はやし浩司
最前線の育児論(301〜350)
最前線の子育て論byはやし浩司(301)
●理想的な夫像?
夫を、どの角度からみるかによって、その夫像も変わってくる。
まず、常識的な尺度でみたのが、つぎの表である。
夫を、家族的かどうかでみるのが、(F)軸。
夫を、仕事ができるかどうかでみるのが、(W)軸。
W
仕事はするが * 仕事もするが
家庭をかえりみないタイプ * 家庭も大切にするタイプ
*******************************F
仕事もしない。 * 仕事はしないが、
家庭も大切にしないタイプ * 家庭を大切にするタイプ
理想タイプとしては、右上の(仕事もするが、家庭も大切にするタイプ)ということになる。
問題は、(仕事もしない。家庭も大切にしないタイプ)。このタイプの夫は、少なくない。家計は
いつも火の車。にもかかわらず、仕事はしない。家にも帰らず、いつもどこかで趣味ざんまい。 あるいは女遊び。
……と書くのは、簡単なこと。教育的には、もう少し、ちがった見方をする。
いつか書いたように、善人も悪人も、それほど、ちがわない。ほんの少しの方向性のちがい
が、長い時間をかけて、善人を善人にする。悪人を悪人にする。仕事をしたくても、その仕事 がない。あるいは何をやっても、うまくいかない。失敗ばかり。
こういうことが重なると、とたんにやる気をなくす。その上、安らぐはずの家庭にいても、妻
は、不平、不満をぶつけるだけ。
こういう状態の中で、ここでいう(仕事もしない。家庭も大切にしないタイプ)の夫が生まれる。
そういうケースは、たいへん、多い。
そういう意味では、家庭に入った妻の役目は、どこか教育者に似ている。アメリカでは、こう
言う。
「夫は、頭。妻は首。決断するのは、夫の役目だが、その方向を決めるのは、妻の役目」と。
なかなか的(まと)を得た言葉ではないかと思う。(どこか男尊女卑的な感じがしないでもない
が……。)
私は夫の立場にいるから、どうしても夫の立場で、ものを考えてしまう。その上、いつも挫折
感を味わってばかりいる。だから、自分で、自分に反論するのもおかしな話だが、あえて、こん な表も考えてみた。
夫に対して、協力的かどうかでみるのが、(C)軸。
夫に対して、理解があるかどうかでみるのが、(U)軸
C
協力はするが、 * 協力はするし、
夫を理解しないタイプ * 夫を理解するタイプ
*******************************U
協力もしない。 * 協力はしないが、
夫を理解しないタイプ * 夫を理解するタイプ
理想タイプとしては、右上の、(夫に協力的で、夫を理解するタイプ)ということになる。
問題は、(協力もしないし、夫を理解しないタイプ)。このタイプの妻は、「仕事をして、収入を
得るのは、夫の役目」と、夫を突き放した上、夫の仕事を理解しようとしない。昔、夫の仕事に ついて、「うちのダンナは、ただの倉庫番でね。収入も少なくて、たいへんなの」と吐き捨てるよ うに言った女性がいた。
少なからず好意を感じていた女性だったが、私は、こう思った。「こういう女性と結婚しなくて、
よかったア」と。(相手も、私に対して、そう思ったかもしれない。こういう思いというのは、双方 向性がある。)
要するに、妻をつくるのは、夫。夫をつくるのは、妻ということになる。「夫が……」「妻が……」
と論じても、あまり意味がない。
話はぐんと現実的になるが、ショッピングセンターなどで、夫婦で歩いている人を見ると、中に
実によく似た夫婦がいるのがわかる。
服装から、しぐさ。それに雰囲気まで! 服装が似るのは、たいていは妻が、夫の衣服を買
いそろえているから。しかしその上、しぐさや雰囲気まで! 昔から「似たもの夫婦」というが、 夫婦も、10年、20年としていると、たがいによく似てくる。
どこかヤクザ風の夫をもつと、妻も、どこかそれ風になる。そうそう、体型も似てくることがあ
る。夫も妻も、丸々と太っていたりする。これは食べ物が同じためだからではないか。
そんなわけで、もしあなたが今、夫(妻)にあれこれ不満があるなら、その原因は、妻(夫)で
ある、あなた自身にあると考えてよい。一方的に夫(妻)を責めても意味はない。また責めては いけない。
以上、教育的にみた、夫婦論。おしまい。(自分でも、こうまで耳の痛いエッセーを自分で書
いたことがない。ホント!)
+++++++++++++++++++++
●母親の病識
うつ病といっても、症状は、軽重さまざま。理由も原因も、これまたさまざま。が、母親が、そ
のうつ病になったら、どうなるか。子どもに、どのような影響を与えるか。
この時点で、母親に、「私は病気だ」という意識、つまり病識があれば、まだ救われる。しかし
その病識がないときは、どうなるか。子どもに、どのような影響を与えるか。
Aさん(40歳・女性)は、長野県の山村から、このH市に移り住んできた。H市は、名古屋市
につぐ、東海地方では、第二の大都市である。それが原因のすべてとは言えないが、しかしA さんには、どうしてもこのH市が、なじめなかった。
Aさんは、二番目の子どもを妊娠するころから、うつ病になった。……といっても、正式に、そ
う診断されたわけではない。夫や、夫の両親が、さかんに病院へ行くようにと説得したが、Aさ んは、それをがんと、拒否した。「私は、何でもない!」「私は、病気ではない!」と。
Aさんの奇行(?)は、二番目の息子が生まれたころから始まった。1、2週間もの間、一歩も
部屋を出なかったことがあるかと思うと、突然、買い物に出かけたりするなど。色ちがいだが、 同じ洋服を何枚も買ったこともある。あるいはささいなことで、カッとなって、二人の息子(4歳と 1歳)に、ものを投げつけたこともあった。
夫の収入は、それほど多くはなかった。それでAさんは、夫の両親、つまり義理の両親から、
家計を補助してもらっていた。そのこともあって、Aさんの生活は、ますます派手になっていっ た。
……という話をここに書くのが目的ではない。
それから数年後。Aさんの長男は、小学2年生になった。が、その長男に、精神障害が現れ
始めた。ふとしたことで黙りこくったかと思うと、意味のわからない言葉をブツブツ言いながら、 ニヤニヤ笑いだすなど。
これまたAさんのうつ病が原因で、長男がそうなったとは言えない。しかし関係がないとは、も
っと言えない。
こういうケースは、つまり、似たようなケースは、今、たいへん多い。虐待とまでは言えない
が、しかしそれに近い。しかし、虐待とは、言えない。本来なら、子どもを母親から切り離したほ うがよいのだが、その理由が見つからない。無理に切り離せば、母親は、ますますその病状を 悪化させてしまうかもしれない。そんなケースである。
ここで、先にも書いたように、母親に、その病識があれば、まだ救われる。しかしこのタイプの
母親にかぎって、それがない。
ささいなことで激怒し、子どもを罵倒したかと思うと、そのつぎの瞬間には、涙声で、「ごめん
なさい。ママが悪かった」と、子どもにあやまったりする。このつかみどころのなさが、子どもを 不安にする。
そこで登場するのが、父親ということになる。が、みながみな、母親のそういう心の病気に対
して、理解があるわけではない。仕事に追われ、家庭をかえりみない父親も、多い。そのため 母親はますます孤立し、病状を悪化させる。
Aさんの夫も、どこかだらしないAさんの生活ぶりを見て、「なまけ病だ」「仮病だ」「わがまま
だ」と、Aさんを責めた。
さらに不幸は重なる。二番目の息子に、もっとはげしい精神障害が現れ始めた。小学校に入
るころには、異常な過食が始まった。食べるものがないと、近所のゴミ箱をあさって、食べてい たというから、ふつうではない。ゲーゲーとものを吐き出すまで、ものを食べることも、しばしば あった。
Aさんはそれを知って、これまたはげしく叱ったが、もちろん効果はなかった。やがて二番目
の息子は、家出、火遊びを繰りかえすようになった……。
こういうケースを知ったとき、あなたなら、どうするだろうか? どう考えて、どう行動するだろ
うか?
しかし率直に言おう。こういう問題とて、子育てにまつわる無数の問題の一つにすぎない。そ
れはたとえて言うなら、波打ちぎわに打ち寄せる大波のようなもの。つぎからつぎへと、やってく る。「何とかしなければ……」と考えているうちに、つぎの大波が、またやってくる。
話がそれたが、私ができることは、こういう問題があることを、一人でも多くの読者に伝えるこ
と。そして今は、その病識がなくても、その傾向のある人に、自ら、それに気づいてもらうこと。 ここにも書いたように、病識があれば、まだこの問題は、解決できる。「私は、おかしい」と自覚 するだけでも、子どもに対する接し方が変わってくる。
たとえばAさんのケースでも、Aさんのほうから、「では、どうしたらいいでしょうか?」という相
談があれば。話もしやすい。相談に、のることもできる。しかしそもそも、その病識のない人に 対しては、それをすることもできない。「あなたは、少し、おかしいですよ」と、言うことなど、絶対 に、できない。
●子どもの不適応症状
心の病気の二大前兆は、(1)不安感と、(2)抑うつ感である。
この二つの症状が、子どもに見られたら、親は、家庭教育のあり方そのものを、猛省する。
放置すれば、神経症からうつ病、さらには、不登校、学校恐怖症などの不適応症状となっ
て、子どもに現れる。
ただ不適応症状といっても、内容はさまざま。大きく、つぎの4つに分けて考える。
(1)攻撃型、(2)服従・依存型、(3)逃避型、(4)同情型。
(1)の攻撃型というのは、学校におけるツッパリ児や、家庭内暴力を繰りかえす子どもを想像
すればよい。が、こうして外の世界に向う攻撃型を、プラス型とするなら、内に向う攻撃型もあ る。
猛烈なガリ勉をする子どもや、あまり意味のないスポーツの練習を一日中するのが、それ。
このタイプの子どもは、自虐的に自分を攻撃することで、自分のまわりに居心地のよい世界
をつくろうとする。
(2)の服従・依存型は、集団非行を繰りかえす子ども、(3)の逃避型は、不登校児に、よく見
られる。さらに(4)の同情型というのは、わざと病弱で、弱々しい自分を演ずることによって、自 分にとって居心地のよい世界をつくることをいう。みながあれこれ心配してくれるような状況を、 自分のまわりにつくっていく。いつも何らかの病気や、体の不調を訴えるのが、その特徴であ る。
これらのタイプの子どもは、要するに、まわりの環境にうまく適応できないため、それを補う形
で、こうした行動に出ると考えるとわかりやすい。
が、実際問題として、こうした症状が出てくるような段階では、すでに、手遅れとみる。
たいていの親は、(それはある意味ではしかたのないことかもしれないが)、こうした症状が出
てきて、はじめて、自分の子育てに問題があったと気づく。「まだ何とかなる」「うちの子にかぎ って……」「そんなはずはない」と思って無理をすればするほど、それが悪循環となって、深み にはまってしまう。
そこで今、あなたの子どもは、どういう状況なのか、冷静に観察してみてほしい。不安を訴え
ることはないだろうか。悶々と悩むようなことはないだろうか。ため息をもらしたり、ぼんやりとも の思いにふけるようなことはないだろうか。
もしそうなら、家庭教育のあり方そのものを、一度、反省してみてほしい。
【ある失敗例】
勉強を、子どもをしごく手段にしている親は、少なくない。
もう20年ほど前のことだが、こんなことがあった。
小学1年生のクラスで、足し算の計算問題を、20問ほどやらせたことがある。で、私のばあ
い、その子どもが懸命にしたかどうかで、子どもを判断する。そのときも、そうだった。
Nさんという女の子だった。もともと計算が得意な子どもではなかった。が、そのときも、懸命
にそれをした。
で、丸をつけるときになってプリントを見ると、20問にうち、4、5問の答がちがっていた。しか
し私は大きな丸をつけ、「よくやったね」とほめた。
が、その夜、母親から電話がかかってきた。いわく、「先生は。どうしてまちがっている答に
も、丸をつけるのか。今、娘に、やりなおさせている。いいかげんな丸をつけないでほしい」と。 つまり、「しっかりと丸をつけろ!」と。
そこで様子を聞くと、N子さんは、涙をポロポロとこぼしながら、それをしているという。
こういうのは、まずい。本当に、まずい。子どもから、やる気を奪ってしまう。そればかりか、
やがて勉強嫌いにし、ついでに、親子の関係も、破壊してしまう。だいたい、小学1年生のとき から、そんなにギスギス教える必要は、ない。
それを母親に伝えると、母親は、こう反論した。
「今から、しっかりと教えていかなければ、いいかげんな子どもになってしまいます」と。
今でも、こういう親は、珍しくない。しかし本当に、そうだろうか。このテーマは、「正しい答をい
つも出すことが、それほどまでに大切なことなのか」という問題にまで行きつく。だいたいにおい て、人生に、正しい答など、ない。絶対に、ない。
で、予想どおりというか、N子さんの表情は、ますます暗くなっていった。私も、その一見以
来、神経質になってしまった。で、そのあと、N子さんが、どうなったか? 改めてここに書くまで もないことだと思う。
●子どもの書く、文字
ある学校の校長が、私にこう言った。「(漢字の)書き順は、最初から、しっかりと教える必要
があります。一度、へんなクセが身につくと、なおすことができないからです」と。
いろいろな意見があるだろう。こういう意見に対して、「そうだ」と言う人も多いはず。しかし本
当のところ、何が大切で、そうでないかを、もう一度、私たちは原点から問いなおしてみる必要 がある。
文字がなぜあるかといえば、それは自分の思想を、相手に伝えるためである。文字をどう書
くかは、つぎのつぎの目的。あるいは目的にもならないかもしれない。現に今、私は、文字を書 いていない。キーボードをたたくことで、瞬時に文字を画面に呼び出している。
書き方のことを言うなら、これほど、まちがった書き方はない。たとえば「口」の字を、3画どこ
ろか、瞬時に、四角を書いているようなもの。ハネ、ハライ、トメにいたっては、なぜそんなもの が今どきあるのか、私には、どうしても理解できない。
おかしなことばかりにこだわっているから、子どもは、考えることしのものから、逃げてしまう。
作文にしても、「作文が好き」と答える子どもは、学年を経るごとにどんどんと減る。中学生にも なると、大半の子どもが、「作文は嫌い」という。「大嫌い」と答える子どもも、何割もいる。
もともとこの社会は、いいかげんなもの。いいかげんであることが悪いのではない。子ども
は、そして人は、そのいいかげんな部分で、羽をのばす。無数のドラマも、そこから生まれる。
そういう社会を背中に背負いながら、子どもたちのだけ、ギスギスの(正確さ)を、押しつけて
も、意味はない。もともと思想には、流儀はない。文章には、流儀はない。だから文字にも、流 儀はない。
(注)長男のときはともかくも、私は、二男、三男には、いっさい、書き順を教えなかった。だか
ら三男は、中学生のときも、たとえば、「口」という字も、クルクルと四角を書いていた。私はい つも、「書きたいように書けばいい」と教えてきた。
ただ他人の子どもについては、そうばかりは言っておれないので、一応、正確に書くように指
導している。あああ……。こうした矛盾は、どうやって克服すればいいのか!
●二男のWebsite(ホームページ)
二男が、自分のホームページを、全面的につくりなおした。二男は、こうしたホームページを、
C言語をつかって、自ら作る。(私は、ホームページ用に開発されたソフトを使って、つくる。)
しかも二男は、自分でプロバイダー(サーバー)を、運営している。仲間のために、無料で、運
絵しているという。
興味のある人は、二男のサイトを訪問してみてほしい。
で、そのサイトに書いてある英文を読んで、いくつか、「?」と思ったたことがある。
まずトップページに、「Picture this」とある。
「写真はここで」という意味らしい。私の習った英語では、「Pictute Here」というのが、正し
いということになる。
また「Say hello to・・・」というのも、おかしい。これでは、「私のホームページにようこそ」と
いう意味よりは、だれか、ほかの人によろしくという意味になってしまう。
さらに、「最近掲載した写真」という意味で、「Last changed」とある。正しくは、「Recently
changed」ではないのか?
で、さっそく、メールを送る。「私の知っている文法では、これらの英文は、おかしいと思うが、
これでいいのか?」と。すると、すぐ、デニーズから返事が届く。一応、州立大学で、アメリカ文 学の学位を取っている。首席で、卒業している。
いわく、
All of the English grammar issues you mentioned are technically incorrect as far as
standard rules are concerned. However, they are normal phrases in modern American slang. "Picture this" is what you say to someone when you want them to visualize a concept--we decided to use the play on words for our photo album. "Say hello to" is a slang way of introducing people. They say this on television game shows a lot when introducing guest contestants. "Last changed" is the way most people here say that something is most recently changed. We apologize for all of the confusion.
現代英語文法でみるかぎり、あなたが指摘したことは、正しくありません。「Picture this」と
いうのは、「ここを見てください」という意味で、広く使われています。「Say hello」というのは、 人々を紹介するために使う、スラングです。テレビ番組などでも、広く使われています。また「L ast changed」も、「最近かえた写真」という意味で、広く使われています(要約)。
英語の達人にたてついた、私が愚かだった。私は、英文も、二男が考えたものと思ってい
た。二男の英語は、あまり信用していない。
しかし、言葉はまさに生き物。英語も、どんどんと変化しているようだ。と、同時に、懸命に二
男をかばうデニーズが、いじらしい。「いい夫婦でよかった」と、別の心で、そう思った。
どうか、二男のサイトを訪問してやってください。誠司(孫)も、先日、満2歳になりました。
●雑談
子どものころ、「♪かきに、赤い花、咲く……」という歌を歌った。その「かき」というのは、「柿」
のことだと思った。しかし柿の花は白い。そこである日、「あの歌の歌詞はまちがっている」と思 ったことがある。が、「かき」というのは、「垣根」の「垣」のことだった。
同じように、「♪おわれて見たのは、いつの日か……」という歌も歌った。私は子どもながら
に、「どうして追われたのだろう」と思った。ちょうど毎日のように、どこかの畑に、大根泥棒に 入って遊んでいたころだった。私たちもよく農家の人に、追われた。それでその歌に、自分の 体験が重なった。
本当は、「負われて」という意味だった。「おんぶされて見た」という意味。それを知ったのは、
ずっとあとになってからのことだった。
さらにこんなことも。「♪……こえ、かけた。こえ、かけた」という歌も歌った。そのときも、「お
日様が、どうして、肥(こ)えをかけたのか?」と、不思議に思った。当時は、し尿有機肥料のこ とを、「肥え」と言った。
本当は、「声」という意味だった。
……というような話を、今日、ドライブをしているとき、車の中でした。それを聞いてワイフは、
「あんたは、単純な人だったのね」と。「お前は、そういうことはなかったのか?」と聞くと、「私 は、なかったわ」と。
ワイフは、かなり想像力が弱い子どもだったらしい。
そう、こんなことも、よく覚えている。小学2年生のときのこと。音楽の時間に、私たちは、ハー
モニカを練習した。そしてやっとのことで、「秋の虫」をひけるようになった。が、二番のひきかた がわからない。そこで先生のところへ行って、「二番は、どうやってひくのですか?」と聞いた。
すると先生は、笑いながら、「二番も、一番と同じだよ」と教えてくれた。
そのとき受けた感動は、今も忘れない。どういうわけか、私は感動したが、今から思うと、どう
してああまで感動したのか、よくわからない……。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(302)
●UFO(未確認飛行物体)
☆UFOだ!
最初、声をあげたとき、自分でも半信半疑だった。しかし私は、こう叫んだ。「UFOだ!」と。
それは上角、40〜35度のところにあった。長い、直線的な、青白い尾を引いていた。その
言葉に驚いて、ワイフが、車を路肩にとめた。私は、車の外に飛び出した。
「UFOだ。UFOだ!」と。
そう言いながらも、私は、まだ自分の目を疑っていた。色は、あとで何度も確認したが、コバ
ルトブルー、緑がかった、青白。美しい色だった。あやしげな色だった。信号の緑によく似てい たが、それ以上に、美しかった。
気がつくと、ワイフが横に立っていた。「飛行機雲じゃないの?」と。
何でも一度は否定してみせるのが、ワイフのくせ。「こんな時刻に、飛行機雲が見えるはずが
ないだろ」と。時刻は、時計を見たわけではなかったが、夜の9時を過ぎているはず。飛行機雲 とちがって、そのもの自体が、光っていた。
不思議な興奮を覚えた。「見ておくんだ」「しっかりと見ておくんだ」と、私は、何度も自分に言
ってきかせた。ワイフにも、そう言った。「よく見ておこう」と。
ちょうど台風16号が、日本に近づきつつあるときだった。まだらな雲が、幾重にも重なって、
空をおおっていた。が、まったくの曇天でもなかった。一つだけだが、明るい星が、雲の切れ目 に見えていた。その光の線は、その星のななめ左下から、下の方にのびていた。
私「隕石だろうか?」
ワイフ「どうして青白いの?」
私「高熱を発しているからだろ……」
ワ「大気圏内? それとも大気圏の外?」
私「きれいな直線だから、大気圏の外だろ」と。
私は、即座に、いろいろなことを考えた。そして横にいる、ワイフにこう言った。
「もし大気圏の中なら、光り方がちがうと思う。それに飛行機雲のように、風の影響を受けるは
ず。その影響を受けていない。きれいな直線だ」と。
ワイフ「隕石でも大気圏の中に入れば、燃えるよね」
私「そうだよ。燃え方がちがう」と。
静かな時間が流れた。5分……、10分……と。私とワイフは、道路のすみに立って、その不
思議な光に見とれた。が、ときどき、その光は、厚い雲に隠れた。
私「まだ見える……」
ワイフ「まだ、見えるわ……」
私「まだ見える……」
ワ「まだ見えるわ……」と。
☆二人の高校生
ちょうどそのとき、二人乗りの自転車が横を通り過ぎようとしていた。見ると、男子高校生たち
だった。私は、声をかけた。
私「君たち、あそこに光がみえるだろ」
高校生たち「うん、見える、見える」
私「よく見ておくんだよ。ぼくは人生を50年以上生きてきたけど、あんな不思議な光を見るの
は、はじめてだ」
高「不思議だ」「何だろう」「不思議だ」「何だろう」と。
光はまだそこにあった。一度は雲の向こうに隠れたが、その下から、また光をのぞかせた。
色は変わらなかった。それにきれいな、まるで定規で描いたような、きれいな直線をしていた。
そのとき、ほんの瞬間だが、下方の先端に、やや丸みをおびた光のかたまりが見えた。それ
がその光の先頭部分だったか、どうかはわからない。しかしそういうふうに見えた。目ざとくワイ フも、それを見つけて、「あれが頭じゃない?」と言った。私は、だまって、うなずいた。
私は自分の心の中をさぐった。不思議なものを見たとき、人間の心はどう反応するのか。自
分の理性や知性で処理できないものを見たとき、人間の心はどう反応するのか。私は、そんな ことまで考えていた。
「よく見ておくんだ」と、私は何度も自分に言って聞かせた。が、それは決して心地よいもので
はなかった。心のどこかで不安を感じた。「もし隕石だったら、たいへんなことになる」「地上に 落下したら、大爆発を起こすかもしれない」と。
私「隕石だったら、たいへんなことになる」
ワイフ「そんな情報は、どこからも聞いてないわ」
私「そうだよな。もし隕石なら、だれかがそれを前もって言うはずだ」
ワ「宇宙船じゃないの?」
私「ありえる。たとえばスペースシャトルが、爆発しながら飛行しているとかね」と。
念のために繰りかえすなら、その光は、絶対に飛行機雲のようなものではなかった。ワイフに
時刻を聞くと、すでにそのとき、夜の9時30分を過ぎていた。私たちは、その20分も前から、 その光を目で追っていた。それにこの浜松の上空は、民間飛行機の航路の中継点になってい る。ひっきりなしに飛行機が飛び交っている。
その飛行機雲と、見まちがえるはずがない。私はワイフに、またこう言った。「よく見ておこう。
二度と見られないかもしれないよ」と。
私とワイフは、ぼんやりとその光に見とれていた。
ワイフ「きれいな色ね」
私「ホント。きれいだね。コバルト色だ」
ワ「昔、UFOを見たけど、あのときは、何がなんだかわからないまま終わってしまったわ」
私「そうだ。だから今度は、しっかりと見ておこう」と。
☆バンも止まった
すると、今度は、一台の大型のバンが横に止まった。数人の若い男女が車からおりてきた。
そして横から、「あれは、何ですかねえ」と、親しげな言い方で、話しかけてきた。
私「まさに未確認飛行物体ですね。あそこを何かが飛んでいるのは確かです」
男「さっきより、低くなりましたね」
私「あなたがたも、ずっと見ていたのですか」
男「いや、さっき、ここを通り過ぎたんです。そのとき、あなたたちが空を見ていたので、私たち
もそちらを見たのです」
私「それで、もどってきたのですか?」
男「ええ、それでここへ、もどってきました」と。
そのバンの男女は、一度私たちの車の横を通りすぎた。そして私たちが見ている方向に、青
い光を見た。それでまたどこへもどってきたという。
私「ぼくも、あんな光を見るのははじめてです」
男「何でしょうね?」
私「わかりません。でも、さっき、写真をとっておきました」
男「うつりましかね?」
私「多分、だめでしょう。デシタルカメラですから」と。
言い忘れたが、私はたまたまもっていたデジタルカメラで、3枚、写真をとった。フラッシュが
自動的についたが、とてもそんなフラッシュでとれるような光ではなかった。
光は、最初に見たときと比べると、かなり低くなっていた。薄い雲があったが、その雲を通り
抜けるほど、強烈な、しかしあやしげで静かな光を放っていた。
私「かなり明るいですね」
男「明るいなあ」
私「雲がなかったら、まぶしいほどかもしれない」
男「そうだなあ」と。
光は、直線的だった。先にも書いたが、定規で空に線を引いたような感じだった。ところどこ
ろ、線が途切れているように見えるのは、雲のせいだろう。雲が薄くなったようなところから、断 続的に直線的な光が、見え隠れしていた。
どこか不安だった。得体の知れないものを見たときに感ずる、不安だった。ふと「K国のミサ
イルかもしれない」と思った。「核兵器を積んだロケットだったら、どうしよう」とも。
何かよいものというよりは、何か不吉なもの。そんな感じがした。だいたいにおいて、よいもの
のはずがない。それに30年前に、ワイフと二人で見たUFOとは、まったく異質のものだった。 私たちが、今見ているものは、ただの光。物体的な固体性を まるで感じさせない、ただの光。 そんな感じだった。目に見える動きも、なかった。
私は何度も、「飛行機雲ではない」と、自分に言って聞かせていた。同時に、集中力が消えそ
うになる自分を必死でこらえながら、その光を見つづけた。「もう、じゅうぶん見た」「見あきた」 と言いそうになる自分が、こわかった。
☆やがて、見えなくなった
が、光の線は、どんどん低くなり、同時に、厚い雲の向こうで、弱くなった。
私「まだ、見える」
ワイフ「どこ?」
私「ほら、あの電線と電線の間だ」と。
私たちは、少し車を移動した。一度は、わき道に入り、その光を正面にとらえながら、前に進
んだ。光は、雲の様子で、数分間隔で、強くなったり、弱くなったりした。その光自体は、安定し ていた。
私「だれも、道路で見てないなんて、おかしいね」
ワイフ「ホント。どうして外に出て見ないのかしら」
私「気がつかないのかもね」
ワ「あんなはっきりした光よ。気がつかないなんて、おかしいわよ」と。
車は引佐町(いなさちょう)の町へと入りつつあった。しかし通りは、ウソのように静かだった。
だれも、外に出て、光を見ている人はいなかった。私には、むしろそちらのほうが、ありえない ことのように思われた。
私「みんなに、知らせようか」
ワ「だれも、気にしないのかしら」
私「おかしな感じがする」
ワ「そうね」と。
それからもう一度だけ、雲の間に、光がかすかに見えた。それを見ながら、「あんな雲をつっ
きって光っている。きっと、ものすごい光だよ」と。
やがて車は、山々に囲まれた谷間の県道へと入った。「ひょっとしたら……?」という淡い期
待をもって、そちらの方角を見たが、目の前には、高い山があって、視界をさえぎった。
ワイフ「晴れていたら、もっとしっかり見えたのにね」
私「この雲じゃあ、ねエ〜」と。
山荘へ着くと、私はすぐ、パソコンに電源を入れた。入れてすぐ、この原稿を書き始めた。記録
として、つまり記憶が新鮮なうちに書き留めておくためである。
(目撃時刻)2004年8月28日、午後9時10分ごろから、10時ごろまで。
(方角)浜松市の北、都田町から、まっすぐ西の方角。
(形状)均一的な直線。両先端が、細く、鋭かった。飛行機雲のような、ボソボソしたような感じ
ではなく、ノートに一気に描いた直線のような感じがした。遠ざかっていったので、全体としては 小さくなっていったようだが、それ自体の大きさは、変わらなかったと思う。
(大きさ)距離にもよるが、空の上としても、つまり飛行機が飛ぶ高さとしても、長さは、数キロ
から10キロ前後。が、もし大気圏の外とするなら、とてつもなく長いということになる。数百キロ とか、もっと……!
(色)美しく澄んだコバルトブルー。信号の緑によく似ていた。はっきりとそれ自体が光っている
ような、強い光を放っていた。ただ宇宙の外だったら、白い光は、大気圏の空気を通り抜ける から、コバルト色(ちょうど空の色)に見えることになる。それ自体が、コバルト色の色を発光し ていたとは、断言できない。
(動き)かなり高い位置から、30分後には、かなり低い位置に移動していた。直線全体が、そ
のまま移動していったというような感じ。ワイフは、「細長い蛍光灯のような感じがした」と、あと で言った。線状の細長いUFOと、だれかが言っても否定できないような形をしていた。近くの明 るい星からは、遠ざかっていったので、それ自体の動きはあったと考える。
(否定的見解)夜の9時〜10時に、西の空に見えたということから、かなり高い上空にあった、
何かの帯状のものが、太陽光線に反射していたとも考えられる。が、国際線の飛行機が飛 ぶ、高度1万メートルとか、そんな高さではない。その時刻に、太陽光線を反射する高さとなる と、数万メートルは必要である。現にいつもなら、その時刻になると、いつもなら、飛行機がライ トを点滅させながら、飛んでいるのがわかる。
以上、横にすわっているワイフに誓って、ここに書いたことがすべて真実であることを、改め
て確認する。
長く生きていると、ときどき不思議な体験をする。今夜見た、UFOは、私の人生の中でも特
筆すべきものになった。
【補足】
映画『未知との遭遇』の中で、その地域の人たちが一か所に集まって、UFOが飛んでくるの
を待っているシーンがある。みな、どこか放心状態だった。
私たちも、それに似た状況に置かれたわけだが、しかしはっきりとUFOと自覚していたわけ
ではない。「UFOかもしれない」という、あやふやな状態で、それを見ていた。だから放心状態 にはならなかった。
今でもよく覚えているのは、自分のもてる知力と情報を、総動員していたこと。それは将棋か
何かをしていて、あらゆる方向から、つぎの一手を考えているときの様子に似ている。つぎつぎ と新しい可能性を考え、「これはどうだ」「これはどうだ」と、それを確認していくという作業であ る。
しかし数学の問題を解くのとちがって、答があるのかどうかさえわからない。あのとき大きな
不安感を覚えたのは、そのためかもれない。どこからどうつついても、「わからない」というカベ にぶつかってしまう。そういうはがゆさも、覚えた。
その距離についても、ワイフは、あとになって、「飛行機が飛ぶくらいの高さの、空の上」と言
うが、私は、大気圏の外だったような気がする。あるいはもっと遠くだったかもしれない。その 距離すら、わからない。
二人の結論としては、線のように細長いUFOではなかったかということ。何かの光跡だったと
するなら、宇宙をゆっくりと飛ぶ隕石ということになる。となると、あのコバルトブルーの色は、 何だったのかということになる。
とにかく不思議な光だった。考えれば考えるほど、堂々巡りになってしまう。そんな光だった。
(040829)
【近い将来のこと】
近い将来、宇宙に住む知的生命体が、この地球へ姿を現すことになる。それはもう時間の問
題と考えてよい。「そんなものは、いない」と言う人もいるが、私とワイフは、巨大なUFOを、実 際に、目撃している。
このことについては、以前、何度も書いた。地元の中日新聞にも発表させてもらったこともあ
る。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機だとか言う人がいたら、それは絶対にち がう。
いるかいないかということになれば、この宇宙には、人間の知的能力をはるかに超えた、知
的生命体が、いる。あの夜見た、UFOが、その証拠である。
では、いつ、どのような形で、それは現れるのか?
私は、地球自体が破滅するのがはっきりわかる、その直前だと思う。破滅するとわかった段
階では、手遅れだし、しかしまだ破滅しないかもしれないという段階では、早すぎる。そのギリ ギリのところで、現れる。
言いかえると、まだ知的生命体が姿を現さないでいるということは、人間には、いちるの望み
があるということになる。しかし姿を現したとなると、すでに人間というより、地球そのものが、破 滅の段階に入ったことを意味する。
このことは、反対の立場で考えてみれば、わかる。
あなたが、もし、宇宙に住む知的生命体だったら、どのようなときに、どのような行動をとるだ
ろうか。それを考えてみれば、わかる。破滅するかどうかわからない段階で、姿を現せば、地 球は、大混乱する。
しかし破滅するとわかれば、隠れている必要は、もうない。
ただ人間が、そのあとも生き残る価値があるかどうかということになると、同じ人間として、私
には自信がない。人間は、あまりにも貪欲で、攻撃的である。こんな人間が、宇宙へ飛び出し たら、それこそたいへん。宇宙は、めちゃめちゃになってしまう。
小さな隕石を取りあって、「これは竹星だ。おれたちの星だ」「いや、これはチェジュ星だ。お
れたちの星だ」と、言いあって、戦争を始めるかもしれない。もしあなたが、宇宙に住む、知的 生命体なら、どうするだろうか。そういう人間を、自分たちの世界に、暖かく迎え入れるだろう か。
私が宇宙に住む知的生命体なら、人間など、絶対に、自分たちの世界には迎え入れない。
それはたとえて言うなら、日光の山奥に住むサルたちを、都会の一角に住まわせるようなもの である。
が、それでも、宇宙に住みたいというのなら、私たち自身が、それにふさわしい知的生命体に
なるしかない。宇宙に住む知的生命体から見ても、「これなら、だいじょうぶ」と思われるような 生命体にならなければならない。
私の印象では、宇宙に住む知的生命体は、そういう人間の動きを静かに監察している最中
ではないかと思っている。「やはり人間は、だめだな」という意見が大勢をしめる中、「まだ希望 があるから、もう少し待ってやろう」という意見もある。そういう状態ではないかと思っている。
では、どうすれば、私たち人間も、その宇宙の知的生命体の仲間に入ることができるか。
方法は、簡単。
考える。ただひたすら考える。人間は考えるから人間である。だから考える。その先に何があ
るか、だれにもわからない。しかし考える。人間がサルとちがうところは、人間のほうが、多少 なりとも、より考える力があるから。同じように、宇宙の知的生命体と対抗するためには、私た ち人間は、ただひたすら考えるしかない。
時間は、それほど、残されていないのではないか。100年とか、200年とか、そんなに長くあ
るわけではない。私たちは急がねばならない。急いで、考える人間に変身しなければならな い。
……とまあ、とんでもない文章を書いてしまった。「思いこみ」も、ここまで強いと、妄想と言っ
てもよい。
しかし今夜、見た、あの光のことを思い浮かべると、どうしても、ここまで考えてしまう。それに
しても不思議な光だった。
そうそう、デジタルカメラで写真をとるとき、カバーをどこかへ落としてしまった。それだけ気が
動転していたからではないか。余計なことだが……。
【さらに補記】
そのUFOを目撃してから、もう数日になる。今日は、9月1日。
で、冷静になってみると、こういうふうにも考えられる。
あの光跡は、大気圏外を、何かの煙を出して飛んでいた、飛行物体ではないかということ。そ
れが太陽光線をあびて、光っていた。そしてそれが空の青さを通り抜けたため、地上からは、 コバルトブルーに見えたのではないかということ。
飛行物体というのは、たとえばロケットのようなもの。あるいはたまたまアメリカのNASAで
は、マッハ7で飛ぶ飛行機の実験をしていたという。中国のロケットだったかもしれない。
いろいろほかにも、考えられる。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司
最前線の子育て論byはやし浩司(303)
●心の訓練
「相手の心の中に入って、相手の立場でものを考える」というのは、とても大切なことである。
このことについては、もう何度も書いた。
そこで私は、こうした訓練を、教育の場でできないものかと考えている。言うまでもなく、こうし
た訓練は、できるだけ早い時期にするとよい。子どもが、まだ、小学2年生とか、3年生のうち に、である。もっと早い時期でもよい。
そのころに、こうした「芽」を作っておく。あるいは方向性を作っておく。
方法は、たがいに対峙して座らせ、たがいの心の中を言いあうといった程度のことでよい。一
度、相手の立場に自分を置いて、ものを考えるという訓練をする。
もちろんこうした訓練は、家庭の中でもできる。が、その前に、あなた自身が、それを自分で
してみるとよい。ものの見方、考え方が、一変するはずである。つまり、あなた自身が、他人の 心の中に自分を置くことの(すばらしさ)を、まず実感する。
たとえばあなたが、夫(妻)と並んで食事をしていたとする。そのとき、あなたは、頭の中で、
夫が、何をどう見ているかを想像するだけでよい。何をどう考え、どう思っているかを想像する だけでよい。
最初は、小さなとまどいがあるかもしれないが、それを過ぎると、いつでも、どこでも、それが
できるようになる。そして相手の悲しみや苦しみはもちろんのこと、ときには、怒りや不満まで、 わかるようになる。
すると、それまでは、「なぜ?」「どうして?」と思っていた、相手の心が、そのまま理解できる
ようになる。たとえば今、あなたがあなたの夫(妻)のことで、どうしても理解できない部分があ ったとする。あるいは、何度言っても、理解してもらえない部分があったとする。
そういうとき、まず、相手の心の中に、自分を置いてみる。そしてそこから反対に、あなた自
身の姿をとらえてみる。すると、それまでわからなかったことが、わかるようになる。
この技法は、子どもを指導するときも、たいへん効果的である。
たとえばある子どもが、忘れ物をしたとする。もう何度も注意した。が、それでもまた忘れ物を
したとする。
そういうとき、指導する側にいる私としては、頭から、それを叱ったりしやすい。「忘れ物をして
はだめだ!」と。が、そのとき、子どもの心の中に、自分を置いてみる。すると、ものの考え方 が、一変する。子どもへの接し方も、一変する。
子ども自身は、叱られることを、恐れている。忘れ物をしたのは、意図的な行為というより
は、うっかりしたためである。その上、このところ、何かと忙しい。暑い。風邪気味だ。……とい うようなことが、わかる。
そういう視点に一度、自分を置いてみると、もう子どもを叱れなくなる。叱れなくなるかわり
に、こんな言い方が、口から出てくる。
「いろいろ、忙しかったんだね」「このところ暑いからね」「別に叱らないから、先生を、こわが
らなくてもいいよ」「先生だって、よく忘れ物をするんだよ」と。
ためしに、この方法を、あなたの夫(妻)にためしてみてほしい。いつも同じようなパターンで
口論が始まり、夫婦げんかになるというのであれば、なおさらである。
【補記】
昔の人は、こうして相手の心の中に自分を置き、その相手の立場でものを考えることを、「思
いやり」と呼んだ。
すばらしい言葉である。英語になおすと、「同情(sympathy)」から、さらに「慈悲(mercy)」。
さらに「愛(love)」という言葉になる。
相手を広く、深く、思いやることができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人
を、完成度の低い人という。
皮肉なことに、人格の完成度の高い人からは低い人が、よくわかる。しかし低い人からは、
高い人がわからない。
(だからといって、私がその人格の高い人ということではない。誤解のないように。それに、人
格の完成度には、際限がない。あくまでも相対的なものである。)
このばあいも、思いやりのある人からは、思いやりのない人が、よくわかる。しかし思いやりの
ない人からは、思いやりのある人がわからない。ただのお人好しか、バカに見える。
子どもの世界でも、似たようなことはよくある。
ずいぶんと前だが、私にこんなことを言った、男子高校生がいた。
「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ。受験勉強ができなくなる」と。
こういうものの考え方をする高校生ほど、この世界では、成功者(?)になる可能性が高い。
しかし、同時に、こういう高校生ほど、やがて孤独に苦しむようになる。
孤独がいかに恐ろしいものかは、若い人にはまだわからないかもしれない。しかし孤独は、
まさに地獄。無間の地獄。この孤独に耐えられる人は、いない。絶対に、いない。あのイエス・ キリストも、孤独(飢え)に苦しんだ。マザーテレサが、そう言っている。
今までに、何度もとりあげた文章だが、もう一度、ここでマザーテレサの言葉を、確認してお
きたい。
+++++++++++++
When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger.
キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としての
パンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト 自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求 められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、 それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっ ともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。
「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ」と言った高校生だが、では、それだ
け勉強していたかというと、そうでもない。ヒマな時間がたっぷりとある子どもほど、勉強をしな い。これは、子どもの世界では、常識。
それはさておき、ここでいう人格の完成度と、その人の学歴とは、まったく関係がない。ビジ
ネスの世界で成功した人が、それだけ人格の完成度が高いかというと、それもない。むしろ、 実際には、はげしい受験勉強や、ビジネスの世界を渡り歩いた人ほど、人格の完成度は、低 い(?)。
「他人を蹴落としてでも……」という冷徹な人生観が、その人の思いやりの心を閉ざしてしまう
からである。またそういう冷徹な人生観がないと、こういった狂騒主義の社会では、成功(?)で きない。そう決めてかかることはできないが、そういう部分も多い。子どもの受験競争を例にあ げるまでもない。
戦後の日本の教育がおかした、最大のミスは、ここにある。……というのは、少し大げさに聞
こえるかもしれないが、それほど、まちがっていないと思う。つまり、勉強のできる子どもイコー ル、頭がよい子イコール、人格的にもすぐれた子どもと誤解した。
その誤解の上に、戦後の日本の教育が成りたっている? ……私は、どうしても、そんな感じ
がしてならない。
もちろん親や子ども、そして教師に責任があるわけではない。みんな一生懸命してきただけ。
しかし、どこかで歯車が狂った。その結果が、「今」ということになる。
本来、教育というのは、「思いやり」を教えることに主眼を置かねばならない。それがいつの
間には、知識教育に置きかわり、さらに、受験教育に置きかわってしまった。戦後の日本の経 済的発展は、そういう教育の上に乗っているが、しかしその弊害も無視できない。
日本に住んでいる以上、日本の競争社会は避けて通れない。が、どこかで、ここでいう人格
の完成を、考えることは、大切なことだと思う
【物質的な繁栄】
物質的な繁栄が、そのまま心の豊かさにつながるとは、かぎらない。いわんや人格の完成に
つながるとは、かぎらない。
昨日も、ワイフとドライブをしていたら、見るからに高級な外車(イギリスのJ車)が、私たちの
車の前を、横切っていった。めちゃめちゃな運転だった。見ると、まだ20代の前半と思われ る、若い男だった。
「どうして、あんな若い男が、あんないい車に乗れるのかねえ?」と私が声をかけると、ワイフ
も、「へえ……」と言ったきり、黙ってしまった。「きっと、親のスネをかじっているんだよ」と私が 言うと、「そうよねえ。いくら何でも、あんな車、買えるわけがないもんねえ」と。
見るからに軽薄そうな若者と、見るからにチグハグな高級車。この組みあわせが、どこか日
本の社会全体を象徴しているかのようにも、思える。たしかに日本は、物質的には豊かになっ たが、中身がついてきていない。そんな感じがする。
もっとも、中身を豊かにするのは、これからのこと。今が、ダメだからといって、それが結論と
いうわけではない。20代そこそこの若者が、高級車に乗ってはいけないと言っているのでもな い。ただ、物質的な繁栄のまま、終わらせてはいけないということ。
そういう若者が、そういう高級車に乗り、どこかの景色のよいところに車を止め、音楽を聞い
たり、本を読んだりするようになれば、すばらしい。そういう若者が、人生を語り、善と悪につい て論ずるようになれば、すばらしい。もしそうなれば、つまりそういう若者が、そういうことをする ようになれば、この日本も、さらにすばらしい国になる。
その部分に、期待したい。
●台風16号
ただ今(8・30・朝10時)、台風16号が、九州を直撃中。ワイフの話だと、家の土台だけ残し
て吹き飛ばされた家もあるという。(私は、朝のニュースを見ていない。)
大型の台風だ。
私は、この台風が日本に近づきつつあると知ったとき、その台風が、K国に向うことを願っ
た。「K国へ行けばいい」と。
このところK国は、ますますわけのわからないことばかり、言い出している。自分たちは好き勝
手なことを、言い放題言っておきながら、相手の言ったことについては、針小棒大にとらえて、 大騒ぎをする。
被害妄想性と過剰行動性。今のK国を、一言で批評すると、そういうことになる。
が、こんなことを表立って言ったら、たいへんなことになる。(すでに表立って言っているが…
…。)しかし台風などというものは、私たちが願ったところで、そちらへ行くものではない。願わ なくても、こちらへくることもある。
まさにお天気!
が、やはり私の言っていることは、おかしい。仮に台風が、K国へ行くとしても、困るのは、弱
い立場にいる一般民衆。大理石の立派な家に住んでいる人には、台風は、関係ない。
そのK国だが、国連環境計画(UNEP)の報告によれば、農地の劣化、森林の破壊などのよ
り、食糧不足がますます深刻化しているという。干ばつ、洪水は、年中行事。首都のP市を流 れるD江にしても、汚水や工場廃水などはたれ流しで、かなり汚染されているという。さらに都 市部では、石炭を燃料にしているため、環境汚染も深刻化しているという(8・27)。
まさにいいことなしの、K国!
で、いよいよK国は、日本に向って、言い出した。「過去を清算しろ!」(8・29)と。
一方で、今度の9月9日には、K国は、核保有宣言をするかもしれないという。(核実験をして
みせるという情報も流れている。)つまりは、核でおどして、日本から、金をとる。そういう段取り のようである。
そういう流れの中にあるから、私は、冒頭に書いたように願った。へたな経済制裁より、台風
一つがもたらす経済的損失のほうが、はるかに大きい。日本のばあい、台風に対して、まだ抵 抗力があるが、K国は、そうではない。「降れば洪水、降らなければ干ばつ」という国である。
が、やはり、相手の不幸を願うのは、フェアではない。事実、今、九州地方は、大被害を受け
つつある。そしてその台風16号を追いかけるように発生した、台風18号は、日本の本州を直 撃するコースに入った。
決して、人ごとではない! やはり他人が不幸になることを願ってはいけない。そのシッペが
えしは、結局は、自分のところにもどってくる。
しかしあえて一言。「台風18号よ、どうかどうか、日本を避けて、ほかへ行ってほしい」と。ど
こへ行けとは言わないが、どこか、ほかへ、行ってほしい。
●論理
国際オリンピック委員会(IOC)は8月29日、アテネ五輪の陸上男子ハンマー投げで優勝し
た、AA選手(ハンガリー)をドーピング(禁止薬物使用)違反により、失格とし、金メダルを剥奪 (はくだつ)すると発表した。
何とも不愉快な事件である。室伏K(29)という日本の選手が、銀メダルだったということだけ
ではない。何とも往生ぎわが悪いというか、すっきりしないというか……。
しかし最初から、AA選手の言動は、おかしかった。もし潔白なら、こうするだろうということに
ついて、AA選手は、ことごとく、その逆の反応をしてみせた。ああでもない、こうでもないと理由 にもならない理由をつけて、検査をのがれた。そればかりか、AA選手は、「IOCのドーピング 検査は、信用できない」というようなことまで、言いだした(報道)。
もしドーピングをしていないのなら、何度でも、堂々と、尿検査に応ずればよい。仮にもし、そ
れで陽性が出たとしても、あちこちへ尿サンプルを送って、再検査してもらえばよい。たかが 「尿」である。
AA選手は、「疑われたこと自体、不愉快だ」というようなことを言っていた(報道)。しかしいく
ら不愉快でも、失格となって、金メダルを剥奪されることとくらべたら、何でもない。むしろ身の 潔白を証明してみせることこそ、AA選手のためになる。
結局、AA選手の出した尿サンプル(検体)のうち、二本について、それぞれ別人のものらしい
ということまでわかってきた※(30日)。AA選手は、ドーピング検査で、どういうわけか、少なく とも、1回は、別人のものを提出したらしい。
(だからといって、うち一本が、AA選手のものとはかぎらない。二本とも、別人のものである
可能性が高い。)
もしそうなら、AA選手は、なぜそんな小細工をしたかということを説明しなければならない。
仮に陰性という結果が出たとしても、だ。
私の推察では、こうだ。
AA選手は、試合の前後に4回、ドーピング検査を受けたという(報道)。が、AA選手は、それ
ら検査すべてで、他人の尿を使った。だから今回、自分の尿をサンプルとして出すことができ なかった。もし出せば、その4回とも、自分の尿でないことが、バレてしまう。
これはドーピングしたかどうかという問題より、考えようによっては、深刻な問題である。それ
でAA選手は、聴聞会にすら出席できなかった。……しなかった。
AA選手は、金メダルを剥奪(はくだつ)された上、オリンピック競技会から追放された。当然
である。
※AA選手は規律委員会の聴聞会に出席せず、ハンガリー陸連関係者が出席。IOCは理事会
終了後、アヌシュの検体は、競技前と競技後のものは、別人のものだったと発表した(ヤフー・ ニューズ)。
●お金がたいへん!
日本では、公的な補助金は、法人に対してはなされるが、個人に対しては、なされない。アメ
リカでも、EUでも、基本的には、助成金(補助金)は、まず、子どもをもつ親に支払われる。
しかしこの日本では、幼稚園や保育園など、法人に対して、なされる。個人への助成金という
のは、微々たるもの。大阪府の例では、保育園児をもつ親の助成金は、3歳児をもつ家庭の みで、しかも年額たったの2万3000円。(年額だぞ!)
こうしたおかしな税金の使われ方に対して、だれも声をあげないのは、なぜか? だれしもそ
の時期は、おかしいと思う。しかしその時期を通りすぎると、忘れてしまう。「私は関係ない」と、 つっぱねてしまう。
かくして、約40%の若い母親たちが、「子育てにお金がかかる」と不安に思っている(大阪府
私立幼稚園連盟調査・04年)。そして少子化が進む理由として、約90%の人が、「経済的な 負担」をあげている。当然だ。
●少子化? 当然だ!
少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7
000円(99年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまな い。
アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。… となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は子ど もをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ!
そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。
一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度 があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。
しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの10年間、 毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないとい うことは、それだけ親の負担が大きいということ。
日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだ
けのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200円ずつの奨学金を渡せる!
が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世 界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。
いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも 個人的利益の追求の場と位置づけている。
世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが 積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。
日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、五十年はおく
れている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育て たくない!」と。
「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。
私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
【もっと、賢くなろう!】
H元首相が、日本I会から、1億円の闇献金を受けていた。1億円だぞ! が、本人は、「覚え
ていない」と、しらばくれている!
……といっても、政治家が悪いのではない。そういう政治家を選ぶ、私たちが悪い。さらに言
えば、私たち日本人は、民主主義がどういうものかさえ、本当のところ、よくわかっていないの では……?
こうした政治にストップをかけるのは、結局は、私たち一人ひとりの、知性と理性ということに
なる。少数の人がリーダーになるのではなく、みんなでその底辺をレベルアップしていく。
そのためにも、もっともっと、みんなで考えよう。考えて、賢くなろう。日本の政治を変えていく
ためには、その方法しかない。日本をよくするためには、その方法しかない。
武器は、常識。その常識をみんなでみがこう! おかしいものはおかしいと、みんなで声をあ
げよう!
おかしな政治家による、おかしな政治家のための、おかしな政治家の政府。その結果が、今
の日本の少子化ではないのか。第二東名高速道路に11兆円(11兆円だぞ。国家税収の4分 の1以上だぞ!)もかけるくらいなら、子どもをもつ親を、もっと助成しろ!
11兆円もあれば、全国、500万人の親たちに、200万円以上もの、助成金が配れる。立派
な公共施設は、もういい。そんなものを作れば作るほど、そのツケは、今の子どもたちに回る だけ。
この私ですら、3人の息子の子育てがほとんど終わった今、こう言う。
「子どもは、1人か2人にしなさい。3人はおよしなさい。生活費や学費がたいへんですよ」と。
今に見る、少子化は、あくまでも、その結果でしかない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(304)
【娘の家出】
******************************
神奈川県に在住の方から、娘の家出についての、相談があった。
子どもは、現在、13歳。
家族構成は、母親(相談者)、父親(亭主関白風の権威主義な
ところがある。)ほかに妹2人、弟1人。
(メールの掲載を許可していただけませんでした。)
******************************
【林先生へ、GSより……】
夏休みが終わったとたん、娘が家出をしました。
夏休みの間、門限を破ったりして、父親にはげしく
叱られたりしたことが、理由ではないかと思います。
家出をして、数週間になります。
今は、どこにいるかわかりませんが、携帯電話で
連絡をとりあっているような状態です。
毎日が、たいへん苦しいです。
どうしたらいいでしょうか。
(神奈川県 Y市、GSより)
*******************
【GSさんへ、はやしより……】
子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではありません。親を罵倒し、けんかして、別れて
いく例も、少なくありません。しかしだれしも、そんな結末を望むものではありません。みんなそ れぞれの夢や希望をもって、子育てを始めます。が、どこかで狂う。狂って、GSさんのようにな る……。
遠因を言えば、2歳ちがいの妹が、生まれたときから始まったのかもしれません。どこか権威
主義で、亭主関白な父親にあったのかもしれません。あるいは、どこか過干渉ぎみで、子ども の心を見失った、GSさん、あなた自身にあったのかもしれません。
この際、原因はともかくも、現状として、娘さんは、家出をしてしまった。怠学から不登校、お
決まりの夜間外出、そして家出です。
こういうケースでは、二つの方向から、ものを考えます。
ひとつは、今の状態を最悪だと思わないこと。(GSさんは、最悪だと思っているかもしれませ
んが、さらに底の下には、底があるということ。)つぎに、こういう状態を、もとに戻そうと思わな いこと。「今の状態を、これ以上悪くしないことだけ」を考えて、対処するということです。
13歳ということで、大きな不安や心配を感じておられることが、よくわかります。しかも女の子
です。私の立場では、「どうしてこうまでこじらせてしまったのか」ということになりますが、しか し、ケースとしては、よくあることで、決して、珍しくありません。
また症状としては、引きこもり、家庭内暴力、心の病気などとくらべても、非行は、予後もよ
く、一過性の問題として、今の対処の仕方さえまちがえなければ、やがて笑い話になるもので す。さらに決して、家出などの非行を奨励するわけではありませんが、こうしたサブカルチャ(下 位文化)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになることも、よく知られています。
ものごとは、悪いほうへ、悪いほうへとばかり、考えないこと。一つだけ、はっきり言えば、あ
なたはぜんぜん、子どもの立場で、ものを考えていないということ。どこか自己中心的で、押し つけがましい子育てをしている。だから、子どもの心が読めない。つかめない。もっと言えば、 自分の心配や、不安を、子どもにぶつけているだけ。
つまりあなたが心配すればするほど、子どもは、それを「うるさい親の干渉」ととらえるわけで
す。一方、あなたはあなたで、「私の子ども」という、「私の……」という幻想と、「子ども」という幻 想にとりつかれている。そして「まだ何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子にかぎって… …」と、悩んでいる。
何が原因かと言えば、まずもって、あなたは自分の子どもを、信じていない。その理由と原因
はともかくも、今の段階で、それであなたはかまわないかもしれませんが、相手の子どもの立 場で考えてみたことがありますか。
親にも信じてもらえない子どもの苦しみというか、はがゆさというか……。
本来なら、家庭で、その怒りや不満を、直接、あなたにぶつけてみたいのかもしれません。し
かしそれをあなたの父親が、力づくで、おさえこんでしまった(?)。下には、妹や弟もいる… …。
そこで家出、ということになったわけです。
一般的な方法としては、(1)まず、学校の先生に、相談する、です。事件性があれば、警察と
いうことになりますが、先生から校長、校長から、各種相談機関へ、話が進むはずです。
が、この段階で、あなたの子どもは、必ず、一度は、家に帰ってきます。問題は、そのあとで
す。
あなたの子どもが、家に帰ってきたら、(1)暖かい無視と、(2)ほどよい家庭にこころがけてく
ださい。「求めてきたら、与えどき」と心得ます。説教したり、叱ったり、あれこれ指示するのは、 禁物。とにかく、無視、です。
学校へは行かないものと、あきらめてください。進学塾は、もちろんのことです。この問題は、
親があきらめたとたん、その解決の糸口が現れるものです。「あなたの好きにしなさい」と宣言 し、親は親で、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけ」を考えて対処します。
こういうケースでは、もうひとつ、深刻な問題が、現れてきます。妹と弟の問題です。
対処の仕方をまちがえると、妹や弟たちも、同じ経過をたどることになります。理由は、あな
たの子どもにあるからでは、ないからです。あなたの子育てのリズムが、そうなっているからで す。
あなたの子どもが帰ってきたら、あなたは、子どもに、こう言います。「あなたも、つらかった
のね」「お母さんもあなたの気持ちがわからず、悪かった」と。あとは、ただひたすら、許して、 忘れる。これだけを繰りかえしてください。
あなたの子どもが、今の家庭に居場所さえ見つかれば、もう家出をする必要はないはず。そ
の居場所を、つくってあげます。根気のいる作業です。半年とか、1年単位の時間がかかりま す。すでにあなたの子どもの心は、かなりキズつき、病んでいると思ってください。家庭環境を 改めたから、すぐなおる……という問題では、ありません。
会話もなくなるでしょう。いたたまれないような緊張感も、漂うようになるでしょう。はりつめた
雰囲気が、家庭を重くふさぐかもしれません。
が、それでも許して、忘れます。その度量が、いつか、あなたの子どもの心に風穴をあけま
す。そしてここにも書いたように、それがいつか、すぐ、笑い話になります。今のあなたにはわ からないかもしれませんが、必ず、笑い話になります。それを信じて、前に進んでください。
今、あなたの子どもは、あなたが苦しんでいる以上に、もがき、苦しんでいます。あなた以上
に、不安で、将来を憂えています。しかしどうしようもないから、それをあえて、別の形で、表現 しているのです。一見、わがままに見えるかもしれませんが、そうするしか方法がないのです。
が、やがてこの時期は、すぎます。長くて2年。早ければ、明日にでも、です。幸いにも、メー
ルでの交信ができているということですから、その交信手段は、切らないように。説教したり、 命令がましい言い方は、避けるのが鉄則です。
あくまでも子どもの立場に立った、メールを送ります。どんなに迷っても、腹立たしく思っても、
そこは、がまん。ただひたすら、がまん。今こそ、あなたの忍耐力と、子どもへの愛情が試され るときと、覚悟してください。お産のときの苦しみを思いだしてください。
あのときは、肉体をこの世に産み出す苦しみでしたが、今は、心を生み出す苦しみです。あ
なたがそれに耐えたとき、あなたの子どもはもちろん、あなたも、すばらしい人間に変身できま す。つまり、今度は、あなたの子どもが、あなたを育てているのです。わかりますか? この親 子のもつ、生命の深遠さを!
最後に。あなたの子どもは、あなたが思っている以上に、おとなです。いろいろ心配な点があ
るかもしれませんが、少なくとも、今日までは、無事です。ですから必ず、明日も、無事です。 今、あなたができることは、子どもがいつもどってきてもよいように、部屋を掃除して、窓をあけ ていることだけです。
いつか、あなたの子どもは、今の時期を振りかえるときがきます。そのとき親子をつなぐ絆
は、「母は、私を信じてくれた」「守ってくれた」「許してくれた」という思いです。どうか、長いスパ ン(時間的尺度)でも、今の問題を考えてください。
こういう月並みな言い方で失礼かもしれませんが、こういうケースは、珍しくありません。ある
意味で、どこにでもあるケースです。一部の悪い事件ばかりが目立ちますが、それは例外で す。
あなたの子どもは、子どもというよりひとりの人間として、結構、しっかりと生活していますよ。
それがわからなければ、あなた自身の13歳のときを、思い出してみてください。
そうそうたまたま数日前ですが、N市に住んでいる中学校の先生の妻から、こんなメールが
入っていました。
「夫は、今夜も、午前1時に帰ってきました。家出した生徒を、さがすために、N市の繁華街
中を歩き回ったためです」と。そのときは先生の立場だけで、その先生に同情しましたが、今 は、反対の立場に立たされ、複雑な心境です。
とにかく、一度、担任の先生に相談なさることです。
では、あまりよいアドバイスになっていないかもしれませんが、参考意見の一つとして、ご利
用ください。
はやし浩司
(はやし浩司 家出 子どもの家出)
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参考までに、以前書いた原稿を添付します。
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子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)
親が子どもを許して忘れるとき
●苦労のない子育てはない
子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。
よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、それこそ幾多の 山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。
たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツ
ンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさ つすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実っ て頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。
●子どもは下からみる
賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。
私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど 人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水 泳選手だったという。
私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と 叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、 何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。
私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもで
きなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、 海から二男を助け出すところだった。
●「こいつは生きているだけでいい」
以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と 思いなおすことで、乗り越えることができた。
私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点 から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。
●子育ては許して忘れる
子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では 「Forgive and Forget」という。
この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れ
る)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか。 私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思う。が、ある日。その意味が わかった。
私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。 許して忘れてしまえ」と。
つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛 の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろというこ とではない。子どもの言いなりになるということでもない。
許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分 のものとして認めるということをいう。
難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。
※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(305)
●起立! 気をつけ! 礼! 着席!
「起立! 気をつけ! 礼! 着席!」
「起立! お願いします! 着席!」
「起立! ありがとうございました! 着席!」
学校によって多少、あいさつの仕方はちがうが、どこの学校でも、授業の前とあとには、この
ようなあいさつをしている。日本ではよく見られる、ごくあたりまえの光景である。
しかし世界広しといえども、授業の前後に、こうしたあいさつをしている国は、台湾と韓国、そ
れに日本だけである。
が、その韓国も、こうしたあいさつを、「日本帝国主義(植民地)時代の遺物※」として、政府
通達で、廃止することにした(04年)。残るは、台湾と、日本だけ!
