はやし浩司

2003−8月〜
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はやし浩司

子育て随筆(1101〜1300)

子育て随筆byはやし浩司(101)

上には上……

 もう一五年ほど前になるだろうか。そのころ、スキーにでかける若者たちが、手ぶらででか
け、手ぶらで帰ってくるようになった。「?」と思っていると、こう教えてくれた人がいた。「みん
な、(スキー用具は)、宅急便で送るのですよ」と。ナルホド。

 これに驚いていたら、空港から荷物を宅急便で送るという人もふえてきた。外国から帰ってき
たような人が、それを利用する。それはわかるが、若者たちも、それをまねし始めた。大学生
までそれをしていたので、私はこう言った。「お金をかけるくらいなら、自分で荷物くらい運べ」
と。

 それに答えて、みな、こう言った。「疲れて帰ってきて、その上、荷物まで運ばされたら、たま
んないヨ〜」「先生、遅れてるウ〜」と。

 さらに……。都会で、豪勢なマンション生活をしている大学生がいた。母親はパートの仕事に
出て、爪に灯をともすようにして、生活費を送金していた。で、ある日、その母親が、その学生
のマンションを訪れて、驚いた。春先だったというが、一日中、暖房はつけっぱなし。玄関先に
は、五〇CCだったが、三〇万円もするような、キンキラキンのバイクが置いてあったという。

 そんな中、一人の母親から、こんな相談があった。二五歳になる、娘についての相談だっ
た。いわく、

 「家事は、まったくしません。フリーターとかで、結構、それなりに収入があるようですが、家に
は、一円も入れてくれません。すべて衣服と、化粧代、それに遊興費に消えていきます。洗濯
すら、自分でしません。育て方が悪かったといえば、それまでですが、しかし、どうしたらいいで
しょうか」と。

 が、私は、こう言った。「その程度なら、まだいいほうですよ」と。

 実際、上には上がいる。(下には、下と言うべきか……?) こんな話を聞いた。

 その家には、二人の娘がいる。上が、二八歳、下が二六歳。ともに結婚する様子は、まったく
なし。生活費は一円も入れないばかりか、毎日、夕食は、母親が、娘たちの部屋まで運んでい
るという。居間兼食堂には、クーラーがないからである。娘たちは、こう言っているという。「今ど
き、クーラーのない台所なんかで、食事はできない」と。

 が、さらに上がいる。

 自称、シングルマザー。本当は、父親がだれだか、わからない。で、本人は、子どもを親に預
けて、遊び放題。狭いマンションだが、娘は、しょっちゅう男を連れてくる。そのたびに、両親と
子どもは、どこかへ疎開。男には、「私が仕事をして、両親を養ってやっている」と、うそぶいて
いるという。子どもについては、男によって、「私の子」と言ってみたり、「姉の子を預かっている
だけ」と言ってみたりしているという。

 そういう娘だが、親はこう言う。「何も言えません。何かを言うと、すぐけんかになってしまいま
す」と。

 こうした話は、決して、他人ごとではない。今では、そうでない子どもをさがすほうが、むずか
しい。あるいはあなた自身が、ここでいうドラ息子、ドラ娘かもしれない。が、あなたはともかく
も、これだけは覚えておくとよい。

 子どもドラ息子であるにせよ、ドラ娘であるにせよ、いつか結局は、苦労するのは、子ども自
身であるということ。子どもというのは、一度ぜいたくを覚えてしまうと、あともどりができない。
それだけの生活が維持できれば問題はないが、しかしこういう時代になってくると、それもむず
かしい。

 子どもは、質素に育てる。決して、目いっぱいのことは、してはいけない。もしあなたが、子ど
もを楽しませること、子どもに楽をさせることが、親の愛の証(あかし)と考えているなら、そうい
ったまちがった子育て観は、今すぐ、改めたほうがよい。

 最後に、私は、その母親にこう言った。

 「私たちの世代は、かわいそうな時代です。親に取られ、子どもに取られ、いわば両取られの
世代です。しかも大部分の人は、家族にひもじい思いをさせたくないと、懸命にがんばってき
た。しかし今の子どもたちは、(ひもじい)という言葉の意味すら、わからない。がんばって、家
族のためにしてきたことが、かえって裏目に出てしまった……。そんな感じですね」と。
(030825)

●自分の子どもを、かわいいと思うのは、その人の勝手だが、そのかわいさに負けて、やりす
ぎてはいけない。限度をわきまえる。サービス過剰は、決して子どものためにはならない。

 たとえば子ども(小学生)が、八月の終わりになって、夏休みの宿題が、まだやってないと訴
えたとする。そのときあなたは、どうするだろうか。

(1)子どもがかわいそうだから、徹夜をしてでも、いっしょに宿題を片づけてやる。
(2)子どもが悪いのだから、放っておく。「学校で叱られてきなさい」と、子どもを突き放す。

 (1)と(2)は、両極端な考え方だが、子どもにとっては、(2)に近いほうがよいことは言うまで
もない。「ほどよい親」「暖かい無視」が、子どもの自立をうながす。もし(1)のようであれば、家
庭教育のあり方を、基本的な部分で見なおす。でないと、あなたの子どもは、まちがいなく、こ
こでいうドラ娘、ドラ息子になる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(102)

サービスと限度

 子どもには、どこまでサービスをすべきなのか。また限度があるとすれば、どこにそれを求め
たらよいにか。サービスと限度……この二つの問題は、子育てをしていると、いつもついてまわ
る。
  
【サービス】

 以前、クリスマスになると、部屋中どころか、家中を、飾りたてる人がいた。「近所でも、私の
家ほど、クリスマスを祝う家はない」と、その人(女性・三四歳)は、言っていた。もちろん二人の
息子(上が小一、下が年中児)のためだった。

 あるいは「子ども新聞」と称して、毎月、新聞を発行している人(女性・三〇歳)がいた。そして
それを親戚や、近所、幼稚園の先生たちに配っていた。

 子どもが六歳になったときのこと。市内のホテルを借りて、七五三の祝いを開いた人がい
た。会費制だったが、費用は一人、二万円。子どもは、結婚式の新郎新婦よろしく、豪華な衣
装を身につけ、ひな壇に座っていた。

 こう書くからといって、クリスマスをしてはいけないとか、子ども新聞を発行してはいけないと
か、あるいはホテルで七五三の祝いをしてはいけないと言っているのではない。ただやり方を
まちがえると、サービス過剰となり、子どもの生きザマを、ゆがめてしまうということ。それに
は、こんな理由がある。

 子どもを大切にするということと、子どもをかわいがるということは、まったく別のこと。古来よ
り日本では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子とし、子どもをかわいがるというこ
とは、子どもに、その甘える子どもにすることを意味した。

 そしてその「かわいい子ども」にするために、子どもを「かわいがった」。日本では、「子どもを
かわいがる」というのは、「子どもに楽をさせること」「子どもにいい思いをさせること」を意味し
た。

 わかりやすく言えば、依存心をもたせることに、日本の親たちは、あまりにも、無頓着すぎ
た。それは自分自身も、子どもに依存したいという、「甘えの構造」が、その背景にあったから
にほかならない。よい例が、「産んでやった」「育ててやった」という、恩着せである。

 つまり親は、子どもに恩を着せることで、自分も、子どもに依存しようとした。そして子どもに
対するサービスは、そのためのものでしかなかった。「これだけ子どもにしてあげたのだから、
子どもは、私に感謝しているはず」「親子のパイプは太くなったはず」と。そのためのクリスマス
であっては、いけないということ。そのための子ども新聞であっては、いけないといこと。そして
そのための七五三の祝いであっては、いけないということ。

 一方、子どもを大切にするということは、子どもの人格や人権を認め、一人の人間とて、自立
させることをいう。これは簡単なようで、むずかしい。そのむずかしいのが、子育てということに
なる。

【限度】

 そこで私たちは、どこでどのような限度を、もうけるべきかということになる。やりすぎはよくな
い。(もちろん足りないのもよくないが……。)こんなことがある。

 私たちの世界には、「手取り、足取り教育」というのがある。子どもの手を取り、足を取るよう
にして、ていねいに教えることをいう。しかしこの方法は、一見親切に見えるが、子どもは依存
心をもつようになり、かえって子どものためには、ならない。

 どこかで子どもを突き放す。たとえばあと一歩で、子どもが理解できそうなときは、「自分で考
えてごらん」と言って、自分で考えさせる。そのタイミングのよさとコツが、子どもを伸ばす。

 家庭教育もまさにそうで、その手綱(たづな)さばきこそが、家庭教育の真髄(しんずい)という
ことになる。もう少し、具体的に考えてみよう。私はそのため、いくつかの教育格言を考えた。

●あと一歩で、やめる……子どもに何かをしてやるときは、何でも、その一歩手前でやめる。
やりすぎがよくないことは、言うまでもない。

●成果よりも努力……ワークブックでも何でも、子どもが一生懸命したら、その「懸命さ」をほ
める。でき、ふできは、問題にしない。

●何でも半分……靴下をはかせるときでも、片方だけはかせて、あとは自分でさせるなど。「何
でも半分」と決めておくと、一つの行動規範になる。

●まず親が楽しむ……子どもを楽しませようと考えたら、まず親が楽しむ。その楽しみの中
へ、子どもを引き込むようにする。子どもの機嫌をとらない。子どもにへつらわない。

●恩を着せない……「子育てをしたいから、子育てをする」という気持ちに徹する。「産んでやっ
た」式の恩着せは、しない。

●親は気高く……親は親で、前向きに、気高く生きていく。子どもに何かをしてほしかったら、
まず自分でそれをしてみせる。

●ややハングリーが最善……「もう少しやりたい」という状態で、何でもやめる。子どもの心を
満腹にしてはいけない。

●子どもは使う……子どもは、使えば使うほど、よい子になる。社会性が生まれるのみなら
ず、根性も、忍耐力も、そこから生まれる。

●うしろ姿は見せない……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。見せたく
なくても見せてしまうかもしれないが、「見せない」という前提で子育てをする。

こういう姿勢の中から、自然に、「親としての限度」が現れてくる。してよいことと、してはいけな
いことの、限界が見えてくる。あとは、その限界にしたがって、行動すればよい。
(030825)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(103)

クーラー

 今年、はじめて、二つの部屋にクーラーを設置した。もう一部屋、クーラーのある部屋がある
が、そこは以前、「教室」として使っていた。

 私の世代にとっては、クーラーは、ぜいたく品。そういうことになっている。それにあの不自然
な冷気は、どうも体に合わない。そこで今まで、基本的には、クーラーなしの生活に、こころが
けてきた。

 が、数年前からの猛暑。体のほうが、それに耐えられなくなった。そこで今年、クーラーを設
置した。二台で、ちょうど、一〇万円。安くなったものだ。私とワイフは、「これで一人前」と喜ん
だ。

 ところが、である。今年は、まれにみる冷夏。八月だというのに、毛布をかぶって寝ることもあ
った。クーラーは、使わないままでいた。しかしここ数日、猛烈に暑くなった。そこでワイフと私
は、クーラーのある部屋で、寝ることにした。

 「温度は、何度にする?」と私。
 「二五度くらいじゃ、ない」とワイフ。
 「一番、快適なのは、二二度ということだ」
 「それじゃ、冷えすぎよ」
 「じゃあ、何度にする?」
 「二四度くらい?」
 「タイマーは、どうする?」
 「二時間くらいかな」
 「三時間にしようか?」と。

 何とも、初心者的な会話がつづく。そしてなれないせいか、一晩中、クーラーが気になってし
かたなかった。ときどき目をさまし、タイマーが作動しているかどうかを見た。冷えすぎていない
かどうを確かめた。

 ワイフも、同じだったようだ。朝、起きると、いつものように、窓があいていた。扇風機も回って
いた。「夜中に、二度もトイレに行った」と、ワイフは言った。私は、三度だ。寝る前にスイカを食
べた。それにクーラーのせいで、汗をかかなかった。それで三度になった?

 健康のためには、自然に合わせた生活のほうがよいことは、言うまでもない。東洋医学でも、
そう教えている。夏の暑気を体に蓄えることによって、冬の風邪(ふうじゃ)に耐えることができ
る、と。夏に汗をタラタラとかいておけば、冬に、風邪(かぜ)をひきにくくなるということ。

 朝食のとき、私が、「やっぱり、扇風機だけのほうが、よく眠られる」と言うと、ワイフも、「そう
ね」と、ポツリと言った。

 そこで小学五年生たちに、こう聞いてみた。「君たちは、寝るとき、クーラーをつけている
か?」と。すると、九人のうち、一人をのぞいて、八人が「つけている」と。そのうち、三人は、一
日中、つけていると答えた。都会のマンションでは、クーラーなしの生活は、考えられないよう
だ。そのせいか、その三人は、どこか青白い顔をしていたが……。

●Therefore I tell you, do not worry about your life, what you will eat or drink, or about your 
body, what you will wear. Is not life more important than food, and the body more important 
than clothes? (Matthew 6-25)

それゆえに、あなたが何を食べたり飲んだりしようとも、あなたの命のことは心配するな。あな
たが何を着ようが、体のことは心配するな。命が、食べ物より大切なのか。衣服が体より大切
なのか(マタイ伝6章25節)。

 快適な生活というのは、一方で、何か、もっと大切なものを、犠牲にする。快適な生活をする
ことによって、自分を見失うこともある。あるいは快適な生活をしたからといって、その人が崇
高になるということは、ありえない。

 だからといって、快適な生活を否定しているのではない。快適さを求めることが、人間の生き
る原動力にもなっている。しかしそれに溺れてはいけない。どこかでしっかりとした歯止めをか
けておかないと、ズルズルとその深みにはまってしまう。

 小さな虫一匹を見ただけで、逃げ回る子どもは、いくらでもいる。自分の家のトイレ以外は、
使えない子どもも多い。さらにその意識もなく、おしっこをもらしてしまう子どもも多い。これは紙
おむつのせいだと思うが、生きザマが、どこか不自然になる。

 これから先、しばらく、心の中で、クーラー問答がつづきそうな感じがする。
(030826)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(104)

【あるお母さんからの相談】

●便秘する子ども

はじめてメールさせて頂きます。インターネットで、「幼児・心因性・便秘」のキーワードで検索し
て行きましたところ、このホームページにたどり着きました。

私は、岡山県W市に住んでいます、HEと申します。

現在、2才10ヵ月と1才4ヵ月になります男の子の母親です。今日は、その2才10ヵ月の長男(就
園前です)について、御相談にのっていただきたく、メールさせていただきました。

発端は、一年と少し前の事になるのですが、それまで生まれてこの方、便秘などしたこともない
長男が、急に1週間程、便が出ない日が続きました。1週間後にやっと便が出たときには、ウ
ンチはカチカチで少し出血してしまいました。ですがその時はただの便秘だろうと、あまり気に
はしなかったのですが、その日から現在まで、ずっと便秘(?)がつづいています。

これだけなら小児科へ連れて行って便秘薬をもらってくれば済む話なのですが、どうやら息子
は、便秘(便意をもよおさない)なのではなく、「意識的に便意を我慢している」ようなのです。

最初はそれに気づかず、小児科でもらった薬を根気よく飲ませていたのですが、どうにも息子
の様子がおかしいので、よくよく観察して見ると、便意をもよおすと、最初のうちはジッと動か
ず、それでは我慢しきれなくなってくると、今度はトントンとイスやテーブルなどに、つかまりなが
ら足踏みを始めます。親に力一杯、抱きついてくることもあります。

そこで、再度小児科を受診して、今度はちゃんと「ウンチを我慢してしまうんです」と、お医者様
に訴えたのですが、「反抗期なのでしょう」「お母さんの方で頑張ってみて」とおっしゃっていただ
くにとまり、いただいたお薬の方も子ども用の便秘薬では息子が我慢し切れてしまうため、効
果がありません。

仕方がないので3〜4日程度たって、いよいよ、お腹が満杯状態だなと思うころ、浣腸やぬるま
湯などをおしりから入れてやり、どうにも我慢できない状態にして無理に出させています。それ
も当然の事ながら、息子がとても嫌がるので、見ていると、とてもつらいです。

小児科へ行ってもダメ、自分なりにインターネットや知りあいなどからも情報収集してみたもの
の、ただの便秘ならとてもポピュラーで色々ヒットするものの、「ウンチを我慢する子ども」となる
と全くと言っていい程情報が入ってこないのです。そこで、わらをもすがる思いで先生に御相談
させていただこうと思った次第なのです。

それ以外の息子の様子、性格ですが、他に親から見て、「困った事、歯がゆく思うこと、変わっ
た癖」など、気になることはほとんどないと思います。性格も明るく、人懐っこいので、誰からも
割と好かれますし、子どもどうしでも、例えばスーパーのガチャガチャコーナーなどに居合わせ
た初対面の子どもなどとも、スムーズに溶け込んで友達になれたりしています。家と外での態
度も、ほとんど変わりませんし、いつも大声で騒ぎ笑っています。

●赤ちゃんがえり?

この騒動が始まったのが、ちょうど次男の出産と重なる時だったため、最初は赤ちゃん返り
(?)などが原因になっているのではないかとも思ってみたのですが、ある程度次男が成長した
現在では、兄弟仲も、とても良く、親が1階にいても、兄弟二人で連れ立って2階にあるおもち
ゃの部屋へ行き、二人きりでも仲良く遊んでいます。


そういう時には、あまり様子を見に行ったりしないのですが、長男が次男を、親が見ていない所
でいじめている様子もないようです。時々「ワーッ」と次男の泣き声が聞こえてきたりもします
が、積み木で作ったものを壊された長男が、怒って次男を叩いたり突き飛ばしたりと、長男にし
てみればちゃんと理由がある事のようですし、長男によって、次男がひどい怪我をしたようなこ
とも、今までに一度もありません。なので、やっぱり「赤ちゃん返り」とはちがうのではない
か・・、と思ってみたりもするのです。

数少ないインターネットから獲た情報で、「これくらいの歳の幼児(とくに男児)に、時に自分の
ものを出したくないという心理から、ウンチを我慢してしまう子がいる。」というような事が書いて
あるのを見ました。それ以外には、「何か心にトラウマみたいなものがあって、それが影響す
る」とも・・。

ですので、私としては、「きっと大した意味もないのだろう。いつか良くなる」と思えたり、「何か
私が気付かないうちに、息子の心に傷を負わせてしまったのだろうか」などと、ぐるぐると前向
きと後ろ向きの考えが行ったり来たりする毎日です。

この件についての夫の意見は(夫婦仲は良好です)、「便意にまでいどむなんて、RT(息子)ら
しい。きっとそのうち飽きるよ。ほっとけ」です。(夫と息子の仲も良好だと思います)ですが、毎
日必死で便意を我慢している息子を見ていると、やはり何か深い理由があるのではないかと
思えて来てしまうのです。

今日、恐る恐る、お絵書き中の息子に、「お母さんの絵描いてみてよ」と頼んでみました。する
と、その時持っていたブルーの色鉛筆で、紙一面に「これ母ちゃん」と言って、この位の歳の子
特有の、顔から手足が伸びているような絵をニコニコと嬉しそうに描いてくれました。Vリーグキ
ャラクターのバボちゃんに似た感じの絵です。

その後、頼んだ訳ではないのですが、「これはRT」と言ってその紙の裏側に自分の絵、そのす
ぐ隣に「これはSEくん(弟)」と言って、SEちゃんを含め、全部で3人、楽しそうに描いてくれまし
た。

この子が本当に何か、大きな心の傷に苦しんでいるんだろうか・・。考えれば考える程、分から
なくなってくるのです。

便意を我慢してしまう、という以外には何も息子に対して重大な心配事が無いにも関わらず、
何故そこまで私がウジウジと悩んでしまうのか、それには私個人の問題が関係しているのかも
知れません。

●私の過去

私の育った家庭はあまり幸せではなかった気がします。一つの家庭しか知らなかったので、子
ども時代はそれに気付きませんでしたが、いわゆる「だれのおかげだ」的なことを言う父と、自
分の思い通りにならないとすぐキレる母でした。子ども時代の私はいつもビクビクおどおどして
いましたし、今思うと、かなりの分離不安もあったのだと思います。

小学校低学年までは、母が参観会でもないのに一人で教室のうしろで見学していたこともあり
ます。何十人といるクラスの中でも極めて心に大きな問題のある生徒だったのではないでしょ
うか。

ちなみに、担任の先生に呼ばれて見学した母は「あの先生細かいこと言い過ぎ」などと言って
いました。子ども時代の私は、それを「そうなんだ、先生の方が悪いんだ」と思ってしまっていた
のです。母は絶対でしたから。

父や母に言われたりされたりした事の中で、強く印象に残っていることを幾つかあげさせて下さ
い。

●父母のこと

ある日突然父から、「今日は高速道路を通って保育園行こうね」と言われ、そのまま遠方の叔
母の家に預けられました。後から知ったのですが妹が入院する事になったためだったそうです
が・・・。悔しかったです。

母はずっと専業主婦でしたが、あまり遊んでもらった記憶はありません。保育園や学校から帰
って来ると、たいてい母が家にいましたが、私がしつこく話しかけたり、遊ぼうなどと言ったりす
ると、怒られました。いつも部屋の隅にまでおいつめられ、物や素手で叩かれていました。小学
生の頃一度、腕をつねられて倍の太さはあろうかと思うほど腫れ、痛みで一晩眠れなかったこ
ともあります。

髪型も中学に上がってしばらくは母に決められていました。美容院に連れて行かれ、「短くして
下さい」などと、母が注文をするのです。私は黙って従うしかありませんでした。

自分の好きな髪型にできないので、当然の事ながら私は美容院が大嫌いだったのですが、美
容院に行く事に対して抵抗すると、ハサミを持って家中追いかけまわされました。風呂場へ引
きずっていかれ、頭から水をかけられたこともあります。

美容院で髪をつんつるてんにされ家に帰って来てからメソメソ泣いていると、また「わずらわし
い」と言って怒鳴られました。

そのころ、ちょうど思春期に入るような頃だったと思うのですが、少しずつ私も胸が出はじめ、
母にブラジャーをすすめられた時の事ですが、私はまだ気恥ずかしいし、窮屈だしで「まだシャ
ツでいい」といったのです。すると母は、「へっへ〜! おっぱい、ブーヨブーヨ〜!!」と言いました。

私は恥ずかしさと悔しさで、その場で泣叫びたい気持ちでした。それが原因で胸を隠そう隠そう
としているうちに、私は猫背になってしまったのですが、それについても、母には「お前は姿勢
が悪い。だらしない」と怒られていました。

いつもそんな感じでした。「お前はセンスがないね。ださいね」とか、「明日引っ越しなのに、熱
なんか出さないでくれる?」とか・・。

今さら恨んでも何にもならないのは分かっているのですが、いまだに心のどこかで母のことが
許せないでいるのです。

ですが、母もまた不幸な家庭に育ちました。母は4人兄妹の末っ子なのですが、母がまだ赤ん
坊の頃、母親が出て行ってしまったそうです。原因は父親にあるのですが、(酒、女遊び)そう
いう子どもって、捨てた(?)側の母親を恨むものなのですね。そのあたりは私にも理解できな
いのですが。

それでもやはり祖母は自分の子どもが気がかりだったらしく、私が中学生の時に一度、祖母か
らうちの母に、電話がかかってきたことがありました。当時は父の仕事柄、引っ越しが多かった
ので、色々な人に行方や電話番号を聞いて、かけて来てくれたのだと思うのです。

しかし母は、「いいえ私じゃありません。知りません」と言って、他人のふりをして切ってしまった
のです。理屈ではなく、どうしても自分の母親を許せなかったのでしょう。母もまた、自分の中
のトラウマと闘っているようでした。

そう考えてみると、離婚もせず一つの家庭を守り抜いた母は、母なりに悪循環のリングを断ち
切る事ができたのでしょう。そういう意味では、母には一定の評価はしています。冷たい言い方
なのですが・・。

でも、祖母を許せなかった母、母を許せないでいる私・・。この悪循環が、私の子育てにもし影
響を及ぼしていたらと思うと、不安で仕方がないのです。息子たちも、私や母がそうだったよう
に、親を恨むようになってしまうのではないかと。

そう言うわけで、子どもがうんちを我慢してしまう、というそれだけのことで、「私のせいなのか
私のことが嫌いなのか不満があるのか」とぐるぐるぐるぐると考えてしまうのです。

息子たちには、誰かを恨むことなく、自由に生きて欲しいと思っているのですが・・。

長々しくなってしまって、申し訳ありません。つたない文章をここまで根気よく読んでいただき、
本当にありがとうございます。どうか、息子の心因性の便秘の件、良きアドバイスをお願いしま
す。原因を取り除くカギや、息子がモジモジとし始めたとき、知らんふりをしていれば良いもの
なのか、それとも積極的に「我慢なんてしてはだめだよ」みたいな言葉をかけてあげたほうが
良いのか、対応に迷っているのです。

何か、アドバイス頂けたら幸いです。どうかよろしくお願いします。

最後に、もし先生の専門外のとんちんかんな質問でしたら、どうかお許し下さい。

W市 HEより

【はやし浩司より】

●赤ちゃんがえりが遠因による排便障害(異常)

年齢を逆算すると、長男は、二男誕生以後、排便障害が始まったことがわかります。赤ちゃん
がえりが、依存うつを併発し、それがこじれて、心因性の便秘になったものと、私は考えます。

排便、排尿障害には、定型がありません。多いのが、夜尿、頻尿、遺尿、おもらしなどです。便
秘もその一つですが、排便をこらえるため、ふつうでない太いウンチや、大量のウンチ、下痢
をしたりします。HEさんのお子さんのように、血便まじりの便秘については、私もはじめての経
験ですが、ありえないことではないと思っています。

よくあるのは、受験期にいる子どもが、気うつが原因で、便秘になるケースです。この時期に
は、一週間〜一〇日という便秘も珍しくありません。(修学旅行先で、それが原因で、救急車で
病院へ運ばれた子どものケースを知っています。浣腸がささらなかったほどの便秘だったそう
です。)

赤ちゃんがえりを、親たちは軽く考えますが、決して軽く考えてはいけません。「嫉妬」という、き
わめて原始的な感情をいじるため、症状も千差万別、かつ複雑です。おとなでも、嫉妬に狂う
と、自分を見失うことは、よくありますね。

表面的な症状だけをみると、弟思いの、よい兄といった感じがしますが、反動形成が疑われま
す。嫉妬が転じて、よい兄を演ずるというのが、それです。RT君は、外では明るい子どもという
ことですが、それもやや気になります。その反動形成は、こういうケースでは、よく見られる現
象で、決して珍しいものではありません。(反動形成については、原稿をここに添付しておきま
す。)

で、なぜ便秘か、ですが、年齢によります。逆算すると、ちょうど満一歳六か月のときに、下の
子どもが生まれたことになります。この時期は、まだ「顔見知り(マザー・アタッチメント)」が残る
時期でもあり、フロイトがいうまさに、「肛門期」※にあたります。

※……このころ、トイレットトレーニングができるようになります。うまくいかないと、消極・内向
的になりと言われています。またがんばりすぎるタイプは、ケチになると言われています(精神
分析的人格理論)。

排便による快感を覚える時期に、それができなかった……? もし私がフロイトなら、こう結論
づけるでしょう。

「肛門期の排泄(トイレットトレーニング)障害」と。

ですから、対処方法は、ただひとつ。濃厚なスキンシップの復活です。子どもの側からみて、絶
対的な安心感を覚える環境づくりを大切にします。ここで重要なのは、このことには、HEさんの
過去が、密接にからんでいるということです。それについては、もう少しあとで説明するとして、
便秘について、もう少し、考えてみます。

フロイトがいう肛門期というのは、「体内にたまった不要なものを排泄する喜びを感ずる時期」
という意味です。大便は、その象徴でしかありません。

抑圧された心を、外に排泄することに対して、恐怖をいだき、それが便秘という症状になったと
私は考えます。こうした無意識下の行為は、子どもの世界では、珍しくありません。そのため、
つぎのような症状も見られるはずです。

(1)親の前でいい子ぶる。(よい兄を演ずる。)
(2)愛想がよい子に見え、周囲の人に迎合する。自分を隠す。好かれようと無理をする。
(3)親からは、がまん強い、できのよい子どもに見える。(お父さんが、「RTらしい」と思ってい
る部分が、それです。)
(4)どこか親からみて、何を考えているかわからないところがある。
(5)ほかにも、神経症による症状があるはず。(くわしく観察してみてください。神経症による症
状は、私のサイトの、子ども診断のところに書いてあります。爪かみ、髪いじり、指しゃぶりな
ど。症状は千差万別です。定型がないのが、特徴です。)

 あとは赤ちゃんがえりに準じて、対処します。全体に、もう一度、RT君に、すべての愛情を注
ぎ、様子をみながら、少しずつ手を抜きます。ただしかなり根気のいる作業で、赤ちゃんがえり
(退行性)が、数年にわたってつづくように、簡単にはなおらないと覚悟してください。まだ三歳
ということを考えるなら、一年単位での観察が必要かと思われます。

 が、本当の問題は、このことではありません。もう一つ、大きな問題が隠されています。それ
が、HEさん自身の、トラウマ(心的外傷)の問題です。

●基底不安が原因による育児不安

HEさん自身が、自覚しているかどうかはわかりませんが、HEさんは、全幅に、子どもに対し
て、心を開いていない可能性があります。またその可能性が大です。つまりHEさん自身が、心
の開き方を知らないでいる。だから長男のRT君も、母親である、HEさんに、心を開けないでい
る?

本当なら、RT君は、母親のHEさんに向かって、大声を出したり、泣き叫んだりしながら、愛情
の復活を要求しても、おかしくないのです。弟に対して、乱暴したり、意地悪したりして、よいの
です。(むしろ、そのほうが自然であり、あとあと、問題も軽くすみます。)

しかし、RT君は、言いたいことも言えず、したいこともできないで、「いい子」ぶっている。もっと
も甘えたい時期に、下の子どもが生まれ、それができなくなってしまった。RT君のかかえた、
欲求不満は、相当なものであったと考えられます。

で、その原因はといえば、親として、自分の子どもにすら自己開示できない、HEさん自身にあ
るということです。

HEさんは、RT君に対して、自分をさらけ出していますか? 自分の心を正直に、話しています
か。HEさん、あなた自身が、子どもの前や、夫の前で、あるがままの自分をさらけ出していま
すか?

実は、ここが重要なのです。

あなたはひょっとしたら、あるがままの自分をさらけ出すことに、大きな不安を覚えている。だ
からこう悩むのです。「この悪循環が、私の子育てにもし影響を及ぼしていたらと思うと、不安
で仕方がないのです。息子たちも、私や母がそうだったように、親を恨むようになってしまうの
ではないか」と。

こういうのを心理学では、基底不安と言います。HEさんは、そのため子どものときから、他人と
のかかわりが苦手だったはずです。孤独で、さみしがり屋である反面、人とかかると、心的な
疲労感を覚えやすいというように、です。

で、他人とのかかわりは、それでよいとしても、多くのばあい、親子、さらには夫婦の間でも、同
じような問題が起きるということです。そしてそのことが原因で、今度は、子どもの側も、安心し
て、親であるHEさんに心を開けないということになります。こういう関係が積み重なって、子ども
は親の前で、仮面をかぶるようになり、一方、親は、本来楽しいはずの子育てが、苦痛に満ち
たものになります。

そこでその原因は何かというと、HEさんご自身がすでに気づいておられるように、HEさんと両
親の問題がからんでいます。

しかし今さら、HEさんの幼児期を悔やんだり、両親を恨んでもしかたのないことです。ただ事実
は冷静に見ます。この問題は、「そういう過去」があったということがわかるだけでも、問題の大
半は解決したとみます。あとは時間が解決してくれます。

●はやし浩司より、HEさんへ

 この問題は、ここに書いたように、一義的には、赤ちゃんがえりがこじれたことが原因と考え
られます。同時に、あなた自身の複雑な過去が、それにからんでいます。いくつかのポイント
を、もう一度、整理してみます。

(1)ゆがめられたRT君の心……嫉妬するならするで、本来なら、RT君は、それを全身をつか
って表現したら、よかった。しかしそれができなかった。よくある例は、下の子いじめ。嫉妬がか
らむと、上の子は、下の子を、「殺す」寸前までのことをします。これをプラス型というなら、ネチ
ネチと甘えたり、赤ちゃんのようにグズったりするのは、マイナス型ということになります。が、R
T君のケースは、母親との特殊な関係が、症状をこじらせたと考えられます。時期的には、まさ
に肛門期の排泄障害となったわけです。

(2)自己開示できないRT君……メールからだけでは、よくわかりませんが、RT君は、便秘だ
けではなく、生活のさまざまな面で、かなり無理をしていることが、考えられます。だいたい「い
いお兄ちゃん」であること自体、おかしいのです。本来なら、親に対して、欲求不満を、正面か
らぶつけてよいはずです。が、それができないというのは、RT君に責任があるというより、母親
であるHEさんが、子どもに対して、全幅の自己開示をしていないことに原因があると考えられ
ます。

(3)不安を基底としたHEさんの子育て……HEさん自身が、不安を基底とした子育てをしてい
ます。しかし本当は、子育てが不安なのではなく、HEさんのようなタイプの母親は、何をして
も、不安なのです。その一つが、たまたま今、子育てに向いているだけです。「子どもはいつ
か、自分の心を見ぬくのではないか」とです。そしてさらにその原因はといえば、HEさんと、
親、とくに、母親との関係があります。HEさんの母親自身も、不幸にして、不幸な家族関係を
経験している。そういうリンク(HEさんの言葉)が、つながって、今のHEさんとRT君の関係をつ
くっています。

(4)HEさんの過去……しかしここが重要ですが、こうした過去があることを、とやかく言っては
いけません。だれしも、その程度の不幸(失礼!)は、もっています。問題は、そういう過去があ
ることではなく、そういう過去があることに気づかないまま、その過去に振りまわされることで
す。しかし幸いなことに、そしてとても賢明なことに、HEさんは、そういう過去があることにすで
に、気づいています。つまりすでに、問題の大部分は、解決しているということです。

(5)では、どうすればよいか……もっと心を解き放ちなさい。あなたはRT君の便秘のことで悩
んでいますが、RT君の「ウンチ」は、あなたの心の中にたまったゴミだと思ってください。あなた
がそのゴミを外に出さないでいる。それをそっくりそのままRT君が、自分の体を使って、あなた
に教えているのです。わかりますか? この子育ての深遠な不思議を、です。あなたが母親を
うらみたいなら、もっと大声を出してうらめばよいのです。うらんで、うらんで、うらみまくる。その
結果として、つまりそれが限界に達したとき、あなたは、母親に対して、ある種のあわれみを覚
えるはずです。そのとき、あなたの心は解放されます。RT君もあなたの心を開き、「ママ、さみ
しいよ。ぼくもかわいがってよ」と言うだろうと思います。あなたがいい子ぶっていて、どうしてR
T君が、仮面をはずすことができるでしょうか。

(6)夫との関係……HEさんは、夫との関係は、良好だと言っておられます。もしそうなら、それ
は問題ありません。しかし本当に、あなたは夫に対して、全幅に心を開いているかどうか。そし
てあなたの夫は、あなたを全幅に受けとめているかどうかを冷静に、判断してみてください。ひ
ょっとしたら、そういうあなたに対して、あなたの夫は、心さみしい思いをしているかもしれませ
ん。あなたは夫の前で、すべてをさらけ出していますか? 夫の胸の中で、過去や、つらかった
思い出を、すべて話すことができますか。あるいは話していますか。もしHEさんが、夫の前で、
仮面をかぶったり、いい妻を演じているなら、そうであってはいけないということだけを、よく覚
えておいてください。

(7)最後に……身体的な変調、つまりがんこな便秘については、ドクターに相談なさっておられ
るようですから、そのドクターの指示に従うのが、よいか思われます。しかし夜尿症が簡単にな
おらないのと同じように、心因性の便秘も、簡単にはなおりません。環境が大きく改善されて
も、症状だけは、今、しばらくつづきます。そこでつぎのことに注意してみてください。

●濃厚なスキンシップの復活。下の子が生まれる前の状態に、生活習慣を、一度、もどしま
す。添い寝、いっしょに風呂に入る、手つなぎ、抱っこなど。子どもが求めてきたら、こまめに、
そしてていねいに応じてあげるのが、コツです。

●Ca、Mg分の多い食生活に心がける。海産物、魚類が好ましいことは、言うまでもありませ
ん。もちろん便通によい食生活も、大切にします。Ca、Mgは、天然の精神安定剤と思ってくだ
さい。

●HEさん、あなた自身も、「いい家庭をつくろう」とか、「いい母親でいよう」とか、そういう気負
いを捨てなさい。あなたはあなたです。居直りなさい。そして先にも書いたように、心を解放しな
さい。あなたがまず、心を開いてみせるのです。RT君は、あなたにつづいて、自分の心を解放
します。

●とりあえず、あなたの夫に、胸のうちを、洗いざらい、話してみることです。とくにあなたの過
去について、です。徹底した自己開示をしてみます。そして悲しいことや、つらいことが頂点に
達したら、ワーッと泣けばよいのです。泣いて、叫んで、怒鳴ればよいのです。「チクショー、バ
カヤロー!」とです。こういう自己開示を。カタルシスと言いますが、カタルシスをすると、そのあ
と、心が安らぐはずです。一度、試してみてください。なぜなら、あなたの夫も、ひょっとしたら、
心のどこかでさみしい思いをしているかもしれないからです。

 以上、ざっと考えてみました。繰りかえしますが、もうすでにHEさん、あなたは自分の過去に
気づいています。多分、若い方だと思いますが、その若さで、ここまで気づいておられるという
ことだけでも、すばらしいことです。だから自信をもって、前向きに進んでください。トンネルの
出口はそぐそこですよ。

 またRT君の便秘も、あなたが考えるほど深刻な問題ではありません。むしろ心配するとすれ
ば、RT君が、あなたの前で仮面をかぶっていることです。こうした仮面は、扱い方をまちがえる
と、心の遊離、さらには、さまざまな心の問題へと発展していきます。くれぐれもご注意くださ
い。言うなれば、便秘は、その黄信号ということになりますね。

 以上が、私のアドバイスです。参考にしていただければ、うれしいです。また何かあれば、ご
連絡ください。

                              はやし浩司

++++++++++++++++++++++++

●子どもの反動形成

 抑圧された「自分」が長くつづくと、その人は、本来の「自分」とは逆の「自分」を、徹底的に演
ずるようになる。これを心理学の世界では、「反動形成」という。学校の教師を例にとって、考え
てみる。

今でも、聖職者意識をもっている教師は多い。そういう教師が、聖職者は、禁欲的でなければ
ならないというイメージをもったとする。するとその教師は、そのイメージに従って、徹底的に、
禁欲者であろうとする。自らを、そうしむける。そして結果として、生徒が「セックス」という言葉
を口にしただけで、それを露骨に嫌ったり、そういう会話をたしなめたりするようになる。

 子どもでも、幼いときから、「あなたはお兄ちゃんだから……(お姉ちゃんだから……)」と言
われつづけると、本来の自分を押し殺して、別の子どもを演ずるようになることがある。そして
「さすが、お兄ちゃんだね……(お姉ちゃんだね……)」とか、ほめられたりすると、さらに別の
自分を演ずるようになる。もちろん本人には、演じているという意識はない。

 もちろんすべての反動形成が悪いわけではない。その反動形成が、よいほうに作用して、そ
の人や子どもを伸ばすこともある。たとえば何かの欲求不満をもっていて、その欲求不満を克
服するため、別の自分を演ずることがある。つい先日までヘビースモーカーだった人が、自分
が禁煙したとたん、猛烈な嫌煙家になるなど。そういうことはあるが、しかしどこか不自然にな
ることは多い。

 たとえばウーマンリブ闘争の闘士のような女性に、Z女史という人がいる。マスコミにもよく顔
を出し、相手の男性に向かって、「それはセクハラだ! 謝れ!」とか、「女性蔑視発言だか
ら、取り消せ!」などと言って騒いでいる。一見、女性の代表のような顔をしているが、しかしあ
のZ女史ほど、「女」を感じさせない女性はない。動作やものの言い方まで、男性そのもの。お
そらく子どものときから、「女の子」に扱ってもらったことがないのだろう。それから生まれる欲
求不満が、Z女史をして、今のZ女史にしたと考えられなくもない(失礼!)。

一方、子どもの世界でも、「ブリッ子」という、よく知られた言葉がある。

 勉強もよくできる。スポーツも万能。その上、容姿もきれい。そこで親や先生から、「あなたは
すばらしい子」と、言われる。で、このタイプの子どもは、そういう親や教師、さらには周囲の仲
間からの期待に答えようと、ますます拍車をかけて、よい子を演ずるようになる。

 まだ小学生なのに、「地球の環境を守るのは大切なことです」「皆が、平和に暮らすことは大
切なことです」「弱い人を助けるのは、私たちすべての義務です」などと、言ったりする。あるい
はいじめの現場を目撃したりすると、いじめている子どもに向かって、「そういうことをして、恥
ずかしくないの!」と、まさに優等生ぶって見せる。

 しかしこうした反動形成が問題になるのは、その底流に、抑圧された自己欺瞞(ぎまん)があ
るということ。はっきり言えば、エセ。それだけではない。本当の自分をどこか別のところに置
き、別の自分を演ずるというのは、それ自体、たいへん疲れることである。その「疲れ」が、あ
る一定の範囲内に収まっていれば問題はないが、その限界を超えたとき、この反動形成は、
一挙に崩壊する。

 たとえば小学生の間は優等生だったが、中学生になったとたん、集団少年(少女)になるとい
うケースは、よくある。J君(中三男子)が、そうだった。

 J君は小学六年生のときには、その学校の児童会長までした。夏期合宿のときは、リーダー
として、大活躍した。しかし中学へ入ったとたん、そこでプツン。夜な夜な、コンビニの前で、ほ
かの仲間とたむろするようになってしまった。やがてタバコを覚え、さらにシンナーまで覚えてし
まった。あとはお決まりの外泊と、家出。親は「どうして?」と、深刻な表情で相談にきたが、こう
いうケースは、決して珍しくない。

 そこで子どものばあい、こんなことに注意したらよい。

 子どものばあい、(心の状態)と、(外に現れる表情や様子)が、一致している子どもを、すな
おな子どもという。しかし何らかの理由で、それが一致しなくなることがある。ここにあげたブリ
ッ子も、その一つ。子どもが、どこかで無理をしているなと感じたら、できるだけ早い時期に、そ
ういう無理から解放してあげること。早ければ早いほどよい。いわんや、子どもを、「お兄ちゃん
だから……(お姉ちゃんだから……)」と、安易な「ダカラ論」で、追いつめてはいけない。

 子どもの世界でこわいのは、仮面と遊離。これについては、また別のところで考えるが、要す
るに、子どもは、子どもらしいのが一番。そういう自然さを大切にする。「この子は、よくできた
子だな」と思ったら、まず疑ってかかるのがよい。

【追記】
 このエッセーを書いていて、私自身も、ここでいう「自己欺瞞」に気づいた。私は考えてみれ
ば、自己欺瞞だらけの人間である。今、思い出した話に、こんなのがある。

 私は子どものころ、台風が好きだった。台風がやってくると聞いただけで、ワクワクした。しか
しそのことを、だれにも話せなかった。子どもながらに、そういう自分はおかしいと思っていた。

 で、子どもたちを教えるようになってからも、自分をだましつづけた。とても子どもたちの前
で、「先生は、台風が好きだ」とは言えなかった。しかし、だ。台風が好きなのは、私だけではな
いことを知った。

 アメリカ人の友人が、ある日、私にこう言った。「ヒロシ、台風がくると、楽しいね。ぼくは台風
がやってくると、ベランダにイスを置いて、ものが飛んでいくのを見ている」と。そのアメリカ人の
家は、高層マンションの八階にあった。

 そのアメリカ人の話を聞いて、私は、「ナーンだ、そういうことだったのか」と思った。そしてそ
のときから、私は、子どもたちに向かって、正直に、「先生は、台風が好きだよ」と言うことがで
きるようになった。

 台風がやってくるたびに被害にあう人も多いので、こういった話は、軽々にはできない。しか
し「教師」という仕事には、こうした自己欺瞞が、好むと好まざるとにかかわらず、無数にからみ
ついてくる。自己欺瞞のかたまりと言ってもよい。しかし、だ。こういう自己欺瞞は、疲れる。本
当に疲れる。自己欺瞞だけならまだしも、反動形成をするうち、自分を見失ってしまうこともあ
る。だから私はあるときから、自分をだますことをやめた。ありのままの自分を、できるだけ外
に出すようにした。子どもたちと直接、接しているときは、とくにそうだ。 

 ……しかし、こうして考えてみると、人間だれしも、ありのまま生きるということは、むずかしい
ことだとわかる。みんな、それぞれの立場で、自分をごまかしながら生きている? それが悪い
というのではないが、しかしこうしたごまかしは、できるだけ少ないほうがよい。ごまかせばごま
かすほど、自分を見失う。時間をムダにする。

+++++++++++++++++++++

【子どもの反動形成についての補足】

●自我の分裂

 こうした反動形成で、こわいのは、実は、ここに書いたことだけではない。それが度を超すと、
自我そのものが分裂してしまう。優等生を例にあげて考えてみる。

 優等生と呼ばれる子どもは、一種独特のものの考え方をしているのがわかる。主体的なフリ
をしながら、どこにも主体性がない。

 たとえばだれかが、教室のスミで、別のだれかをいじめていたとする。それを見たとき優等生
は、自らの正義感で、そのいじめを止めるのではない。まず頭の中で、模範解答を作り、その
模範解答に従って行動しようとする。「こういうときは、止めなければいけない。また止めるのが
正解」「止めなければ、あとで、先生に自分が責められる」「自分は、そういういじめを止めなけ
ればならない義務がある」と。つまり自分の意思ではない、別の自分に動かされて、そうする。
ほかに……

○先生に意見を求められる。→できるだけ、すばらしい答を出して、みなを感心させてやりた
い。
○何かの役をする。→自分がその役をするのは、当然のこと。みなの期待に答えたい。
○友だちが困っている。→まず自分が、模範を示すべき。そうすればみなから、尊敬される、
と。

 さらにたとえば進学を考えるときも、勉強したいからではなく、優等生として、それにふさわし
いコースを自分で想定し、そのコースに自分を当てはめようとする。いつも自分の意思というよ
りは、そういう自分を上から見ているもう一人の、別の自分の意思に従って、自分の行動を決
めようとする。「私にふさわしいのは、A大学のA学部。そこへ入れば、親も喜ぶし、先生も納得
するだろう」と。

●幼児期にできる方向性

こうした方向性は、実は、すでに幼児期にできる。しかもそうした方向性をつくるのは、子ども
自身というよりも、親である。ある子ども(男子高校生)は、こう言った。

 「ぼくは、自分の子ども時代を振りかえってみたとき、自分がどこにもいなかったような気がす
る。食事にしても、食べたいから食べたのではなく、朝食時間や夕食時間になったから食べた
だけ。寝る時間も、そうだ。幼稚園の先生に、きちんとあいさつをすると、先生や親は喜んだ
が、ぼく自身は、自分がロボットだと感じたこともある。塾へもいくつか通ったが、親が行けと言
ったから行っただけ。そこでよい成績をとってくると、親は喜んだが、いつか、そうして親を喜ば
すのが、ぼくの義務のようになってしまった。また親が喜んでいる間だけ、自分は自分でいるこ
とができた。また自分の立場を守ることができた」と。

 この子どもも、優等生だった。親も、そう思い、喜んでいた。しかし自分の中に、自分でない自
分をもつことは、たいへん危険なことでもある。度を超すと、そのまま自我が分裂してしまう。そ
して自分でない自分に、自分が振り回されてしまう。子どもによっては、ある日突然、自暴自棄
になって暴れたり、反対に、他人との交流ができなくなり、引きこもってしまったりするようにな
る。そこまで進むことはないにしても、たいていは、思春期を迎えるころから、自分自身と、自
分の中の自分でない自分との間で、はげしい葛藤(かっとう)を繰りかえすようになる。

 そういう意味でも、幼児期において、「いい子」と呼ばれる子どもほど、警戒して観察してみる
必要がある。そこであなたの子どものチェックテスト。ここに書いたようなことで、いくつか思い
当たるような点があれば、あなたの子どもは、かなり無理をしている子どもということになる。

(1)うちの子は、優等生で、よくできた子と思うことが多い。ものの道理をよくわきまえている
し、しっかりしている。どこへ出しても、恥ずかしくない。
(2)幼稚園の先生や小学校の先生にも、よくほめられる。いろいろな仕事を与えられ、それを
ソツなくこなしているようだ。ほかの父母にもほめられることが多い。
(3)概して、親に従順で、たいていは親の決めた設計図や、スケジュールに従って行動してく
れる。今のところ、順調にコースに乗っているようだ。
(4)ときどき、「アレッ!」と思うようなアンバランスなところがあるにはある。一〇〇点をとった
答案用紙の裏に、むごたらしい悪魔の絵を描いたりするなど。
(5)ときどき何を考えているかわからないときがある。喜怒哀楽の感情を押し殺してしまうよう
なところがある。親の前でも、静か。親に従順で、あまり反抗しない。
 
 これは補足の補足ということになるが、この話を、ある懇談会でしたら、ひとりの母親がこう言
った。「私が、その優等生でした。今も、その後遺症に苦しんでします」と。そういうケースも、少
なくない。さて、あなたはだいじょうぶか?

++++++++++++++++++++++++

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動
形成というのは、自分の心を抑圧すると、その反動から、正反対の自分を演ずるようになるこ
とをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、た
とえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成
に似ているから、「反動感情」とした。……余計なことだが。

(030826)
++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(105)

人間関係の整理

 若いうちは、いろいろな人とつきあう。それはとても重要なことだ。しかし年齢とともに、それ
がたいへん煩わしくなる。

 そのように考える私は、それでよいのか。それはまちがっているのか。

 以前、エイズに感染し、余命がそれほどないという若者の手記を読んだことがある。アメリカ
人の若者が書いた手記だった。その中で、その若者は、こう書いている。「つまらない人間と、
つまらない会話をするような時間は、ぼくにはない」と。

 私は、以前は、いくつかの私塾連の連盟に属し、そういう人たちとの会合に顔を出していた。
しかし五〇歳を過ぎることから、それがいやになった。中には、「おまえは、知識をひけらかす
バカだ」と私に言う男さえいた。オメデタイというか、そんな男に、知識をひけらかしても、しかた
ないと思うのだが……。

 だから、G団体を最後に、先日、私は、そういう人たちとのつきあいを、清算することにした。
中には、一人、二人、すばらしい人もいたが、イギリスの格言にもあるように、同時に二人によ
い顔はできない。個人的にはつきあいたいが、そうはいかないだろう。

 で、これからはどうするか?

 人間関係には、総量がある。一〇人の人と、一〇ずつの人間関係をもてば、総量は一〇〇
になる。それを一〇〇人の人に広めれば、一人、一ずつになる。一〇〇人の人と、一〇ずつ
の人間関係をもつのは、不可能。時間とエネルギーの問題が、それにからんでくる。

 そこで今度は反対に、五人の人とつきあえば、一人、二〇ずつの関係になる。つまりその
分、濃密になる。私がこれから先、すべきことは、そういう濃密な人間関係を大切にすること
だ。

 ……と書いて、「?」と思った。実は、それだけではない、と。

 仕事上のつきあいとか、営業上のつきあいというのは別にして、自分をごまかして生きるのも
疲れる。もっとも今までは、「適当につきあっておけばよい」とか、「またそのうち、何かのことで
役にあることもあるだろう」とか考えて、つきあってきた。が、このところ、そういう自分自身のズ
ルさが、つくづく、いやになった。

 先の私塾連の人たちについても、どこかそういうズルいつきあいを、私はしてきた。今まで
は、それでよかったのかもしれないが、もしそういうエネルギーがあるなら、もっとほかのことで
使いたい。

 で、清算することにした。そして、その結果だが、胸の中が、清々した。何というか、背中にリ
ュックサックを背負って、野原を歩き出したような気分である。どうせ私はひとり。生まれて死ぬ
のも、ひとり。たった一度しかない人生だから、私は私の人生を、生きる。

 ……とまあ、かっこうのよいことを言っているが、本当のところは、よくわからない。ただこうい
うことは言える。私はもっと、自分を大切にしたい。もっと時間を大切にしたい。

今日も、仕事に出かけるとき、ふと見ると、近くの空き地に、五、六人の老人たちが、集まっ
て、何やら話しあっていた。男性が四人、女性が二人。男性たちはイスに座っていた。ほとんど
毎日、一日中、そこにいる。

「どうしてああまで、時間をムダにすることができるのだろう?」と、私は思った。「若い人ならと
もかく、もう残された時間は、少ないのに……」と。

そう考える私は、正しいのだろうか。それともまちがっているのだろうか。この結論は、もう少し
先に出すことにする。
(030827)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(106)

ガブリエル・フォーレ

 学生時代は、一応、合唱団にもいた。中学、高校は、一応、コーラス部にいた。若いころは、
合唱が好きだった。

 で、メサイアは、ヘンデルも、バッハも歌った。しかし、ガブリエル・フォーレは、知らなかった。

 オーストラリアの友人のE君が、そのフォーレのメサイアのCDを送ってくれた。手紙は入って
いなかったが、CDをかけると、その理由はすぐわかった。

 私は、これほどまでにすばらしい、「癒(いや)しの音楽」に出会ったことがない。……正直に
告白するが、知らなかった。何という不覚! 人生、五五年にして、フォーレに出会うとは! 
聞けば聞くほど、心が休まる。落ちつく。洗われる。が、それだけではなかった。フォーレの音
楽を聞きながら、同時に、私は、私にはまだ知らないことが、山ほどあることを思い知らされ
た。

 一〇ほど前までは、コンピュータ音楽に興味をもち、機器も一そろい、そろえた。もちろん作
曲もした。だから作曲者の、そのときの心情が、少しは理解できる。つまりフォーレは、まさに
神々の心境で、このメサイアを作曲したにちがいない。また、そういう心境でないと、こういう曲
は生まれない。

 それにもう一つ、重要なことを発見した。自分の世界をつくりあげることは、大切なことだが、
同時に、見知らぬ未知の世界にも、飛びこんでいくことも、大切なことだ、と。私はメサイアとい
えば、ヘンデルのメサイアが最高だと、思いこんでいた。E君がいつか、「フォーレはすばらし
い」と言ったときも、「何、言ってるんだ」と思ってしまった。

 もちろんヘンデルのメサイアはすばらしい。今でも全曲、バリトン部だけなら、ほとんどソラで
歌える。しかしそのとき、「ほかのメサイアは、つまらない」と結論づけてしまうのは、まちがって
いる。それを思い知らされた。

 日本ではあまり知られていない作曲家だが、(知らなかったのは、私だけ……?) もしどこ
かでガブリエル・フォーレのメサイアを聞く機会があったら、ぜひ聞いてみてほしい。とくに、心
が疲れているときには、よい。すばらしい。本当に、心が洗われる。
(030827)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

子育て随筆byはやし浩司(107)

宇宙人

 月に興味をもち、あれこれ自分でも調べてみた。その結果だが、出てくるわ、出てくるわ…
…! 今ではインターネットを介して、その種の情報は、居ながらにして、手に入る。

 で、私は驚いた。本当に、驚いた。火星にも、水星にも、金星にも、そしてそれらを回る衛星
にも、人工的な基地だらけ。わかりやすく言えば、宇宙人の基地だらけ。月にいたっては、まさ
に地球上の都市なみ! いつか、月の裏側をアポロで回った宇宙飛行士が、「ラッシュアワー
のときのように、UFOが飛びかっている」と言ったというような話を聞いたことがある。「まさ
か?」と、そのときは、そう思った。しかし、そうであっても、まったくおかしくない。

 こうした情報をアメリカのNASAはもっているというが、外に出てくるのは、ほんの一部。その
一部に修正ミスがあったりして、私たちが知るところとなる?

