はやし浩司

2003−7月〜
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はやし浩司

子育て随筆(901〜1100)

子育て随筆byはやし浩司(901)

パン

 毎週水曜日に、Sさん(女性)という方が、パンを届けてくれる。それがもう一年以上になる。
手作りのパンで、何でも趣味で作っているとか。しかし素人くささは、まったくない。で、そのパン
を毎週、木曜日から金曜日にかけて食べる。少し乱暴な食べ方だが、ワイフと指でちぎりなが
ら食べる。やわらかなパンの感触がそのまま伝わってきて、その食べ方が一番おいしい。私は
もともと焼いたパンが好きではない。生のまま、何もつけないで食べる。

 パンにも、「奥」がある。いつか自分でもパンを作ってみたが、家庭でうまく焼くのは、本当に
むずかしい。それがわかっているから、一度、Sさんに聞いたことがある。が、Sさんは、「ふつ
うのパン製造機で作っています」とのこと。「パン製造機」と書いたが、本当の名前は忘れた。
電気釜のようになった製造機をいう。小麦粉などを入れて、スイッチを入れると、半日後にはパ
ンができているという、あれである。

 しかし習慣というのは、こわいもの。こういう好意に甘えていると、それがいつの間にか、当た
り前になってしまう。たまに水曜日にパンが届かなかったりすると、「Sさんは、どうしたのか?」
と心配になる。反対に、ふっくらと、じょうずにできたパンをもらったりすると、「今週は、調子が
いいんだな」と思ってしまう。言い忘れたが、Sさんは、毎週、無料でパンを届けてくれる。

 しかしこうした好意ほど、うれしくも、また同時に、こわいものはない。いつしか私はパンをもら
うたびに、「こんなことをしてもらっていいのか」と思うようになり、ついで、「私は、それにふさわ
しい人間か」と思うようになった。少し大げさな言い方に見えるかもしれないが、私はもともと、
そういう好意に値する人間ではない。小ずるく、小心。忠誠心も弱い。人間関係をいつも、打算
で判断するようなところがある。だから実際には、何回か、Sさんに断ったこともある。

 が、それが一年以上になる! 考えてみれば、私の人生の五〇分の一以上ということにな
る。その長い間、こうしてSさんの好意に触れることができたというのは、私にとっても、すばら
しい経験になった。……なりつつある。いつか今の時代を思い出すときがくると思うが、Sさん
の好意が、そのとき、さん然と輝くにちがいない。

 ……と書いたところで、また私の心を、こんな思いが横切った。「こうした好意を受けるにふさ
わしい人間になろう」と。今の私には、とてもむずかしいことのように思うが、しかしそれが、Sさ
んの好意に答える最善の方法のように思う。昔、イエス・キリストは、弟子たちにパンをちぎっ
て分け、「これが私の肉体だ」と言ったという。しかし私は、Sさんのパンを食べるたびに、「一
口ずつ食べて、お前の心を浄化しろ」「いいかげんな人間になるな」と言われているような気が
してならない。

 Sさんも、このマガジンを読んでくださっているとか。驚かれたことと思いますが、この場を借り
て、心からお礼申しあげます。ありがとうございます。いつもご好意に甘えてばかりいて、すみ
ません。
(030719)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(902)

多重人格性

 私が自分の多重人格性に気づいたのは、四五歳もすぎてからではないか。それまでは、多
重人格者の話を聞いても、他人ごとのように思っていた。そして自分とは、関係のない話だと
思っていた。

 しかし私は、多重人格者かもしれない。いや、こう断言するのは危険なことだが、程度の差こ
そあれ、どんな人でも、そういう側面があるのかもしれない。たとえば怒りを感じたとき、ただ怒
りを感ずるのではなく、私のばあい、人格そのものまで変化する。

 ふだんの私は、冗談好きで、おだやか。お茶目なところがあって、さみしがり屋。よく「おもし
ろい人」と評される。人を笑わすのがうまい。これを「私A」とする。

 が、怒りを感ずると、別人のように強くなる。これを「私B」とする。そういうときは、「これからヨ
ットを買って、ひとりで太平洋を横断してやる」とさえ思うことがある。こわいものが消える。相手
が暴力団の親分でも、平気で直談判できるような気がする。

 その怒りを感ずるときというのは、いろいろなばあいがある。よくあるのは、ワイフとの夫婦げ
んか。あるいは、何か目の前で不正なことを見せつけられたようなとき。頭にカッと血がのぼる
と、見境なく、相手に向っていってしまう。

 ただおかしなことに、そういうとき、もう一人の「私A」が、別のところにいて、「私B」を見ている
ということ。そしてときどき、「やめろ」とか、「よせよせ」とブレーキをかける。が、怒りを感じてい
るときの「私B」は、「うるさい」「黙っていろ」とか言って、それをはらいのけてしまう。

 もしこのとき、つまり「私B」になったとき、「私A」であるときの記憶が消えたりすれば、人格障
害者ということになる。が、私のばあい、まだ連続性があるから救われる。どちらの自分になっ
ても、もう一方の自分の言ったことや、したことをよく覚えている。

 そこでさらに自分を観察してみると、「私」という人間は、それぞれのとき、それぞれの人格に
なって微妙に変化するのがわかる。ワイフに話すと、「だれにでもそういうことはあるわよ」と言
ったが、本当にそうか? 他人の心の中に入ったことがないのでわからないが、しかしこういう
ことはある。

 ふだんの「私A」が、ふだんの生活をしていたとする。そこで何か事件が起きたとする。そのと
きは、私はそれを笑ってすます。しかし、だ。何かのことで、「私B」とか、「私C」とかになったと
き、私はあれこれ、それをほじくりかえして、そのことについて怒る。たぶん「私A」が気にしない
ことでも、「私B」とか、「私C」が別のところにいて、それを気にしているためではないか。

 たとえば私の大切にしている何かが、だれかにこわされたとする。そのときは、「まあ、いい
や」という思いで、それを笑ってすます。しかしずっとあとになって、「私B」になったようなとき、
「どうして、あれをこわしたのだ!」と、相手を責める。

 こうして考えてみると、人間の人格には、多重性があるということになる。私という一人の人間
だけをみて、そう判断するのは、ここにも書いたように危険なことである。しかしいろいろな人に
会って話を聞いてみると、みな、同じようなことを言う。私のワイフですらも、何かのことで不愉
快になったとたん、まったくの無口になってしまう。ものの言い方がつっけんどんになり、何かに
つけて反抗的になる。

 この問題は、私自身のこととも関係しているので、これから先、もう少し、ほりさげて考えてみ
たい。今日はこれから何人かの人に会わねばならないので、ここまで。

 ところで今の私は、多分「私C」。論理的で、冷静。学者風で、紳士。しかしどこか本当の私で
はないような気がする……。
(030720)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(903)

【今週の教室から】

 教室を大改装した。以前の教室は、あとかたもなく消えた。同時に、教え方も変えた。

 以前は、「遊び」中心の指導法だった。しかしそれだけでは、教室はまとまらない。そこで、し
ゃもじによる背中たたき、釣りざおによる、遠隔操作などの罰を作った。注意ランプが三つつく
と、退場という罰則ももうけた。(このあたりは、「?」と思う人もいるかもしれないが、適当に飛
ばして読んでほしい。つまりゲーム感覚の授業を展開していたということ。)

 が、改装してからは、罰も罰則もやめた。それについて、小六クラスの生徒に話すと、みな、
「ヤッター!」と喜んだ。

私「六月から、バツも罰則も、廃止した」
生「ヤッター!」
私「これからは教え方も、変える」
生「きびしくなるということ?」
私「いや。もう、注意しない。君たちは君たちで、勝手に勉強すればいい」
生「ヤッター!」
私「しかし喜ぶのは、早い」
生「何?」
私「もう注意しない。騒ぎたかったら、騒げばいい。そのかわり、勉強したくない人は、BW(=
私の教室)を、さっさとやめてもらう」
生(ギョッ!)

 私の教室では、だいたい一五分単位で、内容を変えていく。おおまかに言えば、(復習)(遊
び)(学習)(確認)という四つのサイクルを考えて構成する。(確認)というのは、テストのこと。
また(学習)というのは、教科書に準じた内容をいう。しかし教えていて一番楽しいのは、(遊
び)の時間。(遊び)といっても、知恵遊びをいう。

 先週も、小一クラスで、こんな問題を出した。

 「車が三台、あります。タイヤの数は全部で、いくつですか?」と。

 まだ掛け算を知らないから、子どもたちは、懸命に頭の中で考え始めた。そしてやがて、「1
0」とか、「12」とか言いだした。が、そのうち、「12」が、主流になってきた。「12だ!」「12
だ!」と。

 そこで私は、背中にもう一個スペアタイヤを積んだ四WDの自動車の写真を見せ、「三台で
は、一五個だよ」と。直後、子どもたちは猛反発。「先生、ずるい!」と。

 しかしこうして子どもたちの脳ミソを、ひっくりかえしてやる。実は、それが楽しい。決められた
ことを、何かの指導書にそって教えることくらい、つまらないものはない。私にとっては……。
(030621)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(904)

草刈り

 六月二一日。日曜日。晴れ。暑い。あとでニュースを見たら、浜松市内では、気温が三三度
近くまで上昇したという。

 そんな今日。私は、山荘周辺の草を刈った。ワイフが、「熱中症になるから、やめたら……」
と、何度も言った。しかし私は、この日、草を刈ると、数日前から心に決めていた。

 本当は、昼食をとる前に、草を刈るつもりだった。しかしスーパーで弁当を買ったときから、空
腹だった。だから先に、昼食をとってしまった。とたん、ものすごい眠気(ねむけ)。

 私は血圧が低い。低い分だけ、食事をとると、眠くなる。頭から胃のほうへ血液がさがるから
だ。で、昼寝をしようと考えたが、やめた。「ここで眠ったら、おしまい」と思った。草刈りはでき
なくなってしまう。

 誤解があるといけないので書いておくが、草刈りほど、楽しいものはない。エンジンをバリバリ
回して、背丈ほどに伸びた雑草を、バサバサと倒していく快感は、何ごとにも、かえがたい。

 で、服を着がえた。例年だと、五月の連休中に一回目の草刈りをする。しかし今年はそのこ
ろ体調が悪く、除草剤ですましてしまった。それで六月の今日になった。が、六月という時期
は、いろいろと問題がある。

 まず、マムシ対策。それにハチ対策。山荘の近くでは、二年に一度ほど、マムシが出る。そ
れにあちこち、ハチの巣だらけ。六月は、マムシはともかくも、ハチの動きが活発になるころ。
気をつけなければならない。

 ジーパンの作業ズボンと、厚手の長そでのシャツを着る。つぎに頭から首にかけて、タオルを
巻く。その上から、大きな帽子。そして目を保護するための防具と、ひざの上まで届く長ぐつ。
それだけでも結構、暑い。

 これも例年だと、草刈り機用の混合油を自分で調合する。が、今年は、スーパーで買ったも
ので、間にあわせた。かなりの割高。一リットルで、四〇〇円弱。自分で調合すれば、一〇〇
円前後。それを草刈り機に注いで、エンジン始動!

 そうそう三年前、草を刈っていたら、道路の上に、マムシがいた。で、草刈り機で地面をかす
めるように、はらうと、マムシのシッポが三分の一ほど切れた。が、マムシというヘビは、生命
力が強い。体を三分の一も切られたにもかかわらず、私から逃げようとした。そこで草刈り機
で再度攻撃を試みると、今度は、クルクルとトグロを巻いたかと思うと、大きく口をあけて、草刈
り機の歯に、自分から飛びついてきた。とたん、マムシの体は、バラバラに吹っ飛んでしまっ
た。ハハハ、ザマー見ろ!

 このあたりの農家の人も、ほかのヘビには寛大だが、マムシだけは容赦しない。見たら、即、
殺す。そういう習慣になっている。私もそれにならった。マムシは、きわめて危険な毒ヘビであ
る。かまれたら、ふつうでも、三〇日間、入院。死んだ人だっている。

 草刈りを半時間ほどしたところで、休憩。体中から、さわやかな汗が、吹き出るように流れ
る。日陰にはいって、風にあたる。その爽快(そうかい)感がたまらない。ワイフが、冷えたウー
ロン茶を二杯もってきてくれる。それを一気に飲みほす。

 心臓の鼓動が落ちついたところで、後半。今度は、北側の土地の草を刈る。そちらの土地は
平坦だから、作業は、ぐんと楽。こうした仕事は、やりにくいところからするのがコツ。最後に一
番やりやすいところの草を刈って、今日の作業は終了。

 シャワーをあびて、扇風機にあたっていたら、大型のヘリコプターがやってきた。私は、いつ
ものように、棚から日本の国旗を取りだして、そのヘリコプターに向けて振る。まったく意味の
ない行為だが、それが結構、楽しい。ときどきこちらに気づいて、上空を旋回してくれることもあ
る。

 身につけているものは、バスタオル一枚。今日もその姿で、旗を振っていると、ヘリコプター
が、山を越えて、また戻ってきた! 私が男か女か、確かめにきたのではないか。……そのと
きは、そう感じた。ヘリコプターは、機体をややななめにして、山荘をかすめるようにして飛んで
いった。

 私は大声で、こう叫んだ。

 「ハハハ、ザマー見ろ。男だ、男だ! 残念でした!」と。

 そのときワイフもシャワーを浴びて、バスタオル一枚で、居間へやってきた。とたんムラムラ
と、やる気。このあとのことは、ここには書けない。ハハハ、残念でした!
(030621)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(905)

男女共同参画社会VS父親の育児参加

 今度、H市の教職員組合支部の研修会で、講師をすることになった。あわせてテーマをもらっ
た。メールには、つぎのようにあった。

 「私たちの活動の重点は、男女共同参画社会の教育の在り方を見つけていくことです。現
在、私たちがおかれている職場環境、家庭環境もさることながら、学校教育、家庭教育におい
てどのようなことをしていくことが、これからの男女共同参画社会を築いていくことになるのか、
それを勉強していきたいと考えています。
 
先生は、主に、子育てについてご講演されることが多いかと思いますが、父親が積極的に子育
てに関わっていくことも今の時代大切なことだということをこの会の中でも、話してくださるので
はないかと期待しております」と。

 この中には、いくつかの重要なキーワードがある。

 @男女共同参画社会、A父親の積極的な育児参加など。

 私はこうした新しいテーマをもらうと、モリモリと元気がわいてくる。スリルや緊張感を覚える。
何というか、登山家が高い山を、目の前にしたときの気持ではないか。あるいはヨットで大海原
(うなばら)に出航するときの気持ではないか。どちらも私には経験のない世界だが、しかし私
は似ていると思う。あのニュートンは、こんな有名な言葉を残している。

 『真理の大海は、すべてのものが未発見のまま、私の前に横たわっている』(ブリューター「ニ
ュートンの思い出」)

 新しい真理を求めて出発するということは、まさに大海に向けて出航することに等しい。ゾク
ゾクする。ワクワクする。

 ……と、長い前置きはここまでにして、男女共同参画社会について。要するに、男女平等と
いうこと。要するに、「性」にまつわる差別や、偏見を撤廃するということ。

 最初に思いついたのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデンの性教育協会
の、元会長である。そのベッテルグレン女史について書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++++

●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益
を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったこと
を理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったくない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされ
た。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と
いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。つまり「昔のままでいい」と。男性側
の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働
き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国
立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不
満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家
事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。 

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家庭とは、本当に天国か?
世の男たちは、そう思っているかもしれないが、
家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、
相当なものである。それについて書いたのが
つぎの原稿です。
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●家庭は兵舎

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。「育児
で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。が、最
大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。ある男性
は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なのか」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。これも私の経験だが、私も若いころ
は、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごとに、キャンプをしたり、クリスマス会
を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、三五歳を過ぎるころから、それが
できなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の
中における、自己愛の喪失を例にあげている。つまり一般世間から、隔離された状態に長くい
ると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失するという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育
児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、
子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を
数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」な
どの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」
「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あ
り」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%で
あったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中
で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方を
する。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。
(030409)

●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから
大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なお
さらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛であ
る。

Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!

++++++++++++++++++++++

●男女共同参画基本法より

内閣府の「男女共同参画基本計画」では、つぎのようになっている。

★男女の人権の尊重

男女の個人としての尊厳を重んじましょう。男女の差別をなくし、「男」「女」である以前にひとり
の人間として能力を発揮できる機会を確保していきましょう。

★社会における制度又は慣行についての配慮

固定的な役割分担意識にとらわれず、男女が様々な活動ができるよう、社会の制度や慣行の
在り方を考えていきましょう。

★政策等の立案及び決定への共同参画

男女が、社会の対等なパートナーとして、いろいろな方針の決定に参画できるようにしましょ
う。

★家庭生活における活動と他の活動の両立

男女はともに家族の構成員。お互いに協力し、社会の支援も受け、家族としての役割を果たし
ながら、仕事をしたり、学習したり、地域活動をしたりできるようにしていきましょう。

★国際的協調

男女共同参画社会づくりのために、国際社会と共に歩むことも大切です。他の国々や国際機
関とも相互に協力して取り組んでいきましょう。

++++++++++++++++++++++++

こうした流れの中で、男女共同参画基本法が制定された。

●夫の暴力に対する対処(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)

殴ったり蹴ったりするなど、直接何らかの有形力を行使するもの。
刑法第204条の傷害や第208条の暴行に該当する違法な行為であり、たとえそれが配偶者間
で行われたとしても処罰の対象になります。
■平手でうつ 
■足でける
■身体を傷つける可能性のある物でなぐる
■げんこつでなぐる
■刃物などの凶器をからだにつきつける
■髪をひっぱる
■首をしめる
■腕をねじる
■引きずりまわす
■物をなげつける
====================
心無い言動等により、相手の心を傷つけるもの。
精神的な暴力については、その結果、 PTSD(外傷後ストレス障害)に至るなど、刑法上の傷
害とみなされるほどの精神障害に至れば、刑法上の傷害罪として処罰されることもあります。
■大声でどなる
■「誰のおかげで生活できるんだ」「かいしょうなし」などと言う
■実家や友人とつきあうのを制限したり、電話や手紙を細かくチェックしたりする
■何を言っても無視して口をきかない
■人の前でバカにしたり、命令するような口調でものを言ったりする
■大切にしているものをこわしたり、捨てたりする
■生活費を渡さない
■外で働くなと言ったり、仕事を辞めさせたりする
■子どもに危害を加えるといっておどす
■なぐるそぶりや、物をなげつけるふりをして、おどかす

====================
嫌がっているのに性的行為を強要する、中絶を強要する、避妊に協力しないといったもの。
■見たくないのにポルノビデオやポルノ雑誌をみせる
■いやがっているのに性行為を強要する
■中絶を強要する
■避妊に協力しない

+++++++++++++++++++++++++

【世の夫諸君へ】

 妻だから、ワイフだから……という甘えを捨てよう。夫婦とて、長い目で見れば、人間対人間
の関係。ちなみにオーストラリアあたりで、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などとでも言おう
ものなら、それだけで離婚事由になる。中に、日本人の離婚率は、アメリカより低いなどとうそ
ぶいている男がいるが、それは妻が夫に満足しているからではなく、がまんしているからにほ
かならない。これから先、女性の意識が高まるにつれて、日本の離婚率も、アメリカ並になる。
あるいはそれを超えるかも。世の夫諸君よ、今日からでも遅くないから、妻には、やさしく、微
笑作戦を展開しよう!

+++++++++++++++++++++++++

●家事をしない男たち

 特別な事情のある男は別として、五〇歳以上の男について言うなら、彼らは、掃除、料理、
洗濯などの家事を、ほとんどしない。この年代は、旧態依然の男尊女卑思想、あるいは男女
差別思想にこりかたまっている。中には、「男には威厳が必要だ」「夫は、一家の主(あるじ)
だ」「存在感があればよい」などと、居直っている男さえいる。

 しかしこんな意識は、バカげている。またそういう意識にしがみついたからといって、伝統を守
ることにはならない。

 少し前まで、あのアフガニスタンでは、女性は教育を受けることも、仕事につくことも許されな
かった。外出するときは、あのマスクで顔を隠さねばならなかった。そういう報道を見聞きする
と、日本人は、「私たちは違う」と胸を張る。「私たちの国は、先進国だ」と。しかし、本当にそう
か。本当にそう言いきってよいか。

 私の家の近くには、小さな空き地があり、そこは近所の老人たちの、かっこうの、たまり場に
なっている。天気のよい、おだやかな日には、いつも、七、八人の老人が集まっている。そうい
う風景を目にするようになって、もう一〇年以上になる。

 しかし、だ。男たちは、ただイスに座って、何やら話しているだけ。草を取ったり、竹を切った
り、畑の世話をしているのは、女性だけ。私はこの一〇年以上の間、男たちが、ゴミを集めた
り、掃除したりしている姿を、一度も見たことがない。

 見なれた光景とはいえ、いつも大きな違和感を覚える。少し前までは、「男も、何か仕事をす
ればいい」と思った。しかし最近は、「つまらない男たち」と思うになった。そういう男たちのやる
ことと言えば、せいぜい、竹やぶに生えてくる竹の子の管理だけ。見知らぬ人が竹やぶに入っ
てきて、竹の子を取ろうとすると、集会場の男たちがやってきて、あれこれ文句を言う。

 しかしこのたまり場は、まさに日本の社会を、象徴している。「社会」というより、「男と女の関
係」を、象徴している。しかし意識とは恐ろしい。おそらくそういう関係をつくりながらも、そのた
まり場の男はもちろん、女も、それをおかしいとは思っていない。……だろう。が、それは、ちょ
うど、少し前までのアフガニスタンの人たちが、自分たちの社会をおかしいと思わなかったの
と、同じ? あるいはどこがどう違うというのか。

●意識改革 

 こうした男たちや女たちの意識を変えることは、不可能に近い。意識というのは、それが無意
識であればなおさら、脳のCPU(中央演算装置)に関係する。それを変えるということは、それ
までの生きザマを否定することにもなる。たとえば「任侠(にんきょう)」とか、「義理人情」とか、
そういうものにこりかたまっている人に向かって、「これからはそういう時代ではありません」な
どと言おうものなら、その人は猛烈に反発する。へたをすれば、こちらの腹を刺してくるかもし
れない。

 指導でできることがあるとすれば、せいぜい、習慣として、「家事を男に手伝わせる」ことでし
かない。あるいは「そういう意識では、いけない」ということを、わからせることでしかない。ある
いは、そのほかに、どんな方法があるというのか。そのことは、自分のこととして考えてみれ
ば、わかる。

 私も、昔風の、きわめて男女差別のはげしい家庭環境で育った。小学時代は、女の子と遊ん
だ経験がない。家庭でも、私が台所へ入っただけで、母などは、「男がこんなところにいるもん
じゃない!」と私を叱った。だから高校を卒業するまで、洗濯や料理など、ほとんどしたことがな
かった。掃除といっても、せいぜい、自分の部屋の掃除程度。

 その私が大きく変わったのは、留学時代があったからだが、もし留学していなければ、今の
私はあの私のままだったと思う。そして今も、家事は、いっさいしないでいると思う。とくに山荘
のほうでは、掃除、料理、家事一般、ほとんどすべて私がしている。が、だからといって、私の
意識が変わったというのではない。家事をするといっても、どこか趣味的にしている感じがす
る。もっとわかりやすく言えば、おとなのままごとをしているような感じがする。地に足がついて
いない?

 つまり私という人間は、外見こそ変わったが、中身は、ほとんど変わっていない。今でもふと
油断をすると、心のどこかで、「男は仕事……」と考えてしまう。男女は平等といいながら、男と
しての気負いが消えたわけではない。そういう私を見て、ワイフは、ときどき、(今でも)、こう言
う。「あんたは、私たちに気をつかいすぎよ」と。

 ワイフが言う「気をつかいすぎ」というのは、私の気負いをいう。私はいつもどこかで、「家族を
支えていくのは、私の役目」と考えている。ときにそれが重圧となって、私を苦しめる。ワイフ
は、それを言う。

 かたい話がつづいたので、少し前に書いた原稿を掲載する。

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真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学
生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。

 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を
運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろう
か。私はただただそれを見て、あきれるばかり。その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、
少し離れたところにあるプラズマテレビの画面をながめたりしているだけ。その女を手伝おうと
もしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといったふうだった。

 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつも
りですか?」と。

 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わ
ない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事
は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日
常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。

 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみて
も大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!
 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女
にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育とい
うよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべき
だ」というようなことを言ったら、ある男性から反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲
れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を手伝うというのは現実的ではない」と。

 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方
便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のは
ず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレ
ストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」
と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、
いないとかいうこととは関係、ない。

 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。

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 話をもどす。

 肉体と精神(人間の意識活動)は、入れものと中身のようなもの。入れのものが、ビンであろ
うが、パックであろうが、ジュースは、ジュース。たとえそれをコップに移したとしても、ジュース
はジュース。

 だからもともと、男だからとか、女だからとか、そういうことで、人間を区別するほうがおかし
い。私がそれを思い知らされたのは、実にたわいもないことからだった。それについて書いた
のが、つぎのエッセーである。内容が、一部ダブるが、許してほしい。

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子どもに性教育を語るとき

●性の解放とは偏見からの解放 
 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリ
ーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であ
るからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっと
ベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなん
か、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわ
サ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこ
のかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペー
パーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

●家事をしない男たち
 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五
〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳
以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をして
いないとみてよい。この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くも
っている。男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんな
ところへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自ら
が、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もい
るという(同調査)! 

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査
では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という
夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

●男も昔はみんな、女だった?
 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らさ
れた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と
いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)

●平等には反対?
 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、
女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念す
べきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(同調査)。

 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した
「第二回、全国家庭動向調査」(一九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答
えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイント
も低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と
答えた妻も、五二・五%もいた。

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【補足@】離婚率

 日本人の離婚率が、欧米より低いことについて、先に、「日本の女性が、それだけがまん強
いからだ」と書いた。それについて補足する前に、世界の離婚率を調べてみた。

離婚率 (人口1000人当たり) 日本   ……2・3人(2001年)
                 アメリカ ……4・1人(2000年)
                 イギリス ……2・6人(2000年)
                 韓国   ……2・5人(2000年)
                 ドイツ  ……2・3人(1999年)
                 フランス ……2・0人(1999年)
                 
                          (総務省統計局)

 この総務省の統計局の数字を見てわかることは、日本はアメリカよりも低いが、しかし他の
欧米諸国と比べてみると、それほど低くはないということ。ドイツと同じで、かつフランスより高
い。

 アメリカが高いのは、アメリカが多様な民族による移民国家であるためと考えられる。たとえ
ばテキサス州では、人口の約40%が、ヒスパニック系と言われている。

 日本の女性ががまん強いというのは、女性自身ががまん強いというよりは、社会制度の不
備、それに古い因習や慣習による拘束が、背景にあるためと考えられる。もしこうした不備が
改善され、日本の女性たちが古い因習や慣習から解放されたら、離婚率は、一挙に上昇する
かもしれない。日本の女性たちは、そういう拘束の中で、「離婚したくても、できない」という事情
に苦しんでいる。

 だからといって、離婚率が高くなればよいと私は言っているのではない。しかし無理をして、
結婚の体裁だけを整えている家族も多いのも事実。この日本では、女性が経済的に自立する
のは、むずかしい。とくに離婚した女性が、自立するのは、本当にむずかしい。そういう事情の
中で、多くの女性たちが、離婚したくてもできず、がまんしている。

【補足A】家庭は兵舎

 せっかくすぐれた才能をもちながら、「家庭」という「兵舎」に閉じ込められた女性が、そのの
ち、出産、育児を経験するうちに、その才能を鈍らせるというケースは、きわめて多い。が、そ
れだけではない。

 こうした才能にめざめた女性たちが感ずる、閉塞(へいそく)感は相当なもので、その閉塞感
が大きければ大きいほど、ストレスも増大する。「家庭が兵舎」という発想は、そういうところか
ら生まれる。

 たとえばマンションを購入する。仕事をしている夫にとっては、「家庭」かもしれないが、妻に
は、監獄に近い。しかし悲劇は、そういう事実を、夫が理解しないことにある。いくら見晴らしが
よくても、密閉された箱の中のような世界では、一日を過ごすことはできない。精神や肉体に与
える影響も大きい。

 たとえば、こんな調査結果がある。

妊婦の流産率は、六階以上では、24%、一〇階以上では、39%(一〜五階は5〜7%)。流・
死産率でも六階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。マンションなど集
合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国
立精神神経センター北村俊則氏)など。 

 マンションなど、高層住宅に住んでいる女性の流産率は、40%もあるという。マタニティーブ
ルーになる女性は、一戸建ての家に住む女性の四倍もあるという!

 実際、私の実践教室は、市の中心部のビルの三階にある。見晴らしは悪くはないが、あの閉
塞感は、いかんともしがたい。窓の外へは一歩も出られないというだけで、閉じ込められた感じ
がする。そんなわけで、一時間でも休み時間があると、私は近くの書店で、本を立ち読みして
過ごす。設備はいろいろあるので、その気になれば泊まることもできるが、過去において、一
度だった泊まったことがない。

 そういうマンションに閉じ込められた女性にとっては、家庭はまさに、監獄に近いということに
なる。夫の発想では、「マンションも買った。……買ってやった。その家庭でのんびりできるでは
ないか。何が文句があるのか」ということになるが、それは女性たちが感じる現実とは、かなり
違うということ。仮に今の私が妻なら、そういう生活には、一日どころか、半日も耐えられないだ
ろう。

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 一〇年ほど前から、「父親の育児参加」が、声だかに叫ばれるようになった。つまりそれくら
い、日本の父親たちは、育児に無関心。「仕事だけしていれば、一人前」と考える。しかし育児
は、義務ではない。権利である。父親というより、人間としての権利である。反対に育児が満足
できないような職場環境なら、権利侵害で訴えてもよい。

 が、この問題だけは、いくら父親を説得しても、意味はない。先にも書いたように、それは脳
のCPUにも関係する、意識の問題だからである。仮に頭で理解しても、いざそれをするとなる
と、父親にとっては、それは苦痛でしかない。かえってストレスがたまるということにもなりかね
ない。無理に強制することは、できない。

 そこで意識改革ということになるが、先に書いた話に戻ってしまったので、このテーマは、また
別の日に考えることにする。
(030621)

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もう一つ、おまけに……
以前こんな原稿を書いた。中日新聞掲載済み
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仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 
二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のス
ポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を
決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!
 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫
は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲に
いた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち
 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こ
しただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービ
ン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくま
でには、まだまだ道は遠い。

++++++++++++++++++++++

みなさん、力をあわせて、日本人の意識改革を進めましょう!

++++++++++++++++++++++

●家庭は少女の監獄であり、婦人の矯正所。(バーナードショー「革命主義者のための格言」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(906)

食事

 近く、オーストラリアの友人が、奥さんを連れて、私の家にやってくる。約一か月、滞在する。

 で、今、一番、困っているのが、何を食事に出そうかということ。オーストラリア人の食べるも
のは、よく知っているが、しかしそういうものは、日本にない。駅前に、国際文化交流協会があ
るので、そこへ行ってみたら、たまたまそこにオーストラリア人の若い女性がいた。聞くと、「生
ものは、ダメ。焼いたものなら、いい」と。

 それもわかっているが、何とかして、サシミを食べさせたい!

 で、結論は、いろいろな材料だけを用意して、自分たちで料理してもらうこと。あとは車を一
台、貸してあげて、自分たちで買い物をしてもらうこと。好きなようにさせてあげるのが、一番よ
い。あれこれ気をつかうと、私たちも疲れるし、彼らも疲れる。とくに奥さんは、バリバリの女医
さん。地元の診療所で、所長もかねている。干渉されるのも、指示されるのも、いやだろう。

 しかしそんな奥さんだから、奥さんには、パチンコをやらせてみたい。あれはまさに日本の文
化? それに銭湯へ連れていく。浜松市内にも、遊園地感覚の巨大な銭湯がいくつかある。

 もちろんあちこちの寺を回る。浜名湖周辺を走る、トロッコ列車にも乗せてやる。あとは焼き
鳥、お好み焼き、串かつ、テンプラなどなど。浜松市には、フラワーパークやフルーツパークな
どの行楽地もある。毎日一つずつ回っても、回りきれない?

 最後に、八月六日の、広島デーで、夫婦で、平和行進に参加したいとか。私は広島までは、
行けそうにない。その前後に、講演をひかえている。

 しかし、うらやましい。その友人は、数年ごとに、数か月をかけて、世界中を旅している。「旅
は、私にとって精神の若がえりの泉」と言ったアンデルセン(自叙伝)や、「人が旅をするのは、
到達するためではなく、旅行するためである」と言った、ゲーテ(格言と反省)がいる。

 しかし同じ旅でも、こんな旅をした人がいる。

 昔、世話になった、S出版社のI氏は、奥さんが亡くなったあと、一年間、外国へ放浪の旅に
でかけた。またG社のS氏は、ガンと宣告されてから、数年間、ほとんど毎日、車でドライブをし
ていた。あとで奥さんに聞いたら、亡くなるまでに、北海道から九州まで、日本を数周したとか。

 私は旅は好きだが、飛行機が苦手。一度、飛行機事故を経験してから、飛行機に乗られなく
なってしまった。で、行動半径が、ぐんと、小さくなってしまった。しかし来年の三月には、ワイフ
と、オーストラリアへ行くつもり。メルボルンに一週間(たった一週間!)滞在するつもり。あくま
でも「つもり」。飛行機恐怖症のものにとっては、このストレスは大きい。どうなることやら。ワイ
フもそう言っている。

 しかし本音を言えば、私は山荘で好き勝手なことをしているのが、一番、楽しい。気が楽だ
し、心も体も休まる。何よりもよいのは、「何かをしよう」と、いちいち考えないこと。計画や予定
を立てたとたん、私のばあい、疲れてしまう。だから……。

 今度その友人が来たら、彼らの精神構造はどうなっているのか、それをじっくりと観察してみ
たい。
(030622)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(907)

二種類の愛情

 自分を愛するか。他人を愛するか。この二つを見ることによって、愛情は、二つに分けられ
る。

 いつか愛の深さは、「許して忘れる」、その度量の深さによって決まると書いた。その「許して
忘れる」を自分に向ければ、その人は、どこまでも自分勝手で、わがままになる。いいかげん
な人間になる。「許して忘れる」というのは、どこまでも、他人に向けられたものでなければなら
ない。

 自分を愛することを、利己的愛という。他人を愛することを、利他的愛という。しかし問題は、
自分の子どもだ。自分の子どもは、私であって、私でない。同時に他人であって、他人でない。
実は、このあいまいさが、子どもへの愛情を、わかりにくくしている。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 たとえば子どもの受験で、狂騒している母親がいる。その母親は、「子どものため」と、信じて
疑わないでいる。泣き叫んで抵抗する子どもを、無理やり、勉強机に向わせる。子どもの成績
に一喜一憂し、そしてそのつど、子どもをほめたり、叱ったりする。ほかに塾への送り迎え、家
庭教師の接待などなど。こうした愛情は、利己的愛なのか、それとも利他的愛なのか。

 しかしこれは残念ながら、「愛」ではない。愛だという前提で、議論を始めるから、話がおかし
くなる。

 こういうケースでは、親は自分が感ずる不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。もっとわ
かりやすく言えば、自分の不安や心配を解消するために、子どもを利用しているだけ。「子ども
ため」と言いながら、結局は自分の思いどおりに子どもを動かしたいだけ。

 愛ではない。こういうのを、代償的愛という。いわば愛もどきの愛。ストーカーが、自分のつご
うだけで相手を追いかけまわす、あの愛(?)のことだと思えばよい。(そう言えば、D・ベッカム
が日本へ来たとき、「ベッカムさまと結婚する」と本気で、テレビ画面に向って答えていた若い
女性がいた。本人は、D・ベッカムを愛しているつもりなのだろうが、それもここでいう代償的
愛。)

 子どものばあい、幼児期から少年少女期にかけて、利己的愛から利他的愛へと変化してい
く。しかしだれしも、利他的愛をもつようになるわけではない。それを指導し、はぐくむのは、結
局は親の役目ということになる。

 問題は、利己的愛である。

 この利己的愛は、自分を愛するあまり、自分の利益を、他人の利益よりも、優先する。そして
それが報われる間は、それなりに満足感を覚えるが、そうでないときには、嫉妬、羨望(せんぼ
う)、落胆、絶望、自虐的な闘争心へと発展しやすい。攻撃的に社会を否定することもある。子
育てについて、実際に、こんな事件があった。ふつうこう事例は、事実をオブラートで包むよう
な書き方をするが、これらの事件については、ありのままを書いた(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++++++

いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、
恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけ
に扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしてい
た。その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘
(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ
青にしておびえるようになったという。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、その母
親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師だった
ということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。似
たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男児)を、やは
り足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言って
笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。

「いつも最後まで学校に残って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」
と。Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格
の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさん
のスキをねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、
その母親は、「そういえば、毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイス
した。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っ
ていますからね』とだけ言いなさい」と。その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう
言った。以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。

+++++++++++++++++++++
 
【利己的愛の特徴】

 つぎのような愛情であれば、あなた自身の利己的愛を疑ってみたらよい。

●何ごとにつけ、嫉妬しやすく、羨望しやすい。たとえば異性にもてる仲間がいたりすると、「く
やしい」とか、「自分もそうなりたい」とか、強く思う。
●自分がより幸福になるために、他人が自分より幸福になるのを許さない。他人が自分より不
幸なのを見ると、自分が幸福になったように思う。
●他人の失敗話や不幸話が、おもしろい。一応、同情したフリをすることはあるが、内心では、
その人をさげすんだり、笑ったりする。
●ときとして、自分を認めてもらうため、猛烈な攻撃心をもつことがある。運動や勉強で、自虐
的なまでの練習や、勉強をするなど。
●ときとして自分の思うようにならないようなとき、相手に泣きついたり、同情を求めたりして、
結局は自分の思いどおりに動かそうとする。

利他的愛については、究極なまでにそれを昇華した人が、あのインドのマザーテレサである。
つまりどこまで自分の愛情を利他的愛に高めるかができるかで、その人の人間的な深みが決
まる。宗教がそれを助けることもあるが、一方、宗教に頼らなくても、それは可能である。方法
としては、自分の中に潜む利己的愛と戦えばよい。その反射的効果として、利他的愛を、自分
の中に求めることができる。ここに書いたことが、一つのヒントになれば、うれしい。
(030622)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(907)

北朝鮮問題

 韓国の前大統領が、金大中。今は、週三回の人工透析を受け、その一方で、病気治療のた
め、入退院を繰り返しているという。彼の崇高な理念は、理解できないわけではないが、信仰
者独特の現実離れした政治政策は、どこかおかしかった。わざと北朝鮮による犯罪をもみ消し
てみたり、北朝鮮からの亡命者に対して、訪米禁止処分にしたりするなど。先の、北朝鮮の金
XXとの韓朝首脳会談に先立っては、数百億円もの裏金を、金XXに渡したとされる。おまけに
三人の息子たちは、みな、巨額の収賄事件と脱税事件で、起訴されたり、逮捕されている。

 後継者のノ大統領の政治理念は、これまた現実離れしていた。大統領の選挙運動中に、ア
メリカの国旗を破いてみせたり、「アメリカと朝鮮が戦争になったら、韓国は中立を守る」などと
いうことまで口にしたりしている。おまけに、「北朝鮮の核問題は、韓国が主導で解決する」と
か、さらに「これからはアメリカと対等に交渉する」とか、まで言い出した。これには、アメリカの
ブッシュ政権が、大激怒した。当然だ。北朝鮮との国境ぞいという最前線で、韓国の防衛に当
たっているのが、ほかならぬ、三万五〇〇〇人とも言われるアメリカ兵たちだからである。

 対日政策も、現実離れしている。もともと反日的であることはしかたないにしても、当初、日本
をまったく無視した形で、対北朝鮮外交を始めた。日本には、連絡の「レ」の字もなかったとい
う。が、結果は、ことごとく失敗。おまけに駐韓アメリカ軍の削減、撤退まで、議論されるように
なった。ようやくそのころになって、ノ大統領も、現実が少しずつわかってきたようだ。

 北朝鮮は、韓国民にとっては、同胞の国かもしれないが、同時に、残虐非道な独裁政権であ
る。金XXによって、粛清され、闇から闇へと葬られた国民は、数十万人もいるという。もちろん
その中には、多くの日本人妻も含まれているという。やがて金XX政権は崩壊し、金XXがした
悪業の数々が、白日のもとにさらけ出されるときがくるだろう。そのとき金大中前大統領や、ノ
大統領のした、愚かとまでは言えないが、しかし現実離れした政策のいくつかが、非難されるこ
とになるかもしれない。金XXは、まさにアジアが生んだ、ヒットラーそのものにほかならないか
らである。

 さて、この日本。数日前の報道によれば、北朝鮮は、小型核兵器をすでにもっているという。
ミサイルに積んで、日本を攻撃することも可能だという。過去のいきさつはともあれ、これが今
の日本が置かれた現実である。「戦争、反対!」と叫ぶのは、その人の勝手だが、私たちは
「座して、死を待つこともできない」(川口外相)。私たちは、何としても、あの金XX政権を、崩壊
させなければならない。方法としては、いくつかある。

●国際世論を味方につける。北朝鮮を、孤立化させる。
●兵糧攻めにする。麻薬と偽札、ミサイルの管理を徹底する。
●残虐非道な金XXの悪業を白日のもとにさらす。
●脱北者を、経済的に支援する。

こうした結果、金XXが暴走すれば、そのときは、そのときで覚悟するしかない。一説によると、
このまま北朝鮮が核兵器開発を進めれば、一、二年のうちに、北朝鮮は、数百発の核兵器を
もつことになるという。もしそうなれば、日本は、完全に、北朝鮮の手中に落ちることになる。あ
るいはそうならなくても、私たちは、毎日ビクビクして過ごさねばならない。戦争を望むわけでは
ないが、北朝鮮が暴走するならするで、その時期は、早ければ、早いほどよい。

 もちろん米中朝の三か国会議に、日韓が加わり、五か国会議になればよい。四つの国が力
をあわせて、みんなで袋叩きにすれば、金XXも、少しは現実がわかるようになるだろう。私の
印象では、金XXは、五か国会議に応じざるをえないとみる。外国の包囲網が定まったというよ
りは、国内経済そのものが、危機的な状況にある。へたに中国の意向にさからえば、原油供
給の停止などで、今度こそ、息の根を止められる。

 ただ金XXが、五か国会議に応ずるためには、どこかに落しどころがないと無理。今のよう
に、こぶしを振りあげたままの金XXに、会議に出てきなさいと言っても、出てこない。問題は、
その落しどころを、どうつくるか、だ。一番好ましいのは、アメリカ政府の高官が、何らかのラブ
コールをすることだが、それは期待できない。となると、日本ということになるが、日本側は拉
致(らち)問題で、身動きがとれない状態になっている。

 しかしこの閉塞感は、そのまま北朝鮮の置かれた立場そのものであるといってもよい。となる
と、金XXに残された道は、二つだけ。妥協して、核を放棄するか。それとも、暴走するか。

 暴走するのは金XXの勝手だが、その矛先は、アメリカでも、韓国でもない。日本である。今
の北朝鮮が、唯一、戦争開始の大義名分がたつ国が、日本だからである。今でも、北朝鮮と
日本は、交戦状態にある。休戦協定も、終戦協定も結んでいない。第二次世界大戦のままの
状態だと思えばよい。

 最後に、北朝鮮と対峙している韓国は、決して、日本の味方にはならない。仮に日朝戦争と
いうことになれば、もちろん韓国は中立を守るだろう。ばあいによっては、統一旗をかかげて、
北朝鮮の味方をするかもしれない。そういう現実も忘れてはならない。つまりそれくらい、日本
の置かれた立場は、きびしい。

 さて数日前のこと。アメリカの政府高官がこう発言した。「同盟国の日本が、北朝鮮に攻撃さ
れたら、アメリカは、ただちに、あらゆる武器を使って反撃する」と。

 ここまで言ってくれる国が、ほかにどこにある? ドイツかフランスか。ロシアか中国か。もち
ろんアメリカに頼りきるのは、よくない。しかし「今」という現実の中では、アメリカに頼るしかな
い。悲しいかな、これもまた、日本が置かれた現実なのである。
(030622)

(注、この原稿は、去る六月二二日に書いたものです。この原稿を発表するときには、国際情
勢は大きく変化しているかもしれません。)

【追記@】
 表面的な平和とは裏腹に、すでに日本政府や、防衛庁は、北朝鮮に対して、臨戦態勢に入
っているとみる。もちろんアメリカ軍も、である。私たち庶民も、決して油断してはいけない。ま
たその心構えだけは忘れてはいけない。政治は、常に、現実的に考える。これが私の持論で
もある。

【追記A】
 金XXが、もう少しまともな人間なら、多分、こんな手紙を直接、書く。しかし金XXは、あまりに
も常軌を逸した。だから、こんな手紙を出してもムダ?

「金XX閣下

  今の日本やアメリカに、貴国を侵害しようなどいう意図が毛頭ないことは、貴殿も、ほんの
少しだけ、日本やアメリカの情報を集めてみればわかることではないでしょうか。貴殿が、もう
少し、外の世界に向って心を開き、温かい風を入れてくださることを、心から願います。

 私たちには、不幸な歴史があります。しかし今、同時に、貴国がたいへんな窮状にあること
を、私たちはよく理解しています。ほんの少しだけ、私たちを信じていただけないでしょうか。私
たちは、あなたがたが思っているような悪人ではないのです。みんなで力をあわせて、極東ア
ジアの平和と安全を、構築しようではありませんか。

 今、貴国が世界に向って門戸を開けば、世界中が貴国を救済するために、立ちあがるでしょ
う。どうかそういう人間が基本的にもつ、善意を、どうか信じてください。」と。

 こんな手紙を書いてみたが、出すつもりはない。どこか虚(むな)しい。白々しい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(908)

男女共同参画社会A

 男も、女も、生まれたときは、まったく同じ人間。それが成長するにつれて、男は男に、女は
女に、作られていく。つまりこうした流れの中で、「性役割」が作られていく。

 たとえば赤ん坊にしても、男児は、いわゆる男っぽい玩具を与えられ、女児は、いわゆる女
っぽい玩具を与えられる。たとえばこの日本では、男っぽい色、女っぽい色というのがあって、
こうした色分けを手始めに、男女の区別がそののち、さらに加速される。

(名前と服装)

 男女の最初の区別は、名前によってなされる。男児は、たくましく、強い名前。女児は、やさし
く、かわいい名前と。私の年代では、80%の女子が、「○○子」と、「子」という文字を名前の最
後につけていた(高校の同窓会名簿で調査、105人中84人)。

 つぎに服装。私たちの年代では、服装も、かなり厳格に区別されていた。男はズボン、女は
スカートというのが常識だった。よく覚えているのは、自転車も、男用と女用に分かれていたこ
と。女用の自転車に乗っただけで、みなからバカにされた。実際には、女用の自転車に乗る男
はいなかったし、その反対は、さらにいなかった。

 こうした世界で、無意識のうちに、子どもは男はどうあるべきか。また女はどうあるべきかを
学んでいく。これを「観察学習」という。つまり、こうした意識は、人間が社会活動をする上で、
脳の中に新たにつくられていくものであって、決して本能的なものでも、生物学的なものでもな
い。

 簡単に言えば、男児がピンクのスカートをはいたからとって、それはまったくおかしくないとい
うことになる。現に今、ブルーのズボンをはいている女児はいくらでもいる。

(役割分担)

 「男は仕事、女は家事」という、役割分担は、小学低学年のころから始まる。今でこそ平等に
なったが、私が小中学生のころは、家庭科で料理や裁縫を学ぶのは、女子と決まっていた。男
子はその間、木工や機械いじりをした。

 こうした役割分担は、根拠がないだけに、バカげている。しかしそれを否定するということは、
封建時代の昔からつづいてきた、家制度、家長制度、家督制度などを、ことごとく否定すること
に等しい。さらには、男が上、女が下、夫が上、妻が下という、権威主義社会そのものを、こと
ごとく否定することに等しい。だから旧世代の人は、こうした役割分担に固執する一方、欧米型
の夫婦平等主義を、反対に否定しようとする。

 しかし今、若い世代を中心に、女性の意識が高くなるにつれて、男性の意識も変わってきつ
つある。具体的には、家事を分担する若い夫婦がふえている。九九年の私の調査だが、浜松
市内で、若い二〇代、三〇代の夫婦についてみると、約三五%の夫が、積極的に家事をする
ようになってきた。(「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%。しかしまったく手
伝わない夫も、三五%もいる。))
 
(参考)
※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえを、まったくしない夫  ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校二年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校三年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校三年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児。
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる※。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、三〇年単位で考えなければならない。
(030622)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(909)

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、一貫
性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

++++++++++++++++++++++

信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じ
ようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと
安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の
基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していく。
しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を
築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だ
から「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ど
もは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。
これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」を
いう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といっ
てもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいも
のがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人が
いる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言
う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的で
あったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかなら
ない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、い
かにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どう
して子どもが育つかということになる。
(030623)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(910)

生きる目的

 これも、一応、著作権の問題がからむのか。こんな会話を耳にした。

 私が街の中の通りを歩いていると、たまたま二人の男が、私のうしろを歩いていた。そしてこ
んな会話をした。男は、二人とも、黒っぽいスーツを着て、どこかコメディアン風の男だった。

男A「お前な、どうしてバイオリニストは、バイオリンを弾くか、知っているか?」
男B「わからねえよな」
男A「それはな、自分の悲しみや苦しみを、一曲ずつ音楽を弾きながら、洗い流すためさ」
男B「ふーん」
男A「お前な、どうして画家は、絵を描くか知っているか?」
男B「わからねえよな」
男A「それはな、自分の悲しみや苦しみを、一枚ずつ書きながら、その中に塗りかためるため
さ」
男B「ふーん」
男A「ところでさ、お前な、どうして作家は、文を書くか、知っているか?」
男B「わからねえよな」
男A「それはな、自分の悲しみや苦しみを、一文ずつ書きながら、その中に吐き出すためさ」
男B「じゃあさあ、音楽家でも、画家でも、作家でもないオレたちはさ、どうやって悲しみや苦し
みと、戦えばいいのさあ?」
男A「今を、懸命に生きるということさ。毎日の、一瞬一瞬が、音楽であり、絵であり、そして小
説なのさ」と。

 私は、実はこの会話を、自分の夢の中で聞いた。六月二三日。月曜日。書斎でパソコンに向
っていたら、いつもの眠気。そこで寝室へおりていって、フトンの上で横になった。しばらく眠っ
た。ちょうど起きがけにこの夢を見た。だから、ここに書きとめる。
(030623)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(911)

カルト

 こんなメールをもらった。高知県のT市に住む、女性からのものだった。

+++++++++++++++++++

高知県T市に住む、KEといいます。
昨年の2月xx日に先生に、「助けてください」というメールを送らせていただいた者です。

カルトの新興宗教からの脱会についての悩みと恐怖心を、相談させていただきました。
その節はすぐにお返事をいただき本当にありがとうございました。
また私のメールを読者からのメールとして、マガジンにて紹介したいとのことでしたが、他の皆
様に少しは役に立てたでしょうか?

あれから1年以上すぎましたが、おかげさまで今の私はとても元気に暮らしております。

あのあとで夏には、悪性腫瘍の疑いで精密検査を受ける事になったりもして、精神的にへとへ
とになり、体調を崩しましたが一所懸命に心をたて直し、先生の言葉「やめるとバチが当たると
いうのはカルトの常套手段だ」を信じ、とにかくこれが私の選んだ道だからと、人間として変な
宗教には頼らないで生きようと努力してきました。

おかげさまで精密検査の結果はまったくのシロでした。CTやエコーなどの検査上はセカンドオ
ピニオンを求めた医師までも「こんな事をしている場合ではないからすぐに手術を」という状態
だったのですが、精密検査の結果は大どんでん返しということになり、もしあのまま信仰を続け
ていたら「仏様のおかげ」と、さらに一生離れられなくなった事でしょう。

宗教の言う奇跡とは案外こんな事ではと、いまさらながらこっけいであり、恐ろしい世界だった
と痛感しています。本当にありがとうございました。

心配していました子どもの信仰心ですが、両親が何も言わなくなれば自然に忘れてしまうよう
で、何も言いませんでした。肌身につけていたお守りを「はずしていいよ」と伝えた時、「本当は
少しホッとする」というようなことを言いましたので、「みんなと違うなんだか怪しい世界」が、少し
負担だったのかもしれません。やめてよかったとつくづく思います。

あれから私たちには何の不幸も不都合も無く、子どもは相変わらず健やかに育っています。

あの時、何の面識もない突然のメールにすぐお返事をいただき、強く励ましていただいた事を
本当に感謝しております。

連絡が遅くなりましたが近況報告まで・・・・。
益々の御活躍をお祈りしています。

++++++++++++++++++++     

【KEさんへ】

 私は宗教を否定する者ではありません。神にせよ、仏にせよ、それは私たちの存在をはるか
に超越したものであり、それゆえに、神や仏というのです。

 そういう神や仏が、いちいち、それぞれの人間のすることに、かまっているだろうかというの
が、私のそのときの気持でした。神や仏に甘えてよいというのではありませんが、その心が無
量無辺に広いから、神や仏というのです。もしその信仰をやめたからバチを与えるという神や
仏がいるとしたら、それは神や仏の仮面をかぶった、悪魔です。あのときも、そう書いたと思い
ますが、そういう信仰なら、こちらから蹴飛ばしてやればよいのです。

 私たちは私たちで、つまり一人の人間として、自分の足で立って前に進みましょう。それはけ
わしくも、きびしい道ですが、しかしその道を歩むところに、私たちが生きる意味があるので
す。

 不完全を嘆くことはない。未熟であることを恥じることはない。もしそういう生きザマをまちがっ
ているというのなら、それを言う、神や仏のほうが、まちがっているのです。空を飛ぶ鳥を見た
らよいのです。野に咲く花を見たらよいのです。それぞれが、自分の命を懸命に生きている。
生きる美しさは、そういう懸命さから生まれるのです。

 もしあの世があるなら、そして神や仏がいるなら、それは死んでからのお楽しみ。私は最初に
迎えにきてくれた人の信者になります。あるいは、だれも迎えにこないかもしれない。しかし私
はかまわない。そうならそうで、あの世でも、放浪の旅をつづけます。

 教育と宗教は、よく似ていますね。このところ区別がつかなくなりました。ときどき子どもの問
題で、「どうしたらいいでしょうか?」と相談してくる親がいます。しかしそういうときでも、あれこ
れ解決方法を示すことはあっても、いきなりその問題を取りのぞいたりはしない。またそんなこ
とをしても、意味はない。

 いわんや、毎日、毎晩、「林先生、林先生……」と、名前を連呼されても困ります。そんなこと
をいくらしてくれても、私自身は、まったくうれしくない。かゆくもない。むしろ「そんなヒマがあっ
たら、本でも読みなさい」と言いたくなります。いわんや、お守りだとか、像だとか……?

 これからも、足をふんばって、がんばって生きていきましょう。仮に運命というものがあるとし
ても、その運命と戦うのも、人間ではないでしょうか。ただひとつ大切にしたいのは、私たちの
心の中で、私たちを照らす常識です。常識だけは大切に。そしてその常識をみがいて、豊かな
ものにしましょう。その努力だけは怠ってはいけないと思います。

 悪性腫瘍を疑われたとか。たいへんでしたね。私も一度、あります。しかしこれだけは言えま
す。今のKEさんは、私よりはるかに崇高な境地におられるということ。想像を絶するような心
の問題を解決なさったのですから、これからは、もうこわいものはないですね。どうか自信をも
って、前に進んでください。応援します。

 そうそう、いろいろな賢人が、「常識」について、語っています。

●「常識は、私が知っている、最良の分別である」(チェスターフィールド「所感」)
●「およそ、世にあるもので、もっとも公平に分配されているものが、常識である」(デカルト「方
法序説」)
●「常識の有無は、教育の有無とは関係ない」(ユーゴー「断片」)
●「常識は本能であり、それがじゅうぶんにあるのが、天才である」(バーナードショー「断片」)

(注、欧米では、常識(common sense)は、「良識(good sense)」という意味で使われることが多
い。)
(030623)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(911)

子どものリズム

 どんなに同じ条件にしても、作業を早くできる子どもと、そうでない子どもがいる。たとえば同
じ漢字を、二〇回、書かせてみる。早い子どもは、早い。しかし遅い子どもは、遅い。さらに中
には、極端に遅い子どもがいる。どこかのんびりしている。どこかダラダラしている。

 そこで「早く書いてよ」とせかすが、ほとんど、効果がない。せかしても、効果はその場だけ。
しかしそれがその子どもの、リズムということになる。

 ここで二つの問題が生まれる。

 早い子は、問題ないと片づける一方で、遅い子どもを、問題ありとみてしまうこと。もう一つ
は、集団教育の場では、遅い子どものペースに合わせていると、授業運営そのものが成りた
たなくなるということもある。

 こうしたジレンマは、集団教育にはいつも、ついてまわる。そこで最終的には、「もういいや」と
いう状態で、終わることも多い。つまりこうして子どもの間に、学力の差が生まれる。

 そこで親としては、当然のことながら、自分の子どものリズムが遅いとわかると、何とか、そ
れを早くさせようとする。「このままでは、うちの子は落ちこぼれてしまう」とか、「ダメになる」と
か、考える。
 
 親としては当然の気持ちだが、ここで親は、いくつかの誤解をする。その一つが、「子どもも
つらい思いをしているはず」と考えること。子ども自身は、何とも思っていないことが多い。つぎ
にその不安や心配を、子どもにぶつけてしまうこと。「こんなことで、あなたはどうするの!」と。
三つ目に、「遅れることイコール、子どもがダメになる」と考えること。子どもにはリズムがある。
そのリズムが多少人より遅いからといって、ダメになることはない。ダメになるとしたら、子ども
の責任というよりは、教育制度の欠陥によるもの。

 しかし結論から言えば、子どもが小学校の低学年児であるなら、子どものリズムに合わせ
て、教育を組みたてるしかない。この時期は、あせってもムダなばかりか、かえって症状をこじ
らせてしまう。子どもを勉強嫌いにすれば、それこそ、大失敗というもの。

 しかし小学三、四年生を境に、子ども自身に、自己意識が育ってくる。自分自身を客観的に
見ることができるようになる。そのとき、子どもは、自分で自分をコントロールするようになる。
その時期をうまく利用して、子どものリズムを、修正する。

 今も、一人の子ども(小一男児)が、目の前にいる。みなより一呼吸、いつもリズムが遅い。
何をするにも、マイペース。しかし屈託のない笑顔をしている。今は、この笑顔を大切にした
い。
(030623)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(912)

続・反動形成

 ときとして、人は、本来の自分とは、まったく正反対の自分を演ずることがある。これを心理
学では、「反動形成」という。たとえば私の世界でも、「子どもは、伸び伸びと明るく過ごすのが
一番です」「私は子どもに向かって、『勉強しなさい』と言ったことがありません」「子どもの成績
など、見たこともありません」と豪語する親ほど、要注意。うかつにそういう言葉を信じてしまう
と、あとで大やけどをする。

 反動形成の特徴としては、その人の言動が、どこか大げさで、ふつうでないことがある。極端
になることもある。「妙に正義感をふりまわす」「めちゃめちゃ親切だ」「がんこに否定する」な
ど。「オレは、そういうまちがったことが大嫌いだ!」と声を荒げる人ほど、本当は、そうでない
ことが多い。最近、「これぞ、反動形成!」と思った記事に、こんなのがある。

 北朝鮮の金XXの義姉 ソン・ヘラン(67)氏は6月23日、米国の時事週刊誌『タイム』とのイ
ンタビューで、こう答えている。「金総書記は特に、裏切られたり、だまされたと感じると、極め
て危険な性格になる」とし、「彼はウソつきを本当に嫌う。ウソほど彼を怒らせることはないだろ
う」(朝鮮日報)と。

 金XXは、ウソが大嫌いというわけである。しかしこれほどの反動形成も、あるまい。私は記事
を読んで、思わず、笑ってしまった。

 もちろん子どもの世界にも、反動形成がある。印象に残っている男の子にA君(小二男児)が
いた。A君は、まさに絵に描いたような優等生。数歳年下の妹がいたが、めんどうみがよく、そ
れにいつも仲がよかった。しかし私はある日、そんな彼に、ふつうの子どもにない、違和感を覚
えた。行動ひとつひとつが、わざとらしく、不自然なのである。

 たとえば妹思いのはずなのに、妹の話になると、瞬間、不愉快な顔をする。あるいはみなの
前で、A君をほめたりすると、喜ぶ前に、瞬間、不愉快な顔をするなど。

 実際、こういうケースは、少なくない。自分の立場を、攻撃的に守るために、まったく別の自分
を演じながら、よい子ぶる。A君のばあいも、「兄である」という重圧感が、彼の心をゆがめたと
考えられる。

 ……と書いたところで、ワイフと食事しながら、こんなことを聞いた。「お前にも、反動形成とし
て、思い当たることはないか?」と。すると、ワイフはあまり考えないで、「ないわ」と。そこで私
はこう言った。「本当は、お前は、私を嫌っているのかもしれない。しかしそれでは自分が不幸
になる。だから、そういう自分を押し殺すために、いい妻を演じているだけかもしれない」と。

 ……と考えていくと、私たちの日常生活には、この反動形成が、無数にあるような気がする。
「私」という人間そのものが、反動形成のかたまりのようにも感ずる。

私もウソが嫌い……それはもともと私がウソつきだから?
私はゴミを捨てない……それは、近所の空き地に捨てられたゴミ拾いばかりしているから?
私は権威が嫌い……それは、自分が権威者になれないから?

 ほかにもいろいろあるが、本来の自分がいやだから、そういう自分と戦って、別の自分になる
ということは、だれにでもあるのではないか。もしそうなら、反動形成イコール、悪と決めてかか
ることもできない。ただ、もともとの自分でないから、使い方を誤ると、仮面をかぶるということ
になりかねない。そしてそれが高じて、自分を見失うということにもなりかねない。それは避け
ねばならない。

 できるなら反動形成など、ないほうがよいに決まっている。すなおに、ありのまま生きるほうが
よいに決まっている。しかし人間関係が複雑になればなるほど、そうばかりは言ってはおられ
ない。自分をごまかさないと、生きていくことすら、ままならないこともある。反動形成は、その
ために人間が身につけた「知恵」とも考えられる。このつづきは、また別の機会に考えてみた
い。
(030624)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(913)

静岡市での講演

 六月XX日、静岡市のIホールで、講演をした。定員をオーバーし、満席だった。ゴザ席までも
うけてあった。うれしかったというより、私の講演ではありえないことだった。私は、静岡市では
ほとんど知名度がない。あとで聞いたら、参加者は、くじ引きで、選んだとのこと。しかしこれは
私の力ではない。主催者の方が、それだけの努力をしてくれたからだ。

 申し訳なかった。正直言って、そう感じた。本来なら、「大盛況」(「雑誌F」、編集長K氏のメー
ルより)をすなおに喜ばねばならないはずだが、そんな感じは、まったく起きなかった。「本当
に、それにふさわしい話をしたのだろうか」「できたのだろうか」と、そんなことばかり考える。

 失敗@……行きの電車の中で、眠気ざましのために買ったが菓子(フリスク)を、なめすぎ
た。おかげで講演の前に声がかれてしまい、ガラガラになってしまった。

 失敗A……講演の前に控え室で、担当の方とあれこれ議論をしていまい、集中力が分散し
てしまった。やや疲れた状態で、演台に立ってしまった。

 失敗B……前置きを長くしすぎたため、そのあとの話のバランスが崩れてしまった。時間が
一五分、短くなったことも影響した。どこか急ぎ足の講演になってしまった。

 静岡市全域の幼稚園、小中学校のPTAの役員の方々が集まってくれたということだが、そん
なわけで、私は逃げるようにして、静岡市から帰ってきた。改めて、スティーブンソンの『我らが
目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことだ』を、自分に言って聞かせる。しかし私
としたものが、何というザマ!

 以上、講演の反省記。しかし講演のこわいところは、そのあと、あれこれ後悔しなければなら
ないこと。「せっかく来てくれた人に……」と、そんなことばかり考える。そしてつぎに、「今度こそ
……」と思うが、今まで、ただの一度も、満足な講演ができたためしがない。いつになったら、
そういう講演ができるのか? 帰りの電車の中で、ふとこんなことを考える。「歌手の人は、ど
んな気分なのだろう」と。「しかし他人が作詞、作曲した歌を、毎回、同じように歌うというのも、
つまらないし……」と。
(030625)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(914)

バカにされる

 人は、バカにされることで、自分に気づく。強くなる。自分を成長させることができる。だから
バカにされることを恐れてはいけない。もっとも、おとなの世界だから、面と向って、「バカ」と言
われることはない。態度や行動、それに姿勢で、それがわかる。

 少し前だが、名古屋市に住む、友人のF氏(五七歳)が、こう言った。彼が教えていた子ども
(小五男児)が、その日のレッスンが終わったとき、彼にメモを渡した。一人の母親からのもの
だった。ていねいな文言だったが、それには、こうあったという。「息子は、XX(彼の教室)をや
めます。今度、進学塾に入ることにしました。それで、うまくいかないようでしたら、また先生の
ところへ戻ってきますから、そのときは、よろしく」と。

 で、その子どもがやめて、しばらくすると、その子どもが、何かの用事で彼の教室へやってき
たという。半年後のことだった。「何かな?」と思って見ていると、こう言った。「おい、F(呼び捨
て)! 変わりばえのしねエ教室だなあ。昔のまんまじゃん。チェッ。つまんねエの」と。そこで彼
は不愉快な気持ちを必死でこらえながら、その子どもに、こう言ったという。「おとなの参観や見
学は、自由だけど、これからは君のような子どもの入室は、断るからね。もうこの教室には、こ
ないでね」と。

 「林先生のところにも、そういう話はありませんか?」というから、私は「似たようなことは、いく
らでもあります」と。しかし親も親なら、子どもも子ども。いちいち怒っていたのでは、こういう仕
事は、勤まらない。こういう事件は、記憶にしまう前に、早く忘れるにかぎる。

しかし一方で、こういう事件があるからこそ、私たちは自分が何であるか、よくわかる。しかし本
音を言えば、私のばあい、こういう親や子どもとつきあうのも、疲れた。若いころは、「生活のた
め……」と、がまんもしたが、それ以上に、残りの人生は、年々、短くなってきた。できれば、も
う、つきあいたくない。

 考えてみれば、私の人生は、バカにされっぱなしだった。ここにも書いたように、それが私の
血や肉となったのも事実。しかしそれも、もうじゅうぶん。たくさん。これ以上、何を血や肉にす
ればよいというのか。自分の何に気づけばよいというのか。相手にあわせて、バカなフリをする
のも、結構、骨が折れる。会話をしていても、内心では、「私は、あなたより、数百歩先のことを
知っていますよ」と思っていても、それを言うことさえできない。「そうですかア?」と、わざと驚い
てみせる。「そうですねえ……」と、わざと考えるフリをしてみせる。しかしそういう演技をするの
も、心底、疲れた……。

 この日本は、上は上で、人間を肩書きや、地位でしか判断しない。しかし同じように、下は下
で、人間をその派手さや、格好よさでしか、判断しない。中身をみない。中身を知ろうともしな
い。

 ついでに一言。

 ある幼児教室では、幼児に、掛け算の九九を暗記させている。毎日プリント学習を義務づけ
て、ひらがなや漢字の練習をさせている。こういう教室だと、ふつうの分別のある親なら、だれ
しも「?」と思う。しかし小学校の高学年や中学生相手の進学塾でも、程度こそ違え、これと同
じことをしている。またそれが教育だと、思いこんでいる。が、そのおかしさがわかるほど、程度
の高い親は少ない。たいての人は、「とりあえず、目先の受験を何とかくぐりぬければ……」と
考える。

 私としては歯がゆくてならないが、しかしそれを口にすれば、「自分の生徒が減るのがいやだ
から、そう言うのだろう」とか、「進学塾に負けるのが悔しいから、そう考えるのだろう」と、人は
思うに違いない。実際、そんなことを言った親はいないが、私には、そういう親の心までよくわ
かる。だから言わない。こういうケースでは、だまって別れることにしている。親は親で、いつ
か、自分で気づくしかない。しかしそれはもう、私の知ったことではない。

 先のF氏も、そう言っていた。「それが私たちの限界ですね」と。さらにこうも言った。「教育が
自動販売機のようになって、ずいぶんになりますね。しかし自動販売機のジュースばかり飲ん
でいると、体によくないですよ。体をこわすことだってある。自動販売機のような教育ばかり受
けていると、子どもも、心をこわします。いつになったら、みんな、それに気づくのでしょうね」と。
(030625)

【一言】
●私のしていることを、そこらの進学塾がしていることと、いっしょに並べてくれるな!……と、
今、叫んだ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(915)

子どもの自立

 ある母親(埼玉県U市在住のRYさん)から、こんなメールが届いた。 

「私には二人の子どもがおります。
一番上の娘が中学二年生、下の男の子が小学校の四年です。
とても優しい子ども達に恵まれ毎日幸せに暮らしています。
 
私は自分の子どもに、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を
自分で考えて歩いてゆける人間に育って欲しい と思っていますが
子どもの自立のために、何かよいアドバイスがあれば、いただけませんか。

いくら頭で考え、子どもの人生や価値観を尊重しようと思っても、
実際問題として、日本の社会は目立つものは排除する社会に思えます。
馬鹿な親ですが、自分の子どもには苦労をさせたくない、
社会に適応し、周りとうまくやって欲しい……と
おろかな望みを抱いてしまいます」

 この母親のメールを読んで、最初に感じたことは、「これは子どもの問題ではなく、母親自身
の問題」ということ。その母親自身はまだ気づいていないかもしれないが、母親自身が、自分
の住む世界で、窒息している。

 以前、こんな原稿(中日新聞経済済み)を書いた。

++++++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。

結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃
に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と
何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏
は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」へ
の執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、い
つまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが
新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進
む。方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。

++++++++++++++++++++++

【RYさんへ】

 それがよいことなのか、悪いことなのかは別にして、アメリカ人の生きザマを見ていると、実
に自由を謳歌しているのがわかります。それだけにきびしい世界を生きていることになります
が、そういうアメリカ人や、アメリカとくらべると、日本の社会は、まさに「ぬるま湯社会」というこ
とになります。

 この「ぬるま湯」の中で、人生の入り口で権利を得た人は、たいていそのままずっと、その権
利をなくすことなく保護されます。それがRYさんが、おっしゃる、「日本の社会は目立つものは
排除する社会に思えます」ということではないでしょうか。社会そのものが、見えない糸で、がん
じがらめになっています。

 たとえば私の友人のユキコさん(三一歳女性、日系人・アーカンソー州リトルロック在住)は、
今、アメリカで、老人福祉の仕事をしています。日本でいう公務員ですが、こう言っています。
「アメリカでは、公務員といっても、どんどん自分から進んで何かをしていかないと、クビになっ
てしまう。また自分で何かアイディアを出したり、新しいことをしたいというと、上司が、もっとや
れと励ましてくれる」と。

 本当は、ユキコさんは、もっと過激なことを言っていますが、日本の社会の現状とは、あまり
にもかけ離れているため、ここでは控えめにしました。ユキコさんは、「社会のしくみそのもの
が、そうなっている。日本のように、上から言われたことだけをしていれば、安心という考え方
は、通用しない」とも言っていました。

 こうした傾向はオーストラリアにもあって、私の友人の多くは、生涯において、何度も職種そ
のものを変えています。またそういうことをしても、不利にならないしくみそのものが、できあが
っています。あのヨーロッパでは、EU全体で、すでに大学の単位は共通化されていて、どこの
大学で学んでも、みな同じという状態になっています。

 世界は、どんどん先へ行っている。アメリカだけでも、学校へ行かないで、家庭で学習してい
る、いわゆるホームスクーラーと呼ばれる子どもは、現在、二〇〇万人を超えたと推計されて
います。もっと世界の人は、自分の人生を、子どもの人生を、自由に考えている。あるいは自
由という基本の上に置いている。日本人の悪口を言うのもつらいですが、この程度の自由を、
「自由」と思いこんでいる、日本人が、実際、かわいそうに見えます。

 RYさん、これはあなたの子どもの問題ではありません。あなた自身の問題です。あなたが魂
を解き放ち、心を解き放ちます。そしてあなた自身が、大空を飛びます。それはちょうど、森へ
やってくる、鳥の親子連れと同じです。子どもの取りは、親鳥の飛び方を見て、自分の飛び方
を覚えます。あなたが飛ばないで、どうして子どもが飛ぶことができるでしょうか。

 「自分の子どもには苦労をさせたくない。社会に適応し、周りとうまくやって欲しい」ですか
あ? しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのでしょうか。私は、一片の魅力も感
じません。しかたないので、そういう人生を、私も送っていますが、しかし心意気だけは、いつ
も、そうであってはいけないと思っています。RYさんが言う「社会」というのは、戦前は、「国」の
ことでした。「お国のため」が、「社会のため」になり、「お国で役立つ人間」が、「社会で役立つ
人間」になりました。今の中国では、「立派な国民づくり」が、中国の教育の合言葉になっていま
す。日本も、中国も、それほど違わないのではないでしょうか。

 今、行政改革、つまりは日本型官僚政治の改革は、ことごとく失敗しています。奈良時代の
昔からつづいた官僚制度ですから、そう簡単には変えることができません。それはわかります
が、この硬直した社会制度を変えないかぎり、日本人が、真の自由を手に入れることはないで
しょう。今も、子育てをしながら、RYさんのように悩んでいる人は多いはずです。小さな世界
で、こじんまりと、その日を何とか無事に過ごしている人には、それはわからないかもしれませ
んが、しかしこれからの日本人は、そんなバカではない。「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)
に、みなが、気づき始めている……。

 これは子どもの問題ではないのです。RYさん、あなた自身の問題なのです。ですからあなた
も勇気を出して、一歩、足を前に踏みだしてみてください。何かできることがあるはずです。そし
てあなた自身をがんじがらめにしている糸を、一本でもよいから取りのぞいてみるのです。

 私は母ではない!
 私は妻ではない!
 私は女ではない!
 私は、一人の人間だア!、と。

 いいですか、RYさん、母として、妻として、女として、「私」を犠牲にしてはいけませんよ。自分
を偽ってはいけませんよ。あなたはあなたの生きザマを、自分で追求するのです。それが結局
は、あなた自身の子育て観を変え、あなたの子どもに影響を与えるのです。そしてそれが、
今、あなたが感じている問題を解決するのです。

 家庭は、それ自体は、憩いの場であり、心や体を休める場です。しかしそれを守る(?)女性
にとっては、兵役の兵舎そのもの※。自分の可能性や、夢や希望、そういうものをことごとく押
しつぶされ、家庭に閉じ込められる女性たちのストレスは、相当なものです。(もちろん、そうで
ない女性も、約二五%はいますが……。)仕事をもっている男性には、まだ自由は、あります
が、女性には、それがない。

 だから家庭に入った女性たちほど、自由を求める権利があるのです。その中の一人が、RY
さん、あなたということになります。

 私たちは、ともすれば、自分の隠された欲求不満に気づかず、そのはけ口を子どもに求めよ
うとします。子どもを代理にして、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに果たさせようと
するわけです。しかしそんなことをしても、何ら解決しないばかりか、不完全燃焼の人生は、不
完全燃焼のまま終わってしまいます。

子どもにしても、それは負担になるだけ。あるいは子どもがあなたの期待に答えれば、それで
よし。しかしそうでなければ、(その可能性のほうが大きいのですが……)、かえってストレスが
たまるだけです。あるいはそれがわかるころになると、あなたも歳をとり、もうやり返しのできな
い状態になっているかもしれません。

 だから私は、「これはRYさん、あなた自身の問題だ」と言うのです。さあ、あなたも勇気を出し
て、その見本を、子どもに見せてやってください。

 「私は、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を自分で考えて歩いているのよ。あんたたち
も、私に見習いなさい!」とです。それは、とっても、気持ちのよい世界ですよ。約束します。
(030625)

※「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
(J・ハーマン)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(916)

人生

人生は、先の見えない荒野を、
一人で、草をかき分けながら
進むようなもの。
どこにいるのかさえ、わからない。

それはきびしく、険しい道。
頼れるものは何もない。
そこにはいつも、ひょうひょうと
かわいた風が舞っている。

ふと振りかえると、
そこには一本の細い道。
あちこちで曲がりくねって、
より道ばかり。

進んだつもりが、またもとの道?
何かをしてきたようで、
残っているものが、何もない?
そんな道を見ながら、ただ、ため息。

その先に、ゴールはあるのか。
あるいはゴールはないのか。
それすらわからない。
しかし立ち止まることもできない。

今できることは、とにかく前に
足を踏みだすこと。
今できることは、とにかく懸命に、
草をかき分けてみること。

人生は、先の見えない荒野を、
一人で、草をかき分けながら
進むようなもの。
しかし、とにかく前に進むしかない。
迷っている時間は、もう、私にはない。
(030625)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(917)

殺される親

 三男が、今の大学をやめて、パイロットになりたいと言いだしたときのこと。私は内心では反
対だった。パイロットという職業が、悪いというのではない。しかしもし三男がパイロットになった
ら、これから先、飛行機事故のニュースを見聞きするたびに、私はハッとしなければならない。
その不安が、胸をふさいだ。が、三男は、会うと、こう言った。

 「パパ、ぼくの夢は、いつかパパを操縦席に乗せてあげること。そしてパパに、本物の操縦桿
(かん)を握らせてやること」と。

 この言葉に、私はあっけなく殺された。私の子ども時代の夢は、パイロットになることだった。
毎日、飛行機の本ばかり、読んでいた。小学生のとき、夏休みの自由研究は、すべて飛行機
に関するものだった。また、たまたま中学のときの国語の教師が、隼(はやぶさ)戦闘機の元
パイロット。私はその教師が、授業中脱線して、飛行機の話をしてくれるのを、何よりも楽しみ
にしていた。

 が、視力が落ちたことから、パイロットになるのはあきらめた。が、それで飛行機好きが消え
たわけではない。ラジコンの飛行機は、一通りした。模型も、無数、集めた。今は、パソコンで
フライトシミュレーターをするのが、日課的な趣味になっている。そういう私に、「操縦桿を握ら
せてやる」と。

 ホロリとした。そして一も二もなく、私は三男に、こう言った。「がんばれよ。応援するからな」
と。

 それでおしまい。殺されるということは、そういうことをいう。つまり私は三男の殺し文句に、殺
された。本当にあっけなく……。
 
 しかし子どもというのは、見ていないようで、その実、親の心を見ているもの。そういう私は、
親バカなのか。そのパイロットの試験が近づいてきた。本人は、どこか自信満々だが、私は
「?」と思っている。合格しても、不合格になっても、三男は、それで納得するだろう。私が学生
時代、納得したように……。親として、それ以上、何を望むことができるか。何ができるか。た
だただひたすら、三男を見守るだけ。
(030625)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(918)

母親は、独裁者?

 母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して対等ではない。あのフロイトも、そう言
っている。

 つまり母親と子どもの関係は、絶対的なものだが、父親と子どもの関係は、あくまでも「一し
ずく」。

 だから自分と父親との関係を疑う子どもはいくらでもいるが、自分と母親の関係を疑う子ども
はいない。子どもは、母親から生まれ、母親から乳を受け、「命」を与えられる。それが実感と
して、子どもの心の中に、残っている。

 しかし問題は、そういう関係にあるということではなく、そういう関係を、逆手に利用して、母親
が、子どもをしばるケースがあること。もっと深刻なケースとしては、虐待がある。

 子どもにすれば、父親に虐待されたようなときは、まだ母親のところに逃げることができる。し
かし母親に虐待されたようなときは、逃げ道そのものがない。行き場所がない。つまり絶体絶
命の状態になる。

 虐待といえば、虐待ということになるのかもしれない。こんなケースがある。

 K君(小一男児)は、この半年間、祖父母のところに遊びに行っていない。それまでは毎週の
ように、遊びに行っていた。車で、二〇分ほどのところに、祖父母は住んでいた。

 そこで私がK君に、「おじいちゃん、おばあちゃんのところへ、どうして行かなくなったの?」と
聞くと、「ママが、ダメって、言ったから」と。そこでさらに、「どうして?」と聞くと、「ママとおばあち
ゃんが、けんかしたから」と。

 わかりやすく言えば、K君の母親と、祖母がけんかした。そこでその腹いせに、母親は、祖母
と孫との関係を切った。「電話させない」「電話に出させない」「孫に会わせない」と。

私「おじいちゃんや、おばあちゃんは、さみしがっていないか?」
K「うん、さみしがっている」
私「君は、会いたくないのか?」
K「うん、会いたい。でも、ママがダメだって言うから……」と。

 もしK君が私の生徒なら、母親に何らかの説得を試みるということもできる。しかしそういう関
係でもなかった。私はこの話を聞いたとき、「いくら母親でも、そこまでする権利はあるのか」と
思った。

 しかし、そんな権利は、ない。その母親は、母親という、絶対的権利を、ふりかざして、子ども
を支配しているだけ。いわば、独裁者。K君にすれば、いくら横暴でも、母親に従うしかない。

 母親であることは、すばらしいこと。しかしその母親であることをいいことに、子どもに対して、
好き勝手なことをしてはいけない。だから、私は、このエッセーのタイトルをこうした。言葉は、
きついが、「母親は、独裁者?」と。つまりそういう言い方で、ともすれば暴走しがちな母親の横
暴に、ブレーキをかけたかった。

 この話を、ある懇談会で、一人の母親に話すと、その母親は、こう言った。

 「きっと、その母親にしてみれば、K君は、モノか財産のようなものなのですね。一人の人間と
して、K君を見ていない。K君が、かわいそうです」と。

 私も、その意見に、まったく同感だった。私の世界では、こういう愛を、代償的愛という。一
見、愛に見えるが、愛ではない。子どもを自分の支配下において、子どもを、自分の思いどお
りにしたいだけ。いわば子どもを、自分の不安や心配を解消するための道具として、利用す
る。子どもの心など、どこにもない。しかし代償的愛は、親として、もっとも警戒しなければなら
ない愛ということになる。さてさて、あなたはだいじょうぶか?
(030626)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(919)

ショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」論(2)

 寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が暖まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を暖めあった。

 これがショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」である。人間関係をうまく結べない人は、孤
独と接近、この二つを周期的に繰りかえす。つまり孤独になるから、急激かつ濃密に、他人と
の接触を試みる。しかしそれをすると疲れてしまうので、今度は、急速に人との接触を避けるよ
うになる。そして孤独になる。これを繰りかえす。

 Kさん(三九歳女性)が、そういう人だった。最初に相談があったのは、夫のほうからだった。
「妻の様子がおかしい」と。

 私は育児ノイローゼと判断したが、しかしこれは診断名ではない。またこういう診断名らしきも
のを口にするのは、私の世界では許されない。そのときの様子を書いたのが、つぎの原稿(中
日新聞発表済み)である。ただ、こうした原稿の性格として、事実を、そのまま正確に書くことは
許されない。そのため、内容的に、少し矛盾するところがあるかもしれないが、それは許してほ
しい。

+++++++++++++++++

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    
 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭
をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中
で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」
 Kさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしKさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうKさんを、夫は「だらしな
い」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はKさん
に任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのKさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときKさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ
 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日
常活動への興味の喪失)、
C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Kさんのように、
D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくな
る(感情障害)、
H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる、
Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠
 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Kさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Kさんも、
子育てはすべてKさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Kさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

++++++++++++++++++++++++

 このKさんについて、ほかにもいくつかの気になる症状があった。夫は、私に、つぎのようなこ
とを話してくれた。

@Kさんは、気分がよいときには、必要以上に多い料理を、つぎからつぎへと作り、近所に配っ
てまわる。しかし近所の人は、どちらかというと、それを迷惑に思っているようだ。が、Kさんに
は、それがわからない。そこで夫が「そういうことはしないほうがいい」と言うと、「みんなは、喜
んでいる」と猛反発する。(躁状態になりやすい?)

A一度、友人に頼まれたこともあり、Kさんは、市内のデパートで、アルバイトをしたことがあ
る。しかしたった二週間で、上司とけんかしてしまい、そのアルバイトをやめてしまった。態度が
横柄で、接客マナーが悪かったからというのが、その理由だった。(激怒しやすい?)

B小学生の子ども(四年男児と一年男児)がいるが、Kさんは、いつも大声で怒鳴ってばかりい
る。漢字の書き方が少し雑だと、全部、消しゴムで消させてから書きなおさせるという。夫は「い
ちいち消さなくても、新しいページにまた書けばいい」と言うのだが、Kさんは納得しない。(完ぺ
き主義?)

