はやし浩司

最前線の育児論(401〜500)
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はやし浩司
最前線の育児論(401〜450)


最前線の子育て論byはやし浩司(401)

●10月31日(月末)

 今日は、天竜市までドライブした。途中、義兄と、T先生の家に寄る。富士市の友人が送って
くれた、サツマイモを、すそ分けするため。

 天竜市のショッピングセンターで、お弁当を購入。それをもって、二俣(ふたまた)城公園へ。
そこで昼食。

 よく整備された、きれいな公園だった。眼下に、天竜川。ふと、DB作詞、滝廉太郎作曲の「♪
荒城の月」を口ずさむ。

 「♪春、高楼の、花の宴……」と。

 しかしその歌詞は、盗作だったという説がある。「中国の漢詩に、よく似たのがある」と。数年
前に、それを指摘した評論家がいた。何かの雑誌で、それを読んだことがある。

 そんなことをワイフに話すと、「春というのも、おかしいわね」と。「荒城の月」というくらいなら、
秋のほうが、ふさわしい、と。

 ナルホド!

 「♪秋、高楼の花の宴、めぐる杯(さかずき)……」のほうが、雰囲気としては、よく合う。

ワイフ「DBが、盗作したというの?」
私「そういう説があるということさ。だいたい、『春、高楼の花の宴……』という歌詞は、日本語
の発想ではない。どこからどう読んでも、漢詩のにおいがする。それでそういう疑惑が生まれた
のかも……。ぼくには、どうでもいいことだけど、ね」と。

 意味のない会話がつづく。

 こうした盗作疑惑は、この世界ではよく起こる。最近でも、民衆作家として知られる、T氏がい
る。T氏は、それが発覚すると、カメラの前で、泣きじゃくりながら、「相手の人に許してもらえま
した」と喜んでいた。

 しかしそのあとも、T氏は、平気な顔をして、テレビに出たり、講演したりしている。そんなこと
もあって、私は、どうしてもあのT氏が好きになれない。T氏は、どこか小ずるそうな目つきをし
ている(?)。

 「ぼくなんか、まったくの無名だけど、ぜったいに、他人の文は盗まないよ。だれかがぼくが書
いていることと同じことを書いていたら、ぼくのほうが、自分の意見を、引きさげるよ」と。

 が、ともかくも、二俣城は、その「荒城の月」そのもの。今にも泣き出しそうな、秋の低い雲。
ススキが、やさしく、湿った風に揺れていた。

++++++++++

荒城の月

  春高樓の花の宴
  めぐる盃かげさして
  千代の松が枝わけいでし
  昔の光いま何處
 
  秋陣營の霜の色
  鳴き行く雁の数見せて
  植うる劔に照りそひし
  昔の光いまいづこ
 
  今荒城のよはの月
  替わらぬ光たがためぞ
  垣に殘るはただかつら
  松に歌ふはただあらし
 
  天上影は替らねど
  榮枯は移る世の姿
  寫さんとてか今もなほ
  鳴呼荒城のよはの月

  (原詩のまま)

++++++++++

 すばらしい歌詞であることには、ちがいない。ぼんやりと遠くを見ながら、私は、しみじみと、こ
の歌を口ずさんだ。


●うつ気質の人は、ストレスに弱い

 うつ気質の人は、ストレスに弱い(?)。そんな感じがする。

 同じストレスでも、それに敏感に反応する人と、そうでない人がいる。私なんかは、もともとう
つ気質だから、ストレスに弱い。何かあると、すぐ考えこんでしまう。悶々としてしまう。結果とし
て、神経疲労を起こしやすい。

 そこで調べてみると、こんなことがわかった。

 何かのストレスを受けると、免疫細胞が、サイトカインという物質を放出し、それが脳内ストレ
スを、増大させるという。

 それと同じような反応が、コルチゾール濃度の上昇など、うつ病患者にもみられるという(新
井康允氏)。

 わかりやすく言えば、健康な人がストレスを受けた脳内の状態と、うつ病患者の脳内の状態
は、よく似ているということ。つまりもともとうつ病の人は、それだけストレスの影響をモロに受け
やすいということ。

 ナルホド、合点!

 このことを逆に理解すれば、うつ病の人は、日常的に、ストレスを受けた状態と同じということ
になる。ストレスの原因となる、ストレッサーが、それほどなくても、悶々としてしまう。

 これは健康な人が、うつ病の人の心理状態を理解するためには、重要なことかもしれない。
というのも、健康な人は、うつ病の人について、よく、「気のせいだ」「わがままだ」「気はもちよう
だ」と安易に考える傾向がある。

 しかし、実際には、そうでないということ。気が晴れないという意味では、強いストレスを受け
た人も、うつ病の人も、同じということ。

 それがわかっただけでも、対処のし方が変わってくる。


●燃え尽き症候群と、荷おろし症候群

 ふと、今、燃え尽き症候群と、荷おろし症候群は、どこがどうちがうか、それを考えた。

 燃え尽き症候群の最大の特徴は、無気力感と脱力感。しかし荷おろし症候群の最大の特徴
は、目的の喪失である。症状としては、よく似ているが、(実際には、区別できないが……)、中
身はちがう。

 たとえば(明日のジョー)は、がんばりすぎて、そのあと、燃え尽きてしまった。(明日のジョー)
は、燃え尽き症候群の典型例として、よく話題になる。

 しかし荷おろし症候群のばあいは、目的そのものをなくす。何かの目的を果たしたあと、いわ
ば、宙ぶらりんの状態になる。まったくの無気力状態になるわけではない。ただ、心に大きなす
き間ができるため、誘惑などにもろくなる。

 こうした現象は、大学生を見ていると、よくわかる。

 猛勉強に、猛勉強を重ね、有名一流大学に入学したあと、燃え尽きてしまう学生もいれば、
燃え尽きはしないが、何をしてよいかわからず、遊びまくる学生もいる。後者が、荷おろし症候
群の学生ということになる。

 こんな定義をしても、実際には、あまり役にたたないが、今、ふと、そんなことを考えた。


●言葉と感情

 きわめて平坦な話し方をする老人が、近くにいる。年齢は、70歳くらいだろうか。男性であ
る。話していても、機械的で、人間的なぬくもりを感じさせない。まるでロボットのようでもある。

 しかし言葉は、割とはっきりしている。

 どうやら、軽い脳梗塞を起こしているようである。ウエルニッケの言語中枢(感覚性言語中
枢)は、左脳にあるが、右脳が損傷を受けると、その老人のように、話し方が単調になることが
知られている。

 もちろん子どもの世界には、脳梗塞はない。しかし、幼児でも本を読ませると、(1)感情をこ
めて、抑揚をつけて本を読む子どもと、(2)まったくの棒読みをする子どもがいるのがわかる。

 幼児のばあいは、親の読み聞かせなどの習慣によって、そういう「差」が生まれる。親が本な
どを読んで聞かせることによって、子どもは、言葉に感情があることを知る。

つまり言いかえると、言葉に感情をもたせるのは、指導によるものだということになる。(こう結
論づけるのは、危険なことかもしれないが……。)

 そこで、最近、さらに、私は、こんな経験をしている。

 インターネットでメールを交換しているのだが、「文字」には、感情がないということ。当然であ
る。

 それはわかるが、そこで私は、メールが届いたりすると、その文字に、自分なりの感情を注
入しながら読む。が、これがこわい。そのときの私の心の状態で、そのメールを読んでしまう。
たとえばこちらが何かにつけてイライラしているときは、相手のメールの悪いところばかりが気
になってしまう。内容を、悪いほうへ、悪いほうへと、解釈してしまう。

 つまり、文字情報というのは、左脳だけで、処理されてしまう。本来なら、右脳が、そうした文
字情報に感情をもたせなければならないが、インターネットでは、その右脳が機能しない。相手
の感情が伝わってこないから、よけいにそうなる。冒頭にあげた、老人と同じ脳の構造になる
(?)。

 そこでクエスチョン!

 あなたは今、この私の文章を、どのように読んでいるだろうか。(1)暖かく、ぬくもりのある言
葉として、抑揚をつけて読んでいるだろうか。それとも、(2)平坦で、機械的な言葉として読んで
いるだろうか。

 たいていの人は、今のそのときの心の状態で読んでいるにちがいない。楽しい気分の人は、
それなりに楽しく、不愉快な気分の人は、それなりに不愉快に読んでいるにちがいない。が、も
しあなたが、きわめて平坦で、ロボット的な読み方をしているなら、少しだけ、読み方を変えて
みるとよい。

 もともと(はやし浩司)という私は、ひょうきんで、おっちょこちょいで、ワイフに言わせれば、M
R・ビーンのような男である。

 そんな私を、心のどこかに置きながら、こういった文章を読んでみてほしい。抑揚を適当につ
けて、ときどき、速度をかえたりしながら……。感じが、まるでちがうはずである。

 ……私としては、そういう「私」を、こうした文章の中に織りこめないことを、とても残念に思っ
ている。脳梗塞も、今のところ、起きていないのだが……。

【追記】

 文字に感情をもたせるために、多くの人は、その人なりのやり方で、苦労しているようだ。

 「あら、いやだ(爆笑)、ってな感じで(恨)、今日も、ユーウツ!
  ネットでチャットしてたら、ミケ(ネコちゃん)のニャーロメ、
  横で、おもらし! ショーン、ってな感じ。ギャーロー!

  ネッ、ネッ、あんた、どう思う? (ただションボリ)」と。

 そうそう何でも、微細脳梗塞というのも、あるそうだ。脳神経細胞が、顕微鏡で見なければわ
からないレベルで、梗塞するらしい。加齢とともに、そういう現象が起きるそうだ。

 しかし、心配は無用。入力繊維が損傷を受けたとき、脳神経細胞そのものは再生されないに
しても、その周辺のシナプスがそれを補完するように、その空白部分を埋めるそうだ。

 だから、みんなで使おう、脳ミソ、1、2,3! 脳ミソの健康のために!


●Kという青年の死

 単身イラクに入った、Kという青年が、イラクの反政府テロ組織に誘拐され、そして殺された。

 無残な殺され方だった。ここ数日、テレビも新聞も、その報道一色という感じである。テロ組
織は、「イラク駐留の日本の自衛隊を撤退させないなら、Kという青年を殺す」と、予告してい
た。

 人の死を、軽々しく、論じてはいけない。だから私には、何ともコメントのしようがない。もし、
Kという青年が生きて帰ってきたというのなら、いろいろな言い方もできる。しかし事態は、最
悪!
 
 首が切断され、その首が、アメリカの星条旗にくるまれていたという。

 しかし、どうしてそんな無謀なことをしたのか? Kという青年は、留学先のニュージーランド
を去るとき、「自分さがしをしてみたい」と言っていたという。その青年には、その青年なりの、
いろいろな思いはあったのだろう。

 しかし、危険は危険。「こちらが何もしなければ、相手も何もしないだろう」と考えるのは、甘
い。あまりにも、甘い。今回の事件には、そういう「甘さ」ばかりが、目立つ。

 ……ということで、コメントは、ここまで。とにかく1人の青年が、それで殺された。いろいろと
言いたいことはあるが、ここまで。

 で、一部の過激派の人たちは、「Kさんが殺されたのは、自衛隊を派遣している日本政府の
責任である」「政府は、責任をとれ」「自衛隊を撤退させろ」と息巻いている。しかしそこまでは、
言いすぎではないのか。

 今、ともかくも、その自衛隊員たちが、命をかけて、イラクでの復興活動をしている。「命が
け」である。そういう自衛隊員のことを思うなら、Kという青年がとった行動というのは、あまりに
も無謀である。そういう無謀さをさておいて、日本政府だけを責めるというのも、どうかと思う。


●フランスの結婚事情

 フランスに住んでいる、Sさん(奥さんが日本人)から、こんなメールが届いている。

 「……結婚式の費用の件も5年前に私たちが教会で式を挙げたときは、ミサ代と神父さんの
お礼の金額が、8000円からでした。

8000円でもみんな高いと言っていました。祭壇に飾る花は朝、花瓶をとりにいって、友人にい
けてもらい、オルガンは近所のマダムにひいてもらい、進行の紙も友人に作ってもらいました。
(中略)

それを思うと日本の結婚式には驚きます。……」と。

 ほかにももちろん、雑費はかかったことだろうと思う。しかしその「安さ」には、驚く、本当に、
驚く。

 アメリカやオーストラリアなどでも、事情は同じ。新郎新婦が、それぞれの友人に総当りしな
がら、それぞれの仕事を頼む。カメラマンにしても、進行係にしても、である。

 もちろん豪華な料理も、引き出物もない。式のあとは、簡単なパーティだけ。料理といっても、
ケーキと、クッキー、それに飲み物だけ。それがふつう。それが標準。

 そこで提言! 

 めざそう、シンプル・ライフ。称して、「SL革命」!

 見栄と虚栄を捨て、シンプルに、私らしく生きよう! それがSL革命!

 しかし、「SL」というと、すぐ「蒸気機関車」を連想してしまう。もっと、よいネーミングはないも
のか?

【追記】

 二男の結婚披露宴は、山荘で。貸衣装代が、着付け代も含めて、約13万円(高いな!)と、
料理が、10万円。計25万円弱だけ。

 料理の食材は、私が、市場に行って、直接買ってきた。手長エビ、カニ、サザエ、ホタテ貝な
ど、まさに食べ放題。それを豪快に、大きな火で焼いて、みなで食べた。これが約10万円。も
ちろん祝儀その他は、いっさい、断った。

【追記2】

 結婚式の招待状が届いたりすると、正直言って、ドキッとする。このあたりでも、祝儀の相場
が、3万円〜5万円。夫婦で出席すれば、その倍!

 しかしあの結婚式ほど、インチキなものはない。さえたるものが、料理。イセエビの殻に、サラ
ダを詰めこんだような料理など、おいしいとも何とも思わない。

 バカげた祝辞に、あとは意味のない、ドンチャン騒ぎ。

 帰りには、引き出物が渡されるが、どれも中国製の安物を、豪華な包装紙で包んだようなも
のばかり。

 もう、やめよう、みなさん。こんなバカげた風習! さあ、あなたも勇気を出して。SL革命!


●あいまいな態度

 本音と建て前。表ヅラと内ヅラ。実像と虚像。日本人独得の二面性。

 私は、そうした二面性が生まれた背景には、日本語独得のクセがあるのではないかと思って
いる。よい意味では、日本語ほど、微妙な言いまわしのできる言語というのは、ない。しかし悪
い意味では、日本語ほど、あいまいな言いまわしのできる言語というのも、ない。

 35年ほど前のことだが、アメリカの政府高官が、日本の首相に何かを注文したとき、その日
本の首相は、こう答えた。「前向きに考えておきます」と。

 この「前向き」という言い方は、「YSE」なのか、それとも「NO」なのか。そこでアメリカの政府
高官が、「それはYESなのか、NOなのか」と聞きただしたところ、日本の首相は、さらに、こう
答えたという。「前向きということは、できるだけご希望にそった方向で、考えていくということで
す」と。

 私はこの話を、何かの雑誌で読んだが、当時の私は、こうした言い方に、何も、違和感を覚
えなかった。私自身が、そういうあいまいな言い方に、なれていたためである。

 しかしそれから35年。私自身のものの考え方が、ストレートになってきたせいもある。こうし
たあいまいな言い方が、どうも性(しょう)に合わない。たとえば、だれかに、「何とかします」など
と言われたりすると、それだけで不安になってしまう。「何とかとは、何だ」と。

 で、こうした日本語の特殊性があって、私は、日本人独得の、二面性が生まれたと思う。(あ
るいは、その反対かもしれないが……。)日本人は、本音と建て前を、たくみに使い分ける。
が、それがよいことなのかというと、そうとは言えない。時と場合にもよる。

 こんな例もある。

 面従腹背というか、表では親しげに交際しながら、裏では、その人の足を引っ張るというよう
なことが、この日本では、よくある。さらに、ごく親しげに近寄ってきては、こちらの内情をさぐり
ながら、悪口を言いふらすということも、よくある。

 私も、被害者の立場で、それを何度か、経験している。「裏切られた」と思ったことも、何度
も、ある。しかしそうした行為は、この日本では、あまりとがめられない。そういう裏切り方をしな
がらも、その人自身は、平気。そのあとも、何ごともなかったかのように、電話をかけてきたり、
手紙をよこしたりする。「今度、遊びに行くから」と言ってきた人も、いる。

 それを受ける私のほうが、キツネにつままれたような気分になる。「私の思い過ごしだったの
か?」と、思うときさえある。しかし実際には、そういう人たちは、そういう行為を、ごく日常的に
している。裏切ったという意識など、最初から、どこにもない(?)。

 まさに、やったり、やられたりの世界にいる。だから、こちらの気持ちなど、理解できない。

 しかし、だ。私は心に決めた。

 人生も、そう長くはない。だから、もうあいまいな生き方はしたくない。そのため、他人との摩
擦もふえるだろう。衝突もするだろう。……と書きながら、その一方で、妥協するところは、うま
く妥協しながら、みんなとうまくやっていこうと思う部分も、ないわけではない。

 ただこういうことは言える。私を一度でも、裏切ったような人とは、もう生涯にわたって、つき
あわない。表面的なあいさつはするかもしれないが、そこまで。これから先、そういう人たちと
の人間関係を、修復しようという気持ちは、もうない。

 もしそんなエネルギーが残っているなら、ほかのことで、ほかの人たちとの関係で、使いた
い。わかりやすく言えば、マイナスレベルの人間関係※を、ゼロレベルまで引きあげるくらいな
ら、ゼロレベルの人を、プラスレベルにもちあげたほうが、よいということ。

 そういうクールな面は、たしかにこのところ、強くなった。つまりそれだけ、私も、歳をとったと
いうことか。そう言えば、今日、私は、満57歳になった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(402)

【においについて】

●性フェロモン

 私は、「男」ということもあって、女性の生理のにおいが、よくわかる。通りすぎただけで、よく
わかる。ふつうのにおいではない。強烈なにおいである。

 で、そのたびに、ワイフに、「お前は、におわないか?」と聞くと、「私にはわからない」と。

 男と女とでは、嗅覚の構造そのものがちがうようである。

 で、よく、性フェロモンが、話題になる。動物の世界では、常識である。わかりやすく言うと、動
物は、その時期になると、特有のにおいを発し、異性をちかづけようとする。相手は、そのにお
いをかいだだけで、性的に興奮したりする。そういうにおいを、性フェロモンという。

 人間にも、性フェロモンらしきものがあることがわかっている。私は、「ある」と確信しているが
……。が、問題は、そういうにおいを感ずる器官が、あるかどうかということ。

 それについても、私は、「ある」と確信している。

 若いころ、ガールフレンドの発する、甘いにおいに、うっとりしたことがある。香水とか、そうい
うものによるのではない。体中から、甘いにおいが漂っていた。

 で、最近の研究によれば、それまでは「ない」とされてきた、それらしき器官があることがわか
ってきた。鼻の奥、鼻中隔(びちゅうかく)の両側に、それがあるという。発見者の名前をとっ
て、ヤコブソン器官と呼ばれている。(日本では、「じょ鼻器官」と呼ばれている。)

 このヤコブソン器官は、ここでいう性フェロモンの受信器官と考える学者も多い。ただ近年ま
では、この器官は、すでに退化してしまっていて、役にたたないという説が一般的であった。

 が、しかし、だ。このヤコブソン器官が、成人の私たちにも残っていて、どうやら機能している
らしいということまで、わかってきた。

 私は、その一つの例として、女性の生理のにおいをあげた。ワイフは、「わからない」と言う
が、私にとっては、強烈なにおいである。こうしたちがいがなぜ起こるかといえば、性にまつわ
る器官がちがうからではないのか。

 私のヤコブソン器官は、男として、「女」を、強烈にかぎわけることができる。しかし女である、
ワイフには、それがない(?)。そう考えると、納得できる。

 そう言えば、「汗臭い、男のにおいが好き」と、私に言った女性がいた。反対に、「汚れた女性
の下着のにおいが好き」と、私に言った男性もいた。(ともに、ヘンタイか?)

 においというのは、いろいろな意味で、「性」とからんでいるようだ。はたして、あなたは、どう
だろうか?
(はやし浩司 性フェロモン)

 この「におい」の話で、つぎのような原稿を書いたのを、思いだした。子どもの世界では、「臭
い子ども」は嫌われる。いじめの対象になることも、あるようだ。

+++++++++++++++++
 
●親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば
園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。

そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとした
ら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそうい
う話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。

しかしそういうばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。一つの基準として、あなた
の子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなた
の子どもは園や学校で人気者と考えてよい。

実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを
決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でな
いと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう二五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮
だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということが
わかった(小学生三〜五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。

私が「静かな子(無口な子)は、だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」
と聞くと、「不気味だからいやだ」という答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子ども
は、何か問題のある子どもということになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や
学習面で目立つ子どもをいう。やさしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私は
こう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。

++++++++++++++

 この原稿を書くきっかけとなったのは、ある母親から、いじめの相談を受けたからである。そ
の母親は、深刻な表情で、こう言った。「うちの子(小4)は、学校でいじめにあっています。どう
したらいいでしょうか?」と。

 そのとき、その母親に対する、私の第一印象は、とにかく、その母親が、臭かったこと。

 体臭というより、病臭に近かった。しかも、髪の毛が、強烈な悪臭を放っていた。

 なぜ、その子どもは、学校でいじめにあっているのか。で、私なりに調べてみたのだが、その
理由はすぐわかった。たまたま同じ学校に通っている子どもが、何人かいた。

私「どうして、あのX君は、みんなに嫌われるの?」
子どもたち「だって、あの子、臭いもん」と。
 
 で、その数日後、私は、再び、その母親に会った。やはりひどい悪臭を放っていた。理由は
わからないが、私は入浴のし方そのものに、問題があるのではと思った。しかし私は、その母
親に、そのことを話すことができなかった。

 ……と、この事件のことは、このあたりで、記憶から消えている。ただそのあと、ワイフが、私
にこう言ったのは、覚えている。

 「やはり、正直に、話すべきだったわ」と。つまり、その子どもが、臭いから、みなからいじめ
の対象になっているということ。それにその母親自身も臭いということ。それを正直に、私が話
すべきだった、と。

 しかし、実際には、言えない。あるいは、あなたなら、それを言うことができるだろうか。

 同じようなケースだが、その少し前、こんなことがあった。中学2年生のI君という子どものこと
である。その彼も、臭かった。そばを通り過ぎただけで、悪臭がプンとにおった。

 そのときは、私は、I君に注意した。「I君、汗をかいたら、風呂で、よく体を洗うんだよ。夏場
は、においが体に残るから」と。

 が、その言葉で、I君は、激怒。今でいう、キレた状態になった。突然、金切り声で、「ちゃん
と、洗ってる!」と叫んだ。ふだんは、どちらかというと、静かで、おとなしい子どもだった。

 で、あとで聞いて知ったのだが、そのI君もやはり、「臭い」ということで、みなから、仲間はず
れにされていたそうだ。だからI君は、私の言葉に、過剰なまでに反応した。……らしい。そうい
う失敗もある。だから、よけいにその母親には、正直には話せなかった。

 においにかぎらず、身体的な特徴などが、いじめの理由や原因になることは多い。しかしそ
れを口にするのは、教育の場では、タブー中のタブー。当然である。……ということで、におい
の話は、ここまで。

 ただここで言えることは、においには、人間の道徳や理性を狂わすパワーがあるということ。
私は、それを書きたかった。そしてこの文章を読んだあなたは、あなた自身や、あなたの子ど
ものにおいについて、少しだけ、反省してみてほしいということ。

 あなたはともかくも、あなたの子どもが、それが理由で、みなに、いじめられたり、仲間はず
れにされているようなら、入浴のし方を、もう一度、指導しなおしてみたらよい。

【付記】

 実際には、子どもは、においには、きわめて敏感である。他人の体臭に敏感というだけでは
ない。自分の体臭を指摘されることについても、敏感である。子どもによっては、ときに異常と
もいえるほど、過激に、反応する。

そんなわけで、親子でも、子どものにおいについて指摘するときは、慎重に! かなり良好な
関係にある人でも、親が、子どもに、「におい」のことで注意したりすると、とたんに、雰囲気が
険悪になったりする。私の息子の一人も、歯周病か何かで、口臭がひどくなったことがあった。

 そのとき私は、軽い気持ちで、「おい、臭いから、一度、歯医者で、歯垢(しこう)を取ってもら
ってきたら?」と言っただけなのだが、その一言が、息子を激怒させてしまった。で、そのあと、
あれこれ本人の怒りをしずめ、納得させるのに、1時間ほど、時間がかかった。

 口臭も含めて、自分が放つにおいというのは、自分ではわからないもの。においには、そうい
う特性がある。
(はやし浩司 におい 体臭 性フェロモン)
(041101)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(403)

●子どもの依存性

 依存性の強い子どもは、独得の考え方をする。依存的である分だけ、他人の立場をものを
考えることができない。世界は、自分のためにあるというような考え方をする。自己中心的で、
それだけ人格の完成度が遅れているということにもなる。

 依存性と自己中心性は、コインでいえば、コインの表と裏と考えてよい。

 このタイプの子どもについて、よく知られた症状に、(だから、何とかしてくれ言葉)がある。依
存性が強くなると、主体的なものの考え方ができなくなる。「〜〜したい」「〜〜します」という言
い方が減ってくる。

 たとえば空腹になっても、「〜〜が食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア〜」というよう
な言い方をする。「おなかがすいたから、何とかしてくれ」と。

 さらにこの依存性が強くなると、まわりの人を、誘導するようになる。意識的な行為というより
は、無意識的な行為に近い。長い時間をかけて、その子どものクセとして、定着してしまう。

 たとえば「テレビゲームがほしい」と思ったときでも、「ほしい」とは、言わない。「○○君は、テ
レビゲームをもっている。ぼくだけもっていないから、バカにされる」というような言い方をする。

 さらに巧妙になると、「テレビゲームができないと、仲間ハズレにされる」などと、親に訴えたり
する。そう言いながら、自分のつごうのよいように、他人を誘導する。

 しかしここで大きな問題にぶつかる。

 依存性の強い子どもの親を観察していると、親自身も、依存性が強いことがわかる。だから
子どもの依存性に甘くなる。あるいは、それに気がつかない。「子どもに甘えたい」という意識
が転じて、子どもが依存性をもつことに、無頓着になる。

 子どもの依存性の問題は、決して、子どもだけの問題ではない。

 こうして親子の間に、ベタベタの相互依存関係が生まれる。だから実際には、子どもの依存
性を、親に説明しても意味がない。親自身が、それを理解することができない。むしろ、そうい
う形でも、親にベタベタ甘える子どもほど、かわいい子どもイコール、よい子どもと、誤解する。

 だから私が、「お母さん、もう少し、お子さんを切り離したほうがいいですよ」などとアドバイス
したりすると、たいてい、こう反論する。「いくら私が言っても、きかないのですよ」と。つまり子ど
もが依存的なのは、子どものせいだと考える。その自覚すら、ない。

 依存性の強い子どもは、自分のことしか考えない。相手のつごうなど、かまわない。それはこ
こにも書いたとおりである。このタイプの子どもの特徴をまとめると、自己中心性のほか、つぎ
のようなものがある。

(1)生きザマが受動的(いつも、してもらうことしか、考えない)。
(2)自分勝手でわがまま(自分のつごうだけで、相手を動かす)。
(3)他人との良好な人間関係が結べない(だから、依存する)。
(4)自己管理能力が低い(してよいことと悪いことの判断ができない)。
(5)現実検証能力が弱い(自分の置かれた立場を、客観的に判断できない)。
(6)ものの考え方が退行的(約束や目標が守れない)。
(7)全体に幼児性が持続する(どこか子どもぽい)。
(8)他人に依存的(自立心が弱く、独立した行動ができない)。

 こうした依存性というのは、一度身につくと、それから脱するのは、容易ではない。生活習慣
そのものが、そのリズムで動くようになる。親は親で、「うちの子は手がかかります」と言いなが
ら、その一方で、子どもに手をかけることを生きがいにしてしまう。

 あとは、この悪循環。子どもの依存性は、ますます加速される。

 では、どうするか。

 親自身が、まず、子どもの依存性に気づくこと。つぎに、親自身が、自分の依存性から脱す
ること。さらに、こうした依存性の多くは、親自身の情緒的な未熟性に根ざしていることが多
い。親自身が、情緒的に不安定で、そのため、その心のすきまを埋めるために、子どもを利用
する。

 もしそういう傾向が見られるなら、親自身が、それと戦わねばならない。

 独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもは、一見、あつかいにくく、生意気に見える。
が、子どもの自立ということを考えるなら、むしろ望ましい姿かもしれない。子どもの依存性に
は、そういう問題も、含まれる。

 ところで依存性の強い子どもは、学習面でも伸び悩む。当然である。「ワークブックを開きなさ
い」と指示すると、ワークブックを開くだけ。そこで「○番の問題をしてごらん」と指示すると、す
るでもなし、しないでもなしといった様子で、ぼんやりとしている。

 「どうしてしないの?」と聞くと、「どこにやればいいの?」と聞く。そういう意味のない会話が、
いつまでもつづく。


●風邪の細菌

 小さな子どもが、私の顔の横で、ゴホンと咳をする。とたん、その風邪は、私に感染する。

 相手が小さな子どもだから風邪の細菌もそれだけ弱いと考えるのは、誤解。まったくの誤
解。細菌に、強いも、弱いもない。相手も選ばない。むしろ、子どもがもっている細菌のほうが、
強力と考えたほうがよい。

 理由がある。

 実は、子どものほうが、細菌に対する抵抗力が強い。その子どもが、なぜ風邪などをひきや
すいかといえば、それだけ抵抗力が弱いからではない。おとなのように、初期の段階で、それ
に気づかないからである。無理をする。症状をこじらせる。結果として、風邪をひきやすくなる。

 おとなは、風邪などをひき始めると、その経験から、注意を払う。養生をする。私も、風邪の
ひき始めには、きまって、のどが痛くなる。つまりその段階で、それ以上、症状がひどくならない
ように心がける。が、子どもには、それがない。

 だから、相手が小さな子どもでも、ゴホンとやられたら最後、それで細菌は、私に感染する。

 「あのね、だれかの顔に向けて、咳をするのは、悪いことだよ」と、そのつど子どもに話す。
が、子どもには、その深刻さが、理解できない。だから、風邪が流行し始めたら、まず最初に、
幼稚園や保育園の先生が、その犠牲者になる。

 ところで、こんな事実も……。

 子どもは子どもでも、いちばんこわいのは、ドクターの子ども。とくに大病院に勤めるドクター
の子どもがこわい。

 ドクターの子どもは、とんでもない細菌をもっている(?)。同じ風邪でも、ドクターの子どもにう
つされた風邪は、症状が重い(?)。

 ドクターの子どもは、同じ風邪の細菌でも、最強の細菌をもっている(?)。しかも予防注射な
どで、鍛えぬかれた細菌である。

 確たる根拠があるわけではないが、しかし今までの経験では、そうではないかと、私は勝手
に、そう思っている。もちろんだからといってドクターの子どもを、差別するということはない。こ
の問題だけは、私でも、どうすることもできない。


●言葉を反復する子ども

 学習面で、著しく遅れるタイプの子どもがいる。そういう子どもに、よく見られる症状が、言葉
の反復。たとえばこんな会話をする。

私「リンゴ3個と、4個では、いくつかな?」
子「ふん?」
私「だから、リンゴ3個と、4個では、いくつかな?」
子「リンゴ? 3個? 4個?」

私「だから、あわせて、いくつかな?」
子「ふん?」
私「あわせて、いくつかな?」
子「あわせて……?」と。

 よく観察してみると、言葉が、即座に理解できないといったふう。だからそのつど、私の言った
言葉を反復しながら、それをかみしめるようにして、理解しようとする。反応がにぶいというより
は、何かしら、戸惑っているような表情をしてみせる。

 言うまでもなく、言葉が耳に入ると、脳の中では、無数の信号があちこちを飛び交う。言語中
枢は、左脳側頭葉の聴覚野にあるとされ、そこで脳は音声を言葉に翻訳していると言われて
いる。が、側頭葉だけで、ものごとを判断しているわけではない。

翻訳された情報は、大脳のそれぞれの分野へ送られ、そこで、加工されたり、判断されたりす
る。その情報が飛び交うとき、一つの場所から、別の場所に、信号が、うまく伝達されない。あ
るいは時間がかかる。たとえていうなら、こまかい電線が切れたような状態ということになる。

子どもの表情を見ていると、そんな感じがする。

 で、こういうタイプの子どもには、ふつうの子ども以上に、ていねいな指導が必要ということに
なる。脳の機能そのものの問題がからんでいるため、叱っても意味がない。

 なおこのタイプの子どもは、今、決して少なくない。10人もいれば、1人くらいの割合で経験す
る。だからどうしたらよいのかということは、私にはわからないが、そういう問題をもった子ども
も、いるということ。

 「そう言えばうちの子は……」と、思い当たるようであれば、よりていねいで、子どものリズム
にあわせた指導に、心がけることが大切である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(404)

【近ごろ・あれこれ】

●BLOG

 F社とR社の、2社のBLOGに、登録してみた。

 BLOG……つまりWEBLOGの略称らしい。ホームページと、掲示板、それに日記の3つの
よさを兼ねあわせた機能をもっているという。

 で、なんページか、自分で作って、登録してみた。「登録」というのは、F社の言い方で、つま
り、ページを載せてみたということ。(会社によって、言葉の使い方がちがうというのは、わかり
にくいね。)

 が、どうも、うまく動かない。わかりにくい。使いにくい。

 これは多分に、私の知識と技術が、未熟なことによるものだろう。それにF社のBLOGを利用
するためには、HTML言語の知識が必要。文字の大きさや色を変えようとするだけでも、HT
ML言語で、そのつどプログラムを組んで、命令しなければならない。

 だからおもしろいという面もあるが、だからめんどうという面もある。

 さてさてどうしようか? F社のBLOGでは、なんと、1000MBまで登録できるという。1000
MBといえば、これから先、私にとっても、10年分くらいの原稿量ということになる。それにして
も、すごい!

 興味のある方は、「はやし浩司のHP」のトップページから、のぞいてみてほしい。


●ネット時代の「時間」

 インターネットの世界では、時間の単位が、どうも、ちがうようだ。ものごとが、瞬時、瞬時に
流れていく。それはよくわかるが、ときどき、それについていけないときがある。

 少し前だが、ある男性から、子育てについての相談があった。たしか、ある金曜日の夜のこ
とだった。で、私のほうも何かと忙しかったこともあり、数日間、そのままにしておいた。が、月
曜日の朝には、こんなメールが届いた。

 「どうして返事がもらえないのか?」と。

 私は決して、その人を責めているのではない。ただ、あまりのせっかちさに驚いた。金曜日か
ら月曜日まで、間は、土日をはさんで、72時間しかない。

 その人と私とでは、72時間に対する感じ方が、ちがうようだ。

 ……というような例は、多い。そう言えば、息子も、そう言っていた。「インターネットをしている
人は、みんな、短気だよ。画面の表示が、数秒、遅れただけで、もうその画面は見ないで、つ
ぎの画面に移るよ」と。

 たった数秒!

 それにしても、世の中の動きが速くなってきたものだ。ここに書いたように、瞬時、瞬時に、も
のごとが流れていく。これでいいのかなという疑問もないわけではないが、こういう世界はこうい
う世界として、納得して、つきあっていくしかないようだ。


●F家の結婚式

 イラクでKという青年が誘拐され、日本中が大騒ぎしている最中、日本のK首相が、結婚式に
出席していた。

 H官房長官は、「F家とは、古いつきあいがあったから」と、釈明していた。K首相は、F元官房
長官の息子の結婚式に、出席していた。

 私は、何も、K首相が、結婚式に出席したのが、おかしいとか、まちがっているというのでは
ない。私は、結婚式に出席したということよりも、この「F家」という言い方に、大きな疑問を感じ
た。結婚式が、いまだに「家」と「家」の結合の象徴として使われている?

 K首相が、F元官房長官の息子と、親身なつきあいをしていたのなら、まだ話もわかる。しか
し恐らく、K首相にしてみれば、顔も見たことがない間柄ではないのか? ……となると、結婚
する当事者の新郎新婦は、ただの飾り? お人形?

 結婚式によって、「家」と「家」が結ばれる? 身分制度のきびしかった江戸時代なら、いざ知
らず、今は、それからもう140年以上も過ぎている。昔の人は、遠い親戚をたどりながら、「私
は、M藩の家老の縁者だ」と言ったかもしれない。が、今は、そういう時代ではない。また、そう
いう時代であっては、いけない。

 はっきり言えば、バカげている。K首相は、そのバカげた風習の、飾り役として、結婚式に出
席したにすぎない。

 みなさんも、今度、結婚式に出席したら、心のどこかでほんの少しだけ、さめた目で、まわり
を見てほしい。「何のために、こんなことをしているのか?」と。

 多分、みなさんも、私と同じように、日本の結婚式に、疑問をもつはず。

 前にも書いたが、フランスでは、総額8000円程度※で、結婚式をしている(フランス在住の
Sさんのレポート)。あとはみんな、友人たちが、協力して、無料でしている。そういうのを結婚
式というのではないのか?

++++++++++++++++

【※……Sさんからのメール】

「……結婚式の費用の件も5年前に私たちが教会で式を挙げたときは、ミサ代と神父さんのお
礼の金額が、8000円からでした。

8000円でもみんな高いと言っていました。祭壇に飾る花は朝、花瓶をとりにいって、友人にい
けてもらい、オルガンは近所のマダムにひいてもらい、進行の紙も友人に作ってもらいました。
(中略)

それを思うと日本の結婚式には驚きます。……」

++++++++++++++++

●器用でない心

 Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……ということができるほど、人間の
心は、器用にはできていない。

 こんな事件があった。

 ある母親は、表面的には、やさしく思いやりのある母親を演じながら、その裏で、当時、中学
生だった長男を虐待していた。冷酷、無視、冷淡、拒否的な育児態度など。暴力といっても、言
葉の暴力。それを毎日のように、長男に、浴びせかけていた。

 「お前なんか、早く死んでしまえ」
 「用なし」
「役立たず」
 「お前のような親不孝者は、地獄へ落ちる」と。

 こういうのを代理ミュンヒハウゼン症候群という。ミュンヘハウゼンというのは、18世紀にい
た、男爵の名前に由来する。「ホラ吹き男爵」としても、よく知られている。

このタイプの母親は、たとえば息子が病院へ入院したりすると、医師や看護婦の前では、神様
のようにやさしい母親を演じてみせたりする。背中をやさしくさすってみせたりする。そういうこと
が平気でできる。他人の視線を気にしたとたん、豹変する。

 で、その母親には、もう1人、娘がいた。

 長男とは、10歳近く年齢が離れていたせいもある。が、その娘が、30歳になるころから、母
親の態度が変わり始めた。娘氏はこう言う。

 「私が30歳になるころまでは、母とは割りと良好な人間関係でした。が、そのうち、母の私に
対する態度が変わってきたのを感じました。情け容赦ないというか、冷酷になりました」と。

 理由や事情は、いろいろあるのだろう。親でも、長男に対する育児姿勢と、二男に対する育
児姿勢が微妙にちがうということは、よくある。しかしそれはあくまでも、誤差の範囲。

 冒頭に書いたように、「Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……というこ
とができるほど、人間の心は、器用にはできていない」。母親にしても、長男に対する育児姿勢
と、娘に対する育児姿勢が、大きくちがうということは、ありえない。

 その母親は、長男を虐待しながら、やがてその一方で、娘を、まるで奴隷のように、使い始め
た。

 「私は結婚して、家を出た身分です。でも、そんな私に、ときどき、『うちにきて、庭掃除をしっ
かりしろ』などと、母は電話をかけてきます。

 そこで私が実家に帰ると、今度は、別人のようにしおらしい顔をして、『お前がいると、助か
る。ありがたいことだ』などと言います。母の心が、さっぱり理解できません」と。

 ここに書いた話は、新潟県に住んでいるUさんという女性からのメールを、まとめたものであ
る。

 しかしつぎのように考えると、その母親の心が理解できるのではないか。

 その母親は、長男や娘に対してですらも、心を開くことができない。新潟県という土地柄もあ
って、親意識、家父長意識が、ことさら強いのかもしれない。ものの考え方が、権威主義的。そ
の母親は、私がいう親・絶対教の信者かもしれない。

 その母親が、なぜ長男を虐待したかについては、わからない。しかしその虐待するという精
神構造が基礎にあって、今度は、娘を奴隷のように使うようになった。一見、バラバラに見える
育児姿勢だが、その精神構造までほりさげて考えると、それが一つの基盤につながっているの
がわかる。

 自分の支配下に入った長男は虐待し、自分の支配下に入らなかった娘については、同情・
依存という手段で、娘を自分の支配下におこうとした。こういうケースは、よくある。決して珍しく
ない。

 さらにその原因はといえば、母親自身の精神的欠陥、あるいは情緒的未熟性によるもので
ある。

 私はUさんに、つぎのような返事を書いた。

 「とてもかわいそうだと思いますが、あなたのお母さんは、子どもを愛せないタイプの女性の
ようですね。

 原因はわかりません。たとえば望まない結婚であったとか、望まない子どもだったとか、そう
いうことがあるのかもしれません。

 さらにその原因は、お母さん自身の不幸な生い立ちがあるのかもしれません。

 ともかくも、今、あなたのお母さんは、あなたの兄に対しては、攻撃的虐待。そしてあなた自
身に対しては、依存し、同情を求めながら、あなたを支配下におこうとしています。

 こういうケースは、多いです。そこにも、ここにもあるというほど、多いです。

 先日も、埼玉県の女性から、『母は、私の前では、数歩、歩くのも苦しそうな様子を見せます
が、私がいないところでは、スタスタと歩いています。駅でそれを見かけたときは、別人かと思う
ほど、驚きました』と。

 つまり埼玉県のその女性の母親は、弱々しい老人を演ずることで、その女性を、自分の支配
下におこうとしたのですね。

 実は、代理ミュンヒハウゼン症候群を示す親というのは、もともと子どもも含めて、他人と良
好な人間関係を結べない人と考えてよいのではないでしょうか。それが変質して、そうなる?

 もう少し、この問題については、別の角度から深く考えてみたいですが、そのように考えていく
と、あなたも、あなたのお母さんの心理状態が理解できるのではないでしょうか。

 そういう意味では、心のさみしい、かわいそうな人ということになります」と。

 ……と書きながら、こんな問題もある。

 実は、その代理ミュンヒハウゼン症候群だが、一方で、義父母を虐待しながら、世間的に
は、やはり神様のように演じている女性(嫁)もいるということ。

 しかし虐待されている義父母は、その女性(嫁)が、こわくて、それを他人に話すこともできな
い。

 そんな事例も、私のところには、伝わってきている。とても、恐ろしい話ではないか? ホン
ト!
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群)


●幼児の記憶

 近くに排水工事を専門とする会社の事務所がある。その事務所の受けつけで、Kさんという
若い女性が働いている。私がかつて、教えたことのある女性である。

 で、先日、その事務所へ行ったので、そのKさんに、「ぼくのことを覚えていますか?」と聞く
と、Kさんは、私の顔をしばらく見たあと、「どこかで会いましたかア?」と。

私「あなたは、B幼稚園へ通っていたでしょう。そのとき、私の教室へ来てくれたことがあるんで
すよ」
Kさん「私が、ですか?」
私「ぼくのこと覚えていませんか?」
Kさん「たしかにB幼稚園へは通っていましたが、……覚えていません」と。

 そんなはずはない。1年近く、私はそのKさんを教えた。太い眉毛、やや細おもての顔。ほほ
えんだときの笑顔。いろいろと特徴が残っていた。

 事務所を出るときに、ふりかえってKさんを見ると、何ごともなかったかのように、自分の仕事
をしていた。

 「そういうものかなあ?」という思いと、「そういうものかもしれないなあ……」という思いが、複
雑に交錯した。

 幼児教育をしていて、一番、残念に思うのは、この点にある。つまり、人間関係ができない。
中学生や高校生になって、私のことを覚えていてくれる子どもは、10人のうち、1人もいない。
おとなになって、私のことを覚えていてくれる子どもは、100人のうち、1人もいない。

 しかし何か、残っているはずである。心の奥に、脳の奥に……。幼児教育というのは、そうい
うものである。自分でもよくわかっているはずなのに、しかしこのさみしさは、いったい、どこか
らくるのか。


●今週のBW教室から……

今週は、動物の勉強をした。

その中で、こんな話をした。

私「先生の正体を知っているか?」
子「人間だよ」
私「でも、人間って、何の仲間か知っているか?」
子「人間だよ」と。

 この時期、ほとんどの子どもは、人間と動物を分けて考える。さらに、人間が、獣(けもの)の
仲間だということを理解している子どもは、まずいない。

私「人間は、獣の仲間だよ」
子「ちがうよ」
私「そうだよ。先生は、獣の仲間だよ」
子「ちがうよ。先生は、人間の仲間だよ」と。

 そこで私は、「では、先生の正体を見せてあげよう」と言って、獣に変身する。「頭にスイッチ
があってね、これを押すと、先生は、獣に変身するよ」と。

 そのあと、ガオーガオーと、4つ足で歩くまねをして、子どもたちをおいまわす。子どもたち
は、ワイワイとはしゃぎながら、逃げまわる。私が一番楽しいと感ずる、一瞬である。

 で、そのあとのこと。

 画用紙で作った変わり絵を見せる。頭と体、足が、それぞれ、いろいろな動物に変身するよう
につくった教材である。

 言い忘れたが、私は毎回、40〜100枚の手作りの教材を使う。その変わり絵も、その中の
一つだった。

私「これは、まずいよ。先生の裸の絵だよ」
子「見たい、見たい!」
私「見せたくないね。だって、裸の絵だよ」
子「見たい、見たい!」

私「君たちは、先生の裸が見たいの?」
子「うん、見たい」
私「やめたほうがいいよ」
子「見たい、見たい。だから、見せて」と。

 そこで子どもたちをジロリとながめたあと、こう言う。「あのね、みんな、先生の裸が見たい
の?」と。

 すると、子どもたちが、「うん、見たい」と、また言う。私はおもむろに立って、服をぬぐまねを
する。すると子どもたちが、「そっちじゃあ、ない。そんなの、見たくない」「紙の裸が見たい!」
と。

 こういうかけあいが、楽しい。おもしろい。そしてそれを繰りかえしていると、子どもたちは、興
奮状態になる。が、それこそ、私のねらい。この時期、こうして子どもの頭を熱くするのは、とて
も重要なこと。熱くすることによって、脳細胞のあちこちを、刺激することができる。

 実際、そのとき子どもの頭にさわってみると、はっきりとわかるほど、熱くなっている。40度近
くまで熱くなるのではないか。ときどきレッスンの途中で、親にもさわらせることがある。その親
ですら、驚く。

 最後は、「魚と虫は、どこがどうちがいますか?」「虫と鳥は、どこがどうちがいますか?」とい
う質問で、しめくくる。

 昨日のレッスンでも、終わったとき、子どもたちは、こう言った。「もう、おしまい?」「もっと、し
たい!」と。(ホントだぞ!)

 しかしそれほど、私に対する、ほめ言葉はない。最高のほめ言葉である。私は内心でニンマ
リと笑いながら、こう言う。「さあ、おしまいだよ。みんなよくがんばったよ。すばらしかったよ」
と。

 参観していた母親たちが、なごやかな様子で帰る。私は、それを静かに見送る。

 
●ブッシュ再選(?)

 今日(日本時間、11月3日)、アメリカの大統領選挙があった。その結果が、昼ごろから、報
道され始めた。私とワイフは、テレビを見た。

 夕方になって、ブッシュが、254人の選挙人を獲得。かたやケリーは、225人。残るはオハ
イオ州と、ほかのいくつかの州。

 そのオハイオ州では、僅差だが、ブッシュ優勢とのこと。7時のラジオニュースによれば、得
票数で14万票近く、差がついているという。

 ブッシュ再選は、ほぼ確定したとみてよい。この原稿がマガジンに載るころには、はっきりし
ているはず。

 で、今の日本をとりまく国際情勢を考えると、日本にとっては、ブッシュでよかった。ケリーに
なっていたら、K国は、「自分たちの正当性が証明された」と、おおはしゃぎするにちがいない。
が、それだけは、まずい。

 K国は、かねてから、アメリカと2国間協議をしたいと言っていた。ケリーも、それに応ずる構
えを見せていた。

 しかしアメリカがK国と2国間協議をしたら、日本は、どうなる。どうする。そのあと、今度は、
日本は、K国と単独で対峙しなければならなくなる。しかし今の日本には、悲しいかな、そのK
国の野望を押さえる力はない。軍事力もない。度胸もない。覚悟もない。

 国連の安保理に付託して、K国への経済制裁ということにしたくても、日本だけでは、どうしよ
うもない。

 今、K国の金XXは、ブッシュ再選を、もっとも恐れている。なぜ、恐れているか。つまりそこ
に、ブッシュでよかったという、私の理由がある。


●みなさんの意見から……

 新潟県にお住まいのYさん(女性)と、長野県にお住まいのKさん(男性)から、つぎのようなメ
ールが届いた。うれしかった。

++++++++++++++++

(マガジンを)とても興味深く読ませて頂いております。
子供に多くを求めようとした時はとくに、林先生のマガジンが私の薬となっています。お近くでし
たら、ぜひとも林先生の幼児教室に入会したかったです。
新潟に是非とも講演にいらしてほしいと、希望いたしております。

++++++++++++++++

いつもまぐまぐプレミアムを読ませて頂いています。いろいろな方の意見があり、それに対しい
ろいろ考えられているようですね。私の子供は未だ1歳1ヵ月になった所なので、マガジンは、
どちらかと言えば自分の為に読んでいます。現在、苦戦・奮闘しながら子育てをしています。楽
な子育ては無いと自分に言い聞かせ、1日1日子供の成長を楽しみながら頑張っています。

先生も体調にくれぐれも気をつけて下さい。まぐまぐプレミアム楽しみにしています。

+++++++++++++++++

 長野県のKさんとのつきあいは、もう1年以上になる。以前、1回だけだが、チャットもしたこと
がある。そのときはまだ、お子さんはいらっしゃらなかったのではないかと思っている。が、今
は、1歳と1か月! おめでとうございます!!

