はやし浩司

最前線の育児論(201〜300)
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はやし浩司
最前線の育児論(201〜250)


最前線の子育て論byはやし浩司(198)

【近況・あれこれ】

●リアルな夢 

 何年かに一度とか、もっと少ないかもしれないが、私は、ときどき、総天然色で、リアルな夢を
見る。覚えているのは、私が、29歳のときのこと。昼寝をしていて、その起きがけに見た。

 夢を見ながら、それが夢であると、はっきりとわかった。しかしあまりにもリアルだったので、
その夢を見ながら、「夢なのに、現実と変らないな」などと思ったりした。登場人物の顔や姿が、
それこそ毛穴までしっかりと見えるほど、リアルに見えた。

 夢の内容は、今でもよく覚えているが、その話は、またいつか。

 で、昨日も見た。やはり昼寝をしていて、その起きがけに見た。内容については、今、ここで
は書けない。が、やはりリアルだった。

 時間にすれば、数分以下? 映画風に言えば、ワンカットの1シーンだけ。(夢の時間ほど、
あてにならないものはない。数秒という短い時間の間に、半日分の夢を見ることもある。) 

 これは脳のどういう作用によるものか。また何が影響して、そういう夢を見るのか。どういう精
神状態のときに、そういう夢を見るのか。

 あれこれ考えてみるが、昨日は、それほど、ほかの日と、ちがったところはなかった。食べた
ものも、とくに変ったものはなかった。私のばあい、チョコレートをたくさん食べると、おかしな幻
覚症状が現れる。これはチョコレートの糖分が、インスリンの過剰分泌をうながし、それが脳間
伝達物質のセロトニンの過剰分泌をうながすためと考えられる。

 しかし昨日は、それもなかった。つまりチョコレートを食べていない。

 人間の脳は、睡眠中も、活発に活動をつづけている。眠っていると思う部分は、ほんの一部
だけ。だから人間が夢を見るというのは、ごく自然な現象であって、とくにどうということはない
はず。しかしあれほどまでにリアルな夢を見ると、自分の脳ミソを疑ってしまう。

 ゆいいつ考えられるのは、この2日ほど、ほとんど、原稿を書いていないこと。私のばあい、
いつも何かを書いていないと、すぐ頭の中がモヤモヤしてきてしまう。そのモヤモヤを吐き出さ
ないと、不愉快でたまらない。だから原稿を書く。

 しかし、このところ、原稿を書くのが、どうもおっくうになってきた。一応マガジン用に書いてい
るが、マガジンの読者数が、まったくふえない。書いても書いても、ふえない。マガジンの発行
を、このあたりで休止して、その分のエネルギーを、ほかの方面へ移行しようかと迷っている。

中には、熱心に読んでくれる読者もいるかもしれない。「そういう人のために……」とは、思う
が、その元気がつづかない。つまりその迷いが、おっくうになる原因だが、そのため、頭の中
は、マンパン状態!

 これはたとえて言うなら、若い男が、その機会もなく、精液を、精巣にためるようなものか。何
らかの方法で、射精しないと、性欲で体中が、マンパンになってしまう。考えることは、女性との
セックスのことばかり。

 そういう状態になると、夢に出てくるのは、女性の裸体ばかり。そういうとき若い男は夢精を
する。精子を外へ、吐き出す。今の私の頭の中は、それと同じと考えてよい。

 やはりモヤモヤを、吐き出さなければならない。しかしこういう状態になると、どこから手をつ
けてよいのか、わからなくなってしまう。書きたいことは山のようにあるのに、それぞれが複雑
にからみあってしまう。2日間もサボっていると、そういう状態になる。

つまりそれが、昨日見た、あのリアルな夢の原因ではないかと思う。


●台風6号

 巨大な台風が、日本めざして、今、北上中。気象庁の予報によれば、21日の午前9時ごろ
には、九州へ上陸するかもしれないという。(今は、19日の午前9時。)

 風速25メートル以上の暴風域だけでも、九州から四国まで、すっぽりと入ってしまう大きさ。
15メートルの暴風域ともなると、九州から本州すべてがすっぽりと入ってしまう大きさ。並みの
台風ではなさそうだ。

 この原稿がマガジンに載るころには、すでに結果は出ていると思うが、その被害が心配され
る。こんなこと書くと、韓国やK国の人は怒るかもしれないが、九州をそれて、そちらのほうへ
行ってくれればと願っている。

 ……これも、この10年以上つづく、異常気象のせいか? 私が子どものころにも、台風は発
生したが、日本を襲うような台風がくるのは、夏休みが過ぎてからだった。が、今は、6月? 
昨年は冷夏だったが、今年は、猛暑が予想されるという。そういえば、先月も、記録破りつづき
の、暑い日がつづいた。ここ静岡県西部でも、5月末だというのに、気温が30度を超えた! 
地域によっては、35度を超えたところもあった。

 この先、地球は、いったい、どうなってしまうのか? そして私たちは、それに対して、どうした
らよいのか?

 一つのサンプルが、実は、あの火星である。

 昔、あの火星には、水や空気も豊富にあり、地球によく似た環境があたっという。生物の痕
跡(こんせき)すらも、指摘されている。

 その火星が、今に見る砂漠の星になってしまった。私のようなド素人が、うろ覚えの知識で、
いいかげんなことを書くのは許されない。それはわかるが、その火星は、この地球の未来図だ
と説く科学者も、多い。

 つまり私たちが今、経験している地球温暖化、それと並行して起こる異常気象は……。

 ……こういった、深刻な話はやめよう。しかし6月に、巨大台風とは? 海も熱くなっているら
しい。熱くなったから、その分、台風も、巨大化するらしい。

 たった今、つまり、この原稿を書いているとき、「♪しゃぼんだま」のチャイムにのせて、古紙
回収業のトラックが、家の前を通り過ぎた。のどかな土曜日である。今のところ、風はさわや
か。そよ風。空も水色に、よく晴れている。「嵐の前の静けさ」とは、よく言ったもの。「本当に、
台風がくるのかな?」という雰囲気である。しかし、油断は、できない。これから私とワイフは、
山荘へ行き、台風の準備をしてくる。

 机やイスをかたづけ、フェンスを倒す。
 山荘のまわりの小物を、家の中に入れる。
 雨戸をしっかりと閉めてくる。

 では、みなさん、おはようございます! よい週末をお迎えください。


●ADHD児

 ADHD児の最大の特徴は、「抑えがきかない」ということ。つよく叱っても、効果は、一時的。
まさに一時的。数分もたたないうちに、また騒いだり、大声をあげたり、動き回ったりする。(数
分でも、長いほう。子どもによっては、叱った直後から、騒いだりする。)

 言いかえると、どんな方法であるにせよ、抑えがきけば、ADHD児でないとみてよい。抑えが
きくということは、指導が可能ということ。たとえば先週は、騒がしかったが、今週は、まあまあ
静かだったというのは、ADHD児ではない。

 ADHD児は、数年単位で症状が変化する。1か月や1年くらいで、その様子が、大きく変化す
るということは、ありえない。

 もちろん症状に軽重はあるし、男児と女児では、その症状も、微妙に違う。男児は行動として
騒々しく、女児は、それに比較して、言動として騒々しい。

 栃木県のA市にお住まいの、SAさん(母親)から、「うちの子(小3男児)は、ADHD児ではな
いか?」という相談をもらった。

 そこでここでは、もう少し先の問題を考えてみたい。

 ふつうADHD児というと、親側、あるいは指導する教師側の立場でしか、ものを考えない。し
かしそれと同じくらい大切なのは、子どもの立場でものを考えることである。

 親や教師は、「静かにしなさい」と、子どもを叱る。しかし子どもの側からみて、静かにしてい
ること自体、きわめて苦痛なのである。いや、その前に、自分が騒々しいという自覚すら、な
い。

 ある中学生は、こう言った。私が「君は、幼稚園児や小学校の低学年児だったころ、うるさく
て、みんなに迷惑をかけたが、覚えているか?」と聞いたときのこと。「ううん。ぼくは、何も悪い
ことはしていなかった。みんなが、ぼくを目の敵にして、いじめた」と。

 自分を知ることはむずかしい。とくに、このタイプの子どもは、そうである。騒々しくし、みなに
迷惑(?)をかけながらも、自分には、その自覚は、ない。だいたい、自分が騒々しいなどと
は、思っていない。

 中学1年の女子がいた。ADHD児だったが、本人はもちろんのこと、親も、そうは思っていな
かった。

 しかしその子どもは、うるさかった。よくしゃべるというようなものではなかった。つぎからつぎ
へと、話題を変え、よくしゃべった。その子どもが教室へ入ってきただけで、雰囲気が一変し
た。

私「これから10分間だけ、何もしゃべらないでよ」
女「10分間だけでいいの?」
私「そうだ。10分間だけ」
女「そんなの簡単じゃん」
私「だったら、口を閉じてごらん」

女「私、口を閉じることができないもんね」
私「口を閉じてごらん」
女「息ができないもん」
私「できるよ。鼻から息をすればいい」
女「口から息をする人と、鼻から息をする人と、二種類あるのよ」

私「いいから、少し黙っていてくれない?」
女「苦しい」
私「苦しくてもがまんして……」
女「できないわよ。そんなこと」
私「しゃべるな!」と。

 こんな意味のない会話が、いつまでもつづく。相手にしていると、こちら側の気がヘンになって
しまう。が、それ以上に、このタイプの子どもにとっては、静かにしているだけで、苦痛なのだ。

 実際、ここに書いた中学生の女子でも、数週間にわたって強く制止したが、それが原因で、
どこか気うつ症的な症状を示すようになってしまった。このタイプの子どもに向かって、「静かに
しなさい!」と叫ぶことは、その子どもの体に、クサリをまくようなもの。親や、教師側の勝手な
判断だけで、そうしてはいけない。

 SAさんの子どもは、メールによれば、ときどきでも、別人のように静かに作業をすることもあ
るという。そういう症状であるなら、ADHD児ではないとみてよい。何か別の原因による、別の
症状と考えてよい。

 たとえば最近、多くなったのが、脳の情報が乱舞する子ども。つぎつぎと、突飛もないことを
口にしたり、それをもとに騒いだりする。

乳幼児期においてテレビを見すぎたとか、テレビゲームをしすぎたことが原因という説が、急速
にクローズアップされてきている。右脳を過度に刺激しすぎたために、そうなると考えると、わ
かりやすい。

 ほかに環境ホルモンによる、脳の微細障害説などもある。決して、一つの原因で、そうなるわ
けではない。「騒々しいから、ADHD児」と、あまり短絡的に子どもをみないほうがよい。

【SAさんへ……】

 私の立場では、「ADHD児の心配はある」という診断はくだせませんが、「ADHD児の心配は
ない」という診断はくだせます。

 以下の症状から、私はADHD児ではないと思います。

(1)能力的には、むしろすぐれている。好奇心が旺盛で、活動的。
(2)いたずらに、子どもらしさがみられ、突飛性がみられないこと。
(3)そのときの気分によって、乗り気になり、静かに作業ができること。
(4)ときどき本を夢中になって読むこと。

 それ以上のことは、お子さんを見ていないので、何とも言えません。以上が、私の考えです。
参考にしていただければ、うれしく思います。

 なお参考までに、アメリカ内科医学会の発表した、ADHD児の診断基準を、私の翻訳をそえ
て、送っておきます。

(メールの転載、不許可ということですので、以上、メールを要約させていただきました。よろし
くご了解ください。)


●子どもへの暴力

 「つい、カーッとなってしまって……」と、Kさん(母親)は言う。

 「子どもへの暴力は、悪いことだとわかっているが、そのときになると、つい」と。

 子どもへ何らかの体罰を与えている母親は、全体の50%。その中でも虐待に近い、はげし
い暴力を加えている母親は、70%近く、いる(筆者、調査)。

 つまり全体の約35%は、子どもに対して、虐待に近い暴力をふるっている。

 厚生労働省の調べによっても、1992年には、1370件にすぎなかった、「児童虐待に関す
る相談件数」が、2001年には、24790件にまで急増している。虐待がふえたというよりは、
それだけ関心が大きくなったということか。

 こうした子どもへ虐待を繰りかえす母親のうち、約半数は、自分自身も、子どものころ、親か
ら虐待を受けたことがわかっている。これを「世代連鎖」という。

 こうした育児習慣(?)は、親から子へと、代々、伝播(でんぱ)しやすい。

 で、こうした母親の特徴は、つぎのようである。

(1)ふだんは、よい親でいようという意識が強い。
(2)虐待は、瞬間的なできごととして、起こる。
何か、特別のキーワードなどが、きっかけになることが多い。
(3)その瞬間は、子どもを心底、憎み、嫌う。
(4)虐待したあと、はげしい自責の念にとらわれ、悩んだり苦しんだりする。

 ここで「キーワード」という言葉を使ったが、このタイプの母親は、子どものあるかぎられた言
葉や動作、しぐさに、過敏に反応することがわかっている。

 これはある父親の例だが、子どもがその父親を、流し目で見たとたん、カッとなって、子ども
を罵倒(ばとう)していた。「親に向って、何だ、その目つきは!」と。

 こうした虐待(虐待といっても、肉体的暴力だけではないが……)を、周期的に繰りかえしてい
るようなら、心の中のわだかまり(固着)をさぐってみる。

 何か、あるはずである。

 この父親のばあいは、中学時代、仲間のグループにいじめにあっていた。そのグループの中
のリーダー格の男子が、そういう目つきで、いつもその父親をシカト(無視)していた。

 その父親は、無意識のうちにも、そういう目つきを、子どもの目つきの中に感じていた。

 ほかに、望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、家庭不和、経済苦などな
ど。そういったわだかまりが、心の奥底から、つまり裏から、親を操る。

 が、それが何であるかに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。そのためにも、どうして
そういう行為を繰りかえすのか、また子どものある特定の部分に過敏に反応するのかを、冷静
に判断してみる。

 なお、虐待といっても、ここにあげた肉体的暴力のほか、(1)言葉の虐待、(2)食事面での
虐待、(3)性的虐待などがある。これらも、肉体的虐待と同じように考えて、対処する。
(以上、福岡県のKさんの質問に答えて……。)


●「楽天」日記

 最初は、「どうかな?」と思って始めた、「楽天日記」。このところ、マガジン用の原稿をサボっ
ている分だけ、毎日、その日記を書いている。

 楽天日記というのは、「楽天株式会社」(日本最大の通販ショップ)が、無料で提供している、
日記専用のサービスをいう。最近では、さらにトラックバックという機能もついた。だれかの日
記を読んで、「おもしろい」と思ったら、その場で、感想を書いて、それを相手に伝えることもで
きる。

 また楽天メンバー同士なら、自分の日記を読んでくれた人に、すぐ礼状を書いたり、メールを
書いたりすることができる。その楽天日記で、先日、アクセス数が、1万件を超えた。

 早い!

 興味のある方は、はやし浩司のサイト(HP)のトップページから、「楽天日記」へと進んでほし
い。こちらは、できるだけむずかしい話はやめ、気楽な話題を、イージィな日本語で書いてい
る。


●子育て相談について

 現在、外部の方からの子育て相談を、お断りしています。ごめんなさい。

 このところ、子育て相談が、たいへん多くなっています。ホームページの読者の方からの相
談、マガジンの読者の方からの相談、それにあわせて、飛び込みの方からの相談など。多いと
きで、1日、5〜10件近くもあります。

 ほかに私書箱への書き込み、掲示板への書き込みなどなど。

 せっかく相談をいただいても、その返事すら書くことができません。かえって読者の方を不愉
快にしてしまうのではないかということで、それでお断りすることにしました。

よく、「どうして返事をもらえないのか!」という、お叱りのメールをいただきますが、だからとい
って、いいかげんなことは書けません。

どうか、当方の事情もご理解の上、勝手を、お許しください。

 もちろん、友人、知人(私がお名前と、住所を知っている方)、賛助会のメンバーの方、BW教
室関係の方からの相談については、できるだけ時間を見つけて、返事を書きます。お約束しま
す。どうか遠慮なく、相談してください。

 なおいただきました相談については、直接返事を書くことができないときは、テーマとして、マ
ガジンのほうで、そのつど、とりあげさせていただきます。


●憎しみあう、老夫婦

 X氏は、83歳。妻のYさんは、85歳。

 この二人は、結婚して、もう60年近くになる。ともに、それほど、頭もボケてはいない。それに
生活は、X氏の年金と、息子と娘の仕送りで、何とか成りたっている。

 が、この夫婦、仲が悪い。本当に悪い。顔さえ合わせれば、朝からいがみあい。けんか。悪
口を言いあったり、ののしりあったりしている。

 昔から、『仲のいい夫婦ほど、よく喧嘩する』というが、そういうタイプの喧嘩ではない。たとえ
ばこんな喧嘩。

 X氏が、近くのスーパーで、サラダを買ってくる。それを見て、Yさんが、「こんなもの、買ってき
やがってエ!」と、そのサラダを、床に投げつける。

 Yさんが、座椅子の上で、うたた寝をしていると、それを見てX氏が、「気持ち悪いから、あっち
で寝ろ!」と、足で、座椅子ごと、Yさんを蹴とばす。

 X氏がたまに料理を作れば、Yさんが文句を言う。「まずい」「食えない」と言う。

Yさんが、少し体を休めていると、今度は、X氏が、「怠け者!」と言って、罵声を浴びせかけ
る。

X氏が、食器を洗えば、Yさんが、「洗い方が足りない」と言って、自分で洗いなおす。ときに食
器を投げつけて、割ることもある。

Yさんが、何度か、聞きなおすと、(Yさんは、このところ、耳が聞こえなくなった)、X氏が、「この
クソババア! 何度言ったらわかる!」と、怒鳴る。

 毎日が、この繰りかえしだそうだ。

 そのX氏とYさんを、ボランティアで介護しているKさん(60歳、女性)は、こう言った。

 「ともに、もう残りの人生も少ないのにね」と。

 あるいは残り少ないからこそ、たがいに妥協できなくなってしまったのかもしれない。

 しかし問題は、なぜ、X氏とYさんは、それほどまでに仲が悪いかということ。そのヒントとし
て、ときどきYさんは、こう叫ぶそうだ。「私の人生を返してヨ!」と。それに答えてX氏も、こう叫
ぶそうだ。「オレの稼ぎで生きてきたクセに、何を生意気言うかア!」と。

 長い人生を、たがいに、がまんしながら、生きてきたのかもしれない。悶々と、晴れない気分
を隠しながら、生きてきたのかもしれない。そういう不平、不満が、人生の晩年になって、爆発
している?

 が、離婚するとか、別れるとか、そういうところまでは、話は進まない。……らしい。いくら仲が
悪くても、あるところでは、たがいにたがいを必要としている。

 X氏の年金で、Yさんも生活している。一方、X氏は、まったく家事、炊事ができない。洗濯す
ら、できない。しない。

 こういう話を聞くと、わだかまり(心理学の世界では「固着」という)の、恐ろしさを、改めて、思
い知らされる。X氏とYさんのケースでも、結婚当初から、何かのわだかまりがあったのかもし
れない。

 不本意な結婚、不平、不満だらけの生活などなど。そういったものに、たがいに耐えながら、
ここでいう大きな(わだかまり)をつくった。そしてそれが今、爆発しつつある。

 これはあくまでも私の推理でしかない。が、それほどまちがっていはいないと思う。

 そこで教訓。

 家族の中では、たがいにがまんして生きるようなことは、やめよう。言いたいことを言い、した
いことをしよう。たがいにすべてをさらけ出し、すべてを受け入れよう。豊かな老後のために。

 ……と書いて、私は、ハタと自信がなくなった。あああ。考えてみれば、これは、私自身の問
題でもある。ひょっとしたら、X氏は、私の未来の私かもしれない。Yさんは、未来の私のワイフ
かもしれない。

 今、そんな大きな不安が、心の中を横切った。


●情報と思考

ものをよく知っているからといって、賢い子どもということにはならない。が、この日本では、も
のをよく知っている子どもイコール、頭のよい子ども。さらに、頭のよい子どもイコール、人格的
にもすぐれた子どもということになっている。

 とんでもない誤解である。

 ……というような話は、以前にも書いたので、ここではもう一歩、話を進める。

 先日、スペインに在住している、Iさんという方から、メールをもらった。そしてその中で、Iさん
は、こう教えてくれた。

 「娘(中学生)の社会の勉強では、今、フランス革命について学習しています。(日本とちがっ
て)、こちらでは、一つのテーマについて、徹底的に学習するのが、社会科の学習のようです」
(要約)と。

 私は、このメールを読んで、考えさせられた。

 日本では、広く、浅く、ざっと学習する。それが教育の大きな流れになっている。とくに歴史の
学習では、年表を中心に、その流れを学習する。

942〜1027年 ……摂関政治期
1028〜1106年……平忠常の乱、前9年・後9年の役
1107〜1160年……保元・平治の乱、などなど。

 しかしその一方で、「一つのテーマについて、徹底して学習する」という学習法もある。それが
スペインに在住している、Iさんの娘が経験している学習法である。

 どちらがすぐれているかという議論は、あまり意味がない。しかしより考える子どもを育てると
いう意味では、スペインでの学習法がすぐれていることは、言うまでもない。

 フランス革命に至る経緯。その経過。まわりの文化的変化、意識の変化などなど。さらに民
主主義とは何か、平等とは何か、自由とは何か、など。

 それぞれの分野を、掘りさげて考える。

 私はそれを知ったとき、「日本も、もっとこうした教育法を取り入れるべきだ」と思った。とくに
歴史の学習では、そうである。この日本では、歴史といえば、暗記科目ということになってい
る。私自身も、学生時代、明けても暮れても、暗記につづく暗記ばかりしていた。

 しかしそれから40年。「ああいうくだらない教育を、くだらないとも思わず、よくもしたものだ」
と、思う。ときどき、そういう学習をさせた、学校や教師をうらむこともある。何も役にたっていな
い。そもそもテストが終われば、そのまま忘れてしまうような知識に、どれほどの価値があると
いうのか。

 私たちがなぜ、歴史を学ぶかといえば、先人たちの知識や経験を、「今」や「未来」に利用す
るためである。つまりそうした視点の欠けた歴史教育など、いくらしてもムダ。無意味。無価
値。

 では、どうするか。

 私は、一つのテーマでよいから、それを掘りさげて学習するという方法も、取り入れるべきで
はないかと思う。たとえば明治維新なら、明治維新でよい。それを半年とか、1年をかけて、み
なで学習する。資料を集めて、議論する。

 そういう学習法である。

 いわゆる(もの知りの子ども)を育てるのではなく、(より深く考えられる子ども)を育てる。そう
いう視点に立って、もう一度、社会科の学習を考えなおしてみる。

 話は変るが、私は、もともと理科系の思考性をもっていた。そういう意味でも、理科は好きな
科目だった。

 そういう私だが、高校時代を振りかえってみたとき、思い出に残っているのは、化学の授業に
ついて言えば、何もない。ただ一つ、鮮明な記憶として残っているのに、こんなことがある。

 ある日、化学の先生が、私を化学の実験室へ連れて行ってくれて、こう言った。「分子の膜を
作ってみないか」と。

 今となってみると、それがどういう実験であったかは、よく覚えていない。その実験というの
は、何かの溶液の上に、別の何かの液体を一滴落すと、瞬間、その液体がパッと溶液の表面
の上に広がって、分子一個分の膜を張るというものだった。覚えているといっても、その程度の
ことである。

 もちろんこれは教科書にはない実験であった。

 私は、その分子一個分の膜というのに驚いた。厚さは、それこそ分子一個分しかない。私
は、それがどういう実験であったかは別として、あのとき感じた、新鮮な驚きを、今でも、忘れる
ことができない。

 そう、20年、30年を経て、心に残る教育というのは、そういうものをいう。

 知識偏重の教育の弊害が指摘されるようになって、もう30年になる。私が学生のころでさ
え、それが問題になっていた。が、今でも、その流れは、大きくは変わっていない。その証拠に
というか、私は、スペインに在住している、Iさんという方からメールをもらったとき、「そうなん
だ。そうだったんだ」と、思った。

 みなさんは、どうだろうか? スペインの歴史教育のし方を、どう思うだろうか?


●インチキ(詐欺)広告

 今朝、新聞に、こんな折り込み広告が入っていた。どこかの大病院のものである。

++++++++++

大成果宣言! 大実績宣言!

 診断のクオリティーと治療実績(昨年度)は、E病院が、NO.1

 胃がん完全治癒者  100人
 大腸がん完全治癒者  61人
 乳がん完全治癒者   96人
 子宮がん完全治癒者  93人
 肺がん完全治癒者   65人

 H市、がん完全治癒者のうち、13・5%が、E病院の患者。

+++++++++

 しかしこの広告は、おかしい。そんなことは、高校生でもわかる。中学生でもわかる。胃がん
完全治癒者(発病から5年以上生存者)が、100人いたからといっても、それはそのまま、実
績とはならない。

 実績というのは、胃がん患者のうち、何%が、完全治癒したかで決まる。仮に、胃がん患者
が、200人だったとすれば、治癒率は、50%ということになる。1000人だったとするなら、1
0%ということになる。

 全体の患者数も公表してはじめて、こうした数字は、意味をもつ。

 ……実は、このチラシは、今朝、新聞に入っていた、どこかの進学塾のチラシである。そのチ
ラシのおかしさをわかりやすくするために、進学塾を、病院に置きかえてみた。

 仮にS高校への合格者が100人となっていても、不合格者が何人いたかをみて、はじめて、
それが実績となる。チラシを、サッとしか見ないような、単純な親(失礼!)なら、この程度の統
計的マジックでだませる。が、私をだますことはできない。

 統計的マジック……まさにマジックだが、もしだれかがこう言ったら、あなたはどう思うか。

 「うつ病患者を調べたら、50%が女性だった。だから女性は、うつ病になりやすい」と。

 あなたはきっと、「バカめ」と思うにちがいない。人間の50%は、その女性なのだ。

 同じように、S高校の合格者が、100人いたからといって、それをそのまま鵜呑みにしてはい
けない。どこにもそれは書いてないが、チラシは、「夏期講座」「模擬試験」「塾生」を募集するも
のであった。

 つまり、その100人というのは、昨年、夏期講座を受けた生徒、模擬試験を受けた生徒、さ
らにE進学塾へ通った生徒すべての中の、100人ということになる。恐らく、その合計は、200
人か、300人になるのでは……? 全体では、数千人規模になるはず。

 また、不合格になった生徒や、1ランクさげて、結果として、その1ランクさげた高校に合格し
た子どもについては、一言も触れられていない。あとで名簿を照合してみて、結果として、「合
格していた」というにすぎない。

 それにこうしたチラシが、道義上、許されてよいものかという問題がある。病気と受験は、どこ
かで似ている。病人がいると、その家は暗くなる。同じように、受験生がいると、その家は、暗く
なる。つまりは、人の弱みにつけこんで、こうした詐欺的なチラシを出してよいものかという問題
である。

 合格した子どもはともかくも、不合格になり、心を痛めた子どもも、多いはず。そういう子ども
の存在を無視して、「大成果」「大実績」と、大きな文字でチラシを飾る。この無神経さ。いくら金
もうけといっても、ここまで許されてよいものか。

 それがわからなければ、進学塾を病院に置きかえて、考えてみればよい。そのために、あえ
て冒頭で、それを書いてみた。


●愛媛県のFさんより

 愛媛県のFさんより、こんな相談が届いた。

 『息子は、中学1年生。全寮制の中高一貫高に通っている。
 しかし自分から、黙々と勉強する様子はない。週末に家に帰ってきても、家の中でゴロゴロし
ているだけ。

 私は、親として、将来は安定した仕事についてほしいと願っている。そのためにも大学受験だ
けは、しっかりと受けてほしいと願っている。

 先生(はやし浩司)のHPを読むと、親がうるさく言えば言うほど、子どもは勉強しなくなると
か。さらに、今より、悪い状態に追いこんでしまうこともあるとか。

 そのあたりは、よく理解できた。しかし今、ここで教育の方針を変更すると、息子は、かえっ
て、勉強しなくなってしまうのではないかと心配。親の教育方針を変更することによって、子ども
が、混乱することはないのか。

 何か、よいアドバイスがほしい」と。

【Fさんへ……】

 子どもが受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に襲われる。無意
識のうちにも、自分の受験時代を心の中で、再現するためである。 

 そして明治時代からつくりあげられた学歴意識、さらには、それ以前からあった職業による身
分差別意識が、あるからである。

 子育てというのは、そういうもの。さらにそれにまつわる意識というのは、そういうもの。代々、
親から子へと、無意識のうちに伝えられる。

 多分、Fさんは、「勉強というのは、ガリガリとするもの」という先入観をもっている。メールの
中で、「私は、親に言われなくても、勉強した。どうしてうちの子は、ガミガミ言わないと、勉強し
ないのか」と書いていた。

 Fさんは、どこか戦前的な教育観をもっているように見える。古いタイプの教育観である。

 否定的なことばかり書いたが、Fさんの子どもは、全寮制の学校に通っている。そしてたまの
週末、家に帰ってくる。そんなとき、つまり心と体を休めるために帰ってきたとき、親から、ま
た、「勉強しなさい」と言われたら、子どもはどうなるのか?

 恐らくFさんは、不安神経症の持ち主? せっかくの休みに、家族とどこかへ旅行に出かけて
も、その旅行を楽しむ前に、旅行から帰ったあとの仕事を心配するようなタイプ? いつも「今」
を、未来のために犠牲にするタイプかもしれない。

 こういうケースで、まず親がすべきことは、いつも子どもを、暖かく、家の中に迎えてやるこ
と。おいしい料理を作って、待っていてあげること。心と体を休める場所を、用意しておいてあ
げること。

 そしてそれ以上に大切なことは、「今」というこの一瞬、一秒を、親子の絆(きずな)を確かめ
あって生きること。その重要性とくらべたら、大学受験など、Fさんが出す、腸内ガス(失礼!)
のようなもの。何でもない。

 基本的に、Fさんは、自分の子どもを信じていない。「何をしても心配だ」という、どこか心配先
行型の子育てをしている。不安先行型かもしれない。そしてその原因はといえば、Fさん自身
の、貧弱な幼少時代にある。

 心豊かな家庭環境で、親の愛情をたっぷりと受けて育ったとは、とても思えない(失礼!)。
子どもを、全幅に信頼できない。いつも何か不安だ。……という人は、そういう過去を、まず疑
ってみる。

 たとえば、Fさんは、「私は親に言われなくても、勉強した」と書いている。一見、すばらしい子
どもに見えるかもしれないが、実は、内心で、そう追い立てられていただけではないのか。ある
いは、自分の攻撃性を勉強に向け、自分にとって居心地のよう世界をつくろうとしていただけで
はないのか。

 「勉強が楽しい」という子どもも、中にはいる。しかし本当に、勉強を楽しんでしているかどうか
ということになると、疑わしい。とくに受験勉強は、そうである。

 実は、このことを、私は、最近、三男を見ていて、発見した。

 三男は、遊ぶときには、目一杯、遊ぶ。Y大学という大学にいたときも、家に帰ってくるとき
は、参考書一冊、もってこない。教科書一冊、もってこない。

 で、私はある日、恐る恐る聞いた。「宿題のようなものは、ないのか?」と。

 すると三男は笑ってこう言った。「そんなの、向こう(大学)でするよ」と。

 三男の生きザマは、私には欠ける生きザマだったので、私はそれをたいへん新鮮に感じた。
そしてこう思った。「ぼくも、見習わなければ」と。

 子どもを信ずることは、むずかしい。本当に、むずかしい。しかし親の信頼感をしっかりと感じ
ている子どもは、決して、道を踏みはずさない。ときにフラつくことはあるかもしれないが、しか
しそのまま、また、まっすぐ前を向いて歩き出す。

 大切なことは、そのときどきにおいて、動じないこと。「お母さんは、あなたを信じていますから
ね」という姿勢だけを、徹底的に貫くこと。そういう思いが子どもに伝わったとき、子どもは、自
分で自分を軌道修正するようになる。

 Fさんが言う、「安定した仕事」というのは、どういう仕事を言うのか。それがわからないわけで
もないが、しかしそんな仕事を、子どもに求めても無理。時代も変った。子どもたちの意識も変
った。その先、子どもがどんな道に進もうとも、その選択は、子どもに任せるしかない。

 そして子どもが、どんな選択をしても、親がすべきことはただひとつ。子どもを最後の最後ま
で、信ずるということ。

 ある子どもは、進学高校を中退し、どこかの劇団に入団した。今は、いろいろなアトラクショ
ン・ショーで、ぬいぐるみを着て踊っている。当初、親は、「絶望するほど苦しんだ」(母親の弁)
が、今は、楽しそうにこう言う。「あの子は幸せそうに踊っているのを見ると、私まで、ウキウキ
してきます」と。

 そんなわけで、Fさんの相談は、一見、子育ての相談のように見える。しかし実際には、Fさん
自身の心の問題と考えてよい。

 なぜ、もっと、自分の子どもを信ずることができないのか? ……すべての問題は、ここに集
中する。

++++++++++++++++++

子どもたちへ

思う存分、この広い世界を、飛んでみなさい
青い空、白い雲、そして緑の大地
あなたは風を切って、この空を飛ぶのです。

新しい世界を見て、新しい友だちに会い、
恋をして、結婚して、家族をもって、
そして自分の人生を歩んでいくのです。

そしていつか、心と体が疲れたら、
いつでも、もどってきなさい。
大きな鳥が、古い巣で、羽を休めるように、
あなたも、羽を休めるために、もどってきなさい。

いつでも、あなたの家の窓は開いていますよ。
いつでも、テーブルの上には、暖かいスープがありますよ。
あなたは、静かに目を閉じて、子どものころのように、
ソファに、身を沈めれば、それでいいのです。

++++++++++++++++++

Fさんへ

あなたの子どもは、とっくの昔に、
古い巣箱を飛び立っていますよ。

もうあなたの思い知らぬ世界を、
飛び回っていますよ。

大切なことは、しっかりと
子離れすること。

古い親意識など、もう捨てなさい。
捨てて、あなたはあなたで、
最後の自分の人生を生きなさい。
輝かせなさい。

あなたにすべきことがあるなら、
子どもを信じ、いつ子どもが
もどってきてもよいように、
窓をあけ、部屋を掃除し、
そしてテーブルの上に、暖かい
スープを用意しておくことです。

子どもの人生は、子どもに任す。
もうその時代に入っています。

+++++++++++++++++++

 一言つけ加えるなら、母親主導型の、母親だけの子育てほど、危険なものはないということ。
子どもは、母性本能のとりこになってしまい、その分、自立できなくなってしまう。

 極端なばあいには、ナヨナヨとした人生観、強度の依存性をもつ。現実検証能力の喪失(常
識はずれになりやすいということ)、精神の未発達を引き起こすこともある。ふつう、自己中心
的なものの考え方をもつようになる。いわゆるマザコンタイプの子どもになると考えると、わかり
やすい。

 こうして考えてみると、Fさんの子どもの問題というよりは、どこか子離れできない、Fさん自身
の問題ということになるのかもしれない。

 仮に将来、子どもが、自らコースを離れ、Fさんからみて、不安定な職業についたからといっ
ても、Fさんがすべきことはただ一つ。最後の最後まで、自分の子どもを信ずる、ということ。

 「あなたは、あなたが正しいと思う道を進みなさい。お母さんは、あなたを信じ、あなたを支持
しますからね」と。

 最後にもう一言。

 Fさんは、教育方針を転換するのではない。今までの方針の上に、新しい方針を載せるだ
け。親とて、年齢や経験を積み重ねて、賢くなる。より賢くなるということは、方針転換でも何で
もない。

 Fさん、あなた自身も、自信をもって、子どもといっしょに、前に進みなさい!
(040620)

(追記)この原稿は、小生発行のマガジン、7月21号に掲載します。どうかよろしくご了解くださ
い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(199)

●中年期クライシス(危機)

 若い人たちを見ていると、「いいなあ」と思うことがある。「苦労がなくて」と。しかし同時に、「い
いのかなあ?」と思うときもある。目の前に、中年の危機がすぐそこまできているのに、それに
気づいていない?

 危機。「クライシス」という。そして中高年の男女が感ずる危機を、総称して、「中年期クライシ
ス」という。

 健康面(心臓疾患、高血圧症、糖尿病などの、生活習慣病)、精神面(抑うつ感、うつ病)のク
ライシス。仕事面、交遊面のクライシスなど。もちろん夫婦関係、親子関係のクライシスもあ
る。

 こうしたクライシスが、それこそ怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。若い人は、遠い未来の
話と思うかもしれないが、そのときになってみると、あっという間に、そうなる。それがまた、中
年期クライシスのこわいところでもある。

●中年期クライシス、私のばあい

 私は、もうそろそろ中年期を過ぎて、初老期にさしかかっている。もうすぐ満57歳になる。

 まず健康面だが、このところ、ずっと、どうも心が晴れない。軽いうつ状態がつづいている。そ
れに仮性うつ病というか、頭が重い。ときどき偏頭痛の前ぶれのような症状が起きる。

 仕事は楽で、ほどほどに順調だが、何かと悩みごとはつきない。ときどき「私は、もう用なしな
のか」と思うことがある。息子たちも、ほぼ、みな、巣立った。ワイフも、あまり私の存在をアテ
にしていないようだ。「あんたが死んだら、私、息子といっしょに住むわ」などと、平気で言う。

 私を心配させないためにそう言うのだろうが、どこかさみしい。

 性欲は、まだふつうだと思うが、しかしここ数年、女性が、急速に遠ざかっていくのが、自分で
もわかる。若い母親たちのばあい、(当然だが……)、もう私を「男」と見ていない。それが自分
でも、よくわかる。

 だから私も、気をつかうことが、ぐんと少なくなった。「どうせ私を男とみてくれないなら、お前
たちを、女とみてやるかア!」と。

 しかしこの世の中、「女」あっての、「男」。女性たちに「男」にみてもらえないのは、さみしい。

 そう、中年期クライシスの特徴は、この(さみしさ)かもしれない。

 たとえばモノを買うときも、「あと○○年、もてばいい」というような考え方をする。何かにつけ
て、未来的な限界を感ずる。

 あるいは今は、ワイフも私も、かろうじて健康だが、ときどき、「いつまで、もつだろうか?」と
考える。「そのときがきても、覚悟ができているだろうか?」と。そういう私の中年期クライシスを
まとめると、こうなる。

(1)健康面の不安……体力、気力の衰え。自信喪失。回復力の遅れなど。
(2)精神面の不安……落ちこむことが多くなった。うつ状態になりやすい。
(3)家族の不安……子どもたちがみな、健康で幸福になれるだろうかという心配。
(4)老後の不安……収入面、仕事面での不安。何か事故でもあれば、万事休す。
(5)責任感の増大……「私は倒れるわけにはいかない」という重圧感。

 こうしたもろもろのストレスが、心を日常的に、おしつぶす。そしてそれが、食欲不振、頭重
感、抑うつ感、不安神経症へとつながる。「心が晴れない」というのは、そういう状態をいう。

●何とかごまかして、前向きに生きる

 自分の心を冷静に、かつ客観的にみることは大切なことだが、ときとして、自分の心をだます
ことも必要なのかもしれない。

 楽しくもないのに、わざと楽しいフリをしてみせて、まわりを茶化す。おもしろくもないのに、わ
ざとおもしろいと騒いでみせて、まわりをごまかす。

 しかしそれも、疲れる。あまりひどくなると、感情が鈍麻することもあるそうだ。よく言われる、
「微笑みうつ病」というのも、それ。心はうつ状態なのに、表情だけはにこやか。いつも満足そう
に、笑っている。

 そう言えば、Mさんの奥さん(60歳くらい)も、そうかもしれない。通りであっても、いつも、ニコ
ニコと笑っている。が、実際、話してみると、どこか上(うわ)の空。会話が、まったくといってよ
いほど、かみあわない。

 ただ生きていくことが、どうしてこんなにも、つらいのか……と思うことさえ、ある。ある先輩
は、ずいぶんと昔だが、つまりちょうど今の私と同年齢のときに、こう言った。

 「林君、中年をすぎたら、生活はコンパクトにしたほうがいいよ。それに人間関係は、簡素化
する」と。

 生活をコンパクト化するということは、出費を少なくするということ。60歳を過ぎたら、広い土
地に大きな家はいらない。小さな家で、じゅうぶん。

 人間関係を簡素化するということは、交際範囲を狭くし、交際する人を選ぶということ。ムダ
に、広く浅く交際しても、意味はない。

 が、なかなか、その切り替えができない。「家を小さくする」といっても、実際には、難題であ
る。心のどこかには、「がんばれるだけ、がんばってみよう」という思いも残っている。

 交際範囲については、最近、こう思うようになった。

 親戚や知人の中には、私のことを誤解して、あれこれ悪く言っている人もいる。若いころの私
だったら、そういう誤解を解くために、何かと努力もしただろうが、今は、もうしない。「どうでも
勝手に思え」という、どこか投げやり的な、居なおりが、強くなった。

 どうせ、みんな、私も含めて、あと20年も生きられない。そういう思いもある。

 が、考えたところで、どうにかなる問題ではない。だから結論はいつも、同じ。

 そのときまで、前向きに生きていこう、と。生きている以上、ここで死ぬわけにはいかない。責
任を放棄するわけにもいかない。だから生きていくしかない。自分をごまかしても、偽っても、生
きていくしかない。

 そしてそれが中年期クライシスにある私たちの、共通の思いではないだろうか、……と、今、
勝手にそう思っている。
(040619)
(はやし浩司 中年期クライシス 中年クライシス 中年期の危機)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(200)

●6月21日

 朝から、台風の影響か、空は重く、どんよりと鉛色に雲っている。時刻は、午前7時。蒸し暑く
で、扇風機をつけたところで、目が覚めた。

 今日は、午後から、K町の小学校で、講演。そのあと、市内にもどって、教室。ほかに、1、
2、しなければならない仕事がある。いそがしい一日に、なりそう。

 ところで、最前線の子育て論が、今回で、第1200号になった。1151号から1200号、つま
り、50号分だけで、A4サイズで、約570ページ(1枚、1440字で計算)。

 ふつう単行本のばあい、A4サイズ、120〜40ページで、一冊の本になるから、この50号分
だけで、4冊分以上ということになる。1200号ということは、単純に計算すれば、約100冊分
の分量ということになる。(100冊分だぞ!)

 自分でもよく書いたものだと思う。同時に、こんなぼう大な原稿など、だれが読むだろうかとも
思う。恐る恐るワイフに、「読んでくれる人がいるだろうかねエ?」と声をかけると、「私は、読ん
でいるワ」と。

 うれしかった。

 こういう読者がいるから、マガジンを発行できる。がんばって書くことができる。

 さてさて今、また雨が降り始めた。今日は、この東海地方では、多いところで500ミリの雨が
予想されるという。500ミリといえば、洪水が心配される。講演は午後からだが、はたしてどう
なることやら? あとでK小学校に電話をしてみよう。

 ……と、意味のない日記は、ここまで。少し、何かを考えてみたい。

【両面感情】

 何かのことで、思い入れが強ければ強いほど、それから生まれる感情は、両面性をもつこと
が知られている。

 よく知られた例として、(愛)と、(憎しみ)がある。

 その人に対する思い入れ(愛)が強ければ強いほど、裏切られたとき、その(憎しみ)は、倍
増する。

 こうした両面感情は、親子の間でも、よく観察される。

 ある母親は、息子を溺愛した。しかしその息子は、高校生になるころから、その母親に対し
て、暴力を振るうようになった。「こんなオレに、しやがってエ!」と。

 溺愛されて育った子どもがよく見せる、症状の一つである。子どもは溺愛という重圧感から自
分を解き放つために、家庭内暴力をともなった、はげしい抵抗を繰りかえすことがある。

 で、そのとき、その母親の溺愛は、おおきく変質した。溺愛しながらも、子どもへの恐れと憎し
みの中で、その姿を変えた。

 やがてその息子は、ひとり立ち。横浜で就職し、結婚した。その夜のこと、その母親は、あち
こちの親類に電話をかけ、「悔しい」「悔しい」と泣いた。「一人息子を、横浜の嫁に取られてし
まったア」と泣いた。

 が、その母親は、息子の前では、理解のある、よい母親を演じた。息子を憎んではいたが、
決別するだけの勇気は、なかった。そこでその母親が、つぎにしたことは、こんなことだった。

 弱々しい、貧しい母親を演じながら、その息子からの財産(=収入)を、つぎつぎと奪っていっ
た。そして息子が夫婦喧嘩をするたびに、このときぞとばかり、離婚をすすめた。「あんな女、
別れてしまいなさい。ウチへもどってきなさい」と。

 その息子氏は、今、45歳になっている。今も、横浜に住んでいる。その息子氏は、私にこう
言った。

 「子どもの自立を問題にする人は多いですね。しかしそれと同じくらい大切なのは、親の自立
です。世間一般の人は、子どもをもったときから、親は自立したものという前提で考えますが、
実は、自立できない親も多いです。私の母がそうですが……」と。

 少し話がそれたが、この母親のケースでも、両面感情が、問題になる。子どもへの溺愛と、
憎しみ。この二つが、それぞれ姿を変えて、独特の親子関係をつくりあげたと考えられる。

 が、こういうことも言える。

 両面感情というのは、それをもつこと自体、精神の未完成性を意味する。そしてそれは、精
神の発達とともに、克服できるものとされる。この母親のケースでいうなら、その母親は、きわ
めて精神の未完成な人とみてよい。

 あなたはは子どもを愛している。それはそうだが、それはそれとして、その愛には、両面性が
あるかないか。それを一度、心の中で、反省してみるとよい。

 親が子どもの感ずる愛は、まさに無私の愛、無条件の愛。両面性があるということ自体、そ
れは真の愛ではない。つまりは、あなたの、親としての未熟性を意味する。
(はやし浩司 両面感情 無私の愛 無条件の愛)
(040621)

++++++++++++++++1200号+++++++++++++++++++




最前線の子育て論byはやし浩司(201)

【近ごろ、あれこれ】

●学習性無力感

 二度、中学受験で失敗した女の子がいた。
 一度目の合格発表のある前に、別の学校の入学試験を受けた。が、その両方とも、失敗。
そこで三度目の中学を受験することにしたが、もうそのときには、完全に戦意喪失。それまで
スイスイと解けた簡単な問題すら、できなくなってしまった。

 こういうのを、「学習性無力感」という。

 犬の実験でも、電気ショックを与えつづけると、その犬は、その場から逃げようとする気力す
ら、なくすという(セリングマン)。

 何度か失敗しているうちに、「自分はダメだ」というレッテルを、自ら張ってしまう。そして本来
ならできるはずのことまで、できないと思いこんで、逃げてしまう。10年ほど前のことだが、こん
なことがあった。

 Wさんという中学3年生の女の子がいた。

 能力的には、それほど恵まれている子どもではなかった。が、親が、それを認めなかった。
親は、「何としても、A私立女子高校へ……。それがだめなら、B私立女子高校へ……」と、W
さんを追いたてた。

 私はある日、Wさんにこう言った。「今の力では、A高校も、B高校も、無理だと思う。だから
君のほうから、君の力について、お母さんに正直に言ってみたらどうだろうか」と。

 が、Wさんは、決して、それを親には言わなかった。言えば言ったで、Wさんは、自分の立場
をなくしてしまう。こういうケースは、多い。つまり子どもは、親に、自分の能力のなさを、言わな
い。子どもは、「やればできる」と思わせることによって、自分の立場をつくる。自分の能力を告
白することは、自分の立場を失うことになる。

 で、A私立女子高校とB私立女子高校の受験に失敗。そこで今度は、C私立高校を受験する
ことになったが、そのころになると、教室でもただぼんやりとしているだけ。ときどきため息をつ
いては、意味もなく、参考書をめくるだけになってしまった。

 今、多くの親たちは、「勉強しなさい」と、子どもを追い立てている。しかしそれでうまくいけば
よいが、そうでないときに、子どもは、大きな挫折感を味わう。中に、無責任な教育者(?)がい
て、「そういう挫折感を乗りこえてこそ、子どもは、たくましく成長する」などと説いたりする。

 しかしこの時期の子どもには、まだその力はない。そのため挫折感から、そのまま無気力に
なっていく子どもは、少なくない。それだけならまだしも、さらに罪悪感すら覚える子どももいる。

 子どもを信ずるということと、過剰な期待を寄せるというのは、まったく別のことである。この
視点をふみはずすと、子どもを、無気力な子どもにしてしまうことがある。くれぐれも、慎重であ
ってほしい。


●孤独な人間

だれにも相手にされず、心を開いて話しあえる友もなく、生きる目的もない。
ただその日が、過ぎるのを待ち、夜になったら、どこかカビ臭いベッドの中にもぐる。

ときどきだれかに電話をしてみる。話しかけてみる。
しかしだれも、振り向いてくれない。だれも、耳を傾けてくれない。

人を愛することも知らない。愛されることも知らない。
長い人生だったが、だれか、人のために働いたことは、一度もない。

仕事がないといっては、嘆き。仕事が多過ぎるといっては、不平をもらす。
だれかに何とか、してほしい。しかしその何とかしてくれる人もいない。

神や、仏は、どこにいる? いや、家には昔からの立派な仏壇はあるにはある。
しかしそんなのはただの箱。ただの飾り。家の格式を証明するための、ただの勲章。

乾いた心を、どう癒す。襲いくるさみしさをどう、紛(まぎ)らわす。
孤独は、まさに地獄。人間が、そこに感ずる、まさにこの世の無間地獄。

++++++++++++++++++

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三悪と考える。これら三悪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

(1)孤独という罪
(2)嫉妬という罪
(3)性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

 
●ある読者の方から……

楽天日記の読者の方(ANさん)から、こんなメールをもらった。

++++++++++++++++++

日本では母親を大切にすると、「マザコン」と言われます。
それは"悪"である、と。
私はアメリカしか知りませんが、(しかもアーカンソーでは、子供はみないくつになっても母親を
大切にしています。

でも同じことを日本ですれば、「気持ち悪いマザコン男」と言われます。
この差は何なのか、何の違いがこうさせるのか、よく考えるのですが、私には結論がみつかり
ません。

はやしさんはご存知ですか???

ちなみに、私は「日本人は……」「日本では……」という表現が嫌いです。
すべてひとまとめにするのはおかしい、と。
でもこれに関してだけは、思ってしまいます。

全然、議題がそれましたね。すいません。(^^;
私も"ある母親"になる可能性はあるのかもしれないなぁ、と思いまして。
長文ですいませんでした。
読んでくれて、ありがとうございました! (6月22日0時17分)

+++++++++++++++++

AN様へ

 メール、ありがとうございました。

 少し考えてみました。

 一つは、「大切にする」ことと、「マザコン」は、まったく別のことです。このあたりに、大きな誤
解があるように思います。

 それについて、一言、説明しておきたいと思いましたので、ここに書いておきます。どこか論
文調で、きつい言い方に聞こえるかもしれませんが、お許しください。

 決してAN様に腹をたてているとか、AN様のメールを不愉快に思っているとか、そういうこと
ではありません。

 「なるほどな」と思いつつ、読ませていただきました。私は、こう見えても、結構、すなおな面が
あるのです。ハイ!

 以下、私の意見です。参考にしてください。

+++++++++++++++++

 マザーコンプレックス。略して、「マザコン」という。マザコンは、基本的には、「親を大切にす
る」という概念とは、まったく異質のものである。

 母親への強度の依存性を特徴として、その母親が、本来的にもつ母性的呪縛から、解放さ
れない状態を、マザーコンプレックスという。

 子どもは、その成長とともに、肉体的発育のみならず、精神的発育を完成する。これを発達
心理学の世界でも、「内面化」という。その過程の中で、子どもは、「家族」というワク(これを
「家族自我群」という)をこえて、自立、独立していく。これを心理学の世界では、「個人化」とい
う。

 わかりやすく言えば、その子どもの基本的信頼関係をつくるためには、母親の存在は絶対で
あり、そういう意味では、母子関係は、父子関係とはちがう、独自性をもつ。

 しかしその絶対性が強すぎると、子どもは、その絶対性に押しつぶされてしまうことがある。
わかりやすく言えば、ひとり立ち(個人化)できない、ひ弱な子どもになってしまうということ。

 こうした母子関係を調整するのが、父親の役目ということになる。それについては、何度も書
いてきたので、ここでは省略する。

 で、こうして母親が本来的にもつ母性的呪縛から、解放されない子どもが、生まれる。その代
表的な言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という言葉である。(それに答えて、子どもは
「産んでいただきました」「育てていただきました」と言う。)

 こうした呪縛は、一方で、独立しようとする子どもに、大きなブレーキとして働く。それだけでは
ない。親に孝行できない自分に対して、罪悪感をもつこともある。たとえば「親不孝者」という烙
印(らくいん)を押された子どもは、生涯、「私は、人間として失格者だ」と思うことによって、あら
ゆる面で、自分はダメ人間と思いこんでしまう。

 母親の葬式に出られなかったというだけで、一日とて晴れることもなく、悶々と過ごしている男
性すらいる。

 母子関係というのは、それほどまでに重大な関係なのである。

 俗にマザコンというと、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公)を思い
浮かべる。典型的なサンプルとしては、わかりやすいが、しかし、マザーコンプレックスというの
は、あくまでも内面世界の問題である。

 さて、「日本では、母親を大切にすると、マザコンと呼ばれる」という意見について、この方
は、大きな誤解をしている。

 「大切にする」ということと、ここでいうマザコンとは、まったく異質のものであり、別のものであ
る。

 話せばあまりにも長くなるので、つまり遠い距離を感ずるので、簡単に言えば、こうなる。

 親子関係といえども、つきつめれば、一対一の人間関係で決まるということ。子どもがどう思
うかは別にして、親は、親子であるという、『デアル関係』に甘えてはいけないということ。子ども
が親を大切にするかどうかは、それはあくまでも、子どもの問題。親が反対に、子どもに向かっ
て、「親を大切にしなさい」と求めるのは、そもそも方向性が、逆だということ。

 親が子育てをする目的は、ただ一つ。子どもを、自立させること。そういう意味で、母性本能
に溺れてしまうと、ベタベタの親子関係をつくり、よって、子どもの自立(これを「内的促し」とい
う)を、阻害してしまうことが多い。それについて、私は、注意しなさいと言っている。

 最後に、アメリカと言っても、広い。面積だけを見ても、アジア全土を含めたほど、広い。カル
フォニア州だけでも、日本ほどある。テキサス州にいたっては、日本の2倍の広さがある。

 もちろん全世界の人種が集まっている。その中には、アジア系もいる。そういうアメリカの中
でも、中南部地方では、この方が指摘しているように、大家族主義というか、伝統的に、家族
意識がきわめて強い。

 しかしその家族は、同じ家族主義といっても、日本の家族主義とは、異質のものである。それ
とも、この方は、アメリカで、親が子どもに向かって、「親に向かって、何よ!」という、あのあま
りにも日本的な、どこまでも日本的な言葉を耳にしたことがあるとでもいうのだろうか。

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」という言葉でもよい。そんな言葉を
言っている、アメリカ人を、見たり聞いたりしたことがあるだろうか。

 私が「日本は……」「日本人は……」というときは、こういう意識のちがいを説明するときに使
う。決して、日本人が劣っているという意味で使っているのではない。

 もちろん日本には、日本のよさがある。一方、アメリカには、アメリカの問題がある。さらにこ
の日本の中でも、都会に住む日本人と、地方の農村地帯に住む日本人は、ものの考え方もち
がう。生活環境そのものも、ちがう。「日本は……」「日本人は……」という意見を書くときは、当
然のことながら、慎重でなければならない。

 これについては、私も、反省している。この方が指摘したとおりである。

 最後に、私は何も、親を含めて、人を大切にすることまで、否定しているのではない。親であ
れ、だれであれ、「大切にしたい」と思えば、その人を大切にすればよい。また親を大切にする
からといって、マザコンというわけではない。

 どうか、どうか、誤解のないように!

+++++++++++++++++++++

AN様へ

 メール、ありがとうございました! おおいに反省すべき点は、反省し、これからの執筆活動
に役立てさせていただきたいと思います。

 なお、いただきましたメールですが、小生発行のマガジン、7月23日号(予定)に、掲載させ
ていただいてよいでしょうか。よろしくご理解の上、ご了解ください。お願いします。

 私も、あのConway(アーカンソー州)に住む人たちの生き方を見ていると、あくまでも、息子
夫婦の過ごし方を見ての話ですが、「たがいの家族を大切にしているなあ」と思っています。

 しかしおもしろいと思うのは、それぞれが独立精神が強くて、80歳を過ぎた、祖父母にして
も、息子や娘と、決して同居しないということです。(そういう発想そのものが、ないように感じま
す。)

 嫁の母方の祖母にしても、いよいよ動けなくなり、嫁の両親の家の近くに引っ越してきました
が、それでも、かなり離れたところに部屋を借りて住んでいます。父方の祖父母は、リトルロッ
ク(州都)に住んでいます。

 こうした老後の過ごし方は、オーストラリアでも、一般的に見られます。年をとったら、都会の
マンション(アパート)に移り、さらに動けなくなったら、老人ホームへ入るという生き方です。

 日本でも、こうした生き方をする老人がふえてきたように思いますが、基本的な部分で、「家
族」に対する考え方がちがうのも、事実です。

 これからもその「事実」を追求し、この日本の社会を、より住みやすく、わかりやすいものにす
るためにも、がんばってものを書いていきたいと思います。また何かご意見をいただけるようで
したら、ご指摘ください。

 では、今日は、これで失礼します。重ねて、ご意見に感謝します。

                             はやし浩司

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【フランス在住のRNさんより……】

 フランスの事情について、フランスに住んでおられる、Rさんから、
 こんなメールが、届きました。

 参考になると思いますので、許可を得て、掲載します。

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今、はやしさんの楽天日記の、今日の文を読んで少し思ったことがあったので
ちょっと、フランスでは……参考になればと思って、メールしました。

こちら、私が住んでいるブルターニュ地方も、家族のつながりを大切にしている人が
多いです。

夫のADも、実家の日曜大工、芝刈り、畑を耕したりなにか問題があると
10km先の両親のところに行きます。

義母と夫の行動は、とっても似ているんですよね。
母を大切にするのと、マザコンは本当に違うと思います。

とくに両親を大切にすると言うことに関して。
夫の両親は、いつまでも私たちだけで生活していきたいと
言っていますし、あまり動けなくなったら、町が管理している家に住んでもいいわ!
と言っているぐらいです。

そしたら、あなたたちこの家を、買わない? ハハハ、なんて話ができるぐらいです。

前回、日本に帰ったときに父になにかあったら
母は自分の分だけでも仕事をして、自分で生活していきたい、ということでしたが
姉をはじめ、親戚は、長男のところ(東京)に行ってみてもらうのがいいと。
それが普通だ、と何かにつけて、長男、長男……。

「日本人は……」と、私もこの言葉を使いたくないのですが、
このときばかりは驚きました。
年老いたら、だれに、めんどうをみてもらうかの話ばかり!