C裏庭の小さな空き地に、もの置き小屋を建てた。しかし一か月もすると、雨で地盤がゆる
み、小屋が少し傾いた。そのときのこと。Kさんは、工事を請け負った業者に、毎日のように電
話をかけたり、その会社に、怒鳴り込んでいったりしたという。「ふつうの怒鳴り方ではなかっ
た。顔つきそのものまで、変わっていた」と、その業者の人は言った、など。

こうした症状が、どういう病気であるかはさておき、私が一番気になったのは、Kさん自身が、
そういう自分に気づいているかどうかということ。こういうのを「病識」という。病識があれば、ま
だ改善しやすい。しかしその病識がないと、改善は、望みようがない。「自分は、まとも」と思い
こんでしまう。

 が、Kさんには、その病識がなかった。ものの考え方が自己中心的である分だけ、他人の話
に耳を傾けない。見るに見かねたKさんの夫の両親、つまり義父母が、一度、精神科のドクタ
ーに相談してみたらと声をかけたことがある。が、Kさんは、「私は何ともない」と、最後までが
んばり、結局、病院へは行かなかったという。

 で、今はどうかいうと、先の原稿を書いてから、もう四、五年になるが、状態は、何も変わって
いない。ワイフと、近い関係にある人なので、それなりの交際はしているが、本音を言えば、私
自身はつきあいたくない。その人がヤマアラシになるのは、その人の勝手だが、それに振り回
される周囲の人には、Kさんのような人は、迷惑でしかない。
(030626)

【追記】
 自分を知ることは、本当にむずかしい。だれしも、ここでいうヤマアラシ的な部分はある。問
題は、そういう部分があるということではなく、そういう部分があることに気づかないまま、それ
に振り回されること。そしていつの間にか、周囲の人たちに迷惑をかけてしまうこと。

 孤独な人は多い。「私は孤独」と思っている人も多い。しかしそうした孤独というのは、結局
は、自分で、自ら作り出しているもの。つまり「孤独である」という状態は、あくまでも症状にすぎ
ない。もっとわかりやすく言えば、孤独と戦う方法があるとすれば、自分の中にその原因を求
め、その原因と戦うということになる。

 ここにあげたKさんも、さかんに「私はさみしい」と言っていた。しかしなぜそうなのか。Kさん
が、それに気づくことは、ここしばらくはないだろう。

【追記A】
 このKさんについて言うなら、Kさんは、独特の価値観をもっているのがわかる。「信じられる
のは、お金だけ」というような考え方をする。お金への執着心が強い。具体的に、こんな話を聞
いた。

 ある日、銀行へ行くと、夫名義の定期預金があるのを知った。夫の両親が、夫名義で、銀行
へ預けておいた定期預金である。つまりそれは夫の両親の貯金だった。しかもその定期預金
は、Kさんが結婚する前に、夫の両親が、銀行へ預けたものだった。

 しかしKさんは、「その定期預金は、私のもの」と主張して、がんとして譲らなかったという。こ
の話に、夫の母親、つまりKさんの義母が激怒した。こうしてKさんは、義父母すら敵に回してし
まった。

【追記B】
 こうして考えてみると、「孤独な人」「心の開けない人」「友だちのいない人」「信じられるのは、
お金やモノだけという人」「お金やモノに、執着する人」「疑り深く、嫉妬深い人」というのは、どこ
かで一連性をもっているのがわかる。しかしそういう人にかぎって、自分がそうであることに気
づかない。「他人も私と同じ」と考えることで、ますます人間不信の世界に入っていく。あとは、こ
の悪循環。

 言いかえると、「孤独である」というのは、その人の心の問題というよりは、その人の生きザマ
の問題。生きザマに問題があって、その人は孤独になる。だから私は、ここに書いたように、
「孤独というのは、結局は、自分で、自ら作り出しているもの」という考え方にたどりついた。

 だから孤独自体と戦っても、意味はない。よく、孤独になると、酒を飲んだり、皆と騒いだりす
る人がいる。しかしこういう方法では、孤独とは戦えない。気を紛らわすことはできても、孤独感
そのものは、消えない。

もし孤独を感ずるなら、あなたの生きザマそのものに、原因を求める。私のアメリカ人の友人
の、RK氏(六〇歳)は、いつもこう言っていた。「ヒロシ、真の財産は、お金ではない。友だちの
数だよ」と。私は彼の言葉の中に一つのヒントがあると思うが、しかしまだ、この先のことは、よ
くわからない。私自身、自分の感ずる孤独を、いまだにどうしようもないでいる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(920)

【幼児教室より】

 浜松地方の方言かもしれない。このあたりの子どもは、「同じ」と言うとき、「オンナジ」と、間
に「ン」を入れる。私は、ここに住むようになってから、そして今でも、この言い方には、どこか
違和感を覚える。

 言い忘れたが、今週は、「形」についての学習をした。いくつかの形を見せ、「どれとどれが同
じですか?」と聞く。子ども(年長児)は、「これと、これがオンナジ」と言って、指をさす。だから
私は、こう言った。

 「オンナジ、オンナジって、痔(じ)になるのは、女の人だけではないのだよ。男の人だって、痔
(じ)になるよ」と。

 こんなジョークを言っても、幼児にはわからない。こういうケースでは、自分だけが、つまりは
密(ひそ)かに楽しむために、そういうジョークを口にする。が、一人の女の子が、こう聞いた。

 「痔(じ)って、何?」と。

 私はこう言った。「ウンチが出る、出口のところに、スイッチができて、そのスイッチにウンチ
がさわると、ギャーと声が出るほど痛くなる病気だよ。女の人が痔になるから、オンナジかな」
と。

 この説明に、参観していた親たちが、腹をかかえて笑った。(子どもは、キョトンとしていた。)
すると別の子どもが、「じゃあ、先生、男の人が病気になると、オトコジ?」と。まじめな顔をして
いた。で、私は、「そうだ」と言った。

 で、形の学習が半分ほどすんだところで、私は粘土で四個のボールをつくり、それに四本の
棒をさした。四角をつくるためである。が、一個の粘土に、二本の棒をさしたところで、暑さで粘
土がゆるんでいたせいか、棒が、一本、フニャーと下へさがってしまった。それを見て、子ども
たちが笑った。で、その笑いが一瞬、やんだとき、私は、思わず、こうつぶやいてしまった。「元
気がないなア……」と。

 「しまった!」と思ったが、口から出た言葉は消せない。私は、とても参観している母親のほう
を見ることができなかった。下を向いてしまった。

 あとでワイフにこの話をすると、ワイフはこう言った。「あんたは、日ごろ、家でそんな話ばかり
しているから、そういうヒワイな言葉が出てくるのよ。気をつけなよ」と。

 ホント! しかし参観している母親たちの間からは、笑い声は聞こえなかった。きっとみなさ
ん、必死で笑うのをこらえていたのだろう。ごめんなさい。不謹慎な話で……。
(030626)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(921)

木を描かせる

 一枚の紙を与えて、「大きな木を、できるだけていねいに、こまかく描いてね」と指示する。

 子どもの描いた木の絵を見て、子どもの心理や性格を知る方法は、今では、広く応用されて
いる。心理学のテキストにものっている。木の大きさ、形、葉の形、線の描き方、全体の構図を
見て、判断する。

【私の経験から】

 一枚の紙全体に、大きな木を描く子どもは、それだけ伸びやかとみる。心が萎縮している子
どもは、小さい。さらにそれが左隅(右利き児)に小さく描くようなら、性格が内閉しているとみ
る。右隅に小さく描くようなら、自信喪失の状態とみる。描くことに恐怖心を抱いている子ども
は、白い紙を前にして、手前に描こうとする。

 形については、親の影響が大きい。二〇〜三〇人に一人は、親が描く絵とまったく同じ絵を
描く。それだけ親子の密着度が高いということになる。(あらかじめ親が、子どものいないところ
で木を描き、あとで子どもの描いた木と比較してみると、それがわかる。)

 葉をみるとき、全体のやさしさ、こまかさ、線の流れをみる。このとき、あまり緻密な葉を、い
つまでも黙々と描くようなら、途中でやめさせたほうがよい。たとえば自閉傾向のある子ども
や、自閉症の初期症状の子どもなどは、小さな模様を、いつまでも黙々と描きつづける。中に
はぞっとするほど、緻密な絵を描く子どもがいるが、子どもの絵としては好ましくないことは、言
うまでもない。

 線については、子どものクセが大きく影響する。幼児は、ふつう曲線を描くのが苦手。だから
縦線、横線のみで木を描く子どもも、少なくない。そのとき、線の濃淡が大きく乱れる子ども
は、それだけ気分のムラのはげしい子どもとみる。(ただし、クセとして、濃淡が現れることもあ
るので、注意。たとえば右下がりの線は、太く、左上がりの線は細いというように。)

 全体の構図で注意するのは、「根元(幹)」部分。大きな木を描いたら、無意識のうちにも、子
どもは、太い根元を描く。知的能力のすぐれた子どもほど、無意識のうちにも、全体のバランス
を考えた絵を描く。そうでない子どもは、そうでない。中にときどき、植木鉢に入った木を描く子
どもがいる。都会のマンション住まいの子どもに、多い。

 こうした作画テストで注意しなければならないのは、子どもが、かりに心配な(?)絵を描いた
としても、その絵について、どうこう言ってはいけないということ。あくまでも子子どもの心の中を
のぞく、ひとつの手段として、利用する。「葉をもっと、こまかく描きなさい」「根元をもっと太くしな
さい」というような、指示を与えても、意味はない。
(030627)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(922)

適応障害

 子どもは、精神的な緊張感に、たいへんもろい。ほんの数分、緊張しただけで、精神的に疲
れる子どもはいくらでもいる。敏感傾向、過敏傾向の強い子どもほど、そうである。昔は、この
タイプの子どもを、「神経質な子ども」と言った。

 こうした緊張感に対する抵抗力には、そんなわけで、個人差がある。だから「ふつうは……」
とか、「よその子は……」という言い方で、自分の子どもを判断するのは、正しくない。あくまで
も、その子どもをみて、判断する。

 こうした緊張感、つまり心的ストレスに対して、子どもは、それに適応しようとする。これを心
理学では、ズバリ、「適応」という。そしてそのまま適応できればよし、それができないとき、子ど
もは、それと戦おうとする。これを「心を防衛する」という意味で、防衛機制という。

 この防衛機制の方法と、中身は、それこそ千差万別で、定型がない。それについては、また
別の機会に説明するとして、この防衛機制をもってしても、対処しきれないときがある。そして
子どもは、そのまま不適応症状を示すようになる。一般的には、神経症による症状(これも千
差万別で、定型がない。腹痛、頭痛、脚痛、爪かみ、ものいじりなど)を示すようになる。が、さ
らにそれが高じると、情緒不安、精神不安を引き起こす。

 こうした一連の不適応症状が、こじれ、「障害」と言えるほどまでになった状態を、「適応障
害」という。よく知られた例では、不登校や引きこもりがある。「障害」という言葉を使うことに
は、大きな抵抗を感ずるが、一般社会では、そうなっている。

 大切なことは、それぞれの段階で、つぎの段階に進まないように、いかにそれに気づき、そ
れを予防するかということ。しかしこれがむずかしい。たいていの親は、そういう兆候があって
も、それに気づかない。気づいても、その段階で、それをなおそうとして無理をする。症状その
ものをこじらせてしまう。しかし「なおすべき」は、子どもではなく、親自身である。

 さらに子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思う。しかしその「最悪」の
下には、さらに「最悪」がある。これを二番底という。さらにその底がある。これを三番底とい
う。そういう底に、つぎつぎと落ちながら、やがて行きつくところまで、行く。

 その途中で、私のような立場にあるものが、「お母さん、気をつけなさいよ」とアドバイスして
も、ムダ。今まで、それで気づいた親は、残念ながら、一人もいない。何百例と、子どもたちを
見てきたが、本当に、ゼロ! たいていの親は、「まさか、うちの子にかぎって……」「そんなは
ずはない」と、それを払いのけてしまう。これはもう、子育てにまつわる宿命のようなものかもし
れない。

 適応障害の話が、少し脱線してしまったが、適応障害を起こしたからといって、子どもを叱っ
ても意味はない。説得しても意味はない。もっと言えば、なおそうとしてなおる問題ではない。問
題の「根」は、子どもにあるというより、子どもを包む環境にある。だから子どものほうだけを向
いて、子どもをなおそうとしても、ムダ……ということになる。

 また適応障害を起こしたからといって、それはそれでしかたのないことではないか。私もとき
どき東京へ仕事で行くが、あの東京がもつ雑踏には、いまだに体をならすことができない。い
わば私が、東京に対して適応障害を起こしているわけだが、もしそういう私をおかしいという人
がいたら、私はこう言う。「君たちのほうが、おかしい」と。

 適応障害について少し、考えてみた。
(030627)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(923)

携帯電話

 教室の掃除をしていると、そこに携帯電話が落ちているのを知った。最近の子どもたちは、
みな、携帯電話をもっている。小学生でも、約半数がもっている。私はあまり考えないで、その
携帯電話を、「忘れものカゴ」に入れた。子どもたちの忘れものは、そのカゴに入れるようにし
ている。

 携帯電話といえば、大切なもの。そのうち、忘れた子どもから連絡があるだろうと思ってい
た。が、二日たっても、三日たっても、連絡はなかった。携帯電話を見てみたが、名前らしきも
のはない。が、四日、五日とたつと、さすがに心配になる。……になった。

 私は電話は、あまり好きではない。……と言うより、嫌い。何の前ぶれもなく、ズカズカと、家
の一番奥まで、入ってくる。しかも大半が、何かの勧誘だったり、宣伝だったりする。いわん
や、携帯電話を、や。かつて二度ほど、購入したことがあるが、すぐ息子たちにやってしまっ
た。

 そこで私は、張り紙をした。「携帯電話を預かっています。忘れた人は、取りにくるように」と。

 しかし一週間たっても、だれも来なかった。だからそのつど、子どもたちに聞いた。「携帯電
話を忘れた人はいませんか」と。しかしみな、「ちがう」と言った。参観にきた母親のものかもし
れない。そこで参観にやってくる母親それぞれに、「あなたのではないですか?」と聞いた。しか
しみな、「いいえ」と言った。

 私はそんなわけで、携帯電話の使い方を、ほとんど知らない。受話器をあげた絵をクリックし
て、そのあと電話番号を入れればつながるという程度のことは知っている。しかしそこまで。最
近の携帯電話は、機能が多い分だけ、複雑。機械いじりは嫌いではないが、しかし携帯電話
のことは知らない。

 そうして三週間が過ぎた。で、その携帯電話を見ながら、こう考えた。「電話番号が登録して
あるはず。だったら、その番号に電話をかけてみればいい」と。そこで改めて、その携帯電話
を手に取り、フタをあけてみた。きれいな映像がそこに映っていた。「最近の携帯電話は性能
がよさそうだ」と思った。が、どこか、おかしい?

 そこであちこちを押してみた。が、まったく反応がない。ダイアルも押してみた。横のボタンも
押してみた。しかしまったく反応がない。で、裏ブタをあけようとした。が、その裏ブタは、固定さ
れたまま、これまた反応がない。そこではじめて、私は、気がついた。「おもちゃだ」と。

 そう、その携帯電話は、携帯電話店で見本として並べてある、ダミーのおもちゃだった。とた
ん、私は、どこかがっくりとした。「ナーンダ!」と。

 そのあとしばらくして、私は、ますます携帯電話が嫌いになった。もちろんその携帯電話は、
今度は、そのままゴミ箱に捨てた。
(030627)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(924)

私の人生

 ときどき、ワイフとこんな話をする。「ぼくたちの人生は、こんなものだったね」と。するとワイフ
も、「そうね」と。

 私のばあい、結局は、たいしたことはできなかった。全体としてみれば、平凡な人生だった。
ワイフは、よく、「あんたの人生は、非凡よ」と言うが、私は、そうは思っていない。どこまでも平
凡だった。

 ただ、だれにというわけではないが、感謝しているのは、今まで、ずっと健康だったこと。それ
にお金には、それほど不自由しなかったこと。……というより、いつも収入以下の生活を、旨
(むね)としてきた。そういう意味では、ワイフも私も、質素な生活にこころがけてきた。

 おそらく今が、人生で、頂点ではないか。あるいは、もうくだり坂? 来年の生活が、今年より
よくなることは、考えられない。さ来年となると、さらにそうだ。このところ、体力や気力が、急速
に衰えていくのが、自分でもよくわかる。

 たとえば今、ほとんど一日おきに、電子マガジンを発行している。読者の方は、その分量につ
いて、「多すぎる」と言う。たしかに多い。ワイフですら、「多すぎる」と言う。しかし私としては、今
のうちにできるだけ書いておきたいと思う。来年になったら、もう書けないかもしれない。読者の
方には申し訳ないが、今しばらく、がまんしてほしい。そのうち、A四で数ページの、つまりは標
準的な、マガジンになると思う。

 とにかくそれを一〇〇〇号までつづけること。そのとき読者が、私のワイフ一人になっていて
も、それはそれでかまわない。一〇〇〇号までマガジンを出すということは、私自身への挑戦
なのだ。しかも、発行する分量を減らさないことによって、今の生活を、来年も同じようにつづけ
ることができる。来年が、よりよくなることはないにしても、今年よりは悪くしたくない。

 が、それでも、やがて私の人生は、終わる。そしてこれから先、どんなにあがいても、死ぬと
きになれば、やはり、「ぼくたちの人生は、こんなものだったね」と言うにちがいない。だからどう
したらよいのかは、私にはわからないが、ともかくも、今できることを、今、するしかない。何の
ために? どうして? ……それはわからないが、ともかくも、先に進んでみるしかない。

私「この先も、今のままだろうか」
ワ「ぜいたく言っちゃ、いけないわ」
私「どうして?」
ワ「今のままの状態が保てれば、すてきじゃない」
私「そうだな。これからは、そういう人生になるかな」
ワ「そうよ」と。
(030627)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(925)

生きているだけでいい……

 A市に住んでいるBさんという女性の方から、メールをもらった。A市でした、私の講演会に来
てくれた人だという。そのメールの最後には、こうあった。「生きているだけでいいという言葉
が、耳に残っています」と。私はその講演の中で、奇跡的に助かった二男のことを話した。それ
で「二男にも、いろいろ問題はあったが、そのつど、『こいつは生きているだけでいい』と思うこ
とで、乗り越えてきた」と話した。

 Aさんは、メールの中で、Aさんの実姉が重度の心身症になって、精神をわずらったこと。いと
この子どもが、脳炎をして、脳のかなりの部分がダメージを受けたことなどを書いてきた。そし
て「自分の子どもたちのことが心配です」と。

 講演をしていて、もっとも注意しなければならないのは、聞きにきてくれた人に、最後には安
心感を与えなければならないということ。二階の屋根にのぼった人から、はしごをはずしてしま
うようなことだけは、絶対にしてはならない。が、A市の講演会では、そのはしごを、はずすよう
なことをしてしまったようだ。自分でも、それがわかっている。

 私は、その講演会で、自分の過去がいかに、現在の自分に大きな影響を与えているかという
こと。そして、しかし、いかに過去に問題があったとしても、(問題のなかった人など、いな
い!)、重要なことは、そのことではなく、そういう問題があることに気づかないまま、それに振
りまわされることだと、話した。

 ここまでは、講演会で話したが、実は、そのつづきを忘れてしまった。時間が足りなかったこ
ともある。私はつぎのようにしめくくるつもりだった。

 こうした問題は、そういう問題があることに気づくだけでも、そのほとんどが解決したとみる。
つまり自分を知ることで、問題を解決する。ジークムント・フロイトの時代から、精神分析という
のは、そういう意味で利用されてきた。だからBさんについて言うなら、「心配はない」ということ
になる。Bさんは、すでに自分の過去を冷静に見ている!

 その上で、Bさんのいとこの子どもについて考える。メールには、「見舞いに行くと、いとこは
泣いていた」とあった。

 こういうケースでは、私としては、まったくの無力でしかない。それはBさんにしても、同じだろ
う。つらいとか、つらくないとか、そういうレベルの話ではない。またBさんのいとこには、どんな
慰めの言葉も、空々しく聞こえるだろう。またどんな努力をしても、Bさんのいとこの心を、慰め
ることはできない。つまり私たちは、いつもこうした限界状況の中で生きている。自分に対して
も、そして他人に対しても……。

 「生きているだけでいい……」というのは、しかし、決して、あきらめろという意味ではない。そ
うではなくて、子どもにどんな問題があっても、また起きても、それはそのまま、あなた自身のこ
ととして、受け入れ、許して、忘れてしまえということ。もっと言えば、子育てで行きづまったら、
子どもは、「生きている」という原点からみる。そうすれば……という言い方も、今のBさんのい
とこには、失礼な言い方になるかもしれないが、子育てにまつわる、あらゆる問題は、解決す
る。

 しかしこれだけは言える。私は、人間が本来的にもっている「善なる心」を信じている。どんな
人でも、基本的には、善人なのだ。だからあなたは、決して自分ひとりだと思ってはいけない。
自分ひとりだけが、不幸で、問題があると思ってはいけない。どの人も、あなたの立場で、あな
たの問題を共有し、そして悲しんでいる。ここでいうBさんのいとこについても、そのいとこの悲
しみや苦しみは、すべて私たちの悲しみであり、苦しみなのだ。

 そういう意味では、「生きているだけでいい」という言葉には、「生きていることを、もっと率直
に喜ぼう」という意味が含まれる。繰りかえすが、決して「あきらめろ」ということではない。
(030627)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(926)

遊戯

 新しい教室に模様替えして、一か月。その教室の一角に、遊具テーブルを置いた。大きさ
は、縦1・8メートル、横2・7メートルほど。真っ白にペンキで塗り、その上にビニールカバーを
かけた。

 私はその遊具テーブル(勝手にそう呼んでいる)の上に、積み木、動物、自動車のおもちゃ、
自由素材玩具、ままごとセットなどを並べた。どれも、それぞれが小さな、子どもの手のひらサ
イズのもの。やがて教室へやってくる子どもたちは、レッスンの前に、その遊具で遊ぶようにな
った。

 最初は、子どもたちの発想に、驚いた。「よくもまあ、こんなことを考えつくものだ」と、しばしば
感心させられた。何がどうというのではない。毎回のように、おもしろいなと思いながら、それを
ながめていた。が、そのうち、興味深い事実に気づいた。

 一人、仲間に入れない子ども(小三男児)がいた。ほかの生徒と、打ちとけないというか、ほ
かの生徒が、近づいていかないというか。いつも黙々と教室へやってきては、また黙々と教室
から出ていくといったタイプの子どもだった。

 その子どもが、その遊具テーブルで遊び始めたとたん、様子が変わったのだ。何と、みなと、
笑いながら、遊んでいるではないか。見ると、その子どもは、人間の子どもの人形を寝させ、動
物たちが、その人間の子どもを食べているところを作っていた。テーマとしては、残酷なものだ
が、ほかの子どもと、キャッキャッと、笑いあっている!

 心理療法の一つとして、遊戯療法というのがある。児童中心遊戯療法を確立した、アクスライ
ンの遊戯療法などがよく知られている。自由におもちゃで遊ばせながら、その子どもの心を開
かせるという療法である。話には聞いていたが、しかしここまで効果があるとは! 回を重ねる
ごとに、その子どもの表情が、みちがえるほど、明るくなっていった。たった一か月の間に!

 子どもは、(そしておとなも)、無心に遊ぶことで、心を解放させる。そのとき、おもちゃという
素材は、子どもをさらに童心に返す作用がある? それもそのはず。おもちゃに、悪いイメージ
をもっている子どもは、まずいない。そういう思いが、心を開かせる。

 これから先、もう少し様子を見てみるが、しかしこの遊具テーブルには、不思議な力がある。
魔法の力かもしれない。当初はあまり深く考えないで置いたテーブルだが、このところ、あれこ
れ、その意味を考えるようになった。いつか近く、もう少し、この遊具テーブルについて報告で
きることを願っている。
(030628)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(927)

小学生による平和宣言

 今年も、暑い夏がやってきた。それにあわせて、全国各地で、終戦記念行事や、反戦運動
が、もよおされる。昨日は、沖縄で、戦没者慰霊祭が催された(〇三年六月末)。その模様が
テレビで映しだされた。小学生らしき少女が、しっかりとした口調で、平和の大切さを訴えてい
た。しかし……。

 つぎの原稿は、今年の二月に書いたもの。改めて、自分の書いた原稿を読んでみる。

+++++++++++++++++++++

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和
を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほ
とんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を
書いているときも、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(〇三年二月八日)があった。疑問が
ないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに
利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、
平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まってい
る。しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、
戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている
人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)
は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの五八年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人
がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦
後、五八年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力
をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、六〇年代には、中国に。七〇年代には、韓国や北
朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリ
ッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は
言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。しかももっと悪いことに、いまだに、公
式には、日本はその戦争責任を認めていない。中には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」
と主張する日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認するわけではないが、彼らが日本を憎む理
由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まっ
たくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやす
い。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流
では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦を巻いている。つまり、平和を口にする
ものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだ
けが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バ
カげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子ど
もに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環
境保護宣言でもよい。そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういう
ことを言わせてはいけない。そうそう、あの北朝鮮では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで
守ります」などと言っている。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかる
が、そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見る
と、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子ど
もたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見かけたことがあるだろうか。残念なが
ら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家か、あるい
はその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀県在住の小学生)は、つぎのよ
うに話している。「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃ
べったりできなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよか
ったと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声であ
る。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちお
となの義務なのだ。それを忘れてはいけない。子どもに平和宣言をさせて、平和を守っている
フリだけは、絶対にしてはならない。

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、四か月になる。いろいろな原稿を書いているが、四か月前に書いた原稿
という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言させることに、全面
的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで平和の尊さを確認させる
という点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国から数
万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。「私たちは、
○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生による平和宣言
などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しかしその
平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっていては、平
和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言いませ
ん」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとなったら、戦争も
辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」と逃げてまわるのは、
平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもない。日本
がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領され、その保護下
にあったからである。

 私は六〇年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、感
情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変わって
いない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜ぶ韓国人は
いても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて平和宣言をする。
そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が戦争を求めているのでは
ない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、五
〜六発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もするかもし
れないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうなれば日本は、も
うおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活をしなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私の悪い
クセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分たちの政治的エ
ゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの人権がある。その人
権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿まわしのサルのように利用して
はいけない。
(030628)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(928)

タイタニック

 昨夜(前編)と、今夜(後編)、二晩つづけて、テレビで映画「タイタニック」を見た。しかしあの
映画は、いつ見ても、また何度見ても、泣ける。どういうわけだか、泣ける。このところ、何かに
つけて、私は、涙もろくなった。本当に、涙もろくなった。

 青春が、人生の入り口というのは、ウソ。青春は、人生そのもの。それからあとの人生は、い
くらあがいても、その残り火のようなもの。いくらがんばっても、またいくら戻ろうとしても、その
流れに逆らうことはできない。気がついてみると、青春は、遠い波間の向こうに行ってしまって
いる。

 映画「タイタニック」のもつ、切なさは、私たち自身がもっている、青春への切なさそのもと言っ
てよい。純粋で、美しく、太陽の陽光を思う存分受けて、輝いていた。そんな過ぎ去りし青春へ
の思いがはげしく胸を打つ。

 もっとも若い人は、もっと違った目で、映画「タイタニック」を見ただろう。私には、そういう若い
人の気持はわからないが、それはそれとして、本当にすばらしい映画だった。映画というフィク
ションの世界を超えて、何かしら大切なものを、あの映画は、私に思い出させてくれる。

 このつづきは、またの機会に。今は、胸が熱い。主題歌を口ずさみながら、しばらくこの心地
よさに、静かに酔ってみたい。

では、読者のみなさん、おやすみなさい。生きているということは、本当にすばらしいことです
ね。
(030628)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(929)

仙台のS様へ

 お手紙、ありがとうございました。またおいしいものを、お届けくださり、ありがとうございまし
た。毎日、少しずつ、いただいています。

 こちらは、大きな変化はありません。教室の模様替えについては、もう話しましたね。恐らく今
度の模様替えが、私の人生でも最後の模様替えになると思います。少しさみしい話ですが、今
の仕事も、あと何年できるか、わからない状態になってきました。「あと五年、できればラッキー
だね」と、ワイフとは言いあっています。

 正直言って、少し、疲れました。何というか、むなしいです。表面的には、楽しそうなフリをして
教えていますが、「いくらやっても同じ」という思いから、どうしても自分を救い出すことができま
せん。せっかく励ましていただいているのに、こんな手紙で、ショックを受けられるかもしれませ
ん。いかし、親や世間というよりは、私は、正直に告白しますが、日本そのものに失望しつつあ
ります。

 それに今夜は、少し、落ちこんでいます。いえ、今日の午後、近くのT中学校区で講演をして
きました。大切な講演だからと、息こんでしたのですが、かえって早口になってしまい、何という
か、ペラペラとしゃべっただけという講演になってしまいました。私のできとしては、最低、最悪
の講演でした。それで家に帰ってきてから、気分がふさいでしまったというわけです。

 ほかにも、いろいろいやなことがありました。それをここに書くことはできませんが、ほとんど
の親は、表面的な部分だけを見て、私の中身を見てくれません。私としては、それがわかって
もらえず、歯がゆくてならないのですが、これはしかたのないことですね。もともと私の仕事とい
うのは、そういう仕事なのですから。

 浜松は、このところ、どういうわけか、朝夕は、たいへん涼しい風が吹いています。今夜も、ど
こかロマンチックな風が吹いています。東南アジアのタイかどこか、ホテルの一室にいるような
気分です。夏の気配はすぐそこにあるのに、夏になりきれず、どこかもどかしい風……という感
じです。

 どうしたらよいのでしょうか。私は、善人ぶっているだけの偽善者かもしれません。本当の私
は、もっと別のところにいて、別のことをしたいのかもしれません。あるいは、もっと別の人間か
もしれません。とにかく、今の私は、本当の私ではないように思います。講演にしても、もっと本
当の自分を前に出したい。そしてそのためには、それにふさわしい人間になりたい。そう思って
います。しかしその道は、あまりにも遠く、これから一〇年や二〇年では、たどりつけないかも
しれない。

 そう、いつか今の仕事ができなくなったら、オーストラリアへ移住しようと、そんなことばかり考
えてきました。今も、その気持はありますが、しかし冒険するには、もう遅すぎるような感じもし
ます。体力と気力が、かなり衰えてきました。自分でも、それがよくわかります。いやですね、歳
ととるというのは……。

 そのせいかどうかはわかりませんが、このところ、教え方も大きく変わってきました。もともと
学ぶ姿勢のない子どもや、私の中身を見てくれない親に、コビを売るのをやめました。たとえ
ば今月に入ってから、すでに、四、五人の生徒にやめてもらいました。「勉強したくなかったら、
来なくていい」とです。ワイフはもともと楽天的な女性ですから、そんな私を見ながら、「これから
は本当に教えたい生徒だけ、教えればいいのよ」と言ってくれます。もっともワイフは、私の健
康を気づかって、そう言ってくれるのですが、私にとっては、ありがたいです。

 何かしら暗い話ばかりになりましたが、もちろん明るい話もあります。秋には、二男が孫をつ
れてアメリカからやってきます。来週からは、オーストラリアの友人が、私の家に四〇日間ほ
ど、ホームステイしてくれます。いっしょに温泉に行くつもりです。留学時代からの友人です。
今、一番、心を割って話せる友人です。おかしな友人で、今は、シンガポールに立ち寄っていま
すが、毎日のように、そのシンガポールから電話をかけてきます。もうすぐ会えるというのに、
です。

 私も、そういえばおかしなところがあって、相手がオーストラリア人だと、そのまますなおに心
を開くことができます。簡単に友人になり、またその関係を、そのままいつまでもつづけること
ができます。彼らは、底抜けに陽気だし、あっけらかんだし、それに裏がない。彼らが「YES」と
言えば、YESなんですね。そのわかりやすさが、好きです。その友人も、こう言いました。

途中、シンガポールに立ち寄ってくるというものですから、私がSARSのことを心配してメール
を書くと、「ぼくに、ポライト(ていねい)という単語は意味がない。来てほしくなかったら、来てほ
しくないと、はっきり言ってほしい」と。そこで私は、こう返事を書きました。「君がSARSを日本
へもちこんで、それでぼくが死んだとしても、ぼくは、かまわない。いっしょにまた、あの世で、ド
ライブでもしよう」と。その友人というのは、私にとっては、そういう友人です。

 長い手紙になりましたが、夏の間、名古屋のほうにおいでになるとか。ぜひ、教室へ遊びに
おいでください。案内書を同封しておきます。楽しみにしています。私にとっては、過ぎ去りし時
間が、また戻ってきたようでうれしいです。大歓迎です。

                                 はやし浩司

(030628)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(930)

日本語

 若い人が発行している電子マガジンを、いくつか購入している。これが結構おもしろい。内容
もさることながら、日本語がおもしろい。少し、まねてみる。これからは、こういう日本語になる
のかもしれない。

++++++++++++++++++

 これから、洗濯機の掃除、つうか、清掃。
 オーストラリアの友人夫妻が、長期滞在すんので、
 山荘のほうに、一台、置いとこって、感じ。
 で、自宅にも一台、ほし〜ぃ。
 て、言ったのは、ワイフさま。で、もう一台、
 近くのスーパーで、買ってきた。
 値段は、二万八〇〇〇円。
 五キロで、この安さ。
 信じられな〜ぃ。
 もう少し安いのもあったけど、韓国製。
 韓国、がんばってのね。
 しかし、どこか心配。
 やっぱ、電気製品は、日本製にかぎるよね、ホント。

 で、問題は、どうやって、山荘まで、運ぶかっていうこと。きぃい!
 軽のバンがあるから、それで行こ。
 しかし今朝の天気、ホントにさわやか。
 気持い〜ぃ。
 しかしどこかフラフラすんの。
 三半規管が、どこか不調?
 よく寝たのに、まだ眠い?
 あくびばかり、出んの。
 朝ごはんを食べて、お茶飲んで、
 それから一休みして、行動開始。

+++++++++++++++++++++

 しかしこの日本語、おかしいと思う前に、正直言って、楽しい。この日本語で、一つ、子育てエ
ッセーを書いてみることにする。どんなエッセーになることやら……? つぎのエッセーが、そ
れ。

+++++++++++++++++++++

●父親の役割

そもそも、父親像のない父親に、父親らしくしろって、言っても、ムリなんの。
あまりムリすると、父親だって、自己否定になるわさ。
だって、そうだろ。みんながよってたかって、「あんたは、父親らしくないわさ」なんて言われて
さ、気持いいはずねえもんね。

役割形成っていう言葉を、知ってるか? 人間っていうのはさ、長〜〜〜〜〜ぃ時間かけてさ、
自分らしい自分をつくっていくというわけ。わかりやすい例で言うとさ、男が男らしくなるのは、こ
の役割形成という作用によるもの。わかる?
女だって、そう。ほとんどは、見ようみまねで、男は、男に、女は、女に、なるっていうわけ。つう
か、そういうふうに、仕立てられていくって、いうわけ。
こういうのを、観察学習っていうわけ。知ってた?

わかりやすく言うとさ、自分が、その父親に授業参観してもらったことがない父親に、「参観日
に出てきなさい」と言ってもさ、ストレスがたまるだけ、っていうこと。炊事や洗濯をしたことがな
い父親に、「家事を手伝え」と言っても、ストレスがたまるだけ。わかる、この気持?

しかしさ、その程度では、すまないの。「あんたはダメ」と、あんまり父親を責めると、父親だっ
て、自己否定の世界に陥ってしまうよ。こういうのを、役割混乱と、いうわけ。これがこわいよ。
きぃい!

わかりやすく言うとね、トラックの運転手に、リカちゃんの洋服を着せるようなもの。「あんたの
服装、ダサいから、今度、この洋服にしな」と言われても、困るでしょ。役割混乱を起こすと、人
間っていうのは、情緒がたいへん不安定になるの。もちろん自信喪失にもなるけどさ。

だからあんま、父親に、あれこれ言わないほうが、いいよ。やめときな。どうせ、ムリだもんね。
そういうもの。人間って、いうのはさ。

そのかわり、各論のほうから、少しずつ、攻めるのがいいよ。たとえば、さ、何か、子育てらしき
ことをしたらさ、「パパ、なかなか、やるじゃん」とか、何とか言って、おだててさ、そういうこと。

あんたの夫は、夫。どうせ、簡単にはなおらね〜〜〜〜〜よ。だったらさ、あきらめな。あきら
めて、つぎの世代に、望みを託しな。そのほぉが、いいよ。わかりやすいし、さ。

ほほほ。ケツロンを言えば、そういうこと。わかった?
(030629)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(931)

山荘ライフ

 今日(六月二九日)、朝一一時ごろ、山荘に到着。昨日は、T中学校区で講演をしたが、ただ
しゃべっただけという、最低、最悪の講演。野球の試合でいえば、三回バッターボックスに立っ
て、三回とも、三振をとられたような気分。だから昨日は、そのあと寝るまで、気分が重かっ
た。

 山荘へ着くと、久しぶりに、飛行機を作った。バルサと紙の飛行機である。落ちこんでいると
きは、これが一番。本来なら、料理は私がする。が、今日はワイフに任せた。料理をつくる気分
には、とても、なれなかった。

 飛行機は、数時間でできた。で、さっそく飛行。風は強かったが、数度、翼(つばさ)を調整す
ると、うまく風にのって飛ぶようになった。私が作る飛行機は、本当によく飛ぶ。私には、天才
的な才能がある……と思う。(ホント!)子どものころから、飛行機づくりだけは、だれにも負け
たことがない。小学生のとき、学校主催の、飛行機大会が、毎年、あった。飛行距離を競った
り、滞空時間を競ったりした。そういった試合でも、だれにも負けたことがない。手先が器用だ
ったし、それにだれよりも、飛行機が、好きだった。

 ただラジコンの飛行機だけは、今でも、どうしてもうまく飛ばせない。今までに何一〇機と挑戦
したが、やはりダメだった。どこかのクラブに入って、だれかに指導してもらえばよかったのだ
が、人に頭をさげることができなかった。子ども時代のプライド(?)が、かえってわざわいした
のかもしれない。

 飛行機を飛ばして帰ってくると、ワイフが、遅い昼食を用意してくれていた。新しい電気釜でた
いたご飯だと言った。少しかたい感じがしたが、はじめてにしては、まあまあのできだった。

 そのあと洗濯機の清掃。据えつけ。そして庭に、除草剤をまいた。日差しが強かったので、急
いでした。が、そのあと、ボンボンベッドに横になると、ものすごい睡魔。今日は、オーストラリア
のブッシュソングを聞きながら、眠ることにした。

 私は、オーストラリアのブッシュソングを聞くと、すぐそのまま、三〇数年前の自分に、タイム
スリップしてしまう。これも特殊な能力かもしれない。私の人生の原点は、あの留学時代にあ
る。あの時代が、私にとっては、すべて。それ以後の人生は、私にとっては、残り火のようなも
の。少しずつ、思い出を燃やしながら、そのあとの、つまり、今に至る三〇数年を生きてきた。

 で、横になって、今週、やってくるオーストラリア人のB君のことを考える。とたん、涙で目がう
るむ。眠いはずなのに、胸が熱くなって、かえって目がさめてしまった。ワイフが横にいた。

私「はじめてB君の家に行ったときね……」
ワ「……」
私「日本の生活とは、あまりにもかけ離れていたので、ぼくは驚いた」
ワ「……」
私「そういう生活を見ながら、日本人がこういう生活ができるようになるには、あと何一〇年も
かかる。あるいは永遠に不可能かもしれないと思った」
ワ「もう、その話は、何度も聞いたわ」
私「しかしね、今、日本は、あのときのオーストラリアと、それほど違わないところまできた。生
活面だけではなく、文化という面においてもね。ぼくは、それがうれしい」と。

 B君は、私がオーストラリアへ着いた翌日にできた、最初の友人だった。私が中庭で写真をと
っていると、B君がやってきて、声をかけてくれた。で、私は彼の写真をとった。そのときの写真
は、今でも、私の部屋に飾ってある。親指を立てて、「ハロー」と言っている、彼独特のポーズで
ある。が、それから三三年と、四か月! 

その間に、たがいに何度か行き来して、会ってはいるが、しかし会うたびに、やはり私の心は、
あの原点にもどってしまう。あの時代が、私にとっては、いつも入り口。そして会うたびに、その
ときが、出口。その入り口と出口の間には、何もない。部屋があるはずなのに、その部屋す
ら、ない。

 記憶というのは、そういうものかもしれない。いつもそういう感じで、現在と過去がつながって
しまう。

 夕方遅くなって、私は、浜松市内の自宅に帰ってきた。本当に今日は、すばらしい一日だっ
た。さわやかで、暑いが日陰に入ると、涼しいほどだった。「一年中こうだといい」と、今、そう思
った。
(030630)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(932)

内向的性格VS外向的性格

 よく「あの人は、内向的」とか、「あの人は外向的(外交的)」とか、言う。しかし幼児教育の世
界では、少し、違った意味でこれらの言葉を用いる(D・A・レアードほか)。

 内向的というのは、自分がもつ生命力を、自分に向けて攻撃的になること。外向的というの
は、他者(環境)に向けて攻撃的なることをいう。たとえば何かの失敗をしたとする。そのとき、
絶望感を覚え、極度の不安状態になるのは、内向的。反対に、失敗を恐れたり、他人の目を
気にしたりすることなく、他者に向って挑戦的になるのを、外向的という。外向性が強すぎると、
それが非行や犯罪に結びつくこともある。

【内向的なA君(中一男子)】

 A君が、ある日、こう言った。「今度、テストがあるから心配です」と。A君は、だれに対してもて
いねいな言葉づかいをした。「いつのテスト?」と聞くと、「九月の、夏休みあけのテストです」
と。そこで私が、「まだ二か月もあるじゃない」と驚くと、彼もまた、「たった二か月しかない……」
と言って、驚いた。

 A君は、いつも何かにおびえていた。時間に追われていた。一見、おだやかな表情をしてい
たが、どこかせっかちで、結果がすぐ現れないと、「失敗した」とか、「ぼくはやっぱりダメだ」と
か、言った。

【外向的なB君(中一男子)】

 B君は、幼児のときから、大の祭り好きで、祭りが近づくと、ときにはおとなたちにまじって、夜
遅くまで騒いでいたという。その傾向は、大きくなるにつれて、ますます強くなった。空手道場に
通うようになるころから、腕力に自信をもったのか、友だちを、暴力や暴言で、威圧するように
なった。B君が小学三年生のときだった。

 そんなB君が、飲酒で補導されたのは、小学六年のときのこと。補導した指導員は、小学生
だとは思わなかったという。B君は、ませた態度で、おとなびたものの言い方をしていた。今は
中学一年生だが、学校では、番長として、だれにも恐れられているという。

 一般論として、どんな人にも、内向的な面と、外向的な面があるとされる。つまり自分の中
で、バランスをとりながら生活している。あるいは日によって、内向的になったり、今度はその
反動として、外向的になったりする。落ちこむときもあれば、反対に、自信過剰になるときもあ
る。

 が、全体としてみると、子どもは思春期を迎えると、外向的になる。情緒も不安定になる。
が、その時期を過ぎると、今度は、反対に内向的になり、「自分」というものを、考え始める。

 要は、極端にならなければよいということ。極端に内向的になれば、いろいろな神経症を引き
起こす。反対に、極端に外向的になると、先にも書いたように、非行や犯罪を引き起こす。そこ
であなたの子どものチェックテスト。

【あなたの子どもは、内向的? それとも外向的?】

●つぎの項目のうち、五つ以上思い当たれば、あなたの子どもは、内向的ということになる。

(1)何かにつけて、クヨクヨと悩みやすい。
(2)決断力がなく、グズグズしやすい。
(3)指しゃぶり、チック、髪いじり、吃音(どもり)など、神経症による症状がある。
(4)どこでもまじめ風。よくできた子という印象を与える。
(5)外の世界で、子どもらしい、ハツラツさに欠ける。
(6)手洗いぐせ、恐怖症など、強迫観念をもちやすい。
(7)みんなとワイワイ騒ぐより、ひとり静かにしているほうを好む。
(8)感覚が繊細で、神経づかれを起こしやすい。
(9)よくあせったり、不安になったりする。心配性。
(10)何でも完ぺきでないと、気がすまないタイプ。

●つぎの項目のうち、五つ以上思い当たれば、あなたの子どもは、外向的ということになる。

(1)態度が横柄で、言動が荒い。存在感がある。
(2)行動してから考えるタイプで、失敗も多い。猪突猛進型。
(3)こまかいことを気にしない。そのため、他人の心に鈍感。
(4)友だちとよく口論したり、けんかする。暴力も振るう。
(5)言いたいことを言い、したいことをする。
(6)全体に伸び伸びとしていて、グループ行動を好む。
(7)約束が守れない。規則が守れない。どこかズボラ。
(8)わがままで、自分勝手なところがある。
(9)自分の思いどおりにならないと、かんしゃくを起こしやすい。
(10)暴力に対して抵抗がない。殴る、蹴るが日常化している。

 内向的であるにせよ、外向的にあるにせよ、それが子どもの性質と思い、「なおそう」と考え
てはいけない。ここにも書いたように、それがどちらであるにせよ、それはそれとして、認めたう
えで、子育てを組みたてる。いじればいじるほど、子どもの自我は混乱し、自我の形成が遅れ
る。自信喪失から、自己否定に走ることもある。
(030629)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(934)

文化性

 高い文化性は、何によって決まるか。またその文化性は、どう判断したらよいか。

 文化性は、ポケットの数と、その深さで決まる。「ポケット」というのは、心のポケットのこと。つ
まりは、経験ということか。体験でもよい。また「深さ」というのは、知性や理性の度合いをいう。
ポケットが多ければ多いほど、そしてそのポケットが深ければ深いほど、その人からは、深い
人間性がにじみ出てくる。

 私は最近、芸術のもつ意味を、改めて考えなおしている。究極のムダ、それが芸術ということ
になるが、そのムダを、いかに心の中に用意するかで、その人の文化性が決まるのではない
か、と。だからどんな芸術であるのせよ、その道の大家と呼ばれる人には、近寄りがたい、威
厳がある。反対に、そうでない人は、そうでない。

 たとえば私は、ある時期、コンピュータ音楽に没頭したことがある。あるいはある時期、毎
日、絵を描いていたことがある。趣味ということになるが、それによって利益を得ようとか、ある
いはだれかに聞いてもらおうとか、見てもらおうとか、そんなことはまったく考えなかった。あくま
でも、自分のためだった。

 そして今は、こうして毎日、文を書くことに挑戦している。こうした文を書いたからといって、利
益があるわけではない。読んでもらえればうれしいが、しかし読んでもらったからといって、どう
ということはない。読者の方が、どう思い、どう考え、どう利用しようが、それは私の問題ではな
い。

 しかしこういう、一見、ムダなことをすることにより、私は、自分をみがくことができる。そしてこ
こでいうポケットを、深くすることができる。また新しい分野の問題に、挑戦していくことによっ
て、ポケットの数をふやすことができる。ただその結果、高い文化性が生まれるかどうかは、そ
れはわからない。たとえば私などは、いくらポケットの数をふやしても、またそれを深くしても、
低劣なままである。しかしこれだけは、言える。

 自分に高い文化性がなくても、その結果、高い文化性をもった人と、そうでない人の区別はで
きるようになるということ。それはちょうど、高い山から、下を見るようなものではないか。低い
山にいる人は、高い山がどんなものかはわからない。しかし高い山に登ってみると、低い山の
ことが、よくわかる。そういう意味でも、ポケットの数をふやし、それを深くすることは、大切なこ
とである。

 だから……。「さあ、芸術を楽しもう」と書けば、このエッセーの意図が、バレバレになるが、し
かしそれほど、この考え方は、まちがっていないと思う。すばらしい音楽を聞いて、すばらしい
絵を見る。そしてすばらしい本を読んで、すばらしい映画を見る。そしてそのつど、深く、感動す
る。こういう心の作用が、その人の文化性を、高くする。

 以前、こんな原稿を書いた。この話とは関係ないかもしれないが、思い出したので、ここに添
付する。

++++++++++++++++++++++++

しつけは普遍

 五〇歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし六〇歳を過ぎると、その人の
人格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。たとえばTさん(七〇歳女性)は近所でも、
「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。近所を散歩しながら、よそ
の家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。人はそれを、Tさんが老人
になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさんが二、三〇歳のときか
らあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。しかし
七〇歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例する
かのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころに
は、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途
中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたとき
には、どこか不愉快になる。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教
えるのが、「しつけ」ということになる。そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。
そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。
(030630)

++++++++++++

【宣言】

●私は、不道徳なものを、すべて捨てる。

若いころ、私は、たくさんのスケベビデオを集めた。それがいつの間にか、引き出しいっぱいに
なったこともある。しかしそれらは、あるとき、すべて捨てた。そういうものを見て、自分を慰め
ている自分が、なさけなくなった。またそれを見るたびに、せっかくそれまで積み重ねてきた自
分の人間性が、粉々に破壊されるのを感じた。

パソコン時代になって、今も、その類の、スケベ写真などが、かなりある。「私も人間だ」「私も
男だ」という言い方で、そういう自分を正当化してきた。しかし今夜を境に、すべてを捨てること
を決意した。私の身のまわりから、そういうものを一掃する。こんな宣言は、世の女性たちに
は、理解しがたいものかもしれない。私のワイフも、そう言っている。しかし世の男性なら、そう
いうものを一掃するということが、どれだけたいへんなことで、決意のいることか、わかるはず。
喫煙者が禁煙するようなもの。アルコール中毒者が、酒を断つようなもの。学歴信仰者が、そ
の呪縛から、自分を解き放つようなもの。「私」から本能を切り離すことは、それくらい、むずか
しい?

ともかくも、今夜を境に、すべて捨てる。このあと、私がどう反応するか。それはその反応が現
れてからの、お楽しみ。またスケベ写真を集めるようになるかもしれない。あるいは、ならない
かもしれない。ますます、カタブツになり、おもしろくない男になるかもしれない。そういう心配も
あるが、しばらく静かに、自分がどう変化するか、観察してみる。報告は、そのあとで……。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(935)

人間性

 私は、幕の内弁当を食べるときも、まず、一番、食べたくないものから、食べ始める。しかし
ワイフは、一番、食べたいものから、食べ始める。

 私は、家事をするとき、一番いやな仕事から、始める。しかしワイフは、一番、やりやすい仕
事から、始める。

 先日も、山荘で草を刈っていたときのこと。私は、まず急斜面の、一番、やりにくいところか
ら、草を刈り始めた。見ると、ワイフは、山荘に一番、近い、平坦なところの草を、カマで刈り始
めた。

 この違いは、いったい、どこからくるのか?

 私はワイフに聞いた。

私「ぼくらの時代は、一番、おいしそうなものは、最後までとっておくという時代だった。いいもの
は、最後に、という考え方だった。お前は、ちがうのか?」
ワ「私も、子どものころは、そうだったわ」
私「そうだろ。仕事にしても、一番、やりにくそうで、いやな仕事を先にすませて、あとでゆっくり
と、楽な仕事をする」
ワ「私も、子どものころは、そうだったわ」
私「じゃあ、なぜ、お前は、幕の内弁当でも、一番、おいしそうなものから食べるのか?」
ワ「だって、おなかがふくれてしまったら、おいしいものでも、おいしくなくなって、しまうじゃない。
だったら、はじめにおいしそうなものを、おいしいと思って食べたほうが、いいに決まっているで
しょ」
私「……」

 そんなわけで、掃除のし方も違う。私が掃除するときは、家の中の一番奥から、順に、手前
のほうに向って掃除する。ワイフは、まず一番やりやすそうな、身のまわりから始めて、順に、
部屋の奥のほうへと進む。

 料理をするときもそうだ。私は、まずメインの料理を先にとりかかる。そのとき、簡単な料理
のことは、あまり考えない。ふつう、メインの料理ができあがった段階で、スープやサラダを考
える。が、ワイフは、まず、一番、簡単な、スープやサラダから作り始める。

 こうした違いは、人間性による違いか。それとも、長い間の習慣によって生まれた違いか。

 ワイフも、子どものころは、私と同じようだったという。もっとも、私の時代は、何かにつけて貧
しかった。そういう時代背景がある。一方、詳しく調べたことがないので、よくわからないが、最
近の子どもたちは、多分、一番、おいしそうなものから食べ始めるに違いない。仕事も、一番、
楽な仕事から、始めるに違いない。

 が、こうした違い、つまり私とワイフの違いが、今は、互いにうまく補完しあって、かえって生活
をスムーズにしている。掃除をするとき、私は、一番やりにくいところから始める。押し入れの
中とか、階段とか。つづいて部屋の中心に向う。が、そのころ、ワイフは、部屋の中心部は終
わっている。それでそのとき、掃除は終了。料理も、そうだ。つまりこうした違いは、ひょっとした
ら、人間性の違いというよりも、長い間の結婚生活の結果として、そうなったと考えるのが正し
い。

 ただし弁当を、いっしょに食べるときは、困る。ワイフは、さっさとおいしそうなものから食べ始
める。そして私が食べたいと思ったときには、もう、それはない。「エビ天は、どうした?」と聞く
と、「もう、私が食べた……」と。
(030630)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(936)

宣言

 私は、そのつど、宣言をすることによって、自分を律してきた。よく覚えているのは、盆暮れの
つけ届けを、すべて断ったとき。

 今から、もう一五年前になるだろうか。私は、生徒の父母にはもちろんのこと、仕事で関係す
る人にも、それを宣言した。心のどこかには、「もらえるものは、もらっておけばいいのでは…
…」という、ずるい気持もあった。しかし「盆暮れのつけ届けは、いっさい、お断りします!」と。
結果、今年など、仕事関係の中元は、一つだけ。

 こういうものは、なければないで、いっこうに構わない。盆暮れのつけ届けについて言えば、
悪習そのもの。まったく、意味がない。ふつうなら絶対に買わない、包装だらけのプレゼントな
どもらっても、うれしくも何ともない(失礼!)。かえって腹がたつ(失礼!)。(誤解しないでほし
いのは、腹がたつのは、そのプレゼントをくれた相手に対してではなく、そういう包装だらけの
プレゼントを作った会社や、販売会社に対して、ということ。相手の人も、豪華な包装に、だまさ
れている?)

ひどいのは、ノリ。ていねいな包装紙をほどいてみると、豪華な化粧箱。その箱を開けてみる
と、カンがふたつ。これまた豪華な化粧カン。そこでカンをあけてみると、小さなノリが五枚前後
ずつ、透明の袋に入っている。乾燥剤まで一個ずつ、入っている。一度、ヒマだったので、ノリ
を並べてみたが、うまく買えば、スーパーで、X百円前後で買える量しか入っていなかった。あ
るいはもっと少ない?

 もしあなたがX百円のノリを、「お中元です」と言って手渡されたら、はたしてあなたはどう感ず
るだろうか。二〇年ほど前だが、「お中元です」と言って、ほうれん草一束をもらった学校の先
生がいた。ホント! その先生がどんな気持になったか、容易に察することができる。その先
生はこう言った。「本来なら、喜ばねばならないはずだが、自分がその程度の人間に思われて
いるかとわかって、悲しくなった。むしろ何ももらわないほうが、気が楽だった」と。つまり、盆暮
れのつけ届けというのは、その程度の、つまりは非常識な悪習にすぎない。

 が、盆暮れのつけ届けを、断るようになったのには、もう一つ、大きな理由がある。

 私も、以前は、ごくふつうの人のように、デパートやスーパーへでかけ、そこでつけ届けの注
文をしていた。そのとき、私は、人間関係を、値段で決めているのを知った。「Aさんと、Bさん
は、5000円。Cさんと、Dさんは、4000円。Eさんは、3000円でいい」と。

 そういう私が、ほかの人から、つけ届けをもらう。当時、すでに箱の横には数字が書いてあ
り、値段がわかるようになっていた。つまり今度は、反対の立場で、自分の価値が、モノの値段
で決められているのを知った。

 それは実に不愉快な体験だった。私がしたと同じ値ぶみを、相手がしていると知った。……と
感じた。そして毎年、それを繰りかえしているうち、不快感が増大し、それがやがて臨界点を超
えた。そこで廃止宣言をした!

 で、私のばあい、それなりにあいさつをしたり、礼をしなければならないときは、そのつどする
ようにした。盆だから……、暮れだから……というふうに考えるのは、やめた。しかしそれで不
都合なことは、何もない。

 で、私は昨日(六月二九日)、またこんな宣言をした。宣言というのは、みなに、公言するとい
うこと。もともと私は意思の弱い男だから、こういう形で、宣言でもしなければ、自分を律するこ
とができない。だからできるだけ、広く、宣言することにしている。今は、インターネットで、それ
が簡単にできる。

 ちなみに、読売新聞社が調査したところによると、「中元、歳暮は、なくても構わない」と答え
た人が、57%をしめたという(〇三年夏)。また「小中学校の先生への中元、歳暮」について
は、80%が、「よくないことだ」と答えている。

【宣言】
 自分の周辺から、ポルノビデオ、スケベ写真、スケベCD類など、すべて一掃する。これから
は、そういうものは、見ない。読まない。集めない。買わない。もっとも、ここ五、六年は、ほとん
ど見たことがないが、しかしあるには、あった。

 ワイフにそれを言うと、「あんたって、バカね」と。女性というのは、男性のヌード写真や、ポル
ノビデオなどには、興味がないようだ。(私のワイフだけかもしれないが……。一度、だれかに
聞いてみようと思いつつ、今まで、その機会がなかった。)

 が、あえてここに宣言する。そういうハレンチ文化とは、決別する。そういうものは、なくても困
らない。人間は、そういう状態で、過去数十万年も生きてきた。どこかに未練がないわけではな
いが、そのうち結果が出るだろう。あるいは反対に来年あたり、またポルノビデオを見ながら、
自分を慰めているかもしれない。そういう不安はあるが、少なくとも、今は、決別する。

 しかしこれだけは言える。世の夫諸君よ、あなたの妻のために、ああいうものは、見ないほう
がよい。女性の本当の美しさは、しわがれた乳房、三段になった腹、鳥のガラのようになった
足。白髪になった髪の毛にある。低俗文化に毒されていると、その美しさがわからなくなる。

顔を真っ白にした、SS。あれはお化けだ(失礼!)。いつも巨大なおっぱいに、ワックスかけ
て、プリプリ見せびらかしている、K姉妹。あれは……(ここには書けない。名誉毀損で訴えら
れる……?)

 少し頭が熱くなりすぎたようだ。だからこの話は、ここまで。私はますますカタブツ人間にな
る。……なりつつある。あああ。
(030630)

【追記】

若き妻たちへ、

 女性の美しさは、そのしわや、白髪や、崩れた体の線の中にある。妊娠し、出産すれば、体
の線が崩れて、当たり前。授乳が終われば、乳房の張りが消えて、当たり前。そして歳をとれ
ば、髪の毛が白くなって、当たり前。そういう女性の変化の中に、人生の記録が、一本ずつ、
刻まれていく。

 今、ワイフの友人の間では、プチ整形が、流行しているという。日帰りでできるような簡単な
整形手術を、プチ整形という。しかし、そんなことをして、いったい、何がどう変わるというのか。
……何を、どう変えられるというのか。もしあなたの夫が、そういうことでしか、あなたを評価し
ないとしたら、そういう夫を批判する前に、あなた自身をのろったらよい。そういう夫を選んだ、
あなた。そういう夫にしか、育てることができなかった、あなた。結局は、それはあなた自身の
問題ということになる。

 そう、あなたの美しさは、すべて、あなたの夫のためにある。そしてその美しさは、あなたがあ
なた自身で、夫の中につくりあげていくもの。だれのためでもない。あなたの夫のためである。
もし自分以外の、人の目を気にするとしたら、そういうことになる。

 若さが若さとして美しいのは、その純粋なエネルギーにある。姿や形ではない。そしてその純
粋なエネルギーがなくなることを、老いるという。姿や形ではない。中身だ。あなたの美しさは、
その中身で決まる。

 若き妻たちよ、心をみがけ。教養をつめ。そして考えろ。いつかそういうあなたに、あなたの
夫は、ひれ伏すときがやってくる。あなたのもつ、神々しいほどの美しさに感嘆するときがやっ
てくる。その日のために、心をみがけ。教養をつめ。そして考えろ。そういう美しさがわからない
ような相手なら、相手にしないこと。そんな相手なら、どう思おうが、あなたは気にすることは、
ない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(937)

男性の排泄欲

 女性に生理があるように、男性には、排泄欲がある。ある程度のコントロールはできるが、し
かしそれは食欲と同じで、ある程度の期間(時間)がたつと、自然にわき起きてくる。女性が生
理を、自己意識で止められないように、男性もまた、排泄欲を自己意識で止めることはできな
い。そういう意味では、女性も、男性も、上半身と下半身は、別々の人間と考えたほうがよい。

 排泄である以上、対象が必要となる。一番よいのは、女性の体内で射精することだが、いつ
もそうできるとは限らない。若い男性なら、一日に二回とか三回とか、排泄欲がわき起きてく
る。相手が好きな女性だと、もっと多いかもしれない。

 が、年齢を重ねると、この排泄欲が、減退してくる。しかしなくなるわけではない。聞くところに
よると、男性のばあい、八〇歳になっても、排泄欲はあるという。ぞっとするような話だが、これ
はどうやら本当らしい。

 しかしこれらの欲望は、本能。その本能が人を裏から操る。が、操られている本人は、操ら
れているとは思わない。自分の意思で、そうしていると思いこんでいる。ここに「私」の不思議と
いうか、謎がある。つまり「私」には、(私であって、私である部分)と、(私であって、私でない部
分)がある。が、実際には、(私であって私でない部分)のほうが、はるかに多い。

 だったら、排泄は排泄として、さっさと排泄してしまえばよい。むずかしく考えることはない。ト
イレで、小便をするのと同じである。女性のことは、いまだによくわからないが、男性のばあい
は、そうである。

 が、ここで問題が起きる。ワイフだって、そうは応じてくれない。そこでマスターベーションとい
うことになるが、男性のばあい、ただ刺激を与えるだけでは、排泄できない。頭の中であれこれ
と空想したりして、視覚的に自分を刺激しなければならない。臨場感が必要なのである。そうい
う意味では、空想が得意な男性は、よい。しかし空想が苦手な男性というのもいる。そういう男
性は、ポルノビデオを見たりして、自分の脳を刺激するしかない。

 もっともこうした排泄が、排泄行為の範囲にあるなら、問題は、ない。排泄したと同時に、現
実の世界にもどることができればよい。この点も、食欲に似ている。おなかがすいてくれば、街
角をあちこちさまよい、おいしそうな店をさがす。しかしおなかがふくれれば、それを忘れて、今
度は仕事に没頭する。

 だから排泄を罪悪視するのは、正しくない。もしそれが悪いことだというのなら、女性の生理
だって、悪いことになってしまう。排泄が排泄の範囲を超えたときに、それは悪いことになる。そ
の範囲さえわきまえれば、排泄は、まさに自然な、男としての営みということになる。

 ……なぜ、こんな原稿を書いたかって? 少し前、ワイフと、こんな議論をしたからだ。ワイフ
が、こう言った。「そんなの宣言するほうが、おかしいわよ。だいたい、そんな恥ずかしい話を、
よく書くわね」と。私が、ハレンチ文化との決別を宣言したと話したときのことだ。ワイフは保守
的な女性で、いまだに男性の排泄欲が理解できないらしい。それでそれについて書くことは、
「恥ずかしい話」と。そういうワイフの意見に反論したかったから、この原稿を書いた。
(030701)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(938)

男女共同参画社会B

 男女平等って、言うけどさ、それを望んでいない
女性も、多いって、いうわけ。今さ、フリーターが、
あれこれ問題になっているけど、働きたくない女性も
多いって、いうわけ。公式の調査でも、二三%の女性が、
そうだって。知ってた?

 もう五、六年前の古い、資料で申し訳ないけど、
私が調べたところ、六人のうち、五人まで、今の
女子高校生たちは、「働きたくナ〜イ」と言ってるよ。
「どうするの?」と聞くと、「ダンナの給料だけで、
やっていきタ〜イ」って。これ、ホント。

 「今は、そういう時代ではないよ。女性も働いて
がんばる時代だよ」って、私が言うと、「奥さんの給料を
アテにするなんてネ〜ェ」と。つまり妻に働かせる夫とは、
結婚しないって、こと。

 でね、私が「どんな人と結婚するの?」って聞くと、
一にマスク、二に親の財産……とか。「心は、どうするの?」と
聞くと、「マスクのいい男は、心もイイに決まってル〜ゥ」と、さ。
「これ、オヤジのマンションって、言えるような
(金持ちの)男と結婚したい」って、言った女子高校生もいたよ。

 このあたりが、今どきの女子高校生の本音かな。
学校でよくするアンケート調査なんか、あまりアテにならないよ。
高校生が、本音を書かないもんね。仮面をかぶる、つうか、
いい子ぶるつうか、子どものときから、そうなっているのね。

 小学生でも、「お母さんが、料理しています。あなたはどうしますか?」って
聞くと、「手伝います」などと、言うよね。きれいな答しか返ってこない。
そこで「ホントにそう? あなたは、手伝うの?」って聞くと、
「でも、ママが、うるさいから、テレビでも見ててって、言う」と、答えるよ。

 男女共同参画社会とは言うけどさ、こういう問題もあるって、いうわけ。
道はけわしいね。ホント。

 でもね、ホントの問題は。女性ではないの。子どもなの。わかる?
戦後ね、女性はそれなりの地位を確立したけど、子どもだけは、
そのまま残されたというわけ。今でも、子どもをペットのようにしか
考えていない、親は、多いよ。子どもの気持ちや意思は、まったく無視。
そういう親ね。

 だから、私のようなものが、ワーワーと騒いでいるわけ。
あまり効果はないけどね。まあ、これからもがんばってみるね。
(030702)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(939)

子育てポイント

●名前と容姿は、からかわない

これは教育の世界の大鉄則。家庭でも、同じ。話題にしたり、茶化すのも、よくない。とにかくア
ンタッチャブルの世界と心得ること。

●父親(母親)の悪口、グチは言わない

子どもの前で、父親(母親)の悪口、批判、グチは言わない。そのときは、それなりに話を聞い
てくれるかもしれないが、やがて子どもの心はあなたから、離れる。

●はじめの一歩を大切に

何でも、はじめの一歩を大切にする。最初に、きちんとしつけておくと、あとが楽。一度何かの
習慣ができてしまってから、それを変えようとすると、たいてい失敗する。

●子どもは、使う

子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもを使うこと。子どもというのは、皮肉なもので、使えば
使うほど、すばらしい子どもになる。具体的には、どんどん家事をさせる。

●「尊敬される人になれ」と言う

「いい学校へ入れ」「立派な社会人になれ」「社会で役立つ人になれ」ではなく、「尊敬される人
になれ」と、子どもには言う。それを口ぐせにする。
(030702)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(940)

月は、巨大なUFO?

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んでいる。かな
り前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要するに、月には、
謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なUFOということになる、とい
う。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。オニー
ル(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニール)という科学者が
発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。どこかの科学博覧会に行
ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの峰にまたがるような、端から橋ま
で、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、それまで発
見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、望遠鏡で月をの
ぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたということ。な
ぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なUFOだったとい
う。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使って、
「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部の研究者の
「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信している。ワ
イフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあるような巨大な
ものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かない。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だからといって、
どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基盤に、何かをすること
もない。ただの夢物語。しかし心地よい夢を誘うには、この種の話が、一番。おもしろい。楽し
い。それはちょうど、子どもたちが、かぐや姫の話を聞いて、夜の空に、ファンタジックな夢をは
せるのと同じようなものではないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UFOの情報
は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂信的なグループ
(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。
(030702)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(941)

老人たちよ、もっとボランティア活動に参加しよう!

 子どもたちのボランティア活動がさかんになってきている。それはそれですばらしいことだ。し
かし問題は、老人たち。

 私の住む住宅地域には、老人が、たいへん多い。しかもこのあたりの人は、どの人も、優雅
な(?)老後生活を楽しんでいる。そういう人たちに、個人的な感情はない。私が知っている人
は、みな、よい人だ。しかし疑問がないわけではない。

 私はここに住むようになって、二六年になる。が、私じゃ、こうした老人たちが、地域活動にせ
よ、ボランティア活動にせよ、「公(おうやけ)」のために奉仕活動をしているのを、私は見たこと
がない。あるいは、ざっとみて、自治会の仕事など、何かの活動をしている老人は、二〇人に
一人くらいではないか。(現在の自治会長のK氏は、今でも、農業を営んでいる。)

 たとえば私の家の近くに広場があり、そこは老人たちのかっこうの憩いの場になっている。の
どかな風景だが、では、こうした老人たちが、たとえば、その周辺のゴミ集めや草刈りをするか
といえば、そういうことは、まったくない。ただ集まって、遊んでいるだけ。とくに、男性が、ひど
い。何もしない。まったく何もしない。

 そこで私の問題。私も、そろそろ老人の仲間入りの年齢になってきた。あと一〇年もすれば、
立派な老人だ。そこで「好かれるため」というレベルの話ではなく、「生きがいを得るため」に、
もっと地域のために奉仕活動をすべきではないかと、考え始めている。

 こんな話をすると、T町に住むI氏(六二歳)は、こう言った。I氏は、地域の奉仕活動を、いつ
も自ら買ってでるような人である。「いかにして、自分の人生を、社会に還元するか。それが今
の、私のテーマです」と。しかしそういうふうに考える老人は、それほど多くない。少なくとも、そ
の広場に集まる老人たちには、そういう姿勢を感じない。

 そこで提言。世の老人たちよ、もっとボランティア活動をしようではないか。そして社会に奉仕
し、かりに年金を手にしているなら、その年金を、社会に還元しようではないか。私たちは、先
輩なのだ。社会の先人なのだ。そういう自覚をもって、これからあとにつづく若い人たちのため
に、その見本を見せようではないか。

 今のままでは、老人、つまり私たちは、ますます社会の粗大ゴミになるだけ。嫌われるだけ。
そのうち、「早く死んでくれたほうが、日本のためになる」と言われるようになるかもしれない。し
かしそんなことを言われるようになったら、それこそ、おしまい。それほどさみしい老後生活は
ない。私たちがなぜ生きるかといえば、自分のしてきたことの「価値」を、つぎの世代に伝える
ためである。しかしそれができないというのであれば、自ら、それまでの人生を否定することに
なってしまう。何としても、それだけは避けなければならない。
(030702)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(942)

役割混乱

 少し前、W大学の学生らによる、集団輪姦(りんかん)事件が起きた。何ともおぞましい事件
だが、この事件は、起こるべきして起きた。しかもまさに氷山の一角。たいていの大学には、こ
の種の、集団デートサークルがあって、闇に隠れて、好き勝手なことをしている。

 こういう事件が起きると、「なぜ?」という声がわき起こる。しかしそんな疑問など、まったく意
味がない。ここにも書いたように、この事件は、起こるべきして、起きた。つまり大学生に、大学
生としての自覚がない。自分が何をすべきかさえ、わかっていない。どういう方向に進むべきか
も、わかっていない。つまりアイデンテティ(自我同一性)がない。これを心理学では、「役割混
乱」という。

 子どもというのは、その年齢を経るごとに、その方向に沿った、役割を形成していく。小学生
は小学生として、中学生は中学生として……。あるいは男児は男子らしくなり、女児は女子らし
くなる。これを「役割形成」というが、その方向性は、子どもによって、みな違う。違って、当然。
が、ここで問題が起きる。

 その方向に沿って、子どもがそのまま進めばよい。しかしそれが、ときに、たいていは外圧に
よって、混乱することがある。私自身の例で考えてみよう。

 私は、高校二年まで、建築家になるのが夢だった。建築家が無理なら、大工でもよかった。
だからそのころまでは、近所のどこかで新築の家が建ち始めると、毎日のようにその家を見に
いった。カンナやノミも、器用に使いこなせるようになっていた。つまり私はそのころすでに、建
築家としてのアイデンテティをもち始めていたことになる。

 が、高校三年になると同時に、突然、担任の教師が、私の進路を変えてしまった。「君は、K
大の文学部なら、入れるから、そこにしろ」と。当時は、そういう時代だった。が、このとき、私
は、大混乱した。もともと文学は好きではなかったし、その素養もなかった。

 で、こうした混乱は、そのあと、何度も繰りかえし、起きた。高校三年の終わりには、私は担
任に内緒で、志望学部を、文学部から、法学部に変えた。そうなると、混乱というより、メチャメ
チャ。まるで男の子が、ある日突然、髪の毛を長くして、スカートをはくようなものだ。

 何とか、そのあと、私は金沢大学の法文学部法科に入学したが、法律に触れたのは、そのと
きがはじめて。素養どころか、興味も、目的もないまま、法律の勉強をつづけた。もっと正直に
言えば、法律を勉強する前に、それから逃亡したい自分と、そのつど、戦わねばならなかっ
た。

 こうした状態は、いわば宙ぶらりの状態といってもよい。自分を定めることすらできない。たま
たま周囲の友人たちが、まじめで、私を励ましてくれたからよかったものの、もしそれがなく、あ
の状態で、何かの誘惑があったら、私は、その道へ入ってしまっていたかもしれない。事実、一
度、ヤクザの世界に、あこがれたことがある。私がここでいう「役割混乱」というのは、そういう
状態をいう。

 考えてみれば、目的意識をもって大学へ入る子どもは、いったい、どれだけいるというのか。
ほとんどの子どもは、(入れる大学の、入れる学部)という視点で大学を選んでいる。それも少
しでも知名度の高い、有名大学をと、考えている。こういう状況の中で、子どもたちは、どこで、
どのようにして、自分のアイデンテティをもつことができるというのか。

 実は、こうした状態は、すでに子どもが幼児期から始まっている。隣の子が、英語教室へ入
ったという理由だけで、自分の子どもを英語教室へ入れる。隣の子が、○×進学塾へ入った
からという理由だけで、自分の子どもを○×進学塾へ入れる。そういう親は、いくらでもいる。
つまりこうした形で、親自身が、子どもの役割形成を、混乱させている。そしてその結果として、
有名中学があり、進学高校があり、一流大学がある。そもそも子どもに、アイデンテティをもて
というほうが、無理なのである。

 これも私のばあいだが、本気で幼児教育をしようと考えはじめたのは、四〇歳も近くになって
からではないか。それまでの自分は、何をしても、また何をするにも、中途半端だった。つまり
それまでの自分には、アイデンテティがなかった。……というより、混乱したままだった。

 集団輪姦事件を起こした学生らは、まさにそういう学生だったといえる。天下のW大学に、入
るには入ったが、「自分」というものをもっていなかった。「入った」というだけで、目的も中身も
なかった。言いかえると、こういう子どもにしたくなかったら、どこかで子どものアイデンテティを
知り、そのアイデンテティにそった、子育てを組みたてる。たとえば子どもが、大工になりたいと
言ったら、それはそれですばらしいことではないか。ラーメン屋を開きたいと言ったら、それは
それですばらしいことではないか。そういう子どものアイデンテティを無視して、一方的に、「い
い大学へ入れ」と押しつけても、子どもは、混乱するだけである。
(030702)

【追記】世の親たちよ、「いい大学」「一流企業」は、ここでいう「役割」ではない。今、「自分の役
割」を見定めることができず、悩み、苦しみ、そしてもがいている若者が、いかに多いことか。
ひょっとしたら、あなた自身も、そうであったかもしれない。今も、そうかもしれない。しかしそれ
は道にたとえるなら、ムダな回り道。回り道をすればするほど、自分の時間をムダにする。自
分の人生をムダにする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(943)

防毒マスク

 インターネットの通信販売で、防毒マスク(細菌兵器、化学兵器兼用)を、二つ、購入した。予
算的には、二つが限度。一個は、横浜に住む三男に送るつもり。横浜は、アメリカ軍基地のあ
る、横須賀に近い。もう一個は……。

 一個、七五〇〇円。二個で、一万五〇〇〇円。実際、手にとってみると、不快感が、ズシリと
胸をふさぐ。こういうものを用意したという自分が、なさけない。「自分だけ助かろう」としている
自分が、許しがたい。何という重苦しさ。心にベットリと、どす黒い油が塗られたような感じ。し
かし……。

 この浜松とて、無事ではない。航空自衛隊の浜松基地には、エーワックスという、戦略レーダ
ー搭載機が、常駐している。事実、脱北した北朝鮮の元工作員によると、この浜松も、北朝鮮
の攻撃目標になっているという。風の強さにもよるのだろうが、化学兵器搭載のミサイルが、一
発落ちれば、瞬時に、数万人の人が死ぬという。(韓国軍の試算では、ソウルに、五〇発落ち
れば、四〇〇万人の人が、その場で死亡するという。ゾーッ!)

 さらにTBSの報道によれば、「アメリカの有力紙NYタイムズは、CIA高官の情報として、北朝
鮮が小型核弾頭をすでに 開発していると報じた」(6・02)とのこと。「目標は、日本」とも。これ
またゾーッ!

 しかし一個しかない、防毒マスク。どう使うか。まさかワイフと二人で、使うわけにもいかない。
私が使うか……? それともワイフが使うか……? もし危機が迫れば、多分、どちらも使わな
いだろうと思う。どちらが使っても、生き残ったほうが、あとで後悔する。となると、一個は、長男
にあげるしかない。

 しかし、日本に蔓延(まんえん)する、こののんきさは、何か? これほどまでに危機が、差し
迫っているというのに、その緊迫感がない。アメリカは、経済制裁も辞さないと言っている。北
朝鮮は、経済制裁したら、即、戦争と息巻いている。本来なら、防空演習や避難訓練を、しても
よいはず。

 ところで、このところ気になるのは、自衛隊の浜松基地が、にわかに騒々しくなってきたこと。
見たこともないような飛行機が離発着を繰りかえしている。以前は、一週間に一、二度しか上
空を横切らなかったヘリコプターも、毎日のように、何回も行き来している。一般の人たちが知
らないところで、きっと、何かが始まっているに違いない。

 先週、三男が横浜から帰ってきたとき、私は、こう言った。「何か、あやしげな動きがあった
ら、すぐ浜松のほうへ帰ってこい。それに間に合わなければ、風上の山の方角に逃げろ」と。
「政府が何かをしてくれるだろうとか、アメリカが何とかしてくれるだろうとか、そんなふうに、考
えてはいけない。自分を守るのは、自分しかいない」とも。

 防毒マスクなど、気休めにしかならないかもしれない。それはわかっているが、座して死を待
つわけにもいかない。とにかく、ほかにも、できることはしておこう。油断大敵。備えあれば、憂
いなし。しかしそれにしても、いやな時代になったものだ。平和がこんなにも、もろいものだった
とは……。それに、今まで心の中に積み重ねてきたものが、ガラガラと音をたてて崩れていくよ
うに感ずる。戦争という状況下では、倫理や道徳など、日なたに浮かぶ、かげろうのようなも
の。平和を守るということは、同時に、私たちが積み重ねてきた、倫理や道徳を守るということ
にもなる。教育論にせよ、子育て論にせよ、平和があってはじめて成りたつもの。何としても、
平和だけは守らねばならない。
(030703)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(944)

原稿

 こうした原稿を書くとき、一番、神経をつかうことといえば、いかにして実例を、実例からはず
して書くかということ。そういう意味では、小説家の心境に似ている。実例をそのままズバリ書く
ということは、当然のことながら、許されない。できない。

 たとえばAさんから、家庭問題についての相談があったとする。そういうときは、親類の話にし
てみたり、近所の人の問題にしてみたりする。あるいは、生徒との会話から出てきた話にして
みたりする。

 メールで相談があったときは、その人の許可を求めてから、掲載する。そのとき、その人と特
定できるような部分があれば、修正、訂正する。これは当然の配慮である。部分的に引用する
ときも、私のばあいは、必ず、相手の人に了解を求めている。

 困るのは、名前も住所もない人からの相談。こういうケースでは、質問そのものにも、いっさ
い、答えないようにしている。テーマとしても、取りあげない。本当に、その人自身からの相談
かどうか、わからないからである。仮に、それが転送されてきたようなメールだったりすると、
(そういうことはないかもしれないが……)、あとあとトラブルの原因となりかねない。

 ただ相談に答えていると、ばあいによっては、一、二時間の時間を使うことになる。だからや
はり、相談には、名前と、簡単な住所でよいから、住所を書いてほしい。いくらインターネットの
時代になったとはいえ、これはお願いというより、エチケットのように思う。名前も住所もない人
からのメールを読んでいると、それだけで、不安になる。

 またパソコンの保安の問題もあり、あやしげなメールや、「?」メールは、プレビュー画面に表
示することなく、そのまま削除している。ファイルつきのメールについては、なおさらで、そういう
意味でも、(件名、Re:)のところに、名前と住所を書いてほしい。

 具体的に、こうしたマガジンに掲載する原稿は、どのように書くか、説明してみたい。

 たとえば、近所の女性(六五歳)から、「最近、嫁が孫に会わせてくれない」という話を聞いた
とする。そこで事情を聞くと、その女性が、嫁とけんかしたという。それでその嫁が、いじわるの
ため、自分の子ども(つまり孫)との接触を、禁止しているという。

 こういうケースでは、まず、その孫を、私の生徒に仕立てる。小学一年生の男児とする。そし
てその生徒との会話として、話をつくりあげていく。大切なことは、そういう状況ではなく、中身で
ある。フィクションといえば、フィクションということになるが、それはしかたのないことである。
(読者の方も、そのへんは、了解してくださっていると思う。)

 こうして私のエッセーが生まれる。だから実際あった、プライベートな話をそのまま暴露すると
いうことは、ありえない。一読すると、実際の話のような印象をもつ人もいるかもしれないが、そ
うではない。もしそんなことをすれば、毎週のように、私は、名誉毀損で訴えられることになる。

 が、そういう事情もわからないまま、中には、「林先生には、何も話せない。話すと記事にされ
てしまう」と言っている人がいる。「先生、この話はここだけの話ですよ。マガジンに書かないで
くださいね」と言ってくる人もいる。しかし心配は、ご無用。はやし浩司は、そんな愚か者ではな
い。バカでもない。そういった配慮には、細心の注意を払っている。

 だからもしみなさんの中で、何か相談ごとがあれば、テーマとしていただければ、うれしい。
「老人問題について書いてほしい」とか、「自閉症児について、書いてほしい」とか。一番、手っ
取り早い方法は、掲示板に書きこんでくれること。そうすれば、私のほうから、転載、引用の許
可を求めなくてもすむ。……これは私の勝手なお願いかもしれないが……。

 私は、つぎの鉄則は、守っている。

(1)現在、私の教室に通っている生徒や、その親の話は、いっさい、書かない。(ただし、その
子どもや、親をたたえる記事は、別。)
(2)私が経験した事件では、一〇年前後以前の話のみを、とりあげるようにしている。
(3)身内、親類の話は、(そういう設定で書くことはあるが……)、書かない。
(4)近くで、友人として交際している人から聞いた話は、いっさい、書かない。
(5)腹いせ、報復のための原稿は、絶対に書かない。(これは重要!)
(6)安易な引用、転載は、絶対にしない。すべて了解を得てから書く。(ただしテーマとして取り
あげることは、許してほしい。)

 一応原則なので、ときには、例外もある。そういうときは、その旨、断りを入れる。だから…
…。どうか、安心して、私のエッセーを読んでほしい。またどうか、安心して、私に、いろいろな
ことを話してほしい。私がほしいのは、「テーマ」。何か、未開拓で、未経験の分野のテーマをも
らうと、ゾクゾクとするほど、うれしい。
(030703)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(945)

シェナンドーア

 オーストラリアで、学生生活を送っていたときのこと。カレッジの廊下の横に、音楽室があっ
た。ピアノが置いてあった。私は、さみしくなると、いつもその音楽室に入って、ひとりでピアノを
ひいていた。そのときの曲が、「シェナンドーア(シェナンド川)」である。

 「♪オー、シェナンドーア、私はあなたの娘を愛している。
   ハイホー、あなたは川となって流れ、
   オー、シェナンドーア、私はあなたの娘を愛している。
   遠く、遠く、あなたは、ミズリー川へと、流れる……」

 歌詞は、原詞とは違うかもしれない。長い間歌っている間に、自分で勝手に歌詞を作ってしま
った。私はこの歌を歌うたびに、ゆったりとした気分になれる。だから歌うときも、思いっきり、
ゆったりと歌う。そういう意味では、わかりきったことだが、歌には不思議な力がある。

 ほかに好きな曲と言えば、「上を向いて歩こう」とか、スコットランド民謡の「故郷の空」があ
る。ほかに北山修という人が作詞した、「風」。この曲は、若い人はあまり知らないかもしれな
い。「♪人は誰もただ一人 旅に出て、人は誰も故郷を 振り返る。ちょっぴり淋しくて 振り返
っても、そこにはただ 風が吹いているだけ。人は誰も人生に つまずいて、人は誰も夢破れ 
振り返る……」と歌う。

 多分皆さんもそうだと思うが、それぞれの心の状況に応じた歌というのがあって、そういう状
況になると、その歌が、自然と口に出てくる。で、今は、どういうわけか、……つまり、何もさみ
しいことはないはずだが、シェナンドーアが、口から出てくる。多分、理由は、明日、オーストラ
リアの友人が、名古屋空港に着くからではないか。さきほど、シンガポールにいる彼の奥さん
に電話したところ。「予定通り、名古屋に着くからよろしく」とのこと。

 心の中で、何かが作用して、(友人が来る)→(シェナンドーアを口ずさむ)という現象が起き
ているらしい。そこで私は気がついた。その人が口ずさむ歌を、知れば、そのときのその人の
心理状態を判断することができる、と。さしずめ、これは、フロイトの夢判断に対して、歌判断と
いうことになる。(ははは、またまた新発見!)

 話を戻すが、そんなわけで、私は、去年、アメリカへ行ったとき、ミズーリー川が見たくしてし
かたなかった。シェナンド川は、そのミズーリー川に流れ注いでいるという。アメリカに住む二男
にそのことを話すと、「今度、連れていってやる」と言ってくれた。楽しみだが、あまりアテにして
いない。……というより、あまりアメリカには行きたくない。何しろ飛行機で、一四時間もかか
る。

 ……とまあ、とりとめのないことを書いたが、今の私の気持そのまま。自分でも何が書きたい
のか、また書こうとしているのか、よくわからない。だからこの話はここまで。多分、この原稿
は。ボツになると思う。
(030704)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(946)

友を迎える

【初日・金曜日】

 まれに見る豪雨。心配していたが、翌朝は、かなり晴れていた。私は、午前六時三〇分発の
新幹線で、名古屋に向った。

 少し遅れて出発したが、名古屋には定刻に着いた。駅を出ると、道の反対側にある、バス停
に歩いた。そこから名古屋空港行きのシャトルバスに乗る。

 空港へは、予定より、ぐんと早く着いた。国際線の到着案内ボードを見ると、名古屋着が、予
定より三〇分遅れとあった。飛行機ではよくあること。一時間ほどあったので、私はイスに座っ
て、目を閉じた。

 その前の夜は、よく眠られなかった。寝る前に濃いお茶を飲んだのが、悪かった。で、結局、
朝の三時まで、起きていた。計算すると、数時間しか眠っていないことになる。「体がもつだろう
か?」と、自分でも心配になった。

 午前九時少し過ぎ、友人のB君が、奥さんといっしょに、ゲートから出てきた。私たちは抱き
あって、再会を喜んだ。B君が、太ったことは、写真などから知っていたが、さらに太ったよう
だ。歩くのも苦しそうな姿を見て、思わず、涙が出る。久しぶりの再会で、うれしかったこともあ
るのだが……。

 空港からは、タクシーで駅に向う。途中、時間を惜しんで、話しあう。家族のことや、友人たち
のこと。それにそれまでの人生のこと。B君は、さかんに、自分が太ってしまったことを茶化して
笑っていたが、私は、それについては、何も言わなかった。……言えなかった。ときどき「あの
スマートだった、Bは、どこへ行ったのか?」と思ったが、そう思ったとたん、悲しくなった。

 「どこも体のぐあいは悪くない」と、B君は、さかんに言っていたが、悪くないはずはない。少し
歩いただけで、額から透明な汗をタラタラと流していた。その汗を隠しながら、また、「ぼくは、O
Kだ」と言う。「こんなことでは、また会うことができないではないか」と、私は思った。一〇年後
にせよ、二〇年後にせよ、また会うことができるという期待があるからこそ、人はその人と別れ
ることができる。

 浜松駅へ着くと、ワイフが車で迎えにきてくれていた。簡単なあいさつをすますと、私たちは、
山荘に向った。B君の奥さんは、目ざとく、いろいろなものを発見して、そのつど、鋭い質問を
投げかけてきた。

 「この道路は、姫街道(クィーズ・ロード)と言ってね、女性しか通れなかった」と、私。
 「では、その東海道というのは、男しか通れなかったのか?」と、奥さん。
 「……そういうことはなかったと思う。姫街道というのは、殿様の奥さんのことを言った」
 「どうして男性と女性で、道を分けたのか?」
 「東海道のほうは、船に乗ったりしなければならなかったからではないか」
 「女性は、船に乗ってはいけなかったのか?」
 「そういうことはなかったと思うが、……よくわからない」

 何ともいいかげんな説明がつづく。車は姫街道を、そのままH町のほうへと走りつづけた。通
りなれた道だが、その日はすべてが違って見えた。多分、B君や奥さんの目を通して、まわり
の風景を見ていたからではないか。B君にしてみれば、三〇年ぶりの日本だった。

 「日本は、変わったと思うか」と、私。
 「うん、変わったと思うね」と、B君。
 「どう、変わった?」
 「変わったものが何かわからないほど、変わった」

 山荘へは昼ごろ、着いた。私たちは用意していた焼きそばを作り始めた。私が「日本では、
代表的な料理だ」と言うと、「それがいい、それがいい」と笑った。焼きそばは、一番簡単で、そ
れに失敗がない。テーブルの上で野菜や、シーフードを焼いていると、「日本では、テーブルの
上で焼くのか?」と、さかんに驚いていた。「オーストラリアでは、しないのか?」と聞くと、「しな
い」と。

 奥さんも、B君の肥満のことを心配しているようで、さかんに、あれこれ世話を焼いていた。奥
さんは、女医さんで、その点は心配ない。私が油を鉄板の上に流していると、「それは何の油
か?」と、心配していた。

 B君は、やさしい男だった。学生時代も、何かわからないことがあると、彼だけは最後の最後
まで、いろいろと私に教えてくれた。今となっては、それが何だったのかはよく覚えていないが、
彼のそばにいるだけで、ほっとする。その温もりこそが、私とB君が、学生時代、たがいにつく
りあげたものだ。

 その日は、午後二時ごろ別れる。「四時から、ティーチングがあるから」と言うと、そのまま納
得してくれた。本当のところは、眠くてしかたなかった。

【二日目・土曜日】

 朝は涼しかった。「よかった」と思った。山荘には、クーラーがない。私はひと通りの家事や雑
務をすますと、山荘に向った。途中で、ビデオショップで、ビデオを借りる。夜の山荘は、過ごし
方をまちがえると、退屈でしかたない。「ジョンQ」「バイオ・ハザード」「ロード・ツ・パーティショ
ン」など。

 うなぎを焼こうと思ったが、B君が、「携帯電話がほしい」と言って、一歩もゆずらない。B君
は、そういう融通のきかないところが、昔からある。見知らぬ異文化の国にいるから、何らかの
形で、オーストラリアと直接、つながっていたいのだろう。今では、トイレの中にさえ、携帯電話
をもっていく人がいる。B君も、そのタイプ?

