戦しても、意味はない。なぜなら、私自身も、そしてあなた自身も、大衆の一部に過ぎないの
だから……。
(030520)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(826)

ヤーイ、何も起きなかったぞ!

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せ
た。「(その年の七月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったく
のデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言というのもあっ
た。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかのあたまの
おかしな人が、思いこみでするもの。たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終
末論と神の降臨を唱え、「この信仰をしたものだけが、救われる」などと教えている。そこで調
べてみると、こうした終末予言は、その宗教団体だけでも、過去、四、五回もなされていること
がわかった。しかし、だ。一度だって、こうした予言が、当たったためしがない。

 で、問題は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、一
人もいないということ。さらにその責任を追及した人もいない。それに問題は、そういう予言が
はずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れた信者がいな
いということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しました」などと、おめでたい
ことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る五月一五日に何かが起こるは
ずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの言葉)とのこと。が、今
にいたるまで、何も起きていない。「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、
つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」ということになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、
何も起きなかったからといって、どうということはない。(仮に起きたとしても、それは予言が当
たったというよりは、偶然そうなったと考えるのが正しい。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その
予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「一九九九年の七月」
というのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダム
スの予言について本を一〇冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。
世の中をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべき
ではないか……と考えるのは、はたして私だけだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不
安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。言
うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言になる。
つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分を取り巻く運命論と
戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、
私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決
まる。百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち
自身にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そうい
う視点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカ
ルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこの
ボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボー
ルを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】
 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことが
ある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立
って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。しかし、だ。この大宇宙には、
無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の数よりも多くの、星々があると
いう。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地球は、その星にも数えられな
い、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽
の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、そ
の神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人
間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間
だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのま
た人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あなたの家の
中の、チリ一個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。……と、私は考え
てしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、一〇〇〇万人近いユダヤ
人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の中には、それ
こそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。つまりそういうことを考えていくと、「この
信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにもわかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせ
よ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってする
ものではないということ。運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ない
ものということになる。もしそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まず
インチキと疑ってかかってよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはな
い。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意
思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(827)

●進学恐怖症の子ども
 
 A子(小六)は、頭の切れる子どもだった。少なくとも、数か月前までは、そうだった。行動も積
極的で、たいてい一、二度教えただけで、算数の教科書に書いてあること程度なら、理解して
しまった。

 そのA子に、大きな変化が見られたのは、A子がちょうど小学六年生になったときのこと。私
が中学校の話をし始めたときからだった。私がふと、「六年生の勉強は、夏ごろまでには終わ
って、夏ごろからは、中学校の勉強の準備をしようね」と話したときのことだった。いや、そのと
きは、その変化に気づいたというわけではない。ただ、その直後から、A子が、いわゆる何を考
えているかわからないタイプの子どもになってしまった。

 分数の掛け算の話をしていたときのこと。A子が、いつものような反応をまったく示さないのに
気づいた。そのときは、約分の話だった。「二〇分の一〇を約分すると、いくつかな?」と聞い
ても、A子は、どこかつかみどころのない笑みを浮かべるだけで、まったく考えようともしない。
そこで「?」と思い、約分の説明をしても、どこか上の空。で、私が説明をしながら、ふとA子を
見ると、A子は、机の上に鉛筆で落書きをしているではないか。

 数日後、私は母親と顔を合わせることがあった。そこで私が、「A子さん、分数が苦手というこ
とがわかりました」と話しかけたとたん、私は、あることを思い出した。A子は、その一、二年
前、「私、中学校に入りたくない」と言っていた。

 A子には、一人の兄がいた。そのときA子は、小学四年生、兄は、中学三年生だった。この
静岡県では、高校入試が、受験勉強の最大の関門になっている。どの高校へ進学するかによ
って、その後の子どもの進路が大きく決まる。A子の兄は、そのとき、その受験勉強のまっただ
中にあった。

 それはふつう以上に、はげしい受験勉強だったと思われる。私自身は兄のほうは教えていな
かったが、ときどき母親からかいま聞く話から、それが想像できた。それこそ「勉強しろ」「うる
せえ」「何だ、親に向かって」式の大騒動だったようだ。A子はときどき、そういう兄の受験勉強
を話題にしながら、「私、中学校に入りたくない」と言っていた。母親はこう言った。

私「A子さん、分数が苦手ということがわかりました」
母「ええ、私にも、分数がわからないとこぼしていました」
私「まだ学校では、分数の掛け算をしていませんが、なるだけ早く終わって、中学校でも役にた
つ話をしたいと思っています」
母「……実は、そこなんです。A子は、中学校の準備と聞いて、おびえてしまったみたいです」
と。

 子どもの恐怖症については、たびたび書いてきたので、ここでは省略するが、当然のことな
がら、進学恐怖症というのもある。幼児がえりという症状を示す子どもも少なくない。A子の症
状も、それに似たものだが、しかし今まで私が経験した症状とは、少し異なっていた。脳全体
が、新しく入ってくる情報を、遮断(しゃだん)してしまっているかのように見えた。発達心理学で
は、こういうのを、「隔離」というのか。「逃げる」というような、生やさしいものではない。子ども
自身の意思すら感じない。本態的な部分で、情報を拒絶しているかのようにも見えた。表情そ
のものが、ただニヤニヤと笑っているだけで、心と遊離してしまっている。

私「Aさん、約分だよ。あのね、二〇分の一〇を、簡単な分数にすると、いくつかな?」
A「……?」
私「あなた、こんなの、前にはできたでしょ?」
A「……?」と。

 こうした子どもに、「進学恐怖症」という診断名をつけることは、危険なことでもある。しかしそ
う考えると、A子の一連の変化が、すべてうまく説明できる。とくに上に兄か姉がいて、はげしい
受験勉強を見た子どもほど、そうなりやすい。つぎの原稿は、以前、中日新聞に発表したもの
である。

++++++++++++++++++
 
●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。
原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

++++++++++++++++

●心の問題

 こうした心の問題で、むずかしいのは、子どもによって軽重があること。また心の中というの
は、外から見えにくいため、そのことが、どれだけ深刻な影響を与えているか、わかりにくいこ
とがある。

 一見、タフに見える子どもでも、大きな影響を受けるということは、よくある。A子も、それまで
は大声で私に怒鳴ったり、ときには、猛烈に反論したりするなど、決して、軟弱な子どもではな
かった。つまり見た目には、ふつうの子ども以上に、精神的にタフに見えた。だからその時点
で、母親に、「進学に対して、大きな恐怖心を感じているようです」と言ったところで、母親は納
得しなかっただろうと思う。

 しかし兄の受験勉強は、周囲の者が考える以上に、大きなショックを、A子に与えていた。私
は意を決して、それを母親に伝えることにした。「意を決する」というのは、こういう問題では、A
子の学習計画そのものを、変えなければならない。ばあいによっては、「高校受験そのものを
あきらめなさい」という話までしなければならない。いくら下の妹の話ということではあっても、親
に与えるショックは、はかり知れない。
(030521)

++++++++++++++++++++++

【参考】(以前、私の本の中で発表した記事です。)

子どもの欲求不満を防ぐ法

子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ
 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

@攻撃・暴力タイプ
 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ
野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩す
る、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)
に分けて考える。

A退行・依存タイプ
 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

B固着・執着タイプ
 ある特定の「物」や、わだかまりにこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、
悶々と悩んだりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩
いていた。最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、
幼児がえりを起こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっ
ても、まだ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、そ
の子どもはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんで
チョ」と。子どもの未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったり
すると、子どもは幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足
 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。あ
る子ども(小一男児)はそれまでは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入っ
たということで、別の部屋で寝るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その
子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子どもなり
に、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と言っ
たが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効
 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよ
い。子どもの欲求不満症状が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの
問題は解決する。※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(828)

孫を手なずける……?

 ある女性(六三歳)が、私のワイフにこう言った。

「孫ができたら、かわいがってあげなさいよ。あとでいいことあるから……」と。

 そこで私が、横から、「どんなことがあるのですか?」と聞くと、こう話してくれた。「あとでね、
おばあちゃん、おばあちゃんと心配してくれるからね。『足が痛い』と言うとね、『おばあちゃん、
足をもんであげる』と言ってくれますよ。孫は、かわいいもんですよ」と。

 この女性の言っていることを、もう少し整理してみよう。

●孫は、かわいがってやれ。
●あとで、あれこれ心配してくれる。
●孫は、かわいいものだ、と。

この女性のばあい、「かわいがる」というのは、「孫によい思いをさせること」をいう。孫のほしい
ものを買ってあげたり、小づかいをあげたりすることをいう。楽をさせることも、それに含まれ
る。

 そしてその女性が孫に、「足が痛い」と訴えると、孫が、心配して、その女性の足をもんでくれ
るという。だから「孫は、かわいいもんですよ」と。

 しかし、だ。この女性の言っていることは、すべておかしい。順に考えてみよう。

 まず、この女性は、孫に見返りを求めている。(してあげる)という意識も強い。つまり無私の
状態で、孫に愛情を注いでいるのではなく、孫を、自分のために手なずけようとしている。

 つぎに『足が痛い』と言うと、孫が心配してくれる。それをその女性は、喜んでいる? そして
そういうふうに孫に心配をかけ、それに対して心配してくれる孫を、「かわいい」と言う。そして全
体として、孫はそういう孫にしなければならない。そのために、「孫をかわいがれ」と。

 私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。一つは、子どもの立場で。もう一つは、
自分の立場で。

 子どもの立場というのは、もう少し踏み込んだ言い方をれば、「人権」ということになる。古来
より日本では、「子どもは家の財産」という考え方をする。「人間」というよりは、「モノ」に近い。
そういう感覚を、この女性の意見の中に感ずる。

 もう一つ「自分の立場」というのは、私自身が、実のところ、こうして祖父母、そして父母に育
てられたという思いがあることをいう。まさに私は手なずけられた。つまりは私は、ここでいう
「かわいい孫」であり、「かわいい息子」だった。そういう思いからくる、嫌悪感である。

 私はその女性の意見を聞きながら、あまりにも日本的な、どこまでも日本的な意見に、驚い
てしまった。「今どき、この日本で……」とさえ思った。しかし一方で、あまりにも遠い距離を感じ
たので、反論することができなかった。仮にその女性に私の考えを伝え、理解してもらおうとす
るなら、何年もかかるかもしれない。いや、その必要はない。その女性はその女性だ。だから
私はこう言った。「そうですね。孫は、かわいいものですね」と。

 あああ、またまた私は、相手に迎合してしまった。私の悪いところだ。
(030521)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(829)

孤独な人たち

 猛烈な接近と、今度は手のひらを返したような忌避。人間関係をうまく結べない人は、この二
つを交互に、繰りかえす。

 ショーペンハウエルのヤマアラシ論。ある寒い夜、二匹のヤマアラシが、たがいに体をよりそ
って、暖をとろうとした。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、体を痛める。しかし離れると、
寒い。そこで二匹のヤマアラシは、ほどよいところで、体を離したり、くっつけたりしながら、暖を
取りあった……。

 人間関係をうまく結べない人は、その原因の一つとして、自分のさらけ出しができない。あり
のままの自分を、ありのままに見せることができない。どこかで無理をする。いい人ぶる。仮面
をかぶる。だから人前に出ると、キズつきやすく、疲れやすい。

 さらにその原因はというと、その人の乳幼児期にある。このタイプの人は、とくに母親との関
係において、基本的信頼関係を結ぶことができなかった人と考えてよい。子どもというのは、絶
対的な安心感を得られる環境の中で、心を開くことができる。「絶対的」というのは、「疑いす
ら、抱かない」という意味。「どんなことをしても、どんなことを言っても、自分は守られるのだ」と
いう安心感をいう。

 この段階で、育児拒否、冷淡、拒否的態度、家庭不和、無視などが重なると、子どもは、心を
開くことができなくなり、ついで基本的信頼関係を結ぶというよりは、その結び方のし方そのも
のを、身につけることができなくなる。またこの時期、一度失敗すると、それが基本的不信関係
となり、その後の子どもの心の発育に大きな影響を与える。

 基本的信頼関係は、その文字が示すとおり、「基本的」なもの。この信頼関係が基本となっ
て、園や学校の先生、さらには友人との信頼関係へと発展していく。しかし基本的信頼関係が
結べない子どもは、さまざまな分野で、信頼関係を結べなくなる。具体的な症状としては、つぎ
のようなものがある。

●忠誠心が弱く、だれにでも愛想がよくなる。
●へつらう、機嫌をうかがう、小ずるくなる。
●心を開かない分だけ、心がゆがみやすい。ひねくれる、いじける、つっぱる、ひがむなど。
●孤独で、さみしがり屋。個人的な利益誘導型の人生観をもつ。
●人間関係の調整ができず、衝突、別離を繰りかえす。
●よい人ぶる、仮面をかぶる。疲れやすい。キズつきやすい。
●独断的、ひとりよがりになりやすい。偏屈、がんこになる。
●猜疑心が強く、嫉妬深い。裏切られる前に裏切るという姿勢になる。

 こうした心の問題は、そういう問題があるということではなく、そういう問題があることに気づ
かないで、同じ失敗を繰りかえすこと。しかし問題を解決するためには、まず冷静に自分の過
去をさぐり、そしてそういう問題があることに気づくこと。そのあと少し時間はかかるが、問題は
解決する。あるいは自分をコントロールすることができるようになる。

 なおこのタイプの人で、注意しなければならないことは、その人自身というよりも、その人の周
辺で、困惑している人が多いということ。冒頭に書いたように、猛烈な接近と、忌避を繰りかえ
すため、周囲の人が、それに翻弄(ほんろう)されてしまう。このタイプの人は、あるときは、ベタ
ベタと異常なまでに接近してきたかと思うと、今度はそれが拒否されたようなとき、一転、忌避
に向う。だから周囲の人は、その人がどんな人か、わからなくなってしまう。私の印象に残って
いる女性に、R子(三五歳)という女性がいた。

 R子は、ある時期は、こちらが望んでもいないのに、いろいろなものを送ってくれたり、届けて
くれた。しかしそれを断ると、今度は、一転、冷淡な態度をとる。それを周期的に、たとえば数
か月おきに繰りかえした。

 自己中心性が強く、会話をしても、自分の話題ばかり。たとえばR子は、望んでもいないの
に、電話をかけてきては、「ここのラーメンはおいしい」「あそこのラーメンはまずい」というような
話をする。さらには隣町のラーメンの話までする。で、一度、「今は、忙しいので、そういう話は
またのときにお願いできますか」と断ると、「ああ、そう!」と言って、電話をガチャンと切る。で、
以後、数か月、まったく音沙汰なし……。

 こうした姿勢が子どもに向かうと、当然のことながら、その影響は、子どもにおよぶ。このタイ
プの母親は、@ささいなことを気にして、それをことさら大げさに問題化する。A一方的な思い
込みで、子どもに無理を強いたり、強制したりする。Bものごとを極端に考える傾向が強くな
る、など。子ども自身も、基本的信頼関係を、母親との間に結べなくなることも多い。

 教える側からすると、もっとも相手にしたくない親ということになる。つかみどころがなく、機嫌
をそこねると、今度は徹底した反感をもつ。そして教える教師に対して、攻撃的になったり、あ
るいは敵意をもった行動をするようになる。つまりは、安心してつきあえなくない。その人自身
が不安になるのは、その人の勝手だが、このタイプの人は、他人をも不安にする。
(030522)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(830)

N市での講演

 N市で講演をした。その結果を、担当のK氏(N小学校教頭)が、届けてくれた。うれしかっ
た。そのまま、それを紹介させていただく。

++++++++++++++++

(1)今回の講演会の内容について、
      家庭教育の内容として、とても適していた……  79%
      家庭教育の内容として、適していた   ……  21%
      家庭教育の内容として、あまり適していなかった……0%
      家庭教育の内容として、適していない  ……   0% 

(2)講師(はやし浩司)の話し方は、
      とてもわかりやすかった        ……  77%
      わかりやすかった           ……  23%
      あまりわからなかった         ……   0%
      その他                ……   0%

(3)講演会の今後の開催について、
      これからも、実施してほしい      ……  99%
      実施なくてもいい           ……   0%
      その他                ……   1%(講師次第)

     (数値は、集計数/全体で、計算。パーセント表示にした。)

+++++++++++++++++

(寄せられた意見より、OCRで、選択することなく、そのまま収録)

●子育てが,子どもを育てるのではなく,子育ての仕方を教えるという点が参考になり
ました。

●いろいろなことが自分に当てはま り,悩んでいたことも今日お話が聞けてとても参考
 になりました。 楽しく, わかりやすく話が聞けてとても良かったです。

●子どもも−人の人間としてもっとつき合っていきたい。

●よく育児は育自と聞きます。自分自身が成長しなくてはいけないと反省します。

●もっと幼児期に限ったお話を聞いてみたかった。

●どんな評論家の話を聞いても,子育てに正解はないと思いました。

●子どもによって親が成長できるということ, 子育てで悩んでも,親である私の成長途
 中ということで,当たり前のことで,発展していける肥やしとなることと思います。
 子どものことを−人の人間として接していきたいです。

●はやし先生も親なんだと、とても親近感が持てました。

●子育てをするためには,親自身も自分を見つめ,成長していく必要があるということ
 がよく分かりました。良いお話をしていただき, ありがとうございました。

●子どもを育てていくにあたり, これから先,とても参考になり, いきずまったら先生
 のお話を,思い出してやっていきたいと思います.

.●また,機会がありましたら,先生のリズム論も聞いてみたいです。

●「子どもに子育ての見本を見せる」このことを常に頭に入れながら子どもに接していき
 たいと思いました。これからの私自身の態度も少し変われそうです。

●すべてにおいてとても参考になりました。精神分析のお話は特に学生時代より興味の
 ある分野でしたので,勉強することができ、 嬉しく思いました。

●4つの方向性というのは,少し難しい気がしましたが,子どもを一人の人間として見
 るということは改めて考えさせられ,子育ての見直しをするという気持ちになりました。

●笑いが混じったとても楽しい講演会でした。思い当たる事がいくつかあり, 反省させ
られました。

●もう遅いと思いますが,これからの教育の中で,参考にさせていただきたいと思いました。

●子育てを違う目で見つめ直せた様な気がします。また,はやし先生のお話を聞いてみ
 たいと思いました。

.●素晴らしい内容でした。 ありがとうございました。とても参考になりました。

●子育てはいろんな面から見ていくことが大切。親は子供の自立をさせていくよう自信を
もって子どもの背中を押してやることが大切と思いました。

●私も常に,子どもに子育てを教えてもらっているという気持ちで、日々過ごしていま
 す。 失敗しながら子どもと一緒に成長していければと思っています。

●中2, 小6, 小2の子どもをもっています。子どもの横に立って歩くことを意識して
 再スタートしたいと思います。長男の依存心は,2 〜3才ぐらいの時から気付きまし
 た。 手出しより口だしつまり先回りしてアドバイスしてしまう自分があった事に気付
 きましたが腓自分の意志をもつように意識しておりますが難しいですね。また,変
 化することを信じ,私自身日々勉強中です。仕事があるので,途中までしか話が聞け
 ず残念です。

●本日は,本当におもしろいお話をありがとうございました。今日のお話を夫にぜひ聞
 かせたかったです。私自身にも過去があり,その過去をひきずっていることを子ども
 と接する中で気付くことができました。

++++++++++++++++++++

 N市から帰ってくるとき、電車の中で、ふとこんなことを考える。「こうして講演活動ができるの
も、あと何年だろう?」と。六〇歳とか七〇歳になっても、講演ができる人というのは、ごく限ら
れた健康な人だ。つまり講演というのは、それくらい、体力的にたいへんな仕事である。

 そのときのために、その数日前から体のコンディションを整えておかねばならない。これは当
然のことだが、それだけでは足りない。当日の朝になって、「今日は、風邪ですから、休みま
す」というようなことは許されない。仮に一か月に、四か所で講演をするとなると、その月の健
康状態は、パーフェクトでなければならない。

 私は今、五五歳だが、この年齢というのは、微妙な年齢である。健康の曲がり角と言ってもよ
い。去年、大学の同窓会に出たが、約三分の一が、生死にかかわるような大病を経験してい
る。死んだのもいる。そういう現実を見せつけられると、「つぎは私」と思ってしまう。

 それに以前は、そういうことはなかったが、講演している途中で、ときどき気力が消え入りそう
になるときがある。緊張感がつづかないというか、自分でも何を話しているかわからないときが
ある。そういうときは、「今日が最後だ」と、自分にムチを打つ。またずっと立ちっぱなしという状
態だから、腰が痛くなる。終わって控え室へもどったようなとき、座ることすらできない。

 だから「浜松を離れて、できるだけ遠くでみなさんに話してみたい」という気持ちが強い一方、
「遠くは、たいへんだから、断ろう」という気持ちも生まれてくる。しかし、だ。こうした講演会の感
想をもらうと、何かしら報われたような気持ちになる。講演をしてよかったという気持ちになる。
またこういう励ましがあるから、つぎの講演ができる。N市のみなさん、どうもありがとうござい
ました。
(030523)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(831)

シダ植物

 明日、このあたりでは、シダ植物の研究家と知られている人と、昼食をともにすることにして
いる。私が料理する。が、私は、シダ植物については、まったくの門外漢。山荘のまわりは、そ
のシダ植物だらけだが、先月、除草剤をまいてしまった。電話で、その研究家が、「あのあたり
は、シダがたくさんあって、楽しみです」と言ったときには、ドキッとした。「あのあたり」というの
は、明日、昼食をともにする、私の山荘周辺のことをいう。あああ。

 そこでシダ植物について、急きょ、勉強することにした。今では、インターネットで調べれば、
瞬時に、情報は手に入る。そういう意味では、情報の価値は、かぎりなく、軽くなった。

 で、そのシダ植物。スギナ(トクサ科)や、ゼンマイ(ゼンマイ科)、ワラビなど、一般によく知ら
れたものも多い。が、それだけではない。その種類の多さには驚いた。ある研究家の「シダ図
鑑」をのぞいてみたが、(ヒカゲノカズラ科)(イワヒバ科)(ウラジロ科)(フサシダ科)……など、
「科」のつくものだけで、22種類以上。それぞれの「科」に、さらに、10〜50種類前後のシダ
植物がある。「シダ植物の世界は、広い」と、いつも、その研究家は言っているが、ホント!

 考えてみればこれは、当然のこと。恐竜の時代、あるいははるかそれ以前から、シダ植物
は、この地球上に生えていた。原始植物というよりは、進化に進化を重ねた植物である。そこ
に隠された秘密は、想像を絶するほど、奥が深い。明日、会うことになっている研究家も、いつ
もそう言っている。「シダの世界は、広いですよ」と。

 シダ植物の話は別として、こうした「何かをもっている研究家」と話をするのは、本当に楽し
い。そのたびにバチバチと頭の中で、火花が飛び散るのを感ずる。数年前だが、アリの研究を
している人と会ったことがある。どこにでもいるアリだが、そのアリにも、縄張りというか、人間
の「民族」のようなものがあるという。違った民族のアリどうしが、その境界線で、し烈な戦争を
繰りかえしているという。いろいろな資料をどっさりと送ってもらったが、しかし残念ながら、その
ままになってしまった。

 「これについては、私はだれにも負けない」というようなものをもつことは、楽しいことだ。絶対
的なプロになるということ。そこで私自身はどうかと、考えてみる。

 で、ハタと今、気づいた。私には、何もない? 「これだけは人に負けない」というものが、な
い? 毎日、何かの研究(?)をしているようで、何もしていない? あえて言えば、東洋医学?
 育児論? 発達心理? ……しかし、どれもまだ中途半端。それぞれの世界で、私より詳し
い人は、いくらでいる。改めて自分を見つめなおしてみるが、頭の中は、カラッポ? 本当に、
何もない?

 私のばあい、趣味も、周期的に変化する。ある時期、そればかりしたと思うと、やがてあきて
しまい、つぎの趣味へと移っていく。長いので、数年。短いのだと数か月で、あきてしまう。一つ
のことに、たとえば生涯をかけて打ちこむということができない。今まで、趣味としたものに、つ
ぎのようなものがある。

石、宝石
ボート
野菜づくり
木工、大工
ラジコン
キャンピング
料理
作曲
絵画
ペインティング(自然の中に落ちているものを拾ってきて、ペインティングする)
山荘づくり
パソコン、などなど

 それぞれの趣味にこるたびに、家の中には、それに関するものが、あふれかえった。大工道
具については、大きなポリ容器で、数箱分はある。電動カンナ、電動ノコ、ミゾ切りルーター、電
動糸ノコなどなど。山荘を作るときは、電動チェーンソーとエンジンチェンソーなども買いそろえ
た。野菜づくりのときは、耕運機まで買った。(ホント!)

 そういう意味では、私は、「広く浅く」というタイプかもしれない。もともと深入りできないタイプ。
そういう意味では、移り気がはげしい。だから、生涯にかけて、その道を研究しつくしている人
に会うと、私にない部分だけに、強烈な刺激を受ける。それが先に書いた、「バチバチ」であ
る。そういう人に会って別れると、エッセーにしたいテーマが、取りとめもなくわいてくる。

 ……そう言えば、このところマガジンのために書いているエッセーが、種切れになってきた。
明日は、そういう意味でも、楽しみだ。うんとおいしい料理を作ってやろう。
(030524)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(832)

●引っ張る子ども、ぶらさがる子ども

 子どもを大きく分けると、集団の中で、仲間を前向きに引っ張っていくタイプと、集団の中で、
ぶらさがっていくタイプに分かれる。もう少し具体的には、こうなる。

 言われたことに対して、二倍、三倍とするタイプと、言われたことしかしない。あるいは言われ
たことの数分の一しかしないタイプがある。さらに具体的には、こうなる。

 たとえば「明日、客がくるから、教室をきれいにしてください」と、子どもたちに指示したとす
る。そのとき、つぎつぎと、「ああしたらよい」「こうしたらよい」と、考えるタイプの子どもがいる。
E君という子ども(年長児)がそうだった。

 ある朝、園の先生が、「今日は、お母さんたちが、参観にきますから、スリッパを並べておい
てね」と指示したときのこと。E君は、遠くから母親たちがやってくるのを見つけると、玄関まで
出て、「スリッパをどうぞ」と言ったという。それだけではない。炊事室のおばさんに頼んで、お
茶まで用意させたという。

 一方、こんな子どももいる。……と言っても、こういうタイプがほとんどだが、言われたことしか
しない。「机の上をきれいにしてください」と指示すると、机の上のゴミを、下に落すだけというタ
イプの子どもである。そこで「下に落ちたゴミを拾ってください」と指示すると、「どのゴミ?」と。

 要するに、しなければならないことを自分で考えてするタイプと、言われたことだけを、その範
囲ですまして終わるタイプということになる。しかしこうした生きザマは、当然のことながら、その
子どもの人生そのものに、大きな影響を与える。

●「ヘンなヤツ」
 
 親分か、子分か? そう問われれば、親分のほうがよいに決まっている……と、旧世代の人
は、そう考える。しかし時代が変わった? 最近の子どもたちは、「リーダーになって苦労する
より、服従して、楽な道を行きたい。その中で、自分の好き勝手なことをしたほうがよい」と考え
ているようだ。たとえばHK市の中学校で校長している、I氏は、私にこう話してくれた。

 「勉強で苦労するのはいやだから、部活でがんばって、推薦で高校へ入りたいと考えている
中学生がふえています。全体の約六〇%が、そうであるとみてよいでしょう」と。私が驚いてい
ると、さらにこうも話してくれた。「市内の有数の進学校には行きたくないと言うのですね。勉強
で苦労するのはいやだからというのが、その理由です」と。

 私が中学生や高校生のときには、勉強ができるということが、一つのステータスになってい
た。そして学級委員でも、生徒会の役員でも、それが一つの基準になっていた。しかし今は、
違う。HM市の進学高校の高校生たちと、こんな会話をしたことがある。私が、「君たちも、がん
ばって勉強をして、A君(その高校ですばらしい成績をあげている子ども)のようになったらどう
か」と言ったときのこと。その高校生たちは、こう言った。「ぼくら、あんなヘンなヤツとは違う」
と。

 昔でいう、いわゆるガリ勉タイプの子どもは、「ヘンなヤツ」というのだ。たしかに冷静に考え
てみれば、そうだ。しかし、そういう意味でも、「勉強」という概念は、今、質的に大きく変わりつ
つある。さらに私が、「生徒会の仕事はしないのか?」と聞くと、こう言った。「あんなことをして
いるヤツは、バカだ」と。つまり生徒会などで、リーダー的な仕事をしている仲間は、バカだ、
と。理由を聞くと、「自分の時間がなくなる」と。

●おとなたちも変わった

 話は変わるが、私の近所は、いわゆる定年退職者たちがたくさん住んでいる。もともと東海
道新幹線建設にからんだ代替地として開発されたところで、そのため、旧国鉄のOBの人が多
い。そのほか、元公務員の人もいる。ざっと見て、住人の約四〇%が、そうした退職者。一
〇%が、民間の退職者。あとは現役の公務員や会社員など。

 こう書くからといって、私は、何も、元公務員の人がどうと言っているのではない。しかし事実
として、こうした元公務員の人たちが、この二五年間、近所の草刈りをしたとか、ゴミを拾ったと
か、そういう姿を私は見たことがない。このあたりでは、こまめに草を刈ったり、清掃したりして
いる人は、近所のHさん(会社員)や、Kさん(農家経営)。それに私だ。

 で、そういう人たちの生きザマを観察してみると、おもしろいことに気づいた。その一つは、言
われたことはするが、それ以上のことはしない。自分の権限が侵されるようなことがあると、猛
烈に反発する。そして問題が起きると、自分で解決しようとする前に、だれかにそれをやらせよ
うとする。

 しかし考えてみれば、こうした生き方ほど、楽な生き方はない。ぶらさがって生きるということ
は、それ自体は、居心地のよい世界である。「おとなしく、やるべきことを無難にこなしながら、
静かに生きていれば、あとは国がめんどうをみてくれる」というわけである。そしてそういう生き
ザマが、生涯をかけて、つくりあげられた? そう言えば、昔、幼稚園バスの運転手が、私にこ
う言ったのを覚えている。彼は若いころは、市営バスの運転手をしていた。

「私ら、時間を決めて、こことここを回ってくれと、具体的に指示されないと、仕事などできない
よ」と。

 そういう意味でも、リーダーに対する考え方は、変わった。リーダーを評価する人そのもの
が、いない。だからあえてリーダーになる人も、いない。その影響が、子どもたちの世界に、モ
ロに現れている。

●公務員国家

 子どもをリーダーにするために……と書いて、ハタと困ってしまった。親たちがそれを望んで
いないケースも多い。いろいろな調査結果をみても、最近の親たちは、「子どもたちに就(つ)い
てほしい仕事」として、「公務員」を選んでいるのがわかる。理由は、「安定」と「楽」。

 しかし「教育」というのは、「個人」の立場と、「全体」の立場の二つで考えなければならない。
全体というのは、現時点では、「国」ということになる。国の未来を考えるなら、「競争」と「きびし
さ」がないと発展しない。つまり今までの日本がここまで発展できたのは、その競争ときびしさ
があったからである。またこれから先、日本の未来が暗いのは、その競争ときびしさが、どこか
へ消えてしまったからである。

たとえば今、アジアの経済拠点は、シンガポールに移ってしまった。二〇一五年を境に、日本
と中国の立場は逆転するだろうと言われている。今の今、かろうじて日本が今の日本の立場を
守ることができるのは、日本全体が、いわば世界のサラ金的な役割をしているからにほかなら
ない。

 そういう世界情勢も一方でにらみながら、教育を考えなければならない。もっとはっきり言え
ば、仮にこれ以上、(すでに限界を超えて肥大化しているが……)、公務員がふえて、そういう
人たちが、権利の王国に安住するようになったら、日本は、おしまいということ。国家公務員、
地方公務員の数だけで、四五〇万人前後と言われている。が、それだけではない。電気ガス
事業団体、公団、公社、さらにはこうした人たちの天下り先機関まで含めると、日本人の労働
者のうち、七〜八人に一人が、公務員もしくは、準公務員と言われている。

 それぞれの人には、もちろん責任はない。しかし公務員というのは、本来的にリーダーシップ
をもちにくい職種の人たちである。それはわかる。また組織上、そういうリーダーシップをもて
ばもつほど、集団からは敬遠されるしくみになっている?

 こうした現状を打破するには、二つの方法がある。一つは、思い切って公務員の数を減ら
す。もう一つは、公務員の世界にも、競争ときびしさの原理を導入する。あるいは二つを、同時
進行させる。公務員になったから、死ぬまで安泰という制度のほうが、おかしい。少なくとも、日
本を取り巻く世界は、そういう常識では動いていない。

●私の教育改革

 引っ張る子ども、ぶらさがる子どもの問題は、つきつめれば、私たち親の問題ということにな
る。私たちは子育てをする。その時点では、親対子どもの一対一の関係になる。しかし同時
に、そういう子どもは、全体のためにはどうあるべきかを考えなければならない。つまりは、い
かにして視野を広くもつかということ。「自分だけがよければいい」「自分の子どもだけがよけれ
ばいい」という考えが強くなればなるほど、視野が狭くなり、結果として、全体としての国が衰退
し、その結果は、必ず、個人にはねかえってくる。

 そこで教育の世界では、どうあるべきか? 私は、つぎのような提案をする。

(1)教員の雇用期間を、五年単位、もしくは一〇年単位の任期制にする。これは教師自身を
きびしい世界に置き、そういう世界を、子どもに示すためである。
(2)現在の教育委員会を、教職員から独立させ、独立法人化する。これはともすれば、学校と
委員会のなれあいを防ぐためである。
(3)基礎科目は、午前中で終了し、午後からは、クラブ制度にする。これは自由なる競争原理
を、教育の場にもちこむためである。
(4)学校の設立を自由化する。大学を自由化し、単位の共通化をはかる。現在の教育がかか
えるすべての問題は、大学教育のあるとみる。大学教育が変われば、それにつづく学校教育
も変わる。

 しかしその大前提として、不公平社会を是正しておかねばならない。この日本、公的な保護
を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくと言ってよいほど、受けない。こうした不
公平社会を放置したまま、教育改革をめざしても、結局は、受験教育ばかりが発達することに
なる。親の立場で言うなら、「そうは言ってもですねえ。現実は現実ですから……」となる。

 世界は、もっときびしい。日本の置かれた立場は、もっときびしい。そういうきびしさの認識こ
そが、日本の未来につながる。前向きに引っ張っていく子どもは、そういう未来から生まれる。
もし日本人が全体として、ぶらさがる民族になってしまったら……。そのときは、日本は確実に
滅亡する。さてあなたの子どもは、ここでいう引っ張る子どもだろうか、それともぶらさがる子ど
もだろうか。さらにあなた自身は、どうだろうか。引っ張る人だろうか、それともぶらさがる人だ
ろうか。
(030527)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(833)

うつ状態

 このところ、どうも気分が晴れない。何かと忙しかった。その忙しいときは無我夢中で、自分
を忘れるが、それが終わると、どんと疲労感が襲う。

 私のばあい、うつ状態になると、小さなことと大きなことの区別がつかなくなる。たとえば先
週、隣の空き地の竹を、数本、切った。が、地主の承諾を得て切ったわけではない。しかしそ
んなことでも、心にひかかる。「隣の人が、私を訴えたらどうしようか」と。

 ワイフに恐る恐る相談すると、「バカねえ。そんな竹を切ったくらいで、訴える人など、いない
わよ」と。よくよく考えてみれば、そのとおり。今年も、無数の新しい竹が生えてきた。

「そういうのを被害妄想というのよ」とワイフ。
「妄想だね」と私。
「そうよ。訴えてきたら、訴えてきたときに考えればいいのよ」
「そうだね」と。

 つぎにうつ状態になると、とんでもないことが心配になる。たまたま今夜(五月二五日)、ある
テレビ番組で、地球の磁場が逆転するかもしれないというようなことを言っていた。事実、現
在、年々、地球の磁場は弱くなっているという。逆転するとき、理論的には、一時的に磁場は
ゼロになるという。そうなると、未曾有の大災害が起きるという。

 内心では、「そんなバカな」と思った。あるいは「まだ、ずっと先のことだ」と思った。しかし一〇
〇〇年とか、二〇〇〇年も先のことではない。早ければ、一〇〇年後だという。「私はともかく
も、子どもたちがかわいそうだ」と思ったとたん、またまた言いようのない不安感が私を襲っ
た。

 が、何よりも不愉快なのは、冒頭に書いたように、気分が晴れないこと。ワイフは、「男の更
年期症候群よ」と言うが、そう言えば、このところ、精力が急速に衰えてきた感じがする。男性
と女性の区別がつかなくなってきた。女性のヌード写真を見ても、「こんなものかなあ」と思って
しまう。

 しかし解消法がないわけではない。私のばあい、こうして文章を書き、自分の心を整理するこ
とで、うつ状態から抜け出ることができる。友人のN氏に言わせると、「本当にうつ状態になっ
たら、文章も書けなくなる」ということだそうだ。つまり私はまだこうして文章を書けるから、それ
ほど、重症ではないということらしい。

 で、インターネットで、あちこちのニュースを読む。どこかのマンションで、また若い男女が、集
団自殺したというニュースもあった。こういうときというのは、そういうニュースほど気になる。
「死ぬことないのに」と思ったり、「彼らは彼らなりに、将来を悲観したのだろうな」と思ったりす
る。

 そうそう、こういう状態になると、自己嫌悪にもおちいる。「自分がいやだ」という思いである。
私という人間が、小さく、つまらない人間に見えてくる。生きている価値などないのではないかと
さえ思うこともある。そういう点では、自殺する人と、心理状態は、それほど違わないのではな
いか? テレビを見ながら、ワイフとこんな会話をする。

「私だって、本当に気分のよい日というのは、一週間のうちでも、一日くらいしかないわ」とワイ
フ。
「本当か?」と私。
「そうよ。ときどき気分のよい日には、自分でも、今日は珍しいわと思うほどよ」
「お前がそんなふうに言うなんて、信じられない」
「そうよ。私も更年期よ」
「更年期って、そうなるのか?」
「そうよ。みんな、体調がおかしくなるのよ」
「ぼくも、か?」
「そうよ、あなたも更年期よ。でもね、この時期を過ぎれば、また元気が出てくるそうよ」
「元気がないわけではないよ」
「元気がないわよ。クヨクヨ悩んで、バカみたい……」
「そうだな」と。

 明日は朝から忙しい。来客もあるし、街で人と会う約束もある。午後は、教室の改装工事もし
なければならない。うつ状態だからといって、家の中に引きこもっているわけにはいかない。が
んばろう。がんばるしかない。がんばります。何をどうがんばればよいのか、本当のところはよ
くわかっていないが、がんばります。みなさんも、どうか心と体を大切に。おやすみなさい。
(030525)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(834)

悲しきウソ

 父親に虐待さてた子ども(小四男児)がいた。その子どもをは、いつも体中、アザだらけだっ
た。で、その子どもを担当した、小学校の校長が、私にこう話してくれた。

「子どもというのは悲しいですね。そういうアザでも、決して父親にそうされたと言わないのです
ね。自分でころんでそうなったとか、自分が悪いから、そうなったとか言うのですね」と。

 心理学的には、これはウソではない。子ども自身が、本気でそう思い込んでいる。つまり子ど
もは、自分にとって不愉快な記憶を消すために、「偽の記憶」(フォールスメモリー)を別につく
り、その中に自分を追いこむ。これを心理学では、防衛機制という。

 子どもの立場で考えてみると、それがわかる。

 子どもにとっていくら虐待する父親であっても、その父親しかいない。父親に嫌われたら、自
分の居場所すらない。そこで子どもとしては、自分の父親を悪く言うことはできない。だから自
分の記憶の中に、別の記憶をつくり、その中に自分を追いこむ。この追いこむことを、心理学
では「隔離」という。

 しかし問題は、ここで終わるわけではない。隔離がひどくなると、そこで人格の分離が始ま
る。心理学でも、やはり「人格の分離」という。もっとわかりやすく言えば、二重人格性、さらに
は多重人格性をもつようになる。同じ一人の人間の中に、もう一人別の人格をもった自分をつ
くる。

 ふつうこういう別の人格は、本来の人格とは、別の人格をもつことが多い。性格そのものが
違う。ある男性(五〇歳)はこう言った。「別人格になったとき、どちらの自分が、本当の自分か
わからなくなります」と。その男性のばあい、何かのことでカッと頭に血がのぼると、別人格にな
るという。「ふだんの私はさみしがり屋ですが、怒ったとたん、自信家に変身します」と。

 冒頭にあげた小学生も、このままでは人格の分離が始まる可能性が、きわめて高い。そして
生涯にわたって、その後遺症に苦しむ可能性が、きわめて高い。つまり「ウソ」と片づけてよい
ほど、決して簡単な問題ではない。子どもの虐待の問題には、こうした問題も隠されている。
(030525)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(835)

リピドー

 「リピドー」という言葉がある。精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギ
ー」(日本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、より広
く、生命エネルギーのことを言った。

 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置く。たとえばフロイトの理論に重ねあわせる
と、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすのは、口愛期の固着。自分の中にたまったモヤ
モヤした気分を吐き出したいという衝動にかられるのは、肛門期の固着。また自分の力を誇示
したり、優位性を示したいと考えるのは、男根期の固着ということになる。(固着というのは、こ
だわりと考えると、わかりやすい。)

 問題は、それぞれの人は、それぞれの段階で未熟なまま、おとなになることがあるというこ
と。たとえば喫煙をやめられない人や、思ったことをコントロールできないまま口にしてしまう
人、さらには世間体や見えを気にする人は、それだけ精神的なもろさのある人とみてよい。順
にもう少し、詳しく例をあげてみよう。

 先日、電車に乗っていたら、若い男性だったが、指しゃぶりをしている人がいた。年齢は、二
四、五歳だっただろうか。指しゃぶりといっても、幼児がするようなしゃぶり方ではない。親指の
横を、口でかむようにして、しゃぶっていた。かなり情緒的に不安定な男性とみてよい。あるい
は精神的に未発達な男性とみてよい。服装などは、流行を追いかけたものだったが、その様
子は、軽薄そのものだった。これは口愛期の固着。

 少しカッとなると、本来なら言ってはならないことを言ってしまう女性がいる。自分で自分をコ
ントロールできないらしい。その女性は、小さな設計事務所を、夫と共同で経営していたが、そ
のため社員といつも衝突していた。実際には、ほとんど社員は、長くて数年でやめていた。夫
はこう言った。「先日も、取り引き先の人に向って、『あんたは口が臭いから、迷惑なのよ』と言
ってしまいました」と。これは肛門期の固着。

 ある男性の家の玄関には、いろいろな動物のはく製と並んで、よろいかぶとが飾ってある。
家の横には、古いベンツが置いてあるが、すでに車検は切れている。ときどき近所を乗り回し
てはいるようだが、これらすべてが、「見え」と「メンツ」のためというから、すごい! その男性
は、ことあるごとに、「私の家は、先祖代々の由緒ある家で……」と言っている。これは男根期
の固着。
 
 ふつう人は、こうした時期を、つまりは克服しながら通り過ぎる。しかし何らかの原因や理由
で、その成長が阻害されると、その部分が未熟なまま、あるいは未完成のまま、つぎの段階に
進んでしまう。こうして問題を先送りしながら、おとなになってしまう。

 で、こうした行動の原点にあって、その人を動かしているのが、リピドーということになる。この
リピドーを知ることによって、その人の、そして子どもの心理状態を、さらに詳しく知ることがで
きる。

 たとえば小学生でも、髪いじり、指しゃぶり、鉛筆かじりなどの症状を示す子どもは多い。ほと
んどは満たされない欲求に対する、代償行為と考えてよい。で、さらにその原因はといえば、情
緒的不安定、さらには精神的未完成がある。問題は、なぜそうなのかということよりも、なぜそ
うなったかである。そういう視点で、子どもを観察する。

 また言ってよいことと、悪いことの区別がつかない子どもがいる。太っている仲間に、「デブ」
とか「ブス」とかいう。「あんたがいると、うっとおしい」と言った子ども(小五女児)もいた。判断
能力が弱いというふうにも見えるが、このタイプの子どもは、総じてみれば、自分で自分をコン
トロールできないのがわかる。行動が享楽的で、その場を楽しめばそれでよいというような考え
方をする。

 さらに子どもでも、自己顕示欲が異常に強く、たとえばほかの子どもが、先生にほめられたり
すると、露骨にそれに反発したりする。先生が、「あなたの書く字はじょうずだね」と、別の子ど
もをほめたりすると、「ぼくのほうがじょうずだ」とか反論する。こうした現象は、幼児にはよく見
られるが、それが小学生や中学生になっても残る。ある高校生は、クラス代表にA君が選ばれ
たときのこと。それ以後、何かにつけて、A君に意地悪をしたり、A君の行動をじゃまするように
なった。

 もっともこうしたリピドーは、人間の生きる原点になっているから、それを否定してはいけな
い。そのリピドーのほとんどは、その人を前向きに伸ばしていく。またこうしたリピドーが、それ
ぞれの世界で、無数のドラマを形成する。
(030526)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(836)

クーラー

 我が家も、やっとクーラーを入れることにした。人生、五五年。今までクーラーなしでやってき
た。しかしここ数年、夏の暑さが身にこたえるようになった。温暖化の影響もあるようだが、や
はり、年齢か。昔のように、ジリジリと汗をかきながら、暑さ意に耐えるということができなくなっ
た。

 で、近くの大型店へ行ってきた。二台で、一〇万円というクーラーを買うことにした。で、その
契約をしているときのこと。相手は三五歳前後の男だったが、かなりイライラしているようだっ
た。表情はそれなりに穏やかな顔をしていたが、私には、相手の心の中まで読めてしまう。

(その男が私にイライラしている理由)

●私が閉店まぎわにやってきたこと。
●私が安物買いの客であること。
●私がいろいろ説明を求めること。
●私ができるだけ安くすまそうとしていること。
●つまり私は、あまり好ましくない客?