日本に住み、日本しか知らないと、そのおかしさに気づかないということは、よくある。
もう15年以上前のことだが、アメリカにニューヨーク州から来ていた、女性の教師が、こんな
ことを話してくれた。
何でも、「不気味だった」と。
話を聞くと、こうだった。
その教師が、近くのH湖へ水泳に行ったときのこと。どこかの女子高校生たちが、水泳の実
習授業に来ていたという。「その光景が、不気味だった」と。
理由を聞くと、「みな、紺色の同じ、水着を着ていたから」と。
私はそのときは、その女性の言っていることが、よく理解できなかった。日本では、ごくあたり
まえのことである。そこで「アメリカでは、どうだ?」と聞くと、「アメリカでは、みな、ちがった水着 を着ている」と。
さらに今度は、同じくアメリカ人の男性教師だが、こんなことを言った人がいた。
「朝礼が終わって、教室へ子どもたちがもどるとき、みな、並んで教室へもどってきた。それを
見たとき、ゾッとした」と。
こうした感覚、それはある種のカルチャ・ショックと言えるものだが、この日本に住んでいる人
には、理解できない。(だからといって、日本の教育がまちがっていると言っているのではな い。どうか、誤解のないように!)
同じように、授業の前後の、あいさつ。韓国政府は、「権威主義的慣習」と評していたが、何
がどう権威主義的かということも、日本を一歩、離れてみないと理解できない。
さて、日本、どうする?
繰りかえすが、残るは、台湾と日本だけ。それでも、「必要」と感じて、こうしたあいさつを残す
か。それとも、世界の常識に合わせるか。これからの日本の教育のなりゆきを、注視したい。
※……韓国・ソウル市の教育庁は、日本の「起立」「礼」にあたる、教師へのあいさつを、廃止
する運動を始めた。
「自由で多様な価値観を認める」という立場から、学校の教育現場から、権威主義的な慣習
を取りのぞくことを目的としている。
韓国では、日本の植民地時代から、授業の前後には、「チャリョ(起立)」「キョンレ(敬礼)」
と、教師にあいさつをするのが、慣例になっていた。これを改め、たとえば「さわやかな朝です ね」と、やわらかいあいさつにするという(以上、西日本夕刊)。
●ハンガリー
+++++++++++++++++++++++++
ハンガリーにお住まいの、SZさんから、つぎのような
メールが届きました。転載許可をいただけましたので、
紹介します。
+++++++++++++++++++++++++
【SZより、はやし浩司へ】
メール、ありがとうございました。
皆、元気にしています。
YK子は、アメリカンスクールと日本人補習校の両方に通っています。
今は大変ですが、4月に全日制の日本人学校が開校する予定です。
英語は、かなり理解できるようになりました。話す方はまだまだですが、
先生の言っていることはわかるそうです。
YK子はとてもたくましく(先生の教え子だからでしょうか?)、英語の
環境にすんなりと入っていきました。
彼女は、分からないことが分かる喜びを、強く感じるようです。
男子ハンマー投げのことです。
夫の会社のハンガリー人たちは、AA選手の金メダル、室伏選手
の銀メダルについて、最初から一切話題にしなかったそうです。
いつもは何でも自慢したがるのに、何故だろうと夫と話していました。
ドーピングの事実を皆、知っていたのかもしれません。
ハンガリーで起こる様ざまなトラブルを考えると、AA選手のとった
行動は理解でき、納得できます。ハンガリー人は、精神的に弱く刹那
的な面があり、怠け者です。何かトラブルが起こると、なし崩し的に処
理し、解決をするために努力をしないことが多いです。
この国の歴史を紐解いていけば、もっと色々なことが分かるかもしれ
ません。
下記のメールは1年前に林先生に送るために書いたものです。
幼稚園のことを書いたので多少の参考になるかもしれないと思い
直し、今更、送ります。
+++++++++++++++++
子供たちがインターナショナル幼稚園へ通い始めました。
YK子は、新しい環境にわくわくしながら、楽しくてたまらないようです。
YK子は、もともと好奇心旺盛な子供でしたが、BW教室に1年半通っ
たことも大きいと思っています。
この幼稚園の先生方の経歴や国籍は様ざまです。
心理学を学んだ先生、幼児教育と英語教育を学んだ先生、スペイン語
と英語の先生、一家そろってダンサーで本人もバレリーナだった先生
など、幼児教育を学んだ人とは限りません。
YK子の先生は、ペルー人とフランス人&スウェーデン人の両親をも
つハンガリー人の2人です。
秋になります。ハンガリーの秋は短く、すぐに冬になるそうです。
9月になって、突然寒くなりました。
日本の幼稚園では、秋になると運動会と生活発表会が行われます。
YK子は、これらの練習が大嫌いでした。
こちらの大イベントはハロウィンですが、9月の第4週目に、
−School Sprit Week-という行事があります。
(月曜日) おもしろい(ちぐはぐな)コーディネートで登園する日
(火曜日) おもしろい頭(かつらやフェイスペインティングなど)で登園する日
(水曜日) スポーツディ
(木曜日) パジャマで登園して、ごろごろする日
(金曜日) 真っ赤で登園して、みんなで赤いものを持ち寄る日
きっと子供たちは大興奮するでしょう。子供たちが楽しんでいる様子を
想像するだけで、わくわくします。
SZより
【SZさんへ、はやし浩司より】
メール、ありがとうございました。いただきましたメールについて、マガジンへの転載許可を、
よろしくお願いします。AA選手のドーピング事件ですが、改めて、「なるほど、そうだったのか」 と思っています。日本の読者の方にも、何かの参考になると思います。
日本では、オリンピックも終わり、今、H元首相の、1億円受領問題、K国の核問題、雅子妃
の心の問題などなどが、大きな話題になっています。教育の世界は、このところ、静かです。少 し前、小学校児童による殺傷事件もありましたが、最近は、あまり話題にならなくなりました。
全体的にみると、またまた受験競争が過熱してきたようにも、思えます。不景気も一段落した
というところでしょうか。
それにしても、今度のオリンピックでは、日本人選手たちは、よくがんばりましたね。この私で
すら、勇気づけられました。「やれば、できるもんだ」とです。とくに水泳の世界では、体格的な コンプレックスを感じていました。「日本人の体格では、無理だ」と、です。それを、今度のオリ ンピックで、はねかえしてくれました。すばらしいことです。
今、悩んでいるのは、「あいさつ」、です。
私の教室でも、伝統的に、レッスンのあとには、私に向っては、「さようなら」。つづいて参観に
来ている親たちに向かっては、「ありがとうございました」と、子どもたちにあいさつをさせていま す。
しかし、それがよいのかどうかと、今、迷っています。で、昨日、4、5人の母親たちに、「どう
思いますか?」と聞いてみました。
しかしいきなり、そんな質問をした私が、愚かでした。みなさん、「?」というような表情でした。
つまりこうしたあいさつは、日本では、ごく当たり前のことなんですね。ハンガリーでは、もちろ んしないと思います。
で、私のBW教室では、どうするか? こうしたあいさつは、たしかに権威主義的です。そうそ
う、最近、この浜松市でも、先生による命令的口調が、おさえられています。
「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してくれませんか」「〜〜しては、どうでしょうか」というような言
い方に、改まってきたようです。日本の教育も、今、大きく変わろうとしています。日本の権威主 義については、私はもう10年以上も前から戦ってきました。この権威主義が、日本の社会を ゆがめ、つづいて、日本の社会をゆがめました。
実に愚かな、意味のない主義です。が、なくなったわけではありません。
いまだに、「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「親が上、子が下」「教師が上、生徒が下」と
考えている人は、少なくありません。それにゆがんだ職業意識も、問題です。「大学の教授が 上で、幼稚園教師は下」「大企業の社員が上、個人営業は下」とです。
日本人は、その人の中身を見ない。これも、悪しき、権威主義の弊害ではないでしょうか。ま
だまだ私の戦いは、つづきます。
今朝は、午前4時に起きました。昨日はいろいろあって、早く床についたからです。で、いくつ
かのメールに返事を書いて、原稿を書いて、そして今、です。時刻は、6時を回ったところで す。台風一過、静かな朝にもどりました。幸い、浜松地方は、被害はありませんでした。よかっ たです。
私は子どものころ、台風が好きでした。どこかスリリングで、子どもながらに、ワクワクしたの
を覚えています。しかしそれはだれにも話せない、私だけの秘密でした。
しかし最近の子どもたちは、すなおですね。「台風が来るよ」と話しかけたりすると、「ヤッタ
ー!」「休校になる!」と、飛びあがって喜んだりします。私たちが子どものころには、そういうこ とを自由に言える雰囲気が、まだなかったように思います。
では、今日はこれで……。これから10月1日号のマガジンの予約を入れます。
またどうか、ハンガリーの様子を教えてください。よろしくお願いします。
浜松 はやし浩司
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(306)
【最近の話題から……】
●インターネットの普及
「パソコンを使ったインターネットの利用度」は、03年度、小学校で、99・4%。中・高校で、9
9・8%にもなった(文科省)。
ほぼ、100%と、みてよい。
しかし問題がないわけではない。ひとつは、いかに利用するかということ。もう一つは、いかに
その悪影響から、子どもを守るかということ。悪影響の中には、インターネットの利用度が肥大 化するにつれて、ほかの分野の教育が、なおざりになることも含まれる。
インターネットは、いわば、超巨大な図書館である。その図書館が、デスクにのったと思えば
よい。それはすばらしいことだ。私自身も、インターネット時代になって、ほとんど図書館へ行か なくなった。
もう一つは、メール交換である。昔は、一人単位、一日単位で動いていた、手紙による人間
関係が、それこそ、数分単位で、動くようになった。砂浜に打ち寄せる波のように、ザザー、ザ ザーと、人とのつきあいが、広く、浅くなった。
それがよいことなのか、悪いことなのか、まだ私にはよくわからない。しかし一つだけ言えるこ
とは、あまりにもそのスピードがはやすぎて、対応しきれていないということ。ひとつの問題が起 きて、それにかまっている間に、別の問題が、つぎからつぎへと生まれてくる。そんな感じであ る。
文科省も、つぎのように認めている。
「教師や保護者の関心は、ITより、学力低下にある。現場の教師は、その対応に追われてい
るのが実態で、なかなか情操教育、モラル教育に力を注げないでいるのではないか」(西日本 新聞・04・6)と。
●うちの子、自閉症?
自閉症の最大の特徴は、スムーズな人間関係が、結べないこと。「机をはさんで、向かいあ
った人に、ささやき声で話すかと思えば、ぎょっとするほど、近くに寄って、突然、大声で質問し たりする。人が指でさしたもののほうには、目をやらず、その人の指先を見つめる」(京都大 学・十一教授指摘)と。
十一教授は、「基本的な、人間関係という、本能というべき部分に、問題がある」と述べてい
る。さらに最近の研究では、脳の中の、扁桃体(へんとうたい)に問題があるということまで、わ かってきている。つまり脳の機能障害説が有力になってきている。
滋賀県のHさん(母親)より、「うちの子は、自閉症ではないか」という相談をもらった。
いろいろ症状が書かれていたが、心配なら、一度、専門の機関に相談してみるとよい。つぎ
のような機関がある。
日本自閉症協会……電話(03―3232−6355)
ホームページも用意されている。
http://www.autism.or.jp/images/index1.jpg
++++++++++++++++++++++++
自閉症の診断基準について……
(日本自閉症協会・案内パンフより、転載)
●自閉性障害 (Autistic Disorder)
A.(1),(2),(3)から合計6つ(またはそれ以上)、うち少なくとも(1)から2つ、(2)と(3)から1つずつの
項目を含む。
(1)対人的相互反応における質的な障害で、以下の少なくとも2つによって明らかになる:
(a)目とめで見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調節する多彩
な非言語性行動の使用の著明な障害。
(b)発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。
(c)楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる,もって
来る、指さす)を自発的に求めることの欠如。
(d)対人的または情緒的相互性の欠如。
(2)以下のうち少なくとも1つによって示される意志伝達の質的な障害:
(a)話し言葉の遅れまたは完全な欠如(身振りや物まねのような、代わりの意志伝達の仕方に
より補おうという努力を伴わない)。
(b)十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害。
(c)常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語。
(d)発達水準に相応した、変化に富んだ自発的なごっこ遊びや、社会性を持った物まね遊びの
欠如。
(3)行動、興味および活動が限定され、反復的で常同的な様式で、以下の少なくとも1つによっ
て明らかになる:
(a)強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの興
味だけに熱中すること。
(b)特定の、機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである。
(c)常同的で反復的な衒奇的運動(例えば、手や指をぱたぱたさせたり、ねじ曲げる、または複
雑な全身の動き)
(d)物体の一部に持続的に熱中する。
B.3歳以前に始まる、以下の領域の少なくとも1つにおける機能の遅れまたは異常:
(1)対人的相互作用、(2)対人的意志伝達に用いられる言語、または(3)象徴的または想像的遊
び。
C.この障害はレット障害または小児期崩壊性障害ではうまく説明されない。
(DSM−IV 精神疾患の分類と診断の手引より)
(はやし浩司 自閉症 診断基準 DSM―IV)
●子ども部屋、欧米の常識VS日本の常識
おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、ベッドとクロゼットがあるのみ。勉強机はない。
一方、日本の子ども部屋には、学習机が置いてあるのがふつう。
おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、カギがかかるようになっている。一方、日本の子
ども部屋には、カギがない。母親が、掃除などの理由で、子ども部屋に入る姿は、日本では、 日常的な光景。
おおざっぱにみて、欧米のほとんどの子ども部屋には、テレビは、ない。一方、日本の子ども
部屋には、テレビがある。
……詳しくは、北浦かほる著、「世界の子ども部屋」(井上書院発行)を、ご覧になっていただ
きたい。
「子ども部屋悪玉論もあるが、子どもがひとりきりになれる世界も必要」というのが、北浦氏の
意見である。まったく、同感である。
私のばあいは、昔風の家に生まれ育ったということもあって、すべてが、母親の管理下に置
かれていた。高校生になって、やっと自分の部屋らしきものを与えられたが、家族のタンスもそ こにあった。人の出入りは、もちろん自由。プライバシーも、何も、あったものではなかった。
そういう自分の経験から、つまり家庭の中に、自分の居場所がなかったという経験から、私
は、「子ども部屋悪玉論」には、どうしても賛成できない。言うまでもなく、子ども部屋悪玉論を 説く人たちは、「そのために、家族のコミュニケーションが希薄なる」と説く。
しかし実際には、家族のコミュニケーションが希薄になるのは、子ども部屋の子どもが閉じこ
もるからではなく、もっと、ほかの要因によるものである。たとえばプライバシーが筒抜けだった の私のばあい、それだけ家族のコミュニケーションが、濃厚だったかといえば、そういうことは、 決してなかった。
なお、欧米では、(アメリカでも、EUでも)、生まれるとすぐ、自分の個室を子どもに与えるの
が、全体的な習慣になっている。
そこで私なりの子ども部屋論について。
(1)子どもが小学生になったら、子ども部屋を与える。兄弟の相部屋は、避ける。
(2)子ども部屋には、ベッド(寝具)とクロゼットを置く。あくまでも睡眠の場所と、位置づける。
(3)学習机は、置くとしても、平机。心身を休める机にする。低学年のうちは、学習は台所のテ
ーブルなどを利用する。
(4)子ども部屋は、子どもの管理に任す。掃除などでも、子どもの許可を求めてからする。子
ども部屋は、親でも足を踏み入れることができない、神聖不可侵の空間と心得ること。
(5)テレビ、ステレオなどの、娯楽機器は、置かない。娯楽機器は、家族全員が触れることが
できるように、居間に置く。
基本的には、そういう考え方をしながら、あとは、それぞれの家庭の事情と、子どもの希望に
そって、考えればよい。
【補記】
私は北浦氏の本を読んで、一つ、思い当たることがあった。
先日、知りあいの中国人が、部屋を改装した。子ども部屋を改装したと、その母親は言って
いた。
が、見ると、大きな部屋(20畳くらい)の部屋の中央に、大きなソファと、テーブル。二人の子
どもの机は、部屋のまわりに、カベにつけて配置してあった。
私はそれを見たとき、「これじゃあ、毎日、子どもが親に監視されているみたいだ」と思った。
しかし北浦氏の本によれば、それが標準的な中国人の子ども部屋ということになる。
このことをあとでワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「中国では、子どもはその親の財産と
いう考え方をするからではないかしら」と。「少し前の、日本もそうだったわ」とも。
それがよいとか悪いとか言っているのではない。ただ子どもの考え方、子ども部屋の考え方
というものは、国によっても、ちがうということ。
今、日本は、急送な欧米化のもと、子ども部屋に対する考え方も、これまた急速に欧米化し
ている。今は、その過渡期ということになるのかもしれない。
●いつも夫婦げんかをしている人へ……
数日前、私のマガジンへのアンケート調査の中で、「マガジンを読むようになったおかげで、
夫婦げんかがなくなりました」と、書いてきてくれた人がいた(女性、40代、大阪府在住)。うれ しかった。思わぬところで、思わぬ効果をもたらしたようだ。
理由は、「夫の心の中に、自分を置いて考えることができるようになったこと」だ、そうだ。私
は、どちらかというと、親子のつながりを、切らないために、そうしたらよいと書いたのだが… …。
たしかに一度、相手の心の中に自分を置いて考えみると、怒りがしずまることがある。相手
の立場になってものを考えるから、怒りそのものが生まれてこない。
言いかえると、相手が夫であるにせよ、子どもであるにせよ、イライラしたり、カッカしたりする
というのは、それだけ、こちら側が、自己中心的であることを意味する。自分を中心にものを考 えるから、怒りが生まれてくる。
が、相手の心の中に自分を置くと、すぐ、「私ならどうか?」「私ならできるか?」という発想に
変わる。「どうして夫や子どもは、そうするのか?」ということまで、わかってくる。
たとえば定期テストが近いにもかかわらず、息子が、居間でゴロゴロしていたりする。そういう
ときたいていの母親は、自分の不安や心配を子どもにぶつける。「勉強しなさい!」と。
しかしそのときでも、ふと、子どもの心の中に、自分を置いて考えてみる。「どんな気分だろ
う?」「どんなふうに考えているのだろう?」「なぜゴロゴロしているのだろう?」と。とたん、怒り が消える。不快感が消える。
そしてそのかわり、「たいへんなのね」とか、「ごくろうさま」という、ねぎらいの言葉が、口から
出てくる。つまり結果として、親子げんかは消える。
が、逆の意見もあった。
「夫が、権威主義者で困ります。子どもに対して、頭ごなしにあれこれ命令したりします。私
は、それではいけないと、間に割って入るのですが、そのたびに、夫婦げんかになってしまいま す」と。
その母親は、私のマガジンの熱心な読者ということだった。しかしこういう話を聞くと、申しわ
けない気持ちになる。私のマガジンが、夫婦げんかの原因になっているように感ずるからであ る。
こういうときどこかの宗教団体なら、「そういう抵抗にもめげず、前に進みなさい。必ず、夫
は、いつかあなたの正しさに、頭をさげるでしょう」と、信者に教えるのだろう。が、それはおか しい。
私は、こう思う。
子育てのことで、夫や妻と対立したら、まず、夫や妻に、妥協しなさい、と。
子育ての問題には、その人の人格はもちろんのこと、人生観や哲学、さらには、その人の過
去や歴史が、すべてからんでくる。だからこの種の問題は、一度、対立すると、とことんこじれ る。こじれることの弊害を考えるなら、一時的な妥協など、何でもない。だから妥協する。
大切なことは、両親が、一枚岩となること。楽しく過ごすこと。子どもとの間で、一対一の関係
を築くこと。三角関係(心理学でいう、「三角関係」)は、決定的にまずい。
もしあなたが賢い妻(夫)なら、そうする。というのも、仮に対立したとしても、政治問題のよう
な深刻な問題ではないからである。たかが、(こういう言い方は失礼な言い方に聞こえるかもし れないが)、一家庭の問題である。
だから、「そうね、そういう考え方もあるわ」「あなたは、あなたの考え方をつらぬけばいいの
よ」と、言って、すます。そもそも全人格をかけて戦わねばならないような問題ではない。もしそ んなエネルギーがあるなら、外の世界に向って、それを発散すればよい。政治的な不正を怒っ たり、環境破壊と戦ったらよい。
どうか、どうか、家庭は、平和に! 安穏に! 安らかに!
●自己中心性
ある日、突然、ある心理カウンセラーのところに、電話がかかってくる。そしていきなり、自分
の娘(中3)の相談をしてくる。「夜遊びが、ひどくなった」「よからぬ男性とつきあっているよう だ」「学校へ行かないで、どこかへドライブに行ったりしている」「何とかしてほしい」と。
そこでそのカウンセラーなりに、あれこれ、相談にのる。しかし実際には、夏休みになると、こ
の種の相談が、がぜん、多くなる。そこでそのカウンセラーは、「一度、学校の先生に相談して みたら」とアドバイスしたあと、こう言った。
「その程度なら、がまんしなさい。ここで問題をこじらせると、さらに二番底から、三番底に落
ちていきます。家出、さらには妊娠……と進みますよ。今の状態を、これ以上悪くしないことだ けを考えて、対処してください」と。
が、どこでどう誤解したのか、この一言が、その母親を激怒させた。「他人の子どもだと思っ
て、あんたも、よく言うね。心理カウンセラーの看板をかかげているなら、困った人を助けるの は、あんたの義務でしょう。がまんしなさいとは、どういうことヨ!」と。
そのカウンセラーは、自分の立場を説明し、あやまるしかなかった。
しかし、だ。どうして、カウンセラーが、あやまらなければならないのか。カウンセラーといって
も、ほとんどボランティア。が、問題は、そのことではない。なぜ、その娘は、夜になると、遊び に出かけるのか。みなさんなら、もうその理由は、おわかりかと思う。
その母親は、自分のことしか考えていない。こうした自己中心性は、生活のあらゆる場面で、
共通する。そのカウンセラーに対して自己中心的であるのと同じように、娘に対しても、自己中 心的であるにちがいない。
人間の心は、それほど、器用にはできていない。相手によって、自分の生きザマを変えると
いうようなことはできない。
その自己中心性が、娘を遠ざけた。そんな母親と顔を合わせて、家にいても、おもしろくない
からだ。
実際、自己中心的な人というのは、つきあえない。表面的には、いくら愛想よく見えても、別
の心でこちらの心を計算しているようなところがある。窮屈。退屈。それに息苦しい。その母親 も、そうだった。
「なぜ、娘が夜遊びに行くか」という心理を、その母親は、まず考えなければならない。同時
に、その相談を受けるカウンセラーの立場も考えなければならない。その母親は、混乱状態に ある。それは、よくわかる。しかし、それをそのまま、他人であるカウンセラーにぶつけてはい けない。
「あなたのどうしようもない、自己中心性。それが改まらないかぎり、あなたはあなたの娘さん
の心をつかむことはできませんよ」と、そのカウンセラーは言いかけたが、やめたという。その 母親との間に、ものすごい距離を感じたからだ。
で、そのあと、2度ほど、その母親から、電話がかかってきた。よほど怒りが収まらなかったと
みえる。
「他人のあんたに、がまんしろと言われた。相談をした私が、バカだった。何で、他人のあん
たに、そこまで言われなければならないのか!」と。
この世界では、よくあるトラブルである。どうか、みなさん、心、安らかに!
【補足】
心理学の世界には、「転移」という言葉がある。これはある人への感情が、別のだれかに乗
り移ることをいう。
たとえば幼いころ、父親に虐待されたとする。その記憶は、それほど残らなかったにしても、
いつかおとなになったとき、父親以外のだれかに対して、父親への憎悪感を、無意識のうちに 再現することがある。
このケースでも、自分の娘に対する憎悪感、夫に対する不平、不満が、そのカウンセラーに
対して爆発したのかもしれない。感情の転移という現象が起きたわけである。日本語にも、『八 つ当たり』という言葉がある。それに近い。
しかしこうした感情の転移が怒るということは、それだけその人の精神が、未発達であること
を示す。自己管理能力が弱いとみる。
人格の完成度は、他者への共鳴性、自己管理能力、他者の良好な人間関係によって、判断
する。それができる人を、人格の完成度の高い人という、そうでない人を、低い人という。
●わずらわしさとの戦い
生きているから、わずらわしいのか。わずらわしいから、生きているのか。
どちらにせよ、できれば、そのわずらわしさから、解放されたい。しかし生きている以上、その
わずらわしさから、解放されることはない。
たとえば生きるためには、それだけの収入を得なければならない。しかし収入を得るというこ
とは、容易なことではない。当然のことながら、そこで、無数の人たちとの欲得と、衝突する。
わずらわしさは、そこから生まれる。
しかしそれはたとえて言うなら、打ち寄せる波のようなもの。若いときは、その波もまた楽し
い。波がなければ、つまらない。あるいはあえて波を求めて、海へ入る。
しかし体力や気力が弱ってくると、そうはいかない。小さな波を越えるだけでも、たいへん。フ
ーッとため息をもらしたりする。しりごみしたり、避けようとしたりする。波がこわくなることもあ る。
ときどき、このわずらわしさから解放されるためには、死ぬしかないのではないかと思うこと
がある。「このまま静かに死ぬことができたら、どんなに気が楽になるだろう」とも。しかしここで また、冒頭に書いた状態にもどる。
生きているから、わずらわしさが生まれる。しかし人間は、わずらわしいから、生きているとい
うことにもなる。もし私やあなたから、そのわずらわしさを取り去ってしまったとしたら、はたし て、私たちは生きていると言えるのか、ということになる。
たとえば今日も、こうして町まで、仕事にやってきた。できれば、家のソファーの上で、寝そべ
っていたい。何も考えず、ぼんやりとしていたい。本当のことを言えば、人に会うのもいや。疲 れる。しかしもしそんな生活を、何か月とか、何年もつづけたら、私はどうなるのか。そういう生 活に耐えられるのか。
まず、体がもたない。ついで、頭がボケる。そうなっても、はたして生きていたいと、私は思う
だろうか。
仕事は、たいへんだ。ときにつらいと思う。しかし私は、この仕事をやめるわけにはいかな
い。恐らく、死ぬまで、……というより、死ぬ直前まで、今の仕事をつづけるだろう。つまり死ぬ まで、このわずらわしさから、解放されることはない。
だったら、わずらわしさとは、うまくつきあうしかない。それはいわば、持病のようなもの。それ
とも与えられた運命のようなもの。どうにもならないことは、ならないこととして、あきらめ、受け 入れるしかない。
今日も、そのわずらわしさと、私は、つきあう。つきあうしかない。それにしても、クーラーのき
いた寝室で、ゴロリと横になることだけが、楽しみとは! これでよいとは思っていないが、しか し現実にそうである以上、どうしようもない。
●中学生が、エイズに!
とうとう、ここまで来たか! まさか! しかし、それにしても!
私たちは、いつもどこかで、この不安を感じながら、生きている。「うちの子どもは、だいじょう
ぶだろうか?」「しかしまさか、うちの子にかぎって、そういうことはないだろう」「が、油断はでき ない」と。
しかしそれが現実の問題になったとき、それから受ける衝撃には、はかり知れないものがあ
る。自分の問題でなくても、身近で、そういうことが起きると、それから受ける衝撃には、はかり 知れないものがある。
S市に住む、Sさん(母親)から、電話がかかってきた。何でもSさんの中学校の女子生徒(中
学1年生)が、HIV(エイズ)検査で、陽性反応が出たというのだ。「娘も、同じ中学校に通ってい るので、心配でならない」と。
ことのいきさつは、こうだ。
その女子生徒は、小学6年生になるころから、学校をさぼって、遊び歩くようになった。父親
は、実業家。母親の実家は、S市でも1、2を争う財産家。ともに仕事が忙しくて、女子生徒を 放任。それをよいことに、女子生徒は、毎晩、夜中の1時、2時に、帰宅。
言い忘れたが、その女子生徒は、姉。下に3歳ちがいの弟がいる。Sさんの話によれば、そ
の女子生徒は、外国人の男性から、どうやらエイズをうつされたらしいという。本人自身が、医 師に、「私、エイズをうつされたかもしれない」と相談していたという。
そこで検査。多分、その前に、何らかの症状が出ていたのだろう。その娘は、検査もかねて、
S市の総合病院に、1か月近く、入院していたという。今から半年ほどの前のことである。
風邪をひいたが、熱がさがらない。「肺炎か?」と思って病院へ行ったら、そのまま総合病院
へ。そこでエイズと診断された。……ということらしい。
もっとも今では、対処法も確立されていて、「エイズはこわくない病気」(市内Iセンター・Y医
師)とのこと。「発症さえ、おさえれば、ふつうの生活ができる。ただし、薬がどれも高額なので、 それだけは問題」とも。
両親は、そんなわけで、ともにリッチ。とくに父親は、S市でも、有名な実業家だそうだ。郊外
に大邸宅をかまえ、外車を数台も並べているという。そういう家庭のどこにどういう問題があっ たのか? それはSさんの電話だけでは、知る由もない。しかし、中学生が、エイズに! 時代 は、もうここまできている!
が、その子どもが、被害者かというと、どうも、そうではないようだ。さらに深刻な話がつづく。
その女子生徒は、その前後に、10人以上もの男性や、中高校生とも、性交渉を重ねていた
という。相手の名前すら知らない男性も含まれているという。つまり被害者であると同時に、加 害者というわけである。
それで、その子どもの周辺が、パニック状態になってしまった。エイズに対する偏見も、強
い。親たちが、「うちの子はだいじょうぶか?」「学校のトイレでうつされたのではないか?」と、 大騒ぎになってしまった。
しかし、この程度は、まだ序の口かもしれない。これから先、この日本でも、HIVの陽性反応
者は、爆発的にふえると予測されている。あなたの子どもが、幼児なら、その子どもが20代に なるころには、100人に一人とか、それ以上の確率で、エイズに感染する可能性がある。さら にその10年後となると、もっと多くなる。
もしあなたが、「うちの子にかぎって……」と思っているなら、それは甘い。甘いことは、この一
例をもっても、わかるはず。
では、どうするか?
私が繰りかえし提唱しているように、子どもは、自ら考える子どもにする。それで万全とは言
えないが、子どもの心の中に、精神的な抵抗力をつくっておく。またそういう子育てをめざす。
もしあなたが、こうした問題について、「だれかが何とかしてくれるだろう」「学校で教育してく
れるだろう」と考えているとしたら、それも甘い。
今夜も、私は、ワイフとこんな会話をした。
私「子どもが幼児のころは、そのかわいさに負けて、目一杯のことをしてしまう。甘やかすだけ
甘やかしておいて、少し大きくなったら、今度は、受験勉強でしごく。こういうアンバランスさが、 子どもの心をゆがめる」
ワ「乳幼児期の、育て方に問題があるというのね?」
私「そうだよ。いつになったら、親たちも、それに気がつくのだろうね」と。
こういう問題は、学校の教育だけでは、どうにもならない。世の親たちよ、まずそれをしっかり
と自覚しようではないか。
【補足】
あなたのまわりにも、ハレンチ文化が氾濫(はんらん)しているはず。そういう文化とひとつず
つ、戦っていこう。そういう努力が、長い時間をかけて、結局は、あなたの子どもを守る。またそ ういう親の姿を見て、子どもは、精神的な抵抗力を、身につける。
つまり親たちの何気ない、日常的な会話の中から、子どもは何かを学んでいく。しかしそれは
演技ではいけない。親たち自身が、ハレンチ文化への批判力をもち、それを子どもたちに語っ ていかねばならない。
はっきり言おう。
一方で、意味のないバラエティー番組を、ギャーギャーと笑いながら見ながら、どうして子ども
に向かって、高い独特や倫理を語ることができるだろうか。子どもを考える子どもにすることが できるだろうか。そのあたりから、もう一度、私たちは、家庭教育のあり方を、考えなおそうでは ないか。
先日も、ある母親から、こんな相談があった。何でも、12歳の娘が家出をしたという。それに
ついて母親が、それを責めると、その娘は、こう答えたという。
「ポケモンのさとしも、ハンターハンター(アニメ)のゴンたちも、10歳くらいで、旅に出ている」
と。
こういう愚かな現実を、おとなの私たち自身が作り出していることを、忘れてはならない。
【補記】
たまたまBW教室では、こんなことが起きた。
私の自慢は、「BW教室の生徒は、交通事故にあったことがない」だった。幼児クラスでは、と
きどき、しかし徹底的に、交通事故の恐ろしさを話す。
だからこの35年間、交通事故にあった子どもは、いない。確率からしても、ありえないことで
ある。
が、とうとう、一人、交通事故にあってしまった。どこかのスポーツクラブへ行く途中、自転車
に乗っていて、車と正面衝突してしまったという。
自転車はクシャクシャになったが、幸い、けがは、足の捻挫(ねんざ)程度。しかしその事故
はともかくも、私が感じた挫折感は、大きかった。内心で感じていた、(誇り)のようなものが、そ の話を聞いたとき、こなごなに崩れてしまった。
しかし一人の中学生が、エイズに感染したという話を聞いたとき感じた、挫折感は、そんなも
のではなかった。家の中に、ダンプが飛びこんできたような衝撃である。とたん、その交通事故 にあった子どもの話しなど、忘れてしまった。
こういった話でこわいのは、免疫性ができてしまうこと。
今は強い衝撃を受けているが、やがて、ここでも、あそこでも……という状態になる。そうなっ
たとき、私たちは、その恐ろしさを忘れてしまう。そのためにも、今、ここでしっかりと、心にブレ ーキをかけておかねばならない。
今では、大学生や、高校生のエイズ感染は、それほど、珍しくない。が、そのうち、小学生で
すら、性行為で、感染するようになるかもしれない。そういう現実をつくらないためにも、今、こ こでしっかりと、心にブレーキをかけておかねばならない。
もし今、あなたが、「うちの子にかぎって……」と思っているなら、そういう考えそのものが、す
でにつぎの現実をつくる布石になっている。それをどうか、忘れないでほしい。
●負けることの、美しさ
負けることには、不思議な美しさがある。その美しさは、勝ったときの美しさに、まさる。その
美しさは、負けたものでないとわからない。
簡単な例で考えてみよう。
車が、細い路地に入った。そのとき、向こうから、車がやってきた。こちらのほうが、先に路地
に入っている。しかも向こうの車のすぐうしろには、車を寄せるだけのじゅうぶんなスペースが ある。
そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。
当然(?)あなたは、向こうの車に、引きさがることを求める。しかし簡単には、そうはいかな
い。向こうは向こうで、何かの言い分がある。そんな雰囲気である。
そういうとき、すなおに負けてみる。こちらが、車をさげてみる。深く考える必要はない。プライ
ドがキズつけられたとか、そんなふうに考える必要もない。仮にそれで相手が、何もあいさつも せず通りすぎたとしても、気にすることはない。
それが「負ける」ということである。
この美しさは、反対の立場で考えてみればわかる。
当然、こちらが引きさがらなければならないような場面を考えてみよう。
そのとき相手が、そのまま車を引きさげたとする。あなたは相手の度量の深さに驚くだろう。
が、それだけではない。ふと、そのとき、自分の心のせまさを思い知らされる。それが相手の 「美しさ」である。
こうした場面には、いつも、出会う。日常的に経験する。
そういうときは、すなおに負けてみる。意地を張ったり、がんばったりする必要はない。無理を
してもいけない。「ああ、そうですね」と、負けてみる。
もちろん人間は、がんばるところでは、がんばる。しかしそれはあくまでも、自分に対してのこ
と。あるいは社会的正義や、平等、自由に対してのこと。自分以外のものに、がんばっても、意 味がない。ささいなものにがんばっても、意味がない。ないばかりか、かえって自分の住む世界 を、小さくしてしまう。
さあ、あなたも勇気を出して、負けてみよう。最初は、本当に勇気がいる。しかし一度くらいな
ら、実験のつもりで、そうしてみる。それで気まずさが残るようなら、私の言っていることがまち がっていると思えばよい。
しかしあなたも、もし勇気を出して負けてみるなら、そのすばらしさに、気がつくはず。昔か
ら、『負けるが勝ち』という。負けることによって、あなたは、自分の心を広くすることができる。 そしてそれまで気がつかなかったものに、気がつくことができる。
勇気を出して、あなたも、一度、負けてみよう。いろいろ悔しい思いをすることもあるかもしれ
ない。しかしそんなときは、ハハハと笑ってすませばよい。ハハハと、だ。
【補記】
よくそのスジの男が、「ガン(眼)をつけた」とか、「肩が当たった」とか言って、おかしな因縁を
つけて、からんでくることがある。もともとノーブレインな人間。サル同然の人間だから、相手に しない。
そういう男というのは、本当の勇気というものがどういうものであるかを知らない、つまりは、
おく病な人間ということになる。そういう意味でも、真の勇気は、勝ったときに試されるのではな い。負けたときに試される。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(307)
【近況・あれこれ】
●ワイフのケガ
ワイフが、テニスのボレーの練習をしていたときのこと。左目にボールをまともに受け、その
ため、左目の内側付け根あたりが、赤黒くはれた。
「今日は、そんな顔で買い物に行くの?」と聞くと、「サングラスをかけていくからいい」と。
そういうことを、まったく気にしないのが、ワイフ。ふつうなら、「恥ずかしい」とか、何とか、考
えるのに……。仕方ないので、近くの薬局で、眼帯を買ってきてやった。「これをして行きな」と 言うと、「片目じゃ、かえって見にくいから」と。しかし、しぶしぶ、したがってくれた。
で、案の定というか、近所に住む友人に、こういわれたと言う。
「ダンナに、奥さん、殴っちゃあ、だめって、言っときな」と。
それを聞いて、私はワイフにこう言った。
「あのなあ、ほっぺたに、これは、ボレーを受けそこねてできたアザですとでも、書いておけ
よ」と。
だから、眼帯を買ってきてやったのに……。だれだって、夫婦喧嘩でできたアザだと思うに決ま
っている……。
●美容院
最近は、床屋へ行っても、美容院へ行っても、自動髪の毛洗い機というのがあって、それで
髪の毛を洗ってくれる。
便利な機械らしいが、ああいうので洗ってもらうと、かえって頭中が、かゆくなる。ボソボソジャ
ージャーと、何というか、洗っているのか、洗っていないのかわからないまま、終わってしまう。
そのあと美容師の人が、「かゆいところはありませんか?」と。思わず、「全部、かゆい」と言
いそうになるが、それは言わない。「いえ、ありません」と。
●体重
このところ、どうも体が重いと思っていたら、体重が、68キロを超えていた。いつもより、2〜
3キロ、オーバー。あわててダイエット開始! 2〜3キロといえば、ペットボトル一本分。
そこで朝は、パン一切れ程度。昼は、ざるそば程度。夕食は、ダイエット食。おかげで、数日
で、適正の66キロ前後に復帰。しかしそのせいか、体が、だるくなってしまった。
食事のあと、総合ミン剤と、カルシウム剤、それにビタミンCを、大量にのんだ。とくに理由が
あるわけではない。食卓の上に、いつも置いてあるから、それをのんだ。
で、今日になってやっと、少し体が軽くなった。……と自分で、そう思いこんでいるだけかもし
れない。しかし夏のダイエットは、たいへん。そうでなくても、健康管理がむずかしい。
●明日は休み
「明日は休みだから、どこかへ行こう」と、ワイフが言った。「どこがいい?」と聞くと、「伊豆の
ねえ……」と言い出した。
「伊豆は遠すぎるよ。行くだけで疲れてしまうよ」と私。
で、今夜は、いつもより早く寝た。時刻は、9時。ワイフは、「こんなに早く寝るなんて……」と、
ぶつぶつ言っていった。が、床に入るとすぐ、もうイビキ。
肝心の私は、眠りそこねてしまった。1時間ほどゴロゴロしていて、結局は、起きてしまった。
一度、眠りそこねると、なかなか寝つかれない。
しかたないので、そのまま書斎へ。そしてこうして今、パソコンのキーボードをたたいている。
●掲示板
掲示板にいくつかの書き込みがあった。あとでその中の一つを、考えてみたい。
みんな、いろいろな問題をかかえて、懸命に生きている。幸福な人は、みな、よく似ている
が、不幸な人は、みな、ちがう。だれしも幸福になりたいと思っているのに、あれよあれよと思 っているうちに、不幸になってしまう。
幸福などというものは、不幸と不幸の間の、つかの間のやすらぎにすぎないのか。幸福だと
思っても、その下では、不幸が、おいで、おいでと、手招きしている。そういう意味でも、生きる ということは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。
ちょっとした油断が、その人を、不幸のドン底に、突き落とす。
そう、幸福を、どこかで感じたら、あとはそれにしがみついて生きていくしかない。大切に、大
切に、手で守りながら、生きていくしかない。
+++++++++++++++++++++++++++++
【掲示板より……】
【MYさんより、第1信】
はじめまして。「育児」で検索していたら偶然林さんの随筆集に行き当たり、この2〜3日いろい
ろと拝読させていただきました。
現在私は2歳11ヶ月と8ヶ月の二男児の32歳の母です。(入籍していない)子ども達の父親
は、長男誕生時から別居中。現在は実家で私の両親と妹と生活をしています。
以前より、自分自身が幼少期の経験から心のケアが必要ということは感じていました。私の父
は、林さんの言う「親・絶対教」のタイプで、大変威圧的な人間です。未だにたわいない会話も 顔を見てはできません。
その一方、母は父に服従しており、未だに「お父さんに聞いてから」「お父さんがいいと言った
ら」というタイプの女性です。
私には、幼少期の記憶はほとんどありませんが、覚えているのは、小学2年生のとき、妹が超
未熟児で生まれたのですが、(その1年前に弟が7ヶ月で死産でした)、部屋でラジオかカセット を聴いていたときに、音が大きかったのか、突然背後から頭を殴られ、一言「うるさい!」と怒 鳴られたこと。
それも小学校1年生か2年生の頃だったと思いますが、くわがたに指をはさまれ1時間近く涙
をこらえて我慢して、母がやってきて笑いながらm「なにやってるの? 自分でさっさととればい いじゃない」と言ったことくらいです。
小学校を卒業するまではいわゆる「優等生」で、成績もクラスで1番か2番でした。幼い頃どん
な子どもだったのかと聞くと、「手のかからないいい子だった」という返答です。
ですが、中学校に入学した後、まず言葉遣いが荒れました。自分のことを「俺」と言ってほとん
ど男言葉で話していました。でも当時は気の合う友人がいてくれたので、学校にも行き、勉強も していました。成績は相変わらずよい方でした。
高校進学時は、就職も自分自身では考えたのですが、先生や親に説得されるまま学力に応じ
た進学校を受験し、大した努力もせずに合格してしまいました。
高校時代はいよいよ適応できなくなり、服装も乱れ、遅刻や早退を繰り返しましたが、先生に
恵まれ、無事に3年間で卒業できました。
親との断絶はピークになり、17歳で離れに移り住み、卒業と同時に働きながら通える専門学
校に進み、家を出ました。
その後、専門学校のカリキュラムの中で半年間ヨーロッパでの海外研修に行き、卒業と同時に
東京へ就職、25歳で一旦実家へ戻りました。
高校の頃から両親を「お父さん、お母さん」と呼べなくなり、(実は今でもまだ呼べないのです
が)父親とはそこから約10年間、ほとんど会話らしい会話をしませんでした。高校時代には本 気で父を殺したいとまで思いました。
でもどこかでそういう自分に罪悪感を感じていたのも事実です。苦しみました。わかってほしい
と思う気持ちと、親の期待に応えられない自分との間で、苦しかったのだと思います。
多分セックス依存症でもあったのだと思います。年上の男性といると安心したのは、そこに理
想の父を求めていたのかもしれません。母はサービス過剰な人ですが、そうすることで自分の 居場所を作っているのかもしれないと思うようになりました。
自分自身は本当に居場所がなくて、いつも色々な自分を演じていた気がします。本当の自分な
どはじめからいないと思うくらいに。楽しいときに笑えない、だから悲しいときにも泣けないし、 感情をもてあましてしまうことが今でもよくあります。
思いを言葉にしようとすればそれだけで涙が出てしまうこともたびたびでした。おそらく「基底不
安」「情緒不安」なのですよね。
長くなってしまいましたが、「世代連鎖」は私で終わりにしたいと願っています。あまり意地にな
って「理想の親」にこだわるのもよくないと思いつつ、「自然に」子どもを「子どもらしく」育てるた めのアドバイスや注意をいただけたらと思い書き込みさせていただきました。
子どもの父親である彼は、私と出会うずっと以前に結婚、離婚を経験していて、(年齢は私と同
じです)、女の子が二人います。彼自身、両親の離婚を14歳のときに経験していて、父親と弟 との三人での生活をして、高校を半年ほどで中退後一人で生活をするようになったと聞いてい ます。
過去の話を聞いたときに、同じ悲しみを抱えているのかもしれないと思いました。この人なら、
同じ痛みを分け合えるかもしれないと思いました。
でも、私の「理想の親像」があまりにも強く、彼に押し付けすぎてしまったようで、現在はあまり
連絡を取っていません。でも、彼の痛みや苦しみを分け合いたいと思う気持ちは変わっていま せん。
一度「俺には家族は無い」ともらしたことがありましたが、そういう気持ちの人はもうそのままな
のでしょうか。変わることはないのでしょうか。息子達が「父親像」を学習することなく、経験する ことなく「父親」にならなければいけないのは不幸なのでしょうか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
御身体くれぐれもご自愛くださいませ。
【MYさんより、第2信】
相変わらず、いろいろと思いをめぐらせています。
幼い頃の記憶をたどってみたり・・・32年かかって現在のわたしが
ここにいるわけですから、心を閉じた時期がいつごろなのかはっきり
わかりませんが、4、5歳と考えても27、28年間そうやって生きてきた
ことになります。
でも、それで「今」のわたしが在り、子供達に
恵まれたのですよね。その子供達が、私に感情を表現することは
自然であり、自由であり、当然のことなのだと教えてくれたような気が
しています。この子達には自分のような、感情を抑え込んでしまう。
(楽しさも嬉しさも悲しみも寂しさも愛おしさも)ような状況には、させたく
ないと強く思います。
現在の私は過去の私の結果であり、また同時に未来の自分の原因である。
結果を変えることはできないけれど、原因は自分の気持ちひとつでいかにでも
変えられる。
私達の周りで起きている事象には、かならずその理由があると考えています。
両親がわたしに上手く愛情を伝えることができなかったことも、何か彼らの
原因・理由があるのだろうと思えるようになってきました。
「許して忘れる(Forgive and Forget)」がよいのだろうと思います。
でも、「許す」ためには何を許すのかを自分自身が見つめなければ
なりません。
実は、先日父が長男の頭をはたきました。食事中に、うどんのつけつゆを
自分でおわんにいれていてこぼしてしまった時のことです。
私の中で、小学2年生のときの嫌な思い出がフラッシュバックしました。
息子は突然頭をたたかれたショックで部屋へ行き布団に突っ伏してしまいました。
私はただただ息子を抱きしめ、「大丈夫よ。じいじは、おつゆがこぼれて
びっくりしてたたいちゃっただけだから。あなたのことが嫌いでたたいたんじゃ
ないよ。」と繰り返しました。
あの日、私は父に嫌われていると思い込んだのです。そして自分は必要ない人間かも
しれないと、自分には居場所がないと思うようになっていったのです。
優等生でいることで、自分の居場所をなんとか確保しようとしていた小学校時代
だったのでしょうか。
+++++++++++++++++++++
【MYさんへ、はやし浩司より】
このところ、自分に自信がなくなってきました。何というか、自分自身が、だれかに助けを求
めたいような気分です。「自分でさえ、救えないのに、どうして他人を救えるか」と、です。
生きるということは、さみしいことですね。いえね、きっかけは、中学生の女子が、HIVで陽性
(エイズ)になったという話を聞いてからです。
最初は、「とうとう、日本もここまできたか!」と思いましたが、そのうち、その女子中学生の両
親の心の中に、自分を置いて、ものを考えるようになってしまいました。「さぞかし、つらいだろ うな」とか、「自分なら堪えられないだろうな」とか、そんなふうに考えるようになってしまいまし た。
その女子中学生も、その両親も、私とはまったく関係のない人です。しかしどういうわけか、
そのせいで、この数日、気が滅入る一方。おかしなことに、食欲までなくなってしまいました。
ワイフは、「あんたは、バカねえ。日本中を、一人で背負っているみたい」と、言います。自分
でもそう思うのですが、しかし、「ぼくには、関係ない」と、どうしても割り切ることができません。
こういう原稿を書いているのも、ホームページを開いたり、マガジンを出しているのも、結局
は、よりよい未来を、子どもたちのために残すためです。しかし、その未来が、どんどんと悪い ほうに向っていく……。
無力感というか、虚脱感のようなものを、感じてしまいました。
MYさんが、今の私を直接見たら、「どうして、こんな弱々しいジジイに、相談なんかしたのか」
と、後悔すると思います。頼りなく、どこかいいかげん。そう、私は、いいかげんな人間です。自 分でも、それがよくわかっています。MYさんの相談を受けながら、別の心では、わずらわしさ を感じています。
本当なら、どこか親切そうに、それらしく善人のふりをしながら、返事を書くのがよいのでしょ
うが、そういう仮面をかぶるのも、疲れました。そういう意味では、私も、優等生のふりをしてい るだけかもしれませんね。他人によい人間に思われようとしているだけ?
またそう演ずることで、自分の立場をとりつくろっているだけ? もともと人間関係がうまく結
べないタイプの人間です。私は……。
MYさんと私の共通点は、そのあたりにあります。つまり母子関係の不全というか、基本的信
頼関係が結べないというか、他人に対して、心を開けないのですね。どこか、不安で、どこか心 配。「こんなことをすると、嫌われるのではないか」とか、「自分の価値をさげるのではないか」と か、そんなふうに考えてしまうのですね。
で、私のばあいは、あるときから、自分を飾るのをやめました。ありのままの自分をさらけ出
すことにしました。「他人が、どう思おうが、知ったことか」とです。「どうせ、残りの人生も短いこ とだし、好き勝手に生きてやれ」とです。
それで、ずいぶん、気が楽になりました。居直ったわけです。講演会でも、ときどき、「ぼくは
悲しいことがあると、ワイフのおっぱいを口に含んで寝ます」などと、言うことがあります。意外 とみなさん、シーンとした雰囲気で聞いてくれます。
それが人間なのかもしれませんね。
そして私とMYさんのもう一つの共通点は、幸福な家庭を築こうという、気負いばかりが強く
て、それで結局は、失敗しやすいということです。子育てというのは、そして家庭作りというの は、本能ではなく、学習によるものなのですね。親像がない人には、子育てはできない。幸福な 家庭を知らない人には、幸福な家庭を築くことができない。
しかし、ですね。私はある日、気がつきました。MYさんの時代とはちがって、私の世代だと、
幸福な家庭で、両親の愛情に恵まれて、何一つ、不自由なく育った人のほうが少ないのです。 みんな、だれしも、大きなキズというか、十字架を背負って生きているのだと、です。
で、あの戦争が悪い。本当に、悪い。この話をし始めたら、キリがありませんが、原因は、そ
こへ行きます。
で、私も、そうだった。今のMYさんも、そうだった。今も、そうかもしれない。気負いばかりが
強く、それでいて、「これでいいのか?」と不安ばかりが先に立ってしまう……。MYさんが、セッ クス依存症になったのも、恐らく、裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられ たからではないでしょうか。
私も、そうだったような気がします。若いころは、セックスばかりしていました。もっとも、あまり
もてるタイプではなかったので、それなりの苦労は、いつもしていましたが……。
MYさんに今、アドバイスできるとしたら、どこに自分がいるかを知り、それがわかったら、あり
のままの自分を、さらけ出すということです。時間はかかりますが、いつか、必ず、できるように なります。
今も、父親をうらみたかったら、うらめばよいのです。心のどこかで、「そうであってはいけな
い」とか何とか、自分をごまかすから、疲れるのです。あなたの父が、息子をたたいたら、その 場で、「たたかないでよ」と言えばよいのです。
その点、私はよく引き合いに出しますが、クレヨンしんちゃんの中の、母親のみさえさんの生
き方が、参考になります。(テレビのアニメのほうではなく、コミック本のV1〜5、6まであたり が、参考になります。)
しかしあなたは、すでに、自分の中の「私」に気がつき始めています。若い方なのに、すばら
しいことです。私の印象では、自分を振りかえるようになるのは、特別な事情がないかぎり、50 歳を過ぎてからではないかと思っています。
それまでは、わからない。が、あなたはすでに、自分の過去や、自分にまつわる問題点を、
冷静に、かつ客観的に見ておられる。私は、それがすばらしいことだと言っているのです。
今すぐというわけにはいかないかもしれませんが、あなたは、確実に、幸福に向った道を歩
み始めています。自信をもって、前に進んだらよいと思います。幸福に向うのに、正道も王道も ありません。常識的な道というのもありません。
あなたはあなたの道を進めばよいのです。むしろ私は、あなたの生きザマの中に、すがすが
しいものを感じます。新しい女性というか、人間の生き方というか、そういうものです。
いつかあなたは、あなたの子どもに、自分の生きザマを語るときがくると思います。そのとき
のために、今は今で、懸命に生きていきましょう。いつか、語るに恥ずかしくない人生であれ ば、それでよいのです。勲章やメダルなど、なくても、よいのです。
それを理解するかしないかは、あくまでも、子ども。子どもの問題。今、あなたはひょっとした
ら、今度は、子どもの前で、「いい親」ぶろうとしている。しかし、もうやめたらよいのです。あり のままを見せて生きたらよいのです。
そのかわり、別のところで、子どもにさらけ出しても、恥ずかしくない自分をつくっていく……。
その努力は、忘れてはいけません。
長い返事になりました。先ほどから、こんな長い返事(文)は、掲示板にのるかどうかと、そん
なことを心配しています。まあ、よろしかったら、トップページから、直接、メールをください。ま た、返事を書きます。
(約束はできませんが、努めて、書くようにします。このところ、どうも、調子がよくありません。
集中力が、長く続かないというか……。頭がボケてきたというか……。)
では、また。
【MYさんへ、追伸】
「許す」というのは、相手の心の中に自分を置き、相手の立場で考え、その相手の悲しみや
苦しみを共有するということです。
もともと「愛」ほど、つかみどころのない感情はありません。が、「許して、忘れる」ことイコー
ル、愛と考えると、ずっと、わかりやすくなります。が、ここで注意しなければいけないことは、愛 という感覚がないからといって、自分は失格だとか、そういうふうに考える必要は、ないので す。
私たちは、神に帰依した、クリスチャンではないのですから。
いえ、以前、あるクリスチャンの女性と、電話で話したことがあります。クリスチャンといって
も、カルト教団と言われている教団に属していた女性ですが、やたらと、「愛」という言葉を使う のには、閉口しました。
「私は夫を愛しています」
「娘たちを愛しています」
「父や母を愛しています」と。
ふつうは、そんなことは、言いませんよね。ふつうの電話ですから……。私はその女性が、愛
という言葉を口にするたびに、「?」マークを重ねました。「本当に、この女性は、愛が何である のか、わかっているのか?」とです。「ただ狂信的に、そういう言葉を繰り返しているだけではな いのか?」とです。
ですから、愛の概念は、それぞれ、みなが、自分の解釈で考えればよいのです。ただ、よく使
う言葉だから、それなりに、自分の考え方をもつのは、大切なことだと思います。別に、どこか の牧師の言うことに従う必要も、ないのですが……。
だからよく、「私は、子どもを愛することができません」とか、そういう相談をもらうと、「ふう
ん?」と思ってしまうのも、事実です。「要するに、子どもを、受け入れることができないのだな」 とか、そんなふうに、勝手に解釈しながら、です。
だからすぐ、私は、「無理をしなくてもいいのに……」「好きになれなかったら、好きになること
もないのに……」と、思ってしまいます。しかたないでしょう。この問題だけは……。
しかしそんな私でしたが、ある日、気がつきました。こういう仕事をしているものですから、あ
る日、ある中学生(男子)と話しているとき、それに気がついたのです。
その中学生が、私にこう言いました。
「先生、ぼくには、すばらしい力があると思う。しかし、親も、学校の先生も、それを認めてくれ
ない」と、です。
そこで私は、「自分の力を認めてもらうには、何らかの形にしなければいけない。ただ自分
で、『力がある』と思っているだけでは、足りない」と。
その中学生は、まわりの人たちに、(してもらうこと)だけを求めていたのですね。まわりの人
たちに、(してあげること)は、まったく考えていない……。しかしそれは、まさに自分の姿そのも のだと、気がついたのです。
私はさみしい。だれにも、相手にされない。孤独だ。だれも、私を救ってくれない、と。
しかし他人の気持ちになって、その他人のさみしさや、孤独を救ったことがない人が、どうして
自分のさみしさや、孤独を救ってくれと、人に言うことができるでしょうか。もっと言えば、他人に ほどこしたことがない人が、どうして他人に向って、自分にほどこしてくれと言うことができるでし ょうか。
私の知りあいに、こんな女性(60歳くらい)がいます。
とにかく、ケチなんですねえ。本当にケチ。「私のものは、私のもの。あなたのものも、私のも
の」と考えるようなケチなんです。で、ある日、私は、その女性が、どうしてそうまでケチなのか ということに気がつきました。
その女性は、まさに利己主義のかたまり。異常なまでの依存性もあります。いつも、まわりの
人は、自分のために動くべきだというような、考え方をします。が、その女性自身は、人のため には、まったく動かない。何もしないのです。
他人のために動くということは、損だと考えている。そんな雰囲気です。
だからその女性の口ぐせは、一つ。「さみしい」です。「親なんて、さみしいものだ」「この世間
なんて、さみしいものだ」「生きるというのは、さみしいものだ」と。「渡る世間は、鬼ばかり」「他 人を見たら、泥棒と思え」も、口ぐせでした。
当然ですよね。さみしいのは……。
つまり、私は、こう気がついたのです。「孤独というのは、向こうからやってくるものではない。
自分でつくるものだ」とです。
では、どうしたらよいのか? もうその答は、おわかりですね。
相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有すればよ
いのです。私がよく使う、「利己から利他への転換」というのは、そういう意味です。また心理学 の世界でも、それができる人を、人格の完成度の高い人と言います。子どもの心の成長過程 をみるときも、同じように考えます。
「内面化」という言葉をつかいますが、他者との共鳴性、協調性、共感性のできる子どもを、
人格の完成度の高い子どもとみるわけです。自分勝手でわがままで、自己中心的な子ども(お となも!)は、それだけ、内面化の遅れた子どもとみます。
勉強ができるとか、できなとかいうことは関係がありません。むしろ、学歴の高い人ほど、そ
の内面化が遅れる傾向があります。その理由は、もうおわかりですね。
で、その「相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有
する」ということですが、これが意外と、簡単なことなのですね。ウソのように簡単! 本当に簡 単!