【Yさんと、Kさんへ……】

 励ましのメール、ありがとうございました。ときどき、くじけそうになることがあります。マガジン
について言えば、そろそろマガジンの時代は、終わりつつあるのかなと思っています。

 昨日、数年前の記録がファイルの中から出てきましたが、それを見ると、そのときでも、毎
週、6〜10人ずつ続者がふえていました。今は、よくがんばっても、7人前後です。

 一時は、電子マガジンブームで、どんなマガジンでも、出せば毎週、ガンガンと読者がふえた
時代があったそうです。私がマガジンを発行したのは、そのあと、下火になってからです。

 で、今は、BLOGの時代とか(?)。アメリカなどでも、急速に利用者がふえているそうです。H
Pと、掲示板、日記を合体させたようなものです。そこで私も、さっそく、挑戦。まだ試行錯誤の
段階ですが、結構、おもしろそうです。

 といっても、マガジンの発行はやめません。1000号まで、どんなことがあっても、つづけま
す。(あと数回で、500号になりますよ!)これはもう、意地のようなものです。そんなわけで、こ
れからも、よろしくお願いします。

 新潟県は、地震でたいへんでしたね。(今も、たいへんですが……。)このあたりの人は、み
な、「つぎは、静岡県だ」などと、言っています。このあたりにたくわえられた地震のエネルギー
は、新潟県の地震の700倍もあるそうです。

 ワイフの友だちも、「1万円、寄付してきた」などと言っています。それを聞いて、ワイフも、「み
んな、しているのよ。うちもしなくちゃあ」と。昨日、そう言っていました。私たちはまだしていない
ので、今日あたり、郵便局へ行ってしてくるつもりです。遅くなってすみません。

 また長野県は、実のところ、以前、移住を考えたこともある県です。今でも、「長野県」と聞く
と、ほのぼのとした温もりを感じます。好きなんですね。そういう山の中が……。で、山荘をもっ
たのは、そのためです。

 ちょうど長野県への移住をあきらめると同時に、山荘をもちました。今は、何となく山の中とい
う世界で、毎週、自分をなぐさめています。……しかし結構、山の中の雰囲気はありますよ。雨
上がりの森の中へ入ると、木々の香りがプンとします。きっと、Kさんは、毎日、そういう世界に
包まれておられるのですね。うらやましいです。
 
 今は、時刻は、午前6時少し前。午前中は、H小学校で講演がありますから、行ってきます。
おとといから扁桃腺をはらし、のどの調子はよくありません。がんばるしかないという思いです。
そう言えば、そろそろ講演をするのが、しんどくなってきました。

 体力もさることながら、スケジュール調整やら、健康管理など。このところ、午後の講演は、
ほとんど断っています。(学校関係の講演は、平日の午後が多いのですね。ぼくのような仕事
をしているものには、スケジュールの調整が、たいへんむずかしいのです。)まあ、年齢的に
も、体力的にも、今が限界かもしれません。

 自分のことばかり書いてすみません。これからもよろしく。Yさん、Kさんのご健康と、少し早い
ですが、2005年、すばらしい新年をお迎えくださるよう、念願しています。

 なお、いただきました原稿を、12月3日号で、紹介させてください。転載許可を、お願いしま
す。

 11月4日
                                 はやし浩司


●風邪でダウン

 講演をしているとき、まず、声がかれた。こんなことは、はじめてである。

 ついで、鼻水が出た。あわせて、涙も出た、これもはじめてで、ある。

 その前日、私は、扁桃腺をはらした。のどが痛かった。が、そのときは、うがいを数回くりかえ
すと、症状は消えた。

 で、「この程度」と、簡単に考えた。

 午後は、いつものように自転車で、仕事に向った。やけに風が、体にしみるなとは思ったが、
時は、秋。「こんなものだ」と、自分を納得させた。

 で、2時間、子どもたちを教えた。が、その直後から、猛烈な頭痛。風邪性の頭痛である。

 「がんばろう」という思いもあったが、それにしても、猛烈。悪寒が体を襲った。ゾクゾクとし
て、身をもてあました。「だめだ」と思った。

 ワイフに電話して、そのあとの仕事を、キャンセルしてもらった。

 家に帰ると、そのままフトンの中に。頭が割れたように痛かった。本当に痛かった。私は、軽
く、食事をとると、ビタミンC(アスコルビン酸)を、大さじ一杯に溶かして、飲んだ。

 幸いにも、胃のほうは、やられていないようだった。が、不吉な不安(?)。このところ、少し無
理なダイエットで、体が、いわばガス欠状態になっている。体力がない。抵抗力もない。

 市販の感冒薬と、カッコン湯をのむ。頭に、鎮痛湿布薬をはる。いつもになく、気持ちがよ
い。額の上から、スーッと頭のシンまで、しみこんでいくような感じがした。

 頭を固定して、静かに目を閉じる。ズキンズキンと、はげしい頭痛。ふとんをかぶって、体を
暖める。悪寒。しかし一向に、体が熱くならない。東洋医学では、こういうとき、とにかく、表邪を
発散させろと教える。つまり汗をかけ、と。汗さえかけば、何とかなる。

 30分、40分。眠いはずなのに、眠くならない。が、やがて、やっと、体がほてってきた。とた
ん、睡魔。30分ほど眠った。夢をみた。ヒワイな夢だった。
 
 どこかの混浴風呂で、若い女性といっしょに風呂に入っている夢だった。かつて一度だって、
そんな経験はないはずなのに、そんな夢を見た。いや、一度だけ、混浴したことがある。しかし
そのときの光景ではない。

 目をさましてから、「ああ、これなら、だいじょうぶだ」と思った。つまり「ヒワイな夢を見るほど、
元気があるなら、だいじょうぶだ」と。

 頭痛は、相変わらずだった。ワイフを寝どこに呼んで、頭の湿布薬をとりかえてもらった。

 「だいじょうぶ?」と聞いたので、「あまり、だいじょうぶでない」と答えた。そしてそのまままた、
眠った。

 で、今朝は、午前3時、起き。頭痛は消えていた。シャツは、どこか汗ばんでいるが。かえって
気持ちよい。その気持ちよさを感じながら、この文を書いている。

 「たった一晩で、風邪をなおしたぞ」と。


●「私」論

 今度、K市にある、W中学校で、講演することになった。「はやし浩司の人生論について話し
てほしい」という依頼をもらった。

 私は、講演をするとき、いつも、聞いてくれた人に役立つ話を、何よりも大切に考えている。
貴重な時間をつぶしてまで、みなさん、来てくれる。中には、仕事を休んで来てくれる人もいる。

 そういう人がいることを知ると、漫談のような話は、とてもできない。

 しかし、今回、あえて、「はやし浩司について話してほしい」と。うれしかったと同時に、何とも
言えない緊張感に包まれた。何かを成しとげた有名人ならともかくも、私には、それがない。話
すべき「私」が、いない(?)。

 あえて言うなら、私ほど、人生の道を、あちこち寄り道した人間は、いないということ。不幸な
幼少期。虐待。それにつづく、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)と、二重人格性などなど。

 私はよく、「私は、精神病のデパートのような人間だ」とよく言う。みなは、それを冗談だと思う
らしいが、冗談ではない。ありとあらゆる精神病を、広く、薄くもっている。だからどんな病気の
人の話を聞いても、それをよく理解できる。自分のどこかに、当てはまる。

 恐怖症、神経症、心身症、心気症、不安神経症、基底不安、パニック障害、うつ症、PTSDな
どなど。それに二重人格性にも、苦しんでいる。私は決して、まともな人間ではない。

 ただ人生が大きく狂ったのは、高校2年から3年にかけたときのことである。

 それまでの私は、大工になりたかった。大学への進学ということでも、私は工学部の建築学
科に進みたかった。それが担任の一存だけで、文学部へ。それから法学部へ。もうめちゃめち
ゃな転身だった。

 おかげでそのあとの私の人生は、めちゃめちゃ。その結果が、今である。

 もし話すべき「私」がいるとするなら、それが「私」ということになる。参考になるかどうかはわ
からないが、失敗談ほど、役に立つものはない(?)。イギリスの格言にも、「航海の仕方は、
難破したことがあるものに聞け」というのが、ある。

 私は、難破だらけの人生を送ってきたように思う。生活そのものは、幸運にも、順調だったが
……。

 その難破を並べてみると……

(1)気負い

 私は祖父母、両親に囲まれながらも、家族の温もりを、ほとんど知らないまま、乳幼児期を過
ごしている。他人は、当時の明るく朗らかな私しか見ていないが、そういう形で、私はシッポを
振りながら生きていたように思う。

 私には、いつも「私」がいなかった。

 だから結婚したときも、子どもをもうけたときも、「よい家庭をつくろう」「よい子どもを育てよう」
という、気負いばかりが、先行した。頭の中に、その設計図すら、なかった。

 だから結果としてみると、私の結婚生活も、子育ても、いつもどこか、ギクシャクしていた。

(2)マザコン性

 私は、マザコンだった。ワイフは、早くからそれに気づいていたという。が、当時の私には、そ
れを知るすべもなかった。

 理由がある。

 私は、とてもおかしなことだが、父親がいながら、その父に、一度だって、抱かれたことがな
い。ただの一度も、だ。

 母が抱かせなかった。父が結核をわずらったこともある。当時は、今とは比較にならないほ
ど、それは深刻な病気だった。加えて、父は戦争の後遺症もあって、数日おきに酒を飲んで暴
れた。

 ただそのかわり、私のそばには、いつも祖父母がいた。とくに祖父が、私をかわいがってくれ
た。もし祖父が近くにいなかったら、私という人間は、本当に狂っていただろうと思う。

 ともかくも、私にとって母は絶対で、その絶対である分だけ、私は、マザコンになった。結婚当
初の私を思い出しながら、今でも、ワイフは、こう言う。「あなたは、冬彦さんみたいだった」と。

 たしかにそんなところはあった。

(3)二重人格性

 みながみな、そうなのか。それとも私だけなのか。

 いまだによくわからないが、私の中には、もう1人の私がいる。それは事実である。

 ひょうきんで、おもしろく、さみしがり屋で、愉快な私を、(私A)とするなら、冷たく、孤独に強
く、自暴自棄的な私を、(私B)とする。

 ふだんは、時間にすれば、99%は、(私A)だが、何かの緊張感や、不安感に教われたりす
ると、突然、(私B)に変身する。カッなって……というようなものではない。

 私は長い間、その理由がわからなかった。

 が、やがて、そういう(私B)が生まれたのは、幼児期の恐怖体験が原因だということを知っ
た。それについては、また別のところに書くことにして、私は父の酒乱には、本当に苦しんだ。

 それはまさに虐待。直接的な虐待ではないが、間接的虐待とも言ってよい。目の前で、父は
暴れ、母をなぐり、家具をこわした。すべてを酒の理由にすることはできない。すべてを戦争の
責任にすることはできない。しかし私は、そういう環境で、生まれ育っている。

 二重人格性が生まれても、まったくおかしくない状況であった。

(4)わんぱく

 私は、かなりわんぱくな子どもだったようだ。けんか早いというか、気がついたときには、いつ
もその相手と、とっくみあいのけんかをしていた。気が小さいくせに、強い相手でも、負けるとわ
かっていても、挑戦していった。

 心が荒れていたのかもしれない。すさんでいたのかもしれない。当時の、日本の世相をその
まま反映していたのかもしれない。

 私は毎日、まっ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んでいた。が、まっ暗になったからといっ
て、すぐ帰ってきたわけではない。今度は、道路で、遊んだ。

 そんな私だったから、今でも、メソメソしている子どもや、女々しい子どもを見ると、何とも言え
ない違和感を覚える。いつも心のどこかで、自分の幼少年期を基準にして、ものを考えるため
かもしれない。

 こうしたワンパク性にはよい面もあるが、当然のことに、悪い面もある。

 猪突猛進というか、他人の心を蹴散らしてしまう。その分だけ、相手の心が理解できない。と
くに私のばあい、小学6年生をすぎるまで、女子といっしょに遊んだ経験がない。当時は、女子
を遊ぶ男は、「女たらし」と呼ばれた。みなに軽蔑された。

 だから今でも、女性の「心」が、うまく理解できない。実際、今でも、女子を教えるのが苦手で
ある。心のどこかにカベをつくってしまう。

 こうした「私」が、ベースになって、今の「私」がいる。今度のW中学校の講演会では、それに
ついて話す。

 まだ内容はまとまっていないが、これから1週間をかけて、自分なりに、まとめてみたい。これ
は講演のためというより、まさに自分さがしのためと言ってよい。


●間接虐待

 直接虐待を受けなくても、まわりの騒動が原因で、子どもが、心理的に、虐待を受けたのと同
じ状態になることがある。これを私は、「間接虐待」と呼んでいる。

 たとえばはげしい夫婦げんかを見て、子どもがおびえたとする。「こわいよ」「こわいよ」と泣い
たとする。が、その夫婦には、子どもを虐待したという意識はない。しかし子どもは、その恐怖
感から、虐待を受けたときと同じキズが、心につく。これが間接虐待である。

 というのも、よく誤解されるが、虐待というのは、何も肉体的暴力だけではない。精神的な暴
力も、それに含まれる。言葉の虐待も、その一つである。言いかえると、心理的な苦痛をともな
うようであれば、それが直接的な虐待でなくても、虐待ということになる。

 たとえば、こんな例を考えてみよう。

 ある父親が、アルコール中毒か何かで、数日に1回は、酒を飲んで暴れたとする。食器棚を
押し倒し、妻(子どもの母親)を、殴ったり、蹴ったりしたとする。

 それを見て、子どもが、おびえ、大きな恐怖感を味わったとする。

 このとき、その父親は、直接子どもに暴力を加えなくても、その暴力と同じ心理的な苦痛を与
えたことになる。つまりその子どもに与える影響は、肉体的な虐待と同じということになる。それ
が私がいう、間接虐待である。

 が、問題は、ここにも書いたように、そういう苦痛を子どもに与えながら、その(与えている)と
いう意識が、親にないということ。家庭内騒動にせよ、はげしい夫婦げんかにせよ、親たちは
それを、自分たちだけの問題として、かたづけてしまう。

 しかしそういった騒動が、子どもには、大きな心理的苦痛を与えることがある。そしてその苦
痛が、まさに虐待といえるものであることがある。

 H氏(57歳)の例で考えてみよう。

 H氏の父親は、戦争で貫通銃創(銃弾が体内を通り抜けるようなケガ)を受けた。そのためも
あって、日本へ帰国してからは、毎晩、酒に溺れる日々がつづいた。

 今でいう、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)だったかもしれない。H氏の父親は、やがてア
ルコール中毒になり、家の中で暴れるようになった。

 当然、はげしい家庭内騒動が、つづくようになった。食卓をひっくりかえす、障子戸をぶち破
る、戸だなを倒すなどの乱暴を繰りかえした。今なら、離婚ということになったのだろうが、簡単
には離婚できない事情があった。H氏の家庭は、そのあたりでも本家。何人かの親戚が、近く
に住んでいた。

 H氏は、そういうはげしい家庭内騒動を見ながら、心に大きなキズを負った。

 ……といっても、H氏が、そのキズに気がついていたわけではない。心のキズというのは、そ
ういうもの。脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、本人が、それに気づくということ
は、むずかしい。

 しかしH氏には、自分でもどうすることもできない、心の問題があった。不安神経症や、二重
人格性など。とくに二重人格性は、深刻な問題だった。

 ふとしたきっかけで、もう一人の人格になってしまう。しかしH氏のばあい、救われるのは、そ
うした別の人格性¥をもったときも、それを客観的に判断することができたこと。もしそれがで
きなければ、まさに二重人格者ということになったかもしれない。

 が、なぜ、H氏が、そうなったか? 原因を、H氏の父親の酒乱に結びつけることはできない
が、しかしそれが原因でないとは、だれにも言えない。H氏には、いくつか思い当たる事実があ
った。

 その中でも、H氏がとくに強く覚えているのは、H氏が、6歳のときの夜のことだった。その夜
は、いつもよりも父親が酒を飲んで暴れた。そのときH氏は、5歳年上の姉と、家の物置小屋
に身を隠した。

 その夜のことは、H氏の姉もよく覚えていたという。H氏は、その姉と抱きあいながら、「こわ
い」「こわい」と、泣きあったという。その夜のことについて、H氏は、こう言う。

 「今でも、あの夜のことを思い出すと、体が震えます」と。

 心のキズというのは、そういうもの。キズといっても、肉体的なキズのように形があるわけでは
ない。外から見えるものでもない。しかし何らかの形で、その人の心を裏からあやつる。そして
あやつられるその人は、あやつられていることにすら、気がつかない。そして同じ苦痛を、繰り
かえし味わう。

 間接虐待。ここにも書いたが、この言葉は、私が考えた。

【注意】

 動物愛護団体の世界にも、「間接虐待」という言葉がある。飼っているペットを、庭に放置した
り、病気になっても、適切な措置をとらないことなどをいう。


●ある離婚

 昨夜、ハナ(犬)との散歩を終えて、家に入ろうとすると、そこにMさん(女性、41歳)が立って
いた。

 「どうかしましたか?」と、自転車を車庫に入れながら声をかけると、「先生、私、今度、実家
に帰ることにしました」と。

 懸命に笑顔をつくろうとしていたが、どこか苦痛に、その顔は、ゆがんでいた。車のライトを背
に、表情はよく見えなかったが……。

私「やはり、無理ですか……」
M「いろいろ努力はしてみましたが……」
私「お子さんたちは、納得していますか?」
M「まだ、話していませんが、しかたありません」と。

 Mさん夫婦の関係がおかしくなって、もう5年になるだろうか。いつだったか、Mさんの夫が私
にこう言ったことがある。「私たちは、もう形だけの夫婦なんです」と。

 その言葉が、頭の中を横切った。

 Mさんは、東北のY県から、嫁いで、このH市にやってきた。間に、友人のT氏がいて、それで
親しくなった。T氏が、Mさん夫婦の間をとりもった。夫のM氏に、奥さんのMさんを紹介したの
も、T氏だった。

しかしこうした離婚騒動は、1度や2度だけではなかった。そのつど、私は、それに振り回され
た。

私「Tさん(間の友人)に、相談しました?」
M「しても、どうせ、夫の味方をするだけですから……」
私「でも、こういう問題は、したほうがいいと思います」
M「しても、どうせ、ムダですから……」と。

 この5年間で、Mさんには、いろいろあった。育児ノイローゼ、うつ状態などなど。夫のM氏や
T氏が、Mさんを入院させようとしたこともある。しかしMさんは、がんとして、それを拒んだ。

 そんなことを頭の中で思い浮かべていると、Mさんが、あれこれ不平、不満を並べ始めた。

M「先生、Dさんを知っているでしょう? あのDさんが、私に意地悪をします。私が声をかける
と、わざと車のドアをバタンと閉めて、プイとするのです」「私の車に、いたずらをする子どもが
います。近所の子どもなんですが、バックミラーにキズをつけました」などなど。

 Mさんの精神状態は、あまりよくないといったふうだった。こまかいことを気にして、それをお
おげさにとりあげた。

しかし不平や不満を並べるうちは、まだよい。こういうときは聞き役にまわって、Mさんの心の
中にたまった、うっぷんを抜くのがよい。うまくいけば、離婚話をやわらげることができるかもし
れない。

 10分たち、20分がすぎた。Mさんは、立ったまま、私に、よどみなく話しかけてきた。私は、
自転車にもたれかかったまま、Mさんの話を聞いた。が、やはり、話題は、離婚の話にもどっ
た。

私「でも、やはり、お子さんの気持ちを聞いてみなくちゃ?」
M「でも、夫では、子どもを育てることはできません」
私「そう決めてかかってはいけません。お子さんたちが、さみしい思いをするでしょう?」
M「でも、私、こういう都会は、好きではありません。子どもを育てる環境としては、よくありませ
ん」と。

 Mさんは、今にも、私に体を投げ出しそうだった。「ワイフを呼んできますから、いっしょに相
談してみますか?」と言うと、「それは勘弁してください」と。

しかし私には、どうすることもできなかった。両手で自転車のハンドルを握りなおした。

私「やはり、私のほうから、Tさんに相談してみてあげましょうか?」
M「いいです。それは……。もう決めましたから……」
私「決めたって……?」
M「来月、Y県の実家に帰ります」と。

 秋のかわいた風が、何度も、車の流れとともに、間に流れた。私は、「そういうものかなア?」
と思いながら、その場を離れた。Mさんは、本当にそのまま離婚してしまうかもしれないし、ある
いはいつもの夫婦げんかで終わるかもしれない。

 いつか私のワイフは、私にこう言った。「女っていうのはね、離婚するときは、黙って、だれに
も相談せず、離婚するものよ」と。

 私のワイフのように、強い女性は、そうはいない。私も、ワイフとけんかすると、すぐ「離婚して
やる」とは言う。しかし、本気で、離婚を考えたことなどは、一度もない。それは口グセのような
ものかもしれない。あるいは出まかせのようなものかもしれない。自分でも、よくわからないが
……。

 家に入ってから、Mさんのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「そうねえ……。前から思っていたんだけど、私は、離婚したほうがいいと思うわ」と。

 「そういう簡単な話でもないのだがなあ……」と私は思いながら、私は自分の書斎に入った。
T氏に手紙を書き始めた。

【Tさんへ】

 お元気ですか。先日は改築祝いにお招きくださって、ありがとうございました。あれからもう半
年になります。新居の住み具合は、いかかがですか。

 ところで、今夜突然、手紙を書くことにしたのは、実は、あのMさん夫婦のことです。かなり深
刻な、様子です。M氏には、この数か月会っていませんが、ときどき奥さんのMさんが、私のと
ころへやってきます。

 今夜も、やってきました。私が散歩から帰るまで、そこでじっと待っていたようです。で、いつも
の離婚話です。どこまで本気で聞いてよいものやらという思いで、話を聞くだけは、聞いてあげ
ました。

 奥さんのMさんは、Y県へ子どもを連れて帰ると言っています。ご存知のように、こうした夫婦
の問題は、私たちには、どうすることもできません。間に子どもがいれば、なおさらです。しかも
今の状態をみると、「離婚しないほうがいい」とか、「離婚してはだめだ」と言うこともできませ
ん。M氏自身も、「私たちは、もう形だけの夫婦です」と言っています。

 Tさんとしては、さぞかしつらい思いをなさっておられることだろうと思います。しかし私の印象
では、Mさん夫婦がこうなったことについて、だれにも責任はないと思います。Mさんにしても、
Tさんを、うらんだりしているような様子は、まったく見られません。

 しかしやはり問題は、3人のお子さんだろうと思います。養育費の問題もありますし、今のM
氏の収入では、生活もたいへんだろうと思われます。それはわかります。そこで奥さんのMさ
んは、『私は仕事をする』と言っていますが、あの精神状態では、私は、無理ではないかと思っ
ています。率直に言って、それこそ何か、事件になるのではないかと、心配しています。

 でも、本当の原因は、私は奥さんのMさん自身にあるのではないかと思っています。もっと
も、なぜ奥さんのMさんがうつ状態になったかといえば、M氏にも責任がないとは言えません。
もう少し、奥さんのMさんのことを、心配してやるべきだったと思っています。

 無知というか、無責任というか……。以前、奥さんのことを、Mさんは、『あいつは、怠け病だ』
と、私に言ったことがあります。もう少し、ことは深刻だったのですが、M氏には、奥さんの心の
状態が理解できなかったようです。

 ともかくも、今は、こういう状態です。報告だけの、わけのわからない手紙になってしまいまし
た。私自身も、こういう手紙を書きながら、責任のがれをしているのかもしれません。あとにな
って、『どうしてもっと、早く知らせてくれなかったのか』と言われるのが、つらいからです。

 みんな無責任ですね。しかしやはり、どうすることもできません。最終的に、Mさん夫婦のこと
を決めるのは、Mさん夫婦だからです。私としては、来週あたり、またケロッとして、「先生、こ
んにちは!」と声をかけてくれるのを、望んでいますが……。

 奥さんのMさんが話してくれた、不平、不満を、箇条書きにしておきます。何かの参考になれ
ばうれしいです。

(1)夫が子どもたちの教育に無関心。
(2)夫の収入だけでは、生活が苦しい。
(3)夫が、仕事ばかりで、ほとんど家にいない。
(4)生活環境がよくない。今のようなマンション生活はいやだ。
(5)(家が大通りに面していて)、騒々しくて、よく眠れない。
(6)このところ、駐車場にとめてある車に、いたずらをする人がいる。
(7)近所のXさんと、いつもけんかをしている。
(8)長男の友人がよくない。悪い遊びを覚えている、など。

 私の印象としては、ああまで趣味などがちがう夫婦ですから、いっしょに何かをするというわ
けにも、いかないのではないかと思っています。もちろん考え方もちがいますし……。M氏は、
のんびりとした性格。しかし奥さんのMさんは、異常なまでに、教育に熱心です。

 先日も、となりのA小学校よりも、教える進度が遅れていると、学校へ文句を言っていったそ
うです。長男には、毎朝6時に起こし、勉強をさせているそうです。今夜も、私が、「そこまでさ
せてはだめです」と言ったのですが、聞いてもらえませんでした。過激というよりも、めちゃめち
ゃといった感じです。

 奥さんのMさんの、育児ノイローゼは、そんなわけで、相変わらず、つづいているようです。今
はまだ長男も小さいからいいのですが、そのうち、反抗するようになると思います。

どう思いますか? 奥さんのMさんは、さかんに、「夫では、子育ては無理だ」と言っています
が、本当のところは、M氏に任せたほうが、よいのではないかと思っています。3人の子どもた
ちも、父親のM氏のほうを、より慕っているように思います。あくまでも、私の感じた印象ですが
……。

 もう少し、時間をおいて様子をみてみます。

 では、今夜は、これで失礼します。奥様によろしくお伝えください。おやすみなさい。

                         2004年X月X日 林 浩司

++++++++++++++++++

 Mさんは、ここにも書いたような精神状態で、自分のことを考えるだけで、精一杯。そんな感
じである。

 「(Mさんの)子どもたちは、どう思っていますか?」
 「子どもたちは、東北へいっしょに帰りたいと言っていますか?」
 「ご主人は、どう言っていますか?」

……などと聞いても、「子どもたちは問題ない」「夫には相談する必要はない」と、そんな言い方
ばかりをする。

 自己中心的というか、他人の心まで、自分で決めてしまっている。Mさん自身が、厚いカプセ
ルの中に閉じこもってしまっている。話していて息苦しさを感ずるのは、そのためである。はっ
きり言えば、自分勝手。わがまま。

 Mさんは、「あれが悪い」「これが悪い」と言う。しかし本当のところ、その原因は、Mさん自身
にある。

 たとえばMさんは、こう言った。

 「近所のXさんと、けんかはした。私が悪かった。しかしそのあと、私は、お菓子をもって、あ
やまりに行った。だけど、許してくれなかった」と。

 Mさんは、「お菓子までもってあやまりにいったんだから、許してくれてもいいハズ。もう怒って
いないハズ。トラブルは解決したハズ」と、すべてを、自分勝手な、「ハズ論」で考えている。

 しかし一度こわれた人間関係は、そんな簡単には、修復できない。そういった常識が、Mさん
には、欠けていた。つまりそれこそが、自己中心性の表れということになる。

 はっきり言おう。

 離婚することが決して不幸と言っているのではない。幸福に形はない。だから、結婚するとき
も、反対に、離婚するときも、そのときどきにおいて、それぞれの人は、自分の道を選べばよ
い。

しかし不幸になっていく人には、いつも1本の道がある。しかしその本人には、その道が見えな
い。自分で、見ようともしない。見えないまま、その道にそって、まっしぐらに、不幸になってい
く。

 賢い人は、そこで立ち止まって、自分の道を見る。しかし愚かな人は、他人がその道を見せ
てくれても、それを自ら否定する。目を閉じる。

【補記】

 人格の完成度は、(1)他者との共鳴性、(2)自己管理能力、(3)他者との良好な人間関係
でみる。

 その中で、(2)の自己管理能力について言うなら、感情のおもむくまま、そして欲望のおもむ
くまま、行動する人は、それだけ自己管理能力の低い人とみる。

 Mさんは、その自己管理能力に欠けていると思う。近所のXさんとのトラブルの原因も、そこ
にあった。

 近所のXさんは、毎朝、ベランダでふとんをたたいていたのだが、たまたま風向きで、大きな
ホコリが、Mさんの部屋のほうまで飛んできた。それでMさんが、Xさんに電話した。

 もしそのとき、ほんの少しだけ、Mさんに自己管理能力があれば、ほかの言い方もできたの
だろう。しかしMさんは、電話口で、大声で怒鳴ってしまった。それで電話を受けたXさんも、感
情的になってしまった。

 「フトンのゴミを落さないで!」「何よ、あんたんどころだって、フトンくらい、たたくでしょう!」
と。恐らく、そういう言い争いになったのだろうと思う。以後、ことあるごとに、2人は、いがみあ
うようになった。

 またMさんの夫が、家族のことを、顧(かえり)みなくなったことについても、Mさんにも責任が
ある。

 Mさんは私にさえ、こう言ったことがある。「夫の給料が少なくて、困っています。夫の実家の
助けを受けているくらいです。あの人が、もう少し、仕事ができたらいいんですが……」と。

 恐らく、夫のM氏には、もっと直接的に、不満をぶつけていたにちがいない。「こんな給料で
は、生活できないわよ」とか、何とか。夫のM氏が、家庭から遠ざかったとしても、不思議では
ない。

 もちろんすべての原因が、Mさんにあったというわけではない。しかしもう少し、Mさんが、自
分が進んでいる道に気がついていたら、こういうことにはならなかったと思う。

【補記2】

 「私が絶対正しい」「私はまちがっていない」と思うのは、その人の勝手だが、謙虚さをなくした
とき、その人は、独善の道に入る。

 その独善の道に入れば入るほど、視野がせまくなる。自分の道が見えなくなる。Mさんは、
「子どもことは、私が一番よく知っている」と何度も言った。

 しかし本当にそうだろうか? 私の印象では、3人の子どもたちは、父親のM氏のほうを、よ
り慕っているように見える。ただ今は、まだ幼いということもあって、絶対的な母子関係という呪
縛の中に、とらわれているだけ。

 Mさんは、その呪縛をよいことに、3人の子どもを支配している。しかしその呪縛は、それほ
ど、長くはつづかない。もうあと、1、2年もすれば、長男のほうが、その呪縛からのがれ、個人
化(私は私という生きザマを求める)を始めるようになる。

 子どもにとって母親は、絶対的な存在である。命を育てられ、生まれたあとも、乳を与えられ
る。子どもは父親なしでも、生まれ育つことはできる。しかし母親なしでは、生まれることも、育
つこともできない。それがここでいう呪縛ということになる。

 母親たちは、その呪縛に甘えてはいけない。その呪縛をよいことに、子どもをしばってはいけ
ない。子どもを支配してはいけない。

 Mさんは、そうした事実にも、気がついていない。気がつかないまま、「私は絶対だ」と思いこ
んでいる。つまりこのタイプの母親ほど、子育てをしながら、子どもの心を見失う。私の印象で
は、母親と子どもたちが断絶するのは、時間の問題だと思う。

【注】

 どこか男の立場だけで、Mさんの問題を考えたような気がする。もちろんMさんというのは、架
空の女性である。実在しない。ある読者から、いただいたメールをもとに、いろいろな例をまぜ
て、私が、想像して書いた。どうか、そういうことも念頭において、この「ある離婚」を読んでほし
い。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(405)

●人間のクズ?

 ワイフが、こんな話を聞いてきた。

 ワイフの友人に、一人の娘がいる。娘は、今年、25歳になるという。その娘に、伯母(友人の
姉)がいつも、こう言っているという。

 「あのね、あんたも、そろそろ結婚するんだろうけど、人間のクズのような男と結婚してはだめ
よ」と。

 そこでワイフの友人(娘の母親)が、「クズって、どういう人間をいうの?」と聞いた。すると、そ
の伯母は、臆面もなく、こう答えたという。

 「クズっていうのはね、町工場で働くような工員をいうのよ」と。

 激怒! 大激怒!

 久々に、その話を聞いて、私は、激怒した。いつもになく、激怒した。

私は、もちろんそのワイフの友人も、伯母も知らない。が、その伯母に激怒したのではない。そ
の伯母こそが、人間のクズ。そんなクズのような伯母など、どうでもよい。私は、そういう狂った
常識をつくった、日本の社会に激怒した。

 私も昔、「幼稚園の教師をしている」と言ったとき、同じような言葉を浴びせかけられたことが
ある。高校時代の担任の教師でさえ、こう言った。私がちょうど、30歳のとき、同窓会に出たと
きのことである。

 「お前だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 幼稚園で働くことを、「わけのわからない仕事」と。

 何も、会社勤めだけが、仕事ではあるまい。たしかに、この日本には、職業による差別意識
が、まだ残っている。が、おかしいのは、職業のほうではない。その差別意識のほうだ。その差
別意識が、おかしい。

私「じゃあ、その伯母様は、どんな仕事をしているの? 伯母様のダンナ様は、どんな仕事をし
ているの?」
ワイフ「知らないわ……」
私「今度、ちゃんと、聞いておいてよ」と。

(マガジンにこの原稿を載せるまでに、聞いて、ここに書いておく。私の印象では、その伯母様
のダンナ様とやらは、士農工商制度の中の、武士階級の流れをくむ職業をしているのではな
いかと思う。でなければ、そういう発想は、生まれない。)

 それにしても、まあ、ヌケヌケと、よく言ったものだ。「クズ」とはねえ……!

 私はこういう狂った常識と戦うために、今、この日本で、原稿を書いている。まさにそこに、私
の書く目的がある!

【付記】

 人生の先輩である、伯母ともあろう人が、姪(めい)に、そのように教える。教えながら、何も、
疑問に思っていない。

 ここまで書いて、ワイフに、その伯母様のダンナ様は、どんな仕事をしているか、改めて、聞
いてみた。

(この間、半日が過ぎた。ワイフが、その友人に、電話を入れてくれた。)

 ワイフが言うには、そのダンナ様は、今は、大阪府のT市に住んでいて、今は定年退職をして
いるという。退職前は、XX局に勤めていたという。(ヤッパリ!)

 しかしこの怒りは、どこからくるのか。どう、この怒りをしずめたらよいのか。

 ……そこで思い出したのが、数年前、東京のM田市に住んでいる先生から聞いた話。

 何でもある夜、ある母親が、自分の子ども(小学5年生)を連れて、近くの公園へ行ったそう
だ。そしてその公園で寝泊りするホームレスの人たちを見せて、その母親は、自分の子ども
に、こう言ったそうだ。

 「あんたも、しっかりと勉強するのよ。勉強しないと、ああいう人たちになるのよ」と。

 こういう愚かな伯母や、親がいるかぎり、日本の教育は、よくならない!


●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


●精進(しょうじん)

 ほとんどの人は、人は、老人になればなるほど、経験が豊かになり、人格的にも高邁(こうま
い)になると考えている(?)。多分(?)。

 これはまったくの、ウソ。誤解。幻想。

 ウソであることは、自分が、その老人に近づいてみてわかった。

 老人になればなるほど、その住む世界が小さくなる。世間との交流も少なくなる。さらに脳細
胞がかたくなり、過去に固執するようになる。回顧性も強くなり、そこで進歩を止める。

 が、もっと大きな問題がある。実は、知識も、経験も、知恵も、どんどんと減っていくというこ
と。車の運転でたとえるなら、視野がせまくなり、まわりの様子が見えなくなる。もちろん運転の
しかたも、へたになる。注意力も散漫になる。

 しかし最大の悲劇は、そうなりながらも、老人のほとんどは、自分がそうであることに気づか
ないこと。「私は、絶対正しい」と、思いこんでいる老人の、何と多いことか。過去の職歴や栄華
にしがみついている人が、何と多いことか。

 他人の意見に耳を傾けない。人の話を聞かない。だいたい、本も読まない。

 昨日も、オレオレ詐欺のことが、新聞に載っていた。その人は、500万円近く、だまし取られ
たという。だますほうも、ますます巧妙になってきた。それはある。しかしこれだけ報道され、世
間の話題になっているのに、まだだまされる人がいる。そのことのほうが、問題なのである。

 言うまでもなく、だまされる人のほとんどは、老人。つまり、老人たちは、それくらい、学習をし
ていない! 世間を見ていない!

 何度も言うが、健康論と人格論は、似ている。立ち止まったときから、その人の健康にせよ、
人格にせよ、後退する。

 そういう意味では、老人になればなるほど、毎日、新しい情報を吸収し、考え、それを自分の
ものとしていかなければならない。それでも現状維持が精一杯。「進歩」などというのは、もう望
みようもない。現状維持ができるだけでも、御(おん)の字。

 「私は完成された人間だ」と思うのは、「私は完成された健康をもっている」と思うのと同じくら
い、愚かなこと。

 私がここに書いたことに疑問をもつなら、ためしにあなたの周辺の老人たちを観察してみれ
ばよい。あなたの周辺で、いつも前向きに生きている老人は、いったい、何人いるだろうか?

 ほとんどの老人たちは、かぎられた命の中で、ただ無意味に、時間を浪費しているだけ……
というのは、言い過ぎかもしれないが、現実には、そうではないのか。ほとんどの老人たちは、
明日死んでも、10年後に死んでも同じ……というような人生を送っている。

 しかし、それがよいとは、だれも思わない。他人のことを言っているのではない。私たちは、
そうであってはいけないと言っている。

 だからあの釈迦は、「精進」という言葉を使った。「死ぬまで、生きて生きて、生き抜く。それが
精進だ」と。繰りかえすが、立ち止まったときから、その人の人格は、後退する。

【注、精進】……一心に仏道を修行すること。ひたすら努力すること。(日本語大事辞典)
 

●子育ての本当のおもしろさ

 母親の養育態度は、子どもの性格や心理のみならず、生きザマにも、大きな影響を与える。

 たとえば子どもを甘やかせば、子どもは「わがまま、反抗的、幼児的、神経質」(詫摩武俊氏)
になるという。

 それはそのとおり。が、問題は、そのつぎ。つまりこうして(つくられた私)が、そののち、なお
るということは、まず、ない。たとえば甘やかされて育った子どもが、ここでいうわがままで、反
抗的な子どもになったとする。しかしそうした性格が、子ども時代だけで終わるわけではない。

 そのまま、おとなになってからも、ずっとつづく。さらに、とくに何か大きな心境の変化でもない
かぎり、死ぬまでつづく。『三つ子の魂、百まで』とは、本当に、よく言ったものである。

 そこで今、あなた自身は、どうか。それを少しだけ、さぐってみてほしい。

 あなたの中には、(私であって、私である部分)と、(私であって、私でない部分)が、同居して
いるはず。あるいは「私は私」と思っている部分にしても、大半は、実は(つくられた私)かもし
れない。

 この(私であって、私でない部分)に気づくことは、とても重要なことである。

 たとえば子どもを虐待する親がいる。いろいろな調査結果を見ても、約50%の母親が、子ど
もに体罰を加えていることがわかっている。そのうち、約70%、(全体としてみれば35%)近い
母親は、虐待に近い体罰を加えていることがわかっている。

 で、そうした虐待にしても、(私であって、私である部分)が、そうしているというよりは、(私で
あって、私でない部分)が、そうしていると考えたほうがよい。(だからといって、正当化している
のではない。誤解のないように!)

 ほかに母親の育児態度が、残酷であったりすると、子どもは、「強情、冷酷、神経質、逃避
的、独立的」(詫摩)になるという。

 そこでもし今のあなたが、強情で、冷酷で、神経質で、逃避的で、独立的なら、そういう性格
は、あなた自身が、みずからつくりあげたものというよりは、母親の育児態度の中でつくられた
ものであるということになる。

 それが(私であって、私でない部分)ということになる。

 こうして考えてみると、私を知ることは、本当にむずかしい。どの人も、「私のことは、私が一
番よく知っている」と思っている。しかし実のところ、「私」を知っている人は、ほとんどいない。

 そこで私を知るための一つのヒントとして、あなたは、一度、あなたは子ども時代、どういう生
活環境の中で、どのような子育てを受けたかを、少しだけ思い出してみたらよい。

 もしあなたが、どこか幼稚ぽく、依存的で、神経質。さらにものの考え方が受動的で、おく病な
ら(詫摩)、それはあなた自身でそうなったというよりは、親、とくに母親の養育態度の結果とし
てそうなったと考えたらよい。

 そうして自分の中から、(私であって、私である部分)と、(私であって、私でない部分)をより
わけていく。

 つまり、これが結論ということになるが、子どもを育てるということは、結局は、自分を発見す
ることにもなる。言いかえると、そこに幼児教育というか、子育ての本当のおもしろさがある。
(041106)


●つくられる世論

 K国とイランが、核兵器開発で、協力していた!

 そんなニュースが、今朝(11・7)、報道された。ヤフー・NEWSによれば、K国は、「核開発
に必要なフッ素ガスを輸出していたことがわかった」という。

 フッ素ガスが、どういうものかは、本当のところ私にもよくわからない。要するに、濃縮ウラン
の原料となるものだという。K国が、世界にとって、いかに危険な国であるか、この一例を見て
もわかる。やがて世界のテロリストたちが、こぞって、核兵器を使うようになるかもしれない。

 で、それを防ぐために、世界の政治家たちが動いている。が、ここにも、問題がある。

 昨日(11・6)、日本のM外務大臣が、韓国のN大統領や、B外交通商大臣と会談した。日本
側は、「6カ国協議を年内に開催するために日米韓の連携が重要だ」と述べた。それについ
て、N大統領は、「南北関係進展は六カ国協議進展にも関係している。日米両国と考えを一致
させていく必要があり、これからも緊密に連携を図っていく」と応じ、「両者は北朝鮮問題解決
に向けた日米韓協力の必要性」を、改めて確認したという(ヤフーNEWS)。

 しかし、だ。肝心の韓国側の報道は、いっさい、このことには、触れていない。

 わかりやすく言えば、日本側は、「改めて確認した」と発表し、韓国側は黙殺。東A日報も、朝
鮮日報も、何も報道していない。

 かわりに、朝鮮N報は、「K国は、強硬な姿勢から、軟化のきざし」などと、むしろK国の肩を
もつような報道を繰りかえしている。

 つまり、こうして、それぞれの国の世論が形成されていく。そしてそれが誤解から、偏見へと
つながっていく。戦争につながることもある。

 実のところ、こうして日本側の報道と、韓国側の報道を読みくらべていると、何がなんだか、
わけがわからなくなる。どちらが正しいとか、そうでないとか言っているのではない。たがいに、
自分たちのもっているある意図に従って、つごうのよい報道し、そしてつごうの悪い報道は、し
ない。

 私たちがもっている、世論というのは、あくまでもその結果でしかない(?)。しかし考えてみれ
ば、これほど恐ろしいことはない。

【付記】

 平和宣言というものがある。「私たちは、平和を守ります」という、あれである。

 しかしあの平和宣言ほど、無意味なものはない。それはたとえて言うなら、幸福宣言のような
もの。「私たちは、幸福になります」と宣言するのと同じ。
 
 幸福って、いったい、何だ? 同じように、平和って、いったい、何だ?

 殺しあいはいやだと、逃げてまわるのは、平和主義でもなんでもない。ただのおく病という。

 あるいは「私たちは何もしない。だから相手も、私たちに何もしないはず」と考えるのも、甘
い。甘いことは、戦前の日本を見ればわかる。

 戦前の日本は、そういう国々が、平和であることをよいことに、そういう国々を、どんどんと侵
略していった。

 が、戦争を回避する方法がないわけではない。

 恩師のT先生は、先日、メールでこう話してくれた。「情報化がもっと進み、世界がグローバル
化(一体化)すれば、戦争はなくなりますよ」と。

 そういう話なら、私にも、わかる。つまり各国のカベを取り払い、たがいの情報を筒抜けにす
れば、よい。戦争をする意味がなくなる。わかりやすく言えば、今のアメリカや、EUのように、
多くの民族が、一つの国として、情報を介して、まとまってしまう。

 そうすれば、戦争などしても、意味はない。つまりその結果として、世界は、平和になる。今の
日本だって、たった150年前には、薩摩(さつま)だの、長州だの、幕府だの官軍だのといっ
て、たがいに戦争していたではないか。

 いつか、今という時代を振りかえって、私たちの子孫はこう言うかもしれない。「昔は、日本だ
の、韓国だの、K国だのといって、戦争していたではないか」と。

 私たちがめざすべきは、そういう世界である。

 平和を守るために……世界の情報化を、もっと、推進しよう! 言論の自由と報道の自由
を、守ろう! 誇張された民族主義(アインシュタイン)と、戦おう! 平和は、その結果として、
私たちのところへやってくる!


●アクセス解析

 私のホームページに、アクセス解析なる、サービスをつけてみた。

 F社が提供している、無料解析サービスである。

 ふつう、ほとんどのHPには、アクセスカウンターというのがついている。そのHPにアクセスし
た人が、何人かが、それでわかる。が、F社のアクセス解析サービスは、そんなものではない。

 そのアクセスした人の内容を、解析する。それが、そのサービスである。

 しかし、これがすごい! 時間帯別のアクセス数はもちろんのこと、重複してアクセスした人
の割合、さらに、相手のアドレスはもちろんのこと、どのページからどのようにアクセスしてきた
かまで、すべてわかる。

 相手の国名、県名、それにその数まで、わかる。

 最初は、おもしろ半分。ためし気分。しかしきのうは、おもしろくて、そのアクセス解析を、ずっ
と(ときどき)、見ていた。

 三重県の人が、午後3時5分ごろ、4回訪問……。島根県の人が、午後3時10分ごろ、グー
グルの検索から、訪問。2回ほど、トップページにもどったあと、退出などなど。

 そういうことがわかったところで、どうということはないのだが、何かしら、ホームページに、奥
行きができたような気分になった。

 それはたとえて言うと、書店に客がやってきて、自分の書いた本を立ち読みする人の姿を見
ているような気分に似ている。「買ってくれるだろうか」「買わないで、そのまま帰るだろうか」と、
ハラハラして見守る、あの気分である。

 まだ、きのう、そのサービスをつけたばかりで、これから先のことはわからない。つまり、私の
心がどう変化するかわからない。そのうち、それもわずらわしくなるかもしれない。どうでもよく
なるかもしれない。

 ここにも書いたように、それがわかったところで、私には、利益はない。何かの役にたつとい
うこともない。多分、私のことだから、明日ごろには、そのサービスのことも忘れてしまうだろう。

 しかし、今のところ、気になる。と、同時に、インターネットの恐ろしさというか、おもしろさも、
感ずる。

 以前、息子(プロのプログラマー)が、こう言っていたのを思い出した。

 「パパ、コンピュータの世界ではね、どんなことでも、できるんだよ」と。

 その息子の言葉を、改めて、実感した。


●立ち勉のすすめ

 今週から、しばらく私の教室(BW教室)では、立ち勉をすることにした。私の知っているかぎ
り、この学習・教育法は、世界で、はじめての試みである(2004年11月はじめ)。

 立ち勉……つまり、イスをとりはらい、机に向って、立ったままの姿勢で、勉強する。その写
真は、HTML版のほうで、紹介する。

 この立ち勉の利点は、いくつかある。

(1)姿勢がよくなる。(腰をのばして、学習できる。)
(2)居眠りなどできなくなる。(イスにすわっていると、体の緊張感が消える。)
(3)集中力がます。(背中が緊張しているためではないか。)
(4)子どもが活動的になる。(さっと、行動できる。)
(5)結果として、学習能率があがる。(実際、その効率には、驚く。)
(6)教師側の指導がしやすい。(机があがった分だけ、体をかがめなくてもよい。)

 実際、してみて、問題点もわかった。

(1)今までは、上から子どもたちを見おろすようにして指導ができたが、立ち勉のばあいは、う
しろの席の子どもの様子がよくわからなくなる。たとえばその分だけ、教師側の指導位置を高く
したり、教材を上にもちあげたりしなければならない。

(2)子どもたちが行動的になった分だけ、机にぶらさがったり、机の下にもぐったりする子ども
がいる。これについては、最初に、ルールを徹底させることで、対処できる。たとえば学習中
は、一定のワクから出てはいけない、など。(最初、しばらくとまどった様子が見られたが、それ
は最初だけ。あとは、いつものように授業ができた。)

 立ち勉……私の教室では、イスの高さは固定式。しかし机の高さは、自在に調整できるよう
にしてある。だから、こうした学習法を取り入れることができた。

 世界で、はじめての学習、教育法である。ハハハ。何でも、世界ではじめてというのは、楽し
い。称して、「立ち勉」。どこか「立ち小便」にゴロが似ている。ハハハ。

 なお、「子どもが疲れないか」という質問ももらった。

 しかしその心配は、無用。むしろ足腰が強くなるという利点を、もっと積極的に評価すべきで
はないか。私も講演などで、4時間近く立って話をすることがある。しかしそれで疲れたと感じた
ことはない。

 そう言えば、理髪店を営んでいるいとこも、そう言っていた。「立って仕事をしているため、ぼく
らはみな、健康です」と。考えてみれば、勉強というのは座ってするものという、常識のほうが、
おかしい!

 立ち勉に興味をもった方は、どうか、ご一報を!
(はやし浩司 立ち勉 立って学習 立ち勉教育法 立った姿勢で学習 椅子なし学習 イスな
し学習法 立ったまま勉強 立ち学習 立ち勉強)


●親業訓練協会

 「親業」と、このあたりでは、呼ばれている。私のワイフの友人も、その指導員をしている。「親
業訓練協会」が主催する、家庭教育法を総称して、「親業」という。東京都板橋区に本部をお
く、親業訓練協会が発行するホームページには、こうある。
「(子育ての)不安を解消し、親としての役割を効果的に果たすためのトレーニングがあること
をご存知ですか? それがここにご紹介する親業訓練なのです」と。

聞く、話すことを中心に、親子(家族)の対立を解くのが、親業の柱になっているという。そして
つぎの4つを、家庭教育の理念として、あげているという。要約なので、まちがっていたら、失
礼。あくまでも参考に。

興味のある方は、「親業訓練協会」で検索すると、協会のHPをヒットできる。

(1)親子の双方の、愛情と理解に満ちた関係の実現。
(2)子どもの知性の発達は、豊かな感情によって支えられる。
(3)子どもも親も、すばらしさと、希望をもつ。
(4)子どもの欲求を、子どもを取り囲む環境全体で、とらえる。

 概して言えば、日本で教育というと、学校教育をいう。しかしアメリカでは、学校教育と家庭教
育の比重が、半々くらいになっている。そのことは、大学の書店をながめてみても、わかる。

 日本では、家庭教育の本は、書店でも、すみのほうにあるだけ。しかしアメリカでは、学校教
育の本と、家庭教育の本が、半々程度に、いっしょに並んでいる。このあたりにも、日本の教
育というか、子育ての問題点が隠されているように思う。

つまり家庭教育が、あまりにもなおざりにされすぎている。その一方で、学校万能主義のもと、
「何でもかんでも学校」という発想ばかりが、先行している。

 「親業」というのは、1962年に、そのアメリカの心理学者、ゴートンによって、始められた活
動をいう。「Parent Effectiveness Training 」(よい親・訓練)を、訳して、日本では、「親業」とい
う。1962年といえば、戦後のアメリカン・ドリーム全盛のころ。新家族主義が、全米を謳歌した
時代でもある。

 活動内容や指導内容については、私には、よくわからない。だから、これ以上のコメントは、
ここではさしひかえたい。マガジン読者の方(三重県K市在住)より、「親業って、何ですか」とい
う質問をもらったので、知っている範囲で、ここに書いてみた。
(はやし浩司 親業 親業訓練協会)

【付記】

 たしかに子どもの話しに耳を傾けることは重要なこと。親の立場と権威だけで、一方的に、子
どもに命令するのは、よくない。

 日本では、学校でも、「わかったか?」「ではつぎ!」が、教育の基本になっている。しかしアメ
リカでは、「君は、どう思う?」「それはいい考えだ」が、教育の基本になっている。

 こうした姿勢のちがいから、子どもは、(考える子ども)と、(考えない子ども)が、分かれるの
ではないか。


●11月7日

 風邪気味の体だったが、ワイフと2人で、浜松市の北のほうにある、三岳山に登った。

 途中、2度、道に迷った。おかげでそのたびに、もと来た道を、登ったりくだったり……。予定
の行程の2倍は、歩いたと思う。疲れた。

 で、帰ってきてから、近くの大型店で、等身大のサンタクロースの人形を買ってきた。歌も歌う
し、マイクでしゃべると、そのマイクにあわせて、口まで動かしてくれる。さっそく明日から、教室
に設置するつもり。子どもたちが、喜ぶだろう。ワクワク。

 今は、こうして静かに夕飯を待つだけ。今夜のメニューは、豚肉のステーキ。先ほど、ワイフ
が、「少し頭が痛い」と言っていた。きっと疲れたのだろう。今夜は、早く寝るつもり。私も疲れ
た。コタツの中に入っているだけで、猛烈な睡魔が襲ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(406)

【500号に寄せて……】

 500号ということで、みなさんからの、意見を募集しました(11月7日)。結果、多くの方から、
意見をいただきました。それらを紹介します。

●毎回本当に楽しみに読ませていただいております。悩んだり迷ったりしたときに、パッとはや
しさんの言葉が頭をよぎるようになりました。本当に何度も何度も読んで読んで・・書き留めた
手帳も1冊使い切ってしまい今、2冊目に突入しました。

携帯にもブックマークしてあって、よく見ています。本当に助けられています。それだけでなく、
はやしさんの日ごろのご様子も日記でよくわかるので、奥様とのやり取りもほほえましく拝見し
ています。これからも楽しみにしています。(東京都・FW様)


●はやし先生、マガジンの500号発刊おめでとうございます。約1年半お世話になってます。子
どもの育て方や周囲の人との付き合い方、について、とてもたくさんの大切なことを教えていた
だきました。母親が変わると子どもも落ち着きますね。そして、育児も不満より、幸福が勝る度
合いが日々増えていき、「(娘には)今生きてくれているだけでいい」という気持ちになってきま
すね。そのゆとりこそが、子どもを自由に、伸びる方向へ導いていくって、実感できるようになり
ました。

 人とのかかわりのいろいろな瞬間に(子どもの友達の母親とかかわっているとき、子どもの
担任の先生との話あい、義理の両親、自分の実家の家族・・・いろいろな人間関係のちょっとし
た瞬間に先生からの言葉を思い出し、それぞれと関係がよくなったり、妙なことに深入りせず
に事なきを得たり。先生の優しさ、誠実さ、またそれと相反する人間として正直な部分、そして
素敵なご家族とのお話〜あげればキリがないのですが、マガジンでの先生のお考えが、私の
生活をよりよくしてくれました。

 友人数人もマガジン購読するようになり、わずかですが、身の回りに先生のファンが増え、
時々、マガジンや、HPに載っていたことが話題になったり。この輪がしずかに穏やかに広がる
といいなと思います。

 これからもマガジンを読み、できるところから、生活の場に取り入れ、心を豊かにしていきた
いです。よろしくお願いします。(東京都・C・K様) 


●500号達成、おめでとうございます。

 先生の目標である1000号まで、後半分のところまできましたね。これまでの先生のメルマガ
を拝見する限り、それは決して平坦な道のりではなかったと思います。先生が続けてこられた
ことに、一読者として感謝申し上げます。

 私は200号代から読み始めました。ほとんど毎週目を通すようにしていますので、もう200
号余り読んだことになります。

 どうして読み続けているか。それは役に立つ情報もさることながら、読んで、素直になれる自
分がいるからだと思います。それは先生が、普通の人なら隠そうとするでしょう、ご自分のつら
さ、苦しさなども、洗いざらいさらけだしてくれているからではないでしょうか。

 価値あるメルマガ、これからも楽しみにしています。
頑張ってください。(静岡県・M・T様)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(407)

【「私」とは……】

●車の中で

 マガジンを発行するということは、頭のジョギングのようなもの。一言で言えば、そういうことに
なる。考えることで、頭の健康が維持される。

 それについて、今朝もワイフが、車の中で、こう言った。「みながみな、考えることが好きとい
うわけじゃ、ないわ」と。

 それに答えて、私は、こう言った。

 「それだけではない。考えるからこそ、私は私でいられる」と。

私「たしかに考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのことは、中学生たちに、証明の問
題を解かせてみるとわかる。だれも、その苦痛に満ちた、緊張感を覚える」
ワイフ「できるだけ、考えることを避けようとするのね」
私「そうだよ」と。

ワ「じゃあ、考えることと、私とは、どういう関係があるの?」
私「いいか、その人の行動は、その大半が、その人の意思とは関係のない世界で、決められ
ている。食欲にしても、性欲にしても、本来の意思とは関係ない。本能だ。本能に操られている
だけ。しかし人は、考えることによって、自分をつかむことができる」と。

私は、車の中で、こんな話をし始めた。

私の中には、(私であって、私でない部分)と、(私であって、私である部分)がある。そのうち、
(私であって、私である部分)というのは、つまりは(自分で考える部分)ということになる。

 たとえば私が、何かのことで、いじけたり、すねたり、ねたんだりする。そういった部分は、(私
であって、私でない部分)ということになる。食欲や性欲によって、動かされる部分も、ここでい
う(私であって、私でない部分)ということになる。

 コンピュータで考えてみれば、それがわかる。

●プログラムで動くコンピュータには、「私」はない。

 今、コンピュータに、住所録のソフトを、インストールしたとしよう。便利なソフトで、郵便番号を
入力するだけで、自動的に住所に変換してくれる。

 そのとき、コンピュータは、入力されたとおりの仕事をしているだけで、ただの機械でしかな
い。つまりコンピュータは、いくらぼう大な仕事を瞬時にしたところで、ただの機械。

 コンピュータが、コンピュータという「私」を、認識することはない。

 しかしそのコンピュータが、自分で考えたら、どうなるか。たとえば「今日は、少し気温が低
い。電流も、1000分の3アンペアだけ、低い。寒いな。もうそろそろ正月も近いから、年賀状
を書こう」と。

 その自分で考えた部分が、コンピュータの中の「私」ということになる。

 人間も、同じ。まったく、同じ。

●つくられる「私」

 あなたや私には、性格や性質がある。素質もある。精神的にゆがんだ部分もあれば、情緒
的に不安定な部分もある。得意、不得意な部分もある。

 しかしそれらは、生まれたあと、(あるいは生まれる前からでもよいが)、遺伝子と環境の中
で、つくられたものである。すべてが、そうであると考えてよい。

 たとえば私は、30歳になる少し前、飛行機事故を経験している。そのときからほぼ10年近
く、飛行機に乗れなくなってしまった。飛行機恐怖症という恐怖症になったためである。