 「何をアホなことを!」と思っている人は、ホームページのアドレスをここ紹介しておくので、一
度、のぞいてみるとよい。そして自分で確かめてみるとよい。私も最初は、半信半疑だったが、
これだけ証拠(?)を並べられると、「ひょっとしたら……」と思うようになってしまった。

 実のところ、私とワイフは、真夜中に巨大なUFOを目撃している。それ以来、それを信ずると
か信じないとかいうレベルを超えてしまった。「あの夜、私たちが見たものは何だったのか」と。
そればかりを考えてきた。が、そんな疑問など、吹き飛んでしまった。繰りかえすが、この太陽
系は、宇宙人の基地だらけ! (あくまでも、そうした写真の内容を信ずるなら、という条件つき
だが……。)

 しかしこうまで太陽系に、宇宙人の基地があるとすると、この地球にはないというほうが、無
理ということになる。そして、私たち人間が、そうした宇宙人と無縁と言うほうが、おかしいという
ことになる。

 ……というのは、やはりロマンということにしておく。もっとも私のばあい、そのときは信じて
も、それから離れたとたん、それを忘れてしまう。そういう便利な脳の構造をしている。

 そういう意味では、めったにハマらない。キリスト教の聖書を読んでいるときは、結構、クリス
チャンのような気分になる。しかしそのあとすぐに、仏教の経典を読んでも、まったく違和感なく
読むことができる。

 今回も、インターネットをのぞいているときは、「ホホー」とか、「ゲーッ」とか、そのつど変に感
心して見ていたが、離れたとたん、「ロマン、ロマン」と割り切ることができる。

++++++++++++++++++

いつか書いたUFOの目撃談のエッセーを
ここに転載しておきます。これは中日新聞
で発表したものです。

++++++++++++++++++

●見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、
それを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ二五年近くも前のことで、「ひょっとしたら
……」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。
「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたとい
う。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。

その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。
私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は
突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFO
とは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、
まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真
を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝って
いた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人で
もある。私と女房は、その中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ
形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしくはない。

 もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私は
その人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラムを汚したくない
し、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。

文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセーも実用書も書く。ノンフィクションも
得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち
四冊は中国語にも翻訳されている。そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育
論を考えている。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこ
そあえて、私はそれについて書いてみた。

(030827)

【追記】この記事を発表したあと、「同じものを見た」という人が、二人現れた。今でもときどき、
たがいに連絡を取りあっている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(108)

【今週の教室から……】

 今週は、知恵テストをした。私立小学校の入試問題を、使った。以前、私はこの種の教材制
作を頼まれたことがある。そのときの資料が、今でも、山のようにある。(ホント!)

 過去三〇年間で、一度だけ採点をし、その結果をグラフ表示したことがある。私は(ていねい
なサービス)と考えて、それをした。しかし、その結果、母親たちは、パニック状態になってしま
った。

 それまでなごやかだった教室の雰囲気は、一変した。順位が上のほうの子どもの親は、それ
なりに満足したが、下のほうの子どもの親は、そうでなかった。中には、採点に納得できないと
か、まちがえたところを補うためには、どうしたらよいかと相談してくる親もいた。

 で、採点し、グラフ表視したのは、その年、一回だけ。今年も、テストをしながら、一枚ごとに
子どもに説明し、それで終わった。全員、花丸。「よくがんばったね」と、ほめて仕上げた。

 私の目的は、子どもたちに、学ぶ楽しさを教えること。味あわせること。そういう楽しい思い出
が、子どもを前向きに、伸ばしていく。採点して、順位をつけるなどということは、邪道の邪道。
……と思うというより、あんな経験は、もうこりごり。
(030827)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(109)

●愛について

愛についての名言は、多い。それだけ関心が高いということ。当然だ。人間が、生きている目
的の一つが、「愛」である。

 人恋しい季節。たとえ結婚していても、人を恋すること、人を愛することを、ためらってはいけ
ない。それが不倫であるとか、不道徳であるとか、夫や妻に対する背信であるとか、そんなふう
に、自分を責めてはいけない。

 愛は、もっと自然なもの。青い空を白い雲が漂うように、あなたの心も自然に任せたらよい。
それが生きるということ。それが、あなたがあなたであるということ。

 しかしここで大切なことは、そういった感情を相手に伝えてはいけないということ。いくらあな
たが相手を愛しても、その心は、あなたの心の奥深くに秘めておく。それはあなた自身のため
でもあるが、同時に、あなたの夫や妻のため。そして愛する相手のためでもある。

 あなたがなすべきことは、ただ一つ。相手の幸福を、乱さない。相手の幸福を、静かに見守
る。その一語につきる。自己犠牲を伴わない愛は、そもそも愛ではない。

 しかし……。恋は切ない。愛はもっと切ない。その切なさを感じながら、生きるのも、これまた
人生。その切なさを、チビリチビリと味わいながら生きていくのも、そんなに悪いものではない。

 できれば、明るい日差しがさんさんと輝く太陽のもと。男も女も、素っ裸で、好き勝手なことが
できればよい。しかしそれには、同時に、あなたの夫や妻にも、それを許すという前提がなけ
ればならない。あなただけが、好き勝手なことをし、夫や妻には、それを許さないというのであ
れば、それこそそれは、身勝手な愛ということになる。

 夫でありながら、妻でありながら、人知れず、愛に苦しんでいる人は多い。そういう人たちの
参考になればと思い、世界の賢者の言葉を訳してみた。

+++++++++++++++++

★Peggy- "Tell me you love me, Al" Al-"I love football, I love beer, let's not cheapen the 
meaning of the word." - Al Bundy
ペギー「私を愛していると、言ってちょうだい」
アル「フォットボールを愛している。ビールを愛している。そういうふうに、その言葉を安っぽく使
いたくないよ」(アル・バンディ)

★There isn't any formula or method. You learn to love by loving. - Aldous Huxley
愛に公式はないよ。人を愛しながら、愛を学ぶよ。(アルドス・ハクスレイ)

★True love is like a butterfly. Once it is gone it has flown away it is nearly impossible to 
recapture it. - Anonymous
真の愛は、チョウのようなもの。一度飛び去ると、それを再び捕らえるのは、ほとんど、不可
能。(作者不詳)

★To the world you may be one person, but to one person you may be the world. - 
Anonymous
世界に対しては、あなたは一人の人間かもしれない。しかし一人の人に対しては、あなたはま
さに世界かもしれない。(作者不詳)

★If you love something, let it go. If it comes back,  great. If not, it's probably having dinner 
with someone more attractive than you - Bill Grieser
あなたが何かを愛するなら、あるがままにしておけ。それがもどってくるなら、すばらしいこと
だ。もどってこないなら、あなたよりすばらしいだれかと、夕食をともにしたらよい。(ビル・グリ
ーザー)

★Who needs love when you've got a gun? - Black Flag
あなたが銃をもっているとき、だれが、愛を必要とするか。

★"I met a young man who was wounded in love, I met another man who was wounded in 
hatred." - Bob Dylan
私は愛で傷ついた若者を知っている。また私は、恨みで傷ついた若者も知っている。(ボブ・デ
ィラン)

★Born to lose, I've lived all my life in vain. All my dreams have only caused me pain. All my 
life I've always been so blue. Born to lose and now I'm losing you - Bouncing Souls
なくすために生まれた……私はすべての人生を、ムダに過ごした。すべての夢は、私に苦痛を
もたらした。人生、すべてブルーだった。私はなくすために生まれた。そう、今、私はあなたをな
くしつつある。

★Friendship often ends in love; but love in friendship - never. - Charles Caleb Colton
友情は、しばしば愛で終わる。しかし愛は、決して友情で終わらない。(C・C・コルトン)

★Never close your lips to those to whom you have opened your heart. - Charles Dickens
あなたが心を開いた人に対して、決して唇を閉じてはいけない。(C・ディキンソン)

★There is a battle that goes on between men and women. Many people call it love. - 
Edvard Munch
男と女の間で、戦闘がつづく。多くの人は、それを愛と呼ぶ。(E・マンチ)

★"if two people love each other, there can be no happy end to it" - Ernest Hemingway
もし二人の人が、たがいを愛するなら、それには、ハッピーエンドはありえない。(アーネスト・ヘ
ミングウェイ)

★Life without love is meaningless and goodness without love is impossible. - Greg 
Jurkiewicz, "The Neo-Reconstructionist Manifesto"
愛のない人生は、意味がない。愛のない善は、不可能。(G・ジュルキウェイッツ)

★Talk not of wasted affection; affection never was wasted. - Henry Wadsworth Longfellow
ムダな愛を説くな。愛は決してムダにはならない。(H・ワズワース)

★My night has become a sunny dawn because of you. - Inb Abbad
私の夜は、あなたのおかげで、太陽が輝く夜明けになる。(I・アバド)

★I say I'm in love with her. What does that mean? It means I review my future and my past 
in the light of this feeling. It is as though I wrote in a foreign language that I am suddenly 
able to read. Wordlessly, she explains me to myself. Like a genius, she is ignorant of what 
she does. - Jeanette Winterson, "The Passion"
私は彼女を愛しているという。それが何の意味があるのか。それはこの感覚の中で、私の未
来と過去をもう一度、見ることを意味する、それは私が突然読むことができるようになった、外
国語を私が書くようなもの。言葉なしで、彼女は、私自身に説明する。天才のように、彼女は、
彼女のすることに気づかない。(J・ウィンターソン)

★People think love is an emotion. Love is good sense. - Ken Kesey
人々は、愛は感情だという。愛は、よいセンス。(K・ケッセイ)

★And ever has it been known that love knows not its own depth until the hour of 
separation. - Khalil Gibran, "The Prophet"
別れのときまで、愛はその深さを知らないということは、よく知られたことである。(K・ギブラン)

★When the heart speaks, however simple the words,  its language is always acceptable to 
those who have hearts. - Mary Baker Eddy
どんな簡単な言葉でも、心が話すとき、その言葉は、心をもった人に、受け入れられる。(M・
B・エディ)

★We can do no great things; only small things with great love. - Mother Teresa
だれもすばらしいことはできない。ただ偉大な愛をもって、小さなことをするだけ。(マザー・テレ
サ)

★"I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love." - Mother Theresa
私はパラドックスを発見した。つまりあなたが、あなたを痛めるまで人を愛したなら、もう痛みは
ない。それ以上の愛があるだけ。(マザー・テレサ)

★A woman in love will do almost anything for a man, except give up the desire to improve 
him. - Nathaniel Branden
愛をもった女性は、一人の男のために、何でもする。ただ、彼を高めようとすることだけは、し
ない。(N・ブランデン)

★In the arithmetic of love, one plus one equals everything, and two minus one equals 
nothing. - Ninon De L'Enclos (1616-1706)
愛の算術においては、1たす1は、すべてに等しい。そして2ひく1は、何もない。(N・D・レンコ)

★Keep love in your heart. A life without it is like a sunless garden where the flowers are 
dead. - Oscar Wilde
心に愛を保て。愛のない人生は、日光のない庭のようなもの。花は死んでいる。(オスカー・ワ
イルド)

★To love yourself is the beginning of a lifelong affair! - Oscar Wilde, "An Ideal Husband"
自分を愛するということは、生涯つづく愛だ。(オスカー・ワイルド)

★To be loved, be lovable. - Ovid
愛するということは、愛くるしいということ。(オービド)

★At the touch of love, everyone becomes a poet. - Plato
愛に触れると、だれしも、詩人になる。(プラト)

★Love is an irresistible desire to be irresistibly desired. - Robert Frost
愛というのは、抵抗できないまま、求められる、抵抗できない要求。(ロバート・フロスト)

★Love is the distance between reality and pain. - Robyn_hitchcock
愛は、現実と苦痛の間のもの。(R・ヒッチコック)

★If you have it [love], you don't need to have anything else, and if you don't have it, it 
doesn't matter much what else you have. - Sir James M. Barrie 
愛があれば、ほかに必要なものはない。もし愛がなければ、ほかにいくら多くあなたがもってい
ても、意味がない。(サー・J・M・バリー)

★It takes only a minute to get a crush on someone, an hour to like someone, and a day to 
love someone, but it takes a lifetime to forget someone. - Unknown
だれかに会うには、一分しか、かからない。好きになるのには、一時間。愛するには、一日。し
かしその人を忘れるのには、一生かかる。(不明)

★Somewhere there's someone who dreams of your smile, and finds in your presence that 
life is worth while. So when you're lonely remember it's true: somebody somewhere is 
thinking of you. - Unknown
あなたのほほえみを夢見るだれかがいる。そしてあなたを前にすると、その人生が意味をも
つ、人がいる。それであなたが孤独だと感じたら、このことが本当だということを思い出せ。誰
かが、どこかで、あなたのことを思っている。

★Love is eternal. The aspect of it may change, but the essence remains the same. - 
Vincent Van Gogh
愛は永遠。その様子は変わるかもしれないが、その枢要な部分は、同じ。(ゴッホ)

★"I don't want to live... I want to love first, and live incidentally." - Zelda Fitzgerald
私はただ生きるというのはいやだ、。まず、人を愛したい。その結果として、生きたい。(Z・フィ
ッツゲラルド)


★Love does not consist in gazing at each other, but in looking outward together in the 
same direction. - Antoine de Saint, Exupery, In Literature/Shakespeare 
愛というのは、たがいに見つめあうことではない。愛というのは、外に向って、同じ方向を見る
ことである。(A・D・S・エクスペリ−)

★Love comes in at the eye. - W.B. Yeats, In Senses/Sight 
愛は、まず目に出る。(W・B・イェーツ)

★Love college. Hate class. - 8th Floor East, Duquesne University, In Education/College Life 
愛大学の、憎しみ学科。 

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【追記】

 同じ「愛」でも、こんな調査結果がある。東京都における調査では、高校三年生の性体験の
比率は、女子で、一九九〇年の17%から、二〇〇二年に46%、男子も22%から37%に急
増しているという(産婦人科医・家坂清子氏調査・読売新聞03・8・27)。

 わかりやすく言えば、女子の約半数は、高校三年生までに、性体験をすますということ。男子
も、それを追いかけているということ。

 そしてこれは非公式の調査だが、こうした女子高校生のうち、多くは、不特定多数の男性と、
繰り返しセックスをしているという。中には、一年で、数十人の男性とセックスをしている女子高
校生もいるという(週刊誌)。

 一方、これまたおかしなことだが、結婚してすぐから、セックレス夫婦になるケースも多いとい
う。たまたま今朝の読売新聞(八月二八日)の朝刊の人生相談コーナーには、こんなのがあっ
た。

 「結婚してから、ほとんどセックスがない。共働きだから、疲れているせいかもしれない。私は
子どもがほしいが、夫が、応じてくれない。しかし友だちのような、仲のよい夫婦です」と。

 ワイフは、これを読んで、「へえ、セックスなしの夫婦もいるのね」と驚いていた。

 私の考えでは、つまり自分自身の体験を織りまぜるなら、「愛」と「セックス」は、分けて考えた
ほうがよいのではないかということ。愛は、心の問題だし、セックスは、体(本能)の問題。これ
を同一レベルで考えるから、話がおかしくなる。

 愛は愛として考え、セックスはセックスとして、合理的に考える。ほかの男性や女性とセックス
をしたから、愛が影響を受けるというものではないし、しないからといって、これまた愛が影響を
受けるというものではない。

 私のワイフなんか、若いとき、その気がないときは、私に、「ベタベタ、うるさいわねえ。あん
た、ストリップでも見てきたら!」と言って、私を、よく家から追い出したものだ。そういう考え方
も、ある。

 ……といっても、私のばあい、こうした意識改革をするのは、二〇年、遅かった。今さら、こと
私に関して言うなら、意識改革しても遅いということ。愛とセックスを分けて考える必要は、もう
ない。だいたいにおいて、体がついてこない。

 しかし若い人は、もう少し合理的に考えてよいのではないか。グループセックス、よし。スワッ
ピングパーテー、よし。今はやりの、ハプニングバーで遊ぶのも、よし。私の知人の男性(六七
歳、六七歳だぞ!)は、三七歳の人妻と、月に一、二回会って、セックスを楽しんでいる※。

 私の考えでは、セックスを、スポーツのように楽しむ時代は、もうすぐそこまできているように
思う。もちろん、そういう流れに対して、道徳面や倫理面で、反発する人もいる。しかし人は、そ
れぞれ。夫婦も、それぞれ。愛に形はない。同じように、セックスにも形はない。夫婦について
言えば、たがいに納得し、同意すれば、何をしてもかまわないのではないか……?

 ただ高校生のセックスについて言えば、エイズ感染や性病の問題がからんでくる。妊娠、中
絶の問題もある。さらに早期に性体験をすると、子宮ガンになりやすいというデータもあるとい
う(同、家坂氏)。テニスやスキーのようなスポーツと同じように考えるわけには、いかない。

 まあ、親として、あなたに息子や娘がいるなら、「うちの子はだいじょうぶ」とか、「うちの子は
関係ない」と思っているとしたら、とんでもないまちがいだということ。それだけは覚悟しておい
たほうがよい。この割合で増えていくと、あなたの子どもが高校生になるころには、七〇〜八
〇%の子ども(女子)が、性体験をするようになる。
(030828)

※……これは本当の話。偶然か、ある事情で、私は、その女性と話をしたことがある。その女
性は、実にあっけらかんとしていて、「そうです」と言って笑っていた。あまりにもあっけらかんと
していたので、あれこれ聞く前に、私も笑ってしまった。ただ、その女性は、私のタイプではなか
ったので、嫉妬はしなかった。もしその女性が、私のタイプだったら、心底、「チクショー」と思っ
たかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(110)

●元気を出そう!

 「日本の経済は、今、元気がない」と訴えたら、メルボルンに住んでいるR君が、「TIME」誌、
八月一一日号(シンガポール版)を送ってくれた。TIMEは、「What's right with Japan?
(何が、日本で正しいのか)」と題して、日本特集を組んでいた。つまり、「まだまだ日本の実力
は、捨てたものではない!」と。

 そのTIMEを読む。

 「日本は長くて、暗い不況の時代に入っていると言われているが、その一方で、数多くの面
で、めざましく世界をリードしている。

 ダイハツのクーペ。
 ムラカミのルイ・ビトン。
 そしてマリナーズのイチロー」と。

 そして何と、一六ページにもわたって、日本の「実力」を紹介している。順に並べてみる。

若者の、ファッションの分野
小型化から大型化、ドコモの腕時計型電話
禅などの独特な文化
破壊と創造の国
アニメ産業
超高級産業(ゴルフ用具や和牛)
電子機器産業
芸術産業
モダンな住宅産業

そして「未来のランド」と称して、いくつかのハイテク商品を紹介している。

スケルトンのバン(ホンダ)
折りたたみ式のソファ
超薄型の携帯電話
電子バイオリン
透明の盾
デジタルカメラなど。

 アメリカやオーストラリアのホテルに泊まってみるとわかるが、彼らの国には、何もない。冷蔵
庫は、オランダ製、電話は台湾製、テレビは日本製。かろうじてある、戸棚にしても、とても世
界へ輸出できるようなモノではない。

 アメリカについて言えば、電子産業と軍需産業、それに航空産業(プラス映画産業)をのぞい
たら、何も残らない。経済構造は、ブラジルと同じ、農業国。オーストラリアともなると、さらにひ
どい。日本の経済は悪い、悪いと言われているが、「まだまだ捨てたものではない」ということに
なる。

 さあ、私もがんばるか!
 みんな、がんばっているぞ!
 グチグチ言っていても、始まらないし……!

I thank you very much for your kindness to have sent me the magazine, which has 
encouraged me very much. What is right with Japan? Whatever it is, I have no choice but to 
love this country. Hiroshi
(030828)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(111)

逆転

 若いころ、東大のT教授の研究室に遊びにいったときのこと。私が、「これからの研究で、ど
んな分野が成長株ですか」と聞くと、T教授は、こう話してくれた。「遺伝子工学かな……」と。
「コンピュータはどうですか?」と聞くと、「これからでは、もう遅いでしょう」と。私が二五歳。今か
らちょうど、三〇年前のことである。

 当時T教授は、光合成の研究をしていた。触媒を使って、水を酸素と水素に分離できれば、
無尽蔵のエネルギーを、人間は、手にすることができる、と。

 で、それからしばらくして、また遊びに行くと、こんなことを言った。「遺伝子工学が、ここまで
発達するとは、思ってもみなかった……」と。負けず嫌いのT教授が、ふともらした弱音である。

 そのころT教授の研究は、私が感じたところ、大きなデッドロックにのりあげていたように思
う。(私が勝手に、そう思っただけだが……。)T教授はその後、東大の総長特別補佐(副総
長)や、国際触媒学会の会長などを歴任している。

 が、最近、その「触媒」が、急速にクローズアップされてきている。マスコミでも騒がれている。
産業への応用も広がり、今まで予想もしなかった分野でも使われ始めた。私はこの分野は、ま
ったくの門外漢だが、「ひょっとしたら遺伝子工学に匹敵(ひってき)するほどの分野ではない
か」と、思い始めている。

 昨年(02)、その触媒学会が、このH市で行われた。全国から数百人もの研究者が訪れたと
いう。そのほとんどが、T教授の息のかかった弟子たちだという。T教授自身も、数年前、日本
学士院賞を受賞している。

 その学会のあいまをぬって、T教授は、私の山荘へ遊びにきてくれた。夜中になって、T教授
をホテルへ送っていくとき、私が、「触媒が、にわかに騒々しくなりましたね」と言うと、T教授
は、うれしそうに笑った。

こういうのを「逆転」というのか。T教授のような先駆者がいたおかげで、日本の触媒学は、今、
世界を一歩リードしている。戦後、基礎科学の分野で、日本がはじめて世界をリードできた分
野といってもよい。

 メルボルン大学で、T教授にはじめて会ったとき、T教授は、毎日黙々と、大学の研究室に通
っていた。あのときのT教授の頭脳が、今、世界で光り輝きはじめている。それを思うと、何か
しら不思議な感じになる。

口の悪いことだけは、天下一品で、会うたびに、私はT教授にこきおろされる。が、私は、生涯
において、T教授と知りあいになれたことを、誇りに思っている。教授は、まさに研究の分野で
は、神の領域に入った人である。

 今夜、T教授に、メールを送ろう。このエッセーを添えて……。
(030828)

【追伸】
このエッセーを送ったら、T先生こと、田丸先生より、原稿が送られてきました。少しむずかしい
ですが、世界でも超一級の論文ですから、先生の許可をもらい、ここに紹介します。

++++++++++++++++++++++
【参考】

太陽エネルギーを用いる水からの水素製造

堂免一成  田丸謙二

化石資源の消費、枯渇からもたらされるエネルギー問題と二酸化炭素発生などによる地球環
境問題は、我々が直面する深刻な課題である。これらの問題は、放っておけばいつか解決す
るという類のものではない。我々の生活に直結しており、我々自身で積極的に取りくんでいか
ねば決して解決しない問題である。この問題の本質は、現代の人類の生活が多量のエネルギ
ーを消費する事によって維持されているという点である。しかも現在そのエネルギーを主に担
っている化石資源は、有限な資源であり必ず枯渇するだけでなく、それを使い続ける事は地球
環境を破壊する危険性が高い。

  もともと石油や石炭などの化石資源は、光合成によって固定された太陽エネルギーを何億
年もかけて地球が蓄えてきたものであり、それとともにわれわれの住みやすい地球環境が形
成されてきたはずである。我々はそのような地球が気の遠くなるような時間をかけてしまいこん
できたエネルギーを「かってに」掘り出し、その大半を20世紀と21世紀のたった200年程度で使
い切ってしまおうとしている。

したがって現在の時代を後世になって振り返れば、人類史上あるいは地球史上極めて特異な
浪費の時代と映っても不思議ではない。かけがえのない資源を使い切ってしまいつつある時代
に生きる我々は、それについて微塵も罪の意識を持っていないが、少なくともわれわれにとっ
ては地球環境を破壊しない永続的なエネルギー源を開発することは、後世の人々に対する重
大な義務である。その為には、核融合反応や風力などいくつかの選択肢があろう。なかでも太
陽エネルギーをベースにしたエネルギー供給システムは、枯渇の心配のない半永久的でクリ
ーンな理想的なエネルギー源であろう。

  太陽光を利用する方法もいくつかの選択肢がある。例えば最も身近な例は太陽熱を利用し
た温水器である。また太陽電池を用いて電気エネルギーを得る方法も既に実用化している。し
かし、これですぐにエネルギー問題が解決するわけでない事は誰でも実感している事であろ
う。

ここで太陽エネルギーの規模と問題点について少し考えてみる。太陽は、水素からヘリウムを
合成する巨大な核融合反応炉であり、常時莫大なエネルギー(1.2 x 1034 J/年)を宇宙空間に
放出している。その中の約百億分の一のエネルギーが地球に到達し、さらにその約半分(3.0 
x 1024 J/年)が地上や海面に到達する。一方、人間が文明活動のために消費しているエネル
ギーは約3.0 x 1020 J/年であり、地球上に供給される太陽エネルギーの約0.01 %である。ちな
みにそのうちの約0.1 %、3.0 x 1021 J/年、が光合成によって化学物質、食料などの化学エネ
ルギーに変換されている。

また、地球上にこれまで蓄えられた石油や石炭などの化石資源がもつエネルギー量は、もし
地球上に降り注ぐ太陽エネルギーを全て固定したとすれば約10日分にすぎない。このように
考えれば太陽エネルギーは我々の文明活動を維持するには十分な量であることがわかる。

では、なぜ太陽エネルギーの利用が未だに不十分なのであろうか。理由は太陽光が地球全体
に降り注ぐエネルギーであることである。したがって太陽光から文明活動を維持するための十
分なエネルギーを取り出すためには数十万km2(日本の面積程度)に展開できる光エネルギー
の変換方法を開発しなければならない。ただしこの面積は地球上に存在する砂漠の面積のほ
んの数%程度であることを考えれば我々は十分な広さの候補地を持っていることになる。その
様な広大な面積に対応できる可能性をもつ方法の一つが人工光合成型の水分解による水素
製造である。

もし太陽光と水から水素を大規模に生産できれば人類は太陽エネルギーを一次エネルギー源
とする真にクリーンで再生可能なエネルギーシステムを手にすることができる。水素の重要性
は、最近の燃料電池の活発な開発競争にも見られる様に今後ますます大きくなってくることは
間違いない。しかしながら現在用いられている水素は化石資源(石油や天然ガス)の改質によ
って得られるものがほとんどである。これは水素生成時に二酸化炭素を発生するのみでなく、
明らかに有限な資源であり環境問題やエネルギー問題の本質的な解決にはならない。

もし、太陽光の中の波長が600nmより短い部分(可視光、紫外光)を用いて、量子収率30%で、
1年程度安定に水を分解できる光触媒系が実現すると、わが国の標準的な日照条件下1km2
当たり1時間に約15,000 m3(標準状態)の水素が発生する。この時の太陽エネルギー全体の
中で水素発生に用いられる変換効率は約3%程度であるが、この水素生成速度は現在工業
的にメタンから水素を生成する標準的なリフォーマーの能力に匹敵する。したがってこの目標
が達成されれば研究室段階の基礎研究から太陽光による水からの水素製造が実用化に向け
た開発研究の段階に移行すると考えられる。

現在、水を水素と酸素に分解するための光触媒系として実現しているのは、固体光触媒を用
いた反応系だけである。他にも人工光合成の研究は数多く行われているが、以下、不均一系
光触媒系に話を限定する。水を水素と酸素に分解する為に必要な熱力学的条件は、光触媒と
して用いる半導体あるいは絶縁体の伝導帯の下端と価電子帯の上端がH+/HおよびO2/OH-
の二つの酸化還元電位をはさむような状況にあればよい。

個々の電子のエネルギーに換算すると、1.23 eVのエネルギーを化学エネルギーに変換すれ
ばよい。また、光のエネルギーで1.23 eVは波長に換算するとほぼ1000 nmであり、近赤外光の
領域である。つまり、全ての可視光領域(400nm 〜 800nm)の光が原理的には水分解反応に
利用できる。ただしこれらの条件はあくまで熱力学的な平衡の議論から導かれるものであるか
ら、実際に反応を十分な速さで進行させるためには活性化エネルギー(電気化学的な言葉で
いえば過電圧)を考慮する必要があるので、光のエネルギーとして2 eV程度(光の波長で
600nm程度)が現実的には必要であろう。

固体酸化物を用いた水の光分解は、1970年頃光電気化学的な方法によって世界に先駆けて
我が国で初めて報告され、本多―藤嶋効果と呼ばれている。この実験では二酸化チタン(ルチ
ル型)の電極に光をあて、生成した正孔を用いて水を酸化し酸素を生成し、電子は外部回路を
通して白金電極に導き水素イオンを還元し水素を発生させた。

このような水の光分解の研究は、その後粒径がミクロンオーダー以下の微粒子の光触媒を用
いた研究に発展した。微粒子光触媒の場合、励起した電子と正孔が再結合などにより失活す
る前に表面あるいは反応場に到達できるだけの寿命があればよい。さらに微粒子光触媒の場
合、通常電極としては用いることが困難な材料群でも使用できるメリットがあるため、多くの新
しい物質の研究が進んでいる。現在では紫外光を用いる水の分解反応は50%を超える量子
収率で実現できる。

しかしながら太陽光は550nm付近に極大波長をもち、可視光から赤外光領域に広がる幅広い
分布をもっているが、紫外光領域にはほんの数%しかエネルギー分布がない。つまり太陽光
を用いて水を分解するためには可視光領域の光を十分に利用できる光触媒を開発することが
必要である。しかしながら、これまでに開発された水を効率よく分解できる光触媒は全て紫外
光領域の光あるいはほんの少しの可視光領域で働くものである。

  最近になって新しく可能性のある物質群が見出され始めている。それらは、d0型の遷移金
属カチオンを含み、アニオンにO2-だけでなくS2-イオンやN3-イオンをもつ材料群である。例え
ばSm2Ti2O5S2やTa3N5、LaTiO2Nなどのようなものであり、オキシサルファイド、ナイトライド、
オキシナイトライドと呼ばれる物質群である。

これらの材料では価電子帯の上端はO2p軌道よりも高いポテンシャルエネルギーを持ったS3p
軌道やN2p軌道でできている。しかし、このような物質はまだ調製が容易ではないが、酸化剤
や還元剤の存在下では水素や酸素を安定に生成することが確認されており、これまで見出さ
れていなかった、600nm付近までの可視光を用いて水を分解できるポテンシャルを持った安定
な物質群であることがわかってきた。

したがって、このような物質の調製法の開発および類似化合物の探索によって、太陽光を用
いる水からの水素生成が、近い将来実現する可能性も十分にある状況になっている。安価で
安定な光触媒を広い面積にわたって水と接触させて太陽光を受けることにより、充分の量の
水素を得るのも夢ではない。 

このような触媒の開発に成功し、大規模な応用が可能となれば、21世紀の人類が直面する大
きな課題であるエネルギー問題と環境問題に化学の力で本質的な解決を与える可能性があ
る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(112)

●思うようにならないと、泣き叫ぶ子ども

ある母親から、こんな相談があった。(電話で、H市在住。NSさん)

 「何か友だちとゲームをしていても、負けそうになると、途中でそのゲームを、放り出してしま
います。そこで私が、それを叱ると、『ママは、○○ちゃん(友だち)の味方ばかりする』と言っ
て、泣いて暴れます。手がつけられません。どうしたらよいでしょうか。娘は、現在、幼稚園の
年長児です』と。

【はやし浩司より】

 この子どもの症状は、三つの問題が複合している。@ドラ娘症候群。Aかんしゃく発作。それ
にB母子間の不信関係。

 自分の思いどおりにならないと、緊張状態になるというのは、すでにその子どもが、かなりの
ドラ娘になっていると考えてよい。原因は、サービス過剰の家庭環境と、甘い生活規範。

 つぎに泣いて暴れるというのは、その程度にもよるが、興奮状態(錯乱状態)になるというの
は、かんしゃく発作と考えてよい。原因は、家庭教育の失敗。よくデパートなどで、自分の思い
どおりにならないと、ギャーギャーと泣いて暴れる子どもがいる。地面に寝転んで泣き叫ぶ子ど
ももいる。あれがその一例。

 三つ目に、これは電話で話していて気づいたことだが、その母親は、何をしても、自分の娘は
悪い娘だという前提で、ものを考えようとしているのがわかった。娘の立場で、どうしてそうなる
のか、耳を傾けようという姿勢が感じられなかった。頭から「自分の娘がまちがっている」と決
めてかかっているようなフシがあった。

 「基本的な部分で、あなたとお嬢さんの間に、何か大きなわだかまりがあるように感じますが
……」と私。
 「実は、あるかもしれません。結婚を決める前に妊娠してしまった子どもなものですから……」
と母親。
 「望まない子どもだったのですか?」
 「いえ、それはなかったですが、不安でした」
 「その不安が、姿を変えて、子どもへの不信感になっている可能性は、じゅうぶん、考えられ
ます」
 「はあ〜」
 「だから何をしても、悪いほうへ、悪いほうへと解釈してしまう。だから子どもは、それに対し
て、泣いて抵抗するというわけです」
 「では、どうしたらいいのでしょうか?」
 「たとえば自分の子どもを、わがままと決めつけないで、どうしてそうなのか、耳を傾けてあげ
ればいいのです」
 「しかし、何をしても、わがままなのです」
 「そこなんです。最初から、そう決めつけてしまっている。それがいけないのです」

 具体的には、つぎのようにアドバイスした。

@ドラ娘症候群については、今からでも遅くないから、家事を分担させることで子どもを、どん
どんと使うこと。「使えば使うほど、いい子」と考える。

Aかんしゃく発作については、今の段階では、発作をできるだけ起こさせないようにするしかな
い。発作が起きても、それ以上興奮させないようにする。時期的には、収まってくる年齢だが、
しかし興奮性が残ると、おとなになってからも、何かにつけて、症状が現れることがある。緊張
状態になると、静かに落ちついて会話ができなくなる、など。

B母子間の不信感については、これは母親の問題。まず原因が何であるかを冷静にみつめ
る。この母親のばあい、簡単な会話で、それに気づいてくれた。あとは時間が解決する。でき
れば、心をつくりかえるという意味で、「うちの子はいい子」を、念仏のように、繰りかえすとよ
い。

 一見簡単に見える問題でも、いくつかの問題が複合していることがある。大切なことは、それ
ぞれの問題に気づき、適切に対処していくこと。そういう視点を見落とすと、何がなんだか、わ
からなくなる。そういうことは、この世界では、よくある。

(ドラ息子症候群と、かんしゃく発作については、「はやし浩司のサイト」を参考にしてください。)
(030828)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(113)

●中学生クラスで……

 今夜は、午後一〇時まで、中一の子どもたちと、つきあった。「何時まで勉強する?」と聞い
たら、みなが、「一〇時!」と言った。それで一〇時にした。本当のところ、「一二時」と答えた
ら、どうしようかと思っていた。このところ、どうも疲れがたまってしかたない。油断をすると、偏
頭痛が始まる。

 まだ教室には、クーラーはつけてない。古い教室のを移動しようとしたら、五〇万円かかると
言われた。そんな余裕は、どこにもない。それでズルズルと、今日までがんばった。幸いにも、
今年は冷夏。

 今夜は、夏休みの最終日。「宿題をしたい」とMさんが言った。「国語をしていいか」と、Kさん
が言った。S君と、H君は、「教科書をする」と言った。私は、「自分でしたい勉強をしなさい」と
言った。ほかにO君や、Kさん、H君、Kさん。U君。全員で九人。

 一人、おしゃべりな子どもがいる。この女の子一人を抑えれば、あとはいつも静かになる。最
初に集中的に、注意を繰りかえす。で、そのうち、その女の子も、自分のリズムの中に入り始
めた。

 私は何もすることもなく、明日のクラスの教材を作ったり、プリントを整理したりする。ときど
き、机の間を回って、進み具合をチェックする。この時期の子どもに、三時間という勉強は、か
なりハード。しかしどの子どもも、勉強グセはしっかりとしている。Mさんをのぞいて、みな幼稚
園の年中児からの生徒である。Mさんだけは、小一になってから、私の教室にきた。そのMさ
ん、今では、身長が、一七五センチもある。

 私は今まで、こうして無数の生徒を迎え、そして送り出してきた。そういう仕事が、もう三三年
になる。その実感はないが、そのころ高校生だった生徒は、今、四九歳になるのか。中学生だ
った生徒は、四六歳、小学生だった生徒は、四三歳。幼児だった生徒は、三八歳!

 しかし私の仕事では、自分だけが歳をとっていく。いや、実際には、自分が歳をとっていくこと
すら、わからない。あるときから、「おじさん」と呼ばれ、またあるときから、「ジジイ」と子どもた
ちに呼ばれるようになった。そういうときはじめて、はっと自分の年齢に気づく。

 恐らく、死ぬまで、この仕事はつづくのだろう。やがてヨボヨボになり、足腰が立たなくなる。そ
の前に、頭が回転しなくなる。ロレツが回らなくなる。脳梗塞(こうそく)か心筋梗塞で倒れるか
もしれない。しかしそのときでも、今の状態は、変わらないだろう。私はここにいて、生徒たち
は、そこにいる。

 H君が、少し疲れた様子で、体をくねらせ始めた。J君は、さきほどから、あくびを繰りかえし
始めた。S君は、何度も腰を浮かせて、問題と取り組んでいる。それぞれの子どもには、それ
ぞれのリズムがある。そのリズムをうまくつかむのが、教えるコツ。たとえて言うなら、鵜飼(う
かい)の鵜匠(うしょう)のようなもの。

 糸をたくみに操りながら、勉強させる。今は、その最高潮の時。ときおり扇風機に舞うノートの
音が聞こえる。スーッと息をもらす音が聞こえる。テキストをパラパラとめくる音が聞こえる。こう
いうときは、子どものリズムに任せたほうがよい。あとは自分で伸びてくれる。

 この子どもたちも、やがて日本のリーダーになっていくだろう。論理的なものの考え方。分析
力。思考の柔軟性。静かな落ちつきという点では、私の生徒は、だれにも負けない。しかし私
は、いつもこう言っている。

 「ここは進学塾ではないから、進学を本気で考えたら、どこか進学塾へ移りなさいよ」と。私の
教室は規模が小さい。小さいから、組織的な指導はできない。それに点をつけて、順位を出し
て、子どもたちを苦しめるのは、私のやり方ではない。だいたい、幼児のときからきている生徒
に、そんな残酷なことが、できるだろうか。

 仮に学校のテストで悪い点をとってきたとしても、私が言うべきことは、ただ一つ。「気にする
な。ぼくがついているからね。君はよくがんばったよ。お母さんには、ぼくのほうから、謝ってお
いてあげるからね」だ。

 やがて時間がきて、一〇時になった。しかしだれも、動く気配がない。しばらく様子をみて、ゆ
っくりと私はこう言った。「そろそろ終わろうか。よくやったね」と。すると、緊張感から一斉に解
放されて、ドヤドヤとした音が、教室にみなぎった。

 私は席を立ち、出席ノートを返し、そしていつものように、次回の指示を出す。

 「来週から、九月だね。来週は、反比例に入るから、休まないでね」と。

 子どもたちが帰ったあと、掃除。机ふき。ゴミの始末。戸じまり。消灯。

 廊下へ出ると、秋のさわやかな風が、身を包む。「こんなにも涼しかったのか」と、一瞬、驚
く。私はいつものように自転車にまたがり、力いっぱい、ペダルを下へふみこむ。とたんさらに
さわやかな風が、全身をつらぬいた。
(030828)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(114)

戦争

 平和とは、戦争と戦争の間の、つかのまの休息なのか。人間というのは、本来的に、欲望か
ら解放されることはない。その欲望が、集積されて、戦争となる。

 あのA・リンカーンは、つぎのように書いている。

Allow the President to invade a neighboring nation, whenever he shall deem it necessary to 
repel an invasion, and you allow him to do so, whenever he may choose to say he deems it 
necessary for such a purpose -- and you allow him to make war at pleasure. If today, he 
should choose to say he thinks it necessary to invade Canada, to prevent the British from 
invading us, how could you stop him? You may say to him, 'I see no probability of the British 
invading us' but he will say to you, 'Be silent; I see it, if you don't.'" - - Abraham Lincoln
 他国からの侵略をやり返すために、隣国を、先に侵略してもよいと、大統領がそれをするの
を許せば、大統領はいつでも、自分が必要と思ったとき、それを口実に、戦争をするだろう。つ
まり大統領は、思いのまま、戦争をすることができる。もし今日、英国がアメリカを侵略するの
を防ぐため、カナダを侵略することが必要と大統領が思ったなら、だれが大統領を止めること
ができるだろうか。あなたが、「英国が我々を侵略する可能性はないと思います」とあなたが言
えば、大統領はこう言うだろう。「黙れ、あんたにはわからなくても、私にはわかるのだ」と。

 今度のアメリカとサダム・フセイン(イラク)の戦争を見ていると、リンカーンの教訓が、まった
く生かされていないのがわかる。どうも、あのブッシュ大統領という人は、頭が、あまりXXない
ようだ(失礼!)

 以下、世界の賢人たちの言葉を翻訳してみる。出典は、イギリスのフリーの投稿掲示板であ
る。(いろいろな人が、自分の好きな言葉を、もちよっている掲示板。)

なお、ざっと、目を通して読んでみて、そのあと、心のどこかに、つまりはモヤのように浮かんで
くるものが、常識。あとは、その常識に従って、ものを考え、行動すればよい。

++++++++++++++++++++

A country cannot simultaneously prepare and prevent war. - Albert Einstein
一つの国は、戦争の準備と、防止を同時にはできない。(A・アインシュタイン)

The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. - Albert Einstein
戦争のない世界の先駆者たちは、軍役を拒否する若者たちである。(A・アインシュタイン)

Never has there been a good war or a bad peace - Benjamin Franklin
いまだかって、よい戦争も、悪い平和もない。(B・フランクリン)

I may be compelled to face danger, but never fear it, and while our soldiers can stand and 
fight, I can stand and feed and nurse them. - Clara Barton
いかに危険に直面しようとも、私は恐れない。私たちの兵隊が立ち、戦うときは、私も立ち、彼
らを世話し、看護する。(クラーラ・バートン)

We have to face the fact that either all of us are going to die together or we are going to 
learn to live together and if we are to live together we have to talk. - Eleanor Roosevelt
私たちは、皆、いっしょに死に、いっしょに生き、もしいっしょに生きるなら、話さなければならな
いという事実に、直面すべきである。(エレナー・ルーズベルト)

All men are brothers, like the seas throughout the world; So why do winds and waves clash 
so fiercely everywhere? - Emperor Hirohito
すべての人は、世界の海のように兄弟である。なのになぜ、風や波は、ひどくあちこちで衝突
するのか。(日本国・天皇)

Never think that war, no matter how necessary, nor how justified, is not a crime. - Ernest 
Hemingway 
いかに必要でも、いかに正当化されても、戦争は罪でないと考えるな。(E・ヘミングウェイ)

They wrote in the old days that it is sweet and fitting to die for one's country. But in 
modern war, there is nothing neither sweet nor fitting in your dying. You will die like a dog for 
no good reason. - Ernest Hemmingway
彼らはかつて、古い時代に、国のために死ぬのは、すばらしいことだと言った。しかし近代戦に
おいては、死ぬことは、すばらしいことでも何でもない。あなたは理由もなく、犬のように死ぬの
だ。(E・ヘミングウェイ)

What difference does it make to the dead, the orphans, and the homeless, whether the mad 
destruction is wrought under the name of totalitarianism or the holy name of liberty and 
democracy? - Gandhi
狂った破壊が、全体主義の名のもとでなされようが、はたまた自由や民主主義などの神聖な
名前でなされようが、死人をつくり、孤児をつくり、ホームレスをつくることに、どんな違いがある
だろうか。(ガンジー)

Vietnam was the first war ever fought without any censorship. Without censorship, things 
can get terribly confused in the public mind. - General William Westmoreland
ベトナム戦争は、検閲なしでなされた最初の戦争である。検閲のない戦争では、民心の心が混
乱するだけだ。(W・ウェストモーランド将軍)

Older men declare war. But it's the youth who must fight and die! - Herbert Hoover
老人は、戦争を宣言する。しかし実際に戦って死ぬのは、若者たちだ。(ハーバート・フーバー)

Violence is the first refuge of the incompetent - Isaac Asimov
暴力は、無能な人間がする最初の逃げ場だ。(アイザック・アシモフ)

You know the real meaning of PEACE only if you have been through the war - Kosovar
戦争になってはじめて、君は、「平和」の本当の意味がわかるのさ。(Kosovar)

Anyone, who truly wants to go to war, has never truly been there before! - Larry Reeves
本当に戦争に行きたがる人間というのはね、戦争に行ったことがない連中だよ。(L・リーブズ)

Only the dead have seen the end of war - Plato
死人のみが、戦争の終わりを知る。(プラト)

Today we did what we had to do. They counted on America to be passive. They counted 
wrong. - Ronald Reagan
今日、我々はしなければならないことをした。彼らはアメリカが保守的であることを、あてにし
た。しかし彼らはまちがっていた。(R・レーガン)

History teaches that war begins when governments believe the price of aggression is cheap. 
- Ronald Reagan
歴史は、つぎのことを教える。つまり戦争は、一国の政府が、侵略が安くできると信じたときに
始まる、と。

I think that technologies are morally neutral until we apply them. It's only when we use them 
for good or for evil that they become good or evil - William Gibson
技術というものは、それが応用されるまで、道徳的に中立であるべきと思う。よい目的であるに
せよ、悪い目的であるにせよ、それが使われたとき、よいものになり、悪いものになる。(W・ギ
ブソン)

The United States is like giant boiler. Once the fire is lighted under it, there is no limit to the 
power it can generate. - Winston Churchill
アメリカが週国は、巨大なボイラーのようなもの。その下で火が一度入れられると、それが発
電するエネルギーは、制限なし。(W・チャーチル)

+++++++++++++++++++++++

【追記】

 世界の賢者の言葉を、さらっと読んでみると、そこから一つの思想のようなものが浮かびあ
がってくる。思想といえるほど、形はないかもしれない。ばくぜんとした、モヤのようなものだ。し
かしそれが、私がいう、「常識」である。

 平和を考えるにしても、それを煮詰めて、平和論を説くにしても、大切なことは、偏屈にならな
いこと。片よらないこと。常識で考えること。勇ましい好戦論も、極端な平和主義に、まどわされ
てはいけない。「おかしいものは、おかしい」と、率直に思えばよい。言えばよい。そしてあと
は、自分自身の常識を信じて、それにそって、ものを考えていく。生きていく。

 むずかしいことではない。人間は、過去数十万年という長い年月を、それで生きてきた。今も
生きている。これからも生きていく。ただ忘れてならないことは、いつもその常識をみがくこと。
その努力だけは、怠(おこた)ってはいけない。怠ったとたん、その人の常識は、常識でなくな
る。
(030829)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(115)

ジャン・ピエール・カシニョール

 ある時期、私はカシニョールの絵が好きで、何枚か、買い求めたことがある。と、言っても、ど
れも値段が高く、おいそれとは買えなかった。そんなとき、画商をしているO氏が、一枚のリトグ
ラフ(石版画)を届けてくれた。サインがあれば一〇〇万円以上ということだったが、サインがな
いのでXX万円でよい、と。それが、今、教室に飾ってある、カシニョールの絵である。

 その女性は、つばの広い大きな帽子をかぶって、向こうむきに立っている。足元には、白い
道がつづき、左右には、花畑が広がっている……。

 女性はやや体をかたむけ、何か、もの思いにふけっているよう? やさしい風が、彼女を包
む。きしゃな人だ。青と黒のまざった水玉模様のワンピースが、その風に軽くなびいている…
…。

 その女性は、そこで立ち止まった。二本の足は、動きを止めている。どうやら散歩でもなさそ
うだ。花畑へ来るのが、目的だったのか。頭の上は、この種の絵の構図としては珍しく、深い
緑の木の葉がおおっている。しかし圧迫感は、まるでない。さわやかな枝ずりの音さえ、聞こえ
てくる。

 あなたは広い帽子の下で、にこやかに笑った。
 どこかいたずらっぽく、どこか子どものように。
 振りかえって、明るい頬を、日の光にさらした。
 あなたは一瞬、燃えるように輝いた。
 
 平坦な絵だが、不思議と、遠近感がある。それがカシニョールの絵の特徴なのか。しかしそ
の遠近感は、そのまま、その絵を見る人と、絵の中の人物の間の距離感ということになる。そ
れはちょうど、グリーンハウスの中で咲く、真っ赤なランのよう。手が届きそうで、届かない…
…。そう、その女性は、私の手の届かないところにいる。

 その絵は、「教室に飾ってある」と書いた。しかしどの壁に、どのように掛けるたらよいのか、
わからないでいる。だから戸棚の上に、並べたまま。しばらくそっと、そのままにしておこう。や
がて気が向いたら、気が向いたところに掛けておこう。女性も、絵も、そういう意味では似てい
る。どこか気まぐれ。近づけば遠ざかり、遠ざかれば近づく。

 カシニョールの絵を見ていると、どこか切なくなるのは、そのためか……。
(030829)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司 

子育て随筆byはやし浩司(116)

子どもの受験勉強

●C氏の言葉

 進学塾では、(できる子ども)を求める。そういう子どものほうが、教えるのも楽だし、それに
経営的にも、メリットがある。

 一方、(できない子ども)は、教えるのもたいへん。それにそういう子どもが多ければ多いほ
ど、塾の評判はさがる。が、それだけではない。(できない子ども)ほど、動きがはげしい。少し
成績があがれば、すぐどこかへ移ってしまう。あがらなければあがらないで、すぐまたやめてし
まう。

 たとえば小学校の高学年や中学生で、すでに(できない)状態になっている子どもは、その段
階で、すでにかなり、キズついている。こじれている。学習態度も悪い。たいていは無気力にな
っている。自信をなくしていることも多い。

 さらにどこかでつまづいているから、それを補充しようとすると、このタイプの子どもほど、そ
れをバツととらえる。だからますます勉強が、できなくなる。

 さらに問題は、つづく。(できない子ども)が、多少できるようになっても、親は、「効果があっ
た」とは言わない。「当たり前」とか、「やはりうちの子は、やればできるはず」と思う。そう思っ
て、無理を重ねる。効果がなければないで、ある日、突然、フイと塾をやめていく。

 ……ここまでの話は一五年近く、進学塾の講師をしたことのある、C氏(四三歳)が、私に話
してくれたことである。C氏は、今、まったく別の仕事をしているが、私にこう言った。「進学指導
なんて、もうコリゴリです」と。わかる、その気持ち!

●子どもの心

 少し前、残り勉強が話題になった。ときの文部省が、音頭を取った。学力の足りない子ども
は、学校で残り勉強をさせるというものだった。しかしこうした試みは、確実に失敗する。理由
は、明白。子どもは残り勉強を、自分のためとは、とらえない。ここでいう「バツ」ととらえる。

 またこの段階で、残り勉強を教えてくれる先生には、絶対に感謝などしない。「自分のため」と
いう自覚すら、ない。

 残り勉強が、「自分のため」と理解するためには、その前提として、子ども自身が、「もっとで
きるようになりたい」という意欲がなければならない。その意欲も、また希望もない子どもに、
「あなたには、残り勉強が必要だ」と言っても、理解など、できるはずもない。喜んで勉強など、
するはずもない。

 これは進学塾についても、同じ。「うちの子は、塾に通う必要がある」と思うのは、親の勝手だ
が、子ども自身は、そうは思っていない。そういう状態で、子どもを進学塾に通わせても、効果
がない。ないばかりか、かえって、親子のパイプを、破壊してしまう。

 ある母親が、高校生になった娘に、「あんたはだれのおかげで、ピアノを弾けるようになった
と思っているの? ママが、毎週、高い月謝を払って、あんたをピアノ教室へ連れていってあげ
たからよ!」と言ったときのこと。その娘は、こう叫んだという。「いつ、だれが、あんたにそうし
てくれと頼んだア!」と。

 こうした意識のズレは、とくに子どもの受験勉強では、起こりやすい。親は、「子どものため」
と考えるかもしれないが、子どもは、そうは思わない。「いらぬおせっかい」と、とらえる。

●誤解と幻想

 この世界には、誤解と幻想がある。

 その第一。「やればできるはず」という幻想。たとえば親が、本屋へ行き、中学入試問題集を
手にしたとする。そのとき自分の子どもが、小学六年生だとすると、「うちの子に、できないはず
はない。うちの子だって、小学六年生だ」と考える。

 そこでその問題集を、買う。家で、子どもにやらせる。しかし子どもは、できない。とたん、親
は、大きな不安感に包まれる。しかしこのとき、「問題集がおかしい」とか、「自分の子どもにそ
の能力がない」とか思う親は、まずいない。ほとんどの親は、「うちの子ができないのは、やらな
いからだ」「小さいときから、勉強をしていないからだ」「やればできるはず」と思う。

 だから親は、進学塾の門をたたくとき、弁解がましく、必ず、こう言う。「今まで、あまり勉強さ
せませんでしたから……」「伸び伸びと遊ばせてきましたから……」と。

 そして家では、お決まりの親子げんか。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。

 第二に、進学塾へ行けば、安心という幻想。勉強というのは、リズムの問題。そのリズムがあ
るかないかで、できる、できないが決まる。が、親には、それがわからない。進学塾だけで足り
ないと思うと、今度は、家庭教師をつける。さらにそれでも足りないと思うと、また別の塾にも通
わせる。

 こういうことを安易に繰りかえせば、その子どものリズムは、決定的なほどまでに、破壊され
る。しかしその深刻さに、気づく親は、少ない。それはたとえて言うなら、多重債務をかかえ、い
くつかのサラ金業者に追いまくられるようなもの。あたふたしている間に、何がなんだか、わけ
がわからなくなってしまう。

●では、どうするか?

 進学塾を利用するにしても、その内容やレベルよりも、「リズム」を大切にする。よい進学塾
には、そのリズムがある。そしてそのリズムに子どもが乗ったら、そのリズムを大切にする。

 たとえば週二回のレッスンがあれば、それを。定期的な試験があれば、それを、ひとつのリ
ズムにする。こういうリズムの中で、子どもの勉強グセを作っていく。

 一方、そうでない進学塾は、リズムがバラバラ。突然思い立ったようにテストをしてみたり、思
い立ったように、むずかしいワークブックを渡したりする。あるいはやらなくてもよいようなとき
に、特別レッスンをしてみたり、それほど用もないのに、親を呼びつけたりする。

 講師の言っていることも、メチャメチャ。どこかおかしい。チグハグ。ささいなことを、ことさら大
げさに問題にしてみたり、トンチンカンなことを言ったりする。ある研究会に顔を出したときのこ
と。一人の塾教師(幼児教室の講師)は、さも自信たっぷりに、こう言った。

 「幼児の心を知りたかったら、自分でオムツをしてみればいいです。老人用のオムツがありま
すから、それをしてみればいいです。それで幼児の心がわかります」と。

 とんでもない意見だが、その人は、すごく真剣だった。

 つぎにもちろん、子どもの能力とレベルをわきまえること。よく進学塾では、「今年はXX人、S
S高校に入学しました」などと発表する。しかし同時に、それ以上の数の子どもが、受験に失敗
している。そういった事実を、客観的に見る。

 進学塾へ入って、成績を伸ばす子どももいるが、かえってさげてしまう子どももいる。むしろ、
さげる子どものほうが多い。それもそのはず。進学を目的にした塾では、できる子どもに合わ
せて授業を進める。できる子ども方が、冒頭に書いたように、経営的に大切。だから、それは
当然のことではないか。

 無理をしても意味がないばかりか、かえって逆効果だということ。……こう書くと、「ではあきら
めろということか?」と言う人がいるかもしれない。それには、私は明確に答える。「そう、あきら
めなさい」と。

 勉強にかぎらず、こうした子どもの問題には、必ず、二番底、三番底がある。「今が最低」と
親は思うかもしれないが、無理をすると、さらに二番底、三番底へと、子どもは落ちていく。だ
から「あきらめる」。

 子どもというのは、不思議なもので、親があきらめると、その時点から伸び始める。反対に、
「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と親が、がんばればがんばるほど、子どもの成績はさが
る。最後に、一〇年ほど前に私が経験した、M君(中三男子)のケースを書く。

●M君のケース

 M君が、私の教室にきたのは、小学六年生になってからだった。このM君のばあいは、教え
ることよりも、リズムをつくるのがたいへんだった。私がやっとのことで、リズムをつくっても、親
が介入してきて、それをことごとく破壊してしまった。

 たとえば簡単なワークブックを一日、一枚すると決めたとする。で、そういうリズムが軌道にの
るまでには、最低でも数か月はかかる。(数か月だ!)が、そのリズムができる前に、親がやっ
てきて、「このワークブックもやらせてほしい」「今度、D中学校を受験することにしたので、その
入試問題もやらせてほしい」と言ってきた。

 中学へ入ってからも、この状態は変わらなかった。私はカセットテープを聞きながら、毎日英
語を書かせるという指導を始めた。この学習とて、やはり数か月単位の、根気のいる作業が必
要である。

 が、それについても、「今度、K塾にも入ったから」とか、「ときどき親類のお兄ちゃんに勉強を
みてもらっているから」と、破壊していく。

 結局M君は、最後まで、自分のリズムをつかむことができなかった。中学三年生になるころ
には、私の教室へきても、ただ眠っているだけ。そんなとき、私を心底、失望させる事件が起き
た。

 ある日母親がやってきて、こう言った。「今度、S塾にも行かせることにした。ついては先生の
ところと時間が合わないので、今、週二回きているが、週一回にしてほしい」と。私が何と答え
てよいかわからないでいると、突然会話をはぐらかし、「アーラ、先生、センスのよいシャツを着
てらっしゃいますのねエ」と。

 私が、やっとの思いで、「もしそうなら、今日で、私の教室をやめてほしいのですが」と言うと、
その母親は、かなり驚いて様子で、こう言った。「うちの子は、楽しんできています。あなたにう
ちの子をやめさせる権利はないでしょう」と。

 M君は、親にひきずり回されているだけだった。もちろん自分のリズムなど、もっていない。
言われるまま、親に従っていた。そののち、M君が、どうなったか。今さら、ここに書くまでもな
い。しかしこうした失敗は、実に多い。何割かがそうであると言ってもよい。

 あなたも一度、あなたの子どもがどんなリズムをもっているか。あるいはもっていないか、そ
れを冷静にみてみたらよい。
(030830)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(117)

【今週の幼児教室から】

 「♪めだかの学校」の歌詞を、「♪お正月」のメロデーで歌う。すると子どもたちが、「おかし
い」「ちがう」と言う。

 そこで今度は、「♪こいのぼり」のメロデーで歌う。すると子どもたちが、「違う、違う、そうじゃ
ない、こうだ」と言って、「♪めだかの学校」を歌いだす。すかさず私が、「君、歌がうまいねエ
〜。前でひとりで歌ってよ」と声をかける。その子どもは、「ウン」と言いながら、得意そうに、前
へ出てきて、歌を歌う。

 こうした技法は、幼児教室では、たいへん重要である。バカなフリをしながら、子どもの自尊
心を引き出す。おとなの優位性を、決して押しつけてはいけない。今週は、ほかにも、こんな技
法を使った。

 大きな声で「ア」「イ」と発声させる。息をたくさん出し、口を動かせる。で、そのつぎに、「ア…
…イ……のつぎは、何だったかな?」と迷ったフリをすると、「ウだ!」「ウだ!」と。そこで「ちが
うよ、アイ(愛)のつぎは、チューだろ。君たちは幼児のくせに、そんなことも知らないのか」とや
る。

 こうなると、子どもたちは興奮状態になる。勝手に、「ウーだ、ウーだ」と、騒ぐ。つまりこうし
て、「ウ」の音を出させる。

 言い忘れたが、今週のテーマは、声を出させること。歌をみなの前で歌わせること。歌にあわ
せてリズムをとらせること。そして全体として、ものおじしない、発表力を身につけさせる。

 コツは、教える私が楽しむこと。私が勝手に楽しんでいると、子どもたちがその輪の中に入っ
てくる。

 最後に、「今日のレッスンは、おしまい」と声をかけると、子どもたちは、「いやだ」「もっとした
い」と言った。(これは本当。読者の中には、私の教室の親も多いから、ウソは書けない。……
書かない。)

 で、再度、「おしまい」と、きっぱりと言うと、何人かの子どもが、「早い、早い!」と騒いだ。す
かさず私が、「ぼくの名前は、ハヤイではない。ハヤシだ。まちがえるな」と言うと、みながゲラ
ゲラと笑った。

 私の教室では、レッスンのおしまいは、笑いでしめくくるようにしている。「笑えば、子どもは伸
びる」が、私の持論でもある。

 時間は、その日は、たっぷり六〇分。数年前、私の教室へ見学にきた幼児教室の経営者
が、こう言って驚いていた。「幼児教室は、三〇分が限度だとばかり思っていました」と。ハハー
ン。私のところは、正味五〇分! 実力がちがう! (これはコマーシャル?)
(030830)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(118)

山荘にて……

 今夜は、外では、虫たちの大合奏。ものすごい、大合奏。今週から、スズムシもそれに加わ
った。コオロギも加わった。ガチャガチャと鳴くのは、クツワムシ。

 ときどき庭へ出ると、その大合奏に驚く。それが波打ち際に打ち寄せる、波の音のように、ザ
ランザランと聞こえる。

 で、そういう虫の声を聞いていると、この地上は、虫たちの世界ということが、よくわかる。恐
らく山荘の周辺だけでも、数万から数十万匹の虫がいるにちがいない。町にたとえるなら、こ
の浜松市がもつ人口に等しい?