ちょっとした訓練でできるようになります。
静かに目を閉じて、相手の心の中に一度入って、その人から見える自分の姿を想像すれば
よいのです。最初は、「相手からは、どんなふうに見えるのだろう」と、そういうふうに考えれば よいのです。
これを繰りかえしていると、その相手が何を考え、どう思っているかが、手に取るようによくわ
かるようになります。とたん、その人の悲しみや苦しみがわかるようになるだけではなく、相手 に対してもっていた、怒りや不快感などが、すべて消えてしまいます。
長い前置きになりましたが、それが「許す」ということなのですね。
許すといっても、相手に好き勝手なことをさせることではありません。自分ががまんして、不愉
快な思いをすることでもありません。許すというのは、一度、相手の心の中に入って、相手の立 場で、悲しみや苦しみを共有することなのですね。
その相手が、子どもであれ、夫(妻)であれ、そして親であれ、友人であれ、だれでも、です。
が、ここで重要なことは、決して、見かえりを求めないということです。無条件というか、無我と
いうか、そういう状態で、することです。「してあげる」とか、「してやる」とかいう意識をもっては いけません。反対に、「してあげたのに」とか、「してやったのに」という意識も、もってはいけま せん。
どこまでも無条件です。
その度量の広さが、あなたの心を豊かにします。そして同時に、あなたは、孤独から解放さ
れます。真の自由、さらに真の幸福感は、その孤独から解放されたときに、手にすることがで きます。
……と言っても、今の私が、それができるということではありません。私自身も、やっと、その
糸口をつかんだというか、入り口に達したというか、そういう状態なのです。口で言うのは簡単 なことです。いつでも、そうです。
しかし、実際、それを実行するのは、たいへんなことです。自分でも、よくわかっています。
が、ここであきらめるわけにはいかない。また立ち止まっているわけにも、いかない。前に進む しかない。
今の私の心の状態は、そこに何かモヤモヤとしたものを感じながら、懸命にもがいていると
いう状態です。「あと一歩で、わかるのだが……」とです。「あと一歩で、今まで、追い求めてき たものが、わかるのだが……」とです。はがゆい思いでいます。
以上、わけのわからないことを書いたかもしれませんが、MYさんが言うように、『許して、忘
れる』というのは、本当にすばらしい言葉です。それは事実ですから、その言葉を、これからも 大切に! 何かのことで行きづまったりしたら、この言葉を思い出してみてください。きっと、そ の先に、トンネルの出口を見ることができますよ。
そうそう、あなたの父親にしても、一度、あなたの父親の立場で、その心の中に入ってみてあ
げてください。そうすれば、あなたの父親が、小さく、どうしようもないほど、つまらない人に見え てくるはずです。(だからといって、あなたの父親を軽蔑しているとか、そういうことではなりませ ん。あなた自身が、父親のもつ虚像というか、幻想から、解放されるということです。
「何だ、父も、ただのふつうの人だったんだ」とです。
一度、試してみてください。
【MYさんより、第3信】
こんばんは。はやしさん、お返事ありがとうございました。とてもうれしいです。
でも、今ははやしさんご自身の心があまりお元気ではないようですね。お返事をいただけること
は大変うれしく、ありがたく思いますが、どうかご無理をされませんように。
放っておけない性分だとご自身でおっしゃっている方に対してこんな勝手なお願いはいけない
のかもしれませんが、私へのお返事は本当に気の向いたときだけで結構です。私はこうして書 き込むことだけでも十分自己満足していますから。
直接メールを送ることも考えたのですが、なぜ、私が掲示板に書き込んだのか、その理由を書
いておこうと思います。
掲示板であれば、同じ悩みや不安を抱えた人、もしくは今まさに両親との関係に悩んでいる子
供達がロムして、参考になることがあるかもしれないと思ったからです。
「自分」を見つけられないということは本当に苦しいことです。生きていることの意味がわからな
くなります。自分を大切に思えない人間は、他人も大切に思えません。感情を押し殺していると 表現していますが、では本当の自分がどう感じているかさえわからないのです。うれしいのか、 楽しいのか、悲しいのか・・・。それぞれの感情がどういうことなのかを体験していないということ は哀れです。理性で判断するしかないのです。だから、本心から笑わない、笑えない。
SEX依存症についての
>裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられたからではないでしょうか。
というのは違います。SEXをしていても、快感を得ることはありませんし、どちらかといえば苦痛
でした。涙を流しながらしていたこともあります。身体は道具でした。寂しさをまぎらわすため の、誰かにそばにいてもらうための道具でした。SEXさえすれば、特別扱いしてくれる、優しくし てくれる、だからSEXをするのです。今思えば、一種の自傷行為に近い行動だったと思いま す。リストカットしたこともあるくらいですから・・・。
つまり、自分自身の存在価値を自分自身が感じられないために、人より頑張り、他人の目の
中でしか自分をみられず、いつも「幸せって何だろう」と考えながら生きてきたのです。気分が 落ち込んで、マイナス思考に傾くと「自分などいなくてもよい」、「いないほうがよい」となり、自傷 行為にはしるのです。もともとは楽天的なのか、気分のよいときは「他人を見返してやる」という 気持ちの下でどんな努力も厭わず行動しています。
「いい親」を演じるのはやめるようにします。「私らしい親」が自然にできるようになればいいなと
思っています。こどもの幸せを祈る気持ちには嘘偽りがないことはしっかり感じていますから。
時間がかかっても、未来の私がすなおな人間になれるように原因を作っていこうと思います。
はやしさん。少なくとも私ははやしさんに救われました。人間は自分自身のことが一番わからな
いのではないでしょうか。鏡を見なければ自分の顔が見えないように・・・。
だから、どうぞ自信をお持ちください。未熟だから未完成だから助け合って生きていくのではな
いでしょうか。「ネバー・エンディング・ストーリー」の中でも「虚無」が世界を暗黒にしてしまうの を「勇気」と「希望」で阻止して物語は続いていきました。
わたし達人間の生命もそういうものなのではないかと思います。あきらめてしまったらそこで終
わってしまう。誰がどう思おうと、何と言おうと、「未来の子供達のためによりよい世界を残す」 ことは決して間違いではないのですから。最後の一人になったとしてもあきらめずに生き抜くこ とが、子ども達にしてやれる唯一のことではないでしょうか。
国内でも海外でも心の痛む事件ばかりが毎日あります。一日も早く、地球上のすべての子ども
達が安心して生活できる、「幸せ」を肌で感じられる日がやってくることを切に祈りながら、自分 に出来ることが何なのか、問いかけながら生きていこうと思います。
本当にありがとうございました。
元気出してくださいね。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(308)
●子どもの世界を守るために……
性にめざめるころ、そのまま性の世界にのめりこんでしまう女の子と、そうでない女の子がい
るのがわかる。
どちらがよいとか、悪いとか、そんなことを言っているのではない。
ただ、現代という時代においては、子どもたちを取り巻く環境が、ますます劣化しているという
こと。売春や援助交際は、すでに日常化している。「出会い」と呼ばれる、フリーセックスも、今 では珍しくも、何ともない。
が、問題は、性病。その中でも、エイズの問題がある。
「まさか……」「うちの子にかぎって……」と思っているうちに、自分の娘が、そのエイズに感染
する。それはもう、病気という病気ではない。十字架という、十字架ではない。もしあなたが、「う ちの娘や、息子は、そういう病気とは無縁」と思っているなら、その考えは、甘い。改めたほう がよい。
2015年までには、この日本でも、エイズ感染者は、若者を中心に、数万人以上になると、予
測されている。が、それで止まるわけではない。さらに感染者数は、ふえる。発症者もふえる。 そして死亡者も、ふえる。
そこであなたは、「学校で……」「教育で……」と考えるだろう。しかしこの問題だけは、学校
や教育では、どうにもならない。はっきり言えば、学校や教育の、その外の世界の問題であ る。性にめざめる子どもを、おさえる方法など、ない。それは道徳や倫理を超えた世界の問題 である。
が、対処方法はないわけではない。
子どもは、自ら、考える子どもにする。以前、こんな子ども(小3女子)がいた。
たまたまバス停で、出会った。そばに、自動販売機があった。そこでその女の子に、「缶ジュ
ースを買ってあげようか」と声をかけると、その女の子は、こう言った。
「いいです。今、ジュースを飲んだら、お母さんがつくってくれた、夕食を食べることができなく
なります」と。
少ないが、そういう子どももいる。また、私たちは、自分の子どもを、そういう子どもにしなけ
ればならない。
コツは、ただ一つ。欲望に耐えられる子どもにする、こと。
が、現実は逆である。
子どもが生まれると、親はもちろんのこと、親類縁者たちが集まってきて、「蝶よ、花よ」と、子
どもに手をかける。お金をかける。時間をかける。
目一杯、子どもの欲望を満足させてしまう。こうした安易な子育て観が、子どもをして、欲望に
対して、抵抗力のない子どもにしてしまう。性にめざめるころ、その性にのめりこんでしまう子ど もというのは、そういう子どもをいう。
これは私のあくまでも印象だが、小学5、6年生を境に、いわゆる「飛んでしまう女の子」に
は、それ以前に、ある一定の特徴がある。
その第一は、どこか派手になる。第二に、妙におとなびていて、それでいて、おとなをなめる
ような言動が見られるようになる。第三に、それなりに「女」としての魅力を、自ら、意識してい る。
概して言えば、頭がよいほうに属する。あるいは何かにつけてませていて、物知り。どこか、
チャカチャカしている。ファッションにも敏感。そんな感じである。
このタイプの子どもは、小学5、6年生になると、急速におとなびてくる。目つきまで、変わって
くる。以前だが、私にこんなことを言った女の子(中学2年生)がいた。
「先生は、まじめエ?」と。そこで私が、「まじめだよ」と答えると、「何、言ってるの。子どもが
いるくせに」と。
そのときは、その意味がわからなかった。しかししばらくしてから、その意味がわかった。そ
の女の子は、「先生は、セックスをしているのか?」という意味で、私にそう聞いた。その女の 子のいう、「まじめ」というのは、そういう意味だった。
で、その女の子も、いつも携帯電話を片手に、男遊びを繰りかえしていた。が、ここで大きな
問題にぶつかる。そういう事実を、親に伝えるべきかどうかという問題である。
この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。私の仕事は、親から委託された仕事を、
委託された範囲でする。それ以外のことは、相談や、質問があるまで、しない。またしてはなら ない。親に伝えれば、伝えた段階で、私と生徒の信頼関係は、そのまま崩壊する。
それに確たる証拠があるわけではない。遊んでいるらしいというのは、あくまでも、カンであ
る。目つきとか、あやしげな言い方、そういうもので、それがわかる。その女の子も、筆箱の中 に、金製の飾りをもっていた。多分、どこかの男に買ってもらったものだろう。
私が、それを指でつまみながら、「これは、何だ?」と声をかけると、「ウフン〜。いいじゃア〜
ン……」と。なまめかしい声だった。
が、こういうケースでも、つまり性にめざめたとしても、それはそれ。おとなになるために、だ
れしも経験する、「春」である。関門である。中学生だから早いとか、高校生だから遅いとかいう 判断をしている間に、そういう子どもも、あっという間に、おとなになる。おとなの仲間入りをす る。
が、エイズは、そうではない。そうはいかない。体の中に、時限爆弾をかかえるようなもので
ある。しかも感染という方法で、まわりの人たちを、どんどんと不幸にしていく。
S市内のある中学校で、一人の女の子がエイズに感染しているとわかったときのこと。その
話は、生徒から生徒へと、またたく間に、広がってしまった。もちろん親たちにも。
とたん、その学校は、パニック状態。その女の子が、その学校の男子生徒の何人かとも、関
係していたからである。さらにこれは、アメリカのある州立大学での話だが、その大学のフット ボ−ルクラブの学生、60人について調べたところ、何と、15人もの学生に陽性反応が出たと いう。
15人といえば、25%である。いくらエイズ大国とはいえ、これには、大学当局も驚いた。そし
てそのあと、その大学は、その対策に追われ、とても授業どころではなくなってしまったという。
そういう現実が、この日本でも、もう目の前に迫っている。
では、どうするか?
私たち一人一人の親が、賢くなるしかない。その賢さで、子どもを包むしかない。もっとわかり
やすく言えば、自ら考え、行動し、責任をとる子どもにする。その見本を、日常生活の中で、私 たち親が示す。
子どもの世界を守るためには、もう、それしかない。
そうそう、こんな話も、もれ伝わってきている。
そのS市で、エイズになった中学生の親だが、娘がエイズとわかったとき、近くの神社へ行
き、(オハライ)なるものをしてもらったという。そしてその神社の神主の指示に従い、神棚の位 置をかえ、子ども部屋には、別の大きな神棚を置いたという。
この話からも、その親が、いかに狼狽(ろうばい)し、理性を失ったかがわかる。
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(309)
【近ごろ・あれこれ】
●脱北者の人たち
またまた北京の日本人学校に、29人もの脱北者が、かけこんできたという。全員、韓国行き
を希望しているという。
(韓国側の報道によれば、「韓国行きを要求」とある(朝鮮日報)。報道姿勢にも、微妙なちが
いがあるようだ。)
これに対して、K国は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と、赤十字国際委員会に書
簡を送り、脱北者の韓国亡命を阻止するよう措置を求めたという(8・4)。
つまりアメリカや韓国が、そそのかしているから、みな、脱北するのだ、と。ものは考えようだ
が、ここまで事実認識がずれていると、理解に苦しむ。ホント!
で、その脱北者たちだが、韓国へ来ても、自由主義社会への同化に、苦しむようだ。
K国では、ものを共有する意識が強いため、脱北者たちは、「平気で近所の桃を食べたりす
る」(北海道新聞)そうだ。ほかに税金とか、利益という概念が理解できない、など。韓国の大 統領が弾劾(だんがい)裁判にかけられたときには、「反乱ではないかと、(韓国に住む脱北者 たちは)、驚いていた」(北海道新聞)という。
こうした意識のズレを知るとき、同時に、「では、私たち日本人は、だいじょうぶか」という問題
にぶつかる。
たとえば「日本は、人身売買で、監視対象国になっている」(読売新聞・04年8月)となってい
るという。
アメリカ国務省の発表によれば、「日本は、世界の女性や子どもを、性産業に従事させるた
めの目的地になっている」「日本政府は、じゅうぶんな対応能力がありながらも、適切な措置を 怠っている」と。
そういえば、10年ほど前、女子中高校生の援助交際が問題になったとき、アメリカ人の友人
も、驚いていた。「日本では、子どもの売春が、野放しになっている!」と。
一方、家庭の女性たちも、甘い。毎週のように、そういう場所へ、酒を飲みに行くダンナに対
して、一言も、反対しない。文句も言わない。酒を飲みながら、何をしているか、知らないはず はないのだが、知らぬフリをしている。見て見ぬ、フリをしている。
こういう世相の中で、日本では、今、エイズの感染者が爆発的にふえつつある。アメリカでも、
オーストラリアでも、そしてタイでも、エイズの感染を、おさえこむことに成功した。が、この日本 では、ふえつづけている!
日本人というのは、自分に火の粉がかぶってこないかぎり、動こうとしない。長くつづいたあ
の封建時代の圧制の後遺症によるものだが、しかしこういう意識とて、外国へ出てみて、はじ めてわかること。
それにしても、あのK国を見ていると、いろいろと考えさせられる。何というか、ときには日本
の姿を、映しだしてくれるカガミのようにも思える。戦前の日本そのものを、あのK国に見るとき さえある。
徹底した鎖国主義。言論統制。大本営発表。独裁制。軍国主義などなど。朝鮮人の強制連
行という暗い歴史をひきずっているから、日本人が拉致されても、表立って、文句を言うことす ら、できない。
そのK国だが、10月には核実験をするかもしれないという。そして今は、後継者問題で、国
内が揺れているという。さてさて、どうなることやら……。本当に、いろいろと、考えさせられる。
●スケベな話
ワイフが、こう言った。「若いときは、毎日、発情期のようなものだけど、年をとると、発情期
も、1か月に1回くらいになるわね。男は、どう?」と。
男のばあいは、年をとっても、その気になれば、毎日だって、発情することができる。ただし、
その持続力が弱くなる? すぐ関心が、ほかのことにそれてしまう?
……と、私を基準にしてものを考えてはいけないが、発情はしても、シャボン玉のように、すぐ
はじけてしまう。しかしこんな心理を、ワイフに説明するのもめんどうだから、口を合わせて、 「男だって、1か月に一回くらいかなア……」と。
「ただね、このところ、男と女の区別がつかなくなってしまった」と私。
ワイフ「どういうこと?」
私「相撲取りの、あのおっぱいを見ていると、ときどき、女性のおっぱいより美しく見えるときが
あるよ」
ワ「あら、気持ち悪い」
私「だから、相撲取りも、ブラジャーをつければいい」
ワ「ますます、気持ち悪い」と。
生物学的には、男も女も、それほど、ちがわない。性器にしても、もともとは、女体だった体
が、アンドロゲンというホルモンの作用で、クリトリスが、ペニスになる。子宮がおりてきて、睾 丸になる。そのとき、女性の大唇陰の皮ふが、睾丸を包む、陰嚢(いんのう)になる。
構造的にも、つまり色にしても、感触にしても、ちがうと考えるほうがおかしい。クレヨンしんち
ゃんがよくするように、ペニスを、内股へはさめば、見た目には、女性も男性も区別がつかな い。
「若いときは、女性というのは、宇宙人ほど、男の自分とはちがうと感じた。しかし今は、そう
でない。同じ人間と言うより、男と女を、区別して考えるほうがおかしい」と。
しかし、男も、女性を意識しなくなったら、おしまい。ただ私のばあい、母親という女性たちの
世界に身を置いて仕事をしているから、実のところ、それもめんどうになってきた。恐らく今の 私なら、若い女性と混浴風呂に入っても、平気で雑談ができると思う。
「今度、どこかの温泉で、若い女性といっしょに、混浴にでも入ってみるか」と言うと、すかさ
ず、ワイフが、こう言った。
「バカねえ。だからあんたは、オメデタイのヨ。相手の女性がいやがることが、どうしてわから
ないの!」と。
なるほど! そうだった! ハハハ。
●Ambitious Japan
今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いてある。
「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在の北海道大学)を
退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitious!」と言ったという。
日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。
その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。実は、私も、そう思う。つ
まり、正しくないと思う。「ambitious」というと、「野心的な」という意味。反対に、小さな世界で、 こじんまりと生きている人のことを、「ambitious」とは、言わない。
そういう意味での、「ambitious」である。「大志」というと、どこか出世主義のにおいが、プン
プンとする。明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、しかしアメリカ人のクラー ク博士に、そういう意識があったかどうかは、疑問である。
あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味ではない
のか。英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、前に進め」というニュアン スを感ずる。どこか荒々しく、乱暴。
たとえば会話でも、「He is an abitious man.」と言ったときは、その彼をほめるという
よりは、「彼はやり手」という意味で使う。
私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少なくとも、
「大志を抱け」という意味ではない。
で、その新幹線。私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。この不況下。みん
な、どこか元気をなくしている。自信をなくしている。
しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがんばって
いるな」と思う。「捨てたものではないな」と思う。
先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すでにその新
幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。
韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。中国は、これからである。が、日本では、
35年以上!
「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Ambitious
Japan」である。
多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉を考え
たのだろう。けだし、正解である!
で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見て、中には、「日本
よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。それについては、ここで、「その 訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておきたい。
さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!
●内側論
ある女性(H市、KYさん)から、こんなメールをもらった。
「……少し考えてみました。
私は内側を向いて生活しています。
内側とは自分自身それから主人、子供側ということです。
例えばPCも夜はある程度で閉店、家族一緒に
お風呂・夕食をするために、18:00以降の予定は入れないとか。
ある意味では、すごく自己中心的だと思いますが
我が家では、いつしか定着した日常です。
この内側向きの積み重ねが今です。
悪くないです。」と。
私も、考えた。とくにこの中の「内側」という言葉に、心がひかれた。
KYさんが言う「内側」というのとは、「家庭を守り、家族を大切にする」という意味である。その
中で、KYさんは、たとえば「午後6時以後は、予定を入れない……」などと、書いている。
こうした家族どうしの取り決めは、家族を守るためには、とても重要なことかもしれない。で、
私のばあいを考えてみた。英語でも、「ハウス・ルール」という。たとえば前にも取りあげたが、 「クリスマスにせよ、誕生日にせよ、家族どうしのプレゼントは、買ったものはだめ」というのも、 それにあたる。
ほかに、土日は、仕事の予定を入れないとか、夕食はいっしょに食べるとか、いろいろあっ
た。「あった」というのは、息子たちがまだ小さかったときのことをいう。今は、とっくの昔に崩壊 している。また、一応、私の家もそう決めてはいたというだけで、しかし必ずしも、守っていたわ けではない。
【ハウス・ルール】
第一条総則
家族は、守りあい、助けあい、教えあい、いたわりあい、いっしょに住む。家族が困ったときに
は、力を貸し、知恵をだしあう。
第二条、約束
家族は、家族どうしでした約束の実現に向けて、最大限努力する。ウソをつかない、自分を
飾らない、そして自分の心を偽らない。
第三条、尊重
家族の上下意識をなくし、たがいの命令はしない。干渉はしない。子ども部屋や机の中はの
ぞかない。たがいの悪口は、言わない。
ほかにもいろいろあるが、こうしたルールを、しっかりとつくっておくことは、大切なことではな
いか。
さて、KYさんについて。
私のワイフも、よく似たところがある。ときどき、「お前には、やりたいことがないのか?」と聞く
と、ワイフは、「みんなが幸福なら、それでいい」などと答える。これは私のワイフのばあいだ が、ワイフは、名誉や地位には、まったくと言ってよいほど、関心がない。若いころからテニス をしているが、まったく上達しない。
そこである日、「どうせ練習するなら、ウインブルドンにでも出る覚悟でしたら? ミセス・シニ
ア杯というのもあるのでは?」と言うと、やはり、「私はみんなと楽しくやれば、それでいい」と。
すべてを先回りで、悟っているとか、そんな雰囲気である。多分、KYさんも、そうかもしれな
い。
その点、男というのは、バカなところがある。私も含めてだが、価値のあるものを粗末にし、
一方、それほど価値のないものに、執着する。あとは、その繰りかえし。何のことはない、私た ちが求めている幸福というのは、すぐそばにある。すぐそばにあって、私たちに見つけてもらう のを、息をひそめて、静かに待っている……。
何気ない言葉だが、私は、KYさんのメールを読んで、心を少し洗われたような気分になっ
た。忘れかかっていた何かを、ふと思い起こされたような気分である。
KYさん、ありがとう! 私ももう一度、内側を見つめなおしてみます!
●学習意欲の低下
子どもたちの学習意欲が、低下しているという。
ベネッセ未来教育センターの調査によると、
子どもの学力が低下していると思うか……かなりそう思う。(6・2%)
やや思う。(47・0%)
子どもの学習意欲が低下していると思うか……かなりそう思う。(16・3%)
ややそう思う。(51・1%)
家庭の教育力が低下していると思うか……かなりそう思う。(50・5%)
ややそう思う。(40・8%)
この調査は、全国の市区町村の、3225人の教育長を対象になされた(03年9月〜10
月)。
この調査結果からわかることは、全国の教育長は、「家庭の教育力については、91%近く
が、低下していると思い、67%が、子どもの学習意欲が低下している」と思っているというこ と。
このことは、私も実感している。が、考えてみれば、これはおかしなことだ。
少子化の流れの中で、出生率は、1・29にまでさがっている。一人の女性が、生涯に産む子
どもの数が、1・29人(2003年度、厚生労働省)だという。
子どもの数が減った分だけ、それだけ子どもの教育に対する密度が濃くなるはず。またそれ
だけ、ていねいになるはず。が、現実は、その逆である。なぜか?
これはあくまでも私の実感だが、今、家庭教育は二極化が進んでいると思う。ていねいで、ま
すます密度が濃くなる家庭がある一方で、放任で、ますます無責任な家庭がふえているという こと。たとえばどこの学校に講演に行っても、必要以上に教育に熱心な親が話題になる一方 で、家庭崩壊、育児崩壊の家庭が、話題になる。
ある学校の校長は、こう話してくれた。
「熱心は、熱心なのですが、どこかピントがずれている親が多いのも、事実です」と。たとえば
ささいな問題を、針小棒大に考えて、結局は、大局を見失ってしまうと。
「たとえば茶髪の子どもがいたとしますね。それで茶髪は好ましくないと、親に伝えると、『個
人の自由だ』『個性だ』と、反論してきます。そこで何度か、その親と面談して、説得にかかるの ですが、中には、まったく応じてくれない親もいます。
さらに、子どもどうしのちょっとしたけんかを、そら、いじめと騒いだり、先生のちょっとした言葉
の言葉尻をつかまえて、教師の言葉としては、不適切だとか……。実際に、こういうことを繰り かえしていると、現場の教師は萎縮してしまいます」と。
今、現場の先生たちは、本当に悲鳴をあげている。通常の学力指導のほか、本来なら家庭
で親がすべき家庭教育まで、押しつけられている。ベネッセ未来教育センターのした調査結果 の裏には、こんな事実が隠されている。
(はやし浩司 学力 子どもの学力 学力低下)
●授業料
長引く不況のせいか、「私立より公立」と考えている親が、ふえているという。しかし実態は、
どうなっているのか?
そこでインターネットを使って、どうか、調べてみた。まず、学費についてだが、文部科学省の
2002年度の調査によると、つぎのようになっている。
公立中学校の年間平均授業料は、 43万7000円。
私立中学校の年間平均授業料は、123万2000円、だそうだ。
この数字を見るかぎり、私立中学校の年間平均授業料は、公立中学校の約3倍ということに
なる。決して、安い額ではない。月平均になおすと、私立中学校では、10万円ということにな る。が、実際には、これではすまない。すまないことは、親なら、だれでも知っている。
さらに調べてみると、実際には、私立を希望する親がふえているという(日能研)。
2004年度の首都圏の私立中学校受験率は、14・8%。この数字は、15年前にくらべると、
5%もふえているという(横浜市で調査)。「私立のほうが、よりよい授業を受けられそう」という ことだそうだが、実際には、公立中学校の教育力の低下が理由の第一と考えてよい。
こういった数字を並べてみると、日本の親たちは、「私立は、学費が高いから、できるだけ公
立を。しかし子どもの将来を考えると、やはり私立を」と考えているのがわかる。しかしそれは、 そのまま、親たちの迷いととらえてよい。
しかしそれにしても、本当に、この日本では、子育てに、お金がかかる。私は、この問題を、
すでに20年以上も前から取りあげているが、一向に改まる気配がない。政治の貧困という か、無責任というか……。このままでは、日本の少子化は、ますます進む。進まざるを、えな い。
だれがこんな国で、子どもを育てたいと思う? ほんの少しだけ、ものごとは、冷静に考えて
みろ!
【補記】
出生率(合計特殊出生率)が、1・29人になった。が、それ以上に、実は問題になっているの
が、女性の「第1子出生年齢」。第1子をもうける女性の平均年齢が、年々、高くなっている。
1950年代……平均24・4歳
1970年代……平均25・6歳
1990年代……平均27・0歳
2003年 ……平均28・6歳(厚生労働省・人口動態統計)
たった半世紀で、約4・2歳も、遅くなってきている。経済的理由、晩婚など、いろいろ理由は
あるのだろう。しかしその分だけ、つまりより高齢化する分だけ、第2子が産みづらくなる。少子 化の背景には、こんな問題も隠されている。
(はやし浩司 少子化 晩婚 出生率)
●夢のない子どもたち
ロシア・北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠事件は、小学生たちにも、強い衝撃
を与えた。
どの小学生も、顔をあわせると、その話を始める(9月6日)。「みんな殺された」「裸にされ
た」「爆弾で吹っ飛ばされた」と。
こういう話は、決して好ましいものではない。やがて子どもたちの心を、ボディブローのよう
に、むしばみ始める。おとなたちのへの不信感、未来への不安感となって、はねかえってくる。
そこで私は、「そんな事件は例外だよ」「この日本では、ありえないよ」と、必死になって、それ
を打ち消す。が、焼け石に水!
そうでなくても、子どもたちから、夢が消えつつある。「明日は、きっといいことがある」と思っ
て、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国 の小学生3226人を対象に、04年度調査)。
子どもだから、明日という未来に向かって、夢や希望をいだきながら生きているというのは、
もはや幻想でしかない。
が、否定的なことばかりを言っていてはいけない。
私たちは、親として、子どもの夢や希望を前向きにとらえていく。これを発達心理学の世界で
も、役割形成という。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、すてきな 仕事ね」と言ってあげる。
「明日は庭に、花を植えてあげましょうね」「今度、テーブルを花で飾ってあげましょうね」と。
こういう前向きなストローク(強化)が、子どもに夢をもたせる。そしてそれが子どもをさらに前
向きに、ひっぱっていく。
つまりは、子どもたちに夢をもたせるのは、親の役目ということになる。決してむずかしいこと
ではない。が、実際には、世の親たちは、子どもの夢を破壊しながら、それに気づいていない。
「あなたも、Mさんのような宇宙飛行士になるのよ」「でも、今の成績では無理ね」「もっと勉強
しなければ、S中学校へは入れないわよ」と。
こうして子どもたちは、役割混乱を起こす。心理的にも、情緒的にも、きわめて不安定な状態
になる。その役割混乱の深刻さについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。
子どもたちから夢が消えたのは、あくまでも、その結果でしかない。今度のベスランで起きた
学校占拠事件は、さらに、それに拍車をかけた?
●もの知りの子どもより、深く考える子どもを!
心の抵抗力は、「考える力」によって、決まる。その抵抗力が、子ども自身を、守る。
たとえばインターネットや、携帯電話を使った、「出会い系サイト」というのがある。凶悪犯罪
の温床にもなっている(04年度、「青少年白書」)。
こうした出会い系サイトは、もはやコントロール不能状態にあるとみてよい。それはたとえて
言うなら、性病のようなもの。もう、この日本には、出会い系サイトにしても、性病にしても、そ れらからのがれる場所は、ない。方法も、ない。
そこで最後の砦(とりで)は、子ども自身の「力」ということになる。「抵抗力」と言ってもよい。
つまりは、子ども自身を、「自ら考える子ども」にするしかない。
が、いまだに幼児教育というと、知育教育と考えている人が多い。知識を身につけさせること
が、幼児教育というわけである。英会話を覚えさせ、掛け算の九九を暗記させる。それが幼児 教育、と。
決してムダだとは思わないが、しかしそれだけでよいとは、だれも思っていない。とくにこれか
らの日本では、そうだ。
で、どうしたらよいのか? 子どもを自ら考える子どもにするのは、どうしたらよいのか?
方法は、もう一つしかない。親自身が、自ら考える姿勢を、子どもに見せることである。そうい
う環境で、子どもを包む。親が、意味もないバラエティ番組を見てゲラゲラと笑っていて、どうし て子どもを考える人間に育てることができるだろうか。
ちなみに、「子どもに見せたくない番組」(PTA全国協議会調査)としては、つぎのような番組
があげられている。
ロンドンxxx(テレビ朝日系)
水xx!(フジテレビ系)
クレヨンxxちゃん(テレビ朝日系)
めちゃ2xxxxッ(フジテレビ系)などがある。
こういう番組を、あなたの子どもが好んで見ているようなら、あなたの子どもに将来はない(失
礼!)。
●文字の誤解
インターネット時代になって、文字による誤解が、問題になっている。会話とちがって、文字に
は、独特の雰囲気がある。わかりやすく言えば、文字は、それを読む、読む人側の心理状態 で、読む。
たとえばあなたがAさんに対して、あまりよい印象をもっていなかったとする。そういうAさんか
らメールが届く。
内容は、こうだ。
「せっかくだけど、今度の同窓会、やめるわ。気分を悪くしないでね。じゃあ、バ〜イ!」と。
あなたは、このメールを、礼儀を知らない、失礼なメールだと思う。そしてこう憤慨(ふんがい)
する。「いやなヤツ!」と。つまりその時点で、Aさんに対する印象を、さらに悪くする。
こういう例は、多い。本当に多い。だから、私のばあい、返事を書くのも、おっくうになる。てい
ねいに書くのもめんどうだし、さりとて、簡潔な返事を書けば、このAさんのように、私を誤解す るかもしれない。
さらに携帯電話の延長のようなメールも、多い。会話そのままというようなメールである。こう
なると、さらに誤解が多くなる。
私はすでに旧世代の人間かもしれない。しかし住所や名前のわからない人に返事を書いて
いると、言いようのない不安感に襲われる。だから実際には、返事を書かない。(若い人は、そ の点、平気なのかもしれない。今度、みんなに聞いてみようと思っている。)
情報のやりとりが、それだけ気楽になってきているということか。だからこそ、やはり、それだ
け、誤解が多くなるということ。だからこそ、ますます慎重にならざるをえないということになる。
さらに文字情報の限界というか、何人かの人と同時に交信していると、頭の中で混乱し、区
別がつかなくなることがある。
たとえば「min-ton」という名前の人から、メールが届く。そしてその人に何かと、不愉快な思
いをさせられたとする。(実際には、私の誤解によるものだと思うが……。)
つぎに今度は、「cha-san」という人からメールが届いたとする。どこか雰囲気が似ている
(?)。そう思っただけで、その人への印象が決まってしまう。
さらに困るのが、子育て相談。北海道のXさんの相談に答えているとき、九州のYさんから相
談のメールが入る。同時に相談に返事を書いていると、何がなんだか、わけがわからなくなっ てしまう。
で、それで終わればよいのだが、数日後、Xさんから、「先日の件で……」とあると、さあ、た
いへん! さらに「あの件で……」とか、「あれからあのことは……」とあると、さらにたいへん! もう、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。
どこかで顔を見たとか、会話をしたとかいうことがあれば、頭の中で、その人のイメージをつく
ることができる。つくりながら、返事を書き、そのまま頭の中を整理することができる。しかしイ ンターネットでは、それができない。だから余計に混乱する。
こうした誤解が、事件につながることもあるという。(こわいぞ!)どこかの小学校で起きた、
児童による殺傷事件の背景にも、インターネットがあったと言う人もいる。決して、この問題 は、安易に考えてはいけない。
さて、みなさんは、こうした問題を、どう処理しているだろうか。それとも、この問題は、ボケが
始まった、私の個人的な問題なのだろうか。(ゾーッ!)何かよい方法はないものかと、あれこ れ考えている。
【補記】
あちこちの「相談サイト」などをのぞいてみたが、「相談」を受けつけているサイトは、今のとこ
ろ見つかっていない。たいていはそれぞれが掲示板に書きこんで、それにだれかが返事を書く というシステムになっているよう。
やはり、私のようなサイトで、相談を受けつけることには、いろいろ問題があるということか。
今後の活動については、要検討課題。
みなさんも、できれば相談ごとは、掲示板のほうに書きこんでください。よろしく、お願いしま
す。
【補記2】
以前、電話相談を受けつけていたときも、同じような経験をした。そのためある時期、午前中
のほとんどが、それでつぶれてしまったことがある。大半の方は、私のこうした活動を好意的に 理解してくれた。
しかし中には、時間をかまわず電話してくる人がいた。名字くらいはみなさん、話してくれた
が、ほとんどの人は、住所など言わない。こちらも、事情が事情だから、聞かない。中には、明 らかに偽名という人もいた。
そこで電話相談は、午前中のみとしたが、それを知らない人は、土日とか、真夜中に、電話
をかけてきた。
そこで心を鬼にして、03年の4月1日からは、すべての電話相談を断ることにした。そのか
わり、今度は、インターネットでの相談に、力を入れることにした。が、今度は別の問題が起き てきた。ここに書いた問題は、その一つである。
やがて、テレビ電話のようになり、相手の顔や、子どもの様子をみながら、たがいに連絡を取
れるようになるのかもしれない。そうなれば、文字情報がもつ限界というカベを破ることができ るかもしれない。今は、その過渡期ということか。
***********************
【無料マガジンをご購読のみなさんへ】
できれば、有料版「まぐまぐプレミア」を
ご購読ください。一か月200円の負担と
いうことになります。
今のところ、無料版、有料版ともに内容は
ほとんど、同じです。
よろしくお願いします。
***********************
●自己愛者
自己愛が肥大化するから、自己中心的になるのか。それとも、自己中心性がきわまるから、
自己愛者になるのか。
どちらにせよ、自己愛者は、生活のあらゆる面で、ものの考え方が、自己中心的になる。
が、ここで重要なことは、自己愛者自身が、自分がそうであっても、それに気づくことはまず、な いということ。
このことは、自己中心的な人を見ればわかる。自己中心的でありながら、その人が、それに
気づくことは、まずない。自分が自己中心的であるということは、その人が、自己中心的でなく なったときはじめて、わかる。
生きザマというのは、そういうもの。脳のCPUに関係しているから、自分の生きザマを客観的
に知るということ自体、たいへんむずかしい。
その自己愛の特徴として、ここであげる(1)異常なまでの自己中心性のほか、(2)他人を信
じない完ぺき主義、(3)他人の批判を許さない。批判されると、極度の緊張状態に置かれるな どがある。
こうした現象は、子どもの世界では、顕著に現れる。というのも、子どもというのは、成長とと
もに、自己中心性から、利他的思考へと、自分を転換させる。(自己中心的なまま、おとなにな る子どもも、少なくないが……。)
総じてみれば、幼児は、すべて自己愛者である。その幼児が、成長とともに、その自己愛か
ら、他人の立場でものを考えることができるようになる。
こんなことがあった。
幼児から、小学生にかけて、かなりはげしい多動性を示した子どもがいた。幼稚園でも、そし
て小学校に入学してからも、毎日のように問題を引き起こした。
しかしそんな子どもでも、小学3、4年生を境に、少しずつだが、落ちつきを見せるようになっ
た。自己意識で、自分をコントロールできるようになったからである。
その子どもが、中学3年生になり、いよいよ卒業ということになったときのこと。私は恐る恐
る、その子どもにこう聞いてみた。
「君は、小さいころ、先生や友だちに、かなり迷惑をかけたが、それを覚えているか?」と。
するとその子どもは、ケロリとした表情で、こう答えた。
「ううん、ぼくは何も悪いことをしてないよ。先生も、みんな、ぼくが何も悪くないのに、毎日、目
のカタキにして、ぼくばかりを怒った」と。
その子どもは、自分のことが何もわかっていなかった。私はその子どもを見ながら、改めて、
自分を知ることの難しさを、思い知らされた。恐らく、その子どもは、おとなになっても、自分が 多動性のある子どもだったと気づくことはないだろう。教職の道に入り、ADHD児についての研 究者になっても、自分に気づくことはないだろう、と。
自分を知るということは、そういうことをいう。
ところで、話は、ぐんとそれるが、ブルース・ウィリス主演の映画に、『シックス・センス』という
映画がある。自分はすでに死んでいるのに、自分が死んでいるということに、最後まで気がつ かないという、あの映画である。
あの映画では、最後に、ブルース・ウィリス演ずる、小児科医のマルコム・クロウは、実は自
分自身が幽霊であったことを知る。私はあの映画を見たとき、そういった衝撃というのは、日常 の生活の中では、よくあることではないかと知った。
たとえばあのソクラテスは、『無知の知』という、有名な言葉を残している。「自分は無知であ
るということを知る」という意味である。それなども、その一つである。
あるとき自分がより高度な知恵を手に入れたとき、それまでの自分が、いかに無知であった
かを思い知らされる。あるいは、ある男性は、こう言った。「マザコンというのは、他人のことと ばかり思っていましたが、自分がそのマザコンだったと知ったときは、強いショックを受けまし た」と。そういうことは、よくある。
同じように、自己中心的な生き方をしていた人が、ある日、何かのきっかけで、その自分の
自己中心性を思い知らされることがある。とたん、それまでの自分の生きザマが、つまらないも のであったかを知る。
これなども、どこかあの『シックス・センス』に似ている。……という意味で、あの映画をとりあ
げてみた。
実は最初にも書いたように、自己愛者は、自分がその自己愛者であることに、気づくことはま
ず、ない。自分が、自己愛から離れてみて、それまでの自分が、自己愛者であったことに、はじ めて気づく。
そこで自己診断ということになるが、つぎの点で、いくつか自分に当てはまることがあるなら、
あなたは、その自己愛者と思ってよい。
( )完ぺき主義で、他人に仕事を任せられない。
( )何でもかんでも、自分の思いどおりにならないと気がすまない(完ぺき主義)
( )この世界では、当然のことながら、「私」が一番、大切。
( )自分がいちばん正しい。ふだんの会話も、命令口調が多い。
( )まわりが自分を認めないときは、逆恨みしたり、不平不満をもちやすい。
( )他人に批判されたり、批評されるのを好まない。
( )他人に批評されたりすると、狼狽したり、混乱状態になる(自己の無謬性)。
( )独断性が強く、わがまま、自分勝手、自己中心的(自己中心性)。
( )孤独で、さみしがりや。友人が少なく、他人に気を許せない。
( )他人に心を許すことができない。そのためどうしても、ウソが多くなる。
( )ときとして常識ハズレ、過激な行動にでやすい(社会性の欠落)。
( )自分を飾り、仮面をかぶることが多い。よい人に見せる。
( )そのため他人と交際すると、必要以上に神経疲労を起こしやすい。
こうした自己愛が自分に見られたら、利己から利他への転換をはかる。他人の心の中へ一
度、自分を置き、その状態から、その人の目を通して、あなた自身をみつめてみる。その訓練 を繰りかえす。
これを繰りかえしていると、自分から自分が離れ、相手の立場になって、ものごとを考えられ
るようになる。と、同時に、自己愛から、自分を解放させることができる。
自己愛そのものは、孤独な生き方である。そして自己愛者の多くは、自己愛的に行きなが
ら、それが「私らしい生き方」と、誤解している。しかし自己愛は、決して、個性的な生き方では ない。もちろん望ましい生き方ではない。
自己愛者が孤独なのは、いわば自業自得。しかし同じように、その周囲の人も、孤独にな
る。親子や夫婦でありながら、心の通わない状態がつづく。私の印象では、自己愛者の親ほ ど、子どもと断絶しやすい。あるいは夫か妻か、どちらか一方が自己愛者であると、離婚しや すい。統計的な数字があるわけではないが、実感として、そう思っている。
実際問題として、自己愛者の人というのは、つきあうのに苦労する。一見、愛想がよく、ひと
づきあいもそれなりにうまい。しかし心は、閉じたまま。本人も疲れるが、その緊張感を感じた とき、つきあう側も、疲れる。
ただここにも書いたように、自己愛者が、自分が自己愛的であることに気づくことは、まずな
い。自分が自己愛的であるかどうかは、自分自身が、利己から利他へ、転換できたときに、は じめてわかる。
もしあなたが、ここでいう自己愛者であるなら、私が書いたことを参考に、自分の姿を客観的
に知るのもよいだろう。あの『シックス・センス』の中でブルース・ウィリスが覚えたような衝撃 (?)を、あなたも経験するのではないだろうか
(はやし浩司 自己愛者 自己愛 シックス・センス ブルース・ウィリス)
【ある自己愛者】
自己愛者の最大の特徴は、その自己中心性である。自分のことしかしない。自分のことしか
考えない。自分にとって利益のあることは、仮面をかぶってでも、それをする。しかし自分が損 をすることは、まったくしない。
ときに他人に対して献身的に行動することはあるが、それ自体も、どこかで自分の利益を誘
導するため。自分のことをよい人だと思っている人の間では、すこぶるよい人を演ずる。しかし その一方で、自分のことを批判する人や、批評する人を許さない。ときに、徹底的に、その人 を攻撃したり、排斥したりする。
自己愛者は、自分をよく見せるために、細心の注意を払う。仮面をかぶることも多いし、当
然、ウソも多い。だから他人に気を許せない。気を抜かない。どこかピンとした緊張感が走る。 この緊張感が、まわりの人を、息苦しくする。
が、自己愛者は、孤独。さみしがりや。他人との良好な人間関係を築くことができない。その
ため、神経疲労を起こしやすい。他人と少しまじわっただけで、神経をすり減らす。偏頭痛など を訴える。他人に対して心を開けない分だけ、集団行動が苦手。
その一方で、気を許した人の間では、わがまま、独断、命令口調が多くなる。その人を自分
の思いどおりに動かそうとする。そのため、完ぺき主義に陥りやすい。
S氏(60歳)が、そういう人だった。今は、もうなくなってしまったが、自分のことしかしない、自
分勝手で、わがままな人だった。奥さんや子どもにすら、自分の心を開くことはなかった。どこ か権威主義で、家父長意識が強かった。死ぬまぎわまで、「葬式だけは、しっかりとしてくれよ」 が、口ぐせだった。
が、実際には、S氏の葬儀ほど、静かで、ものわびしいものはなかった(知人の弁)。通夜に
訪れた人も、ほとんどいなかった。たぶん、S氏には、それがわかっていたのではないか。自 己愛者というのは、そういう人のことをいう。
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(310)
【近況・あれこれ】
●モデムがおかしい?
このところ、ADSLが、断線することが多くなった。プロバイダーの不調かと思ったが、あちこ
ちへ電話をかけてみると、どうやらモデムのほうに、原因があることがわかってきた。T電話会 社の管轄である。
さっそく、新しいモデムを送ってもらうことにした。が、ふと、言いようのない不安感。
以前、電話回線からADSLに切り替えたときの悪夢が、どんと襲ってきた。簡単にはことは
運ばない。あのときも、ああでもない、こうでもないと、四苦八苦している間に、数日がたってし まった。
「簡単に交換できますか?」と聞くと、「マニュアルどおりにしてくだされば……」と。
この「マニュアルどおり」という言葉が、くせもの。しかし、交換するしかない。今日当たり、そ
のモデムが、送り届けられてくるはず。それにしても何かしら、いやな予感!
(もし、楽天日記の配信が止まるようなことがあれば、ADSLの調整ミスと、思ってください。)
●父親と風呂の入る娘
三重県のKさん(母親)から、メール。「中学生にもなった娘が、いまだに父親といっしょに風
呂に入っています。だいじょうぶでしょうか?」と。
そこでインターネットを使って調べてみる。
それにしても便利になったものだ。昔なら、1日がかりの調査が、瞬時にできる。しかも図書
館へ行く必要がない。どこかへ電話をかける必要もない。
日記を配信してもらっている、楽天での調査結果をヒットした。
それによると、
360人の父親のうち、11%が、娘をもちながら、「いっしょに風呂に入ったことはない」と答え
ている一方、「娘が12歳以上になった今も、いっしょに入っている」と答えた人が、13%もいる ことがわかった(インフォシーク社調査、04年5月)。
この調査によると、50歳以上の父親は、娘と入ったことがないと答える一方、若い父親ほ
ど、娘が大きくなっていっしょに入る傾向が大きいことがわかった。
ちなみに、
7歳以上〜10歳未満……38%
5歳以上〜 7歳未満……20%
10歳以上〜12歳未満……17%
12歳以上 ……4%、だそうだ。
つまり中学生の女子のうち、約100人のうち、4人は、父親といっしょに風呂に入っているこ
とになる。三重県のKさん、安心しましたか?
ただ近親相姦とか、そういう問題もないわけではない。私のところにも、よく、「娘のころ、父
親に性的虐待を受けました」というメールが届く。
しかしいっしょに風呂に入る間がらでは、問題はないのでは……。私もかなりスケベなほうだ
が、自分の教え子には、まったく色気を感じない。(本当に感じない。)
それは、おそらく幼児のときからの生徒だからではないのか。ただ誤解を招くといけないので、
女児(女子)のばあいは、頭と手以外は、触れたことがない。
これはこの世界に入るとき、当時の幼稚園の園長に、きびしく言われたからである。「どんな
ことがあっても、女の子を抱いたり、さわったりしてはいけない!」と。その教えは、今でも、しっ かりと守っている。
【補注】
男児のばあいは、私は平気で、抱いたりすることができる。「先生は、チューイ(注意)はしな
いぞ。チューをするぞ」と、男児を追いかけまわすこともある。
実際、チューをしたことも何度かある。が、誤解しないでほしいのは、横で母親が参観してい
るとき、その母親の了解を求めた上で、そうしている。
私「お母さん、A君にチューしますよ」
母「いいです、いいです。してあげてください」
私「さあ、チューするぞ、チューするぞ」
子「やれるもんなら、やってみろ!」と。
ふざけて遊びながら、子どもの心をほぐすことも、時には必要。しかしときどき、私は、こう思
う。
「もし、学校の先生がこんなことをしたら、一回で、クビが吹っ飛ぶだろうな」と。
信頼関係というのは、そういうもの。それに甘えてはいけないが、私の教室には、その信頼
関係が、充満している。ホント!
●幼児
幼児といっても、2、3歳児と、4、5歳児は、まったく別人種と考えてよい。さらに0〜2歳児
と、2、3歳児は、まったく別人種と考えてよい。
私は、4〜6歳児のことなら、よく知っているが、0〜4歳児のこととなると、まったくと言ってよ
いほど、わからない。本で読んだり、今の仕事の延長として、常識的なことを知っているにすぎ ない。
そういう前提で考えるなら、幼稚園の3歳児入園には、いろいろと問題がある。「今までは4
歳児入園だったが、今度から3歳児入園にします」と、つまりそうは、簡単にはいかないという こと。
たとえば3歳児のばあい、保育園などでは、排便のしつけが、大きな問題になる。「排便」で
ある。
もともと「教育」を売り物にする幼稚園が、「排便」である。こうした矛盾というか、現場のとまど
いは、どこの幼稚園にもある。
今度、政府は、構造改革特区に、幼稚園の3歳児入園を認めることにした(03年度より)。構
造改革特区として認められたのは、長野県の一部、岩手県の一部、佐賀県の一部、山口県の 一部である。が、現場の先生たちの評判は、よくない。
その理由の一つが、ここにあげた、排便のしつけ、など。「まだ最低限の生活習慣が身につ
いておらず、指導に手が回らない」(文部科学省)ということらしい。幼児を知らない人は、2、3 歳児も、4、5歳児も、幼児は幼児。同じと考えるかもしれないが、冒頭にも書いたように、まっ たく別人種と考えたほうがよい。
さらに4、5歳児と、小学生は、まったく別人種。どこがどうちがうかと書き始めたらキリがない
が、「小学校の先生だから、幼児のことぐらい知っているだろう」とか、その反対に、「幼稚園の 先生だから、小学生のことを知っているだろう」と考えるのは、まったくの誤解。誤解というよ り、幻想。
このあたりにも、私は、幼児教育に対する無知と偏見が、蔓延(まんえん)していると思う。そ
の重要性から考えたら、幼児教育は、中学、高校の教育よりはるかに重要。奥が深い。子ども が進むべき方向性のことを考えたら、この時期にすべてが決まる。
中学、高校、さらには大学の教育などというのは、まさに幼児教育の燃えカスのようなもの。
これが35年以上、満4、5歳児から、高校3年生までみてきた私の、偽らざる実感である。
(私としては、それがわかってもらえなくて、歯がゆくてならないのだが……。)
こうした幼稚園の入園時期の緩和は、定員割れしている幼稚園の救済策と考えてよい。少子
化で、園児が少なくなった。だから3歳児入園というわけである。
04年度からは、鳥取県の一部など、全国の18地域でも、緩和されることになった。
●熟睡できぬ恐怖
このところ、私の最大の悩みは、睡眠調整がうまくできないこと。ちょっとしたことで、この睡
眠規則が、乱れてしまう。そして一度乱れると、あとは乱れっぱなし。もとにもどすのに苦労す る。
たとえば病院で出してもらった、睡眠導入剤がある。俗にいう、睡眠薬である。この睡眠薬に
も、いろいろあるらしい。
のむと、眠くなる薬。明け方まで、ぐっすりと眠れる薬。さらに長時間、眠れる薬など。
私のばあい、明け方までぐっすりと眠れる薬ということらしいが、丸々1錠ものむと、あとがた
いへん。いつもなら、6、7時間で目が覚めるが、それをのむと、9、10時間も眠ってしまう。
しかも明け方から目を覚ますまでの間、幻覚症状が現われる。夢か現実か、わけがわからな
くなってしまう。(自分でもおもしろいと思うのは、目を覚ます夢を見ること。目を覚まして、起き て、朝食を食べるのだが、それが夢だったりする。)
そこでその1錠を、ナイフで、5分の1から、10分の1ほどに、割って、舌の先で溶かしての
む。が、それでも、眠りすぎてしまう。が、そのあとまた別の問題が起きる。
翌日は、一日中、神経がピリピリする。さらにその反動というか、つぎの夜、床についても、眠
れなくなってしまう。体のほうが、勝手に、「昨日はよく眠ったから……」と、判断してしまうため ではないか。(多分?)そう思って、自分をなぐさめる。「足して2で割ればいい……」などと、考 えることもある。
だから結局は、その薬の世話になることは、めったにない。
そういう私をよく知っているから、たとえば何かのアレルギー症状で、夜、熟睡できない子ども
の話を聞いたりすると、胸がつまる。本当に、つまる。何というか、生きているのもかわいそうと いう感じにすら、なる。
私自身も、20代のはじめから、50歳になるころまで、あの花粉症で苦しんだ。2月の終わり
から、5月の連休まで、例外なしの、毎年、である。あの苦しみは、花粉症になった人でない と、わからないだろう。一時は、沖縄への移住すら、考えた。沖縄には、杉の木がないと言わ れている。
50歳になる少し前、どういうわけか、ウソのように花粉症は消えたが、今度は、睡眠障害
(?)である。ワイフは、「夜遅くまで、原稿を書いているからよ」とよく、言う。それも理由の一つ かもしれない。
しかし私のばあい、こうして頭の中のモヤモヤを、文章にしてたたき出さないと、かえって寝つ
かれなくなってしまう。だから、書く。
で、そのアレルギー症状だが、相変わらず、患者がふえているという。
厚生労働省の「2003年保健福祉動向調査」によると、アレルギー症状に苦しんでいる人
が、国民全体の3人に1人もいるという。
アレルギーのような症状あり……35・9%(うち、14・7%は、診断あり)
アレルギーのような症状なし……59・1%
その中でも、大都市に住む子どもの患者が、ふえているという。原因は、いろいろ考えられて
いる。環境汚染、住環境の特殊性など。しかしこれらの子どもの多くが、睡眠障害で苦しんで いることを忘れてはならない。
私のよく知っている子どもに、N君(小3男児)という子どもがいる。そのN君は、ぜん息で苦し
んでいる。睡眠不足と、服薬で、いつもボーッと青白い顔をしている。そういうN君を見るたび に、本当に胸がつまる。「苦しいか?」と声をかけると、一応、にっこりと笑って見せるが、それ は私自身の姿でもある。
少し話が飛躍するかもしれないが、文明というのは、生活をたしかに便利にはした。しかしそ
の一方で、何かしら同時に、もっと大きなものを犠牲にしたような気がする。その一つが、ここ で考える「静かで、豊かな眠り」である。
さて、実は、今朝も、午前4時に目を覚ましてしまった。このところ、一連の地震が起きている。
今朝は、それが直接の理由だが、しかしそれだけではない。
で、いつも不思議に思うのは、私のワイフには、睡眠障害がないということ。ふとんの中に入
ったら、すぐ熟睡。しかも朝まで、ほとんど目を覚まさない。ときどき、「夜中に目を覚ました」と 言うことはあるが、私のように起きてしまうことは、ない。
性格のちがいというよりは、脳ミソの構造そのものが、ちがうように思う。
ああ、それにしても、一晩でよいから、朝まで、ぐっすりと、何ものにもじゃまされず、熟睡して
みたい。……と言いつつ、これからまたふとんの中にもぐるつもり。一応、合計で、7、8時間に なるよう、毎日、睡眠時間を調整している。
(040909)
【補記】
こうした早朝覚醒は、初老性のうつ病の一症状と言う人もいる。そうかもしれない。男性にも
更年期というのがあって、そのうつ病になる人が多いという。今度、それについて、調べて原稿 を書いてみたい。今朝は、このまままた眠る。
【補記2】
こうした私の生活の反動というか、ワイフのとの日常的な会話は、まさにダジャレの連続。ワ
イフと会話をしていると、どうしても、まじめに考えることができない。
昨夜も、近くのドラグストアに散歩しながら、こんな会話をした。
ワイフ「散歩するときは、大きく手を振って歩くといいそうよ」
私「いいよ、ぼくは、いつもチンチンを振って歩いているから」
ワ「どうやって、振るのよ?」
私(チンチンを振ってあるく様子を見せながら)「お前は、おっぱいを振って歩くといいよ」
ワ「振れるほど、大きくはないわよ。あんたのチンチンだって、振るほどもないでしょ」
私「そんなことないよ。ちゃんと振れるよ」
ワ「フニャ・チンだから?」
私(ますます大きくチンチンを振って歩く様子を見せながら)、「あのね、チンチンは、膨張率
で、性能が決まるんだぞ。ふだんは、フニャ・チンでいいの。悔しかったら、お前のオッパイを、 膨張させてみろ」
ワ「そんなこと、できないわよ」
私「フニャ・パイのくせに」
ワ「フニャ・パイじゃ、ないわよ。まだプリプリしてるわよ」
私「いいか、こうしてオッパイというのは、振るんだ」
(私、おっぱいを振る様子をして見せる……。)
ワ「あんたは、本当にMr・ビーンね。Mr・ビーン、そっくり!」と。
●私の就眠儀式(ベッドタイムゲーム)
子どもは、毎晩、同じ儀式を繰りかえして、就眠するということは、よく知られている。同じよう
に、おとなでも、毎晩、同じ儀式を繰りかえして、就眠する人は多い。
私のばあいは、まず、床について、飛行機の雑誌に目をとおす。それから飛行機の模型をい
じったあと、電子製品やパソコンのカタログを読む。軽い雑誌を読むこともある。
そのあと、電気を消して、ワイフと、10〜30分、その日にあったことを話す。長いときは、1
時間ほど話す。たいていその間に、どちらか一方が、眠ってしまう。
で、実は、私には、おもしろい空想癖がある。
私は眠られない夜は、いつも、こんなことを考えて眠る。今回、はじめて公開する。
(宇宙船の設計を頼まれた?)
私は、人類を救済するための、宇宙船の設計を頼まれた。……という前提で、その宇宙船の
空想を始める。そして毎晩、少しずつ、その宇宙船のパーツを、頭の中で空想する。
考えてみれば、もう数年にわたって、それをしているので、かなりの部分まで、完成(?)して
いる。たとえば昨夜は、緊急脱出ポッド(小型宇宙船)の設計をした。おとといは、着陸ギアの 改良をした。その前は、ええと、たしか、新型のエレベーター装置。
……毎晩、そんなふうにして、頭の中で、宇宙船の空想を繰りかえす。そしていつの間にか、
眠ってしまう。
ところでその宇宙船だが、直径が、20キロ近くもある、円盤型。この地上と同じ、住空間があ
る。一つの宇宙船には、約10万人の人が定住することができる。全体としては、その住空間 のほか、食糧生産工場、研究施設、観測施設、管理施設などに分かれている。
実にたわいもない空想だが、ほどよい眠りを誘うには、ちょうどよい。よく「ヒツジが一匹…
…、ヒツジが二匹……」と数えるとよいと言う人もいるが、私には、効果がない。かえって頭がさ えてしまうことがある。
●「あの人が生きていれば……」
昨日、ワイフと、X氏(56歳男性)の話をする。ワイフもそのX氏のことを、よく知っている。
そのX氏、ことあるごとに、「Aさんが生きていれば……」「Bさんが生きていれば……」を、口
ぐせにする。
X氏にしてみれば、何でもない会話だが、私がワイフに、ふと、「ぼくは、ああいう言い方をし
たことがないよね」と言うと、「そう言えば、Xさんは、いつも、そういう言い方をするわね」と。
たとえばX氏の周囲で、何か問題が起きたとする。すると、X氏は、「あのCさんが、こういうと
き生きていれば、何とかしてくれるのだがね」と。
X氏の発想が正しいとか、まちがっているとか、そういうことを言っているのではない。私には
ない発想なので、それで、話題になった。
私「ぼくは、死んだ人のことは、思い出としてはするけど、『今、生きていれば……』というふうに
は、ほとんど、考えたことがないよ」
ワイフ「私も、ないわ」
私「どうしてだろう?」
ワ「どうしてかしら?」と。
先祖崇拝意識の強い人は、そういう発想をするのではないか。いつもものの考え方が、過去
へと向いている。復古主義というか、回顧性が強いというか……。
私「そう言えば、Xさんの家には、先祖代々の家系図が、かかげてあるよ」
ワ「昔は、武家か何かだったの?」
私「ちがうと思う。Xさんの祖父は、農家から出た人だと聞いている」
ワ「じゃあ、どうして家系図なんか、あるの?」
私「まあ、Xさんは、そういう意味で、先祖を大切にする人なんだろうね」と。
一般論から言えば、その人の依存性は、その人に応じて、ある特定の方向性をもつ。財産や
家柄、学歴や過去など。名誉や地位に依存する人もいる。知人の中には、80歳をすぎたとい うのに、いまだに現役時代の肩書きをひきずって生きている人もいる。
その中でも、自分の両親、祖父母をとおして、先祖に依存する人も、少なくない。「私」という
生きる基盤を、そこに求める。「ご先祖様がいるから、今の私があるのだ」と。私が言う、『親・ 絶対教』も、そこから生まれる。そしてそれが転じて、マザコンになったり、先祖コンプレックス になったりする。
しかし本人は、それでかまわないが、そういう家庭へ嫁いだ、妻なり、嫁は、苦労する。価値
観が一致すればそれでよいが、そうでないケースのほうが多い。親・絶対教の人は、妻にせ よ、嫁にせよ、その家の(道具)くらいにしか考えない。
実際、現在の妻と結婚するにあたって、「ぼくの母親のめんどうをみること」を条件にした男性
がいる。さらに自分の母親と妻が、対立したとき、妻に向って、「オレの母とうまくやっていかれ ないようなら、この家を出て行け」と言った、男性すらいる。
どこか本末が転倒しているのだが、このタイプの人には、それがわからない。
私「先祖を大切にする人は、結局は、自分自身を、息子や娘たちに、大切にしてもらいたいか
ら、無意識のうちに、そうしているのではないだろうか」
ワ「親を大切にする姿を、わざと自分の息子や娘に見せつけながら、『お前たちも、私にこうす
るのだぞ』とね」
私「それはあると思うよ。そしてその発想が、『産んでやった』『育ててやった』というあの独特の
ものの言い方になるんじゃないだろうか」と。
私自身は、「自分が死んだら、おしまい」と考える。だからすでに死んだ人のことは、アテにし
ない。それは、たとえはあまりよくないかもしれないが、落としてなくしたサイフのようなものでは ないか。
落としてなくしたサイフのことなど、あれこれ考えても、しかたない。同じように、死んでいなくな
った人のことを、あれこれ考えても、しかたない。
大切なことは、「今」というこの時を、それぞれの人が、懸命に生きること。結果は、あとから
必ず、ついてくる。ほうっておいても、明日は、必ず、やってくる。それがわからなければ、反対 の立場で、つまりあなたが死んで、その先祖になったときのことを想像してみればよい。
あなたのことをいつまでも思って、「先祖様」と、するよってくる息子や娘、さらに孫たちを見な
がら、あなたはそれでよいと思うだろうか。それとも、こう言うだろうか。
「さあ、息子や娘たちよ、それに孫たちよ、私のようなくだらない人間は相手にしないで、前向
きに、この世を生きていきなさい。まだまだこの世には、お前たちの、わからないこと、知らない ことが山のようにある。それに向って、前向きに生きていきなさい」と。
ここから先は、その人の生きザマの問題になってくるから、私がとやかく言うことではない。し
かしあなたの周囲にも、冒頭に書いた、X氏のような人が、一人や二人は、いるはず。そういう 人たちが、日ごろ、どのような人生観をもって生きているか、それを知ることは、決して、ムダで はないと思う。
(040910)
●無線ルーターの故障
未知なるものの故障ほど、不気味なものはない。その「故障」を前にすると、ときに、絶望感
すら、覚える。
昨日が、そうだった。
このところ、ときおり、インターネットがつながらなくなることが、つづいた。最初は、プロバイダ
ー(サーバー)の不調かと思った。しかしそれにしても、回数が多い。
そこでプロバイダーに電話をしてみると、「そういうことはありません。モデムの故障ではない
ですか」と。
そこでモデムを管轄している、T電気会社へ。で、さっそく、モデムを、新品と、交換してもらう
ことにした。そしてそれが昨日届いて、交換……。
で、案の定というか、その設定がたいへん! マニュアルだけでも、20〜30ページ近くもあ
る。で、やっとのことで、その設定を終えた。が、ナ、何と、つながらない!
で、またプロバイダーのほうに電話をすると、「簡易設定を説明した、青い用紙があるはずで
す。それに設定は、フロッピーディスクがあるはずですから、それでしてください」と。
高まる不安感と戦いながら、あちこちをさがすと、たしかにその簡易設定用の説明用紙と、フ
ロッピーディスクが出てきた。が、その設定をしたパソコンには、フロッピーディスクドライブがつ いてない。
しかたないので、別のパソコンで、再設定をしようと思ったが、先に設定したデータが、そのま
ま残っている。が、削除というか、クリア(初期化)の仕方までは、書いてない。
……とまあ、こうしてプロバイダーに電話すること、4、5回。
で、やっとのことで、モデムと直接ケーブルでつないだパソコンでは、インターネットがつなが
るようになった。が、ほかのパソコンは、反応なし。
見ると、無線ルーターが、不規則な点滅を、こきざみに繰りかえしている!
私はこの無線ルーターをつかって、あちこちのパソコンとつないでいた。つまり、故障の原因
は、プロバイダーでも、モデムでもなかった! 無線ルーターだった! あああ!
しかしこの無線ルーターの設定もたいへん。前回、設定したときは、それだけで数日もかかっ
てしまった。……とまあ、いろいろあった。
何という絶望感! 虚脱感!
そこで私が出した結論。
モデムから、HUBへつなぎ、そのHUBからは、各パソコンへは、ケーブルでつなぐ。無線ル
ーターは、もう使わない。
で、夜になって、やっと、以前と同じように、インターネットをつなげることができるようになっ
た。それにしても、またまた冷や汗をかいた。ホント!