 この恐怖症にしても、生きてきた環境の中で、つくられたものである。つまり(私であって、私
でない部分)ということになる。

 もう少し、深く、考えてみよう。

●あなたでない、あなた

 あなたがなぜ、今、あなたかと言えば、あなたの父親の精子と、あなたの母親の卵子が結合
したからである。もしそのとき、1億個近く射精された精子が、あなたをつくる精子ではなく、つ
ぎの精子であったとしたら、今の、あなたはいないということ。見た目には、あなたとまったく同
じであっても、それはあなたではない。

 今のあなたが、あなたであるのは、偶然にすぎない。

射精された精子の数は、平均で1億個と言われている。それらの精子が、猛烈な競争をしなが
ら、一個の卵子に突入する。そのとき、その卵子に突入できる精子は、1個だけ。残りの999
9万9999個の精子は、ムダとなって、死ぬ。

 あなたをつくった精子を、1億個の中の精子の、1番目の精子とする。もしそのとき、何らか
の拍子に、1番目の精子が、2番目の精子に競争にまけ、席をゆずったとする。するとそのと
き生まれるのは、あなたではない、別のあなたということになる。

 卵子にしても、つぎの卵子であったら、今の、あなたではない。別のあなたである。

 しかしそのとき、あなたではない、もう1人の別の人間が生まれていたはずである。そしてそ
の人間は、外の人間から見れば、まったくあなたと同じ人間ということになる。名前も、同じ名
前がつけられただろう。性格も、性質も、今のあなたとほとんど同じと考えてよい。

 こうして「あなた」は、作られていく。それはたとえて言うなら、あなたの脳ミソの中に、無数の
プログラムがインストールされていくようなものと考えてよい。

 たとえば甘やかされれば、依存性の強いあなたになる。虐待されば、冷酷なあなたになる。し
かし幸運にも、やさしい両親に恵まれれば、心のやさしいあなたになる。

 しかしそうして作られたあなたは、決して、あなたではない。あなたは自分では、「私」と思って
いるかもしれないが、「私」ではない。

 では、「私」とは何か。

●「私」とは……

 それが「考える私」ということになる。コンピュータでたとえるなら、いくらコンピュータがいくら
すばらしい仕事をしたとしても、それはコンピュータ自身ではない。プログラムによって、そう命
令されているか、そうしているだけである。

 しかし、ここで、もしコンピュータが自分で考えることができたら、それが、コンピュータの「私」
ということになる。

 もっとはっきり言えば、「考えるから、私」ということになる。その(考える部分)に、「私」がい
る。つまり「私」とは、(考える部分)ということになる。このことは、反対に、(考えることを知らな
い人)を見れば、わかる。(考えることを知らない人)は、無数のプログラムに命令されるまま、
動いているだけ。そういう人には、「私」は、いない。

 このことを、私は、子どもたちを観察していて、知った。

●分離不安の子ども

 ここに、分離不安の子ども(5歳・男児)がいる。2歳くらいのとき、母親が1週間ほど、入院し
た。その間、その子どもは、祖母の家に預けられた。以来、母親の姿が見えなくなると、泣きな
がら、母親のうしろを追いかけるようになった。

 その子どもは、一見、自分の意思で、母親を追いかけているように見える。しかし、決して、
自分の意思ではない。ここでいうプログラムされた命令によって、そうしているだけである。(母
親の入院)→(孤独感、孤立感)→(パニック状態になった)というプロセスを経て、子どもの脳
の中に、1つのプログラムが、インストールされた。

 そのあとは、そのプログラムにそって、子どもは、行動しているだけである。コンピュータにた
とえるなら、(母親が見えなくなった)とき、スタート命令が実行されようになっている。

 こうして考えていくと、私たちの脳ミソの中には、無数のプログラムが、そのつどインストール
されているのがわかる。そして私たちの日常生活のほとんどの行動は、そのプログラムに命令
されるまま、繰りかえされているにすぎない。

 そこで「私」ということになる。

●スズメの世界

 もう少しわかりやすい例では、スズメがいる。

 その時期になると、北海道のスズメも、九州のスズメも、同じような行動をとる。たとえば発情
期。

 冬が終わり、春になるころになると、メスのスズメは尾羽を上に立てて、オスを挑発するような
行動に出る。

 そのメスを追いかけて、オスたちが、あれこれちょっかいを出す。その行動そのものは、千差
万別かもしれないが、全体としてみれば、北海道のスズメも、九州のスズメも、していることに
は大差ない。

 おそらく、(その意識はないにしても)、それぞれのスズメは、「私は私」と思って、そうしている
にちがいない。しかし、それは「私」ではない。

 同じように、ここにあげた分離不安の子どもにしても、北海道の分離不安の子どもも、九州の
分離不安の子どもも、(その意識はないにしても)、それぞれの子どもは、「私は私」と思って、
そうしているにちがいない。しかし、それは「私」ではない。

●ある心の実験

 こんな心の実験をしてみた。

 ある寒い夜のこと。その日は、すでに2時間ほど、サイクリングをした。その日の運動量とし
ては、じゅうぶんな量である。

 私は、コタツの中で、ほんやりと雑誌を読んでいた。そのときのこと。私は、「ここでもう一度、
サイクリングに行ったら、どうなるか?」と考えた。

 ほどよい眠気。心地よさ。体は、どこかだるい。たしかに今日は、2時間、サイクリングをした
が、昨日も、おとといも、していない。1週間単位で考えるなら、運動量が不足している。

 そこで私は、いやがっている体と意思に反して、コタツから起きあがり、サイクリングにでかけ
ることにした。自分の心が、どう反応するか、知りたかった。

 私はもともと意思が弱い。幼児期に、甘やかされ、放任されたのが、理由ではないかと思う。
そういう意思の弱い自分に、つくられた。

 そこで心の中のだれかが、こう命令する。「寒いから、やめろ」「疲れているから、やめろ」と。

どこか怠(なま)けた気持ちである。この怠けた気持ちこそが、(私であって、私でない部分)と
いうことになる。そしてそういう(私であって、私でない部分)に反して、「さあ、サイクリングに行
こう」と考えて行動する部分が、(私であって、私である部分)ということになる。

●結論

 もし私たちが、何も考えないで生きていたら、私たちは、そのつどインストールされたプログラ
ムと、インプットされた情報だけによって、生きるようになる。しかしそれはたとえて言うなら、動
物の世界の動物のようなものである。どこにも、「私」はいない。

 そこで、私たちは、考える。考えるからこそ、私は「私」なのである。

 私は、ずっと、そのことをワイフに話した。

 最後にワイフは、こう言った。

 「あなた、疲れないの? どこかで講演をしているみたいに、ずっと、話しているわ」と。

 それに答えて、私は、こう言った。

 「ぼくのばあい、頭の中がモヤモヤとしてくると、不快でならない。だから、こうして、頭の中の
モヤモヤを、言葉として、吐き出す。みんなは、たしかに考えることを避けようとするけど、ぼく
は、考えているほうが、楽しい。生きているという実感も、そこにある」と。

 私はよく、「生きることは考えること。考えることは、書くこと」と言う。しかしそれにもう少しつけ
足すなら、「私は、考えるから、私なのである」ということになる。
(はやし浩司 私論 私とは)

【補記】

 もう15年ほど前のことだろうか。あるカルトの信者の人に、こう聞いたことがある。

 「あなたがたも、少しは、自分で考えてみたらどうなのでしょうか。あなたがたは、教導様とや
らの意見を一方的に聞いて従っているだけではないですか」と。

 するとその信者は、こう言った。「教導様は、万巻の本を読んでおられる。絶対に、まちがい
はない」と。

 つまりこうして信者たちは、そのカルトのロボットとなって動くようになる。つまりノーブレイン。
わかりやすく言えば、「私は私」と思いこまされているだけ。その実、「私」など、どこにもいな
い。

 大切なことは、自分で考えて、自分で行動すること。それには、難解な数学の問題を解くよう
な苦痛がともなうが、それなくして、「私」をつかむことはできない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(408)

【近ごろ・あれ・これ】

●二男のHP

 このところ、二男が、HPに、自分のエッセーを書かなくなってしまった。それについて、ワイフ
に、「どうして書かなくなったのかね?」と聞くと、ワイフは、こう言った。「先日、二男に聞いたけ
ど、めんどうになったって言ってたわ」と。

 たしかに、毎日エッセーを書くというのは、めんどうなこと。

 「ぼくのばあいはね、1000号まで出すという目標をさきにかかげた。だから、1000号まで、
出す。もしそういう目標をかかげなかったら、とっくの昔に、マガジンなど、中断していただろう
ね」と。

 ほとんどの読者の方は、私のよき支持者である。理解者である。しかし、そうでない読者も多
い。その(そうでない読者)に出会うと、自分のしていることが、つくづくと、いやになる。バカらし
くなる。

私「やはり、何か、目標をもたないと、こうした活動は、むずかしいだろうね」
ワイフ「でも、あなたの目的は、何?」
私「どこかの宗教団体なら、信者獲得を目的にするとか、作家なら、本の販売を目的にするだ
ろうね。でも、ぼくのばあい、それがない」
ワ「じゃあ、なぜ、書くの?」

私「だから、それが1000号ということになる。とにかく、ここまできたのだから、やるしかない。
その先に何があるのか。あるいは、ないのか。それもわからない。ただ走るだけ……」
ワ「仕事になればいいのにね。仕事ということなら、もう少し割り切ってできるんじゃ、ないかしら
……」
私「それはむずかしいね。今は、ボランティア活動のようなものだよ。何も考えず、知識と経験
を、吐き出している」と。

 そんなわけで、今は、二男のHPは、アルバム集のようになっている。「個人のHPは、結局
は、こういう形になるしかないのかなあ」と、思っている。


●老人ファッション

 老人は、なぜ、老人臭くなるのか。これは私にとっては、切実な問題である。……というのも、
私も、すでに、その仲間入り(?)。

 フロイトは、人間のすべての生きるエネルギー(リビドー)の根幹に、「性的エネルギー」があ
ると考えた※。性的なエネルギーこそが、人間が生きるエネルギーの原点になっている、と。

 このことは、人間以外の生物をみれば、わかる。すべての生物は、よりよい子孫を後世に残
すために、「今」を生きている。それがすべて。それだけである。その(子孫を残す)というエネ
ルギー・イコール、性的エネルギーと考えても、まったく、おかしくはない。

 人間も、その生物の一つにすぎない。

 そこで人間も、私のように、用なしになってくると、急速に、性的エネルギーが弱くなってくる。
男でいえば、女性を意識しなくなる。精力も弱くなる。そして全体として、ジジ臭くなる。ババ臭く
なる。

 で、私もその入り口に立って、気がついた。ジジ臭くなる最大の理由は、女性を意識しなくな
るためである、と。その結果として、服装がだらしなくなる。外見を気にしなくなる。努力しなくな
る。

 が、最近、新幹線の中で、こんな男性に出会った。

 その男性は、60歳くらいだった。いかにもスポーツマンといった、ひきしまった顔立ちをして
いた。

 最初、目についたのは、水色の運動靴だった。「アレッ」と思って、その人の服装を見ると、こ
うだった。

 赤色の横じまのあるTシャツ。それに水色のスーツ。ズボンは、白。胸には、どこかのヨットク
ラブの大きなワッペンが、張ってあった。帽子も、様(さま)になっていた。私は、ふと、昔の加山
雄三を思い浮かべた。まさに、若大将を意識したファッションだった。

 しかし、かっこよかった。うっとりするほど、かっこよかった!

 で、家に帰ってから、ワイフに、「今度、ぼくも、水色の運動靴を買うことにした」と言うと、「あ
なた、だいじょうぶ? 少しおかしくなったんじゃ、ナ〜イ?」と。

 だから困る。いつのまにか、私は、ワイフごのみの老人になってしまった。ズボンもセーター
も、どこかジジ臭い。

私「あのね、今日ね、電車の中で、かっこいい老人を見たよ。水色の運動靴をはいていたよ」
ワ「でも、あなたには、似合わないわよ」
私「そういうふうに、決めてかかるから、いけない。今度、赤いTシャツにする。それにズボンも
白だ」
ワ「ぜんぜん、イメージが合わないわよ」
私「そんなことはない。ぼくにだって、似合う。ぜったいに、そうする」と。

 それからすでに1、2か月になるが、私はあいかわらず、ねずみ色のズボンに、秋の枯れ葉
色のセーターを着ている。ワイフといっしょに、店に行くのだが、買ってくるものといえば、やは
り、どうしても、そういう色あわせになってしまう。そのつど、ワイフに、「これがいいわよ」と、押
しきられてしまう。

 やはり、私は、このままジジ臭くなるしかないのか……。(ため息)

注※リビドー(libido)……性衝動を中心とする、「精神的エネルギー」を、リビドーという(フロイ
ト学説)。フロイトは、性的エネルギーを考えたが、ユングは、より広く生命エネルギーを考え
た。

 フロイトは、リビドーの発達段階を、口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期の5つに分け
た。

【追記】

 たしかに、女性とのつきあいが、めんどうになった。どうせ相手にしてもらえそうにないし、仮
に相手にしてもらったとしても、それからのことが頭に浮かばない。デートのし方など、とっくの
昔に忘れてしまった。

 本当のことを書く。私の三男なんか、中学生のとき、三男のファンクラブまでできた。そしてそ
こには、160人の女子生徒の名前が連ねてあった。

 自分の息子を見ながら、どうして息子は、そんなにもてるのか、不思議でならなかった。私な
んか、学生時代は、いつも、指をくわえてみているだけ。そんなみじめな思い出しか、残ってい
ない。


●政治の話

 マガジンでは、政治の話は、避けている。

 H市という地方都市に住んでいると、政治の話といっても、どうしても、二番煎じ、三番煎じの
話になってしまう。臨場感が、まるでない。だいたいにおいて、私のようなものが、政治の話をし
たところで、意味はない。

 それはたとえて言うなら、町の商店主が、日本の経済論を説くようなものである。

 が、ときどき、マガジン読者の方から、「政治の話も書いてほしい」という依頼もある。実のと
ころ、私は、政治の話は、嫌いではない。学生時代から、ずっと、興味をもってきた。今もある。
……といっても、地方都市に住んでいる悲しさというか、政治といっても、その話は、どうしても
レベルが低くなる。

 それに、教育の世界でしか、政治を見られなくなった。が、悪いばかりではない。政治を教育
的な目で見ていると、また別の見方ができる。

 たとえば今度、有罪判決が出た、S木M氏がいる。懲役2年の有罪判決が出た。本来なら、
執行猶予つきの判決でもおかしくはなかったが、その悪質さゆえに、裁判所は、実刑判決をく
だしたものと思われる。

本人は、相変わらず、「無罪だ」と、全面否認しているが、あの見苦しさは、どこからくるのか。
その様相は、まさに餓鬼に近い。S木M氏に、私は、一片の知性も、理性も感じない。政治的
理念も感じない。

 そういった印象をもつのは、私が、教育の世界にいるからではないのか。

 もっとも、S木M氏などには、興味はない。興味があるのは、どうしてああいう人物を、地元の
人たちは、選んでしまったのか。あるいは今度の参議院議員選挙でも、落選はしたものの、3
0万票以上も、地元の人たちは、投票したのか。

 S木M氏は、こう語っている。

 「結果は厳粛に受け止めながらも、すでに(得票は)30万を超えた。『地方からの反乱』『M男
の反乱』は理解していただいたと思っている」(Yomiuri Line)と。

 ただ一つ同情するのは、S木M氏が、現在、胃がんと戦っているという点である。私なら、そ
れだけでめげてしまって、今ごろは、部屋にこもって写経でもしているかもしれない。

【補記】

 私たちが子どものころは、「末は博士か、大臣か」と、歌いはやされた。「出世」という言葉
が、まだ日常的に使われていた。ああいう政治家を見ていると、それを思い出す。

 つまりS木M氏は、そういう時代の申し子というか、そういう時代の流れの中で生まれた政治
家なのかもしれない。そういう意味では、S木M氏も、その犠牲者ということになる。

 
●男女の知能の差

 男と女では、脳ミソの重さ(脳重)がちがう。たとえば身長が170センチ前後の男女のばあ
い、脳ミソの重さは、男が、約1370〜90グラム。女が、約1250〜60グラム。約100グラム
前後のちがいがあることがわかっている。

 昔は、そのため、「男のほうが、女より、頭がよい」と考えられていた。私が子どものころ、学
校の先生がそう言っていたのを、覚えている。

 しかし脳ミソの優劣は、その大きさでは決まらない。たとえばIQ(知能指数)という分野では、
現実には、男女差は、ほとんど、ない。大切なのは、大きさではなく、効率。いかに、脳ミソをう
まく使うかということ。

 それに最近の研究によれば、脳ミソの使い方に、男女差があることもわかっている。機能的
MRIや、PET(陽電子放射断層撮影法)などを使った研究も進んでいる。たとえば女性がペチ
ャペチャとよくしゃべるのは、左脳(ウエルニッケの言語中枢)だけではなく、右脳(左脳の言語
中枢に対応する右脳部分)も使っているからだと言われている。

 つまり、脳ミソというのは、たがいに補完しあいながら、機能するものだということ。これは私
たち夫婦のばあいだが、私は、難解な数学の問題に挑戦するのが好きだが、常識力に欠け
る。

 一方、ワイフは、そうした数学の問題は見ただけで逃げてしまうが、常識力はある。男と女
の、脳ミソを区別するほうが、おかしい。難解な数学の問題が解けるから、頭がいいとか、解け
ないから悪いとか言うほうが、おかしい。

 ……ということで、ここで結論。こと、知的能力に関しては、男女の「差」を議論するのは、ナ
ンセンス。ただY遺伝子には、まだ未解明な部分も多いというから、その遺伝子がもつ「ちが
い」というのは、これから先、もっと解明されてくるかもしれない。

 たとえばこの脳ミソの重さだけではなく、身長の「差」を決める遺伝子も、そのY遺伝子の中
に、含まれているという。


●強迫性障害

 一つのことに執着すると、そのことばかりが気になって、悶々と悩む。悩むだけならまだしも、
それが原因となって、日常生活に支障が出るようになることがある。これを「強迫性障害」とい
う。

 ある女性(36歳)は、マンションの上の階の足音が気になってしかたなかった。夫は、「聞こ
えない」「たいしたこない」と言ったが、その女性には、聞こえた(?)。たまたま上の階の部屋と
自分の部屋の間取りが同じということもあった。その女性には、音だけではなく、上の階の住
人の生活ぶりまでが、すべて手に取るようにわかった。

 が、そのうち、その女性は、「(上の階の人が使う)掃除機の出す音がうるさい」と言いだすよ
うになった。「掃除といっても、1日、1回程度なら、がまんできる。しかし1日、5回は多すぎる」
と。

 その女性は、毎日、上の階の人がどのような騒音(?)を出すか、その内容と回数をノートに
記入するようになった。が、それだけではない。自分が買い物などで、家をあけるときには、小
学2年生になった息子に、その回数を数えさせた。

 息子は、その女性(母親)が帰ってくると、「今夜は、掃除機が1回で、洗濯機が1回……」と
いうように、報告していたという。

 そしてある日、その女性はそれらの記録をもって、上の階の住人のところへ怒鳴りこんでい
った……。

 そのあとどうなったかは、容易に想像がつくことと思う。

 実は、こうした強迫性障害は、教育の世界でも、よく経験する。数年前のことだが、ある小学
校へ講演に行ったら、その学校の教師が、こんな話をしてくれた。

 その学級で、「よい子は、みんな、仲よし。友だちも、多い」というような内容の、学級通信を
出した。

 が、1人の母親が、これに猛反発した。たまたまその母親の子ども(小2女児)が、学校でい
じめにあい、仲間はずれにされていた。そのことを、その母親は、悩んでいた。

 その母親は、校長に、「うちの子は、よい子ではないのか!」と。「よい子とは何だ!」「仲よし
って何だ!」「どうしてそれが学級の方針なのか!」と、くいさがった。

 拡大解釈と被害妄想。一言で言えば、そういうことになるが、その母親の怒りは、それで収ま
らなかった。「子どもの人権問題だ」「名誉毀損だ」と。さらには「校長不適格」などとも言い出し
たという。つまりその母親は、その問題に固執するあまり、自分の姿を見失ってしまった。

 こうした強迫性障害の延長に、買い物依存症(女性に多い)や、賭博(とばく)依存症(男性に
多い)がある。これらの依存症の人も、一つのことにこだわり始めると、それが頭から離れなく
なる。

 たとえば買い物依存症の女性にしても、「それがほしい」と一度思いこむと、あとは、明けても
暮れても、考えることは、そのことばかりという状態になる。そして一度、それを買うと、その満
足感と同時に、解放感を味わう。あとは、この繰りかえし。

 が、こうした強迫性障害の人に、悩みや苦しみがないかといえば、そうではない。

 悶々と、そのことに執着している間は、ふつうの人以上に、悩んだり苦しんだりする。「気にな
ってしかたない」というのは、苦しみである。

 またその問題が解決したからといって、実は、その苦しみから解放されるというわけではな
い。たとえば買い物依存症の女性にしても、そのあと、今度は、強い自責の念にかられる。「ど
うして買ってしまったんだろう」と。

 さらに病的になると、借金をしてまで、自分のほしいものを手に入れるようになる。こうなる
と、あとは、奈落の底! こうして破産していく人は、少なくない。

 先の「掃除機の音がうるさい」と怒鳴りこんでいった女性のケースでは、当然のことながら、そ
のあと、上の階の住人とは、険悪な関係になってしまった。当然である。が、運の悪いことに、
上の階の住人は、そのマンションの中でも、指導的な立場にあった。以後、その女性が、マン
ションの住民たちの間で、どのような扱いを受けたかについても、容易に想像がつくことと思
う。

 で、そのあとのことだが、その女性と夫は、何度も、上の階の住人に謝罪に行ったが、受け
つけてもらえなかったという。

 ただ一度、こうした強迫性障害になった人は、そのつど、テーマを変えて、同じ障害になりや
すいと言われている。

 そのときは、上の階の住人の出す騒音であっても、それが解決すると、今度は、外を走る車
の騒音になったり、ここにあげた、学校通信の文面になったりする。さらにそれが子どもの教
育におよぶようになると、ことは、深刻になる。

 明けても暮れても、考えることは、子どもの成績ばかり……というようであれば、あなたも、そ
の強迫性障害を疑ってみたらよい。
(はやし浩司 強迫性障害 買い物依存症 依存症 育児ノイローゼ 強迫神経症 強迫観念
 強迫症)

【あなたの心診断―女性用】

 つぎの項目のうち、いくつか当てはまるようなら、強迫性障害を疑い、子育ての場で、子ども
の心に影響を与えないように、注意する。

(  )かつて、買い物依存症など、何かの依存症になったことがある。
(  )ひとつのことが気になると、そのことばかり考えることがよくある。
(  )子どもに問題が起きると、先生や、子どもの友人に、原因を求める。
(  )かっとなると、見境なく行動してしまうことがあり、あとで後悔しやすい。
(  )被害妄想をもちやすく、ものごとを何でも悪いほうに解釈してしまう。


●PDF文書

 パソコンの世界で、「PDF文書」というのが出回っている。

 PDF文書というのは、セキュリテイーを設定することによって、文書の改ざんやコピーを防止
できる文書をいう。

 最近では、自分で、そのPDF文書を作成できるソフトも、市販で安く出回るようになった。

 ソースネクスト社……いきなりPDF(2900円)
 エーアイ・ソフト社……pdMaker for Office(3800円)
 ピ−アンドエー社……エキスパートPDF2(6200円)ほか。

 息子に、「このところ、ぼくの原稿が無断で引用、転載されることが多くなった」とこぼすと、す
かさず、「じゃあ、パパ、PDF文書にしなよ」と。それでPDF文書に興味をもつようになった。

 さっそく、この中のS社の「いきなりPDF」を購入することに。(実は、その前に、息子のパソコ
ンを使って、そのPDFソフトを、あれこれ試してみた。使い勝手は、かなりよいようだ。)

 しかし問題は、それをどうホームページの中に取りこむか、だ。あちこちのホームページを見
ると、結構、PDF文書を見かけるので、技術的には、それほどむずかしくないのかもしれない。

 今度の週末に、チャレンジしてみるつもり。また楽しみがふえた。

********************

【読者のみなさんへ】

 はやし浩司の文書は、いかなるばあいも、個人としてお読みいただくばあいをのぞいて、転
載、転送、引用などをいっさい、許可していませんので、ご注意ください。

 当然のことながら、はやし浩司の書く文書は、すべてはやし浩司のオリジナルです。一文たり
とも、盗用もしくはそれに類する文はありません。

 どこかではやし浩司の書いているのと同じような文に出会われましたら、ご一報ください。そ
の人が、私の文を盗用していると思っていただいて、まちがいありません。

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(409)

●夫婦の亀裂(きれつ)

結果として、そうなるのか。それとも、そうであるから、そうなのか。

 夫婦の間に亀裂が入るようになると、同時に、夫婦の一体感が崩壊する。学生時代のこと。
下宿の近くに、こんな奥さんがいた。

 その奥さんのことを、近所の人たちは。「ヒメさん」と呼んでいた。姫様の「姫(ひめ)」である。
本名は知らない。

 その奥さんは、ダンゴ屋の奥さんだった。しかし一度とて、自分では店に立ったことはない。
いつも、奥様然として、自分だけはきれいな和服を着て、家の奥にひっこんでいた。自分では、
ダンゴも握らなかったという話である。

 美しい人で、気品はあった。私は、やがてなぜ、その奥さんが、「ヒメさん」と呼ばれている
か、その理由がわかった。その奥さんは、私の町から、車で2時間ほどのところにある、田舎
だが、しかし大きな造り酒屋の長女であることを知った。東京から、皇族が遊びにくると、その
家で休んでいったこともあるという。

 町の人たちも、その奥さんには、一目、置いていた。何しろ、庶民の私たちとは、「出」がちが
う。そういう意識を、みな、もっていた。

 ……というような話は、多い。あなたのまわりにも、一つは二つは、ある。結婚はしたものの、
その家というよりは、夫からも遊離してしまったような妻の話である。そのダンゴ屋の奥さんに
しても、なぜ、ダンゴ屋の男と結婚したかということについては、いろいろないきさつがあったら
しい。それはさておき、しかしその奥さんは、死ぬまで、ダンゴ屋の女将(おかみ)さんにもなれ
ず、さりとて、名家の奥さんにもなれず、何とも中途ハンパな人生を送った。言い忘れたが、1
0年ほど前、その奥さんは、死んだ。

 享年、83歳だったという。もっともそのときは、ダンゴ屋は店をたたみ、息子氏が、観光客相
手のレストランを、町の郊外で始めていた。裕福ではなかったが、貧乏でもなかった。江戸時
代からの財産家であったことは、事実である。

 なぜ、今、私が、この話を書くか……。

 その奥さんの話を思い出すたびに、「夫婦というのは、そうであってはいけない」と思うからで
ある。夫婦の一体性というか、一体感がまるでない。このことをワイフの話すと、ワイフは、こう
言った。

 「夫婦というのは、たがいにあきらめて、すべてを受け入れなければいけないのよ。それがで
きなければ、離婚ね」と。

 わかりきったことだが、改めてそう言われると、「そうだな」と思う。

 しかし現実には、その一体感のない夫婦が、あまりにも多い。どこかちぐはぐで、双方が、て
んでばらばらなことをしている。たがいがたがいに無関心で、自分勝手。が、それでも、夫婦と
いう「形」だけは、守る。

 間に子どもがいることもある。あるいは、どちらかの財産ねらいということもある。夫婦関係
は、とっくの昔に崩壊している。常識で考えれば、離婚ということになるが、その離婚をしない。

 で、先のヒメさんだが、最後の最後まで、姫様のままだったという。ただ本人が、それで幸福
であったかどうかということになると、私は、「?」マークを10個くらい並べたい。


●勤労感謝の日

 地元のラジオ局が、小学生を対象に、「静岡一短い手紙」と題して、「お父さん、お母さんに、
手紙を送ろう!」というキャンペーンを始めた。

 チラシには、「毎日、一所懸命に働いている、お父さんやお母さん、そして大切な家族のみん
なに、ありがとうの言葉を伝えてみませんか」と、ある。

 その宿題を、小学3年生のY君が、私のところにもってきた。「何て書けば、いいの?」と。

 「いっしょに考えてあげよう」とは言ったものの、これがむずかしい。私は、ハタと考えこんでし
まった。

私「ほとんどの子どもは、きっとこう書くよ。パパ、ママ、ごくろうさん。ありがとう、と。しかしそれ
では、おもしろくない。何か、ちがった視点で書かなくては……」
Y君「いいのを書くと、ラジオで発表してもらえるんだって」
私「じゃあ、何か、気のきいたことを書かなくてはいけないね」と。

 横で、いくつか考えてやった。

私「いつかパパのような人になって、ママのような人と結婚するよ。そのときまで、元気で生きて
いてね。ありがとうっていうのは、どう?」
Y君「ぼく的には、好きじゃない」
私「そうだな、やはり、こういうのは自分で考えたほうがいいね」と。

 いろいろな宿題をみてきたが、これはむずかしい……と思ったところで、ふと、私は、気がつ
いた。そういうふうに、家族みんなで悩むところに、このキャンペーンの意味がある、と。

 ナルホド!


●オマエモナー

 ネット上で、今、「モナー」という、ネコに似た絵文字が流行している。(どう見ても、ネコだが…
…。)

 もともとは、「オマエ・モナー(お前もナー)」という言い方から生まれたという。つまり、だれか
が、何か、文句を言ったら、「お前もナ〜」と。そういうふうに、言いかえすところから、「モナー」
という名前がついたという。

 「世の中、まちがっているよ」「お前もナー」
 「あの服装、おかしいよ」「お前もナー」
 「悪いことは、してはいけないよ」「お前もナー」と。

 相手が、どこか優等生的に、優越感を覚えながら、あなたに何かを言ったときに、この絵文
字を、打ちかえす。「お前もナー」と。

 しかし私などは、いつも、みなに、そう言われている。「お前もナー」と。評論しているものの宿
命というか、そう言われるのは、避けてとおれない道。15年ほど前のことだが、私のことをよく
知っている女性が、私にこんなことを言ったことがある。

 「(教育評論をしている)先生のお子さんのことですから、みなさん、さぞかしいい高校へ進学
なさったことでしょうね」と。

 その女性は、どこか皮肉をこめて、私にそう言った。その雰囲気は、私にも、よくわかった。し
かし、あまりにも低劣な会話。それで、こう答えてやった。

 「みんな、できそこないでね。私、そっくりですよ」と。

 そう、評論活動をするとき、一番、気を使うのは、この部分である。何かを言うと、「じゃあ、お
前は、どうなんだ」とやり返される。ここでいう「お前もナー」という言葉が、それに当る。

 これも少し前だが、私に面と向かって、「評論するくらいなら、だれにだってできるよな」と言っ
た男(50歳くらい)がいた。評論活動が、一番、誤解される点は、ここにある。また、そういう誤
解だけは、いくら注意しても、避けて通れない。

 しかしこのモナー、一見、正当性があるようで、ない。まったく、ない。もう少し、踏みこんで考
えてみよう。

 たとえばA氏が、B氏に向かって、「友だちと仲よくしよう」と話しかけたとする。そのとき、それ
を言われたB氏は、「お前もナー」と言いかえしたとする。

 B氏としては、「何を偉そうに。自分ならできるのか。他人に、節介など、焼くな」という気持ち
をこめて、そう言う。

 そのとき、問題は、B氏がどのレベルにいるかということ。もしB氏が、A氏と同じか、それ以
上の立場にあれば、それでよし。しかしこの種の論理は、低劣な人が、自分の世界に相手を
引きずりこむ論理として、よく利用される。

 こんな例がある。

 ある学校の校長が、その子ども(小2・女児)の母親に、こう注意した。その子どもは、いつも
髪の毛を、茶髪に染めていた。

 「できれば、茶髪をやめてほしい」と。

 するとその母親は、「茶髪は、個人の自由だ」「個性だ」と息巻いた。

 しかしこの母親の論理は、一見、正当性があるようで、まるでない。もしこの段階で、学校側
が、「そうですね」と引きさがるようなことがあれば、歯止めがなくなってしまう。みながみな、「個
人の自由だ」「個性だ」と言い出したら、収拾がつかなくなってしまう。学校教育そのものが崩壊
してしまう。

 言うまでもなく、個性というのは、生きザマの問題。茶髪にすることは、個性の主張でも何でも
ない。つまりこの母親は、一見、正当な論理を口にしながら、自分たちのより低劣な世界に、学
校をひきずりおろそうとしている。少なくとも、学校教育を、より高次元にしようとする意見では
ない。

 もっとわかりやすい例で、説明しよう。

 子どもの1人が、不注意で、戸棚の花瓶を落として割ったとする。そのとき、先生が、「どうし
てもっと、気をつけないの!」と、叱ったとする。

 そのとき、もしその子どもが、すなおに、「ごめんなさい」と言えば、それでよし。しかし「先生だ
って、この前、割ったでしょ」と言いかえしたら、どうなる。その子どもには、すなおさがないとい
うことになる。「お前もナー」という言葉は、そういう言葉である。どこかものの考え方がひねくれ
ている。まともな人間の使う言葉ではない。

 そんなわけで、「お前もナー」という言い方には、一見、正当性があるようで、ない。もしその
相手が、「お前もナー」と言ったら、こう言いかえしてやればよい。

 「だったら、あなたは、私が考えている以上に、この世界をよくすることができるのか」と。

 考えてみれば、不愉快な言葉ではないか。

 「信号を守れ!」「モナー!」
 「駐車場に、きちんと車を置け!」「モナー!」
 「速度を守れ!」「モナー!」
 「運転中は、携帯電話をかけるな!」「モナー!」と。

************************

この「モナー論」について、「透明サングラス」様という
方から、反論が届いています。

率直に言って、参考になりましたし、また自分の不勉強
というか、この世界のあまりの進歩の速さに驚いています。

「なるほど」と思う部分も多いので、透明サングラス様の
許可を得て、ここにいただきましたメールを、転載します。

************************

【透明サングラス様から、はやし浩司へ】

俺は、この日記の 「モナー」 の捉え方には大いに反論がある。

一般的に (というか今のネット上では) おまえもなーと誰かが言うときには状況に二つの共通点
があると思う。

その共通点とは、1つは 「オマエモナー」 と言われた人が、「一般常識で」 ではなく、 「人間とし
ての常識で、又は世界常識で」 考えた時に、明らかにおかしい発言をしている状況ではない
か、と俺は思う。いわゆる 「皮肉」 だ。

例えば A さんが 2ch で、「学生は茶髪にするな ゴルァ」 という。それに対しての 「オマエモナ
ー」 は、すくなくともそういう意味だ。

髪の色は勉強に関係ない。学校で勉強しているときに、例えば B くんの髪の色が緑色でも、テ
ストでは勉強すれば点がとれるし、先生の授業だってまじめに聞けるはずだ、本人がその気な
ら。もちろん友達だって多いかもしれない。それを学校が圧力で黒髪にしようとする。オマエモ
ナーはそれに対しての反論に過ぎないと、俺は思う。そして例えば、生まれながら金髪の美女
が教室にいて、その人の髪の色も黒にしないといけないのだろうか。髪の色が他の生徒とずい
ぶんと違うはずだが、授業に支障はないはずだ。

「髪の色を改変しちゃいけない」 という意見ももちろん出るだろう、学校から。しかし、では、ど
のシャンプーから先をダメにしましょうか??? 世の中髪の色を補正するシャンプーも多くありま
すが・・・。メーカー指定で排除しますか??? もしその生徒の親がその会社の社員でもですか???

もう一つの共通点は 「相づち」 をするときに用いられる、ということだ。

反対意見のない発言に 「オマエモナー」 と言う言葉が 「皮肉の意味で」 書かれているのを見
たことがありますか???

最近人を殺す高校生がいるらしいです・・・人殺しはしないように!! <- オマエモナー

この場合の 「もなー」 は明らかに 「相づち」 だ。だれもこれを見て不愉快な思いはしないだろ
う。なぜなら、上の会話の 「もなー」 は 「その通りだ」 という意味(と同時に、わざわざそんなこ
と言わなくても、という意味もだが)に解釈されるからだ。ネット上では、だが。とにかく、2ch か
ら発生する、いわゆる 「アスキー文字」 と 「2ch 用語」 は、日本語でありながら通常では考え
られない意味や 「含み」 をもっている。

これを現実世界と混同して考えるのはどうかと思う。

********************

【透明サングラス様へ】

 コメント、ありがとうございました。
 茶髪については、誤解があったようです。
 それが「悪」と考えているわけではありません。

 ただ学校側には学校側の言い分があるということ
 です。

 以前書いた原稿を、ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++++

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ

 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理

 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。

こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化す
る。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗

で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!

 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まる
で違う。

アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にし
たら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさ
わしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩い
ていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?

 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。
(はやし浩司 茶髪問題 チャパツ チャパツ問題 茶パツ)

++++++++++++++++++++++++


●ルキアン様へ

 最初に、一言。なぜか理由がよくわかりませんが、どこかの無料サービスを介して入ったメー
ルに、返事を書くと、件名のところに、[MEIWAKU]というような文字が、自動的に入ってしまい
ます。「迷惑メール」という意味だろうと思います。

 現在使っているこのパソコンには、マカフィー社の「スイート」というアンチ・ウィルスソフトが、
インストールされています。

 私の思うところでは、このソフトが、何か、誤解しているのではないかと思います。ルキアン様
のメールに、その[MEIWAKU]という文字が入ったら、お許しください。

 で、ルキアン様からのメールを、紹介させていただきます。まずもって、おめでとうございま
す。夢の田舎暮らし、実現できてよかったですね。ルキアン様のことは、忘れていません。(ま
だ、ボケのほうは、だいじょうぶみたいです。)

【読者の方から……】

ご無沙汰しております、ルキアンです。
覚えていらっしゃいますか?

以前お話ししていたと思いますが、とうとう田舎に引っ越しました。緑豊かな奇麗な町です。

近くにB湖があり、高原があり、本当に良い所です。
子供たちも広くなった家や庭を走り回り、長男は庭で薪ストーブ用の薪を一生懸命拾ってくれ、
焚き付け用の小枝ばかりが増えました(笑)

先生のメルマガを読みはじめた頃、長男はまだ2才半位だった気がします。そんな長男も来年
は幼稚園。
あっと言う間ですね。

最近は賢くなった長女2才も加わって、家の中は大騒ぎです。(;^_^A
だから思わず感情で怒鳴ってしまう事もしばしば…。
「理由」や「気持ち」を聞いてあげることなく怒鳴ってしまったりと毎日毎日反省&自己嫌悪…。

明日は冷静に…と思っているのですけど。
寝る前のちょっとした時間、先生のメルマガを読んで笑ったり、涙ぐんだり、時には落ち込んだ
り(笑)。

そんな毎日が、本当は幸せなのかも。

新聞の記事の中にあった「本当に幸せは、自分の手の中にあるのよ」という一説を読んで、あ
〜そうなんだな〜と改めて思いました。育児は時には孤独で時には辛い…でも、抱きついてく
る子供たちは何よりの私の幸せで、温かく見守ってくれる主人も私の幸せで、本当に幸せって
自分の手の中にあるんですね。

いたずらして怒られて大泣き。怒った私も大泣きで三人で、よく泣いてます。
それでも「ママ〜」って来てくれる子供たちを大切にしようと思います。
一進一退の母の成長ですが、これからも先生のメルマガから色々なヒントを得て、気長に頑張
って行こうと思います。

先生は本当に感心してしまうほど沢山の原稿を書いていらっしゃいますね。
とてもすばらしい事と思います。
しかし、くれぐれもお体だけは大切に。
あまり無理しないで下さいね!スズメバチ退治などなど…

それでは、これからも楽しみにしています。
そして、沢山の「心の元気」ありがとうございます。

追伸:我が家も今年はオオスズメバチに悩まされました(T-T)未だ、巣は発見できていません。
来年の春あたりに「スズメバチトラップ」を仕掛けて女王蜂を捕らえたいと思います。

【夢、目的、希望】

 とうとう夢を実現なさいましたね! おめでとうございます。すばらしい行動力です。私も、本
当は、山荘のほうへ自宅を移したいのですが、水問題が解決していないので、無理ではないか
と思っています。

 水は、村の人たちから、分けてもらっています。住民となると、村の人たちからの反対するの
では……と思いつつ、今の状態がつづいています。

 で、今になってときどき、山荘で、こう思うことがあります。

 私の人生は、平凡だったが、まあ、何とか、無事で生きてこられただけでも、感謝しよう。もう
すぐ、死ぬことになるが、やりたいことはできたので、文句はない。この17年間、森の中で生
活できた。それ以上、何を望むのか、と。

人生というのは、そのつど、未練と戦って生きるものかもしれませんね。「懸命に生きる」とは言
っても、毎日、やり残したことの連続。「ああ、今日も、ダメだった」と、そんな思いで、床につくこ
とも、しばしばです。

 そこで私は、ある日、考え方を改めました。

 「懸命に生きよう」ではなく、「悔いのない一日を送ろう」と、です。未練の残る人生ほど、つま
らないものはない。だから、毎日、その未練をつぶしながら、生きよう、と。わかりやすく言え
ば、「やりたいことがあったら、やりつくしておこう」という生きザマです。

 たいへんぜいたくな考え方ですが、自分で山荘をもってみて、「何だ、こんなものだったのか」
と思うことも、ないわけではありません。「たいしたことないな」と、です。「思ったほど、すばらしく
ない」と思ったこともあります。

 しかし、今、もし、山荘ライフを実現していなかったら、毎日、悶々とした気持ちで、都会生活
をしているだろうと思います。何かをやり残したような気分だろうと思います。それが、私がい
う、未練です。

 まあ、何でもやりたいことは、やってみる。その時点で、自分を燃焼しておく。それが大切だと
いうことです。そのあとのことは、そのあとに、任せればいい……。

 ルキアンさんは、とにかく、やりたいことを、やり、その生活を実現したわけですから、すばら
しいことだと思います。私の知人の中には、この15年間、「田舎暮らしがしたい」と言いつつ、
悶々と悩んでいる人がいます。まあ、そういう人のほうが、多いのではないでしょうか……。

 しかしまあ、現実を言えば、田舎暮らしが、いいというわけではないですね。いろいろめんどう
なことも多いし、どこか退屈。刺激も、少ない。しかし一度、田舎暮らしをしてしまうと、もう都会
にはもどれませんね。私もときどき、山荘の庭で私山々の景色を見ながら、こう思うときがあり
ます。山の向こうは、大都会のH市です。

 「よくもまあ、あんなところに、住んでいるものだ」と、です。

 つまりね、私の生活は、都会的(人口60万人、もうすぐ100万人のH市)な部分と、山荘ライ
フの共存型です。その都会生活を見やりながら、「あんなところ」と思ってしまうわけです。(こん
なことを書くと、都会に住んでいる人は、激怒するでしょうね。)

 まあ、親はともかくも、ルキアンさんは、2人のお子さんたちには、すばらしいプレゼントをなさ
ったわけです。人生のプレゼントです。子どもたちがそれを理解し、評価するかどうかは、別に
して、親として、やるべきことはしたという思い。それがいつか、ルキアンさんを、側面から支え
てくれると思います。

 ともかくも、すばらしい! おめでとうございます!

 久しぶりに、胸の中が、スカッとしました。そうそう、非公開のメールの中にありました、招待
の件ですが、今度、本気で考えてみます。ありがとうございました。

【補記】

 今夜もワイフと、こんな会話をしました。

 私たちも山荘をつくりましたが、よく使ったのは、最初の3、4年で、このところ、以前ほど、使
わなくなりました。「もったいないな」と自分で思うこともあります。

 しかし、ワイフに、「山荘を建てなくて、今ごろ、何かをやり残したような気分で、悶々としてい
るよりはいい」と話すと、「そうね」と。

 「やらなくて、悶々としているくらいなら、やってみて、スッキリしたほうがいい。あとで、『何だ、
こんなものか』とがっかりすることもあるかもしれないが、それでもやってみたほうがいい。

 仕事とか、そういう、やるべきことはやりながら、その一方で、やりたいことをする。それが生
きるということかも」とも。


●とんでもない意見

 JT元幹部で、J嗜好品A代表のMJ氏は、著書、「たばこxxxxx」(S社刊行)の中で、たばこ
の悪害について、つぎのように反論している。

 「1998年に、WHO(世界保健機構)に属する、『国際がん研究機関』が発表した、『受動喫
煙と肺がんの関係について、有意な関連は認められなかった』との研究結果が、WHO自身に
よって、黙殺されている。

 また、たばこタールをマウスの皮膚に塗りつけると発ガンするとの研究結果がよくあるが、塗
りつけるタールの量をたばこに換算すると、1日2900本から1万1500本のたばこを、生涯吸
いつづけるのと同じ量になる。

 WHOや国が、必要とするデータだけを誇張して宣伝しているということに注意したらよい」
と。

 さすが、元JT幹部! 私は、これほどまでに、とんでもない意見を聞いたことがない。

 順に反論してみよう。

(1)人体実験ができない

 たばこと、人体の健康との因果関係について、最大の問題は、人体実験ができないというこ
と。このことは、30年近くもまえ、京大のN教授(当時、東大のS教授と、日本を二分するほど
力のあった、産婦人科学の権威)が、私に、直接話してくれたことである。

 N教授は、こう言った。「疫学的には、たばこには、毒性がある。それは明らかである。ただそ
れを証明できないだけです」と。つまり「人体実験をして、証明することができないだけ」と。

 そこで「受動喫煙と肺がんの関係について、有意な関連は認められなかった」と。MJ氏はた
くみに、喫煙と受動喫煙という言葉を、混在させている。がんを肺がんにしぼって、がんと肺が
んという言葉を、混在させている。読者を、まさに煙に巻いている。さらに「受動喫煙の悪害を、
どうやって証明するのか」という問題については、一言も触れていない。

 まさか、夫にたばこを吸わせて、その横で妻にそれを吸わせてみろというわけでもあるまい。

 さらに「受動喫煙と胎児への影響」「受動喫煙と妊婦への影響」など、その悪害を考えたらキ
リがない。何も「肺がん」だけが、悪害というわけでもあるまい。

(2)マウスの皮膚に、たばこ1万本分のタール

 こうした反論は、よく耳にする。しかしものごとは、常識で考えてみればよい。

 マウスを人間の寿命並に、30年とか、50年も生かしながら、その間に、人間が肌に触れる
量と同じだけのタールを、ゆっくりとマウスの皮膚に塗りつづけるわけにはいかないのである。
そんな時間的な余裕はない。

 だから実験するときは、高濃度のタールを塗りつける。当然のことではないか。それを「1日2
900本から1万1500本のたばこを、生涯吸いつづけるのと同じ量になる」とは!

 仮に1万本でも、問題なのである。10万本でも、問題なのである。恐らく、こうした計算をする
にあたって、(人間の体重)÷(マウスの体重)で出てきた数字を、マウスに塗ったタールの量
に、かけているのだろう。

 この計算法でいけば、たとえばマウス一匹(体重100グラム)に、たばこ1本与えれば、その
量は、人間(体重60キロ)にとっては、その6000倍の6000本ということになる。2本で、1万
2000本ということになる。

 だいたいおいて、どう考えてもおかしいのは、1万本もたばこを吸えば、そのタールの量は、1
〜2リットル前後になる。1〜2リットル前後のタールを、1匹のマウスに、どうやって毎日塗る
のか?

 何とも、読者を煙に巻いた意見である。

 たばこの悪害など、いまさら説明しても意味がない。私の友人などは、50歳そこそこで、その
肺がんで死んだが、それはまさに壮絶な死だった。外科医が、肺を切ったら、どす黒い、それ
こそタールのような血が、2リットルも出てきたという。

 彼は若いころから、一日、1箱〜1・5箱も吸う、ヘビースモーカーだった。中には、「たばこを
吸っていても、80歳まで生きている人はいくらでいる」と、たばこを擁護する人もいる。しかしそ
の一方で、その友人のように、壮絶な死に方をしていく人もいることを忘れてはいけない。

 で、そのJTだが、今から、35年ほど前までは、「たばこ無害キャンペーン」なるものを、各地
で繰りひろげていた。電車で、駅をおりると、そこに大きなパネルがおいてあり、「タバコは、無
害です」と。

 何人かの、若い男女が、そこにいて、懸命にチラシやパンフレットを配っていた。

 今から思うと、何と、おぞましいキャンペーンであったことか。JT元幹部ということなら、まず、
そういうキャンペーンをしたことについて、反省すべきではないのか。責任をとるべきではない
のか。

 たばこを吸ったところで、体に害になることはあっても、益になることは何もない。そういう視
点から、もう一度、たばこの悪害について考えてみたらよい。

【付記】

 たばこは、嗜好品ではない。だいたいにおいて、「嗜好品」とは何か? 広辞苑には、「栄養
摂取を目的とせず、香りや刺激を楽しんでする飲食物」とある。しかし本当に「楽しむもの」なの
か。

そのことは、たばこを吸っている人を見ればわかる。彼らはたばこを吸っているのではない。た
ばこを吸うように操られているだけである。たばこがもつ、そうした中毒性とか、麻薬性を無視
して、「嗜好品」とは!


●読者の方からの質問など

先日、ADHD児童に関する先生のマガジンを読んで、成長につれ改善される場合もあり、いず
れにせよ早期に無理な矯正は逆効果であるという記事を読みましたが、7日付のC新聞に、
『防げ小1プロブレム』という記事を読みました。

幼稚園や保育園と連動して小学校への授業移行をスムーズにする試み、とありましたが、つま
り集団行動に慣れさせるために早くから指導していくということで、えっ!?、とわが目を疑いま
した。

どうしても集団になじまなければならないという風潮に、確実になりつつあるのですね。親は大
人はどうやって子供の個性を守ってやればいいのかと思いましたが、先生はこの記事に対しど
うお考えですか?(静岡県・O・Y様)


●不思議な体験

 何年かごとに、以前、教えたことのある子どもに、よく似た子どもに出会うことがある。兄弟や
姉妹のときが多いが、まったく関係のない他人でも、よく似た子どもに出会うことがある。

 さらに何年かごとに、以前、教えたことのある子どもに、そっくりな子どもに出会うことがある。
しかし、だ。最近、こんなことが起きている。不思議な体験といってもよい。

 今度、年中児で、G君という男の子が、私の教室に入ってきた。最初見たとき、アレッと思っ
たが、回数を重ねるごとに、わけがわからなくなってしまった。

 G君は、私の二男そっくり。幼児のころの二男にそっくり。とにかく、そっくり。もの静かで、どこ
か控えめ。体も大きく、歩き方まで似ている。もちろん顔つきも、そっくり。一度、写真をとって、
家にあるアルバムとくらべてみたが、ワイフですら、「これS(二男)じゃないの?」と言ったほ
ど。

 私はいつしか、そのG君を教えながら、遠い昔にタイムスリップしたかのような錯覚に襲われ
るようになった。それは実に、不思議な体験だった。

 「もし、あのころの私にもどることができたら、もう一度、本当に父親らしい父親になることが
できる」というのは、子育てを終わったものの、共通した思いかもしれない。不完全な父親であ
ったことに対する、これは悔恨のようなもの。あるいは懺悔(ざんげ)? 

 過ぎ去り日々が、そこにあるというのは、驚きでしかない。無数の思い出と、なつかしさが、ど
っと襲ってくる。少し大げさに聞こえるかもしれないが、そのG君が、何かのことでふとさみしげ
な様子を見せたりすると、抱きしめてやりたいような衝動にかられることさえある。

 これも、やはり私が、ジー様の年齢になったからではないか。若いころは、そんなこと、思っ
たこともなかったのだが……。


●定年帰農(?)