 が、人間は、この地上は、自分たちだけの世界だと、思いこんでいる。とくに町に住んでいる
人は、そうだ。虫を見る機会など、めったにない。しかし、だ。繰りかえすが、まちがいなく、この
地上は、虫たちの世界である。少なくとも、この日本は、そうだ。

 以前、アリの研究家という人に会ったことがある。日本でも有数の研究家である。週のうち何
日かは、全国を旅して歩いているという。その人が、こんな話をしてくれた。

 その種族のアリは、別の種族のアリと、最前線で、熾烈(しれつ)な、戦いを繰りかえしてい
る、と。そしてその最前線が、ときとして、大都市のど真中ということもある、と。

 あのアリにしても、私たちの知らないところで、縄張り争いをしているというわけである。そして
その規模は、私たち人間が想像するより、はるかに規模が大きい、と。種族によっては、日本
を二分して戦っているのもいる、と。ヘエーッ!

 実は山荘生活のすばらしいところは、ここにある。人間というものが、いかに小さいかを、思
い知らされる。つまりその分、謙虚になる。ためしに、草むらをはう虫をじっとながめてみるとよ
い。しばらく見ていると、「何だ、人間だって、虫と変わらないではないか」と思えてくる。つまり
人間としての自分を、より客観的に見ることができるようになる。

 日本の周辺でも、小さな島の領有権を争って、日本と台湾、日本と韓国、日本とロシアの間
で、毎年のように小競(こぜ)りあいを繰りかえしている。虫を見ていると、そういう人間の争い
が、実につまらなく見えてくる。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、「人間がつまらない」と言っているのではな
い。実はその反対で、人間を超えた、「生きることのすばらしさ」を、思い知らされる。人間と
か、虫とか、そんなことを言っているほうが、おかしい。

 今週も、いろいろあった。楽しいことばかりではない。いやなことのほうが、多かった。しかし
今、こうして虫たちの大合奏を聞いていると、心が癒(いや)されるのは、そのためではない
か。
(030830)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(119)
 
人間の運命

 昨夜、三男と電話で長く、話す。三男は、今、大きな人生の岐路に立って、悩んでいる。苦し
んでいる。

 「今、やるべきことを、懸命にやればいい。結果は、必ず、あとからついてくる。そして大切な
ことは、どんな結果になろうとも、現実を、すなおに受け入れることだ」と。

 もしも……という言い方はおかしいが、「もしも……」ということを、私はよく考える。「もしも私
が、あのままM物産という商社にいたら、私はどうなっていたか?」と。

 恐らく私はあのまま、金(マネー)の虫となって、今ごろは脳梗塞か心筋梗塞を起こして死ん
でいるにちがいない。あるいは、死なないまでも、頭が狂い、精神も破壊され、廃人になってい
るかもしれない。そこそこの支店長くらいにはなったかもしれないが、そのあとリストラされ、今
ごろは、人生の悲哀をしみじみと味わっているかもしれない。

 当時は、だれも見向きもしなかった幼児教育の世界だが、そしてさげすまれた世界だった
が、結果としてみると、それが私の道だったように思う。それはちょうど、水が低いところを求め
て流れるように、私が自然と求めた道ということになる。もしそれを「運命」というのなら、それが
私の運命だった。

 「たとえばお前が、Aの道に進もうと思っている。そのとき、Aの道に進めなくても、それで失敗
したとか、そんなふうに思ってはいけない。そして結果として、Bの道に進んだからといって、そ
れで失敗したとか、そんなふうに思ってはけない。今度は、そのBの道で懸命に生きればい
い。『運命』という言葉は、あまり使いたくないが、いつか自分の人生を振りかえるようなときが
やってくる。そのとき、おまえは、それがおまえの運命だったと知るだろう」と。

 だからといって、私が人生の成功者だとか、そんなことを言っているのではない。客観的にみ
れば、私は、負け犬。敗残者。失敗組。ワイフもときどきこう言う。「あなたは自分で苦労ばかり
背負って、何もいいことは何もなかったわね」と。

 しかしそれでも、私は、「これが私の人生だ」と思っている。あきらめるとか、居なおるというこ
とではなく、私はそのつど、懸命に生きてきた。その結果が、「今」なのだ。それ以上、何を望む
ことができたのか。何を望めるか。どこまでいっても、「私は私」なのだ。地位も、名誉も、肩書
きもない。それでも私は私なのだ。

 「ただ、人間には、そのつど、いろいろな可能性がある。その可能性だけは、自分で、つぶし
てはいけない。今のおまえだけの判断で、おまえの未来を考えてはいけない。おまえの知らな
い世界が、まだまだ大きく広がっている。そういう世界には、謙虚でなければならない」と。

 電話を切るとき、三男はこう言った。「来週にも、一度、帰るよ」と。それに答えて、私はこう言
った。「うん、帰っておいで。いっしょに、おいしいものを、食べよう」と。
(030831)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(120)

金XXの精神分析

 独裁国家では、その独裁者の精神状態が、そのまま国の姿勢として、反映される。独裁国家
が極端であればあるほど、そうだ。今のあの、K国。それがその独裁国家である。

【回避性障害】金XXは、めったに外交の世界に顔を出してこない。カリスマ性を守るためとか、
そういうふうに言われているが、それはどうか? 金XXは、外の世界には、出られないのだ。
自分をさらけ出す勇気もなければ、度胸もない。まさに虚飾の独裁者。恐らく小学生が書くよう
な作文、一枚、書けないのでは? だから、それがバレるのが、何よりも、こわい? 

【行動障害】よく世界の要人が、K国を訪れたりすると、帰りに、とんでもないみやげを贈られ
る。日本の首相も、前回、飛行機いっぱいの、マツタケを贈られたという。こういう極端な、つま
りは常識ハズレな行為は、人間関係をうまく結べない人に共通する。まさにショーペンハウエル
が言う、「二匹のヤマアラシ」の世界。

【人間的劣等性】ある月刊誌で、「短小コンプレックス」と、評されたことがある。私も、かなり前
に、それに気づいていた。その一つが、あの異常なまでに高い、ハイヒール靴。底だけでも、二
重、三重になっている。ふだんは長いズボンで隠しているからよくわからないが、そこから先
は、ぐんと上にそりあがり、足の甲が不自然なまでにねじ曲がっている。実際の身長は、見た
目よりも二〇〜一五センチは、低いのではないか?

【被害妄想性】ありもしない外国の脅威をことさらおおげさに問題にして、ギャーギャーと騒いで
いる。国内内部の引きしめともとれるが、そうばかりとは言えない。金XX自身の被害妄想性
が、そのまま外に現れているとみてよい。ささいな問題をとりあげては、そのつど、おおげさに
反応するのも、その一つ。自分は、したい放題のことを勝手にしておきながら、他人のミスは絶
対に許さない。

【人間性の喪失】拉致された人たちが、家族に会いたいといくら叫んでも、それには、まったく
耳をかさない。そもそもそういう人間の「悲しみ」や、「苦しみ」が理解できない。恐らく貧弱で、
悲惨な乳幼児期を過ごしたにちがいない。この点については、日本人にも、責任がある。日本
の軍国主義が、ああいった人間を、無数につくってしまった。それはそれとして、金XXのよう
な、心の欠けた人間に、いくら人間性を求めても、意味はない。

【行為障害】意味もない武器ばかりを買いこんでいる。買うべきは、食料であり、燃料。しかし金
XXには、それがわからない。それは家の奥にひきこもった中年男が、リカちゃん人形ばかり買
い集めるのに似ている。このタイプの男には、「じゅうぶん」ということがない。同じものでも、ど
んどんと買い集める。予算や値段など、どうでもよい。そういう計算力もない。

【情緒不安】いつも心は緊張状態にある。だからささいなきっかけで、極端な情緒不安状態に
なる。ユニバシアードに参加すると言ってみたり、とりやめると言ってみたり。そして今度は、一
転、参加すると言ってみたり。金XXのような人物とつきあっていると、本当に疲れる。ふつうの
世界なら、こんな人間とは、絶対につきあわない。あたふたと、振りまわされるだけ。こちらま
で、気がヘンになる。

【異常な依存性】過去五〇年間、K国が、外国のために何かをしたということが、まったく浮か
びあがってこない。食料も燃料も、すべて、外国に依存してきた。東欧諸国やソ連が崩壊する
まで、まさに「たかり国家」(某政治学者)。今は、アメリカにたかり、中国にたかり、日本や韓国
にたかっている。あまりにも依存性が強いので、依存していることすらわからなくなってしまっ
た? 「世界が自分たちのめんどうを見るのは当たり前」と考えている。

【犯罪国家】主な輸出産品が、偽札と覚せい剤、それにミサイルというから、話にならない。金X
Xはそのつど、「私は知らない」「関係ない」というようなフリをしているが、それを信ずる人は、
だれもいない。極端な独裁国家であるがゆえに、金XXがそれを指示しているというのは、まさ
に自明の理。

 まだいろいろ書きたいことはあるが、今日は、ここまで。今ごろ金XXは、どこかの地下奥深く
に住み、悶々と眠られない毎日を過ごしていることだろう。美女軍団だか何だかは知らない
が、人間をロボット化し、私物化し、奴隷化して、それがどうして楽しいというのか。『すべてをも
つものは、すべてを恐れる』というのは、ある賢者の言葉だが、金XXは、今ごろは、すべてを
恐れ、ビクビクしているにちがいない。

 なぜなら彼にとっての敵は、アメリカでも自国民でもない。彼にとっての敵は、自分自身だか
らである。そう、自分を敵に回した人間ほど、あわれな人間は、ない。金XXは、まさにそういう
人間である。
(030830)

【追記】
 なぜK国は、アメリカとの間に、相互不可侵条約を結びたがっているか。それは当然、日本と
の戦争を念頭に置いているからである。アメリカとの間に、不可侵条約があれば、仮にK国が
日本を攻撃しても、アメリカは、K国に、手も足も出せない。アメリカ本土が攻撃されなければ、
反撃できないのだ。K国のねらいは、そこにある。

 一方、韓国とアメリカ、韓国と日本の間が、たいへんぎくしゃくしている。韓国は、内部的に
は、北朝鮮の核武装を、容認している。以前、そのような発言が、政府高官の口から出たこと
もある。今のノ政権は、親北政権。おかしなことだが、自由主義国家の中で、もっとも反米的な
国家なのが、今の、韓国である。

 アメリカは、今、イラクとアフガニスタンをかかえ、とても北朝鮮どころではない。ブッシュ大統
領の支持率も、どんどんさがっている。経済的にも余裕がない。もし日本人が、「最後のところ
で、アメリカが何とかしてくれるだろう」と考えているとしたら、それは甘い。逆の立場で考えてみ
ればわかる。

 ゆいいつの救いは、中国とロシアが、K国と離反し始めていること。まともな国なら、離反す
る。当然だ。しかし、だ。この両国でも、K国の核武装を止める力は、ない。かりにK国が核実
験をしたとしても、口で非難する程度が、関の山。あのイスラエルにしても、インドやパキスタン
にしても、世界は、核武装を止めることができなかった。

 で、これから先、日本は、どうなるか? もしK国が核武装すれば、日本は、まさにK国の言
いなり。そのつど脅されて、金もモノも、取られ放題。願わくは、あの金XX政権が、自然死する
ことだが、しばらくはそれもなさそうだ。あの韓国が、せっこらせっこらと、K国を助けている。ま
たまた「アメリカとK国の仲介役をする」などと言い出した。気持ちはわかるが、K国は、韓国が
相手にできるような国ではない。

 さてこの日本。表には出てこないが、今回の六か国協議を前に、姑息な工作をして、アメリカ
政府を、どうやら激怒させてしまったようだ。原因はイラク問題。そのうちマスコミに出てくると思
うが、それにしても、日本外交のお粗末ぶりには、ただただあきれるばかり。

 日本は、まさに今、四面楚歌。しかし最大の悲劇は、日本人の多くが、そして若者のほとんど
が、それに気づいていないということ。平和というのは、平和なときには、空気のようなもの。平
和のありがたすらわからなくなる。しかしその平和に安住してはいけない。「いざとなったら、戦
う」という気構えをもってはじめて、平和は維持される。なぜなら、世界の国は、まともな国ばか
りではない。今のK国がそうだ。

 ●Those who make peaceful revolution impossible will make violent revolution inevitable. - 
John F. Kenned
平和的な革命を不可能にするものは、暴力的な革命を不可避にする。(J・F・ケネディ)

●"What the hell is this?" "Its a Peace symbol sir." "What does your helmet say?" "Born to 
kill sir." "What the hell is going on?" "I guess I was just trying to point out the duality of 
mankind." - Full Metal Jacket, In Movies 
「これは一体何なんだ?」
「それは平和シンボルです」
「じゃあ、そのヘルメットは何なんだ?」
「人を殺すための道具です」
「一体、どうなっているんだ!」
私はそのとき、人間のもつ二重性を指摘していたのだと思う。(映画、「フル・メタル・ジャケット」
より)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(121)

●リズムをつくる

 生活の中に、リズムをつくるのは、たいへんなことである。とくに一つの新しいリズムをつくる
のは、たいへんなことである。

 私も少し前、陶芸に興味をもち、陶芸教室に通おうとしたことがある。しかし結局、時間帯が
あわず、断念した。問題は、ここである。

「時間帯があわない」。しかし本当のところは、時間帯の問題ではなかった。陶芸教室へ通うと
なると、それまでの生活のリズムを変えなければならない。たかが趣味(失礼!)のために、生
活のリズムを変えるというのもどうか?

 人は、だれしも一定の生活のリズムをもっている。朝起きて、仕事に行き、夜、帰ってくる。そ
れが、そのリズム。このリズムは、一日単位、週単位、月単位、年単位で動いている。

 しかしこのリズムが大きく乱れることがある。不意の来客、事件、家族内の不幸、仕事上での
つまづき、病気など。そのときリズムが乱れるが、同時に、それまでの調子が、一変することが
ある。

 たとえば私は、毎日、朝早く起きて、こうして原稿を書く。それが一段落すると、朝食をとり、ま
たしばらく眠る。今は、一日おきに電子マガジンを発行するのを、人生の目標にしている。100
0号まで出すのが、目標である。

 が、このリズムが乱れるときがある。不意の原稿依頼や、講演など。本当のところ、今は、ほ
かのことで、原稿は書きたくない。マガジンに載せる原稿を、最優先している。そのため、こうし
た一日のリズムを乱されるのは、たいへんつらい。

 ……と、書いて、子どもの学習。

 子どもに勉強させようと考えたら、リズムを大切にする。このリズムのしっかりしている子ども
は、学習面で伸びる。そうでない子どもは、そうでない。

しかしそのリズムを子どもの生活の中につくるのは、簡単なことではない。数か月から半年単
位の根気が必要である。こまめな、そしてていねいな指導が必要である。励ましたり、いっしょ
に喜んだりしてやる。何か新しいことをやらせようとするなら、そのリズムの上に、つぎのリズム
を重ねていく。決して、それまでのリズムを、ぶち壊すようなことは、してはいけない。

 が、世の中には、子どものリズムを平気でぶち壊す親がいる。子どもの勉強にあれこれ介入
したりするのが、それ。そういう親のほうが、多いかもしれない。少し学習面で子どもが伸び始
めたりすると、「さらに……」「もっと……」と無理をする。子どもの意向や希望など、まったく無
視。

 「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と、思いこんでいる親ほど、失敗しやすい。
おけいこ塾でも、あれこれ親のほうで、勝手に決め、またやめるときも、親のほうで、勝手に決
める。

 しかしリズムというのは、一度壊れると、それを修復するのは、ほぼ不可能。それだけではな
い。新しいリズムをつくろうとしても、まちがいなく、失敗する。子ども自身が、リズムをつくれなく
なる。で、この段階で、子どものばあい、二つのタイプに分かれる。

 そのまま勉強から遠ざかっていくタイプ。もう一つは、服従的に親に従いつづけるタイプ。従う
といっても、ただ従っているだけ。フリ勉、ダラ勉、時間ツブシがうまくなるだけ。どちらにせよ、
子どもにとって、よいことは、何もない。

 つまり、子どものもつ、リズムは大切にする。そのことがわからなければ、自分のことで考え
てみればよい。それが、冒頭に書いた私の陶芸教室の話である。
(030831)

++++++++++++++++++++

以前、書いた、子どものやる気論を、
少し手なおしして、送ります。

++++++++++++++++++++

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜっぺ
き)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、重
要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激する
か、だ。そこで私は、ここで@自我の追求と、A絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネスをとお
して利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学者にとっては、
名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価ということになるのか。こう
決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言えば、そういうことになる。こう
した自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状回(あくまでも伊藤氏の説に従えば
ということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。これを私
は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、人ははじめて
やる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も変わりなく保障さ
れるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわからない」「来月はどう
なるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はがんばる。が、それがなけれ
ば、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二つに集
約される。一つは、その先に何があるか知りたいということ。「その先に何があるかを知りた
い」というのは、立派な我欲である。ただ私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくに
インターネットに原稿を載せても、利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が
違うが、ともかくも、その自我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの外で生き
ている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れれば、それで
おしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。毎日、自転車で体
を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限の生活をしながら、余力
をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そういう危機感の中から生まれた。もし
この絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その我欲の
追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考えてみよう。

(自我の追求)
 教育の世界では、@動機づけ、A忍耐性(努力)、B達成感という、三つの段階に分けて、子
どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけがうまくいけば、あとは
子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種をまいて、引き出す』の要
領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい
子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせ
ること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。し
かしこれは誤解。まったくの誤解。

 三つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱっていく原動
力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)
 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子どもは
伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもたせ
すぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここまで飽食
とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかしい。仮に生活
の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子どもの心をコントロール
するのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。E君
という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はたから見
ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食もとらず、会場
へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだったらしい。それ以後、
度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)や、生徒会長(中学校)、文
化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなっていった。そのときどきは、親としてつ
らいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に立たせるというのは、子どもを伸ばすために
は大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかということ。その
一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(122)

●青年の樹(き)

雲が流れる 丘の上
花の乱れる 叢(くさむら)に
共に植える ひともとの
ひともとの
若き希望と 夢の苗
空に伸びろ 青年の樹よ


嵐すさぶ 日もあらん
憂いに暗い 夜もなお
腕組み合わせ 立ち行かん
立ち行かん
熱き心と 意気地もて
森に育て 青年の樹よ


多感の友よ 思わずや
祖国の姿 今如何に
明日の夜明けを 告げるもの
告げるもの
我等をおきて 誰かある
国を興(おこ)せ 青年の樹よ

(作詞、東京都知事・石原慎太郎氏)

 私は学生時代、悲しいことやつらいことがあると、決まってこの歌を口ずさみ、自分をなぐさ
めた。今でも、ときどき、この歌が、口から出てくる。

 で、この歌には、こんなエピソードがある。

 私がオーストラリアのカレッジで、この歌を歌っていると、一人の友人(オーストラリア人)が、
「それは何の歌か?」と。そこで私が、「これはすばらしい歌だ。訳してあげよう」と言って、訳し
てやった。

「雲が、丘の上に流れて、みんなで青年の木という木を植えた。その木よ、伸びろという歌だと
教える」と、その友人は、顔をかしげて、「何だ、そんな歌か」というような顔をした。

 で、私が「いい歌詞だろ」とたたみかけると、「ヒロシ、雲が丘の上にあるって、そんなことは何
でもないではないか」と。彼らには、日本的なデリカシーが理解できないようだ。

 しかし、これと反対のことがある。

 ずいぶんと昔だが、一人の高校生(男子)が、興奮したおももちで私のところにやってきて、こ
う言った。「先生、すばらしい歌がある。翻訳してほしい」と。

 それがロッド・スチュアートの「セーリング」だった。が、訳してみると、何でもない歌詞。

 「ぼくは、航海している。ぼくは航海していると、何でもないよ。海を横切って、あなたのところ
へ帰るって、ね」と。

 その高校生は、がっかりした様子だったが、それからしばらくしたあとのこと。私はその曲を
聞いて、たいへんなまちがいをしたことを思い知らされた。「セーリング(sailing)」は、すばらし
い曲だった。

 あとで、その高校生にあやまったことは、言うまでもない。

●Sailing

               
I am sailing, I am sailing,
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.


I am flying, I am flying,
like a bird 'cross the sky.
I am flying, passing high clouds,
to be with you, to be free.


Can you hear me, can you hear me
thro' the dark night, far away,
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.


Can you hear me, can you hear me,
thro' the dark night far away.
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.


We are sailing, we are sailing,
home again 'cross the sea.
We are sailing stormy waters,
to be near you, to be free.


Oh Lord, to be near you, to be free.
Oh Lord, to be near you, to be free,
Oh Lord.

(Written by Rod Stewart)

 若いお父さん、お母さんは、「青年の樹」も、「セーリング」も知らないかもしれない。不思議な
ものだ。しかしこういった歌を口ずさむと、そのときの光景のみならず、友の顔、雰囲気、心の
様子まで心の中によみがえってくる。歌というのは、そういうものか。

 そしてもう一つ。そういう歌が出てくるときというのは、そのときの心情と共通するとき。「青年
の樹」が出てくるということは、今がそのさみしいとき、つらいときかもしれない。がんばろう!
(030831)

●ロッド・スチュアートは、最後にこう歌う。
「♪オー、主よ。あなたに近づくために、魂を解放するために。
  オー、主よ、あなたに近づくために、魂を解放するために。
  オー、主よ」と。

 こういう歌を堂々と歌える人が、うらやましい。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(123)

幼児の肛門期

 「排出」することの快感は、多くの場で経験する。もっともわかりやすいのは、大便や小便。大
便や小便を排出するときは、気持ちよい。(汚い話で、すみません。)

女性には、便秘症の人は多いという。「さぞ、タイヘンだろう」と思いがちだが、本人は、どうも
そうではないようだ。「ドンブリ、二杯分くらいの大便をしたあとは、すごく気持いい」(ある週刊
誌での告白コーナー)と言った人がいた!

 子どもは、ある時期、排出する快感を覚える。それが、フロイトがいう「肛門期」である(「性欲
と肛門愛」(一九〇五)。

 この肛門期を通して、子どもは、「排出」の快感と「保持」の苦痛を経験するという。排出と保
持は、いわばペアの関係とみてよい。

 たとえば自分が何かの重大な秘密を知ったとする。たとえばUFOを目撃したとか。こうした秘
密をもつと、だれかに話したいという衝動にかられる。あるいは反対に、自分だけのとっておき
の秘密にしておきたいと思うかもしれない。(話したい)というのが、排出。(秘密にしておきた
い)というのが、保持ということになる。

 (ずいぶんと勝手な解釈で、フロイト研究者の方に、叱られそうだが、この際、そんなことはど
うでもよい。フロイトがまずいなら、「はやし浩司学説」でもかまわない?)

 つまり排出する快感は、何も大便や小便にかぎらないということ。大便や小便は、あくまで
も、その象徴にすぎない。

 一方、排出の反対側に、保持がある。たとえば子どものばあい、赤ちゃんがえりから、心因
的な便秘を繰りかえすことがある。本来なら、弟(妹)にはげしく嫉妬(しっと)し、弟(妹)を、攻
撃したいのかもしれない。しかしそういう自分をさらけ出すと、自分の立場そのものがなくなる。
そこで(自分を出すこと)を、がまんする。これが保持である。便秘というのは、あくまでも、その
象徴にすぎない。

 実際のところ、保持するというのは、不愉快なこと。徒然草の中にも、「もの言わぬは腹ふくる
る業(わざ)なり」(吉田兼好)というくだりがある。「言いたいことも言えないというのは、不愉快
なことだ」と。

 A君(三歳男児)は、慢性的な便秘症であった。下の子ども(弟)が生まれてから、そうなっ
た。母親の話では、一週間くらい大便を出さないこともあるという。

 そのA君は、親の前では、よい兄を演じていた。親も、そう思っていた。ときおり弟とけんかす
ることもあったが、そのけんかも、「ある一定の範囲のけんか」だったという。A君は、日常的
に、自分を押し殺していた(?)。それが便秘という形で現れた(?)。

 自分をさらけ出すということは、それ自体が、快感である。解放感がともなう。私もオーストラ
リアでの学生時代、ストリーキングを経験している。紙袋だけを頭にかぶり、素っ裸で、カフェの
テーブルの間を走り回るという、あれである。あのとき感じた解放感は、今でも忘れることがで
きない。

 したいことをする。
 言いたいことを言う。
 
 それがここでいう排出ということになる。そしてその原点は、乳幼児期の「肛門期」にあるとい
うわけである。

 が、その排出がうまくできない人がいる。どこかでがまんしてしまう。がまんするだけならまだ
しも、自分をごまかしてしまう。そしてそういう「歪(ひずみ)」が、その人自身の精神状態を不安
定にし、人間性をゆがめることがある。

 先にあげたA君も、人前では、弟思いの、心のやさしい兄で、とおっていた。しかしそれは本
来のA君の姿ではない。どこがどのようにゆがんでいるかは、今の段階ではわからないが、そ
のうちわかってくる。

 さて、問題は、子どもというより、あなた自身である。あなたは、自分を排出しているだろう
か。あるがままの自分をさらけ出し、伸び伸びと生きているだろうか。そうなら、それでよし。も
しそうでないなら、一度、自分自身の過去をのぞいてみるとよい。そのとき、あなたの子ども
が、ヒントになる。あなたの子どもを参考にしてみる。そう、あなたの子どもは、今、自分をさら
け出して生きているかどうか、それを客観的に判断してみるとよい。それを手がかりに、自分を
知るとよい。
(030901)

●幼児教育の世界では、自分の姿を、あるがままにさらけ出すことができる子どもを、「すなお
な子ども」という。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(124)

●フランスの子育て事情

フランス在住の、Sさん(日本人、夫は、フランス人)から、フランスの子育て事情についてのレ
ポートをいただきました。みなさんに、報告します。

+++++++++++++++

はやし先生

お返事ありがとございました。

今年の夏は本当に暑くて、ここブルターニュは避暑地ということで、夏は涼しいはずなのに、今
年は暑かったです。部屋の中を暗くして熱い空気を遮断して、扇風機をまわすという生活を初
めてしました。テラスの食事もとてもできず、夜10時頃になってやっと外にでるといった具合で
した。

ご質問の件、地方にもよって違うのですがお役にたてればいいのですが。

【はやし浩司からの質問1】フランスでは、満何歳くらいから幼稚園へ入園しますか。

3歳になる年でオムツがとれたことを基準に入園ができます。(9月から数えて)入園時期はバ
カンスあけの9月。12月のクリスマス前。4月の復活祭前か、学校側が希望する場合がおお
いです。

★時間帯 朝8時50分から11時50分
   午後13時30分から16時30分

★お昼は各自家に帰って食べる子が多い。
(朝、昼、午後、夕方とお迎えにいく)

 週に4日制と5日制がある
 K太(息子)は4日制。月、火、木、金に通います。
 5日制の方が、その分、バカンスが長い。

【はやし浩司からの質問2】費用はいくらくらいですか。親の負担はどれくらいですか。

幼稚園は3種類にわけられて、

1,公立幼稚園。すべて無料。

2,カトリック系の学校(K太が行っている学校)は、年間9ヶ月分(バカンスが3ヶ月分) 1Eur
o=約125円として計算してみました
  
  幼稚園       月 16,40Euro (2050円) 
  小学校       月 21,81Euro (2726円) 
  中学校       月 27,53Euro (3441円)

 ちなみに給食 幼稚園、小学校   月 53,20Euro (6650円)
             中学校   月 55,22Euro (6902円)

 兄弟わり引きがあり、2人目は10パーセント、3人目は25パーセント、4人目は40 パーセ
ントわり引きになります。

 時間外の預かりもできる。
 朝7時半から始まるまで 1,55Euro       (193円)
 4時半から5時     1,15Euro       (143円)
 5時から6時      2,35Euro(おやつ付き)(293円)
 6時から7時      3,35Euro       (418円)

 3,地方言語の幼稚園。ここはブルトン語の幼稚園
  有料

公立幼稚園、カトリックの幼稚園、市によってバイリンガルクラスがもうけられている。
たとえば、午前中ブルトン語・午後フランス語といった風に。

親が申し込むときに希望をする。
2005年からは英語とフランス語のバイリンガル幼稚園もできるようです。

【はやし浩司からの質問3】幼稚園では1クラス生徒は何人くらいですか。

 20人から30人のあいだ。
 K太は幼稚園準備クラスなので、毎日来る子は少ない。一日おきか昼間まで。
 先週、朝は15人くらい
 金曜日の午後は2人。(マンツーマンである)
 今日の午後  3人

【はやし浩司からの質問4】男の先生は、どれくらいいますか。
  K太の幼稚園は非常勤の先生が男の先生・・・・1人

【はやし浩司からの質問5】フランスの子どもは、何歳から、どのようなクラブ(日本で言う、おけ
いこ塾)に通いますか。

 3歳ぐらいから リトミック体操、水泳、乗馬、など、始めている子は少ない。
 5歳ぐらいから 柔道、ピアノ、カヌー、バレエ、など種類も増えてくる。
  泊まり込みでキャンプなども5歳から。

【はやし浩司からの質問6】フランスでは、父親は、積極的に、子育てにかかわっていますか。

  2002年より父親が育児休暇として休みが15日もらえることになりました。
  (これは休みをとる1ヶ月前に申請しなくてはならない)
  
我が家は夏休み休暇を1ヶ月とり、2児誕生と共に1ヶ月半の休み。
  日曜大工をするのもお父さんと一緒。
  お父さんが子ども連れで買い物している姿もよくみます。
  お父さん同士が子ども連れで海にいったりもよくあることです。

 朝市だと、リュック系の子どもを背負うのがありお父さんが子どもを背負い、お母さんが買い
物かご。

  夜、食事に招かれた時もお父さん達がオムツ変えたり、おしっこ!!といえば走っていくす
がたも普通(外でする人が多いからでしょうか?)
  
力仕事のおおい子育てなので、助かります。

【はやし浩司からの質問7】フランスの人の子育ての基本は、どんなところにありますか。日本
ではその先に、どこか進学を考えたものが多いようです。
 
 主人に聞いたら、基本といったらあいさつをしたりあやまったりとか、この先といえば自分で
職業を見つけて自立することではないかなと、言っていました。

私も以前どこかで聞いた、自分を助けれる人になってほしいと。
 
自分が健康で、(弱っている人を助けるのは自分が健康じゃないとできないから)走ったり、泳
いだり、生活していく上の知識をみにつけてほしいと。
 
料理ができたり、機械が得意とか、得意分野がおおいほど自分も便利だし、友人にもよろこば
れるから(人件費が高い国だから、とくに……)

 長い文になってしまいました。必要なことだけ抜き取ってください。
 マガジンに活用していただければうれしいです。
 日本の幼稚園制度が今ひとつわからないので、どうかなという感じですが。

 ちなみに養育費は妊娠6ヶ月から3歳まで、毎月、約18000円の支給があります。
2004年からは出産準備費用ということで 10万円の支給が国からでることが決まりました。
(2人目つくるのが早かったかしら・・・?)

日本とフランスは時差が7時間です。

こちらは今日はいい天気ですが、気温は低めの18度です。

お元気で、マガジン楽しみにしています。

(フランス在住、Sより)

++++++++++++++++++++++++ 

●フランスの国内事情

Sさんからのメールで、気がついたことをいくつか……。

 これはヨーロッパ全体に共通することだが、「一律……」という考え方が主流。たとえばドイツ
では、子どもをもっていれば、毎月一定額の「チャイルド・マネー」が、一律支払われる。

 貧富や、収入には、関係ない。一見、不合理に見えるが、その分、役所の人件費が安くす
む。

 一方、この日本では、公立保育園の保育料金ですら、その家庭の収入に応じて、ことこまか
にランク分けされ、かつ保育園料が違う。つまりその分、役所の仕事が煩雑になり、人件費が
高くなるということ。官僚主義国家と言われるゆえんは、こんなところにもある。

ヨーロッパの人と話していると、必ず出てくるのが、「自立」という言葉。Sさんもこう言っている。
「主人に聞いたら、基本といったらあいさつをしたりあやまったりとか、この先といえば自分で職
業を見つけて自立することではないかなと、言っていました」と。

さらにこうも……。「私も以前どこかで聞いた、自分を助けれる人になってほしいと。自分が健
康で、(弱っている人を助けるのは自分が健康じゃないとできないから)走ったり、泳いだり、生
活していく上の知識をみにつけてほしいと。料理ができたり、機械が得意とか、得意分野がお
おいほど自分も便利だし、友人にもよろこばれるから(人件費が高い国だから、とくに……)」と
も。

 またオーストラリアでもそうだが、毎日、月曜日から金曜日まで、しかも朝から夕方まで幼稚
園へ通うということは、ないようだ。(オーストラリアでは、月、水、金の三日通う子どもと、火、
木、土通う子どもなどがいる。)

 私もたとえば三〜四歳児は、週に二〜三日、幼稚園へ通えばじゅうぶんではないかと思って
いる。こういう自由な発想ができないところが、日本の教育の特徴でもある。

 このあたりが、世界の常識ということになるのではないだろうか。
(030902)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(125)

心の不思議

 A氏(五七歳)は、親から億単位の遺産を受けついだ。土地、各種債権、貯金など。うらやま
しい話である。

 しかしそのA氏、それまで以上に、ケチになった。祭りの寄付金にすらケチるようになった。さ
らには、自分の土地の管理費までケチるようになった。近所の人がそれとなく批判すると、こう
言ったという。「税金が、バカにならないんだよ」と。

 こういう例は、多い。常識で考えれば、(あくまでも私の常識だが……)、どうせ天から降って
きたようなお金。そんなにこだわることはないと思うのだが、こういうとき、人間の心には、別の
作用が働くようだ。こんなこともある。

 子どもが出世(この言葉は、好きではないが……)したとたん、威張りだす親がいる。概して
みれば、母親に多い。自分のことではないのに、自分のことのように思ってしまうらしい。

 先のA氏も、そうだ。自分で稼いだお金ではないのに、自分で稼いだお金のように思ってしま
う? しかしこうした心理は、人間が全体としてもつ心理かもしれない。

 たとえば若い男女が、自分の容姿を、自分のものと思いこんでしまうのも、そう。指一本、そ
の指にある細胞一つ、自分でつくったわけでもないのに、自分のものと思いこんでしまう。そし
てその容姿に、一喜一憂してしまう。

 遺産にせよ、子どもにせよ、はたまた体にせよ、もちろん「その人のもの」だが、しかし、それ
以上に、自分のものと思いこんでしまう。「それ以上」というのは、どこかで一線を超えるという
こと。(だからといって、お金や子ども、体を粗末にしてよいということではない。誤解のないよう
に!)

 こんなこともあった。

 息子の一人が、悪友にお金を貸し、かなり不愉快な思いをしたらしい。わずかな金額だか
ら、それほど気にすることもなかったはず。それにそのお金というのは、私がもともと小づかい
として、渡したもの。その私が、「またあげるから、そんなお金のことは忘れろ」と言ったが、息
子は、納得しなかった。

 そのときも、同じように、「?」と思った。もともと自分で苦労して稼いだお金でもない。そのお
金に、息子は、なぜ、こうまで執着するのか、と。

 私は、こうした現象は、脳ミソの欠陥によるものだと思う。一度、「自分のもの」と思いこんでし
まうと、その時点から、それを基準にしてものを考え始めてしまう。視野がせまくなるというか、
短絡的になるというか……。

 実は、こう書きながら、この問題には、さらに大きなテーマが潜んでいるのがわかる。「人生」
とか、「命」とか、そういうものを考えたときも、同じことが言える。

 私はこうして、自分で考えてものを書いている。苦労して集めた資料も多い。で、先日も、「学
校恐怖症」についての記事を集めていたら、何と、私が新聞に発表した記事を、そっくりそのま
ま、自分のホームページに載せている人がいることを知った。

 そのとき、私はかなりカチンときたが、すぐ、「私がかいたものは、私のものか」と思いなおす
ことで、怒りをしずめることができた。(だからといって、許しているわけではない。誤解のない
ように!) もしこの段階で、カリカリすれば、貸したお金のことで、イライラした息子と、どこも違
わないことになる。

 さらに、人生はどうなのか? 命はどうなのか?、という問題もある。私たちは皆、「私のも
の」という大前提で考えているが、本当に、そうなのか、と。あるいは、そう思いこんでいるだけ
ではないのか、と。

 今、じっと、自分の手をながめる。たしかに、私の手だ。しかしこの手は、私がつくったもので
はない。少なくとも、苦労した覚えは、ほとんど、ない。しかし私のものだ。ためしに、指を少し、
動かしてみる。動く……。当たり前のことだが、その当たり前のことが、不思議でならない。

 話がこみいってきたが、冒頭にあげたA氏の話は、わかりやすい。しかし実は、A氏と同じこ
とを、私たちは、自分の人生や、命にもしているのでないかということ。「どうせ自分でつくったも
のではないではないか」と、心のどこかで考えることも、必要ではないかということ。

 繰りかえすが、だからといって、お金や子ども、それに体を粗末にしてよいということではな
い。誤解のないように!
(030902)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(126)

今、考えていること

●インターネット時代の人間関係

 インターネットをするようになって、他人との関わり方が、かなり変わってきた。たとえば、年
賀状を書くにも、暑中見舞いを書くにも、それをすごくめんどうに思うようになったことがある。
実際には、枚数が、ぐんと減った。今年などは、暑中見舞いは、ほんの数枚しか書いていな
い。年賀状も、この数年、毎年、一〇〇枚単位で減っている!

 若いころは、盆暮れのつけ届けも、欠かしたことがなかった。毎年、世話になった人には、こ
まめに礼状を出していた。それも、この数年、極端に少なくなった。不況だということもある。

 一方、人間関係が、広くなった。信じられないほど、広くなった。そしてそのつど、瞬時に、あ
いさつをしたり、礼を言うようになった。テンポが、メチャメチャ。メチャメチャ、早くなった? 以
前なら、数か月かけて、人間関係をつくったが、今では、その気になれば、数日で、同じことが
できる。

 もちろんその分だけ、別れるのも早い? つぎからつぎへと、波のように打ち寄せる人間関
係。こういった人間関係をつづけていると、ときどき、だれがだれなのか、さっぱりわからなくな
ることさえある。

 それがよいことなのか、悪いことなのか、今はまだ結論を出せないでいる。仮に悪いことだと
しても、やがてそういう欠陥は、補われることになる。たとえば今は、文字情報が主体だが、そ
のうち、相手の顔を見ながら交信するということも、一般的になる。だから今、あれこれ問題が
あるからといって、インターネットを否定することはできない。

●数字の世界

 プロ野球は、まさに数字のかたまり。打率にはじまって、防御率だの、打点数だの、盗塁数
だの。それぞれに、順位があって、実にこまめに、それが記録される。

 同じように、インターネットも数字のかたまり。マガジンにしても、ホームページにしても、こち
らが望んでもいないのに、数字で、アクセス数を報告してくれる。最近、GOOでも、ホームペー
ジを登録したが、こちらでは、一時間ごとのアクセス数まで、グラフで表示してくれる。

 ほかにマガジンも、毎日、読者数とランキング。ホームページを、各種、専門の検索ガイドに
載せると、そのつど、やはりアクセス数と順位。あっちをのぞいても、こっちをのぞいても、まさ
に数字だらけ!

 言うなれば、こうした数字は、テストをしたあとに発表される、点数と順位のようなもの。そうい
った数字が、怒涛(どとう)のように、押しよせる。

 が、問題は、この先。

 つい油断していると、そういった数字を、気にするようになる。……なってしまう。ときどきいろ
いろなランキング表を見て、「だいじょうぶかな?」と思ってみたり、「どうしたんだろ?」と心配し
たりする。いつの間にか、自分が数字に振りまわされていることを知る。

 私はそんなわけで、プロ野球を見ながら、「さぞかし、選手のみなさんも、たいへんだろうな」
と思ってしまう。試合ごとに、「今日は、五打席、ノーヒットでしたね」と、レポーターが報告してい
るのを見ると、選手がかわいそうにすらなる。ひょっとしたら、選手は、そういった数字を気にす
ることなく、ただ野球を楽しみたいだけなのかもしれない。

 私も、だから、最近は、あまり数字をみないようにしている。(それでも、見てしまうが……)。
マガジンの読者数にしても、「読んでくれる人がいれば、それでいいのでは」と思いなおすように
している。

 それに……。仮に読者数が、一〇人でも、また一万人でも、私はそのつど、懸命に書いて、
自分を吐き出すだけ。また一〇万人になったところで、世界の人口は何百億! しょせん、ドン
グリの背比べ? 今のペースで行っても、1000号までに、読者が2000人になればよいとこ
ろ。スケベマガジンなどは、どれも、数万人もの読者をかかえている! しょせん、勝ち目がな
い。あああ。
(030902)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(127)

二重苦、三重苦

●K塾へ入った、M君

 あのね、学校でさんざんいやな思いをしている子どもを、また塾へ入れて、いやな思いをさせ
たら、どうなりますか? ものごとは、子どもの立場で考えましょう。

 よくあるのは、学校での成績がおもわしくないという理由で、塾へ入れるケース。子どもがそ
の(必要性)を感じていれば話は別だが、そうでないときは、かえって子どもを苦しめることにな
る。もう少し、具体的に例をあげて考えてみよう。

 M君(小五)は、学校では、「悲しい道化師※」だった。勉強が苦手ということを、ごまかすた
めに、皆の前で、いつもふざけてばかりいた。一見、明るい子どもに見えたが、それはまさに
彼、独特の、演技だった。

 たとえば先生にさされて、黒板の前に立つときも、わざとちょろけたり、ほかの子どもにちょっ
かいを出したりした。冗談を言ったり、ギャグを口にすることもあった。M君は、みなにバカにさ
れるよりは、おもしろい男、楽しい男と思われることで、その場を逃れようとした。それは意識
的な行動というよりは、無意識に近い、行動だった。

 そんなM君を、親は、指導がきびしいことで有名な、K塾に入れた。K塾では、毎月テストをし
て、その成績順に生徒をイスに座らせた。M君は、その塾でも、悲しい道化師を演じようとし
た。しかし、K塾では勝手が、ちがった。

 M君は、いつもそのクラスの、左側の一番うしろに座った。そのクラスでも、成績がビリの子
どもが座る席である。ふざけたくても、ふざけられるような雰囲気すら、なかった。M君は、ただ
小さくなっているだけだった。

 M君が、どんな気持ちでいたか。それがわからなければ、あなた自身のことで考えてみれば
よい。

 学校でさんざん、いやな思いをしている。そういうあなたが、また塾で、いやな思いをさせられ
たら、あなたはどうなる? こういうのを二重苦という。が、それだけではすまなかった。M君
は、今度は、家に帰ると、母親に叱られた。「こんな成績で、どうするの!」「いい学校に入れな
いわよ!」と。二重苦ではなく、三重苦が彼を襲った。

●できない子どもほど、暖かく

 簡単なことだが、勉強が苦手な子どもほど、家庭や、塾では、暖かく迎える。「学校」を大切に
考えるなら、そうする。

 だいたいにおいて、生徒に点数をつけ、順位を出して、さらにその成績順に席を決めるという
のは、人間のすることではない。この日本では、そういうのを教育と思っている人は多い。その
ため疑問に思う人は少ない。しかしこんなアホなことを「教育」と思いこんでいるのは、日本人
だけ。家畜の訓練でさえ、そんなアホなことはしない。

 が、ここで大きな問題にぶつかる。親自身が、こうした暖かさを否定してしまうことがある。中
には、きびしければきびしいほどよいと考える親がいる。このタイプの親にとって、「きびしい」と
いうのは、「子どもをより苦しめる」ことを意味する。「苦しめば、それをバネとして、より勉強す
るはず」と。

 しかしこうした(きびしさ)は、成功する例よりも、失敗する例のほうが、多い。最初に書いたよ
うに、子ども自身が、それだけの(必要性)を感じていれば、話は別だが、そういうケースは、少
ない。

 M君は、やがて塾へ行くのをしぶり始めた。当然だ。あるいはあなたがM君なら、そういう塾
へ行くだろうか。が、親は、塾からもらってくる成績を見ながら、ますますK君を責めたてた。こ
うなると、行きつく先は、明白。気がついたときには、M君から、あの明るい笑顔は消えてい
た。

 今、M君は、小学六年生になったが、学校でも、先生にさされても、うつろな目で、ボーッとし
ているだけ。ふざけて、みなを、笑わす気力もない。

 もちろん中には、精神的にタフというより、どこか鈍感に見える子どももいる。しかしそういう
子どもでも、深くキズついている。心のキズというのは、そういうもので、外からは見えない。見
えないだけに、安易に考えやすい。だから教訓は、ただひとつ。

 できない子どもほど、暖かく。
 できない子どもほど、二重苦、三重苦に追いこんではいけない。

 最後に、「ではどうすればいいのか?」という親に一言。そういうときは、「あきらめる」。あな
たがごくふつうの人であるように、あなたの子どもも、ふつうの人間として、それを認める、受け
入れる。その割り切りのよさが、子どもの心に風穴をあける。

 こういうM君のようなケースでは、親が、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子は、
やればできるはず」と思えば思うほど、かえって子どもの成績はさがる。親子の関係もおかしく
なる。さらに子どもの心もゆがむ。まさに百害あって一利なし、という状態になる。
(030902)

●「悲しき道化師」というのは、私が考えた言葉。
勉強ができない子どもは、さまざまな形で、それをみなに知られるのを、防ごうとする。その一
つが、「道化師」を演ずること。まわりを茶化すことで、自分ができないことをみなに、知られな
いようにする。ひょうきんな顔をして見せたり、ふざけたりする。バタバタと暴れてみせたり、先
生をからかったりする。このタイプの子どもは、「勉強ができない仲間」と思われるより、「おもし
ろい仲間」と思われることを望む。つまりそうすることによって、自分の自尊心(プライド)がキズ
つくのを防ぐ。一見、楽しそうに見えるが、心の中は、悲しい。だから「悲しき道化師」と、私は
呼んでいる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(128)

自信がない?

 女子高校生たちの間で、こんなアルバイト(?)が、はやっているという。「エッチなし。体にタ
ッチだけで、一時間一万円というアルバイト」だ、そうだ(Y新聞・九月三日付)。

 そういう記事を読むと、「一時間一万円かあ?」と、おかしな気分になる。それはちょうど、銀
行強盗か何かで、短時間で大金を手にした人の話を聞くのに似ている。だからといって、実際
に行動するかどうかは別として、また、それを容認するわけでもない。が、しかし……?

 私のことを、聖人のように思っている人は多い。「教育評論をしています」と言うと、なおさら
だ。しかし私は聖人でも何でもない。ただの人間。ただの男。しかし世間は、それを許してくれ
ない。そのことは、親たちが、私を見る目をみればわかる。

 しかし私は、ときどき、(本当はいつも)、そういう目を、うるさく思う。私はいつも、親たちの前
では、優等生でなければならない。模範生でなければならない。何か質問されても、それなりの
答を言わなければならない。それをときどき、(本当はいつも)、苦痛に感ずることがある。

 私は、その記事を読んで、ふとこう思った。「こういう記事を書いている記者自身は、どうなの
か?」と。つまり、こういうことを、さも善人ぶって批判して書いている記者自身は、そういう感覚
とは、無縁の世界に生きているのか、と。

 私はこうしてマガジンを発行していて、ときどき(本当はいつも)、無力感を感ずることがある。
「いくらがんばっても、スケベマガジンにはかなわない」という無力感である。私のマガジンの読
者は、やっと、1100人。しかしスケベマガジンの読者は、どれも万人単位。一〇万人を超える
のも、ある。スケールが違う?

 私は、自分の弱さを知っている。知っているから、(そういう世界)には、近づかないようにして
いる。たとえばきれいな女子高校生が寄ってきて、「おじさん、一時間一万円でどう?」と言った
としたら、私はどうするだろうか。私は、それを断るだろうか。それを断る勇気はあるだろうか。

 経験がないので、何とも言えない。が、断るにしても、それは自分の意思というよりは、立場
を考えてのこと。知人の中には、それこそ何も考えないで、そういう(遊び)をしている男もい
る。しかし私はそういう状況になったら、考えこんでしまうと思う。だから、結局は、断ると思う。

 つまり私には、自信がない。ないから、「一時間一万円かあ?」と思ってしまう。これは私の若
いころからの密かな計画だが、ときどき寝る前に、あれこれ銀行強盗のし方を考える。

 もちろん考えるだけで、実行するつもりはない。しかし私の考えている方法は、すごい! 絶
対、成功する。いつかハリウッド映画に、アイデアを売ってみたいと考えている。そう言えば先
週も、銀行で待たされているとき、そのことを頭の中で考えていた。

 だからこの問題、つまり女子高校生たちの(遊び)については、コメントのしようがない。ただ
言えることは、こういうこと。

(1)アメリカ並に、未成年者と、ハレンチな行為をしたら、そのおとなを、厳罰に処する。

 私のような弱い人間も多いはずだから、そういう人間は、そういう形で、法律によってしばるし
かない。実のところ、私自身が、それを望んでいる。刑罰が重いとわかっていれば、女子高校
生に声をかけられても、即座にそれを断るだろう。そういうだらしない私のような人間のために
も、法をきびしくしてほしい。ホント!
(030904)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(129)

【今週の幼児教室より】

 今週は、数の遊びをテーマにしている。簡単な足し算と引き算を、練習した。そのとき、「リン
ゴが4個と、3個では、あわせていくつですか?」と聞いた。子どもたちは、「7個!」と答える。

 そこで私は、電卓をもってきて、「ええーと、3足す、4は……」と。

 それを見ていて、一人の女の子が、こう言った。「あんた、本当に、先生?」と。

 すかさず、私はこう言った。「ええと、この電卓は、何々、ホグワーツ、グリフィンドール、ハリ
ーポッター……?」と。

子「何、それ?」
私「これは、ハリーポッターが使っている、魔法の計算機だ」
子「魔法?」
私「そう……。何でも、未来がわかるそうだ」
子「……?」
私「ところで、君の名前は、何というの?」
子「コイズミ・マサコ……」
私「小泉雅子さんね……。20年後の小泉雅子さんは……、(電卓をパチパチ叩きながら)、エ
エート、すごいねえ。君は、20年後には、世界で一番すばらしい科学者になっているよ。20年
後の今日、あなたはアメリカで、自分の意見を発表しているよ」と。

 これを数人の子どもたちに繰りかえすと、子どもたちの表情が、どんどんと明るくなっていくの
がわかる。

 すると一人の子どもがこう言った。「先生の20年後は?」と。

 そこで私が、「ハヤシ・ヒロシの20年後は……」と言いながら、電卓をたたき、そのあと、思い
っきり、暗い表情をしてみせる。

子「どうしたの、先生?」
私「……ワーッ……」
子「どうしたの?」
私「言えない……」
子「いいから、言ってよ」
私「ワーッ、アアアア」
子「どうしたの? どうなるの?」
私「この魔法の電卓によれば、ぼくは、……20年後には、クソジジイになって、死んでいるって
……」と。

 子どもたちは、うれしそうにゲラゲラと笑ったので、私はこう言った。「君たちは、人の不幸
が、そんなにうれしいのか!」と。

 幼児教室では、絶対に、子どもの未来を脅してはいけない。明るい夢と希望だけをもたせ
る。それについてだけ、話す。これは幼児教育の大原則! 改めて言うまでもないことだが…
…。
(030904)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(130)

K国の金XX

 とうとう中国が、正規軍15万人を、中朝国境に配置した。香港「星島日報」によれば、「中国
は今年8月半ばから下旬にかけ、北朝鮮との国境地域一帯に配備された従来の武装警察に
代わり、3個軍団兵力15万余人からなる人民解放軍に交替配備する作業を終えた」とのこと
(9月4日)。

 わかりやすく言えば、中国は、K国の金XXを、見限ったということ。これでK国の金XXを支援
する国は、一つもなくなった。さすが、中国、やることが早い!