そこで私は、思わず、こう言ってしまった。「どうか、あまりイライラしないでください。落ちつい
て、落ちついて!」と。もちろんストレートな言い方をしたのではない。冗談ぽく、やわらかな言
い方をした。とたん、その男は、自分の心を見すかれた気まずさからか、ニヤッと笑った。悪い
人ではなさそうだ。

 以前、『トワイトライト・ゾーン』(旧称は、『ミステリーゾーン』)という映画があった。その中の一
つ。あるとき一人の男が、道端の物乞いにコインを投げる。するとそのコインが、どういうわけ
か、垂直に立つ。とたん、その男に奇跡が起きる。人々の心の中がそのまま、聞こえるように
なる。……そんなような映画だった。

 私のばあい、そういった超能力ではないが、しかしそれに近いと言ってもよいほど、相手の心
が読める。とくに相手が子どものばあい、その心の状態が、手に取るようにわかる。これは毎
日、多くの子どもに接していること。また心の中を読むのが、私の仕事になっていること。そう
いう仕事を、三〇年以上もしてきたことによる。ただし、映画のように、その人と、すれちがった
だけで、相手の心が読めるというわけではない。その人と、ある程度の時間、会話をしてはじ
めて読める。

 あとでそのことをワイフに話すと、ワイフも、「私もときどき、あなたのことを、気味が悪いと思
うときがあるわ」と言った。だから実際には、自分で自分にブレーキをかけて、できるだけ相手
の心を読まないようにしている。一度に何人もの人の心を読んだりしていると、それが全体とし
て、ザワザワとした騒音のようになることがある。それが結構、うるさい。

 その男と直接、会話をしていたのは、ワイフだった。私はそういう二人の会話を観察しなが
ら、いろいろなことを考えた。……考えたというより、その男の心理状態だけではなく、性格、ク
セ、育った環境、現在の環境などをさぐった。……いや、さぐったというより、それが映画か何
かを見るかのように、よく見えた。とたん、おかしな現象が起きた。

 その男のもつフィーリングが、私のフィーリングとは合わないのである。何とも居心地が悪
い。それに不愉快だった。相手の男は、明らかに私を拒絶していた。営業マンらしい謙虚さは
あったが、それが商売用の演技であることが、よくわかった。私には、心をまったく開いていな
かった。

 そこで私は席をたち、契約はワイフに任せて、あたりをうろついた。こういうときは、その場を
離れたほうがよい。私の目的は、クーラーを買うこと。その男と親しくなることではない。またそ
の男のカウンセリングをすることでもない。しばらくして振りかえると、ワイフがその男に頭をさ
げながら、席を立つところだった。私は、やがてワイフが来るであろう通路に立って、ワイフを
待った。

「どうだった?」と私。
「明日の朝、連絡してくれるって……」とワイフ。
「何を?」
「在庫の確認よ」
「ふうん」と。

 それでその男のことは忘れた。同時に、不愉快な思いも、消えた。
(030527)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(837)

自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。
が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛
藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的に
なること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行な
どがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまっ
た。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、
それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテス
トの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そん
な簡単な問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、
推移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題について
は、@今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。A今の状態が最悪ではなく、
さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、B一年単位で様子
をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの
症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、
さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思
うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナ
ス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉
強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しな
い。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったに
ないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口
にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなと
きには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子ど
もに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう
姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それが
ムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。
(030527)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(838)

好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、
気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようにな
る。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪い
ことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避
けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」とい
う。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。た
とえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩
行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があった
からである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかっ
たとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれな
い。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私
たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあって
いる。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。
この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこ
よさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであ
ることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がい
る。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言
葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう
教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えること
を考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はま
ちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題
ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのす
っきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツ
と暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の
中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オー
ストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛に
あふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で
生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿
というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの
世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中で
みると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことが
できる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速
に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っ
ていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても
気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさい
よ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づい
ていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではな
く、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許
されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あと
は負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないよう
にするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことにな
る。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのは
ず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本
では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化し
てきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片
鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人
に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの
心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を
大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。
(030529)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(839)

岩手県のMKさん(母親)よりの相談から……

 林先生、はじめまして。いつも HP、メルマガを拝見させていただいております。

さて、小学三年生の息子について相談させていただきます。とにかく、学校での緊張が強くて
疲れやすいので困っています。休み時間は、元気に遊んでいるようですが、授業中は、先生に
叱られては、いけない、上手く発言したいなどの意識が強いようです。プライドが高くて、結果ば
かり気にしているようです。また、気が小さいわりに頼まれると、クラスで応援団の代表の一人
に選ばれたりしますが、隣の子が叱られていても、びくびくして涙ぐむタイプです。

 一人目で、四歳下の妹がいますが、小さいときから、神経質に私がなりすぎたせいか、気が
小さいです。今も、寝るときは、ぬいぐるみ(ぼろぼろの雑巾状態)を持って、指しゃぶりをしな
がらでないと眠れません。私が添い寝をすると安心するようです。

 学校から帰ると毎日友達と、ゲームや外遊びをしています。私が専業主婦なので、七人くら
いの友達が来ることもあります。いつもは三、四人で遊んでいます。家では、野生のサルのよう
に活発ですが、「宿題は?」というと、ひどく怒ります。家では、私が何も言わないと機嫌よく友
達と遊び、寝る前に宿題のみをして、寝るような毎日です。

 私が、あまり温かな家庭に育ってないせいか、子育てに張り切りすぎて子どもをゆがめてしま
ったようです。私は、進学校で落ちこぼれ、店員をしていました。主人は、月の半分が出張で、
働いていますが、腎臓の難病をかかえています。

 私の実の弟は、不登校から心身症になり実家で、療養中です。

 はやし先生、よろしければアドバイスをお願いします。 

++++++++++++++++++ 

MKさんへ

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安といいます。その緊張状態に、不安や心配が入り
こむと、心はそれを解消しようと、一挙に不安定になります。つまり情緒不安は、あくまでも症
状にすぎないということです。

 そしてその症状は、子どもによって異なります。攻撃型(乱暴になる、暴力的になる)、固着型
(過去にこだわる、クヨクヨする)、固執型(毛布の切れ端や、ものにこだわる)、内閉型(ぐず
る、引きこもる)に大きく分けて考えます。

 で、問題は、なぜ心の緊張感がとれないかですが、基本的には、人間関係の結び方ができ
ないとみます。自分の心をさらけだして、自己開示ができない。あるいはそれが不十分というこ
とです。原因は、乳幼児期の、母子関係が不全であったことが疑われます。

 子どもは、対母親との関係で、基本的人間関係を結びます。父親ではありません。母親で
す。そういう意味では、子どもにとっては、母親は絶対的な存在です。その母親に対して、絶対
的な安心感を覚えることで、子どもは、基本的信頼関係の結び方を覚えます。「絶対的」という
のは、「まったく疑いをいだかない」という意味です。

 この基本的信頼関係は、その後、父親や家族、園の先生、さらには友人との信頼関係の基
本となります。だから「基本」という言葉を使います。が、母親との信頼関係を結ぶことに失敗し
た子どもは、その後、母親以外の人たちとも、うまく人間関係を結ぶことができなくなります。た
とえば症状としては、仮面をかぶる。心が遊離するなど。あるいはさらにはひどいケースでは、
人格の分離が始まります。「遊離」というのは、心と表情が一致しないこと。このタイプの子ども
は、いわゆる何を考えているかわからないタイプの子どもといったふうに、なります。

 全体的にみて、MKさんのお子さんは、この流れの中にあるとみます。恐らく、子どもの側か
らみて、(MKさんには、その意識はなくても……)、生後まもなくから、乳児期にかけての時
期、どこかで母親の冷淡、無視、拒否を感じたのかもしれません。(あるいはひょっとしたら、子
どもの誕生について、大きな不安やわだかまりがあった? 望まない子どもであったとか…
…?)

そのため、お子さんは、いつも不安を基底とした心理状態になったのだと考えられます。このタ
イプの子どもは、何をしていても不安なのです。そしてその不安を解消しようと、つまりは自分
を忘れる行動に走りやすくなります。行動が、どこか享楽的になるのは、そのためです。

 以上が一般論ですが、ではMKさん自身はどうであったかという問題もあります。MKさんご
自身が言っておられるように、「あまり温かい家庭に育っていなかった」ということが、「根」にあ
ることは、十分疑ってみてよいと思います。そこでMKさんは、「よい母親になろう」「家庭という
のは、こういうものでなければならない」「よい家庭を築こう」という、気負い先行型の子育てをし
てしまった。実は、問題の根本は、ここにあります。わかりやすく言うと、子どもが緊張状態から
解放されないのは、MKさん自身が、その緊張状態にあるためです。そういう意味で、子どもの
心は、カガミのようなものにすぎないということです。

 子どもに何か問題があると、たいていの母親は、子どもだけをみて、「子どもをなおそう」と考
えます。しかし問題の根本は、母親自身にあります。まずMKさん自身が、それに気づくことで
す。

 MKさん、あなたは、子どもに、心を開いていますか。安心して、自分をさらけ出しています
か。よい親ぶっていませんか。よい子を求めすぎていませんか。よい家庭を築こうと、気負いす
ぎていませんか。過大な要求を、子どもにぶつけていませんか。そして子どもの側からみて、あ
なたやあなたの家庭は、安心感にあふれた、心豊かな家庭になっていますか。子どもにとっ
て、あなたや家庭が、体や心を休める場所になっていますか。あなたの目の前で、子どもが心
を全幅に開き、好き勝手なことをしていますか。もしそうならそれでよし。そうでないなら、あな
たや家庭のあり方を、まず反省してみてください。それをしないと、あとは、いくら、何をしても、
対症療法に終わってしまいます。

 順に考えてみましょう。

(1)とにかく、学校での緊張が強くて疲れやすいので困っています。休み時間は、元気に遊ん
でいるようですが、授業中は、先生に叱られては、いけない、上手く発言したいなどの意識が
強いようです。プライドが高くて、結果ばかり気にしているようです。また、気が小さいわりに頼
まれると、クラスで応援団の代表の一人に選ばれたりしますが、隣の子が叱られていても、びく
びくして涙ぐむタイプです。

このタイプの子どもは、いわゆる内弁慶外幽霊のタイプと考えます。外の世界で無理をする分
だけ、家の中では、粗放化します。そこで大切なことは、「ああ、うちの子は、外でがんばってい
るから、家の中ではその反動で、粗放化するのだ」と、理解してあげることです。家の中で、乱
暴な言葉を使っても、大目に見てあげてください。家の中で、こまごまと、神経質な接し方をして
はいけません。部屋の中が散らかっていても、子どもの好きなようにさせます。また子ども自身
は、学校でがんばっているようなので、その点を高く評価してあげてください。応援団の代表に
選ばれたら、「すごいわね」と、心底、喜んでみてあげてください。

(2)一人目で、四歳下の妹がいますが、小さいときから、神経質に私がなりすぎたせいか、気
が小さいです。今も、寝るときは、ぬいぐるみ(ぼろぼろの雑巾状態)を持って、指しゃぶりをし
ながらでないと眠れません。私が添い寝をすると安心するようです。

妹さんも、どこかでいつも不安を覚えていると考えてよいようです。こういうケースでは、とにか
く、スキンシップを濃厚にしてみてください。ベタベタがよいというのではありません。子どもがス
キンシップを求めてきたら、それに対して、良質なスキンシップ(ぐいと、力いっぱい抱くなど)を
与えるということです。たいていは一〇秒〜長くて一分程度で満足するはずです。コツは、親側
からベタベタするのではなく、子どもが求めてきたら、いとわないということです。


(3)学校から帰ると毎日友達と、ゲームや外遊びをしています。私が専業主婦なので、七人く
らいの友達が来ることもあります。いつもは三、四人で遊んでいます。家では、野生のサルの
ように活発ですが、「宿題は?」というと、ひどく怒ります。家では、私が何も言わないと機嫌よく
友達と遊び、寝る前に宿題のみをして、寝るような毎日です。

 「宿題」という言葉が、キーワードになっていることが、これでよくわかります。つまり緊張状態
を一挙に不安定にさせる、キーワードになっているということです。こうした反応は、習慣化して
いるはずなので、この言葉は、子どもの前では使わないようにしてください。

 「家では、私が何も言わないと機嫌よく友達と遊び」というのは、MKさんが、過干渉気味の母
親であることを示しています。全体としてみればそうでないかもしれませんが、子どもがかなり
不安定な状態のときは、ふつう程度の干渉でも、そのまま過干渉になってしまいますから、注
意してください。つまり子どもの側からみて、MKさんは、「小うるさい存在」なのです。私があな
たなら、子どもは、学校で、無理をしているので、家の中では、好き勝手なことをさせますが…
…。

(4)私が、あまり温かな家庭に育ってないせいか、子育てに張り切りすぎて子どもをゆがめて
しまったようです。私は、進学校で落ちこぼれ、店員をしていました。主人は、月の半分が出張
で、働いていますが、腎臓の難病をかかえています。

 ほとんどの人は、気負い先行型の子育てをしています。だからMKさん、あなただけが、問題
があるというのではありません。だからどうか肩の力を抜いてください。あなたはすでに十分、
すばらしい母親です。(だから、こうして私のところにメールをくださり、私も返事を書いていま
す。)あなたは今、懸命に自分をさがしておられる。そういう姿勢が、必ず、あなたやあなたの
子育てを前向きに引っ張っていきます。

 あなた自身も、言いたいことを言い、したいことをすればよいのです。「落ちこぼれた」などと
言っていないで、今、あなたがしたいことをすればよいのです。あなた自身が、こうした挫折感
を覚えているから、子どもに向かっては、「勉強は?」「宿題は?」となってしまうのです。つまり
あなたは自分の不安を子どもに、ぶつけているだけなのです。それがわかりますか?

 あなたは落ちこぼれでも何でもありません。むしろ受験勉強をして、スイスイと勝ち組になっ
たかにみえる連中のほうが、これからどんどんと落ちこぼれていくのです。だから自分のこと
を、絶対に、「落ちこぼれ」と言ってはいけません。「私は懸命に生きてきた。そのつど、懸命に
最善の道を選んできた。これが私の人生よ。ほかに何があるの!」と。そう居直りなさい。つま
りそういう形で、あなたの中に潜む、受験信仰(カルト)と戦うのです。それを克服したとき、あな
たは自分の子どもにこう言うようになるでしょう。

 「宿題? そんなもの、適当にすればいいのよ!」と。

この大らかさが、子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、あなたに心を開くことができる
ようになります。

 今、あなたの子どもは、あなたに対して、心を開くことができず、もがいています。苦しんでい
ます。そしてあなたはあなたで、それを孤独に感じている。つまりたがいにキズつきあっている
だけ。もう、そういう愚劣なことはやめましょう。でないと、今度は、あなたの子どもがいつか父
親になったとき、やはり心豊かな家庭作りに失敗するだけです。だから今は、あなたがここで
ふんばって、それを断ち切るのです。

 まず、自分を子どもの前でさらけ出してみてはどうでしょうか。「宿題なんて、いやなものだっ
たわ。お母さんも、大嫌いだった。いやだったわ。お母さんも、勉強ばかりする高校へ入ったけ
ど、勉強なんて、したくなかったわ」と。もしできればそのとき、一方的に「宿題をしなさい」では
なく、「いっしょに、しようね」と声をかけてみてはどうでしょうか。勉強はさせるものではなく、親
子で楽しむもの。テレビやゲームをしながらでも、三〇分かけて、五分程度勉強すれば、しめ
たもの。そういう大らかさを大切にしてください。

 ご主人のご病気、たいへんですね。まだお若いかと思いますが、どうかくれぐれもよろしくお
伝えください。ご健康を念願しています。最後に、家族は、守りあい、助けあい、教えあい、励ま
しあい、教えあう。そんな心を、これからも大切にしていきましょう。また何かあれば、ご連絡く
ださい。今日は、これで失礼します。

はやし浩司
(030529)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(840)

みなさんからの相談より……

 I町のT保育園の方たちから、いくつかの相談をいただいた。それについて……

【Aさんより】

 父親の育児態度に悩んでいます。子どものすぐ横で、父親が新聞を読んでいます。そのとき
子どもが、「おもちゃが、こわれたア」と言って、台所で食事の支度をしている私のところへやっ
てきます。私は忙しいから、「お父さんになおしてもらいなさい」と言うのですが、父親は、まった
く知らぬ顔をしています。私の声が聞こえているはずなのに、です。育児に参加しない父親に、
イライラしています。母親として、妻として、どのように考えたらよいのでしょうか。

【Bさんより】

 四歳と、一歳と少しの二人の娘がいます。その下の娘が、最近、「いや!」とばかり言って、
反抗ばかりします。「自分でやってほしい」と思うことが多いのですが、自分でしないため、私は
怒ってばかりいます。上の子は上の子で、生まれたときから、祖母といっしょに寝ています。そ
のためか、何か仕事を頼んだりすると、すぐ、「バアバ!」と、祖母のところに助けを求めていき
ます。私としては助かってはいますが、依存心が心配です。

【Cさんより】

 ついカッとなってしまい、いつも子どもを叩いてしまいます。あとで後悔して、子どもにあやまる
のですが、そういう自分が悲しくなります。子どもの気持ちを考えると、申し訳ない気持ちになり
ます。感情をコントロールできない自分が、なさけなくなります。冷静に子どもと向き合うには、
どうしたらよいでしょうか。

【Dさんより】

 毎日、仕事と家事で、子どもと接する時間が少なくて、悩んでいます。子どもといっしょにいる
時間が、どうしてもとれません。少しの時間をうまく利用して、子どもとじょうずに接するには、ど
うしたらよいでしょうか。子どもが何かを言ってくると、「家事をしてから」と、すぐ叱ってしまうの
が現実です。どうしたらよいでしょうか。

【Aさんへ】

 育児にほとんど参加しない父親は、私の調査でも、約四〇%いることがわかっています(浜
松市で、九九年調査)。もちろん家事もしません。「男は仕事、女は家事」と考える、昔風の男
尊女卑型の男性とみます。

 一方、欧米では、「育児は権利」と考えます。つまり「育児は、楽しむための権利の一つ」とい
うわけです。今、日本は、その過渡期にあるとみます。同じ調査ですが、同じく約四〇%の父親
は、積極的に育児にかかわっています。

 で、育児に参加しない父親ですが、その父親自身が、そういう家庭で生まれ育ったのが原因
と考えます。つまり「根」は深く、多少、説得した程度では、改善は望めないということ。あなた
自身が生まれ育った家庭の「父親像」や、あなたが考える理想の父親像を、夫に求めても、無
理ということです。要するに、あきらめて、「うちはこういう父親だ」という前提でつきあうしかない
ようです。へたにあなたが無理をすれば、かえって不満やストレスがたまるだけです。

 そういう前提で、これからのことを考えます。何か共通の趣味や、楽しみをもたせる。何か仕
事を押しつけてしまう。いろいろなサークルの人とつきあう。園での活動をしてみらうなどがあり
ます。しかし私の経験では、どれもうまくいかなようです。ですからあなたはあなたで、あなたの
方法で育児をするしかないようです。

 ただし忘れてはいけないのは、「どんなばあいも、父親をたてる」です。子どもの前で父親の
批判や悪口は、タブーです。「あなたのお父さんは、すばらしい人」「私は、お父さんが好きよ」
「お父さんを尊敬している」を、口グセにすること。何か重要な決断をするようなときは、必ず、
「お父さんに決めてもらおうね」とか、あるいは何か珍しいものが手に入ったら、「お父さんに見
せようね」と言います。たとえ父親(夫)が、興味を示さなくても、そうします。決して、短気を起こ
してはいけません。五年、一〇年かけて、少しずつ、父親の心を開いていきます。

 こうすることで、今度は、あなたの子どもが、父親や母親になったとき、自分がどうすべきな
のか、どうあるべきなのかを学びます。「今は、過渡期」と書きましたが、つぎの世代では、失
敗しないように(別に失敗というわけではありませんが)、します。

 子育ては本能ではなく、学習によって身につきます。そういう意味では、あなたの夫は、父親
像のない男性とみます。理由は、夫自身も、自分が子どものとき、そういう環境で育てられたと
いうことです。「根が深い」という意味は、そこにあります。

【Bさんへ】

 一歳の子どもが反抗するのは、当然の姿です。第一反抗期とみます。この時期の反抗の特
徴は、何でも「いや!」と言うことです。「写真をとろうね」「いや」「おでかけしようね」「いや」と。
子どもは、相手を否定することで、親や周囲の人たちの、自分への反応を確かめます。いわば
乳児期から幼児期への、移行期と考えるとわかりやすいでしょう。子どもは、この時期を通し
て、親子の密着状態から、自己を分離し始めます。自我が芽生える時期と解釈する学者もい
ます。つまり、「親の言いなりにはなりたくない」という思いが、「いや」という言い方になるという
わけです。

 特徴としては、親の補助そのものを拒否する自立性、何でも自分でやりたがる自発性、新し
いものに興味をもつ探索性がああります。こうした現象は、子どもの心身の発育には、むしろ
好ましいものです。反抗的な態度だけをみて、「悪いこと」と決めてかかってはいけません。むし
ろ、それを強引に押さえつけてしまったりすると、子どもの心に深刻な影響を与えますから、注
意してください。

 祖父母との同居については、少し前、同じような相談を受けましたので、それをここに転載し
ておきます。

++++++++++++++

●義父母・父母との違い

1 子どものほしがるものは何でも与えてしまう姑。特に、お菓子やおもちゃは、わが家なりの
ルールを決めて、守らせたいのに。今まで一生懸命に言い聞かせてきたのが無駄になる!

★昔の人は、「子どもにいい思いをさせるのが、親の愛の証(あかし)」「いい思いをさせれば、
子どもは親に感謝し、それで絆(きずな)は太くなるはず」と考えて、子育てをしました。今でも、
日本は、その流れの中にあります。だから今でも、誕生日やクリスマスなどに、より高価なプレ
ゼントであればあるほど、あるいは子どものほしがるものを与えれば与えるほど、子どもの心
をとらえるはずと考える人は少なくありません。しかしこれは誤解。むしろ、逆効果。イギリスの
格言に、『子どもには、釣竿を買ってあげるより、いっしょに釣りに行け』というのがあります。つ
まり子どもの心をつかみたかったら、モノより、思い出というわけです。しかし戦後のひもじい時
代を生きた人ほど、モノにこだわる傾向があります。「何でも買い与える」という姑の姿勢の中
に、その亡霊を見ることができます。

★また昔の人は、「親(祖父母)にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい
子」と考える傾向があります。そして独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼の子」
として嫌いました。今でも、そういう目で子どもを見る人は少なくありません。あなたの姑がそう
だとは言いませんが、つまりこうした問題は、子育ての根幹にかかわる問題なので、簡単には
なおらないということです。あなたの姑も、子ども(孫)の歓心を買うことにより、「いいおばあち
ゃん」でいたいのかもしれません。そこでどうでしょうか。この私の答を、一度、姑さんに読んで
もらっては? しかし子育てには、その人の全人格が集約されていますから、ここにも書いたよ
うに、簡単にはなおりません。時間をかけて、ゆっくりと説得するという姿勢が大切です。


2 嫁と舅・姑の違いって必ずあるし、それはしかたないことと割り切っています。でも、我慢し
て「ノー」と言えないのでは、ストレスもたまるいっぽう。同居するとますます増えそうなこのモヤ
モヤ。がまんにも限度があると思うから、それを越えてしまったときがこわい!

★もう、同居している? それともしていない? 祖父母との同居問題は、最終的に、「別居
か、もしくは離婚か」というところまで覚悟できないなら、あきらめて、受け入れるしかありませ
ん。たしかに問題もありますが、メリットとデメリットを天秤(てんびん)にかけてみると、メリット
のほうが多いはず。私の調査でも、子どもの出産前から同居しているケースでは、ほぼ、一〇
〇%の母親が、「同居してよかった」と認めています。

★問題は途中同居(つまり子どもがある程度大きくなってからの同居)ですが、このばあいも、
祖父母との同居を前向きに生かして、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。仕
事でも、趣味でも、スポーツでも。「おじいちゃんやおばあちゃんが、いっしょにいてくださるの
で、助かります」とか何とか言って、です。祖父母の甘やかしが理由で、子どもに影響が出るこ
ともありますが、全体からみれば、マイナーな問題です。子ども自身の自己意識が育ってくれ
ば、克服できる問題ですので、あまり深刻に考えないようにしてください。

★なお、「嫌われるおじいちゃん、おばあちゃん」について、私は以前、その理由を調査してみ
たことがあります。その結果わかったことは、理由の第一は、健康問題。つぎに「子どもの教育
に口を出す」でした。今、日本の子育ては、大きな過渡期にあります。(孫の教育に口を出す祖
父母の時代)から、(祖父母は祖父母で、自分の人生を生きる時代)へと、変化しつつありま
す。そこで今は今で、そのストレスをしっかりと実感しておき、今度は、あなたが祖父母になっ
たとき、(その時代は、あっという間にやってきますが……)、そういうストレスを、つぎの若い夫
婦に与えないようにします。


3 何かあると自分の子育て論で迫る母。「昔は8か月でオムツが取れた」とか「昔は○○だっ
たのに」など、自分の時代にことを持ち出して、いい加減なことばかり。時代は進んでいるの!
 今のやり方をもっと認めて!

★『若い人は、老人をアホだと思うが、老人は、若い人をアホだと思う』と言ったのは、アメリカ
の詩人のチャップマンです。「時代は進んでいる」と思うのは、若い人だけ(失礼!)。数十万年
もつづいた子育てが、一世代くらいの時間で変わるはずもないのです。いえ、私は、このこと
を、古い世代にも、若い世代にも言いたいのです。子育てに「今のやり方」も、「昔のやり方」も
ないのです。もしそう見えるなら、疑うべきは、あなた自身の視野の狭さです(失礼!)。

★もっともだからといって、あなたの姑の子育て観を容認しているのではありません。子離れど
ころか、孫離れさえできていない? いや、それ以上に、すでに姑とあなたの関係は、危険な
状態に入っているかもしれません。やはりイギリスの格言に、『相手は、あなたが相手を思うよ
うに、あなたを思う』というのがあります。これを心理学では、「好意の返報性」と呼んでいます。
つまりあなたが、姑を「昔風の子育てを押しつけて、いやな人」と思っているということは、まっ
たく反対の立場で、姑も、あなたのことを、「今風、今風って、何よ。いやな嫁」と思っているとい
うことです。

★実のところ子育てでまずいのは、個々の問題ではなく、こうしたギクシャクした人間関係で
す。つまりこうした不協和音が、子育て全体をゆがめることにもなりかねません。そこでどうでし
ょうか。こういうケースでは、姑を、「お母さんは、すばらしいですね。なるほど、そうですか!」と
もちあげてみるのです。最初は、ウソでもかまいません。それをつづけていると、やがて姑も、
「よくできた、いい嫁だ」となります。そしてそういう関係が、子育てのみならず、家庭そのものを
明るくします。どうせ同居しなければならないのなら、割り切って、そうします。こんな小さな地球
の、こんな狭い日本の、そのまたちっぽけな家庭の中で、いがみあっていても、し方ないでしょ
う!

【Cさんへ】

 子育てはまさに、条件反射のかたまりのようなものです。いちいち考えながら、子育てをして
いる人はいません。しかしいつも同じようなパターンで、同じように失敗するというのであれば、
あなた自身の中に潜む「わだかまり」、もしくは、「こだわり」をさぐってみてください。何かあるは
ずです。

 望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとかなど。あるいはあなた自身の乳幼児
期を、さぐってみてださい。あなたは心豊かな環境で、親の温かい愛情に包まれて育てられま
したか。もしそうならそれでよし。そうでないなら、あなたの心のどこかに、何らかのキズがある
はずだと疑ってみてください。

 しかし問題は、そういうキズがあることではありません。というのも、この種のキズは、だれに
でもあるものですからです。問題は、キズがあることではなく、そういうキズがあることに気づか
ないまま、そのキズに裏から、操られることです。そのためにも、まずキズが何であるかを知り
ます。いわば自分で自分の心を解剖します。

 少し前、こんな原稿を書きましたので、転載します。

++++++++++++++++++++

固着(わだかまり)

 日本人は、「心」を大切にする民族である。おそらく世界一ではないか。もっともデリケートな
民族と言ってもよい。たとえば心理学を勉強していると、「こんなこと、日本では常識ではない
か」と思うような場面に、よくであう。その一つが、「固着」。

 心理学で固着というのは、何らかの精神的外傷を受けた人が、無意識のうちにも、その外傷
に支配されることをいう。たとえば子どものころ、身体のことで、みなにからかわれた人が、そ
の後、自分の容姿を過剰なまでに気にするようになる。あるいは自分の容姿のことで、悶々と
悩みつづけ、人との接触を避けるようになる、など。容姿にこだわりながら、自分自身は、どう
してこだわっているのかわからない。あるいはこだわっているという意識そのものが、ない。

 ……と書くと、どこか仰々しいが、日本語では、これを簡単に、「わだかまり」、もしくは、「こだ
わり」という。「固着」という名前をつけるから、かえって話がわかりにくくなる。「結婚のとき、い
ろいろありましてね。それが今でも、夫婦の間のわだかまりになっています」などというときの、
わだかまりである。

 わだかまりが大きければ大きいほど、それにこだわるあまり、自分の心を解放ですることが
できなくなる。どこかしら束縛されたような状態になる。そういう状態を、心理学では、「固着」と
いう。

 そこで、その固着、つまり、わだかまりについて……。

 このわだかまりというのは、人間の心を裏から操(あやつ)る。しかし操られるほうは、ふつ
う、操られていることにすら、気づかない。あくまでも、自分の意思でそうしていると思っている。
ときどき、「なぜ、自分はこんなことをしているのだろう」と思うことはあるが、それでも気づくこと
はない。いろいろな例がある。

 ある母親は、小学一年生の息子が、母親の服のそでをつかんだだけで、その息子を、「イヤ
ー!」と叫んで、手で払いのけていた。ときには、押し倒してしまうこともあった。自分でもなぜ
そうするかわからないと言っていたが、何度か、カウンセリングするうちに、理由がわかった。

 その母親は、独身時代、一人の男のストーカー行為に苦しんでいた。高校時代の友人たちと
東北を旅したときも、その男は、見え隠れしながら、その母親についてきたという。で、いろいろ
あって、その母親は、その男と結婚してしまった。本来なら、結婚などしてはいけなかったが、
その母親はこう言った。「結婚を断ったら、事件になったかもしれません。実家の両親に迷惑を
かけたくなかったし、私ひとりががまんすればいいと思い、結婚しました」と。その母親は、心の
やさしい人だった。

 が、当然のことながら、それにつづく結婚生活は、味気ないものだった。そこでその母親がつ
ぎにとった方法は、子どもをつくることだった。「子はかすがいといいますから、子どもができれ
ば、何とかなると思いました」と。その子どもが、小学一年生の息子だった。

 この母親のばあい、息子が母親にまとわりついたとたん、無意識のうちにも、独身時代の不
愉快な経験が、その母親の中でよみがえったことになる。そしてそれが、その母親を裏から操
っていたということになる。そして「いやだ」という思いだけが独走し、子どもを手で払いのける
……。

 こうしたわだかまりは、大小さまざま、それぞれの人に無数にある。わだかまりがない人は、
いない。もちろん、あなたにもある。しかし問題は、そういうわだかまりがあるということではな
く、そのわだかまりに振りまわされ、同じような失敗を繰りかえすこと。そこで今度は、あなた自
身のことを振りかえってみてほしい。あなたは、日々の生活のどこかで、いつも同じように、同
じようなパターンで、失敗していないだろうか。子育てでだけではない。夫婦げんかにせよ、近
隣とのトラブルにせよ、何でも、そうだ。もしそうなら、あなたの心のどこかに潜む、わだかまり
を、さぐってみるとよい。この問題は、そのわだかまりが何であるかがわかるだけで、そのあ
と、しばらく時間がかかるが、それで解決する。

++++++++++++++++++

 自分の心を解剖するというのは、勇気がいることです。しかしこれはあなたと、あなたの子ど
ものためと思い、どうかしてみてください。

【Dさんへ】

 愛情は、量ではなく、質の問題です。ベタベタに量が多いからとよいというものでも、また少な
いから心配というものでもありません。少ない時間なら、その少ない時間をうまく使って、濃厚
で、質の高い愛情表現をしてみてください。

 ある父親は、子どもが求めてきたようなとき、力いっぱい、子どもを抱いていました。要する
に、いかにして子どもに安心感と満足感を与えるかが、重要なポイントということになります。

 同じような相談が多いので、以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

●ある母親の相談
 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかなくて、
困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが寝てから、
仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少ないか
らだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「うちは
疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子どもには、心
のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞くと、こう話してく
れた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。そして休
みの日などは、いつもいっしょに遊んでいます」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的な安
心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだかないとい
う意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ体を起こし
て逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを見せて、抱っこしよ
うとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く
 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かもしれな
いが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の関係を思い
浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開きあっていると
きは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないときは、男の側からみると、
何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたいへん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベッタリと親
に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓の鼓動のリズムま
で同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感に包まれていると考えて
よい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていくというの
であれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、子どもが心を
開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのではない。父親のほうに
ある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。もっとはっきり言えば、父
親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだけ。

●原因は父親の幼児期に
 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。しか
し一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、父親自身
が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。そういう意味
で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケースは、その親の親
が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にまでなっ
た人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が一番、ついで
父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口答えするなどという
ことは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということなどという
ことは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」という意味すら
理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なものの考え方にどっぷ
りとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要でではないでしょうか」など
と、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」を考
えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権威を認
めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は家事はもちろん
のこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子どもの運動会や遊戯会、さら
には父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏の体にしみこんだ「質」のよう
なものだった。「父親がそんなことするものではない」という意識があったのかもしれない。い
や、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の中になかった。

●親像がない?
 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親とみ
てよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の親たち
は、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てなどかまってい
るヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、親像がないため、どうし
ても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形で親像が入っている親は、これ
また自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自身が、
子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここに書いたように、
心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かって」とか、「私は親だ」
という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざしてしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもってい
る土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では明日か
ら、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。私もその母親
と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろうな」と思った。ただ
最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話をしてください」と。

【みなさんへ】

 では、近く、みなさんの保育園へおうかがいできることを楽しみにしています。

                        はやし浩司

(030529)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(841)

不安になる母親たち

 どうして日本では、親たちが、こうまで子育てを不安に思うのだろうか。また親たちは、不安に
なるのだろうか。

 総じてみれば、日本という社会は、構造的に、不安の上に成りたっている。どっしりとした安
定感がない。本来なら、宗教などがそれを補うのだろうが、たとえば日本の宗教にしても、「心」
を支える宗教というよりは、どこか利益誘導的? 「この信仰すれば、金がもうかり、幸福にな
れる」「しかしこの信仰から離れると、地獄へ落ちる」と?

 こうした不安感は、親から子へと、代々と受け継がれる。親が不安だから、子どもも不安にな
る。加えて、社会そのもののしくみがそうなっている。たとえば弱者に冷たい。落ちこぼれに冷
たい。ワクに入らない人間に冷たい、など。

 民族性の問題もある。日本人は、何かにつけて、「型」を大切にする。私は若いころ、アメリカ
の学校の図書館を訪問して、驚いたことがある。子どもたちは、みな、床に寝そべって本を読
んでいた。が、もし当時、日本でそんなことをしたら、日本の先生や親は、何と言っただろうか。
「本というのは、机の前にきちんと座って読むもの」という型が、日本には、あった。今も、そう
いう型にこだわる日本人は、多い。

 こうした全体としての流れが、日本に、「コース」というものを作った。子育てのコースである。
「いい学校」から、「いい仕事」という考え方も、そこから生まれた。こうしたコースは、いわば料
理のコースのようなもので、あれば便利なものだが、その一方で、親たちは、自分の子ども
が、そのコースからはずれることを、必要以上に恐れるようになった。いや、こうしたコースとい
うか、身分制度は、江戸時代の昔から、あった。

 武士は、武士のコース。農民は、農民のコース、と。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞、発表済み)。少し話が脱線するが
……。

+++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない
 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人
 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。

戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、
個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうと
している。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人
が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。一
つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。
茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち
 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに
「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そ
のものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

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 このエッセーを書くようになった理由は、ある母親から、こんな相談をもらったからだ。子ども
の多弁性を心配した、母親から(福井県のDEさん)のものだった。

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●福井県F市の、DEさんより……

長男の多弁性が気になります。
性格はやさしく、私の言うことをよく聞いてくれますが、
よくしゃべるのですが、勝手なことばかりしゃべっています。
話の内容も、めちゃめちゃで、よくわかりません。
今は、小学六年生ですが、友だちも少ないようです。
最近も、仲がよかった友だちのA君にも、遊んでもらえなくなり
心配しています。また手をかけすぎたためか、小学三年生のとき、
先生から、生活面で、きびしい指導を受けました。
本人もつらいのではないかと思います。
息子を否定したくありませんが、「こんな子では
この先どうなるか、不安です。何か問題が起きるたびに、
「またか!」という気持ちになります。
(以上要約)

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DEさんの相談を読んでいて、最初に感じたのは、「ああ、この母親も、不安なんだな」というこ
と。とくに、最後の「息子を否定したくありませんが……」というところ、である。

 ほとんどの親たちは、それほど深い人生観や哲学をもたないまま、結婚し、子どもをもうけ
る。それはそれでしかたないにしても、子どもをもった喜びが一巡すると、そのあと今度は、子
どもの前に立ちふさがる暗雲に、あぜんとする。

 はたしてうちの子は、無事、おとなになっていくのだろうか、と。

 ここでいう「無事」というのには、二つの意味がある。一つは、ここでいうコースをいう。もう一
つは、これも日本人の民族性にからんでいるが、仲間意識をいう。どういうわけだか日本人
は、仲間からはずれることを、極端に恐れる。つまり「個性」「個性」と一方では言うが、日本の
社会というのは、その個性を認める社会には、なっていない。だから個性的であろうと思えば
思うほど、その人は、社会そのものから、はじき飛ばされてしまう。

 もちろん親たちも、それを知っている。だからたとえば自分の子どもが不登校を起こしたりす
ると、たいていの親は、その時点で狂乱状態になる。自分の子どもがコースからはずれていく
ことは、恐怖以外の何ものでもない。

 全体としてみると、DEさんの相談は、その上にのっている。だからこうした相談に答える私の
ほうの姿勢としては、二つの方向性が生まれる。それはたとえていうなら、病院のドクターがす
るアドバイスに似ている。たとえば成人病をもつ患者がやってきたとする。そういうとき、とりあ
えずは、その患者が訴える病状の治療にあたる。しかし同時に、生活習慣の改善を指導しな
ければならない。対症療法だけでは、問題は、解決しない。

 同じようにDEさんの相談を考える。こういうケースでも、「とりあえずは……」と考える部分と、
「全体として……」と考える部分である。ふつうこうした子育て相談は、前者の視点で考える。私
はDEさんに、つぎのような返事を書いた。

【DEさんへ】

 六年生という年齢は、すでに自己意識(自意識)も発達し、自我も確立している年齢です。こ
こでいう自己意識というのは、自分を客観的に見て、自分自身を、自らコントロールする意識
のことです。また自我の確立というのは、「私は私」という意識をもっていることです。

 DEさんは、子どもの多弁性を大きく問題になさっていますが、多弁性そのものは、乳幼児期
は、脳の機能的な問題がからんでいるため、簡単には、なおりません。(またなおそうと考える
必要もありません。)が、自己意識が発達してくると、……時期的には、小学三、四年生前後で
すが、「そういうことをすると、嫌われる」「先生に叱られる」「みんなに迷惑をかける」と考えるよ
うになり、自分で自分をコントロールするようになります。

 DEさんのケースとは違いますが、かなり問題のある子ども、たとえばADHD児(集中力欠如
型多動性児)の子どもでも、この時期を境に、症状は、急速に収まってくるのは、そのためで
す。

 大切なことは、そういう問題が子どもにあるということではなく、それ以前に、親があせって、
問題をこじらせてせいまうことです。たとえばADHD児のケースでも、幼児期にそれがわかり、
親がはげしく叱ったり、無理をしたりする。そういう姿勢が、症状をこじらせてしまいます。DEさ
んが、そうだとは思いませんが、いただいた文面からは、どこかにそういう雰囲気を感じてしま
います。子ども自身をみながら、子どもの心を守るというよりは、どこか、他人の目を意識した
子育て、あるいはコースを意識した子育て、さらにあるいは、頭の中に「ふつうの子」を描き、そ
の理想像に自分の子どもをあてはめようとした子育て、など。

 子どもが小学六年生にもなったのですから、今さら、心や性格をいじっても、ムダだということ
です。ヘタにいじれば、本人自身が、ますます自信をなくしてしまうでしょう。本来なら、子どもの
心を守るべき立場にいる母親が、自分の不安をそのまま、子どもにぶつけてしまっている? 
……私には、そんな感じすら、します。順に考えていきましょう。

 まず多弁性ですが、どの程度か、よくわかりません。ポイントは、多弁なとき、興奮状態にな
るかどうかという点です。それが他人の言動を受けつけなく、一方的に話しつづける程度なの
か、それとも、独り言のようにぶつぶつ話しつづけるのか。さらに話しながら、つぎつぎと思いつ
いたまま、ペラペラと前後の脈絡もなく話しつづけるか、など。機能的なものであれば、脳の微
細障害なども疑われます(福島章著・PHP新書「子どもの脳があぶない」)。

 しかしどうであれ、つまり原因や症状がどうであれ、今は今、です。現に今、「6年になってか
らはがんばって、いろんなことに責任感をもってとりくんでいるようでした。私達も(ようやくみん
なにおいついてきたかな?)」という状態なら、まずそれを率直に、前向きに評価すべきではな
いでしょうか。そのあと、「『またか』という気持ちです」と書いておられますが、こうした子どもの
問題は、漸次的に軽減していくのではなく、そのつど、ゆれ戻しをしながら、軽減していきます。
ですから、そのときの症状に一喜一憂しないことです。全体としてみて、たとえば一年前、二年
前と比べてどうだというような判断をしてみてください。

 ただ気になることもあります。「本人もつらいと思うので……」とありますが、どこか、過干渉
的? どこか溺愛的? ……といった印象をもってしまいます。子どもの心の状態まで、親が
勝手に決めてしまうことを、過干渉といいます。また親子の間にカベがないことを、溺愛といい
ます。子ども自身は、何とも思っていないはずです。

 さらに「否定したくありませんが……」とありますが、とんでもない意見です。だいたいこういう
言葉が出てくること自体、おかしいのです。絶対に否定などしてはいけないし、また二度とそう
いうことを考えてはいけません。いいですか、子どもは、受け入れるのです。どんなことがあっ
ても、許して忘れる。それを念じて、受け入れるのです。私の印象では、あなたの子どもが、今
のようであるのは、大きくは、あなた自身に責任があるように感じます。先にも書きましたが、
あなたは毎日、自分が感じている不安を、子どもにぶつけているだけではありませんか。「つら
い」と感じているのは、あなたであって、子どもではないのです。そしてそういう姿勢が、子ども
の心をこじらせてしまっている。

 『またか……』という思いは、まさに子どもに対する不信感を象徴しています。「何をしても心
配だ」という思いが、そういう言葉になってきます。これでは、子どもがかわいそうです。では、
どうするか?

 今日からでも遅くないから、あなたは自分の口グセを変えます。子どもに向かっては、こう言
うのです。

 「あなたはすばらしい子になったわ」
 「あなたは大きくなればなるほど、すばらしくなるわ」
 「お母さん、うれしいわ。わなた自慢の息子よ」
 「他人のことなど、気にしなくてもいいのよ。私があなたの親友よ」
 「ほかの子は、あなたのよさがわからないのよ」
 「あなたの話のおもしろさがわからないなんて、みんな、バカよ」
 「もっと、おもしろい話をしてちょうだい。できたら、ノートにいっぱい書いてくれると、うれしい
わ」と。

 その上で、子どもの問題を、考えてみます。

(1)自分勝手な話題が多い……自己中心性が強いとみますが、その原因はといえば、他者と
のかかわり方が、じょうずでないということになります。うまく人間関係が結べないため、言動が
攻撃的になるわけです。下に二人、子どもがいるということから、私の推察では、恐らく、こうし
た傾向は、下の子ども(二男)の誕生直後から始まったのではないかと思います。愛情不足、
愛情飢餓などが、子どもの心を不安定にしたのではないかということです。


(2)性格は優しいのですが……「優しい」というのは、他人への気配りがあるという意味でしょう
か。それとも、ナヨナヨして、他人に対して随行的という意味でしょうか。多分、後者だと思いま
すが、もしそうなら、自我の確立そのものが、軟弱とみます。自信喪失、自己否定などが重な
ると、子どもは、そうなります。子どもの成長に対して、あなた自身の姿勢が、心配先行型、不
安先行型、否定的な育児姿勢になっていないかを反省してみてください。

(3)友人がいない……生活態度が、受動的なところも気になります。「遊んでもらえる」というよ
うな言い方ではなく、「遊んであげる」という視点で、考えなおしてみては、どうでしょうか。その
上で、いっしょに遊べないなら遊べないで、かまわないのではないでしょうか。私など、まったく
酒が飲めないので、この一〇年以上、同窓生からも声がかからなくなりました。だいだいこの
日本では、集団教育のしすぎです。そういう視点も忘れないように。学校で、「いわしの缶詰」の
ような生活をしてくるのですから、家へ帰ってきてからは、のんびりと、ひとりでいる時間を大切
にしてあげましょう。

(4)自分勝手なことばかり話し、友だちに嫌われる……一人、二人くらいの子どもに、そう言わ
れたからといって、おおげさに考えてはいけません。この時期、子どもは多様な仲間と、広く浅
く交際しながら、試行錯誤的に友人を捨てたり、選んだりします。恐らく、その部分(多弁性)に
焦点をあてているため、相手の子どもも誘導される形で、そう言ったのではないでしょうか。ふ
つうは、よくしゃべる子どもは、楽しく、人気者であることが多いです。(反対に無口な子どもほ
ど、嫌われたり、いじめにあったりします。)

(5)担任の先生から生活指導を受けました……先生の目にそう映ったということは、そういうこ
とでしょう。恐らく、手のかけすぎなどを指摘されたのではないでしょうか。それはそれとして、つ
まり三年前のことですから、今さら、気にしても、しかたありません。ただ子育てというのは、リ
ズムでなされるものですから、今でも、そのリズムはつづいていると考えてください。仮に母親
のほうが、かなり反省したとしても、効果が現れてくるのは、数年後。あなたのケースでも、やっ
と今ごろでしょう。

 以上ですが、問題のない子どもはいません。だから問題のない子育てもありません。だから
問題を問題と思うのではなく、子育てというのは、そういうものだという前提で、します。コツは
いくつかあります。

 子どもの中に問題を発見したら、自分自身に原因を求めること。「子どもをなおそう」と考えた
ら、「自分をなおそう」と考えること。さらにこうした子どもの問題は、「今の状態をより悪くしない
ことだけ」を考えて、対処するということです。あせって何かをすればするほど、こうした問題は
逆効果。裏目、裏目に出てきてしまいます。どうかご注意ください。

 そして全体として、子育てがうしろ向きになっていないかを反省してみてください。子どもの欠
点や問題点ばかりを気にしていないか、とです。そのためには、まず口グセをなおします。そし
て子どもの中のよい部分、よい面を見つけて、それを積極的にほめるようにします。プラスのス
トローク(働きかけ)をかけていきます。やがてすぐ、あなたの子どもは、第二反抗期へ入って
きます。いよいよ少年期から、おとなへと脱皮します。今は、その原点にいると思い、ここは慎
重に対処してください。ここで子どもが自信喪失になったり、自己否定をするようになると、これ
から先、しばらくはおとなしくていい子で通るかもしれませんが、問題は先送りされ、もっと深刻
な問題になる可能性があります。どうかくれぐれも、ご注意ください。

 では、また何かあれば、ご連絡ください。

++++++++++++++++++++++++

【子育てを考えよう】

 日本の社会そのものが、構造的に、不安の上に成りたっている……と、私はここに書いた。
小さな島国で、競争を原理とした社会になっている。わかりやすく言えば、食うか、食われるか
の社会。少し油断をしていれば、すぐ追い抜かれてしまう。立ち止まって休むことすら、許され
ない。

 そういう日本の社会そのものが、子どもの世界にも、影を落している。受験競争が、まさにそ
れ。私の近くでも、今度、公立の中高一貫校ができた。当初、説明会に来た入学希望者は、定
員の約六〇倍だったという(数字は、不正確)。なぜそうなのかという点に、日本の教育の矛盾
が集約されている。

 それはちょうど、新築の家の上棟式でまかれる餅まきのようなものかもしれない。取れるもの
は、取る。取らなければ損、と。そしてひとたび餅がまかれると、みはな、地面にはいつくばっ
て、夢中で餅をとる。

 しかしこうした姿勢が、一方で、勝者と敗者を分ける。勝者は、自分の優越性を喜び、誇る。
一方、敗者は嘆き、落胆する。本来なら、ここで勝者は、自分の姿を少しだけ反省し、社会を
改革しなければならないのだが、勝者は勝者で、その利権の上に、あぐらをかいてしまう。敗
者は、そのまま、おし黙ってしまう。

 親たちが感ずる不安というのは、そういう社会の上にある。自分のことならまだしも、子ども
のこととなると、そうはいかない。母親なら、なおさらだ。だから母親たちは、臆面もなく、子ども
にこう言う。「勉強しなさい!」と。

 DEさんは、DEさんの子どもの問題で悩んでいる。問題そのものは、各論的だが、しかしなぜ
母親が本来の、母親としての力量を発揮できないかといえば、DEさんを大きく包む、社会の問
題がある。だから多くの母親たちは、こう言う。「子どもは伸び伸びと、明るく楽しく過ごしてくれ
ればいいと思います。しかし現実は、現実ですから……」と。中には、こんな乱暴な母親もい
る。

 その母親には、小学五年生になる息子がいる。中学受験をひかえて、毎日、毎晩、「勉強し
なさい!」「うるさい!」の大乱闘。その母親は、こう言った。「息子に嫌われているのは、よくわ
かります。しかし無事(?)、目的の中学校に入学してくれれば、息子も、私を許してくれるでし
ょう」と。

 しかし残念ながら、そう思うのは、その母親だけ。子どもは、決して許さない。感謝もしない。
その母親は、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。もっと言えば、自分の不安感を消す
ために、子どもを利用しているだけ。それに気づいていない。

 では、どうするか。

 もしあなたに今、幼い子どもがいるなら、どんな子どもにも、できれば、より弱い立場にいる子
どもにやさしく、親切にしてみてほしい。相手の子どもより、自分の子どもがすぐれていることを
喜んだり、誇ってはいけない。そういうふうに心のどこかで思ったら、それはあなたの中に潜
む、邪悪な心と思って、排斥する。つまりそういうやさしさを、あなたがもったとき、同時に、あな
たは自分の不安感を軽減することができる。それはすばらしく、大らかで、心豊かな世界といっ
てもよい。それを感じたとき、あなたの子どももまた、今まで以上に、すばらしく見えてくる。心
の実験の一つと思い、ぜひ、一度、試してみてほしい。

 ……そしていつか、こういう無数の心が集約されたとき、日本は本当にすばらしい国になる。
そして今、私たちが感ずる、構造的な不安感は、解消される。みんなで力をあわせて、そういう
未来をめざそう!
(030530)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(842)

ドラ息子症候群

 手をかける。時間をかける。お金をかける。……さんざん、し放題のことをしておいて、「どうし
てうちの子は……?」は、ない。

 昔は、金持ちの息子や娘が、ドラ息子やドラ娘になった。しかし今は、違う。ごくふつうの家庭
の、ごくふつうの子どもが、ドラ息子やドラ娘になる。その第一の特徴。忍耐力がない。

 子どものばあい、忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを始末する
とか、風呂場の排水溝にたまった毛玉を始末するとか、など。トイレ掃除も、それに含まれる。
が、このタイプの子どもは、そういうことをいっさい、していない。していないから、しない。

 ものの考え方が、享楽的(欲望のおもむくまま、楽しむ)で、せつな的(その場だけ、楽しけれ
ばよいと考える)。少しでもいやなことがあると、「いやだあ」「退屈だあ」「やりたくない」と叫ぶ。

 率直に言うと、こういう症状が、年中児になるくらいまでに一度、現れると、もう「なおる」という
ことは、ない。子どもだけの問題ではないからである。子どもが、そういう子どもになるのは、そ
の背景に、親、あるいは、その子どもを包む家庭環境の問題がある。それが変わらないかぎ
り、子どもはなおらない。また親や家庭環境を変えるのは、子どもをなおすより、ずっとむずか
しい。だからなおらない。

 印象に残っている子ども(年中男児)に、S君という子どもがいた。まさに絵に描いたようなド
ラ息子(失礼!)で、わがままで自分勝手。自分の座りたい席に、だれかが座っていると、その
席が自分のものになるまで、泣き叫んでいた。そして少しでも、自分の思うようにならないと、机
やイスを足で、蹴っ飛ばし、「ぼく、帰る!」と泣いた。あるいはほかの子どもが、何かのことで
ほめられると、「どうして、ぼくは、ほめてくれないのか!」と泣いたこともある。

 こういう子どもに出あうと、「どう、教えるか」ではなく、「どう、母親を指導するか」という問題に
なる。あるいは、ときには、「どう、自分の怒りを抑えるか」という問題になる。さらに「こういう子
どもには、知恵をつけたくない」と思うことさえある。

 しかしそういう子どもをもつと、親も苦労するが、結局は、苦労するのは、その子ども自身とい
うことになる。さらに……。

 このタイプの子どもは、今、決して少なくない。一〇〜一五人もいれば、必ず、一人はいる。
で、指導する側は、それなりに苦労をするが、そういう苦労が、報われない。親は、そういうドラ
息子症状にとまどいながらも、それが「ふつう」と、思いこんでいる。あるとき、そういう親に、私
は、こう言った。

 「もっと、家で家事をさせなさい。子どもは使えば使うほど、いい子になりますから」と。すると
その若い母親は、キッと顔をこわばらせて、こう言った。「ちゃんと、させています!」と。驚いて
私が、「どんなことをさせていますか?」と聞くと、「箸並べに、クツ並べ!」と。

 箸並べやクツ並べなど、家事には入らない。ままごとにもならない。子どもを使うということ
は、家庭の緊張感の中に、子どもを巻きこむことをいう。「あなたがそれをしなければ、みんな
が困るのだ」という、責任を分担させることをいう。

 が、どういうわけか、今でも、子どもに楽をさせること。子どもに楽しい思いをさせることを、
「子どもをかわいがること」と考えている人は多い。そういう誤解が、この日本には、蔓延(まん
えん)している。しかし誤解は、誤解。とんでもない誤解! こうした誤解が、子育てそのもの
を、あらゆる場面で、ゆがめる。

 子どもにもいろいろ、いる。子育てにもいろいろ、ある。その子育てが失敗することは、いくら
でもある。そしてその結果、ここでいうような子どもが生まれる。が、不幸にして、ここでいうよう
な子どもになってしまったら……。そのときは、あきらめる。こうした問題は、親がジタバタすれ
ばするほど、子どもはつぎの底をめざして、落ちていく。ほとんどの親は、子どもにここでいうよ
うなドラ息子、ドラ娘症状が現れると、「今が、最悪」と思うかもしれないが、その最悪の下に
は、さらに最悪がある。そんなわけで、親がせいぜいできることといえば、それ以上、症状を悪
化させないこと。また、その状態で、満足する。何とも消極的な対処法だが、それしかない。
(030530)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(843)

北朝鮮問題

 とうとうアメリカの海兵隊が、沖縄から、撤退することになった。……というのは、あとになって
誤報ということがわかったが、このニュースは、日本人を心底、驚かせた。日本政府は、「寝耳
に水」(五月二九日)と言っているが、本当のところは、どうか? あの北朝鮮は、すでに数発
の核兵器をもっている。アメリカへ亡命した北朝鮮の元科学者は、これから先、北朝鮮は、数
百発の核兵器を製造する計画をもっていると言っている。……となると、ゾーッ!