やっとつながってから、私は、インターネットをしているワイフに、こう言った。
「少しは、ぼくの苦労に、感謝してよ」と。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(311)
●私の人生
雷が光る。
ふと、首をすくめる。
とたん、地をゆるがす、雷鳴。
ざっと降り注ぐ、雨。
車の窓ガラスをたたきつける。
ワイパーが、せわしげに、それをぬぐう。
道路が、雨に煙る。
暗い闇が、その先を、黒で包む。
白い分離帯だけが、走馬灯のように、うしろへ流れる。
私は懸命に生きているのだろうか。ふと、そんなことを考える。希望と悔恨。ふたつの矛盾し
た思いが、光と影となって、私の心をふさぐ。「何かがある」という思い。そして「何もなかった」と いう思い。「懸命に生きるしかない」という思い。「懸命に生きて、何になるのか」という思い。
闇に吸いこまれる道を、ぼんやりとながめながら、私は、ふと、そんなことを考える。
生きるのはつらい。しかし生きないのは、もっとつらい。なぜ生きるのかと聞かれれば、死ぬ
ことができないからと答える。その一方で、「あと、10年生きたところで、あるいは20年生きた ところで、どんなちがいがあるというのか」とも。
何ができるかということよりも、結局は何もできないだろうという閉塞感。安楽になりたいと思
いつつ、安楽になったときの、自分がこわい。何も考えず、ただぼんやりと庭いじりをする。そ れが目標なのか。私は、本当に、そういう生活を望んでいるのか。
ワイフはこう言った。「あなたは、社会とかかわって生きているから、うらやましい」と。
しかしそれにしても、わずらわしいことが多い。つぎからつぎへと、それが起きてくる。本当の
私は、それがいやでならない。そうしたわずらわしさから、身を遠ざけたい。しかしそれから逃 れることはできない。
ワイフは、それが「社会とのかかわり」と言う。
懸命に生きてみるしかない。その先に何があるのか。またないのか。それは私には、わから
ない。それはたとえて言うなら、雨の闇夜に、車を走らせるようなもの。地図すらない。ときど き、雷が光る。雷鳴がとどろく。しかし私は、前に進むしかない。
理由は、簡単。それが私の選んだ人生だから、だ。それ以外に、私が今、選べる人生は、な
いから、だ。
●悲しき人
あなたは、私に何かを訴える。
おろおろした声で、悲しげな声で。
しかし私は何もできない。
何も助けることができない。
なぜなら、この自分ですら、
私は、どうすることもできないから。
Kさん(女性、35歳)は、本当は、心のやさしい人だ。しかしときとして、感情をコントロールでき
なくなる。思いにまかせて、言いたいことを言ってしまう。それが相手を怒らせてしまう。
こうして、一人、また一人と、友をなくしていく。が、そういう自分を、Kさんは、どうすることもで
きない。
Kさんは、心に大きなキズをもっている。不幸な乳幼児期。母親の離婚と再婚。そして少女の
ころ、新しい父親に性的暴行を受けている。Kさんが、中学生になる少し前のことだった。
今も、2児の母親になりながら、決して、幸福とは言えない。家庭をかえりみない夫。商売の
失敗。そして借金。引きこもりを繰りかえしながら、ときどき街へ出て、ムダな買い物をする。同 じ、色違いのバッグを、5個も買ったこともある。
あなたは言う。悲しげな声で。
「遊びに来てほしい」「話し相手になってほしい」と。
しかし私は、男。あなたは、女。
それにあなたには、夫がいる。
これ以上の関係をもつことは、私には、できない。
願わくは、あなたにも、心安らかな日がやってくること。
いつか、あなたの子どもたちが、あなたに笑いをもたらすこと。
その日を信じて、どうか、どうか、今を乗りきってほしい。
●韓国の核問題
韓国科学技術省は9月9日、1982年4〜5月に、ソウル市内の研究用原子炉で、ミリグラム
単位のプルトニウム抽出実験を行っていたと発表した。同国でウラン濃縮につづきプルトニウ ム抽出が判明した。
なるほど、そういうことだったのか! 今のノ大統領が大統領に就任したとき、ノ大統領周辺
に、「K国の核開発を容認する」というような発言をした、政府高官がいた。「K国が核兵器をも っていれば、統一後の韓国にとっても、有利になる」と。
日本にとっては、とんでもない発言だが、逆算すると、そのときすでに、韓国政府は、自国内で
の核実験を知っていたことになる。
だから、面と向って、K国を非難することができなかった? K国の核開発の容認発言をする
しかなかった?
日本としては、ここは冷静に、推移を見守るしかない。しかし韓国は、これから先、どんな顔
をして、6か国協議に出てくるのだろうか。アメリカは、どうやって、K国を追いつめることができ るだろうか。そして日本は、どうやって韓国と肩を組むことができるだろうか。
そうでなくても、韓国は、K国寄り。
今、韓国からは、外資(円、ドル)が、どんどんと逃避している。わかりやすく言えば、韓国人
が、韓国ウオンを、円やドルにかえて、外国へ避難させている。それをおさえるのに、韓国政 府は、やっきになっているが、こんなバカげた、つまりは現実離れした国際政治をしているよう では、当然のことである。
さらに、この8月には、さらに物価の上昇と内需不振が重なったことから、消費心理が通貨危
機当時よりも冷え込んだという(朝鮮日報)。そしてその消費者期待指数は、4か月連続の下 落。通貨危機当時の98年11月より、さらに消費者心理が悪くなっているという(同)。
それでも韓国は、反日、反米を表にかかげ、親北政策とやらで、K国のご機嫌取り(ニューズ
ウィーク誌)をとりつづけている。ノ大統領も、もう少し現実を見たらどうなのか。
【補記】
韓国やK国が、核兵器をもつことが、どういうことなのか、私たちももう少し真剣に考える必要
がある。韓国やK国が、核兵器をもてば、極東アジアにおける軍事バランスは、完全に崩壊す る。
そうなったとき、日本は、戦後というより、日本の歴史の中で、最大の危機を迎える。
【補記2】
1967年、私は、UNESCOの交換学生で、韓国に行った。そのとき世話人となり、同行して
くれたのが、当時北海道大学の名誉教授をしていた、杉野目晴貞先生だった。日本化学会の 会長もしていた。
その先生と旅行をしているときのこと、こんなことがあった。
プサンから、ハイウンダイ(海雲台)まで、バスで旅行していたときのこと。私たちはKCIAの
人たちに護衛されていた。
途中、そのバスが、故障してしまった。そのときのこと。KCIAの人たちは、たまたま反対方向
からやってきた乗り合いバスを止め、その乗客を全員、おろしてしまった。そしてそのバスを、 私たちのバスにしてしまった。
いくら強権時代とはいえ、このあまりにも強引なやり方に、私たちは、言葉を失ってしまった。
そのあと、ハイウンダイのホテルに案内されたが、何かしら気まずい思いだけは、ずっと残っ
た。
韓国という国は、そういう国だったし、今もその延長線上にある。日本と同じ、開かれた民主
主義国家だと思っていると、それは誤解のもと。今でも、あの当時の強権的政治風土は、あち こちに残っている。その一つが、ノ大統領による、反北運動の弾圧である。
今、韓国では、反金XX、反北的な色彩の濃い出版物ですら、発禁処分になっている。韓国を
考えるときは、そういう現実も、頭に入れておかねばならない。
日本のノー天気なおばちゃんたちが、「ヨン様」「ヨン様」と騒いでいるのを見ると、「これでい
いのかなあ」と思うのは、はたして私だけだろうか?
(はやし浩司 杉野目晴貞 先生)
●秋の虫
昨夜は、久しぶりに、山荘に泊まった。寝る前、『Talk to her』という、スペイン映画を少し
見る。しかし★は、1つ。アカデミー脚本賞を受賞ということで、もう少し期待していたが、途中 で、あくびが出て、ダウン。
明け方、澄んだ虫の声で目をさます。
澄んだ声だった。英語で言えば、クリアな声。つんと動きを止めた静寂の中で、虫の声の大
合唱。窓の近くにいるマツムシが、ひときわクリアな声で、チリチリと鳴く。その少し離れたとこ ろで、スズムシが、それに音色を添える。
さらに離れたところで、別の虫たちが、鳴く。その声々は、奥深しく、そしてなつかしい。あた
かも無数の虫たちが、それぞれのパートを受け持っている、オーケストラのよう。 が、会場の スケールがちがう。この山荘では、風のない夜には、谷間の向こうの、人の会話すら聞こえる。 そんな会場で聞く、大オーケストラである。
自宅の庭にも、秋の虫がいる。そして同じように鳴く。しかし、その声は、どこかくすんでいる。
元気がない。しかし山荘で耳にする虫の声には、透明感がある。その声だけが、細いナイフの ように、鋭く、どこまでも鋭く、闇夜をつきさす。
私は、しばらく、その声に耳を傾ける。左耳は、聴力をなくしている。だから音に遠近感はな
いはずなのに、その遠近感を覚える。
ふと横を見ると、薄暗いライトの中で、ワイフが上を向いて眠っているのがわかった。起こして
やろうかどうかと、ふと迷ったが、やめた。と、同時に、私は身を震わすような森の冷気を感じ て、ふとんをかぶりなおす。反対方向に体を向ける。そしてそのまま朝まで、眠った。
●家庭教育
アメリカなどへ行くと、大学の書店ですら、「一般教育」の書籍コーナーと、「家庭教育」の書籍
コーナーが、ほぼ、半々になっている。
しかしこの日本では、「家庭教育」の書籍コーナーは、たいへん小さい。
たとえば浜松市内に、Y書店という、県下でも、最大級の書店がある。
その書店でも、二階に一般教育の書籍コーナーがある。子ども向けの学習参考書や、問題
集は、3階。しかし家庭教育の書籍コーナーは、一階の右奥すみ。幅一間たらずの本箱におさ められている。
つまりそれだけ、家庭教育がなおざりにされているということ。軽く見られているということ。学
校に、「子育て」のすべてが、押しつけられているということ。ここに日本の教育というか、子育 ての特殊性がある。
こういう状況の中で、子どもをもつ親たちが、今、悲鳴をあげている。家庭の中で、つぎから
つぎへと起きてくる子育ての問題を、どこへどう相談したらよいのかさえ、わからないでいる。
そこで児童相談所……ということになるが、その児童相談所の中にもうけられている「子供よ
ろず相談所」にしても、すでに手一杯。
そういう中、この6月(04年)、「児童福祉法改正案」が、年金問題のとばっちりを受けて、先
送りされてしまった。
この児童福祉法改正案は、現在、児童相談所が中心となっている「育児相談」の主体を、市
町村に移動し、急増する相談の受け皿を、そこでしてもらおうという趣旨のものである。
もちろん問題がないわけではない。受け皿となる市町村にしても、その態勢をつくらなければ
ならない。人件費だけでも、相当なものになる。こうした育児相談は、電話相談にしても、平均 30分〜1時間はかかる。しかも1度や2度で、すむことは、まずない。
もちろん専門家の育成も、重要課題である。しかしこの問題は、すでにもう放置できないほ
ど、大きな問題になりつつある。厚生労働省は、この秋には、国会で、児童福祉法改正案を成 立させたいとしているが、仮に成立したとしても、来年4月の施行にまにあうかどうか、わからな い。相談員の育成、研修など、それをどうするか、市町村がかかえる課題は、多い。
【はやし浩司の経験から……】
私も数年前まで、子どもをもつ親から、子育て相談を受けていた。そのため、毎日、午前中
のほとんどが、それでつぶれた。
もちろん、すべて無料。心のどこかで、ときどき、「どうして私がこんなことを、無料でしている
のだろう」と思ったことがある。が、こうした子育て相談を、有料化することは、できない。
たとえば親の話を聞いているうち、その子どもが明らかにADHD児とわかっていても、それを
口にすることはできない。有料化して、それを口にすれば、それは即、診断行為となってしま う。(それが許されるのは、日本のばあい、医療機関のみ。)
あくまでも、「私の意見を参考にしてください」という立場で、相談に答えるしかなかった。
また実際、こうした子育て相談で、名字くらいまでならいう人はいても、名前を言う人は、まず
いない。住所までいう人は、10人に1人もいない。名前ですら、偽名であることも多い。こちら も事情が事情だから、聞かない。
一応、午前中だけということで、相談を受けていたが、午前中だけですむことは、ない。ばあ
いによっては、土日、さらには、夜10時すぎに電話がかかってくることもあった。
こうした子育て相談が、ふつうの相談とちがう点は、子育ては、その親にとっては、連続的な
ものであるということ。今日、相談して、今日、問題が解決するということは、ありえない。同じ 親から、数か月にわたって、毎週、電話がかかってくるということも、珍しくない。
そこで相談を受ける側としては、病院で用意するようなカルテのようなものを、作って対処す
る必要がある。つまり、そういうキメのこまかい、指導が必要だということ。これから先、市町村 が、「子供よろず相談」を引き受けるにしても、そういった覚悟が必要である。
さらに子育て相談といっても、その親自身の人生観、哲学、育児観など、すべてがそこにから
んでくる。私のばあいも、子育て相談を受けながら、その親の人生相談にのっているかのよう な錯覚にとらわれたことが、何度もある。
簡単に子育て相談とはいうが、それなりの経験者でないと、この仕事は、務まらない。
(はやし浩司 育児相談 子育て相談 児童福祉法改正案)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(312)
●長男、二男の問題
+++++++++++++++++++++++
茨城県M市にお住まいの、Tさん(母親)から、
長男(7歳)、二男(6歳)の問題について、
質問がありました。
+++++++++++++++++++++++
【Tさんより、はやし浩司へ】
いつもマガジンを拝見させていただいております。
毎日の生活の中で、ハッと振り返る良い時間をもてることに感謝しています。
二人の、男兄弟について質問します。
長男は比較的育てやすく、情緒も安定しており、今までは特に問題はなかったのですが、最近
次男のほうが、上の子に対してライバル心を持つようになりました。
もともと下の子の方が運動神経もいいこともあり、二人の興味対象である野球で、下の子のほ
うが上手になってきました。
それにつれて、勉強のほうも、私が長男に教えていますと、傍から見ていて同じように覚えてい
くので、今では2桁の足し算引き算、および掛け算もいえるようになってきました。
年齢が1歳と少ししか違わないこともあり、長男は最近プライドを傷つけられたのか、下の子を
ずいぶんといじめるようになり、また「自分は生きていても仕方がない」などというようなことを言 うようになり心配しています。
なるべく長男が自信を回復するようなことをするように仕向けていますが、なかなかうまくいきま
せん。勉強も運動も次男の方が上手になるという話は良く聞きますので、(例えばプロ野球の 選手は次男が多いなど)、林先生のところではどのように対処されているのかお伺いしたいと 思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
++++++++++++++++++++++++++
【はやし浩司より、Tさんへ】
一見、この問題は、兄弟の間の確執のようにみえます。しかし問題の本質は、(親)を間には
さんだ、三角関係にあるとみます。
長男の心の中に、一度、視点を置いてみると、それがわかります。
長男は、弟に対して、自分が劣っていることを、問題にしているのではありません。長男は、
親のTさんや、父親の関心が、弟のほうに向いていることを、問題にしているのです。あるいは 自分より、弟のほうに、関心がうつるのを心配しているのです。
恐らく、下の弟が生まれたときから、何らかのわだかまりが、長男のほうに生じたと思われま
す。その時点から、自分への愛情(手間)は、半分になった。しかもことあるごとに、「お兄ちゃ んだから……」という「ダカラ論」を、押しつけられた。
こうして長男のほうに、大きな欲求不満が蓄積するようになったと考えられます。Tさんは、
「育てやすかった」と言っていますが、それはそれだけ、長男のほうが、自分の立場を守るため に、「いい子」ぶっていただけとも考えられます。
ものわかりがよい、よい兄を演じていた。親に好かれるために、です。その可能性は、じゅう
ぶん、あります。
が、その弟のほうが、何かにつけて、優秀ということになってきた……。兄の長男の立場とし
ては、ただごとならぬ状態になってきたわけです。
こういうケースのばあい、子ども(長男)は、ふつう、つぎの4つのパターンのどれかを、選択し
ます。
(1)親や弟に対して、攻撃的になる。
(2)親に対して、同情を求めるようになる。
(3)親に対して、依存的、服従的になる。
(4)内閉したり、親を拒絶したりするようになる。
長男が、「自分は生きていても仕方がない」と言うのは、そう言いながら、親に同情を求めた
り、親の反応をうかがっているものと考えてよいようです。こうした(ぐずり)は、すでに、下の子 どもが生まれた、2歳前後からあったはずです。
もう少し深く、長男の心の中に、視点を置いて考えてみましょう。
あなたの夫が、あなたよりすてきな愛人を、家の中に連れてきたら、あなたはどうするでしょう
か。少し極端な感じがしないでもないですが、長男の置かれた状況としては、それほどちがわ ないはずです。
その愛人は、あなたより、若い。美しい。料理もうまい。……そういうとき、あなたなら、どうす
るでしょうか。嫉妬もせず、平穏に、その愛人と同居できるでしょうか。あなたの夫が、「お前 も、愛人も、平等にかわいがってやる」と言ったとき、あなたは、それに納得するでしょうか。
あなたは「子どもは、家族だ」「兄弟だ」「同じ親子だ」と言うかもしれませんが、それはおとなの
論理にすぎないということです。
本来なら、長男は、弟を、蹴とばして、外へ追い出したい。しかしそれができない。それをす
れば、自分の立場がなくなってしまう。
つまりこの問題の奥には、そうした長男の複雑な、つまりはゆがんだ心理があるということで
す。
そこで対処のし方としては、もう一度、全面的に、長男へのスキンシップ、暖かい愛情を取り
もどします。7歳という年齢から、赤ちゃんがえりはないと思いますが、それに似た、幼児がえり は、あるかもしれません。何かにつけて、わけのわからないことを言ってぐずるようなら、添い 寝、手つなぎ、一緒の入浴などを、子どもが求めてきたら、ていねいに応じてあげます。
(1)暖かい無視と、(2)ほどよい親に心がけます。
「ほどよい親」というのは、「求めてきたときが、与えどき」ということです。長男が、スキンシッ
プを求めるようなしぐさを見せたら、ていねいに、こまめにそれに応じてあげます。数分間程 度、ぐいと抱くだけでも、効果的です。
決して、「お兄ちゃんだから……」と、ダカラ論で、長男を、突き放してはいけません。子どもに
上下をつけないで、同じ子どもとして扱います。そしてこの際、弟さんには、少しがまんしてもら います。ここで長男の心をいじけさせると、ひがみやすくなる(依存型)、いじけやすくなる(同情 型)、つっぱりやすくなる(攻撃型)などの症状が出てくるようになります。(すでに出ているようで すが……。)
能力的な劣等感は、従って、弟が原因ではありません。それをわからせる、家庭の雰囲気と
いうか、親の態度、姿勢にあります。どこかで、「お兄ちゃんのクセに……」とか、「弟に負ける なんて……」という雰囲気があるのではありませんか? もしそうなら、これはやはり、長男の 心の問題ではなく、親の育児姿勢の問題ということになります。
というのも、これから先、この種の劣等感(反対に優越感も)は、いつも子どもの心を襲いま
す。たまたま今は、兄弟という関係の中で、起きているだけです。親としてはつらいところです が、「あなたはよくがんばっている」式に、子どもの立場で、それをなぐさめてあげるしかありま せん。
で、こうしたプロセスを経て、子どもはやさしく、かつたくましくなっていきます。今の段階では、
まず、あなた自身が、兄弟の上下意識をもたないこと。(そういう意味では、あなたは、かなり、 上下意識の強い親かもしれません。)
そういう上下意識を無意識のうちに感じながら、上の長男が、それを劣等感にしてしまいま
す。そしてその一方で、弟が、ライバル意識から、兄への優越感。さらには、兄をバカにする… …というふうに転化してしまったら、それこそ家庭教育の失敗ということになります。
いろいろなことが考えられますが、しかし全体としてみると、実によくある問題であり、かつ、
何でもない問題の部類に属する問題です。しかも、弟さんの立場で考えるなら、どこかぜいたく な悩みということになるかもしれません。
ですから、あまり深刻に考えないで、ここに書いたことを参考に、対処してみてください。で、
それで兄弟の仲が悪くなっても、しかたのないこと。(これもよくあるケースです。)
また兄が、弟をいじめたり、嫌ったりするのも、これまたしかたのないこと。(これもよくあるケ
ースです。)
完ぺきな兄弟関係を、求めないこと。このあたりは、もう成りゆきに任せるしかないと思いま
す。子どもというより、ある2、3年もすると、あなたの子どもたちも、親離れを始め、自己意識 も育ち、一人の人間として、自立していきます。親として、介入できることにも、限界があるとい うことです。こういうケースでは、長男のよき相談相手、アドバイザーとして、親が一歩退く。そ れが結局は、子離れということになります。
だからとりあえずの方法としては、兄・弟という上下意識を、まず、とりのぞき、二人の子ども
を、「友」として位置づけてみては、どうでしょうか。(まあ、年齢的に、少しむずかしいかもしれ ませんが……。やや、手遅れ的な部分も、あるということです。)
そのあとの人間関係は、二人の子どもに任せます。あなたの周辺にも、仲のよい兄弟おいれ
ば、そうでない兄弟もいるはずです。どうなるかは、もう、子どもたち自身が決めることだという ことです。(それとも、あなた自身は、あなたの兄弟と、仲がよく、今でも、良好な人間関係を保 っていますか?)
この問題は、そういう視点からも、考えます。
最後に、自信を回復させる方法としては、一芸論などがあります。「はやし浩司 一芸論」で
検索してくださると、どこかでヒットするはずです。Tさんのケースでは、長男には、二男とは別 の一芸をもたせたほうがよいかもしれませんね。
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参考までに……
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●「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論
Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。
中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子 どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その 子どもの身を立てることもある。
M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。 ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金 を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。
この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、 「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も そうだ。
父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。 パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ ック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。
この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め ているというのは、一芸ではない。
ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造
的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。
そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そう
いう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつし かいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」とい う状態にする。
一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観 察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。
(はやし浩司 兄弟の確執 ライバル意識 一芸論)
【付録】
●長子は神経質?
なお神経質な子どもに関して、こんな興味深いデータがある。東海大学医学部の逢坂文夫氏
らの調査によると、「一番上の子は、下の子よりも神経質」というのだ。
東京都内の保育園に通う1000人の園児の母親について調べたところ、次のようなことがわ
かったという。
母親がわが子を神経質と認めた割合は、弟や妹をもつ長子についてがもっとも多く、42・
7%。
これに比べて、一人っ子は、35・1%、第二子は23・7%、第三子以降は、15・8%(母親の
平均年齢は、32・6歳。園児の平均年齢は3・8歳)。「兄弟姉妹の下のほうになるほど、のん びり屋さんになるようだ」(中日新聞コメント)と。
また「緊張しやすい」とされた長子の割合も、第二子の約1・5倍だったという。長子ほど、心
理的に不安定な傾向がうかがえる。これらの調査結果からわかることは、子どもが神経質にな るかどうかということは、生まれつきの性質による部分も無視できないが、生まれてからの環 境にもよる部分も大きいということである。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(313)
【身近、あれこれ】
●ラジオ
昨日(9月11日)、地元のローカルラジオ局で、25分ほど、子育てについて、話させてもらっ
た。それについて、その前日、年長児の子どもたちに話すと、子どもたちは、こう言った。
子「何チャンネルに出るの?」
私「だから、テレビじゃないの。ラジオだよ」
子「何時から?」
私「6時、少しすぎ」
子「じゃあ、ママといっしょに、見る!」
私「だからさ、見るんじゃなくて、聞くの」と。
最近の子どもたちは、テレビとラジオの区別がつかない? それについてワイフに話すと、
「最近の子どもたちは、ラジオを聞かないからではないかしら?」と。
子どもたちを包む情報文化は、それだけ多様化している。少し前までは、テレビとラジオしか
なかった。が、今は、インターネットをはじめとして、携帯電話もある。そしてそれぞれが、ます ます複雑化している。
ラジオを知らない子どもがいても、不思議ではない。しかし……?
●一事が万事
小ずるい人は、何ごとにつけて、どんな場面でも、小ずるい。まさに一事が万事。
人間というのは、そういう意味では、それほど器用にできていない。ある場面で、聖人になり、
また別の場面では、悪人になりということは、できない。若いときは、そのときどきにおいて、自 分をごまかすこともできる。が、年をとると、気力が弱くなる。おっくうになる。
そんなわけで、年をとればとるほど、その人の「地」が、表に出てくる。
しかし、心配は、無用!
この一事が万事を、逆に利用すればよい。たった今、この瞬間から、あなたは善人になる。
身近のささいなことでよい。ウソをつかないとか、約束を守るとか、規則を守るとか……。そうい うささいな心がけが、ちょうどドミノ倒しのドミノのように、あなたの心を作りかえる。
●弱者、自転車
車の運転の仕方を見ていると、その人の人間性がわかるときがある。
ためしに、赤信号になってからも、猛スピードで、交差点を横切る人の顔を見てみればよい。
ためしに、ウィンドウをさげて、ゴミやたばこの吸殻を外へ捨てる人の顔を見てみればよい。
ためしに、駐車場でもない場所に、平気で車をとめて用をたしている人の顔を見てみればよ
い。
まちがいなく、そういうことを平気でできる人は、それなりの低劣な顔をしている!(失礼と
は、書かないぞ!)
さらに自転車に乗っているものの立場から……。
自転車は、道路では、弱者である。歩行者に対しては、乱暴者ということになっているが、車
にくらべたら、かわいいもの。
その自転車に乗っていると、さらにその人の人間性がわかるときがある。
高級な外車に乗っている人でも、強引に自転車をのけものにして走り去る人もいれば、やさ
しく道を譲ってくれる人もいる。軽自動車に乗っている人でも、強引に自転車をのけものにして 走り去る人もいれば、やさしく道を譲ってくれる人もいる。
どこでどうして、そういう人間性に分かれるのか。私にはわからない。しかし弱者を、のけもの
にして走り去る人は、それなりの人だということ。フロイトが言う、エスの人か? 道徳観や倫理 観など、それなりに浅い人とみてよい。
人生は、長いようで短い。その短い人生を、短く感ずるようになったとき、そういうエスの人
は、さらにその人生を短く感ずるにちがいない。
人生で何が一番恐ろしいかと言えば、その過去を、後悔すること。いつかそういうエスの人
は、自分の人生を後悔することになる。「私の人生は、何だったのか」と。
そういう意味では、かわいそうな人ということになる。もっとも、その人が、そういう自分に気づ
けば、の話だが……。ひょっとしたら、その人は、そういう自分の愚かさに気がつくこともないま ま、その人生を終えることになるのかもしれない。
●死の恐怖
なぜ、死ぬのがこわいか?
それについては、以前にも書いた。
私たちがなぜ死ぬのをこわがるかと言えば、それは喪失の恐怖だけではない。自分の死を
悲しんでくれる人がいないから。あるいは、仮にあの世があるとするなら、あの世で、自分を待 っていてくれる人がいないから。
そのことを車の中でワイフに話すと、ワイフは、すかさずこう言った。「あら、あの世って、ある
の?」と。
遺伝子の中には、いろいろなプログラムが、組みこまれている。脳ミソの活動についても、そ
うである。その年齢や時期がくると、アクティブになるプログラムがある。思春期の恋愛感情 に、その例をみるまでもない。
人間も、ある年齢に達すると、過去を回顧することが多くなる。この回顧を重ねるようになる
と、回帰という現象が、脳ミソの中で起こる。自分の過去の記憶が、脳の中に幾重にも蓄積さ れ、全体としてそれが脳にしみついたモヤのようになる。そしてそれが、「霊気」を帯びたものと して、認識されるようになる。
つまり、より、霊的なものの存在を、信じやすくなるということ。簡単に言えば、ただ単なる(思
い過ごし)。そういった(思い過ごし)から、「あの世論」は生まれるが、本当のところは、私に も、わからない。
私「年をとると、あの世を信じたくなるものさ」
ワイフ「信ずることができれば、少しは、死ぬのがこわくなくなるからね」
私「そうは、単純ではないかもしれない。しかしそれに近い……」と。
で、あの世があるという前提での話だが、自分が死んだとき、だれもあの世でだれも待ってい
てくれないというのも、さみしい。つまりそれも、「死ぬのがこわい」という理由の一つかもしれな い。
ワイフ「臨死体験というのもあるわ」
私「脳ミソの中には、そういう特別な部分もあるみたいだ」
ワ「どういうこと?」
私「いよいよ死が近づくと、苦痛や不安を解消させ、その人に幻覚を見せる、特別なプログラ
ムがアクティブになるそうだ。前頭葉と後頭葉の境目あたりに、それがあると説く学者もいる」
ワ「どんな幻覚?」
私「何でも、美しい川とか、無数の花が咲いているような美しい光景らしい。健康な人でも、そ
の部分に電気的な刺激を与えると、幻覚を見るそうだ。それが、臨死体験をした人が見る光景 に似ているという」
ワ「しかし、そんな研究は、あまり進んでほしくないわ」
私「そうだね。そういう部分は、そっとしておいてほしい。ぼくも、死ぬときは、あの世を信じて、
死にたい」と。
そのとき、私は、別の心で、ふとこんなことを思った。
「私が死んだとき、私の父は、その三途の川岸の向こうで、私を待っていてくれるだろうか?」
と。が、どうもそれは、期待できそうもない。私は、そういう意味では、心のさみしい人生しか、 送ってこなかった。
……あの世は、あるだろうか? それともないのだろうか? 私は、今のところ、「ない」という
前提で生きている。あるとも、ないともわからないものを、アテにして、私は生きることはできな い。
それはいつも言うように、宝くじのようなもの。宝くじの当選をアテにして、家を買うことはでき
ない。同じように、あるかないかわからないものをアテにして、「今」を考えることはできない。
あの世は、死んでからのお楽しみ。あれば、儲けもの。今は、「ない」という前提で、懸命に生
きる。宝くじの当選金にしても、それをどう使うかは、当選してから考えればよい。同じように、 あの世のことは、あの世へ行ってから、考えればよい。
★As a well−spent day brings you happy sleep, so a life well spent bri
ngs happy death。
(充実した日を過ごした夜は、幸福に眠られる。同じように、充実した人生を送ったものだけ
が、幸福な死を迎えられる。)(レオナルド・ダ・ビンチ)
●ワイフの回顧性
このところ、ワイフの回顧性が、強くなったように思う。同窓会つづきだし、その同窓会で再会
した友人と、遊びに行くことが多くなった。今日も、高校時代の友人のIさんと、山荘へ、弁当を 食べに行った。
いよいよワイフも、バー様の仲間入りということ。ハハハ。
★Time is the coin of your life. It is only the coin you have、and only
you can determine how it will be spent. Be careful lest you let other p eople spend it for you.
(時というのは、あなたの人生のコインのようなもの。あなたがもっているたった一枚のコインだ
から、どう使うか、注意深くしたらよい。とくに、そのコインを、あなたのために、他人に使わせ てはいけない。)(Cサンバーグ)
●誕生日のプレゼント
もうすぐ私の誕生日。毎年、何かの電子製品を、プレゼントしてもらう。数年前までは、毎年、
豪勢に、新しいパソコンを買ってもらっていた。
言い忘れたが、我が家では、私のすべての収入は、ワイフが管理している。一度、すべてを
渡し、その中から、食費など、そのつど、ワイフからもらっている。だから自分の稼いだお金で ありながら、「もらう」という発想になる。
考えてみれば、これはおかしなことだ。そうだ、おかしい!
しかし今さら、現在のシステムを変えることもできない。すべてが、そのシステムの上で動い
ている。息子たちですら、「ママからお金をもらう」とは言うが、「パパからお金をもらう」とは、言 わない。そういう意味では、我が家は、母系家族か?
それはともかくも、今年は、プレゼントを、何にするか。今、直接ほしいのは、デジタルカメラ。
それに、携帯端末。S社のザウルスがよい。
その私も、今度の誕生日で、満57歳になる。その「57」という数字を頭の中で反復しながら、
よくもまあ、今まで、無事に生きてこられたものだと思う。ホント! 江戸時代なら、とっくの昔に 死んでいるはず。何でも江戸時代には、日本人の平均寿命は、38歳前後だったという。(38 歳だぞ!)
縄文時代 ……14・5歳
室町〜江戸時代 ……38歳
明治・大正時代 ……39・5歳
1935年(昭和のはじめ)……48歳
1947年(私の生まれ年)……52歳
1965年 ……70・3歳
1999年 ……80・5歳
(朝日新聞・後藤眞氏発表)
この調査結果を見てわかることは、こうまで平均寿命がのびたのは、戦後のことということに
なる。戦争がなくなったこと。乳幼児の死亡率がさがったことなどが、その理由にあげられる。 健康なおとなだけをみても、それでも江戸時代には、平均寿命は、45歳前後だったという。そ んな話を、どこかで聞いたことがある。
どちらにせよ、こうして考えてみると、57歳まで、何とか生きてこられたことを、感謝しなけれ
ばならない。
さあて、あと何年、私は生きられるか? 夕方になったら、今日も、自転車で、運動に出かけ
るぞ。今日の運動は、明日のため。その積み重ねがあってはじめて、私も、80歳くらいまで、 生きられるのでは……。多分?
(はやし浩司 平均寿命 江戸時代)
【補記】
その運動で、こんなことを考えた。
先週のいつだったか、体が鉛のように重く、だるく感じたときがあった。鉛というより、力が抜
けてしまって、息をするのもつらかった。
その夜のこと。私は、町の中にある教室にいた。時刻は午後9時過ぎ。そこで私は、ワイフに
こう電話した。
「途中まで、がんばって走ってみる。もし途中でダウンしたら、そこまで迎えに来てほしい」と。
そしていつものように、教室の外に出ると、自転車にまたがった。自分でも自信がなかった。
家までの距離は、7キロ弱。ゆるいが、途中には、ダラダラ坂がある。それに気温は、夜だとい うのに、30度近くもあった。
いつもなら、20〜30分で家に着く。しかしその夜は、「これじゃあ、1時間は、かかるな?」
と。
しかし体というのは、おかしなものだ。自転車にまたがって、ペダルをこぎ始めたとたん、軽く
動き始めた。30年以上、自転車通勤をつづけてきた、おかげかもしれない。それに私は、もと もと、意思が弱い。自分で追いつめられた状況をつくらないと、こうした運動はしない。
ともかくも、家まで、いつものように、25分前後で、帰ることができた。途中で、ワイフが心配
しているといけないので、電話した。「どうも、だいじょうぶみたいだ」と。
健康を維持するための運動にも、いろいろあるが、こうした(きびしさ)がないと、健康は維持
できないのではないか。趣味的な運動なら、たぶん、ここまで自分に、きびしい運動はしないだ ろう。
おかげで翌朝には、体調はもとにもどっていた。
★Be sure to live your life, because you are long time dead.
(生きていることを、しっかりと確認せよ。なぜなら、生きている時間は、短く、死んだあとの時
間は、長いから。)(スコットランドの言い伝え)
★In an artist's life, death is perhaps not the most ddifficult thing.
(一人の芸術家にとっては、死というのは、多分、それほどむずかしい問題ではない。)(ビンセ
ント・V・ゴッホ)
★運動は、継続するから、意味がある。健康法も、継続するから、意味がある。ただつぎの問
題は、その健康を使って、どう生きるかである。生きる意味のない人生、目的のない人生を送 っている人には、健康といっても、蔵に入った、ただの宝物にすぎない。(はやし浩司)
●K国の爆発事故
9月9日、K国の建国記念日の日。K国の北部で、大きな爆発事故があったという(9月12
日、午後6時半現在)。
情報が錯綜(さくそう)している。ミサイル爆発説。列車事故説。さらには軍需工場爆発説な
ど。当初、核実験かと、世界中が緊張した。私もそう思った。しかしどうやら核実験ではなさそう だ。
この原稿が、読者の目にとまるころには、事情も、かなりはっきりしていることだろう。しかし
今は、混沌としている。
が、私が今、注目しているのは、その爆発事故よりも、K国を襲っているはずの大豪雨。台
風20号に刺激された、熱帯低気圧が、昨日から今朝にかけて、K国を通過した。今ごろK国 は、大洪水に見舞われているはず。が、これで終わるわけではない。このあと、台風20号の 本体が、待っている。それがゆっくりと今、東シナ海を北上しつつある。
今年の冬には、K国の食糧事情は、またまた大ピンチを迎える。崖っぷちに立たされ、強い
風にあおられているような状態だ。もちろんその向こうは、奈落の底。首都P市に住む人たち は別として、かわいそうなのは、それ以外の町村に住む、一般民衆たちである。
今度の豪雨で、田畑が被害を受ければ、食糧事情は、さらに悪くなる。
で、その爆発事故だが、ミサイル基地にせよ、軍需工場にせよ、中国国境にそれがあるとい
うところが、ミソ。仮に米朝戦争になっても、アメリカが攻撃しにくいところである。そういうところ で爆発事故が起きたということ自体、自業自得と言うべきか。
どんな被害であっても、日本は、K国が助けを求めてこないかぎり、決して、復旧活動に手を
貸してはいけない。またそこまでお人好しになってはいけない。爆弾にせよ、ミサイルにせよ、 どれも日本をターゲットにしたものだからである。
かねてより、K国は、この9月9日に、核実験もしくは、新型ミサイル(テポドン2)の発射実験
をするのではないかと、うわさされていた。位置的には、そのテポドン1(射程距離、2000キロ 前後)、テポドン2(射程距離、4000〜6000キロ)の発射基地のあるあたりで起きた爆発事 故だという。(10月に、核実験をするのではないかという報道もある。)
もしそうなら、ミサイルの発射実験の失敗の可能性が、きわめて高い。ただ、爆発規模が、あ
まりにも大きすぎる。ミサイルの発射事件の失敗くらいで、直径4キロにもなるキノコ雲が発生 するだろうか。素人の私には、これ以上のことはわからない。
もうすぐ7時になる。NHKの定時ニュースを見るために、居間へ行く。多分、NHKも、そのニ
ュースを、トップで、報道するだろう。
【追記】
NHKの定時のニュースでは、韓国KBSの報道をそのまま紹介しただけ。北京をたまたま訪
問している、K外務大臣も、「情報の収集をしているところ」と。
何とも、お粗末な情報収集。爆発が起きたのは、9日の午前11時ごろとされる。それから、80
時間もたっている。80時間もたっているのに、これだけの情報とは! あるいは、その裏に何 かがあるのか? ここ数日、目が離せない。
●Halloween Ideas(ハロウィーンについて)
(デニーズのホームページより)
Sage has recently turned two.
誠司が2歳になりました。
And although I have seen traces of the "terrible two's" in him, I think that parenting will be
a lot more fun this year, especially where holidays and events are concerned.
「2歳児はむずかしい」と言われ、その兆候が見られますが、今年は、子育てがぐんと楽しくな
りそうです。とくに、休みなどでは。
This unusually cool weather turned my mind to this subject this afternoon.
このところいつもになく気候も涼しくなり、そんなことを考えています。
It felt just like autumn.
秋のようです。
Last year for Halloween, we stayed at home and handed out candy to trick-or-treaters.
去年のハロウィーンでは、家にいて、トリック&トリーターたちに、キャンディを渡しました。
Sage loved it.
誠司は、それを楽しみました。
He'd run to the door every time the bell rang.
誠司は、ドアのベルが鳴るたびに、ドアまで行きました。
He'd hide behind Soichi or me and watch as the children grabbed a treat from the plastic
pumpkin.
誠司は、宗市や私にかげに隠れて、プラスチックのカボチャから、子どもたちが、キャンディを
つかむのを、見ていました。
He refused to wear his dinosaur costume, but for the most part he had a blast.
誠司は、恐竜の衣装を着るのをいやがりましたが、とても楽しかったです。
Just answering the door made his day.
客に応対するだけで、一日が終わりました。
This year I feel that there will be so much more that he can enjoy.
今年は、誠司にとって、もっと楽しい日になるだろうと思います。
But there are also so many things that he is not yet prepared for.
が同時に、誠司には、まだ準備できていないこともたくさんあります。
He is at that unique age when he is too big to be a baby but too little to try the things he
sees older children doing.
誠司は、赤ちゃんというには、大きすぎます。しかし大きな子どもたちがすることをするには、小
さすぎます。
I decided Sage was too young to trick-or-treat himself, but I wanted him to experience
more than opening a door and giving other children a treat.
誠司は、自分で、トリック&トリートをするには、幼すぎると思いますが、誠司には、ドアをあけ
て、トリートする以上のことを経験させようと思っています。
And he knows what candy is now...
今では、キャンディがどんなものであるか、誠司も知っています。
I don't think he'd be too happy to see other children taking it.
ほかの子どもたちが、お菓子をむしりとられるのを見るだけでは、誠司も楽しくないと思いま
す。
A friendly neighbor told me that there are all kinds of activities in Conway.
親しい隣人が、Conwayには、楽しい催しものがたくさんあると、話してくれました。
The library has a carnival.
図書館は、カーニバルを開きます。
Some of the banks have festivities.
銀行のいくつかは、お祭りをします。
And Wal-mart has an event called "Trunk or Treat", where games and candy-giving occur
out of the trunks of cars.
そしてウォールマートは、「トランク&トリート」というのをします。ゲームをして、車のトランクか
ら、キャンディを出すという催し物です。
I might even be able to make a costume for Sage.
誠司のために、何か、衣装をつくってあげましょう。
Me, Denise? Yes, me.
私、デニーズが、ですか? そう、私が、です。
My friend told me that I don't need a sewing machine to make a nice costume.
私の友だちが言うには、衣装をつくるのに、ミシンはいらないと言います。
The website www.familyfun.com has patterns for costumes that can be made by painting
and altering sweats.
このサイトでは、色をぬったりするだけでできる衣装を紹介しています。
She says they look really good, and she sews EVERYTHING! Who knew I could be "crafty
"? :)
友だちが言うには、それらはとてもよいそうです。
●S先生のこと
昨日、K市(浜松市の隣町)の、中学校教師のS先生が、逮捕された。容疑は、小学生の誘
拐、強制ワイセツ。48歳だったという。
その小学生は、海岸で、S先生に声をかけられ、車で連れていかれたという。S先生は、車で
連れていったことまでは認めたらしいが、ワイセツ行為については、否認しているという。S先 生は、48歳。相手の子どもは、小学6年生。男児!
ここであえて、私は「S先生」と呼ぶ。私の二男の中学時代の担任教師であったからである。
また三男の教師でもあった。二男が中学生のときは、世話になった。私もワイフも、S先生に は、感謝している。もともとは養護学校の先生だったとかで、大柄で、やさしい先生だった。
その先生が、誘拐、強制ワイセツ? 地元のS新聞は、つぎのように伝えている(要約)。
++++++++++++++++++
小学男児連れ回す
浜松市内の小学六年生の男児を誘拐し、車で連れ回したとして、浜松中央署は11日、わい
せつ誘拐と強制わいせつの疑いで、K市S、K市の中学校教諭(48)を逮捕した。
調べでは、容疑者は11日午後4時ごろ、浜松市南西部の海岸で、友人二人と砂遊びをして
いた被害者の男児に「こっちに来て」などと声をかけ、自分のワンボックス車の後部座席に乗 せて連れ回したうえ、同市内駐車場の車内で体を触るなどのわいせつ行為をした疑い。
容疑者は同日午後6時25分ごろ、男児を自宅付近で解放した。男児が連れ去られた後、一
緒にいた友人二人が交番に届け出て、容疑者の車のナンバーや種類、色などを伝えた。情報 に基づき緊急配備を敷いた同署は、同市篠原町内で手配車両を発見、職務質問して逮捕し た。
容疑者は午後4時半ごろ、いったん男児を車から降ろしたが、立ち去ろうとする男児の後を
つけ、同5時ごろに再び車に連れ込み、わいせつ行為に及んだらしい。容疑者は同署の調べ に対し、男児を車に乗せたことは認めているが、わいせつ行為については否認しているという (S新聞HPより)。
+++++++++++++++++++++
ショックを受けたのは、ワイフのほうだった。二男は、花粉症で、春先になると、決まって不登
校を繰りかえした。その二男を理解し、いろいろかばってくれたのが、S先生だったからであ る。
まだ取調べ中ということで、詳しいことはわからない。ひょっとしたら、魔がさしたのかもしれな
いし、反対に、ほかにも多くの余罪があるのかもしれない。県内では、教師による養護学級生 に対する、強制ワイセツ事件が起きたばかり。
しかしかわいそうなのは、S先生の奥さん。子どももいたそうだ。(現在は、知らないが…
…。)が、それ以上に、自分の愚行を後悔しているのは、S先生自身ではないのか。
私にも、中学生のとき、たいへん世話になった先生がいた。英語の先生だったし、コーラス部
の顧問もしていた。実は、その先生も、女生徒にワイセツ行為をして、逮捕されている。
あとでその話を、友人から聞いたとき、信じられないというよりは、「何で、そんなバカなことを
した!」と思った。「これで、二度と、遊びに行くことができなくなってしまったではないか!」と。
当時の私は、まだ若かったので、自分のことしか考えなかったのだと思う。先生がそういう事
件を起こすと、自分の中の楽しかった思い出まで消さなければならない。私には、それがつら かった。
さて、私のこと。ハレンチ事件を起こしたS先生と私。大きくちがうようで、実は、どこもちがわ
ない。そこで昨夜、寝る前、ふとんの中でワイフにこう聞いた。
私「ぼく、どこかおかしいかね?」
ワイフ「どこが……?」
私「どこか、おかしいところがあると思うか? たとえば同性愛者だとか?」
ワ「ゼンゼン……」
私「でも、いつも、お前に、おかしなことをしているよ」
ワ「そう言えば、そうね」
私「だろ……。だったら、『あんたも、気をつけなよ』とか、何とか、ぼくに言ったほうがいいよ」
ワ「何を気をつけるの?」
私「ぼくが、おかしなことをしないように……」
ワ「したければ、すればいいじゃない。何か、したいの? 私になら、いいわよ」
私「別にないけど……。今は……。もう、そんな元気はない」
ワ「だったら、それでいいじゃない……」と。
二男(アメリカ在住)と、三男(オーストラリア在住)には、この話を伝えないでおこうと思った
が、やはり、一応、話しておくことにした。ショックは受けるだろうが、そのショックから、何かを 学ぶかもしれない。
【追伸】
アメリカに住む、二男に、そのことを伝えると、すぐメールで返事が来た。いわく、「ぼくとA君
で遊びに行ったとき、一晩、とめてもらったことがある。そのときも、海へ、連れていってくれた」 と。
●教育基本法改正案
教育基本法の改正が、あちこちで、論じられている。その中の一つ、自民党と民主党の超党
派議員がつくる、『教育基本法改正促進委員会』の席で、冒頭、民主党のN村S吾議員は、こう 言っている(04年2月)。
「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人
があって、今、ここに祖国があるということを、子どもたちに教える。これに尽きる」
「お国のために命を投げ出すことをいとわない機構、つまり国民の軍隊が、明確に意識され
なければならない。この中で国民教育が復活していく」(夕刊フジ)と。
「お国のため」とはねえ……? それはともかくも、このN村氏の発言は、どこからどう考えて
も、おかしい。
どこかの独裁者がつくる全体主義国家は別として、国というのは、そこに住む人たちが、文
化や伝統を共有しながらつくりあげる、集合的組織をいう。わかりやすく言えば、国あっての民 ではない。民あっての国である。
N村氏の視点は、私とは、まったく逆! N村氏は、国あっての民と考えているようだ。もっと
言えば、民は、為政者の財産にすぎない?
戦前の日本のように、そして現在のK国のように、その頂点にいる人が、その国民に向って、
「我が臣民」と言うような国が、本当に、国なのか? 国と言えるのか? そう言えば、少し前ま で、イギリスのエリザベス女王も、イギリス国民を呼ぶとき、「My people(私の民たち)」と呼 んでいた。
その民が、自分の国をさして、「私の国」と呼ぶのは、かまわない。しかし為政者が、その民
に向って、「私の民」と呼ぶのは、おかしい。もう少しわかりやすい例では、ある学校の生徒た ちが、自分の通う学校を、「私の学校」と呼ぶのは、かまわない。しかしその学校の校長が、生 徒たちを、「私の生徒たち」と呼ぶのは、おかしい。
ちなみに、今、アメリカでは大統領選挙たけなわ。しかしブッシュにせよ、ケリーにせよ、アメリ
カ国民に向って、「My people」などと言っているのを、聞いたことがない。
発想のちがいというよりは、そういった意識そのものが、ない。それが民主主義である。
が、N村氏の心配していることもよくわかる。しかし私たちは、何も、そこらの政治家に言われ
なくても、そのときがきたら、ちゃんと、戦う。目の前で、家族や仲間が殺されるようなことがあ れば、ちゃんと戦う。
そのためにも、政治家たちは、まず、その手本なり、見本を見せてほしい。命がけで、「お国」
のためやらのために戦っている姿を見せてほしい。
が、現実は、逆。
1億円もヤミ献金を受け取りながら、「忘れました」「覚えていません」と、責任のがれをしてい
る政治家がいる。そういう政治家を見ると、私たち国民は、「何〜だ」と思ってしまう。いざとなっ たら、イの一番に、敵前から逃げ出す。そんな政治家が、「国のために死ね」と言ったとしても、 はたして国民は、それに従うだろうか。
こうした流れを受けて、すでに学校の教育現場では、『心のノート』の発行、愛国心の三段階
評価、さらには、東京都のように、日の丸、君が代の強制など、いわゆる国家主義が、猛烈な 勢いで進んでいる。
わかりやすく言えば、「お国のために命を投げ出しても構わない」(N村議員)、もの言わぬ従
順な民づくりが、すでに始まっているということ。N村議員といえば、銃撃事件を引き起こした、 日本刀剣の会から、顧問として政治献金を受け取っていた議員である。
なるほどと思うと同時に、これでいいのかなあと思う。
++++++++++++++++++++
愛国心教育について
●郷土愛と言い換えたら●民主主義を守ろう
「愛国心は世界の常識」(政府首脳)という。しかし本当にそうか?
英語で「愛国心」というのは、「ペイトリアチズム」という。ラテン語の「パトリオス(父なる大
地)」に由来する。つまりペイトリアチズムというのは、「父なる大地を愛する」という意味であ る。私にはこんな経験がある。
ある日、オーストラリアの友人たちと話していたときのこと。私が「もしインドネシア軍が君たち
の国(カントリー)を攻めてきたら、どうする」と聞いた。オーストラリアでは、インドネシアが仮想 敵国になっている。が、皆はこう言った。
「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私が
驚いていると、こう言った。
「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」と。英語でカントリーというときは、「国」というよ
り、「郷土」という土地をいう。そこで質問を変えて、「では君たちの家族がインドネシア軍に襲 われたらどうするか」と聞いた。すると皆は血相を変えて、こう言った。「そのときは容赦しな い。徹底的に戦う」と。
一方この日本では、愛国心というと、そこに「国」という文字を入れる。国というのは、えてして
「体制」を意味する。つまり同じ愛国心といっても、欧米でいう愛国心と、日本でいう愛国心は、 意味が違う。内容が違う。
たとえばこの私。私は日本人を愛している。日本の文化を愛している。この日本という大地を
愛している。しかしそのことと、「体制を愛する」というのは、別問題である。体制というのは、未 完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか「愛さない」とかいう対象にはならない。愛国心という 言葉が、体制擁護の方便となることもある。左翼系の人が、愛国心という言葉にアレルギー反 応を示すのは、そのためだ。
そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言い換えてみたら。「郷土愛」
「愛郷心」でもよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。右翼の人も、左翼の人も、そ れに反対する人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うこともできる。
「私たちの仲間の日本人を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょう」「緑
豊かで、美しい日本の大地を愛しましょう」と。
その結果として、現在の民主主義体制があるというのなら、それはそれとして守り育てていか
ねばならない。当然のことだ。
(はやし浩司 愛国心 愛郷心 郷土愛 教育基本法 改正案)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(314)
【近況・あれこれ】
●東海地方最大のショッピングセンター
2か月ほど前、浜松市の西の郊外に、これまた度肝を抜かれるほど、巨大なショッピングセ
ンターができた。畑の中にこつ然と……というほど、大げさではないが、それに近い。駅前のデ パートを、3〜4つ、あわせたほどの巨大さである。
で、その2か月が過ぎて、はじめて、昨夜、ワイフと、そのセヨッピングセンターに行ってみ
た。
私「大きいとは聞いていたけど、ここまで大きいとは!」と私。
ワイフ「ホント!」と。
出るのは、「フーッ」というため息と、「ヘーッ」という驚きだけ。各種レストランだけでも、JR名
古屋駅の構内の食堂の数より、はるかに多い。それに広くて、豪勢! 立派! 気取ってい る! もちろん値段は、すべて大都会並み。
周囲に、それだけの商圏があれば、まだ納得できる。しかしその「畑」をはさんで、西側に
は、人口1万4000人弱のY町。東側に、浜松の郊外。半径数キロという範囲でみても、全体 でも、4〜5万人もいないのでは?
冒険というより、無謀! 私は、そう感じた。いくつかのカフェをのぞいてみたが、場ちがいと
も思える、年配の女性たちが、少しかっこうをつけて、ピザを食べたり、コーヒーを飲んでいたり した。
が、平日の夜ということもあって、店も、通路も、ガラガラ。「土日は、混んでいるそうよ」と、ワ
イフは何度も言ったが、それにしても……!
私「いくらショッピングセンターといっても、消費ばかりしているわけには、いかないしね」
ワ「フーッ」
私「まあ、時間の問題だろうね」
ワ「フーッ」と。
あとはパソコンショップをのぞいて、それから、雑貨食品屋へ。いくつかのレトルト食品と、韓
国製のインスタントラーメンを買った。全部で、1800円。
帰るとき、私の評論家(批評家)魂が、ムラムラとわき起こった。
(1)緑がまったくない!……巨大なビルだけ。
(2)息抜き空間が、まったくない!……太陽や風を直接感ずるような空間がない。
(3)休憩場所がない!……レストランなどはあるが、当然、すべて有料!
(4)値段が高い!……こうした郊外に住む人間で、平日、1200〜1800円もの食事代を払う
層が、いったい、何%いるというのか?
すばらしいというより、超すばらしいショッピングセンターだが、このあたりに住む人間の日常
感覚からは、あまりにもかけ離れている。食料品をあつかうスーパーも2階にあるが、そこへ行 くまでには、途中エスカレーターに乗ったりして、数百メートル以上も歩かねばならない。
レストランにしても、案内板でみると、40店舗ほど入っているが、こうしたレストランは、客足
が少なくなると、とたんにサービスが悪くなる。みすぼらしくなる。そしてショッピングセンター全 体の雰囲気を悪くする。
一軒が閉店すると、ドミノ倒しのように、バタバタと閉店がつづく。客を呼びやすい反面、下り
坂になったときには、かえって客を遠のけてしまう。
はっきり言おう。このあたりは、まだ田舎。通りの風景も、台湾や韓国の郊外の風景と、それ
ほどちがわない。
そんなところに、アメリカのウォールマートでさえ、小型店に見えるような巨大なショッピングセ
ンターを作って、どうする? 店内を歩くだけでも。疲れてしまう。少なくとも、私のような年齢の 人間が来るような場所ではない。
……とまあ、否定的なことばかり書いたが、しかし、このさみしさ(?)は、いったいどこからく
るのか?
昔、私が住む町内に、大きな自動車部品工場があった。従業員は、数百名はいたと思う。し
かしその工場も、私がここに住むようになって、閉鎖になった。倒産したといううわさも聞いた。 10年ほど、前のことである。
で、その跡地に、しばらくしてから、今度は、これまた超大型の、ビデオショップができた。こ
のあたりでも最大級のビデオショップだという。
私はそこでビデオを借りるたびに、「いいのかなあ?」と思っている。今も、そう思っている。私
の年代というのは、おかしなもので、工場が立ち並ぶのは、うれしい。しかし、大型のショッピン グセンターが、立ち並ぶのは、うれしくない。
みんな、働くことを忘れて、お金を使うことばかり、考えている? 私が感ずるさみしさというの
は、どうやら、そのあたりから生じてくるようだ。
(追伸)
否定的なことばかり書いて、ごめんなさい! ただ、少しだけ、日本の将来を心配しているの
です。
●韓国VS日本
韓国が、核兵器開発をしていた! この数日、日本のマスコミは、この問題を大きくとりあげ
ている。
が、肝心の韓国はというと、まったくの無視。そればかりか、「騒いでいるのは、日本のマスコ
ミだけ」(担当元科学者)とか、「何も問題はない」と、つっぱねている。さらに「日本だって、やり たい放題のことをしているではないか」とも、
日本は、世界に例を見ないほど、IAEAの核査察を、常時受けいれている。しかもIAEAの資
金の、巨額出資国。その額は、アメリカについで、ナンバー2である。
韓国の核兵器開発は、明らかに、日本への裏切り行為である。背信行為である。しかも今、
日本は、世界は、何のために、6か国協議をしているのか!
韓国が核兵器をもつということは、日本に、それがどのような脅威を与えることになるか、そ
れがわからないのか? 「日本は、アメリカの核のカサのもとにある。核兵器をもっているのと 同じ」(朝鮮日報)という論法は、韓国が口にする言葉ではない。
が、ここ数日、朝鮮日報のHPは、そのことについては、一言も触れていない。こういった状態
で、つぎの6か国協議など、どうして開けるのか。事実、K国は、9月開催を、ボイコットしてしま った。
それにしても、理解できないのが、韓国。まったく理解できない。左翼政権だということは、私
でもわかるが、ここまで左傾化していたとは! 「朝鮮動乱は、韓国側がしかけた」「大韓航空 機を爆破した、金xxは韓国人だった」などというのは、まだよいほう。
「主敵は北朝鮮ではなく米国」という論調。北朝鮮スパイや武装ゲリラまでを民主化功労者とた
たえるにいたっては、「?」マークを、10個くらい並べたい。
こんな状況では、アメリカ軍は、韓国から出て行くしかない。当然ではないか。「主敵」とまでこ
きおろされて、韓国を守らなければならない理由など、どこにもない。韓国が、金XXの独裁政 権下にはいろうが、はいらまいが、もう日本の知ったことではない。
どうぞ、ご勝手に!
【補記】
日本と韓国の間を行き来している、実業家の友人(日本人・大手食品会社室長)も、こう言っ
た。
「林君、ぼくも、韓国が何を考えているか、理解できないよ。戦前はともかくも、戦後、日本と
アメリカが築きあげた、自由貿易体制の中で、韓国も自由と繁栄を謳歌している。その日本や アメリカに対して、反日、反米の、のろしをあげている。
今のN政権は、ゆくゆくは、K国と共和制をしき、中国の経済圏に入ることをもくろんでいる。
日本は、それを知ってか知らずか、韓国は日本の仲間だという幻想にしがみついている。
しかしね、林君。仮にもし日朝戦争ということになれば、韓国は、100%、K国を支援するよ。
日本人も、そういう現実を、少しは認識すべきだろうね」と。
【補記2】
「平和」「平和」と叫ぶのは、結構なこと。しかし日本の近くに、わけのわからない国が生まれ
て、この日本を攻めてきたら、どうする?
現に今、隣のK国は、日本向けに、せっこらせっこらと、核兵器を作っている。しかも、「経済
制裁をしたら、宣戦布告とみなす」と、勝手なことを言っている。
その一方で、拉致被害者の家族の人たちは、「圧力だ」「制裁だ」と息巻いている。このまま
いけば、戦争である。単純に考えれば、そうなる。
「日本が何もしなければ、相手は攻めてこないはず」と考えるのは、あまりにも甘い。甘いこと
は、日本人なら、みな、よく知っているはず。戦前の日本は、そういう甘い考え方をしている 国々を、どんどんと戦争をしかけ、侵略していった。
こういう現実の中で、日本は、日本人は、いったい、どうやって、日本の平和を守るべきなの
か。
現に今、そのK国の野望をおさえてくれるのは、アメリカしかいない。中国でもロシアでもな
い。遠く離れた、ドイツでもイギリスでもない。韓国の核開発にしても、悲しいかな、今の日本 は、まったく無力! 韓国は、日本など、相手にしていない!
が、在日米軍が、移動を決めるたびに、この日本では、「アメリカ軍は出て行け!」の大合
唱。沖縄は別としても、このS県でもそうだ。しかし、今、アメリカがこの日本から、手を引いた ら、日本は、どうなる? 手を引かないまでも、米朝間で、相互不可侵条約のようなものが結ば れた、日本は、どうなる?
民主党のケリー候補は、少し前まで、「米朝間で、2国間交渉をする」「(日本などの)同盟国
がK国に攻撃されたときは、そのときの状況をみて、判断する」と言っていた。
ブッシュ大統領が、「日本がK国に攻撃されたら、ただちに反撃する」と言ってくれたのとは、
大ちがいである。
何度も繰りかえすが、東京のど真ん中で、核兵器が爆発してからでは、遅いのである。
……こうした私の意見に対して、「林は、親米的すぎる」と言う人もいる。私のワイフですら、
そう言っている。
事実、そのとおりだから、反論のしようがない。嫁も息子も、そして孫もアメリカ人という立場
で、どうしてこの私が、反米的になれる? ただ私の親米は、そんなレベルの低いものではな い。仮に、孫が、「日本をK国から守るために、アジアまできて、K国と戦う」と言ったら、私は、 こう言うだろう。
「来なくていい。日本のことは、ぼくらで、何とかするから」と。
●あやしげなメール(?)
このところ、あやしげなメールが、つづく。それも、実に、思わせぶり。
アドレスを公開しているため、こうしたメールは、防ぎようがない。が、それにしても……!?
件名:ごめんなさい。どうか、許してください。
件名:私の話を聞いてくださったら、15万円、お支払いします。
件名:お元気ですか? 一度、会いたいですね。
こうしたメールのほとんどは、未承諾広告か、もしくはスパムメール。中には、ウィルスや、ス
パイウエア入りのメールもある。安易な好奇心は、禁物。そのまま命取りになる。
先日も、親しい友人から、「photos」という件名のメールが届いた。「?」と思いながら、削
除。そして折りかえし、(返信ではなく)、「大切な写真だったら、もう一度、送ってほしい」とメー ルを書いた。(こうしたメールが届いても、そのまま「返信」で、返事を書いてはいけない。返事 には、アドレス帳に登録してある、アドレスを使うこと。)
その慎重さが、よかった! 私もMydoom(件名:Photos)ウィルスに、あやうく侵入されると
ころだった!