 さらに同じ「星島日報」によれば、中国は、「中朝友好合作相互援助条約」(軍事条約)の見な
おしにも着手したもようである。わかりやすく言えば、仮にアメリカとK国が軍事衝突をしても、
中国は、K国に加担しないということ。

 あたりまえだ。あんな頭の狂った金XXと、同盟関係を結ぶほうが、おかしい。まちがってい
る。こういうのを、「四面楚歌」という。金XXが、知る由もない言葉だが……。

 それにしてもトンチンカンなのが、韓国外交。この場におよんでも、アメリカとK国の仲介役を
するなどと言っている。日本人も平和ボケしているが、韓国人の平和ボケも、すごい。まったく
現実が、わかっていない。

 問題はこれからだ。

 K国は、すでにもっている核兵器を使って、やがて核実験をしてみせるだろう。パキスタンか
ら買った核兵器だが、あたかも自分で作ったかのように見せて、そうするだろう。金XXのやり
そうなことだ。

 で、一挙に、アメリカ、中国は態度を硬化。韓国だけは、最後の最後まで、K国の肩をもつか
もしれないが、それもやがて破綻する。中国は、援助を停止。そこでK国は、外に向かって戦
争をしかける。

 その矛先が、日本。で、ここが重要だが、日本は、絶対に、その挑発にのってはいけない。ど
んなことがあっても、のってはいけない。のったら最後、ミサイルがビュンビュンと飛んでくる。と
くに注意してほしいのが、東京都知事のI氏。ああいう人は、頭が熱くなりやすいので、アブナ
イ。

 ここは国際世論に訴えて、そして世界と歩調をあわせて、経済制裁をする。そのためにま
ず、安保理での非難決議を取りつける。あとはK国をしめあげて、金XX体制を自然死させる。
K国の人たちを、解放する。

 以上、はやし浩司の、K国時評。

(この原稿は、9月4日に書いたものです。9月9日に大きな動きがあると思われますので、そ
のときは、ここに書いたのとは、ちがった状況になっているかもしれません。もちろん平和であ
るにこしたことはありませんが、私たち日本人も、覚悟すべきことは、覚悟するしかないのでは
ないのではないでしょうか。)

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(131)

R幼稚園での質問より

●突発的にキーキー声をあげて、母親にかみついたりする。どうしたらよいか。……過剰行動
児が疑われるので、砂糖断ちをする。身辺から甘い食品を一掃する。一週間ほどで、落ちつい
てくる。

●長男を好きになれない。……根が深い問題なので、あせってはいけない。一つのヒントとし
て、自分自身の幼児期、なかんずく、自分と実父の関係を疑ってみる。何か大きなわだかまり
があるはすである。この問題は、そのわだかまりがあることだけでも気づくだけでよい。あとは
時間が解決してくれる。

●年長児の息子だが、いつもおっぱいを求めてくる。……スキンシップを求めてきたときが、与
えどき。こまめに、ていねいに与えてあげる。短時間、ぐいと抱くことで、じゅうぶん。その母親
は「恥ずかしいから、やめてね」と言っているそうだが、「恥ずかしい」という言葉は、使ってはい
けない。恥ずかしいことではない。言うとしても、「くすぐったいから、やめてね」と。

●弟(年長児)のほうが、できがよく、兄(小三)が、何かにつけて負ける。弟が、兄をバカにす
るような言動がみられる。……兄への愛情をしっかりと守る。親が、「兄はダメな子」と思ったり
すると、その心は、確実に弟に伝わる。そういう「心」だけは、絶対にもたないようにする。兄弟
といえども、そこは、純粋な人間関係。親が立ち入ることができない部分もある。あとは「流れ」
に任すしかない。

【余談】

 質問の席で、「おっぱい」の話が出たのには、正直言って、困惑した。私は幼児教育をして、
三三年になるが、女生徒はもちろん、女児について、頭(撫でるとき)と、背中(姿勢を正すと
き)以外は、体に触れたことがない。抱くときも、親の許可をもらってから、抱くようにしている。

 そういうこともあって、「おっぱい」について、今まで論じたことは一度もない。が、その話題に
なったとき、近くにいた母親まで、「うちの娘も……」「うちの息子も……」と、ワイワイと言い出し
た。

 だから私も言ってしまった。「どうして子どもが、母親のおっぱいを求めてはいけないのです
か? 私も大好きです」と。そういう話題が、若い母親から出るということは、ますます私が「男」
に見られなくなったことを、意味する。あああ。

 結論から言うと、おっぱいの嫌いな子どもはいない。一応「嫌い」と言う子どももいるが、それ
は体面上、そう言っているだけ。子どもにかぎらず、ふつうの男(おとな)なら、みな、好き。本
当に嫌いという男(おとな)がいるとしたら、どこかまともでないと疑ってかかってよい。

 いろいろな相談を受けてきたが、この質問のときは、居心地が悪かった。で、私としては、そ
の質問には、簡単に答えて、早く逃げたかった。しかしそういう質問にかぎって、長々とつづく。

私はそういう言葉を平気で口にする、若い母親たちを見ながら、「私だって、男だぞ!」と、何
度も心の中で叫んだ。みなさん、若くてきれいな人ばかりだった……。だからよけいに、そう思
った。
(030905)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(132)

軽い問題、重い問題

 子どもの左利きのことで、悩んでいる親は多い。中には、真剣に悩んでいる親もいる。そうい
う親からの相談を受けると、「そんなことは、何でもないですよ」と、つい言いそうになる。

 一方、子どもの重い障害で悩んでいる親もいる。そういう親から相談を受けると、自分の無力
感を、つくづくと思い知らされる。「私では、どうしようもないのだ」と、つい言いそうになる。

 軽い問題で悩んでいる親は、それだけハッピーな親ということになる。つい先日も、教室を参
観したあと、こう言った母親がいた。「うちの子は、みなが手をあげるようなとき、まわりをキョロ
キョロ見ています。どうしたらいいでしょうか」と。その母親は、その母親なりに、真剣だった。

 つまり親というのは、そのレベルで、そのつど、いろいろな問題を自らつくり、その範囲で悩む
ということ。軽いなら軽いなりに、重いなら重いなりに……。そこで大切なことは、どういうレベル
にあるにせよ、自分を客観的に見る目をなくしてはいけないということ。

 子育てをしていて、一番こわいのは、自分や子どもの姿を見失い、袋小路に入ってしまうこ
と。そしてときに、どうでもよいような問題に振りまわされ、一方、深刻な問題を見落としてしまう
こと。

 こんな例がある。

 その子ども(小五)は、いわゆる「破壊的行動障害児※」だった。最近、アメリカで話題になっ
ているタイプの子どもである。ADHD児と違うのは、それなりにきびしく指導すれば、ある程度
は落ちつくということ。ただ突発的に、破滅的な言動を繰りかえす。言動に予想がつかない。学
校の授業などでも、ギャーギャーと騒いで、それを破壊してしまう。

 しかし母親には、まったくその認識がなかった。ないばかりか、「うちの子は、計算がのろい」
「うちの子は、見取り図がじょうずに描けない」「うちの子は、テストのとき、問題をよく読まない」
などと、いわばどうでもよいようなことばかりを、問題にしていた。

 多分、家庭では、きびしいしつけなどで、その子どもは、それなりにおとなしくしているのかも
しれない。あるいは、母親自身が、ほかの子どもを知らないため、自分の子どもを客観的に見
ることができないのかもしれない。私は、その子どもの相談を受けるたびに、「問題は、別のと
ころにあるのですが……」と、つい言いそうになった。

 が、しかしこういうことは言える。

 どんな問題であるにせよ、レベルをほんの少しだけ変えてみれば、問題が問題でなくなってし
まうということ。私のばあい、長男と二男を、私の不注意で、あやうくなくしそうになったことがあ
る。

 それ以来、とくに二男については、「生きていてくれるだけでいい」という思いで、子育てをする
ようになった。またそういう視点で、子どもをみると、あらゆる問題が、その場で解決してしまう
から不思議である。

 不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄してしまったときも、「生きているだけでいい」
と。つまりそれが私は子育ての原点ではないかと思っている。

 あなたが子育てでふと行きづまりを覚えたら、ここに書いたことを参考に、少しだけレベルを
変え、視点を変えてみるとよい。それでほとんどの問題は、解決する。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++

※破壊的行動障害

 その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定の秩序あ
る環境になじまない状態にあること、「破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動性をとも
なう(DSM−Wの診断基準を参考)。

 ADHD児についての関心は大きくなり、各方面で研究がなされ始めているが、この「破壊的
行動障害児」についての研究は、今、日本でも始まったばかりといってよい。軽重の問題もあ
るが、私の経験でも、二〇〜三〇人に一人前後の割合で経験する。U君(小五)という子ども
がそうだった。

 U君は、私が何を注意しても、すべてをギャク化してしまった。まじめな会話ができないばかり
か、私が、まじめか、そうでないかも、判断できなかった。瞬間的なひらめきは鋭いため、学習
面での遅れはそれほど目立たなかった。が、少し目を離すと、周囲の子どもたちを巻きこん
で、騒いでばかりいた。

私「U君、静かにしなさい! 先生は、怒っているんだぞ!」
U「怒ってる、怒ってる、タコみたい」
私「あのな、先生は、今、まじめに怒っているんだぞ!」
U「ははは、怒れば、脳の血管、破れて、先生は、あの世行き」
私「静かに、私の話を聞きなさい!」
U「聞いてる、聞いてる、きいてるのは、肩の湿布薬」と。

 このタイプの子どもの指導のむずかしいのは、叱っても、一時的な効果しかないこと。つぎに
教室という「場」がもつ秩序を、破壊してしまうこと。それにたいていは、家庭できびしいしつけを
受けているため、家庭では、それなりに「いい子」ぶっていていること。そのため親にその認識
がないことなどがある。

 原因については、いろいろいわれているが、性格や性質というより、もっと機質的な部分に原
因がるような印象を受ける。脳の微細障害説を唱える学者(福島章氏ほか)もいるが、じゅうぶ
ん疑ってみる価値はある。

 このタイプの子どもの、もう一つの特徴としては、自己意識によるコントロールができないこと
がある。ふつう、小学三、四年生を境として、自己意識が発達し、子どもは自らをコントロール
するようになる。そして外からは、その症状がわかりにくくなる。が、このタイプの子どもには、
それがない。あたかも意図的に、自ら騒々しくしているといった印象を受ける。

 本来なら、親の協力が不可欠なのだが、ここにも書いたように、たいていは家庭でのきびし
いしつけが日常化していて、家では、それなりに「いい子」であることが多い。(むしろ明るく、活
発な子どもと誤解するケースが多い。)またこうした行動障害は、集団教育の場で現れることが
多く、そのため、家庭では、ほとんど目立たない。しかし家庭でのしつけがきびしければきびし
いほど、その反動として、外の世界で、強く、その症状が現れる。

 対処方法としては、まず親の理解と協力を得るしかない。つぎに、家庭でのきびしいしつけ
を、軽減してもらう。頭ごなしの説教や、威圧、暴力がよくないことは、言うまでもない。このタイ
プの子どもは、「叱られる」ことについて、かなりの免疫力をつけていることが多い。つまりそう
いう免疫力をつけさせないようにする。たとえばこのタイプの子どもは、ふつうの叱り方では、
効果がない。そこで勢い、大声を張りあげて……ということになるが、それは集団教育の場で
は、できるだけ避けなければならない。

 いろいろ問題はある。私のばあい、もう少し若ければ、こうした子どもと直接対峙して、マンツ
ーマンの教育をしてみるだろうが、このところ、その体力の限界を感ずるようになった。これか
らの若い先生方に、解決の方法を考えてもらいたい。
(030724)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(133)

近況アラカルト

●我が家の隣は、空き地になっていて、そこは老人たちの、かっこうの集会場になっている。と
ころが、である。夏場になると、まだ夜があけきらぬうちから、あちこちから老人たちが集まって
きて、ワイワイと、大声で話し始める。やっとセミの声が消えたと思っていたら、今度は、老人た
ちの声!

中に数人、耳の不自由な老人がいるのだろう。その声の大きいことといったら、ない。窓をあけ
て眠ることさえできない。おかげでこのところ、やや不眠ぎみ。

昔「粗大ゴミ」という言葉が、問題になったことがある。いや、決して、そういう老人たちが粗大
ゴミというわけではない。実は、この私がその粗大ゴミになりつつある。またその可能性は、た
いへん高い。しかし、こんなことは言える。

老人たちも、そしてやがて老人になる私たちも、どこかで生きザマを確立しておかないと、やが
て粗大ゴミと呼ばれるようになるかもしれないということ。またそう呼ばれてもしかたなくなるとい
うこと。

その老人たちには悪いが、老人なら老人として、つまり人生の先輩として、ほかにもっとやるべ
きことはないのかということ。一日中、そうして何をするでもなし、何もしないでもなし、時間をも
てあましている。ヒマをつぶしている。見方によっては、のどかな風景だが、しかし別の見方を
すると、それくらい、だらしない人生も、ない。

かく言う私も、やがて、その老人たちの仲間入りをすることになるのだろう。そう思うと、文句も
言えず、耳をふさいでしまう。もう少し寒くなれば、老人たちも、出てこなくなるだろう。静かにな
るだろう。それまでのがまん、だ。

●今日(五日)、K国のM号(船)が、新潟港を出航した。報道によれば、大型スピーカーを使っ
て音楽を鳴らし、デッキで踊りながらの出航だったという。いろいろいきさつはあるが、K国の
人たちは、少し、やりすぎではないのか。日本人の神経を逆なでするようなことばかりしてい
る。

一方、日本側にも、余裕がない? 反対デモなんかしないで、もう少し、ユーモアをまじえて皮
肉ったら、どうか。「入航、反対!」ではなく、たとえば「地上の楽園へ、どうか無事、お帰りくだ
さい」とか何とか。「将軍様へ、伝言。心を開いて、世界を見てください」、あるいは、「覚せい
剤、偽札は、どうかお持ちかえりください」でも、よい。もともと本気で相手にしなければならない
ような人たちではない。

●今度、スティーブン・スピルバーグの映画『TAKEN』が、封切られる。それに先だって、竹書
房から本が出版された。レスリー・ボーエム原作、T・H・クック作の『TAKEN』(上下二巻)。そ
れを買ってきた。両方で、1180円なり。

今、(上巻)の三分の一ほどを読み終えたところだが、結構、おもしろい。ロズウェル空軍基地
などが出てくる。1947年にUFO墜落事件が起きた、あのロズウェルである。一度、ドキュメン
タリー映画見たことがあるが、私自身は、あの事件は、本当にあったと思っている。ウソを塗り
かためてできるような話ではない。映画が劇場で上映されたら、見にいくつもり。

●愛用のデジタルカメラを、アメリカにいる二男に送った。新しいカメラを買ってやろうと思った
が、スマートメディア(記録媒体)の機種は、もうなくなってしまった。二男のパソコンは、スマート
メディアでないと、画像を取りこめない。だから私のカメラ(スマートメディア対応)を、送った。

そこで私は、つぎのカメラを買うことを決めた。今度は、多分、ソニー製のカメラにすると思う。
現在使っている携帯電話(SO5050i)が、ソニー製だから、である。ついでに、パソコンも、今
度は、ソニー製にしようかと考えている。

それにしても、スマートメディアの命は、短かかった? たしかにスマートメディアは、使いにくか
った。金属の端子がむき出しになっていた。こうした製品は、将来性を考えて購入しないと失敗
する。しかし、ソニーのメモリースティックは、だいじょうぶだろうか? 今、主流は、XDカード
か、SDカードになりつつあるという? よくわからないが……。

●子どもたちの顔を見ていて、ふと気づいたこと。口を自然な形で閉じた状態で、ニッコリ顔に
なる子どももいれば、「へ」の字になる子どももいる。ニッコリ顔になる子どもは、何もしなくて
も、自然と、人に好かれる? 「へ」の字になる子どもは、どこか悪い印象をもたれる?

で、改めて自分の顔を、カガミに写して見る。結果、私の口は、ほんの少し「へ」の字型の水
平? よくもないし、悪くもない。

こうして見ると、「顔」というのは、不公平なものだ。ばあいによっては、顔だけで、すべてを判断
される。男女の好き嫌いも、たいていは「顔」で決まる。しかもその違いというのは、本当に微
妙なもの。昔、オーストラリアの友人が、「日本人の顔は、みな、同じに見える。区別がつかな
い」と言った。「違い」というのは、そういうものか?

●ハンゲコウボク湯という漢方薬がある。その漢方薬の中に、こわれたDNAを修復する物質
が発見されたと、ある薬学者(日本学士院賞受賞者)が言い出した。私はそれを信じて、毎
晩、寝る前に、そのハンゲコウボク湯をのんでいる。量は、耳かき一杯程度でよいという。それ
を舌の下で、ゆっくりと溶かしながら、のむ。

ハンゲコウボク湯というのは、もともとは、胃の薬。一方、女性の精神安定剤としても使われて
いる。で、ときどき、私は、自分の精神が不安定になったとき、ハンゲコウボク湯を一袋のむこ
とにしている。すると、たいてい朝まで、ぐっすりと眠られる。ワイフに「よく眠られる」と話すと、
「女性薬がきくなんて、あんたの精神は、女性的なのね」と笑った。……そうかもしれない。

●飼っている犬の一匹が、老衰で、このごろ少し、様子がおかしい。目は白内障でほとんど見
えないらしい。耳も、聞こえない。しかしそれ以上に、ボケてきた。庭で放し飼いにしているが、
あたりかまわず、小便をしたり、大便をしたりする。食事のとりかたも不規則になってきた。どう
やら固いえさは、食べられないようだ。虫歯だらけ?

そのことを、オーストラリアの友人の奥さん(女医)に話すと、「安楽死させたら?」と。しかしこ
の言葉には、ぞっとした。そういう発想は、日本人には、ない。

考えてみれば、あの国の人たちは、子羊の肉を、骨つきのまま食べる。しかも自分で飼って育
てた子羊を、である。それに老衰した羊は、つぎつぎと安楽死させる。私たち日本人とは、どこ
か発想が違うようだ。

●今日は土曜日。しかし午後に、ひとつ、保育士会で講演がある。それで山荘には、行けな
い。午前中は、こうして原稿書き。このところ、書くのを少し、サボっている。マガジンの発行
は、一週間前に予約を入れることにしているが、昨日やっと、九月一一日号の予約を入れたと
ころ。今日中に九月一三日号の予約を入れたいが、どうやら無理のようだ。このところ、かなり
疲れてきた。あとは、体力と、気力の勝負。
(030906)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(134)

本質的な問題

●ある相談

 あなたなら、つぎのような相談を受けたら、何と答えるだろうか。

 「小学三年の兄と、年長児の弟をもつ母親です。その兄についてですが、生活態度がだらし
なく、困っています。食事中も、食べものを、ボロボロとこぼします。居間で、おせんべいを食べ
ているときも、そうです。いくら注意しても、なおりません。どうしたらよいでしょうか?」(A町在
住、母親)と。

 この問題について考える前に、昔、恩師のM先生(A幼稚園元理事長)が、話してくれたこと
を書く。

 M先生の初恋の人は、女学校の男先生だったという。M先生が、一六、七歳のときのことだ
った。が、M先生は、そのことを打ち明けることができず、悶々としていたという。そんなある日
のこと。

 いつものようにM先生が、その男先生の授業を受けていると、その男先生が、鼻をほじりな
がら、机の間を回って自分のところにやってきたという。で、自分のそばにその男先生が立っ
たとき、上からポロリと鼻くそが落ちてきたという。

 M先生は、その鼻くそを汚いと思わなかったという。思わないばかりか、その鼻くそがいとお
しくて、いとおしくてならなかったという。

 相手が好きになるということは、どうやらそういうことらしい。昔から『アバタもエクボ』という
が、こういうケースでは、『鼻くそも、……』ということになる。

 さて冒頭の相談の件にもどる。

 母親は、兄の生活態度のだらしなさを問題にしているが、本当に、そうだろうか。こうした相
談では、問題の本質を見誤ると、トンチンカンな答を出してしまう。ついでに、もう一つ、こんな
話がある。

 ある父親だが、自分の子ども(一歳)が、やっとヨチヨチと歩き始めたときのこと。たまたまお
むつをしていなかった。そのとき、子どもが、突然りきんで、ウンチをした。その父親は、思わ
ずそのウンチを、手で受け止めてしまったという。

 「ああいうときというのは、汚いとは思わないものですね」と、その父親は笑っていたが、それ
と似た話だが、こんな話も聞いたことがある。

●みんな、ウンチまるけ!

 家族でいっしょに風呂に入っていたときのこと。やはり一歳の子どもが、風呂の中でウンチを
してしまったという。そのため、父親も、母親も、体中、子どものウンチだらけになってしまった
という。

 そのときも、その話をしてくれた上の子ども(年長女児)は、こう言った。「パパも、ママも、ウ
ンチだらけと、笑っていた」と。

 もうおわかりかと思う。

 冒頭の母親は、子どもの生活態度のだらしなさを悩んでいたが、問題の本質は、そこにある
のではない。

私「弟さん(年長児)も、同じようにこぼすと思うのですが、弟さんのほうは、気にならないのです
か?」
母「なりません。まだ小さいから……」
私「そんなことないでしょう。お兄ちゃんのほうは、ずっと気になっているのではないですか? 
幼児のときから……?」
母「そう言えば、そうです」
私「弟は気にならない。しかし兄は気になる……? 同じようなことをしても、お兄ちゃんは叱
り、弟さんは、叱らない。そういうことですか?」
母「そう言われれば、そうです」と。

 こういうケースでは、母親の心の奥底までのぞいてみる必要がある。母親は、兄に対して、何
か、大きなわだかまり(固着)をもっていると考えてよい。望まない結婚であったとか、望まない
子どもであったとか。あるいは不本意な「できちゃった婚」だったかもしれない。

 さらに不安先行型の子育てだったかもしれないし、生活の問題がからんだ、心配先行型の子
育てだったかもしれない。そういうものが基盤にあって、兄のすることなすこと、悪い方向から
見ているのかもしれない。

 話しこんでいくと、その母親は、「そう言えば……」と言って、いろいろなことを打ちあけてくれ
た。そして最終的には、「弟はかわいいと思うのですが、兄は、どうも好きになれません」と。

 しかしこのことは、つぎの新しい問題を引き起こしてしまった。その母親は、顔を曇らせなが
ら、こう言った。

●では、どうすれば?

 「では、どうすればいいのですか?」と。つまり「兄が好きになれないことについて、どうすれば
いいのですか?」と。

 現在、「自分の子どもをどうしても好きになれない」と、人知れず悩んでいる母親は、七〜一
〇%いる。こうした母親は、そういう状態に罪悪感を覚え、「母親として失格だ」とか、「子どもに
自分の心を悟られるのがこわい」と思って、悩んでいる。

 では、どうするか。

 こういうケースで、問題なのは、そういう問題があることではなく、そういう問題があることに気
づかず、同じ失敗を繰りかえすことである。わかりやすく言えば、まず自分の心の奥底に潜
む、わだかまりを知る。知った上で、なぜ、現在の自分がそうなのかということを知る。

 たとえば自分の子ども好きになれないなら、なれないでよい。無理をすることはない。いわん
や、母親として失格であるとか、そういうふうに大げさに考える必要はない。ただ、なぜ自分が
そうなのかという原因だけは、しっかりと知っておく。でないと、いつまでも同じ失敗を繰りかえ
すことになる。

 冒頭の相談は、一見、何でもない、どこの家庭にでもある、しつけの問題だが、しかしその
「根」は深い。その根の深さに気づくだけでも、この母親は、その問題を解決することができる。
そのあと、多少、時間はかかるが、時間が解決してくれる。

私「あなたの中に、何か、大きな、兄に対するわだかまりがあって、それが姿を変えて、出てく
るのですね」
母「兄は、だらしないと思っていました」
私「本当は、だらしなくなんか、ないのです。兄に対するわだかまりがあるから、ささいなことで
も気になるだけです」
母「じゃあ、どうしたらいいのでしょう……」
私「自分の子どもについては、許して、忘れる。この言葉を、いつも念ずるようにしてください。
許して、忘れるのです」
母「はあ、許して、忘れる、ですか……?」
私「そうです。あとは、時間が解決してくれます」と。
(030906)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(135)

●運命論

They say that time changes things, but you actually have to change them yourself. - Andy 
Warhol 
時がものを変えるという。しかし実際には、あなたが自分で、それらを変えなければならないの
だ。(A・ワーホール)

To keep our faces toward change, and behave like free spirits in the presence of fate, is 
strength undefeatable. - Helen Keller
変化に対して、顔を向け、そして運命の前で、自由な魂のように振る舞うことは、決して敗れる
ことのない力である。(ヘレン・ケラー)

Things do not change; we change. - Henry David Thoreau
ものごとは変わらない。われわれが変えるのだ。(H・D・ソロー)

Be the change you want to see in the world. - Mahatma Gandhi
あなた自身が、世界で見たいところの変革であれ。(M・ガンジー)

+++++++++++++++++++

運命論

 水が低いところを求めて流れるように、
 煙が、高いところをも求めて流れるように、
 あなたは自分の人生を、自分で決めて生きている。
 それを人が運命というなら、それが運命。生きる道。

 今のあなたがあなたであるのは、あなたがそうであるから、そうなった。
 だれが決めたわけではない。あなた自身が、懸命に生きてきた結果として、
 そして懸命に生きている結果として、そうなった。

 だから今、私たちがなすべきことは、今を懸命に生きること。
 その結果として、明日はやってくる。来年はやってくる。一〇年後はやってくる。

 そのとき、あなたは、こう気がつくだろう。
 私は今、なるべくしてこうなった。これ以外に、道はなかったし、
 またこれが私が進むべき道だった、と。

 そう、それを人が運命というなら、それが運命。生きる道。

++++++++++++++++++++

 私は、自分の人生を振りかえって、ふと、こんなことを考える。私は、たいしたことはできなか
ったし、たいしたこともしていない。しかしこれが私の人生だったのか。人生なのか、と。

 若いころ知りあった人の中には、そののち、名をあげた人も多い。いつもいっしょに遊んでい
た近所の「お姉さん」は、そののち、日本の総理大臣(海部元総理大臣)の妻になった。中学時
代いっしょにいたコーラス部の仲間の弟は、歌手(野口五郎)になった。

 静岡市のテレビ局で、英会話の番組を教えていたとき、その合間に歌を歌ってくれていた女
性は、そののち、日本を代表する歌手(ピンクレディ)になった。浜松でいっしょにブラブラして
いた男も歌手(なぎら健壱)になった。ハローワールドという雑誌を創刊するとき、マスコットガ
ールになってもらった女の子も、有名なタレント(西田ひかる)になった。三井物産で隣のデスク
にいた、男は、そののち、日本を代表する経済評論家(寺島実郎)になった、などなど。

 だれしも、あなたのまわりに、そういう人物がいるにちがいない。ひょっとしたら、あなた自身
が、そうであるかもしれない。で、そういう人たちを見ていると、運、不運もあるが、なるべきし
て、そうなったという感じがする。どこか、最初から、違っていた?

 もちろん、その反対もある。東急デパートの催しもの会場で、いっしょに仕事をしていた、和田
何とか(コウジだったか、コウタロウだったか、忘れた)という人物は、そのあとしばらくしてか
ら、あの日航の123便事故で命を落としている。「和田式痩身美容」というのをしていた。

 身近なところでは、消息を絶ってしまった友人もいる。「K国に拉致されたのでは……」とうわ
さする人もいる。どこかへ旅をしている途中で、事故にでもあったのかもしれない。ほかにもい
ろいろある。

 しかし運命というのは、自分で切り開くもの。世界の賢者たちも、みな、異口同音にそう言っ
ている。それにかりにそれがあるとしても、最後の最後で、懸命に足をふんばって生きるのは、
私たち自身にほかならない。またそのふんばるところに、生きる美しさがある。

 ヘレン・ケラーはこう書いている。「変化には顔を向けつづけろ」と。つまり自分のまわりで起
こる変化から、顔をそむけてはいけない、と。そしてここが大切だが、かりに運命というものが
あるとしても、その運命の前では、魂を自由にしろ、と。決して、運命だからとあきらめてはいけ
ない。受け入れてもいけない。なぜなら運命というのは、そのつど、いつも結果としてやってくる
ものだからである。

 若いころは、「運命なんてものはない!」と、私はいつもはき捨てていた。しかしこのところ、
「これが運命だったのかな」と思うことが多くなった。そんな思いをこめて、このエッセーを書い
た。
(030906)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(136)

ケチの長男

●G君の母親から

 上の子どもは、生活態度が、どうしても防衛的になる。わかりやすく言えば、ケチになる。(自
分のモノ)意識が強くなり、奪われることに、敏感に反応するようになる。しかしここがおもしろ
いところだが、自分自身には、ケチという自覚が、ほとんど、ない。

 G君(年中児)の母親(埼玉県在住)は、こう訴えた。

 「Gは、とても欲張りな性格で、お友だちのもっているもの、すべてがほしくなり、しつこく、貸し
て、貸してと言って、強引にモノを奪って、大げんかになることがあります。で、またその子が別
のもので遊び始めると、貸して、貸してと言って、同じパターンで大げんかになります。

 本当に欲張りです。私は、人がもっているものがほしくなっても、がまんすることが大切だとい
うことを、教えているつもりなのです。

 本人も、その場では、しっかりと理解しているはずなのですが、つぎの日になると、また同じけ
んかの繰りかえしです。私も同じ説教の繰りかえしです。

 そういうGを見ていると、私まで、イライラ、メラメラしてしまいます。このままでは、Gは、みな
に嫌われてしまい、友だちができなくなってしまうのではないかと心配しています。幼稚園の先
生も、『G君は不器用で、友だちとうまくかかわれないときがる』と言っています」と。

 このG君のケースでは、モノへの執着性が強いのがわかる。特定のモノへの異常な執着心を
見せるようであれば、行為障害が疑われる。ある特定のおもちゃや、ブランド品ばかりを買い
集める、など。

 さらにある特定のモノが一度ほしくなると、考えることは、そのモノばかりというケースもある。
そしてそれを手に入れるためには、手段を選ばない。ある特定のカードを手に入れるために、
母親のサイフからお金を盗んでは、買いつづけていた子ども(小学生)がいた。

 こうした執着性がみられたら、子どもを責めるのではなく、その背後にあるものをさぐる。慢
性的な欲求不満がその背景にあることが多い。何が、その原因になっているかを知る。まず疑
ってみるべきは、愛情問題である。

 愛情問題がからむと、子どもの心は緊張状態におかれる。子どもはその緊張状態をいやす
ために、さまざまな行動を繰りかえす。これを代償行為という。ふつうは快感をともなく行為を
繰りかえす。指しゃぶり、髪いじり、爪かみなどが、よく知られている。

●行為障害

 さらにそれが進行すると、ここでいうような行為障害が現れることがある。物欲を満足させる
というのは、それ自体が快感であり、そのためモノにこだわるようになる。

 で、G君のばあいは、年中児ということもあって、行為障害とまでは考えられない。しかしモノ
への執着心を強く感ずるようであれば、行為障害の前兆も疑ってみる。ポイントは、モノへのこ
だわりが、どの程度かを知る。つぎのような症状が思い当たれば、行為障害が考えられる。

(1)意味もないものを、異常にほしがる。
(2)同じようなモノ、同じモノをたくさん集める。求める。
(3)特定のモノに対する執着心が強く、それがないと、混乱状態になる。
(4)そのモノを得るために、盗みや借金を病的なまでに繰りかえす。
(5)そのモノを他人に触れられたり、見られたりするのを、極度にいやがる。

 G君のケースで気になるのは、G君には、二歳年下の弟がいること。母親は、「かなりひどい
赤ちゃんがえり症状も見られます」と書いている。G君の心は、かなりの緊張状態にあるとみ
る。その緊張状態の中に、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、情緒が
一挙に不安定になる。

 その不安定な状態を自ら解消しようとして、代償行為におよぶわけだが、G君のケースでは、
それも考えられる。G君にしてみれば、モノによって、物欲を満足させることは、快感であると同
時に、自己防衛のための手段ということになる。

●自己防衛

 子どもの嫉妬を安易に考えてはいけない。嫉妬は、原始的な感情であるだけに、扱い方をま
ちがえると、子どもの心そのものを、ゆがめる。

 親は、「上の子も、下の子も、同じようにかわいがっています」と言うが、それは親の論理。勝
手な論理。上の子どもにすれば、「平等」ということ自体、不満なのだ。

それまで目一杯受けていた愛情を、ある日から、半分に減らされる。それはたとえて言うなら、
あなたの夫(妻)が、ある日突然、愛人をあなたの家につれてくるような行為に似ている。あな
たの夫(妻)が、平等にかわいがってやると言っても、あなたは納得するはずがない。

 その嫉妬がからむと、上の子どもは、下の子どもを、殺す寸前までのことをする。実際、それ
を疑わせるような事件は少なくない。弟を逆さづりにして、頭から落とした兄がいた。三輪車で
体当たりして、弟をけがさせた兄もいた。そこまでいかなくても、つまりその前の段階で、当然
のことながら、子どもの心をゆがめる。

 一般論から言うと、「ゆがめる」ということは、「すなおさが消える」ことを意味する。いじける、
つっぱる、ひがむ、ねたむなど。さまざまな症状となって、現れる。そしてその結果の一部とし
て、子どもは、つぎのような症状を見せる。

(1)喪失することに抵抗する……なくすことに敏感になる。減ることを許さない。いわゆるケチ
になる。

(2)ものの考え方が、保守的、防衛的になる……もともとあるべき状態に、ものごとをもどそう
とする。そしてそれに変化を加えるものにたして、防衛的に抵抗する。たとえば母親との関係で
も、寝る前になると、いつも同じパターンで、本を読んでくれとせがむなど。がんこになったり、
かたくなになったりすることもある。

●おとなの世界も同じ

子どもの世界は、おとなの世界と同じと言ったらよいのか。あるいはおとなの世界も、子どもの
世界と同じと言ったらよいのか。こうした子どもの心理がわからなければ、自分のこととして考
えてみるとわかる。

 たとえばあなたが家庭の主婦だったとする。それまでは平穏な生活を楽しんでいた。夫の愛
情もたっぷりと受け、何一つ、不自由なく暮らしていた。

 が、ある日のこと。あなたの夫が、年若い女性をつれてきた。そしてこう言った。「今日から、
この女性も、この家に住むことにした。ついては、仲よくしてほしい」と。

 あなたには、それに抵抗する力はなかった。夫に反対すれば、自分の立場そのものがなくな
る。第一、あなたには生活力がない。力もない。あなたの心は、一挙に、緊張状態に置かれ
る。ささいなことでピリピリする。しかし夫は、そういうあなたの心におかまいなしに、その愛人
にかかりっきりになる。少なくとも、あなたには、そう見える。

 何とかあなたは夫の愛情を取りもどそうとする。しかし夫は、「平等に愛情を注いでいる」と言
って、一歩も、ひきさがらない。あなたはやがて欲求不満から、頭が狂いそうになる。愛人を憎
む。ときには、激しい憎悪の念にかられる。しかしそのつど、「おまえは妻なんだから」「おまえ
は主婦だから」と、「ダカラ論」で、一蹴されてしまう。

 あなたはやがて悶々とした気持ちの中で、愛人から自分を守ろうとする。油断もスキもあった
ものではない。少し目を離したとたん、その愛人はあなたの部屋にやってきて、あなたの化粧
道具を使い放題。化粧道具だけではない。ありとあらゆる生活用具を、使い放題。やがてあな
たは、頭にくる!

 あなたは「自分のモノ」という意識を、強くもつようになる。そして愛人には貸さない。渡さな
い。あげないと心に誓う。そして何かと意地悪をする。

 が、ここで問題が起きる。そういうあなたを、夫は、「おまえは、ケチだ」とか、「もっと愛人にや
さしくしろ」と迫る。ときには強引にあなたのものを奪って、愛人に貸し与えてしまう。ますますあ
なたの立場が弱くなる。へたに抵抗すれば、「おまえはどうしてそんなに、欲張りなのか」と言わ
れる。

 やがてあなたは欲求不満から、それを解消しようと、デパートへ行って、やたらとモノを買い
あさるようになる。モノを買うというのは、それ自体が、快感である、食欲や性欲を満足させる
のと同じように、物欲を満足させるのは、気持ちがよい。

 こうしてあなたの行為障害が始まる。

●G君のケース

 G君の母親は、現象面だけをみて、子どもをしつけようとしているのがわかる。そしてその上
で、「ほかの子に嫌われたらかわいそう」と思っている。しかしもうおわかりかと思うが、問題の
「根」は、もっと深いところにある。つまりこういうケースでは、いくら母親がG君を叱ったり、説教
しても、ムダ。

 もしそんなことで、子どもの心がなおるようなら、この世界に、精神科医はいらない。幼児教
育家もいらない。

 では、どうするか? 

 このG君の心の問題の向こうには、愛情問題がからんでいる。しかも残念なことに、すでにそ
の問題は、かなりこじれている。そのこじれた結果として、G君は、モノにこだわるようになっ
た。多分、ほかにも、いろいろな症状が出ているはずだが、母親が指摘した症状は、その一つ
にすぎない。

 病気にたとえていうなら、肺炎を起こしている状態なのに、熱だけをおさえても意味がないの
と同じように、「欲張りはだめ」と子どもを説教しても、意味はない。あくまでも、ゆがんだ心を、
どうしてなおすかということを考えて、対処する。

 言うまでもなく、この問題は、赤ちゃんがえりが原因とする、そのバリエーションの一つと考え
る。またそれに準じて、対処する。このG君のケースでは、一度、親子関係を、下の子が生ま
れる前の状態にもどす。

(1)100%の愛情を上の子に注ぐ。
(2)少しずつ様子をみながら、半年単位、一年単位で、少しずつ手を抜いていく。
(3)濃密なスキンシップをいとわない。子どもが求めてきたときが、与えどき。求めてきたら、い
とわず、やさしくていねいに、スキンシップを与えてあげる。

●長男、長女はケチ

みなさんの周囲には、長男や、長女の人がいるはず。ひょっとしたら、あなた自身がそうである
かもしれない。

 そこで長男や長女の人が、どういう生活態度をもっているか、観察してみるとよい。たいてい
は、ここでいうようなケチなはずである。

私の周辺にもいる。私自身は、三男なので、ケチとは無縁の世界にいる。気前がよすぎて、か
えって別の問題を起こすことがある。しかし長男、長女の人がケチというのは、経験的にも正し
い。

 もう何十回とおごってあげているのに、一度も、おごってくれない。何かお金を出すべきときで
も、まず私たちに請求してくる、など。あるいは何年も前に借りた本を、忘れたころに、取りもど
しにきたこともある。

 なぜこういう生活態度が生まれたか。生まれるか。その原因は、要するに幼児期にある。そ
のことがわかるだけでも、幼児教育の深遠さがわかるのではないだろうか。これはあくまでも
余談だが……。

【G君のお母さんへ】

 いろいろとショッキングなことを書きましたが、G君の見せる様子は、もうそろそろ性格として、
かたまり始める年齢にさしかかっています。いろいろ気になることはあるでしょうが、今ここで、
子どもの理解も得られないまま、頭ごなしに「ダメ」と説教しても意味がありません。

 意味がないばかりか、子ども自身が、自信をなくしてしまいます。ケチで欲張り……そういう
面があったとしても、それはそれとして、認めてあげるしかないでしょう。またそれによって友だ
ちが少なくなっても、それはその子どもの問題。親として介入できる範囲にも限度があります。

 あとは子ども自身が自分で判断し、自分で気がつくしかありません。現に今、おとなでも似た
ような人はいくらでもいます。親が叱ったくらいで、また説教したくらいでは、どうしようもないの
です。

 接し方としては、今のお母さんの接し方でよいと思います。気がついたとき、そのつどていね
いに説明して終わります。あとは小学三、四年生になるころに、自己意識(自分を客観的に見
て判断する能力)が育ってきますので、その時期を待ってください。そのときまでに、今の症状
をこじらせないことです。

 全体に、やや強度の赤ちゃんがえり(ネチネチとした態度など)が見られるということですの
で、まずそちらを改善することを目標とします。

 メール、ありがとうございました。
(030906)

【追記】
 しかし世の中には、ケチな人がいるものだ。あるときある家に遊びにいったときのこと。私は
物干しに干されているものを見て、心底、驚いた。何と、コンドームが洗って、干してあった! 
いろいろなケチがいるが、コンドームを洗って使う人は少ない? その家の夫は長男。奥さん
も、長女だった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(137)

山荘にて……

 どこか白いモヤのかかった空。
 濃紺の山肌が、少しずつ色を変え、幾重にも重なっている。
 白い、上弦の月が、空を照らす。

 私は庭のベンチにすわり、冷えたウーロン茶を飲む。
 遠くでは、クツワ虫が、どこか元気なさそうに鳴いている。
 夏は終わりか? 谷間からのぼってくる風は、もうじゅうぶんなほど冷たい。

 私は何も考えない。ただボーッと、深い山々の闇につつまれて、息をひそめる。
 静かな時。おだやかな時。ゆるやかに流れる時。美しい時。
 今日も一日、終わった。その満足感が、ふと、心の中を暖める。

++++++++++++++++++++++

 部屋にもどってから、CDをかける。いろいろ選曲する。今夜は、モーツアルトの「アイネ・クラ
イネ・ナハトムジーク」(セレナード第13番)にする。今夜の雰囲気にあっている。

 そう、今夜はすばらしいことがあった。何と、あの二男夫婦が、孫のセイジ(誠司)をつれて帰
ってくるという。一〇月二日の午後、だ。「チケットを買った」という連絡が、入った。

 春に帰ってくるつもりだったが、あのSARS騒動で、取りやめてしまった。で、この一〇月にな
った。三週間ほど、日本に滞在する。日本のあちこちを旅行するという。とくに山登りをしたとい
うようなことを言っていた。二男は、高校時代、ワンゲル部で部長をしていた。

 どう迎えてやろうか。一応、日本でも、披露宴を計画している。どこかのレストランを借りて、
簡単な結婚式をしてやるつもり。奥さんに、日本の着物を着せてあげたい。今夜もそのことで、
ワイフと、どこにしようかと話しあった。

 いろいろ考えていると、子どものように、あるいは子どものときのように、胸がワクワクしてく
る。そう、こういうことがあるから、生きることも、すばらしい。まだまだ捨てたものではない。ラ
イフ・イズ・ビューティフル!

+++++++++++++++++++++

 時計を見ると、もう一一時。
 今日は、保育士の方たちを前に、講演してきた。
 「心」について、話した。
 少しむずかしい話なので、終わったあと、
 少なからず、後悔した。

 私はときどき、りきんでしまう。
 そして場違いな話をしてしまう。

 あとで控え室にもどると、責任者のMさんが、
 「感激しました」と、涙をこぼしてくれた。
 うれしかった。しかし同時に、とまどった。

 私はただ、「今日が最後」と、懸命に話しただけ。
 「二度目はない」「人生、最後だ」と。

 しかしこんな講演も、いつまでできるのか。
 このところ、疲れを強く感ずるようになった。
 体力が、つづかないような気がする。

 今、何度目かの睡魔が、ぐんと襲ってきた。
 居間をのぞくと、ワイフが養老猛司氏の番組を見ていた。
 医学者で、評論家の人だ。
 先日、何かの会で、同席したことがある。
 私は会って話をしたとき、「この人は本物だな」と、
 直感した。そのとき、「人体の中は、宇宙です」
というようなことを、言っていた。

 今夜は、山荘で、よく眠られそうだ。
 今日も、一日、がんばった。満足とまではいかないが、
 その実感はある。

 では、みなさん、おやすみなさい。
(030906)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(138)

ヘマのない人生

 最近、パソコンを相手に、よく将棋をする。毎日、一、二回はしている。それほどレベルは高く
設定してないが、いつも、私のほうが負ける。

 理由は簡単。

 私はときどき、ミスをする。ヘマをする。しかしパソコンは、弱い割には、ミスをしない。ヘマも
しない。そして私がミスしたりすると、すかさず、そのスキをついてくる。だから私が負ける。勝
てるのは、一〇回のうち、数回くらいしかない。

 その将棋をしていて、ふと思う。「ミスのない将棋はつまらない」と。しかしこのことは人生に、
そのまま当てはまる。

 どんな人生でも、人生が人生として豊かになるのは、ミスがあるからではないか。あるいは人
間がヘマをするからではないか。たとえば人と将棋をさしていると、ときどき、相手が、「あっ、し
まった!」と言うときがある。私も、ときどき、そう言う。そう言いながら、たがいに笑ったり、なぐ
さめあったりする。

 しかしパソコンには、それがない。しかし、だからパソコンは、ダメというわけではない。たとえ
ば、こんなソフトを開発したらどうだろうか。

 対戦相手を、レベルで分けるのではなく、たとえば、@横丁のうっかり熊さん、A近所の学者
先生、B将棋クラブ、自称初段先生……というようにする。そしてそれぞれのクセを出す。つま
りランダムに、ミスをしたり、ヘマをしたりするようにする。

 またヘマをしたときには、「まいった、まいった!」とか、「うへ〜、待ってくれエ!」とか、言う。
この程度のプログラムなら、何でもない。つまりゲームを、より人間臭くする。

 もっとも私のばあいは、負けそうになると、途中で、ゲームをやめてしまう。もし相手が人な
ら、怒ってしまうだろう。二度目はないかもしれない。しかしパソコンは、絶対に怒らない。私の
ほうは、「ごめん、ごめん」と言って、ゲームをやめるが、本当なら、そんなことも言う必要はな
い。わかっている。

 その将棋。子どものころは、よく将棋をした。今でいうテレビゲームのような感じではなかった
か。将棋といっても、いろいろな遊び方があった。詰め将棋、はさみ将棋、それに積み木くずし
というのもあった。名前は忘れたが、将棋板のまわりを、すごろくのようにクルクルとまわりなが
ら、進むというゲームもあった。一周すると、位が一つずつあがり、最後は、「王将」に出世し
て、ゴール。

 私はその将棋が好きで、将棋板をかかえ、だれかれなく、いつも、「将棋しようよ」「将棋しよう
よ」と、頼んでまわっていた。今、ふと、そんなことを思い出した。
(030907)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(139)

自分をさらけ出す

 相手が、どう思おうと、知ったことではない。私は私だ。そういうふうに考え、ありのままの自
分を表現することを、「さらけ出し」という。

 この「さらけ出し」。できる人は、ごく自然な形でできるし、そうでない人は、そうでない。しかも
たがいに、その意識がない。そしてたがいに、反対の立場にいる人が理解できない。

 私のばあい、人前に出ると、どうしても、自分をつくってしまう。飾ってしまう。ふと気がつくと、
虚勢を張ってしまう。とくにいやなのが、高校時代の同窓会。

 過去の人たちと会うと、そのまま「心」までタイプスリップしてしまう。よくある現象である。同窓
会というのは、まさにそういうもの。自分では忘れたはずなのに、同窓会に出たりすると、その
ままあのころの「心」にもどってしまう。

 もちろん、なつかしいという思いもないわけではない。しかし私にとっては、まさに消し去りた
いほど、いやな、三年間だった。

 で、その同窓会に出ると、私だけではない。みなが、虚勢を張り始める。つまらない虚勢だ。
出さなくてもよいのに、「○○銀行支店長」とか、「常務取締役」とかいう名刺を、わざと、見せび
らかしたりする。

 そういう人はそういう人で、結構、ハッピーなのだろうが、ふと油断をすると、私まで、気がヘ
ンになる。私は、浜松市に住むようになってから、そういう意味では、まったく気楽な人生を歩
んできた。今もそうで、通勤と言っても、短ズボンにサンダル。そういうかっこうで、自転車で通
っている。他人の目を意識したことは、まったくない。

 居心地が悪い。本当に悪い。中に、一人、いつも私に皮肉を言う男がいる。よほど、私にコン
プレックスを感じていたのだろう。ふつうの男である私が、さも、うれしくてしかたないといったふ
うである。

 わざわざ私の横に席をとったりして、こう言う。「林君、君だけは出世すると思ったけどなあ」
と。同窓会のたびに、繰りかえし、同じセリフを言うから、恐ろしい。

 だからここ一五年以上、同窓会には出ていない。これからも出ない。同窓会に出るたびに、
私が私でなくなってしまう。

 私は今、自分をさらけ出して生きている。文を書くというのが、それ。そしてそれを本や新聞、
電子マガジンで発表しているというのが、それ。きれいに自分を飾ることは、もういやだ。したく
ない。

 ところで、最近、こんなことがあった。

 中学生に数学を教えているとき、ふと、私はこう言った。「あのね、勉強って、おもしろくないよ
ね」と。

 すると、みなが、目をクルクルさせて驚いた。一人、「先生が、そんなこと、言っていいの
オ!」と言った子ども(女子)がいた。そこで私はこう言った。

私「そうだよ。それはぼくの本心だよ」
中「考えてみれば、そうだよね」
私「そうだよ。おもしろくないよ。ぼくだって、子どものころ、勉強は嫌いだった」
中「でも、先生は、どうして勉強したの?」
私「勉強しなければ、自転車屋をしろって、母におどされたからだよ。だから、しかたなしに、し
たんだよ」
中「何だ、そうなのか」
私「おもしろくないよ。とくに受験勉強はね」
中「フーン」
私「教えているぼくが、そう思うのだから、しかたない」
中「じゃあ、どうして勉強するの?」
私「社会のしくみが、そうなっているからだ」
中「……」
私「そうだよ。今の日本の社会は、完ぺきなものではない。完成されてもいない。不完全でボロ
ボロだ。そのボロボロの社会のすき間を埋めるために、受験勉強がある」
中「ふーん。でも先生に、そう言ってもらって、気が楽になった」
私「つまりね、つまらないものだけど、社会が、そのくだらないものの上に成りたっている。人間
の社会は、未熟で、未完成だよ。しかしここが大切なことだが、無理に好きにならなければと思
う必要はない。嫌いなら嫌いでいい。そう思って、適当につきあえばいい」
中「適当にかア……。いい言葉だね」
私「そう、適当につきあえばいい」と。

 私も、とうとうこんなことまで言うようになってしまった。内心では「親が聞いたら、怒るだろう
な」と思いつつ、一方で、「それで私の教室をやめるなら、それもしかたない」と思った。

 残りの人生が、それほどあるわけではない。私はこれからは、もっともっと、自分をさらけ出し
て生きていきたい。
(030907)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(140)

ある女子学生の電子マガジン

 私も、いくつか電子マガジンを購読している。その中に、ある女子学生のマガジンがある。中
国の北京の、ある語学校に留学している学生のものである。

 内容もさることながら、まったく飾らない、ありのままの留学記で、これが結構おもしろい。書
き方も、今風。引用するわけにはいかないので、私のほうで、それをまねて書いてみる。

……カフェで、けんか。日本男児のだらしなさ。「どうして殴るの?」と言うだけで、反発しない。
一発、かませばいいのに。だから日本男児は、なめられるんのヨ〜……

……ああ、今夜も、あの男と会ってやるか。私はただの、やりたがり屋。べつにいやな男でな
ければ、だれでもいいって、感じ。それにしても、あのインド人の男、少し、しつこい。そろそろ、
つきあうの、やめるかア……

……休みは、モンゴルまで行くの。安い、安い。信じられないほど、安い。日本だったら、何万
円もかかるのに、ここでは千円単位で行ける……と。

 自由奔放なところが、すばらしい。もちろんそのマガジンは、匿名マガジン。個人を特定でき
るような、名称はまったく、ない。しかし私はそのマガジンを読みながら、私はそういうふうに自
由に生きられる、その女性を、いつもうらやましく思っている。

 私たちは、自由なのか。行動の自由は、いろいろ制限される。それはしかたない。しかし魂
は、どうなのか。私たちの魂は、自由なのか。

 行動が自由になれば、魂は解放される。行動には、そういう力がある。しかし魂が自由になっ
ても、行動が自由になるとはかぎらない。残念ながら、人間が社会的動物である以上、当然の
ことながら、行動は、さまざまな分野で、制限される。しかし行動が制限されても、魂の自由を、
犠牲にしていはいけない。

 たとえば宗教を考えてみる。いろいろな宗教があるが、集団で、徒党を組んで活動する宗教
がある。巨大な宗教団体にまで成長したのも、ある。しかしその中の信者が、本当に自由かと
言えば、それは疑わしい。信者たちは、結構、「自由だ」「楽しい」「充実している」と言っている
が、本当のところは、どうか。空っぽの頭に、思想を注入されているにすぎない。自らの魂を、
組織の中に組みこむことによって、その魂を犠牲にしている。それにすら気づいていない。

 魂の自由。それは若いときから、もっと言えば、子どものときから、自分を解放させることを
知っている人のみが、手に入れることができる。いいかえると、自由人に育てるためには、子
どものときから、その子どもの魂を、解放させる必要がある。

 その女子学生は、どんな幼児期や少女期を過ごしたのだろうか。私は彼女が発行するマガ
ジンを読みながら、ときどきそんなことを考える。そして一方、こんなことも考える。

 学生時代、オーストラリアに渡ったとき、私は向こうの女子学生たちが、実に自由奔放な生き
方をしているのを知って、驚いた。そしてそういう女子学生と対比して、日本の女子学生たち
が、実に保守的な生き方をしているのを知って、驚いた。

 私は何度もガールフレンドに、「オーストラリアへおいでよ。いっしょに暮らそう」と手紙を書い
たが、いつも返事は、同じ。「(まだ結婚してないから)、できない」だった。彼女の母親は、こう
までいった。「そんなことをすれば、将来の結婚に、さしさわりが出る」と。日本は、まだ、そうい
う時代だった。

 が、日本も、日本の若者たちも、あのころのオーストラリアに近づきつつある。行動の自由
が、こうした自由奔放な若者をつくりつつある。そしてこうした若者たちがおとなになったとき、さ
らに深い、魂の自由を知るにちがいない。

 私は自由だと思ってきた。しかし私が知っている自由など、何でもない。それこそ、そこらの
石のように、どこにでもころがっている。おかしなことだが、その女子学生の電子マガジンを読
んでいると、そんなことまで教えられる。そう、遠い昔、私も、その時代としては、ずばぬけて自
由人だったのだが……。

+++++++++++++++++

オーストラリアのブッシュソング、それをなまりのある
オージー(英語)で、口ずさむと、甘酸っぱい香りが頭の中に広がる。

赤い大地、ディンゴーの鳴き声、クラバーの木、羊の群れ、
どこまでも広がる満天の空、うねるようにつづく牧場。

だれかが今、叫んだ。「ヒーロゥーシー(浩司)」と。
そんな声が、今でも、目を閉じると、聞こえてくる。
私にとって、人生で、至宝の瞬間だった。
私は、本当に自由だった。本当に、本当に、自由だった。

あああ、私は、もうあの時代の、あの自由を忘れてしまったのか。
(030907)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(141)

一喜一憂

 私の教室は、すべて公開している。そのため親たちには、自由に参観してもらっている。

 しかし問題がないわけではない。

 公開するということは、プライバシーが、つつ抜け。当然、子どものできのよし、悪し、さらに性
格や問題点も、すべてわかってしまう。

 そこで幼児教室では特殊な技術が必要となる。それについて書いていると長くなるので、ここ
では省略する。要するに、親を楽しませるようにする。なごやかな雰囲気をつくる。

 しかしそれでも、中には、神経質な親がいる。もう一五年ほど前になるだろうか。一人いつ
も、毎回、レッスンのあとに、「今日はどうでした?」「この前とくらべてどうでした?」と聞いてくる
親がいた。親の気持ちはよくわかるが、子どもというのは、数か月単位、半年単位で、その変
化をみる。そのつど、つまり一週単位で、一喜一憂してはいけない。が、このタイプの親には、
それがわからない。

 過関心、せっかちな子育てがその背景にあるが、さらにその背景には、子どもを信じられな
いという、不信が、ある。で、どうして子どもを信じられないかといえば、その親自身に、しっかり
とした親像がないことがある。たいていは不幸にして、不幸な家庭に育ったとか、何らかの形
で、親とのつながりが希薄であったことなどが考えられる。

 以前、こんなことを相談してきた父親がいた。娘を抱いても、どの程度抱けばよいのか、わか
らないというのだ。「抱き癖がつくのでは?」「抱きすぎではないか?」「それとも足りないので
は?」と、そのつど、悩んでいた。

 その父親は、早くにそのまた父親と死に別れ、母親の手だけで育てられていた。つまり父親
としての親像が、脳の中にインプットされていなかった。

 親像のない親は、子育てが、どこかぎこちなくなる。そのぎこちなさが、ときに過関心になった
り、せっかちな子育てになったりする。つまりこうしたケースでは、問題の本質は、その母親自
身にあるということになる。

 で、つぎに、新しい問題が生まれる。どの程度、どこまで説明すべきかという問題である。五
分とか一〇分とかいう時間しかなければ、さらっと表面的な話をして終わる。しかしそれでは足
りない。本気で説明しようとすれば、数時間、あるいは数日、かかる。しかしこの段階でも、母
親が真剣に話を聞いてくれればよいが、そうでないときは、ムダになる。

 この世界では、「権威」がものを言う。私のような立場のものが、いくら説明しても、若い母親
だと、耳も傾けてくれない。それがわかるときは、私のほうがさっと手を引く。だいたいにおい
て、その問題意識すら、ない。言い方をまちがえると、いらぬおせっかいになってしまう。
 
 話が大きく脱線したが、子どもというのは、不思議なもの。手をかけたから、よい子になると
いうわけではない。かけないからといって、悪い子になるというわけでもない。万事、ほどほど
に。ほどほどの子育てから、よい子は生まれる。バートランド・ラッセルも、「限度をわきまえる
ことが大切」と、教えている。そのときどの状況で、決して一喜一憂してはならない。
(030907)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(142)

愛人がやってきた!