 誤報にせよ、こうした話が出てくる背景には、理由が、二つある。ひとつは、日本や韓国に嫌
われてまで、日本や韓国を守らねばならない理由などないということ。それにもう一つは、北朝
鮮との戦争準備。アメリカは、いよいよ北朝鮮との戦争を、本気で覚悟したとみてよいというこ
と。日本や韓国に、多人数のアメリカ兵を置いておくと、かえって戦争がやりにくくなる。

 こうした流れにあわてた、韓国の首相が、先日、日本へやってきて、こう言った。「今年の秋
が、あぶない。力を合わせて、(アメリカが北朝鮮を攻撃することがないように)、アメリカを説
得しよう」と。韓国の立場は、わからないわけではないが、こんな申し出に、日本が応ずるわけ
がない。時間がたてばたつほど、日本は、危機的な状況に追いこまれる。アメリカにしても、そ
れこそ数百発の核兵器を、世界に拡散させるわけにはいかない。

 本来なら、ああいった狂った国は、一挙に兵糧攻めにするのがよい。しかし今年も韓国は、
二〇万トンの肥料と、四〇万トンの穀物を、援助することにしている。あの金大中は、金XXと
会う前、数百億円もの現金を、金XXに手みやげに渡している! こういう中途半端なことばか
りしているから、いつまでたっても、問題は解決しない。かえって北朝鮮の、一般の人たちを、
苦しめることになる。

 それにしても、やっかいな国ではないか。本当にやっかい。何といっても、ふつうの常識が通
じないところが、やっかいである。アメリカにしても、日本にしても、北朝鮮など侵略する意図な
ど、毛頭、ない。ないことは百も承知の上で、「攻めてくる」「攻めてくる」と、勝手に騒いでいる。
わかりやすく言えば、ありもしない外国の脅威を盾にとって、独裁政権維持のために、利用して
いるだけ。韓国にしても、今の状態では、南北統一などしたくないというのが、本音。今、南北
統一するということは、韓国が、莫大な多重債務を引きうけるのに等しい。

 が、当の金XXは、自国民を満足に食べさせられない状態にもかかわらず、「南北を統一す
る」と、息巻いている。統一される韓国こそ、えらい迷惑である。あの男には、そういうことが、
まったくわかっていない。

 さて、私たちは、一般市民として、何をどのように覚悟したよいのか。

 今や、米朝関係は、一触即発の状態とみる。明日、何が起きてもおかしくない。ただ皮肉なこ
とに、金XXは独裁者。その独裁者の常として、金XXには、自分の命を危険にさらすような度胸
も、勇気もない。アメリカに戦争をしかけるとしたら、北朝鮮国内が、にっちもさっちもいかなくな
ったときだ。が、今の状態で、アメリカ軍に戦争をしかければ、その翌日には、金XXの王朝
は、廃墟になってしまう。金XXも、それをよく知っている。

 が、それでも戦争になってしまったら……? 東京だけではなく、私が住むこの浜松市も、北
朝鮮の攻撃目標になっているという。そうであるならなおさら、そのときは、逃げるしかない。核
兵器でなくても、彼らは無数の生物兵器や化学兵器をもっている。またそれらを使う可能性
は、きわめて高い。「まさか、そこまでしないだろう……」と考えている人がいたら、それは甘
い。自国民が、数百万人、餓死しても、平気な国である。日本人を、数百万人殺すことくらい、
平気と考えてよい。少しでも雲行きがあやしくなったら、逃げるしかない。またそのためのルー
トと方法を、考えておく。

 しかし日本も、バカなことをしたものだ。この場に及んでも、正義を主張することすらできな
い。あのニューヨークの貿易センタービルが、アルカイダによって破壊されたとき、ブッシュ大
統領は、「第二のパールハーバー」と口火を切った。もしあれが、第二のパールハーバーなら、
ビンラディンは、東条英機。オマル師は、天皇ということになってしまう。また世界各地で起こる
自爆テロですら、日本は、面と向かって非難することもできない。もし自爆テロを「悪」と決めて
かかってしまうと、では、あの特攻隊は何だったのかということになってしまう。

 第二次大戦中、日本はドイツから核兵器を輸入しようとしていたし、化学兵器も生物兵器も
生産していた。関東軍七三一部隊は、そうした兵器で、人体実験までしていた。その犠牲者だ
けでも、数千人と言われている。

 さらに戦後、日本は、すべてを、ナーナーですませてしまった。いまだに戦争責任すら、認め
ていない。アジアではアメリカは嫌われているが、日本は、それ以上に嫌われている。そういう
現実が、まったくわかっていない。仮に日朝戦争ということにでもなっても、韓国は北朝鮮側に
加担する。統一旗をかかげて、いっしょに日本へやってくるかもしれない。つまり、悲しいかな、
それが現実なのである。

 願わくは、金XX体制が、自然崩壊すること。北朝鮮国内で、クーデターのようなものが起き
て、政権が転覆(てんぷく)すること。あるいは何らかの理由で、金XXが失脚すること。しかしそ
れは今のところ、望みようもない。ああああ。

 私たちは、どうしても、この日本や日本の子どもたちを守らねばならない。今日も年中児の子
どもたちを教えながら、ふと、そんなことを考えた。「こんなあどけない顔をした子どもたちを、
決して犠牲者にしてはいけない」と。そう、どんなことをしても、私たちは、子どもたちを戦争か
ら、守らねばならない。どんなことをしても、だ。
(030530)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(844)

死後のこと

 今朝、ワイフが朝食をとりながら、こんなことを言った。

 「新聞の投書に、夫の遺骨をめぐって、夫の実家の家族と、妻とが、騒動を起こしているとい
うのがあったわ」と。

 話を聞くと、こうだ。夫が死んだ。そのあと妻は、夫の遺骨を、自分の実家の墓に納めてしま
った。それで夫の実姉や実母が、それに反発して、その遺骨を返せと、妻に迫っているという。

 その話をしながら、ワイフが、しみじみとこう言った。「あなたは、あなたの遺骨を、私が預か
れというけど、あなたのお母さんや姉さんが、あなたの遺骨を渡してほしいと言ったら、私はど
うしたらいいの?」と。

 私は、死んでも、実家のあの墓には入りたくない。「死んでもいやだ」という言い方は、おかし
いが、死んでもいやだ。とくにあの墓地のある丘からは、M高校が見える。母校ということにな
っているが、私には悪夢のかたまりのような高校である。

 「遺言にはっきりと、そう書いておくから心配しないでいい」と私。
 「でも、私が海へまくというと、お母さんたち、猛烈に反対するわよ」とワイフ。
 「それも、しっかりと書いておくから、それでいい」
 「でも、私、自信、ないわ……」
 「……」
 「だからあなた、実家のお母さんや姉さんたちより、絶対に、先に死なないでね」と。

 遺骨を海にまくと、海が汚れるという意見は、ナンセンス。毎日、糞便のみならず、生活から
出る排出物や廃棄物を、海へどんどんと垂れ流している人間が、わずか一キログラム前後の
遺骨を海へ流したからといって、それがどうだというのか。もし人間の遺骨がだめなら、日々に
生まれ、そして死んでいく魚はどうなのかということになる。遺骨は、まさに人間がつくりだす、
最終的な自然の産物。畑にまく、骨粉のようなもの。海へ流したところで、益になることはあっ
ても、害になることは、何もない。

 もっとも遺骨にこだわる理由も、必要も、本来、ない。なぜ骨が遺骨で、それ以外のものは、
遺骨ではないのかということになる。理屈の上では、脳ミソこそ、遺骨(?)というにふさわしい
のでは……。しかし脳ミソは、保存するのには適さない。だからやはり、「骨」ということになる。

 となると、さらに遺骨にこだわるのも、おかしな話ということになる。どうして人間は、遺骨をも
って、故人の形見とするのか? ……といろいろ考えるが、ものごとは理屈だけでは動かな
い。仮にそれが愛する人の遺骨なら、その遺骨をみながら、その愛する人をしのぶに違いな
い。それがたとえおかしいとわかっていても、そのおかしさを乗り越える力が、はたして私には
あるのか。人間にはあるのか。

 私が死んだあと、ワイフが私の遺骨を見ながら、私をしのぶというのであれば、それはワイフ
の勝手。しかしそれは「私」ではない。むしろ私という私は、今、こうして書いている文の中にい
る。だからもし、いつか私をしのんでくれるというのなら、こうして書いている文を読んでほしい。
私も、そのつもりで、こうして文を書いている。

 しかしいつの間にか、私も、こんなことを考えるようになってしまった。少し前まで、人生は永
遠と思っていたようなところがある。が、それが今、急速にしぼみつつある。そしてそれにかわ
って、私は、死んだあとのことを考えるようになった。

【遺言】
 私が死んだら、遺骨は、どんなことがあっても、妻、Aが、預かる。そのあとの処分は、すべて
妻、Aに任す。どんなことがあっても、M市にある、実家のあの墓地には、入れるな。どう処分し
てほしいかは、すべて妻、Aに話してあるので、何人も、妻、Aに異議を唱えてはならない。

 ……とまあ、どこかの偉人のようなことを書いてしまったが、だれも私の遺骨のことなど、心
配しない。もともと私の骨は、馬の骨。とるに足りない、ただの一人の人間。こういうのを自意
識過剰というのか。そう、私はもともとどこか、自意識過剰のようなところがある。

+++++++++++++++++

【補足】自意識過剰

 この言葉で、いろいろなことを思いついたので、ここに書く。

 自分を大切にするということと、自意識過剰は、別の問題である。自意識過剰というのは、自
分が世界の中心にいて、世界中が自分に注目していると、錯覚することをいう。

 概して言えば、若い女性に多いのでは? 昔、ある女性週刊誌の編集長をしていた、I氏がこ
んな話をしてくれた。その週刊誌は、当時、表紙に外国人モデルを好んで載せていた。そこで
私が、「日本の女性が読む雑誌に、外国人を載せるのは、おかしくないですか。日本人の読者
が、違和感を覚えませんか」と聞いたときのこと。そのI氏は、こう言った。

 「日本の若い女性たちは、だれも、自分が日本人だとは思っていませんよ。欧米人だと思っ
ていますよ。他人はともかくも、自分の顔立ちだけは、欧米人に近いと思っていますよ」と。
 
 ところで今、「ベッカムさま」(イギリスのサッカー選手、D・ベッカムのこと)に、狂っている女の
子(高校一年生)がいる。明けても暮れても、「ベッカムさま」「ベッカムさま」。ベッカムが骨折し
たというニュースを聞いたときは、本気で心配していた。その女の子と、こんな会話をした。

私「ベッカムには、奥さんも、子どももいるんだよ」
女「私は、かまわない」
私「かまわない……って?」
女「私が奪ってやる」
私「ベッカムが、それではかわいそうだ」
女「私が幸せにしてあげる」
私「そう思うのは、君の勝手だけど、ベッカムは、君を相手にしないかもよ。それにそう思ってい
る日本の女の子は、何万人もいるよ、きっと……」
女「私が、ベッカムさまのことを、一番、深く、思っている」と。

 どこか冗談のようで、冗談でない会話だった。彼女は、真剣だった。それはわかるが、こうい
うのも自意識過剰という。

 私も若いころは、かなり自意識過剰のようなところがあった。「私が世界を動かしている」とい
うようなことを思ったこともある。考えてみれば、今もそうかもしれない。本当のところは、だれも
私など、相手にしていない。しかし当の私は、相手にされていると思いこんで、こうして自分のこ
とを書いている。ちょうど若い女性が、自分では日本人とは思っていないように、私は自分で
は、ただの「もの書き」とは思っていない?
 
 要するに近視眼的になればなるほど、自意識も過剰になるということか。それは若い母親た
ちの子育て観をみていると、わかる。ずいぶんと昔だが、こんなことを言った母親がいた。「私
の家は、本家(ほんや)ですから、息子には、それなりの学歴を身につけてもらわないと、困り
ます」と。

 その母親の視野の中には、彼女が住む、「本家と、新家(あらや)」の世界しかない。ひょっと
したら、本当は、だれも、そんなことなど気にしていないのかもしれない。しかしその母親は、
「気にしている」と思いこんでいる。実のところ、こうしたケースは、本当に多い。「教育」の場そ
のものが、この自意識の戦いの場になっている? 言いかえると、世の母親たちが、ほんの少
しだけ自意識を抑えてくれると、もう少し、教育の世界も風通しがよくなるのでは……?

 この問題は、私自身の問題ともからんでいるので、もう少しゆっくりと考えてみる。今日は、こ
こまで。
(030531)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(845)

みなさんの意見から

 マガジン読者の方にアンケート調査をお願いした。日ごろ、どのように読んでいただいている
かを、知りたかった。結果、三人の方から返事をいただいた。

 三人とも、「量が多すぎる」だった。つぎに内容については、「だいたい読んでいる」とのこと。
もっとも、これら三人の方は、読者の方でも、よく読んでくれている方だと思う。私もそうだが、
他人のマガジンを読むときは、まずざっと全体を見て、「これは!」と思う部分だけを読む。そ
んなわけで、私としては、「まあ、半分。せめて三分の一でも読んでもらえれば、感謝しなけれ
ば……」と思っている。

 うれしかったのは、一人の方から、「1000号まで読む」と言ってもらったこと。がんばって、1
000号までつづけたい。……つづける。その先に何があるかわからないが、やってみる。

 また「読むのは子育てに関する記事だけ。時事問題は読まない」という人もいた。私として
は、いろいろな分野について書いてみたい。もともと法科出身なので、時事問題には、興味が
ある。

【読者のみなさんへ】

 いつもこのマガジンを購読してくださり、ありがとうございます。あちこちで最新の情報を集
め、皆さんの子育ての現場で役にたつ記事を載せていきますので、これからもよろしくお願いし
ます。

                                はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
 
子育て随筆byはやし浩司(846)

オペラント(自発的行動)

 人間が人間であるのは、無数のランダム性と、それから生まれる無限の可能性があるから
である。ほかの動物にもあるが、人間の比ではない。つまり人間は、だれから教えられなくて
も、自発的に行動する能力をもっている。これを「オペラント(自発的行動)」という。

 日本語には、「試行錯誤」という言葉がある。英語では、「トライ・アンド・エラー」という。これら
は意図的な行動をいうが、オペラントというときは、必ずしも、意図的な行動とは限らない。「何
かをしていたら、偶然、発見した……」という行動も、それに含まれる。むしろ、その偶然性の
ほうが、人間の進化には重要な働きをしてきた。たとえば蚊がいる。

あの蚊は、実に複雑な飛び方をする。一方向にまっすぐ飛ぶというよりは、ランダムに、あらゆ
る方向に変則的に向きを変えながら飛ぶ。恐らく、太古の昔には、一方向に飛ぶ蚊もいたのだ
ろう。しかしそういう蚊は、すぐ叩き落されてしまった。が、ある日、(多分?)、ランダムに方向
を変えて飛ぶ蚊が生まれた。とたん、叩き落されることが少なくなった。そしてそういうランダム
に飛ぶ蚊が生き残り、一方向に飛ぶ蚊は、絶滅した?

これは進化の話だが、人間の個々の発達にも、このオペラントがからんでいる。あのニュート
ンにしても、リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力を発見したという。さらに、子どもの世界
にも、それがある。

 たとえばある子どもが、砂場で砂を掘っていたら、小さな石を発見したとする。それはまさに
偶然による発見である。そこでその石を先生に見せると、先生が、それをほめてくれた。「あ
ら、すごいわね」と。その子どもは、先生のそういう姿勢を見て、「発見することの喜び」を知る。

 子どもを伸ばすコツは、言うまでもなく、人間が、そしてあらゆる動物が本性としてもってい
る、このオペラントを、うまく利用することである。もちろん、オペラントは、あらゆる子どもに、あ
る。ない子どもは、いない。もしそのオペラントがないとするなら、それは子ども自身の責任とい
うよりは、不適切な子育てや、失敗によって、つぶしてしまったと考えるべきである。

 具体的には、子どもは、常に、このオペラントを繰りかえす。そのとき、好ましいオペラントで
あれば、それをほめる。そうでないものであれば、それを抑える。これを「オペラント条件づけ」
(発達心理学)という。たったそれだけのことだが、子どもは、自らの力で前向きに伸びていく。
さらにうまく指導すれば、子どもは、その石に、論理的な理由づけをするかもしれない。ある子
ども(年長男児)は、「石は土の中から生まれる。小さな石は、石の赤ちゃん」と言った。

●まず、ほめる……幼児期におけるオペラント条件づけの基本は、「まず、ほめる」。すべては
ここへ行きつく。こうした親の姿勢は、私の教室へくる親たちの姿を見ればわかる。たとえばあ
る日、突然、子どもをつれて見学にきたとする。そのとき、ある程度の時間、その子どもに、私
の生徒の中にすわってもらう。しかし子どもにしてみれば、はじめての教室だから、とまどった
り、警戒する。しかしそうするのはごく自然な行為である。が、親には、それがわからない。ほ
かの子どもたちと比較して、「どうしてうちの子は、元気がないのでしょう?」「どうしてうちの子
は、できないのでしょう」と。さらには、「どうしてうちの子は、ちゃんと座っていないのでしょう?」
とか、言う。そこで私はこう答えることにしている。「はじめて来たのですよ。まずそれをほめて
あげましょう」と。

●押しつけをしない……親の価値観や、設計図を、子どもに押しつけない。ここにも書いたよう
に、オペラントは、あくまでも自発的行為をいう。「自発的」というのは、子ども自身の内部から、
自然な形で、わきあがってくるものをいう。好奇心(動くものに興味をもつ)、探索心(あちこち歩
き回る)、探究心(理由や原因を考える)、試行心(何でもためしてみる)など。そういう子どもの
自然な姿の中から、何が好ましいもの(好子)であり、何が好ましくないも(嫌子)であるかを教
えていく。この段階で親がなしえることは、せいぜい方向性をもたせることでしかない。船にたと
えて言うなら、舵取りということか。強引に子どもを誘導しようとしても、失敗する。あるいは先
にも書いたように、オペラントそのものを、つぶしてしまう。言い忘れたが、このオペラントはた
いへんデリケートなもの。また一度、つぶしてしまうと、ほぼ修復は不可能とさえ言える。

【オペラント失敗例@】

 子どもが年中児くらいになると、たいていの親は、「さあ、教育!」と、身構えてしまう。とくにこ
の日本では、子どもの未来に、はっきりとしたコースが見えてくる。親は、そのコースに、何と
か、自分の子どもを、当てはめようとする。

 ある母親から、こんな相談があった。「うちの子は、毎日、プリント学習を、二枚することにな
っていますが、なかなかしてくれません。させようとする、ぐずったり、反発したりします。どうし
たらいいでしょうか?」と。

 この母親が考えている指導というのは、まさに「先取り教育」以外の何ものでもない。「勉強が
必要だ」「勉強というのは、こういうものだ」と。しかし相手は、まだ四歳の子どもである。学ぶこ
とよりも先に、学ぶことの楽しみを味わうべき年齢である。こうした無理が重なれば、子ども
は、確実に勉強嫌いになる。そしてここが重要だが、一度勉強嫌いになった子どもは、二度
と、勉強が好きになるということはない。仮に好きになっても、そのときには、その子どもはおと
なになっている。つまりここでいうコースから、そのときには、はずれてしまっている。

【オペラント失敗例A】

 その親は、何かにつけて、子どもを否定していた。「そんなことをしてはダメ」「こんなことをし
てはダメ」と。しかしさらにその原因は何かというと、子どもに対する不信感。さらに愛情不足。
さらに望まない結婚に、望まない出産があった。

 こうした育児環境に育った子どもは、不幸である。ナヨナヨとした性格に、ナヨナヨとした人生
観。いつも世間の波に流されるまま生きている。親は、「生まれつきそうです」などと言うが、そ
ういう子どもにしたのは、親自身にほかならない。子どもは不安を基底とした生きザマを身につ
け、何をするにしても、心配と不安を訴える。「私は私」という考え方そのものが、できない。

 J氏(四五歳)という男性がいた。それまでにもいくつかの縁談の話があったが、そうした縁談
をことごとくつぶしてしまったのは、実は、母親だった。「あんな嫁では、財産を食いつぶされる」
「あんな性格の悪い嫁では、家が崩壊する」と。本来ならここでJ氏が反発しなければならない
のだが、J氏は、まさに、骨のズイまで、母親に魂を抜かれていた。それこそ食事の量や内容
まで、徹底的に管理されていた。そう、その母親も、いつもこう言っていた。「あの子がああなの
は、生まれつきです」と。無責任な母親が、自分の責任を棚あげにするとき、よく使う言葉であ
る。

【オペラント失敗例B】

 以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いた。

+++++++++++++++++++++++

動機づけの四悪

 子どもから学習意欲を奪うものに、@無理、A強制、B条件、C比較の四つがある。これ
を、『動機づけの四悪』という。

 まず@無理。その子どもの能力を超えた無理をすれば、子どもでなくても、学習意欲をなくし
て当然。よくある例が、子どもに難解なワークブックを押しつけ、それで子どもの学習意欲をそ
いでしまうケース。子どもの勉強は、「量」ではなく「密度」。短時間でパッパッとすますようであ
れば、それでよし。……そうであるほうが好ましい。また子どもに自分でさせる勉強は、能力よ
り一ランクさげたレベルでさせるのが、コツ。ワークやドリルなど、半分がお絵描きになってもよ
い。答が合っているかどうかということよりも、「ワークを一冊、やり終えた」という達成感を大切
にする。

 A強制。ある程度の強制は勉強につきものだが、程度を超えると、子どもは勉強嫌いにな
る。時間の強制、量の強制など。こんなことを相談してきた母親がいた。「うちの子は、プリント
を二枚なら、何とかやるのですが、三枚目になると、どうしてもしません。どうしたらいいでしょう
か」と。私は「二枚でやめることです」と答えたが、その通り。このタイプの母親は、仮に子ども
が三枚するようになればなったで、「今度は四枚しなさい」と言うに違いない。子どももそれを知
っている。

 B条件。「この勉強が終わったら、△△を買ってあげる」「一〇〇点を取ったら、お小づかい
を一〇〇円あげる」というのが条件。親は励ましのつもりでそうするが、こういう条件は、子ども
から「勉強は自分のためにするもの」という意識を奪う。そればかりではない。子どもが小さい
うちは、一〇〇円、二〇〇円ですむが、やがてエスカレートして、手に負えなくなる。「(学費の
安い)公立高校へ入ってやったから、バイクを買ってくれ」と、親に請求した子ども(高一男子)
がいた。そうなる。

 最後にC比較。「近所のA君は、もうカタカナが書けるのよ」「お兄ちゃんは、算数が得意なの
に、あなたはダメね」など。こういう比較は、一度クセになると、日常的にするようになるから、
注意する。子どもは、いつも他人の目を気にするようになり、それが子どもから、「私は私。人
は人」というものの考え方を奪う。

 イギリスでは、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』と言う。
子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、親のできることにも限界があるというこ
と。ではどうするか。もう一つイギリスには、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』という格言もある。
つまり子どもに勉強をさせたかったら、勉強は楽しいということだけを教えて、あとは子どもに
任す。たとえば文字。いきなり文字を教えるのではなく、いつも子どもをひざに抱いて、本を読
んであげるなど。そういう経験が、子どもをして、「本は楽しい」「文字はおもしろい」というふうに
思わせるようになる。そしてそういう「思い」が、文字学習の原動力となっていく。子どもの勉強
をみるときは、「何をどの程度できるようになったか」ではなく、「何をどの程度楽しんだか」をみ
るようにする。

++++++++++++++++++++

 このオペラントを、どううまく利用するかが、子育てのコツということになる。私も幼児を教える
ようになって、もう三三年になる。が、今は「教える」という意識は、ほとんどない。それにかわっ
て、「子どもを楽しませる」ということだけを考えるようになった。私たちができることは、せいぜ
いここまで。あとは子ども自身が、自分で伸びる。またそういうふうに、仕向けるのが私の仕事
である。

 が、残念なことに、そういう私の姿勢が理解できず、それをことごとくつぶしていく親も少なくな
い。子どもが、少し勉強に興味をもったりすると、「もっと……」「さらに……」と欲を出す。そして
結果として、子ども自身がもつオペラントをつぶしてしまう。よくある例は、もともとそれほど能力
が高くない子どもが、自分の力で伸びようとしている矢先、親が「進学塾へ入れれば、もっとで
きるようになるはず」と考えるケース。そしてそれまで積み重ねた成果を、自らドブへ捨ててしま
う。このH市では、だいたいその時期は、子どもが小学校の三、四年生とみてよい。しかしたい
てい一、二年もすると、子どもの学力は、今度は、空回りをするようになる。しかしそのときは、
もう手遅れ。先にも書いたように、学習の動機づけには、二度目はない。

 発達心理学でいうオペラントとは、多少ニュアンスは違うかもしれないが、子どもの自発的行
動を説明するには、わかりやすい言葉なので、私はときどきこうして借用している。大切なこと
は、あせらないこと。幼児期は、「学ぶことは楽しい」という前向きな姿勢を、徹底的に充電して
おくこと。またその充電の量が多ければ多いほど、子どもは、あとあと伸びていく。結論は、そう
いうことになる。
(030601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(847)

基底不安(2)

 不安を基底にしている人は、常に不安をかかえながら生きている。子どもにかぎらない。おと
なでも、である。しかも五〇歳、六〇歳をすぎたおとなでも、である。しかし本人自身が、それに
気づくことはない。もしあなたが、つぎの項目のうち、三個前後、当てはまれば、あなたは基底
不安型人間とみてよい。

(1)休みの日なども、休みを楽しむ前に、翌日からの仕事のことを心配にすることが多い。
(2)いつも自分ひとりという生き方が基本になっている。そういう意味では、何でも自分でしない
と気がすまない。他人に任せると、心配でならない。
(3)私はよくがんばっているほうだと思うが、その原動力になっているのは、不安との戦いであ
る。
(4)悪夢を見ることが多い。追いかけられる夢、列車に乗る夢、乗り遅れる夢など。
(5)信じられるのは、結局は自分だけ。他人とかかわっていると、どこかで演技をしている自分
を感ずる。そのため、疲れやすい。

 基底不安型の人は、他人との信頼関係をうまく結ぶことができない。心を開かない。あるい
は自分をさらけ出すことができない。自分がそれをできないのは、し方ないとしても、問題は、
他人もそうだと思いこんでしまうこと。またそういう前提で、人間関係を結ぼうとする。そのた
め、猜疑心や嫉妬心がつよくなる。すべてを、「疑う」ことから始める。

 原因は、乳児期の母子関係が、不全であったことによる。母親の拒否的態度、否定的子育
て観、権威主義的なものの考え方、さらには育児崩壊、家庭崩壊、家庭環境の不全など。あな
たという子どもの側からみて、全幅に、心を開くことができない環境にあったとみる。が、問題
は、そのことというより、あなたと夫(妻)との関係、さらにはあなたと子どもとの関係にまで、影
響がおよぶということ。あなたの子ども自身も、あなたとの関係において、不安を基底とした人
間関係になってしまう。つまり基底不安は、代々と、つぎの世代へと伝播(でんぱ)する。

 もしあなたがここでいう基底不安型人間なら、まず自分自身がそうであることに気づくこと。そ
してそれと戦うこと。自分の心を偽っているようなら、その偽りを取りのぞく。ありのままを、さら
け出してみる。そして「私は私」と居なおってみる。その点、夫婦というのは、よいものだ。親子
というのは、よいものだ。そういうあなたを、受け止めてくれる。まず手始めに、あなたの夫
(妻)や子どもの前では、ありのままをさらけ出してみる。こと夫婦についていうなら、セックスと
いうのは、自分をさらけ出す、絶好の機会でもある。さらけ出して、さらけ出して、とことんさらけ
出す。……と、まあ、教育エッセーらしからぬことを書いてしまったが、ここに書いたことは、ま
ちがってはいない。参考にしてほしい。
(030601)

●男女相愛して、肉欲に至るは自然なり。肉交なき恋は、事実にあらずして、空想なり。(国木
田独歩「断片」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(848)

性欲

 私の年代の者は、(こう決めてかかってはいけないが)、「性」について論ずるのとき、どこか
に抵抗を覚える。何かしら、不潔なもの、不浄なもの、さらには、何かしら秘められしものという
ような考え方をする。しかしよくよく考えてみれば、性欲は、食欲と並んで、何ら恥ずべきことで
も、隠すべきことでもない。……とわかっていても、なかなかありのままを書くことができない。
が、あえて挑戦。

 少し前、インターネットであちこちをのぞいていたら、とんでもないスケベサイトに出会ってしま
った。とんでもないというのは、まったく無修正の画像が、そのまま掲載されているサイトであ
る。驚いたというより、年甲斐もなく、連日、連夜、それを見て、私は興奮してしまった。

 が、それも一巡すると、つまりある一定の期間、そういう興奮状態がつづいたあと、今度は、
そういう行為が、何でもない行為に思われるようになった。女性のことはいまだによくわからな
いが、男性というのは、女性の裸体を見て、発情する。そしてひと通り射精が終わると、今度
は、一転、女性への関心を急速に消失する。それには複雑なメカニズムが働くらしいが、とに
かく現象としては、そういうことだ。

 言い忘れたが、私だって、ワイフとセックスをする。オナニーもする。そういう意味では、私
は、ごくふつうの男だし、そのことを恥じる気持ちは、まったくない。ただバーやキャバレーなど
というところは、商社マンであった一時期、通ったことはあるが、浜松に移り住むようになって
からは、一度もない。(クラブのようなところへは、数回、行ったことがある。よく覚えていないが
……。)

 ただ私はサービス精神が旺盛で、若いころからセックスするときも、自分が楽しむというより
は、いつも相手の女性を楽しませることだけを考えていた。私が楽しむのは、いわば「おまけ」
のようなもの。……自分では、そう考えていた。だからよく私は、相手の女性にこう言われた。
「あなたとセックスしていると、スポーツをしているみたい」と。

 あああ。ここまで書いてよいものか? きっとワイフは、このエッセーを読んで、怒るにちがい
ない。ワイフは、どこか古風で、こういう話を好まない。だからこの話は、ここまで。もう少し、ア
カデミックな話にする。

 男というのは、(こう決めてかかってはいけないが)、いつもどこかで、不倫を夢想するもの。
すてきな女性を見たりすると、その女性とのセックスを想像する。とくに私は、想像力が旺盛だ
から、それが簡単に想像できる。かなりビジュアルに、かつ具体的に想像できる。言いかえる
と、私には、ホモセクシュアル的な部分は、まったくない。この長い人生の中で、数度、そういう
男性に迫られたことはあるが、そのつど、ゾーッとした嫌悪感に襲われたのを覚えている。

 また幼児教育をしていると言うと、ロリコン的な要素を疑われることもある。しかしこの場を借
りて、正直に書くが、私には、まったく、それはない。幼稚園で講師をしているときから、女児に
ついては、頭と手以外は、触れたことはない。親のいないところで、抱いたこともない。頭という
のは、頭をほめてなでるとき。手は、握手するとき。「抱く」というのは、子どもの情緒の安定度
を確かめるときである。心を開くことができる子どもは、抱きあげてみると、力を抜く。そうでな
い子どもは、そうでない。たとえば自閉症児やかん黙児などは、抱いても、体をこわばらせたま
まにする。

 そういう意味では、私はほぼ正常な男である。「ほぼ」というのは、だれにでも性癖があるよう
に、私にもある。それについては、また別の機会に書くことにして、こうした性欲があるからこ
そ、人間が織りなすドラマは、豊かで、おもしろいものになる。もしそれがなかったら、私を包む
この世界は、何とつまらないものになることか。あのフロイトでさえ、すべての心的エネルギー
(リピドー)の根底に、性欲を置いている!

 子どもたちについても、子どもどうしが異性を意識し始めるのは、はやい子どもで、小学二年
生くらいから。だいたい小学五、六年生を境に、その意識は、急速に強くなる。今では、小学六
年生くらいで、「フェラ」「クリニングス」程度の言葉の意味を覚える。また女子についていうな
ら、中学生から高校生にかけて、たいはんの子どもが、セックスを経験する。そういう時代であ
る。セックスにある種の「うしろめたさ」を感ずるのは、私たちの世代だけかもしれない。
(030601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(849)

子どもの達成感

 子どもを伸ばすカギを握るのが、達成感。この達成感をうまく利用して、子どもを伸ばす。し
かしこの達成感をつぶす六悪に、つぎのようなものがある。

【与えすぎ】
 あれもこれも、与える。あるいはつぎからつぎへと、与える。こうした状況がつづくと、子ども
は、満腹症状を示すようになる。「もうたくさん!」と。

【お膳立てのしすぎ】
 子どもの進むべき道を、あらかじめ用意し、その道に沿って子どもを導こうとする。「誘導され
ている」と子どもが感じたとき、それはそのまま子どもの挫折感となってはねかえってくる。

【否定的姿勢】
 せっかく子どもが何かをできるようになっても、親が「何よ、そんなこと!」と言ってしまったら、
おしまい。

【過剰期待】
 少しでも子どもが進歩を見せたりすると、「もっと」とか、「さらに」と親は思う。子どもに夢を託
すのは悪いことではないが、その夢を、子どもに押しつけてはいけない。子どものほうが、息切
れをしてしまう。

【過関心】
 子どもの動機づけは、おおらかに。ワークブックでも、少しくらいのミスは、大目に見る。がん
ばってしたことだけをほめ、あれこれこまかいことでうるさく言わないのがコツ。

【評価の欠落】
 達成感は、おとなの評価によってしめくくる。オーストラリアの学校では、(世界中どこでもそう
だが)、教育はいつも、評価とペアになっている。私が「こういうことを教えています」などと言う
と、向こうの先生たちは、「では、どうやって進歩(プログレス)を評価していますか?」と質問し
てくる。評価は、正当に、かつ前向きに。

 以前、このことに関して、こんな原稿を書いた。ここに転載する。

+++++++++++++++++++++++

成長を喜ぶ

 まずテスト。あなたの子どもは何か新しいことができるようになったり、おもしろいことを発見し
たようなとき、あなたのところにやってきて、「見て、見て!」と言うだろうか。もしそうならそれで
よし。しかしそういう会話が親子の間から消えているようなら、あなたはあなたの子育てをかな
り反省したほうがよい。

 子どもを伸ばす三大要素に、@好奇心(いつもあらゆる方向に触覚がのびている)、A生活
力(自立し、自分で何でもできる)、B頭の柔軟さ(頭がやわらかく、臨機応変にものごとに対処
できる)がある。もちろん生まれつきの能力も関係するが、これは遺伝子の問題だから、教育
的にはあまり論じても意味がない。で、こうした三大要素を側面から支えるのが、家庭、なかん
ずく「親」ということになる。こんな家庭があった。

 その家庭には三人の男の子がいたが、皆、表情が明るく、伸び伸びとしていた。そこでその
秘訣をさぐると、それは母親の言葉にあるのがわかった。子どもたちが何か、新しいことがで
きるようになるたびに、その母親がそれを心底、喜んでみせるのである。下の子が上の子のお
さがりをもらうときもそうだ。母親は下の子に、上の子のおさがりを着させながら、「おお、あん
たもお兄ちゃんのが着られるようになったわね」と、喜んでみせていた。こうした家庭のリズム
が、子どもたちを伸びやかにしていた。

 子どもを伸ばすためには、子どもの成長を喜んでみせる。ウソではいけない。本心からそう
する。そういう前向きな姿勢が親にあってはじめて、子どもも伸びる。が、そうでない親もいる。
「あんたはダメな子ね」式の言い方をいつもする親である。子どもの表情が暗くなって当然。こ
ういう家庭では、子どもは決して、「見て、見て!」とは言わない。「どうせ、ぼくはダメだ」と逃げ
てしまう。もしそうなら、今日からでも遅くないから、子どもの成長を喜ぶようにする。たとえテス
トの点が悪くても、「去年よりはずっとよくなったわね」などと言う。そういう姿勢が子どもを伸ば
す。子どもの表情を明るくする。

+++++++++++++++++++++++++

 子どもの学習の動機づけを考えるときは、@興味づけ、A方向づけ、B努力、そしてここでい
う、C達成感を大切にする。
(030601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(850)

気が小さい子ども

 よく「うちの子は、気が小さいです」という親がいる。どこか軽く考える傾向があるが、そんな簡
単な問題ではない。

 気が小さいというのは、軽いうつ状態か、さもなければ、うつ状態そのものにあるとみる。子
どもにかぎらず、人はうつ状態になると、ささいなことを悶々と悩んだりする。被害妄想ももちや
すくなる。そしてあらぬことまで思いをはせ、いわゆる取りこし苦労をするようになる。子どもも、
また同じ。

 「今度のテストで失敗したら、どうしよう?」
 「明日、友だちに何か言われるのではないか?」
 「先生に、叱られるかもしれない」など。

 親からみれば、「どうしてそんなことで悩むの?」となるが、当の子どもには、それがわからな
い。反対に頭から否定すると、子どもをかえって窮地に追いことになる。あくまでも子どもの立
場で、子どもの心の中をのぞくようにする。

 こうした症状が見られたら、情緒不安に準じて、子どもの心を考えるようにする。子どもの側
からみて、安心できる家庭環境、安らぐことができる家庭環境、心や体を、休めることができる
家庭環境を用意し、年少の子どもであれば、スキンシップを濃厚にしてみる。コツは、子どもが
それを求めてきたときは、それをいとわないこと。ぐいと抱いてあげるだけでも、よい効果が得
られる。

(情緒不安については、はやし浩司のサイトを参考にしてください。ヤフーなどの検索エンジン
を使って、「はやし浩司 情緒不安」で検索できます。)

 反対に情緒が安定している子どもは、態度も大きく、どこかどっしりとしている。子どもの心の
中をのぞくひとつのバロメーターとするとよい。
(030601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(851)

台風一過

 六月一日。台風一過。気持ちがよいほど、空が晴れ渡った。強い日ざし。照りかえす木々の
緑。その緑がまぶしいばかり。

 山荘の入り口のところには、二本のビワの木がある。一本は、自宅にあったものを植えかえ
たもの。もう一本は、自然発生。植えかえたほうは、丸みをもった実をつける。自然発生のほう
は、やや小ぶりだが、もう一本のと比べると、やや細長い。味は、どういうわけか、自然発生の
ほうが、よい。そのビワが、来週には食べられそうな気配になってきた。今日、一、二個食べて
みたが、ビタミンCの味が、ジワッと口の中に広がった。

 昼寝をしていると、ワイフが、梅の実を袋いっぱいとってきた。「帽子はかぶったのか?」と聞
くと、「かぶったわよ」と。こういう日に、帽子なしで外に出るのは、自殺行為に等しい。そう言え
ば、先週、町の中の中学校を通りすぎたとき、中学生たちが運動場で、何かの練習をしてい
た。「紫外線のことなど、何も気にしていないのかね?」と聞くと、ワイフは、「何もしてないみた
いね」と。短いソデのシャツに、頭にのせる程度の帽子しか、かぶっていなかった。

 となりのK市のある幼稚園では、長いツバの帽子をかぶるようになったそうだ。そういう幼稚
園も一部にはあるが、小中学校では、まさに野放し? 日本もそろそろ紫外線情報を出し、そ
れに応じた対策を考えるべきときにきているのではないか。紫外線というのは、まさに放射線
の一種。軽く考えてはいけない。

 目をさましてから、窓をいっぱい開けて、ベートベンの第五交響曲を聞いた。第一楽章もすば
らしいが、第二楽章もすばらしい。聞きながら、またまたうとうとしてしまった。遠くでは、いつも
のようにウグイスが鳴いていた。ワイフは、ホトトギスの声も聞こえると言ったが、私には聞こえ
なかった。私の耳は、半分、機能を失っている。とくに低い音が苦手。

 帰るとき、またビワの実をいくつか食べてみた。今度は、高いところにある、より色づいた実
を口に含んでみた。「来週は、食べられるね」と言うと、「そうね」とワイフは言った。その二本の
木のおかげで、ここ数年、毎年、食べきれないほどのビワの実をとることができる。一口かじっ
て、ポイなどというもったいなこともしている。いろいろな木の実があるが、ビワの実は、上品で
おいしい。そうそう、カラスもねらっているから、毎年、カラスと競争しながら食べている。

 真っ白な日ざし。さわやかな風。夏は、すぐそこまで来ている! 「来週は、草刈り機で草を刈
らなければ」と言いながら、私たちは山荘をあとにした。
(030601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(852)

マガジン読者の方へ

 ときどき、私のマガジンをどんな人たちが読んでいるのかと想像することがある。数名、顔の
知っている人もいるが、それ以外の人は知らない。よくメールをくれる人もいるが、M県のPさ
ん以外は、顔を知らない。まさか「写真がほしい」とも言えない。だから、そのたびに、ほかでは
感じないおかしな気持ちになる。

 それはちょうど、間につい立のようなものを置いて、会話をするようなものではないか。言葉
だけが聞こえて、顔が見えない。どこかはがゆいが、しかしそれはどうしようもない。近くの人な
のか、遠くの人なのかもわからない。男性か女性かもわからない。わからないまま、私がただ
一方的に書き、マガジンを送っている。

 このマガジンは、役にたっていますか?
 満足していただいていますか?
 あるいは、あなたは私にどんなことを聞きたいですか?
 
 一方で、私は私と思う。今まで、「こんなことは書かないほうがいいのでは」と迷ったことも、し
ばしばある。しかしそのつど、「ええい、ままよ!」とばかり、送信している。中には、私のエッセ
ーを読んで怒っている人もいるかもしれない。事実、きわどいことを書いたりすると、読者がそ
のつど減ったりする。

 あなたはどんな人ですか?
 どこに住んで、どんな生活をしていますか?
 さみしくありませんか?
 それとも、今、幸福ですか?
 
 そう書く肝心の私の心は、ボロボロ。情緒も不安定だし、精神も弱い。毎日、どこかしら満た
されない心を、何とかごまかしながら生きている。その上、孤独で、さみしがり屋。私が求める
幸福にせよ、真理にせよ、ほんのすぐそこまできているような気がする。が、どうにもこうにも、
手が届かない。そんな私が、偉そうな顔をして、偉そうなことを書いている? あああ、どうした
らいいのだ!