 田舎暮らしが、ブームになっている。定年帰農という言葉も、生まれた。老後は、農村で……
というわけである。

 しかし一言。田舎生活は、そんな甘くない! 都会に住んでいる人は、田舎生活を、軽く考え
る傾向がある。都会の人は田舎に対して、ある種の優越感をもちやすい。都会的優越感という
のが、それである。

 たとえば今、都会に住んでいるあなたが、家と土地を買って、田舎に移り住みたいと考えてい
たとする。土地は安い。より広い土地を手にすることができる。畑といっても、遊び程度にでき
ればよい、と。

 こういうとき、あなたが一番先に考えなければいけないのは、田舎の人を、ナメてはいけない
ということ。NHKの昼の番組に、『昼xx、日本』というのがある。ああいう番組などを見ている
と、都会の人なら、だれでも簡単に、田舎に入っていけると思うようになるかもしれない。田舎
の人は、純朴で、心が広い、と。

 しかしそれは、とんでもない誤解である。

 田舎の人が、純朴でないとか、心が広くないとか、そんなことを言っているのではない。

 もしあなたがタダの人なら、あっという間に、その田舎から、はじき飛ばされてしまう。仲間に
は、絶対になれない。なれるわけがない。田舎の人は田舎の人で、あの鼻持ちならない、都会
的優越感というものが、どういうものか、よく知っている。その都会的優越感を、田舎の人が感
じたとき、あなたは、確実に、その世界から、はじき飛ばされる。

 当然のことである。

 あるテレビ番組に、お笑いタレント風の男が、突然、田舎の家を訪問し、用意してあった昼食
などをもらって食べるというのがある。ああいうことができるのは、バックにテレビカメラがある
からである。

 でないというなら、もしあなたの家に、今、突然、田舎の人がやってきて、「お宅の昼食を食べ
させてください」と言ったら、あなたはどうするだろうか。どう反応するだろうか。「さあさあ、どう
ぞ、召しあがってください」などと、あなたは、言うだろうか。

 その意識は、都会も、田舎もない。むしろ田舎の人のほうが、頭にカチンとくるにちがいな
い。

そこで今、定年帰農という言葉が、もてはやされるようになった。公的な「ふるさと回帰センタ
ー」というのも、全国のあちこちにつくられるようになった。その背景には、農業従事者の高齢
化問題と、後継者不足問題がある。

 しかし「ふるさと回帰」と、「定年帰農」とは、まったく異質のものである。ふるさとイコール、農
家ではない。このあたりを混同すると、たいへんなことになる。

 事実、浜名湖の北に、定年後、農業を夢みて集まった人だけが作った村(コミュニティー)が
ある。マスコミニにも大きく紹介されて、その当初は、派手なスタートを切った。

 しかしそれから約10年。ほとんどの人が、また、その村を離れ、都会にもどっている。地元
の小学校の校長は、こう話してくれた。「結局は、地元に溶けこめなかったのですね」と。もっと
はっきり言えば、「そんな甘くない」と。

 農業が楽な仕事と思ったら、たいへんな誤解。とんでもない誤解。都会で、サラリーマン生活
をしているほうが、ずっと楽。「自然に親しむ」などということは、都会にいるからこそ、できるこ
と。農業をするということは、毎日が、その自然との戦いということになる。自然は、決して、甘く
ない。

 都会の人と、田舎の人の意識のギャップは、大きい。少し前、長野県で、リンゴ園を経営して
いる友人が、こう話してくれた。

 「何が頭にくるかといって、ときどき町の連中が、オレたちの田舎へやってきて、家庭菜園を
しているのを見るときぐらい、頭にくることはない。あいつら、革靴をはいて、畑をたがやしてや
がる。ああいうのを見ると、オレたちの仕事を、バカにしているとしか、思えない」と。

 この意識のギャップを、あなたは理解できるだろうか。つまり、なぜその友人が頭にきている
か、それを理解できるだろうか。もしできれば、あなたは田舎出身の人とみてよい。わからなけ
れば、あなたは都会出身の人とみてよい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(410)

【私の2005年、大予測 by はやし浩司】

2005年について、私の予測をまとめてみたい。予言ではなく、予測である。不勉強なところも
あるので、異論、反論もあるかと思うが、そこは、どうか許してほしい。

●郵政民営化……賛成である。そのことは、かつての国鉄からJRへの民営化、さらには、宅
配便の規制緩和などを見ればわかる。私たちの生活は、そのため、ぐんと便利になった。

 経済財政担当大臣の竹中氏は、かねてより、民営化のメリットを三つ、あげている。

(1)現在郵政公社がもっている、350兆円ものお金が、民間に出回るようになる。
(2)現在の郵便局ネットワークを、コンビニ化できる。よりきめのこまかいサービスができるよ
うになる。
(3)現在、28万人もいる国家公務員を、削減することができる。その数は、国家公務員の約3
割。

 郵政民営化を反対している人たちは、利権の上にあぐらをかき、その既得権を守ろうとして
いる人たちと考えてよい。郵政族と言われている、衆議院議員のAR氏は、「郵政民営化は、
亡国のシナリオ」(文芸春秋)と息巻いている。

 いわく「郵便局を支えているのは、お互いが助け合う、『共助』の考え方である。郵便局は、そ
れを実践する経営を行ってきた。つまり『国民による経営』だ」(「日本の論点」)と、書いてい
る。こういう言い方そのものが、すでに、宙に浮いている。

 こういうときばかり、私もその国民の1人だが、私たち「国民」とやらが、利用される。だれも、
「国民による経営」だとか、そんなことなど、思っていない。

【2005年、K首相主導のもと、郵政は民営化される。】


●皇室問題……東京新聞が、2003年6月にした調査によれば、「天皇は男子にかぎるべき
か」という質問に対して、

   女子が天皇になってもよい……76・0%
   男子にかぎるべきだ   …… 9・6%
   特に関心がない     ……12・7%(日本世論調査会)と。

 すでに民主党は、「女性天皇容認論」を明らかにしている。ほとんどの知識人も、その方向
で、ものを書いたり、意見を発表したりしている。今のところ、「女性天皇否定論」を公にしてい
る人は、いない。だいたいにおいて、そういうことで、男と女を差別するほうが、おかしい!

【2005年、女性天皇は認められる方向で、決着がつく。】


●K国について

 「制裁」という言葉を使うから、話がおかしくなる。そうではなく、たとえば「相互平等化法案」と
か、そういう言葉を使えばよい。

 K国が、日本国籍の船舶の寄港を制限しているなら、「日本も、それと平等にします」。K国か
らの日本への送金を制限しているなら、「日本も、それと平等にします」。K国で、日本人の活
動が制限されているなら、「日本も、それと平等にします」と。

 今の状況では、制裁はやむをえない。拉致家族被害者連絡会代表のYT氏は、「庶民を苦し
めない経済制裁はできないか」という前提つきながらも、「経済制裁を実施するという強い意思
を示せば、K国に大きな打撃を与えます」(文芸春秋)と書いている。

 これに対して、いわゆる、ヒューマニストたちは、(いつも、私は、半ば軽蔑の念をこめて、そう
呼んでいるが……)、「経済制裁は、弱者を苦しめるだけ」(O市立大学教授B氏ほか)などと、
反対している。

 ヒューマニストたちは、弱者を理由にしながらいつも、自分だけは、ヒューマニストの立場に立
とうとする。あのO真理教事件のときも、本来なら、O真理教を、つぶしておくべきだった。しか
し今と同じように、ヒューマニストたちが出現。どこかわかったような、それでいてわけのわから
ない論理をふりかざして、O真理教を生き残らせてしまった。

 K国で弱者が苦しんでいるのは、私たちが経済援助をしなかったからではない。また経済援
助をしたからといって、その苦しみから解放されるわけではない。かえって、その苦しみを、持
続させてしまう。

 ただ今の状況では、K国など、相手にしないこと。新潟港にやってくるM号にしても、たかが
船一隻ではないか。あんな船、入港を制限したところで、制裁したことにはならない。やりたい
ように、させておけばよい。

 K国は、今、たいへん貧しい。想像を絶するほど、貧しい。公式レートはともかくも、実勢の交
換レートで計算すると、K国の一般労働者の賃金は、月額で2米ドルにもならない。(中朝国境
での実勢交換レートによる。)

 2ドルだぞ! 日本円になおすと、200円だぞ! 1か月、200円だぞ!

 だから世界第二の経済大国日本が、本気で、「制裁」と構えなければならないような国ではな
い。すでにK国は、制裁以上の制裁を、国際社会から受けている。だから話は、もとにもどる。

 日本のみならず、アメリカも中国も、そしてロシアも、K国の金政権が、静かに自然死をする
ことを望んでいる。(韓国だけは、困ると言っているが……。)昨今の報道によれば、金政権の
崩壊は、近いと予想されている。

 アメリカのニューヨークタイムズ紙も、「K国では、相ついで反旗をひるがえす動きが見られ
る」(11月8日)と、報道している。そういう動きは、今後、急速に加速することはあっても、減退
することはない。ニューヨークタイムズ紙は、さらにつぎのように伝えている。

 「金XXはこのような抵抗のため、あちこちを移りながら生活しており、P市内にある金XXの自
宅はトンネルで連結されている。抵抗の陰謀を粉砕する部隊員だけで、10万人にのぼる。

北朝鮮が貧困に直面した時も、金総書記はゴルフコースと馬小屋、映画館などを整えた10個
の宮殿を建設しており、車庫は最高級の乗用車であふれていた。米中央情報局(CIA)は、金
XX一家の財産が約40億ドル(約4400億円)相当で、このうちの一部がスイス銀行に隠匿さ
れていると推定している」と。

【2005年、多分に希望的観測だが、K国の金体制は、中国の圧力がきっかけで、自然崩壊
する。】

※今年に入り北朝鮮の公式為替レートは1ドル=145ウォン(北朝鮮貨幣)程度だが、市場為
替レートは1000ウォンという(東亜日報・−4・11)。


●イラク問題

 現実の数字。

 日本の原油、中東依存度は、2002年……85・3%
              2003年……88・5%

 さらにそのうちわけは、

     アラブ首長国連邦 ……22・9%
     サウジ      ……22・4%
     イラン      ……13・8%
     カタール     …… 9・2%
     クウェート    …… 6・9%
   (以上、経済産業省、02年「エネルギー生産・需給統計年表」)

 中東の政治的安定は、日本にとっても、死活問題なのである。こうした現実を無視して、「イラ
ク問題は、日本には関係ない」と、どうして言うことができるのか。

 が、しかし、当面の深刻な問題は、実はイランである。

 04年2月、日本とイランが開発に合意した、「アザデガン油田」は、推定埋蔵量260億バレ
ルで、世界第二の大油田ともくされている。

 もし、イラク問題がこじれ、さらに、イランの核疑惑問題がこじれるようなことがあると、日本
は、この油田の利権すらも失うことになる。すでに日本は、4年前、アラビア石油のカフジ油田
の利権の半分を、失っている。

 悲しいかな、ここは、中東最大の宗主国であるアメリカに、日本は、泣きつくしかないのであ
る。アメリカの機嫌をそこねたら、アザデガン油田はもちろんのこと、日本は、中東から原油を
輸入することすら、ままならなくなる。

【2005年、日本はアメリカと一蓮托生のまま、イラク派兵を継続する。】
      

●日本の構造改革

 2004年度、日本の構造改革、つまり行政改革、つまり官僚制度の是正は、まったくといって
よいほど、進まなかった。少子化問題、高齢化問題、情報化問題、それにグローバル化問題
など、どれ一つをとっても、ほとんど、手つかずのまま。

 一つの例をあげて考えてみよう。

 私の山荘の周辺は、数年前までは、ミカン畑におおわれていた。しかしここ数年、転作、減
反、廃業で、どんどんとミカン畑が消えつつある。

 静岡県のミカン栽培については、三つの大きな問題がある。一つ目は、産地の不利。愛媛県
や熊本県のミカンよりも、どうしても出荷が遅れる。遅れた分だけ、値段が安い。二つ目は、コ
スト高。オーストラリアでも温州ミカンが栽培されるようになった。

 規模がちがう。がそれだけではない。その季節になると、東南アジアや中国から、季節労働
者を受け入れて、栽培している。

 日本も、そうすべきなのだろうだが、あろうことか、外国人労働者の受けいれに、一番抵抗し
ているのが、農業関係者だというから、話にならない。が、もう一つ、つまり三つ目に、こんな問
題も生まれる。

 仮に外国から、低賃金の外国人労働者を受けいれるにしても、悲しいかな、日本の農業は、
それだけの知的レベルに、まだ達していない。英会話を駆使して、外国人労働者を迎える。指
導する。そして使う。そういうことが、できない。

 しかし何も、私はここでミカン栽培の話をするつもりはない。私は、このミカン栽培にみる問題
が、そのまま日本の構造改革に直結しているということ。少子化問題、高齢化問題、情報化問
題、それにグローバル化問題など。

 もちろんその元凶は、奈良時代からつづいている官僚制度である。つきつめれば、すべての
問題は、そこへいく。この官僚制度のおかげで、日本の社会システムは、小回りができない状
態にある。社会の構造そのものが、硬直化している。

ただ誤解しないでほしいのは、官僚制度のすべてが悪いと言っているのではない。官僚制度と
いうのは、全体主義的な雰囲気の中で、大通りを、まっすぐ驀進する間は、それなりに効率の
よいシステムだったかもしれないが、今は、そういう時代ではないということ。

 それはたとえて言うなら、大型トラックで、複雑に入り組んだ路地を走るようなもの。これで
は、この先、少子化問題、高齢化問題、情報化問題、それにグローバル化問題など、どれ一
つをとっても、解決できないということ。世界に太刀打ちできるはずがないということ。

 あのトヨタにせよ、三菱商事にせよ、さらにイトーヨーカ堂にせよ、なぜ、勝ち組になったか。
日本には、そういうよい例もあるのだから、すなおに学ぶべきものは学びながら、改革を進め
るべきではないのか。

【2005年、日本の構造改革は、今のまま停滞する。】

 
+++++++++++++++++

この原稿で思い出したのが、つぎの
原稿です。以前書いたものです。

参考までに、掲載しておきます。

+++++++++++++++++

●山荘で

 山荘の周辺は、少し前までは、豊かなミカン畑に包まれていた。しかしここ5〜10年のあい
だ、減反につづく減反で、そのミカン畑が、どんどんと姿を消した。

 理由は、この静岡県のばあい、(1)産地競争に負けた、(2)ミカンの消費量が減少した、
(3)農業従業者が高齢化した、それに(4)外国からの輸入ミカンとの価格競争に負けた。加え
て、この静岡県の人たちには、「どうしても農業をしなければならない」という切実感がない。

とくにこの浜松市は、農業都市というよりは、工業都市。それなりに栄えている。「農業がだめ
なら、工場で働けばいい」という考え方をする。

 産地競争というのは、この静岡県は、愛媛県、熊本県との競争のことをいう。ミカンは暖かい
地方から先に、出荷される。静岡県のミカンは、季節がら、どうしても出荷が遅れる。遅れた分
だけ、価格がさがる。だからどうしても価格競争に負ける。

 ミカンの消費量が減ったのは、それだけミカンを食べなくなったということ。「皮をむくのがめ
んどう」と言う人さえいる。皮をむくことで、「手が汚れる(?)からいやだ」という人さえいる。

 農業従事者の高齢化の問題もある。ミカン栽培は、基本的には、重労働。ほとんどのミカン
畑は中間山地にある。斜面の登りおりが、高齢化した農業従事者には、きつい。

 最後に、このところ、外国からの輸入が急増している。あのオーストラリアからでさえ、温州
(うんしゅう)ミカンを輸入しているという。

 そこで、静岡県のミカン産業は、どうしたらよいのかということになる。

●外国との競争

 オーストラリアでのミカン栽培は、そもそも規模がちがう。大農園で、大規模に栽培する。しか
も労働者は、中国人やベトナム人を使っている。もともと日本にミカンに勝ち目はない。

 本来なら日本も、その時期には、外国人労働者を入れて、生産費用を安くすべきだった。し
かし日本の農業、なかんずく農林省のグローバル化が遅れた。遅れたばかりか、むしろ、逆に
グローバル化に背を向けた。が、それだけではない。

 現在の農業は、まさに補助金づけ。それはそれで必要な制度だったかもしれないが、この半
世紀で、日本の農家は、自立するきびしさを、忘れてしまった。

このあたりの農家の人たちでさえ、顔をあわせると、どうすれば補助金を手に入れることがで
きるか、そればかりを話しあっている。

 ここでは省略するが、農家の補助金づけには、目にあまるものがある。農協(JA)という機関
が、その補助金の、たれ流し機関になっていると言っても、過言ではない。が、それ以上に、も
う一つ、深刻な問題がある。

 実は農業に従事する人たちの、レベルの問題がある。M氏(大手食品会社元専務)は、「お
おっぴらには言えないが、しかしレベルが低すぎる」(失礼!)と。それを話す前に、こんなこと
があった。

●レベルのちがい?

 私が学生で、オーストラリアにいたころ、私は、休暇になると、友人の牧場に招待された。そ
こでのこと。友人の父親は、夕食後、私たちに、チェロを演奏して聞かせてくれた。彼の妻、つ
まり友人の母親は、アデレード大学の学士号を取得していた。

 私は、「農業をする人は、そのレベルの人だ」という、偏見と誤解をもっていた。だから、この
友人の両親の「質」の高さには驚いた。接客マナーは、日本の領事館の外交官より、なめらか
で、優雅だった!

 これには、本当に、驚いた!

 つまりこうした学識の高さというのが、オーストラリアの農業を支えている。が、とても残念なこ
とだが、日本には、それがない。(最近、若い農業経営者の中には、質の高い人がふえてきて
いるが……。)

 一方、この日本では、M氏の話によれば、戦前には、大学の農学部門にも、きわめてすぐれ
た研究者がいたという。しかし戦後、経済優先の社会風潮の中で、農学部門には目もくれず、
優秀な人材ほど、ほかの部門に流れてしまった。

 このことは、大卒の就職先についても、言える。

 私が学生のころでさえ、地方に残った若者たちは、負け組と考えられていた。その中でも、農
業を継いだ若者たちは、さらに負け組と考えられていた。たいへん失礼な言い方だとは思う
が、事実は事実。当時は、だれもが、そう考えていた。M氏は、さらにつづけてこう言った。

 「農繁期には、中国や東南アジアから、季節労働者を呼び、仕事を手伝ってもらえばよい。農
業を大規模化するため、産業化、工業化すればよい。

しかしそういうグローバルなものの見方や、経営的な考え方をすることができる人が、この世界
には、いない。それがこの日本の農業の、最大の問題だ」と。

●おかしな身分制度

 ところで江戸時代には、士農工商という身分制度があった。江戸時代の昔には、農業従事者
は、武士についで2番目の地位にあったという。それがどういうものであったかは、ただ頭の中
で想像するだけしかない。しかしまったく想像できないかといえば、そうでもない。

 私が、子どものころでさえ、「?」と思ったことがある。

私の実家は、自転車屋。士農工商の中でも、一番、下ということになる。それについて私は、
子どもながら、「どうして商人が、農家の人より下」と思ったのを覚えている。

 もちろん仕事に上下はない。あるはずもない。ないのだが、しかし私が子どものころには、は
っきりとした意識として、それがあった。「農業をする人は、商業をする人よりも、下」と。

 こうした社会的な偏見というか、意識の中で、日本の農業は、国際化の波に乗り遅れてしま
った。今の日本の農業は、国からそのつどカンフル注射を受けながら、かろうじて生きながらえ
ているといった感じになってしまった。それが実情である。

●職業観の是正 

 もう一つ、話が脱線するが、今でも、おかしな職業観をもっている人は、少なくない。私も、そ
うした職業観に、いやというほど、苦しめられた。

 私が「幼稚園で働いている」と話したとき、高校時代の担任のT氏は、こう言った。「林、お前
だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 近所のS氏も、酒の勢いを借りて、私にこう言ったことがある。「君は、学生運動か何かをして
いて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。

 私の母でさえ、「幼稚園の先生になる」と話したとき、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア」と、
電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。

 そういう時代だったし、今でも、そうした亡霊は、この日本にはびこっている。いないとは言わ
せない。つまりそういう亡霊が、私が子どものころには、もっと強くはびこっていた。農業従事者
を「下」に見たのは、そういう亡霊のなせるわざだった。

 が、もう、そういう時代ではない。またそういう時代であってはいけない。大卒のバリバリの学
士が、ミカン畑を経営しても、何もおかしくない。仕事で山から帰ってきたあと、ワイングラスを
片手に、モーツアルトの曲を聞いても、何もおかしくない。

●結論

 私は、M氏の話に耳を傾けながら、これは農業だけの問題ではない。静岡県だけの問題で
もない。日本人が、広くかかえる問題であると知った。もちろん教育の問題とも、関連してい
る。さらにその先では、日本独特の学歴社会とも結びついている。

 が、今、日本は、大きな歴史的転機(ターニング・ポイント)を迎えつつある。それはまさに「革
命」と言ってよいほどの、転機である。

 出世主義の崩壊。権威の崩壊。それにかわって、実力主義の台頭。

 そこであなた自身は、どうか、一度、あなた自身の心に、こう問いかけてみてほしい。

 「おかしな職業による上下意識をもっていないか」と。

 もしそうなら、さらに自分自身にこう問いかけてみてほしい。

 「本当に、その意識は正しいものであり、絶対的なものか」と。その問いかけが、日本中に広
がったとき、日本は、確実に変る。
(040509)

【追記】

 その人がもつ職業観というのは、恐らく思春期までにつくられるのではないか。職業観という
よりは、職業の上下観である。

 この日本には、(上の仕事)と、(下の仕事)がある。どの仕事が(上)で、どの仕事が(下)と
は書けないが、日本人のあなたなら、それをよく知っているはず。

 こうした職業の上下観は、一度、その人の中でつくられると、それを変えるのは、容易なこと
ではない。心境の大きな変化がないかぎり、そのまま一生の間、つづく。

 もっともこの問題は、あくまでも個人的なものだから、その人がそれでよいと言うのなら、それ
までのこと。しかしだからといって、その価値観を、つぎの世代に押しつけてはいけない。

 さてここでクエスチョン。

 もしあなたの子どもが、あなたが(下)と思っている仕事をしたいと言い出したら、そのとき、あ
なたは何と言うだろうか。そのことを、少しだけ、あなたの頭の中で、想像してみてほしい。
(はやし浩司 農業問題 ミカン農家、ミカン栽培)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(411)

●夢、一考

 先ほど、1時間半ほど、仮眠した。寝る前も、今も、体がだるい。意識もはっきりしない。横に
ウーロン茶の入ったペットボトルがあるが、それに手をのばすのも、おっくう。何もしたくない。
何も考えたくない。

 しかし、だ。不思議なことに、内容はよく覚えていないが、夢の中の私は、かなり活動的だっ
た。どこかの道路を歩いていたし、ビルの二階と三階の間を、まるで飛ぶように、行き来してい
た。

 つまり意識の中の私は、行動的である。しかし実際の私は、だらしない。

 どうしてだろう? ……考えてみれば、これはおかしなことだ。

 そこで私は、こんな仮説をたててみた。

 (精神の意識)→(行動内容を決める意識)→(実際の行動)と。

 つまりいくら(精神の意識)は充実していても、(肉体の意識)が、「疲れているから、いやだ」
と、命令する。だから動きまわるのが、めんどうになる。そして(実際の行動)が決まる、と。

 たとえば、こんなふうに考えてみよう。出版社の編集部で、ある本の出版が決まったとする。
しかし本というのは、編集部だけの意向だけでは、出版できない。販売部の意向が反映され
る。その販売部が、「売れない」「売る自信がない」と判断すれば、その本の出版に、ストップが
かかる。

 この編集部の意思が、ここでいう(精神の意識)ということになる。販売部の意向が、(肉体の
意識)ということになる。そして最終的に、販売するかどうかは、経営者の判断にゆだねられ
る。

 ところで人間の実際の行動には、二つの命令が、同時に働くということは、よく知られている。
行動命令と、抑制命令である。さらに運動命令は、大脳皮質の運動野(ブロードマンの第4野)
から出される。それはそれだが、私はもう一つ、(精神の意識)に対して、ここでいう(肉体の意
識)が、あるのではないかと、私は思う。

 もちろん(肉体の意識)は、(意識)として認識されるものではない。しかし精神の意識のほう
が、せっかく行動しようと思っていても、「疲れているから、やめようや」というふうに、抑制的に
働く。

 実は、今が、そうだ。少し手が届くところに、ペットボトルがある。少し手をのばせば、それを
取って、ウーロン茶を飲むことができる。しかしそれがめんどう。その(めんどう)という気持ちを
起こさせるのが、(肉体の意識)ということになる。

 今、その肉体の意識が、猛烈に働いている。まだ、眠い。だるい。

●夢、一考(2)

 もう一つ、夢は夢だが、人間の論理性は、どうなるかという問題。

 目がさめたとき、「どうしてあんな夢を見たんだろう」と思うときがある。あとから考えてみると、
矛盾だらけ。昼間だったはずなのに、自動車にはライトがついていた。船にのっていたはずな
のに、その船が、駐車場にあった。

 「どうして、そのとき、疑問に思わなかったのだろう」と。

 ふつう目の網膜に映った映像は、後頭葉にある視覚野に送られる。目がビデオカメラで、視
覚野が、モニターと思えばよい。

 そのモニターに映った映像は、そのあと、脳の中で、二次加工、三次加工されて、映像の中
から、特徴だけが抽出されて、大脳の連合野に送られる。そしてここで、いろいろな判断がくだ
される。「今は昼だ」「これは船だ」と。

 ということは、夢というのは、視覚野に映されても、大脳の連合野をスキップしてしまうというこ
とになる。あるいはまったく別の経路から、視覚野に映されて、そして大脳の連合野をスキップ
して、別の部分に情報が送られる?

 いろいろ考えられるが、ともかくも、矛盾だらけ。

 で、私は思った。ボケというのは、脳ミソの状態が、その矛盾だらけの状態になることではな
いか、と。矛盾を、矛盾と思わなくなってしまう。つまり大脳連合野の働きが、眠った状態になっ
て、判断力そのものがなくなってしまう。

 ということは、私は、夢を見ながら、ボケを疑似体験しているということになる。ハハハ。これ
はとてもおもしろい考え方だ。

 ……ということで、夢の話は、ここまで。実にいいかげんな、憶測と偏見だけのエッセーで、ご
めん。


●やるべきことをやり、やりたいことをやろう!

朝起きたら、まずやるべきことをする。考える。
そしてやるべきことをやりながら、やりたいことをする。
その二つを、懸命にする。それが生きるということ。

やるべきことをしないと、生きていかれない。
仕事も、家事も、育児も……。やるべきことをするのが、生活。

やってみて、「つまらなかった」と思うことは、よくある。
しかしやらないで、悶々としているよりは、ずっと、よい。

夜眠るとき、暗闇に包まれた空間で目を閉じて、ふと考える。
私はやるべきことをしたか。やりたいことをしたか。

しかし、今日も、ダメだった。やるべきことも中途半端。
やりたいこともしなかった。できなかった。それも中途半端。

そこでまた、こう思う。考える。
明日こそは、やるべきことをまず、しよう。
そしてやりたいことを、やろう、と。
それを懸命に、しよう。それが生きるということ。


●みんなに、いい顔はできない

イギリスの格言に、「2人の人に、いい顔はできない」というのがある。
自分のことを理解してくれる人もいれば、そうでない人もいる。
自分のしたことをタナにあげて、私を責める人もいれば、
私のしたことを許して、私の味方になってくれる人もいる。

どうせ、みんなにいい顔はできない。また、その必要もない。
思いたければ、どうとでも、思え。私の、知ったことか。

私の住んでいる世界にしても、「教育」とは、名ばかり。
その底流では、人間の、ドス黒い欲望がうずを巻いている。
こんな世界で、清流を期待することなど、できない。
自分だけ、身の潔白さを、守ることはできない。

ただ願わくは、そういう世界に毒されることなく、私は私の道を行きたい。
私のすべきことは、私の知識や経験を、みなに伝えること。
あとの判断は、それぞれの人に任せればよい。私の、知ったことか。


●身も心も、ボロボロ

身も心も、ボロボロ。ボロボロになりながら、人は生きる。
裏切り、中傷、デマ、悪態、悪口、ねたみ、ひがみ……。
ボロボロになることを、恐れてはいけない。

最初は1本のキズも気になるが、そのキズも無数になると、
目立たなくなる。わからなくなる。またそれが当たり前。

この世の中、出る釘は、たたかれる。そういう世界。
もしこの世界で、キズつくことを恐れたら、生きザマはただ一つ。
小さな穴にこもって、首だけ少し出して、静かに、ただひたすらおとなしく、
目だたないように、生きるだけ。それでいいというのなら……。


●新世代の人たちの日本語

 若い人たちのHPや、BLOGをのぞいていると、ときどき、自信をなくす。
 文章もちがうが、しかし文章だけではない。

 今の若い人たちは、心の中にあるものを、そのままストレートに表現する。
 そのストレートさが、すばらしい。感動的ですら、ある。

 で、そういう若い人たちの文章を読んでいると、いかに自分の文章が、陳腐で、
ダサイかが、わかる。いつも奥歯に、ものがはさまったかのような文章しか書けない。

 実のところ、私も、もっと、ストレートに自分を表現してみたい。仮面を脱ぎ捨て、
 心のマントを取りはらい、青空に向かって、ありのままの自分を叫んでみたい。

 バカヤロー! くそ食らえ! ふざけるな! このヤロー!、と。

 だれに対してということではない。自分に対して、だ。
生きることに対して、この私を包む世界に対して、そう叫んでみたい。

……となると、日本語って、いったい、何なのかということにもなる。
さらに、言葉とは、いったい、何なのかということにもなる。

世の中の識者の中には、こうした若い人たちの日本語を憂うる人もいる。
「日本語ではない」「日本語はこわれている」と。

しかし、私は、そうは思わない。……思ったこともない。
私が学生時代のときには、さらにその上の古い世代に、私もさんざん、そう言われた。
「今の若いものは、言葉の使い方も、知らない」と。

しかし私は今、日本語の新しい息吹を感ずる。それは命の根源から吹き出るような、
新しい息吹である。まさにそれは、抑圧された支配からの、魂の解放といってもよい。

たしかに若い人たちの文章を読んでいると、乱暴に聞こえる。
しかしその中に、妙に人間的なぬくもりを感ずるのは、私だけではないだろう。


【はやし浩司より、透明サングラス様へ】

●よろしく!

多分、私の息子たちの年齢の方だと思います。
私はずっと、何というか、古典的な世界で
文章を書いてきたので、こういう文章しか
書けないのですね。

時代遅れというか……。いろいろ努力はして
いるのですが……。

しかしあなたが言うように、そこは仮面の世界。
自分でもわかっています。この仮面をぬげたら
どんなに気が楽になることか。

透明サングラスさんの日記を読んでいると、
何というか、自分らしく生きている姿が
うらやましいです。

本当は私も、もっとストレートにものを言いたい。
書きたい。しかしそれができない。
そういう意味で、恥ずかしながら、これからゆっくりと
勉強させていただきます。

あなたから見れば、遠い未来の、想像もできないような
世代の人間かもしれませんが、よろしく。
日記のほうは、楽しみにしています。

はやし浩司(本名)

+++++++++透明サングラスさんからの励ましの文章です++++++++

【透明サングラスさんより、はやし浩司へ】

 ちょっとまて、はやしさん!!

 「くそまじめな文しか書けない初老男」

 結構じゃないか!!

 俺は、はやしさんはもっと自信をもって 「書いて」いいと思うゾ!!

 「まともな日本語」 も知らずに 、「自由な言葉」 ばっかり使っている若者より
よっぽどカッコイイってことが・・・わかってないね??

 みんなはやしさんみたいに 「日本語を知っている」 ひとが羨ましいんですゾ!! 本当はネ。

 まったく!!  何を仰るウサギっちょですょ!!

 これからもバリバリ書いて下さいね☆

【はやし浩司より、透明サングラスさんへ】

 そうだよな! 何となく、なぐさめられたって、感じ!

 オレもさ、「私」っていう言葉が、本当は、嫌い。だいたいこれは、女々しい!

 昔は、「私」という言葉を使うのは、女だけだったぜ。

そのオレが、「私」だってさ。笑うね!

 いやだね、かっこうつけるのは! オレは、「オレ」と書きたい。

 しかしね、一応、教育評論をしてるだろ。そうは、いかないのよね。

 サラリーマンが意味のない、ネクタイをするだろ。あれと同じ! ホント!

 オレが思うにはね、君たちこそ、自信をもって、
 
 この日本のワクを、ぶちこわしたらいいと、思っている。尾崎豊が言うように、

 クソ食らえ(「卒業」)だよ。応援する。声援する。

 だいたい言葉というのは、流儀のかたまり。茶道や華道の流儀と同じ。

 歌舞伎の家元制度と同じ。型や作法が決まっていてね。

 オレも長いこと、文章書いているけど、正直言って、疲れた。

 おじょうず言ってサ。きれいごと、並べてサ。相手に気ばかり使っている。

 オレがどこにも、いない。本当に、いない。そんな文章なんか、

 いくら書いても、ただの紙くず。

 ブルース・ウイリスの「シクス・センス」知っているよね。

 最後に、自分が幽霊だったと知るわけ。今の、オレは、そんな気分。

 オレは、世の中の化石と戦ってきた。そのつもりだった。

 しかし、オレ自身が、その化石だったとは!!  ああああ!

 透明サングラスさんこそ、自信をもっていいぞ。どんどん書いて、新しい日本語、
 
 新しい文化、そして新しい日本を、創るのだ! 

 もうそろそろ、オレたちの時代は、終わり。それにかわって、活躍するのは、

 透明サングラスさん、あんたたち。あんたたちの出番だ。

 オレはね、長いこと文を書いていることもあって、他人の文章の中に、

 光るような感性を見抜く力だけは、もっている。

 透明サングラスさん、あんたの感性は、本物だよ。「モナー論」を読んだとき、

 その感性を知った。これはおせじではない。

 では、また!

 +++++++++++++++転載許可承諾済み+++++++++++++++

●読者の方から……

+++++++++++++++++++

いつも自分の子育てを振り返りながら読んでおります。「子育ては学習」とおっしゃるとおり、私
の両親は愛情豊かな賢い両親ではなかったため、どうしていいのか解らず、とっても苦労して
います。こちらのマガジンを読んだとき、とっても自分にあっているバイブルと思いました。先生
にはお体お大事にしていただきたいですが、これからも続けていただきたいと思う自己中の読
者です。毎回楽しみにしています。(東京都・SK様)

+++++++++++++++++++

いつも、楽しく拝見しています。
最近では、スズメバチの巣のお話に、こちらもどきどきどうなるのか、どうなるのかと、わくわく
しながら、読みました。

子育ても、なんと母親起因の問題の多さに毎度のことながら、驚かされます。そして、これをい
つも読み、知ることが、私に出来ることだと思い、先生のマガジンを拝読しています。(そうでな
いと、やはり、同じ問題を起こしかねない、私ですから。)

又、子供だけを見たり、直接指導するのではなくて、子供の育つ家庭と言う環境を整えること
が、主婦として、母親として大切なのだなと、(うまく表現できませんが)感じました。ある面、夫
と子供との仲介的役割も母親の務めと知りました。

こういう風に子育てしよう。なんて思っても、私には無理です。失敗が小さいうちに、自分を振り
返ることが出来るように、先生のマガジンが役立っています。
本ではなく、週に3度これを拝見することが、たとえ、同じ内容のように感じるところがあって
も、フィードバック!! ですね。

本当に、これだけのことを準備するのは、とても大変なことだと思います。
私たちのために、(私のために)ありがとうございます。感謝しています。(静岡県・SM様)

【SK様、SM様へ……】

 どうして迷うのか、よくわかりませんが、このところ、毎日のように迷います。昨夜も、「もう、マ
ガジンをやめようか?」と、ワイフに相談したところです。

 書くのをやめようというのではありません。何となく、マガジンの時代は、終わったような気が
するのです。読者の数も、ぜんぜん、ふえません。

 今は、そのかわり、つまりインターネットの世界では、日記とか、BLOGが流行しています。私
も、日記(2社)と、BLOG(2社)に、ときどき顔を出しています。それが結構、おもしろいです
ね。友だちも、何人かできました。

 そんなとき、SK様やSM様からのメールが届いたりする……。こういうとき、心って、揺れ動く
ものですね。「もう少し、つづけてみよう」とか、なんとか。

 で、今は、11月13日。土曜日。朝7時。いつもだったら、朝5時ごろ起きて、原稿を書き始め
るのですが、今日は、「まあ、いいや」と朝まで、寝てしまいました。で、こうして原稿を書こうと
思うのですが、どうも、筆が進まない。動かない。

 で、改めて、SK様やSM様のメールを読みなおし、自分を、ふるい立たせています。

 そういう意味で、ありがとうございました。今日は、午前中は、SK様とSM様のために、何
か、役立つ記事を書いてみます。がんばります。がんばるしかないのです。

 ありがとうございました! + GOOD MORNING!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(412)

●あたまのよい子ども

 私の教室(BW)は、原則として、無学年制。「飛び級」と、わざわざ意識することなく、その能
力のある子どもには、自由に、飛び級をしてもらっている。

 で、今、年長児の男の子で、小学3年生レベルのクラスにきている子どもがいる。たまたま昨
日は、分数の話。

 「10センチの紐を、3人で分けるには、どうしたらいいかな?」という言い方で、レッスンに入
る。10センチの紐(実際には、紙でつくったテープ)を、子どもたちに渡す。

 4等分や2等分は簡単だが、3等分は、むずかしい。それがわかっていて、子どもたちに、3
等分させようとした。

 すると、その子ども(年長児)は、テープをものさしで長さを測ったあと、「10センチだからア…
…。エート、3点3(3・3)とオ……、6点6(6・6)でエ〜」と言い出した。

 驚いた。たまげた!

 「君は、小数って、知っているの?」と聞くと、「うん」と。たまたまその子どもの母親が参観して
いたので、「どこで覚えましたか?」と聞くと、「さあ、このBWではないですかア……?」と。

 私は、教えたつもりはないのだが……。

 頭のよい子どもというのは、そういう子どもをいう。あらゆる方向に触覚がのびていて、自分
で、どんどんと知識を吸収し、自分のものにしていく。

 で、話は、ふと、掛け算の話に。「アメリカでは、9の段までではなく、12の段まで、あるよ。1
2掛ける12まで、ね」と私が言うと、即座にその子どもは、それを頭の中で考え始めた。

 「12掛ける10でエ……120でエ……。それと……」

 またまた驚いた。またまたたまげた!

 思わず私は、ツバをのんだ。息をのんだ。いくら頭がよいといっても、年長児。まだ6歳。

私「君、その答を言うな!」
子「どうして?」
私「言ったら、ぼくは、ひっくりかえってしまうよ」
子「フフフ、じゃあ、言わない。わかんない……」と。

 もう少しほうっておいたら、「144」と答えたかもしれない。その子どもは、(12x12)を、独自
の方法で、頭の中で、暗算でしようとしていた。

 毎年、数人だが、こういう頭のよい子どもに、出会う。今も、小5で、中学3年生の勉強をして
いる子どももいる。小2で、小5レベル、小3で、小6レベルの勉強をしている子どももいる。

 こういう子どもたちに共通する点は、家庭では、実は、放任に近いということ。多分、ほとんど
の人は、私やその子どもたちの親が、無理に何かを教えているだろうと思っているかもしれな
い。しかし、むしろ、実際には、逆。

 こういうタイプの子どもをもつと、「うちの子は、できすぎて、みんなに仲間はずれにされるの
では……」と、悩んでいる。

 ぜいたくな悩みということになるが、その深刻さは、そうでない親たちには理解できない。「ね
たまれて、あらぬことを言いふらされたりします」「まるで私が、狂った教育ママのようなことを言
われます。非難されます」と。

 しかし実際には、そういう子どもがいることは事実。100人か、200人。さらに数百人に1人
という割合で、出現する。

 が、悲しいかな、そういう子どもに対する理解が、まだ不足している。またそういう子どもを育
てるシステムもない。これも日本の教育がかかえる、欠陥といえば、欠陥ということになる。

 
●いらぬお節介!
 
 問題意識のない親に、その問題を指摘しても、かえって反発を買うだけ。この世界の、常識
である。

 たとえば明らかに過剰行動性のある子どもがいたとする。突発的な行動性と、衝動性。キー
ッと甲高い声をあげて、興奮状態になったりする。

 原因は、脳間伝達物質(セロトニンなど)の異常分泌が疑われている。

 そこでそういう子どもを見かけたりすると、私のばあい、つい、「砂糖を与えすぎていません
か」と声をかけてしまう。しかしこの一言が、その親を激怒させる。(砂糖だけが原因ではない
ばあいもある。Ca、Mg不足でも、同じような症状を見せるときもある。)

 「甘いものなど、与えていません」
 「どういう子を、あんたは、ふつうの子と言うのだ」
 「そうでなくても、子育てはたいへん。いらぬお節介!」と。

 ほかにも、いろいろある。明らかにかん黙症や、自閉症、さらにはADHD児の疑いがあって
も、この世界では、「聞かれるまでは、言わない」が、大原則になっている。

 さらに明らかに「このままでは、この子は、燃え尽きて、やがて無気力児になるだろう」とわか
っていても、言わない。言う必要もない。言えば言ったで、かえって親の反発を買ってしまう。

 一度、もう15年ほど前になるが、「やはり、あきらめることは、あきらめたほうがいい」という
ようなアドバイスをしたことがある。その子ども(中学生)は、無理な学習が原因で、伸び悩んで
いた。親は。「もっと……」「まだ何とかなる……」と、子どもを攻めたてていた。

 するとその親(そのときは父親だったが……)は、私にこう言った。「他人の子どもだと思っ
て、よくも言いたいことを言うものだ。『あきらめろ』とは、何だ!」と。

 そしてそのあと、私の悪口を言いふらした。「あの林は、まじめに教えない。できない子どもを
いじめる」とか。よほど、その親の癇(かん)にさわったらしい。

 そんなわけで、親というのは、自分で何かに失敗してみて、そのときはじめてそれが失敗だっ
たと気づく。それまでは、気づかない。だいたいにおいて、他人の言葉に耳を傾ける余裕すら
ない。「あんたは、だまって、息子の勉強だけみていてくれればいい」、つまり「よけいなことを言
うな」と言った親すらいた。

 これも子育てが宿命としてもつ、側面の一つかもしれない。

【補記】

 親側の悪口ばかり書いたが、その一方で、親の不安をたくみにかりたてながら、それを金も
うけにつなげている、幼児教室や塾が少なくないのも事実。

ある幼児教室(S市)では、入会と同時に、テストを実施。「この力では、無理です」「運動能力
が劣っています」「数の力をもう少し」と、あれこれ問題点を指摘したあと、それぞれの教室に通
わせている。

そのため、月謝だけで、平均8〜10万円というから、恐ろしい! さらに「このままでは、学校
へ入ってから、落ちこぼれます」と、個人レッスンをすすめられ、プラス4万円も払わされている
親もいる。(計14万円! ホントだぞ!)

 私はよく「子育て狂騒曲」という言葉を使うが、そういう言葉を使う背景には、こういう事実が
ある。

【補記2】

 親の不安を金もうけにつなげる方法は、いくらでもある。まず(1)テストをする。(あるいは定
期テストを繰りかえす。)そして「客観的なデータです」とか何とか言って、点数と順位を見せ、つ
ぎに「こうすれば、力が伸びます」ともっていく。

 つぎに(2)「権威」の演出。このS県では、何でも「教材は、東京の幼児教室で使っているもの
……」「講師は名古屋から来ている先生……」というだけで、それをありがたがる傾向がある。
月謝も、2倍から3倍が相場。地方都市の悲しさ、というべきか。

 あとは、何かと子どもの欠点を見つけては、(3)補習レッスンと特別講座。これを繰りかえ
す。もちろん有料。こうして現に今、このH市にも、週5日間、子どもに通わせている幼児教室
がある。(週に5日だぞ!)

 何か……というより、すべてが狂っている。もうこうなると、教育というよりは、カルト。カルトと
いうよりは、狂育。子育てに狂騒する親たちは、結局は、その犠牲者にすぎない。

 しかし問題は、親たちが、なぜそうなるかということ。そのあたりまでメスを入れないと、結局
は、この問題は、解決しない。あるいは親たちに、新しい子育ての指針を示してやらないと、か
えって、親たちを路頭に迷わせることになってしまう。そのためにあえて一言、申し添えるなら、
こういうことになる。

 親たちよ、私といっしょに、もっと賢くなろう!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(413)

●日本の農業について

++++++++++

 ときには、まったく畑ちがいの分野のことについても、考えてみる。どこかサビついた思考能
力を刺激するには、この方法は、よい。……ということで、今日は、日本の農業について、考え
てみたい。

++++++++++

 横浜に住む、友人のMK氏が、「21世紀の食を考える」というテーマで、たいへん興味ある論
文を送ってくれた。これからその論文を、どこかの会議で発表するということなので、ここでは
残念ながら、紹介できない。

 で、私も、少し、日本人の食について、考えてみたい。

 カロリーベースでみたとき、日本の食糧自給率は、約40%(農林水産省)。この数値は、主
要先進国の中でも最低だそうだ。「まだ40%もあるのか」と思ってみたり、「たったの40%」と
思ってみたりする。

 その主な理由は、(1)国内農業の衰退と、(2)過度に欧風化した食生活だそうだ(同)。

 国内農業の衰退については、かねてから、「高齢化と、それにともなう後継者不足」ということ
は、よく指摘される。が、本当のところは、政府の農業政策の失敗。支持基盤をなくすことを恐
れた与党自民党が、その場しのぎの政策ばかりを、とりつづけてきたことによる。「猫の目農
政」というのが、それである。

 一方農家は、農家で、いわゆる「ばらまき行政」に甘えた。このあたりの農家でも、寄りあって
話しあうことと言えば、いかにすれば、政府補助金を手に入れることができるかという話ばか
り。これでは、国内農業の振興など、望むべきもない。

 (詳しくは書けないが、はっきり言えば、「どうやってごまかして、補助金を手にするか」という
話が中心。本来なら、農業の振興を監督、指導するはずの農協組織が、率先して、補助金の
手の入れ方の知恵とノウハウを、農家に提供しているというのが、現状。

 「3人で、〜〜届けを出しなさい。今なら、〜〜万円の特例金が出ますから」「で、3年つづけ
て、そのあと廃業届けを出せば、返金しなくもいいです」「〜〜月までに、減反届けを出しなさ
い。今なら補償金が、〜〜万円、出ますよ」と。)

 農業そのものが、自ら、魅力のない産業になりさがってしまっている!

 ちなみに、96年に344万戸(就業人口490万人)だった農業人口は、03年には、298万戸
(368万人)にまで減少している。耕地面積も、504万haから、474万haにまで減少している
(産経新聞)。

 過度に欧風化した食生活については、残念ながら、私には、それほど実感がない。三食のほ
とんどが米食だし、「欧米化」の象徴とされる、肉類や乳製品は、ほとんど口にしない。しかし実
感として、「米は高い」。(その分だけ、パンを安く感ずる。)

 このことはアメリカなどへ行ってみるとわかる。アメリカなどでは、10キロが、500円前後で、
大型店などで販売されている。日本では、その5倍以上の、2500〜3000円前後である。言
うまでもなく、その理由の第一は、国内農業保護の名のもと、490%という高い関税が、輸入
米にかけられているからである。

 しかしこうした政策が、本当に農業保護になっているかどうかということになると、疑わしい。
私の姉の嫁ぎ先も農家だが、自前で生産している米は、出荷せず、兄弟、親子の間で分け合
って食べている。「スーパーなどで買うと高いから」というのが、その理由である。

 そして残った土地では、ほかの作物を栽培し、さらに残った土地は、宅地などにして、切り売
りしている。「兼業農家」とはよく言うが、実際には、兼業農家のほとんどは、農業収入など、ア
テにしていない。兼業ではなく、「副業」というべきか。

 こうした現状をふまえ、そこで農林水産省は、「新農地改革」に乗り出した。「農地の流動化に
よる、土地の集約化が不可欠と判断した」(同)というわけである。効率的、安定的な農業経営
を促進するため、2010年までに、法人清算組織を、3万〜4万組織(「農業と食糧がわかる辞
典」)にふやす予定だという。目的は、農業の大規模化。

 いわゆる個人経営から、会社経営の移行とみてよい。しかし、問題がないわけではない。

 言うまでもなく、会社経営は、需要と供給のバランスの上に成りたつ。そしてそこでは、冷徹
までに過酷な、利潤追求という経営の論理が働く。この私ですら、「オーストラリアの広大な農
地を手に入れて、ライスを生産する」ということは考えても、「無数の農地を集約して、そこでラ
イスを生産する」ということは、考えない。

 このあたりの意識のギャップを、どう克服するか。農産物は「商品」には、なりえない。少なくと
も、そこらの電子製品とは、まったく異質のものである。

そこであえて言えば、農業の工業化ということになる。たとえば米の消費量が減ったことを問題
にするなら、その米を使って、パンを作るとか……。称して、「米パン」。あるいは、「米ソバ」「米
うどん」などなど。まったく新しい新製品でもよい。

 これは一例だが、日本人が得意とする、応用技術を使えば、それほどむずかしいことではな
いと思われる。農業を、農業としてこだわるから、いつまでも議論が堂々巡りになってしまう。

 ……ということで、私の思考能力では、ここまで。ここまで書くのが精一杯。ちがう分野につい
て考えるというのは、正直言って、疲れる。資料にしても、どこからどう集めればよいのか、そ
れすらわからない。

 しかし、よい頭の運動にはなった。これをきっかけに、これから先、農業問題についても、書
いていきたい。

 MK君、ありがとう!


●親子の意識のギャップ

 ほとんどの親は、自分の老後を設計するにあたって、こんな生活を夢見る。(1)子どもや孫
たちに囲まれ、(2)その子どもや孫たちに尊敬され、(3)子どもや孫たちにめんどうをみてもら
い、(4)趣味三昧の心の豊かな生活を送る。

 しかしこの日本では、もはやそれは幻想に近い。「近い」というより、幻想そのもの。「私だけ
は失敗しない」「私だけはちがう」と思いたい気持ちはよくわかるが、ありえない。ありえないこと
は、あなたの周囲の老人たちを見れば、わかる。

 実際には、(1)子どもや孫たちとは、離ればなれ、(2)死ぬまで、子どもたちに、スネをかじら
れ、めんどうをかけられ、(3)生活費はギリギリの年収300万円弱(試算平均)、(4)病魔と闘
いながら、毎日、病院通い。

 そんな話を、今夜も、ワイフとした。

 「最近の子どもたちは、親のめんどうをみる発想そのものがないね。ぼくらは、23歳のときか
ら、収入の半分を実家に送金してきただろ。しかし、今は、ちがう。逆転してしまった。

 そればかりか、二男は、この前、日本にきたとき、こうこぼした。『アメリカの両親は、子どもを
預かってくれる。その間、ぼくらは、デートできる。しかし日本の両親(=私たちのこと)は、子ど
もを預かってくれない』とね。

 ぼくらは、3人の子どもを育てたけど、一度だって、子どもを預かってもらって、デートなんか
に行ったことがないよね。

 考えてみると、不幸を知らない子どもというのも、かわいそうだね。『幸福であるのが当たり
前』という前提で、ものを考えるからね。ぼくらはトイレに入るときだって、そのトイレの水洗便
所を見ながら、心のどこかで、『昔とくらべたら、夢みたいだ』という思いが働くよ。

 ぼくらは、ぼくらで、精一杯、がんばって生きてきた。一か月で、休みが1日しかないような生
活が、何年もつづいた。そうした苦労や努力って、いったい、何だったのだろうね」と。

 それに答えて、ワイフは、こう言った。

 「私は、はじめから、期待などしていなかったわ。あなたはいつも、心のどこかで、『〜〜して
あげている』『〜〜してやっている』というふうに考えていたでしょう。それが犠牲心になったの
よ。だから、今、そう感ずるのよ」と。

 要するに、親も、ある時期がきたら、サッパリと子離れをする。『親が子を思うほど、子は親を
思わず』とは、昔から言うが、そのギャップが、近年になって、さらに広がったということか。

 たしかに今の子どものみならず、若い親たちも、昔と比べたら、ドライになってきている。が、
その一方で、子どもたちに対して、冒頭にあげたような幻想をいだいている人が多いのも事
実。が、幻想は、幻想だけに終わらない。

 今の子どもたちは、学費はもちろんのこと、結婚式の費用から、新居の費用まで、親が出す
べきだと考えている。(……らしい。)親は親で、そのつど、「子どもは私に感謝しているはず」と
考えがちだが、実際には、感謝の念など、ミジンもないのでは(?)。

 その点、ワイフは、昔から、はっきりしている。私が何かをするたびに、「あなたはやりすぎよ」
と言う。今でも、毎週、息子たちにいろいろなものを送っているが、ワイフが自分で買って送る
ことは、めったにない。むしろ「送らなくてもいい」と、ブレーキをかけるのは、いつもワイフのほ
う。

 が、息子たちは、私にではなく、ワイフに感謝している。

 こうしたバカらしさを感じながら、父親も、やがて子離れをしていくものか。
 
 ……とは書いても、こうしたバカらしさを乗りこえるのも、親の努め。どこかグチっぽくなったの
は、このところ、何かにつけて落ちこんでいるため。いやなことがつづいた。

 ただこういうことは言える。私がワイフに、「これからの将来は、ぼくたちは、ぼくたちだけのこ
とを考えればいいよね」と言うと、ワイフは、あっさりと、こう言った。「当然でしょう。財産なん
て、死ぬまでに使いきればいいのよ」と。

 そう言えば、昨夜、三男が私にこう教えてくれた。私が「お前のように、人生を気楽に生きる
には、どうしたらいいか」と聞いたときのこと。「パパ、どうにでもなれ!って、そう生きればいい
よ」と。

 ナルホド! よい言葉だ。「どうにでも、なれ!」か。そうだ、どうにでもなれ! バカヤロー!

 ……ということで、本題。

私「昔は、子はかすがいって、言っただろ。今は、そういうふうに考えないのかもね」
ワ「そうよ。子は足かせって、言うくらいよ」
私「子がいるから、がんばる。それはわかるが、子どもがいるから離婚しないというのも、これ
からは、考えものだね」
ワ「そうよ。自分の老後を考えたら、サッサと離婚したらいいのよ。子どもに気がねなんか、す
る必要はないのよ。私たちの人生は、私たちのものだから」
私「そうだよな」と。

 これは私の調査によるものだが、祖父母が死んだときでも、それを悲しむ子ども(孫)は、ほ
とんどいない。涙を流したという子どもは、さらに、いない(5〜6歳児、10人前後に聞き取り調
査)。

 しかし孫が何かのことで死ねば、親はもちろん、たいていの祖父母は、それを死ぬほど、嘆
き悲しむ。

 こうしたギャップというのは、親子でも、ある。親としては、「そうでない」「そうであってほしくな
い」と思いたいのかもしれないが、それこそが、まさに幻想。だからといって、子どもに冷たくな
れというのではない。要するに、私のワイフが言うように、最初から期待など、しないこと。その
一言につきる。

 親子の意識のギャップを埋めるためには、それしかない。
(041113)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(414)

【近況・あれこれ】

●F豆v15

 年賀状の季節だ! ……とういうことで、定番の「F豆v15」(パソコン・ソフト)のDVD版を買
ってきた。

 が、インストールはしたものの、肝心の住所と名前が読み出せない。何度トライしても、エラー
表示。ときは土曜日の午後。電話はつながらない。しかたないので、FAXで、指示を請う。

 が、さすがF豆社! 数時間後には、返事が届いた。いわく、「XPで、SP2を導入してパソコ
ンでは、そのような不調が報告されています。当社のHPから、UPDATEプログラムをダウンロ
ードして、インストールしてください」と。

 さっそく、指示に従って、UPDATE。結果、F豆v15は、調子よく、動くようになった。ほっとし
た。

 しかし今回、SP2を導入してから、私のパソコンは、あれこれと不調つづき。画面はおかしく
なるは、プリンターは、動かなくなるは……。新しいソフトをインストールするたびに、ハラハラ。

 みなさんのパソコンは、いかがですか?