 A子さんは、それまで、夫のあふれんばかりの愛情に包まれ、何一つ、不自由のない生活を
楽しんでいた。夫婦仲も、満点に近かった。ほしいものも、ねだれば、何でも手に入った。

 しかしそんなある日。どうも夫の様子がおかしくなった。何かしら、A子さんへの関心が薄らい
でいくように感じた。このところ仕事も忙しそうなので、それが原因だと思っていた。結婚して、
四年目のことである。

 が、突然、夫が一週間ほど、出張で家をあけた。めったにないことだったが、その間、実家の
母が遊びにきてくれたこともあり、それほど心配しなかった。が、夫が帰ってきたとき、びっくり
仰天! 夫が、もう一人、女性をつれてきたではないか。しかも私より若い!

 「この人、だれ?」と聞くまでもなく、夫は、こう言った。「今日から、いっしょに暮らすからね。
仲よくしてよ」と。

 私には、反対する力はなかった。抵抗もできなかった。夫の、一方的な申し出に従うしかなか
った。しかしすぐ不満は、爆発した。夫は、その愛人にかかりきりになってしまったのだ。私が
そのことで不平をにおわすと、夫は、こう言った。「お前も、愛人も、平等にかわいがってやって
いる。どうしてそれが不満なのか」と。

 私は嫉妬で、狂いそうだった。こんな不合理なことがあるだろうか。しかもその愛人の態度の
大きいことと言ったら、なかった。私に遠慮することもなく、私の家で、我がもの顔でふるまって
いる! 私の大切にしていた化粧道具すら、どんどんと勝手に使っている!

 いつしか私はその愛人を憎むようになった。殺したいと思うようになった。

++++++++++++++++++

 もしあなたが、その妻のような立場におかれたら、あなたはどうするだろうか。どう思うだろう
か。どう感ずるだろうか。
しかし私は最後の最後のところで、
頭をさげました。負けを認めました。
いつか機会があれば、別のところで
それについて書いてみます。

みんなそんな危機など、一度や二度は
経験します。どうでしょうか?

もうだめでしょうか。
『子どものため』ということは、この際、あまり
考える必要はないと思います。

あくまでも、あなた自身を見据えて、結論を
出してください。

このつづきは、また今夜、考えてみます。
こうした気持ちが、YT様や、奥様に
伝わればうれしいです。

では、今夜は、これで失礼します」と。

 一〇年も、夫婦をしていれば、一度や二度、離婚の危機はやってくる。二〇年もしていれば、
もっときびしい危機がやってくる。しかし三〇年もしていると、やがてあきらめる。人生の終わり
が近づいてくるからだ。

 そのとき、二つの考え方が生まれる。一つは、「まあ、こんなもの」と、それまでの人生を受け
入れる考え方。もう一つは、「最後の最後だから」と、それまでの人生を清算する考え方。熟年
離婚する人の考え方は、後者の考え方に基づく。

 離婚することが悪いというのではない。あくまでも本人たちの問題だから、本人たちが納得す
れば、それはそれで構わない。ただ世の中には、暖かい家庭を恋焦がれるあまり、それが原
因で失敗していく人も多い。私はこういう人を、「悲しきピエロ」と呼んでいる。

 人を笑わせようとするのだが、少しも、おもしろくない。楽しくない。その人自身が、おもしろい
と思っているだけ。だから演技すればするほど、まわりの人がしらけてしまい、やがて観客はだ
れもいなくなる……。

 あなたや私に、何がある? ごく平凡な生活に、ごく平凡な人生。それ以外に、何がある? 
そんな庶民が、身を支えあいながら、懸命に生きている。大きな幸福なんてものは、ない。噴
水があるような、ガーデンに咲く花など、望むべくもない。道端に咲く、小さな花を、「美しい」と
思いながら、またそう思いこみながら、生きている。

 そんな庶民が、あえて自ら、小さな、小さな幸福に、背を向けてしまう……。

 よく誤解されるが、離婚が離婚になるのは、たがいの関係が、破局するからではない。最後
の最後まで、どちらかが、がんばってしまうからだ。心を開かず、意地を張るからだ。そしてそ
こにある小さな、小さな幸福に、背を向けてしまうからだ。

 愛がなければ話は別だが、まだ愛が残っているなら、勇気を出して、心を開く。空に向って、
心を解き放つ。あとの結果は、自然とついてくる。意地なんて、クソ食らえ! プライドなんて、
クソ食らえ!

 もちろん、それでも離婚する人は、離婚する。運命というのは、いつも、結果として、あとから
ついてやってくるもの。しかしそのときは、そのときで、その運命を受け入れることができる。ま
ずいのは、「こんなはずではない」「こんなはずではなかった」と、ズルズルと、悔恨の地獄の中
に、身や心を、引きずりこまれること。

 そうならないためにも、一度、裸になる。素っ裸になる。そして自分の心と体を、相手にさらけ
出す。白日のもとに、さらけ出す。

 あとのことは、相手に任せばよい。そういうあなたを理解せず、また理解できないで、去って
いくというのなら、それも、人生。それも運命。相手にだって、その人生や、運命がある。離婚と
いっても、ただの紙切れ。ただの制度。あとは、たがいに、前向きに生きていけばよい。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(250)

子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

+++++++++++++++

……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思い
ます。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりまし
たが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょう
か?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるま
でにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちな
ので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価とし
て得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大
変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難
しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを
買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親
がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしま
いました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

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 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなか
った」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、
結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく
気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、@子どものやる気
と、A金銭感覚について、考えてみたい。

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@子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定
されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足
させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹
感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たと
えばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不
安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方
に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができ
る。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自
分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこ
む日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて
乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽
しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。こ
れが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引
き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができ
る。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、
と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出して
いく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大
するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる
気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは
言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子
どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」
が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

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A子どもの金銭感覚

子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておき
ます。参考にしてください。

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子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。

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参考までに、子どもを伸ばす方法について
考えた原稿を、二作、添付しておきます。

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好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、
気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようにな
る。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪い
ことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避
けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」とい
う。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。た
とえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩
行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があった
からである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかっ
たとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれな
い。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私
たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあって
いる。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。
この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこ
よさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであ
ることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がい
る。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言
葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう
教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えること
を考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はま
ちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題
ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのす
っきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツ
と暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の
中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オー
ストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛に
あふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で
生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿
というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの
世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中で
みると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことが
できる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速
に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っ
ていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても
気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさい
よ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づい
ていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではな
く、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許
されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あと
は負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないよう
にするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことにな
る。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのは
ず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本
では、リーダーになれない?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化し
てきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片
鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人
に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの
心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を
大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。

+++++++++++++++++++

自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。
が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛
藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的に
なること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行な
どがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまっ
た。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、
それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテス
トの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、@今の状態
を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。A今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、
三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、B一年単位で様子をみる。「去年
の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、
親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、
さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思
うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナ
ス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉
強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しな
い。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったに
ないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口
にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなと
きには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子ど
もに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう
姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それが
ムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。

++++++++++++++++

 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)
(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、
つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(251)

無文化の国

 恐らく、アメリカ人自身は、そうは思っていないだろう。しかし日本人の私たちから見ると、そ
れがよくわかる。

 アメリカ人の嫁さん(二五歳)を見ていると、日本人とは違う、何かを感ずる。その一つが、伝
統や文化に対する考え方が、まったく違うということ。「違う」というより、そういうものを理解する
素養が、まったく、ない?

 その嫁さんは、アメリカでも中南部の、牧場で育っている。昔見た、映画「ローハイド」の世界
である。カウボーイが行きかう、「荒野の決闘」の世界である。あのあたりは広いだけで、何も
ない?

 逆の立場なら、日本の古い神社や寺を回りたいと思うが、そういうものには、興味を示さな
い。フラワーパーク(浜松の西にある、花園公園)や、動物園へは行く。大きなショッピングセン
ターにも行く。

 昨日も、ワイフが、「今度のパーティに着物を着たいの?」と聞くと、「ママ(=ワイフ)が、そう
してほしいなら、そうする」と。日本の着物(和服)にも、あまり興味を示さない?

 そこでワイフと、こんな会話をした。

 「アメリカ人には、文化や伝統を理解する、その素養すらないのでは?」と私。
 「それは感ずるわ……」と私。
 「あるいは、日本の文化や伝統は、文化や伝統ではないと思っているのかもしれない」
 「アメリカ式の合理主義かもしれないわね。すべてを合理的に考える」
 「それもある」と。

 もっとも、いろいろなアメリカ人がいる。数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア
人夫妻は、時間を惜しんで、あちこちを回っていた。だから嫁さんだけを見て、「アメリカ人は…
…」と論ずるのは、危険なこと。それはわかっている。

 「だったら、日本のよさを、教えてあげなければならない」と私。
 「日本のよさって?」とワイフ。
 「どこかの寺に連れていき、そこで、静寂な心を楽しんでもらうとか……」
 「でも、押しつけであってはいけないわ」と。

 いろいろ気を使う。改めて言うが、日本人の嫁さんなら、こういう気を使うこともないのだが…
…。あああ。

 しかし反対に、日本の小さな祭を見たりすると、インディアンの儀式のように思うかもしれな
い。そういう気持も、何だかわかるような気がする。

 それにアメリカ人というのは、心の動きが、まったくストレート。日本人なら、相手に合わせ
て、自分をごまかしたりするが、そういう習慣そのものがない。それだけにわかりやすいと言え
ば、わかりやすい。しかしその分だけ、奥ゆかしさがない?

 先日も、「どこかで焼きそばを食べようか?」と声をかけると、「ノー。私は、焼きそばは、嫌い
です」と。

 日本から送った、インスタントの焼きそばの印象が悪かったらしい。しかしそう、はっきりと断
られると、返す言葉がなくなってしまう。日本人の嫁さんなら、こうまではっきりとは言わないだ
ろうなと思いつつ、こちらも黙ってしまう。比較しては、いけないのだが、つい比較してしまう…
…。

 さてさて、本当に、いろいろある。毎日、頭の中で、バチバチと脳細胞が、ショートしている感
じ。

 さて、今日は、結婚記念日とか。孫の誠司を預かってほしいとか。二人でどこかで食事をした
いとか。

 またまた、はやし浩司は、孫の世話でござ〜る。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(252)

●披露パーティ

 今度の日曜日。山荘で、パーティをすることにした。二男の披露パーティである。招待する人
は、二〇〜三〇人前後になる。その日になってみないと、正確な人数は、わからない。ずいぶ
んといいかげんなパーティと思う人もいると思うが、それが私たちのやり方。

 料理は、簡単で、おいしいのが、海賊焼き。海の幸をたくさん買ってきて、それを鉄板の上
で、豪快に焼く。あとは、タレをつけて、白いご飯の上にのせて、食べる。

 もう一品は、海賊ナベ。本当に、そんな料理があるのかどうかは、知らないが、大きなナベ
に、いろいろなものをほうりこんでつくる。

 実は、どこかのレストランでしようと考えたが、どうも、落ちつかない。Hレストランは、気取り
すぎ。Gホテルも、そう。Kホテルは、値段が高い。部屋代だけで、七万円とか! それで山荘
にした。市場で買えば、大きなタラバガニでも、三、四〇〇〇円で買える。手長エビも、四〇〜
五〇匹が、一万円前後。部屋代だけで、豪華な料理が楽しめる。 

 そこで改めて、考えてみた。

 アメリカには、もちろん、結婚式場というのは、ない。日本でいう披露宴にしても、教会で式を
あげたあと、どこかの公民館で、簡単にすます。もちろん、引き出物とか、そういうものを渡す
習慣もない。

 日本では、式場で式をすると、数百万円もかかる。私の友人には、その式場の支配人をして
いる人もいるから、こう書くのは、つらい。しかし正直言って、ああいうのは、ムダ。本当に、意
味がない。あるいは、どんな意味があるというのか?

 結婚式は、形ではなく、中身。少なくとも、今のように、その人の年収を超えるような費用を、
一回の結婚式で使ってしまうのは、バカげている。何とか、ならないものか。これは日本人の意
識の問題。

 豪華な式場でないと、招待する人に対して、失礼という誤解。しかし本音を言えば、式場での
結婚式は、肩がこる。窮屈。退屈。

 お金をかければかけるほど、すばらしい結婚式という誤解。しかし本音を言えば、目的は、見
栄、体裁、メンツ、世間体?

 さらに日本では、結婚というと、昔から、「家」と「家」のつながりを意味する。そういう風習が残
っている。地域によっては、そのため、結婚式には、近所の人たちまで招待する。

 こうした風習は、日本の文化なのか。風習なのか。それとも守るべき、伝統なのか?

 ……とまあ、否定的なことばかり書いても、しかたない。私の友人にも、申し訳ない。彼は、式
場の模様がえをするとき、わざわざイタリアまで出かけていって、向こうの教会を、調べてき
た。結婚式を、人生の祭と考えれば、それほど、深刻に考える必要もない。気楽に考えて、気
楽にやればよい。

 ……となると、またもとの話にもどってしまう。

 昔、こんなことを言う人がいた。「女性にとっての結婚式は、人生の晴れ舞台。しみったれた
ことをすると、かえって花嫁をキズつけることになる」と。

 しかしこれほど、「女性」を、バカにした言葉もない。そんなことでキズつくような女性なら、結
婚などしないことだ。
 
 ……どう考えても、気楽に考えることができない。どこかで結婚式がゆがみ、ゆがんだまま、
結婚式が、現在の形になってしまった。

 しかし今、「家」に対する考え方が、大きく変わりつつある。親戚づきあいのし方も変わってき
た。多くの人が、遠くの親類より、近くの友人……と考えるようになってきた。それがよいとか悪
いとか言うのではない。これからの人たちが、そういう道を選び始めたということだ。

 一例として、老後の親のめんどうをみると答える若者が、減っている。
 老後、息子や娘の世話にはならないと答える、旧世代が減っている。
 
 当然、結婚に対する意識も変わりつつあるし、結婚式に対する考え方も、変わりつつある。
派手な、意味のない結婚式から、質素な、中身を求めた結婚式へ、と。結婚式そのものが、多
様化している。ちなみに、私たち夫婦は、披露宴をしていない。深い考えがあってしなかったと
いうのではない。それをするだけのお金がなかった。

 しかし今になってみると、そういう生きザマが、そのまま私たちの生きザマの基本になったよ
うな気がする。息子たちにも、私はこう言っている。「結婚式は、相手の女性の意見や希望を
聞いてしたらよい。うちはどんな方法でも、まったく、かまわない。しなくても、かまわない」と。

 さて、その披露宴で、三人の息子たちが、バンドを組んで演奏するという。長男がボーカル。
二男がギター。三男がドラム。今、隣の部屋から、スピッツの曲が、ガンガンと聞こえている。

昔から、本当に、騒々しい連中である。
(011014)

【追記】
 本当のところ、披露パーティなど、するつもりはなかった。ただ、嫁さんを、みんなが歓迎して
いるという、その心だけは伝えたかった。

 そこで相談すると、ワイフの兄弟たちが、みな、協力すると言ってくれた。昔から、心の暖か
い人たちだ。で、このように、おおげさになってしまった。

 しかし嫁さんは、だいじょうぶだろうか? もし、私やあなたが、アフリカの原住民の中に、い
きなり落とされたらどうなるか? まわりは見知らぬ人間ばかり。顔も形も、違う。おまけにジロ
ジロ、見られたとしたら……。今夜も、コタツの中で、ワイフは、それを心配した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(253)

●人のつながり

 浜松市は、人口六〇万人。東海地方では、名古屋についで、第二の大都市である。私は、こ
の町に住んで、三四年になる。しかしこの町も、小さくなったものだ。

 先日、あるサークルの方に頼まれて、小さな座談会に、講師として顔を出した。Nさんという演
奏家が、その前後に、ピアノ演奏をしてくれることになった。そこでの控え室でのこと。Nさん
が、こう言った。

 「林先生のことは、昔から知っていました。A幼稚園にお勤めのとき、先生が、ときどき自転
車に乗っておられたのを、見かけました」と。

 そこへその会場を建設した、E会社の担当者もやってきて、「昔、娘がお世話になりました、D
です」と。

 で、会話がはずみ、Nさんの演奏会の話になった。

 「先日、林さんの近くの公民館で、コンサートを開きました。しかしそれがひどいピアノで、調
律師の方に来てもらい、二日がかりで、ピアノを調律してもらいました」と。

 そこで私が、「そう言えば、私の義理の兄が、ヤマハの調律師学校の校長をしていました」と
言うと、「まさか、Kさんではないですか?」と。

 「そうです」と答えると、「世間は、狭いですね。本当に、狭いですね。そのKさんに、助けても
らったのです」と。

 このところ、こんな会話が多くなった。会う人が、どこかでだれかとからみ、そしてそれが私と
つながっている。タクシーに乗っても、「あの林先生ですか?」と声をかけられる。ショッピング
センターを歩けば、たいていいつも、数人の人に声をかけられる。

 それがよいことなのか、悪いことなのかということになると、悪くはないが、よいことも、あまり
ないというのが本音。少なくとも、私自身のメリットは、ほとんどない。かえって窮屈に感ずるこ
とが多い。

 しかし、人口六〇万人という町は、そういう意味では、私にとっては、大きくもなく、小さくもな
く、たいへんすみやすい町である。HONDAも、YAMAHAも、そしてSUZUKIも、ここで生まれ
た。KAWAIも、ROLANDも、ホトニクスも、ここで生まれた。活気もある。

 しかし三〇年も住んでいると、いろいろな人と知りあいになる。仕事がら、多くの人とつきあ
う。子どもを通してだが、大会社の社長も、大病院の院長も、暴力団の組長も、みんな友だ
ち? 私は私なりに、結構、楽しくやってきた。悔いはない。

 ただ自分でもよかったと思うのは、この町では、「敵」を作らなかったということ。迷惑をかけ
た人は、一人もいない。私を見てコソコソ逃げる人は多いが、私が逃げなければならない人
は、いない。だからいつも、堂々としていられる。そういう意味でも、居心地がよい。

 ……とまあ、少しかっこよいことを書いたが、私は、この町で、人生を終えるつもりでいる。ど
こかの国へ移住しようと考えたこともあったが、この一〇年は、そういう話題も、消えた。あと
は、今の自分を大切にして、そのときがきたら、静かに死ぬだけ。それまで、こうした原稿を、
書けるだけ書いておこうと思う。その結果、私がどうなるか? それはもう、私の知ったことでは
ない。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(254)

世評アラカルト

●日本道路公団のF総裁の解任問題で、政界が揺れている。F総裁側は一七日に予定されて
いる「聴聞」を公開審理とするよう、国土交通省に申し入れた……。

道路公団という、官僚の、ただの天下り機関。その天下り機関が、こうまで「力」があるとは! 
日本人のほとんどは、「日本は、民主主義国家」と思っている。しかしこれはとんでもない誤
解。

日本は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。世界に名だたる、官僚主義国家。みなさん、この
事実を、しっかりと認識しよう。民主主義など、ただの飾り。ウソだと思うなら、あなたの住む県
の知事の、経歴を見たらよい。あなたの住む町の市長の経歴を見たらよい。あるいはあなた
の地域から選出される国会議員の、経歴を見たらよい。みんな、元中央官僚!

日本は、官僚による、官僚のための、官僚の国家。F総裁のクビ切り問題は、まさにその象徴
的なできごとにすぎない。選挙で選ばれた国会議員を前に、あのふてぶてしい笑みは、いった
い、何か。みなさん、もう一度、原点に立ち返って、このおかしさを、再認識しよう!

●諮問(しもん)委員会という、「委員会」に注意しよう。官僚が、何か、重要なことを決めるとき
に、必ず、もちだす委員会である。

まず、YESマンだけを集める。だいたいにおいて、その選考基準そのものが、「?」。あるいは
その道の素人ばかり。

会議は、おおむね数回程度。しかもその会議は、あらかじめ官僚が用意したプロット(あらす
じ)にしたがって、進行する。委員が意見を述べるとしても、ほんの数分程度。議論したり、討
論したりというようなことは、まず、ない。

最後は、委員長もしくは、座長と呼ばれる人が、答申をして、おしまい。答申の内容は、抽象的
であればあるほど、よい。

あとはこの答申をもとに、官僚は、まさにやりたい放題。予算も、つけ放題。つまり現在、「諮問
委員会」というのは、官僚が好き勝手なことをするための、「お墨つき委員会」に過ぎない。

国政を左右するような諮問委員会もあれば、県政レベル、市制レベルの諮問委員会もある。も
ちろん文部科学省にもある。とくに反対意見や反対派が多い事案について、こうした諮問委員
会がもうけられることが多い。

こうして今、日本の社会は、官僚たちによって、がんじがらめにしめつけられている。もちろん
ひとりずつの役人の方に責任があるわけではない。しかしそのため、日本の社会は、息苦しい
ほどまでに、硬直してしまった。自由主義国家といいながら、その実体は、まさに「しくまれた自
由の国」(尾崎豊)に過ぎない。

●こうして現在も、全国津々浦々で、ムダな公共工事が、つぎつぎと行われている。上は、第
二東名高速道路。総額一二兆円弱の、大工事。日本の国家税収が、年間四〇数兆円だか
ら、いかにその工事がバカげているか、わかろうというもの。

下はあなたの近くの国道、県道、市道。やらなくてもよいような道路工事を、年がら年中してい
る! 掘っては、埋め、また掘っては、埋めている。日本道路公団は、その上に君臨する。しか
もたまりにたまった借金が、四〇兆円! 国民一人あたり、約四〇万円(日本の人口を、子ど
もを除いた、約一億人として計算)。

こうした現実を前にして、ものの考え方は、二つに分かれる。

ひとつは、「おかしいから、是正しよう」という考え方。

もうひとつは、「あわよくば、自分も、その恩恵にあやかろう」という考え方。

しかし悲しいかな、そこは官僚主義国家。日本人は、その魂を、骨のズイまで抜かれてしまっ
ている。今でも、「お上にたてつくと、損」と考えている人は多い。だから心のどこかでは、「おか
しい」と思いつつ、「せめて私だけでも」「うちだけなら……」とか、さらには、「何とか、うちの子
だけは……」と考える。

こうして日本の官僚世界は、是正されることもなく、ますます肥大化する。現に今、構造改革、
行政改革は、デッドロックに乗りあげたまま。改革どころか、準公務員、公団、公社の職員の
数は、今の今も、ふえつづけている。

かく言う私とて、官僚世界に背を向けたら、仕事すら、あやうくなる。しかし今、こと教育評論の
世界で、官僚世界に背を向けている評論家が、何人いる? 現実には、いない。一方で、退職
金だの、年金だのと、公的保護を手厚く受けている人が、どうして官僚世界に背を向けること
ができるというのか。私が声をあげなくて、だれがあげるというのか。

日本道路公団のF総裁の解任問題。一見、ただの解任問題に見えるが、その水面下で、今、
日本の民主主義の「力」が試されている。「正念場」というほど、おおげさなものではないが、し
かし日本の官僚主義の実態を知るのには、よい機会である。どうかみなさんも、そういう視点
で、この解任問題をながめてみてほしい。
(031015)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(255)

●アメリカ風、子育て論

 嫁さんの子育て法を見ていて、いくつか気づいたことがある。

 その一つは、絶対に、子どもをひとりにしないこと。子どもが寝ていても、どこにいても、母
親、もしくは父親が、近くにいる。日本人なら、こういうとき、子どもをひとりにして、親は、何か
ほかのことをするのになあ、と思うようなときでも、である。

 ワイフもそれに気づいて、「アメリカでは、そうみたい」と。

 それについて以前、二男がこう言った。

 「アメリカでは、誘拐事件が頻繁(ひんぱん)に起きている。だから、おかしいほど、親たち
は、神経質になっている。日本のように、子どもたちだけで、学校へ歩いていくなどということ
は、アメリカでは考えられない」と。

 もちろん子どもだけを家に残して、親が外出するなどということも、ありえない。そういうことを
親がすれば、「要保護者遺棄罪」という罪に問われる。

 そうして考えていくと、日本は、まだよい国だ。いろいろな事件が起きてはいるが、まだまだ安
全な国である。大切なことは、こうした「安心感」を、いかに守っていくかということ。

 もう一つは、親は、子どもに向かって、決して怒鳴らないこと。うちの嫁さんだけかと思って聞
いてみたら、アメリカでは、どこの家庭でもそうだとのこと。怒鳴るだけでも、虐待とみなされる
とか。ゾーッ!

 だから嫁さんの子育て法をみていると、実に静か。キャッ、キャッと、いつも子どもの声しか聞
こえない。

 ついでにもう一つ。

 こういうビデオが日本にもあるのかどうかは知らないが、アメリカには赤ちゃん用のビデオが
ある。

 ボールがコロコロところがるとか、人形がコトコト動くとか、ぬいぐるみのネズミがチョロチョロ
動くとか、そういうもの。当然、単純なものだが、それが結構、子どもの心をとらえるようだ。孫
(満一歳)も、そのビデオを見ているときだけは、おとなしい。ときに音楽にあわせて、体を上下
にスウィングしたりしている。

 さらにもう一つ。

 これはワイフの意見だが、相手が赤ちゃんでも、決して、子どもあつかいしないこと。ワイフで
さえ、「あんなにおとなあつかいして、誠司(孫)がかわいそう」と言うほど。

 いくら誠司が嫁さんに甘えても、ダメなときは、ダメと、嫁さんのほうが譲らない。

 決して嫁さんが冷たいというのではない。むしろ反対で、子どもの心をそのつど、しっかりと、
確かめながら子育てをしている。日本では、子どもの意思を無視して、親のほうが子どもを先
導することが多い。しかし嫁さんは、それをしない。小さな孫に向って、「どうするの?」とか、聞
いている。(答えるわけがないのに!)

 同居して、もう二週間になる。その間、嫁さんが、孫に向って何かを命令しているシーンを、ま
だ一度も見たことがない。「アメリカ人は、人に命令されるを嫌う国民」とは、話には聞いていた
が、赤ん坊のときから、こうまで徹底しているとは!

 同じ人間だが、日本人の子育てと、アメリカ人の子育ては、基本的な部分で、かなり違うよう
だ。
(031015)

【追記】さきほど、二階の書斎にいる私に向って、誠司が、「アー・ユー・ゼア〜?」と、階段の下
から叫んだ。「あんた、そこにいるの?」という意味である。そのことを嫁さんに話すと、「Sage
は、まだ、言葉を話せない」とのこと。しかしたしかに、そう聞こえた?

 それに、今日は、私のことを、「ジージー」と呼んだ。あとで、だれがそんな言葉を教えたのか
と聞くと、ワイフが、「私」と答えた。

 とんでもない言葉を教えるものだ。そこでワイフを叱ると、「じゃあ、あなたを何と呼べばいい
のよ?」と。

 「ヒロシでいい。向こうでは、教授も、父親も、祖父も、ファーストネームで呼んでいる」と。

 するとワイフが、「それはおかしい」と。おかしいか、おかしくないかは、国際感覚の違いによ
るもの。私には、ゼンゼン、おかしくない!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(256)

「うらやましい」と「うらむ」

 日本語の文章を書いていると、ときどき、ハッと、何かに気づくことがある。そのときも、そうだ
った。

 私は、そのとき、どんなとき、人は、他人のうらみを買うかというようなことを書いていた。

 その「うらみ」という言葉を考えていたとき、ふと、「だれかをうらやましがらせると、うらみを買
うのでは……」と思った。とたん、「うらやましい」と「うらみ」は、語源が同じではないかと思っ
た。「ウラ」が、同じである。

 そこで調べてみると、「うら・やましい」の「ウラ」は、もともと、「心」という意味。「やまし」は、
「病む」という意味ということがわかった(「広辞苑」)。

 つぎに「うらむ」は、「恨む」。広辞苑には、語源までは書いてなかったが、「うらむ」の「ウラ」
も、「心」という意味に考えてよいのではないか。ほかにたとえば、「うらもう(心・思う)」、「うらも
となし(心・もとなし)」という使い方も、残っている。

 もっとも、こんなことを、私が書いても、意味はない。ただ、ここで、もし語源が同じだとするな
ら、昔の人は、同時に、ものすごい心理学者であったということになる。

 つまり「他人をうらやましがらせると、その人のうらみを買う」ということを、当時の人たちは、
知っていたことになる。こんな例がある。

 ある幼稚園の園長家族が、その幼稚園から少し離れたところに、大豪邸を建てた。二階建て
だったが、三階部に、展望台がついているような大豪邸である。当時、一五〇〇万円も出せば
ふつうの家が建ったが、その家は、何と総額、八五〇〇万円!

 それまでその幼稚園では、年に多い年で、四回も、バザーを開いていた。親たちから、不用
品を集め、それをバザーで売り、その収益金を、「幼稚園の施設の充実」(幼稚園側の説明)
にあてていた。

 しかし園長がその大豪邸を建てたあと、バザーのための不用品が、ほとんど集まらなくなっ
た。当然だ。理由など、ここに書くまでもない。その幼稚園の園長は、それまで口グセのよう
に、こう言っていた。「経営が苦しいので、どうかみなさん、助けてください」と。

 つまりその幼稚園の園長は、親たちにうらやましがられると同時に、うらみを買ったことにな
る。

 「決して、人をうらやましがらせてはいけない。うらやましがらせれば、うらやましがらせるほ
ど、うらみを買う」と。

 これはある程度、人生経験のある人の間では、常識。よく成功者が、その成功ぶりを誇示す
るため、自分の成果を、他人に見せつけることがある。しかしこうした行為は、他人のうらみを
買うだけ。やめたほうがよいと言うよりは、絶対に、してはならない。

 たとえばあなたが、今、たいへんできのよい子どもをもっていたとする。勉強もよくできるし、
学校でも、目立つ。もしそうなら、そういう親ほど、謙虚であったほうがよい。決して、その流れ
に乗って、相手を、うらやましがらせてはいけない。どこまでも謙虚に。ただひたすら、謙虚に。

 ……と決めてかかるのも、危険なことだが、実は、これは私の人生訓でもある。私は、他人
にうらやましがられうようなものは、ほとんど、もっていない。しかし、それでも、人によっては、
私をうらやましがる人もいる。

 ある男性は、こう言った。「あなたは、幸福な家庭を、ことさら人に見せつけている」と。ごく平
凡な家庭でも、それがない人から見れば、そうではない。

 しかし実際のところ、どんな家庭にも、いろいろな問題がある。問題がない家庭など、ない。
たとえば私の家庭にもある。ただ私は、それを書かないだけ。書く必要もないし、また書こうと
すると、ワイフが、それを止める。

 で、結果として、私の家庭には、何も問題がないように見える。……らしい。そしてそれがま
た、結果として、「見せつけている」ことになる?

 しかしその一方で、こんなことにも注意している。

 人をうらやましがらない、と。自分にないものをもっている人を見ると、心のどこかで、「いいな
あ」と思う。それはそれだが、しかしその程度のところで、心にブレーキをかける。そしてそれ以
上、その人をうらやましがらないようにしている。「人は、人」と。

 つまり人をうらやましがるということは、自分の敗北を認めることを意味する。へたをすれば、
ここに書いたように、その人を、うらむことにもなりかねない。しかしそんなことをすれば、心が
腐るだけ。

 そうそう、「うらむ」は、「裏む」にも通ずる。どうせ生きるなら、人生は、表街道を歩きたい。人
をうらめばうらむほど、人生は、裏街道になる? あるいはうしろ向きになる? これは私の勝
手な解釈だが、私は、そう思う。

 要するに、人をうらやましがらせてはいけない。また人をうらやましがってはいけない。「うら
やましい」という言葉と、「うらむ」という言葉を考えていたら、そういう結論になった。
(031015)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(257)

山荘ライフ

●随筆、1257号

子育て随筆を書き始めて、ここで第1275号になる。

 その「1257号」という数字を打ちこんだときのこと。「257」という数字が、妙に気になった。
で、理由は、すぐわかった。

 浜松市の中心部から、北へ、国道257号線がのびている。私は自分の山荘へ行くとき、いつ
もこの街道を利用している。このあたりでは、「ニゴナナ」と呼んでいる。私たちは山荘を建てる
とき、このニゴナナを、毎週、しかも六年間、通った。

●山荘ライフ

 山荘そのものは、地元の建築会社に建築してもらった。理由がある。

 私たちは自分の山荘を建てるにあたって、あちこちの山荘を見て歩いた。ほとんどが見知ら
ぬ人のものだが、そのとき、こんなことに気づいた。

(1)中途半端な山荘を建てると、かえってお金がムダになる。
(2)ワイフ様や、家族様が、来たがるような山荘でなければならない。
(3)少なくとも、町の中の自宅よりは、魅力的でなければならない。
(4)あとで、売却できるような山荘(土地)でなければならない。

 数百万円もあれば、小屋のような山荘を建てることはできる。しかしそういう山荘は、すぐボ
ロ家になる。つまりかえってお金がムダになる。

 川のほとりにあった、ある山荘は、そのあと、数年後に行ってみると、物置小屋に変身してい
た。中途半端な山荘は、たいていそういう運命をたどる。

 山荘ライフは、ひとりでは楽しめない。当然、ワイフや家族の協力が必要。「自分だけ楽しめ
ば……」という考えでは、山荘は維持できない。みなが、週末を楽しみにするようにもっていくの
が、コツ。

 山荘の魅力は何といっても、自然。町の家と同じ、あるいは町の家より環境が悪いということ
であれば、山荘を建てる意味はない。ただし、私の実感では、浜松市内の人で、約五〇%が、
こうした自然生活を好み、約五〇%の人は、そうでないということ。

 私の三人の息子についても、長男は、山荘ライフには、ほとんど興味なし。二男は、自然派。
三男は、自然派だが、都会生活のほうをより好む……というように、意見が分かれている。

 「ここはいいところだろ」と、自分の思いを、相手に押しつけてはいけない。中には、小さな虫
を見ただけで、逃げ回る人もいる。あるいは山道の急坂がこわくて、車を運転できないと言う人
もいる。人、さまざまである。

 また山荘というのは、いつか売らなければならないかもしれない。資産価値を、ある程度、考
えて建てる。

●自分で建てる

 家そのものは、しかたないにしても、できるだけ、自分たちで建てる。実は、そこに山荘ライフ
の本当のおもしろさがある。

 私たちは、山荘を建てるまでの六年間、ほとんどの工事を自分たちでした。決して、楽な工事
ではなかった。とくに小山を切り開いて、平らにする工事は、たいへんだった。ユンボで削るた
びに、かえってデコボコになったりした。

 よく新聞のチラシなどに、どこかのインチキ業者が売りに出す、「別荘用土地(?)」がある。し
かしああいう土地に手を出してはいけない。たいていは、その土地の時価の、数一〇倍の値
段。あるいは山の北側斜面や、川のそばの、「どうしようもない土地」であることが多い。

 川のそばというと、何となく魅力的だが、川のそばの土地は、買ってはいけない。夏をはさん
で、湿気がひどく、蚊やアブ、ヘビに悩まされる。シイタケのほだ木でも、ふつうは、数年〜五年
ほど、もつ。が、川のそばだと、一年くらいで、腐ってしまう。もちろん、家も。

 山荘を建てるときの、最大の問題は、水と、その排水。とくに「水」。電気やガスは、何とかな
る。しかし水だけは、安易に考えてはいけない。

 私の山荘の水は、五〇〇メートルくらい離れた山から、パイプで引いている。しかしそのパイ
プとて、いろいろな人の土地を横切るため、そのつど、地主の許可を得なければならない。決
して、簡単な工事ではなかった。

 排水については、近所の農家の人たちの不安をやわらげるため、浄化槽を二つ、つなげて
設置した。そしてその排水は、さらに三〇〜四〇メートル先の山の中(自分の土地)へ引き、そ
こで浸透マスをつくり、その中に流すことにした。その工事も、自分たちでした。

 こうした工事は、たいへんなものだが、しかし前向きに考えれば、それもまた楽しい。少しず
つ、山荘ができていく楽しみは、何ものにも、かえがたい。

●で、今は……

その山荘ライフも、山荘ができてから、もう一〇年になる。この間、事情が、大きく変わった。

 まず息子たちが、みな、巣立ってしまった。

 つぎに、私やワイフの体力や、気力が、衰えてしまった。まだ五、六年前まで、必要な家具
は、自分で作ったりしていた。が、このところ、急速に、それをするのがおっくうになった。

 以前は、数日、つづけて連泊することもあったが、今は、たいてい日帰り。しても、一泊。夜
は、ビデオを見たりして過ごす。以前のように、山道を作ったり、シイタケのほだ木を作ったりし
たりするということは、もうない。

 料理も、弁当が多くなった。そういう意味では、当初、私たちが考えていた山荘ライフとは、か
なり違ったものになってしまった。しかし、「もう、じゅうぶん、楽しんだわ」(ワイフ弁)というとこ
ろか。

 まだ売却するところまでは、考えていない。しかし山荘へ向うのもおっくうになったら、売却す
るしかない。何といっても、年齢には勝てない。

 ただよく誤解されるが、山荘というと、維持費がたいへんと思う人も多いかもしれないが、実
際には、電気、ガス、それに水道の謝礼をあわせても、月に、一万円弱。ほかにお金を使うと
ころもないから、一度建ててしまえば、結局は安あがりになる。

 何よりもよいのは、「週末はどうしようか?」と迷う必要がないこと。週末の朝になると、私もワ
イフも、何となく、山荘へでかける準備を始める。

 そうそう山荘を建てるとき、一つ、迷ったことがある。

 業者(大手デベロパー)が造成した別荘地が、このあたりにも、いくつかある。値段は、一〇
〇坪前後で、二〇〇〇万円前後(当時)。あとあとの管理を考えるなら、そういう土地のほうが
安全である。

 「業者が開発した土地にしようか、それとも自分たちで開発しようか」と、最後の最後まで、迷
った。

 しかし私たちは、気軽に行ける距離ということで、市内から車で、三、四〇分というところをさ
がした。当時は、バブル経済の絶頂期ということで、決して安い買い物ではなかった。が、それ
でも、町の土地とは比較にならないほど、安く土地を手に入れることができた。

 山荘の土地の面積は、五〇〇〜八〇〇坪前後。斜面も多いから、実際にはどれくらいある
か、わからない。(山の土地というのは、そういうもの。)

 で、今は、山荘ライフは、私たちの生活に、すっかりと溶けこんでいる。その結果というか、今
では、それ以前の、昔の生活と変わらなくなってしまった。ただ違うのは、町の生活が、それと
は反比例するかのように、きわだって、不自然に見えるようになったこと。

 都会に住んでいる人には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、(失礼に違いない
が……)、都会の生活は、人間の生活ではない。とくにそれを強く感ずるのは、都会で、電車に
乗ったとき。(以下、削除)

●会話
 
 昨日はたまたま仕事が休みだったから、ワイフと二人で、山荘の掃除にでかけた。このところ
の雨つづきで、先週は、その掃除ができなかった。

 その途中、ワイフと、こんな会話をした。

 「考えてみれば、よくあんな山荘を建てたものだね」と私。
 「若かったのよ」とワイフ。
 「今なら、建てるかい?」
 「もう、無理ね」
 「そうだな。人間も、四五歳を過ぎると、急速に気力が衰える」
 「そうなると、もうおしまいね。家でゴロゴロしていたほうが、楽と思うようになったら、おしまい
よ」
 「実のところ、ぼくは、そう思うようになった」
 「いいじゃない、あなたは。したいことをしたのだから……」
 「そうだな」

 たった一〇年前のことだが、夢中で山荘を建てていたころの自分が、なつかしい。本当の自
分だったのかと思うことさえある。

 一度はジャリを運んでいるとき、トラックごと、谷底へ転落しそうになったことがある。毎週の
ように腰を痛め、苦しんだこともある。炎天下でユンボを動かして、日射病になったこともある。

 しかし今となっては、どれもよい思い出ばかり。

 その山荘で、今度、二男の披露パーティを開く。それについてワイフが、「こういうときのため
に、山荘を建てたのよ」と。私は迷わず、「そうだな」と答えた。

 国道二五七号線は、市内から渋川方面へ、引佐町を通り抜けて、北にのびている。もし、そ
のニゴナナを走る機会があったら、「ああ、これがあの道だな」と思い出してみてほしい。浜松
市内から都田(みやこだ)へ抜けるとき、丘の上から、眼下に都田や金指(かなさし)の町が一
望できるところがある。

 私はその景色をみたとたん、浜松市内でのできごとは、すべて忘れる。私にとって、ニゴナナ
は、今でも、「夢」への道だ。
(031016)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(258)

●アメリカ式、夫婦観

 二男の嫁さんを見ていると、日本の若い女性たちより、ずっと、嫁さんらしい。すべてに控え
めで、おとなしい。ヘンダーソン州立大学の文学部を、首席で卒業したというような、雰囲気
は、どこにもない。

 で、今朝、こんな会話をした。

 「日本では、亭主関白という言葉がある。英語では、ショウブニストというのか。あなたを見て
いると、二男の亭主関白ぶりを、容認しているかのようにも見えるが」と、私が言うと、嫁さん
は、こう言った。

 「アメリカでも、中南部では、まだ、男の力が強い。とくに私の祖父がそうだった。それに父も
そうだ」と。

 「男女は、平等ではないのか?」と聞くと、「平等だけど、中南部の州では、まだ遅れている」
と。

 すると、嫁さんが、こんなことを教えてくれた。

 「私の母は、いつも、『夫は、頭(ヘッド)よ。妻は、首(ネック)よ。いろいろ判断するのは夫の
役目だけど、その頭を動かすのは、妻よ』と言っているわ」と。

 英語では、こう言う。

 「The husband is the head of the family but the wife is the neck. And the neck can turn 
the head any way she chooses. 」と。

 もう一つ、こんな言い方も。

 「The secret of being a good wife is to make the husband feel like he is in charge or making 
the decisions. 」

 つまり、「よき妻である秘訣は、夫に、自分の責任を感じさせ、決断をさせるようにもっていく
こと」と。

 「日本でも同じように考える」と話すと、嫁さんは、ニンマリと笑った。

 嫁さんの母親が、日本人形をほしいと言っているので、これからみんなで買いに行くところ。
孫の誠司が、だいぶ、私に心を許すようになってきた。わけのわからない言葉で、私にいろい
ろ話しかけてくる。
(031016)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(259)

演奏

 披露パーティの席で、家族で音楽を演奏して聞いてもらうことにした。今日は、その練習をし
た。

 曲目は、ロッド・スチュアートの「SAILING」。

 ギターは、長男と二男。ドラムは、三男。ボーカルは、私とワイフと、デニーズ(嫁さん)。それ
に孫の誠司。

 誠司は、音楽を聞くと、体をそれに合わせて、スウィングする。おもしろい孫だ。二男の影響
らしい。「おもしろい子だね」と私が言うと、二男は、「アメリカ人の子どもは、みな、そうするよ」
とのこと。どうやら赤ん坊のときから、音楽に対する感性が、日本人とは、違うようだ。

 私の息子たちは、子どものときから騒々しかった。とくに二男は、いつも何かの楽器を鳴らし
ていた。そのため、どんな楽器でも演奏できる。

 で、長男は、長渕剛の大ファン。二男は、ボンジョビの大ファン。そして三男は、スピッツの大
ファン。それぞれ趣向は異なるが、音楽好きであることには、違いない。私は……、と言われる
と少し困るが、合唱団にいたせいか、やはり、その種の音楽が好き。どちらかというと、クラシ
ックのほうが、肌にあっている。あとは、静かな曲。三〇歳を過ぎてからは、好みは、ほとんど
変わっていない。

 こうして家族全員で、演奏するというのも、一〇年ぶりではないか。それぞれがバラバラにな
ってしまってからは、それもできなくなった。いや、本当のところは、いつもバラバラだった。今
も、バラバラ? かろうじて「家族」という体裁をつくっているだけ?

 どんな人も、最初は、自信たっぷりに子育てを始める。「私は、だいじょうぶ」「うちにかぎっ
て、失敗はない」と。実は、私も、そうだった。

 しかし子育ては、図式どおりにはいかない。一つのカベにぶつかると、やがて、つぎのカベに
ぶつかる。そしてまた、つぎのカベ。こうして無数のカベにぶつかっているうちに、いつのまに
か、子育てそのものが、袋小路に入ってしまう。

 気がついてみると、息子たちは、もうそこにいない。ワイフですら、そこにいない。そのときど
きは、遅々として進まない子育てだが、終わってみると、ほんの一瞬。アルバムを見ながら、
「本当にこんな時代があったのか」とさえ思う。

 私は、不完全で未熟な親だった。が、それでも懸命に、生きてきた。懸命に、子育てをしてき
た。そしてその結果として、たいした家族をつくることはできなかったが、しかし今の家族以上
のものを、私は望みようもない。

 「SAILING」をみなで歌いながら、「今が、幸せのときなのかなあ」と、自分にと問いかけてみ
る。

I am sailing, I am sailing,
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.

帆を張り、風を受け、
私は海を越え、家路を急ぐ。
嵐の海を横切り、
あなたに近づくために。
そして自由になるために。

 練習しているとき、ふと目頭が熱くなった。歌詞と、私の心が、どこかで共鳴した。とたん、さら
に目頭が熱くなった。私はますます大声で、歌を歌って、自分をごまかした。が、そのとき、小
節がずれた。

 三男が、ドラムをたたきながら、「ずれた」というような視線を、二男に送った。それを受けて、
二男が、「勝手に歌わせておけ」というような合図を、三男に送った。

 みんなわかっていたが、私は知らぬフリをして、歌を歌いつづけた。
(031016)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(260)

百害無益の国、日本?

 K国が、労働党新聞の中で、「日本は、百害無益の国」と発言した(一〇月一六日)。

 よくもまあ、こうまで言いたいことを、ズケズケと言うものだ。しかも言うべきセリフが、いつも
逆。

 精一杯の虚勢を張り、無理に無理を重ねて、一人前の顔をしている? いじけている? ひ
がんでいる? つっぱっている?

 アジアの中の最貧国。それがK国。K国の朝鮮ウォン(紙幣)は、国際為替相場では、紙くず
同然。実際には、為替相場すら、ない。

 そのK国が、今、懸命にもがいている。あがいている。他国をだますのなら、まだしも、ありも
しない外国の脅威を口にして、自国民までだましている。どこまであわれな国なのか。かわい
そうな国なのか。

 今日もワイフとこんな会話をした。もし日本が、反対に、「K国は、百害無益の国と発言した
ら、どうなるのかね?」と。すると、ワイフは、「ああいう国だから、ギャーギャーと騒ぐでしょう
ね」と。

 それはちょうど、どこかの大ドラ息子が、自分の立場を忘れて、親に向かって、「バカヤロー」
と言っているのに似ている。日本から密輸した製造機や部品で、ミサイルや武器を作りなが
ら、「百害」とは? そうした資金の大半も、日本からのものだというではないか。日本あっての
K国。そういう事実が、まるでわかっていない?

 で、今、ピョンヤンでは、韓国との南北閣僚級会談が開かれている。その席で、K国は、何
と、韓国内の保守勢力(反北団体)の解体を迫ったという。

 朝鮮日報(韓国系)は、つぎのように伝えている。

 「平壌(ピョンヤン)で開かれている第12回南北閣僚級会談の3日目の16日、南北は首席代
表および実務代表接触を行ったが、韓国側の要求した6カ国協議の次回協議受け入れと、北
朝鮮側の韓国内保守団体の解体要求が対立し、これといった進展は得られなかった」と。

 K国は、どこまで「頭がおかしいか」と思う。常識にはずれているというか、狂っているという
か。国際政治の場においても、前代未聞の要求である。

 こうしたこうした「非常識の流れ」の中に、あの拉致(らち)問題がある。ふつうの常識で考え
ていると、何がなんだか、さっぱり、わけがわからなくなる。「家族の返還が無理なら、電話くら
い……」「手紙くらい……」と思うが、そういうことも、禁止している。

かつての日本もおかしかったが、しかしここまで狂ってはいなかった。問題は、なぜ、一つの国
が狂うかだが、それについては、「国」というより、金XXという「独裁者」の性格が、そのまま反
映されているとみるべきではないか。どうやら金XXは、ますます頭がおかしくなったようだ。

 しかし実にやっかいな国だ。まるで、取っても取っても、体に張りついてくる、巨大なヒルのよ
う。その南北閣僚級会談にしても、韓国が、このところ、あわれに見えてきた。「同胞」「同胞」と
すり寄って、何とか、K国をなだめようとしているのだが、それがまるで通じない。通じないばか
りか、逆手(さかて)に取られて、よいように、もてあそばれている。

 しかし、それにしても、時間がない。時間がたてばたつほど、K国は、核兵器の数をふやす。
ミサイルの数をふやす。そしてそのほとんどが、日本をターゲットにしている。今、K国は、まさ
にそのための時間稼ぎをしている。

 願わくば、金XX体制が、自壊すること。願わくば、中国が、再度強力な圧力を、K国に加える
こと。今の韓国は、少なくとも日本にとっては、準K国とみたほうがよい。仮に日朝戦争ともなれ
ば、韓国は、「統一旗」のもと、K国の味方をする。K国も、それを知っている。

 それにしても、「百害無益」とは? しかしこういう言葉は、無視すればよい。無視するにかぎ
る。また無視にまさる、反論は、ない。まさに、たわごと。私たちが今、すべきことは、良識に従
って、正論をぶつけていくこと。拉致問題についても、ただひたすら冷静に、正義を主張してい
くこと。

 頭の狂った人間には、正論ほど、恐ろしいものはない。独裁者には、正義ほど、恐ろしいも
のはない。私たちは、今こそ、その正論や正義を貫くべきときにいる。
(031017)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(261)

子どもの心

●茨城県のWさんより……

 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それに
ついて、考えてみたい。

「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。

数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。
三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。

そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも
嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。
で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。

そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 
そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。

ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。
その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。

ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限
り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと
は考えられない」と言っています。

昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人
の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの
をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。
(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)

お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ
貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。
最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。

私は本人の納得するまで、つまり子どもが、
帰っていいよと言うまで、その場で待っています。
時には降園までそこで待つときもあります。 
私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?
昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。

今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず
「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。
その時の対処法に困っています。

かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。
こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。
かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。

みなにからかわれることもあるようです。

絵日記を見ると、 

『いちりんしゃにのれるようになったよ 
いっしょうけんめいれんしゅうして 
のれるようになったよ 
でも どうして あのこはのれないんだろう』

と書いていました。

そんな、心のやさしい子です。
何かアドバイス頂ければ幸いです。

    茨城県M町、Wより」

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚
園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないの
か」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならな
い。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようにな
るのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」
という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考
えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家
庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全
員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、
ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家
庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず
連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子ども
が、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子ど
もを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この
部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母
の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よ
かれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内
でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身し
ている。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようにな
った。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさ
んの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まっ
たく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」と
か、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、
保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子ども
は、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあ
い、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめ
て、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものご
とは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育とし
て、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコン
の切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回
のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預
かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」
がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

●かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提と
して、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張し
ていただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断するこ
とくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじ
めてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクター
は、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団
恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐
怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、
何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分が
キズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじ
れ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞
こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点につ
いては、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(1)ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙っ
てしまう。

(2)気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに
会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(3)かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくな
る。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(4)かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみるこ
とにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、
立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと
認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、
数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小
学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一
度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかっ
た。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、
幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」
などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意
味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時
期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そ
して自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であること
が多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が
停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あと
は「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どう
にもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私
は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、
入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれし
いです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。
その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。
もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピ
ード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わ
ることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になっ
たり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症
状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決して
いるのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今
度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人
と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自
分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉か
らも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあ
げてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪い
ことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そ
ういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛
情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいる
わけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、あ
りえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許し
て、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろ
つらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このこ
とは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに
気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、も
っておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待
っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理
解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここに
も書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いか
がでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善すると
は、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、
大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじ
らせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたです
よ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識
は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みなが
ら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のな
い子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしその
ようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行け
ばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれませ
ん。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてくだ
さい。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物
園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風
穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不
思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答え
てあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるの
が、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少し
ずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそ
れを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、
何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえていま
す。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だと
いうことです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無
料です。
(031017)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(262)

老後のこと

 ふとんに入ってから、ワイフが、こう言った。

 「C(息子の一人)がね、パパとママが、年をとったら、ぼくが、めんどうをみると言ったわよ」
と。

 Cは、子どものときから、そう言う。で、そのつど、私は、Cに、「そんなことは考えなくていい」
と言う。

ワ「Cがね、ぼくは、将来、横浜に住むことになるだろうって、言うのよ。それで私たちが老人に
なったら、横浜へ来ることができるかって、聞くのよ」
私「横浜か……。横浜では、土地は買えないだろうから、アパートか、マンションになるね」
ワ「そうね。私は、アパートで、いいわ」
私「どうせ、死ぬんだからね……」
ワ「でも、Cが、そんなことを考えているなんて……」
私「あいつは、ぼくに、一番、似ているから……」
ワ「そうね。そんなところが、あるわ」
私「でも、ぼくは、横浜には、住めないと思う」
ワ「でも、老人になったら、そんなことも言っておられないわよ」
私「そうだな。そうなる前に、ポックリと死ぬことができたらいい。みんなに迷惑をかけるものい
やだし……」
ワ「私も、ポックリと死にたいわ。朝、起きたら、死んでいたというような死に方がいいわ」

 私は子どもたちには、いつも、こう言ってきた。「親孝行なんて、くだらないことを考えるな。家
の心配なんて、つまらないことを考えるな。お前たちは、お前たちで、いつも前だけを見て、生
きていけ。パパとママは、自分で何とかするから」と。

 子どもというのは、そういう私とワイフを見ながら、別のことを考えるようだ。しかし、Cがワイ
フに、そう言ったと聞いたとき、正直に告白するが、うれしかった。私はいつも、「私はひとりだ」
と思ってきた。その孤独感が、ふと、やわらいだように感じた。

私「あいつは、まだ自分のめんどうさえ、ロクにみられないのに、もう親の心配をしているのか。
バカなやつだな」
ワ「そうね。自分がめんどうをみられていることを、忘れているみたい」
私「それに、結婚、出産ともなると、いろいろたいへんだぞ。まだまだ、ぼくたちのほうが、Cの
めんどうをみなければならないよ」
ワ「そうね、あてにしてないわ」
私「ぼくも、あてにしてないよ。でも、そう言われると、うれしいものだね」
ワ「そうね。そういうやさしい言葉を聞くと、まだまだがんばらなくちゃ、という気持になるわ」
私「そう。まだ、ぼくは、がんばるよ。あと一〇年は、現役で、がんばってみる」
ワ「無理しないでね」
私「わかっているよ」と。

 ある年齢までは、人は、「親に、めんどうをかけたくない」という思いで、生きる。しかしそのあ
る年齢を過ぎると、今度は、「子どもに、めんどうをかけたくない」という思いに変わる。その年
齢は、やはり五〇歳くらいか? あるいは六〇歳くらいか?