そこで今、私へのメールには、件名のところに、住所と名前を書いてもらうことにしている。と
くに、見知らぬ人には、そうしてもらっている。私としては当然のことだと思うのだが、これが、 あまり評判がよくない。
1年ほど前だが、「何をお高くとまっているの!」というメールをもらったこともある。私が、「住
所と名前を書いてほしい。でないと、返事は書きません」と返事を出したことについて、である。
が、やはり、ここは、心を鬼にするしかない。鬼にして、「?」なメールは、容赦なく、削除。ま
た削除。しつこいばあいには、そのまま、フィルター処理。これは私のパソコンの健康を守るた めであると同時に、みなさんに迷惑をかけないためでもある。
で、今朝も、インターネットをたちあげると、その種のメールが、1通。件名が「ありがとう。とっ
てもすてきでした」とある。
アドレスを見ても、心当たりがない。「?」を、頭の中で、数回繰りかえしたあと、一度、フロッ
ピーディスクに保存。そのフロッピーディスクを、ウィルス・スキャン。幸い、異常はみつからな かったが、そのまま削除。開いて読むまでもない。
だから、再度、ここで徹底することにした。自分の心構えを、だ。
(1)件名のところに、住所、名前のないメールは、絶対に開かないぞ。
(2)あやしげな件名のメールは、即、削除。ぜったいに、スケベ心をもたないぞ。
(3)削除したあとは、そのメールのことは、即、忘れるぞ。
それにしても、まあ、このところ、ますます手のこんだメールが多くなった。何の目的で、そう
いうメールを送り届けてくるのか、私にはわからないが、それにしても、まあ……?
みなさんも、どうか、お気をつけください。あやしいと思ったら、即、削除ですよ! いらぬお節
介かもしれませんが……。
●デジタルカメラを買う
とうとう、カメラを買ったぞ!
機種は、C社の小さなカメラ。「ExiXXX」という機種。200万画素しかないが、もって遊ぶに
は、ちょうどよい。インターネットで使うには、じゅうぶん。
値段は、ケースも入れて、29800円! 64メガのフラッシュメモリを、サービスで、つけてく
れた。
ワイフに、「ありがとう。お礼に、お前のヌードをとってやるからね」と言うと、大きな声で、「コ
ケコッコー!」と。「結構(NO)という意味らしい。
さあて、これから、このカメラで、あちこちをとってくる。まずためしに、家のまわり。あいにくと
曇り空だが、写真をとるには、かえって、よいそうだ。光が分散して、写真が、美しくなる。
●ハレンチ教師
数日前、ある中学校の男性教師(48歳)が、わいせつ誘拐罪で、逮捕された。小学生の男
子児童を、誘拐、そしてわいせつ行為を働いたという。
それについて、数人の母親たちに、「実はね、あの先生ね、うちの二男の担任教師でした。そ
れも2年間もね」と言うと、すかさずみな、「どんな先生でした?」と。
で、「私が知るかぎり、悪い先生だったとも思えません」と答えると、さらに心配そうな顔をし
て、「どうしましょう?」「どうしたらいいでしょう?」と。
私「しかし、同性愛者とは知りませんでした。うちの息子も、遊びにいって、家にとめてもらった
こともありますから」
母「無事でした?」
私「……無事だったと思います。そういう話は聞いていませんから……」
母「あぶなかったですね」
私「まあ、そう言われてみれば、そうですね……」と。
私も結構、スケベなほうだが、子どもに手を出すことなど、思いもつかない。自分の生徒にし
ても、教室の外で、会ったことなど、一度もない。(「会った」という生徒がいたら、名乗り出てほ しい。即刻、このHPを、閉じる。マガジンを廃止する。)
理由の一つは、やはり、一度は、私のほうから、その親たちに、頭をさげるためではないか。
「子どもを預かる」というよりは、「教えさせてもらう」という意識で、子どもを迎える。その意識 が、最初から、私と子どもたちの間に、一線を引く。
が、私は、むしろ、その「48歳」という年齢のほうに興味をもった。世間一般の常識からいえ
ば、48歳というのは、人生の円熟期。道理も分別も、わきまえた年齢ということになる。その4 8歳の男性教師が、そういうことをした!
何があったのか?
で、自分の48歳のころを、懸命に思い起こしてみる。
48歳という年齢は、青春とも決別できず、それでいて、老人とも言えない年齢。どこか、モヤ
モヤとした年齢。しかもそれまで、無限に見えてきた未来が、急速にしぼみ始める。自分の限 界が、形となって、そこに見えてくる。
性的な視点でみると、まだその元気は残っているが、もうそろそろ女性に、相手にしてもらえ
ない年齢ということになる。しかしその男性教師のばあいは、同性愛者? 同性愛が悪という のではないが、私には、どうにもこうにも、理解できない。まったく、理解できない。
その傾向が、ほんの少しでも私にあれば、話は別だが、まったくないのだから、しかたない。
(私が同性愛者なら、もうとっくの昔に、こういうマガジンの中で、それを告白していると思う。私 のことだから……。)
だから、わいせつ行為といっても、男児を相手に、何をするのか。私には、その目的さえ、理
解できない。が、その男児を、女児におきかえてみると、私にも理解できる。「なるほど」という 部分が、突然、大きくなる。
で、私は、48歳のころ、女児にそういう感情をいだいたことがあるだろうか?
たしかに私は、スケベだから、そういう感情をもったことがあるかもしれない。なかったとは、
言わない。しかし(銀行強盗を頭の中で夢想する)ことと、(実際に、その強盗を実行する)こと の間には、越えがたい距離がある。
同じように、仮にスケベ心があったとしても、実際に、女児をわいせつ誘拐するというところま
では、いかない。それを実行するには、ものすごいエネルギーが必要である。フロイトが言う、 「リピドー(性的エネルギー)」というのが、それだ。
そうそう、ただこういうふうに、思ったことはある。
「浮気(不倫)を経験するなら、今しかないぞ」と。「あと、数年もすれば、だれにも相手にされ
なくなるぞ」と。それはどこか、あせりに似た気持ちかもしれない。人生に、別れを告げるような 気持ち。どこか、切なく、ものわびしい。
そう言えば、あのころは、美空ひばりの、『♪悲しい酒』ばかり歌っていた。ああいう歌が、じ
んと胸に響いた。しかし、だ。あの歌とて、いつも、車の中で、ワイフと歌っていた!
最後に、別れぎわ、母親たちにこう言った。
「ああいう教師は、例外ですから、気にしないことです」と。
そう、気にしないこと。あとのことは警察に任せて、私たちは前に進むしかない。
●異論、反論
主婦向け投稿誌「W」の編集長の、T氏(女性)が、今度、本を出版した。題して『母と子のxxx
x』(仮称・K出版社)。
その中で、T氏は、こう結論づけている。「子どものいいなりになる育児は、結局は、こらえ性
のない子どもをつくる」と。
その結論は正しいとしても、T氏は、その一つの理由として、「ゼロ歳児における母親の異常
な手のかけすぎ」をあげる。
たとえばフランスでは、約44・9%の母親が、子どもが生まれたときから、母子は、別々の部
屋で寝ているが、日本では、約5・9%にすぎない(「日仏女性資料センター、90年」などの事 実をあげる。
そして、「子どもが赤ちゃんのとき、抱いてばかりいた母親の子どもほど、こらえ性のない子ど
もになる」と。
私は新生児から乳児については、よく知らない。しかしこのT氏の説は、どこかおかしい。私
自身の孫のこともある。
孫の誠司は、やや早産で生まれたこともあり、夜泣きがひどかった。生後まもなくから、目を
さましているときは、いつも泣いていた。嫁が、アメリカ人だったこともあり、いわゆるアメリカ流 に、生まれたときからベッドを分けた。
4、5か月くらいしてからのこと。私のワイフが、二男に、孫を間にはさんで、川の字になって
寝るようにすすめた。アメリカでは、めずらしい育て方である。が、とたん、夜泣きは、ウソのよ うに消えた。
もちろん手のかけすぎは、よくない。それは幼児教育の世界でも常識。しかし「求めてきたと
きが、与えどき」というのは、事実。子どもが、何かのスキンシップを求めてきたら、すかさず、 ていねいに答えてあげる。子どもを体で包んであげたり、キスをしてあげる。ぐいと力を入れて 抱くのがコツ。
しばらくすると、子どものほうが安心し、体を離そうとする。そのときは、そのまま体を離す。
こうしたスキンシップの量には、個人差がきわめて大きい。そのときの子どもの精神状態もあ
る。子ども自身の情緒の安定度の問題もある。1回に何分間、1日に何回抱けばよいと、単純 に決められるような問題ではない。あくまでも子どもを見ながら、判断する。
だから「フランスではこうだから……」という短絡的な思考で、「では、日本でも、こうあるべき
だ」という発想は、必ずしも正しくないのでは(?)。
なお、こらえ性(おもしろい言い方だと思うが……)、つまり忍耐力は、もっと別の角度から論
じられるべきではないか。ある時期には、子どもは、濃密な母子関係を必要とする。心理学で いう、基本的信頼関係も、そういうところから築かれる。
そういう時期に、愛情飢餓、親の拒否的姿勢と、子どもに誤解されるような行為は、決して好
ましいことではない。あえて言うなら、T氏は、親のでき愛と母子の密着性の問題を、どこか混 同しているのではないかとも思う。
たいへん生意気な意見かもしれないが、一つの反論意見として……。
●幼小・一貫校
幼稚園と小学校を、一貫させる。「幼小・一貫校」の出現である。
しかし幼小・一貫校は、アメリカなどでは、珍しくない。4歳児で入学、小学3年で卒業という小
学校は、いくらでもある。
利点は、多い。……というより、小学1年生から始まる小学校教育には、問題点が多い。今
では、学級崩壊は、あたりまえ。「学校だから、子どもたちが、先生の話を静かに聞いているだ ろう」と考えるのは、もはや幻想以外の何ものでもない。
ある母親はこう言った。「一年生、最初の参観日ということで、かなり期待して行きましたが、
クラスは、最初から最後まで騒然としていました。一応音楽の授業ということになっていました が、まるでプロレスの授業でした」と。
教師の指導能力の問題というよりは、子どもたちの「質」が変わってきた。こうした「荒れ」を、
「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。しかしこの問題は、もう15年以上前からあるが、それ以後改善 されたという話は、伝わってこない。
そこで幼稚園と小学校を連携させる。文部科学省は、こうした流れを受け、(1)幼稚園と小
学校の、一貫カリキュラム、(2)幼稚園と小学校教員の合同研修、(3)双方の免許取得の弾 力化などを、めざすことになった。
わかりやすく言えば、小学校の幼稚園化ということか。隣のK市では、公立小学校の教員を、
私立幼稚園へ派遣し、そこで教員に幼児教育の研修をさせている。「総合的な学習のヒントを 得るため」ということだそうだ。
私は、幼小・一貫校に、大賛成である。反対に、なぜ幼稚園と小学校を分けるのか。分けな
ければならないのか。その理由がわからない。
ただ問題点もないわけではない。幼小・一貫校というと、中には、「早取り教育」と誤解する人
も多いということ。小学校でする学習を、幼稚園でするようになると誤解する人もいる。幼小・一 貫校が、受験競争とからむと、たいへんなことになる。そうでなくても、少子化の流れを受けて、 母親たちの世界が以前にもまして、過熱している。
このあたりをどうするか? 中央教育審議会も、その審議に入ったという(04年6月)。
(はやし浩司 幼小 一貫校 幼小・一貫校)
●携帯電話VS統計学
携帯電話が、子どもたちの世界を、変えてしまった! 今では、高校生の95%以上が、携帯
電話をもち、反対にもっていない子どものほうが、「変わり者」と呼ばれるようになってしまっ た!
それについて、こんな興味深い調査結果(?)がある。
警察庁の調査によると、「携帯電話の所持率について、非行少年は、72%。一般少年は、5
7%」と。つまり「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い(?)」と。
02年、「青少年問題研究会」(YM委員長)による調査結果だという。
それによると、
★携帯電話の所持率……検挙されたことのある少年 ……72%
検挙されたことのない少年 ……57%
高校生については、差がない……90%
この調査結果をふまえて、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙されたことのない
一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」(朝日新聞)と。
しかしこの論法は、おかしいのでは……?
私も、となりのK市で、高校生たちに直接聞いて調べたことがあるが、数年前ですら、所持率
は、90〜95%くらいだった。「君たちのクラスは何人?」「携帯電話をもっていない友だちは、 何人?」という調査方法で、調べた。
ここでいう「少年」という範囲が、あいまいである。ふつう警察庁が「少年」というときには、中
学生、高校生をいう。もちろん女子も含まれる。
この調査結果を見ると、あたかも、携帯電話をよく使う子どもほど、非行に走りやすいという
ような印象をもちやすい。しかし、よくよく考えてみると、おかしい?
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
「ナイフによる殺傷事件を起こした子どもを調べてみたら、100%が、ナイフを所持してい
た。一般少年の所持率は、10%だった」と。
さらに「非行少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」と。
こんなことは、当たり前のことで、あえて調査をするまでもない。以前、どこかのある大学の教
授が、こんな調査結果を発表したことがある。
「情緒障害児を調べたら、72%が、塾通いをしていた。情緒障害の原因は、塾通いである」
と。
当時、中学生の70%前後は、塾に通っていた。その教授は、北海道でも最大都市のS市
で、それを調査したという。「72%」という数字は、当たり前の数字である。これなども、「非行 少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」というのと同じ論法である。
もちろん私も、携帯電話には、いろいろ問題があると思う。しかし、非行と携帯電話を直接結
びつけるのは、ありにも短絡的ではないのか。
もう少し視点を変えて考えてみよう。
仮に、こんな調査結果が出たとしたよう。
★コンビニの利用率……検挙されたことのある少年 ……72%
検挙されたことのない少年 ……57%
★深夜番組の視聴率……検挙されたことのある少年 ……72%
検挙されたことのない少年 ……57%
★運転免許の取得率……検挙されたことのある少年 ……72%
検挙されたことのない少年 ……57%
こうした結果をふまえて、「コンビニをよく利用する子どもほど、非行に走りやすい。深夜番組
をよく見る子どもほど、非行に走りやすい。運転免許をもっている子どもほど、非行に走りやす い」と。
警察庁がした調査は、何となく、先に、「携帯電話は悪い」という先入観があって、その上で、
それを非行と結びつけたような感じがしないでもない。
あえて言うなら、問題は、「出会い系サイト」と呼ばれる、サイトである。これが非行の温床に
なっている。が、その出会い系サイトにアクセスするためには、携帯電話は必需品である。そ の結果として、「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い」ということになったのではないの か?
あるいは仲間と非行をするについても、陰で、コソコソと連絡をとりあわねばならない。親の
前で、堂々と電話で連絡をとりあうということはできない。そういう点では、携帯電話は、便利な 道具である。
殺傷事件を起こすためには、ナイフは、必需品である。同じように、出会い系サイトへアクセ
スするためには、携帯電話は必需品である。コソコソと連絡をとりあうには、携帯電話は必需 品である。
その結果として、(あくまでも結果として)、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙され
たことのない一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」ということになった。
……というのは、少し、ひねくれた見方かもしれない。ここは、すなおに、「携帯電話には、い
ろいろ問題点がある。携帯電話は、子どもにはよくない」と考えたほうが、よいのかもしれな い。どうも私には、こうした統計結果を見ると、すぐ疑ってみるクセがある。それがよくない?
なぜか? 理由の一つは、学生時代に学んだ、統計学がある。統計学のM教授は、いつもこ
う言っていた。
「統計で表される数字は、いつも疑え!」「統計的な数字に、あやつられるな!」と。
その精神は、今でも、生きている。そのため、ここでも、少し、その数字をひねくって考えてみ
た。
【追記】
こういう調査結果が発表されると、多くの母親たちは、こう誤解する。「うちの子は、携帯電話
ばかりいじっている。非行の始まりか?」と。
殺傷事件を起こした子どもの、100%がナイフをもっていたからといって、逆に、「ナイフをも
っているからといって、殺傷事件を起こす」ということではない。
こうした調査結果は、そういう誤解を生みやすい。それに今さら、「携帯電話に依存するのを
やめなさい」と、子どもを説得しても、意味はない。もちろん病的な携帯電話依存症(=依存う つ)は、別である。それについては、またほかで考えてみたい。
●大爆発は、なかった?
9月9日の、K国北部の大爆発は、なかった?
すべてが、韓国の報道機関の(思いこみ)と、(早トチリ)で始まった?
結局、ダムの発破作業を、大爆発と誤解したらしい。もちろん、直径3〜4キロのきのこ雲な
ど、なかった。
が、さすがにバツが悪いのか、今朝(9・16)の朝鮮N報のHPを見ると、こうある。
「北の大規模爆発、世界各国が五里霧中の報道」と。
つまり、「今回の大爆発事故について、世界各国は、何がなんだかわからないまま報道した」
と。誤報の責任は、韓国の報道機関にあるのではなく、世界の報道機関にある、と。
そして記事の内容が、おもしろい。こうある。
「韓国の聯合ニュースが12日、両江道地域で大規模なきのこ雲が観測されたと初めて報道し
たあと、外信は様々な推測だけを報じた。
米のCNNは初日、『衛星に捕らえられた北朝鮮上空のきのこ雲は、核爆発によるものでは
ない』とし、『この雲は山火事による可能性がある』と報じた。ワシントン・ポスト紙は電子版で、 『ミサイル関連の事故である可能性がある』との見方を示した。
ロイター通信や英BBC、フランスのル・モンド紙とル・フィガロ紙などは爆発観測の事実だけを
伝え、『北朝鮮はまだ、どんな事実も明らかにしていない』と報じた」と。
あたかも、「世界の報道機関のほうが、おかしい」という書き方である。自分たちの、(思いこ
み)と、(早トチリ)は、完全に棚にあげている?
さらに、数日前の、朝鮮N報には、こうある。
「爆発事件に関して、アメリカは、情報をもっているはずなのに、アメリカが情報を提供してく
れない」と。つまり詳しい情報を提供しない、アメリカは、おかしい、と。さらに、「韓米の情報交 換に問題がある」(朝鮮N報)とまで、言い切った!
情報を出そうにも、出せなかった。そんな情報など、アメリカ側には、なかったからだ。思いこ
みと早トチリだけではなく、今度は、「情報を提供しない」と、アメリカを責めた。その結果、「大 爆発など、なかった」「世界が勝手に騒いだだけ」と。
実に、人騒がせな、ニュースだった! ホント!
(040917)
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(315)
●意識のズレ
中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」という。しかし日本に住
んで、日本の中だけで、ものを考えていると、それがわからない。
しかし方法がないわけではない。日本に住んでいても、その(ズレ)を知ることができる。
今回の一連の、韓国の核実験を見れば、それがわかる。韓国の人たちは、「それはただ単
なる実験だった」「核兵器を作るつもりはなかった」「一部の学者がしたことで、政府は関係な い」などと主張している。
しかしこうした一連の実験が、日本人の私たちに、いかに大きな衝撃と、不信感を招いたこと
か。ついでに不安感も! 事実、毎日、日本の新聞は、このニュースを伝えている。が、その 一方で、韓国の新聞は、ほとんど無視。今日も、朝鮮日報のHPをのぞいてみたが、そのこと については、一言も触れていない。
つまり、これが私がいう(ズレ)である。
しかしこの(ズレ)を軽くみてはいけない。この(ズレ)が、えてして、そのまま戦争につながるこ
とがある。現に今、K国による核実験は、すでに時間の問題とされる。「オクトーバー・サプライ ズ」という言葉さえある。「この10月に、K国は、核実験をする」という意味である。
もしK国が、核爆発の実験をすれば、周辺国に、いかに大きな衝撃を与えることか。恐らく、
K国の人たちには、それがわからないのではないか。と、同時に、これは、私たち日本人の問 題でもある。
冒頭にも書いたように、中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」
と言う。しかし肝心の私たち日本人には、それがわからない。しかしここは、やはり、謙虚に、 どうして彼らがそう言うのか、静かに耳を傾けてみる必要がある。
事実、日本は、先の侵略戦争で、周辺の国々に、たいへんな迷惑をかけた。日本人も300
万人死んでいるが、その日本人は、同じく、300万人もの外国人を殺している。そうした事実を 忘れて、「日本人が日本で、何をしようが、日本人の勝手」という論理は、悲しいかな、この日 本の外では通用しない。
今回、韓国の人たちは、内緒で、つまり秘密裏で、核実験を繰りかえしていた。いくら「核兵
器はつくるつもりはなかった」と言っても、それを信ずる日本人は、いない。つまり、これもその (ズレ)の中に含まれる。
とくに韓国がその核実験を繰りかえしていた時期というのは、日本が莫大な戦後補償(実際
には、「経済援助」という名目でなされたが……)を、していたころである。言うまでもなく、その 実験の目的は、日本に対して、核兵器を使うためである。K国や中国ではない。日本、である。
はっきり言おう。
日本も、かなり本腰を入れて、この問題には対処しなければいけない。今までのように、「アメ
リカが何とかしてくれるだろう」とか、あるいは、「いい子でいれば、世界は日本に対して、何もし ないだろう」と考えるのは、あまりにも甘い。あくまでも実験にすぎなかったという、韓国の言い 分を鵜のみにするのは、あまりにも甘い。
では、どうするか?
平和を守るためには、いつも相手の立場で、相手が平和を守れるためにはどうするかを考え
る。その結果として、自分の国に、平和がもたらされる。もっとわかりやすく言えば、相手の(ズ レ)の中で、平和を考える。
日本が、過去に何をしたか。どんな脅威を与えたか。日本が今、何をしているか。どんな脅威
を与えているか。日本が、将来、何をするか。どんな脅威を与えるだろうか。そういうことを、相 手の立場になって考える。
つまりは、平和教育というのは、反省の教育と言ってもよい。そういう視点で、ものを考えるこ
とができるようになったとき、もっと言えば、相手の立場で、相手の平和を考えることができるよ うになったとき、日本は、真の平和を、自分のものにすることができる。
今回の意識の(ズレ)は、まさに、そのことを、私たちに教えてくれる。
あのネール(インド元首相)は、こう書いている。
『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。
●韓国の脱北者
朝鮮日報社(韓国)の調査によれば、K国から脱北はしたものの、韓国社会に同化できず、
「アメリカ、カナダ、オーストラリアに移住したい」と考えている、脱北者が、69%もいるという(0 4年9月。脱北者、100人を対象)。
現在の生活に不満……40%と。
さらに衝撃的なのは、「合法的にK国に帰れる機会があればどうするか」という質問に、33%
が、「帰ることもできる」と答えていること。
つまり「K国に、帰れるようなら、帰ってもいい」と。
……実は、このあたりが、私には、どうしても理解できない。K国といえば、徹底した反米教
育をしている国。その国で教育を受けた人たちが、K国がいやで、韓国へ逃げてきた。同じ朝 鮮語を話す、自由な(?)国、韓国へ、である。
が、その韓国に、同化できない。同化できないということは、わかる。しかしそのあと、どうし
て、アメリカなのか? しかも69%! 69%という数字は、ほとんどとまではいかないにして も、ほぼ大半とみてよい数字である。
韓国社会には、何があるのだろう。反対に、何が欠けているのだろう。そう言えば、先月も、
その韓国からさらにアメリカに亡命した、元K国脱北者がいた。元K国政府高官だったという。
この数字から推理すると、韓国という国は、意外と、自由のない国ということにもなるし、反対
に、K国という国は、意外と、自由な国ということにもなる。静かで、おとなしくしていれば、それ なりに住みやすい(?)国なのかもしれない。
それにしても、いろいろ考えさせられる調査結果である。
ついでながら、昨日(9・16)の時事通信によれば、K国は、中国との国境沿いに、K国最強
の軍団を配置したという。一応、表面的には、脱北者を防ぐためということになっているそうだ が……?
【北京16日時事】中国国営新華社通信の発行する国際問題紙・国際先駆導報は、16日、K
国との国境でK国脱出者らに対する警備に当たる中国部隊の活動を伝えたルポを掲載。この 中で、K国側は最高軍事指導機関「国防委員会」の直接指揮下にある最強部隊を、南北軍事 境界線(38度線)付近から、この地域に配転し、国境警備を強化していると報じた。
【杉野目晴貞先生のこと】
昔、北海道大学に、杉野目晴貞という教授がいた。私がUESCOの交換学生で、韓国へ行
ったとき(1967年)、世話人にもなってくれた人である。
私と韓国とのつきあいは、そのときから始まる。
で、その杉野目先生は、やがて、田丸謙二先生の恩師であることもわかった。一度、田丸先
生と連名で、杉野目先生に手紙を出したことがある(1970年)。
しかしその当時、杉野目先生は、体調を崩されているとかで、返事は、こなかった。それまで
は、何かにつけて、こまめに私の手紙に、返事をくれた。年賀状も交換していた。
たまたま先週、何10年ぶりかに、その杉野目先生のことを、楽天日記に書いた。それで古
いアルバムをさがしてみたら、100枚近い当時の写真がみつかった。
この写真は、杉野目先生と、38度線上にある板門店(ハンムンジョン)行ったときのものであ
る。長いテーブルの前にすわって、国連軍のガイドの説明を聞いているところ。
右が杉野目先生。左が私。満20歳になる少し前の写真である。
杉野目先生が話してくれたことは多い。しかし故人でもあるので、それについては、ここには
書けない。日本にとって、きわめて重要な、そしてすぐれた化学者であったという。先日、北大 出身の友人に、杉野目先生のことを話したら、「北大では、杉野目先生のことを知らない人は いない。杉野目財団というのもあるよ」とのこと。
「ヘエ〜」と言ったきり、つぎの言葉が出てこなかった。いっしょに、韓国中を旅したのが、ウソ
のようでもある。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(316)
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【失敗する子育て・子育てで失敗する親】
*******************
子育てで、子育てに失敗する親たち
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この話は、フィクションです。登場するのは、T君の母親とT君という、架空の親と子どもです。
今まで私の前を通り過ぎた無数の親や子どもたちの中から、(典型的な例)をあげ、子育てで、 子育てに失敗する親について、考えてみます。
この話が、みなさんが、もう一度、自分の子育てをみつめなおすきっかけになれば、うれしい
です。繰りかえしますが、この話は、フィクション、つまり小説です。「私」という一人称を用いて 書いていますが、決して、私のことを書いているわけではありません。また登場人物も、実在す る親と子どもではありません。そういうことを念頭に置いて、お読みください。
*******************
【1】
子どもの学習で、重要なことは、子ども自身が、達成感を味わうようにすること。「ヤッター!」
という思い、それが子どもを前向きに伸ばす。心理学の世界でも、これを「強化の原理」とい う。
たとえば小学1年生に、20問の足し算の問題を出したとする。繰りあがりのない、答が10ま
での問題である。
この時期、まだ指を使って計算する子どもは、少なくない。T君(小1)もそうだった。能力的に
は、上位にいたが、計算だけは、どういうわけか、苦手だった。私は、問題用紙のはしに丸を 描いて、計算するように指導した。
T君は、懸命にそれをした。ほかの子どもたちより、2倍ほど、時間がかかった。
で、T君は、やっとのことで、そのプリントをやり終え、私のところにもってきた。それを見て、
私は大きな丸をつけた。「できたね。よくやったね!」と。
20問のうち、4、5問は、まちがっていた。しかしまちがっていたといっても、誤差の範囲。
が、それよりも重要なことは、T君に、自信をもたせること。私がT君をほめると、T君は、うれし そうに笑った。それを見て、「ほら、この前より、ずっとはやくできるようになったじゃないか」と、 私は、またほめた。
が、その日のレッスンが終わって、一息ついたときのこと。T君の母親が、そのプリントをもっ
て、私の教室へやってきた。そしてどこか緊張した口調で、こう言った。
「先生、この答、ちがっていますよ!」と。
私はすかさず、「一生懸命やってくれましたから、丸をつけてあげました」と答えた。
母「まちがっているのに、丸をつけるのですか?」
私「答には、あまり、こだわらないほうが、いいと思うのですが……」
母「ちゃんと、しっかりみてくださらないと、困ります」
私「はあ、今度から、そうします。ごめんなさい」
母「あとで、息子には、やりなおしをさせておきます」
私「……」と。
しばらくすると、T君が、半べそをかきながら、私のところにもどってきた。「これ……」と言った
から見ると、先のプリントを手にしていた。「やりなおしたの?」と私が聞くと、「うん」と。
駐車場にとめた、車の中でしたらしい。字が乱れていた。
私「よくやったね。さっきは、ぼくがまちがえた。まちがっているのに、丸をつけて、ごめんね」
T「うん」と。
そのあと、廊下のほうから、T君の母親が、T君を叱る声が聞こえてきた。「どうして、こんな簡
単な問題ができないの! ちゃんとやっているの!」と。私は、廊下へおどり出た。母親とT君 は、まだそこにいた。
母「私は、1年生のとき、こんな問題なら、簡単にできました。どうしてTはできないのでしょう」
私「できないということではありません。数を信号化して、それをすぐ頭の中で、数えることがで
きないだけです。わかりやすく言えば、指を使って計算するというクセが、身についてしまった からです。少し訓練すれば、もう少しはやく計算ができるようになります」
母「私は、小学1年生のときには、6足す7の問題もできました」
私「くりあがりのある足し算は、2学期に入ってから、学習します」と。
T君の母親は、さも不満そうな顔をしていた。そしてそのまま、T君の手を引いて、駐車場の
ほうへと歩いていってしまった。
【2】
子どもを自分の思いどおりにしたいと考え、自分の管理化におくことを、心理学の世界でも、
「代償的過保護」という。一見、過保護に見えるが、過保護ではない。
ふつう過保護というときには、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護に
は、それがない。たとえば子どもの受験競争に狂奔する親がいる。この世界では、珍しくない。 このタイプの親は、「子どものため」という言葉を、よく口にする。が、本当のところは、自分の 不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。
もっと言えば、自分の不安や心配を解消するために、自分の子どもを利用する。あるいは子
どもを、自分の果たせなかった夢を果たす、道具に使う。それが代償的過保護ということにな る。
が、T君のばあいは、もう少し、複雑な事情が、それにからんでいた。
T君の祖父は、静浜市でも、有名な医師だった。医師会の会長も、何期か務めたことがあ
る。財産家でもあった。
しかしT君の父親は、そのときですら、実家の援助と仕送りを受けて、生計を立てていた。定
職をもっていなかった。つまりT君の母親は、夫と結婚したというよりは、夫の父親(T君の祖 父)の財産を当てにして、結婚したようなところがあった。
いや、当初は、二人の間にも、恋愛感情があったのかもしれない。しかしT君の母親は、やが
て夫との結婚生活に幻滅。夫との離婚を何度も考えるようになった。が、それもままならぬとわ かるようになると、今度は、一転、夫の父親の財産に目をつけるようになった。
だからT君の母親の口ぐせは、いつも同じ。「Tを、医者にします。どうか、手を貸してください」
と。それを受けて、T君はT君で、「ぼくは、おとなになったら、おじいちゃんのようなお医者さん になる」と言っていた。
そのためT君の母親は、過激とまで言えるほど、T君の教育に、のめりこんでいった。
【3】
子育ては、それ自体が、重労働である。どう重労働であるかは、それをしてみないとわからな
い。
しかしその重労働も、夫婦の愛情がしっかりしていれば、乗りきることができる。子どもは、ま
さに(愛の結晶)ということになる。
が、その基盤が、ゆらいだとき、その重労働は、苦痛へと変身する。そしてその苦痛は、長い
時間をかけて、母親の心をむしばむ。ストレスはさらにつぎのストレスを生む。そしてそれが幾 重にも折り重なって、いわゆる私たちがいう、「育児ノイローゼ」へと発展する。
うつ病である。
今、こうして育児の過負担から、育児ノイローゼになっていく母親は多い。症状は、お決まり
の抑うつ感から、情緒不安、不眠、慢性的な頭重感や頭痛などなど。
T君の母親の様子が、どこかおかしくなり始めたのは、T君が、3歳くらいのときからだった。
ささいなトラブルで、隣人を大声で罵倒したかと思うと、その翌日には、手製の編み物をもっ て、あやまりに行ったりした。
その隣人は、こう言った。「とても、ものをもらえるような雰囲気ではありませんでしたので、そ
のまま帰ってもらいました」と。
しかしその抑圧感が、母親の範囲で収まっていれば、まだ問題はない。T君の母親は、ことあ
るごとに、T君を、大声で怒鳴ったり、叱ったりしていた。
が、T君は、母親にくらべて、精神的にはきわめてタフな子どもだったようだ。ふつうなら、(私
の経験の範囲なら)、そのため内閉したり、精神的に萎縮したとしても、おかしくなかった。親の 情緒不安ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。が、T君は内閉することもなく、表面的 には、それなりに明るい子どもとして育った。
【4】
そのT君が、母親に反抗し始めたのは、T君が、小学3年生になるころのことだった。最初、T
君の母親から、電話がかかってきた。「家で、遊んでばかりいて、勉強をしません」と。
が、その数日後、私が教室へ入ろうとすると、入り口のところに、T君の母親が立っていた。
オロオロした様子で、こう言った。
「先生、Tが、私と口をきいてくれなくなりました。学校の様子を聞いても、何も話してくれませ
ん。先生のほうから、もっと学校の様子を離すように、指導してください」と。
が、そのころになると、私も、T君の母親とは、一線を引くようになっていた。
T君の母親は、どこかつかみどころのない人だった。そういう印象をもち始めていた。気分の
移り変わりがはげしいというか、何を考えているか、わからなかった。昨日通りで会って、明るく あいさつを交わしたはずなのに、その翌日の今日には、指導のし方がおかしいと、教室へ怒鳴 りこんでくるなど。そんな感じだった。
夜中の1時すぎに、「相談がある」といって、電話がかかってきたこともある。あるいは、「昨日
は、長い電話をして、ごめんなさい」と、ほとんど意味のない電話がかかってきたこともある。
私はT君の母親をなだめるだけで、精一杯だった。
私「もうそろそろ子どもも、親離れを始めますから……。どこの子どもも、そんなものですよ」
T君の母親「そうですか……。どこも、そうですかア……」と。
それは痛々しいほどの狼狽(ろうばい)ぶりだった。
【5】限界
子育てというのは、自分で失敗してみるまで、それが失敗だったと気づくことは、まず、ない。
失敗してみて、はじめて、親は、それが失敗だったと気づく。
これは子育てにまつわる、宿命のようなものかもしれない。それには、いくつかの理由があ
る。
その一つが、内政不干渉の大原則。
たとえばレストランの中で、母子二人の、親子連れの横にすわったとする。母は、ハンバーグ
を食べ、子どもが、ソフトクリームを食べていたとする。子どもといっても、まだ4歳前後。食べ ているソフトクリームは、子どもの顔より、大きい。
体重10キロもない子どもが、ソフトクリームを一個食べるということは、体重50キロの母親
が、同じソフトクリームを5個、食べる量に等しい。
おとなでも、5個は、食べられない。仮に、5個も食べれば、どうなるか……? しかしそういう
光景を見たとしても、それについて、私やあなたは、とやかく言うことはできない。
これが内政不干渉の大原則である。
つぎに、仮にそれがわかっていたとしても、「もし、まちがっていたら……」という迷いは、いつ
も、つきまとう。
明らかに、つっぱり症状を示し始めた子どもがいたとしても、それは一時的なものかもしれな
い。あるいは、それ以上、症状が進まないかもしれない。生意気になったとしても、ある時期、 子どもは、みな、生意気になる。生意気になりながら、おとなになる。
T君もそうだった。
小学3年の終わりには、ますます生意気になった。こんなことがあった。
帰りぎわ、私が、T君に、戸棚の整理を頼んだ。みなが使った道具類が、散乱していた。する
と、T君は、即座に、「どうして、ぼくがしなけりゃあ、いかんよ〜」と。それに強く反発した。そこ で、私は、「君が、一番近くにいるからだ」とか、「ほかの人には、ほかの仕事を頼むから」と説 明した。
本当のところは、そのT君が、一番乱暴に、道具類を使っていたからだ。だから私は、T君に
それをさせたかった。
が、T君は、最後まで不機嫌な顔のまま。道具類を片づけながら、「ぼくがすれば、いいんでし
ょ、ぼくが」と、何度も吐き捨てた。
【6】
しかし内政不干渉というのは、口実かもしれない。本当のことを言えば、親にそれだけの自
覚があれば、子どもの指導は、まだ可能。が、その自覚のない親には、いくら説明しても、ム ダ。ムダであるばかりか、かえって、私の言ったことに反発してしまう。
T君の母親は、何かにつけて、T君を大声で怒鳴りつけた。その声が、家の外まで聞こえてく
ることもあったという。
そこで見るに見かねた、祖母(父親の実母)が、あるとき、T君の母親をたしなめた。「子ども
は、大声を出して育てては、いけない」と。
するとT君の母親は、その場で、T君を呼びつけ、「T! お母さんが、いつ、あんたは怒鳴っ
たア!」と。「怒鳴ったことなどないわよね。だったら、おばあちゃんに、ちゃんと、そう言いなさ い!」とも。
すでにそのときT君の母親は、T君に向かって怒鳴っていた。が、T君の母親には、その自覚
は、まったくなかった。つまりそういう言い方が、T君の母親には、ごくふつうの言い方だった。
これは一例だが、子育てというのは、一事が万事。T君の母親は、あらゆる面で、そうした子
育てをしていた。頭ごなしの、命令口調。それ以外の子育てができないというより、知らなかっ た。というのも、どんな母親でも、自分が受けた子育てしか知らない。それが悪いというのでは ない。もともと、子育てというのは、そういうもの。
だから、無意識であるにせよ、(まったくの無意識状態と言ったほうが、正確かもしれない
が)、親というのは、よきにつけ、悪しきにつけ、自分が受けた子育てを繰りかえす。
T君の母親も、そうだった。
【7】
九州の北部という土地柄もある。そのあたりでは、そうでない地域の人には信じられないほ
ど、親意識が強い。いまだに家長制度が、色濃く残っている。
たとえば娘でも、一度嫁いで家を出れば、他人。まったくの、他人。実家へもどるときも、シー
ツを持参するという。「父親はもちろんのこと、母親にですら、反発することなど、考えられませ ん」と、T君の母親は、言った。T君の母親は、その九州北部のS県の出身だった。
だからそういった家長制度に、心のどこかに反発しながらも、その一方で、T君の母親は、T
君が、反発したり、口答えすることを許さなかった。ことあるごとに、「親に向かって、何てこと言 うの!」が、口グセになっていた。
T君は、母親に、表面的には、従順に従っていた。が、もう一つ、大きな問題があった。
先にも書いたように、T君の父親には、生活力がなかった。柔和でおだやかな人だったが、
ハキがなかった。仕事といっても、短期間のアルバイトを繰りかえすだけ。店員になったり、配 達業を手伝ったり。工事現場の旗振りの仕事をしたこともある。
そういう父親を、T君の母親は、ことあるごとに、けなした。
「お父さんは、稼ぎがないからね」
「お父さんは、だらしない人よ」と。
こういう関係は、決定的に、まずい。心理学の世界でも、「三角関係」と呼ぶ。父親と母親が、
バラバラになってしまい、子どもとの間に三角関係ができてしまうことをいう。
子どもが小さいうちならまだしも、子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、両親のスキを
ねらって行動するようになる。具体的には、どちらの親の言うこともきかなくなる。親をバカにす るようになる。
子どもの側からみると、ちょうど、凧糸の切れた、凧のようになる。ハンドルのない、自動車の
ようになる。その傾向が、T君にも見られるようになった。
【8】
親子の断絶は、最初は、小さなキレツで始まる。そのキレツが始まったところで、本来、親は
それに気づき、手を打たなければならない。しかし、ほとんどの親は、こう考える。
「まだ、何とかなる」「うちの子にかぎって、そんなはずはない」と。
しかし一度、キレツが入ると、あとは竹を割ったように、そのキレツは大きくなる。パリッと、
だ。
こんな事件があった。
T君が4年生になったまもなくのころ。T君の母親が、買ったばかりの新車を、自動販売機に
ぶつけてしまった。自損事故である。私は、その事故のことを、T君の母親から、直接聞いて知 っていた。
で、その数日後のこと。私はT君と会ったので、こう切り出した。
私「お母さん、事故、起こしたんだってね?」
T(ふてくされた様子で)、「知らね〜よ」
私「けがはなかったの?」
T[知らね〜よ、って]
私「知らないって、お母さんがけがをしたら、たいへんだよ。心配しないのか?」
T(さらにふてくされた様子で)、「知らねえって、ば」と。
子どもというのは、その人に対する印象をそのまま表現することがある。もう30年近くも前の
ことだが、こんなことがあった。
年中児の子どもたちに、父親の絵を描かせていたときのこと。一人、父親の顔を描いたとた
ん、クレヨンで、その顔を真っ黒にぬりつぶしてしまう子どもがいた。そこでその紙をとりあげ、 新しい紙を渡し、もう一度描かせた。が、結果は、同じ。また、父親の顔を書いたとたん、黒く、 ぬりつぶしてしまった!
あとで理由を聞くと、母親は、こう言った。
「あの前の夜、はげしい夫婦げんかをして、夫は、家を飛び出してしまいました」と。そのと
き、その母親は、「蒸発」という言葉を使った。当時、流行していた言葉である。「突然の家出」 のことを、「蒸発」と言った。
T君もそうだった。ふつうは……、こういうケースでは、「ふつう」という言い方は、慎重にしなけ
ればならないが、ふつうは、母親が事故を起こせば、子どもは、それについて心配する。
しかしT君は、その様子を見せなかった。見せないばかりか、私から視線をはずした。どこか
心がゆがみ始めた子どもがよく見せる、「横視現象」である。
【9】
心がゆがみ始めると、子どもは、さまざまな、しかし独特の症状を見せるようになる。原因
は、欲求不満と考えてよい。あるいは欲求不満に準じて、考える。症状としては、なげやりで横 柄な態度。肩をいからせて歩く、乱暴な言葉など。
心はいつも緊張状態にあるため、ささいなことで激怒しやすくなる。被害妄想性と過剰行動性
を示すことも多い。俗にいう、キレやすい状態になる。精神医学の世界では、突発的なさく乱状 態のことを、「キレル」という。
そのほか生活態度としては、目標や目的が守れない、退廃的になりやすいなど。その場だけ
の享楽的な楽しみを求めるようになる。
T君が見せた、横視現象も、その一つに当たる。自分の心を見すかれないようにするため、
無意識のうちにも、相手から視線をはずす。
しかしこの段階でも、外の世界では、ふんばる子どもがいる。家の中では荒れても、外の世
界では、それを見せない子どもである。仮面をかぶるのがよいわけではないが、しかし外の世 界でも、その「荒れ」を見せるようになったら、症状は、かなり重いとみる。
私は、T君を傍(はた)から観察した。どこか乱暴な様子は見せるが、それは私だからわかる
こと。素人が見たら、ごくふつうの、どこにでもいる、明るい活発な子どもに見えたかもしれな い。
私が、最初に迷ったのは、このときである。「母親に、それを告げるべきか、どうか」と。
しかしこういうケースでは、母親に話して、それでうまくいくのは、10に1つもない。ほとんどの
母親は、二番底、三番底の恐怖を知らない。今の状態を最悪と考えて、その時点で、子どもを 何とかしようとする。その無理が、子どもの症状をこじらせる。
よくある例が、子どもの門限破り。
ふつう子どもが門限を最初に破ったりすると、親は、そのとき、子どもをきつく叱る。で、しば
らくは、子どもも、おとなしくしているが、また門限を破る。すると親は、さらに強く叱る。
しかしこれをしばらく繰りかえしていると、子どもは、外泊。さらには、家出、集団非行へと進
んでいく。二番底、三番底へと落ちていくわけである。
が、最近では、さらにその底がある。妊娠、中絶などは、まだよいほう。すでに中学生でも、
深刻な性病になるケースすら、ある。
【10】
小学5年生になるころには、T君は、だれの目にも、荒れた子どもに見えるようになった。行
動も、大胆になってきた。友だちを殴ったり、蹴ったりすることもあった。バス停のイスをほうり なげて、防風用の塀をこわしてしまったこともある。T君の母親は、そのたびに、学校へ呼び出 された。
もうこうなると、打つ手は、ほとんどない。T君にしてみれば、先生にせよ、友だちにせよ、み
ながこわがることのほうが、居心地がよい。そんなわけで、(みなに嫌われる)→(行動がます ます粗放化する)の悪循環の中で、T君の行動は、さらに大胆になっていった。
学校をサボル。授業を妨害する。仲間と、ゲームセンターにいりびたりになり、ときに、外泊も
する。もちろん、勉強どころではない。T君の母親は、こう言った。
「もう、こわくて、私からは、何も言えません。どうか先生のほうから、説教してください」と。そ
のときT君の身長は、すでに、母親をこえていた。
が、ここにも書いたように、私とて、無力でしかない。「もうこれ以上、症状を悪くしないように、
それだけを考えて、あきらめるべきところは、あきらめなさい」と。
事実、その時点で、T君を放り出すようなことをすれば、今度は、「犯罪行為」に走るようにな
るかもしれない。その可能性は、じゅうぶん、あった。
で、T君は、こうして小学校を卒業し、一応、中学校へと進学した。同時に、私のところからも
去った。
++++++++++++++++++++
ここで架空の親子、T君と、その母親について、書いた。しかし、こういう失敗例は、多い。本
当に多い。親子の歯車がどこかで狂い、かみあわなくなる。そしてあとは、お決まりの断絶。
しかしT君がまだ幼児のころ、T君がやがてそうなると、T君の母親は、想像できただろうか?
答は、ノーである。T君の母親は、T君を医者にすると言っていた。T君も、医者になると言っ ていた。
しかしその夢は、T君が中学生になるころには、完全にうちくだかれてしまった。母親はこう言
った。「何とか、中学校だけでも、しっかりと出てほしい」と。今では、「人様に迷惑さえかけなけ れば、それでいいです」「どこかで大きな事件が起きるたびに、つぎはうちの子ではないかと、 ハラハラしています」とも。
T君のような例のほか、ほかにも失敗例は、多い。無理な学習が、子どもを無気力にしてしま
った例。さらには、子どもの心までゆがめてしまった例など。しかしこうした失敗で共通している のは、最初から、親が、子どもの心を見失ってしまっていること。子どもの心を見ようともしな い。
「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」という過信と誤解のもと、自分流の子育て
を、子どもに押しつけてしまう。
が、相手は、生身の人間。あなたや私と、どこもちがわない、同じ人間。「やらせればできる」
と考えるのは、あなたの勝手かもしれないが、一度でよいから、子どもの立場で、子どもの視 線で、考えてみたらよい。
そういう謙虚な姿勢が、子どもの心を開く。こうした失敗を防ぐ。それについては、マガジンの
ほうで、追々書いていきたい。
(040917)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(317)
●ハリケーン、「アイバン」
超大型のハリケーンが、目下、アメリカの南部を襲っているという。名前を、「アイバン」という
そうだ。
そこで私は、「アイバン」と、どう書くかを調べてみた。
アメリカのあちこちのニュースサイトを開いてみる。が、なかなか見つからない。検索したくて
も、しようが、ない。スペルがわからない。そのスペルを検索するときは、どうすればいいの だ!
eyebanか、Ibanか……?
……と思っていたら、わかった。
「Ivan」と書くのだそうだ。ロシア式の読み方では、「イワン」?
日本では、「イバン」と読みそうである。よく知られたアーティストに、「エンヤ」がいる。日本の
外では、「イーニャ」と読む。
昔、こんなことがあった。
オーストラリアのビジネスマンが私をたずねてきて、「ケイトウという会社へ、連れていってく
れ」と。
「そんな会社は聞いたことがない。知らない」と答えると、「そんなはずはない。日本でも最大
級の建設機械メーカーだ」と。
スペルを書いてもらったら、「KATO」、つまり、「カトウ」とわかった。
同じように、「日立(HITACHI)」は、オーストラリアでは、「ハイタッチ」と呼ばれていた。(今
も、そうだと聞いている。)
それにしても、巨大なハリケーンだ。映画に、『パーフェクトストーム』というのがあった。その
映画を思い出しながら、どうか、息子たちの住むアーカンソー州へ向わねばよいと、毎日、心 配している。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(318)
**************************
F市に住んでいる、Mさん(母親)から、子どものおけいこ
ごとについて、相談があった。
子どもは、「行きたくない」と言う。しかしMさんは、「こ
こでやめさせたら、中途半端で終わってしまう。人間的に
だめになるのでは?」と、悩んでいる。
「どうしたらいいか?」と。
**************************
【Mさんへ……】
世界の人たちをみると、
みんな、もっと気楽なんですよ。
生きザマそのものが……。
ヨーロッパ人なんか、平気で
長期のバカンスを楽しんだりしています。
オーストラリア人も、です。
休暇で日本へ来ている間も、仕事のことなど、
まったく考えていない。目一杯、休暇を楽しんでいます。
日本人だけが、くそまじめ。本当にくそまじめ。
たかが子どものおけいこごと。そんなことにまで、
「やめたら、人間的にだめになる」などと、
おおげさに考えてしまう。
このくそまじめさは、一体、どこからくるのでしょうか?
私は、それが教育だと思うのです。
先日も、K市のある小学校に行ったら、
そこの校長が、こう悩んでしました。
「このあたりは、ブラジル人が多いです。
ある日突然、学校へ子どもをつれてきて、
教えてくれと言ったりします。
しかしやめるときも、簡単。
ある日突然、学校へこなくなる。
そこで聞いていみると、転勤しました、と。
実に簡単なのですね。
教える側としては、やりきれないのですが……」と。
こんなところにも、日本人とブラジル人の
ちがいがあるようです。
人生を楽しもうとする、ブラジル人。
くそまじめになって、仕事を優先させる日本人。
そしてそれがそのまま、子育てに反映されている!
あなたも、もっと、体のクサリを解いて、
自由に、気楽に考えたらいいのです。
もちろんまじめに生きるべきところは、まじめに
生きる。しかしそれはこういった問題とは
別問題です。
たかがおけいこごと。子どものおけいこごと。
もちろん楽しみ方にも、いろいろあると思います。
お金をかけて、遊園地へ……という発想ではなく、
別の方法です。
ぼくなんか、万年、失業者、プロのフリーター
ですから、定職意識は、ほとんどありません。
少し、生きザマがちがうようですね。
しかしね、あなたの生きザマは、決して国際的な
標準ではありませんよ。
実に日本的。
先日も、最近リストラされた友人がこういいました。
「ぼくは、一社懸命(一生懸命をもじったもの)で
がんばってきた。
しかし林君は、20代のとき、三井物産をけっとばして
出た。林君は、すでにそのころ、会社勤め(=くそまじめ)
がばからしいと、気がついていたのか?」と。
ぼくは、胸をはって、こう言いました。
YES!、と。
ぼくが、オーストラリアの留学時代に学んだものと言えば、
その「自由」です。
さあ、あなたも肩の力を抜いて!
くそまじめなんか、つまらないですよ。
何を、そうまでおびえているのですか?
何を、そうまで守らなければならないと考えているのですか。
気楽に、気楽に!
今、大きな落雷がありました。
パソコンの電源を切らねばなりません。
++++++++++++++++++++++
追記
やはり、停電になりました。
あやうくセーフでした。
で、今は、電源も回復。
改めて、この問題について、考えてみます。
実はね、国民性というのも、個人の精神状態が集合
されて決まるのですね。
子どもの世界には、(おとなもそうですが……)、
「基底不安」という言葉があります。
この基底不安型タイプの子どもは、何をしても不安。
休みになっても、その休みを楽しむのではなく、
休みながら、明日のことを心配する。
原因は、乳幼児期の母子関係にあるとされています。
で、実は、日本という国全体をみたときも、
同じことが言えるのですね。
日本という国には、日本人が安心してよりかかれる、
精神的バックボーンが、ないのです。
一応仏教というのもありますが、どこか儀式的?
活動している教団にしても、どこかカルト的?
組織信仰が主体で、「個人」が、どこか置き去りに
なっている?
そこで戦後の日本は、「マネー崇拝」へと走った。
ぼくは、日本人が、なぜこうまで基底不安型の
国民性をもってしまったかといえば、こうした背景が
あるのではないかと思います。
(組織信仰をしている人も、結局は、その基底不安
が背景にあって、そうしている?
何かに追いたてられるかのように布教活動を
しているのも、その一つ。)
仕事をしていないと、不安なのですね。
こうした基底不安は、とくにぼくのような
団塊の世代は、強くもっています。
学生時代にしても、何かに追いたてられるようにして、
いつも、(未来)のために、(現在)を犠牲に
することばかりを、強いられてきた。
友人がいう、「一社懸命」という発想は、そういう
ところから生まれたのですね。
もちろん女性とて、そして子どもたちとて、例外では
ありません。それが日本人の国民性だからです。
話は変りますが、尾崎豊の『卒業』、ご存知ですよね。
「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」というあの歌です。
最初は、「とんでもない歌だ」と思いましたが、
私はすぐ、その歌が、大好きになりました。
ミイラ取りが、ミイラになったような感じです。
みんな、日本人は、「しくまれた自由」を、自由と
思いこんでいただけかもしれません。
今も、そうです。
「子どもは自由に育てる」と言いながら、その
自由の意味が、本当のところは、わかっていない?
自由というのは、「自らに由る」という意味です。
自分で考えさせ、行動させ、そして責任をとらせる。
それが自由です。
が、「あんたは、音楽教室へ行きなさい」と子どもを、
音楽教室へ入れる。
そしてそれを子どもがいやがると、「このままでは
子どもはだめになってしまう」と、悩む。
「あんたが行くと言ったから、行くんでしょ。
途中で投げだすなんて、どういうこと!」と、子どもを責める。
どこにも自由がないのが、わかりますか?
実は、ぼくも、あなたも、そういう国の中で、
生まれ、育っているのです。
こういう自分をがんじがらめにしているクサリを
解くのは、容易なことではないでしょうね。
まず、そのクサリに気づかねばなりません。
つぎに気づいたら、自分の生きザマそのものを
変えねばなりません。
変えるだけならともかくも、自分を取りかこむ、
周囲の人たちとも戦わねばなりません。
何といっても、この日本では、自由に生きる人は、
マイナーな存在ですから……。
今朝も、「フリーターは、生涯賃金で2億円の差」
(週刊「Y」)という見出しが目に飛びこみました。
つまり、フリーターは、損だ、と。
雑誌社という、組織にいる人の意見としては、
そういうふうに言わざるをえないのだろうと思います。
自由に生きる人間を認めたら、自己否定の世界に
陥ってしまいますから……。
しかし、何が、損で、何が、得なんでしょうかね?
今、日本人は、オーストラリア人の約2倍の給料を
手にしています。
で、その日本人が、それだけ、得をしているかと
いうと、どうも、そうではないような気がします。
何かしら、無駄なものばかり買って、
無駄なことばかりしているような気がします。
そして大切でないものを、大切だと思いこんでいる。
そして大切なものを、大切でないとそまつにしている。
Mさんの、今の悩みには、そんな日本人全体が
かかえる、国民性がすべて集約されているように
思います。
幼児期は、もっと気楽に考えてあげてください。
幼稚園にしても、保育園にしても、
そして、おけいこごとにしても、
どこかのレストランにでも行くように、
もっと、気楽に考えればよいのです。
学校も、です。
子どもが不登校を起こしたりすると、
日本の親たちは、たいてい、狂乱状態になりますね。
そういう民族は、世界広しといえども、
日本人くらいなものですよ。
「明日は、幼稚園をサボって、ママと、
動物園へ行ってこようか?」と、あなたも、
勇気を出して、言ってみてください。
「♪この支配からの、卒業〜」です。
(040918)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(319)
【新しい発見を求めて……】
●青春時代の灯台
オーストラリアにいる、三男が、風邪をこじらせ、倒れた。「急に、フワフワとして、そのまま気
を失った」と。
それでイングリッドさん(ホームステイ先の女性)が、救急車を呼んだ。
我が家で、人生始まって以来の、救急車となった。が、私とワイフは、そのことを、三男が、病
院から帰ってきてから知った。
私「で、今は、もうだいじょうぶか?」
三男「だいじょうぶだよ」
私「心細くないか?」
三男「ううん。みんないい人だったよ」と。
話を聞くと、こうだった。
病院へ運ばれた三男は、そのまま救急室へ。そこでペニシュリンを打ってもらったらしい。あ
とは、何かの点滴を受けた。で、数時間後には、気分がよくなり、歩くことができるようになっ た、と。
「ドクターも看護婦さんも親切だったけど、ボランティアの女性が二人もついて、あれこれめん
どうをみてくれた」と。
私はいろいろ話を聞いて、ほっと、胸をなでおろした。しかし、同時に驚いた。
オーストラリアの医療制度は進んでいるとは聞いていたが、ここまで進んでいるとは! つま
り中身が、すごい。日本にも、ヘルパーとかボランティアがいるが、ここまではしない。しかも相 手は、外国人の大学生!
私「お金は? 保険は使ったか?」
三男「ううん。メディバンク(学生保険)に入っていたから、全部、ただだった」と。
メディバンクというのは、向こうの大学に入学したとき、強制的に加入させせられる、学生用
の保険のことをいう。年額、数千円足らずのそのメディバンクが、カバーしてくれたという。ただ だったという。三男は、ほかにAXXの総合保険にも入っている。
もう10年前になるだろうか。オーストラリアの一人当たりの国民総生産高が、シンガポール
のそれに抜かれたとき、そのことを、オーストラリアの友人に話すと、その友人は、こう言った。
「ヒロシ、それがどうした?」と。
生活の質、つまり生活水準などというのは、お金では計算できない。私は三男からその話を
聞きながら、同じように、医療水準などというのも、お金では計算できないと知った。三男もそ れを言いながら、「オーストラリアはいいところだね」と。三男も、すでに、オーストラリア大好き 人間になったようだ。
もうすぐ帰国するが、その前に、オーストラリアを、旅行してくると言った。それに答えて私は、
こう言った。
「青春時代というのは、そのまま人生の灯台になるよ。
これから先、お前が生きていく間、お前の足元を照らしてくれるよ。
だから、思いっきり、すばらしい思い出を作っておくといいよ。
これから先、苦しいこと、悲しいこと、つらいこともあるだろう。
そういうとき、その灯台が、お前の足元を照らしてくれる。
ふと、まちがった道に入りそうになることもある。
そういうとき、その灯台が、お前を、そこで踏みとどまらせてくれる。
青春時代の灯台というのは、そういうものだよ。
思う存分、お前の青春時代を生きたらいい。
旅行費用は、プレゼントするよ。必要な額を、メールで知らせない」と。
つづいて、イングリッドさんが、電話に出た。しばらく礼を言いつづけた。イングリッドさんは、
そのときの状況や、病院での様子をあれこれ話してくれた。
私は、その明るい声の中に、34年前に感じた、あのぬくもりを感じた。
Advance Australia! We love you!
【国家としての完成度】
国家としての完成度は、他国の人たちへの、やさしさで決まる。これは、個人のばあいと、同
様である。いうまでもなく、個人としての人格の完成度は、その人がいかに利他的であるかで、 知ることができる。
もう25、6年前になるだろうか。当時、どこかの公的団体が、こんなアンケート調査をした。
日本に留学した外国の学生たちへのアンケート調査である。その結果、ほぼ100%が、
「(帰国するときには)、日本が嫌いになった」「もう、二度と、日本へは来たくない」と、答えてい たのを覚えている。
劣悪な生活環境。劣悪なもてなし。理由はいろいろある。しかし当時、それぞれの国からやっ
てくる留学生たちは、その国の超エリートたちであった。それなりの夢や希望をもって、やって きた。
そういう留学生たちが、1年、2年と日本で生活するうちに、日本が嫌いになってしまう……。
当時の日本には、とくにアジア系留学生には、冷たかった。どう冷たかったかということは、
日本人なら、みな、知っているはず。
それから10年、20年、30年……。今、当時の留学生たちが、それぞれの国で、その国のリ
ーダーとして活躍している。それを考えると、実のところ、背筋がぞっとする。日本という国は、 まだまだだと思う。
私も留学生だったが、現地へ着くと同時に、ライオンズクラブのメンバーが、世話人として、二
人ついてくれた。あちこちへ旅行に連れていってくれた。ゴルフや競馬に連れていってくれたこ ともある。もちろんすべて、無料。ボランティア活動である。
だから……、というわけではないが、私は、オーストラリアが大好き人間になってしまった。今
でも、「オーストラリア」という言葉を聞くだけで、胸の中に熱いものが、よみがえってくる。
私は、それが国家としての完成度だと思う。
どういうふうにして、2人のボランテォアが三男についてくれたかは知らないが、その話を聞い
て、ほっとすると同時に、私は、ますますオーストラリアが好きになった。
●K国の最強部隊?
K国が、中国との国境沿いに、K国の最強部隊を配置したという。金XX直轄の、海軍陸戦部
隊だという。そのことを、中国の新華社通信は、つぎのように伝える。
「K国は、最近、最強の戦闘能力を持つ海軍陸戦部隊を国境地帯に配置し、脱北者の取り締
まりを強化している」(「国際先駆導報」9・16)と。
考えてみれば、これはおかしなことだ。「脱北者を取り締まるために、K国は最強の軍隊を配
置した」というのだ。脱北者といえば、まさに着の身着のまま。武器をもって、脱北する人など、 いない。
そういう脱北者である。なぜか?
理由は、二つ考えられる。
一つは、表面上の友好関係は別として、中国とK国の関係は、内部的には、かなり悪化して
いるということ。その中国も、国境沿いに、15万以上の、正規軍を配置している※。この8月に は、中国人民解放軍が、K国の北で、渡河訓練 を行ったという報道もある(産経新聞)。
もう一つの理由は、K国が、そうでもしなければ、脱北者を防げない状態になっているというこ
と。すでにK国自体は、崩壊状態になっている? 韓国への脱北者は、8月末までで、今年は、 1399人もいるという。この数は、03年度の1281人をすでに超えている(韓国の統一外交通 商委員会)。
以下は私の憶測だが、中国はK国に対して、強力な軍事的圧力を加えつつあるのではない
かということ。「言うことを聞かなければ、軍事行動も辞さない」と。
これに対して、金XXは、軍事力で対抗しようとしている。短気で向こう見ずの男だから、それ
はありえる。つまり、ともに、脱北者対策は、口実にすぎない。
日本にとって、最良のシナリオは、中国の圧力で、つまりは、自然死の状態で、金XX独裁政
権が崩壊すること。そしてそのあと、米中韓が協力して、K国に、民主的な新政権を樹立するこ と。
こうすれば、日本は、戦争をしないですむ。極東に、平和がやってくる。日本もそれ相当の経
済援助を覚悟しなければならないが、それは当然のことである。
※……中国側は、吉林省の国境地帯で、無線操作の監視モニターを約1キロおきに設置し、2
4時間体制で不審者をチェック。発見すれば、5―10分以内に兵士が現場に急行できるという (ヤフー)。
●高齢者、2500万人時代!