 私たちは、外で昼食を食べることにして、でかけた。まず、浜松周辺で最大の観光スポット
の、「半僧坊」へ。私たちは「半僧坊」と呼んでいるが、正式には、臨済宗方広寺という。修行寺
になっている。土曜日だというのに、ガラガラ。本堂を一周する間も、ほかにだれとも会わなか
った。急な坂が多いだけに、B君が苦しそうだった。私が何度も手を貸そうとすると、半分笑い
ながら、しかしどこか悲しそうに、「OK」「OK」を繰りかえした。

 半僧坊の門を出たところにある茶屋で、私たちは、ソバやうどんを食べた。門を出て右側に
ある茶屋だが、おそらく浜松周辺では、一番おいしい店ではないか。私とワイフは、ソバやうど
んが食べたくなると、いつもこの店まで来て食べることにしている。そういうわけで、私たちには
食べなれた味だが、B君と彼の奥さんには、そうではない。どんな表情をして食べるか、気にな
った。

 「どんな味がするか?」と私。
 「おいしい」と、B君。実際には、「GOOD」とか、「NOT BAD」と言った。オーストラリアで、
「NOT BAD」と言うのは、「とてもいい」という意味になる。いつか、B君が、私にそう説明してく
れた。一番いいのが、「NOT BAD」。つぎにいいのが、「GOOD」。反対に、一番悪いのが、
「NOT GOOD」。つぎに悪いのが、「BAD」と。

 そこを出て、龍潭寺(りょうたんじ)へ寄り、フラワーパークに向った。龍潭寺は、井伊家の菩
提寺でもあるが、その美しい庭園でもよく知られている。が、ここも土曜日だというのに、ガラガ
ラ。おとといの大雨が災いしたのかもしれない。あるいは梅雨時で、みな、旅行をひかえている
ためかもしれない。私たちは、ゆったりとした気分で、いっしょに観光を楽しむことができた。も
っぱら、私が奥さんの世話をし、ワイフが、B君の世話をした。

 で、やっと、携帯電話ショップを発見。そこで使い捨ての携帯電話を買う。三〇〇〇円のカー
ドと両方で、一万円弱。が、ここからがたいへんだった。オーストラリアには、使い捨ての携帯
電話というのが、ないらしい。あれこれ説明を受けて、一時間もかかった。店員さんが、親切だ
ったのが、よかった。

 しかし、それにしても、携帯電話がここまで進化しているとは? 国際電話も、そのままかけ
られる。私がワイフに、「ぼくたちもほしくなったね」と声をかけると、「何に使うの?」と。携帯電
話中毒というのもあるから、ああいったものは、なければないで、そのほうがよい。便利すぎる
ものには、それなりの麻薬性がある。「そうだな」と言ったまま、買いたいと思う心を、消した。

 私の自宅で一服したあと、中国レストランで夕食。そして山荘へ。時刻は午後九時をすぎてい
た。私たちは、そのまま家に帰った。

 ……そんなわけで、今日はパソコンに向ったのは、三〇分だけ。その三〇分で、ここまで書
いた。頭の中には、モヤモヤしたものがいっぱいあるが、今は、それを吐き出す気力もない。
だから、今日は、ここまで。何ともつまらない日記になってしまったが、許してほしい。では、お
やすみなさい。
(03−0705)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(947)

【今週の幼児教室から】

 今週は、英語の勉強をした。ところどころ、英語だけで物語を話してあげたり、算数の問題を
出したりした。ここ数年、物語は、桃太郎をとりあげている。

 で、英語の話をしながら、@映画「ジョーズ」の最初の冒頭画面で、裸で泳いでいる女性が、
ジョーズに食いちぎられるシーン、A映画「タイタニック」の中で、ローズが、笛を吹いて助けを
求めるシーンを、まねして見せた。どちらも、私の得意芸。子どもたちは、そして参観の母親た
ちも、ゲラゲラ笑っていた。(どちらも、英語に関係あるぞ! ジョーズの中では、「HELP!」を
教える。タイタニックでは、「COME BACK!」を教える。こういう教え方をすると、子どもたち
は、すぐ覚える。)
 
 幼児教室では、こうした笑いは欠かせない。やり方をまちがえると、母親たちが、神経質にな
ってしまう。そういう雰囲気を、やわらげる効果がある。とくに私の教室は、すべて参観授業。
要するに、教える側が、楽しむということ。そういう雰囲気が、子どもをなごやかにし、ついで母
親たちをなごやかにする。あとはその相乗効果というか、その雰囲気の中で、子どもたちは前
向きに伸びていく。

 私の教室では、私が鉛筆一本、落としただけで、子どもたちはゲラゲラ笑う。じっとにらんだ
だけで、子どもたちはゲラゲラ笑う。立ったり座ったりするだけで、子どもたちはゲラゲラ笑う。
そういう意味では、子どもたちは、笑いをつくる天才か。何でも、笑いに変えてしまう。(ウソでは
ないぞ! このマガジンの読者の中には、教室の母親も多いから、ウソは書けない。)

 レッスンが終わったとき、子どもたちに、「英語は好きか?」と聞くと、子どもたちは、「大好
き!」と答える。それが英語を教えた目的。あとは子ども自身の力で伸びればよい。それが私
の教え方。
(030706)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(948)

自我をつぶす

 親が子どもの設計図を、ある程度もつことは、しかたないとしても、それを子どもに押しつけ
てはいけない。無理をすれば、子ども自身の自我をつぶしてしまう。その結果、その子どもは、
わけのわからない子どもになってしまう。

 ここで「わけのわからない子ども」と書いたが、本当に、わけがわからない。この表現が、一
番、的確。何をしたいのか、何を望んでいるのか、どこに向っているのか、どこに子どもの心が
あるのか、それがまったくわからない。

 昔、G君(年長男児)という子どもがいた。彼がそのタイプの子どもだった。皆がゲラゲラ笑っ
ているときでさえ、笑っていいのかどうかとまどいながら、にが虫をかみつぶしたような顔をして
いた。わざとソッポを向いて、知らぬ顔をしてみせたりしていた。原因は、すぐわかった。

 母親が参観していたが、その視線が、教えている私の心をつらぬくほど、強烈だった。母親
は、G君のこまかい動きにまで視線を投げかけ、まさにそれを監視していた。異常な過関心と
過干渉。それが日常化しているようだった。

 こうした母親の背景にあるのは、母親自身の子どもへの不信感。もっと言えば、母親自身
が、子どもとの間に、信頼関係を結べない。たいていのばあい、不幸にして、不幸な家庭に育
った母親とみる。つまり母親自身が、子どもに対して、全幅に心を開いていない。……開くこと
ができない。独特の会話をするので、それがわかる。

私「元気がないようですが?」
母「いえ、私が迎えにくるのが、少し遅れたからです」
私「……今日だけではなく、このところずっと、そうですが」
母「いえ、そんなことはありません。音楽教室のほうでは、元気にやっています」
私「どこかで過負担になっているような気がするのですが……」
母「それはないと思います。きのうも、公園で、一日中、サッカーをしていましたから」と。

 このタイプの母親は、「子どものことは、私が一番よく知っている」と言わんばかりに、子ども
のことを、つぎつぎと、自分で決めてしまう。心の中まで、決めてしまう。

私「サッカーは、好きなのですか」
母「好きです」
私「ほかに何か、楽しむようなことはありませんか」
母「ありません」と。

 こういうケースでは、(こういうケースは、多くはないが……)、子どもを指導するというより、母
親を指導しなければならない。しかしガチガチに、石のようになってしまった母親の頭を、どこ
からどう変えたらよいのか。実際には、不可能。母親自身の幼児期の体験とからんでいるた
め、その「根」は深い。

 広く誤解されているが、幼児教育は、母親教育。母親の教育なくして、幼児教育は、ありえな
い。また母親の協力なくして、子どもを伸ばすことはできない。しかしこのタイプの母親には、そ
れがない。たいてい「自分は、完ぺきな、すばらしい親」と思いこんでいる。概して母親の学歴も
高い。

 いろいろなケースがあるが、そのG君のケースでは、私のほうから、「この教室は、G君に合
っていないような気がします」と告げた。が、これには母親が猛反発した。「楽しんできていま
す」「問題はない」「合っている」と。で、結局、二年間、私はG君を教えさせてもらった。当時の
記録には、こうある。

+++++++++++++++++++++

【G君、XX年Y月生まれ】

 極端なひねくれ症状あり。「よくできたね」とほめてあげても、「そんなはずはない」というような
表情をして、プイと横を向いてしまう。数日前も、「この教室は楽しいか?」と声をかけると、私
から視線をはずしてしまった。「来たい」とも言えなかったのだろう。反対に「来たくない」と言え
ば、母親に叱られるかもしれない。そんなような表情だった。私というより、おとなに対して、強
い不信感をもっているよう。

 入会時に母親と話したが、母親は、一度も、「入れていただけますか?」とは聞かなかった。
当然、入会できるという、傲慢(ごうまん)な態度だった。(私の教室は、そういう教室ではない
はずだが……。)そして一方的に、「うちの子は、やればできるはず。ビシビシと、しぼってほし
い」と言った。私はその言葉を聞いて、気が重くなった。

+++++++++++++++++++++

 結局、このG君のケースでは、母親は最後の最後まで、自分の姿を見ることができなかった
ようだ。それとなく何度も、「子どもに任せなさい」「もっと、自由にさせてあげなさい」「家では、も
っとほめてあげてください」と言ったが、ムダだった。小学校への入学が近づくと、母親の緊張
感はますます高まっていった。そしてそのまま私の教室を去っていった。「今度、K塾に入れま
すから」と。あっけない別れ方だった。

 この時期、つまり年中児くらいまでに、一度、自我をつぶしてしまうと、それ以後、子どもが立
ちなおるということは、まずない。子ども自身の問題というより、母親、さらに家庭環境の問題
がからむからである。で、最後は、行き着くところまで、行く。そしてにっちもさっちも行かなくな
って、母親は、はじめて自分に気づく。G君のケースでも、四、五年生のころからツッパリ症状
が現れ、中学校へ入るころには、非行グループに入り、学校へはほとんど来なくなってしまった
という。

 もう一度、「すなおな子ども」について、おさらいをしておきたい。

+++++++++++++++++

仮面をかぶらせるな

 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。

 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が
日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込
むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。

突発的に激怒する子どももいるが、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子
どももいる。そしてその結果、仮面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さな
い。あるいは他人に裏切られる前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が
好意をよせている相手に対して、わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状
態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。

 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。平気な親もいる。「バカ!」と言うことを許せ
というのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけない。

子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、
子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心と
いうのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注
意する。  

+++++++++++++++++++

同じようなテーマで書いたのが、つぎの原稿です。
内容が一部ダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++++++

たくましさは緊急時にわかる

 やさしさ……ブランコを横取りされたとき、ニコニコ笑いながら、黙って明け渡すような子ども
を、「やさしい子ども」と誤解している人がいる。しかしそういう子どもを、やさしい子どもとは言
わない。やさしい子どもというのは、相手を喜ばすことを知っている子どもをいう。ある男の子
(年長男児)は幼稚園でみかけると、いつもだれかを三輪車に乗せ、それを押していた。で、あ
る日、私が「たまには君が押してもらってはどう?」と聞くと、その子どもはこう言った。「ぼくはこ
のほうが楽しいもん」と。そういう子どもをやさしい子どもという。

 まじめ……言われたことをきちんとする子どもを、「まじめな子」と誤解している人がいる。従
順で、すなおな子どもを、だ。しかしこれも誤解。まじめな子どもというのは、自らを律する力を
もっている子どもをいう。こんな子ども(小三女児)がいた。バス停でたまたま出あったので、
「ジュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子どもはこう言った。「これから家
でごはんを食べますからいいです」と。こういう子どもをまじめな子どもという。

 がまん……サッカーならサッカーを一日しているから、がまん強いということにはならない。そ
の子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって、がまんとは、いやなことをする力のこと
をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末するなど。おばあさんの吐いたものを、タオルでぬぐ
ってあげていた子ども(年長女児)がいたが、そういう子どもをがまん強い子どもという。

 すなお……心の状態と顔の表情が一致している子どもをすなおな子どもという。あるいは、い
じけ、ひがみ、つっぱり、がんこなど、心のゆがみのない子どもをすなおな子どもという。子ども
は、おとなもそうだが、心がゆがんでくると、心の状態と表情が一致しなくなる。これを心理学
の世界では、「遊離」と呼んでいる。こうした遊離は、たいへん危険なものである。親からすれ
ば、「何を考えているか、わけのわからない子ども」ということになる。子どもはその表情の裏
で、心をゆがめる。

 最後に、たくましさ……子どものたくましさは、緊急時をみて判断する。けんかが強いとか、そ
ういうことではない。ある子ども(年長男児)は、急用で家をあけなければならなくなったとき、食
事の世話、戸締り、消灯など、さらには妹の世話まで、すべてをひとりでやりこなした。こういう
子どもをたくましい子どもという。母親は「やらせればできるものですねえ」と笑っていた。

++++++++++++++++++++

 あなたは、子どもとの間で、信頼関係を築いているだろうか。また築くことができるだろうか。
心を許し、開いているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、子どもに何か
問題が起きてからでは遅い。今から、そして今日から、心を許し、心を開いてほしい。つぎのよ
うなタイプの母親は、人との信頼関係が結べないという点で、注意したらよい。

【自己診断】

●概して、他人とのつきあいが苦手。つきあうとしても、気が合う人でないと、すぐ疲れてしま
う。人の好き嫌いがはげしく、嫌いになると、とことん嫌いになる。
●他人のささいな失敗や、いやな点が気になり、それを許せないと思うことが多い。そしてその
分、自分では完ぺきさを求めやすい。
●いつもよい人ぶるところがある。自分の心をさらけ出すことができない。仮面をかぶりやす
く、いい人と思われていないところでは、気が休まらない。
●夫や子どもというのは、自分のさみしさを紛らわす道具のようなもの。自分の思いどおりにな
らないと、不愉快。自分が一番正しいと思うことが多い。
●人にベタベタしたいと思う反面、ベタベタされると、うるさく感ずる。その振幅が、人と比べて
も、はげしく、大きい。

簡単なことのようだが、子どもを信頼するということは、(それができる人は、自然な形でできる
が)、本当にむずかしい。ひょっとしたら、あなた自身も、「私はだいじょうぶ」と思っているかも
しれない。しかし、そう思いこんでいるだけ? 一度、自分の心の中をのぞいてみるとよい。意
外と、意外……ということもある。

(心が開けない人へ)

 自分を飾るのをやめよう。
 あるがままの自分を、さらけ出してみよう。
 そしてそれを一年単位でつづけてみよう。
 一年! 一か月や二か月ではない。一年!
 この問題の解決のためには、
 それくらいの時間はかかる。
 とりあえずは、まずあなたの夫に、
 つぎにあなたの子どもに、
 そしてあなたの親や兄弟に、
 あるがままの自分を、さらけ出し手みよう。
 あなたの周囲の人も、あなたがそうしてくれるのを
 待っている。
 そういう人の心の暖かさを信じて、
 そうしてみよう。
 やがてあなたの心の中を、さわやかな風が
 通り始める。
 それを信じて、あなたは心を開いてみよう。
 
(030706)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(949)

家の中で暴れる子ども

はじめまして。小三の男の子のことで相談に乗ってください。

四月の下旬頃から学校へ行っていません。
友だちと口論になったり、授業中に女の子にちょっと何か言われたりしたことがきっかけでキ
レ、学校を飛び出し先生に連れ戻され保健室や校長室に入れられ、「暴れている」と連絡を受
けたことが二週間の内、三度ありました。
三度目の時はお父さんも休みでしたので、二人で駆けつけました。車にも乗ろうとしないのでお
父さんがおんぶをして帰りました。はじめは嫌がって暴れていたようですが、次第におとなしくな
り、それからはなにかとおんぶをせがむようになりました。
土日含めて五日休んだので、学校のことを切り出すと「勉強したくないから行かない」と言い、
今に至っています。
それからは、ほんの些細なことでキレるようになり、一度始まると二、三時間、物を投げたり棒
状のものでたたいて来たり、奇声を発したり、すごい状態が続きます。
特に弟のちょっとした言葉や態度が気に入らないらしく、仕返しをしたりします。ただ年齢差が
あるので加減はしているのですが、私が引き離すまで、うすら笑いを浮かべて攻撃します。私
もいくつもあざが出来ました。
お父さんがいる時は、落ち着いてから「暴力はやめて」など話しをしてくれるのですが、「その時
にならないとわからない」と言うそうです。
校長や教育サービスセンターの方は、「甘えたい時に甘えられなかったからでは?」とおっしゃ
っています。
確かに幼稚園に入ったばかりの五月に弟が生まれました。弟はアトピー性皮膚炎がひどく(今
はだいぶよいですが)、いつもだっこの状態で、夜も痒くて何度も起きるので私も寝不足でイラ
イラしていたと思います。
父親も最近は、しかる時も少し強く言い過ぎたり、時には脅すような態度をとってしまったと、反
省し謝りました。スキンシップも取るようにしました。
ただ一か月間あまり変わらない態度を見ると、自分たちの責任を棚に上げるわけではないの
ですが、他に病的な原因があるのではないか?と、考え始めていました。
そこへ主人がたまたま先生のHPを見てCaを多く取り、炭酸飲料を飲まないようにしました。ま
だ何日かなのですが、少しのことではキレそうになっても自分でセーブしている様に思います。
これはこれからも続けたいと思うのですが、一年生の頃から、時々頭が痛いと言ったり、二年
生の時におたふくかぜから髄膜炎になり一週間入院しました。そういう事も何か関係あるので
しょうか?

友だちがお手紙を持ってきてくれても会いませんし、弟とは五分も仲良く遊べません。親だけが
遊び相手で自分の思うようにしないとまたキレます。(将棋やカードゲームなどわざとでも負け
ないとダメです)最近、夜型になってしまい、私達もつらくて、つい暗くなってしまう時がありま
す。
これから、弟が夏休みで一日中顔を合わせているとまた、キレる事が増えるのではないかと思
い憂鬱です。学校やクラスに馴染めないのならフリースクールなど他のところへ……と思うので
すが、「勉強するのが嫌だ」というのでそれも受けつけないと思います。先生方は、特に私の愛
情不足で子どもとの距離を縮めない限り解決しない、と言います。

その通りだと思うのですが、もともとベタベタする子育てはしてこなかったので、演技してま
で・・・とつい行動に移せない自分もいます。
お父さんは結構ベテベタしてくれているので、よけいに私は何もしてくれない!と、思っているの
ではないでしょうか?
何か愚痴っぽくなってしまってすみません。お返事いただけたら幸いです。よろしくお願いいた
します。
(鹿児島県・KE母親より) 
 
【KEさんへ】
  
 まず、つぎの原稿を読んでいただけませんか。これはいわば、予備知識のようなものです。K
Eさんのお子さんが、ここに書いたことのどれかに当てはまるということではありません。

+++++++++++++++++++++

子どもがキレるとき


●ふえるキレる子ども

 二〇〇〇年、全国の教育委員会から報告された校内での暴力行為は、前年度より11.4%
ふえて、34595件に達したことがわかった(文部科学省)。「対外的に問題の見られなかった
子どもが、突発的に暴力をふるうケースが目立つ」と指摘。同省・児童生徒課は、キレる子ども
への対応の必要性を強調した(中日新聞)。

 暴力行為が報告された学校の割合は、小学校が全体の2・2%だったが、中学校が35・
8%、高校が47・3%にのぼった。また学校外の暴力行為は、小中高校で、計5779件だっ
た。私が住む静岡県でも、前年度より210件ふえて、1132件だった。マスコミで騒がれること
は少なくなったが、この問題は、まだ未解決のままと考えてよい。

 こうしたキレる子どもの原因について、各方面からさまざまな角度から議論されている。教育
的な分野からの考察については言うまでもないが、それ以外の分野として、たとえば@精神医
学、A栄養学の分野がある。さらに最近ではB環境ホルモンの分野からも問題が提起されて
いる。これは、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)が、子どもの脳に影響を与え、それが子
どもがキレる原因の一つになっているという説である。以下、これらの問題点について、考えて
みる。

@精神医学の分野からの考察

●躁状態における錯乱状態 

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」と位置づけられてい
る。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・1856〜1926)だが、一般的には
躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによって
は、重複して起こることが多いからである。それはそれとして、このキレた状態になると、子ども
は突発的に攻撃的になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若い人の間では、ただ
単に、激怒した状態、あるいは怒りをコントロールできなくなった状態を、「キレる」と言うことが
多い。ここでは区別して考える。)私にもこんな経験がある。

●恐ろしく冷たい目

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった
机とイスを足げりにしてひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、その目は恐ろしいほど冷た
く、すごんでいた……。

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定な状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状に過ぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の
緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に不安が入りこむと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のばあいも、「問題が解けなかった」とい
う思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではない
か」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さな
い。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」という。「遊離現
象」というときもある。心(情意)と表情がミスマッチを起こした状態をいう。一度こういう状態に
なると、教える側からすると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。

 その引き金となる原因はいくつかあるが、その第一に考えるのが、欲求不満である。欲求不
満が日常的に続くと、それがストレッサー(ストレスの原因)となり、心をふさぐ。その閉塞感が、
子どもの心を緊張させる。子どもの心について、こんな調査結果がある(98年・文部省調査)。

 「いらいら、むしゃくしゃすることがあるか」という質問に対して、小学六年生の18.6%が、
「日常的によくある」と答え、59.8%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの人間関係がうまくいかないとき……51.8%
(2)人に叱られたとき……45.7%
(3)家族関係がうまくいかないとき……35.5%
(4)授業がわからないとき……34.1%
(5)意味もなくむしゃくしゃするときがある……18.5%

また「不安を感ずることがあるか」という質問に対しては、やはり小学六年生の7.8%が、「日
常的によくある」と答え、47.7%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの関係がうまくいかないとき……51.0%
(2)授業がわからないとき……47.7%
(3)時間的なゆとりがないとき……29.3%
(4)落ち着ける居場所がないとき……22.4%
(5)進路、進学について……20.4%
 
 この調査結果から、現代の子どもたちは、およそ20人に一人が日常的に、いらいらしたり、
むしゃくしゃし、10人に一人が日常的にある種の不安を感じていることがわかる。

●子どもの欲求不満

 子どもの欲求不満については、その原因となるストレスの大小はもちろんのこと、それを受け
取る子ども側の、リセプターとしての問題もある。同じストレスを与えても、それをストレスと感じ
ない子どももいれば、それに敏感に反応する子どももいる。そんなわけで、子どものストレスを
考えるときは、対個人ではどうなのかというレベルで考える必要がある。それはさておき、子ど
もは自分の欲求が満たされないと、欲求不満になる。この欲求不満に対する反応は、ふつう、
次の三つに分けて考える。

@攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態あ
り、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と
話しかけただけで、包丁を投げつけた女の子(年長児)がいた。私が「今日は元気?」と声をか
けて、肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こう
した攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイ
プ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考えることができる。

A退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったりする(退行性)。あるいは誰かに依存しようとする(依存
性)。このタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱
るほど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

B固着・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったりする(固着性)。あるいはささいなことを気にして、悶々と悩ん
だりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。
最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
りを起こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、ま
だ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子ど
もはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」
と。

 ものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすための代償行為と考えるとわかり
やすい。よく知られているのに、指しゃぶりや、爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで指の
快感を覚えることで、自分の欲求不満を解消しようとする。

 キレる子どもは、このうち、@攻撃・暴力タイプということになるが、しかし同時に退行性や依
存性、さらには固着性や執着性をみせることが多い。 

●すなおな子ども論

 補足だが、従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれ
は誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、す
なおな子どもという。うれしいときにはうれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情
をする。しかし心と表情が遊離すると、ここに書いたようにそれがチグハグになる。ブランコを
横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするな
ど。

中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくでき
た子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなスト
レスを心の中でため、そのためた分だけ、別のところで「心のひずみ」となって現われる。よく
知られた例として、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では
借りてきたネコのようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追いこまないように、穏やかな生活を何よ
りも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、@濃厚な
スキンシップをふやし、A食生活の面で、子どもの心を落ち着かせる。カルシウム、マグネシウ
ム分の多い食生活にこころがけ、リン酸食品をひかえる。リン酸は、せっかく摂取したカルシウ
ムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)が
あれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

●子どもの感情障害

 ほかに自閉症やかん黙児、さらには小児うつ病など、脳に機能的な障害をもつ子ども、さら
に近年問題になっている集中力欠如型多動性児(ADHD)は、感情のコントロールができない
ことがよく知られている。これらのタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、突発的に@激
怒する、A興奮、混乱状態になる、B暴言を吐いたり、暴力行為に及ぶ。攻撃的に外に向って
暴力行為を及ぶタイプを、プラス型、内にこもり混乱状態になるのをマイナス型と私は分けてい
る。どちらにせよその行動は予想がつきにくく、たいていは子どもの「ギャーッ」という動物的な
叫び声でそれに気づくことが多い。こちらが「どうしたの?」と声をかけるときには、すでに手が
つけられない状態になっている。

A栄養学の分野からの考察

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によ
るナイフの殺傷事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取り
あげられたことがある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節
夫教授らが、この分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。話
を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱していて、
その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意すると、
H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動性も
気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興奮
状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなった。
私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

 ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして@イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、A無気力、B疲れやすい、C
(体が)震える、D頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・12)。こ
れらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる症状で
もある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそういう
報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。この二つの命令がバランス
よく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖になると、このうちの抑
制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。先のH君
の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝手に小刻みに動いてしまい、
それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコントロールもできなくなり、一度
激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それがキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。体内のカ
ルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「@脳の発育が不
良になったり、A脳神経細胞の興奮性を亢進したり、B精神疲労をしやすくまた回復が遅くな
るなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく言えば、カル
シウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こしやすいという
のだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年F号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる問
題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている白
砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知
り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰
ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫ん
だというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それ
から数日後。今度はH君が一転、無気力状態になってしまったという。私がH君に会ったのは、
ちょうど一週間後のことだったが、H君はまるで別人のようになっていた。ボーッとして、反応が
まるでなかった。母親はそういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょう
か」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒス
テリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけでなおる」(「マザーリング」八一年
F号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い
与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一
本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本
は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
 
●多動児(ADHD児)との違い

 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがいる。
前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)の診断基
準は、二〇〇一年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏ら委託し
て、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準はないという
のが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しないということにな
る。一般に多動児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性のある子どもをいうことにな
る。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児ということになるが、ここでは区別して
考える。

 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」)
は、次のようになっている。

(チェック項目)
1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

 この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動児
が多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えがきけ
ば、多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動が突発的に過剰になる
というだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。また活発型の自閉
症児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主症状ではないという点で、
この多動児とは区別される。またチェック項目の中の(1)行動が幼い(退行性)は、過保護児、
溺愛児にも共通して見られる症状であり、(7)神経質は、敏感児、過敏児にも共通して見られ
る症状である。さらに(9)成績が悪い、および(10)不器用については、多動児の症状というよ
りは、それから派生する随伴症状であって、多動児の症状とするには、常識的に考えてもおか
しい。

ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。

(チェック項目)
1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い

 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある……
という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡県のK
市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合でも、あくまで
も「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。

B環境ホルモンの分野からの考察

●シシリー宣言

 一九九五年一一月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)な
ものであった。いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖
系だけではなく、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力およ
び社会的適応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性があ
る」と。つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害す
る。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。

多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の
生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具
体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーン
ピース・JAPAN)のだそうだ。
 
この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホル
モンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳に
侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷する」
(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

C教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、

@親の過剰期待、そしてそれに呼応する子どもの過負担。A学歴社会、そしてそれに呼応す
る受験競争から生まれる子ども側の過負担などが、考えられる。こうした過負担がストレッサ
ーとなって、子どもの心を圧迫する。ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。
最近の子どもは、飽食とぜいたくの中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずか
な負担だけで、それを過負担と感じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてし
まう。親の期待にせよ、学歴社会にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は
容認されるべきものであり、こうした環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。

+++++++++++++++++++++++

【KEさんのお子さんについて】

 問題点を整理してみると、つぎのようになります。

●四月の下旬頃から学校へ行っていません。……いろいろなタイプの不登校がありますが、
心の緊張感がとれないことによる不登校と考えられます。
●友だちと口論になったり、授業中に女の子にちょっと何か言われたりしたことがきっかけでキ
レ、学校を飛び出し先生に連れ戻され保健室や校長室に入れられ、「暴れている」と連絡を受
けたことが二週間の内、三度ありました。……「そう状態における、錯乱」と考えて対処します。
私は精神科医ではないので、診断名をつけることはできませんが、子どもの自己意識では、ど
うにもならない範囲の心の反応と考えて対処します。

●三度目の時はお父さんも休みでしたので、二人で駆けつけました。車にも乗ろうとしないので
お父さんがおんぶをして帰りました。はじめは嫌がって暴れていたようですが、次第におとなし
くなり、それからはなにかとおんぶをせがむようになりました。……問題は、ここです。「家に帰
りたがらなかった」という点です。帰宅拒否と疑われます。つまり家庭が家庭として、(あくまでも
子どもの視線から見たところですが)、機能していないことが考えられます。
●土日含めて五日休んだので、学校のことを切り出すと「勉強したくないから行かない」と言
い、今に至っています。……こうした理由は、あまりアテになりません。子どもは、自分の行為
を正当化するために、いろいろな理由をつけます。
●それからは、ほんの些細なことでキレる様になり、一度始まると二、三時間、物を投げたり
棒状のものでたたいて来たり、奇声を発したり、すごい状態が続きます。……錯乱状態とみま
す。いわゆる家庭内暴力です。
●特に弟のちょっとした言葉や態度が気に入らないらしく、仕返しをしたりします。ただ年齢差
があるので加減はしているのですが、私が引き離すまで、うすら笑いを浮かべて攻撃します。
私もいくつもあざが出来ました。……弟に対して、かなりの嫉妬、憎悪の念をもっています。そ
れまで一〇〇%の愛情を受けていたのが、半分以下に減ったのが原因です。
●お父さんがいる時は、落ち着いてから「暴力はやめて」など話しをしてくれるのですが、「その
時にならないとわからない」と言うそうです。……二重人格性が観察されます。こういうときは、
できるだけ「よいほうの状態」を保つようにします。
●確かに幼稚園に入ったばかりの五月に弟が生まれました。弟はアトピー性皮膚炎がひどく
(今はだいぶよいですが)、いつもだっこの状態で、夜も痒くて何度も起きるので私も寝不足で
イライラしていたと思います。……嫉妬は原始的な感情であるだけに、扱い方をまちがえると、
子どもの心をゆがめます。
●父親も最近は、しかる時も少し強く言い過ぎたり、時には脅すような態度をとってしまったと、
反省し謝りました。スキンシップも取るようにしました。……子どもの立場で、家庭の中に、自分
の居場所がなくなってしまったことが考えられます。
●二年生の時におたふくかぜから髄膜炎になり一週間入院しました。そういう事も何か関係あ
るのでしょうか?……よくわかりませんが、今までの私の経験では、関係ないと思いますが、ひ
ょっとしたら、こうした経験が、被害妄想、強迫観念を引き起こしたとも考えられます。
●友だちがお手紙を持ってきてくれても会いませんし、弟とは五分も仲良く遊べません。親だけ
が遊び相手で自分の思うようにしないとまたキレます。(将棋やカードゲームなどわざとでも負
けないとダメです)最近、夜型になってしまい、私達もつらくて、つい暗くなってしまう時がありま
す。……まだ弟が生まれる前は、目いっぱい、愛情をかけられていたと思われます。そういう
意味では、わがままになっている部分があります。
●これから、弟が夏休みで一日中顔を合わせているとまた、キレる事が増えるのではないかと
思い憂鬱です。学校やクラスに馴染めないのならフリースクールなど他のところへと思うのです
が、「勉強するのが嫌だ」というのでそれも受けつけないと思います。……絶対に「排除」を考え
てはいけません。どうしてそういう発想をするのですか。どうしてフリースクールへ行かねばなら
ないのですか。子ども自身がそれを望んでいるのなら、話は別ですが、そんなことをすれば、
あなたと子どもの関係は、決定的に崩壊します。あなたの子どもは、暴れることで、自己防衛し
ています。つまり居心地のよい世界をつくろうとしているわけです。もっとわかりやすく言えば、
あなたの愛情を確認しているのです。今、あなたがすべきことは、「どんなことがあっても、あな
たを守ります」という親の姿勢を示すことです。そういう安心感を覚えたとき、あなたの子どもの
心は安定に向います。繰りかえしますが、絶対に「排除」(子どもの側からみて、それを感ずる
ような状態)にしては、いけません。これはとても重要なことです。

【はやし浩司からのアドバイス】

 あなたから見れば、最悪の状態かもしれませんが、こうした心の問題は、さらに二番底、三
番底があります。「なおそう」と思うのではなく、今の状態をより悪くしないことだけを考えて対処
します。しかも三か月単位とか、半年単位で考えます。今日何かしたから、明日どうかなるとい
う問題ではありません。一喜一憂しても、意味がありません。振り回されないように注意してくだ
さい。

 とりあえずしてみることは、スキンシップを濃厚にして、CA、MGの多い食生活に切りかえ、
一方で、甘い食品、飲料、ジャンクフードを一掃することです。スキンシップを濃厚にしるため、
添い寝もやむをえないでしょう。子どもが求めてきたとき、自然な形で、それに応じてあげるこ
とです。決してこばんだりしてはいけません。ぐいと力いっぱい、抱くだけでも、効果的です。

 また家庭では、心の休まる場所を用意します。何もしない。何も言わない。何も見ないという
状態にしますが、これが実のところたいへんむずかしいです。生活習慣や、態度が乱れても、
かなりの部分まで、おおらかにそれを包んであげます。かなりの覚悟が必要です。ここであせ
って、何かをすれば、問題をこじらせてしまいます。くれぐれもご注意ください。まだ年齢的に、
自己回復がじゅうぶん期待できる年齢ですし、かりに暴れても、それを抑えることができます。
ですからここはあせらないで、今の状態を今以上に悪くしないことだけを考えて、行動してくださ
い。

 また本文の中にも書きましたが、今はまだフリースクールへというようなことを考える段階で
はありません。あなたは、熱を出して苦しんでいる子どもを、水泳教室へ行かせるようなことが
できますか。できないと思います。それと同じです。ですから今は、とにかく心の静養を考えてく
ださい。こういうケースでは、子どもの側からみて、「排除される」と思われるようなことをするの
は、たいへん危険です。(かりにそうでなくても、です。)お子さんに必要なのは、絶対的な安心
感です。疑いをいだかない安心感です。それだけを考えて対処してください。

 過去のことを言われているようですが、この際、過去など、あれこれほじくりかえしても意味は
ありません。すんだことです。前向きに考えてください。そして「一つくらい、子どものために十
字架を背負ってやろうではないか」という、親としての、おおらかさを大切にしてください。

 問題のない子育てはありません。今のあなたにとっては、たいへんつらい経験かもしれませ
んが、そういう前提で、子育てを考えてください。暴れることについて、かなり心配しておられま
すが、反対に引きこもる子どもとくらべると、回復も早く。予後もよいです。終わってみると、「な
んだ」というような状態で終わります。約束します。学校へ行くことは、この際、あまり考えないこ
と。(あきらめろと言っているのではありません。)あなたが「早く学校へ……」と考えれば考える
ほど、話がおかしくなります。症状がこじれます。あなたの不安や心配を、子どもにぶつけては
いけません。どうかご注意ください。

 フリースクールは、もう少し落ちついてからから考えてください。決して反対しているわけでは
ありません。まだ不登校を始めて、数か月です。あせってはいけません。これは子どもとの戦
いというよりは、あなた自身との戦いです。不安で心配な気持はわかりますが、何でもないこと
です。

 とにかく暖かく、お子さんを、濃厚なスキンシップで包んであげてください。そうそう子どもの前
で、夫婦が仲良くしてみせることも大切です。子どもに安心感を与えます。「あなたはよくがんば
ったのよ。いろいろつらいことがあったのね」と、声をかけてみてください。へたな励まし、脅し
は禁物です。私のサイトのあちこちで、この問題について書いておきましたので、どうか参考に
してください。
(030706)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(950)

自己開示(2)

 自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタルシス
(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を軽減させるこ
とをいう。

 他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻であれ
ば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、そういう機能
がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。

 方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しかった思
い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出を、すべて
吐き出してみる。

 これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分の心を
開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、@相手もあなたに
自己開示する。Aあなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことができるようになる。

 私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。

【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】

●私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
●私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
●私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
●私にとって、今まで、一番つらかったことは、
●私には、人に話せないような思い出が、

ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容について
は、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、たがいの信
頼関係の深さを知ることできる。つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこま
で自分と向き合っているかどうか、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。
「のぞく」という言葉は、あまり好きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞく
ことができる。家庭では、たとえば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしか
ったことは、どんなこと?」というように聞いてみるとよい。

……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。

 あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプレッ
クスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそういうのがあ
れば、思い切って、夫に話してみる。

 あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、あな
たと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がうまく結べない
人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対して自己開示して
みるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。

 もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものがない
人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理解するという
方法に切りかえる。たとえば……。

 日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立場になっ
て聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、もう一度、話してく
れない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうするか、いろいろ考えてみた
わ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せることで、同時に、自分もまた相手に対
して、自己開示することができる。

 前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがいにわけ
のわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出して、自己開示
してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)

※……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによって
は、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、そういう作
用もある。

++++++++++++++++++

【追記】
 
 四人の子どもに、ためしに作文を書いてもらった。

●Kさん(中二女子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、この前あった、学校の野外活動です。ナイトウ
ォークや、カレーづくり。一日中、ずっと友だちと過ごしているということが、なかなかないので、
とても楽しかったです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、野外活動の先生が、私たちをたいへんほめて
くれたことです。ふだん「今の二年生は悪い」と言うだけの、いやな先生たちばかりなので、先
生たちを見返してやった気分でした。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、もうずいぶん前になるけど、かっていた犬が死
んでしまったことです。

●U君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちといっしょにいることが楽しいです。人と
笑うのが楽しいです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、とくにありません。あっても忘れてしまいます。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、三年目にして、部活の県大会で優勝したこと
です。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強。部活の練習も楽じゃないです。二つともと
てもつらいですが、楽しいです。

●R君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちと遊んでいたとき。友だちといっしょにい
たとき。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、おじいちゃんが死んだとき。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強しているとき。部活。

●D君(小六男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、サッカーです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、サッカーでキャプテンになれたことです。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、サッカーで、何周もグランドを走ったことです。

 子どものばあい、身近な経験から、楽しかったことや、悲しかったことをさがしだそうとする。
つまり自分自身を、客観的に見る目が、まだじゅうぶん育っていない。しかし年齢が大きくなる
と、より自分を高い視点から、判断できるようになる。そして自分自身をより深く、見ることがで
きるようになる。「私を知る」というのは、そういう意味で、一見簡単そうで、むずかしい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(951)

母親(女性)の心

 母親というより、女性全般に共通する心理なのか? 私たちの世界では、『何かと親しげに言
い寄ってくる母親ほど、要注意』という鉄則がある。このタイプの女性は、たいていつぎのような
パターンを経る。

(好意を感じて、必要以上に相手と親しくなろうとする)→(自分の思いどおりに相手が反応しな
い)→(相手に拒絶、もしくは否定されたと感ずる)→(その相手に対して、反感、もしくは嫌悪、
憎悪の念をもつようになる)→(何かにつけて、敵対行為を繰りかえす)

 昨日の味方が、今日の敵というわけである。だから教える側にしても、『如水淡交』。水のよう
にサラサラと、淡く交際する。決して深入りしてはいけない。へたに深入りすると、その親自身
の精神状態に、入りこんでしまう。相談を受けているつもりだったのが、いっしょになって悩み
始めてしまったりする。自殺願望の人の相談にのっているうちに、その人に同情してしまい、い
っしょに自殺してしまうケースは、少なくない。

 好意をもってくれている間は、それなりによいが、しかしどこかでフィーリングが衝突すると、
今度は、それが敵意に変わってしまう。そうなると、今度は、このタイプの母親は、徹底して、敵
に回ってしまう。(「敵」という表現は、適切ではないかもしれない。)男性にも、そうした傾向は
あるが、これは女性特有の性質ではないか。……と思っている。

 気を許すとか、許さないとかいうレベルの話ではない。子どもが間にいるときは、あくまでも子
どもを見ながら、つきあう。それは母親にしても、教える側にしてもそうで、子どもというワクを
超えた、個人的な領域まで、たがいに足を踏み入れてはならない。ずいぶんと昔だが、こんな
母親がいた。

 私が幼稚園で仕事を終えるころ、その母親は、いつも幼稚園の門のところに車を止めて、私
を待っていてくれた。「帰り道が同じですから、どうぞ」と。私は、何度もそれを断った。しかしそ
れでもその行為はつづいた。ときには、幼稚園の中にまで、おしぼりを届けてくれたこともあ
る。

 こういうケースでは、絶対に、そういう車には乗ってはならない。で、私ががんこにそれを拒む
と、今度は、その母親は、あることないこと、あれこれ私の悪口を言い始めた。そのとき私は、
まだ二〇代の後半。女性の心理がよくわからなかった。ただ、「どうしてあれほど好意をもって
いてくれた人が、手のひらをかえしたように、そういうことをするのか」と、そんなふうに思ったの
は覚えている。

 そういう意味では、好意と嫌悪は、紙一重。心的エネルギーは、そのつど、状況に応じて、さ
まざまに変化する。ときには、まったく正反対に作用することもある。心的エネルギーが悪いと
いうのではない。要は、いかにしてそれをコントロールするかということ。このコントロールのし
方をまちがえると、問題を引き起こす。で、私のばあい、教えるという場では、つぎのような鉄
則を、自分で編みだした。

●母親とは、個人的なつきあいは、しない。(当然!)
●子どもの子育て、教育の相談以外は、のらない。(当然!)

もっとも同じころ、私は、「母親恐怖症」になったので、こうした鉄則がなくても、平穏無事(?)
に、仕事ができるようになった。しかし注意するに、こしたことはない。
(030707)

【母親恐怖症】
 二〇代から三〇代のころ、子どもをもつ母親が、恐ろしい存在に見えた。相手を「お母さん」
と呼んだとたん、背筋が、ツンと緊張したのを覚えている。つまりそれくらい、私は、母親たち
に、い・び・ら・れ・た! ホント!

 そうした傾向は、四五歳あたりを過ぎるころから、なくなってきた。多分、私のほうが歳をと
り、母親たちを、のむようになったためではないか。で、最近は、正直言って、どの母親を見て
も、すてきな女性に見える。ときどき心の中で、あらぬロマンスを思い浮かべることも多い。し
かし今でも、恐怖症こそなくなったが、やはり、相手を「お母さん」と呼んだとたん、シャボン玉が
パチンとはじけるように、そのロマンスは、消える。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(952)

迷信

 オーストラリア人のB君と、世界の迷信について話す。とくに、「家」についての迷信について
話す。「日本には、家相というのがあって、いろいろうるさい」と言うと、「どこの国にもある」と。
そしていろいろな国の迷信について、話してくれた。「世界の話」となると、オーストラリアほど、
かっこうの国はない。何しろ、あの国には、世界中から人が集まっている。

 そういう話を聞きながら、こんな印象をもった。概して言えば、アジアでは、廊下にうるさいと
いうこと。廊下がどうあるべきかということについての迷信が多い? 「廊下はまっすぐでなけれ
ばならない」とか、「出口はどうであるべきか」とか。「日本ではお墓のそばに家を建てるのを嫌
う」と話すと、「オーストラリア人でも嫌う人は多い」とのこと。

 こうした家相について書くのが、このエッセーの目的ではないので、この話は、ここまで。で、
私は、そういう話を聞きながら、改めて、迷信について考えた。「迷信とは何か?」と。

 最近の子どもたちを見ていて、気になるのは、子どもたちが、占いやおまじないに、凝(こ)っ
ていること。小学校高学年と中学校の子どもについて言うなら、男女の区別なく、ざっとみて、
約五〇%の子どもが信じているとみてよい。そこで占いに凝っている、一人の中学生(中二男
子)に聞いてみた。彼はこう言った。「いいことを言われると、元気が出るから」と。もう一人の
中学生(中一男子)は、「本当に当るから」と言った。

 もっとも信じているといっても、程度の問題もある。本気で信じている子どももいれば、遊びの
一つとして信じている子どももいる。遊びの範囲で信じているだけなら、それほど目くじらを立て
ることもないのかもしれない。しかし迷信にこだわればこだわるほど、合理的にものを考える
力、そのものをなくす。私の知人に、迷信のかたまりのような人がいた。

 新車を購入したときのこと。納入する日はもちろんのこと、納入する時刻、また方角まで、ディ
ーラーに指示していた。だからディーラーは、一度車を、その方角までもっていき、そこから彼
の家に向わねばならなかった。

 で、その人が、今度、家を改築することになった。ふつうなら、そのまま改築ということになっ
たが、彼のばあいは、その改築中の間、わざわざ別のところに、アパートを借り、そこで生活を
していた。「どうして?」と聞くと、「家(や)移りという行事のためだ」と。

 一事が万事。彼の生活は、すべて、この調子だった。決して年配の人ではない。この話を聞
いたとき、彼はまだ三九歳だった。で、それを指示していたのが、彼が所属する神社の神主。
彼はいちいち、その神主におうかがいをたてて行動していた。ほかにもある。

 社員旅行や、社員の採用も、方角を占ってもらって決めていた。一度、社員旅行の日、嵐か
何かで、それが取りやめになったことがある。ふつうなら、「では、来週に」ということになるが、
彼のばあいは、そうではない。またまた神主に占ってもらい、「とんでもない日」(社員)に変更し
たという。言い忘れたが、彼は、市内で、社員二〇名前後の会社を経営していた。(実際のオ
ーナーは、彼の母親だったが……。)

 迷信というのは、一度、とらわれると、それを自分から取りのぞくのは、簡単なことではない。
ものの考え方の基本になってしまう。そしてハタから見ればおかしなことを、おかしいと思わな
いまま、してしまう。つまり、迷信にこだわればこだわるほど、合理的にものを考える力、そのも
のをなくす。

 子どもを「自ら考える子ども」にするということは、同時に、こうした迷信と戦うということも意味
する。子どもがおかしなことを口にしたら、はっきりと否定してやる。そういうき然とした親の態
度を見ながら、子どもは、迷信を迷信と分けて考えることができるようになる。
(030708)

●「迷信は下劣な魂のもち主たちに可能な、唯一の宗教である」(ジューベル「パンセ」)
●「迷信は、恐怖と弱さと、無知の産物である」(フリードリヒ大王「語録」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(953)

ストレスのメカニズム

 以前、ストレスを三種類に分けた人がいた。正確には、「迷い」を、三種類に分けた人がい
た。何かの会合で、よもやま話として出てきた話である。

 一つは、どちらを選んでも、悪い結果が出るばあい。もう一つは、悪い結果が出る可能性が
高いものを、選ばねばならないばあい。三つ目は、どちらも選びたいが、どちらか一つにしなけ
ればならないばあい。人間というのは、こういう選択の場に立たされると、かなりのストレスを感
ずる。順に考えてみよう。

(1)どちらを選んでも、悪い結果が出るばあい。これを(−)(−)の選択とする。たとえば離婚
か、さもなければ別居かというような選択に迫られるとき。

(2)悪い結果が出る可能性が高いものを、選ばねばならないばあい。これを(−)(+)の選択
とする。たとえばガンの疑いがあって、大病院で、精密検査を受けるのを迫られるとき。

(3)どちらも選びたいが、どちらか一つにしなければならないばあい。これを(+)(+)の選択
とする。たとえば一〇万円しかなく、冷蔵庫とクーラーの、どちらを買うか、その選択に迫られる
とき。

 こうした選択の場というのは、日常的に、つぎからつぎへと、起きてくる。子どもの世界とて、
例外ではない。問題は「選択」ではなく、そうした選択から生まれるストレスである。

 たとえばA君は、明日から二学期というのに、夏休みの宿題が、かなり残っていた。親にそれ
を言えば、強制的に勉強させられる。しかし宿題をしないで学校へ行けば、先生に叱られる。
これはここでいう(−)(−)の選択である。

 B君は、今、X高校か、Y高校か、どちらを受験すべきか悩んでいる。Y高校なら合格できそう
だが、X高校は無理だと思っている。しかし親は、「X高校を受験してほしい」と言っている。X高
校の受験に失敗すれば、B君は、遠くにあるZ高校へ通わねばならない。これはここでいう
(−)(+)の選択である。

 C君は、夏休みに、仲間からキャンプに行こうと誘われている。しかし一方、同じころ、ガール
フレンドから、コンサートに行こうと声をかけられた。仲間を裏切ることもできない。しかしその
ガールフレンドと、デートもしたい。これはここでいう(+)(+)の選択である。

 よく誤解されるが、ストレスの原因となるストレッサーがあるから、人はストレスを感ずるので
はない。そのつど、選択に迫られるから、それがストレッサーとなって、ストレスを感ずる。もっ
とわかりやすく言えば、「選択」そのものが、ストレッサーということ。だからそのつど選択するこ
とをやめてしまえば、ストレッサーもストレッサーでなくなってしまう。

 ストレスとどう立ち向かうか。それをコーピング(coping)というが、私の経験では、いわゆる心
理学でいうコーピングは、実際には、あまり役にたたない。程度の問題もあるが、へたに人に
相談したりすると、「そんなことで!」と言われてしまう。

 ストレスというのは、立ち向かうのではなく、日常的な生活の場から、「選択」をできるだけ少
なくすることによって、解消できる。簡単に言えば、あるがままを、そのまますなおに受けいれ
てしまうということ。要するに「迷い」をなくしてしまえばよい。つまりこれが究極のストレス解消
法ということになる。

 そこでさらに話をわかりやすくするために、今、この瞬間に感じている私の「選択」について、
話す。

 私の家に滞在しているオーストラリア人のB君が、「今度の日曜日にコンサートに行きたい」と
言っている。そのチケットについて、私は、「私が購入して、彼にプレゼントすべきか、それと
も、あとでお金をもらうべきか」と、迷っている。これはいわば、(+)(+)の選択ということにな
る。プレゼントすれば、B君は喜びだろう。しかしお金をもらえば、私の負担は、少なくなる。ささ
いな選択だが、考えていると、心の中が悶々としてくる。

 つぎの心の中をふさいでいるのは、今日(八日)、これからする、講師の仕事。数日前から、
体の調子がおかしい。風邪をひいたようだ。そこで風邪薬をのみたいが、しかし風邪薬だけを
のむわけにはいかない。食事をしてからでないと、胃を荒らしてしまう。が、私は、講演の前に
は食事をしない。食事をとると、血圧が低いため、眠くなってしまう。頭がボンヤリしていては、
講演はできない。食事をとらないで、風邪の状態で講演をするか。食事をとって、風邪薬をの
むか。これはいわば、(−)(−)の選択ということになる。

 つまりこうした「選択」が、つぎからつぎへと、私に迫ってくる。そしてそのつど、それがストレッ
サーとなって、私にのしかかってくる。だから、私としては、そのつど、それはちょうど飛んでくる
矢を刀で払うようにして、やりすごすしかない。もしこの段階で、うまくやりすごすことができなけ
れば、ストレスだけが、どんどんとたまってしまう。

 そこで心は、自分を防衛しようとする。これを「防衛機制」というが、これについては、また別
のところで考えることにして、その防衛機制もうまく働かないとなると、今度は、精神に影響を与
えるようになる。ほとんどの「〜〜障害」と呼ばれる、心の病気は、こうして生まれると考えてよ
い。

 だから……。日常的に、「選択」については、サバサバと考えたほうがよい。サッサと割り切る
ものは割り切り、処理していく。つまりはそれが、このストレスの多い時代を生き抜くための処
世術の一つということになる。
(030708)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(954)

講演に遅刻

 七月X日、浜松市内のN公民館で、講師をすることになった。ちょうど出かけるとき、まれにみ
る豪雨。しかし雨が原因ではなかった。私は、道に迷ってしまい、結果的に、会場へは、五分
遅刻。この二五年間で、はじめての遅刻。あとでワイフが、「近いところほど、遅刻するものよ」
と言ったが、まさにそのとおり。油断した。

 道に迷ったのには、いくつか不運が重なった。それをいまさら悔やんでも始まらない。ただ最
初に道を教えてくれた人が、とんでもない方角を教えた。別の公民館を、N公民館と誤解したら
しい。浜松市は道がよく整備されているが、駅南の旧市街は、迷路のようになっている。

 会場では、三〇人近い人が、どこか不機嫌顔で待っていた。怒り顔の人もいた。当然だ。「す
みません」と言って、教室に入ったが、だれも、ニコリともしなかった。当然だ。で、演壇に立つ
と、すぐ講座を始めた。

ピリピリとした雰囲気を感じたので、冒頭で、かなり笑える話をした。が、反応はなかった。だれ
も笑わなかった。当然だ。で、N公民館での講師は二回目ということで、最近の話題について
話した。基本的信頼関係と、役割形成について。若いお母さんたちには、むずかしい話だろう
なとは思った。しかしこの二つは、幼児教育の核心部分と言ってもよい。テーマとして、その一
部でも、頭に残ってくれればよいと思った。

 結局、最後まで、みなさんの不機嫌な顔は消えなかった。当然だ。最後に少し、質問タイムを
とったが、質問してくれたのは、一人だけ。何となくというより、かなり居心地が悪かった。結
局、遅刻したのが、私の印象を悪くしてしまったようだ。(私としては、誠心誠意、懸命に話した
つもりだが……。)時間がきて、逃げるようにして帰った。いつものような、暖かい拍手は感じな
かった。ああああ。

 N公民館のみなさん、どうかお許しください。「またいつか……」と書きたいのですが、多分、
その機会は、ないだろうと思います。主催者の方も、「二度と呼ぶか」と思っているだろうと思い
ます。私としたことが、大失態でした。すみませんでした。
(030708)

●ハラハラドキドキは、健康にもよくありませんね。今日一日で、心臓の機能が、一〇%低下し
たみたいです。寿命にすれば、一年分、短くなった? これからは油断しないようにします。私
自身の健康のためにも……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(955)

子どもの思考能力

 子どもの思考能力は、大きく、知的能力の高さ(集中的思考)と、創造力の豊かさ(拡散的思
考)の二つに分けて考える。

 知的能力の高さは、たとえば文字、数、知恵ワークなどで、それを知ることができる。私たち
が頭の中に思い浮かべる知能テストというのは、たいていこの種のテストをいう。一方、創造力
の豊かさは、つぎのようなテストで知ることができる。

@たとえば、紙(B四大)に、三角や、四角、丸、階段状の線、らせん模様などを描いた絵をみ
せ、それらの形や線を使って、自由に絵を描かせてみる。(たとえば三角をつかって、家。四角
をつかって、電車。丸をつかって、風船など)。

 このとき、常識的な絵がスラスラと、つまりつぎつぎと描くことができれば、創造力が豊かとみ
る。ただし三角をつかって風船を描くなど、どこか無理な絵(常識的でない絵)は、好ましくな
い。

A同じようなテストだが、今度は、三角だけを、五〜一〇個描いた紙を子どもに渡し、「違った
絵を描いてね」と言って、絵を描かせる。(たとえば、おむすび、木、屋根、ロケットなど。)

 このとき、常識的な絵がスラスラと、つまりつぎつぎと描くことができれば、創造力が豊かとみ
る。ただしどれもみな、同じような絵というのは、好ましくない。たとえばどれもおむすびばかりと
いうような絵など。

 知能テストというと、集中的思考(たとえば、マッチングの問題、迷路など)を試すものが多
い。それは採点がしやすいという理由による。

しかしそれと同じくらい重要なのが、ここでいう拡散的思考である。しかしこの拡散的思考を試
すテストは、採点がむずかしい。それが理由で、なかなか普及しない。たとえば拡散的思考で
も、速度(早くできる)、深さ(おとなを感心させるような絵)、常識(無理でない絵)などが、重要
だが、ではそれをいかにして、点数として評価するかという点で、行きづまってしまう。

 しかし重要であることはまちがいない。子どもの創造力を豊かにするため、つぎのような会話
をしてみてはどうだろうか。

@問題解決

親「汚れた服は、どうすればいい?」
子「洗濯すればいい」
親「洗濯するには、どうすればいい?」
子「洗濯機で洗えばいい」
親「洗濯機がないときは、どうすればいい?」
子「手で洗えばいい」
親「洗うところがないときは、どうすればいい?」
子「お風呂の中で洗えばいい」と。

A解決思考

親「火事になったら、どうする?」
子「消防車を呼ぶ」
親「ほかに……」
子「近所の人を呼ぶ」
親「ほかに……」
子「バケツで水をかける」
親「ほかに……」
子「大切なものを、運び出す」と。

Bアイディア創造 

親「どんなロボットがいたら、いいかな」
子「掃除ロボット」
親「ほかにどんなロボットが、いたらいいかな?」
子「宿題ロボット」
親「ほかにどんなロボットが、いたらいいかな?」
子「お風呂で体を洗ってくれるロボット」
親「公園には、どんなロボットがいたらいいかな?」
子「いじめっ子を退治するロボット」と。

 これからは、言うまでもなく、集中的思考よりも、拡散的思考が重要視される時代である。ま
た教育もそういう方向に向い始めている。大学で教える数学の時間でも、いわゆる「答のない
問題」が試されるケースが、たいへん多くなってきていると聞く。ちなみにR理科大学では、面
接のとき、こんな問題が出された。

 「塩と砂糖と砂が混ざってしまいました。この三つをより分ける方法を考えてください」と。

 さて、あなたはこの問題に、どのように答えるだろうか。
(030708)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(956)

負の虐待

 親の精神状態が、子どもの精神状態に大きな影響を与えることがある。たとえば親が、重度
の強迫神経症になったりすると、子どももまた、強迫神経症になったりする。いろいろなケース
がある。

 ある時期、ある母親から毎晩のように、電話がかかってきた。小学三年生になる娘が、毎
日、学校でいじめられているという。たまたまその学校で講演をしたこともある。校長に電話を
して、それとなく聞くと、「そういう事実は、私のほうでも調べてみたのですが、ないのです……」
と。

 が、母親は、容赦しなかった。あることないこと、つぎつぎと並べては、「どうしたらいいでしょう
か?」と。このタイプの母親は、クドクドとした、独特の話し方をする。

 で、子どもへの虐待には、二種類ある。暴力や暴言をともなう育児姿勢、拒否、無視、冷淡な
ど。これらを正の虐待とするなら、親の精神状態が子どもの心に影響を与えるようなケース
は、負の虐待ということになる。極端な例としては、一家心中がある。

 親が生活に行きづまって自殺を考えるのは、親の勝手だが、その自殺に子どもを巻きこんで
しまう。虐待で子どもを殺せば重犯罪だが、同じように、一家心中で子どもを殺せば、罰するこ
とができないというだけで、重犯罪である。

 もっともここでいう「負の虐待」は、親による意図的行為ではないので、親を責めることはでき
ない。それはわかるが、しかし子どもの立場で考えるなら、影響は深刻であり、正の虐待と、ど
こも違わない。数年前だが、こんなケースがあった。

 母親が重度の躁うつ病になってしまった。周囲の人たちが、何度も精神科の病院に行くよう
にと勧めたが、その母親は、「私は何ともない」と言って、とりあわなかった。躁状態のときは、
パソコン教室に通ったり、料理をたくさんつくって近所に配ったりしていた。が、うつ状態になる
と、今度は、一転、まっくらな部屋で一日中テレビを見たりしていた。

 その家には、小学五年生になる娘と、小学一年生になる息子がいたが、そんなわけで、二人
の子どもの表情は、どこか暗かった。とくに小学一年生の息子のほうは、何かにつけて、痛々
しいほど、オドオドしていた。

 こういうケースは、いったい、どうしたらよいのか。正の虐待については、最近、やっと親子を
隔離するという方法がとられるようになったが、負の虐待については、不問のままになってい
る。その認識すらない。本来なら、こうした負の虐待についても、隔離という方法がとられ、子ど
もの心を守るのが望ましい。

 方法としては、様子のおかしい子どもについて、集中的に周辺調査をして、それに応じて、親
を指導したり、ばあいによっては、親と子どもを隔離する。こうした試みは、まだ世界でもなされ
ていないので、もし日本がそれをすれば、日本もはじめて教育先進国になれるのだが……。
(030709)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(957)

総合学習について

【掲示板より】

長男の初の中間テストの結果に打ちのめされ苦しんでいた時、偶然はやし先生のページに出
会いました。まさに目からうろこで、今までの私の苦しみはいったい何だったのだろう、と滑稽
(こっけい)にさえ思えました。残念ながら学歴へのこだわりが完全になくなったわけではないの
ですが、こどもへの接し方は劇的にかわりました。本当に感謝しています。ありがとうございま
した。

ところで、先日テレビで小学校の総合学習で、企画から販売までのノウハウを数か月かけて外
部から講師を呼んで学習する、という報道がありました。職業意識を身につけさせるための教
育だそうです。とても好意的な報道の感じで保護者の評判もよい、とのことでしたが私は、ちょ
っと腑に落ちない感じがしました。林先生は小中学校の総合学習についてどのようなお考えを
おもちですか。

【はやし浩司より、k様へ】

無数の試行錯誤。失敗と成功。賞賛と批判。隆盛と衰退。こういうのが渦を巻くところに、教育
の活性化が生まれます。総合学習というより、アメリカでは、学校単位で総合学習をしているよ
うな状況です。バウチャースクール、チャータースクールなど。公立小学校でも、PTAが納得す
れば、四歳児から教え、小三で卒業ということまで可能です。学校単位で、独自のカリキュラム
を組んでいます。(実際に見てきました。一応、州政府が示すおおまかなガイダンスはあります
が、たいへんおおらかなものです。)

日本の総合学習は、基本的には、その流れをまねたものです。(日本の文部科学省あたりが
出す改革は、そのほとんどが、外国のマネです。)ですから、これから先、この学習時間を通し
て無数の試行錯誤が繰りかえされると思いますが、それはそれとして、マクロな視点で、考えて
みてはいかがでしょうか。

日本の教育はあまりにも、画一的すぎた。金太郎アメのアメのような子どもばかりつくってき
た。それではいけないということです。自由であるからこそ、そこから活力が生まれます。その
活力が、これからの日本を支えます。A小学校では、スペイン語を教え、B小学校では、株式
の運用を教え、C小学校では、いけばなを教え……ということであっても、まったく問題はない
わけです。またそういう試行錯誤の中から、多少の失敗が生まれたからといって、大切なこと
は、それをつぶすことではなく、それを教訓として前に進むことです。

kさんも、まだ旧態の学校意識をもっておられるのかもしれません。「学校は絶対」「学校がす
べて」「勉強は大切」と。しかしもうそういう時代は、終わりつつあります。ドイツやイタリアでは、
子どもたちはたいてい、午前中で学校を終え、それぞれがクラブに通っています。科学クラブ、
スポーツクラブなど。好き勝手なことをしています。

アメリカでは、学校へ行かない、いわゆるホームスクーラーが、二〇〇万人を超えました(〇二
年末推計)。もうそういう時代が、そこまできています。「企画から販売まで教えた」というのもそ
の一つですね。全国一律にそれをすれば問題ですが、そうでなければ、その独自性を評価し
てあげましょう。「日本の学校もなかなかやるじゃん」とです。

 日本の教育は、その道の学者になるには、きわめてすぐれた教育体系をもっています。英語
は、英文法の学者になるため。数学は、数学者になるため、と。それは当然です。もともとこう
した教育は、その道のエラーイ大家先生がつくったからです。だからおもしろくない。だから役
にたたない。それともあなたは、高校を卒業してから、一度でも、微分、積分はおろか、方程式
を日常生活で使ったことがありますか? 私はありません。

 アメリカでは、中学校で、中古車の買い方から教えます。そして金利計算、損得計算、さらに
は小切手の切り方まで教えます。大都市以外の高校では、運転免許まで取れるようになって
います。「社会へ出ても、子どもが困らないようにするのが、教育」と、彼らは考えているからで
す。

 しかしこの日本では、教育が人間選別の道具になっていまっている。あるいは「役にたたない
のが教育」と考えているフシすらあります。諸悪の根源は、すべてこの一点にあります。親や子
どもは、無知なまま、それに踊らされているだけです。

 だから総合教育なのです。文部科学省あたりは、「改革」と自慢していますが、本当はすべて
欧米に、追従しているだけです。それも恐る恐る、小出しに……。アメリカでは、大学にせよ、
入学後の学部変更はもちろん、転籍も自由です。ユーロッパでは全域で、大学の単位が共通
化されました。どこの大学に入っても、同じという状態になりました。つまりそれが世界です。
(これだけマスコミが発達していても、そういう情報だけは、親のところに届かないというのは、
不思議な気がしますね。)

 さあ、k様も、重苦しい衣を脱いで、自由にはばたいてみましょう。あなたも、中学生のとき、
ずいぶんといやな思いをしたはずです。そうした「いやな思い」というのが、本当に必要なもの
だったのかどうか、改めてここで考えなおしてみてください。それで結論は、おのずと出てくるは
ずです。
(030709)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(958)

アディクション

 だれでも、何かに夢中になることがある。こうした傾向を、「アディクション」という。日本語で
は、「嗜癖(しへき)」という。わかりやすく言えば、「こだわり」ということになる。で、こうしたアデ
ィクションが、ある一定の範囲で、つまり自己意識でコントロールできれば、何ら問題はない。し
かしそのアディクションが、ときとして、その範囲を超えて、自己意識でコントロールできなくなる
ときがある。よく知られた例では、「依存症」がある。アルコール依存症、買い物依存症、収集
癖など。

 このアディクションは、その方向性に応じて、モノ(ある特定のものだけを買い集める)、人(あ
る特定の人だけに固執する)、食べ物(アルコール依存症や過食)などと、変化する。子どもの
世界でも、こうしたアディクションが観察されることがある。

 A君(中二)は、カードゲームのカードを、数千枚単位でもっている。どうしてもほしいカードだ
と、一万円とか二万円で買い集めることもある。私が「同じカードなど、何枚ももっていてもしか
たないじゃない?」と声をかけると、「微妙に違うから」と。

 B君(小六)は、幼児期に読んでいたマンガの本を、いつも大切にもち歩いていた。見ると、ボ
ロボロになっていた。「どうしてこんな本をもっているの?」と聞くと、突然、幼児ぽい態度にな
り、こう言った。「どうチェ、読んジャア、ダメだと、言うンでチョ。言うンでチョ」と。

 Cさん(小四)は、Kさん(同年齢)に対して、執拗な、もの隠しを繰りかえしていた。表面的に
は親友のフリをしながら、そして最後までいっしょにさがすフリをしながら、一方で、もの隠しを
繰りかえしていた。Kさんは、そのため、転校まで考えていた。

 子どもを執拗に虐待する親も、このアディクションが背景にあるとされる。子どもが何をして
も、それが気になってしかたない。つまりそれが虐待の原因というわけである。

 こうしたアディクションを、子どもの中に感じたら、アディクションそのものよりも、そういう行為
に走らせる、心理的背景をさぐらねばならない。表面的な症状だけを、追及しても、たいていの
ばあい、意味がない。子ども自身に、その自覚がないからである。頭ごなしに、「ダメ」と言えば
言うほど、子どもはかえって、それに強く反発する。

 たいていは抑圧された心理状態があるとみる。親の過干渉、過関心、強圧的な育児姿勢、
過負担など。将来に対する、大きな心配や不安が原因になることもある。ここにあげたB君
は、中学生になることに、恐怖感を覚えていた。父親はことあるごとに、「中学校へ入ったら、
勉強がきびしくなる」と、B君をおどしていた。つまりそういうおどしのなかで、B君は心をゆがめ
た。
(030709)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(959)

雑談

 七月は、八日、九日、一〇日と、三日間、休暇をもらった。しかし人間というのは、おかしな動
物だ。休暇になると、かえって時間をムダに過ごしてしまう。寝る前になると、「一日、終わって
しまった。明日こそは……」「二日、終わってしまった。明日こそは……」と思うが、そう思うだけ
で、何もできない。

こういうときは、原稿を書きためておきたいと思う。しかしどういうわけか、かえって原稿が書け
ない。昔から『大工は、いそがしい大工に頼め』というが、それはそのとおりで、ある種の緊張
感がないと、原稿は書けない。私のばあい、「ある種の緊張感」というのは、生徒たちとの接触
をいう。

 今、時刻は、午後一一時を少し回ったところ。明日、友人に会うので、みやげを買ってきた。
で、帰ってきてから、お茶漬けを食べた。ついでに胃の薬ものんだ。夜食(めったに夜食は食
べないが……)を食べたあとは、こうして薬をのんでおかないと、朝になって気持悪くなる。それ
にすぐには寝ない。消化を助けるために、最低でも一時間は、起きていなければならない。そ
こでこの原稿を書き始めた。

 「何を書こうか」と考えた。子育て論? 教育論? ……何も浮かんでこない。ひとつ気になっ
ているのは、今朝の新聞で読んだ、投書。こんな内容だった。実家へ子どもをつれて帰った、
若い母親からの投書だった(読売新聞)。

 「実家へ子ども(三歳)をつれて帰った。しかし実の父親が、三歳の息子に、『うるさい!』と怒
鳴った。そして私に、『お前のしつけが悪いから、子どもがそうなる』と言った。父は昔から、威
圧的で、自分勝手。これから先、父もやがて老後を迎える。兄弟で話しあって、父のめんどうを
みることになっているが、それを考えると、憂うつになる」(改変・要約)と。

 この投書についての、コメントは、さしひかえる。今夜は、あまり考えたくない。ただかわいそ
うな父親だと思う。自分の立場が、まるでわかっていない。いや、子どもの心がまるでわかって
いない。自ら孤独な世界をつくりながら、それにすら気づいていない。

 もうひとつ気になっているのは、明日の講演のこと。みやげを買いながら、ワイフにこんなこと
を話した。

 「人の前に立って話すということは、両刃の剣だ。それなりに満足できる話ができればそれで
よいが、そうでないときには、自己嫌悪から自己否定におちいってしまう」と。

 実のところ、これがこわい。人に受けいれられれば、それでよし。しかし人に拒絶されれば、
それはそのまま自己否定につながってしまう。「お前の考え方はまちがっている」「お前はもう
必要ない」と。講演するということと、原稿を書くということは、そういう意味では、まったく別のこ
とである。もっとわかりやすく言えば、講演のばあいは、その場で、私という人間が、判定され
てしまう。

 しかし講演について言えば、そろそろ体力的に、きつくなってきた。先日の講演では、暑かっ
たせいもあるが、そのとちゅうで、心臓がキューッとしぼむのを感じた。それがどういう症状な
のかはよくわからないが、ふと、狭心症ではないかと思った。それに正直言って、講演というの
は、私にとっては、あまりメリットがない。政治家なら、知名度をあげて、選挙につなげるという
こともあるのだろうが、私にはそんな野心もない。そこで先ほど、ワイフと買い物をしながら、こ
んな会話をした。

私「ぼくの仕事は、やはり教えることだ」
ワ「そうよ」
私「最後の一〇年間を、何に使うかと言われれば、やはり教えることに使いたい」
ワ「そうね。講演をつづけても、あまり意味はないし……」
私「そこなんだ。ぼくという人間は、子どもたちを直接教えることで、生きることができる。生徒
あっての、ぼくなんだ。講演あってのぼくではない」
ワ「でもね、じゃあ、どうして毎日、原稿を書いているの。お金にもならないし……」
私「原稿を書くのは、自分のためだよ。趣味とまでは言わないけど、なぜぼくがここにいて、そ
して生きているのか、それを知るために書いているんだよ。読んでくれる人のために、できるだ
け役にたちたいという気持はあるけどね」と。

 ……ここまで書いたとき、猛烈に眠くなった。すぐ右にある扇風機の風が、冷たく感ずる。先
ほどより、少し気温がさがったようだ。たった今、「もう寝よう」と思った。胃のあたりを少し手で
おさえてみた。どこかガポガポしている。やはり夜食は、体にはよくないようだ。

++++++++++++++++++++

私から「私」をとろう

なぜ、死ぬのがこわいかって?
それは私に、「私」があるから。
が、もし「私」がなくなれば、
死ぬことなんて、何でもない。

無一文の人は、どろぼうをこわがらない。
へたに財産があるから、どろぼうがこわい。
それと同じ。
へたに「私」があるから、死ぬのがこわい。

私の財産。
私の名誉。
私の魂。
私の肉体。

そういうものから「私の」をとってしまえば、
もうなくすものはない。
なくすものがないから、死ぬことだって
こわくない。

死がやがていつかやってきたとき、
「さあ、いっしょに行きましょう」と、
私は笑いながら言うことができる。
そしてそのとき、私は、
真の自由を手にすることができる。

もし生きる目的があるとするなら、
それが生きる目的。
真の自由を手にいれること。
つまり私のすべてを、解放すること。
そのために、私のこれからの人生がある。
そしてそれが、今、私が生きる意味。

……今は、そう考える。
(030710)

【読者のみなさんへ】

 もしあの世というのがあるなら、私はみなさんを、あの世で待っています。なければないでか
まわないのですが、あれば、もうけもの。今のところ、私は「ない」という前提で生きていますが
……。でも、あればきっと、楽しいでしょうね。どんな世界かな。好き勝手なことができるのか
な。もしいつか死んでみて、あの世が本当にあったら、私ね、どんなことをしても、みなさんに、
あの世があることを伝えてあげます。「霊界マガジン」とか。(ゾーッ!)あの世のおきてを破っ
て、地獄に落ちてもかまいません。今だって、おきてを破って、好き勝手なことを書いています
から……。眠くて頭がぼんやりとしてきました。だからこんなくだらないことを、書きました。ごめ
んなさい。そして、おやすみなさい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(960)

多重性格

 AAさん(四〇歳女性)の多重性格に気づいたのは、もう一〇年ほど前になる。AAさんが、た
った一日で、まったく別人のように変身することが、たび重なったからである。しかしこうした診
断名を、公に口にすることはできない。あくまでも、「そう思った」という範囲の話である。

 ふだんのAAさん……どちらかというと社交的だが、穏やか。話しかけると、それなりに楽しい
雰囲気の返事が、かえってくる。

 怒ったときのAAさん……怒ったからそうなるのか、それとも、結果として怒るのか、よくわか
らないが、目つきそのものまで変化する。言いたいことをズケズケと言い、攻撃的になる。相手
との人間関係を、破壊するような言葉を口にする。

 ある日、市内の事務所でパソコンを叩いていると、突然、AAさんが、怒鳴りこんできた。そし
てこう怒鳴った。「あんた、車を、どかせ! うちの車が、駐車できない!」と。ものすごい剣幕
である。あわてて外に出てみると、AAさんの家の玄関をふさぐ形で、一台の車が駐車してあっ
た。しかし私には、身に覚えのない車である。「知りません」と答えると、車の前までつれてい
き、「後部座席に、子どものバッグがある。あんたの生徒の親の車だ!」と。

 ふつうの言い方ではない。語気が荒く、罵声(ばせい)そのもの。しかしそういう言い方をされ
ると、つまり、たった一度でも、そういうことがあると、人間関係は、それで崩壊する。私は「もし
そうなら……」という思いの中で、外に立って、車の持ち主が帰ってくるのを待った。それ以前
に、うちの生徒の親が、同じように駐車して、AAさんに迷惑をかけたことがある。私は「またか
……」と心配した。

 そのAAさん。その数日前には、道で会うと、にこやかな表情をして、私に話しかけてきたは
ず。親しいというわけでもないが、二〇年近くも、そのあたりを通っていると、それなりに顔見知
りになる。「こんにちは」と声をかけると、「忙しそうですね」と返事をしてくれた。それがその数
日後のその日には、手のひらを返すように、私に怒鳴る。

 結局、その車は、私とは関係のない人の車だった。しかしそれがわかると、AAさんは、私に
一言もわびることもなく、プイと怒ったまま、自分の家の中に消えていった。そのとき、おかしい
と感じたのは、AAさんは、その車の持ち主(五〇歳くらいの男性)には、何も文句を言わなかっ
たこと。ふつうなら、その車の持ち主に、同じように怒鳴ってもよいはずである。つぎに、私に向
って怒鳴らなければならないほど、さしせまった状況ではなかったということ。AAさんも含め
て、だれかが困っているという状況ではなかった。

 こうした多重性格をもつ原因については、いろいろ言われている。大きなトラウマ(心的外傷)
があって、それから自分を守ろうとして、別の性格をもった、別人格になるというのが、定説で
ある。だから多重性格のある人は、同時に、何らかのトラウマをかかえているとみてよい。ある
いは反対に、何らかの大きなトラウマをかかえている人は、多重性格性をもつ可能性があると
みてよい。

 AAさんについて言えば、何がトラウマになっているのかは、私には知る由もない。ただ私が
推察するところ、何らかのことで不安になると、別人格(交代人格)が現れるのではないかとい
うこと。ふつうの激怒とか、かんしゃく発作と違う点は、そうした別人格から、もとの人格(主人
格)にもどったとき、まったく別人のしたことのように、ケロリとしていること。

 で、数日後、AAさんに会うと、これまた何ごともなかったかのような顔をして、平然としてい
る。「こんにちは」と声をかけると、いつものような親しげな表情で、「こんにちは」と。最初のころ
は、「二度と口をきくものか」と思ったこともあるが、AAさんがそういう人であることがわかると、
こちらも、それなりに交際のし方を学ぶ。何と言っても、近所の人だから、仲よくするのが、一
番よい。ふだんは、それほど悪い人ではない。それにAAさんは、私にとっては、多重性格者の
よい先生のようなもの。これからもしばらく観察させてもらう。
(030710)

(注……この話は、フィクションで、実際に、近所の女性のことを書いたものではありません。も
ちろんAAさんは、実在する人物ではありません。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(961)

携帯電話を買う

 とうとう買った。携帯電話だ。ドコモの最新型。1・3メガのカメラつき。ソニーの製品だ。

 きっかけは、オーストラリアの友人のB君が、携帯電話を買いたいと言ったこと。それで携帯
電話ショップへいっしょに行き、あれこれ通訳しているうちに、自分でもほしくなってしまった。

 いろいろな機種があったが、どうせ買うなら最新型、ということで、それにした。長い間、悶々
としていた気分が、これで吹き飛んだ。手続きが終わるとワイフは、こう言った。「あんたも、や
っと一人前ね」と。そうだ。私もやっと、一人前!

 家に帰って、説明書を見る。ゾクッとするほど、分厚い。こうして機械をいじるのが、何よりも
楽しい。ショップの女の子に、「ぼくは、機械オンチでね。パソコンなど、いじったこともありませ
ん……」と言ったら、本気にした。そしてあれこれ手取り、(本当に、手取りだぞ!)、親切に教
えてくれた。合計で、八回ほど、手を握ってもらった。きれいな人だったから、うれしかった。は
はは。

 しかしそれにしても、機能満載! 携帯電話がここまで進化しているとは、思ってもみなかっ
た。カメラにしても、ズーム機能までついている。インターネットにメールを送ることもできる。ほ
かに留守番電話だの、アイモードだの。ただこの機種(ソニー・SO505i)は、閉じた状態で、ス
イッチが外部に出るため、不用意にスイッチを入れてしまう可能性がある。いいのかなあ…
…?

 さっそく、あちこちに電話してみる。うまくつながった。今度は反対に、携帯電話に電話してみ
る。これもうまくつながった。しかし一番格安のコースでも、月々の基本料金が、四〇〇〇円近
くになる。こうした料金でも、まさに「チリも積もれば……」。これから先、老後に向けて、生活を
コンパクトにしようと考えていたのだが……。

 しかしこうした電気製品は、いわばオモチャのようなもの。それにボケ防止になる。ときどきこ
ういう新製品を買って、頭を刺激する。しかし、私は、実のところ、こうした分野では、天才的な
能力がある。(ホント!)昔、ある医療研究所に、タタミ一枚分ほどもある、大型の電子機器が
置いてあった。だれもそれを操作できず、半年ほどそこに放置してあった。それを私は、一時
間ほどで動かしてしまった。あとで所長が、「君は、この機械のことを知っていたのかね?」と。
(これは自慢!)

 それにしても楽しい。手の中でクルクルと携帯電話をいじっていると、無上の喜びを感ずる。
(これは私のビョーキのようなもの。)そのうち私も、携帯電話を手放せなくなるかもしれない。
今は、その、はじめの一歩? 中毒にならないように、注意しよう。
(030610)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(962)

心を防衛する

 人は何かのことでつまずくと、自分の心を守るために、さまざまな行動をすることがわかって
いる。これを心理学では、防衛機制という。子どもの行動を例にあげて、考えてみる。

●同一化……好きな野球選手のユニフォームを着て、帽子をかぶる。そしてその選手のバット
の振り方や、身のこなし方などを、そっくりそのまま、まねる。その選手の好物が、スパゲッティ
だと聞くと、スパゲッティばかりを食べる。こうして自分を、その人と同一化することによって、野
球選手になれなかった自分を慰める。これを「同一化」という。その同一化が、ある一定の範
囲に収まっていれば、問題はない。たとえば好きなサッカー選手のユニフォームを着たがると
いう傾向は、ほとんどの子どもに見られる。しかしそれが度をこして、病的な妄想に発展するこ
とがある。「私はベッカム様の妻だ」と言い張るなど。何か大きな心の挫折があると、同一化が
極端になりやすいので、注意する。

●投射……責任転嫁のこと。たとえばテストの点数が悪かったりすると、「先生の教え方が悪
い」「おなかが痛かった」などと言うのがそれ。前もって、予防線を張るケースもある。たとえば
子どもは、塾などをやめたくなっても、「やめたい」とは言わない。そういうときは、たいてい塾の
悪口を言い始める。「あの先生は、まじめに教えてくれない」「えこひいきをする」「授業中、電話
をかけていた」など。そういうことを前もって言うことで、「それならそんな塾はやめなさい」と、親
が言うようにしむける。

●補償……何か大きなコンプレックスがあると、そのコンプレックスをバネとして、別の方法
で、それを補おうとする。たいていは攻撃的な生活態度になることが多い。たとえば勉強が苦
手な子どもが、毎日数時間、サッカーの練習に没頭するなど。自分を痛めつけることで、コンプ
レックスを解消しようとする。このタイプの子どもは、スポーツすることを「楽しむ」というよりは、
どこか自虐的になるので、そうでないタイプと区別できる。今、大きく活躍しているスポーツ選手
の中にも、このタイプの人は多い。

●昇華……ヘミングウェイ(アメリカのノーベル文学賞受賞者)は、若いころ、大きな失恋を経
験している。そののち、彼がその「怒り」を、小説にぶつけたという話は、よく知られている。こ
れが「昇華」である。つまり彼は、失恋という痛手を、社会的に認められるという方法で解消し
ようとした。ふつう昇華は、そうした「こだわり」のない人よりも、何倍も強烈なエネルギーとなっ
てその人に作用する。ヘミングウェイにかぎらず、偉業をなしとげた人の中には、このタイプの
人が多い。

防衛機制としてほかに、退行(幼児がえり、指しゃぶり)、逃避(仮病、引きこもり)などがある。
必ずしもマイナスに働くとはかぎらない。ここにあげた補償、昇華は、結果としてその人を高め
る方向に作用することもある。

多かれ少なかれ、ほとんどの人は、何らかの欲求不満をかかえ、それを解消しようと、努力し
ている。つまりそこから、生きる人間のドラマが生まれる。防衛機制が働くからといって、それを
悪いことと決めてかかってはいけない。
(030710)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(963)

孤独と不安

今日、私は、全力を出し切って、仕事をした。
それほどがんばらなくてもいいとは、思ったが、
ともかくも、全力をふりしぼった。

無我夢中だった。いや、ときどき自分が負けそうに感じた。
しかし、私は、どういうわけだか、がんばった。
今日は、もう二度とない。今日が、最後だ、と。

結果はあとからついてくる。どうでもよい。
大切なことは、今日を、命の限り、がんばったということ。
自分の力を出し切ったということ。

どうせ満足な仕事など、できやしない。
いくらがんばっても、「これでいい」なんてことはない。
だからできることだけを、懸命にするしかない。

しかし、このさみしさは、どこからくるのか。
本来なら、今日、一日が終わり、
もっと心が充実していて、よいはずなのに……。

何か、もの足りない。何か、むなしい。
どうしてか。どうして、そうなのか。
私のどこに、どんな問題があるというのか。

明日も、私は、全力を出し切って、仕事をする。
それほどがんばらなくてもいいとは、思うが、
ともかくも、全力をふりしぼる。
生きるということは、そういうことか。
今の私には、それしかできることがない。
とにかく、全力で、生きるしかないのだ。
(030710)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(964)

「林先生を囲む会」?

 今日、講演のあと、K市の人たちが、私のために、「林先生を囲む会」を開いてくれた。「昼食
を」ということだったので、私は、簡単な昼食を考えていた。しかしそれは静かなホテルの一室
だった。何度も私は、「そんな人間ではありませんから」と断ったが、それは私の本心だった。

 居心地が悪かった。何とも居心地が悪かった。もしK市のみなさんが、私の本性を知ったら、
あきれて私から去っていくにちがいない。囲む会を開いたことを後悔するにちがいない。私に
は、それがよくわかっている。もともと私は、そういう器(うつわ)ではない。ただの平凡な、きわ
めて小市民的な、小ズルイ男にすぎない。

 ……こう書くと、私のことを、「見かけだおしの服従」と、とらえる人がいるかもしれない。事
実、「卑下」をそういう目的のために使う人は、いくらでもいる。あのラ・ロシェフーコー(一七世
紀のフランスの箴言作家)は、「道徳的反省」の中で、つぎのように書いている。

 「卑下はしばしば、人を従えるために用いられる、見かけだおしの服従にすぎない。それは自
分を高めようとして、自分を低く見せる、高慢なからくりである」と。

 しかし私は、こんなところで、こんな文章の中で、偽善的な卑下をしてみせる必要はない。もと
もと肩書きも、地位も、何もない人間である。なくすものとて、何もない。人を従えようという意図
など、毛頭ない。また従えたところで、私にとってのメリットは何もない。権力や権威など、もと
から興味はない。あれば、とっくの昔に、それを追い求めている。

 が、それでもやはり、「見かけだおしの服従」なのか? そうかもしれない。そうでないかもし
れない。しかし私のことは、私が、一番よく知っている。私はやはり、そういう器ではない。どこ
からどう見ても、そういう器ではない。私という人間は、今の今、ホームレスとなって、どこかの
公園のすみで眠っていても、少しもおかしくない人間である。少なくとも、私は、はるかにそちら
に近い。

 何かをしたわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。過去に残した実績など、何もない。あ
あ、私は、何で、自分の心や体を支えたらよいのか。何に、しがみついて、虚勢を張ったらよい
のか。何も、ない。まったく、何もない。地位や肩書きがあれば、もう少し、堂々と、自分の存在
感を示せるかもしれない。しかし、そんなものに、どんな価値があるというのか。

 私は「囲む会」で、こんな話をした。

 「善人ぶることは、簡単なことです。さも人間ができたような顔をして、にこやかで、穏やかな
顔をしていればいいのです。みなさんは、私を、善人と思っているかもしれませんが、私は善人
ではない。善人ぶっているだけです。ただの、ごくふつうの人間です。こういう囲む会で、囲まれ
るような人間ではないのです」と。

 おかしなことだが、私のばあい、粗末に扱われたほうが、内心では、「チクショー」と思うことも
あるが、気が楽。いや、いつか、真理がわかったら、(そういうことは、永遠にないと思うが…
…)、そのときは、私を囲んでほしい。私が知ったことを、堂々と、皆さんに話したい。

 ともかくも、皆さんが示してくれた好意には感謝したい。心から感謝したい。そういう励ましが
あるから、私は、明日から、また前に足を踏み出すことができる。
(030710)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(965)

【掲示板より】

総合学習に関してお答えありがとうございました。確かに私はかなり視野が狭く、思いこみが強
いので、なかなか今の時代の流れについていけないところがあります。

ただこどもによっては難しい学習ではないかとも感じています。テーマを決め、調べて分析し、
それについて考察、まとめ、という作業にはやはりある程度の能力が必要ではないかと思いま
す。

実際、授業を見たことがありますが、いきいきと学習している子は積極的にどんどん取り組ん
でいますが、ボーッとして今何をしているのか、自分は何をしたらよいかわからない、というよう
な子もいました。先生方の工夫次第ですばらしい効果が生まれるのでしょうが、やはり取り残さ
れていくこどもはいるだろうな、と不安に思いました。

話題を変えます。中学生で友だちがいない事(学校で孤立しているわけではないが、休み時間
は、ひとりで本を読んでいる、休日に一緒に遊んだりしない)が心配です。担任はとくに問題な
し、といいます。家ではリラックスしています。最近いろいろな中学生の事件があるので気にな
っています。

【はやし浩司より】

教育には、ふたつの限界がある。教える側の限界と、学ぶ側の限界である。集団教育では、な
おさらで、ともに、その限界は、最小限であればあるほど、よい。しかし、その限界をなくすこと
はできない。

野球を例にとって、考えてみよう。かりに一一人のメンバーに選ばれたとしても、フィールドに出
られるのは、九人だけ。あとの二人は、スペアということになる。その二人は、交代の声がかか
るまで、ベンチで待つしかない。

野球と教育とは違うが、しかし問題は、そういう限界があるということではなく、どう、その限界
を、受け入れるかということ。あるいはどう、その限界をカバーするかということ。たとえばこの
掲示板に書いてあるように、つまり、中には、興味を示さず、ボーッとしている子どもがいたとし
ても、それはそれでどうしようもないことではないのか。中学生ともなれば、教師のできることに
もさらに限界がある。もちろん子ども自身にも、限界がある。

そこでどうだろう、こう考えては。オールマイティの子どもをつくろうとしないこと、と。また求めな
いこと、と。九つの教科を受けたら、そのうち、一つか二つ、それなりにできればよしとすると、
と。あとの八つか九つは、取り残されてもよいではないか、と。一つがダメでも、すべてがダメと
いうわけではない。一見、いいかげんな意見に聞こえるかもしれないが、そういういいかげんな
部分で、子どもは、前に向って、伸びることができる。

親の立場でいうなら、要は、完ぺきさを学校に求めないこと。教育に求めないこと。教師に求め
ないこと。これには日本人独特の、依存性の問題がからむが、今のように、教育はもちろん、
しつけから道徳、健康管理から家庭管理まで、すべて学校に押しつけることのほうが、おかし
い。「取り残されていく子どもはいるだろうな、と不安に思いました」という、この投稿者の気持
は、そういう「おかしさ」の中から生まれる。つまり、もっと言えば、不安になるほうが、おかし
い。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。もしあなたの子どもが、野球チームで、スペアになっ
ても、あなたは、不安にはならないだろうと思う。もともと「野球なんて、できても、できなくても、
どちらでもいい」と思っているからだ。だからこそ、スペアになった子どもでも、それなりに楽し
く、自分の番を待つことができる。

しかし、勉強は、そうでない? つまりそこに、親側の学歴信仰がある。日本には、「学歴」とい
うコースがあって、それからはずれることを、親たちは、恐れる。つまりその時点で、子どものこ
とを心配しているフリをしながら、その実、親自身が感ずる不安や心配を、教育にぶつけてい
るだけ。こういうのを、心理学で、「投射」という。あなたは気づいていないかもしれないが、私
はあなたの中に、カルトに近い、学齢信仰を感ずる。

また「中学生で友だちがいない事(学校で孤立しているわけではないが、休み時間はひとりで
本を読んでいる、休日に一緒に遊んだりしない)が心配です」について。

子どもが中学生なら、親としてできることは、もうない。先生が「とくに問題なし」と言っているな
ら、その言葉を信じるしかない。今度は、親の限界ということになるが、これから先、こうした限
界は、砂浜に打ち寄せる波のようにやってくる。で、そのときどきに、親は、そういう限界をズシ
リ、ズシリと感じながら、じっと、その限界の重みに耐えることでしかない。親がせいぜいできる
ことと言えば、子どもがその疲れた体や心をいやすための場所を、提供することでしかない。
暖かく包んであげることでしかない。

今、大切なのは、「うちの子は、こういう子なんだ」という視点で、あるがままを受け入れること。
問題が見つかるたびに、(あくまでも親がそう思うだけだが……)、「ああしよう」「こうしよう」と、
あがけばあがくほど、子どもは、親の望む方向とは、別の方向に進む。あるいはさらに悪いこ
とに、二番底、三番底へと落ちていく。むしろ心配なのは、親のこうした不安感が、子どもの情
緒を、さらに不安にするのではないかということ。子どもの表情が暗いとしたら、その表情をつく
っているのは、親自身にほかならない。そのことに、あなたは、気づいているだろうか。

もっとはっきり言おう。

あなた自身が、不安を基底とした子育てをしている。あなた自身が、子どもとの信頼関係を築
けないでいる。その原因は何かといえば、ひょっとしたら、あなたとあなたの両親との、不幸な
関係があるかもしれない。あなた自身もまた、あなたの親に、信頼されていなかった。あなたも
あなたの親を信頼していなかった。今のあなたは、それをあなたの子どもに繰りかえしている
だけ? ……こう決めてかかるのは、危険なことだが、こうした問題の「根」は深い。一度、あな
たも、それを疑ってみてほしい。

そこで私の結論。

ボーッとしていても、気にしない。私もときどき、ワイフといっしょにテニスクラブに行く。しかし自
分の出番を待っている間は、ただひたすらボーッとしている。女性たちは、ペチャクチャと、しゃ
べっているが、私は、そういう会話は、得意ではない。しかしだからといって、私は、「取り残さ
れている」とは思わない。自分がダメになっていくとは、思わない。人は、人、みな、それぞれな
のである。

もっとあなたの子どもを信じなさい。「休み時間は、ひとりで本を読んでいる」なら、すばらしいこ
とではないか。どうしてひとつひとつの行為を悪いほうに、悪いほうに考えるのか。本を読むと
いうことが、いかにすばらしいことであり、大切なことであるかは、日本を離れてみればわか
る。

アメリカの小中学校では、ほとんどどの学校も、図書室は、玄関を入ってすぐ、つまり校舎の中
央にある。しかもその図書室で、子どもを指導する教師(ライブラリアン)は、修士号をもってい
ないとできない。つまりふつうの教師より、「格」が上。

くだらない騒音にひとり背を向け、本を読む……。私なら、「お前はすばらしい子だ」と、その生
徒をほめる。実際、そうほめている。だいたい日本の子どもというのは、イワシの缶詰のような
世界で、ぎゅうぎゅうに詰められて勉強している。「友だち」「友だち」と意識するほうが、これま
たおかしい。そういう子どもが、「取り残される」? ……とんでもない。あなたの子どもが、何か
ら取り残されるというのか?