 しかしうまく動くようになったら、興味半減。「まだ年賀状を印刷するのも早いし……」というこ
とで、おしまい。人間って、身勝手なものですね。(あるいは、私だけかも?)ハハハ。

++++++++++++++++

今年も、さらに、100枚単位で、年賀状を減らしました。
失礼をする方も多いと思いますが、どうか、お許しください。

++++++++++++++++


●同窓会

 ワイフもそろそろその年齢か? このところ同窓会つづき。今年は、もう3回目くらいではない
か……。数えていないのでわからないが……※。

 歳をとればとるほど、同窓会がふえるという。老人性の回顧性が強くなるためである。記憶の
メカニズムも、そうなっているらしい。「新しい記憶が、はがれ落ちて、その下から、若いころの
古い記憶が外に出てくるためではないか」と、まあ、庭のクルミの木を見ながら、勝手にそんな
ことを想像している。

 いえね、クルミの木というのは、葉が青々しているときは、枝は見えない。しかし秋になり、葉
を落とし始めると、その中の枝が外に見えてくるようになる。つまり、若いときの記憶が「枝」の
部分で、それ以後の新しい記憶は、「葉」の部分というわけ。

 人間、だれしも、いつまでも青々とした葉を身につけていたいと思うもの。葉を落として、枝を
見せるようになったら、おしまい?
 
 ……何となく、詩的になってきた。ロマンチックになってきた。ハハハ。


思い出は、一枚の葉となり、
枝につく。一枚、一枚、と。

そしてやがてその木は、豊かな
思い出の葉でおおわれる。

秋になり、葉が色づくころ、
今度は、古い葉が、風に舞う。

思い出は、一枚の葉と共に、
枝から離れる。一枚、一枚、と。

気がつくと、そこには、古い枝。
どこか疲れた、秋の枝。幹。
夏の日照りに疲れて、シミのついた体を、
さみしげに、さらす。


 私は、どこか人間性がこわれているせいか、それとも、まだ前だけを見ているせいか、回顧
性がそれほど、強くないように思う。近く、高校や大学の同窓会があるのだろうが、多分、今度
も、出席しないだろうと思う。

 私が、ふるさとのG県を離れて、もう40年。一方、ワイフは、この地で生まれ、この地で育っ
た。街やショッピングセンターへ行くたびに、だれか親類や友人に出会ったりする。同窓会に対
する考え方がちがうのかも? ちがっていても、おかしくない。よくわからないが……。

【追記※】あとで聞いたら、今年は、たしかに3回、あったという。全体会、学年会、それにクラ
ス別のクラス会だそうだ。今日は、学年単位の同窓会だったらしい。


●空腹感

 この9月から10月の終わりにかけて、体重を、69キロから、62キロ台に減らした。

 その間に、こんな経験を、ときどき、した。つまり空腹感が強くなると、突発的に情緒が不安
定になるということ。よく「イライラする」と言う人がいる。そんな感じになる。ささいなことで、カッ
としたり、怒りがいつもよりはげしくなったりする。脳ミソが何かにつけて、過剰反応しやすくな
る。あるいは脳ミソの抑制命令が、きかなくなる?

 そしてそれはそれとして、今度は反対に、ときどき、いつもより量を多く食べたりすると、胸が
つまったような感じになる。一、二度、胸苦しさを覚えたこともある。

 そんなわけで、空腹感と心の状態は、密接に関連しているようだ。私の印象では、空腹のと
きは、一時的に、低血糖状態になり、それが脳の伝達物質に、影響するためではないかと思っ
ている。あとで、もう一度、脳ミソの本を読みなおしてみよう。

 また量を多く食べたとき、胸が苦しくなるのは、脳ミソの問題というよりは、胸動脈の問題かも
しれない。気をつけよう! へたをすれば、心筋梗塞(こうそく)! ゾーッ!

 ……どちらにせよ、ダイエット中は、体のほうもデリケートになっているようだ。大切なことは、
安定した食事方法をつづけること。その一言に尽きる。

 今は、62〜63キロ台で、体重は、安定している。

(今度BLOGを始めました。今は試行段階ですが、やがてみなさんと意見を交換できるように
なります。もし、詳しくご存知の方がいらっしゃれば、教えてください。)


●一度死んでも、生き返るか? ……33・9%が、「生き返る」

 日本女子大のNK氏らのした調査によると、「一度、死んだ人が生き返ることがあると思うか」
という質問に対して、

 ある   ……33・9%
 ない   ……33・9%
 わからない……31・5%

 という、結果が出たという。
(首都圏、2つの小学校、3〜6年生、372人について、「死を通して生を考える教育研究会」
が調査。2001年度)

 「ある」と答えた子どもと、「ない」と答えた子どもが、ちょうど半々というのは、興味深い。

 で、たまたま先ほどまで、一卵性双生児の女の子が、この教室にいた。もうこの教室へきて、
一年以上になるが、私には、まったく、区別がつかない。指先の指紋まで、同じである。言い忘
れたが、休み時間に、今、教室で、このエッセーを書いている。

人は死んだあと、また生き返るのか? つまり、生まれかわるということはあるのか? もし、
そうなら、一卵性双生児の子どもは、どう考えたらよいのか。……というようなことを、この数字
を頭に思い浮かべながら、ふと、思った。

 卵子に精子が着床したとき、その瞬間には、一つの生命体であったはず。それがつぎの段
階で、二つに分離した。もし生まれかわるということがあるとするなら、この2人は、同じ(人間)
でなければならない。1人の人間が、同時に、2人の人間に生まれかわったということになるか
らである。

 しかし、どこからどう見ても、その2人の子どもは、別の人間。たがいに競うこともあるし、励ま
しあったり、嫉妬しあうこともある。

 まあ、こんな議論を重ねても、意味はない。

 ただ、「ある」と答えた子どもと、「ない」と答えた子どもとでは、死生観がちがうということ。子
どもの時代には、そのちがいは、あまりはっきりしないが、年齢とともに、より明確になる。

 私の年代になると、「生まれかわる」と信じている人と、「生まれかわりはない」と思っている人
とでは、ものの考え方のちがいが、はっきりしてくる。どちらが正しいとか、まちがっているかと
いう議論も、意味がない。どちらにせよ、私たち人間には、それを証明することはできない。

 またどちらが幸せで、どちらが幸せでないかという議論も、意味がない。

私は個人的には、「生まれかわることはない」と思っているが、「生まれかわれるものなら、生ま
れかわりたい」という、願望に似た気持ちもないわけではない。「生まれかわる」と信ずるほう
が、これからの老後を生きる上においても、気が楽になる。……と思う。「死んだら、すべておし
まい」という死生観は、本当のところ、考えるだけでも、ぞっとする。

【補記】

 昔、祖父は、いつも私にこう言っていた。「浩司、あの世なんか、ないぞ」と。

 そして祖父は、いつも決まってこんな話をしてくれた。

 祖父には、1人、無二の親友がいた。その親友と、ある日、こんな約束を交わしたという。ウ
ソや冗談ではない。本気で、だ。

 「もし、どちらか一方が先に死んで、あの世があることを知ったら、それをまっさきに、もう一
方に知らせる」と。

 が、その無二の親友のほうが、先に死んだという。で、その夜から、ずっと、祖父は、その親
友が、枕元に立つのを待った。しかし何日待っても、その親友は現われなかったという。だから
祖父は、「あの男が、オレとの約束を破るはずはない」「あの世はない」と。

 そして祖父は、私には、こう約束した。「浩司、もしあの世があるなら、おじいちゃんが、まっさ
きにお前に知らせてやるからな」と。

 しかし私のばあいも、祖父が枕元に立つことはなかった。だから……というわけでもないが、
(もともとこうした約束など、バカげているので)、私は、今は、あの世はないという前提で生きて
いる。

 何度も繰りかえすが、それは宝くじのようなもの。当たるか当たらないかわからいのに、当た
ることを前提に、ものの購入を予約したりする人はいない。同じように、あるかないか、わらか
ないあの世を前提に、それをアテにして生きることはできない。

 死んでからのお楽しみ! 死んでみて、あの世があれば、もうけもの。そのときは、そのとき
で、また考えればよい。

 そうそう、私のワイフは、いつもこう言う。「人間は、絶対に、死なない」と。死んだき、自分が
死んだことがわかる人間はいない。だから死なない、と。ナルホド!

【付記】

 凶悪事件が起きるたびに、子どもの死生観が話題になる。しかしここで書いたような死生観
は、凶悪事件とは、関係ないと思う。

 あの世があると信じているから、命をそまつにするとか、反対に、信じていないから、命をそ
まつにするとか、そういうことはないと思う。

 こうした凶悪事件の背景には、もっと別の「力」が働いているように思う。それについては、ま
た別のところで考えてみたい。
(041114)
(はやし浩司 子供 子ども 死生観)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(415)

【現実から遊離する子どもたち】
 
●現実から遊離する子どもたち

 少し前、ある母親から、こんな相談があった。何でも、12歳の娘が家出をしたという。それに
ついて母親が、それを責めると、その娘は、こう答えたという。

「ポケモンのさとしも、ハンターハンターのゴンたちも、10歳くらいで、旅に出ている」と。

 この子どもの例をみるまでもなく、今、(現実)と、(非現実)の区別ができない子どもがふえて
いる。

 こうした現象は、あの「たまごっち」ブームから、顕著になった。それがやがてポケモン・ブー
ムへとつながり、今に至っている。そのあと、この傾向が弱まったということはない。その間に、
その非現実性が原因と思われる、小中学生による凶悪事件も、いくつかつづいた。

 遠い別の世界での話ではない。このH市の小学校でも、学校で飼っていたウサギの足が切ら
れる事件、カメをすべり台の上から落として殺す事件、みんなで飼っていた昆虫に、殺虫剤が
かけられる事件などが、多発している。

 これらは、一つまちがえば、そのまま凶悪事件につながりかねない事件である。

 最近の子どもの特徴としては、つぎの二つがある。

(1)衝動性
(2)現実感覚の喪失

 この中の衝動性については、最近、ふえているのは、脳の中で、イメージが乱舞する子ども
たちである。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞投稿済み)。私は、テレビやテレビゲ
ームに代表される、いわゆる映像文化に、その一因があるのではと推察している。

++++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。

騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立!
 そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化
する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンにな
る。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。

小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ど
もが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが
騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、
休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の
先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)など
の友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。

家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、
そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子ど
もを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていた
のがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているとき
は、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児
向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲ
ームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経
験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えら
れる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から四年間は毎年210人から
220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。この数字は全休職者の約
52%にあたる。

(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその
精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因とし
ては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育
委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学一年クラスについて、クラスを
一クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学六年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学一、二年につい
て、新潟県と秋田県がいずれも一クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、二人担任
制にし、今後五年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小一でクラスが30〜36人のばあいでも、もう一人
教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、六年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学一年と三年の英語の授業を、一クラス20人程度で実施している(2001年度調
べ)。

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親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。(1)インスピレーション、ひ
らめき、直感が鋭くなる(波動共振)、(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映
像を心に描くことができる(直観像化)、(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶すること
ができる(フォトコピー化)、(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処
理)など。こうした事例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。

脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右脳ばかり
を刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる研究家
がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年A
は)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことがで
きる能力のある人)であって、(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論
をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

(参考)
【右脳と左脳の働きについて】

【右脳】
●情緒的な感情  
●顔やものの、形の認識
●直感的、総合的にものを考える
●想像的、創造的な考え
●音楽や芸術など

【左脳】
●話すこと
●言葉の理解
●論理や数学的な考え  
●分析的な考え方
●読む、書く
「脳のしくみ」(日本実業出版社・新井康允氏)より

++++++++++++++++++++++++

 テレビやテレビゲームなど、子どもを取り巻く映像文化が、すべての原因とは言えない。しか
しこうした映像的刺激は、それまでの人類が経験しなかったものであり、それゆえにその悪影
響については、まだ未知、未解明の部分が多いと考えるべきではないのか。

 つまり脳ミソが、そうした刺激に対応できる構造にはなっていない(?)。

今、やっと、こうした映像文化がもつ悪影響について、メスが入れられようとしている。文科省を
中心として、いくつかの研究会も発足している。

そこで私たち親としては、子どもに与える刺激に対しては、もう少し慎重であるべきではないか
ということ。昨今、右脳教育ブームで、「右脳」という名前を横につけただけで、生徒が倍増した
という、幼児教室や算数教室も多い。

 しかし本文の中でも書いたように、私たちは、もう少し慎重であるべきではないのか……とい
うのが、ここでの結論ということになる。
(はやし浩司 直観像 右脳教育 左脳教育 直観像素質者 学級崩壊 新しい荒れ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(416)

●英語教育について

 現在、H市内のほとんどの公立小学校(1年〜6年)で、英語の授業が行われている。週1
回、1時間というのが、平均的な授業内容である。またほとんどの授業は、日本人講師と外国
人講師(ティーチング・アシスタント)の2人でなされている。

 これは東京都の荒川区の例だが、1、2年は、歌やゲーム。3、4年は、ロールプレイ(模擬
体験)。5、6年は、簡単な日常会話を主体とした授業(「英語科」)が、行われている。こうした
傾向は、全国どこも、ほぼ同じとみてよい。

 こうした英語教育に、賛否両論が、いまだにウズを巻いている。賛成派は、「国際化時代を乗
り切るためには、英語は、必要」という観点で、意見を組みたてる。一方、反対派は、「脳ミソが
混乱するだけ。日本語がかえっておろそかになる」という観点で、意見を組みたてる。

 さらに賛成派は、「言語を取得するのには、年齢的な限界(臨界期)がある。早期教育は必
要だ」と説く。反対派は、「臨界期などというものは、証明されていない」などと、反論する。

 いろいろ意見は、あるようだ。しかし、大前提として、何はともあれ、、英語は、必要である。2
年前(02)だが、私は、こんな原稿を書いたことがある(原稿から、一部、抜粋)。

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●遅れた教育改革

 2002年一1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数
はピーク時の約3分の1(90年は125社)。

さらに2002年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退
を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば、今
どき英語など常識なのだ。

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 悲しいかな、すでに、アジアの経済の中心地は、シンガポールに移動してしまっている。また
2010年を待たずして、アジアにおける経済的地位は、中国と日本が、逆転する。これはもう
予測ではなく、事実である。

 このアジア内部においてでさえ、「自国内のビジネス環境・国際アンケート調査」によれば、日
本は、9か国中、ビリの9位(04年)。

米国系のPR会社エーデルマンは、14日(04・11月)、アジア・太平洋地域の9か国の企業体
の役員、公務員、言論人、非政府組織(NGO)の団体長など541人を対象にアンケート調査
を行った結果、「『ビジネス環境がまちがった方向に向かっている』と答えた日本人回答者の割
合が55%で、1番多かった」と、明らかにした。

 はっきり言えば、「今さら、英語教育など、始めても、遅い」ということ。教育というのは、20年
先、30年先を見つめながら、するもの。仮に今、英語教育を始めても、その成果が出てくるの
は、20年後、30年後である。

 そのころ、この日本は、どこまで凋落(ちょうらく)していることやら!

 効果があるとかないとか、そんなことを議論しているヒマは、もう、ない。仮に英語教育に問題
があるとしても、重要なことは、「だからダメ」と否定することではない。いかに学習内容を充実
させ、環境を整えるか、である。すでに試行錯誤の段階をこえ、無数の問題点が指摘されてい
る。

 「ゲームや歌やダンスだけでは、子どもがあきてしまう」
 「単なる暗記ゲームに終わってしまう」
 「語法的な知識も、必要」(某小学校教師談)など。

 しかしこれらはどれも、克服できる問題である。ただ、「英語を学習すると、日本語が混乱す
る」という意見には、私はあえて反論したい。

 「では、英語を学ばなかったら、日本語は充実するのか」と。

 言葉などというものは、そのときどきの大衆が決めればよい。それがどんな日本語になって
も、それはそのときどきの大衆が決めるべきもの。一部の学者先生や、お上が決めることでは
ない。ためしにインターネットをのぞいてみればよい。そこでは、恐らく旧世代の人間たちに
は、理解できない日本語が、自由に飛びかっている。

 さらに仮に英語が日本語の中に浸透して、たとえばこんな日本語になったとする。

 「何を、おっしゃる、ウサギっちょ。ヤミーな(うまい)食べ物のナンバーワンは、マクドナルド。
それを否定したら、ドコゾクニ(どこの国の人)?」と。

 言葉というのは、もともとそういうもの。新しい時代には、新しい時代の躍動感というものがあ
る。旧世代が、古い時代の言葉を若い世代に押しつけるのではなく、若い世代から、旧世代
が、学んでいく。それがダメだというのなら、あなたも今日から、「そうろう文」で手紙を書き、奈
良時代か平安時代の言葉で、会話をすることだ。

 「これは、これは、遠州の国、住人、はやし浩司なにがしと、申しそうろう者なり」と。

 ……というのは、少し極端で過激な意見かもしれない。しかし大衆が使う言葉などというもの
は、国の力でコントロールできるものではない。いわんや、教育で、どうこうできるものではな
い。

 外国へ出てみると、日本の小さいことが、本当によくわかる。実に、小さい。その小さな国が、
これからも豊かな生活をつづけようと思ったら、国際社会の中に、溶けこむしかない。

 英語教育は、その第一歩である。賛成か、反対かなどと議論している段階では、もう、ない。
(はやし浩司 英語教育 英語 英語科 英語の授業)

【付記】

 英語教育は、民間のクラブ(英語教室、会話教室、塾など)に任せたらよいというのが、私の
持論である。何もかも学校で、しかも全国一律に、ということ自体に、無理がある。

 英語を学びたい子どももいれば、そうでない子どももいる。英語を学ばせたい親もいれば、そ
うでない親もいる。だったら、それぞれの選択に任せればよい。

 すでに20年近くも前から、小学生の英語教室を始めた、楽器メーカーさえある。どうしてそう
いったノウハウと知識、さらにシステムを、利用しないのか。

 その分、学校を早く終わるとか、月謝の補助などをすればよい。ドイツやイタリアでは、そうい
う形で、学外授業を、積極的に取り入れている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(417)

【近況・あれこれ】

●こわれる親子関係

 少し前まで、私は高校3年生の受験生まで、教えていた。今は、教えていない。体力的に、限
界を感ずるようになったからである。

 その高校生たちを教えていたときのこと。そのうち何割かの親と子どもたちは、すでに断絶状
態にあることを知った。1割とか2割ではない。もう少し、多い。実感としては、程度の差もある
が、3割とか4割である。

 「廊下ですれちがっても、口もきかない」
 「洗濯をするときも、親のものとは、いっしょには、洗濯しない」
 「朝起きても、あいさつをしない」
 「最後に家族旅行をしたのは、小5のとき」
 「進学や将来の話は、いっさい、親に相談しない」など。

 こうした断絶で、興味深い点は、子どものほうは、完全に親離れしているのに対して、親たち
のほうは、「そんなはずはない」という幻想にしがみついているということ。

 「子どもは、親に感謝しているはず」
 「いくらそういう状態でも、親子だから」
 「一時的なもので、親子の縁は、もっと深く、太い」など。

 たいていは、子どもの受験期に、その受験競争とともに、親子の関係は、こなごなに破壊さ
れる。みながみなではないが、ほとんどが、そうなる。親は「子どものため……」と思って、子ど
もを受験競争にかりたてるが、子どもはそれを「ありがた迷惑」ととらえる。

 こうした意識のギャップが、つもりつもって、やがて親子の間は、断絶する。

 で、あとは、そのまま。一度、こわれた人間関係は、簡単には、修復できない。もとには、もど
らない。が、それさえも、親には、わからない。理解できない。

 「これだけのことをしてやったのだから、子どもは、親に感謝しているはず」
 「これだけのことをしてやっているのだから、子どもは、親に感謝するようになるはず」
 「これだけのことをしてやることができるのだから、子どもは、親のところにもどってくるはず」
と考える。

 しかしこれらは、すべて幻想。悲しいかな、それが現実。

 問題は、親がいつ、それに気づくかだが、一度できた意識というのは、そうは簡単には変えら
れない。何か、大きな心境の変化でもないかぎり、子どもが結婚してからも、さらに孫ができて
からもつづく。

 そこで教訓。親は、いつも「無私」。「無視」ではない。「無私」。親としてすべきことはする。や
るべきことはする。しかし、気負わない。期待しない。恩を着せない。いわんや、犠牲心など、
愚の骨頂。犠牲心をもたねばならないような子育てなら、はじめから、子どもなど、もうけないこ
とだ。

 ……とは言いつつ、現実には、そうはいかない面も多い。あくまでも、参考意見まで。


●三男の旅立ち

 三男が、たった今、アメリカに向った。名古屋から、デトロイト経由で、リトルロックに向う。1
世代前の私にしてみれば、夢のような旅行である。

 私が学生時代には、初任給は、大卒の5万円程度。手取りで4万円前後。当時、東京→ニュ
ーヨーク間の航空運賃が、18万円弱。往復で、35万円。私はその数字を見比べながら、「ア
メリカへ行くのは、とても無理だ」と思った。

 が、今では、本当にスイスイと、若者たちは、外国へでかけていく。そのあまりにも、当たり前
という様子が、恐ろしい。「当たり前」という前提で、自分の人生を考えているところが、恐ろし
い。

 日本の繁栄は、この先、いつまでつづくことやら。いや、貧乏になったら、なったでよい。その
とき、今の若者たちは、どのような悲哀感を味わうことやら。それを思うと、どこか、かわいそう
な気さえする。(041116)

 
●団塊の世代、700万人!

 昭和22年(1947)〜24年(49)生まれの世代を、「団塊の世代」と呼ぶ。その数、700万
人。

 この世代が、あと数年から5年で、定年退職の時期を迎える。そのため、ある試算によると、
労働力人口は、「ピークの2005年から、120万人も減少する」(財務省・財務総合政策研究
所)という。

 そのため「人手不足や、個人消費の低下によって、日本経済は、約16兆円のGDP(実質国
内総生産)を失う」(同)とのこと。

 が、それだけではない。

 こうした団塊の世代が、生活を切りつめ、貯蓄を切り崩すことによって、企業は資金調達に
困るようになり、さらには、日本の経済そのものに、深刻な影響を与えるようになるという。

 で、肝心の団塊の世代はどうかというと、今でさえ、高齢者の雇用はままならない。「65歳定
年延長案」についても、日本経団連のO氏は、「経営実態を無視した意見」と、一蹴してしまっ
た。言うなれば、この先、段階の世代には、いいことなし!

 ……と書きつつ、これは私にとっても、深刻な問題である。私も、昭和22年生まれ。まさにそ
の団塊の世代。そうでなくても、(粗大ゴミ)になる可能性は高い。そのうえ、こうした事実をつき
つけられると、暗澹(あんたん)たる気持ちになる。

 そこで、仲間の団塊の世代の人たちに、いくつかの提言。

(1)健康管理の充実
(2)生活のコンパクト化
(3)生きがいの創出

 健康管理については、言うまでもない。あなたも今日からでも遅くないから、健康づくり(維持)
にこころがけよう。たとえば乗り物にしても、車から自転車に。自転車から徒歩にする。

 生活のコンパクト化とは、より少ない維持費で生活できるように、生活のあり方そのものをコ
ンパクト化することをいう。広い土地から狭い土地へ。広い家から小さな家へ。

 三つ目に生きがいの創出。これは数年〜10年単位の努力と、方向性が必要である。「家の
中に閉じこもって、盆栽いじり」というのは、生きがいでも何でもない。あえていうなら、利他の
精神を、どこかで養う。もっと端的に言えば、「社会に役立つ老人になる」である。

 ムダに長い生きしたところで、あとの世代の人たちに、迷惑をかけるだけ。たいへんきびしい
意見だということは、よくわかっている。しかしそういう前提で、自分の老後を組みたてる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(418)

●日本の英語教育について、アメリカ・CA州在住の、「透明サングラス」さん(男性、22歳)か
ら、以下のようなコメントが届いています。それを紹介します。

++++++++++++++++++++

まず、引用の件ですが、毎度のことながら、じゃんじゃん使って下さい。採用原稿の転送と、投
稿者名「透明サングラス」で。
 
さて、はやしさんの文章の 「英語教育」 についてですが、勝手ながら意見を書かせてもらうとす
れば、俺は賛成派です。ただし、日本の 「教え方」 については 「反対派」 です。

まず、単純に 「英語教育をすること」 について、俺が賛成する理由は、はやしさんと同じで、日
本人が成功するのに英語が欠かせなくなってきている、と思うからです。さらに、俺は、言語を
身につける 学ぶ(習うではない) ことができる年齢には、限界があると思うからです。

日本の教育方針を考えている人たちは、いつも子供を 「パターン化」する傾向が非常に強い
と、俺は感じているのですが、実際の子供は千差万別。千人いたらその年齢限界も千人違う
のだと信じています。そして、俺自身、文法や暗記ではなく、 「英語を身につける」 ということ
が、この年になるとできないことを、現在実感しています。残念ながら。

俺が何故こう言い切るのかというと、俺がまだ中学 1年生だった頃、アメリカのワシントン州
で、完全な英語の環境に約半年間放し飼いにされた経験があるからです。その時の俺は、辞
書も持たずに友達とコミュニケーションをとり、話し、遊んでいました。あの時の俺は、確実に 
「知識」 ではなく 「センス」 を身につけ始めていたと、今確信しています。

アメリカの中華料理店に入ると、数年、あるいは数十年、英語環境で生きてきたとは思えない
ような 「中華英語」 をとてもよく耳にします。この事実もまた、英語を 「身につける」 のに年齢
的限界があることを証明しているのではないでしょうか。

このことを考慮し、大きな可能性を子供に見出すためにも、幼い頃から英語に触れさせること
は非常に有意義で、加えて効果的だと思います。

しかしながら、文頭でも述べた通り、今の日本の 「教え方」 には強く反対します。と言うよりも、
程度が低すぎて、「反対」 というより 「論外」 です。

詳しく知らない素人の俺が、はやしさんの送って下さった 「メッセージ」 を読むだけで、疑問点
が山積みです。

まず、ネイティブの講師を招いた授業。聞こえはすごく良いです。俺が高校生の時もそういうの
がありました。しかし、何故ネイティブ講師が 「アシスタント」 なのでしょうか。アメリカでは、多く
のスパニッシュスピーカー (スペイン語を母国語とする人々) が英語を学んでいます。そして、
多くのイングリッシュスピーカーがスペイン語を習っています。ここで重要なのは、教えている講
師が 「ネイティブ」 ということです。

「アシスタント」 じゃダメなんです。「ネイティブ」 じゃないと。

むしろ、そのネイティブの講師の居る授業は、その人が先生をやるべきで、日本人が 「アシス
タント」 をするべきじゃないでしょうか。

本当に子供のことを考えるなら、職場の地位は捨てて然るべきです。

これはまさに、俺が高校の時に導入されていた姿が、そのまま小学校に降りただけです。小学
校教育という微妙な教育に導入するシステムは、小学生に特化されていなければ意味がない
んです。「知識」 ではなく 「センス」 を育める年代だからこそ教育理念に変更が必要なのでは
ないでしょうか。

そして、その子供たちが中学生になって、果たして 「暗記と文法」 という 「受験対策」 は英語
力向上に役立っているのでしょうか。

俺は 「退化させている」 と思うのです。

2002年度のとある大学の英語の入試問題に、このような長文問題がありました。
(例ですので、内容は一部変更してあります)

「未来には、紙や金属でできたお金は使われなくなるだろう、と推測する人がいます。その人に
よると、未来では ********** が使われます。」

********** に入ると思われる単語は名詞で、数ある選択肢の中で 「item」 と 「card」。2002
年には欧州で、携帯電話でジュースを買う試みが行われていた背景を考えると、当然 「item」 
を選ぶ……と思いきや、答えは 「card」。 解説によると 「お金を払うときには、常識で考えてカ
ードを使うので、カードを選ぶ」 とあります。

アメリカでは、「選択可能な答えが 2つあった」 というだけで、その問題が無効になることが当
たり前で、そうするべきです。なぜなら、この問題は 「英語力」 を問う問題のはずで、決して 
「運」 を問う問題では無いはずだからです。

「小学校に英語教育が導入されました。」 結構なことです。しかし、それはあくまで、「英語が身
に付く教育」 であればこその話。決して、「大学入試で運が上がる」 ことを目的としてはダメな
はずです。

日本の子供たちは、「こんな」 英語を 「習って」 います。

「英語圏で使える英語」 ではなく。

+++++++++++++++++++++++

【透明サングラスさん、ご意見、ありがとうございました】

 英語教育反対派の先生たちの意見を集約すると、(1)脳ミソの混乱説、(2)日本の言語擁
護説の二つになります。

 脳ミソの混乱説に火をつけたのが、京都大学霊長類研究所のMB教授。いわく、「ヒトの脳
は、最初に取得した言葉を基礎に、第二言語を取得していく。母国語すらおぼつかない子ども
に、第二言語を教えれば、脳を混乱させるだけ」(産経新聞)と。

 また日本語擁護説の先頭に立っているのが、私のマガジンでもときどきとりあげている、O大
のFM教授。「日本の文化や言語を学ぶのが、先決。英語教育は、そのつぎでよい」と。教育
の柱に「武士道」をもってくる教授だから、あとは推してはかるべし。

 私はここで透明サングラスさんが言うように、英語教育といっても、「英語が身に付く教育」で
なければならないと思う。たとえばその方法として、「シャワー方式」というのも考えだされたこと
がある。

 あたかもシャワーのように、英語を、子どもたちに浴びせかけるという教育法である。もっと
も、この方法は、日本国内では、子どもたちには、評判はよくない。私も何度かためしたことが
あるが、半時間もすると、子どもたちがイライラし始める。そして、そのあと、「もうやめて!」
「わかんない!」などと、騒ぎだす。

 いろいろ問題はあるが、しかしだからといって、「英語教育がムダ」とか、さらには「不要」とい
う意見に結びつけてはいけない。大前提として、「英語は、必要なのである」。

 そのことは、少し前の、国連大使を見ればわかる。国連という国際会議場においてですら、
たどたどしく、意味不明の英語を、ただ棒読みするだけ。そういう大使が、どうして各国の大使
と、英語で、議論などできるであろうか。日本の主張を、外国の人たちに伝えることができるだ
ろうか。

 私が学生時代にいた、オーストラリアのM大のカレッジにしても、毎週のように、各国の大使
や政治家たちがやってきて、晩餐(ディナー)をともにした。みな、食事の間に、英語でスピーチ
をして帰った。

 日本からも、よく大臣級の政治家たちがやってきたが、1人とて、英語でスピーチをして帰っ
た政治家はいなかった。何を質問されても、「すべてわかっています」といったような顔をして、
ただニヤニヤ笑っているだけだった。

 こうした現実を、いったい、どれだけの日本人が、認識しているだろうか。

 透明サングラスさんは、(センス)という言葉を使っている。

 実のところ、英語教育で重要なのは、そのセンスである。あの独特のセンスである。そういう
意味では、今までの教育法には、限界がある。そこで群馬県の「ぐんま国際アカデミー」校など
では、国語などの一部の科目をのぞき、すべての授業を英語でしている。いわゆる「イマージョ
ン教育法」というのである(「日本の論点・2005」より)。

 いろいろ考えられている。まだまだ試行錯誤の段階で、不完全で未熟なところはある。しかし
私たちは、それを、決して否定的にとらえてはいけない。つぎの時代への、ワンステップとして、
とらえるべきである。

 最後に、スペイン在住の、SZさんからのメールを、紹介する。ここに書いたような教育が、ど
うして日本ではできないのか。そこに日本の教育がもつ、問題のすべてが、凝縮されているよ
うに思う。
 
++++++++++++++++++++

【スペイン在住のSZさんよりのメール】
 
子供たちがインターナショナル幼稚園へ通い始めました。
YK子(長女)は、新しい環境にわくわくしながら、楽しくてたまらないようです。
YK子は、もともと好奇心旺盛な子供でしたが、BW教室に1年半通っ
たことも大きいと思っています。

この幼稚園の先生方の経歴や国籍は様ざまです。

心理学を学んだ先生、幼児教育と英語教育を学んだ先生、スペイン語
と英語の先生、一家そろってダンサーで本人もバレリーナだった先生
など、幼児教育を学んだ人とは限りません。

YK子の先生は、ペルー人とフランス人&スウェーデン人の両親をも
つハンガリー人の2人です。

秋になります。ハンガリーの秋は短く、すぐに冬になるそうです。
9月になって、突然寒くなりました。

日本の幼稚園では、秋になると運動会と生活発表会が行われます。
YK子は、これらの練習が大嫌いでした。

こちらの大イベントはハロウィンですが、9月の第4週目に、
−School Sprit Week-という行事があります。

(月曜日) おもしろい(ちぐはぐな)コーディネートで登園する日
(火曜日) おもしろい頭(かつらやフェイスペインティングなど)で登園する日
(水曜日) スポーツディ
(木曜日) パジャマで登園して、ごろごろする日
(金曜日) 真っ赤で登園して、みんなで赤いものを持ち寄る日

きっと子供たちは大興奮するでしょう。子供たちが楽しんでいる様子を
想像するだけで、わくわくします。

スペイン・SZより 

++++++++++++++++++++++

ついでに、少し前に書いた原稿を紹介します。

++++++++++++++++++++++

●文法学者が作った体系

 D氏(四五歳)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はな
い」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法が通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をす
るのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星などに探査機を送るのはムダ」と。

 オーストラリアの中学校では、中一レベルで、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス
語、中国語、インドネシア語、それに日本語の中から選択できるようになっている。

「将来多様な社会に柔軟に適応できるようにするため」(M大K教授)だそうだ。オーストラリア
のほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国
語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

 英語を知ることは、外国を知ることになる。外国を知ることは、結局は、この日本を知ること
になる。D氏はこうも言った。「中国では、ウソばかり教えている。日本軍は南京で一〇万人し
か中国人を殺していないのに、三〇万人も殺したと教えている」と。

私が「一〇万人でも問題でしょう。一万人でも問題です」と言うと、「あんたはそれでも日本人
か」と食ってかかってきた。

 日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も
国語もそうだ。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくな
い。だから役にたたない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自
分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかり
教えるから、子どもはますます英語嫌いになる。

ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わ
りには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

 さて冒頭のD氏はさらにこう言った。「日本はいい国でじゃあ、ないですか。犯罪も少ないし。
どうしてそれを変えなければならないのですか」と。

しかしこういう人がふえればふえるほど、日本は国際社会からはじき飛ばされる。相手にされ
なくなる。

++++++++++++++++++

【透明サングラスさんへ】

 まさに国際的視点からのご意見、感謝しています。これからもどんどんと書いて、いろいろ教
えてください。何というか、透明サングラスさんの意見には、臨場感があるというか、説得力が
あります。新鮮な驚きさえ感じます。

 みんな日本が好きなのです。たまらいないほど、好きなのです。そしてみんな、この日本をよ
くしようと考えている。

 私や透明サングラスさんが書いている意見というのは、そのためのものです。またそのため
に、がんばりましょう。ご意見、ありがとうございました。


●韓国情勢

 何があってもおかしくない、K国。が、それ以上に、何があってもおかしくない、韓国。

 ノ政権になってから、韓国は、ますます親北反米色を濃くしている。ノ大統領は、あろうこと
か、アメリカ訪問時に、「(K国が、核兵器やミサイルをもつことには)、一理ある」などという、ま
あ、日本やアメリカにとっては、とんでもない発言をしている(04年11月)。

 もちろんノ大統領だけではない。

 このたび行われた世論調査によれば、仮に米朝戦争になったばあい、アメリカではなく、K国
側に加担すべきと考えている人が、20%もいるという※。

 さらに脱北者を教育する機関(北韓離脱住民定着支援事務所ほか)では、反米親北新聞を、
教材として、使っているという。

 また自国で核兵器開発をしながら、IAEAが、それを非難すると、韓国のマスコミは、今度は
その矛先を、いっせいに、日本に向けた。「日本だって、毎年5トンのプルトニウムを生産して
いるではないか」(※2)と。

 核兵器用のプルトニウムと、原子力発電所で副産物として出てくるプルトニウムでは、純度そ
のものが、まったくちがう。それに日本は、戦後、完ぺきに近い、IAEAの核査察を受けいれて
いる。

もう、こうなると、何でも日本が悪という論法である。

 韓国には、韓国の暗い歴史がある。また現状においても、韓国には韓国の立場がある。そ
れはよくわかる。しかしその一方で、韓国はどこへ行こうとしているのか、それが私には、さっ
ぱり理解できない。

 反米思想も結構だが、仮に今、アメリカ軍が韓国から撤退するということになれば、韓国経済
は、そのまま崩壊する。この事情は、日本も同じ。すでに今、アメリカ軍撤退を見越して、韓国
から、外資が、火事場の動物たちのように逃げだしている。

 一言で言えば、まったく現実認識がズレている。……というのが、私の韓国に対する、今の印
象である。

※……米朝間で衝突が起きた場合の韓国の連合対象国を問う質問に、回答者の49.1%が
米国を選択し、30.6%は「よく分からない」と答えた。北朝鮮を選択した回答者は20.3%だ
った。(

前ハンナラ党議員が設立した中道保守主義性向のインターネット新聞、「フロンティアタイム
ズ」(www.frontiertimes.co.kr)が、15日、創刊記念で全国20歳以上男女1001人を対象に1
1、12日実施した世論調査の結果)

※2……「日本政府はイギリスとフランスに委ねていた核燃料の再処理作業を、日本国内で再
処理施設が完成する2006年から国内で行うことにした。その結果、日本は1000余りの核兵
器を作ることができる分量である5トンの分離プルトニウムを、毎年累積して確保することにな
る。 
これに対し、米国や国際原子力機関(IAEA)との協力関係を掲げて、核問題で実利をとってき
た日本が、韓国が行った核物質の実験に対して厳しく批判するのは、二律背反した態度であ
る」(韓国・東亜日報紙)と。
(以上、04年11月17日記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【第二の青春】(日常エッセー)

●でかける

 朝、起きると、ワイフが、こう言った。「どこかへでかける?」と。

 「いいねエ」と私。

 こういう申し出は、断ると、あとがこわい。そこで「どこへ?」と聞くと、「金谷(かなや)から、大
井川鉄道に乗って、井川まで行って、それからトロッコ列車に乗って……」と言いだした。

私「それじゃ、片道、3時間もかかってしまうよ」
ワ「どうして?」
私「金谷まで1時間だろ。そこから井川まで、1時間。それからトロッコ列車で、また1時間…
…」
ワ「そんなにかかるかしら?」
私「かかるよ。行くだけで、疲れてしまうよ」

 私は、近くのショッピングセンターかどこかでの、買い物を考えていた。

ワ「じゃあ、近くにしましょう」
私「そうだな。……とりあえず、出かける用意をしよう」

 ワイフの趣味は、こうして出かけること。いつだったか、「電車に乗って、窓の外を見ているの
が、私は好き」と言ったのを、覚えている。

●11月16日

 今日は11月16日、火曜日。私の仕事では、ときどき、こうして丸々1日が、休みになること
がある。本当は、G県の実家に帰る予定だったが、気分があまりよくなかった。それでおととい
の夜、郷里の姉に電話をして、それをキャンセルした。

 姉は、「無理をしなくていいよ」と言った。私は、「今度の土曜日する」と答えた。

 それをワイフは心配した。「気分は、どう?」と。私は、虚勢を張った。「悪くないよ。でも、井川
までは、無理だよ」と。

 私は、身じたくを整えた。といっても、ボサボサになった髪の毛を、帽子で隠しただけ。あとは
やや厚めのジャンパーを、いつものセーターの上にはおった。

 「途中で、郵便局へ寄っていくわ。それと、お茶……。あなたは、カバンをもっていくの?」と。
ワイフは、矢つぎばやに、あれこれ私に、聞いた。私は、「うん」「うん」と答えた。

 のどかな秋の朝だった。ガラス窓ごしに、春の陽気のような白い日ざしが、部屋の中に注い
でいた。

私「暑くないかね?」
ワ「外は、もう、寒いわよ」

●郵便局で

 車に乗ると、「どこにする?」と私は、聞いた。「そうね、駅で考えましょう」と。

 私たちは、とりあえず、郵便局に向った。息子に荷物の郵送を頼まれた。

私「まだ行ったことがないところにしようよ」
ワ「でも、ほとんど、行ったわよ」
私「でも、行っていないところもある。この前、掛川(かけがわ)の小学校に行ったら、あの奥
に、温泉があるということだ」
ワ「そう、その話なら、知っているわ。何でも珍しい、本物の温泉だそうよ」

 郵便局までは、5分もかからなかった。ワイフは、手際よく車を止めた。そして郵便局の中
へ、消えた。私は、車の中で、待った。

 と、そのとき、1人の女性が、横を通りすぎた。よく見かける女性である。腰を半分、まげ、手
には新聞紙で包んだ、花束をもっていた。野菜の束だったかもしれない。

 私はその女性を見やりながら、「いくつだろう?」と考えた。70歳だろうか。75歳だろうか。そ
れとも、80歳だろうか。その女性は、足取りも軽く、スタスタと歩きながら、その向こうにあった
自動車のうしろに消えた。

●重荷

 街へつくと、私の教室の駐車場に、車をとめた。そこから駅までは、あるいて5分。歩きだす
と、ワイフが、すぐ手を私の腕にからませた。

私「なあ、ぼく、考えたけど、もう息子たちのことを考えるのは、やめようと思う」
ワ「そうよ。もう、考えなくてもいいのよ。みんな、もうおとなだから……」
私「だからね、ぼくは、ぼくで、好きなことをしようと思う」
ワ「そうよ、それがいいのよ」

 今朝早く、三男が、アメリカに旅立った。アメリカに住む、二男を訪れるためである。私が、む
しろ三男に頼んだ。「きっと、さみしがっているだろうから、行ってやってほしい」と。

 しかしそういう私を、二男は、どこかうるさがっている様子。電話をするたびに、それがよくわ
かる。

私「今度もね、ぼくは、二男に、アイポッド(音楽録音再生装置)をみやげに買ってもたせようと
思った。でもね、ほしがってもいないのに、そういうものを買い与えてもいけないと思って、やめ
たよ」
ワ「そうよ。あなたはいつも、『なになに、してあげている』という言い方をするでしょう。それが息
子たちには、重荷なのよ」
私「でね、ぼくは、決めた。これからは、ほしいものがあったら、自分のために、買うよ」

 私たちは、歩きながら、自然と、いつものパソコンショップに向った。「何か、ほしいものがあ
るの?」とワイフが聞いたので、「そう、携帯端末がほしい」と。

●パソコンショップ

 店で、携帯端末を見た。つまり昔の電子手帳の進化版と思えばよい。小型のパソコンという
ふうに考える人もいる。それでインターネットをすることもできる。

 値段は、3万8000円くらいから、上は、8万5000円くらいまで。S社のザウルスと、別のS
社のClieがいくつか、並べてあった。

私「でも、ぼくは別に、こういうのは、必要じゃ、ない」
ワ「でも、電車の中で、いじりたいのでしょう?」
私「デートの最中に、パソコンをパチパチと打つ男もいないよ」
ワ「それも、そうね」

 意味のない会話がつづく。途中から、店員が入ってきて、あれこれ説明してくれる。何でもザ
ウルスの最新型は、外づけのハードディスクとしても使えるという。「便利だな」と思ったが、つ
ぎの瞬間、「ぼくには、必要ない」と、それを軽く打ち消す。

私「やはり、いらないよ。どうせ買うなら、もう少し大きな、パソコンにするよ」
ワ「そうね、そのほうがいいわよ」

 私は、子どものころから、見るだけで満足するという、何というか、経済的な脳ミソをもってい
る。貧しかった時代に身につけた、処世術のようなものかもしれない。

 再び、街へ出ると、体の芯(しん)から、ジワッと汗が出てくるのを感じた。店の中では、すでに
暖房がかけられていた。

●行き先

 駅の切符売り場に立った。料金を書いた表示板を見あげながら、「どこにしようか?」と聞く
と、ワイフはめざとく、蒲郡をみつけた。「がまごうり」と読む。豊橋の少し先。海の見える、小さ
な町である。

私「子どものころ、町内の遠足会で、行ったことがある」
ワ「私は、ないわ」
私「じゃあ、そこにしよう」

 私は内心、ほっとした。「遠いところだと、どうしよう」と考えていた。ワイフには話さなかった
が、その朝は、よく眠れなかった。何度も夜中に、目をさました。またこのところ、悪夢を見るこ
とが多くなった。精神状態が、どこか不安定だった。

 私たちは切符を買った。浜松駅から、おとな、片道、950円。時刻表を見ると、つぎの電車ま
で、40分近くもあった。いや、その前に、もう一つあったが、豊橋で乗り換えなければならなか
った。

 私たちは、駅の中の喫茶店へ入った。

ワ「昔は、毎日、こうしてデートばかりしていたでしょう。覚えてる?」
私「うん、そうだったね。昔は、デートばかりしていた」
ワ「今だって、デートできるわよ」
私「いや、昔は、ヒマさえあれば、セックスばかりしていた」
ワ「それは、もうないけどね」

 ワイフは、いたずらっぽく笑った。

●電車の中で

 電車の中では、ワイフが一方的に、私に話しかけてきた。

 「ほら、あのRさん、知っているでしょう。あのRさんの長男ね、上海に住んで、もう5年になる
んだって。でね、そろそろ日本に帰ってこなくてはいけないのだそうだけれど、日本には、帰っ
てきたくないんだって。

 だってね、上海での生活は、すごく楽なんだって。各部屋ごとに、メードさんがついてね、掃除
とか、料理をぜんぶ、してくれるんだって。とてもいい生活みたいよ。

 2人の子どもたちは、国際スクールに通っているそうよ。毎日、タクシーで、通学しているって
ことよ。でね、住んでいるところも、玄関のところにガードマンが立っていて、部外者は中には、
入れないそうよ」と。

 私はワイフの話を聞きながら、一昔前の、植民地時代の白人の生活を思い浮かべていた。

私「Rさんて、どこの会社に勤めているの?」
ワ「ふつうの民間会社よ」
私「そんな人でも、そんないい生活ができるの?」
ワ「そうみたいよ」

 電車は、ボートレースでよく知られた、新居(あらい)で止まった。実にそれらしい男たちが、ド
ヤドヤと電車をおりた。みな、うらぶれた、どこか元気のない顔つきをしていた。

 ワイフの話に出てきた、Rさんとは、まるで別世界の男たちだった。「勝ち組と、負け組か…
…」と思った。しかしそれは言わなかった。猛烈な睡魔が、私を襲い始めた。見ると、ワイフも、
いつの間にか、目を閉じて、眠り始めていた。

●蒲郡(がまごうり)

 蒲郡(がまごうり)は、小さな町だった。私たちは、海の方に面した、南口でおりた。そこで写
真を何枚かとった。見ると、ワイフも、写真をとっているではないか!

私「カメラをもってきたの?」
ワ「そうよ、今日から、私もカメラマンよ」

 写真をとり終わると、ワイフは、そのカメラを胸ポケットに入れた。

私「そこへ入れると、おっぱいが、大きく見えるね」
ワ「どうして、あなたは、そういういらんことばかり、言うのよ。いやねエ……」

 ワイフは、笑いながら、それでいて、少し、すねて見せた。

私「とにかく、歩いてみよう。海は近いし……」
ワ「あんなところに、Gがあるわ」

 Gというのは、浜松市のあちこちにある、ファーストフードの店をいう。そういえば、2人とも、
空腹だった。今朝早く、三男を駅に送っていく前に、おにぎりを食べただけ。

私「おなかがすいたね」
ワ「何か、食べましょうか」

 私たちは、海に向って歩いた。やがて堤防が見え、ヨットが見えた。船も見えた。波止場で
は、数10羽のトビたちが、車に乗った男から、エサをもらっていた。私は、何枚か、写真をとっ
た。

●子育てからの解放

 昼食は、その近くにあった、公立教職員組合会館というところでとった。ランチは、カニのフラ
イと、名物のキシメン。1人、600円。コーヒーのサービスもあった。

 何組かの、教員らしい男たちも、そこにいた。薄いレースごしに、遠くの海を見ながら、私は、
こう言った。

 「ぼくはね、このところ、老人になることばかり考えていた。でもね、よく考えてみると、それが
まちがっていることに気づいたよ。

 ぼくたちは、ずっと、子育てで忙しかったよね。気がついてみたら、子どもたちは、もうそこに
はいない。心に、穴があいたような気分だった。しかしね、考え方を少し変えてみれば、ぼくた
ちは、子育てから、やっと解放されたということにもなる。そうだよ、ぼくたちは、解放されたん
だよ」

 ワイフはそれを聞いて、こう言った。

 「そうよ、あなたの考え方は、ジジ臭いのよ。毎日、『老人になる』だの、『死ぬ』だの、そんな
話ばかり。あのね、私たちは、やっと解放されたのよ。これからが、私は、人生で、一番楽しい
ときだと思うわ。

 よく思い出してみてよ。私たちが結婚したころには、何もなかったでしょう。小さな、6畳1間だ
けのアパートよ。でも、今は、すべてあるわ。だったら、もう一度、人生を楽しまなくちゃ、損でし
ょう。あのころできなかったことを、今、するのよ」

 ワイフは、ことあるごとに、私の考え方は、ジジ臭いという。私も、それはよくわかっている。し
かし考えれば考えるほど、私の人生は、先細り。夢や希望など、とっくの昔になくした。

●ヤング・オールド・マン

ワ「私たちは、おかげで、健康よ。私、よく思うの。こうして無事、今まで、生きてこられただけで
も、不思議な気がするわ」
私「そうだね。健康だったということは、ありがたいね。仕事も、いろいろあったけど、とにかく、
順調だった。ぜいたくはできなかったけれど、そこそこに、いい生活はできた」
ワ「そうよ、まず、それに感謝しなければいけないわよ」

 私たちは、通りに出ると、駅に向って歩き始めた。近くに水族館があった。が、火曜日は、休
館日ということだった。その少し向こうには、何かのテーマパークがあるということだった。しか
しそこへ行くのはやめた。時刻は、午後の2時になろうとしていた。

 私たちは、裏通りを歩いた。静かな裏通りだった。途中、1人の大工さんが道路で、角材を電
動ノコで切っていたが、私たちが見かけたのは、その男だけだった。

 空き地に「蒲郡定住促進事業」という立て札が立てられているのを見たとき、ふと、「この町
も、不景気でたいへんなんだな」と思った。

私「あのころぼくたちには、何もなかった。でも、今は、何でもそろっている。家もあるし、車もあ
る」
ワ「そうよ、やっとあなたの考え方が、前向きになってきたわ」
私「そうだよな。これが前向きの考え方って、言うんだよね」
ワ「そうよ、ものは、そういうふうに考えたほうがいいのよ」

私「子育ては、重労働だった。たいへんだった。でも、今は、それも終わった。もう孫育てなん
て、ごめん。クソ食らえ!」
ワ「そうよ、孫のことは、息子たちに任せればいいのよ。あなたが心配しても、始まらないのよ」
私「ぼくたちはぼくたちで、自分の人生を楽しめばいい」
ワ「そうよ、そうなのよ。私たちは、ヤング・オールド・マンよ」
私「そうだ、ぼくたちは、ヤング・オールド・マンだ」

 工事中の通路を、やけに長く感じた。私たちは、通路を抜けると、プラットフォームに出た。そ
して帰りの電車に乗った。

●第二の人生

 老後は、第二の人生の始まりという。姉も、少し前、私にこう言った。何かのことで、私がグチ
をこぼしたときだ。

 「浩ちゃん、何、言ってるのよ。これからが、一番楽しいときになるのよ。夫婦、2人だけで、
好きなことができるのよ。旅行でも、何でも、よ」と。

 その姉の話をワイフに言うと、「それみなさい」というような表情を、私にしてみせた。私は私
で、それを見て笑った。

 私の考え方は、たしかにうしろ向きだった。マイナス思考というのだ。しかし、年齢などに、ど
ういう意味があるというのか。そこには、青い空があり、晴れた陽光がある。何を、私は恐れ、
何を心配しているのか。

 おかげで、健康だ。自由だ。その気になれば、やりたいことを何だって、できる。私に命令す
る人はいない。命令できる人も、いない。

 浜松駅へ着くころ、私はワイフにこう言った。

 「いつも出かけるときは、今日はやめようかと思う。しかし帰ってくるころになると、出かけてよ
かったと思う。今度の土曜日も、どこかへ行こうか」と。

 それを聞いて、今度はワイフが、うれしそうに笑った。

 駅前では、青色申告会の人たちが、ビラを配っていた。それを見て、「あの人たち、みんな知
っているわ。いつもお世話になっている人たちよ」と。

 相変わらず、白い陽光が、かわいた路面を明るく照らしていた。私たちは、人目もはばから
ず、手をつないで歩いた。
(終わり)

【老齢問題】

 例外なく、だれもが直面する問題。それが老齢問題。

 その老齢問題について、私は今、大きな心境の転換期を迎えている。ただ単なる一時的な
思いこみかもしれない。あるいはやがてすぐ、またもとに戻ってしまうかもしれない。

 しかし、今、私は、たしかに、ものの考え方を変えつつある。

 その一。老齢は、人生の終わりの始まりではないということ。いつしか人間は、年齢を、時代
ごとに、区切って考えるようになった。幼児期、少年期、思春期……と。しかしこうした区切り方
そのものが、まちがっている。そしてその区切り方に応じて、自分の人生を考えることは、まち
がっている。

 50年も、自分の体だって、少しくらいは、ガタがくる。そんなことは、当然のことではないか。
しかしだからといって、私の目に映る空は、少し白っぽくなったかとは思うが、私が、30年、40
年前に見た、あの青い空と、どこもちがわない。

 木々の緑も、雲の白さも、そうだ。

 私は、何も失っていない。何も、なくしていない。

 むしろ、あの切なくて、わびしかった30年前とくらべただけでも、今は、(すべてのもの)が、そ
こにある。家族もいるし、家もある。仕事もある。その私が、どうしてマイナス思考をしなければ
ならないのか。

 もう一度、あのゲオルギウの言葉を、ここでかみしめてみようではないか。

ゲオルギウというのは、ルーマニアの作家。一九〇一年生まれというから、今、生きていれば、
一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 老齢を認めるかどうかは、その人の問題。しかし認めたところで、マイナス思考になることは
あっても、何も、よいことはない。だったら、認めないこと。気にしないこと。忘れること。頭の中
に置かないこと。

 さあ、これから私は、運動にでかけるぞ。途中、本屋とパソコンショップに寄るぞ。子どもたち
とワイワイと騒いでくるぞ。したいことをするぞ。
(041117)

【付記】

 「幼児だから……」「子どもだから……」と、私たちは、子どもを見るとき、安易に、そう決めて
かかる傾向がある。

 それについては、私は、常、日ごろから、「おかしい」と主張してきた。しかし何のことはない。
実は、その自分が、自分に向って、「団塊の世代だから……」「初老だから……」と、決めてか
かっていた。

 明らかに、私は矛盾している。その矛盾に、今日、気がついた。

【団塊の世代の仲間へ……】

 ……と書いても、私の原稿の読者には、団塊の世代の人は、ほとんどいないと思うが、あえ
て宣言。

 私たちは、ほとんど何もわからず懸命に生きてきた。今も、生きている。さあ、これからも懸
命に生きていこう。

 思い出してみようよ、あの貧しかった時代。あの時代から見れば、私たちは、今、夢のような
生活をしているではないか。

 まだ30年は、がんばれるぞ! がんばるぞ! そこらの若者たちなんかに、負けてたまる
か!