 この原稿の配信予定日は、六月九日、月曜日。毎週月曜日、午後一〇時〜一一時は、チャ
ットルームのほうにいます。何か、テーマがあれば、お寄せください。お待ちしています。では、
おやすみなさい。
(03年6月1日、午後11時50分)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
  

子育て随筆byはやし浩司(853)

散歩

 まだ台風の余波が残る、土曜日の午後。私は犬のハナを連れて、中田島砂丘まで散歩に行
った。ハナは、ポインター種。猟犬。走るために生まれてきたような犬だ。

 散歩といっても、いつも私は自転車に乗る。右手でハナをつないだヒモをもち、左手で自転車
のハンドルを握る。強い風と、モヤのかかったような、どこか生暖かい、湿った空気。坂をくだり
ながら、グイとヒモを引いて、ハナのスピードをおさえる。

 まず南に向う。やがて住宅街をはずれ、新幹線のガードをくぐる。JRの東海道線を渡る。つ
いで国道一号線を横切り、いくつかの路地を抜けると、とたんあたりは開ける。砂地の畑地
帯。

 ハナには、潮風のにおいがわかるはず。ときおり強烈な突風が、顔面を襲う。半ば後悔しな
がら、しかしどこかでスリリングな気持ちを楽しみながら、そのまま走りつづける。「雨が降った
ら、濡れればいい」と。

 いつもならそのまま砂丘に入るが、手前で、おおがかりな道路工事をしていた。一度、自転
車をおりて、大きな段差のある工事現場を渡る。ザワザワとゆれる松林。水気をたっぷりと含
んだ砂。足元から伝わってくる感触は、いつもと違う。

 大きな土手を登ると、目の前は、太平洋。台風の影響で、見たこともないような灰色の大波
が、砂浜に打ち寄せていた。「君子、危うきに……」などと勝手なことをつぶやきながら、私は、
はるか手前の、草地のところで立ち止まった。

 案の定、砂丘には、だれもいなかった。ふだんなら、海釣りの男たちが、ズラリと並んでい
る。散歩の家族も多い。ハナのヒモをほどくなどということは、できない。しかしその日は、違っ
た。ヒモをほどくと、ハナは一瞬、飛びはねた。それにあわせて、私は「さあ、走れ!」と叫ん
だ。

 ハナは、一目散に、視界から消えた。砂浜といっても、小山のような砂丘がうねるようにつづ
いている。それに数百メートル先は、モヤにかかっている。瞬間、「戻ってくることができるだろ
うか」という不安が、胸を横切る。それにハナは、まだ海の恐ろしさを知らない。波に巻きこま
れたら……と。

 しかしハナは、私の心配など、まったく気にするふうでもなく、海辺で休むカラスを追いかけて
いた。ハナのいるあたりで、ときどきカラスが、不規則に舞いあがった。私はそれを見ながら、
聞こえるはずはないと知りつつも、「ハナ!」「ハナ!」と呼んだ。

 犬という動物は、喜びを体で表現する。顔や言葉ではない。ときどきハナは私のところに戻っ
てきては、それを体で表現した。頭や体を、私の足にこすりつけた。が、しばらくすると、今度
は、反対の方向へ……。

人間と犬とでは、行動半径が違う。基準が違う。あっという間に、ハナは数百メートルから一キ
ロ前後を走る。正確にはわからないが、二、三キロ先までは行っているのでは……。こういう日
は、とくに遠近感がある。ゴーゴーと打ち寄せる波。霧のような波しぶき。それが強い風にのっ
て、地面をたたきつける。

 私はじっと立って、ハナが行った方向を見る。「波にのまれなければいいが」と思ったあとで、
「あいつは波よりも速く走ることができる」と思いなおす。「迷子にならなければいいが」と思った
あとで、「あいつは、そこまでバカでない」と思いなおす。

 着いたときは、まだ明るかったが、どこか暗くなったように感じた。時刻は、もう五時半を回っ
ているはず。台風は遠ざかりつつあるとはいうが、かえって鉛色の空が低くなってきた。何度目
かにハナが私のところにもどってきたとき、ハナの体にヒモを巻いた。ハナはそのまま私に静
かに従った。

 「よかったな、今日は。だれもいなかったからな」と私。そう言いながら頭をなでてやると、ハナ
は、長い舌をたらしながら、耳をさげた。満足そうな顔をしていた。私はそのまままた、土手の
ほうに向った。近くをカラスが飛んでいたが、ハナは見向きもしなかった。

 家に帰ると、ワイフが、「遅かったわね」と。「海まで行ってきた」と言うと、ややあきれ顔で、
「こんな日に?」と。見ると、庭先ではまだ強風が、松の木を大きくゆらしていた。私はいつもの
ようにヒモをかたづけると、居間の中に入った。曇ったメガネをふきながら、「手伝うか?」とワ
イフに声をかけると、「もう、いい。できたから」と。その夕の献立は、私の好物のサシミだった。
(030602)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(854)

誠実な人、不誠実な人

 誠実な人は、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、他人を信じ、自分を信ずる。「信
じあうという基盤」が自然な形でできている。誠実な人は、そういう互いの信頼感にこたえよう
と、ますます誠実になる。「無意識的」というのは、ほとんど意識することなく、という意味。

 一方、不誠実な人は、自分を信じられないから、他人も信じない。無理に善人を演ずることは
あっても、それは人の目があるときだけ。そうでないときは、そうでない。しかしいつもそういう
緊張感を保つことができるというわけではない。ときには、ボロが出る。そしてそれが不誠実な
人間となって、外に現れる。

 つまりその人が誠実かどうかは、もっと心の奥でその人を支える、人間と人間の信頼関係に
よって決まる。それについて、考えてみる。

●不誠実な男

 近くのJ店で、クーラーを二台つけてもらった。買ったのはJ店だが、取りつけにきたのは、そ
のJ店で下請けをしているHという男だった。

 最初、あいさつだけして、私は部屋にもどった。もどって、原稿を書いた。しばらくすると、眠
気が襲ってきたので、そのまま、うとうとと眠った。どれほど眠っただろうか。支払いのことが気
になったので、工事の進みぐあいを見にいった。クーラーは、一台目の設置がすみ、二台目
も、室外機をとりつけるところだった。

 よくしゃべる男だった。パチンコが趣味で、野球と酒が大好きと言った。が、よく見ると、配管
を包むカバーが、やや左に倒れて傾いている。「あのう、傾いていますが……」と声をかける
と、「ははは、傾いているかね。私はいいと思うけど……」と。そして乱暴に、手でドンドンとたた
きながら、「これでどうですかい?」と。

 私は不満だったが、そのときは、「まあ、いいや」という思いで、終わった。で、工事は終わり、
支払いをすませた。本当なら、その前に点検をすべきだった。が、そのときも、「まあ、いいや」
という思いで、終わった。が……。

 室外機と土台を固定しているビスが、どこか浮きあがっていた。ドライバーをもってきて、自分
でしめなおすと、ネジがきかない。電気ドライバーか何かで、力任せにしめたため、ネジ山をつ
ぶしてしまったらしい。

 つぎに部屋に入ってみると、コードが見苦しく、約四、五〇センチほど壁にたれさがっていた。
そこでそれを中へ納めようと、クーラーの配管あたりをみる。穴はパテで埋めるはずなのだ
が、パテらしきものは見えない。そこでややクーラーをもちあげてみると、金具をビスでとめると
ころが、それぞれ一箇所しかビスでとめてない!

 一事が万事というか、かなりの手抜き工事である。私はその夕方、数時間をかけて、自分で
しなおした。が、配管の傾きは、私ではどうにもならない。J店へまた頼んで、つけなおしてもら
う。

●どうしてそういう人間が生まれるのか?

 ……と、クーラーの話を書くのが、このエッセーの目的ではない。私は、Hという男の、あの小
ずるそうな目を忘れない。どこかコセコセとしていた。多分、そういう男から見ると、私のような
人間は、まぬけな人間に見えるのだろう。

 世の中には、不誠実な人間が、いる。ずるいことをしたり、他人をだましても、みじんも恥じな
い人間である。ずいぶんと昔だが、T商事という会社があった。架空の金取り引きをたくみに利
用して、莫大な利益をあげた会社である。その社長は、最後は、暴力団の男に刺されて死ん
だが、あの事件のとき、どうしてああいう男が生まれるのか、そちらのほうに興味をもった。

 もちろんT商事の社長とくらべると、電気工事での手抜きなど、何でもない。私とてそういう現
実をよく知っているから、そういうものだと割り切って考えることにしている。そしてそのあと、た
とえばこうした工事のあとは、たいてい自分で工事しなおすことにしている。私のばあい、それ
があまり苦痛ではない。むしろ楽しい。

 で、子どもの世界にも、誠実な子どもと、そうでない子どもがいる。しかし総じてみれば、学校
という世界では、どこか小ずるく、小回りのきく子どものほうが、すごしやすい。一方、まじめな
子どもほど、つまりものごとをまじめに考える子どもほど、すごしにくい。それはそれとして、し
かしその分かれ道は、どこにあるのか? 人は、どの時点で、どのようにして、誠実な人間と、
そうでない人間に分かれるのか?

●誠実な子ども

 しつけというのは、自立規範のことをいう。人は、成長する過程で、してよいことと、してはい
けないことを学んでいく。してよいことは、ここちよい響きがし、同時に、みなに称(たた)えられ
ることを学ぶ。一方、してはいけないことは、いやな響きがし、みなに非難されることを学ぶ。そ
してやがて自分で自分を律するようになる。こうして人は、社会的な人間としての基礎をつくる。
その過程のことを、心理学では、「内面化」と呼ぶ。

 この内面化する段階で、親も含めて、他者と信頼関係を結ぶことができない子どもは、不信
を基本とした人間関係を結ぶようになる。猜疑(さいぎ)心が強くなり、人の心を裏から見るよう
になる。たとえばだれかが親切にしてくれても、その親切をそのまま受けいれることができな
い。それを疑ったり、下心をさぐったりする。

 あるいは他人の心にとり入るのがうまくなる。へつらう。よい人(子ども)ぶる。そういうごまか
しを繰りかえすうち、人をだますことを覚え、まただますことに免疫性をもつようになる。つまり
平気になる。

 だからこのタイプの人(子ども)に、ウソをついてはダメとか、正直に言いなさいと言ってもあま
り意味がない。不信が基本になっているから、そういった言葉すら、その意図を疑ったりする。
あるいはその場だけを、うまくくぐり抜けようとする。私は、このことを、ある男(四五歳)を通し
て、知った。

●土下座して、謝った……

 ある日、その男は、突然、私の事務所にやってきた。そしてこう言った。「先生、うちの息子
が、二三歳になりました」と。話を聞くと、彼の息子が、私の教え子だという。しかし私には記憶
がない。ないが、礼儀上、「そうですか。それはそれは……」と、私は言った。で、そのあと、そ
の男は、私にこう言った。

 「今、教材のセールスをしています。ついては、先生の教え子たちの名簿を貸してほしい」と。
私は名簿を貸すことは断ったが、かわりにその男がもってきた、パンフレットを配ってやると約
束した。

 男は、かなりの数の注文を受けた。が、そのあとのこと。その男は、注文した父母の家を一
軒、一軒回りながら、こう言った

 「私と林先生は、三〇年来の親友です。ついては、今後、あなたのお子さんの家庭学習は、
私が指導することになりました」と。平均して一時間。長い家で、数時間もその家でねばった。
そしてあろうことか、高額な百科辞典などを売りつけた。

 苦情がいくつか届いた。「娘の机の中まで調べられた」「三〇万円の教材を売りつけられた」
「三時間も、帰ってくれなかった」など。私はその男を、私の家に呼びつけた。とたん、その男
は、ワーッと泣き崩れ、そのまま床の上に、土下座した。「許してください!」と。

 が、それはまったくの演技だった。そのあと、いろいろあったが、それからもつぎつぎとウソを
言った。それがあきれるようなウソばかりだった。謝りながら、あれこれ理由を言ったが、その
理由そのものも、ウソだった。そのときも私は、そのウソよりも、どうしてそういう人間が生まれ
るのか、そちらのほうに興味をもった。

●誠実な子どもにするために……

 つきつめれば、誠実な人間になるかどうかは、乳幼児期に、とくに母親との関係で、子どもが
いかにして信頼関係を結ぶかで、決まる。この時期に、母子の間で信頼関係を結ぶことができ
なかったり、もしくは、その結び方を知らないまま育った子どもは、そののち、園や学校の先
生、さらには、友人との関係でも、信頼関係を結べなくなる。あるいは、失敗しやすくなる。

 このタイプの人がやっかいなのは、「自分がそうだから」という理由で、他人をもそういう目で
みるということ。ここまで書いて、こんな話を思い出した。

 一人の男がいた。その男は、結婚してからも、浮気ばかりしていた。ときには、同時に三人の
愛人もいた。しかしその男は、そういう自分でもあるにもかかわらず、自分の妻については、一
歩も外へ出さなかった。妻の帰宅が、少しでも予定より遅くなったりすると、その男は、妻を責
めた。で、やがて自分の娘が、高校を卒業し、勤めるようになった。そのときのこと。その男
は、その娘のありとあらゆることを、疑うようになった。電話がかかってきても、手紙が届いて
も、その男は、娘に執拗(しつよう)に、相手がどんな男かを、問いただした。言い忘れたが、妻
を一歩も外へ出さなかったのは、妻が浮気をするのを心配していたからである。

 こういう例は、多い。たとえば『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。自分が泥棒だから、人
を信じられないというわけである。

 一般論として、基本的不信関係にある人は、自分が信頼関係を結べないだけではなく、いつ
も他人を疑うから、他人からも信頼されない。「だまされる前にだませ」「取られる前に取れ」と
いうようなものの考え方をする。そしてこういう関係が、相互に作用して、結果として、その人を
不誠実な人間にする。

 もうおわかりかと思うが、子どもを誠実な子どもにしたかったら、親子、とくに母子の信頼関係
を大切にする。何でもさらけ出せる関係。たがいに心を開き、何でも許しあえる関係。疑いをい
だくことがない、絶対的な安心感。そういう関係から、ここでいう基本的信頼関係が生まれる。
またそういう関係がないと、基本的信頼関係は、生まれない。

 さて、あなたはだいじょうぶか?

 あなたは、子どもを全幅に信頼しているだろうか。子どもは、あなたを全幅に信頼しているだ
ろうか。親子の関係でわかりにくかったら、夫婦の関係で考えてみるとよい。あなたは夫(妻)
を、全幅に信頼しているだろうか。あなたは、夫(妻)に、全幅に信頼されているだろうか。つま
りあなたは基本的信頼関係型の人間だろうか。もしそうでないというのなら、現在のあなたと夫
(妻)との関係を疑う前に、あなた自身の乳幼児期はどうだったかをさぐってみるとよい。あなた
という人間は、そのころ、できた。

 誠実な人間であるかどうかは、要は、「私は信頼されている」という安心感によって決まる。そ
の安心感に、日常的にひたっている人は、ほうっておいても、誠実な人間になる。が、人を信じ
られない人は、回りまわって、自分をも信じられなくなる。それから生まれる不安感が、その人
を、これまた回りまわって、不誠実な人間にする。

●工事のやりなおし

 工事のやりなおしを頼んだわけではない。私がJストアのありのままを話すと、店員は、即座
に、「やりなおしをさせます」と言った。私は、「何もそこまで……」と言ったが、誠実でない人も
いるが、それ以上に、誠実な人も、まだ多い。帰り際、ワイフとこんな会話をした。

「Jストアの人も、かなり気にしたみたいだ」と私。
「そうね。ああいう工事をすると、Jストアの信用にキズがつくわ」とワイフ。
「こういう時代だから、あの人も、クビにならなければいいね」
「それはないと思うけど……」と。

 こうしたトラブルは、私にとっても不愉快なものだが、しかし同時に、まだこの日本には、こうし
た不愉快さを修復する復元力がある。「まだまだ日本も、捨てたものではない。ぼくたちは善良
な人たちだけとつきあっていこう」と私が言うと、ワイフも、うれしそうに、それにうなずいた。
(030602)

●誠実は人間の保ちうる、もっとも高尚なものである。(チョウサー「カンタベリー物語」)
●お金によってもたらされた忠実さは、お金によって裏切られる。(セネカ「アガメムノン」)
●至誠にして、動かざるもの、いまだにあらざるなり。(吉田松陰「語録」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(855)

TD先生への手紙

拝啓

 二通も、お手紙をいただきながら、返事も書かないですみませんでした。このところ、何かと
あわただしく日々が過ぎています。それでつい、明日……と思いつつ、今日になってしまいまし
た。

 小さな教室ですが、この六月一日から、改装した教室に移りました。すべて私が、ひとりで改
装しました。ジュータン張り、内装など。五月一〇日ごろ始めて、二〇日間、かかりました。

 で、今度は、本物志向。カベには、ミロや、カトランの本物の絵を飾りました。本物といって
も、リトグラフですが、いわゆる印刷物ではありません。私のばあい、先生のように定年という
のは、ありませんが、その分、自分を燃焼させたいという要求がたいへん強いです。「もう人生
も、長くないから、今のうちに自分を燃やしつくしたい」という思いです。

 本当のところ、昔から、こと子どもと対峙するときは、損得の計算は考えたことがありません。
先生の世界から見ると、「損得」という言い方そのものが、おかしく見えるかもしれませんが、私
の世界では、切実な問題を含んでいます。

 五、六年前まで、たとえば教え子が高校受験を迎えたようなときは、だいたい七月から一二
月の最終試験が終わるまで、毎日、四、五時間、教えていました。(毎日、です!)もちろんまっ
たくの無料です。親のほうがつらがって、いくらかのお金を包んでくれたこともありますが、受け
取ったことはありません。「もらうなら、何十万円も、もらわなければ、割にあわない。どうせもら
わないなら、ただのほうが気が楽」と、です。

 こうしたボランティア精神は、一方に、生活費を稼がねばならないという思いがあるから、生
まれます。ほかに三〇代のころは、どこか問題のある子ども(幼児)だけを集めて、教えさせて
もらっていました。こちらからきてほしいと頼んだわけですから、これももちろん無料です。

 つまり「無料」と意識しなければならないところに、私の仕事の悲しさがあるわけです。どこか
で気構えないと、私のばあい、仕事どころか、生活そのものができなくなります。

 で、今の教室も、市の中心部(伝馬町)の一等地の一角にあります。正直に言って、部屋代
がたいへんです。広さは二〇坪近くあります。

 ずいぶんと前ですが、たとえば年中児クラスが、三、四人というときがありました。(今も、そう
ですが……。)で、半年ほど、三、四人のままでした。で、秋口から少しずつ、生徒がふえ、七、
八人になったところで、一人の母親が、きつい顔をして、私にこう怒ってきました。「先生、いっ
たい、何人まで生徒を、ふやすおつもりですか!」と。

 で、私はこう言いました。「仮に五、六人でも、合計しても、学生の家庭教師代より安いのです
よ。どうか、そういう言い方は、勘弁してください」と。その上での、部屋代です。

 今も、こういう時代ですから、実際、三、四人のクラスもあります。しかし損得を考えたら、とて
もできる仕事ではありません。何というか、自分が、みじめになります。たとえばたった、四、五
人の生徒を教えるために、部屋全体を空調し、合計で、三〇本近い蛍光灯をつけ、三二イン
チのテレビと、二台のパソコンを稼動させるのですから……。だからそういうことは、考えない
ようにしています。

 自分のことばかり書いてすみません。先生のお手紙を読んで、「たいへんだなあ」と思いまし
た。「教師の目ざす方向と、終着点」ですか。いえ、ここまで読んだとき、大きなため息が出まし
た。

 今、その「目ざす方向」にせよ、「終着点」が、本当にわかりにくくなってきています。もし私も
どこかの学校に勤めていて、校長に、それを言われたら、考えこんでしまうと思います。昔のよ
うに、つまり夏目漱石の「坊ちゃん」の時代のように、高い進学率をめざすというような「方向
性」であれば、それなりにわかりやすいのでしょうが、今は、そういう時代ではないし……。

 それに「終着点」ですか。私はいつも、挫折感ばかり味わってきましたから、親にせよ、子ども
にせよ、今では、ほとんど期待していません。はじめから、期待などしていないというのが、事
実です。誠心誠意、「今」を大切に、「今」の中で、子どもの指導をしていくという姿勢です。あれ
これ考えたら、またまた今の仕事など、できなくなります。今、できること、今、やるべきこと、そ
れをします。あとは、あとのことです。

 ただ先生は、校長だから、プラス管理者としての立場がある……。幸か不幸か、私には、そ
ういう立場はないので、その点は気楽です。むしろ、そういう立場を、ずっと、避けてきました。
本能的に、「気楽さ」を奪うものを、避けてきたということです。だから気楽といえば、気楽です。

ときどき、どこかの経営者が、園長をしてほしいとか、どこかの大学の教授会が、講師になって
ほしいと言ってきたこともありますが、今まで、すべて断ってきました。そういうのが、体になじま
ないのですね。(本当は、給料面での、折りあいがつかなかった?)そのかわり私は毎日、好き
勝手なことができます。……しています。言うなれば、風来坊のようなもの? ふと自分の人生
を振りかえってみたようなとき、どこかにもの足りなさを感ずることはありますが、今は、「私の
人生は、こんなものだ」と、思いなおすようにしています。

 それから学校の「結束力」にせよ、「方向性」にせよ、どこの学校へ行っても、校長たちが「今
は、なくなった」とこぼしています。決して、先生のところだけの問題でもないように思います。こ
んな言い方は失礼かもしれませんが、どうか、ご自分を追いこまないように! I町のI小学校
へ、先日も講演に行ったときも、そこの校長が、こうこぼしていました。

 「少しでも子どもどうしのトラブルが起きると、いじめだなんだと親が騒ぐ。校長や教師の監督
が足りないと、怒る。今では、子どものシリを叩くことも許されない。体罰になりますからね。現
場の教師たちが萎縮してしまっています」と。

 しかし……。またまた考えてしまいました。「終着点」ですか? 先生のばあい、「あと○年で
退職」という、時限的な切実感があるから、なおさらでしょうね。しかしそうしたい思いは、私も
同じで、このところ、「あと何年、この体力がつづくだろうか」と考えます。それまでに終着点が
見つかればよし。そうでなければ、みじめだろうなと思います。

 しかし「何を求めて、今の仕事をしているのか?」と、だれかに聞かれたら、本当に困ってしま
います。私のような人間は、ただひたすら「今」を懸命に生きるだけ。あまり後先のことは、考え
ていないのです。そのうち、脳梗塞か、心筋梗塞。あるいは交通事故で、ポックリと死ぬ。その
ときまでの、「今」なのです。またまた大きなテーマを先生に、いただいたような気分です。

 このところ、台風一過。さわやかな朝を迎えています。が、どこか、夏の暑さを予感させます。
これから暑くなりますが、先生も、どうかお体を大切に。奥様に、くれぐれもよろしくお伝えくださ
い。では、今日は、これで失礼します。

敬具
                        
                                  はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(856)

●子どもの内面化

 子どもはその成長過程で、倫理や行動規範を身につける。またそうすることで、社会に適応
しようとする。そういう発達過程を、「内面化」という。体を「外面」というのに対して、心(mind)
を、「内面」という。

 この内面化の中で、子どもは、さまざまな反応を示す。探索、実験、試行、冒険、偶発、努力
など。そしてその結果、落胆、失望、羞恥、歓喜、満足、不快、快感などのさまざまな心理的反
応を示す。私はこうした一連の、子ども特有の反応と結果を、「削り出し」と読んでいる。

 「削り出し」というのは、「子どもは、削られながら、成長する」という意味。たとえば「盗み」にし
ても、ほとんどの子どもは、その成長過程で、一度は盗みを経験する。が、この段階で、盗み
が悪いと決めてかかってはいけない。問題は、子どもが盗みをしたあと、どうそれをおとなたち
が処理するかである。

 大切なことは、盗みが悪いことであることを、子どもの悟らせること。子ども自身が、盗みを悪
いことだと思わせるように仕向けることである。この指導をまちがえると、ここでいう内面化に失
敗する。私は以前、『子どもは削って伸ばす』という格言を考えた。つぎの原稿が、それであ
る。

+++++++++++++++++++++++
 
●子どもは削って伸ばす

 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもをおさえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。
たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。

 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。

 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。

++++++++++++++++++++++++

 この内面化は、子どもの心の発育には、必要不可欠なものだが、それをコントロールするの
が、倫理や道徳である。しかしそれだけでは足りない。倫理や道徳にせよ、それらは、基本的
信頼関係という、「信頼的基盤」の上になければならない。信仰の世界でいえば、「宗教的基
盤」ということになる。

 ただ私のばあい、宗教や信仰を否定はしていないが、自分の生きザマの中では、宗教的人
生観はあくまでも「参考」でしかない。従って、「信頼的基盤」こそが、倫理や道徳の基盤である
と考える。

 この基盤は、いわば大地のようなもの。その上に、倫理や道徳が載る。そしてそれを道しる
べに、子どもは、そしておとなも、自分の進むべき方向性を見いだす。とくに子どものばあい、
この信頼的基盤がないと、内面化そのものに失敗する。社会に不適応を起こしたり、社会その
ものを拒絶したりするようになる。

 症状としては、暴力的、攻撃的になるタイプと、服従的、従属的になるタイプ。さらに依存的に
なるタイプと、引きこもったりするタイプに分類できる。しかし今、子どもたちの世界で、その内
面化に失敗する子どもが、多い。あまりにも多い。

 その理由の第一は、言うまでもなく、母子関係の不全性である。生後まもなくから、乳児期に
かけて、母親との関係で、信頼関係を結べない、もしくは、結び方を知らないまま、つぎの幼児
期、さらには少年少女期を迎えてしまう。

 このタイプの子どもは、信頼的基盤をもっていないから、あるいはそれが軟弱であるため、そ
の上で、倫理や道徳をうち立てることができない。できないから、内面化しようにも、方向性が
定まらないということになる。

●信頼的基盤

 母親と子どもの関係は、父親と子どもの関係とは、異質のものである。母親にしてみれば、
子どもは、自分の体の一部ということになる。父親にもそれに似た意識が芽生えることはある
が、あくまでも「似たもの」でしかない。

 このことは、子どもの立場で考えてみればわかる。基本的には、父親はいなくても、子どもは
生きていかれる。しかし母親は、乳をもらうという意味で、絶対的な存在である。あのジークム
ント・フロイトも、血統空想と言葉を使って、このことを説明している。つまり父親との関係(血
統)を疑う子どもはいるが、母親との関係を疑う子どもはいない。

 こうした発想は、たとえばカトリック教会などにも、表れている。カトリック教会などでは、イエ
ス・キリストに対して、母、マリアは絶対的な存在だが、そのマリアに比較して、父、ヨセフの影
は、薄い。ヨセフは、あくまでも付随的な立場でしかない。

 なぜ母親と子どもの関係が特別なものになるかは、子どもが誕生したときから、子どもが、大
便や小便と同じような立場で誕生することにある。つまりこの段階から、母親は、子どものすべ
てを受け入れ、許す。

 この「許し、受け入れる」という関係が、実は、信頼関係の基本になる。子どもの側からみれ
ば、絶対的な安心感の中で、すべてをさらけ出すことができる。この相互の関係が、ここでいう
信頼的基盤となる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 おそらくこの原稿を読んでいるのは、若い母親たちか、その近くにいる父親たちである。そこ
であなた自身は、あなたの夫(妻)に対して、すべてをありのままに、安心してさらけ出すことが
できるか。さらにあなたの夫(妻)は、そういうあなたを、全幅に受け入れているかどうかを自問
してみてほしい。

 たとえばいっしょに風呂に入るとき、おしりからポロリと、ウンチのかたまりが落ちることもあ
るだろう。あるいはいっしょに寝ているとき、どちらかが、強烈な臭いのするガスを発射すること
もあるだろう。そういうとき、あなたの夫(妻)は、それを許し、受け入れるかどうか。

 そういうさらけ出しと、それにつづく受け入れが、信頼関係を結ぶ基本となるということにな
る。もしあなたがた夫婦のうち、どちらか一方が、それができないというのであれば、ここでいう
信頼的基盤がないということになる。

 もっとも夫婦のばあいは、最終的には、離婚という方法で、他人にもどることができる。しかし
親子、なかんずく、母親と子どものばあいは、それができない。できないだけに、このプロセス
を誤ると、深刻な症状が、子どもに現れる。またそれだけに、重要な問題ということになる。

 なお、一言付記。

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「しかしね、あなた、新生児や乳幼児に、記
憶はあるの?」と。

 これはとんでもない誤解である。最近の研究によれば、新生児や乳幼児にも、しっかりとした
記憶がある。その記憶の深さと量は、それ以後の子どもやおとなの量とは比較にならないほ
ど、濃密であると考えられる。ただ、こうした記憶は格納されるだけで、取り出しができないとい
うだけ。だから現象としては、記憶が残らないように見えるだけということになる。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。絶対に!
(030603)

【追記】母親との間で、基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、不幸である。その後
遺症は、さまざまな形で、死ぬまでつづく。ひょっとしたら、今のあなたがそうであるかもしれな
い。しかし問題は、それに失敗したということではなく、失敗したということにすら気づかないま
ま、それに引き回されることである。

 人間には、「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分がある。私であって私で
ある部分は、問題はない。しかし私であって私でない部分は、そうではない。それ自体も問題
だが、ほとんどの人は、私であって私でない部分まで、私だと思いこんでしまう。それが問題で
ある。

 そのことは、子どもを見ているとわかる。

 原因や理由はともかくも、すなおでない子どもというのは、いる。ひねくれた子ども、いじけた
子ども、つっぱった子ども、ひがみやすい子どもなど。そういう子どもは、私は私と思って、そう
しているが、その実、ここでいう「私であって私でない」部分に振り回されているにすぎない。

 子どもだけではない。あなたという「おとな」も、実は、ここでいう「私であって私でない」部分に
操られている。それにまず、気づく。それはある意味で不快なことであり、恐ろしいことかもしれ
ない。しかし勇気を出して、自分をのぞいてみる。

 心のキズ(心的外傷)にせよ、こうした過去と結びついている問題は、簡単には消えない。消
えないが、それが何であるかを知るだけでも、そうした「私であって私でない」部分と、戦うこと
ができる。かく言う私も、おぼろげなら「私」がわかるようになったのは、四〇歳も過ぎてからで
ある。私を知るというのは、そういう意味でも、むずかしい。
(030603)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(857)

長野県のHさんより

 友人の子ども(小一女児)が、不登校児になりました。
 幼稚園のときも、一度、不登園を起こしています。
 林先生のホームページを読んで、友人に、そのままアドバイスしています。
 しかし学校の先生は、「とにかく学校へ連れてくるように」と言っているようです。
 友人に何か、よいアドバイスをしていただけませんか?
 (長野県 Hより)

【Hさんへ】

 こういうケースでは、私はまったく無力です。ご本人から直接、相談があれば、それなりにアド
バイスできますが、間接的なばあい、私としては、何ともしようがありません。とても残念です
が、私の立場では、「そっとしておいてあげましょう」という程度しか、言いようがありません。本
当に残念ですが……。

 相手の方(あなたの友人)の心の状態は、今、最悪かと思われます。落胆、焦燥、悔恨、不
安、心配、激怒……。そういったものが、混然と、相手の方を包んでいます。そういう方のとこ
ろへ、相手の方が望んでもいないのに、私の方からあれこれ言うことは許されないことです。で
すから、もし私の力が役にたつようなら、その方に、直接、私に相談してくれるよう話してみてく
れませんか。あなたのお名前は、よく覚えておきますので、あなたの紹介ということであれば、
喜んで力になります。

 私たちは、いつも限界状況の中で生きています。できることと、できないこと。しなければなら
ないことと、してはならないこと。そういうものを、どこかで分けながら生きています。いえ、決し
て見て見ぬフリをしろということではありません。こういうケースでは、自分の無力感をひししと
感じながらも、それに耐えるしかないということです。私たちがせいぜいできることといえば、相
手の方が助けを求めてきたとき、相手の立場で、相手の心になって、その問題を、いっしょに
考えてあげる程度のことでしかありません。

 仮にどんなに相手の心が理解できたとしても、私たちは、相手の立場をとってかわることもで
きませんし、今すぐ、その子どもの不登校をなおせるわけでもありません。だからここは静か
に、相手の方を、見守るしかないのではないでしょうか。少なくとも、私はずっとそうしてきまし
た。とくにこの不登校の問題は、その親や、その親を包む環境の問題が、集約されています。
学校神話。受験神話。学歴信仰などなど。日本の風土的歴史も、それにからんでいます。だか
らその親自身が、からんだクモの巣をほぐすように、一つずつ、問題を克服していくしかないの
です。

 私は、無力です。ずっと無力でしたし、これからも無力です。どうしようもないほど、無力です。
ですから私は、いつも、その無力感に、じっと耐えています。長い間、ずっとそうしてきましたか
ら、今では、それが当たり前になってしまいました。しかし、ね。Hさん。希望も、絶望も、人間が
つくりあげた幻想ですよ。希望を希望と思うから、希望は希望になり、絶望を絶望と思うから、
絶望は絶望になるだけです。みんな、その幻想の中で、その幻想にとりつかれて、右往左往し
ているだけ。あなたの友人も、です。

 Hさんへ。ここは、相手の方を、そっとしておいてあげましょう。また、今は、それが最善かと
思います。いかがでしょうか。こんな返事で、すみません。そうそう、私が自分の無力感を、人
生の中で一番強く感じたのは、一磨君という、小学生が、脳腫瘍で死んだときのことです。その
とき書いた、エッセー(中日新聞発表済み)を、転載しておきます。よろしかったら、お読みくだ
さい。

++++++++++++++++++++

脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」
と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほし
い」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ
イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手術、再発を
繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆ
がんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見
ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、
私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の
遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢に
なると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の
折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとして
も、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。
汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両
親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文
を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったと
き、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることがで
きる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その
瞬間はあまりにも短かかった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生き
ていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。
(030603)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(858)

クーラー事件

 近くのJ店という大型店で、クーラーを二台つけてもらった。

 業者が帰ってからみると、和室の部屋のコードが、約四〇〜五〇センチにわたって、下に垂
れさがっている。このあたりの言葉を使うなら、それが「ぶしょったい」。つまり見栄えが悪い。

 そこで私はそのコードをクーラー本体の中に押しこむことにした。が、クーラーは、壁にぴった
りとすえつけてある。しかたないので、マニュアルを読む。クーラーの下の小さな穴から、奥を
のぞく。

 設置マニュアルには、「配管用の穴には、パテを必ずつめること」と、書いてある。「必ず」と。
しかし穴からのぞいても、パテらしきものが、どこにも見えない?

 こうした工事で、手抜きは、日常茶飯事。そこで私は、シリコンを買ってきて、自分で穴を、つ
めることにした。が、しかし、その前に、クーラーのはずし方がわからない。そこで、私は、外か
らシリコンをつめればよいと考えた。が、そこでも、室外機がかなり傾いているのに気づいた。

 雨で地盤がゆるんだのかもしれない。室外機を少しもちあげると、何と、土台から室外機が
離れてしまったではないか! 見るとビス止めは、かざりだけ。恐らく電動のドライバーで、力い
っぱいビスをしめたため、そのときネジ山をつぶしてしまったらしい。これはあくまでも私の推測
だが……。

 自分でドライバーをもってきて、ビスをしめようと考えたが、四本のビスすべてが、まったくき
かない。本当は八か所とめることになっているはずだが……。

 怒りが充満してきた。とたん、配管用のパイプが、傾いていることも気になり始めた。さらに和
室の壁には、無数の擦り傷がついていた。これについては、補修用のパテなどで、私が自分で
補修したが、それにしても……。

 翌日、またその店に行ったついでに、事情を説明した。私は「クーラーをあげてもらえば、自
分でシリコンをつめるので、あげ方を教えてほしい」と言っただけだ。しかし係の男は、「すぐな
おさせます」と言った。係の男は、どこまでも良心的だった。

 翌日、別の業者が修理にきた。しんみょうな顔をしていた。その気持ちは、よくわかる。多
分、私のことを、神経質でうるさい客だと思っているのだろう。事実、そのとおりだが、しかしこう
した工事で、私はうるさく言ったことは、一度もない。

 ひと通り、補修工事は終わった。パテをつめ、ビスをとめなおし、配管をなおしてくれた。しか
しその工事を見ているとき、またまた怒りが、充満してきた。こまかいところで、あちこち、いい
かげんさが目についたからだ。

 が、当日も、翌日も、その店から、謝罪の言葉は一言もなかった。

 私はこんなことはしたくないと思いつつ、パイプの長さを実測した。四メートルまでの配管は、
配管の基本料金に含まれている。

 一か所のパイプは、二メートル五〇センチ。これは四メートル以内だから、問題、ない。しか
しもう一か所は、実測値で、五メートル九〇センチ。最長の長さで測って、五メートル九〇セン
チである。が、領収書を見ると、延長配管、三メートルとある! ゆうに一メートルの過剰請求
である!

 世の中の人は、そしてその店の店員も、たかが一メートルと思うかもしれない。私もそう思う。
しかし今回は、事情が違う。私の気持ちが許さない。どういうわけだか、許さない。もし私があ
のパテに気づかなかったら、そのままになっていたはずである。加えて、店員がすすめてくれる
まま、私は、五年間の長期保証にも入った。しかし何が、五年間だ! 何が、長期保証だ!

 私はデジタルカメラに配管の写真をおさめると、実測値を書きこんだ。あとで、その写真を、
その店に届けるためである。少なくとも、その差額は返してもらう。これは小さな、小さな、正義
の戦いである。
(030604)

【後記】

 その後、どうなったか?

 J店へ写真と、領収書をもっていくと、店員が、とてもていねいに応対してくれた。私は事実だ
けを話した。店員は、あとで、連絡すると言った。それで別れた。

 夜、家に帰ると、サービス部門の責任者から、留守番電話に連絡が入っていた。「一度、おう
かがいして、謝りたい」というような伝言だった。それを聞いて、私のほうから電話をした。

 で、結論は、「おおげさにしたくないし、おおげさにしなければならないような話ではないから、
もうやめましょう」だった。相手の担当者は、しきりに「一度お会いして……」と言っていたが、こ
ういう話は、わずらわしい。「みなさんの誠意は、よくわかりましたから、これでいいです」と、私
のほうは断った。つまり、それでおしまい。このあと、どうなるかわからないが、今は、これでお
しまい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(859)

●子どもの不登校

はじめまして。静岡県清水市に住むADというものです。
うちの子は小学一年生の男の子です。今、不登校中です。
幼稚園の年中児のとき、ある日突然行きたくないと言い出し、それを無理に車に乗せ、連れて
行っていました。

まさに、子供の心の状態を悪化させていたのです。

その頃は、理由もよくわからないまま、その園を退園し、近くの幼稚園に転入させました。
慣れるまで、一か月かかりました。その一か月間は私もお弁当を持って、子供と一緒に園へ行
く日々をすごしました。

先生方には事情を説明していたので、いろいろと協力していただき、温かく見守ってくださいま
した。

お友達もでき、だんだん楽しくなって、私がいなくても元気にいけるようになりました。
その後、主人の妹に「前の幼稚園で、牛乳を飲んでいる時に、男の子が汚いことをして、オエ
〜っと吐いてしまったから、いやだったし、先生もいやだった」と話をしたそうです。
 
四月、学校に入学し、元気にはりきって行っていました。給食も牛乳も平気でした。
五月の中旬頃から、給食がいやだ! 牛乳がいやだ!と言い、学校に行きたがらなくなりまし
た。

私も、以前登園拒否をしていたようになるのでは……と不安はありました。
それが的中、最初に行きたくないと言ったときは、学校を休ませ二人でお買物に行きました。

六月になる前から、休ませています。
家での様子は、元気で明るく、食欲もあります。
お友達が学校から帰ってきたら、一緒に遊びたいとも言います。
「ねえ、ねえ、ママ……」といつもおしゃべりしています。
一日中、しゃべり続けている感じ。

私も、はやしさんの書いたものを読み、そうだったなと納得し、しばらく様子をみようと決心し
て、学校へ行くと、それを否定され(とくに校長が否定します。担任の先生は私の意見も聞こう
としてくれますが……)、「なんとか、いい方法で連れてきてください」と言われ、いろいろ悩み考
えました。

それで、私自身で答えをみつけました。
あの幼稚園のころに戻り、あの時してあげられなかったことを、してあげようと思いました。

ついさっき、また先生によばれ、また学校に行ってきましたが、「何とか学校へ連れてきてほし
い」ということしか言われず、また今、心が不安になってしまいました。
 
はやしさん、どうか私にアドバイスをお願いします。

【ADさんへ】

 私のサイトの学校恐怖症についての原稿を、まず、お読みくださればうれしく思います。症状
からすれば、イギリスのI・T・ブロードウィンが指摘した、「学校恐怖症」そのものかと思われま
す。もしそうなら、AM・ジョンソンが述べるような経緯を経て、症状は進むと思われます。(原稿
は、改めて、ここに添付しておきます。)

 この問題で、最初に注意しなければならないのは、心もたまには、風邪をひくということ。しか
しその心の風邪は、外から見えない分だけ、親や周囲の人たちは、安易に考えやすいというこ
とです。

 しかしたとえばあなたは、風邪で熱を出している子どもを、水泳に行かせますか? 答えは
「ノー」のはずです。心の風邪も、同じように考えてください。繰りかえしますが、決して、安易に
考えてはいけません。

 その第一。心の風邪は、半年単位。あるいは一年単位で、症状が推移します。ここで重要な
のは、一週間単位、あるいは数日単位では、決してないということです。ですから「今日は、少
し学校へ行った」「ああ、よかった」とか、「今日は行かなかった」「もうだめだ」とかいうように、
そのときどきの変化で、一喜一憂してはいけないということです。

 その第二。親やその周囲の人たちは、「今の症状」だけをみて、「今が最悪」と思うかもしれま
せんが、対処の仕方をまちがえると、さらに二番底、三番底へと落ちていきます。ですから、
「今の状態を、今より悪くしないことだけ」を考えて対処してください。よくある失敗例は、たとえ
ば「一時間だけでも学校へ……」と思って、子どもを学校へ連れていくようなケースです。そのと
き子どもが、仮に一時間でも授業に出たりすると、今度は親は、「できれば給食時間まで……」
と考えます。そして給食を食べたりすると、「何とか、午後まで……」と。

 こういうときは、一時間でも授業に出たら、そのことをほめます。そしてその状態を、少なくと
も、一か月単位でキープします。「無理をしない」が、大原則です。仮に三時間くらいなら授業に
出られそうだったら、二時間できりあげます。週に三日くらい出席できそうだったら、二日できり
あげます。そういう割りきりが、子どもの立ちなおりを早めます。そしてあとは、「よくがんばった
わね」とほめて、仕あげます。

 反対に無理をすれば、本来数か月ですむはずだった不登校が、一年になったり、数年になっ
たりします。

 その第三。苦しんでいるのは、子ども自身です。それを忘れてはいけません。家にいるとき
は、平気な顔をしているかのように見えますが、心は、緊張状態にあるとみます。その緊張状
態を、どうやってほぐすかを考えます。DAさんのケースでは、「牛乳」が、キーワードになってい
ます。大きなわだかまり(固執性)があることがわかります。しかしこういうとき、「何よ、そんなこ
とで!」式に、子どもを払いのけてはいけません。そういうときは、むしろ逆に、「そうよね。いや
だよね。私も、あなたの気持ちがよくわかるわ」式の理解を示してあげてください。「私も牛乳、
嫌いよ」「お母さんも、学校の給食が食べられないわ」と、です。

 その第四。子どもの不登校の問題は、一見、子どもの問題に見えますが、その実、これは親
の問題だということです。親が自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけです。「子ども
が学校へ行かなくなったら、どうしよう」「落ちこぼれてしまったら、どうしよう」とです。自分が不
安で心配だから、つまり自作自演の形で不登校を問題にし、それをおおげさに考えているだけ
です。子ども自身は、何とも思っていない。学校へ行きたくないし、行かない日は、それなりに
ハッピーなのです。この意識のズレが、子どもを理解するさまたげになりますから、注意してく
ださい。

 その第五。不登校は、なおそうと思ってはいけません。許して忘れて、その状態を受けいれる
のです。病気にたとえてみると、よくわかります。先に書いた話のつづきですが、子どもが風邪
で熱を出し、水泳に行けなくなったとします。そのとき「不水泳(?)をなおそう」と、あなたは考
えますか? あるいは水泳に行かないことを、まちがっているとか、おかしいと、あなたは考え
ますか? 答は「ノー」のはずです。

 問題は、水泳に行かないことではなく、あるいは学校に行かないことではなく、風邪、もしくは
心の風邪にかかっていることなのです。

 私は学校恐怖症ではありませんが、飛行機事故にあってから、数年以上、まったく飛行機に
乗れなくなってしまいました。飛行機恐怖症というのです。そののちも、何とか飛行機に乗るこ
とはできるのですが、帰りの飛行機がこわくて、先方のホテルなどでは、一睡もできなくなりまし
た。それで結果的に、飛行機が苦手になってしまいました。

 そういうときの私の気持ちに対して、「気のせいだ」「気はもちようだ」とだれかが言ったら、私
は、猛烈に反論するだろうと思います。それはそんな簡単な問題ではない。つまり自分でも、恐
怖症を何度も体験しているため、学校恐怖症(ジョンソン)になった子どもの心がよく理解でき
るのです。

 本当にこわいのです。DAさんの子どもは、学校を、本当にこわがっているのです。それは
「慣れる」とか、「慣れない」の問題ではなく、意識(自己意識)では、コントロールできない無意
識の世界の問題なのです。ですから説教したり、話しあったりして解決できる問題ではないの
です。どうかその点を理解してあげてください。

とくにこのタイプの子どもは、午前中に症状が重く、午後から夕方にかけて症状が軽くなりま
す。これを症状の日内変動といいます。そこで寝る前になると、「明日は学校へ行く」などと言っ
たりします。しかしこうした言動に、一喜一憂してはいけません。あくまでも、全体として、そして
数か月単位で、子どもの症状をみます。「先月とくらべてどうだ」「半年前とくらべてどうだ」とで
す。

 では、どうするか?