さあ、あなたの子どもは、すばらしい子どもだ。自信をもちなさい。その自信が、あなたの子ど
もの表情を明るくする。先生の言葉をすなおに信じて、「うちの子は、問題はない」と思いなさ
い。
(030711)

【追記】最後に、世間をにぎわしている凶悪事件について、不安になっている親も多いと思う。
しかしあなたの子どもは、絶対に、そういう子どもにはならない。なぜなら、あなたは今、私のマ
ガジンを読んでいるから。私が、あなたを、そういう子どもをつくらない親にする! (少しどこか
教祖的? ははは。一度、こう言ってみたかった。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(966)

子どもの夢

 子どもの夢を育てよう。たとえば、五歳の女の子が、「花屋さんになりたい」と言ったら、その
心を大切にしてあげよう。五歳の男の子が、「トラックの運転手さんになりたい」と言ったら、そ
の心を大切にしてあげよう。

 それを、「英語を勉強しなさい」「算数教室へ行きなさい」と、親が押しつけるから、子どもは、
自ら、自分の夢をつぶしてしまう。あるいは意識しないにせよ、「どうして英語や、算数を勉強し
なければならないのか」と思ってしまう。もっとわかりやすく言えば、親が、子どもの夢をつぶし
てしまう。

 子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と言ってあげよう。そし
て子どもといっしょに、花の本を見たり、植物の図鑑を見たりしてあげよう。あるいはいっしょ
に、花や木を育ててあげよう。散歩をしながら、花の話をしよう。子どもは、そういう親の姿勢の
中から、夢を育て、それを具体化する。

 子どもが「トラックの運転手さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と言ってあ
げよう。そして子どもといっしょに、乗り物の本を見たり、自動車のおもちゃで遊んであげよう。
散歩をしながら、トラックを見つけたら、トラックの話をしよう。子どもは、そういう親の姿勢の中
から、夢を育て、それを具体化する。

 それを親は、「花屋さんなんて……」「トラックの運転手なんて……」と、吐き捨ててしまう。そし
て「大切なことは、いい中学へ入ること」「いい大学へ入ること」と決めてかかってしまう。つまり
「いい学校へ入れ」と教えながら、無意識であるにせよ、結果的に、子どもの夢を否定してしま
う。

 しかし残念ながら、今、いい中学校へ入ることや、いい大学へ入ることは、夢でも何でもな
い。親はともかくも、子ども自身は、その価値を認めていない。そういう夢にもならないようなこ
とを、子どもに押しつけて、子どもの心をふみにじってしまう。昔は、エリート意識がそれを支え
たが、今は、そのエリート意識で、学歴を支えるような時代ではない。

 今、大学へは入ったものの、その先を見ることもできず、悶々としている大学生が、あまりに
も多い。学ぶ目的も、姿勢もない。何を学んでいるかさえ、わかっていない。ただ大学生だとい
うだけで、中身がまったく、ない。もちろん夢も希望もない。ほとんどの高校生は、「入れる大学
の、入れる学部」という視点で、大学へ進学していく。またほとんどの大学生は、「入れる会社。
しかも一流企業」という視点で、会社を選んでいる。そういう子どもに、夢をもてというほうが、
無理。勉強しろというほうが、無理。

 花屋になりたかった気持ちが、高じて、植物学の研究をめざしたり、科学者をめざしたりする
ようになることは、じゅうぶん考えられる。トラックの運転手になりたかった気持ちが、高じて、
設計技師をめざしたりするようになることも、じゅうぶん考えられる。親の、狭い価値観だけで、
子どもの未来を決めてはいけない。

 子どもを育てるということは、子どもといっしょに、子どもの夢を語りあうこと。あとはその夢に
のって、子どもは、自分の力で伸びていく。
(030711)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(967)

K−19

 ハリソン・フォードの「K−19」を見る。よくできた映画だった。ソ連の原子力潜水艦が故障
し、放射能が漏れるという映画だった。乗組員たちは、その放射能をくい止めるために、必死
の修理作業をする。そして……(あとは、ビデオを見てほしい。)

 放射能が、いかに恐ろしいものであるかは、今さら、言うまでもない。体が、体の中から溶け
ていく。放射能というのは、そういうものらしい。映画を見ながら、私は、改めて、放射能の恐ろ
しさを、思い知らされた。

 もし朝鮮半島で、核戦争が起きたら……。仮に日本に、直接核兵器が飛んでこないにして
も、日本全土は、放射能に汚染される。風向きにもよるが、偏西風に乗れば、数日で、日本
は、死の島と化す。が、もし、K国の核兵器が、日本で使われれば、被害は、さらに深刻にな
る。北陸地方にある原発一基が、K国の工作員に破壊されただけでも、以後、一〇年間は、中
部地方にはだれも住めなくなるという。

 いや、これとて控えめな見方らしい。経済や、食糧に与える影響も考えるなら、まさに日本は
壊滅的な打撃を受けることになる。あるいは、ばあいによっては、日本という国は、そのまま消
滅する。「なぜ、K国がそんなことを日本に対してするのか」という議論は、この際、あまり重要
ではない。重要なことは、今、この時点において、K国は、日本を攻撃するために、日夜、核兵
器の開発に取り組んでいるということだ。アメリカや韓国ではない。この日本を、だ。

 私たちは、何としても、戦争を避けねばならない。核戦争など、ぜったいにしてはならない。た
だ、今、日本がかかえる危機は、そこらの平和運動をしたくらいでは解決しない、危機である。
いくらこちらが平和を願っても、相手が、日本を攻めてくる。そういう危機である。しかもさらに
やっかいなことに、そういう危機的な状況にありながら、日本は、世界に向って、まともな正義
を主張することすらできない。日本は、過去において、してはならないことをしてしまった。いま
だに、「日本軍による、朝鮮や中国への侵略戦争は、正しかった」と主張している人は多い。
が、もしそうなら、日本よ、日本人よ、逆の立場で同じことをされても、文句は言わないことだ。

 しかし、この閉塞感はどこからくるのか。何かを訴えたくても、訴える、先がない。どう訴えた
らよいのか、それもわからない。何かをすべきだと思うが、何もできない。ただじっと静かに、嵐
が過ぎ去るのを待つしかない……?

願わくは、金XXの独裁政権が、自己崩壊すること。国際圧力によって、K国の核開発が、封じ
こめられること。北朝鮮からの亡命者のF氏は、脱北者をどんどん援助して、K国を自己崩壊
させるのが、一番よいと言っている。私も、同意見である。あきらめたわけではないが、話しあ
いで解決する段階は、もう、過ぎたように思う。

 が、明るい展望がないわけではない。中国が、どうやらアメリカと歩調を合わせ始めたという
こと。同時に、K国と、一線を引き始めたということ。さらにK国が、態度をやや軟化させ始めた
ということ。こうした動きを、うまくとらえれば、平和裏に問題は解決するかもしれない。私はそ
れを願うし、またそういう方向に、ことが運ぶよう、その流れを支持したい。

 「K−19」を見ながら、同時進行の形で、私は日本とK国のことを考えた。戦争や、核兵器の
ことを考えた。それだけに、「K−19」は、私にとっては、正直に告白するが、恐ろしい映画だっ
た。気の小さい人は、見ないほうがよいかもしれない。
(030712)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(968)

【今週の幼児教室から】

 今週は、「きのう・今日・明日」がテーマだったが、「季節」に変更した。毎年。「季節」の学習
は、八月末にしているが、入れ替えた。

 「季節」では、「春・夏・秋・冬」の季節の違いと、「一月〜一二月」の学習をする。途中、「夏子
おばさん」と、「冬子おばさん」が登場し、たがいに「私がすてき」とけんかを始める。「夏はいい
よ。海で泳げるよ」「冬はいいよ。サンタクロースがくるから」と。

 そのあと、子どもたち(年中児)に、「夏と冬の、どちらが好きですか?」と聞いて、その理由を
言わせる。昨日のレッスンでは、圧倒的に冬を支持する子どもが多かった。

 ところで幼児に、「どちらが好きですか?」式の意見を求めても、あまり意味はない。深く考え
ないで、答える。つまり気分的。とくに好き、嫌いは、そのときの雰囲気で決まる。

 また「冬」といっても、幸か不幸か、この浜松では、冬でも、雪が降らない。雪を見たこともな
い子どもも多い。だから冬の景色を描かせても、季節感がない。「冬には何を食べますか?」と
聞いても、「イチゴ」とか、「バナナ」とか、答える。これはしかたないことか。

 ちなみに、浜名湖周辺のこの地域は、沖縄をのぞいて、日本でも、気候がもっとも温暖なとこ
ろである。木の種類も、豊富で、鹿児島県と並んで、照葉樹林帯と呼ばれている。一年中、緑
のツヤが消えることがない。だからよけいに季節感がない? 春、夏、秋ときて、そのまま春に
なってしまう。

 私は、子どもたちに、大声を出させる訓練をよくする。しかし「大きな声で言いなさい」と言って
も、意味はない。そういうときは、こうする。

 ティッシュペーパーをもってきて、「これはバリヤーだ。君たちは、うるさいからな」と言って、そ
のティッシュペーパーを、丸めて、両耳に、つっこむ。そして子どもたちの声が、聞こえないフリ
をする。

 が、それでも少しは聞こえる……ということで、今度は、両方の鼻の穴に、つっこむ。が、息を
強くはくたびに、ポロリとそれが落ちる。この段階で、子どもたちは腹をかかえて笑うが、私は、
まったく聞こえないフリをする。鼻歌を歌いながら、「エッ、何か言ったア?」と、とぼけてみせ
る。

私「ちゃんと、声を出しなさい!」
子「出している! バリヤーを取れ!」
私「エッ、何か言った?」
子「バリヤーを取れ!」
私「ああ、今日は、雨¥いい天気だって?」
子「そんなこと言ってるんじゃ、ない。バリヤーを取れ!」
私「何? 先生がすてきだって?」と。

 こうすれば声が小さい子どもも、大声で話をするようになる。私の得意芸の一つである。
(030712)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(969)

見学

 ときどき、私の教室に見学にくる人がいる。私は「子どもをつれてきてほしい」と言う。そして
子どもの反応を見て、入ってもらうかどうかを決める。親と私だけの判断で、決めるのは、避け
たい。

 で、一時間なら、一時間、子どもに、レッスンを受けてもらう。が、そのあと、問題が起きる。
当然といえば当然なのかもしれないが、最近の若いお母さんで、「入れていただけますか?」と
聞く人は、まず、いない。「当然、入れる」という前提で、つぎの話をする。「これから家に帰っ
て、子どもと相談してきます」とか、「来週、もう一度、見学させてください」とか、言う。

 組織的に宣伝し、組織的に生徒集めをする進学塾と違って、私の教室は個人塾。案内書を
送るにも、それなりの出費を覚悟しなければならない。切手や印刷物を含めると、五〇〇円程
度のコストがかかる。月謝は、九〇〇〇円だから、一回分の見学ということでも、二五〇〇円
のコストがかかる。二回分では、五〇〇〇円! 最近の若いお母さんたちは、そういうものは、
タダと思っている。しかし、それはツ・ラ・イ。

 生徒数も、決定的に少ない。最高でも一二人しか入れない。平均して、そのクラスも、七〜八
人。机とイスの数が、そうなっている。また浜松市内の、中心部に教室がある。広さは、二〇
坪。こういうところの固定資産税がいくらかぐらいか、知っている人は知っている。ハンパな額
ではない。つまり部屋代も、高額。本来なら、その分、月謝が割高にしてもおかしくないのだ
が、実際には、私の教室の月謝は、S進学塾の、半分以下。生徒数で割ると、さらに三分の一
以下。(S進学塾の基準定員は、三〇〜四〇人。)

 しかしこういう良心など、今どきの日本では、どれほどの意味があるというのか。だから私
は、生徒の募集をするにしても、紹介のある人を大切にしている。過去三〇年間、チラシを配
ったりしたことがない。つまりこうすることで、教室の「質」を保ってきた。今もそうしているし、こ
れからは、なおさらそうする。

 そういう私に、「これから家に帰って、子どもと相談してきます」とか、「来週、もう一度、見学さ
せてください」とか。お母さんたちには、その意識はないのかもしれないが、私はふと、こう思
う。「もし、私に肩書きや、地位があれば、お母さんたちも、こんなことは言わないだろうな」と。
お母さんたちが、私をその程度の人間にしか、見ていない?

 もっとも、そういうのには、もうなれた。この世界へ入ってからというもの、ずっと、そうだった。
いろいろな教師がいるが、私が経験してきた「教師」ほど、最下層の教師はいない……と思う。
たとえば見学にきたとき、あまりにも親の態度が横柄なので、入会を断ったりすることがある。
そういうときその親は、デパートで、販売拒否にでもあったかのように、激怒する。「どうしてうち
の子は、入れてもらえないのですかア!」と。「何を、お高くとまってんの!」と言った人もいる。
そういう世界である。

 しかしそれでも私の教室は、善良な、私の教え方を理解してくれるお母さんたちによって、支
えられてきた。今も支えられている。そこで私がすべきことは、そういうお母さんや、子どもたち
を大切にすること。懸命に教えること。だから……。これはウソでも、誇張でもない。私の教室
は、どの教室も、穏やかな笑いに包まれている。おそらく、……というより、確実に、日本でも最
高に、心暖かく、上品な教室である。(ホントx100!)
(030712)

【追記】
 この原稿は、私のグチのようなもの。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(970)

ホームステイ

 オーストラリアの友人夫婦が、我が家に泊まるようになって、もう八日目になる。最初の数日
は、感動的(?)な接待をしたが、三日目、四日目になると、なれてきて、ふつう(?)になった。
で、今は、家族のようになってしまった。「今日あたり、どこへ遊びに行っているのだろう」と思い
ながら、私は私で、勝手なことをしている。ときどき、「今、ここにいる」というような電話が、友人
から、かかってくる。

 ときどきこうして外国人が、私の家にホームステイするが、今度は、やや長期。つかわないと
いっても、神経をつかう。自分たちだけなら、朝食抜きということもあるが、客人がいると、そう
いうわけにはいかない。服装だって、注意しなければならない。ほかにも、いろいろある。

 異文化に触れるというのは、たいへん重要なこと。彼らの目を通して、また自分たちの姿がよ
くわかる。たとえば今いる夫婦は、共働き。夫は、農業の指導員で、妻は、女医。ジェネラル・ド
クターといって、診断だけを専門にするファミリー・ドクターである。で、おもしろいというのは、サ
イフは別々。それぞれが、それぞれ、別の家計をもっているらしい。(失礼になるので、聞かな
いが……。)ときどき「あんたのお金」「私のお金」というような言い方をしている。ホホー。

 私の家では、収入はすべて、ワイフ様に渡している。その中から、毎日、二〇〇〇円前後の
小づかいをもらっている。私は結婚当初から、「私のお金」というふうに、考えたことがない。よく
「家族を養ってやる」とか。「食わせてやる」とか言う男性がいるという話を聞くが、私のばあい、
それはない。

 話がそれたが、そんなわけで、我が家には、今、ある種の緊張感が漂っている。ひとつだけ
つらいのは、土日が、完全につぶれてしまうこと。私にとっての土日は、原稿を書いたりして、リ
ラックスする、そういう大切な日。その土日が、接待でつぶされるから、翌週の仕事にも、何か
と影響が出てくる。今日も土曜日だが、午後からは街へ行き、夕方からは、田舎の祭りを見に
いくつもり。そういうことをしている間に、一日が、つぶれてしまう。あああ。

 しかしそれも、あと一週間もすれば、なれるだろう。今は、その時間ごとに、やること、できる
ことを判断し、うまくやりこなしている。そういう点では、メリハリのある過ごし方になってきた。
(今までは、何となくダラダラと、土日を過ごしていたが……。)

 しかし、この友人夫婦は、何を食べさせても、「おいしい」と言う。「本当か?」と何度も、たず
ねるが、そのつど、「本当だ」と。私など、どこの国へ行っても、まっさきにさがすのが、日本料
理店か中華料理店。ワイフ様も、そう。だから「おいしい」という、彼らの言葉が、どうしても信じ
られない。もっとも、オーストラリア人、その中でもイギリス系のオーストラリア人の食生活は、
実に質素、粗末、味気ない。

 考えてみれば、今、私は、彼らから多くのものを学んでいる。貴重な体験かもしれない。じっく
りと観察させてもらう。ところで月曜日は、金谷まで行き、SLに乗るつもり。その友人は、「狂」
の字がつくほどの、鉄道マニア。自分たちで、鉄道を数キロ敷き、その上で、昔のSLを走らせ
るところまでした。もちろん本物のSLである。飛行機を自分で作って、自分で操縦する人の話
は聞いたことがあると思う。しかしSLは、少ない? 興味のある方は、ご一報を。いつでも紹介
する。
(030712)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(971)

【かん黙についての相談より】

はじめまして。やっと先生のHPにたどりつきました。
私には年中の七月に五歳になったばかりの長男と、三歳の二男がおりますが、長男のことで
ご相談いたします.

長男は、家では明るくひょうきんでお調子者の元気な子ですが、一歩外へ出ると、なぜかほか
の子どもとは話しをすることができません。(大人とは会話をすることもあるのですが)。話し始
めたのは割と早かったのですが、五歳になる現在まで息子が友だちと楽しくおしゃべりする姿
をみたことがありません。

赤ちゃんの頃から人見知りが激しく、私からなかなか離れられない子だったので、性格かな?
 と思っていたのですが、いまだに治らないので、これは何かほかに問題があるのかなと思い
始めました。

幼稚園でも友だちの間には入っていけないらしく、担任の先生が友だちとの中に入って仲立ち
をしてくれています。

友だちから誘われると遊びはするものの、なぜか話しをすることができないということです。(し
てもあいづちを打ったり、うんとかううんとか言う程度だそうです)。先生には話しはできます。

四月より二年保育で幼稚園に通い始めましたが、喜んで通ってはいません。時々園バスを待
つとき泣いたり、行きたくないようなことを言います。でも帰ってくると幼稚園は楽しいとは言い
ます。

公園で遊んでいても、同じ年くらいの子がそばに寄ってくると顔がくもったり、逃げたり、不安そ
うな顔をしたりします。

息子は家では電車や車で町をつくったり、絵を描くのがすきです。それと数字や字を書くことに
とても興味があり、教えることもないのにどんどん覚えていきます。それとピアノがすごく好き
で、耳から聞く曲を、ピアノでそのまま弾いてみせたりしてびっくりすることがあります。

子どもと話しのできないかんもく症というのはあるのでしょうか? 親としてどうこの子に接して
やればいいのでしょう?

少しでも友だちと遊ぶことの楽しさを子どもに味あわせてやりたいのです。先生のアドバイス心
よりお待ちしております。
(長野県S市・SY母親より)

【はやし浩司より、SYさんへ】

 かん黙傾向というのは、広く、いろいろな情緒障害の随伴症状として見られるものです。です
から、かん黙傾向があるからといって、かん黙児ということにはなりません。たとえば対人恐怖
症の子どもは、やはり人前では、ほとんどしゃべりません。

 で、そのかん黙傾向が、ふつうの人間関係を結べないほどまでに強くなった状態を、かん黙
と言います。かん黙児の特徴については、ここに原稿を添付しておきます。参考にしてくださ
い。いただいたメールだけではよくわかりませんが、私は、心配されるようなかん黙児ではな
く、ここに書いた対人恐怖症ではないかと思います。「時々園バスを待つとき泣いたり、行きた
くないようなことを言います。でも帰ってくると幼稚園は楽しいとは言います」という、一日の中に
おいて、症状が変化するところに、それを感じました。これを「症状の日内変動」と言いますが、
広く、恐怖症全体に共通して見られる症状だからです。

 原因については、今さら問題にしても意味はありませんが、考えられるのは、最初の段階で、
人に対して、恐怖心を覚えたということです。つまり親と子だけのマンツーマンの子育てが中心
だったのが、外へ出され、そこで人に対して、恐怖心を覚えたということです。「人見知りが強
かった」ということですが、そのとき、親が無理をしたか、あるいは突き放すようなことをしたの
かもしれません。

 そういう意味では、情緒が不安定な子どもということになります。ただ誤解してはいけないの
は、情緒が不安定というのは、あくまでも結果でしかないということです。わかりやすく言えば、
あなたの子どもは、心の緊張感がとれない、ほぐれない状態にあるということです。その緊張し
ている状態のところに、心配や不安が入りこむと、それを解消しようと、一挙に、情緒が不安定
になる。それが今の状態だということです。

 この緊張感は、なかなかとれません。五、六歳児ならなおさらで、それこそ一年単位のケアが
必要です。あるいは安静になったと思っても、簡単なきっかけで再発します。心というのは、そ
ういうものです。もっと言えば、SYさん自身も、子どもに対して、全幅に心を開いていない、つま
り日常的に、ある種の緊張感を覚えている可能性もあります。子どもの心というのは、そういう
意味で親の心を写す、カガミのようなものです。あなた自身のことも反省してみてください。なお
恐怖症の原稿も、ここに添付しておきます。

 さてSYさんの相談で、一番気になるのは、三歳の二男のことです。逆算すると、人見知りを
始める、ちょうど、満一歳前後から、満一・五歳前後にかけて、下の子どもが生まれたことにな
ります。もっとも親に甘えたいときに、下の子が生まれたということになります。この段階で、子
どもの情緒が一挙に不安定になったと考えられます。いただきましたメールを読むかぎり、赤
ちゃんがえりの一つの変形タイプではないかと推察されます。どこかで「あなたはお兄ちゃんだ
から」式の、突き放しをしていませんか。決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけませ
ん。それはちょうど、あなたの夫が、ある日突然、愛人をあなたの家に連れこむようなもので
す。あなたははたして平静でいられるでしょうか。

 あくまでもいただいたメールの範囲ですが、いわゆるかん黙児ではないと思います。考えられ
るのは、赤ちゃんがえりがこじれた、対人恐怖症ではないかと思います。あくまでも一つの意見
として参考にしてください。かん黙児は、おとなとは、絶対に話をしません。

 ただ一つ気になるのは、自閉傾向があるということ。(自閉症ではありません。誤解のないよ
うに!)カラに閉じこもるような傾向を見せたら、何らかの方法で、外へ引き出してあげるとよい
でしょう。(ただし無理をしてはいけません。)「それと数字や字を書くことにとても興味があり、
教えることもないのにどんどん覚えていきます。それとピアノがすごく好きで、耳から聞く曲を、
ピアノでそのまま弾いてみせたりしてびっくりすることがあります」というところに、私は、それを
感じます。

 心のケアとして大切なことは、濃厚なスキンシップを与えるということです。とくに子どもがとき
どき、思いついたように求めてくるスキンシップについては、絶対に(絶対に!)拒んではいけま
せん。求めてきたら、グイと力強く抱く。しばらく抱いていると、やがて満足して体を離すようにな
ります。それまで、子どもを抱きます。

 またこの際、弟さんには悪いですが、全幅の愛情を、もう一度、子どもに戻してみます。添い
寝、手つなぎ、抱っこなど。そして半年単位で、少しずつ、離れていきます。スキンシップには魔
法の力があります。どうかそれを信じて、一度、ためしてみてください。

 なお。こうした心の問題は、「なおそう」と考えてはいけません。「今の状態をより悪くしないこ
と」だけを考えて対処します。「あなたはよくがんばっているよ」「すてきだわ」式の前向きなスト
ロークをかけてあげます。今、あなたの子どもは、体を使って、愛情不足を訴えています。

 最後に「ほかの子どもと楽しく遊ばせてあげたい」という、親のエゴを子どもに押しつけてはい
けません。五歳前後から、子どもは、幼児期から少年期への移行期(中間反抗期)に入りま
す。この時期、子どもは、カラを脱ぐようにして、少年になっていきます。決して、あせってはい
けません。あなたがそれを「悪いこと」と決めてかかればかかるほど、自我の同一性が乱れま
す。あるがままを認めながら、「あなたはそれでいいのよ」と自信をもたせてあげてください。

 今、たいへん微妙な段階にあると思います。幼稚園にせよ、無理をしないで、ときどき行けば
よい式に考えてください。心が発熱していると思えば、よいのです。それともあなたは熱がある
子どもを、幼稚園へ行かせますか? だいたい幼稚園へ、喜んでいく子どもなど、少ないので
す。とくにあなたの子どもはそうではないでしょうか。

 あとはCA、MGの多い食生活に心がけ、「暖かい無視」のある生活をしてみてください。で
は、また何か、変化があれば、ご連絡ください。お待ちしています。

 なおこの原稿は、七月二一日号のマガジンに掲載しますが、よろしくご了解ください。不都合
な点があれば、至急、ご連絡ください。改めます。

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(参考)

●かん黙児
 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。

●ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。

 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。

 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。
かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。

++++++++++++++++++++++
(参考A)

心の病気

 心も、ときに病気になる。その代表的なものに、@抑うつ神経症、A不安神経症、B強迫神
経症、C心気神経症、D恐怖症などがある。この中でとくに@抑うつ神経症を、「心の風邪」と
言う人がいる。となると、A不安神経症は、下痢、B強迫神経症は、頭痛、C心気神経症は、
胃炎、D恐怖症は、二日酔いということか。あまりよいたとえではないかもしれないが、要する
に、だれでも、下痢をしたり、頭痛になったりするように、簡単に不安神経症になったり、強迫
神経症になったりするということ。

 私のばあい、いつもこのどれかを経験している。

@抑うつ神経症
ときどきワイフが先に死んだら、どうしようかと考える。ひとりで生きていく自信は、私には、まっ
たくない。しかし一度、そう考えだすと、生きる目的すら、なくしてしまう。今までの人生があっと
いう間に終わったように、これからの人生も、あっという間に終わってしまうだろうとか、私の老
後は、孤独であわれなものになるだろうとか、そんなことまで考える。ただ私のばあい、病識
(自分で病気とわかること)があるので、それなりに対処できる。「今の私は、本当の自分では
ない」と考えて、カルシウム剤をたくさんとって、睡眠時間を長くしたりする。軽いばあいには、
たいてい翌朝にはなおっている。心がふさいで重苦しく、晴れないことを、抑うつ神経症という。

A不安神経症
一度、パソコンにウィルスが侵入したのではないかと、大あわてしたことがある。心臓はドキド
キし、体中から冷や汗が出た。最終的には、パソコンをリカバリーをすることで問題を解決した
が、夜中に始めて、一段落したころには朝になっていた。ほかに私はちょっとしたことで、被害
妄想がとりとめなく大きくなることがある。つぎつぎとものごとを悪いほうへ、悪いほうへ考えて
しまう。俗にいう、とりこし苦労タイプの人間である。あとになって、「どうしてあんなことで悩んだ
のだろう」と思うことが多い。突発的にはげしい不安感に襲われ、呼吸が苦しくなったり、動悸
がはげしくなることを、不安神経症という。

B強迫神経症
山荘には、防犯装置と、自動火災連絡装置が設置してある。自動火災連絡装置というのは、
山荘内で、ガス漏れや火災があったとき、私の自宅のほうに電話がかかってくるしくみの装置
をいう。で、一度だけだが、それがかかってきたことがある。私はあわてて山荘へ向ったが、そ
のときは、本当に生きた心地がしなかった。途中、携帯電話で隣人に電話をしたが、あいにくと
隣人は不在。が、その直後からおかしな現象が起きた。山荘でたき火をしたあとなど、水で火
を消すのだが、いくら消しても、どこかもの足りなさを覚えた。たき火コーナーが、プールのよう
に水びたしになっても、不安感が消えなかったこともある。自分の意思に反して、勝手に悩んだ
り、心配したりすることを、強迫神経症という。

C心気神経症
今まで経験しなかったような病状が現れたりすると、「もしや」と思うことがある。数か月前だ
が、生徒たちからたくさんのチョコレートをもらった。そのチョコレートを食べ過ぎたせいか、脳
が一時的に覚醒(興奮)状態になってしまった。(私は本当はチョコレートは食べられない体
質。)脳が勝手に乱舞してしまった。私はそのときはチョコレートのせいだとはわからなかった
ので、脳腫瘍ではないかと疑ってしまった。とたん、極度の不安状態になってしまった。ワイフ
が「何でもないわよ」となだめてくれたが、私はフトンの中で、体を丸めてガタガタ震えていた。
悪い病気にかかってしまったのではないかと、極度の不安状態になることを、心気神経症とい
う。

D恐怖症
私には高所恐怖症や閉所恐怖症にあわせて、飛行機恐怖症などがある。恐怖症というのは、
一度なると、いろいろな形で現れてくる。数年前は、あやうく交通事故を起こしかけたが、その
あと、私は自転車に乗られなくなってしまった。夜、自転車で道路を走っていたが、走っている
車が、どれも私のほうに向って走ってくるように感じた。私は数百メートル走っては自転車から
おり、また走ってはおりた。あとでみたら、手が、汗でべっとりと濡れていた。何かとくべつのこ
とで、ものごとに激しい恐怖感を覚えることを、恐怖症という。ほかに動物恐怖症、お面恐怖
症、先端恐怖症などもある。

 私のばあい、肉体的には健康だが、精神的にはあまり健康ではない。よく落ちこむし、ときに
激怒して、自分がわからなくなることがある。ここにあげた恐怖症にせよ、強迫神経症にせよ、
いろいろな形で、よく経験する。

 こういう心の病気になったとき、こわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うためか、狂っ
ている私のほうが正しいのか、そうでないときの私のほうが正しいのか、それがわからなくなる
こと。たとえば抑うつ状態になったとき、かえってそうでない人のほうが、おかしく見えるときが
ある。私のことで言うなら、落ちこんでいる自分のほうが、本当の自分のように思うことがある。
そして「今まで落ちこまなかったのは、私がバカだったから」というような考え方をしてしまう。

 また恐怖症にせよ、心気神経症にせよ、私の経験からしても、自分ではコントロールできない
ということ。自分に「だいじょうぶだ」と何度言い聞かせても、もう一人別の自分が、それを打ち
消してしまう。あるいは頭の中ではだいじょうぶと思っていても、体は勝手に動いてしまう。もう
二〇年近くも前のことだが、私はテレビのアンテナをつけるために、屋根にあがったことがあ
る。しかしおりるとき、勝手に足がすくんでしまい、それ以上、動けなくなってしまった。結局、近
くの電気屋さんに来てもらい、助けてもらったが、そのときも、いくら「だいじょうぶだ」と自分に
言ってきかせても、自分では、どうしようもなかった。

 だから……。今、いろいろな心の病気をかかえた子どもに接すると、そういう子どもの心の状
態がよくわかる。親は、「気のせいだ」「気はもちようだ」などと言うが、私はそうは言わない。先
日も「トンネルがこわい」と訴えてきた小学生(小一男児)がいた。その子どもに接したときも、
私は、こう言った。「こわいよね。ぼくもトンネルがこわくて、ときどき入れないときがある。天井
がコンクリートか何かで、しっかりしていればいいけど、岩がむき出しであったりすると、ぞっと
するね」と。

 熱を出して苦しんでいる子どもに無理をさせないように、心の病気にかかっている子どもに無
理をしてはいけない。心の病気は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向があるが、
決して安易に考えてはいけない。こじらせればこじらせるほど、立ちなおりがむずかしくなる。
(030713)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(972)

オーストラリアの友人

 オーストラリアの友人夫婦を見ていて、おもしろいと思ったのは、洗濯を別々にしているという
こと。たとえば今日(一三日)、朝から妻のMさんが、洗濯を始めた。で、あいにくの雨だったの
で、ワイフは、Mさんを、近くのコインロンドリーへ連れていった。洗った衣類をかわかすためで
ある。

 で、帰ってみると、今度は、夫のB氏が、洗濯を始めていた。B氏は、自分のものを洗ってい
た。「?」と思った。「そういう夫婦もあるのか?」と。ワイフは、それを見て、「オーストラリア人と
いうのは、夫婦でも別々に、自分のものを洗うのね」と。「共働きだからかもね……」と私は言っ
たが。どういう事情なのか、よくわからない。

 しかしオーストラリアの夫たちは、実によく働く。食後でも、自分で使った皿は、自分で洗って
いる。当たり前のように、それをする。改めて聞いてみた。「もしオーストラリアで、夫が、『ヘ
イ、ティー(おい、お茶)』と言ったら、妻はどうする?」と。すると、B氏は、こう言った。「象を、一
〇〇メートル飛ばすほど、殴られる」と。

 しかし彼らの話を聞いていると、実におもしろい。数日前、どこかのレストランで、すき焼きを
食べたらしい。そのときのこと。妻のMさんが、怒ってしまったという。「どうして怒ったのか?」
と聞いたら、「自分で、料理をさせられた」と。多分、その店では、食材だけを並べて、客に、す
き焼きを作らせたらしい。「ほとんどの店ではそうだ」と言ったら、「どうしてそういう、めんどうな
ことをするのか?」と。「きれいに皿に並べるくらいなら、最初から、ナベに入れてくればいい」
と。

 ほかに、どこかで回転寿司を食べてみたらしい。しかしやはり生魚は食べられなかったとい
う。「何皿、食べたのか?」と聞いたら、「ぼくが三皿で、M(妻)が、二皿だ」と。「たったの五
皿?」と聞きなおしたら、臆面もなく、「そうだ」と。多分、その店の主人は、がっかりしたと思う。

 「日本の印象は?」と聞くと、「三〇年前とくらべて、女性の背が高くなったこと」「三〇年前に
は、みんな黒髪だったが、今は、みんな髪の毛を染めていること」と。ほかに、「どんな山の中
でも、コンクリートで、おおわれていること」と言った。
(030713)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(973)

覆水(ふくすい)、……

 一度、こわれた人間関係は、簡単にはもどらない。その人との距離もあるが、遠ければ遠い
ほど、もどらない。

 Aさんは、感情的になりやすい。カッとなると、何を言っているかわからないほど、自分を取り
乱す。相手に向って、怒鳴り散らす。先日は、道路のゴミのことで、道の反対側に住んでいる
人と、けんかした。しかしそういうことを一度でもすれば、それで人間関係は、お・し・ま・い。

 しかしAさんには、それがわからない。しばらくすると、また何ごともなかったかのように、道の
反対側に住んでいる人と、つきあおうとする。しかし今度は、その反対側に住んでいる人が、そ
れに応じない。昔からこう言う。『覆水、盆に返らず』(中国故事)と。こういうことは、私の身のま
わりで、よく起こる。

 私のばあいは、だれかにそうされたら、一、二度はがまんするかもしれないが、それがたび
重なるようであれば、その人とは距離をおく。寛大とか、寛大でないとかいうことではなく、安心
してつきあえない。いつなんどき、また気分が変わって、怒鳴られるかもしれない。

 そこで改めて、「孤独とは何か」を考える。これだけではないが、そんなわけで、私は最近、
「孤独」というのは、やってくるものではなく、自分でつくり出すものではないかと考え始めてい
る。そのAさんにしても、孤独は孤独だろうと思う。しかしAさんが感ずる孤独は、Aさん自身が
自ら、つくり出している。それにAさんは気がついていない?

 ……と書きながら、実は、これは私たち自身の問題でもある。

 私も、ときどき孤独を感ずることがある。さみしい。苦しい。生きているのがつらいとさえ思うこ
とさえある。そういうときというのは、それまでしてきたことが、すべて「無」に感ずる。こうした感
情は、心がうつ状態になったときに生まれるというが、どうも、それだけではなさそうだ。つま
り、私が感ずる孤独の大部分は、私自身が作り出しているのではないか。

 今まで私は、孤独というのは、自分との戦いだと思っていた。孤独そのものと戦うことだけを
考えていた。しかし実際にはそうではなく、孤独というのは、自分の生きザマと戦いを意味す
る。もっと言えば、生きザマと戦わずして、孤独と戦うことはできない。健康にたとえるなら、病
気(孤独)になったとき、病気(孤独)と戦うことも、そのときは必要なことだが、しかしもっと大切
なことは、それ以前から、体力をつけるため、運動をすることである。この「運動をする」という
部分が、まさに「生きザマ」ということになる。

 だらしない生活をして、一日、運動をサボれば、それだけ不健康になる。暴飲暴食は、さらに
体に悪い。で、その結果、病気になったとしても、それは自業自得というものか。同じように、自
分の生きザマのどこかに欠陥があって、その結果、孤独になったとしても、それもまた自業自
得というものか。

 私は、またまた大発見をした。(ハハハ!)「孤独というのは、やってくるものではなく、自ら作
り出すもの」なのだ! そこで、世界の賢者は、どのように考えていたかを調べてみた。私のよ
うに考えていた賢者はいたのか?

●孤独を愛するものは野獣か、しからずんば神なり。(アリストテレス「断片」)
●われわれはひとりで世の中を歩いている。われわれが望むような友だちは、夢であり、おと
ぎ話である。(エマーソン「随筆集」)
●孤独はすぐれた精神の持ち主の運命である。(ショーペンハウエル「意思と表象としての世
界」ほか。

ざっと調べてみたが、私のように考えている賢者はいない。となると、私が、おかしいのか。や
はり孤独というのは、生きザマでは克服できない問題なのか。この先のことは、今、ここではわ
からない。

 しかしこれはまちがっていないと思う。つまり「他人にやさしくしよう」「他人に親切にしよう」「他
人に誠実でいよう」。……そうすれば、あなたの孤独は、やわらぐ。

さっそく、今から、それを実験してみる。相手は、私のワイフだ。それに今、私の家に滞在して
いる、友人だ。明日からは、私の生徒だ。親だ。その結果は、またいつか報告する。
(030713)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(974)

ハレンチ文化との決別

 少し前、私は、ハレンチ文化との決別を宣言した。身のまわりにある、その類のものを一掃し
た。それについてワイフが、「そんな恥ずかしいこと、よく宣言するわね」「そんなこと宣言するよ
うなことではない」「マガジンに書くようなことではない」と言った。私のマガジンを、めったに批
判しないワイフだが、今回は違った。

 そこで今、自分を静かにみつめてみると、少しだが、自分が変化したのを感ずる。まず、そう
いうものはなければないで、まったく困らないということ。それは酒やタバコと似ている。私は麻
薬とは、生涯、無縁の世界に生きてきたが(当然だが)、今、麻薬がないからといって、まったく
困らない。心も、そういう状態になる。

 つぎに大きな変化は、ワイフが、より美しい女性に見えてきたこと。それもそのはず。私にと
って、女性とは、ワイフしかいない。しかし以前の私は、どこかいつも、ほかの女性と比較しな
がら、ワイフを見ていた。しかし身のまわりから、そういったハレンチ文化を消し去ってみると、
ワイフが、女性として、浮かびあがってきた。これはおもしろい現象だと思う。

 そこで一つの教訓。もしあなたが夫婦の、より深くて強い和合を求めるなら、ハレンチ文化と
は、決別したほうがよい。まだ私も実験段階なので、偉そうなことを結論づけることはできない
が、このことは、それほどまちがっていないと思う。具体的には、

@テレビのハレンチ番組は見ない。低俗番組は見ない。
A雑誌、CD、インターネットなど、ハレンチ文化には接しない。
B身のまわりから、そういった類のものは、一掃する。勇気を出して、一掃する。

ウソだと思うなら、あなたも一度、実験してみるとよい。人生の中の、たった数週間でよい。そ
の数週間で、あなたも、その「変化」を感ずるはず。もしそれでも、やはりハレンチ文化が恋し
いという人は、そのときはまた、ハレンチ文化に戻ればよい。それはそれでかまわない。それ
も人生。あなたの人生。

 しかし今、私のように、もともと小ずるくて、小汚い人間でも、結構、すがすがしく感ずる。気持
がよい。それはちょうど、それまでゴミの山になっていた部屋が、きれいに片づいたのに似てい
る。そんなわけで、あなたも一度、勇気を出して、実験してみるとよい。
(030713)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(975)

心の掃除

みんなで、心の掃除をしよう。
方法は、簡単。
あなたがへんだと思うもの。
あなたがおかしいと思うもの。
それを勇気を出して、捨ててみよう。

そういうものには、興味をもたない。
そういうものには、近寄らない。
そういうものは、捨てる。

あなたが、悪いと思う友だちとは、
勇気を出して、決別しよう。
そういう人には、接しない。

心の中には、ゴミが、いっぱい。
不要なものが、いっぱい。
ムダなものが、いっぱい。
そういうものを、勇気を出して
一度、すべて、捨ててみよう。
(030713)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

(子育て随筆byはやし浩司976)

Eマガジン社

S様へ

拝復

 メール、ありがとうございました。

 さっそくですが、今回の、一二歳少年による幼児殺害事件は、情報不足で、何ともコメントし
がたいというのが、今の状況です。

 しかしながら、こうした事例は、まさに氷山の一角で、その下には、水面下に隠れた、巨大な
ピラミッドがあるもの事実です。私も、一年ほど前、あやうく失明するという事件に遭遇しまし
た。

 ある日の午後のことです。中学二年生の男子の相談にのるため、その少年と対峙してすわ
っていたときのことです。そのときまでに三〇分ほどいろいろ話を聞いていました。そのとき私
は彼が一方的にしゃべるのを聞きながら、目を閉じて、「そうだな」「うん」とか言って、頭をコッ
クリコックリさせていたのです。

 そのときのことです。突然、彼が手にもっていたシャープペンシルを、私の頭と机の間に立て
たのです。私が頭をさげたとき、シャープペンシルが、メガネにカチンと当たり、そのまま先が、
眉毛のつけ根の眉間に、突き刺さってしまいました。とたん、血が、パッと出て、左顔面、まっ
赤になりました。

 そのあたりに、細い動脈があったのですね。自分でも、血がシューと出て行くのがわかりまし
た。

 その直後、何とも言えない恐怖感が、私を襲いました。そしてその中学生を、我を忘れて罵
倒しました。「何てことするのだ!」と。もしメガネをかけていなかったら、私は、そのまま救急車
運ばれ、かつ、失明したことでしょう。それがその場でわかりました。

 で、その少年は、床に土下座し、(この行為も、どこか、アニメ的でしたが……)、「すみませ
ん」「すみません」と、泣きじゃくりました。

 あとでいろいろ話を聞くと、その少年は、まさにゲーム狂。マジギャザ(マジック・ザ・ギャザリ
ング=カード・ゲーム)のカードだけでも、四〇〇〇〜五〇〇〇枚もっていたとのこと。ポケモン
の全盛期には、徹夜でゲームをしたとか。またそのころでも、毎日、最低でも、二〜三時間、ゲ
ームをしていたとか。たいへんなゲーム少年であることが、わかりました。

 このタイプの子どもは、ほとんど考えることなしに、突発的に、とんでもないことをします。反射
運動型のゲーム感覚というか、感覚がそうなっているのですね。ほかにも、私が飲んでいるお
茶に、殺虫剤を入れる事件とか、イス引きといって、私がすわろうとしたとき、そのイスをサッと
引かれたような事件があります。

 今回の一二歳少年による、凶悪反抗事件も、結果として「凶悪」ということになりましたが、こ
うした一連の現象の延長線上にあるようにしか思われません。日ごろの行動そのものが、ゲー
ム感覚的になっているのです。「命」すら、そうです。これは極端な考え方ですが、私が、「緑が
なくなったら、たいへんだ」と言ったときのこと。一人の男の子(小五)が、こう言いました。「パソ
コンで、再現すればいい」と。

 テレビゲームにはまっているのは、圧倒的に、男子が多いわけで、その分、あの神戸で起き
た『淳君殺害事件』にせよ、今回の事件にせよ、それを犯したのは、女子ではなく、男子である
点に、注目すべきだと思います。私は大きな因果関係があるとみてよいと思います。

 これから先、もう少し、その一二歳少年の内情が明らかになると思いますが、今のところ、残
念ながら、この程度しか、私には、コメントできません。

 また、ご指摘のように、「勉強ができる」ということは、もうステータスでも何でもありません。今
までの「勉強」は、あまりにも知識偏重型というか、「知識」を蓄えるものでしかありませんでし
た。今もその傾向は強いです。先日も、「富山のチューリップ。長野県の高原野菜……」と、暗
記していた中学三年生がいましたので、「何だ、その高原野菜っていうのは?」とからかってや
りましたら、「知らない」と。

 「知識」と「思考」は、基本的に別物です。まったく別物です。そういう原点にたちかえって、もう
一度、教育をながめてみる必要もあるのではないでしょうか。いくつか、最近書いた、原稿を添
付しておきます。この返信も含めて、もしどこかで発表してくださるようでしたら、うれしいです。

 これからもこの種の事件は、ふえることでしょう。心配しています。また、某代議士による、
「(一二歳少年の両親の)市中引き回し」発言は、あまりにもレベルが低すぎて、コメントする気
にはなれません。それだけ日本人の知的レベルが低いということでしょうか。世界の笑いもの
です。なさけないことですが……。

敬具
二〇〇三年、七月一四日
                                   はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

役割混乱

 少し前、W大学の学生らによる、集団輪姦(りんかん)事件が起きた。何ともおぞましい事件
だが、この事件は、起こるべきして起きた。しかもまさに氷山の一角。たいていの大学には、こ
の種の、集団デートサークルがあって、闇に隠れて、好き勝手なことをしている。

 こういう事件が起きると、「なぜ?」という声がわき起こる。しかしそんな疑問など、まったく意
味がない。ここにも書いたように、この事件は、起こるべきして、起きた。つまり大学生に、大学
生としての自覚がない。自分が何をすべきかさえ、わかっていない。どういう方向に進むべきか
も、わかっていない。つまりアイデンテティ(自我同一性)がない。これを心理学では、「役割混
乱」という。

 子どもというのは、その年齢を経るごとに、その方向に沿った、役割を形成していく。小学生
は小学生として、中学生は中学生として……。あるいは男児は男子らしくなり、女児は女子らし
くなる。これを「役割形成」というが、その方向性は、子どもによって、みな違う。違って、当然。
が、ここで問題が起きる。

 その方向に沿って、子どもがそのまま進めばよい。しかしそれが、ときに、たいていは外圧に
よって、混乱することがある。私自身の例で考えてみよう。

 私は、高校二年まで、建築家になるのが夢だった。建築家が無理なら、大工でもよかった。
だからそのころまでは、近所のどこかで新築の家が建ち始めると、毎日のようにその家を見に
いった。カンナやノミも、器用に使いこなせるようになっていた。つまり私はそのころすでに、建
築家としてのアイデンテティをもち始めていたことになる。

 が、高校三年になると同時に、突然、担任の教師が、私の進路を変えてしまった。「君は、K
大の文学部なら、入れるから、そこにしろ」と。当時は、そういう時代だった。が、このとき、私
は、大混乱した。もともと文学は好きではなかったし、その素養もなかった。

 で、こうした混乱は、そのあと、何度も繰りかえし、起きた。高校三年の終わりには、私は担
任に内緒で、志望学部を、文学部から、法学部に変えた。そうなると、混乱というより、メチャメ
チャ。まるで男の子が、ある日突然、髪の毛を長くして、スカートをはくようなものだ。

 何とか、そのあと、私は金沢大学の法文学部法科に入学したが、法律に触れたのは、そのと
きがはじめて。素養どころか、興味も、目的もないまま、法律の勉強をつづけた。もっと正直に
言えば、法律を勉強する前に、それから逃亡したい自分と、そのつど、戦わねばならなかっ
た。

 こうした状態は、いわば宙ぶらりの状態といってもよい。自分を定めることすらできない。たま
たま周囲の友人たちが、まじめで、私を励ましてくれたからよかったものの、もしそれがなく、あ
の状態で、何かの誘惑があったら、私は、その道へ入ってしまっていたかもしれない。事実、一
度、ヤクザの世界に、あこがれたことがある。私がここでいう「役割混乱」というのは、そういう
状態をいう。

 考えてみれば、目的意識をもって大学へ入る子どもは、いったい、どれだけいるというのか。
ほとんどの子どもは、(入れる大学の、入れる学部)という視点で大学を選んでいる。それも少
しでも知名度の高い、有名大学をと、考えている。こういう状況の中で、子どもたちは、どこで、
どのようにして、自分のアイデンテティをもつことができるというのか。

 実は、こうした状態は、すでに子どもが幼児期から始まっている。隣の子が、英語教室へ入
ったという理由だけで、自分の子どもを英語教室へ入れる。隣の子が、○×進学塾へ入った
からという理由だけで、自分の子どもを○×進学塾へ入れる。そういう親は、いくらでもいる。
つまりこうした形で、親自身が、子どもの役割形成を、混乱させている。そしてその結果として、
有名中学があり、進学高校があり、一流大学がある。そもそも子どもに、アイデンテティをもて
というほうが、無理なのである。

 これも私のばあいだが、本気で幼児教育をしようと考えはじめたのは、四〇歳も近くになって
からではないか。それまでの自分は、何をしても、また何をするにも、中途半端だった。つまり
それまでの自分には、アイデンテティがなかった。……というより、混乱したままだった。

 集団輪姦事件を起こした学生らは、まさにそういう学生だったといえる。天下のW大学に、入
るには入ったが、「自分」というものをもっていなかった。「入った」というだけで、目的も中身も
なかった。言いかえると、こういう子どもにしたくなかったら、どこかで子どものアイデンテティを
知り、そのアイデンテティにそった、子育てを組みたてる。たとえば子どもが、大工になりたいと
言ったら、それはそれですばらしいことではないか。ラーメン屋を開きたいと言ったら、それは
それですばらしいことではないか。そういう子どものアイデンテティを無視して、一方的に、「い
い大学へ入れ」と押しつけても、子どもは、混乱するだけである。
(030702)

【追記】世の親たちよ、「いい大学」「一流企業」は、ここでいう「役割」ではない。今、「自分の役
割」を見定めることができず、悩み、苦しみ、そしてもがいている若者が、いかに多いことか。
ひょっとしたら、あなた自身も、そうであったかもしれない。今も、そうかもしれない。しかしそれ
は道にたとえるなら、ムダな回り道。回り道をすればするほど、自分の時間をムダにする。自
分の人生をムダにする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳
 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。@インスピレーション、ひら
めき、直感が鋭くなる(波動共振)、A受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を
心に描くことができる(直観像化)、B見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができ
る(フォトコピー化)、C計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こ
うした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない
たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。たとえば自閉症の子ど
もがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだわりを見せることが知
られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小節を聞いただけで、そ
の音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心
のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳
 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に
 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者
 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。
 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年A
は)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことがで
きる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論
をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

人間は考えるアシである
●知識と思考は別●思考するから人間※
 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。
 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別
のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているに過ぎな
い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ
と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで
きるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、まちが
っているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼
稚園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、
「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思ってい
た。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考え
て、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

静かに考える時間

●考える時間
 いかにすれば、自分の時間がもてるか? 自分の時間というのは、静かに考える時間のこと
をいう。五分や一〇分では足りない。数時間単位の時間をいう。その数時間を、日々の生活の
中で、いかにすれば作ることができるか?

 残念ながら日本人は、その時間がない。時間をもつという習慣もない。ないことは子どもの生
活をみればわかる。朝、起きるとすぐ学校へ送り出され、そこで「いわしの缶詰」のような教育
を受け、家へ帰ってくると、テレビとゲームづけ。考えない人間がどうなるか。それは夜のバラ
エティ番組を見ればわかる。実に軽薄そうな、つまりIQ(知的品質)の低そうなタレントたちが、
これまた軽薄なことをギャーギャーと言っては騒いでいる。ああなる。 

 静かに考える時間をもつことは、それだけで最高のぜいたくである。しかし多くの人は、その
ぜいたくさに気づかない。気づかないばかりか、そういう時間をムダと決めてかかる。もしそれ
がムダというなら、何がムダでないのかということになる。あるいは何のために生きているかと
いうことになる。ひとつの例で考えてみよう。

●時間を大切にすること
 道路を車で走っていると、ときどき、サーカスのようなハンドルさばきで、つぎつぎと車を追い
越していくドライバーに出会う。本人は急いでいるのか、それともそれを楽しんでいるのかは知
らないが、まわりのものにとっては、これほど迷惑な運転もない。そのたびにドキッとさせられ
る。ばあいによっては、身の危険すら感ずる。が、何よりも不愉快なのは、そういう心ないドライ
バーのおかげで、自分たちのリズムが崩され、心の静寂が乱されることだ。それはちょうど、静
かな山間で、物干し竿(ざお)売りのトラックに出会うようなものだ。ホトトギスやコジュケイの鳴
き声を楽しんでいるところで、「アオヤー、サオダケー」とやられたら、たまらない。

 で、そうして急いで運転している人たちが、時間を大切にしているかということになると、それ
は疑わしい。時間を大切にするということは、もっと別のことである。私のばあい、時間を大切
にするということは、私の中に「私」を感ずることをいう。しかしこれはあくまでも、私の個人的な
意見にすぎない。人は人、それぞれだし、それぞれが、自分の時間を大切にしている。が、消
去法で考えていくと、どうしても私はやはり私の考え方になってしまう。順に考えてみよう。

(日々の生活)これは生きていくためには必要なことだが、しかしそれはあくまでも「生きていく
ため」のもの。生きる目的ではない。たとえば子どもが朝、顔を洗い、身支度を整えて、学校へ
でかける。あるいはその前に朝食を食べる。こうした一連の行為は、必要な行為かもしれない
が、目的ではない。

(娯楽をすること)映画を見たり、テレビを見たり、あるいは本を読んだりする。先日も一人の小
学生が、ハリーポッターの魔法のかけかたの本を熱心に読んでいた。実に意味のない本だっ
た。たとえば「朝、うさぎが北の方角に走っていくのを見たら、xxxxと呪文を唱えるとよい。太陽
が真上にのぼるころ、昨日の希望がかなう」と。娯楽は娯楽だが、こうした娯楽を繰り返したと
ころで、どれほどの意味があるというのか。

(仕事をすること)人は人の中で評価されてこそ、達成感を味わうことができる。その達成感が
生きる目的になることはある。音楽家や芸術家にせよ、はたまた作家にせよ政治家にせよ、
結局は他者とのかかわりの中で生きている。そのかかわりが仕事であり、それが生きる目的
になることは、ある。子どもが、志望校を決め、その受験勉強をして、目的を達するのも、その
ひとつ。しかし、だ。「それがどうなのか?」と聞かれたとき、私たちは何と答えるだろうか。

●人間がつくった幻想と幻覚
 私たち人間は、えてして自分たちがつくりあげた幻想と幻覚の中で、自分たちの価値観をつく
りあげてしまうことがある。子どもたちがするテレビゲームに、その例を見る。たとえば少し前、
あのたまごっちというゲームが流行したとき、私が不用意にその「生き物(?)」を殺してしまっ
たことがある。するとその子ども(小一女児)は、「先生が殺してしまったア」と、大声で泣き始め
た。私が「死んではいないよ」といくら説明してもムダだった。あるいはテレビゲームの世界で、
ポイントがふえればふえるほど、喜ぶ子どももいる。たわいもない喜びだが、私たちおとなも、
日常生活の中で、これと同じことをいくらでもしている。そのひとつが、仕事(労働)ということに
なる。

 いや、こう書くからといって、仕事を否定しているのではない。仕事は仕事として、大切なもの
だ。しかし戦後の多くの日本人がそうだったように、いわゆる仕事人間を見ていると、もののあ
われさを覚える。とくに私たち戦後生まれの団塊の世代は、その仕事のために、人生そのもの
を犠牲にしたようなところがある。リストラされ、やっとヒマになったと思ったら、人生も終わって
いた……と。

 大切なことは、こうした幻想や幻覚を、どのレベルで、どのように気づくかということ。それは
つまるところ、その人の視点の高さと、視野の広さによる。視点が高ければ高いほど、また広
ければ広いほど、その幻想や幻覚に気づく。それはちょうど、子どもたちが夢中になっている
ハリーポッターの魔法のようなものだ。おとなの私たちは、それをバカげていると思う。思うこと
ができるのは、それだけ視点が高く、視野が広いということになる。反対に低ければ低いほど、
また狭ければ狭いほど、そのバカさかげんがわからない。

●自分らしく生きること
 そこで結論は、いかに自分の人生を生きるかということは、自分らしく生きるかということにな
る。そして自分らしく生きるということは、いかにすれば視点をより高くし、また視野をより広くす
ることができるかということ。そして高ければ高いほど、そして広ければ広いほど、それまでの
自分が小さく、愚かに見えてくる。それに気づくということは、より「私」に近づくことになる。私が
最初に書いた、「考えること」は、そのための手段ということになる。言いかえると、人は考える
ことで、自分の中の「私」に近づくことができる。そしてもっと言えば、人間がほかの動物たちと
違うところは、この考えるところにある。パスカルが「パンセ」の中で書いた、『人間は考えるア
シである』『思考が人間の偉大さをなす』という意味は、そこにある。

 ただ視点の高さにせよ、また視野の広さにせよ、それは相対的なものにすぎない。ここにも
書いたように、より高くなればなるほど、そして広くなればなるほど、それまでの自分が小さく、
愚かに見える。だから、結局は、人間は死ぬまで、それを繰り返すことになる。あのゴータマ・
ブッダ(釈迦)が、スッタニパーダ(原始仏教典)の中で説いた、「精進」という意味もここにあ
る。決してゴールはないし、ゴールの向こうには、さらなる原野が広がっている。その原野を前
向きに歩くことが、本当の意味で、「生きる」こと。自分の時間をもつということは、その第一歩
ということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(977)

オーストラリアの教育

 B君夫妻と、朝食をはさんで、オーストラリアの教育の現状を聞く。

 「オーストラリアでは、学校の先生に、子どもの落第を勧告されたら、親は、どうするか?」と
聞くと、こう言った。

 「そのほうが、子どものためなら、従うしかないね」と。
 
 そこで私はこう聞いた。

私「親は、ショックを受けないのか?」
B「もちろん、受ける」
私「やはり、そうか。しかし日本では、そうはいかない。親は狂乱状態になる」
B「ぼくの妹は、二人とも、落第している。R(上の妹)は、ハイスクール(セカンドリー・スクール)
のとき。I(下の妹)は、小学生のときにね」
私「三〇年も前のことだよ」
B「そう、三〇年前から、落第は、珍しいことではない」
私「それだけ寛大ということか?」
B「日本では、どうなのか?」
私「日本には、落第という制度はない」
B「ハイスクールでも、ないのか?」
私「病気とか、そういう特別の事情のあるときは、結果的に落第ということになるが、学力がなく
て、落第ということは、めったにない」

 つづいて大学の話になった。

私「日本では、どの大学を出たかが、たいへん重要だ」
B「オーストラリアでも、それに似た(シミラー)ことはある」
私「アメリカでは、転学、転籍が自由になっている」
B「オーストラリアでも、できるが、アメリカほど、自由ではない」
私「どこの大学を出たかは、重要なのか?」
B「仕事についてしまえば、関係ない」
Bの妻「ドクターについて言えば、国家試験があるから、どこの大学を出たかは、関係ない」
私「日本には、学閥というのがあって、ある特定の病院は、その大学の出身者で占められるこ
とが多い」
Bの妻「オーストラリアでは、そういうことはない」

 私がもった印象としては、オーストラリアの親たちの意識は、アメリカに近い、アメリカと、日本
の間あたりにあると感じた。

B「どうして、日本では、そんなに大学のブランドにこだわるのか?」
私「日本全体が、官僚主義国家だからだ」
B「オーストラリアも、官僚主義国家だ」
私「知っている。しかし日本とは、比較にならない。日本人は、そうは思っていないが、日本は、
体制だけをみれば、北朝鮮にずっと近い」
B「それは言える」
私「ところで、オーストラリア人は、日本人と北朝鮮人を区別できるか?」
B「……できない。区別していない。日本人は、オーストラリア人とアメリカ人を区別できるか?」
私「私はできる。微妙に違う。しかし一般の人はできないと思う」
私「日本では、北海道から沖縄まで、みな、同じ教育を受ける」
B「それはぼくも知っているが、七月一四日に、小学五年生が北海道で受ける教育と、七月一
四日に、小学五年生が沖縄で受ける教育は、同じということか?」
私「そうだ」
B(仰天して)「ハハハ、それはひどい(テリブル)! オーストラリアでは、そういうことはありえ
ない」
私「そのおかしさに、日本人自身が、気がついていない。そこが問題なんだ」
B「どうして、気がつかないのか?」
私「だれも疑わないからだ」
B「どうして疑わないのか?」
私「私にも、よくわからない」
(030712)

【追記】
 つまらない情報だが、店先に並んだスイカを見て、B氏の妻が驚いて、こう言った。「あのスイ
カが、1000円だって!」と。

 そこで「オーストラリアでは、いくらか?」と聞いたら、「オーストラリアでは、ふだんでも1キロ2
5セント。だからふつうのサイズの、つまり4〜5キロくらいのスイカで、1ドルから1ドル25セン
ト」と。日本円になおすと、1ドル=70円で計算して、スイカ一個が、70円から100円(!)とい
うことになる。安い! 本当に、安い! プラス、うらやましい。その私は、今年はまだ、スイカを
食べていない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(978)

A市にお住まいの、Bさんからのメール

先日、A市での講演会に行かせていただきました。HPも見させていただき、色々思う事があり
ました。

私の兄は公務員で一人暮らし、二年ほど前に神経症になりました。
ある日、兄から電話があり、「お父さんが俺の仕事場の上司に俺の話をしているみたいだか
ら、上司に電話したりするのはやめるように言ってくれ……」ということでした。
私は実家に帰ったときに早速その話をしました。

父は「おかしいな。そんな話したことないのに……」と言い、その返事も兄に伝えました。

それからも何度かそんな内容の電話が兄からかかってきましたが、父の返事は変わりません
でした。

そんな電話から三か月くらいあとだったでしょうか、四国に旅行中の両親から電話があり
「KK(兄)が調子悪くなって家に帰っているみたいだから、様子見てきて!」という事だったので
実家に行ってみたところ、生気のない兄が母達が留守だった為、雨戸も開けずに暗い家の中
にいました。

話しを聞けば病院で神経症と診断され、仕事を二週間休んできたという事でしたが、私にはと
ても二週間で復帰できるような状態でないことがわかりました。旅行中の両親も旅行をとりや
め帰宅。

その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げるようにして父が
私の家に来たり……。

兄は乱暴ではなく、とにかく元気がない状態。目の感じが違っていました。
仕事を休み始めた当初は私を呼びだし「俺、ホントに頭がおかしくなるかもしれないから、後は
頼むな……。」

と言われた事もあります。「それだけ分かってるなら、頭おかしくないよ! 頭おかしい人はそ
んな事言わない」と返事しましたが、その返事も、それで良かったのか悪かったのか……。

どんな治療をしたかは、私は詳しく聞きませんでしたが「病院かえた方がいいかな?」とか、「こ
の薬は普通こういう病気では処方されないらしい……」とか、とにかく、何もかもに神経質にな
っているのがわかりました。

あの時のおかしな電話の事もこれだったんだ……と後からわかりました。被害妄想のようなも
のだったようです。

「役所でみんなが俺の話をしてる。」とか「噂されてる。」とか色々言っていました。
結果、仕事場に行くとパニック症状が起きてしまい、どうにもならなくなり自分から病院に行った
ようでした。
 
HPに、チックの事や神経症の事が書いてあるのを見て思い出したのですが、兄は小学校の
頃チック症状で、目をぱちぱちさせていました。それを母がとても気にしていました。

兄は昔からすくお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりしていました。誰かが病気になると自分も
調子が悪くなったような気がする……とか、とにかく変わった人でした。そして、神経症と診断さ
れてから一年後、軽い鬱病だった……という診断にかわり(?)ましたが、とりあえず仕事に復
帰出来る状態にまで回復し、今は部所を変えていただき、実家からなんとか仕事に通っていま
す。

チックに始まり、三四歳で神経症。同じ家庭環境に育った私は何事もなく過ごしています。
今、私には、年中児の息子と五年生の息子、中三の息子がいますが、子育てにおいてあれこ
れ真剣に考えることもなく過ごして来たような気がします。

でも兄をみて、HPをみて、小さい頃のささいな事と思えたものが、その後大きな問題に発展し
てしまう恐怖を感じました。

長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一回くらい)しました。実は、それも何か
のサインだったのかと思うとドキドキします。
 
数日前、私の親類の子供が、脳炎を起こしました。結果、大脳がほとんどやられてしまってい
て、治療の方法がない……と言うことでした。お見舞いに行きましたが、いとこは泣いていまし
た。かける言葉も見つからない状態です。

そんなこともあって、「おまえは生きているだけでいい……」という言葉が耳から離れません。

+++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Bさんへ】

 講演をしていて、一番、気をつかうのは、聞きにきてくれた人に、不安感を与えないということ
です。もし私の講演が、Bさんを不安にしてしまったようでしたら、どうかお許しください。

 率直に言って、一つの講演の中でも、私は無数の話を織りまぜます。で、そういう話のひとつ
ずつに、それぞれの人が、まったく別の反応を示します。ときに、私がまったく予期しないところ
で、まったく考えもおよばなかった反応を示す人もいます。実のところ、Bさんがそうで、私は、
申し訳ない気持ちで、いっぱいです。できれば楽しく、ハハハと笑っていただければよかったの
ですが……。しかし私の話は、いつも暗いですね。申しわけありませんでした。

 が、私がここで答えられる部分は、「長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一
回くらい)しました。実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします」という部分だ
けです。
 
 これについては、寝言にしても、「たまに」ということですし、おねしょも、終わっているという点
で、もう心配する必要はないと思います。それに寝言にせよ、おねしょにせよ、ほとんどの子ど
もが経験することで、大きな問題ではありません。

 ただ子どもを包む環境が、神経質になっていないかは、反省してみてください。コツは、子ど
も自身が安心して休めるような、時と場所を、家庭の中に用意することです。子どもを、温かく
包むように、無視する。子どもの側から見て、親の視線を感じさせないようにします。

 こういうケースでは、Bさん自身が、問題そのものに気づいておられますので、少し時間はか
かりますが、それで問題は解決します。どうか自分を信じてみてください。

 で、話を戻します。

 お兄さんの件ですが、どの家庭も、外から見ると、うまくいっているように見えますが、それぞ
れ似たような問題をかかえています。ほとんどが、そうではないかと思います。みんなある意味
で、懸命に、そして必死に、そうした問題と戦っています。ですから、決して「自分だけが……」
と思ってはいけません。思う必要も、ありません。

 心だって、たまには病気になるのです。ただふつうの、つまり風邪や肺炎のような体の病気と
違うところは、心の病気は、外から見えにくいということ。それにたいてい長期にわたるというこ
とです。こじらせれば、一生つづくということも、珍しくありません。

 だから心が病気になったからといって、深刻になること自体、おかしいのです。しかもこの種
の「心の病気」は、まじめな人ほど、なります。もっとわかりやすく言えば、そうなったとしても、
基本的には、その人を取り巻く、社会や環境のほうが、おかしいのです。脳に機質的な問題が
あれば、話は違いますが、機能的問題であれば、今、ほとんどの病気は治るという時代です。

 かく言う私も、過去において、何度か、人生そのものに絶望したことが、あります。人前では、
いつも明るく振る舞っている私ですが、実のところ、心はボロボロ。私ほど、心の病気のデパー
トのような人間は、少ないと思います。よく私は、「あらゆる精神病を、広く浅くもっている」と冗
談ぽく言いますが、それはまちがっていません。

 また生まれながらにして(?)、家庭問題のいざこざには、常に悩まされました。実のところ、
今も悩まされています。しかし私のばあいは、どれも長期で、もうなれたというか、あきらめたと
いうか、そういう状態になっています。またそういう私を悪く言う人もいますが、「勝手にどうぞ」
という心境です。

 Bさんについても、今さら過去をほじくりかえしても、意味はありませんし、今の問題がどうか
なることもありません。しかたないのです。みんな、懸命に生きていても、どこかで穴があき、そ
こから水が漏れることだってあるのです。懸命に生きていても、どうにもならない問題が、起き
るときには、起きるのです。

 ここで大切なことは、仮にそういう問題が起きたとしても、それは私やあなたの問題ではない
ということです。それが人間が、人間であるがゆえに、つまりは生きることにまつわる限界のよ
うなものです。そんなわけで、つぎに大切なことは、そういう問題が起きたとしても、それはその
まま、受け入れるということです。まさに「なるようになれ!」と自分に言ってきかせることです。

 この言い方は、一見、無責任な言い方に見えるかもしれませんが、あのジョン・レノンも、『レ
ット・イット・ビー』の中で、そう歌っています。「♪レット・イット・ビー(あるがままにせよ)」と。実
のところ、私もずっと、そうしてきました。ものごとというのは、なるときには、放っておいても、な
る。しかしならないときは、がんばっても、ムダ……ですね。とくに心の病気について言えば、そ
うではないでしょうか。

 ただお母さんの態度は、あまりほめられたものではありません。娘のあなたに、「その後は、
もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げるようにして父が私の家に来
たり……」とは?

 「逃げるようにして……」というのは、お父さんが、お母さんから、「逃げる」という意味でしょう
か。こういうケースでは、一番、自分を律しなければならないのが、お母さんなのですが……。
少し残念ですね。お母さん自身が、あなたのお兄さんを、まったく受け入れていないばかりか、
そうした態度が、お兄さんのみならず、あなたをも苦しめていることに気づいていない? また
あなたのメールだけで、こう結論づけるのは、危険なことかもしれませんが、お兄さんが子ども
のころ見せた、いろいろな神経症による症状(チックなど)の原因も、お母さんにあったのでは
ないかということです。こういうケースでは、母親の態度というか、姿勢が、一番、重要なカギを
握ります。そのお母さんが、こうまで動揺してはいけません。

 ……と、ほとんど回答になっていない返事で、ごめんなさい。ただ言えることは、ことあなたに
ついて言うなら、『時は、心の癒し人』ということです。時間が解決してくれます。時間がたつと、
あなた自身が、周囲を受け入れ、そして心穏やかになります。こういうときは、あせって、あれ
これしないほうがよいです。じっとがまんします。(もちろんそれでお兄さんが、よくなるとかとい
うことではありませんが……。あくまでも、あなた自身の問題が、です。)

 最後に、お兄さんがそうだったからといって、あなたのお子さんが、そうなるということは絶対
にありません。どうか過剰に不安になったり、心配したりしてはいけません。一つだけ心配され
る点について、書いておきます。

 あなたのお母さんとあなたのお兄さんの関係においてですが、あなたのお母さんは、お兄さ
んを、全幅には受け入れてはいなかった? それが今いる、「お兄さん」をつくったと考えられま
す。いろいろ事情があったのでしょう。だからあなたのお母さんを責めても意味はありません。

 ただそういう関係、つまりあなたのお母さんのもつ、子育て観が、今のあなたの影響を与えて
いる可能性はあります。これを心理学では、世代伝播とか連鎖とか言います。つまり子育ては
繰りかえすということです。

 そこでこれはあなたにとって、たいへんつらいことかもしれませんが、「母親である」という虚
像というか、偶像を排除して、一度、あなたのお母さんを、一人の人間として、冷静に判断して
みてください。そしてあなたのお母さんのもつ、人間的な欠陥というか、精神的な未完成部分と
いうか、はたまた情緒的な未熟性というか、そういうものを、冷静に判断してみてください。

 そしてそれに気づいたら、あなた自身は、それを繰りかえさないようにします。あなたの子ど
もに対して、です。そこだけを注意すれば、もう心配はありません。ほとんどの人は、それに気
づかないまま、同じことを繰りかえします。どうかご注意ください。繰りかえしますが、だからとい
って、あなたのお母さんを責めても意味はありません。多分、もうかなりの年齢の方だと思いま
す。人間も、満四五歳前後を境に、あとは、急速に、人間的な進歩をやめます。ばあいによっ
ては、そのころを境に、退化します。年配だから、人間的にもすぐれているだろうと考えるの
は、幻想以外の何ものでもないということです。

 では、今日は、これで失礼します。また何かあれば、ご連絡ください。なおあなたからのメー
ルは、このような形で、マガジンに転載させていただきますが、よろしくご了解ください。勝手な
お願いですみません。よろしくお願いします。
(030715)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(979)

愚かな政治家たち

 自民党の最高幹部の一人、E氏の発言が、またまた物議をかもしている。河北新報社の報
道によると、「自民党EK派のE会長は一二日、福井市で開かれた自民党福井・足羽支部の定
期大会で講演し、中国や韓国に対する歴史認識について『南京大虐殺(の死者)が三〇万人
なんてでっち上げのうそっぱち』などと発言した」という。

 二年ほど前のことだが、私も、同じような抗議を受けたことがある。一人の女性(四〇歳くら
い)が、血相変えて私の事務所にやってきて、こう叫んだ。(まさに叫んだ。)

 「先生、あの南京虐殺事件は、中国のでっちあげですよ。日本軍は、三〇万人も殺していま
せん。せいぜい三万人です。どうして中国は、こうまで日本を悪く言うのでしょうか。いっしょに
抗議してください」と。

 どこかにそういうシンジゲートがあって、ネットワークを通して、そういう情報を流しているらし
い。

 それに答えて、私はこう言った。「あのね、三〇万人でも、三万人でも同じでしょう。仮に三〇
〇〇人でも、同じです。どうして日本軍が、そのとき、南京にいたのですか。他国ですよ。他国
で、日本軍が、外国の人を殺したのですよ」と。それがわからなければ、反対の立場で考えて
みればよい。

 ある日、突然、北朝鮮軍が名古屋市へやってきた。そしてそれに抵抗する人を、片っ端か
ら、殺していった。(抵抗するのは、当然ではないか!)その数、三〇〇〇人? 三万人? 三
〇万人? 何人であるにせよ、だいたい北朝鮮軍が、名古屋にくること自体、まちがっている。

 それをその説明をすると、その女性は、こう言った。「それは、中国軍が、日本軍を攻撃した
からでしょ!」と。

 私が「その事実はない」と言うと、最後に私に、「あなたは、それでも日本人ですか!」と叫ん
だ。明治以後、中国にせよ、朝鮮にせよ、彼らはただの一発も、日本国内で、日本人を、攻撃
などしていない。勝手に戦争をつくりあげ、他国へ侵略していったのは、ほかならぬ、この日本
なのである。それを認めるのは、日本人として勇気がいることだし、不愉快なことかもしれな
い。しかし事実は事実として認めないと、日本はいつまでたっても、世界から相手にされない。

 で、この話を、北京で中国語を勉強している留学生(日本女性)に話すと、その女性まで、こう
言った。「だって、アメリカだって、広島で三〇万人も殺しているでしょ!」と。つまりアメリカだっ
て、三〇万人の日本人を殺しているから、アイコだと。「アメリカのしたことも、虐殺だ」と。

 しかしこれくらい原爆でなくなった人を、冒涜(ぼうとく)する言葉はない。戦争に対する一片の
反省の念もなければ、「命」に対する、一片の畏敬の念もない。まさに感情だけの、感情論。あ
ああ。

 E氏の発言は、時期も時期だけに、残念でならない。今、日本は、北朝鮮の核問題という、戦
後最大の危機を迎えている。そういう時期に、韓国を怒らせ、中国を怒らせている。それはまさ
に日本の、さらなる孤立化を意味する。

誤解してはいけないのは、アジアでは、アメリカも嫌われているが、それ以上に、日本も嫌われ
ているということ。こんな発言が、日本人全体の発言と思われたら、仮に日本が北朝鮮の核兵
器に攻撃さらされたとしても、だれも日本に同情などしないだろう。

先の戦争で、約三〇〇万人もの日本人が死んだ。そうして死んだ日本人だけのことを考えて、
そういう日本人をたたえ、祭ることも大切だが、それ以上に、同じくその日本人に殺された三〇
〇万人もの外国人のことも考えなければならない。さらに、なぜ、三〇〇万人の日本人が死
に、三〇〇万人の外国人が死んだのか、その理由も考えなければならない。そこまでして、は
じめて日本人は、戦争を反省したことになる。

 残念ながら、E氏の発言には、そういう反省の念が、まったく感じられない。つまりは戦前の、
旧態依然の軍国主義の亡霊そのものの発言と断言してよい。
(030715)

【追記】
 これに補足して、ある雑誌社の編集員(三五歳くらい)は、こう言った。「日本は、満州など、
侵略していませんよ。だいたい満州には人は住んでいなかった。それに満州は、中国の領土
でもなかった。満州という国すら、なかった。つまり満州は、だれのものでもなかった。だから、
日本が満州を侵略したというのは、ウソ。むしろ日本は、満州に鉄道を敷き、満州を開拓して
やったのです」と。

 こんな論理がまかり通るなら、どんな侵略も、正当化されてしまう。明日、北海道の原野に、
北朝鮮軍が侵略してきても、文句は言わないことだ。あるいは日本が、本当にそれほどまでに
善意にあふれた国なら、明日にでも、ゴビ砂漠に、大都市を建設してやってはどうか。

 私たちは日本の中で、日本を論じてはいけない。地球儀を上から見ながら、日本を論じなけ
ればならない。そうでなければ日本は、いつまでたっても、「井の中のかわず(カエル)」で終わ
ってしまう。

 まちがったことをしたら、「まちがっていました」と言うことは、少しも恥ずかしいことではない。
またそう言ったからと言って、日本がダメになるとか、日本を否定するということではない。むし
ろ、まちがいを覆い隠しつつ、いつまでも、「まちがっていなかった」と言い張ることのほうが、よ
ほど恥ずかしいことである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(980)

子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではないか。し
かしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わかりやすく言え
ば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでもない誤解
である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のない子どもが、ふえ
ている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。感情が乏しい子どもとな
ると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達しているかどうか、
判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たとえばペット
が死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、うれしいはずと思うよ
うなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うようなときでも、悲しまなかったりす
る。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそうにはしゃいでいた子ども(小一男児)
がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれしい
ときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした微妙な表情が、
だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、仮面をかぶったりす
るようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているかわからない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親が仕
事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。ただしギャーギ
ャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情とは言わない。今、
その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆる「心
のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考えてよい。幼
児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえば下の子どもが生ま
れたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あなたはお兄(姉)ちゃんでしょ」
式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。大き
い声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話ができれば、よ
し。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、「ただいま!」と言
えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意したのが、
いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」などと質問すると、
ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」などと、心にもないこ
とを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して望ましいことではない。イヤだっ
たら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢を大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよいと
か、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい子どもは、
それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、やがて心が二面
性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親切ややさ
しさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そうでない子どもは、
そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じになる。ふつう子どもは、
抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた人に対して、体の力を抜き、身
を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、体をこわばらせるため、何かしら丸太
を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、好ま
しいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさや様子が残
る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格の核形成が遅
れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望ましい姿
ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、昔から、物知り
の子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いからといって、頭のよい
子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新しい考えに、自分でたどりつ
くことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを見せたら、静かにそれを見守るように
して、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せれ
ばよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであれば、注意する。
とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭から叱るのではな
く、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機応
変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが会話をして
いても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子どもは、「退屈〜
ウ」「早く帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなくな
る。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示すこともあ
る。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの理由や
目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにその根性を感じ
たら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレビゲ
ームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことをする力」
のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させてみてほしい。風
呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気でできれば、かなり忍
耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判断で
きる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるようであれば、親
像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足で蹴ったりする。ち
なみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約20%の子どもは、無関心
であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親の良質な愛情に恵まれた子どもほ
ど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。

+++++++++++++++++++++
 
【あなたの子ども診断】

あなたの子どもを診断してみましょう。
該当するところに(○)をつけ、点数を合計してみてください。

@すなおな感情
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

Aすなおな感情表現
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

B豊かな表情
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

Cゆがみのない心
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

D大きくて、明るい声
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

E自分を飾らない心
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

E迎合しない姿勢
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

F心を開く
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

G年齢にふさわしい人格
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

H考える姿勢
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

I受容的な態度
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

J融通がきく思考
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

K自然な動作
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

L強い意志
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

M忍耐力
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

N親像
(心配だ……0点、ふつうだと思う……1点、まったく心配ない……2点)

+++++++++++++++++++++++

【結果】

(注意)この判定基準は、私が、推定したものです。次回(7月17日)、私の主宰する母親教室
で、調査、集計し、またその結果を報告します。(030716)

10点以下……家庭教育のあり方を、かなり反省したほうがよい。
11〜20点……平均的
21点以上……あなたの子どもの心は、健やかに伸びている。

******************************
平均点は、21・8点でした。
(03年7月17日、年長児、20人の母親の回答より)
******************************
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(981)

子どもの小遣い

 子どもの小遣いについて、聞き取り調査をしてみた。結果、それぞれの家において、まったく
別々ということ。ある程度の定型があるかと思ったが、まったくないことがわかった。

小3女児……お小遣いというのはない。ほしいものは、そのつど、買ってもらう。

小3女児……毎日500〜100円もらう。そのときで、いろいろ。「500円も!」と驚いて見せる
と、「毎日じゃあ、ないけどね」と言って、笑った。

小3女児……誕生日とか、お正月にもらうことはあるが、それ以外は、もらったことがない。「買
って」というと、親が買ってくれる。安いものは、自分のお金で買う。

小3女児……1か月に1000円と決まっている。それ以上に高いものは、お母さんに買っても
らっている。

小3男児……もらってない。ほしいものは、ねだると買ってくれる。

小3男児……わからない。小遣いって、何? お金のこと? お金なら、ときどきもらう。

小3男児……毎日200円くらいかな。もらえるとき、もらえないときがある。

小4女児……1か月2500円と決まっている。

小4女児……学校のテストで、100点を5枚取ると、100円もらえることになっている。

 小遣いの平均額を出そうと思ったが、そんなわけで、平均額は、わからなかった。またこうし
た調査で、平均額を出しても、意味がない。それぞれの家庭で、それぞれの実情にあったやり
方で、考えるしかないようだ。

 ついでに、『小遣い、100倍論』を掲載する(中日新聞掲載済み)。このエッセーは、あちこち
で反響があり、今、多くの親たちに指示されている。

++++++++++++++++++++

子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
(030716)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(982)

【講演会のあとの質問より】

 K市での講演(K市教育委員会)のあと、多くの方から、子育てについての質問をいただきま
した。それについて、私なりの考えを述べさせていただきます。

【Q1】私の子ども(年中児の長男)は、何かにつけて、すぐ泣きます。「貸して」と言って、相手
がすぐ貸してくれなかったりすると、それでも泣きます。どう対処したらよいでしょうか(YS)。
 
【A、はやし浩司より】

 対人関係が、うまく調整できない子どもは、つぎの四つのいずれかの方法で、自己防衛しま
す。@攻撃的になる(ほかの子どもに暴力を振るったり、相手を威圧したりする)。A同情を買
う(わざとメソメソしたりする)。B依存的になる(甘えん坊的になり、何でもすぐ人に頼る)。C
服従的になる(行動が子分的になり、だれかに服従しようとする)。

 これを心理学では、「防衛機制」といいますが、要するに、自分の周囲に、居心地のよい世界
をつくろうとするわけです。

 「すぐ泣く」というのは、この中で、Aの同情を買うに相当します。つまり泣くことで、相手に同
情させ、それによって、自分にとって都合のよいように相手を仕向けるわけです。集団教育の
場でも、何かにつけてすぐメソメソする子どもは珍しくありません。しかしそういうときは、「心の
汗」と思って、しばらく「暖かい無視」をすると、そのまま収まっていきます。

 意味のない「涙」であれば、「暖かい無視」をすることをお勧めします。しかしもちろん、そうで
ないケースもあります。いわゆる欲求不満型の涙もあります。子どもの欲求不満については、
ここに私が以前書いた原稿を、張りつけておきますので、どうか参考にしてください。

++++++++++++++++++++

子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ
 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

@攻撃・暴力タイプ
 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。私が「このグラフは正確でないから、
かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで私に飛びかかってきた小学生(小四
男児)がいた。

あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけて肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を
足げりにした女の子(小五)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振る
う、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考え
る。

A退行・依存タイプ
 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。こ
のタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほ
ど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

B固着・執着タイプ
 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近
多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起
こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切
そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう
言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。子ども
の未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、子ども
は幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足
 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。あ
る子ども(小一男児)はそれまでは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入っ
たということで、別の部屋で寝るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。その
子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子どもなり
に、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と言っ
たが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効
 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよ
い。子どもの欲求不満症状が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの
問題は解決する。

+++++++++++++++++++++++++

【Q1】年中児の男の子です。今、K式の算数教室に通っています。自分でも少し早いかなと思
っていますが、先生は、こうした教育をどう思いますか(YS)。

【A、はやし浩司より】

 幼児教育と早期教育、それに先取り教育の三つは、それぞれ分けて考えます。幼児教育と
いうのは、体系化された教育の中で、幼児期にする教育をいいます。たとえば幼児の発達に
応じた、情操や体操などの教育をいいます。

 早期教育というのは、子どもの方向性をできるだけ早く見極め、その方向性にそって、子ども
自身がもつ才能や能力を、早い時期に伸ばすという教育です。音楽教育や絵画教育の面にお
いて、とくに有効だとされています。

 先取り教育というのは、体系化された教育の中で、たとえば小二でする学習を小一でしてみ
たり、あるいは小一でする学習を、幼稚園でするような教育をいいます。幼稚園でも、今、掛け
算の九九を教えているところは、少なくありません。が、その中でも、とくに能力がすぐれた子ど
もにする教育のことを、英才教育といいますが、ここで大きな問題にぶつかります。こうした早
期教育が、はたして有効かどうかという問題です。

 やり方をまちがえると、子どもにとっては、過負担になり、それがかえって子どもの伸びる芽
を摘んでしまうことになりかねません。

 そこで先取り教育をするにも、子どもの能力を慎重に見極めながら、無理をしないことを大切
にしてください。とくに子どもがオーバーヒートする様子を見せたら、とにかく無理をしないこと。
この時期、一度、勉強嫌いにすると、あとがありません。

 それよりも大切なことは、この時期は、忍耐力を養っておくこと。「いやなことをする力」のこと
を忍耐力といいます。それについての原稿を添付しておきますので、また参考にしてください。

 そしてもし「先取り……」を考えるなら、この時期は、何にもまして「好きにさせる」ことを大切
にします。学習について言えば、「勉強は楽しい」という思いを、じょうずに子どもの中に育てて
いきます。たとえば文字学習にしても、「文字は楽しい」ということを教えていきます。そのため
には、たとえばお母さんが暖かい息を吹きかけながら、本を読んであげるなど。そういう前向き
な思い出が積み重なって、子どもは勉強好きになり、あとは自分で伸びていくようになります。

++++++++++++++++++++

子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?
 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●一〇〇%スポイルされている日本の子ども?
 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポ
イルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君
は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「とき
どきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを
浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の
子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう
言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だ
けはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群
@ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ば
せるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いど
おりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆
の中心にいないと、気がすまない。
Aものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を定
めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。ほ
しいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を楽
しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
Bものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分勝
手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
Cバランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動する
ことができない、など。

●原因は家庭教育に
 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度こ
の時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ド
ラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因がある
からである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱
って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、
それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に
 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん
が捨ててくれる」と。あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お
父さんがいるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だち
の家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れ
ていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子ども
にはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、この
しつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力
 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き
なことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂
場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのお
ばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、
こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれ
るのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる
 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える
力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき
ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの一〇分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋
さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろさ
れると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む
 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。
 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし
知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほ
うがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった
ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さら
に食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の
草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと
をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ
が、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に
 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。@生活感の
ある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうこ
とをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るの
だ」という意識をもたせる。A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。B忍耐力をつ
けさせるため、家事の分担をさせる。C生活のルールを守らせる。D不自由であることが、生
活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、Eバランスのある生活に心がけ
る。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。

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動機づけの四悪

 子どもから学習意欲を奪うものに、@無理、A強制、B条件、C比較の四つがある。これ
を、『動機づけの四悪』という。

 まず@無理。その子どもの能力を超えた無理をすれば、子どもでなくても、学習意欲をなくし
て当然。よくある例が、子どもに難解なワークブックを押しつけ、それで子どもの学習意欲をそ
いでしまうケース。子どもの勉強は、「量」ではなく「密度」。短時間でパッパッとすますようであ
れば、それでよし。……そうであるほうが好ましい。また子どもに自分でさせる勉強は、能力よ
り一ランクさげたレベルでさせるのが、コツ。ワークやドリルなど、半分がお絵描きになってもよ
い。答が合っているかどうかということよりも、「ワークを一冊、やり終えた」という達成感を大切
にする。

 A強制。ある程度の強制は勉強につきものだが、程度を超えると、子どもは勉強嫌いにな
る。時間の強制、量の強制など。こんなことを相談してきた母親がいた。「うちの子は、プリント
を二枚なら、何とかやるのですが、三枚目になると、どうしてもしません。どうしたらいいでしょう
か」と。私は「二枚でやめることです」と答えたが、その通り。このタイプの母親は、仮に子ども
が三枚するようになればなったで、「今度は四枚しなさい」と言うに違いない。子どももそれを知
っている。
 B条件。「この勉強が終わったら、△△を買ってあげる」「一〇〇点を取ったら、お小づかい
を一〇〇円あげる」というのが条件。親は励ましのつもりでそうするが、こういう条件は、子ども
から「勉強は自分のためにするもの」という意識を奪う。そればかりではない。子どもが小さい
うちは、一〇〇円、二〇〇円ですむが、やがてエスカレートして、手に負えなくなる。「(学費の
安い)公立高校へ入ってやったから、バイクを買ってくれ」と、親に請求した子ども(高一男子)
がいた。そうなる。

 最後にC比較。「近所のA君は、もうカタカナが書けるのよ」「お兄ちゃんは、算数が得意なの
に、あなたはダメね」など。こういう比較は、一度クセになると、日常的にするようになるから、
注意する。子どもは、いつも他人の目を気にするようになり、それが子どもから、「私は私。人
は人」というものの考え方を奪う。

 イギリスでは、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』と言う。
子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、親のできることにも限界があるというこ
と。ではどうするか。もう一つイギリスには、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』という格言もある。
つまり子どもに勉強をさせたかったら、勉強は楽しいということだけを教えて、あとは子どもに
任す。たとえば文字。いきなり文字を教えるのではなく、いつも子どもをひざに抱いて、本を読
んであげるなど。そういう経験が、子どもをして、「本は楽しい」「文字はおもしろい」というふうに
思わせるようになる。そしてそういう「思い」が、文字学習の原動力となっていく。子どもの勉強
をみるときは、「何をどの程度できるようになったか」ではなく、「何をどの程度楽しんだか」をみ
るようにする。

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【Q2】反抗期なのでしょうが、いちいち口答えします。親の私のほうがカッとなってしまい、結
局、親子げんかになってしまいます。そういうとき、親として、どのように対応すればよいのでし
ょうか。

【A、はやし浩司より】

 どう対処するかではなく、あなたがどう子どもを超越するかの問題かと思われます。人間に
は、自分と同程度の人間と対立するという習性があります。つまり相手が、自分よりはるかに
高い位置にいるとき、反対に、相手が自分よりはるかに低い位置にいるときは、相手にしませ
ん。子どもを相手にして、本気で叱るというのは、あなた自身が、子どもとそれほど違わないレ
ベルにいるということです。

 言いかえると、自分が相手にする人間を、客観的に評価すれば、自分の位置もわかるという
わけです。

 そこで、あなた自身を冷静に、見つめてみてください。「子どもとけんかになる」ということか
ら、今、あなたの子どもと、ほとんど同等の位置にいるとみて、まちがいないようです。それに
ついて書いた原稿が、つぎの原稿です。少し角度が違うかもしれませんが、読んでいただけれ
ば、うれしいです。

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つまらない人間

 世の中には、つまらない人間がいる。どこがどうつまらないかは書けないが、いる。あなたの
まわりにも、いる。そういうつまらない人間は相手にしない。相手にするということは、あなた自
身も、そのつまらない人間ということ。

人間というのは、自分と同程度の人間を気にする。自分が相手をはるかに超えているときは、
気にしない。たとえば私は、幼稚園児に、「バカ!」と言われても、(当然だが……)、まったく気
にしない。もともと相手にしていないからだ。同じように、暴走族風の若者に、「バカ」と言われ
ても、気にしない。もともと相手にしていないからだ。

 そこであなたが気になる人間を、頭の中で思い浮かべてみるとよい。そしてその人間が、ど
の程度の人間かを、客観的に見つめてみるとよい。つまりそれがあなたの「レベル」ということ
になる。もしそのレベルが高ければ、それでよし。そうでなければ、あなた自身の視点を変えて
みる必要がある。でないと、長い時間をかけて、あなたも、そのつまらない人間になってしまう。

 具体的には、私のばあいは、もともとレベルの高い人間ではないので、「無視する」という方
法で、そういう人間からは遠ざかるようにしている。決して逃げるのではない。相手にしないと
いうことは、自分の心の中に、その人間を置かないということ。そのために無視する。その相手
はもちろんのこと、その相手にかかわるもの、すべてを、だ。ときどき好奇心にかられて、気に
なることはあるが、そういうときでも、あえて無視する。

 一方、世の中には、自分を高めてくれる人間もいる。会うだけで、その人の知性や理性が、
響きとなって伝わってくる人だ。私は幸運にも、今まで、日本でもトップクラスの人や、それに近
い人たちと交際することができた。さらに幸運にも、今でも、そういう人の何人かと、親密に交
際している。私はとても、そういう人たちのレベルではないし、一生、そのレベルに届くことはな
いと思う。しかし努力目標にはなっている。それはたとえて言うなら、山登りのようなものかもし
れない。登れないとわかっていても、その高い山を目標にすることで、自分の意思を高めること
ができる。

 これは人間の話だが、同じように、つまらないものは相手にしない。つまらないことも相手にし
ない。これは自分を高めるとか、低めるとかいうことではない。時間のムダだから、だ。

若いときは無限につづくと思われた時間も、このところ、その限界を強く感ずるようになった。
ただ私のばあい、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。こうして時間の限界を感ずるように
なったのは、満四五歳から四七、八歳にかけてではないかと思う。はっきりとはわからないが、
それまでの私は、実に怠惰(たいだ)な生活をしていた。時間をムダにしていた。今になって、
それが悔やまれる。

 つまらない人間、つまらないものやことを相手にするというのは、それだけ人生の回り道に入
ることを意味する。ゴールが「真理」だとするなら、そのゴールから遠ざかることにもなる。ゴー
ルにたどりつけるという自信は、今のところまったくない。ないが、しかし少しでも近づいてみた
い。だから改めて、ここで自分に言ってきかせる。つまらない人間は相手にしない。無視する。
つまらないものやことは、相手にしない。無視する。……まあ、こうしてあえて自分に言って聞
かせねばならないということは、私も、そのレベルの、つまりはつまらない人間ということになる
のだが……。

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 そこで自分を高めるために、どうするか、ですね。一つの方法として、ただの親ではなく、プロ
の親になるという方法があります。つまり子どもの心理を、高い視点から理解してみます。今、
あなたの子どもは、反抗期(第二反抗期?)ということですから、(まさか第一反抗期ではない
ですよね……)、一つの例として、「内面化」の問題を考えてみます。これがひとつのきっかけと
なって、子育ての奥深さを理解していただけるようになると、うれしいです。つまり、そういう形
で、子どもを超越します。「あなたなんか、私の足元にもおよばないのよ」と、あなたが思うよう
になれば、親子げんかも、自然と消滅するはずです。

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●子どもの内面化

 子どもはその成長過程で、倫理や行動規範を身につける。またそうすることで、社会に適応
しようとする。そういう発達過程を、「内面化」という。体を「外面」というのに対して、心(mind)
を、「内面」という。

 この内面化の中で、子どもは、さまざまな反応を示す。探索、実験、試行、冒険、偶発、努力
など。そしてその結果、落胆、失望、羞恥、歓喜、満足、不快、快感などのさまざまな心理的反
応を示す。私はこうした一連の、子ども特有の反応と結果を、「削り出し」と読んでいる。

 「削り出し」というのは、「子どもは、削られながら、成長する」という意味。たとえば「盗み」にし
ても、ほとんどの子どもは、その成長過程で、一度は盗みを経験する。が、この段階で、盗み
が悪いと決めてかかってはいけない。問題は、子どもが盗みをしたあと、どうそれをおとなたち
が処理するかである。

 大切なことは、盗みが悪いことであることを、子どもの悟らせること。子ども自身が、盗みを悪
いことだと思わせるように仕向けることである。この指導をまちがえると、ここでいう内面化に失
敗する。私は以前、『子どもは削って伸ばす』という格言を考えた。つぎの原稿が、それであ
る。

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●子どもは削って伸ばす

 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもをおさえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。
たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。

 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。

 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。

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 この内面化は、子どもの心の発育には、必要不可欠なものだが、それをコントロールするの
が、倫理や道徳である。しかしそれだけでは足りない。倫理や道徳にせよ、それらは、基本的
信頼関係という、「信頼的基盤」の上になければならない。信仰の世界でいえば、「宗教的基
盤」ということになる。

 ただ私のばあい、宗教や信仰を否定はしていないが、自分の生きザマの中では、宗教的人
生観はあくまでも「参考」でしかない。従って、「信頼的基盤」こそが、倫理や道徳の基盤である
と考える。

 この基盤は、いわば大地のようなもの。その上に、倫理や道徳が載る。そしてそれを道しる
べに、子どもは、そしておとなも、自分の進むべき方向性を見いだす。とくに子どものばあい、
この信頼的基盤がないと、内面化そのものに失敗する。社会に不適応を起こしたり、社会その
ものを拒絶したりするようになる。

 症状としては、暴力的、攻撃的になるタイプと、服従的、従属的になるタイプ。さらに依存的に
なるタイプと、引きこもったりするタイプに分類できる。しかし今、子どもたちの世界で、その内
面化に失敗する子どもが、多い。あまりにも多い。

 その理由の第一は、言うまでもなく、母子関係の不全性である。生後まもなくから、乳児期に
かけて、母親との関係で、信頼関係を結べない、もしくは、結び方を知らないまま、つぎの幼児
期、さらには少年少女期を迎えてしまう。

 このタイプの子どもは、信頼的基盤をもっていないから、あるいはそれが軟弱であるため、そ
の上で、倫理や道徳をうち立てることができない。できないから、内面化しようにも、方向性が
定まらないということになる。

●信頼的基盤

 母親と子どもの関係は、父親と子どもの関係とは、異質のものである。母親にしてみれば、
子どもは、自分の体の一部ということになる。父親にもそれに似た意識が芽生えることはある
が、あくまでも「似たもの」でしかない。

 このことは、子どもの立場で考えてみればわかる。基本的には、父親はいなくても、子どもは
生きていかれる。しかし母親は、乳をもらうという意味で、絶対的な存在である。あのジークム
ント・フロイトも、血統空想と言葉を使って、このことを説明している。つまり父親との関係(血
統)を疑う子どもはいるが、母親との関係を疑う子どもはいない。

 こうした発想は、たとえばカトリック教会などにも、表れている。カトリック教会などでは、イエ
ス・キリストに対して、母、マリアは絶対的な存在だが、そのマリアに比較して、父、ヨセフの影
は、薄い。ヨセフは、あくまでも付随的な立場でしかない。

 なぜ母親と子どもの関係が特別なものになるかは、子どもが誕生したときから、子どもが、大
便や小便と同じような立場で誕生することにある。つまりこの段階から、母親は、子どものすべ
てを受け入れ、許す。

 この「許し、受け入れる」という関係が、実は、信頼関係の基本になる。子どもの側からみれ
ば、絶対的な安心感の中で、すべてをさらけ出すことができる。この相互の関係が、ここでいう
信頼的基盤となる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 おそらくこの原稿を読んでいるのは、若い母親たちか、その近くにいる父親たちである。そこ
であなた自身は、あなたの夫(妻)に対して、すべてをありのままに、安心してさらけ出すことが
できるか。さらにあなたの夫(妻)は、そういうあなたを、全幅に受け入れているかどうかを自問
してみてほしい。

 たとえばいっしょに風呂に入るとき、おしりからポロリと、ウンチのかたまりが落ちることもあ
るだろう。あるいはいっしょに寝ているとき、どちらかが、強烈な臭いのするガスを発射すること
もあるだろう。そういうとき、あなたの夫(妻)は、それを許し、受け入れるかどうか。

 そういうさらけ出しと、それにつづく受け入れが、信頼関係を結ぶ基本となるということにな
る。もしあなたがた夫婦のうち、どちらか一方が、それができないというのであれば、ここでいう
信頼的基盤がないということになる。

 もっとも夫婦のばあいは、最終的には、離婚という方法で、他人にもどることができる。しかし
親子、なかんずく、母親と子どものばあいは、それができない。できないだけに、このプロセス
を誤ると、深刻な症状が、子どもに現れる。またそれだけに、重要な問題ということになる。

 なお、一言付記。

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「しかしね、あなた、新生児や乳幼児に、記
憶はあるの?」と。

 これはとんでもない誤解である。最近の研究によれば、新生児や乳幼児にも、しっかりとした
記憶がある。その記憶の深さと量は、それ以後の子どもやおとなの量とは比較にならないほ
ど、濃密であると考えられる。ただ、こうした記憶は格納されるだけで、取り出しができないとい
うだけ。だから現象としては、記憶が残らないように見えるだけということになる。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。絶対に!