フランスでは、こんな言い方、聞いたことがありません。

数か月、叔父が入院しましたが、あんなところに押し込められてと言う感じです。
老人ホームには、悪いイメージがあるようです。

私からしてみれば、長期治療のこともあるし、病院のおかげで母も働けるし
医療設備が発達していて、本当に感謝しているのですが……。
まわりから見ている人は、家で看護するのが当たり前と考えているような感じがします。

看護にしても、家でするにが、当たり前、だそうです。

保険が行き届いたフランスと比べてしまうからでしょうか。
日本とフランスとでは、親子の関係の違いを感じます。

長くなってすいません。

             フランス  RNより

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【RNさんへ……】

 さっそくのメール、ありがとうございました。

 私も、欧米と日本の家族観のちがいには、しばしば驚かされています。

 これからの日本は、ますます少子高齢化、都市型生活が進みますから、必然的に欧米型に
ならざるをえないと思います。住環境も貧弱だし……。

 老人ホームに対する悪いイメージは、60歳以上の人が、強くもっているようです。40歳代の
人、50歳代の人にも、多く、みられます。どこかで、そういう悪いイメージをもってしまったので
しょうね。「施設」というだけで、拒絶反応を示す人も少なくありません。

 歳をとったら、どこかでひとりで暮らす。息子や娘には、できるだけめんどうをかけたくない。
……というふうに考えるか、歳をとったら、身内に囲まれて、甘えて暮らしたい。……というふう
に考えるか、そのちがいかもしれません。

 実はね、この問題は、子育て全般にも関連してくるのです。

 こうした日本独特の依存型社会というか、もちつもたれつの甘えの世界というか、それがこれ
また日本独特の子育て観をつくりあげているのです。

 親は、無意識のうちにも、どこかで自分の老後を想定しながら、子育てをする。子どもの独
立、自立を願うよりも、自分の支配下において、子どもを、自分の思いどおりに動かそうとす
る。

 「ママ……」「ママ……」と甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とするわけで
す。

 そのために、親は、子どもに嫌われるようなことを避ける。反対に、歓心をかったり、機嫌を
とったりする。ばあいによっては、子どもにコビを売ったり、さらには、弱々しい親を演じてみせ
たり、恩を着せたりする。

 もっとも、日本に住んで、外国から日本を見たことがない人には、それがわかりません。それ
が日本の風土や、文化になっているからです。へたに批判をしようものなら、(今の私のよう
に)、猛反発をくらうだけです。

 もう何十人もいましたよ。

 「君の意見は、現実的ではない」「欧米といっても広いだろ」という意見から、「それでもお前
は、日本人か!」「そんなに日本に文句があるなら、オーストラリアでも行けばいいだろ」という
のまで。

 「日本のよさまで否定するな」とか、「親孝行を否定するのは、日本人として、失格」とか言っ
てきた人までいます。「先祖を粗末にするヤツは、教育者としてふさわしくない。即刻、講演活
動をやめろ」と怒鳴りこんできた女性まで、いました。

 RNさんには信じられないような話かもしれませんが、すべて事実で、むしろ控えめに書いて
いるほどです。

 しかしだれかが、声をあげないと、日本はいつまでもこのまま。みなも気がつかないだろうし、
日本も変らないだろうと思います。そのためにずっと書きつづけていますが、正直に告白して、
このところ、少し、疲れてきました。

 「もう、どうにでもなれ」という思いも、生まれてきました。

 最後に、楽天の掲示板まで読んでくださって、ありがとうございました。このところマガジンも
低調で、8月号からどうしようかと悩んだり、迷ったりしています。またフランスの事情など、レポ
ートしてくだされば、うれしいです。

 今日は、これで失礼します。日本は、台風一過、昨日は、暑いですが、クリアな空を楽しむこ
とができました。今日は、幾分暑さがやわらぎ、過ごしやすくなりました。

 メール、転載の件、よろしくご了解ください。7月23日号で使わせてください。

                            はやし浩司

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●悪玉家族意識VS善玉家族意識

 いまだに江戸時代の、名家意識をひきずっている人は少なくない。封建時代には、「家」がす
べてであった。身分も、仕事も、そして人間としての価値も、それで決まった。

 こうした封建時代の亡霊に根ざした家族意識を、悪玉家族意識という。

 悪玉家族意識のものでは、家族一人ひとりは、すべて、「家」のモノでしかない。

 一方、家族の人権を、一人ずつていねいに尊重しようとする動きも、このところ、急速に大き
くなってきている。これを善玉家族意識という。「家」というものがあるとするなら、あくまでも、そ
の結果でしかない。

 今から思えば、笑い話のようなことかもしれないが、こんなことがあった。

 35年前、オーストラリアに渡ったときのこと。私は、向こうの人たちが、自由に、土地を移動
し、ついでに家を住みかえているのを知って、驚いたことがある。

 土地や家に、ほとんど執着心をもっていないのである。お金ができたら、より環境のよい、よ
り広い家に移る。老後になって、維持がたいへんになったら、売って、アパート(フラット)に移
る。そういうことを、早い人で、数年単位で繰り返していた。

 これは私には、大きな驚きだった。つまり彼らのそうした生きザマは、それまでの私には、ま
ったくない感覚であった。

 どちらがよいとか、悪いとかいうことではない。「家」あっての家族と考えるか、「家族」あって
の家と考えるかのちがいである。しかし、ただこれだけは言える。

 今、悪玉家族意識は、音をたてて崩壊しつつある。地方の農村地域に行くと、まだ残っている
ところもあるが、それも、いつまでつづくかわからない。私の姉ですら、農家に嫁いでいったが、
こう言っている。

 「浩ちゃん、大切なのは、みんなが幸せになることよ」と。

 「家」を守ったところで、その家族が幸福になるわけではない。むしろ、その重圧感で、何が
本当に大切かを見失ってしまっている人のほうが多いのでは? だから、私は、あえて「悪玉」
と呼ぶ。

 この悪玉家族意識は、総じて、だれの心の中にも、残っている。結婚式にしても、「家」と「家」
の結合という意識が残っている。花婿、花嫁という個人ではなく、「家」である。そういう悪玉家
族意識が一掃されたとき、私は、この日本の家庭にも、本物の個人主義イコール、民主主義
がやってくると思う。道は遠いが、がんばろう!


●父の日

 先日、ワイフが、「明日は、父の日ね」と言った。それで私が、「じゃあ、ブラジャー買ってあげ
ようか。ウルトラ・ソフトというのもあるよ」と。

ワイフ「どうして、ブラジャーなの?」
私「乳(ちち)の日だア」
ワイフ「バカみたい……」
私「じゃあ、パンツでもいい。やわらかい素材の……」
ワイフ「何、それ?」
私「だって、チンチの日だろ」と。

 最後に、「何をプレゼントしてくるの?」と聞いたら、「あなたは、夫で、父じゃないでしょ」だっ
てさ。

 同じようなものだと思うのだが……。

 長男も、たまたま家にいる三男も、何も祝ってくれなかった。父の日の翌日、アメリカに住む
二男から、電話があっただけ。「何か、用か?」と聞くと、「今日は、父の日だから」と。アメリカ
は、何でも、日本より、半日、遅れている。ハハハ。

 何ともさみしい父の日でした!

 (私のように、何も祝ってもらえない人も多いはず。だったら、勝手にこういう日を、決める
な! かえってさみしい思いをする人だって、多いぞ。)


●電子マガジンをどうしようか?

 このところ、パソコンに向うと、どうも気が重くなる。迷いがあるからだと思う。「どうしよう
か?」と考えているうちに、30分とか、それくらいの時間が、過ぎてしまう。
 
 朝、起きたとき、「マガジンは、7月いっぱいで、休止しようか」と思う。が、パソコンを開くと、
読者が1人、ふえていた。うれしいと同時に、「申し訳ないな」と思う。そしておもむろに、キーボ
ードをたたき始める。こんな毎日の、繰りかえし。

 がんばろう。がんばるしかない。今が、一番、苦しいとき。目標まで、あと500号! 私は、自
分のために書いている。だれのためでもない。自分のためだ。

 ワイフは、「もっと量を少なくしたら……」と、いつも言う。しかし私は、毎回、A4サイズ用紙(1
500字程度)で、20枚程度を目標にしている。それ以下の枚数にしたら、意味がない。10枚
でも、マガジン。5枚でも、マガジン。3枚でも、マガジン。たった1枚でも、マガジンはマガジン
になってしまう!

 だから20枚は、書く。……そう思って、今調べてみると、やっと12枚。以前なら、半日でそれ
くらいは書いた。今は、一日かかる。あと8枚。8枚書いて、7月23日号にする。がんばろう。

(意味のない原稿を書いて、すみません。いつも「量が多すぎる」という苦情をいただきます。そ
のうち元気がなくなれば、枚数も減ると思いますので、今、しばらく、お許しください。)

【追記】

 先日、子育て相談の受け付けを、お断りしますという連絡をしたら、その相談件数が、ガクリ
と減った。実際には、今日(23日)は、ゼロ。相談を受けても、その返事すら書けない。それで
受け付けを断ることにした。(ごめん!)

 ……こうして私は、どんどんと、現役から遠ざかっていく。幼児教室にしても、一日、1クラス
が限度。2クラスもすると、そのままバテてしまう。つまりそれくらい重労働に感ずるようになっ
てしまった。

 いろいろ悩んでおられる方には、申しわけないが、あとにつづく若い後輩たちに、がんばって
もらうことにする。ただ差別するように申しわけないが、友人、知人、賛助会員、BW関係者の
方からの相談は、今までどおり、受け付けている。どうか遠慮なく、相談してほしい。まだ完全
に、引退したわけではないので……。

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●家族自我群というクサリ

 今、Sさんは苦しんでいる。悩んでいる。事情は、こうだ。

 Sさんの母親は、数か月前、脳梗塞で倒れた。以来、意識が弱くなった。話しかければ、多少
の反応はあるという。しかしもう、家族の顔を見分けることもできない。

 そのSさんは、今、カナダのモントリオールに住んでいる。小学生と幼稚園へ通う、二人の子
どももいる。簡単に往復できる距離ではない。

 しかし、Sさんが苦しんでいるのは、そのことではない。ときどき日本に住む、兄夫婦や、妹に
電話をするのだが、いつも冷たくあしらわれてしまうという。

 「妹に電話をしても、『あんたなんか、もう家族ではない』というようなことまで言われます。母
の容態を聞くのですが、『あんたなんかに、話す義務はない』とか、「あんたなんかに、聞く権利
はない」とまで言われます」と。

 「私は、決して母のことをどうでもいいなんて思っているのではありません。そればかりか、一
日とて、心の晴れる日はありません。また遠いところに住んでいることを理由にして、日本へ帰
らないというのではありません。私には私の家族があり、いろいろと事情があるのです」とも。

 姉夫婦にせよ、妹にせよ、Sさんは、親の反対を押し切って、カナダ人と結婚して、親を捨て
た娘」というふうに考えられているのかもしれない。どこか化石のような考え方だが、今でも、そ
ういうふうに考える人は少なくない。

 子どもは、親のそばにいて、親の老後のめんどうをみるべきという考え方である。

 話は少し専門的になるが、「家族」には、家族としての呪縛(じゅばく)がある。これを心理学
の世界では、「家族自我群」という。

 子どもは、成長とともに、この家族自我群からの脱却をめざす。これを個人化という。つまり
家族という束縛から離れて、一人の人間として、自立しようとする。

 が、こうした自立への方向性を、親自身がはばんでしまうことがある。自立そのものを許さな
い親も、少なくない。タイプとしては、つぎの4つに分けられる。

(1)攻撃型(子どもに、親を捨てるとは何ごとかと、迫るタイプ。)
(2)同情型(弱々しい親をことさら演じながら、あなたなしでは生きていかれないと訴えるタイ
プ。)
(3)依存型(生活面で、どっぷりと子どもに依存してしまうタイプ。)
(4)服従型(子どもに服従することにより、その見返りに保護を求めるタイプ。)

 これら4つのタイプの親に共通するのは、親自身の精神的未熟性、情緒的欠陥性、さらに日
本独特の、子どもをモノと考える所有意識である。もちろん文化的背景もある。こうした要素が
複雑にからんで、結果として、子どもの自立をはばんでしまう。

 が、問題は、さらにつづく。

 子どもが自立したばあい、こうした子どもを親は、(そしてそうした親の考え方に同調する周
囲の人たちは)、「できそこない」というレッテルを張ってしまう。

 このレッテルが、子どもの側からみると、今度は、罪悪感となってはねかえってくる。「私はで
きそこないの子だ」と。この罪悪感が、ちょうど、真綿でクビをしめるように、ジワジワとその人
を苦しめる。

 それはふつうの苦しみではない。家族自我群というのは、それほどまでに根が深く、心の奥
底までその根は伸びている。一生の間、「私はダメな人間」と、思いこんでしまう人さえいる。

 本来なら、こうした苦しみを子どもに与えないため、親は、ある時期がきたら、じょうずに子離
れをし、子どもには、親離れをしむける。「あなたはあなたの人生を生きなさいよ。私は私の人
生を生きますからね」と。

 こうした親の、本来のやさしさが、子どもの心を救う。

 で、Sさんの話に戻る。

 Sさんは、今、二重の苦しみを味わっている。一つは、母親を心配する子どもとしての苦し
み。もう一つは、母親のめんどうをみられないという罪悪感。本来なら、こういう状態に子どもを
追いこまないように、母親自身が、何らかの方法を講じておくべきだった。

 遺言とまではいかないにしても、言葉や、指導で、娘たちを指導しておくべきだった。しかし残
念ながら、その母親には、それだけの度量がなかった。だから今、姉夫婦や妹は、Sさんを、
「できそこない」と責める。「自分だけ、カナダで楽な思いをしている」「親のめんどうを、私たち
に押しつけている」と。

 私がその母親なら、カナダの娘に向って、こう言うだろう。

 「わざわざ、来なくてもいいよ。葬式にも来なくていいよ。いつか、気が向いて、何かのことで
日本へ来たときに、墓参りか何かしてくれればいいよ」と。

 そしてほかの二人の娘には、こう言うだろう。

 「Sを責めてはいけないよ。Sには、Sの生活があるんだから。みんな、仲よくしてよ」と。

 近くにいて、そのつど適当にめんどうをみるよりも、遠くに離れて、その罪悪感に苦しむほう
が、ずっと苦しい。つらい。

 さらにこの日本では、「子どもが親のめんどうをみるのは、当たり前」と、信じて疑わない人も
いる。信じているというより、それ以外の考え方のできない人である。そういう親をもつと、結局
は、子どもが不幸になる。ノー天気というか、親のために犠牲になっている子どもの姿を見な
がら、「うちの息子は、親孝行のいい息子だ」と、誤解してしまう。

 それぞれの子どもには、それぞれの人生がある。長男も二男もない。そうした人生を、親の
ために犠牲にさせてはいけない。家のために犠牲にさせてはいけない。もちろん子どもが自分
で考えて、自分で、そうするというのであれば、話は別。しかし親は、子どもに、それを求めて
はいけない。強要してはいけない。

 参考になるかどうかは、わからないが、私は三人の息子たちに、そういう意識をもったこと
は、一度もない。今の今でも、苦労は尽きないが、もし三人の息子たちがいなければ、私は、
今の今でも、こうまでがんばらないだろうと思う。

 「まだ最低でも、3年は、がんばらなくては」という思いが、私の今のエネルギーになっている。
「あと3年で、三男は、大学を卒業する」と。

【Sさんへ……】

 こうなると、もう意識の勝負ですね。あなたの意識を、二つも三つも、飛躍させるしかありませ
ん。そしてその結果として、あなたの姉、妹を超えるしかありません。

 ちょうどおとなが幼児をみるように、あなたの姉や妹をみます。「何て、くだらないことを言って
いるのよ」と、です。つまり相手にしないこと。

 今のままだと、あなた自身も、姉や妹と、同じレベルに落ちてしまい、やがてその罪悪感に苦
しむようになってしまいます。それほどまでに、ここにも書いたように、この問題は、心の奥深く
に根ざしています。

 そのためにも、あなたの意識を高めます。が、それにしても、いやな姉や妹ですね(失
礼!)。遠まわしな言い方で、結局は、あなたを苦しめている。まさに自己中心型の人たちで
す。つまりは、それだけ精神の完成度の低い人とみます。

 その意識が高まれば、あなたは姉や妹を、ずっと下のほうに見ることができるようになりま
す。あわれで、かわいそうな人たちに見えてくるはずです。そうなれば、あなたはここでいう家
族自我群から、解放されます。

 どうせ悪く思われているのだから、いいではないですか。悪く思わせておきなさい。あなたの
まわりを見てください。この地球上には、60億人もの人たちがいるのですよ。こんな小さな国
の、小さな心の人たちなど、相手にしないことです。

 私も、いろいろな問題をかかえています。あなたのかかえている問題より、はるかに深刻な
問題です。

 で、ある日、こう思いました。「もう、相手にしない。悪く思いたければ、思え。勝手に、そう思
え」と。

 そう言えば、家族自我群というのは、ストーカーに似ていると思いませんか。こちらは、「もう
放っておいてくれ」と思っているのに、執拗にベタベタとつきまとう。逃げても逃げても、つきまと
う。相手は、勝手な思いこみだけで、私を追いかけまわす。……そんな感じがします。

 私は子どものころから、親たちから、「産んでやった」「育ててやった」「食わせてやった」と、そ
れこそ耳にタコができるほど、聞かされて育てられました。また大学へ入ると、「学費を出して
やった」「大学まで、卒業させてやった」と、これまた耳にタコができるほど、聞かされて育てら
れました。

 親戚の伯父や伯母にも、そう言われましたよ。「お前は、親に産んでもらったんだからな」と。
「歩き方や、話し方まで、親に、教わったのだからな」とも。

 結局は、その分だけ、親のめんどうをみろということだったのでしょうか。

 ここでいう「勝手な思いこみ」というのは、それを言います。

 で、私は私の長男をもったときから、心に決めました。はっきりと決めました。「私は、そういう
恩着せがましい子育てはしないぞ」と。

 しかしSさんは、生涯、その罪悪感から逃れることはできないでしょう。繰りかえしますが、こ
の問題は、それくらい、根が深いということです。

 だったら、どうするか?

 必要なことだけはしながら、あとは居なおる、です。今の状態では、あなたの母親は、施設に
入るのが、自分のためにも、またあなたたち姉妹のためにも、一番、よいのです。それがダメ
だというのなら、それはもう、あなたの母親の、エゴです。わがままです。

そしてもしその罪悪感を覚えたら、その罪悪感に苦しむのではなく、昇華させ、そしてそれを、
あなたの子どもたちに還元すればよいのです。

 あなたはすばらしい母親になれますよ。

 では。日本は、台風一過、気持ちのよい日が、つづいています。

                     6月23日       はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(202)

●感情的知能(EQ)

 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。

 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、そ
の子どもの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭のよい子
どもイコール、社会に適応できる子どもとは、かぎらない。

わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全体的な雰
囲気で判断する。

 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」と考え
たら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。

 そこで私の自己判定。


(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりする反
面、協調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。

(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコントロー
ルしてしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。

(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症(基底
不安)型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほうへと考えてしま
う。取りこし苦労をしやすい。

(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じに、自分を
客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。

(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにくらべて、
柔軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。

(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦いなが
ら、無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまかして生きてい
ると思う。

 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がないこと
がわかる。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきりと判定するこ
とができない。

 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であるという
こと。

 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでいて、負
けず嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。

 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と思いなが
ら、別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という世界でもそうな
のかもしれない。

 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、どこか
の橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に合っているの
かもしれない。

 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあげたと
も考えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげること)による
ものかもしれない。

 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。

 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬席はと
れない。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価がものを
いう。

 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。たとえ
ば、「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」と。現在でも、大学入
試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での面接試験(人物評価)がなさ
れているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていない。
 
 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。
(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emotional 
Quality)


【はやし浩司の性教育】

●チンチンの進化論的、雑学

 数十万年という気が遠くなるほどの進化の過程を経て、人間は、ここまで進化した。ムダなも
のは、何一つない。一見、ムダに見えるもことでも、よく考えると、ちゃんと理由がある。男のチ
ンチンとて例外ではない。

(1)なぜチンチンは、ホースなのか?

 小便をするためにホースが必要という考え方は、まちがっている。現に女性には、ホースが
ない。ホースがなくても、小便はできる。

 チンチンが、ホースになっているのは、生殖のためである。精子を、女性の膣の奥深くに、届
けるためである。

(2)では、チンチンは、どうして長くなったのか?

 胎児は、骨盤に囲まれた、人体でももっとも安全な場所に、宿る。その場所は、女性の体の
奥深くにある。チンチンは、そこまで精子を送り届けねばならない。だから長くなった。

(3)チンチンが、短かったら、どうなるのか?

 反対に、子宮口が、出口近くにあったら、どうなるか? それをかんがえてみればよい。事故
で妊娠してしまう危険性がある。

たとえばどこかの男が、岩場で射精したとする。(人間は、太古の昔には、魚だった。それを忘
れてはならない。)

それを知らず、女性が、その上に座ったとしたら、どうなるか? 岩場に残った精子が、女性の
体内に侵入してしまう。そういう危険性が、大きくなる。

 だから子宮口は、ある程度、人体の奥深くにする必要があった。

(4)どうして勃起しないと、長くならないのか?

 チンチンのような付帯物は、コンパクトであればあるほど、よい。もともとなくても、困らないも
のである。あんなのをブラブラと、ぶらさげているというのも、おかしなことだ。

 が、それではここにも書いたように、生殖には、役だたない。そこで必要なときだけ、長く、大
きくするということにした。それが勃起である。

 かたくなるについても、意味がある。

 反対に、いつも長く、かたくしたら、どうなるか? 男性ならみな、知っているが、そうなった
ら、歩くことすら、ままならなくなってしまう。

 もう一つの意味は、やはり女性の膣を、分け入るという目的がある。不要な精子は、入り口で
シャットアウトしなければならない。そのため、女性の膣は、ふだんは、閉まっている。やわらか
いチンチンでは、その扉を分け入ることはできない。

 そこでチンチンは、必要なときだけ、長く、かたくなるようになった。

(5)チンチンは、どうして太いのか?

 そのとき、女性は、男性より、はるかに強い快感を覚える。男性が感ずる快感は、射精時の
一瞬だが、女性はそうでない。それこそ身も心も溶かすほどの快感を覚える。

 それにつづく、妊娠、出産、育児の苦労を思えば、当然である。つまりその快感は、こうした
苦労を乗り越えさせるだけにじゅうぶんなほどの、快感である。またそうでなくてはならない。

 もしその快感がなかったら、女性は、セックスなどしなくなるだろう。つまりその時点で、人間
は絶滅する。

 そこでチンチンだが、細くては、女性に刺激を与えることができない。しかし太いと、ふだん、
使っていないときには、じゃまになる。

 そこで勃起と同時に、長く、かたく、そして太くなるようにした。

 で、その太さだが、もともと膣は、新生児を通過させるには、じゅうぶんなほど、広くする必要
がある。本来なら、膣も、細く、コンパクトなほうがよい。しかしそれでは、新生児が通過するこ
とができなくなってしまう。

 ある程度の広さが必要である。

 この膣のある程度の広さに合致するため、つまり、ちょうどほどよい太さになるよう、チンチン
の太さが決まった。もちろんこれも、長い進化の過程における、その結果である。

(6)どうしてチンチンや、膣は、ウンチの出口近くにあるのか?

 もしチンチンが、腹の上や、背中にあったら、どうなるかということを、反対に考えてみればよ
い。

 生殖は、人間の種族保全のためには、最重要事だが、しかし生活の場では、一部でしかな
い。

 毎日、男性が勃起し、女性がアヘアヘとあえいでいたのでは、生活そのものが、成りたたなく
なってしまう。そこで私たちがあまり使わないものは、部屋のスミに置くように、生殖器を、体の
スミに追いやった。

(7)小便と、精子の出口が同じとういうのも、不合理ではないのか?

 先にも書いたように、ホースは、もともと、生殖用のもの。そのホースを、小便側が、勝手に
利用しているだけ。たとえて言うなら、電柱を、有線放送のケーブルが勝手に、借用するような
もの。

 もし小便口が別に、そのあたりにあったとすると、小便をするたびに、ホースをどかさねばな
らない。じゃまになる。

 そこで共用することにした。

(8)なぜ女性は、「男」を選ぶのか?

 基本的には、男性も、「女」を選ぶ。しかし血気盛んなころは、射精そのものを目的とする。だ
から男性は、あまり女を選ばない。

 一方、女性は、そうはいかない。先にも書いたように、そのあと、妊娠、出産、育児という重労
働が待っている。

 で、なぜ女性は「男」を選ぶかといえば、より優秀な子孫を、後世に残すためである。これは
人間も、ほかの動物と、まったく変わらない。

(9)女性が「男」を選ぶ基準はあるのか?

 かなりフレキシブルなものと考えてよい。

 もし女性や、男性の好みが単一化すると、その時点で、人間は、絶滅することになる。あるい
は戦争になるかもしれない。

 たとえば、ある学校に、たった一人のすばらしい「男」と、たった一人のすばらしい「女」がいた
とする。

 恋愛が成立するのは、その男と女の、一組だけということになる。あとの全員は、それを指を
くわえて見ているだけ。……となると、次世代の子どもは、その一組のカップルだけが残すこと
ができるということになる。しかし、これではまずい。

 そこで進化の過程で、人間の好みに、柔軟性をもたせることにした。

 細い女性が好きな男もいれば、太った女性が好きな男もいる。またその好みは、年齢ととも
に変化することもある。そういう柔軟性である。

(10)ついでに、どうしてウンチは臭いのか?

 人間が、原始生物だったころのことを、想像してみればよい。

 もしウンチがよい臭いで、おいしそうに見えたら、人間は、ほかの食べ物といっしょに、ウンチ
まで食べてしまっていただろう。

 そうなると、伝染病などは、一気に広がってしまう。

 そこでウンチには、強烈な臭いをつけた。そしてそれを嫌うようにした。

 しかし自分のウンチやオナラまで嫌ってしまうと、人間は、自己嫌悪におちいってしまう。そこ
で、自分のウンチやオナラについては、「いい臭い」と感ずるようにした。あのソクラテスも、そう
書き残している。『自分のウンチは、いい臭い』と。

 で、相手を心底好きになると、その相手のウンチやオナラまで、よい臭い(匂い)に感ずるよう
になる。つまり、そこまで相手を、自分の中に、受け入れることを意味する。また、それを、「LO
VE」という。

 ……以上、はやし浩司の性教育。

 ときどき、高校生たちに、こんな話をする。コツは、淡々と、決して、ニヤつかないで、事実だ
けを話すこと。そういうときだけ、今の生徒は、目を輝かせて、私の話を聞く。ホント!


●叔父風、叔母風

 親風どころか、叔父風、叔母風を吹かす人がいる。

 福井県O町に住んでいるX氏(45歳)から、こんなメールが、届いた。

 「私の住む地域は、古臭いところです。
  はやし先生は、よく親風を問題にしますが、
  このあたりでは、親どころか、親の兄弟たちまで、
  甥や姪の家の中にまで、ズカズカと入り込んできて、
  遠慮なく、干渉してきます。

  先日は、『お前は、ちゃんと、親父を大切にしているか?』と
  言ってきました。

  あるいは、『KK(=私の父親)は、心配ないな。
  お前のような、親孝行のいい息子をもっているからな』
  と言いました。

  どこか、いつも、イヤミに聞こえます。

  こんなことは、私の地域だけでしょうか。
  それとも全国的なことなのでしょうか」と。

 マガジンへの掲載を許してもらえなかったので、私のほうで少し内容を要約、改変した。

 まあ、全体としてみれば、親風を吹かす人(=悪玉親意識をもっている人)は、それ自体が、
基本的な人生観になっているため、あらゆる方面で、権威主義的なものの考え方をする。

 それがときに、叔父風、叔母風にもなる。自分の息子や娘どころか、甥や姪まで、自分のモノ
(配下)のように、扱う。もともと上下意識が強く、「親は絶対」「家は絶対」「先祖は絶対」という
ような考え方をする。

 このタイプの人は、それ以外の考え方ができないので、説得してもムダ。こうした権威主義的
なものの考え方を否定するということは、その人の人生を否定することに等しい。だから、どん
な言い方をしても、猛烈に反発する。

 だから適当にあしらいながら、つきあうしかない。

 しかし私も、親風までは考えたことはあるが、叔父風、叔母風までは考えたことがなかった。
なるほど!
(はやし浩司 親風 叔父風 叔母風)


●「長男だから……」という『ダカラ論』

 カナダ在住の女性(日本人。夫はカナダ人)が、以前、こう書いてきた。

 「日本では、いまだに、長男だから……と、ダカラ論だけでものを考える人がいるのには、驚
きました」と。

 一方、フランスに住んでいる女性からは、こんなメールが届いた。

 「夫の母親(フランス人)の家に遊びに行くと、夫の母親が、私たちに、『私の家を買ってくれな
い?』と言います」と。

 日本では、あまり聞かれない言い方なので、新鮮な感じがした。実の母親が、実の息子夫婦
に、「(私も歳をとったから、町の中のアパートに引っ越したい。ついては)、私の家を買ってくれ
ない?」と言うというのだ。

 親が、息子夫婦に、家を売るというのである。「あげる」とか、「渡す」ではなく、「売る」と言って
いる、と。

 何でもないことのようだが、ここに日本と欧米の親子観のちがいが、集約されているように思
う。つまりこういう発想は、日本人にはない。

 むしろ日本では、逆に考える。どう逆に考えるかは、ここで改めて説明するまでもない。

 が、問題は、その先。

 今の今でも、「長男だから」という、意味のない『ダカラ論』にしばられて、悶々とした人生を送
っている人は、少なくない。人生のほとんどを「家」にしばられたままの人である。

 親子関係がそれなりにうまくいき、それなりに生活の保障された「家」なら、まだ納得できる。

 しかし親子関係は、メチャメチャ。その上、それほどの家でもない(失礼!)。そういう家にし
ばられ、長男だからという『ダカラ論』にしばられている人の、欲求不満は、相当なものである。

 友人のY氏(56歳)もそうだ。両親は、H市の郊外に、畑をもっていた。家の横には、8世帯
分のアパートも所有していた。父親は、Y氏が35歳くらいのとき、他界。最近、母親が死んだの
で、自由になったとはいえ、心が晴れない。

 そのY氏は、会うたび、いつもこう言う。

 「ぼくも、林君のように、若いときは、外国を飛びまわりたかった」と。

 Y氏がもつ不完全燃焼感は、恐らくY氏でないとわからないだろう。そこで私が、「じゃあ、土
地と家を売って、今、したいことをすればいいじゃない。まだ人生は長いから……」と言うと、Y
氏は、こう言った。

 「それができれば、文句はないよ。土地を売るといえば、叔父や叔母が黙っていないよ。親の
墓守りをしなければ、土地と家は、すべて返せと言われるよ」と。

 そういうY氏のような例もある。事情は、それぞれ、複雑なようだ。

 私自身も、若いころは、何度も、外国への移住を考えた。しかしそのつど、母に泣きつかれ、
それを断念したという経験がある。Y氏ほどではないが、その不完全燃焼感が、ないわけでは
ない。

 しかし江戸時代ではあるまいし……。21世紀にもなった今、「家」だとか、「長男」だとか言っ
ているほうがおかしい。いつになったら、日本人は、そのおかしさに気づくのか。

 ……というのは、言い過ぎかもしれない。ただ現在は、日本も大きな過渡期すぎ、つぎの新し
い時代に入りつつあるときと言える。こうした過去の亡霊にこだわっている人は、地方に住む、
古い世代にかぎられてきている。私の姉が嫁いだ家も、昔からの農家だが、姉夫婦は、こう言
っている。

 「息子や娘には、自分の人生があるから、自分の人生を生きればいい」と。

 そういう考え方が、今、日本の主流になりつつある。


●6か国協議

 今日、6月24日(木)、中国の北京で、K国の核問題を話しあうための、6か国協議が開かれ
ている。

 「核開発をやめてほしかったら、金をよこせ」と、すごむK国。
 「凍結を宣言したら、エネルギーを支援する」と、なだめる韓国とロシア。
 「核開発をすべて開示したら、国際的な支援に加わる」と、約束する日本。そしてアメリカ。
 
 さあ、どうなる?

 「核開発の放棄など、金XXがするはずがない」という前提に立つなら、結果は、火を見るよ
り、明らか。核兵器あってのK国。核兵器がなければ、ただの貧乏国。金XXだって、それくらい
は知っている。

 しかし今、K国に、現金を渡せばどうなるか。K国は、ロシアと中国に多額の借金を返したあ
と、残った金で、またせっこらせっこらと、武器を買いつづける。日本もアメリカも、そんなことは
百も承知である。つまり、今、K国に、現金を渡すわけにはいかない。

 あの金XXは、絶対に、信用してはいけない。また信用できるような指導者ではない。自国民
でさえ平気でだますような指導者である。日本やアメリカをだますことなど、朝飯前。

 そこで、アメリカの腹は、もう決まっている。K国に適当に、アメをしゃぶらせておきながら、1
1月の大統領選挙まで、時間を稼ぐ。その間に、韓国の動向を見極めた上で、K国の核問題
を、安保理に付託する。

 日本も、表面的には、K国をなだめるだろうが、進む方向は、アメリカと同じ。

 問題は、韓国だが、すでに米韓関係は崩壊しているとみてよい。もともと反米をかかげて当
選した、ノムヒョン氏である。当然と言えば当然。アメリカは、韓国から撤退する。アメリカにして
も、「嫌われてまで、命をかけて、韓国を守ることもない」というのが、本音。

 日本も似たようなもの。沖縄をはじめ、日本全土で、アメリカ軍が移動するたびに、猛烈な基
地反対運動が起きる。アメリカ人にしてみれば、「日本を守ってやっているのに、どうしてこうま
で嫌われるのか」となる。

 これから先、アメリカは、自国の国益を再優先にして、K国の核問題をとらえるにちがいな
い。そしてそのために、最善の方法は、国連安保理を利用して、K国の核兵器開発を押さえる
ことである。

 その結果、K国が暴発して、韓国へ戦争をしかけようが、日本にミサイルを撃ちこもうが、「知
ったことか!」となる。日本はともかくも、韓国は、自分でまいた種。今さら、アメリカに向かっ
て、「韓国に残ってください」とは、とても頼めまい。悲しいかな、今は、そういう状況である。

 明日になれば、6か国協議のゆくえは、もっとはっきりしてくるだろう。が、多分、私がここで書
いたとおりになると思う。どういうわけか、ことK国に関しては、私の予想は、はずれたことがな
い。(ホントだぞ!)


●眠りそこなう

 フトンの中で、ちょうどウトウトし始めたところで、ハナが、ほえた。だれかが、駐車場のほうか
ら庭へ入ろうとしたらしい。

 それで目が覚めてしまった。

 眠ろうと思って、目を閉じたが、頭は、さえるばかり。そこでしかたないので、起きあがって、
台所まできて、ジュースを一杯。時計を見ると、午前0時半!

 明日はH幼稚園で講演というのに、これでは困る。

 「1時まで起きていて、マガジンの発行を見届けてから、また寝よう」と、心に決める。その
間、することもないので、こうして、この原稿を書く。

 今日も、無事、終わった。忙しい一日だったが、かえってそのほうが、私には、よいかもしれ
ない。夕方ワイフが、息子を連れて、教室へやってきた。そのまま、旅行会社で、息子の航空
券の予約をすますと、市内のレストランへ。みなで食事。

 そしてあわただしく、また夜の仕事。

 今夜は、中学生を5人、教える。底抜けに明るい子どもたちで、ちょっとしたことで、キャッキ
ャッと笑いこける。途中、幽霊の話になる。この季節の定番である。子どもたちは、こわいくせ
に、あれこれ聞きたがる。私も、幽霊の話が得意。

 「時は、寛永5年。6月24日のことでした。場所は、江戸、八丁堀の、横筋を入った、小さな
路地……」というような調子で。しみじみと語り始める。

 で、その話が終わったところで、私がふと、「ぼくとじゃんけんをして勝ったら、アイスクリーム
を買ってきてあげる」ともらすと、それがそのまま約束になってしまった。

Kさん「本当に?」
私「本当だよ」
Kさん「じゃんけんに買ったら、アイスクリームね」と。

 そこで5人を代表して、Kさんとじゃんけん。

私「ぼくは、チョキを出すよ」
Kさん「どういうこと?」
私「ひとりごとだから、気にしないで……」
Kさん「信用していいの?」
私「それはあなたの問題だろ。じゃあ、じゃんけんするよ」と。

 そして私が「ジャンケン、ポン」と、チョキを出すと、Kさんも、チョキ。

私「だから、ぼくは、チョキを出すって言ったじゃないか」
Kさん「本当に、チョキを出すとは、思わなかった……」
私「君は、ぼくを信用してないね。もうつきあって、10年になるじゃないか」
Kさん「先生は、そう言って、パーを出すと思った。だから私は、チョキを出した」と。

 最初から、こういう結果になることはわかっていた。

私「今度は、ぼくはパーを出すよ」
Kさん「ホント?」
私「何も言わないよ。ひとりごとだよ。気にしないで……」
Kさん「ちゃんと、パーを出してよ」
私「それじゃあ、じゃんけんにならないよ」と。

そのとき横にいた、Hさんが、こう言った。

「あのね、Kさん、林先生を信用してはダメよ。林先生は、裏をかくからね。裏の裏をかくという
こともあるからね。気をつけなよ」と。

そこで再び、じゃんけん。私はすなおに、パーを出した。Kさんは、チョキ!

Kさん「ヤッター!」
私「やられたア!」と。

私はHさんの言葉に、まんまと乗せられた。Hさんにそう言われたとたん、私はムキになった。
それでそのままパーを出してしまった。Hさんがそう言わなければ、私は、グーを出していただ
ろう。

で、私は、子どもたちを教室に残して、コンビニまで自転車でアイスクリームを買いに走る。

 途中、ふと、「何で、こんなことをしているのか?」と思ったが、迷ったのは一瞬だけ。これが
私の仕事。人生は、楽しむにかぎる。だいたい、子どもというのは、ギスギスとしぼっても、伸び
ない。少したるんだと感じたら、思い切って、手綱(たづな)をゆるめてみる。するとそのあと、ま
た、生き生きと学習をし始める。この手綱さばきこそが、「指導」ということになる。

 さてさて時刻は、そろそろ午前1時。マガジンの6月25日号が発行される時刻だ。目もジョボ
ジョボしてきたので、ここで今日の日記は、おしまい。

 心地よい疲れが、気持ちよい。全国のみなさん、おやすみなさい!
(04年6月24日、本当は25日、午前1時。)


●親離れ

 子どもはある年齢に達すると、親離れを始める。

 そのとき、子どもをして、じょうずに親離れをさせるのも、親の勤めということになる。

 私も、生徒たちのほとんどを、幼稚園の年中児から教える。数は少ないが、中には、高校3
年生まで教室に通ってくれる子どももいる。(現在は、中学3年生までにしている。このところ体
力的な限界を感ずることが多くなった。)

 そういう生徒たちを教えながら、一番気を使うのは、私に対して、依存心をもたせないように
すること。これは年中児でも、中学3年生でも、同じ。

 基本的には、(1)勉強することを楽しませる。(2)わからないところだけを教えるという姿勢を
大切にしている。一見、冷たい教え方イコール、サービスの悪い教室に見えるかもしれない
が、そのほうが、子どものためになる。

 (反対に、塾という立場で言うなら、依存心をもたせたほうが、経営は安定する。しかしこれは
邪道。病院にたとえて言うなら、対処療法だけをして、薬ばかりのませるようなもの。患者の病
気が長引けば長引くほど、病院としては、もうかる。少し、意味がちがうかもしれないが……。)

 親もそうで、子どもに依存心をもたせればもたせるほど、親子関係は、一見、安定する。親に
しても、居心地は悪くない。しかしそれでは、子どもは自立できなくなってしまう。

 親としては、つらくて、さみしい瞬間かもしれないが、子どもの人生は子どもに、一度はすべて
を手渡してこそ、親は、親としての務めを果たしたことになる。決して、「親である」という『デア
ル論』の中で、子どもの人生をしばってはいけない。

 そこで教えるときは、たとえばある時期がきたら、「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強
したほうがまし」と思わせるように、生徒をしむける。親もそうで、子どもがある時期に達した
ら、バカな親のフリをしながら、子どもの自立をうながす。「こんな親はアテにならない。そろそ
ろ自分で生きたほうがよい」と。

 親離れ、子離れの問題には、こんな問題も含まれている。この問題については、これから
先、もう少し深く考えてみたい。

 今、ここで言えることは、繰りかえしになるが、子どもがじょうずに親離れができるように、子
どもを指導するのも、親の努めということ。
(はやし浩司 親離れ 子離れ)


●子ども机の配置

近所のRさん(母親)が、二人の息子(小学生)のために、家の内装を変えた。たまたまRさんと
通りで会うと、Rさんは、うれしそうに、「見てください」と言った。それで、ほんの5、6分程度だ
ったが、部屋の中を、見せてもらった。

 今まで壁で二つに分かれていた部屋を、大きな一つの部屋にした。そして中央に、ソファ、一
つの学習机は、壁に向って、もう一つの学習机は、窓に向っておいてあった。が、二つとも、前
に高い棚のある、閉鎖式の学習机。せっかくの窓も、半分以上、その棚で隠れてしまってい
た。

 私は、「これでは子どもは、勉強嫌いになる」と思ったが、何も言わなかった。説明するにも、
時間がない。どこからどう説明しようかと考えているうちに、時間がきてしまった。「仕事があり
ますから」と、その場を去った。

【ポイント1】

 学習机は、勉強するためのものではない。休むためのものである。

 子どもが勉強をしていて疲れたとき、そのまま休めるような机がよい。休めない机だと、子ど
もは、その場を離れる。つまりその瞬間、勉強は中断する。一度、中断した勉強は、なかなもと
に、もどらない。

【ポイント2】

 机は、スミから、部屋の中央、出入り口のドアが見える位置に配置する。

【ポイント3】

 机の前に棚のある閉鎖式の机は、一時的に子どもをひきつける効果はあるが、長つづきし
ない。その圧迫感が、長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにする。

 子どもの学習机は、広くて、何もない、開放式の机にする。

【ポイント4】

 意外と盲点なのが、イス。イスは、広くてゆったりとした、ヒジかけのあるものを選ぶ。

【ポイント5】

 机の前にはできるだけ広い空間を用意する。本棚など、圧迫感のあるものは、背中側に配
置する。窓は、座った位置からみて、左側にあるように配置するのがよい(右利き児のばあ
い。)

 学習机を安易に考えてはいけない。長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにする可能性(危
険性)がある。

 ……というようなことは、実は、もう何度も、あちこちで書いてきた。Rさんの子どもの部屋を
見たときも、あああと思っただけで、声が出なかった。「何度説明しても、新しい母親は、同じよ
うな失敗を繰りかえすのだあ」と、心のどこかで思った。

++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を、そのまま転載する。

あちこちの雑誌や、本に書いた原稿を、
そのまま転載します。内容的にダブる部分
もありますが、お許しください。

これはあなたの子どもを勉強嫌いにしない
ためです。

++++++++++++++++++

●机は、購入後三か月で、物置台

 子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。

 どんな勉強でもしばらくすると、疲れる。問題はその疲れたとき。そのとき、そのまま机に座っ
て休めればよし。そうでなければ、子どもは机から離れる……イコール、そこで勉強は中断す
る。

一度、中断した勉強は、なかなかもとに戻らない。そこで机を選ぶときは、そのまま休める机で
あるかどうかを考えながら、選ぶ。

最近では前に棚のある、棚式の学習机が主流だ。しかしこのタイプの机は、機能的にはできて
いるが、圧迫感があって、長く使っていると抑うつ感が生まれる。へたをすれば、勉強嫌いの
遠因ともなりうる。

実際、私が調査したところ、この棚式の机は、購入後三か月で、約八〇%強が物置台になっ
ていることがわかった(小学一年生、三〇名について調査)。

 そこであなたの子どもと学習机の相性を調べてみよう。方法は次のようにする。まず子ども
が好きそうな食べものを用意する。そしてそれをそれとなく、子どもの机の上に置いてみる。そ
のとき子どもがそのまま机に座って、それを食べればよし。しかし子どもがそれを机から別の
場所へ移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。

 あるいはあなたの子どもが学校から帰ってきたとき、最初にどこに座り、体を休めるかを観
察してみる。そのとき子どもが、自分の机に座って体を休めるようであれば、その机との相性
は、きわめてよいとみる。

結論から先に言えば、学習机のポイントは、

(1)平机であること。
(2)机の前にはできるだけ広い空間を用意すること。
(3)棚など、圧迫感のあるものは、背部に置くこと。
(4)机に座った位置から、ドアが見えるように配置すること。
背中側にドアがあると、心理的に落ち着かない。
(5)窓の位置も重要である。窓は机に座った位置から、向かって左側にあるとよい。これは採
光のため(約一〇〇名について調査)。

 しかしもっと重要なのが、実は、椅子である。机を選ぶときは、椅子の座りごごちをみること。
椅子は座る部分が平らで、かためのもの。窮屈なものより、広めなものがよい。腕を休めるこ
とができるひじかけがあれば、なおよい。

ふかぶかとした、やわらかい椅子は、一見座りごこちがよさそうにみえるが、実際には疲れや
すいことがわかっている。

また、わざと前かがみになって学習する椅子がある。椅子自体が、前へ傾くようになっている。
しかしあの椅子は、学習中は能率があがるものの、座った状態で休むことができない。つま
り、そこで学習が中断する。

なお小学校の低学年児についてみると、大半の子どもは、台所のテーブルなどを利用して勉
強している。子どもというのは、無意識のうちにも、一番居ごこちのよい場所を選んで、勉強す
る。

もしそうであれば、テーブルを積極的に学習机にしてみるという手もある。子どもは進んで、勉
強するようになるかもしれない。少なくとも勉強は学習机でするものという考え方は、この時期
には当てはまらない。

 要するに、ものには相性というものがある。その相性が悪いと、長い時間をかけて、子どもを
マイナスの方向に引っぱってしまう。子どもの学習環境を考えるときは、機能ではなく、その相
性をみながら判断する。

+++++++++++++++++++++++

●机は平机

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、
約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。

いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくまでも一時
的。棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざけ
る。

あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどう
いうものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。ある
いはこの時期、まだ机はいらない。

 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型にはま
りやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。

小学校の低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もし
そうであれば、それでよい。この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」と
いう思いを子どもがもつようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。

 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそれを
そのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に移して食べ
るようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌いの遠因にな
ることもある。

 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。ど
んな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子どもがそのま
ま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。

勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。が、
それでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。

 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみ
る。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって勉強部屋に
する。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなければ失敗
する。

++++++++++++++++++++++

●勉強部屋は開放感がポイント

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結果、ドアから一
番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。

子どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図
書室全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよ
い。

(1)机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよ
い。ドアが背中側にあると、落ち着かない。
棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。

(2)光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法も
あるが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。

(3)机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れ
などを用意する。


 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、そ
れが子どもを勉強嫌いにすることもある。

 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。フ
ワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。また座る
と前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそのイス
では、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れてしまう。
一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではなく、休
むためにある。それを忘れてはならない。

 子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求め
るようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前につい
ては、ケースバイケースで考える。

+++++++++++++++++++++

●机は休む場所

学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると
疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで
きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、
なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし
その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分
の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているというこ
とになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。日本人は机を暗い壁に向けて置く習性があるが、このばあいも、長く
使っていると圧迫感が生まれる。数か月程度なら問題ないかもしれないが、一年二年となる
と、弊害が現れてくる。

で、その棚式の机だが、もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ
る。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわ
かった。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかも
しれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。

あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを
利用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを
育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するので
はなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。これを動機づけというが、こうした動機づけをこ
の時期は大切にする。
 
++++++++++++++++++

●学習机 Q 子どもの好きなおやつを、そっと子どもの学習机の上に置いてみてください。あ
るいは何か、子どもの興味をひくようなものでもよいです。するとあなたの子どもは…… (1)
そのものを、ほかの場所へ移して、食べたり遊んだりする。 (2)机の上は物置きになることが
多く、いつも雑然としている。 (3)そのまま自分の机の前に座り、それを食べたり、それで遊ん
だりする。

A よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。

どんな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたとき。子どもがそのま
ま机に向かって休むことができればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断
する。勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにあ
る。 
 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、
約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。いろいろな附属品がついた机は、
一時的に子どもの関心を引くことはできるが、あくまでも一時的。

棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。
あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどう
いうものか、わかるはず。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。あ
るいは小学校の低学年児には、机はまだいらない。 
 (1)や(2)のようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌い
の遠因になることもある。ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくい
く。そうでなければ失敗する。(正解(3)) +++++++++++++++++++++
++

●机は休む場所と考えろ!

子どもが学習机から離れるとき

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする
と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで
きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、
なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。

もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に
自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているとい
うことになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ
る。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわ
かった。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかも
しれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あ
るいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利
用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育て
る。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではな
く、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。

●学習机を置くポイント

 学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
(3)座った位置からドアが見えるようにする。
(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。
(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強
できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ
じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、
どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかも
しれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を
休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た
いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ
ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大
切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども
は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ
ともある。

++++++++++++++++++++

 今回は、しつこくも、子どもの学習机についての記事をまとめてみた。今では、「小学校入学」
というと、迷わず、家具屋で、子どもの学習机を購入するのが、当たり前になってしまった。

 しかしそれがいかに、おかしなことであるか、それを少しでも理解してもらえれば、うれしい。
「勉強というのは、机に向ってするもの」という、日本独特の固定観念が、その背景にあるもの
と思われる。

 それがまちがっているとは思わないが、もう少し、子どもの視点(原点)に立ちかえって、学習
机を考えてみる必要があるのではないだろうか。

 それがわからなければ、これらの原稿のどこかにも書いたが、あなたも一度、壁に向って自
分の机を置き、本でも何でも読んでみることだ。あなたは10分もしないうちに、本を読むのを
やめてしまうだろう。

 私は、本や雑誌を読むときは、いつも、ソファの上に寝転んで読む。机ではない。多分、あな
たもそうではないか。そういう視点から、子どもの学習机はどうあるべきか、もう一度、考えなお
してみてほしい。
(はやし浩司 子どもの学習机 子供の学習机 部屋の配置 子ども部屋 子供部屋)
(040626)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(203)

●コーラス部

 ウィーン少年合唱団が主演する映画、『野ばら』を見たのが、きっかけだった。コロリと合唱
が好きになり、中学に入学すると、私は、そのままコーラス部に入った。

 楽譜のガの字も読めない、ただの自転車屋の息子がコーラス部へ入った! 今から思い出
すと、めちゃめちゃな時代だった。ホント。

 で、そのせいか、合唱といっても、たいした曲は歌わなかった。(当時は、たいした曲だと思っ
ていたが……)。「コロラドの月」とか、「ともし火」とか、そういう簡単なものばかりだった。そうい
う歌を歌いながら、恥ずかしげもなく、コンクールに出たり、県大会に出場したり……。

 しかし合唱そのものは、好きだった。テレビで、そういった番組があると、欠かさず、見てい
た。

 そうそう、中学3年になるとき、佐藤H君という小柄な男の子が、コーラス部に入ってきた。の
ちの野口五郎という歌手になった、その歌手の兄貴である。

 ボーイソプラノを歌っていたが、ほれぼれするような美しい声をしていた。

 高校へ入っても、コーラス部をつづけたかったが、クラブそのものがなかった。そこで中学時
代の仲間を集めて……ということになったが、最初は、男子は、私一人だけ。毎日、仲間をふ
やすために、校内を勧誘して回った。

 で、やっと見つけたのが、これまた楽譜のガの字も読めない、男だった。で、やがてコーラス
部は、空中分解。ときどきヒマなときに、音楽室で5、6人で、歌っていた。その程度。

 大学へ入ると、そのうっぷんを晴らすために、入学と同時に、大学の合唱団へ。何とか入部
テストに合格して、それから2年間、つづけた。

 驚いたのは、「教育学部の姉ちゃん」たち。(私たちは、そう呼んでいた。)楽譜を渡された瞬
間から、それを目で読んで、すぐ合唱に入った。私たち法科の学生は、ピアノで何度も弾いて
もらい、それを耳で覚えてから合唱に入った。

 もともと大学の合唱団は、どこかアカデミックなクラブだった。もう一つ、「歌う会」という、気楽
なコーラス部もあったが、こちらは左翼系。その種の歌ばかり、歌っていた。一方、私たちは、
ヘンデルとか、バッハとか、何とか組曲とか、そういう上品な曲ばかりを歌っていた。

 一応、コンサートも開いたし、演奏旅行もした。が、そのうち、私がみなに、迷惑ばかりかけて
いることを知り、だんだん遠ざかっていった。「お前はヘタだから、やめてしまえ」という声までは
聞かなかったが、そういうような雰囲気だった。ハイ。

 以来、心に小さなキズを負い、そのまま合唱からは遠ざかっていった。自信もなくした。大学
を出てからは、一度もステージには立っていない。ワイフには、ときどき偉そうなことを言って自
慢することがあるが、本当は、やっかいものだった。……と思う。

 バリトンを担当していたが、いつも最前列。合唱では、ヘタくそなヤツほど、前に立たされる。
うしろからの声を聞いて、自分の声を合わせるためである。そうそう、「お前は、大きな声を出
すな。口を動かしていればいい」というようなことを言われたことがある。つまり私は、やっかい
ものだった。

 甘くも、ホロにがさの残る思い出である。私にとっては……。


●K国の食糧事情

 カトリック系の民間救援団体「カリタス香港」のカーティー・ジェルウェガー国際合作本部長
(50)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の最近の食糧・医療事情を「憂慮すべき水準」と
警告した(「朝鮮日報」紙、6月25日号)。

 そして、ジュルエェルガー氏は、「K国の子どもの身長は、韓国の子どもの身長より、20セン
チも低い」と報告している。

 いわく、「慢性の栄養失調状態が改善されない。5歳以下の子供の40%以上が栄養失調状
態だ。7歳の北朝鮮子供の平均身長が105センチだ。同年代の韓国の子供は125センチ
だ。体重も南北の子供の間では10キロ以上も差がある。身体の欠陥は精神的欠陥へとつな
がり、次世代に悪影響を与えることになるだろう」と。

 ちなみに、日本の子どもたちの平均身長と体重は、つぎのようになっている。

 満5歳児      109・9cm   19・2kg
  6歳児      115・8     21・7
  7歳児      121・6     24・4
  8歳児      127・4     27・7
            (1999年度・学校保健統計)

 日本の子どもと比較すると、K国の子どもたちの平均身長は、満7歳児で、満5歳児程度とい
うことになる。

 さらに今年(04年)は、食糧事情が悪化するという。「5年前ほどはひどくないが、10月前の
収穫期に、危機的な状況になる」とも。

 こういう現実を前にして、ピョンヤンの指導者たちは、いったい、何を考えているのか? 今、
とりあえず必要なのは、核兵器でも、ミサイルでもない。食糧なのだ!

 自分たちの悪政の失敗を棚にあげて、「アメリカが悪い」だの、「日本が悪い」だの、まさに言
いたい放題。おまけに今度は、核実験! ミサイル発射実験!

 だれもK国なんか、攻めはしない。頼まれてもいない。

 韓国の国情院も、つぎのように報告している。

 「国家情報院(国情院)が7日発表したところによると、北朝鮮は、昨年、必要とされる穀物の
70%しか生産できず、今年も食糧難が続くものとみられる。 
  国情院は『食糧需給の実態』との資料で、北朝鮮の穀物生産量が425万トンで、正常な供給
(成人基準1日700グラム)が行われる場合、214万トン(需要量は639万トン)が不足するだ
ろうとの見方を示した。国情院が、自主的に調べた情報に基づいて、北朝鮮の食糧実態を発
表したのは異例なこと」(同、6月26日)

 その不足分の214万トンのうち、韓国、中国、日本などが、昨年並みの100万トンを援助。
それでも、約100万トンが不足することになる。

 それにしても、身長差が、20センチとは! 

 私はいつか、日本とK国の国交が正常化されたら、イの一番に、K国を訪問してみたい。そし
て子どもたちの状況を、つぶさに調査してみたい。

●山荘から

 「朝は、晴れていた」とワイフは言った。しかし私が起きたときは、すでに曇っていた。時計を
見ると、午前、9時。よく眠った。

 それから軽く朝食をとって、風呂へ。

 風呂からは、あたりの山々が一望できる。どこか蒸し暑さを感じさせるが、やや強い風が、間
断なく吹く。その風にあたっていると、気持ちよい。

 で、今は、鳥たちの合唱の季節。

 チョット・コイ、チョット・コイ……と鳴くのは、コジュケイ。
 トーキョートッキョ・キョカキョク……と鳴くのは、ホトトギス。
 ケーン、ケーンと鳴くのは、キジ。
 ほかに、コガラ、ウグイスなどなど。ヤマガラもときどき、くる。木の先でチチチと鳴くのは、何
と言う名前の鳥だったか……? 文鳥によく似た鳥。

 朝、まだ明けきらぬうちから、いっせいに鳴き始める。そうそう、カラスも。

 今年は、ビワは、一個しか収穫できなかった。あとはすべてカラスのエサ。「来週は収穫でき
る」と思って、その翌週に来たときには、もう一個もなかった!

 三男が、風呂から出たあと、庭のイスにすわって、ぼんやりと、山を見ていた。「あいつは、ど
うしたのかな?」とワイフに聞くと、「失恋したみたい」と。

 しばらく音楽を聞く。パソコンのキーボードを叩く。

 のどかな一日。今日は、日曜日。何回も、ウーロン茶の入ったペットボトルを、がぶ飲みにす
る。


●熱帯魚

 熱帯魚を飼うようになって、もう20年近くになる。

 一応、素人(しろうと)だが、どういうわけか、どの魚も、長生きをする。不注意で、殺したよう
なことは一度もない。

 が、寿命というものがある。数年単位で、魚が減る。で、そういうときは、近くの熱帯魚店へ行
って、新しい魚を買ってくる。

 この熱帯魚。いつもながら、頭のよさには、驚かされる。多くの人は、(多分?)、魚だから、
頭が悪いと思っている。しかしそれはまちがい。

 先週も、新しく、ネオンテトラ、コッピー以下、数種類の魚を、30匹近く、買ってきた。どの魚
も、10ミリに満たない、小さな魚たちである。

 その魚が、1、2回の餌づけだけで、私の顔や、エサを与えるタイミングを、覚えてしまった!