 私にしても、この先、いくらがんばっても、どうにもならない。今まで、がんばってきたが、今ま
で以上に、がんばることは、もうできない。つまり、先が見えてきた。あとは、できるだけ、(終わ
りの時)を、先にのばすだけ。その日その日を、無事に、息子たちに迷惑をかけないように生
きるだけ。

私「子どもにとっても、会うたびに、親が年をとっていくのを見るのは、つらいことだよ。ぼくも、
何度か、そういう思いをしたことがある」
ワ「でも、年齢には勝てないし……」
私「そうだね。ただ、ぼくたちは、死ぬまで、気高く生きようよ。必ず、子どもたちも、それをまね
するようになるからね。本当のところ、自信はないけど、がんばるしかない。結果は、あとから
ついてくるよ」と。

 どうせ生きているのだから、生きるしかない。生きるしかないなら、最後の最後まで、自分の
人生を、まっとうするしかない。途中で、投げ出すわけにはいかない。しかし不思議なものだ。
あれほど死ぬのをこわがってきた私だが、心のどこかで、「もう、じゅうぶん生きてきたではな
いか」と思うようになってきた。「息子たちに、迷惑をかけたくない」と思ったとき、そう感じた。

 ゆっくりと月刊誌を、枕元に置くと、私は電気を消した。
(031018)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(263)

【今週の幼児教室】

●表情

 豊かで、自然な表情は、子どもの財産である。心がまっすぐ伸びている子どもは、表情が、豊
かで、自然。

 「自然」というのは、うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔を
する。

 ……そんなことが?、と思う人がいるかもしれないが、実は、今、その表情のない子どもがふ
えている。表情が、とぼしい子どもや、不自然な子どもも含めると、約二〇%が、そうではない
か。

 今週は、その表情をテーマに、演技の勉強をした。顔の運動、動作など。

 私の教室では、大声で笑い、大声で話すことを、指導の「柱」にしている。心が開放されると、
表情は、自然な形で、あとからついてくる。

 しかし……。

 幼児教育の世界でこわいのは、「仮面」。いわゆるいい子ぶる。そのため何を考えているか、
わからなくなる。

 この仮面がさらにひどくなると、心と表情が、遊離する。さらにその遊離が長期化すると、二
重人格性をもつようになり、それにショックが加わると、多重人格という人格障害者になること
もある。

 決して、安易に考えてはいけない。

 レッスンでは、喜怒哀楽の表現、その動作。動物のまねと進む。コツは、教える側が楽しむこ
と。教える側が恥ずかしがったりしていたら、指導はできない。私は、しかし、そういうことが平
気でできる。

 私の得意芸は、有名人のマネ。オカマや暴力団のマネも、うまい。「先生の頭には、スイッチ
があって、こわい先生も、やさしい先生もできるよ」と言うと、子どもたちは、それを本気にす
る。

 そこで頭のスイッチを動かしたフリをしながら、こわい先生や、やさしい先生を演じてみせる。
こわい先生を演じてみせると、子どもたちは、ゲラゲラと笑う。

 一一月から、年中児のクラスを一クラス、ふやすことにした。何かと、たいへんな時期だが、
ここはがんばるしかない。
(031018)

【補足】心の遊離

教師が子育ての宿命を感ずるとき

●かん黙症の子ども

 かん黙症の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。そ
の無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。

指導といっても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神
経をつかう。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。

が、その年の年末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたこ
とは、「いかにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談
してきた。

「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心
理療法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってし
まいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者
が二人では、私の頭が混乱します」と。

●経過は一年単位でみる

 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽か
ったことに気づく。あとはその繰り返し。

私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝ってはいけません。子どもと視線を合わせ
てもいけません」と言った。が、親には一か月でも長い。一週間でも長い。そういう気持ちはわ
かるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。

一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障
害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、どうだっ
たか」と。

一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわからない。
最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってし
まう。

初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれば、「障害」という
言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えてい
た。

●「そんな冷たいこと言わないでください!」

 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どものかん黙症を、私
は疑った。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音
楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。

それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえ
ます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだ
わっている。

もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってくだ
さい」と言うと、母親は突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 
私を突き放すようなことを言わないでください!」と。

●親は自分で失敗して気づく

 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいてい
の親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化
させる。

それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態になっ
ている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だ
が、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

【参考】

●かん黙児

 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。

 ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。

 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。

 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。

かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(264)

子どもがキレるとき

●躁状態における錯乱状態 

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった
机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、
すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五
六〜一九二六)だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって
交互に、あるいはケースによっては、重複して起こることが多い。それはそれとして、このキレ
た状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若
い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満した状態を、「キレる」と言うこと
が多い。ここでは区別して考える。)

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊
張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」と
いう思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではな
いか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さな
い。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。
一度こういう状態になると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。 

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不
愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑
ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、
「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくできた子どもというのは、
いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でた
め、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知られた例としては、家庭内暴力を起こす
子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコの子のようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、@濃厚
なスキンシップをふやし、A食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネシ
ウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。リン酸は、せっかく摂取したカル
シウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサ
ー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

●人工的に調合するのは、不必要

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(265)

●父親と子

 明日は、二男の結婚披露パーティ。

 今日、近くの魚屋さんに、中央卸売り市場へ連れていってもらった。市場で、現金で買うと、
市価の四分の一程度で、魚介類が買える。

 ズワイガニ、タラバガニ、ホタテ貝、サシミ、手長エビ、マツタケほかを、買った。山荘で、海賊
焼きにする。ワイフの兄弟たちが、手伝ってくれると言った。明日は晴れる。よかった。

 夕方、二男を海から助けてくれた、命の恩人のS夫妻を、市内の料亭に招待した。日本料理
を食べた。

 夜遅く、明日、歌う歌を、家族全員で練習した。曲目は、ロッド・スチュアートの「Sailing」。長
男が、途中で、ハーモニカを吹いてくれることになった。

 ああ、時よ、止まれ!
 神よ、あなたに力があるなら、
その時を止めてくれ!

 私は、子どものときから、暖かい家庭に飢えていた。だから、結婚してからも、暖かい家庭を
つくることだけを考えて、私は、生きてきた。それ以外に、私は、何を求めただろうか。求めえ
ただろうか?

 しかし、それはまさにイバラの道だった。
 原因は、ほとんど私にあった。私というより、私の中の脳ミソの中にあった。
 私は、ひどい父親だった。ひどい夫だった。
 
 みんなで、歌を練習しているとき、何度も、目頭が熱くなった。もし人生に最良の瞬間がある
とするなら、まさにこのときではないか。このときをのぞいて、ほかに、いつがある?

 ああ、家族を愛せよ!
 神よ、あなたに力があるなら、
 私の家族を愛してくれ!

 長男が部屋にもどり、二男夫婦が、部屋に戻った。

 私は居間に残った、三男に、こんなことを話した。

「仕事が終わると、自転車のカゴに、おもちゃを入れて、家路を急いだことが何度もある。家に
帰ると、いつも、お前たちが、『パパ、お帰り!』と言って、胸に飛びこんできてくれた。いや、お
前に、恩を売っているのではない。反対だ。お前たちは、このぼくに、生きがいをくれた。それ
に感謝している。ぼくは、夢中で、お前たちを育てた。今となっては、どう育てたか、よく覚えて
いない。しかし、お前たちのおかげで、本当に、毎日が楽しかった。ありがとう」と。

Sailingの最後は、こういう歌詞になっている。

Oh Lord, to be near you, to be free.
Oh Lord, to be near you, to be free,
Oh Lord.

 オー主よ、あなたに近づくために、自由になるために、
 オー主よ、あなたに近づくために、自由になるために、
 0−主よ!

 神よ、あなたに、本当に力があるなら、
 私にその姿を見せてほしい。
 そのとき、私は、喜んであなたの僕(しもべ)になろう。
 本当に、その力があるなら……。

 二男に、「どうすれば、クリスチャンになれるのか?」と聞く。すると、二男は、「聖書なら、どこ
でも読める」と。

 長い沈黙のあと、今度は、二男が私に聞いた。「パパは、神を信ずるのか?」と。しばらく考
えて、私はこう言った。

 「お前が、私に教えてほしい。覚えているか? お前がアメリカへ旅立つとき、ぼくは、お前に
こう言った。『お前は、ぼくが見ることができないものを、見る。ぼくが知ることができないもの
を、知る。それを見たり、知ったりしたら、それをぼくに話してほしい』と。その気持は、今も変わ
らない。もし、お前が神を信じているなら、どうか、それをぼくに話してほしい。お前なら、ぼく
は、従ってもいい」と。

ほかの人に言われて、神を認めるなら、それは敗北。しかし私が心から愛してやまない息子に
教えられて、神を認めるなら、それは、喜び。私は進んで、息子に従うだろう。
(031018)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(266)

幸福なとき

 文章を書くといっても、それなりの緊張感がなければ、書けない。が、その緊張感が、今朝
は、ない。

 時刻は、午前五時半。いつもは、こうして七時すぎまで、文章を書く。それから朝食。少し仮
眠。入浴。

 頭は、それなりにさえているが、テーマが浮かんでこない。心のどこかに、書こうとすることは
あるのだが、いざ書こうとすると、「前にも書いたことがあるではないか」「そんなことを書いてど
うするのか」と、ブレーキが、働いてしまう。

 なぜか?

 昔、「人生は、日々、反省」と書いた人がいた。私のばあい、翌日の朝、その前日を反省す
る。で、昨日は、いろいろ、反省すべきことが、あった。どうやら、それが私の気分を重くしてい
るようだ。

【反省一】
 
 昨夜、二男夫婦と、ワイフと私の四人で、二男を海から助けてくれた、Sさん夫婦を、会食に
招待した。

 その席でのこと。帰りがけに、Sさんが、二男に、お金の入った、袋を渡した。私は、それをか
たく断ったが、しかしそれには限界があった。

 Sさんは、二男に、「お祝いです」と言って渡した。私にではなく、二男に、だ。それを最後の最
後まで断る勇気というか、がんばりは、私にはなかった。夕食に招待したはずだが、かえって、
Sさん夫婦に、迷惑をかけてしまった。

 私がしたことは、過干渉だったのか? それはSさんと、二男の間のできごとで、私には本
来、関係がないはず。いや、それ以上に、今、気を重くしているのは、どうして、もっと、しっかり
と断らなかったかという思い。悔恨。一方、Sさん夫婦は、帰りの車代すら、受け取らなかった。

 本来なら、Sさん夫婦には、私の全財産をはたいても、礼をしなければならない。あの事件
は、私の生涯においても、そういう事件であった。

【反省二】

 昨日、市内のT中学校区で、講演会をした。

 私は、別の話をするつもりだったが、会場で見ると、六〇、七〇歳代の年配の方が、五〇〜
六〇人も来ていた。地域の消防所長や、市議会議員のみなさんも、来ていた。二五〇人前後
と聞いていたが、実際には、六〇〇人近い人たちが、来ていた。

 それで、予定していた話をとりやめ、「家族主義」について、話した。こうした変更、つまり会場
の様子をみてテーマを変えるということは、私のばあい、よくある。

 会場は、体育館だった。また、昨日は、二男夫婦と、三男が、講演を聞きにきてくれた。それ
はそれでうれしかったが、そのできが、あまりよくなかった。

 帰りに二男と、三男が、まさに言いたい放題。「何でもいいから、批評してくれ」と、一応、言っ
たのだが、それについて、「パパは早口だ」「間の取り方がへただ」「声が高くて、重みがない」
「テーマから、話がそれていた」「具体例が多すぎる」「言葉が、ていねいすぎる。もっと、くだけ
た言い方をしろ」「パワーポイント(パソコンソフト)を使って、もっと視覚的に講演しろ。アメリカ
では、もう常識だ」「アメリカといっても、いろいろな人がいる。アメリカ人は……という言い方
は、正しくない」などなど。

 出るわ、出るは、悪口ばかり……?

 それで、すっかり、自信をなくしてしまった。ワイフも、ときどき、批評してくれるが、ここまでズ
ケズケとは言わない。私は、「そうだな」「そうかな」と言いかえすだけで、精一杯。

 ただ、時間が少なかった。一時間と少し。時計を見ながらの、講演になってしまった。しかも、
だ。その時計を、控えの机の上に置き忘れてしまった。講演の途中で、その時計を、取りにも
どるという、大失態を演じてしまった。

 息子たちの採点では、六〇点くらいとのこと。ワイフは、いつも、八〇点くらいと言ってくれる
のだが……。その講演のあと、息子たちの前では、明るく振る舞ったが、しかし落ちこんでしま
った。それが今朝もつづいている。

 講演というのは、これがこわい。成功したときの喜びよりも、(それは、めったにないが…
…)、こうして失敗したときの苦しみのほうが、はるかに、大きい。

【反省三】

 ほかにも、いろいろプライベートなことで、反省すべきことが、多い。どうも、このところ、人間
関係が、スムーズに流れない。ぎこちない。どこかで、ぎくしゃくしてしまう。

 どうしてだろう。どこに、原因があるのだろう?

 忙しいということもある。そうそう理由の一つに、返事を書かねばならない手紙が、横に、五、
六通もたまっていることがある。

 インターネットの時代と言いながら、実際には、まだ封書による手紙も、多い。ところが、イン
ターネットの返事と違い、封書の手紙による返事は、どうしても、あと回しになる。それで、そん
なにたまってしまう。T先生は、もう三通も、手紙をくれている。が、私は、まだ返事を書いてい
ない。

 で、「この原稿を書き終えたら、返事を書こう」と思うのだが、実際には、書き終わると、別の
ことをしてしまう。よく宿題がたまって、にっちもさっちもいかなくなる子どもがいる。そういう子ど
もの心理が、こういうとき、よくわかる。ゆううつなもものだ。

 人間というのは、人間どうしのつながりの中で、生きていくもの。そのつながりがなければ、仮
に生きていたとしても、生きていることには、ならない。たとえば近所に、ほとんど人づきあいを
しないで住んでいる夫婦がいる。訪れる人も、めったにいない。

 そういう夫婦を見ていると、「人間とは何か」と、改めて、考えさせられてしまう。それはたとえ
て言うなら、お金のようなもの。お金というのは、じょうずに使って、はじめて、生きる。金庫の
中に、ためるだけでは、お金ではない。人生も、そうだ。

 さて今日は、これから二男の結婚披露パーティ。つまりはそれにかこつけた、兄弟会かもし
れない。その準備をしなければならない。時刻は、六時半。

 書いた原稿を見て、「一時間で、今朝は、これだけしか原稿が書けなかったのか」と、今、ふ
と、思ったところ。
(031019)

++++++++++++

T先生へ、

 手紙を、三通もいただきながら、返事もかかず、失礼しました。ずっと、気にはなっていまし
た。で、今朝こそ、返事を書かねばと思い、筆をもちました。

 今朝は、快晴になるとか、窓の外には、きれいな青空が見えてきました。時刻は、午前六時
半。下の台所で、ワイフが、朝食の準備を始めたようです。ときどき、ガチャガチャという音が
聞こえてきます。

 実は、今日は、これから二男の結婚披露パーティがあります。いつか来ていただいた、あの
山荘で、ワイフの親戚だけを集めて、します。突然、思い立ったようなパーティで、岐阜の私の
親類は、今回は、呼んでいません。

 私も、浜松での生活が、三四年目になり、ここでの生活がすっかり定着してしまいました。今
では、岐阜に帰っても、ほとんど、なつかしいとは思わなくなりました。高校時代の同窓生に会
っても、「こういう人もいたのか?」と、かえって、おかしな気分にとらわれます。

 二男の嫁さんは、アメリカ人です。昨夜も、鳥善レストランで会食をしましたが、日本の女性よ
りも、はるかに「大和なでしこ」といった、つまりは、信じられないほど、日本的な女性です。二
男自身も、そう言っています。控えめで、おしとやかで……。

 昨夜も会食の間中、じっと、座って、席に座っていました。で、話を聞くと、アメリカでも中南部
の州では、まだ男尊女卑思想が根強く残っていて、男がいばっているのだそうですね。アメリカ
と言っても、広いですから……。それこそ、日本、中国、東南アジアを含めたくらいの広さがあ
りますから……。そういうところで、鍛えられたようです。

 で、昨夜、家族で、今日、みんなで歌う歌の練習をしました。英語の歌ですが、さすが、嫁さん
は、英語がうまいです。「あなたの英語は、うまいね。浜松で、ぼくよりじょうずに英語が話せる
のは、あなただけだ」と言ってやりましたら、うれしそうに笑っていました。

 先生のご家族も、国際的になりましたね。ロシア人の嫁さんは、もうロシアにお帰りになりまし
たか。一度、ロシアに帰国すると、先日、奥様のほうから聞いていましたので……。これからロ
シアも、寒くなります。

 仕事のほうは、順調というわけでもないですが、こういうご時世ですから、ぜいたくは言ってお
られません。朝起きたとき、仕事があるというだけでも、感謝しなければなりません。私の大学
の友人たちは、民間企業に勤めた仲間は、ほとんど全員が、今ではリストラされ、それぞれの
就職先で、仕事をしています。

 私はもともと、風来坊。万年失業者のようなものですから、リストラには縁がありません。それ
がよかったのか、悪かったのかはわかりませんが、「人生って、こんなもの」と、ヘンに納得して
います。

 今は、健康だけです。それを大切にしています。

 そう言えば、このところ、Kさんにお会いしていませんが、お元気ですか。多分、お仕事が忙し
いのだろうと思います。お子さんたちは、皆、元気です。街で、顔を合わせたりすると、「先
生!」と言って、あいさつをしてくれます。

 多分、今日一日が終わると、ガクリとくると思います。何だか、今日一日で、人生のすべてが
終わるような、そんな感じです。明日からの予定が、まったく立ちません。

 今、ワイフが、台所のほうで、私を呼びました。あれこれ手伝ってきたところです。日も高くな
り、朝日が、カーテンに影をつくりました。今日は、忙しい一日になりそうです。どうか、先生も、
お体を大切に。奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。

 今日は、これで失礼します。

   一〇月一九日                    はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(267)

「許す」ことのむずかしさ

 人を許すことのむずかしさ。それを、私はいつも、実感する。

 で、その先というか、「許したあと、どうするか」という問題もある。許したからといって、そのあ
と、ベタベタつきあうということでもない。許したあと、そのまま、その人と、交際しなくなるという
こともある。また交際しなけばならないということでもない。あとは、自然体でいけばよい。

 問題は、親子や、兄弟。さらには親類である。

 A氏(四五歳)は、弟のB氏(四四歳)と、絶縁関係にある。遺産相続にからむ、金銭問題が
原因であった。弟のB氏が、詐欺師に近い人物で、逮捕歴も一度ある。暴力団とも関係したこ
とがある。

 A氏は、B氏に、一〇〇〇万円近い、お金を貸している。「返してほしい」と言うと、そのつど、
あれこれ、とぼけて、まったく取りあおうとしないという。

 そういうB氏を、A氏は、何度も許した。「恥もかきました」「女房の親戚には、いつも肩身の狭
い思いをしています」と。

 で、A氏は、B氏とかかわりたくないと思っているが、B氏のほうは、そうではない。何かと、実
家の問題にかこつけては、A氏のところにやってくる。母親は、今年、七〇歳になるという。元
気である。

 「こういうケースでも、許さねばならないのか」と。

 しかしA氏は、すでに許している。今でも、兄弟関係をつづけているということ自体、その証拠
である。

 ただその先、つきあうかどうかは、別の問題。許したからといって、つきあわねばならないと
いうことではない。つきあいたければ、つきあえばよい。つきあいたくなければ、つきあわなくて
もよい。無理をしてはいけない。無理をする必要はない。たとえ弟でも、「つきあいたくない」とい
うことであれば、それでよい。

 今でも、親子、兄弟、親類の、つまりはドロドロのしがらみの中で、もがき苦しんでいる人は、
五万といる。関係が、良好な人のほうが少ないのでは? 他人なら、そのまま別れることがで
きるが、血縁関係にあると、それもできない。世の中には、親をだます子どももいるが、子ども
をだます親だっている。決して、きれいごとばかりでは、通れない。

 しかし許すということは、自分の心を掃除するということにもなる。うらみ、つらみは、いわば
心のゴミのようなもの。そういうものが多ければ多いほど、心は腐る。私もある時期、数か月に
わたって、ある人をうらんだことがある。

 しかしそういうときというのは、あとから思い出しても、いやなもの。ワイフに言わせると、当
時、私の顔まで、醜くなったという。

 だから許す。どうせ人生は、短い。あの小泉さんも、ブッシュさんも、金XXも、あと三〇年をま
たずして、この世から、消える。私も消える。この文を読んでいる若い母親にしても、あと五〇
年で消える。みんな消える。

 だったら、「今」というときを、できるだけ充実させて、生きるほうがよい。うらみ、つらみは、そ
ういう人生にとって、マイナスになることはあっても、プラスになることは、何もない。

 ……といっても、人を許すということは、むずかしい。本当にむずかしい。毎日が、その戦い
であるといってもよい。私が望まなくても、問題は、そのつど、向こうから、打ち寄せる波のよう
にやってくる。そしてそのつど、その波に巻きこまれてしまう。

 今日も、がんばるしかない。「許す」というのは、まさに「生きることにまつわる、避けて通れな
い問題」ということになる。
(031019)

【追記】

 この「許す」についで生まれる問題が、「忘れる」ということである。

 許すことはできても、忘れることができないということは、いくらでもある。ここに書いたA氏に
しても、許してはいるが、忘れてはいないということになる。この「忘れる」という部分について
は、また、別の機会に考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

これについて、以前、書いた原稿を添付します。
中日新聞に発表したものです。
子育てで行きづまりを感じたようなとき、
どうかご一読ください。

+++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛  
  
 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。

そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。

いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私の
ものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そし
て祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れ
ているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自
分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。

が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがあ
る。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返してい
ると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万
人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに
対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場
で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。

子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づい
たとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教
えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(268)

バラバラになっていく家族

 家族も、いつか、バラバラになっていく。息子たちも、一人去り、また一人と去っていく……。
気がついてみると、家庭から笑い声が消え、台所のテーブルには冷えたおかずと、食べかけ
たパンが並ぶようになる。

 いくら電気を明るくしても、もうあのころの明るさは、戻ってこない。しかしいくら「時よ、止ま
れ」と叫んでも、時は、手のひらからこぼれる砂のように、そのまま流れていく。

 私は、必死で、家族を呼び止める。しかしそこにあるのは、秋の乾いた風。いつしか、息子た
ちの心も離れ、私から去っていく。私の知らない歌を歌い始め、私の知らない人物の名前を語
り始める。そして私の知らない世界へと、飛び立っていく。

 生意気になる息子たち。勝手なことし始める息子たち。しかしそんなとき、私は、ただひたす
ら「許して、忘れる」。それだけを、心に念ずる。何を言われても、何をされても……。ただひた
すら、許して忘れる。

 これが家族なのか? これが私が求めてきた家族なのか? 親の愛だけで、家族は守りき
れるものなのか?

 二〇歳をすぎたころから、私とは、ほとんど口をきかなくなった、長男。七年前に、アメリカへ
旅立った、二男。大学へは入ったものの、中退してパイロットになると言い出した、三男。

 それぞれが、私の願いを、どこかで踏みにじりながら、自分の道を歩み始めた。そういう息子
たちを見ながら、「これが私が求めてきた家族か?」と、自分に問いかける。

 昨日、二男の結婚披露パーティを開いた。アメリカ人の嫁さんに、あなたはみんなに歓迎され
ているということを、伝えたかった。それにワイフの兄弟たちが、協力してくれた。で、山荘で、
そのパーティを開いた。兄弟の家族など、二〇名近くが集まってくれた。

 嫁さんと二男は、和服を着た。嫁さんは、振袖。二男は、袴。最初は、「そんなの、いやだ」と
言っていた二男だが、当日は、うれしそうだった。みなが、「すてきだ」「美しい」とほめたから
だ。

 ワイフの兄弟は、みな、心のやさしい人たちだ。お祝いのごちそうを、重箱にして届けてくれ
た人。手作りのプレゼントを作ってくれた人。ケーキを作ってくれた人など。

 庭での会食のあと、部屋で、宴会を開いた。そのときのこと。長男が、ホタテ貝をむいて、私
のところにもってきてくれた。二男は、あれこれとみなに、給仕してくれた。三男は、もっぱら、
接待係。

 そして私たちは、全員で、あの「Sailing」を合唱した。

 一番を、三人の息子が歌い、二番を二男、三番を嫁さん、四番を、ワイフと私。五番を長男
のハーモニカのソロ。三男が、ギターを弾いた。

 そして六番、七番は、全員で合唱。二男と嫁さんが、それにハーモニーを添えてくれた。あの
バラバラだった家族が、あのどうしようもないほど、バラバラだった家族が、そのとき、一つにな
った!

 私はその歌を歌いながら、何度もこみあげる思いで、声がつまった。だから歌が歌えなく、口
だけを動かした。

 ……その夜、寝る前に、ワイフに、「今日は楽しかったね」と言うと、ワイフもうれしそうだっ
た。さらに床についてから、「今日は、ありがとう」と声をかけると、「いざとなったら、みんな、力
になってくれるわよ。だって、私たちは、みんな家族だから」と。

 人生に最良の日があるとするなら、まさに昨日が、そうだった。私は、何度も、ふとんで顔を
おさえながら、鼻歌で、「Sailing」を歌った。

 ワイフよ息子たちよ、ありがとう!
 兄弟のみなさん、ありがとう!
 日本のみなさん、ありがとう!
 アメリカのみなさん、ありがとう!
 世界のみなさん、ありがとう!
 この命をくれた、宇宙のみなさん、ありがとう!

●みなさんへ、

 どんなに、今、家族がバラバラで、その心がバラバラでも、許して、忘れる。決して、あきらめ
ては、いけませんよ。あとは、根くらべです。負けても、負けても、ただひたすら負ける。

 許して、忘れる。ただひたすら、許して、忘れる。その道は、決して楽な道ではありません。し
かし、ただひたすら、許して、忘れる。そのハバの広さが、結局は、親の愛の深さになるのです
ね。そしてその愛は、子どもの、心を、必ず、溶かします。どんなかたい心でも、溶かします。そ
れを信じて、ただひたすら、許して、忘れる。

 がんばりましょう!

+++++++++++++++++++++++++

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。

しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよ
うに、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。

同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。

もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。

子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題
を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
(031020)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(269)

●たき火の哲学

 私は山荘では、よく、たき火をする。

 もっとも、そのあたりでは、たき火は、禁止。村の掟(おきて)らしい。

 そこで私は、たき火コーナーを、韓国産の石で、半径二メートルほどをおおい、さらに全体を
小さな島のようにして、庭から独立させた。周囲をぐるりと道路で囲み、そこには、ジャリを敷い
た。

 また二か所に、水道の蛇口をとりつけ、万が一のときは、すぐ消せるようにした。ほかに水を
張ったバケツを三個、近くに置いた。で、何となく、村の人たちの暗黙の了解をとりつけ、その
たき火を楽しんでいる。

 そのたき火には、不思議な魅力がある。

 夏の夜など、真っ暗な闇の中で、パチパチと燃えるたき火の炎を見ていると、「人生」そのも
のを感ずる。うまく表現できないが、生きることの原点というか、そんなものを感ずる。

 さみしいときには、そのさみしさが、倍化される。人恋しいときには、その恋しさが、倍化され
る。悲しいときや、つらいときもそうだが、そういうときは、たき火をしない。気がヘンになってし
まう。

 いつか、だれかが、「水は、こころをなごませるが、火は、心を躍(おど)らせる」と言った。そ
れはそのとおりだと思う。水は、永遠不滅の真理を表し、火は、躍動する、生きるエネルギーを
表す。

 このたき火は、一見、簡単そうだが、実は、そうではない。まず、火のつけ方がむずかしい。
つぎに木の選び方がむずかしい。燃え出したとき、どのようなタイミングで、どのような木を加え
るかも、むずかしい。もちろん、そのときの気象条件も、重要である。

 湿った日や、小雨の日は、さらにむずかしい。雨に濡れた木を、うまく燃やすのは、もっとむ
ずかしい。

 ???

 雨に濡れた木をどうやって、燃やすかという質問が出そうなので、説明させてもらいたい。

 たき木が雨に濡れて、たき火ができないときは、周囲の、生きている木の中の、枯れた枝を
折って、それを使う。近くに、雑木などが立っていたら、下のほうをさがす。たいてい枯れた枝
がみつかる。そういう枯れた枝は、濡れているといっても、表面だけ。火をつければ、すぐ燃え
出す。

 このことは、近くに住んでいる、農家のKさんに教えてもらった、などなど。

 ほどよい炎(ほのお)で、ほどよく燃えるためには、それなりの苦労が必要である。何でも、日
本には、「たき火学会」という「会」すらあるという。つまりそれくらい、奥が深い。決して、軽く考
えてはいけない。

 と、もう少し先を書くつもりだったが、ここで寄り道。

 たき火コーナーの作り方も、これまた奥が深い。どういう石を使って、どのような形にするか。
さらにその上に、どういう形のコンロをつくるか。また掃除がしやすくするために、全体をどうい
う形にするか。

 石の選び方をまちがえると、水をかけたとたん、バリバリと割れてしまう。形が悪いと、ナベや
調理器具が、うまく使えない。さらに排水口をしっかりと作っておかないと、雨水で使い物になら
なくなったり、つまったりする。

 排水口にしても、出口のところは細くして、そこからが数倍太いパイプでつなぐのが、コツ。そ
うすれば、あとで掃除もしやすい……というようなことは、説明しても、意味がないので、ここま
で。

 しかし最大の問題は、実は、消火である。

 たき火をするときは、この消火をいかにていねいに、つまり徹底的にするかが、重要。私は
いつも、水をかけて、消火するとき、こう念じている。

 「消えたと思ったら、もう一回、念のため。これは小枝のため。さらにもう一回、念のため。こ
れは中枝のため。さらにもう一回。これが大枝のため。青い煙が消え、白い蒸気が消えても、
もう一回、念のため。これは火事を防ぐため」と。

 一度、燃えた木は、恐ろしい。小さな種火が、木のシンの中で燃え残り、一晩をまたいで、翌
日になって、大きく燃え出すということは、よくある。私も何度か、失敗した。

 こまかい砂地の上でたき火をした。終わってその火を、足で踏んで、消した。……消したと思
った。しかし種火が、砂の下で生き残っていた。そしてその種火が、砂の下をくぐり、少し離れ
たところにあった、枯草を燃やした。

 その間、数時間。ちょうどタバコの火のように、チリチリと燃えていったのではないかと思う。
気がついたときには、土手に燃え移るところだった。あと五分、発見が遅ければ、大惨事にな
っていたと思う。

 浜松市の北で、大きな造園業を営んでいる、O氏(六四歳)は、こう教えてくれた。その道のプ
ロである。

 「決して、切った木を燃やしてはいけないよ。火は、こわいよ。だから私も、切った枝は、全
部、もって帰ることにしているよ」と。

 プロでさえ、そうである。いわんや、素人がしてはいけない。とくに山のたき火は、こわい。だ
からいかに消火をするか。それは、たき火をする人間にとって、たいへん重要な問題である。

 『よきたき火は、完全な消火で終わる』は、私が考えた格言である。ともあれ、私は、そのた
き火が、大好き人間の一人である。
(031020)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(270)

●二男夫婦が、明日、帰る

 ほっとしたような、それでいて、つかみどころのないさみしさ。今、この二つの気分が、心の中
で、入りまざっている。

 今度、会えるのは、一年後か。それとも二年後か。もっと長く、日本にいてほしいが、私のた
めにいてくれと言うのも、つらい。(それに孫の世話もたいへん!) 

二男には、二男の人生がある。アメリカにひとりで住むというのも、心細いことだろう。しかしそ
の心細さは、私も、同じである。いざとなったら、家族が助けてくれる。それを願っているわけで
はないが、しかしそういう可能性があるというだけでも、どこか心強い?

 地球は小さくなったとは言うが、感覚だけは、昔のまま。私にとってのアメリカは、まだまだ遠
い国。飛行機で、一四時間というが、その飛行機に乗るのも、たいへん。実際には、現地へ着
くまでに、ちょうど二四時間(丸一日)かかる。

 考えてみれば、私が学生のころは、アメリカへ行くというだけでも、夢物語だった。当時、大卒
の初任給が、六万円前後。五万円台が多かった。そういう時代に、アメリカのニューヨークで働
く大卒の初任給は、一七・五万円! 日本から、ニューヨークまでの旅費も、ちょうど、一七・五
万円。

 私はこうした数字を見ながら、「アメリカ人は、一か月分の給料で、日本へ来ることができる
のか」と、うらやましく思ったことがある。私は、貨物船で働きながら、アメリカへ行くことさえ、考
えていた。

 が、今では、格安チケットだと、(その季節にもよるが)、往復、六、七万円で行ける。安い額
ではないが、新幹線の料金とくらべると、メチャメチャ、安い。ちなみに、浜松と東京を新幹線で
往復すると、一万六〇〇〇円もかかる。その四倍程度の金額で、アメリカを往復できる!

 こうして考えていくと、「アメリカ、アメリカ」と、こだわらなければならない理由など、ない。ちょ
っと遠い、北海度と思えばよい。この先、その気になれば、いつだって、往復できる。「別れる」
などと、おおげさに考える必要はない。だいていにおいて、当の本人たちは、ケロッとしている。

 今夜も、嫁さんが、だれかがくれた羊羹(ようかん)や本を、めざとく見つけて、「もらっていい
か?」と聞いた。このところ、我が家にすっかり打ち解けて、炊事を手伝ったりしてくれている。
コタツの中に入って、居眠りをしていることもある。

 そうそう、驚いたのは、居間のソファで、二男に、(堂々と!)、足の指の爪を切らせていたこ
とだ! あとでワイフが、「日本では考えられないこと」と、言っていた。そういう光景は、アメリカ
では、ごくふつうのことらしい? 「昔なら、そんな嫁さん、家からたたき出されただろうね」と、
私が言うと、ワイフは、ケラケラと笑った。

 ともかくも、明日で、アメリカへ帰る。長かったような、それでいて短かったような三週間だっ
た。そして明日から、また以前のような、静かで、単調な毎日が始まる。それを望んでいるわけ
ではないが、単調な生活には、それなりのよさがある。ほっとした気分は、どうやら、そのあた
りから、生まれてくるらしい。
(031020)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(271)

●将来なりたい職業は「公務員」(男子)、「保育士」(女子) 

TBS社が、高校三年生について調査したところ、つぎのような将来像をもっているのが、わか
った(03−10−20)。

 「将来就きたい職業の一位は「公務員」と「保育士」。高校三年生を対象にした進路について
のアンケート調査で、厳しい雇用環境の中、安定したイメージの職種が上位に並んだ。

 アンケート調査は、全国四〇〇人余りの高校三年生と、その保護者を対象に行われた。そ
の結果、「どんな仕事に就きたいか」という質問に対し、一位は男子が「公務員」、女子は「保育
士・幼稚園教諭」となった。以下、教師や看護師など、資格が必要で安定したイメージの職業
が上位を占めた。
 
 三年前の同じ調査では「ゲームクリエイター」「カウンセラー」などの いわゆるカタカナ職業が
目立ったが、今回は少数派。
 
 一方で、「なりたくない職業」には男子の「サラリーマン」などが挙げられていて、 身近な大人
の仕事を、魅力に思えないという現実もうかがえる」(i−newsより、転載)と。

●サラリーマンがいや?

 この調査で気になったのは、「サラリーマンがいや」と答えた高校三年生や、親が多かったと
いうこと。わかるような気もするし、しかし、同時に、「どうして?」とも、思う。公務員にしても、保
育士にしても、サラリーマンであることには、違いない。

 公務員志望が多いということは、要するに、お金はほしいが、働きたくないということか。教職
員のように、忙しすぎて悲鳴をあげている公務員(※)がいる一方で、「毎日、どうやって時間を
つぶすか、そればかりを考えている。パソコン相手にゲームをしていても、だれからも文句を言
われない」(G県、検査課、課長)と言う公務員もいる。

しかし、この日本では、悲しいかな、公務員は絶対、得! 公務員になれるのなら、なったほう
がよい。仕事は楽だし、給料も、よい。少しきつい仕事だと、年収、一〇〇〇万円はふつう。た
とえば清掃作業にたずさわる公務員などは、年収、一二〇〇万円前後にもなるという(週刊誌
情報)。「仕事は、一日、数時間程度。昼過ぎには風呂に入って、毎日、定刻に、家に帰る。残
業など、いっさい、なし」(同記事)と。

 ちなみに、東京都の船橋市は、職員給与を、ホームページ上で公表しているが、それによっ
ても、全職員一人あたりの所得給与は、平均、八〇二万六〇〇〇円(期末、勤勉手当などを
含む)だそうだ(〇二年度実績)。

 大卒の初任給が、二〇万円程度だから、反対に考えると、年収、一〇〇〇万円以上もザラと
いうことになる。もちろんリストラもない。退職金にいたっては、民間平均支給額の数一〇倍以
上(東京江東区)。さらに生涯にわたって、手厚い年金が保証され、加えて、天下り先も用意さ
れている。

 一人ひとりの公務員の方に責任があるわけではないが、こんなことをつづけていれば、日本
の経済は、確実に破綻(はたん)する。いや、旧国鉄の債務問題をみるまでもなく、すでに破綻
している。

たとえば私の近所に住むK氏(八一歳)は、二六年前に、満五五歳で、旧国鉄を退職してい
る。以後、毎月、三四万円の年金を受け取っている。その合計金額だけでも、一億一〇〇〇
万円程度になる。そのせいかどうかは、知らないが、旧国鉄の債務だけでも、とうとう二〇兆円
を超えてしまった! (国家税収の約半分だぞ!)

 K氏は、「私ら、戦争で苦労したし、安い給料でがんばりましたからね。今、もらっているお金
にしても、収めた分を、返してもらっているだけです」と言う。しかし、本当にそうだろうか。いろ
いろ言いたいことはあるが、まあ、この話は、ここまで。

 官僚主義国家と言えば、まだ聞こえはよい。しかしその実態は、旧ソ連の、共産主義国家
と、それほど違わない。日本は、本当に、民主主義国家なのだろうか? 公務員という職種
が、人気職種のナンバーワンになって、もう一〇年以上になる。その話を聞くたびに、私の頭
の中では、「?」マークが、ウズを巻く。
(031021)

※……そのため、ほとんどの自治体では、教職員だけは、一般公務員より、約二〇%ましの
給与体系をとっている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(272)

【Q&Aについての、お願い】

 マガジン読者の方から、毎日、いくつかの質問をいただきます。ありがとうございます。今のと
ころ、「マガジンの読者だ」と言ってくださった方からの、ご質問については、すべて回答を書い
ています。

 つきまして、以下のことを、お願いしたのいですが、よろしくお願いします。

(1)みなさんからのご質問は、原則として、マガジンの掲載記事として、引用させていただきま
すので、よろしくご了解ください。またそういう前提で、回答を書かせていただきます。そのた
め、プライベートな部分は、質問を寄せてくださる方のほうで、どうか、適当に、改変してくださ
い。たとえば家族構成や、職業など。ご住所、名前については、私のほうで、責任をもって、適
当に、改変します。

(2)つづけてご質問をいただくことも、このところふえてきました。しかしながら、「先日、相談し
ました、○○県のAAです。そのあと、あの問題は……」などというメールをいただくと、率直に
言って、たいへん困ります。いただいたメールは、そのつど、返事を書いた段階で、削除してい
ます。またマガジンに掲載した記事では、住所も名前も、改変してあります。そこで、そのたび
に、あちこちをひっくりかえして、その方のメールをさがさねばなりません。実のところ、これが、
たいへんな作業なのです。ひとつの方法としては、以前のメール、回答などを、そのまま末尾
に添付してくださると、うれしいです。

(3)ご質問には、ご住所、名前を、必ず、明記してください。イニシャルだけで、中には、「SUZ
UKIより」というような書き方で、相談をくださる方もいらっしゃいます。返事を書いていても、た
いへん不安になります。そんなわけで、今後は、やはり、ご住所、名前のない方からの、相談
は、いっさい、お断りすることにしました。返事を書くこともありません。しばらく時間をおいて、
そのまま削除させていただきます。改めて、ここで再確認させてください。

(4)「ホームページやマガジンへの掲載は、ダメ」「引用も、断る」という方からの相談は、テー
マとして、マガジンのほうで、取りあげさせていただくということで、ご了解ください。直接、返事
を書くということは、時間的にも、無理です。どうかご理解の上、お許しください。

(5)テーマとして、相談してくださるようであれば、掲示板に書き込みをしてくださるのが、一番
よいかと思います。私のほうも、掲載の了解を取るなどの手間が、はぶけます。いかがでしょう
か? たとえば「双子の姉妹の問題を取りあげてほしい」「嫁姑の問題を考えてほしい」などと
書き込みをしてくだされば、うれしいです。

(6)また、このところ、私がもっている資料などを、「送ってほしい」という方が、たいへんふえて
います。実のところ、印刷代、郵送代、手間などが、かなりの負担になってきました。で、今後
は、お断りすることにしました。(ホームページのほうで、「送る」と書いてから、もう三年になりま
す。当初は、すべての方に、無料で送っていましたが……。近く、ホームページのその部分を、
削除するつもりでいます。)申し込んでくださった方には、たいへん申し訳ないのですが、そんな
わけで、どうか、お許しの上、ご勘弁ください。

 今後とも、気持ちよく、Q&Aコーナーを、運営していくためにも、皆さんの暖かいご理解が必
要です。以上、よろしくお願いします。
(031021)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(273)

●園の方針

はじめまして。
はやし先生にぜひご相談したく、メールさせていただいています。

私はH市に住んでいます、EAと申します。

はやし先生のことは中日新聞の連載を読みとても共感でき、勉強にもなり、
S町で、行われた講演会にも参加させて、いただきました。

今は、三年生の二男が、月刊雑誌「ファミリス」をもってきています。

今回ご相談したいことは。幼稚園の園長先生のことなのですが、
私には三人の子が、いますが、上の子が、幼稚園に通っている時と、園の雰囲気が、
あまりにみかけ離れてしまいました。公立の幼稚園にもかかわらず、ものすごく
かたくるしくて、息苦しい感じになってしまい、残念でしかたがありません。

そのため、これで、子どもたちは、大丈夫なのだろうか?、という不安にかられます。

具体的に言いますと、まず、外遊びが、とてもへってしまったこと。
どろんこ遊びなどは、ほとんどなく、砂場も二つあるうちのひとつは日陰で、
今では、物置になってしまいました。

いままで、何年もの間、使えたものが、です。

また、小さな池が作ってあり、水遊びもでできましたが、それも今では
そこも危ないということで、水が抜いてあります。

そのほか、以前は、小動物も何匹か飼っていましたが、それもなくなりました。

プロレスのような遊びも、禁止です。友だちとの物の取りあい、
もちろん喧嘩など、もってのほか。すべて危ないからだそうです。

私はこういったことから、ものすごく大切なものを幼少期時代に
学べると思っているのですが、あれはだめ、これはだめ、とがんじがらめなのです。

不満を感じているお母さんたちもかなり多いのですが、
直接園長先生の話しても結局言い訳ばかりで、何となくはぐらかされてしまい、
話にならないという感じです。

現状をわかっていただこうと息子の学校の先生にも、相談してみました。
こちらの幼稚園にくる前にも、何かと、問題のあった園長のようです。

こちらの方も今年で三年目なのですが、色々な園長先生がいると、
それは、それで、対応していった方が良いのでしょうか?

子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活を送り、
今経験しなくては、いけないことをしなかったことに
よって、一〇年後の友だちとのかかわり方など、問題はおきないのだろうか、
と真剣に悩んでいます。

そこまで、心配しなくても、他のことで、学んでいくのでしょうか?

もう少しのびのびした園生活をおくらせてあげたいのですが……
突然のメールでながながと愚痴を書いてしまい、申し訳ありません。

ぜひ、はやし先生のお考えを聞かせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++++

【EAさんへ……】

 家庭教育の主導権は、だれがもつかという問題に、行きつくと思います。「家庭」か、それとも
「園」か?

 EAさんのご質問を読んで、最初に気になったのは、「何でも、幼稚園で……」という姿勢で
す。「その幼稚園が、願ったような教育をしてくれないから、不満」というわけです。

 しかし、ね、EAさん。家庭教育の主導権は、あくまでも、家庭にあります。保育園にせよ、幼
稚園にせよ、その家庭教育を支える、補助的な存在でしかありません。もともと「教育」というの
は、そういう目的から出発しました。

 全体主義国家、軍事国家、貴族国家では、教育は、「民づくり」の道具として使われ、また使
われています。残念ながら、この日本には、いまだにその亡霊が、はびこっています。教育を
受ける側にも、その亡霊が、はびこっています。

 そこでどうでしょうか、発想を、少し変えてみるのです。

 家庭でできないことを、園でしてもらう。園でしないことは、自分でする、とです。これは、欧米
人の発想です。

 アメリカでは、公立の小学校でも、カリキュラムは、その学校の先生と、親たちで決めていま
す。先生を、親たちが雇って、自分で開いている学校も、少なくありません。「チャータースクー
ル」というのが、それです。

 そういう学校を見ていると、「では、日本の学校は、いったい、何か?」ということになります。
事実、私は、そう思いました。

 日本では、いまだに学歴信仰が、ハバをきかせています。それを学校神話が支えています。
「学校は絶対」という考え方です。

 以前は、それが「学校」でした。が、今は、それが低年齢化し、「幼稚園」や「保育園」となった
わけです。「幼稚園は絶対」「保育園は絶対」と、です。EAさんのメールを読んでいると、そんな
感じすら、します。

 つまりEAさん自身が、「幼稚園はそういうところ」と思い込んでいる?、のではないか、という
ことです。まちがっていたら、ごめんなさい。

 こうした依存性は、実は、日本人独特のものと言ってもよいでしょう。「何でも、お上(かみ)に
してもらう」という姿勢です。そのために、お上には、従順に従う。命令なら、何でも聞くというよ
うに、です。

 事実、一方で、砂場の不衛生問題、紫外線問題、いじめ問題など、学校のみならず、園に
も、山積しています。こと野外活動について言うなら、紫外線については、日本人も、もう少し慎
重になったほうがよいのではないでしょうか。紫外線というのは、言うまでもなく、人体にきわめ
て有害な、放射線です。

 オーストラリアでは、その時期になると、紫外線情報を流し、子どもたちに外出禁止命令が出
されます。ふだんでも、ツバの広い帽子をかぶり、サングラスをしています。

 けんかや、いじめについては、先生もたいへん苦しい立場にあると思います。EAさんのよう
な方がいらっしゃる一方で、そういうことを絶対に許さない親たちもいます。先日もある小学校
(I町I小学校)で講演をしましたが、その学校の校長先生が、こっそりと、こう話してくれました。

 「今、現場の先生たちが、みな、萎縮してしまっている」と。

 ささいな暴力事件でも、ことさら大げさに考えて、学校の責任を追及する親たちがいるからで
す。で、その結果、「萎縮してしまっている」と。

 こうした問題の原因は、何かというと、冒頭に書いた、「何でも学校で」という、学校神話です。
話はそれますが、不登校の問題にしても、その流れの中にあります。「学校とは、絶対に行か
ねばならないところ」という発想です。そういうがんじがらめの発想が、不登校の問題を、ことさ
ら大きくしてしまいます。

 EAさんのご意見について、否定的なことばかり書きましたが、そこでどうでしょう。ここは、ほ
んの少しだけ、発想を変えてみられては……。

 「幼稚園でできないことは、自分でしてみよう」「幼稚園でしてくれないことは、自分でしてみよ
う」と、です。

 そうすれば、ずいぶんと、荷が軽くなるはずです。また幼稚園に対する不満も、消えるはずで
す。ドイツやイタリアでは、親たちは、そう考えて、子どもの教育に当たっています。クラブ制度
が発達し、たいていの子ども(中学生)たちは、午前中で授業を終え、それぞれのクラブに通っ
て、好き勝手なことをしています。本来、個性を伸ばす教育というのは、そういう教育を言うの
ですね。

 幼稚園の園長が、何かと、はぐらかしてしまう……というのは、そのあたりに理由があるよう
に思います。つまり一方で、「それを望まない親たちがいる」ということです。しかしそういう親が
いることは、言えない。また批判もできない。そこで「何となく、はぐらかされてしまい……」とな
るのですね。

 多分、私が園長でも、同じような、あいまいな説明をするしかないと思います。

 また、これは私の経験ですが、私は、以前は、よく生徒たちを連れてキャンプに行ったりしま
した。しかし事故が起きたら、それこそ、たいへんです。

 知りあいの先生が、自分の教え子たちを、キャンプに連れていったことがあります。もちろん
無料。ボランティア。しかしそのキャンプをしているとき、がけの上から、大きな岩が落ちてき
て、その中の一人が死んでしまいました。これはG県I村で、実際に、起きた事件です。

 この事件は新聞にも載りましたが、その先生は、当時、三〇〇〇万円も、慰謝料などを請求
されました。二〇年近く前のことですから、今のお金になおすと、一億円近い金額になります。

 ボランティアということで、当然(?)、保険には入っていませんでした。その先生は、そのあと
どうなったか? ここに書くのもつらいですが、自己破産、離婚……など。しかし、その話を聞
いからというもの、私は、生徒たちを、キャンプに連れていくのを、やめました。

 他人の子どもを預かるというのは、本当に、たいへんなことです。園長をかばうわけではあり
ませんが、それこそ毎日、目が回るほどの、忙しさです。相手が幼児となると、さらにたいへん
です。

 私も、この三週間、たった一人の孫(一歳)に、朝から番まで、翻弄(ほんろう)されました。ほ
んの少し目を離したとたん、倒れて、テーブルの角で頭をぶったりします。自分の子どもなら、
こうまで疲れないだろうなというほど、疲れました。

 で、こういう問題は、たとえば教育委員会レベルまでもちあげても、解決はしないだろうと思い
ます。問題の「性質」そのものが、教育委員会で、どうこうなる種類のものではないからです。
そこでその方針を、どうやって、縁側に伝えていくかですが、実のところ、ここにも大きな限界が
あります。私立幼稚園ならまだしも、公立幼稚園となると、なおさらです。

 そこで視点を大きく変えて、では、そういう指導法が、子どもにどのような影響を与えるかにつ
いて、考えてみます。EAさんは、「子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活
を送り、今経験しなくては、いけないことをしなかったことによって、一〇年後の友だちとのかか
わり方など、問題はおきないのだろうか」と書いておられます。

 人の基本的な人間関係は、母と子の間で、形成されます。しかもその時期は、かなり初期
で、〇歳から一、二歳にかけてです。これは発達心理学の世界でも、常識です。その基本的な
人間間系が、やがてワクを広げて、先生と子ども、子どもと子どもとの関係へと、応用されてい
きます。ですから、この点については、EAさんのご心配は、まったく、無用かと思います。

 つまりこの時期、友人関係が制限されたからといって、交友関係が結べなくなるとか、あるい
は反対に、制限されなかったからといって、交友関係が結べるようになるとか、そういうことは
ありません。子どもの交友関係は、もっと別のところで、別の形で、論じられるべき問題です。

 そこでもう少し深く、「今、経験すべきこと」について、考えてみます。昔、フルグラムという人
は、「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」と書いています。それについて書いた原稿
を、二作、ここに添付します。少し脱線するかもしれませんが、お許しください。

+++++++++++++++++

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。

「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。

日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また
「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外
で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。

……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまで
は私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。い
わんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり
私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。

たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか
まればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。

つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。

仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しかしそれは日本という
より、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件
をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解すること
ができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の
境内で学んだ」と。

+++++++++++++++++

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中にお
いて、従順な子どもにすることをいう。

日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。その「民づくり」を
すること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生も、そして親も誤解
している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこ
とをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんば
って、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、な
ど。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な
のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅
れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

+++++++++++++++++++++

【EAさんへ……】

 そこでどうでしょうか、つぎのように考えてみたら……。

 幼稚園でできること。幼稚園がしてくれること。そして一方、幼稚園でできないこと。幼稚園で
してくれないこと。これらを、しっかりと頭の中で、分けてみたらどうでしょうか。

 一つの参考例を、ここにあげてみます。

 埼玉県にある、ある幼稚園では、親どうしが相談して、子どもを預かりあうという活動をしてい
ます。Aさんが、BさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をする。つぎに今度は、Bさんが、
AさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をするという活動です。

 「他人の家の釜のメシを食べさせることによって、自分の家の釜のメシの味が、よくわかるよ
うになる」という、園長の方針で、それが始まりました。

 しかし問題は、すぐ起きました。プライバシーが、筒抜けになってしまうというわけです。「そこ
までプライバシーを開示していいのか」という異論も出ました。生活レベルの違いもあるからで
す。

そこでその幼稚園では、ごく親しい人たちの間で、たがいに納得できる人どうしの間で、子ども
の世話をしあうという方針に変えたそうです。

 しかし方法としては、おもしろいですね。EAさんも、幼稚園から離れたところで、独自の姿勢
と方針で、こうした活動をしてみたら、いかがでしょうか。また最近では、野外活動を積極的に
するクラブも、あちこちに生まれています。そういうクラブを通して、子どもに、いろいろ体験さ
せるという方法もあります。

 最後に、子育ては、親がするものだということ。幼稚園でも、学校でもありません。どこでどの
ように学び、成長していくかは、子どもの問題ですが、それを助け、励ましていくのは、親だとい
うことです。そういう原点に立ちかえって、幼稚園のあり方を、もう一度、さぐってみてください。

 ただし、EAさんのように、子育てや、教育、子どもを包む環境に関心をもつことは、とても大
切なことです。決して、EAさんが、まちがっているとか、そういうことではありません。

 こうした問題意識を、より多くの親たちがもつことによって、日本の教育も、よくなります。私も
ある時期、何でも学校で……、何でも幼稚園で……という発想で、学校や幼稚園を批判したこ
とがあります。しかしそれも一巡すると、そういう発想そのものが、おかしいと、気がつきまし
た。

 そして今は、この回答の冒頭に書いたように、家庭教育の主導権は、だれがもつかという問
題に、行きつきました。「家庭」か、それとも「園」か?……と、です。

 最後に、決して、EAさんのお子さんが通っている幼稚園を擁護しているわけではありません
が、(また擁護しなければならない立場にもありませんが)、こと幼児教育について言えば、あ
る程度の「適当さ」も、大切だということです。

 「行きたければ行けばいいのよ」「適当に行けばいいのよ」「あなたなりに、楽しんできなさい」
と、です。そういうおおらかさが、一方で、子どもを伸ばすのも事実です。こと、人間関係につい
ては、一〇年後のことは、悩まないこと。それを決めるのは、あなたではなく、子ども自身だか
らです。もうすでに、年齢的に、あなたの子どもは、少しずつですが、親離れの準備を始めてい
るはずです。いかがでしょうか?
(031022)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(274)

●二男夫婦を見送る

 二男を夫婦を、ワイフと二人で、浜松駅で、見送った。成田空港までは、三男に同行してもら
うことにした。二男も、三男も、高校時代は、山岳部にいた。重い荷物をもつのは、慣れてい
る。

 新幹線が動きだしたとき、ふとさみしさが、横切ったが、それだけ。あとで聞いたら、ワイフも
そうだったという。「親として、やるべきことは、すべてした」という満足感のほうが、大きかった。

 それに小さな事件があった。

 家を出るとき、二男夫婦、三男、ワイフと私。計五人になった。それに大きな荷物。車が一台
では、無理ということになった。そのとき、二男が私にこう言った。「パパは、(駅へ)来なくてい
い」と。

 私は、この言葉に、少なからず、ショックを受けた。「いったい、私がしてきたことは、何だった
のか?」と。「私は、ただの親バカだったのか?」と。

 七年以上のアメリカ生活の中で、二男は、ものの考え方が、かなりアメリカナイズされたの
は、感じていた。しかしここまでアメリカナイズされていたとは……! ものの考え方が、合理的
すぎる?

 私は、駅まで見送ったが、どこか肩身が狭かった。本来なら、「また来いよ」と、明るく声をか
けなければならなかったはずだが、その声は出てこなかった。一応、平静を装ったが、あくまで
も、「一応」だった。

 子育てというのは、そういうものか。いつか子どもは、巣立ちをして、親から離れていく。とく
に、父親からは、離れていく。同じ親でも、父親と母親は、決して対等ではない。母親と子ども
の関係は、絶対的なものだが、父親と子どもの関係は、そうではない。

 そこで改めて、考えてみる。父親にとって、息子とは、何か、孫とは、何か、と。

 私のように、「家」意識がまったくない人間にとっては、息子にせよ、孫にせよ、ただの人間に
すぎない。少しでも「家」意識があれば、息子にせよ、孫にせよ、「家」を継ぐ存在として考えるこ
とができる。

 しかし息子自身にも、「家」意識が、まったく、ない。だからその嫁さんや、孫にも、まったく、な
い。だいたいにおいて、嫁さんにしても、「林家へ嫁いだ」という、意識そのものがない。私やワ
イフを、ただの人間とみている。

 つまり親子といえども、そこにあるのは、純然たる人間関係のみ。二男の考え方をみている
と、そういう視点だけで、私やワイフをみているような気がする。だからもちろん、兄弟や、親類
に対しても、そうである。

 結婚披露パーティには、二〇人近い親類が集まってくれた。そのことについても、当初、二男
は、こう言っていた。「披露して、どうなるのか?」と。つまり「それほど親しくない親類まで呼ん
で、それがどうだというのか?」と。

 「なるほど……」と思う一方で、私は、「そういうものでもないのだがな……」と思った。私として
は、二男の結婚を、みなが、祝福しているということを、二男や嫁さんに伝えたかっただけ。

 ワイフは、こう言った。「アメリカに七年間も住んでいると、ものの考え方も、ああまでクールに
なるものかねえ?」と。

二男は、日本的な言い方をすれば、子どものころは、たいへん情の厚い、やさしい子どもだっ
た。優柔不断なところもあった。それが今では、スパスパと、YES、NOをはっきりと言う子ども
になってしまった。ワイフは、「きつくなった」と表現したが、たしかに、そうだ。

 浜松駅から帰るとき、私とワイフは、回転寿司店へ寄った。そして寿司を食べながら、こんな
会話をした。

私「やるべきことはした。あとは、あいつの判断だ」
ワ「それでいいのよ」
私「ほっとしたね。あいつがいると、お金ばかり、かかるし……」
ワ「そうね。私も、ほっとしたわ。また今日から、静かな生活が戻ってくるし……」
私「それに、あんな嫁さん、何も役に立たない」
ワ「それは言いすぎよ……」
私「日本人の嫁さんなら、『お父様、肩でも、もみましょうか』くらいは、言うぞ」
ワ「そんな嫁さん、もういないわよ。日本にも……」
私「いる!」
ワ「いない!」と。

 要するに、あとは忘れること。自分の生活を、始めること。いろいろ言いたいことはあるが、
「許して、忘れる」。それでおしまい。
(031022)

【追記】
 
ついでに、こんなショッキングな話も。

 小中学生二〇〜二五人ほどに聞いてみた。約半数は、すでに、祖父母のだれかをなくしてい
る。それについて、「おじいちゃん、おばあちゃんが死んだとき、泣いた人?」と聞いたら、全
員、「ノー」。「おじいちゃん、おばあちゃんが死んだとき、さみしかった人?」と聞いても、やは
り、全員、「ノー」と。

 「孫はかわいい」と、ことさら強調する人は、むしろ溺愛タイプの、おじいちゃん、おばあちゃ
ん? しかしその祖父母が思うほど、孫は、おじいちゃん、おばあちゃんのことなど、考えてい
ない。……思っていない。

 おじいちゃん、おばあちゃんと、孫の関係は、しょせん、そんなもの?