【追記】母親との間で、基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、不幸である。その後
遺症は、さまざまな形で、死ぬまでつづく。ひょっとしたら、今のあなたがそうであるかもしれな
い。しかし問題は、それに失敗したということではなく、失敗したということにすら気づかないま
ま、それに引き回されることである。

 人間には、「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分がある。私であって私で
ある部分は、問題はない。しかし私であって私でない部分は、そうではない。それ自体も問題
だが、ほとんどの人は、私であって私でない部分まで、私だと思いこんでしまう。それが問題で
ある。

 そのことは、子どもを見ているとわかる。

 原因や理由はともかくも、すなおでない子どもというのは、いる。ひねくれた子ども、いじけた
子ども、つっぱった子ども、ひがみやすい子どもなど。そういう子どもは、私は私と思って、そう
しているが、その実、ここでいう「私であって私でない」部分に振り回されているにすぎない。

 子どもだけではない。あなたという「おとな」も、実は、ここでいう「私であって私でない」部分に
操られている。それにまず、気づく。それはある意味で不快なことであり、恐ろしいことかもしれ
ない。しかし勇気を出して、自分をのぞいてみる。

 心のキズ(心的外傷)にせよ、こうした過去と結びついている問題は、簡単には消えない。消
えないが、それが何であるかを知るだけでも、そうした「私であって私でない」部分と、戦うこと
ができる。かく言う私も、おぼろげなら「私」がわかるようになったのは、四〇歳も過ぎてからで
ある。私を知るというのは、そういう意味でも、むずかしい。

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【Q3】年中児の子どもですが、おしゃべりで困っています。幼稚園で何か、トラブルがあると、
相手の子どもの親のところにいって、何でもしゃべってしまいます。「お願いだから余計なことは
言わないで」と言うのですが、効果ありません。家の中のことや、家庭であったことなども、しゃ
べってしまうので、困っています(RY)。

【A、はやし浩司より】

 英語の格言にも、『子どもは家の中のことを、通りで話す』というのがあります。子どもの口に
フタをすることはできません。子どもというのは、そういうものです。だから子どもがいるというこ
とは、親もまた、それだけ気をひきしめなければなりません。もし、あなたが家庭の中のことを
話されて、恥ずかしいと思うなら、です。

 私もいろいろな経験があります。「きのう、パパとママが、裸で、プロレスごっこをしていた」と
話してくれた子ども(幼稚園児)がいました。「パパが、拾ったお金で、カメラを買った」と話してく
れた子ども(幼稚園児)もいました。

 で、相談の件ですが、あえて言うなら、自律心(自分で自分を律する心)の問題と、忠誠心の
問題ということになります。子どもの自律心と、忠誠心は、乳幼児期に形成される、基本的信
頼関係によって決まります。とくに大切なのが、母子の間の信頼関係です。この信頼関係がし
っかりとできている子どもは、自律心や忠誠心もしっかりとします。してよいことと、してはいけ
ないことを、自分で判断し、その判断に従って行動できるようになります。

 そこで一度疑ってみることは、あなたと子どもの間に、その信頼関係ができているかどうかと
いうことです。あなたの子どもは、あなたに対して、全幅に心を開いて、あなたを信頼している
でしょうか。あなたも、あなたの子どもに対して、全幅に心を開いて、子どもを信頼しているでし
ょうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、子どもの自律心や忠誠心を叱る前に、信頼
関係の再構築を考えます。

 ……といっても、これは簡単な問題ではありません。信頼関係というのはそういうもので、おと
なでも数年単位の時間がかかります。親子とて例外ではありません。ですから、この問題は、
この問題として、「子どもの口は軽い」という前提で、各論的に対処するしかないと思われます。

 つぎの原稿が、その一つです。参考にしてくだされば、うれしいです。

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親と先生の信頼関係が壊れるとき 

●先生の悪口はタブー
 子どもに「内緒よ」「先生には話してはダメよ」と言うのは、「先生に話しなさい」と言うのと同
じ。子どもは先生の前では、絶対に隠しごとができない。英語の格言にも、『子どもは家の中の
ことを、通りで話す』というのがある。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。だいた
いにおいて、親が子どもと接する時間よりも、先生が子どもと接する時間のほうが長い。だか
ら、子どもの前では、学校の批判や先生の悪口は、タブー中のタブー。言えば言ったで、必ず
それは先生に伝わる。それだけではない。以後、子どもは先生の指導に従わなくなる。

●先生とて生身の人間
 ……というようなことは、以前どこかの本にも書いた。ここではその次を書く。一度、親と教師
の信頼関係が崩れると、先生自身は、急速にやる気をなくす。一般の人は学校の先生を、神
様か牧師のように思っているかもしれない。が、先生とて生身の人間。やる気をなくしたら、そ
の影響は、必ず子どもに及ぶ。教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでも手をかけら
れる。しかし手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。それこそプリント学習だけですまそうと思え
ば、それもできる。プリント学習ほど、教える者にとって楽な教育はない。ここが教育のこわい
ところだが、親にはそれがわからない。一方で先生の悪口を言いながら、「うちの子のめんどう
を、しっかりみろ」は、ない。

 たとえばこんなことを言う子ども(小二男児)がいた。「三年になっても、今の先生のままだっ
たら、校長先生に言って、先生を変えてもらうって、ママが言っていた」と。私が「どうして?」と
聞くと、「だって今の先生は、教え方がヘタクソだもん」と。もしあなたが先生で、子どもがそう話
しているのを聞いたら、どう感ずるだろうか。あなたはそれでも、怒りや悔しさを乗り越えて、教
育に専念できるだろうか。

●先生との信頼関係が子どもを伸ばす
 日本では、勉強を教えるのが教育ということになっている。どこかに「学歴」を意識したもの
だ。が、大切なのは、人間関係だ。この人間関係こそが、真の教育なのだ。J君は、小学生の
とき、ブラスバンド部に入り、そこで指導をしてくれた先生から、大きな影響を受けた。E君は、
中学生のとき、ペットボトルで二段式のロケットを作って、市長賞を受賞した。やはりそのとき
指導してくれた先生から、大きな影響を受けた。J君は、高校生になったとき、ある電気メーカ
ーの主催する作曲コンクールで全国大会に出場したし、E君は今、宇宙工学をめざして、今、
その講座のある大学に通っている。もしJ君やE君が、これらのよい先生にめぐりあわなけれ
ば、今の彼らはない。教育というのは、そういうものだ。では、どうするか。

●「よい先生」をクチグセに!
 子どもの前では、「あなたの先生はすばらしい」「よい先生だ」だけを繰り返す。子どもが悪口
を言っても、「それはあなたたちが悪いからでしょう」とたしなめる。そういう親の姿勢が先生に
伝わったとき、先生もやる気を出す。信頼には信頼でこたえようとする。多少の苦労ならいとわ
なくなる。仮に先生との間で何か問題が起きたとしても、それは子どもとは関係のない世界で、
子どもの知らないところで処理する。子どもに相談するのもタブー。損か得かという言い方はあ
まり好きではないが、しかしそのほうが子どもにとって得なことは、言うまでもない。

+++++++++++++++++++++++++

 ただ心配なのは、多弁性のある子どものケースです。言ってよいことと、悪いことの判断がで
きず、何でもペラペラしゃべってしまう子どもです。知恵の発達が遅れがちの子どもや、多動性
のある子どもによく見られる症状です。

 こういうケースでは、何度もたしなめがら、時期を待ちます。「時期」というのは、小学三、四年
生を境に、急速に自己意識が育ってきますから、その時期をうまくとらえて、よい方向に、子ど
もをもっていきます。

 自己意識というのは、「自分を自分で客観的にみる意識」のことと考えるとわかりやすいでし
ょう。そういう意識が育ってくると、「そういうことをすると、損をする」「みなが迷惑する」というこ
とが、客観的にわかるようになります。

 多いのは、それまでに、強く叱ったり、威圧したり、ときには暴力を加えたりして、翔嬢をこじ
らせてしまうケースです。症状がこじれると、その分、立ちなおりが遅れますから、注意してくだ
さい。

+++++++++++++++++++++++++

【Q4】私(母親)が、家計を支えるため、仕事に出ることになりました。子どもがまだ2歳と1歳
なので、このまま家をあけるようになって、よいものかどうか悩んでいます。子どもと接する時
間が少なくなりますが、とくに注意したらよいことはどんなことでしょうか。私が仕事をしている
間、私の父と母が、子どものめんどうをみてくれることになっています。

【A、はやし浩司より】
 親子のふれあいは、量ではなく、質の問題です。量が多いからよいということにもなりませ
ん。また少ないから、心配ということにもなりません。以前書いた、二つの原稿を、どうか参考
にしてください。

+++++++++++++++++++++++

●愛情は、量ではなく、質

 スキンシップについて、どの程度が適量なのかという具体的な調査はない。ないが、全体とし
てみると、日本人は欧米の人とくらべても、極端に少ない。親子のみならず、夫婦、友人の間
でも少ない。日本人は肌を合わせるということについて、独特の文化をもっていて、それがこう
した違いを生みだしたとも言える。

 ただこういうことは言える。スキンシップは量ではなく、質の問題である、と。こんなことがあっ
た。その子ども(年長男児)の家庭は、母親の言葉を借りるなら、「擬似母子家庭」。父親は仕
事が忙しく、子どもと接する時間がほとんどなかった。が、その子どもには、母子家庭の子ども
に見られるような心のゆがみがほとんどなかった。で、ある日、私は母親にその秘訣を聞いて
みた。すると母親はこう教えてくれた。「夫は日曜日になると、子どもをいつも抱いています。ま
たたまに朝や夜、顔をあわせるときがあると、夫は子どもを腕に寄せ、力いっぱい抱いていま
す」と。

 もちろんベタベタのスキンシップがよいわけではない。ときどき一日中ペットの犬を胸に抱い
ている人を見かける。あのタイプの人は犬をかわいがっているというより、自分自身の情緒的
欠陥を「抱く」という行為で補っているに過ぎない。こういうのを代償的行為というが、子どもの
爪かみ、指しゃぶりと同じに考えてよい。もっとも相手が犬というペットなら、それほど弊害はな
いが、子どもだと、その弊害は子どもに表れる。精神や情緒の発育そのものが遅れることもあ
る。

 子どもをどの程度抱けばよいかという質問はよくある。しかしここにも書いたように、スキンシ
ップは質の問題。抱く側が、「愛していますよ」「安心していいのよ」という明確な意思をもって抱
くようにすればよい。またそういう意思を表示するためのスキンシップであれば、回数は多くて
もかまわない。

 なおこのスキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。「人知を超えた」というのも、少
しおおげさに聞こえるかもしれないが、私はその不思議な力に驚かされることがしばしばある。
そんなことも考えながら、子どもへのスキンシップを考えるとよい。

+++++++++++++++++++++++

●ある母親の相談
 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかなくて、
困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが寝てから、
仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少ないか
らだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「うちは
疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子どもには、心
のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞くと、こう話してく
れた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。そして休
みの日などは、いつもベタベタしています」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的な安
心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだかないとい
う意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ体を起こし
て逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを見せて、抱っこしよ
うとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く
 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かもしれな
いが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の関係を思い
浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開きあっていると
きは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないときは、男の側からみると、
何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたいへん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベッタリと親
に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓の鼓動のリズムま
で同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感に包まれていると考えて
よい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていくというの
であれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、子どもが心を
開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのではない。父親のほうに
ある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。もっとはっきり言えば、父
親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだけ。

●原因は父親の幼児期に
 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。しか
し一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、父親自身
が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。そういう意味
で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケースは、その親の親
が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にまでなっ
た人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が一番、ついで
父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口答えするなどという
ことは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということなどという
ことは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」という意味すら
理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なものの考え方にどっぷ
りとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要でではないでしょうか」など
と、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」を考
えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権威を認
めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は家事はもちろん
のこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子どもの運動会や遊戯会、さら
には父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏の体にしみこんだ「質」のよう
なものだった。「父親がそんなことするものではない」という意識があったのかもしれない。い
や、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の中になかった。

●親像がない?
 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親とみ
てよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の親たち
は、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てなどかまってい
るヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、親像がないため、どうし
ても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形で親像が入っている親は、これ
また自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自身が、
子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここに書いたように、
心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かって」とか、「私は親だ」
という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざしてしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもってい
る土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では明日か
ら、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。私もその母親
と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろうな」と思った。ただ
最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話をしてください」と。

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 お子さんは2歳のお子さんについては、人見知りの時期も過ぎているので、心配はないと思
います。しかし、1歳のお子さんについては、私はまだ、母親の温もりが重要な時期だと思いま
すので、働きに行くにしても、慎重にしたらよいかと思います。WHOも認めているように、満2
歳までは、親が、親の手で子どもを育てるのが望ましいことは、言うまでもありません。

 そこでどうしても働きに行くということであれば、子どもの側からみて、絶対的な安心感を覚え
られるような環境づくりを大切にします。「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味で
す。安定した、穏やかな家庭環境を何よりも大切にします。あなたの夫や、両親の理解が、不
可欠なことは言うまでもありません。コツは、「母親が急にいなくなった」というような不安感を、
子どもに与えないようにすることです。

 子どもが不安にならなければよいのですが、無理をすれば、母子分離不安になったり、それ
が原因で、将来にわたって、「基底不安」を、子どもが覚えるようになるかもしれません。そうい
う心配はあります。(基底不安の状態になると、生きザマのあらゆる部分で、不安を覚えるよう
になります。何をしても、何をしていても、不安、という状態です。それこそ、せっかくの休日に、
旅行に行っても、その旅行先で、休み明けの仕事のことを、不安に思ったりする、など。そうい
う人は、多いですよ。)

 これ以上のことは私には言えませんので、ご家族の方と、よく話しあってみてください。

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【Q5】子ども(五歳女児)のひとり立ちで悩んでいます。親として、どの程度までひとり遊びを認
めるかということです。家の近くには、道路や線路があります。友だちが、私の家にくるときは、
よいのですが、ひとりでどこかへ遊びに行ったりすると、心配です。先日は、高校生の男の子
と、かくれんぼしてきたと言いました。子どもどうしの遊びを、どこまで認めたらよいのでしょうか
(SS)。

【A、はやし浩司より】

 子どもが大きくなるにつれて、親や家庭の役割も、変わってきます。それについて書いたの
が、つぎの原稿です。まず、これを読んでくだされば、うれしいです。

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●SSさんへ

 五歳という年齢は、何かにつけて、危険な年齢であることは、各方面で、よく指摘されます。こ
の時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたり、冒険心や探究心、さらに好奇心も旺
盛になります。しかしその一方で、警戒心がまだじゅうぶん育っていず、自己意識も未熟なた
め、事故や、交通事故にもあいやすくなります。一番、目の離せない時期と考えてください。

 近くに道路や線路があるなら、注意してあげてください。また高校生の男の子と、かくれんぼ
してきたということですが、何かしら私は、危険なものを感じます。これからはそういうことがな
いよう、親として、しっかりと子どもを監督してください。

 その上で、子どもどうしの交際ですが、この時期は、まず親どうしの交際があって、その庇護
(ひご)のもとで、子どもどうしが遊ぶというのが、自然な形です。見知らぬ親の家に、子ども
が、勝手に遊びに行くということは、好ましくありません。当然のことながら、一度、相手の親の
ところに行き、どんな様子で遊んでいるか、うかがってみてください。これは親として、当然の義
務です。そしてもしその人が好ましい人なら、あなたとその親が、友だちになるつもりで、交際
を始めます。

 反対に、どこかの子どもが、あなたの家に遊びにきたときも、同じです。その子どもが長く遊
んでいるようなら、一言、相手の親に、電話を入れるのも、エチケットかと思います。相手の親
の了解もない状態で、あるいは相手の親が知らない状態で、見知らぬ子どもを家に入れるとい
うことは、いろいろな意味で危険なことです。何かと誤解されますし、事故があったときなど、そ
の責任を問われます。(ふつうは、入れてはいけません。)「あなたのお母さんが、いいと言って
いないなら、来てはだめですよ」と、その子どもを追いかえしてください。日本ではこういうことに
甘いですが、アメリカなどでは、絶対に考えられない行為です。

 小学生くらいになり、学校という場で知りあった友だちと、いっしょに遊ぶというのなら、話は
別です。しかしそれでも、こうした行為は、慎重になさってください。いわんやまだ五歳(年長児)
ということですから、さらに慎重になってください。

 さてこれからのことですが、少し話がそれるかもしれませんが、以前、こんな原稿を書きまし
たので、参考にしてください。子どもの世界を考える上で、何かのヒントになると思います。

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●家庭は心いやす場所

 子どもの世界は、@家庭を中心とする第一世界、A園や学校を中心とする第二世界、そして
B友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世界を中
心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)

 第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭
は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならな
い。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第
三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。その結果、子どもは独特の症状を示すよう
になる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安として……。)

(第一段階)親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠
す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズ
してはっきりしない」とかいうような様子になる。

(第二段階)帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たとえば園
や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつ
も緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に自分の部屋に
引きこもるような様子を見せる。

(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだ
けもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にか
なったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、など。

 最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、
子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親がますます無
理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重く
なる。

 要はこうならないように、@家庭は心をいやす場であることを大切にし、A子ども自身の「逃
げ場」を大切にする。ここでいう逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになる
が、その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はそ
の逃げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけな
い。子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心
を守る。

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 子どもに判断力が育ってくると、行動半径もしっかりしてきます。一つのハウス・ルールとし
て、外出するときは、必ず行き先を告げてから行くと決めておくとよいでしょう。

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【Q6】上の子ども(小四女児)が、たいへん意地っ張りで困っています。とくに母親の私に対し
てです。このところ少しずつなおってきてはいますが、少し心配です。どう考えたらよいでしょう
か(MK)。

【A、はやし浩司より】

 「がんこ」と、「意地」は、分けて考えます。がんこというのは、理由や意味もなく、かたくなに自
分のカラにこもることをいいます。たとえば「同じ青いズボンでないと、学校へ行かない」とがん
ばるなど。

 一方、意地というのは、自己主張を貫くための、強い意思的行動をいいます。それについて
以前、書いたのが、つぎの原稿です。何かの本(「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社))
のために書いた原稿です。

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●根性のある子ども
 
 自分の意思を貫こうとする強い自我を、根性という。この根性さえあれば、この世の中、何と
かなる。反対にこの根性がないと、せっかくよい才能や頭脳をもっていても、ナヨナヨとした人
生観の中で、社会に埋もれてしまう。

 ある男の子(年長児)は、レストランで、「もう一枚、ピザを食べる」と言い出した。そこで母親
が、「お兄ちゃんと半分ずつにしなさい」と言うと、「どうしても一枚食べる」と。母親はあきらめ
て、もう一枚注文したが、その子どもは、ヒーヒー言いながら食べたという。あとで母親が、「お
となでも二枚はたいへんなのに」と笑っていた。

 またある幼稚園で先生が一人の男の子(年中児)に、「あんたなんか、もう、おうちに帰りなさ
い!」と言ったときのこと。先生は軽いおどしのつもりでそう言っただけなのだが、その子ども
は先生の目を盗んで教室を抜け出し、家まで歩いて帰ってしまった。先生も、まさか本当に帰
るとは思っていなかった。母親もまた、「おとなの足で歩いても、一時間はかかるのに」と笑って
いた。こういう子どもを、根性のある子どもという。

 その自我。育てる、育てないという視点ではなく、引き出す、つぶすという視点で考える。つま
りもともとどんな子どもにも、自我は平等に備わっているとみる。それは庭にたむろするスズメ
のようなものだ。あのスズメたちは、犬の目を盗んでは、ドッグフードをかすめ取っていく。そう
いうたくましさが人間にもあったからこそ、私たちは、何十万年もの長い年月を、生きのびるこ
とができた。

 が、多くの親たちは、その自我をつぶしてしまう。過干渉や過関心、威圧的な子育てや親の
完ぺき主義、さらには親の情緒不安が、子どもの自我をつぶす。親が設計図をつくり、その設
計図にあてはめるのも、まずい。子どもは小さくなり、その小さくなった分だけ、自我をそがれ
る。

 反対に自我を引き出すためには、まず子どもは、あるがままを認める。そしてあるがままを
受け入れる。できがよくても、悪くても、「これがうちの子だ」と納得する。もっとはっきり言えば、
あ・き・ら・め・る。一見いいかげんな子育てに見えるかもしれないが、子どもは、そのいいかげ
んな部分で、羽を伸ばす。自分の自我を引き出す。

 ただしここでいう自我と、がんこは区別する。自分のカラに閉じこもり、かたくなな様子になる
のは、がんこという。たとえばある男の子(年長児)は、幼稚園では同じ席でないと、絶対に座
らなかった。また別の男の子(年長児)は、二年間、ただの一度もお迎えにくる先生に、あいさ
つをしなかった。そういうのは、がんこという。

 また自我は、わがままとも区別する。「この前、お兄ちゃんは、○○を買ってもらったのに、ど
うしてぼくには買ってくれないのか」と、主張するのは自我。しかし理由もなく、「あれ買って!」
「これ買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。ふつう幼児のばあい、わがままは
無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、誰も相手にしませんよ」という姿勢を貫
く。

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 この原稿の中で、「自我」について書きましたが、簡単に言えば、「私は私」という意識のこと
です。もう一つ原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか参考にしてください。

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●フロイトの自我論

 フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口
にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこ
る)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえ
ばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分
からない子どもといった感じになる。

 その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から
考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、ある
べき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。反対に、威圧的な過干渉(親
の価値感を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子どもを当てはめようとする)、過関
心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子
どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがた
いへんむずかしい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。特に乳
幼児から満四−五歳にかけての時期が重要である。

 人間は、ほかの動物と同様、数十万年というながい年月を、こうして生き延びてきた。その課
程の中でも、むずかしい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本
質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思う方がおかし
い。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育
ての原点はここにある。

+++++++++++++++++++++++++

 MKさんのお子さんが、どのような状態なのか、いただいた質問だけでは、よくわかりませ
ん。しかしここに書いたような、「自我」の表れであるなら、それはそれとして、「ああ、うちの子
はたくましく育っている」と思いなおしてみることも、大切ではないでしょうか。

 またこの時期(小2から、小4)にかけては、軽い反抗期に入ることが知られています。この時
期の子どもは、幼児期と少女期の間を、行ったりきたりしながら、情緒的にも不安定になる時
期です(=心が緊張状態になるときです。)。ときに幼児のときのように甘えてみたり、反対に、
子ども扱いをされると怒ってみせたり。さらに反対に、おとなぶってみたりするなど。

 「このところ少しずつなおってきてはいますが……」ということですので、ここに書いたことを参
考に、今しばらく、様子をみては、いかがでしょうか。

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【Q7】二人の子ども(上が年長男児、下が年少女児)の、こづかいのことです。近所に共働き
の家の子どもがいて、毎日、100〜200円の小づかいをもらっています。うちでは、小学3年
生くらいになったら、あげようと考えていますが、どうしたらよいでしょうか。自分の家庭だけで、
子育てをしようとしても、まわりが変わらないとできない面もあります。どのようにしたらよいでし
ょうか(YS)。

【A、はやし浩司より】

 小づかいが悪いのではありません。お金でものを買い、それで自分の欲望を満足させるとい
う、その方法に、注意したらよいと、私は講演で話しました。世界的にみても、日本人ほど、お
金でものごとを解決しようと考える国民は、いないのではないでしょうか。今、私の家には、オ
ーストラリア人夫婦が、ホームステイしていますが、彼らの生活を見ていると、実に質素である
ことがわかります。(驚くほど、質素ですが、「驚く」というのは、そのまま、私と彼らの生活の質
の違いをいうわけですね。)

 持論のひとつである、「小づかい100倍論」(中日新聞掲載済み)を、ここに添付しておきま
す。どうか、参考にしてください。もともとこの原稿は、「子どものゲーム」について相談を受けた
とき書いたものです。それについての原稿も、ここに添付しておきます。

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●小づかい一〇〇倍論

子どもの金銭感覚

子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

++++++++++++++++++++++++

●ハングリー精神を大切に

 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす
ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい
かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習
量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ
ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ
ど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ
せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの
が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと
である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学
生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、
一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩
んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って
あげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日
本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本
人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい
る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の
パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ
りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき
た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ
の親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ
け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ
にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ
とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全
体のリズムの中で考えるようにする。

+++++++++++++++++++++

●それでも、ゲームを買ってあげたい、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう
すればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。
そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき
どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは
パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、
パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ
が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ
イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。

+++++++++++++++++++++++++

YSさんへ、

 ついでに、子どもへの小づかいの実情についても、調べてみました。浜松市内の小学生に聞
いてみたものです(03年7月調査)。で、わかったことは、どの家も、バラバラで、定型がないと
いうことです。参考にしてください。

+++++++++++++++++++++++++

小3女児……お小遣いというのはない。ほしいものは、そのつど、買ってもらう。

小3女児……毎日500〜100円もらう。そのときで、いろいろ。「500円も!」と驚いて見せる
と、「毎日じゃあ、ないけどね」と言って、笑った。

小3女児……誕生日とか、お正月にもらうことはあるが、それ以外は、もらったことがない。「買
って」というと、親が買ってくれる。安いものは、自分のお金で買う。

小3女児……1か月に1000円と決まっている。それ以上に高いものは、お母さんに買っても
らっている。

小3男児……もらってない。ほしいものは、ねだると買ってくれる。

小3男児……わからない。小遣いって、何? お金のこと? お金なら、ときどきもらう。

小3男児……毎日200円くらいかな。もらえるとき、もらえないときがある。

小4女児……1か月2500円と決まっている。

小4女児……学校のテストで、100点を5枚取ると、100円もらえることになっている。

+++++++++++++++++++++++++

 あなたから見て、どうも心配……という友だちとつきあい始めたときの鉄則は、ただ一つ。
『友を責めるな、行為を責めよ』です。イギリスの教育格言です。

 これはどんなばあいも、友だちの名前を出してはいけないということ。「○○君は、悪い子だ
から、遊んではダメ」とです。こういうときは、その子どもの行為の、どこがどう悪いかだけを指
摘して、それで終わります。「買い食いすることは悪いこと」「お母さんの了解なしで、アイスを食
べることは悪いこと」とです。

 あとは子ども自身が判断します。こういうケースで、友だちの名前を出すと、「友を取るか、親
を取るか」、その択一を迫ることになります。子どもが、親を取ればよいのですが、そうでないと
きは、親子の間に、深刻なキレツを入れることになります。この格言は、思春期の子どもに、と
くに大切な格言ですから、覚えておかれるとよいと思います。

+++++++++++++++++++++++++

【Q8】私は毎日、子どもを叱っています。本当に叱ることは、悪いことなのでしょうか。叱らなけ
れば、子どもは、グータラな人間になってしまうと思います。叱られなかったことで、立派なおと
なになった人は、いるのでしょうか(KM)。

【A、はやし浩司より】

 叱ることが悪いとは、私は一言も言っていないのですが……? しかし私のばあい、子ども
(生徒も)を叱るとき、いつも、「自分なら、できるのだろうか?」と自問します。あるいは叱るよう
な場面になったとき、「原因は、子どもではなく、私にあるのではないか?」と、自問します。

 KMさんは、「グータラ」という言葉と、「立派」という言葉を使っておられますが、そういう視点
で、子どもをみないほうがよいのではないかと思います。人間みな、グータラだし、一方、立派
な人間などいないのです。(立派というときは、日本では、地位や肩書きのある人をいいます。
英語国では、「尊敬される人」という言い方をします。)

 むしろ私は、KMさんの、気負い先行型の子育てが気になります。きっとKMさん自身も、親
に叱られてばかりいたのではないでしょうか(?) もしそうなら、あなた自身も、心のどこかでさ
みしい思いをなさったはずです。叱るにしても、「叱ればよい」という叱り方ではなく、「ここ一
番!」というポイントで叱るように心がけてみてください。

 で、KMさんも、もう少し肩の力を抜いて、子育てを楽しむ、あるいは子どもの友として、子ど
もの横をいっしょに歩いてみる、そんな姿勢が大切ではないかと思います。「叱られなかったこ
とで、立派なおとなになった人は、いるのでしょうか」というご意見ですが、親に叱られすぎて、
ダメになった人は、いくらでもいます。どうか、ご注意ください。

 気負い型子育てについて書いた原稿(「ファミリス」掲載済み)を、ここに添付しておきます。決
して、KMさんが、そうだというのではありません。あくまでも、一つの参考として考えていただけ
れば、うれしいです。

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あなたは気負いママ?

●気負いが強いと子育てで失敗しやすい
 「いい親子関係をつくらねばならない」「いい家庭をつくらねばならない」と、不幸にして不幸な
家庭に育った人ほど、その気負いが強い。しかしその気負いが強ければ強いほど、親も疲れ
るが子どもも疲れる。そのため結局は、子育てで失敗しやすい……。

●子育ては本能ではなく学習
 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。たとえば一般論として、人工飼育され
た動物は、自分では子育てができない。「子育ての情報」、つまり「親像」が、脳にインプットさ
れていないからである。人間とて例外ではない。「親に育てられた」という経験があってはじめ
て、自分も親になったとき子育てができる。こんな例がある。

●娘をどの程度抱けばいいのか?
一人の父親がこんな相談をしてきた。娘を抱いても、どの程度、どのように抱けばよいのか、
それがわからない、と。その人は「抱きグセがつくのでは……」と心配していたが、彼は、彼の
父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまりその人は父親というものがどうい
うものなのか、それがわかっていなかった。しかし問題はこのことではない。

●だれしも心にキズをもっている
 だれしも、と言うより、愛情豊かな家庭で、何不自由なく育った人のほうが少ない。そんなわ
けで多かれ少なかれ、だれしも、何らかのキズをもっている。問題は、そういうキズがあること
ではなく、そのキズに気づかないまま、それに振りまわされることである。よく知られた例として
は、子どもを虐待する親がいる。

このタイプの親というのは、その親自身も子どものころ、親に虐待されたという経験をもつこと
が多い。いや、かく言う私も団塊の世代で、貧困と混乱の中で幼児期を過ごしている。親たちも
食べていくだけで精一杯。いつもどこかで家庭的な温もりに飢えていた。そのためか今でも、
「家庭」への思いは人一倍強い。

が、悲しいことに、頭の中で想像するだけで、温かい家庭というのがどういうものか、本当のと
ころはわかっていない。だから自分の息子たちを育てながらも、いつもどこかでとまどってい
た。たとえば子どもたちに何かをしてやるたびに、よく心のどこかで、「しすぎたのではないか」
と後悔したり、「してやった」と恩着せがましく思ったりするなど、どこかチグハグなところがあっ
た。

 ただ人間のばあいは、たとえ不幸な家庭で育ったとしても、近くの人たちの子育てを見たり、
あるいは本や映画の中で擬似体験をすることで、自分の中に親像をつくることができる。だか
ら不幸な家庭に育ったからといって、必ずしも不幸になるというわけではない。

●つぎの世代に不幸を伝えない
 子どもに子どもの育て方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに子ども
を育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。これは子育ての基本だが、しかし
気負うことはない。あなたはあなただし、あなたの子どももいつかあなたを理解するようにな
る。そこで大切なことは、たとえあなたの過去が不幸なものであったとしても、それはそれとして
あなたの代で切り離し、つぎの世代にそれを伝えてはいけないということ。その努力だけは忘
れてはならない。

●肩の力を抜く
このテストで高得点だった人は、一度自分の過去を冷静に見つめてみるとよい。そして心のど
こかに何かわだかまりがあるなら、それが何であるかを知る。親とけんかばかりしていたとか、
家が貧しかったとか、そういうことでもわだかまりになることがある。この問題だけはそのわだ
かまりが何であるかがわかるだけでも、半分は解決したとみる。そのあと少し時間がかかるか
もしれないが、それで解決する。

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 これも、今のKMさんに関係あるとは思いませんが、以前、SNさんという方から相談をもらっ
たとき、書いた返事を思い出しましたので、ここに添付しておきます。あくまでも参考ということ
で、一度、読んでいただければ、うれしいです。

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SN様へ

 自分の過去をみることは、こわいですね。本当にこわい。自分という人間がわかればわかる
ほど、その周囲のことまで、わかってしまう。「親を恨んでしまいそう」というようなことが書いて
ありましたが、そこまで進む人も少なくありません。

 若いころ、ブラジルのリオデジャネイロへ行ったことがあります。空港から海外沿いにあるリ
オへ向かう途中、はげ山の中に、いわゆる貧民部落が見えるところがあります。ブラジルは、
貧しい国ですが、そのあたりの人たちは、本当に貧しい。しかし私が、直接、そういう人たちを
見たのは、観光で、どこかの丘に登ったときのことです。四、五人の子どもたちが、どこからと
なく現れました。気がついたら、そこにいたという感じです。(印象に残っているのは、バスから
おりたとき、土手の向こうから、カモシカのように軽い足取りで、ヒョイヒョイと現れたことです。)

 その子どもたちの貧しさといったら、ありませんでした。どこがどうというより、私はそういう子
どもを見ながら、「親は、どうして子どもなんか、つくったのだろう」と思いました。「子どもを育て
る力がないなら、子どもなど、つくるべきではない」と。

 しかしそれは、そのまま私の問題であることに気づきました。私も、戦後直後生まれの、これ
またひどいときに生まれました。しかし「ひどいときだった」とわかったのは、ずっとおとなになっ
てからで、私自身は、まったくそうは思っていませんでした。(当然ですが……。)「ひどい」と
か、「ひどくないか」とかは、比較してみて、はじめてわかることなのですね。

 私もある時期、親をうらみました。とくに私の親は、ことあるごとに、「産んでやった」「育ててや
った」「大学を出してやった」と、私に言いました。たしかにそうかもしれませんが、そういう言葉
の一つ、一つが、私には、たいへんな苦痛でした。で、ある日、とうとう爆発。私が高校生のと
きだったと思います。「いつ、だれが産んでくれと、あんたに頼んだ!」と、母に叫んでしまいま
した。

 で、今から考えてみると、子どもの心を貧しくさせるのは、金銭的な貧しさではなく、心の貧し
さなのですね。私たちの世代は、みんな貧乏でしたが、貧乏を貧乏と思ったことはありませんで
した。靴といっても、ゴム靴。靴下など、はいたことがありません。ですから歩くたびに、キュッキ
ュッと音がしました。蛍光灯など、まだない時代でした。ですから近所の家に、それがついたと
き、みなで、見に行ったこともあります。私が小学三年生のときです。

 貧しいというのは、子どものばあい、ここに書いたように、心の貧しさを言います。……と考え
ていくと、ブラジルで見た、あの子どもたちは、本当に貧しかったのかどうかということになる
と、本当のところは、わからないということになります。身なりこそ、貧しそうでしたが、見た感じ
は、本当に楽しそうでした。

 一方、この日本は、どうかということになります。ものはあふれ、子どもたちは、恵まれた生活
をしています。で、その分、心も豊かになったかどうかということになると、どうもそうではないよ
うな気がします。どこかやるべきことをやらないで、反対に、しなくてもよいようなことばかり、一
生懸命している? そんな感じがします。

 さて、疑問に思っておられることについて、順に考えていきたいと思います。

 乳児期に、全幅の安心感、全幅の信頼関係、全幅の愛情を受けられなかった子どもは、い
わゆる「さらけ出し」ができなくなります。「さらけ出し」というのは、あるがままの自分を、あるが
ままにさらけ出すということです。そのさらけ出しをしても、親や家族は、全幅に受け止めてくれ
る。そういう安心感を、「絶対的安心感」といいます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかな
い」という意味です。

 この時期に、親の冷淡、育児拒否、拒否的態度、きびしいしつけなどがあると、子どもは、そ
の「さらけ出し」ができなくなります。いわゆる一歩、退いた形になるわけです。ばあいによって
は、仮面をかぶったり、さらにひどくなると、心と表情を遊離させたりすうようになります。おとな
の世界では、こういうことはよくあります。あって当たり前ですが、家族の世界では、本来、こう
いうことは、絶対に、あってはいけません。

 おならをする。ゲボをはく。ウンチをもらす。小便をたれる。オナラをする。ぞんざいな態度を
する。わがままを言う。悪態をつく。……いろいろありますが、要するに、そういうことが、「一定
のおおらかな愛情」の中で、処理されなければなりません。

 これは教育の場でも、同じです。よく子どもたちは私に、「クソジジイ!」と言います。悪い言葉
を容認せよというわけではなりませんが、そういう言葉が使えないほどまでに、子どもを、抑え
つけてはいけないということです。言いたいことを言わせながら、したいことをさせながら、しか
し軽いユーモアで、サラリとかわす。そういう技術も必要だということです。

 また夫婦も、そうです。私は結婚以来、ずっと、ダブルのふとんでいっしょに、寝ています。
で、ワイフも、私も、よく、フトンの中で、腸内ガスを発射します。若いころは、そういうとき、よく
ワイフを、足で蹴っ飛ばして、外へ追い出したりしました。「お前だろ?」と言うと、「あんたでし
ょ!」と、言いかえしたりしたからです。

 しかし齢をとると、そういうこともなくなりました。あきらめて、顔だけフトンの外に出し、泳ぐと
きのように(私は、そう思っていますが……)、口をとがらせて、息をすったり、吐いたりしていま
す。かといって、腸内ガスを許しているわけではありませんが、しかしそれも、ここでいう「さらけ
出し」なのですね。

 そういうさらけ出しをおたがいにしながら、子どもは、絶対的な安心感を覚え、その安心感を
もとに、人間どうしの、信頼関係の結び方を学びます。

 幼児でも、信頼関係の結べる子どもと、そうでない子どもは、すぐわかります。私は、ご存知
のように、年中児(満四歳)から、教えさせていただいていますが、そのとき、子どもをほめた
り、楽しませてあげたりすると、その気持ちが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのが
わかる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかります。

 しみこんでいく子どもを、「すなおな子ども」と言います。そういう子どもは、そのまま、私との
間に、信頼関係ができます。もう少し、別の言い方をすれば、「心が開いている」ということかも
しれません。心が開いているから、私が言ったことが、そのまま、心の中に入っていく……。そ
んな感じになります。

 一方、心を開くことができない子どももいます。このタイプの子どもは、いわゆる「すなおさ」が
ありません。何かをしてあげても、それを別の心でとらえようとします。ひねくれる。いじける。つ
っぱる。ひがむ。ねたむなど。さらに症状が進むと、心そのものを閉じてしまいます。極端な例
では、自閉傾向(自閉症ではありません)があります。

 が、こうして心を開けない子どもは、孤独なんですね。さみしがり屋なんですね。そこで、ショ
ーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話が出てきます。寒い夜、二匹のヤマアラシが、体を
暖めあおうとします。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、相手をキズつけてしまう。しかし
離れすぎると、寒い。二匹のヤマアラシは、ちょうどよいところで、暖めあう。自分の位置を決
める……。

 このタイプの子どもは(おとなも)、孤独をまぎらわすため、外の世界へ出る。しかしそこで
は、どうも、居心地が悪い。うまく人間関係が、結べない。疲れる。しかたないので、また引っ込
む。しかし引っ込むと、さみしい。これを繰りかえします。繰りかえしながら、ちょうどよいところ
で、自分の位置を決める……。

 このとき、子どもは、自分の心を守るため、さまざまな症状を見せます。よく知られているの
が、欲求不満を解消するための、代償行為です。指しゃぶり、髪いじり、夜尿症などがありま
す。さらに症状が進むと、神経症を併発し、さらに進むと、情緒障害や精神障害にまで発展し
ます。

 が、子ども自身も、他人から、自分の心を守ろうとします。それを「防衛機制」といいます。相
手に対して、カラにこもる、攻撃的になる、服従的になる、依存性をもつなど。SNさんが、ご指
摘なのは、このあたりのことなのですね。SNさんの問題を、もう少し整理してみると、こうなりま
す。

(反抗期はあった)(しかしそれを、押さえつけてしまった)と。

 たしかにそういう親は、多いし、SNさんだけが、そうだとはいうことにはなりません。いまだに
親の権威をふりかざし、「親に向かって何よ!」と、本気で子どもに怒鳴り散らす人もいます。し
かし問題は、抑えることではなく、ここにも書いたように、「一定のおおらかな愛情」の中で、そ
れができたかどうかということです。いくら抑えても、子ども自身が気にしないケースもあれば、
軽く抑えても、子どもが深刻に気にするケースもあります。

 そこで今度は、親自身の問題ということになります。

 不幸にして不幸に育った親は、いわゆる「自然な形での親像」が、体の中にしみこんでいませ
ん。ふつう子育てというのは、自分が受けた子育てを、そのまま再現する形で、子どもに対して
します。それを私は、「親像」と呼んでいます。その親像がないため、子育てが、どこかぎこちな
くなります。極端に甘くなったり、きびしくなったりするなど。気負い先行型、心配先行型、不安
先行型の子育てをすることもあります。

 そこで掘りさげていくと、つまり、自分の子育ての失敗(こういう言葉は不適切かもしれません
が……)の原因は、つまるところ、「自然な形での親像」のなSN気づくわけです。「私はどうして
自然な形での、子育てができないのか?」と。そしてそれがわかってくると、今度は、原因をさ
がし、そして行き着くところ、自分の「親」に向かうわけです。「私をこんな親にしたのは、私の両
親が悪いからだ」と、です。

 「私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでし
まいそうですので……」と、SNさんは、書いておられます。実のところ、私も、同じように、悩ん
だことがあります。

 が、私のばあいは、「戦後のあの時代だったから、しかたない」とか、「親は親で、食べていく
だけで、しかたなかった」というような考え方で、理解するようになりました。今から思えば、貧
乏は貧乏でしたが、しかし同じ貧乏の中でも、まだほかの家庭よりは、よかったという思いもあ
ります。だからその「怒り」のようなものは、やがて社会へと向けられていったと思います。

 今でも、あの戦争を美化する人もいますが、私はいつも、「バカな戦争」と位置づけています。
「あんなバカな戦争をするから、いけないのだ」と、です。私が不幸だったのも、親が不幸だっ
たのも、結局は、戦争が悪いのです。あの戦争は、もともと正義もない、大義名分もない、メチ
ャメチャな戦争だったのです。

 ということで、自分なりに処理しました。そこでSNさんの件ですが、「(親を恨んでしまいそうな
ので)、やめます」とあります。ここなんですね。ここです。まだ、SNさんは、どこかよい子ぶろう
としている。恨みたかったら、恨めばよいのです。多分、そうお書きになったのは、かなり深い
部分で、SNさんが、自分の心の問題に、気がつき始めておられるからです。むしろ、これはす
ばらしいことなのです。

 実はこの種の問題のこわいところは、そういう自分自身に気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえすところにあります。それだけではありません。今度は、同じ失敗を、つぎの世代に伝えて
しまうところにあります。もし仮にここでSNさんが、自分の心を抑えてしまうと、今度また、同じ
失敗を、SNさんの、子どもが繰りかえすことになります。これを、教育の世界では、「世代連
鎖」とか、「世代連覇」とか言います。

 これは極端な例ですが、「虐待」「暴力」も、同じようなパターンで、代々と伝わってしまいま
す。

 しかしひと通り、親を恨むと、今度は、「あきらめの境地」、さらには「許す境地」へと、入りま
す。ですから、遠慮せず、恨みなさい。恨んで恨んで、恨みなさい。遠慮することはありません。
そしてあなた自身の親というよりは、あなたの心の中に潜んでいる、(親から受け継いだも
の)、つまり(私であって、私でないもの)を、恨めばよいのです。

 私も、子どものときから、父が酒を飲んで暴れる姿を、毎週のように見てきました。そういう意
味では、暴力的な体質が、身についてしまいました。小学五、六年生ごろまでは、何かにつけ
て、喧嘩(けんか)ばかりしていました。結婚してからも、ワイフに暴力を振るったことも、しばし
ばあります。

 しかしそういう自分の気づき、その原因に気づき、そして親を恨み、やがて、そうであっては
いけないことに気づきました。

 さて本題ですね。長い前置きになりました。

 残念ながら、「マイナスの自我」というのは、ありません。私も聞いたことがありません。「自
我」というのは、英語では「セルフ」、心理学の世界では、「意識する体験」、哲学の世界では、
「意識する主体」、精神分析の世界では、「人格の中枢」をいいます。教育の世界では、「つか
みどころ」ということになるでしょうか。「この子は、こういう子だ」という、つかみどころをいいま
す。それは、(ある・なし)で決まるもので、(プラスの自我、マイナスの自我)という考え方には、
なじみません。

 で、仮に自我の発達が阻害され、情緒的な問題があったとしても、マイナスの自我ということ
にはならないと思います。あえて言うなら、ここに書いたように、「自我の阻害(そがい)」という
ことになるかもしれません。しかしSNさんのお子さんのばあい、むしろ、今、不登校という形で
あるにせよ、お子さんが、そういう「わかりやすい形」であることからして、強烈な自我があると
考えてよいと思います。自我(フロイト学説)についての原稿は、最後に張りつけておきますか
ら、また参考にしてくいださい。

 以上、こうしてSNさんの過去をほじくりかえしましたが、そこで今は、こう考えてみてください。

 過去は、過去。今は、今。明日は、今の結果として、明日になれば、必ず、やってくる、と。

 つまりこうして過去がわかったとしても、その過去に引きずりまわされてはいけないというこ
と、です。SNさんが、今、そこにいるように、子どもたちもまた、そこにいる。その「事実」だけを
見すえながら、あとはそこを原点として、前向きに生きていくということです。悩んだところで、過
去は変えられないのです。あくまでも、今は、今です。大切なことは、その「今」を、懸命に生き
ていく。結果は、必ず、あとからついてきます。

 お子さんたちについても、すばらしいお子さんたちではないですか。そこでね、SNさんも、もう
気負いを捨て、あるがままの自分をさらけ出せばよいのです。子どもたちに向かって、さりげな
く、とげとげしくなく、いやみなく、こう言えばよいのです。

 「私も、これからは好き勝手なことをするからね。あんたたちも、自分で考えて、好き勝手なこ
とをしなさい」と。

 「こういうことを言うと、キズつくのでは……」「また喧嘩になるのでは……」と思ったとしたら、
SNさん自身が、さらけ出しをしていないことになりますね。つまりそれでは、親子の信頼関係
は結べないということ。信頼関係を結ぶためには、まずSNさんのほうが子どもに向かって、さ
らけ出しをしなければなりません。

 で、話をもとに戻しますが、心の豊かさというのは、その信頼関係をいうのですね。いくら金銭
的に貧しくても、そんなのは、子どもの世界では、問題ではない。またそれで子どもの心がゆが
むことはない。ゆがむとすれば、心の貧しさです。しかしですね、もし、もしですよ、SNさんの子
どもたちが、そのことをSNさんに教えようとして、今の問題(問題という言い方も好きではあり
ませんが……)をかかえているとしたら、見方も変わってくるのではないでしょうか?

 SNさんのまわりには、いろいろ問題もあるし、SNさんとは、見方も違うかもしれませんが、人
間が求める幸福などというものは、そんなに遠くにあるのではないような気がします。ほんのす
ぐそばで、あなたに見つけてもらうのを待っているような気がします。それがあのブラジルの子
どもたちです。

 だってそうでしょう。人間は、過去、数十万年もの間、生きてきたのです。そういう中で、いつ
も幸福を求めて生きてきた。それがここ一〇〇年ぐらいの間で、学校だの、勉強だの、進学だ
のと言い出して、子どもの世界のみならず、親たちの世界までゆがめてしまった。そして勝手
に、新しい幸福をつくりだし、一方、勝手に新しい不幸をつくりだしてしまった。そして新しい問
題まで、つくりだしてしまった。少なくとも、ブラジルの子どもたちが、今の日本の子どもたちより
不幸だとは、とても思えないです。一方、今の日本の子どもたちが、ブラジルの子どもたちよ
り、幸福だとは、とても思えないのです。

 この問題については、また別のところで考えてみますが、ときには、そういう原点に立ちかえ
って考えてみることも必要ではないかということです。まとまりのない話になってしまいました
が、また投稿してください。喜んで返事を書きます。

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 最後に、欧米では、「立派な」という言葉にあたる単語すら、ありません。(今の中国では、「立
派な国民」という言葉が、さかんに使われていますが……。)それについて書いたのが、つぎの
原稿です。子育てを考えるヒントになれば、うれしいです。

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尊敬

 「尊敬」という言葉ほど、意味もわからず、安易に使われている言葉はない。あるいはあなた
は「尊敬」という言葉の意味をどのように考えているだろうか。たとえば「あなたは、あなたの父
親を尊敬していますか?」と聞かれたら、あなたは父親のどの部分を、どのようにみて、その質
問に答えるだろうか。

 英語では、少し変わった使い方をする。たとえば日本で、「立派な人」と言いそうなとき、「尊
敬される人(respected man)」という。日本で「立派な人」というときは、名誉や地位のある人を
いう。しかし英語で、「尊敬される人」というときには、名誉や地位はほとんど関係ない。あくまで
も人物本位という考え方が強い。

 また英語国でよく聞かれる表現に、「私は息子を自慢している(I am proud of my son.)」とい
う言い方がある。日本では、へりくだって、「愚息」と言いそうなときでも、「自慢の息子です」な
どとも言う。そういう言い方になれていない日本人は、そう言われると戸惑ってしまう。日本と英
語国とでは、ものの考え方が、基本的な部分で違う。

 さて、「尊敬」。あえて定義するなら、つぎのようになる。つまり「その人の言うことや、すること
を、全幅に信頼している状態を、尊敬という」と。その人をどう思うかは、あくまでもその結果で
しかない。こんなことがある。

 T氏という、今年八五歳になる男性がいる。戦時中は軍医として、中国本土で、隼(はやぶさ)
航空隊に所属していた。帰国後は、浜松市の郊外で、内科医院を開業し、現在に至っている。
そのT氏は、実に温厚で、誠実な人である。その人とのやりとりは、縁あって、毎週のようにつ
づいているが、私は、どういうわけだか、そのT氏の言うことだけは、すなおな気持ちで聞ける。
安心感があるというか、何を言われても、よいほうに、解釈できる。そういう状態を、「尊敬」と
いうのなら、まさに私はそのT氏を尊敬していることになる。

 一方、子どものときから、私はよく、「あなたは両親を尊敬しているか」と聞かれた。一番よく
覚えているのは、大学生のときの就職試験である。どこへ行っても、まずこのことを聞かれた。
で、私のほうは、結構要領がよかったから、そういうとき、どのように答えればよいか、よく知っ
ていた。私はいつも声高らかに、「尊敬しています」と答えていた。しかし実のところ、私は父親
も、母親も、尊敬などしていなかった。

 ところで話は少しそれるが、いわゆるマザコンタイプの男性は、自分のマザコン性を正当化
するために、父親や母親(とくに母親)を、美化する傾向が強い。そしてだれかが父親や母親
の悪口を言ったりすると、妙な忠誠心を発揮して、それに猛烈に反発したりする。ある意味で、
宗教的ですらある。先日も私に、「私がみな悪いのです。親父には責任がありません」と、父親
を必要以上にかばっている男性(五一歳)がいた。もっともこのタイプの人は、そうであることが
善であるという価値観をしっかりともっているから、自分がマザコン的(あるいはファザコン
的?)であることに気づくことはない。

 この日本では、「父親や母親を尊敬していません」などと言うことは、それ自体、勇気がいるこ
とである。「日本人としてありえない」というふうに考えられる。とくに私のように教育評論をして
いるものが、そういうことを言うのは許されない。だから私は私なりに、自分をつくり、自分を飾
ってきた。しかしこのところ、そういう自分がいやになった。とくに自分の心を偽るのがいやにな
った。だからあえて私は言う「私は私の父親や母親を尊敬していない」。理由は無数にあるが、
その理由など書いても意味がない。

 ただ「尊敬していない」ということは、「軽蔑している」ということにはならない。「尊敬できない」
というだけのことであり、それをのぞけば、私のばあいも、ごくふつうの、あるふれた親子関係
であった。さらにあえて言うなら、一人の人間が生きていく過程で、尊敬できる人に出会えるこ
となど、ほとんどない。人を尊敬するというのは、それくらいむずかしいことであり、そのため尊
敬する人に出会うということは、さらにむずかしい。もともと「尊敬」などという言葉は、そこらの
高校生や大学生が、安易に使う言葉ではない。人を尊敬するためには、こちら側にも、相手の
崇高さを理解するだけの素養がなければならない。たとえば暴走族の男が、「オレは、仲間の
Dを、尊敬してるよな」と言っても、所詮、そのレベルの話でしかない。

 そこでさらに問題を先に進めてみよう。あなたは「親」だから、当然、子どもがどう思っている
か気になるだろう。しかしここで大切なことは、あなたの子どもがあなたに対して、どう思ってい
ても、それに干渉することはできないということ。仮にあなたを尊敬していなくても、あなたはそ
れについて、とやかく言うことはできない。いわんや、「私を尊敬しなさい」などと、子どもにそれ
を強要してはいけない。そこでさらに話を先に進める。

 人を尊敬することはむずかしいことだが、それ以上に、自分が尊敬される人間になることは
むずかしい。いわんや子どもに尊敬される親になるのは、さらにさらにむずかしい。他人なら自
分のよい面だけを見せながら、自分を飾ることもできるが、親子ではそれもできない。子どもは
子どもで、あるがままのあなたを見る。が、意外と簡単なのが、自分の子どもを尊敬すること。
私は三人の息子たちに尊敬されていない。それはよくわかる。しかしどういうわけだか、私は三
人の息子たちを尊敬している。

 長男は、就職が決まらなかったころ、工事現場の旗振りをしていた。二男は、高校一年生に
なったとき、体力の弱い仲間を助けるため、毎日学校から帰ってくると、その仲間のために、
伴走をしていた。また三男は、高校三年のはじめにEランク(学校でもビリ)の成績だったが、
たった一年間で、東大へ楽に入れるだけの学力を身につけてしまった。どれも私ができなかっ
たことばかりだ。息子たちがそれぞれの立場で私を超えたことを知ったときから、私は息子た
ちを「子ども」とか「息子」というよりは、一人の人間として見るようになった。少なくとも、それ以
後は、頭ごなしにものを言えなくなってしまった。反対に何か意見を言われたりすると、私は無
理なく、「そうだね」と言うことができる。息子たちの言うことやすることを、全幅に信頼し、すな
おな気持ちで受け入れることができる。

イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜
一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、
必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちの
みが、家族の真の喜びを与えられる」と。改めてこの言葉のもつ意味を、考えなおしてみたい・
(03−10−3)

(注意)『青少年白書』でも、「父親を尊敬していない」と答えた中高校生は、五五%もいる。「父
親のようになりたくない」と答えた中高校生は、八〇%弱もいる(平成十年)。母親についても、
ほぼ同様。

+++++++++++++++++++++++++

【Q9】子どもたち(小5、小3、2歳)の気持がよくわかりません。何を考えているのか、わかりま
せん。とくに小5の子どもが、わかりません。私は親として、ダメなのでしょうか。信頼関係も、う
まくできていないように思います。どうしたらよいでしょうか(MH)。

【A、はやし浩司より】

 「何を考えているかよくわからない状態」というのは、ふつうは、「心を閉じた状態」をいいま
す。もしそうなら、親子関係が、かなり危険な状態に入っているとみてよいのではないでしょう
か。信号で言えば、これから赤になる黄信号というところです。

 こういうときの鉄則は、「今の状態をなおそう」と考えるのではなく、「今の状態を、これ以上、
悪くしない」ことだけを考えて、対処します。小学五年生という時期は、そういう意味では、たい
へん微妙な時期です。あせって何かをすれば、かえって問題がこじれてしまう可能性がありま
す。もっとはっきり言えば、親子関係が、このまま断絶してしまう危険性があるということです。

 たがいに心を開くということは、たいへんむずかしいことです。しかしそれ以上にむずかしい
のは、一度、閉じた心を開くことです。そこでここでは、@断絶と、A心を開くの、二つのテーマ
について考えてみます。つぎの原稿(「ファミリス」などに掲載済み)が、それです。

++++++++++++++++++++++++

親子の断絶が始まるとき 

●最初は小さな亀裂
最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って…
…」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大き
くなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたく
ない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。が、この程度
ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。
まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親
は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい
るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中
あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし
い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め
ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであな
たの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれ
ば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休まる場所としてあげ
たのが、@風呂の中、Aトイレの中、それにBふとんの中だそうだ(学外研・九八年報告)。

●断絶の三要素
 親子を断絶させるものに、三つある。@権威主義、A相互不信、それにBリズムの乱れ。

@権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考え
る親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。「子ど
ものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のもと、自
分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自分に都合のよいところし
か認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方、子どもは子どもで親の前で
は、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心は離れる。

A相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」
「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなものだ。
イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのがあ
る。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを
「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなけ
れば、そうでなくなる。

Bリズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思い
浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている姿
を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、@あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと
歩いていれば、よし。しかしA子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いて
いるようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにも
なりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語
する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そし
ておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。子どもは子どもで、親の
前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、
仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。親「あ
んたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高
い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、
お前に頼んだア!」と。

●リズム論
子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ども
が三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは騒
音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきにミルクを与えることに
なっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの
口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親も
いる。たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前
に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、な
かなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとな
になってからも、だ。

ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の
男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズム
を変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは
容易ではない。

●子どものうしろを歩く
 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅
くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かな
い。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」
と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬
していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」
と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、七八・八%、「母親のようにな
りたくない」は、七一・五%であった。この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬
していない」と答えた五五%の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれて
いるということ。また、では残りの約四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもな
らない。この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質
上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうし
た、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

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あるがままを受け入れる

 親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入
れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないこ
とは、親ならだれしも知っている。

 で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるが
ままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさ
らけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。

 Tさん(五五歳)は、息子(四〇歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼
まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の
理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。

 この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親で
ありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。し
かしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子であり
ながら心を開いていないことになる。しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことがで
きない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう
状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなった
で、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。

 少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきず
なを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しい
ものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければなら
ない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっ
ているということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといっ
て、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻
滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。しかしそうなったとしても、それはしかたないこ
と。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、そ
れだけきびしいことだということ。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」という人がいる。それはそうだ
が、しかしそれをしなければ、結局は子どもにあきられる。よい親子関係をつくりたかったら、さ
らけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自分をみがかねばならない。

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 あなたは決して、「ダメな親」ではありません。どの人も、みな、自分の限界状況の中で、懸命
に生きているのです。で、問題は、その限界があるということではなく、限界があることを知ら
ず、その中で生きてしまうことです。
 
 幸いなことに、MHさんは、「自分がダメ?」という形で、自分の限界に気づいておられます。
大切なことは、「だからダメ」ということではなく、ここを原点に、前向きに生きるということです。
もっとわかりやすく言えば、限界というカベを突き破って、前に進むということです。

 子育てについていうなら、もうそろそろ、子どものことは構わないで、あなたはあなたとして、
つまりは一人の人間として、自分の生きザマを追求します。そして結果として、自分の生きザマ
を子どもに見せていく。いわば、居直りの論理ですが、今さらあなたも、そうは自分を変えられ
ないと思います。

 いいじゃないですか、子どもに嫌われても。子どもは、子ども。あなたはあなた。あなたはあな
たで、一貫性をもって生きればよいのです。その一貫性に、いつか子どもが気づいたとき、あ
なたの子どもは、必ず、あなたのところにもどってきます。それを信じて、あなたはあなたのや
り方を、これからも通しなさい……というのが、私の答(?)です。参考にしていただければ、う
れしいです。最後に、その「一貫性」についての原稿を添付しておきます。

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信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

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【Q10】祖父母との同居に悩んでいます。祖父母の役割というのは、何ですか。夫の両親と
は、世代が違うため、何かと意見の衝突があります。

【A、はやし浩司より】
 
 少し前、同じような質問をもらいました。そのとき書いた返事を、ここに添付しておきます。少
し事情が違うかもしれませんが、趣旨は同じです。参考にしていただければ、うれしいです。

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●義父母・父母との違い

1 子どものほしがるものは何でも与えてしまう姑。特に、お菓子やおもちゃは、わが家なりの
ルールを決めて、守らせたいのに。今まで一生懸命に言い聞かせてきたのが無駄になる。どう
したらよいか。

★昔の人は、「子どもにいい思いをさせるのが、親の愛の証(あかし)」「いい思いをさせれば、
子どもは親に感謝し、それで絆(きずな)は太くなるはず」と考えて、子育てをしました。今でも、
日本は、その流れの中にあります。だから今でも、誕生日やクリスマスなどに、より高価なプレ
ゼントであればあるほど、あるいは子どものほしがるものを与えれば与えるほど、子どもの心
をとらえるはずと考える人は少なくありません。しかしこれは誤解。むしろ、逆効果。イギリスの
格言に、『子どもには、釣竿を買ってあげるより、いっしょに釣りに行け』というのがあります。つ
まり子どもの心をつかみたかったら、モノより、思い出というわけです。しかし戦後のひもじい時
代を生きた人ほど、モノにこだわる傾向があります。「何でも買い与える」という姑の姿勢の中
に、その亡霊を見ることができます。

★また昔の人は、「親(祖父母)にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい
子」と考える傾向があります。そして独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼の子」
として嫌いました。今でも、そういう目で子どもを見る人は少なくありません。あなたの姑がそう
だとは言いませんが、つまりこうした問題は、子育ての根幹にかかわる問題なので、簡単には
なおらないということです。あなたの姑も、子ども(孫)の歓心を買うことにより、「いいおばあち
ゃん」でいたいのかもしれません。そこでどうでしょうか。この私の答を、一度、姑さんに読んで
もらっては? しかし子育てには、その人の全人格が集約されていますから、ここにも書いたよ
うに、簡単にはなおりません。時間をかけて、ゆっくりと説得するという姿勢が大切です。


2 嫁と舅・姑の違いって必ずあるし、それはしかたないことと割り切っています。でも、我慢し
て「ノー」と言えないのでは、ストレスもたまるいっぽう。同居するとますます増えそうなこのモヤ
モヤ。がまんにも限度があると思うから、それを越えてしまったときがこわい。どうしたらよい
か。

★もう、同居している? それともしていない? 祖父母との同居問題は、最終的に、「別居
か、もしくは離婚か」というところまで覚悟できないなら、あきらめて、受け入れるしかありませ
ん。たしかに問題もありますが、メリットとデメリットを天秤(てんびん)にかけてみると、メリット
のほうが多いはず。私の調査でも、子どもの出産前から同居しているケースでは、ほぼ、一〇
〇%の母親が、「同居してよかった」と認めています。

★問題は途中同居(つまり子どもがある程度大きくなってからの同居)ですが、このばあいも、
祖父母との同居を前向きに生かして、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。仕
事でも、趣味でも、スポーツでも。「おじいちゃんやおばあちゃんが、いっしょにいてくださるの
で、助かります」とか何とか言って、です。祖父母の甘やかしが理由で、子どもに影響が出るこ
ともありますが、全体からみれば、マイナーな問題です。子ども自身の自己意識が育ってくれ
ば、克服できる問題ですので、あまり深刻に考えないようにしてください。

★なお、「嫌われるおじいちゃん、おばあちゃん」について、私は以前、その理由を調査してみ
たことがあります。その結果わかったことは、理由の第一は、健康問題。つぎに「子どもの教育
に口を出す」でした。今、日本の子育ては、大きな過渡期にあります。(孫の教育に口を出す祖
父母の時代)から、(祖父母は祖父母で、自分の人生を生きる時代)へと、変化しつつありま
す。そこで今は今で、そのストレスをしっかりと実感しておき、今度は、あなたが祖父母になっ
たとき、(その時代は、あっという間にやってきますが……)、そういうストレスを、つぎの若い夫
婦に与えないようにします。


3 何かあると自分の子育て論で迫る母。「昔は8か月でオムツが取れた」とか「昔は○○だっ
たのに」など、自分の時代にことを持ち出して、いい加減なことばかり。時代は進んでいるの!
 今のやり方をもっと認めて! こういうとき、どうしたらよいか。

★『若い人は、老人をアホだと思うが、老人は、若い人をアホだと思う』と言ったのは、アメリカ
の詩人のチャップマンです。「時代は進んでいる」と思うのは、若い人だけ(失礼!)。数十万年
もつづいた子育てが、一世代くらいの時間で変わるはずもないのです。いえ、私は、このこと
を、古い世代にも、若い世代にも言いたいのです。子育てに「今のやり方」も、「昔のやり方」も
ないのです。もしそう見えるなら、疑うべきは、あなた自身の視野の狭さです(失礼!)。

★もっともだからといって、あなたの姑の子育て観を容認しているのではありません。子離れど
ころか、孫離れさえできていない? いや、それ以上に、すでに姑とあなたの関係は、危険な
状態に入っているかもしれません。やはりイギリスの格言に、『相手は、あなたが相手を思うよ
うに、あなたを思う』というのがあります。これを心理学では、「好意の返報性」と呼んでいます。
つまりあなたが、姑を「昔風の子育てを押しつけて、いやな人」と思っているということは、まっ
たく反対の立場で、姑も、あなたのことを、「今風、今風って、何よ。いやな嫁」と思っているとい
うことです。

★実のところ子育てでまずいのは、個々の問題ではなく、こうしたギクシャクした人間関係で
す。つまりこうした不協和音が、子育て全体をゆがめることにもなりかねません。そこでどうでし
ょうか。こういうケースでは、姑を、「お母さんは、すばらしいですね。なるほど、そうですか!」と
もちあげてみるのです。最初は、ウソでもかまいません。それをつづけていると、やがて姑も、
「よくできた、いい嫁だ」となります。そしてそういう関係が、子育てのみならず、家庭そのものを
明るくします。どうせ同居しなければならないのなら、割り切って、そうします。こんな小さな地球
の、こんな狭い日本の、そのまたちっぽけな家庭の中で、いがみあっていても、し方ないでしょ
う!

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 この問題は。日本の社会全体がかかえる、構造的な問題でもあるわけです。昔は、三世代
同居、四世代同居が、ふつうでしたから、問題はなかったわけですが、今は、核家族化がさら
に進み、反対に、「若い世代との同居」を嫌う、世代もふえてきました。「嫁や孫がくると、わず
らわしくてしかたない」とです。

 今は、その過渡期かもしれませんね。両親との同居については、デメリットもありますが、メリ
ットも多いはず。そういうメリットをうまく生かして、あなたはあなたで、したいことをすればよい
のです。そういう視点でも、一度、同居を、前向きに考えてみてはどうでしょうか。

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【Q11】長女(小5)、長男(小3)、年少児(女)がいます。昔かたぎの家風で、長男ばかり大切
にし、結果として、長女にいろいろ苦痛を与えてしまったようです。なかなかみなに平等にでき
ず、悩んでいます。どうしたらよいでしょうか。

【A、はやし浩司より】

 子どもを変えるのは、むずかしい。親をかえるのは、もっとむずかしい。家風を変えるのは、
さらにもっとむずかしい。つまり、家風を変えるのは、不可能と思ってください。その背景には、
日本そのものが培(つちか)った、土壌があるからです。

 あなたの長女には、つらい思い出かもしれませんが、そういう家風を反面教師として、別の形
で、そういう環境を、昇華するようになるかもしれません。私も、男尊女卑の家風で生まれ育ち
ましたが、今は、それがかえって反面教師になっている部分があります。

 「昔かたぎの家風」ということで、思い出したのが、水戸黄門論です。日本人にとっては、今で
も人気番組の一つになっていますが、欧米人には理解できないのですね。(ときどき日本に住
む、ヘンな外人が、「おもしろい」と評価しますが……。)それについて書いたのが、つぎの原稿
(中日新聞掲載済み)です。日本人は、上下意識をいつも考えた人間関係をつくりますね。そ
の底流にあるのが、「水戸黄門」です。

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権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう場面を見ると、「痛
快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。「もし水
戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米で
は、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今の若い者は、
先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男
で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとし
たことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだっ
た。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であっ
た。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子
どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積
もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり
「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的な
ものになる。そのため子どもは心を閉ざす。Mさん親子は、まさにその典型例と言える。

「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさん。しかしそれをそのまま黙って無視する長
男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義
的であること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否
定することになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関
係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと
思っている人ほど、あぶない。

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 少し長いですが、次の原稿は、日本の子育てについて書いた原稿です。参考にしてくだされ
ば、うれいいです。

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当世、親子事情

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居することに
なった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していたのが、娘の
実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも……」と考えていた
が、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、二年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家庭騒動
の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、珍しくない。し
かしここからが違った。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)による
復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当たった!」
「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた人生を返せ!」と。
それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、はやく死んでしまえ!」
「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろってやる!」「親を不幸にした
ものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではない。どこでどう監視しているのか
わからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、○○レストランで、お食事? 結
構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあんたを見ると、親としてなさけなくて
ね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が買ってあげたものよ。わかっている
の!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が悪くな
ると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、フラフラする
わ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえるのに」「もう、長いこと
会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしくないわよ」「明日あたり、私の
通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここでいう
代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛をいう。た
いていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、子どもを
利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのため、子ども
を、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろいろな例がある。

 Aさん(六〇歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。息子
は、横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んでいることを、
Aさんは、「取られた」というのだ。

 Bさん(四五歳・母親)の長男(現在一八歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンしてしまっ
た。断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原因ははげしい受
験勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男にも、受験期を迎えた
が、同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになったから、あんたはがんば
るのよ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟二人は、夫の実家に身を寄せ、
そこから、ときどき学校に通っている。

 Cさん(六五歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息子から
預かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(四〇歳)が抗議すると、Cさんは
こう言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」と。Cさんは、息
子を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう話した。「何かあるたび
に、私のところへきては、一〇〜三〇万円単位のお金をもって帰りました。私の長男が生まれ
たときも、その私から、母は当時のお金で、三〇万円近く、もって帰ったほどです。いつも『か
わりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今にいたるまで、一円も返してくれません」
と。

 Dさん(六〇歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、Dさんは、
長男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてしまった。Dさんはい
つも、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされる」と。たいした財産があ
ったわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけである。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子だから…
…」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカラ論は、ものの本
質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめることになる。「実家の
親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならないと思うだけで、気が重くなる」
などと訴える男性や女性はいくらでもいる。さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪
く、家庭騒動を繰り返している家庭となると、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかし
い。中には、「殺してやる!」「お前らの前で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回して
いる舅すら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫は学歴が
なくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とかいい大学へ入っ
てもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人です
ら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した人だと、過去
の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。何に依存する
かはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子どもの依存性をみ
ているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残っている子
どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の前でただ立っ
ているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」という意味そのもの
がわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、しまうように指示したのだが、
そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、そうすれば、家族のみながD君を助け
てくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の汗。そう
いうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、D君がうまく片
づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、その日にかぎっ
て、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、教室へ飛び込んでき
て、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいことに気づく。
D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。そういうD君で
も、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、「うちの子は、生まれつ
きそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そこでさらに観察してみると、親自身
が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身の生き方の基本になっていることがわか
る。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子どもの
依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそういう相互作用
が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題にしても、意味がな
い。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考えてよい。……と書くと、
「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それはそうで、こうした依存性
は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の奥にもぐる。外からは見えない
し、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでいることが多い。しかしやがて老齢期に
さしかかると、また現れてくる。先にあげた親たちに共通するのは、結局は、「自立できない親」
ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓着
すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本では、親にベタ
ベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を
親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐阜県の地方には、まだそう
いう風習が強く残っていた。今も残っている。親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最
高の美徳とされている。たがいにベタベタの親子関係をつくりながら、親は親で、子どものこと
を、「親思いの孝行息子」と評価し、子どもは子どもで、それが子どもの義務と思い込んでい
る。こういう世界で、だれかが親の悪口を言おうものなら、その子どもは猛烈に反発する。相手
が兄弟でもそれを許さない。「親の悪口を言う人は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子どもの関係
ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、親を必要以
上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがも
つ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗っていて発見し
た。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイに乗っ
た。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、六〇歳くらいの女性と、五歳くらいの
男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その二人が、私たちとは背中合わせに、会
話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに聞こえてきたのだ。)
その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイチイモノ
(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言うこと聞いてくれ
たら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はその会話
を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。六〇歳の女性は、孫をかわいがっているように見え
るが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつかいというか、もっと言え
ば、ペットあつかい! その女性は、五歳の子どもに、よい思いをさせるのが、祖母としての努
めと考えているようなフシがあった。そしてそうすることで、祖母と孫の絆(きずな)も太くなると、
錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマスにせ
よ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考えている人は多
い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人は多い。しかし安
易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的に子どもの心をつか
むことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた子
どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつぎつぎとあ
なたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なことだが、それがい
つか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そしてそれまでにつく
りあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイクぐらい、買ってよこせ!」
「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメなの!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』という
格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい思い出を一緒
につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れない。それはさてお
き、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつかいすることにより、子どもを
釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかということ。ま
た周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかということ。ここの日本
型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習性
(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、あるいはそ
れ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会から切り離してき
た。私が子どものときですら、そうだった。NHKの大河ドラマ『利家とまつ』あたりを見ている
と、江戸時代でも結構女性の地位は高かったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代
には、女性が男性の仕事に口を出すなどということは、ありえなかった。とくに武家社会ではそ
うで、生活空間そのものが分離されていた。日本はそういう時代を、何百年間も経験し、さらに
不幸なことに、そういう時代を清算することもなく、現代にまで引きずっている。まさに『利家とま
つ』がそのひとつ。いまだに封建時代の圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものがひと
つある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだと誤解し
ている。もう一〇年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、こう言った。
「私は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をいい子にすることがで
きるのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子になります」
と。

 それから一〇年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、皮肉な
ことに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生まれる。が、なぜ
か、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親はこう言った。「子ども
を使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子どもを使うことが、かわいそうという
のだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、それは言うまでもなく、「子どもを人間と
して認めていない」ことによる。私の考え方は、どこか矛盾しているかのように見えるかもしれ
ないが、その前に、こんなことを話しておきたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には三つの役目がある、と。ひとつはガイドとし
て、子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そして三つ目は、友
として、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。
苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の強い国民で、た
った一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、女が下、夫が上、
妻が下。長男が上で、二男が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対
等になるという発想そのものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関係を
つくりあげた。私がしばしば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識に
は、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。これは子
どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親風を吹かすのは
よくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向かって何だ!」と怒鳴
り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。先日もある雑誌に、「父親
というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父親」と書いていた教育家がい
た。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、とんでもない考え方ということにな
るに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだから」と
いう「ダカラ論」、「親は〜〜のはず」「子どもは〜〜のはず」という「ハズ論」、あるいは「親は〜
〜すべき」「子は〜〜すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固定化してはいけない。固
定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのばあい、その人間関係をも破壊
する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめることになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということは、一見矛
盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」ということと、「子どもを
使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日本では、子どもをかわいがると
いうことは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせることだと思っている人が多い。そうで
あるなら、なおさら、矛盾しているように見える。しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子
どもを自立させること」という視点に立つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあなた
は、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった一度し
かない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。つまりそういう形で、子どもの人生を子ども
に、一度は手渡してこそ、親は親の務めを果たしたことになる。安易な孝行論や、家意識で子
どもをしばってはいけない。もちろんそのあと、子どもが自分で考え、親のめんどうをみるとか、
家の心配をするというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。しかし親は、それを
子どもに求めてはいけない。期待したり、強要してはいけない。あくまでも子どもの人生は、子
どものもの。
 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみればよ
い。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている姿を見た
ら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするなら、あなたはよほ
ど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親ということになる。同じよう
に、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。仮にそれが美徳に見え
るとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日本という、極東の島国の中で、そう
思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立させるとい
うことは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つなら、子どもに社会
性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということだということがわかってく
る。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子どもを奴隷のように使えということで
は、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立できない親
ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状態を疑った。
ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であれ、ふつうではな
い。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話は聞いたことがある。そ
ういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点では、母親の心の奥で、嫉妬がか
らんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しかしそ
れはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係である。それだ
けに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決する問題ではな
い。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟が必要である。ある
いは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。その娘にしてみれば、母親
からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。実際、親に、「産んでやったでは
ないか」「育ててやったではないか」と言われると、子どもには返す言葉がない。

実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。しかしそれを言われた子どもはどう
するだろうか。反論できるだろうか。……もちろん反論できない。そういう子どもが反論できな
い言葉を、親が言うようでは、おしまい。あるいは言ってはならない。仮にそう思ったとしても、
この言葉だけは、最後の最後まで言ってはならない。言ったと同時に、それは親としての敗北
を認めたことになる。が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を
苦しめている。もっと言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをして
いる。一方その娘は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、ここ
までゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)がはっきり
していて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。

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 今、日本の社会は、大きく変わろうとしています。「サイレント革命」と位置づけている人もいま
す。社会だけではなく、ものの考え方も、です。「家風」という言葉すら、死語になりつつありま
す。それがよいことなのか、悪いことなのかは別にして、こうした変化には、順応するしかない
ようです。それが「時代の流れ」というものではないでしょうか。少なくとも、世代間で価値観の
対立が起きたとき、古今東西を問わず、古い世代が、新しい世代に勝ったためしはありませ
ん。古い世代のほうが、先に、あの世にいくからです。

 そういうこともどこかで考えながら、家風について考えてみてください。

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【Q12】私の夫は、おけいこ塾を経営しています。生徒の中には、神経症による症状の出てい
る子どもがいたりします。教える側として、どのように対処したらよいのか、悩むことも多いで
す。意見を聞かせていただければ、うれしいです(KH)。

【A、はやし浩司より】

 親とのつきあいの基本は、『如水淡交』ではないでしょうか。「水のように、淡々とつきあう」で
す。たとえば、「三年B組、金八先生」というテレビドラマがあります。しかし、ああいった熱血教
師というのは、現実にはありえません。それは刑事ドラマで、刑事とギャングが、ピストルでバ
ンバンと撃ちあうようなものです。ドラマとしてはおもしろいかもしれませんが、もしそんなことを
していたら、体は(心も)、いくつあっても足りなくなります。

現実は、もっとドロドロとしています。よほど経験のある教師でも、ふと油断すると、そのドロ沼
に足をとられてしまいます。とくにおけいこ塾では、そうです。委託を受けた範囲内で、その指
導に徹することだと思います。もちろん親側から質問があったり、依頼があれば、話は別です
が……。

困るのは、「最近、うちの子はどうでしょうか?」という質問ですね。そのつど、どの話を、どの
程度すればよいか迷います。もっとも私のばあいは、「おうちで何か問題がありますか?」と、
その親が、どの程度知りたがっているか、さぐりを入れるようにしています。

 で、ごく最近、思うところがあって、こんな原稿を書いてみました。もちろんすべての母親がそ
うであるということではありません。しかしそこに子どもがからんでくると、教師との間に、ある種
の「かけひき」が生まれます。このかけひきが、人間関係を、狂わせます。それについて書いた
原稿です。

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母親(女性)の心

 母親というより、女性全般に共通する心理なのか? 私たちの世界では、『何かと親しげに言
い寄ってくる母親ほど、要注意』という鉄則がある。このタイプの女性は、たいていつぎのような
パターンを経る。

(好意を感じて、必要以上に相手と親しくなろうとする)→(自分の思いどおりに相手が反応しな
い)→(相手に拒絶、もしくは否定されたと感ずる)→(その相手に対して、反感、もしくは嫌悪、
憎悪の念をもつようになる)→(何かにつけて、敵対行為を繰りかえす)

 昨日の味方が、今日の敵というわけである。だから教える側にしても、『如水淡交』。水のよう
にサラサラと、淡く交際する。決して深入りしてはいけない。へたに深入りすると、その親自身
の精神状態に、入りこんでしまう。相談を受けているつもりだったのが、いっしょになって悩み
始めてしまったりする。自殺願望の人の相談にのっているうちに、その人に同情してしまい、い
っしょに自殺してしまうケースは、少なくない。それに似たような状態になる。

 好意をもってくれている間は、それなりによいが、しかしどこかでフィーリングが衝突すると、
今度は、それが敵意に変わってしまう。そうなると、今度は、このタイプの母親は、徹底して、敵
に回ってしまう。(「敵」という表現は、適切ではないかもしれない。)男性にも、そうした傾向は
あるが、これは女性特有の性質ではないか。……と思っている。

 気を許すとか、許さないとかいうレベルの話ではない。子どもが間にいるときは、あくまでも子
どもを見ながら、つきあう。それは母親にしても、教える側にしてもそうで、子どもというワクを
超えた、個人的な領域まで、たがいに足を踏み入れてはならない。ずいぶんと昔だが、こんな
母親がいた。

 私が幼稚園で仕事を終えるころ、その母親は、いつも幼稚園の門のところに車を止めて、私
を待っていてくれた。「帰り道が同じですから、どうぞ」と。私は、何度もそれを断った。しかしそ
れでもその行為はつづいた。ときには、幼稚園の中にまで、おしぼりを届けてくれたこともあ
る。

 こういうケースでは、絶対に、そういう車には乗ってはならない。で、私ががんこにそれを拒む
と、今度は、その母親は、あることないこと、あれこれ私の悪口を言い始めた。そのとき私は、
まだ二〇代の後半。女性の心理がよくわからなかった。ただ、「どうしてあれほど好意をもって
いてくれた人が、手のひらをかえしたように、そういうことをするのか」と、そんなふうに悩んだ
のは覚えている。

 そういう意味では、好意と嫌悪は、紙一重。心的エネルギーは、そのつど、状況に応じて、さ
まざまに変化する。ときには、まったく正反対に作用することもある。心的エネルギーが悪いと
いうのではない。要は、いかにしてそれをコントロールするかということ。このコントロールのし
方をまちがえると、問題を引き起こす。で、私のばあい、教えるという場では、つぎのような鉄
則を、自分で編みだした。

●母親とは、個人的なつきあいは、しない。(当然!)
●子どもの子育て、教育の相談以外は、のらない。(当然!)