 私が水槽に近づくだけで、エサを入れるところに、サーッと集まってくるのである。私も、その
つど、「エサだよ」とか、「ごはんだよ」とか言って、声をかけるようにしている。今度は、その声
にも反応して、やはり集まってくるようになった。

 脳ミソの大きさと言えば、見た感じでも、1ミリの数分の1もない? しばし魚の頭に見とれ
る。「こんな小さな脳ミソの、どこにそんな知恵があるのだろう?」と。

 数年前だったか、私は、ハチの頭のよさにも、驚かされたことがある。話せば長くなるが、驚
くべき能力である。それを知ったときも、「人間だけが、頭がいいと考えるのは、まちがい」と思
った。

 考えてみれば、魚だって、この地球上で、数億年単位で生きている。それくらいの知恵があっ
ても、不思議ではない。またそういう知恵があったからこそ、それだけ長い期間を、生きのびる
ことができた。

 そう思いながら、朝の朝食。おかずは、干した小魚。それを箸でつまみながら、ワイフにふ
と、こう言う。

 「この魚たちも、海の中で、一生懸命生きていたのにね」と。


●乳幼児の心理

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的
特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考え
る。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心
理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずるこ
とで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられた
と考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さ
しながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、
説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。し
かしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎え
ることがある。

 今朝のY新聞(6月28日)の朝刊を読むと、まだあのA教祖に帰依している信者がいるとい
う。あの忌まわしい地下鉄サリン事件をひき起こした、あのA教祖である。

 私はその記事を読みながら、ふと、こう考えた。

 「この人たちの心理は、乳幼児期のままだな」と。


●Mさんへ

 今でも、世間体だけで生きている人は、少なくありません。近くの家で、こんな事件がありまし
た。

 ある知人の家に、夜中に、隣に住む老人(80歳くらい、男性)から、電話がかかってきまし
た。「家の中で倒れたから、助けてほしい」と。

 知人がかけつけてみると、その老人は、玄関先まではってきたらしく、そこで倒れていまし
た。そこで知人が、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、「それだけはやめくれ。あん
たたちが、病院へ連れていってくれないか?」と。

 その老人は、「救急車を呼ぶことを、恥ずかしい」と言うのですね。

 そうした心情を、私には理解できませんが、あとから知人に話を聞くと、こう話してくれました。

 「その老人は、いつも、病気やケガになった人を、バチが当たった、ザマーミロと笑うようなタ
イプの人です。それで自分のこととなると、隠そうという意思が働くのではないでしょうか。だれ
もその老人のことなど、気にしていないのですが……」と。

 話は大きくそれますが、隣のK国。今、日本はそのK国の核兵器開発問題で、頭を悩ませて
いますが、今年も、食糧不足。推定で100万トンも不足するそうです(韓国・国情院。需要量は
640万トン。K国生産量が、425万トン。援助が約100万トン)。

 そのK国の配給事情が、数か月前、写真でレポートされました。その写真を見て、私は驚き
ました。配給を受ける幼児たちが、みな、一張羅(いっちょうら)の服を着て、頬に、あきらかに
紅とわかる、化粧をほどこしていたからです。「ここまで、神経を使うか!」とです。

 こうした世間体を気にする人の特徴としては、

(1)人格の中の、核形成(コア・アイデンテティ)の遅れ(未完成さ)
(2)日本独特の文化的後遺症

 の2つを、とりあえず、私は考えます。

(1)のことは、子どもたちの成育過程をながめているとわかります。

 (自分をさらけ出せない)→(相手に受け入れられるか不安)ということから、(私らしさ)(=ア
イデンテティ)を形成する前に、相手の目を通した自分をつくりあげていきます。

 「こうすれば、親にほめられる」「こうすれば、先生に認められる」「こうすれば、友だちに尊敬
され、居心地がよくなる」と。俗に仮面をかぶる状態になります。(ひどいばあいには、人格の
遊離、分裂が観察されることもあります。)

 もともとは、基本的には、良好な人間関係が結べない人とみてよいのでは、ないでしょうか。

 (2)の日本独特の文化的後遺症というのは、まさに封建時代の亡霊のことをいいます。

 私の親類でも、そのほとんどが、「親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちる」とか言って、何ごと
につけ、親を絶対視する傾向があります。それはもう信仰と言うより、カルト(英語では、Sect)
に近いものです。

 こういうケースがあります。

 J氏(42歳)は、母親(70歳)の依頼で、母親の兄(J氏の伯父、母親の実家)の山林を、80
0万円で購入しました。母親の兄の家計を助けるためでした。たまたま兄の長女が結婚する前
で、何かとたいへんだったということもありました。

 しかしその山林は、当時の相場でも、100万円にもならないような山林でした。地元の森林
組合の人の話では、50万円でもいい値段だったということでした。

 そのことを知ったJ氏が、母親に何度も抗議をしました。「お母さんが、買ってやってくれと頼
んだから買ってやったが、とんでもない値段だ。お母さんのほうから、伯父に文句を言ってくれ」
と。

 しかしそうしたJ氏の抗議を、J氏の母親は、ことごとく黙殺してしまいました。

 ふつうなら……という言い方が通用しないのが、カルトであるというゆえんですが、ふつうな
ら、J氏の母親は、自分の兄(J氏の伯父)に、文句を言ったはずです。

 「どうして、息子に、そんな高い値段で買わせたのか!」とです。

 しかしJ氏の母親にしてみれば、実家は絶対。自分の息子が犠牲になっても、実家に向って
文句を言うことはできません。つまり、このタイプの人たちは、そういうものの考え方をするよう
ですね。

 この私たち常人に理解できない部分が、大きな摩擦を生み出します。ついで葛藤を生み、そ
れがトラブルの原因となります。

子どものころ、私の父は、ある倫理研究団体の信者でした。その団体は、まさに「忠孝」を最善
の美徳と説くような団体でした。私も、よくその会合に連れていかれました。そして耳にタコがで
きるほど、「親は絶対だ」「どんな親でも、子は従うべき」という説法を聞かされました。

(今から思うと、まことにもって、親にはつごうのよい団体だったということになります。そのため
に、私はいつも連れていかれたのかもしれません。もともとどこか親不孝のできそこないのよう
なところがありましたから。ハハハ)

 私の郷里には、少し離れたところですが、かの有名な『養老の滝』というのもあって、いつもそ
の話を聞かされました。ご存知ですか? あの話?

 孝行息子の念がかなって、滝の水が、酒に変ったという、あの話です。

 で、こうしたカルトを信奉していても、それなりに親子関係がうまくいけば、問題はないのです
が、問題は、そうでないときに起こります。

 第一に、そのカルト抜きがたいへん。これは一般のカルト信仰と似ています。カルトにハマっ
た信者を、そのカルト教団から離れさせるのは、容易ではありません。本人から、そのカルトを
抜くのは、さらにたいへんです。

 つぎに、抜いたら抜いたで、今度は、その人は、ハシゴをはずされたような状態になってしま
います。同じような現象は、カルト教団から離れた信者にも、よく見られます。思考の中に空白
部分ができてしまいます。信仰をやめた人が、よく無気力状態から虚脱状態になってしまうとい
うのは、そういう理由によるものです。

 三つ目に、中途半端な抜き方をすると、自責の念から、深い罪悪感を覚える人もいます。さら
に自ら、ダメ人間のレッテルを張ってしまい、人間失格と思いこんでしまう人もいます。「ぼく
は、親の死に目にも会えなかった。だからぼくは、失格だ」と。

 この問題は、それくらい根が深いということです。ただ単なる、マザコンとか、そういう問題と
は、まったく異質のものです。

 本来なら、親自身が、子どもをそういう状態に追いこまないように、子どもをして、じょうずに
親離れできるようにしむけなければならないのですが、その時点で、親は、自分の老後の利益
を優先させてしまうのですね。

 日本には、少し前まで、老人福祉という言葉すら、ありませんでした。そういう社会的な不整
備もあります。『老いては子に従え』式に、子どもに老後のめんどうをみてもらうのが、当たり前
になっていました。

 Mさんのおかれた状況、立場、そして今のMさんのお気持ちが、たいへんよく理解できます。
私もMさんと同じような家庭環境に育ちました。

 しかしこの問題だけは、世代ごとに、世代の中で消していくしかないように思います。それぞ
れの人が、それがカルトであれ、何であれ、それでハッピーなら、私たちはそれについてとやか
く言う必要はないし、また言ってはなりません。

 「そうだね」「そうだね」と、理解してやることこそ、まあ、思いやりというものではないでしょう
か。へたに反論したりすれば、かえって不要な波風をたてるだけです。実は、私は、子どものこ
ろから、それを知っていました。

 ただ自分はそうであっても、自分の息子たちにだけは、そうは思わせたくありません。だか
ら、こうした悪習というか、因縁は、私の代で断ち切りたいと思っています。だからいつも私の
息子たちには、こう言って、子育てをしてきました。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、お前たちの好きなことをして、生きてみろ。世界
は広い。思い切って、この世界をはばたいてみろ。親孝行なんて、アホなことは考えなくてもい
い。家の心配もしなくてもいい。あとのことは、私たちで何とかするから!」と。

 (そのせいか、三男は大学を中退。今度はパイロットになるための大学へ転校してしました。
本気で、空を飛ぶようです。喜んでよいのか、悲しんでよいのか……。)

 で、おとといも、その三男とワイフで食事に行ってきました。そのとき、足が痛くて、本当は、ど
こかヨボヨボと歩きたかったのですが、息子がいたこともあり、つまりそういうみじめな歩き方を
見せたくなかったものですから、わざとはりきって、歩いてみせました。

 親心というのは、そういうものですね。どこか切なく、どこかわびしく、どこかさみしい。

 メール、ありがとうございました。
 長い返事になってすみませんでした。またよろしかったら、事情をお知らせください。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(204)

【親・絶対教】

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「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

          6月27日

++++++++++++++++++++++++
          
●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩は、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。

 ……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人
が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、し
みこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。

 が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多
い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親
の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえ
ない。

 少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」と
いう概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子ども
に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。
親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲にな
っている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。親・絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、自分のためととらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私はそう思う
が、ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、
それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲にな
る子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまくいく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない』とです」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親・絶対教の特徴

 親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をして
いるようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、
親・絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやる
からな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子
が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。

 「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親・絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容
易ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、
「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができな
い……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、
私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばさ
れてしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、
親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦
い」というのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子
どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強
要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)

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以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

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●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。

 その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期まで
は、ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つよう
になった。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(205)

【近ごろ・あれこれ】

●楽天日記

 ここ2か月ほど、欠かさず、楽天日記のほうで、日記を書いている。

 気楽に書いている。思いついたまま、書いている。そのせいか、正直言って、楽しい。それに
読者からの反応も、早い。この世界は、まさに日進月歩。めまぐるしく、環境が変化していく。

 私の印象では、あくまでも私のマガジンだけかもしれないが、電子マガジンの世界は、そろそ
ろ頭打ちの状態になりつつあるように思う。Eマガのばあい、上位100番までのマガジンにつ
いてだが、発行部数をみても、それほど、毎日、ふえているわけではない。どのマガジンも、ふ
えても、1日、1〜2人とか、その程度である。

 楽天日記のほうは、今度、トラックバックという機能もついた。だれかの日記を読んだあと、す
ぐその場で、その相手に返事を書いたりすることができる。(私の立場では、感想や意見を、そ
の場でもらうことができる。)それにだれかの日記を、毎日、マガジンのように購読することもで
きる。

 私のばあい、趣味が、周期的に変化する。若いころから、ずっとそうだった。一つのことを、
ある程度やりつくすと、今度はまったく別の趣味へと、変化していく。

 そうした傾向は、インターネットの時代になっても、変わらない。今は、マガジンに熱中してい
るが、本当のところ、いつまでつづくか、わからない。あきたというよりは、ほかのことに興味を
ひかれつつある。その一つが、楽天日記である。

 興味のある人は、一度、私の「楽天日記」を読んでほしい。私のホームページのトップページ
から、そのコーナーへ進んでもらえる。

 そうそう昨日、「100MBまで無料」という、無料ホームページサービスを、見つけた。「F社」と
いう会社である。しかもコマーシャルは、各ページの末尾、1行だけ。

 さっそく申し込んで、自分のホームページを開く。しかしいろいろあって、最終的に自分のホー
ムページを確認するまでに、7時間もかかってしまった。夕方始めて、作業が終了したのが、真
夜中。おかげで、今日は、睡眠不足。

 しかし楽しかった。「ああでもない」「こうでもない」と、あれこれ考えているときが、一番、楽し
い。


●経済誌

 電車に乗ることがあった。それで駅で、経済雑誌を買った。「E」という雑誌だった。私は、経
済雑誌をよく買う。

 今月号の特集は、U銀行。深いつきあいはないが、いろいろな支払いで使っている。それで
それが気になって、買った。

 アメリカなどでは、銀行の倒産、合併、新設は、当たり前。行くたびに、銀行の名前が変わっ
ていたりする。それに市中の本店は別として、どこの銀行も、質素。ふつうの家のような感じの
銀行も多い。

 が、この日本では、銀行は、どこも立派。あたかも、そうでなければならないといったふうに、
立派。

 が、こうしたムダが、いかにムダか、いつもそのU銀行へ行くたびに思い知らされる。分厚い
ジュータンに、豪華な事務機器。もちろん一年中、冷暖房完備。経営危機が叫ばれてから、も
う10年以上になる。

 そこで02年1月、旧TK銀行と旧SW銀行が合併。今のU銀行が生まれた。事実上の1+1
=1の半倒産である。が、見た目には、まったく変化なし。

 行員の給料も、旧TK銀行時代とくらべて、50万円、減っただけ。(35歳、平均年収は、950
万円。旧TK銀行時代は、1000万円。週刊「F」誌調べ。)

 「ああ、がんばっているんだなあ」と思ってみたり、「どうしてこうまで見栄を張るのかあ」と思っ
てみたりする。

 が、今度こそ、そのU銀行も、正念場を迎えている。経営陣も、先日、総退陣した。巨額の不
良債権をかかえて、にっちもさっちも行かなくなってしまったらしい。多分、こういうとき気のきい
た評論家なら、こう言うだろう。

 「地元の経済を支えるU銀行だから、地元経済のためにもがんばってほしい」と。

 しかし私には、そういう気持ちが、まったく起きてこない。またそういうおじょうずを言うのも、
いやになった。U銀行の行員たちは、今でも法外な給料(35歳で、950万円)を手にしている。
そういうところへ、数千億円以上もの公的資金を注入する。つまり税金である。

 財務省は、ことあるごとに「銀行がつぶれると、たいへん」と言うが、本当にそうだろうか。現
にアメリカでは、銀行の倒産、新設はここにも書いたように、日常茶飯事。それでアメリカ人が
困ったという話は、聞いたことがない。

 「預金者保護」というのは、ウソ。本当のねらいは、銀行救済。もっと言えば、財務省(旧大蔵
省)の役人の、責任隠し。責任のがれ。天下り先としての銀行の、そのあと始末。

 旧大蔵省は、N銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円という税金を投入した。行員
が2000人足らずだったから、一人あたり、20億円ということになる。20億円だぞ!

 やがてN銀行は倒産したが、その前に、主だった銀行員は、それをさかのぼる、5、6年前か
ら、満額の退職金を手にして、それぞれの子会社に、天下りしていた。もちろん今でも、満額の
年金を手にしている。

 私は同じ日本人だが、こういうことが平気でできる日本人が、信じられない。まったく信じられ
ない。本当に預金者保護というなら、預金者の預金だけを保護すればよい。どうして銀行の借
金まで、税金で払わなければならないのか。どうして行員の生活保障まで、税金でしなければ
ならないのか。

 デパートのSの倒産劇を見るまでもなく、Sに、別の会社の借金をどんどんつけかえて、最後
は、そのSをつぶす。こうしたインチキをしながら、だれも、その責任をとらない。担当者がだれ
であるかすらも、よくわからない。

 官僚という組織は、権限にしがみつき、管轄以外のことは何もしない。仮に失敗しても、絶対
に自分には責任がおよばないように、いつも、何かお膳立てしながら前に進む。そしてあとは、
情報。自分たちのつかんだ情報は、簡単には外に出さない。つごうのよい情報だけを流して、
あとは隠す。

 日本が、民主主義国家だと、だれが言った?

 日本は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。今も官僚主義国家。仮面民主主義型官僚主
義国家。この政治体制が変わるまでに、日本はまだこれから100年は、時代をムダにする。2
00年かもしれない。

 話が脱線したが、U銀行の記事を読みながら、電車の中で、私は、そんなことを考えた。

 なお、「仮面民主主義型、官僚主義国家」という言葉は、私が考えた。日本の政治体制を表
現するのに、なかなかよい言い方だと思う。


●親子の確執

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北海道に住む、Mさん(女性)という方から、
メールをもらいました。

母親との葛藤(かっとう)に苦しんでいると
いうのです。

母親にしてみれば、納得できない結婚をした
ということで、「お前は、家の中をめちゃめち
ゃにした」と言われているというのです。

Mさんの母親は、人一倍、世間体を気にする
人のようです。

++++++++++++++++++++

【Mさんへ……】

 メール、ありがとうございました。

 内容が内容だけに、転載の許可はいただけそうもありませんでしたので、このような形で、返
事を書きます。どうか、お許しください。

 目下、1000号まで電子マガジンを発行するという目標を立てています。1000号ですよ。
今、約450号ですから、あと550号です。

 毎回、A4サイズの原稿で、20枚前後を目標にして書いています。それを週3回です。

 で、個人的に返事を書きたいと思いつつ、時間がなくて、どうしてもこのような形、つまり半
分、マガジン用にという形になってしまいます。Mサさんのメールを、利用しているようで、つら
いですが、どうか、お許しください。

 Mさんが、「私は人に自分の知識を伝えることが好きです。生徒たちに今まで考えたことのな
かったことを考えさせるのが好きです。『あ、だからか!』と、論理がまとまったときの感動を、
生徒たちが自分で発見するのを見るとうれしくなります」と書いておられる部分。

 このことは、メールの内容とは直接関係ありませんが、読んでいて、一番、心がひかれまし
た。

 私も、こうして文章を書きながら、そのどこかで、新しい事実を発見したりすると、心底、うれし
くなります。広い荒野で、小さな宝石を見つけたような気分です。(実際に、宝石を見つけたこと
はありませんが……。)

 もっとも私のばあいは、自分で発見して、自分で喜んでいるだけですが……。(笑い)

 で、本題ですが、今、現在進行形の形で、Mさんが過去に経験なさったような経験をしている
親子は、多いですよ。ステレオタイプ(典型的)な事例としては、こんな形です。これはMさんの
ケースではありません。よくあるタイプを、まとめたものです。

 母親の問題として……

(1)不本意な夫との、不本意な結婚。加えてどこか不本意な出産。
(2)どこか犠牲的な結婚生活。子育てをしながら、被害者意識をもちやすい。
(3)世間体を気にする。見栄っ張りで、虚栄心が強く、プライドが高い。
(4)その反面、そうした妻の望みを満足させることができない夫。
(5)できのよい息子、あるいは娘。仮面をかぶる息子、あるいは娘。
(6)子どもの教育に、没頭する。生きがいをそこに求める。
(7)情緒的欠陥、精神的未熟性がみられる。子どもを溺愛する。
(8)強度の自己中心性がみられ、精神の完成度が、低い。
(9)親の思いどおりにならない子ども。親子関係にキレツが入り、断絶する。

 愛と憎は、両面感情です。愛が転じて、憎しみに変ることは、よくありますが、親子とて例外で
はありません。

 Mさんには信じられない話かもしれませんが、(私も、この話を聞いたときは、耳を疑ったほ
どですが)、結婚して家を出た娘に、「お前を、私が死んだあとも、墓の中から、呪い殺してや
る」と、実の娘を脅迫している母親だっています。

 まあ、親にもいろいろあるということです。が、どうしても日本人は、「親」というものに対して、
幻想をいだきやすいですね。昨日、「親・絶対教」という原稿を少しまとめましたが、半ばカルト
的に、親を絶対視する傾向が強い。

 そういう親・絶対教の中で、親は子どもに対して、甘え、子どもはそれに服従する。あるいは
子どもが親に反発することもありますが、今度は、世間から、「親不孝者」とののしられる。ある
いは、自責の念から、自己否定をしてしまう。

 このタイプの親子は、親子でも、一対一の人間関係で決まるということが、どうしても理解でき
ないのです。

 Mさんのばあいも、Mさんのお母さんは、どこか権威主義的ですね。それに住んでいる世界
が、とても小さいように思います。わがままで、独断的(?)。子どもの立場で、子どもに同調し
て考えることができないという意味では、自己中心的なのかもしれません。

 しかしね、今のMさんと、Mさんのお母さんとでは、住んでいる世界の広さがちがいます。もう
お気づきかと思いますが、今のMさんが住んでおられる世界から、Mさんのお母さんを見ると、
まるで、井戸の中のカxxのように見えませんか? (失礼!)

 Mさん自身も、「親だから……」という幻想をもって、親を見てしまっている。しかしね、特別な
努力や進歩がないかぎり、親という人間も、30〜40歳前後で、成長が止まるものです。

 もちろん個人差もあります。その人の努力もあります。しかし幻想をもつのは正しくありませ
ん。中には、むしろそのあたりの年齢を境にして、退化していく人もいます。

 ある男性(50歳くらい)は、少し前、こう言いました。「まるで、赤ん坊のように私に甘え、依存
してくる母親を見ると、ときに怒れたこともありましたが、母とて、ただの女なんだと思ったとた
ん、『母』という虚像が崩れました」と。

 私の印象では、つまりいただいたメールを読むかぎり、とっくの昔に、Mさんは、Mさんの母
親を超えていまっています。恐らく、今のMさんのお母さんには、Mさんのことなど、理解できな
いでしょう。

 高い山からは、低い山がよく見える。しかし低い山からは、高い山がわからない。それとよく
似た現象が、心の世界でもよく起きます。人間的に一歩、先に出ると、愚かな人がよくわかりま
す。しかし愚かな人には、賢い人がわかりません。そもそもそれを理解するだけの知力がない
からです。

 いえね、先日も、幼児の前で、「3足す5は……」と、電卓をたたいてみせたら、真顔で私に向
って、「あんた、それでも先生!」と怒った子どもがいましたよ。幼児の特徴の一つは、こうした
自己中心性です。

 もう少しすると、もっとはっきりと、母親の実像というか、そういうものが見えてきます。そうな
ると、もう怒りを通りこして、あわれみさえ覚えるようになります。私の印象では、あと一歩だと
思います。

 どちらにせよ、つまりこれから先、あなたの母親と反目するにせよ、しないにせよ、中途半端
な心理状態というのは、長つづきしません。心理学の世界にも、『フリップ・フロップ理論』という
のがあります。人間はどちらかに転ばないと、落ちつかないという理論です。中途半端だと、緊
張感から解放されません。

 Mさんの立場でいうなら、(1)決別してしまうか、(2)さもなければ、あわれな親を受け入れる
かの、択一にやがて迫られるということです。

 ただここで注意しなければならないのは、同時に、私たちもいつか、子どもに、一人の人間と
して評価されるときがやってくるということです。そのとき、子どものそういう評価に耐えられるよ
うになっておかねばならないということです。

 親というのは、そういう意味で、きびしいものです。決して、「親」という座に安住してはいけま
せん。そのために、日々に精進。ただひたすら精進。精進、あるのみです。

 Mさんのような方に、たいへん失礼なことを書いたかもしれませんが、どうかお許しください。
Mさんのメールを読みながら、私もいくつか重要な発見をしました。とても参考になりました。そ
れについては、また別のところで、別の形で、報告してみたいと思っています。

 ありがとうございました。

+++++++++++++++++++++++

以下、少し、原稿をまとめてみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

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●親との葛藤

親との確執(かくしつ)で、苦しんでいる息子や、娘は、多い。親子という関係であるがゆえに、
その確執も、深い。大きい。

 刑法の世界にも、「尊属殺」(親殺し罪)というのがある。親を殺したりすると、一般の殺人より
も、刑がワンランク、重くなる。

 しかしあるとき、私の刑法の教授が、こう言った。

 「親を殺すというのは、よほどのことがあるからだ。それゆえに、刑を重くするのは、かえって
おかしい」と。

 そういう意見もある。他人なら、蹴とばして、「はい、さようなら!」と別れることができる。しか
し親子では、それができない。親が悩むというよりは、関係が一度、こじれると、息子や娘のほ
うが、悩む。悶々と、悩む。

 今朝、北海道に住む、Mさんという女性から、こんなメールをもらった。Mさんが、母親からみ
て、不本意な結婚をしたため、Mさんの母親は、Mさんに、こう言っているという。

 「お前が着ている洋服代、お前にかけた学費、お前が食べた食費など、すべて返せ!」と。

 Mさんは、大学を出たあと、フリーターの男性と結婚した。そんなわけで生活費のほとんど
は、Mさんが、稼いでいる。それがMさんの母親には、納得できないのかもしれない。

●確執

こうした親子の確執は、ここにも書いたように、親子であるという、特殊な関係であるがため、
長くつづく。一生、つづく人も、珍しくない。ある男性(60歳くらい)は、枯れの母親が死んだ夜、
こう言った。

 「やっと、母の重圧から、解放されました」と。

 また別の男性(60歳くらい)も、こう言った。「親の世話なんて、こりごり。葬式の間も、何で、
こんなことをしなければならないのかと、そればかりを考えていた。本当は、バンザーイと叫び
たかったのに、みなの前では、悲しそうな顔をしてみせねばならなかった」と。

 一方、親は親で、子どもに対して、復讐心を燃やす親もいる。「復讐心」だ。

 「あんたを、のろってやる!」「地獄へ落ちるのを楽しみにしてやる!」とか、実の娘に言いつ
づけている母親がいる。息子から容赦なく、生活費を取りあげている母親もいる。

 もちろん大半は、実際には、約半数程度だが、よい親であり、よい息子や娘である。しかしそ
ういう幸運な人たちが、自分たちを基準にして、「親とは、こういうもの」「息子や娘とは、こうい
うもの」と、そうでない人たちに、自分たちの基準を押しつけるのは、正しくない。

 親にも、いろいろある。もちろん息子や娘にも、いろいろある。

 だから『親だから……』『子どもだから……』という、『ダカラ論』だけで、ものごとを考えてはい
けない。決めつけてはいけない。

 親子といえども、そこは、一対一の人間関係である。もちろん、親子関係が良好であるに越し
たことはない。何よりも、それがよい。しかしこじれてしまったら……。切るに切れない関係であ
るがゆえに、その苦しみも、倍加する。

●親の責任論

親子の関係が、おかしくなったら、それは親の責任と考える。

 たいていは、親側に、精神的未熟性、情緒的な欠陥、さらには、人格的な未完成性があると
みてよい。

 ただ悲劇的なのは、そうした問題に、親自身が気づいていないこと。このタイプの親にかぎっ
て、「私はすばらしい親」と思いこんでいる。そうした傲慢(ごうまん)性というか、盲目性が、親
子の間にキレツを入れ、それが断絶へと、長い時間をかけて、つながっていく。

 しかし子どものほうは、その罪悪感で悩む。心理学でいうところの、「家族自我群」(ボーエン)
の呪縛の中で、もがく、苦しむ。そればかりではない。

 こうした親の一連の否定的態度によって、「幻惑」(クーパー)さえもつことがある。自らにダメ
人間のレッテルを張ってしまう。さらには、自らを、「人間として、失格」という烙印を押してしま
う。(こうした一連の作用を、クーパーは、「幻惑作用」と呼んだ。)

 わかりやすく言えば、親が、親側の問題を棚にあげ、一方的に、子どもを責める。子どもの
非をとらえ、それを非難する。しかしもともとの原因は、親にある。理由は、簡単である。

 親子は、決して、対等ではない。そういう関係からスタートする。肉体的にも、精神的にも、当
初、子どもは、親にはかなわない。親は、当初から、子どもに対して、優越的な立場に立ち、一
方、子どもは、隷属的な立場に置かれる。

 そもそも親子関係がおかしくなるというのは、親の責任である。子どもの側が、クーパーが言
うところの、「幻惑作用」に苦しむということ自体、おかしいのである。

 こんな例がある。

●母の裏切り

Y氏は、今年60歳をこえた。しかし今でも、母の葬儀に出なかったことを、悔やんでいる。親戚
にも非難され、何かにつけて、のけ者にされている。「親不孝者!」「恩知らず!」「お前など、
村八分!」と。

 しかしY氏には、人には言えない苦しみがあった。Y氏は、父親の子どもではなかった。母と
祖父(つまり父親の父親)との間に、できた子どもだった。

 Y氏は、こう言った。

 「私が母と父との間にできた子どもでないことは、ある日、いとこたちの顔と見比べていて気
がつきました。私の顔にだけ、祖父の面影が強く残っている反面、祖母の面影が、どこにもな
いのです。

 そこで血液型を調べてみて、私には、祖母の血が流れていないことを知りました。

 実はそのこと、つまり母と祖父の不倫関係を、父は知っていたのではないかと思います。父
は、よく酒を飲んで、私の目の前で母をなぐったりしていましたが、その父が、それらしいことを
叫んでいたのを、記憶のどこかで覚えています」と。

 Y氏は、30歳をすぎるころから、母をうらむようになったという。そしてY氏が、50歳くらいのと
きに、Y氏の母親は、死んだ。(父親は、Y氏が25歳くらいのときに、脳梗塞で死んでいる。)

 Y氏は、当時、どうしても母を許せなかったという。だから葬儀には出なかった。

 「私が葬儀に出なかったのは、それだけが理由ではありません。私と母の関係は、積もりつ
もった原因で、すでにそのとき、こなごなに破壊されていました」と。

●親子関係の修復

親子関係の修復は、容易なことではない。結論から先に言えば、親側がまず先に、折れるしか
ない。しかし親側が先に折れたところで、息子や娘が、それに応ずるかどうかは、これまた、別
の問題。修復するにしても、親子が越えなければならないハードルは、いくつもある。そしてど
れも、高い。

 しかし方法がないわけではない。

 距離をおく。時間をおく。親の立場、子どもの立場、それぞれを別に考えてみる。

【親の立場】

 要するに子どもなど、相手にしないこと。今ある関係をみながら、「子育てに失敗した」とか、
そういうふうに、思わないこと。

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではない。ほとんどが、本当にそうだが、そのほと
んどが、たがいにののしりあいながら、子どもは、親から巣立っていく。

昔の東映映画のように、「お父様、お母様、私をこれまで育ててくださって、ありがとうございま
した」と、深々と頭をさげて、巣立っていく子どもなど、いない。またそういう子どもを、期待しな
いこと。

 親は親で、前向きに、自分の人生を生きる。残り少ない人生だ。自分のために生きる。

【子どもの立場】

 まず自分自身を、クーパーが言う、『幻惑作用』から、解放すること。今そうであるからと言っ
て、それはあなたの責任ではない。100%、親の責任である。仮にあなたが、(できそこないの
息子や娘)であるとしても、そういう息子や娘にしたのは、親である。あなたでは、ない。

 罪の意識など、クソ食らえ!

 そういうあなたであるとして、親戚や近所の人に、白い目で見られたとしても、気にすることは
ない。もし気になるようなら、それは親子の問題というよりは、あなた自身の内部に潜む、ベタ
ベタの人間関係が原因であるとみてよい。もっとはっきり言えば、依存性の問題。

 ボーエンの説く(家族自我群)からの脱却は、容易ではない。もともと日本人は、「家」意識が
強く、欧米と比較しても、この(家族自我群)による結束力が強い。農村によっては、一つの村
全体が、こうした(自我群)を形成しているところもある。日本でいう、「ムラ社会」というのは、そ
れをさす。

 一方、その(家族自我群)に、身を寄せることは、楽なことである。ベタベタの人間関係をつく
り、たがいに甘えながら生きていく。連帯感ももてる。その中では、孤独感もいやされる。

 つまりあなたの悩みというのは、つきつめれば、そういう(家族自我群)との戦いということに
なる。もっと言えば、個人として、あなたを確立するか否かという問題まで、進む。それができる
人は、これから先も、たくましくひとりで、生きていけばよい。それができない人は、(家族自我
群)の中に身をおき、ある意味で、楽な生活を送ればよい。

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【改めてMさんへ……】

 Mさんは、となりのK国のことを書いておられましたが、あのK国は、一つの国全体として、き
わめて人格の完成度が低い国とみてよいようですね。

 世間体や、見栄、メンツばかりを気にしている。

 最近はやたらと「同胞」という言葉を使います。これも家族にたとえるなら、「同族意識」という
ことになります。個人化(=社会的、人間的な自立)の遅れた人が、よく使う言葉です。つまりそ
ういう面でも、精神の完成度の低い国とみます。

 加えて虚栄心も強い。国民のほとんどが飢えているのに、「先軍政治の大勝利」(6月29日)
と報道しています。本当に困った国です。世界中を核兵器でおどし、「大勝利」とは!

 K国を見ていると、いろいろ考えさせられます。ホント!

 では、今日は、これで失礼します。長いメールになってすみませんでした。これからもよろしく
お願いします。よき友を得たようで、喜んでいます。+うれしいです。
(はやし浩司 クーパー ボーエン 家族自我群 個人化 幻惑 幻惑作用

【追記】

 あなたも親として、子どもには、過剰期待をしないこと。子育てに夢をもつことは、大切なこと
だが、それを子どもに求めたり、強要してはいけない。

 中には、自分が果たせなかった夢を、子どもに求める親がいる。さらには、こんなことを子ど
もに言った親もいた。

 「パパは、学歴がなくて、苦労しているのよ。あなたはパパのようには、ならないでね」と。

 子育てを生きがいにすること自体は、まちがっていない。しかしそこには、一定の限界があ
る。自分の生きる目的や、意義まで、そこに放りこんではいけない。心のどこかで、「私は私」
「子どもは子ども」という一線を引かないと、ここでいうMさんの母親のようになる。

 自分の思いどおりにいかなくなった息子や娘を、「裏切り者」ととらえるようになる。「親の苦労
を裏切って、好き勝手なことをしている!」と。

 この問題については、もう少し、あとに考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(205)

●K町K小学校での講演

 講演というより、講話。100人前後の人が集まってくれた。

 K町といえば、このあたりでは、茶どころとして知られている。緑豊かな、落ちついた静かな町
である。

 講演は、その小学校の音楽室であった。教頭のF先生が、会場まで案内してくれた。

 体のコンディションは、あまりよくなかった。このところ、睡眠不足がつづいている。昨日も、4
時間ほどしか眠っていない。電車で行く途中、「脳梗塞か何かで、倒れたらどうしようか」と考え
た。だから、つまりそれが心配だったから、駅で、お茶のボトルを買って、ガブガブと飲んだ。

 効果があるかどうかは知らないが、水分をたくさんとると、気分的に、何となく、血がサラサラ
になったような感じがする。私はもともと低血圧症。夏場は、いつも水分を補給していないと、
すぐ頭がぼんやりとしてくる。

 今ごろの季節だと、昼間だけで、約3〜4リットルの水を飲む。

 演題は、「子育て4次元論」。時間は1時間40分。ゆっくりと話ができた。が、終わってから、
大失態。

 まあ、今は、話す気にもなれないので、また別の機会に……。私は、逃げるようにして、会場
をあとにした。

 まあ、いろいろあります。

 それにしても、よい町だった。学校も、よい学校だった。牧歌的なぬくもりを感ずることができ
た。周囲を、ほどよい高さの山々に囲まれ、タクシーを降り立ったとき、「いいところだなあ」と思
った。そしてその思いは、K町から離れるまでつづいた。

 しかし自分で話をしていて、自分で感動する講師がいるだろうか。涙をこぼしてしまう講師が
いるだろうか。

 やはり睡眠不足がたたったらしい。精神力が、どこかもろくなっていた。一瞬、必死で涙をこ
らえたが、だめだった。

 そうそう音楽室をあとにするとき、一人だけ、最前列にすわっている母親が目に入った。その
母親も、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。私としては、そんな話をするつもりは、まったくなか
ったのだが……。

 あああ。まさに大失態。K町のみなさん、ごめんなさい。今度また機会があれば、そのときは
楽しい話をします。


●カルタ

 今週は、カルタを買ってきた。今は、日本語ブーム。そのせいもある。

 テーブルの上にカルタを並べて、子どもたちに競(きそ)わせる。最初は、「そんなのつまんな
いから、しない」と言っていた子どもでも、そのうち、夢中になってやり始める。カルタには、伝
統的なおもしろさがあるようだ。

 実は。10年ほど前には、そのカルタをよくやった。「ことわざカルタ」「ドラえもんカルタ」など。
数種類をもっていた。

 私自身も、ある雑誌社の依頼を受けて、何種類か、制作したことがある。「クイズカルタ」「格
言カルタ「なぞなぞカルタ」など。遠い昔の話で、私というより、別の私が作ったような気がす
る。

 その「ドラえもんカルタ」だが、毎回、そのカルタをほしそうに見つめていた子ども(小2男児)
がいた。ドラえもんの大ファンだった。

 そこで1、2週間ほど、そのカルタを使ったあと、つまり片づけるとき、ふとその子どもにこう聞
いた。「このカルタ、ほしいか?」と。

 するとその子どもは、飛びあがって、喜んだ。「本当に、もらっていいの?」と。

 私が、そのカルタをあげると、その子どもはまるで宝物か何かを手に入れたかのように、はし
ゃぎながら教室を出て行った。

 で、そのカルタをしながら、その子どものことを思い出していた。しかし、そのあげたときのこ
とを思い出していたのではない。そのあと、こんなことがあった。

 それから半年くらいたったときのことだっただろうか。私がそのカルタのことを思い出して、そ
の子どもに、こう聞いてみた。

「あの、ドラえもんカルタ、まだしている?」と。

 するとその子どもは、ハッと我にかえったような様子をしてみせ、「ううん。していない……」
と。

 そこでさらに、「じゃあ、そのカルタは、どうなったの?」と聞くと、「ママが、どこかへ片づけた」
と。

私「家で、カルタをしなかったの?」
子「しない」
私「一度も……?」
子「一度も……」と。

 私はその子どもの話を聞きながら、「そういうものかな?」「そういうものだろう」と思った。自
分のものになったとたん、興味をなくすということはよくある。私も、子どものころ、同じような経
験をしたことがある。

 当時、野球盤ゲームというのが、はやった。広い盤の上で、鉄の玉をはじき、それを小さなバ
ットで打って、遊ぶというゲームである。

 私はそのゲームを友だちの家で遊んでからというもの、ほしくてほしくて、たまらなくなった。

 で、ある日、とうとう買ってもらった。が、とたん、興味をなくした。「何だ、こんなつまらないも
のだったのか」と思ったことだけは、よく覚えている。

 そういうものである。

 カルタにせよ、野球盤ゲームにせよ、みなでやるからおもしろい。楽しい。ひとりでやったとこ
ろで、何もおもしろくない。ことわざカルタにせよ、ことわざについて書いた本よりも、つまらな
い。

 反対に、一見つまらなく見える遊びでも、みなでし始めると、楽しくなることがある。まさにカル
タがそうだ。

 毎週、私の教室では、何かの遊びを用意する。今週は、カルタ。今のところ、子どもたちは、
夢中になって遊んでくれている。今日も見ていたら、だれが文を読みあげるかで、子どもたちが
大騒ぎしていた。「ぼくが、やる!」「私が、やる!」と。


●浮動票の王様

 近く参議院議員選挙がある。この原稿がマガジンになるころには、その結果は、出ていること
と思う。(マガジンは、今のところ、ちょうど一か月前に、配信予約を入れることにしている。)

 数日前、K首相が、この浜松市へやってきた。だれかの応援演説のためである。それを見た
人が、こんな話をしてくれた。

若い女の子たちが、「Jちゃん!」「Jちゃん!」と、かん高い歓声をあげて、さかんに携帯電話
で写真をとっていた、と。

 まあ、若い女の子たちが何をしようと、それはその人たちの勝手だが、内心では、「どうしてこ
うまで幼稚なのだろう」と思った。(これは、私のひがみか?)

 で、私は、浮動票の王様。私が動くところ、いつも、その政党が大躍進する。今回は、X党に
入れることに決めた。

 選挙の争点は、年金問題だという。もともとあんな年金、アテにしていないから、どうということ
はない。が、しかし、あまりにも不公平。官僚たちは、まさにやりたい放題。その結果が今だ
が、これから先、日本は、どうなることやら……?

 と、言っても、私にとっての最大の関心ごとは、やはり、「日本の平和」。平和あっての、年金
問題である。先の6か国協議で、K国の核問題解決のための道筋ができたとはいえ、まだ目
が離せない。

 K国が、日本にとって、きわめて危険な国であるという事実は、まったく変っていない。


●カミナリ

 今朝(6・30)、近くにカミナリが落ちた。瞬間、パソコンの画面が、消えた。と、同時に、インタ
ーネットがつながらなくなった。

 こういうときは、もう一度、電源を入れなおせばよい。パソコンもそうだが、モデムやルーター
の電源も、一度、コンセントを抜いて、また差しこむ。

 が、今朝は、それでもうまくいかなかった。そこでパソコンに電源を入れた状態で、USB端子
から、機器を一度抜き、また差しこんでみた。とたん、インターネットがつながった。

 鉄則……カミナリが近くで鳴り始めたら、パソコン、ルーターなどの電源は、抜いておくとよ
い。パソコンなど電子機器は、カミナリに、弱い。


●朝鮮N報

 興味があって、ここ一年ほど、毎日のように、朝鮮N報のウエブサイトを、のぞいている。韓
国の新聞社のサイトである。日本でいえば、韓国の朝日新聞というところか。

 日本の報道と読みくらべていると、微妙なちがいに、よく気づく。たとえば先の6か国協議につ
いても、日本の新聞やマスコミは、「日米韓が、結束して……」「一致団結」などという言葉をよく
使ったが、朝鮮N報のサイトには、そんな言葉は、一度も出てこなかった。

 「韓日会談、韓米会談を、個別にした」とか、そんなような表現である。

 またこのところ、朝鮮N報は、いったいどこの国の報道機関かと思うほど、K国をもちあげる
報道ばかりしている。

 ちなみに、今朝のニュースは、「中国の経済法問題、P市を訪問」「南北将官級実務者会談・
宣伝物除去結果確認」などのほか、「北の有名カメラ監督が、映画デビュー」(6・30)など。

 そしておもしろいのは、経済記事。

 何かにつけて、韓国の人たちは、自分たちの経済的地位を、数字で表現するのが、好きなよ
うだ。

 「○○製造分野では、中国を抜いて、1位」
 「△△では、今年10%の成長で、日本についで2位」
 「S社、xx市場で、アジアトップに」
「韓国経済、経済成長率、東アジアでビリ」と。

 韓国の受験競争のはげしさは、日本の比ではない。そういう土壌があるせいかだろうと思う
が、国全体が、受験競争をしている感じ。

 それにしても理解できないのは、韓国は、アメリカや日本が苦労に苦労を重ねて敷いてき
た、自由貿易主義体制の上で、経済的繁栄を謳歌しているのに、反日はともかくも、反米と
は! 韓国の政治は、どこか現実離れしている。(あるいはK国に、どこか似ている?)
 
 まあ、どうぞ、ご勝手に……というのが、私の本音。


●8月から……

 今日で、7月号は、おしまい。

 苦しい1か月でした。が、何とか、無事、1か月がんばりました。

 で、7月30日号も、A4サイズ用紙で、ちょうど20枚になりました。ギリギリの20枚です。(毎
回、20枚以上と決めていますので……。)

 このところ、頭のサエがなくなったというか、ボケが始まったというか、あれこれ考えるのが、
少しおっくうになってきました。

 加えて、「マガジンを出して、どうなるのか?」という迷いもありました。が、今月も、いろいろな
方から、励ましていただきました。ありがとうございました。

 まあ、明日から8月号の原稿を書きますが、あまり気負わないで、これからは気楽に書いて
いこうと思っています。

 これからも、よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(206)

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか
も、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S
君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(207)

【近ごろ・あれこれ】

●BW教室から

 今週は、「形」の学習をした。

 「点」「線」を教えたあと、粘土と棒で、三角形や四角形を作ってみせた。

 が、この時期、粘土は、たいへんやわらかくなる。棒を粘土にさして、形をつくってみせるが、
途中で、ダラリと粘土が抜けてしまう。

 子どもたち(年長児)は、それを見て、最初は遠慮がちに、しかしやがてゲラゲラと笑い出す。

 私は、クソまじめな顔をして、何度も、試みて、そして失敗する。もちろんこれは私の演技であ
る。

 粘土に深く棒をさすフリをするが、実際には、深くはさしてない。つまりわざとすぐ抜けるように
してある。

 そのあと、いくつかのワークをしたあと、最後は、形あわせで、終わる。

 「これと同じ形は、どれですか?」と。

 すると子どもたちは、「3番と、オ・ン・ナ・ジ!」と言う。この地方の方言なのだが、それが、
「女痔(おんな・じ)」に聞こえる。

私「おんなじ、ではなく、オ・ナ・ジ! 男だって、ジ(痔)になるよ」
子「何、ジって?」
私「恐ろしい病気だよ」
子「どんな病気?」
私「ウンチの出口のところに、スイッチができる病気だよ。そのスイッチに、ウンチがさわると、
ギャーッって、痛いんだよ」と。

 意味がわかったのか、わかってないのか、子どもたちは、「オナジ」と正しく言うようになる。
(こういうとき、参観の母親たちは、必死で笑いをこらえているふう。)

 ところで、小学3年生で、角度の勉強をすることになっている。しかし「角度」といっても、理解
できない子どもも多い。そういうときは、「ツクンツクンしていて、とがって痛いところ」というよう
な教え方をする。とたん「わかった」と、理解してくれる。

 こうした教育的操作(?)は、幼児を教えるときには、必須である。子どもの目線で、子どもに
わかる表現方法で、説明する。

 別れるとき、みなに、アイスクリームを渡した。「お母さんと、半分ずつ食べるんだよ」と。

 昨日も、暑かった。ホント! 


●夏の暑さ

 カラリと晴れわたった空。ひざしは強いが、かわいた、さわやかな風。庭も、木々の葉っぱ
も、白い太陽光線をあびて、まばゆいほどに輝いている。

 夏だ。絵に描いたような夏だ。

 すずめが時折、ズイン、ズインと、庭先の木陰の下で鳴く。子どものころ、いつも聞いた声
だ。

 こういうとき、どういうわけか、私は頭の中で、半ズボンと、麦わら帽子をイメージする。若いこ
ろ好きだった歌にも、こんなのがある。『少年時代の夏休み』というような歌だった。吉田拓郎
が、ギターを弾きながら、歌っていた。

 「♪麦わら帽子はもう消えた
  田んぼのカエルはもう消えた
  それでも待ってる夏休み……」と。

 夏休みが終り、その切なさを歌った歌だ。私とワイフは、その歌を歌いながら、恋に落ちた。
結婚した。いろいろと思い出のある曲である。

 私は、その夏が、大好き。四つの季節の中でも、一番、好き。

 夏になると、川で泳いだ。母の在所で、夏休みをすごした。そんな、つまり夏には、楽しい思
い出が、ぎっしりとつまっている。

 さあ、今日も、汗をかくぞ。

 こういう日だからこそ、運動をする。汗をかく。そのあとの爽快感がたまらない。

【追記】

 今、ワイフと三男が、公民館で、テニスをして、ちょうど帰ってきたところ。何やら、三男が、ワ
イフの仲間に、いろいろとからかわれたようだ。

 「あのオバチャンたち……(省略)」と、ワーワーとしゃべっている。

 こういう日に、公民館で、インドアテニスをすると、全身が汗だくになる。ワイフに言わせると、
みんな、汗で、乳首の形と色まで外に出てくるとのこと。

 「セクシー」と思いたいが、私は、あのメンバーには、興味がない。どこか、みんな、おっかな
い女性たちばかり。そういう女性たちに、三男も、いびられたらしい。三男が、どういう思いをも
ったかは、容易に想像できる。ハハハ。

 夏だ、夏だ、大好きな夏だ。明日は土曜日。思いっきり、遊ぶぞ!

++++++++++++++++++

【みんなで歌おう】

麦わら帽子はもう消えた
 田んぼのカエルはもう消えた
  それでも待ってる夏休み

絵日記つけてた夏休み
 花火を買ってた夏休み
  ゆびおり待ってた夏休み 

畑のとんぼはもういない
 あの時逃がしてあげたのに
  一人で待ってた夏休み 

すいかを食べてた夏休み
 水まきしたっけ 夏休み
  ひまわり 夕立 セミの声

  (吉田 拓郎 『夏休み』より)


●ヌケガラ

 脳ミソが疲れてくると、私は、どういうわけか、駄ジャレばかりが口から出てくる。

ワイフ「今度、S銀行では、手のひらの静脈で、本人を確認するそうよ。手のひらを、機械の上
にのせると、その人かどうか、確認できるんだってエ」
私「遅れてるウ。今度、H銀行では、チンチンの静脈で、本人を確認することになったよ」
ワイフ「どうやってするのよ?」
私「穴の中に、チンチンをつっこんで、確認するよ」

ワイフ「大きさは、どうするのよ?」
私「いやね、小さいときは、『もう少し、大きくします』とか何とか言って、マッサージが始まるよ」
ワイフ「女性は、どうするのよ?」
私「……そこまでは、考えていなかったネ」と。

 昨夜(7・3)は、満月。薄い黄色の、空にシールでも張りつけたような月が、出ていた。近くの
ビデオショップへ行く途中のことだった。

ワイフ「あの月、元気がないわね」
私「そう、シャセイ(射精)したあとみたいだね」
ワイフ「どうしていつも、あんたは、そういう発想しかできないの?」
私「??? ……ぼくは、だれかが絵を描いたかもしれないという意味で、シャセイ(写生)した
と言ったんだよ」
ワイフ「ウソばっかり……」

私「そう言えば、あの月、ヌケガラみたいだね」
ワイフ「そういえば、今日、セミのヌケガラをみたわ」
私「ぼくは、チンチンのヌケガラみたいだと言ったんだよ」
ワイフ「あんたのはヌケガラではなくて、モヌケのカラでしょ」

私「ぼくのは、ちゃんと、入っているよ」
ワイフ「入っていないわよ」
私「ちゃんと、入っているよ。……お前こそ、ヌケガラだろ」
ワイフ「どういうことよ?」
私「息子を産んだとき、ヌケガラになったということ。女は、みんなそうだ」と。

 ビデオは、『ニモ』を借りてきた。明日の土曜日にでも見るつもり。


●実念論

 乳幼児の心理の特徴の一つに、「実念論」がある。聞きなれない言葉だが、要するに、乳幼
児は、「念力」を信じているということ。

 実念論……どこか「?」な言葉だが、最初に、外国の論文を翻訳した学者が、そういう訳語を
つけたのだろう。「念じて、ものごとを実現させる」という意味である。

 私も幼児のとき、クリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザがほしくて、心の中で何度も念じ
たことがある。ほかにもいろいろ念じたことがあるが、それについては、あまりよく覚えていな
い。

 つまり、乳幼児は、現実と幻想の世界の区別が、あまりつかないということ。

 しかし問題は、このあとに起こる。

 こうした実念論は、やがて修正され、成長とともに、思考パターン(回路)の中でも、マイナー
な領域へと追いやられる。子どもは、より現実的なものの見方を身につけていく。

 しかしその実念論が、子どもの中に必要以上に残ることがある。あるいは、その実念論が、
かえって、増幅されることがある。

 少しくだらないことだが、こんなことがあった。

 まだ私が幼稚園で働いていたときのこと。ある日、あるところへ行ったら、そこでばったりと、
幼稚園の同僚の先生(若い女性)に出会った。「こんなところで何をしているの?」と聞くと、そ
の先生は、恥ずかしげもなく、こう言った。

 「ここで私の運勢を、占ってもらっていたんです」と。

 見ると、その一角が、ボックスで仕切られたブースになっていた。そして小さいが、そこには、
看板がかけられていた。「○○占星術研究会」と。

 私はそのとき、ほんの瞬間だが、「こんな先生に指導される子どもたちは、かわいそうだ」と
思った。体はおとなだが、心は、乳幼児のまま(?)。

 もちろんそのころには、私は、実念論という言葉は知らなかった。(まだそういう言葉は、なか
ったように思う。)が、乳幼児が、ときどき空想と現実を混濁するという現象は、経験していた。
 

イギリスの格言にも、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。この格言を、私はすでに25年前に知っ
ていた。

 が、今は、念力ブーム。現象としては、あの『ポケモンブーム』のときから、加速されたように
思う。自分の願いごとを、スーパー・パワー(超能力)のようなもので実現させようとする。こんな
ことがあった。

 ある中学生が、何やら真剣な表情で、ビルの一角をじっとにらんでいた。「何をしているの?」
と声をかけると、その中学生は、こう言った。

 「先生、ぼくね、念力で、あのビルを吹っ飛ばしてみたい」と。

 そのポケモンブーム全盛期のころのことである(99年)。私は、こう言った。「吹っ飛ばしたい
と思うのは、君の勝手だが、吹っ飛ばされる人たちの立場で、少しはものを考えなよ」と。

 乳幼児の実念論。こうした現象が、どうして乳幼児にあるかは別にして、できるだけ、そうした
実念論からは、子どもを遠ざけていく。あるいはそれにかわる思考パターンを、植えこんでい
く。

 これは幼児教育においては、とても重要なことだと思う。

 つまり、先生が、占いや、まじないを信じていたのでは、話にならない!、ということ。


●物活論

 この実念論と並んで、よく知られている乳幼児の心理に、「物活論」がある。乳幼児が、ありと
あらゆるもの、無生物も含めて、すべてのものは、生きている」と考える現象をいう。

 人形やおもちゃは言うにおよばず、風にそよぐカーテン、点滅する電気、自動車、石ころ、本
など。

 ある子どもは、姉が本を何かで叩いたとき、「本が痛がっているから、やめて」と言った。反対
に、飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池をかえれば、また動く」と主張した子どももい
た。

 物活論の特徴は、(1)すべてのものは、生きている。(2)すべてのものには、感情がある、と
考えるところにある。

 これも広い意味では、現実と空想の混濁。乳幼児の視点に立ってみると、それがよくわか
る。つまり乳幼児には、まだ生物と無生物を区別するだけの知力や経験が、ない。

 が、こうした物活論を修正していくのも、幼児教育の重要なポイントということになる。わかり
やすく言えば、「生物」と、「無生物」の区別を指導する。

 私には、こんな経験がある。

 10年ほど前、たまごっちというゲームが流行したことがある。そのときこと、私は不注意で、
その中の生き物(?)を殺してしまったことがある。スイッチの押し方をまちがえてしまった。

 とたん、その女の子(年長児)は、「先生が、殺してしまったア!」と、おお泣きした。で、「私
が、死んではいないよ。これはゲームだから」と何度も言って聞かせたが、結局は、ダメだっ
た。私を責めつづけた。

 (反対に、生物を無生物と思いこんでしまうこともある。これはたいへん危険な現象と考えて
よい。これについては、また別のところで、考えてみる。当時、ちょうど同じころ、死んでミイラ化
した死体を、『まだ生きている』と主張した、おかしなカルト教団が現れたのを覚えている。

無生物を生物と思いこむ子ども。死んだ人を生きていると思いこむ信者。現象としては、正反
対だが、これら両者は、一本の糸でつながっている。)

 風でそよぐカーテンを、「生きている」と思うのは、どこかロマンチックな感じがしないでもな
い。しかし子どもは、さまざまな経験をとおして、やがて生物と無生物を区別する知力を身につ
ける。

 それを指導していく、つまり論理的(ロジカル)なものの考え方を教えていくのも、幼児教育の
一つということになる。

【付記】

 そういう意味では、乳幼児期の教師(先生)の選択には、きわめて慎重でなければならない。

 思想性はもちろんのこと、とくに宗教性には、慎重でなければならない。この時期の教師とし
ては、論理的で知的な教師であればあるほど、よい。社会的に認知されていない、「?」的なカ
ルト教団に染まっているような教師は、好ましくない。(当然だが!)
(はやし浩司 実念論 物活論 乳幼児の心理)

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以前、こんな原稿を書いた。(中日新聞投稿済み)

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教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども
(小三男児)がやってきて、こう言った。

「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。

「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜ん
だはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを
教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者
だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。

「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。

私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれません
ね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。

その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこ
で確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。

よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、
宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。

それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ
だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい
る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、
前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから
考えの中に入っていない。

私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」とい
うことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということ
も、あとから母に言われて、はじめて知った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(208)

●息子の初恋について

 息子(中3)の初恋について、「今は、受験期なので、何とかやめさせたいが、方法を教えて
ほしい」という相談をもらった。岐阜県に住む、HMさんという母親からのものだった。

 この種の感情に、ブレーキをかけることはできない。親が反対すればするほど、恋心というの
は、燃えあがる。

 心理学の世界にも、「自己決定感」という言葉がある。「自分で決定することによる満足感」を
いう。この自己決定感がもつ問題は、それ自体が重要というより、それが阻害(じゃま)された
とき、子どもの心理に、さまざまな弊害を起こすということ。

 ここでいう「恋」には、それをおぎなうための代わりのものが、ない。

 たとえば人間は、何かの欲求を、じゅうぶんに満たされないとき、その欲求を、別のもので満
たそうとする。そしてその方法により、自分を満足させる。これを「代償的満足感」という。

 よく知られた例としては、マスターベーションがある。性交への満たされない欲求を、男性の
ばあい、ヌード写真を見ながら、マスターベーションをしたりする。

 しかしこの方法では、一時的に、性欲を吐き出すことはできても、最終的な満足感を得られる
ことはない。反対に欲求不満が、つのるということがある。ここに代償的満足感の限界がある。

 そこで子どもは、自分の自己決定感を満足させようとするが、このとき、それを阻害(じゃま)
するものが現れると、それを「敵」とみなして、徹底的に攻撃しようとする。

 この攻撃性が、必要以上に、ここでいう恋心を燃えあがらせることがある。「必要以上」という
のは、本来、その子どもが思っている以上に、自分が、その相手の女の子を好きになったと思
いこむことをいう。

 (よくある例は、親の猛反対を押しきって、かけおちまでしたようなカップルが、「いっしょに生
活してよい」と周囲に認められたとたん、その恋心がさめてしまう、など。周囲に反対が、本人
たちどうしが思っている以上に、恋心があると錯覚させてしまうことにより、そうなる。)

 こうした子どもの攻撃性には、二面性がある。前向きに攻撃していくタイプと、内にこもってし
まうタイプである。

 よくあるのは、親が、「受験期になったから、(好きだった)サッカーをやめなさい」と、子どもの
生きがいを奪ってしまうような例。

 親としては、「サッカーをしていたエネルギーを、勉強に向けさせたい」と思って、そうするが、
子どもは、当然のことながら、猛反発する。暴力的な反発も珍しくないが、それができないと、
今度は子どもは内にこもり、大きく心をゆがめる。

 その(ゆがめ方)が、常軌を逸することもある。異常な嫉妬心、ねたみ、いじめに走ることもあ
る。非行の原因になることもある。

 子どもの指導で重要なのは、この「自己決定感」を、うまく引き出し、それを利用しながら子ど
もを伸ばすということ。

 さて本題だが、子どもの初恋は、(1)暖かく無視する。(2)アドバイスを求められたときは、て
いねいにそれに応じてあげる、という方法で対処する。

 反対しても意味がない。意味がないことは、ここに書いたとおりである。扱い方をまちがえる
と、子どもの心をゆがめるだけではなく、親子の絆(ぱいぷ)を切ってしまうことにもなりかねな
い。

 恋心という、人間が、そしてあらゆる生物が、本能的にもっている感情というのは、そういうも
のである。親の立場では、「熱病にでもかかった」と思い、あきらめるしかない。

【教訓】

●子どもの一芸は、聖域と考えて、親が踏みこんで、それを荒らしてはいけない。
●子どもの初恋は、(1)暖かい無視、(2)求めてきたときが与えどきと心得る。

++++++++++++++++++++++

●H幼稚園に在園児をもつ、SSさんからの相談

 先日、市内のH幼稚園で、講演をした。その幼稚園に園児を通わせているSSさんという方よ
り、相談をもらった。

【SSより……】

 小1の娘と、年少の息子をもつ、母親です。

 下の息子が、いまだに赤ちゃん言葉を話します。まわりの人たちも、年少ということで、甘や
かしています。

 私もあれこれ手をかけてしまいます。

 このままでは、だいじょうぶかと心配です。上の娘とは、いつもままごとをして遊んでいます。
このままでは、息子が女性化するのではないかと、心配です。

 また下の息子が生まれたときは、夫婦げんかばかりをしていました。心に何かきずが残って
いるのではないかと、心配です。

 その一方で、私の趣味や、上の姉の習いごとなどで、ひとり遊びをさせることが多く、「これで
いいのか」と、悩んでいます。よいアドバイスをお願いします。

【はやし浩司からSSさんへ】

 心配先行型の子育てのようです。お子さんへの不信感が、根底にあるものと思われます。さ
らに言えば、出産時の夫婦げんかが、心の中の(わだかまり)になっていることも考えられま
す。

 あなたの心配だ、不安だという思いが、下の弟さんの心理に微妙な影響を与えていること
は、じゅうぶん、考えられます。

 下の弟が、赤ちゃんがえりを起こす例も、なくはありませんが、多分、赤ちゃんがえりではな
いと思います。心身(神経)症もしくは、欲求不満による退行症状ではないかと思われます。あ
なたの不安感や心配感を、お子さんが、そのまま反映していることが、じゅうぶん考えられま
す。

 まず、あなた自身の心の安定を、第一に考えられることです。

 順に考えていきましょう。

 手のかけすぎが、子どもによくないことは言うまでもりません。しかしその背景には、子どもを
人格者として認めるのではなく、子どもを、ペットのように考える、日本独特の子育て観があり
ます。

 もしそうなら、こうした子育て観を改めます。友として、子どもの側に立ちます。

 あなたは女性ですから、男の子の育て方に大きなとまどいがあるのは、しかたのないことで
す。が、同時に、そのとまどいが大きいようであれば、あなたと、あなたの父親との関係を疑っ
てみてください。

 多分、あなたの中には、(父親像)が、じゅうぶん、ないのではないかと心配されます。不幸に
して、不幸な家庭に育ったとか、あるいはいつもあなた自身の父親を拒絶して、大きくなったと
か。

 この問題は、根が深いですから、そのあたりまで、あなたの心にメスを入れてください。

 なお、だからといって、心配することはありません。この問題は、それに気づくだけでも、問題
のほとんどは、解決したものとみます。あとは時間が解決してくれます。

 つぎに、ままごとについてですが、「ままごとをするから、女性化する」というのは、偏見でしか
ありません。男児と女児の遊びをコントロールするのは、ある特殊なホルモンであることは、よ
く知られています。

 そのホルモンが、女児を男性化するということは、あります。が、男児の女性化は、それだけ
では説明できない部分があります。

 そこで(お父さんの登場)ということになります。

 お手紙によれば、どこか(お父さん不在的)であるのが、気になります。男児(もちろん女児
も)の子育てを受けもつのは、お父さんの役目です。お父さんが、「男」というものは、どういうも
のかを教えていきます。ともすれば、濃厚な母子関係で、マザコン化しがちな子育てを、修正し
ていくのが、お父さんの役目ということになります。

 行動の限界や、社会的なルールを教えていくのが、お父さんの役目ということです。

 むしろ心配されるのが、母親中心型家庭における、子どものマザコン化です。

 女性化するというのと、マザコン化するというのは、別の問題です。どうか混同しないでくださ
い。

 お母さんが、そのかわいさに負けて、子育てに溺れてしまうと、子どもはマザコン化すること
があります。どうか、気をつけてください。

 この際、重要なことは、お父さんを、もっと子育ての場に、引き出すことです。方法としては、

(1)お父さんを、立てる、です。

 重要な決定は、お父さんに任す。なにごとにつけ、「あなたのお父さんは、すばらしい」と子ど
もに教える。お父さんの立場で、「ぼくがいないと、何も進まない」という雰囲気をつくりだしま
す。

 まずいのは、子どもの前で、お父さんをけなしたり、批判したりするような行為です。これを心
理学でも、「三角関係」と呼びます。子どもの情緒が不安定になるばかりか、家庭教育そのも
のが、崩壊します。「夫婦げんかばかりをしていた」ということだそうですので、この点が、強く心
配されます。だいじょうぶですか?