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(275)

●父子論

 父親は、しょせん、「ひとしずく」。それで、おしまい。

 一方、母親は、子どもをはらみ、産み、育てる。子どもにとって、母親は絶対だが、父親は、
そうでない。ないことは、カトリック教会へ行けば、わかる。母のマリア像は飾ってあるが、父の
ヨセフ像を飾ってあるところは、ない。(いろいろ理由は、あるようだが……。)

 そこで父親というのは、母親と子どもの関係をみながら、横で嫉妬しながら、その間に割って
入ろうとする。しかし、そこには、おのずと限界がある。入ろうしながら、どうしても入りきれな
い、何かがある。子どもたちと接する時間も少ない。

 つまりは、不安定な関係ということになる。

 この不安定さを補うために、父親は、たとえば権威をもちだしたりする。しかしそれとて、いま
では、神通力をなくした。財力や権力のある父親は、それで子どもをしばろうとする。しかしそ
れにも、思ったほどの力はない。

 やがて父親は、家族の中で孤立する。ときには、「お前たちは、だれのおかげで……!」と
も、言いたくなる。しかしそれを口にしたら、お・し・ま・い。

 「父親は仕事、母親は家事」と、だれが言った? だれが決めた? 父親は、その常識の中
で、ただ、もがき、苦しむ。

 父親とは、では、何なのか? そも、生物学的に考えて、人間には、父親が必要なのか? 
動物の中には、種つけだけをして、そのまま雌のもとを去っていく雄は、いくらでもいる。子育て
の間だけ、夫婦の形をする雄もいる。しかし人間は、生涯にわたって、父親は父親でありつづ
ける。それが本来の、生物としての、人間のあるべき姿なのか?

 父親が父親であるのは、その生きザマを示すときかもしれない。とくに息子たちには、そう
だ。息子たちにとっては、父親というのは、「母」を介してのライバルでしかない。こうした心の葛
藤を、心理学では、エディプス・コンプレックス※という。わかりやすく言えば、その生きザマを
示すことができなければ、父親というのは、息子たちにとっては、いてもいなくても、よい存在と
いうことになる。

 それだけに父親の置かれた立場は、きびしい。家族の生活を支えることができなければ、そ
のまま「親失格」のレッテルを、張られてしまう。生きザマを示せなければ、息子たちのみなら
ず、妻にさえ、愛想をつかされる。ある女子高校生は、父親に向かって、こう叫んだ。

 「私を大学へやるのは、あんたの義務でしょ! 借金でもなんでもして、私を大学へやって
よ!」と。

 父親が事業に失敗して、その娘に、「進学をあきらめてほしい」と言ったときのことだ。

 こうしたきびしさは、母親には、ない。ふつうこういう状態になると、母親(妻)まで、父親(夫)
を責める。「あんたが、だらしないからよ!」と。

 しかしほとんどの父親たちは、その現実に目を閉じたまま、「親である」という幻想にしがみつ
く。しかし幻想は、幻想。ある男性(七六歳)は、ことあるごとに、こうこぼしている。「最近の若
いものたちは、先祖を大切にしない」と。

 しかし「先祖」という言葉そのものが、実は、幻想。彼が言う「先祖」とは、自分自身のことであ
るということにさえ、その男性は気づいていない。つまりは、さみしい存在であるということ。

 もちろん父親の中には、息子や娘と、心温かい関係を築いている人もいる。しかし皮肉なこと
に、そういう人に限って、「私は父親である」という、父親意識が、薄い。上下意識をもった「親」
ではなく、「友」として、いつも子どもの横にいる。そうした謙虚さが、子どもの心を開く。よい人
間関係を築く。

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エディプス・コンプレックスについて書いたのが、
つぎの原稿です。

++++++++++++++++++++++

※エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ
バルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視すると
いうことも、これに含まれる。)

 私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本
ではそのまま当てはめて考えることはできない。

その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。

その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といって
もよいが)が、かぎりなく進む。

現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そ
のものが、ぼやけてくる。つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのも
のが、軟弱になってくる。

現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい
う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、
当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。

子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろな意味において、明確ではない。少なくと
も、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあいによって
は、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。

また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる
「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ
論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプス・コンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。

川のそばの、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソ
ファが置いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬
にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝
動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ちものに嫉妬するという、まあ、
ゆがんだ嫉妬心だ。

そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプス・コンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。

+++++++++++++++++++++

●再び父子論

要するに、父親は、あまり「父親」という意識をもたないで、気楽に生きるということ。「私は親
だ」と、親風を吹かすのもよくないし、「親だから……」と気負いすぎるのも、よくない。

 そういう意味では、やるべきことを淡々とやりながら。母親と子どもの関係には、あまり深入り
しないこと。いわんや、母親と子どもの関係に、とってかわろうなどと思わないこと。

 しょせん父親は、父親。ただの「ひとしずく」。腹を痛めたわけでもないし、乳をくれたわけでも
ない。極端な言い方をすれば、母親がいなければ、子どもは死ぬが、父親がいなくても、子ど
もは育つ。その事実を、謙虚に、受け止める。受け止めて、あとは、あ・き・ら・め・る。

 どうやらそれが、父親としての、あるべき姿勢ということになる。
(031022)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(276)

●相互不可侵条約

 K国は、アメリカとの間に、相互不可侵条約を結んだあと、日本もしくは、韓国を攻撃するつ
もりでいる。韓国よりも、日本である可能性のほうが、はるかに高い。K国には、日本を攻撃す
るだけの、大義名分がある。

 K国は、自国の安全のために、相互不可侵条約を結ぼうとしているのではない。ないことは、
今回、「六か国による安全保障宣言」を、「一蹴した」(※)ことでもわかる(一〇月二二日)。

 こうした流れに、いつも水をさしているのが、実は韓国。K国のもつ常識(?)も理解しがたい
が、韓国の若者たちがもっている常識(?)も、これまたわかりにくい。反米、親北を唱え、その
上、黄長Y(ファン・ジャンヨプ)元K国労働党秘書の訪米を、デモで阻止しようとさえしている。

 ノ政権は、その上にのった政権だが、今、大切なことは、K国の金XXを、自己崩壊に導くこと
である。が、あろうことか、ノ政権は、せっこらせっこらと、金XXを助けている。今年九月期だけ
でも、対北朝鮮の貿易高を、前年度よりも、五〇%弱もふやしている。

 実は最近になってわかったことだが、去る九六年にも、一度、K国は崩壊の瀬戸際に立った
ことがある。そのとき、K国を助け、崩壊からK国を防いだのは、あの金大中政権である。K国
から亡命してきた、元高官が、そう暴露している。

 いったい、韓国は、どこまでオメデタイのか?

 いや、そのオメデタサは、安保闘争を繰り返していた、日本の若者たちと、共通している。当
時、毛沢東中国(六〇年安保前)、李承晩韓国と金日成朝鮮(七〇年安保前)が、日本攻撃を
もくろんでいた。それをかろうじて防いでいたのは、実は、アメリカ軍なのである。

 今、この日本の平和がかろうじて保たれているのは、日本人が、平和を愛する国民だからで
はない。また平和を守っているからでもない、たまたま日本にアメリカ軍がいて、その核の傘の
下にいるからにほかならない。もしK国が、アメリカとの間で、相互不可侵条約を結べば、その
時点で、日米安保条約は、無力化する。K国のねらいは、すべてここにある。

 唯一の望みは、中国である。

 今、中国が、K国の最後の「ライフライン」になっている。もし中国がK国への援助を止めれ
ば、K国は、そのライフラインを断たれることになる。で、その中国が、K国に対して強行に出る
可能性が出てきた。国境沿いに一五万人の正規軍を配置し、中朝友好条約の破棄などを、ち
らつかせている。

 しかしこうした中国の動きに、これまた水をさしているのが、実は、この日本なのである。いい
ムードになりかけるたびに、首相が靖国神社を参拝してみせたり、閣僚が、不用意な発言をし
たりしている。中国のみならず、アジア各国の人たちを怒らせている。

 いまだに、「あの戦争は正しかった」「やむをえなかった」と主張する日本人がいることは、驚
きである。もしあの戦争が正しかったとするなら、反対に、K国や、中国に、日本が占領されて
も、日本人は、文句を言わないことだ。

 今、大切なことは、冷静に、きわめて客観的に、「現実」を直視することである。この際、安易
な、人道主義、平和主義、道徳論に、まどわされてはいけない。政治はどこまでも、現実的でな
ければならない。戦争を考えるときは、さらに現実的でなければならない。甘い期待論(アメリ
カが何とかしてくれるだろう)、依存性(これだけ各国にしてあげたから、何かしてくれるだろう)
は、きわめて危険ですら、ある。

 K国問題の行く末は、すべて中国の動きにかかっている。今、日本人がすべきことは、床に
頭をこすりつけてでも、中国を、もちあげること。理由は簡単。今の日本には、K国と、単独で、
戦争する力はないからである。
(031022)

※……朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)官営の朝鮮中央放送は二一日、米国のブッシュ大
統領がタイのバンコクで開かれた韓米首脳会談で、北朝鮮が核兵器を放棄する場合、多国間
の枠内で北朝鮮体制の安全を文書で保障すると明らかにしたことに対し、「一考の価値もな
い」と非難した(「朝鮮日報」)。

【異論・反論】

 こうした私の意見に対して、こう反論する人がいる。名古屋市に住むW氏(六二歳)も、その
一人。こう言った。

 「林君は、日本軍が満州を侵略したと言うが、当時の満州は、だれ一人住まない、荒野だっ
たんだよ。どうして侵略したことになるのだ。日本軍が開拓してやったんだよ」@
 「中国にせよ、朝鮮にせよ、鉄道を敷いてやったのは、日本なんだよ。道路を建設し、ビルを
建ててやったんだよ。どうしてそれが悪いことなのかね」A
 「日本が植民地にしてやらなければ、中国や朝鮮は、ほかの国の植民地になっていたよ。日
本だって、あぶなかった。どうしてそれが悪いことなのかね」B
 「いいかね、日本は、アメリカ軍によって、焦土にされたんだよ。どうして日本の平和が、アメ
リカのおかげだと、君は言うのかね。君は、本当に、日本人かい?」C
 「日本が悪いことをしたというが、いいかね、日本軍は、南京(ナンキン)で、住民を大虐殺な
んかしていないよ。殺したとしても、せいぜい三万人だ。三〇万人なんて、とんでもないウソだ」
D
 
 いちいち反論するのも、なさけない。

@こんな論理がまかりとおるなら、北海道の原野にロシア軍が攻めてきても、文句を言わない
こと。
Aいらぬおせっかいというもの。相手が頼んできたわけではない。
Bだからといって、何も、日本がすることはなかった。
Cたまたま日本はラッキーだった。もし中国や、ソ連、朝鮮の支配下に入っていたら、日本は、
どうなっていたことか?
D三万人でも、大問題。三〇〇〇人でも、大問題。三〇〇人でも、大問題。どうしてそのとき、
日本軍が、南京にいたのか?

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(277)

交通事故

 静岡県が、連続して、交通事故ワーストワンになっている。その静岡県の中でも、この浜松市
が、ワースト(最悪)らしい。

 県の担当者は、「静岡県は、自動車保有率が高いから、結果的にそうなる」と説明している
が、本当に、そうか? それだけか?

 このところ、浜松市の交通マナーが、ひどく悪くなったように感ずる。交差点で、信号が黄色
になっても、停車する車は、ほとんど、ない。赤になっても、左右から走り出す車がなければ、
走り抜けてもよいというよな雰囲気すら、ある。 

 先日も、横浜から帰ってきた三男が、こう言った。「浜松は、メチャメチャだね」と。路地から大
通りへ、一旦停止をしないまま、飛び出してくる車も多い。三男は、それを言った。

 で、昨夜、ワイフとドライブをしながら、どうしてそうなのかということを話しあった。

 ひとつは、警察による取り締まりの方法が、おかしい。

 どうでもよいような、つまりは、目立たない、小さな路地裏ばかりで、取り締まりをしている。そ
のほうが、短時間に、違反者を、たくさん検挙できるから、らしい。

 一方、車が高速で走るような大通りでは、めったにしない。この一〇年間、そういうところで、
私は、取り締まっているのを見たことがない。

「短時間で、効率よく、違反者を検挙しようとしたら、こっそりと、路地裏に隠れてしたほうがい
い」と私。
「友だちも、一旦停止で、この前つかまったわ。でもね、そこは住宅街の真ん中よ。警察は、少
し離れた茂みの中にバイクを隠していたそうよ」とワイフ。
「この静岡県でも、下っ端の警察官が、やる気をなくしているそうだよ」
「どうして?」
「いくらがんばっても、出世できないだろ。いつもキャリア組が、その上で、陣取っている」
「つまり点数稼ぎのための取り締まりはするけど、交通事故を本気で減らそうとは考えていない
ということ?」
「わかりやすく言えば、そういうことらしい」

 反対に私などは、信号が青になっても、すぐには飛び出さないようにしている。一呼吸おいて
から、ゆっくりと、左右を見ながら、交差点に入る。つまり信号など、まったくアテにならない。…
…アテにしていない。

 みなさんも、もし浜松へ来るようなことがあれば、じゅうぶん、交通事故には気をつけてほし
い。浜松は、メチャメチャ。本当に、メチャメチャ。
(031024)

【参考】
【自賠責保険の損害率・ワーストワン】……香川県
【人口10万人あたりの死亡者数・ワーストワン】……三重県
【交通事故死亡者数・ワーストワン】……埼玉県
【飲酒による交通事故死亡者数・ワーストワン】……茨城県
【交通事故・ワーストワン】……静岡県
   (調査年、不明)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(278)

誠実

 三五年ほど前、長野県に住むN氏から、山林を購入した。きわめて親しい知人に頼まれて、
そうした。当時の価格で、六〇〇万円。しかしあとでわかったことだが、その山林は、当時で
も、一〇〇万円にもならない、クズ山だった。

 で、最近になって売ろうとして、現地の森林組合の人の見積もってもらったら、たったの一八
〇万円。この三五年間で、立木は、かなり太くなっている。しかし、その値段だ、と。

 だまされたのは、これだけではない。

 そのつど、毎年のように、管理費を取られた。私は言われるまま、八〜一〇万円の管理費を
送金した。

 しかし管理というのは、ウソ。そればかりか、「間伐」と称して、適当に、木は、切られていた。
(転売していたと思うが、確かではない。)

 数年前、一度、手紙で抗議したが、返事はなし。その知人を介して問いあわせると、「木は、
相場では決まらない」と、トボけているという。

 不誠実な人間は、どこまでも不誠実。大切なことは、こうした不誠実な人間は、早く見抜き、
それ以上、つきあわないこと。しかし問題は、どうやって、見抜くか、だ。

 不誠実な人間には、不誠実な人間が、集まる。英語のことわざにも、『一つの羽の鳥は、集
まる』というのがある。日本でも、『類は、友を呼ぶ』というのがある。私がだまされたということ
は、当時の私は、それなりの人間であったことを意味する。

 で、私は、いつしか、ひとつの教訓を得た。

 不誠実な人間を見抜き、自分の身を、不誠実な人間から守るためには、自分が、誠実な人
間になること、と。

 これはちょうど、山登りに似ている。より高い山に登れば、登るほど、それまで自分がいたと
ころが、低く見える。見渡すことができる。

 同じように、より誠実になればなるほど、それまでの自分が、よく見えるようになる。そして同
時に、どの人が誠実な人で、どの人がそうでないかが、よくわかるようになる。

 そして自分が誠実になればなるほど、その人のまわりには、誠実な人が集まってくる。そして
やがて、そこに「誠実の輪」ができる。

何かのことで、だれかが、だまされたりすると、その人に、「だまされるほうだって、悪い」と言う
人がいる。だまされた人には、気の毒だが、しかしこの言い方は、そういう意味では、まちがっ
ていない。どこかに心のスキがあるから、だまされる。しかしそのスキは、何かといえば、その
人の弱点ということになる。コンピュータの用語を借りれば、セキュリティー・ホールということ
か。

 だまされた、私が悪かった。

 で、今は、直感的に、誠実な人と、そうでない人を、見分けることができるようになった。そし
てその人の中に、不誠実な部分を感じたら、そのまま遠ざかるようにしている。つまりその「見
分ける力」こそが、自分の身を守るという方法ということになり、そのためには、自分が、誠実
な人間になるということ。

 文章が繰り返しになったので、この話は、ここまで。
(031024)

【付記】

●ボランティア活動などの無料奉仕を、好んでしている人に、不誠実な人はいない。なぜか?
 それについては、もう少し、よく考えてから、みなさんに報告したい。(ただし、マスコミ用に、
そうした活動を利用している人もいるから、注意。そういう人は、かえって薄汚い?)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(279)

天皇がやってきた

 一〇月二四日、午後。教室の周辺が、騒がしくなった。上空をヘリコプターが、飛びかってい
る。人通りが、はげしくなった。

 歩いて一分足らずのところにある、旧市民会館(現教育文化会館)の前で、ちょうちんと、旗
が配布されるという。外へ出てみると、一〇人前後の女性たちが、そちらに向かって歩いてい
た。声をかけると、「これからGホテルまで、みんなで、ちょうちん行列をします」とのこと。

 今夜、Gホテルに、天皇が宿泊するという。国体の開会式に、出るためという。

 行ってみると、すでに長い列ができていた。私も……と思ったが、その列を見て、帰ってきて
しまった。

 ……と書いて、実のところ、「天皇陛下」と書くべきなのか、ただ「天皇」と書くべきなのか、お
おいに迷った。私が子どものころは、「天皇」と呼び捨てにしただけで、父親に殴られた。「陛
下」もしくは、「天皇陛下」と呼ばねばならなかった。

 さらに「宿泊される」と書くべきなのか、「宿泊する」と書くべきなのか、迷った。

 どうもこういう問題は、苦手。いくら戦後生まれといっても、私は、戦前の影響を、モロに受け
ている。その戦前といえば、天皇制を批判しただけで、「不敬罪」として、処罰された。そんなわ
けで、今でも天皇について書くときは、心のどこかで、ツンとした緊張感を覚える。

 天皇制については、私はずっと、中立の立場を守ってきた。賛成でもないし、反対でもない。
ただいつも思っているのは、「天皇自身はどうなのか?」ということ。天皇自身が、今の立場で
よいと言うのなら、賛成だし、そうでないというのなら、反対だということ。私なら、ああした窮屈
な生活には、一日だって、耐えられない。「天皇」という立場から受けるプレッシャーは、想像を
絶するものに違いない。

 再び、外に出てみると、すでに天皇は、Gホテルに入ったということ。行列を見ることはできな
かった。何人かの知りあいが、そこにいた。「もう、通り過ぎましたか?」と声をかけると、「もう
(Gホテルへ)行きました」と。

 同時に、国道一号線のほうから、マイクを使った、「天皇陛下、バンザ〜イ! バンザ〜
イ!」「皇后陛下、バンザ〜イ! バンザ〜イ」のかけ声が聞こえてきた。かけ声というより、絶
叫に近かった。それに呼応して、民衆の、「バンザ〜イ、バンザ〜イ!」の声。あたりは、ほとん
ど暗くなりかけていた。ちょうちん行列が、始まったらしい。

 日本は、まさに奈良時代から、天皇を頂点とする、官僚主義国家。天皇に、最高位の権威を
付託することによって、その権威のもとで、国を治めてきた。今も、その構図は、まったく変わっ
ていない。日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけと思ってよい。

 しかしこれが私の国、日本。私一人が、どうこう思ったところで、この日本が、それで動くわけ
ではない。これからも動かない。国道一号線ほうへ出てみると、ちょうちんをもった人たちが、
長い列を作って、ゾロゾロと歩いていた。それはまさに、日本の流れでもあった。来年も、さ来
年も。一〇年後も、二〇年後も、それぞれの地域で、こうした行列がなされることだろう。三〇
年後も、四〇年後も……。そしてひょっとしたら、一〇〇年後も。

 教室へもどると、生徒が集まっていた。「行列を見たか?」と声をかけると、興奮した様子で、
「見た、見た!」と。そして私がトイレへ行くと、うしろから、子どもたちも、叫び始めた。

 「天皇陛下、バンザ〜イ! バンザ〜イ!」と。

 こうしてその「流れ」は、代々と、あとへ受け継がれていく? それがよいことなのか、それとも
悪いことなのか、私には、わからないが……。
(031024)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(280)

●心を開かない子ども

 ほかの子どもたちが、ワイワイ騒いでいるようなとき、その騒ぎの中に溶け込めない子どもが
いる。どこかツンとしている。どこか仮面をかぶっている。どこかカベを作っている。

 心を開くことができない子どもとみる。

 このタイプの子どもは、集団の中に入ると、いつも心は、ある種の緊張状態になる。いい子ぶ
ったり、無理をする。一応、相手に合わせて騒いだりするが、しかしその相手に心を許している
わけではない。許しているフリをするだけ。相手に合わせて、自分をつくったりする。

 そのため、集団の中では、精神疲労を起こしやすい。実際には、集団活動や、集団生活が
苦手。それを、避けようとする。親は、「どうして、うちの子は、集団生活が苦手なのでしょう」と
悩んだりするが、そんな簡単な問題ではない。
 
 よくあるのは、無理に、このタイプの子どもを、集団の中に押し込めるケース。「集団へ押し込
めば、なれるだろう」と、親は考えて、そうする。しかしこうしたやり方は、効果がないばかりか、
かえって症状をこじらせてしまう。

 「簡単な問題ではない」というのは、その子どもの、乳幼児期の母子関係に、原因があること
をいう。この時期に、母子の間で、基本的信頼関係を築くことに失敗した子どもは、ここでいう、
いわゆる「心を開けない」子どもになる。……なりやすい。

H君(小四男児)の例で、考えてみる。

 H君は、みながワイワイと騒いでいるようなときでも、いつも、その集団から、取り残されたよ
うな状態になる。集団のほうから、「H君、おいでよ!」と声をかけられても、はにかんだり、照
れたりするだけ。どこかぎこちない様子で、その場を、やりすごそうとする。
 
 それでいてH君は、常に周囲に対して、神経を張りめぐらせている。自分がどういうふうに思
われているか。またどういうふうにすれば、自分がよい人間に思われるか。さらに優等生とし
て、自分は、どのように振る舞うべきか、など。そんなことをいつも、考えているといった様子。

 だから、先生の受けは、よい。従順で、すなお。先生が指示を与えたりすると、それを満点に
近い形で、やりこなす。先生には、「よく気がつく子」と評価されている。

 しかし一度、このような症状を、四歳前後までに示すようになると、以後、それがなおるという
ことは、まず、ない。先にも書いたように、「うちの子は、集団になれていないだけ」と考えて、親
は、無理に、スポーツクラブに入れたり、サマーキャンプに参加させたりする。が、その効果
は、ほとんど、ない。あるいは集団に対して、さらに、恐怖感をもったり、集団を嫌悪したりする
ようになる。

 さらに無理をすれば、情緒そのものが、ゆがむこともある。大きなショックが原因で、自閉傾
向や、かん黙症に進むことも珍しくない。

 では、どうするか?

 結論を言えば、「あきらめる」。「うちの子は、そういう子どもだ」と、あきらめて、対処する。何
度も書くが、無理をすればするほど、逆効果。情緒障害から、精神障害に進むこともある。

 子育てには、失敗はつきもの。親は、そのつど、よかれと思って、何かをする。しかし失敗す
るときは、失敗する。親の気がつかないところで、また気がつかないまま、失敗することが多
い。

 だから失敗したからといって、自分を責めてはいけない。恥じることもない。大切なことは、そ
の失敗を認めること。

 しかしほとんどの親は、子どもに何らかの症状が現れると、その原因をさぐることもない。知
ろうともしない。そして一方的に、子どもをなおそうとする。こういうケースでも、「どうしてうちの
子は……?」と考えることはあっても、「自分の子育てに原因があるのでは……?」と疑う親
は、まずいない。つまりこうして、子どもの症状を、ますますこじらせてしまう。

 「失敗」と気づいたら、その失敗は、すなおに認める。「そんなはずはない……」「まだ、何とか
なる……」と考えて、がんばればがんばるほど、子どもの症状は悪化する。

【追記】

 こうして子どもの問題を考えているとき、実は、それは私たち自身の問題であることに気づく
ことがある。

 こうした子どもの問題は、当然のことながら、その子どもがおとなになってもつづく。いいかえ
ると、今、幼児期や少年少女期の問題を、そのまま引きずっているおとなも、多いということに
なる。

 他人と接すると、気ばかり使って、疲れやすい。楽しめない。ある母親(三二歳)はこう言っ
た。「同窓会などに出ると、みなは、ワイワイと楽しそうに騒ぐ。しかし私は、どうして人は、ああ
まで楽しめるのかと、不思議に思うときさえある」と。

 その女性も、どこか不幸な家庭に育っていた。権威主義の父親。その父親に、隷属的に仕え
る母親。「私は、子どものころから、優等生でいることだけを求められました」と。

 心の問題というのは、そういうもの。で、あなた自身はどうか? 一度、じっくりと、あなたの心
の中をのぞいてみるとよい。
(031024)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(281)

孫論

 二男夫婦が、アメリカへ帰っていって、もう三日目になる。その間、いろいろなことがあって、
二男や孫のことは、すっかり忘れていた。そのせいもあるのかもしれない。当初心配した、「さ
みしさ」は、ほとんど、感じなかった。

 今朝も、ワイフとこんな会話をした。「世間では、孫はかわいいと言うが、ぼくは、あまりかわ
いいとは思わない。理由の一つに、ぼくに、まったく似ていない」と。

 孫の誠司は、どうみても、白人の顔。半分だけでも、二男に似て、そのまた半分だけでも、私
に似ていれば、私も、違った印象をもったかもしれない。しかし、まったく似ていない!

 それに今回、二男に会って気づいたのは、二男は、完全にアメリカナイズされていたこと。ワ
イフは「きつくなった」と言うし、私は「冷たくなった」と言う。ものの考え方が、合理的。ムダがな
いというか、ゆとりがない。「七年もアメリカに住んでいると、人間もああなるのね」とワイフは、
言うし、私は「ああでもなけれけば、アメリカでは生きていかれないのかも」と言う。

 アメリカへ渡る前の二男は、もう少し、やさしかった?

 本来なら、子どもの巣立ちを喜ばねばならないはずだが、しかしどこか、むなしい。そのむな
しさが、私の心をも、冷たくする。

 「ぼくたちは、いろいろ心配して、あれこれするが、二男にしてみれば、ぼくたちは、ただのお
人よし。そんなふうに、見えるのかもしれない」と私。
 「そんなふうに考えてはいけないわよ。二男は、二男で、あなたに感謝しているはずよ」とワイ
フ。

 今回も、こんな事件があった。

 S氏夫婦と、会食をしていたときのこと。S氏夫妻へのみやげを、車の中に忘れてしまった。
そこで、私は、ワイフに、「みやげを取ってきてほしい」と頼んだ。車のキーは、ワイフがもって
いた。それに支払いのこともあって、一度、ワイフを、廊下へ呼び出さねばならなかった。ワイ
フが廊下へ出たところで、私も廊下へ出るつもりだった。

 しかしそれについて、あとで、二男が、私を叱った。「みやげを忘れたら、パパは、自分で取り
に行けばいい。自分でできることを、ママに命令するのは、おかしい」と。

 二男には、デリケートなやりとりが、理解できない。そこで、事情を説明したが、その説明をし
ている間、「どうしてそんな説明をしなければならないのか」と、自分がなさけなくなった。こうい
うケースでは、日本人なら、みな、そうする。あたりまえの光景である。

 「毎週のように、いろいろなものを、アメリカへ送っていたけど、もうやめようと思う」と私。
 「そうね。二男は、とくに感謝している様子でもないし……」とワイフ。
 「でも、そう考えると、どこかさみしいね」
 「そうね。それが巣立ちというものではないかしら。私たちだって、親から、いろいろなものを
送ってもらったことはないわよ。でも、何とも、思わなかったから」
 「考えてみれば、そうだよね。ぼくたちは、ぼくたちで、勝手に生きていた。親のことなど、ほと
んど、考えなかった」と。

 誠司は、見た目にはかわいい顔をしている。しかしアメリカへ去ったあと、不思議と、「また会
いたい」という思いは、生まれなかった。ワイフは、「会話をするようになったら、また変わるわ
よ。人間関係ができれば、また印象も、変わるはずよ」と、説明する。

 そういう思いをもつのは、私の中の、心の欠陥によるものなのか。私は、もともと、愛情がど
こか淡白。不幸にして、不幸な家庭に育っている。そのせいもあるのかもしれない。もう少し、
時間をおいて、自分の心を静かに観察してみよう。

 で、今の気持ちは、正直に告白するが、無事、二男夫婦がアメリカへ帰って、ほっとしてい
る。当分は、二男のことも、孫のことも忘れて、仕事に没頭したい。
(031024)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
子育て随筆byはやし浩司(282)

●老いらくの恋

 「老いらくの恋」という言葉がある。しかしそれは、かなりはげしいものらしい。ある老人ホーム
に、ヘルパーとして勤める、Sさん(女性)が、先日、こんな話をしてくれた。

 「老人たちは、たがいに狂ったように、恋愛ごっこをしている。一人の男性(あるいは女性)を
取りあって、けんかザタになることは、日常茶飯事」と。

 どうやら老人ホームに住む老人たちの生きがいは、恋愛ごっこ(?)らしい。

 ……と書いて、何も、私はそういう老人たちを笑っているのではない。むしろ、私自身の近
い、未来像ではないかと思っている。私など、老人ホームへ入れば、もっとはげしく恋愛ごっこ
をするかもしれない。その可能性は、大きい。

 そもそも人間は、いつも異性を意識して生きている。あのフロイトも、そう言っている。生きる
原動力(リピドー)とは、性的エネルギーのことだ、と。

かく言う私も、男性ばかりの講演会より、女性が多い講演会のほうが、楽しい。同じ子育て相
談でも、父親からのものよりも、母親からのもののほうが、どこかやる気が出てくる。
 
 しかし、だ……。

 人生の終わりにあって、その行き着く先が、「老いらくの恋」というのも、さみしい気がする。人
は、未来に、夢や希望をいだいて生きる。もしその夢や希望がなくなれば、生きる力そのもの
を、なくす。そこで夢や希望……ということになるが、それが「老いらくの恋」とは? あるいは
「老いらく」であるからこそ、老人たちは、恋愛ごっこに、夢中になるのかもしれない。

 しかし、これだけは言える。

 こんなことを若い父親や母親に言っても、理解してもらえないかもしれない。が、「私」という、
頭蓋骨の中から見る、外の世界は、若いときも、そして年をとった今も、同じだということ。たと
えて言うなら、肉体というのは、容器のようなもの。その容器が、疲労して、しわくちゃになった
としても、中身は中身。中身は、若いころのままということ。

 眼科医のドクターに言わせると、白内障か何かで、まわりの景色は、多少、若いときとは違っ
た色に見えるらしい。が、頭蓋骨の中から見る世界は、若いときも、そして今も、ほとんど変わ
らない。

 青い空は、やはり青い。緑の森は、やはり緑。

 ただ自分が年をとったと感ずるのは、自分の姿を、カガミに映してみたとき。「なるほど、私
も、老人の仲間入りだ」と。しかしだからといって、自分が、老人と認めるわけではない。私の
年代(私は現在、満五五歳)で、自分が老人と思っている仲間は、ゼロ。絶対に、いない。たい
ていの仲間は、「その気になれば、新しい恋の一つや、二つ……」と思っている。

 もちろん年齢による、肉体的変化というのは、たしかにある。

 これから先、一〇年後か、二〇年後に老人の仲間入りする、あなたのために、正直に書いて
おこう。

 性欲については、五〇歳になっても、若いときと同じように、ある。ただし、若いときのように、
毎日、テッシュペーパーの世話になるということはない。また一度、世話になると、数日間は、
女性のヌード写真を見るのも、おっくうになる。

 要するに、そういうことが、めんどうになる。「何がなんでも、その女性と……」という、気力
は、たしかに弱くなる。頭の中では、あれこれ想像するが、たいていは、この段階で、ストップ。

 が、老人ホームの老人たちは、そうではないという。どうして、そうなるのか。私自身の変化を
観察するかぎり、そういう気力は衰えることはあっても、ますことはないと思うのだが……。

今は「?」マークということにしておく。私もやがて老人ホームへ入ることになると思う。そのと
き、また、何か新しいことがわかれば、みなさんに報告する。どうか、お楽しみに!
(031025)

【付記】

 老化とともに、脳の機能も低下する。そのとき、低下しやすい部分と、そうでない部分がある
という。たとえばよく知られた例としては、アルツハイマー型痴呆症がある。

このアルツハイマー型痴呆症では、「記憶」「推理」「人格」などの、高度な精神機能は大きな影
響を受けるが、「感覚」「運動」などは、それほど影響を受けないという。つまり人格は崩壊して
も、恋愛感情や、それにともなう行動は、崩壊しないということになる?

 老人ホームの老人たちが、恋愛ごっこに夢中になるメカニズムは、こうして説明される? 感
情と行動だけが活発になる? あくまでも私の勝手な、推理によるものだが……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(283)

●山荘にて……

今朝は朝から、頭痛。風邪をひいたらしい。朝食のあと、薬をのむ。しばらく寝る。だいぶ楽に
なったので、昼前に、こうして山荘へやってきた。

 ひんやりとした秋の冷気。曇り空。途中、パソコンショップに寄る。今度発売になった、「フライ
ト・シミュレーター2004」を見る。しかし私のパソコンでは、動作しない。購入をあきらめる。

 山荘で、長イスに寝転んでいると、突然の来客。出ると、村の人だった。「近所のMさんが、
亡くなった」と。葬式の連絡だった。

 それから昼食。風邪薬のせいだと思うが、食欲がない。ワイフは、「おなかがすいた」と言っ
て、弁当を食べ始めた。私は知らぬ顔して、この原稿を横で書いている。

 空は曇り。低い雲が、ところどころに白い光のすじをつくりながら、天をおおっている。風はな
い。すべてが動きを止めている。その間を、こまかい虫が、飛びかっている。

遠くで、チッチッという鳥の声。あとは耳鳴りの音が、ジーと聞こえるだけ。ああ、やはり、今日
は、風邪をひいたようだ。せっかくの休みだというのに、何というザマ!

 ワイフが、ウーロン茶を温めて、もってきてくれる。それを口にして、またパソコンに向かう。
今日は、山荘を掃除するつもりで、やってきた。が、どうも、それは無理のようだ。

 しかし私も、弱くなったものだ。たった一五年前には、毎週のように土木作業をしていたのに
……。その同じ私が、山荘へ来るたびに、昼寝とは! このところ草刈り機で、草を刈るのも、
おっくうになった。仕事は、山のようにある。

 浄化槽の掃除。
 風呂のフィルターの掃除。
 ふとん干し。
 シーツを洗う。
 トイレの掃除。
 草刈り、などなど。
 
それに屋根に枯れ枝がたまり始めた。それも掃除しなければならない。いつも「来週こそ、やろ
う」と思いながら、山荘を去る。しかし……。

 こういうときは、コタツにもぐって、居眠りするのが、一番、よい。どこか肌寒い。それに、体の
シンから、ゾクゾクと冷える。熱はないようだが、のどが痛い。扁桃腺炎かもしれない。私の持
病の一つだ。何かあると、すぐ腫れる。

 (この間、約三〇分)

 今、昼食を食べた。コンビニで買ってきた弁当を、ワイフと二人で分けて食べた。あとは、カッ
プヌードル。それも半分ずつ。ワイフは、外の景色を見ながら、オー・ザックとか何とか書いて
ある、ポテトチップスを食べている。

 「オー・ザックというのは、何だ?」と聞くと、「ただの名前でしょ」と、そっけない返事。一枚もら
って食べたが、やたらとしょっぱい。「わかった! オー、ザクザクと食べるから、オー・ザック
だ」と言うと、ワイフが、フフフと笑った。

 不思議なものだ。こうして外の景色を見ているだけで、心がなごむ。どこか頭痛も消えるよ
う。ただ寒いのだけは、どうしようもない。

 「ようし、今夜は、ニンニク・ライスだ」と私が言うと、ワイフは、どこか気のない返事。風邪をひ
いたときは、ニンニクをたっぷりと入れたチャーハンが一番。しかしそのあとの臭いが、悪い。

 さあて、これから一眠り。もう一服、風邪薬をのむつもり。せっかくの休みだというのに……。
(031025)

【付記】

 ちょうど、ここまで書き終わったところで、ワイフが、「アケビよ!」と言って、庭から、アケビの
実を、数個、もってきた。

 あわてて外に出る。山荘の西のはずれに、「愛の小道」という名前の、散歩道をつくった。そ
の一角で、毎年アケビがとれる。行ってみると、一〇〇〜一五〇個くらいのアケビができてい
た。しかし大半は、すでに野鳥に食べられたあと。残念。「もう一週間早ければ……」と私。「ホ
ント!」とワイフ。気がつくのが、一週間、遅かった。

 夢中になってアケビをとっている間は、風邪のことは、忘れた。が、部屋に帰って、イスに座っ
たとたん、またあの寒気(さむけ)。私は、ウーロン茶で、風邪薬をのんだ。

【付記A】

 結局、三時ごろから、五時少し前まで、昼寝。起きてみたら、頭痛が消えていた。うれしかっ
た。

 そして外の景色を見ると……! まっかな夕焼け。しかもその夕焼けが、刻々と、微妙に色を
変えた。私は、思わず『♪赤とんぼ』を口ずさむ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(284)

●ボランティア活動 

 悪人は、絶対に、他人のために、無償では行動しない。行動しても、どこかで計算しながら、
する。だいたいにおいて、他人のために行動することを、「損」と考える。

 いつか『ボランティア活動をする人には、悪人はいない』と書いた。他人のために無料で奉仕
するという心と、人をだまして金品をまきあげるという心は、共存しない。……共存できない。そ
れで私は、そう書いた。

 問題は、その中身。

 中には、そうした活動を、自分の売名行為のために利用している人がいる。しかしそういう人
は、悪人以上の、悪人。

 たとえばどこかの、貧しい国の、貧民救済運動を考えてみよう。

 そういう活動を、人知れず、地道にしている人がいる。報われることなど、ほとんど、考えてい
ない。私は、そういう人は、善人だと思う。

 しかし一回ごとに、何人かのカメラマンや、マスコミ関係者を連れていき、そのつど写真にとら
せて発表する人もいる。私は、そういう人は、悪人以上の悪人だと思う。他人の不幸を、自分
の名声のために、利用している?

 もう一五年ほど前のことだろうか。あるテレビタレントが、難民救済運動のために、ある貧し
い国へでかけて行った。そのときの様子は、週刊誌などに、大々的に報道された。そのタレン
トは、骨と皮だけになった難民の子どもを、さもいとおしそうな様子で、抱きあげて見せた。

 しかし、だ。そのあと、つまりその写真撮影が終わったあと、そのタレントは、消毒薬で、手や
体を、懸命にふいていたという。アフリカの子どもを抱きあげて見せたのは、あくまでも、撮影
用だったというわけである。

同行したカメラマンの一人が、あとで、そのことを暴露し、当時はそれなりに話題になった。し
かしこういうインチキが平気でできる人というのは、本物の悪人とみてよい。

 もっともこうした手法は、政治の世界では、ごくふつうに使われている。近所でも、こんなこと
があった。

 ある日、ある市議会議員が、地域の後援者を何人か引きつれて、私の事務所にやってき
た。そしてこう言った。「あの通りの、あそこに、歩道橋を作ったらよいという意見があります
が、いかがいたしましょうか」と。

 そのあたりは、交通事故が多い。歩道橋があれば、子どもたちにとっても、より安全になる。
そこで「賛成です」と言うと、得意そうな顔で、「では、お任せください。今度、議会にかけてみま
す」と。

 実は、その歩道橋は、そのときすでに、建設が決まっていた。その議員は、そういう情報をど
こかで手に入れ、さも、自分の手柄であるかのようにして、選挙運動に利用していた。

 話はそれたが、あなたのまわりにも、人知れず、ボランティア活動をしている人は多いはず。
あなた自身が、そうであるかもしれない。しかしそういう人を、静かに観察してみてほしい。あな
たも、私がここで言っている意味がわかるはず。

 そういう意味で、つまり反対の意味で、ボランティア活動をするということには、重要な意義が
ある。「私」を忘れて、「他人」のために奉仕するというのは、自分の心を洗うことにもなる。言い
かえると、ボランティア活動をしている人に、悪人はいない。

 ……と、ここでは仮の結論を出しておくことにする。このつづきは、また別の機会に考えてみ
たい。
(031025)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(285)

●教育の錯覚

 漢字をよく知っているから、国語力があるということにはならない。同じように、計算力がある
から、算数がよくできるということにはならない。

 こうした錯覚は、子どもの学習には、いつもついて回る。たとえばよくしゃべる子どもは、頭が
よく見える。しかしそう見えるだけであって、本当に頭がよいかどうかは、別問題。
 
 しかし最大の錯覚は、勉強がよくできる子どもを、人格的にすぐれていると考えること。頭が
よいからといって、人格的にすぐれているということにはならない。その人の人格は、長い年月
を経て、苦労の中で、熟成される。

 むしろ、勉強があまりできない子どものほうに、人格的にすぐれた子どもが多い? 一方、勉
強しかしない、勉強しかできない、いわゆる「勉強バカ(失礼!)」の子どものほうに、問題があ
る子どもが、多い?

 昔、印象に残っている子どもに、S君という高校生がいた。私がアルバイトをしていた進学塾
の塾長の息子だったが、いつも、どこか、おかしかった。そのS君、ある日、私にこう言った。

 「林先生、この世界はすべて数学で説明できます。人も、動物も、組織も、社会も、すべてで
す」と。

 彼の頭の中は、そのため、数字だらけだった。難しい公式でも、一度見ただけで、覚えてしま
った。全国の大学の、それぞれの学部の最低合格点も、すべて頭の中に入っていた。私でも、
ウンウンとうならなければ考えなければならないような数学の問題でも、目の前で、スイスイと
解いてみせた。それはまさに、神業(かみわざ)に近かった。

 そのS君が、そののち、どのような人生を送ったか、そして今、送っているか、私は偶然、よく
知る立場にある。が、それは、ここには、書けない。一度は世話になった人の息子である。

 しかしS君は、今、かなり責任の重い仕事についている。私はそのS君のうわさを聞くたび
に、「これでいいのか?」と、疑問に思う。何かしら、この日本の流れを、ゆがめてしまったかの
ようにさえ感ずる。あるいは一時的ではあるにせよ、私は、そのS君を、家庭教師したことがあ
る。そういう自分を、心のどこかで後悔している。

 そこで私は、こう思う。

 学校の教師の仕事の一つに、人格的にすぐれた子どもと、そうでない子どもを見分ける作業
も、含まれるのではないかということ。人格的にすぐれた子どもを、より励まし、伸ばす。

 現に今、この日本には、歴然とした学歴社会がある。そういう社会に、子どもたちを送り出す
にしても、子どもを教える教師は、どこかで方向性をもたねばならない。ただ知恵さえつければ
よいというような、無責任な教育は、許されるべきではない。でないと、結局は、日本は、ここで
いう「勉強バカ」だけが得をするという社会になってしまう。

 これに関連して、以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。

++++++++++++++++++++

●生意気な子どもたち

 子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学四年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。

彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。

「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」
と。母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある建設会社の社長だった。ほ
かにも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や
はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しか、せていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。

都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはい
けない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、
いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究
している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。
 
+++++++++++++++++++

 ここに書いた子どもについては、後日談がある。

 私が思いあまって、このことを母親に告げたときのこと。そのとき、その母親は、車の中にい
た。が、母親のほうが、先に、私に、こう言った。

 「あんたは、授業中、ふざけて遊んでばかりいるそうですね。息子が言うには、ちゃんと、教え
ていない」と。

 その子どもは、先手を取って、母親には、私の悪口ばかりを並べていたらしい。このタイプの
子どもが、よく使う手である。つまり私が親に、子どものことを話す前に、子どものほうが、私の
悪口を言う。そして悪いのは、自分ではなく、林のほうだと、親に思わせる。

 母親は、車の中から外へ出ようともしなかった。そしてプイと前を向いて、車を発進させた。

 それっきり。本当に、それっきり。以後、音信は、ない。連絡もない。たぶん、今ごろは、優秀
な高校生として、どこかの進学高校に通っているだろうと思う。

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ここまで書いて、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
思い出したので、再掲載します。

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●先手を取る子ども

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くとこ
ろです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小四)の先生は、点の悪い子どものテストは、投
げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先
生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしてい
る」など。つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先
生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学
校の先生の悪口を言うようになった子ども(小三女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言
い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方
で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中一)も、その言葉で苦しんでいるはず
だった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。「君の力は君が一番よく知っているはず
ではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなっ
てしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがまま
を通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのが
ある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表すると
いうことは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきてい
た。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにK
さんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。と、そのときである。Kさんがスーッ
と涙を流したのである。

私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わっ
てから、Kさんにその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さ
んが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさん
は、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行
為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の
行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の
抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。私はAさんのうしろ姿を見送りな
がら、むしろそちらのほうを心配した。

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ついでに、もう一作……。

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●汝自身を知れ(キロン)

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか?」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきに
して、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子
どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝自身
を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(1533〜1592)も
「随想録」の中で、こう書いている。

「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自己が相手なのだ。私はつねに自己
を考察し、検査し、吟味する」と。「自分を知る」ということは、一見簡単なことに思えるが、その
実、たいへん難しい。

で、このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であって自分であ
る部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADHD児)と呼ばれる子ど
もがいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身を離れたところで起こる。子ど
も自身にはその意識すらない。だからその子どもをしかっても意味がない。このことは親につ
いても言える。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつま
でも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
(031025)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(286)

【今週の幼児教室から……】

 今週は、本読みを、した。

 本読みといっても、簡単な絵本を、子どもたちに、読んでもらった。

 この時期、年中児は、やっと文字を読めるようになる。まさにたどたどしい。しかしここを原点
として、子どもを伸ばす。

 小さな声で、それこそ、蚊の鳴くような声で読んでも、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。参
観に来ている母親たちにも協力してもらい、みんなで手をたたいて、ほめる。

 こうすると、子どもの脳の中の辺縁系内部で、モルヒネ様の物質が放出されるという。それが
子どもの脳に充満し、子ども自身を、ここちよい陶酔感で包む。この陶酔感が原動力となって、
つぎのやる気へとつながる。

 発達心理学の世界では、こうした現象を、「好子(こうし)」という言葉を使って説明する。「何
かをやりとげた」という満足感(好感)が、子どもを、前向きに伸ばす、と。

 ここで注意しなければならないことは、いくら声が小さくても、子ども自身はそうは思っていな
いということ。この時期、自分の声が大きいか、小さいかを、客観的に判断できる子どもは、い
ない。だから、ほめる。小さい声だったら、なおさら、ほめる。

 「あなたは、すてきな声をしているね」
 「じょうずに、読めるようになったね」
 「すごいね」と。

 まずいのは、「どうしてもっと大きい声で読めないの!」と叱ること。子どもは自信をなくすの
みならず、文字に対して、嫌悪感をすら覚えるようになるかもしれない。幼児教育では、こうし
たことは、絶対に、あってはならない。

 今週は、ほかに、文字遊びや、言葉遊びをした。また名前を書いてもらった。大切なことは、
そのつど、ていねいにほめること。「じょうずに書けるようになったね」と。

 で、レッスンが終わるころ、もう一度、「最後に、もう一回、本を読んでくれる人はいません
か?」と声をかけると、全員が、うれしそうに、「ハイ!」「ハイ!」と言って、手をあげた。つま
り、それこそが、私のねらいでもあった。つまり、今週のレッスンは、それで大成功! ハハ
ハ!
(031025)

●こうした指導で大切なことは、決して、おとなの優位性を押しつけてはいけないということ。バ
カなフリをして、子どもに自信をつけさせる。バカなフリをして、子どもの自立を促す。バカなフリ
をして、子どものやる気を引き出す。

この時期、おとなの優位性を押しつけると、子どもは、おとなになることに不安をいだいたり、
自信をなくしたりする。一度、子どもの自信をつぶすと、以後、立ちなおるということは、まず、
ない。決して、おとなの優位性を、子どもに、押しつけてはいけない。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(287)

●あやしげな電話

 息子が三人もいると、よく、おかしな電話がかかってくる。たいていは、若い女性の声で、「○
○さん、いらっしゃいますか?」と。

 夕食どきや、真夜中にかかってくることもある。名前を聞いても、名字しか言わない。「こちら
から電話をかけなおさせますから、電話番号を教えてください」などと言うと、そのまま電話を切
ってしまう。

 目的がわからない。意図もわからない。だいたいにおいて、電話のかけ方も知らない連中の
ようだ。いきなり、「○○さん、いらっしゃいますか?」は、ない。発音もおかしい。どこか鼻にぬ
けたような、ネチネチとした言い方をする。

 息子たちに聞いても、「知らないよ」「関係ないよ」と。

 電話という道具は便利な道具だが、しかし私は、あまり好きではない。電話というのは、いき
なり家の一番奥まで、入りこんでくる。遠慮がない。マナーもない。だから私の自宅の電話番号
は、電話帳には載せていない。が、それでも電話がかかってくる。

 そういう電話を受け取るたびに、しかし、私は、ふと、こんなことを考える。「どうして、こんなこ
とで、人生をムダにするのだろうか」と。相手が若い女性だったりすると、「こういう女性でも、い
つかは母親になるのだろうか」とさえ、思う。

 しかしこの世の中、油断もスキも、あったものではない。つぎからつぎへと、あやしげな商売
が生まれては消える。が、それが「あやしげ」とわかるまでに、善良な多くの人たちが犠牲にな
る。

 最近の傾向としては、若い人を中心に、新手のあやしげな商売が生まれるということ。そして
より年配者をねらった商売が、多いということ。よい例が、あの「オレオレ詐欺」。老人から見る
と、若い人たちは、バカに見えるが、若い人たちから見ると、老人は、バカに見えるらしい。し
かし本当のバカは、どちらなのか。が、こんなことは言える。

 人間と、ほかの動物たちは、大きく違う……と思っているのは、実は、人間だけではないかと
いうこと。実は、人間も、ほかの動物たちも、それほど、違わない。脳の構造にしても、ほとん
ど、同じ。ただ人間には、ほかの動物たちにない、脳みそが、少しだけプラスされている。

 だから動物園で、サルの集団などを見ていると、コンビニの前でたむろする若者たちと、同じ
に思えてくる。あるいは、どこが、どう違うというのか。むしろ脳みそが、少しだけプラスされてい
る分だけ、かえって、タチが悪い。それが、冒頭に書いた電話である。

 何かしら腹黒い目的や意図をもっていることは、わかる。しかしそれが何であるか、わからな
い。わからないから、不気味といえば、不気味。そこで息子の一人に相談すると、こう教えてく
れた。

 「そういう電話がかかってきたら、ぼくは、交通事故で死んだと言ってくれればいい」と。

 ナルホド! まじめに考える必要など、どこにもないわけだ。今度から、そう言う。
(031026)

【追記】

 人間には、ほかの動物にない脳みそが、少しだけプラスされている。あとは、どこも、違わな
い。

 だからその「プラスされた脳みそ」を、どう使うかで、人間は、人間になることもあるし、かえっ
て、動物以下になることもある。

 言葉を話す。道具を使う。情報をもっている。……そういうことで、「私は、動物よりも、頭がい
い」と、思う人は多い。あるいは、「人間は、ほかの動物とくらべて、優秀だ」と、思う人は多い。

しかしほかの動物たちは、言葉で、相手をだますようなことはしない。道具を使って、人を殺す
ようなことはしない。核兵器やミサイルを、作ったりしない。

 つまり「プラスされた脳みそ」も、使い方によっては、悪となりうるということ。そこに気がつけ
ば、同時に、人間のもつ限界も、わかるはず。またどうすれば、人間が、人間らしくなれるか、
それもわかるはず。

 言うまでもなく、人間が人間なのは、「考える」からである。考えて、善を追求するからである。
言いかえると、考えない人間は、人間ではないということになる。動物以下とは言わないが、動
物とほぼ同じとみてよい。

 以前、書いた原稿(中日新聞掲載済み)にこんなのが、ある。

++++++++++++++++++++++

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間
 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。

もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があって
も、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画
『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。

「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育
の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●もの言わぬ民たち

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。

もっと言えば「もの言わぬ従順な民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は大きく変
わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教
育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教
授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練
がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、
二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組
 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え
ていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人に
よっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らな
い。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、
考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときの
ほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含
まれる。

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「子どもの世界」(中日新聞)の最終回用に書いたのが
つぎの原稿です。

+++++++++++++++++++++++

「子どもの世界」・最終回

●ご愛読、ありがとうございました。

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、ときどき、こんな意
地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうな
るか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代の子
育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書くと言うの
は、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。反応もわから
ない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」と怒っている人だ
っているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない
荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書く
たびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは、「考え
る」こと。「考える」ということは、「書く」ことなのだ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そ
してその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。し
かしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事があ
ると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあ
がる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま
読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。

その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうござ
いました。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(288)

●インターネットの限界

 インターネットで、人は、どこまで親しくなれるか? また限界があるとするなら、その限界は、
どこにあるか? どうすれば、その限界を、乗り越えることができるか?

 毎日、いろいろな人から、メールをもらう。しかしそのうち、つまり返事を書いているうちに、だ
れがだれなのか、わからなくなってしまう。

 たとえばA県のAさんから、メールをもらう。つづいてB県のBさんから、メールをもらう。それ
ぞれ別の返事を書いているのだが、やがて頭の中が混乱する。そのときは、Aさんと、Bさんを
区別していても、数日もたつと、それがわからなくなる。

 こうしたことが連続的につづくと、さらに混乱する。一番、困るのは、「先日、息子のことで相
談しました、C県のCです。あのあと、あの問題は……」というようなメールを、もらったとき。頭
の中がパニック状態になる。

 実際には、文字だけでは、個性がわからない。個性がつかめない。二〇歳の人も、五〇歳の
人も、文字だけでは、まったく区別がつかない。

 そうして考えてみると、「顔」というのは、重要である。私たちは、相手の顔を見ながら、その
顔の上に情報を載せることで、情報を整理する。しかしインターネット上では、顔がない。ない
から、情報の整理ができない。

 そこでいろいろな方法をためしてみた。

 よくメールをくれる人に頼んで、メールの書体を変えてもらった。IEには、「ひな形の選択」とい
うのがある。便箋を使い分けるように、背景を自分で選ぶことができる。たしかにこの方法は、
よい。水色の便箋できたメールは、金沢の○○さんと、すぐわかる。

 つぎに一人、写真を送ってもらった人もいる。しかし「写真を送ってほしい」と言うまで、かなり
の時間を要した。送るほうにしても、かなりの覚悟がいる。頼むにしても、誤解されやすい。だ
から送ってもらったのは、F市のMさんだけ。

 しかし個性を特定するには、写真が一番よい。今は、インターネットは、文字情報が主体だ
が、もう少し進化すれば、テレビ電話のようになるだろう。時間の問題といってもよい。

 で、その結論。インターネットには、限界がある。いくらインターネットで、メールを交換しても、
友情は、育たない。恋愛感情は、生まれない。人間というのは、やはり生身の人間同どうしが、
ぶつかりあって、その関係を結ぶことができる。顔も見たことがない。声も聞いたことがない。
そういう人と、親友になれるわけがない。考えてみれば当たり前のことではないか。

 そこで今度は、反対の立場で考えてみる。

 私はこうして毎日、いろいろなエッセーを書いて、マガジンという形で、読者の方に配信してい
る。私自身も、いくつかのマガジンを購読しているので、読者の心がわからないわけではない。
しかしそれでも、読者の方と、何かの「糸」を求めているのは、事実。

 しかし実際には、丘の上から、毎日、空に向って叫んでいるような気分。講演と違って、相手
の顔すら見えない。反応も、わからない。何もわからないから、その糸をつなぐことさえ、できな
い。

 こうしてマガジンも、三〇〇回を超えた。が、そんなわけで、このところ、その限界を強く感ず
るようになった。「こんなマガジンを発行して、何になるのか?」と。毎回、ていねいに読んでくだ
さっている方がいることは、よく知っている。サニーさん、ルキアンさん、低脂肪牛乳さんなど。

 しかし「私」という人間は、そういう人たちの間で、どのように形づくられているのだろうか? 
あるいは何も、形づくられていないのだろうか? あえて言うなら、電子マガジンは、本でもない
し、手紙でもない。その中間あたりか? だからこそ、よけいに、その性格がつかみにくい。

 こうした限界は、やがて解決されるだろう。それまでの、過渡的な問題ということになる。今、
その限界があるからといって、インターネットの可能性を否定することも、できない。現に今、イ
ンターネットのおかげで、生活が、ぐんと便利になった。それに変化した。

 最近では、ほとんどのニュースは、インターネットで読んでいる。
 天気予報、地図も、インターネットで手に入れている。
 新聞を読む時間も、かなり減った。それ以前の数分の一程度になったのでは?
 図書館通いも、ほとんど、しなくなった。
 だいたいにおいて、テレビを、ほとんど、見なくなった。
 手紙も書かなくなった。届く手紙の数も、少なくなった。

 この先、私も含めて、人間の生活は、どうなるのだろう。私にもわからないが、大切なことは、
そのつど問題を乗り越えて、前に進むということ。インターネットに代表される情報革命は、もう
だれにも止めることはできない。

 この先、どうなるか私にもわからない。とにかく、マガジンを一〇〇〇回まで、出してみる。そ
のあとのことは、そのとき考えればよい。どうかみなさん、よろしく!
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(289)

●広島県厳島(いつくしま)神社

 広島県の厳島神社の回廊が、水びたしになったという。NHKのニュースが、それを報道して
いた。

 その回廊が、画面に映し出されたとき、ふと、何とも言えない切なさが、心に充満した。しかし
その正体は、すぐわかった。

 私は高校の修学旅行で、厳島神社へ行ったことがある。そこでのこと。私は、その回廊で、A
さんという女の子を、追いかけたことがある。私はある時期、そのAさんが、好きで好きで、たま
らなかった。

 心というのは、不思議なものだ。回廊を見ただけで、その当時の心が、よみがえってくる。私
はそのとき、Aさんのうしろ姿を見かけた。それであとを追いかけた。が、Aさんは、そういう私
にまったく気づくこともなく、何人かの友だちといっしょに、どんどんと遠ざかって行ってしまっ
た。

 あの切なさ……。今でも忘れない。恋というのは、そういうものか。あるいは、恋こそが、人生
の花?