もうすぐ高齢者が、2500万人に達するという(厚生労働省04・09)。
2500万人と言われても実感がないが、要するに、こころにもそこにも、私のような老人が、
ごろごろするようになるということ。
で、その老人にもいろいろある。大きく分けて、利己型と利他型。
利己型というのは、結局は、自分のことしかしない、セルフィシュな老人群をいう。大半が、そ
うであると言ってもよい。
利他型というのは、地域の仕事や活動を、積極的にしている老人群をいう。ボランティア活動
や自治会の仕事で、走り回っている。
どちらがよいか悪いかという議論は、ほとんど意味がない。私自身は、利己型の老人群に
は、まったくといってよいほど、価値を認めない。が、本当にかわいそうなのは、本人たち自身 ではないのか。
毎日、庭いじりをしているだけ。息子や娘もいるが、ほとんど、家には寄りつかない。夫婦の
会話も、これまたほとんど、ない。いくら長生きをしたからといって、そういう人生に、どういう意 味があるのか。
一方、私の近所に、すでに腰がまがってしまった老人(女性)がいる。年齢は、90歳くらいで
ある。昨日も見ると、ハサミで(ハサミだぞ!)、一本、一本、雑草を切っていた。
この女性は、もう20年近く、近くの中学校周辺の草刈りをひとりでしている。そういう老人を
見ると、頭がさがる。本当にさがる。しかし私は、そういう老人の中に、人間が生きる美しさを 感ずる。すばらしさを感ずる。
そこであなたの周辺の老人をながめてみてほしい。あなた自身の両親でもよい。
そういう老人をながめてみたとき、あなたは、そういう老人をどう評価するだろうか。つまり人
生の大先輩としての老人を、である。
私は、一つの基準として、この利己型と利他型があると思う。「思う」というのは、まだそう言い
切る自信はないということ。私自身も、その老後を前にして、利己型の世界で、あがき、もがい ている。偉そうなことは、言えない。
しかしこれだけは言える。
これからは、私たちは、老人として、社会の中でごろごろする存在になる。そのとき、若い人
たちに、尊敬される老人をめざさないと、結局は、自分で自分の立場を否定することになってし まうということ。一昔前には、「粗大ゴミ」という言葉がはやった。その粗大ゴミになってしまうと いうこと。
そうなれば、どうなるか……? 社会のやっかい者として、嫌われるようになってしまうかもし
れない。2500万人という数字には、そういう意味も、含まれる。
が、本当の恐怖は、そのことではない。利己的に生きれば生きるほど、その人自身が、無間
の孤独地獄を背負うことになる。クリスマス・キャロルのスクルージー※に、その例を見るまで もない。それこそ、まさに本当の恐怖ということになる。
そうならないためには、私たちは、今から、何をすべきか。どうしたらよいのか。それを考える
のも、老後の問題ということになる。
※(クリスマス・キャロル)……チャールズ・ディケンズの代表作。舞台はロンドン。ときは、クリ
スマス・イブ。ケチで、利己的なスクルージーのところに、7年前に死んだ協同経営者のマーレ ーが、亡霊となって現れる。そして……。
●心の混乱
自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。長男、長女
のときは、とくにそうだ。
それについては、何度も書いてきた。
問題は、なぜそうなのか。さらに、それを防ぐには、どうしたらよいかということ。
実は、こうした心の混乱には、いつも二面性がある。
自分の子どもが、一つのコースからはずれるとわかったときの恐怖感は、相当なものであ
る。言葉では表現しがたい。それはわかる。が、なぜ、そうまで恐怖感を覚えるかといえば、そ こに、それまでの自分自身の生きザマが、そこに集約されるからである。
私たちは、無意識のまま、心のどこかでコースからはずれていく人を、さげすみ、排斥する。
あるいは、自分とはちがった生き方をする人を、認めない。認めないというよりは、許さない。こ れは人間という動物が、動物としてもっている本能のようなものかもしれない。
だから、自分にせよ、自分の子どもにせよ、そのコースからはずれ始めると、言いようのない
恐怖感を覚える。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
学歴をことさら気にする人というのは、学歴コンプレックスをもっている人は別として、その人
自身がその学歴にぶらさがって生きているか、反対に、学歴のない人を、さんざん笑ったり、 軽蔑しているかの、どちらかとみてよい。笑ったり、軽蔑したりしているから、今度は、逆の立 場に立たされたとき、その人は、その何倍も、苦しむ。
同じように、なぜ、人は、コースからはずれるのを、こうまで恐れるかと言えば、無意識である
にせよ、そのコースからはずれる人を、心のどこかで、笑ったり、軽蔑したりしているからであ る。
では、どうするか?
要するに、人の不幸を笑ってはいけないということ。笑った分だけ、いや、その何倍も、今度
は自分が同じ立場に立たされたとき、苦しむ。
だから私はあえて、言う。あなた自身は、どうか、と。
何か、問題のある子どもや親を、あなたは、笑ったり、軽蔑したりは、していないか、と。もし、
そうなら、そういう考え方は、今すぐ、改めたほうがよい。でないと、いつか、今度は、あなた自 身やあなたの子どもの問題として、その何倍も、苦しむことになる。
こんなことを言う親がいた。
「ADHD児なんて、教室から追い出せばいいのです。みんなの迷惑になるだけです」と。
もう15年ほど前になるだろうか。S県のある小学校で、車椅子に乗った身体障害児に対し
て、その入学に反対する集会が開かれたこともある。(ホントだぞ!) 理由は、「そういう子ど もが入学してくると、子どもたちの学習に、さしさわりが出るから」だった。
また私にこう言った、経営者がいた。
「何だかんだといっても、この世界は、弱肉強食の世界です。力のある人がいい生活をする
のは、当然のことです。力のない人は、それなりの生活をするのも、これまた、当然のことで す」と。
さらに面と向って、私にこう言った人もいる。私が「幼稚園で働いています」と言ったことに対し
て、だ。
「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ、ロクな仕事にありつけなかったんだろう」と。
「幼稚園で働くのは、ロクな仕事ではない」と。
言いたければ、そう言うがよい。思いたければ、そう思うがよい。しかしそう言ったり、思った
りすればするほど、今度は、自分が逆の立場に立たされたとき、その何倍も苦しむことにな る。
ある母親は、毎晩、中学3年生の娘と、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえし
ていた。なぜか? 実は、その母親自身が、いつも、他人を、その出身高校で判断していたか らである。「あの人は、S高校出身なんですってねえ」「あの人は、D高校しか出ていないんです ってねえ」と。自分自身も、市内でも、ナンバーワンといわれる、S高校の卒業生だったこともあ る。
だから自分の娘の学力がそこまでないとわかったとたん、その母親は、パニック状態! 他
人を笑ったり、軽蔑した分だけ、自分で自分のクビをしめたことになる。
こうした心の混乱をふせぐためには、日ごろから、自分より弱者に暖かくする。新約聖書の中
にも、『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう(Blessed are the merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)というのがある。
この一文を逆に読むと、(私のようなものが解釈することは、おそれおおいことだが)、「日ご
ろから、他人にやさしくしている人ほど、自分が逆に、その人の立場に立たされたとき、その苦 しみから救われる」ということになる。
自分の子どもがコースからはずれていくことを心配している人は、一度、自分自身も、コース
からはずれていく人を、心のどこかで、笑い、軽蔑していないかを反省してみるとよい。
【補記】
あるとき、ある大手の出版社に勤める友人が、私にこう言った。「林さん、ぼくらはね、林さん
のような生き方を認めるわけには、いかないんですよ」と。
私が、「大手の出版社は、権威主義的すぎる。もっと、人の中身を見て雑誌をつくらないと、
やがて大衆から見放される」と言ったときのこと。
「でもね、林さん。もしぼくらが林さんのような生き方を認めてしまうと、ではぼくたちの生き方
は何だったのかというところまで、いってしまうのです。つまりね、ぼくらの世界では、林さんの ような人は、敗北者で、失敗者なんです。また、そうでなければ、ならないのです。
おかしなもので、林さんのような生き方をしている人が失敗すると、『やっぱり、そうだったん
だ。ぼくらの生き方は、これでいいんだ』と、へんに納得できるんですよ。だから内心では、『あ の林は、今に、失敗するぞ』『今に、失敗するぞ』と、楽しみにも似た、期待感をもつわけです。
しかしね、林さんのような人が成功したりするのをみるのが、こわいんですよ。自分の生きザ
マを、否定されるように感じてしまうのですね。ぼくらは、組織の人間、会社人間ですから……」 と。
コースに乗っている人が、なぜ、そのコースからはずれることを恐れるかと言えば、いつもそ
のコースの外にいる人を、否定しているからではないのか。だから自分はともかくも、自分の子 どもがそのコースからはずれそうになると、狂乱状態になる。
親たちは、子どもが不登校を起こしたりすると、「うちの子は、このままダメになってしまう」と
言うが、本当のところは、子どものことなど、何も心配していない。自分の生きザマが、否定さ れるのがこわいのだ。
子どものことを本当に心配するなら、子どもの心の問題を考える。最初から最後まで、子ども
の心の問題だけを考える。それでよい。それがすべて。本来なら、親は、そうあるべきなのだ が……。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●岩手県Eさん(父親)からの相談
****************************
小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。
3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。
4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。
そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。
病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。
が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。
「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。
つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)
*******************************
【学校へのこだわり】
Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものだったらしい。
その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわったか、である。
こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ 行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。
そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。
この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい る。
Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、 帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月 からまた体調不良を訴えいけなくなりました」(原文)とある。
この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。
率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。
……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない が)、失敗したというわけではない。
が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!
ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。
ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。
その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。
だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。
「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。
【心の緊張状態】
「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。
情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。
心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。
そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる のは、あくまでも結果でしかない。
子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。
ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女 の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。
そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。
原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。 それが心の緊張状態をつくりだす。
だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。
(1)攻撃型(他人に乱暴になる)
(2)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(3)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(4)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(5)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(6)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(7)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)
最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮 面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。
だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。
無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。 幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混 同しないように……。)
では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。
たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。
が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな のに、ニヤニヤ笑うなど。
原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。
【母子関係の不全】
絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。
が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し ができないときもある。
たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、 失敗しやすくなる。
あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ かない人も多い。
中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん に思われるのではないか」と。
言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間 関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。
子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。
【対人障害】
怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。
で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。
子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。
数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。
そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。
人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。
だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。
で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人 の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。
それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不 眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。
心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ てみるとよい。
で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。
これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。
【学歴信仰】
「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。
しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。
私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて いたあるテレビ局のレポーターがいた。
子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。
世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。
学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。
一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。
しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな い。
話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと 私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。
私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚 園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを すると、遅れます」「困ります」と。
しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ の「コース」とは、何か?
つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。
【あくまでも子どもの目線で】
決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。
ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。
数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。 何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。
それに答えて、私は、こう返事を書いた。
「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。
こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ まり親の希望や欲望には、際限がない!
つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の 木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。
こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。
そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは 一年単位で、様子をみる」である。
【許して忘れる】
子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。
ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ を自分のこととして、受け入れることをいう。
たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。
そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。
それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。
もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父 さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。
こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ ている親を見ることぐらい、つらいことはない。
ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。
「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。
その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資 格をとるため、専門学校へ通っている。
だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き な姿を、子どもに見せていく。
そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。
【Eさんへ……】
書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書 いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。
あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。
あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。
今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。
「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心 をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。
すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。
親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています か。
子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関 係においてはそうです。
あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。
が、心配は、無用。
子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前 はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。
あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが… …。)
そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので す。
「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。
大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。
最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引 きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま せんか。
家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま す。
引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。
また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま せん。
で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。
「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。
その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!
また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と 言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。
そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。
またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ で、です。
そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。
なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ ければ、うれしいです。
では、今日は、これで失礼します。
なお、数年前に書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか、参考にしてく
ださい。
++++++++++++++++++
●生きる源流に視点を
ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、 またしかり。
私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを していて、息子の一人を助けてくれた。
以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。
とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。
昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子 育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。
朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生 活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、 すべての問題が解決する。
子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。以前にも、どこかに書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか ら愛を得るために忘れる」ということになる。
仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し て忘れる」に通ずる。
人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。
大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てとい
うのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越え るごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささ いなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。
東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。
この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭を かかえてしまう。
●家族の真の喜び
親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。
が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな る。
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが 大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま ま、口をつぐんでしまう。
法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。
子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも 巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。
親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう 書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。
今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。
「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」 と。
こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市青葉幼稚園元園長)
(はやし浩司 不登校 不登校児 許して忘れる)
(040921)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(320)
【近況・あれこれ】
●ビデオ
最近『シービスケット』(競馬の物語)と、『コールドマウンテイン』(南北戦争時の悲恋)
の、2作を、ビデオで見た。共に★4つ。よかった!
●小さな旅
おとといは、ワイフと、フラリ旅。駅で、目的地を決めるという旅にでかけた。最初は、富士宮
市まで行って、焼きそばを食べようという話だったが、旅費が結構かかるとわかって、急きょ、 豊橋へ。その豊橋から、豊川へ。
ひどい雨が降っていたが、ものともせず!
豊川と言えば、豊川稲荷神社。神社というか、寺。JRの豊川駅から、徒歩で、5分程度。巨
大な神社だった。帰りに、宝物館を見て、門前町で食事。みやげに、稲荷寿司と、きしめん (生)を買った。
浜松駅からJRで豊橋まで、35分。豊橋から豊川まで、15分。
門前町がにぎわっているので、みやげを買ったり、食事をするだけでも、楽しいのでは……?
境内、向って右奥にある、「奥の院」が、おもしろい。見落とさないで、回るとよい。キツネの置 物が、無数に並べてある。
宝物館の入館料は、おとな一人、400円。当日とった写真の一部は、ホームページ、「スライ
ドショー」に収録。興味のある人は、見てほしい。
●カメラ
C社の小型デジタルカメラ。かなり性能がよいようだ。気にいった。小さいので、いつも首にか
けていられる。好きなときに、写真をとれる。
今まではデジタルカメラを使っていた。しかし画質が、どうも暗い。悪い。
電子マガジンのほうで、どんどんと紹介していく。乞う、ご期待!
●新カルト
昼のワイドショーを見ていたら、カルト(?)と思われる、ある団体を紹介していた。
「カルトでは?」と思ったのは、私だけだが、いや、ワイフも、「カルトぽいわね」と言ったが、ど
うして、こうまでつぎからつぎへと、あやしげな集団が生まれるのか?
武道と書道を主体にした団体だが、さかんに「宇宙の大真理」という言葉を口にしていた。
カルトの特徴の一つは、権威づけ。釈迦やキリスト、さらには宇宙と、直接関係あるような教
え方をする。あとは信者を洗脳するための、お決まりの瞑想(めいそう)、修行……などなど。
もっと、みんな、自分で考えようよ。考えて、自分で判断しようよ。
●思考
その「考えること」で思い出したが、考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのことは、子
どもたちを教えていると、わかる。
「自分で考えてみてごらん」と促すと、ポロポロと涙をこぼす子どもがいる。拒否反応かとも思
うのだが、雰囲気的にも、どうもそれとはちがうようだ。
考えることが、苦痛なのである。
考えることが好きな子どもがいる一方で、考えることが嫌いな子どももいる。どこでどう、また
どうして、そのように分かれるのか。一度、あとで考えてみたい。(原稿は、電子マガジンのほう で……。)
たしかに考えることには、ある種の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い朝に、ジョ
ギングにでかけるような苦痛だ。しかしなぜ、私たちは、それでもジョギングに行くのか?
走っているときの、爽快感(そうかいかん)が、たまらないからである。そのあとの爽快感が、
たまらないからである。
どうやって子どもに、その爽快感を覚えさせるか。これは教育の一つの、テーマにもなる大き
な問題。
新しいテーマ、ゲット! これについても、あとで考えてみたい。(この原稿も、電子マガジンの
ほうで……。)
●カルト(2)
カルトと戦うためには、自分の中の常識をみがく。
ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、常識をみがく。ふつうの仕事をして、ふつう
の人と会って、ふつうの食事をして、音楽を聞いて、趣味を楽しんで……。
修行をしなければ、真理に達することができないとか、そんなことを主張する団体は、まずカ
ルトと疑ってみてよい。彼らがいうような真理が、そうも、あちこちにころがっているはずがな い。
真理が真理あるためには、普遍性と、時代超越性が必要である。普遍性というのは、だれが
どう見ても、「そうだ」と納得できる部分をいう。「時代超越性」というのは、時代を超えた、超越 性をいう。100年とか500年とか。1000年でもよい。そういう時代を乗りこえてはじめて、真 理は真理として認定される。
この狭い、極東の島国、日本に、何10万団体もの宗教法人があり、今の今も、「我こそ
は!」というような宗教団体が、つぎからつぎへと名乗りをあげている。それぞれの人は、真剣 なのだろうが、そういうふうに生まれること自体、異常なのである。
で、こんな話がインドには伝わっている。釈迦が話した、説話という説もある。
あるバラモンの修行僧が、100年かけてやっと、徒歩で川を渡れるようになった。その修行
僧は、大願達成を、喜んだ。
そしてある日、得意げに徒歩で川を渡っていると、そこへ舟をこいで一人の男がやってきた。
そしてそのバラモンの修行僧を見て、こう言った。
「そんなに川を渡りたければ、舟に乗ればいい。そんなことのために、お前は、100年も時間
をムダにしたのか! バカヤロー」と。
私たちも、ふと油断をすると、そのバカなことを平気で繰りかえしてしまう。気がつかないま
ま、繰りかえしてしまう。そして結果的に、時間をムダにしてしまう。みなさんも、くれぐれも、ご 注意!
●プロ野球のスト
プロ野球の選手たちが、ストライキを決行した。それはそれだが、テレビで意見を述べるファ
ンたちを見ていて、一つ、気づいたことがある。
世の中には、いろいろな依存症がある。ひどくなると、うつ病に似た症状を示すこともあると
いう。「依存うつ」という病気である。
よく知られた例に、パチンコ依存症とかアルコール依存症というのがある。携帯電話依存症
というのも、最近、生まれた。
で、ファンの人たちの言っていることを聞いていると、「?」と思った。どこか病的な感じがした
からだ。ファンの人たちは、テレビのインタビューに答えて、こう言った。「プロ野球の試合を見 ないと、落ちつきません」「イライラします」「ストになってはじめて、野球というものが、どういうも のかわかりました。私にとっては、野球は命です」と。
「ファン」と言えば、まだ聞こえはよいが、その実態は、野球ゲーム依存症ではないのか。
こんなことを書くと、ファンの人たちの、袋叩きにあうかもしれない。が、インタビューを聞いて
いるとき、そんな感じがした。
しかし、だ。たかが、ボールの試合。もともと生きる、死ぬのという次元の話ではない。あくまで
もゲームである。興行である。心のどこかで、そういう一線を引かないと、その依存症になって しまう。
言うまでもなく、何かの依存症になると、本当の自分がどこにいるか、わからなくなってしま
う。自分が自分でなくなってしまう。ノーブレインな状態になりながら、それすら、わからなくなっ てしまう。それがこわい。
【補記】
プロ野球は、興行である。わかりやすく言えば、金もうけのための「見世物」である。スポーツ
はスポーツだが、見世物になったスポーツである。もし勝敗を決めるだけなら、高校野球のよう に、一回だけのトーナメント制で、じゅうぶんである。
だからプロ野球が、つまらないと言っているのではない。余興は、余興。娯楽は、娯楽。本で
いえば、まわりの余白。それがあるから、文章も読みやすくなる。
しかしそれでは、お金にならない。そこで何とか、ファンの関心をひきながら、それを金もうけ
につなげなければならない。そこで今に見る、勝率によるリーグ戦となった。最後は、セパ優勝 者との対戦による、優勝戦となった。
つまり、ファンは、興行主(球団)の策略に、うまくあやつられているだけ。
だからプロ野球を楽しむのは、その人の勝手だが、どこかで一線を引かないと、結局は、い
いように、あやつられてしまう。あやつられながら、あやつられていることすら、わからなくなって しまう。
それはちょうど、カルト教団の信者に似ている。教団幹部たちにいいようにあやつられなが
ら、あやつられているという意識すら、ない。正義だ、善だ、絶対的な真理だとおだてられて、ま さに人間ロボットとなって、利用されてしまう。
私も、イチロー選手やマツイ選手の活躍が、気になる。日本のプロ野球にしても、私は、一
応、子どものころから、読売ジャイアンツと、中日ドラゴンズのファンである。(両方とも好きだ が、どちらかと言えば、ジャイアンツ。地元の岐阜県では、少数派だったが……。)
しかし熱中するのは、その試合のときだけ。だから反対に、狂ったように熱狂するファンを見
たりすると、「どうしてああまで夢中になれるのか?」と、かえってそちらのほうを、不思議に思 ってしまう。
何か、あるのだろうか? それとも何もないのだろうか?
もう少しじっくりと、野球ファンの様子を、観察してみることにする。
●640人!
HIVに新しく感染した人の数が、昨年(03年)、640人に達したという(厚生労働省エイズ動
向委員会)。新しい発症者、つまり新しくエイズ患者になった人は、336人(同)。
640人というのは、総感染者数ではない。「03年度に、新しく感染した人」という意味である。
過去の累計数でもない。
そこでもう一度、おさらいをしておこう。
HIV……ヒト免疫不全ウィルスのこと。エイズ発症の原因となる、ウィルスをいう。HIVに感染し
たからといって、すぐ発症するわけではない。
エイズ……後天性免疫不全症候群のこと。HIVに感染し、免疫力が低下することによって、発
症する病気の総称。
このエイズのこわいのは、その人自身が、被害者であると同時に、加害者であるということ。
HIVに感染して数週間後から、平均して10年間近く、他人にウィルスをまき散らすということ。
自分も知らないうちに、ウィルスを撒き散らすということになる。
こうして人から人へと、爆発的に感染していく。そんなわけで、「たった640人か」などとは、思
っていけない。こんな数字は、まさに氷山の一角。今後、HIV感染者は、この日本でも、二次曲 線的にふえると予想されている。
感染源のほとんどは、性行為。血液感染(麻薬や覚せい剤などの回し打ち)もあるというが、
それは特別な世界での話。そこでコンドームの着用が、何よりも大切ということになる。
もうここまで性が解放されてしまった以上、今さら、性の道徳など説いても意味はない。へた
に純潔論を口にすると、冗談と思われてしまう。そこで性欲も、食欲と同じように、同じレベル で、考える。またそのレベルまで割り切らないと、子どもたちの指導そのものができない。
30年前には、(30年前だぞ!)、スウェーデンには、セックスの実技を講座にしている大学
があった。その場で教官が、一組の男女を選んで、マットの上で、セックスをさせていた。そし てそれを見ながら、教官がああでもない、こうでもないと指導をする。学生たちは、それに対し て、これまたああでもない、こうでもないと意見を述べる。
今でも信じがたい話だが、30年前には、もっと信じがたかった。で、その話をした、E・ベッテ
ルグレン女史(スウェーデン性教育協会会長)に、「本当に、そんな講義があるのですか?」と 聞くと、「どうしてあってはだめなのか?」と、逆に質問されてしまった。
日本も、やがてすぐ、そういう時代になる。私も、56年間、この日本に生きてみたが、結論
は、「しょせん、性(セックス)なんて、無」である。昔、今東光という作家がいたが、その今東光 の病室を見舞ったとき、今東光が、私に、そう話してくれた。
その無のために、命を落すのは、バカげている。ちなみに、今、小学校でも、性教育が、なさ
れている。ズバリ、解剖図などを使って、性行為そのものを教えているところもある。賛否両論 もあるだろうが、ここはこうした性教育を支持するしかない。
【補足】
エイズが発症するまでの潜伏期間を、平均10年とすると、03年度に発症した336人は、10
年前に感染した人ということになる。
この336人が、この10年間、セックスレスでおとなしくしていたとは、とても考えられない。ま
た新しい感染者といっても、全員を検査したわけではない。私がここで「氷山の一角」と書いた のには、そういう理由がある。
このままでは、20年を待たずして、(つまりみなさんの子どもがおとなになるころには)、感染
者数が、若者を中心に、1万人とか、2万人になることが考えられる。そういう近未来を想定し ながら、「今」を考えたほうがよい。
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
●ケータイHP
F社から、無料「ケータイHP」の、勧誘があった。さっそく、チャレンジしてみる。
で、簡単にできた。携帯電話で見られる、私のHPである。
携帯電話をもっている人は、一度、つぎのアドレスに、携帯電話からアクセスしてみてほし
い。(パソコンからもできますので、パソコンからも、アクセスしてみてください。)
http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/
で、さっそく、自分でも、自分の携帯電話からアクセスしてみる。ついでに、D社(携帯電話会
社の支店)に立ち寄って、料金がいくらくらいかかるかを、聞いてみる。
「250文字程度でしたら、0・3円くらい」とのこと。いいかげんな数字で、申しわけないが、要
するに、パラパラとあちこちを見ると、10円程度は、かかるということ。(もちろん私のところ に、お金が入るわけではない。通話料金として、お金がかかるということ。)
が、1ページ、250文字までと決まっている。長々とした原稿を載せるわけにはいかない。内
容は、簡単、明瞭に。
しかし楽しかった。うまく利用すれば、もっと有益なことにも、使えるのでは……。今は、思い
浮かばないが……。
F社の「ケータイHP」は、無料だが、3か月以上ほったらかしにしておくと、抹消されてしまうと
いう。だから3か月以内に、更新を重ねなければならない。がんばろう!
************************
【お知らせ】
今度、携帯電話からも、携帯電話用ホームページを
利用していただけるようにしました。
ぜひ、ご活用ください。
アドレスは、つぎのようです。
http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/
************************
●父親(母親)の悪口は、言わない
心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判したり
すると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、 三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、 親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。
●逃げ場を大切に
どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その逃げ場
に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋ということに なる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定になる。だから子どもが 逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。
●心は、ぬいぐるみで……
年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子どもが、約
80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、中には、キックし てくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをもっている子どもは、約8 0%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかどうかは、ぬいぐるみを抱かせ てみるとわかる。
●国語教育は、言葉から
子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたとき、
「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親がしていて、ど うして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどうでも、「バスがきます。 あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子をかぶっていますか」と話 す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。
●計算力は、早数えで……
「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イチ、ニ、サン
……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。さらに手をパンパンとたた いてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を信号化する。たとえば「2足す3」 も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の信号化という。この力が、計算力の基礎とな る。
●子どもは使う
使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから生まれ
る。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あなたの子ども に、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と言って、喜んで片づけ るようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということになる。このタイプの子ども は、学習面でも伸びる。
●やさしさは苦労から
ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほしい。
そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そうでなく、テレビや ゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよい。今は、(かわいい子)か もしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、自分で苦労をしてみてはじめて、 他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから生まれる。
●釣りザオを買ってやるより……
イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっしょに釣りに行 け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜んでいるはず。感謝し ているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。しかしこれは幻想。むしろ逆効 果。
●100倍論
子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のものでも、100
倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはいけない。一度、お金 で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、10倍、100倍とエスカレートし ていく。高校生や大学生になるころには、1000円や1万円では、満足しなくなる。子どもが幼 児のときから、慎重に!
●子どもは、信じて伸ばす
心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、あな
たが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、いい人だと思 っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでなければそうでない。子 どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを伸ばしたいと思うなら、まず 自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、大鉄則である。
●強化の原理
前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくなる」
「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来に不安をいだ かせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバーして、「ほら、やっぱ り、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。
●叱るときの原則
子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高さを
あわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっかりと見 つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせても意味はな い。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというような様子を見せる子 どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。
●仮面に注意
絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前で、そう であればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしているようであれば、 親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見て、「何を考えているか わからない」というのであれば、さらに要注意。
●根性・がんこ・わがまま
子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりとげると
いうのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。理由もなく、自 分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。その根性は、励まし て伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではないので、その理由と原因 をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。
●アルバムを大切に
おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るために、ア
ルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。それもそのは ず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアルバムには、楽しい 思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするためにも、アルバムを、部屋の 中央に置いてみるとよい。
●名前を大切に
子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるごとに言
う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてその自尊心が、 何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たとえば子どもの名前 が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところに張ったりする。そういう 親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。
●子どもの体で考える
体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、5本、
飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのかし ら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。
●CA、MGの多い食生活を!
イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたかったら、
CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心とした献立にする。 こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。いわゆるレトルト食品、イ ンスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合して、リン酸カルシウムとして、CA は、対外へ排出されてしまう。
●親の仕事はすばらしいと言う
親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それだけで
はない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいるはず。そう いうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。あるいは「私の仕事 はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。まちがっても、暗い印象をも たせてはいけない。
●はだし教育を大切に
将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、足の
裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性は、あらゆ る運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうしてそれで敏捷性の ある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできない子どもがふえてい る。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも多い。どうか、ご注意!
●自己中心性は、精神的未熟さの証拠
相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」(サ
ロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人を、 低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそういう人ほど、人格の完 成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自己中心性と戦い、子ども に、その見本を見せるようにする。
●役割形成を大切に
子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。「いっしょ
に、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょうね」と言ってあげ る。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつくっていく。これを「個性化」 という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、希望、そして生きる目的へとつながっ ていく。
●暖かい無視
自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、過
関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向を感じた ら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同時に『ほどよい 親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。とくに子どもがスキンシ ップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。
●父親の二大役割
母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、また子
どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさびを打ち込み、 是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教えるのも、重要な役割。 昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、父親の役割ということに なる。
●欠点は、ほめる
子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなかったと
しても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるようになったわね」と言 うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声で言えるようになったわね」 と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ばすときに、よく使う手である。
●負けるが、勝ち
ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。これは
父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだろう。言いた いこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なことは、子どもが、楽し く、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そのときから人間関係は、スム ーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこじれる。
●ベッドタイム・ゲームを大切に
子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。これを
ベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗すると、子どもは 眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定になったりする。いき なりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なことをしてはいけない。子どもの 側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。
●エビでタイを釣る
「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、10人
のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して恐怖心をも っているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、一度、文字嫌いにし てしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いても、それをほめる。読んであ げる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エビでタイを釣る』の要領である。
●子どもは、人の父
空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。
(ワーズワース・イギリスの詩人)
●冷蔵庫をカラにする
子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。そ
のとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と思った ら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセをなおす。子ども の小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。そういう買い物グセ が、習慣になっている。それを改める。
●正しい発音で……
世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなものでは
ないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるのは、甘い。子 どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に先立って、音の分 離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンと叩きなが ら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。
●よい先生は、1、2歳、年上の子ども
子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。そういう子
どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるようにするとよい。「無 理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意味。あなたの子どもは、その 子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。
●ぬり絵のすすめ
手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、きれい
な丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなたの子どもが、 多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。小さなマスなどを、縦 線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。
●ガムをかませる
もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」
という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話すと、「では」と言っ て、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5年後。その子どもは、本当 に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガムの効用を確認している。この方法 は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに効果的である。
●マンネリは大敵
変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばある
母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、教育評 論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤族の子どもは、 頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激になっているからと考え られる。
●本は抱きながら読む
子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであげると
よい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。こうした積み 重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆる学習の基本とな る。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、学校教育の基本にすえて いる。
●何でも握らせる
子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。その感
触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない子どもがふえ ている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよい子どもほど、もの を手にとって調べる傾向が強い。
●才能は見つけるもの
子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのときには、風
呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚のように泳ぎ出 した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長した。また別の男の 子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコンを買ってあげると、小学3 年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるようにまでなった。子どもの才能を 見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。
●「してくれ」言葉に注意
日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わな
い。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほかに、「たいく つウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」など。老人でも、若い 人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」というような言い方をす る。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こんなところにもある。
●人格の完成度は、共鳴性でみる
他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこと
を、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その反対側に いる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度 は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのと きあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフリをしているようなら、人格 の完成度は、低いとみる。
●平等は、不平等
下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみれば、
「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の子は、欲求不 満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこともある。それまでし なかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子に対して攻撃的になることもあ る。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までのことをする。平等は、不平等と覚え ておくとよい。
●イライラゲームは、禁物
ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。動きが
速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間は、禁物。以 前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。そうなれば、すでに (ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。「ゲーム機器は、パパのも の。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのもよい。遊ばせるにしても、時間と場 所を、きちんと決める。
●おもちゃは、一つ
あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておくとよい。
「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切にする。子ども は、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようになる。
●何でも半分
子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、もう
片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。これは子ど もを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうずにできるようにな ったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものためにならない。
●核(コア)攻撃はしない
子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダメ人間
よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうした(核)攻撃が日 常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。子どもを責めるとして も、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の力では、どうにもならない ことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃ということになる。
●引き金を引かない
仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親ということに
なる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子どもを指導する。たと えば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、だれでも、そうなる。たっ た一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二役の、ひとり言をいうようになっ てしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほど、穏やかで、心静かな環境を大切にす る。
●二番底、三番底に注意
子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうとする。
しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たとえば門限を 破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二番底)、さらには 家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起きたら、それ以上、状況 を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。
●あきらめは、悟りの境地
押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもというのは、
不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と がんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。そこは、おおらかで、実 にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。そういうときは、思い切って、あ きらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあける。
●許して、忘れる
英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語をよく見ると、(何か
を与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何を、か? 言うまでもなく、 「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越える。それはまさしく、「許して忘 れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深さが決まる。カベにぶつかったら、この言 葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先に、一筋の光明を見るはずである。
●自らに由らせる
子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考えさせ
る。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手なことを、子ど もにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親の過保護は、子ども から、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をうばう。子育ての目標は、子 どもを自立させること。それを忘れてはいけない。
●旅は、歩く
便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に足がつ
かない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように心がけるとよ い。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きながら、見る景色のほう が、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則でもある。いかにして、そ のときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうことも考えながら、旅に出たら、ゆっく りと歩いてみるとよい。
●指示は、具体的に
「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言っても、ほとん
ど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にもっていってあげて ね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話 してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせるとよい。
●休息を求めて、疲れる
イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなって
いる格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学する ため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き方にな る。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねない。
●子どもの横を歩く
親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと保護者は得意。し かし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子どもの手を引きながら、「早 く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてみるとよい。 それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、見えてくるはず。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(321)
【最近の話題より……】
●理想の女性?
「Y」という、雑誌を購入。私たちの年代層をねらった雑誌。それを読みながら、ワイフが、こう
言った。
「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。
雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。ある舞台監督と女優との対談だった。
K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものなんですよ
ね。女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。
私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。
「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。
つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。つまり究極まで自分
を愛してくれる女性を、だ。わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性を追い求め る。
言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離すことが
できない。
だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の女性
を愛することができない。そのため、浮気率が高くなる。女性から女性へと、渡り歩く傾向が強 くなる。当然のことながら、離婚率も高くなる。
実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。このことは、
反対の立場で考えてみると、わかる。
もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あなたはどう
するだろうか。たくましくて、包容力があって、生活力もある。おまけにハンサムで、かっこい い。どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたのめんどうをみてくれる…… と。
多分、あなたは、こう言うだろう。「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。
対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。
私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と
理想の女性などというのは、いない。いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。追い求
められる女性のほうだって、疲れる。その監督は、若くして、母親をなくしている。だからよけい に、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれない。
私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に電話
をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と思いこん
でいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」
私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうするにふさ
わしい人だ』とね」
ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」
私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を先に言
えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」
私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪いという
のではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」
私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということになる。
が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになってしまう」
ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。
しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人は、そ
れに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、理想の女 性を追い求めているということだそうだが……。
しかし……?
(マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。成人した男性が、母親との間に、依存関係を保ち
続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない状態。このような男性は、母親からの過剰な愛情 によって、青年期に達成されるべき、同年代の異性との交友関係をもつために必要な人格の 確立ができなかったと考えられる(深堀元文「心理学のすべて」)。
(教訓)母親は、子育てをする。それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子どものほう
が、親離れするように、仕向けなければならない。あるいは父親が、母子関係に割って入り、 その関係を是正しなければならない。「ある年齢」というのは、多少個人差はあるが、年齢的に は、満8歳前後をいう。
●貯蓄ゼロ
2人以上の世帯で、貯蓄ゼロの世帯が、22・1%もあるという(04年・金融広報中央委員会
「家計の金融資産に関する世論調査」)。
単身世帯にしても、「貯蓄がない世帯」が、35・1%もあるという。
で、「貯蓄がある」と答えた2人以上の世帯については、平均金融資産は、1242万円(中央
値で、810万円)だそうだ(全国、10080世帯について調査。回収率は、44・8%)。
わかりやすく言えば、5世帯に1世帯は貯蓄ゼロ。残りの4世帯の人は、平均して800万円
前後の貯蓄をもっている。さらにその中の1、2世帯は、1000万円をはるかに超える貯蓄をも っているということ。
「いくら貯蓄があっても、それ以上の借金をかかえている人は、どうするんだろう?」と考える
のは、私だけか。借金がなければ、貯蓄ゼロでも、まだよいほうかもしれない。これについて、 昔、出版社に勤める友人と、こんな会話をしたことがある。
当時、その友人は、手取り20万円くらいの給料を手にしていた。それについて、私が、「ぼく
ら自由業は、その2倍の40万円くらいはないと、やっていかれない」と。
理由を聞かれたので、こう答えた「ぼくらには、明日の保証がない。病気か事故で倒れれば、
万事休す。もちろん退職金も、年金もない。そういう不安がある以上、ギリギリの生活をするわ けにはいかない」と。
と言っても、そのとき私が、40万円も稼いでいたわけではない。あくまでも努力目標として、
そう言った。
が、それ以上に深刻な問題は、自由業は、借金ができないということ。信用力、ゼロ。30代
のころは、クレジットカード会社ですら、申しこむと、「残念ながら、審査の結果、今回は……」 と、断ってきた。
パソコン通信(今のインターネットの前身)の決済のためにカードが必要だったので、申しこん
だ。そこで私は、それまでにも、借金をしたことはなかったが、それ以上に、意地になって、借 金をするのをやめた。
しかし率直に……。何も好き好んで、貯蓄ゼロというわけではないのだろう。「貯金をしたくて
も、できない」というのが、実情かもしれない。が、それにしても、そういう人たちは、いつも、別 の不安と戦わねばならない。言うなれば、毎日が、背水の陣である。
若いときはそれでもよいが、ある程度、年齢が高くなると、そうはいかない。頼りたくても、頼
れる相手すら、いない。ちょっとしたつまずきが、そのまま命取りになる。
考えてみれば、何ともさみしい世界。世の中。欧米のように、教会が中心になってする互助会
のようなものもない。人間と人間の関係が、ますます、希薄になっていくのを感ずる。「これでい いのかなあ?」と思いつつ、世の中だけが、別の方向へと、どんどんと行ってしまう。
何とも言いようのない無力感。そんな無力感を、その「世論調査」の結果を見ながら、覚え
た。
●問題の大小
このところ、プロ野球球団の再編問題で、日本中が大騒ぎ! スト決行か、回避で、そのつ
ど、新聞の号外が配られている。
ファンの人たちも、そのたびに、狂ったように悲しんだり、横混んだり……!
しかし、こんなことが、本当に、そんな重大な問題なのだろうか。ここ数日のニュースだけを見
ても、「日本中を核兵器で火の海にする」(9月23日、K国・労働党機関紙・「労働新聞」)とか、 「K国、ノドン発射準備か」(読売新聞)とか、ある。
さらに大きな問題は、地球の温暖化。2050年には、この日本も、東南アジア並みの気候に
なるという。が、そこで温暖化が、止まるわけではない。その先も、どんどんと温暖化は進む。
また地球温暖化は、気温だけの問題ではない。現に今年など、日本も、台風の猛攻撃を受け
ている。しかも、今までとは、台風のコースまで変わってしまった!
だからこそ、娯楽としてのプロ野球……と考える人もいるかもしれない。事実、マリナーズの
イチロー選手が、ヒットを重ねるたびに、便秘のウxxが、ドドッと、出るような快感を覚える。(私 は便秘症ではないぞ。念のため。)
私は、こうした錯覚は、人間の脳そのものがもつ、特有の欠陥ではないかと思い始めてい
る。頭の中で、問題の軽重が、正しく認識されない。このことは、子育てで悩んでいる、母親た ちを見ているとわかる。
たとえばAさん(母親)は、子どもの小食(好き嫌い)で悩んでいる。Bさんは、子どもの不登校
で悩んでいる。Cさんは、子どもの遺伝子病で悩んでいる。
問題の大きさからすれば、小食の問題など、不登校の問題とくらべれば、何でもない。さらに
不登校の問題など、遺伝子病の問題とくらべれば、何でもない。
しかし悩み方に軽重は、ない。Aさんは、Aさんで。Bさんは、Bさんで。そしてCさんは、Cさん
で、それぞれが、同じくらい深刻に悩んでいる。「悩みのレベル」という意味では、みな、同じで ある。
つまり、私は、それが「脳そのものがもつ、特有の欠陥ではないか」と。
実も、私自身も、この問題をかかえている。
同時に、何かの問題が、二つ、三つと起きたりすると、どれが重大な問題で、どれが軽い問
題なのか、わからなくなってしまう。頭の中がパニック状態になってしまう。
そしてそういうとき、さらに別の問題が入ってくると、ますますわけがわからなくなってしまう。
小さな問題でも、それだけで頭の中が、いっぱいになってしまう。
この点、私のワイフなどは、ものごとを客観的に判断する目をもっている。何かのことで相談
をもちかけると、「そんな問題、なんでないから忘れたら」とか言ってくれたりする。あるいは、 「まず、そちらの問題を解決するのが先ね。この問題は、何とかなるわ」とか言ってくれたりす る。
……ということで、今、日本中が、そのパニック状態なのかもしれない。何が重大な問題で、
何がそうでないかが、わからなくなってしまっている(?)。
たしかにプロ野球球団の再編問題は、大きな問題かもしれない。しかしこうまで、日本中が、
ひっくりかえってまで大騒ぎするほどの問題ではない。
それがわからなければ、東京に、K国の核ミサイルがぶちこまれたときのことを、想像してみ
ればよい。そのとき、はたして、「東京ドームで、野球が見られない」と嘆く人はいるだろうか。
●ピンボール・ゲーム
教室では、先週から、ピンポンを始めた。しかしテーブル一つでは、2人〜4人しか、できな
い。そこで今度は、テーブルを少し傾け、その上に、積み木を並べた。
これでピンボール・ゲームができるようになった。ボールには、ピンポン玉を、そのまま使っ
た。
が、これが大当たり!
子どもたちは歓声こそあげないが、夢中になり始めた。その静かな興奮は、そのままこちら
に伝わってくる。
反応がちがった。「今日は、ここまでにしておこうね」などと私が言うと、「もっとしたい」「もっと
させろ」と言う。中には、帰るとき、「うちでもしよう」と言う子どももいた。
そこで数日前から、紙でポケットをつくり、そこへ入ったら、アメ一個とか、チョコボール一箱を
渡すようにした。
要するに、パチンコである。(英語では、「パチンコ」のことを、「ピンボール・ゲーム」という。)
内心では、「いいのかなあ?」と迷いつつ、子どもたちの熱気に負けてしまった。「パチンコ依
存症の芽をつくっているのではないか?」と。こうした射倖心(しゃこうしん=まぐれ当たりの利 益を求める気持ち)をあおるのは、幼児教育の世界では、できるだけ避けたい。
あとでそのことが心配だったので、ワイフに相談すると、「子どもは、みんな好きよ」と。「私も
子どものころ、板にクギを打って、自分で作って遊んだわ」と。
それで納得。私も、実は、好きだった。ある時期は、その遊びに夢中になった。最初にパチン
コがあったのではなく、そういう遊びが、パチンコへと発展した。
しかし幼児教育のおもしろいところは、こんなところにもある。
つまり幼児と、我を忘れて遊んでいると、そのまま人間の原点にかえっていくようなおもしろさ
である。そのときも、そうだった。
「ハイ、はずれ!」などと言うと、さもがっかりして肩をガクリとさせる子どももいれば、「ハイ、
当たり!」などと言うと、飛びあがって喜ぶ子どももいる。そういうすなおな反応を見ているだけ でも、心が洗われる。
そうそう、ついでながら、ここに書いたような、つまり「いいのかなあ?」という迷いがなかった
わけではないが、横で見ていた母親たちも、だれかのボールが、ポケットに入ったりするたび に、パチパチと手をたたいて喜んでいた。それを見たとき、その迷いは、「まあ、いいかな?」と いう思いに、かわった。
HTML版のほうでは、その写真を紹介しておきます。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(322)
【近況・あれこれ】
●観光案内
浜松市に住むようになって、36年になる。で、この36年間、この浜松市で、いろいろな店で、
いろいろなものを食べた。が、私の行動半径というか、行動パターンは、だいたい、いつも決ま っている。そういう私が、浜松の観光案内(?)をするというのも、少し、どうかと思う。が、一言 ……。
F市のMさんから、「浜松では、何がおいしいか」という質問をもらった。で、一応、考えてみ
た。
浜松市では、物価は、高い。少し前、九州地方を旅行したが、おおむね、九州地方の、1・5
倍から2倍。同じ静岡県の中でも、ここ浜松市では、何でも、1〜2割は高い。全国規模のチェ ーン店は別として、だいたい、目安としては、つぎのようなもの。
ふつうの和風レストランで……
サシミ定食……安いところで、1200円。ふつうは、1400〜1600円
ザルソバ ……700〜800円前後
「お薦め」というか、この36年間で、いつも行くレストランが決まってしまった。ときどき浮気を
して、ほかの店にも行くが、長つづきしない。それでまた決まった店にもどる。そういう店を、実 名入りで紹介。
★串とも……市内中心部、肴(さかな)町にある、串かつ屋。ほぼ毎週通うようになって、もう2
0年近くになる。その店ほど、おいしい串かつを食べさせてくれるところを、私は知らない。120 0円の「特選定食」、1000円の「野菜定食」が、気楽で、おすすめ。私は、いつも食べている。
★みやひろ……同じく中心部、有楽街にある、ラーメン屋。安くて、おいしい。あきない。舌がな
れてしまったというか、ほかの店のラーメンが、口に合わなくなってしまった。しかし昔から浜松 に住んでいる人も、「宮ひろのラーメンが、一番おいしい」と言っている。中華ラーメンが、450 円だったかな。その中華ラーメンが、お薦め。
★広島お好み焼き「寅さん」……モール街、マツビシの路地を入ったところ。サーラビルの隣の
二階にある、焼きそば屋。私はいつも、焼きそば入り、お好み焼きを食べている。
★あつみ……その広島焼きの店と、ちょうど道路(モール街)をはさんで、反対側にある。昔か
らある、浜松老舗(しにせ)のうなぎ屋。私個人では、あまり行かないが、遠くから客が来たよう なときには、この店に連れて行くことにしている。みな、喜んでくれる。
★???(店名不明)……ザザ中央館地下にある、日本ソバ屋。ワイフとぶらっとでかけたよう
なとき、よく立ち寄る。どれもおいしいが、私はいつも、天ざるを食べている。ワイフは、いつも 山菜そば(温)を食べている。この店は、数年前にできたばかり。
★サンマルコ……駅前、遠鉄百貨店地下にある、カレーライス屋。自分でもよくカレーライスを
作るが、サンマルコの味が一つの基準になっている。いつもワイフと、「このカレーライスは、サ ンマルコみたいだね」とか言って、食べている。この店のおかげで、私は、カレーライスが、好 きになった。
★回転寿司……私は、一滴も、アルコールを飲めない。そういうこともあって、安心して食べら
れる寿司といえば、回転寿司ということになる。(専門店の寿司には、ミリンとか、酒が入ってい る? 食べると、二日酔いが起きることが多い。)回転寿司には、週1回程度、行っている。ほ かに、近くにある、五味八珍(店名)、サイゼリヤ、幸楽苑など。
こうして書いてみたが、自分の行動半径が、意外と狭いのには、驚いた。さらにいつも行って
いるはずなのに、店名をしっかり思い出せないのにも、驚いた。「宮広」だったのか、「宮ひろ」 だったのか、あるいは、「みやひろ」だったのか。どうしても思い出せない。
この原稿をマガジンに載せるまでには、街を歩いて、もう一度、調べてみるつもり。ほかにも
おいしいところはあるが、先にも書いたように、1、2度は行ってはみるが、どういうわけか、長 つづきしない。どうしてだろう? おもしろい現象だと思う。
【補記】
よく「老人になると、物忘れがひどくなる」という。しかしこれはどうも、まちがっているようだ。
老人になると、「忘れやすく」のではなく、その前に、「記憶にとどめる力」が弱くなる。その結果 として、物忘れがひどくなるのではないか。
ものごとは、(記銘)→(保持)→(想起)という、三つのプロセスを経て、記憶に残る。老人に
なると、このうちの、最初の(記銘力)が弱くなる。その結果として、物忘れがひどくなるのでは ないか。
昨日も、ワイフとこんな話をした。私が何かにつけて忘れっぽくなったことを、ワイフが指摘し
た。私は、こう言った。
「いえね、こうまでつぎからつぎへと、いろいろな情報が飛びこんでくると、それを頭の中で整
理するだけで、精一杯。人の名前も、どんどんと忘れていくよ。いや、その前に、記憶にとどめ ようという気力そのものが弱くなる」と。
小学校で講演をさせてもらっても、たいていどこでも、5、6人の人と名刺交換をする。校長、
教頭、担当の先生、それにPTAの役員の方など。そのときは、懸命に相手の方の名前を覚え たつもりなのだが、すぐ忘れてしまう。映像としての顔は、忘れないが、名前は、すぐ忘れてし まう。
そう、これは私の脳ミソの特性のようなものかもしれない。映像として頭に入った情報は、か
なりしっかりと記憶に残る。しかし耳から音声で入った情報は、残らない。あるいは、その部分 の脳ミソが、すでに老化しているためかもしれない。
【補記2】
私にとってレストランというのは、あくまでも、空腹感を満たすだけの場所でしかないようだ。
どこもおいしいと言えばおいしいが、本当のおいしさは、レストランでは、味わえない。
だれにもじゃまされず、気の許せる人だけと、のんびりと、好きな料理をして、好きなものを食
べる。そういうときは、本当においしいと思う。だから「どこの店がおいしいですか?」と聞かれ ると、困ってしまう。
値段が安ければ、それでよいというものでもないし……。値段を考えなければ、料亭や割烹
などがある。しかし私は、めったに、そういうところへは行かない。そういう立場にはないし、そ ういう交際もしていない。
やはり山荘で、ぼんやりと、遠くの山々を見ながら、時間を気にせず、ポツリポツリと、何かを
つまみながら食べる料理が、私には、一番、合っている。おいしい。
********************************
【マガジン読者の皆さんから……】
マガジン読者の方から、いくつかうれしいお便りが届いています。
+++++++++++++++++
毎回とても楽しみに購読させていただいております。
それでは飽き足らず、HPは隅々まで内容をしっかり
と自分なりに受けとめながら、何度も読み、自分にと
って重要だと思う言葉は、専用の手帳に書きとめて、
家事の合間に読み返しています。
私も、小1と年少の男の子の子育て、真っ最中ですが、
日々子供たちにいろんなことを教わり、つまずきなが
らがんばっています。これからも楽しみにしています。
頑張ってください!!(東京都・FWさん)
【FWさんへ】
うれしかったです。
メールの転載、よろしくご了解ください。
10月25日号に、載せさせていただきます。
よろしいでしょうか?
なぜ、私が、電子マガジンを発行しているかといえば、FWさんのような読者の方がいらっしゃ
るからです。100人に1人かもしれないし、1000人に1人かもしれない。でも、「書いていてよ かった」と思うのは、FWさんのような方からのメールを読んだときです。これからもよろしくお願 いします。ありがとうございました。
+++++++++++++++++
●英語人
年長児の子どもに、私のHPを見せると、目ざとく、私の孫(誠司)の写真を見つけて、こう言
った。
子「この子は、だれ?」
私「先生の孫だよ」
子「フ〜ン、英語人みたい」
私「何、その、英語人というのは?」
子「英語を話す人だよ」
私「なるほど。英語を話すから、英語人かア?」
子「そうだよ」と。
「英語人」という言葉は、はじめて聞いた。その子どもが使い出したのか、それとも、だれかの
マネなのかは知らない。しかしおもしろい言い方だ。
あとでそのことを、別の母親に話すと、「そうですねえ。ガイジンと言うよりは、親しみがあって
いいかもしれませんね」と言って、ケラケラと笑った。
●島田の蓬莱橋(ほうらいばし)
9月25日、土曜日。どこか蒸し暑さの残る午後、島田(静岡県島田市のこと)にある、蓬莱橋
へ行ってきた。大井川にかかる、世界一、長い木造の橋だそうだ。
行ってみると、本当に長い! 驚いた! 話には聞いていたが、これほどまでに長いとは思
わなかった!
全長、約900メートル(897・4メートル)。ゆっくり往復して、1時間ほど。川が美しく、気分
は、最高! (写真などは、HPのほうで、紹介。スライドショーのコーナーで紹介。)
で、その蓬莱橋。高所恐怖症の私には、結構、恐ろしい橋だった。橋の中央ばかりを、そろ
そろと歩いた。ときどき、橋のハシにそっと立ち、下をのぞく。美しい川。美しい川原。
その橋ができたのは、1979年、明治12年だそうだ。「江戸時代からあったと思った」と私が
言うと、「江戸時代には、橋をかけるのは禁止されていたのよ」と、ワイフ。そうだった!
ときどき、「私なら、こんなふうに橋を設計するのに」と考えたりした。しかし当時は、防腐剤も
なかっただろうし……、と思いながら、欄干(らんかん)を見ると、ところどころ木が腐っていた。 そしてその上に、赤い、危険を示すテープが張ってあった。それを見て、私は、さらに、ゾーッ。
しかし、楽しかった! ホント!
橋のたもとにある茶屋で、ソバを食べる。そしてそのままその近くにある、Aショッピングセン
ターへ。「歩いて帰る?」とワイフは言ったが、タクシーで、そのまま島田駅まで帰る。
浜松駅から、電車で45分くらい。料金は、片道820円。島田駅から、タクシーで、5、6分の
距離。お近くの人は、ぜひ、どうぞ!
●体重が、65キロに!
68・5キロ! そこであわてて、ダイエット。で、今朝は、65キロになっていた。1か月で、約
3・5キロの減量に成功!
おかげで体が、ウソのように軽くなった。朝起きたときの、あの足の痛みも消えた。気分も、
爽快! よかった!
ワイフが、こう言った。「あんたの体は、不思議な体ね。食べたら食べた分だけ太り、減らした
ら減らした分だけ、やせるのね」と。
ついでにこう言った。「あんたが、ダイエットしている間は、私も助かるわ」と。
ダイエットするときは、私は家では、キャベツしか食べない。あとは、ダイエット食。つまりワイ
フは、料理から解放される。それで「助かるわ」と。
そのダイエットの話をしながら、「こうしてダイエットできるのも、60歳までだろうね。それ以上
の年齢になると、ダイエットそのものが、むずかしくなる」と。
つまりダイエットをしようと考えたら、減食だけではいけない。運動もしなければならない。減
食だけでダイエットをしようとすると、体の抵抗力を弱めてしまう。が、60歳をすぎていると、太 っている人には、その運動もままならない。義姉などは、いきなりジョギングをしたため、かえっ てひざを痛めてしまった。
だから遅くても、55歳くらいまでには、体をつくっておかねばならない。そのころまでに、適正
体重x0・9くらいの体重にしておく。
で、私の体重は、BM標準体重計算法によれば、
65÷1・66÷1・66=23・6、ということになる。
この計算式でいくと、私は24ということになり、一応、ギリギリの適正体重ということになる。
が、私の適正体重は、55〜60キロ前後。まだまだ道は、遠い。がんばろう。
++++++++++++++++++++
【適正体重計算……BM標準体重計算法】
BM=(体重)÷(身長)÷(身長)
40以上 ……肥満(4度)
35〜40 ……肥満(3度)
30〜35 ……肥満(2度)
25〜30 ……肥満(1度)
18・5〜25……正常値
〜18・5以下……やせ
(注、身長はメートル単位。私は166センチだから、1・66となる。)
++++++++++++++++++++
しかし肥満は、健康の大敵。よいことは何もない。……しかし、秋だなあ。何を食べてもおいし
い。今夜も空腹感と戦いながら、床につく。がんばります! がんばりましょう!
(040925)
●「やってあげている」という意識からの解放
どんな行動にも、得(メリット)と損(デメリット)の二面性がある。得ばかりをすることはない。
損ばかりをするということもない。しかしときに、行動はからまわりをして、自分が損ばかりして いるように感ずることがある。
お人よしのアホか、バカか?
そういうとき、どうやって、そういう自分と戦うか。つまり自分が、そのお人よしなことをしてい
ると感じたとき、そういう自分と、どう戦うか。
しかし実際のところ、そういう自分と戦うのは、疲れる。どんな行動にも、損得の、計算勘定
はつきもの。だが、いちいちそんなことを考えて行動するのは、疲れる。とくに、親子、夫婦、家 族の間では、そうだ。
そこで「無条件」という言葉が生まれる。
無条件であるからこそ、親子であり、夫婦であり、家族なのだ、と。
が、これとて、実は、簡単なことではない。今でも、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで
出してやった」と、言葉にして言う親がいる。「嫁をもらった」「女房を食わせてやっている」「家 族のめんどうみてやっている」と、言葉にして言う夫がいる。
これを(やってあげている意識)と私は呼んでいるが、その中身といえば、犠牲心。さらに言え
ば、信頼関係の欠落である。が、本当にかわいそうなのは、その人自身である。家族に対して ですら心を開けない。その住む世界は、孤独でさみしい。
Xさん(60歳)という母親を考えてみよう。架空の女性である。
Xさんは、どこか不本意な結婚をした。親同士が決めた見合いをして、しばらくのちに、結婚
をした。結婚当初から、夫の両親と同居した。
最初は、それなりにうまくいった。Xさんは、働き者で、よく夫に仕え、夫の両親に仕えた。家
族のために犠牲になることが、よき妻の努め、よき嫁の努めと思っていた。
が、夫の両親が、時を同じくして、つぎつぎと他界。さらに時を同じくして、夫が勤める会社の
倒産。そのときXさんには、2人の子ども(一男一女)がいたが、ここで大きく、思惑が狂う。財 産家の夫と思って結婚したが、夫の両親が残した財産は、ほとんどなかった。
本来なら、ここで生活のレベルを、夫の生活力に応じて、落とさなければならなかった。しかし
Xさんは、それをしなかった。しないばかりか、見栄と虚栄を守った。
たまたま長男のできがよかったこともある。Xさんは、長男の教育に没頭するようになった。も
ともと勝気で、自己中心的な人だった。長男には、過酷ともいえるほどの、勉強を強いた。その ころになると、子どもたちの学費はもちろんのこと、生活費のほとんどを、実家の両親に頼るよ うになっていた。
ここで注意しなければならないのは、Xさんは、本当に子どもの心を考えてそうしていたので
はないということ。長男は、小学5年まで、地元のサッカークラブに属していたが、6年になると 同時に、やめさせられた。進学教室へ入るためである。
こうした一見、愛に見えるが愛でない愛を、代償的愛という。いわば、愛もどきの愛。もともと
愛というのは、無条件の同一性をいう。しかしXさんが、子どもに注いだ情熱は、自分の心のす きまを埋めるためのものでしかなかった。
わかりやすく言うと、自分の不安や心配を解消するための道具として、長男を利用した。
が、長男は、それによく耐えた。が、長男が、大学へ入るころから、異変が起きた。長男が、
何かにつけて、Xさんから遠ざかろうとした。大学も、地元の大学ではなく、遠く離れたK市にあ る大学を卒業し、横浜市にある会社に入社した。
Xさんは、それに猛烈に反対した。……というようなことを繰りかえしたが、結局は、それから
10年後。長男は、母親が住む地元から離れ、横浜で結婚し、そこで生活を始めた。
それについて、Xさんは、こう言う。
「親なんて、さみしいもんですわ。息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。大学まで出して
やったのに、このザマです。子どもなんて、育てるものじゃ、ないですね」と。
何でも、その長男が結婚した夜、Xさんは、長男の前では、慈悲深い母親を演じながらも、あ
ちこちに電話をかけ、「悔しい」「悔しい」と、涙声で訴えたという。
私が知っているいくつかの例を重ねて、Xさんという母親を考えてみた。しかしこういう例は多
い。ほとんどの母親が、多かれ少なかれ、Xさんのようであるかもしれない。子育てはいつも楽 しいばかりとは、かぎらない。苦労も多い。そしてその苦労をした分だけ、親は、心のどこかで 犠牲心を覚える。
そのときだ。そのとき、親は、自分の中の損得勘定と戦わねばならない。いくら無条件といっ
ても、条件つきの無条件である。
この私とて、一方で偉そうなことを言いながらも、息子たちに向って、こう言いたくなったこと
も、何度かある。「お前たちは、だれのおかげで、生きていかれるのか、わかっているか!」 と。
しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。私のばあいは、そう自分に言い聞か
せながら、口を閉じた。
しかし、だ。せめて、親子の間、夫婦の間、家族の間くらいでは、無条件で生きてみたいも
の。この世の中、損得勘定が、あまりにも多すぎる。本来なら……というより、人間は、その何 10万年もの歴史の中で、そのほとんどの時間を、無条件で生きてきた。
今のように、あらゆることに損得勘定がはびこるようになったのは、ここ100年とか、200
年。長くても、1000年ではないのか。そのために、人間は、生きることの代償として、ムダな 努力をしなければならなくなった。
さてあなたは今、どんな計算をしながら、子育てをしているだろうか。夫婦生活をし、家族を支
えているだろうか。
さあ、あなたも、勇気を出して、そのアホか、バカになってみよう。勇気を出して、だ。もし今、
あなたが、「やってあげている」意識があるなら、なおさらだ。あなたは、きっとその向こうに、今 まで忘れていた、何かを見出すはず。心が軽くなるはず。
【補足】
若いころ、少し調べたことがあるが、今のように日本人が、損得勘定をするようになったの
は、江戸時代中期以後ではないかと思っている。このころ、貨幣が一般社会にも流通するよう になった。
それまでにも貨幣はあるにはあったが、物々交換が主体。貨幣は、別の目的で使われてい
た。
私が子どものころとくらべても、今という時代は、変わった。私が子どものころには、まだ盆暮
れ払いというのがあった。「支払いは、盆と年末に」という意味である。
私の父などは、のんきなもので、客を待たせながら、別の客と平気で、将棋をさしていた。当
時は、そういうのどかな、どこか牧歌的なにおいのする時代だった。
今では、教育そのものが、自動販売機化している。ファーストフード化している。そしてそうい
う風潮が、容赦なく、家庭にも入りこみつつある。
それがわからなければ、一度、あなたも、勇気を出して、ここでいうアホか、バカになってみれ
ばよい。反対に、そうでない人たちが、今度は、そのアホかバカに見えてくるはず。
●バラエティ番組
今夜も、テレビでは、バラエティ番組が、花盛り。
娯楽としての意味はあるのだろうが、それ以上の意味はない。ムダな情報、すぐ忘れてしまう
情報、どうでもよい情報。こうして人々は、古い情報を、どんどんと忘れ、そのかわり、今度は そこへ、新しい情報を注入する。
そのサエたるものが、プロ野球であり、相撲。10年前、20年前と同じことを繰りかえしなが
ら、繰りかえしていることにすら気づかない。選手も、そして観客も。
「だからどうなの?」という部分がないまま、情報を手に入れる。それが悪いというのではな
い。大切なことは、一つの情報を手に入れたら、その情報を、自分の中で消化し、つぎのステ ージにまで、それを高める。
その操作をしないと、ここに書いたように、いくら新しい情報を手に入れても、その分だけ、古
い情報を忘れていくだけ。つまりいつまでたっても、その人に、進歩はない。が、それこそ、時 間のムダ。人生のムダ。命のムダ。
利口になるということと、賢くなるということは、質的に意味がちがう。別。バラエティ番組を見
ていれば、たしかに利口にはなるが、決して賢くはならない。少なくとも、ああした番組で軽妙な ギャグをとばすお笑いタレント以上には、賢くはならない。
ああした番組をかいま見ながら、私は、ときどき、こう思う。
「最先端の技術と、最新の機器を使いながら、どうしてああまで愚劣な番組しか作れないのだ
ろう」と。あるいは「若者といっても、もう少し、マシな若者がいるだろうに、どうしてああまでサル のような若者しか、番組に出てこないのだろう」と。
これが文化というものなのだろうか。それとも、日本人が、今、質的に変化しつつあるのだろ
うか。あるいは、私が、ジジ臭くなりすぎてしまったというのだろうか。
しかし、だ。私の知っている幼児のほうが、ああしたお笑いタレントより、ずっと賢い。どうして
そういう幼児を、もっと、すなおに育てていかないのか。そういう幼児でも、おとなの世界に触れ るようになると、どんどんと俗化していく。そして結果として、ああした番組を、おもしろいと言う ようになってしまう。
今では、小学生を集めて、小さなパーティを開いても、みなが、意味もなくギャーギャーと騒ぐ
だけ。どこからどう見ても、テレビのバラエティ番組が、一つの基準になっているとしか思えな い。
さあ、みなさん、自分で考える子どもを育てよう。自分で考えて、自分で行動して、自分で責任
をとれる子どもを育てよう。……ということで、バラエティ番組の批評は、おしまい。批評するの も、疲れた。
●自己愛は、孤独地獄への片道切符
自分の心のスキマを埋めるために、結婚し、子どもをもうける人は、少なくない。夫や妻です
ら、自分のさみしさを埋めるための道具でしかない。自分の子どもでさえ、そうだ。
家族も何のためにあるかといえば、あくまでも、自分のため。仕事のため。自分の不安や心
配を解消するため。あるいは自分のはたせなかった夢や目的のために、夫や妻、子どもを利 用することもある。
が、最大の悲劇は、そうでありながら、本人自身がそれに気づいていないこと。夫や妻に心
を許していない分だけ、孤独。さみしい。被害意識も強く、「どうして自分だけが、こうまで犠牲 にならなくてはいけないのか」と考えやすい。
それはあえて言うなら、ストーカーが感ずる、(愛?)に似ている。自分勝手な愛。わがままな
愛。いわば愛もどきの愛を、愛と誤解しているだけ。
夫や妻が自分の思いどおりにならないといっては嘆き、悲しむ。自分は自分で、自分のことを
理解してくれない夫や妻、それに子どもを恨む。まさに、それは自己愛の世界。大切なのは、 自分だけ。自分こそが、世界の中心にいる。そう錯覚する。そしてすべてを、自分を中心に考 える。
もしあなたが今、そうなら、解決方法は、簡単。一度、夫や妻、子どもの心の中に自分を置い
てみる。そしてその視点から、つまり夫や妻、子どもの目を通して、自分が、どう見えるかを、 想像してみる。
そのとき、できるだけ、夫や妻、あるいは子どもの近くにいて、目を閉じ、自分の姿をカガミに
映すかのように、想像してみるとよい。
それでよい。それを繰りかえす。するとやがて、あなたは、夫や妻、子どもの立場でものを考
えることができるようになる。
自己愛は、まさに孤独地獄への片道切符。しかしそんな切符など大切にしていても、意味は
ない。今すぐ、捨てたほうがよい。
【あなたの自己愛診断】
該当するところに、○をつけてみてほしい。いくつか当てはまれば、あなたは自己愛者とみて
よい。
( )自分の仕事が大切。家族がそのため犠牲になるのは、当然と考える傾向が強い。
( )その一方で、いつも夫(妻)や家族の犠牲になっているような気がする。
( )夫や妻、家族は、自分の思いどおりにならないと、気がすまない。落ちつかない。
( )自分はいつも命令する立場で、家族の中に、命令・服従の関係ができているよう。
( )どちらかといえば、勝気で、わがまま。嫉妬しやすく、負けるのがいや。
( )家族のだれかが、自分に恥をかかせるのを許さない。いつも自分が最高と思う。
●デジ子ちゃん
私は今、C社のデジタルカメラが、たいへん気に入っている。何かあると、すぐ取り出し、それ
で写真をとっている。
が、どこかおかしい?