 SSさんの問題は、広く、多くのお母さんたちが、平等でかかえる問題です。このアンサーだけ
では、じゅうぶん答えられたとは思っていません。これからも、マガジンのほうで、いろいろな角
度から考えていきたいと思っています。

 どうか、マガジンの購読を、お願いします。(このところ、低調で、かなり腐っています。ハハ
ハ!)

 お手紙、ありがとうございました。ところで、H幼稚園の、原N園長先生は、すばらしい先生で
すね。今回、お会いして、本当に驚きました。この浜松市にも、ああいう園長先生がいるという
ことは、誇るべきことです。少子化の中で、H幼稚園だけは、園児の入園を断っているというの
は、驚きでしかありません。何かの機会がありましたら、くれぐれも、原N先生に、よろしくお伝
えください。

+++++++++++++++++++++++

参考までに、「男らしさVS女らしさ」について
書いた原稿を、添付しておきます。

+++++++++++++++++++++++

●男らしさ、女らしさ

 男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られてい
る。

男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある
程度の性差があることも知られている。

そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということらしい。
(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏
見を生む。)

男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。た
とえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。

その友人には二人の娘がいたのだが、その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかり
ほしがる」と。そこでその友人は、「男と女というのは、生まれながらにして違う部分もあるので
はないか」と。

 が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別
をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこ
んなことはある。ごく最近、あった事件だ。

 私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからか
っても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や
肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中
のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)

が、女児の中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてく
るのだ。しかしそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為
は誤解を生む。その女の子(小三)もそうだった。

何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイスに座って休んでいると、平気でそのひ
ざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもかわした。が、ところが、である。その女
の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私にヘンなことをする」と言いふらしていると
いうのだ。

私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(う
わさ)は決定的にまずい。親に言うべきかどうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視
しなさい」と。

 この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には
微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしそ
の微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。

昔の日本人はそう考えたが、あくまでもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男
らしく」「女らしく」と言うだけで、差別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代は
すぐそこまできている。そういう前提で、この問題は考えたらよい。

++++++++++++++++++++++

●教師は聖職者か?

 知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとな
ったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。

 この性欲をコントロールすることは、不可能? 

よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするというが、禁欲などできるものではないし、またそれを
したところで、あまり意味はない。知性(大脳新新皮質)の活動が、すばらしくなるということは
ない。もともと脳の中でも、機能する部分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性
はアンドロゲンで、女性はエストロゲンとプロゲステロンによって、コントロールされている。)

あるいはホルモンをコントロールすれば、性行動そのものもコントロールできることになるが、
それは可能なのか。いや、可能かどうかを論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性
欲があるから、聖職者や出家者として失格だとか、性欲がないから失格でないと考えるほう
が、おかしい。

 私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さ
んと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、
性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。

が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日常生活の中でうまくコントロールできるかどうか
ということ。これについては、まさに「知性」がからんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行
動」の間には、一定の距離がある。この距離こそが、知性ということになる。

 ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近
は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着
に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。

そういうとき目のやり場に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを
相談すると、その教師はこう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。

 一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、と
もかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性が
あるということにはならないが、しかしこんなことはある。

 私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろ
んのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をし
てきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。つまり平常心で、風呂の
中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)

とくに相手を、「母親」と意識したとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい
現象だと思う。長い前置きになったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私は
こうした議論そのものが、ナンセンスだと思う。

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●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」
「とくに女性であるからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。

それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になっ
た。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。

たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば遊んだ
で、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまっ
たくない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。そ
の中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と
いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。

つまり「昔のままでいい」と。男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なよう
だ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以
上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・
九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家
事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。 

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家庭とは、本当に天国か?
世の男たちは、そう思っているかもしれないが、
家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、
相当なものである。それについて書いたのが
つぎの原稿です。
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●家庭は兵舎

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。

「育児で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。
が、最大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。あ
る男性は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なの
か」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。

これも私の経験だが、私も若いころは、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごと
に、キャンプをしたり、クリスマス会を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。
が、三五歳を過ぎるころから、それができなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。

たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の中における、自己愛の喪失を例にあげている。つ
まり一般世間から、隔離された状態に長くいると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪
失するという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育
児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、
子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を
数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作
成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……
二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四
九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。

ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中で、「おかしいのは私だけ」
「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方をする。そして自分で自分を
責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。

●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから
大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なお
さらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛であ
る。

Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!
(はやし浩司 心的外傷論 J・ハーマン(Herman))

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

前線の子育て論byはやし浩司(209)

【世間体意識】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。具体的には、「そんなことをすると、世間が許さない」「世間が笑う」「世間体が悪い」
などという言い方をする。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか
も、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その、世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われている
かを気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気に
する。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

●ある中学生との会話

 少し前、ある子どもとこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言う子どもが、嫌いだ。ほしかったら、
ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサ
イフをどうすればいいかを、みんなで考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だから国立大学へ入っ
てもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)が落ちていれば、それを拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを崩さなかった。そればかり
か、座っている息子の背中を、時折、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していない別の足のほ
うを、マッサージしてみせたりした。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんは別にして、だれしも、ある程度は、他人の視線を気
にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自分でない行
動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うなところがある。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにして
いる。他人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしているのがわかる。つまり、世間
体を気にしている。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一のあげる特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 15年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されたようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていただけである。

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。ひとり
息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

 もう一つの特徴としては、当然の結果なのかもしれないが、世間を基準とした価値観をつくる
ということ。他人の目の中で生きるということは、それを意味する。

 処世術としては、たいへん楽な生き方ということになる。自分で考えて、自分で責任をとるま
えに、「他人はどうだ?」というようなものの見方をする。

 前例主義、復古主義、保守主義、追従主義など、それから生まれる生きザマは、いろいろあ
る。

 しかしこうした主義をもてばもつほど、ノーブレイン(思考力ゼロ)の状態になる。自分では、
自主的な行動が、できなくなる。

●世間体との決別

 今、世間体を気にしている人は、多い。あなた自身もそうかもしれないし、あなたの夫や妻
も、そうかもしれない。

 あなたの親戚の中には、ひょっとしたら、世間体だけで生きている人がいるかもしれない。

 しかし一度、世間体にとらわれると、それと決別するのは、容易なことではない。このことは、
子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。

 たとえば先にも書いた、「ぶりっ子」の問題がある。このタイプの子どもは、あらかじめ、「こう
いうことをすれば、みなに、いい子に思われるだろう」、「こういうことを言ったり、したりすれば、
先生にほめられるだろう」ということを、計算しながら、行動する。

 それ自体が、その子どもの自己主張の場になっているから、それを改めさせるのは、簡単な
ことではない。つまりこうした生きザマは、子どものときから始まっている。それだけ「根」が深
い。それに気づいたからといって、明日やあさってに、改められる問題ではない。

 それに他人の目、つまり世間体をまったく否定してしまうと、かえって問題が起きることがあ
る。人は、周囲の社会生活とうまくなじんでこそ、人である。そのために、世間体が、人間関係
を、スムーズにすることもある。

 あまり深く考えなくてもよい問題については、それなりに世間体に身を任すことによって、より
楽に解決できる。とくに冠婚葬祭の世界においては、そうである。私も結婚式の祝儀、あるい
は葬式の香典などは、そのつど、世間体に相談しながら、決めている。

 ただ、ここで言えることは、そんなわけで、世間体がもつ問題は、まさに10年単位の問題で
あるということ。一朝一夕(いっちょういっせき)に、生きザマを確立することができないように、
自分の中に潜む世間体と戦うことは、簡単なことではない。

 むしろ年齢とともに、多くの人は、ますますがんこになり、世間体に固執するようになる。世間
体の上に、さらに世間体を塗り重ね、独特の価値観を築くことも少なくない。ある女性(80歳く
らい)は、会う人ごとに、いつもこう頼んでいた。

 「私は何も望みません。ただ私が死んだら、どうか葬式に来て、線香の一本だけでも立ててく
ださい。どうか、どうか、さみしい葬式だけはしないでください。よろしくお願いします」と。

 その女性は、最後のしあげとして、自分の葬式のあり方に、こだわっていた。

【付記】

 この原稿を読みかえしてみて、私は、「仮面」と、「世間体」を混同していることに気づいた。
「他人の目を気にして生きる」という点で、共通点を私は、求めた。が、無理があるようだ。少し
おかしなところはあるが、このまま収録し、後日、また書き改めることにする。
(はやし浩司 世間体論 世間体)
(040703)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(210)

【参観の心得】

 子どもを伸ばす参観、子どもの伸びる芽をつむ参観……というのがある。

 最近、学校でも、前もって届け出さえすれば、自由に参観できるようになったところが多い。し
かし問題がないわけではない。

●子どもは、ほめる

 「子どもの欠点を見つけたら、ほめる」は、大鉄則!

 たとえばあなたの子どもが、あまり発言しなかったとき。あなたの子どもの声が小さかったと
き。そういうときは、参観のあと、あなたは、あなたの子どもにこう言う。

 「あなたは、前より、じょうずに発言できるようになったわね」
 「あなたの意見、すばらしかったわよ」
 「あなたは、前より、声が大きくなったわね」
 「お母さん、うれしかったわよ」と。

 この時点で、欠点を指摘すると、それがマイナスのストロークになってしまう。子どもはますま
す自信をなくしてしまう。

●姿勢が悪いのは、親の責任

 子どもが授業中、ダラダラしたとする。体をもてあまし、机におおいかぶさったり、だらしなく、
体をクネクネさせたりする。

 そういうとき、子どもを叱っても、意味はない。

 子どもの姿勢は、親の責任。子どもに、責任はない。原因は、食生活。

 まず疑ってみるべきは、CA、MG不足。筋肉の緊張を維持するのは、カルシウムイオン。そ
のカルシウムイオンが不足すると、子どもの体は、ダラダラする。

 海産物を中心とした献立にきりかえるだけでも、子どもの姿勢は、みちがえるほど、よくなる。

 同時に、甘い(白砂糖)の多い食品、リン酸食品を避ける。詳しくは、はやし浩司のサイトで。

●神経質な参観は、百害のもと

 中に矢のように鋭い視線を投げかける親がいる。そういう親が参観していると、教える側も、
授業がやりにくい。本当にやりにくい。

1、2度ならともかくも、そういった参観が何回もつづくと、教室全体の雰囲気が、ピリピリしてく
る。親どうしも、ピリピリしてくる。が、それだけではない。もっと深刻な影響が、子どもに現れて
くる。

 子どもから、子どもらしい伸びやかさが消える。さらにひどいばあいには、子どもは内閉し、
萎縮する。(中に、反対に粗放化する子どももいる。)チラチラと親のほうばかりを気にするよう
になる。

 子どもが親を見る瞬間は、時間にすれば、まさに瞬間。数分の1秒もないのではないか。そ
の瞬間に、子どもは、親の心の中にあるものを知る。

 もし子どもの授業を参観していて、イライラするようであれば、参観などしないこと。これは子
どものためでもあるし、あなた自身の健康のためでもある。

●報告、批判は、タブー

 参観をしたあと、ほかの親に、「お宅の子は、こうでしたよ」「あの先生の教え方は……」など
と、報告したり、先生の批判をしたりするのは、タブー中のタブー。

 親どうしの何気ない一言が、トラブルの原因になることは、多い。しかも間に子どもがからん
でいるため、大問題に発展することも。

 報告をするにしても、その子どもや、授業のよい点だけにとどめる。

はっきり言おう。

 親の笑顔を、決して信用してはいけない。笑顔は、まさに女性の化粧のようなもの。その笑顔
を信じて、あれこれ話すと、それこそたいへんなことになる。

 「私は、おおらかです」「私は、気にしません」「私は、子どもに勉強しろと言ったことはありま
せん」「子どもは、伸びやかなのが一番です」と、ことさら、おおげさに言う親ほど、要注意(失
礼!)。

 親は、そして人は、外の世界では、あえて本当の自分とは、正反対の自分を演じてみせるこ
とがある。これを心理学の世界でも、「反動形成」という。

 「私は気にしませんから、うちの子が、学校ではどんな様子か、何でも話してください」と言わ
れたときほど、何も話してはいけない。

●子どもに問題がなければ、参観は最小限に!

 参観は、それをする親は、親の勝手だと思うかもしれない。しかし同時に、参観することによ
って、ほかの子どものプライバシーをのぞくことにもなる。のぞかれることを、死ぬほどつらく思
う親もいるということ。それを忘れてはいけない。

 そんなわけで、不必要な参観は、できるだけひかえる。それは、問題をかかえた子どもや、そ
の親への(思いやり)ということになる。

 たとえば私の教室は、原則として、公開している。親たちの参観は、自由。しかし問題がない
わけではない。

 中には、「ほかの親たちが見ているから、いやです」と、入会を断ってくる親もいる。

 そこで私のばあい、子どもたちを楽しませることはもちろんのこと、参観している親たちをなご
ませることに、神経を使う。いっしょに、笑わせたりする。30年以上のキャリアの中で、私がつ
かんだ技法である。
 
●雑則

 ほかにも、いろいろルールはある。

(1)スパイ参観はしない。

 廊下かどこかに隠れて、こっそりと子どもの様子を参観する親がいる。親は、こっそりと見る
ことで、子どもの姿をより正しく(?)知ろうとする。

 しかし教える側にとって、スパイ参観ほど、不愉快なものはない。何かしら、疑われているよう
で、いやな気分になる。盗聴器か何かをしかけられ、監視されているかのような、不快感であ
る。

 参観するならするで、堂々とすること。

(2)親どうしのつきあいは、淡々と、教育だけの範囲にとどめる。

 10人に、1人は、神経質な親がいる。20人に1人は、「?」な親がいる。そういう親にからま
れると、それこそ転校(転園)ということにも、なりかねない。

 だから親どうしのつきあいは、淡々とするがよい。何年もつきあい、相手のことがよくわかっ
たあとであれば、話は別。しかし最初のころは、慎重に。

 私も、若いころは、母親たちが、みな、コワ〜イおばさんに見えた。幼児教育は楽しいが、親
とのつきあいは、そのため苦手だった。

 その「恐ろしさ」を、いやというほど、私は体験している。

 子どもを伸ばすも、つぶすも、参観のし方しだいということになる。

( )参観していると、気分が楽になり、楽しい。
( )自分の子どもというより、教室全体のムードが楽しい。
( )自分の子どもは、伸びやかで、明るい。どこへ出しても恥ずかしくない。

 ……というのであれば、参観をしたらよい。反対に、

( )教室へ入ると、重苦しく感ずる。いやな雰囲気。
( )全神経が、自分の子どもに集中する。子どものささいな言動が、そのつど気になる。
( )自分の子どもは、できが悪いように思う。問題が多いと思う。

 ……というのであれば、学校の先生に任せて、参観は、できるだけひかえたほうがよい。
(はやし浩司 参観 参観授業 参観の心得 授業参観)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(211)

【雑感・あれこれ】

●アジア人の歴史が、180万年!

 今朝のY新聞によれば、ジャワ原人の起源が、180万年前までさかのぼれることがわかった
という。180万年、である!

 いわく「アフリカで進化したとされる、人類が180万年前には、アジア東部に進出していた可
能性が高いことを、国立科学博物館のKB研究者らが突き止めた」と。

 これまでは、中国北部の遺跡、約135万年前が、最古の証拠と考えられていた(同)。

 現在の人間が、ジャワ原人の子孫であるとはかぎらないが、それにしても、180万年とは!

 私はそのニュースを読んで、しばらくしてから、ワイフにこう言った。「その間、神様は何をして
いたんだろうね」と。

 人間の歴史は、シュメール人によるメソポタミア文明と、黄河流域に住んでいたヤンシャオ人
(?)による黄河文明で、幕をあける。それまでを石器時代という。

 つまり人間の歴史は、長くみても、たかだか5500年にすぎない。かりに180万年を180セ
ンチの糸にたとえると、人間の歴史は、最後の1センチの半分にすぎない。「神が人間をつくっ
たというのなら、その間、神は何をしていたのか」ということになる。

 そこで二つの仮説が考えられる。

 人間の歴史、つまり歴史を生み出すほど人間を知的な生物にしたのは神、と考えるなら、人
間の遺伝子と、神とは、深くからんでいる。これが第一の仮説。わかりやすく言えば、神が、人
間の遺伝子を操作した。

 反対に、進化論おける突然変異という考え方を取り入れるなら、人間は、今から5500年前
に、何らかの方法で、突然変異をした。そしてそのとき、同時に、神という概念を自ら、つくりあ
げた。わかりやすく言えば、人間が神をつくった。

 私には、この先のことはわからない。

 しかし先の仮説をさらに推し進めると、こんな仮説も生まれる。

 ある日、どこか遠い天体から、私たちが言うところの宇宙人が、この地球へやってきた。そし
て地上に遊ぶ原人たちを見て、その原人たちに自分たちの遺伝子を組みこんだ……。

 この説は、すでにいくつかのカルト教団が信奉している説であり、その中には、かなり活発に
活動している教団もある。その中でも、たとえばHというアメリカの教団は、集団自殺事件まで
起こしている(99年)。

 だからこうした説を唱えるには、慎重でなければならない。このところ、SF(科学空想)とカル
トの境界が、どこかあいまいになってきている。

 しかしその一方で、人間だけが、この宇宙でゆいいつの知的生物であると考えるのは、人間
だけが、この地球でゆいいつの生物であると考えるのと同じくらい、無理がある。

 宇宙には、太陽のような星だけでも、中田島砂丘にある砂粒の数よりも多くの星々がある。
そしてそれらの星々は、これまた無数の、地球のような惑星を従えている。私たちが太陽と呼
ぶ星にしても、星の中では、小さいほうだ。いわんや、地球をや。地球の直径は、その太陽
の、数百分の一。

 私は、個人的には、人間の遺伝子は、知的な生物によって、いじられているという説を信ず
る。事実、脳の中でも、新・新皮質部と呼ばれる部分は、特異な進化(?)の過程を経ていると
言われている。

 しかし180万年前とは!

 今、私はこの原稿を、山荘にこもり、エンヤ(イーニャ)の曲を聞きながら、書いている。その
せいもあるのかもしれない。ふと、こんなことを感じた。

 「1万年前も、10万年前も、そして100万年前も、今、私が見ているのと同じ景色が、そのと
きどきの人間の目の前に広がっていたのだなあ」と。時空を超えた感動というか、そんなもの
が、胸に伝わってくる。

 燃えるように輝く、夏の日の木や草。さわやかな風。青く澄みとおった空。森のにおい、木々
の香り。一見、平面的に見える世界だが、その世界は、無数の世界が積み重ねられて、今の
世界をつくりあげている。

 「人間はどこからきたのか? それを改めて考えさせられた」と書けば、あまりにも見えすい
た結論になるのかもしれないが、私は、頭の中で、そんなことを考えた。

【追記】

 コンピュータ(人工知能)、遺伝子工学、そして核エネルギー。これら三者は、知的生物の三
種の神器(まさに神器だが)とも言われている。

 これら三者が、時を同じくして、人間の世界に生まれたというのは、ただ単なる偶然なのだろ
うか。もちろん相互に関連しあいながら、発達したのは事実。遺伝子の解析には、コンピュータ
の力が必要だった。

 で、今朝も犬のハナにエサを与えながら、こう思った。「この犬が、コンピュータを操作できる
ようになるまでには、まだ100万年はかかるかもしれない。しかし人間の遺伝子をハナの中に
組みこめば、この犬だって、5000年を待たずして、コンピュータを操作できるようになるかもし
れない」と。

 しかしそれがその犬にとって、幸福なことであるかどうかは、わからない。犬は犬のままのほ
うが、ひょっとしたら、幸福なのかもしれない。ということは、人間は、へたに頭がよくなった分だ
け、不幸になったとも考えられる。

 人間はともかくも、ほかの生き物たちは、私たち人間のおかげで、ずいぶんと迷惑をさせら
れている。生物の種類と数からいえば、人間より、ほかの生物のほうが、はるかに多い。

 死んだあと、何かに生まれ変わるということがあるとしても、人間が、人間に生まれ変わる確
率は、ぐんと少ない。人間以外の生物に生まれ変わる確率のほうが、はるかに高い。

 ひょっとしたら人間は、「パンドラの箱※」をあけてしまったのかもしれない。この結果という
か、結論は、1万年とは言わない。ここ100年とか、1000年の間に、出るだろうと思う……。

※パンドラの箱
ゼウスが、すべての悪と災難を封じいれて、パンドラに与えたという禁断の箱。これをあけてし
まったため、中から貪欲、中傷、虚栄などの諸悪が飛び出し、あとには、希望だけが閉じこめ
られたという。パンドラの壺(つぼ)という説もある。


●貪欲、中傷、虚栄

 パンドラの箱について、「日本語大辞典」(講談社)を調べていたら、「貪欲」「中傷」「虚栄」の
三つの言葉が出てきた。

 もとの単語、つまり原語では、どんな単語を使っていたのかは、わからないが、この中で、私
は、「虚栄」という言葉に、心がひかれた。「そうだったのか。虚栄も、悪だったのだ」と。

(日本語への訳語が正しくないということは、よくある。それに原語と訳語とでは、ニュアンスが
微妙にちがうということも、よくある。)

 貪欲や中傷が悪だというのは、わかる。しかし虚栄も悪だったとは……?

 その虚栄。しばしどんよりと曇った空を見ながら、考えさせられる。台風7号と8号が、日本近
海にいるせいかもしれない。どこか雲行きが、あやしい。そんなことは、どうでもよいが、しかし
……。

 昔、虚栄心のかたまりのような女性がいた。そう言えば、「金色夜叉」(こんじきやしゃ)(尾崎
紅葉原作)の中でも、寛一が、お宮に向って、「お前は、虚栄心の強い女だ!」と叫ぶようなシ
ーンがあったような気がする。

 虚栄は、その人の心を狂わす。そればかりか、その虚栄に操られた人たちを、不幸にする。
実際、虚栄心の強い人の近くにいると、疲れる。こちらまで、気がヘンになる。

 その虚栄心のかたまりのよう女性だが、年齢は、35歳くらいだった。いつも幼稚園へ、和服
姿でやってきて、ザーマス言葉を使っていた。私も、そしてほかの先生たちも、みな、その女性
は、大金持ちの奥様か何かだと思っていた。

 しかしある日のこと。ワイフとドライブをして、郊外のスーパーへ立ち寄ったときのこと。私は、
その姿を見て、心底、驚いた。

 ……ただ、こう書くといって、そういうところで働いている人が、「下」とか、そういうことを言っ
ているのではない。和服を着てはだめとか、ザーマス言葉を使ってはだめとか、そういうことを
言っているのでもない。どうか、誤解のないようにしてほしい。私は、あまりの落差に驚いたとい
うこと。

 その女性は、惣菜売り場の奥で、惣菜料理をしていた。

 私とワイフは、見てはいけないものを見たような気分になり、そそくさとその場を離れた。

 それからも1年ほど、その女性を、よく見かけた。最後の最後まで、つまり幼稚園を去るま
で、ずっと和服姿だったし、ザーマス言葉を使っていた。遠い昔のことだが、その女性は女性
で、そういう形で人生を楽しんでいたのかもしれない。「虚栄」とは言いきれないところもある。

 しかしそのときは、私も若かったこともあり、そういう女性を理解できなかった。

 多かれ少なかれ、だれでも虚栄を張って生きている。私もあなたも、だ。そう言えば、犬だっ
て、虚栄を張ることがある。

 私はよくハナ(犬)を、散歩に連れていく。その散歩でのこと。どこかの飼い犬がハナを見つけ
て、けたたましくほえたりすると、あのハナが、背筋をピンとのばし、速度をあげて走り始める
のである。

 明らかに、相手の犬を意識しているよう。それまで、ハーハーとあえぎながら走っていたにも
かかわらず、そういうときは、背筋をピンとのばす。そのつど、私は、「犬だって、虚栄を張るの
だなあ」と思う。

 ……となると、虚栄が悪だとは言えないのではないか。ただ親の虚栄で、夫や妻、さらにはそ
の子どもたちが犠牲になるということは、よくある。親の虚栄で、無理やり進路を変えられてし
まった子どももいる。

 そういう虚栄は、悪である。

 しかしその人自身が、その人だけの世界で虚栄を張るのであれば、問題はない。見方によっ
ては、それがドラマ。人間が織りなす、ドラマ。そのドラマが、人間の世界を、うるおい豊かなも
のにする。一概に、悪と決めてかかることはできない。
 

●サッカー選手

 今夜、東京で、JOMOオールスター・サッカーの試合が行われている。ワイフと、その試合を
見る(7・3、Jイースト対Jウェスト戦)。

 現在、私の教室(BW教室)に、その中の二人の選手のお嬢さんたちが、通ってきてくれてい
る。応援しないわけがない。Fさんと、Tさんである。父親のF選手と、T選手は、ワールドカップ
の出場選手にも選ばれている。

 F選手は、ときどきいっしょに教室へやってきて、お嬢さんのレッスンを参観している。見るか
らにスポーツマンというような、ハンサムな人だ。

 ただ教室の中では、その話題には、いっさい、触れないようにしている。私がすべきことは、
陰で応援すること。ただひたすら、密かに! F選手、T選手、がんばれ!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(212)

●日本VSアメリカ

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少し前、アメリカの教育について書いた。
それについて、少女時代をアメリカで過ごした
経験のあるSKさんという方から、メールを
もらった。

まず、SKさんの意見より……

++++++++++++++++++++++++++

【SKより……】

(前略)

……歴史教育、国としての意識というのは、どうしても教育現場で密接な
関係を持つものなので、「国のつごうのよいように、子どもを教育しては
いけない」という、先生の指摘されたスタンスはとても大事だな、と
思いました。

簡単に「都合のよいような教育」をしてしまう恐れがある
ものだから、良識の範囲で上手にブレーキをかけていくことが必要
ですよね。

 私が住んでいた町では「米国史」だけしか、高校生でも学んでいません。
選択科目に世界史があったかもしれませんが。で、教科書には
太平洋戦争なんかは「ある日、日本軍がパールハーバーを襲撃してきた」
で始まり、2行だけ「長崎、広島に原爆を落として戦争は無事に終了しました」
と書いてあるのです。

 アメリカから見た、アメリカ人教育の授業なのだから当然なのかもしれませんが。
12月7日は、在米の日本人はとても肩身が狭いのは今も変わらないと思います。
(特に車の工場地帯であるシカゴ、デトロイトなどでは。)生たまごを投げられたり
とか、罵声を浴びせられたり。

 アメリカでは原爆は「全てを終わりにしたヒーロー」なのですから、
スミソニアン博物館でエノラゲイの展示はされて当然なんですよね。

 国が違い、歴史観と意識が違うのだから、そのあとの国際理解は遠い
ですよね。せいぜい、ゲイシャ、フジヤマ、ポケモンなんですから。
Kill Billも、ここに入りますか。

 SATというのも、数学能力と英語運用能力だけを問うテストだから、
歴史や社会科のもろもろはテストには必要がないんですよね。

で、知ってしまわれると、世論に影響もでるから教えたくないというのが
アメリカの、学校側の言い分なのではないかな、と思うぐらいです。

 自分の居場所が大事だから、自分の国を擁護したいし守りたいから、
大人は都合のいいように理解をし、子どもに与えていく。それが
空気のように「常識」としてみなに浸透していくものだから、断ち切るのが
難しい。意識って、怖いですね。

 かといって、歴史教育は、年表を覚えるだけでは意味をなさないのは
長年の日本での教育現場で立証済みですが。

(メルマガより)

 「昨年も、アメリカの大学を訪れた、東大のある教授が、こう言って驚いていました。

 『休み時間になると、学生たちが列をつくって、教授室の前に並ぶんですね。みな、質
問だの、相談だのを、教授にするためです。日本では見たことがない光景だけに、驚きま
した』」と。

 はやし先生の、この話についてですが、
私のいた学校では、教室の黒板の片隅に必ず Extra Helpの時間が書いてありま
した。

わからないところがあれば、先生に聞きにいける放課後の時間です。(これは7
年生以上の全教室に書いてありました。)

 先生に提出した課題でも、できが悪いと、先生の方から Please come for
extra help.と書かれて戻されました。

小学校の頃からでも「知る権利」を子ども達は持っていて、それを先生にぶつけ
ていくシステムになっているんですよね。

そうやって、debate力も、小さい頃からつけ
ていく。だから、大学生になっても、教授はつかまえる対象なんです。

 日本の子どもたち、大学生たちが「私には知る権利がある!」なんて吠えることは
まずないでしょう。ほっておいても、教育が受けられると思っているでしょうから、
獲ってくるハングリー精神はないんですよね。

 アメリカだと、1人でも多くを出し抜くためには、どれだけ「奪ってくるか」は
本人にかかってます。これも、「待ってても知識はこない」ことを、知ってる人
たちだからです。

 「自由」「平等」「権利」 日本にはまだまだ、身にしみていない概念なのかも
しれません。しみていなくても十分生活ができるのですよね。

(メルマガより)

 昨夜、ビデオショップの宣伝につられて、『Kxxx Bxxx』という、和製、アメリ
カ映画を見ました。

 一人の若いアメリカ人女性が、自分の夫や子どもを殺されたことを復讐するため、単身、
日本へ乗りこんできて、日本刀で、バサバサとギャングを切りまくるという映画です。
 
これは、クゥエンティン・タランティーノ監督のKxxx Bxxxのことですよね。あ
れは、ハリウッド映画です。

タランティーノ監督は、PFという映画も撮っています。(これは評価
が高かったようですが)

 タランティーノ監督は、日本のやくざ映画などがお好きらしいですね。
日本映画もよくご存知のようで、そのモチーフや内容の多くを 
Kxxx Bxxxでも、織り込んでいるときいてます。

(私はみていないのでなんともいえませんが。)

 で、Kxxx Bxxx の第一作はあまりに評判が悪かったので、第二作はしっとりま
とまってるらしいというのも聞いています。

 Kxxx Bxxxも PFも、構成はバラバラ、らしいです。そういう手法
の監督なんでしょう。

 でも、「日本映画に関心がある」監督が、ハリウッドを意識したら、こういう映画に
仕上げてしまうところに怖さを覚えます。「奇異な国」を演出するのに都合の
いい映画になったことでしょう。

 と、アメリカにとって、日本は今、とても気になる無気味な国なんだと思います。

いろんな作品を手がけ、映画やアニメなどのソフトが大量に流れ出て、
でも、アメリカの根底を揺るがす力を「持ってしまっている」「理解できない
国」なんだと思います。

 そんな不安が Kill Billにも出ていたのではないでしょうか。
その不安を、日本人映画ファンたちはどう理解したのでしょうか。

+++++++++++++++++++++

【SKさんへ……】

 いろいろご指摘、ありがとうございました。

●Kxxx Bxxxについて、

 「Kxxx Bxxx」について、和製ハリウッド映画というのは、私のまちがいでした。(ごめんなさ
い)

 実は、あの原稿を書いた直後に、それに気づき、訂正しなければならないと思いつつ、忘れ
てしまいました。

 しかし改めて言います。「意味のない映画です」と。突発的にキレては、無表情なまま、人間
をバサバサ切っていく。その繰りかえしの映画です。


●Extra Helpについて

 SKさんからいただいたメールの一部を、あとで、その教授に送っておきます。その教授は、
自分のHPのほうでも、それについて書いています。「驚いた」と。

 くだらないことですが、私は学生で、オーストラリアへ言ったとき、最初、この「extra」という単
語が、よく理解できませんでした。辞書をひくと、「余分の」とある。そこである日、友人に、使い
方を聞いたら、こう教えてくれました。

 「一人、4個ずつクッキーを渡された。みんな4個ずつ、平等に食べた。しかし1個だけあまっ
た。そこでその家のホステス(家長)が、その1個を、自分にくれた。その1個が、extra oneに
なる」と。

 extra helpが、あるとは、私も知りませんでした。ご指摘、ありがとうございました。

 アメリカでも、オーストラリアでも、大学での講座は、ちょうど私たちがデパートで、ものを買う
ように、1講座ずつ買うのですね。(実際には、目的とする学位取得のために、まとめて買うこと
が多いようですが……。もちろん1講座ずつ買うこともできます。)

 この「買う」という意識は、日本の学生には、ない意識なので、私も、当初、とまどいました。学
生課へ相談に行くと、「君は、どの講座とどの講座を、選ぶのかね」と聞かれたのを覚えていま
す。

 だから向こうの学生は、シビアですね。

 このことは幼稚園教育でも、学校教育でも同じです。

 日本では、行政(県市町村)は、私立学校、私立幼稚園という法人に対して、補助金を支給し
て、財政的支援をしますね。

 アメリカでは、直接、子どもをもつ親に、現金を渡します。「バウチャー」と呼ばれる、クーポン
券を渡すこともあります。

 つまり一度、親たちが、現金をにぎるわけです。そしてその現金をもって、親たちは、つぎに
幼稚園や学校の選択にかかるわけです。だから親もシビアなら、それに答える幼稚園や学校
もシビアになります。

 「教育は与えられるものではなく、自分たちで買うもの」という意識が強い、……というより、こ
の意識は、日本人の私たちにはないものです。このあたりの意識のちがいを理解しないと、ア
メリカ人やオーストラリア人の考え方を理解できないのかもしれません。

●「奪ってくるもの」という意識

 私も、よくボランティアで、メルボルン大学の教室で、日本語を教えていました。そのときのこ
と。

 一人の学生が、「助詞の『わ』と、『は』の使い方を教えてほしい。どういうときに、『私が』とな
り、どういうときに、『私は』となるのか」と。

 私が、「わからない」と、とまどっていると、その学生は、つづけて、私にこう言いました。

 「あなたは、この講座で、金を受け取っているのか?(Are you getting paid for this l
ecture?)」と。

 そこで私が、「いいや、受け取っていない。ボランティアだ」と答えると、その学生は、そっけな
く、「それならいい」と。

 「金を受け取っているなら、容赦しない」というような雰囲気でした。

 SKさんの「うばってくる」という部分を読んで、私の体験を思いだしました。と、同時に、競争
主義社会のきびしさというか、それを改めて、思い知らされました。いえ、私もアメリカ社会のこ
のきびしさを知っているのですが、日本の中で長く暮らしていて、そのきびしさを、忘れかかっ
ていました。

 10年ほど前ですか、どこかの大学で研究生をしている女性が、こう言っていました。「アメリ
カでは、新しい分析機器が入っても、その使い方を、だれも教えてくれない。『知りたかったら、
自分で勉強しろ』という雰囲気です」と。

 あるいは、Yさんという日系のアメリカ人は、こう話してくれました。アメリカで、公的機関で、福
祉介護の指導員の仕事をしています。日本でいえば、公務員ですが、それでも、「どんどん新し
いアイデアを出していかないと、すぐクビになってしまう」と。

 さらに大学の講師として、1年契約制をとっているところが多い。ヘタな講義をして、学生が集
まらなかったりすると、その講座は、容赦なく、閉鎖される。と、同時に、その講師は、クビ。

 ……いろいろありますが、そういうアメリカというか、外国の現状を知れば知るほど、日本の
社会が、ぬるま湯に見えてきます。

 そのぬるま湯に、どっぷりとつかって、「やはり、日本はいいなあ」と思っている人も多いわけ
ですが、しかし日本全体の未来を考えると、そうであってはいけないのではないでしょうか。

●アメリカ史

 アメリカでは、パールハーバーと、広島、長崎の原爆しか教えていないという指摘についてで
すが、私は、「そういうものだろうな」と思っています。

 地図で、日本と同じくらいの大きさの国を、さがしてみました。

 たとえばエチオピア。あるいは、ソマリアなど。アメリカから見れば、日本も、エチオピアもソマ
リアも、同じなんですね。アメリカでは、中南部あたりへ行くと、大学生でも、日本がどこにある
かさえ知らない。

 だからといって、アメリカ人を責めてはいけない。日本の高校生でも、アメリカがどこにあるか
さえ、知らないのが、推定でも約40%はいる! ホント! 

 アメリカから見た日本は、日本から見た、ホンジュラスのようなもの? ホンジュラスがどこに
あるか、地図でそれを正確に指摘できる日本人は、まずいないと思います。

 ……何とも意味のない話になってきましたが、それだけに、アメリカ人にとっては、日本は、
「異質な国」なのでしょうね。70年代から80年代にかけては、「奇異な国(strange countr
y)」と呼ばれていました。

 今でも、その印象は変わっていないと思います。ただ悲劇的なのは、こうした外国から見た、
日本の印象について、当の日本人の私たちが、それに気づいていないということです。「私たち
は、まともだ」と思いこんでいる? 

 私がオーストラリアにいたころ、よく日本の政治家がやってきて、ハウス(カレッジ)で食事をし
ていきました。

 しかし日本の政治家で、食後、スピーチをして帰ったのは、一人もいない。みんな、何を聞か
れても、ニヤニヤと、笑っているだけ。「すべてわかっています」というような雰囲気で、です。

 ほかの国の政治家は、みな、堂々とスピーチをして帰りました。韓国の金外務大臣(当時)で
すら、英語で、スピーチをして帰りましたよ。

 今でも、この状態は、変わっていないと思います。SKさんもお気づきかと思いますが、国連
大使ですら、へたくそな英語で、原稿を棒読みにしているだけ。見ている私のほうが、つらくな
ることも、しばしばです。

 何かが、おかしいのです。この国は……。ホント! そのおかしさに、まず気がつくこと。すべ
ては、ここから始まります。

 ……と、長い前置きになりましたが、日本と欧米では、歴史の教え方がちがうということは、
私も、最近、知りました。(社会科教育には、ほとんど関心を払ったことがありませんので…
…。これは弁解。)

 日本のように、ダラダラと年表に応じて、歴史を教えるというよりは、一つのテーマを決めて、
その部分を徹底的に教え、学ぶというのが、欧米の歴史教育のし方みたいですね。先日、スペ
インに在住の、Iさんという方から、そう教えてもらいました。たとえば数か月をかけて、フランス
革命について、勉強するとか、など。

 このあたりで日本式教育の常識についても、考えなおしてみる必要があるようです。もちろん
すべてが悪いわけではない。しかし、改めるべきは、改める。

 東大の元教授の田丸先生(田丸謙二・元日本化学会会長)も、こう書いています。

 「アメリカなどではこの激動する時代に適応すべ、15年前頃から教育改革に乗り出し、例え
ば、理科教育など、それまでは鯨の種類など理科的知識を教えていたのから、理科的知識が
生まれる過程を重視して、物事を探求的に考える考え方に重点を置くように切り替え、その考
え方が,歴史や社会など、すべての学科の基本になるという。

この改革の過程では関係団体とも連絡を取りながら、実に150回以上の公開討論会を行な
い,最後には4万冊の原案を各方面に配布して意見を集めて決めている。

我が国の教育改革のように文部科学省の密室の中で原案を作って、今回の「ゆとり教育」のよ
うにいざ始まってから、あまりの不評に取り繕いを余儀なくされる無責任体制とは余りにも違っ
ている」と。 

 要するに、アメリカは、「知識教育」から、「自ら考える子ども教育」への転換をはかったという
ことですが、こうした傾向が、あらゆる科目に浸透しているということでしょうか。

●広島、長崎の原爆

 ちょうどこの原稿をマガジンで発表するころは、広島、長崎の原爆記念日のころですね。(予
定では、8月4日号)。

 私がいつも疑問に思うことは、こういうことです。

 広島に原爆が投下され、日本は敗戦した。しかしその約1週間後には、アメリカの原爆調査
団が、広島に入っている。

 そのときのこと。アメリカの原爆調査団は、各地で歓迎され、手厚いもてなしを受けていると
いうことです。アメリカの原爆調査団に対して、ただの一発も、抵抗運動がなかったということで
す。

 もともとあの戦争には、戦うべき、正義がなかったのですね。正義があれば、フランスのレジ
スタンス活動のようなものがあったはずです。あるいは、今のイラクのような抵抗運動でもよ
い。

 このあたりが、外国人には、理解できないところのようです。

 つい先日も、パキスタン人の男性(35歳くらい)と話しあったのですが、彼は私にこう聞きまし
た。

 「日本人は、アメリカ人に、ひどいめにあっているではないか。広島、長崎の原爆を見れば、
それがわかるだろ。どうしてその日本人が、こうまでアメリカに追従するのか」と。

 どうしてでしょうね? 私なら、原爆調査団に、こう言って食ってかかっていったでしょうね。

 「どうして、こんなひどい爆弾を投下したのか! バカヤロー!」と。

 当時の日本人は、自分で考えて行動し、意見を言うということができなかったのかもしれませ
ん。何でもかんでも、「上」の言いなり。まさに国民全体が、ロボット化していた? 私には、そう
としか思えません。

 で、その結果が、SKさんが、おっしゃる、「アメリカでは原爆は、全てを終わりにしたヒーロ
ー」ということになるのでしょうか。

 アメリカ人の友人(元高校教師)は、こう言いました。

 「ヒロシ、もしあのとき、アメリカが、日本に原爆を落としていなかったら、日本は、スターリン・
ソ連の占領下に入っていただろうね。あの原爆を見て、スターリンは、北海道侵攻を思いとど
まったんだよ」と。

 彼は戦時中、水兵として、地中海で船に乗っていたそうです。そしてアメリカへ帰ったところ
で、日本の原爆投下を知ったそうです。

 当時の日本にしてみれば、ルーズベルト・アメリカでも、スターリン・ソ連でも同じようなもの。
しかし結果的にみると、ソ連でなくてよかったと、心のどこかで思います。もしソ連だったら、今
ごろは、K国のようになっていたかもしれません。

 長い返事になってしまいましたが、最後まで(多分)、読んでくださって、ありがとうございまし
た。

 またどうか、ご意見などあれば、お寄せください。たいへん(x100倍)、参考になりました。あ
りがとうございました。

 また、いただきましたメールの掲載など、どうかご許可ください。よろしくお願いします。

                             はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(213)

●「親を捨てた!」

 K国から脱北し、46年ぶりに日本へ帰ってきた女性(60歳)がいた。今は、家族とともに、韓
国に住んでいるという。

 その女性が、その46年ぶりに、日本に住む母親に会った。しかしその母親は、その娘に、こ
う言った。「私はお前に会いたくない」「お前は、借金だけを残して、日本を出て行った」「お前は
死んだものと、あきらめていた」「今さら、会いたくない」と。

 テレビの報道番組の1コマだったので、会話の内容は、不正確。しかし大筋では、こんなよう
な会話だった(7月4日)。

 私は、親子が泣きながら、再開を喜びあう光景を期待していた。しかし実際には、そうではな
かった。この46年間に、たがいの間に、いろいろなことがあったのだろう。またその女性が、K
国に渡るについても、いろいろなことがあったのだろう。私のような人間には、思い知ることの
できない、複雑な事情があるようだ。

 が、全体のニュアンスでみると、母親の心情としては、「親を捨ててK国へ行った娘など、今さ
ら、会いたくない」ということらしい。その女性は、母親の家から帰ってくる、そのバスの中で、外
を見ながら、さめざめと泣いていた。

 何があったのだろうか。

 その報道を見ながら、いろいろ考えてみた。しかし幸福な家庭というのは、どれもみな、よく似
ている。どんな様子か、容易に想像がつく。しかし不幸な家庭というのは、決して一様ではな
い。そのため、私がもっている経験と情報だけでは、理解できないことが多い。

 どうしてそこまでこじれてしまったのだろうか。そうなる前に、もっと何かできなかったのだろう
か。

 在日朝鮮人と結婚して、K国へ渡った娘。この段階で、その母親には、きわめて不本意な結
婚だったのかもしれない。……という判断も、してはいけない。「私だったら、こうだから……」と
いう考え方も、してはいけない。安易な推察は、かえってその人たちを苦しめることになる。そ
れに失礼だ。

 それにそんなことをしても、何も問題は解決しない。できない。その人たちのもつ不幸が軽く
なるわけでもない。

 何とも重苦しさだけが残る、報道番組だった。ただゆいいつ救われたのは、飛行機に乗って
家族の待つ韓国へ帰るとき、その女性が、どこかさわやかな表情をしていたことだ。私はそれ
を見て、「よかった……」と思った。

【追記】

 話は変るが、外国の男性と結婚して、外国へ出て行った女性に対して、概して見れば、日本
の親たちは、冷たい(?)。無理解。

 不安や心配を押し殺す形で、愛を憎に変える(?)。ある女性(日本人)は、ある国の男性と
結婚した。その男性は、アフリカ系の肌色の黒い人だった。それについて、その女性の両親
は、「恥ずかしい」という理由で、その女性(娘)を勘当(かんどう)してしまったという。

理由ははっきりわからないが、その男性の皮ふの色が、気に入らなかったからではないか。

 勘当……聞きなれない言葉だが、もともとは、「罪を勘案し、刑を与えること」(日本語大辞
典)という意味だが、それが転じて、「主従、師弟、親子の縁を断つこと」「江戸時代以降は、親
が子を絶縁すること。勘当されると、相続権を失った。義絶」(同)とある。

 もちろん現在の民法上の拘束力は、ない。

 しかしなぜ……?、という質問は、ヤボである。なぜ、その両親は、娘を勘当してしまったの
か。この問題をつきつめていくと、そこに日本人独特の島国意識が見えてくる。

 が、こうした偏見は、その偏見をもつ側は、いつも優越感にひたることができる。しかし、偏見
をもたれるほうは、そうでない。しかしその気持ちとて、自分が、外国へ出てみて、はじめてわ
かる。

 たとえばアメリカでは、アジア人は、「イエロー」と呼ばれている。多くの日本人は、自分たちは
アジア人ではないと思っているが、彼らは区別しない。区別できない。

 その「イエロー」は、同時に、「臆病者(おくびょうもの)」という意味でも使われる。映画『バッ
ク・ツー・ザ・フュチャー・3』の中でも、その言葉が使われている。

 主人公のマーティは、相手の男に、「イエロー」とバカにされたことで、決闘することを決意す
る。そんなシーンが出てくる。覚えている人も多いと思う。

あの西部開拓史時代でも、アジア人だけは、銃をもたなかったことが理由とされる。つまり白人
の世界から見ると、アジア人は、ことアメリカにおいては、黒人以下と見られていた。(黒人は
黒人で、人種偏見をもっている。少なくとも、黒人は、アジア人を、はるかに下に見ている。)

 もちろんこんな偏見は、まちがっている。おかしい。くだらない。が、日本だけに住んでいる
と、こういう国際的な偏見に、気づかない。気づかないまま、「自分たちが世界の中心に住んで
いる」と思いこんでしまう。

 しかし自分の娘が、肌の黒い男性と結婚すると言い出したら……。そのときあなたなら、ど
う、するだろうか。どう判断するだろうか。

 実はこの問題は、逆の立場で、私自身が、経験した問題である。

 二男はアメリカ人の女性と結婚した。私のほうにも、いろいろと克服すべき問題はあったが、
相手の両親には、もっと大きな問題があったはず。

 もともと人種差別、偏見が色濃く残っている、アメリカの中南部地方である。そこは、ジョンウ
ェィンの世界であり、映画『風と共に去りぬ』の世界である。私の実感としては、「よく相手の両
親が、承諾してくれたな」というところか。相手の両親にしてみれば、「まだ黒人と結婚してくれ
たほうが、まし」ということになる。

 が、この日本では、同じアジア人との結婚にすら、偏見をもっている(?)。在日朝鮮人と結婚
した日本人妻たちが、国を追われるようにして、K国へ渡っていった背景には、そういう偏見が
あったのではないのか。

 ……というようなことを考えながら、私は、今、ふと、こう思った。

 「その母親もまた、そういう偏見を克服することができなかったのではないのか?」と。「だか
ら46年ぶりに自分をたずねてきた娘に、すなおな気持ちで会えなかったのではないのか」と。
(040705)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(214)

【みなさんの意見から……】

 当然のことながら、マガジンを発行していると、賛否両論、いろいろな意見をもらう。今週も、
あった。

(国旗について……)「日本は、そもそも単一民族だから、国旗や国歌にこだわる必要はない
のではないか。国旗や国歌が必要なのは、多民族国家である。そういう国では、国をまとめる
ために、国旗や国歌が必要である。しかし日本には、そもそも、その必要性がない。なりゆき
に任せればいい」(53歳・男性)

(先生と親とのトラブルについて……)「今は、スクールカウンセラーが、担当することになって
いる。トラブルがこじれそうになったら、カウンセラーが、その間に入ることになっている。その
ため、もっとスクールカウンセラーを、学校でふやしてほしい。ちなみに、私の子どもの通う中
学校では、週1回しかきてくれない」(40歳・女性)

(父親を立てろという意見に対して……)「今は、父親が、なおざりになっている時代と言ってい
い。母親と話していても、母親が、『主人が賛成してくれません。どうか主人を説得してください』
などと言う。そういう家庭が多い」(45歳・教師)

(注、かっこ内の年齢については、お子さんの年齢などから、推定でつけました。)

++++++++++++++++++

SKさんが、こんな返事をくれた。
SKさんは、少女時代を、アメリカで
すごしている。

++++++++++++++++++

【SKより……】

●プロ意識

プロはお金を代償としてもらうもの。そうなんですよね。
これは、アメリカの子どもたちが町中でレモネードを夏場に
売って小銭を稼ぐのと共通するかもしれません。

そういえば、こんなことも思い出しました。中学校のときに
友人が新聞配達のアルバイトをしていました。で、一週間の
夏休み中、私が代わりに仕事をしたことがありました。

もちろん、親の協力がないとできないバイトなのですが、
まずは新聞販売店に行って、自分の担当個所の分の新聞を
自分で先に全て「買い取って」くるのです。担当個所といっても、
20件ほど。それも、向こう(アメリカ)の新聞は分厚くて大きい。

最初に買い取ってきて、自転車にくくりつけて、自分で一軒
一軒配達にいく。で、配達先と事前に話をつけておいた日に
「集金」に行くのです。中学生が、自分で。集金できなければ
自分のふところが痛んだままなんです。

支払いをしぶる人とどう交渉するか。犬のいる家ではどんな
ふうにすり抜けるか。小切手で支払われたら銀行に行って
現金化してこないといけない。雨で濡れて台無しにしたら
その分の「収入」はないんです。それに、謝ってまわらないと
いけない。どんなに怒鳴られるかも分からない。

子どもながらに、責任が問われて、その分の代償が手に
入るようになっているのです。で、ボーイスカウトをやってる
ような子なら、こういう集金のときに、ついでに、ボーイスカウト
のクッキーを売って歩いたりするのです。

"Are you getting paid for this?" (お金を受け取っているか?)(注1)
とても大きなファクターになっていますね。逆に、"not getting
paid"なら、だれも構ってくれないぐらいで。

夏の一週間の新聞配達と集金を思い出しました。

(注1)これは、私(はやし浩司)が、ボランティアで
英語をオーストラリアの学生に教えているとき、彼らの
質問に答えられなかったことに対して、ひとりの学生が、私に
言った言葉。「お金を受け取っているなら、質問に答え
れないのを許さない」という意味で、その学生は、
そう言った。




●歴史

日本人は「国際社会に参加してる」と思っていますよね。ヨーロッパで、
アメリカで、「アジア人」という枠でどれだけ蔑まれているかを
知らないですよね。

それも、理由も、あるのだか、ないのだか分からない差別を。

でも、日本人は「アジア人である」という自覚もない。だからちょっとの
海外旅行でも不快な経験をされた方は少なくないのではないでしょうか。

もっと「アジア人」で、「日本人」であっていいと思うのです、この国民は。
でも、なんとなく「英語がしゃべれたほうがかっこいい」って具合に
会話の決り文句ばかりを覚えていくのですよね。

それじゃ、内容のある話はついてこないのに。どうして英語教育の
低年齢化ばかり進むのでしょうね。

文科省のみなさまには、もう少し現場を見つめてもらいたいものですね。
生徒達、先生方、父兄、みながこんなに悲鳴をあげているのに。




●原爆

アメリカの人たちに、原爆の話をしても、「パールハーバーを攻撃しなきゃ
よかったんだろ」という具合に話を転嫁してしまいます。

私が中2のときの社会科の授業で、「日本から見た」太平洋戦争の
一部分を、レポート提出した事がありました。もっとも、私の母が
知っている程度の知識を、英語で表現しただけでしたが。

私の社会科の先生はそのレポートをクラスで朗読しました。
金目のものは全部アメリカ軍に持っていかれた、だの、松やにをあつめて
燃料にした、だの。そういう話です。

クラスの仲間が、びっくりして、泣き出したのを今でも覚えています。
授業が終わってから、私に謝りにきたクラスメイトも数人いました。
知らないだけ、なんですよね。

歴史。日本人は、渡航すれば日本の代表です。1人でも多くの人が、
ほんのわずかでも、日本のことを語っていく必要がある。自覚をもって
「日本人」にならないといけないですよね。

ルーズベルト・アメリカか、スターリン・ソ連か。当時の日本にしてみれば
同じようなもの、だったでしょうね。同感です。そして朝鮮半島は
地理的に、分断されやすい場所にあったといえるのでしょうね。皮肉な
話です。


また長くなってしまいました。先生もお忙しいことでしょうから、
返信は不要です。またメルマガで思うところがあったら
メールします。

【SKさんへ……】

 いつも鋭い、ご指摘、ありがとうございます。実際の体験者であるだけに、ご意見には、ほか
にはない迫力があります。たいへん参考になりました。

 昨夜(7・5)は、10時ごろ床についたのですが、あれこれ考えているうちに、頭がサエてしま
い、1時間ほど、眠れませんでした。

 「このまま地球は、どうなってしまうんだろう」とか、そんなことを考えてしまいました。中国の広
東省の広州市では、熱波で、39人もの人が、死んだそうです(「北京青年報」)。

 いわく、「(気温が39度をこえ)、広州市救急センターの救急車出動件数は、7月1日が331
件、2日は277件で、例年平均を大幅に突破。一日の出動件数は『この10年間で最高記録』
(同センター)という。同市政府は、特に高齢者に対し不必要な長時間の外出を控え、水分を
十分に取るよう注意を呼び掛けている」と。

 あのメルボルン市では、今年の1月、気温がやはり、40度近くにまでなったそうです。私が学
生代のころには、世界一、温暖な気候で知られていた、あのメルボルン市で、です。

 たまたま火星探査機の計画が、話題になっていますね。どこか「地球も火星のようになるぞ」
と、そんなふうに脅されているかのようにも思えます。これから先、この日本も、熱波に襲われ
そうですね。

ただ日本は、四方を海に囲まれていますから、ラッキーと言えば、ラッキーですが……。だから
こそ、世界という場で、リーダーシップを発揮しなければならないのですが……。いろいろ考え
てしまいます。

 このマガジンが配信される、8月6日は、広島の原爆記念日の日です。(今日は、7月6日で
す。ちょうど1か月先の原稿を書いています。まぐまぐプレミアのほうは、有料マガジンで、発行
を忘れたりすると、ペナルティーを科せられたりするからです。)

 今年も、どこかの小学生が、群集の前で、声高らかに、平和宣言をするのでしょうが、私はあ
あいうことを、平気でさせる、主催者の意図が理解できません。アルカイダの連中が、少年に、
自爆攻撃をさせるのと、どこがどうちがうというのでしょうか。

 つぎの世代の子どもたちのために平和を用意してあげるのは、私たち、おとなの役目です。
「戦争はいやだ」という理由で、逃げまわるのは、平和主義でも何でもありません。「いざとなっ
たら、平和を守るためには、戦争をも辞さない」という、強い気がまえがあってはじめて、平和
は守れるのですね。しかしそんな宣言を、子どもたちにさせるわけにはいかない……。

 「戦前の日本のように、もう外国を侵略しません」とでも、宣言するのなら、まだ話はわかりま
す。しかしそんなことは当たり前のことではないでしょうか。どちらにせよ、子ども自身が自分で
考えてそう宣言するならまだしも、おとなの操(あやつ)り人形のように、子どもを利用するの
は、許されないことです。

 ……と、まあ、いろいろ考えてしまいます。

 地球環境、戦争と平和、そして教育、日本の未来などなど。今、私たちがもっと真剣に考えな
ければならないテーマは、多いですね。ただとても残念なのは、私の周囲でさえ、こうした問題
を考えている人たちが、少なくなってきているということです。地球温暖化にしても、このまま、
あれよあれよと思っている間に、どんどんと進んでいくのでしょうね。たいへん、こわいことです
が……。

 ご意見をいただいたことについて、改めて、お礼申しあげます。ありがとうございました。また
どうか、どうか、ご意見をお寄せください。お待ちしています。

                            はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(215)

【近況・あれこれ】

●健康管理

 昨日(7・5)、隣町のR中学校で、講演をさせてもらった。

 睡眠も、8〜9時間とった。朝、風呂に入って、コンディションも整えた。またR町へは、予定よ
り、30分ほど早く、着いた。

 しかし、である。それでもあの暑さには、まいった。駅をおりて、タクシーに乗るころには、もう
ヘトヘト。「こんな調子で、どうして講演ができるのだろうか」と、思ったほど。講演がなければ、
家の中で、身を横たえ、休んでいたかもしれない。

 このところ、健康管理が、ますますむずかしくなってきた。どこがどうということはないのだが、
自分の体を(ふつうの状態)に保つだけで、精一杯。しかし私などは、まだよいほうかもしれな
い。

 おととい、2か月ぶりに、京都の友人(57歳)と会った。彼などは、目の前で、堂々と、いろい
ろな薬をのんでいた。「精神安定剤に、高血圧用。それに尿酸値が高いので……」と。

 私はまだ、そういった薬の世話にはなっていないのだが、それでも、健康管理が、たいへ
ん! 実は、今朝も、午前4時に目が、さめてしまった。クーラーにタイマーをかけて寝たのだ
が、そのタイマーが切れるころ、目がさめてしまった。今では、もうクーラーなしでは、眠ることさ
えできない。

(おととしまで、クーラーなしで、がんばったぞ!)