もっとも同じころ、私は、「母親恐怖症」になったので、こうした鉄則がなくても、平穏無事(?)
に、仕事ができるようになった。しかし注意するに、こしたことはない。
(030707)

【母親恐怖症】
 二〇代から三〇代のころ、子どもをもつ母親が、恐ろしい存在に見えた。相手を「お母さん」
と呼んだとたん、背筋が、ツンと緊張したのを覚えている。つまりそれくらい、私は、母親たち
に、い・び・ら・れ・た! ホント!

 そうした傾向は、四五歳あたりを過ぎるころから、なくなってきた。多分、私のほうが歳をと
り、母親たちを、のむようになったためではないか。で、最近は、正直言って、どの母親を見て
も、すてきな女性に見える。ときどき心の中で、あらぬロマンスを思い浮かべることも多い。し
かし今でも、恐怖症こそなくなったが、やはり、相手を「お母さん」と呼んだとたん、シャボン玉が
パチンとはじけるように、そのロマンスは、消える。

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 教育というより、これは子育て全体にまつわる限界のようなものかもしれません。どんな親
も、自分で失敗して、自分で気がつくしかないのではないでしょうか。それまでの段階で、私の
ようなものが、いくらアドバイスしてもムダなんですね。「うちの子にかぎって……」「そんなはず
はない……」と、親ががんばってしまう。私たちは、いつもその限界の中で仕事をするしかない
と思います。それについて書いたのが、つぎの原稿です。これは「親の限界」について書いたも
のですが、それはそのまま、教える側の限界ということになります。

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●限界を知る

 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分のことな
ら、ともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待
ほど、子どもを苦しめるものはない。そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思った
ら、すかさず「やってここまで」と思いなおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなも
の」とあきらめる。その思いっきりのよさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、
その時点から、子どもは前向きに伸び始める。

 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」などと
言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときから、親の言い
方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんばっている、よくがんば
ったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。子ども自身が、その限界のカベ
を破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のことで考えてみればよい。

 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただってやる
気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「もっと働きな
さい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。

 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の無
理や強制は必要。それは認める。しかし限界を、あらかじめ、認めているか認めていないか
で、親の態度は大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB
中学に……」と思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とかA
中学に……」となる。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理することないよ」
となる。

 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いということ
(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりにも多いという
こと(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊してしま
う親があまりにも多いということ(失礼)。さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親
があまりにも多いということ(失礼!)。またそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりに
も多いということ(失礼!)。それを避けるためにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知
る。限界を認める。親としては、つらい作業だが、その度量の深さが、親の愛の深さということ
になる。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子どもも
少なくない。ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、
自分のわがままをとおしていた。その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠し
た。先生にほめられたことだけを話し、叱られたことは話さなかった。

 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君が
いちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言った。その
男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。しかしその男の子は、それを父親には言わ
なかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなることを、その男の子はよく知っていた。

 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮面がはが
れたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子どものほうが自ら
親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、断絶する。

+++++++++++++++++++++++++

 KHさんへ

 こうして返事を書きながら、実のところ、私は最近、日本の限界というか、人間の限界のよう
なものを、強く感じます。(私自身の限界なのかもしれませんが……。)だから「今、できることを
一生懸命しよう。それでいいではないか」と、そんなふうに考えることが多くなりました。

 ご相談の件ですが、その子どもが神経症の症状を見せたからといって、私たちがせいぜいで
きることは、そういう子どもを、与えられた時間の中で、暖かく包んであげることでしかありませ
ん。本来なら、親にあれこれ意見を言わねばならないのかもしれませんが、その親にしても、
その限界の中で、懸命に生きているのです。仮に私たちから見て、問題があるとわかっていて
も、その懸命さを感じたら、私たちは引きさがるしかないのです。

 それはとてもさみしいことですが、人生には、そういう「さみしさ」が、いつもついて回ります。
教育の世界では、とくにそうです。しかしそれはもう、どうしようもないことではないのではないで
しょうか。

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【Q13】私自身、親に虐待されたことが原因による、PTSDで苦しんでいます。娘にもその影響
が出ていると思います。娘はある施設で、治療を受けていますが、私はどうしたらいいでしょう
か(TS)。

【A、はやし浩司より】

 「カタルシス」という言葉を、どこかでお聞きになったことはありませんか。方法としては、だれ
か(一番望ましいのは、あなたの夫ですが……)に、思いっきり、自分の胸の内を、あらいざら
い話してみます。この方法が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)には、きわめて有効であるこ
とは、心理学の常識になっています。

 私について書いた原稿のいくつかを、ここに添付しておきます。どうか、参考にしてください。

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カタルシス

 自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタルシス
(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を軽減させるこ
とをいう。

 他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻であれ
ば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、そういう機能
がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。

 方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しかった思
い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出を、すべて
吐き出してみる。

 これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分の心を
開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、@相手もあなたに
自己開示する。Aあなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことができるようになる。

 私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。

【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】

●私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
●私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
●私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
●私にとって、今まで、一番つらかったことは、
●私には、人に話せないような思い出が、

ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容について
は、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、たがいの信
頼関係の深さを知ることできる。つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこま
で自分と向き合っているかどうか、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。
「のぞく」という言葉は、あまり好きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞく
ことができる。家庭では、たとえば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしか
ったことは、どんなこと?」というように聞いてみるとよい。

……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。

 あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプレッ
クスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそういうのがあ
れば、思い切って、夫に話してみる。

 あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、あな
たと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がうまく結べない
人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対して自己開示して
みるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。

 もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものがない
人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理解するという
方法に切りかえる。たとえば……。

 日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立場になっ
て聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、もう一度、話してく
れない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうするか、いろいろ考えてみた
わ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せることで、同時に、自分もまた相手に対
して、自己開示することができる。

 前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがいにわけ
のわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出して、自己開示
してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)

※……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによって
は、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、そういう作
用もある。

+++++++++++++++++++++++++

心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今
でいう、アルコール依存症だったのか? 三〜四日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大
声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっ
くり返したこともある。私と六歳年上の姉は、そのたびに二階の奥にある物干し台に身を潜
め、私は「姉ちゃん、こわいよ〜オ、姉ちゃん、こわいよ〜オ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、
一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。
が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回さ
れることである。たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定
になると、夜がこわくて、ひとりで寝られない。

あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると決めると、その数日前から何
とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。もう
少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、五
〇歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそう
なのか」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そ
んなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつ
も、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私
は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなけ
れば、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私を
つくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。
が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうこと
は言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。
さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにし
て、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし
父は、先にも書いたように、三〜四日ごとに酒を飲んで暴れた。だから五四歳になった今で
も、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃん、こわいよ〜
オ、姉ちゃん、こわいよ〜オ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。五四歳になった今
でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。

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心的外傷後ストレス障害(PTSD、Post−traumatic Stress Disorder)、私のばあい
 
 その人の処理能力を超えた、強烈なストレスが加わると、その人の心に、大きな影響を与え
る。そのときそれがふつうの記憶とは異なり、脳に外傷的記憶として残ることがある。そして日
常生活において、さまざまな症状や障害を示すことがある。こうした一連のストレス性障害を、
心的外傷後ストレス障害という。

 Aさんは、あやうく上の子どもを、水死させるところだった。家族でキャンプに行ったときのこと
だった。水から救い出したときには、すでに意識はなかったが、幸い、父親が人工呼吸をほど
こしたところ、息を吹きかえした。上の子どもが六歳、したの子どもが四歳のときのことだった。

 以後しばらくは、その子どもが無事だったとことを喜んだが、しかしそれが落ちつくと、ここで
いう心的外傷後ストレス障害が現れた。当時の事故のことを思い出すと、極度の不安状態に
なるという。あるいはその事故のことを忘れようと、思えば思うほど、当時の状況が、思い出さ
れてしまうという。届いたメールから、引用させてもらう。

●私は、それ以来、今では少なくなっていますが、夜ふとんに入ると思い出して眠れなくなって
しまうことがあります。

●子どもの下校時間が近づくとそわそわして、家の中と外とを行ったりきたりしてしまいます。

●これから先もずっと心配していかなければいけないかと思うと将来が不安でしかたがありま
せん。

●まわりに相談しても、助かったんだからとか、子離れしたらとか言われます。
主人もいろいろ考えてはくれますが、どうしたらいいのか分からないみたいです。
結局は自分の中で勝手にいろいろ想像して勝手に悩んでるだけなのですが、何とかこの状態
からぬけだしたいです。

 心的外傷後ストレス障害では、その種の状況になると、強い感情的反応が現れることが知ら
れている。言いようのない不安感や恐怖感、絶望感や虚脱感など。ときに当時の状況をその
まま再体験、もしくは心の中で再現したりする。これを「フラッシュバック」という。

 強度の心的外傷後ストレス障害になると、日常生活にも影響が出てくる。感情鈍麻、麻痺、
回避性障害(人と会うのを避ける)、行為障害(ふつうでない行動を繰りかえす)など。多く見ら
れるのが、不眠である。

【心的外傷後ストレス障害、私のばあい】

 私もまったく同じような経験をしている。家族で、近くの湖へ海水浴に行ったときのことであ
る。三人の息子を連れていったが、とくに二男については、今、こうして命があるのは、まさに
奇跡中の奇跡である。

 その直後の私は、たしかにおかしかった。二男が生きているにもかかわらず、生きていること
を不思議に思い、思うと同時に、背筋が何度も凍りつくのを感じた。「ほんのもう少しまちがって
いたら、私が殺していた」という、自責の念にかられた。そして夜、床についたあとなど、その日
のことを思い出すと、そのまま興奮状態になり、眠られなくなってしまった。

 それは恐怖、そのものであった。しかしその恐怖は、外からくる恐怖ではなく、自分自身の内
部から、襲ってくる恐怖であった。つかみどころがなかった。「もしもあのとき……」と、そんなこ
とを考えていると、妄想が妄想を呼び、わけがわからなくなってしまった。それに、思い出したく
はないのだが、事故の生々しい様子が、心にペッタリと張りついて、それが取れない。かきむし
っても、かきむしっても、取れない。

 本来なら、二男が生きていることを喜べばよいのだが、そういう気持ちにはなれない。「よか
った」と思うより先に、「どうしてあんなことをしたのだろう」と、自分を責めてしまう。そして一度、
そういう状態になると、足元をすくわれるような不安状態になってしまう。じっとしておられないと
いうか、何をしても、手につかない状態になってしまう。

 よく覚えているのは、そのあと、湖を見るのもこわかったということ。実際には、それ以後、一
度も、湖へは行っていない。正確には、海水浴には、行っていない。おかしな妄想が頭にとりつ
いたこともある。「今度、息子たちを湖へ連れていったら、湖の悪魔に、命を取られるぞ」と。そ
ういうオカルト的な現象など、まったく信じていない私が、である。

 私のばあいは、「湖」とか、「海水浴」が、心的外傷後ストレス障害のキーワードになってい
た。それでそれを避けることで、やがて、少しずつだが、気持ちが和らいでいった。あれからも
う、二〇年になるが、こうして思い出してみると、いつの間にか、それが一つの思い出になって
いるのに、今、気づく。以前のような、フラッシュバックに陥るということは、もうない。

 ただあのとき、二男を湖から救い出してくれた恩人(私はいつも「恩人」と呼んでいる)につい
ては、その恩を忘れたことはない。二男に何かあるたびに、私とワイフ、ときには二男を連れて
あいさつに行っている。中学を卒業したとき。アメリカへ出発したときなど。相手の人は、ひょっ
としたらそういう私たちを迷惑がっているかもしれないが、私はどうしても、それをしたい。しな
いわけにはいかない。つまりすることによって、二男が、助かるべきして助かったという実感を
ものにしている。

 専門的には、心的外傷後ストレス障害の人に対して、グループ治療や、行動療法が効果的と
いう説もある。私のばあいは、精神科のドクターの世話になることはなかった。ただワイフが、
たいへん精神的にタフな女性で、その点では、ワイフに助けられた。私がフラッシュバックに襲
われたときも、私に、「あんたは、バカねえ。助かったのだから、それでいいじゃない」と言ってく
れたりした。

【Aさんへ】

 私の経験では、こうした心的外傷後ストレス障害は、なおらないということ。そのため、なおそ
うと思わないことだと思います。それを悪いこと、あるいは、あってはならないことと思ってしまう
と、かえって自分を責め、ストレスが倍加してしまいます。

 もっとも効果的な方法は、とにかく忘れること。そのため、その事故を思い起こさせるようなで
きごとを、自分から遠ざけることです。私のばあい、一時は、湖の方角さえ向きませんでした。
ただそのあと、水泳の能力の必要性を痛感し、息子たちを水泳教室へは入れました。

 そしてここが重要ですが、あとは時間が解決してくれます。『時は、心の治療人』と考えてくだ
さい。こうしたもろもろの心の問題は、心的外傷後ストレス障害にかぎらず、時が解決してくれ
ます。悪いことばかりではありません。

 とくに二男は、生きていることのすばらしさを、そのあと、教えてくれました。また心的外傷後
ストレス障害といいますが、そういう状態になると、感性がとぎすまされ、他人が見ることができ
ないものが、見えてきたりします。言いかえると、そういう経験をとおして、あなたの子どもは、
今、あなたに何かを教えようとしているのです。

 ここに添付したような原稿(中日新聞に発表済み)は、そういう私の気持ちを書いたもので
す。どうか、参考にしてください。何かのお役にたてるものと思います。今の私の立場で言える
ことは、「どうか、一日も早く、いやな思い出は忘れて、明るい太陽の方に顔を向けてください」
という程度でしかありません。

++++++++++++++++++++++++

●TSさんへ、

 心を解き放て!
 解き放って、空を飛べ!
 あなたは、今、生きている。
 あなたの子どもも、今、生きている。
 それを、友よ、すなおに喜ぼうではないか。

 苦しんでいるあなたは、幸いなれ!
 あなたには、他人に見えないものが見える。
 命の尊さ、命の美しさ、
 そして命のあやうさ、
 だからあなたは、人一倍
 自分の人生を大切にする。
 生きる尊さを、まっとうする。

 事故?
 とんでもない!
 あなたの子どもは
 あなたに、生きる意味を、教えるために
 今、そこにいる。
 それを、友よ、すなおに受け入れようではないか。
 そして、友よ、あなたの子どもに感謝しようではないか。
 あなたのおかげで、私は生きる意味がわかったわ、と。

 苦しんでいるあなたは、幸いなれ!
 真理への道は、いつも苦しい。
 その苦しさを通ってのみ、
 あなたは、その真理にたどりつく。
 だから友よ、恐れてはいけない。
 だから友よ、逃げてはいけない。
 あなたは自分を受け入れ、
 あなたの子どもを受け入れる。

 さあ、友よ、明日からあなたは、
 新しい人生を歩く。
 勇気を出して、歩く。
 もうこわがるものは、何もない。
 なぜなら、あなたは、今、
 生きる意味を、知っている。

++++++++++++++++++++++++++

【Q14】知的な問題をかかえている子ども(中学生)をもっています。このところ勉強がきびしく
なり、子どもも苦しんでいます。いろいろ後悔することばかりです。どう考えたらよいでしょうか
(HY)。

【A、はやし浩司より】

 私の講演も、四回目とか。ありがとうございます。むしろ、あまりお役にたてず、申し訳なく思
っています。

 私も、いろいろな問題をかかえ、それと戦ってきました。そういう中で書いたのが、つぎの原
稿(中日新聞掲載済み)です。HYさんのお気持を、とても救うことはできないと思いますが、同
じように悩んでいる人は、決して、あなた一人だけではないということを、この原稿をとおして、
わかっていただければ、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++++++

生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこ
にいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをして
いる……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価
値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決す
る。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

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家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人
には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、
そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだ
けでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私
は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そう
いうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じ
ゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせい
ぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部
屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いてい
る。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。
が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもた
ちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度
をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こうい
う家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。

+++++++++++++++++++++++++

 HYさんへ、あとは時間が解決してくれますよ。『時は、心の癒し人』です。それを信じて、前に
向って進んでください。過去にとらわれることなく、未来を恐れることなく、今日、今できること
を、懸命に、ただひたすら懸命にすればよいのです。いっしょに、がんばりましょう!

++++++++++++++++++++++++

【Q15】昨今の殺伐とした事件を見ていると、自身をなくします。親子の信頼関係ですが、どの
ようにして、子どもを育てればよいのでしょうか。

【A、はやし浩司より】

 親子の信頼関係は、私にとっても、ずっと大きなテーマです。また家庭教育の「柱」ともなるべ
き、テーマです。そのため私は過去に、無数の原稿を書いてきました。それらのいくつかを、紹
介させてください。内容的に、ダブるところもありますが、どうかお許しください。これらの原稿を
読んでくださり、何らかの形で、あなた自身が、「信頼関係」を考えるきっかけになればうれしい
です。

++++++++++++++++++++

孤独な人たち

 猛烈な接近と、今度は手のひらを返したような忌避。人間関係をうまく結べない人は、この二
つを交互に、繰りかえす。

 ショーペンハウエルのヤマアラシ論。ある寒い夜、二匹のヤマアラシが、たがいに体をよりそ
って、暖をとろうとした。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、体を痛める。しかし離れると、
寒い。そこで二匹のヤマアラシは、ほどよいところで、体を離したり、くっつけたりしながら、暖を
取りあった……。

 人間関係をうまく結べない人は、その原因の一つとして、自分のさらけ出しができない。あり
のままの自分を、ありのままに見せることができない。どこかで無理をする。いい人ぶる。仮面
をかぶる。だから人前に出ると、キズつきやすく、疲れやすい。

 さらにその原因はというと、その人の乳幼児期にある。このタイプの人は、とくに母親との関
係において、基本的信頼関係を結ぶことができなかった人と考えてよい。子どもというのは、絶
対的な安心感を得られる環境の中で、心を開くことができる。「絶対的」というのは、「疑いす
ら、抱かない」という意味。「どんなことをしても、どんなことを言っても、自分は守られるのだ」と
いう安心感をいう。

 この段階で、育児拒否、冷淡、拒否的態度、家庭不和、無視などが重なると、子どもは、心を
開くことができなくなり、ついで基本的信頼関係を結ぶというよりは、その結び方のし方そのも
のを、身につけることができなくなる。またこの時期、一度失敗すると、それが基本的不信関係
となり、その後の子どもの心の発育に大きな影響を与える。

 基本的信頼関係は、その文字が示すとおり、「基本的」なもの。この信頼関係が基本となっ
て、園や学校の先生、さらには友人との信頼関係へと発展していく。しかし基本的信頼関係が
結べない子どもは、さまざまな分野で、信頼関係を結べなくなる。具体的な症状としては、つぎ
のようなものがある。

●忠誠心が弱く、だれにでも愛想がよくなる。
●へつらう、機嫌をうかがう、小ずるくなる。
●心を開かない分だけ、心がゆがみやすい。ひねくれる、いじける、つっぱる、ひがむなど。
●孤独で、さみしがり屋。個人的な利益誘導型の人生観をもつ。
●人間関係の調整ができず、衝突、別離を繰りかえす。
●よい人ぶる、仮面をかぶる。疲れやすい。キズつきやすい。
●独断的、ひとりよがりになりやすい。偏屈、がんこになる。
●猜疑心が強く、嫉妬深い。裏切られる前に裏切るという姿勢になる。

 こうした心の問題は、そういう問題があるということではなく、そういう問題があることに気づ
かないで、同じ失敗を繰りかえすこと。しかし問題を解決するためには、まず冷静に自分の過
去をさぐり、そしてそういう問題があることに気づくこと。そのあと少し時間はかかるが、問題は
解決する。あるいは自分をコントロールすることができるようになる。

 なおこのタイプの人で、注意しなければならないことは、その人自身というよりも、その人の周
辺で、困惑している人が多いということ。冒頭に書いたように、猛烈な接近と、忌避を繰りかえ
すため、周囲の人が、それに翻弄(ほんろう)されてしまう。このタイプの人は、あるときは、ベタ
ベタと異常なまでに接近してきたかと思うと、今度はそれが拒否されたようなとき、一転、忌避
に向う。だから周囲の人は、その人がどんな人か、わからなくなってしまう。私の印象に残って
いる女性に、R子(三五歳)という女性がいた。

 R子は、ある時期は、こちらが望んでもいないのに、いろいろなものを送ってくれたり、届けて
くれた。しかしそれを断ると、今度は、一転、冷淡な態度をとる。それを周期的に、たとえば数
か月おきに繰りかえした。

 自己中心性が強く、会話をしても、自分の話題ばかり。たとえばR子は、望んでもいないの
に、電話をかけてきては、「ここのラーメンはおいしい」「あそこのラーメンはまずい」というような
話をする。さらには隣町のラーメンの話までする。で、一度、「今は、忙しいので、そういう話は
またのときにお願いできますか」と断ると、「ああ、そう!」と言って、電話をガチャンと切る。で、
以後、数か月、まったく音沙汰なし……。

 こうした姿勢が子どもに向かうと、当然のことながら、その影響は、子どもにおよぶ。このタイ
プの母親は、@ささいなことを気にして、それをことさら大げさに問題化する。A一方的な思い
込みで、子どもに無理を強いたり、強制したりする。Bものごとを極端に考える傾向が強くな
る、など。子ども自身も、基本的信頼関係を、母親との間に結べなくなることも多い。

 教える側からすると、もっとも相手にしたくない親ということになる。つかみどころがなく、機嫌
をそこねると、今度は徹底した反感をもつ。そして教える教師に対して、攻撃的になったり、あ
るいは敵意をもった行動をするようになる。つまりは、安心してつきあえなくない。その人自身
が不安になるのは、その人の勝手だが、このタイプの人は、他人をも不安にする。

 以下はMKさんという方からいただいた、質問への、私の返事です。参考にしていただけれ
ば、うれしいです。

++++++++++++++++++++++

MKさんへ

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安といいます。その緊張状態に、不安や心配が入り
こむと、心はそれを解消しようと、一挙に不安定になります。つまり情緒不安は、あくまでも症
状にすぎないということです。

 そしてその症状は、子どもによって異なります。攻撃型(乱暴になる、暴力的になる)、固着型
(過去にこだわる、クヨクヨする)、固執型(毛布の切れ端や、ものにこだわる)、内閉型(ぐず
る、引きこもる)に大きく分けて考えます。

 で、問題は、なぜ心の緊張感がとれないかですが、基本的には、人間関係の結び方ができ
ないとみます。自分の心をさらけだして、自己開示ができない。あるいはそれが不十分というこ
とです。原因は、乳幼児期の、母子関係が不全であったことが疑われます。

 子どもは、対母親との関係で、基本的人間関係を結びます。父親ではありません。母親で
す。そういう意味では、子どもにとっては、母親は絶対的な存在です。その母親に対して、絶対
的な安心感を覚えることで、子どもは、基本的信頼関係の結び方を覚えます。「絶対的」という
のは、「まったく疑いをいだかない」という意味です。

 この基本的信頼関係は、その後、父親や家族、園の先生、さらには友人との信頼関係の基
本となります。だから「基本」という言葉を使います。が、母親との信頼関係を結ぶことに失敗し
た子どもは、その後、母親以外の人たちとも、うまく人間関係を結ぶことができなくなります。た
とえば症状としては、仮面をかぶる。心が遊離するなど。あるいはさらにはひどいケースでは、
人格の分離が始まります。「遊離」というのは、心と表情が一致しないこと。このタイプの子ども
は、いわゆる何を考えているかわからないタイプの子どもといったふうに、なります。

 全体的にみて、MKさんのお子さんは、この流れの中にあるとみます。恐らく、子どもの側か
らみて、(MKさんには、その意識はなくても……)、生後まもなくから、乳児期にかけての時
期、どこかで母親の冷淡、無視、拒否を感じたのかもしれません。(あるいはひょっとしたら、子
どもの誕生について、大きな不安やわだかまりがあった? 望まない子どもであったとか…
…?)

そのため、お子さんは、いつも不安を基底とした心理状態になったのだと考えられます。このタ
イプの子どもは、何をしていても不安なのです。そしてその不安を解消しようと、つまりは自分
を忘れる行動に走りやすくなります。行動が、どこか享楽的になるのは、そのためです。

 以上が一般論ですが、ではMKさん自身はどうであったかという問題もあります。MKさんご
自身が言っておられるように、「あまり温かい家庭に育っていなかった」ということが、「根」にあ
ることは、十分疑ってみてよいと思います。そこでMKさんは、「よい母親になろう」「家庭という
のは、こういうものでなければならない」「よい家庭を築こう」という、気負い先行型の子育てをし
てしまった。実は、問題の根本は、ここにあります。わかりやすく言うと、子どもが緊張状態から
解放されないのは、MKさん自身が、その緊張状態にあるためです。そういう意味で、子どもの
心は、カガミのようなものにすぎないということです。

 子どもに何か問題があると、たいていの母親は、子どもだけをみて、「子どもをなおそう」と考
えます。しかし問題の根本は、母親自身にあります。まずMKさん自身が、それに気づくことで
す。

 MKさん、あなたは、子どもに、心を開いていますか。安心して、自分をさらけ出しています
か。よい親ぶっていませんか。よい子を求めすぎていませんか。よい家庭を築こうと、気負いす
ぎていませんか。過大な要求を、子どもにぶつけていませんか。そして子どもの側からみて、あ
なたやあなたの家庭は、安心感にあふれた、心豊かな家庭になっていますか。子どもにとっ
て、あなたや家庭が、体や心を休める場所になっていますか。あなたの目の前で、子どもが心
を全幅に開き、好き勝手なことをしていますか。もしそうならそれでよし。そうでないなら、あな
たや家庭のあり方を、まず反省してみてください。それをしないと、あとは、いくら、何をしても、
対症療法に終わってしまいます。

 順に考えてみましょう。

(1)とにかく、学校での緊張が強くて疲れやすいので困っています。休み時間は、元気に遊ん
でいるようですが、授業中は、先生に叱られては、いけない、上手く発言したいなどの意識が
強いようです。プライドが高くて、結果ばかり気にしているようです。また、気が小さいわりに頼
まれると、クラスで応援団の代表の一人に選ばれたりしますが、隣の子が叱られていても、びく
びくして涙ぐむタイプです。

このタイプの子どもは、いわゆる内弁慶外幽霊のタイプと考えます。外の世界で無理をする分
だけ、家の中では、粗放化します。そこで大切なことは、「ああ、うちの子は、外でがんばってい
るから、家の中ではその反動で、粗放化するのだ」と、理解してあげることです。家の中で、乱
暴な言葉を使っても、大目に見てあげてください。家の中で、こまごまと、神経質な接し方をして
はいけません。部屋の中が散らかっていても、子どもの好きなようにさせます。また子ども自身
は、学校でがんばっているようなので、その点を高く評価してあげてください。応援団の代表に
選ばれたら、「すごいわね」と、心底、喜んでみてあげてください。

(2)一人目で、四歳下の妹がいますが、小さいときから、神経質に私がなりすぎたせいか、気
が小さいです。今も、寝るときは、ぬいぐるみ(ぼろぼろの雑巾状態)を持って、指しゃぶりをし
ながらでないと眠れません。私が添い寝をすると安心するようです。

妹さんも、どこかでいつも不安を覚えていると考えてよいようです。こういうケースでは、とにか
く、スキンシップを濃厚にしてみてください。ベタベタがよいというのではありません。子どもがス
キンシップを求めてきたら、それに対して、良質なスキンシップ(ぐいと、力いっぱい抱くなど)を
与えるということです。たいていは一〇秒〜長くて一分程度で満足するはずです。コツは、親側
からベタベタするのではなく、子どもが求めてきたら、いとわないということです。


(3)学校から帰ると毎日友達と、ゲームや外遊びをしています。私が専業主婦なので、七人く
らいの友達が来ることもあります。いつもは三、四人で遊んでいます。家では、野生のサルの
ように活発ですが、「宿題は?」というと、ひどく怒ります。家では、私が何も言わないと機嫌よく
友達と遊び、寝る前に宿題のみをして、寝るような毎日です。

 「宿題」という言葉が、キーワードになっていることが、これでよくわかります。つまり緊張状態
を一挙に不安定にさせる、キーワードになっているということです。こうした反応は、習慣化して
いるはずなので、この言葉は、子どもの前では使わないようにしてください。

 「家では、私が何も言わないと機嫌よく友達と遊び」というのは、MKさんが、過干渉気味の母
親であることを示しています。全体としてみればそうでないかもしれませんが、子どもがかなり
不安定な状態のときは、ふつう程度の干渉でも、そのまま過干渉になってしまいますから、注
意してください。つまり子どもの側からみて、MKさんは、「小うるさい存在」なのです。私があな
たなら、子どもは、学校で、無理をしているので、家の中では、好き勝手なことをさせますが…
…。

(4)私が、あまり温かな家庭に育ってないせいか、子育てに張り切りすぎて子どもをゆがめて
しまったようです。私は、進学校で落ちこぼれ、店員をしていました。主人は、月の半分が出張
で、働いていますが、腎臓の難病をかかえています。

 ほとんどの人は、気負い先行型の子育てをしています。だからMKさん、あなただけが、問題
があるというのではありません。だからどうか肩の力を抜いてください。あなたはすでに十分、
すばらしい母親です。(だから、こうして私のところにメールをくださり、私も返事を書いていま
す。)あなたは今、懸命に自分をさがしておられる。そういう姿勢が、必ず、あなたやあなたの
子育てを前向きに引っ張っていきます。

 あなた自身も、言いたいことを言い、したいことをすればよいのです。「落ちこぼれた」などと
言っていないで、今、あなたがしたいことをすればよいのです。あなた自身が、こうした挫折感
を覚えているから、子どもに向かっては、「勉強は?」「宿題は?」となってしまうのです。つまり
あなたは自分の不安を子どもに、ぶつけているだけなのです。それがわかりますか?

 あなたは落ちこぼれでも何でもありません。むしろ受験勉強をして、スイスイと勝ち組になっ
たかにみえる連中のほうが、これからどんどんと落ちこぼれていくのです。だから自分のこと
を、絶対に、「落ちこぼれ」と言ってはいけません。「私は懸命に生きてきた。そのつど、懸命に
最善の道を選んできた。これが私の人生よ。ほかに何があるの!」と。そう居直りなさい。つま
りそういう形で、あなたの中に潜む、受験信仰(カルト)と戦うのです。それを克服したとき、あな
たは自分の子どもにこう言うようになるでしょう。

 「宿題? そんなもの、適当にすればいいのよ!」と。

この大らかさが、子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、あなたに心を開くことができる
ようになります。

 今、あなたの子どもは、あなたに対して、心を開くことができず、もがいています。苦しんでい
ます。そしてあなたはあなたで、それを孤独に感じている。つまりたがいにキズつきあっている
だけ。もう、そういう愚劣なことはやめましょう。でないと、今度は、あなたの子どもがいつか父
親になったとき、やはり心豊かな家庭作りに失敗するだけです。だから今は、あなたがここで
ふんばって、それを断ち切るのです。

 まず、自分を子どもの前でさらけ出してみてはどうでしょうか。「宿題なんて、いやなものだっ
たわ。お母さんも、大嫌いだった。いやだったわ。お母さんも、勉強ばかりする高校へ入ったけ
ど、勉強なんて、したくなかったわ」と。もしできればそのとき、一方的に「宿題をしなさい」では
なく、「いっしょに、しようね」と声をかけてみてはどうでしょうか。勉強はさせるものではなく、親
子で楽しむもの。テレビやゲームをしながらでも、三〇分かけて、五分程度勉強すれば、しめ
たもの。そういう大らかさを大切にしてください。

 ご主人のご病気、たいへんですね。まだお若いかと思いますが、どうかくれぐれもよろしくお
伝えください。ご健康を念願しています。最後に、家族は、守りあい、助けあい、教えあい、励ま
しあい、教えあう。そんな心を、これからも大切にしていきましょう。また何かあれば、ご連絡く
ださい。今日は、これで失礼します。

++++++++++++++++++++++++

さらけ出す

●すなおな心

 人間関係に悩んでいる人は多い。富山県に住んでいるMさん(四〇歳、女性)もそうだ。厳格
な祖父母と、形だけの夫婦の両親のもとで育てられた。そのためかどうかはわからないが、
(そのためと考えて、ほぼまちがいないようだが……)、Mさんは、他人との信頼関係がうまく結
べなくなってしまった。Mさんが訴えるところの症状を並べてみる。

●同窓会などに出ると、どうしてみなは、ああも楽しそうなのかと思う。それで自分も楽しもうと
思うが、どうしても楽しめない。また楽しもうと思えば思うほど、かえって疲れてしまう。

●何をしても不安で、心配。あとでほかの人が、「じょうずにできたじゃない」などと言ってくれる
と、かえって不安になってしまう。私自身は、自分では失敗したという思いから、抜けでることが
できない。

●子ども(二人の男女)に対しても、何かにつけて完ぺき主義で、ついこまかいことを言ってし
まう。子どもを信ずることができない。子どもも、集団の中で、どこかオドオドしているよう。そう
いう姿を見ると、自分を責めてしまう。

●実家へ帰っても、心が休まらない。たまに一泊することもあるが、かえって疲れてしまう。父
も母も、それなりにいい人だと思うが、どうしても心を許すことができない。親子なのに、たがい
に、あれこれ気をつかう。

●子どものときから、親に「あんたは長女だから」と、いつも言われつづけた。いい子でいるの
が、当たり前という環境だった。弟のできがよかったこともあり、いつも弟と比較された。「どうし
てあんたはできないの!」と、よく叱られた。

こういうケースでは、まず身近なことから、少しずつ、自己開示をしてみる。自分の心を偽ら
ず、正直に表現してみるということ。私にも、こんな経験がある。

 私は、子どものときから、台風が好きだった。台風が接近してくると、内心では「こっちへくれ
ばいい」と願った。あの緊迫感が何とも言えない。しかしそれは悪いことだと思っていた。私は
学校や、人前では、優等生(?)だった。だから人前では、「台風がくると被害が出るから、こな
いほうがいい」などと自分を偽っていた。

 が、ある日のこと。私が三五歳もすぎてからのことだが、一人のアメリカ人の友人が、私にこ
う言った。「ヒロシ、ぼくは台風が好きだよ。台風の日には、ベランダにイスを置いて、それに座
って台風を見ているよ」と。

 この言葉には驚いた。そこで「何が、楽しいか?」と聞くと、「風にのって、ものが飛んでいくの
を見るのは、本当に楽しい」と。

 その言葉を聞いて、私は「何だ、そうだったのか」と、へんに感心した。以来、私は、すなお
に、「台風が好きだ」と言うようになった。

 これは一例だが、こうして自分の心を少しずつ、開示していく。ただし、簡単にはできない。た
いていの人は、本来の心がどういう状態なのかわからないほどまでに、布や糸で、心がぐるぐ
る巻きになっている。がんじがらめになっている。そういう布や糸を、ひとつずつ、ていねいにほ
どいていかねばならない。

●さらけ出す 

 自分をさらけ出すのは、むずかしい。今日もワイフと、ラーメン屋でラーメンを食べながら、こ
んな話をした。

私「自分をさらけ出すというのは、簡単なことではない」
ワ「そう……?」
私「たとえば目の前に、胸のすてきな女性がいたとする。そういう女性に向って、『あなたの胸
にさわってみたい』とは言えない」
ワ「当たり前でしょう」
私「しかし、お前の胸やお尻なら、さわりたいとき、さわれる」
ワ「それも当たり前でしょう」
私「そこなんだ。夫婦だったら、たがいにさらけ出しができる。だからそれを基盤として、信頼関
係を結ぶことができる。が、他人では、できない」
ワ「それが人間関係というものじゃ、ないの?」
私「そう。そうなると、他人と信頼関係を結ぶためには、どうしたらいいのか。たとえば反対に、
夫婦のばあい、言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、もうその夫婦
は、危険な状態にあるとみていい。親子でもね」と。

 そこで大切なことは、まず自分に正直に生きること。そのために、自分の心に静かに耳を傾
けてみること。その上で、がまんすべきことは、がまんする。妥協すべきことは、妥協する。

 ここにも書いたように、いくら正直といっても、「あなたの胸にさわりたい」と言えば、その時点
で、相手を侮辱(ぶじょく)したことになる。セクハラになる。そこでがまんする。同じように、時と
ばあいによっては、妥協もしなければならない。それが社会生活というもの。

 そこで、もしあなたが、人とうまく人間関係が結べないようなら、こうしたらよい。

(1)無理をしない。……そういう自分がおかしいとか、まちがっているとか、そんなふうに思って
はいけない。「私は私」と割り切る。この世界には、完ぺきな人間はいない。他人との交際が苦
痛だったら、「私は苦痛だ」と言えばよい。避けたかったら、避ければよい。大切なことは、無理
をしないこと。

(2)正直に生きる。……仮面をかぶってはいけない。いい子ぶってはいけない。いい人に見せ
ようと、がんばることもない。それを開示するかどうかは別として、自分の正直な気持ちを大切
にすればよい。

(3)居直る。……あとは、「私はこういう人間だ」と居直ればよい。私も人前で話すことが多くな
った。だからどうしても、自分をつくってしまう。飾ってしまう。が、そうすると、そのあと本当に疲
れる。今は、ありのままの自分をさらけ出すようにしている。それで人が去っていくようなら、そ
れはそれでよい。しかたのないこと。

(4)そういう自分とうまくつきあう。……どんなばあいも、自分の欠点や欠陥に気づいたら、そ
れをなおそうと思ってはいけない。思う必要もない。それに気づいたときから、それとうまくつき
あうようにする。
 
 さあ、あなたも勇気を出して、自分の気持ちを、すなおに、正直に話してみよう。一つのヒント
として、『クレヨンしんちゃん』の母親の、みさえを見習うとよい。(コミック本のほうが、よい。とく
にv1〜v7、8あたりまでが、参考になる。テレビのアニメは、つくりすぎていて、不自然?)

 みさえは、実にわかりやすい生き方をしている。すがすがしい。それで人との信頼関係が結
べるかどうかは別にして、さらけ出しは、人との信頼関係を結ぶためには、必要条件。自分を
ごまかして生きている人は、他人を信頼することもできないし、他人から信頼されることもない。
 
++++++++++++++++++++++++

自己開示

 自分のことを話すという行為は、相手と親しくなりたいという意思表示にほかならない。これを
「自己開示」という。その自己開示の程度によって、相手があなたとどの程度、親しくなりたがっ
ているかが、わかる。

(1)自分の弱点の開示(私は計算が苦手)
(2)自分の失敗の開示(私はケースを割ってしまった)
(3)自分の欠点の開示(私は怒りっぽい人間だ)
(4)自分の家族の開示(私の母は、おもしろい人だ)
(5)自分の体のことの開示(私は、足が短いことを気にしている)
(6)自分の心の問題の開示(私は、よく、うつ状態になる)
(7)自分の犯罪的事実の開示(二年前に、万引きをしたことがある)

 (1)の軽度な自己開示から、(7)の重大な自己開示まで、段階がある。相手があなたに、ど
の程度まで自己開示しているかを知れば、あなたとどの程度まで親しくなりたがっているかが
わかる。もしあなたと交際している相手が、自分の体の問題点や、病気、さらには心の問題に
ついて話したとするなら、その相手は、あなたとかなり親しくなりたいと願っていると考えてよ
い。

 子どもの心も、この自己開示を利用すると、ぐんとつかみやすくなる。コツは、よき聞き役にな
ること。「そうだね」「そうのとおり」と、前向きなリアクション(反応)を示してやる。批判したり、否
定するのは、最小限に抑える。

 反対に、子どもがどの程度まで自己開示するかで、子どもの心の中をのぞくことができる。と
きどきレッスンの途中で、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と話し始める子ども(幼児)が
いる。私はそういうとき、「そんな話はみんなの前で、してはいけないよ」とたしなめることにして
いる。それはそれとして、子どもがそういう話をしたいと思う背景には、私と親しくなりたいという
願望が隠されているとみる。が、こんな失敗をしたこともある。

あるとき、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と言い出した子ども(年中男児)がいた。「何
だ?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「寝るとき、裸で、レスリングしていたよ」と。

 さてあなたは、だれに対して、どのレベルまでの自己開示をしているだろうか。それを知ると、
あなたの心の中の潜在意識をさぐることができる。

++++++++++++++++++++++++

会話のない父子

Gさん(五六歳・女性)が、こう相談してきた。「夫と、父親が、まったく会話しません。そういう状
態が、結婚のときからつづいています。どうしたらいいでしょうか」と。

 Gさん父子(七三歳と四八歳)は、この三〇年間、ほとんど会話をしていない。同居していて
も、だ。毎日が一触即発。ささいな言い争いが、そのまま大げんかになることも珍しくない。

 原因は、父子の確執(かくしつ)。だれしもそう考える。しかし心理学では、そうは考えない。原
因は、息子の側の心の緊張感がとれないこと。息子自身が気がついているかどうかは別にし
て、息子は、父親を前にしたとたん、心が緊張状態になる。こういう例は多い。

 Aさん(三五歳、女性)は、盆暮れに実家へ帰るのが苦痛でならないという。親を前にすると、
ピンとした緊張感が走り、あとは何をしても疲れるだけ、と。

 Bさん(三五歳、女性)もそうだ。ときどき実母が遊びにくるのだが、帰るたびに、はげしい偏
頭痛に襲われるという。

 父子だから、信頼しあうなどというのは、もはや幻想でしかない。ざっとみても、約五〇%の
父子は、「うまくいっていない」。「うまくいっていない」というのは、「うまくいっていない」というこ
と。

 問題は、なぜ心の緊張感がとれないかということ。あるいは親を前にすると、子どもが緊張し
てしまうかということ。さらに悲劇的なことに、そういう状態を、子どもも気がつかないが、それ
以上に、親も気がつかないということ。

 この問題の「根」は深い。深いだけに、簡単にはなおらない。

 子どもは、絶対的な安心感のある家庭で、親子の信頼関係を結ぶことができる。「絶対的」と
いうのは、疑いすらもたないという意味。したいことをし、言いたいことを言うという環境である。

 推察するに、Gさん父子には、そうした信頼関係がないとみる。父親のほうはともかくも、子ど
ものほうには、それがない。不信関係というのではない。信頼関係そのものがない。もっとわか
りやすくいうと、子どもの側が、安心して父親に心を開くことができない。つまり子どもが、乳幼
児のときに、すでにそういう状態になってしまった。

 こういうケースでは、息子は、子どものころ、親の前では仮面をかぶるようになる。いわゆる
「いい子ぶる」ということ。だから父親は、ますます子どもの心を見失う。見失ったまま、「私はす
ばらしい親だ」と錯覚する。あるいは、「うちの息子は、できのいい息子」と誤解する。

 こういう心のズレがやがてキレツとなり、さらには断絶へと発展する。気がついたときには、
「会話のない父子」になる。

 では、どうするか。

 こういうケースでは、父親のほうができることは、ほとんど、何もない。母親ができることは、さ
らにない。また親たちが何かをすればするほど、逆効果。一方、子どもの側は、その緊張感を
取りのぞくのは、並大抵の努力ではできない。もしそんなことができれば、この世の中には、情
緒が不安定な人はいないということになってしまう。人間関係というのは、そういうもの。人間の
心というのは、そういうもの。

 では、どうするか。

 一度、そういう状態になったら、もうあきらめるしかない。皮肉なことに、こういうケースでは、
父親が死んだとき、はじめて、問題が解決する。よほどのことがないかぎり、それまでは無理。
つまり「私たち父子は、こういうもの」と、割り切るしかない。そしてあとは、たがいに気にせず、
それぞれが自分の道を進むしかない。

 ただ、誤解してはいけないのは、たがいの絆(きずな)は、表面的な関係はともかくも、しっか
りとあるということ。あるいはふつうの親子よりも、太いかもしれない。いざとなれば、息子は、
親子の意識にのっとり、行動する。それを信じて、自分の道を進む。

【追記】

 よく「人と接すると、疲れる」と言うひとがいる。これは対人関係において、緊張感がとれない
ためにそうなると考えると、わかりやすい。あるいは人と接すると、心が緊張状態になってしま
う。

 問題は、なぜ緊張状態になるかということ。一つには、安心できない。一つには、相手に対し
て、心を開くことができないなどがある。しかしやはり、こういうケースでも、他人と、信頼関係を
結ぶことができないのが、基本的な原因と考える。

 つぎのような人は、信頼関係の結び方が、苦手な人とみる。

●他人と接するのが苦手。近所づきあいをしても、すぐ精神的に疲れてしまう。
●他人の前に出ると、いい子(人)ぶってしまう。無理をする。自分をかざる。
●他人に心を許すことができない。いつも警戒してしまう。思ったことも言えない。
●相手の意見の合わせてしまう。追従的になることが多い。(あるいは攻撃的になることもあ
る。)

さて、あなたはだいじょうぶか?

++++++++++++++++++++++

 「あなたはすばらしい子」という親の思いが、子どもを伸ばします。心理学でも、これを「好意
の返報性」といいます。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようと
します。そういう子どもの性質をうまく利用すれば、子どもは、前向きに伸びていきます。

 ですから、いろいろな事件が起きても、不安になる必要はまったくありません。あなたはあな
たとして、自分の子どもを信じてください。今日があるように、明日も、必ず、あります。あさって
も、必ず、あります。そして今日の子どもがいるように、明日の子どもも、必ず、います。あさっ
ても、必ず、います。今すべきことは、今を懸命に生きること。そうすれば、結果は必ず、つい
てきます。だから、もう心配はしないこと、ですね。また何かあれば、(できればメールで)、相談
してください。力になれると思います。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(983)

心の掃除(そうじ)

 若い人でも、心に、ゴミだらけの人がいる。年配の人でも、心に、ゴミのない人がいる。そうし
た違いは、その人から、一歩退いて見ればわかる。

 たとえば幼児を見てみよう。この時期の子どもの心には、ゴミがない。純朴で、純粋。しかし
そういう子どもでも、年齢を重ねると、そこにさまざまなゴミがたまり始める。やがて純朴さや、
純粋さが消え、ときには、醜悪ささえ、感じさせるようになる。

 たとえば駅前やコンビニで、ミニスカートをはいて、地面に座っている女子高校生を見てみよ
う。どこか卑猥(ひわい)な笑みを浮かべながら、携帯電話をいじっている。そういう子どもは、
子どもでありながら、心の中は、ゴミだらけ。外に向かって悪臭を放ちながら、その悪臭にすら
気づいていない。

 ところで今日、ワイフと食事しているとき、こんな事件があった。場所は、大型スーパーの一
階。和食レストランの中だった。その窓側に座って食事をしていると、ガラス窓の向こうに、軽
のバンが止まった。

 その場所は、身体障害者用の駐車場だった。大きなフェンスが張られ、「健常者の方の使用
はお断りします」と書いてある。地面には、一面に、紺の色が塗られ、車椅子の模様が描いて
ある。

私とワイフは、どんな人が車からおりるのかを見ていた。が、出てきたのは、二五、六歳の若
い女性だった。見た感じ、ピンピンとしている。とても身体障害者には見えなかった。

 そのときのこと、駐車場の整理をしていた守衛(ガードマン)が、その女性のところに走り寄っ
てきた。会話は聞こえなかったが、多分、守衛は、「ここは駐車しないでください」というようなこ
とを言ったのだと思う。それに対して、その若い女性が、何やら、弁解しているようだった。

 守衛はそれに納得して、その場を離れた。が、そのあと、その女性は、おかしな行動をとり始
めた。

 まず、その女性は、バンのうしろのドアを、上にあけた。あけたまま、その場を、小走りにして
去った。私とワイフは、その様子を見ながら、だれか障害のある人を迎えに行ったのだと思っ
た。が、しかしその女性には、そういうことをする人に感ずる、あの独特の清純さは、なかっ
た。

 五分くらいすると、その女性は、また自分の車のところに戻ってきた。しかし今度は戻ってくる
やいなや、ドアをバタンとしめ、かぎをかった。私とワイフは、その光景に、驚いた。と、同時
に、わずかな希望が、それで消えた。その女性は、身体障害者用の駐車場を、悪用している
のがわかった。

 私はワイフに言った。「ぼくは、ああいうのを見ると、がまんできない」と。するとワイフも同じ
気持ちだったとみえて、「そうね」とうなずいた。

 で、またその女性は車から離れて、今度は、一〇分ほどどこかへ消えた。「買い物をしてい
る」と、私は思った。で、そのころちょうど、私とワイフは食事を終えた。「ぼくが注意してきてや
る」と言って、ちょうど席を立とうとしたのときのこと。その若い女性が、小さな袋をもって出てき
た。そして車にそそくさと飛び乗ると、あっという間に車を出して、走り去っていった。何とも不愉
快な光景だった。

 外へ出ると、私は、先ほどの守衛を呼びとめた。そしてこう聞いた。「あの女性は、あなたに
何と言って、弁解しましたか?」と。するとその守衛は、こう言った。「そこの自転車店で自転車
を買った。その自転車をもっていくためにきた。だから、ほんの少しだから、ここに止めさせてく
ださいと言いました」と。

私「自転車店へは行きませんでした」
守「わかっています」
私「ずるいですね」
守「そういう人は、多いですから……」
私「多いですか?」
守「多いです」と。

 もちろん女性の、「自転車うんぬん」という言葉はウソである。とっさの思いつきで、そう言った
のだろう。一連の動きの中で、それがよくわかった。私はワイフにこう言った。「ああした行為
は、身体に障害のある人への、冒涜(ぼうとく)行為だ。自分が障害者になったら、どうするの
だろう」と。

 心にゴミのある人は、こうした行為を平気でする。またそういう行為を繰りかえすうちに、ます
ますゴミをためる。そしてその結果として、その人を醜悪な人間にする。それに心のゴミという
のは、一度、心の中に入ると、それを取り除くのは、容易ではない。よほどのことがないかぎ
り、一生、そのまま残る。

 が、それだけではない。こうしたゴミは、人生を狂わせる。さらに、せっかくの人生を汚し、結
果として人生をムダにする。いつかその女性が、それに気づいたとしても、回り道した自分に
嘆くことになるだろう。

 そこで教訓。

 さあ、あなたも、勇気を出して、心のゴミを吐き出してみよう。方法は、簡単。小さな約束を守
る。ウソをつかない。人に迷惑をかけない。心の中から邪悪なものを、追放する。身のまわり
から邪悪なものを、消し去る。捨てる。たったそれだけのことでよい。あとは、日々の積み重ね
が、月となる。月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格となる。

 ……と書いて、このエッセーの結論。私はこのところ、心の中のゴミが気になってしかたな
い。私のばあい、それに気づくのが遅すぎた。言うなれば、心の中は、ゴミだらけ。だれが見て
も、私は、小ズルイ人間にしか見えない。そう、私は若いころ、その女性のような小ズルイこと
が平気でできた。そういう自分が、今になって、悔やまれる。あああ。

 夜、ワイフと、風呂の中で、こんな会話をする。

私「ぼくの顔は、醜悪だろ?」
ワ「ゼンゼン……」
私「お前は、いつも、そう言って、つまりぼくを安心させるために、ウソをつく」
ワ「じゃあ、どう言えばいいの?」
私「ぼくは、お前が思っているほど、誠実な人間ではない」
ワ「それがどうしたの?」
私「だから、ぼくの心の中には、ゴミがいっぱいたまっている。今に、それがだれの目にもわか
るようになる」
ワ「わからないわよ。あんたは、見た感じは、まじめそうだし……」
私「だろ。ぼくは見た感じは、まじめ? しかし心の中は、ゴミだらけ」
ワ「そうね。でも、みんな、ゴミだらけよ。私もゴミだらけ」
私「ははは、そうかもしれない。お前も、ゴミだらけ。お前の顔は、醜悪だ」
ワ「あんたの顔も醜悪よ」
私「ははは、やっぱり、そうだろ。ぼくはね、そう言われたほうが、気が楽なの。ははは」と。
(0307017)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(984)

せめて教育だけは……

 アメリカなんかへ行くと、チップがたいへん。うるさいほど、それがついて回る。一方、何がよ
いかといって、日本には、そのチップ制度がない。私のワイフなんか、タクシー乗っても、10円
単位のおつりまで、しっかりもらっている。

 中国の拝金主義には、ものすごいものがある。少しでもスキを見せると、すぐつけ入られる。
もう10年ほど前のことだが、こんな事件があった。ある川で、一人の男が溺れた。それでその
家族が、まわりにいた人に、「助けてほしい」と、泣いて頼んだ。が、まわりにいた人たちは、川
に飛びこむ前に、お金の交渉を始めたという。つまり「いくら出せ。出したら、助けてやる」と。そ
の間に、溺れた人はそれで死んでしまい、この事件は、中国で、やがて大きな社会問題にまで
発展した。

 似たような事件だが、二男がアメリカのフロリダまでドライブしたときのこと。美しい砂浜があ
ったので、その砂浜へ車を乗り入れた。とたん、タイヤが砂にはまり、身動きがとれなくなってし
まったという。

 が、そこへ四、五人の学生たちがやってきて、「二〇ドル出したら、車を出してやる」と。二男
は、同じ学生ということで、学生割引(?)をしてもらい、一〇ドルにしてもらったというが、しかし
それにしても……? その学生たちは、アルバイトで、そういう仕事(?)をしていたらしい。二
男はこう言った。「あいつら、車が砂にはまるのを、どこかで隠れて見ているんだよ。そして車
が砂にはまると、やってきて、それを金儲けにしているんだよ」と。

 日本も、このところ、何かとせちがらくなってきたが、しかし困っている人からはお金を取らな
い。そういう「やさしさ」が、まだ、どこかに残っている。少なくとも、私には、そういう発想がな
い。仮に溺れている人がいたら、お金の交渉を始める前に、川へ飛びこむと思う。砂浜で砂に
タイヤを取られた車を見つけたら、ただでその人を助けると思う。そのあと、お金をくれるといっ
ても、私なら、受け取らない。

 何でもお金で、合理的に割りきるのがよいのか悪いのかという議論は別にして、(私はそうい
う発想は好きではないが……)、それが日本の「よさ」ということになれば、たしかに日本には日
本のよさがある。残っている。私が生まれ育った、岐阜県の山奥の山村では、今でも、通りす
がりの人に対して、「飯でも、食っていかんけ?(食べていかないか?)」と声をかけるのが習慣
になっている。さらに昔には、見知らぬ旅人にまで、そういうふうに声をかけていたという。

 (もっとも、それはあいさつのようなもので、その言葉をそのまま本気で信じてはいけない。そ
ういうとき、声をかけられたほうは、たとえおなかがすいていても、「今、食べたところです」と断
るのが、ふつう。決して、「ああ、そうですか。では飯をいただきましょう」とは、言わない。言って
はならない。)

 が、今、そういう日本の「やさしさ」が、消えつつある。私はもともと、田舎人間だから、よけい
にそう思うのかもしれないが、都会の人ほど、ものの考え方が、ドライ。昔、東京の出版社や雑
誌社の人たちとつきあっていたとき、よくそう感じた。「こちらが、これだけのことをしてあげたか
ら、彼らも、それなりのことをしてくれるだろう」という考えは、都会の人には、通じない。いつも
一方的に、接待するのは、私のほう。彼らの自宅まで招待されて、食事の世話になったこと
は、その当時の二〇年間で、たったの一度しかない。

 そこで改めて、日本のよさとは何かについて、考えてみる。で、私はその「よさ」というのは、
「損をすることに対する寛大さ」で決まるのではないかと思う。現代人は、損得の計算で動く。そ
れは事実だが、それでも、その範囲で、損をすることに寛大であるかどうかで、その「やさしさ」
が決まる。

 そこで教育論。私は教育のやさしさは、損得の計算をしないところにあると思う。あるいはそ
の意識すら、もたないところにあると思う。もっと言えば、せめて教育の世界ぐらい、損得の計
算と、無縁であってもよいのではないか。実際、教育というのは、手をかけようと思えば、いくら
でもかけられる。際限がない。(反対に、手を抜こうと思えば、いくらでも抜けるが……。)その
「手をかける」部分が、ここでいう「やさしさ」ということになる。

 ……と言っても、そういうやさしさが、今、音をたてて崩れ始めている。教師がどうこうというこ
とではなく、親がそれを求めていない。望んでいない。評価しない。私の立場でいうなら、毎日
が、裏切られることの連続。それとの戦いといってもよい。(もちろん親には、裏切っているとい
う意識すらないが……。)

 たとえばこの世界。当然のことながら、勉強ができない子どもほど、手がかかる。神経も使う
し、時間もかかる。ひとり残して、あれこれ説明してやることもある。が、そうしたやさしさは、子
どもには、通用しない。子どもは、それを「バツ」ととらえる。

 また親にしても、「できない子」が、「ふつうの子」になったとしても、喜ばない。ある中学校の
教師(男性)は、私にこう言った。「何とかC高校へ……と親が言うから、こちらも努力して、C高
校へ子どもを押しこもうとするんですが、そのC高校へ入れそうだとわけってくると、今度は、せ
めてB高校へ……と、親は言い出すのです。キリがないです。で、本音を言えばね、100番の
子どもが50番になっても、私たちはうれしくも、何ともないですよ。50番以下が、ズラズラと、
一番ずつ、順位をさげるだけですから」と。

 そこで私のばあいは、もう、そういうことは考えないようにしている。「どうせ人生は、短い」「私
がしていることが、少しでも、役にたてばいい」と、そんなふうに思い、それ以上のことは、考え
ないようにしている。この年齢になると、それ以上に、「仕事ができるだけでもありがたい」と
か、「健康であることだけでも、感謝しなければ」と考える。そんなふうに考えることが、多くなっ
た。

 さすがアメリカでも、教育の世界にだけは、チップ制度がないそうだ。が、もし教育制度にまで
チップ制度が入りこむようになったら、教育はおしまい。死んだも同然。だからそういう動きが
あれば、その初期の初期段階で、何としても食いとめなければならない。せめて教育の世界だ
けは、ドライであってはいけない。
(030717)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(985)

劣等生、バンザーイ!

 S市教育委員会のK氏と話す。K氏は今、小規模校のある中学校に、養護学級を新設すべ
きかどうかで頭を悩ませている。その相談を受けながら、私はこんな話をした。

【I君の例】

 私は少し前まで、自宅で、中学生と高校生を教えていた。八畳間の小さな教室だから、生徒
数も、せいぜい、一クラス、四〜六人。そういうクラスへ、あるときI君(中一、当時)という子ども
が入ってきた。

 しかしこの生徒は、小学生のとき、勉強ができないということでは、有名な子どもだった。で、
案の定というか、心配したとおり、最初は、六人で始めた教室だったが、その年の夏休みまで
に、三人、その年の終わりまでに二人、I君以外の全員が、私の教室をやめてしまった。「あん
なI君がいる教室など、行かない」というのが、その理由だった。

 で、私は、そのI君を、中学三年の終わりまで教えた。ときどきほかの学年の子どもを交える
ことはあったが、基本的には、最後まで、一人だけの教室だった。

 そのI君は、今でいう、LD児(学習障害児)。教えた先から、すべてを忘れてしまった。たとえ
ば英語の単語にしても、二時間かけて、五個覚えたとする。しかしつぎのレッスンのときには、
すべてを忘れていた。こんな調子だから、数学はもちろんのこと、理科、社会も、さらにできな
かった。

 で、ある日私は、とうとう怒った。I君が、中学三年生になったときのことだった。「あのな、大
工だって、一方で家をつくっても、それをつぎからつぎへと壊されたら、もう家なんか、つくらな
いぞ」と。それに答えて、I君は、ポロポロと涙をこぼした。

 こうして高校入試が近づき、I君は学校の指導をすなおに受け入れ、準養護学校のX高校に
入学した。一月になって、間もないころだった。私はそれを喜んだが、彼が入学できたことを喜
んだのではない。I君から解放されることを喜んだ。

 しかし、だ。それからもI君は、私の教室に来た。その時刻に玄関のチャイムを、ピンポーンと
鳴らす人がいた。見に行くと、そこにI君が、立っていた。そこで私は言った。「あのな、高校受
験は終わったんだよ。もうぼくには、教えることはないよ。だから、ここへは来なくてもいいんだ
よ」と。

 しかし、それでもI君は、私の教室にきた。そしてたったひとりで、勉強(?)をした。しかたない
ので、つまり私は、半ばあきれながら、教えた。で、結果的に、I君は、三月の終わりまで、来
た。

 そのI君は今、家業の植木業を手伝っている。よくお母さんとは、スーパーで顔をあわせる
が、そのつど、お母さんは、I君のことをうれしそうに報告してくれる。ごく最近だが、結婚して、
子どももできたそうだ。そのお母さんは、ある日、こう言った。「まじめだけが、取り柄(え)の子
どもでねエ」と。

 こうした例は無数にある。で、そういう子どもたちを振りかえってみると、改めて教育とは何か
を考えさせられる。

 問題のない子どもは、教えるのは、当然のことながら、楽。しかしそういう子どもというのは、
ただ通りすぎていくだけで、何も残らない。教育が教育であるのは、I君のような、問題のある子
どもを教えるところにある。またそういう子どもほど、人生のカギに強く、残る。ひかかる。そし
てそういう子どもを教えたという思い出が、充実感となって返ってくる。

 私は帰り際、K氏にこう言った。「今、ここで養護学級をつくり、その子どもだけをそこへ入れ
たとしても、子どもは感謝しないばかりか、学校をうらむようになるでしょうね。『自分のため』と
考える前に、『排除された』と感ずる。しかし教える側にとっても、それほど後味の悪い教育もな
い。私たちと違い、経営を心配しなくてもいい公立学校なのだから、もっと別の方法を考えたら
いかがでしょうか」と。

 生きる道は、決して一つではない。コースも、一つではない。同じように、幸福になる道も一つ
ではない。幸福になる道は、無数にある。だから一つの道からはずれたからといって、悲観し
たり、絶望したりする必要はない。劣等生、バンザーイ! 
(030719)

【追記】

 子どもには、一芸をもたせましょう。その一芸が、子どもを光らせ、伸ばします。ただし一芸
は、つくるものではなく、見つけるもの。そして見つけたら、そこに集中的に、お金と時間をかけ
る。その思いきりのようさが、子どもの一芸を伸ばす。

 つぎに掲載するのは、「一芸論」(中日新聞掲載済み)です。

++++++++++++++++++++++

子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイ
プの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういう
ときのため、……というだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側
面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。
ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金
を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も
そうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向
かって創造的なものをいう。「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれる
ものという意味である。そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金を
たっぷりとかける。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分
野に関しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶
対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。  

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(986)

山荘ライフ

 窓をいっぱいにあける。
 空気を、胸いっぱいに吸いこむ。
 そして、シャルロット・チャーチのアルバムを聞く。
 以前、NHKでシャルロットが紹介されたとき、
 声がすてきだったので、それで買った。
 
 しばらく聞いてなかったが、オーストラリアのB君が、
先日、「もっているなら、聞いたら?」と言ってくれた。
 彼は、敬虔(けいけん)な、クリスチャンだ。

 その中でも、私が好きなのが、この曲。 
 「I vow to Thee, My Country」(わが郷土よ、我はあなたにひざまずく)

 「♪わが郷土よ、我はあなたにひざまずく。
  その上にある、ありとあらゆるものを、
  すべての完ぺきなものを、そして愛の営みを……」

 私はこの曲が、好きだ。
 一度聞き始めると、何度も繰りかえし聞く。
 山荘の前に広がる山々の雰囲気、そのものと言ってもよい。
 
 ……ときどきシャルロットの清らかな声が、
 オーケストラに負けそうになる。
 が、シャルロットは、懸命に、
 空に向かって、声をはりあげる。
 そのかけあい(?)が、すばらしい。
 人間が生きる「力」そのものを、感ずる。

 「♪もうひとつの郷土があると、私は、昔、聞いた。
  それを愛するものに、親愛であれ。
  それを知るものに、偉大であれ……」

 若い女性なのに、ここまで歌うとは!
ここまで哲学のある歌を歌いこなせるとは!
 その違和感が、まったくない。  
 その力量が、ただただ、すばらしい。
  
 「♪汝に向かう敵はなし。
  汝を支配する王はなし。
  汝の要塞は、信仰深い心。
  そして人の魂から魂へと、
  汝の輝く絆は太くなり、
  汝の道は、やさしさへの道。 
  そしてすべての道は、やすらぎへとつづく……」

 何曲か曲がつづいたあと、今度は、
 「Amazing Grace」※になった。
 何と、日本語に訳したらよいのだろうか。
 「驚くべき優雅さ」では、まったく感じがつかめない。
「神の優しさ」とでも、訳すのだろうか。
 アメリカでは、第二国家のようにもなっているというが、
 「アメージング・グレイス」として、
 そのまま日本でも、よく知られている。
 
……去年、となりの豊橋市で、
 結婚式場を開いた友人がいた。
 その結婚式のオープニング・
 セレモニーに招待されて行ったが、
 そこでも、この曲が披露された。
 チョコレートというより、
 ショコラ・チョコのようなすてきな結婚式場だ。
 私が「おいしそうな感じがしますね」と言うと、
 支配人のS氏は、うれしそうに笑った。
 今、シャルロットの曲を聞きながら、
 それを思い出した……。

 空はどんよりと曇り、
 風はない。
 すべてが、死んだように
 静まりかえっている。
 どこか肌寒い風が、
 心地よい。

 先ほど、ワイフが私を呼んだ。
 何か用があるようだ。
 最後の一曲を聞き終わったら、
 行くつもり。

 ……今、その最後の曲。
 『When at Night, I go to sleep』
 (夜とともに、私は眠る)

 「♪夜とともに、私は眠る。そのとき、
  一四人のエンジェルが、私を見守る。
  二人が、私の頭の上で、私を守り、
  二人が、私の足を案内し、
  二人が、私の右手を導き、
  二人が、私の左手を導き、
  二人が、暖かく私を包み、
  二人が、さまよう私を導き、
  二人が、そのとき、私を、
  天国へと、導く……。」

 この曲は、臨終を迎えたとき、自分で歌う歌らしい?
曲が終わったとき、
 外では、ウグイスが、鳴いていた。

 ……今日の私は、何となくクリスチャンになったような気分がする。
 神々しい気分になるのは、決して悪いことではない。
 心が、そのまま洗われる感じがする。
 それに死んだとき、一四人もの天使が迎えにきてくれたら、
 きっと、さみしさも消えるだろう。

 しかし、残念ながら、私には、天使はやってこない。
 私はもともと、それに値する人間ではない。
 それに、だいたいにおいて、私はクリスチャンではない。
 が、今だけは、アーメン! みなさんにも、安らぎを!
(030719)

【シャーロット・グレイ】

 シャルロット・チャーチと同じ名前の映画に、『シャーロット・グレイ』というのがある。(読み方
で、シャルロットにもなるし、シャーロットにもなる。)最近ビデオ化された、ユニバーサル映画だ
が、この映画は、まさに★★★★★(五つ星)!

 思いっきり感動してみたい人には、お薦め。とにかくよい映画だった。最後のシーンでは、思
わず、涙がポロポロとこぼれた。(ボロボロかな?)「私はあなたに伝えたいことがある……」
と。このつづきは、どうかビデオのほうを、見てほしい。映画『タイタニック』に、まさるとも劣らな
い映画……と、私は思う。

 そう、映画のオープニングは、マリー・ローランサンの絵画を思わせる、夢のように美しいシ
ーンから始まる。(私は一時期、ローランサンが好きで、リトグラフを、何枚か買い集めたことが
ある。)それでよけいに釘づけになってしまった。……やはりここから先は、ビデオのほうを見て
ほしい。

※……アメージング・グレイス

Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now am found 
Was blind, but now I see
'Twas grace that taught my heart to fear
And grace my fears relieved
How precious did that grace appear
The hour I first believed
Through many dangers, toils, and snares
I have already come
'Tis grace has brought me safe thus far
And grace will lead me home
The lord has promised good to me
His word my hope secures
He will my shield and portion be
As long as life endures

アメージング・グレイス……何とやさしい言葉か。
みじめな私を、その言葉が救ってくれた。
私はかつて道に迷ったが、今、それを見つけた。
私はかつて、暗闇にさまよったが、今は見る。
それが神のやさしさだった。それが私の心に恐れを教え、
そしてその言葉が、その恐れから私を救った。
何と、やさしさの尊いことよ。
あぶないこともあった。苦労もあった。誘惑もあった。
それをとおして、はじめてその言葉を信じたとき、
神のやさしさが、ここまで私を守ってくれた。
主は、私に、善なるものを約束した。
彼の言葉が、私の希望をたしかなものにした。
私の人生がつづくかぎり、神が私を守り、
私の苦しみや悲しみを、分けもってくれるだろう。
(訳、はやし浩司)

+++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(987)

【掲示板より】

 低脂肪牛乳様、いわく、「遊戯王カード、ポケモンカード、等でした。テレビや雑誌と共鳴して
いるというか、妙な、それこそ右脳的な洗脳をされているような気が。よくわかりませんがこの、
カードと他の媒体との抱き合わせ商法の魔の手にかかった子ども達の執着は非常に強いよう
なのです。ウノやトランプとは反応が全く違いますね」(掲示板より)と。

 この書きこみを読んで、まっさきに思い出したのが、「イメージが乱舞する子ども」(中日新聞
掲載済み)です。つぎの原稿が、それです。

+++++++++++++++++++++++

イメージが乱舞する子ども

「先生は、サダコ! ウンチかな? ウンチは、おしりから出る。お化けだぞ……こわいヨー」
と。

 とっぴもないことを、次々と口にする。話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。
まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうき
ん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのまま
の姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回る
なんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動児と違うところは、強く制止すれば、一応の「抑え」はきくということ。小学二、三年になる
と、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
三十年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ十年、急速にふえた。小一児
で、十人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっている。実際このタイプの子どもが、一クラ
スに数人もいると、それだけで学級運営はなりたたなくなる。

 その原因について、私はテレビやゲームをあげる。このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ
例外なく、乳幼児期に、日常的にテレビづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。
「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。動きの速いゲー
ムもそうだ。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かに
ものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居
などを、静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみに、イメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさ
どるのは、左脳である(スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激す

++++++++++++++++++++++

【右脳教育への疑問】

 「右脳」が騒がれ始めたのは、一九八一年に、カリフォルニア工科大の心理学者ロジャー・ス
ペリーが左脳・右脳の研究でノーベル賞を受賞して以来です。つまり現在でも、たった二〇年と
少ししかたっていないということです。

 以後、人間の脳についての研究が飛躍的に進み、右脳のもつ可能性が、多くの研究者たち
によって指摘されています。それは事実ですが、では、それをそのまま教育の分野に応用して
もよいかということになると、それは疑問です。仮に応用できるとしても、一方で安全性の問題
があります。とくに脳がまだ未完成の、乳幼児に応用することについては、慎重でなければなり
ません。

 たとえばここに一枚の影絵があるとします。見方によっては、クツにも、船にも、見える絵で
す。さかさまにすれば、雪だるまにも、またスプーンにも見えるとします。その絵を幼児に見せ
ると、幼児は、その絵が何に見えるかを、頭の中で懸命に分析しようとします。そして記憶の中
にある、類似の形を想起し、「クツ」とか、「船」とか答えます。

 こうした力、つまり頭の中で、たとえ時間はかかっても、じっくりと考える力というのは、まさに
左脳がつかさどっています。子どもの脳の発達ということを考えるなら、むしろこうした力のほう
こそ、重要です。こうした力が積み重なって、子どもは、分析や、さらには論理、推理が、できる
ようになります。そうした発達段階を無視して、つまり脳が未発達な乳幼児に、今まで人類が経
験したこともないような刺激を与えてもよいものかどうか? 「右脳教育」という看板をかかげな
がら、実際には、多くの幼児教室では、(そして一部の幼稚園では)、幼児に掛け算の九九を
暗記させたり、毎日、小学生が学校で学ぶような、ひらがな、カタカナ、さらには漢字の学習プ
リントを渡したりしています。

 ここにあげた「イメージが乱舞する子ども」について、右脳教育が原因とは、私も思っていま
せん。しかし子どもの脳は、たとえばテレビやテレビゲームによって、はげしい視覚的情報によ
って刺激されています。つまりあえて右脳教育とかまえなくても、すでに幼児は、じゅうぶんすぎ
るほど、右脳を刺激されているということです。私たちは、もう少し右脳教育に慎重であるべき
ではないか、というのが、私の考えです。

 さらに一言、つけ加えるなら、今、ペラペラと調子よく、キャッキャッとものを言う子どもは、いく
らでもいますが、いわゆる沈思黙考型の子どもが、少なくなってきています。日本の子ども全体
が、お笑いタレント化しているというか、子どもの世界そのものが、ギャク化しています。ヒラメ
キ思考だけは、やたらとすごいのですが、中身がない? 私はこうした風潮を、たいへん憂慮
しています。
(030719)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(988)

マイナスのストローク

 記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を描かせよう
としたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。積み木遊びをし
たが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせようとしたが、『歌いたくな
い』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、一見お
だやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。ときにビリビリとそ
れを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」というのは、A
君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私はそれを母親に
説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸口すらわからないとい
うこと。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は……?」と
相談しつつ、私の説明をロクに聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱る。「もっと、しっかりしな
さい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしいわ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。そし
てその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識というの
は、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識と言ったの
は、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。それにつ
いて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個人的無意識
である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世界
に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印された記
憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される意思による
ものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやすく言えば、この個人
的無意識が、その個人を、裏から操る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子どもは、
東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、いつも「子
どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。ある程度の設計図
をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれを子どもに、押しつけては
いけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子どもに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害する。自
我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期に、自我の発達
が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何をしても自信がもてず、逃
げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。ここでいうA君が、まさに、そ
ういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を使って、
つぎのような説明している。

 「条件づけには、@強化(きょうか)の原理と、A弱化(じゃくか)の原理がある」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働きか
け)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」と言ってほ
めたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはますます歌を歌いたが
るようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスのストロ
ークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになるという原理をい
う。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言って、け
なしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌を歌わなくなってし
まう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとなって作
用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の世界に蓄積さ
れ、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりにたっぷりと受けてい
るから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけて、逃げ腰になってしまっ
たのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らかに母親
が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わねばならない
のかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力をすることは当然と
しても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前に、母親の理解がなけ
れば、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさいとか言っ
ていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「はあ、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たいてい
は、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言葉を払いのけ
てしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う母親さえいる。「あんた
は、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいです」と。つまり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子どもの
母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれにブレーキ
をかけてしまう。この仕事というのは、報われることより、裏切られることのほうが、はるかに多
い。いやな思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした記憶が、私を裏から操って
いる? 「質問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きくすることもない」「言われたことだ
けをしていればいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子どもは、常に
プラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、伸ばす。とくに乳幼
児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(030719)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(989)

【ある母親からの相談より】

 小学一年の男児の母親です。このところうちの子が、学校でのいじめに、からむようになりま
した。一人A君という、いじめっ子がいるのですが、その子どもに加担して、ほかの子どもをい
じめています。うちの子に、「そういうことはやめなさい」と言うと、そのときは、「もうしない」と答
えるのですが、A君にさからえば、今度はうちの子が、いじめられるかもしれません。担任の先
生も、A君には、手を焼いているようです。今は、A君の子分のようになっていますが、こういう
ときは、どうしたらいいでしょうか。A君の母親に、こういう事実を話すべきでしょうか(福岡県、
HEより)。

【はやし浩司より】

 こういうケースでは、鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めろ』です。それについての
原稿は、ここに張りつけておきます。

 あなたが今、すべきことは、悪いことは悪いこととして、淡々と、子どもに話すことです。学校
の先生に相談するときも、あなたの子どもがどういう状態であるかだけを、淡々と、先生に話し
ます。

 このとき大切なことは、決して、相手の子どもの名前を、具体的に出さないこと。あなたは「事
実」だけを伝え、あとの判断は、子どもや、先生に任せます。この段階で、相手の子どもの名
前を出すということは、先生に向って、「A君を何とかしてほしい」と言うのと同じになります。こう
した結論を先に出されてしまうと、先生としても、何もできなくなってしまいます。

 いくら親でも、親ができることにも、限界があります。とくに学校での問題は、そうです。学校で
の問題は、第一に、学校の先生に任すしかありません。で、こういうケースで、具体的に相手
の子どもの名前を出すと、それが原因で、また別のトラブルを背負うことになるかもしれませ
ん。あくまでも、その判断と対処は、先生に任せます。

 これから先、この種の問題は、つぎからつぎへと起きてきます。そこで大切なことは、子ども
を、自分で考えて、自分で行動できる子どもにすることです。健康にたとえて言うなら、そのつ
どあたふたと、対症療法を繰りかえすのではなく、まず基礎体力を養うということです。そのた
めにも、『友を責めるな、行為を責めろ』を守ってみてください。

+++++++++++++++++++++

●友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!
……と思わせるような、名格言である。
(030720)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

  
子育て随筆byはやし浩司(990)

人間の二面性

 人間には、二面性がある。

 たとえば私は、こんな話を聞いたことがある。ベトナム戦争から帰ってきたオーストラリア人兵
士から聞いた話である。クリスという男だったが、こう言った。

 「みんな戦場からサイゴンに帰ってくると、女を買いに行くんだ。買うといっても、セックスが目
的ではない。女を買って、一晩中、女のおっぱいを吸っているんだ」と。

 テレビなどで戦車の上に陣取っている兵隊を見ると、私たちは、「たくましい」とか、「かっこい
い」と思うかもしれない。しかしそれは外に向った、表の顔。そういった兵士にも、もう一つの顔
がある。赤ん坊のように、女性のおっぱいを吸いつづけたのが、その顔である。

 実は、こうした二面性は、子どもにも広く、見られる。それが好ましいことなのかどうかという
議論はさておき、外の世界でがんばり、その分だけ、家の中では、ぐずったり、乱暴したりする
子どもは、いくらでもいる。ときには、まったく別人のように振る舞う子どももいる。こうした違い
は、園や学校での参観日などを通してみると、よくわかる。

 ある女の子(年長児)は、幼稚園では何をするにもリーダーで、先生も一目、置いていた。学
習面でも、運動面でも、その女の子にかなう子どもは、いなかった。しかしその母親は、私にこ
う言った。「家では、何もしてくれないんですよ。ぐずってばかりいます。それにここだけの話で
すが、いまだにおねしょをしているんですよ」と。

 もしあなたの子どもが、参観日などで、「がんばっている」「家の中での様子と違う」と感じた
ら、家の中では、思いっきり、手綱(たづな)を緩(ゆる)める。このとき、家の中でも引き締める
ようなことがあると、子どもは行き場、つまり心の調整の場をなくしてしまう。家の中で、退行的
な様子(生活習慣がだらしなくなる、約束や規則が守れないなど)が見られても、大目に見る。

 また、こうした二面性を、悪いことと、決めてかかってはいけない。ここにも書いたように、こう
した二面性があるからこそ、外の世界でがんばれる半面、自分の心を調整することができる。
「補完」という言葉があるが、たがいに補完しあうこともある。とくに責任ある地位や、立場にあ
る人ほど、この二面性は、強く現れる。

 話は、ぐんと、生臭くなるが、学校の教師によるハレンチ事件は、あとを絶たない。このH市
でも、男子生徒にいたずらを繰りかえしていた教師、更衣室にカメラをしかけて盗撮していた教
師、女子生徒の下着を盗んだ教師などがいる。こういう事件が明るみに出るたびに、学校も、
また親も、そして生徒も、「まさか!」と驚く。「あの教育熱心な先生が、どうして!」と。

 しかしここが問題なのである。こうした教師は、仮面の部分では、たしかに優秀な教師かもし
れない。そのように外の世界で、振る舞っている。しかしそれはあくまでも外の顔。だからこそ、
別のところで、心の調整が必要となる。(だからといって、ハレンチ事件を起こしてよいと言って
いるのではない。誤解のないように!) いつも立派な教師のままでは、気がヘンになってしま
う。

 問題は、どうやって自分の心を調整するか、である。似たような話だが、いつも緊張にさらさ
れている医師や弁護士ほど、(リッチということもあるが)、秘密交際クラブで遊んでいるという。
もう少し身近な例では、こんな話もある。

 T君(中学生)の父親は、H市でも、一、二を争う、有名ホテルのコック長をしている。そこで私
がある日、そのT君にこう聞いた。「君はラッキーだね。毎日、うちでもおいしいものばかり食べ
ているの?」と。

 するとT君は、こう言った。「パパは、家では、まったく料理しないよ。それにパパは、いつもお
茶漬けばかり食べている」と。

 以前は、「教師、聖職論」というのがあった。そのためその反動形成(本来の自分とは反対
の、別の人格者を作ること)から、自己矛盾におちいり、自己嫌悪から、自己否定にまで走って
しまう教師も少なくなかった。しかし今は、そういう時代ではない。今でもときどき、「聖職論」を
論じる人がいる。が、そもそもそういったことを論じるほうがおかしい。教師といえども、ふつう
の人間(ふつうの人間であることが、悪いというのではない。また教師をバカにしているのでも
ない。誤解のないように!) 肩の力を抜いて、気楽にやればよい。二面性があるにしても、そ
の二面性は、できるだけ近いほうがよい。

 さてあなた自身はどうだろうか。あなたにとって、外の世界で見せる仮面の部分は、何か。一
方、あなたにとって、本質的の部分は、何か。大切なことは、どんな人間にも、こうした二面性
があるということ。また、あって当然ということ。社会生活が複雑になればなるほど、人間は、そ
うなる。そうした理解も、実は、子育てでは必要なことかもしれない。
(030720)

【注】こうした二面性を、心理学の面で鋭くとらえたのが、ユングである。さらに詳しく勉強してみ
たいと思う人は、ユングの「ペルソナ論」「アニマ論」を、ひも解いてみるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(991)

●世界の格言

 そろそろ格言がタネ切れになってきた。そこでイギリスの教育格言を、インターネットで検索し
てみる。今は、本当に便利になった。少し前まで、何かにつけて、図書館がよいしたものだ。
が、今は、居ながらにして、世界の情報を、瞬時に手に入れることができる。

 その中のいくつかを、訳してみた。この中の一つでも、あなたの心をヒットすればうれしい。

★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインスタイン)

★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)

★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed 
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and 
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was 
that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ
た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)

★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である
からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル
イス)

★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン)

★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)

★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)

★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)

★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ)

★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau)

★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)

★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)

★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut)

★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)

★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle)

★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)

★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)

★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな
く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」
(プラト)

★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン)

★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and 
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or 
we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン)

★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)

★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)
(030720)

【追記】
●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天才は、
未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよりも、沈黙を
ふつう、好む」という言葉である。

 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟知して
いる。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選ぶ」と。私は天
才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。

 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も言わない。
たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。

 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」と。

 三〇歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから説明し
たらよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。火花がバチバ
チと飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア〜?」と言ったまま、おし黙ってしまった。

●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発
する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それはともかくも、これは私の
持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、はじめて生まれる」と書い
た。

 少し前だが、ある教育審議会のメンバーのT氏から、相談を受けた。「学校教育に蔓延(まん
えん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。

 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。

 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほしい。

 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が二〇%増しという理由も、そこ
にある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者とは、待遇
や職場環境が、基本的に違う。

 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦している。経
営のボーダーラインといわれている、二〇〇人(園児数)を割っている幼稚園は、いくらでもあ
る。もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄え
ている。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリストラされる
かと、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している幼稚園もある。
(ほとんどの幼稚園が、そうではないか?)

 だから毎年、一〇月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児のい
る家を、一軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつかっている。
しかも、その先は、まさに絶壁!

 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張感が生
まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思うなら、こう
した緊張感を、人為的につくるしかない。

 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。学校
の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、飛び降り
ている間に生まれる。

●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜな
ら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」とい
う言葉。

この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」と訳
すべきかで、意味がまるで変わってくる。

「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな
る」と解釈できる。

 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正
しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。

 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標
は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう
教えてくれた。

 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい
くことができるように、それを教え伝えることだ」と。

 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ
ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系
をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる
子どもは、いったい何%、いるというのか。

 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系
をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、三〇年前
に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ
るようになったが、それにしても、三〇年とは!