明るい空などをモニターにうつしてみると、左、3分の1ほどに、帯状の赤いモヤがかかる。で
きあがった写真も、パソコン上で見ると、どこか、左のほうが暗い?
そこで買った店にもっていくと、しばらく奥のほうで調べたあと、こう言った。「初期不良のよう
ですから、新品と交換します」と。多分、奥のほうで、私に聞こえないように、メーカーと電話で 相談したにちがいない。
「落したり、ぶつけたりはしていないぞ」と言いかけたが、やめた。
で、近く、新品と交換してもらえることになった。それについてワイフに言うと、「自動車のリコ
ールみたいなものかもね」と。
せっかく、愛着がわき始めていたのに!
ところで、私は、電子製品には、すべて愛称をつけることにしている。たとえばそのデシタルカ
メラは、「デジ子」。ワイフには、「デジ子ちゃん、どこへ行ったか、知らない?」などと言う。
ほかに、
シャープのパソコンは、シャー子、
フジツのパソコンは、フジ子、
パナソニックのパソコンは、パナ子、
東芝のパソコンは、トシ子など。
すべて女性の名前をつける、ならわしになっている。で、そのデジ子だが、最初、私がそう呼
ぶと、ワイフいわく。「デジ子? へんな名前。もう少しマシな名前はつけられないの」と。
しかし私は、「デジ子ちゃん」と、「チャン」づけで呼んでいる……。小さいカメラなので、チャン
づけが、よく似あう。しかしこれはビョーキか? そうビョーキだ。そう言えば、数日前、ワイフ と、こんな会話をした。
ワイフ「最近、フジ子ばかりを相手にしているみたいけど、ほかのパソコンは、焼きもちをやか
ないの?」
私「そうだな。今日あたり、パナ子も少し相手にしてやるか。このところ、さわってあげていない
からな」と。
まあ、ビョーキというより、これは生活のスパイスのようなもの。深い意味はない。
●みなさんからのご意見より
マガジンのほうで、アンケート調査をしたら、たくさんの方(10人ほど)から、返事が届いた。
ほとんどが、励ましの内容だった。うれしかった。もちろん、批判的な意見もあった。
「政治の話は、あまり読みたくない」「日本人は……という言い方は、不愉快」「量が多すぎる」
「公務員批判を、ひかえてほしい」「無料マガジンと有料マガジンが、同じというのは、おかしい」 「以前載せた原稿は、載せないでほしい」ほか。
じゅうぶん反省している。
10月号からは、政治的な話はひかえるようにした。公務員批判も、やめている。読者のみなさ
んを、不愉快にするのは、私の本意ではない。避けたい。読者あっての、マガジン。迎合主義 と批判されようが、私としては、読者の方の気持ちを、最優先に考え、大切にしたい。
ただ「量が多い」という意見をくれた読者の方には、こう返事を書いた。
「今しばらく、がまんしてください。そのうち、元気がなくなれば、自然と量も減ってくると思いま
す。今は、書けるだけ、書いておきたいのです。よろしくお願いします」と。
読者の数を気にしてはいけないとはわかっているが、しかし毎回、一人、二人と読者がふえ
ていくのは、本当にうれしい。励みなる。
**********************
みなさんの周辺で、このマガジンがお役にたてそう
な人はいませんか。もしいらっしゃるようなら、こ
のマガジンのことを話していただけませんか。
よろしくお願いします。
**********************
●子どもの善悪について……
いつか、『子どもは社会の縮図』(中日新聞発表済み)を、書いた。それについて、最近は、
『子どもは、親のまま』という原稿を書いた。その『子どもは、親のまま』について。
+++++++++++++++++++++
●子どもは、親のまま
車の窓から、ポイと、ゴミを捨てた母親がいた。うしろの席では、2人の子どもたち(6歳くらい
の男児と、2歳くらいの女児)が、それを見ていた。
ビデオショップの前。横の駐車場は、ガラあきなのに、その父親は、車をショップの玄関ワキ
に横づけ。そのまま小学生らしい男の子をつれて、店の中に入っていった。
信号はもう、赤。一呼吸置いて、その車はまだ余裕があると判断したのか、さらに加速して、
交差点を左折。キーンというタイヤのきしむ音。見ると横の助手席では、中学生らしい男子が、 あごをひいて、ふんばっていた。
……こういう例は、多い。まさに日常茶飯事。しかし私は、あえてこう問う。こういう親たちは、
いったい、子どもを、どう教育しようとしているのか、と。つまりこういうことを親たちが一方で平 気でしておきながら、「約束を守れ」「規則を守れ」「悪いことをするな」は、ない。子どもたちは、 そういう親の姿を脳裏に焼きつけながら、やがておとなになる。そして親と同じことを繰りかえ すようになる。
子どもの世界には、『一事が万事』という大鉄則がある。一事のことで小ずるい子どもは、あ
らゆる面で小ずるい。それはちょうど、ドミノ倒しのドミノのよう。
人間の脳は、それほど器用にはできていない。そのつど善と悪を、使い分けるなどということ
はできない。善人ぶることは、だれにでもできる。しかしそれをつづけていると、やがて疲れる。 ボロが出る。
しかし心配は、無用。『一事が万事』である。反対に、今のこの瞬間から、身のまわりのほん
のささいなことでよいから、その善をつらぬく。
ウソをつかない。約束を守る。規則に従う、など。子どもが見ているとか見ていないとか、そう
いうことは、あまり考えなくてもよい。考える必要はない。あとは日々の生活の中で、それを繰り かえす。
あとはドミノ倒しのドミノのように、あなたは善人へと変身する。そしてそれを見て、あなたの
子どもも、これまた善人になる。
そのときはじめてあなたは、自分の子どもに向かって、堂々とこう言うことができる。
「学校の勉強を、しっかりとしなさい!」と。
●成功確率と達成感
ある日、6年生になったFさんが、「先生、これ!」と言って、算数の新しいワークブックを見せ
てくれた。見ると、超・難解な入試問題集だった。
「どこで手に入れたの?」と聞くと、「お母さんが、知りあいの進学塾の先生からもらってきた」
と。
私「こんなの無理だよ」
F「お母さんが、毎日、2ページ、やれって……」
私「でも、一問解くのに、30分はかかるよ」
F「だから、教えてほしい」と。
Fさんの能力では、不可能と思われる問題が、ぎっしり。2ページで、15、6問はあった。
私はレッスンが終わると、Fさんの母親に電話をした。こうした難解なワークブックをかかえる
と、そこで勉強が止まってしまう。にっちもさっちも、進まなくなってしまう。
幸いFさんのお母さんは、すぐわかってくれた。「やはり無理ですか?」「はあ、ぼくはそう思い
ます」と。
子どもの学習指導で大切なのは、(達成感)。「ヤッター」「やりとげた!」という思いが、子ど
もを前向きに伸ばす。
そこで出てくる言葉が、「成功率」である。
子どもが何かの課題にとりかかったとする。そのとき、成功率を、50%50%にするのがコツ
(J・W・アトキンソン)。2回トライして、1回くらい成功するのがよい。いつも簡単に成功するの も(100%)、いつもまったくできないのも(0%)、子どもの学習指導では、好ましくない。50% 50%、である。
ワークブックでいえば、2問のうち、1問くらいは自分の力でできる。しかしもう1問は、なかな
か解けない。そういうのがよい。
子どもに何かを教えるときも、ほどほどに指導した段階で、あとは子ども自身の力でできるよ
うにしむける。半分くらいは助けてあげて、残りの半分くらいは、子ども自身にさせる。やりす ぎ、手取り足取り教育は、一見、親切な指導に見えるが、かえって子どものために、ならない。
さらに相手が幼児のばあいは、(できる・できない)は、あまり評価しないほうがよい。(がんば
った・がんばらない)という視点で、子どもを評価する。たとえば何かのワークブックをしても、子 どもががんばってしたような雰囲気であれば、大きな丸をつけて、それをほめる。「よくやった ね!」と。
こまかいミスや、解答のしかたがまちがっていたというようなことは、不問にする。この時期、
こまかいことをあれこれ言うと、子ども自身もまた、神経質になってしまう。子どもの学習指導 は、『まじめ7割、いいかげんさ3割』と覚えておくとよい。
ワークブックについていうなら、7割があっていればよし。3割が、お絵かきになってもよしとす
る。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 達成感 成功率 子どもを伸ばす アトキンソン)
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(323)
●K国で、何が起こっているのだ!
このところ、K国から伝わってきているニュースを、まとめると、つぎのようになる。
(事実1)K国は、中国国境沿いに、金XX直轄の最強部隊を、配置し終えた(9月)。
(事実2)K国は、6か国協議をボイコットした。
(事実3)日朝実務者会議は、ほとんど成果がないまま終わった。
(事実4)金XXは、6か国協議開催を迫る中国高官の説得に応じなかった。
(事実5)K国は、このままでは、今年の冬から来年の春にかけて、大飢饉におちいる。
(事実6)K国の原油は、今年の冬、枯渇する。
(事実7)にもかかわらず、中国からの1万トンの原油提供を蹴った。
(事実6)K国の政権抗争が、水面下で激化している。
(事実9)時期後継者と思われる、金正Xが、北京に姿を現した。
(事実10)金XXの精神状態が、きわめて不安定と推測される。
(事実11)金XXは、中国訪問をドタキャンした。
(事実12)K国の経済状態は、すでに破綻している
(事実13)ブッシュ再選は、ほぼ確実。アメリカはK国に対して、ますます強硬になる。
以上の事実に加えて、
(事実14)K国は、K国全土で、ミサイル発射準備の兆候を見せている。
(事実15)アメリカ・北太平洋空軍司令官ヘスター氏が、重大懸念を発表。
(2004年9月26日、午後7時33分)
これらの事実を、どう読むか。どうまとめるか。
読み方はいろいろあるのだろうが、ここまでくると、私には、もう理解不能。私には、金XXが、
何を考えているか、まったく理解できない。
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. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /〜〜〜\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 9月 27日(No.468)
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【Eマガ読者のみなさんへ】
●●●臨時・緊急連絡号●●●
おはようございます。いつもマガジンをご購読くださり、ありがとうございます。
ただ今、時刻は、9月27日(月曜日)の午前8時になるところです。
9月27日号の配信が、いつもより遅れたことを、お許しください。
配信元(スタンド)であるEマガ社の何かのトラブルが原因で、そうなったのだ
と考えています。
で、そのため、先ほど(7時ごろ)、Eマガ、9月27日号は手動で、
配信させていただきました。
目下、Eマガ社に、その原因などを、問いあわせている最中です。
+++++++++++++++++
マガジンは、毎号、午前0時に配信されるように、設定しています。
また現在、10月25日号まで、とどこおりなく、配信予約を入れてあります。
が、もし万が一、Eマガの配信などが、停止するようなことがあれば、そのつど
私のホームページ・トップの下のほうの「お知らせ・ブリテンボード」で、
報告しますので、何かあれば、どうか、そちらをご覧になってください。
Eマガにかわる配信方法としては、メルマガ(無料版)、まぐプレ(有料版)を、
別に用意しています。
詳しくは、また追って連絡いたしますが、万が一、Eマガ社からの配信が不可能になったばあ
い、みなさんへの連絡方法が、ほかにありませんので、あらかじめ、こうして事情をお伝えして おくことにしました。
【はやし浩司のHP】
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
こちらのHPのトップ下の「お知らせ」もしくは、「マガジン購読コーナー」を
何かあれば、ご覧ください。そちらのほうで、詳しく、事情をお知らせします。
このまま何ごともなければ、Eマガは、今までどおり、Eマガ社のほうから、
みなさんのお手元に届くはずです。
毎週、月・水・金の週3回発行のペースは、今のところ、しっかりと守っています
ので、どうか、ご安心ください。
●●●臨時・緊急連絡号●●●
これからも、マガジンのご購読を、よろしくお願いします。
お騒がせしました。
では、今日は、これで失礼します。
2004年9月27日 午前8時 はやし浩司
***************************
最前線の子育て論byはやし浩司(324)
【子育て・あれこれ】
【子育て一口メモ(2)】
●悪玉親意識
「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識
である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそ う」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすの が、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対 教」という。
●達成感が子どもを伸ばす
「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・
できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえ まちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやった わね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。
●先生の悪口、批評はしない
学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打っ
たり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」 と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。 これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもとは関係 のない世界で、処理する。
●子育ては楽しむ
子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その
楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとっ たり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを 教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。
●ウソはていねいにつぶす
子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、あり
もしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわ せてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもち やすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子ども がウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言う べきことは言っても、あとは、無視する。
●本物を与える
子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音
楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキ ャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が 作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、 人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえて いるので、ご注意!
●ほめるのは、努力とやさしさ
子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子ど
もがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりを ほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめす ぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!
●親が、前向きに生きる
親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、
前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、 子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪 の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをい う。生きザマの見本を、親が見せることをいう。
●機嫌をとらない
子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。
そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子ど もがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。 が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子ども は、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。
●親のうしろ姿を見せつけない
生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せ
たくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。 つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするため に、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。
●親孝行を美徳にしない
日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私
たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子ども の背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあ と、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳 でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。
●「偉い」を廃語に!
「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉
い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」 という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には 関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と 言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。
●家族を大切に
『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹
の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。やがてドロシーは、 真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、8 0〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはま さにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この 世界で、一番大切なものは、家族です」と。
●迷信は、否定しよう
子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立
ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動 し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけなのだが……。)子 どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさ に合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を 失う。
●死は厳粛に
ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学
び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して 遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするよう になるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言え ば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛 に。どこまでも厳粛に。
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【みなさんからのご質問から……】
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たまたまI小学校(静岡市)と、W小学校(浜松市)のみなさんから、
講演に先立ち、相談の手紙をもらった。「子どもを叱る」というテーマ
で、共通していたので、それについて、ここで考えてみたい。
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Q:子ども(小1)を叱るとき、どうしても感情的になってしまう。プレッシャーをかけない叱り方、
子どもがぐずり、わめき、切れているときの対応の仕方を教えてほしい。またがまんすることを 教えるには、どうすればいいか。(I小学校、1年生の子どもをもつ、母親より)
Q:長男はおっとりしているが、その下の長女(小5)は、勝気で気が強い。いつも母親の私と大
喧嘩になってしまう。たがいに好きなのに、です。そういうとき喧嘩をしない方法は、あります か。たとえば娘は、最後に謝るとき、「私も謝るから、ママも謝ってよ」などと言います。そういう とき、どうしたらいいでしょうか。(I小学校、5年生の女児をもつ母親より)
Q:子どもの叱り方がわかりません。あまりきびしく言うと、子どもに嫌われてしまうのではない
かと、心配です。何か、いい方法はありませんか。(W小学校、1年生の子どもをもつ母親より)
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A:子育ては、考えてするものではありません。その人が過去に受けた子育てを、再現する形
でするものです。ですから、ほとんどの親は、こう言います。「ついその場になると、カッとなって しまって……」と。子育てというのは、そういうものです。もっと言えば、子育ては本能ではなく、 学習によるものです。
子どもへの対処の基本は、『子どもに、子育てのし方を教える』です。いつかあなたの子ども
も、親になります。そして今、あなたがしている子育てを再現する形で、子育てをします。ですか ら心のどこかで、「私が、そのし方を教えてあげる」「見本を見せてあげる」と思えば、よいので す。
心の中で、ワンクッションおくため、ともすればとげとげしくなる子育てを、それで防ぐことができ
ます。もし今、あなたが感情的になっていれば、あなたの子どももまた、いつか親になったと き、その子ども(あなたの孫)に対して、感情的になるということ。あなたの目の前で、あなたの 子どもがあなたの孫を、カッとなって、叱り飛ばすようになるかもしれません。それでもよけれ ば、今のままの子育てをつづければよいでしょう。
コツは、いくつかあります。
(1)子どもの横を、友として歩く
(2)悪玉親意識(親風を吹かすこと)をやめる
(3)気負いを捨てる
(4)言うべきことは言いながらも、あとは、時間を待つ
(5)叱り方の見本を見せるつもりで、子どもを叱る、です
W小学校のお母さんは、子どもに嫌われることを心配しています。しかしこれは本末転倒とい
うべきではないでしょうか。話せば長くなりますが、これは親自身(その母親自身)がもつ、子ど もへの依存性の変形とみます。つまり子どもに依存したいという(甘え)が、「嫌われては困る」 という意識に変化したと考えます。はっきり言えば、そのお母さん自身の精神的な未熟性によ るものです(失礼!)。
お母さん自身が、精神的に成長しないと、子どももまた成長できなくなってしまいます。「子ど
もなんかに、嫌われても、かまわない」というき然とした態度が、子育てには必要です。そのた めにも、親は親で、いつまでも前向きに生きていく。
むしろ、親のほうが、子どもに向かって、親離れができるように、しむけます。そしてその結果
として、親もまた、子離れしていきます。その時期は、子どもの自己意識が急速に発達し始め る、小学3、4年生ごろと考えます。いつまでも、ベタベタした関係をつづけるほうが、おかしい ……。そういう前提で、親子のあり方を、もう一度、反省してみてください。
ただ誤解してはいけないのは、だからといって、友だち親子が悪いというのではありません。
親子関係もつきつめれば、一対一の人間関係です。そのとき、親子が、親と子という上下意識 のある関係から離れて、友だち関係になることもあります。それはそれで、すばらしいことで す。そういう親子関係を、めざしてください。
一般論から言えば、「子どもの機嫌をうかがう」というのは、すでに親子関係が、危険な状態
に入ったことを示しています。たがいの信頼関係が、かなりぐらついているとみます。このまま いけば、やがて親子のキレツから断絶へと進むかもしれません。どうか、ご注意ください。
言うまでもなく、親子の信頼関係(親子だけにかぎりませんが……)は、たがいの(さらけ出
し)と、(受け入れ)という基盤の上に成りたちます。たがいに遠慮したり、飾ったり、虚栄を張っ たり、そしてここでいう機嫌をとったり、コビを売ったりという関係では、そもそもたがいの信頼 関係は、成りたたないということです。
まだまにあいますから、そのお母さんも、勇気を出して、言いたいことを言えばよいのです。
嫌われて困るのは、子どものほうです。そしてお母さんは、お母さんで、正義を貫く。そういう姿 勢を見て、子どもは、あなたを尊敬し、自分の生きザマを身につけます。今、すぐにはそれが わからないかもしれませんが、やがてわかるようになります。「ぼくの母は、すばらしかった」と、 です。
さらにいつも、親子喧嘩が絶えないというのであれば、あなた自身の中に潜む、(わだかま
り)をさぐってみます。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか。結婚当初の生 活苦や、嫁姑問題などが、そのわだかまりになることもあります。
この問題は、そのわだかまりに気づくだけで、よいのです。あとは、時間が解決してくれます。
ほとんどの人は、そのわだかまりに気づくこともなく、心の裏からそのわだかまりに振りまわさ れます。操られます。そしていつも、同じ失敗を繰りかえします。
さらに……。あなた自身の子どもへの愛情も、疑ってみてください。「私は、真に子どもを愛し
ているか」とです。
するとほとんどの親は、「私は、愛している」と言います。しかし本当のところは、自分のため
に、そして自分の子どもを、自分の思いどおりにしたいだけではないでしょうか。自分の心のす き間を埋めるためにです(失礼!)。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔している親です。「子 どものため」と言いながら、まったく子どものことなど、考えていない。
しかしこれは真の愛ではないですね。真の愛は、無条件、無償の愛です。もっとわかりやすく
言えば、『許して、忘れる』。その度量の深さによって、親の愛の深さも決まるということです。
昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言い
ました。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では「Forgive and Forget」といいます。
この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せます。同じように「フォ・ゲッツ(忘
れる)」は、「得るため」とも訳せますね。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れる のか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思います。が、ある日。そ の意味がわかりました。
私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのことです。この言葉が頭を横切った。「どうし
ようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。許して 忘れてしまえ」と。
つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになります。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親 の愛の深さが決まるということです。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なこ とをさせろということではありません。子どもの言いなりになるということでもありません。
許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分 のものとして認めるということをいいます。
「子どもを叱る」という話から、とんでもない方向に脱線したような気がしますが、そんなことも
心のどこかで考えながら、「叱る」というテーマを考えてくださると、子どもへの接し方もまた、変 わってくるのではないでしょうか。
最後に子どもを叱るときには、一度、子どもの目の中に、自分を置いてみるとよいですよ。頭
の中で想像してみるのです。「今、私という親は、子どもには、どんなふうに見えているか」とで す。たいていのお母さんは、その醜さに、驚かれることと思います。
(はやし浩司 子どもを叱る)
(040928)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●女性の「美」
女性がもっとも美しくなるのは、20歳を過ぎてから、35歳前後の間ではないか。この時期、女
性は、それまでの年齢とは、まったく別人のようになる。そしてとても悲しいことだが、この時期 をすぎると、今度はこれまた、まったく別人のようになる。
私の通勤路に、小さな電気店がある。私が、その道を通るようになる前からあったから、昔
からの電気店である。
で、私がその電気店の前を通るようになってからしばらくのこと。その店のダンナが結婚し
た。ダンナの年齢はそのとき、40歳くらいではなかったか。私が29歳のときである。
が、驚いたのなんのと言って、その奥さんの美しさはなかった。背は高く、スラリと伸びた足。
今でいう小顔。美人というレベルを超えて、清楚な気品をたたえた、まるでモデルのような人だ った。色は白く、明るい太陽の光りの下では、さらに輝いて見えた。
私はよくワイフにこう言った。「あのダンナ、かなり年齢が違うようだけど、よくもまあ、あんな
美しい女性と結婚できもんだね」と。
それは私のひがみだった。いや、嫉妬だったかもしれない。以来、私は、その電気店の前を
通るたびに、店の中をのぞいた。
が、私にとっても、30年も前の話である。記憶はあまり残っていない。ただ一度だけ、何かを
買いにその店に入ったことがある。店の番は、ふだんは、その女性がしていた。が、その日に かぎって、その女性がいなかった。私はたいへんがっかりした。そのがっかりした思いだけは、 よく覚えている。
で、5年がたち、10年がたった。ときどき、つまり数か月に1度くらい、道路でみかけた。美し
さはそのままだったが、見かけるたびに、どこか生活に追われている感じがするようになった。 このころから、個人の電気店は、経営がきびしくなった。大型の電気店に、押されるようになっ た。
そのうちダンナの姿は見えなくなった。が、その女性の姿も、見かけなくなった。ダンナは、ど
こか別の職場で働くようになったのかもしれない。と、同時に、私は、その女性のことを忘れ た。その店の前を通っても、中をのぞくということはなかった。
しかし、である。私は、今日、10年ぶりか、15年ぶりか、それはよくわからないが、その女性
を見かけた。いつものように店の前を自転車で通りぬけようとしたとき、その女性が目の前に 立っていた。バッタリと出くわしたような感じだった。この30年でも、それほどまでに、至近距離 で、その女性を見たことはなかった。
驚いた。もちらん相手の女性は、私の秘めた心の中など、知るはずもない。私のほうを瞬間
見たあと、すぐ視線をはずした。しかし私は、その女性から目を離すことができなかった。
相変わらず整った顔立ちをしていた。スタイルは、昔のままだった。しかし顔だけは、浅黒くな
り、無数のシミが、それを覆っていた。年齢は、45歳くらいというところか。「ああ」と思った、そ の瞬間、私は、その女性の向こうに、何とも言われない、悲哀感を覚えた。悲哀感だ。
時は、容赦なく、人間を変えていく。そして女性から、美しさを、奪っていく。時の流れの無常
というべきか、あるいは無情というべきか……。その女性にすればいらぬ節介かもしれない。し かし私は、その悲哀感をどうすることもできなかった。
そのことを仕事が終わってから、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「そう言えば、昔、あ
なたはそんなことを言っていたわね。あの人のこと?」と。
私「そうなんだ。あの人だよ。美しい人だったよ」
ワ「……」
私「でも今日見たら、すっかり、おばちゃんになっていた……」
ワ「きっと、生活で、苦労をしたのね」
私「うん、ぼくもそう思う」と。
女性というのは、生活で苦労をすると、とたんに老ける。私の意見というよりは、みなが、そう
言う。生活に追われるうちに、心の余裕をなくすためかもしれない。あるいは、そういう苦労が、 ホルモンのバランスを崩すためかもしれない。よくわからないが、たしかに、そうだ。
いや、だからといって、その女性が、苦労をしたと言っているのではない。だれしも平等に、
老ける。その女性だけが、特別に老けたというわけではない。ただここで書けることは、みな が、それぞれの方法で、歳をとっていくということ。私も、あなたも。彼も彼女も。そして彼らも、 みなだ。例外はない。
私が感じた悲哀感の理由は、そんなところにあるのかもしれない。
★A good husband makes a good wife.(よい夫は、よい妻をつくる。)(イギリスの格言)。ただし
同時に、A good wife. makes a good husband(よい妻は、よい夫をつくる)という格言もあるの で、注意。
【追記】
街を歩く。
とぼとぼと歩く。
しかしそこは、若者の世界。
私の知っている世界とは、異質の世界。
「私にも、ああいう時代があったはず」と、懸命に思う。
しかし、その思いも、やがて、街の雑踏の中に消えていく。
私は生きた。
懸命に、生きた。
しかしその前にあるのは、老後。
生きてきたはずなのに、その実感がない。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と、ふと、立ち止まる。
しかし、いくら問いかけても、その向こうに見えるのは、乾いた砂漠のみ。
老人は、笑う。
私の愚かさを笑う。
しかし私にはわからない。
何を、どう生きたらいいのか、わからない。
「お前も、やがて私と同じになる」と、その老人は言う。
しかし、その私は、懸命に虚勢を張って、ただひたすら前に歩くだけ。
●脳ミソの容量
人間の脳みそは、コップのようなものかもしれない。容量にかぎりがありということ。だから新
しい情報が頭の中に入れば入るほど、その分だけ、古い情報を忘れていく。私のばあい、人の 名前で、それをよく経験する。
新しい生徒の名前は、比較的はやく覚える。しかし覚えたとたん、去っていった生徒の名前を
忘れてしまう。半年もすると、よほど印象に残った子どもは別として、大半の子どもの名前を忘 れてしまう。
情報だけではない。経験も、そうだ。よい例が、プロ野球の試合。
10年前も、20年前も、今日の「今」と同じように、野球の試合はあった。しかし記憶に残る試
合は、ほとんどない。が、それでも今、人々はプロ野球の試合を見て、喜んだり、がっかりした りする。
実のところ、その場の娯楽にはなるが、しかしそうした経験が積み重ねられて、何かの成果
につながるということは、まずない。
新しい経験が脳ミソの中に入ると同時に、古い経験が押し出されるように、どこかへ消えてい
く。あとはこの繰りかえし。
そこで容量にかぎりがあるとするなら、そこへ入れる情報や経験は、より良質のものであった
ほうがよい。ムダな情報、俗悪な経験が入れば入るほど、その人は、その分だけ良質な情報 や経験を入れることができなくなる。
そこで私たちは、日常生活の中で、自ら、より良質な情報や経験をよりわけなければならな
い。「これはすばらしい」「これはつまらない」と。そしてより良質な情報や経験はしながらも、そ うでないのは、捨てていく。捨てていくというよりは、最初から脳みその中に、入れないようにす る。
そうでなくても、歳をとると、脳みその容量そのものが小さくなっていく。若いときは、1リットル
とかそれくらいあった容量が、50歳をすぎるころには、半分の5デシリットルになったりする。 実感としては、それくらいになる。
だからますます、脳みその中に、どんな情報や経験を入れるかが、重要になってくる。つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがあるが、それはそういう理由に よる。
人間関係についても同じ。ムダな人と、ムダなつきあいをしているヒマは、もうない。……とま
あ、そういうふうに考える。
ということで、またまたあのバラエティ番組。いつもヤリ玉にあげるので、よくマガジン読者の
方から、「先生は、よほど、あのバラエティ番組が嫌いのようですね」というメールをもらう。
しかし私だって、ときどき、見る。若いときは、テレビのワイドショーの企画も書いていたことも
ある。NET(現在の朝日放送)のアフタヌンショーとか、日テレの11PMの企画を書いていた。 とても自慢できるような過去ではないが、ともかくも、仕事として、それをしていた。
が、あのバラエティ番組などは、いくら見ても、頭に残らない。身につかない。頭の体操にもな
らない。それもそのはず。そのレベルの人間たちが、ギャーギャーと騒いでいるだけ。どうでも よい情報を、右から左へ流しているだけ。むしろ見れば見るほど、自分自身が俗化していくの がわかる。
だから私のばあい、あくまでも私のばあいだが、このところ情報を、選択するようになった。
「これはくだらない情報だから、無視しよう」「これは、大切な情報だから、しっかりと吸収してお こう」と。
しかしこうした操作は、歳をとればとるほど、重要になってくる。もちろん残りの人生を、より有
意義に生きるためである。
★A fool at forty is a fool indeed.(40歳を過ぎてからの愚か者は、本物の愚か者。)(イギリス
の格言)
●子どもと接することのすばらしさ
昨日、ある母親とこんな話をした。
私が、「子どもたちと接していると、二つの得をします」と話したときのこと。その母親は、すか
さず、「何ですか?」と。
まず、子どもたちに接していると、心が洗われる。そういう意味では、子どもの心は純粋。け
がれていない。常識のかたまり。
反対に、子どもたちと接していない人たちをみると、それがわかる。そういう人たちは、どこか
偏屈。おかしい。心がゆがんでいる。
だから子どもたちと接していると、常に自分の考え方が、修正される。訂正される。
つぎに、これは同業の人たちが、よく言うことだが、子どもたちと接していると、その活力をも
らうことができる。こちらが、いくら落ちこんでいても、子どもたちは、それを許してくれない。実 際、「先生!」と声をかけてくれたとたん、気が、パッと晴れる。
で、もう一つ、つけ加えるなら、こういうこともある。
私のばあい、子どもたちや親たちを通して、無数の人生を、疑似体験している。それぞれの
子どもの世界に、こっそりと侵入することもあるし、親の世界に、こっそりと侵入することもあ る。
その子どもや、親になりきって、そのときどきにおいて、別の人生を楽しむ。
もともと私は、空想力が豊かな人間なので、そうして侵入するのは、むずかしいことではな
い。もっとも、母親の世界に入ることは、めったにない。母親と接したときは、相手の夫の世界 に入る。「私は、今、この女性の夫だぞ」と。
実は、冒頭に書いた、その母親と話していたときもそうだ。すてきな母親だったので、ふと、そ
の母親の夫の世界に侵入してみた。
しかし、この三番目の話はしなかった。あまりにも、不謹慎な内容だったので……。ハハハ!
(040929)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(325)
【近況・あれこれ】
●お金儲けごっこ
今週のBWは、「仕事」をテーマにした。
「お母さんが、病気になると、どんなことで困りますか?」
「お父さんが、病気になると、どんなことで困りますか?」と。
つづいて、家の手伝いについて話しあう。「どんなことをしていますか?」「どんなことをしなけ
ればなりませんか?」と。
中に、一人、二人、「まったく手伝いをしていない」という子どもがいた。私はわざと怒ったフリ
をして、「そういう子どもは、前へ出てきなさい! おしおきをしてやる!」と。
こうして雰囲気をもりあげたあと、BW恒例の、「お金もうけごっこ」をした。
【方法】
まず、子どもたちに、20円(1円と5円と10円硬貨)を渡す。おととしまで、紙のお金を使って
いたが、去年から本物の硬貨を使うようにした。
つぎに、折り紙を何種類か用意する。「これは小さいから、3円。これは5円。これは10円」
と。
まず子どもたちに、折り紙を買わせる。子どもたちは、お金をもって、その紙を私のところに
買いにくる。(子どもは、お金を払う)→(私は、折り紙をわたし、必要なら、おつりを渡す)と。
つぎに子どもたちに、その折り紙に、絵を描かせたり、折り紙をさせたりする。絵や折り紙が
完成したら、再び、私のところにもってこさせる。私は、「いい仕事してますねえ」とか何とか言っ て、ほめ、その絵や折り紙を買ってあげる。
「君の絵は、すばらしい。15円で買ってあげよう」
「この折り紙は、あまりよくない。7円だね」とか。
こうして子どもたちは、(紙を買う)→(仕事をする)→(作品を売る)→(お金をもうける)を、繰
りかえす。
最後に、いくらになったかを計算する。もちろん一番、たくさんになった子どもが、一番、がん
ばったことになる。
みなに、貯金箱を渡して、そのお金を、貯金箱に入れさせる。「この貯金箱をいっぱいにする
んだよ」と声をかけて、レッスンは、おしまい。
こうした(お金儲けごっこ)をすることに、少なからず抵抗感を覚える親もいると思う。だから一
応、その遊びに入る前、簡単に説明だけはしておく。
「日本は、自由貿易体制の中で、資本主義社会を形成しています。少しは、そういう社会にな
れさせておくのも、大切なことだと思います」と。
今まで、それに反論してきた親は、ひとりもいない。念のため……。
●プリンターが作動しない
WINDOW・SP2を導入した。が、画面コントロールができなくなってしまった。さっそくF社の
指示にしたがい、修正プログラムをダウンロード。インストール。
しかし今度は、C社の複合プリンターが、動かなくなってしまった。で、C社に相談。結論は、
「SP2には、対応していません。毎回、手動で、MSサービスを、開始するしかありません」との こと。
が、これが結構、不便。やっとのことで、プリンターを作動させても、途中で止まってしまう。
新しいプリンターを買うしかないようだ……。まだ1年半しか使っていないのに!
●デジタルカメラが、上位機種に!
C社のデジタルカメラを買った。しかし調子が悪い。そこで販売店へもっていくと、「初期不良
と考えられますので、新品と交換します」とのこと。
で、「そういうことなら、あと2万円出しますから、新製品の上位機種と交換してくれますか」と
もちかけると、これが何と、すんなりと、OK!
そこで手に入れたのが、C社の、9月末発売の、新製品カメラ。名前をあえて公表しよう。カシ
オ、EX−S100だ!
実は、このカメラが、今、たいへん気に入っている。いつも持ち運びながら、「これは」と思っ
たところで、シャッターを切っている。楽しい。おもしろい。ハハハ。
【補記】
ワイフが言うには、「これが誕生日プレゼントよ」だってさ。まあ、今年は、これでがまんするし
かない。
●韓国の報道
韓国系の報道機関(C日報、T日報)の報道記事を読んでいると、K国についての論調が、日
本の報道機関による記事と、微妙にというか、かなりちがうのがわかる。
C日報などは、K国について、いわゆる(ご機嫌取り記事)ばかり、流している。この数日間の
記事を並べてみよう。
北朝鮮の秋夕
北、第1回武道大会で優勝
金XX氏死亡55周年
国際武道大会開幕
そして今日の記事は、「北のメデイアも秋夕特番」(9・29)と。
K国を刺激したくないという意図が、見え見え。それはわかるが、その一方で、何かあると、
「韓国は関係ない」「日本やアメリカが、勝手に騒いでいる」という論調に、すりかわる。さらに最 近では、「主敵はアメリカ。北は同胞」とまで言い出している。「K国より、アメリカのほうが、敵」 というわけである。
韓国には韓国の立場があるのだろう。今回の、韓国による核開発疑惑についても、韓国の
報道各社は、「問題はないはず」と、ほとんど報道していない。
で、私には、ますます韓国が、わからなくなってしまった。私がアメリカ軍なら、韓国からさっさ
と出て行く。ついでに、この日本からもさっさと出て行く。日本はともかくも、こうまで嫌われてま で、韓国を守らなければならない理由など、アメリカにはない。
アメリカが韓国を守ったところで、利益は、ほとんど、ない。
ちなみに今日の報道によれば、アメリカ人の多くが、「日本や韓国から、兵をひきあげるべき
だ」と考えていることがわかった。
在日米軍は不要……39%
K国の韓国侵攻、中国の台湾侵攻時に、アメリカ軍による介入反対……61%
(アメリカ・シンクタンク「シカゴ外交関係評議会」調査。7月6〜12日に、一般のアメリカ国民1
195人、指導層の450人を対象に調査)
【補記】
韓国の人たちが、K国との共和制を敷き、共産化(?)を望むなら、それはそれで構わない。
日本の問題ではない。
しかし仮に、韓国とK国が、そうした形でも統一されれば、日本は、すぐ隣に、極東でも最強
の軍隊をもった反日国家をもつことになる。ふつうの反日感情ではない。しかもその向こうに は、中国がいる。核兵器まで、もっている!
そうなったとき、日本は、どうする? さあ、どうする?
●依存型社会
少し前、大雨で道路が冠水したことについて、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。「冠
水したのは、行政の怠慢が原因」と。G市でのことである。
さらに少し前、長くつづいた雨不足で、水道水が止まってしまったときもそうだ。60日近く、そ
の地方では、雨が降らなかった。それについても、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。 「水道が止まったのは、行政の怠慢が原因」と。F市でのことである。
内情はもう少し複雑かもしれない。それぞれに私の知らない事情があるのかもしれない。し
かし、「?」である。
実は私も、国を相手に、訴訟を起こそうとしている。「このところの温暖化は、行政の怠慢が
原因」と。……というのは、ウソ。
こんな子ども(小4男児)がいた。
ある日曜日の午後、その子どもから電話がかかってきた。いわく、「退屈。することがない」
と。そこで「お父さんは?」と聞くと、「仕事……」と。さらに「お母さんは?」と聞くと、「お店で仕 事……」と。
その子どもの家は、店を経営していた。店は、少し離れたところにあった。が、私はこう言っ
た。「だったら、あなた、お店へ行って、お母さんを手伝いなさいよ」と。
「依存性」という言葉がある。その依存性の強い子どもは、何かにつけて、だれかに依存しよ
うとする。さらにその依存性が日常化すると、依存していること自体を忘れてしまう。それが当 たり前になってしまう。
この話を、先日、母親たちとの懇談会の席で話すと、一人の母親が、こう言った。「実は、うち
の母親がそうなんです」と。
「うちの母親は、今年60歳になりますが、娘の私たちには、何もしてくれません。が、毎日の
ように世話に行かないと、機嫌が悪いのです。『客が来て、今日は行けない』などと言おうもの なら、『いい、いい、来なくていい。何も心配しなくてもいい。母さんは、冷蔵庫にあるものを食べ るから、心配しなくてもいい』と、実にイヤミな言い方をするのです」と。
子どもが親に依存するケースも多いが、親が子どもに依存するケースも、多い。おまけに、ひ
がんで、すねて、つっぱって……。あるいは今にも死にそうな弱々しい言い方で、同情をかうこ ともある。
人格の完成度は、さまざまな尺度で、知ることができる。他者との共鳴性、自己統制力、自
己認知力、それに他者との良好な人間関係など。そしてその一つが、自立度である。つまり依 存性が強いということは、それだけ、人格の完成度が低いということを示す。
さて冒頭の話だが、たまたまG市の市長と直接話す機会があったので、「信じられないほどの
依存性ですね」と言うと、「そうですねえ……」と。その市長は、苦笑いしていた。
アメリカは訴訟社会だが、こと、天災については、行政側を訴えるということは、めったにしな
い。国は、自分たちでつくるものと意識が強いからである。
一方、この日本では、奈良時代の昔から、中央集権国家。官僚主義国家。だから天災につ
いても、「行政の怠慢」ということになる(?)。つまりアメリカ人と、日本人とでは、民主主義に 対する考え方が、基本的な部分で、ちがう。
もちろん行政側が何かまちがったことをすれば、どんどんと訴えたらよい。それはそれだが、
しかし、天災で被害をこうむったからといって、それを行政側の責任にするのは、どうかと思う。
たとえば先の、F市での水不足のときのこと。たまたまその前後、私とワイフは、山荘の水道
工事で、四苦八苦していた。山荘の水は、500メートルくらい離れたところにある水源から、パ イプで引いていた。その工事である。
ツルハシで穴を掘り、パイプをうめる。山の土は、土というより、岩石に近い。5メートルも掘っ
たら、ヘトヘトになってしまう。もともと、「水」というのは、そういうものである。だから町の自宅 に帰って、水道の蛇口をひねったとき、水が出るのを見て、驚いたことがある。「どうしてこんな に簡単に水が出るのだろう?」と。
私はそのニュースをテレビで見たとき、「何を甘ったれたことを言っている!」と、思わず、つ
ぶやいてしまった。
日本という社会は、国際的にみても、依存型社会である。みながみなに、依存しあいながら、
生きている。それが悪いというのではない。その依存性が、形を変えて、ぬくもりのある、やさし い社会を作っているのも事実である。
しかし一歩、日本の外に出れば、この依存性は、通用しない。それについては、また別の機
会に話すとして、こんなエピソードがある。
中学1年生の英語の教科書では、道の聞き方が、テーマになっている。
「図書館へは、どう行けばいいですか?」
「三本目の角を、左に曲がってください」と。
しかし実際には、アメリカなどでは、見知らぬ人に道を聞くなどということは、ありえない。都会
だけではなく、地方の田舎でも、である。
私たちも一度、道に迷ってしまったことがある。どこかのレストランへ行く途中の、ことである。
そこで私が、運転していた友人に、「あの人に道を聞いたら?」と提案すると、その友人は、「ノ ー」と。はっきりと、断られてしまった。
つまり相手の人が、おびえるから、そういうことはしない、と。つまり見知らぬ人に道を聞くの
も、危険だが、聞かれるほうも、聞かれて、困るというのだ。だから、「ノー」と。
「アメリカでは、通行人に道を聞くことをしないのか?」と聞くと、その友人は、けげんそうな顔
をするのみ。そういう習慣そのものがないといったふうだった。
しかしそれが世界の常識である。それがよいか悪いかは別にして……。
●子どもの依存性
依存性の強い親は、自分の子どもが依存性をもつことに、どうしても甘くなりやすい。つまり
自分自身がそうであるため、子どもの依存性に、気がつかない。気がつかないまま、ベタベタと 親に甘える子どもイコール、かわいい子、イコール、いい子と誤解してしまう。
だからふつう、依存性の強い子どもをもつ親に、その依存性を指摘しても、意味がない。子ど
もの依存性のほとんどは、親自身の依存性に起因するからである。さらにそれまでに、たがい に依存関係ができてしまっているから、たがいを切り離すのは、容易なことではない。
いろいろな例がある。
【K君、年中男児】
「あと片づけをしようね」と促しても、ただ立っているだけ。「片づける」という意味そのものが、
わからない。そこであれこれ、ジェスチャで教えるのだが、それもわからない。が、しばらく指示 を繰りかえしていると、そのうち、メソメソ泣き出してしまった。恐らく家では、そういうふうにメソ メソすれば、みんなが、助けてくれるのだろう。
【E君、小学3年男児】
ワークをしているとき、こう聞いた。「まちがえたら、どうするの?」と。そこで私が、「まちがえ
たら、消してやりなおせばいい」と。すると今度は、「きれいに消すの?」と。そこで「そうだよ」と 言うと、「どこを消せばいいの?」と。こうした意味のない押し問答が、いつまでもつづく。
【U君、中学生男子】
何かをしたいとき、「〜〜したい」とは言わない。いつも遠まわしな言い方をする。たとえば空
腹なときも、「おなかがすいたけどオ……」と言うなど。わざと、皆の前で、フラフラと歩いてみせ ることもあった。そこでまわりの人が「どうしたの?」と声をかけると、わざとらしく腹を押さえて みせるなど。
たまたま思い出すまま、3人の子どもについて書いてみたが、みな男児や男子である。そうい
う意味では、原因は、母子関係にあるとみてよい。つまり乳幼児期の母子関係が是正されない まま、体だけが大きくなった考えられる。
が、本当の原因はといえば、母親自身の精神的な欠陥、もしくは、母親自身の情緒的な未熟
性があるとみてよい。そうした欠陥や、未熟性を補うために、母親は、無意識のうちにも、子ど もを利用してしまう。
ある母親は、こう言った。私が、「もう少し、子ども(年長男児)と距離をおいたほうがいいです
よ」と言ったときのことである。その子どもは、幼稚園の下駄箱のところで、母親にクツをはか せてもらっていた。
「いえ、先生、私は、こうしてこの子のめんどうをみられると思うだけで、うれしいのです」と。
そしてことあるごとに幼稚園へやってきては、園庭のはしのほうから、子どもの様子をうかが
っていた。そういう意味では、過保護児にせよ、でき愛児にせよ、独得の依存性をもつことがわ かっている。特徴を並べると、こうなる。
(1)意思決定ができない。
(2)優柔不断。つかみどころがない。
(3)良好な人間関係が結べない。
(4)他人に対して服従的になったり、同情をかうような態度を見せる。
(5)約束や目標が守れない。規則が守れない。いいかげん。
(6)道徳心が薄く、倫理観がない。不和随行的になりやすい。
(7)無責任というより、責任感そのものが、欠ける。
(8)幼稚性、幼児性の持続。年齢に比して、人格の核形成が遅れる。
まさによいことなしの状態ということになる。子どもの依存性というのは、そういうものだが、最
大の問題は、最初に書いたように、親自身にその自覚がないこと。中には、ベタベタの依存関 係をつづけながら、「最近、うちの子は、私の言うことを聞かなくなりました」と、泣きながら訴え てきた母親すらいた。
加えて、日本の社会全体が、依存型社会ということもある。責任を追及しあうよりは、ものご
とを、ナーナーですまそうとする傾向が強い。子どもの世界でも、自立心が旺盛な子どもほど、 嫌う傾向もある。
こうした(ちがい)が、顕著に現われるのは、外国の高校生と日本の高校生を見くらべたとき
である。日本の高校生は、カナダの高校生やフランスの高校生とくらべてみると、全体として、 たいへん幼稚な感じがする。これは私の意見というより、国際的な常識でもある。すべてが依 存性の問題とは言えないが、しかし依存性が強ければ強いほど、幼稚性、幼児性が残る。年 齢に比して、幼い感じになる。
ついでながら、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、
代償的過保護という。
ふつう過保護というときは、その基本に親の愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。つまりは自分勝手でわがままな過保護ということになる。
で、こういう代償的過保護でも、親は、「子どもはかわいい」「私は子どもを愛しています」と言
う。それはそうかもしれないが、その姿は、どこか、ストーカーに似ている。相手の気持ちなど、 お構いなしに、相手を追いかけまわす、ストーカーである。そのため私は、「ストーカー的過保 護」と呼んでいる。
この代償的過保護は、依存性の強い親によく見られる。
●悲しき、子どもの心理
親は、「C高校へ入れたい」と言う。「できればB高校へ」とも。しかし子どもには、その力はな
い。D高校どころか、E高校、あるいはF高校でも、ムリ。
そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。
もう27、8年ほど前のことである。私は、進学塾の塾長に頼まれて、その子ども(中3男子)
の家庭教師をしていた。その子どもの親が、そうだった。
今で言う、LD児(学習障害児)だったかもしれない。ただ、どういうわけか、学校のテストだけ
は、そこそこによくできた。その理由は、あとでわかった。その子どもは、カンニングだけは、天 才的にうまかった。
私は、塾長と親と、そして子どもの板ばさみにあってしまった。教えても教えても、ちょうどザ
ルで水をすくうような状態だった。その一方で、塾長からは、「成果を出してほしい」。親から は、「何とかC高校へ」と。毎日のように、つつかれた。
そこで私は、あるとき、模擬試験をしてみた。当時はまだ、そういう模擬試験が、進学塾で
も、定例化されていなかった。私は、過去問(過去に出題された入試問題集)を手に入れると、 時間をはかりながら、その子どもに、それをさせた。
結果は、わかっていた。数学にしても、1番の簡単な計算問題すら、まちがえていた。点数に
すれば、100点満点中、5〜10点程度だっただろうか。
私は、その成績をその子どもに見せながら、こう言った。
「この成績では、C高校は無理だと思う。一度、君のほうから、お母さんにそう言ってみたらど
うだろうか。君の力は、君自身が一番よく知っているはず。『ぼくは、C高校は無理だと思う』と、 正直に言えばいい」と。
しかしその子どもは、そのことを親には言わなかった。そのあとも、たびたび、子どもに、それ
を話すように言ったが、言わなかった。そのかわり、学校のテストなどでは、「そんなはずはな い!」と思われるような、よい成績をとってきたりした。
……というようなケースを、私は、そのあとも、たびたび経験している。こういうケースは、多
い。全体のうち、何割かが、そうであると言ってもよい。
なぜだろうか? どうして子どもは、自分の(実力)について、正直に、親に話さないのだろう
か?
……と思っていたら、その前後に、こんな話を聞いた。
ある夫なのだが、会社をクビになった。しかしそのことを妻に話すことができなかった。その
ため、クビになってからも、毎朝、出勤するようなフリをして、外出。あとはパチンコをしたり、魚 釣りをしたりして、一日を過ごしていた。
その話を聞いて、「自分の力を正直に言わない子どもの心理と同じだ」と、そのとき、そう思っ
た。
実際、私も、似たような心理になることがよくある。何かの失敗をしたりしたようなときだ。ワイ
フになかなか話せない。切り出すこともできない。悶々とした心理状態である。
このことを車の中で、私のワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「わかるわ、その子どもの
気持ち」と。
私「親に話せと言ってもムリなんだよね」
ワ「話せば、自分の立場がなくなるからね」
私「そうなんだ。『ぼくは、やればできるはず』と思わせておくことで、自分の立場をつくることが
できる。それ以上に、その子どものプライドの問題もあるだろうしね……」と。
これも悲しき子どもの心理かもしれない。子どもは子どもで、懸命に親の期待にこたえようと
しているのかもしれない。
で、先の中学生のことだが、その中学生は、市内でもナンバー2と言われる、難関校のB高
校を受験した。一か八かの勝負というよりは、もともとムリな受験だった。結果は、もちろん不 合格。あとで塾長はこう言った。
「親との話しあいで、どうせC高校でもムリなら、B高校をということになった。親としては、B高
校を受験しました。B高校を受験しましたが、落ちて、私立のF高校※へ入りましたということに して、形だけでも、世間体をとりつくろいたかったんだろうね」と。
しかしこれは悲しき親の心理ということになる。どこまでも、どこまでも悲しい親の心理というこ
とになる。
【注※】このS県では、当時は、高校受験が、受験競争の関門になっていた。また公立のほう
が、私立より、レベルが高いということになっていた。
【補足】
このタイプの子どもは、カンニングがたいへんうまくなる。ここで「天才的」と書いたが、まさに
天才的。それに、その場をごまかす技術を、どこかで身につけてしまう。
たとえば自分でしたテストを、自分で採点させてみると、鉛筆を左手に隠しもっていたりして、
その場で答を書きこみ、右手の赤ペンで、丸をつける、など。
これも悲しき子どもの心理ということになる。長い時間をかけて、(いかにごまかすか)という
技術だけを、身につけてしまう。
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【子育て・一口メモ】
●子どもは下から見る
子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、こ
こに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言 った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、 際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点か ら見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。
●失敗にめげず、前に進む
「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残してい
る。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことであ る』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみて ほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。
●すばらしいと言え、親の仕事
親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はな
い。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、 職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生 きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心 を豊かに育てる。
●逃げ場を大切に
どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安
全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこ を神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋 ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」というこ とにもなりかねない。
●代償的過保護に注意
過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。 いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争 に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく 考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」 と呼んでいる。
●同居は出産前に
夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前
からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居 は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子ども の教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それ が同居を成功させる、秘訣のようである。
●無能な親ほど、規則を好む
イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無
能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また 規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限 にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お 前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。
●プレゼントは、買ったものはダメ
できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうし
のプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長 期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっ ている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこ もったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。
●子育ては、質素に
子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そうい
うぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あ ともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そ うでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。
●ズル休みも、ゆとりのうち
子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためという
わけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの 方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行 けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そ んなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(326)
【上の子、下の子】
下の子が生まれると、上の子は、心理的に、大きな影響を受ける。下の子の誕生がきっかけ
で、上の子の様子が変わるということは、この世界では、珍しくない。よく知られた症状に、赤ち ゃんがえりがある。
ネチネチと甘えたり、おもらしをしたりするなど。しぐさ、話し方まで、赤ちゃんぽくなる。
この赤ちゃんがえりを、多くの親たちは、安易に考える傾向がある。上の子も、下の子の誕
生を歓迎しているはずと考えやすい。しかしこれはとんでもない誤解。
赤ちゃんがえりだけではない。その症状は、実に、さまざま。赤ちゃんがえりをマイナス型とす
るなら、下の子に攻撃的になるプラス型もある。嫉妬がからんでいるため、下の子を殺す寸前 までのことをする。方法も、陰湿かつ、執拗。弟を逆さづりにして落したり、チョークを食べさせ たりした例がある。
しかし表立って下の子をいじめたりすれば、自分の立場がなくなる。そこで親の前では、仮面
をかぶり、いい兄、いい姉を演ずることが多い。親の目の届かないところで、下の子をいじめた りする。
しかしこういう形でも、外の世界に症状が出てくるケースのほうが、まだ扱いやすい。対処方
法もある。が、親の過干渉、過関心、神経質な育児姿勢などにより、症状が、「内」にこもること がある。
たいていは、心身症による症状をともなう。そしてその症状は、まさに千差万別。ものいじり、
指しゃぶり、チックなど、よく知られた症状のほか、数年前だが、慢性的な発熱症状を訴える子 ども(年長女児)もいた。気うつ的な症状を示したり、慢性的な腹痛や、頭痛を訴える子どもも いた。
「どこか様子がおかしい?」と感じたら、まずこの心身症を疑ってみる。そしてそういう症状が
出てきたら、子育てのあり方を、猛省する。
ポイントは、二つ、ある。
一つは、「ほどよい親」であること。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。子ども
がスキンシップを求めてきたら、すかさず、こまめに、ていねいに、それに答えてあげる。拒否 的な態度は、禁物。子どもというのは、その瞬間に、すべてを判断する。「ちょっと待っててね」 という何気ない一言が、子どもの心を大きくキズつけることがある。
つぎに、「暖かい無視」を心がける。ベタベタの関係がよいわけではない。あれこれ気をつか
いすぎるのも、よくない。「兄だから……」「姉だから……」という、「ダカラ論」を押しつけるの も、避ける。
またこの時期、スキンシップをふやすことについて、「抱きグセがつくのでは?」と心配する人
もいる。しかしこの際、抱きグセは、マイナーな問題と考える。対処のし方をまちがえると、精神 そのものをゆがめることがある。
この時期をさかいに、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、くじけやすくなる子どももいる。繰
りかえすが、決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけない。それがわからなければ、あな たの夫(妻)に、愛人ができたときのことを想像してみればよい。平静でいろというほうが、無 理。子どもの心理は、その状態に近い。
本来、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。上の子が、下
の子の誕生を楽しみにするようにしむける。まずいのは、ある日、突然、下の子が生まれたと いうような状態にすること。
方法としては、大きくなったお腹を見せながら、「あなたの弟(妹)が、ここにいるのよ。生まれ
たら、いっしょに遊んであげてね」式に、毎日、上の子に話しかけるなど。
また下の子が生まれたあとも、いきなり、50−50の愛情に分けるのではなく、上の子に10
0の愛情を注ぎながら、少しずつ、下の子に、愛情を分けていく。上の子にしてみれば、「平等 ということ自体が、不平等」ということになる。それを忘れてはいけない。
で、こうした症状が出たら、それが許容範囲なのかどうかを冷静に判断する。症状が軽いよ
うであれば、そのままの状態を保つ。しかし症状がひどいようなら、もう一度、100の愛情を上 の子にもどしたあと、半年単位で、少しずつ、上の子から手を抜いていく。あくまでも子どもの 様子を見ながら、判断する。
++++++++++++++++++
奈良県のNさんより、赤ちゃんがえりの相談をもらった。「4歳になった娘が、口の中にツバを
ためる。チックではないか」と。下に10か月の弟がいるが、逆算すると、その弟が生まれた前 後から、ツバをためるようになったらしい。風邪をひいたようなときには、そのツバが、痰になる こともあるという。
症状からすると、チックとみてよい。ツバを吐く、ツバを袖にこする。ツバを口の中にためるな
ど。筋肉のけいれん様の不随意運動をともなうことが多い。クックッとうなるようにして、ツバを 吐くなど。
とくに意味のある行為には見えないのがふつう。またテレビを見ているときなど、気が緩んだ
ようなときに出やすい。
こうした症状は、一度出ると、なおるまで、半年から1年単位はかかる。クセとして、その子ど
もに定着してしまうことも珍しくない。だからあとは、あせらず、その時期がくるのを待つ。
ただNさんのメールの中で、気になったのは、「上の子が、好きになれない」という部分。何か
のわだかまりが原因かもしれない。もしそうなら、一度、自分の心の中をのぞいてみる必要が あるのでは? それについては、また別の機会に考えてみたい。
(040930)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(327)
【近況・あれこれ】
●近く、オーストラリアにいる息子が、日本へ帰ってくる。「遠隔操作で、大恋愛をしている」と、
メールで書いてきた。「新しい恋人を、今度、紹介する」とも。「日本人か?」と聞くと、「そうだ」 と。少し安心した。
●ダイエットを始めて、4週目。体が、軽くなった。現在、体重は、64キロ台。4・5キロの減量
である。減食にあわせて、毎日、自転車に1時間半ほど、乗っている。わざと体をひねらせ、全 身で汗をかくようにしている。目標は、とりあえずは、63キロ台。そのあたりで、一度、様子を みて、現状維持。
●台風21号は、去った。被害は、なし。よかった。講演をしたこともある、三重県のK町では、
洪水が起きたとか。死者も出た。担当をしてくれた教育委員会の人に、メールを出そうかと迷 っているうちに、一日が過ぎてしまった。ごめん!