 さあて、これからもう一度、眠りなおすつもり。時刻は、午前6時。この書斎の扇風機は、
「中」。窓も大きくあけた。それでも、ドカンとした熱気。

 今日も暑くなりそう。先ほど、アメリカに住む息子に、こんなメールを書いた。

 「今、日本は、ハリー・ホッターの世界だ」と。ハリー・ポッターをもじった。

 全国のみなさん、おはようございます!


●経済的余裕

 子育てには、お金がかかる。本当に、かかる。で、そのお金だが、必要な額だけでは、足りな
い。どう足りないかは、子育てをしたものだけが、わかる。

 かりに、学費が年間、300万円。生活費が年間、150万円かかるとする。合計で450万円
ということになる。

 が、それではすまない。事故やけが、病気、失敗などの損金は、別。詐欺にひかかることもあ
る。そうした費用を、10〜20%は、みておかねばならない。が、実際には、かなり余裕がない
と、そうした出費を、おおらかにとらえることができない。

 先日も、Aさん(母親)が、こう言った。「娘が、大学で落第して、1年、留年することになりまし
た。それで、その間、半年くらい、オーストラリアで語学の勉強をすることになりました。

 航空券も買い、さあ、出発しようという段階になって、ビザが、まだ取れていないことがわかり
ました。

 航空券は、キャンセル。向こうの大学も、キャンセル。何もかもおかしくなって、それでおしま
い。が、当の娘は、のんきなもの。今度は、カナダへ行くと言っています」と。

 少子化が問題になっている。しかしこの日本では、子育てに、本当に、お金がかかる。すべて
を政治の責任にすることはできないが、どう考えても、政治が悪い。大学という法人には、莫大
な補助金を、どんどんと注ぐ。だから校舎だけは、どこも立派。本当に、立派。

 しかし肝心の、子どもをもつ親には、いっさい、補助は、なし。

 だから私は、あえて言う。「子どもは、1人か2人まで。3人目、4人目は、およしなさい。この
日本では、家計がパンクしますよ」と。


●限界

 マガジンを発行して、もう2年になる。しかしこのところ、何かと限界にきたようだ。数日前も、
ワイフとこんな会話をした。ありのまま……。

私「少し、マガジンを休もうか?」
ワイフ「そうね……」
私「少し、疲れた……」
ワイフ「週、1回程度にしたら……」
私「いや、それも疲れた……」と。

 ……ということで、いろいろ考えている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【空き巣物語】


●不審な男

 話せば長くなるが、30年ほど前、全国でも有名な空き巣を、つかまえたことがある。つかまえ
たというより、逮捕に協力したことがある。

 そんなこともあって、私は、空き巣には敏感。独得のカンが働く。実は、今日もそうだった。

 私とワイフが、居間にいると、一人の男が、裏の戸をあけて、庭の中に入ってきた。そのと
き、ワイフと視線があった。

 年齢は50歳くらい。髪の毛の80%前後が白髪(しらが)の男だった。

ワイフ「何か?」
男「このうちは、宮Nさんではないですか?」
ワイフ「ちがいますよ。この近くに宮Nという人はいません」
男「そうですか。失礼しました」と。

 庭へ入ってくるためには、うちの駐車場をくぐりぬけねばならない。裏には、塀があって、カギ
がある。それを開けねばならない。簡単には入れないし、また簡単に入れるような雰囲気では
ない。

 私はワイフと男の会話を聞きながら、内心で、「こんなところまで入ってくるなんで、失敬なヤ
ツだ」と思っていた。

 が、私は、ちょうど出かけるところだった。そのまま、玄関のほうに出た。庭と玄関は反対側
にある。

 その玄関を出たところで、その男に、ばったりと出会った。

私「住所は、どこになっていますか?」
男「7xxxですね」
私「まったく、番号がちがいます。このあたりは16xxxです」
男「ははは、そうでうね。まったくちがいますね」と。

 見ると、明らかにカタログが入っている透明の封筒をもっていた。名前は、宮Nとある。が、そ
のときピンときた。

 男は、ちょうど止めてあった、車にのるところだった。見たこともないようなボロボロの車だっ
た。天井の塗装ははげ、めくりあがっていた。バンパーも似たようなものだった。

 私はポケットから携帯電話を取り出すと、その車の写真を、うしろからとった。

 私は車が出ていくのを見送ったあと、自転車で美容院に向かった。

●美容院で……

 その男への疑念が大きくふくらんできた。考えてみれば、おかしなことが多い。

(1)カタログなど、わざわざ配達するだろうか。
(2)もちろん郵便局でも、宅配便業者でもない。
(3)家の番号も調べないで、庭の中まで入ってくるだろうか。
(4)男は、ボロボロの車に乗っていた。

 美容室のイスに座ったまま、私は、ワイフに電話をした。

私「あのな、このI町に、宮Nという人がいるかどうか、町内の名簿で調べてみてほしい」
ワイフ「わかったわ」と。

 美容院の女性も興味をもったらしい。「空き巣ですか?」と聞いた。「そうかもしれない」と、私
は答えた。

美容院の女性「服装は、どうでしたか?」
私「まったく、ふつうの服装でした。上がTシャツで、下がズボン……」
美「顔は……」
私「まったくふつうでした。ごくふつうの男性という感じ。そう、とくに印象が悪いといったふうでも
ありませんでした」と。

 しばらくしてからワイフに再び、電話した。

私「宮Nという人は、いたか?」
ワイフ「そんな名前の人は、この町内には、いないわ」
私「やっぱりね……。警察に電話したほうが、いいだろうか……?」
ワ「そうね……。一応、してみたら……」と。

●警察に……

 携帯電話から110番に電話すると、静岡県の本部につながった。事情を話すと、浜松市の
警察の電話番号を教えてくれた。

 その番号に電話すると、さらにその電話は、地元のKOBANに転送された。私は、一部始終
をていねいに話した。

私「庭へ来るといっても、用のない人は、簡単には入れないところです」
警察官「車のナンバーは覚えていますか」
私「はい、携帯電話で、とりましたから」
警「浜松ナンバーでしたか?」
私「たしか、そうだったと思います」
警「車は、どんな車でしたか?」
私「それがですね、見たこともないような、ボロボロの車でした」
警「ああ、そうですか。すぐパトカーをそのあたりに送ります」と。

 横で会話を聞いていたもう一人の美容師の女性が、「空き巣ですか?」と聞いた。私は、「ま
ちがいないでしょう」と答えた。

私「最近、多いですよ。こういう時勢ですから、軒並み、入られています」
美「こわいですね」
私「私のワイフのテニス仲間の友人なんか、今年に入って、二人も入られています」
美「二人も、ですか?」
私「それもね、一人は、初詣にでかけている間に入られましてね。『もう二度と初詣はしない』な
どと言っていますよ」

美「それはそうでしょうね。何を信じていいのか、わからなくなりますからね」
私「15、6万円も盗まれたそうです」
美「15、6万円も、ですか!」
私「同窓会の会費だったそうです」
美「いやですね」と。

 人を疑うことの不快感が、心のどこかに残った。「黙っていよう」という思いが、なかったわけ
ではない。しかし考えれば考えるほど、その男への不審感がました。そして自分に、何度も、
「まちがいない」と言って聞かせた。

●警察官

 美容院から帰ったとき、ワイフに、「警察は来たか?」と聞いた。ワイフは、「まだ……」と答え
た。と、そのとき、電話が鳴った。

 「林さんの宅ですね。警察のものですが、これからおうかがしていいでしょうか」と。私は、そ
れに答えて、「それまでに、携帯電話の写真を、プリントしておきますから」と約束した。

 が、そのときワイフがこう言った。

ワイフ「向こうから、話しかけてきたのよ」
私「向こうから? お前の方ではなかったのか?」
ワ「向こうよ。ここは、宮Nさんのお宅ではないですか?、と」
私「それじゃあ、空き巣ではないかもしれない」

ワ「どうして?」
私「空き巣なら、先に逃げるだろ……」
ワ「でも、私のほうが先に見つけたから……」
私「逃げるに、逃げられなかったのかなあ……」
ワ「……そうかもね」と。

 写真をプリントアウトしたところへ、警察官が一人、やってきた。大型のパトカーだった。私
は、裏の庭へと案内した。

警察官「この通路を通らないと、庭へ入れないのですね」
私「そうなんです。ふつうの人は、入りません。宅配業者の人は、絶対に入ってきません」
警「そうでしょうね」と。

 屋根つきの駐車場といっても、人が通れる部分は、やっとその分の幅しかない。それに暗い
トンネルのようになっている。よほど私の家の勝手を知りつくした、重要な用のある人ならとも
かく、ふつうの人なら、この通路は遠慮する。入り口には、「猛犬注意」の張り紙がしてある。

警察官「あちこち、その車をさがしましたが、見つかりませんでした。色は何色でしたか?」
私「濃い、ブルーだったと思います。色だけは、しっかりと記憶しました」と。

 写真では、ナンバーまでは読めたが、その前のひらがなまでは、読めなかった。

警察官「浜松ナンバーでしたか?」
私「はいそうだったと思います」
ワイフ「私も、そう思います」
私「それに宮Nという人は、このあたりにいません。市内には、2人いますが、どの人も、住所
がちがいます。それに男がもっていたカタログの番地は、めちゃめちゃでした」
警「わかりました。写真は、もらっていってよいでしょうか」
私「もちろん、いいです」と。

 警察官は、あちこちをながめながら、20分ほどで帰っていった。

私「空き巣だったら、あの程度の小道具は、あらかじめ用意しているよ」
ワイフ「そうよね。そうでないと、いざというとき、あやしまれるから」
私「それにしても、あんなカタログ一枚を、わざわざ届ける人なんて、いないよ」
ワ「いないわよね」と。

 玄関に立ってそんな会話をしているとき、昼下がりの熱気が、道路から、ドカッと伝わってき
た。

 空き巣め! 私は許さないぞ! ぜったいに、つかまえてやる! 今日は7月6日、火曜日。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(216)

●平和教育

 平和? ……平和を宣言したからといって、平和など守れるものではない。

 もう少し、具体的に考えてみよう。

 少し前、中国が、東シナ海で、天然ガスの試掘に成功した。日中の境界線(中間線)ギリギリ
のところである。

 これに対抗して日本側は、日本政府がチャーターした調査船「ラムフォームビクトリー」(排水
量一〇、二九七トン)で、資源探査を開始した。7月7日のことである。

 が、中国も、だまっていない。

 前後して、日本の鳥島周辺で、海底調査を始めた。まさにたがいに、(やられたら、やり返
す)の応報である。

 もちろん、こうした応報には、どこか軍事的な衝突の危険がともなう。日本が、東シナ海で、
資源探査を開始したそのとき、この日、古庄幸一海上幕僚長が、探査海域に近い海上自衛隊
那覇基地を訪れている。

海幕関係者は「以前から決まっていた部隊視察。政府の調査とは関係ない」としているが、わ
ざわざそう断らなければならいところが、問題。当然のことながら。中国側は、「高い関心を払
っている」(中日新聞)と。

 で、こうした流れからもわかるように、国際紛争というのは、ある日、突然、始まるのではな
い。少しずつ、たがいの軋轢(あつれき)が積もり、やがてそれが国際紛争へと、つながってい
く。

 戦争というのは、あくまでもその結果でしかない。また平和というのも、その結果でしかない。
さらに戦争は、まさに国際政治の延長線上にある。

 もし平和主義というものがあるとするなら、そのはるか手前の段階で、発動されなければなら
ない。つまりここに、平和教育のむずかしさがある。

 もし平和宣言とやらをするつもりなら、その前の前の段階。たとえば今の段階で、する必要が
ある。

 「中国が、私たちの国の領海で、天然ガスを試掘しても、私たちは、文句を言いません。どう
ぞ、自由に試掘して、貴国のお役にたててください」と。

 それができないなら、……つまり、「殺されても、文句は言いません」という平和主義を貫くこ
とができないようであるなら、平和もまた、現実的にとらえなければならない。「私たちは戦争を
しません」「平和を守ります」と、宣言したところで、何の意味もないのである。また宣言したから
といって、守れるものではない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己中心的な子ども

 わがままで、自分勝手。少しでも気にいらないことがあると、ワーワーと叫ぶ。が、そのくせ、
がまんができない。

 精神の完成度は、いかに利他的であるかで知ることができる。つまり自己中心的であればあ
るほど、その人の人格の完成度は、低いということになる。子どもとて、例外ではない。幼児と
て、例外ではない。

 その幼児のばあい、ていねいに観察すると、その「芽」を知ることができる。人格の完成度の
高い子どもになるか、どうかを、その段階で知ることができる。

 が、ここで大きな問題にぶつかる。

 たとえば今、ここにきわめてわがままで、自分勝手な子どもがいたとする。頭も悪くない。そ
の上、もの知り。親も、子どもの教育に、熱心。手間をかけている。時間も、金もかけている。
が、典型的なドラ息子。ドラ娘。

 そういう子どもをもつ親に、子どもの問題点を指摘しても、意味がない。親自身が、その自覚
がないというより、私のもっている尺度と、ちがった尺度をもっている。むしろそういう子どもほ
ど、できのよい子どもと思っている。……思い込んでいる。

 そこで私は、そういう子どもを、教えたくないと思う。「知恵をつけるにしても、その知恵をつけ
るのは、私でありたくない」と思う。若いころなら、もう少しフレキシブルに考え、「お金のため」と
割り切ることができた。しかし、今は、もうそういう妥協ができなくなった。

 ワイフに言わせると、「あなたも、融通がきかなくなったわね」ということか。

 たしかにそうだ。そうかもしれない。脳が老化し始めたのかもしれない。あるいはアルツハイ
マー病の初期症状かもしれない。が、私は、そうは思わない。

 私の人生も、いよいよカウントダウンの段階に入ってきた。平均寿命からすれば、まだ20年
は生きられるかもしれない。しかし幼児教育は、実にハード。どうハードかは、恐らくやっていな
い人には、理解できないだろう。1時間、幼児に接すると、それだけで、体も心も、ヘトヘトにな
る。

 あと、3年か。あるいは5年か。そういうことを考えると、教えたくない子どもは、教えたくない。
私がここでいう、「大きな問題」というのは、それをいう。が、それだけではない。

 ここ10年、若い母親たちと、女子高校生たちの区別が、つかなくなってきた。同じように見え
る。若い母親たちは、「私は高校生たちとはちがう」と思っているかもしれない。しかしそれほ
ど、差があるわけではない。

 ドラ息子、ドラ娘とは言うが、もし母親が、そのドラ娘だったら、どうするのか。つまり子どもの
人格の完成など、求めるほうが、無理。期待するほうが、無理。そういう母親の子どもである。

 「お宅のお子さんですが……」と言い出しても、そのとき、パタリと、自分の口が閉じてしまう。

 もし、あなたの子どもが、わがままで、自分勝手なら……、いや、まず、親自身が、それに気
づかねばならない。それに気がつかない親に、いくら子どもの人格の完成度を説いても、意味
はない。

 10年ほど前だが、こんな子どもがいた。中日新聞に発表した原稿を、そのまま掲載する。

++++++++++++++++++++++

●生意気な子どもたち

子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学三年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。しかしおとなをおとなとも
思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえている。

問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえるか、
である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。

彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。

「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」
と。

母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほか
にも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や
はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。

具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強しか、させていな
い。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀だ」と、錯覚して
いる。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見
かけの人間味にだまされてはいけない。

いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、いかにす
れば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究してい
る。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

++++++++++++++++++++

 念のため申し添えるなら、こうして自分が一度でも教えた子どもの悪口を書くのは、私の本意
ではない。しかしあえて、現実を知ってほしいから、私は書いた。と、同時に、あなたの子どもに
は、そうなってほしくないから、私は書いた。

 そこで改めて人格の完成度。

 仮にたとえば今、ある幼児の母親が、私に、「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてく
れればいい」と言ったとする。あるいはそれに近い態度を、見せたとする。

 子どもは、放っておけば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。そういうとき、あなたなら、ど
うするだろうか。

 お金のため……と、割り切って、仕事をつづけるか。それとも、……?

 もう一つの選択として、こうした親を説得して、親や子どものもつ問題点を理解してもらうとい
う方法もないわけではない。しかしそれには、ものすごい時間と労力がかかる。それに今、この
タイプの親は、ゴマンといる。決して、一人や二人ではない。

 一方、心のやさしい親や子どももいる。人格の完成度の高い人たちである。いきなりこういう
結論を書くと、どこか青年の主張のような、歯が浮いたような言い方になるが、今、私は、こう
思う。

 私がすべきことは、そういう親や子どもが、将来、少しでも住みやすい環境をつくってあげる
こと、と。それが今の私の、人生最後の仕事のような気がする。


●エリート意識

エリート意識にも、善玉と悪玉がある。

生きる誇りというか、プライドというか、そういうエリート意識を、善玉エリート意識という。

 昔、アルゼンチンのブエノスアイレスでタクシーに乗ったときのこと。そのホテル直属のタクシ
ーだったが、その運転手の身のこなし方が、外交官以上に外交官のようであったことに驚い
た。

 見るからに、その運転手は、自分の仕事に誇りを感じているようだった。そういうのが、善玉
エリート意識という。

 一方、悪玉エリート意識というのもある。

 ある市の役人は、堂々と(ヌケヌケと)私にこう言った。

 「林さん、このH市は工員の町ですよ。いいですか、工員を働かすためには、工員には、金
(マネー)をもたせないことですよ。そのために、市には、たくさん娯楽施設を作って、工員に金
を使わせるようにするのです」と。

 50歳を過ぎた、エリート職員だった。私は「30年も役人をしていると、こういう発想をするよう
になるのか」と驚いた。

 が、こうした悪玉エリート意識は、その仕事の中で、作られていくものらしい。そしていつか、
それが常識になってしまい、そのおかしさが、自分でも、それがわからなくなってしまう。

 こんなことを言う人もいた。彼はある都市銀行で、部長職にある人だった。

 「私は、道路工事で、旗を振っている人にもですね、頭をさげることにしています」と。

 つまり自分は、それだけ弱者の立場でものを考えることができる人間だと言いたかったのだ
ろう。しかし、その発想そのものが、悪玉エリート的。

 どうして道路工事で、旗を振っている人が、弱者なのか? 実は、そういう職種の人を「下」に
見ているのは、その人自身に、ほかならない。頭をさげることなど、当たり前のことではないの
か。あるいは、そういうふうに気をつかうこと自体、失礼というもの。

 ……実は、こう書きながら、こうした悪玉エリート意識は、子どもの世界にもある。子どもは、
受験戦争というあの戦争を通りぬける過程で、それを身につける。何を隠そう、私自身も、か
なり長い期間、その悪玉エリート意識をもっていた。30歳くらいまでか。それとも35歳くらいま
でか。

 その悪玉エリート意識と、自分の中で戦うために、かなり苦労をした。そんな記憶が、心のど
こかに残っている。

 当時は、大学は、一期校と二期校に分かれていた。さらに旧帝大と旧高校との差もあった。
私が卒業した金沢大学は、その一期校だった。旧第4高等学校が、その前身だった。私はい
つしか、(当時のほとんどの学生がそうであったと思うが……)、「私はエリートだ」と思うように
なってしまった。

 つまり同じ大学生でも、そうでない大学の学生を、「下」に見るようになってしまった。

 しかしこんなエリート意識、「カエルのヘ」にもならない。そのことは、50歳を過ぎても、60歳
を過ぎても、学歴にしがみついている愚かな人たちを見ると、よくわかる。くだらないというより
は、かわいそうにすら思う。

 大切なことは、それぞれの人が、それぞれの立場で、生きる誇りというか、プライドというか、
それをもって、前向きに仕事をしていくこと。と、同時に、そういう人たちの、生きる誇りという
か、プライドを理解すること。

 それはちょうど、紙の表と裏の関係ではないのか。

 自分自身の善玉エリート意識を支えるためには、同時に、相手の善玉エリート意識を認めな
ければならない。

 アメリカに住む、二男が、こんなエッセーを書いている。少し話がそれるが、参考になる。

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【林 宗市より】

シャワーの蛇口からポタポタと水滴が落ちていたのでその修理をした。例の水の元栓を止めて
(この元栓との戦いは以前詳しく書いた)、蛇口を取り外し、パッキング、ボールベアリングを分
解した。

家のシャワーの水道管にはシャットオフバルブがついていなかったので元栓をとめなければい
けなかったのだけど、この季節、芝生の草が勢いよく元栓の周りまで成長していて、そう簡単な
ものではなかった。 

 以前から思うことだけれど、アメリカの家というのはメンテナンスが実に簡単だ。消耗するで
あろう、ほとんどのものがみな簡単に取り外し、取替えできるようになっている。ロウズという大
きなお店があって、Home Depotにおなじみの人は知っているかも知れないが、ここへ行くと家
の建築、配管、配線、電気、大型家電、木材、カーペット、建築道具など、とにかく家を建てる
のに必要なものがすべて手に入る。 

 みんなアメリカに住んでいる人は「Do It Yourself」的な人が多いんだね、って言う人が多いけ
れども、上に書いたとおり、基本的な家の修理って言うのはみなそこに住んでいる人がするも
のであるという哲学みたいなのがあって、普通の人でも修理できるようにデザインされているも
のなのだ。プロに頼めばやってくれるけれども、待たないといけないし、ちょっとした修理でも数
百$とらされる。 

 僕は配管工に関する知識はないし、蛇口の構造がどうなっているかも知識はない。では皆ど
うやって修理をするのに必要な知識をみにつけるのか? 

ここに住むようになって初めはかなり感動したものだが、ロウズなどのお店へ行くと、実は店員
がもと配管工だったり、電気技師だったりするのだ。だから壊れた部品を持っていって、彼らに
見せれば、必要な部品、道具、そしてその構造や修理方法を、聞けば事細かに何でも教えてく
れるのだ。 

 日本ではどうなのだろう? 

 だから今日も僕は壊れたシャワーのボールベアリングを持って配管セクションへ行き、そこら
辺を歩き回っている店員にどうすれば(一番安く簡単に)修理できるかを教えてもらったのだ。
テフロンテープだとか、グリップレンチだとか、以前の修理で必要になった道具はみな持ってい
るので、$20ほどの投資で、ものの見事に蛇口、パッキングの取替え工事は終わった。

++++++++++++++++++

 これからは、プロの時代。みなが、プロ意識をもって、前向きに仕事をする。またそれができ
る世界をつくる。

 私の近所に、もう70歳を過ぎたというのに、東京のS大学の出身であることを誇っている男
がいる。地元のS大学OB会には、必ず顔を出し、寮歌を歌ったりしているという。ものの考え
方が、超権威的。つまり近所でも、威張り放題、威張っている。

 いつか自治会の人も、こう言っていた。「ああいう人は、つきあいにくいですね。自分を、みな
が大切にあつかうべきだという態度をしてみせますから」と。

 バカめ! 大バカめ! こういうバカがいなくならないかぎり、日本の教育は、よくならない!

【悪玉エリート意識・補足】

 今は、70歳をすぎたという、その男。以前、自治会の仕事で回っていたとき、私にこう言っ
た。

 私が、幼稚園で働いていますと言ったときのこと、「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ
ロクな仕事には、つけなかったんだろ」と。

 それで私のウラミを買った。(ハハハ。冗談! 私は、もとからあんな男など、相手にしていな
い。ホント!)

 しかし、このタイプの人間は、独特の人生観をもっている。独特の考え方をする。ここに書い
た、超権威主義的というのも、その一つ。「私は偉い。だから、お前たち、従え」というような態
度を平気で、とる。

 家族に対しては、「オレは、お前たちを食わせてやっている」というような、態度をとる。仕事
第一主義人間で、「仕事さえしていれば、男は、一人前」というような考え方をする。

 そのせいか、何かの会合があっても、あとからやってきて、デンと、席の中央に座る。平気で
座る。お茶を出されても、そのあと始末すら、しない。そういう姿を見て、いつだったか、ワイフ
がこう言った。「ああいうダンナだと、奥さんも、苦労するわね」と。

 いやだね、ああいう男。ホント!

 しかし今は、ああいう男も少なくなった。よいことだ。が、いないわけではない。もう少し話を先
に進めよう。

【仮面型・善玉エリート意識】

 人間関係をうまく結べない人は、その段階で、(1)攻撃型、(2)服従型、(3)同情型、(4)依
存型の4つのパターンのどれかをとる。

 このことは、前にも書いた。

 そこで悪玉エリート意識をもっている人は、そのエリート意識だけでは、世の中を渡り歩くこと
ができないことを知る。わかりやすく言えば、だれにも相手にされないことを知る。

 そこでこのタイプの人は、上の(1)〜(4)のどれかのパターンをとり始める。

 よくあるケースは、いかにも私はよくできた人間でございますというような態度をしてみせるこ
と。謙虚で、礼儀正しく、穏やか。時に、相手に服従的になったり、相手の同情を求めたりす
る。

 が、ベース(基本)は、そんなに変るわけではない。ささいなことで、そのエリート意識をキズつ
けられたりすると、激怒してみせたり、反対に復讐的な行動に出たりする。

 このタイプの、つまりは、仮面型の人も多いから、注意する。
(040709)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(217)

●夏バテ

 ここ数日、本当にバテた。もうゲンナリ! 何でも昨日(7・8)は、全国的に、気温が35度を
超えたところが多いという。埼玉県では、37度を超えたという(NHK)。

 しかし、私は、そういうニュースを聞くたびに、「ウソだ」と思う。

 たとえば昨日、この浜松市でも、最高気温は、34〜5度だったという。が、市内では、40度
近くあったのではないのか。昼ごろ、教室へ入ったが、温度計は、そのとき、38度を示してい
た。

 道路の照りかえしもある。それぞれのビルから、猛烈な熱気が放出されている。それが容赦
なく、窓から流れこんでくる。「いったい、どこで測ると、35度になるのか」と思う。

 暑いと、一時的には、気分が高揚し、イライラする。しかしそれも一巡すると、今度は、うつ状
態になる。食欲もなくなり、やる気もうせる。

 夕方、激辛のカレーライスを食べて、やっと、一息つく。まだまだ夏はつづく。がんばろう。が
んばります。

 そうそう、夜、10時ごろ、自転車で、1時間ほど、走った。「負けてなるものか」と、歯をくいし
ばって、走った。

 そのせいか、昨日から今朝にかけて、9時間も、眠った。熟睡だ。気持ちよく、朝、目がさめ
た。

 体がだるいときほど、運動は大切。それを改めて確認した。ハイ!


●健康

 若いころは、夏が好きだった。どんなに暑くても、平気だった。その私も、ここ数年、めっきり
夏に弱くなった。ときどき、身の置き場がないほど、体をだるく感ずることがある。

 とくに、どこが悪いということではない。腎臓も、肝臓も、悪くない。血圧が高いとか、そういう
こともない。しかしどうも、調子がよくない。

 夕方のニュースによれば、高気圧とフェーン現象によって、日本海側では、気温が37度を超
えるところがあったそうだ。37度だぞ! 東京や名古屋でも34度とか(NHK)。「道理で……」
と思うと同時に、「こんなことで、今年の夏を過ごせるのか」と、不安になったりする。今日は、ま
だ7月8日。例年だと、9月の終わりまで、暑い日がつづく。

 思い当たることと言えば、運動不足。毎日、自転車には乗っているが、体の中でも、使う筋肉
は、かぎられている。

 それに「うつ」。このところ、何かにつけて気が滅入ることが多い。ワイフは、さかんに、「男の
更年期よ」と言う。私は、初老性のうつ病だと思う。私の同年齢の友人などは、そのため毎日、
何錠もの薬をのんでいる。

 症状を列挙してみる。

 ささいなことが、気になる。そしてものごとを、悪いほうへ、悪いほうへと考えてしまう。被害妄
想というほど、おおげさなものではないと思うが、しかしそれに近い。

 このとき私の中には、いつも、もう一人の私がいる。その私が、どこかで私を冷静に見てい
る。そしてこうささやく。「よせ、よせ、そいつは、本当の私ではない」と。

 本当の私は、楽天的で、ほがらか。冗談が好きで、どこかいいかげん。しかしうつ状態が強く
なると、何ごとにつけ、深刻に考えてしまう。

 こういうときは、(1)おいしいものを食べて、(2)よく眠る。あとで近くのレストランで激辛のカ
レーライスを食べる。いつも私の体の調子をみながら、香辛料を調整してくれる。多分、それで
調子を取りもどせるはず。


●小さな善意

 7月9日の昼下がり。今日も暑い。

 家を出るとき、ワイフから郵便物を預かった。それを自転車のカゴに入れて、通りを走る。と
たん、ムッとするような熱気。どこか気が抜けそう。

 白く輝く道路。肌を刺す強い光線。乾いた風。

 ポストは、道路沿いにあった。私はそのポストの前で止まると、カゴから、郵便物を取り出し
た。何通かの手紙。それが輪ゴムで、まとめてあった。

 瞬間、輪ゴムをかけたままポストに入れようか、それともはずして入れようかと迷う。が、つぎ
の瞬間、私はほとんど無意識のまま、輪ゴムをはずして、手紙をポストに入れた。と、同時に、
「地」というのは、こわいもの。同じように無意識のまま、私は、そのはずした輪ゴムを、地面に
落した。

 無意識だった。
 
 しかし私は、ゴミを道路に捨てた!

 私はそんなことをボンヤリと考えながら、自転車のペダルをこいだ。が、10メートルも進む
と、不快感が、胸の中に充満した。

 「私は、ゴミを捨てた!」と。

 この30年間守ってきた、道徳が、そこで崩壊したのを感じた。私は、ポストの前にもどること
にした。

 「たかが輪ゴムではないか」と、邪悪な私が、どこかで叫ぶ。しかしそれが私の「地」だ。私は
子どものころ、そういったことが平気でできた。どこか小ずるくて、どこかインチキ臭い。そんな
子どもだった。

 ポストの前に自転車を立てたが、輪ゴムは、見つからなかった。輪ゴムをはずしたときの私
を、懸命に思い出そうとしたが、どこか記憶がはっきりしない。かわりに、おかしなことだが、つ
まりそのときは気づかなかったが、道路は、ゴミだらけ。小さな紙くず、棒、フタなど。色とりどり
のゴミが、散乱していた。

 「何だ、こんなものか!」と思ったとたん、少し気が楽になった。そしてそのまま輪ゴムをさが
すのをやめた。

 で、そのまま自転車のペダルをこいで、町(シティ)に向かった。

 しかしそれで不快感が消えたわけではない。が、人間の心理というのは、おかしなものだ。そ
の反射的効果というか、私は、いつもになく、クソまじめになった。

 歩行者専用の信号でも、しっかりと青になるまで、そこで止まっていた。さらに、今日は、こん
なこともあった。

 町に近づくと、なだらかな坂になっている。その左手が中学校になっているところで、私は道
路に、野球部が使うようなボールが落ちているのを見つけた。

 少し黄味がかかった、硬式のボールだった。

 私は自転車をおりると、そのボールを拾って、中学校の敷地に投げてやろうと考えた。しかし
そこは高い土手になっていた。その向こうにフェンスがあり、部室らしい建物が、そこをふさい
でいた。

 しかたないので、私はボールをもったまま、歩いた。歩いて、ボールを投げ入れる場所をさが
した。

 そのときも、私は、こう思った。「どこかそのあたりに投げておけばいいではないか」と。

 もし輪ゴムの1件がなければ、そうしただろう。しかし私は、いつも以上に、クソまじめになって
いた。ボールをもって、歩いた。そして体育館を過ぎ、裏手の門のところまでやってきた。その
向こうは通学路になっていて、景色が広くなっていた。私は、そこへボールを投げた。

 私は、決して、善人ではない。……と思う。かろうじて善人ぶっているだけ。善人のフリをして
いる。「地」というのは、そういうもの。子ども時代にできた「地」など、そんなに簡単に変えられ
るものではない。

 子どものころの私は、平気でゴミを道路に捨てていた。信号無視なんて、当たり前。それに道
路に何か落ちていたら、そのまま自分のものにしていた。ボールだったら、なおさらだ。

 私は、この文章を書きながら、こう考えている。

 今は、まだよい。気力もあり、自己意識も、はっきりしている。だから、自分の「地」を隠すこと
ができる。しかしもう少し年をとって、その気力や自己意識が弱くなったら、どうなるのか、と。

 ぼけるということには、そういう意味も含まれるのかもしれない。私の中の「地」が、どんどんと
外に出てくるはず。そうなれば、私は、もっと見苦しい人間になるかもしれない。

 だから私は、さらに強く、心に誓う。

 もう、二度と、ゴミを道路には、捨てないぞ、と。それは、私の心を守る、最後の砦(とりで)の
ようなもの。それを平気で破るようになったら、私は、おしまい、と。
(040709)


●ガツガツする人たち

電車にオバチャンたちご一行様が、乗りこんでくる。騒々しい。が、それだけではない。

 「あんた、ここあいてるわよ!」「ここに座るわよ!」「ここあいてますか?」と。席を取るため
に、自分の荷物をドカドカと置いたりする。

 イヤ〜な雰囲気。

 幼稚園でも、こういう親が目立つようになると、とたん、アカデミックな雰囲気が消える。父母
の世界が、低劣化する。どこかの幼稚園の園長も、そう言っていた。

 子どもをはじめて幼稚園へ連れてきたりすると、「あんた、ここに座るのよ。先生の前だから、
話がよく聞こえるでしょう!」と。親が、子どもの席を決めてしまう。

 イヤ〜な雰囲気。

 その園長は、こんな話もしてくれた。

 その幼稚園の近くに、病院がある。その病院へ行くたびに、その幼稚園の駐車場に、車をと
めていく母親がいるという。

 そこである日その園長が、その母親にこう言った。「できるだけ、そういった行為はやめてほ
しい」と。

 私の言葉が、よほどその母親のプライドをキズつけたらしい。その母親は、そのまま子どもを
連れて、幼稚園をやめてしまったという。

 ガツガツすればするほど、その人はそれでよいかもしれないが、まわりが、イヤ〜な雰囲気
になる。電車の中や、レストランなら、まだよい。しかし教育の場では、それは困る。「理由は…
…?」と聞かれると困るが、とにかく困る。

 教育の場は、アカデミックでなければならない。その雰囲気が、子どもの理性を伸ばす。知性
を育てる。だから「教育」という。ちがうだろうか?

【自慢】

 私は現在、小さいが、自分の教室を経営している。しかしその質の高さでは、ほかのどこに
も、負けない。子どもたちの質はもちろん、それを支える親たちの質も、高い。

 去年、全国的にあちこちで幼稚園を経営しているある男性(65歳)も、私の教室を見て、驚
いていた。「もったいないですね」と。

 最初、その意味がわからなかったが、そのあと、何度か会ううちに、その男性の言っている
意味がわかった。うれしかった。

 こういう仕事だから、たまには、そのイヤ〜な雰囲気になることはある。しかしそれは例外。
仮にそういう雰囲気になったとしても、それは私の責任ということになる。私自身は、そういう雰
囲気をつくらないように、心がけている。

 まず、子どもを楽しませる。ついで、親も楽しませる。そういうなごやかな雰囲気が、何よりも
大切だと、私は、思っている。

 10月生の募集が、近づいてきた。興味のある方は、どうか、見学に来てほしい。絶対に、自
信がある! BW教室は、すごいぞ! がっかりさせないぞ! ホント!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(218)

【近況・あれこれ】

●マガジン休止

 7月はじめ、つまり8月号で、はじめて、マガジンを休止した。(マガジンでは、一か月先の原
稿を、書いている。)

 原稿が書けなかった。(まぐまぐプレミアのほうは、今までどおり、発行。)

 何かしら大きな敗北感を味わった。自分に負けたような気分になった。まあ、ありのままを知
ってもらうのも、よいだろうということで、そのまま休止することにした。ここは自然体でいくの
が、よい。

*********************

Eマガ、メルマガ読者のみなさんへ、

内容は、ほとんど同じですが、できれば、
まぐまぐプレミア(有料版)のご購読を
お願いします。

1か月200円の負担ということになり
ますが、よろしくお願いします。

*********************


●犬のダニ

 ハナに犬のダニが、まとわりつくようになった。毎日、シャンプーで体を洗ってやっているのだ
が、それでも朝になると、何匹か、体についている。

 草むらに入ったとき、そこでダニが、体につくようだ。

 そこで昨夜、近くのペットショップで、いくつかの薬を買ってきた。店の男は、「一度、病院の薬
をもらってきたほうがいいですよ」と、アドバイスしてくれた。あまりひどいようなら、病院へ、連
れていくつもり。


●学習塾、残酷物語

 昨日、ほぼ1年ぶりに、同業の友人に会った。彼は隣町のS市で、小中学生相手の学習塾を
経営している。対象は、小学4年から中学3年生まで。ほかに、午前中は、近くのフリースクー
ル(NPO)で、ボランティアの講師もしている。

 その友人を、K氏としておく。K大学を卒業しているからだ。そのK氏が、いつもになく、弱音を
吐いた。

 「うちは月謝を銀行振りこみにしている。で、その生徒の7月分と、8月分が、それぞれ半額
になっていた。電話をかけて、理由を聞くと、その母親は、こう言った。『7月の後半と、8月の
後半は、実家に帰っていて、休みますから』と。

 大手の塾だったら、こうまでバカにはされないのですがね」と。

 以前、『お父さんxxx』という本を書いた、教育評論家(元塾教師)がいた。その評論家も、そ
の本の中で、こんなエピソードを書いている。

 「月末の最後の授業が終わったときのこと。一人の生徒(小4)が、『先生、これ』といって、メ
モを私に渡した。見ると、それには、『今月で、塾をやめます』と書いてあった。私はそのメモを
見て、体が震えた」と。

 どうして体が震えたか?

 恐らくその理由は、この世界の外のいる人には、理解できないだろう。私もしばしばそういう
場面に出会うが、本当に体が震える。いろいろなクビの切り方があるが、そういうクビの切り方
は、ない。残酷!

 もっとも私のばあいは、最初から、そういうものだと割り切っている。が、気にしないわけでは
ない。たとえばそういうメモをもらったら、その瞬間、その生徒のことは忘れることにしている。
そしてあとは、前向きに、生きていく。

 そうそうそのためにも、ボランティア活動は、重要である。「他人のために、損得を忘れて、働
く」というのは、その人の心の度量を広くする。K氏が、フリースクールで講師をしているのも、
そのため。

 私も正直に書く。

 ホームページなどで、子育て相談を受けつけている。返事を書くだけでも、そのため、早くて
も30分とか、1時間とか、時間がかかる。ばあいによっては、2時間以上かかることもある。

 しかしその返事というか、礼状が届くのは、3人のうちの、2人くらい。残りの1人は、そのまま
ナシのつぶて。最初から、「マガジンへの転載、お断り」とか書いてくる人もいる。

 が、そんなことでいちいちキズついていたのでは、こういう仕事(?)は、務まらない。だから返
事を書いた段階で、その人のことは忘れる。礼状だとか、返事は期待しない。

 つまりこうした日常的な活動が、私の度量を広くする。残酷な場面に出会っても、それを心の
中でうまく処理することができる。

 もっとも、今は、外部の方からの子育て相談は、断っている。それだけの時間を見つけるの
が、むずかしくなってきた。それにこのところ、体力的な限界を感ずることも多くなってきた。マ
ガジンの発行をつづけるだけで、精一杯という感じ。


●義母との確執

 義母との折りあいが悪くて、悩んでいる女性(35歳・福井県在住)がいる。「どうしても、うま
く、交際ができない」という。

 夫は、義母との同居を望んでいるらしい。が、その女性は、それができない。そのため、夫の
実家の近くに、アパートを借りて住んでいる。「義母との同居をはっきりと断るときというのは、
離婚するとき」と。

 義父母との折りあいがうまくできないと悩んでいる女性は、多い。実の父母とすら、うまくでき
ないと悩んでいる人さえ、多い。

 が、この日本では、それを許さない。「嫁」意識が、まだ残っている。「嫁というのは、家の付
随物にすぎない」と。そういう日本的な、どこまでも日本的な常識が、こうした女性たちを、かぎ
りなく苦しめる。その女性も、こう書いている。

 「何ごとにつけ、長男、長男と、夫に仕事を押しつけてくる」と。その女性の夫は、その長男で
ある。

 もちろんアメリカにも、オーストラリアにも、こうした長男、長女意識はない。まったく、ない。な
いものはないのであって、どうしようもない。この種の話題について、会話すらできない。へた
に、「長男だから……」という『だから論』を口にしようものなら、それだけで、彼らは首をかしげ
てしまう。

 が、義母との折りあいが悪かったら、どうするか?

 鉄則は、ただ一つ。

 妥協する。落語にも、こんな話がある。

 「義母を殺したいと憎んでいた嫁がいた。そこである人のところに相談に行くと、その人が、そ
の嫁に、毒薬を渡しながら、こう言った。

 『この毒薬をのませれば、あなたの義母は死ぬ。しかし今すぐ、毒をもってはいけない。今、
もれば、殺したのは、あなただと、すぐバレてしまう。

 1年、がまんしなさい。その間、あなたはいい嫁のフリをして、義母に尽くしなさい。そうすれ
ば、あなたが殺したと、バレないから』と。

 それからというもの、その嫁は、義母の前では、努めていい嫁のフリをした。『お母様、お母
様』と、義母の世話をした。

 で、予定の1年がたった。その1年が過ぎたときのこと。毒をくれたある人が、その嫁にこう言
った。

 『1年たちましたから、もう義母を殺してもいいでしょう。今なら、だれも、あなたを疑わないか
ら』と。

 すると、嫁は、こう答えたという。『いいえ、もう殺す必要はなくなりました。今、私たちはとて
も、いい関係です』と」と。

 心理学にも、「好意の返報性」という言葉がある。あなたがAさんならAさんを、よい人だと思
っていると、そのAさんも、あなたのことをいい人だと思うようになる。好意というのは、相互に
反応するという意味である。

 この相談の女性のばあいも、「義母はいやな人だ」と思っているが、そう思うということは、そ
の義母も、その女性のことを、いやな嫁だと思っているもの。こうした現象は、教育の場でも、
しばしば経験する。

 それについて書いた原稿を、このあとに添付しておく。

 もっとも、実際には、こうした問題は、頭の中で考えるほど、単純なものではない。傷口にでき
た、かさぶたのように、しっかりと心の中に、くいついている。そうしたかさぶたを溶かすのは、
容易なことではない。

 そこでもう一つの方法は、その義母を人間的に、はるかに超越して、無視できるようにするこ
と。どこかに対等意識がある間は、こうした問題は、解決しない。それについては、また別の機
会に考えてみたい。

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好意の返報性

内容的にダブるところがありますが、
今まで、「好意の返報性」について
書いた原稿を集めてみました。

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●好意の返報性

 心理学の世界に、「好意の返報性」という言葉がある。あなたに好意をもっている人には、あ
なたはよい印象をもち、反対に自分に反感をもっている人には、悪い印象をもつようになる。つ
まり相手の心の状態が、こちらがもつ印象に影響を与える。それを好意の返報性という。

 こうした好意の返報性は、子どもには、とくに強く現れる。「この子はいい子だ」と、親や教師
が思っていると、子どもも、その親や教師に、よい印象をもつようになる。反対に、そうでないと
きは、そうでない。この性質をうまく利用すると、子どもを伸ばすことができる。

 私も若いころ、初対面で、「この子は、教えにくい子どもだ」と思ったことがある。そういう子ど
もはたいてい、半年、一年もすると、「林先生なんて、嫌い」「幼稚園へ行きたくない」と言い出し
た。

 そこで私は、初対面のとき、仮にそういう思いが心の中を横切っても、それを打ち消すように
している。そして心底から、「この子はいい子だ」と思いなおすようにしている。すると子どもの
ほうも、やがて私に対してよい印象をもつようになり、「林先生が、好き」と言い出す。しかしそ
れはその子どものためというよりは、私自身のためでもある。私はそうすることで、自分の仕事
をしやすくする。

 そこで教訓。もしあなたが自分の子どもに対して、「うちの子はダメ」「うちの子は心配」と思っ
ているなら、そういう思いは、今すぐ、改める。そして最初はウソでも構わないから、「うちの子
は、すばらしい」「うちの子は、いい子」と思うようにする。これはあなたの子どものためというよ
りは、あなた自身のためである。

+++++++++++++++++++

●好意の返報性(2)

 あなたが周囲の人を嫌ったり、批判したりすると、そのときはあなたに同調する人も現れるか
もしれないが、やがてあなた自身も、嫌われたり、批判されたりするようになる。こうした現象
も、好意の返報性で、説明される。

 たとえばあなたが園や学校の先生を、嫌ったり、批判したりしたとする。あるいは先生の悪口
を言ったとする。その人があなたと親しい人なら、あなたの意見にそのときは、耳を傾けるかも
しれない。しかしやがて、今度は、あなたが嫌われたり、批判されたりするようになる。

 そこであなたが皆に、好かれるためには、この反対のことをすればよい。あなたがあなたの
周囲の人を好きなったり、ほめたりすればよい。そのときは多少、反発する人もいるかもしれ
ないが、やがてあなたは、皆に好かれるようになる。

 家庭では、こんなことを注意する。

 あなたは子どもの前では、夫や家族を、ほめる。楽しいできごとだけを口にして、それを喜
ぶ。そして夫や家族の前では、子どもをほめる。子どものすばらしい面だけにスポットをあて、
それを皆で、たたえる。こうした相互作用が、あなたの評価を高める。それだけではない。家庭
全体が、温もりのある家庭になる。

++++++++++++++++++++

●好意の返報性(3)

英語の格言に、『友を責めるな、行為を責めろ』というのがある。仮にあなたの子どもが、あな
たからみて好ましくない友だちと交際していても、その友だちを責めてはいけない。名前を出し
てはいけない。その友だちの行為の、どこがどう悪いかだけを指摘して、あとは子どもの判断
に任せる。

 それについて以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたので、ここに転載する。この中
で書いた、「遠隔操作」も、好意の返報性の一つと考えてよい。

++++++++++++++++++++

●友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。

友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子
どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子ども
は窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうする
か。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。

そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相
手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つ
まりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育て
の中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。

親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。
……というようなケースは、よくある。自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思
ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でも
ない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。

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●好意の返報性(4)

 子育ての要(かなめ)は、こういうわけで、子どもの叱り方にあるということになる。これについ
ても、以前、こんな原稿(中日新聞発表済)を書いたので、ここに転載する。

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●子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)

(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる

(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく

(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、

(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。

が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向く
と、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりし
ていた女子中学生がいた。

また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎ
て子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結
果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの
理解を示してあげる。

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好意の返報性(5)

 「好意」といっても、それがいつも好ましいものとはかぎらない。好意をもたれることで、かえっ
てその人に嫌悪感を覚えることだってある。

 たとえばあなたが財産家であったとする。そういうあなたに、何かのセールスマンが近寄って
きて、あれこれあなたをほめたとする。しかしそういうときあなたは、そのセールスマンの言うこ
となど、信じないだろう。あるいは反対に、そのセールスマンを毛嫌いするかもしれない。この
ばあい、あなたは、セールスマンの行為に、下心があるのを知るからである。

 好意が好意として、返報性をもつためには、同調性が必要である。「同調性」というのは、こ
ちら側もまた、相手の好意に対して、同調するということ。もう少しわかりやすく説明してみよ
う。

 たとえばあなたが、絵を描いて、何かの賞をもらったとする。そのときまったく絵のことを知ら
ないAさんが、その絵を見て、「あなたの絵はすばらしい」と言ったとする。するとあなたは、
「何、言ってるのよ!」と思うかもしれない。

あるいは日ごろからあなたの悪口ばかり言っているBさんが、同じようにほめたとする。すると
そのときも、あなたは、「何、言ってるのよ!」と思うかもしれない。つまり同調性がないことにな
る。

 ほかにたとえば、ここでいう下心を、ほめられたほうが感ずると、同調性が消える。つまりそう
いう状態で、相手が、いくら好意を表現しても、効果がない。ないばかりか、かえって逆効果に
なることもある。子どもも、また同じ。

 子どもをほめるときは、それなりに、ほめる側にも、同調性がなければならない。そこでつぎ
のことに注意するとよい。

○おせじ的なほめ方はしない。へつらわない。機嫌をとらない。

○子どもに同調するために、こちら側のレベルもあげる。子どもをほめるときには、なぜほめ
るかという理由を、はっきりともつ。「レベルをあげる」というのは、ほめる側も、それなりの知識
をもつということ。具体的には、なぜほめるか、その理由を、しっかりと子どもに伝えられるよう
にするとよい。「あなたの絵は、見る人をほっとさせるような、やさしさがあるわ。そういうところ
が、審査員の先生たちの心をとらえたのね」と。

○好意には、下心をもたない。心底、無の状態で、子どもをほめる。親にとっては、なかなかむ
ずかしいことかもしれないだが、努めて、そうする。

このように「好意の返報性」といっても、奥が深い。家庭で子どもを指導するときの、一つのコツ
として覚えておくと、役にたつ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(219)

【近ごろ・あれこれ】

●調子がもどる?

 今日になって、やっと調子がもどってきた。体が楽になった。気分もやわらいだ。

 三男に、「ipod」という、ウォークマンのお化けのようなものを買ってやった。Mac社製の新製
品で、これ一台で、4000曲ぐらいの音楽が収録できるという。

 それにしてもすごい! 名刺サイズの本体に、ハードディスク並の、15Gバイトとは!

 自分のためなら買わない。買っても意味がない。私の左の耳は、完全に聴力をなくした。突
発性……何とかという病気で、そうなった。聴覚神経が、耳から脳に届くどこかで断線したらし
い。

 治療は、不能。

 だから三男が音楽を楽しむ様子を、横で見ながら、楽しむ。「ちゃんとステレオで聞こえる
か?」と聞くと、うれしそうに、「うん」と。

 一つずつ、体のどこかが故障して、全部が故障したら、最後は、あの世行き。まだ左耳だけ
だから、感謝しなければならない。友人の中には、もうあの世へ行ってしまったのが、何人もい
る。

 しかしそれにしても、苦しい一週間だった。心の緊張状態は、とれないまま。人に会うのも、
新聞を読むのも、いやだった。パソコンに向うことすら、つらかった。

 おまけに食欲はなく、頭が重かった。胃の中は、いつもムカムカしたまま。頭痛薬は、この一
週間で、市販のものを、いくつかのんだ。偏頭痛薬も1錠。それに胃薬も! やっと今朝になっ
て、気分がよくなった。それで、今日は、町で買い物。

 「よく生きていたものだ」というのは、少しおおげさだが、瞬間だが、そんなふうに思ったことも
ある。「生きていて、何になるのか?」「生きているのも、むなしい」とも。

 気分がなおったのは、ワイフと濃厚なセックスをしたため。……というのは、ウソ。読者のみ
なさんを、少し、ドキッとさせてみたかった。

 これからビデオを見るつもり。ビデオを、3巻借りてきた。夜は、山荘へでかけ、泊まってくる
つもり。今日は、村で祭のある日。花火もあがる。

 心だって、少しは、風邪をひく。そのときは苦しいが、なおってみると、「どうしてそうだったの
か?」と、反対に、そのときの自分が、おかしく思える。私のばあい、落ちこんだときは、何か買
い物をすると、なおる。……らしい。

 そうそう、今週は、ラジコンのヘリコプターも買った。室内用のかわいいヘリコプターだ。明
日、それを飛ばしてみるつもり。

 横浜のM君、富士市のTさん、励ましのメール、ありがとう!


●告白

 気分が落ちこんでくると、ものの考え方が、どうしてもうしろ向きになる。ものごとを悪いほう
へ、悪いほうへと考えてしまう。

 電子マガジンを出していることについても、「どうしてこんなことをしているのだろう?」と思って
しまう。

 で、そういうときというのは、苦情のメールばかりが、気になる。ほとんどの人は、(多分?)、
マガジンを、喜んでくれていると思う。また多くの人の子育てに、役立っていると思う。しかしそう
いうときというのは、ネガティブな妄想ばかりがふくらむ。

 「量が多すぎる」とか、「むずかしすぎる」とか、など。「そうかな?」「そうなんだ」と思っているう
ちに、どんどんと気分だけが沈んでいく。

 が、心が快方に向うと、反対に、ものの考え方が、前向きになってくる。攻撃的になってくる。
「私は私だ」と。そしてあれこれ苦情を言ってくる人に対しては、「文句あるなら、読むな!」(失
礼!)と。

 そうだ、そうなんだ。

 文句があるなら、読むな!

 本来の私は、そういうタイプの人間。グズグズしたり、ネチネチしたりするのは、私のやり方で
はない。

 私はこれからも原稿を書いてやる。どんどんと書いてやる。そしてマガジンを読んでくれる人
のために、役立つ記事を、書いてやる。

 ……と、かなり意気ごんだところで、一息。

 読者のみなさん、これからもよろしくお願いします。少しはげしいことを書いてしまいました
が、どうか文句があっても、またなくても、購読してください。読者あっての、私です。みなさんが
私に生きがいを与えてくれる分だけ、私はみなさんのために情報を、提供します。


●ADHD児とカルタ取り

 ADHD児を簡単に見分ける方法の一つとして、カルタ取りがある。簡単なひらがなカルタでよ
い。それを、5〜8人のグループでしてみる。

 ADHD児は、(1)多動性があり、(2)集中力がない分だけ、こういったゲームが、苦手。

 症状としては、

(1)そわそわと落ちつきなく、動き回る。動きが突発的かつ衝動的。予測がつかない。
(2)視線を固定することができない。目つきが定まらない。
(3)カードの文字や、絵を静かに判断できない。どこを見ているか、わからない。
(4)強く制しても、その「おさえ」がきかない。叱っても効果は、一時的。
(5)結果として、このゲームが苦手。カルタを取る枚数が、少ない。ゲームに負ける。

 反対に、多動性があっても、こうしたカルタ取りに熱中できるようであれば、ADHD児ではな
い。……と、私のようなものが決めてかかるのは、少し危険かもしれないが、私は、この方法
で、ADHD児を見分けている。

(追記)こうした私だけが知っている事実を、インターネットで公表したりすると、早いときには、
数か月後には、どこかのだれかによって、パクられてしまう。

 いやな世の中。

 もしどこかで、「ADHD児はカルタ取りをさせてみればわかる」などという記述を見たら、どう
か、私に一報を! 数日前も、テレビを見ていたら、私が作った新語を使って、堂々と、自分の
意見のようにして話していた女性(医師)がいた。ああいうのは、本当に頭にくる。ホント!


●ついでに、基底不安の人について

 乳幼児期に不幸な家庭で育てられたため、何ごとにつけ、不安になりやすい。心配性で、取
りこし苦労ばかりする。

 たまの休みになっても、考えることは、休み明けの仕事のことばかり。外で食事をしていて
も、考えることは、家の心配ばかり。

 母子関係の欠陥が、人をして、そういう人にする。ベースに、いつも不安があることから、「基
底不安」という。

 このタイプの人(子ども)は、どこかセカセカしていて、落ち着きがない。人にへつらうから、愛
想もよい。商売人としては、うまいが、しかし心の中は、いつもある種の緊張状態にある。

 このタイプの人を見分ける簡単な方法は、食事している様子を見ればわかる。

 このタイプの人は、食事をしていても、やはりセカセカと食べる。食事を楽しむというよりは、
食事をしながら、すでに食後のことを考えている。だから落ち着いて食べることができない。

 人は、長い時間をかけて、心が命ずるままの人間像をつくりあげる。そしてそれを外に現す
ようになる。これも、その一つ。


●権威主義の人

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前でいい子ぶ
るようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮面をかぶった分だ
け、子どもの心は親から離れる。

 親子の間に亀裂を入れるものに、三つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観のズ
レ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威というの
は、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。

「男が上で女が下」「夫が上で妻が下」「親が上で子が下」と。もっとも子どもも同じように権威主
義的なものの考え方をするようになれば、それはそれで親子関係はうまくいくかもしれない。
が、これからは権威がものを言う世界ではない。またそういう時代であってはならない。

 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それには電
話のかけ方をみればよい。

権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意識のうちにも人間の上下関係を判
断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。地位や肩書きのある人には必要以上
にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別人のように尊大ぶったりいばってみせたりす
る。

このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強い。そのためそれを無視したり、
それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って非難する。

もしあなたがそうなら、一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを疑ってみ
たらよい。それはあなたのためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよいかもしれ
ない。

 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸黄
門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲のもの
が皆頭をさげる。

ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。しかしそれが痛快と思う人ほど、
あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威にあこがれを抱いている人とみてよい。
ご注意!


●パソコンが4万8000円!