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(419)

●我ら、ヤング・オールド・マン!

 青春時代と、今の時代を比較する。その比較をしながら、人は、老齢期が近づくと、(失った
もの)をなつかしみ、そしてその反動として、自分のおかれた立場を嘆く。

 しかし本当に、そうだろうか? 私たちは、青春時代にもっていたものを、本当に失ったのだ
ろうか? そう思いこんでいるだけでは、ないだろうか?

 南こうせつとかぐや姫の歌う歌に、「神田川」がある。「♪あなたは、もう、忘れたかしら……」
という歌詞の、あの歌である。
 
 あの歌を耳にするたびに、涙を流す人も、多いはず。私もその一人だが、まさにあの歌詞の
ままの状況を、私も経験している。そういう時代を思い出すと、この「今」という時代は、夢のよ
うな時代ということになる。

 物質的な繁栄だけではない。当時、こんなことを思ったことがある。結婚当初、私たちは、6
畳1間のアパートに住んでいた。つぎに移ったアパートも、4畳と6畳、それに狭い台所と食堂
だけだった。

 仕事も不安定で、収入も、それ以上に、不安定だった。そんな私は、ある日、近くの家を見な
がら、こう思ったことがある。「ぼくたちも、いつか、あんな家が持てるのだろうか」と。

 そのときの私は、家をもつことなど、永遠に不可能に感じた。「家」というより、家がもつ家庭
的なぬくもりをもつことなど、永遠に不可能と感じた。私には、縁のない話だと思っていた。

 もちろん仕事も、そうだった。幼稚園の講師といったところで、今でいうフリーターのようなも
の。若い女性の先生にすら、軽んじられた。はっきり言えば、バカにされた。

 そんな私が、57歳になった。たいした人間にはなれなかったが、しかしそれでも、あの時代
の「私」とくらべれば、夢のような「私」になった。家もある。車もある。それに何よりもすばらしい
ことに、家族もある。家庭もある。若いときのように、もう私は、孤独ではない。

 そうして考えてみると、私が失ったものは、何もないことに気づく。もともと美貌とかスタイルな
どといったものは、私には、無縁のものだった。顔にシワがふえたところで、また髪の毛が白く
なったところで、私は、それを気にしたことはない。

 ただ女性に、年ごとに相手にされなくなったのは、感じている。が、だからといって、それがど
うなのか? 仮に今、私が、若い女性に好意をもたれたところで、私にとっては、レストランの
ウィンドウに飾られた料理のようなもの。手をのばすことすら、できない。

 平均寿命のことを言う人もいる。57歳といえば、残りの寿命は、約30年弱ということになる。
しかしその平均寿命にしても、若いから、長いとか、老齢だから短いと言うことにはならない。
「死」の恐怖は、世代をこえて、だれにでもある。

 その恐怖が、多少、大きくなっただけ。しかしその一方で、今まで生きてこられたことに感謝
する。そんな気持ちが生まれてきた。

 大切なことは、健康であるかどうかということよりも、健康管理ということになる。さらに言え
ば、「今」をどう生きるかということになる。

 私は今まで、老齢になる私を、少し、おおげさに考えすぎていた。まちがっていたというので
はない。しかし老齢を気にするあまり、もっと大切なものを、見落としていた。私は、それに今、
気づいた。

 我ら、ヤング・オールド・マン(YOM)は、若いのだ!

【YOMの規約】

第1条

 結婚生活20年以上、子育てが終わりに近づいた、あるいは終わった我らを、ヤング・オール
ド・マン(YOM)と称する。

第2条

 我らYOMは、(1)健康管理を第一とし、(2)日々に新しいテーマについて考え、(3)常に前
向きに生きていく。

第3条

 我らYOMは、(1)利他、つまり奉仕と還元の精神を大切にし、(2)自己管理を徹し、(3)他
者と良好な人間関係を築く。

第4条

 我らYOMは、日々に(1)やるべきことを完遂し、(2)やりたいことをし、(3)悔いを残さないこ
とを、モットーとする。
(はやし浩司 YOM規約 ヤングオールドマン ヤング オールド マン)

●今週のBWから……

 小3のG君に、問題の書いたプリントを読ませた。

G君「スーパーへ行きました。今日の目玉商品は、ムッ……」
私「どうしたの、つづきを、読んで……」
G君「ゲーッ、気持ち悪いよ、先生。目玉商品だってエ!」と。

 みなが、どっと笑った。

 ついで、「君たちは、クリスマスに何がほしいか?」と、聞いてみた。

 が、ほとんどが、テレビゲーム。あるいはそのゲームソフト。中に、1人、2人、一輪車とか、
キックボード、自転車がほしいと答えた子どもも、いるにはいたが……。

 テレビゲームといえば、少し前までは、男児だけの世界の話かと思っていたが、今では、女
児まで、ほしがる時代になった! 女児向けのソフトも、つぎつぎと開発されているようだ。(ゲ
ームソフト業界は、今度は、女児をターゲットにしているらしい。)

 今年のクリスマス商戦は、どうやら、テレビゲームのひとり勝ちとみてよい。


●教育ローン

島根県にお住まいのHさんから、子どもの教育ローンの相談があった。

「都会へ子どもを送ると、いったい、どれくらいのお金がかかるか。うちは、裕福ではないので、
心配だが、どうしたらいいか。みなさんは、どんな教育ローンを利用しているか」と。

 そこで私なりに調べてみた。

 国の教育ローンには、つぎに3つがある。

(1)郵貯貸付(国民生活金融公庫)
(2)教育一般貸付(国民生活金融公庫)
(3)年金教育貸付(年金福祉協会)

 ほかに、教育ローン(中央労働金庫)や、教育資金融資制度(財形貯蓄)がある。

(1)郵貯貸付(国民生活金融公庫)

 融資額は、現在貯蓄額の範囲内で、最高200万円まで。つまり200万円以上の郵便貯金
がないと、この融資は受けられない。詳細は、簡易郵便局をのぞく、全国の郵便局で。


(2)教育一般貸付(国民生活金融公庫)

 融資額は、生徒(学生)一人当たり、200万円以内。ただし給与所得者については、年収が
990万円以内、事業所得者については、年収が770万円以内の人にかぎる。返済期間は、
原則として、10年以内。詳しくは、全国の国民生活金融公庫へ。


(3)年金教育貸付(年金福祉協会)

 融資額は、生徒(学生)1人あたり、100万円以内。厚生年金保険または国民年金保険の加
入期間が、10年以上の被保険者にかぎる。詳細は、各都道府県の年金福祉協会、または年
金資金運用基金の相談窓口へ。

 そのほか、労金の「教育ローン」は、中央労働金庫に出資している人が融資を受けられるも
のだが、最高額は、500万円。返済期間は、最長で10年。詳しくは、中央労働金庫の窓口
で。

 教育資金融資制度(財形貯蓄)は、財形貯蓄に加入している人が対象。財形貯蓄残高の5
倍以内、10万円から最高450万円まで融資を受けられる。詳しくは、独立行政法人・雇用能
力開発機構まで。
(はやし浩司 教育ローン 教育資金 融資制度 郵貯貸付 教育一般貸付)

++++++++++++++++

 現在、高校入学から、大学卒業まで、1人あたり、約1000万円(970万円)の学費が必要で
ある(「国民生活金融公庫・03年調査」)。が、これですむはずがない。ないことは、親なら、み
な、知っている。

 2人で、2000万円。3人で、3000万円。昔は、『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。こういう現状を知れば知るほど、親は子どもをも
うけなくなる。つまり少子化は、ますます進む!

【島根県のHさんへ】

 お子さんが、中二と、小六ということですから、今は、とにかく貯蓄額をふやすしかないと思い
ます。上記(1)(2)(3)を合わせて借りれば、とりあえずは、500万円まで確保できます。

 で、子どもが大学を卒業したら、子ども自身にその返済を負担させます。……といっても、今
の大学生のほとんどは、「子どもを大学まで出すのは、親の義務」と考えていますので、ご注意
ください。

 そこで大切なことは、そういう意識を、子どもにもたせないようにすることです。わかりやすく
言えば、「勉強しなさい!」と、子どもには安易に言わないこと。「勉強しなさい!」と、子どもを
責めるのは親の勝手ですが、いつか、その責任を、親が取らされるということです。

 ほかに、安易に、「宿題はやったの?」「こんな成績で、どうするの!」と、子どもには、言わな
いことです。ある女子高校生は、こう言ったといいます。父親が事業に失敗して、大学への進
学をあきらめてほしいと言ったときのこと。

 「今までさんざん勉強しろ、勉強しろって言ってきたクセに、今になって、もう勉強しなくていい
って、どういうこと。親として、ちゃんと責任を取ってよ!」と。

 今は、そういう時代なのですね。ご注意ください。


●老人虐待

 少し前、代理ミュンヒハウゼン症候群について、書いた。そしてその中で、老人虐待につい
て、書いた。

 本来は、代理ミュンヒハウゼン症候群というのは、子どもに対する親の虐待をいう。たとえば
他人の目の届くところでは、すばらしく、やさしい親を演じながら、目の届かないところで、子ど
もを虐待するなど。

 よくあるのは、子どもが何かの病気で、病院に入院したりすると、献身的な看護をして見せた
りするケース。みなが見ている前では、子どもの体をマッサージして見せたり、汗をタオルで拭
いて見せたりする。

しかし子どもと一対一になると、「このロクでなし」「親不孝者」「早く死んでしまえ」などと言って、
子どもを虐待する。

 この話について、ある女性(45歳くらい)から、「実は、私の母親(実母)が、そうでした」という
メールをもらった。「私の母親は、祖母(姑)を虐待していました。でも、叔父や叔母の前では、
すばらしい嫁を演じていました」と

 「私の母は、祖母と、30年戦争を繰りかえしました。が、晩年、祖母は、軽い脳梗塞を起こし
て、寝たきりになってしまいました。母の祖母いじめが始まったのは、そのころからです」とも。

 それはすさまじい(いじめ)であったという。

 祖母が便意を訴えても、無視する。便をもらしても、放置する。食事を、忘れたフリをして与え
ないなど。が、祖母の近くにだれかが見舞いなどでやってくると、今度は、一変、献身的で、や
さいい嫁を演じて見せる。いつもそばにいて、あれこれ世話をして見せたりする。

 よい嫁に見せようというよりは、祖母を監視するためではなかったかと、そのメールをくれた
女性は言う。祖母が、自分の仮面を、他人にバラさないようにするために、である。つまりその
母親は、祖母の近くにいて、祖母の口を封じた。

 が、ただ1人、いつも祖母の近くにやってきた女性がいた。それが祖母の長女(実娘)であ
る。メールをくれた女性の母親は、その長女を警戒した。

祖母が、自分の長女(実娘)に、そうした現状をこっそりと訴えたりすると、そのあと、その母親
は、「私の悪口を言ったら、殺してやる」と、祖母の耳もとで、祖母を脅していたという。実際に
は、祖母と長女の2人だけになることを、許さなかった。

 「私は、そのころ、中学生でした。今でも、あのころの母を思い出すと、ぞっとします」と。言い
忘れたが、そのメールをくれた女性の母親は、数年前に、なくなったという。

 ……という例は、少なくない。あなたも、一つや二つ、それに似た話を耳にしたことがあると思
う。新しいタイプの老人虐待ということになるが、実は、こうしたタイプの虐待が、今まで、なかっ
たわけではない。闇の世界に隠されていただけと言うほうが、正しい。

 そのメールをくれた女性は、こうも書いている。

 「老人の養護施設などでも、そういうケースがあるそうですね」と。

 ……と書いて、私も思い出した。

 ある県のあるところに、知的障害者だけを集めた、ある施設がある。その施設を見学してき
たある男性(中学校教師)が、こっそりと、私にこう話してくれたことがある。

 「あの施設では、指導員の教員が、入れかわり立ちかわり、どんどんとやめていくのだそうで
す。原因は、施設の理事長だそうです。あの理事長は、表では、その地方の人徳者を演じてい
ますが、実際には、知的障害のある子どもを、自分の富と名声のために利用しているだけだそ
うです。そういう理事長に嫌気がさして、みんな、やめていくのです」と。

 一般の人や親はだませても、同業の教師は、だませないというわけである。この理事長の話
も、どこか、ここに書いた母親の話と似ている(?)。

 相手が弱者であることをよいことに、その相手を自分の支配下において、自分のよいように、
その相手を利用する。わかりやすく言えば、自分をすばらしい人間に見せるための道具とし
て、その弱者を利用する。たまたまそれに虐待が重なったものを、代理ミュンヒハウゼン症候
群という。

 相手が子どもとは、かぎらない。老人も、それに含まれる。施設の知的障害者も、それに含
まれる。

 私が知るかぎり、このタイプの虐待は、どの世界でも、ある一定の割合で、起こる。もちろん
(あってはならないこと)だが、悲しいかな、それを防ぐ手だてはない。これも人間が、本性とし
てもっている、心の一側面と考えたほうがよい。


●中学生たちとの会話

 中学生たちとこんな会話をした。全員、幼稚園児のときから、私の教室に来ている子どもた
ちである。

私「今日ね、昼のテレビを見ていたら、こんなのがあったよ。簡単なボケ診断法だそうだ」
中「どんなの?」
私「異性の人に、手をさわってもらうんだそうだ。そのとき、ドキドキしたら、ボケの心配はない
そうだ。しかし何も感じないようなら、ボケが始まっているそうだ」
中「そんなことでわかるの?」

私「でね、君たち、ぼくの手にさわってみてくれないか?」
中「いやだよ〜」「いやらしい」「お断り!」
私「そうだろな。ぼくも、君たちにさわってもらったところで、ドキドキしないよ」
中「私も、先生の手なんか、さわって、ドキドキしないわよ」

私「そうだろうな。ぼくたちは、親子みたいだから……」
中「そう、先生は、先生みたいじゃ、ない。おやじみたい」
私「そうだろな。おやじみたいなものさ」
中「そう言えば、先生だって、男だったんだア」「男だ!」「いやらしい」と。

 実によく笑う連中である。1時間のうち、何割かは笑っている。ケタケタ、ケタケタ、アハハハ、
アハハハ……と。

 するとRさん(女子)が、こう言った。「うちのおやじなんか、チンチンをブラブラさせて平気で、
家の中を歩いているよ。私、いやになっちゃう〜」と。

 Yさん(女子)も、「うちのおやじなんか、私が風呂に入っていても、平気で、入ってくる。何回、
いやだといっても、全然、無視よ。いやになっちゃう〜」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの問題があるようだ。

 が、あまりにも騒々しいので、あきれて目を閉じていると、Tさん(女子)が、「先生、疲れてい
るみたいね。寝てなよ。私たち、勝手に勉強していくから」と。

私「そういうわけには、いかないよ」
中「いいから、いいから……。ちゃんと、やることはやっていくから」
私「ありがたいけど、そうはいかない。じゃあさ、一つだけ、言うことを聞いてよ」
中「何?」「どんなこと?」「いいわ」
私「頼むから、10分間だけでいいから、静かにしていてよ」と。

 教える側にいる私が、いつも、生徒たちから、活力をもらっている。生きるエネルギーと言っ
てもよい。ときどき、「いいのかなあ?」と思うこともある。今日も、そんな一日だった。ありがと
う!


●天皇が国家元首

 自民党の憲法改正案(自民党改憲大綱の素案骨子)が発表になった(04年11月17日)。
自衛隊を自衛軍にするとか、いろいろある。国旗を日の丸にするとか、君が代を国歌にすると
か、など。そして、「天皇を元首」と定めるというのも、ある。

 天皇が国家元首!

 私はこれを読んで、考えこんでしまった。こうした問題は、私たちの世代の人間にとっては、
たいへんデリケートな問題である。どういうわけか、私のばあい、いまだに、「天皇」と書いただ
けで、ある種の緊張感が走る。

 子どものころ、「天皇」と呼びすてにしただけで、父に殴られた。「陛下と言え!」と。当時は、
まだそういう時代だった。

 が、私たちは、となりのK国を見て、何を学んだのか。何を学んでいるのか。また何を学ぼう
としているのか。一つの家族を、血統相続によって、国の長にするということの、おかしさという
か、矛盾を、私たちは、もうそろそろ学んでもよいときにきているのではないだろうか。

 私たちはそれでよいとしても、天皇自身は、どうなのかという問題もある。本当に、そうである
ことを天皇自身が望んでいるのか。皇室にいるということだけでも、たいへんな重労働。重圧。
そこから受けるストレスには、相当なものらしい。皇后陛下や、皇太子妃の例を見るまでもな
い。

 「国家元首なのだから、文句はないはず」と、安易な「ハズ論」で決めてかかるのは、かえって
天皇自身に対して、失礼ではないのか。が、もっと大きな問題がある。

 人間は平等である。その平等意識こそが、自由と民主主義の基盤になっている。しかし最後
の最後で、私たち日本人は、堂々と空に向かって叫ぶことができない。「私たち日本人は、平
等だ!」と。

 だからといって、天皇制に反対しているというわけではない。私自身は、それが国民の総意
(?)であるというのなら、それはそれで構わない。しかし現行の「象徴天皇」より、さらに過去の
状態にもどって、「元首」とする必要が、今、どこにあるのか。

 それとも、こうした改正案を作成するにあたって、天皇自身に、「元首をしていただけますか」
と聞いてみたことがあるのだろうか。そういうこともいっさい、しないで、自民党だけで勝手に決
めてしまったとしたら、それこそ、人権無視ということになる。

 そんなわけで、私は、「天皇を国家元首とする」という自民党案には、どうも納得できない。

 もちろん、今の日本から天皇制を廃止してしまうと、国自体が、バラバラになってしまうことも
考えられる。恐らく、自民党も、そのあたりを心配しているのだろう。「自由」の本当の意味もわ
からないまま、自分勝手なことをしている人が、この日本には、あまりにも、多すぎる。

 しかしだからといって、過去にもどることはない。その必要もない。今、重要なことは、民主主
義をさらに私たちの手で、守り、育てることである。不完全で、未熟かもしれないが、その民主
主義を育てる。

 さらに言うと、民主主義を育て、守るのは、私たちひとりひとりであるということ。そのひとりひ
とりが、尊大な理念を心にえがき、国をつくっていく。それが民主主義である。

そのために、私たちの意識を、私たち自身が高める。その結果として、天皇制の問題にも、結
論が出る。少なくとも、今の状態を、過去の状態、つまり戦前の状態に、逆戻りさせてはいけな
い。……と思う。

+++++++++++++++++

(付記)自民党改憲大綱の素案骨子

  日の丸、君が代を、国旗、国歌とする。
  天皇を日本国の元首とする。
  国民は国家の独立と安全を守る義務がある。
  自衛軍の創設、ほか。
  
+++++++++++++++++

【近況・あれこれ】

●うつろな頭

 このところ、どうも調子が悪い。パソコンの前にすわるのだが、書きたいテーマが浮かんでこ
ない。

 そこで新聞を見たり、雑誌をながめたりする。本当のことを言えば、書きたいことがないわけ
ではない。あるにはあるが、しかし、何かしら、どれも、つまらないテーマに思えてしまう。「どう
せ書くなら、もっと、大切なことを書いてみたい」と。だから、そこで筆が止まってしまう。

 今、書きたいのは、やはり政治問題。それに宗教(カルト)問題。宗教問題については、反カ
ルトの立場で、5冊の本を書いた。これらの本は、どれもよく売れた。しかし宗教問題から遠ざ
かって、もう15年になる。

 教育問題については、今、いろいろ書いている。そう、今、ふと私の頭を横切ったのは、こん
なことだ。

 数日前だが、あるマガジン読者から、こんなメールが届いた。いわく、「マガジンを読んでいま
すが、量が多すぎて、読みきれません。もっと少なくしてください」と。さらに数週間前には、こん
なのもあった。「毎回読んでいるが、あなたの意見は、偏向している。おかしい。納得できない
ことが多い」と。同じころ、「ときどき、以前読んだのと同じ原稿が載るが、そういうことは、やめ
てほしい」というのもあった。

 一応、返事を書こうと思ったが、やめた。内心で、「私なら、そんなマガジン、読まないのにな
あ……」と思った。が、そのとたん、返事が書けなくなってしまった。

 しかし読者の方がいてくださるからこそ、こうして原稿を書くことができる。書く気になる。いわ
ば私は、読者の方から、生きがいをもらっていることになる。もし読者の方がいらっしゃらなけ
れば、今、本当に、もう書くのをやめてしまうかもしれない。

 調子が悪くても、書くしかない。目標は、1000号! それしかない。1000号になるまで、書
く。がんばります! これからもよろしくお願いします!

++++みなさんへ+++++++

 「量が多すぎる」という苦情は、よくもらいます。しかし、もう少しの間、がまんしてください。よ
ろしくお願いします。そのうち元気がなくなれば、量も、少なくなると思います。今は、どこか無
理をしながら、書いています。

 「偏向している」という意見も、ときどき、あります。が、その解決策として、BLOGという方法
も、生まれました。読者の方が、直接、反論や意見などを書きこめるサービスです。2005年
からは、BLOGのほうに、力を入れたいと思っています。今は、試行錯誤の段階です。

 「同じ原稿は読みたくない」という意見については、こうしたマガジンの性質として、どうしても、
そうなってしまうことがあります。毎月、新しい読者の方が、入っておいでになるからです。どう
か、ご理解の上、お許しください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 
最前線の子育て論byはやし浩司(420)

【近況】

●ウィルス入りメール

 このところ、ウィルス入りメールが、ますます悪質化、巧妙化している。

 以前は、ほとんどが、件名のところが英文になっていた。しかし最近は、日本語でくるのもあ
る。今朝もあった。「【緊急】ウィルス情報」と、それにはあった。

 「?」と思ったら、すかさず、フィルターをかけて、即、削除。それにまさる防御方法は、ない。
へたにプレビュー画面に開けば、そのまま感染(?)。開いたことはないので、わからないない
が、多分、そういうことになる。

 ほかにスケベサイトからの、勧誘も、あとを断たない。毎日、3〜5件は、入ってくる。こちらも
巧妙化している。

 件名:お元気ですか? 先日はお世話になりました
 件名:いろいろありがとうございました。NR子
 件名:一つ、おうかがいしたいことがありましたので、至急、など。

 件名だけ読んでいると、思わず、メールを開きそうになる。が、やはり、即、フィルターをかけ
て、削除。

 みなさんも、どうか、くれぐれも、ご用心ください。

 なお、知人、友人は別として、新しくメールをくださる方のばあい、件名のところに、ご住所、
お名前のないものは、即、フィルターをかけて、即、削除させていただいています。ご了承の
上、お許しください。これは私のパソコンのみならず、みなさんのパソコンの健康を守るための
措置です。

 また(開封確認のメッセージ)については、私のほうで、(返信しない)に設定してあります。で
すから、開封確認にメッセージが、みなさんのところに届くことはありません。どうか、開封確認
は、ご遠慮ください。


●N県での女児殺害事件

 N県で、小学1年生の女児が、殺害されるという事件が起きた(11・18)。母親のところに、
「娘はもらった」などという、メールが、携帯電話で送られてきたという。

  犯人像は、まだよくわかっていないが、目撃者の話では、20代の若い男であったという。最
近起きた、同じような凶悪犯罪は、たいてい、「引きこもり型の無職の男性」によって、なされて
いる。今回の事件も、その可能性が、高い。

引きこもりというのは、「自閉」を、外の世界から見た状態をいう。その多くは、軽症うつ病、自
己愛性人格障害などに分類される。このタイプの男性は、ひきこもることにより、社会と自らを
隔離し、自分だけの世界で、妄想をふくらませてしまう。倒錯的な趣味にふけることも多い。

 その結果として、異常な自己中心性をもちやすくなり、ついで犯罪を引き起こしやすくなると考
えられている。

ただ、誤解してはいけないことは、引きこもる子ども(男性)が、すべてそうなるというわけでは
ないということ。こうした犯罪に走る子ども(男性)は、一部である。全体の犯罪件数からみれ
ば、むしろ一般の男性よりは、犯罪率は低いといわれている。

だから引きこもりイコール、何かの犯罪に走る可能性が高いと考えてはいけない。また、そうい
う偏見をもってはいけない。

むしろ、引きこもるタイプの子どもには、まじめな子どもが、多い。まじめすぎるからこそ、対人
関係の調整に苦しむ。その結果として、引きこもる。

 どちらにせよ、犯罪を楽しんでいるかのような犯人。報道によれば、写真まで、親に送り届け
たという。許せない。

 
●学費が払えない!

 全国私立学校教職員組合連合(全国私教連)の調査によれば、今、親が経営する会社の業
績不振やリストラなど、家庭の経済的な事情で、3か月以上学費を滞納している私立高校生が
過去最高の1・87%もいることがわかった。(04年9月、25都府県の私立高校170校(生徒
数計約15万2000人)を対象に実施)

 1・87%と言えば、50人に約1人弱という割合になる。これはきわめて深刻な数字と考えて
よい。

同調査によると、3か月以上学費を滞納している生徒は2849人(1・87%)で、過去最高だっ
た昨年の1・49%を0・38ポイント上回り、1998年の調査開始以来、最も高い割合となった。

12か月以上の滞納者がいる高校は、31校で、入学以来、ほとんど学費を払っていない生徒
もいたという。

滞納の理由としては、「父親が失業中で、生徒はアルバイトをしているが、生活費がようやく足
りる状況」(神奈川県内の高校)、「親類の会社が倒産し、連帯保証人の父親が差し押さえを受
けた」(新潟県内の高校)など、深刻なケースが相ついだという。

 よけいなことかもしれないが、債務の連帯保証人には、決して、なってはいけない。債務の連
帯保証人になるということは、自分自身が、その借金をするのと同じ立場に立たされることを
意味する。

 だから、たとえ相手が親友でも、親戚でも、決して、債務の連帯保証人には、なってはいけな
い。それで相手との人間関係が終わりになっても、だ。つまり債務の連帯保証人というのは、
それくらい、恐ろしいことだということ。

 元法科の学生として、そう、忠告する。

 話をもとにもどすが、学費どころか、小学校の給食費すら払えない家庭も、ふえているとい
う。中には、1年間、1円も払わなかった親もいるという。いろいろ事情はあるようだが、さらに
中には、払えるのに、払わない親もいるという。ある小学校の校長が、そんな裏話も、話してく
れた。

 不景気だからしかたないのか? 答は「ノー」だ。

 しかし実際には、日本政府(財務省)は、あのN銀行という、1銀行救済のためだけに、4兆
円ものお金を使っている。第二東名をつくるために、12兆円ものお金を使っている。国家公務
員と地方公務員に払う人件費だけで、毎年、40兆円! 日本の国家税収のほとんどが、その
人件費に消えている。(国家税収は、42〜4兆円。)

 1兆円あれば、全国100万人の生活困窮者に、それぞれ、100万円ずつのお金を渡すこと
ができる。

 10兆円あれば、全国1000万人の中学、高校生、大学生全員に、それぞれ、100万円ずつ
のお金を渡すことができる。

 このH市を見ても、土木建設費が、毎年20〜25%で推移している。(ここ数年、減ってはき
ているが……。)こんなバカげた国は、世界をみても、そうは、ない。先日、日本へやってきた
オーストラリアの友人は、こう言った。「ヒロシ、どうして日本人は、川や山をコンクリートでおお
うのか?」と。

 私たち日本人には、見慣れた景色かもしれないが、その友人には、よほど異様に見えたの
だろう。この日本に、どっぷりとつかって住んでいると、その異様さにさえ気づかなくなる。

 と、それと同じように、「学費が払えない」という人の話を聞いても、日本人は、「払えない人が
悪い」というふうに、考えてしまう。が、しかし、それこそ、世界の非常識。子どもたちは、日本の
未来をつくる、日本の財産。宝。道路やビルも大切だが、それ以上に大切なのが、子どもたち
である。

 立派な校舎を建てるのではなく、そういうよけいなことに使うお金があるなら、人間に使う。
(そういえば、最近、どこの高校も、校舎だけは、立派になってきたぞ! よほどの補助金が、
国から出ているのだろう。)

 そこで一つの案として、私は、こう考える。

 たとえば従業員100人以上の会社に、ある一定割合以下の、奨学金支給を認める制度をつ
くる。(200人でも、500人でもよい。最初は、1000人以上からスタートしてもよい。)

 「奨学金として支出した分については、必要経費もしくは、損金として計上できる」とすればよ
い。(税務のことは詳しくないので、用語がまちがっていたら、ごめん。)

 こうしてその能力や、その必要性のある子どもに、奨学金として、学費を提供するようにす
る。

 この方式は、私が考えたのではない。広く欧米では使われている方式である。欧米では、会
社だけにはかぎらない。財団、団体なども、奨学金を提供している。「どうせ、税金に取られる
なら、奨学金に回せ」と。つまり社会が、全体として、子どもを育てる。そういうしくみが、すでに
できあがっている。

 どちらにせよ、日本ほど、子育てにお金がかかる国は、そうはない。しかもそのシワ寄せは、
すべて子どもをもつ、親にのしかかってくる。

 はたしてあなたには、その1・87%の人たちの、悲鳴が聞こえるだろうか?


●秋の紅葉

 今日、天竜市の北を流れる、気田川の紅葉を見てきた。紅葉には少し早いかな?、というこ
ろだったが、その美しさには、息をのんだ。

 私とワイフは、天竜市から、春野町へ向い、途中、秋葉神社を左折。そこから気田川の流れ
にそって、下流へ。

 途中、車を止めるところがあったので、そこで駐車。川原へおりた。

 写真は、そのときの景色。

 なお、全国の紅葉ベスト・5は、つぎのようになっている(「るるぶ」調べ)。

(1)京都府・嵐山
(2)青森県・奥入瀬
(3)長野県・上高地
(4)栃木県・いろは坂
(5)大分県・耶馬渓

 どれも、この浜松市から遠い。しかし浜松市から、車で1時間ほどのところにも、こんなすばら
しいところがある。川原には、ゴミがまったくなかった。それだけでも、感激!


●自己愛型・威張(いば)る人

 権威や権力、名誉や地位をカサに、威張る人がいる。そういった人が、その世界の中だけで
威張るなら、まだしも、外の世界でも威張るから、話がおかしくなる。

 今日も、そういう人に出会った。

 ドラグストアの駐車場にワイフが車を入れようとしたら、いきなり、「君イ! 入れ方が悪い」
「大回りするな」と、怒鳴ってきた人がいた。いろいろな言い方があるが、その人の言い方は、
高圧的。威圧的。あたかも生徒に命令する教師のような言い方だった。

 年齢は、65歳くらいか。言い忘れたが、男性である。

 ワイフは、そういうことでは、けんかをしない。無視したまま、車から出た。私も、あっけにとら
れていた。私の見ていないところで、何かワイフが失礼なことをしたかと思った。

が、ワイフは、そしてその人とは、視線を合わせようともせず、店のほうへ歩きだした。歩きな
がら、ワイフは、私にこう言った。「何も、あの人に迷惑をかけたわけではないのよ」「あそこで
は、ああいう入れ方をしないと、車は駐車できないのよ」と。

 そして、こうも言った。

 「ああいう男の人はね、今に頭の血管が切れて、死ぬわよ」と。ワイフもかなり頭にカチンとき
たらしい。

 ……この話はここで終わったが、そのあと、ドラグストアからの帰り道、再び、その人の話に
なった。

私「威張る人というのは、それだけ社会的経験が乏しいということだよ。ぼくなんか、自転車に
乗っているだろ。道路では、弱者だ。いつも乱暴な運転をする人に出会っているから、へたくそ
な運転をする人を見ても、腹を立てないよ」
ワ「あら、私がへたということ?」
私「そうじゃないけど、いちいちそんなことで腹を立てていたら、自転車には乗れないよ」
ワ「そうよねエ」

 威張るという行為は、自己愛者がよく見せる特徴の一つである。自己中心性が肥大化する
と、自己尊大化が起こり、ついで、他者を見くだすという行為に発展する。それが外面的には
威張るという行為につながる。つまりそれだけ人格の完成度が、低いということ。

 少し前だが、女性のテレビタレントに、そういう人がいた。金キラキンの目がねをかけ、その
目がねの奥から、ツンツン、ツンツンんとして、「あんた、何よ!」というようなものの言い方をし
ていた。そのタレントのばあいも、「どうして、ああまで威張れるのか」と思われるような威張り
方だった。

 で、そういう生活態度が、その人の、動作として、定着する。だから外の世界でも、見境なく、
だれに対しても、威張るようになる。

 が、よく観察してみると、だれに対しても威張るというのではない。ものの考え方が、それだけ
権威主義的で、自分より「下」と判断した人に対してだけ、威張る。あるいは威張ることで、自
分の精神的な弱さや、人間的な弱さを、隠そうとすることもある。ときどき、政治家の中にも、そ
ういう人を見かける。

 あごを前につきだし、ふんぞりかえって歩くタイプの政治家である。

 どうであるにせよ、あの威張るという動作は、日本以外では、あまり見られなくなった。しかも
50歳以下の人には、ほとんど、見られない。つまり威張る人というのは、日本人で、60歳以上
の人に多い。駐車場でワイフに怒鳴った人も、65歳くらいだった。

私「いったい、この年代の人たちは、戦前の日本で、どんな教育を受けてきたんだろうね」
ワ「昔は、『偉い人』という言い方をして、その人を評価したでしょ。その亡霊よ」
私「それは、ぼくの意見だぞ。パクッたな!」
ワ「パクってないわよ。常識よ」と。

 あなたのまわりにも、このタイプの人は、かならずいるはず。退職前の肩書きや地位をぶらさ
げて、そのあとの生活に同化できない、かわいそうな人たちである。「偉い」と思っているのは、
自分だけ。

 それだけではない。このタイプの人は、それだけ家父長意識、つまり悪玉親意識が強いた
め、たいてい親子関係は、ぎくしゃくしている。あるいは崩壊している。夫婦関係も、おかしい
(?)。

 まさによいことなし。しかし最大の悲劇は、自分がそうであることに、その人自身が気がつか
ないこと。私がここで書いたような話を聞いても、「生意気だ」「オレは、一家の大黒柱だ」と、そ
れを排斥してしまう。
 
 そこであなたの、威張り度テスト。

( )「先輩」「後輩」という言葉に、いつも敏感に反応する。
( )「出世」「偉い」という言葉を、よく口にする。
( )相手を、学歴や肩書き、地位や職種で判断することが多い。
( )目上の人にはペコペコし、目下のひとには、尊大な態度をとりやすい。
( )何でも自分の思いどおりにならないと気がすまない。
( )完ぺき主義で、何でも、自分がすることが最高と思いやすい。
( )命令口調が多く、頭から、相手にものを言うことが多い。
( )家庭の中では、いつも家族の中心にいないと、落ちつかない。
( )家族や他人の気持ちを、勝手に判断したり、決めてしまったりしやすい。

 これらの項目に当てはまれば、あなたはここでいう(自己愛型・威張る人)とみてよい。

 最後に、こうした自己愛の世界から抜けでるためには、どうしたらよいか。これはワイフから
の質問である。

 私の考えとしては、自分の中の自己中心性と戦うことしかないと思う。自分が世界で、最高の
人間とは、思わないこと。自分が、世界の中心にいるとは、思わないこと。自分だけが、大切な
人間で、あとの人たちは、価値がないと思わないこと。……などなど。

 そのために視点を、いつも下に置き、その「下」から「上」を見ながら生きる。弱者の立場で、
その弱者に共鳴しながら、考える。それしかないと思う。いざ実行するとなると、なかなかむず
かしいことかもしれないが……。

 この問題については、また別の機会に、もう少し掘りさげて考えてみたい。
(041120)

+++++++++++++++++++++++++

【REさんからのご意見】

 REさんから、「はやし浩司の文章は、かた苦しい。もっとやさしく解説してほしい」という意見
をもらった。(数週間も前のことだが……。)

 そこであちこち、人気サイトを参考までに、読んでみた。みさなん、それぞれに、いろいろと努
力しているようである。

 私も、少し、マネをしてみることにした。

 称して、子育て講座、ネット編。

【子育て講座・ネット編】

 ええと、今日の講義は、「妄想性認知」について。

 ナヌ、「私には関係ない」だと! ……しばし、待たれ!

 今、この文を読んでいる人には、おおいに関係あるぞ。理由は、やがてわかるはず。

 ハハハ……。「妄想性認知」ね。

 たとえばつぎの2つの内容のメールがあなたのところに届いたとする。あなたは今日、会社
の仕事を休んだ。それをまず、読んでみてほしい。(A)と(B)じゃあ。

(A)今日は、来るの? 来ないの? またサボり? いい気なもんね。じゃあ、バイ!

(B)また調子が悪いの? わかる、わかる、あんたの気持ち。しっかり休んでね。またね!

 (A)のような内容のメールをもらったら、かなり性格の穏やかなあなたでも、カチンと頭にくる
はず。しかし(B)では、そうでない。(B)は、あなたの立場で、メールを書いている。

 しかし問題は、このことではない。

 仮に、(A)のメールが、親友からのものであったらどうだろうか。大の仲よしからのものであ
る。いつもたがいに、言いたいことを言いあっている。すると、同じメールでも、その文に対する
印象が、かなり感じが変わってくるはず。

 一方、仮に(B)のメールが、日ごろ、あなたに意地悪ばかりしている人からのメールだった
ら、どうだろうか。何かしら皮肉を言われているように感じて、かえって気分が悪くなるかもしれ
ない。

 あるいは、そのときの、あなたの気分によっても、印象が変わるということも、ある。

 たまたまあなたが、何かの賞に当たったというようなときだったら、(A)のようなメールをもら
っても、それほど、気にならない。

 しかしたまたま大きな失敗をしたときだったら、(B)のようなメールをもらっても、「チクショ
ー!」と叫んで、怒り出すかもしれない。

 つまりこうした「文字情報(言語情報)」だけによる心の伝達は、それだけ、誤解を生みやすい
ということ。もっとわかりやすく言えば、文字情報は、読む側の心情によって、そのニュアンス
が、大きく変わってくる。

 ……あああ、またいつもの文調にもどってしまったようじゃな。わかりやすく解説しようと思っ
ているうちに、じゃ。

 つまりだな、同じ文面でも、じゃな、読む側の心情によって、不愉快になったり、ならなかった
りするということじゃ。

 もっとも、それを好意的に読むのならまだしも、悪いほうに、悪いほうに読む人もいる。つま
り、自分なりに相手の文面や、相手への印象の解釈をゆがめてしまうというわけじゃ。それが
誤解を生む。

 つまりじゃな、その相手に対して、日ごろからよい印象をもっていないとするとじゃな、その文
を読みながら、妄想をふくらませてしまう。「何か、ウラがあるぞ」「私の足を引っ張っているんじ
ゃないか」と。

これを「妄想性認知」というんじゃ。いわば「解釈のゆがみ」のこと。

 わかるかな?
 
 つまりじゃ、インターネットのこわいところは、ここにあるんじゃ。何と言っても、文字情報が主
体だからな。

 私も、何度も失敗しておる。

 たとえば日によっては、10通くらいの相談が届くときがある。で、そういうときは、寝る前にな
って、大急ぎで返事を書く。並べて、じゃ。

 そうすると、どうしても、返事の書き方が、ぶっきらぼうというか、唐突になってしまんうんじ
ゃ。時候のあいさつなどを、飛ばしてしまったりするからね。

「拝復、お子さんの症状は、チックとみてよいのでは。家庭環境が神経質になっていないか、反
省してください。では、失礼します」と、な。

 私としては、それでいいと思うわけじゃが、こうした文面は、相手の人には、あまりいい印象を
与えないようだな、これが。わかる、わかる。私がめんどうがっているとか、威張っているかの
ような印象を、相手の人に与えてしまうんじゃ。

 で、かえって相手を、不愉快にしてしまうらしい。こちらには、その気がなくても、じゃな。

 相手は相手で、私の文や、私の印象を、ゆがめて解釈してしまう。そして私に対して、悪い印
象をもってしまう。「あの林は、へんなやつだ」と、じゃ。

 が、直接会って話をすると、そういうことはない。相手の顔の表情や、言葉の調子、言い方、
ジェスチャなどで、相手の印象を、そのつど、修正することができるんじゃ。だから誤解が生ま
れることも、少ないんじゃよ。

 だからな、やはり、微妙で、デリケートな話は、できるだけメールではなく、直接会うか、さもな
ければ、電話でするのが、いいということになるんじゃよ。ここでいう妄想性認知を避けるため
にも、な。

 わかったかな?

 文字は、そういう意味では、こわい。本当に、こわい。とくに、インターネットは、こわい。ホン
ト!

 今日の講義は、少しは役にたったかな?

 いかがでしたか? いつもと少し、文調を変えてみました。はやし浩司の印象が、いつもと
は、少しは変わりましたか? では、また! バ〜イ!

(はやし浩司 妄想 妄想性の認知 妄想性認知 言語情報 非言語情報)


●権威主義の夫、従順な妻

 女性でも、約20%強※の人は、「夫は、仕事。妻は、家事」と考えている。女性自らが、男尊
女卑社会を肯定しているとみてよい。

 で、そういう中、夫が権威主義のかたまりのようであるにもかかわらず、それなりに、うまくい
っている夫婦も、少なくない。

 これを心理学の世界でも、「相補性」という。おたがいに、おたがいを補いながら、うまくいくと
いうケースである。

夫、仕事から帰ってきて、でんと居間にすわりながら、こう叫ぶ。「おい、お茶! お茶はまだか
ア!」
妻、にこにこ笑いながら、「はい、ただいま!」と。

 どんな夫婦でも、長い間、いっしょに住んでいると、多かれ少なかれ、その相補性ができてく
る。そしてその相補性がうまく利用すると、それなりに夫婦関係も、うまくいくようになる。

 が、男尊女卑といっても、必ずしも、夫が優位というわけでもないようだ。私も最近になって気
がついたが、「優位だ」と思いこんでいるのは、夫だけではないか。実は、妻は、夫に優越感を
もたせながら、その夫を、操縦しているだけかもしれない(?)。

 アメリカ人の友人のMが、こう話してくれたことがある。「アメリカでは、『夫は頭。妻は首』とい
う。考えて行動するのは夫だが、その夫の進むべき方向を決めるのは、妻だ」と。

 ナルホド!

 そこで改めて考えてみる。私たち夫婦のばあい、相補性とは何か、と。

 ……というようなことを書いても、あまり意味はない。この文章を読んでいるあなた自身は、ど
うかということ。相補性がほとんどないというのであれば、あなたの夫婦関係は、かなり危険な
状態になっていると考えてよいのでは? あるいは逆に、あまりにも相補性が強すぎるというの
も、考えものかもしれない。相補性が強すぎると、夫も妻も、独立した行動が、できなくなる
(?)。

 ほどほどのところで、適当に、ほどよい相補性をもつ。それが夫婦にとっては、大切なのかも
しれない。で、私たち夫婦のばあいは、「この仕事と、この仕事は、私の仕事」「その仕事と、そ
の仕事は、お前の仕事」というように、できるだけわかりやすく、単純化して考えるようにしてい
る。

 ただ、夫の立場で一言。

 「バカな夫」「頼りない夫」と妻に思わせながら、つまり妻に優越感を覚えさせながら、その妻
を、自分の思いどおりに動かしていくというのも、妻を操縦する方法の一つではないかというこ
と。(反対に、妻側も、そう考えているかもしれないが……。)

 この操縦法は、そのまま子育てでも、応用できる。

 子どもに、「頼りない親父(おやじ)」と思わせつつ、子どもの自立をうながすという方法であ
る。こと親子に関して言えば、相補性は、子どもの自立を阻害する原因にもなりかねない。でき
るだけ親子の間では、相補性は、少ないほうがよい。
(はやし浩司 相補 相補性 夫婦の相補性 親子の相補性 子どもの自立)

(注※)……いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いの
は、驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人
が、二割近くもいる。

国立社会保障人口問題研究所の調査(2000)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったく
しない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答え
た女性は、76・7%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反対だ」と答えた女性も23・3%
もいる。


●老人たちよ、外に出て、命を、世界に還元しよう!

 老人たちよ、外に出よう。そしてその命を、世界に、還元しよう。悠々自適(ゆうゆうじてき)
を、美徳と考えてはいけない。趣味三昧(ざんまい)の生活を、恩恵と考えてはいけない。

 子どもに義務教育があるように、老人にも、老人の、義務がある。それが「命の還元」であ
る。

 「老人」と呼ばれるようになるまで、長生きしたこと、長生きできたことを、感謝しよう。心のど
こかで、ほんの少しでも、その感謝の念を覚えたら、あなたも、外に出よう。そしてその喜びを、
つぎの世代の人に、伝えていこう。

家の中に閉じこもって、自分のことだけしかしない、そんな老人になってはいけない。「自分さえ
よければ」と、そんなふうに考える老人になってはいけない。

 それはあなた自身のためでもある。

 私の近所には、80歳をすぎても、近所の道路の清掃をしている女性がいる。今年、85歳に
なるのでは? その女性は、今は、ハサミで(ハサミでだぞ!)、1本、1本、草を刈っている。
毎日、毎日、草を刈っている。
 
 そういう女性を見かけると、頭がさがる。本当に、頭がさがる。

 ただみながみな、ハサミで草を刈れということではない。人、それぞれ。方法はちがう。それ
まで生きてきた、中身もちがう。だから還元のしかたは、みなちがう。しかし心は、一つ。

 つぎの世代の人たちが、よりよく生きられるように、みんなで、力をあわせる。そして最後の
「命」を、そのために燃焼する。

 たった今、近くの大型ショッピングセンターから帰ってきた。

 そのレジに並んでいる人たちを見て、驚いた。「日本は、老人大国になった」とは、よく言われ
るが、その並んでいる人の半数以上が、老人だった。私は、その光景を見て、ふと、こう考え
た。

 「これからは、残りの半数の若い人たちに、自分たちの老後を支えてもらわねばならない。し
かしそれは、可能なのか?」と。

 が、私は、率直に言って、答は、ノー。不可能だと思う。思うからこそ、さらに声を大にして、言
いたい。

  老人たちよ、外に出よう。そしてその命を、世界に、還元しよう。悠々自適(ゆうゆうじてき)
を、美徳と考えてはいけない。趣味三昧(ざんまい)の生活を、恩恵と考えてはいけない。

 でないと、本当に、私たち老人は、社会の粗大ゴミになってしまう!

(補記)

 老後になって、利己の世界に埋没してしまい、世間のためには、何もしなくなってしまう老人と
いうのは、少なくない。

 こういう老人たちは、「私たちは、人生の先輩なのだから……」「今まで、苦労したのだから…
…」と、おかしな論理をもっているのがわかる。

 反対に、80歳を過ぎても、乳幼児の医療費無料化運動をしている女性がいる。80歳近くに
なっても、町内の公民館づくりのために、あちこちを歩き回っている男性もいる。

 私たちが見本とすべき老人というのは、そういう老人をいう。「どうせ人生は短いのだから、あ
とのことは知ったことではない」と考えるのは、あるべき老人の考え方ではない。またそういう老
人であってはいけない。

 あなたの周辺にも、そういうすばらしい老人が、いるはず。そういう老人を、もっと、積極的に
たたえ、評価しよう。そうすることが、結局は、つぎの世代の子どもたちの未来を明るくすること
になる。


●BLOG

 F社のフリー(無料)・サービスを使って、私も、BLOGなるものを始めた。

 で、ときどき、いろいろな人と、交信する。(「交信」という言葉が適切かどうかは、知らない。コ
メントを書いてもらったり、書いたりしている。)

 しかしほかの人のBLOGを見て、驚いた。どの人のBLOGにも、メッセージやコメントが、い
っぱい書きこんである。一方、私のBLOGへの書きこみは、数日に、1人くらい。閑散とした、さ
びしさである。

 これは、どういうわけか?

 ……と、改めて考えるまでもない。

 私の日記(HP)は、おもしろくない。ぜんぜん、おもしろくない。自分でも、それがヨ〜ク、わか
っている。それにBLOGの世界は、若い人たちの世界。20代とか、30代の人が中心になって
いる。57歳の私は、もともとお呼びではない。

 しかしこうまでBLOGが、さかんなるとは! 驚いた! アメリカでは、今、BLOGが大流行し
ているとか。インターネットを利用する人の、約半数がBLOGにハマっているという。そんなこと
を書いた記事を、先日、何かの雑誌で読んだことがある。

 日本も、やがてすぐそうなるのか?

 しかし私のBLOGのように、ほとんど書きこみがないというのも、さみしい。

 まあ、しかたないと思ってあきらめてみたりする。もともと私のような人間が、足を踏み入れる
ような世界ではなかったのかもしれない。

***********************

【あなたも、BLOGにチャレンジしてみませんか?】

私が今、入会しているのは、F社のBLOGサービスです。
入会、退会は自由。無料。

http://blog.fc2.com/regist.php

ここで新規ユーザー登録をすれば、会員になれるとか。
もし会員になったら、どうか、私のBLOGをのぞいて
みてください。

では、……

(なお、私と、F社とは、利害関係は、いっさい、ありません。
 みなさんご自身の責任と判断で、入会を希望なさる方は、入会
 してください。)

***********************

【保存版】

【子育て支援・助成金】

 現在、子どもをもつ親に、国や自治体は、以下のような
子育て支援・助成金を支給している。受領が可能と思われる
方は、遠慮せず、各窓口へ、相談してみたらよい。


●私立幼稚園就園奨励費

 資格……私立幼稚園へ通っている園児のいる家庭
 金額……年額、5万6500円(所得制限あり)
     (国と自治体から)
 届け出先……幼稚園、もしくは、各市町村村役場
       申請書を提出する。
     (現在、各私立幼稚園で代行。幼稚園に問いあわせてみること。)


●児童手当

 資格……小学校3学年修了前
金額……月額5000円
     第3子以降……月額1万円(所得制限あり)
 届け出先……各市町村村役場


●児童扶養手当

 資格……ひとり親
 金額……第1子……4万1880円
     第2子……プラス5000円
     第3子……プラス3000円
 届け出先……各市町村役場


●児童育成手当て

 資格……ひとり親
 金額……1万3500円前後(自治体によってちがう)
 届け出先……各市町村役場


●特別児童扶養手当

 資格……身体障害者1級手帳の子ども
 金額……月額5万1550円
 届け出先……各市町村村役場
 

 ほかに、乳幼児医療費助成金、ひとり親家庭医療費助成などがある。助成金の額は、自治
体によって、異なる。医療費の全額もしくは、ほとんどを助成してくれる。

 すべて届け出先は、各市町村村役場になっているので、こまめに足を運んで相談することが
大切。これらの中には、届け出を出さないと受領できないものもが多く、また届け出を出した時
点からしか支給されないものもある。

 上限の年齢制限もあるので注意。児童扶養手当、児童育成手当ては、子どもが満18歳にな
るまで。子どもが生まれたらすぐ、相談してみる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(421)

●親の心 VS. 子の心

 「学資も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」「結婚式の費用も負担してやった。子ど
もは、感謝しているハズ」「新居の頭金も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」と、親は
考える。(……考えやすい。)

 ついで、「これで親子のキズナは、太くなったはず」「いつか、子どもも、私のめんどうをみてく
れるハズ」と、親は考える。(……考えやすい。)

 しかしこれらはすべて幻想。親は子どもを許すことができるが、子どもは、親を許すことはで
きない。(許す・許さない)の問題は、もっと、根が深い。表面的な親子関係とはちがって、もっ
と、根源的なものである。

 たとえば学資を考えてみよう。

 アメリカに住んでいるT氏(22歳)は、こう言っている。現在、アメリカで大学に通っている。

「親は、学資で、子どもをしばろうとする。『大学へ行きたかったら、オレの言うことを聞け』と。
子どもは、学資を出してもらう以上、親に逆らうことができない。この束縛感がいやだ」と。

 こうした親子の意識のズレは、実は、いたるところにある。そしてそのズレは、子どもの加齢
とともに、広がることはあっても、ちぢむことはない。

 「〜〜してやった。感謝しているハズ」と考える親。しかし子どもは、「〜〜してもらった」とは、
思わない。親の行為を、「束縛」ととらえる。もう少し、わかりやすい例で考えてみよう。

 たとえば子どもが、4、5歳になると、親は、子どもを音楽教室に通わせたりする。そのとき、
子どもが、それを望んでいるわけではない。親が「子どもにとって必要」と考える。だから、子ど
もを通わせる。

 が、子どもにしてみれば、ありがた迷惑。つまり、子どもにとっては、すべてが、この(ありが
た迷惑)のまま、自分の教育が組みたてられていく。行きたくもないのに、算数教室へ行く。行
きたくもないのに、進学教室へ行く。行きたくもないのに、「いい高校へ入れ」と迫られる……。

 だから、ある女子高校生は、こう叫んだという。母親が、「あんたは、だれのおかげで、ピアノ
を弾けるようになったか、わかっているの! お母さんがね、高い月謝を払って、毎週、ピアノ
教室へ連れていってやったからでしょう!」と言ったときのこと。

 「だれが、いつ、そんなことをしてくれと、あんたに、頼んだア!」と。

 親は、「高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってやった。だから娘は、私に感謝してい
るハズ」と考える。しかし娘にしてみれば、それは(ありがた迷惑)でしかなかった!