 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど
もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。
(030720)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(992)

人格の二面性(2)

 人間には、二面性がある。仮面と、内実ということか。日本語でも、「建て前」と「本音」という。
それについて前に書いたが、こうして考えると、たとえば二人の人間の間は、いつも四本の人
間関係で結ばれていることになる(下の図、参照)。

(私の仮面)――――@――――(相手の仮面)
      \      /
       A    /
        \  /
          X
         / \
        B   \
      /      \
(私の内実)――――C――――(相手の内実)

@……仮面どうしのつきあい。(たとえば公開討論会などで、たがいに見せる姿)
A……こちらは仮面をかぶっているが、相手は内実。(たとえば読者の相談を受ける私)
B……こちらは内実を言っているが、相手は仮面。(たとえば病気の診察をしてもらう私)
C……ともに内実どうしのつきあい。(夫婦、友人との交際)

 人間は、この四本の糸を、うまくあやつりながら、そしてそれぞれがたがいに補完したり、調
整したりしながら、人間関係を維持する。親子の関係とて、例外ではない。

 親とて、子どもの前で、仮面をかぶることがある。親意識の強い人ほど、そうで、たとえばそ
れは権威主義となって現れる。

 権威主義の親には、つぎのような特徴がある。

●無意識のうちにも、人間の上下関係を峻別(しゅんべつ)する。
●自分より「上」と感じる人には、ペコペコし、「下」と感じる人には、いばる。
●上下関係を無視する人を、許さない。「礼儀知らず」と言って、排斥する。
●権威、権力への依存性が強い。人間関係を「ワク」で縛ろうとする。
●柔軟なものの考え方ができず、自分の価値観を人に押しつけようとする。
●自分と違った価値観をもつ人を、認めない。あるいは徹底的に排斥する。
●テレビの「水戸黄門」を、痛快と思い、よく見る。
●子どもに向かっては、親の恩を押し売りしやすい。「育ててやった」とよく言う。

しかしこうした仮面をかぶればかぶるほど、子どもの側も、仮面をかぶるようになる。親の間で
は、いい子ぶったり、おとなくしていたりする。一見、うまくいっているように見えるので、親は、
その世界に、ますます安住するようになる。が、仮面は、仮面。はがれるときには、一挙には
がれる。(夫婦の間でよく話題になる、定年離婚も、その一形態ではないかと思われる。)

 人間の基本的信頼関係は、「さらけ出し」と、「全幅の受け入れ」という基盤の上に築かれる。
ここでいう「さらけ出し」というのは、つまりは、内実と内実のぶつかりあいをいう。また「受け入
れ」というのには、二つの意味がある。

 一つは、「自分が何をしても、何を言っても、相手は受け入れてくれるだろうという、絶対的な
安心感」。もう一つは、受け入れる側が、「何でも受け入れる」という姿勢である。この二つがマ
ッチしたとき、「全幅の受け入れ」という状態になる。

 親子の関係でいえば、Cの「内実どうしのつきあい」が理想であることは、言うまでもない。ま
たそういう関係があるからこそ、親子は、親子ということになる。が、問題は、ここから始まる。

 @の「仮面どうし」のつきあいは、すでに親子関係は、断絶していることを意味する。これは論
外。しかしその前の段階として、A、Bの関係になることは、しばしばある。ひょっとしたら、今
のあなたが、そういう関係かもしれない。

 このとき、深刻な問題が発生する。ときとして、内実の自分は、仮面の相手に対して、きわめ
て猛烈な攻撃性を示すことがある。これを私は、勝手に「内実の攻撃性」と呼んでいる。親子を
例にとって、考えてみよう。

 たとえば親が自分の内実で、子どもの仮面を攻撃するとき。よくあるのは、子どもの受験勉
強に狂奔し、子どもに過酷な勉強を強いる例。ふつうの指導ではない。狂ったように、子どもを
責める。「こんなことでは、S中学に、入学できないわよ!」「勉強しなさい!」と。

 子どもが泣いて抵抗しても、あるいは神経症による症状を見せても、親は容赦しない。それ
は内実をみせない子どもへのいら立ちともとれるし、ばあいによっては、復讐とも、報復ともと
れる。子どもが内実を見せないということは、このタイプの親にしてみれば、自分が否定された
かのように感ずる。はげしい攻撃性は、そこから生まれる。

 反対に、子どもが内実で、親が仮面をかぶるときがある。家庭内暴力で、親に暴力を振るっ
ている家庭を想像すればよい。子どもは、内実を見せない親に対して、(実際には見せられな
いのだが……)、きわめて攻撃的な姿勢をとる。それがふつうの攻撃性でないことは、読者の
みなさんも、すでによくご存知のはずである。

 さて、あなたはだいじょうぶか? あなたは夫(妻)や、子どもに対して、内実でつきあっている
か。また妻(夫)や、子どもは、あなたに対して、内実でつきあっているか。もしそうなら、それで
よし。が、どこかあぶないと感ずるようであれば、今日からでも遅くないから、内実でつきあうよ
うにしてみる。方法は簡単。

 勇気を出して、自分をさらけ出してみる。そして相手が何をしても、言っても、それを黙って受
け入れる。もっとわかりやすく言えば、『許して忘れる』。このあと、少し時間はかかるかもしれ
ないが、やがてあなたの家族は、すばらしい家族になる。
(030720)

【補足】内実がもつ攻撃性について、それは人が本能としてもつ攻撃性と関連しているのでは
ないか。よい例が、嫉妬(しっと)である。人は、嫉妬をすると、とんでもない攻撃性を発揮す
る。さらに調べて、また報告したい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
  
子育て随筆byはやし浩司(993)

【今週の幼児教室】

 今週は、「お話しづくり」をテーマにした。最後に、こんな問題を出した(年長児)。

【問1】大きな池がありました。池のそばで遊んでいたら、ワニが池から出てきて、あなたは、あ
やうくワニに、食べられそうになりました。そこであなたは、その池のそばに、立て札を立てるこ
とにしました。あとから来た人が、ワニに食べられたら、かわいそうです。さて、あなたは、その
立て札に、何と書いたらよいでしょうか。

【問2】あなたの名前は、「花子」です。今日は、おばあちゃんの家に、ケーキを届けることにし
ました。お母さんが作ってくれたケーキです。でも、おばあちゃんの家に着くと、おばあちゃん
は、家にいませんでした。しかたないので、ケーキは、家の横の木の上につるしておくことにし
ました。しかしそれでは、おばあちゃんが、見つけてくれるかどうかわかりません。そこであなた
は、おばあちゃんに手紙を書くことにしました。おばあちゃんに、何と書いたらよいでしょうか。

 このとき、@白い紙だけをわたし、書き方、紙の使い方など、こまかいことは、いっさい、言わ
ないこと。A書けない字は、その場で、すぐ教える。B多少、書き方がおかしくても、「意味がわ
かればいい」を大前提に指導する。誤字、脱字については、まったく問題にしない。

 年長児で、約80%の子どもが、この時期、ほぼ自由に、ひらがなを読み書きできるようにな
る。

【問1】子どもによって、書式はまちまち。中には、ときどき、下から上に書く子どももいる(ホン
ト!)。しかしそういった書式については、何も言ってはいけない。「表現しようという姿勢」その
ものを、ほめる。

「ここは池です。あぶないです」と、どこかピントがはずれた文章を書く子どもが、約50%。しか
しこういう子どもでも、「どうして、あぶないのかな?」と問いかけてやると、自分で気がついて、
書きなおす。その誘導を大切にする。

このとき、「気をつける」を、「きおつける」などと書いても、文字については、何も言わない。「言
葉はルールではなく、中身」ということを、わからせる。

約20〜30%の子ども(年長児)は、ほぼ的確な文章を書く。「この池には、ワニが住んでいま
す。あぶないから、気をつけてください」と。

【問2】正解(?)は、「おばあちゃんへ。お母さんが作ったケーキをもってきました。留守なの
で、ケーキは、横の木につりさげておきます。あとで食べてください。花子より」となる。しかしこ
こまで書ける子どもは、まずいない。

しかし以前、一人、こうした文章を、スラスラと書いた子ども(年長女児)がいた。秘訣を母親に
聞くと、こう話してくれた。

その母親の趣味は、ドライブ。(父親は、自動車販売会社を経営していた。)母親は毎日のよう
に、その子どもを横に乗せて、ドライブをしていた。そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物
語のテープを、いつも聞かせていた。「寝る前も、毎晩、カセットテープを聞かせていました」と
のこと。

これは後日談だが、その子どもが小学五年生になったときのこと。たまたまその母親と、道で
会ったので、「その後、どうですか?」と聞くと、こう話してくれた。

「小学校へ入ってからも、作文が得意で、賞という賞を、すべて総ナメにしました。県の作文コ
ンテストでも、優勝したことがあります」と。

 ついでに、子どもの国語力は、乳幼児期に決まる。それについて書いたのが、つぎの原稿
(「子育てストレスが、子どもをつぶす」(リヨン社))。

+++++++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?
 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

@使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』
という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言
った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何
度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

A使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

B正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる
 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめんどう
でも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあ
げねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本
を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い
 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基
本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が
深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++++++

【追記】

 子どもの国語力を決めるのは、お母さんですよ! 今日からでも遅くないから、子どもの前で
は正しい言葉で、そして豊かな言葉で話しましょう!
 
 それから、お母さんの声で録音したカセットテープを聞かせるというのは、とてもすばらしいこ
とですよ。国語力を飛躍的に伸ばすだけではなく、親子のパイプ(絆)を、太くします。

 また国語力は、あらゆる科目の基本となります。理科、社会、算数という科目にしても、基礎
的な国語力がないと、どうしようもありません。算数にしても、文章題がしっかりと読めない子ど
もが、小学三年生で、30%はいます。どうか、ご注意ください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(994)

バートランド・ラッセルの教育論

 イギリスに、バートランド・ラッセル※という人がいた。ノーベル文学賞受賞者、哲学者であ
る。私が学生のころ、ちょうど尊敬し始めたころ、なくなってしまった。1970年のことである。そ
のラッセルが、こんな文章を、書き残している。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no 
efforts of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than 
his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very 
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It 
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few 
who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a 
good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in the young than 
in grown men and women. Among children it is very common, and grows naturally out of the 
period of make-believe and fancy. It is rare in later life because everything is done to kill it 
during education... The wish to preserve the past rather than the hope of creating the 
future dominates the minds of those who control the teaching of the young. Education 
should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the 
world that our efforts are to create. 

 改めて、彼の文章を読みなおしてみる。

 「教師が教えることを、受動的に受け入れることは、ほとんどの生徒にとっては、簡単なことで
ある。生徒にしても、個々の考えをもつのに、まったく努力がいらない。それに教師は生徒より
も、ものをよく知っているから、この方法は合理的である。それにこの方法は、教師があまり例
外的な人物でなければ、教師の好みを勝ち取ることができる。

 が、何かにつけて受動的な生き方をしていると、人生も後半になると、いろいろ弊害が出てく
る。そうした教育を受けることによって、リーダーを求めるようになり、どんな立場の人であれ、
リーダーとして受け入れるようになってしまう。

 心の冒険の喜びなどというものは、もともとまれなことであり、そんなことをしても、だれも評価
しない。また通常の教育は、貴族的な教育であってはいけないと言う人もいるだろう。

 私は、このことを信じない。年をとった男女よりも、若い人たちのほうが、はるかに心の冒険
を楽しむことができる。子どもたちの間では、こうしたことはたいへんよくあることである。子ども
たちは作り話や、おとぎ話を楽しむ時期を経て、自然な形で、それを成長させていく。それはむ
しろ、あとになればなるほど、できなくなるものなのである。

というのも、教育を通して、そうした可能性をつぶすため、いろいろなことがなされるからであ
る。若い人の教育をコントロールする人たちというのは、どうしても、未来を創造するという希望
よりも、過去を保持するという願いを、もちやすいものである。教育は、死んだ事実を受動的に
与えることを目的としてはいけない。教育は、私たちがこれから創りあげていくであろう世界に
向った、能動的なものでなければならない」

※……バートランド・ラッセル、1872〜1970。イギリスの哲学者、数学者、文明批評家、平
和運動家。第二次大戦以後は、核兵器反対運動に尽力。1950年、ノーベル文学賞受賞。著
書に『外界の認識』『社会改造の諸原理』など。 

●教育は受動的なものであってはならない。

 日本では、先生が、生徒に向って、「わかったか?」「では、つぎ!」と言って授業を進める。
この方式は、進学塾では、さらにはっきりしている。

 一方、アメリカでは、「君は、どう思う?」「それはすばらしい!」と言って、授業を進める。はた
から見ていても、ほめすぎではないかと思えるほど、子どもをほめる。

 進学塾の教育、あるいは進学塾的教育が、日本の教育の「柱」になっていることは、たいへ
ん悲しむべきことである。またそういう教育を受けないと、進学に不利というのは、さらに悲しむ
べきことである。それだけではない。そういう教育を受けた子どもほど、スイスイと受験競争を
勝ち抜き、それなりの地位や立場につくというのは、さらにさらに悲しむべきことである。

 が、親も、教師も、こういうのが教育と思いこんでいる。先日も、テレビで、掛け算の九九を暗
記させている幼児教室が紹介されていたが、さすがにここまでくると、だれしも、「おかしい?」
と思う。

 しかしレベルこそ違え、進学塾では、それとまったく同じことをしている。にもかかわらず、こう
した進学塾教育、もしくは進学塾的教育を疑う人は少ない。このオメデタサは、いったい、どこ
からくるのか。ラッセルは、こう言っている。「こうした教育を受けた人は、リーダーを求めるよう
になり、どんな立場の人であれ、リーダーとして受け入れるようになってしまう」と。

 つまりは、依存心を身につけてしまうというのだ。

 この依存心の恐ろしさは、若いうちはわからない。そうした依存心をもち、だれかに依存して
いる間は、楽だし、居心地がよい。しかし人生も晩年に近づくと、その恐ろしさが、ヒシヒシとわ
かってくる。「私の人生は何だったのか!」と。

 この問題は、あなた自身の問題と言ってもよい。あなたは、今、自分の人生を生きているだ
ろうか。それをほんの少しでもよいから、自問してみてほしい。もしあなたが「YES」と答えた
ら、あなたはすばらしい人だ。しかし反対にもし、世間の波にのまれ、流されるまま流されてい
るなら、できるだけ早くそれに気づき、自分の足で、立ちあがることだ。で、ないと、人生の晩年
になって、あなたは確実に後悔することになる。「私の人生を、返せ!」と。

 そう「後悔」ほど、その人の人生をむしばむものは、ない。ああ、それともあなたは、どこかの
インチキ宗教を信じて、来世や天国に、未来や希望をつなぐとでもいうのだろうか。方法として
は、それしかないのだろうが、しかしそれこそ、自分の人生の敗北を認めるようなものである。

 が、しかし、だ。仮にあなたが今、依存的な生き方をしたとしても、それはあなたの責任では
ない。あなたは日本の教育システムの中で、そういう人間に作りあげられたのだ。だから、もし
あなたがこの事実に気づいたら、これだけは、あなたの義務として守ってほしい。それをつぎの
世代、つまりあなたの子どもに繰りかえしてはいけないということ。

 久しぶりにラッセルの文章を読んで、若いころの自分を思い出した。思い出して、このエッセ
ーを書いた。
(030721)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(995)

●暖かい無視

 子どもの心が病んだら、
 そっとしておいてやろう。
 なおそうと、思わないこと。
 何とかしようと、思わないこと。
 ひとり、静かにしておいてあげよう。
 ぼんやりとできる時間をふやしてやろう。

 そして、ここが大切だが、
 許して、忘れ、子どもの心を、
 やさしく包んであげよう。
 鉄則は、ただ一つ。
 今の状態を、
 より悪くしないことだけを考えながら、
 あとは、時間を待つ。
 一年でも、二年でも、三年でも……。
 励ましては、いけない。
 脅しても、いけない。
 ただただ、ひたすら待つ。
 暖かい無視をつづけながら……。

 あなたの子どもは、それで
 必ず、立ちなおる。
 今の状況は、
 必ず、笑い話になる。
 それを信じて、前だけを見て、
 あなたは、今、すべきことを、
 しっかりとする。

※「暖かい無視」……野生動物の保護団体の人たちが使い始めた言葉。JWCSワイルドライ
フ・カレッジ、〇二年度セミナーの中で、小原という人が、「野生動物と接するときは、暖かい無
視こそ、大切」「野生動物に対しては正しい知識と心構えを持った、暖かい気持ちでアプローチ
をしつつも無視して接することが大切」(HP)と説いている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(996)

子どもの非行

 一人の母親が、娘(中二)のA子の非行に、悩んでいる。A子は、少しでも気に入らないことが
あると、母親を殴ったり、蹴ったりする。そしてそのあと、プイと家を出て行く。母親は、こう言っ
た。「娘が家にいると思うだけで、恐怖感を覚えます。しかし娘が家を出て行くと、今度は、心配
で、心配で、夜も眠られません」と。

 母親は、まだ四〇歳そこそこ。しかし顔からは生気が消え、げっそりと、やつれて見えた。最
初に、私はこう言った。「何でもない問題ですよ。ふつうの子どもより、五年早く、おとなになった
と思えばいいのです」と。

 私は今まで、多くのの非行少年、少女をみてきた。そういう子どもたちを振りかえってみると、
そのときは、たしかに大きな問題だ。決して、小さな問題とは、言わない。が、いつの間にか、
そう言った問題も、やがて何でもなく終わってしまう。

 夜遊び……これは非行の定番だが、スペインでは、夜の一〇時を過ぎても、通りから子ども
の遊び声が聞こえる。夜遊びするからといって、非行とは言えないのではないか。現に今、こ
のH市には、多くのブラジル人が住んでいる。彼らは休日の前の夜となると、夜通し、酒を飲ん
だり、騒いだりしている。

 性経験……女子高校生のうち、約六〇%が、卒業までに、初体験をすませるという。しかも、
相手の男性の数は、一〇人とか、二〇人とか。性経験をするから、非行とは、もう言えなくなり
つつある。(だからといって、奨励しているわけではないが……。)低年齢化には、どこかで歯
止めをかけねばならないが、しかし一方で、ハレントな性文化を放置しておいて、「うちの子だ
けは……」と考えるのも、どうか?

 不登校……学校へ行くからといって、勉強するわけではない。行かないからといって、ダメに
なるわけではない。今、学校のあり方そのものが、問われている。

 おとなから見れば、中学生は、子どもだが、その中学生自身は、自分では子どもだとは思っ
ていない。その意識の違いが、たがいの間で、激しく衝突する。私は、私のチャンネルを使っ
て、A子の周辺を調べてみた。

【A子について】

 A子の通う学校には、Y子という、フダつきの非行少女がいた。父親は、警察官だという。か
なり短気な父親らしく、Y子は、その父親に、子どものときから、殴られたり、蹴られたりしてい
た。

 Y子が、急激に変化したのは、小学六年生のときだったという。たぶんそのころ、最初の性体
験をしたらしい。相手はわからないが、携帯電話を通しての交際だったらしい。しかしY子が、
そうなったのは、三歳年上の姉だったという。その姉も、かなりの非行少女で、その姉が、妹の
Y子に男を紹介したらしい。(「非行少女」という言葉は、不適切だが、ここでは許してほしい。)

 ほかにそのY子を中心として、B子、C子、D子がいて、その中に、ここでいうA子が含まれて
いた。

 A子は、ほかの四人とは違い、学校へ一応、まじめに(?)、通っていた。塾へも行っていた。
ただほかの仲間に誘われると、それを断りきれない弱さがあった。それがA子が、夜、外出す
る理由だった。

【家庭内暴力】
 
 抑圧された緊張状態が、基底にあって、その緊張状態に、不安や心配が入りこむと、子ども
の情緒は、きわめて不安定になる。そこでその不安定状態を解消しようと、ときに、はげしい暴
力行為に出ることがある。(反対に、不安定状態から逃避するため、引きこもることもある。)

 こういうケースでは、何が、緊張状態をつくっているかを判断しなければならない。ひとつの手
がかりとして、キーワードがある。ある女の子(年長児)は、母親が、「ピアノのレッスンをしよう
ね」と声をかけたとたん豹変し、母親に包丁を投げつけていた。その女の子ばあい、「ピアノの
レッスン」が、キーワードだった。そういうキーワードを手がかりにして、その原因をさぐる。

 さらにその緊張状態について言えば、その原因は、乳児期の母子関係にまでさかのぼる。母
子の関係で、全幅に心を開けなかった、あるいは双方が、相手を全幅に受け入れなかった。
そういう「不全」関係が、いつしか子どもの心に、日常的な緊張状態をつくった。

 A子は、母親の前では、ずっと「いい子」(?)だった。成績も悪くなかったし、親の期待にも、
よく答えた。二歳年下の弟がいたが、その弟のめんどうもよくみた。しかしそれらの多くは、い
わば仮面だった。A子は、いい子でいることで、自分の立場をつくっていた。

 が、中学生になったとき、Y子の率いる、非行グループに、顔を出すようになった。しかしそれ
はA子にとっては、はじめて経験する、「解放の世界」だった。A子は、そのグループの中で、は
じめて、自分をさらけ出す喜びを知った。……と、同時に、A子は、家の中で、暴れるようになっ
た。とくに、母親にひどく、当った。「こんな私にしたのは、あんたでしょ!」と。

【解決方法】

 こうしたケースでは、「なおそう」とか、「説教しよう」とか、考えてはいけない。威圧や暴力は、
さらによくない。こうしたケースでは、「今の状態をより悪くしないこと」だけを考えて、対処する。

 幸いにも、まだ、まじめに(?)学校へ通っている。塾へも行っている。母親の話では、性体験
までは進んでいないらしい。子どもがA子のようになると、親は、その状態を「最悪」と思うかも
しれないが、しかしその下には、さらに二番底、三番底がある。学校へ行かなくなるかもしれな
い。外泊、家出をするようになるかもしれない。さらに、性病をわずらったり、妊娠したりするよ
うになるかもしれない。全体としてみれば、A子の非行は、まだ軽い。

 悪いことばかりではない。こうした非行をある程度経験した子どもほど、あとあと、常識豊か
な子どもになることは、よく知られている。(だからといって、非行を奨励しているわけではない
が……。)だから親としてできることは、性病や妊娠の基礎知識だけは与えながら、自分の子
どもを信じることでしかない。

 そしてその上で、母親自身も、自分の頭の中に巣をつくっている、学歴信仰や、学校神話と
戦う。落ちこぼれるか、落ちこぼれないかということになれば、このタイプの子どもは、確実に、
「コース」からはずれる。(だからといって、ダメになるということではない。誤解のないように…
…。)また、そういう前提で、子育てそのもののあり方、組みなおす。

 こういうケースで親が悩むのは、子ども自身の問題というより、自分の中に潜む、学歴信仰
を、親自身が、どう処理してよいかわからないからである。それをまず解決しなければならな
い。つまりこうした緊張感が、親側にある以上、子どもは、子ども自身の緊張感から解放される
ことはない。

私「腹を決めなさい」
母「腹を決めるって?」
私「高校はあきらめなさい」
母「あきらめる……ですか?」
私「そうです。こういうケースでは、そうします」
母「……しかし、高校ぐらい、出ておかないと……」
私「そこなんです。そういう意識がある間は、A子さんも緊張状態から解放されません」
母「しかし、かえって、A子がダメになってしまいます」
私「いえ、だからといって、A子さんに、高校をあきらめるように言えとということではありませ
ん。あくまでも、お母さんの心づもりとして、そうします」
母「心づもり……ですか?」
私「そうです。そういう視点から、すべてを考えなおすのです。この問題は、一見、子どもの問
題に見えますが、実は、お母さん自身の問題なのです」
母「どういうことですか?」
私「お母さんが、無意識のうちにも、自分の不安や、心配を、子どもにぶつけてしまっていると
いうことです。それが子どもの心を窮屈にしてしまっているのです。しかしお母さんが、『高校な
んて、どうでもいいのよ。あんたが好きなことをすれば……』という気持になると、その気持は、
これまた意識しなくても、子どもに伝わります。それが子どもに安心感を与えます。こういうケー
スでは、子どもや、子育てのことなんかもう忘れて、お母さんは、お母さんで、好きなことをすれ
ばいいのです」と。

 残念ながら、A子の家庭内暴力は、しばらくはつづく。今すぐ、解決する方法はない。しかしA
子は、今、自分自身の中の「自己(SELF)」と、懸命に戦っていると思えば、見方も変わってく
る。本来なら、乳幼児期に脱いでおくべきだったカラを、今、脱いでいるのだ。そしてもう一度、
形としては、乱暴な形だが、自己を取りもどそうとしているのだ。親としてはつらいところだが、
子育てのツケ、もっとはっきり言えば、子育ての失敗のツケを、今、払っていると思うしかない。

 ただし一言。どんなに恐怖を感じても、どんなに憎く思っても、子どもが帰ってくるドアだけは、
いつも開けておくこと。その度量の広さが、つまりは親の愛ということになる。そしてその愛が消
えないかぎり、子どもは、必ず、立ちなおる。
(030721)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(997)

幸福論

 幸福とは何か。イギリスの教育格言に、『子どもを幸福で包んであげるのが、最高の教育』と
いうのがある。それはわかる。そのとおりだと思う。しかし問題は、その中身である。イギリスの
「自由投稿サイト、The Quote Cache Daily Random Quote List」に載っている格言から、いくつ
かを選んで、訳してみた。(訳がおかしいと思うときは、原文を読んでほしい。)

 まず登場するのが、アンディ・ルーニィ。

For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and working and 
finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, then the chances are 
that you're not going to be very happy. If someone bases his happiness or unhappiness on 
major events like a great new job, huge amounts of money, a flawlessly happy marriage or a 
trip to Paris, that person isn't going to be happy much of the time. If, on the other hand, 
happiness depends on a good breakfast, flowers in the yard, a drink or a nap, then we are 
more likely to live with quite a bit of happiness.- Andy Rooney
人生では、すばらしいことなど、めったにない。朝起きて、仕事をして、それを終えて、家族や
友といっしょに食事することを楽しみなさい。そうすれば、それぞれのときに、あなたは幸福に
なる。もし人が、幸福の基盤を、新しい仕事や、莫大なお金や、完ぺきな結婚生活や、パリへ
の旅行など、そういった大きなできごとに置くなら、ほとんどの時間で、その人は、幸福ではな
いということになる。しかし一方、幸福を、おいしい朝食や、庭の花や、飲んだり、昼寝したりす
ることに求めるなら、あなたはすばらしい幸福とともに、人生を過ごすことができる。

Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! - Anne Frank
あなたのまわりにまだ残っているすべての美しいものを、思い浮かべなさい。そして幸福になり
なさい。(アンネ・フランク)

We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same. - 
Anne Frank
私たちはみな、幸福になりたいと思って生きている。つまり人生はみな、異なっていても、目的
は同じ。(アンネ・フランク)

Happiness is a warm puppy. - Charles Schulz
幸福は、暖かいぬいぐるみ。(チャールズ・シュルツ)

When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do not 
want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters. - Dalai Lama, Tenzin 
Gyatso
他の文化をもっている人に会ったとき、彼らもまた幸福を求め、苦しみを望んでいない。それが
わかるから、私は彼らをみな、私の兄弟だと思う。(ダライ・ラマ)

There is a very fine line between "hobby" and "mental illness." - Dave Barry
「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。(D・バリー)

You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought into the 
happiness you are able to give. - Eleanor Roosevelt
他人に分け与えることで、あなたはもっと大きな喜びを得る。それはそうだが、しかしそれを与
えるとき、幸福とは何か、それをよく考えて、すべきである。(E・ルーズベルト)

We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we don't 
have, but rather of recognizing and appreciating what we do have. - Frederick Koenig
もっていないものを手にしたとき、その結果として幸福がやってくるのではないということを、私
たちは忘れてはいけない。そうではなく、幸福というのは、今、私たちがもっているものに気づ
き、それを評価することの結果として、やってくる。(F・コーニグ)

There is work that is work and there is play that is play; there is play that is work and work 
that is play. And in only one of these lies happiness. - Gelett Burgess
仕事の仕事がある。遊びの遊びがある。仕事の遊びもあるし、遊びの仕事もある。しかしこれ
らの一つだけに、幸福がある。(G・バーゲス)

If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something close at hand 
that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely that it will make you 
happy. - George Matthew Adams
ほかに何もすることがなかったら、あなたの近くで、あなたができることがないかを、見てみた
らよい。そうすれば、あなたは幸福になるだろうし、お金持ちになれる。(G・M・アダムズ)

Shall a man go and hang himself because he belongs to the race of pygmies, and not be the 
biggest pygmie that he can? Let everyone mind his own business, and endeavor to be what 
he was made. - Henry David Thoreau, "Walden"
彼がピグミー(中央アフリカの小人の黒人)だからといって、自殺する人はいるだろうか。ある
いは彼が、最大のピグミーでないからとって、自殺する人はいるだろうか。他人のことは、ほっ
ておけ。そして自分のおかれた境遇で、努力せよ。(H・D・ソロー)

For every moment of triumph, for every instance of beauty, many souls must be trampeled. 
- Hunter S. Thompson
すべての成功の瞬間に、そしてすべての美の瞬間に、多くの魂が、踏みにじられる。(H・S・ト
ンプソン)

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. - J.D. Salinger
事実は、いつも明らかに、あとになってわかる。「幸福」と「喜び」の、もっとも大きな違いは、幸
福というのは、固体だが、喜びは、液体であること。(J・D・サリンジャー)

Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something to love and 
something to hope for. - Joseph Addison
幸福の三つの大きな要素は、すべきことがあること。愛すべきものがあること。そして希望とす
べきものがあることである。(J・アジソン)

One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature shall not 
be broken. - Leo Tolstoy
幸福の最初の条件は、人間と、自然のつながりを、壊してはいけないということである。(L・ト
ルストイ)

Happiness lies only in that which excites, and the only thing that excites is crime. - Marquis 
de Sade
幸福というのは、エキサイトするものに存在し、エキサイトする唯一のものというのは、犯罪で
ある。(M・Sade)

I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends on 
our dispositions and not on our circumstances. - Martha Washington
私は、つぎのことを学んだ。つまり幸福にせよ、悲惨にせよ、その大部分は、私たちのおかれ
た環境ではなく、私たちの気質によるものだということを。(M・ワシントン)

Everything exists in limited quantity - especially happiness. - Picasso
すべてのものには、かぎられた量しかない。とくに幸福は!(ピカソ)

Sooner or later in life everyone discovers that perfect happiness is unrealizable, but there 
are few who pause to consider the antithesis: that perfect unhappiness is equally 
unattainable. - Primo Levi
遅かれ早かれ、だれもが、完ぺきな幸福というのは、自分ではわからないものだということを発
見する。しかしほとんどの人は、その正反対については、考えない。つまり完ぺきな不幸という
のは、同じように、達成しがたいものであることを。(P・レビ)

It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you very often 
get it. - Somerset Maugham
もしあなたがいつも最高のもの以外は受け取らないとするなら、あなたはそれをしばしば手に
入れることができるというのは、人生でも、おかしなことだ。(S・モーガム)

The supreme happiness in life is the conviction that we are loved -- loved for ourselves, or 
rather, loved in spite of ourselves. - Victor Hugo
人生で最高の幸福というのは、私たちが愛されているという確信である。つまり、私たち自身の
ために愛されているか、もしくは、むしろ、私たち自身のかわりに愛されているという確信であ
る。(V・ユーゴ)

The essentials to happiness are something to love, something to do, and something to hope 
for. - William Blake
幸福の重要な部分は、愛すべき何か、すべき何か、そして希望とすべき何かをいう。(W・ブレ
イク)

●改めて幸福論

世界の賢人たちは、身近な、ごく平凡な、かつ、ごく日常的な生活の中に、「幸福」を見いだして
いるのがわかる。つまりこのあたりに、幸福の原点があるのでは。ここまで書いて、私は、ボー
ムという人が書いた、「オズの魔法使い」を思い出した。それについて書いたのが、つぎの原稿
である。「家族主義」について書いた原稿である。(私の本から、転載。)

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家族主義と幸福論

●幸福の原点は家庭にある

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロシーという女の
子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するという物語である。こんなことがあ
った。

 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシア軍に襲われ
たらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」と。「おやじの故郷のスコットラ
ンドへ帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私があきれていると、一人の学生がこう言
った。「ヒロシ、オーストラリア人が手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうして
この国を守れるか」と。

 英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで質問を変えて、
「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞くと、皆血相を変えてこう
言った。「そのときは、命がけで戦う」と。これだけではないが、私はいつしか欧米人の考え方
の基本に、「家族」があることを知った。愛国心もそこから生まれる。

たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳する「愛国者」と
いうことになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパトリス、つまり「父なる大地」とい
う語に由来する。つまり欧米で、「ペイトリアチズム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛す
る」あるいは、「同胞を愛する」を意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために
戦う一人の父親が、テーマになっていた。

 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは誤解。冒頭にあ
げたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そんな遠くにあるのではない。あな
たのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを、息を潜めて待っている…。ドロシーは長い冒険
の末、それを教えられる。

 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事第一主義が生
まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。発展途上の国としてやむをえな
かったのかもしれないが、しかし今、多くの人がそうした生き方に疑問をもち始めている。九九
年の終わりに中日新聞社がした調査でも、四五%の日本人が「もっとも大切にすべきもの」とし
て「家族」をあげた。日本人は今、確実に変わりつつある。

++++++++++++++++++++++

こうした賢人の中で、私の心をとらえたのは、F・コーニグの、つぎの言葉だ。いわく……。

「もっていないものを手にしたとき、その結果として幸福がやってくるのではないということを、私
たちは忘れてはいけない。そうではなく、幸福というのは、今、私たちがもっているものに気づ
き、それを評価することの結果として、やってくる」と。

 同じようなことだが、アンディ・ルーニィ※も、こう言っている。
 
「人生では、すばらしいことなど、めったにない。朝起きて、仕事をして、それを終えて、家族や
友といっしょに食事することを楽しみなさい。そうすれば、それぞれのときに、あなたは幸福に
なる。もし人が、幸福の基盤を、新しい仕事や、莫大なお金や、完ぺきな結婚生活や、パリへ
の旅行など、そういった大きなできごとに置くなら、ほとんどの時間で、その人は、幸福ではな
いということになる。しかし一方、幸福を、おいしい朝食や、庭の花や、飲んだり、昼寝したりす
ることに求めるなら、あなたはすばらしい幸福とともに、人生を過ごすことができる」と。

 それはそのとおりで、もし名誉や地位、肩書きや権威、権力が、幸福の条件とするなら、人間
は、数十万年のうちの、(数十万年、引く、二〇〇〇年)の間は、不幸だったということになる。
なぜなら、こうした亡霊が人間社会を支配するようになったのは、せいぜい、この二〇〇〇年
にすぎないからである。……とまあ、こんなこと改めて、書くまでもない。

 しかし現実には、こうした亡霊にとりつかれている人は、多い。あなたのまわりにも、いる。私
の知人の中にも、いる。定年退職をしてからも、過去の栄光(?)にしがみつき、それをふりか
ざして、いまだに威張りちらしている。もっともそれで本人がそれなりにハッピーなら、それでよ
いのだが、実際には、(多分?)、日々を悶々とした気分で過ごしている。そういう人にとって
は、過去の栄光を否定されることは、自分の人生を否定されることに等しい。だから、猛烈に
反発する。

 これは本当の話だから、正直に書く。ウソの話ではない。

その人は、長い間、ある研究所の研究員をしていた。そして四〇歳くらいのとき、H大学の助
教授になり、つづいて五〇歳少し前に、教授になった。現役時代には、ある研究団体の会長に
もなっている。その彼と議論しているとき、ふとしたことから、喧嘩になってしまった。彼は、メー
ルで、私にこう言ってきた。

 「君だって、文部省あたりから仕事が回ってくれば、シッポを振る口ではないのかね」「君だか
ら、正直に言ってやるが、君が称している研究など、この世界では、価値がない。いいかね、研
究というのは、公的な機関で認められてはじめて、意味をもつんだよ」「田舎のおばちゃんたち
を相手に、偉そうな文章を書いても、意味はないよ」「君の書いている本などというのは、資源
のムダづかい。君が一冊、本を出すたびに、インドネシアの森林が、数十本、犠牲になるんだ
よ」「偉く国際人ぶっているが、君が本当に知っている外国は、オーストラリアという田舎だけで
はないのかね」と。最後には、こう言った。「君は、知識をひけらかしている、ただのバカだ」と。

 しかし私とて、負けていない。

 「公的機関で、税金で研究している男が、何を偉そうなことを言うか」「あなたのまわりの人間
は、自分もその恩恵にあやかりたいから、あなたにペコペコしているだけだ」「文句があるな
ら、裸で私と勝負してみろ」「こちらは生きる糧(かて)を稼ぎながら、そのあいた時間で、ものを
書いている。あんたとは、立場が基本的に違う」「文部省から仕事がくれば、ありがたいことだ。
いくらでもシッポを振ってやる。そのかわり、ちゃんと、お金をもらう」「文化というのは、大衆が
つくる。あんたが言うところの、田舎のおばちゃんたちがつくる。あんたのような雲の上の、偉
い人ではない。文句あるか!」と。

 そうそう、こんなことも言った。「君は、教育で金もうけする。私は、教育そのものに生きる」
と。そこで私はこう反論した。「あなたは、上ばかり見て、教育論を書く。私は、下の人のため
に、教育論を書く」と。

 実のところ、こうした不毛の議論が、三か月ほど、つづいた。で、私のほうがあるときから返
事を書かなくなり、それでその人との交際は、終わった。今も、まったく音信はない。私も若か
った。しかしその心意気だけは、今も変わらない。

 ずいぶんと熱い話になってしまったが、この事件が、私の考え方に大きな影響を与えたこと
は言うまでもない。以後、私は、権威や権力を振りかざす人には、生理的な嫌悪感を覚えるよ
うになった。

ところで、この話には、余談がある。一つは、その人からメールが入るたびに、はげしい動悸
と、不快感が私を襲ったということ。不愉快だった。それにもう一つは、それまでそれほど好き
ではなかった、尾崎豊の『卒業』が好きになったこと。ある時期は、毎日、その曲を聞きなが
ら、うさ晴らしをした。(これは本当に、ホント!)

 さてさて、幸福というのは、私たちの身のまわりにある。そして今の今も、私たちに見つけても
らうのを、じっと、静かに待っている。賢明な人は、それをなくす前に気づき、そうでない人は、
なくしてから気づく。もう一言、つけ加えるなら、賢明な人は、若いうちにそれに気づき、そうでな
い人は、死んでも気づかない。
 
M・ワシントンが言っているように、幸福とは、心のもち方で決まる。いわく、「私は、つぎのこと
を学んだ。つまり幸福にせよ、悲惨にせよ、その大部分は、私たちのおかれた環境ではなく、
私たちの気質によるものだということを」と。この言葉は、おおいに参考になる。
(030722)

※アンディ・ルーニィ……1919生まれ、アメリカの著名ニュース・コメンテイター

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(998)

ある母親からの相談

●自閉する心

 兵庫県のKMさんより、こんな相談があった。

 年長児になる女の子が、このところひとり言を、ブツブツ言いながら、おかしな絵ばかりを描
いているという。絵を描いているときの様子を見ると、一人二役であったり、一人で多くの人で
あったりするという。

 こうしたケースでまず、疑ってみるべきは、いろいろな情緒障害の随伴症状として現れる、自
閉傾向(自閉症ではない)である。そしてこうした自閉傾向は、何らかの大きなショックがきっか
けで、発症することが多い。そこで、その子どもが、いつごろからそのような症状を示すように
なったかを聞いてみた。

 以下は、その母親からのメールを、要約したものである。

 「幼稚園で、娘が何気なく言った言葉が、相手のB子さんの心にキズをつけたようです。B子
さんは、それをたいへん気にしました。で、B子さんの母親が、うちの娘を、かなりきつく叱った
ようです。『たとえ子どもでも、許せることと、許せないことがある!』と。うちの娘は、それに泣
いてあやまりましたが、そのあとも、B子さんや、B子さんの母親と顔をあわせるたびに、『ごめ
んね』『ごめんね』と言って、あやまりつづけました。思い当たるといえば、そのことです」と。

 そこで私は、KMさんに頼んで、その女の子が描いている絵を何枚か、送ってもらった。

 その絵について。

@大きさは、直径、3〜5センチの丸。その中に、目が一つと、口だけ。それだけが繰りかえ
し、B4大の大きさの紙に、40個前後描かれていた。ほかに数枚の絵があったが、どれも同じ
ような絵だった。全体として、意味のない絵で、ストーリー性は、まったくなかった。

一般論として、子どもの世界では、子どもが単純な反復作業を繰りかえすのは、好ましいことで
はない。ここにも書いたように、自閉傾向のある子どもや、自閉症の初期症状の子どもが、単
純な反復作業を繰りかえすことは、よく知られている。私は、幼児教育の世界に入ってまもなく
のころ、このタイプの子どもに出会った。私が二四歳くらいのときのことだった。

 その子ども(年中女児)は、ある朝見ると、小さな丸だけをつなげて、何かの絵を描いてい
た。黙々と描いていた。そこで担任の教師に、「あの子は、どういう子ですか?」と聞くと、その
教師は、こう言った。「根気のある子でねえ」と。

 しかしそれは根気でも何でもない。子どもの姿としては、あってはならない姿である。放置す
れば、子どもの心は自閉する。カラにこもってしまい、外から、その心がつかめなくなる。子ども
らしいハツラツさが消え、心をゆがめる。

 母親から送られてきた絵を見たとき、私は、あの年中児の女の子が描いていた絵を思い浮
かべた。そのあとも、ときどき、それに似た絵を見かけたが、少なくとも、こういった絵を描く子
どもは、その心が、内閉していると判断してよい。内にこもった欲求不満を、そういう形で発散
しているとみる。

●精神的ショック
 
 ところで、子どもには、大きな精神的ショックを与えてはいけない。いろいろな事例を、私は経
験している。

【T君の例】
 T君の家は、二階に風呂がある。その風呂で、T君が遊んだらしい。祖父が気がついたとき、
二階の床は、水びたしになっていたという。それを見た祖父が、いつもになく、きつくT君を叱っ
た。T君は、そのとき満四歳になったばかりだった。

 その日を境に、T君はまったく別人になってしまった。ニヤニヤと意味もなく笑ったり、自分勝
手な、無目的な行動を繰りかえすようになった。小児科医院へつれていくと、自閉症と診断され
た。

【Kさんの例】
 その女の子は、何かのことで、強く母親に叱られたらしい。詳しいことは、母親は言わない
し、どう叱ったかも、言わない。しかしその日を境に、その女の子は、一人二役のひとり言を言
うようになってしまった。その女の子が、満二歳のときのことである。

 母親は、何度も、「気味が悪い」と手紙を書いてきたが、その女の子も、病院へ連れていけ
ば、自閉症と診断されたかもしれない。

【Sさんの例】
 これは私の失敗談である。そのとき私は、幼稚園の門のところに立って、そこを出る園児を
見張っていた。が、そのとき、Sさん(年中児)が、「止まれ!」という、私の制止を聞かず、門の
外に飛び出した。遠くに母親の姿を見たからである。私は、数回、「止まれ!」と叫んだと思う。

 そのとき、キキーッと、ものすごい音をたててタクシーが止まった。あやうくSさんは、タクシー
にはねられるところだった。(私が間一髪で、Sさんの腕を握ったからよかったものの、腕を握
らなければ、まちがいなく、Sさんは、タクシーに跳ね飛ばされていた。)タクシーの運転手が、
「バカヤロー」と叫んだ。私は、母親が近くにいることも忘れて、大声でSさんを叱り、ついでお
尻を、思いっきり、叩いた。

 この直後、Sさんは、円形脱毛症になってしまった。母親は何度も、私を責めたが、私は、あ
やまらなかった。そのときは、「円形脱毛症くらいが、何だ!」と思った。私も若かった。(今で
も、悪いことをしたとは思っていない。命を守ったと思っている。)

 こうしたショックは、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、また身近にいる人であ
ればあるほど、子どもに与える影響は、大きい。冒頭のKMさんの子どものケースでは、幼稚
園でのその事件が、引き金になったのかもしれない。引き金でなかったのかもしれない。それ
はわからない。ほかに、親たちが気づかなかった事件があったのかもしれない。ともかくも、何
らかの大きなショックがあたっと考えるべきである。そのショックが、子どもの心に大きな影響を
与えた。

●絵を見て……

 絵は、数枚送られてきた。どれも同じような絵だが、顔は、すべて、目が一つと、口が一つだ
った。多分、横顔のつもりで描いたのかもしれない。しかしよく見ると、怒った顔が半分、泣いて
いる顔や、中には、笑っている顔もある。母親が言うとおり、たしかに「おかしな絵」だ。

 が、それ以上に気になったのは、どういう様子で、そういう絵を描いているかということ。黙々
と描いているのか、あるいは、それなりに楽しそうに描いているかということ。恐らく、黙々と、あ
るいはひとり言を言いながら描いているのだろう。が、もしそうなら、鉄則はただ一つ。できるだ
けそういう世界から、子どもを引き離す。

 具体的には、そういう様子を見せたら、気分をはぐらかすようにする。もし、その子どもが、K
Mさんが指摘する事件を気にしているようなら、またそれが原因であると考えられるなら、その
相手の子どもと、切り離したほうがよい。具体的には、幼稚園をかえる。(だからといって、その
事件が、原因であると断定しているのではない。誤解のないように!)

 濃厚なスキンシップと、やさしく温もりのある語りかけが有効なことは、言うまでもない。

【KMさんへ】

 絵を拝見しましたが、やはり一度、病院の小児科か、保健所にある相談窓口※へ行かれる
ことを、おすすめします。ほかにも随伴症状があるなら、なおさらです。ご指摘の事件が、原因
であるとは断定できませんが、その事件を契機に症状が出たということであるなら、幼稚園を
かえるなどの方法も、考えてください。

 私の立場では、何とも言えませんが、こうした自閉傾向をにおわす状態が長くつづくことは、
好ましいことではありません。ばあいによっては、さらに自閉傾向が進行することもあります。
あるいはそのショックが大きければ大きいほど、あとあとまで、何らかの後遺症が残る心配も
あります。決して、安易に考えてはいけません。

 あとは、お子さんを直接みてくださる、専門医、もしくは、専門家の指示に従ってください。た
いへん申し訳ありませんが、私としては、この程度のアドバイスしかできません。こうした相談
は、あくまでも念のためです。こうした絵を描くのは、一過性のものかもしれませんし、さらに何
でもない、戯(たわむ)れかもしれません。(そうであることを願っていますが……。)とにかく私
では、お子さんを、直接見ていませんので、これ以上のことは言えません。どうかお許しくださ
い。
(030723)

※……各都道府県に「精神保健福祉センター」があります。あるいは各地の児童相談所でも
かまいません。その中に、児童(子ども)の心の相談窓口がありますので、一度、問い合わせ
てみられるとよいでしょう。これはあくまでも、念のためです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(999)

子どもの肥満

 おとなの肥満度は、つぎの計算式で、求められる(資料……社会保険健康事業財団)。

●標準体重の求め方 
 標準体重(kg)=身長(m)×身長(m)×22

(肥満度)=〔(実測体重・kg)−(標準体重)〕÷(標準体重)x100

        20以上が肥満

●肥満度の求め方 
 肥満の判定は体格指数 (BMI:Body Mass Index)によって行う。

BMI=体重(kg)÷[身長(m)×身長(m)]

 この計算で    18・5未満……やせ
         18・5〜25……標準体重
           25〜3未満……肥満度1度
         30〜35未満……肥満度2度
         35〜40未満……肥満度3度
            40以上……肥満度4度

●子どもの肥満度
子どもの肥満度を測定する方法として、乳幼児はカプス指数、児童期(小学生)はローレル指
数などがある。心配なら、以下の計算式で、子どもの肥満度を調べてみるとよい。

【乳幼児期のカプス指数】

 (実測体重・g)÷〔(実測身長・cm)x(実測身長)〕x10

       この計算式で、20以上は、肥満と判定する。

【児童期のローレル指数】

 (実測体重・kg)÷〔(実測身長・cm)x(実測身長)〕x100000

       この計算式で、160以上は、肥満と判定する。

【例、身長120cm、体重25kgの小学生のばあい】

       25÷〔120x120〕x100000=173
          (173だから、肥満とみる。)

●簡単な肥満の見分け方

 子どもの肥満は、手の指を前にぐんと伸ばし、指をできるだけ上にそらした状態で、手の甲を
みて判断する。そのとき、指のつけ根のところに、指から伸びる腱が、現れる。(腱は、手の甲
のつけ根から指先に向って、放射線状にのびる。)このとき、腱が見えればよし。そうではなく、
腱が見えなくなったり、あるいは指のつけ根あたりにえくぼが現れたりするようであれば、肥満
のはじまりと見て、警戒する。肥満が進めば進むほど、えくぼは深くなる。ただしこの肥満度検
査は、年長児以前の子どもには、応用できない。この方式は、私(はやし浩司)が、考えた。 
(030723)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(1000)

随筆、第1000作! 

 「子育て随筆byはやし浩司」が、ここで1000作になる。1〜900作は、「はやし浩司のホー
ムページ」のほうに収録しておいた。901作〜は、近くホームページに収録する。

 1〜3、400作あたりまでは、結構、苦しかったが、500作を過ぎるあたりから、作数を気に
することもなく、楽に書けるようになった。そしてあっという間の、1000作! いつの間にか、
日記のようになってしまった。(おかげでホームページのほうの日記は、ほとんど更新していな
い!)

大部分は、電子マガジンのほうで発表している。実のところ、目標は、そちらにある。とにかく、
どんなことがあっても、電子マガジンは、第1000作まで発行する。目下、7月23日現在、第2
61作を発行したところ。残り、739作! ゾーッ! そして、がんばるぞ!

 こちらの随筆には、目標はない。そのうち2000作になるかもしれないし、3000作になるか
もしれない。一日、3〜5作書いているので、一年以内に、2000作になる。書きたいテーマが
あれば、書くし、そうでないときは書かない。ただ私のばあい、毎日のように、つぎからつぎへと
書きたいことが、まるで噴水ように涌き出てくる。

 そういう状態をしばらく放っておくと、頭の中がモヤモヤとしてくる。さらに放っておくと、頭の中
が、パンパンになってくる。そこでそのモヤモヤを叩き出すために、パソコンの前にすわる。文
章にして、たたき出す。

 吐き出すときの爽快感(そうかいかん)は、何ものにもかえがたい。フロイトがいうところの、こ
れは肛門期の残像か。排泄することの、喜びのようなもの。吐き出すと、頭の中はカラッポにな
る。軽くなる。しかしやがてまた、出てくる……。あとはこの繰りかえし。

 マガジンについて言えば、「量が多すぎる」という苦情をよくもらう。自分でもそう思っている。
とくに、まだ通常の電話回線を利用して、インターネットをしている人には、そうだろう。マガジン
をダウンロードするだけでも、何十秒かはかかる? イライラしている人も多いだろう。もしそう
なら、ごめんなさい!

 私としては、必要なところだけでも、またその一部だけでも読んでもらえれば、うれしい。実
際、そう思って書いている。

 しかし1000作というと、A4サイズの用紙で、2500枚前後になる。100枚で、単行本一冊
程度の分量になるから、何と25冊分! 一応、量的には、25冊の本を書いたことになる。ギョ
ッ! そういえば、この二年間、まったく本を出していない。あああ。

 せっかっくの1000作だから、気のきいたことを書いてみたいと思ったが、結局は、書けなか
った。いつものように、読者の方からの相談について、考えてみる。

+++++++++++++++++++++++

【ある母親からのメール】

愛知県A市に住む、OTと申します。先月、先生の会場で講演を拝聴いたしました。とても感動
しました。

何度もメールを書きましたが、なかなか送信できないでいました。書いていると、少し整理でき
たような気にもなり……
 
相談ですが、私と子供について行きづまりを感じると、その後ろにいつも両親との関係を思い
出してしまいます。子育てというより、私の両親への「わだかまり」が問題のように思います。
 
私は両親について「許した」と思っていました。でも、「許していなかった」ことにこの頃気がづい
てしまい、とても苦しい思いで一杯です。

長いメールになってしまうと思います。「書く」ことで、また自分の整理ができればいいのです
が。
 
両親はとても喜怒哀楽の激しい性格です。そして、いつも自分の思い通りに私たち(私と弟)を
動かさないと気がすみません。それは親なら誰でも持っている感情と思います。でも、かなり度
が過ぎるタイプだと思うのです。

習い事がそれをかなりひどくさせてしまったようです。私は、小4の時点で、学校の合唱部・水
泳部(この2つは本当にやりたかった)に加え、毎日のソロバン塾・英会話・スポーツ少年団で
剣道をやっていました。かなりハードです。夕食を食べる間もありませんので、母が車で迎えに
来て、食べながら移動しました。

これらの習い事は、親が「やる?」と聞くので、気を引きたい私は「うん。」と答えます。この一言
で決定です。あとは、どんなことがあっても引きずられて、連れて行かれました。運動はキライ
でした。運動より、絵を描いたり、お料理をするのが何よりの楽しみでした。

やめたいと何度か恐る恐るいいましたが、「オレが小遣い減らしてまでやらせてやってるのに、
何だ!」と怒鳴ります。父は幼い頃からものすごく大きな声で怒鳴るのです。もちろん手もでま
す。ガラスの灰皿やご飯の入ったお茶碗など当たり前のようでした。食事中、少しこぼしただけ
で「バカヤロー!!」と頭を殴ります。コップを割っても「ケガはないか」など聞いた事ありませ
ん。腹がたって仕方がないのでしょう。父の前ではいつも震えがとまらない感じでした。

母は、ひどい無神経なタイプです。父が怒鳴るのはこの母の態度が引き金になるのです。言葉
一つとっても、気づかないうちに人を傷つけるタイプなんです。私の机は寝ている間に開けて見
ていました。手紙も全て。高校になっても続きました。母の言葉や行動にどれだけ傷ついたか
……。当時、「今の私には何もできない」と、ノートにバカ!、死ね!とどれだけ殴り書きした事
か。
 
よく分からないかも知れませんが、発狂していない時の両親は大好きでした。何でも良く話しま
した。

中学に進む時、部活を選択しなくてはいけませんでした。両親が「話し合いをしよう」と言われ、
正座して話し始めました。絵が好きなので美術部に行きたいというと、父が発狂したのです。怒
鳴りちらし、たたかれ、「途中でやめる中途半端な奴の親の顔が見たいと、他の親に言ってる
オレの立場を考えた事あるか!」と。当時、父は少年団のPTA会長をやっていました。「これで
もまだ言うか!」とまた、握りこぶしを震わせながら……
 1
それから何年も経って、もう、どうでもいい私の進路は言われるがまま、大学まで進学。もちろ
ん行きたくないところです。でも、なんとか家から出たくて……。
 
両親はこれら全てを愛情だと言ってはばかりません。オレはこれだけ子供に尽くした。見返り
があって当然とまで……。そういえば、妊婦の時も、追いかけられ、蹴られとこともありました…
…。
 
こんな親にだけはなりたくない。でも、親は大好きなんです。複雑な思いで、常に混乱していま
した。

 ……そんな私も愛する人にめぐり合い、結婚し、子供も2人(現在10才・7才の子)できまし
た。生むまでは「放って育てればいい」と教えられ、そういうものだと思っていました。でも、幸
い、素晴らしい産院に出会い、「抱いて育てる・母乳で育てる」ことの大切さを知りました。生ま
れた子は本当にかわいく、自分なりにいろいろ勉強し、いい子だいい子だと育ててきました。

ちょっと不器用ですが、何事も最後までやる長女。お調子者ですが、情にもろいところがある
優しい二女。2人とも私が大変そうだと、進んで助けに来てくれます。
 
そんな長女が「バレエ」を始めました。あんなに辛かった私ですが、もちろん多少にも得るとこ
ろもありましたし。なにより、長女は、赤ちゃん時代、お座りがしにくほど体がやわらかく、いつ
も踊って歌っていたのです。私は私。子供は子供で伸びようとする芽があるのなら、少しやって
みても……と思い。

もちろん、私のこともあり、常にその気持ちは確認しているつもりです。が、最近になって二女
がやりたくなったと、通うようになりました。そこで、やはり姉妹の競走が始まりました。ウチでも
練習をしていると、怪我をしたのです。

それをめぐって、どこまで続けるか……などの話もでてきて、実家に行った時、「オレは全て子
供の意思に任せてきたつもりだ」というではありませんか! 絶句でした。こんな親でもと、許し
てきたつもりでしたが、まさかそんな風に思っているとは……

もう、胸の中が煮えくり返るようでした。でも、やっぱり、私が我慢して許さないといけないのでし
ょうね。この時、こんなやり取りもあって。夕食のことです。

子供達が、○○大好きというので、少し高かったのですが、実家に行く事もあり、買っていきま
した。いざ作ると、「やっぱりいらなくなった……」と言われ、甘い私の母が「じゃあ、他のもある
から食べる?」とのこと。ちょっと高級のカレーでした。私は辛いのは食べられないと何度も言
ったのですが、「食べたいって言ってるじゃないか」と、どなり、作って出しました。案の定、ぺろ
っとなめただけで、辛くて大泣きです。私も、少々、腹を立ててしまい、「ほらごらん」などと言っ
てしまいました。

すると、母は何か入れればいいと、工夫してました。私が「ほら、食べてみな」と言うと、「この子
はなんて冷たい子なんだろう」と、子供の目の前で2人に、「ひどいね、ひどいね」と畳み掛ける
ようにいうのです。こんな時、私は黙ってしまいます。黙ってこらえます。いつもいつもこうなって
帰ります。私の両親は私のことを、子供の前でひどくバカにします。お前はバカだ。と。

その日は、お前は育児ノイローゼとまで言われてしまいました。言われると気になってしまうん
です。
 
子供のわがままをたしなめる。あんまりわがまま言うと家に帰るよ!、と言う。(この言い方も良
くないのでしょう)、子供がいやだー!、と泣く。両親は子供がイヤだと言ってるじゃないかと言
う。しまいには、「オレの言う事に逆らうのか!」となるのです。何故、私が叱られるのでしょう。

こんな話し、誰にも相談できませんよね。主人にもです。多分、書いていることは支離滅裂。こ
んな事よくあることなのでしょうか?私は考えすぎなのでしょうか?
 
両親の所に行かないときは本当に楽しく過ごせます。でも、何故か、足が向いてしまうんです。
長くなってすみません。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、OTさんへ】

 親子とて、一対一の人間関係で決まります。「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ
論』で、親を考えてはいけません。また子どもしばってはいけません。また『ダカラ論』で、親子
を考える必要は、ありません。親は、親。あなたは、あなた。どこまでいっても、親は、親。あな
たは、あなたです。

 今、こうした親子の不調に悩んだり、苦しんだりしている人は、たいへん多いです。ある母親
教室で、私が、「そういう人はいませんか?」と聞いてみたところ、二〇人くらいの中の、三〜四
人の人が、手をあげました。親子だから、すべてを許しあって、うまくいっていると思うのは、い
まや、幻想でしかありません。

 だから、OTさんのようなケースは、珍しくはありません。よくあることです。つまりそのように悩
んだり、苦しんだりしているのは、あなただけではないということです。

 で、こういうケースで、何よりも、悲劇なのは、親自身が、それに気づいていないということで
す。OTさんの父親も、まったく気づいていない。「子どもなんて」と思いつつ、子どもの人権をま
ったく認めていない。あるいは、「子どものことは、オレが一番よく知っている」と、誤解してい
る。権威主義まる出しの親意識。そのくせ、自分では、「いい親だ」と、錯覚している。

 いただいたメールの中で、いくつか、気になることを箇条書きにしてみました。

●両親はとても喜怒哀楽の激しい性格です。
●いつも自分の思い通りに私たち(私と弟)を動かさないと気がすみません
●これらの習い事は、親が「やる?」と聞くので、気を引きたい私は「うん。」と答えます。
●やめたいと何度か恐る恐るいいましたが、「オレが小遣い減らしてまで、やらせてやっている
のに、何だ!」と怒鳴ります。
●食事中、少しこぼしただけで「バカヤロー!」と頭を殴ります。
●父の前ではいつも震えがとまらない感じでした。
●私の机は寝ている間に開けて見ていました。手紙も全て。高校になっても続きました。母の
言葉や行動にどれだけ傷ついたか……。
●それから何年も経って、もう、どうでもいい私の進路は言われるがまま、大学まで進学。もち
ろん行きたくないところです。でも、なんとか家から出たくて……。
●両親はこれら全てを愛情だと言ってはばかりません。オレはこれだけ子供に尽くした。見返
りがあって当然とまで……。
●妊婦の時も、追いかけられ、蹴られとこともありました……。
●私の両親は私のことを、子供の前でひどくバカにします。お前はバカだ。と。
●しまいには、「オレの言う事に逆らうのか!」となるのです。

 一方、親への依存心を断ち切れない迷いも、あなたにはあります。

●発狂していない時の両親は大好きでした。何でも良く話しました。 
●もう、胸の中が煮えくり返るようでした。でも、やっぱり、私が我慢して許さないといけないの
でしょうね。
●お前は育児ノイローゼとまで言われてしまいました。言われると気になってしまうんです。
●両親の所に行かないときは本当に楽しく過ごせます。でも、何故か、足が向いてしまうんで
す。

 戦前まで、女性と、子どもは、人間社会の外に置かれていました。「オンナ、コドモ」という言
い方が、それです。しかし戦後、女性は、ある程度、その権利を獲得しましたが、子どもは、そ
のまま、取り残されました。今でも、子どもを半人前扱いする人は、少なくありません。たとえ
ば、あなたの両親が、そうです。

 とくに気になったのは、「私の机は寝ている間に開けて見ていました。手紙も全て。高校にな
っても続きました。母の言葉や行動にどれだけ傷ついたか……」という部分です。母親が、あな
たの机の中を、調べていたのですね。私はこういう話を聞くと、生理的な嫌悪感を覚えます。反
対に、そういうことをコソコソとしている母親を、あなたは、想像できますか。イヤ〜ですね!

 しかしそういう親を責めても、意味はありません。日本人の多くは、今でも、「親子の間には秘
密はあってはならない」とか、「隠しごとがないから親子」と考えています。中には、「子どもの机
の中を調べるのは、親として、当然の行為」と言う人もいます。しかし、問題は、なぜ、そういう
ことが、平気でできるかということです。その部分にまでメスを入れなければ、こうした問題は、
代々、繰りかえされることになります。つまりそれがここでいう、「親意識」と「子どもの人権」の
問題ということになります。

 以前、いくつかの原稿を書きましたので、ここに添付します。いくつか思いついたまま拾いまし
たので、話が少し脱線するかもしれませんが、どうか、お許しください。

+++++++++++++++++

逃げ場を大切に(中日新聞発表済み)

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。親がこの逃げ場を平気で
侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出ということにもなり
かねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわ
かると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱られると、ト
イレに逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の
中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れ
て、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、も
し目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければ
ならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家
庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちも
のを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバン
の中など、のぞけるものではない。私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたこと
がない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするの
が、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。それが
わかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それをしては
いけない。子どもの尊厳を守るために。

+++++++++++++++++++++
 
悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママ
は苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに
豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということにな
る。以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生
の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後
者ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

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肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」
と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていた
らしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。が、
その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。

つまりその使節団のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控え
おろう」と叫んだのと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解
できない。ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どう
するのか。それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のう
ちにそうしているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものとい
うことになる。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明
しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しな
いとき、それは親子の間に大きなキレツを入れることになる。

親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶ
った分だけ、子どもの子は親から離れる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほし
い。あなたの叔父や叔母の中には、権威主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。し
かし親が権威主義的であればあるほど、その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

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 OTさんの問題は、しかし、一見親子の問題に見えますが、その実、もう二つの大きな問題が
隠されています。それが「信頼関係」の問題と、「依存性」の問題です。順に、これについて、説
明していきたいと思います。

●基本的信頼関係

 親子といえども、その信頼関係は、たがいの(さらけ出し)と、(全幅の受け入れ)が基本にあ
って、はじめてその上で結ばれます。つまり(さらけ出し)と、(全幅の受け入れ)は、信頼関係
の、必要絶対条件というわけです。そのうちのどちらかでも欠けると、信頼関係が結ばれない
ばかりか、反対に不信関係となって、そのあと、ずっと(恐らく一生)、尾を引くことになります。

 しかし親側に、たとえばここでいう権威主義(親風を吹かす)があると、子どもの側が、心を開
けなくなります。そしてほとんどのケースでは、子どもが親に迎合する形で、親の前では仮面を
かぶるようになります。つまりいい子ぶるわけです。

 OTさんのケースでも、OTさんは、「これらの習い事は、親が『やる?』と聞くので、気を引きた
い私は『うん。』と答えます。この一言で決定です。あとは、どんなことがあっても引きずられて、
連れて行かれました」と書いておられます。これが、ここでいう仮面です。あなたは仮面をかぶ
ることで、親の期待にこたえようとしたわけです。もっと言えば、自分にとって居心地のよい世
界を作ろうとしたわけです。

 仮面のこわいところは、信頼関係をそこなうばかりか、それが原因となって、心が遊離した
り、分離したりするようになることです。さらに二重人格性をもったり、何かのショックが原因で、
二重人格や、多重人格へと進むこともあります。私がよく、『親の権威は、百害あって一利な
し』という理由は、ここにあります。

 さらに大きな悲劇は、実は、親側にあります。子どもが仮面をかぶっていることにも気づか
ず、「自分はできた親だ」「すばらしい親だ」と思う反面、仮面をかぶる子どもを見ながら、「よく
できた子だ」「子どものことは私が一番、よく知っている」と錯覚します。親子関係が、完全に破
壊されているにも、かかわらずです。

 まだ、あります。こうした権威主義的な親をもったばあい、子どもの選択は、つぎの二つに大
きく分けることができます。

 一つは、こうした親に反発するケース。もう一つは、その権威主義を受け入れ、自分も、その
権威を振りかざすようになるケース。ある教育評論家は、自分の父親を振りかえりながら、こう
書いています。「私の父には、ゼウスのような威厳があった。私が父のひざの上で、風邪をひ
いて嘔吐したとき、『無礼者!』と私を叱った。今の父親に求められるのは、そういう親としての
威厳である」(雑誌「F」)と。

 どちらにせよ、これからはもう、そういう権威や、権力で相手をしばって動かす時代ではあり
ませんね。また、そうであってはいけないということです。それはともかくも、OTさん、あなたの
ばあいは、この二つのハザマで、ゆれ動いているのがわかります。(親の権威に反発するあな
た)と、(親の権威に恋慕するあなた)です。

 その根底にあるのが、依存性の問題です。

●依存性の問題

 もともと権威主義の親というのは、権威をふりかざすことによって、子どもに依存しようとしま
す。人間関係をうまく結べない人は、その孤独と戦うため、@攻撃型になる、A依存型になる、
B同情型になる、C服従的になるなどが、よく知られています。これを防衛機制といいますが、
権威主義というのは、このうちの依存型に分類できます。

 つまりさみしいから、親の権威で子どもをしばり、自分にとって、居心地のよい世界をつくろう
とするわけです。それがときどき、ここでいう攻撃型になることもあります。日ごろはやさしい親
が、(これは子どもに対する仮面)、何かのことでその権威にキズがつけられると、突然、「親に
向かって、何だ、その態度は!」と叫ぶのが、それです。

 が、問題は、実は、親というより、あなた自身にあります。親が依存性のあるケースでは、(そ
れが権威主義であれ、何であれ)、子どもにも、それが伝播(でんぱ)しやすいということです。
子育てというのは、そういう意味で、世代連鎖をします。親から、子へと、です。つまりあなた自
身が、今度は、親に対して依存性をもつのみならず、自分の子どもに対しても、(それは薄めら
れた形かもしれませんが)、権威主義的であったり、依存的であったりするようになります。

 あなたがメールの中で、最後のところで、「両親の所に行かないときは本当に楽しく過ごせま
す。でも、何故か、足が向いてしまうんです」と書いているのは、そのためです。あなたの心が、
揺れ動いているのが、あなたにはわかるでしょうか?

 では、どうするか?

 もうお気づきかと思いますが、これはあなたの親の問題ではありません。あなた自身の問題
です。つまりあなたは自分の中に潜む、権威主義と無意識のうちに戦っている。そしてそういう
自分の権威主義を、あなたの父親に投影させている。その結果として、あなたは今、自分で、
自ら混乱している。

 ここで「投影」という言葉を使いましたが、たとえばケチな人が、他人のケチが気になり、「あ
の人はケチだ」と批判するようなことを言います。つまり自分の姿を、他人に投影しながら、自
分の姿を見るようなことを言います。よく知られたケースとしては、『泥棒の家ほど、戸締まりが
厳重』とか、『女遊びばかりしている父親ほど、娘にきびしい』というのがあります。これらも、結
局は、投影のなせるわざということになります。

 幸いにも、あなたは自分の二人の子ども(娘さんたち)について、よき友でいようと心がけてい
ます。それはすばらしいことです。方法としては、この部分をふくらませ、そしてあなたが両親か
ら受けついだ負の親象を、子どもには伝えないことです。権威主義など、「クソ食らえ!」(尾崎
豊)です。

 もう一つは、あなた自身の中に潜む、「依存性」を断ち切ることです。そのためには、遠慮しな
くてもよいですから、あなたの親を、とことんうらみ、嫌い、そして批判しなさい。遠慮せずに、し
ます。そしてその結果として、あなたは、親に対する依存性を断ち切ることができます。あなた
が「親を批判するなんて……」と思っている間は、あなたはそれを断ち切ることができません。

 しかし断ち切ってみると、あなたは親よりも、一歩も、二歩も、先へ抜き出ることができます。
そういう視点に立つと、今の状況が一変するはずです。それまで憎んでいた親が、あわれで小
さな人間に見えてきます。そうなれば、今の問題は、自然に解消します。約束します。

 そう、憎しみを、あわれみに変えたとき、あなたは、その人間を超えられるのです。そしてそこ
を原点として、新しい人間関係が始めることができます。つまりは、新しい親子関係になるので
す。そしてあなた自身も、あなたの子どもに対して、すばらしい親になることができます。そうい
うあなたをめざしてください。

 ただ一つだけ気になるのは、最後の、この部分です。「こんな話し、誰にも相談できませんよ
ね。主人にもです」というところです。

 今のあなた自身が、ひょっとしたら、あなたの夫に対して、全幅に心を開いていない心配があ
ります。もしそうなら、これはたいへんまずいことです。夫にすら心を開けないあなたが、どうし
て子どもに心を開けますか。もしそうなら、あなたの夫のみならず、あなたの子どもは、あなた
に対して、たいへんさみしい思いをしているはずです。私はそれを心配します。

 ですから、「主人にもです」などと言っていないで、思い切って、あなたの夫にすべてを話しな
さい。それがまず第一歩です。信頼関係は、やってくるものではなく、長い苦しみと、失敗を繰
りかえしながら、おたがいに作りあげるものです。一つの方法として、この私の手紙を、あなた
の夫に見せてみてはどうでしょうか。

 長い返事になってしまいましたが、あなたがかかえている問題は、子育ての根幹にかかわる
問題であると同時に、今の日本の社会が構造的にかかえる問題でもあります。それをわかっ
てほしかったです。

 では、これで失礼します。講演会においでくださったことに感謝します。ありがとうございまし
た。これからもよろしくお願いします。
(030724)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(001)

破壊的行動障害

 その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定の秩序あ
る環境になじまない状態にあること、「破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動性をとも
なう(DSM−Wの診断基準を参考)。

 ADHD児についての関心は大きくなり、各方面で研究がなされ始めているが、この「破壊的
行動障害児」についての研究は、今、日本でも始まったばかりといってよい。軽重の問題もあ
るが、私の経験でも、二〇〜三〇人に一人前後の割合で経験する。U君(小五)という子ども
がそうだった。

 U君は、私が何を注意しても、すべてをギャク化してしまった。まじめな会話ができないばかり
か、私が、まじめか、そうでないかも、判断できなかった。瞬間的なひらめきは鋭いため、学習
面での遅れはそれほど目立たなかった。が、少し目を離すと、周囲の子どもたちを巻きこん
で、騒いでばかりいた。

私「U君、静かにしなさい! 先生は、怒っているんだぞ!」
U「怒ってる、怒ってる、タコみたい」
私「あのな、先生は、今、まじめに怒っているんだぞ!」
U「ははは、怒れば、脳の血管、破れて、先生は、あの世行き」
私「静かに、私の話を聞きなさい!」
U「聞いてる、聞いてる、きいてるのは、肩の湿布薬」と。

 このタイプの子どもの指導のむずかしいのは、叱っても、一時的な効果しかないこと。つぎに
教室という「場」がもつ秩序を、破壊してしまうこと。それにたいていは、家庭できびしいしつけを
受けているため、家庭では、それなりに「いい子」ぶっていていること。そのため親にその認識
がないことなどがある。

 原因については、いろいろいわれているが、性格や性質というより、もっと機質的な部分に原
因がるような印象を受ける。脳の微細障害説を唱える学者(福島章氏ほか)もいるが、じゅうぶ
ん疑ってみる価値はある。

 このタイプの子どもの、もう一つの特徴としては、自己意識によるコントロールができないこと
がある。ふつう、小学三、四年生を境として、自己意識が発達し、子どもは自らをコントロール
するようになる。そして外からは、その症状がわかりにくくなる。が、このタイプの子どもには、
それがない。あたかも意図的に、自ら騒々しくしているといった印象を受ける。

 本来なら、親の協力が不可欠なのだが、ここにも書いたように、たいていは家庭でのきびし
いしつけが日常化していて、家では、それなりに「いい子」であることが多い。(むしろ明るく、活
発な子どもと誤解するケースが多い。)またこうした行動障害は、集団教育の場で現れることが
多く、そのため、家庭では、ほとんど目立たない。しかし家庭でのしつけがきびしければきびし
いほど、その反動として、外の世界で、強く、その症状が現れる。

 対処方法としては、まず親の理解と協力を得るしかない。つぎに、家庭でのきびしいしつけ
を、軽減してもらう。頭ごなしの説教や、威圧、暴力がよくないことは、言うまでもない。このタイ
プの子どもは、「叱られる」ことについて、かなりの免疫力をつけていることが多い。つまりそう
いう免疫力をつけさせないようにする。たとえばこのタイプの子どもは、ふつうの叱り方では、
効果がない。そこで勢い、大声を張りあげて……ということになるが、それは集団教育の場で
は、できるだけ避けなければならない。

 いろいろ問題はある。私のばあい、もう少し若ければ、こうした子どもと直接対峙して、マンツ
ーマンの教育をしてみるだろうが、このところ、その体力の限界を感ずるようになった。これか
らの若い先生方に、解決の方法を考えてもらいたい。
(030724)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(002)

内気、依存的な子ども

 内気、依存的な子どもについて、それは「性格」だとか、「性質」だとかと、誤解している人は
多い。しかし誤解は、誤解。

 人間の心的エネルギー(リピドー)は、みな、共通である。その心的エネルギーを、前向きに
出すか、あるいは反対にブレーキをかけるかで、積極的な子どもと、消極的な子どもに分かれ
る。

 もう少しわかりやすい例で考えよう。

 ここに100CCのバイクがある。良質な燃料をつんで、それなりの道で走れば、軽く150キ
ロ・時のスピードが出る。しかしそのバイクでも、もし車輪にヒモやロープがからんでいると、車
輪は回らない。回らない分だけ、スピードは遅くなる。ばあいによっては、止まってしまう。

 この車輪にからむヒモやロープが、子どもを、内気にしたり、依存的にしたりする。思いつい
たままで恐縮だが、そのヒモやロープになるものを、ざっと書いてみる。

●過干渉……子どもの意思的な活動を阻害する。強度の過干渉は、子どものやる気を奪うの
みならず、自我を軟弱にする。

●設計図……「こうあるべき」という親の設計図が、子どもの自我をつぶす。子どもは、自信の
ない、ハキのない子どもになる。

●過保護、溺愛……子どもから社会性をうばう。社会を生きるために必要な問題解決の技法
を、身につけられなくなる。

●威圧、暴力……親への恐怖心は、子どもの住む世界を、かぎりなく小さくする。とくに親の情
緒不安ほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。

●過関心……子どもの心を射抜くような視線、過関心は、子どもからハツラツとした「子どもら
しさ」を奪う。

●マイナスのストローク……「あなたはやはりダメな子」式の暗示がかかってしまうと、子どもは
その暗示の呪縛から抜け出られなくなる。

もちろん子ども自身の問題もある。いろいろな恐怖症、強迫観念など。同じ過干渉でも、それ
を受け取る側の子どもによっては、過干渉になったり、しないこともある。たとえばデリケートな
子ども(例、過敏児、敏感児など)ほど、同じ刺激でも、より大きく反応する。

 ほとんどの親は、「どうしてうちの子は、内気なのでしょう。もっとハキハキさせる方法はない
のでしょうか」という。しかしその原因のほとんどは、家庭教育の失敗(失礼!)である。だから
子どもだけをみて、子どもをなおそうとしても意味がないばかりか、かえって症状を悪化させて
しまう。

 改めるべきは、親の育児姿勢、育児態度、それに家庭環境である。……こう言い切るのは
危険なことだが、しかしそれくらいの覚悟を、今の若い母親たちはもってほしい。
(030724)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(003)

夏休み

 今年も夏休みがやってくる。毎年、「さあ、どうしようか」と迷っているうちに夏休みになり、「夏
休みだなあ」と思っているうちに、終わってしまう。私のばあい、長い休みになると、なったとた
ん、体の調子が悪くなる。五五歳という年齢も関係しているのかもしれない。運動不足が関係
しているのかもしれない。だから夏休みも終わりころになると、無性に仕事がしたくなる。

 旅行が休みの定番だが、とくに行きたいところはない。群馬県の水上温泉には、かねてから
行ってみたいと思っているが、思っているだけで、どうにもこうにも、足が動かない。先ほど、ワ
イフに、「今年こそ行こうか」と話しかけてみたが、「どうせだめよ」というような様子を見せた。
私は、まったく信用されていない。

 何でも不景気のせいにするのはいやだが、こうまで不景気になると、何をするにも、おっくう
になる。先行き不安というにがついてまわる。「来年はどうなるのだろう……」と考えただけで、
気が重くなる。つい数日前も、ワイフがこう言った。「マガジンの発行もいいけど、生活の心配も
してね」と。「そうだなあ」と思いつつ、またこうして原稿を書いている。あああ。

 このところ睡眠不足は、睡眠不足だ。毎朝、五時ごろ起きて、八時ごろまで原稿を書いてい
る。それが終わると朝食をとって、一、二時間また眠る。こういうのを何というのか。「朝寝」とで
もいうのか。ときどき何かの仕事が入って、その朝寝ができなくなるときがある。とたん、睡眠
不足!

 人生には、希望が必要だ。希望があるから、人は、生きられる。しかしその希望は、向こうか
らやってくるものではない。自分で創りだすもの。大小は、関係ない。人間は、どんなに小さな
希望でも、それが希望であれば、そこに生きる望みを託すことができる。たとえば私は、マガジ
ン第1000号を、一つの目標にしている。何万冊も売れる本とくらべれば、ささやかな希望だ
が、それでも希望は希望。途中でやめることもできるが、そうすれば、自分で自分の希望をつ
ぶすことになる。

 そう、夏休みは、本をどっさりと読んでみよう。かたっぱしから、読んでみよう。それがいい。
それが今年の夏休み。とりあえず読んでみたいのが、中国にあるというピラミッドの本。それに
古代メソポタミに関する本がいい。それと、あとはラジコンの本。パソコンの本も読んでみる。
少しがまんして、ハリーポッターの本(3、4巻)も読んでみる。一応読んでおかないと、子どもた
ちにバカにされる。

 まあ、そんなところで、今年の夏休みの計画は、おしまい。どうか、みなさんは、すばらしい夏
休みを、お過ごしください。
(030725)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(004)

孤独論

 孤独は、あらゆる人が共通してもつ、人生、最大の問題といってよい。だからもしあなたが
今、孤独だからといって、それを恥じることはない。隠すこともない。大切なことは、その孤独
と、いかにうまく共存するかということ。さあ、あなたも声を出して叫んでみよう。「私はさみしい」
と。マザーテレサは、つぎのように語っている。

 訳はかなりラフにつけたので、必要な方は、原文をもとに、自分で訳してほしい。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としての
パンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト
自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求
められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、
それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっ
ともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

No one would choose a friendless existence on condition of having all the other things in the 
world. - Aristotle
世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独(friendless condition)は選ばない
だろう。(アリストテレス)

No my friend, darkness is not everywhere, for here and there I find faces illuminated from 
within; paper lanterns among the dark trees. - Carole Borges
友がいれば、暗闇ばかりとはかぎらない。私は彼らの輝く顔を思い浮かべるが、それが暗い
木々にかかる、ちょうちんのようなものだ。(C・ボーグ)

To dare to live alone is the rarest courage; since there are many who had rather meet their 
bitterest enemy in the field, than their own hearts in their closet. - Charles Caleb Colton
あえてひとりで生きるというのも、勇気のいることだ。なぜならクロゼットに心をしまっておくより
も、戦場で、最悪の敵に会うことを望む人は多い。(C・C・コルトン)

Pray that your loneliness may spur you into finding something to live for, great enough to 
die for. - Dag Hammarskjold
あなたが孤独であるなら、何かそのために生きることができる目標が見つかるように、できれ
ばそのために死ぬことができる目標が見つかるように、祈れ。(D・ハマーショルド)

There is no greater sorrow than to recall in misery the time when we were happy. - Dante
あなたが幸福だったときを、みじめな状態で思い起こすほど、悲しいものはない。(ダンテ)

We're all lonely for something we don't know we're lonely for. How else to explain the curious 
feeling that goes around feeling like missing somebody we've never even met? - David 
Foster Wallace
私たちがなぜさみしいか、それがわからないのに、私たちは、みな、さみしい。会ったこともな
いような人をしのぶような、実におかしな感情を、どうやって説明したらよいのか。(D・F・ウォレ
ス)

The most I ever did for you was to outlive you. But that is much. - Edna St. Vincent Millay
あなたのためにした最大のことといえば、あなたより長生きをしたことです。それだけです。(E・
S・V・ミレー)

The end comes when we no longer talk with ourselves. It is the end of genuine thinking and 
the beginning of the final loneliness. The remarkable thing is that the cessation of the inner 
dialogue marks also the end of our concern with the world around us. It is as if we noted the 
world and think about it only when we have to report it to ourselves. - Eric Hoffer
自分と話をすることが、もうないとき、終わりはやってくる。それは純粋な思想の終わりであり、
かつ最終的な孤独のはじまりでもある。はっきりわかっていることは、心の対話の終わりは、私
たちのまわりの世界に関心をもつことの終わりであるということ。つまり世界というのは、私た
ちがそれを、自分に問いかけるときのみ、そこにある。(E・ホッファー)

With some people solitariness is an escape not from others but from themselves. For they 
see in the eyes of others only a reflection of themselves. - Eric Hoffer
他人から逃れるから、孤独になるのではなく、自分から逃れるから孤独になる。なぜなら彼ら
は、他人に目の中に、自分の姿を見るからである。(E・ホッファー)

It is loneliness that makes the loudest noise. This is true of men as of dogs. - Eric Hoffer
もっとも騒々しいのは、さみしさである。犬も、人間も同じ。(E・ホッファー)

"Don't you want to join us?" I was recently asked by an acquaintance when he ran across 
me alone after midnight in a coffeehouse that was already almost deserted. "No, I don't," I 
said. - Franz Kafka
「いっしょに、やらないか?」と、真夜中の、みすぼらしいコーヒーショップで、最近、知りあいの
男にたずねられた。私は、「いいや」と答えた。(F・カフカ)

I've never found a companion as companionable as solitude. - Henry David Thoreau
孤独ほど仲がよくなりやすい友だちはいないことを、私は知った。(H・D・ソロー)

Ships that pass in the night, and speak each other in passing, Only a signal shown, and a 
distant voice in the darkness; So on the ocean of life, we pass and speak one another, Only 
a look and a voice, then darkness again and a silence. - Henry Wadsworth Longfellow
夜、行きかいながら交信する船。
暗闇の中の、ただの信号と遠くの声。
人生の海においても、またそうで、
私たちは通りすぎ、会話を交わす。
ただ見て、たがいに声をかける。
それから再びやってくる、暗闇と静寂。(W・ロングフェロー)

Oh, sweet sorrow, the time you borrow, will you be here when I wake up tomorrow? - 
Katherine Wolf
オー、甘い悲しみよ、生きながらえて、あなたは明日、私が目ざめるとき、ここにいるだろうか。
(K・ウルフ)

What should young people do with their lives today? Many things, obviously. But the most 
daring thing is to create stable communities in which the terrible disease of loneliness can 
be cured. - Kurt Vonnegut
今日、若い人たちは、自分の人生をどうすべきか? 明らかに多くのことがある。しかしもっと
も大切なことは、孤独という恐ろしい病気が癒されるべき、確かな人間関係をつくりあげること
である。(K・ボネー)

In solitude, where we are least alone - Lord Byron
孤独の中で、我、ひとりにあらず。(L・バイロン)

Life dies inside a person when there are no others willing to be-friend him. He thus gets 
filled with emptiness and a non-existent sense of self-worth. - Mark R. J. Lavoie
喜んで彼の友になる人なければ、人生は、その人は死ぬ。彼はかくして、空しさに包まれ、生
きる価値を見失う。(M・R・J・ラボー)

Music was my refuge. I could crawl into the spaces between the notes and curl my back to 
loneliness. - Maya Angelou
音楽は、私の逃げ場。私は音符の間の空間に身をすべらせ、孤独に身をかがめる。(Mアンジ
ェロウ)

There is no pleasure to me without communication: there is not so much as a sprightly 
thought comes into my mind that it does not grieve me to have produced alone, and that I 
have no one to tell it to. Michel Eyquem De Montaigne
人との交わりのない喜びというのは、私には考えられない。たとえばこれはと思うひらめきがあ
ったとき、私はそれを自分ひとりで考え出したとは思わないし、それをだれかに話さずにはおら
れない。(M・E・D・モンテニュー)

Our language has widely sensed the two sides of being alone. It has created the word "
loneliness" to express the pain of being alone. And it has created the word "solitude" to 
express the glory of being alone. - Paul Tillich
私たちの言語は、ひとりでいることについて、二つの見方をする。一つは、「さみしさ」という語
で、これは、ひとりでいることの苦痛を意味する。そしてもう一つは、「孤独」という語で、これは
ひとりでいることの栄光を意味する。(P・チリッヒ)

God made everything out of nothing, but the nothingness shows through. -Paul Valery
神は、無からすべて作り出した。しかし無は、透けて現れる。(P・バレリイ)

The person who tries to live alone will not succeed as a human being. His heart withers if it 
does not answer another heart. His mind shrinks away if he hears only the echoes of his 
own thoughts and finds no other inspiration. - Pearl S. Buck
ひとりでいようと思う人は、人間としては、成功しない。もしだれの心にも答えることがなけれ
ば、その人の心は、しぼみ、もし彼自身の心のエコーだけを聞いているならば、その人の心
は、縮む。そして新しい発見も、そこで終わる。(P・S・バック)

When you're lonley, go to the music store and visit with your friends. - Penny 
Lane, "Almost Famous"
さみしかったら、あなたの友と、ミュージック・ショップへ行け。(P・レイン)

The body is a house of many windows: there we all sit, showing ourselves and crying on the 
passers-by to come and love us. - Robert Louis Stevenson
体は、たくさんの窓がある家。その窓辺に座って、自分を見せ、その外を行き交う人に、やって
きて、自分を愛するようにと泣き叫ぶ。(R・L・スティーブンソン)

Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and in 
the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and sometimes 
we lose them there again. - Stephen King, "The Green Mile"
時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、
運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてとき
に私たちは、その人すら再び見失う。(A・キング・「グリーンマイル」)

Better be alone than in bad company - Thomas Fuller
悪い仲間といるくらいなら、ひとりのほうがよい。(T・フラー)

The whole conviction of my life now rests upon the belief that loneliness, far from being a 
rare and curious phenomenon, peculiar to myself and to a few other solitary men, is the 
central and inevitable fact of human existence. - Thomas Wolfe
今や私は、人生の中で、孤独というのが、人間の存在には欠かせないものであることを、信念
として発見した。その孤独というのは、とくに私や、二、三の孤独な人にとっては、まったく理解
しがたい奇妙な現象ではあるが……。(T・ウルフェ)

And I look again towards the sky as the raindrops mix with the tears I cry. - Unknown
雨と涙が混ざるように、私は再び空を見あげる。(作者不詳)

One may have a blazing hearth in one's soul, and yet no one ever comes to sit by it. - 
Vincent Van Gogh
人は、魂の中に、燃えさかる暖炉をもっているかもしれないが、だれもそのそばにきて、座るこ
とはない。(V・V・ゴッフォ)

Skillful listening is the best remedy for loneliness, loquaciousness, and laryngitis. - William 
Arthur Ward
孤独な人、多弁な人、咽頭炎の人には、しっかりと耳を傾けてあげよう。それが最善の治療法
だから。(W・A・ウォード)

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 ここでは「loneliness」(さみしさ)と「solitude」(孤独)を、ともに「孤独」と訳した。孤独は、たいて
いさみしさをともなう。中に、孤独を楽しむ人もいるというが、私にはそういう人の気持ちが、理
解できない。私にとって孤独は、人生、最大の敵。孤独と戦うことが、生きることの目的にもな
っている。

 私は冒頭で、「孤独との共存」を口にした。いかなる方法をもってしても、孤独を取り除くこと
ができないなら、共存するしかない。それが今の、私の考え方である。それは人間が、原罪とし
てもって生まれたものではないかと思う。つまり「知恵ある生物」が、その知恵で、自分が孤独
な存在であることに気づいてしまった。

 もし人間が、もう少しバカなら、バカなまま、何も考えることもなく、従って孤独になることもな
かった。へたに利口になってしまったから、孤独を感ずるようになってしまった。「原罪的」という
のは、そういう意味である。

 こうして世界の賢人の言葉を拾い集めてみると、幸福論と孤独論は、ちょうど紙の表と裏の
関係にあるのがわかる。そして多くの賢人が、幸福を追求するかたわら、孤独について語って
いる。この中で、とくに私の関心をひいたのが、マザーテレサの言葉。「イエスも孤独だった」と
いう言葉である。私は、これを読んでほっとした。多分、あなたもそうであろう。
(030725)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(005)

【今週のBW教室】

●適当にサボる

 子どもの指導では、まじめ七割、ふまじめ三割が基本。まじめすぎるのは、よくない。効果が
ないばかりか、かえって子どもの心を窮屈にする。

 今週は、こんなことをした。小学X年生の、D君が、このところ元気がない。何をしても、自信
がなさそうに、逃げてしまう。「どうせ、ぼくはダメ」というような表情をして見せる。

 そこでD君の弟(Y歳)にそれとなく聞くと、D君は、「太鼓の達人」(ナムコのゲーム)というゲ
ームの、その達人だという。「いつも二万点くらい取っている」と。

 そこで私は、授業中に、D君にこう言った。「ぼくは、太鼓の達人でね。いつも一万五〇〇〇
点くらいは取っている」と。するととたん、D君が目を輝かせた。そしてこう言った。「たったのそ
れだけ?」と。

私「たった、とは何だ。ぼくは達人だ」
D「ぼくは、先生より、うまい」
私「何だって? ぼくよりうまい? そんなはずはないだろ」
D「ぼくのほうが、うまい」
私「ふん、じゃあ、勝負しようか」
D「いいよ、どうやって?」
私「Zショップへ今すぐ、行こう。勝負しようじゃないか?」
D「これから?」
私「そうだ!」と。

 私は、クラスの全員を連れて、Zショップへ行った。歩いて五分もかからない。こういうことがで
きるのが、私の強みである。私と親たちは、信頼関係で結ばれている。またそういう信頼関係
を基本に、子どもたちの指導をしている。(それに甘えてはいけないが……。)もし私が公立学
校の教師なら、それだけでクビが飛ぶだろう。新聞沙汰(ざた)になるかもしれない。

 私たちは、Zショップに行った。みなは、D君の応援をした。念のために言っておくが、私は、
初級コースでも、一万点前後しか取れない。わざと負ける必要はない。懸命に戦っても、D君に
負けることはわかっていた。

 で、結果は、D君が二万数千点。私が一万数千点。私が汗をふきながら、「やっぱり、君はう
まいなあ」と。みなの前でほめた。D君は、我意を得たりというような顔をして、笑った。

 この戦いで、D君は、以前のような明るさを取り戻した。つまりこういう「いいかげんさ」は、子
どもの指導には不可欠である。そのいいかげんな部分で、子どもは、羽をのばす。心と体を休
める。しかしその「いいかげんさ」を理解できない親も、多い。ずいぶんと前だが、私が夏休み
のキャンプを計画したときのこと。一人の父親がやってきて、私にこう言った。

 「キャンプの目的と、意義を、きちんと説明してほしい。それに事故があったときの、責任の所
在と範囲を明確にしてほしい」と。

 私が、「みなで、楽しめば、それでいいのでは……」と答えると、「そんないいかげんなことで
は困る」と。で、結局、その父親があれこれ言ったので、私はすっかりやる気をなくしてしまっ
た。

 今でも、ときどき、こういう親に出会う。まじめというより、古風な「勉強観」をもっていて、勉強
とは、かくあるべしと「型」をうくってしまう親である。たとえば勉強とは、黙々と、机に向かってす
るもの、とか。しかしそうはいかない。いかないことは、教えたことのある人なら、みな、知って
いる。それぞれの子どもには、みな、違ったリズムがある。そのリズムを無視して教えても、か
えって子どもは混乱するだけである。

 私はもともといいかげんな人間なので、子どもたちには、いつもこう言っている。「あのね、勉
強なんてものはね、適当にやればいいの。そのうちしっかりやりたくなったら、しっかりやれば
いいの」と。この言い方は、逆説的な効果がある。子どもたちは、「それはおかしい?」と言いな
がら、まじめにやり始める。

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 これに関連して、以前、こんな原稿を書いた。この原稿は、新聞社でも、また出版社でも、ボ
ツになった原稿である。どうしてボツになったか、それは読者自身で、判断してみてほしい。

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常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

@学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多
いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人
を超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと
言われている。それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。

「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合
同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界
で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブ
だが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中
にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年調べ)。こう
した親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一
四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最
長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住
所はもちろん、電話番号すら親には教えない。

私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンク
ーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親
が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」
と。

B進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に
話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで
はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界
 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではな
い。

学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにし
ても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」
と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが
仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!
 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」
 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
(030725)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(006)

オーストラリア人の友人

 オーストラリアの友人夫婦が我が家に寝泊りするようになって、もう一か月になる。正直言っ
て、たいへん。私はともかくも、ワイフのほうが、たいへん。かなりバテぎみ。いくら私の友人夫
婦でも、家族のようなわけにはいかない。困ったこともいくつかあった。

 まず電話やクーラーを、使い放題ということ。窓をあけたまま、夜は一方で、クーラーをかけっ
ぱなしで寝る。電話も、国際電話を、ほいほいとかける。そして毎日、一時間ほどの長電話。オ
ーストラリアでは、電気や、電話は、信じられないほど、安い。そういう感覚が身についてしまっ
ているらしい。

 それに、こちらが何かを提案すると、彼らはすかさず、「サンキュー」と言う。それはそれでか
まわないが、一度、サンキューと言うと、今度は、それを私たちに要求してくる。そういう意味で
は、オーストラリア人は、実に白黒がはっきりしている。たとえば、「今度、○○山へ行こうか」と
提案したとする。すると、「サンキュー」と言う。で、そのあと、数日もすると、「いつ連れていって
くれるか」「ちゃんと、ホテルを予約したか」と聞いてくる。何かしら、要求されているようで、窮屈
な感じがする。だから、安易な提案はしないこと。改めて、それを思い知らされた。

 そのかわり、彼らは、実によく(?)、約束を守る。こちらがどうでもよいと思っているようなこと
まで、守る。B君に、「君は太っているから、サンタクロースみたいだ。君を見たら、子どもたち
は、サンタクロースと思うかもしれない」と言ったことがある。するとB君は、「今度、君の教室へ
行ってやるよ」と言った。私は、あまり考えないで、「○曜日の○時クラスの子どもたちなら、キ
ャーキャーと言って喜ぶだろう」と話した。ところが、である。本当に、その日のその時刻に、B
君は、教室へやってきた!