 市内で、「C」というパソコンショップが、新装オープンした。たまたま近くの店に用があったの
で、帰りに寄ってみた。

 N社製のデスクトップが、15インチモニターつきで、4万9000円で売っていた。アウトレット
商品だというが、ほとんど新品。それが山積みになっていた。

 CPUは、Pen3の1ギガヘルツ。ウィンドウ2000、ワード・エクセルつき。メモリーは、256M
B。ふつうのパソコンとして使うなら、何ら、遜色はない。

 店の男が、「ワード・エクセルのソフトだけでも、○万円しますから」と笑っていた。

 ほしかったが、買わなかった。もう私の家の中は、パソコンだらけ。居間だけでも3台。書斎
にも3台。ほかにノートが、2台。買っても、どこへ置くのだ!

 しかし安くなった。

 今、困っているのは、ホームページ。ホームページ用に、N社製のノートを使っているが、ソフ
トをたちあげ、編集し、FTP送信をして、保存が終わるまでに、約5時間以上かかる。

 ソフトのたちあげに、30〜40分。
 編集は、だいたいいつも20〜30分。
 FTP送信準備のために、30分前後。
 FTP送信のために、5〜10分前後。
 保存のために、3時間半!
 計、5時間以上。

 CPUは、1Gヘルツ。メモリーも、512MBを実装。それでも、これだけの時間がかかってしま
う。店の男に相談すると、「もっと、性能のいいパソコンを買ってください」とのこと。4万9000
円のパソコンでは、どうしようもない。

 今年の10月に新しいパソコンを買うつもりだったが、来年までがまんすることにした。多分、
そのころには、もっと値段も安くなっているはず。性能もよくなっているはず。

 ところでそのパソコン。FTP(無線)送信しているとき、ひんぱんにエラーが出るようになった。

 そこで場所を、無線ルーターの近くに移して送信すると、今度は、だいじょうぶ。どうやら電波
障害が起きているようだ。

 私の印象としては、扇風機と、すぐそばの蛍光灯を消してから送信すると、調子がよいので、
原因は、その扇風機か、蛍光灯のどちらかではないかと思う。多分?


●三男のビザ

 7月13日に、オーストラリアへ行くことになっていたが、ビザが取れなくて、航空チケットを、キ
ャンセルした上、延期。のんきな子どもで、明日から、再度、ビザを取りなおすという。

 (そのたびに、私のほうは、数万円の出費!)

 理由はいろいろあるようだ。それには納得したが、ふと心のどこかで、こう思う。「これから
先、もういっしょにいる時間はないだろう。こうしていっしょにいる時間は、理由はともあれ、貴
重だ。まあ、ここは、おおらかにかまえてやるか」と。

 それで今日は、市内のそば屋で、そばをみんなで食べた。

 (怒ってもしかたないし……。)

【ビザが取れなかった理由】

 前回、学生ビザを取るとき、息子は、東京のS病院で、健康診断を受けた。そのときの健康
診断書は、1年間有効ということだった。そこで今回一時帰国し、再度、ビザ取得の申請をした
とき、息子は、その健康診断書を流用しようとした。が、領事館のほうが、その健康診断書を、
どこかへ紛失してしまったらしい。そのやり取りをしているだけで、時間だけが過ぎてしまった。


●ホームページコンテスト

 今年も、静岡県主催のホームページコンテストが、始まった。

 連続して出場して、もう3年目になる。が、過去2回とも落選。はじめから、期待などしていな
い。

 初年度のときには、応援投票数が多ければ多いほど、有利だったようだ。しかしそんなもの、
簡単にインチキができる。(……できた。)いわゆる自薦投票というのである。

 そのつぎの年のコンテストでも、入賞したのは、どこかのプロが制作したものばかり。これま
た当然のことである。

 はっきり言って、中身を見ないコンテストなど、意味はない。入賞作品を見たが、どこかバラ
エティ番組風のものばかり。審査員の人たちも、どこかそういった感じがする人たちばかり(失
礼!)。

 そこで今年から、(1)自薦投票ができなくなった。(2)プロの製作会社の作ったホームページ
を、区別するようになった。当然だ!

 ……となると、私のホームページが、がぜん、有利になる。しかし残された問題は、審査員。
そこで今、改めてチェックしてみたが、今年は、メンバーを書いたページが見つからなかった。
どうしてか? ……と思いつつ、読者の皆さんにお願い。

 どうか、日本のため、私のため、今ここで、清き一票をお願いします。毎年、一等賞はノート
パソコン。ほしい!

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/より
 あるいは、直接、
https://hpg.pref.shizuoka.jp/vote_form.cfm?entry_number=36
 まで!


●アクエリアス

(1)

 コンビニで、「メモリー・タイム」(カバヤ食品)を買う。値段は、315円。昔のメロデイーが、2
曲ずつ入っている。一応、ガムのおまけがついている。(本当はCDのほうが、おまけなのかも
しれない。)

 しかしどんな曲が入っているかは、わからない。封を切ってからのお楽しみ。

 が、今夜は、当たり!

 The 5th Dimension(ザ・フィフス・ダイメンション)の、「♪アクエリアス」が入っていた。ミ
ュージカル、『ヘアー』の主題曲である。

(2)

 メルボルンでの生活が終わるころ、私は、ジルと、シドニーへ行った。キングスクロスの劇場
で公演していた、『ヘアー』を見るためである。1971年の2月。オーストラリアの夏も終わるこ
ろだった。

 私とジルは、そのミュージカルを見ながら、ずっと泣いていた。私はともかくも、ジルは泣いて
いた。

 私には、切ない、どこまでも切ない思い出でしかない。

 そのとき私は、日本への帰国を、数日後にひかえていた。ジルは、白血病をかかえていた。
毎日たくさんの薬をのんでいて、体も心も、ボロボロの状態だった。

(3)

 夜、同じキングスクロスにある、安ホテルに泊まった。最初は、いっしょに寝るつもりだった
が、ジルが、「今夜はひとりで寝たい」と言った。それで、私は、もう一部屋、別の部屋をとっ
た。

 そのときジルの精神状態は、きわめて不安定だった。劇場へ入るときは、あれほどはしゃい
でいたのに、出るときは、暗く沈んでいた。何も、話さなかった。が、私にはどうすることもでき
なかった。

 私は、2、3度、ジルの部屋のドアをたたいてみたが、返事はなかった。私はしばらくジルの
部屋のドアに背をあてて、すわって眠った。そのあとのことは、よく覚えていない。

 朝、起きると、私は自分の部屋のベッドの上で、横になっていた。多分、ビールを飲んだせい
だと思う。頭がガンガンと痛かった。

(4)帰る

 帰りもバスだった。しかしもう、甘いささやきはなかった。ジルは、ずっと黙っていた。私も、黙
っていた。「すべてを終わりにしなければ」と、私は、自分に、そう言ってきかせていた。

 ジルは、ジルで、何かを悟ったようだった。私には察しがついたが、それを口にすることはで
きなかった。

 その1か月ほど前、ジルは、自分白血病であることを、私に告げた。私はそれを聞いて、飲
みかけていたコーヒーカップを、天井めがけて、投げつけた。「ウソつき!」と叫んだ。そのとき
から、『ヘアー』を見るのが、私たち、最後の思い出ということになった。

(5)切なさ

 人は、それぞれ無数の思い出をひきずって歩くもの。楽しい思い出、悲しい思い出、つらい思
い出。そして切ない思い出も、その中に含まれる。

 「別れる」というほど、大げさなものではなかった。そんな意識はなかった。ジルにとっては、
最初から、私との交際は、ただの遊び。今となっては、そうであったのか、そうでなかったのか
は、よくわからない。しかし、当時の私は、そう思っていた。

 背も低く、足も短い。どこから見ても、私は、おかしな風貌をしていた。日本にいたころは、そ
んなことは思ってもみなかったが、私の体は、向こうでは、まともではなかった。

 それに加えて、まだ白豪意識は、いたるところに生きていた。アジア人の私は、ジルといっし
ょにバスに乗っているだけで、どこか白い目で見られた。

 が、それ以上に、私とジルを遠ざけたのは、私の中に巣をつくっていた、男尊女卑思想では
なかったか。私は、その男尊女卑思想を、自分でも、もてあましていた。

 「日本人の男と結婚できるような女は、日本の女しかいない」と、勝手に、私はそう結論づけ
てしまっていた。

(6)アクエリアス

 よくジルは、アクエリアスを歌った。『ヘアー』を見る前のことだった。

 ♪月が、7番目の家に入り
  木星が火星と並んだとき、
  平和が惑星を導く
  愛が星々を方向づける
  そのときが、アクエリアスの夜明け
  アクエリアスの時代
  アクエリアス、アクエリアス!

 今、改めてこの曲を聞くと、ジルは、ザ・フィフス・ダイメンメンションの歌い方を、そっくりまね
ていたことがよくわかる。ジルは、ボーカルの女性、そっくりの歌い方をしていた。

 リズムにのった、躍動あふれる歌い方。ハリのある声。天にも届く澄んだ声。それでいて、低
音部では、鼻にかけたような響きになる。

 私もよくいっしょに歌った。今でこそ、しょぼくれ、どうしようもないジジイ男だが、こんな私に
も、青春時代があった。そして今も、あのときと同じように、青い空と緑の山々を見ている。

 アクエリアスを聞きながら……。

(ジルとの思い出は、『世にも不思議な留学記』の最終回のみで、収録。)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html
(↑世にも不思議な留学記)

●大恐慌

 「週刊G代」(7・17号)を、買う。気になる記事がいくつかあった。

(1)まず読みたかったのは、「日本破産に備えよ」(216)

 2010年に、日本は、破産するという内容のもの。日本の借金が700兆円以上もあるという
こと。それが回りまわって、国債の大暴落を引き起こし、日本は、ハイパーインフレの時代に突
入する。それが、2010年に日本を襲う、と。

 決してありえない話ではない。常識で考えれば、そうなる。ただ、2010年かどうかというと、
そうではない。私は、もっとはやい時期にそうなるのではないかと思う。ちょっとしたきっかけ
で、そうなると思う。今、日本の経済は、たいへん、危機的な状況にある。

 言うなれば、日本の経済は、断崖絶壁の岩肌に、かろうじてしがみついてがんばっている人
の姿に似ている。上から小石でも落ちてこようものなら、それがショックとなって、そのまま下へ
落ちていく。

 「週刊G代」は、このように結論づける。

 「土地や株を購入しておくのが、最善策でしょう」と。「金や貴金属もいいでしょう。ただし金は
ドルと連動しているので、ドルの状態を確認する必要があります。……とくに問題なのは、現金
のままにしておくことだ。インフレにより、価値はさがるし、先述の財産税まで施行された日に
は、目もあてられない」とも。

 Q&A形式で書かれているが、だれがそのQを書いているかは、明記されていない。

 ただし、一言。

 大恐慌への、本当の準備は、今ある健康を、大切に守り、維持すること。健康さえあれば、
何とかなる。そうでなければ、いくらお金があっても、ただの紙くず。


(2)二子山親方、ガンと闘う

 二子山親方(元大関、貴ノ花)の病状がおもわしくないようだ。「この6月に入って、親方の病
状が急変する。東京・中野区にある貴乃花部屋3階の自室で、ついに吐血し、6月9日、J病院
に再入院することになった」と。

 二子山親方は、54歳。私より、2歳若い。そういう人の話を聞くと、とても他人ごとには、思え
ない。が、それよりも、注意をひいたのは、二子山親方と、二人の息子の関係。

 週刊G代によれば、「長男の花田勝(元横綱、若乃花)は、ほぼ連日、病院に通っている。し
かし弟の貴乃花は、ただの一度も、父親を見舞っていないという。親戚筋は、もちろんのこと、
病状を説明したい医師からの再三のラ来院要請にも、無視を決めこんでいる」という。

 週刊誌はあれこれ理由を書いているが、大きなわだかまりがあることだけは、事実のよう
だ。週刊G代によれば、「どんな理由があるにせよ、死の影を背負った父親が、息子に会うこと
すら拒否するのは、異常である。その事情を探っていくと、『骨肉の争い』という言葉が、文字ど
おり当てはまる。醜く、壮絶な事実が、つぎつぎと明らかになっていった」と。

 大筋で読むと、要するに、その裏で、マネーの問題がからんでいるらしいということ。それもそ
うだろう。今の相撲協会の内部では、新聞配達が配る新聞のように、億単位のマネーが、日常
的に飛びかっている。私たちが口にするマネーとは、二桁も三桁も、額がちがう。

 ひょっとしたら、この人たちも、マネーに毒されたかわいそうな人たちかもしれない。その記事
を読んで、私は、ふと、そう思った。

【補筆】

 わずかなマネーで、心を毒される人は、いくらでもいる。わずかなマネーだ。数十万円とか、
数百万で、だ。その中には、親子関係を破壊する人もいる。

 この日本でも、貨幣(マネー)が、一般社会に流通するようになったのは、江戸時代の中期ご
ろからだと言われている。それまでにも貨幣はあったが、特別な意味で、特別な目的のために
使われていた。

 つまり人間の心は、マネーのもつ毒性にじゅうぶん対応できないまま、現代にいたっていると
考えることもできる。それはちょうど今、携帯電話やインターネットに振りまわされている若者の
姿に似ている。

 こうした状況と戦うためには、私たち自身が、それ以上に賢くなること。そのために、自ら考え
る人間になること。私は、それ以外に、自分を支える方法はないのではないかと思う。

 ところで二子山親方は、ひょっとしたら、きわめて権威主義的な考え方をする人かもしれな
い。それが家族を、こうまでバラバラにしてしまったのではないのか……? これはあくまでも、
私の邪推でしかないが……。

 
(3)「日本は、腐ったブッシュと手を切れ」

 「華氏911」の映画監督、M・ムーア氏の毒舌的、ブッシュ評論。私も、アメリカが今回、イラ
クを侵攻する前には、「今は、してはならない」「時期が早い」「戦争、反対」を、訴えていた。当
時の原稿は、そのまま私のHPのどこかに残っている。

 そして侵攻が始まると、何人かのアメリカの友人たちに、「やりすぎだ」と訴えた。

 が、ともかくも、戦争は始まってしまった。そしてその結果、フセイン政権は倒れ、今、そのイ
ラクは、アメリカの支配下にある。

 こうなってしまった以上、イラクもアメリカも、もう、もとにもどすことはできない。国際政治は、
どこまでも現実的。現実だけを見ながら、そこを原点として、未来を見、考える。「これからはど
うしたらいいのか」「これからは何をすべきか」と。

 「あれがまちがっていた」「これがまちがっていた」、だから「もとにもどせ」とは、言えない。そ
れが国際政治なのである。

 日本は、アメリカのイラク侵攻を支持してしまった。今になって反対するくらいなら、どうしても
っとそのとき、しっかりと反対しておかなかったのかということになる。雲行きがおかしくなったと
たん、「反対!」では、道理が通らない。

 現に今、この日本は、アメリカが築きあげた自由貿易体制の上で、繁栄を謳歌している。「ア
メリカの中東政策はまちがっている」と言うのは簡単なこと。しかしそのアメリカの上に乗り、中
東から原油を輸入しているのは、この日本にほかならない。「アメリカはズルイ」と言うのなら、
この日本は、もっとズルイ。

 週刊G代のその記事の冒頭には、こうある。「アメリカ国民は、ついに、"イラク戦争の非"を
認めたのだろうか?」と。

 イラク戦争は、「非」であった、と。

 しかし反対に考えれば、仮にイラクが核兵器などの大量破壊兵器の開発をしていたとした
ら、どの国が、それを止めただろうかという疑問も残る。

 たとえば今、隣のK国は、核兵器の開発を進めている。標的は、ズバリ、この日本! 韓国
やアメリカではない。日本だ。K国の高官たちは、ことあるごとに、アメリカや韓国の高官にそう
伝えている。

 こういう情勢の中で、K国の狂った野望を止めてくれる国が、今、どこにある? ロシアか、そ
れとも中国か? これらの国は、アテにならない。K国の核兵器を、半ば容認している。韓国は
同胞意識をもりあげ、自分たちへの攻撃を回避しようとしている。

 日本は、このアジアの中だけでも、完全に孤立している。友人は、アメリカだけという状況で
ある。もし今、アメリカ軍が日本にいなければ、明日にでも、K国の金XXは、日本本土へ、侵攻
してくるかもしれない。

 「平和だ」「平和だ」と叫ぶのは、日本人の勝手だが、その日本は、中国やK国に侵攻されて
も文句を言えないようなことを、戦前にしてしまった。そのことを忘れてはいけない。

 皮肉なことに、本当に、皮肉なことに、スターリン・ソ連、毛沢東・中国から日本を守ったの
は、ほかならぬアメリカなのである。李承晩・韓国、金日成・K国から、日本を守ったのは、ほ
かならぬアメリカなのである。

 仮にブッシュ大統領が敗れ、ケリー大統領が誕生したら、どうなる? ケリー氏は、かねてよ
り、K国との間で、相互不可侵条約を結んでもよいというようなことまで言っている。

 もしそんな条約が結ばれたら、それこそ日本にとっては、一大事。K国は、日本に対して、好
き勝手なことができるようになる。こうした現実を念頭に置くなら、今の日本は、ブッシュ大統領
を支持し、支えるしかない。バカだ、アホだと言われても、そうするしかない。

 アメリカも、たしかに傲慢(ごうまん)である。問題もある。問題だらけである。しかし中国やK
国よりは、まだまし? その判断を最終的にするのは、私たち自身だが、私は、そう思う。

 ブッシュ大統領の「非」をあげつらうのは、簡単なこと。しかしもしそうなら、日本は単独で、K
国、中国、それに韓国、ロシアと対峙しなければならない。戦争も覚悟しなければならない。

 つまりそれだけの覚悟と準備があるなら、話は別。私自身は、M・ムーア氏の映画を見て、と
てもハハハと、笑うことはできない。むしろ私は、M・ムーア氏という個人がもつ、独断と偏見の
ほうを心配する。それともM・ムーア氏自身は、日常生活において、それほどまでに人格的に
高邁(こうまい)な人物なのだろうか。

 アメリカが侵攻する前、イラクはどんな国であったのか。K国ならK国でもよい。今、K国は、
どんな国なのか。そういうことを問題にしないで、一方的に、「ブッシュはまちがっていた」と、言
いきるのは、どうかと思う。

 『華氏911』を、安易に礼さんすることには、慎重でありたい。
(040711)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(220)

【近況】

●ワイフのチンチン

ワイフの膝枕で、ウトウトと、昼寝。
おっぱいを触ろうと手でさぐると、
そこには、三段バラの肉。

それをモミモミしながら、
「おっぱい大きくなってよかったね」と言うと、
ワイフは、こう言った。

「私のチンチンよ」と。

ドキッ!

その一言で、目がさめた。

……この話だけは、マガジンに書くなとワイフは
言ったが……。

みなさんも、目がさめましたか……。


●小話

 「マガジンの読者をふやしたかったら、むずかしい話はやめて、小話を多くしなよ」とは、ワイ
フの言葉。

 ナルホド!

 子育て小話、か。

 今までの経験の中から……。いろいろ、あったなあ……。

 うれしかったこと、悲しかったこと、つらかったこと……と、書きたいが、実は、、あまり、ない。
それが幼児教育の特徴かもしれない。

 相手が幼児では、人間関係ができない。つくれない。期待できない。

 10年とか、20年とかたって、「先生、お元気ですか?」と言ってきた子どもは、いない。い
や、一人だけ、いた。

 そのとき彼女は高校生になっていて、ある日、突然やってきて、こう言った。

 「先生って、小さい人だったんですね」と。

 彼女は、身長が170センチくらいの女の子になっていた。「私が幼稚園児のときは、すごく大
きい人かと思いました」と。

 ナルホド!

 しかし記憶というのは、こわいものだ。脳ミソのどこかに、無数の思い出がつまっているはず
なのに、今、こうして思い出してみようとするのだが、それが浮かんでこない。

 若いころは、つらいこともあった。しかしそのうち、利口になったというか、世渡りがうまくなっ
たというか、最初から、キズつかないように用心するようになった。

 いくら幼児教育に没頭しても、最後の10〜20%は、自分のためにとっておく。それは子育て
相談の世界でも、同じ。

 インターネットの相談にしても、2、3時間かけて返事を書くことがある。が、そのまま何も連絡
をくれない人も多い。礼までは期待していないが、一言でも、「役にたった」とでも言ってくれれ
ば、私も、どんなに私も救われることか。

 だから最初から、そういう人も、20〜30%はいるという前提で、相談にのる。いちいちそれ
でキズついていたら、この仕事は、できない。

 しかし実際には、そう思っていても、ガクリとすることは、ある。ないわけではない。そういう意
味では、私はすでに、全身、キズまるけ。

 が、反対に、楽しいと言えば、職場そのものが、私にとっては、ストレス発散の場になってい
る。幼児たちと、ワーワーと騒いでいるだけで、気分が楽になる。(体力的には、しんどいが…
…。)

 最近は、もう言いたいことを言い、したいことをしている。遠慮しない。それで文句があるな
ら、私の教室など、こないことだ。……と、心のどこかで思うことができるようになった。

 ときどき、今の仕事も、あと何年できるだろうと考えることがある。もう、自分に妥協したくな
い。自分をごまかしたくない。

 小話を書こうと思ったが、まじめな話になってしまった。ゴメン!


●幼児教育32年

 幼児を見つづけて、今年で、32年になる。1972年から2004年。

 が、同時に、母親たちを見つづけて、今年で、32年になる。

 幼児はいつも、幼児のままだが、母親はちがう。若いころは、どの母親も、コワ〜イ、おばち
ゃんに見えた。

 しかし今は、どの母親も、高校生のよう。高校生と区別がつかない。ときどき、「いいのかなあ
……?」と、心配になることもある。「こんな若い母親で、いいのかなあ……?」と。

 しかしその分、私がジジイになったということか? 

 そう言えば、今週は、英語を教えた。

 「♪A、B、C、D、E、F、G……」と。

 子どもたちは、「G」のところへくると、うれしそうに、私に向って、「ジジイ」「ジジイ」と叫ぶ。私
は、本気で、怒ったふりをしてみせる。すると子どもたちは、さらに大声で、「ジジイ」「ジジイ」と
叫ぶ。

 このかけあいが、おもしろい。楽しい。

 この時期、言葉というのは、理屈ではなく、感覚。感覚で覚えるもの。英語だけで物語を話し
てあげたり、簡単な算数の問題を出してあげたりする。最初はとまどっていた子どもたちも、や
がてなれてきて、「YES」とか「NO」とか、言い出したりする。

 30分も指導していると、足し算や引き算も、英語でできるようになる。英語の学習は、この時
期、とても効果的である。この時期というのは、満2〜5歳をいう。機会があるなら、子どもに英
語を勉強させたらよい。

 最後に何らかの理由をつけて、こう言って、レッスンをしめくくる。

 「君は、英語、じょうずだね。本当にじょうずだ。これからも、英語を勉強するんだよ」と。

 子どもたちは、それぞれうれしそうに、うなずく。幼児教育では、いつも、こうしたプラスの暗示
をかけて終わる。決して、どんなことがあっても、叱りっぱなしたり、否定したままで終わっては
いけない。叱ったり、注意したりしても、必ず、押さえをしっかりとしておく。

「ほら、君は、ちゃんとできるではないか。すばらしいよ」と。

それは、とても重要なことである。


●金銭欲

 子どもの金銭欲は、年長児くらいから小学2年生くらいまでの間に完成する。

 このころ身につけた金銭欲が、その後の子どもの金銭感覚の基本となるということ。損をし
た、得をした。儲けた、ふえた、減ったという感覚は、このころ身につく。

(反対に、あなたが今もっている金銭感覚は、そのころ完成したとみてよい。)

 それまでの幼児にとっては、お金は、ただの紙切れであり、コインでしかない。しかし子ども
は、その紙切れや、コインで、自分の欲望を満足させることができることを学ぶ。

 このことは、チンパンジーの実験でも、証明されている(カウルズほか)。

 だからこの時期の金銭教育については、慎重でなければならない。「100円くらいならいいだ
ろう」という安易な考え方をしていると、やがて子どもは、親の手に負えなくなる。

 幼児のときは100円でも、小学生になると、1000円になる。高校生や大学生になると、そ
れが1万円になったり、10万円になったりする。

 つまりエスカレートしやすいということ。

 そこで100円を渡すについても、それなりの苦労をわからせるようにする。ものを買い与える
にしても、それなりの理由づけをしっかりとする。


●ホメオスタシス

 人間の体は、外界の変化に対して、自動的に適応しようとする。

 たとえば人間の体は、私たちが意識しなくても、自動的にそれに適応しようとする。寒いとき
には、自動的に血圧をあげて、それに対処しようとするのもその一つ。こうした体の中の自動
調整機能のことを、「ホメオスタシス」という(キャノン)。

 しかしその変化が、ある一定の限度を超えたとき、人間の体は、「生理的欲求」として、何ら
かの行動に出ることが知られている。

 たとえば寒さが限度を超えたようなとき、人間は、コタツに入って暖をとりたいと願うようにな
る。あるいは熱いスープを求めたりするようになる。こうした生理的欲求は、ここでいうホメオス
タシスによる機能が、限界を超えたとき起こるものと考えられる。

 そこで子どもの行動を観察してみる。

 その点、子どもというのは、正直というか、ストレート。子どものとる行動には、万に一つも、
ムダがない。一見、ムダに見える行為や行動にしても、何か、必ずその背景には、理由や原
因がある。

 たとえば指しゃぶり。

 心が緊張状態におかれると、その緊張状態をほぐすために、脳内では、アドレナリンが分泌
される。心臓の鼓動をはやめたりする。

 しかしそれでも緊張状態をほぐすことができないときは、指先や口唇からの刺激を受けて、
脳内に、エンケファリンやエンドロフィンなどのモルヒネ様の物質を放出して、それをしずめよう
とする。

 つまり指しゃぶりは、ここでいうまさに生理的欲求ということになる。ホメオスタシスだけでは、
調整できないため、指をしゃぶることで、緊張状態を回避しようとする。

 この時点で、無理に指しゃぶりをやめさせたりすると、子どもは、その緊張感を処理できず、
情緒は、一気に不安定になる。

 三重県のGさん(母親)より、子どもの指しゃぶりについての相談があったので、少し考えてみ
た。
(はやし浩司 ホメオスタシス 生理的欲求 指しゃぶり)


*****************************

【コマーシャル】

 10月からの、年中児、年長児生を募集しています。
 浜松市内・近辺にお住まいの方で、一度、見学を希望なさる
 方は、どうか、ご連絡ください。

 053−452−8039
 です。

 この電話は、常時留守番電話になっています。伝言を
 残してくだされば、後日、私のほうから、連絡いたします。

 なお、番号非通知電話、携帯電話、公衆電話などからの
 電話は、電話がつながりませんので、あらかじめご了承
 ください。

 電話番号非通知になっている方は、「通知」にしてから
 ダイアルを押してください。

 来年度(05年4月)からの新年中児クラスの受けつけは、
 この10月以後、始めます。見学を歓迎します。

 ただし同業の方の、スパイ見学は、かたく、かたく、
 お断り申しあげます。

 見学には、必ず、入会予定のお子さんを、連れてきてください。
 現在BWへ通ってきてくださっている方の紹介があれば、
父母だけの見学を許可しています。

一度、その方に、相談してください。

 05年4月からは、月謝12000円、入会金10000円を
 予定しています。(幼児クラス)

******************************

●参議院議員選挙

 昨日(7・11)、参議院議員選挙があった。夕方、少し涼しくなってから、投票に行ってきた。

 結果は、やはり私は、「浮動票の王様」だった。私が動くところ、国政も動く! ……というの
は、少しおおげさ。しかしいつも、そうなる。

 今回の選挙は、「年金選挙」ということになっていた。たしかに年金問題が、最大の焦点にな
っていた。しかし私たちが問題にしているのは、(年金の複雑さ)でもなければ、(将来への不
安)でもない。

 問題にしているのは、(年金の不公平さ)である。

 たとえば私が住んでいる地区には、旧国鉄のOBたちが、たくさん住んでいる。このあたり
は、新幹線の線路工事のとき、同時に開発された住宅団地である。そういうつながりがある。

 が、どのOBも、満55歳で定年退職してから、月額30〜35万円(妻の年金含む)もの年金
を受け取っている。まさに優雅な年金生活者たちということになるが、その財源は、借金。その
額は、すでに20兆円を超えたとされる。(日本の国家税収は、42兆円程度。)

 もちろん、それぞれのOBに責任があるわけではない。しかし現実には、いろいろなカラクリ
があって、旧三公社五現業の中でも、旧国鉄OBの年金額が、一番、高い。

 (注……以前は、公務員共済は、退職直前の1年間の平均給与を基準として、決められてい
た。そのため、退職直前に役職をあげたりするなどの方法で、年金を増額する方法が、一般
的になされていた。

 さらに通常、公務員は、3月31日付けで退職するのに対して、旧国鉄職員だけは、4月1日
付けで退職していた。つまりこうして勤続年数を1年加算することによって、旧国鉄OBたちは、
自分たちの年金をふやしていた。)

 私はこの旧国鉄OBの年金に、年金の不公平さを見る。

 近くに住む、X氏(今年82歳)は、いつもこう言う。「私ら、現役時代に納めたお金を、国から
返してもらっているだけです」と。

 しかし本当に、そうだろうか?

 そのX氏にしても、ざっと計算しても、満55歳の定年退職時から、27年x12か月x33万円=
1億700万円もの、現金を手にしている。1億円だぞ!

 旧国鉄OBですら、ここまで手厚く保護されている。いわんや、ほかの国家、地方公務員を
や!

 が、それだけではない。本当の問題は、給料である。

 とてもおかしなことだが、いまだに、公務員たちがいったい、いくらの給料を手にしているの
か、それを正直に公表している自治体は、ひとつもない。

 が、概算方法がないわけではない。

 年間予算から、公務員一人当たりの人件費を計算すると、約1000万円という数字が出てく
る。この数字から、共済費、健康保険料などの雇用者負担分をさしひくと、約800万円という
数字が浮かびあがってくる(伊藤惇夫氏指摘、「文芸春秋・5月号」)。

 この額は、一般民間サラリーマンの平均年収の448万円(国税庁・02年)よりも、はるかに
高い。

 が、さらに大きな問題がある。

 国家公務員、地方公務員を合わせた、いわゆる私たちが「公務員」と呼んでいる人たちの、
人件費総額が、約40兆円に達しているということ(伊藤惇夫氏指摘)。40兆円といえば、日本
の国家税収分にほぼ匹敵する。(日本の国家税収は、約42兆円!)

 わかりやすく言えば、国家税収のすべてが、公務員の給料に消えているということになる。し
かしこんなバカげた国が、いったい、どこにある!

 もう、いいかげんにしろ、日本!

 ……ということで、今回の参議院議員選挙は、終わった。とても悲しいことだが、恐らく、今回
の選挙でも、日本は、何も変らないだろう。日本は、世界に名だたる官僚主義国家。奈良時代
の昔から、官僚主義国家。そう、簡単には、変らない。変えられない。

 ちなみに、自民党の小泉氏も、民主党の岡田氏も、元中央官僚。この静岡県のばあい、県
知事も、副知事も、主だった都市の市長も、そして国会議員のほとんども、みな、元中央官
僚。

 本当に日本は、民主主義国家なのか? 民主主義国家と言えるのか?


●自己効力感

 「自分でできた」「自分でやった」という達成感が、子どもを伸ばす。これを自己効力感という。

 子どもを伸ばすコツは、この自己効力感をうまく利用すること。

 反対に、この自己効力感を、阻害(じゃま)するようなことがあると、子どもは(1)それに大きく
反発するようになり、(2)ついで、心が極度の緊張状態におかれるようになることが知られてい
る。

 それを阻害するものに対して、反抗するようになる。

 が、それだけではない。子どもは、ますます、そのものに固執するようになる。こんなことがあ
る。

 A君(小4)は、サッカークラブで、やっとレギュラー選手になることができた。A君はA君なり
に、努力をした。

 が、小5になるとき、母親は、A君を、進学塾へ入れた。そしてそれまで週3回だったサッカー
の練習を、週2回に減らすように言った。当然、そうなると、A君は、レギュラー選手からはずさ
れる。

 A君は、猛烈にそれに反発した。が、やがてその反発は、母親への反抗となって現れた。す
さんだ目つき、母親への突発的な暴力行為など。

 もうそうなると、進学塾どころではなくなってしまう。あわてた母親は、進学塾をやめ、再び、
サッカークラブにA君をもどした。が、今度は、A君は、そのサッカーにすら、興味を示さなくなっ
てしまった。母親はこう言う。

 「あれほど、毎晩、サッカーをさせろと暴れていたのに、サッカークラブへ再び入ったとたん、
サッカーへの興味をなくすなんて……」と。

 子どもの心理というのは、そういうもの。A君の母親は、それを知らなかっただけである。A君
が母親に反抗したのは、サッカーをしたいからではなかった。自分の自己効力感(達成感)を、
阻害されたからである。そのことに対して、A君は、反抗したのである。

 少し話がちがうかもしれないが、こんな例もある。

 若い男女が、恋愛をした。しかし周囲のものが、猛反対。そこでその男女は、お決まりの駆け
おち。そして子どもをもうけた。

 やがて周囲のものが、あきらめ、それを受け入れた。とたん、たがいの恋愛感情が消えてし
まった。

 この例でも、若い男女が駆けおちしたのは、それだけたがいの恋愛感情が強かったからで
はない。周囲のものに反対されることによって、より結婚に固執したからである。だから、結婚
を認められたとたん、恋愛感情が消えてしまった。

【教訓】

 子どもの得意芸、生きがいは、聖域と考えて、決して、土足で踏み荒らすようなことはしては
いけない。へたに阻害したりすると、かえって子どもは、それに固執するようになる。最悪のば
あいには、親子関係も、それで破壊される。
(はやし浩司 自己効力感 自己達成感 一芸論)


●高度な欲求不満

 欲求不満といっても、決して一様ではない。心理学の世界には、欲求不満段階説(マズロー
ほか)さえある。このことは、子どもの発達過程を観察していると、わかる。

【原始的欲求不満】

 愛情飢餓、愛情不足など。飢餓感や不足感が、欲求不満につながる。この欲求不満感が、
子どもの心をゆがめる。よく知られているのは、赤ちゃんがえり。下の子どもが生まれたことな
どにより、飢餓感をもち、それが上の子どもの心をゆがめる。

 生命におよぶ危機感、安心感の欠如から生まれる欲求不満も、これに含まれる。

【人間的欲求不満】

 人に認められたい、人より優位に立ちたい、目立ちたいという欲求が、満たされないとき、そ
れがそのまま欲求不満へとつながる。「自尊の欲求」(マズロー)ともいう。この人間的欲求は、
自分がよりすぐれた人間であろうとする欲求であると同時に、それ自体が、社会全体を、前向
きに引っ張っていく原動力になることがある。

 が、子どもの世界では、こうした人間的欲求は、変質しやすい。

 ある子ども(中2男子)は、私にある日、こう言った。「ぼくは、スーパーマンになれるなら、30
歳で死んでもいい。世の中の悪人をすべて退治してから死ぬ」と。

 こうした人間的欲求は、幼児にも見られる。みなの前でその子どもをほめたりすると、その子
どもは、さも誇らしそうな顔をして、母親のほうを見たりする。

 子どもの中に、そうした人間的欲求を感じたら、静かにそれをはぐくむようにする。これは子
育ての大鉄則の一つと考えてよい。
(はやし浩司 マズロー 自尊欲求 自尊の欲求 人間的欲求)


●幼児の緩慢行動

 心理的抑圧状態(欲求不満を含む)が、日常的につづくと、子どもはさまざまな、心身症によ
る症状を示すことがある。が、その症状は、子どもによって、千差万別。定型がない。

 「どうもうちの子、おかしい?」と感じたら、その心身症を疑ってみる。

 その中のいくつかが、緩慢行動(動作)であったり、吃音(どもり)であったりする。神奈川県に
住む、Uさん(母親)から、多分、緩慢行動ではないか(?)と思われる相談をもらった。

 ここでは、それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

【Uより、はやし浩司へ】

私には、4歳(年少)の娘、M子(姉)と、1歳8ヶ月の息子S夫(弟)がいます。
先日、娘の幼稚園の個人懇談がありました。

そこで、先生に言われたのが

「M子(姉)ちゃんはいつもマイペースで、マイペースすぎてもうちょっとスピードアップして欲しい
んですけどね」でした。

「急がないと行けない時にもマイペースでね、今(年少)はあまりする事も少なくて、他の子と差
は出てこないと思いますけど、これから先、年中、年長となるにつれてその差は広がっていき
ますからね」

「急がないといけない時に、急げるようなボタンがあればいいんですけどねー(笑)。そこを押せ
ば、急いでくれるっていう風に・・・・(笑)」と冗談まじりではあったのですが、最後に夏休み中に
お母さんから、M子ちゃんに急ぐって事を教えてあげておいてくださいと言われました。

「急ぐという事を教えるといわれても・・・・先生どうしたらいいんでしょう?」って聞いたのです
が、イマイチよく分かる回答がなかったような気がします。

怒って「急いで!急いで!急いで!」とまくし立てるのも良くないと思いますし、言った所で出来
るわけでもないですし。

普段、出来るだけ怒らないように大声をあげないように、出来たら大げさに誉めてあげて、を
心がけているのですが今の私のやり方では、夏休みあけても同じだろうし・・・・どうしたらいい
のだろう?、と考えこんでしまいます。

何がどうマイペースか具体的に言うと、給食の時間になって先生が、「後に給食の袋を取りに
いって準備して下さい」って言っても、上の方を見てボーッと椅子に座っていることが時々あっ
て、「M子ちゃん、準備よー急いでー!」って言っても、とりわけ急ぐ様子もなくゆっくりらしいで
す。

又、今メロディオンの練習をしているようなのですが、M子(姉)は指でドレミファソを弾く事は出
来るみたいなのですが、ホースを口にあてて息を吹く事が分からなかったみたいで、一人だけ
音が出なかったみたいです。

先生が側で、「M子ちゃん吹くんですよー」って言っても分からなくて、挙句の果てには、ホース
に口をあててホースに向かって、ドレミファソを言いながら、けん盤を弾いていたようです。

先生も??、だったみたいで、「違うよM子ちゃん! 吹くのよ!!」って言うと今度は、何でそ
んなに先生は私に怒ってるの?、っていう反応だったようです。

あと、空想にふけっていたりするみたいです。

他にも日々の行動で色々あるようです。

M子(姉)は私に似ているのか、よく言えばおっとりで悪く言えば、どこかのろい所があって入園
の際、私もそれが少し気にはなっていました。

のびのび保育の幼稚園を選べば、そんな事を考えなくて良かったのかもしれませんが、私的に
は、小学校でお勉強を始めるより、幼稚園で少しでも触れていれば気遅れなく、M子(姉)もや
っていけるのではと考えたのですが、やはりその分要求される事も多いんですね・・・。

今は、本人は幼稚園が大好きでお歌の時間もプリントの時間も体操の時間も楽しいとは話して
います。

楽しく通ってくれれば、私はそれで大満足なのですが年中、年長になった時、まわりの早さにつ
いて行けなくなって幼稚園が楽しくなくなったら、やはり園を変えた方がいいんでしょうか?

また、もっとスピードアップさせるにはどうしたらいいのでしょうか?

また、M子(姉)には、時々どもりがあります。ほとんど指摘しないように聞きながしているので
すが、ちょっと気になっています。

はっきりとした原因は分かりませんが、下の子を出産する際引き裂かれるように、私と離れ離
れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたのが悪かったのかな?、と反省していま
す。

長々と下手な文章で好きな事を綴ってしまいましたが、アドバイス頂けますようお願い申し上げ
ます。

これからもまぐまぐプレミアをずっと購読していこと思っています。毎日暑いですが、どうぞお体
にお気をつけ下さい。


【はやし浩司より、Uさんへ】

 まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。感謝しています。

 ご相談の件ですが、最初に疑ってみるべきは、緩慢行動(動作)です。原因の多くは、親の過
干渉、過関心です。子どもの側から見て、過負担。それが重なって、子どもは、気うつ症的な症
状を見せるようになり、緩慢行動を引き起こします。

 ほかに日常的な欲求不満が、脳の活動に変調をきたすことがあります。私は、下の子どもが
生まれたことによる、赤ちゃんがえり(欲求不満)の変形したものではないかと思っています。

 逆算すると、M子さんが、2歳4か月のときに、下のS夫君が生まれたことになります。年齢
的には、赤ちゃんがえりが起きても、まったく、おかしくない時期です。とくに「下の子を出産す
る際引き裂かれるように、私と離れ離れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたの
が悪かったのかな?」と書いているところが気になります。

 たった数日で、別人のようにおかしくなってしまう子どもすらいます。たった一度、母親に強く
叱られたことが原因で、自閉傾向(一人二役のひとり言)を示すようになってしまった子ども(2
歳・女児)もいます。決して、安易に考えてはいけません。

 で、その緩慢行動ですが、4歳児でも、ときどき見られます。症状の軽重もありますが、10〜
20人に1人くらいには、その傾向がみられます。どこか動作がノロノロし、緊急な場面で、とっ
さの行動ができないのが、特徴です。

 こうした症状が見られたら、(1)まず家庭環境を猛省する、です。

 幸いなことに、Uさんの子育てには、問題はないように思います。そこで一般の赤ちゃんがえ
りの症状に準じて、濃密な愛情表現を、もう一度、M子さんにしてみてください。

 手つなぎ、抱っこ、添い寝、いっしょの入浴など。少し下のS夫君には、がまんしてもらいま
す。

 つぎに(2)こうした症状で重要なことは、「今の症状を、今以上に悪化させないことだけを考
えながら、半年単位で様子をみる」です。

 あせってなおそう(?)とすればするほど、逆効果で、かえって深みにはまってしまいます。子
どもの心というのは、そういうものです。

 とくに気をつけなければいけないのは、子どもに対する否定的育児姿勢が、子どもの自信を
うばってしまうことです。何がなんだかわけがわからないまま、いつも、「遅い」「早く」と叱れてい
ると、子どもは、自分の行動に自信がもてなくなってしまいます。

 自信喪失から、自己否定。さらには役割混乱を起こす子どももいます。そうなると、子どもの
心はいつも緊張状態におかれ、情緒も、きわめて不安定になります。そのまま無気力になって
いく子どももいます。

 「私はダメ人間だ」という、レッテルを、自ら張るようになってしまいます。もしそうなれば、それ
こそ、教育の大失敗というものです。

 そこで(3)子どもの自己意識が育つのを静かに見守りながら、前向きの暗示をかけていきま
す。

 「遅い」ではなく、「あら、あなた、この前より早くなったわね」「じょうずにできるようになったわ
ね」と。最初は、ウソでよいですから、それだけを繰りかえします。

 「先生もほめていたよ」「お母さん、うれしいわよ」と言うのも、よいでしょう。

 ここでいう「自己意識」というのは、自分で自分を客観的にみつめ、自分の置かれた立場を、
第三者の目で判断する意識というふうに考えてください。

 しかし4歳児では、無理です。こうした意識が育ってくるのは、小学2、3年生以後。ですから、
それまでに、今以上に、症状をこじらせないことだけを考えてください。

 とても残念なことですが、幼稚園の先生は、せっかちですね。その子どものリズムに合わせ
て、子どもをみるという、保育者に一番大切な教育姿勢をもっていないような気がします。

 おまけに、「年長になったら……」と、親をおどしている? ある一定の理想的(?)な子ども
像を頭の中に描き、それにあわせて子どもをつくるという、教育観をもっているようです。旧来
型の保育者が、そういうものの考え方を、よくします。(今は、もうそういう時代ではないのです
が……。)

 M子さんに、ほかに心身症による症状(「はやし浩司 神経症」で、グーグルで検索してみてく
ださい。ヒットするはずです。
あるいは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html)が出てくれば、この時期は、がま
んしてその幼稚園にいる必要は、まったくありません。

 子どもの心に与える重大性を考えるなら、転園も、解決策の一つとして、考えてください。

 そして(4)「うちの子を守るのは、私しかいない」と、あなたが子どもの盾(たて)になります。
先生から苦情があれば、「すみません」と一応は謙虚に出ながらも、子どもに向かっては、「あ
なたはよくがんばっているのよ」「すばらしい子なのよ」と言います。そういう形で子どもの心を
守ります。

 まちがっても、そこらの保育者(失礼!)がもっている理想像(?)に合わせた子どもづくりを、
してはいけません。

 子育てもいつか終わりになるときがやってきます。そういうとき、あなたの子育ての思い出
を、光り輝かせるものは、「私は、子どもを守りきった」「私は、子どもを信じきった」という、親と
しての達成感です。

 今が、そのときです。その第一歩です。

 最後に(5)M子さんに合わせた、行動形態にすることです。「のろい」と感ずるなら、あなた
も、もう一歩、自分の歩く早さを、のろくすればよいのです。どこかに子育てリズム論を書いて
おきましたので、また参考にしてください。

 とても幸いなことに、Uさんは、たいへん愛情豊かな方だと思います。それに自分の子育てを
客観的にみつめておられる。とてもすばらしいことです。(プラス、私のマガジンを読んでい
る!)

 子どもといっしょに、子どもの友として、子どもの横を歩いてみてください。楽しいですよ。セカ
セカと歩いていたときには気づかなかったものが、たくさん見えてきますよ。

 そうそう、最後に一言。

 こうした緩慢行動(動作)は、子どもの自己意識が育ってくると、自然に消えていくものです。
子どもが自分で判断して、自分で行動をコントロールするようになるからです。どうか、安心して
ください。

 私の経験でも、乳幼児期の緩慢行動(動作)が、そのまま、小学5、6年生まで残ったというケ
ースを知りません。小学3、4年生ごろには消えます。(ただしこじらせると、回復が遅れます
が、そのときは、もっと別の、ある意味で深刻な、心身症、神経症による症状が出てきます。

 また親は「のろい」「のろい」と心配しますが、第三者から見ると、そうでないというケースも、
たいへん多いです。これは親子のリズムがあっていないだけと考えます。)

 吃音(どもり)については、ここ1〜3年は、症状が残るかもしれません。環境が大きく変わっ
ても、クセとして定着することもあるからです。吃音については、あきらめて、濃密な愛情をそそ
いであげてください。これも時期がくれば、症状は消えます。

 どんな子どもでも、一つや二つ、三つや四つ、そうした問題をかかえています。全体としてみ
れば、マイナーな、何でもない問題です。

 あまり深刻にならず、ここは、おおらかに! なお先取り教育は、失敗しますので、注意してく
ださい。それについては、またマガジンのほうで取りあげてみます。

 なおこの原稿は、(いただいたメールの転載も含めて)、8月13日号で掲載する予定です。ど
うか転載のご承諾をお願いします。不都合な点があれば、書き改めます。至急、お知らせくだ
さい。

 まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

                                  はやし浩司

++++++++++++++++++++++ 

【子育てリズム論】
●子どもの心を大切に
子どものうしろを歩こう
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。

へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしてお
けいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ども
で、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚す
る。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。

父「お前は、パパに何をしてほしいのか」
子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。

この段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれ
ると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手
の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(32歳)は、こう言った。

「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。

別の男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズ
ムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるの
は容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。

もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子ど
もの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変
えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

++++++++++++++++++++++++

【補記】

 旧来型の保育者は、よく「遅れる」(昔は「後れる」と書いた)という言葉を使う。

 しかしいったい、何が、どう遅れるのか?

 このタイプの保育者は、ある一定の幼児像(=コース)を頭の中に想定し、その幼児像にあ
わせて、子どもを作ろうとする。

 子どもを一人の人間としてみているのではなく、子どもを、モノ、あるいは、ペットとしてみてい
る(?) ……そう決めてかかるのは、言い過ぎかもしれないが、子どもを、一人の人間として
みたことがない人には、この感覚は、理解できない。

 つまりこうした旧来型の保育者でも、口では、いっぱしに、「私は子どもを一人の人間としてみ
ています」などと、言う。そして世話をするのが、保育。めんどうをみるのが、保育。しつけるの
が、保育と考えている。

 その保育のし方をみていると、あたかも家畜の飼育小屋で、家畜にエサを与えている姿勢に
似ている。どこか、おかしい? どこか、まちがっている?

 たとえばNHKの「お母さんとxx」という番組がある。

 私もときどきあの番組をみるが、少なくとも私がしている幼児教育とは、明らかにちがう。あ
の番組の中の幼児には、個性がない。子どもたちは、ペットでもしないような、アホな踊りをさ
せられているだけ。

 「♪お手々が、ブラブラブラ……」と。

 そこで、一度、年中児の子どもたちにこう聞いたことがある。

 「君たちは、ああいう踊りをさせられて、自分たちが、バカにされていると思わないか?」と。

 すると子どもたちは、(年中児の子どもたちが、だぞ!)、こう答えた。

 「思う」「思う」と。「バカにされていると思う」と言うのだ。

 私はよく「子どもの人権」という言葉を使う。しかしこの日本では、本当に子どもの人権は、確
立されているのか?

 それがわからなければ、もう一度、「遅れる」という言葉の意味を考えてみたらよい。「後れ
る」でもよい。

 いったい、子どもは、何から、どう遅れるのか?
(はやし浩司 子どもの人権 遅れる 後れる リズム論 子育てリズム論)
(040713)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(221)

【近況・あれこれ】

●M・ムーアの「アホでマヌケなアメリカ白人」を見る

 今、話題になっている、M・ムーア監督の「アホでマヌケなアメリカ白人」を見る。(英語のタイ
トルは、「the Awful Truth(ひどい真実)」。)少し前、アメリカのブッシュ大統領をヤユした映
画を制作、公開したことで、波紋を広げた監督である。

 ビデオショップへ行くと、すでに3巻まで公開されていることがわかった。私は第2巻を借りて
きた。

 すでに見たことがあると言った息子は、「(第1巻は)おもしろかった」と言った。それで私は、
かなり期待して、それを見た。が、私の評価は、「途中で、あくびが出て、おしまい」。★は、な
し。

 具体的に評論してみよう。

 黒人が、サイフやキーをポケットから取り出そうとして、それを銃と誤解され、警官に射殺され
るという事件があいついだ。

 そこでムーアは、黒いサイフと、オレンジ色のサイフを、交換する運動を始める。

 「黒いサイフは、危険だ」「黒いサイフは、ピストルと誤解される」と。

 チョコバーをもっている黒人については、「そのチョコバーは、危険だから」と言って、スプレー
で、オレンジ色に塗る。あるいは道路を歩くときは、両手を空にかかげて歩くように指導する。

 どこかパロデー風。しかしどこかバラエティー番組風。

 が、どうしては、私には笑えない。

 一見、黒人(有色人種)を擁護しているようでいながら、その黒人を、どこか蔑視している感
じ。その一つ。金持ちが、貧乏人に、パイを投げつけさせるシーンも登場する。

 ムーア氏は、金持ちの傲慢さをきわだてようとしているのだろうが、かえって逆効果。パイを
顔中にぶつけられている黒人に向って、「今日は、腹いっぱい、パイを食べれてよかったね」と
いうようなことまで言っている。

 そしてつぎのテーマは、死刑執行。

 死刑者の数を、あたかもゲーム感覚で、州ごとに競いあわせていた。逆説的に死刑反対論
を唱えているのだろうが、逆説的すぎて、かえって、不愉快になった。

 ……と、このあたりで、見るのをやめた。

 ムーア氏のほか、別の若い男や女が、レポーターをしていたが、見るからに、ノーブレイン
風。そのベースに、深い知性や理性があり、その上で、こうした映画をつくるなら、それなりに
意味がある。説得力もある。過去において、人種差別反対運動をしてきたとか、死刑廃止のた
めの運動をしてきたという実績があるなら、話もわかる。

 が、構成はきわめて衝動的。事件のきわめて一部を、針小棒大にとらえて、大げさに騒いで
いるといった感じ。

 そうそう、こんなシーンもある。交換して回収した黒いサイフを、ムーア氏は、トラックで、警察
署の前にもっていく。そしてそのサイフを、道路にまき散らす。

 困った様子の警察官の前で、「回収しろ」「処分しろ」と。

 本当に黒人のことを考えているなら、サイフなど、道路にまき散らしてはいけない。警察官で
なくても、怒るのは、当然ではないか! つまりこのあたりに、ムーア氏の人間性の限界があら
われている。

 社会や世間に対して、攻撃的になることは、しかたのないことである。評論という仕事は、もと
もとそういうものである。

 しかしそこにはいつも、ある一定の節度というものが、ともなう。わかりやすく言えば、攻撃と
抑制の関係である。評論するものは、いつもこの攻撃と抑制のバランスの上で、ものごとを評
論する。

 いくら「官僚制度はおかしい」と避けんでも、「霞ヶ関を爆破せよ」とは、書いてはいけない。考
えてもいけない。読者にそう思わせてもいけない。それが抑制である。理性である。ここでいう
「ブレイン(知性)」である。

 が、ムーア氏の評論には、それがない。「アホでマヌケなアメリカ白人」というのは、日本人が
考えた、日本向けビデオのタイトルだろう。しかしこれは、ムーア氏が、白人だからこそ、使え
たタイトルである。

もしムーア氏が黒人だったら、そういうタイトルはつけられない。そういうタイトルの映画を制作
したら、逆人種差別になる。さらに白人が、「アホでマヌケなアメリカ黒人」というタイトルの映画
を作ったら、どうなる? アメリカ中で、大暴動が起こるにちがいない。

 ムーア氏が、一見、黒人の擁護をしているようで、結局は、黒人を蔑視しているという私の意
見は、そういうところから生まれる。(私たち日本人も、アメリカでは、黒人と同じ、有色人種で
あることを忘れてはいけない。)

 私は、ビデオのスイッチを切ったとき、ワイフにこう言った。

 「どうしてこんな人が作った映画が、話題になるのかねえ」と。ワイフもそれに答えて、こう言っ
た。「ホント!」と。

 M・ムーア氏は、昨年3月のアカデミー賞授賞式の席で、「ブッシュよ、恥を知れ!」と叫んだ
という。それで話題になった。そしてそれ以後、反戦を唱え、さらに日本へやってきて、「日本は
腐ったブッシュと手を切れ」(週刊G)とまで言っている。

 しかしそれこそ、マスコミ人間のおごりではないのか。

 長い間、その過去において、戦争を考え、反戦を考え、またそれに不随する運動を積み重ね
てきたというのなら、話は別。しかしそういう実績もない人間が、マスコミを利用して、ある日突
然、いきなり反戦運動家になりすます(?)。

 私は、むしろ、こちらのほうに、ソラ恐ろしさを感ずる。……感じた。


●K国版・大河ドラマ

 隣のK国で、このたび、K国版・大河ドラマが始まったという(朝鮮日報・7・13)。
 
 内容は、戦後の復旧期を背景に、黄海(ファンへ)製鉄所の労働者と技術者が、金日成(キ
ム・イルソン)主席の方針を貫徹させる過程を描いたものだという。全部で13作。

 ナルホドなあと、思う。しかし当のK国の人たちは、何も疑わず、そういう番組を、「すばらし
い」と思って見ているにちがいない。

 意識というのは、そういうもの。それはちょうど日本人が、織田信長や徳川家康の大河ドラマ
を、すばらしいと思ってみるのと、同じ。(似ているのではなく、同じ。)

 私たちは、そういうK国の人たちの心情を察しながら、「さぞかし、窮屈なことだろうな」と思い
がちである。しかしそれは誤解。

 ある特定の人を信奉し、その人に徹底した服従を誓い、隷属していくことは、きわめて楽な生
き方である。その人自身は何も考えなくてもよい。たとえて言うなら、それは、解答用紙を丸写
しにしながら、夏休みの宿題をするようなものである。

 そのことは、カルト教団の信者たちを観察してみても、わかる。いつも「上」からの指導をあり
がたくいただきながら、それに従っているだけ。指導者の人間ロボットになりながら、そのロボ
ットになっているという意識すら、ない。

 戦前の日本人にも、似たようなところがあった。だからあんな、もともと無茶苦茶な戦争を、
世界に向って、しかけていった。

 たしかに少し前まで、K国の重工業は、韓国のそれにまさるとも劣らないほど、隆盛をきわめ
た。K国には、原料も燃料(石炭)もある。しかし今はもう、見る影もない。もし描くとしたら、なぜ
それほどまでに一度は発展した重工業が、ここまで衰退してしまったか、だ。

 が、もちろんそんなドラマは、金XXが許すはずもない。

(もうそろそろ金XXという書き方は、改めようと思う。SGさんはじめ、拉致被害者の家族たち
が、一応は日本側にもどってきた。私は今まで、拉致への抗議の意味もこめて、金XXと書いて
きた。)

 今のK国を見ていると、いかにその国民というものが、為政者の手でいいように操られるか
がわかる。操られる国民にしても、操られながら、操られているとも思わないまま、操られる。
またそういうふうにして、国民を、操る。この日本とて、例外ではない。

 それについては、また別のところで考えるとして、朝鮮日報(韓国系新聞社)の記事を読みな
がら、私は「ナルホドなあ」と思った。


●子どもの英語

 いくら「シックス(6)」と教えても、「セックス」と言う子どもがいる。口を横へひっぱって言わな
いから、そうなる。日本人の「イ」の発音は、甘い。(英語は、思いっきり口を横へ引っ張って、E
〜という。)

 それに吐き出す息の量が、少ない。英語を話すときは、(とくに練習するときは)、相手にツバ
をひっかけるようなつもりで話すとよい。

 さらに同じ「ア」の音でも、英語では、先に口の形を、「ア」にしておいて、瞬間的に、「ア」と発
音する。日本語では、口の形をつくりながら、同時に「ア〜」と、声を出す。

 こうしたちがいは、教えて教えられるものではない。徹底的に、マネさせる。

 で、私はぬいぐるみのカエルを、相棒に使う。腹話術で、それを使う。……使うようになって、
もう30年になる。

 今では、小学3年生の子どもでも、だませるほど、腹話術がうまくなった。(あとで、「このカエ
ル、本当に生きているの?」と聞く子どもがいる。ホントだぞ!)

私「どうしたの? 元気がないよ」
カエル「ぼく、おうちに帰る。疲れた。……眠い……」
私「まだ、レッスン、始まったばかりじゃない」
カエル「抱っこして……」
私「もう寝るの?」
カエル「ウン」

私「しかたないな……」
カエル「ママのおっぱい、ほしい」
私「ぼくは、ないよ。男だもん」
カエル「オッパイ!」
私「わかった、わかった」

私、ハンカチを胸に入れて、おっぱいをつくる。

カエル「小さい」
私「ぜいたく言うんじゃ、ない」
カエル「それに一つしかない……」
私「わかった、わかった。もう一つ、つくればいいんだね」
カエル「うん……」

私、ハンカチをもう一つ入れて、おっぱいをつくる。

私「これでいい……?」
カエル「おばあちゃんのオッパイみたい……」
私「どうして?」
カエル「だって、下すぎる……」
私「上にあげればいいの?」
カエル「そう……」

私、ハンカチを、胸の上のほうにあげる。

私「これでいい……?」
カエル「うん」
私「じゃあ、寝るんだよ」
カエル「……子守唄も、歌ってエ……」
私「ぜいたく言うんじゃない!」
カエル「歌ってエ!」

私「わかった、わかった、歌うよ。♪……笹の葉、サラサラ……」
カエル「だめ。それじゃ、ない」
私「じゃあ……。♪……どんぐりコロコロ……」
カエル「ちがう!」
私「♪ABCDEFG HIJLLMN……」

カエル、スヤスヤと眠り始める。そこでカエルをそっと、机の上に置き、ハンカチを、タオルケッ
トのようにしてかけてあげる。

こうして英語の歌に導いていく。

 ほとんどの子どもは、そうした様子を、うっとりとした表情で、見ている。

 なおカエルの名前は、「ケロちゃん」。よろしく!