 ……というズレこそが、日本の子育ての基本形になっている。そしてそれが幼児期から、子
どもがおとなになってからもつづいている。

 もっとも、そのベースに、良好な親子関係があれば、話は別。親がなぜ、仕事でがんばるか
と言えば、(がんばれるかと言えば)、その良好な親子関係があるからである。が、その関係が
崩れたとき、親は、自己嫌悪に苦しむようになる。

 「私は、いったい、何のために働いているのか!」と。

 こうした悲哀感は、子どもが巣立ったあとに、どっと、親を襲う。振りかえってみたら、そこに
は、だれもいない。ただ、乾いた秋の空風だけが、落ち葉を舞いあげているだけ……と。

 念のため申し添えるなら、私は、このことを、もう15年以上も前に、気づいていた。この「振り
かえってみたら、そこには、だれもいない。ただ、乾いた秋の空風だけが、落ち葉を舞いあげ
ているだけ」という文章は、そのころ書いた本の一節である。

 この文を書いた背景には、こんないきさつがあった。

 あるところに、猛烈な教育ママがいた。明けても暮れても、考えることは、子どもの成績と進
学だけ。そんな母親だった。そのため、母子の間で、毎日、毎晩、「勉強しなさい」「うるさい」の
大乱闘。

 当然のことながら、親子関係は、こなごなに破壊された。しかし母親のほうは、それに気づい
ていなかった。「そんなハズはない」「うちの子にかぎって」と。私にも、こう言ったことがある。

 「いつか息子も、いい大学へ入ってくれれば、私に感謝してくれるでしょう。そのときはじめて、
私のしたことを理解してくれるハズです」と。

 しかし一度、壊れた親子関係は、もとにはもどらない。ここが重要だから、繰りかえすが、「親
は子どもを許すことができるが、子どもは、親を許すことはできない」のである。

 で、その子どもは、過酷な受験勉強によく耐えた。そしてそこそこの、つまりその母親の希望
に沿った大学に入学した。

 それから、しばらくたったあとのこと。道で会うと、その母親は、精一杯、喜んだ顔をつくって
見せながら、私にこう言った。

 「おかげで、いい大学に入ってくれました」と。

 そのとき、私は、その母親のうしろに、乾いた秋の空風だけが、落ち葉を舞いあげているの
を知った。それで、そう書いた。

 子ども側の言い分を並べると、こうなる。

 「子どものころから、『勉強しろ』『勉強しろ』と言われたのだから、勉強してやった。だから、そ
の責任を取るのは、親の義務だ」「学費を出すのは、当たり前」と。

 だから冒頭の話になる。

  「学資も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」「結婚式の費用も負担してやった。子
どもは、感謝しているハズ」「新居の頭金も出してやった。子どもは、感謝しているハズ」と、親
は考える。

 ついで、「これで親子のキズナは、太くなったはず」「いつか、子どもも、私のめんどうをみてく
れるハズ」と、親は考える。

 しかしこれらはすべて幻想。

 幻想なんですよ、みなさん!!!

あのバートランド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベル文学賞受賞者)もこう言っている。

『子どもに尊敬されると同時に子どもを尊敬し、必要な訓練はほどこすけれども、決して程度を
超えない親のみが、家族の真の喜びを与えられる』と。

この言葉のもつ意味は、大きい。

++++++++++++++++++++++

●写真 

 このところ、写真撮影が楽しくてならない。どうやら、私の新しい趣味の一つになってきたよう
だ。

 カメラは、C社のEX−S100。薄くて、小さくて、それでいて、重量感と高級感がある。このカ
メラで、カシャリ、カシャリ(シャッター音は、選択できる)と、写真をとっていると、何とも言えな
い、快感すら覚える。

 で、いくつか、心境の変化を感じている。

 その一つ、まわりの景色を見る目が、少し変わってきたということ。「美しさ」を見ることに、敏
感になってきたということ。今までの私は、どこかぼんやりと、まわりの景色をながめていただ
け……。そんな感じがする。

 つぎに、何でもないものに、「美しさ」を感ずるようになった。机の上に無造作に置かれた万年
筆、ペン立てに、さかさまに入っているハサミなど。そういうものでも、朝の陽光をあびて光って
いるのを見たりすると、思わず、シャッターを切ってしまう。まだある。

 「光」というのは、つねに変化する。その光のもつ、切なさというか、それを覚えるようになっ
た。その切なさが、写真をとる原動力になる。「この景色を写真に残しておこう」「今しか、ない
ぞ」と。

 が、同時に、こんなことも考えるようになった。

 カメラは、デジタルカメラ。パソコンにのせたり、HPにのせたりするのには、たいへん便利で
ある。しかしその命は、短い。

 こうしてとった写真でも、数か月を待たずして、そのほとんどが、消える。プリンターでプリント
アウトすることも考えるが、何かしら、それをするのもムダなことのように思える。だから、やは
り、消える。

 写真をとったとき、感動した分だけ、その写真が消えていくのはつらい。

 そこでそういうときは、「まあ、100人か、200人の人に見てもらえればそれでいい」というふ
うに、考えて、自分をなぐさめる。「写真も、それで本望だろう」と。最近は、電子マガジンのHT
ML版のほうで、写真を紹介している。

 一応、マガジンの読者は、1600人いるということだが、本当のところ、何人の人が見ていて
くれるのか、私には、わからない。できるだけ多くの人に見てほしいと思ってはいるが、所詮、
素人のスナップ写真。「見てください」とお願いするのも、気が引ける。


●類似性と相補性

 よき夫婦でいるためには、(1)類似性と(2)相補性が必要であると、よく言われる。

 類似性というのは、ある程度、たがいによく似ていなければならないということ。相補性という
のは、相互の補完性をいう。言うなれば、似た者夫婦が、もちつもたれつの関係であればある
ほど、よい夫婦関係を築けるということになる。

 こうした類似性と相補性は、長い間夫婦をともにしていると、自然に熟成されるもの。しかしそ
れには、一つ、大きな条件がある。

 夫婦で、生活を共(とも)にしなければならないということ。私は、このことを、山荘の近くに住
んでいる農家の夫婦の人たちを見ていて、気がついた。

 その前に、最新の統計(04年6月)に、厚生労働省が発表した、「人口動態統計」によれば、
2003年度の離婚件数は、28万3906組もあったという。離婚率は、約2・3%。

その離婚率をみると、昭和25年から平成7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。

 その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%にまで上昇
しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!

 が、こうした数字は、あくまでも、全国平均。こと専業農家を営んでいる夫婦のばあいは、離
婚率は、極端に低いのではないか。私が知るかぎり、専業農家を営んでいる夫婦で、離婚した
人の話を聞いたことがない。

 なぜ、離婚しないのか?
 
 理由の一つとして、離婚そのものに対する、社会的な抵抗感がある。農家を営んでいる人
は、夫にしても、妻にしても、地縁的なつながりを、たがいにもっている。簡単にはその地縁的
なつながりを、はずすことはできない。それに農村地域には、「離婚は恥」と考える風潮も、根
強く残っている。

が、それ以上に、農家を営んでいる人は、ここでいう、類似性と相補性をつくりやすい環境にあ
る。そのことを、山荘の近くに住んでいる農家の夫婦を見て、気がついた。

 つまり農家の夫婦というのは、まさに、一心同体。異体同心といってもよい。ともかくも、生き
ていくためには、たがいの協力が不可欠。この相補性が、夫婦のキズナを太くする。

 このことを反対に言いかえると、都会に住む夫婦は、その相補性が弱いということになる。そ
のため、離婚率が高いということになる。

 夫は会社勤め。朝、出勤したら、真夜中まで帰ってこない。夫や妻が、たがいのためにでき
る部分が、きわめて少ない。「お金だけ稼げば、じゅうぶん」と考える夫。「お金だけもらえば、じ
ゅうぶん」と考える妻。これでは、相補性を作りたくても、作れるはずがない。

 だから、離婚率が高い?

 勝手な憶測なので、まちがっている部分もあるかもしれないが、良好な夫婦関係をつづける
ためには、この類似性と相補性を、うまく熟成していく必要がある。この二つに背を向けてしま
うと、その先は、「離婚」ということになりかねない。

 (だからといって、離婚することが、「悪」と考えているわけではない。どうか、誤解のないよう
に!)

 こうしてまわりの夫婦をながめてみると、ここでいう熟年離婚をする人には、一定の共通パタ
ーンがあることがわかる。

 一つは、趣味でも何でも、共に行動することが少ないということ。(あるいは、ほとんど、な
い。)ぞれぞれの実家に帰るときも、単独行動をすることが多い。夫は夫で、妻は妻で……とい
う生活パターンになる。

 つぎに「お金の切れ目が、縁の切れ目」というような考え方をする。何かの雑誌で読んだ話だ
が、夫が手にした退職金について、「半分は、私のもの。この半分をもらって離婚します」と宣
言した妻がいたという。

 夫のほうは、「生活費を渡しているから、それでじゅうぶん」と考えがちだが、(お金)の力は、
それほど、強くないということになる。

 そこで教訓。

 せめて土日は、夫婦で、生活を共にする。共通の趣味をつくって、それをいっしょに楽しむ。
そして仕事にしても、たがいにたがいを必要とする環境をつくる。そうした努力は、たがいに必
要である。『釣りバカ日誌』に出てくるような休日の過ごし方を、夫は、してはいけない。妻も、し
てはいけない。

++++++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を参考までに載せていおきます。
(中日新聞・発表済み)

++++++++++++++++++++++++ 

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任があ
る」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危
害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(とく
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい
生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということにな
っている。

日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの
語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。同じ「教育」といっても、その考え方
において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学
率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、
「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と
質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 


●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オーストリ
ア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学賞受賞者)という学
者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなかった。最初
に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調べたのを覚えてい
る。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、「そ
んなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、新生
児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛情の絆
(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビーが使い出した
言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、肉体
的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児症候群」
と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離れて育て
られた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・かんき出
版)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発達の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、似たよ
うな症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、そのキズは、
一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(やりなお
しのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題であることに気
づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、多い。言いかえる
と、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、そのまま、引きずっている
ことになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦しん
でいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳幼児期にあ
るかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)に苦し
んでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)があると書い
た。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られた部分)は、
(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、それは(あ
なた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも他人のことを考え
ているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られてき
た。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという問題であ
る。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れば知る
ほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということになる。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだったかを、
ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあなた自身を知る、
一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、この原稿
は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 アタッチメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティング 刷りこ
み)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●解放された夫婦

 先日、ワイフとドライブしているとき、ワイフがこう言った。

 「昔の私たちに、もどったみたい」と。

 私たちは、知りあったころ、毎日、デートばかりしていた。少し、お金ができると、そのお金
は、その日のうちに、使ってしまっていた。そして気が向くと、真夜中でも、ドライブのでけかた。

 そういう昔に、「もどったみたい」と。

私「昔とちがうものがあるよ」
ワ「何よ?」
私「昔は、セックスばかりしていた」
ワ「今は、もうそんな元気はないわね」
私「そうだね」

 若いころは、肉欲、性欲が「柱」にあって、そのためにデートした。しかし今は、その「柱」が消
えた。今のデートのし方を見ていると、私は、とても昔と同じとは思えない。当然、デートのし方
もちがう。それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

ワ「ラブホテルから出てきたあとだと思えばいいじゃない」と。

 ナルホド! 若いときも、その「柱」がなくなった状態で、デートしたこともある。「ラブホテルか
ら出てきたときが、そういう状態だった」と。

私「じゃあ、今は、毎日、ラブホテルから出てきたあとみたいだね」
ワ「そうよ、そう思って、楽しめばいいわよ」
私「そうだな……。しかし何か、つまらないよ」

 そう言えば、昔、私の友人のK氏が、こう教えてくれたことがある。「本当にその女性を好きか
どうかは、セックスのあとの自分をみればわかる」と。

 つまりセックスをしたあとでも、まだその女性を抱きたい気持ちが残っていたら、その女性は
「好き」ということ。セックスしたあと、その女性の姿を見たくないようであれば、その女性は「好
きでない」ということ。そういう意味では、心より、体のほうが、正直なのかもしれない。

 ……ということは、今のように、肉欲、性欲から解放された男女の関係のほうが、よりピュアと
いうことになる。言いかえると、今こそ、夫婦であることの中身が試されるということになる。

 ……とまあ、そんなに深く考えることはない。ワイフが言うには、「楽しいのは、これからだ」そ
うだ。少し前、私の姉も、私にこう言った。

 「子育ても終わって、楽しいのはこれからよ。これからこそ、あんたたちは、好きなことができ
るのよ」と。

 考えてみれば、新婚時代というのは、あっという間に終わってしまった。そしてそのあとといえ
ば、子育てに追われる毎日。来る日も、来る日も、子育て。そのころの私たちとくらべると、今
は、天国のようなもの。

 たしかに、そうだ。若いころとくらべると、今は天国のようだ。家もある。家庭もある。家族もい
る。友だちもいるし、安定した仕事もある。たいした財産こそないが、しかし借金は、ゼロ。家族
に対する責任も、ない。いつ死んでも、だれにも迷惑をかけることもない。息子たちは息子たち
で、自分で生きていくだろう。

 健康にしても、私は、20代のころより、今のほうが健康ではないか。あのころは、春は花粉
症。一年中、運動不足で、いつも、体がだるかった。が、そのあと、欠かさず運動をつづけたお
かげで、今のところ、成人病とは無縁。

 たしかに人生は、これからだ! ……ということで、この話は、少し前にも書いたので、ここで
おしまい。

 みなさんへ。

子どもが巣立ったからといって、人生が、そこで終わるわけではない。むしろ、子育てが終わっ
た今こそ、人生の始まりと考えて方がよい。これは決して、自分をなぐさめるための言い訳で
はない。強がりを言っているのでもない。このところ、その実感が、ムラムラとわいてきた。

 その気になれば、世界一周だって、できる。どこかの国へ、移住だって、できる。いろいろと
問題はないわけではないが、私たち夫婦は、今、やっと、「家族」という自我群から解放され
た!

 さあ、みんなでいっしょに、老後を楽しもう!


●ネット取り引き

 ネット取り引きが始まったころ、私は、すぐ、N証券の会員になった。まだハシリのころだっ
た。珍しさもあって、よくテレビでも、紹介されていた。

 そのあと、いくつかの証券会社などが参入してきて、この世界も、にぎやかになった。が、素
人の火遊び。株を買ったり、売ったりするたびに、どんどんとお金は減っていった。とくにN証券
の手数料は、高額だった。

 といっても、私は、いつも上限を、100万円と決めていた。100万円を超えると、その額を引
き出し、それでパソコンやプリンターを買ったりしていた。

 で、また再び、ネット取り引きを、やってみたくなった。そこでN証券の口座に、X万円、入金し
た。が、それからが、よくわからない。つまり、ここ10年以上遠ざかっていたため、株の知識
が、ゼロになっていた。

 「何を買おうか」「どれを買おうか」と。

 仕事からの帰り道、このところ毎日のように書店に寄って、片っ端から、雑誌の立ち読み。
が、読めば読むほど、頭の中は混乱する。

 そこで以前にも買ったことのある株だけに、注目することにした。

 T機械、G研出版社、S電気会社、M商事などなど。

 で、……(この先は、保安上の秘密。)

 (中略)

 私の予想では、これから先、円とドルは、たがいにからみあいながら、価値が下落すると思
う。とくに対ユーロ(ヨーロッパ)、対元(中国)に対して、下落すると思う。

 さらにドルは、対円に対しても下落し、最終的には、1ドル90円前後まで下落すると思う。時
期は、05年の中ごろか。

 だから中期的には、輸出産業を主体とする企業の株は、買わない。短期的には、国内産業
を主体とする企業の株を買う。

 ……とまあ、いっぱしの経済評論家が書くようなことを書いたが、本当のところは、まったく何
もわかっていない。

 もともとネット取り引きは、私にとっては、遊びのようなもの。だから、今度も、上限をX万円と
決めている。それ以上は、危険。あぶない。


●忠告

 このところ、何人かの人たちから、たてつづけに、いろいろな忠告が届いている。

(1)インターネットでは、名前と仕事を、公開しないほうがよい。
(2)子ども(孫)の写真は、載せないほうがよい。
(3)生徒の写真を載せているが、肖像権の問題は、どうなっているのか。
(4)講演の日時と場所は、公開しないほうがよい。

 個人名と仕事の内容などは、インターネットでは、公開しないほうがよいということは、私もよ
くわかっている。いつもその(迷い)はある。しかしいつだったか、心の中で、「どうにでもなれ」
と、割り切った。「私」を、さらけ出してみようと思った。

 子ども(孫)の写真については、「この世界には、とんでもない変質者もいるから、注意したほ
うがよい」とのこと。これからは、写真の掲載には、細心の注意を払うことにする。(たとえばア
ップの顔写真のみを、掲載するようにする。)

 生徒の写真などは、今までは、無頓着に載せていたが、これからは、載せないことにした。反
省している。順次、写真を、とりはずすことにした。(何しろ、ぼう大なHPなので、小回りがきか
なくなってしまった。)

 講演の日時と場所を公開するということは、空き巣に来てくださいと宣言するようなものだと
のこと。「個人の活動予定は、書いてはいけない」と。そんなわけで、この12月からは、講演の
日時、場所は、掲載しないことにした。

 インターネットの世界には、まだよくわからないところが多い。インターネットそのものが、日
進月歩。試行錯誤の段階にある。これから先、無数の失敗と錯誤を繰りかえしながら、やがて
一つの形にまとまっていくのだろう。

 読者のみなさん、ご忠告、ありがとうございました。感謝しています。これからも、よろしく!


●K国談議

 拉致被害者のYMさんの遺骨(?)が、K国から帰ってきた。報道によると、DNA鑑定がたい
へんむずかしいほどまでに、遺骨は焼かれていたという。しかもその遺骨というのは、一度土
葬された遺体を、2年後に掘り返して、火葬したものだという。

 この話を聞いただけでも、その遺骨は、YMさんのものではないとわかる。

 K国は、YMさんの「死」を証明したがっている。もしそうなら、DNA鑑定で、YMさんのものと
わかる遺骨を、渡すはず。だいたいにおいて、2年近くも土葬されていた遺体を掘り出して、火
葬したという話が、おかしい。

 2年も、土葬した遺体は、どうなるか? 

 いちいち反論するのも、バカらしいほど、おそまつな話。となると、残る可能性は、二つ。

 YMさんは、今も生きている。その可能性は、きわめて高い。あるいは一部の週刊誌で報じら
れているように、遺骨も残らない状態で、すでに処刑されているかもしれない。あの国ではあり
えない話ではないが、それは、あまり信じたくない。

 が、この拉致問題は、K国というより、金XXにとっては、まことにもって、つごうの悪い話。頭
の痛い話。拉致の責任ということになると、その責任は、金XXまで行ってしまう。

 そこでこの日本では、にわかに、制裁論が力をましてきた。「もう、話しあってもムダ」「制裁せ
よ」と。

 しかし、私の意見も、聞いてほしい。

 ああいう国は、相手にしてはいけない。少なくとも、拉致問題で、相手にしてはいけない。また
本気で、相手にしなけばならないような国ではない。どこまでも、かわいそうで、小さな国であ
る。アジアの中でも、最貧国※。毎年、100万人単位の人が、飢餓で、死んでいるという。制裁
ということになれば、すでに、じゅうぶんすぎるほどの制裁を受けている。

 これ以上、何を、制裁するのか? 「無視する」という制裁の方法だって、あるではないのか。

 昨夜(11・22)も、テレビ討論を聞いていたら、N港へやってくるM号に対して、入港を阻止を
しろと主張している政治家がいた。しかし、たかが船一隻。運ぶ物量といっても、あなたの住ん
でいる町にある、小さなショッピングセンターが扱う物量より、はるかに少ない。

 が、その一方で、すでに、K国は、8〜10個の核兵器をもっていると言われている。2010年
までには、その数は、200個になると言われている。

 もし日本が、本気で、制裁を考えるとしたら、そうした核兵器に対してである。しかも、そのと
きは、制裁するならするで、国際的な協力をとりつけてからする。戦争の覚悟をしてからする。
日本が、単独で制裁に踏み切るというのは、たいへん危険なことである。

 今、この段階で、日本だけが単独で制裁に踏みきれば、K国は、東京のど真ん中で、核実験
をするかもしれない。その可能性が、ないとは言えない。

 それよりも重要なことは、日本に住んでいると言われる、在日朝鮮人の人たちの、協力を得
ることである。その数は、60万人とも言われている。私たち日本人がK国に向かって訴えるよ
りも、そういう人たちが、K国に向って訴えてくれたほうが、よほど効果的である。

 聞くところによると、在日朝鮮人の人たちの中にも、一連の拉致事件について、日本人に同
情的な人もいるという。中には、心を痛めている人もいるという。みながみな、K国の金XXのや
り方を、支持しているというわけではないようだ。

 だったら、そういう人にお願いして、もっと、K国に働きかけてもらうというわけには、いかない
のだろうか。実のところ、私も、ハングル文字を知っていたら、今ごろは、直接、K国の人たち
に手紙を書いているだろうと思う。しかし悲しいかな、それができない。だからこそ、在日朝鮮
人の人たちの協力が、必要なのである。

 たしかに、K国は、日本に対して、ウソばかりついている。しかしそのK国の人たちも、ちょう
ど反対の立場で、「日本人は、ウソつきだ」と言っている。公式の場でも、そう言っている。理由
はある。

 そのつど、いいかげんな日本の政治家がK国を訪れ、これまたそのつど、いいかげんな約束
ばかりしてきた。中には、土下座までして、資金援助を約束した政治家もいたという。

 しかし、日本は、その約束を守らなかった。……というのが、K国の言い分である。昨夜のテ
レビ討論を聞いていても、そういう話は、いっさい、日本側からは出てこなかった。言いかえる
と、そういう話を棚にあげたまま、K国への制裁論を口にするのも、どうかと思う。

 (みんな、自分のつごうの悪い話は、したがらない?)

 K国の人たちには、拉致事件について、悪いことをしたという意識は、まるでないようだ。しか
しここで重要なことは、そういう意識のなさを責めることではなく、なぜそういう意識がないかと
いうことを、K国の人の立場で考えることである。

 つまり、それくらい、K国の人たちの、日本に対する憎しみは大きいということ。そしてなぜそ
うした憎しみがあるかといえば、洗脳による部分もないわけではないが、その原因は、戦前の
植民地政策までさかのぼる。

 そうした事実も忘れて、一方的に、K国ばかり責めても、意味はないということ。よい例が、K
首相のY神社参拝問題である。ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをしたら、どう
なる? それと同じようなことをしながら、つまり中国や韓国の人たちの神経を逆なでするよう
なことをしながら、「これは日本の国内問題だ」では、すまされない。

 今、政治家の中には、いさましい好戦論を唱える人もいる。しかしここは、ぐいとがまんをして
ほしい。制裁をするにしても、今は、そのときではない。

 話をもとにもどすが、私はYMさんは、まだ生きていると信じている。もし死んでいるなら、死
んでいるともっとはっきりとわかる証拠を、K国は、提示してくるはずである。DNA鑑定できない
ほどまでに、骨を焼いたという、つまりそうした小細工(こざいく)をしなければならなかったとい
うこと自体が、生きているという証拠である。

 DNA鑑定は無理としても、やがてすぐ、いつ、何度くらいの熱で骨を焼いたかという鑑定結果
も出てくるだろう。その鑑定結果が出るまで、少なくとも今は、しばらく待つべきときではないだ
ろうか。

 ここは、みなさん、今しばらく、冷静になろう!
(04年11月23日記)

※注……貧しいK国

 K国の、深刻な経済状況を示す数字が、朝鮮日報(韓国系新聞社)から、報道された(7・2
7)。

 それによると、隣のK国では、

 白米1キロの価格が     …… 600ウォン
 勤労者の1か月平均給与   ……2500ウォン
(2002年7月の経済措置当時定められた市場価格、44ウォンの15倍)
 
 1ドルが1600ウォン(中朝国境での実勢交換レート)だから、アメリカドルに換算すると、勤
労者の1か月平均給与は、1ドル60セント。よくみて、2ドル。

 私は、この数字を見て、驚いた。最貧国とは聞いていたが、ここまで貧しいとは! わかりや
すく言うと、K国の勤労者の1か月の平均給与は、日本円になおしても、たったの200円弱。
(200円弱だぞオ! 2万円とか、2000円ではないぞオ!)

 一日、たったの10円!

(注・別の情報)今年(04)に入り北朝鮮の公式為替レートは1ドル=145ウォン(K国貨幣)程
度だが、実際には、市場為替レートは、1000ウォン前後だという(東亜日報・04・11)。

 1ドル=1000ウォンで計算しても、勤労者の1か月の平均給与は、たったの2・5ドル。日本
円で、260円である。

 あなたは、この金額を、どうみるか?
(041123)


●中国談議

 同じテレビ討論の中で、某政治家(民主党議員)は、中国の原潜(原子力潜水艦)の侵入事
件をさして、「爆雷(ばくらい)攻撃すべきだった」というような発言をしていた。

 どうして、こうまで、あの政治家は、好戦的なのだろうか。

 もう少し、冷静に、数字を見てみよう。

++++++++++++++++++++

 WTO(世界貿易機関)の統計によれば、

 03年度の、中国の輸入額は、前年度比40%増の、世界第3位。
 輸出額も、35%増の、世界第4位。
 貿易輸出総額は、4384億ドルで、4719億ドルの日本についでいる。
 
 こうした中国の旺盛な経済活動のおかげで、今、日本は、(中国特需)にわいている。

 03年度だけでも、対中国輸出は、前年度比43・6%増の、572億ドル。
 04年度前半期(1−6月)だけでも、448億ドルに達している(JETRO統計)。

 瀕死の国内経済の中にあって、今は、まさに「中国、様々」の状態と言ってよい。

++++++++++++++++++++

 といっても、安心していてよいというわけではない。ほとんどの経済学者は、「現在の中国経
済は、バブルである」と説く。問題は、そのバブルが、いつはじけるかということらしい。

 しかし、こういうことは言える。

 やがていつか、中国だ……、日本だ……と言っている時代も、終わるのではないかというこ
と。人やモノの交流が進み、アジア全体が、巨大な一つの商業圏になったとき、そこにヨーロッ
パのEUのような国が、生まれるかもしれない。

 遠い未来の話かもしれないが、その目標をかかげることによって、私たちは自分の進むべき
道を決めることができる。

 今回、中国の原潜が日本の領海を侵犯したが、私は、日本がとった、あのやり方でよかった
と思う。しつこく追い回して、領海の外に追い出す。爆雷攻撃しておけば、日本のメンツが保て
たとか、しなかったから、バカにされたとか、そういう次元の話ではない。

 先に行われた、サッカーのアジアカップ杯の、あの決勝戦を思い出そうではないか。

 決勝戦は、日本対中国。しかもその決勝戦は、北京で行われた。

 「殺せ!」「殺せ!」と、叫ぶ、中国側サポーターたち。日本側スタンドに、モノを投げつける、
中国側サポーターたち。しかし日本側のサポーターたちは、それに答えて、「日中友好」と書か
れた日章旗(日の丸)を、あげた!

 これこそが、まさに、精神的優越性ということになる。

 私たち日本人に求められているのは、その精神的優越性である。相手が、「テメエ、コノヤロ
ー、バカヤロー」と叫んだら、私たちは、ニンマリと笑いながら、「友好」と書いたハンカチを相手
に渡せばよい。

 私はあの試合の模様を見たとき、心底、うれしくなった。「日本人も、ここまでおとなになった
のだなあ」と。

 そうした精神的優越性を育て、守る。それこそが、これからの日本が進むべき道ではないか
と、私は、思う。
(041123)


●親子の縁

 よく「親子の縁は切れない」と言う。しかし、本当にそうか?

 また、そうであるなら、その理由は、何か?

 この親の縁には、二方向性がある。親から子に向う縁。子から親に向かう縁である。

 しかし実感としてみると、意外と、ある時期がくると、親は、子との縁を切る。子を突き放すこ
とができる。しかし子のほうは、そうでない。子のほうが、むしろその縁を断ち切ることができ
ず、苦しむ。そういうケースは、多い。

 そこで調べてみると、人間にも、鳥類に見られるような、刷り込み(インプリンティング)がある
ということが最近、わかってきた。

孵化後、すぐ立って自立するような鳥類は、最初に見たもの、あるいは聞いた声の持ち主を、
親と思う込むという。その時期は、孵化後、約24時間以内だと言われている。

 これを「刷り込み」という。

 オーストリアの生科学者のコンラット・ローレンツが、それを発見した。そのローレンツによれ
ば、孵化後すぐに、風船をヒナたちに見せると、ヒナたちは、それを親と思い込み、その風船の
あとを追いかけるという。

 で、実は、人間にも、似たような現象があることが、最近わかってきた。その時期は、生後直
後から、数週間(あるいは数か月)くらいの時期だと言われている。この時期を、「敏感期」とい
う。

 この敏感期に、人間の子どもも、鳥類に似た、刷り込みをするという。

 となると、こういうことが言える。

 子が親を慕うのは、それだけ親子の縁が太いからではなく、実は、生後直後からの刷り込み
によるものだということになる。つまりその刷り込みによって、子は、親に太い縁を感ずるように
なる。

 (まだ未解明だが、親のほうも、生まれてきた自分の子どもを見て、刷り込みに似た、「やりな
おしのきかない学習」をするのかもしれない。あるいは、自分が親から受けた刷り込みを、今
度は、自分の子どもに転嫁するということも、考えられる。ともかくも、こうした刷り込みには、相
互作用があるということ。まだこの点について、それを解明した学者はいないので、あくまでも、
ここでは仮説としておく。)

 こうした刷り込みは、やがて、家族自我群となって、親や子どもを、束縛する原動力になるこ
ともある(レイン、クーパー)。「親だから……」「子だから……」という、「家族」というワクにしば
られて苦しんでいる人は多い。

 そうした苦しみを、「幻惑」「幻惑作用」という。

 こう考えていくと、私たちが言う「親子の縁」というのも、大脳生理学の分野で説明できること
になる。

 またこう考えていくと、なぜ、親のほうは、子との縁を切りやすく、一方、なぜ、子の方は、生
涯にわたって、幻惑作用に苦しむことがあるかということについて、その説明ができるようにな
る。つまり私たちが「縁」と呼んでいるものの正体は、実は、「刷り込み」によるものだということ
になる。

 ナルホド! 新しい思想、ゲット! 

 あなたの脳ミソの中には、どのような刷り込みがなされているか。それを静かに分析してみる
のも、おもしろいのでは……。
(はやし浩司 敏感期 親子の縁 刷り込み インプリンティング)
(041123)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(422)

【読者の方より……】

 埼玉県にお住まいの、SY子さんから、こんな質問がありました。

+++++++++++++

毎回楽しみに読ませていただいています。

少し前のマガジンになりますが、カレンダーのお話が載っていて母からの話を思い出しました。

日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでから
働く。だから日曜から始まると・・・。

本当なのかはわかりません。母は他界しているのでどこからその話を知ったのかも分からない
のですが、「だから頑張ってから休む、頑張ってからご褒美がもらえるのよ」と言う話に、納得し
た記憶があります。

先生はこの説、どうお考えになるでしょうか?? 先生のご意見が聞けたらまた勉強になるか
と思います。

+++++++++++++

★日曜日か、月曜日か?

 そこでインターネットを使って、調べてみた。

 西暦1年1月1日は、何曜日だったか? それがわかれば、カレンダーは、月曜日から始ま
るのか、日曜日から始まるのか、それがわかるはず。

 で、私は若いころ、何かの雑誌で、西暦1年の1月1日は、日曜日だったと読んだことがあ
る。もし、そうなら、カレンダーは、日曜日から始まるのが正しいということになる。

 が、しかし実際のところ、本当のことは、よくわからないそうだ。現在のグレゴリオ暦が使われ
るようになったのは、西暦1582年の10月15日以後のこと。(14日以後という説もある。)そ
れ以前は、ユリウス暦が使われていたという。

 ただ、東京天文台の公式見解では、西暦1年の1月1日は、土曜日だったという。

 カレンダーは、月曜日から始まるのか。それとも日曜日から始まるのか。

 ……という議論は、あまり意味がないのでは……?

★文化のちがい

 ここまで書いて思い出したが、こうした「ちがい」というのは、カレンダーだけではない。生活の
あらゆる場面で経験する。

 アメリカ人やオーストラリア人は、包丁やナイフを、押しながら、ものを切る。日本人は、引き
ながら切る。

 同じように、刀で相手を殺すとき、欧米人は、刺しながら、相手を殺す。日本人は、一度刀を
前に出し、引きながら、相手を殺す。

 ヨーロッパでは、車は左側を通行する。これは馬に乗った騎士が、たがいに相手と戦いやす
い位置に自分を置くためである。それを説明したのが、下の図である。

 (日本でも、車は左側を通行する。刀は左側にさして、右手で抜く。そのためすれちがうとき
は、相手を自分の右側に置かねばならない。それで左側を通行するようになった。)

 (馬に乗って、右手で剣をもった姿勢を頭の中で、想像してみてほしい。馬どうしは、たがいに
左側通行になる。)

         ■■●■→
            I      
                 I
              ←■●■■

(●が剣士。■が馬。Iが刀)

 一方、アメリカでは、車は右側を通行する。これは馬車をひっぱる人が、たがいに馬車をぶ
つけないように、すれちがったためである。馬車をひっぱる人は、馬の左側先頭に立つ。たが
いに右側を通行すると、すれちがうとき、たがいに顔を合わせることができる。

          ← ■■■
           ●
 
          ●
       ■■■ →

(●が馬車を引く人、■■■が、馬車。反対だと、たがいにすれちがいにくくなる。それで右側
通行になったという。)

 ほかにもたとえば、日本人は、あいさつをするとき、頭をさげる。これは相手に、「頭を切られ
ても、文句ありません」ということを伝えるためだそうだ。

 一方、欧米では、握手をする。それは、たがいに剣をもっていないという示すためだそうだ。

 それぞれの文化には、さらにその背景となる文化がある。そうした文化が無数に積み重なっ
て、今の文化をつくりあげている。

★日曜日は、安息日

 ……と考えていくと、カレンダーにも、無数の文化が凝縮されていることがわかる。毎日、働
きづめでは、体がもたない。だから日曜日という、安息日をもうけた。この日は、皆が、休息で
きるようにした。

 そう言えば、私がオーストラリアにいたころは、日曜日といえば、メルボルン市内の商店街
は、すべて、店を閉めていた。(最近は、日曜日にも開店している店が多くなったと聞く。)

 一方、日本には、大安、友引、仏滅……などという言い方がある。今でも、それに応じて、そ
の日の行動を決めている人は多い。これは、一つの寺で、たとえば葬式と結婚式が重ならない
ようにするためであった。

 いろいろ、ある。

 で、SY子さんのメール。こう書いてある。

 「日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでか
ら働く。だから日曜から始まると……」と。

 しかし本当にそうだろうか。私が知るかぎり、私が子どものころでさえ、日曜日などは、あって
も、ないようなものだった。その前の、つまり江戸時代から、戦前にかけては、盆と正月しか、
休みのない人もいたという。日曜日イコール、休みという考え方が定着したのは、戦後のことで
はないか。

 さらにこのところ、正月の三が日ですら、仕事をする人がふえてきた。私が子どものころに
は、正月の三が日というのは、絶対的な休日になっていた。商店街の「初売り」にしても、たし
か正月の3日の午後か、もしくは4日ではなかったか。

 が、今は、ちがう。どうちがうかは、みなさん、すでにご存知のとおりである。

 便利になったというか、めちゃめちゃになったというか……。曜日というものが、あまり意味を
もたなくなってきた。

★私は、日曜日始まりが、好き

 で、私のばあいだが、やはり、カレンダーは日曜日始まりのものがよい。月曜日始まりのカレ
ンダーをたまに使ったりすると、かえって混乱してしまう。(実は、もう、何度も失敗している。)

 SY子さんは、はたしてどうだろうか? しかしSY子さんのお母さんは、すばらしいお母さんだ
と思う。それが正しいかどうかという問題は、さておき、そういう指導ができる母親というのは、
そうはいない。

 「休んでからがんばる」より、「がんばってから休む」。そのほうが、何となく、合理的である。
私自身も、そういう生きザマのほうが、性(しょう)にあっているような気がするのだが……。

++++++++++++++++

【異論・反論】

 欧米人は、「休んでから働く」という。(本当は、どちらとも言えないのだが……)、ここまで書
いて思い出したのが、『休息を求めて疲れる』という、イギリスの格言である。この格言は、愚
かな生き方の代名詞にもなっている。

 「いつか楽になろう、いつか楽になろう」と思ってがんばっているうちに、気がついてみたら、
自分の人生が終わっていたという生きザマである。

 これについて、以前、一度、原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車を
かけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++

 この生きザマは、おとなだけのものではない。小学校の勉強は、中学入試のため。中学校の
勉強は、高校入試のため。そして高校での勉強は、大学入試のため……。そういうふうに、
「未来のために現在を犠牲にする」という生きザマを繰りかえしていると、いつまでたっても、そ
の「時」を、自分のものとすることができなくなる。

 さらに、このことは、「生きるために働くのか」、それとも、「働くために生きるのか」という問題
にまで、行きつく。

 その点、欧米人の生きザマは、わかりやすい。彼らの考え方の基本にあるのは、「自分の生
活を楽しむために、お金を稼ぐ」。その前提で、彼らは仕事をする。だから、土日はもちろんの
こと、1、2か月もつづくバカンスでも、目いっぱい、楽しむ。

 一方、日本人は、そうではない。「仕事がある」と言えば、たいていの家事は、免除される。子
どもでも、「宿題がある」「勉強がある」と言えば、家事の手伝いが免除される。仕事第一主義
が悪いというのではない。しかし日本人は、仕事のためなら、家庭を犠牲にすることをいとわな
い。少なくとも、少し前までの日本では、そうだった。

 しかしなぜ仕事をするかといえば、それで得たお金で、家族と楽しく過ごすためではないの
か。お金はお金。どこでどう稼いだかは、問題ではない。が、日本では、その中身も、問題にな
る。

 これは私自身のことだが、私は、若いころ、がむしゃらに働いた。1か月のうち、休みが1日だ
けということも、長くつづいた。が、それでも、私の収入は、大手企業に勤める同年齢のサラリ
ーマンの給料と、ほぼ同額だった。それはそれとして、そのときのこと。私は、ふと、こう思っ
た。

 「サラリーマンがもらう10万円も、私が手にする10万円も、10万円は10万円。何もちがわ
ない」と。

 しかし世間は、そうは見なかった。「大企業から給料としてもらう10万円と、今でいうフリータ
ーが手にする10万円はちがう」と。おかしなことだが、当時は、まだ、そういう風潮が根強く残
っていた。そのころ私に面と向かって、こう言った男性(50歳くらい)さえいた。

 「お前は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にも、つけなかったんだろう」と。

 仕事に、ロクな仕事も、ロクでない仕事もない。あるいは、何を基準にして、仕事をそういうふ
うに、より分けるのか。

 ……というふうに考えていくと、仕事をしたあと、褒美(ほうび)として、休みをもらうよりも、楽
しんでから、仕事をいたほうが、よいということになる。事実、私の年齢になると、ポツポツと、
他界していく人が現れるようになった。

 これは私の姉の友人のことだが、その友人は、死ぬまで、まさに(仕事の虫)。明けてもも暮
れても、仕事ばかりの人生を送っていたという。で、そこそこの財産を作ったが、ある日、車を
運転しているときに心筋梗塞を起こし、そのまま死んでしまった。

 その友人について、私の姉はこう言った。「何のための人生だったのかねえ……?」と。つま
り、仕事、仕事で明け暮れて、その最後にポックリと死んでしまった友人を思い浮かべなら、そ
の友人の人生は、何だったのか、と。

 こう書くと、SY子さんのお母さんの意見を否定することになる。しかしそれもつらい。

 そこで折衷(せっちゅう)案ということになる。

 日曜日から始まるカレンダーも、おかしい。しかし月曜日から始まるカレンダーも、おかしい。
だったら、水曜日から始まるカレンダーを作ってみたらどうだろうか。

 水、木、金、土、日ときて、つぎに、月、火とつづく。考えるだけでも、楽しいではないか。

 こうすれば、仕事も、褒美も半々ということになる。仕事のために、家庭を犠牲にすることもな
いし、反対に、遊んでばかりいて、仕事をしなくなるということもない。

 要するに、ほどほどに仕事をし、ほどほどに人生も楽しむということ。

 何でもないメールだったが、(最初はそう思ったが……)、SY子さんのメールは、たいへん意
味のある、つまり考えさせられるメールだった。

 SY子さん、ありがとうございました。
(041123)

【補記】

 戦後の日本といえば、日本全体が、基底不安型の国家になっていたのでは……。敗戦によ
って、日本人は、精神的基盤というか、バックボーンをなくしてしまった。

 その結果、大半の人は、「マネー信仰教」というカルトに走った。新興宗教が、雨後の竹の子
のように生まれたのも、この時期である。

 「働いていないと、不安」「せっかくの休みになっても、休み明けの仕事を考えると心配で、ゆ
っくり休むこともできない」と。

 こうして働き蜂が生まれ、仕事中毒の人が生まれた。周囲の社会も、そういう人たちを、「企
業戦士」とたたえた。

 その結果、今に見る、繁栄した国家が生まれたが、心の空白感はそのままだった。「何か、
おかしいぞ」「どこか、へんだぞ」と思いながらも、それが何であるかさえ、わからないままだっ
た。ずるずると生きてきた。現代に至った。

 が、ここにきて、今、日本人の心に、一大革命が起こりつつある。権威の崩壊と、出世主義
の崩壊である。

 それにかわって、新家族主義が台頭してきた。「仕事よりも家族が重要」と考える人は、99
年ごろには、40%(文部省)前後にすぎなかった。が、最近の各種調査によれば、それが80
〜90%までにふえている。

 日本人は、内面社会に、より充実した幸福感を求めようとしている。もっとも、今は、まだ模索
段階で、そこに確固たる信念を見いだしたわけではない。「今までの生きザマは、どこかおかし
いぞ」「まちがっていたのでは?」という思いが、新・家族主義へ走る原動力になっている。

 こうした流れの一方で、過激な復古主義が、勢力を伸ばしつつあるのも、事実。

 江戸時代の武士道をたたえたり、明治時代に入ってからもてはやされた、徳育教育を教育
の柱に持ち出す人も、多い。さらには、戦前の、民族主義を先頭にかかげる人もいる。天皇制
復活の動きも、あちこちに見られる。

 たしかに今の日本の世相は、混乱している。バックボーンをなくした状態というのは、こうした
状態のことをいう。

 しかし、ここで重要なことは、私たちは、前に進むということ。「混乱したから、過去にもどる」
のではなく、「混乱の中から、未来に向かって、何かを生み出す」ということ。言うまでもなく、改
革思想は、こうした混乱期に生まれる。安定期には、生まれない。

 言いかえると、今こそ、そのチャンスということになる。新しい日本を生み出す、好機というこ
とになる。

 さあ、私たちは、失敗にめげないで、前に進もう! 新生、日本のために!

【補記2】

 みながみな、そうではないが、しかし、今、日本へビジネスマンとしてやってくる、あの中国の
人たちの見苦しさは、いったい、何か? おかしいというより、狂っている。

 口を開けば、「マネー」「マネー」。明けても暮れても、「マネー」「マネー」。考えることは、すべ
て、「マネー」「マネー」。まさに金の亡者。体中を札束でくるんだような人ばかり。まるでマネー
という獲物をねらう、ハゲタカのよう。

 しかしその姿は、30年前、40年前の、私たち日本人の姿そのもの。と言うより、今の中国人
たちを見ていると、あのころの日本人を、そのまま思い出す。私たちも、実は、そうだった。

 そう言えば、当時、どこかの会社のカレンダーには日曜日がなく、「月・月・火・水……」となっ
ていた。実のところ、私の家もそうだった。ハハハ。(笑って、ごまかす。)

 決して中国の人を笑っているのではない。私自身の過去を笑っている。ハハハ。得たもの
も、多いが、そのため、犠牲にしたものも、多い。今から思うと、もう少しましな方法で、人生を
楽しむことができたのではないかと思う。

 何か、不便なことがあれば、すぐモノを買って、解決する。そんな世相だった。おかげで、私
の狭い家の中には、モノがあふれ、自由に歩くことさえ、ままならなかった。

 今回の、SY子さんが投げかけてくれたカレンダーの問題には、本当に、いろいろ考えさせら
れる。SY子さん、重ねて、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(423)

●日本人の国語力

 先日、ある小学校で講演をしたら、その学校の校長が、こんなエピソードを話してくれた。

 その校長が、コンビニのレジの前で並んでいたときのこと。前に立った若い母親が、子ども
を、こう言って、叱っていたという。

 「テメエ、殺すぞ!」と。

 子どもは、5歳くらい。何かのことで、母親の言うことを聞かなかったらしい。それでその母親
は、そう言った。

 校長は、その言葉に驚いた。そして私に、こう言った。「今の若いお母さんたちは、ああいう言
い方をしているんですねえ」と。

 子どもの国語力は、母親の会話能力によって、決まる。それについて書いたのが、つぎの原
稿である。

+++++++++++++++++

【子どもの国語力が決まるとき】

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」と
いうような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛
隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこ
う言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」
と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎日、
「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしていて、
どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。

ある男(五四歳)はこう言った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含
めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学
教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++

 ところでこんなショッキングな調査結果が公表された。

 「大学生の日本語力が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年
制私立大で20%、短大では35%にのぼることがわかった」というのだ。

調査したのは、独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)のON教授(コミュニケー
ション科学)ら。

「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生より劣る実態で、
授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメディアル(やり直し)
教育が必要」と指摘する。

 調査は04年度に入学した33大学・短大の学生約1万3000人を対象に、中1から高3相当
の問題を盛り込んだテストを行い、02年度に中高生に実施したテスト結果と照らし合わせてレ
ベルを判定したという。

その結果、中学生レベルと判定された学生は、五年前に行われた調査と比較して、国立大が
0・3%から6%、私立大が6・8%から20%、短大が18・7%から35%と、数年間で大きく増
加していることが分かったという。

Yahoo・ニュースは、「テストでは『憂える』の意味を問う設問で、『中学生レベル」』と判定され
た学生の3人に2人が『うれしい』に音感が近いためか『喜ぶ』を選択。『大学生レベル』とされ
た学生の中でも正答率は50%にとどまり、文字通り"憂える"結果となった」と伝えている。

【問題の例】

 ☆露骨に
(1)ためらいがちに     (0%)
(2)おおげさに    (83.3%)
〔3〕あらわに     (16.7%)
(4)下品に         (0%)
(5)ひそかに        (0%)

 ☆憂える
(1)うとましく思う  (16.7%)
(2)たじろぐ        (0%)
(3)喜ぶ       (66.7%)
〔4〕心配する        (0%)
(5)進歩する     (16.7%)

 ☆懐柔する
(1)賄賂をもらう   (50.0%)
(2)気持ちを落ち着ける(33.3%)
(3)優しくいたわる  (16.7%)
〔4〕手なずける       (0%)
(5)抱きしめる       (0%)

(カッコ内は中学生レベルと判定された学生が回答した割合、〔 〕数字が正解)
 *小数点計算で合計は必ずしも100にならない
(以上、Yahoo ニュースより)

++++++++++++++++++

 もっとも、今の若い人たちは、日常的に、そういう言葉、つまり、「テメエ、殺すぞ」という言葉
を使っている。ごく日常的な言い方で、特別な言い方ではない。が、その一方で、旧来型の日
本語を知らないからといって、国語力が落ちていると判断するのも、どうかと思う。

 反対に、これを調査した、「メディア教育開発センター」のON教授に、こんなテストをしてみた
ら、どうだろうか。はたして、ON教授は、何点取れるだろうか?

【問題の例】

☆ムッチョ
(1)むっつりしているさま
(2)貯金がないこと
(3)筋肉がモリモリしているさま
(4)いやがっていること
(5)怒っている様子

☆コクル
(1)告発する
(2)忠告する
(3)密告する
(4)告白する
(5)納得する

☆カリパク
(1)食べ物の名前
(2)借りて返すこと
(3)カリカリと怒ること
(4)道路で座ってものを食べること
(5)借りて返さないこと

☆アリガチ
(1)ありがた迷惑
(2)ありがとう
(3)ありえること
(4)ありえないこと
(5)いらぬ節介のこと

☆フタマタ
(1)2つのことを同時にすること
(2)2人の人と、同時につきあうこと
(3)浮気すること
(4)2つの選択肢のこと
(5)いやなこと

☆シュラバ
(1)喧嘩すること
(2)がんばること
(3)ここ一番というとき
(4)苦労すること
(5)何か、まずいことがバレること

 つまり私が言いたいのは、日本語も、どんどんと変化してきているということ。調査では、「憂
える」の意味を知らないことを問題にしているが、実際、若い人たちが使わない言葉であれば、
それもしかたないのではないか。

 私自身は、旧世代の人たちは、もう少し、若い人たちに、謙虚であるべきではないかと思って
いる。「自分たちは知っている。しかし今の若い人たちは知らない。だから今の若い人たちは、
おかしい」という論法自体が、おかしいということ。どこか復古主義的?

 しかし世の親たちに一言。

 高校入試にせよ、大学入試にせよ、そこで使われる入試問題は、こうしたどこか頭の古い、
旧世代の人たちによって作られている。だから、子どもの(進学)ということを考えるなら、体制
に迎合したほうがよい。そのほうが、あなたの子どももスイスイと、学歴社会を生きぬくことがで
きる。

 そのためにも、あなたの子どもには、ここに書いたように、正しい言葉で、かつ豊かな言葉で
話しかけるとよい。「テメエ、殺すぞ」ではなく、「あなたが、そうすれば、あなたは、私によって、
殺されますよ」と。

 なお正解は、上から(3)(4)(5)(3)(3)(5)。
(はやし浩司 子どもの言葉 子供の言葉 言葉教育 言語教育)

*******************************

メリー・クリスマス!

●アメリカのキリスト教団体が発行するカードを送ります。

 安全性は確認してあります。どうか、安心して、開いてください。

(カードA)(音楽がすてきです)
http://www.dayspring.com/ecards/card.asp?ID=014e4c1c-bhp

(カードB)(いやしのカード?、です)
http://www.dayspring.com/ecards/card.asp?ID=014e4da3-bhp

!!! MERRY CHRISTMAS !!!!

*******************************

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(424)

●兄弟(姉妹)

 兄弟(姉妹)には、つぎの7つの関係がある。

(1)対立関係(兄弟同士が、対立する)
(2)協調関係(たがいに力を合わせて行動する)
(3)相補関係(たがいに足りないところを補いあう)
(4)競争関係(たがいに競争する)
(5)主従関係(上の子が、下の子を従わせる)
(6)類似関係(たがいに、よく似てくる。まねをする)
(7)依存関係(たがいに、依存しあう)

 「兄(姉)だから……」「弟(妹)だから……」という、ダカラ論は、できるだけしない。良好な兄
弟関係をつくるためには、これは鉄則である。

 たとえば長男が、長男らしくなるのは、日常的に、「あなたは長男だから……」と言われること
による。親は、長男に、長男としての自覚をもたせるためにそう言うが、しかしこうしたダカラ論
は、思わぬところで、その子どもを追いつめることになり、ついで苦しめることになる。

 よく知られた例に、反動形成がある。「あなたは兄だから……」と言われつづけると、子ども
は、本来の自分とは反対側の自分を、自分の中につくりあげてしまう。たとえば弟(妹)の前
で、ことさらよい兄(姉)を演じてみせるなど。

 そこまで行かなくても、仮面をかぶったり、心を偽ったりするようになる。こうした現象が日常
的につづくと、子どもの心は、本来そうである自分から、遊離してしまう。そしてその結果とし
て、兄弟関係を、ぎくしゃくとさせる。

 「兄弟(姉妹)は、仲がよいほうがいい」……というのは、当然であるとするなら、いくつかのコ
ツがある。

●上下意識は、もたない

 兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。

●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。
たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄
弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。

●差別しない

 長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。

●嫉妬はタブー

 兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。

●たがいを喜ばせる

 兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連
れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買
い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てる
ためにも、重要である。

●決して批判しない

 子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。

 いくら兄弟でも、同じように育つというわけではない。たとえば兄が、C小学校で、弟が名門
(こういう言い方は不愉快だが……)のS小学校へというケースは、少なくない。

 そういうとき親は、「兄がひがまないでしょうか?」とよく相談してくる。

 仮にひがむとしても、しかしそういう下地をつくったのは、親自身である。そのことを棚にあげ
て、「ひがまないでしょうか?」は、ない。

 つまりそういう下地を、日ごろから、作らないこと。「あなたはお兄ちゃんだから、がんばってS
小学校へ入ってね」とは、たとえば、言ってはいけない。弟に対しては、「あなたもがんばって、
お兄ちゃんと同じS小学校に入ろうね」とは、たとえば、言ってはいけない。

 兄弟どうしの問題は、たいへん重要であると同時に、デリケートな問題である。決して、安易
に考えてはいけない。
(はやし浩司 兄弟 兄弟の問題 兄弟の育て方 育てかた)
(041124)

【補記】

 ワイフには、ワイフを入れて7人の兄弟(2男5女)がいる。

 その兄弟を見ていて、気がついたことがある。つまりワイフの兄弟は、本当に仲がよい。信じ
られないくらい、仲がよい。

 その秘訣の一つが、長女のE子さんをのぞいて、上下意識がまったくないということ。E子さん
は、ワイフの家族の中では、母親がわりだった。それでどこか家父長意識がある。しかしそれ
でも、仲がよい。(ワイフの母親は。、若くして他界。)

 で、気がついたのは、ワイフの兄弟は、たがいに、ずべて名前で呼びあっているということ。
「兄」とか、「姉」という言葉を、私は、聞いたことがない。

 一方、私が生まれ育ったG県は、何かにつけて、上下意識が強い。あらゆるところに、身分
意識が入ってくる。そのため、兄弟でも、「上の兄」「下の兄」「三番目の兄」というふうに呼びあ
ったりする。序列をつける。そしてその序列に従って、上下関係、つまり命令と服従の関係をつ
くる。

 みながみな、そうではないと思うが、この静岡県とG県を、おおざっぱに比較すると、それだけ
静岡県は、G県と比較すると、開放的ということになる。

 そんなわけで、やはり子どもは、名前で呼んだほうがよい。そのほうが、兄弟(姉妹)は、うま
くいく。が、それだけではない。

 子どもは、自分の立場を無意識のうちにも、自分の役割を形成していく。男の子は男のらし
く、女の子は女の子らしくなっていくのが、それである。

 それを役割形成というが、その役割形成がよいものであれば、問題はない。しかしその役割
形成によって、子ども自身が、不必要な役割をつくり、その重圧に苦しむことがある。

 先日もある女性から、こんなメールが届いた。いわく、「私の兄は子どものころから、長男、長
男と、耳にタコができるほど、言われつづけました。妹がもう1人いますが、兄は、家の跡継ぎ
になるのが当然といったふうに育てられました。家のあとをつぐのは、当然、親のめんどうをみ
るのは、当然、と。そういう兄をみていると、かわいそうです」と。

 いまだに長子相続的な考え方が残っていること自体、おかしなことだ。江戸時代の身分制度
の亡霊そのものといってよい。

 最近になって、江戸時代の武士道を礼さんする人が、たくさん出てきたが、封建時代がもって
いた負の遺産を清算することなく、一方的に、こうした武士道を礼さんすることは、危険なことで
もある。

 あの江戸時代という時代は、世界でも類をみないほど、自由と人権が抑圧された、暗黒の時
代であってことを、忘れてはいけない。人々は、移動することもできず、職業選択の自由もな
く、思ったことも言えなかった……などなど。厳格な身分制度も、その一つ。

 話は少し過激になったが、大切なことは、子どもに上下はないということ。人間に上下はない
ということ。おかしな上下意識は、もう、このあたりで、捨てよう!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(422)

●新潟県・中越地震に思う

 新潟県・中越地震が起きてから、昨日でほぼ1か月がすぎた(11・24)。

 毎日のように、その地震の報道が繰りかえされている。私はそれを見ながら、「つぎは、この
静岡県だ」「つぎは、私たちだ」と思っている。決して、人ごとではない。

 で、その一連の報道を見ていて、こんなことに気づいた。

 地震が起きた直後には、被災者の人たちは、「生きていて、よかった」「命びろいした」などと
言っていた。

 それが数日もすると、「家が心配だ」「冬がやってくる」と、今度は、身のまわりの心配をする
ようになった。

 さらに1週間もすると、「食事が届かない」「避難場所では眠れない」と言うようになった。(決し
て、被災者の人たちのことを批判しているのではない。誤解のないように!)