●あきらめる……学校は、あきらめなさい。その時期と程度は、早ければ早いほどよい、で
す。無理にがんばればがんばるほど、その緊張感は、そのまま子どもに伝わってしまいます。
お母さんが、まず、自分自身の中の緊張感と戦い、それをたたき出すことです。繰りかえします
が、今、緊張状態にあるのは、子どもよりも、あなたという母親なのです。

しかし心配無用。今の学校教育は、昔とちがい、かなり余裕があります。簡単な算数と、本読
みさえ、どこかで補っておけば、学力的に問題になるということはありません。「うちの子はダメ
になる」式に絶望する必要は、ありません。どうかおおらかに考えてください。

幸い、メールによると、症状がたいへん軽く、まだ初期の段階かと思われます。あなたのほうか
ら、「明日は学校を休んで、動物園でも行ってみようか」と話しかけてみてはどうでしょうか。あ
なた自身の緊張感も、それでほぐれるはずです。

●濃厚なスキンシップ……スキンシップには魔法の力があります。濃厚なスキンシップにこころ
がけてみてください。子どもの側からみて、やすらぎのある、そして温かいスキンシップを大切
にします。とくに子どものほうから求めてきたようなときは、おっくうがらずに、どんどんと与えて
あげてください。ぐいと力強く抱くだけでも、効果があります。

●CA、Mgの多い食生活……徹底して、白砂糖を少なくし、CA、MG分の多い食生活にこころ
がけてみてください。海産物が好ましいことは言うまでもありません。一方で、リン酸食品を避
けます。リン酸食品は、心の大敵と考えてください。原稿は、ここに添付しておきます。CA、M
Gは心を落ちつかせます。突発的にキーキー声を出したり、暴れるようなら、とくに効果的で
す。

以上が基本的な対処法ですが、同時に、あなた自身の中に潜んでいる、学歴信仰、学校神話
とも戦ってください。「学校とは行かねばならないところ」とあなたが考えているなら、それ自体
が、カルトです。あなた自身が、「そうね。学校なんて。行きたくなければ行かなくてもいいのよ」
と、本気で、そして気楽に言えるようになるまで、自分を高めてください。

 教育は、原則として親がするものです。またそれが理想なのです。ですから、あなたが子ども
を教えるために、家の中で子どもと遊んだところで、何ら恥ずべきことではないのです。もっと
堂々と胸を張って、そしてあなたの子どもには、こう叫ぶのです。宣言するのです。

 「あんたは、私が守ってあげる。どんなことがあっても、私が守ってあげる。世間の人があな
たを冷たく言うようなら、私がそういう人たちを許さない。戦ってあげる。あなたはあなたの道を
行きなさい!」と。

 そしてあなた自身には、こう叫びます。宣言します。

 「ようし、ひとつくらいなら、十字架を背負ってやる。これが人生よ。荒波の一つや二つが、何
よ。さあ、来い!」と。

 こうして今の状況を、前向きにとらえていきます。いいですか、決してうしろ向きになってはい
けません。へたに「不登校児の会」か何かに出て、たがいに慰めあうような、そんなみじめなこ
とをしてはいけません。あなたは何も、まちがってはいない。あなたの子どもも、どこもおかしく
ない。心の風邪など、だれだってひくのです。

 これからのことですが、やがてあなたも、学校からの誘いや、心配をうるさく感ずるようになる
でしょう。子どもの心がわかればわかるほど、そうなります。そして今は、まだわからないかもし
れませんが、何が本当に大切か、それがわかるようになるでしょう。それは実におおらかで、
心豊かな世界です。つまりあなたの子どもは、あなたにそれを教えるために、今、ここにいて、
問題(問題ではありませんが……)らしきものを起こしているのです。

 何も恐れないこと。仮にあなたの子どもの不登校がしばらくつづいても、あるいは断続的につ
づいても、その先では、必ず、あなたの子どもは、あなたの子どもとして、そこにいます。そして
いつか、今の状態を、笑い話にします。どうか、どうか、それを信じてください。およばずなが
ら、私が力になります。

 これから先、あなたが「何とか学校へ行かせよう」と思えば思うほど、あなたにも、そしてあな
たの子どもにも、安穏たる日々はやってこないでしょう。そして問題(問題ではありませんが…
…)、いつまでもつづきます。が、あなたの心に安らぎが訪れたとき、あなたの子どもも安らぎ、
あなたの子どもは、ごく自然な形で、学校へ行くようになるでしょう。子どもというのは、不思議
なもので、そういうものです。

 あえて言うなら、今、あなたは親の愛を試されていると思ってください。真の愛です。それにつ
いては、またいつか、あなたにお伝えしたいと思っています。今は、どうかあなた自身を信じ
て、そして子どもを信じて、前向きに生きてください。「私の子だ。おかしい子どものはずがな
い。おかしな子どもになるはずがない」とです。そう、あなたの子どもは、すばらしい子どもです
よ。

 またいつでも、迷ったり、不安になったら、メールをください。力になります。

++++++++++++++++++++++

子どもが学校恐怖症になるとき

●四つの段階論
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状
を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し
ている。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。
心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかり
やすくしたのが次である。

●@前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。

●Aパニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。

●B自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃
的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピ
リピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりする
ことはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的
な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつう
の子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、
わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

●C回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか
 要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親は
ひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化さ
せ、Aのパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行き
たくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子
どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればする
ほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、@学校生活起因型、A遊び非行型、B無気
力型、C不安など情緒混乱型、D意図的拒否型、E複合型に区分して考えられている。

 またその原因については、@学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、A家庭生活起因型(生活環境の
変化、親子関係、家庭内不和)、B本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日本
教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを
外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ 
 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」
「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方
 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取
り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行
きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重く
ならなくてすむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす
れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち
に、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、@学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けること。
A前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、子
どもの様子をみる。B最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあ
まし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。C生活態度(部屋や服装)が乱れ
て、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様子を見せた
ら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいるが、こうした
行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、@穏やかな会話ができるようになる、A生活にリズムができ、
寝起きが規則正しくなる、B子どもがヒマをもてあますようになる、C家族がいてもいなくいて
も、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られたら、
回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない
 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

+++++++++++++++++++++++

砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメ
リカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考
え、砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着
く。

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処する。

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
hhayashi/)

++++++++++++++++++

●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品
を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。
(030604)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(860)

子どもの虚言癖

 ファミリスという雑誌の五月号に、「子どもの虚言癖」について、書いた。つぎの原稿がそれで
ある。

++++++++++++++++++++++

@子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。@空想的虚言(妄想)、A行為障害による虚
言、それにB虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたか
も現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症によ
る症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をと
もなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。

ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子
「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  

その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に
垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをも
ちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのよ
うに、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、特徴である。

どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけを
繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、
はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。

++++++++++++++++++++++++

 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少し、踏
みこんで考えてみる。

 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかということ。
さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえばもっとも心配なウ
ソに、人格の分離がある。

 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。た
とえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役(と
きには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気味が悪い」とい
って、相談してきた。

 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、まったく
別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オーストラリア人)
がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアには、女王はいない」と説明
すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えいれられる」というようなことを繰り
かえした。

 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。これを心
理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そしてそのウソを繰
りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなくなってしまう。親に虐待さ
れながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたものだ」と言っていた、子ども(小学
男児)がいた。

 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。その
ためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱状態にな
ることが多い。私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どもの
ウソを追及していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死ん
でやる!」と叫び始めた。

 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。

 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。だから
子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。

 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、なおさ
ないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、ますます虚
構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。

 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶がそ
のころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」をつくり始
める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自我そのものをつ
ぶしてしまうことにも、なりかねない。そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をよ
り悪くしない程度。あるいは、ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかな
い。仮に子どもがウソをついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身
が、自分で自分をコントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期
を待つ。

 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私はやはり母
の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつくづくいやになっ
たことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分を偽るということは、時間を
ムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかないと心に決めた。

 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、私は自
分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押さえこむ気
力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。ゾーッ!

 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談してきた母
親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、ウソで相手を
キズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気がつくしかない。また
親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)

【補足】
 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。

+++++++++++++++++

子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ
 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども
 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、そ
の母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなこと
を言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」
 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情
のまま、やはりことこまかに話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それで
そのときカバンがほとんど逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚え
ているというのもおかしい。落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞い
た。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落とした
という金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことが
たびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、その
つど、どこかつじつまが合わなかった。そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親
にその女の子の問題を伝えることにした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒し
て、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の
部屋に隠れて立っているのがわかった。「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その
女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな
 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間
に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りない
リアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実
であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自
覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる
 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまう
ことになるから注意する。

++++++++++++++++++++

【FGさんからの相談より】

 ある日学校の保健室の先生から呼び出し。小学二年生になった息子を迎えにいくと、私に抱
きついて泣きじゃくる。

 理由を聞こうとすると、保健室の先生が、「昨夜から何も食べていないとのこと。昨夜もおな
かが痛く、嘔吐もしたとのこと……」と。

 しかし息子は、元気だった。昨夜の夕食もしっかりと食べたし、嘔吐もなかった。

 こうしたウソは、息子が三歳くらいのときから始まった。このままでは、仲間からウソつきと呼
ばれるようになるのではないかと、心配。どうしたらいいでしょうか。(神奈川県K市在住、FGよ
り)

++++++++++++++++++++

 ほかにもいくつかの事例が書いてあったが、問いただせば、ウソと本人が自覚する程度のウ
ソということらしい。それまでは、虚構の世界に、自らハマってしまうよう。

 このタイプの子どもは、自分にとって都合の悪いことが起こると、それを自ら、脳の中に別の
世界をつくり、自分をその中に押しこんでしまう。そしてある程度、何回もそれを反復するうち、
現実と虚構の世界の区別がつかなくなってしまう。いわば偽の記憶(フォールスメモリー)をつく
ることによって、現実から逃避、もしくは現実的な問題を回避しようとする。これを心理学の世
界では、防衛機制という。つまり現実の世界で、心が不安定になるのを避けるために、その不
安定さを避けるために、自分の心を防衛するというわけである。

 原因は……、理由は……、引き金は……、ということを、今さら問題にしても意味はない。幼
児期の子どもには、こうしたウソをつく子どもは珍しくない。ざっとみても、年長児のうち、一〇
〜二〇人には、この傾向がある。やや病的かなと思われるレベルまで進む子どもでも、私の
経験では、三〇〜四〇人に一人。日常的に空想の世界にハマってしまうようであれば、問題だ
が、そんなわけで、ときどき……ということであれば、つぎのように対処する。

(1)その場では、言うべきことを言いながらも、決して、追いつめない。子どもを窮地に立たせ
れば立たせるほど、立ちなおりができなくなる。完ぺき主義の親ほど、注意する。

(2)小学三、四年生を境に、自己意識が急速に発達し、子ども自身が自分で自分をコントロー
ルするようになるので、その時期を目標に、つまりそういう自己意識で自らコントロールできる
ような布石だけはしておく。ウソをつけば、友だちに嫌われるとわかれば、またそういう経験を
実際にするうちに、自分で自分をコントロールするようになる。

 子ども(幼児、小学校の低学年児)のばあい、ウソを強く叱ると、「ウソをついたこと」を反省す
る前に、恐怖を覚えてしまい、つぎのとき、さらにウソの世界が拡大してしまうことになる。ウソ
は相手にしない。ウソは無視するという方法が、好ましい。しかし子どもが病的なウソをつくよう
になると、ほとんどの親はあわててしまい、「将来はどうなる?」「このままではうちの子は…
…?」と、深刻にに騒ぐ。

 しかし心配無用。人間は、どこまでも社会的な動物である。その社会でもまれることにより、
また、自己意識が発達することにより、自ら自分を修復する能力をもっている。大切なことは、
この自己修復能力を、大切にすること。この相談のFGさんのケースでも、ここ数年のうちに、
子どものウソは、急速に収まっていく。要は、今、あわてて症状をこじらせないこと。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(861)

私のグチ

 わずらわしいことは、日々の生活の中で、波のようにやってくる。大波、小波、そして中波。生
活するということは、そういった波を、うまく舵をきりながら、乗り越えるということか。

 その波のない人生はない。そうならそうで、前向きに生きるしかない。波をこわがってもいけ
ない。波から逃げてもいけない。……と、それはわかっているが、ときとして、その波に立ち向
かうのがおっくうになる。どうして生きていくことは、こうもわずらわしいのか。

 立ち止まることすら、許されない。休むことさえ、ままならない。みながみな、大きなレールの
上を、ゾロゾロと歩いている。少しでも歩く速度を落すと、容赦なく、背中を叩かれる。

 自由? ……この日本のどこに自由がある? 与えられたワクの中で、それなりのことだけ
をしていれば、たしかに不自由なことはない。しかしそのワクを越えることはできない。

 平等? ……この日本のどこに平等がある? 保護格差は、年々広がるばかり。目に見えな
いことをよいことに、その立場にある人たちは、まさにしたい放題。犠牲になるのは、無知で善
良な市民だけ。

 正義? ……いまだに日本は、自分の正義すら主張することができない。いまだにあの朝鮮
併合は正しかったと主張する人は、あとを絶たない。もしそうなら、逆に、反対のことをされて
も、日本よ、日本人よ、文句を言うな。

 平和? ……いまや日本の平和は、風前のともし火。かろうじて平和なのは、悲しいかなアメ
リカという、うしろ盾があるからだ。もしなかったら、六〇年代は、毛沢東中国に、七〇年代は、
韓国、北朝鮮の連合軍に、日本は報復されていた。そして今は、北朝鮮の攻撃にさらされてい
る?

 つかの間の休息よ。つかの間の平和よ。そしてつかの間のやすらぎよ。砂場で見つける小さ
な宝石のように、私たちはそれにしがみつく。小さな希望。小さな夢。小さな未来。

 ああ、私は自由になりたい。自由になって、この広い空を、思う存分、飛んでみたい。私に
は、過去もない。未来もない。あるのは、「今」という現実だけ。その現実では、どの人も、み
な、平等。そして正しいと思うことだけを口にし、争いも戦いもない。そんな世界を、思う存分、
飛んでみたい。

……かなわぬ夢だとはわかっているが、私はいつも、そんな世界を夢見ている。夢見ながら、
今日も、性懲(こ)りもなく、打ち寄せる波の一つずつと、戦っている。私はそんなふうに、生き
てきたし、生きているし、生きていくしかない。
(030605)

【追記】
 この原稿をワイフに読んで聞かせたら、ワイフはこう言った。「そんなのは、あなたのグチよ。
このところ、グチっぽい原稿が多くなったわね。ジクジク考えないで、パッと遊んできたら!」と。

 だからこのエッセーのタイトルを、「私の夢」から、「私のグチ」に変えた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(862)

心的外傷後ストレス障害(PTSD、Post−traumatic Stress Disorder)、私のばあい
 
 その人の処理能力を超えた、強烈なストレスが加わると、その人の心に、大きな影響を与え
る。そのときそれがふつうの記憶とは異なり、脳に外傷的記憶として残ることがある。そして日
常生活において、さまざまな症状や障害を示すことがある。こうした一連のストレス性障害を、
心的外傷後ストレス障害という。

 Aさんは、あやうく上の子どもを、水死させるところだった。家族でキャンプに行ったときのこと
だった。水から救い出したときには、すでに意識はなかったが、幸い、父親が人工呼吸をほど
こしたところ、息を吹きかえした。上の子どもが六歳、したの子どもが四歳のときのことだった。

 以後しばらくは、その子どもが無事だったとことを喜んだが、しかしそれが落ちつくと、ここで
いう心的外傷後ストレス障害が現れた。当時の事故のことを思い出すと、極度の不安状態に
なるという。あるいはその事故のことを忘れようと、思えば思うほど、当時の状況が、思い出さ
れてしまうという。届いたメールから、引用させてもらう。

●私は、それ以来今では少なくなっていますが、夜ふとんに入ると思い出して眠れなくなってし
まうことがあります。

●子どもの下校時間が近づくとそわそわして、家の中と外とを行ったりきたりしてしまいます。

●これから先もずっと心配していかなければいけないかと思うと将来が不安でしかたがありま
せん。

●まわりに相談しても、助かったんだからとか、子離れしたらとか言われます。
主人もいろいろ考えてはくれますが、どうしたらいいのか分からないみたいです。
結局は自分の中で勝手にいろいろ想像して勝手に悩んでるだけなのですが、何とかこの状態
からぬけだしたいです。

 心的外傷後ストレス障害では、その種の状況になると、強い感情的反応が現れることが知ら
れている。言いようのない不安感や恐怖感、絶望感や虚脱感など。ときに当時の状況をその
まま再体験、もしくは心の中で再現したりする。これを「フラッシュバック」という。

 強度の心的外傷後ストレス障害になると、日常生活にも影響が出てくる。感情鈍麻、麻痺、
回避性障害(人と会うのを避ける)、行為障害(ふつうでない行動を繰りかえす)など。多く見ら
れるのが、不眠である。

【心的外傷後ストレス障害、私のばあい】

 私もまったく同じような経験をしている。家族で、近くの湖へ海水浴に行ったときのことであ
る。三人の息子を連れていったが、とくに二男については、今、こうして命があるのは、まさに
奇跡中の奇跡である。

 その直後の私は、たしかにおかしかった。二男が生きているにもかかわらず、生きていること
を不思議に思い、思うと同時に、背筋が何度も凍りつくのを感じた。「ほんのもう少しまちがって
いたら、私が殺していた」という、自責の念にかられた。そして夜、床についたあとなど、その日
のことを思い出すと、そのまま興奮状態になり、眠られなくなってしまった。

 それは恐怖、そのものであった。しかしその恐怖は、外からくる恐怖ではなく、自分自身の内
部から、襲ってくる恐怖であった。つかみどころがなかった。「もしもあのとき……」と、そんなこ
とを考えていると、妄想が妄想を呼び、わけがわからなくなってしまった。それに、思い出したく
はないのだが、事故の生々しい様子が、心にペッタリと張りついて、それが取れない。かきむし
っても、かきむしっても、取れない。

 本来なら、二男が生きていることを喜べばよいのだが、そういう気持ちにはなれない。「よか
った」と思うより先に、「どうしてあんなことをしたのだろう」と、自分を責めてしまう。そして一度、
そういう状態になると、足元をすくわれるような不安状態になってしまう。じっとしておられないと
いうか、何をしても、手につかない状態になってしまう。

 よく覚えているのは、そのあと、湖を見るのもこわかったということ。実際には、それ以後、一
度も、湖へは行っていない。正確には、海水浴には、行っていない。おかしな妄想が頭にとりつ
いたこともある。「今度、息子たちを湖へ連れていったら、湖の悪魔に、命を取られるぞ」と。そ
ういうオカルト的な現象など、まったく信じていない私が、である。

 私のばあいは、「湖」とか、「海水浴」が、心的外傷後ストレス障害のキーワードになってい
た。それでそれを避けることで、やがて、少しずつだが、気持ちが和らいでいった。あれからも
う、二〇年になるが、こうして思い出してみると、いつの間にか、それが一つの思い出になって
いるのに、今、気づく。以前のような、フラッシュバックに陥るということは、もうない。

 ただあのとき、二男を湖から救い出してくれた恩人(私はいつも「恩人」と呼んでいる)につい
ては、その恩を忘れたことはない。二男に何かあるたびに、私とワイフ、ときには二男を連れて
あいさつに行っている。中学を卒業したとき。アメリカへ出発したときなど。相手の人は、ひょっ
としたらそういう私たちを迷惑がっているかもしれないが、私はどうしても、それをしたい。しな
いわけにはいかない。つまりすることによって、二男が、助かるべきして助かったという実感を
ものにしている。

 専門的には、心的外傷後ストレス障害の人に対して、グループ治療や、行動療法が効果的と
いう説もある。私のばあいは、精神科のドクターの世話になることはなかった。ただワイフが、
たいへん精神的にタフな女性で、その点では、ワイフに助けられた。私がフラッシュバックに襲
われたときも、私に、「あんたは、バカねえ。助かったのだから、それでいいじゃない」と言ってく
れたりした。

【Aさんへ】

 私の経験では、こうした心的外傷後ストレス障害は、なおらないということ。そのため、なおそ
うと思わないことだと思います。それを悪いこと、あるいは、あってはならないことと思ってしまう
と、かえって自分を責め、ストレスが倍加してしまいます。

 もっとも効果的な方法は、とにかく忘れること。そのため、その事故を思い起こさせるようなで
きごとを、自分から遠ざけることです。私のばあい、一時は、湖の方角さえ向きませんでした。
ただそのあと、水泳の能力の必要性を痛感し、息子たちを水泳教室へは入れました。

 そしてここが重要ですが、あとは時間が解決してくれます。『時は、心の治療人』と考えてくだ
さい。こうしたもろもろの心の問題は、心的外傷後ストレス障害にかぎらず、時が解決してくれ
ます。悪いことばかりではありません。

 とくに二男は、生きていることのすばらしさを、そのあと、教えてくれました。また心的外傷後
ストレス障害といいますが、そういう状態になると、感性がとぎすまされ、他人が見ることができ
ないものが、見えてきたりします。言いかえると、そういう経験をとおして、あなたの子どもは、
今、あなたに何かを教えようとしているのです。

 ここに添付したような原稿(中日新聞に発表済み)は、そういう私の気持ちを書いたもので
す。どうか、参考にしてください。何かのお役にたてるものと思います。今の私の立場で言える
ことは、「どうか、一日も早く、いやな思い出は忘れて、明るい太陽の方に顔を向けてください」
という程度でしかありません。

●苦しんでいるAさんへ、

 心を解き放て!
 解き放って、空を飛べ!
 あなたは、今、生きている。
 あなたの子どもも、今、生きている。
 それを、友よ、すなおに喜ぼうではないか。

 苦しんでいるあなたは、幸いなれ!
 あなたには、他人に見えないものが見える。
 命の尊さ、命の美しさ、
 そして命のあやうさ、
 だからあなたは、人一倍
 自分の人生を大切にする。
 生きる尊さを、まっとうする。

 事故?
 とんでもない!
 あなたの子どもは
 あなたに、生きる意味を、教えるために
 今、そこにいる。
 それを、友よ、すなおに受け入れようではないか。
 そして、友よ、あなたの子どもに感謝しようではないか。
 あなたのおかげで、私は生きる意味がわかったわ、と。

 苦しんでいるあなたは、幸いなれ!
 真理への道は、いつも苦しい。
 その苦しさを通ってのみ、
 あなたは、その真理にたどりつく。
 だから友よ、恐れてはいけない。
 だから友よ、逃げてはいけない。
 あなたは自分を受け入れ、
 あなたの子どもを受け入れる。

 さあ、友よ、明日からあなたは、
 新しい人生を歩く。
 勇気を出して、歩く。
 もうこわがるものは、何もない。
 なぜなら、あなたは、今、
 生きる意味を、知っている。

++++++++++++++++++++++++++

よろしかったら、お読みください。また二男については、私のホームページのトップページから、
二男のサイトにアクセスできます。去年、かわいい孫が生まれました。一度、見てやってくださ
い。あなたの子どもも、いつか、孫をつれてあなたのところにやってきますよ。

++++++++++++++++++++++++++

子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのこ
とだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。

しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ
山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそうだから」と。その話を聞いたと
き、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人
間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹
いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生
も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわ
からなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 子育てとい
うのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいなあ」と思ってし
まう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レストランや新
幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだった
なあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++++++

無条件の愛

●「子どもの世界」一〇〇回目を記念して

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか
…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっ
としたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中
で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」私「日本人をやめる、ということか…」息子「そう」「…いい
だろ」と。私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛する
がゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉があ
る。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の
心が抜けるほど軽くなったのを知った。
 
「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由など
ない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私
は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができ
るようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子が
それを、私に教えてくれた。

+++++++++++++++++++++++++

生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこ
にいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをして
いる……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価
値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決す
る。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

++++++++++++++++

Aさんへ、いっしょに、がんばりましょう!
(030605)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(863)

一磨君の絵

 今度、私の教室を、大改造した。まったくの大改造。旧教室の面影は、まったくない。すべて
消した。私も、昔で言えば、定年退職の年齢。何年かおきに改造を重ねてきたが、おそらくこ
れが最後の改造になるだろう。そういう思いも、強かった。

 で、旧教室のものは、一部のロッカーと、イスをのぞいて、すべて処分した。教材類も、ほとん
どを、処分した。すべて、だ。が、最後に、どうしても処分できないものがあった。一磨君の絵
だ。一磨君は、少し前、脳腫瘍でなくなっている。その一磨君が、私に、病床で描いてくれた絵
だ。私はその絵を、ずっと、旧教室の入り口に飾っておいた。

 一磨君について書いた原稿は、一作だけ。中日新聞で発表してもらった。(ここに添付。)今
も、ときどき……というより、その絵を見るたびに、一磨君のことを思い出す。本当のところは、
一磨君がいつも座っていた席を見るたびに、一磨君のことを思い出す。彼の席はいつも決まっ
ていた。最前列の、左から二番目だった。病気と闘うようになってからも、私の教室へ来たいと
言ってくれた。そして最後の最後まで、つまり入院するまで来てくれた。

 旧教室をこわすとき、私はその絵を、最後に、その教室から持ち出した。古い生徒の写真や
名簿、資料も、すべて捨てた。少し前まで、入会してきた生徒については、一人一人、すべてポ
ラロイドカメラで写真にとっていた。写真というのは、その写真をいう。そういう意味でも、今回
の改造は、まさに背水の陣。少しおおげさかもしれないが、すべての未練を断ち切るために、
そうした。「どうせ、死ねば、私の仕事は、そこでおしまい」と。一磨君の絵については、最後ま
で、迷った。捨てるべきかどうか、と。しかし結局、捨てられなかった。

 独自のカリキュラム。独自の姿勢。独自の教材。そんな独自性に、どれほどの意味があるの
か。この日本では、超有名(有名になったからといって、内容があるわけではないが……)、超
有名にでもならないかぎり、つぎの世代には残らない。私も、とっくの昔に、あきらめた。一時
は、自分のしてきたこと、していることを、つぎの世代に残したいと思ったこともある。しかし、あ
きらめた。もうこの日本に期待することは、何もない。だからすべてを捨てた。

 率直に言えば、今、私のところへ来ている生徒の親たちにも、何も期待していない。この仕事
は、報いられることよりは、裏切られることのほうが、はるかに多い。しかしいちいちそういうこ
とを気にしていたら、体も心も、いくつあっても足りない。もともと「教育」というのは、そういうも
の。この日本では……。

 いつかこの仕事をやめたとき、私に、何が残るだろうか。……よく、そんなことを考える。い
や、恐らく、何も残らないだろう。どこかのすし屋が、すし屋を閉めたとき、何も残らないように、
私も何も残らない。何百枚という生徒の顔写真を捨てたとき、ふと、そんなことを考えた。ワイフ
が、「本当に、捨てるの?」と、何度も聞いたが、今、捨てるか、私が死んでからだれかが捨て
るか。その違いだけだ。

 私ができることは、生徒たちの心のどこかに、数万分の一、数十万分の一でもよいから、私
の生きザマを残すこと。もちろん生徒たちは、それが私のものだと知ることは、ない。知る必要
もない。私の中に、無数の人間が生きているように、私も彼らの中に生きる無数の人間のひと
りであればよい。それでじゅうぶん。それでたくさん。それとも、私は、何を望んでいるのか。望
むことができるのか。

 私は一磨君の描いた絵を、新教室のロッカーの上に置いた。そのうち、場所を決めて、どこ
かの壁に飾るつもり。ひょっとしたら、私が過去、三三年間、幼児教室をしてきたのは、たった
一枚のこの絵のためだったかもしれない。そう思いながら、その横で、この原稿を書いた。
(030606)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

(少し前にも転載しましたが……)

++++++++++++++++

脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」
と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほし
い」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ
イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。

しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望
感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。
実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまった
かのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、
私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の
遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢に
なると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の
折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとして
も、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。
汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両
親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文
を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったと
き、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることがで
きる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その
瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きて
いることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(864)

●活発な子ども、静岡県O郡のKYさんより

私には二人、九才(小三)の息子と、七歳の息子がいます。
上の九歳の息子のことなのですが、
調子に乗ってしまうと周りが見えない、
そのせいで友達が少ないのでは?……と
これが心配なのです。

息子は小さい頃から元気な子どもで、
特に保育園の頃までは友達とのトラブルが絶えませんでした。
近所に同年代の子ども達が多いので
入園の前からよく毎日数人〜一〇人くらいの子供達を
一緒にあそばせていましたが、
(お互いの家を行き来して)
そんな中ではよくケンカもあり、
誰かが泣くとたいていうちが原因でした。

年少の頃に、近所の友達の母から急に電話があり、
「このままじゃ、あんたの子どもも、いつか、大事件を起こすようになるかもよ。
このままじゃ安心してうちの子とも遊ばせることが出来ないから、
保育園の先生にも相談しましょう!」と言われたことがあります。

その時には保育園の先生と、近所の人二人と私の四人で話をしました。
かなりいろいろ責められましたが、
全部話を聞き終わった担任の先生は、
「大丈夫、今年の年少の子達はみんなおとなしい子が多いからそう思っちゃうの。
目立っちゃうだけ。よくあることだから安心して。」と
逆にその近所の人たちを説得してくださいました。

でも、その人たちは納得してくれず、
周りのほかの人たちにいろいろと言っていたようです。
うちの子どもが遊ぼう、と言っても
お母さんに怒られるからお前はダメ、と仲間はずれにされたこともあります。
(これは保育園の頃です)

その時から私自身の中で、
仲よくやって来たつもりの人たちも実はあんなふうに思っていたんだ、
との思いがぬぐいきれずに、ずっと尾を引き、今に至っています。

年中の頃には私にもわかってくれる友達も見つかり、
子どももその後小学校に入ると少しずつは落ち着いてきているかと思います。

学校の個人面談などで先生に聞いてみても、
「元気ですね。よくケンカはしますけど、原因を聞いて自分が悪いと思えば謝ります
し、特に問題はないですよ」とのことです。

ただ、いまだにお調子者のところがありまして、
自分が楽しくて舞い上がってしまうと周りが見えないといいますか、
自分が楽しい=友達も楽しい、と思ってしまうところがあるようです。

はじめは一緒にふざけていても途中で相手が嫌がった時に
すぐにそれがわからない、やめられない、
というようなところがあるようです。
これは担任の先生もおっしゃっていました。

学校は好きなようで毎日元気に出かけますし、
放課後はたまに友達と遊んだり、サッカークラブに通ったりしています。
近所には同学年の子どもがたくさんいるのですがその中に仲良しはいません。
近所の友達には疎外されているのか、
登校の時など同学年の子に避けられているように見える時もあります。
本人はあまり気にしていないのか、
それとも気が付いていないのかわかりません。
学校に行けば仲のいい子もいるようです。

私自身は子どものころからとても、人の目が気になる、というか、
友達が自分をどう思っているのか気になるところがあったように思います。
人に嫌われるのが恐かった、そう言ってもいいかもしれません。
最近はようやく、全ての人と上手く行くはずはない、
気の合う人とそうでない人がいて当たり前、
といくらか思えるようになりました。

子どもの人間関係のことが心配になる私はおかしいのでしょうか。
(これは過干渉なのかな?)
あまりに年少の頃のことが尾を引きすぎているのでしょうか。
(とてもとてもショックでしたので)

気にはなるものの、子供のケンカには口出ししないようにしています。
子ども自身で解決できる力を見につけて欲しいと思っています。
でも中には、小学生のうちならまだまだ親が代わりに言ってあげないと、
と言う人たちがいます。

うちの子どもは学校の話や友達の話など、
結構話してくれている方だとと思います。
多少自分に都合よく話しているかもしれませんが……。
楽しかったことはもちろん、時にはケンカをした話や
頭に来た話などもいろいろします。

そんな時は出来るだけ話を聞くようにしています。
このまま、このお調子者の性格は放っておいていいのでしょうか。
時々とても不安になります。

本当に突然のメールで失礼しました。
お気を悪くされなければいいのですが……。
お忙しいと思いますし、
メルマガを読ませていただいているので、
そちらの方に何かアドバイスを書いてくださってもかまいません。
勝手に一方的で本当にすみません。

わかりにくいメールに付き合ってくださってありがとうございました。
それでは失礼します。
(静岡県S郡T町、KYより)

【KYさんへ】

 お子さんを、K君とします。K君の、かなり活発な様子がよくうかがえます。しかしこういうケー
スでは、保育園や学校の先生を、何よりも尊重なさるのが、一番かと思います。先生たちが、
「だいじょうぶ」とおっしゃっているなら、私も、そう思います。子どもの活発さを判断するとき
は、つぎのポイントをみます。

●多動性があるかどうか。無遠慮、無警戒、無頓着、無秩序にあわせて、「抑え」が重要なポ
イントになります。抑えがきくかどうかということです。それなりのところでは、それなりに静かに
できれば、問題はないとます。

●攻撃性があるかどうか。他人に対して、暴力的、威圧的、攻撃的であるかどうかということで
す。嫌われたり、みなに恐れられていることを、むしろ得意に思ったり、楽しんだりしていないか
どうか。

●注意力が欠けていないかどうか。いわゆるそそっかしさがないかどうかということ。歩いてい
て平気で、茶碗を落とし、その茶碗を拾いながら、もう一方の手で花瓶を落してしまうような行
為はないかどうか。

●遅進性がないかどうか。知育の発育に遅れがないかどうか。してよいことと、悪いことの判断
ができるかどうかということ。知育の発育に問題があると、いわゆるとんでもないいたずら(コン
セントに粘土をつめるなど)をします。

以上が、心配な症状です。

 が、つぎのようであれば、心配はありません。

●好奇心が、きわめて旺盛。あらゆることに興味をもち、つぎからつぎへと好奇心が移ってい
く。何でもやりたがり屋で、失敗しても、まったくめげる様子がない。多芸多才で、趣味も多い。
交際範囲も広い。

●活動的で行動派。少しでも動き回れる空間があると、じっとしておられない。走り回ったり、
飛び回ったりする。体を動かすことが大好きで、汗をかくことを何とも思っていない。

●世話好き。友だちのことにも、平気で口を出したり、干渉したりする。黙っておられないタイ
プ。それだけ世話好きで、めんどうみがよい。クラスでも、人気者。あるいはどこにいても、存
在感があり、目立つ。

●態度が大きい。いわゆる伸び伸びしていて、態度が大きい。何についても、「私がやってや
る!」「やりたい!」というような様子を見せる。声も大きく、自己主張もはげしい。相手が年上
でも、ワーワーと食ってかかることがある。

 ざっと考えてみましたが、KYさんのお子さんは、どちらに近いでしょうか。もし、上記の四つの
ほうに近いとなれば、「心配」ということになりますが、しかしそれでも心配は、無用。

 仮に心配なタイプでも、やがて子どもは、自分で判断して、自分で自分をコントロールするよう
になります。こうした自分で自分を判断する意識を、自意識といいます。

 たとえばおとなは、(あなたも私も)、自分の弱点や欠点をよく知っています。そしてそういう弱
点や欠点を、カバーするため、自分をコントロールします。それが自意識です。

 しかし子どものばあい、こうした自意識、つまり自分自身を外の世界から客観的にみて判断
できるようになるのは、小学三、四年生前後とみます。それ以前の子どもには、まだこの自意
識は、軟弱で、自分で自分の姿を見ることはできません。たとえば落ちつきのない子どもがい
ます。そういう子どもに、「落ちつきなさい」と言っても、ムダだということです。「落ちつく」という
意味すら、理解できません。

 しかし三、四年生になると、自分で自分の姿を客観的に見ることができるようになります。そう
なると、「こんなことをすると、先生に叱られる」「みんなに嫌われる」というようなことが、わかっ
てきます。そして自分で自分をコントロールするようになります。

 そんなわけで、それ以前に、何か問題がある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、そ
の問題を解決することができます。解決そのものができなくても、症状を軽減することができま
す。最近話題になっている、ADHD児(多動児)でも、この時期を境に、症状が急速に軽減する
のは、そのためです。

 しかし問題があります。それまでの段階で、あれこれ子どもをいじりすぎてしまい、かえって子
ども自身の自意識をつぶしてしまうということもあるというです。きびしいしつけや、暴力、暴言
など。たとえばここにあげたADHD児にしても、幼児期に、はげしい指導を受け、かえって症状
をこじらせてせいまうということは、よくあります。

 ですからこの時期、つまり幼児期から小学一〜三年生の時期は、言うべきことは言いながら
も、症状をこじらせないことだけを考えてください。仮に問題があるとしても、です。

 しかし最初の話に戻りますが、KYさんのケースでは、先生たちが、「問題ない」と言っておら
れるのですから、私もとくに問題はないと思います。先生が言っておられるように、むしろ、今、
どこかナヨナヨした子ども(とくに男児)が多いのも事実です。そして昔風の、わんぱく少年が、
むしろ脇に追いやられています。そういう意味では、活発で、たくましい子どものほうが、できの
悪い子どもということになってしまいます。これは悲しむべき現象と言ってもよいかもしれませ
ん。

 以上が、私の考えということになります。直接、お子さんを見ていませんので、これ以上のこと
は、私にはわかりません。しかし私があなたなら、先生の言葉を信じます。では、また何か、あ
れば、ご連絡ください。

 なお、いただいたメールを、このような形で、マガジンに載せたいのですが、どうかご理解の
上、ご了承ください。よろしくお願いします。
(030606)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(865)

自分を解放する

 自分の心のうちにたまった、怒りやうっぷん、モヤモヤや悩み、それを思う存分、吐き出して
みる。叫んだり、泣いたり、怒鳴ったりしながら……。心の問題を解決するのに、これにまさる
方法は、ない。子どもとて、例外ではない。

 不登校の、その一歩手前で、苦しんでいる子ども(中三男子)がいた。学校へは何とか行く
が、そのまま保健室へ。幸い、その段階で、母親から私に相談があった。私はいくつかのアド
バイスをした。その中でも、強調したのは、一番苦しんでいるのは、子ども自身であること。親
がなしえることは、許して忘れること。その度量の深さによって、親の愛の深さが決まること。今
が、正念場であること。高校入試など、親子の絆(きずな)を犠牲にするだけの価値はないとい
うこと。「正念場」というのは、ここで対処のし方を誤ると、一年ですむ不登校が三年になる。三
年ですむ不登校が、おとなになるまでつづくということをいう。母親は、一言一句、私の言うこと
を、かみしめるように聞いてくれた。

 その翌日、また母親がたずねてきてくれた。そしてこう言った。

 「私がK男に、今まで、たいへんだったんだねと声をかけると、ワーッと泣き出しました。そし
て一時間ほど、自分のほうからあれこれ、話してくれました」と。

私「きっと、今までのお母さんと、違ったお母さんに見えたんですよ」
母「そうだと思います。今までの私は、『宿題は?』『テストは?』『成績は?』と、いつも子どもを
追いつめてばかりいました」
私「それはよかったですね。こういうケースでは、ふつう子どものほうは、何も話さないもので
す。しかし話したということは、かなり早い回復が期待できます」と。

 この母親のばあい、捨て身で子どもと対峙したのが、よかった。「何とか、学校へ行かせよう」
という気持ちを捨てた。そしてすべてをあきらめきった状態で、「今まで、たいへんだったのね」
と、ねぎらいの言葉をかけた。そういう姿勢が、子どもの心を開いた。子どもの心に大きな風穴
をあけた。

 言いたいことを言う。したいことをする。それが信頼関係の基本である。が、それだけではな
い。こういう互いの解放が、心のバランスを保つには、必要不可欠である。つまり人は、言いた
いことを言い、したいことをしながら、自分の心を調整する。それが悪いことだと、決して、頭か
ら抑えつけてはいけない。

 まずいのは、親子でも、たがいにいい子ぶること。仮面をかぶること。一度そういう状態にな
ると、子どもは、親からみて、「何を考えているか、わからない子」になり、親は、子どもからみ
て、「うるさい親」になる。まさに親子断絶の初期症状とみる。

 ……しかしこのことは、夫婦についても言える。夫婦でも、たがいに言いたいことも言えず、し
たいこともできないというのなら、かなり危険な状態とみてよい。だからといって、夫婦げんかを
しろということにもならないが、しかし夫婦げんかもしない夫婦というのは、本当に理想的な夫
婦と言えるのだろうかという疑問もある。ときには、たがいに自分の感情をぶつけあう。そうし
た操作を繰りかえして、夫婦は夫婦でいられる。

 その母親を玄関先まで見送りながら、「私たち夫婦は、だいじょうぶだろうか?」と、ふと、そ
んなことを考えた。
(030606)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(866)

フェンス

 今日(六月七日)は、庭に、フェンスをつくることにした。もう一〇年越しに何とかしようと思っ
ていた。すると、突然、ワイフが、横ヤリ。

 「あんた、フェンスより、目隠しよ」と。

 ワイフは通りから庭の中をのぞかれるのが、いやらしい。「あのな、お前、いつもそういうこと
を言うから、フェンスができないのだ。今日は、フェンス!」

 設計図はできている。寸法も、測ってある。色も白と決めてある。あとはDIYショップへ行っ
て、材料を仕入れるだけ。……と、私のうほうは、こうして準備ができている。しかし肝心のワイ
フは、洗面所からなかなか出てこない。だからその間、こうして意味のない原稿を書いている。

 今日は曇り。家の前の林で、ヒヨドリが、けたたましく鳴いている。リスかカラスが、巣をねらっ
ているのだろう。「助けに行こうか」とも考えるが、キリがない。これも自然界の掟(おきて)。し
かしやっぱり、助けに行こう。そんなわけで、このエッセーは、ここまで。何とも中途半端なエッ
セーで、申しわけない。
(030607)

【追記】

 パイプを接着剤でつないで、フェンスを作ることにした。費用、約一万八〇〇〇円。しかしそ
の店で、抽選会をしていた。ワイフが引いて、何と一等賞! 一万円の商品券をゲット!

 そのお金で日用雑貨を買って、また抽選会へ。今度は、四等賞! 五〇〇円の商品券をゲ
ット! 今度は、それで犬のガムを買う。計、一万五〇〇円の商品券。めったに、……というよ
り、ほとんどクジで当たったことがない私たちが、である。

 何となく得した気分で、途中、寿司を買う。五〇〇円の寿司どんぶりを三つ買う。それを食べ
てから、フェンスを作る。

 結構、たいへんな作業だった。途中、おかしなところで接着剤がかたまってしまい、一部、ム
ダにした。一時ごろから作業を始めて、終わったのが三時半。これから一休みして、今夜は、T
保育園へ。講演が終わったら、帰りは、山荘へ。そこで一泊の予定。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(867)

マスコミ的人気

 「統計学」と、身がまえるほどのことではないが、こんなことがある。

 Aさんは、テレビによく出る。1000人の人に知られている。
 Bさんは、マスコミの世界では、ほとんど知られていない。10人の人にしか、知られていな
い。

 が、あるとき、ある月刊誌が、「上司にしたい人物はだれ」というテーマで調査した。結果、Aさ
んは、200票を獲得。Bさんは、5票を獲得。そこでその月刊誌は、「上司にしたい人物ナンバ
ーワンは、Aさん」と発表した。

 しかしこの話は、どこかおかしい。Aさんが、大量の票を獲得するのは、当然。が、ここで重要
なのは、Aさんを嫌っている人も、多いということ。「Aさんの顔がテレビに出たら、チャンネルを
かえる」という人が、500人いたとする。しかしそういう数字は、外に現れてこない。

 実は、ここにマスコミ的人気の、大きな問題点が隠されている。Aさんは、人気の相乗効果と
いうので、ますます、その人気が作られていく。知名度もあがる。しかし、だ……。

 みなさんも、一度、冷静に、あの夜の番組をにぎわすバラエティ番組を見てほしい。そしてそ
の番組をにぎわす、タレントたちを、見てほしい。冷静に、だ。私たちのほとんどは、何の疑い
もなく、ああいう人たちを、有名人として祭りあげてしまうが、本当に、それにふさわしい人なの
か、と。

 いや、私は子どもたちの世界を心配している。先日も、小学五年生のU君が、興奮気味にこ
う言った。「先生、あのBが、浜松へ来たんだって! ぼく、見に行ったけど、遅かった。チクショ
ー!」と。Bというのは、元お笑いタレント。今も、その類のタレント。しかし同年代の一人の男
性としてみても、私には、インチキの塊(かたまり)のような人間にしか見えない。そういうタレン
トを、小学生たちは、神様、あるいは仏様のように錯覚している!

 そこで私はワイフとこんな会話をした。

私「知名度も大切だが、嫌悪度も調査すべきではないのか」
ワ「悪いことをして有名になる人もいるから、有名だから、善人ということにはならないわ」
私「そこなんだ。いくら200人の人に支持されているとしても、500人の人に嫌われているとし
たら、その人には『?』マークをつけるべきだ」
ワ「しかし今は、直接、テレビで、その人の顔を見ることができるのだから、その人がどうい人
か、わかるはずよ」
私「そうなんだ。みんなも、もっと冷静に、『本当にこの人が文化人なのか』という視点で、判断
すべきだと思う。でないと、日本の文化は、ますます低俗化してしまう」

 実のところ、私は、このところ、ほとんどテレビを見ていない。見るとしても、ニュース程度。あ
あいった低俗バラエティ番組を見て、ムダにする時間など、もうない。ときにハハハと笑って見
ることもあるが、そのあと襲ってくるむなしさをいったい、どうしたらよいのか。私自身の脳の奥
底に潜む低俗さをを、えぐら出されるようなむなしさと言ってもよい。このところそれをますま
す、強く感ずるようになった。
(030608)

【追記】

 ここまで書いて、こんな話を思い出した。

 山荘の床の間には、一枚の掛け軸が飾ってある。彩色山水画である。中国人の友人の結婚
式に出たとき、その友人がくれたものだ。中国本土でも、かなり力のある人が描いた力作らし
い。よくある印刷物ではない。

 で、ある日、私の山荘へ、ある美術商の男がやってきた。もともとは仏画を専門にしている男
だった。その男が、その掛け軸を見て、こう言った。

 「この掛け軸はたいしたことないですね」と。

 詳しい専門用語は忘れたが、その理由の一つ。表装が、三段でしかないということ。台紙の
上に、計三枚しか表装されていないことをいう。

 「よい掛け軸となると、四段、五段……となっています。つまりこの掛け軸は、簡単な表装で
す」と。

 もう一つの理由は、これも専門用語は忘れたが、掛け軸の下にさがっている重(おも)しの石
の質が、よくないこと。「この石は、荒削りですね」と。

 つまりその男は、掛け軸の絵を見るのではなく、外見ばかり見ていた。そこで私がこう反論し
た。

 「反対に、表装だけ、何段もごまかし、重しだけいいものを使って、ひどい絵を高価に見せる
こともあるでしょう」と。

 するとその男はこう言った。

 「もしいい絵なら、簡単な表装はしないでしょう」と。

 要するに表装の立派さは、よい絵の必要条件ということらしい。つまり友人が私にくれた掛け
軸は、簡単な表装だから、そもそも美術的評価には、値しないと。

 この話は、どこかバラエティ番組に出てくるタレントの評価とどこか、似ている? それとも似
ていない? 今朝の私は、どこか頭の中がぼんやりとしている。だからこの話は、ここまで。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(868)

ビワの収穫

 山荘のまわりに、三本のビワの木がある。そのうち、一本は、今が収穫期。朝早くから、収穫
を始める。

 私が枝のついたままビワの実を下へ、落とす。それをワイフがハサミで、一個ずつ、切り離
す。ビワというのは、おもしろい木で、枝を切れば切るほど、翌年、また実を実らせる。あまり高
い木にすると、収穫がしにくくなるので、上に伸びた枝を容赦なく切る。

 途中、隣りのおばさんが、犬を連れて散歩にくる。一枝、分けてあげる。しばらく立ち話。そし
てそのあと、また収穫。

 ワイフが、「食べきれないわ」と何度も言う。「来週は、カラスのエサだ。カラスには、ビワはや
らない」と私。

 結局、二〇〜三〇キロの収穫。袋にして、二杯分。脚立をもってきて、高いところの枝を切っ
ていると、朝の白い陽光が顔を照らす。ジリジリとした夏のにおい。

 「こんなところにハチの巣がある」
 「ハチはいるの?」
 「あぶなかったな。去年は気がつかなかった」
 
 ハサミで、ハチの巣をたたき落とす。そしてビワの実がついた枝を、ワイフのほうにめがけて
投げる。

 「もう、いらない」
 「もったいなから、おいしそうなのだけを、取ればいい」

 そう言いながら、脚立の上で、ビワをほうばる。水っぽい、淡白な味。それがジュースを飲ん
だときのように、ジワーッと口に広がる。その中に上品な甘さ。少しすっぱさを感じるのは、ビタ
ミンCのせい? 去年は、肥料をたくさんまいた。それで今年のビワは甘い?