●自由

 自由というのは、自分が自由でなくなったとき、はじめて、それがわかる。自由でないというの
は、自分が自由になったとき、はじめて、それがわかる。それまでは、わからない。ぜったい
に、わからない。

 今日も、昼のワイドショーで、K国問題をとりあげていた。K国でもエリート中のエリートが集ま
るといわれる、K大学と、K外国語大学を特集していた(7・13)。

SGさん(拉致被害者)の娘さんは、その中のK外国語大学に在籍しているという。

 テレビのレポーターは、「今回はじめて、大学の取材が許可されました」と言っていた。そして
K外国語大学を訪問し、その中の学生に、日本のファッション雑誌を見せながら、「どう、思い
ますか」と、質問していた。

 何という愚かな質問!

 その雑誌を見ながら、K国の学生は、こう答えていた。「アジア人には、(こういうファッション
は)、似あわないと思います」と。

 たぶんそのレポーターは、心のどこかである種の優越感を感じながら、そう質問したのだろ
う。しかしK国の学生たちは、自分たちが自由でないとは、ぜったいに思っていない。その一方
で、K国の学生たちは、日本の学生たちが、より自由であるとは、ぜったいに思っていない。

 34年前にオーストラリアへ渡ったときのこと。私も、そのときはじめて、それまで私が知って
いた自由が、オーストラリアでいう自由とは、ほど遠いものであることを知った。尾崎豊の言葉
を借りるなら、それまでの自由は、「しくまれた自由」(「卒業」)にすぎなかった!

 だから今、K国の学生たちに、「あなたは自由だと思いますか」と質問しても、意味がない。K
国の学生たち自身が、自由を知らない。彼らは彼らなりに、自分たちは、自由だと思っている。
……思いこんでいる。

 K国の学生たちが、自分たちが自由でないことを知るためには、一度、K国の外に出て、自
由というものがどういうものであるかを、知らねばならない。
 
 一方、「私たちは自由だ」と思っている日本人だって、本当の自由は知らないのではないの
か。そのレポーターは、髪の毛を赤く染めることが自由とでも思っているのだろうか。大学の教
授に、こう質問していた。

 「あなたの娘さんが、茶パツにすると言ったら、あなたはどうしますか?」と。

 自由というのは、もっと根源的なもの。人間の魂の奥深くに根ざしたもの。もっと言えば、魂を
取り巻いている無数の糸から、解放し、広い世界へ、自分自身を解き放つことをいう。ファッシ
ョンや髪の毛の色で、決まるものではない。

 それにしても意識というのは、おもしろい。目の前に、水槽がある。その中には、20匹近くが
いる。そういう魚でも、自分たちは自由だと思っているかもしれない。が、海から連れてこられ
た魚だったらどうだろう。魚ではなく、鳥だったら……。

 私は子どものころ、よくスズメをつかまえた。エサを用意し、ワナをしかけた。そのスズメのば
あい、カゴに入れると、それこそ死ぬまで暴れる。くちばしが割れ、血が出ても、暴れる。自由
というのは、そういうものかもしれない。

 それにしても、あのK国は、いろいろと私たちに教えてくれる。私はそのワイドショーを見なが
ら、自由とは何か、それを改めて考えなおした。

 そうそう、その大学の教授は、レポーターの質問に答えて、こう言った。「(うちの娘が、茶パ
ツにすることなど)、考えられません」と。

 しごく当然の答である。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(222)

【親子の確執】

************************

現在、東京都F市にお住まいの、NEさんという
方から、親子の問題についてのメールをいただき
ました。

転載を許可していただけましたので、みなさんに
紹介します。

このメールの中でのポイントは、2つあります。

子離れできない、未熟な母親。
家族自我群の束縛に苦しむ娘、です。

旧来型の親意識をもつ、親と、人間的な解放を
求める娘。この両者が、真正面からぶつかって
いるのがわかります。

NEさんの事例は、私たちが、子どもに対して、
どういう親であるべきか、それを示唆しているように
思います。

みなさんといっしょに、NEさんの問題を
考えてみましょう。

***********************

【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するため
に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって
私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか
理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生
経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を
聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにも
ならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、
三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのか
もしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおす
と言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌
山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだ
めでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東
京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あな
たに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれな
い」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も
体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然
だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の
理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を
自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴
き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤ
だなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親
の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展
したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住
んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだ
ったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電
話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流
産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどい
ことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだ
から、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などな
ど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目が
さめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに
面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟
の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家
のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る…
などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけ
というふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮ら
していていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京
を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んで
いる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったの
でした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なん
てできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思
います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わない
で!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと
恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩
にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわした
りすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そ
んな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になっ
てしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態と
なり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期が
ありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言
い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生
意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですか
ら、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっ
と苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚
しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一
緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささ
り、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思っ
たことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣
いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかった
のに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろし
て…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のよ
うな日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、こ
れまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわ
けではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷
いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語
でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…など
など。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話に
は、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあて
はまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私
は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せ
だなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を
選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…など
と。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、お
まけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かた
よった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我
が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで
向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の
関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な
信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼
はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成
人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環
からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変
わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が
出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかな
いどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていませ
ん。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための
本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預
けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいな
い三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問
題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、
ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれ
ない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形
に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」
の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出
しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり
愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感
謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思ってい
ます。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こう
して打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている
間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼ら
の親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識
にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだん
ご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそう
に、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレ
クトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないよ
うに)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであ
るような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカー
の話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったく
わからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれ
た」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なん
ですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろや
るべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に
帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助
手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄された
ままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトの
ピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強するこ
と。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるよう
になること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味を
しっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実
際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの
立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほん
とうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立って
いた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることに
なりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の
顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見が
ございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしま
いまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより

**************************

【ああ親意識! されど親意識!】

●子どもの幸福に、嫉妬する親

 子どもの幸福に嫉妬する親は、少なくない。「親をさておいて、自分だけ、幸福になるとは、何
ごとか」と。「親不孝者は、地獄へ落ちる」と、子どもを脅す親もいる。

 もともと精神的に未熟な、依存性の強い親とみる。そういった未熟性に、日本に古来から伝
わる、独特の親意識が重なる。私が「悪玉親意識」と呼んでいるのが、それである。

 この嫉妬は、さまざまな形に、姿を変える。

 息子や娘に対して、攻撃的になる親。弱々しい親を演じ、同情を求める親。子どもにベタベタ
と依存しようとする親。そして子どもに対して、逆に服従的になり、言外に子どもに、「私(親)の
めんどうをみろ」と迫る親、など。

 これらのパターンが、複合化して現れることもある。貧しいフリをして、息子の同情をかい、そ
ういう方法で、いつも息子の財産(マネー)を、まきあげるなど。

 息子が、「母さん、生活はだいじょうぶか?」と、心配して電話をかけると、「心配しなくていい
よ。冷蔵庫には、先日買った、魚の缶詰が、まだ残っているからね」と。

●「産んでやった」と言う母親。「産んでいただきました」と答える子ども

 依存性の強い母親は、いつもどこかで、恩着せがましい子育てをする。無意識のうちにという
か、伝統的な子育て法を、そのまま踏襲する。

 このタイプの母親(父親も)は、子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」を、日常的に
口にすることで、子どもを束縛しようとする。

 一方、子どもは子どもで、それに答えて、「産んでいただきました」「育てていただきました」
と、言うようになる。

 相互にこうした依存関係ができたときには、親子関係も、それなりにうまくいく。たがいにベタ
ベタの親子関係をつづけながら、親は息子(娘)を、「できのいい孝行息子(娘)」と思うようにな
る。息子(娘)は、「私の母親(父親)は、すばらしい人だ」と思うようになる。

 が、もともとそれを支える人間的基盤は、弱い。軟弱。わかりやすく言えば、たがいに自立で
きない人間どうしが、たがいになぐさめあって生きているにすぎない。ちょっとしたことで、この
人間関係は、崩れやすい。

●親・絶対教

「親は絶対である」と、考える人は、多い。だれかが、ほんの少しだけ、その人の親を批判した
だけで、「(オレの)親の悪口を言うヤツは許さない」と、絶叫してみせたりする。

 それがどこかカルト的であるから、私は「親・絶対教」と呼んでいる。

 カルトだから、理由など、ない。根拠もない。「偉いから、偉い」というような考え方をする。そ
れに日本古来の先祖崇拝意識が重なることもある。

 このタイプの人に、そのカルト性を指摘しても、意味はない。反対に、「お前の考え方のほう
がおかしい」と、排斥されてしまう。相手の意見を聞く耳すら、もたない。と、同時に、それがそ
の人の人生観や哲学になっていることも多い。

 親・絶対教を否定するということは、その人の人生を否定することにもなる。だから、このタイ
プの人は、猛烈に反発する。

 「親の悪口を言うヤツは、許さない!」と。「お前ら、人間の道を踏みはずしている」と言った
人もいる。

 あたかもそう叫ぶことが、子どもとしての努めであるというような、行動をとる。

●犠牲心

 こうした親・絶対教の信者に共通するのは、「子育ては、親の犠牲の上に成りたっている」と
いう考え方である。「産んでやった」「育ててやった」という言い方は、そういうところから生まれ
る。

 さらにストレートに、「お前を大学へ出してやった」「高い月謝を払って、ピアノ教室へ通わせて
やった」と言う親さえいる。

 そこで問題は、なぜ、こうした犠牲心が生まれるかということ。もう少し正確には、犠牲的子育
て観が生れるかということ。

 本来、子どもというのは、一組の夫婦の愛の結晶として生れる。そしてその子どもが生れてき
た以上、その子どもを育て、最終的には、その子どもを自立させるのは、親の義務である。

 義務だ!

 その義務を放棄して、「産んでやった」「育ててやった」と言う。つまり、ここに日本型の子育て
の(おかしさ)が、集約されている。事実、英語には、そういう言い方、そのものがない。ないも
のは、ないのであって、どうしようも、ない。

●不幸な家族観

 日本独特の「家」制度は、同時に、個人の自立を、いつもどこかで犠牲にする。またその犠牲
の上に、「家」制度が、成りたっている。

 このことは、その「家」の跡取りとなった、長男をみれば、わかる。今でも、この日本には、「長
男だから……」「長女だから……」という、『ダカラ論』が、色濃く残っている。そのため、そのダ
カラ論にしばられ、悶々と過ごしている長男、長女は、いくらでもいる。

 こうした意識の背景にあるのは、親にしても、自分たちの愛の結晶としての子どもを産むとい
うよりは、自分を離れた(他者)、つまり(家)のために、子どもを作るという意識である。

 「本当は、産みたくなかったが、家のためにしかたないから、産んだ」と。

 ここまで極端なケースは、少ないかもしれないが、まったくないわけではない。が、中には、不
本意な結婚、不本意な出産をした人も多い。このタイプの人は、どうしても、ここでいう犠牲心
をもちやすい。

 「私は子どものために、自分の人生をムダにしている」「したいことも、できず、犠牲になって
いる」と。

 その理由は、人それぞれ。しかし結果として、親は、心のどこかで犠牲心をもってしまう。そし
てそれが、冒頭に書いた、嫉妬へと、いつしか変質する。

●父親の役割

 母子関係と、父子関係は、基本的には、同一ではない。それは母親は、子どもを妊娠し、出
産し、そのあと、乳を与え、命をはぐくむという特殊性のちがいといってもよい。

 一方、父親と子どもの関係は、あくまでも(精液一しずくの関係)でしかない。

 そこでどうしても母子関係は、特殊なものになりやすい。が、特殊であることがまちがっている
というのではない。たとえば人間が原点としてもつ基本的信頼関係は、良好な母子関係がって
はじめて、はぐくまれる。

 この母子関係が不全になると、子どもは、生涯にわたって、その後遺症をひきずることにな
る。

 こうした特殊な母子関係を修正し、調整していくのが、父親の役割ということになる。放ってお
くと、母子関係は、ベタベタの関係になってしまう。子どもは、ひ弱で、自立できない人間になっ
てしまう。

 父親は、そこで、子どもに狩のし方を教え、社会的ルールを教える。こうした操作を繰りかえ
しながら、子どもを、濃密な母子関係から切り離していく。

 この父親の役割があいまいになったとき、えてして母親は子どもを溺愛するようになる。それ
が相互依存関係をつくり、やがてベタベタの人間関係へと、発展していく。

●演歌歌手のK氏

 いつだったか、NHKのテレビ番組に、「母を語る」というのがあった。

 その中で、演歌歌手のK氏は、涙まじりに、こう語っていた。

 「私の母は、女手一つで、私を育ててくれました。私は、その恩に報いたくて、東京に出て、歌
手になりました」と。

 K氏は、さかんに、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言っていた。それはそ
れだが、私は最初、「Kさんの母親は、すばらしい母親だ」と思った。しかし5〜10分も見てい
ると、ふと、心のどこかで疑念がわいてくるのがわかった。

 「待てよ」と。

 「本当にK氏の母親は、すばらしい母親だったのか?」と。

 K氏は「すばらしい母親だ」と言っている。それはわかる。しかし、「産んでいただきました」「育
てていただきました」と、思わせたのは、実は、母親自身ではなかったのか、と。

 心理学でいう、「家族自我群」による束縛で、K氏をしばりあげたのは、実は母親自身であ
る、と。

 「女手ひとつ」だったということだから、苦労もあったのだろう。それはわかる。が、K氏の母親
は、そうした恩を、K氏に日常的に着せることで、母親としての自分の役目を果たそうとした
(?)。

 こうした例は、決して、珍しくない。日本人は、ごく当たり前のこととして、それを受けいれてし
まっている。よい例が、窪田聡という人が作詞した、あの『かあさんの歌』である。

 あれほどまでに、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はないと、私は思うのだが、日本人は、
こうした歌を、名曲として、受けいれてしまっている。

●家族自我群からの自立

 こうした問題を考えるとき、私たちは、どうしても親という立場だけで、ものを考えやすい。しか
し本当の問題は、このあと、子どもの側に起きる。

 「産んでいただきました」「育てていただきました」と、子どもの側が、それなりに、親に呼応し
ている間は、たがいの人間関係は、うまくいく。

 しかしその成長過程においても、子どもは、こうした家族自我群からの自立を目ざす。これを
「個人化」という。

 よく誤解されるが、個人化は、家族の否定ではない。家族との調和をいう。

 が、この個人化が、うまく進まないときがある。親の溺愛にはじまって、過干渉、過関心、そし
て過保護など。親の否定的な育児姿勢が、個人化を阻害することもある。家庭崩壊、育児拒
否、冷淡、無視、暴力、虐待なども、個人化を阻害する。

 この個人化が、うまく進まないとき、さまざまな弊害が起きる。

 その一つが「幻惑」(ボーエン)という現象である。

●幻惑

 本来、子どもが自立し始めたら、親は、自分自身も子離れを始めると同時に、子どももまたじ
ょうずに、親離れできるように仕向けなければならない。

 子離れということは、子ども自身に親離れさせることを意味する。

 「あなたは、あなたよ。あなたの人生は一度しかないから、思う存分、この広い世界をはばた
いてみなさい」と。

 子どもは、こうした親の姿勢を感じてはじめて、自分自身を自立させることができる。が、そ
れがないと、子どもは、その「幻惑」に苦しむことになる。

 親離れすることを、罪悪と考えるようになり、家族自我群の束縛と、個人化のはざまで、悩み
苦しむようになる。

 さらにその幻惑が進むと、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまい、さらには、自己否定
するようになってしまう。

 親自身が、息子や娘に、このレッテルを張ってしまうこともある。「このできそこない! 親不
孝者め!」と。

●伝統的子育て観

 子育ては本能ではなく、学習によって、決まる。そういう意味でも、子育ては、代々と、親から
子へと繰りかえされやすい。

 そこで日本型の子育ての特徴はといえば、常に子どもが、親、先祖、家に対して犠牲的にな
ることを、美徳としてきたところにある。

 ある母親は、息子夫婦が海外へ赴任している間に、息子の財産(土地)を、勝手に売却して
しまった。

 それについて息子が母親に抗議すると、その母親は、こう答えたという。

 「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースでは、親が口にする「先祖」というのは、「親」という自分自身のことをいう。まさ
か「親が、自分の息子の財産を使って、何が悪い!」とは言えない。だから「先祖」という言葉を
もちだす。

 それはそれとして、こうした伝統的子育て観が一方にあって、親は、子どもに犠牲を強いるよ
うになる。あるいはそれを強いながら、強いているという意識がないまま、強いる。

 こうして日本独特の子育て観は、代々と、親から子へと受け継がれる。今も、受け継がれて
いる。

●親子の確執

 親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。人間と人間の関係である。

 が、この親子関係が特殊性をおびるのは、ひとえに、文化でしかない。その文化が、親子関
係を特殊なものにする。

 だからといって、それが悪いと言うのではない。人間生活そのものが、その「文化」の上に成
りたっている。文化を否定すれば、人間は、原始の世界の動物に、逆戻りする。

 大切なことは、そういう人間関係に、どういう文化を乗せるかである。あるいはその基礎に、
どういう文化を置くかである。

 その文化に、ズレが生じたとき、親子の間に緊張感が高まり、それが、確執へとつながって
いく。しかも、親子であるがゆえに、その確執のミゾも深くなる。他人なら、たがいに、「はい、さ
ようなら」と別れることができる。しかし親子では、それができない。できないから、もがき、苦し
む。

 たとえば、日本人の多くは、「産んでもらった」、だから、「親のめんどうをみるのが当然」とい
う、相互依存関係をつくりやすい。

 しかしなぜそうなったかといえば、先に書いたように、そこには「家」制度がある。さらには、社
会保障制度の不備もある。最近になって、老人介護という言葉が使われるようになったが、私
が若いころには、そんな言葉すらなかった。

 子どもは親なしでは生きていかれない存在だが、老人もまた、子どもなしでは生きていかれ
ない存在であった。が、問題は、さらにつづく。

●欧米の例

 オーストラリアでもアメリカでも、親が老後の苦労を、子どもにかけないという姿勢が、社会制
度の中で定着している。またそういう社会的制度も、充実している。

 オーストラリアの南オーストラリア州でも、平均的なオーストラリア人は、つぎのような過程を
経て、人生を終える。

 結婚→子育て→子どもの独立→老後は市内のアパート(自分の家)→老人ホーム→死去、
と。

 日本の家族のように、複数世代が、同居するということは、まず、ない。興味深いのは、子ど
もが高校生くらいになると、親自身が、子どもの自立をうながすこと。同じ敷地の中に、バンガ
ローを建てて、そこへ子どもを住まわせる親も、少なくない。

 こうして親は親で、死ぬまで、自分の生活と、その生活する場(人生)を確保する。こどものた
めに自分の人生を犠牲にすることは、まず、ない。

 たとえば大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。たいていは奨学金を得たり、自ら借金をして通う。

 が、それでいて、人間関係が希薄かというと、そういうことはない。むしろいろいろな統計結果
をみても、手をかけ、金をかける日本の親子関係より、濃密なばあいが多い。

●親自身の自立性 

 あなたと親の関係はともかくも、今度は、あなたと子どもの関係において、あなたという親は、
いつも人間として自立することを念頭に置かねばならない。結局は、そこへすべての結論が、
行きつく。

 親としてではなく、一人の人間として、どう生きるかという問題である。

 その(生きる)部分に、(親意識)を混在させてしまうと、人生そのものが、わけのわからない
ものになってしまう。よくある例が、自分の生きがいを、子どもに託してしまう親である。

 明けても暮れても、考えることは、子育てのことばかり。自分の人生のすべてを、子育てにか
けてしまう。

 一度、こういう状態になると、そこから抜け出るのは、容易なことではない。それなりに親子関
係が順調なときは、それほど問題にはならない。しかしひとたびそれが崩れると、自己犠牲心
は、被害妄想に。愛情は、憎悪へと変身する。……しやすい。

 「親をさておいて、自分だけいい生活をしやがってエ!」と、息子に叫んだ母親がいた。
 「あんたは、だれのおかげで、日本語がしゃべれるようになったか、わかっているの!」と、娘
に叫んだ母親もいた。

 息子が家を新築したことに対して、「親の家を改築するのが、先だろう」と怒った、母親すら、
いた。

 ほかにも、息子が結婚して、郷里を離れたことについて、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母
親もいる。「息子を、嫁に取られてしまった。息子なんて、育てるもんじゃない」と、会う人ごとに
こぼしていた母親もいる。

 こうした親たちに共通する点はといえば、つまりは、自立できない、精神的に未完成な人間性
である。

●では、どうするか?

 今まで、こうしたケースを、私はたくさん経験している。経験したというよりは、多くの相談を受
けてきている。

 その結果というか、結論を先に言えば、こうした親たちを説得するのは、不可能ということ。
先にも書いたように、カルト化している。さらにそういった生きザマ自体が、その人の人生観の
骨格にもなっている。

 それを否定することは、その人自身の人生を否定することに等しい。だからそもそも、別の考
え方を受けいれようとしない。

 で、こういうケースでは、あきらめて、納得し、その上で、妥協して生きるしかない。

 そして自分の問題としては、心理学でいう「幻惑」から、できるだけはやく自分を解放する。

 親が子どもに対して、冷たく「縁を切る」とか、それに類することを口にしたときには、それを
悩むのではなく、「はい、そうですか」と割りきる。この割りきりが、あなた自身を幻惑から解放
する。

 幻惑にとりつかれ、悶々と悩むということは、あなた自身が、すでに親がもつ親意識を、引き
継いでいることを意味する。つまりあなた自身も、すでにマザコンであるということ。そのマザコ
ン性に気がつくことである。

 なぜ幻惑に苦しむかといえば、自分自身の中のマザコン性を、処理できないためと考えてよ
い。

【NEさんへ……】

 長い前置きになりましたが、回答のいくつかは、すでにこの前置きの中に書いたと思います。

 あなたは(いい娘)でいようとしています。そのために、たとえばあなたは、

「両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に帰って年老いた両親のかわりに、家
の掃除や手入れなどをひきうけること。

私が仕事(検査助手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。

小さい頃から習い続けてきて途中で放棄されたままのピアノも、もういちど始めること(和歌山
市の実家に置き去りになっているアップライトのピアノがある)。

母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強すること。

同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるようにな
ること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味をしっ
かり受け継ぐこと…などなどが考えられます」と書いています。

 はっきり言いましょう。

 あなたはここでいう「幻惑」に苦しみながら、その一方で、自分自身の中のマザコン性に気が
ついていないのではないでしょうか。あるいは、親離れできていない?

 どうしてそうまで、あなたは親に対して、(いい子)で、かつ親に好かれなければならないので
しょうか。あなたが今、一番大切にすべき人は、あなたの夫です。それに子どもです。視点を、
親からはずして、そちらに向けなさい。

 あなたの母親が、「孫の写真など、送ってくれなくてもいい」と言ったら、そのとおりにすればよ
いのです。それを、旅行券などを送って、どこかで無理をする。そういうあなたを見て、一番困
っているのは、ひょっとしたら、あなたの夫(配偶者)かもしれません。

 あなたはあなたで、堂々と、前を向いて生きなさい。あなたが言うように、いざとなったら、そ
のときは、助けに入ればよいのです。それまでは、そっとしておいてあげるのも、あなたの務め
かもしれません。

 そしてあえて言うなら、あなたも、親に対してもっている、「親である」という幻想を捨てなさい。
メールから読み取るかぎり、あなたの母親は、つまらない、ただの「女」です。多分、あなたの
母親は私と同年齢かと思いますが、私から見ても、つまらない人です(失礼!)。

 そう、実につまらない。

 「親だから、そんなはずはない」とあなたは思いたいのでしょうが、人間というのは、そういうも
の。30歳過ぎたら、よほどのことがないかぎり、進歩はないものと思ってください。今では、あ
なたのほうが、人間的にも、あなたの母親より、はるかに「上」を進んでいます。つまり、つまら
ない母親など、本気に相手にしないこと。

 適当につきあって、適当にすませば、それでよいのです。つまらない人を本気で相手にしてい
ると、あなた自身も、つまらない人になってしまいますよ。

 そして今、あなたの心の中でウズを巻いている幻惑から、できるだけはやく、あなた自身を解
放することです。

 あなたは何も悪いことはしていません。罪の意識に悩むことは、まったく、ないのです。あなた
はできるだけのことは、してきた。今も、している。それでよいのです。

 ただあなたの子どもにだけは、同じ思いをさせてはいけません。私自身も、親(とくに母親)
に、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、さんざん言われて育った経験
があります。

 だから自分の子どもをもったとき、それだけは、口に出して言わないように、心に誓いまし
た。

 そして今、ほとんど子育てが終わった今、子どもたちに感謝することはあっても、子どもたち
に何かを求めることは、まったくありません。「お前たちのおかげで、人生を楽しむことができ
た。ありがとう」と、です。

 残りの人生は、どちらかひとりになるまで、夫婦で楽しく生きようと言いあっています。励まし
あっています。もちろん子どもたちの世話になることなどは、考えていません。まったく考えてい
ません。そのうち、土地と家を売って、老人ホームへ入ることを、考えています。

 そこで残りの人生を、有意義に過ごします。

 これからは、望むと望まざるとにかかわらず、そういう方向に向って、日本も進むと思いま
す。それが国際的な常識だからです。

 今、多いですよ。本当に多いですよ。親子の確執の中で、もがき苦しんでいる人は、多いで
す。

 数年前、母親教室で、ふとその話題に触れたとき、「私も……」「私も……」と声をあげた人
(若い母親)が、30%近くもいたのには、驚きました。

 みんなどの人も、人知れず、悶々と悩んでいたのですね。「自分は、人間として失格者なの
だ」と。

 しかし、反対に考えてみたらどうでしょうか。つまり、良好な(?)親子関係を結んでいる人の
ほうが、少ないのだ、と。ここでいう「良好」というのは、あくまでも、旧来型の親子観でみたばあ
い、という意味ですが……。

 が、これからはもう、そういう時代ではないし、またあってはいけないのです。現代と言う時代
は、その二つの価値観が激突している過渡期ということになるのかもしれません。

 最後にメールの転載許可、ありがとうございました。ほとんどの方が断っておいでになるとい
う現状の中で、読者の方の大きな参考になると思います。より多くの読者の方が、あなたのメ
ールを読み、自分の子育てを見なおすきっかけになればと願っています。

 ありがとうございました。

                                はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(223)

【近況・あれこれ】

●デニーズ

 デニーズが、デジタルカメラをこわしたらしい。「ひざの間に置いたら、そのまま下へ落してし
まった」という。それで「胃が痛い」と。

 たまたま二男の誕生日も近い。そこでさっそく、デジタルカメラを買って送ることにした。

 「心配しなくてもいい。新しいカメラを買って、送ってあげるから」と。

 アメリカ人というのは、自分を飾らない。ウソをつかない。ストレート。日本人のように、本音と
建て前を、使い分けるということ知らない。そういう器用なことが、できない。まったくありのまま
……という感じ。

 国民性のちがいというより、民族性のちがいか。オーストラリア人も、ストレート。

 一方、日本人というのは、子どものときから、心を隠すことを学ぶ。それがよい面として作用
することもあるが、そうでないときも、ある。

 だからアメリカ人に言わせると、日本人は何を考えているかわからないという。日本人に言わ
せると、アメリカ人は、合理的でドライだという。たがいの見方が、相対的なちがいとなって現れ
る。

 私自身は、長い間、幼児教育をしているせいもあって、ストレートな人間性を好む。先日も、
幼稚園児たちに、「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」と聞いたときのこと。

 年中児の子どもたちだったが、恥ずかしそうに、「嫌いだよオ〜」と言った。そこですかさず、
私は、こう怒鳴ってやった。

 「ウソをつくんじゃ、ない! 好きだったら、好きと言いなさい! 正直に、ママのおっぱいは、
好きと、そう言いなさい!」と。

 すると子どもたちは、少しためらいながらも、「好きだよオ〜」と。

 こうしたちがいは、子育ての場でも、よく経験する。オーストラリア人たちは、自分の子ども
に、ことあるごとに、「正直でいなさい(Be honest.)」と教える。しかし私は幼児教育をするよ
うになって、母親が子どもに、「正直でいなさい」と言っているのを聞いたことがない。

 「正直でいなさい」というのには、二つの意味がある。「ウソをつくな」という意味と、「自分に誠
実に」という意味である。

 「自分に誠実に」というのが、ここでいう「ストレート」という意味である。が、それがむずかしい
ことは、日本人なら、だれでも知っている。もしそんなことをすれば、共同体そのものから、はじ
き飛ばされてしまう。

 日本人は自分を正直に主張するよりも、ナーナーで、ものごとを丸く収めようとする。またそ
のほうが、生きやすいことを、よく知っている。

 デニーズは、決して私にカメラを買ってほしいから、そう書いてきたのではない。私があげた
カメラをこわしてしまったから、正直に、それを言って、あやまってきた。「あなたから買ってもら
った、高価なカメラをこわしてしまいました。ごめんなさい」と。

 それに答えて、私は「心配しなくてもいい。新しいのを買ってあげるから」と。どこまでもアメリ
カ的なデニーズと、どこまでも日本的な私。もし私がアメリカ人の父親なら、こう言って、終わっ
ただろう。

 「それは残念だね」と。

 おかしな親子だが、今のところ、そんな感じで、うまくいっている。間に立っている二男は、ど
んなふうに思っているか、それは私にはわからないが……。

(追記)
 
その翌日、デニーズから、返事のメールが入っていた。私が「新しいカメラを送る」と書いたこと
に対して、「ありがとう。楽しみにしている。これからは注意深く使います」と。

 このストレートさが、私は好きだ。日本人の嫁さんならこういうとき、一応、「悪いから、結構で
す。どうか気にしないでください」などと、書くかもしれない。

 
●異変?

 最近、こんなおかしなことが起きている。

 ふつう女の子というと、ピンク色を好むものとばかり思っていた。

 しかし、である。最近は、水色の好きな女の子がふえてきたような気がする。「好きな色は?」
と聞くと、「水色!」と答えたりする。

 たまたま今日、小1の女の子、6人。小3の女の子、6人に聞いたところ、全員(全員だ)、「水
色!」と答えた。

 「環境ホルモンのせいか?」と、少なからず、驚いた。

 ちなみに、男子のばあいは、赤、青、とくに好きな色はない、黄緑など、さまざま。子どもたち
の世界で今、何かしら大きな変化(異変?)が、起きつつあるようだ。



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暑い夏になりました。

どうかお体を大切に!

いつもマガジンのご購読、ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

                  はやし浩司


●ヤミ献金、100000000円(1億円!)

「日本歯科医師会」(日歯)の前会長・臼田貞夫被告(73)らが、2001年7月の参院選の直
前、自民党橋本派(平成研究会)に1億円を提供していたという(7・14)。

 ナルホド!

 最近、歯科医院へ行くと、こまごまとした検査が、されるようになった。必要もないのに(?)、
いちいちレントゲンをとられ、基礎データ(?)をとられる。歯科医師救済のための、実質的な、
診療費の値上げである。

 しかも驚いてはいけないのは、この1億円は、まったくのヤミ献金!

橋本元首相が代表者を務める橋本派の政治団体「平成研究会」の収支報告書では、同年中
の日歯連からの献金は、セミナー会費の計100万円だけになっているそうだ。

「橋本元首相の資金管理団体、新政治問題研究会、元首相が代表の自民党岡山県第4選挙
区支部の収支報告書には、日歯連からの献金の記載はなかった」(Y新聞)と。

 この1億円について、当の橋本元首相は、13日、読売新聞社の取材に、「金をもらった記憶
はない。派閥の金も直接受け取ることはない。だが、指摘を受けたので調べる」(Y新聞)と話し
たという。

 よくもまあ、ヌケヌケと! ホント! あきれる!

 あのバブル経済を引き起こした超本人が、当時の宮沢首相と橋本大蔵大臣。この二人のコ
ンビが、日本の経済をメチャメチャにした。その上、ウラでこんなことをしていたとは!

 もう、私は、怒りを超えた! 評論するのも、疲れた!

 どうしてこういう政治家を罰することができないのだろうか。今度の参議院議員選挙(7・11)
でも、あの北海道の鈴木M氏は、落選はしたものの、数十万票もの得票を得たという。結局
は、そういう政治家を支える、ノーブレインな国民がいるということ。

 そこに本当の問題がある。

 そうそうその鈴木M氏。今度の選挙でも、行く先々で、若い女性や女子高校生たちに取り囲
まれ、満面に笑顔を浮かべていた(テレビ報道)。女性は女性で、キャッキャッと甲高い歓声を
あげ、中には抱きついて、いっしょに携帯電話で記念写真をとる人も!

 そこで鈴木M氏は、こう勝利宣言(?)をした。「落選はしたが、私は選挙には勝った」と。

 みんなで、もっともっと考えよう。考える人間になろう! このままでは、日本人はみな、本当
に「ケータイをもったサル」になってしまう!




●韓国の国際競争力、「技術8位、科学19位、総合35位」

「韓国の技術競争力が昨年の27位から8ランク上昇した一方で、科学競争力は昨年より3段
階下落した19位と評価された」 ……と韓国の朝鮮日報は、報じた(7・16)。

 私は韓国の経済力には、あまり興味はない。だから技術力が8位でも、科学力が19位でも、
そんなことは、どうでもよい。

 問題は、そのことではなく、韓国の報道を見ていると、この種の(順位)が、頻繁に出てくると
いうこと。韓国の人たちは、よほど順位が好きらしい。気になるらしい。

 実は、ここに韓国の国民性というか、韓国の人、独特のものの考え方の特徴がある。韓国の
受験勉強の比は、日本の比ではない。ものすごい……というよりは、そのすごさを超えて、狂
乱している。

 そういうはげしい受験競争をくぐりぬけてきた人たちが、今の韓国の経済、政治、社会を牛耳
っている。だから、こういう(数字)が気になる。……らしい。

 つまりそれだけ、自分を順位で評価するしくみができているということ。その順位があがれ
ば、安心し、そうでなければ、心配する。まさに国全体が、受験勉強をしているよう。

 しかしこの姿は、60年代から70年代にかけての、日本の姿に似ている。つまり韓国の報道
姿勢をながめていると、あのころの日本を思い出す。あのころの日本は、「欧米においつけ、
追い越せ」と、毎日のように、その数字が公表されていた。

 とくに話題になったのが、GNP(国民総生産高)値である。私たちはいつしか、そのGNP値
が、国家の力、国民の豊かさと誤解するようになった。と、同時に、「日本も豊かになったもの
だ」と喜んだ。

 しかしGNP値をそこまで気にしていたのは、日本人だけ。つまり私たち日本人が、受験生的
な目で、日本をながめていたにすぎない。外国へ行っても、どの人も、「そんな数字、知らない
〜イ」と。

 私たちは今、韓国のそうした報道を見ながら、こう考える。

 「あまり順位だとか、そういうことは気にしないで、もっと本質的なことを気にしたらいいのに…
…」と。「いくら豊かになったといっても、今の日本の家庭のように、家の中に、モノだけがゴロ
ゴロしているような生活が、本当に豊かな生活なのか」と。

 でないと、(もう韓国も、すでにそうなのかもしれないが)、韓国の若者たちも、いつか、ケータ
イをもったサルになってしまう。そこで、順位。

★モノ占有率(モノが部屋を占める割合)、韓国3位(日本、1位)
★ムダな買い物率(ムダ買い率)、韓国2位(中国、1位・日本、2位)
★ムダ話率(ムダな会話率)、韓国1位(日本、2位)
★ケータイをもったサル度、韓国2位(日本、1位)

 いらぬお節介かもしれないが……。


●子どもが落ちるとき……

 「私の子どものことは、私が一番よく知っている」と思っている親ほど、子育てで失敗しやす
い。ものの考え方が、そもそも自己中心的。その自己中心性が、強ければ強いほど、子どもの
心を見失う。見誤る。

 「教育に熱心」と言えば、まだ聞こえはよい。しかし実際には、自分の価値観を、子どもに押し
つけているだけ。自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 典型的な例をあげて、考えてみよう。R君という小学1年生の男の子を考えてみよう。架空の
子どもである。

 この時期の子どもには、まだ従順さが残っている。母親は絶対。母親なしでの生活は、考え
られない。だから母親の小言を聞きながらも、母親に従う。耐える。

 そういう関係をよいことに、母親は、子どもを、きびしくしつける。学校でのテストで、まちがえ
たところがあったりすると、「どうして、こんなのができないの!」と、子どもを叱る。

 しかしやがて子どもの心は、離れ始める。しかし親は、それに気づかない。気づかないまま、
無理をする。この無理が、さらに親子のキレツを深くする。

 たとえて言うなら、親への従順性は、心に残った貯金のようなもの。それをよいことに使いまく
れば、やがてその貯金も、底をつく。

 しかしここでも、問題が起きる。この段階で、それに気づく親は、まず、いない。私のような立
場の教師が、警告しても、ほとんどのばあい、意味がない。子どもの見せるあどけなさに、親
は、つい油断をしてしまう。「まさか、うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と。

 R君は、母親に叱られながらも、それに耐えた。「ごめんなさい」と、あやまった。

母親「どうして、こんな問題ができないの!」
R君「時間がなかった……」
母親「時間がないって、こんな簡単な問題でしょ!」
R君「ごめんなさい」
母親「ぜんぶ、やりなおして、あとでママに見せなさい」
R君「わかった……」と。

 しかしそのR君も、小学3年生になった。体力も、ついた。腕力では、もう母親に負けない。大
声も出る。当然のことだが、やがてR君は、学校であったことを、母親に話さなくなった。もちろ
んテストも隠すようになった。

 母親は、ますますR君をはげしく叱った。そしてその足で、私のところへ相談にやってきた。

 「先生、うちの子が、何も話してくれなくなりました」と。

 R君の母親は、ほとんど、泣きべそをかいていた。そしてこう言った。「どうしたらいいでしょう
か。先生のほうから、R男に、もっと学校のことを話してくれるように言ってくれませんか」と。

 しかしこういうケースでは、私は、ほとんど無力でしかない。が、それだけではない。こうした
症状は、これから始まる、地獄の門への第一歩でしかない。母親は、今の状態を最悪と思うか
もしれないが、その最悪の下には、さらに別の最悪がある。これを私は、「二番底」と呼んでい
る。

 ますますイライラする母親。ますます無口になるR君。さらに強く叱る→態度が、さらに悪くな
るの悪循環の中で、日ましに、母親とR君の関係は、険悪なものになっていった。

 やがてR君は、私の予想どおり、その二番底へと進んでいった。お決まりのツッパリ症状が
現れるようになった。なげやりな態度、独特の野獣的なしぐさ、など。母親が何かをたしなめる
と、それに対して、「ウッセー!」と言いかえすようになった。

 もうこうなると、勉強どころではない。学校どころではない。そんなとき、R君は、事件を起こし
た。

学校へ行く途中にあるバス停の柱を、折ってしまった。ほかの子どもたちの話では、そこにあっ
たベンチを投げつけて、折ってしまったという。

R君の母親は、学校に呼び出された。R君が、4年生になったときのことである。

 しかしもう、この段階では、何をしても、手遅れ。何かをすればするほど、すべてが裏目、裏
目に出るようになる。手がつけられないというよりは、手をつければつけるほど、逆効果。本来
なら、今の状況をより悪くしないことだけを考えて、様子をみるのがよい。

 しかしこのタイプの母親には、それができない。「まだ、何とかなる」「そんなはずはない」と、
無理をする。その無理が、ますます子どもを、奈落の底へと、追いこんでしまう。

 もともと自己中心性の強い母親である。他人の意見など、聞かない。聞く耳を、もたない。R
君の母親は、「どうしてうちの子が……」と、私の前で泣く。しかしその原因が、自分にあると
は、絶対に、思わない。

 私は私で、どう説明したらよいのかわからず、ただただ、ため息だけを繰りかえす。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(224)

【近ごろ・あれこれ】

●ドラ息子

******************

子どものドラ息子(娘)の兆候が現れると、
親は、子どもをなおそうとする。

しかし本当の問題は、親や親側にある。
親の育児姿勢にある。

大切なことは、その兆候をできるだけ
早い段階でつかむこと。

自分の子育ての問題点を、できるだけ
早い段階で知り、それをなおすこと。

******************

【現象】

 何でもかんでも、無摂生に、子どもを楽しませてしまう。子どもが望む前に、あるいは、子ども
が興味をもつ前に、「さあ、どうだ」「これでもか」と、楽しませてしまう。

 子どもがほしがりそうなものがあると、先に買い与えてしまう。子どもが食べたそうなものがあ
ると、先に買い与えてしまう。

 子どもはより刺激的な楽しみを求めるようになり、またそれがないと、満足しなくなる。より享
楽的になり、ものの考え方がせつな的になる。欲望を満足できれば、それでよい(享楽的)。そ
の場だけを楽しめれば、それでよい(せつな的)。そういう生きザマになる。

 子育てに無責任で、無関心な父親。その反面、子どもを溺愛する母親。それなりに経済的に
は、余裕がある。幼児に、2万円、3万円もするおもちゃを、ホイホイと買い与えてしまう。また
それで親の努めを果たしたと思う。

 大きな誤解がある。

 子どもを楽しませれば楽しませるほど、また子どもに楽をさせればさせるほど、親子のパイプ
は、太くなったと考える。あるいは、子どもは、親に感謝しているはずと考える。

 しかしこれは誤解。大きな誤解。誤解というより、実際には、逆効果。親子のパイプを太くす
るというよりは、やがて破壊する。

 こういう家庭環境の中で、子どもは、ドラ息子化する。ドラ娘化する。

 やがて子どもは、小学3、4年生を迎える。この時期を境に、その子どもがドラ息子(娘)にな
るかどうかが、だれの目にも、はっきりしてくる。

 おとなをおとなとも思わない、ぞんざいな態度。横柄なものの言い方。約束など、あってない
ようなもの。目的や目標もない。お金が入れば、その場で、ほしいものを買ってしまう。

 しかしこの段階で、それに気づいても、もう手遅れ。ほとんどの親は、マユをひそめ、口を汚く
して、子どもを叱る。しかし叱れば叱るほど、あとは底なしの悪循環。

 ずいぶんと前のことだが、D君(小3・男児)という子どもがいた。ひょうきんで、明るく、笑わせ
名人だった。頭も悪くなかった。しかし自分がいやだと思うことは、まったくしなかった。

 私はそのD君の中に、すでに小学1、2年生のときに、ドラ息子の「芽」を見た。いや、実際に
は、幼稚園の年中児でも、ていねいにみれば、それがわかる。

 しかしこの段階で、いつも迷う。親に言うべきか、どうかで、である。理由は、いくつかある。

 まず、親自身にそれだけの問題意識があるかどうか、ということ。その問題意識のない親
に、いくら説明しても、意味はない。

つぎに見た目には、親子関係は悪くない。子どももそれなりに楽しいそうだし、生き生きしてい
る。多少、生意気な点はあるが、大きな問題を起こすといったふうでもない。

 それにまちがったことを言ってしまったら、どうしようかという迷いもある。親に不要な心配を
与える。

 が、何よりも大きな理由は、子どもをなおす以上に、その子どもを包む環境をなおすのは、む
ずかしいということ。わかりやすく言えば、これは子どもの問題ではない。親の育児姿勢の問題
である。子どもをなおす以上に、親の育児姿勢をなおすのは、むずかしい。

 何か問題が起きてから、それを指摘するというのは、簡単なこと。たとえていうなら、肺がん
になってから、タバコの害を説明するのは、簡単なこと。しかし今のところ健康な人に、タバコ
の害を説明しても、意味がない。(たとえがあまりよくないかもしれないが……。)

 「お宅の子どもは、このままでは、やがて手に負えなくなりますよ」と言うことが、はたして正し
いのかどうか。あるいは、そこまで親に伝える義務が、はたして私にはあるのか。

 もちろん親の側から、質問があれば、話は別である。そのときは、私は、ていねいに説明す
るようにしている。しかし親が求めていないことにまで、クビをつっこむ必要はない。こういうケ
ースでは、親に大きな不安を与えたりすると、ほとんどのばあい、親は、子どもの手を引いて、
そのまま教室をやめてしまう。

 「うちの子は、先生に嫌われた」と判断するためである。あるいは「うちの子は、この教室にあ
わない」と判断するためである。中には、「いらぬお節介」と、怒ってしまう親もいる。以前だが、
「あんたは、だまって、息子の勉強だけをみてくれればいい」と言った親すらいた。

 適切な言葉がないので、ストレートに表現するなら、「さわらぬ神にたたりなし」ということにな
る。あえて火中のクリを拾うことはない。

 こうして私は、だまる。だまって、与えられた仕事だけを、そこそこにこなす。

 ……と書いただけなら、子育てエッセーにならない。では、どうしたらよいのか。

【対策】

 一番よいのは、ここに私が書いたようなエッセーを、子どもがまだ小さいうちに読むこと。そし
て問題意識を、もつこと。その問題意識がないと、いくらドラ息子(娘)論を説いても、意味がな
い。

 つぎに子どもをドラ息子(娘)にすれば、それ自体が、家庭教育の失敗であることを、認識す
ること。将来、苦労するのは、結局は、子ども自身ということになる。親ではない、子ども自身
だ。

 ここに書いたD君の、つづきの話をしよう。

 そういうD君でも、私との間に、一対一の人間関係ができているときは、それなりにうまくいく。
私とD君の間には、親子ほどではないが、教師と私という人間関係ができている。

 つまりは、私が、D君を支える、最後の防波堤ということになる。父親や母親の言うことを聞
かなくなっても、私の言うことは聞く。そういう関係を利用して、私は、D君を指導する。

 が、そういう親だから、その(価値)に気づかない。D君がいよいよ4年生になるというある日
のこと。母親が私のところにやってきて、こう言った。「4年生になりますから、そろそろ進学塾
のほうへ、移ろうと思います。長い間、お世話になりました」と。

 異変が起きたのは、その日からだった。D君は、私にも裏切られたと感じたのかもしれない。
私の言うことさえ、まったく聞かなくなってしまった。ぞんざいな態度、投げやりな学習姿勢。プリ
ントを渡しても、いつも白紙のまま。ふてぶてしい言い方で、「疲れたなあ」と。

 もうこうなると、私にできることは何もない。私は私で、D君を無視して、レッスンを進めるしか
ない。そのためますますD君の態度は、横柄になっていった。

 この時点で、私とD君の関係を切ることは、たいへんまずい。私はD君を、年中児のときから
教えている。たがいに気心がよくわかっている。それがわかっていても、私のほうから、親の意
向にさからうことはできない。

 このあとD君が、どうなるか? 結末は、火を見るより、明らかである。しかし私には、何も言
えない。何もできない。

 親というのは、自分で失敗してみて、それが失敗だと気づく。そしてやがて、行き着くところま
で、行く。また行き着くところまで行かないと、失敗だったと気づかない。これは子育てにまつわ
る宿命のようなもので、どうしようもない。

 で、あと残りのレッスンが、3、4回というときのこと。D君の母親が、ニコニコ笑いながら、教
室へ入ってきた。が、私は、正直にこう言った。

 「お母さん、D君ですが、まったく何もしなくなってしまいました。鉛筆を手にもとうともしません」
と。

 とたん、母親の顔が、けわしくなった。引きつったというのが、正しいかもしれない。突然、金
切り声でこう叫んだ。「D! ちょっときなさい!」と。そのときすでにD君は、廊下の向こうへ逃
げていったところだった。

 それ以来、D君には、私は、一度も会っていない。

【付記】

 私は、自分の信念として、私のほうから、経営上の理由で、生徒にやめてもらったことは、一
度もない。ほかの子どもたちが進学塾に移動したあとも、たとえ生徒が、数人になっても、その
ままつづける。

 部屋代、労力を考えたら、赤字というより、損失である。それは私とその生徒との間に、人間
関係ができているからである。「もう経営できなくなりましたから、クラスを閉鎖します」と言うこと
はできる。しかしそれは、その子どもを、外の世界に、突き放すことを意味する。

 それは、私には、できない。

 が、今どき、こんな善意に、どれほどの意味があるというのだろうか。ほとんどの親は、口に
こそ出さないが、こう思っている。「あんたは、いらぬことは教えなくていい。だまってうちの子の
勉強だけをみていてくれればいい」と。

 私は、もともとその程度の立場の人間だし、その程度しか、期待されていない。それがわかっ
ているから、何もすることができない。与えられた時間の間、黙々と、何も考えず、楽しく過ごす
しかない。


●頭のジョギング

 楽T日記に、日記を書き込むと、いつも10〜20件ほど、アクセス件数がふえる。どこかで
(新着日記)として、紹介されるためである。

 しかしこうしてアクセスしてくる人は、何か別の目的があって、そうする。大半が、物品の販売
が目的だったり、自分のホームページの紹介であったりする。私の日記を読むのが、目的では
ない。

 が、中に、ときどき、1人とか2人、まじめな読者がいたりする。そういう読者に出会うと、うれ
しい。またそういう読者がいるから、日記を書く。

 同じように、今、電子マガジンを発行している。読者は、3誌合計で、1500人を超えた。

 しかしその1500人が、私のマガジンを読んでいるわけではない。私の実感では、その中で
も読んでくれている人は、20〜30人程度ではないかと思っている。多くて、50人どまり。

 「エッ!」と驚く人もいるかもしれないが、現実は、そんなものである。

 昨日も、全員に、グリーティング・カードを出したが、それを開いてくれた人は、40〜50人程
度ではなかったか。(だからといって、がっかりしているというのではない。富士市のTGさんの
ように、一人だけだが、返事をくれた人がいた。私は、そういう人に支えられている。)

 ただとても残念なのは、無料マガジンだから、どうせその程度の人間が、その程度のことしか
書いてないだろうと思われている(?)こと。反対の立場で、そういった読者の気持ちが、私に
は、ヨ〜クわかる。

 だから最初から、私は、期待など、していない。一部だけも、あるいは目次だけでも目を通し
てもらえれば、御の字と思うこと。こうして日記を書いたり、マガジンを発行している人は、そう
いう現実をまず、受け入れなければならない。

 そしてその上で、結局は、自分のために書く。それはたとえて言うなら、健康を維持するため
のジョギングのようなものかもしれない。毎日、黙々と、道路を走る。だれかに見てもらおうと
か、そういうことは考えない。走るのは、あくまでも自分のため。

 どうせあと10年もすれば、頭もボケる。20年もすれば、体力も消え、そのままあの世行き。
消えてなくなる。それまで私は、走りつづけるしかない。

 富士市のTGさん、カード、どうもありがとうございました!

 そうそう、このところ、ワイフだって、私のマガジンを読むのをサボっているよう。あんなワイ
フ、もう離婚だア! ……というのは、ウソ。私のほうが、もうそろそろ離婚されそう……。


●フォーム

 無料「フォーム」というサービスがある。

 「フォーム」というのをご存知ない方も多いと思う。私も、あちこちのホームページでよく見てき
たが、それが「フォーム」という名前だったということまでは知らなかった。

 フォーム……名前、性別、年齢、住所、メールアドレス、意見などを書きこむ用紙のことをい
う。それを書きこんだあと、「確認」をクリックすると、一度、確認画面が出る。その段階で、記
述内容に不備があったりすると、再度、記入して、「確認」をクリックする。

 それがすむと、今度は「送信」をクリックする。それが、相手に、メール形式で、届く。

 私のホームページに、それをつけた。興味のある方は、どうか、(下)をクリックしてみてほし
い。ついでに、アンケートに答えていただければと思う。

http://form1.fc2.com/form/?id=4749

 何か新しいことができるようになるたびに、自分自身が、どこか進化したような気分になる。も
う少し率直に言えば、一人前になったような気分になる。これを心理学の世界でも、自己効力
感という。

 この自己効力感が、さらに自分をのばす。

 よく「子どもを伸ばすには、どうするか?」かが話題になる。しかし自分でそれを経験してみる
と、なるほどと、よくわかる。「子どもを伸ばすのは、こういう自己効力感をうまく利用すればよ
いのだ」と。

 そんなわけで、今夜は、どこか気分がよい。ハハハ!


●祖父母の財産目当て?

 結婚当初から、そうだったというわけではない。結婚した当初には、それなりの夢や理想があ
った。しかしそれが、長い時間をかけて、少しずつだが、やがて変質する。

 「こんなはずではなかった」という思い。あるいは夫や生活への不満。そういったものが蓄積
されるうちに、やがて離婚を考える。

 が、それもままならない。子どもの将来のことを考えると、不安や心配が、つのるばかり。そ
こで、最初は、ほんのでき心(?)というか、ふと、祖父母のもつ財産に目をつける。

 かなりある? 財産がかなりある? あと10年か? それとも20年か? 祖父母が死ねば、
その財産は、夫のものとなり、ついで、自分のものとなる。

 やがてその女性は、祖父母の財産を自分のものしようと、画策するようになる。自分のもの
にしようとする。いや、実際には、子どもを猫かわいがりする祖父母を見ながら、「これでいい」
と考える。「子ども(祖父母からみれば孫)を、うまく利用すれば自分のものになる」と考える。

 ……というような例は、多い。この種の話は、あなたのまわりにも、一つや二つは、あるは
ず。

 しかしつぎのような話は、それほど、多くない。

 これとはまったく反対の立場で、娘夫婦の財産をねらっている母親がいるという話である。私
も最初、その話を聞いたとき、自分の耳を疑った。

 その母親は、自分の娘が、資産家の一人息子と結婚したことをよいことに、その財産を、自
分のものにしようとしている。実際には、いろいろ口実をつくって、娘夫婦と同居するようになっ
た。

 幸いに(?)というか、婿(むこ)の両親(老夫婦)は、高齢で、体も弱い。父親のほうは、軽い
脳梗塞を起こしたこともあり、思考力も弱い。その母親は、婿の父親の世話をするフリをして、
その家にもあがりこむようになった。

 問題は、こういう話があるということではなく、こういう話が、あなたの影響力がおよぶ範囲で
起きたとしたら、どうするかということ。そのときの両親(老夫婦)が、あなたの知りあいや身内
であったら、どうするかということ。

 その母親のしていることは、もちろん犯罪ではない。しかも見た目には、みな、うまくいってい
る。老夫婦は、老夫婦で、嫁の母親が、足しげく自分の家に通ってくれるのを、喜んでいるとい
ったふうである。

 もちろん娘も、そして彼女の夫も、それなりに楽しく生活している。その母親の隠された意図
を知りながらも、それはそれとして、生活している。

 そう言えば、昔、こんな老人(85歳くらい・男性)がいた。息子の嫁が、預かっていた貯金通
帳から勝手にお金を引き出して、使いこんでいたという。が、それを知ったその老人は、こう言
った。

 「いいじゃないですか。そんなお金で、みんなが幸福になれるなら」と。

 その老人は、何かを悟っていたようだ。そういう老人もいるから、部外者の私やあなたが心
配してもはじまらない。それが人生。これも、あれも、人生。そういうものかもしれない。


●からんでくる人たち

 子育て相談をしていて、困るときがある。いろいろと返事を書いてやるのだが、その返事に、
あれこれ反論してくる。

 「お宅のお子さんは、ドラ息子化していませんか」などと書いたりすると、「あなたのような第三
者に、うちの子をドラ息子と言われる理由はありません」と。

 兄弟との確執に苦しんでいる女性に、「兄弟のことなど忘れて、家族を中心に考えなさい」な
どと書いたりすると、「あなたの意見を聞いていると、ますます兄弟が離反してしまう」と。

 「あなたの意見は、狂信的だ」と書いてきた人もいる。

 だったら、最初から相談などしてこなくてもいいのにと、私は、思う。しかし悩んでいる人は、
深刻である。それぞれがそれぞれの思いをもって、相談にくる。だから私がけなされることくら
いで解決するなら、それはそれでよい。私に反論することで、何かの救い道を発見するなら、
それはそれでよい。

 しかし一言。

 こういうからみ方をする人は、すでにその段階で、かなり精神が疲弊しているとみてよいので
は……? ささいな問題をとらえて、針小棒大に、ものごとを考えてしまう。ふつうなら、「そうい
う意見もあるのかなあ」と軽く笑ってすませるようなことでも、一度、精神がそういう状態になる
と、そうはいかない。

 ものごとを、何でも悪いほうへ、悪いほうへと、つまりは深刻に考えてしまう。

 しかしこうした(からみ)が、教室で起こると、たいへんである。さらに公教育の場で起こると、
さらにたいへんである。

 こうした親にからまれて精神を病む幼稚園や学校の先生は、あとをたたない。たいていどこ
の幼稚園にも、そして学校にも、そういう先生が、一人や二人は、かならずいる。

 子どもの前で、教える側として立つ者は、その子どものうしろにいる親の影をいつも感ずる。
その影がなごやかなものであればよい。しかし神経質で、ピリピリしたものであれば、その時点
で、教育は成りたたなくなる。

 だから私はある日、幼児を教えながら、こう思ったことがある。「幼児教育は、母親教育であ
る」と。この視点は、今も、ほとんど、変わらない。


●残りの人生

 子育てをしている間は、子育てに夢中になっているから、それがわからない。しかし子どもが
大学へ入ったりすると、そのとたん、どっとやってくるのが、老後。いつの間にか、年をとった自
分の姿をしみじみと見つめながら、「私もジジ臭くなったものだ」と思ったりする。

 この年齢、つまり56歳になると、とたんに、未来が小さくなる。余裕がなくなる。若いときは、
失敗も恐れない。失敗したら、またやりなおせばよいと考える。しかしこの年齢になると、そうい
う心の余裕がなくなる。

 そして同時に、残りの人生をどう生きるかが、大きなテーマになってくる。

 手っ取り早い方法としては、周囲の老人たちを観察してみるという方法がある。みな、どの人
も懸命に生きている。そういう生きザマの中から、自分はどう生きるべきかのヒントを手に入れ
る。

 私の父や母は、どうだったのか。親類の叔父や叔母は、どうだったのか。近所の老人たち
は、どうだったのか、と。

 その中でも、光り輝く老後を送った人と、そうでない人がいるのがわかる。わかりやすく言え
ば、ここでも、「利他」と「利己」が、問題になる。つまりより「利他的」に生きた人はすばらしい。
光り輝いている。が、そうでない人は、そうでない。

 結構、死ぬまで、私利私欲にとりつかれ、その我欲の中で悶絶しながら死んでいった人も多
い。言いかえると、人格の完成などというものは、年齢とともに自然に向こうからやってくるもの
ではないということ。

 もともと人格の完成というのは、本来、ありえない。どこかのカルト教団の長が、よく「私は仏
だ」「悟った」などと言うことある。しかしそんなことは人間が、動物である以上、ありえない。メシ
を食べ、クソをする間は、ありえない(失礼!)。

 人格の完成、つまりいかに利他的であるかは、日々の精進の中で、その人が手に入れるも
の。その精進を怠ったとたん、その人の人格は、後退する。

 そのことも、まわりの老人たちを見ていれば、わかる。その年齢になっても、自分のことしか
しない。自分の死後のことしか考えない。自分の利益や名誉しか考えない。そういう老人が、あ
まりにも多すぎる。

 つまり、そういう老人たちは、ただの人!