 言いかえると、これはアメリカ人でもそうだが、あいまいな言い方は、通用しないということ。で
きることと、できないことを、はっきり分け、そして何でも、はっきりと言ったほうがよい。そのほ
うが、彼らも、またすっきりする。

 さらに言いかえると、日本人ほど、ものごとを、あいまいにする民族もないということ。まさに
『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』(聖徳太子)という国がらである。「ものごとは争わ
ず、人と和するのが、何よりも大切」と。もっとはっきり言えば、「ナーナーのままのほうが、よ
い」と。

 どちらがよいかということではない。要は、「慣れ」の問題。私はやはり、日本人だから、日本
流のほうが、性(しょう)にあっている。白黒をはっきり言うのは、あまり好きではない。「まあ、
いいじゃないか」という、あいまいさがある世界のほうが、私には居心地がよい。しかしオースト
ラリア人とつきあうときは、そういう姿勢は、かえって不信感を生む。だからはっきりと言うこと
にした。

「クーラーを使うときは、窓をしめてほしい」「一日中、クーラーをつけっぱなしは、やめてほし
い。とくに外出するときは、止めてほしい」と。電話については、黙認することにした。これはし
かたない! 日本へ来たときすぐに、私に、「電話を使っていいか」と聞いた。そのとき私は、
「アズ・ユー・ライク(どうぞ、自由に!)」と言ってしまった。

 しかし、クーラーについて小言を言うときには、結構、勇気がいった。気分を害するのではな
いかという、遠慮もあった。あああ。私は、やはり、日本人だ。改めて、それを思い知らされた。

 さてさてその友人夫婦、今日は、箱根へ行っている。その行動力には、驚くべきものがある。
思い立ったら、すぐという発想である。京都の祇園祭があると知ったら、その日の午後には、も
うでかけて行った。近くのスーパーの催し物へでも行くような感覚である。私も彼らに見習って、
いつか、大旅行をしてみたい。しかし二か月の休暇など、私には、とても無理。ああ、やはり、
私は、日本人だった。
(030725)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(007)

人生論

 人生は、どのように生きるべきなのか。私も考えているし、多分、あなたもそうであろう。もち
ろん多くの賢人たちも、そうであった。C・ソレスクが言っているように、バカで生きればそれなり
に楽だが、そういう人生に、どれほどの意味があるというのか。反対に、C・S・ルイスが言うよ
うに、生きる意味などというものは、言葉で表現できるような問題でもなさそうだ。

 『人生は、チョコレートの箱のようなもの。食べてみるまでは味はわからないよ』(映画「フォレ
スト・ガンプ」)というのが、どうも答のようだが、しかしこれでは答になっていない? 懸命に生
きることに価値があるとしたトルストイもいる。さて、あなたは、あなたの人生を、どのように考
えているか? 世界の賢人たちの言葉に、耳を傾けてみよう。(英文は、イギリスのフリー投稿
ボードに掲載されたものから選んだ。)

"If you live to be a hundred, I want to live to be a hundred minus one day, so I never have 
to live without you." - Winnie The Pooh
もしあなたが100年生きるなら、私は、100年マイナス一日、生きたい。そうすれば私はずっ
と、あなたといっしょに生きることができる。(ウィニー・ザ・プー)

There is only one success -- to be able to spend your life in your own way - 20th Century 
American Writer Christopher Morley
唯一の成功がある。つまり、自分のやり方で、自分の人生を生きることだ。(クリストファー・モ
ーレイ)

When something is true many words are not necessary. - A Paralyzed Japanese Painter
そのものが真実であるなら、多くの言葉は必要ない。(日本の画家)

If I were two-faced, why would I be wearing this one? - Abraham Lincoln
もし私に二つの顔があるなら、どうしてこの一つをかぶることがあるのだろうか。(A・リンカー
ン)

Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds. - Albert 
Einstein
偉大な精神というのは、二流の心をもった人間たちの、猛烈な抵抗にあうものだ。(A・アインス
タイン)

Reality is merely an illusion, albeit a very persistent one - Albert Einstein
現実というのは、幻想だ。たとえしつこいものであっても。

There's no such thing in anyone's life as an unimportant day - Alexander Woolcott
だれにとっても、不必要な日というのは、ないものだ。(A・ウールコット)

All changes, even the most longed for have their melancholy, for what we leave behind us is 
a part of ourselves. We must die to one life before we can enter another - Anatole France
すべての変化は、それが長く望まれたものではあっても、もの悲しいもの。なぜなら私たちのう
しろにあるものは、私たちの部分にすぎないから。私たちはつぎの変化に入る前に、一つの人
生を生き、そして死なねばならない。(A・フランス)

There are few things as precious as our emotions, and those so ignorant to play with them 
are at a complete loss of any good you might have to offer. - Anonymous
私たちの感情ほど、貴重なものはないのよ。その感情と遊ぶことに無知な人は、ほかの人に
提供できる大切なものを、ムダにしているのよ。(作者不明)

Age is a defection of experience. - Brian Anthony, "Archangels"
年齢というのは、経験からの離脱をいう。(Bア・ンソニー)

We have reached the point where we are now possessed of sufficient information for each 
individual human to dare to exercise the option to "make it" rather than having to depend 
on the decisions of an educated elite. - Buckminster Fuller
私たちは、教育を受けたエリートの決定に頼るというよりは、個人個人が、それをあえて自ら実
現するための、じゅうぶんな情報をもつようになった。(B・フラー)

Dare to be naive. - Buckminster Fuller
あえてナイーブ(無邪気)であれ。

It is not for me to change you. The question is, how can I be of service to you without 
diminishing your degrees of freedom? - Buckminster Fuller
あなたを変えるのは私ではない。問題は、いかにして、あなたの自由を減らすことなく、あなた
に仕えることができるか、だ。(B・フラー)

Our passions are not too strong, they are too weak. We are far too easily pleased. - C.S. 
Lewis
我々の感情は、あまり強くない。弱いだけだ。我々はそのため、何かにつけて、すぐ喜びやす
い。(C・S・ルイス)

He who takes his life for granted is a pencil without an eraser. - C.S. Lewis
人生を当然のように考えている人は、消しゴムのない鉛筆のようなものだ。(C・S・ルイス)

Life is too deep for words, so don't try to describe it, just live it. - C.S. Lewis
人生は、言葉で言い尽くせないほど、深い。それでそれを言葉で表現しようと思うな。ただ生き
ろ。(C・S・ルイス)

It is very simple to play as fool! You don't have to prove nothing. - Catalin Sorescu
バカとして生きることは、とても簡単なこと。あなたは何も証明する必要がない。(C・ソレスク)

Kindness is just about the best you can do. - Charles Bukowski
親切が、あなたがなしうる最善のことだ。(C・ブコウスキィ)

The first half of our lives is ruined by our parents, and the second half by our children - 
Clarence Darrow
あなたの人生の最初の半分は、親によって滅ぼされる。あとの半分は、子どもによって滅ぼさ
れる。(C・ダロウ)

To know is to know that you know nothing. That is the true meaning of knowledge - 
Confucious
知るということは、あなたが何も知らないことを知ることである。それが真の知識の意味であ
る。(孔子)

It does not matter how slowly you go as long as you do not stop. - Confucious
あなたが立ち止まらさえしなければ、いかにゆっくり進もうと、問題ではない。(孔子)

You don't really own anything you can't carry on your back at a dead run. - Daniel Keys 
Moran 
背中に負って、死にものぐるいで走らないなら、あなたは、何も自分のものとすることができな
い。(D・K・モラン)

Fantasy is a necessary ingredient in living, it's a way of looking at life through the wrong end 
of a telescope and that enables you to laugh at life's realities. - Dr. Suess
ファンタジーというのは、生きる上においては、重要な要素である。それはたとえて言うなら、望
遠鏡を反対からのぞくようなもので、人生の現実を、笑うことができるようになる。(スエス博士)

There is a certain satisfaction in living a life in complete and total failure. - Edward Abbey
不完全で失敗だらけの人生を生きることには、ある種の満足感がある。(E.アビー)

Life is like playing the violin solo in public and learning the instrument as you go. - Edward 
Geroge Bulwer-Lytton
人生は、公の面前でバイオリンをひくようなものだ。そしてひきながら、その楽器の使い方を学
ぶようなものだ。(リットン)

"If you wind up with a boring, miserable life because you listened to your mom, your dad, 
your teacher, your priest, or some guy on TV telling you how to do your shit, then YOU 
DESERVE IT." - Frank Zappa
「もしあなたが、あなたの母親や父親、先生や牧師、それにTVの男たちが、クソの仕方(=くだ
らない話)を話したことにより、あなたが退屈でみじめな生活を、何とかしようと考えたとしたら、
あなたはそれだけの人間ということよ」(F・ザッパ)

In the fight between you and the world, back the world. - Franz Kafka
もしあなたと世界が戦うなら、世界にもどれ。(F・カフカ)

I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, 
and you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by chance 
we find each other, it's beautiful. - Frederick E. Perl
私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。私はあなたのために生きるのではない。
あなたも私のために生きるのではない。あなたは、あなた。私は私。それでいてもしたがいに
知りあいになるなら、それはすてきなこと。(F・E・パール)

A life spent making mistakes is not only more honorable but more useful than a life spent 
doing nothing. - George Benard Shaw
失敗をする人生は、何もしない人生より、もっと名誉あるもののみならず、もっと有用なもので
ある (G・バーナード・ショー)。

To be awake is to be alive. - Henry David Thoreau
目覚めているということは、生きているということ。(H・D・ソロー)

Love your life poor as it is. You may perhaps have some pleasant, thrilling, glorious hours 
even in a poorhouse. - Henry David Thoreau
貧しい生活を、愛せよ。あなたは貧しい家で、何か居心地がよく、スリルがあって、輝きにあふ
れたときをもつであろう。(H・D・ソロー)

Three things in human life are important. The first is to be kind. The second is to be kind.  
And the third is to be kind. - Henry James
人生には三つのものが必要である。親切であること。つぎに親切であること。三番目に親切で
あること。(ヘンリー・ジェームズ)

When you forget to eat you know you're alive. - Henry Miller
食べるのを忘れたとき、あなたは生きていることを知る。(ヘンリー・ミラー)

When life hands you a lemon, say "Oh yeah, I like lemons. What else you got?" - Henry 
Rollins
人生が君にレモンを渡すとき、こう言え。「オー、そうだ。私はレモンが好きだ。ほかに何をもっ
ているか?」と。

Sociability is a big smile, and a big smile is nothing but teeth. Rest and be kind. - Jack 
kerouac, "The Scripture of the Golden Eternity #30"
社交性というのは、大きなほほえみで、ほほえみというのは、ただの歯以外の何ものでもな
い。体を休めて、親切であれ。

Nature wants children to be children before men . . . Childhood has its own seeing, thinkin 
and feeling. - Jean-Jacques Rousseau
自然は、おとなになる前、子どもは子どもであることを欲する。子どもには、独特の見方、考え
方、感じ方がある。(J・J・ルソー)

For all the sad things of tounge or pen, the worst are these,"it might have been." - John 
Greenleaf Whittier
言葉にせよ、書いたものにせよ、「それはこうであったかもしれない……」というものほど、最悪
なものはない。(JGウィッティアー)

No one wants advice, only collaboration. - John Steinbeck
だれもアドバイスなんか、ほしくない。ほしいのは手助けだ。(J・スタインバック)

Maybe a long life does have to be filled with many unpleasant conditions, if it's to seem long. 
But in that event, who wants one. - Joseph Heller, "Catch-22"
もし人生が長く見えるなら、その長い人生には、いやなことも多い。しかしもしそうなら、だれ
が、そんな人生を望むだろうか。(J・ヘラー)

Always be a first-rate version of yourself, instead of a second-rate version of anybody else. 
- Judy Garland
いつもあなたの第一バージョンであれ。決して他人の第二バージョンになるな。(J・ガーランド)

"Movies are open doors, and at every door, I change character and life...I live for the 
present always. I accept this risk. I don't deny the past, but it's a page to turn." - Juliette 
Binoche (French Actress)
映画は、開いたドア。そしてそのドアごとに、私はキャラクターと人生を変える。私はいつも現実
を生きる。私はこのリスクを受け入れる。過去を否定しない。それはめくるべき、一ページ。
(J・ビノシェ)

We are what we pretend to be, so we must be careful about what we pretend to be. - Kurt 
Vonnegut
われわれは、そのフリをした人間になっている。だから、我々がどんなフリをしたか、注意深く
なければならない。(K・ボネー)

When we were children, we used to think that when we were grown-up we would no longer 
be vulnerable. But to grow up is to accept vulnerability... To be alive is to be vulnerable. - 
Madeleine L'Engle
子どものころ、私たちはおとなになれば、強くなれると思っていたもの。しかし成長するというこ
とは、人間のもろさを受け入れるということ。つまり生きているということは、キズつきやすくなる
ことである。(M・レンゲル)

Twenty years from now you will be more disappointed by the things that you didn't do than 
by the ones you did do. So throw off the bowlines. Sail away from the safe harbor. Catch 
the trade winds in your sails. Explore. Dream. Discover. - Mark Twain
20年後に、それによってあなたがしたことよりも、あなたがしなかったことによって、あなたはさ
らに失望するだろう。ヒモをなげろ。安全な港から、航海に出ろ。帆で。風を受けろ。冒険せ
よ。夢を見ろ。発見せよ。(マーク・トウェイン)

Wink at a homely girl, it costs you so little & does her so much good. - Menken
かわいい娘にウィンクしな。簡単なことだが、彼女には、大きな意味をもつよ。(ウェンケン)

Once a person has all the things they need to live, everything else is entertainment. - Neal 
Stephenson In
生きるために必要なものをすべて手に入れたら、もう一つ必要なのは、娯楽。(N・S・イン)

What a strange machine man is! You fill him with bread, wine, fish, and radishes, and out 
comes sighs, laughter, and dreams. - Nikos Kazantzakis
人間は、何と奇妙な機械のことよ。パン、ワイン、魚、ラディシュで体を満たし、出てくるのは、
ため息と、笑いと夢。(N・カザンザキス)

The truth is rarely pure and never simple. - Oscar Wilde
真実というのは、えてして不純なものであり、決して単純なものではない。(オスカー・ワイルド)

Ordinary riches can be stolen; real riches cannot. In your soul are infinitely precious things 
that cannot be taken from you. - Oscar Wilde
ふつうの富は、盗まれる。しかし真の富は、盗まれない。あなたの魂の中には、盗まれることの
ない、永遠に貴重なものがある。(オスカー・ワイルド)

Nowdays people know the price of everything, and the value of nothing. - Oscar Wilde
今日、人々は、すべてのものの価値を知っている。つまり無の価値を、である。(オスカー・ワイ
ルド)

We do not necessarily improve with age: for better or worse, we become more like 
ourselves. - Peter Hall
年齢とともに、よくなるか悪くなるか、ともかくも、進歩するとはかぎらない。我々は、年齢ととも
に、より自分らしくなるということ。(P・ホール)

Perfection means not perfect actions in a perfect world, but appropriate actions in an 
imperfect one. - R. H. Blyth
完ぺきな世界では、完ぺきは、完ぺきな行動を意味しない。しかし適当な世界では、適当な行
動が、完ぺきな行動を意味する。(R・H・ブライス)

Is this the end of everything?  Fifteen minutes later and oh, how I've changed. - Rainer 
Maria
これがすべての終わりかい? 15分もたてば、私はいかに変わっていることか。(R・マリア)

No law can be sacred to me but that of my nature. - Ralph Waldo Emerson
自然の法以外、どんな法律も、私には神聖ではない。(R・W・エマーソン)

We live on the planet of the Apes. Is that funny, or serious? - Robert Anton Wilson
我々は、サルの惑星に住んでいる。それはおかしなことなのか。それとも、深刻なことなのか。
(R・A・ウィルソン)

In three words I can sum up everything I've learned about life - It goes on. - Robert Frost
私は三つの単語に、私が学んだ人生、すべてを要約する。つまり、「それはつづく」ということ。
(ロバート・フロスト)

Be glad you had the moment - Steve Shagen
その瞬間があったということを、喜べ。(S・シェイジェン)

To know you have enough is to be rich. - Tao
充足を知るということは、リッチということ。(タオ)

Ninety percent of everything is crap. - Theodore Sturgeon
すべての90%は、サイコロ賭博。(T・スタージャン)

Don't cry because it's over, smile because it happened. - Unknown
もう終わったから、泣くなよ。そうなってしまったんだから、笑えよ。(不明)

Each player must accept the cards life deals him or her: but once they are in hand, he or 
she alone must decide how to play the cards in order to win the game. - Voltaire
人生がその人に配るカードは、そのまま受け入れなければならない。それらがいったん、手に
渡されたら、勝つためには、どうやってプレーをすればいいのか、考えなければならない。(ボ
ルテール)

You never know what is enough unless you know what is more than enough. - William Blake
もしあなたが、何が、じゅうぶん以上のものであるかを知らなければ、何がじゅうぶんかを知る
ことは決してない。

"Against my will, I am sent to bid you....come into dinner.......There's a double meaing in that!" 
Benadict - William Shakespeare
「私の意思に反して、私はあなたに乞うために送られてきた。つまり夕食に。これには二つの
意味がある」(シェークスピア)

The world is conspiring in your favor. - Written on the street in front of the Metropolitan 
Museum of Art.
世界は、あなたとともにある。(メトロポリタン・ミュージアム・オブ・アートの前の通りに書かれた
言葉)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(008)

【今週の幼児教室より】

●観察学習

 一〇人の幼児がいる。その中の一人に、歌を歌ってもらう。そして歌を歌い終わったら、その
子どもを、ほめる。「じょうずだってね!」「すばらしい!」と。

 これをほかの九人の子どもたちが見ている。モデルとなった子どもが、歌を歌い、ほめられる
のを知る。ここで九人の子どもたちは、歌を歌うことで、ほめられることを知る。そして自分で
も、歌を歌ってみようと思うようになる。これを「観察学習」という。

 幼児教育では、この「観察学習」を、大切にする。とくに私の教室では、大切にしている。方法
は、こうする。

 私は毎年、四月ごろ、年中児の子どもを、三〜五人だけ募集する。これが限度である。そし
てその三〜五人だけを、集中的に、指導する。とくにていねいに、指導する。すると、その子ど
もを中心に、その雰囲気ができてくる。あとは毎月、一〜二人を、その雰囲気の中に加えてい
く。こうして半年後を目標に、一つのクラスを完成させる。

 わかりやすく言えば、子どもを指導するには、モデルとなる子どもを見せるのが一番。しかし
反対のケースもある。子どもが、悪い子どもを見習ってしまうケースである。乱暴な言葉や、粗
雑な態度など。しかしそういうときは、私がそういう乱暴な言葉や、粗雑な態度を容認しないと
いうことを、はっきりと示していく。ほかの子どもたちは、そういう私の様子を見て、自分の中に
免疫力を養っていく。

 この免疫力をもつことは、大切なことである。温室がよいわけではない。しかしそのとき大切
なのは、しっかりとしたリーダー、つまり教師がいること。この教師がフラフラしていると、免疫
力がつく前に、その子どもに染まってしまう。

 わかりやすい例で言えば、タバコを吸っている教師が、中学生に、いくら禁煙指導しても、意
味はない。「タバコは嫌いだ」という、きっぱりとした姿勢があって、子どもは、はじめてその教
師の意見に、耳を傾けるようになる。

 「モデル」と「観察学習」の関係については、教育の世界では常識なので、ここではもう一歩、
話を進める。

 私の教室では、小学六年生くらいになると、ときどき、中学生の間にすわらせて、好きな勉強
をさせる。「宿題でも何でもいい」というような言い方で、指導する。この方法は、いろいろな意
味で、効果的である。以前、こんな原稿を書いたことがある。

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先生は年上の子ども

 私はときどき、年少の子どもを年長の子どもの間に置いて、学習させることがある。たとえば
小学五年生の子どもを、中学生の間に座らせて勉強させるなど。しばらくの間はそれにとまど
うが、やがてそれになれてくると、子どもに変化が現れてくる。こんなことがあった。

 N君はどこかつっぱり始めたようなところがあった。目つきが鋭くなり、使う言葉が乱暴になる
など。そこで親と相談して、中学生の間に座らせてみることにした。で、それから数か月後、気
がついてみると、N君のつっぱり症状はウソのように消えていた。あとで母親に話を聞くと、こう
教えてくれた。N君の趣味はサッカー。その一緒にすわった中学生の中に、サッカー選手がい
たのだ。N君は毎回家へ帰ると、親たちにその中学生の話ばかりしていたという。それがよか
った。N君はいつしかその中学生をまねるようになり、勉強グセまでもらってしまった。母親はこ
う言った。「サッカーの試合があったりすると、こっそりと隠れて応援に行っていたようです」と。

 何が子どもに影響を与えるかといって、同年齢あるいはそれよりもやや上の子どもほど影響
をあたえるものはない。そこでもしあなたの周辺に、@一〜二歳年上で、Aめんどうみのよい
子どもがいたら、無理をしてでもよいから、その子どもと遊ばせるとよい。「無理をして」というの
は、親どうしが友だちになったり、仲よくしながらという意味である。あなたの子どもはその子ど
もの影響を受けて、すばらしい子どもになる。

 もちろん悪い友だちもいる。親はよく一方的に交際を制限したり、相手の子どもを責めたりす
るが、そうすればしたで、それは子どもに向っては、友を取るか、親を取るかの二者択一を迫
るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよいが、友を取ればその時点で親子の間に大
きなキレツを入れることになる。そういうときは、どこがどう悪いかだけを話し、あとは子どもの
判断に任せるようにする。

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 こうした方法を、さらに組織的に応用したのが、イギリスのカレッジ制度ということになる。大
学に附属するカレッジでは、上級生が下級生にものを教えたり、指導したりする。カレッジその
ものが、学外の教育機関だと思えばよい。それについて書いたのが、つぎの原稿である。

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●ハリーポッターの世界
 最近、私は『ハリーポッター』という映画を見た。しかしあの映画ほど、ハウスでの生活を思い
起こさせる映画はない。ハウスも全寮制で、各フロアには、教官がいっしょに寝泊りしていた。
食事のときや講義を受けるときは、正装の上に、ローブと呼ばれるガウンをまとった。映画の
中でもときどき食事風景が出てくるが、雰囲気もまったくあの通り。教官やシニアの学生が席
に着くハイテーブルと、学生たちが席に着くローテーブルに分かれていた。たとえば夕食はこう
して始まる。

●ハウスの夕食
 まず学生たちは、コモンルームに集まる。コモンルームというのは、談話室。そこで待ってい
ると、午後六時半きっかりに合図のチャイムが鳴る。それに合わせて、学生たちが食堂に入
り、ローテーブルの前で立って待つ。その途中で、円筒形に巻いた、ナプキンを棚から取り出し
てもっていく。ナプキンは、定期的に洗濯される。そうしてしばらく待っていると、シニアのコモン
ルームから、寮長(ウォードン)を最後尾に、シニアの学生と教官たちが、ぞろぞろと入ってく
る。そして寮長が座るのを見届けてから、学生たちも席に着く。

 食事の前のあいさつは当番制になっている。一人の学生がハイテーブルの隅に立ち、こう言
う。「これらすべての良きものに、感謝の念をささげ、このハウスに恵みのあらんことを」「アーメ
ン」と。すると一斉に食器を回す音がし、片側の柱のかげから、給仕たちが食事を運び始め
る。会話は自由だが、大声で話したり、笑ったりするのは禁止。もしその途中でベルが鳴った
ら、絶対的な静粛が求められる。たいてい寮長からの連絡事項が告げられる。「明日は、○○
国○○大使が晩餐にくるから、遅刻は許さない」とかなど。一度、その話の途中で、不用意に
スプーンで食器をたたいてしまった学生がいた。その学生は、その場で退室させられた。つま
りその夜は食事抜き。

 食事は、毎回例外なく、フルコース。スープに始まる前菜、メイン料理、それに付随する数品
の料理のあと、デザート。「ディナー」と呼ばれる晩餐会では、さらに数品ふえる。ワインも並
ぶ。ワインは、賓客と乾杯するために配られる。だいたい一時間ほどをかけて、夕食を終え
る。ディナーのときは、賓客のスピーチもあったりして、終わる時間は、まちまち。時には九時
を過ぎることもあった。

そして皆が終わると、入ってきたときとは、まったく逆に、まず寮長以下、ハイテーブルの教官
たちが席を立ち、食堂から出る。それを見届け、学生たちも食堂を出て、コモンルームに移
る。そこには、コーヒー、紅茶、ワインなどが用意してある。食事のあとは自由行動で、コモン
ルームへ行かないまま、自分の部屋に戻る学生もいた。

●夢のような生活
 寮長はディミック氏だった。イギリスきっての超大物諜報部員だったという。(もう亡くなってい
るので、暴露しても構わないと思う。)これはずっとあとになってのことだが、彼はその後、その
功績が認められて、「サー」の称号を受けたそうだ。いつかだれだったか、ジェームズボンド
は、彼がモデルだったと言ったが、そんなわけでありえない話ではない。ただ映画のボンドとは
違い、ディミック氏は映画監督のヒッチコックを連想させる、太った大柄な人物だった。

 こうした厳格なカレッジライフを嫌う学生も少なくなかった。とくに私がいたインターナショナル
ハウスは厳格だったということだが、それは私が帰国してから友人に聞いて知ったこと。私自
身は、厳格であるかないかということより、恵まれた環境を楽しんでいた。当時の寮費だけで
も、留学生のばあい、月額約二〇万円(一ドル四〇〇円)。日本の大卒の初任給がやっと五万
円を超えた時代である。私には夢のような生活だった。

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 子どもを指導しようとするなら、まず自分が、その手本なり、見本を見せる。それにまさる教
育はない。……これは子育ての常識のように思うが。
(030726)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(009)

子どもを愛する

はやし先生、先日でB町(愛知県)で、先生の講演を拝聴し、癒された気分になりました。自分
の子供を愛せない……そんなことで、悩んでいた矢先だったので。

 私は結婚6年目、4才と1才の娘がいます。その長女との関係が自分の中でうまく処理できま
せん。次女はほおずりしてもしたりないくらい可愛いのですが、長女が後ろから抱きついてきた
ときには、寒気がしたり思わず身をかわしたりしてしまうことがあります。

長女が、次女にちょっかいを出して転ばせたりしたときは口汚くののしってしまいます。(うちの
子に何するのよ)と思っている自分にびっくり。次女にやったのと同じことを長女に仕返しするこ
ともあります。

 私は仕事をもっており、長女は満1才の時から2才6ヶ月までの間、車で15分離れた義母に
日中預けていました。(朝食から夕食までいたこともあります。私も主人も教職で、仕事に日々
追われていました。長女をかまってやることができず、いっしょにいるのは夕食とお風呂と寝る
ときだけ。朝は娘の目が覚めない内に主人が車で連れて行きました)

次女出産のために、産休に入ったのですが、同居、別居問題でこじれ、私と義母が全く会わず
口も聞かない状態が2ヶ月続きました。水入らずで、娘と一緒に過ごしたのですが、どんな要求
も満たしてくれる祖母に比べ(物質的に、精神的に)、権力主義的な接し方しかできない私と
は、しっくりいかず、お互い嫌な雰囲気になることすらありました。

次女が生まれてしまうと、義母のところへ遊びに行っては、帰ってこない日が続きました。育児
について、いろいろ衝突があったために、別居を強く希望していた私にとって、娘が帰ってこな
いことはたいへん都合も悪く、「アパートがあんたの家だよ」と連れ帰ろうとしたのですが、娘は
泣き叫んで抵抗し、義母や義父は、私をひどい母親呼ばわり。

「アパートへ帰るとへんな子になる。ずーっとここにいていいよ。」と長女を帰してくれる様子は
ありませんでした。小さいときから「帰ってこない子はうちの子じゃない」と言い聞かされて育っ
た私にとっては、もう長女は自分の子でなくなった以外の何ものでもなく、義父と義母に対する
恨みの念はふくらむ一方。長女と縁を切りたい気持ちで、いよいよ、離婚かというときになり、
主人が仕事を調節し、家族の時間をとるようになり、何とかアパートの生活に4人落ち着いた
のは、9月のはじめでした。

 今でも、私の仕事復帰に備え、義母が敷地内同居を強く迫ってきますが、私は全く自信があ
りません。子供を再び義母に預ける都合上(義母に預けたくないのですが、保育園はかわいそ
うだといって、大げんかになります。私も教職なので、時間通りにかえってこられないため、実
際保育園に入れてみてうまくいくのかはわかりません。今は暮らしにゆとりがあるので、幼稚園
にいれています。)

今年度中には義母と同じ町内のアパートに転居予定です。幼稚園に通うため義母の家を経由
して幼稚園にいく毎日ですが、長女は私と義母が二人いるときは金切り声を出したり、食事中
テーブルの上に立ち上がったり、豆腐を手で握りつぶしたりして、不安定です。私対長女、義
母対長女の時はそれなりに落ち着いているようで、長女がおかしな態度になるのはお互いの
せいだと心のなかで、責め合っている間柄です。

こんな状態で、義母の前でずうずうしくなる娘にどんどん嫌悪感がつのり、自ら作ってしまった
娘との距離を埋めることができないでいます。義母の前で娘をしかろうものなら、その場で(娘
の前で)ぐちぐちと言われることでストレスはたまる一方、アパートへかえると、自然に長女への
あたりはきつくなってしまいます。

小さな頃、「おなかいっぱい。これは食べられない。」もいえずに無理に食べさせられて食べ物
を吐いていた私。自分の受けた躾?が極端だとわかっていても、義母の娘に対する接し方は
とても受け入れられず義母と私との溝もふかまるばかり。どうしたらいいんだろう……。義母に
はっきりと自分の意志を伝えられない私。そのとばっちりを受けている長女かな……義母に対
して腹の虫が治まらない私……。

とうとう眠れなくなってメールしました。長々と書きましたが、それ以外にも義母とのことはいろ
いろあり、書ききれません。主人にも、いろいろと相談をしてきましたが、(嫌いな子を差別して
るのといっしょだ。おまえは教員失格だ。)などといわれ、教員としての自信もなく、本当に自分
が現場に復帰できるのかも不安です。

子供が生まれるまで、自分は子供好きだと思っていたのに。義父や義母にも(教員として)の
部分にまで、口を出され、不覚にも義母の前で声を上げて大泣きしたこともあります。少ない情
報ですが、先生、もし何かアドバイスできることがありましたら、お願い致します。先生の手が
空いたときで結構ですので……(本当にみっともない質問ですみません。)
(愛知県B市、HSより)

+++++++++++++++++++++

【HSさんへ、はやし浩司より】@

 以前、ある母親から、同じような相談を受けたとき、書いたのが、つぎの返事です。この相談
をしてくれた方は、子ども時代の不幸な家庭環境が、原因かと思われました。たいへん気負い
の強い方で、そのため、親子関係が、ギクシャクしてしまったようです。

++++++++++++++++++++++

Q 自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。

A 不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。

 子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。

 ただ心配なのは、あなた自身に、何かわだかまりがあるとき。これをフロイト(オーストリアの
心理学者、一八五六〜一九三九)は、「偽の記憶(false memory)」といった。「ゆがめられた記
憶」と私は呼んでいるが、トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではないが、しこりは
しこり。心のゆがみのようなもので、そのためどこかすなおになれないことをいう。そのゆがめ
られた記憶は、そのつど、あなたの心の中で「再生(recover)」され、あなたの子育てを、裏か
らあやつる。もしあなたが子育てをしていて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、こ
のわだかまりをさぐってみたらよい。

 望まない結婚であったとか、予定していなかった出産であったとか。仕事や生活に大きな不
安があったときも、そうだ。あるいはあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、
家庭が不安定であったとかいうこともある。この問題は、そういうわだかまりがあったということ
に気づくだけでも、そのあと多少時間はかかるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに
気がつかないまま、そのわだかまりに振りまわされること。そのわだかまりが、虐待の原因とな
ることもある。

 今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、七%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。

 あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。このタイプの親は、友として子どもの横を歩くことだけ
を考えて、あとはなりゆきに任せればよい。一〇年後、二〇年後には、あなたは必ず、すばら
しい親になっている。

++++++++++++++++++++++++

【HSさんへ、はやし浩司より】A 

 少し回りくどい言い方になると思いますが、同じようなテーマで書いたのが、つぎの原稿です。
親子のあり方を考えるのに、一つの参考になると思いますので、どうか目を通していただけま
せんか。

 大切なのは、「気負い」を捨てることです。「親だから……」「母親だから……」「教師だから…
…」という、気負いです。この気負いが強ければ強いほど、あなたも疲れますが、子どもや、ま
わりの人たちも疲れます。それについて書いた原稿です。

++++++++++++++++++++++++

オナラ論

●夫婦のオナラ
 何かの文士たちが集まる席で、一人の男が、いきなり、私にこう聞いた。「林君、君の奥さん
は、君の前でオナラをするかね?」と。

 私が「ハアー?」ととまどっていると、さらにまた、「するかね?」と。そこで私が、「……ええ、う
ちのワイフは、そういうことはしないです……」と答えると、まわりにいた男たちまでが、一斉
に、「そりゃあ、かわいそうだ、かわいそうだ。あんたの奥さんは、かわいそうだ。オナラをしな
いのかねエ?」と。つまり夫の前で、オナラをすることができない妻というのは、かわいそうだと
いうのだ。ナルホド!

 「オナラ」には、別の意味がある。つまりオナラは、いやなもの。とくに他人のオナラほど、い
やなものはない。そのいやなものを、受け入れることができるかどうかで、たがいの人間関係
を評価できる? そこでテスト。

あなたは、あなたの妻や夫のオナラを、受け入れることができるか。たとえば居間でいっしょに
テレビを見ていたとする。そのとき、あなたの夫か妻が、豪快に、プリプリと出したとする。結
構、臭いもキツイ。そういうときあなたは、それに対して、どのような反応を示すだろうか。ある
いは反対に、あなた自身は、妻や夫の前で、豪快に、プリプリと出すことができるだろうか。

 ……と、書いて、実は、オナラは、ひとつの象徴にすぎない。オナラの問題をつきつめていく
と、ここにも書いたように、そこに夫婦の人間関係が浮かびあがってくる。夫や妻のオナラと同
じように、あなたは夫や妻の、(いやな面)を、受け入れることができるかということ。夫婦といっ
ても、もともとは他人。恋愛時代はともかくも、それをすぎると、一対一の人間関係が基本にな
る。そのとき相手の(いやな面)を、どこまで受け入れることができるか。それで、夫なり、妻の
愛情の深さが決まる。

 ある夫は、妻との口論が絶えなかった。原因は、いつもささいなことだった。夫が何かを言う
と、即座に妻が、あれこれ言いわけをした。それが夫にはがまんできなかった。

夫「手紙を出しておいてくれたか?」
妻「雨が降ったから……」
夫「だから、出してくれたのか?」
妻「雨が降ったからと言ったでしょ」
夫「出してないのか?」
妻「行こうと思ったけど、行けなかった。しかたないでしょ!」と。

 一言、「ごめんなさい」と言えばそれですむのだが、その妻は、どこか根性がひねくれていた。
生い立ちが貧しかったこともある。

 こういうケースでも、夫が妻をどこまで受け入れるかで、その愛情の深さが決まる。「そういう
女だ」と思うことで、納得し、あきらめるか、それとも、「何だ! その言い方は!」ということで、
けんかになるか。その違いはどこにあるかと言えば、結局は、オナラの問題ということになる。
この夫婦のばあいは、夫は、妻のオナラを受け入れていなかった。夫はこう言った。「女房は、
何かにつけてすぐ私に反抗する。心の奥底では、私を憎んでいるせいかもしれない。どちらか
とういうと、女房にとっては、不本意な結婚だったから」と。

●親子のオナラ
 親子のオナラ論を話す前に、前に書いた原稿を転載する。

+++++++++++++++++++++

 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛す
る心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言ってい
た。

しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母
親は、約一〇%(私の母親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査で
も、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして
「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇
人・二〇〇〇年)そうだ。

妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしている
という。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞ
れについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段
階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のう
ちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。)

 だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少
し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が
高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い
時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。つまり生まれなが
らにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由と
は言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包
まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。

このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知
らない親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にある
のではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまり
にもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかない
ということになる。

 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子
どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生
み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。

+++++++++++++++++++

 この原稿をここに掲載した意図は、もうおわかりかと思う。「親子だから……」という理由だけ
で、人間関係を決めてかかってはいけない。ほとんどの親は、自分の子どものウンチやオシッ
コを汚いとは思わない。ある父親は、子どもがウンチをしたとき、それを思わず、手で受け止め
たという。また別の父親は、体中、子どものウンチにまみれてしまったという。いっしょに子ども
と、風呂へ入れているときのことだった。しかし、中には、子どものウンチやオシッコを、汚いと
思っている親もいるということ。

●そこであなたのこと
 そこであなたのこと。夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、あなたはあなた。全幅の愛情が
あれば、それに越したことはないが、しかし、それがないからといって、無理をしてはいけない。
「臭かったら臭い」と言えばよい。「いやだったら、いやだ」と言えばよい。万事、自然体でいけ
ばよい。

 問題は、そういうあなたにあるのではなく、そういうあなたに気づかないまま、それに振りまわ
されること。そしていつも、同じ、失敗を繰りかえすこと。何かの「わだかまり」や、「こだわり」が
あれば、なおさらで、こうしたわだかまりや、こだわりは、あなたの心を裏からあやつる。これ
が、こわい。

たとえば「夫のオナラは、どうしてもいやだ」「夫が鼻クソをほじっているのを見ると、ぞっとす
る」「夫が使ったタオルは、どうしても使えない」「夫の下着と自分の下着を、いっしょに洗濯をす
ることができない」「夫の寝息が、うるさくて眠られない」というのであれば、何か、大きなわだか
まりや、こだわりが、あなたの中にないかをさぐってみる。そういうわだかまりや、こだわりが、
あなたの夫婦関係を、ギクシャクしたものに、しているはずである。

 親子の同じ。「親だから子どもを愛しなければならない」と、気負うことはない。もちろん全幅
に愛していれば、それに越したことはない。しかしこれも、無理をしてはいけない。無理をする
必要も、ない。万事、自然体でいけばよい。

 ……と書くと、絶望的に感ずる人もいるかもしれない。「自然体で考えたら、離婚になってしま
う」とか、「親子がバラバラになってしまう」と。しかしそうではない。もうひとつ、大きな「救い」が
ある。それは、「人間関係」という救いである。一対一の人間関係という救いである。今、あなた
がどういう状態であるにせよ、その状態から、今度は、一対一の人間関係を発展させることが
できる。「夫婦」とか、「親子」とかいうワクで考えるのではなく、「対等の人間」として考える。わ
かりやすくいえば、近くにいて、親しい「友」と考えることができる。

 そういうふうに考えて成功している夫婦や親子は、いくらでもいる。別々の場所に住んでい
て、別々の仕事をしながら、仲のよい夫婦は、多い。若いのに、ほとんどセックスをしなくても、
仲のよい夫婦は、これまた多い。生活時間が違い、寝室も別々という夫婦となると、さらに多
い。夫婦に形はない。どんな形であれ、たがいにそれに納得し、たがいがそれでハッピーなら、
それでよい。

 親子も、また同じ。子どもをこの世に引き出した以上、それなりの責任はとらねばならない。
それは親として、当然のこと。しかしそこから先には、「形」はない。もともと日本人は、形が好
きな民族だから、何かにつけて、形の中でものを考えようとする。しかし形に押しこめようとす
ればするほど、あなたも苦しむが、子どもも苦しむ。が、この時点で、子どもを「友」として、受け
入れてしまえば、ものの考え方が逆転する。いや、逆転しないまでも、あなたの気分は、はるか
に楽になるはず。

●ワイフのこと
 家に帰ってから、しばらくしたある日のこと。私は、おそるおそる、ワイフにこう言った。「あの
な、おまえは、あまりぼくの前でオナラをしないけど、したかったら、すればいいよ」と。

 私のワイフは、そういう点では、あまり融通のきかない女性。まじめというより、カタブツ人間。
私がそう言うと、「何を言いだすの!」というような顔をして、驚いた。で、私は、先の文士たち
の集まる会での話をした。「みんなが、お前のことを、かわいそうだと言ったからね」と。

 かく言う、私は、ワイフの前でも、平気でオナラを出す。鼻クソだってほじるし、言いたいことも
平気で言う。遠慮したり、隠したりすることは、ほとんど、ない。しかしワイフは、どこか私の前で
は、いつも遠慮している? そういう意味では、心を隠している? ひょっとしたら、別に愛人が
いて……? (多分、それはないと思うが……。しかし昔からこう言う。『知らぬは亭主ばかりな
い』(江戸川柳)と。)

 で、この会話はこれで終わったが、それから数日後のこと。私の言ったことが、やはりワイフ
も気になっていたらしい。何かのついでに、ワイフが、ふとこうもらした。

 「私ね、あのあと、いろいろ考えてみたけど、やっぱり、私は、あなたの前ではオナラはできな
いわ。それはあなたとの関係がどうのこうのとか、夫婦だからどうのこうのということではなく、
女のたしなみのようなものではないかと思うの……」と。どこか説得力があるようで、ないような
弁解だったが、私はあまり深く考えず、「そういう考え方もあるのかなあ」と、そのときはそれで
終わってしまった。

 ワイフがそう考えるなら、それはそれでよいのではないか。ついでだが、そのあと、私の教室
の生徒たちに、こう聞いてみた。「みんなのお母さんは、君たちの前で、オナラをするか?」と。
すると、全員、「するする、臭い、臭い」と答えた。幼児クラスの生徒も、小学生クラスの生徒
も、全員、そう答えた。答えたので、私も自信をもって、こう言った。「君たちのお母さんは、いい
お母さんだなあ」と。しかしこれは余談。
(02−12−19)

●「羞恥心は塩のやうなものである。それは微妙な問題に味をつけ、情趣をひとしほに深くす
る」(萩原朔太郎「虚妄の正義」)

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【HSさんへ、はやし浩司より】B 

 HSさんのケースでは、こうした「親意識」の問題に加えて、「嫁、姑」の問題が、からんでいま
す。メールを読んで、一番ドキッとした部分は、つぎのところです。

「義父と義母に対する恨みの念はふくらむ一方。長女と縁を切りたい気持ちで、いよいよ、離
婚かというときになり……」と。

 で、その原因は、どこにあるかということですが、私は、あなたの「嫁、姑」問題は、ただの転
移ではないかと思います。もうご存知かと思いますが、「転移」というのは、だれかに何かの感
情をもっている人が、同じような状況下で、同じような状況の人に対して、同じような感情をもつ
ことを言います。よく『坊主、憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』と言いますね。あれです。

 つまりあなたは、「舅(しゅうと)、姑」を嫌っているのではなく、あなた自身の両親への憎悪
を、「舅、姑」に転移しているのではないかということです。そのヒントとなった言葉が、つぎの言
葉です。

 「小さな頃、『おなかいっぱい。これは食べられない。』もいえずに、無理に食べさせられて、
食べ物を吐いていた私。自分の受けた躾?が極端だとわかっていても、義母の娘に対する接
し方はとても受け入れられず義母と私との溝もふかまるばかり」と。

 わかりやすく言うと、あなた自身の親に対する憎悪というか、嫌悪というか、はたまた反発心
というか、そういうものが、今の義理の両親に対する、憎悪の原点になっているのではないかと
いうことです。

 (子ども時代の、きびしい、しつけ)→(両親への反発)→(子育てに干渉してくる義理の両親)
→(無意識下における反発)→(義理の両親への憎悪)と。

 そしてそれが、さらに、つぎのような心理状態となって、あなたの親子関係をゆがめている。
ここで働くのが、「投影」という心理状態です。

 あなたは両親のきびしいしつけを、受けた。「無理に食べさせられ、それを吐いた」というの
は、恐らく象徴的なできごとだったのだろうと思います。つまりあなたは、(あなた自身)と、(両
親の前では、いい子でいよう)という、二人の自分をもつようになったのです。いわゆる仮面、も
しくは、(人格の)遊離という現象です。

 つまりあなたの中には、(あなた自身)である部分と、(両親の目を通して見た、いやな自分)
という二つの部分が、あるように思います。これは無意識下の心理状態なので、多分、あなた
にはその自覚はないと思います。しかしここに書いたことをヒントに、あなたの心をほんの少し
だけ冷静に見てくだされば、すぐわかるはずです。

 簡単に言えば、あなたは、あなたの長女の中に、あなたが子ども時代の、(両親の目を通し
て見た、いやな自分)を、投影させているということです。もっと簡単に言えば、あなたが長女を
好きになれないのは、あなた自身のいやな部分を、長女の中に再現しているからです。

 ……こう決めてかかるのは、危険なことですが、こうしたケースは、類型化できるほど、たい
へん多く、また珍しくないからです。

 話を先に進める前に、転移について書いた原稿を、添付しておきます。

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転移

 以前、こんなことがあった。

 そのとき私は、ある男と、かなりはげしく対立していた。ワイフも巻き込んだ、大騒動になって
いた。そのときのこと。その男はブルーの大型車に乗っていたのだが、街を歩いていて、ブル
ーの大型車を見かけるたびに、ぞっとしたのを覚えている。もちろんブルーの大型車など、いく
らでも走っている。その男の車ではないとわかっていても、どういうわけか、ぞっとした。

 こういうのを心理学では、「転移」と呼ぶ。一つの感情が、まったく別のときと場所で、本人の
意思とは関係なく、同じような条件が重なったとき、再現されることをいう。ただし再現といって
も、本人には、その意識は、ほとんどない。もう少し深刻な問題では、こんなことがある。

 ある男性(四五歳)は、どういうわけだか、結婚できなかった。まわりの人がいくらすすめて
も、結婚できなかった。縁談の話まではいくつかあったが、いつもその直前で、破談になってし
まった。同性愛者ではなかったが、しかし女性に対して、原罪的な恐怖感をもっていた。その男
性は、こう言った。「性欲はふつうにあるのですが、どうしても女性を抱くことができない」と。

 彼が結婚に踏みきれなかった原因は、実は母親にあった。母親は、当時としては珍しい女性
議員で、市議会でも先頭に立って、はげしい政治活動をしていた。恐らくその男性は、そういう
母親をみて、自分の中にゆがんだ女性像をつくってしまったに違いない。その男性は、こうも言
った。「ぼくには、ロリコン趣味があります。おかしいでしょう」と。女性恐怖症の男性が、ロリコ
ンになりやすいことは、心理学的にも証明されている。

 しかしこうした現象も、「転移」という言葉で説明できる。その男性は、女性をまじかにしたと
き、その女性の中に、子どものころのきびしい母親を思い出していたのかもしれない。あるい
はもっとほかに、乳幼児のある時期に、具体的な何かがあったのかもしれない。女性への恐
怖心だけではなく、憎しみや、嫌悪感など。「女性の太い腕を見るとぞっとする一方、女性の大
きい尻で、思いっきり顔をおさけつけてもらうと、気持ちがいい」とも言った。感じ方が、かなりマ
ゾ的であった。

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【HSさんへ、はやし浩司より】C

 こうした問題は、表面的な現象に振りまわされてはいけません。また表面的な現象だけに振
りまわされていると、問題が解決しないばかりか、かえってこじれてしまいます。心理学の世界
には、精神分析という方法をとりますが、その目的は、結局は、心理状態の解剖にあります。
おかしな話ですが、人間の心理は複雑である反面、その実体がわかると、いろいろな問題が、
そのまま解決してしまいます。

 なぜあなたは、長女を嫌うか。
 なぜあなたは、姑の干渉を、嫌うか。

 この二つの問題は、一見、別々の問題に見えるかもしれませんが、その「根(ルーツ)」は、あ
なた自身の子ども時代にまで、もどります。そしてそれがわかれば、この二つの問題は、その
まま、そのあと、多少、時間はかかりますが、そのまま氷解します。

 肩の力を抜いて、あなたの嫌いな、実の両親を、もっとすなおに、憎みなさい。ひょっとした
ら、今でもあなたは、実の両親の前でいい子を演じているのかもしれませんね。それともあなた
は、実の両親の前で、心や体を休めることができますか。

 いいですか、憎んで、憎んで、憎みまくるのです。「私の子ども時代を返せ!」とです。「無理
に、食いたくもない食事をくれやがって。おかげで私は、吐いたじゃないか!」とです。

 あなたは実に、今、中途半端な立場にいます。仮面をかぶった自分と、本物の自分との間
を、行ったり来たりしている。私にはそんな感じがします。そこであなたは、今、あなたの両親を
憎みます。とことん憎みます。そうするとですね、これまた不思議な心理が働くようになります。
憎しみが、やがていつくしみに変わるのです。「何だ、親なんて、こんなものだったのか」とで
す。

 率直に告白しますが、私も、父親を、うらみました。心底うらみました。父親が死んだとき、一
滴の涙も出ませんでした。それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞掲載済み)です。
お笑いください。

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●父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の
父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。二、三日おきに近所の酒屋で
酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。

そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から
帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を
飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も五二歳。一人、二人と息子を送り出し、今は三男が、高校三年生になった。のんき
な子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを二〇人も呼んで、パーティを開くとい
う。「がんばろう会だ」という。土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。
片づけながら、ふと三男にこう聞いた。

「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。すると三男は、「どうして?」と聞
いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。私
は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友だちの家に行っても、いつも肩身
の狭い思いをしていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよい
のだ。父が壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が三〇歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、
どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じ
がした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。四〇歳を過ぎるころになると、その
当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。

商売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストア
よりも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけてい
た。「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたこ
ともある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。
叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったの
だろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからう
しろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うし
ろには誰もいない。そんなことも多い。ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそ
れを教えてくれた。客がいない日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。
あるいは油で汚れた作業台に向かって、黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを
思いやると、今、私が感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。
いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、ありがとう」と。
そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

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【HSさんへ、はやし浩司より】D

 では、具体的に、どうしたらよいかということについて、私の考えを話させていただきます。

 こうしたケースで一番、重要なカギを握るのは、あなたの夫です。幸い教職についておられる
ということですから、理解は早いと思います。まずあなたは自分の子ども時代のあなたを、あら
いざらい話してみることだと思います。恥ずかしいとか、そういうふうには考えず、そのころの
(両親の目を通して見た、いやな自分)を、話してみることです。

 こうした徹底した自己開示を、カタルシスと言いますが、カタルシスには、「カタルシス効果」が
あることは、よく知られています。心がずっと、軽くなるということです。あなたの夫にしても、夫
の両親の悪口は聞きたくないかもしれませんが、あなたの両親の悪口なら、聞いてくれると思
います。

 そしてつぎに(あなたの両親の目を通して見た、いやな部分)を、あなた自身で、一度、再確
認してみます。(あなたの中に、あなたの両親から見たあなたがいるはずです。いわばあなた
にとっては、虚像ということになります。)

 一般論ですが、こうした仮面をかぶる子どもというのは、いつも二つの視点をもっています。
一つは、自分で自分を見る視点。これを視点(A)とします。もうひとつは、他人の目を通して自
分を見る視点。これを視点(B)とします。

 たとえば小学一年生の子どもに、「お母さんが台所で料理をしています。あなたはどうします
か?」と聞いたとします。仮面をかぶった子どもは、そういうことを家ではまったくしたこともない
にもかかわらず、「手伝います」と、シャーシャーと言う。それは、その子どもは、(教師の目を
通した自分)、つまり視点(B)で、自分を見ているからです。「そういうことを言えば、先生は喜
ぶだろう」「自分は、いい子と思われるだろう」と、です。

 こういう状態がさらに進行すると、(A)の自分と、(B)の自分の分離が始まり、さらには二重
性格、さらにはそれにはげしいショックが加わると、二重人格へと進みます。(こわいですね!)
(その前に、表情と心が遊離する、遊離現象が現れることもあります。教える側からみると、
「何を考えているか、わからない」タイプの子ども、ということになります。)

 そこで話は、ぐんと現実的になりますが、「離婚」を考えられたというくらいですから、少なくと
もこの先、しばらくは、あなたと義理の両親との関係は、修復不可能だろうと思います。で、こう
いうときの鉄則は、ただ一つ。修復しようとか、仲よくしようなどとは、思わないこと。相手の義
理の両親も、あなたのことを、ひどく嫌っているはずです。これを「好意の返報性」と言います。
相手の義理の両親も、あなたとうまくやっていくことは、不可能と考えているかもしれません。

 だったら、あとは「時間」と、「距離」に任せます。わかりやすく言えば、離れて暮らし、時の流
れを待つということです。時間と距離には、そういう不思議な作用があります。

 義理の両親が、長女のめんどうをみるというのであれば、任せたらいいのです。『幸福な家族
は、みな同じだが、不幸な家族(決してHSさんが不幸と言っているのではありませんよ。誤解
のないように!)は、どれも違う』と言ったのは、あのトルストイ※です。

(※……「すべての幸福な家庭は、たがいによく似ているが、不幸な家庭は、それもが、それぞ
れの流儀で、不幸である」(トルストイ「アンナ・カレーニア」))

 つまり「家族」には、「形」はないということです。むしろ今のように、あなた自身が、長女への
憎しみと愛に揺れていると、あなた自身が、精神的に追いつめられてしまうでしょう。こうした問
題があると、かなり精神的にタフな人でも、精神を病んでしまいます。)それにこのままでは、長
女そのものにも、心のキズを残しかねないことになります。

 さらに現実的に考えるなら、義理の両親が、子どものめんどうをみてくれるというのなら、あな
たの職業にもプラスになるはずです。「教職者として失格」などと、おおげさに考える必要はあり
ません。むしろあなたのように、こうした問題を経験した教職者ほど、すばらしい先生になるの
も、事実です。あとは自分の経験を、ほかの親や子どもたちに生かせばよいのです。必ず、あ
なたはすばらしい先生になりますよ! 

 「お父様、お母様、あなたのおかげで、私は安心して、仕事ができます。ありがとうございま
す」「娘も、お父さん、お母さんのおかげでも、スクスクと育っています」くらいのウソを言いなさ
い。どうせ本気で相手にしなければならないような人たちではないのですから……。(親である
という幻想を捨て、そこらのおじさん、おばさん程度に見ればよいです。実際、そんな程度です
から……。)そしてあなたはあなたで、母ではなく、親ではなく、妻ではなく、女ではなく、一人の
人間として、やるべきことをすればよいのです。

 敷地内同居については、途中同居(子どもが生まれてからの同居)は、いろいろな調査結果
をみても、たいへんむずかしのが現状です。とくにHSさんのように、一度こじれてしまったばあ
いには、うまくいかないものと考えてください。あなた自身が、帰宅拒否になってしまうかもしれ
ませんよ。その可能性は、大です。

 それに敷地内同居を求めるというのは、義理の両親が、あなたの夫との間で、じゅうぶんに
子離れできていないか、あるいは依存心の強い人たちとみます。だからよけいにうまくいくはず
もないと思います。(あなたの夫も、ひょっとしたら、親離れできていない可能性もあります。親
を、必要以上に美化したりしませんか? もしそうなら、反対に、あなたがその世界から、はじ
き飛ばされてしまう可能性があります。義理の両親が、あなたの夫を説得して、あなたを追い
出してしまうとか……。ご注意!)

 全体としてみれば、嫁、姑問題について言えば、デメリットよりも、メリットも多いはず。そのメ
リットを前向きに利用していくことで、解決します。あなたのばあい、あなたの天職は、教職で
す。せっかくそういうすばらしい世界があるのですから、それを大切に、その世界に向って、勇
気を出して、思いっきりアクセルを踏めばよいのです。「心を解き放て! 体はあとからついてく
る!」です。

●最後に……

 親子というのは、不思議ですね。親は、自分の子どもを育てながら、自分の過去のみなら
ず、わだかまりや、しがらみを、そのまま再現する形で、繰りかえすのですね。そしてそれを繰
りかえしながら、親自身は、それを意識していない。無意識の世界の自分に操られながら、操
られているという意識すら、ないのです。今のHSさん、あなたも、その一人かもしれませんね。

 しかしね、子ども時代、何一つ不自由なく、親の豊かな愛に恵まれて育った人など、いないの
です。みな、多かれ少なかれ、いろいろな問題をかかえています。そしてその問題を引きずっ
て生きています。親子というのは、そういうものです。

 この私の返事が、あなたの「今、抱える問題」を解決するというよりは、あなた自身を、よりよ
く知るための手がかりになればと思っています。そしてその結果として、「今、抱える問題」の解
決につながればと願っています。

 最後に、あなたの長女に対してですが、親であるという気負いは捨てなさい。またその亡霊か
ら、離れなさい。あとは、あなたの長女の「友」として、いっしょに横を歩くことだけを考えなさい。
親ではなく、友です。気は合わないかもしれないが、まあ、何となくいっしょにやっていく、そんな
友です。テニスクラブで、いつも、いっしょにプレーする、友です。そういう関係でいいのです。あ
とは、時間が解決してくれます。約束します。

 では、また何かあれば、メールをください。講演会に来てくださったことを、感謝しています。
大井川以東では、いつも会場はガラガラです。また何かの機会のときは、よろしくお願いしま
す。(私はガラガラのほうが、気が楽なのですが……。これは本音です。)

 文の推敲をしないまま、返信することをお許しください。誤字脱字が随所にあるものと思われ
ます。今日は日曜日ですね。すばらしい日曜日にしましょう!
(030727)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(010)

言葉

 オーストラリア人のB君と、朝食をはさんで、英語の話をする。私が、中東には、「シリヤ(尻
や)」とか、「ダマスカス(騙すかす)」とか、はては、「クサイ(サダム・フセインの息子、臭い)」と
か、へんな名前が多いと話したら、「日本語にも、へんな名前がいっぱいある」と。

 たとえば……

 福岡……FUKUOKAというが、たいていのオーストラリア人は、「ファック・オカ」と覚える。
 和歌山……WAKAYMAは、「WAKER・YAMA」で覚える。「WAKER」というのは、「マスタ
ーベーション」を意味する卑猥(ひわい)語。
 日光……NIKKOは、NICKERで覚える。NICKERSというのは、イギリスでは、女性の下着
(パンティ)をいう。

 私も負けていない。「ダイアナ妃というのがいたが、ダイアナというのは大穴のことだ」と。する
とB君は、「子どもを二人も産んで、ゆるんだかもしれない」と笑った。で、そのダイアナ妃につ
いて、こんなショークを話してくれた。もう亡くなった人なので、まさか不敬罪に問われることもな
いだろう。

 その前に、予備知識。

 「ダイ」というのは、「ダイアナ」の呼び名。「Di」と書く。
 「ダイ」には、もう一つ、「dye(染める)」という意味がある。
「ディック」というのは、男性器を意味する、俗語。
このジョークは、その掛け言葉のジョーク。

 いわく「チャールズ皇太子のディックの色が、ダイの中に浸(ひた)すのをやめたら、ノーマル
にもどった」と。

 英語では、「The color of Prince Charles'dick has been returned to be normal after 
stopping dipping it into Di(Dye).」だそうだ。

 このジョーク、わかるかな? では、また……。
(030727)

【追記】彼らと歩いていると、いつも質問攻めにあう。その中から、いくつかを拾ってみる。

●スーパーの中を歩きながら、「どうして値段や、時刻は、日本語を使わないで、(アラビヤ)数
字を使って書くのか」「どうして竹の上に、ソーメンを置くのか」
●縦書きと横書きが混在している、レストランのメニューを見ながら、「君たちは、どうして頭の
中が、混乱しないのか」「どういうときに縦書きにして、またどういうときに横書きにするのか。ル
ールがあるのか」
●信号で止まる車が、みな、停止線を無視して停止していることについて、「どうして日本人
は、ロジカルではないのか」

今朝も夫のB君は、奥さんより早く起きて、洗濯をしていた。物干しザを見ると、自分のシャツ
が、きれいに等間隔で並んでいた。やっぱりB君夫妻は、夫婦、別々に洗濯をしているようだ。
乾いて、取り寄せるときも、やはり別々だった。仲むつまじい夫婦なのだが、どうしてか? 彼
らが帰国するまでに、このナゾを解いてやろう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(011)

反社会的人格障害A

 少し前、「その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定
の秩序ある環境になじまない状態にあること、破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動
性をともなう(DSM−Wの診断基準を参考)」と書いた。

 それについて、一人、東京都に住んでいる母親から、もう少し詳しく教えてほしいというメール
を、もらった。

 反社会的人格障害というのは、英文で、「antisocial personality disorder」という。そのまま訳
して、「反社会的人格障害」となる。DIS−W※の診断基準によると、反社会的人格障害の診
断基準は、つぎのようになっている。

●15歳以前に行為障害による履歴があり、他人の権利を無視する広範な様式で、以下のう
ち、三つ以上に該当することによって示される(参考、福島章著「子どもの脳があぶない」(PH
P新書))。

@法律に違反する行為を繰りかえして、逮捕される。
A人をだます傾向。自分の利益や快楽のためにウソをつき、偽名を使い、人をだますことを繰
りかえす。
B衝動的で、将来の計画を立てられない。
C易怒性と攻撃性。喧嘩や暴力を繰りかえす。
D自分もしくは他人の安全を考えない、向こうみずさ。
E一貫した無責任さ。仕事をつづけず、経済的な義務を果たさない。
F良心の呵責の欠如。これは他人をいじめたり、キズつけたり、または他人のものを盗んだり
したことに無関心であったり、それを正当化することによって示される。

※……アメリカ精神医学会発行の「精神疾患の診断・統計マニュアル」

 DSMによると、つぎのような関連性があるという。

(早幼児機能障害、(脳の)微細障害)

(注意力欠陥多動性障害・ADHD児)→反抗挑戦性障害

(行為障害)→解離性障害、精神分裂

(反社会的人格障害)

(性障害など)

 これらの段階を経て、みながみな、そうなるというのではない。大半の子どもたちは、そのま
ま何ごともなかったかのように、ふつうの子どもや、おとな(健常児、健常青年、健常人)になっ
ていく。

 一般論としては、乳児期から少年期にかけての、ADHD児が、ここでいう反社会的人格障害
になりやすいといわれている。そのADHD児については、近年、関心は大きくなり、各方面で
研究がなされ始めている。私の経験でも、二〇〜三〇人に一人前後の割合で経験する。DS
Mによれば、その発症率は、約3%とされる。症状に軽重があり、どこで線を引くかも、問題で
あるが、3〜5%という数字が、もっとも妥当のように思われる。)

●少年期の特徴

 大半のADHD児は、自意識が育ってくると、その症状は、外から見たところでは、わかりにく
くなる。自分で自分をコントロールすることができるようになるからである。

 しかしそれ以前の段階で、強圧的、威圧的、暴力的な指導が日常化すると、症状がこじれる
ことがある。さらに叱られたり、注意されることに対して免疫性ができると、ふつうの指導になじ
まなくなってしまうことも多い。それこそ大声をあげて……ということになるが、こうした指導法
が好ましくないことは、言うまでもない。その周辺にいる、そうでない子どもたちが、神経質にな
ってしまう。

 が、本当の問題は、親にある。その意識も、自覚もないケースが多い。学校の教師などが、
それとなくにおわすのだが(教師には、診断権限がない)、親が、それを拒絶してしまう。その
知識すらないことが多い。

 そのため、指導する側としては、親への指導を始めるが、これとて簡単なことではない。これ
は私の経験だが、それとなく私が報告したときは、「家でも、よく叱っています」「私の言うことな
ど、聞いてくれません」と言いながら、あとになって、「どうしてもっと、はっきりと言ってくれなか
ったのですか!」と、反対に私に、食ってかかってきたことがある。

 たいていは受験期が近づき、あちこちの進学塾で入塾を断られたり、途中で退塾させられた
りすることによって、親がやっと気がつくことが多い。繰りかえすが、学校の教師でも、そして私
の立場でも、具体的に診断名を出して子どもを指導することは、タブー中のタブーとなってい
る。(実際には、学校の教師が、「一度、病院で診察を受けてみませんか」と、勧誘する方法
が、取られている。)

 こうした心配のある子どもは、@できるだけ早い時期に、それと気づき、A適切な指導(説得
を中心とした、穏やかで静かな指導)を繰り返し、B子どもの自己意識の発達をうまく利用し
て、症状の軽減をはかるのが、好ましい。ここにあげたADHD児が、加齢とともに、反社会的
人格障害になりやすいということも、幼児期から少年少女期にかけての、きびしいしつけが原
因でないとは、言えない部分もある。(回りくどい言い方で、すみません。)

 もう一〇年ほど前だが、私にも、こんな経験がある。G君という小学五年生の子どもがいた。
どんなに強く制しても、秩序を破壊しながら、騒いでばかりいた。教室ではそれほど目立たなか
ったが、ある日、S湖のほとりで、野外バーベキューをしたときのこと。G君は、その間、一瞬た
りとも動きを止めず、あたりを走り回っていた。私はそのときはじめて、G君に、著しい多動性
があるのを知った。(だからといって、ADHD児だったと言っているのではない。誤解のないよ
うに……。)

 そこで母親に、しばらくしてから、それとなく電話で聞いてみたが、母親に、その自覚がまった
くないことを知って、ア然としたことがある。母親は、むしろ「活発で、行動力がある、できのよい
子」と理解しているようだった。

 さらにその原因といえば、脳の微細障害説(目で見えない機質的障害)などがある。私もその
症状から、それを支持する。で、さらにその原因といえば、福島章氏などは、環境ホルモン(内
分泌かく乱化学物質)などをあげる。興味のある人は、「子どもの脳があぶない」(PHP新書)
を読んでみるとよい。
(030728)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(012)

舘山寺(かんざんじ)のとうろう流し

 七月二七日。日曜日。B君夫妻とワイフと私の四人で、舘山寺のとうろう流しを見てきた。E
バス会社に頼むと、観光バスで、近くのバス停まで迎えにきてくれた。お弁当つきで、一人、三
五〇〇円。値段的には安くないが、特等席で見られることを考えるなら、まあまあリーズナブ
ル。

 席で待たされること、何と、一時間半。しかし花火大会が始まってみると、「待った甲斐はあっ
た」と思った。真上で、巨大なスターマインが、つぎつぎと炸裂(さくれつ)した。スターマインとい
うのは、何か? 場内アナウンスが、さかんにこの言葉を流していた。途中、私が「スターマイ
ンって何かね?」とワイフに聞くと、「知らない」と。オーストラリア人のB君に聞いても、「知らな
い」と首をかしげた。

 スターマイン……日本語大辞典(講談社)を見ても、載っていない。そこで例のごとく例によう
に、インターネットで検索。今は、これが一番、よい。

 「スターマイ、つまり速射連発花火はいくつもの花火を組み合わせて連続的に打ち上げ、ひと
つのテーマを描き出すもので、いまや花火大会をはじめ各種イベント、ショーを盛り上げるには
欠かせない花形プログラムとなっています。短時間に大量の玉を打ち上げる景気良く華々しい
演出は、スピード感にあふれ観客の反応も良いものです。スターマインはこれからも各地の花
火大会の中心的な存在であり続けるでしょう」(「花火カタログ」より)とのこと。

 なるほど。合点! 速射連発花火のことを、スターマインという。そう言えば、海軍が潜水艦
をめがけて、連発攻撃するようなことを、MINEと言ったような気がする。

 となりの酔っ払いの男が、おもしろおかしく話しかけてくれて、場を盛りあげてくれた。さかん
に、「どうだ!」「すごいだろう!」と、B君夫妻に話しかけていたが、B君夫妻は、そのたびに、
「すごい(トゥレフィック!)」などと答えていた。同じ花火大会でも、間近で見ると、さすがに迫力
が違う。雨のように火薬の燃えカスが、天から落ちてきた。それに煙の臭い。

 「この前、来てから、もう二五年になるのよ」とワイフが言った。
 「そうだなア……、もう二五年かア……」と私。

 その二五年前とくらべると、どこか元気がないように感じた。今では、各町内でも、花火大会
をするようになった。つまり、その分、「大会」が、拡散した? 私が住むI町でも、八月に佐鳴湖
畔で、花火大会をすることになっている。今でこそ盛大にするようになった夏祭りだが、もともと
は私が子ども会の副会長のとき、始めたもの。そのときは近くの公園を借りてしたが、それか
ら二〇年余り。その夏祭りが、こうまで盛大になるとは、そのとき、だれが想像しただろうか。

 「すごい」「すごい」と思ってみる花火だが、「すごい」と思うこと自体が目的のようなもの。私は
すなおに、「すごい」「すごい」と思った。多分、B君夫妻も、ワイフも、そうだっただろうと思う。

 ドンパチと
 やがて虚しき
 夏の花

 ……というふうには、思ってはいけないが、そんな俳句がふと浮かんだ。パッと燃えて消え
る。美しいと思っても、それは一瞬。それはまさに、私たちの人生そのものではないか。いや、
それを言ったのはワイフだが、ワイフも、このところ、鬱(うつ)ぎみ?

 帰りは、村櫛(むらくし)を回って、浜名湖ルートでもどって来た。そのため、意外とスイスイと
バスは走った。次回、舘山寺の花火大会を見にいこうと思う人は、このルートを使うとよい。一
方舘山寺街道のほうは、身動きがとれないほど混雑したそうだ。

 家に帰ったのは、午後一〇時すぎ。疲れたので、そのままバッタンと倒れるようにして床につ
いた。
(030728)

【追記】オーストラリアにも花火大会というのは、あるという。しかしシドニー港などの、一部でし
か、催されないという。B君夫妻は、「花火大会を見たのは、はじめて」と、喜んでいた。

【追記】このところ英語を話していると、とても疲れを感ずるようになった。集中力が弱くなったと
いうか、反対に、集中力が必要になったというか。三〇分もB君と話していると、ふーつと、気
が遠くなるような感じになることがある。

 一方、おもしろい現象も起きている。あの学生時代に、心がもどったというか、オーストラリア
人らしいジュークには、オーストラリア人らしいジョークで、会話を返せるようになった。

 今日も、「浩司のは、虫目がねで見るようなペンシルペニスだから」と言ったので、「君のは、
ただのボーンレス・ハムではないか」と言ってやった。それと、花火を見にきた人を見て、「ジャ
ム(大混雑)だ」と言ったので、「ノーノー、ただのジャムではない。(高級品の)ブラックベリージ
ャムだ」と言ってやった。髪の毛がみな黒いので、そうたとえた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(013)

【今週のBW教室】

自学の心得

 こう書くと、「ウソ」と思う人がいるかもしれない。しかし本当だから、本当のことを書く。実際、
そのように指導しているので、そのまま書く。(その学年の生徒たちの親も、このマガジンを読
んでいるので、ウソは書けない。)

 生徒が中学生になったら、私は、自分ひとりで勉強する方法を教える。「塾に頼っていてはだ
めだ。勉強は、自分でやれ。自分でできるようにしろ!」というような教え方をする。

 教科書の読み方、解き方、ワークブックの選び方など。たとえば数学にしても、自分で教科書
を読み、自分で例題を解けるようにする。この方法のすぐれているところは、(すぐれているに
決まっているが……)、子ども自身が、自分の能力に合わせた勉強ができるということ。それに
やる気のある子どもは、どんどんと自分で先に進むことができるということ。あとは「わからない
ところだけ、もっておいで」というような教え方をする。

 この方法で、今、小学五年生や、六年生の生徒が、中学生といっしょに勉強している。私は、
昔から飛び級は、どんどんさせている。小学三年生の子どもを、中学三年生のクラスで教えた
こともある。

 つまりは、子どもたちに自立をうながす教え方ということになる。しかしこの世界には、そうで
ない教え方もある。ずるい進学塾(ほとんどが、そうだが……)では、わざと子どもに依存心を
植えつけるような教え方をする。方法は、こうだ。

 まず勉強の主導権を、学校から、進学塾へ移す。「学校の勉強ではダメだ」というような意識
を、いろいろな方法を通して、親や子どもに植えつける。そして子どもの生活を、進学塾を中心
にして回るように、しむける。

 このとき親たちのもつ、学歴信仰、受験神話うまく利用する。たいていは恐怖と希望を、ペア
にする。そのやり方は、カルト教団の布教のし方と似ている。「受験競争で落ちれば、地獄だ
ぞ」「しかしこの進学塾で勉強すれば、その地獄を回避できる」と。

 具体的には、定期的にテストをし、順位を出し、合否の判定を繰りかえす。三者面談も大切
だ。これを繰りかえしていると、ある種の緊張状態が親たちの間に生まれる。しかしこれこそ、
進学塾のねらい。親も子どもも、ますます受験競争にのめりこんでいく。

 この時点で、「おかしい?」と思う親は、まずいない。もともと教育でないものを、教育と錯覚し
てしまう。そしてそれが人間の成長には、必要不可欠なものだと、錯覚してしまう。だいたいに
おいて、「よい学校とは何か」ということすら、わかっていない(失礼!)。

 ともかくもこうして親や子どもは、それこそベタベタに進学塾に依存するようになる。(しかし本
人たちには、依存しているという自覚がない。)進学塾で配布されるテキストは、そういう親や子
どもにしてみれば、カルト教団の教本のようなもの。

 ……と悪口を書くのがこのエッセーの目的ではないので、ここまで。

 私は生徒が中学生になると、生徒たちに自立うながす。そしてそのための方法を、具体的に
教える。もちろんそれを教えるということは、私にとっては、マイナスになることはあっても、プラ
スになることは何もない。しかしそれでも、そうする。それは実は、生徒のためというより、私自
身のためといったほうがよい。

 美しく生きるということは、濁った生き方をしないということ。何とも消極的な言い方だが、これ
はそれほど、まちがっていないと思う。つまり美しい生き方というのは、濁ったい生き方をしな
い、その結果として、そうなるもの。もともと美しい生き方というのは、ない。

 だから自分の人生を美しく生きようと思ったら、濁った生き方を避ければよいということにな
る。つまり子どもの受験指導、あるいは進学指導というのは、まさに濁った仕事ということにな
る。それを繰りかえしていると、自分の人生が濁る。腐る。そして結果として、自分の人生をム
ダにすることになる。だから何としても、それを避けねばならない。

 もっとも現代社会のほとんどの仕事は、濁った仕事ばかり。弱肉強食そのものが、柱になっ
ている。日々の経済活動の中で、是認されている。それに親や子どもが、受験競争に狂奔す
るからといて、親や子どもを責めても意味はない。この日本には、歴然とした保護格差が存在
する。公的な保護を受ける人は、徹底的に受け、そうでない人は、いつもカヤの外に置かれ
る。さらに国際的にみても、かろうじて日本人が、それなりによい生活ができるのは、日本とい
う国が、世界中から富をあさっているからにほかならない。受験競争は、あくまでもその結果で
しかない。

 濁った仕事はいやだと言っていたら、それこそ明日から生きていかれない。事実、私は若い
ころ、進学塾の講師もしていた。それも小学生を対象とした進学塾である。(本当に罪深いこと
をしたと思っているが……。)

 これからは残りの人生を、できるだけ汚さないで生きたい。そのためにも、濁った仕事からは
できるだけ遠ざかりたい。そういう思いが強くなったので、ここ一五年は、受験戦争からは、手
を引いた。そう、模擬テストなどは、二度としたくないと思っている。自分の教え子に点数をつ
け、順位をつけ、「この点なら、A高校へ行けるぞ」「どうする! こんな点では、B高校へ入れ
ないぞ」などと指導するのは、もう人間のすることではない。二年間だけ、そういう模擬テストを
引きうけてしたが、三年目には、どうしてもできなかった。だからやめた。

 こうした私の指導で、当然のことながら、やめていく生徒も多い。しかし私は、それを巣立ちと
思っている。だからこう言う。「この勉強方法は、大学受験でも役にたつけど、おとなになってか
らも役にたつからね」と。これからは、こうした自学をめざした指導を、さらに徹底させていきた
い。
(030728)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(014)

●引きこもりの平均年齢が、26・7歳

 「壮年化進み、35歳以上14%」と題して、中日新聞に、こんなショッキングな記事が載った。

 「自宅に長期間閉じこもり、社会参加しない(引きこもり)状態の人の平均年齢は26.7歳
で、約14%が35歳以上と、"壮年化"が進んでいることが28日、厚生労働省の実態調査で分
かった。4分の3が男性で、全体の5人に1人が家族に暴力を振るっていた。

 行政が援助を始めても中断したり音信不通になったりする人が目立つなど、立ち直りの困難
さを示しており、厚労省は対応に苦慮する相談機関向けに、本人と家族への具体的な支援の
在り方をまとめた指針をつくった。

 調査は3月、全国の精神保健福祉センターと保健所を対象に実施。全センターとほとんどの
保健所から回答があった。

 昨年1年間の電話相談の延べ件数と来所相談件数は合計約1万4000件で、集計方法は
違うものの、2000年11月に直前1年間を対象に実施した1回目の調査時の計約6100件よ
り大幅に増加した。

 来所相談のうち3293件を分析した結果、本人の性別は男性が76・4%と圧倒的に多かっ
た。年齢が上がるほど就労・就学が困難になるとされるが、相談時の平均年齢は26.7歳で3
5歳以上が14・2%。前回調査は「36歳以上8・6%」だった」(中日新聞・03年7月28日)と。

●心の緊張感

 心の緊張状態がうまく処理できないため、人とのかかわりを避ける子どもがふえている。この
タイプの子どもは、人前で、自分を安心して、さらけ出すことができない。そのためどこかで無
理をする。どこかで自分をつくる。だから人前に出たりすると、それだけで、神経疲労を起こし
やすい。

 親は、「なれていないだけです」と言うが、そんな簡単な問題ではない。また無理をすればす
るほど、症状はこじれる。それをチャート化したのが、つぎである。

(人に対して、心を開けない。心を許せない)

(人前で自分をさらけ出すことができない。人前に出ると、不安)

(いい子ぶる。仮面をかぶる。無理をする)

(神経疲労を起こしやすい。疲れやすい)

(人とのかかわりを避けようとする。あるいはその分だけ、心が荒れる)

(引きこもる)

 しかし本当の問題は、子どもが引きこもることではなく、この段階で、親のほうが狂乱し、症状
を悪化させてしまうこと。その前に、子どもをそういう状態に追いこんだのは親を中心とする家
庭環境なのだが、親には、そういう自覚すら、ない。そこに本当の問題がある。

●青年期の引きこもり

 精神科医のドクターにかかると、ほとんど、「うつ病」と診断される。たいていは、抗うつ薬が
処方される。症状に応じて、キメこまかい薬が処方されるが、しばらく服用していると、副作用
が現れることが多い。吐き気や異常な精神的感覚など。

 親は「早くなおそう」と考えるが、この病気は、数年単位の時間的経過を経て、症状が推移す
る。(半年や一年で、症状が軽減するなどということは、ありえない。)

 私が経験した何例(数年おきに一例前後)かの、青年期の引きこもりについて、共通した症
状には、つぎのようなものがある。(サンプルが少ないので、不正確。)

@回避性障害……人との接触を、避ける。人と接すると、極度の緊張状態になる。そのため
引きこもるが、きわめて特定の数人とは、交際できる。ふつう、親とは会話をしない。してもあ
いさつ程度。
A乳幼児期の再現(退行)……引きこもりながら、子どものころ読んだマンガ本を読んだり、お
もちゃで遊んだりする。(これはやや回復期によく見られる。)回復期に向うと、幼児期に遊んだ
おもちゃから、少年期に遊んだおもちゃへと、少しずつ変化することがある。
B夜昼の逆転現象……夜中の間は、ずっと起きていて、明け方になると寝る。そして日中はひ
たすら、寝る。これは初期の段階によく見られる。睡眠サイクルが、毎日、三〇分〜一時間程
度、ずれていくのがわかる。
C行為障害……たいていは何らかの行為障害をともなう。異常な蒐集(しゅうしゅう)癖とか、も
のにこだわる、など。(これは前兆現象として現れること多く、そのまま引きこもり時期にもつづ
くことが多い。)万引き、盗みグセなど。非行に似た症状を示すこともある。
Dキーワード……何かのキーワードにとくにするどく反応する。あるいは家族の中にキーパー
ソンがいて、その人との会話を嫌う。(これが原因で、はげしい暴力につながることが多い。)子
ども自身も自分の将来を悲観していることが多いので、「これからどうするの?」式の質問は、
しないほうがよい。
E生活習慣が乱れ、だらしなくなる……何日もフロに入らなかったりする。ときどき外出したと
きなど、あわてて掃除をする親がいるが、そういうことも避ける。徹底して「あ暖かい無視」を、
励行する。
Fはげしい家庭内暴力をともなうことがある……これは家族が、説教したり、あるいは説得し
ようとしたときに起こることが多い。(ふつうの暴力ではない。それまで無気力でぼんやりしてい
た子どもが、豹変して、錯乱状態になって暴れたりする。)

こうした症状が、ここにも書いたように、数年単位で推移する。その間に、家族が無理をしたり
すれば、さらに症状は長引く。実のところ、本来なら、数年ですむ引きこもりが、五年、一〇年
とつづくのは、家族、とくに両親の不適切な対処の仕方が原因であることが多い。

●対処方法
 
 何よりも、「心の病気」という理解が重要。「気はもちよう」などと、安易に考えてはいけない。
そしてつぎの鉄則を守る。

@暖かい無視……とにかく、徹底して、無視する。子どものやりたいように、させる。フロに入ら
なくても、部屋中がゴミだらけになっても、無視する。
A一喜一憂しない……回復期に向い始めると、その前に症状が一進一退を繰りかえすように
なる。しかしそのとき、決して、そういう表面的な症状にまどわされてはいけない。「去年はどう
だったか?」「二年前はどうだったか?」という視点で、症状をみる。比較する。
B説得、説教はまったくムダ……自己意識でどうにかなる問題ではない。だから子どもを説教
したり、説得してもムダ。かえって子どもを追いこむことになる。
C今の状態を守る……今の状態をより悪くしないことだけを考える。この病気には、二番底、
三番底がある。こじらせると、長引くだけではなく、さらにその下の底に落ちていく。
Dこの病気は、必ず、なおる。五年とか、ばあいによっては、一〇年とか、かかるが、必ずなお
る。それを信じて、子どもの自己回復力に任せる。ただし親が無理をして、症状をこじらせたと
きは、別。この病気は、子どもの病気といいながら、実は、なおすべきは、親のほうである。そ
うした心構えをもって対処する。

以上が、私の経験からのアドバイスということになる。私は精神科ドクターとちがい、扱った症
例こそ少ないが、反対に濃密な、きわめて濃密な指導をしてきた。そういう経験からつぎのよう
なことが言える。

 全員、五〜一〇年後には、仕事を始めるようになったが、その子どもたちは、こう言ってい
る。「一番、よかったのは、家族が、自分を無視してくれることだった」と。親があれこれ気をつ
かのは、逆効果であるばかりでなく、こうした子どもたちには、心の負担となる。だから無視す
る。無視しながら、子どもの病気と同居するつもりで、それに早く、なれる。

●前兆症状
 
 しかしそれよりも大切なのは、前兆が現れた段階で、親がそれに気づき、手を引くべきところ
は、引くということ。

 が、ほとんどの親は、その前兆が現れても、それに気づかないばかりか、「わがまま」「子ども
の勝手」「まさか……」と、それを見逃してしまう。

 最近、経験したY君(二一歳)のケースでは、最初に、親の貯金から勝手にお金を引き出し、
意味のないガラクタを買い集めるという行為障害が現れた。Y君が、高校一年生のときのこと
だった。そのとき、親は、Y君をはげしく叱ったり、説教したりした。

 つまり何らかの行為障害、あるいは情緒不安症状が積み重なって、ここでいう引きこもりを起
こすと考えるとわかりやすい。もちろんそのまま症状が消えていくケースもあるが、たいていは
あっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロと、ころがっているうちに、症状は悪化する。

 さらに小学生や、中学生のころ、神経症による症状、情緒不安症状(心の緊張感がとれない
状態)があれば、あきらめるべきことは、さっとあきらめて、手を引く。進学問題で、子どもを追
いこむなどということは、してはならない。はっきり言えば、進学は、あきらめる。

 しかし現実には、これがむずかしい。だいたいにおいて、私のアドバイスなど、親は聞かな
い。結局は、行き着くところまで行く。そしてあとはお決まりの悪循環。この病気だけは、「まだ
以前のほうが、症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、さらに症状が悪化する。

 とても残念なことだが、子どもの引きこもりの原因と責任は、すべて親と家庭環境にある。(そ
う言いきるのは危険なことだが、それくらい強く言ってもかまわないと思う。)それに気づくか気
づかないかは、親の問題意識の深さの問題ということになる。(だからといって、親を責めてい
るのではない。親とて、懸命に子育てをしてきた。それはわかる。)だから謙虚に反省すべきこ
とは反省する。またそういう姿勢があってはじめて、ここでいう「暖かい無視」が生まれる。

 さて、今、あなたの子どもは、あなたの前で、いい子ぶってはいないか? あなたの前で、言
いたいことを言い、したいことをしていれば、よし。態度もふてぶてしく、横柄ならよし。あなたの
いる前で、平気で心と体を休めているなら、よし。そうでないなら、家庭のあり方を、もう一度、
よく反省してみるとよい。
(030729)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(015)

親に遠慮する子ども

 ある女性(四〇歳)が、こう言った。「盆などに、実家へ帰っても、心を許して、親に甘えること
ができません。子どもに何かを買ってもらったりすると、つい親に、『悪いから、いいです』などと
言ってしまう。親は、『いいんだよ』と言いますが、どこか他人行儀の私たちです。これでいいの
でしょうか」と。

 このケースで、まずわかることは、子どもが親に遠慮しているということ。義理の父母なら、そ
ういうこともあるが、実の親である。本来、こういう感覚をもつこと自体、おかしい。

 そこであなたのチェックテスト。

 あなたは実の両親に対して、つぎのうちのどれに近いだろうか。

(1)実家で料理を出されても、親に対して、「申し訳ない」という気持になり、それなりの金銭
を、親に渡すようにしている。そんなわけで実家で食