 ビワの収穫のし方。

(1)枝ごと切り落とす。
(2)枝どうしを、パンパンとたたく。
(3)下に落ちた実だけを拾う。
(4)残りの枝と実は、捨てる。

 これは私流のやり方。熟した実は、枝から離れやすい。そうでない実は、離れにくい。簡単な
原理だ。ワイフは、相変わらず、ハサミで、一個ずつ切り離している。

 「どうして、そんなめんどうなことをする?」
 「だって、このほうが、見栄えがいいでしょう」
 「味は変わらない」
 「だからあなたは、風情(ふぜい)がないのよ」
 「ああ、今朝の朝食はビワだ」

 そう言って、おいしそうなビワだけを食べる。まずいのは、一口かんで、捨てる。それを繰りか
えす。が、ますます日差しが、強くなったようだ。

 「もう、やめようか」
 「そうね」と。

 残った枝とビワは、そのまま近くのヤブの中に捨てる。ビワの入った袋は、もう一つふえてい
た。
(030608)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(869)

孤独な人

 人間関係が、うまく結べない人は、孤独になりやすい。当然である。原因の多くは、心を開け
ない。あるいは人間関係を、打算、利益、損得で判断する。

 しかしまったくの孤独でいることはできない。そこでこのタイプの人は、何らかの方法で、夫
(妻)、友人、あるいは子どもを支配しようとする。不安や心配は、それ自体が恐怖である。そ
の恐怖から、心を防衛しようとする。これを心理学では、防衛機制という。

 タイプとしては、@攻撃型、A同情型、B依存型、C服従型に分類される。

 ある雑誌に、こんな相談が載っていた。奈良県に住む、REさんという女性(四〇歳)のものだ
った。

 「夫(四五歳)が、私から離れません。自営業ですが、ほとんど一日中、いっしょにいたがりま
す。私が『苦痛ではないの?』と聞くと、『全然』と言います。ときどき……というより、よく私のほ
うが苦痛になります。しかし夫が、外へ出してくれません。旅行に行きたいなどというと、猛烈に
嫉妬します。ときに暴力をふるいます」(要約、一部改変)と。

 この夫は、ここでいう@の攻撃型と、Bの依存型の二つを混在してもっているのがわかる。
ふだんは、妻だけには心を許せるため、孤独を解消するために、妻といたがる。しかしその妻
が、自分から遠ざかると感ずると、嫉妬という形で攻撃型になる。

 しかし夫が妻に示している愛情(?)は、本物の愛情ではない。妻を自分の支配下において、
妻を思いどおりにしたいという愛情である。よく子どもの受験勉強に狂奔する母親がいる。この
タイプの母親も、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こういうのを、代償的愛という。自分
勝手で身勝手な愛だと思えばよい。もっとわかりやすい例では、ストーカーがもつ愛がある。相
手の迷惑など、考えない。

 原因は、ここにも書いたように、人とうまく人間関係を結べないことによる。まず自分をさらけ
出すことができない。自分がせきないから、相手がさらけ出しても、それを受けいれることがで
きない。
 
 さらにその原因はといえば、乳児期の母子関係にある。つまり母子関係が、不全であったと
みる。そのため、母親との間で、基本的信頼関係を結べなかった。このときできる信頼関係
が、それから先、すべての信頼関係の基本になるという意味で、基本的信頼関係という。

 その夫は、結婚してから一五年(メール)になるというが、いまだに妻との間で信頼関係を結
べないでいるとみる。だからそのあたりまでメスを入れないと、この問題は、解決しない。方法
としては、一度、夫が何らかの形で、心の中のすべてを開示すること。「夫だから」「メンツがあ
る」「恥ずかしい」とか、そんなことを言っていてはいけない。すべてをさらけ出す。そして妻との
間で、新しい信頼関係をつくる。

 ついでながら、この相談に対して、回答者(著名な女性評論家)は、つぎのように答えてい
た。あまりにもトンチンカンなので、私は笑ってしまった。

 「夫の深い愛情を感じませんか。人を愛するには、いろいろな形があります。あなたの夫は、
そういう形で、あなたを愛しているのです。そうでない夫婦が多いという現状の中で、うらやまし
いではありませんか。そういう状態を不満に思うのではなく、前向きに夫の愛情を受けとめたら
どうでしょうか」(要約、一部改変)と。
(030608)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(870)

よくある相談から

●園での授業風景を見ていると、姿勢が悪い……疑うべきは、カルシウム不足。筋肉の緊張
感が持続できないとみる。このタイプの子どもは、体をクネクネさせることにあわせて、あきっ
ぽく、集中力がない。

●鼻くそばかりほじる……疑うべきは、慢性の副鼻炎(蓄膿症)ほか。一度、耳鼻科で診察して
もらうとよい。

●キーキーと興奮性が強い……疑うべきは、低血糖。甘いものを断続的に、多量にとったりし
たりすると、その反動で低血糖になり、興奮性が強くなる。甘い食品を遠ざけてみる。

●指しゃぶりをする……心の緊張状態をほぐすため、子どもは指しゃぶりをする。幼児のばあ
い、たいてい愛情問題がからんでいるとみる。指をしゃぶることによる快感が、不安や心配を
やわらげる。指しゃぶり、髪いじり、ものかみなど。

●内弁慶、外幽霊である……対人恐怖症、かん黙症などが疑われる。それが何であるにせ
よ、このタイプの子どもは、外の世界では緊張しやすいので、家の中では、その反面、気が楽
にできるような雰囲気をつくってあげる。

●小食である……冷蔵庫を、とにかくカラにする。日常生活で、食べ物が不足状態にする。
「小食」と悩んでいる家庭ほど、食べ物がゴロゴロしている。まず生活習慣を改める。

●どこか乱暴である……ぬいぐるみをうまく利用する。母性(父性)が、自然な形で育っている
子どもは、ぬいぐるみを見せたり抱かせたりすると、うっとりするような表情を見せる。

●字がへた……運筆能力が育っていないとみる。ぬり絵などを、日常的にさせてみるとよい。
字の練習に先立って、この練習をしっかりしておくとよい。

●鉛筆のもち方がおかしい……約五〇%の子どもが、正しく鉛筆をもち、三〇%がクレヨンを
もつようにしてもち、残りの二〇%が、きわめて変則的なもち方をすることがわかっている(年
長児、筆者調査)。基本的には親指と人差し指で鉛筆をつかみ、うしろから中指で押さえるの
がよいが、あまりうるさく言っても意味がない。

●けんかばかりする……幼児のばあい、攻撃型(乱暴)も、内閉型(ぐずり)も、「根」は同じと
みる。心の緊張感がとれないことが原因と考え、何が緊張させているかを、判断する。

以上、よくある相談を、簡単にまとめてみた。
(030608)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(871)

教えることを楽しむ

 子どもを伸ばす秘訣は、教える側が、教えることを、楽しむこと。この一語につきる。

 先日、神奈川県に住む一人の母親から、こんなメールをもらった。

 「うちの息子は、四歳になったときから、S教室(全国的なチェーン教室)に通っています。親
子いっしょでテンポのはやいレッスンで、ついていくのがやっとです。たいていは私のほうが答
を教えてしまい、それで終わりという状態です。

 内容も小学校でやるようなワークばかり。それに毎日一枚のプリント学習が宿題でつきます。
『これだけやっておかないと、学校へ入って困るから』とのことです。が、このところ息子(五歳)
が、どうしてもそれをやりたがりません。プリントを見ただけで、いやだいやだと、泣きます。

 プリントの内容は、簡単な漢字は、計算練習まであります。ときどき掛け算の九九練習まであ
ります。テープを聞きながら、歌で覚えます。それと日記など。課題が多いのはいいのですが、
ここまでしなければいけないかと思うと、気が重くなります。どうしたらよいでしょうか」(要約)
と。

 この相談もさることながら、教えている指導者(先生とはよても呼べない!)が、教えることを
楽しんでいるのかなと、私は思った。子どもを苦しめているだけ? もしそうなら、その指導者
は、最悪!

 子どもを伸ばす。そのために、子どもを楽しませようと考えると、とてもこんな指導はできな
い。すべてのS教室がそうだとは思わないが、それにしても、ひどい? 私などは幼児を教えて
三四年目に入るが、いつも「勉強なんてものはね、適当にやればいいの」を口ぐせにしている。

 大切なことは、子どもといっしょに、楽しむこと。笑うこと。たとえば私の教室では、笑いが絶え
ない。また絶やさないようにしている。しかし無理をする必要はない。子どもたちと自然な形で
接していると、子どものほうが笑わせてくれる。「自然」というのは、教えようと気負うことはな
い。自然体で、という意味。

 そういう状態でしばらくレッスンをつづけていると、子どものほうから、伸び始める。一人の母
親からのメールを、そのまま紹介させてもらう。

 「いつ林先生の所に行くのかと、最近すごく楽しみにしています。前回も、玩具を頂いてきた
ら、玩具が教室のにおいがする。BW(私の教室)へ又行きたくなちゃった。と言っていました。
これからもご指導よろしくお願いいたします」(K町SUより)と。

 何となくコマーシャルぽい内容になってしまったが、「幼児教室」というと、誤解も多い。その誤
解(偏見)を解きたかったから、こういうエッセーを書いてみた。もっとも、S教室のようなところ
もあるから、誤解も生まれるのかもしれないが……。
(030608)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(872)

会話のない父子

●Gさん(五六歳・女性)が、こう相談してきた。「夫と、父親が、まったく会話しません。そういう
状態が、結婚のときからつづいています。どうしたらいいでしょうか」と。

++++++++++++++

 Gさん父子(七三歳と四八歳)は、この三〇年間、ほとんど会話をしていない。同居していて
も、だ。毎日が一触即発。ささいな言い争いが、そのまま大げんかになることも珍しくない。

 原因は、父子の確執(かくしつ)。だれしもそう考える。しかし心理学では、そうは考えない。原
因は、息子の側の心の緊張感がとれないこと。息子自身が気がついているかどうかは別にし
て、息子は、父親を前にしたとたん、心が緊張状態になる。こういう例は多い。

 Aさん(三五歳、女性)は、盆暮れに実家へ帰るのが苦痛でならないという。親を前にすると、
ピンとした緊張感が走り、あとは何をしても疲れるだけ、と。

 Bさん(三五歳、女性)もそうだ。ときどき実母が遊びにくるのだが、帰るたびに、はげしい偏
頭痛に襲われるという。

 父子だから、信頼しあうなどというのは、もはや幻想でしかない。ざっとみても、約五〇%の
父子は、「うまくいっていない」。「うまくいっていない」というのは、「うまくいっていない」というこ
と。

 問題は、なぜ心の緊張感がとれないかということ。あるいは親を前にすると、子どもが緊張し
てしまうかということ。さらに悲劇的なことに、そういう状態を、子どもも気がつかないが、それ
以上に、親も気がつかないということ。

 この問題の「根」は深い。深いだけに、簡単にはなおらない。

 子どもは、絶対的な安心感のある家庭で、親子の信頼関係を結ぶことができる。「絶対的」と
いうのは、疑いすらもたないという意味。したいことをし、言いたいことを言うという環境である。

 推察するに、Gさん父子には、そうした信頼関係がないとみる。父親のほうはともかくも、子ど
ものほうには、それがない。不信関係というのではない。信頼関係そのものがない。もっとわか
りやすくいうと、子どもの側が、安心して父親に心を開くことができない。つまり子どもが、乳幼
児のときに、すでにそういう状態になってしまった。

 こういうケースでは、息子は、子どものころ、親の前では仮面をかぶるようになる。いわゆる
「いい子ぶる」ということ。だから父親は、ますます子どもの心を見失う。見失ったまま、「私はす
ばらしい親だ」と錯覚する。あるいは、「うちの息子は、できのいい息子」と誤解する。

 こういう心のズレがやがてキレツとなり、さらには断絶へと発展する。気がついたときには、
「会話のない父子」になる。

 では、どうするか。

 こういうケースでは、父親のほうができることは、ほとんど、何もない。母親ができることは、さ
らにない。また親たちが何かをすればするほど、逆効果。一方、子どもの側は、その緊張感を
取りのぞくのは、並大抵の努力ではできない。もしそんなことができれば、この世の中には、情
緒が不安定な人はいないということになってしまう。人間関係というのは、そういうもの。人間の
心というのは、そういうもの。

 では、どうするか。

 一度、そういう状態になったら、もうあきらめるしかない。皮肉なことに、こういうケースでは、
父親が死んだとき、はじめて、問題が解決する。よほどのことがないかぎり、それまでは無理。
つまり「私たち父子は、こういうもの」と、割り切るしかない。そしてあとは、たがいに気にせず、
それぞれが自分の道を進むしかない。

 ただ、誤解してはいけないのは、たがいの絆(きずな)は、表面的な関係はともかくも、しっか
りとあるということ。あるいはふつうの親子よりも、太いかもしれない。いざとなれば、息子は、
親子の意識にのっとり、行動する。それを信じて、自分の道を進む。
(030608)

【追記】

 よく「人と接すると、疲れる」と言うひとがいる。これは対人関係において、緊張感がとれない
ためにそうなると考えると、わかりやすい。あるいは人と接すると、心が緊張状態になってしま
う。

 問題は、なぜ緊張状態になるかということ。一つには、安心できない。一つには、相手に対し
て、心を開くことができないなどがある。しかしやはり、こういうケースでも、他人と、信頼関係を
結ぶことができないのが、基本的な原因と考える。

 つぎのような人は、信頼関係の結び方が、苦手な人とみる。

●他人と接するのが苦手。近所づきあいをしても、すぐ精神的に疲れてしまう。
●他人の前に出ると、いい子(人)ぶってしまう。無理をする。自分をかざる。
●他人に心を許すことができない。いつも警戒してしまう。思ったことも言えない。
●相手の意見の合わせてしまう。追従的になることが多い。(あるいは攻撃的になることもあ
る。)

さて、あなたはだいじょうぶか?

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(873)

友だちができない子ども

●私の経験から

 三〇歳、四〇歳、五〇歳となると、人間的に、ますます小回りがきかなくなる。自分がかたま
るというか、余裕がなくなるというか……?

 たとえば私は昔から、団体旅行が苦手だった。そういう場面になると、どこか自分だけ、別行
動を試みた。みなが出かけたあとなど、勝手にバスの中で居眠りしていたこともある。

 しかしバス会社の用意する、団体旅行は、格安なものが多い。だから旅行というと、そういう
ものを利用するしかなかった。で、息子たちがまだ小さいうちは、多い年には、数回、そういうも
のを利用した。

 が、私が四〇歳になったときのこと。郵便貯金の旅行会があった。かなり豪華な旅行だった
が、一人分しかなかった。しかたないので、私はひとりで、行くことにした。そのときのこと。

 バスが、高速道路に入ったところで、大きな違和感を覚えた。みなが、酒を飲みだし、カラオ
ケを歌いだした。私は、酒は飲めない。それに中学のときから、学生時代は、合唱団にいた。
カラオケというものには、どこかなじまない。カラオケというより、カラオケでよく歌われる演歌と
か歌謡曲に、だ。

 酒をすすめられた。歌を歌うように言われた。若いころの私なら、そういうとき適当にその場
をごまかして、それなりに振る舞うこともできたかもそれない。しかしそのときは、違った。「たま
の休みではないか。どうしてこういう苦痛を受けなければならないのか」と。

 そう思ったから、最初の休憩でバスがとまったとき、私はバスをおりた。そしてそこからタクシ
ーを呼んで、帰ってきてしまった。

●心を開く

 友だちになるかどうかは、心を開くことができるかどうかで、決まる。その人に対して、心を開
くことができれば、友だちになれる。そうでなければ、そうでない。ただ心を開いたからといっ
て、友だちになれるとはかぎらない。しかし心を開くというのは、友だちになる大前提と考えてよ
い。

 心を開くというのは、安心して、自分をさらけ出すことをいう。自分が何を言っても、何をして
も、相手はそれを許してくれるだろう。あるいは受け入れてくれるだろうという、絶対的な安心感
をいう。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。疑った瞬間、それは絶対的で
はなくなる。

 人と、友だちになれない人は、心を開くことができない人とみてよい。表面的な様子にだまさ
れてはいけない。たとえば他人に、ヘラヘラと、たいへん愛想がよい人がいる。一見、人づきあ
いがよい人に見える。しかしそういう人ほど、演技でそうしているだけ。もっと言えば、本当の自
分は別のところにいて、自分をごまかしているだけ。つまり愛想をよくすることによって、相手の
心に取り入ろうとする。

 子どももそうで、極端に愛想のよい子どもは、何を考えているかわからない子どもと同じに考
える。一応、警戒したほうがよい。こんな失敗をしたことがある。

 ある日、小学三年生のA君が、イスから立って、フラフラと歩いていた。そこで私が、「A君、パ
ンツにウンチがついているなら、立っていていい」と言った。ふだんならそこで、A君がイスにす
わり、話が終わるはずだった。しかしそのとき、ハプニングが起きた。

 まわりにいた二人の子どもが、そのままA君のおしりに顔をあて、「先生、本当にこいつのお
尻、臭い!」と叫んでしまった。クラスが爆笑した。A君も、バツがわるそうだったが、笑ってい
た。そしていつものように、A君はおどけてみせた。

 が、その夜、A君の父親から、ものすごい剣幕の電話がかかってきた。「パンツのウンチのこ
とで、息子の恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。

 すべて私に責任がある。そのときは、ただひたすら謝るしかなかった。しかし……。

 私はこの事件を契機に、子どものもつ、もう一つの側面に気づいた。つまり表面的な様子に
だまされてはいけないということ。似たようなケースだが、みなの前に立つと、何かにつけて笑
わせ名人で、おどける子どもがいる。そういう子どもは、恥をかくのを回避するために、そうして
いることが多い。たとえば勉強ができない子どもが、先生に指されたとたん、ひょうきんなかっ
こうをして、おどけて見せるなど。

●友だちができない子ども

 友だちができない子ども。あるいは友だちができない人でもよい。このタイプの子どもは、他
人とのかかわりをもつとき、@攻撃型になる。A服従的になる。B依存的になる。C同情を求
めるの、四つのどれかの行動をとることが多い。

 攻撃型というのは、威圧や暴力によって、相手を自分の支配下に置こうとする。このタイプの
子どもは、みなに嫌われることによって、自分の存在感をアピールしようとする。だから「そんな
ことをすれば、みんなに嫌われるよ」と言っても、意味がない。

 服従的になるというのは、いわゆる子分に徹するということ。先生に対しても、また友だちに
対しても、である。服従的であるというのは、それ自体、居心地のよい世界である。言われたこ
とだけを従順に守っていれば、身の安全だけは保証される。

 依存的になるというのは、いわゆる「甘える」ということ。いわゆる甘えじょうずということにな
る。生活態度も、甘い。約束を守らない、規則を守らない。そこで先生が叱ったりするが、ヘラ
ヘラと笑ってごまかしてしまう。

 同情を求めるというのは、何かにつけて、自分は同情されるべき人間と見せる。いわゆるぶ
りっ子も、このタイプに含まれる。やさしい人間、弱い立場の人間であることを演じながら、相手
を支配しようとする。子どもには少ないが、老人になると、ふえる。弱々しい母親を演ずること
で、子どもの同情をかおうとする。私の知りあいにも、電話をかけてきて、今にも死にそうな声
で、「おばちゃんも、年をとったからねえ……」と言う女性がいる。

 こうして四つのタイプに分けたが、ふつうは、複合的であることが多い。あるいは相手に応じ
て、依存的になったり、服従的になったりすることもある。

 これに対して、だれにも心を開くことができる子どもは、その分だけ、友だちが多い。またそう
いう子どもは、そういう子どもどうしで、仲間をつくる。このことが、かえって、そうでない子ども
を、外の世界に追いやることになる。

●自分を知る

 テレビを見ていたら、いじめについて、高校生たちが話しあっていた。その中の一人。女子高
校生だったが、切々と、自分がみなに、いじめを受けていたことを話していた。教室へ入って
も、みなに無視されたとか。あいさつをしても、無視されたとかなど。

 さぞかしつらかっただろうと思う。実は、私も高校生のとき、一時期、そういういじめを受けた
ことがある。しかし当時は、そういった問題については、関心も知識もなかった。いじめを受け
るほうは、ただ一方的に、自分のカラにこもるしかなかった。

 しかし今から思うと、そういういじめを受けた私は、では、被害者だったのかというと、どうもそ
うでないような気がする。そのことは、私が四〇歳くらいのときに気づいた。つまり私自身にも、
責任があった。私に友だちができなかったのは、まわりが悪かったというより、私自身が、心を
開かなかった。心を許さなかった。そういう私に、みなが反応していただけだ、と。

 私はテレビで、自分に対するいじめを語っている高校生を、静かに観察してみた。ひとつ気に
なったのは、高校生らしい、ハツラツとした明るさがなかったこと。どこか、暗い。それにコメン
テターが、あれこれアドバイスするたびに、こまかいミスを指摘しては、それに反論していた。ど
うも人の話を、すなおに聞くことができない性格のようだ。と、そのとき、私は、こう感じた。

 「この女子高校生は、被害者の立場ばかりを強調しているが、彼女も、自分自身が内在的に
もつ問題について、気がつくべきではないのか」と。

 ……実のところ、こう書くのは、たいへん勇気がいる。以前も、ある雑誌で同じようなことを書
いたことがあるが、そのときは、猛烈な抗議の手紙をもらった。それには、「あなたのような人
間には、評論家の資格はない」というようなことまで、書いてあった。私は何も、いじめを肯定し
ているわけではない。またいじめられる側に、責任があると言っているのではない。デリケート
な問題であるだけに、誤解を招きやすい。

●では、どうするか?

 子どもに、友だちができないことを悩んでいる母親は、多い。「仲間はずれにされる」「仲間に
してもらえない」「遊びに入れてもらえない」「いつも子分で、命令ばかりされている」など。

 友だちというのは、その子どもにとっては、全人格的な問題といえる。そのため、そう簡単に
は解決しない。またその「根」は、想像以上に、深い。新しいクラブへ入れたから、それで友だ
ちができるという簡単な問題ではない。

 親がせいぜいできることと言えば、そういう環境を用意し、相手に対して、心の開き方を教え
ることでしかない。しかしそれとて、限界がある。イギリスの教育格言に、『馬を水場につれてい
くことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。つまりその先を決めるのは、
子ども自身であるということ。子どもに任せるしかない。

 ……ということで、子どもの問題として、「友だち」を考えてみた。しかしそれは同時に、私たち
自身の問題でもある。親子の問題、夫婦の問題、そしてあなたと両親の問題など。そこで私は
今、こんなことを考えている。

 この七月に、オーストラリアの友人のB夫妻が、一か月ほど、私の家にホームステイすること
になった。学生時代からの友人である。その友人が私の家に来ることについて、もちろん私は
うれしい。しかし同時に、不安もある。私は彼にとって、「友」というに、ふさわしい人間かどうか
という不安である。私はもともと、ワイフと、実の姉くらいにしか、心を開くことができない。その
ほかの人に対しては、自分自身を、さらけ出すことができない。
 
 そういう私に対して、さみしい思いをしているのは、むしろその友人のほうではないか。もしそ
うなら、私は、私という、実につまらない人間と、三五年も、つきあわせたことになってしまう! 
三五年だ! だから私は、今度こそ、彼に対して、心を開いてみようと思う。私も、「友を迎え
る」と、気を張るのはやめる。ありのままで、ありのままの気分で、B夫妻を迎えようと思う。そ
れがうまくできるかどうかは、本当のところは自信がないが、努力はしてみる。
(030609)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(874)

ワイフの誕生日

 六月XX日は、ワイフの誕生日である。今年XX歳になる。で、先日、誕生日プレゼントを買っ
てきた。夏用の、麻でできた帽子。値段は、XX円! 

 「まだ誕生日じゃないけど?」と言ったので、「忘れないうちに買った」と。こういうことは、しっ
かりと恩を着せておかなければならない。

 私のワイフのよいところ(?)は、いわゆるブランド品には、まったく興味がないこと。上から下
まで、身につけているのは、安物ばかり。ときどき私のほうが、恥ずかしくなるくらい。実は、私
も、そういったものには、ほとんど、興味がない。

 だからなおさら、プレゼントには、困る。どこかに方向性があれば、その方向性にそって、買
い物をすればよい。しかしワイフには、それがない。一方、私は、そのつど趣味が変化するの
で、つかみどころがない。今は、パソコンの周辺グッズだが、ワイフには、どんなものがよい
か、わかるはずもない。だからプレゼントというと、あたりさわりのないものになる。たいていは
衣類とか、そういうもの。そういえば、去年のクリスマスプレゼントは、私からワイフへは手袋、
ワイフから私へは、下着だった。実用的なものばかり?

 そういえば、バブル経済、華やかりしころのこと。ワイフが、「(誕生日には)サイフがほしい」
と言った。そこで数千円をもって、Mデパートへ行った。が、どれも、数万円のものばかり。小さ
なサイフでも、四万円とか五万円とか! 私はその数千円をにぎりしめたまま、自分がなさけな
くなった。「こんな小さなサイフ一つ、買えないのか!」と。

 あのころを振りかえってみると、もうあんな時代は、こりごり。たくさん。今は、大不況の時代
で、当時のバブル経済をなつかしむ人もいる。銀行や証券会社に勤めている友人などは、決
まって、こう言う。「いい時代だったなあ」と。しかし私は、とてもそうは思えない。

 反対に、今は、デフレ経済。本当にモノが安くなった感じがする。ふつうの扇風機が、二千円
以下で買える。掃除機も、だ。このところ、「本当に、この値段?」と思いながら買い物をするこ
とが多くなった。しかしここにも書いたように、大不況は、大不況。私自身も、失業の一歩手
前。かろうじて家計を支えている。このところ、「もうどうにでもなれ」という気分が生まれてき
た。

 翌日見ると、ワイフは、帽子をかぶっていなかった。「どうしてかぶらないのか?」と聞くと、
「今日は曇りだから」と。

 そのまた翌日もかぶっていなかった。今度は、聞くのをやめた。で、そのかわり、ワイフにこう
言った。「あのな、あの帽子。いくらだか、知っているか? 千円のバーゲン品だ」と。腹いせの
つもりだった。するとワイフは、ふとさみしそうな顔をして、こう言った。「だいじなときにかぶろう
と思っていたのに……」と。

 とにかく、ワイフさま、誕生日、おめでとうございます!
(030609)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(875)

【特集】無気力症候群

無気力になる子どもたち

 バーントアウトしてしまい、無気力になってしまった子どもを観察してみると、興味深い事実に
気がつく。H君(高一男子)という高校生がそうだった。目的のA進学高校に入学はしたものの、
それ以後、まったく勉強しようとしなくなってしまった。親は、「受験勉強で、疲れたため」と思っ
ていたが、夏休みを過ぎても、症状は、まったく改善しなかった。

 そこでいろいろ教えてみると、たとえば中学一、二年レベルの数学や、英語すらできないの
がわかった。H君が中学生のころ、スラスラと解くことができた問題である。

私「中学生のとき、簡単にできた問題だよ」
H「忘れちゃった」
私「忘れたって、もう覚えていないということ?」
H「そう。もう何年も前のことだし……」
私「そんなはずはないよ」
H「でも、だれだって、そうじゃないかな。忘れるということもあるよ」

 子どもというのは、どこかで無力感を覚えると、自ら「もうできない」「自分はダメ人間」「何もで
きない」「やってもムダ」と考えはじめる。これを心理学では、学習性無力感という。無力感を繰
りかえし経験(学習)するうち、抵抗する力さえなくしてしまうことをいう。

 H君のケースでは、意識的に「できない」と思いこんでいるというよりは、そういった意識すら
感じなかった。教える私のほうから見ると、何かしら、小学生に方程式の問題を与えているよう
な感じすらした。教えている私のほうが、「これは、だめだ」と思ったほどである。

 子どものばあい、一度、こうした症状を示すと、回復するまでに数年単位の時間がかかる。
親は、「大学に進学できなくなる」と嘆いていたが、その程度ですめば、まだよいほうだ。

 大切なことは、子どもをそういう状態に追いこまないこと。しかしこれがむずかしい。ほとんど
の親は、自分で失敗するまで、それに気づかない。「うちの子にかぎって……」「まだ、何とかな
る……」と無理をする。そして結局は、行き着くところまで行く。

 受験勉強にかぎらず、何かのことでがんばったあと、つぎのような症状が見られたら、バーン
トアウトの初期症状とみてよい。

●無口、無言、無視がつづく。家庭での会話が極端に少なくなる。親からみて、何を考えている
かわからない子どもになる。
●生活態度が、だらしなくなる。ボサボサの髪の毛。洗っていない顔。不潔な服装など。生活
習慣が不規則になり、乱れることもある。
●まじめに勉強している様子だが、能率が悪くなっているようだ。勉強時間に比較して、成績が
伸び悩む。悪い成績をとる。
●落ち込みがはげしいが、励ましたり、叱ったりすると、それについては、穏やかに反応する。

概して、まじめで、几帳面な子どもほど、ここでいうバーントアウトしやすい。しかしそれは、子ど
もの意識下で起こる現象なので、子ども自身でもコントロール不能。つまりまわりのものが、励
ましたり、説教しても、ムダということ。つぎに今までに書いた原稿を、いくつか添付する。それ
ぞれ、一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++++++++

行きつくところまで行く(失敗危険度★★★★★)

●「うちの子にかぎって……」
 子育ては、失敗してみて、それが失敗だったとはじめて気づく。その前の段階で、私のような
ものがあれこれ言ってもムダ。ほとんどの親は、「うちの子に限って」とか、「まだ何とかなる」と
考えて、無理に無理を重ねる。が、やがてそれも限界にくる。

●燃え尽きる子ども
 よくある例が、子どもの燃え尽き(バーントアウト)。概してまじめで、従順な子どもがなりやす
い。はげしい受験勉強をくぐりぬけ、やっとの思いで目的の学校へ入学したとたん、燃え尽きて
しまう。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二
〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス
四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみる
か、少ないとみるか? 

●初期症状を見落とすな
 燃え尽きは初期症状を的確にとらえ、その段階で適切に対処することが大切。登校前に体
や心の不調や、無気力、倦怠感を訴えたりする。不登校の初期症状に似た症状を示すことも
ある。そういうとき親が、「そうね、だれだってそういうときがあるよ」と言ってあげれば、どれだ
け子どもの心は救われることか。が、親にはそれがわからない。ある母親はあとになって、私
にこう言った。

「無理をしているという気持ちはどこかにありましたが、目的の高校へ入ってくれれば、それで
問題のすべては解決すると思っていました」と。もっともこういうふうに反省できる親はまだよい
ほうだ。中には、「わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかったのだ」と、私に
食ってかかってきた父親がいた。

●子どもの心を守る大原則
 結論を先に言えば、結局は親というのは、自分で行き着くところまで行かないと、自分で気づ
かない。一度(無理をする)→(症状が悪化する)→(ますます無理をする)の悪循環に入ると、
あとは底なしの泥沼状態に陥ってしまう。これは子育てにまつわる宿命のようなものだ。そこで
大切なことは、いつどのような形で、その悪循環に気づき、それをその段階で断ち切るかという
こと。もちろん早ければ早いほどよい。そしてつぎのことに気をつける。

@あきらめる……「あきらめは悟りの境地」という格言を以前、私は考えたが、あきらめる。

A今の状態を保つ……「何かおかしい」と感じたら、なおそうと考えないで、今の状態をそれ以
上悪くしないことだけを考える。

B一年単位でみる……子どもの「心」の問題は、すべて一年単位でみる。「心」の問題はその
つど一進一退を繰り返すが、それには一喜一憂しない。

 これは燃え尽きに限らず、子どもの心を考えるときの大鉄則と考えてよい。

++++++++++++++++++++++

●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はと
りあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていた
が、まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では
開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、
何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをす
れば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするな
ど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう
言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわ
ねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてし
まうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからと
いって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。
それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K
君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失
敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと
家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるよ
うになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが
起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は
不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。

++++++++++++++++++++++

【子どもの燃え尽き症候群】(中日新聞掲載済み)

●「助けてほしい」   
 ある夜遅く、突然、電話がかかってきた。受話器を取ると、相手の母親はこう言った。「先生、
助けてほしい。うちの息子(高二)が、勉強しなくなってしまった。家庭教師でも何でもいいから、
してほしい」と。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラ
ス中、二〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。
一クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多
いとみるか、少ないとみるか?

●燃え尽きる子ども
 原因の第一は、家庭教育の失敗。「勉強しろ、勉強しろ」と追いたてられた子どもが、やっと
のことで目的を果たしたとたん、燃え尽きることが多い。気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減
退、朝起きられない、自責の念が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、
強い虚脱感と疲労感を訴えるようになる。

概してまじめで、従順な子どもほど、そうなりやすい。で、一度そうなると、その症状は数年単
位で推移する。脳の機能そのものが変調する。ほとんどの親は、ことの深刻さに気づかない。
気づかないまま、次の無理をする。これが悪循環となって、症状はさらに悪化する。その母親
は、「このままではうちの子は、大学へ進学できなくなってしまう」と泣き崩れていたが、その程
度ですめば、まだよいほうだ。

●原因は家庭、そして親
 親の過関心と過干渉がその背景にあるが、さらにその原因はと言えば、親自身の不安神経
症などがある。親が自分で不安になるのは、親の勝手だが、その不安をそのまま子どもにぶ
つけてしまう。「今、勉強しなければ、うちの子はダメになってしまう!」と。そして子どもに対し
て、しすぎるほどしてしまう。ある母親は、毎晩、子ども(中三男子)に、つきっきりで勉強を教え
た。いや、教えるというよりは、ガミガミ、キリキリと、子どもを叱り続けた。子どもは子どもで、
高校へ行けなくなるという恐怖から、それに従った。

が、それにも限界がある。言われたことはしたが、効果はゼロ。だから母親は、ますますあせ
った。あとでその母親は、こう述懐する。「無理をしているという思いはありました。が、すべて
子どものためだと信じ、目的の高校へ入れば、それで万事解決すると思っていました。子ども
も私に感謝してくれると思っていました」と。

●休養を大切に
 教育は失敗してみて、はじめて失敗だったと気づく。その前の段階で、私のような立場の者
が、あれこれとアドバイスをしてもムダ。中には、「他人の子どものことだから、何とでも言えま
すよ」と、怒ってしまった親もいる。私が、「進学はあきらめたほうがよい」と言ったときのこと
だ。そして無理に無理を重ねる。が、さらに親というのは、身勝手なものだ。子どもがそういう
状態になっても、たいていの親は自分の非を認めない。「先生の指導が悪い」とか、「学校が合
っていない」とか言いだす。「わかっていたら、どうしてもっとしっかりと、アドバイスしてくれなか
ったのだ」と、私に食ってかかってきた父親もいた。

 一度こうした症状を示したら、休息と休養に心がける。「高校ぐらい出ておかないと」式の脅し
や、「がんばればできる」式の励ましは禁物。今よりも症状を悪化させないことだけを考えなが
ら、一にがまん、二にがまん。あとは静かに「子どものやる気」が回復するのを待つ。

+++++++++++++++++++++

 要するに、子どもの力を見きわめながら、ほどほどのところであきらめ、ほどほどのところ
で、子どもをほめるということ。「よくやったね」と。この一言が、子どもの心に風邪穴をあける。
子どもを伸ばす。
(030610)

【追記】
 「ここで無理をすれば、この子どもはかえってダメになるだろうな」と思っていても、私の立場
では何も言えない。信頼関係があるとかないとかいう問題ではない。子どもの勉強には、こうし
た問題が、いつもついてまわる。

 よくある例は、ほどほどに勉強ができるようになると、たいていの親は「進学塾へ入れれば、
もっとできるようになるはず」「家庭教師なら、もっとていねいに勉強をみてくれるはず」と考え
る。もちろん、それでうまくいくケースも、ある。

 しかしこのとき、「では、子ども自身は、どうなのか?」という問題がある。このときも、たいて
いの親は、「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」とばかり、子どもの進路も親のほ
うで決めてしまう。子どもが小学生くらいなら、そのまま親に従う。しかし一方で、子ども自身が
つくり始めている、学習のリズムまで親が、粉々に破壊してしまう。学習のリズムばかりではな
い。心まで破壊してしまう。

 いろいろな例がある。

●ある日、I君(小四)が、廊下でこんなことを言った。「ここ(私の教室)の月謝は、六〇〇〇円
かア! タケーナア! 一回で、一五〇〇円だぞ!」と。頭のよい子だった。

●Y君は、市内でも一番という進学高校の一年生だった。彼は私に月謝を渡すとき、袋を指先
で、ポンとはじいて、「おい、先生、あんたのほしいのはこれだろ。取っておきな!」と。

●D君がある日、こう言った。「今度、家庭教師に習うことにした。先生、ここ、やめるからね」
と。そしてそのあと、しばらくしてこう言った。「しばらく家庭教師に習ってみて、成績があがらな
かったら、またここへもどってくるからね。お母さんが、そう言っていた」と。

こういう例は、まさに日常茶飯事。いちいち腹をたてていたら、仕事にならない。しかしこういう
現実を、今の親たちは、いったいどこまで知っているのだろうか。

 もちろん、そうでない、すばらしい子ども多い。私の印象に残っている子どもたちに、つぎのよ
うな子どもがいる。

○「大学へは行かない」と言った女子高校生がいた。「どうして?」と聞くと、「早く働いて、お金
をもうけたいから」と。そこでさらに理由を聞くと、「お兄ちゃんが、大学へ行くようになって、お母
さんが仕事をするようになった。朝早くから仕事にでかけるのを見ていると、お母さんに悪くて、
大学なんて行けない」と。

○H君(高一男子)は、心のやさしい子どもだった。ある日、背中を見ると、チョークで落書きが
してあった。明らかにだれかにいたずらされていたらしい。そこで「どうした?」と聞くと、「おばあ
ちゃんには、言わないでほしい。心配するから……」と。H君は、そのとき家の事情で、おばあ
さんのところで生活をしていた。

○O君(高三男子)は、毎回、息を切らせて、私の教室へやってきた。ある夜、「夕食は食べた
のか?」と聞くと、「まだ……」と。そこでときどき夕食を用意してやった。彼は学校から、夕食も
食べないで、私の教室へ来た。今でも、毎年、O君から年賀状が届く。ある研究機関で、主任
研究員をしている。

こうしたすばらしい子どもに共通するのは、おとなに対する謙虚な姿勢と、忍耐力である。「学
ぶ」ということが、どういうことか、よくわかっている。このことは、そうでない子どもと比較してみ
るとわかる。そうでない子どもは、どこかおとなを、なめたようなものの言い方をする。忍耐力も
なく、何か仕事を言いつけると、「どうして私がしなければいかんのか!」などと言う。

 こうした違いが、どうして生まれるか。それについては、また別の機会に書いてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(876)

世間ズレする子どもたち

 昔は、「都会っ子」と呼んだ。妙におとなびていて、早熟。情報だけは、たくさんもっていて、流
行に敏感。しかし最大の特徴は、おとなをなめきった態度。生意気なものの言い方。ドラ息子
(娘)症候群の一つだが、今では、そうでない子どもをさがすほうが、むずかしい。

 どうしておとなを、なめるのか? ……言うまでもなく、その責任は、おとなの私たちにある。
子どもに、それにふさわしい姿勢やものの考え方を示すことができない。あるいは軽蔑される
ようなことを、平気でしている。そういったことに加えて、子どもの言いなりになる、甘い環境。そ
ういったものが、複合して、世間ズレした子どもをつくる。

 「甘やかす」と書いて、「われながら古風な言い方だ」と思った。私は長い間、こうして原稿を
書いているが、「甘やかす」という言い方で書いたのは、これがはじめてではないか。いいかげ
んな規範(ハウス・ルール)、結局は子どもの言いなりになってしまうような、生活環境。それら
を総称して、「甘やかす」という。

 またおとなびているというのは、それだけ情報過多であることを示す。よく誤解されるが、もの
を知っているからといって、必ずしも、賢いということにはならない。もっと言えば、情報と、思考
は、まったく別のもの。だからここでいうような、世間ズレしているからといって、その子どもが
優秀だとか、賢いということにはならない。

 だからといって、世間ズレしていることを、まちがっているというのではない。また世間ズレし
ていてはダメということでもない。ただ世間ズレすることによって、子どもは、純朴なまじめさを
なくすのも事実。それゆえに、世間ズレには、それなりに警戒したほうがよい。極端な例だが、
女子中学生でも、セックスを体験した子どもは、その雰囲気から、それがすぐわかる。男を見
る目つき、そのものが、変わる。

私「これは何だ?」
子「うふん、いいじゃあん……」
私「いいって、これは何?」
子「うふん、いいじゃあん……。わかってるくせに……」と。

 一般論として言えば、おとなの裏を見た子どもほど、世間ズレする。そして一度、裏を見た子
どもは、あともどりできない。それはちょうどパンドラの箱※をあけるようなものではないか。

(※ゼウスがすべての悪と欲望を封じいれて、パンドラに与えた禁断の箱。パンドラというの
は、人類最初の女性。パンドラがこの箱をあけたため、ありとあらゆる欲望が飛びだした。ギリ
シャ神話。)

 この問題については、これからまたゆっくりと考えてみるが、ここまでの結論として、こんなこ
とは言える。

 学ぶ人は、いつも謙虚である。またその謙虚さがなければ、その人は、学ぶことはできない。
そういう意味で、学ぶ人、つまり子どもは、謙虚であるほうがよい。少し前だが、こんなことがあ
った。

 中学一年生に、英語の単語のテストをしたときのこと。「desk」と書くところを、「Desks」と書
いた子どもがいた。(本当は、どうでもよいことだが……。)私が、「単語のテストでは、単数形
で書くのがふつうだよ。それに必要でないかぎり、最初は小文字で書くんだよ」と言うと、その子
どもは、こう言った。「本当かどうか、今度、S進学塾の先生に聞いて、確かめてみる!」と。

 謙虚さのない子どもは、そういうような言い方、平気でする。
(030611)

【補足】
いい子にするための三か条

●いつもがまんさせよ。そのためにはメリハリのきいた、子育てをせよ。
●いつも質素に育てよ。結果として子どもの言いなりにならないようにせよ。
●子どもは使え。使えば使うほど、生活力も生まれ、忍耐力も育つ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(877)

メリハリのきいた子育て

 オーストラリアで、友人の家に泊めてもらっていたときのこと。たまたまそこへ、別の友人から
私あてに、電話がかかってきた。その電話を受けた奥さんが、私の意向も何も聞かないまま、
その電話の相手に向って、こう言った。

 「ヒロシは、今、食事中です。あと一時間ほどしたら、また電話をしてほしい」と。そしてそのま
ま電話を切ってしまった。

 日本では考えられない光景だけに、私はとまどった。「なるほど……」と思ったり、「しかし…
…」と思ったり。

 こういうケースで、つまりそうした奥さんの行為が正しいかどうかを、論じても意味はない。そ
の奥さんは、自分の考えをもち、その考えに従って行動した。これがこのタイトルの、「メリハ
リ」という意味である。

 親が子どもに接するとき、このメリハリを大切にする。もちろん一方的な押しつけはまずい
が、しかしそれにあわせるかどうかは、子どもの問題。メリハリがあれば、やがて子どものほう
が、親のリズムをつかみ、それにあわせるようになる。

 これは教室という場で、子どもを指導するときも、同じ。

 最近、私は、教室を大改造した。で、クツは、玄関先でぬがせることにした。そして渡り板を
通ったところで、スリッパをはかせることにした。そこでルールをつくった。

 クツやスリッパは、必ず、並べる。ペタペタの素足では、教室には入らない。これは教室全体
にジュータンを敷いたことによる。ジュータンを敷いたというより、私が自分で苦労をして、ジュ
ータンを敷いたからだ。その作業に、丸二日、かかった。

 最初、子どもたちはとまどったようだ。「どうして、靴下をはかねばならないのか」と抗議をして
きた子どももいた。しかし私は、「はきなさい。文句があるなら、教室をやめなさい」と。

 そう、もう妥協はしない。したくない。あと何年、今の仕事ができることやら。それがあるから、
親や子どもに、コビを売って仕事など、したくない。生意気な口をきく子どもは、さっさとやめて
もらう。そのかわり、私の教育のすべてを、今の仕事で燃焼する。最高の教育を提供する。こ
れはお金の問題ではない。私の人生の問題なのだ。

 話しはそれたが、家庭でも同じ。「子どもに嫌われるのでは……」と、いちいち子どもの機嫌
をうかがっていては、何もできない。親は親で、自分の生きザマを、前向きに示していく。それ
がここでいうメリハリのきいた子育てということになる。今まで、ナーナーですましてきた家庭で
は、なかなかとむずかしいことかもしれないが、あなたも一度、試してみるとよい。胸がスカッと
するはずである。
(030611)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(878)

幼稚っぽい子ども

 その年齢にふさわしい人格の「核」ができているかどうか? 多人数の中で、比較してみる
と、よくわかる。

 人格の核形成がおくれると、子どもは、その年齢に比して、幼くみえる。あるいは幼い言動を
繰りかえす。これを「幼児性の持続」という。(幼児だから、幼稚ということではない。人格的な
完成度がおくれていることを、幼稚性という。)

 特徴としては、つぎのようなものがある。

●言動が、ひょうきん。突飛もない。まじめになるべきところと、そうでないところの区別ができ
ない。意図的にふざけるというよりは、まじめになることができない。

●教える側が真顔で注意しても、それを茶化してしまう。あるいは言葉じりをつかまえて、ふざ
けてしまう。私が「○○君、注意します!」と言うと、「イヤーン、チューして」と答えたりする。

【A君(小一男児)の例】

 バブル経済、まっさいちゅうのころだった。A君(小一男児)という子ども、私の教室にやって
きた。子どもらしいクリクリとした表情をしていたが、警戒心は、ほとんどなかった。しばらくA君
の母親と話していると、A君は、その横で、ひょうきんなジェスチャを繰りかえして、踊り始めた。
母親が何度か制止したが、効果がなかった。

 そのA君のことは、ほかの子どもたちも、よく知っていた。休み時間などでも、みなに自分の
チンチンを見せたりしていたからだ。パンツを脱いで、お尻を見せたこともあったという。

 その母親から相談があったのは、夏休みになる少し前のことだった。当時の私の記録には、
つぎのようにある。

●テストの名前の欄に、「ドラエもんジュニア」と書いて、先生に注意された。
●学校で掃除の時間のとき、バケツをかぶって遊んでいて、先生に注意された。
●算数の問題づくりのとき、「ウンチが三個と……」というような問題をつくり、先生に注意され
た。
●音楽の時間のとき、自分で替え歌をつくり、それを歌い、先生に注意された。

 A君には、多動児特有の症状はみられなかった。見方によっては、伸びやかで明るい子ども
ともとれる。私も当初は、そう思っていた。しかしそのうち、こまかいジェスチャが、幼稚ぽいの
に気がついた。

 たとえば手をあげるときも、踊るように手をゆらしながらあげたり、あいさつをするときも、わ
ざとズデンところんでみせるなど。注意をしても、その場だけの効果しかない。少し目を離すと、
すぐに隣の子どもを巻きこんで、ケチャケチャとふざけあっている。一方に、ドシリと落ちついて
いる子どもがいる。そういう子どもと比較してみると、することなすこと、すべてが幼稚っぽい。

 こうした幼児性の持続は、過保護、過干渉、溺愛などが複合的に作用して、起こる。子ども自
身の問題というよりは、その子どもを包む、子育て環境の問題ということになる。そのため、な
おすのは、容易ではない。その上、親自身にも、その意識がない。そういう子どもにとまどいな
がらも、むしろお茶目で、かわいい子どもという評価をくだすことが多い。

 話はぐんとそれるが、こうした幼児性は、日本人全体がかかえる問題といってもよい。よく日
本の大学生は、アメリカの高校生のようだとよく言われる。事実、そのとおりで、外国でみる日
本人は、同年齢のアメリカ人とくらべても、かなり子どもっぽい。

 さらにおとなも、そうである。私が、去年、ある国際空港で、乗りつぎのため、飛行機を待って
いたときのこと。何組かの新婚カップルといっしょになった。日本人の新婚カップルである。私
は彼らを見て、驚いた。あまりにも幼稚というか、まるで小学生のカップルのように見えたから
だ。「この人たちは、本当にこれから、社会人として生活していくのだろうか」とさえ思った。

 つまり幼児性の持続は、それぞれ個人の問題というよりは、日本人全体がかかえる問題の
ようでもある。理由はたくさんる。原因もある。それについては、また別のところで考えるとし
て、端的に言えば、日本の子どもたちは、子どものときから、一人の人間として育てられていな
い。それが結果として、こうした幼稚っぽいおとなをつくった。

 しかしもちろん、人格の核形成が、しっかりとできている子どもも、少ないが、いる。このタイプ
の子どもは、どっしりとした落ち着きがある。私の印象に残っている女の子に、Aさん(小三女
子)がいる。

 ある日、バス停で、いっしょになった。そこで私が、「ジュースを買ってあげようか」と声をかけ
ると、Aさんは、こう言った。

 「いいです。私、これから家で夕食を食べますから。ジュースを飲んだら、夕食が食べられなく
なります」と。

 日ごろから、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという姿勢ができている子ども
は、そういうような態度を、ごく自然な形で、表現することができる。つまりは、それがここでいう
人格の「核」ということになる。
(030612)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(879)

英語力

 このところ、英語力が、ぐんと低下しているのを感ずる。それに加えて、外人と英語で話して
いると、一、二時間で、疲れを感ずるようになった。若いころは、こんなことはなかったが……。

 義理の娘のDに、英語でメールを書く。州立大学のアメリカ文学部を、オナーディグリー(成績
上位)で卒業している。英語力では、かないっこない。そういう思いもあるから、よけいに、こち
ら側からのメールは、いいかげんになる。どんなふうに書いても、理解してくれるだろうという甘
えがある。

+++++++++++++++++

Hi, D!

 Thanks for your mail with kind words. My wife and I are very happy to know all of you have 
been doing well these days. We have been too. We have summer as you have in the States 
but we have a rainy season, so-called "Tsu-yu" before we have dry and hot summer. The 
Tsu-yu usually lasts a month or so. 

 親切なメール、ありがとう。 妻と私は、みなさんが、うまくやっていることを知り、喜んでいま
す。私たちも、うまくやっています。ここ日本でも、合衆国と同じ夏を迎えましたが、日本には、
その前に「梅雨」と呼ばれる、雨の季節があります。そのあと、暑くて乾いた夏がやってきま
す。

 My wife has been eager to see Sage and so have I. Sometimes my wife says she wishes to 
fly to you like a bird to see Sage and so do I. As for us time flies so quick and in the 
meantime Sages grows so quick too. Without a help of the internet, we would have missed 
the most wonderful and shining moment of life, which is your life now. We are very glad to 
share the moment with you who are in the midst of happiness, though in the midst of 
business of raising Sage.