 そこで私は、そうではありたくないと願う。

 老後のテーマ。それはつまり、いかにすれば、利他的でありえるかということになる。しかしこ
の問題には、いつも、(現実)的な問題がつきまとう。今日の食事もない人に向って、利他的で
あれと願うのは、あまりにも酷である。生きていくだけで精一杯という人に向って、利他的であ
れと願うことは、あまりにも酷である。

 老後の生活の基盤を、どうやってつくっていくか。この問題がクリアされないかぎり、老後を考
えることはできない。

 さあ、どうしようか……と考えたところで、この話は、おしまい。

 ふと、今、こう思った。

 私が死んでも、世の中、何も変らないだろうな、と。

 青い空は青い空のまま。緑の木々は緑のまま。それでいけないと言っているのではない。世
の中というのは、そういうもの。その中で、いかに最後の時を、自分らしく生きるか……。これ
は本当に、大きな問題だと思う。


●インターネット

 こういうホームページを出したり、マガジンを出したりしていると、いつなんどき、どこから横ヤ
リが入ってくるか、わかったものではない。

 批評、批判はもとより、抗議、中傷などなど。

 で、こうしたメールが入ってきたら、何も考えず、さっさと、相手の要望にこたえてやるのがよ
い。相手も、それぞれの思いの中で、何か不愉快な思いをしている。いくらこちらが正当と思っ
ても、反論したり、弁解したりしてはいけない。またその必要もない。

 あとは、その人とは、交流など、しないこと。はっきり言えば、無視。そして忘れる。

 しかしこうまで、瞬時、瞬時に、情報がやり取りされるようになると、そら恐ろしさすら覚える。
昔なら手紙を書いて、一日。ポストに入れて、一日。相手に届くのに、一日……とかかった。

 が、今では、まさに瞬時。しかも量と人数がちがう。ばあいによっては、一日、10〜20人の
人と、昔でいう「文通」をする。ときどき「いいのかなあ」と思いつつ、インターネットに向かう。

 「いいのかなあ」と思うのは、あまりにも情報の量が多すぎて、かえって人間関係が希薄にな
ってしまうのではないかということ。だれにどんな返事を書いたか、それすら忘れてしまう。記憶
に残らない。

 たとえばインターネットでは、相手の顔は見えない。声も聞こえない。文字情報だけ。しかも最
近では、住所や名前のないメールも多い。

 だからよけいに不安になる。そういう不安感があるからこそ、やはり、批判や批評には、すな
おに応ずるのがよい。相手がどんな心情をもっている人か、わからない。

 まあ、インターネットをするには、それなりの図太さも必要ということ。繊細な人、神経の細い
人には、向かない。

 そう、私もインターネットをするようになって、改めて、「文字」のもつ恐ろしさを感ずるようにな
った。文字だけが、勝手にひとり歩きする恐ろしさである。こちらはその人を、半ばたたえて文
章を書いているのに、相手の人は、そうは思わないことがある。「?」と思いつつも、それ以上、
弁解することもできない。

 改めて自分に言って聞かせる。

(1)どんなばあいも、実名を書かない。
(2)どんなばあいも、その人とわかる文章は残さない。
(3)実名を書くのは、引用したときに限る。そして引用文献を、明記する。
(4)わずらわしい人たち&サイトとは、いっさい、かかわりをもたない※。

 これはインターネット、なかんずく、ホームページに文章を載せるときの大鉄則である。ホン
ト!

【追記】

 文章による情報は、どうしてもぶっきらぼうになる。相手は、そのときの相手の心の状態で、
こちらの文章を読む。これが誤解をうむ。

 だからとくにはじめてのときは、相手に、ていねいな文章を書くのがよい。低姿勢で、謙虚な
言い方で書く。メールでは、ふつうの手紙以上に、そういう意味では、神経をつかったほうがよ
い。

 いきなり、「あなたの言っていることは、まちがっている」では、そのまま喧嘩(けんか)になっ
てしまう。人間関係も、おしまい。

 少し前までは、自分が個人としてつきあう人間関係と、マスコミを通じてつきあう人間関係が、
別々であった。が、今は、それが混在するようになった。どこからどこまでが、個人としてつきあ
う人間関係なのか、どこから先が、マスコミを通じてつきあう人間関係なのかわからなくなって
きた。

 一人対無数の人間という、関係になった。もう少し、わかりやすく説明しよう。

 たとえば自分で書いた本が、5000冊、売れたとしよう。読者も、5000人いることになる。し
かしその5000人というのは、5000人という、まとまった一人の読者である。

 私とのかかわりは、まったく、ない。間に出版社がいるから、その読者との関係は、そこで切
れる。売れた本が、1万冊でも、この関係は、変らない。事実、私が書いた本で、1冊だけだ
が、14、5万冊、売れた本がある。しかしそれはただ単なる、数字でしかない。

 が、インターネットは、ちがう。それぞれの人との関係が、私対読者の関係になる。一対一の
人間関係、もしくは、それに近いものになる。ここにインターネットの特性がある。

 で、私は(4)番目に、「わずらわしい人たち&サイトとは、いっさい、かかわりをもたない」をあ
げた。

 少しでも、わずらわしさを感じたら、それを最後に、その人やサイトとは、いっさい、かかわり
をもたないようにする。反論したり、弁解したりしないというのは、そういう意味である。無視す
るのが、一番、よい。

 このことは、反対の立場でも、そうで、ただ一度のメールが、その相手との人間関係を破壊
することもある。相手が、「二度とつきあわない」と判断したばあい、それをくつがえすのは、容
易ではない。だから、「とくにはじめてのときは、相手に、ていねいな文章を書くのがよい」という
ことになる。

  
●T氏

 今度、T氏が、自費出版で、短歌集を出した。たまたま昨日、T氏の家に遊びにいったら、T
氏が、うれしそうに、その中の一冊を私にくれた。私は、しばし、その短歌集に見入った。

 そういうときのT氏の気持ちは、本を出したものでないと、わからない。自分の子ども以上の
子ども。本というのは、そういうもの。自分の命、そのものと言ってもよい。

 死んだあとも、何かしらの足跡を、この世に残したいという思いは、T氏も私も、同じようにも
っている。

 もちろん本にもいろいろある。

 一番、くだらないのが、代筆で書いた本。つぎに教材などの実用本、指導書など。こういった
本は、本ではない。商品。ただの商品。

 つぎに評論や随筆など。これらには、ある程度、「私」が残る。しかしどこかで読者の目を意
識した本は、やはり私の本ではない。

 皮肉なことに、自費出版で出した本にこそ、その「私」が残る。自分のお金で出版するわけだ
から、だれにも遠慮する必要がない。ありのままの自分を、そのまま書くことができる。

 しかし大きな問題が、一つ、残る。

 読者あっての、本である。だれも読みたがらないような本を出しても、意味がない。ただのひ
とり言になってしまう。だからどうしても、そこで読者とのかけ引きが始まる。

 「読んでください」と頭をさげつつ、その中に、自分の読んでもらいたいことを、織りこむ。いつ
だったか、「M」という子育て雑誌の編集長をしていた知人が、私にこう話してくれた。

 「林さん、まず読者を喜ばすことです。読者が喜びそうな記事を、90%、書きます。残りの1
0%のうち、5%だけ、自分の意見を書きます。それでじゅうぶんです」と。

 具体的には、「あなたは、すばらしい。いい人だ」と、90%の部分を使って書き、5%で、「で
も、こうすればもっと、すばらしい人になりますよ」と書く。

 雑誌と本は、立場も目的もちがう。だからこの意見が、そのまま本にも当てはまるとは思わな
いが、一理ある。

 私はそうして自費出版できるT氏を、うらやましいと思った。私などは、どうしてもどこかで読者
の目を意識してしまう。またそういう自分になってしまった。

 今夜は、少し時間があるので、そのT氏の短歌集を、じっくりと読むつもり。自費出版にあり
がちな、独善的なところがない。すべてを、ありのままにさらけ出しているといった感じ。読みご
たえのある本である。

 Tさん、ありがとうございました。


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T氏の「米寿のうた」を読む

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 米寿(88歳)の記念出版ということもあって、T氏の新刊には、友や知人の死を悼む短歌が
多い。

 その短歌、それぞれに寄せられた注釈を見ると、改めてT氏の人脈の広さというか、太さを、
思い知らされる。人脈というか、心のパイプの太さといったほうがよいかもしれない。

 T氏の父母への思いをつづった短歌につづいて、小学3年生で、T氏と知り合った、鈴木D君
という子どもについて詠んだ短歌もあった。もちろん自分自身の闘病記についても……。

 その中でも、つぎの短歌には、はっとさせられた。

 ●こと更に病気のことにふれぬげにわれをきづかふ妻はかなしも

 記述をみると、平成5年から7年にかけてと、ある。無頓着というか、鈍感というか、そのこ
ろ、T氏が入院していたとは、知らなかった。何という不覚!

 T氏の短歌は、つづく。

 ●気がつけば我が病室に一輪の椿さしあり手術日の朝

 ●あなうれし芭蕉もきけり馬のしと音たてて出る我がいばりかな

 このあとの短歌には、「手術後尿の出て喜ぶ」と注が書き添えてある。

 ワイフは、さきほどから居間のソファに座って、T氏の短歌集を読んでいる。ワイフも、一冊も
らって、うれしそうだった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(225)

【雑感・あれこれ】

●批評・批判

 私はよく実例を書く。しかしその実例というのは、ほとんどのばあい、実例ではない。当然で
ある。

 とくに子どもに関する記事については、注意をはらう。その子どもと特定できる記事は、絶対
に書かない。書くとしても、状況を変えたり、いくつかの話をまぜたりする。当然だ。もとの話が
ぜったいにわからないほどまでに、ズタズタに料理する。(この世界では、「料理」という言葉を
使う。)

 反対にあまりにも架空の話にしたため、現実の話と一致することがある。そういうときは、こ
れまた当然のことながら、怒ってくる読者がいる。

 そういうときは、その人の事件が起こる前に、その記事を書いたという証拠を見せることにし
ている。私の原稿には、ほとんど、その原稿を書いた日付が入っている。

 (040710)というのは、2004年の7月10日に書いたという意味である。

 「この原稿は、あなたのことを書いたものではありません。私のHPに、この原稿を発表した
のは、あなたに会う前です」と。

 とくに、私は、自分の教え子については、悪口を書かない。同じような話題にふれることはあ
るが、しかしそれは例外である。ただたまに、あまりにも過激な事件が起きたときは、それを書
くこともある。

 もしそれもだめというなら、もう原稿など、書けない。

 しかし私だから書けるという原稿もある。もし学校の先生だったら、その一文だけで、クビが
吹っ飛んでしまうという原稿も多い。実際、そういう例は、少なくない。

 もう私は、個人というワクを超えた。広く、子どもの世界の実態を知ってほしいから、こうして
原稿を書いている。(少し、かっこいい?)私を知る人も、知らない人も、それぞれの立場で、よ
りよい子育てをしてもらえれば、それでよい。目的は、そこにある。

 どうか、くれぐれも、誤解のないように、してほしい。


●暑い

 今日も暑かった。夕暮れになってはじめて、一息、ついた。

 さきほど、Nさんという男性(65歳)から、電話がかかってきた。「孫(小3)がいつも、学校か
ら帰ってくるのが遅いようだ」と。

 事情をあれこれ聞くと、どうやら帰宅拒否のよう。家庭が家庭としての機能を果たさなくなる
と、子どもは無意識のうちにも、家に帰るのをしぶるようになる。そのため、毎日のように道草
を食ったり、寄り道したりするようになる。

 毎日、真っ暗になるまで、学校から帰ってこないというのであれば、この帰宅拒否を疑ってみ
る。

 が、問題は、母親にあるようだ。

 その男性はこう言う。「嫁が、ガミガミと孫を叱るのです。叱り方がはげしいので、それで家に
帰るのがいやなのかもしれません」と。

 それはそうだろ。「テストは何点だったの?」「宿題はやったの?」と、子どもを追いまくれば、
子どもだって、家に帰るのがいやになる。

 「暑い」というテーマで書き始めたのに、おかしなエッセーになってしまった。

 ワイフも、今日は、料理をする気力は、まったくなし……といった感じ。たまの日曜日なので、
みんなで、近くの中華料理屋へラーメンを食べにいくつもり。

 福井や富山では、大雨による洪水がつづいているとか。こちら東海地方は、カラカラの猛暑。
足して2で割るわけには、いかないのか。

 そう言えば、韓国や中国東部も、大洪水とか? その間にあるK国も、大洪水のはず。しかし
K国の情報は、まったく入ってこない。いったい、あの国は、どうなっているのか。

 もうすぐ、SGさん家族が、インドネシアのジャカルタから日本へ帰ってくる。お帰りなさい! 
K国の人たちも、たいへんだな。ああいう独裁者ががんばっている間、安穏たる日々は、やっ
てこない。心配はしないが、かわいそうだと思う。


●セミの声

 夕方、ソファでうたた寝をしながら、ワイフが、こう言った。

 「セミの声を聞いていると、子どものころを思い出すわ」と。

 考えてみれば、騒々しい虫だ。工場の機械のように、一日中、鳴いている。風邪をひいたとき
の、耳鳴りのようでもある。

 しかし、どこか憎めない。隣人が、石を削るときに出す音に似ているが、本質的に、ちがう。
恐らく人間が、とくに日本人が、太古の昔から、夏になるたびに耳にしてきた鳴き声である。

 私が赤ん坊のころも鳴いていた。子どものころも鳴いていた。おとなになってからも、鳴いて
いた。

 そういうつきあい(?)がある。

 しかし、どうして、ああまで一日中、鳴いているのだろう。もし鳴くことが、生命維持のために
必要というのなら、メスだって、鳴くはず。

鳴くことで、オスは、自分の位置をメスに教えているのだろうか。しかしそれだって、一日中、鳴
くことはないはず。みながみな、いっせいに鳴いたら、どれが自分の声であるかさえも、わから
なくなってしまう。

 私だったら、ガールフレンドができるまでは鳴くが、できれば、鳴くのをやめて、少しは休む。
あるいは、ときどき鳴く。

 ……と思っていたら、セミ、イコール、私に思えてきた。

 こうしてヒマさえあれば、文章を書いている私は、セミのようなもの。必要もないのに、カタカタ
とキーボードをたたいている。「これが生きることだ」と思いこんで、そうしている。

 さあ、今日も私は鳴くぞ! カタカタカタ、カタカタカタ……、と。セミなんかに、負けてたまるか
ア!

【追記】

 世界には、セミのいない地方もある。去年、ちょうど今ごろ、オーストラリアの友人夫婦が、2
か月近く、私の家にホームステイしていった。そのとき、彼らは、「セミはうるさい」とこぼしてい
た。

 オーストラリアの彼の住む地域には、セミはいないという。そういえば、「秋の虫もうるさい」と
こぼしていた。

 となると、「セミの声を聞いていると、子どものころを思い出すわ」というのは、ひょっとしたら、
日本人の私たちだけかもしれない。ここで「本質的にちがう」と書いたが、それはまちがってい
るかもしれない。

 まあ、どうでもよいことだが……。しかし考えてみれば、セミの声は、本当に、騒々しい。森の
近くに住むのも、考えものである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(226)

【雑感・あれこれ】

●近所の老人が、倒れた!

 昼ごろ、救急車が近くで止まった。
 窓から外を見ると、ライトがパカパカと点滅しているのが見えた。

 こういうとき瞬間、迷う。見に出てよいものか、どうか、と。

 相手は見られることをいやがるにちがいない。しかしこちらは、気になる。だれだろう? どう
してだろう?

 玄関から外へ出ると、近所の人たちも心配そうに、その家をのぞいていた。その家には、80
歳をすぎた老人がいる。いつも電動の車椅子で、あちこちを動き回っている。

 その老人だろう……と思って見ていると、救急隊員が家の中から、その老人が、タンカーで
運ばれてきた。

 金属的な音。味気のない台。同じように金属的な光。

 その老人は、なにやらひとりで叫んでいた。痛いのかと思ったが、それはうわごとだった。少
し耳を傾けたが、何かにおびえているようだった。意味はわからなかった。

 やがて家人がいっしょに乗った。ドアがしめられた。しばらく何かの処置をしているといったふ
うだった。私は、その光景を、少し離れたところか見ていた。が、長つづきしなかった。

 何か見てはいけないものを見たような気分で、私は、そのまま家の中に入った。ワイフが、そ
こに立っていた。

 「Wさんのおじいさんだった……」と私。
 「あの人ね、血圧が高いということだったから……」とワイフ。

 私がここに住むようになってすぐ、Wさんたちも引っ越してきた。そう意味では、いっしょに住
むようになって、25年以上になる。血圧のせいなのか、それとも酒のせいなのか。若いとき
は、結構、血気さかんな人だった。

 晩年は、何度か、心筋梗塞で倒れ、そのたびに、ぐいぐいと老人臭くなっていった。年齢も離
れていた。いっしょに、何かの行動をしたという思い出は、ほとんどない。道路で会うと、あいさ
つだけをする。そういう間がらだった。

 が、何かしら、ふと、心の中を風が通るのを感ずる。何かしら、不吉な予感。

 「うわごとを言っていたよ」と私が言うと、ワイフは、「暑いのは、血圧によくないのよね」と言っ
た。

 義理の兄も、私より1歳だけ年上だが、昨年、それで倒れている。幸い、すぐ回復したが、血
圧が高いと、寒いのはよくないというが、暑いのもよくないらしい……?

(反対に、私のように低すぎるのも、よくない。ボケるそうだ。ちなみに、昨日、測ったら、107
−70だった。このところ、少し高くなった感じ……。)

◆最大血圧 100〜139(mmHg) 
◆最小血圧 60〜89(mmHg)、が標準だそうだ(旭川保健医療情報センター)。

 「病院へ、見舞いに行かなくてもいいのかね?」と私。
 「いいんじゃ、ない」とワイフ。
 「でも、見てしまったし。知らぬ顔もできないだろ」
 「救急車で運ばれたときは、みんな、見舞いには行かないみたいよ」
 「どうして?」
 
「だって、入院したわけではないから」
 「入院したよ」
 「でも、そういう連絡が入ったわけではないでしょ」
 「……」
 「明日になれば、ケロッとして、また車椅子に乗っているわよ」
 「そうだといいけどね……」と。

 ふと、「明日は、ひょっとしたら、私かもしれない」と思った。明日でないにしても、来年とか、再
来年とか……。生きるということは、そういう点では、薄い氷の上を、恐る恐る歩くのに似てい
る。その下では、死が、「おいで、おいで」と、いつも手招きして待っている。

 そういえば、話は少しかわるが、SGさんと、Jさん(昨日、インドネシアから帰ってきた、拉致
被害者家族)、それに二人の娘さんたちをテレビで見ていると、どのシーンを見ても、涙がポロ
ポロとこぼれてきてしまう。

 涙もろくなったものだ。とくにSGさん。今でこそ、表情も明るいが、少し前まで、顔を見るのも
つらかった。体中で、鉄のような苦しみや悲しみを、受け止めているような感じだった。

 「よかった、よかった」と思うたびに、つぎの瞬間、同時に涙がポロポロと出てきてしまう。

 いろいろ意見はあるようだが、私は、SGさん、Jさん、それに二人の娘さんたちについては、
日本政府は、日本は、最大限の世話をするべきだと思う。最大限、だ。国力をすべて傾ける。

 それくらいのことをする責任は、日本政府にはある。日本人には、ある。それこそ、病院全部
を借りあげ、医師や看護師全員を借りあげてでも、そうしたらよい。

 そうすることによって、「日本は、日本人は、ここまで日本人一人ひとりを大切にするぞ」という
日本の姿勢を、K国の、あの独裁者に見せつけてやることができる。それがこういった拉致事
件の、抑止力にもなる。

 ……と考えて、この話は、おしまい。Wさんについては、もう少し様子を見てから、見舞いを届
けようと思っている。


●書斎の移動

 書斎を、二階の部屋から下の居間に移した。暑くて、仕事にならない。

 居間にもクーラーはないが、深い栗の木にさえぎられ、涼しい。扇風機があれば、何とか、し
のげる。

 ときどきハナ(犬)が、庭へやってきて、セミを取る。言い忘れたが、うちのハナは、セミを食
べる。最初は「?」と思ったが、タンパク源としては、悪くないそうだ。

 そのハナに、ダニよけの薬をつけてやる。ハナはいやがるが、放っておくわけにもいかない。
のどかな昼下がり。もう少ししたら、町へ仕事に行く。

 こういうときは、間断なく、お茶を飲む。私はそういう体質で、こういう暑い日は、昼間だけで、
毎日3〜4リットルもの水を飲む。午前中だけでも、2リットル。夕食後にも、1リットル程度の水
を飲む。合計すると、6〜7リットルにもなる。

 体中、水だらけといった感じ。少し水を飲まないでいたりすると、のどが乾くというより、落ちつ
かない。だから座右には、いつも、ウーロン茶のペットボトル(2リットル)が、置いてある。

 目の前では、扇風機が勢いよく回っている。あまりにも暑いせいか、セミの声も、どこか元気
がない。のどかな、のどかな、ふとうたた寝したくなるような昼下がり。風が肌をさする感触が、
気持ちよい。

 昼寝モード。睡魔、ただ今、70%進行中。遠くで、カラスが鳴いた。冷蔵庫のモーターが、ブ
ルブルと回っている。白い光をあびて、キーウィの葉が、やさしく揺れる。

 ……もう、だめだ。昼寝……。ゴロリ、10秒前。9秒……。8秒……。


●つくる人間関係VSこわす人間関係

 人間関係をつくるには、長い時間がかかる。しかしこわすのは、簡単。ほんの1日でよい。数
時間でよい。数分でよい。

 私も若いころは、愚かな人間だったから、(今も、そうだが……)、それまでの人間関係を、平
気でこわしてしまったことが、何度か、ある。そのときの感情に任せて、言いたいことを言ってし
まう。したいことをしてしまう。そしてその結果として、人間関係をこわしてしまった。

 が、それでも若いときは、まだ修復できた。時間が解決してくれるのを、待つことができた。
が、今は、そうではない。待つべき時間そのものが、もうない。こわれたら、最後。こわれっぱ
なし。それで終わってしまう。

 なぜか。

 一度、こわれると、その関係を整理してしまう。そして整理してしまうと、もうあともどりできなく
なる。そういう器用さが、なくなる。具体的に考えてみよう。

 ある夜のこと。居間でお茶を飲んで、そろそろ寝る準備をしようと考えていたそのとき、電話
がかかってきた。ある中学生の母親からのものだった。そしていきなり、こう怒鳴った。

 「先生、長い間、お世話になりました。で、今夜かぎりで、先生の教室をやめさせてもらいま
す。ガチャン」と。

 理由も何も言わなかった。思い当たることもなかった。私はショックで、その夜は、夜半過ぎ
まで、眠れなかった。くやしかった。なさけなかった。

 「私のしている仕事は、こんな程度のことだったのか」と。

 翌日も、気分は晴れなかった。幼児のときから、8年近くも教えてきた子どもである。いろいろ
なやめ方はあるが、そんなやめ方は、ない。親は、「やめる」と言うが、私たちの世界では、そ
れを「クビ切り」という。どこもちがわない。

 そしてその夜までに、自分をもちなおし、なんとか不快感を心のすみに、追いやることができ
た。私は、その中学生のことは、忘れることにした。

 が、そのつぎの朝のこと。再び、その母親から、電話がかかってきた。そしてこう言った。

 「先生、おとといは、すみませんでした。あの夜、息子と喧嘩をしていました。それで私が、『そ
んなことを言うなら、BW(=私の教室)をやめさせる』と言いましたら、息子が、『できるもんな
ら、やってみろ』と言いました。それであんな電話をしてしまいました。

 私は、息子をやめさせるつもりはありません。明日から、また先生のところへ行かせますの
で、よろしく」と。

 そのとき私は、まだ20代の後半。今なら、もう少しじょうずな言い方ができるかもしれない。
あるいは怒ったにせよ、その怒ったことを隠しながら、別の行動をとったかもしれない。しかし
そのときは、本気で怒ってしまった。私は、こう言った。

 「もし、そうなら、そうで、どうしてその夜、内緒でもいいから、電話をしてくれなかったのですか
ア!」と。

 このケースでは、私は、1度目の電話から2度目の電話の間に、心の整理をしてしまったこと
になる。だからそのあと、母親にあやまられても、どうしようもなかった。いわゆる『覆水、盆に
かえらず』というのである。

 ……この話は、実は、フィクションである。似たような話をいくつか集めて、私がアレンジした。
しかしこういう例は、多い。私の実感としては、年をとるほど、多くなったような気がする。

何かの事件が起きる。それでこちらは、その事件を忘れようと、心の整理をする。が、相手は、
それに気づかない。気づかないまま、あやまれば、またもとにもどると考える。が、もうもとにも
どらない……。

 こうした例は、インターネットの世界では、日常茶飯事。ものごとが、瞬時、瞬時に動いてしま
うからである。その上、それまでの蓄積がない。積み重ねて気きた(つながり)がない。もともと
顔も知らない人ばかり。ささいなことがきっかけで、人間関係は、そのままこわれてしまう。

 たとえて言うなら、それはふくれては、消えるシャボン玉のよう。が、それでも昔は、そうしたシ
ャボン玉が、ゆっくりとふくれて、しばらく空にただよったあと、これまたゆっくりとはじけた。

 それが今では、数分でふくらみ、数日間、空をただよったあと、数分で、はじける。あるいはも
っと早いかもしれない。しかも、そういうシャボン玉が、一つや二つではない。無数に、ただよ
う。

 目まぐるしいなどというものではない。ときどき、何人かの人と、同時にメールを交換している
と、区別がつかなくなることがある。北海道のAさんからの、義父母とのトラブルの相談。九州
のBさんからの、娘の交際相手の相談。同時に答えていると、何がなんだか、自分でも、さっぱ
りわからなくなるときがある。

 そしてAさんとの関係が、何かの原因ではじけたりすると、そのままBさんとの関係も、終わっ
てしまう。

 ……ということで、ますます人間関係をつくるのが、かえってむずかしくなってしまった。いや、
つくるのは簡単でも、その関係を深め、つづけるのが、むずかしくなってしまった。

 はからずも私のワイフは、こう言った。

 「インターネット時代になって、かえって人間関係が、混乱したのかもしれないわね。人間関
係のわずらわしさだけが、どんどん、飛びこんでくるといった感じイ」と。

 いつもワイフの言うことは、鋭い! ホント! 一つの人間関係がこわれるたびに、あとに
は、そのわずらわしさだけが残る。それがつぎからつぎへと、やってくる。

【補記】

 インターネットで一番困るのは、メールをくれた人が、頭の中で混乱してしまうこと。文字情報
の限界といってもよい。

 たとえばAさんと、Bさんと、同じような問題で、同時に交信していたりすると、頭の中で、Aさ
んと、Bさんが、区別、つかなくなってしまう。

 本来なら、どこかで会って、顔や声、その雰囲気を知った上で、交信を始めればよいのだ
が、それができない。

 インターネットの未来的な可能性を考えるなら、これも一過性の問題かもしれない。今に、映
像と声が、相互に同時交信できるようになるだろう。それまでがまんするしかない。


●ハンガーのない県

 昨夜、バラエティー番組を見た。クイズ番組だった。

 「日本で、ハンガーを使わない県がある。どこか?」と。

 何人かの出演者。それに司会者。たがいに「こうだ」「ああだ」と、意見をかわしていた。が、
そのうち、だれもわからないとわかると、司会者がヒント。「ハンガーは、何をするためのもので
すか?」と。

 私は、その番組を見ながら、ふと、「いったい、日本で、今、何%の人が、こういう番組を見て
いるのだろう」と思った。平均視聴率からすると、5〜10%ということになる。

 間の7・5%をとると、約1000万人の人が見ていることになる。(視聴率イコール、視聴者の
数ではない。この計算は、正しくないかもしれないが、おおむね、そんなそんなもの。)

 もともと娯楽番組だから、深く考える必要はない。出演者も、見るからに、その程度の人たち
だった。

 しかしその瞬間、日本中で、約1000万人の人が、この問題を考える。1000万人だぞ!

 が、本当のところ、考えているのではない。情報を、頭の中で加工しているだけ。広く誤解さ
れているが、思考と情報は、まったく別。物知りだから、頭がよいということにはならない。情報
の加工は、あくまでも情報の加工。思考とは、区別する。

 このクイズの正解は、「福岡県」だそうだ。「服をかけない」=「ふくおかけん」=「福岡県」と。

 こうした駄ジャレは、子どもの世界では、日常の会話のようにもなっている。たがいに言いあ
っては、キャッ、キャッと笑いあっている。

 「ブツゾー(仏像)」「ドウゾー(銅像)」という定番ものから、「左右とは言うけど、右左(ユウ・
サ)とは言わない」「ユーサー(言うさア)」というのまで、ズラリとある。

 子どもの世界では、こうしたジャレは、いわば、遊び。娯楽は、娯楽。あくまでも一部。

 そこで改めて、『一億、総ハxチ化』(大宅壮一)について考えてみる。

 一億の人たちが、ノーブレインになる前提として、(1)単一化と、(2)バランスの欠如をあげ
る。

 無数の駄ジャレがあって、無数のバリエーションがあればよい。それが一つの駄ジャレに、約
1000万人の人が、共鳴する。これを単一化という。

 つぎに娯楽は、一方に、理知的な活動があってはじめて、娯楽となる。一方的に娯楽ばかり
追求していたのでは、バランスがとれなくなる。子どもにたとえて言うなら、一方で、勉強をし、
その合間に、駄ジャレを楽しむというのであれば、問題はない。大切なのは、バランスである。

 そのバランスがなくなったとき、人は、ノーブレインの状態になる。

 私の印象としては、日本人は、ますますノーブレインになってきていると思う。ときどき私自身
はどうであったか。私の若いころはどうであったかと考えるが、今の若い人たちよりは、もう少
し、私たちは、ものを考えたように思う。根拠はないが、そう思う。

 「服をかけん」=「福岡県」か? なるほどと思うと同時に、こんなくだらないことで、日本中
が、騒いでいる? 私はそちらのほうこそ、問題ではないかと思った。それがわかったところ
で、考える人にはならない。またわかったからといって、頭のよい人ということにはならない。

 いいのかな……? それともテレビ局は、日本人を、わざとノーブレインするために、こういう
番組を流しているのだろうか? ……とまあ、番組を見ながら、いろいろ、そこまで考えてしまっ
た。

【追記】

思考……自分で考えること。思考には、独特の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い
夜、自分の体にムチを打って、ジョギングに出かけるような苦痛である。そのため、ほとんど人
は、その苦痛を避けようとする。

情報……いわゆる知識をいう。経験として知っていることも、それに含まれる。いくらその人の
情報量が多いからといって、思考力のある人ということにはならない。この情報は、思考と、は
っきりと区別する。

情報の加工……知っている情報を、足したり引いたり、足して2で割ったりするのを、情報の加
工という。今まで、この情報の加工は、思考力の一つと考えられてきた。しかし情報の加工は、
思考力とは関係ない。学校で習う、数学の証明問題を考えてみれば、それがわかる。パスル
でもよい。それがいくらすばやく解けたところで、頭のよい人ということにはならない。それにつ
いては、また別のところで考えてみたい。

 
●情報の加工

 中学2年生で、三角形の合同を学ぶ。「2辺とその間の角が、それぞれ等しいので、△ABC
≡△DEF」という、あれである。

 こうした問題には、得意、不得意がある。得意な子どもは、スイスイと解く。そうでない子ども
は、いくら教えても、コツを飲みこめない。

 しかしこうした問題には、そのコツがある。たくさん量をこなせば、よりむずかしい問題が解け
るようになる。が、それが解けたところで、思考力のある子どもということには、ならない。

 私は、若いころ、一人の高校生(男子)を教えていて、それを知った。ある予備校でアルバイ
トをしていたとき、その予備校の校長に、頼まれて、家庭教師をした。その高校生だった。

 その高校生は、こう言った。「この世の中のことは、すべて数学で証明できる」と。そう、彼は
「人間関係も、すべて証明できる」と言った。「その公式が見つからないだけだ」とも。

 実にヘンチクリンな高校生だった。常識に欠けるというか、常識そのものを感じなかった。も
ちろん恋などとは、無縁。音楽も聞かなかった。ただひたすら、勉強、また勉強。

 だから日本でいう(勉強)は、実によくできた。当然のことながら、数学だけは、とくに、よくでき
た。三角関数の微分問題でも、子どもが、掛け算の九九を唱えるように簡単に解いていた。

 しかし私たちは、そういう子どもを、思考力のある子どもとは、言わない。数学という情報を、
組み合わせ、分解し、あるいは、集合させているだけ。あるいはそのつど、必要な情報を、臨
機応変に取り出しているだけ。

 わかりやすく言えば、ここで「掛け算の九九」と書いたが、いくら掛け算の九九をソラでスラス
ラと言っても、思考力のある子どもとは言わない。掛け算の問題がスラスラと解けたからといっ
て、思考力のある子どもということにもならない。

 数学のレベルこそ、ちがうが、その高校生も、そうだった。

 だから私は、あえて言う。情報の加工と、思考力は、区別して考える。

 思考力というのは、心の常識に静かに耳を傾け、自分がすべきことと、してはいけないこと
を、冷静に考え、判断する能力をいう。

 
●東京で、気温40度!

 今日の午後1時ごろ、千葉県市原市で40度を超えたほか、東京都心で、気温が、39・5度
にまであがった。観測史上、最高の気温だったという。それを聞いて、ワイフがこう言った(7・2
0)。

 「私が子どものころは、めったに30度を超えることはなかったわ」と。

 その通り。一夏でも、30度を超える日というのは、めったになかった。合計しても7日もなか
ったのでは? 30度を超えると、それだけでニュースになった。それが今では、(去年は、まれ
にみる冷夏だったが)、9月の終わりまで、30度以上の気温が、つづく!

 地球は、いったい、どうなってしまったのか? この先、どうなるのか?

 ははは。

 考えてもしかたないので、ここは、笑ってすまそう。

 ただ心配されるのは、地温や水温があがると、土に中に含まれている、メタンガスが、溶け
出して、空中に放出されるということ。そうなると、温暖化は、一挙に、加速される。すでに、シ
ベリアのツンドラ地帯の凍土が溶け出しているという情報もある。

 もしそうなると、地球の気温は、二次曲線的に上昇し、一説によれば、2100年までに、400
度になるという。400度だぞ!

 ははは。

 まあ、そんなことにはならないと思うが、しかし2100年で、気温上昇が止まるわけではない。
2100年は、だいじょうぶだとしても、2200年には、400度になるかもしれない。2300年に
は、400度になるかもしれない。

 今から20数年前に、『第三の選択』という衝撃的な本が、発表された。地球温暖化が進み、
地球が破局を迎えたとき、そのとき、大気圏で核爆発を起こして、地球の大気圏内にたまった
熱を、宇宙へ放出するという内容の本だった。

 (核爆発を起こすのは三つの選択のうち、第二の選択。第一の選択は、地下都市をつくり、
そこに住むというもの。そして第三の選択は、他の惑星へ移住するというもの。)

 もちろん、それだけの核爆発を起こせば、その放射能で、地上の人間は、すべて死滅してし
まう。そこで一部の人間だけを、ノアの箱舟よろしく、宇宙へ退避させるとか。そして地上の放
射能が落ちついたら、また地上に、人間をもどす……。

 当時、その本は、サイエンス・フィクションなのか、暴露本なのか、という議論がわきおこっ
た。暴露本というのは、政府間どうしの密約を、だれかが暴露したというもの。しかしやがて、
その本は、フィクションということになった。が、その本の与えた衝撃は大きかった。

 すでにそのとき、今の地球の温暖化を予想する科学者も、たくさんいた。その一方で、たいは
んの人たちは、「温暖化はありえない」という意見だった。一度、東大の教授(理学部)に会った
とき、何かのついでに、私がその質問をすると、その教授ですら、こう言っていた。

 「ハワイで二酸化炭素を測定しているが、二酸化炭素ほとんどふえていない。温暖化は、心
配ありません」と。1975年当時のことだった。(皮肉なことに、1975年くらいから、急速に、二
酸化炭素が、ふえ始めたが……。)

 どちらにせよ、ははは。

 みんなで、ここは笑ってすまそう。

 もうなったら、ジタバタしても、はじまらない。どうしようもない。ははは。

 ……しかしそれにしても、暑い。この浜松市でも、35度を超えたという(NHK定時ニュース)。

 さあ、こうなったら、生きていることを、最大限、楽しんでやる。精一杯、生きてやる。とこと
ん、生きてやる。地球が破滅するなら、破滅してもかまわない。こんな暑さに負けてたまるか
ア!


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【小説・205x年10月11日】

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 夏が過ぎて、秋になる。そんな常識が消えて、もう10年。秋のつぎには、冬がやってくるはず
なのに、その冬がない。夏のつぎは、夏。そしてその夏が終わると、秋と春が同時にやってき
て、そのまままた、夏になる。

 10月11日。昼前だというが、気温は、30度を超えた。今日も、33、4度になるだろうか。太
平洋をおおっている高気圧は、広く日本海まで届いている。

 昨日、友人の雄太が、避暑ツアーから、2か月ぶりに日本へ帰ってきた。元気そうだった。夏
の間、船で、アラスカ沖をまわり、北極海まで足をのばしたそうだ。あのあたりまで行けば、ク
ーラーなしでも過ごせるという。

 そうそう新型クーラーが飛ぶように売れている。イオン交換を応用したクーラーで、これなら
気温50度まで、冷房ができるという。しかし今年の夏のように、瞬間的であるにせよ、気温が
50度を超えたら、もう打つ手はない。新型クーラーでも、空気を冷やすことはできない。

 雄太が心配そうに言っていた。「アラスカ沖でも、海から、無数の気泡が観測された」と。海底
深くに沈むドロから、メタンガスなどのガスが、熱で溶け出しているからだ。そのガスが、温暖
化に拍車をかける。「夜でも青白い光を放ち、不気味な美しさだった」と、雄太は言った。

 もう今では、年配者の自殺など、ニュースにもならない。私が住むこの町内だけでも、今年
は、25人くらいの人が、自ら命を断ったという。先日、町内会の会長が、そう言っていた。み
な、会うたびに、東北の高山や、北海道へ移住する話ばかりをしている。

 しかしそんなお金、どこにある? 暑い夏をがまんして、ここに住むか。それとも、北海道で、
窮屈な生活をするか。しかし気温といっても、その差は、1、2度もない。

私は、2004年生まれ。今年は満5x歳になる。体力も、限界にきている。

 早く11月にならないか。12月にならないか。11月になれば、少しは暑さもやわらぐだろう。
私が子どものころには、この日本でも、雪が降った。川には、水も流れていた。山々は緑の
木々におおわれていた。しかしそんな夢のような景色は、今、どこにある。

 12月に北極で雪を見るツアーが、ある。私も妻と参加するつもり。楽しみだが、そのあとのこ
とは考えていない。考えられない。

 そう言えば、そういう症状は、自殺者の初期症状だという。あるときを境に、その先の未来
が、すっぽりと闇に包まれしまう。私もその予備軍かもしれない。

死ぬ前に、一度でいいから、もう一度、あの白い雪を見てみたい。一面の雪景色だ。きっと、天
国も、そういう世界だろう。まっしろな銀色の世界。……そう思うのは、やはり自殺者の初期症
状なのか。

 それにしても、暑い。今日も、暑い。

【10月13日】

 今日は、妻と二人で、久しぶりに、海まで、歩いてみた。

 丘の上から見ると、昔はビルだったという、建物の残骸が、海の向こうに立っていた。そのま
わりを、洋上生活者の人たちが乗った、無数の船がとりまいていた。台風がくるたびに、何千
人という人が、溺れて死ぬ。しかしそれでも、洋上生活をやめることができない。

 もう地上には、住む場所がない。あるにはあるが、周囲を高い鉄条網で囲み、よそ者は、中
には入れない。小さな山ですら、その村の人が、銃をもって、管理している。

 村どうしの争いも絶えない。わずかな水を争って、殺しあいになることもある。

 
++++++++++++++++++++

●学歴

学歴をぶらさげて歩いている人は、多い。それはわかる。
夫の学歴をぶらさげて歩いている人も、多い。それもわかる。
さらに息子や娘の学歴をぶらさげて歩いている人も、多い。それもわかる。昔、あることで口論
になったとき、私にこう叫んだ、女性(60歳くらい)がいた。

「私やね、こう見えても、息子を、東京のD大学を出しましたからね」と。

 しかし父親の学歴をぶらさげて歩いている、娘がいたのには、驚いた。本当に、驚いた。「い
い親子だなあ」と思う前に、正直言って、あきれた。

 しかも話を聞くと、それほど有名な大学でもなさそうだ。東京のT大学とか、京都のK大学とい
うのなら、まだ話もわかる。地方の、戦後の新設大学である。

 その父親は、いったい、その娘に、どんなプライドを植えつけたというのだろうか。(これ以上
のことは、ここには、書けない。ごめん!)

 ……という話から、私はいくつかの話を思い出した。

 この学歴意識と、「家柄(いえがら)」意識は、よく似ている。あるいは家柄意識の愚劣さは、
家柄を学歴に置きかえて考えてみると、よくわかる。

 人は、自分の自尊心のよりどころを何かに求めて、生きている。そのよりどころに身を寄せる
ことで、自分を支えたり、立てなおしたりする。それはわかる。

 しかし最終的に行きつくところは、(自分)である。釈迦も、こう言っている。『己こそ、己のよる
べ。己をおきて、たれによるべぞ』(法句経)と。「自分こそが、自分のよりどころ。その自分をさ
ておいて、だれによることができるか」と。

 この話につづいて、さらにこんなことも思い出した。

 ある夫婦だが、夫婦で、泥棒行脚(あんぎゃ)をしているという。妻が、どこかで見張り、その
間に、夫が、他人の家にしのびこんで、空き巣を働くというものである。

 私はその話を聞いたとき、夫婦でしていることは別として、「いい夫婦だなあ」と思ってしまっ
た。想像するだけでも、おもしろい。私のワイフなんか、そんなこと手伝ってくれと頼めば、その
日のうちに、家を出ていってしまうだろう。薄情なものだ。

 いいかえると、夫の学歴にぶらさがる人にしても、息子や娘、さらには、父親の学歴にぶらさ
がる人にしても、その関係は、濃密(?)とみてよい。濃密だから、相手の価値観やものの考え
方を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 先の父親の学歴にぶらさがって生きる娘にしても、父親を思う気持が、そうさせているのかも
しれない。「私の父は、偉大だった」と。

 しかし考えてみれば、これは、ファーザー・コンプレックスではないのか……? 

 よくマザコンの男性が、母親を徹底的に美化するのに似ている。年をとればとるほど、その
回帰性からか、マザコンやファザコンになる人は多い。しかし若い女性が……?

 このあたりの心理については、私は、よくわからない。しかし結論としては、こんなことが言え
る。

 あくまでも生きるのは、私であり、あなただということ。私が何をしたか。何をしているか。これ
から先、何をするかが重要であって、もし相手がいるとしたら、その(かねあい)の中で、相手
がいるにすぎない。

 その若い女性が、これから先、自分の愚劣さに気づき、ついで自分をつくるのに、まだまだ長
い時間がかかるかもしれない。あるいはそれに気がつかないまま、一生を終えるかもしれな
い。私の知ったことではないが……。


【追記】

 老人になると、回帰的傾向から、マザコン、ファザコンになる人は、多い。母親や父親を、こと
さら美化するようになる。自分の死が近づくと、先に死んだ、父親や母親を、より濃厚に思い出
すためではないか?

 ……実は、これは私自身の問題でもある。

 心理学の世界にも、「展望」と「回顧」という言葉がある。老人の心理を説明した言葉だが、老
人になればなるほど、展望性がなくなり、回顧性が強くなるという。その分岐点は、50〜60歳
だという説もある。

 つまりこの時期を境に、急速に、回顧性が強くなるらしい? そしてその回顧性がきわまって
くると、極端なマザコン、ファザコンになるらしい?

 今は、こうして他人ごとのような文章を書いているが、正直言って、自信がない。その年齢に
なれば、私も、その年齢の人がするような人間になる。そういう意味では、私は、たいへん平均
的な人生を送ってきたように思う。つまり平均的な人間ということ。

 私ひとりが、特別と考えるのは、まちがっている。私ひとりが、みなとちがった生き方ができる
と考えるのは、まちがっている。

 だからやがて、回顧性が強くなって、今とはちがった考え方をするようになるかもしれない。

 まあ、それまで自分の変化を、静かに観察してみよう。


●冒険
 
 学生時代、私は、2、3000円というお金だけをもって、よく旅に出た。旅費は、ヒッチハイク
で浮かし、夜は、どこかの駅で寝た。たまに素泊まりの民宿で泊まったこともある。

 食事は、パンとか、そういうもの。

 この方法で、ほぼ、西日本全域を旅した。(どういうわけか、東京より、北へは行ったことがな
いが……。)

 そういう冒険心が、消えたわけではない。今でも、したい。ひとりで、ぶらりと、あてもなくさまよ
う。そういう旅をしてみたい。しかしそのあと結婚して、子どもができて、私も落ちついた。静か
になった。

 が、その冒険心も、若いころとは、質的に少し、変ってきたように思う。

 今、懸命に模索しているのは、どこか日本を離れて、外国へ移住すること。まだ健康なうちに
……。まだ元気なうちに……。

 第一候補。オーストラリアのビクトリア州南端にある、アポロベイ。
 第二候補。オーストラリアのビクトリア州のメルボルン。

 そういうところで生活をし、いよいよ動けなくなったら、日本へ帰ってきて、静かに死ぬ。葬式
も、墓もいらない。私の灰は、海へ流してくれればよい。

 そうそうどこかの宗教団体では、宇宙のどこかに、無数の霊魂が集まるところがあって、死ん
だらみな、そこへ入ると教えている。巨大な、光のたまのようになっているそうだ。

 しかしそんな遠く(?)へ行かなくても、目の前に、海があるではないか。私は、その海でよ
い。

 ……というようなことを書いたら、以前、「君は、海を汚染させるつもりか」と抗議してきた人
(男性)がいた。(ホントだぞ!)

 しかしあえて反論させてもらうなら、地球上のすべての人間の肉と骨を海に捨てても、一日に
して死ぬ魚の肉と骨の、何万分の1にもならない。あるいは、もっと少ないかも。灰だけなら、そ
のままプランクトンのエサになる。

 まったく問題は、ない。海を汚染させるものは、もっと別のものだ。化学物質とか、化学製品
とか、そういったものだ。

 で、改めて考えてみれば、私の人生は、そのさすらいの人生だったように思う。(少し、かっこ
よく書いたが……。)パンをかじりながら、駅で寝た。そんな人生だった。だから死ぬまで、この
ままだろうと思う。今さら、私の生きザマを変えることはできない。

 だから自分の人生の最後の部分で、もう一度、その人生を確認してみたい。そのためにも、
あの冒険の旅に出てみたい。

 そんなわけで、日増し……というよりは、年ごとに、そういった会話が、多くなった。昨日もた
またまワイフと、そんな会話になった。

 「仕事をやめて、どこかへ行こうか」「いいわね」と。

 2年後か、3年後か、その時期は、近いように思う。がんばろう!


●水浴び

イヌのハナに、ときどき、水をかけてやる。しかし数度もすると、私が声をかけるだけで、逃げ
ていくようになってしまった。イヌというのは、雰囲気で、それがわかるようになるらしい。

 いわゆる信頼関係が、崩壊したことを意味する。

 私は、そのほうが気持よいだろうと思うのだが、イヌには、ありがた迷惑? イヌは濡れるの
を嫌う動物だということは、聞いていたが、こうまで嫌うとは!

 
●子どもの指導

 子どもを指導するとき、むずかしいのは、手綱を締めすぎても、またゆるめすぎても、いけな
いということ。このかねあいが、むずかしい。

 「やればできるはず」と、締めすぎると、子どもは逃げてしまう。ゆるめすぎると、だらけてしま
う。子どもといっても、相手は、生身の人間。好奇心とやる気をうまく引き出しながら、それを学
習へとつなげていく。

 しかしこの段階で、ガツガツするのは、よくない。エビでタイを釣る前に、そのエビを釣るよう
な行為は、かえって子どものやる気を奪ってしまう。じょうずにエビを泳がせながら、タイがくい
ついてくるのを、待つ。

 今、私の教室では、勉強の前に、パズルや知恵ワークをやらせている。周期的に、何かテー
マを決めて、そうしている。今は、パズルや知恵ワークである。

 隠し絵や、まちがいさがし、マッチ棒パズルなど。このとき、「できた人には、アメ玉一個」とい
う賞品をつける。勉強や学習に賞品をつけるのは避けたいが、これは(遊び)。アメ玉一個で、
子どもたちは夢中になってやってくれる。

 こうして緊張感を高めたところで、「さあ、勉強しようか?」と、子どもたちを誘導していく。

 が、中に、1人、2人、まったく興味を示さない子どももいる。ひとりだけ、本を読んでいたりす
る。そういうときでも、私は、無理をしない。それぞれの子どもには、それぞれの儀式がある。
その儀式が終わるまで、待つしかない。

 とくにこういう暑い日がつづくときは、そうだ。子どもたちは、学校で、ヘトヘトに疲れてやってく
る。どうしても能率が落ちる。脳細胞は、あまり暑いと、機能がにぶる。こと脳細胞についてい
えば、やや寒いほうが、よいかもしれない。あまり寒くて、ガタガタ震えているようでも、ダメだが
……。

 そう言えば、昔、私は、高校2年生のとき、AFS(アメリカン・フィールド・サービス)の留学生
試験を受けたことがある。三次試験まで生き残ったが、その三次試験で落ちた。

 試験会場は、長野市にある女子高校だった。善光寺から歩いて、10分くらいのところだった
と記憶している。ちょうど、東京オリンピックの開会式の日だったか、閉会式の日だったか、そ
んな日だった。

 寒い日だった。予想外に寒い日だった。10月のある日だった。

 ほかの高校生たちは、親たちと来ていた。私だけ、ひとり。しかも学生服の下は、下着一枚と
いう軽装だった。

 私は試験会場で、ガタガタと寒さに耐えて震えていた。面接会場でも、そうだった。多分それ
で落ちたのだと思う。(今、勝手にそう思っているだけだが……。)寒くて、寒くて、脳細胞が、ま
ったく機能しなかったのを覚えている。

 寒いのは、よくない。が、暑いのも、よくない。今朝(7・22)は、まだ涼しいが、昨日は暑かっ
た。おとといも暑かった。こういうときは、原稿を書こうとしても、アイデアそのものが、浮かんで
こない。書きたいことはどこかにあるのだが、それが具体的な形となって、出てこない。

 だから、こういうどうでもよいような文章になってしまう。私たちの世界では、ダ文と呼んでい
る。呼んでも、何も残らない。役にたたない。身につかない。そういう文章をいう。

 それがよくわかるから、子どもたちには、こう言った。

 「暑かったね。まあ、今日は、のんびりとやろうね」と。

 テレビゲーム風にいえば、集中力……20%、攻撃力……35%、理解力……10%、体力…
…25%と。これでは、ゲームにならない。相手からの攻撃をかわすだけで、精一杯。

 昨日の授業は、そんな授業だった。あらためて、暑中、お見舞い申しあげます。


●タンクトップ

ワイフと、近くの大型店へ買い物に行く。

 そこでの光景。若い女性たちが、胸の上から肩をむき出しの服装で歩いている。そういう服
装を、タンクトップという。「時代も変わった」と驚いていると、ワイフが、「キャミソールというのも
あるわよ」と。

 そのタンクトップについて、私には、こんな思い出がある。

 学生時代、通訳のアルバイトをしていたときのこと。あるとき、アメリカ人の夫婦が、高校生く
らいの娘をつれて金沢へやってきた。

 その娘が、タンクトップを着ていた。当時の日本には、まだない服装だった。大きな胸。はち
きれそうな胸。私は通訳をしながら、しばしば歩けなくなっしまった。

 「歩けなくなってしまったよ」と私。
 「どうして?」とワイフ。

 わかっているくせに! 男というのは、そういう状態になると、歩けなくなる。

 それが今では、この日本でも、ごくふつうの服装になってしまった。もっとも今は、そんな服装
の女性を見ても、歩けなくなるということは、ない。そんな元気は、もうない。

 「お前も、タンクトップを着てみたら?」と言いかけたが、やめた。ワイフがタンクトップを着た
ら、腹巻きならぬ、胸巻きになる。冗談にもならない。ハハハ。


●山荘では……

 都会に住んでいる人は、この話を信じないだろう。しかし事実は、事実。

 今日(7・22)も、浜松市内では、気温が、37度を超えた。が、山荘では、夕日が沈むと同時
に、冷気を含んださわやかな風が、谷間から、吹きあげてくる。今、この原稿を書いているの
は、午後11時だが、暑さを感じさせない。市内だったら、今夜も、クーラーをかけなければ寝る
ことができないだろう。

 しかしここでは、クーラー以上に、涼しい風が、窓から窓へと吹き抜けていく。

 緑のありがたさというか、改めて、森のもつ重要さを、思い知らされる。

 これから先、地球の温暖化が大きな問題になる。が、日本は、この問題では、本当にラッキ
ーな国だと思う。

 島国で、四方を、海で囲まれている。中央には、3000メートル級の山々がつらなっている。
温暖化の影響を受けるとしても、日本は、最後の最後。砂漠化の問題も、水不足の心配もな
い。

 だったら、今から、10年後、20年後をみながら、緑をふやすことを、本気で考えるべきでは
ないのか。とくに都会地域では、道路沿い、空き地、公園、公共施設などの周辺には、どんど
んと木を植えていく。

 町中を、すっぽりと緑で包んでしまう。

 こんなことを言うと、世界の人は怒るかもしれない。しかし私はあえて言う。「私たちは、日本
人は、最後の最後まで生き残って、世界が滅んだあと、その世界を再生してやろうではない
か」と。

 どこかSF的だが、とりあえず、日本人の私たちがそう考えるのは、それほどまちがっていな
いのではないかと思う。現に今、地球温暖化の影響をモロに受けて、破滅的な状況を迎えてい
る国は、多い。そういう国々へでかけ、木を植えたり、ダムをつくったりしている日本人は、多
い。貧しい国々で、医療活動をしている医師も多い。

 さあ、みんなで、緑をふやそう。大切にしよう。……と考えながら、そろそろ、寝ることにした。
まぶたが重くなってきた。


●ヒグラシの大合唱

 朝、あけがたとともに、ヒグラシの大合唱が、始まる。

 その合唱が、大オーケストラの演奏のように、山々にこだまする。

 それはあたかも、大海の波のよう。やさしく砂浜に打ち寄せえては消え、そしてまた打ち寄せ
ては消える。

 カナカナカナ……
 カナカナカナ……
 カナカナカナ……。

 静かなクレッシェンドで始まり、同じようなデクレッシェンドで、消えていく。どこかもの悲しく、も
のわびしい。

 近くに、3、4匹のヒグラシがいるらしい。大オーケストラの演奏をバックにしながら、ひときわ
大きな声で、鳴きつづける。二重唱、三重唱、そして四重唱。その壮大さ、その荘厳さ。

 私はいつしか、ヒグラシの大合唱に、身が包まれているのを知る。

カナカナカナ……
 カナカナカナ……
 カナカナカナ……。

 再び襲いくる睡魔。その睡魔と闘いながら、ヒグラシの声を耳にとめる。やや低い声で一匹の
ヒグラシが鳴く。それをおいかけるようにして、もう一匹のヒグラシが、やや甲高い声で鳴く。つ
ぎにもう一匹……。

 朝もやの、薄明かりの中で、ふと隣を見ると、ワイフは、両手を左右にのばしたまま、まっす
ぐ上を向いて眠っている。

 起きているのか?
 同じように聞いているのか?

 おだやかな顔をしている。が、私の意識も、そこで消えた。

 森の冷気。その寒さに体を震わせ、軽い毛布を、私の体とワイフの体にかける。そしてその
まま朝……。


●「年だから……」という言い方

7月のはじめ、豪雨が、新潟県から福井県を襲った。

今は、その雨もやっと一息つき、各地で復旧作業が始まった。連日、その模様を、テレビが、
ニュースとして伝えている。

 その模様を見ていたときのこと。一つ、気になったことがあった。

 何人かの老人が出てきたが、たまたまどの老人も、こう言った。

 「私ら、年ですから……」
 「年ですからね……」
 「私も、この年ですから……」と。

 つまり老齢だから、こうした復旧作業は、きびしい、と。

 実は、無意識だったが、私も、ときどき、同じ言葉を使うようになってしまった。ワイフに向っ
て、「オレも、年だからなあ」とか、息子たちに向って、「パパも、年だからな」とか。

 つまりは、私はそう言いながら、ワイフや息子たちに、依存しようとしている。甘えようとしてい
る。自分でそう言いながら、ハッと我にかえって、「いやな言い方だ」と思ってしまう。

 もちろん復旧作業にあたっている老人たちには、きびしい作業だろう。やりなれた仕事ならま
だしも、こうした仕事は、使う筋肉もちがう。何よりもたいへんなのは、「ゴロリと横になって、体
を休める場所がない」(ある老人の言葉)ということだそうだ。

 だからそういう老人たちが、つい、「年だから……」と言いたくなる気持は、よく理解できる。し
かし……。

 この言葉は、どこか(だから何とかしてくれ言葉)に似ている?

 よく依存性の強い子どもは、「のどがかわいたア!」「おなかがすいたア!」「退屈ウ!」と言
う。その子どもは、そう言いながら、親に向って、「だから何とかしてほしい」と言っている。

 同じように、「年だから……」という言葉の裏で、こうした老人たちは、「だから、何とかしてほ
しい」と言っている? 私にはそう聞こえる。

 昔、私の伯母にも、そういう人がいた。電話をかけてくるたびに、「オバチャンも、年だからね
エ……」と。

 今から逆算してみると、そのときその伯母は、まだ、50歳になったばかり。今の私の年齢よ
り、若い。

 そこで私は、気がついた。人はともかくも、私は、死ぬまで、その言葉を使わないぞ、と。自信
はないが、そう心に決めた。

 このマガジンを書くときも、ときどき、似たような弱音を吐くことがある。しかし弱音は、弱音。
「もう、使わないぞ」と。

 年なんか、関係ない。体が弱くなり、頭の活動はにぶるかもしれない。しかしそれは当然のこ
とではないか。年のせいにしてはいけない。人間には、年はない。そんな数字にふりまわされ
て、自分をごまかしては、いけない。他人をあざむいては、いけない。

 なまけた心、たるんだ体……、それは年のせいではない。

 ……ということで、今日の教訓。私の辞書から、「年だから……」という、あのどこかずるい、
どこか甘えた言い方を、消す。

 そう言えば、私のワイフなどは、そういう言葉を使ったことがない。どうしてだろう。あとで、そ
の理由を聞いてみよう。

【ワイフの言葉】

 「私やね、年だなんて、思っていない」と、一言。ワイフの言うことは、いつも、単純、明快。