 ワイフに、「あの回廊で、女の子を追いかけたことがあるよ」と話すと、「どうして?」と。

 「修学旅行でね。Aさんという女の子だった。ぼくは、一組。Aさんは、三組だった。別行動だっ
た。しかしあの回廊で、ぼくは、Aさんを見かけた。それで追いかけた。しかしね、Aさんは、そ
のままどこかへ消えてしまった……」と。

 「好きだって、言わなかったの?」とワイフ。
 「言ったよ。それで何度か、そのあと、デートしたよ」と私。
 「それだけ?」
 「それだけだよ。あっという間に、別れたよ」
 「どうして?」
 「まあね、フラれたということ」
 「どうして、フラれたの?」
 「そんなこと、わからないよ。そのうちAさんが、ぼくを避けるようになって……」と。

 だからこそ、よけいに切ないのかもしれない。いや、「今」という時からみると、恋をした時期
も、デートをしたときも、そしてフラれたときも、すべてが、ごちゃまぜになっていて、時間的な区
別がつかない。

 しかし、なつかしい思い出であることには、違いない。何というか、遠い、遠い昔の、自分であ
って自分でないような、そんな自分の思い出である。「そんなこともあったなあ」と思うと同時に、
つい先日のことのようにも、思う。

 もし、あのときに、今、タイムスリップしたら、私は、迷わず、Aさんのそばに行くだろう。ほか
の連中が何と思おうともかまわない。そしてその場で、Aさんを抱き、キスをするだろう。

 どうせ時の流れは、かすみのようなもの。一度過ぎ去れば、現実も、夢も、みな、同じ。生き
ていること自体、夢のようなものかもしれない。あのとき一組の担任だったA教師も、三組の担
任だったB教師も、もうこの世にいない。

 そういえば、あのAさんは、今ごろ、どうしているだろうか。うわさによれば、S市で、時計屋の
ダンナと結婚したという。一度、高校の同窓会で会えるかと思って期待して行ったこともある
が、そのときの同窓会には、来なかった。大学を卒業して以来、Aさんには、一度も会っていな
い。そんな思いが、ますます私を切なくする。

 恋は、人生の花。だれが言った言葉かは知らないが、本当に、そう思う。この切なさこそが、
その証拠。若い人たちよ、おおいに恋をしなさい。花を咲かせるために……!
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(290)

●自発的行動

 自ら進んでやるか。それとも、人に命令されてからやるか。その違いは、当然、大きい。

 たとえば勉強。自分がしたい勉強を、自分でする。学びたいから、学ぶ。その学びたいという
意思がしっかりしている。そういう形で、その人(子ども)の行動を強化することを、「正の強化」
という。

 一方、親にガミガミと叱られながら、勉強する。勉強しなければ、殴られるかもしれない。だか
ら勉強する。こわいから、自分の意思とは無関係に、する。いやいや、する。こういうふうに、外
からの圧力で、その人(子ども)の行動を強化することを、「負の強化」という。

 子どもの行動を強化するためには、二つの方法がある。自発的にさせる方法と、強制的にさ
せる方法の二つである。

 もっとも、こんなことは心理学で説明されなくても、常識。わかりきったこと。

 そこで「正の強化」を、育てるためには、一義的には、前向きな姿勢を育てる。ほめたりして、
自分に自信をもたせる。しかしこのとき、もっと大切なことは、子どもの夢を育てること。そして
その夢を、未来につなげていく。

 今の私の心境を書く。

 もう五、六年前になるだろうか。私はある人から、本を代筆するように頼まれた。若いころ、よ
くした仕事である。そこでその人の仕事を、一度は引きうけた。が、である。いざ原稿を書こうと
する段階になって、手が鉛のように重いのを知った。

 いろいろな思いが、胸をふさいだ。代筆、つまりゴーストライターの仕事というのは、体を売る
女性の仕事(?)に似ている。いわば魂を切り売りするようなもの。いくらその人の気分になっ
て書いても、どこかしこに、自分の思想が混入する。

 そこで「これはお金のためだ」と、何度も自分に言ってきかせた。が、当時は、それほどお金
には困っていなかった。で、結果的に、その仕事は、断ることにした。

 一方、私は、今、こうして少しの時間でもあれば、原稿を書いている。まったくお金にならな
い。雑誌社や出版社から、頼まれたわけでもない。しかし、こうして書いていると、楽しい。本当
に楽しい。

 それは未開拓の原野を、ひとりで歩いているような楽しさである。私が知らないものが、そこ
にあるような気がする。あるいは本当に、それまで私が知らなかったことを、発見することもあ
る。そういうときは、楽しくて、キーボードの上で、手先が、チョウのように軽く舞う。

 この違いがどこからくるかといえば、自発的にそれをするかしないかの違いといってもよい。
ただ私のばあいは、もう負の強化には耐えられない。人に命令されてするのは、大嫌い。実際
には、命令されたら、絶対にしない。

 少し前のことだが、デパートで、エレベーターに乗ったときのこと。うしろのほうに立っていた
男が、「四階!」と叫んだ。「四階のボタンを押せ」という意味である。私は返答するのもいやだ
ったから、その言葉を無視した。すると、その男はこう言った。「あんたが近くにいるのだから、
押してくれてもいいだろ」と。私は、それに答えて、こう言った。「自分のことは、自分でしたら」
と。

 私は決して、不親切な人間ではない。しかしそういう言い方をされると、本能的な部分で、抵
抗する。ここでいう「負の強化」に耐える度量は、もうない。

 子どもを伸ばすことを考えたら、同時に、いかにしてその子どもの中に、自発的な向学心を
育てるかを考える。命令したり、脅したりして、子どもに勉強させるのは簡単なこと。しかしそう
いう方法では、長つづきしない。あるいは子ども自身が、かえって反発してしまう。

 そこであなたの子どもは、今、どのような状態か、自己診断してみてほしい。毎日、やる気に
なって、がんばっているだろうか。それとも、逃げ腰になって、いやいや勉強しているだろうか。
もし後者なら、ここでいう正の強化をいかにつくるかだけを考えて、子どもを指導する。勉強を
する、しないは、つぎの問題と考える。
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(291)

●満五六歳!

もうすぐ満五六歳になる。私は昭和二二年、生まれ。まさに戦後生まれの、団塊の世代。

 しかし微妙な年齢だ。つい先日も、それなりに好意を感じていた女性に、こう言われた。「先
生と私は、親子のようなものですから……」と。

 とたん、淡い恋心は、吹き飛んだ。吹き飛んで、消えた。

 男というのは、わけのわからない存在だ。相手を「女」と意識したとたん、自分の年齢を忘れ
る。年の差が、二〇歳あろうが、三〇歳あろうが、「女」は「女」。その女性と、同等の立場に立
つ。

 しかし相手の女性は、そうではない。私を、それなりの年配者とみる。ばあいによっては、ジ
ジイとみる。あるいは、「男」として、みない。

 その満五六歳。この一年間を、振りかえってみる。

 大きなできごとは、オーストラリアの友人夫婦が、二か月近く、我が家にホームステイしたこ
と。ボロボロになった旧家を、改築したこと。それに教室を新しくしたこと。孫に会ったこと。忙し
かったというより、そのつど、ガクンガクンと、貯金が減った。

 家族は、みな、健康だった。私も健康だった。仕事は相変わらず低調だったが、しかし思う存
分、自分のしたいことはした。そういう満足感は、ある。毎日、数時間。長いときは、五、六時
間、原稿を書くことができた。

 ただ、月ごとに、体力や気力が衰えていくのは、感じている。このままのスピードで進めば、あ
と長くても、一〇年で、私の頭は、使いものにならなくなる? 恐ろしいことだ。ワイフは、「男の
更年期よ。またこの時期を過ぎれば、活発になるわよ」と励ましてくれるが、私はあまり期待し
ていない。

 (もう二年近く、このマガジンを読んでくださっている方もいらっしゃると思いますが、この二年
間で、私の文章力や表現力は、変化しましたか? 衰えましたか? 鋭さは、どうですか? も
し何かの機会があれば、どうか、教えてください。)

 これから先、今まで以上に早く、四年間がすぎ、あっという間に、私も六〇代。それはよくわ
かっているが、しかしその実感が、あまりないのは、これまたどうしたことか? こうして外の世
界をながめてみても、自分のジジ臭い顔は見えない。かろうじて手先だけが見え、その手先
は、今のところ、ツヤもあり、若々しい(?)。だから自分では、自分がジジイと、どうしても、思
えない。

 これから一年間。がんばる。毎日を、懸命に生きてみる。そのあとのことは、そのあとに考え
ればよい。

 はたしてどんな一年になることやら? 健康だけは大切にしながら、がんばる。がんばるぞ!

 ハッピー・バースディ・ツー・「ミー」!
(031026)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(292)

【近況】

●新しい試み

今、電子マガジンを、二日おきに発行している。一回ごとに、A4サイズの紙で計算して、約二
〇枚近くになる。が、私のマガジンは、文字ばかりで、読みにくい。

そこでこのマガジンを、一度、ホームページに載せる。その上で編集し、飾りや写真を添えたり
して、読みやすくする。マガジンから、そのホームページへ、直接、アクセスできるようにする。

が、一つ、ここで大きな問題が生ずる。 

私のホームページは、すでに、24Mバイトという、かなり大きなサイトになってしまた。更新する
にしても、立ち上げから、保存まで、約二時間近くもかかってしまう。これでは、臨機応変に編
集できない。実際には、毎週土曜日に更新するようにしているが、それで精一杯。

そこで、あちこち、FTP送信できる、無料のホームページサイトをさがしてみた。で、やっと一つ
見つけた。T社のホームページサイトである。

近く、ここに書いたような試みを、してみる。そうすれば、私のマガジンは、新しく生まれ変わる
ことになる。ぐんと、読みやすくなる。

●三重県紀伊長島町での講演

今度、三重県紀伊長島町で、講演することになった。当地の教育委員会の方が招いてくれた。

で、その日は、長島町で一泊することになった。「海の幸のおいしいところです」とのこと。ぐん
と、楽しみになった。

で、もし、お近くの人がいらっしゃれば、どうか、講演会においでください。

日時   11月18日、火曜日
     午後7:00〜より、東長島公民館ホール、です。

     主催者の方に連絡いただければ、たぶん、入場は自由なはずです。

     連絡先……05974−7−1111、内線 378、奥田様まで。
     
     あるいは、bwhayashi@vcs.wbs.ne.jp   はやし浩司まで前もって
     連絡いただければ、便宜を図ります。

●愛知県立田村での講演

ついでに、もう一つ、コマーシャル。

愛知県立田村での講演会について

日時   11月16日、日曜日
     午後2:00〜より、総合体育館大ホールにて

     こちらも教育委員会主催ですが、もしおいでくださるようであれば、
     一度、「中広株式会社の、伏屋様」まで、お問い合わせください。

     連絡先は、058−248−5611、です。

     たぶん入場は自由(無料)に、していただけると思います。
     いいかげんな言い方ですみません。私の一存では、決まらないところも
     ありますので、お許しください。 

●脳梗塞(こうそく)

Nというパソコンショップで、新しいソフトをながめていたら、となりに、一人の男性が立っている
のに、気づいた。動作が、どこか、おかしい。

どうやら脳梗塞か何かで、半身が不随になったらしい。左手がまったく動かない。その向こうに
妻らしき女性もいて、あれこれ気をつかっているよう……。

このところどういうわけか、脳梗塞か何かで、そうなった人が、気になる。私自身の近未来像
を、そこに見るためではないか。

私は、風邪をひいても、すぐ頭痛で始まる。ときどき、偏頭痛にもなる。肩こりはない。心臓も、
だいじょうぶ。だからその分、いろいろと症状は、頭に出てくる。だから今、一番心配なのは、
脳梗塞。くも膜下出血も、こわい。

その男性は、私より、ずっとスリムで、健康そうな顔色をしていた。もともとそうであったのか、
それとも、治療で、そうなんたのかはわからない。私はその男性を見ながら、「どうしてこんな健
康そうな人が……」と思ってしまった。

近所のF氏も、一〇年ほど前、その脳梗塞で倒れた。F氏のばあいは、心臓に何か特別の病
気があって、そこから発生する脂肪のかたまりのようなものが、脳の血管をふさいだらしい。だ
から脳梗塞の治療が一段落したあと、心臓の手術もしている。

そのF氏だが、脳梗塞で倒れる前までは、明るく、冗談好きの人だった。子ども会の活動も、い
っしょにした。

しかし病気で倒れてから、めっきりと、暗くなった。ぐちばかりを言うようになった。病気がこわ
いのは、病気そのものよりも、こうして精神状態にまで、大きな影響を与えること。

パソコンショップで見かけたその男性も、どこか暗い表情をしていた。そして一つのソフトを手
に取り、買うかどうかで、何度も深く、迷っていた。何かアドバイスしてあげようと思ったが、横
に、妻らしき人がいて、あれこれ話しかけていたので、それもできなかった。懸命に、夫を励ま
しているのが、よくわかった。

その男性のことが気になり、ソフトのことは、どうでもよくなってしまった。来年か、二、三年後
か。それとも、明日か。私もああなるのかと思ったとたん、気が滅入ってしまった。それで何も
買わずに、そのパソコンショップを出てしまった。

私の年齢になると、健康というのは、増進するものではない。守るものである。今ある健康を、
ひとつずつ数えながら、それを大切にする。あとは持病と、うまくつきあう。今以上に健康にな
ろうと考えても、ムダ。そういうことは、ありえない。

かろうじて今は、脳の活動は、まだ、だいじょうぶのようだ。しかしこうなると、もう時間との勝
負。私の脳が先にだめになるか。それとも、私が先に、真理に到達するか。

●不倫の相談

ある知人が、「どうしても会いたいから」というので、駅の近くのホテルで会った。あれこれ話を
したあと、こう切り出した。

「林君、今、ぼくは、ある女性とつきあっている。別れたほうがいいだろうか?」と。

いまどき、こんな話は、珍しくない。が、その友人は、真剣だった。かなり悩んでいた。それに苦
しんでいた。

「不倫か?」と聞くと、「そうだ」と。

男も、女も、退屈な毎日に、ふと嫌気(いやけ)がさして、不倫に走る?

最初は、ほんの遊び心。しかしそれが肉体関係にまでおよぶと、遊びが遊びでなくなってしま
う。人間の「性(さが)」というより、脳の構造そのものが、そうなっている。CPU(中央演算装
置)そのものが、狂う。

しかしこういうケースでは、何ともアドバイスのしようがない。言うなれば、心の病気のようなも
の。不倫することが病気というわけではない。「恋」をすることが、病気のようなもの。熱病か。
はたまた心の病気か。

「君は、その切なさを、楽しむことができないのか? フーテンの寅さんのように、それを楽しめ
ばいい」と私。
「そんな簡単なものではないよ」と、その友人。
「ぼくなんか、年がら年中、その切なさを楽しんでいるよ」
「林君でも、恋をするのか?」
「するよ。しかしこのところ、だれも、相手にしてくれない。ぼくを男してみてくれないからね。そ
れがよくわかるよ。だからぼくは、フーテンの寅さんだ」
「そう言えば、雰囲気が似ているね。顔も似てきたし……」
「バカヤロー。それは言いすぎだ」
「で、やはり、別れるべきだろうか……」
「無理をすることはないよ。そのうち、奥さんにバレて……。大騒動になる。そうなれば、いやお
うなしに、別れられるよ」
「それは困る……」
「困るだろうなあ。お前が奥さんの前で、ワーワー泣きながらあやまる姿が、楽しみだ」
「お前も、ひどいこと、言うなあ」
「そんなアホな話、まじめに相談にのるバカは、いないよ」

話を聞くと、相手の女性は、二八歳の人妻だという。「お前と、三〇歳近くも違うではないか!」
と驚くと、「そうなんだよ」と、はにかんだ。

彼は私とちがって、背も高い。社会的地位もある。別れるときうしろ姿を見たが、そのうしろ姿
にさえ、風格があった。私はそれを見ながら、「女性のほうが、ほうっておかないだろうな」と思
った。

まあ、人生には、いろいろなことがある。だから楽しい。人生は、まさにドラマ。そのドラマが、
人間の世界をうるおい豊かなものにする。決して、不倫を奨励しているわけではないが……。
(031027)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(293)

意識の違い

 今朝、K国の子どもたちが、テレビで紹介されていた。どの子どもも、独得の笑みを浮かべ
て、踊ったり、楽器を鳴らしたりしていた。ワイフは、それを見て、「気持ち悪い」と言った。私も
同感だった。

 で、こうした子どもたちについて、K国から脱出してきた人は、こう言った。「鼻血を出しても、
練習をつづける」と。そういうK国の子どもたちを、すばらしいと思った日本人は、いったい、何
人いただろうか。

 しかしそのとき、である。その脱出してきた人が、ポロリとこう言った。それは私には、衝撃的
な言葉だった。

 「K国では、こうした子どもたちが、政府の宣伝用に使われる。それはちょうど、西側諸国の、
コマーシャルのようなものだ。西側では、モノを売るために、宣伝する。それと同じ」と。

 人の意識というのは、絶対的なものではない。普遍的なものでもない。立場が変われば、そ
の意識も変わる。

 私たちはK国の子どもたちを見ながら、「おかしい?」と思う。しかしその意識は、相対的なも
ので、K国の人たちから見れば、今度は、私たちの国が、おかしく見えるに違いない。その一
つが、「物欲を刺激するコマーシャル?」ということになる。

 たとえば、あのポケモンが全盛期のころ、子どもたちの世界は、まさにポケモン漬けになっ
た。テレビ、雑誌、ゲーム、コミック、商品ほか。あらゆる場面で、子どもたちは、その商魂に乗
せられた。

 その結果、あの黄色いピカチューの絵を見ただけで、子どもたちは、興奮状態になってしまっ
た。一度、私は不用意に、「ピカチューのどこが、かわいいの?」と言ってしまったことがある。
とたん、生徒たちから、猛烈な抗議の嵐。袋叩きにあってしまった。

 こうした異常な現象を、いったい、どれだけの人が、「異常」と感じたであろうか。そこで私は、
一冊の本を書いた。それが『ポケモン・カルト』(三一書房)である。

 しかしこの本に、執拗ないやがらせをしかけてきたのは、二〇歳をすぎた若者たちだった。
「お前は、子どもの夢をつぶすのか」「とんでもない、トンデモ本だ」と。今でも、その団体の人た
ちが、その本や私を、攻撃している。

 こういう現象は、K国の人たちには、どう見えるだろうか。ここにも書いたように、意識というの
は、相対的なものである。私たちが、K国の子どもたちがおかしいと思うのと、まったく同じよう
に、K国の人たちは、日本の子どもたちは、おかしいと思うに違いない。現に、あの金XXは、そ
う言っている。「西側の狂った文化」と。

 私は、K国の子どもたちの映像を見ながら、不思議な感覚にとらわれた。K国がおかしいと思
えば思うほど、自分たちの世界も、おかしく見えた。ただ私たちは今、その(自分たちの国)に
住んでいるから、それがわからない。言いかえると、私たちが、自分の国はふつうだと思ってい
るのと同じように、K国の人たちは、自分たちの国は、ふつうだと思っているに違いない。

 少し話が脱線するかもしれないが、私は、学生時代、こんな経験をしたことがある。『世にも
不思議な留学記』(中日新聞掲載済み)で発表した原稿を、転載する。
 
+++++++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう三〇年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学
していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が
いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと
う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。

「アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラ
リアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日
本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉
を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの
国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを
通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教
師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。

「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだ
が、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子ども
の間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはな
らない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。

が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかり
を強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある
日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それ
でも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうし
ているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということにな
る。
 
こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明し
ても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、
その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

+++++++++++++++++++

 意識の違いというのは、恐ろしい。その意識にどっぷりとつかっていると、ほかの世界が理解
できなくなる。それだけならまだしも、自分がおかしな世界に入っていても、それに気づかなくな
る。

 典型的な例としては、宗教の世界がある。その世界の外にいる人からみれば、「おかしい?」
と思うようなことを、平気で、しかも、ま顔でしている信者は、いくらでもいる。

 そこで大切なことは、いつも、自分の意識を疑ってみること。自分の意識を、ふつうだと思っ
てはいけない。絶対だとは、さらに思ってはいけない。意識というのはそういうもので、またそう
いう前提で、いつも自分の意識を、疑ってみる。

 それは、ものを考えるとき、たいへん重要なことである。……というようなことを、K国の子ど
もたちを見ながら、考えた。
(031027)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


子育て随筆byはやし浩司(294)

●ミス

 二五年ほど前のことだが、バスの中で、S荘へ行きたいが、どこでおりればよいかと、それを
運転手に聞いていた女性(七五歳くらい)がいた。

 私はその女性に、こう言った。「ああ、そのS荘なら、よく知っています。私の家の近くです。教
えてあげましょう」と。

 その女性は、私に感謝した。そして私といっしょに、バスをおりた。

 しかしS荘はS荘でも、その女性が行こうとしていたS荘は、別のS荘だった。名前が似てい
た。私が思っていたS荘は、老人ホームのS荘。その女性が行こうとしていたS荘は、ホテルの
S荘だった。

 私はその女性と別れてから、それに気づいた。その女性は、たぶん、そのあと、S荘まで、歩
いていったと思う。その距離、約二キロ!

 今でも、その話を思い出すたびに、心が重くなる。そしてそれ以来、私は、他人に親切にする
ことに、慎重になった。

 しかしこうした失敗は、生活に、つきもの。少し内容は違うが、こんなこともあった。

 四年前に、小さなノートパソコンを買った。T社製の小型パソコン(ダイナブックSS)だった。

 が、このパソコン、最初から調子がおかしい。しばらく使っていると、画面上のカーソルが、勝
手に移動してしまう。そこでT社の支店にもっていった。が、いくら調べても、原因がわからな
い。そこで基盤を交換してもらうことにした。

 が、それでなおったわけではない。

 またしばらく使っていると、同じように、おかしくなった。そこで再び、修理に……。あとは、こ
の繰りかえし。四、五回は、修理を繰りかえしただろうか。

 そうして四年。そのうち、私のほうがあきらめてしまい、どうでもよくなってしまった。

 で、最近、そのパソコンを、また使い始めた。が、またまたおかしい。しばらく使っていると、カ
ーソルが勝手に移動してしまう。とくにワープロとして使っているとき、この現象が起こると、ワ
ープロとしては、たいへん使いにくい。

 そこで……。

 私は、ふとしたことから、マウスをほかのマウスに取りかえてみた。とたん、その不調が、なお
ってしまった! 原因は、マウスだった。そのノートパソコン用に、ミニのマウスを買った。その
マウスが故障していた! しかしそれに、だれも気づかなかったとは! 

 私も、そしてT社の技術者も、パソコン本体のほうが、おかしいと思い込んでしまった。しかし
その思い込みが、まちがっていた。それは私が、老人ホームのS荘を、ホテルのS荘と思い込
んでしまったのと、どこか似ている?

 問題は、なぜ、こうした思い込みによるミスが起きるかということ。実は、これは私の年代のも
のにとっては、切実な問題でもある。つまり年齢とともに、この思い込みによるミスが、ふえる
傾向にある。

 原因の一つは、ものを考えるハバが狭くなっていることがある。こんなこともあった。

 オーストラリアに住んでいるB君に、鉄道模型を送っている。毎週、書店で発売になる。それ
を買って、送っている。

 それが先週は、二つ重なってしまった。それでそれぞれに住所を書き、別々に送った。しかし
郵便局から出るとき、こんなことに気づいた。

 何も別々に送らなくても、二つをテープか何かで、一つにまとめて送ればよかった、と。そうす
れば、郵送料も、安くすむ。しかしどうして私は、それに気づかなかったのか?

 頭が悪くなった? それとも、融通がきかなくなった? 私はいつものように、決められた方法
で、その模型を送った……。

 これから先、こういうミスは多くなると思う。それはしかたないとしても、ミスは少なくしたい。そ
のために、私は、どうしたらよいのか。

 そう言えば、毎年、N氏から、盆暮れのつけ届けが送られてくる。しかしこのところ、年によっ
ては、二回とか三回とか、送られてくる。そのつど礼状を出すと、「林さんに送ったのを、つい忘
れてしまって、また送りました」と言う。

 そのN氏は、今年、八四歳。奥さんは、こう言う。「このところ、主人は、物忘れがひどくなった
ようです。林さんにまだ送ってないから、送れと言うのです。それで二回も送ったりしています。
ごめんなさい」と。

 私もそうなるのは、もう時間の問題? そうなりたくはないと思うが、しかし脳の老化だけは、
防ぎようがない。だれしも、年をとる。そして頭の活動がにぶくなる。そしてここに私が書いたよ
うなミスが、多くなる?
(031027)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(295)
  
デプレッション

 今、ひどく、気分が落ち込んでいる。何もする気が起きない。いつもなら、いろいろ頭の中で、
考えるが、その考えすら、浮かんでこない。はっきり言って、考えるのも、めんどう。

 で、こういうときの気分を、しっかりと書きとめておこう。何かのときに、役に立つかもしれな
い。

 風邪が抜けたあと、体がだるくてしかたない。ビタミン剤や、栄養ドリンクをのんでみたが、ほ
とんど効果がない。いつもなら、気分が多少、ハイになるが、それもない。

 こういうときは、ふとんを頭からかぶって、はやく寝たい。眠くはないが、起きているのが、つ
らい。人とは、会いたくない。こういうのを、回避性障害というのか。人の声さえ、ガンガンと頭
に響く。

 しかしそうばかりは言っておれない。だから、自分でそれをはらいのけながら、起きあがる。
「気はもちよう」と言う。たしかにそうで、「ええい、ままよ」と起きあがると、それなりに気が晴れ
る。しかし頭は重い。から元気というか、長つづきしない。すぐまた、気が滅入ってくる。

 そういう意味では、体力と気力は、関係がある。体力がなくなると、気力もなくなる。今は、そ
の体力がない。こういうときは、無理をしてでも、運動するのがよい。しかしそれを決断するまで
が、たいへん。

 それはたとえて言うなら、満腹の上に、うな丼を三食つづけて食べるようなもの。また「うな丼
を食べろ」と言われたら、どうしたらよいのだ。今は、そんな心境。しかしがんばるしかない。

(その翌日に……)

 ここまで書いたあと、昨夜は、自転車に乗って、運動をした。三〇分ほど、走った。気分が爽
快になったとは、思えないが、まあ、ふつうになった。今は、起きたばかりだというのに、まだ眠
い。あくびが、周期的に、出る。

 そうそう昨夜は、寝る前に、ハーブでつくった精神安定剤(値段が高い割には、効果はな
い?)と、ハンゲシャシン湯を飲んだ。ハンゲシャシン湯は、もともとは、胃の薬だが、精神を安
定させる働きもある。

 こうして原稿を書いていると、そのうち、調子がもどってくると思う。窓の外を見ると、曇り。私
の気持も、曇り。ああ、いやだ!
(031029)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(296)

ミニモニ

 「アイボン、ノノ、アイチャン、ミカのうち、どの子が好き?」と聞くと、とたん、子どもたちは、目
を輝かせる。そこで私は、おもむろに、こう言う。「やっぱり、アイボンが、いちばん、かわいい
ね」と。

 実のところ、私は、ミニモニで、どの子が何という名前か。知らない。ハッタリである。しかし子
どもの世界に入るのには、これにまさる方法はない。

 あれこれ話していると、やがて子どもたちは、興奮状態になる。ただ男子だけは、シラーッと
しらけた様子で、「先生が、ミニモニを見てるなんて!」と言う。明らかに軽蔑(けいべつ)のマナ
コである。

 ところで、何かの会議で、藤井F氏と同席したことがある。その会議室を出たときのこと。若い
女性たちが出口のところに、ズラリと並んでいて、私たちを見ると、一斉に、キャーッと声をあ
げた。

 「まさか!」と思ったが、視線は、すべてとなりの藤井氏に注がれていた。私は改めて藤井氏
を見て、「この男は、いったい、何ものか」と思った。人気というのは、そういうものらしい。

 言うまでもなく、藤井F氏というのは、元チェッカーズのメンバーで、今も、アーティストとして、
活躍している。

 しかし考えてみれば、人気などというものは、まさにバーチャル(仮想現実)なもの。私がそれ
を実感したのは、あの「たまごっち」のときだった。ありもしない生き物のために、子どもたちは
成長したと言っては、喜び、死んだと言っては、泣いた。

 東京には、その死んだたまごっちのために、供養する、寺まで現れた。ウソや冗談ではな
い。本気だった。

 ミニモニにせよ、藤井氏にせよ、そのたまごっちと、どこがどう違うというのか。いや、決して
つまらないとか、そういうふうに言っているのではない。ひょっとしたら、今、私たちがここに生き
ていること自体、バーチャルなものかもしれない。

 今日も、幼児たちをながめながら、「この子どもたちは、どこからきたのだろう」と思った。ほ
んの一〇年前には、姿さえなかった人間たちである。

 一方、同時に、私が子どものころいたおとなたちを、思いやる。もちろんそのほとんどは、もう
亡くなっている。姿さえない。「あの人たちは、どこへ行ったのだろう」と思った。

 そして生きている人間どうしが、それぞれのつながりを求めて、無数のドラマを展開する。そ
してその一部が、相乗効果を起こし、ここでいう「人気」になったりする。

 一人の女の子が、おもしろいことを言った。小学六年生の女の子だ。

 「Nちゃんが、ミニモニをやめたんだってエ。理由は、『あんな若い連中といっしょにしていた
ら、体力がつづかない』だってエ」と。

 そのNちゃんにしても、まだ小学生ではなかったのか。その小学生が、さらに年齢の若い(小
さい)連中と、いっしょには、活動できないと言ったらしい。私は、この話を聞いて、思わず、笑
ってしまった。

 わかりやすく言えば、小学校の高学年児が、低学年児には、ついていけないとこぼしたという
のだ。(この話は伝聞なので、不正確かもしれない。)よく四〇歳近くなったプロ野球の選手が、
「若い人にはついていけない」と言って、引退することはある。そういう話なら、わかる。

 しかし……?

 この世界には、いろいろあるようだ。かく言う私も、あと二〇年もすれば、(あるいは三〇年
か? それとも明日か?)、この世界から、消えていなくなる。そこに生きることの不思議さとい
うか、深遠さがある。「あれもつまらない」「これもつまらない」と言っていたら、生きていることさ
え、つまらなくなってしまう。

 子どもたちと、ミニモニの話で、ワイワイ騒いでいるときが、人生の華(はな)!

「やっぱり、ノノのほうが、かわいいよ」
「アイチャンは、かわいくないね」
「かっこいいのは、アイボンだ」と。

 ついでに、私は、子どもたちに、踊り方や振りつけのしかたも、習った。それをみながわらっ
た。男子たちは、ますますしらけて、私に向って、「お前、アホか」というような顔をした。私に
は、それが楽しかった。
(031029)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(297)

成績を伸ばす法

●勉強のリズムを大切に
 
 それぞれの子どもには、それぞれのリズムがある。日単位のリズム、週単位のリズム、月単
位のリズムなど。こうしたリズムを大切に育てる。

 たとえば英語の学習。

 こと英語について言えば、毎日、一〇分でよい。たった一〇分でよい。カセットテープを聞い
て、それをノートに書く。これにまさる英語学習の方法はない。

 もちろん毎日、英語で会話するという方法もあるが、しかしそれができる家庭は、少ない。受
験英語となると、今でも、書いて、読んで、文法を……が、主流である。

 しかしこのリズムをつくるのが、たいへん。それは苗木にたとえていうなら、ひ弱で、デリケー
トな観葉植物を育てるようなもの。あるいは、もっと、たいへん。

 こうしたリズムは、つくるのに、半年。しかしこわすのは、数日でできる。そして一度、こわれる
と、二度目がない。同じ方法が、使えなくなるからだ。

●達成感を大切に

 「やりとげた」という達成感が、つぎの学習意欲を引き出す。

 たとえば子どもが、月刊のワークブックを、やりとげたとする。その間、子どもなりに、黙々と
やったとする。

 このとき、親が丸つけをするにしても、だいたいあっていれば、大きな丸をつけて、すます。
「ここが違う」「やり方がおかしい」「まちがっている」と言えば、子どもは、やる気をなくす。

 だいたいにおいて、あのワークブックほど、いいかげんなものはない。長い間、その制作をし
てきた「私」が、そう言うのだから、まちがいない。

 もちろん、基本的にやり方がまちがっているところについては、なおさなければならない。しか
しそれ以外は、丸をつけて、終わる。このいいかげんさが、子どもを伸ばす。

 発達心理学の世界では、この達成感を、「自己効力感」という。また大脳生理学の分野でも、
こうした達成感を味わうと、脳内で、モルヒネ様の物質が放出され、陶酔感を生み出すというこ
とまでわかっている。

 たかが「達成感」と、安易に考えてはいけない。この達成感こそが、すべて。ほかに子ども
が、はじめて文字を書いたようなときも、その字をほめる。かろうじてでも、読めればそれでよし
とする。このおおらかさが、子どもを伸ばす。

●夢を育てる

 夢のある子どもと、そうでない子どもとでは、学習への取り組み方がちがう。夢のある子ども
は、何をしても、積極的になる。もちろん自分の興味のある分野には、積極的になる。

 その夢を育てるのは、親の役目。たとえ親からみて、つまらない夢でも、それを励まし、伸ば
す。

 大切なのは、その「容器」をつくること。

 夢の内容そのものは、年齢とともに、変わる。変わって当然。たとえば幼児期は、「お花屋さ
んになりたい」と言っていた子どもでも、中学生になると、「砂漠に、木を植えたい」と言うように
なるかもしれない。さらに大学へ入るころには、海外でボランティア活動をしたいと言うようにな
るかもしれない。

 しかしそのとき大切なことは、夢に向って努力するという「容器」。この容器をしっかりと育て
る。その容器の中に、何を入れるかは、子ども自身が決める。親ではない。

 が、親は、その容器そのものを、つぶしてしまう。

 よく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、夢ではない。昔は、エリート意識と
いうものがあった。学歴社会もあった。しかし、今は、そういう時代ではないし、そういうもので
は、子どもを、ひっぱっていくことはできない。

 わかりやすく言えば、「勉強しなさい!」と子どもに命令することは、容器を育てることでも、夢
を育てることでもない。むしろ、その容器や夢を、こなごなに破壊する。

 この浜松市内に、静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校がある。その高校でも、上位
一〇%前後の子どもは、本当に頭がよい(?)。しかしそういう子どもたちが、夢をもって勉強し
ているかといえば、それは疑わしい。

 ただ勉強しているだけ? よい成績をとるのが、趣味のようになっているだけ? 勉強しかし
ない。勉強しかできない。そんな子どもたちが、多い。親にしてみれば、夢のような子ども(?)
かもしれないが、本当に、そういう子どもが、よい子どもなのかということになると、ただただ疑
問。あるいは、そういう子ども自身は、どうなのかという問題もある。

 私は、一〇年ほど前までは、高校三年生まで教えていた。しかし正直に告白するが、どこか
ヘンな子どもほど、スイスイと、一流大学の一流学部へ進学していった。

 一方、「この子どもはすばらしい」と思った子どもほど、進学競争になじまず、その途中で挫折
していった。

 そして今。日本の社会は、どこかおかしい。おかしくなってしまった。その原因のほとんどは、
こうしたいびつな学歴社会にあることは、もう疑いようがない。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、親は、すかさず、こう言う。「すてきね。今度、い
っしょに球根を育ててみましょうね」と。あるいは図書館へ行き、植物の図鑑をながめるのもよ
い。散歩をしながら、花や草を見るのもよい。そういう姿勢の中から、ここでいう「容器」が育
つ。

●親が伸びる

 子どもを伸ばす最大の秘訣は、親自身が、伸びてみせる。

 いつも新しいことにチャレンジし、その道を開拓していく。そういう緊張感(ダイナミズム)が、
子どもを伸ばす。

 親が生き生きしていると、子どもも生き生きしてくる。反対に、親が沈んでいると、子どもも沈
んでくる。これは教育の世界の、常識。ウソだと思うなら、あなたの近くにいる親子を、観察して
みればよい。

 生き生きとしている親の子どもは、生き生きとしている。そうでない親の子どもは、そうでな。

 ただし親が伸びるといっても、親は、子どもとは関係のない世界で、外に向ってのびること。
子どもに向かえば、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことにもなりかねない。

 学校での行事に、積極的に参加する。子どもの学習に、かかりきりになる。父母会のリーダ
ーになるなど。それ自体は、悪いことではないが、子どもを意識すればするほど、それはその
まま過関心になり、過干渉になる。……なりやすい。

 子育ては、重労働だし、決していいかげんな気持ちではできない。しかし心のどこかで、「私
は、私。あなたはあなた」という一線を引く。引きながら、「私には私の夢がある」と、子どもを突
き放す。子どもは、そういう親の生きザマを見ながら、自分で伸びることを学習する。

 「あなたが生きがいよ」「あなたが一流大学へ入ってくれるのが、私の夢なのよ」「出世して、
お母さんを喜ばせてね」などとは、決して口にしてはいけない。それが子どもにとっては、いか
に苦痛に満ちた言葉であるかは、反対の立場で考えてみれば、あなたにも、わかるはず。

●先生をほめる

子どもの前で、先生の批判、悪口は、タブー。学校の批判や、教育の批判も、タブー。子どもの
前では、「先生はすてき」「学校はすばらしい」とだけを言う。またそれを口グセにする。

子どもが、先生の悪口を言ったときは、「あなたが悪いからでしょ」と、はねのける。決して相づ
ちを打ってはいけない。

もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもの耳に入らないところで、処
理する。

 子どもの学習を伸ばそうとしたら、先生と子どもの相性をよくする。先生とて、生身の人間で
ある。決して聖人でも、神様でもない。親の熱い思いが伝わったとき、先生のやる気は何倍も
大きくなる。そうでないときは、そうでない。

 親が家の中で言っていることは、どんな形であれ、必ず、学校(幼稚園)の先生に伝わる。も
しあなたが悪口を言っていれば、それも伝わる。そういう意味で、子どもは、隠しごとができな
い。先生も、そんなことを聞き出すのは、朝飯前。

 人間の心というのは、カガミのようなもの。あなたが先生を、よい先生と思っていると、先生
も、あなたのことを、よい親と思う。そういう相乗効果が、子どもの学習環境をよくする。

●あきらめる

 子育ての真髄は、「あきらめる」。

 子どもというのは、不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの
子はやればできるはず」と、がんばればがんばるほど、伸び悩む。表情も、暗くなる。

 しかし親が、「うちの子は、こんなもの」「あなたは、あなたなりに、よくやっている」とあきらめ
たとたん、そのあとしばらく時間をおいて、子どもは、伸び始める。表情も明るくなる。

 とくに子どもの学習では、あきらめることを恐れてはいけない。『あきらめは、悟りの境地』とも
いう。

 これは私が考えた格言だが、親もやりつくし、行きつくところまでいくと、こういう境地に達す
る。しかし賢明な親は、その前に気づく。

 それは実に、おおらかな世界。広く、ゆったりとした世界。とたん、「子育てが、こんな楽なも
のだったとは知らなかった」となる。

 もしあなたが今、子どもの横にすわっていて、イライラしたり、子育てが苦痛だと思っているな
ら、その原因は、あなた自身の中にある。ひょっとしたら、あなた自身が、学歴信仰というカルト
の、信奉者かもしれない。

もしそうなら、できるだけはやく、そういうカルトとは決別する。へたをすれば、親子関係そのも
のを破壊してしまうかもしれない。もしそうなれば、それこそ、大失敗というもの。あなたは、あ
なたの人生そのものを、ムダにすることになる。
(031029)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(298)

【今週の幼児教室から】

●笑えば、伸びる

 言いたいことを、言う。したいことを、する。これが幼児教室の基本である。おさえるのは、簡
単。その時期がきたら、少しずつ、しめていけばよい。

 今週は、(数)をテーマにした(月曜日クラス)。

 この時期は、(教えよう)(教えてやろう)という気持ちは、控えめに。大切なことは、子ども自
身が、数を好きになること。数を、楽しいと思うようになること。が、それ以上に、大切なことは、
子どもが、自信をもつこと。決して、おとなの優位性をおしつけてはいけない。

 七個のリンゴを、わざとまちがえて数えてみせる。すると子どもたちは、「ちがう、七個だ!」と
叫ぶ。そこで改めて、数えてみせる。そして「ああ、七個だったのかあ?」と、とぼけてみせる。

 が、その日は、それですんだわけではない。さらに、私を責めた子どもがいた。「あんた、先
生でしょ!」と。そこで私は、こう言ってやった。

 「君、まだ幼稚園児だろ。だったら、そんなにしっかりと勉強しなくていい。もっと、ぼんやりと
勉強しなさい。あのね、幼稚園児というのは、指をしゃぶって、おしりからプリプリと、出しながら
勉強するものだよ。わかっている?」と。

 すると子どもたちが、ワイワイと反発した。しかしその反発こそが、私のねらいでもある。

 「あのね、わかっていないな。勉強なんてものはね、適当にやればいいの。そんなにしっかり
やると、頭がへんになるよ!」と。

 すると子どもたちは、「ちがう、ちがう」と叫ぶ。つまりそうやって、子どもを、こちらのペースに
のせながら、指導していく。あとは、子ども自身がもつ、伸びる力に任せればよい。

 だいたいにおいて、子どもというのは、伸ばそうと思っても伸びるものではない。大切なこと
は、子ども自身がもつエネルギーを、うまく利用すること。それをうまく利用すれば、子どもは、
伸びる。

 さて、子どもを明るい子どもにするには、方法は、一つしかない。つまり、笑わせる。大声で、
笑わせる。それにまさる方法はない。だから私の教室では、子どもを笑わせることを、何よりも
大切にしている。一時間なら一時間、笑わせぱなしにすることも、珍しくない。

 笑うことにより、子どもの心は、開放される。前向きな、学習態度も、そこから生まれる。『笑
えば、伸びる』、それが私の、この三五年間でつかんだ、幼児教育の真髄である。
(031029)

【追記】

 最近の研究では、ストレスと免疫系の関係などが指摘されているが、それと反対に、「笑い」
には、不思議な力が隠されている。これから先、大脳生理学の分野で、少しずつ、その「力」が
解明されていくだろうと思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(299)

【近況】

●数字を気にする?

 インターネットは、数字のかたまり? こちらが望まなくても、数字だけは、向こうから、どんど
んとやってくる。

 Rサイトに、簡単なホームページを開いた。コマーシャルが入るということで、このサイトは、
無料。しかしそのつど、メールが届く。

 「100番目の方から、アクセスがありました」
 「日記記入率は、○○%になりました」
 「今週は、○○人の方から、アクセスがありました」と。

 しかし気になる数字もある。たとえば、マガジンの読者の数。しかしこうした数字は、一度、と
らわれると、気になって、しかたない。それだけではない。何かしら、その数字のためにマガジ
ンを発行しているような気分になる。読者の数がふえても、そして減っても、「どうして?」と、心
のどこかで考えるようになる。

 これは実に、不愉快な気分だ。

 そこで私は、決めた。

 もうすぐ、Eマガの読者の数が、1000人になる。1000人になったら、もうマガジンの読者の
数のことは、忘れよう。1000人でも、2000人でも、私には、関係のないこと。読んでくれる人
がいて、そういう人たちの役に立てれば、それでよいこと。だいていにおいて、1000人とか、2
000人か言われても、その実感が、まったくない。

 一度、読者の数が、300人前後になったとき、Eマガ社に、「本当に300人もいるのです
か?」と問いあわせたことがある。そのとき、私は「本当です」という、回答をもらった。だからこ
うした数字は、本当らしい。

 それはそれとして、実のところ、うれしい。読者の数がふえるということは、大きな励みにな
る。しかしそれで喜ぶことの、こわさも、私は知っている。喜べば喜ぶほど、今度は、読者の数
が減ったとき、がっかりする。だから結局は、いつも平常心でいるほうがよい。ぬか喜びするの
も、がっかりするのも、心の健康には、よくない。

 その1000人まで、あと75人。この世界では、よく「マガジンも、読者が1000人になって、一
人前」と言われる。雑誌などにも、そう書いてある。私のマガジンも、やっと、その一人前にな
る。そのあとのことは、わからないが、ともかくも、こうして今まで、マガジンを読んでくださった
かたには、心から、感謝したい。みなさんが、読んでくださったおかげで、今日まで、私もがん
ばることができた。

 ありがとうございます!

【追記】

 ここ一年ほど、韓国の「朝鮮日報」が発行する、インターネットNEWSを、毎日のように読ん
でいる。

 その「朝鮮日報」の経済欄は、いつも、数字ばかり。「S社の液晶市場が、アメリカで、1位に
なった」「○○産業は、中国に敗れて、2位になった」と。

 こうして朝鮮日報を読んでいると、「韓国の人たちは、順位が気になってしかたないのだな」と
思ってしまう。しかしそれは、一〇年前、二〇年前の、日本の姿、そのものと言ってもよい。

 つまりこうしたものの考え方や、発想そのものが、受験競争の申し子(=特定の背景から生
まれた子)と言ってもよい。韓国の受験競争のはげしさは、日本の比ではない。まさに狂ってい
る。こうした経済記事を書く記者は、まさに、受験競争を勝ち抜いて、そういう記者になったの
だろう。

 私には、それがよくわかるが、恐らく、本人自身は、それに気づいていないと思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(300)

●障害児教育について

福井県のKJ氏(男性、教員)から、メールをもらった。その中で、「知的障害児教育」につい
て、どう考えるかという、質問をもらった。ここでは、それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++

 はやし様のコラム、楽しく、大変ためになりました。
特に「許して忘れる」は読後、妻が泣いていました。

 「乱舞するイメージ」の中で
三十年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、
ここ十年、急速にふえた。小一児で、十人に二人はいる。今、
学級崩壊が問題になっている。実際このタイプの子どもが、
一クラスに数人もいると、それだけで学級運営はなりたたな
くなる。
とありましたが、その通りかなと思いました。ところで、以下の問題
について、「今後,大変だね」と言う声を聞いています。

 特殊学級に在籍している生徒児童は、生活の場を一般学級で行う。
在籍も普通学級とする。困難な教科学習のみ通級で特別支援学級で個
別指導を行う。財政的な支援が無く、重度の知的障害者やLD・LD
HDの生徒も健常児と同じように生活することはかなり危険かと思い
ます。(以前、知的障害児の通う学級の仲間から50万円をおごらされた。
他の学級ではストレスのはけ口として知的障害児にプロレス技をかける。)

 また、聾・盲・養護学校も一本化するようですが、聾唖者が1人で
在籍する場合、手話でのコミニュケーションは不可能になります。

はやし様はどのよなお考えでしょうか?
今度のコラム等でお考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

++++++++++++++

【KJ様へ@】

 欧米では、身体障害児については、いっさい差別しない。知的障害児については、軽度のば
あいは、落第。重度のばあいは、特別クラスで、という方式が、定着しているようです。

 ただここで「落第」と書きましたが、アメリカなどでは、日本でいう、「学年」がなく、その言葉か
ら受ける印象は、まったく違うようです。たとえばクラス名は、日本のように、「三年二組」という
のではなく、「MORGAN's Class」とか、など。

 また中学でも、単位制を導入しているところが多く、数学にしても、「中学三年間で……」とい
う考え方をしています。だから親にしても、「落第(ドロップ・アウト)」を、日本より、はるかに気
楽に受け入れているように思います。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞掲載済み)です。

+++++++++++++++

●学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。

あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてくれ」と頼みに行くケ
ースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「そのほうが、子どもの
ためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。

先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、
なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九九年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。

その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を
見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。
「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカでは
どうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれている
のか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。
日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。

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【KJ様へA】

 障害児教育の背景には、親たちの意識の問題があります。「落第を喜ぶ、アメリカの親たち」
と、「養護学級をいやがる、日本の親たち」の違いは、そこから生まれます。

 私はやはり、こうした意識の違いを、克服することが、先決かと思います。なぜアメリカではそ
うなのか……? 一方、日本では、そうなのか……?、と。

 なお、アメリカでは、フリースクール(ホームスクール)制度が発達していて、教育そのものに
対する考え方も、大きく違うようです。私の二男の嫁の母親が、その指導員(派遣教員)を、州
政府から依頼されて、現在しています。

 それについて書いたのが、つぎの原稿です。この原稿は、私の本の中で発表したものです。
当初、中日新聞のほうで発表してもらうつもりでいたのですが、編集部のほうで、ボツにされま
した。なぜ、ボツになったか? KJ様なら、その理由がおわかりになると思います。

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常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

@学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから
電話がかかってきます」と。

C進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!
 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。

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 ついでに、「常識」について書いた原稿を
一作、添付します。

 この原稿(中日新聞掲載済み)は、結構、
反響の大きかった原稿で、そのあと、いろ
いろな意見をもらいました。

 話を先に進める前に、読んでいただけれ
ばと思います。一部、先の原稿と内容がダ
ブりますが、お許しください。

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●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任があ
る」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危
害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り
出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく
質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
 
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

++++++++++++++++++++++

【KJ様へB】

 その国の文化の高さは、いかに弱者にやさしい社会かで、決まります。決して、弱肉強食的
な社会を正当化してはいけません。

 身体障害児にせよ、知的障害児にせよ、まさにその社会的弱者です。そういう子どもたちを、
いかに保護し、指導し、援助し、励まし、育てていくかで、教育の高さが決まります。

が、日本では、おかしなことに、「何人、有名大学へ送り込んだか」で、教育の高さ(?)が決ま
ります。夏目漱石の『坊ちゃん』の中にも、進学率が高くなったことを、「実績」という言葉で、表
現しているところがあります。「我が校の実績も……!」と、です。

 日本には、古来より身分制度があり、その身分制度が、明治時代になって、学歴社会に置き
かわったといういきさつがあります。今に見る、学校神話、学歴制度、さらにはそれを支える受
験競争は、そういう流れの中から生まれたものです。

 こうした日本人がもつ意識を変えていくのは、容易なことではありません。ここにあげた私の
エッセーは、それについて、書いたものです。

 ご指摘のように、こうした弱者に対する教育予算を、削減したり、カットしたりするようなこと
は、断じて、あってはならないことです。むしろ、逆なのです。健常児の数倍の手間ヒマがかか
るのなら、それ以上の予算を、つけるべきなのです。

 が、ご存知のように、日本のその層の役人というのは、いわゆる受験勉強をやりぬいてき
た、エリートばかりです。そもそも弱者に対する、理解が足りません。足りないというより、脳ミソ
の中でも、そういう部分が欠けた人間ばかりです。だから平気で、予算の削減をする……?

 たとえば知的障害児は、算数についても、独特の考え方をするのがわかっています。「5引く
3」でも、「引く」という概念を、健常児とはちがった捕らえ方をします。足し算はできても、引き算
ができないケースも珍しくありません。

 こうした「独特の考え方」をすることについて、いったい、どれだけの学者が、理解を示し、体
系化しているでしょうか。現実は、ゼロです。つまりそういった子どもたちは、社会から切り捨て
られたままになっています。「どうせ、教えてもムダ」「できなくてもいい」という、強者に身勝手な
論理ばかりが、先行しています。

 LD児も含めて、知的障害児の指導は、たいへんです。どうたいへんかは、KJ様が、すでに
ご経験の通りです。それこそ、マンツーマンの指導になってしまいます。だったら、マンツーマン
の指導ができるように、する。それが教育なのです。

 みんなで、力をあわせて、弱者にやさしい社会をつくろうではありませんか。子どもたちにして
も、学校の先生が、いかに弱者に暖かいかを見ながら、そのふところの深さを知ります。そして
それが回りまわって、文化の高さへとつながっていくのです。

 息子の一人は、今、知的障害者たちが集まっている会社(授産所)で、指導員として働いてい
ます。その息子が、こう言いました。「みんな、仕事ができるというだけで、喜んでいるんだよ。
毎朝、ニコニコ笑いながら、会社に来るんだよ」と。

 学校だって、そうです。そういった障害をもった子どもが、ニコニコ笑って来るようになって、
はじめて学校なのです。そういう教育を、目ざそうではありませんか。

 私も一時期、進学塾(高校生対象)の講師として、仕事をしたことがあります。しかしその時期
は、自分の生涯で、もっとも、不愉快な時期でした。結果としてみても、何も残っていません。教
育論、一つ、書けなかった。そういう時期です。

 (よく、「こうすれば学力は伸びる、有名大学、攻略法」などという本を書く、進学塾の講師が
いますね。私はああいう人は、本物のバカだと思っています。私だって、書けといわれれば、あ
んな本なら、数日で書けます。しかしそれをしたら、私は、おしまい。)

 日本の教育は、たしかに、おかしい。みんなが、そのおかしさに気づいたとき、日本の教育は
よくなります。子育てのし方も、変わります。がんばりましょう!
(031030)

++++++++++++++++

【付録】

 KJ様からいただいた、資料を、ここにそのまま添付します。

+++++++++++++++++ 

 特殊学級に在籍している生徒児童は、生活の場を一般学級で行う。
在籍も普通学級とする。困難な教科学習のみ通級で特別支援学級で個
別指導を行う。財政的な支援が無く、重度の知的障害者やLD・LD
HDの生徒も健常児と同じように生活することはかなり危険かと思い
ます。(以前、知的障害児の通う学級の仲間から50万円をおごらされた。
他の学級ではストレスのはけ口として知的障害児にプロレス技をかける。)

 また、聾・盲・養護学校も一本化するようですが、聾唖者が1人で
在籍する場合、手話でのコミニュケーションは不可能になります。

 はやし様はどのよなお考えでしょうか?
 今度のマガジン等でお考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議の最終報告
(3月28日)

 LD等の子どもを含む通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要
とする子どもには、総合的な支援の中心となる特別支援教育コーディ
ネーターを置くとしていますが、新たな人員増は行わず、学校の校務
に位置づけるに止まりました。

これまで多くの障害児が、同じ障害をもつ仲間や先生と学習や生活を
ともにすることで成長・発達してきた障害児学級をなくすとしている
点です。障害児学級で学ぶ子どもたちを含め、小・中学校で学ぶ障害
のある子どもたちはすべて通常学級籍となり、「障害に配慮した特別
の教科指導」や「障害に起因する困難の改善・克服にむけた自立活
動」のみを「特別支援教室」で受けることになります。
 
+++++++++++++++++++

 「特別支援教育」は、国が財政負担を少しでも軽減しようとするもの
ではないのかということです。子ども一人ひとりに手厚い教育支援を
する障害児教育が、通常教育以上に財政を必要とするのは当然のこと
であるにもかかわらず、「特別支援教育」への推進のうらに、国によ
る財政負担の軽減の意図がかくされているとすると、「特別支援教
育」は、「特殊教育」の現状を悪化させることになってしまうでしょう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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