●昨日(9・30)は、台風一過、秋晴れのさわやかな一日だった。ワイフと、近くの店で弁当を
買って、佐鳴湖畔で食べる。少し風が強かったが、おいしかった。
●今日は、ワイフは、テニスクラブへ。ワイフも、私と同じようにダイエットしているのだが、ほと
んど体重が減らない。「いつも隠れて何かを食べているんだろ?」と言うと、「そんなことはして いない」と。私は、ダイエットすれば、翌日から体重が減り始める。しかしワイフは、そうではな い。きっと脂肪が、細胞の奥深くまで入りこんでいるせいではないか。体質が、私とは、ちがう ようだ。
●しかし空腹感というのは、いいかげんなものだ。寝る前にはあれほどあった空腹感が、朝に
なっていると消えている。ダイエットというのは、その空腹感にいかに耐えるか……つまり空腹 感との戦いであるといってもよい。中学生の子どもにそれを話すと、「先生、リバウンドが楽し み」などと、恐ろしいことを言う
●アメリカにいる孫に、幼児向けの雑誌を2冊、買ってくる。嫁さんが、「私にも役にたつ」と書
いてきてくれた。日本語を勉強しているようだ。昨日も、何冊か、本を送った。食べ物を送って やりたいが、今、規制がきびしい。前もって、インターネットで許可を取らないと、送れない。カッ プヌードル類は、税関で、すべて没収。
●今日から、10月。BW教室は、おかげで、どのクラスも、ほぼ満員になった。新しい生徒を
迎え、やる気、満々。プラス、体の調子ももどってきた。8月ごろは、どうなってしまったのかと、 心配かつ不安だった。今から思うと、太りすぎだったのかもしれない。太りすぎると、脳間伝達 物質の分泌が抑制されて、気分も落ちこむのかもしれない。勝手な推測だが……。
●さて、今日は、午前中は、こうして原稿でも書くしかない。ワイフがテニスから帰ってきたら、
近くの回転寿司店へ。私は4皿。ワイフも4皿。あとはショーガをモリモリ食べて、体脂肪を燃や してやる。ハハハ。本当に、セコイ話です!
●SP2を導入してから、パソコンがおかしくなるは、プリンターが作動しなくなるは……。ともに
修正モジュールをダウンロードして、実行。やっと、今朝になって解決。しかしふと、考える。仮 に何かのことで、リカバリーということになったら、すべてを、最初からやりなおさなければなら ない。ゾーッ! ますますウィルス対策を強化することに! あやしげなメールは、即、削除。そ れしかない。件名のところに、住所、名前のない人からのメールは、すべて削除。容赦なく、削 除。どうか、ご理解ください。
●あさっては、村の人たちに祭に招待されている。行くことにした。楽しみだ。(しかしこういう予
定は、公開日記には書かないほうが、よい。空き巣が、こういう日記を読みながら、スキをうか がっているそうだ。しかし心配は、無用。息子が家を留守番をしてくれるという。山荘のほうは、 S警備保障会社が、常時、警備をしてくれている。念のため!)
インターネットでは、住所や電話番号は、公開してはいけない。生年月日も公開してはいけな
い。多くの人は、そういうったものを利用して、パスワードを決めているからである。ここにも書 いたように、予定を書くなどということは、論外。「明日から、二泊三日で、沖縄へ旅行」などと 書くのは、空き巣に「来てください」と書くようなもの。
●ところでウィルスソフトの期限が、9月末で切れた。昨日、新しいソフトを買ってきたので、こ
れから、それをインストール。ワイフのパソコンも、期限が切れた。M社のソフトの、2ユーザー 用というのである。まずワイフのパソコンに先にインストール。安全と、動作を確認したあと、私 のパソコンに……。ハハハ。
●このところ毎日、11時から、プロ野球を見ている。昨日は、イチローは、1ヒット。今日も応
援するぞ。あと2本ヒットを打つと、歴代1位に並ぶそうだ。目が離せない!
+++++++++++++++++++++
●子どものやる気
「ほどよい親」という言葉がある。親は、ほどよい親であるのが、一番よい。親の、子どもに対
する意欲が強すぎるのも、反対に弱すぎるのも、よくない(D・C・マクレランドほか)。
要するに、教育ママ的すぎるのも、放任ママ的すぎるのも、よくないということ。どちらかといえ
ば、教育ママ的すぎるよりは、放任ママ的なほうがよい。そんな研究結果も報告されている(D・ C・マクレランド)。
で、ほどよい親というのは、バートランド・ラッセルの言葉を借りるなら、「必要な訓練はほどこ
すが、その限度をわきまえている親」ということになる。
そこで「必要な訓練とは何か」ということになる。そのポイントをまとめたのが、つぎである。
(1)子どもに任す部分は、任す。
(2)ほどよく指導し、ほどよい道を示す。
(3)子どもを信頼する。
(4)ほどほどのところで、手を引く。あきらめる。
(5)過干渉、過関心、過保護は、避ける。
(6)親は親で、自分の生きザマをつらぬく。
どれもむずかしいテーマだが、そこが子育て。そこが親の腕の見せどころということになる。
が、その中でも、とくに注意したいのが、(4)の「ほどほどのところで、手を引く。あきらめる」。
ほとんどの親は、子どもに限界が見え始めても、「まだ、何とかなる」「やればできるはず」「う
ちの子にかぎって」と無理をする。この無理が、子どものやる気をそいでしまう。そういう意味で は、親の希望には、際限がない。
半年近く不登校を繰りかえした子どもが、やっとのことで、学校へ通うようになったときのこ
と。その子どもの母親は、こう相談してきた。
「午前中だけで、家に帰ってきてしまいます。給食の時間になると、保健室にこもってしまいま
す。何とか、給食だけでもと思っているのですが、どうしたらいいですか」と。
私は、こう言った。
「子どもには、無理をしなくてもいいと言ってあげなさい。4時間、勉強するようなら、3時間目
が終わったら、家につれて帰ってきなさい。そのとき、『今日はよくがんばったわね』とほめてあ げなさい。
仮に給食を食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずです。『何とか、午後の勉強も
させたい』『終わりの会まで出席させたい』と。子どもも、それをよく知っているのです」と。
さらに不登校がやっとなおったと思ったとたん、「それまでの遅れをとりもどすのだ」と、子ども
を進学塾へやった親もいた。しかしそんなことをすれば、元の木阿弥。つぎに症状は、さらに悪 化する。
「まあ、うちの子は、こんなものだ」「うちの子は、うちの子なりによくがんばっている」という、
あきらめが、子どもの心に風をとおす。そして不思議なことだが、そのときから子どもは、また 伸び始める。親が「こんなはずはない」とがんばっている間は、子どもは伸びない。ばあいによ っては、自ら伸びることを止めてしまう。
とくに子どもが小学生のうちは、この「意欲」だけをみながら、子どもの学習をみるとよい。で
きる・できないは、つぎのつぎ。やる気があればよし。そうでなければ、いくら見かけの成績が よくても、家庭教育のあり方を、猛省する。
【やる気の判断】
何か、子どもの前で、新しいテーマを示してみてほしい。「庭に、小屋でもつくろうか」「今度、
美術館へ行ってみようか」など。そのとき、何かにつけて、「やる!」「やりたい!」とくいついてく ればよし。反対に、「いや……」「つまらない……」を繰りかえすようであれば、子どもの問題と いうよりは、家庭教育そのものに問題があるとみる。
ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、子どもをなおそうとする。しかし問題は、子
どもにあるのではない。問題は、子育てのし方、もっと言えば、親自身にある。それに気がつく 親を、賢い親という。そうでない親を、愚かな親(失礼!)という。
あなたはひょっとしたら、無意識のまま、子どものやる気をそぐようなことはしていないだろう
か。ここで、少しだけ、ふりかえってみてほしい。
【BW教室では……】
BW教室では、毎回、何らかの遊びを用意している。1、2週おきくらいに、遊びを変えていく
のだが、その遊びついても、毎回、目を輝かせて、飛びついてくるように指導していく。
当然のことながら、「やりたい!」「やらせて!」と、飛びついてくる子どものほうが、好ましい。
そこで私は、半年単位で、子どものやる気を引き出すようにしている。
この遊びを取り入れた方法は、実際、効果的である。現実に「今」という今、私の教室では、
ひとりの例外もなく、(本当だぞ!)、消極的な子どもはいない。(毎回、母親たちが参観してい るので、こういうところで、ウソは書けない。念のため……。)
何か新しいことを提案するたびに、「やる!」「やる!」と、全員が、目を輝かせて、食いつい
てくる。
そういうふに、幼児を指導していくのが、幼児教育である。漢字が書けるとか、むずかしい計
算問題ができるとか、そういう(見かけ)の力を、子どもに身につけさせるのが幼児教育ではな い。またそういう(見かけの力)にだまされてはいけない。
(041002)
【今日の話題から……10月2日】
●NTTの固定電話料金が、値下げ!
今ごろ……と、あきれている。今度(05年1月)から、県外は、一律、一通話、15円になると
いう!
そんなことは、10年前、20年前には、常識だった。当然、そうすべきだった! 郵便局の手
紙だって、全国一律料金。が、電話だけが、異常なまでに料金が、細分化されている。しかも、 高額!
アメリカでは、とうの昔から、市内通話はどこも、タダ。日本列島の何倍も遠い距離に電話を
かけても、日本の市内料金並。
この法外なまでに高額な料金のおかげで、日本のインターネット事情は、東南アジア各国とく
らべただけでも、10年は、遅れた!
今ごろ、値下げしても、遅すぎる!
●新義州地区、K国政府が開発事業を中断
K国が、K国北部、中国との国境近くに計画していた、新義州地区特別開発計画を、中断し
たという(8月以後)。理由は、中国側の協力が得られないためらしい。
中国とK国の関係は、今、予想以上に、悪化している。
中国は、15万人の正規軍を、K国国境に配置。K国も、それに対抗するかのように、38度
戦にいた精鋭部隊を、中国との国境にはりつけた。
しかしそれにしても、こうまでコロコロと政策が変わったら、K国の人たちも、たまらないだろ
う。何か気に食わないことがあると、すぐ過剰反応。そのたびに、民衆だけが、右往左往。
独裁国家というのは、独裁者の心情が、そのまま国政として反映される。この一貫性のなさ
が、金XXの心情そのものと考えてよい。K国という国全体が、ヒステリー状態になっている?
ついでながら、今年の夏、K国の首都P市においてでさえも、スイカ1個のねだんが、6000
ウオンだったという。一般勤労者の月給が、約2500ウオンというから、月給の2か月分。(ス イカ1個が、2か月分だぞ!)
中国は、今年に入ってから、中国からK国への米の輸出を、事実上、禁止している。しかもK
国ウオンの、実勢交換レートは、1アメリカドルが、1600ウオンだそうだ(中朝国境沿いでの 交換レート・朝鮮日報)。このレートで計算すると、勤労者の1か月平均給与は、1ドル60セン ト。よくみて、2ドル。日本円になおすと、200円弱。
はっきり言えば、K国ウオンは、紙くずに等しい。
そこで金XXは、最後の手段として、核兵器やミサイルを持ちだした。「開発をやめてほしかっ
たら、金を出せ!」と。私たち日本人にしてみれば、とんでもない論理だが、その(とんでもな さ)さえわからないほど、K国の常識は、今、混乱している。
肝心の中国からも見放され、さあ、どうする! 金XX!
●10月3日
今日は朝から、あいにくの雨。はげしい雨。
山荘のある村でも、村祭が予定されていたが、それも、流れた。毎年、行われる航空自衛隊
浜松基地の航空フェスタも、この雨では、「?」。
さえない日曜日。山荘で、ワイフとビデオを見て、軽い朝食。そのあと、自宅へ……。
自宅に帰ってからは、BS放送で、イチローを声援。結果は、今日は1安打。これでヒット数が2
60本になった。
そのあと台所にもどり、料理。メニューは、ハヤシライス。私のつくるハヤシライスは、一品!
何と言っても、「はやし」ライス。玉ねぎを細く切って、パリパリになるまで炒めて、そこへタイ製 のチリソースを少し。あとはニンニクをみじん切りにして、混ぜる。あとは、……。
ところで幼児クラスの子どもたちは、みな、「ハヤシライスは、私がつくった料理」と思ってい
る。
昨日もたまたま年長児たちに、「君たちは、ハヤシライスは好きか?」と聞くと、こう答えた。
「ハヤシライスは好きだけど、はやし先生は、キ・ラ・イ!」と。
私とワイフがハヤシライスを食べていると、そこへ長男。「食べるか?」と、声をかけると、「も
う食べたからいい」と。
のどかな午後。昼食後は、私は、パソコンの前にすわったまま、居眠り。つい先ほど、目をさ
ましたところ。何か夢を見ていたはずなのだが、どうしても、思い出せない。
何だったかな……?
この数か月、悪夢を見なくなった。精神状態が、落ちついてきたせいかもしれない。が、その
かわり、意味のない、のどかな夢を見ることが多くなった。たった今見た夢も、どこかの露天の 前で、並んで立っている夢だった。
何かを買おうとしていたのかもしれないし、ただぼんやりと、行列をながめていただけなのか
もしれない。よくわからないが、そんなような夢だった。
●Yさん(母親、35歳)からの相談
Yさんは、おとなになりきれないといって、悩んでいる。「母親なのに、私は、いまだに、指しゃ
ぶりをしています。タオルの切れ端をもっています」(掲示板)と。
こうした性癖は、だれにでもある。
私の知人には、こんな男性がいる。ある大手の貿易商社で、役員をしている。その彼が、少
し前、こんなことを話してくれた。
「ぼくは、太った女性が好きだ。関取のような太った女性がいい。そういう女性の尻で、思いっ
きり顔を踏みつけられると、言いようのない快感に襲われる」と。
その彼の奥さんは、ガリガリにやせている。そのあたりが、私には理解できないところが、性
癖というのは、そういうもの。
女性とて、例外ではない。ある雑誌に、若妻のこんな告白記事が載っていた。いわく、「私は
毎晩、夫のペニスを口に含んでいないと、眠ることができません。だから毎晩、そうしています」 と。
ワイフにその話をすると、「そんな記事、ウソよ」と。私も、「?」と思うが、決して、ありえない
話ではない。
つまり、性癖などというものは、人、それぞれということ。標準もないし、基準もない。自分が
そうであるからといって、他人もそうであると思ってはいけない。反対に、自分がそうでないから といって、他人もそうでないと思ってはいけない。
大切なことは、それぞれの性癖を、認めあうということ。とくに夫婦の間では、そうだ。
指をしゃぶりかたかったら、しゃぶればよい。どうしてそれが悪いことなのか。
タオルの切れ端をもっていたかったら、もっていればよい。どうしてそれが悪いことなのか。
……しかし、こういうのは、困る。どこかの経済学者だが、女子高校生の下着を、手鏡で見て
いて、逮捕されたという。その少し前だが、ビデオで盗撮していて逮捕された、お笑いタレントも いる。
私も男だから、そういうことをする男性の心理がわからないわけでもない。しかし、同じ性癖で
も、だれかを不愉快にさせるような性癖では、困る。
……と、考えて、では、相手が妻(夫)なら、どこまで許されるかという問題もある。
私のワイフは、「いくら妻でも、すべてに応ずる義務はない」と言う。考えてみれば、そのとおり
で、そこには、限界がある。まあ、結論から先に言えば、そこは愛情の問題。
愛する女性(男性)の性癖は、どれもかわいいが、嫌いな女性(男性)の性癖は、どれも不気
味。気持ち悪い。そういうもの。
●イチローが、257号!
見たぞ、その瞬間! たった今、イチローが、257本目のヒットを打った。同時に花火があが
った。観客は、総立ちで、拍手。
涙がこぼれた。うれしかった。イチローは、ファーストベースで、帽子をとって、皆にあいさつを
していた。
今日は外出の予定だったが、ワイフと、野球の声援をすることにした。時は、10月2日、日
本時間、午前11時45分。これからまた居間へ……。ごめん!
今日の日記は、ここでおしまい!
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(328)
【Yさんへ……】
Yさんのかかえる問題について、考えてみました。いただいた内容だけでは、判断しかねると
ころもありますが、私の知識と経験を、総動員してみました。
あくまでも、参考意見の一つとして、ご利用ください。
こうした問題は、その正体さえわかれば、何でもないものです。それに本文の中にも書きまし
たが、今は結論を出さないこと。
それはたとえていうなら、今、あなたの心は、肺炎にかかっているようなものです。こういうと
きは、静かに、ただひたすら静かに、嵐が去るのを待つように、時が過ぎるのを待つのがよい です。
あせって、今の状態を基準にして、結論を出してはいけませんよ! 絶対に!
私も、よく落ちこみますが、そういうときは、私は穴にこもって、首をすくめ、眠ることにしてい
ます。そういう状態のときは、結論を出しても、あとで後悔するだけです。
いいですか、あなたはすべてのものをもっているのです。(すべて)です! どうか、それに気
づいてください。
健康な体。子ども。人生。家族。親。夫。多少の問題はありますが、今のあなたでも、じゅうぶ
ん乗り切れる問題です。ある意味で、なんでもない。荒海を航海するつもりで、乗り切ればいい のです。「ようし、嵐の一つや二つ、くるならこい!」とです。
以下、私の返事です。Yさんというのは、あなたのことです。
また記録用に、いつかご迷惑がかかってはいけませんので、内容を少し、改変しました。掲
示板のほうの記事は、やがて削除、抹消されます。
*****************本文*******************
【掲示板・投稿より……】
+++++++++++++++++
私のHPの掲示板に、Yさんという方の
書きこみがありました。
ここでは、Yさんがかかえる問題につい
て考えてみたいと思います。
+++++++++++++++++
【Yより、はやし浩司へ……】
はじめまして。ここ数日のあいだ、投稿しょうかどうかとずっと迷っていました。HPから感じる、
はやしさんの誠実なお人柄と豊富な体験から、アドバイスが頂けたらと願い、パソコンに向かっ ています。
私は、今34歳で、私には、今年から小学校1年生になった、男の子が一人います。
私は、埼玉県U市にある私の実家で、実母(67歳)と、2月に単身赴任から帰ってきた主人(4
1)と、4人で暮らしていたのですが、今は夫と、別居状態になっています。別居するようになっ て、3ヶ月になります。
こうなった、もともとの原因は、主人の隠していたカードローンによる借金です。別居の件は、
私の方から言い出しました。
実は、私の両親は、私が中3の時に離婚しています。父は、大会社に勤務し、昔からの家柄
で、気位の高い人だったのですが、無口で、非社交的。休日は、いつもテレビを見てごろごろし ているような人でした。
その一方、母は、明るく、意志の強い人でした。悔いのない人生を送りたいという事で、父と離
婚しました。父は、話しかけても、返事もしないというよう人で、数年間、父と母は、1階と2階 で、別れて生活していました。そういう状態がしばらくつづいたあと、つまり家庭内別居の末、離 婚しました。
父は、自宅を養育費代わりということで、自宅を私たちに残し、そのまま、出て行きました。
こう書くと何か暗い感じがしますが、明るい母のおかげで、私たちは、結構、楽しく過ごすことが
できました。庭で、夜、屋台のラーメンを食べたり、母の手製のタイヤの跳び箱を飛んだり、音 楽会をしたり、童話を作りながら寝たり、美術館に行ったりなど。3歳、年上の兄と3人で、楽し く過ごすことができました。そんな思い出もたくさんあります。
父に家から締め出されたこともありますが、そのときも、母は、近所のお風呂屋に連れて行っ
てくれていってくれました。楽しく過ごせました。
ただ、一度、父が怒って2階に包丁持ってきたことがあって、私達子供が大泣きした事や、(そ
のあと父は冷静になって無事終わりましたが)、気丈な母が実家に涙ながらに電話していた事 など、、そんな事は、いまだに強く、記憶に残っています。
そんなわけで、ずっと私は、「母を悲しませないように」と、心のどこかで、無意識に思っていた
ようです。子どもながらに、皆が笑うようなユニークな事や、夫婦仲を取り持つような事をしまし た。
学校にファンクラブまでできるほど、兄には友人は多かったのですが、敏感で、病気がちで、高
校を中退したり……。反抗期がきつかったせいもあります。そのこともあって、私は、今思うと、 「母に心配をかけないいい子」、「優等生で、いつまでも甘えたの末っ子」でいることで、母親の 愛情を自分のものにしていたように思います。
もともと私は勉強が好きだったので、ずっと、私は優等生でした。勉強しろと一度も言われた事
もなく、とくに塾に行かなくても、奨学金をもらい、小、中、高3で学年1番になり、東京でも有名 な短大に、2番の成績で合格しました。
その後、オフィス街の中心にある大きな会社で働き、結婚。出産で辞めた後、子供が2歳の時
には、国家試験に合格し資格もとりました。ここに書いたことは、みな、事実なのですが、いま だに自分に自信が持てず、劣等感に苦しんでいます。精神状態はずっと子供のままです。
自己中心的で、優柔不断で、母に精神的に依存していて、今でも母の指示がないと不安になり
ます。社会に出たときには、他の人が皆、大人に見え、何を話したらよいか分からず困ったり しました。
小学生時代に、水イボがあり、長くイジメられた事もあります。それが原因で、人から嫌われた
くないという意識がとても強くなったようです。人を避けるようにもなりました。だれかに、理不尽 な事を頼まれたときでも、イヤと強く断ることができません。
自分の子供に対して過干渉で、子供の友達が遊びに来た時も、その子が退屈しないようにと、
つい、おもちゃを出したり、おやつをだしたり。うちに来なくなったら、子供の相手がいなくなる のではとか、イジメにあうのではないかと心配で、子供の友達(6.7才)に対しても気を使ってい ます。そんな自分が、バカみたいに思えるときがあります。
年齢だけ高い子供が、子供を産んでしまったようなもので、産むんではなかったと後悔したり、
子供に申し訳なくなったりします。自分の子どもに、何が良くて何が悪いのかの判断や、人間 関係の作り方など、何も教える事ができません。
私自身も、うまく言葉で説明できないので、子供がダメなことをしたときは、子どもを布団に押さ
えつけたりしてしまいます。腹が立つと、親子で叩きあったり、蹴ったりしてしあうこともありま す。何か要求されて、「ダメ!」と私が言うと、泣いて大きい声を出すので、つい子供の言いなり になってしまったりします。「近所に聞こえるでしょう! 大きいのに恥ずかしい!とか、「あんた なんかいないほうがいい」式の言葉や、「お母さん出て行くからね」式の脅しを、子どもにしてし まいます。
子供のころ、そんな事された事は、自分はないのに、私は、本当に最低の母親です。おとなの
私なのに、子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……。
このままでは、絶対にまずいことは、わかっているのですがどうしたらよいのでしょうか? どう
したら私自身、母から自立できるのか? 借金なんて世の中で一番大嫌いの母は、主人と別 れる事をすすめています。
子供はお父さんが帰ってくるのを待っています。私は、一人で子供を育てていく自信も、気力
も、経済力も今はありません。子供のことは、母が一番、声をかけたり、かわいがってしてくれ ています。子供も、母のいう事なら聞きます。
主人は、パソコンおたくで、子供のままです。お忙しいのに、長くなり本当に申し訳ありません。
+++++++++++++++++++++++
●結論は、急がない
こうした人生の転機につながるような、重大問題については、「結論は急がない」。それが、
大原則。つまりは、自分で、結論を誘導しないということ。
そのときがきたら、結論は、必ず、向こうからやってくる。あわてる必要はない。そしてちょう
ど、低いところに水が流れていくように、自分の人生も、流れていく。
ほかのことならともかくも、こうした問題は、「命」そのものを削る。10年単位で、ぞの人の
「命」を削る。だから、結論は、急がない。
●未練の燃焼
また夫婦の問題、親子の問題については、とことん、未練を燃焼させておく。中途半端は、い
けない。
そのためにも、(1)自分を冷静に見つめる。どこまでも、どこまでも、自分を冷静に、見つめ
る。見栄や世間体、メンツや虚栄、それに虚飾や仮面、そういったものから自分を解き放ち、 丸裸の自分を見つめる。
つぎに(2)自分を、とことん、さらけ出す。プライドもかなぐり捨てる。へんに、がんばってはい
けない。すなおに、負けを認め、あるがままの自分をさらけ出す。抱いてほしかったら、「抱いて ほしい」と言えばよい。好きだったら、「好きです」と言えばよい。別れたくなかったら、「別れたく ない」と言えばよい。幸福な家庭がほしかったら、「幸福な家庭がほしい」と言えばよい。
やるだけのことは、すべてやりつくす。それでだめなら、つまりふんばっても、ふんばりきれな
いようなら、それが運命。あとは、自然の流れに、身を任せればよい。
●「私」を超えた人間
私は私だが、その私は、「人間」の一人でしかない。いくらがんばっても、がんばりきれないこ
とは、だれにだって、ある。あって、当然。
だれかがあなたに向って、「あなたは、まちがっている!」と言ったとしても、そのとき、もしあ
なたが自分の中に、その人間を感じたら、こう叫べばよい。「私だって、人間だ!」「もし私がま ちがっているというのなら、人間がまちがっている。私じゃ、ない!」と。
つまり、そう相手に言いかえせるまで、自分を見つめていく。とことん、自分を見つめていく。
というのも、そもそも、男と女がいて、恋愛し、結婚し、子どもをもうけるということ自体、「私」
を超えた、人間のなさるわざ。私やあなたではない。人間が、そうさせる。
その人間が、あるとき、限界に達する。しかし、それは私やあなたの責任ではない。つまりそ
の次元まで、自分の中の人間を確認しておく。
●「私」さがし
「私」が何であるか、本当のところ、だれも、わかっていない。愚かな人ほど、「私のことは、私
が一番よく知っている」などと、豪語する。しかし、「私」というのは、わからない。わかったと思っ たとたん、さらに、わからなくなる。
すべて年齢のせいにするのは、好きではない。が、しかし歳をとればとるほど、「私」がわから
なくなるのも、事実。「私」というのは、そういうもの。
そこでスパルタの賢人、キロンは、こう言った。「汝(なんじ)自身を、知れ」と。つまりは、それ
が哲学の究極の目標にも、なっている。
たとえばここに一人の中学生がいる。つっぱって、何かにつけて攻撃的で威圧的。独特の言
い方に、動物的な動作。その中学生にしても、なぜ、自分がそういうことをするのか、本当のと ころは、何もわかっていない。その中学生は、その中学生を超えた、大きな「私」に操られてい るだけ。そのことに、その中学生は、気づいていない。
「私」というのは、そういうもの。それくらい、「私」を知ることは、むずかしい。
●無数の(しがらみ)
相談をくれたYさんにしても、無数の(しがらみ)の中で、生きている。現在というしがらみだけ
ではない。過去というしがらみの中でも生きている。
Yさんが、Yさんであって、Yさんである部分と、Yさんが、Yさんであって、Yさんでない部分。そ
ういうものが、混然一体となって、今のYさんをつくりあげている。
たとえばYさんが優等生であったという部分についても、ひょっとしたら、Yさんは、そういう仮
面をかぶっていただけなのかもしれない。仮面をかぶることで、自分にとって居心地のよう世 界を作ろうとしていただけなのかもしれない。
さらになぜ仮面をかぶるようになったかといえば、貧弱な幼児期の家庭環境、さらには、貧弱
な母子関係があったのかもしれない。
決して失礼なことを言っているのではない。こうした問題は、その多くは、(私であって、私でな
い部分)に起因している。それがわかってほしかったから、あえて「貧弱」という言葉を使った。
繰りかえすが、「貧弱」であることが悪いというのではない。むしろ、そうでない、つまり親の愛
情に包まれ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ない。「私」をさがすときは、そういう前提 で、さがす。
●基本的信頼関係
信頼関係は、絶対的な(さらけ出し)と、(受け入れ)を基盤として、その上で結ばれる。「絶対
的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。
この関係を、最初に経験するのは、子どもの立場でいうなら、母親との関係においてである。
これを母子間における基本的信頼関係という。
この関係が、そのあと、その人の信頼関係の基本になる。子どもは成長するにつれて、その
関係を、先生や、友人、さらには、配偶者(夫、妻)や自分の子ども(息子、娘)へと広げていく。
しかし乳幼児期に、母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、そ
のあと、(それに気がつかなければ)、その十字架を一生、背負うことになる。
つまりは、自分以外の人間に、心を開けなくなる。だれとも信頼関係を結べなくなる。
●心を開けない子どもたち
他人に対して心を開けない子どもは、つぎの5つのパターンのうち、どれかをとる。
(1)攻撃型(他人に対して、攻撃的になる。)
(2)自虐型(自分をいためつける。)
(3)依存型(だれかにベタベタ甘える。)
(4)服従型(特定の人に、徹底的に服従する。)
(5)同情型(相手に同情を求める。)
攻撃型というのは、他人に対して攻撃的になることで、自分にとって、居心地のよい世界をつ
くろうとするタイプ。先に書いた、つっぱる子どもが、それに当たる。
自虐型というのは、その攻撃性が、自分自身に向いたタイプと思えばよい。めちゃめちゃな
練習をして、スポーツの世界でよい成績をとる。あるいは、ガリ勉をして、よい成績をとるなど。 そういう形で、自己主張をしながら、自分の周囲に、自分にとって、居心地のよい世界をつくろ うとする。
依存型というのは、だれかにベタベタ甘えることで、自分の心のスキマを埋めようとするタイ
プ。一部の、心を許せる人に対してのみ、極端に、ベタベタする。その動作、しぐさは、幼稚 的、赤ちゃん的になることもある。
服従型というのは、集団に中に身をおき、「上」の立場にいる人に対して、徹底した服従を誓
うもの。集団非行グループに属し、親分(ボス)に、徹底的に服従したり、どこかのカルト教団に 属して、その指導者(教祖)に、徹底的に服従したりするのが、それ。
同情型というのは、わざと弱々しい人間を演ずることで、自分の立場をつくることをいう。みな
が「どうしたの?」と心配してくれるような状態を、自分の周辺につくっていく。そのために、自分 で病気をつくったり、また体の不調をいつも訴えたりする。演技でそうするというよりは、無意識 のうちにも、もっと自分の中の奥深い部分で、それをする。だから、その本人にとっては、本当 に頭や腹が痛かったりする。
●仮面
こうした状態は、つまりは、人と人間関係をうまくつくれないために、その人がその代償的行
為として、する。子どもの世界には、よく知られた現象として、「仮面」がある。
たとえば「ぶりっ子」と呼ばれる子どもがいる。それも、その仮面の一つ。先生やみなの前
で、いい子ぶることによって、自分をとりつくろおうとする。
このタイプの子どもは、いい子であることで、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとす
る。たとえば先生が、「道路にお金が落ちていたら、どうしますか?」と質問したりする。
するとこのタイプの子どもは、自分をさらけ出す前に、「こういう答を言えば、先生はほめてく
れるだろう」「こういう答を言えば、みなから、尊敬されるだろう」と、即座に計算する。そしてそ の瞬間に、自分でない、自分を演ずる。
「交番へ届けます」と。
しかしこうした仮面をかぶることによって、一番、疲れるのは、その子ども(人)自身ということ
になる。人と接することから生まれる、緊張感。その緊張感から、解放されることはない。だか ら人間関係をうまく結べない人は、集団の中では、精神疲労を起こしやすい。集団の中では、 明るく快活で、かつ社交的にふるまうことはあっても、実際には、そういう場が苦手。たとえば パーティから帰ってきたりすると、どっと疲れてしまうなど。
そのことをわかりやすく説明したのが、ショーペンハウエルという学者である。彼は、「二匹の
ヤマアラシ」を使って、それを説明した。
●マザコン
乳幼児期から少年少女期にかけて、母と子がつくる母子関係は、絶対的なものであり、かつ
重要なものである。
子どもは、母親から命を受け、さらに誕生後も、乳を受けるからである。子どもは、この時
期、父親がいなくても育つが、母親なしでは、一日たりといえども、ひとりで生きていくことはで きない。
そのため母子関係は、濃密(ベタベタ)なものになりやすい。
この濃密さを調整するのが、父親の役割ということになる。父親は、この母子関係に割って
入り、母子関係を調整する。わかりやすく言えば、クサビを打ちこむ。この濃密な母子関係を、 そのまま放置すれば、子どもは、生涯にわたって、その母親の呪縛から、解き放たれなくなっ てしまう。
よく知られた例に、『冬彦さん』(テレビドラマの主人公)がいる。いわゆるマザコンタイプの男
性である。
よく誤解されるが、男性だけがマザコンになるのではない。男性と比較すれば少ないが、女
性だって、マザコンになる。このタイプの人は、男性にせよ、女性にせよ、親(とくに母親)を絶 対視することで、自分のマザコン性を正当化しようとする。「私がそれだけ母を大切に思うの は、それだけ母が、すばらしい人だから」と。
●家族自我群
こうした母系家族の中では、「家族」は、どくとくの(まとまり)をもちやすい。母親中心の家庭で
は、その分だけ、家族の関係は、濃密になる。そのため、濃密な依存関係をつくりやすい。
本来、家族といっても、ひとりひとりの家族が、それぞれ一人の人間として、たがいの信頼関係
でなりたつ。が、その濃密さが、ときとばあいによって、そういった信頼関係のあるなしとは、関 係なく、たがいをしばりあう「束縛」として、機能するようになる。
この絶対的な束縛感を、「家族自我群」という。
しかしこの家族自我群は、子どもの成長過程においては、ある時期までは、重要かつ大切な
ものである。しかしある時期を過ぎると、子どもにとっては、その成長をはばむ、大きな足かせ になることがある。
そこで子どもは、成長する過程の中で、その自我群からの独立をめざす。これを「個人化」と
いう。その時期は、子どもが、小学3年から4年にかけての時期とみてよい。
ちょうどこのころ、「私は私」という、自己意識が、急速に子どもの中に芽生えてくる。
ただこの段階で、誤解してはいけないのは、こうした個人化が、家族の否定を意味するので
はないということ。ここでいう「個人化」というのは、あくまでも、親が親としてもつ親意識からの 解放をいう。家族というまとまりの否定ではない。いわゆる「家族主義」とは、異質のものであ る。
●家族自我群
この家族自我群には、両面性がある。家族の間の人間関係が良好なときには、自我群は、
家族をうまくまとめるために、プラスの方向に機能する。その自我群を積極的に、肯定する考 え方も、そこから生まれる。
東洋的な孝行論、忠孝論は、こうした自我群から発達したと考えられる。
が、この自我群が、負の方向に作用するときがある。
ある男性は、自分の母親の葬儀に出なかったことを、それから10年以上もたっているのだ
が、いまだに苦しんでいる。いろいろ事情はあった。その男性なりの理由もあった。
しかし今、その男性は、苦しんでいる。ふつうの苦しみ方では、ない。「私はダメ人間だ」「人
間として失格者だ」と、自らにレッテルを張ってしまっている。その苦しみ方を見ていると、どこ かカルト的ですら、ある。あえて言うなら、踏み絵を踏んでしまった、キリスト教徒のような感じさ えする。
私が「だれも、あなたを責めていないですよ」と説得しても、意味はない。つまり自我群のもつ
深大さは、想像以上に大きいということ。負の方向に作用したときには、その人の人格をも否 定してしまう。そしてその中で、その人を、とことん苦しめる。
●親捨て
今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、親不孝
者」のことを、そう呼ぶのだそうだ。
ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚づき
あいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られるという。現実に は、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。
その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組みこも
うとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびしく排斥するこ とによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへんなことになるぞ」 と、警告することができる。
が、それだけではない。
「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむことにな
る。
●子どもの自立
子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギをにぎ
るのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分自身のもつ (限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。
さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしながら、
子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、巣から追い 出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。
親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。
当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密になり
やすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、(狩りのし 方)を教えること。
もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なことで
すら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)ということになる。
●Yさんのケース
Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにからんでい
るのがわかる。
Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、問題点を整理してみよう。
(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。
Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさんに与える
衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だけは、自分が 何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。それがわからない と、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけということになる。
●時は心の癒(いや)し人
「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』という言葉は、
私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、あとは、はやい。
あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようになる。「これ
は本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズをもっている。その キズが、今のYさんをつくりあげた。
「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったというよりは、勉
強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもしれない。どこか自 虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。
しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭を求めて
いたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。
……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確に割り切
ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」という問題である。
●世代連鎖
こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめている。周
囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に口にしない。そ ういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人はほど「離婚」という言葉を、口 にしやすくなる。
そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いというので
はない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわる必要はな い。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」の崩壊である。
Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りかえそうと
している。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、心を開けないなら開 けないで、それは構わない。
しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ども自身で
ある。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対して心の開けな い人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのことに、Yさん自身が気 がついていない可能性がある。
言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし心を開
けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと考えてしま う。
こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってしまう。これ
を世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまでも、その結果で しかない。
【Yさんへ……】
●あなたはすべてをもっている
かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあなたを怒ら
せるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。
あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。
今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しかしこれ
は、たいへんな誤解です。
実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。家庭と
家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありますが、しかし この日本では、平均的というより、平均以上!
あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、経験、
常識。すべてです。
ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまっている。あ
なたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。
ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう意味
では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをしているの は、あなたの夫であり、子どもです。
●借金など、何でもない問題
はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事業に失敗
し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、五万といます よ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに五万といますよ。いち いちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚する人などいなくなります。
(あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのかもしれ
ませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。どうして単身 赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしくなっていたのです か? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反発してきました。「家族がバ ラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)
それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることではなく、や
るべきことを自分に向ってすることです。
もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、負けを
認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を出して、心を 空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついてきます。
●もっとさらけ出して生きる
がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あなたの夫
や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。ダメで、ダメ もと。
「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、あなたは
書いています。
いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことなのです
か。
いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのですか。
いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪いことな
のですか。
私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の告白手
記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だっているそうです。 毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。
さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、その彼
の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだそうです。わ かりますか? みな、それぞれです。
みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、これは
悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言いなさい。あな たの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさし。言いたいことを、言わせてあげなさい。他 人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。だから、夫婦であり、家族な のです。
おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということです。勝
手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。
●あとは、居直る
あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性癖があっ
たとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることはありません。
Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひょっとし
たら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題のように思いま す。ある意味で、何でもないですよ!
どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。
イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。
ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押さえる
と、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いった い、どこが悪いのでしょうか?」と。
するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れて
いるだけですよ」と。
いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生きてい
る)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、解決しますよ。
●すばらしい母親
Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。すばらしい
ことです。そこらのママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メールの内容から、それがわ かります。
それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、「男
像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方のないこと。大 半の母親がそうです。
方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を置いて
みることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。
たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの視点の
中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきます。
ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面にばかり
向っている」と。
こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服することができ
ます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。
Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時間の問題で
す。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているからです。
あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからついてきま
す。
(041003)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
最前線の子育て論byはやし浩司(329)
●心を開く(自己開示の問題)
子どものばあい、(心の開いた子)か、(心の閉じた子)かは、簡単に見分けがつく。
子どものばあい、とくに年長児、年中児のばあいは、何かのことで、ほめてみるとわかる。「じ
ょうずだね」とか何とか言って、頭をなでてみる。
そのとき、(心の開いた子)は、すなおにそれを喜ぶ。そしてそのとき、私が感じている(やさし
さ)が、そのままスーッと、子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。
反対に(心の閉じた子)は、その瞬間、ピリッとした緊張感が走る。ときには、拒絶感すら覚え
る。様子がぎこちなくなることもある。私が感じている(やさしさ)が、そのままはねかえされてし まう。
(心の閉じた子)は、独特の反応を示す。いじける、ひがむ、つっぱる、すねる、ひがむ、な
ど。教える側の心が、子どもの心にたどりつくまでに、いくつもの障害にぶつかるような感じに なる。
で、(教える)という立場で、子どもの心を開かせるのは、それほど、むずかしいことではな
い。
楽しませる。ほめる。笑わせる。が、最大のコツは、その子ども自身の心の中に、入ってもの
を考えることである。子どもの視点で、私自身を見つめてみる。すると自然と、その子どもの心 になって、その子どもに、語りかけるような口調になる。
このことは、家庭教育でも、すぐ応用ができる。あなたの子が、あなたに心を開いているな
ら、それでよし。もしそうでないなら、一度、子どもの心の中に、自分を置いてみるとよい。
……と、同時に、ではあなた自身は、どうかという視点で、考えてみることも大切である。
あなたの両親、夫(妻)、友人、そして子ども。そういった人たちに対して、あなたは、心を開
いているだろうか。
だれかが何かのことで、あなたにやさしくしてくれたようなとき、その(やさしさ)を、スーッと、
そのままあなたは、受けいれているだろうか。もしそうなら、それでよし。もしそうでないなら、な ぜあなたがそうなのかを、静かに一度、自分を見つめてみるとよい。
言うまでもなく、心が閉じていると、結局は、さみしい思いをするのは、あなた自身だからであ
る。
●無防備な心
「心を開く」ということは、同時に、無防備になることを意味する。このことは、私のワイフが、
指摘した。「他人を信じすぎると、サギにひかかりやすくなるんじゃ、なア〜い?」と。
そういう危険性は、大きい。
だから当然、私たちは、心を開く相手を、選ばねばならない。いつも、心の中で、「この人に
は、心を開いていいか」「どの程度まで、開いていいか」と。
心理学の世界でも、こうした自己開示には、段階をもうけている。親しくなればなるほど、当
然のことながら、自分の秘密を開示することになる。
その自己開示について、少し前、まとめた原稿を添付する。
+++++++++++++++++
●自己開示
自分のことを話すという行為は、相手と親しくなりたいという意思表示にほかならない。これを
「自己開示」という。その自己開示の程度によって、相手があなたとどの程度、親しくなりたがっ ているかが、わかる。
(1)自分の弱点の開示(私は計算が苦手)
(2)自分の失敗の開示(私はケースを割ってしまった)
(3)自分の欠点の開示(私は怒りっぽい人間だ)
(4)自分の家族の開示(私の母は、おもしろい人だ)
(5)自分の体のことの開示(私は、足が短いことを気にしている)
(6)自分の心の問題の開示(私は、よく、うつ状態になる)
(7)自分の犯罪的事実の開示(二年前に、万引きをしたことがある)
この表からもわかるいように、(1)の軽微な自己開示から、(7)の重大な自己開示まで、段階
がある。相手があなたに、どの程度まで自己開示しているかを知れば、あなたとどの程度まで 親しくなりたがっているかがわかる。
もしあなたと交際している相手が、自分の体の問題点や、病気、さらには心の問題について話
したとするなら、その相手は、あなたとかなり親しくなりたいと願っていると考えてよい。
子どもの心も、この自己開示を利用すると、ぐんとつかみやすくなる。コツは、よき聞き役にな
ること。「そうだね」「そうのとおり」と、前向きなリアクション(反応)を示してやる。批判したり、否 定するのは、最小限に抑える。
反対に、子どもがどの程度まで自己開示するかで、子どもの心の中をのぞくことができる。と
きどきレッスンの途中で、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と話し始める子ども(幼児)が いる。私はそういうとき、「そんな話はみんなの前で、してはいけないよ」とたしなめることにして いる。
それはそれとして、子どもがそういう話をしたいと思う背景には、私と親しくなりたいという願望
が隠されているとみる。が、こんな失敗をしたこともある。
あるとき、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と言い出した子ども(年中男児)がいた。「何
だ?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「寝るとき、裸で、レスリングしていたよ」と。と たん、参観していた親たちが、ドッと笑った。
さてあなたは、だれに対して、どのレベルまでの自己開示をしているだろうか。それを知ると、
あなたの心の中の潜在意識をさぐることができる。
+++++++++++++++++++++
●人を選ぶ
友人だ、仲間だと思っていた人に、裏切られるということは、よくある。
私も、若いころは、新しい本を出版するたびに、ある人に、それを贈っていたことがある。当
然、その人は、喜んでいてくれると思っていた。口のうまい人だったということもある。
が、その人が、私の本のあちこちから、ささいな記述を抜きだし、あろうことか、その該当する
人のところへ、その本をもっていき、「あの、林が、あなたのことを、こんなふうに書いている」 と、告げ口をしているのを、知った。
私が、愚かだった。
その一件が私の耳に入ってからというもの、私は、その人に本を贈るのをやめた。当然であ
る。そしてしばらくしてから、交際を断った。これまた当然である。
しかしその人は、私がなぜそうしたのか、わからなかったようだ。それからも、相も変わらず、
親しげに手紙をくれたり、電話をしてきたりした。
……と、その人の悪口を書くのが、ここでの目的ではない。
私も、実は、ほかのだれかに対して、同じようなことをしているかもしれない。自分で、気がつ
かないだけかもしれない。つまりこの世界には、こうした人間どうしの(しがらみ)(わだかまり) が、無数にからみあっている。
こういう世界で、心を開きあうということは、容易なことではない。心を開くためには、まずその
相手を知らねばならない。しかし知るためには、何年も、何年もかかる。
そこで私のばあいは、あくまでも、私のばあいだが、最初から、「裏切られても、もともとよ」と
いう思いで、その人とつきあうようにしている。とくに教育の世界では、そうである。最初から、 期待などしていない。無償というわけではないが、いちいち気にしていたら、仕事そのものが、 できなくなる。
加えて、最近は、こんなふうにも、思うようになった。
「どうせ、長くても、あと20年。10年もすれば、頭も、ボケる。どうにでも、思いたければ、思
え」と。
つまり居直りの構えである。私のことを悪く言う人がいても、私はもう、構わない、と。
こうした考え方が生まれたのも、やはり年齢のせいかもしれない。年齢が進めば進むほど、
その先の人生がしぼんでくる、。考え方も、それに合わせて、変わってくる。
ただし一言。一度、私を裏切ったことがある人とは、私は、二度とつきあわない。「許す」とか、
「許さない」とかいうレベルの話ではない。私には、そういう人たちとの関係を修復するだけの、 時間もエネルギーも、もうない。もしそんな時間や、エネルギーがあれば、私はもっとほかのこ とに使いたい。
●未練の燃焼
日々の生活には失敗はつきもの。しかしその失敗でも、未練が残る失敗ほど、つらいものは
ない。「あのとき、ああすればよかった」「こうすればよかった」と。
そこで私たちは、そのつど、自分を完全燃焼させながら生きる。何かのことでつまずいても、
後悔しないようにするためである。
実は、長い目で見た、人の一生も、また同じ。
やがて私の人生は、終わる。10年後か、20年後か。あるいは明日かもしれない。そのとき
大切なことは、その時点で、未練を燃焼させておくこと。「悔いのない人生」という言葉がある。 その「悔い」が残らないようにしておく。
そのために、今という今を、懸命に生きる。生きて、生きて、生きぬく。
が、それでもだめだとしたら……。そのとき、私は、未練をふっきることができる。「こんな世
界に、未練はない。アバヨ」と。そういうサバサバした気持で、この世を去ることができる。ま た、そうでありたい。
実際、もう私は、この世界に、未練をなくしつつある。どうしてそうなのかということについて
は、書く気力も、あまりない。それにかわって、「もう、どうにでもなれ」という思いが強くなってき た。
少し前だが、こんなことがあった。コンビニの駐車場を、自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、私の真横で、急停止した。ものすごい音がした。私は、あやうくはね飛ばされると ころだった。
見ると、若い男女だった。どこかチャラチャラした、そのレベルの男女だった。自転車の向き
をなおしながら、その男の顔を見ると、その男は、私に、「バーカ」と言った。声は聞こえなかっ たが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは、私から視線をはずし、ニヤニヤと笑っていた。
恐らくその男女には、私は、うらぶれた初老の男に見えたのだろう。それはわかる。が、同時
に、私はこう思った。「どうして私は、こういう若い男女のために、日本の未来を心配しなければ ならないのか」と。
そのときまで、私は自転車をこぎながら、いつものように、あれこれ考えていた。
つまらない話だが、そういうことが積み重なって、「もう、どうにでもなれ」という思いが生まれ
る。しかし……これは、ニヒリズムか? ニヒリズムだとするなら、それをもって、未練を解消し たということにはならない?
やはりそれでも、私は、それを乗り越えて、自分を燃焼させなくてはならない。燃やして、燃や
して、燃やしつくす。
それが行き着いたとき、私は、多分、人生の未練から解放されるかもしれない。この世の
中、すべてのものに対して、「アバヨ!」と、笑って別れを告げることができるかもしれない。
●愚劣な人々
とても残念なことだが、愚劣な人というのは、いるにはいる。ここ数日だけでも、こんなことが
あった。
ワイフと、車で街に向っていたときのこと。小雨が降っていた。うしろから、救急車がやってき
た。私たちは、当然のように、左側の路肩に車を寄せ、そこで車を止めた。
すぐ救急車が、私たちの車を追い抜いていった。が、である。みなが、そうしていることをよい
ことに、私たちの車を、うしろから追い抜いていった大型のバンがいた。
しかも、だ。さすがのワイフも、これにはあきれたが、そのバンは、スピードをゆるめることな
く、一度、外側車線に車をだしたあと、何と、その救急車を、追い抜いていった!
「何よ、あの車! 信じられない!」と。
で、そのあと、私たちは、最近できた、ラーメン屋の駐車場に入った。日曜日ということで、駐
車場はいっぱいだった。ただ一か所だけ、あいているところがあったが、そこは、障害者用の 駐車場だった。車椅子のマークが、ペンキで描いてあった。
しかたないので、私たちは、通路のところで、駐車場があくのを、待った。
が、そのときも、である。うしろからやってきた。大型の乗用車が、私たちの横を通り抜ける
と、一瞬、迷ったような雰囲気はあったが、そのまま、障害者用の駐車場へ……!
見ると、60歳代の夫婦と、孫らしき小学生が一人、乗っていた。もちろん障害者ではない。
元気そうに車のドアをしめると、3人は、そのままラーメン屋へと、飛びこんでいった。
私があきれ、つづいて、ワイフもあきれた。そして「こんな店、やめよう」と私が言うと、ワイフ
も、「ウン」と言って、それに従ってくれた。
こういう光景を見せつけられると、最初に、(怒り)、つぎに(あきらめ)、そして三番目に、(虚
しさ)を覚える。「どうせ虚しくなるだけ」と思って、(怒り)と(あきらめ)を、スキップすることもあ る。いちいち、こんなことで腹を立てていたら、この世の中では、生きていかれない。
そういう意味では、自分勝手で、わがままな人が多すぎる。自分のことしか、考えていない。し
かしそういう人を見せつけられると、ときとして、人は、まじめに生きていくのが、バカらしく思え てくる。
が、だからといって、自分の生きザマを放棄することは、敗北を認めることになる。敗北だけ
ではない。自分の人生を否定することにも、なりかねない。
そこで残された選択は、ただ一つ。そういう人たちを、容赦なく、私たちの身のまわりから、排
斥していく。はっきり言えば、つきあわないということ。無視して、遠ざける。
ああ、これもニヒリズムか? しかし、それ以外に、どんな方法があるというのか。そういった
人たちを見せつけられたときに感ずる、あの不愉快さと戦う方法が、ほかにあるというのか。
……ということで、私は、今、自分の身辺を、急速に整理し始めている。当然のことながら、
それには、善人と悪人をより分けるという作業が、含まれる。しかし、これはむずかしい。
どういう人が悪人と言うことはできても、どういう人が善人かと言うことは、できない。そこで私
は、こう自分に言ってきかせる。
『悪人のエサになってはいけない』と。
この言葉は、昔、恩師の松下哲子先生(故、幼稚園理事長)が、口ぐせのように言っていた
言葉である。
自分が善人になることはできないかもしれない。善人を育てることはできないかもしれない。
しかし、悪人を育ててはいけない。悪人のエサになってはいけない、と。
何とも消極的な正義論だが、今の私には、この程度しか考えられない。
●善人の基準
善なる価値を、どこに求めるか? どこに基準をおくか? 善人・悪人の判断も、それで、大
きく、変わってくる。
たとえば昔、私の知人の中に、こんな人がいた。そのとき50歳くらいだったが、高度成長期
の波にのり、ふつうでない財産を、つくりあげた。
その人が、私のところへやってきて、こう言った。「林君、ぼくは、先月、1000万円も稼いだ
よ」と。そして金ピカピカの時計や、分厚いサイフを見せびらかした。
その人は、さかんに、自分の力を誇示し、「だから、私はすばらしい」「君たちも、私をすばらし
いと思え」というようなことを言った。
しかし、だれも、そんな人をすばらしい人とは、思わない。ただのバカである。
……という話は、わかりやすい。しかし私たちは、日常的に、程度の差こそはあるが、同じよ
うなバカなことをしている。
もともと価値のないものに、しがみつき、その中で、善悪を判断している。そしてその中で、善
人と悪人を区別している。そういうことは、よくある。
で、私は、その「基準」について、最近、こう考える。
「その人は、今、いかに他人に、尽くしているか?」と。
たとえば私の姉は、ボランティアのヘルパーとして、暇さえあれば、近所の老人の世話をして
回っている。そういう姿を見ると、本当に、頭がさがる。で、私がそれを姉に言うト、姉は、こう 言った。
「浩ちゃん、もっとすごい人がいるわよ」と。
姉の話によれば、20歳の後半の男性だというが、その人は、寝たきり老人の入浴の世話を
しているという。ウンチや小便を、素手で始末しているという。
間接的だが、私はその男性の話を聞いたとき、その男性に、神々しさのようなものさえ感じ
た。私など、その男性の足元にさえ、はるかにおよばない。
つまり善人・悪人の基準は、いかにその人が、利他的であり、その一方で、利己的であるか
による。
よく誤解されるが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないから、善
人というわけでもない。自分の中の悪と戦ってこそ、その人は、はじめて善人の門をくぐること ができる。
このばあい、「利己」は、その悪と考えてよい。
このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。
子どもというのは、小学2、3年を境にして、急速に自己中心性から、自分を脱却していく。こ
れを心理学の世界でも、内面化という。
しかしみながみな、利己から脱却していくわけではない。内面化を完成させるわけではない。
それができないまま、つまりは未熟な精神状態のまま、思春期を迎える子どもも、少なくない。 むしろ、勉強だけがよくできて、受験勉強をスイスイとくぐりぬけていく子どもほど、利己的であ すら、ある。
また利己的でないと、受験勉強に勝ち抜くことができなという面も、ある。いちいち他人のこと
を気にしていたら、自分のほうが、蹴落とされてしまう。
で、このタイプの子どもは、「勉強さえできれば、一人前」「勉強ができないヤツは、アホだ」と
いう、独特の価値観をもつ。そして私が、何かの仕事を頼んだりすると、「どうして、ぼくが、しな ければいかんのかア!」などと反発したりする。
が、その一方で、心のやさしい子どももいる。思い荷物をもち運んでいたりすると、すかさず
やってきて、「先生、いっしょに、もってあげる!」と。
この(いっしょに、もってあげる)という心が、その子どもを成長させる。長い時間をかけて、そ
の子どもを、善人に育てる。
●荷物をいっしょにもつ
私たちがいくら利他的であるといっても、その相手が、だれでもよいというわけではない。、そ
の「相手」を選ぶ必要がある。いくら利他的であるといっても、銀行強盗の手伝いをする人はい ない。暴力団の手先となって、暴力を助ける人もいない。
ここでいう「相手」とは、重い荷物をもって、懸命に生きている人ということになる。さらに言え
ば、その相手の人が、「利他の人」でなければならない。他人の欲望を満足するのを手伝うの は、決して、利他ではない。
このことも、子どもたちの世界を見ていると、わかる。
教える側も、生身の人間である。そういう人間として、(教えたい子)と、(教えたくない子)がい
る。もっと言えば、いっしょに接していて、(ほっと心のなごむ子)と、(どこかピリピリする子)が いる。
当然のことながら、(ほっとなごむ子)を教えていると、楽しい。教えやすい。
同じように、おとなになった今、それがそのまま(つきあいたい人)と、(つきあいたくない人)
の、基準にもなっている。
そこで考えてみると、(つきあいたい人)というのは、どこか無償的、献身的。が、(つきあいた
くない人)というのは、どこか功利的、打算的。
ここにも書いたように、いくら「利他」といっても、その人の欲望を満足させるのを手伝うのは、
利他ではない。
たとえば子どもの世界には、受験勉強がある。
子どもたちはいろいろな夢や希望をもって、受験勉強をしている。しかしその中身というか、
本音を言えば、(自己の欲望)の追求でしかない。「ぼくは、将来、医者になって、病気の人を 治したい」と言う子どもも、いるにはいる。
しかし本当に、そんな崇高な理念をもっているかどうかといえば、それは疑わしい。子どもた
ちの世界も、そしてそれを包む、親たちの世界も、もっと、毒々しい。
で、そういう受験勉強に手を貸すのは、決して、「利他」ではない。
ここにも書いたように、「利他」が「利他」であるためには、助けるべきその「相手」の人も、同
じく、利他でなければならない。
話がわかりにくくなってきたので、もう少し、かみくだいて考えてみよう。
今、ここに、一人の女性がいる。彼女は、毎日のように、近所を回り、雑草を刈っている。つ
まりその女性は、「利他」の心で、そうしている。
そういう女性を利するように考えるのは、利他である。その「相手」の人も、また、利他の心で
行動している。
……ということで、一度、利他の心にめざめると、その心は、静かな水面に落ちた石の輪の
ように、周囲へ広がっていく。利他が利他を呼ぶというか、利他の人たちは利他の人たちどうし が、集まり始める。
と、同時に、自己中心的な利己主義の人がどう人か、それがよくわかるようになる。と、同時
に、そういう人を、遠ざけるようになる。
「つきあっても、ムダ」「時間のムダ」と考えるようになる。
●時間のムダ
人生は、長いようで、短い。短いようで、長い。が、やはり、長いようで、短い。英語の表現方
法に、『まばたきする間に、子どもはおとなになる』というのがある。(Children grow up and leave in the blink of an eye. )
子どもの、成長だけではない。まさに、その(まばたき)のうちに、人生は、過ぎる。
私は、ときどき、「時」というのは、何ものにもまさる財宝のように思うことがある。それはだれ
にとっても、そうだろうと思う。しかし問題は、その「時」を、どう使うか、だ。
たとえば最近、何かのことで、時間をムダにしたりすると、私は、そのあと、「しまった!」と思
うことが多くなった。とくに最近は、「マガジンを1000号まで出す」が、私の目標になっている。
つまらないことで、1時間もムダにしたりすると、「ああ、1時間もあれば、原稿の10枚くらい
は、書けたのに……」と。(マガジンでは、約20枚を、1回分の分量に決めている。)
人との交際についても、同じである。さらに仕事についても、同じである。
先日も、ある出版社から、久しぶりに、仕事が舞いこんできた。内容は、老人のボケ検査に、
幼児の知能検査法が利用できないものか。できるなら、その検査法について、書いてほしいと いうものだった。
最初は、おもしろく感じたので、二つ返事で、「やりましょう」と答えた。しかしいざ、やり出して
みると、まったくおもしろくない。「こんなことをして、何になる?」という思いだけが、つのった。
それについて、ワイフに、「もう少し若いときだったら、夢中になってしたかもしれないのにね」
と言うと、ワイフも、「そうねエ。今さら老人問題なんてねエ……」と。
だから、時間をそまつにしている人を見かけたりすると、「もったいな」と思う。それはたとえて
言うなら、ごちそうを、食い散らしている人を見るときの印象に似ている。「生きたくても、生きら れない人は、多いのに……」とも。
が、ここでも、ここに書いた問題に、ぶつかってしまう。問題は、その「時」を、どう使うか、であ
る。「時は、貴重だ。それはわかる。では、その時を、どう使えばいいのか」と。
つまりは、目標ということになるのか。この問題をつきつめていくと、「私たちは、なぜ、ここに
生きているか」という問題までいってしまう。さらに、「なぜ、私たちは今、ここに存在するのか」 という問題まで、いってしまう。
キリスト教の世界では、「神のような人間」ということになるのかもしれないし、仏教の世界で
は、「悟りを開いた人」ということになるのかもしれない。
しかし私は、どうも、それが目標ではないような気がする。「気がする」と、今は、この程度の
ことしか書けないが、私は、「神のような人間」にせよ、「悟りを開いた人」にせよ、そんなのは、 本人もしくは、まわりの人の、思いこみにすぎないのではないかと思う。
話が大きく脱線したが、「時」をどう使うか? この限りある「時」をどう使うか? つまりは、そ
れを考えること自体が、「生きる目標」のような気がする。
人生は、長いようで、短い。短いようで、長い。が、やはり、長いようで、短い。今のあなた
が、あっという間に、今のあなたになったように、そのあっという間に、あなたの人生も、終わ る。
話がもとにもどってしまった。ああああ……。今の私は、とにかく、1000号までマガジンを出
してみる。そのあとのことは、考えていない。あまり考えたくない。その先に、何かあるだろう。 いや、何もないかもしれない。あるいは、時間のムダかもしれない。そんな不安は、あるが、し かし、今は、前に進むしかない。
(何ともまとまりのない原稿になってしまった。ボツにしようかと迷ったが、このままで……。ごめ
ん!)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(330)
【近況・あれこれ】
●巨大なスズメバチの巣
今朝起きたら、ワイフが、興奮した様子で、こう言った。「あんた、見て!」と。
その瞬間、不吉なものを感じた。30年以上もいっしょに暮らしていると、以心伝心というか、
テレパシーというか、そういうもので、ワイフの心の中がわかる。
ワイフが指さす方向を見ると、巨大なスズメバチの巣。駐車場の屋根の下に、それはあっ
た。
私「気がつかなかったなあ……」
ワイフ「私もよ。あんなところにあるなんて……」
大きさは、サッカーボールくらい。雨だというのに、出入り口からは、ときおり大型のスズメハ
チが、出入りしている。
私「これはあぶないなあ」
ワイフ「市のほうへ連絡しましょうか?」
私「そのほうが、いいね。これだけ大きいと、ぼくの手に負えない」
ハチの巣は、太さが1センチ前後のつたの枝に、複雑にからんでいた。それがなければ、袋
をかぶせて、そのまま巣を天井から切り離すということもできるのだが……。
市へ連絡すると、農政課へ。そしてそこの担当の人が、地元の駆除業者を紹介してくれた。
「除去には、7000円から1万円かかります」とのこと。
で、そのまま駆除業者へ。住所と名前と電話番号を伝えると、「近く、行きます」と。
改めて、ハチの巣を見るために、外に出る。あいにくと出入り口は、やや上方にあって、下か
らは見えない。「あの出入り口に、殺虫剤を注入すればいいのかな?」と、勝手なことを考え る。
私は今度、スズメバチに刺されたら、死ぬ。そういう運命にある。一度、刺されて、抗体が体
の中にできてしまった。それがなければ、自分で駆除するのだが……。
率直に言って、ハチの巣の駆除は、おもしろい。スリルがある。子どものころは、毎日のよう にしていた。中学生や高校生のころは、左手に下敷き、右手に棒という軽装で、よくハチの巣 |