 妻は、セイジにたいへん会いたがっています。ときどき飛んで行きたいなどと言っています。
私もそうです。私たちにとっては、時は、まさに飛んでいくように感じます。そしてその間に、セイ
ジは、大きくなっていく。もしインターネットがなければ、この人生でもっともすばらしいときを、見
逃してしまっていたことでしょう。もっとも輝いていて、幸福な、この瞬間をです。それをあなたと
共有できることを、喜んでいます。

 For the women in the house with a baby, the house itself is a kind of prison as someone 
said in his book. Most women in the house have to stop their carrier on the way. I ams sure 
you have your own dream and wish in your life. The more important thing for you is to 
chase them up. Please don't give them up. You are a mother. You are a wife. But together 
you are a man who seeks your own possibility in your life. Especially you are very much 
talented lady and clever. So why don't you re-start your carrier together with raising up 
Sage. This is very important to keep you alive and young. For one thing one day I wish I 
could read poems you write. 

 家庭にいる女性にとっては、どこかの作家が書いていますが、家庭は監獄のようなもので
す。家庭に入った女性は、自分のキャリアを途中であきらめねばなりません。あなたにも夢や
希望があったことでしょう。大切なことは、それをあきらめず、追いかけることです。あなたは妻
や母であると同時に、一人の人間です。あなたは自分の可能性を追求したらよいのです。とく
にあなたは、才能に恵まれています。だからキャリアを再び始めたらよいのです。それがあな
たを生き返らせ、若返らせます。たとえば私は、いつかあなたの書いた詩を読むのを、たいへ
ん楽しみにしています。

 One thing which I like about you is that you are a lady who has a very straight mind.I don't 
think you can undestand what I mean here. The Japanese are the people who hide their 
mind or the people who pretends to be a different person in the public. I mean here that the 
Japanese are the people who have winding-minds. You have a beautiful and pure mind and 
now I can undestand the more why Soichi fell in love with you.

 あなたについて好きなことは、あなたはたいへんまっすぐな心をもった女性だということです。
こう書いても、あなたには理解できないでしょう。というのも、日本人というのは、心を隠す民族
だからです。そして人前では、別人を装うことをします。つまり曲がった心をもっているというこ
とです。しかしあなたは純粋で、たいへん美しい心をもっている。だから今、なぜ二男が、あな
たに恋をしたか、よくわかります。

 It is 5 oclock in the morning. I have to go to my hometown to see my sister and mother 
who has a small operation in her sore-leg. She is OK now and so please don't worry at all. 
She is over 87 years old and she is tough for her age. I have to come back again here 
before 4 oclock in the afternoon. Frankly I hate to go to my hometown. Some people love 
their hometowns but some other people don't. I belong to the latter. One day I wish I can 
talk about it to you. I also hate politeness and winding in the families. Let's be straight and 
unpolite to each other. This is very impotant for us to strengthen our bonds. Don't you think 
so?

 今は、午前五時です。これから私は故郷へ言って、姉と母に会ってきます。昨日母は、足の
手術をしました。簡単な手術ですから、心配しないでください。母も八七歳を過ぎています。しか
し率直に言えば、私は、ふるさとへ帰るのがいやです。ふるさをを愛する人もいます。そうでな
い人もいます。私は後者の人間です。いつかその理由を、あなたに話すことができればと思っ
ています。私は家族の間では、隠しごとやつくりごとがあってはならないと思っています。すべて
のことにストレートであることが、家族の絆を太くするためには、重要なことだと思っています。

 Now I have to say good moring to you, "O-ha-yo" in Japanese. It s a bright and clear day 
though it is rainy season now. Say hello to Soichi and Sage, together to your wonderful 
parents、Mr. & Mrs.Wilsons. Bye for now!

 さて、あなたに「おはよう」と言います。今日は梅雨なのに、明るく晴れた日のようです。皆さん
によろしくお伝えください。

Hiroshi
浩司

June 12th、2003
(0306012)※
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(880)

病院で

やせこけた頬
かわいた茶色の皮膚
それをおおう、白い、不精ひげ
鼻には、透明の細いホースがつけられ
ぼんやりと、その老人は、ぼんやりと空をみつめる。

白いパイプのベッド
それをおおう、さらに白いシーツ
消毒薬のにおいと、あたりにただよう病臭
水色の服を着たヘルパーさんが
表情も変えず、ただ黙々と、行き来する。

それは私の未来か?
はたまた、あなたの未来か?
老齢は、だれにも平等にやってくる。
「私は違う!」と、いくら払いのけても
あの老人の顔が、脳裏に焼きついて離れない。

あの老人は、何を考えていたのか。
うつろな目で何を見ていたのか。
なつかしく、若々しいころの自分か。
それとも、やがてやってくる死の恐怖か。
あるいは、心を無にしているだけなのか。

いつか私も、逆の立場で、ベッドに横たわり、
通路に立ち止まる男を見るだろう。
そのとき私は、きっとその男に
こうつぶやくに違いない。
「これがお前の、つぎの姿だ」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(881)

混乱から受容へ

 子どもの将来を決定的に左右する……というよりは、親自身の処理能力を超えた問題が起
きると、親は、当然のことながら、パニック状態になる。しかしこうしたパニック状態は、長つづ
きしない。人間の心理は、不安定な状態に弱い。そこで人間は、自分の心を守るため、自らを
調整しようとする。これを防衛機制という。そしてつぎのような段階を経て、自分の心を整理す
る。

 子どもの不登校を例にとって、考えてみる。

【混乱期】
 たとえばある朝、突然、自分の子どもが「学校へ行かない」と言い出したとする。それまでは
心のどこかに不安を感じていたものの、たいていの親は、「まさか!」と思い、ついで、「どうして
うちの子が!」と思う。

 そして「このままではうちの子は、だめになってしまう」「落ちこぼれてしまう」と、妄想が妄想を
呼び、パニック状態になる。それはそれまで順当(?)に進んできた、レールからの脱線、もしく
は、組み立ててきた教育観の崩壊を意味する。ある母親は、自分の子どもがそうなったとき、
高いビルにのぼり、突然、ハシゴをはずされたような感じだったと言った。また別の母親は、崖
から落とされたような感じだったと言った。

 が、それだけではない。子どもが不登校を起こすと、たいていの親は、親として否定されたか
のように思ったり、親として失格という烙印を押されたかのように感ずる。それはおそろしいほ
どの衝撃である。

 さらにそれまで、他人の子どもの不登校を見ながら、それを批判してきた人ほど、その衝撃
は大きい。そういう自分に天罰がくだったかのように感ずる人もいる。

 ともかくも、こうした混乱が突発的に起こる。そしてそれが突発的であるため、不安の連鎖が
始まり、親は、限りなくパニック状態に陥る。この時期に共通した症状としては、つぎのようなも
のがある。

●無理をしてでも、学校へ行かせようとする。

【抵抗期から激怒期】
 こうしたパニック状態が一巡すると、親は、自分の置かれた立場、子どもに現れた症状を否
認するようになる。「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と。そして「悪いのは、自分や子
どもではなく、原因は外の世界にある」と思いこむ。

 たいていの親は、「いじめが原因だ」「学校の先生が悪い」と、原因さがしを始める。子どもは
子どもで、親に聞かれるまま、あれこれ理由らしきことを口にする。もちろん理由がないわけで
はない。しかしそれはいわば引き金となった理由であって、本当に理由ではない。問題の「根」
は、もっと深いところにある。

 この段階で、相手の子どもの家に、「お宅の子どもが原因で、うちの子が、学校へ行けなくな
ってしまった。どうしてくれる!」と、怒鳴り込んでいった親がいる。学校の校長に、「担任の先
生をかえてくれ」と、要求していった親もいる。さらに朝の四時(朝の四時!)に、相手の子ども
の親に、抗議の電話を入れた親もいる。この時期に共通した症状としては、つぎのようなもの
がある。

●子どもが口にするターゲット(理由づけ)に振りまわされ、先生や相手を攻撃したり、ときには
転校したりする。

【取り引き期】

 少し冷静になったところで、「どうすれば学校へ行くようになるか」を考える。あるいは「学校で
勉強できない分を、どうやって補うか」を考える。

 子どもに対しては、激励、説得、懇願、ときには、機嫌取りや叱咤を繰り返す。「このままで
は、○○中学へ行けなくなる」と、脅すこともある。しかしこうした一連の行為は、風邪をひい
て、熱を出している子どもに向かって、水をかけるようなもの。効果がないばかりか、かえって
症状を悪化させる。

 しかし親は、取り引きをやめない。家庭教師を雇ってみたり、学校へ頻繁に相談に行ったり
する。そして子どもに、「一時間でもよいから」「給食だけでもよいから」と、あれこれ働きかけ
る。そして週に一度でも、そして一時間でも学校へ行ったりすると、それを喜んだり、「せめて二
日」「せめて二時間」と願ったりする。

 この段階で子どもの症状は、一進一退する。親はそのつど、はかない希望をいだいたり、あ
るいは反対に絶望したりする。この振幅が、親を、さらに不安にする。「この問題は、半年単位
で考えなさい」と言っても、親には理解できない。親にしてもれば、一か月どころか、一週間でも
長い。

【トンネル期】

 やがて親は、長くて暗いトンネルに入る。精神状態そのものが、抑うつ状態になる人も多い。
元気で登校する子どもをみると、「どうしてうちの子だけが」「どうして私だけが」と悩む。

 あちこちの相談会に行ったり、本を読んだりするのが、この時期。しかし同時に、自分の心を
整理するという作用も生まれる。「学校とは何か」「教育とは何か」と。さらに「希望とは何か」
「絶望とは何か」、「子どもを愛するということは、どういうことか」というレベルまで考える人もい
る。

 そしてやがて、その人なりに、何が本当に大切で、何がそうでないかを考えるようになる。そ
してそうした思いが優勢になってくると、トンネルの先に、光見るようになる。なおこの時期は、
その親ががんばればがんばるほど、また学歴信仰度が高ければ高いほど、長くつづく。共通し
た症状としては、つぎのようなものがある。

●心に張りついた抑うつ感、子どもへの怒りといとおしさが混在する。

【受容期】

 現状を受け入れ、あきらめるようになる。学校や他人からの働きかけを、うるさく感ずるよう
になる。しかしトンネル期が、それで終わるわけではない。ときどき思い出したように、トンネル
に入ったり、出たりする。しかしその回数が減り、やがて親はここでいう受容期に入る。

 最初は、「あなたの好きなようにしなさい」と言ってみる。どこか勇気のいる言葉である。しか
しそれがだんだんと自然な言葉で言えるようになる。世間の目や他人の目が、それほど気にな
らなくなる。また家の中でも、子どもの存在感が小さくなり、相対的に、親のほうに心の余裕が
できてくる。この時期、こう言った母親がいた。「いろいろやってはみましたが、結局は、うちの
子も、ふつうの子だとわかりました。そのふつうに気がつくまでに、親は遠い回り道をするので
すね」と。

 子どもといっしょに散歩に行ったり、旅行したりするようになる。「将来はどうなるのか」という
不安より、「今、できることを一生懸命しておこう。結果はあとからやってくる」というような考え
方になってくる。共通した症状としては、つぎのようなものがある。

●おおらかで、豊かな親子関係。友だち的な親子になる。

 以上、四期に分けて考えてみた。もちろんこれはどちらかというと理想的な形(?)。中には、
トンネルへ入ったまま、そこから抜け出ることができない親もいる。また短期間で、最後のステ
ージまでたどりつく親もいれば、反対に、最初の段階で、つまずいてしまう親もいる。

 しかし忘れてならないのは、これらは親の問題であって、子どもの問題ではないということ。こ
こに例としてあげた不登校にしても、子ども自身にとっては、「学校に行きたくない」「行くことが
できない」というだけのことで、何ら問題ではない。わかりやすく言えば、親が勝手に騒いでいる
だけ。そしてその心配や不安を、子どもにぶつけているだけ。

 こうした子どもの問題をかかえたら、できるだけ良質な情報をたくさん集めて、その問題を理
解することも大切なことだが、それ以前に、こうした問題があることを知り、ある程度の予備知
識を頭の中に入れておくことも大切である。こうした予備知識は、いわば道に迷ったときの地
図の役割をはたしてくれる。
(030613)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(882)

何でも聞きかえす子ども

 ある母親(鳥取県Y町のTNさん)より、こんな相談があった。

 「うちの子(小三男児)は、何でも聞きかえすクセがあります。たとえば算数の問題でも、『5か
ける5は……?』と聞くと、すかさず、『何だって? ……5かける5?』とです。掛け算の九九な
どは、即座の答が出てこなければならないはずですが、万事がこの調子なのです。学校の参
観日でも、先生が何かを聞くたびに、そのつど、聞きかえしています。どうしたらなおるでしょう
か」と。

 これはクセではない。わかりやすく言えば、言語の発達が遅滞することによる症状(言語発達
遅滞)で、それだけに簡単にはなおらない。つまり大脳皮質部などの高次神経系の働きに問題
があるとみる。さらに詳しく言えば、こうなる。外から与えられた情報は、一度脳のあちこちに格
納されたあと、その脳の中で、あちこちに受け渡しされる。その受け渡しがうまくできないとき、
ここでいうような症状が現れる。言葉を覚え始めたころの幼児には、よく見られる現象だが、小
学校の低学年児についてみれば、二〇〜三〇人の一人くらいの割合で出現する(筆者推
計)。

 脳障害の一つに考える学者もいる。が、「障害」といっても、脳のばあい、ひとつのところがお
かしくても、ほかの部分がそれを補完するようになるので、それほど大げさに考える必要はな
い。年齢が大きくなるにつれて、それがやがてわからなくなる。中学生になっても、それまでの
習慣が、残像的なクセとして残ることはあるが、そのときは、あくまでもクセ。学習に影響を与
えるということは少ない。ただ全体としてみると、脳の機能が不全である分だけ、とくに小学生
のころには、学習面での遅れが目立つことが多い。

 このタイプの子どものばあい、指導で注意しなければならないのは、何かを口頭で指示して
も、即座に反応できないこと。そのため注意力が散漫に見えたり、話を聞いていないのではな
いかと誤解されやすい。しかし実際には、(音として入った情報)→(言葉として理解する)→(理
解したことを、分析判断し、行動に移す)という、それぞれの段階で、情報の受け渡しができな
いために、そうなる。本人を責めても、意味はない。

 こうした子どもの指導法としては、数度、繰りかえしてやるのもよいが、情報そのものは、脳
の一部に残っているので、それが理解できるまで、一呼吸、間をおくようにするとよい。さらに
気になったら、算数の問題などは、一度、ノートなどに、書き写させるとよい。そしてあとは、時
期を待つ。その時期は、ここにも書いたように、中学に入学する前後ということになる。それま
でにあせって、なおそうとしたり、無理をすると、かえって逆効果になるので注意する。

【Y君、小四男児の例】

 最初気になったのは、Y君独特の会話法であった。私が何を話しかけても、「何?」「えっ!」
「ふん」と、一度は、言いかえしてくる。算数の勉強のときも、そうだ。たとえば「二番の問題を読
んでください」と話しかけると、「えっ? 問題? 二番?」と。いきなり指したときなどは、とくに
そうで、何も聞いていなかったような反応を示す。

【Hさん、小五の例】

 物語を読んであげても、どこかポカンとした表情を示す。あとで内容を聞いても、ほとんど理
解していない。ほかに「この本を、Bさんに渡してください」と指示すると、一度、自分の心の中
で、それを復唱しているのがわかる。「この本ね、Bさんにね、渡すのね」と。このHさんも、私
が何か話しかけても、一瞬とまどった様子を見せ、いちいちそれを聞きかえしてくる。

 大切なことは、それがその子どものもって生まれた宿命と思い、あきらめて受け入れること。
脳の機能の問題とからんでいるため、本人の自意識や指導でなおる問題ではない。ただ私の
ばあい、できるだけ情報をビジュアル化させることで、指導するようにしている。たとえば「3+
4」の問題でも、即座に、頭の中に、三個の丸と、四個の丸を思い浮かばせ、それを数えさせ
るようにするなど。しかしそれとて、一年単位の根気が必要である。
(030613)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(883)

未来と過去

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満五五歳くらいを境にして、入れかわるという。ある
心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、
個人差がある。

 七〇歳になっても、あるいは八〇歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、
四〇歳の人でも、三〇歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよい
とか、悪いとかいうのではない。ただ満五五歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかし
む心が半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらし
い。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児
や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、な
い。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。一〇年後、あるいは
二〇年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことで
しかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読
んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はした
が、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほ
とんどは、釈迦滅後四、五〇〇年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてでき
た経典である。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教
である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけも
の」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見
たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手に
しない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度
胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づ
けないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかな
い。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力
が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉に
ぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そう
いう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。わかりやすく言えば、仏の境地な
ど、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私も
そう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。過去で
はない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性
 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ
うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき
るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(七〇歳)
がいた。その一五年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた
人だった。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五
人ほど雇うほどまでになった。が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊も
あって、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義
父がなくなってから二年後に他界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の
娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば
二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したとい
う。「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。値段も、二〇〇〇円とか三〇〇
〇円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの
 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大
波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければ
ないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわか
らなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意
味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい
る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、
いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだ
というのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を
させてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療
費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚
いた。「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。
「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら
しい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそうい
う航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そ
してそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば
少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その
波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾
 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで
も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなけれ
ば、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって
説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした
ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別
の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな
るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、
今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた
らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか
ったのかということになる。数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数
十万年など、マバタキのようなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビル
が建つ。しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。数億年と数十万年の違いは大き
い。モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか五〇〇〇年〜六〇〇
〇年ほど前のこと。たったの六〇〇〇年である。それ以前の数十万年の間、私たちがいう神
はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多
い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてそ
の論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、
あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある
 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ
て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に一〇〇歩譲って、神や仏に、奇跡を
起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするもの
ではない。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマ
パダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわから
ないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そ
こに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎
晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性七〇歳)も、その一人と言ってもよい。同じようなこと
は子どもたちの世界でも、よく経験する。たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」
と泣きついてくる親や子どもがいる。そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。い
わんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが…
…)、さらに困る。もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。
不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論
 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ
たのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。が、何も私は、そういう
女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かって、「そう
いう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザマとし
て、尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずす
ようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何ら
かのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言
ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう
すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き
なくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?
 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人
生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、
毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私
とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいし
ばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世
界に、吹き飛ばされてしまう。しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値
もそこから生まれる。もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそ
こから生まれる。……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢
 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す
る。先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる
目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考
えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまで
わかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと
考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャに
なったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。人は年齢とともに、よ
り賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かになるだけならまだしも、古
い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か
自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世
界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ
れば、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん
 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々
に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進
(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始
める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、
その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(884)

乳幼児の記憶

 新生児や、乳幼児にも、記憶はある。科学的にそれを証明したのは、ワシントン大学のメル
ツォフ(発達心理学)たちである。しかもその記憶の量と質は、私たちが想像するよりも、はる
かに濃密なものであると考えてよい。

 その一例として、野生児がいる。生後直後から、人間の手を離れ、野生の世界で育てられた
人間をいう。よく知られた野生児に、フランスのアヴェロンで見つかった、ヴィクトールという少
年。それにインドで見つかった、アマラ、カマラという二人の少女がいる。

 アヴェロンの野生児についていえば、発見されたときは、推定一二歳ほどであったが、死ぬ
までの四〇歳の間に覚えた単語は、たった三つだけだったという。またインドの二人の少女
は、完全なまでに動物の本性と生活条件を身につけていたという。感情表現もなく、おなかが
すいたときに怒りの表情。肉を食べたとき、満足そうな表情を見せた以外、生涯、ほほえむこ
ともなかったという。

 この野生児からわかることは、乳幼児期の記憶、なかんずく、生活環境が、きわめて濃密な
形で、その人間の人格形成に影響を与えているということ。またその時期にできた、いわゆる
人格の「核」というのは、その後、生涯にわたって、その人のまさに「核」となって、その人の生
きザマに影響を与えるということ。

 私たちは新生児や乳幼児を見ると、そのあどけなさから、「こういう幼児には記憶などあるは
ずがない」とか、あるいは、自分自身の記憶と重ねあわせて、「人間の記憶が始まるのは、
四、五歳の幼児期から」と考えやすい。しかしこれは誤解というより、まちがいである。

 子どもは生まれたときから、そして乳幼児期にかけて、ここにも書いたように、きわめて濃密
な記憶を、脳の中にためこんでいく。しかも重要なことに、人間は、自分の子育てをしながら、
自分が受けた子育てを、再現していく。これを私は、勝手に「人格の再現性」と呼んでいる。子
育てを再現するというよりは、その人自身の人格を再現するからである。

 わかりやすい例でいえば、たとえば自分の子どもが中学生になると、ほとんどの親は、言い
ようのない不安や心配を覚える。しかしそれは自分の子どもの将来についての不安や心配と
いうよりは、自分自身が中学時代に覚えた不安や心配である。将来に対する不安、人間が選
別されるという恐怖。それを自分の子どもを通して、親は再現する。

 私も、最近、こんな経験をしている。

 昨年、孫が生まれた。二男の子どもである。二男は、インターネットで、子育ての様子を伝え
てくれるが、その育て方を見ていると、二男は恐らく、自分では、自分は自分の子育てをしてい
るつもりかもしれないが、どこかしこというより、全体としてみると、私が二男にした子育てと同
じことを繰りかえしているのがわかる。

 こうしたことからも、つまり現象面から見ても、新生児や乳幼児にも、記憶がしっかりと残って
いることがわかる。そういう意味では、ワシントン大学のメルツォフたちの研究は、それを追認
しただけということになる。

 さてここが重要である。

 あなたはあなたの子どもの記憶を、決して安易に考えてはいけない。子どもが泣いていると
き、あるいはひょっとしたら眠っているといでさえ、子どもの脳は、想像を超える濃密さで、その
ときの状況を、記憶として蓄積している。そしてそれがそのまま、その子どもの人格の核となっ
ていく。

 これに対して、「私は自分の記憶を、四、五歳くらいまでしか、たどることができない。だから
それ以前は、記憶はないのではないか」という意見もある。しかしこれについては、もう一度、
はっきりと否定しておく。

 記憶は、記銘(脳の中に記録する)、保持(その記憶を保つ)、そして想起(思い出す)という
操作を経て、人間の記憶となる。ここで重要なことは、想起できなからといって、記憶がないと
いうことではないということ。事実、脳の中心部に辺縁系と呼ばれる組織があり、その中に海馬
(かいば)という組織がある。

 この海馬には、ぼうだいな量の記憶が保持されている。が、その記憶のほとんどは、私たち
の意識としては、想起できないことがわかっている。いわば担保に取られた貯金のようなもの
で、取り出すことはもちろん、使うこともできない。しかしそしてそうした記憶は、無意識の世界
で、その子どもを、そして現在のあなたを、裏から操る……。

 繰りかえすが、新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。
(030614)

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これに関連して書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。
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親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

つい先日も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一
学期の期末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇
番前後だと思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、
表面的には穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室
に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動
かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。

こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、
いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに
対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子ど
もの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親を
アテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過
去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静
かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、
自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものため
でもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをし
た人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。
(030614)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(885)

六月一四日、山荘にて

 昼過ぎ、山荘に着く。小雨。しかし誤解しないでほしいのは、山荘は、雨の日が最高。あたり
一面、白いモヤに包まれていた。ワイフが何度も、「深い山の中みたい」「富士山の山頂にいる
みたい」と言った。

 着くとまもなく、遅い昼食。その前に、大きなビニール袋いっぱいの、ビワを収穫。もっと収穫
できたが、雨がひどくなったので中断。しかし昼食を食べると、私もワイフも眠くなってしまった。
で、そのままイスに座ってうたた寝。

 そのあと、部屋を移して、また昼寝。しかしどこでどう眠ったのか知らないが、気がつくと、時
刻は、午後九時。時計が狂ったと思ったほど。ワイフに「もう九時だって?」と驚いてみせると、
「そうみたい」と。

 お茶を一杯飲んで、ビデオを見る。「チェンジングレーン」というビデオ。山荘へ来る前に、ビ
デオショップで借りてきた。今、この原稿を書いている横で、それが始まったところ。

 場所はニューヨーク。貿易センタービルが、瞬間だが見えた。よい映画は、最初の十数分を
見ればわかる。今のところ、どうやら合格のようだ。動きも展開も、おもしろい。

(しばらくビデオを見るために中断。)

【チェンジングレーン】

 二人の事情をもった男が、ともに裁判所へ行く途中で、接触事故を起こす。すべてはここから
始まる……。

 途中で話が、少し入り組んできた。めんどうになてきた。このところこういったタイプのビデオ
は見ない。わかりやすいビデオのほうがよい。しかしこのビデオは、シリアス。いくつかのハプ
ニングが重なり、事情はますますエスカレートする……。

 この映画には、都会生活の醜悪さが、満ちあふれている。山荘で見ると、よけいにそれを強く
感ずる。陰謀、策略、雑踏、駆け引き、そしてビジ・ネス(多忙業)。都会生活がすべてそうだと
は思わないが、しかしそうでないとは、もっと思えない。はからずもこんなセリフがある。「この
世は綱わたり。落ちずにわたるんだ」と。つまり「うまく、悪いこともせよ」と。

私はそのビデオを見ながら、マクドナルド(ハンバーガーチェーン)の創始者のR・マクドナルド
を思い出していた。彼は早い段階でマクドナルドの営業権利を手ばなし、それ以後は、地方の
農村で、悠々自適(ゆうゆうじてき)の田園生活。その彼は、生前、テレビのインタビューに答え
て、こう答えている。「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろはニューヨークのオフィスで、弁
護士や会計士に囲まれてつまらない生活をしていることでしょう。(こういう農場でのんびり暮ら
している)今のほうが、ずっと幸せです」と。

 ビデオの最後は、みなさんで見てほしい。(本当のところは、書けない。ビデオにも著作権の
ようなものがあるのかも?)私の好みとしては、★★二つ。ハッピーエンドで終わったものの、
どこか、軽くあしらわれた感じ。

 時計を見ると、時刻は、午後一一時、少し前。山荘に泊まるかどうか、迷った。が、自宅に帰
ることにした。一六日(月曜日)は休みなので、その日に、また山荘にきて、草を刈るつもり。明
日は、一日、原稿書き。ポッカリとヒマになったから、マガジン用の原稿を書きためる。私には
貴重な一日だ。では、みなさん、おやすみなさい。
(030614)

+++++++++++++++++
2002年に書いた原稿を添付します。
+++++++++++++++++

生きることを原点に

 リチャード・マクドナルドという人がいた。数年前に八九歳でなくなったが、あのハンバーガー
チェーンの「マクドナルド」の創始者と言えば、だれでも知っている。が、当のマクドナルド氏自
身は、早い時期にレストランの権利を別の人物に売り渡している。それについて生前、テレビ
のレポーターが、「損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。マクドナルド氏はこう答えてい
る。「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろはニューヨークのオフィスで、弁護士や会計士に
囲まれてつまらない生活をしていることでしょう。(こういう農場でのんびり暮らしている)今のほ
うが、ずっと幸せです」と。 

 話は大きくそれるが、私には三人の息子がいるが、そのうちの二人をあやうく海でなくしかけ
たことがある。とくに二男は助かったのが奇跡としか言いようがない。そんなこともあって、私は
二男に何か問題があるたびに、「こいつは生きていてくれるだけでいい」と思いなおすことで、
それらの問題を乗り越えることができた。生きることを原点にしてものを考えるということは、そ
ういうことをいう。

 私はマクドナルド氏の話を聞いて、大きな衝撃を受けた。日本人には信じられないような生き
方だが、アメリカやオーストラリアでは珍しくない。私の友人のピーター君も、宝石加工会社を
おこし、四〇数歳の若さで「輸出高ナンバーワン」で、オーストラリア政府から表彰されている。
しかしそののちまもなく権利を売り渡し、今はシドニー郊外で悠悠自適の隠居生活を楽しんで
いる。ほかにもこういう例は多い。よく知られた人物としては、ジェームズ・ルービン報道官がい
る。彼は妻の出産を理由に、ホワイトハウスの報道官を退任。今はロンドン郊外で「主夫業」
(報道)をしている。

 ものの考え方というのは相対的なものである。日本人が「あれっ!」と思うということがあれ
ば、ちょうどその反対のことで、彼らもまた同じように、「あれっ」と思うもの。アメリカ人やオース
トラリア人にしてみれば、日本人の生き方のほうが奇異に見えることだって多い。……いや、だ
からといって日本人の生き方がまちがっているというのではない。日本人は日本人で、今、精
一杯がんばっている。こういう生き方しかできないといえば、それはし方ないことだ。しかし心の
基本が、どこにあるかで生き方そのものも変わってくる。ものの考え方も変わってくる。もちろ
ん子育てのし方も変わってくる。仕事は大切だ。名誉も地位も肩書きも大切だ。しかしそれは
決して世界の常識ではない。世界の常識は、もう少し違った位置にある。

 要は、生きる本分を忘れないということ。忘れると、世界から日本はいつも奇異な目で見られ
る。個人について言えば、結局は自分の人生をムダにすることになる。

+++++++++++++++++++

少し長いエッセーですが、以前書いたものを
手直ししてお送ります。読んでいただければ
うれしいです。

+++++++++++++++++++

「おしん」と「マトリックス」

●私の実家は閉店状態に……
 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、
全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。九七年に約
二〇〇〇億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさん
がモデルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでた
いというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーがで
き、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言え
ば、閉店状態に追い込まれた。

●生きるために働くが原点
 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働
く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ
れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。生きることが本来」母体(マトリックス)であ
るはずなのに、働くという仮想現実の世界のほうを、母体だと錯覚してしまう。一つの例が単身
赴任という制度だ。

もう三〇年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当時の副学部長だったブレナン教授
が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という制度があるそうだが、法的規制は
何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラ
にされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外ではない。

●たまごっちというゲーム
あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物
(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。私が「何も死んでいないのだよ」と
説明しても、このタイプの子どもにはわからない。一度私がそのゲームを貸してもらい、操作を
誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そのときもそうだ。そのときも子ども
(小三女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出してしまった。いや、子どもだけではない。当
時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。
マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養している女性(二〇歳くらい)もいた
(NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。

●たかがゲームと言えるか?
常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。し
かし本当にそうか? その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教
団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていな
い「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信
者は、どこが違うのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが
違うというのか。仮想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。

●仮想現実の世界
さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はい
くらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得た
としても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値
というのは、もっと別のことである。地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこな
くてもかまわない。そういうものをまっ先に求めたら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか
あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかっ
た。その息子のW氏にしても、全盛期には世界一六カ国、グループで年商五〇〇〇億円もの
売り上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。私の父などは、自分で勝手に
テリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄だから自転車は売らない」な
どと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。仮にその町内で自転車が売れたりすると、
夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。相手の自転車屋に気をつかったためである。し
かしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方は、まさに
めちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まるでブルドーザーで
地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?
晩年の父は二、三日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界
の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準で人を判断す
ることのほうが、まちがっている。父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘
れなかった。人間性ということを考えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だった
が、W氏にまさることはあっても、劣ることは何もない。おしんもある時期までは生きるために
働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように富と財産を追い求め始めた。つまりそ
の時点で、おしんは働くために生きるようになった。

●進学塾の商魂
 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功者という
のは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。これも一つの例だが、二〇〇
二年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。公立の学校である。その説明
会には、定員の約六〇倍もの親や子どもが集まった。そして入学試験は約六倍という狭き門
になった。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒステリー状態になる親も続出し
た。

で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そのため
の特別講座の説明会を開いた(二〇〇二年二月)。入試が終わってから一か月もたっていな
かった。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。私も進学塾の世界はかいま
見ているから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした講座を開くようになったかが
よくわかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう「生きるために働く」というレベルを超
えている。あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろうか。現代でいうところの成功者と
いうのは、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、そうだとするなら「成功」とは
何かということになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店の安売り攻勢にネをあげた
周囲の商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあった。

●自分を見失う人たち
 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生
きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を
見失う。日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。しかしそのW氏の
サクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたことか。私の父もその
一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の関係者は別として、
W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち
 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある政治家
が土建業者から一〇〇〇万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈った業者
は、その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈ったに過ぎない。
しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間だから
贈ってもらったと思う。政治家だけではない。こうした例は身近にもある。

たとえばA氏が取り引き先の会社のB氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人
に対してではなく、B氏の会社に対してである。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮
想現実の世界に住んでいるから、その世界での評価イコール、自分の評価と錯覚する。しかし
仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろうか。たぶんA
氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはいくらでもある。

●子育ての世界も同じ
 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育ての本
分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を
育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわって
いる。ある母親はこう言った。「そうは言っても現実ですから……」と。つまり現実に受験競争が
あり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはない、と。

しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そちらのほう
を「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることに
よって、大切なものを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そし
て結果として、親子関係を破壊し、子どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわかりやすい
例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界
 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたとき
のこと。私が中学一年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自転車とい
う意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語を読んだぞ! 
英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語
のテストを持ち帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? 
クラスで何番くらいだったの? これではA高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い
月謝を払って、英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親すらいる。こういう親の教
育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼関係、さらには親のきず
なまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会があり、
そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための武器として
子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」になってしまって
いる。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる
 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも未来の
ために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中学校や
高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。こうした生き方、
つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の人生をムダにすること
になる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の
代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてし
まう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 
 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生きざまを知
ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。
 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。あなたが今、二週間という休暇を
与えられたとする。そのとき、@休暇は休暇として。そのときを楽しむことができる。A休みが
数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休暇が終わってからの仕事のことばか
り考える。あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。あなたの子ど
もの学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、@子どもは子どもで、休みは思う存分、
遊べばよい。A子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またしっかり勉強するた
めだ。

 @のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、その本質
は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために犠牲にする。だから
未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえて生きることができない。

●日本人の結果主義
 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。たとえば
仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。実際に、「死
に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。この結果主義もつきつめれ
ば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日本人が仏教を取り入れたと
きから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えてもおかしくない。

●なぜ今、しないのか?
 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてそのパターン
に入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。脳のCPU(中央演
算装置)が狂っているからである。たとえば私の知人にこんな人がいる。何でもその人はもうす
ぐ定年退職を迎えるというのだが、その人の夢は、ひとりで、四国八八か所を巡礼して回ること
だそうだ。私はその話を女房から聞いたとき、即座にこう思った。「ならば、なぜ、今しないの
か」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする
 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるいはその
人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性のほうが大き
い。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こう」とか、「旅
行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。抑圧された緊張感
の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」という感覚
すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠牲になって当然と
考える。

●今を生きる
 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアムズ主演の
映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指導中心の学校
教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。あるの
は、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた思い出に過
ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。だったら大切な
ことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの「時」を生きることではない
のか。未来などというものは、あくまでもその結果としてやってくる。

●再起をかけるW氏
聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま
たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの
人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。いや、実際にはそれ
に気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きている人はいくらでもい
る。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言った。「君は幼稚園の教師をして
いるというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかったのだろう」と。彼は
退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクでない仕事もな
い。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によって、人を判断する。稼
いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド
マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、リチャ
ード・マクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、一九五五年にレストランの権利
を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡している。(リチャード・マクドナルド
氏は、九八年の七月に満八九歳で他界。)そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利
を)売り渡して損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えてい
る。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオフィスで、
弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農業を営みながら)、
のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナルド氏は生きる本分を忘れな
かった人ということになる。

●残る職業による身分制度
私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは
道をまちがえたあ!」と言って、泣き崩れてしまった。当時の世相からすれば、母が言ったこと
は、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をまちがえたわけではない。私は自分のした
いこと、自分の本分とすることをした。

一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでもありがた
がる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を必要以上にあ
がめる。今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師
は最下位。さらに幼稚園の教師は番外、と。こうした派序列は、何かの会議に出てみるとわか
る。一度、ある出版社の主宰する座談会に出たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横
に座った教授とでは、まるで違ったのには驚いた。私に向っては、なれなれしく「林さん……」と
言いながら、振り向いたその顔で、教授にはペコペコする。こうした風潮は、出版界や報道関
係では、とくに強い。

●マスコミの世界
実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・二〇〇五)
の懇談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが……?」と、思わず口
をすべらせた新聞社の記者(四〇歳くらい)がいた。私には、「どうしてあんたなんかが……」と
聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮想現実の世界に住んでいる。人間を見るという視
点そのものがない。私のような地位や肩書きのない人間を、いつもそういう目で見ている。自
分も自分の世界をそういう目でしか見ていない。だからそう言った。が、このタイプの人たち
は、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で自分の人生をムダにしながら、ムダ
にしているとさえ気づかない。

●人間を見る教育を
 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には関東地
域の中高一貫校、約六〇校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒業後の進
学大学校名を明記している。中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それ
が実に偽善ぽい。それらの案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何か
のようですらある。子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界
に押し込めようとしているような印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく
 ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度自分のま
わりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介かもしれない
が、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言うなら、子どもたち
のためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話がある。

 先日、六〇歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉の夫の
友人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけが人生のよ
うな人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。その一言が、このエッ
セーの結論ということになる。
(030614)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(886)

善なる心を信じよう!

 人間の心は、基本的には、善である。だからこそ、人間は、人類は、過去数十万年という長
い年月を生き延びることができた。

 もし人間が悪なら、とっくの昔に、絶滅していたはずである。つまり人間の肉体が、時間をか
けて進化したように、その魂もまた、進化した。そのことは世界のあちこちに住んでいる原住民
を見ればわかる。

 私が直接知っているのは、オーストラリアのアボリニジーと呼ばれる原住民だが、彼らは、実
に平和で、のどかな生活をしていた。見方によっては、現代社会よりはるかに心豊かな社会を
つくりあげていた。

 恐れることはない。迷うことはない。とまどうことはない。「私は善人だ」と、あなたも声をあげ
て叫んでみよう。そして大切なことは、そういう自分を信ずること。あとはそれを信じて、前向き
に生きていく。

 もしあなたの周辺に悪があるとするなら、その悪は、善の上につくられた虚妄にすぎない。た
とえば新聞をにぎわす、暴力、殺人、戦争、争い、犯罪すべて、それらは善という基盤の上に
できた、虚妄にすぎない。そういうものがあるからといって、人間が善であるという基盤は、みじ
んもゆるがない。

 もちろん子どももそうだ。この世界には、悪い子どもはいない。いるとすれば、それは「作られ
た子ども」とみる。不幸にして不幸な環境、不適切な環境、ゆがんだ教育によって、作られた子
どもである。どんな子どもでも、あるべき環境で、あるべき方法で育てれば、そのまま善(よ)い
人になる。決して悪い子どもにはならない。なぜなら繰りかえすが、人間は基本的には、善であ
るからである。

私は善人だ。
あなたは善人だ。
みんな善人だ。
この世界には、
悪人はいない。
もしいるとするなら、
彼らこそ、
現代社会が生んだ
あわれな犠牲者にすぎない。
さあ、あなたも
自分の中の善を、
もっと勇気を出して
信じよう。
そして声を出して
叫んでみよう。
私は善人だ。
あなたは善人だ。
みんな善人だ、と。
(0306014)

【科学的な視点から】
 脳の中心部に、辺縁系と呼ばれる組織がある。その中に扁桃体と呼ばれる部分があるが、
どうやらその扁桃体が、ここでいう「善」の中核になっていることが、最近の研究でわかってき
た(伊藤正男)。

 たとえば快、不快の判断をするのは、大脳の新皮質ではなく、この扁桃体だという。人に親
切にしたり、やさしくすると、心地よい響きがある。その「心地よさ」は、扁桃体がコントロールし
ているという。もっと科学的には、この扁桃体から、エンドルフィン系、エンケファリン系の脳内
麻薬が脳内に放出され、その人を心地よくするという。

 その結果、満足、不満足の感情が生まれ(新井康允)、人間は、自ら、よいことをするように
仕向けられるという。これから先、こうした研究がさらに進むことを期待したい。

 また現象面では、つまり発達心理学の分野では、好子(こうし)、嫌子(けんし)という言葉を使
って、同じことが説明されている。これについては、別のところで考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(887)

幼児の遠近感覚

 「お父さんやお母さんが、車で走っていて、いてばんこわがるものは、何ですか?」と聞くと、
年長児の子どもたちが、勝手なことを言い始めた。

 「怪獣」
 「おばけ」
 「交通事故」と。

 そこで私が、「もっとこわいものがあるよ」と言うと、「教えて、教えて!」と。私は一呼吸を置い
て、こう言った。「幼稚園の子ども」と。

 すると子どもたちが、「どうしてエ〜? どうして私たちが、こわいのサア〜?」と。

 今週のレッスンは、ここから始まった。私は「だって、子どもは、すぐ道路へ飛び出すだろ。だ
からこわいのさ」と。

 子どもの遠近感覚がはっきりしてくるのは、満五歳前後。自分の家の置かれた位置を、高い
ところから見るように、客観的に見ることができるようになる。そしてこの時期、少し指導をする
と、簡単な地図を書くことができるようになる。

 何でもないようなことだが、自分の置かれた位置を、客観的に知るという能力は、自意識の
発達にも欠かせない。「自意識とは何か」ということはよく話題になるが、私は、「自分を客観的
にとらえる能力」と、理解している。

 位置だけではない。立場や、能力、方向性など。この自意識が未発達なままだと、自己中心
的なものの考え方が強くなる。「自分こそが、世界の王者である」とか、「自分の住んでいる家
が、世界の中心である」とか。幼児期では、「私は、人に大切にされて当然。またそれにふさわ
しい人間」と考える。いわゆるドラ息子(娘)の初期症状と考えてよい。

 かく言う私にも、こんな経験がある。

 オーストラリアで学生生活を送っていたときのこと。一人のオーストラリア人の学生が、私にこ
う聞いた。「君は、どの島から来たのか?」と。私はその質問にムッとして、「島ではない、本州
(メイン・コンティネント)だ」と答えると、その学生のみならず、まわりにいた学生たちまで、どっ
と笑った。私が冗談を言ったと思ったらしい。

 英語で「本州(メイン・コンティネント)」というときは、ヨーロッパ大陸とか、オーストラリア大陸
とかいうような、「大陸」を意味する。つまりそのときの私は、まさに「井の中のかわず(カエル)」
だった。

 日本は、世界的に見れば、どうしようもないほど、小さな島国である。あることは、世界に出て
みると、わかる。(だからといって、日本がつまらない国だと言っているのではない。誤解のない
ように。)しかしそれだけに、どこかまともでない、どこかおかしな民族性があるのも事実で、そ
れらは日本に住んでいるかぎり、ぜったいに、わからない。

 私はあらかじめ親たちから教えられた情報をもとに、「近くに、スーパーがあるの? そのス
ーパーと、郵便局は、どちらが遠いの?」と聞いたあと、子どもたちに地図をかかせた。遠近感
覚の発達している子どもは、まっすぐな道路を何本かかき、その間に、自分の住んでいる家
や、建物をかく。そうでない子どもは、グニャグニャとした道路をかく(年長児)。私はそれを見
ながら、心のどこかで、「私はどうなのか?」と、何度も思った。つまりこのところ、どうもその遠
近感覚が鈍ってきたように感ずる。何かにつけて、日本中心のものの考え方をするようになっ
た。この問題は、決して、子どもだけの問題ではないようだ。
(030615)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(888)

ファミリス掲載記事(6月号)より

●雑誌「ファミリス」につぎのような原稿を掲載してもらった。

Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)

A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。

 日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。

 さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。

 否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。

 相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。

 さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。

 ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。

+++++++++++++++++++++++
そのスティーブンソンについて書いたのが、つぎの原稿
です。再送信します。
+++++++++++++++++++++++

私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。四四歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。一七歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科
に転じ、二五歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニ
アで知りあった、一一歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、三〇歳のときで
ある。小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そし
てそのあと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、一〇〇年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがす
ばらしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたステ
ィーブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、
生まれない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)

【追記】
 いろいろな雑誌があるが、とくに今年度に入ってからの「ファミリス」の編集には、目を見張る
ものがある。すばらしい。静岡県では、県内のすべての小中学校に配布されているが、県外の
人も購読できる。申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページより。
(030615)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ファミリス掲載記事(6月号)より

●雑誌「ファミリス」につぎのような原稿を掲載してもらった。

Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)

A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。

 日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。

 さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。

 否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。

 相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。

 さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。

 ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。

+++++++++++++++++++++++
そのスティーブンソンについて書いたのが、つぎの原稿
です。再送信します。
+++++++++++++++++++++++

私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。四四歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。一七歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科
に転じ、二五歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニ
アで知りあった、一一歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、三〇歳のときで
ある。小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そし
てそのあと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、一〇〇年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがす
ばらしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたステ
ィーブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、
生まれない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)

【追記】
 いろいろな雑誌があるが、とくに今年度に入ってからの「ファミリス」の編集の充実ぶりには、
目を見張るものがある。すばらしい。静岡県では、県内のすべての小中学校に配布されている
が、県外の人も購読できる。申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページより。毎月300円のお買い得!
(030615)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(889)

思い切って、捨てる

 あふれかえるもの。もの、また、もの。

 こういうときは、ただひたすら、捨てるのがよい。「また使うかもしれない」「またどこかで使お
う」「役にたつこともある」などという、ケチな根性はもたないほうがよい。大きなもので、三年。
小さなもので、一年使っていないものは、思い切って、捨てる。

 ものが多くて不便を感ずるか。あるいは、ものが少なくて不便を感ずるか。要はどちらを選ぶ
かだが、私はこのところ、後者を選ぶようになった。若いころは、キャンプへ行くにも、海水浴に
行くにも、そのつど、一式買いそろえた。しかしたいていのものは、一度使っただけで、そのま
ま押入れや戸棚へ。気がついてみたら、家中、ものだらけになってしまった。

 しかも買い物習慣というのは、こわいもの。ある一定の期間をおいて、同じものを買う。たとえ
ばドライバーセット。数年置きに、どういうわけかドライバーセットを買う。しかし三〇年間には、
それが何セットもになる。もちろんドライバーセットだけではない。あらゆるものが、そういうサイ
クルで、身のまわりで、ふえていく。

 そこでここ一〇年、私はほとんどものを買わなくなった。部屋について言えば、ゴチャゴチャと
いろいろなものがつまっている部屋より、どこかカランとした部屋のほうに、安らぎを覚えるよう
になった。多少、不便なこともあるが、耐えられないほどではない。

 ただワイフは、まだそういう心境に達していない。私が何かを捨てようとするたびに、「ダメダ
メ、これはまだ使うから」「それはとっておいて」などと言う。息子たちの衣類や、ふとん類など
は、そんなわけで、今でも、押入れにどっさりとある。まあ、そのうち、捨てるだろうと思っている
が、そう思いながら、もう一〇年になる。ワイフは、ああいったものを、どうするつもりなのだろう
か。

 捨てるのは、たしかにもったいない。ほとんどは、お金で買ったものだ。しかしやはり、捨てる
のがよい。どうせ財産価値はない。財産価値も生まれない。いや、生まれるかもしれない。こん
なことがあった。

 私がかいた絵を、子ども(小四男児)に、あげようかと声をかけると、その子どもは、こう言っ
た。「先生の絵なんか、いらない!」と。そこで私はこう言った。「いいや、ぼくの絵はね、二〇年
後には、一〇〇万円くらいにはなるかもしれないよ」と。

 するとその子どもは、「そんなら、もらう」と。が、しばらく間をおいて、私はその子どもに、こう
言った。「だけどね、二〇年後には、ラーメンいっぱい、一〇〇万円になっているかもしれない
よ」と。

 さあ、あなたも不要なものは、思い切って捨ててみよう。家の中だけではなく、心の中もスッキ
リ。今日は、日曜日。実は、今、その掃除が、終わったところ。かなりのものを、捨てた。燃やし
た。さわやかな汗が、まだしっとりと気持ちよい。
(030615)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(890)

肛門

 若いころ、私は、七年をかけて、「東洋医学経穴編」(学研)を書いた。七年である! 今でも
その本は、学研から販売されている。「経穴」というのは、「ツボ」のこと。

 その本を書いているとき、どこかで、「肛門はなぜツボになっていないのか?」と疑問に思っ
たことがある。お尻の肛門である。ツボというのは、読んで字のごとく、くぼんだ部位をいう。肛
門は、まさに、人体の中でも最大の、その、くぼんだ部分である。

 肛門の少し前に、「会陰(えいん)」というツボがある。少しうしろには、「長強(ちょうきょう)」と
いうツボがある。しかし肛門は、ツボではない?

 この肛門が、きわめて重要なツボであることは、それなりにスケベな人なら、みんな知ってい
るはず。(ただし私は、オカマではない。念のため……。)ここを刺激すると、脳内にモルヒネに
似た麻薬様の物質が、充満する。

 私はそのことを、シャワートイレを使うようになってから発見した。つまり肛門は、頭痛、とくに
偏頭痛の特効穴(けつ)である。もし読者の中で、慢性的な頭痛もしくは、偏頭痛に悩んでいる
人がいたら、一度、シャワートイレに入って、一〇〜三〇分、肛門を刺激してみるとよい。たい
ていの頭痛は、それでなおるはず。

(私はドクターでないから、こういう無責任なことが、平気で書ける!)

 ついでに思い出したが、昔、漢方(東洋医学)を独学していたころ、台湾から来ていたC先生
に出会った。C先生は、毎週、台湾から東京へきて、東京の厚生年金会館で、講義をしてい
た。私はその講義に出席していた。

 そのC先生が、講義の合間に、こんな肩こりの治し方を教えてくれた。(私自身は、肩こりにな
ったことがないので、効果があるかどうかは、わからないが、人に試みたところ、効果があるら
しいということは確認している。)

 方法は、まず片方の腕を、手をのばしてまっすぐ水平にする。そしてだれかに、指を、外側に
向けて、力いっぱい、引っ張ってもらう。指は一本ずつ、タオルか何かに巻いて引っ張ってもら
うとよい。指が抜けるかと思うほど、力いっぱい引っ張ってもらうのがコツ。(決して指は抜けな
いし、痛くないから安心してほしい。)

 一方の手が終わったら、今度は、反対側の手でそれをしてもらう。こうして交互に、三〇分前
後、つづける。C先生は、「肩こりを治す、裏技だ」というようなことを言っていた。

 ……漢方の世界は、足を洗って、もう一五年になる。しかし私が二九歳のときに書いた「東洋
医学基礎編」(学研)は、いまだに全国の医学部や鍼灸学校のの教科書になっているという。
それはそれとして、漢方については、いやな思い出ばかり。それで漢方についての原稿は、め
ったに書かないが、たまたま今夜、ワイフとシャワートイレの話をした。それで、こんな原稿を書
いてみた。

 いや、私が「ウォシュレットを知っているか?」と聞いたら、ワイフが、「シャワートイレって言う
のよ」と教えてくれた。実は、我が家も、去る五月から、そのシャワートイレにした。温水つき
の、すぐれものである。……そう言えば、このところ、どこか頭が軽くなったような気がする?

 ついでに一言。先日、私が、私の生徒たちに、「うちもね、ウォシュレットにしたよ」と話した
ら、生徒たち(小三クラス)が、みな、こう言った。「遅れてル〜。今ごろオ?」と。そこで「みんな
のうちは、ウォシュレットか?」と聞くと、全員、「そうだヨ〜」と。

 時代も変わった? ……と思って、この話は、ここまで。このところ、トイレに入るのが楽しい
……ということで、何とも、下品な話で失礼!
(030616)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(891)

最近のニュースから

●エイズ感染者が、若者を中心に、もうすぐ二万人!

「国内のエイズ感染者の数は、三年後の二〇〇六年には、二万二〇〇〇人になる。発症した
患者は、五〇〇〇人に達する」と。

厚生労働省の研究班の報告である。班長の橋本氏は、「国内のHIV感染者は、欧米に比べて
急激に伸びている。危機感をもって対策を強化すべきだ」と。

最近の高校生や大学生のおおかたの意見は、「エイズはこわくない」になりつつある。「感染し
ても、発症しない」「薬で抑えることができる」などと言う子どももいる。

 しかしエイズのこわさは、病気そのものもさることながら、それだけではない。浜松市内のIセ
ンターで感染症の治療にあたっているY医師は、こう話してくれた。「エイズのこわさは、実は治
療費の問題にあります」と。治療費が、高額だというのだ。「どれくらいですか?」と聞くと、「ふ
つうのサラリーマンの給料では、とても払いきれない額です」とのこと。それを生涯にわたって、
払いつづけねばならない。

 しかし二〇〇六年で、エイズ感染者がとまるわけではない。このままいけば、二〇一五〜二
〇年には、何と、一五万人になるという推計もある。一五万人! 決して他人の問題ではな
い。これはあなたの子どもの問題である。

 こうした問題を防ぐ唯一の方法は、あなたの子どもを、自ら考える子どもにすること。何が大
切で、そうでないか、それを静かに考える子どもにすること。そして子ども自身を、常識豊かな
子どもにすること。倫理だの道徳だの、あるいは宗教だの、そういうものを頭から、押しつけは
いけない。……そのために、私の、はやし浩司のマガジンを読むこと……というのは、自己宣
伝過ぎるが、本当にそう思う。


●中高校生は、睡眠不足

厚生労働省の研究班の調査によると、中高校生の睡眠時間は、つぎのようだという(03年)。

一日の平均睡眠時間が、六時間未満だったのは、

   中学1年……12%
     2年……17%
     3年……29%
   高校1年……38%
     2年……40%
     3年……43%(小数点以下、四捨五入)だそうだ。

全国の中高校生、一〇万六三〇〇人についての調査結果だという。(一〇万人とは! 厚生
労働省だからできる調査!)それはさておき、高校三年生で、半分近くの子どもが、六時間も
眠っていないとは!

 これらの子どもは、「昼間も、強い眠気を感ずる」(13%)、「夜、寝つきにくい」(16%)と。さ
らに睡眠の質に満足していない子どもも、四〇%もいたという。研究班は、「眠りと心の健康に
は、密接な関連がある」と警告している。

 で、総じてみると、日本の社会は、不健康型社会になりつつある。……なってしまった。享楽
的で、せつな的。まさに「退廃(たいはい)文化」が、大手を振って、この日本の社会の上に君
臨している。ウソだと思うなら、若者たちがこっそりと(あるいは堂々と?)見ている、バラエティ
番組をのぞいてみるとよい。天下の大放送局が、最新のハイテク映像機器を使って、夜な夜
な、低俗なエロ番組を流している。 

言い忘れたが、高校三年生の43%が六時間以下というのは、受験勉強が理由でそうなってい
るのではない。あくまでも遊ぶのが忙しくて、そうなっている。ちなみに、平均的な高校生は、毎
日、四〜五時間、テレビを見ている! 四〜五時間といえば、高校生が一日に学校で受ける
授業時間より長い!

 こういう愚かな子どもにしたくなかったら、私、はやし浩司のマガジンを読むこと……というの
も、やはり自己宣伝?


●日本の子どもは、肥満型

もう一つこんなショッキングな報告もある。「日本の子どもたちは、アメリカの子どもたち並に太
ってきており、心臓病や糖尿病になる危険がふえている」と。アメリカ疫病対策センター(CDC)
による調査結果である。

研究員のシファン・ダイ氏によると、新潟県新発田市の、七〜一五歳までの子ども、369人に
ついて調べたところ、つぎのようなことがわかったという。

 血液中の総コレステロールは、男子 1デシリットルあたり、平均約167ミリグラム、
               女子、173ミルグラム。

 この値は、「アメリカの子どもたちより、やや高かった。しかし皮下脂肪の厚さや、身長や体
重から計算される肥満度は、アメリカの子どもと同程度」(同報告)と。 

 ダイ研究員は、「(日本の子どものほうが低いと思って調査をしたが)、逆に日本の子どもの
肥満傾向が明らかになってしまった」と述べている。

 このところ、親たちの肥満に対する基準が変わってきたのではないか。子どもというのは、そ
の時期、どこかガリガリしてふつうなのだが、親自身が、それを望まない。約三分の一の母親
たちが、子どもの小食で悩んでいるのも、それ。「食が少ない」「好き嫌いがある」「遅い」など。
つまり母親たちは、どこかポッテリと太っている子どもを、「ふつうの子ども」と考えているので
はないか。

 いや、昨日も、蛍光灯が切れたので、近くの大型店まで足を運んでみた。その大型店は、夜
の一一時まで営業している。その大型店の一角にある、食堂を見て驚いた。夜の九時前後だ
ったが、一〇組近い親子づれが、ハンバーガーや、ラーメンを食べていた。子どもの顔ほども
ある大きなソフトクリームをなめている子ども(推定四、五歳)もいた。親自身が、子どもの成人
病のタネまきをしているようなもの。

 どこか日本の食生活も、めちゃめちゃになりつつある? ……そう思って、その大型店を出
たが、CDCによる調査は、それをはからずも、裏づけたということになる。

 さあ、みなさんも、私といっしょに、子どもの将来を考えよう。そのために私、はやし浩司のマ
ガジンを読もう!……というのも自己宣伝過ぎる。ハイ。
(030616)

【追記】しかしね、みなさん。私たちおとながもっと賢くならないと、この日本は、本当にダメにな
ってしまうのではないでしょうか。むずかしいことではありません。私たちがもつ、常識を、もっと
もっとみがけばよいのです。おかしいものは、おかしいと言う勇気。そんな勇気が、日本を救う
のです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(892)

先輩

 突然、H氏という方から、メールをもらった。本の注文だった。が、つづく一文を読んで、驚い
た。胸が熱くなった。何と、私の大学の先輩だった。「Iゼミにいました」とあった。I先生は、よく
は知らないが、しかし私も講義を受けた。

 で、あれこれ返事を書いた。書きながら、どんどんと自分が学生時代のあのときに、引き込ま
れていくのを感じた。そしてつぎのエッセー(中日新聞掲載済み)を添付した。

++++++++++++++++++++++++

三一年ぶりの約束(時の流れは風のようなもの)

 ちょうど三一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。「二〇〇一年一月二日、午後一時二
分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだっ
た。当時の私は二二歳。ちょうどアーサー・クラーク原作の「二〇〇一年宇宙の旅」という映画
が話題になっていたころでもある。私にとっては、三一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じ
くらい、「ありえない未来」だった。

 しかしその三一年がたった。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すような冷たい雨
が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。とたん、無数の思い
出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、言葉にならない。細い路
地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。いつもなら海産物を売るお
やじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売りは五日から」という張り紙が、う
らめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを見るこ
とも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯の虚勢をはって、学者然として写真に
おさまっている自分が、どこかいやだった。しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が私
の心をふさぐようになった。アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出
口」ということか。しかし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その
間に無数の思い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそ
のまま出口だった。そんな感じで三一年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「……自分に対する責任のようなもの
だ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだろうか」と
思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、時に美しく、そし
て時に物悲しい。フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、ま
た去る……」と。部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あな
たの、彼の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように……」
と。何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。どこか
らともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握ったと思っても、そ
のまま指の間から漏れていく。

 翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通りにある
茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやんでいた。そこ
から石川門までは、歩いて数分もない。歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時
だ?」と聞くと、女房が時計を見ながら、「一時よ……」と。私はもう一度石川門の下で足をふん
ばってみた。「ここに立っている」という実感がほしかった。学生時代、四年間通り抜けた石川
門だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑いながらやってくるのに気がついた。同時
にうしろから声をかける男がいた。それにもう一人……! そのとたん、私の目から、とめども
なく涙があふれ出した。

+++++++++++++++++++++++

 この中で、ダルジーの詩を引用した。

人来たりて、また去る
人来たりて、また去る
かくして、私の
あなたの
彼の
彼女の
そして彼らの人生が
流れる。
あたかも何ごとも
なかったかのように……

 この詩は、私が当時、暗記したもの。だから不正確。そこでヤフーの検索エンジンを使って、
「ジャン・ダルジー」を調べてみた。が、ない? 「ジャン」「ジャン ダルジ」で検索してみたが、
やはり、ない?

 当時の私は、フランスではよく知られた詩人だとばかり思っていた。だからここに書いた詩
が、本当に正確なものかどうか、ますますわからなくなってしまった。しかしこの詩は、私の心
のどこかにずっと、あった。改めて、この詩をもとに、自分の心を歌ってみる。

++++++++++++++++++

●人、来たりて、また去る

時の流れは、風のようなもの
どこからか吹いてきて、
またどこかへと去っていく。

あなたはいま、どこにいるのか
あなたはいま、何をしているのか
あなたはいま、何を思っているのか。

  風にのって、あなたはやってきた
  そして私と、笑い、泣き、歌い、それが終わると、
あなたは、そのまま風にのって、去っていった。

「時よ、止まれ!」と、
私は何度叫んだことか
何度、そう願ったことか

振り向けば、もうそこにあなたはいない
かわいた風が、円陣を描いて舞いあがるだけ
あのときのあなたは、どこへ行ってしまったのか。

あなたに会いたい
あなたと話して、
あなたと笑いたい。

しかしそれはかなわぬ夢
つかんでも、つかんでも、
時は、手の指の間からこぼれていく。

ああ、かくして、私の、そして
あなたの人生が流れていく。
  あたかも何ごとも、なかったかのように……。

【ジャン・ダルジーの詩を歌いながら……。どうもヘタクソな詩でごめんなさい。削除しようかと
迷いました。また近く、この詩を推敲(すいこう)してみます。今日は、これでごめんなさい。それ
にしても、まとまりのない、ヘタクソな詩です。ホント!】

+++++++++++++++++++++++

今夜の私は、たいへんセンチのようだ。久しぶりに、学生時代の思い出に酔った。もしHさん、
このマガジンを購読してしてくださっているなら、これからもよろしくお願いします。今夜は、メー
ルをいただき、本当にうれしかったです。
(030616)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(893)

高徳な人々

 姉が、そういう活動をしているらしいということは、もう一〇年以上も前から知っていた。何で
も姉の住む近隣だけでも、静かな農村地域だが、八、九人の独居老人がいるという。それも、
みんな八〇歳以上だという。

 姉はいつからか、福祉のボランティア活動をするようになった。無資格だから、もちろん無
料。無料で、在宅介護のボランティア活動をしている。訪問介護はもちろん、訪問入浴の手伝
いや、ときには、食事の世話まで。大便や小便のめんどうまでみることもあるという。

 今夜そのことで、私が姉に、「姉さんが、そこまでするような人になるとは思ってもいなかった」
と電話で話すと、姉は笑いながら、こう言った。「もっと、すごい人がいるわよ」と。

 その男性は、まだ三五歳くらいらしい。市のほうへ訪問介護を申請すると、その男性が、組
み立て式の簡易バスなどをもって来てくれるという。が、もってくるだけではない。老人の介護
や入浴を、手助けしてくれるという。

 「しわくちゃの老人でもね、浩ちゃん、風呂の中で洗ってあげると、ボロボロと、アカが出るん
だよ。足の指の間なんか、下の赤い皮膚が見えるほどまでになるんだよ。そういう老人を、そ
の男性は、いやな顔ひとつ見せず、洗ってくれるんだよ」と。

私「男の人がそこまでするの?」
姉「そうよ。そこまでするのよ」
私「若いのに……?」
姉「うちのKちゃん(姉の長男)と、同じ年齢なのにね」
私「……」
姉「その男の人は、ときに大便の始末も、手でしているんだよ。もちろん薄いゴムの手袋をは
めているけどね。『そういうことは、私がします』と言っても、『いいんです』と言って、自分でして
いるよ」と。

 私はその話を聞いて、たたきのめされた。何という、敗北感。何という、挫折感。私は今夜こ
そ、姉に、「姉さんを尊敬する」と言いたかった。それだけを伝えるために電話した。が、このザ
マ!

 この世の中には、高徳な人がいる。どこかの宗教団体の長とか、修行している人ではない。
私が言う、高徳な人というのは、名も知られず、社会の片すみで、黙々と、弱い人のために働
いている人だ。あえて言うなら、その若い男性のような人をいう。

 ……このあと、私は文が書けなくなってしまった。本来なら、ここで結論らしいことを書いて終
わるのだが、どうにもこうにも、これにつづく文が頭の中に浮かんでこない。だからこのエッセ
ーは、ここで終わる。ただここで言えることは、私は、今、心の中がとても温かい。何かしら、生
きる勇気のようなものを感じている。「その男性は、どんな人だろう」「一度、会ってみたい」と思
っている。
(030616)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(894)

さらけ出す

●すなおな心

 人間関係に悩んでいる人は多い。富山県に住んでいるMさん(四〇歳、女性)もそうだ。厳格
な祖父母と、形だけの夫婦の両親のもとで育てられた。そのためかどうかはわからないが、
(そのためと考えて、ほぼまちがいないようだが……)、Mさんは、他人との信頼関係がうまく結
べなくなってしまった。Mさんが訴えるところの症状を並べてみる。

●同窓会などに出ると、どうしてみなは、ああも楽しそうなのかと思う。それで自分も楽しもうと
思うが、どうしても楽しめない。また楽しもうと思えば思うほど、かえって疲れてしまう。

●何をしても不安で、心配。あとでほかの人が、「じょうずにできたじゃない」などと言ってくれる
と、かえって不安になってしまう。私自身は、自分では失敗したという思いから、抜けでることが
できない。

●子ども(二人の男女)に対しても、何かにつけて完ぺき主義で、ついこまかいことを言ってし
まう。子どもを信ずることができない。子どもも、集団の中で、どこかオドオドしているよう。そう
いう姿を見ると、自分を責めてしまう。

●実家へ帰っても、心が休まらない。たまに一泊することもあるが、かえって疲れてしまう。父
も母も、それなりにいい人だと思うが、どうしても心を許すことができない。親子なのに、たがい
に、あれこれ気をつかう。

●子どものときから、親に「あんたは長女だから」と、いつも言われつづけた。いい子でいるの
が、当たり前という環境だった。弟のできがよかったこともあり、いつも弟と比較された。「どうし
てあんたはできないの!」と、よく叱られた。

こういうケースでは、まず身近なことから、少しずつ、自己開示をしてみる。自分の心を偽ら
ず、正直に表現してみるということ。私にも、こんな経験がある。

 私は、子どものときから、台風が好きだった。台風が接近してくると、内心では「こっちへくれ
ばいい」と願った。あの緊迫感が何とも言えない。しかしそれは悪いことだと思っていた。私は
学校や、人前では、優等生(?)だった。だから人前では、「台風がくると被害が出るから、こな
いほうがいい」などと自分を偽っていた。

 が、ある日のこと。私が三五歳もすぎてからのことだが、一人のアメリカ人の友人が、私にこ
う言った。「ヒロシ、ぼくは台風が好きだよ。台風の日には、ベランダにイスを置いて、それに座
って台風を見ているよ」と。

 この言葉には驚いた。そこで「何が、楽しいか?」と聞くと、「風にのって、ものが飛んでいくの
を見るのは、本当に楽しい」と。

 その言葉を聞いて、私は「何だ、そうだったのか」と、へんに感心した。以来、私は、すなお
に、「台風が好きだ」と言うようになった。

 これは一例だが、こうして自分の心を少しずつ、開示していく。ただし、簡単にはできない。た
いていの人は、本来の心がどういう状態なのかわからないほどまでに、布や糸で、心がぐるぐ
る巻きになっている。がんじがらめになっている。そういう布や糸を、ひとつずつ、ていねいにほ
どいていかねばならない。

●さらけ出す 

 自分をさらけ出すのは、むずかしい。今日もワイフと、ラーメン屋でラーメンを食べながら、こ
んな話をした。

私「自分をさらけ出すというのは、簡単なことではない」
ワ「そう……?」
私「たとえば目の前に、胸のすてきな女性がいたとする。そういう女性に向って、『あなたの胸
にさわってみたい』とは言えない」
ワ「当たり前でしょう」
私「しかし、お前の胸やお尻なら、さわりたいとき、さわれる」
ワ「それも当たり前でしょう」
私「そこなんだ。夫婦だったら、たがいにさらけ出しができる。だからそれを基盤として、信頼関
係を結ぶことができる。が、他人では、できない」
ワ「それが人間関係というものじゃ、ないの?」
私「そう。そうなると、他人と信頼関係を結ぶためには、どうしたらいいのか。たとえば反対に、
夫婦のばあい、言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、もうその夫婦
は、危険な状態にあるとみていい。親子でもね」と。

 そこで大切なことは、まず自分に正直に生きること。そのために、自分の心に静かに耳を傾
けてみること。その上で、がまんすべきことは、がまんする。妥協すべきことは、妥協する。

 ここにも書いたように、いくら正直といっても、「あなたの胸にさわりたい」と言えば、その時点
で、相手を侮辱(ぶじょく)したことになる。セクハラになる。そこでがまんする。同じように、時と
ばあいによっては、妥協もしなければならない。それが社会生活というもの。

 そこで、もしあなたが、人とうまく人間関係が結べないようなら、こうしたらよい。

(1)無理をしない。……そういう自分がおかしいとか、まちがっているとか、そんなふうに思って
はいけない。「私は私」と割り切る。この世界には、完ぺきな人間はいない。他人との交際が苦
痛だったら、「私は苦痛だ」と言えばよい。避けたかったら、避ければよい。大切なことは、無理
をしないこと。

(2)正直に生きる。……仮面をかぶってはいけない。いい子ぶってはいけない。いい人に見せ
ようと、がんばることもない。それを開示するかどうかは別として、自分の正直な気持ちを大切
にすればよい。

(3)居直る。……あとは、「私はこういう人間だ」と居直ればよい。私も人前で話すことが多くな
った。だからどうしても、自分をつくってしまう。飾ってしまう。が、そうすると、そのあと本当に疲
れる。今は、ありのままの自分をさらけ出すようにしている。それで人が去っていくようなら、そ
れはそれでよい。しかたのないこと。

(4)そういう自分とうまくつきあう。……どんなばあいも、自分の欠点や欠陥に気づいたら、そ
れをなおそうと思ってはいけない。思う必要もない。それに気づいたときから、それとうまくつき
あうようにする。
 
 さあ、あなたも勇気を出して、自分の気持ちを、すなおに、正直に話してみよう。一つのヒント
として、『クレヨンしんちゃん』の母親の、みさえを見習うとよい。(コミック本のほうが、よい。とく
にv1〜v7、8あたりまでが、参考になる。テレビのアニメは、つくりすぎていて、不自然?)

 みさえは、実にわかりやすい生き方をしている。すがすがしい。それで人との信頼関係が結
べるかどうかは別にして、さらけ出しは、人との信頼関係を結ぶためには、必要条件。自分を
ごまかして生きている人は、他人を信頼することもできないし、他人から信頼されることもない。
(030617)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(895)

カルト・サイト

●カルト・サイトに注意

 カルト教団が、その身分を隠して、あちこちでサイトを開いている。とくに教育や育児の世界
には多い。目的は、最終的には、信者の獲得。そのサイトを開いて読んでいたら、いつの間に
か信者にされていた……ということは、よくある。そんなわけで、どうかみなさんも、くれぐれも
注意してほしい。

 もちろん信仰は、個人の自由だから、私のようなものが、とやかく言っても始まらない。また
一度、その信仰に染まってしまうと、その人は、それなりにハッピーになる。しかも脳のCPU
(中央演算装置)そのものが狂うから、自分で狂っていることがわからない。

 あぶないサイトには、つぎのような特徴がある。

(1)やけにサービス精神が旺盛。……何か相談すると、親切にそれにのってくれる。あれこれ
資料を送り届けてくれたりする。
(2)サイトが、個人ではなく、組織的に、かつ集団で運営されている。……カルト教団は、原則
として、個人の信者が勝手に行動するのを許さない。配信元の企業や団体が明確でないサイ
トは、要注意。
(3)資金の出どころが、不明。あやしげ。……プロが手を加えたようなサイトは、それなりの制
作費と維持費がかかる。そういう費用の出どころがよくわからない。とくに立派なサイトほど、要
注意。
(4)集会や催しものへの誘いがある。……何かにつけて、読者を外の世界につれだし、人との
接触を勧誘しようとする。バザーに行ってみたら、信者獲得のための集会だったということはよ
くある。
(5)むしろまったく宗教色や政治色をにおわせないことが多い。子育てサイトのばあい、どれ
も、さわやかで明るい。オリジナルのキャラクターを登場させたりして、読者に警戒心をもたせ
ないようにしている。

 もっとこわいのが、カルト教団が運営する、電子マガジン。その影響力は、サイトの比ではな
い。サイトは、読みたい人が読みたいときだけ読む。しかし電子マガジンは、(私のマガジンの
ように)、どんどんと送られてくる。そのためもしどこかにカルト性を感じたら、即、購読中止をす
るとよい。

 中にはずるい電子マガジンがある。購読のときに、パスワードを登録するが、そのパスワード
がないと、解約できないようになっているのがある。パスワードを覚えていればよいが、忘れて
しまうと、簡単には解約できない。私も、Kマガジンというのを、しばらく購読していたが、そのう
ちパスワードを忘れてしまい、解約できなくなってしまったことがある。

●私の経験から……

 科学的だから、カルトではないと思うのはまちがい。最近でも、電磁波がどうのこうの、宇宙
人がどうのこうの、さらには数年前だが、彗星とともに、あの世へ行くというのもあった。

また「おどし」と「希望」、「利益」と「バチ」をペアにするのも、カルトの特徴。「今に地球は滅ぶ」
とおどしておいて、「この信仰をしたものだけが救われる」などと説く。さらに「この信仰から去っ
たものは、不幸になる」「地獄へ落ちる」などと説くこともある。

 中には、どこかで超自然的な力を肯定してみたり、露骨に、霊や、心霊現象を説くこともあ
る。あるいは「あなたは霊の存在を信じますか?」などと、聞いてくることもある。あとはお決ま
りの、運命論や宿命論。前世論や来世論など。

 が、問題は、その本人というよりも、その周辺にいる人たちである。ある夫は、妻にこう怒鳴
ったという。「お前は、だれの女房だア!」と。その女性(妻)は、明けても暮れても、布教活動
ばかり。夫の言うことを、まったく聞かなくなってしまった。さらに息子や娘が、カルト教団に入
信してしまい、親子の関係が、バラバラになってしまったというケースも多い。その深刻さは、想
像以上のものである。

●常識で、カルトに対抗しよう!

 こうしたカルトと戦うには、「常識」しかない。むずかしいことではない。おかしいものは、おか
しいと思う。へんなものは、へんと思う。たったそれだけのこと。あとはその常識を、みがき、自
分で掘りさげていけばよい。

************************

 以前、書いた詩を転載します。

************************

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 
そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)

***********************

 さあ、みなさん、自分の常識を信じよう。そしてその常識をみがき、その常識で、思想を武装
しよう。そしてくだらないカルトと戦おう。
(030618)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(896)

【今週の幼児教室@】

●今回から、幼児指導の、コツとポイントを解説します。静岡県F市にお住まいの、Tさんから
のアイディアです。

+++++++++++++++++++++++

●「長さ」について

長さを、数で表現できることを、まず指導する。方法としては、五両の赤い電車と、三両の青い
電車を見せ、「どちらが長いかな?」と子どもに聞く。そのとき年長児であれば、「いくつ長いか
な?」「違いはいくつかな?」というところまで、指導する。

やがて電車の種類をふやす。黄色い電車や、緑の電車など。「一番長い電車はどれかな?」
「短い電車はどれかな?」という話しあいをする。

長さの指導の目的は、「いくつ分の長さ」ということがわかるようにすること。たとえば幼児の多
くは、(+――+――+――+)を、「4の長さ」と数える。しかし長さは、間を数えてわかる。そ
こで私の教室では、間に、「♪お山が一つ、お山が二つ……」と、山をかかせ、その山を数えさ
せるようにして指導する。このばあいは、「3の長さ(間は3)」ということになる。なお小学二年
生でも、長さの取り方を知らない子どもは、約半数はいる。
(030618)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(897)

三位一体(さんみいったい)

 メルボルン大学の一角に、「トリィニティ・カレッジ」というのがある。その「トリィニティ(The 
Trinity)」というのは、「三位一体」という意味である。

 もともと三位一体というのは、キリスト教の基本教義の一つで、「父(=神)、子(=イエス・キリ
スト)、精霊の三位は、もともと一体」という意味である。それが転じて、「三つのものが、一体と
なること」(「国語大辞典」)を意味するようになった。「ペア」が、「二つのもの」というのに対し
て、「トリィニティ」は、「三つのもの」という意味で使う。

 その三位一体という言葉が、小泉首相の口から、このところ、頻繁(ひんぱん)に出てくるよう
になった。要するに、地方交付税を削減し、その分を地方が独自に徴収できるようにするとい
う意味らしい。どこか政府や官僚のやることは、信用できないが、これはよいことだと思う。中
央の官僚に頭をさげなければ、地方は何もできないという図式は、少しでも変えたほうがよい。

 問題は、三位一体という言葉。メルボルン大学のトリィニティ・カレッジは、由緒あるカレッジ
で、中世の城を思わせるようなカレッジである。だから今でも、「トリィニティ」という言葉を聞く
と、どこかズシリとした響きを感ずる。私ですらそうなのだから、キリスト教徒にとっては、なおさ
らではないか。そういう言葉を、日本の政治家は、平気で、政治用語にする? 「無神経だな
あ」と思うのは、はたして私だけだろうか。

 が、考えてみれば、「トリ」は、「三」を意味し、「ニティ」は、「ユニット」に音が通ずるから、本来
は、「三つのものが一つ」という意味だったのかもしれない。となると、気楽に使ってもよいとい
うことになる。「三つのものが、ワンセットで、一つ」と。

 ……と書いて、このエッセーがまとまらなくなってしまった。「三位一体」という言葉を、軽々しく
使うことに対する疑問を書くつもりだったが、ここまで書いたところで、「どうでもいいや」という
気分になってしまった。そのかわり、『世にも不思議な留学記』で書いた原稿を、ここに添付す
る。イギリス流のカレッジがどういうものか、わかってもらえると思う。

+++++++++++++++++++++

カレッジライフ(B)

●ハリーポッターの世界

 最近、私は『ハリーポッター』という映画を見た。しかしあの映画ほど、ハウスでの生活を思い
起こさせる映画はない。ハウスも全寮制で、各フロアには、教官がいっしょに寝泊りしていた。
食事のときや講義を受けるときは、正装の上に、ローブと呼ばれるガウンをまとった。映画の
中でもときどき食事風景が出てくるが、雰囲気もまったくあの通り。教官やシニアの学生が席
に着くハイテーブルと、学生たちが席に着くローテーブルに分かれていた。たとえば夕食はこう
して始まる。

●ハウスの夕食

 まず学生たちは、コモンルームに集まる。コモンルームというのは、談話室。そこで待ってい
ると、午後六時半きっかりに合図のチャイムが鳴る。それに合わせて、学生たちが食堂に入
り、ローテーブルの前で立って待つ。その途中で、円筒形に巻いた、ナプキンを棚から取り出し
てもっていく。ナプキンは、定期的に洗濯される。そうしてしばらく待っていると、シニアのコモン
ルームから、寮長(ウォードン)を最後尾に、シニアの学生と教官たちが、ぞろぞろと入ってく
る。そして寮長が座るのを見届けてから、学生たちも席に着く。

 食事の前のあいさつは当番制になっている。一人の学生がハイテーブルの隅に立ち、こう言
う。「これらすべての良きものに、感謝の念をささげ、このハウスに恵みのあらんことを」「アーメ
ン」と。すると一斉に食器を回す音がし、片側の柱のかげから、給仕たちが食事を運び始め
る。会話は自由だが、大声で話したり、笑ったりするのは禁止。もしその途中でベルが鳴った
ら、絶対的な静粛が求められる。たいてい寮長からの連絡事項が告げられる。「明日は、○○
国○○大使が晩餐にくるから、遅刻は許さない」とかなど。一度、その話の途中で、不用意に
スプーンで食器をたたいてしまった学生がいた。その学生は、その場で退室させられた。つま
りその夜は食事抜き。

 食事は、毎回例外なく、フルコース。スープに始まる前菜、メイン料理、それに付随する数品
の料理のあと、デザート。「ディナー」と呼ばれる晩餐会では、さらに数品ふえる。ワインも並
ぶ。ワインは、賓客と乾杯するために配られる。だいたい一時間ほどをかけて、夕食を終え
る。ディナーのときは、賓客のスピーチもあったりして、終わる時間は、まちまち。時には九時
を過ぎることもあった。

そして皆が終わると、入ってきたときとは、まったく逆に、まず寮長以下、ハイテーブルの教官
たちが席を立ち、食堂から出る。それを見届け、学生たちも食堂を出て、コモンルームに移
る。そこには、コーヒー、紅茶、ワインなどが用意してある。食事のあとは自由行動で、コモン
ルームへ行かないまま、自分の部屋に戻る学生もいた。

●夢のような生活

 寮長はディミック氏だった。イギリスきっての超大物諜報部員だったという。(もう亡くなってい
るので、暴露しても構わないと思う。)これはずっとあとになってのことだが、彼はその後、その
功績が認められて、「サー」の称号を受けたそうだ。いつかだれだったか、ジェームズボンド
は、彼がモデルだったと言ったが、そんなわけでありえない話ではない。ただ映画のボンドとは
違い、ディミック氏は映画監督のヒッチコックを連想させる、太った大柄な人物だった。

 こうした厳格なカレッジライフを嫌う学生も少なくなかった。とくに私がいたインターナショナル
ハウスは厳格だったということだが、それは私が帰国してから友人に聞いて知ったこと。私自
身は、厳格であるかないかということより、恵まれた環境を楽しんでいた。当時の寮費だけで
も、留学生のばあい、月額約二〇万円(一ドル四〇〇円)。日本の大卒の初任給がやっと五万
円を超えた時代である。私には夢のような生活だった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(897)

孤独の意味

 孤独はやってくるものではなく、自ら、作りだすもの。たいていは、自分自身の精神的欠陥が
原因である。

 世の中には、自分をごまかして生きている人は多い。いくらでもいる。が、そういう人でも、自
分をごまかして生きているという意識は、ほとんど、ない。それがそのままその人の生きザマに
なってしまっている。しかも衣(ころも)が衣をかぶるように、原型をとどめないほどまでに、自分
でも、本当の「私」は何か、それがわからなくなってしまっている。

 しかし、だ。自分をごまかして生きている人を、どうやって信頼したらよいのか。いや、その前
に、自分をごまかして生きている人は、どうやって他人を信頼したらよいのか。

 実は、私が、そういう人間の一人かもしれない。

 私という人間を冷静に観察してみると、私は、小心者、小ずるくて、無責任。めんどうくさがり
屋で、ずぼら。その上、好色漢で、忠誠心が弱い。ひがみやすく、いじけやすい。精神的に弱
く、情緒もボロボロ。そういう私が、一方で、教育を論じ、子育ての話をする。考えてみれば、こ
れほど分厚い「衣」もない。

 だから私は、孤独? 自分をごまかしているから、他人を信頼することができない。他人にも
信頼されない。いつも心のどこかでビクビクしている。「いつか化けの皮がはがれるぞ」と。ある
いは相手を見ながら、「この人もいつか、私の本性を見たら、きっとがっかりするだろうな」と。

 そこで私はある日、決意した。「自分をごまかすのをやめよう」と。飾るのも、やめた。かっこう
よく見せるのも、やめた。(私は、もともと飾っても、どうしようもない男だし、かっこうよく見せよ
うにも、見せる方法もない。だからこの点は心配ないが……。)

 しかし「自分をごまかさない」というのは、簡単なようでむずかしい。若いころのクセというか、
ついつい相手に合わせてしまう。へつらってしまう。愛想よくしてしまう。そのときは、そうは感じ
ないが、そのあと、どっと自己嫌悪におちいる。だいたい私のような人間には、おく病者が多
い。おく病だから、人に嫌われるのを、こわがる。

 しかし少しずつ、自分を変えていかねばならない。人生は年々、短くなってきている。私は私
の人生を生きたい。生きねばならない。それを徹底させるために、教室での教え方も変えた。
先日も、どうしようもないほど生意気な女子中学生がいたので、こう言ってやった。

 「私の教え方に文句があるなら、次回からもうこの教室に来なくていい。さっさやめなさい。何
なら、私のほうから、君のお母さんに話しておこうか」と。

 胸がスカッとした。気持ちよかった。その女子中学生が、私にこう言ったからだ。「くだらねえ
話なんかしてねえで、ちゃんと英語、教えろや」と。さあて、その中学生は、次回は来るだろう
か。来ないだろうか。ふとした迷いが、まだ心に残る。私が私であるためには、この迷いから抜
け出なければならない。それはとりもなおさず、私の、孤独との戦いでもある。
(030618)

●お前の本当の腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは決してできない。(ゲ
ーテ・「ファウスト」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(898)

【今週の幼児教室A】

 今週は、ぬり絵とお絵かき。

 四枚の景色を、白黒で描いた絵を渡す。昼の絵、夜の絵、雨の絵、雪景色の絵。それにペン
で色をぬらせる。

 色彩感覚の発達している子どもは、おとなが見ても、ほっとするような色づかいで色をぬる。
そうでない子どもは、そうでない。また色も、常識的。中に、木の色を赤や茶色でぬる子どもも
いる。感覚異常が疑われるが、それを指摘するのは、私の仕事ではない。親のほうから相談
があれば、「一度……」というようなことは、話す。

 つづいて、お絵描き。今年は、ミロのリトグラフを模写させた。「絵を描き終わるまで、自分の
絵を見てはダメ」と教えて、絵を描かせる。年長児たちは、私の指示に従い、顔を絵に向けた
まま、手だけを動かし、絵を描いた。

 それが終わったら、彩色。幼稚園児の描く絵には、すばらしいものがある。個性が、そのまま
強烈に現れる。つぎに無我で描くから、線がすばらしい。年齢が大きくなると、おとなにコビを売
ったような絵になるからつまらない。

 残りの一五分くらいを使って、「形」の学習。私の教室では、大きく、一五分のユニットを、三
つ繰りかえす。こうすることで、あきない、テンポのはやいレッスンを、展開することができる。
今日(一八日)に見学にきていた母親が、小二のクラスを見て、「ものすごい迫力ですね」と驚
いていた。そういう目で、子どもたちの様子を見たことがないので、「そういう印象のもち方もあ
るのだなあ」と思った。私には、いまだにかったるいレッスンに見えるのだが……。
(030619)

【追記】
 自分の顔をあげたまま、つまり自分の絵を見ないで、模写するという指導法は、以前、アメリ
カに住んでいる画家に習った。何度か私の教室に指導に来てもらったことがある。私が「ニュ
ーヨークでは、こういう方法で、絵の指導をするのですか」と聞くと、その画家は、こう言った。
「アメリカでは、ほとんどの学校で採用している指導法です」と。

 自分の絵を見ながら、模写すれば、そっくりの絵は生まれるが、絵からはダイナミズムが消
える。子どもが描く絵で最悪なのは、リカちゃんの絵。絵が死んでいる。つまらない。

 しかしこの方法だと、子どもの心の状態がそのまま反映されるので、おもしろい絵が生まれ
る。コツは、サインペンのようなペンで描かせたあと、カラーペンで彩色させる。見本として見せ
る絵は、ミロやシャガール、ビュッフェがよい。こういう画家の絵に共通しているのは、線がすば
らしいということ。また写真の絵より、実物がよい。実物といっても、私のばあい、リトグラフを使
っている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(899)

障害のある子ども

 障害児をもつ親から相談があった。それで何冊か、それに関する本を買ってきた。読んだ。
調べた。しかしつまらない。役にたたない。

 たとえば……。

 障害児には、@精神遅滞、A学習障害、B運動能力障害、Cコミュニケーション障害、D広
汎性発達障害、E行動障害がある……、と。

 学者の先生たちは、やたらとこういうことを分類したがる。そしてそれでもって、「自分は専門
家」と、胸を張りたがる。悪いクセだ。恐らく、現場で、親身になって、子どもを指導したことなど
ないのだろう。

 さらに別の本には、「障害の段階」と称して、@生理学的障害、A能力的障害、B適応行動
的障害があると説いている。もっともこの分類法は、国際連合で承認されたもので、私のような
ものが異議を唱えても、まったく意味がない。しかしこんな分類法を押しつけられたほうだって、
困る。

 同じようなことを、以前も感じたことがある。不登校について、調べていたときのことである。
それには、こうあった。

 「不登校の態様は、一般に教育現場では、@学校生活起因型、A遊び非行型、B無気力
型、C不安など情緒混乱型、D意図的拒否型、E複合型に区分して考えられている。

 またその原因については、@学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、A家庭生活起因型(生活環境の
変化、親子関係、家庭内不和)、B本人起因型(病気など)に区分して考えられている」(「日本
K新聞社」まとめ)と。

 しかしこんな分類をして、いったい、何の役にたつというのだろうか。「テーブルには、丸型、
四角型、楕円型がある。脚の数は、四本型、三本型、二本型がある。材質によって、金属型、
樹脂型、木造型がある」と分類するのと同じ。あるいはそれ以下。まさか親に向かって、「お宅
の子どもは、学校生活起因型の不登校児です」とでも、言うつもりなのだろうか。

 私たちがすべきことは、いわゆる障害児と呼ばれる子どもをもつ親の、不安や心配を軽減す
ることである。またそのためにどうしたらよいかを、考えることである。だいたいにおいて、「障
害児」という言葉がおかしい。英語では、「disorder」「disability」とかいう。日本語に訳せば、「乱
れ」「できない」を意味する。言葉のニュアンスが、ぐんとやさしい。「障害」というのは、どこかに
「ふつうの健常児」を念頭に置いた言葉である。だから「障害児」という言葉を聞くと、「のけ者」
という印象をもってしまう。だいたいにおいて、人間をさして、「害」とは、何ごとか! バカヤロ
ー!

 この世の中に、障害児などいない。ふつうの子どもがいないように、そうでない子どももいな
い。問題のある子どもは、五万といるが、反対に、問題のない子どもはいない。大切なことは、
どんな子どもにも問題がある。あって当たり前という前提で、教育を組みたてること。問題のあ
る子どもを、そうでない子どもと、区別してはいけない。

 たとえば最近、気になっているのに、「高次脳障害」という言葉がある。「高次脳」というのは、
つまりは、大脳新皮質部の脳のことをいう。高度な知的能力をつかさどる部分に障害があるか
ら、「高次脳障害」という。

 いろいろな指導者が現れて、懸命に、その脳の回復を試みている。テレビでも、よく紹介され
る。しかし全体としてみると、「子どもは、そうであってはいけない」という発想ばかりが目だつ。
それにおもしろくない。私が見た番組では、指導者が、カードを一〇枚前後並べ、一枚ずつそ
れをめくりながら、そのカードが何であるかを、子どもに暗記させていた。

 しかしこんなつまらない指導を、毎日、毎日受けさせられたら、子どもは、どうなる? 子ども
は、どう感ずる? その指導者は、「先月までは、五枚しか暗記できませんでしたが、この訓練
で、七、八枚までできるようになりました」と喜んでいた。あああ。

 私は立場上、「治す」とか、「直す」とかいう言葉は使えない。しかし簡単な情緒障害や精神障
害なら、子どもは、笑わすことで「なおす」ことができる。だから私は、幼児を教えるとき、その
「笑い」を、何よりも大切にしている。「笑えば伸びる」が、私の持論でもある。どうして今の教育
には、そういう発想がないのか。中には、「勉強とは、黙々とするもの」、またそれをしつけるの
が幼児教育と思いこんでいる人がいる。とんでもない誤解である。

 これから先、「障害児」をテーマにして、いろいろ考えてみたい。その第一歩として、最近読ん
だ本を、評論してみた。
(030619)

【追記】
 へたに「障害」という言葉をつけられてしまうから、親はあわてる。不安になる。心配になる。
そしてしなくてもよいことをして、結局は、むしろ症状を悪化させてしまう。さらに子ども自身も、
心の緊張感から解放されない。不幸な幼児期、少年少女期を送ることになる。

 学者の先生たちは、「原因をさがせ」「早期に診断せよ」「適切な指導をしろ」と教える(F教授
「子どもの心理学」)。それはそうかもしれないが、そう言われた親は、いったい、何をどうしたら
よいのか。

 私はやはり、教育の世界でも、子どものあるがままを認め、それぞれの子どもに合った学習
を組みたてるのが、一番よいと思う。たとえば多動児(ADHD児)にしても、小学三、四年生に
なり、自意識が育ってくると、その症状は、急速にわからなくなってくる。子ども自身が自分で自
分をコントロールするようになるからである。

 私は、そういう子ども自身の「力」を認め、それを育てるのも、教育ではないかと思っている。
ここでは「思っている」としか書けないが、今はそう思う。このつづきは、また考えてみる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(900)

学習性無気力

 いくつかいやなことが重なると、やる気をなくすことがある。子どもにかぎらない。おとなの私
たちだって、そうである。「親と口論した」「お金を落とした」「信号であやうく自動車にはねられ
そうになった」など。そういうことがいくつか重なると、「もう、どうにでもなれ」という気分になる。
このように、抵抗する気力すらなくした状態を、学習性無気力という。繰りかえし学習するうち
に、無気力症状が出てくることをいう。

 このところ街を歩いていると、日本全体が、学習性無気力にひたっているような感じがする。
とくに飲食店が、悲惨である。土日の午後だというのに、どこも閑古鳥(かんこどり)が鳴いてい
る。しかしその割に、入ってみると、「この値段で、よくこんな料理ができるものだ」と感心するほ
どの、料理が並ぶ。採算度外視? 投げやり? デフレというより、自暴自棄?

 実のところ、私にも、その学習性無力感が漂うようになった。どこか「なるようになれ」という気
分が強くなった。地球温暖化? ……なるようになれ。北朝鮮の核問題? ……なるようにな
れ。日本の経済? ……なるようになれ、と。それではいけないと思うが、私のような人間が叫
んだところで、いったい、何が、どうなるというのか。

 家庭でも、そうだ。このところあれこれと、一〇万円単位の出費がかさんだ。家計も健全なう
ちは、毎月のバランスシートを考えながら、支出をおさえたりする。が、一度崩れると、「何とか
なる」という甘い考えばかりが先行するようになる。そして気がついたときには、メチャメチャ。
今は何とか貯金を切り崩して、体勢を立てなおしてはいるが、こんなことが何回も重なると、私
の家の家計は、やがてパンクする。

 こうした学習性無力感とは、どう戦えばよいのか。子どもの無気力症に準じて考えると、つぎ
のようになる。

(1)休養と趣味……心と体を休める。何か無心になってできる趣味をもつとよい。
(2)生活のコンパクト化……自分の住む世界を、スリムにし、思い切って縮小する。

 やはり休養が大切。のんびりと、何もしないで、時の流れに身を任す。さらに具体的には、私
のばあい、こうしている。

●土日は、たっぷりと休む。以前は、山荘に人を呼んだりしていたが、今は、本当に会いたい
人だけを呼ぶ。生徒や、その父母とは、土日には、会わない。相談にものらない。電話も受け
つけない。しかし実際には「休む」という意識はあまりない。私のばあいは、「好き勝手なこと
を、気が向くままする」のが、何よりも、よいようだ。計画は、たてない。計画に、しばられない。
エンジンつきの草刈り機で、バリバリ草を刈っていると、自分を忘れる。気分が爽快(そうかい)
になる。

つぎにやはり、年齢に応じて、生活をコンパクト化する。若いころは、どんどんと手を広げていく
ものだが、ある年齢になると、かえってそれが重荷になる。だから先手を取って、不必要なもの
を削り、コンパクト化する。たとえば、テレビでも、買いかえるたびに、二〇インチ、二四インチ、
二八インチ……と、より大型のものにしたが、今度は、再び、二〇インチ程度のものにしようか
と考えている。自宅の土地も、三分の一ほどにして、あとは売却しようかと考えている。

 つまりコンパクト化することで、自分の意識を変える。もっとわかりやすく言えば、無理をせ
ず、ほどほどのところで、あきらめ、納得する。学習性無力感が起きる前に、先手を取って、自
分を小さくする。そうすれば精神的な負担を軽くすることができる。軽くなれば、その分、ダメー
ジも小さくなる。子どもでいうなら、たとえば志望校をさげるとか、そういうことになる。

【追記】

 実のところ、この数日間、私は、何をしてもすぐ疲れてしまい、気力がつづかなかった。国際
情勢も大きく動いているのに、新聞を読む気さえ起きなかった。「とうとう私も、学習性無力にお
ちいってしまった」と心配したが、昨夜、ワイフが風邪をひいた。その症状をみて、私の症状だ
ったことを知った。私は風邪をひいていた? 今度の風邪は、軽い頭痛と、気分の悪さが特徴
か。熱は出ない。体はだるかったが、ほかに大きな症状もない。で、ワイフといっしょに、あわて
て私も風邪薬をのんだら、気分がぐんと楽になった。みなさんも、どうかお体を大切に! 風邪
をひいて、無気力になることもあるようだ。
(030619)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※









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