 そのころになると、救援活動も本格化し、政府の援助の具体策も見えるようになってきた。

 被災者たちが、自分の家にもどり、あれこれあと始末が始まったころもこのころだ。全国から
ボランティア活動の人たちも集まり始めた。

 で、地震発生から、1か月。被災者の人たちは、役場へ足を運び、生活費や、家の修理費の
相談を始めるようになった。

 こうした流れをみていると、そこに、人間の自発的活動の発達段階そのものを、みる思いが
する。いわずと知れた、マズローの「欲求段階説」である。

 マズローは、人間の欲求を、つぎの5つの段階に分けた。

(1)第1段階……生理的欲求(「生きていたい」と思うこと。)
(2)第2段階……安全に対する欲求(身の安全を確保すること。)
(3)第3段階……所属と愛情の欲求(安心してよりかかえるところを求める。)
(4)第4段階……承認と自尊の欲求(より人間らしく生きたいという欲求。)
(5)第5段階……自己実現の欲求(自分をより完成させたいという欲求。)

 マズローは、個人の発達段階として、この段階説を唱えた。しかし人間の歴史という長いスパ
ンでみると、そのまま人間の歴史にも、この段階説を、当てはめることができる。と、同時に、
短期的には、新潟県・中越地震の被災者たちのように、短期的な期間においても、この段階説
を、当てはめることもできる。

 新潟県の被災者たちは、地震直後には、「生きていてよかった」と、胸をなでおろした。これ
はマズローのいう、第1段階に当てはまる。

 つぎに被災者が集まって、共同生活をするようになった。これはたがいに身の安全を確保す
るためのものであった。つまり第2段階ということになる。

 つぎにボランティア活動なども始まり、そうした人たちの活動になぐさめられたり、励まされた
りするようになる。これが第3段階。

 そしていよいよ家の修理、さらには、役場に行って、融資の相談など。これは「もとの威厳の
ある生活にもどりたい」という、まさに第4段階ということになる。

 少し無理なこじつけをしたので、「?」と思われる人もいるかもしれないが、そこは、許してほし
い。

 私が言いたいのは、つぎの第5段階である。

 人間は、パンを食べて、水を飲んで生きるだけの生物ではない。また、そうであってはいけな
い。衣食住足りて、礼節を知るという言葉もある。

 マズローも言っているように、第4段階までは、「欠乏欲求」。しかし第5段階は、「自己実現欲
求」ということになる。わかりやすい例で言えば、芸術家の世界がある。文学者や哲学者の世
界がある。

 が、ここで重要なことは、ほとんどの人は、第4段階までで、努力を停止してしまうということ。
衣食住が足りてくると、そこで満足して、その先へ進まなくなってしまう。

 一つの例として、昨日も、こんな経験をした。

 この浜松市では、交差点の信号など、あって、ないようなもの。黄色信号は、「アクセルを踏
んで、突っ走れ」という意味。赤になった直後は、「止まるな、行け行け」。さらに隣の信号が緑
になっても、「行けたら、行け」。前に車がいたら、「そのあとについて行け」と。

 そんなわけで、静岡県は、交通事故、ワースト・ワン。その中でも、この浜松市は、ワースト・
ワン。信号が緑になっても、すぐ横断歩道に出てはいけない。1呼吸おいて、左右を確かめて
から、横断歩道に出る。

 が、それでも、無理な運転をしてくる人が、あとを断たない。昨日も、そうだった。

 信号は完全に、赤になっていた。隣の信号は、緑になっていた。が、それでも、猛スピード
で、ぐんと大回りしながら、交差点を右折してくる車があった。見ると前席には、若い夫婦。うし
ろの席には、2人の子ども。7歳くらいと4歳くらいの子どもだった。

 私はそれを見ながら、新潟県の被災者たちから見れば、夢のような生活をしながら、そのあ
りがたさが、まったくわかっていない人たちだと思った。道路を、そうして車で、自由に走れるこ
とすら、夢のようではないか。

 いや、本当は、そのときは、先に、こんなことを考えた。

 「ああいう親を見て育つ子どもは、どんな子どもになるのだろう」と。「親のような、小ズルイ人
間になるのかなあ」とも。マズローの「欲求段階説」を思い出したのは、そのつぎのことであっ
た。「この静岡県で地震が起きたら、たいへんなことになるぞ。自分勝手な人が、多すぎる」と。

 私は、新潟県・中越地震による被災者たちを見ながら、「つぎは私たちだ」と思いながら、別
の心で、「急がなくては……」と思った。

 こうしてコタツにはいって、パソコンのキーボードをたたけるということだけでも、ありがたいこ
と、すばらしいこと。衣食住も、今のところ、安泰だ。だから、この「時」をムダにしてはいけな
い。できるだけ、前に進んでおかねばならない。

 明日、(あるいは今日の午後にでも……)、この静岡県で地震が起きれば、それで万事休
す。「自己実現欲求」など、空のかなたに吹っ飛んでしまうにちがいない。地震の規模にもよる
が、同じ規模でも、この静岡県で起きたら、生活がもとにもどるまでに、新潟県の人たちより
も、さらに長い時間がかかるにちがいない。

 新潟県の被災者の方たちが、以前のような生活に早くもどり、安穏な生活が、一日も早くでき
るようになることを、願ってやまない。
(はやし浩司 マズロー マズローの欲求段階説 欲求段階説 自己実現欲求)


●からむ人

 ささいなことを、ことさら大げさに考えて、からんでくる人がいる。そのほとんどは、被害妄想
によるもの。

 この(からむ)という行為は、それ自体が、うつ病の特徴の一つと考えてよいのでは? 子育
ての世界でも、それをよく経験する。育児ノイローゼというのが、それである。

 特別な人ではない。ごくふつうの人でも、ふとしたきっかけで、この育児ノイローゼになる。母
親どうしのトラブル、子どもどうしのトラブル、学校の先生とのトラブル、など。皮肉なことに、ま
じめな人ほど、育児ノイローゼになりやすい。

 育児ノイローゼは、それ自体、うつ病の別名と考えられている。

 いろいろな例がある。

 こんな話を聞いたことがある。

 その子どもは、小学2年生の子どもだったという。男の子だった。で、その子どもが授業中、
フラフラと席を離れていた。それを見て、その先生はこう言った。「おしりがかゆいのか? おし
りにウンチがついているなら、立っていてもいいよ」と。

 その先生流のジョークのつもりだった。もちろんこうしたジョークを言うときは、それなりに、楽
しい雰囲気を用意する。そのときも、そうだった。ふつうなら、それでその子どもは、笑いなが
ら、席にもどるはずだった。その話は、そこで、終わるはずだった。

 しかし、だ。その男の子は、たまたまその数日前、校庭で、本当にウンチをもらしていた。そ
の先生は、それを知らなかった。そのため、その子どもは、そのときから、友だちに、「ウンチ
もらし!」と呼ばれるようになっていた。

 その男の子は、たしかに神妙な顔つきをしていたという。

 が、その夜、その先生のところへ、その子どもの母親から、ものすごい剣幕で、電話がかか
ってきた。「よくも、うちの子の心にキズをつけたわね!」と。

 ふつうの電話ではなかったという。その電話は、1時間あまりもつづいた。で、最後に、母親
はこう言ったという。

 「明日、あんたのところへ連れていくから、子どもの前で、あやまれ!」と。

 その先生は、それを受け入れるしかなかった。今から10年ほど前のことである。

 たがいの信頼関係がもう少し熟成していれば、そういうこともなかったのだろう。が、その信
頼関係が不足していた。その先生は、親の前で、子どもに頭をさげて、あやまったという。

 が、このケースでも、母親がもう一歩、子どもから離れた立場にいれば、それですんだのかも
しれない。校庭で便をもらしたことについても、母親のそれまでの育児方法に問題がなかった
とは言えない。子どもの世界に入りすぎるあまり、自分の姿が客観的に、見えなくなってしまう。

 笑ってすごせ、とまでは言わないが、本来、この種の話は、笑ってすますべき問題である。
「キズ」とか、「頭をさげる」とかいうレベルの話ではない。

 しかし子どもへの過関心と過干渉。それに育児ノイローゼが加わると、笑ってすますというこ
とができなくなってしまう。悶々と気にして、どんどんと自ら、その深みにはまってしまう。そして
「あの人が悪い」「この人が悪い」と言いだす。(からむ)というのは、そういう状態をいう。

 実は、私は、今、ある人に、あることで、からまれている。現在進行中の話なので、詳しくは書
けない。相手の人は、「あなたのせいで、こうなった」と騒いでいる。しかし少し冷静になってくれ
れば、何でもない問題とわかるはずなのだが、その人にはわからない。妄想が妄想を呼ぶと
いった状態になる。

 で、こういうときは、どうするか? あなたも、いろいろな場面で、思わぬ人にからまれるという
こともあるだろう。そういうときは、どうするか。

 参考になるかどうかは、わからないが、私のばあいは、あやまるべきことは素直にあやまり、
あとは、ひたすら静かにしていることにしている。こうした(からみ)は、この世界では、よくある
こと。園や学校では、日常茶飯事。

 しかしこれだけは言える。

 こうして(からむ)ことにより、その人は、その人の子育てという人生を、よごすことになる。そ
のときはわからないかもしれないが、子育ての時期というのは、それ自体が、貴重な時間であ
る。終わってみるとそれがわかるが、その時期に、いやな思い出を残すというのは、あまりに
も、もったいない。

 人生というのは、美しい思い出に、美しい思い出を重ねながら、生きていくもの。そしてそれ
が人生の終わりになって、さん然と輝き始める。先生にせよ、ほかの親にせよ、からんだところ
で、その人の人生を、見苦しくするだけ。

 だから鉄則は、ただ一つ。許して、あきらめて、あとは、忘れる。そのおおらかさが、子育てを
心豊かなものにする。

【思い出】

 もう30年近くも前になるだろうか。私の教室に、年中児の女の子が入ってきた。Iさんといっ
た。静かな子だった。

 が、Iさんは、かん黙症だった。かん黙症の子どもは、家の中では、むしろ騒々しいほどなの
だが、一歩、外の環境の中に入ると、貝殻が閉じたように、口を閉じてしまう。

 しかし私の立場では、診断名をくだすのは、タブー中のタブー。わかっていても、わからないフ
リをして教える。たとえ親から質問があっても、私の口からは、それは言えない。言ったら、た
いへんなことになる。それはこの世界では、大鉄則である。

 しかしかん黙症かどうかは、少し経験のある教師なら、だれにでもわかる。教える側からする
と、何を考えているかわからないといった雰囲気になる。心と表情が、遊離するためである。

 で、そのIさんは、いつも祖母にあたる人に、連れられて、私の教室へやってきた。が、その祖
母が、毎回、教室が終わるたびに、その女の子を、はげしく叱るのである。「どうして、しゃべら
ないの!」「おばあちゃん、恥ずかしいわ」と。叱るというより、罵声に近かった。

 そこで私はある日、見るに見かねて、そのおばあちゃんに、こう言った。今なら、もう少しうまく
指導できたかもしれないが、当時の私は、まだ若かった。「何ですか、その言い方は! そんな
言い方をしたら、子どもがかえって萎縮してしまうでしょう!」と。私がたまたま廊下へ出たとき
のことだった。

 すると何を誤解したのか、その祖母は、私にこう言いかえした。

 「私ゃね、こう見えても、息子を、東京のD大学を出したんですからね!」と。つまり「いらぬ節
介だ」と。

 が、それで話は終わらなかった。祖母は、家に帰ってから、何を、どう話したのかしらないが、
父親から、その夜遅く、ものすごい剣幕で、電話がかかってきた。

 「お前は、うちの娘を萎縮させてしまった! どう責任をとってくれるのだ! お前を訴えてや
る!」と。

 これに似たケースは、そのあとも、たびたび、あった。親側にそれなりの知識と理解があれ
ば、まだ話もしやすい。しかし、それがないときは、どうするか。こうした問題は、この世界では
いつもついてまわる。

 ……とまあ、またまたスポンサーの悪口を書いてしまったが、私は決して、そのときのIさんの
父親を責めているのではない。

 (もちろん悪口を書いているのではない。そういう意識は、もうとっくの昔に捨てた。つまり原
稿を、その人の悪口を書くための手段として使うようなことは、しない。)

 こういうケースで、自分の子どもがそういう症状を示したら、私だって、その父親のような反応
を示したかもしれない。

 つまりは、教育には、親と教師の信頼関係が第一。すべては、この信頼関係に始まって、信
頼関係に終わる。

 それを私は、書きたかった。

【からみやすい人へ】

 何かにつけ、他人にからみやすい人は、つぎのようなことに注意するとよい。

(1)自己中心性の肥大化に気をつける。

 完ぺき主義、完全主義を避ける。適当なところで、適当に妥協する。そういう技術を身につけ
る。自己中心性が肥大化すると、自己愛の世界におちいることがある。「自分だけが正しい」
「自分だけが正しい」「世界は、自分を中心にして回っている」と、錯覚するようになる。

(2)自分をより高い視点に置く。

 いつも、自分を、より高い次元に置く。またその努力を、怠ってはいけない。私も、もともとは
短気で、カッとなりやすいタイプ。グチグチと相手にからむことはないが、しかし、ネチネチと悩
むことは多い。そういう自分を感じたときは、相手が愚かに見えるようになるまで、自分を高め
る。

(3)妄想性に気がつく。

 思い過ごしと、早トチリ。この2つを避ければ、たいていの妄想から、のがれることができる。
私のばあいは、妄想性を自分の中に感じたときは、行動をしないようにしている。そういうとき
の「私」は、本物の私ではない。風邪をひいて、熱を出したとき、フトンをかぶって寝るように、じ
っと穴にこもって、静かにしている。あとは、時間が解決してくれる。

 相手にからんでもよいことは、何もない。その時点で、その相手との人間関係は、終わる。二
度と、修復されることはない。その相手が、あなたから遠ざかるからだ。あるいはそれ以後は、
間にカベをつくる。一度できたカベは、簡単には、こわれない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


【群馬県O市のUTさんよりの相談】

初めまして。末娘の事で相談いたします。娘はダウン症児です。

今年から地域の幼稚園に通っています。園児が多く(120名程の二学年)1クラス30名程いま
す。相談内容ですが、園終了後、園庭で遊んでいた時の事です。

他のクラスの子や大きい学年の子が、娘の事を面白がったり不思議そうに見たりするのです。
先生方には娘の事は詳しく話しています。同じクラスの子達も理解してくれているお友達もいま
す。

が、今回のばあいのような子の場合、どう対処していいかわかりません。まだ不思議そうな(言
葉が相手に理解できない)様子を見せる子には、私がわかるように説明もできますが、面白が
る子には憤りを感じます。このような場合どうすればいいのでしょうか?

アドバイス願いたいとおもいます。ちなみに、今日の子には「あほ」と言われました。

++++++++++++++

【UTさんへ】

 鉄則は、ただ一つ。どんなばあいも、どんな不愉快なことに出あっても、『親は、堂々としてい
る』です。決して、動じてはいけません。内心では憤りを感じ、悲しみにくれても、あなたの子ど
もの前や、そういった心のない子どもの前では、決して、動じてはいけません。

 その動じない姿こそが、あなたの子どもの心を守ります。相手は、何もわからない幼稚園児
です。あなたが動じなければならないような相手ではありません。

 これから先、ひょっとしたら、もっとつらいことがあるかもしれません。しかしあなたは、堂々と
している。あなたも、あなたの子どもも、何も悪いことはしていない。恥じることは何もないので
す。

 あなたはあなたの子どものことだけを考えて、堂々としています。卑下したり、隠したり、世間
体を気にしたりしてはいけません。(そういうことはないと思いますが……。)

 その堂々とした親の姿勢を見て、まわりの人も、あなたを尊敬し、その尊敬の念から、あなた
やあなたの子どもに対する、親しみや友情、そして理解が生まれます。もちろんそれらは、あな
たとあなたの子どもの絆(きずな)を太くし、あなたの思い出を心豊かなものにします。

 ダウン症? ……何ですか、そんなもの! 問題のない子どもはいないし、だから問題のな
い子育てなどというものは、ありません。

 そこで重要なことは、あなた自身が、あなたの子どもに謙虚に耳を傾けることです。あなたの
子どもは、あなたに何かを教えるために、そこにいるのです。命の尊さというか、すばらしさを
教えるために、そこにいるのです。

 それに気づけば、あなたには、もうこわいものは、ないはず。すでにあなたには、ほかの親に
はない、神々しさが備わり始めているはずです。それにあなたは、気づいていますか?

 あとは、いっしょに、人生を楽しめばよいのです。これから先、楽しいことが、いっぱいありま
すよ。いいですか、人生の終わりになって、もっと短期的には、子育ても終わりに近づくころに
なると、「私は子どもを愛しきった」「子どもを信じきった」という思いこそが、あなたの人生の中
で、光り輝くようになります。

 つらい思いをなさったこともよくわかります。しかし相手は、幼児です。だから、気にしないこ
と。私も、よく、「クソじじい」と言われます。しかし気にしません。が、あなたは気にする。つま
り、そこにあなた自身の心の透き間があるからです。

 繰りかえしますが、ダウン症? ……それがどうしたというのですか! あなたは、そんなも
のに動じないで、堂々としてください。その堂々としている姿ほど、美しいものはありません。ま
わりの人たちは、その美しさに、圧倒されるはずです。

 急いで返事を書いたので、推敲をしていませんが、またあとでゆっくりと考えてみます。

 以上が、私からあなたへの返事ということになります。いただきました、メールの転載の許可
など、よろしくご協力くださいますよう、お願いします。またマガジンなどの購読も、よろしくお願
いします。

 無料です。申し込みは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
出できます。

 あらっぽい返事で、ごめんなさい。みんな、あなたの味方ですよ。だから心強く、前だけを見
て、進んでください。応援します。この気持ちは、私のマガジンを読んでいるすべての読者の方
も、同じだと思います。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(423)

【W中学校の父母よりの、質問に答えて……】(1)

 W中学校の父母より、こんな質問が届きました。

 「仮想現実体験と、実体験のちがいにより、心の形成には、どのような影響が出るか」という
質問です。

 それについて考える前に、以前書いた原稿を、そのまま、ここに転載します。(一部は、中日
新聞に投稿済み。)少し質問の趣旨からは、脱線すると思いますが、お許しください。この中
で、私は仮想現実体験(パソコンやテレビゲームの世界)のもつ、一つの問題点を、取りあげ
てみました。

+++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。
 
娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は五歳半になる年中児で、下に三歳半の妹がいます。
小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。
 
私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。
 
そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。
心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。
また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。
泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。
その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。

自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難し
い。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。

「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子
どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のこととい
うか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学三、四年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満五歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃ
んがえり、欲求不満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメール
によると、かなり神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配
先行型の子育てなども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎり
なく、話が出てきてしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を三五年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。UYさんのお子
さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学三、四年生を境に、症状は急速に収ま
ってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするようになるからで
す。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは「もっとかっ
こよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学一年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まってい
きます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。それを感じると、今度
は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら……。私のばあいは、
教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱ったり、威圧感を与えたり、
あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導します。それだけを忘れ
なければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学三、四年生になるころには、消えています。
ウソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そし
て、四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださ
ると確信しています。

もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃんの母親(みさえ
さん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読まれるといいです
よ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突
然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。
その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こち
らの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに
数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、
休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の
先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)など
の友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビや
ゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静
かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もい
た。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっ
きりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

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●日本人は賢くなったか?

 人間の賢さは、「自ら考える力」で決まる。

 よく誤解されるが、知識や情報が多いからといって、賢い人ということにはならない。反対に、
いくら知識や情報があっても、バカな人はバカ。映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの
母はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃ、ないのよ)」と。

 そういう視点で、もう一度、日本人について考えてみる。日本人は、賢くなったか、と。

 今、高校生でも、将来を考えて、毎日本を読んだり、勉強している子どもは、10%もいない。
文部科学省国立教育政策研究所の行った調査によると、「宿題や授業でしか本は読まない」と
答えた子ども(小、中、高校)は、全体では18%だが、高校生は33%であった。また「教科書
より厚い本を読んだことがない」も、全体では16%だが、高校生では23%であった(全国小学
4年生以上高校2年生までの2〜120人について調査。02年)。

 わかりやすく言えば、小学生ほど、よく本を読み、中学生、高校生になると、本を読まなくなる
ということ。

一見何でもないような現象に見えるかもしれないが、「では、高校生とはいったい、何か」という
問題にぶつかってしまう。より高度な勉強をするから高校生というのではないのか。が、実態
は、その逆。

毎日くだらない情報を、携帯電話で交換しているのが、高校生ということになる。そう言い切る
のは正しくないが、しかし実態は、そんなところと考えてよい。大半の高校生は、毎日4〜5時
間はテレビを見たり、ゲームをしたりして時間をつぶしている。6〜7時間と答えた子どももいた
(筆者、01年、浜松市内の高校生10人について調査)。

 その結果というわけではないが、最近の高校生は、まさにノーブレイン(知能なし)という状態
になっている。知識や情報に振りまわされているだけ。自ら考えるということができない。……
しない。政治問題や社会問題など、問いかけただけで、「ダサイ!」と、はねのけられてしまう。
「日本がかかえる借金は六〇〇兆円だよ。君たちの借金だよ」と私が話しかけたときのこと。
女子高校生たちは、こう言った。「私ら、そんな話、関係ないもんネ〜」と(2000年市内の図書
館で)。

 もちろん本を読んだからといって、賢くなるというわけではない。それ以上に大切なことは、い
かにして問題意識をもつか、だ。その問題意識がなければ、本を読んでも、それもただの情報
で終わってしまう。よい例が、ゲームの攻略本だ。

最近では、「ハリーポッター」の魔法の解説本などもある。もともとウソにウソを塗り固めたよう
な本だから、いくら読んでも、それこそまさにムダな情報。先日、私も、子どもたち(小学六年
生)の前で、こう話してやった。

 「栗の葉に、近くに落ちている松の葉包み、それを手で握って、ローローヤヤ、カカカ、バーバ
ーと呪文を唱えれば、親から小遣いが、いつもの一〇倍もらえる」と。

 たまたま日本中がハリポタブームでわきかえっていたときでもあり、子どもたちは真剣なまな
ざしで、私の呪文をノートに書きとめようとした。が、そのうち一人が、「先生、反対に読むと、バ
カヤローだ」と。

 そこでいかにして、子どもに問題意識をもたせるか、である。が、この問題について考える前
に、こういうこともある。

 ノーブレインの状態になると、その人間は、いわゆるロボット化する。ひとつの例が、カルト教
団の信者たちである。彼らは思想を注入してもらうかわりに、自ら考えることを放棄してしまう。
ある信者とこんな会話をしたことがある。

私が「あなたがたも、少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか。ひょっとしたら、あな
たがたは、利用されているだけかもしれませんよ」と。するとその男性(六〇歳)はこう言った。
「○○先生は、万巻の書物を読んで、仏の境界(きょうがい)に入られた方だ。教えにまちがい
はない」と。

 同じような例は、あのポケモン現象のときに、子どもたちの世界でも起きた。それはブームと
かいうような生やさしいものではなかった。毎日子どもたちは、ポケモンの名前をつらねただけ
の、まったく意味のない歌(「ポケモン言えるかな」)を、狂ったように歌っていた。そしてお菓子
でも持ち物でも、黄色いピカチューの絵がついているだけで、それを狂ったように買い求めて
いた。

私はこのポケンモン現象の中に、たまたまカルトとの共通性を見出した。そして『ポケモンカル
ト』(三一書房)という本を書いた。

 このロボット化でこわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うため、本人にはその自覚が
ないこと。カルト教団の信者も、またポケモンに夢中になる子どもも、なぜ自分がそうなのかと
いうことがわからないまま、たいていは「自分は正しいことをしているのだ」と思い込まされたま
ま、醜い商魂に操られる。そしてその結果として、それこそ愚にもつかないようなことを、平気で
するようになる。

 こうした状態を防ぐためにも、私たちはいつも問題意識をもたねばならない。あなたの子ども
について言うなら、これはいつかあなたの子どもがカルト教団の餌食(えじき)にしないためでも
ある。ノーブレインというのは、それ自体がひとつの思考回路で、いつなんどき、その回路の中
に、カルト思想が入り込まないともかぎらない。

たまたまあのポケモンブームのころ、アメリカのサンディエゴ郊外で、「ハイアーソース」という名
前のカルト教団の信者たち三九人が、集団自殺をするという事件が起きた(九七年三月)。残
された声明文には、「ヘール・ポップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世へ
旅立つ」と書いてあったという。

 常識で考えればバカげた思想だが、ノーブレインの状態になると、それすらもわからなくな
る。つまりそういう人を、「バカな人」という。

 いかにして問題意識をもつか。

 これは私のばあいだが、私はいつも、自分の頭の中で、その日に考えるテーマを決める。教
育問題であることが多いが、政治問題や社会問題も多い。たいていは身近なことで、「おかし
いぞ」と思ったことをテーマにするようにしている。たまたま昨日(02・8月9日)もテレビを見て
いたら、田中M子という国会議員が辞職したというニュースが飛び込んできた。私はそのニュ
ースを見ながら、いろいろなことを考えた。

(1)T中氏は息子を政治家にするというが、見るとまだあどけなさの残る青年ではないか。そう
いう形、つまり世襲制で政治が動いてよいのか。動かされてよいのか。あるいはどうしてそうま
で政治の世界に、執着するのか。その魅力は何なのか。田中M子氏にしても、それほど哲学
のある人物には見えない。私には出世欲にとりつかれた、どこかガリガリの政治亡者のように
しか見えない。

(2)T中氏は、さんざん、自己弁明をしてきたではないか。今までのそういう弁明は、いったい、
何だったのか。私たちにウソを言ってきたのか。

(3)その辞職ニュースを受けて、街の人の声が報道されていたが、大半は、「田中さんがかわ
いそうだ」「おしい人をなくした」と言っていた。そうした声を聞いたとき、私はその少し前、人間
国宝にもなっている歌舞伎役者のO氏が、19歳そこそこの若い舞妓と不倫関係にあったとい
うニュースを思いだした。あのときは、街の声のみならず、テレビのキャスターまで、「不倫は、
芸のコヤシ」と言っていたのを覚えている。(若い女性はコヤシ?)O氏はその舞妓と別れると
き、ホテルのドアで、チンチンを出して見せたという。こうした愚民性は、いったいどこからくる
のか。

 「おかしい」と思うことが、つぎつぎと頭に飛来する。そこでひとつずつ、その問題について考
える。その結果というわけではないが、この原稿が生まれた。私は、(3)の愚民性に、とくに関
心をもった。「日本人は賢くなったか」と。

 で、その結論だが、答は、「ノー」。日本人は知識と情報の氾濫の中で、ますます自分を見失
いつつある。ますます愚かになりつつある。

そのことは、今の子どもたちの世界を見ればわかる。子どもたちの「質」は、この三〇年、確か
に悪くなった。ひとつの例というわけではないが、三〇年前の幼児は、「おとなになったら、何に
なりたい」と聞くと、「幼稚園の先生」とか、「野球の選手」と答えていた。しかし今の子どもは違
う。

「ハリーポッターのような魔法使い」とか、「超能力者」とか、答える。バブル経済のころは、
「私、おとなになったら、土地もちの人(男)と結婚する」と言っていた女の子(小四)や、「宗教
団体の教祖になる」と言っていた男の子(小五)がいた。が、そのときよりも、今のほうが、さら
に悪くなっているように思う。
(注、この「日本人は賢くなったか」は、02年8月記)
(はやし浩司 新しい荒れ 右脳教育 思考 仮想現実 自己意識 自意識)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【W中学校の父母よりの、質問に答えて……】(2)

 W中学校の父母よりの、もう一つの質問は、こんな質問です。

 「文化、時代の違いによる、当たり前のここと、当たり前でないことについて」という質問です。

 いわゆる「意識論」のことです。私たちがもっている「意識」というのは、その時代の文化、さら
に生まれ育った環境などによって、作られていくものです。

 そういう意味で、絶対的、かつ普遍的な意識というのは、ありません。そのときどきの時代、さ
らには生まれ育った環境によって、変化しうるものだということです。

 そのことを最初に私自身が、意識したのは、私が留学生となって、オーストラリアへ渡ったと
きのことです。

 つぎの原稿が、それです。

+++++++++++++++++++++

●意識の違い

 今朝、K国の子どもたちが、テレビで紹介されていた。どの子どもも、独得の笑みを浮かべ
て、踊ったり、楽器を鳴らしたりしていた。ワイフは、それを見て、「気持ち悪い」と言った。私も
同感だった。

 で、こうした子どもたちについて、K国から脱出してきた人は、こう言った。「鼻血を出しても、
練習をつづける」と。そういうK国の子どもたちを、すばらしいと思った日本人は、いったい、何
人いただろうか。

 しかしそのとき、である。その脱出してきた人が、ポロリとこう言った。それは私には、衝撃的
な言葉だった。

 「K国では、こうした子どもたちが、政府の宣伝用に使われる。それはちょうど、西側諸国の、
コマーシャルのようなものだ。西側では、モノを売るために、宣伝する。それと同じ」と。

 人の意識というのは、絶対的なものではない。普遍的なものでもない。立場が変われば、そ
の意識も変わる。

 私たちはK国の子どもたちを見ながら、「おかしい?」と思う。しかしその意識は、相対的なも
ので、K国の人たちから見れば、今度は、私たちの国が、おかしく見えるに違いない。その一
つが、「物欲を刺激するコマーシャル?」ということになる。

 たとえば、あのポケモンが全盛期のころ、子どもたちの世界は、まさにポケモン漬けになっ
た。テレビ、雑誌、ゲーム、コミック、商品ほか。あらゆる場面で、子どもたちは、その商魂に乗
せられた。

 その結果、あの黄色いピカチューの絵を見ただけで、子どもたちは、興奮状態になってしまっ
た。一度、私は不用意に、「ピカチューのどこが、かわいいの?」と言ってしまったことがある。
とたん、生徒たちから、猛烈な抗議の嵐。袋叩きにあってしまった。

 こうした異常な現象を、いったい、どれだけの人が、「異常」と感じたであろうか。そこで私は、
一冊の本を書いた。それが『ポケモン・カルト』(三一書房)である。

 しかしこの本に、執拗ないやがらせをしかけてきたのは、二〇歳をすぎた若者たちだった。
「お前は、子どもの夢をつぶすのか」「とんでもない、トンデモ本だ」と。今でも、その団体の人た
ちが、その本や私を、攻撃している。

 こういう現象は、K国の人たちには、どう見えるだろうか。ここにも書いたように、意識というの
は、相対的なものである。私たちが、K国の子どもたちがおかしいと思うのと、まったく同じよう
に、K国の人たちは、日本の子どもたちは、おかしいと思うに違いない。現に、あの金XXは、そ
う言っている。「西側の狂った文化」と。

 私は、K国の子どもたちの映像を見ながら、不思議な感覚にとらわれた。K国がおかしいと思
えば思うほど、自分たちの世界も、おかしく見えた。ただ私たちは今、その(自分たちの国)に
住んでいるから、それがわからない。言いかえると、私たちが、自分の国はふつうだと思ってい
るのと同じように、K国の人たちは、自分たちの国は、ふつうだと思っているに違いない。

 少し話が脱線するかもしれないが、私は、学生時代、こんな経験をしたことがある。『世にも
不思議な留学記』(中日新聞掲載済み)で発表した原稿を、転載する。
 
+++++++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう三〇年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学
していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が
いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと
う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。

「アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラ
リアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。

「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。
彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの
国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを
通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教
師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。

「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだ
が、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子ども
の間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはな
らない。

+++++++++++++++

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢30人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。

が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかり
を強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して20〜23%もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。

ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。
それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうし
ているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということにな
る。
 
こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明し
ても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、
その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。

+++++++++++++++++++

 意識の違いというのは、恐ろしい。その意識にどっぷりとつかっていると、ほかの世界が理解
できなくなる。それだけならまだしも、自分がおかしな世界に入っていても、それに気づかなくな
る。

 典型的な例としては、宗教の世界がある。その世界の外にいる人からみれば、「おかしい?」
と思うようなことを、平気で、しかも、ま顔でしている信者は、いくらでもいる。

 そこで大切なことは、いつも、自分の意識を疑ってみること。自分の意識を、ふつうだと思っ
てはいけない。絶対だとは、さらに思ってはいけない。意識というのはそういうもので、またそう
いう前提で、いつも自分の意識を、疑ってみる。

 それは、ものを考えるとき、たいへん重要なことである。……というようなことを、K国の子ど
もたちを見ながら、考えた。

+++++++++++++++++++++

ついでに、少し前に書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

●子どもの意識

 フロイトは、子どもの記憶について、つぎのようなことを書いている。

つまり幼児期記憶の回想について、「言葉や観念によって思い出すという形で回想するだけな
く、むしろその回想する体験にともなう感情や対人関係のパターン、態度のほうを先に反復す
る」(「フロイト思想のキーワード」小此木啓吾・講談社現代新書)と。

 このことは、たとえば子どもに、ぬいぐるみを与えてみればわかる。心豊かで、愛情に恵まれ
て育った子どもは、ぬいぐるみを見ただけで、うれしそうな笑みを浮かべ、さもいとおしいといっ
た様子で、それを抱こうとする。それはぬいぐるみを見たとき、自分自身が受けた環境を、そ
の場で再現するからである。

 あるいは絵本を与えてみればわかる。「あっ、本だ!」と喜んで飛びついてくる子どももいれ
ば、目をそむけてしまう子どももいる。その本の内容を確かめる前に、だ。こうした違いは、
「本」というものに、よい印象をもっているかどうかで、決まる。

幼いときから、たとえば親に抱かれて本を読んでもらった子どもは、本を見たとき、その周囲の
状況や情景を、心の中で再現する。つまり本にまつわる「温もり」を、そこに感ずる。だから本
を見ただけで、それを好意的にとらえようとする。一方、たとえばカリカリとした雰囲気の中で、
無理に本を読まされて育ったような子どもは、本を見ただけで、逃げ腰になる。

 このことは、人間関係にも影響する。私はメガネをかけているが、初対面のとき、私の顔を見
て、こわがる子どもは少なくない。そこで理由を聞くと、親は、たとえばこう言う。「近所にこわい
犬を飼っている男性がいて、その人がメガネをかけているからではないでしょうか」と。つまりそ
の子どもにしてみれば、(こわい犬)→(こわい人)→(メガネ)→(メガネの人は、こわい)という
ことになる。

 フロイトは、こうした現象を、「転移」と呼んだ。しかしこうした転移は、おとなの世界でも、ごく
日常的に見られる。とくに人間関係において、それが顕著に見られる。たとえば、電話の相手
によって、電話のかけ方そのものが、別人のように変わる人がいる。自分より目上の人だとわ
かると、(無意識のうちに、しかも即座にそれを判断するが)、必要以上にペコペコする。一方、
目下の人だとわかると、今度は必要以上に、尊大ぶったり、威張ったりしてみせる。

 で、こういう人にかぎって、……というより、例外なく、テレビドラマの『水戸黄門』の大ファンで
あったりする。三つ葉葵の紋章か何かを見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝する
と、周囲の者たちが、「ハハアー」と言って、頭をさげる。このタイプの人は、そういう場面を見る
と、痛快でならない。……らしい。

 そこでさらに調べていくと、こういう人たち自身もまた、そうした権威主義的な社会、あるいは
家庭環境の中で育ったことがわかる。つまりこうした感情なり、言動は、それぞれ一貫性をもっ
てつながっている。(権威主義的な環境で生まれ育った)→(自分自身も権威主義的である)→
(無意識のうちにも、それがその人の価値観の根底にある)→(無意識のうちにも、人を上下関
係を判断する)→(水戸黄門が痛快)と。

言うなれば、水戸黄門を見ることで、このタイプの人は、自分の価値観を再確認しているのか
もしれない。その確認ができるから、水戸黄門はおもしろく、また痛快ということにもなる。

 何だか、話が込み入ってきたが、要するに、子ども、なかんずく幼児を相手にするときは、表
面的な「心」とは別に、「もうひとつの心」を想定しながら、接するとよい。たとえば何らかの学習
をさせるときも、(何を覚えたか、何ができるようになったか)ではなく、(そのことが全体として、
どのような印象をもって、子どもの心の中に残るだろうか)を、考えながらする。そしてその印象
がよいものであれば、よし。そうでなければ、失敗、と。

先にあげた例で言うなら、子どもに絵本を見せたとき、「あっ、本だ!」と飛びついてくれば、よ
し。逃げ腰になるようであれば、失敗、ということになる。フロイトの言葉を借りるなら、「よい転
移ならよし。悪い転移には気をつけろ」ということになる。

これを私たちの世界では、「前向きな姿勢」と言っているが、この時期は、こういう前向きな姿
勢を育てることを大切にする。この前向きな姿勢があれば、子どもは自らの力で、前向きに伸
びていくし、そうでなければ、そうでない。が、それだけではすまない。一度子どもがうしろ向き
になってしまうと、それをなおすのに、それまでの何十倍もの努力が必要になる。

たとえば小学校の入学までに、一度本嫌いになってしまうと、以後、好きになるということは、ほ
ぼ絶望的であると言ってもよい。「だから幼児教育は大切だ」と言ってしまえば、あまりにも手
前ミソということになるかもしれないが……。

++++++++++++++++++++++

日本人の意識を考えるための参考文献として
もう一つ、私の原稿を添付しておきます。

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●権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。

日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オース
トラリアの友人はこう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以
来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。

「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。
一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の
仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像
以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。

Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしてい
ても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自
分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間に
ミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。

権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの
になる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。

こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義的で
あること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否定す
ることになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を
築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思って
いる人ほど、あぶない。

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●依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きてはいかれない生物なのかもしれない。それぞれの人
が、何かに依存している。で、少し前、その「依存」について、自分なりに分析してみた。依存と
いっても、何に依存するかで、生きザマがまったく違ってくる。

(1)モノ、お金、名誉、地位、財産に依存するタイプ
(2)自分自身に依存するタイプ
(3)家族や親類など、人に依存するタイプ
(4)宗教に依存するタイプ

 このうち、自分の先祖を誇る人は、(1)の「名誉、地位に依存するタイプ」ということになる。
実のところ、このタイプの人は多い。少し前も、「今度、伯父が、選挙に出馬することになりまし
たから」と言って、選挙用のポスターをもってきた人がいた。しかしその人は、伯父の選挙を本
当に応援しているのではない。そういう言い方をして、「自分の家系には、こういう人がいる」と
いうことを、自慢していただけである。

 しかし考えてみれば、しょせん、ドングリの背くらべ。○○藩の家老の子孫だろうが、田舎の
百姓の子孫だろうが、結局は、「生まれた穴がほんの少し違うだけ」(モーツアルト「フィガロの
結婚」)。私なんかは、名字が「林」ということからもわかるように、先祖はただの百姓。依存しよ
うにも、しようがない。

 そうそう、私の母にこのことを言うと、母はいつも本気で怒っていた。母は、N家という武家の
血筋を引く家系で生まれ育った。だから「うちの先祖は百姓だった」などと言おうものなら、「違
う、武家だ! ヘンなこと言うな!」と。そういう点では、母も、人一倍、先祖にこだわっていた。

 話はそれたが、この問題は、「誇り」とも、深く関連してくる。オーストラリアに留学しているこ
ろ、こんなことがあった。

●独特のモノ意識

 K大学から、医学部で講師をしている二人の男が、大学へやってきた。そこで私がメルボル
ン市内をあちこち案内してあげた。が、目ざといというか、つぎつぎと日本製を見つけては、「あ
れは、日本の車だ」「あれは、日本のカメラだ」と。

 そこで私にいろいろ話しかけてきた。で、そのとき私がどうそれに答えたかは忘れてしまった
が、最後には、その男たちを、怒らせてしまったようだ。その中の一人がこう言った。「君は、日
本人だろ。同じ、日本人が作ったものを喜ばないのか」と。当時の日記には、こうある。

 「Dさん(ドクターの一人)は、私に『君は、ヘンに欧米かぶれしている。君のような日本人が、
こういうところで研究生をしていることが信じられない。もっと日本人に誇りをもて』と言った。私
から見れば、どうして日本製があることが、そんなにうれしいのか理解できない。結局は、それ
こそまさに、欧米コンプレックスの裏返しではないのか。

 このドクターたちも、やはり(1)の「モノ、お金に依存するタイプ」ということになる。戦後の高
度成長期の中で、このタイプの人は、まさに大量生産された。今でも、「モノやお金のほうが、
家族や人間関係より大切だ」と考えている人は、いくらでもいる。

 いや、こう書くからといって、それが悪いと言っているのではない。人、それぞれ。私のよう
に、依存するものがない人間は、一見、たくましく見えるかもしれないが、実のところ、心の中
はボロボロ。自分がボロボロである分だけ、その自分自身に依存することもできない。だから
毎日が、不安でならない。

ちょっとしたことで、つまずいたり、キズついたりする。実のところ、ときどき、こう思う。「何か、
本物の宗教があれば、信仰してみたい」と。そう、何が楽かといって、神や仏に依存することぐ
らい、楽なことはない。

 ただこういうことは言える。

 いまだに日本人の多くは、封建時代の亡霊を引きずっている。日本独特の権威主義もそうだ
が、人間が人間を見る前に、地位だの肩書きだの、そういうもので人間を判断している。そして
そういう亡霊が、教育の世界にも残っていて、教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめてい
る。ここでいう先祖意識も、そういう亡霊の一つと考えてよい。そういうものに依存すればする
ほど、あなたは自分自身を見失う。子どもの姿を見失う。
(02−2−6)

●著名な祖先しか誇るもののない人間は、ジャガイモのようなものだ。その人間のもつ、唯一
のよい部分は、地下に眠る。(オヴァベリ「断片」)

●祖先のうちで奴隷でなかった者もなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者もいなか
った。(ヘレン・ケラー「自叙伝」)

●私の父は混血児だった。父の親父は黒人だった。そして、私の祖先は、猿だった。(デュー
マ「お前の父はだれか」)

こうした考え方とは対照的に、江戸時代の学者の中江藤樹は、「翁問答」の中で、こう書いてい
る。参考までに……。

「家をおこすも子孫なり。家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁盛をもと
むるは、あくなくて行くことをねがふにひとし」と。「人」より、「家」のほうが大切ということ。中江
藤樹はそう書き残している。

++++++++++++++++++++++++

 かなり過激な意見なので、驚かれたかもしれませんが、「子どもの意識」を考える、一つのヒ
ントになれば、うれしいです。
(はやし浩司 権威主義 依存心 依存性 意識 子どもの意識 子供の意識)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(424)

【近況・あれこれ】

●等身大のサンタクロース

 今年は、等身大のサンタクロースを、教室に置いた。踊って歌を歌う、スグレもの。しかしこの
人形がこわくて、教室へ入れない子どもも、何人かいた。

 「こわい!」「止めて!」と。

●ゲームは、サッカー

 今週は、サッカーゲームを、教室の中に置いた。手で操作しながら遊ぶという、ゲームであ
る。みんな夢中になった。

 「今年のクリスマス・プレゼントには、これがほしい」と言う子どもが、続出。

 私は、こう言った。「みんなでするから、楽しいのだよ。ひとりでしても、おもしろくないよ」と。

 私も子どものころ、野球盤ゲームがほしくてほしくて、たまらなかった。で、あるときとうとう買
ってもらったが、手に入れたとたん、興味をなくした。そんな思い出があるから、そう言った。今
日からクリスマスシーズン。あちこちで、クリスマスのイベントが、始まった。(11・26)


●外向タイプ、内向タイプ

 人間の性格を、大きく、外向型と内向型の二つに分けたのは、あのユングである。

 外向型の人は、自分の心的エネルギーっを、外に向ってぶつけていく。一方、内向型の人
は、自分の心的エネルギーを、内にためこんでいく。

 外向型の人は、社交的で、行動的。陽気で明るく、社交範囲も広い。

 内向型の人は、無口で、実行力がない。社交範囲は狭く、ひとりの世界にこもりがち、と。

 そうかなあという部分もあるし、そうではないのではないかという部分もある。つまり私自身を
モデルにして考えてみても、私の中には、外向型の部分もあるし、内向型の部分もある。その
ときどきによって、微妙に変化する。

 私は子どものころから、一見、外向型にみられやすかった。愛想はよく、だれにも人なつこい
表情をしてみせた。よくしゃべり、快活だった。

 しかしそういう「私」が、本当の私であったかというと、そうは思わない。私はいつも、どこかで
自分を飾り、自分をごまかしていた。小学生のころも、学校の先生に、こう言われたことがあ
る。
 
 「林君に仕事を頼むと、何でもしてくれるから、楽だ」「林君は、あれこれ気をまわして仕事を
してくれるから、助かる」と。

 私はそういう意味では便利な子どもだったが、逆に言うと、私は、先生にへつらい、ゴマをす
ってばかりいたのではないか。つまり今でいう、ぶりっ子タイプの子どもだったかもしれない。

 そういう私をみて、外向型と判断されると、私は、困る。困るというより、「ちがう!」と叫びたく
なる。

 私はいつも、何か、不安だった。家にいても落ちつかなかったし、心を開いて安心してよりか
かれる人が、いなかった。その心理状態は、だれにでもシッポを振る、捨て犬に近かったでの
はないか。

 私は、外の世界で自分をごまかす分だけ、本当の自分を、内へ、内へとためこんでしまった。
ユングの分類方法によれば、私はむしろ、内向型ということになる。決して、外向型ではない。
そのせいもあって、私は、他人とつきあうのが、苦手だった。たいへん神経をつかった。ときに
は、ヘトヘトに疲れたこともある。
 
 天下のユングを批評するのは、気がひけるが、しかし、結論としては、「?」ということになる。
もともと、人間を、こうして類型化して考えること自体、おかしいのではないか? たとえば人間
関係の調整のうまくできない子どもは、その心的ひずみを、暴力的な方法で発散させたり、反
対に、内へためこんだりする。

 非行や、家庭内暴力は、その心的ひずみを爆発させた、いわばプラス型ということになる。引
きこもりは、心的ひずみを内にためこんだ、マイナス型ということになる。そのちがいは、性格と
いうより、(きっかけ)のちがいでしかない。

 何かのきっかけで、プラス型になったり、マイナス型になったりする。

 私はいろいろな原稿を書いてきたが、そんなわけで、自分の原稿の中では、ユングの「外向
型」「内向型」という言葉について、書いたことがない。若いときから「?」と思っていた。
(はやし浩司 ユング 外向 内向 外向性 内向性 外向型 内向型)
(041127)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(425)

【子どもの人格完成度テスト】(EQ論の応用)

★子どもの性格といっても、さまざまですね。「うちの子は、どんな性格なのかしら?」「うちの子
をどう考えたらいいのかしら?」と思ったら、このテストを受けてみてください。

(採点方法)

 それぞれの項目について、0点〜4点までの、5段階になっています。

 0点……まったく、そうでないとき。(反対の様子であるとき。)
 4点……まったく、そのとおりであるとき。

 中間のときは、2点として、採点してください。あとで、得点を合計します。その合計点が、あ
なたのお子さんの、性格ということになります。

++++++++++++++++++++

(1)協調性(共鳴性)

 ☆親が苦労したり、苦しんでいると、言わなくても、すぐ力を貸してくれる。
 ☆他人に対して、同情的で、ボランティア活動などを、喜んでする。
 ☆仲間や友人に対して、やさしい。気をつかい、相手をキズつけたりしない。

(2)自己管理能力

 ☆善悪の判断が強く、正義感が旺盛。まちがったことが嫌い。
 ☆社会のルール(交通ルールなど)や、約束や目標を、しっかりと守っている。
 ☆誘惑に強く、その場、その場で、しっかりと自分を律して行動できる。

(3)安定した人間性

 ☆勤勉で、努力家。何でも、コツコツと、がんばる。
 ☆言われたことに従順で、まちがえたときでも、すなおにそれを認める。
 ☆友人の数が多く、また交際範囲も広い。いつも仲間と仲よく遊んでいる。

(4)情緒の安定性

☆感情の起伏があまりない。いつも平常心で、安定して家族と接している。
 ☆わかりやすい性格をしている。心の中の状態が、外から、よくわかる。
 ☆落ちついた、もの静かな子どもといった印象を与える。めったに動じない。

(5)知的開放性

 ☆好奇心、生活力とも旺盛で、多芸多才。ものごとに挑戦的。
 ☆知的な遊びを好み、読書、研究、探求が好き。著作、音楽や絵画を好む。
 ☆広く政治や経済、日本や世界、さらに環境問題や宇宙の話題に興味をもっている。

 各項目(☆)の、合計点と、全体の総合計点が、あなたの子どもの得点ということになる。

++++++++++++++++++++++++

【結果は、後日、収録】
 04年・11月末現在、W中学校に調査依頼中。
 結果は、後日集計して、マガジン上で、公表します。
 それまで、今、しばらく、お待ちください。

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各項目合計点……12点
 総合計点  ……60点で、集計

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 人格テスト 人格完成度テスト EQテスト 人格の完成度)


●【2004年を振りかえって……】

 これを書いているのは、11月26日、金曜日。この原稿をマガジンに載せるのは、12月27
日(月曜日)。そんなわけで、1か月先の原稿を書いている。その1か月先に視点を置いて、今
年1年を振りかえるというのも、おかしな話(?)。

 私は今夜、コタツに入りながら、ワイフにこう言った。「仲よくしてくれて、ありがとうね」と。

 私がワイフなら、私のような男など、とっくの昔に捨てて、家を出ていっただろう。それがよくわ
かる。わかるから、そう言った。

 が、ワイフは、私がそういうようなことを言うと、いつも、こう言う。「あなたは、かわいそうな人
ね」と。

 どういう意味で、ワイフがそう言うのかは、私にはわからない。私も、理由を聞いたことがな
い。わからないが、自分でも、私はかわいそうな人間だと思う。

 いつも、ひとりで荒野をさまよっている感じ……。

 まあ、夫婦には、いろいろある。夫婦の数だけ、夫婦の形がある。スタンダード(標準)もなけ
れば、スペシャル(特別)もない。それぞれが、それぞれなりに、懸命に何かにしがみつきなが
ら、生きている。

 いや、夫婦の話は、どうでもよい。夫婦の話は、ここまで。ただ2004年という年も、あっとい
う間に、終わってしまったということ。何かをしたでもなし。しかし、しなかったでもなし……。

 今年1年も、そんな1年だった。夏がきたとき、「もう夏か」と思った。冬がきたとき、「もう冬
か」と思った。そして今、「もう1年も、終わるのか」と。

 世の中では、いろいろな事件が起きている。ウクライナでは、左派と右派が、激突。イラクで
は、相変わらず、アメリカ兵の死傷者がつづいている。K国では、ナンバー2が、粛清、そして
左遷。

 この日本でも、息子が親を殺す事件がつづいている。鉄アレイで、両親をなぐり殺したとか、
あるいは、ナイフで刺し殺したとか、など。奈良県では、小学生が誘拐され、殺されるという事
件も、起きている。

 が、その一方で、おかしな占い師が書いた本が、飛ぶように売れている。ノー天気な若い女
性たちが、韓国の映画俳優のY様とやらを、追いかけまわしている。幸せな人たちというか、ノ
ーブレインな人たちというか……?

 こうして1年は終わり、新しい年が、またやってくる。2005年である。まあ、私にとって、この
1年は、マガジンに始まり、マガジンに終わった。だれに頼まれたわけでもないし、もちろんお
金になる仕事でもなかった。が、それでも私は、原稿を書きつづけた。

 あえて言うなら、それは頭のジョギングのようなもの。暗い夜道を、ただひたすら走り続ける、
ジョギングのようなもの。だれのためでもない。私のためだ。私の脳ミソのためだ。

 しかし総括してみると、楽しかった。毎日が新しい発見の連続だった。少しずつだが、読者の
数もふえた。いや、それ以上に、朝起きたとき、やるべきことがあるというのは、それだけでも、
ありがたいこと。感謝しなければならない。

 最近では、1時間でも、時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思う。それだけでも、感謝
しなければならない。マガジンを発行するということで、私は、いつも時間を大切にすることがで
きた。

 さあて、2005年。その2005年も、私は、原稿を書きつづける。計算によれば、2005年の
終わりには、マガジンの発行号数は、660号になるはず。2006年の終わりには、800号に
なるはず。1000号までの折り返し点は、もう過ぎた!

 そのあとに何があるのか……? 恐らく、今日の「今」と同じように何もないだろう。が、私は、
その1000号に向うしかない。そのあとのことは知らない。わからない。

 また一歩、一歩、前に向って、ただひたすら、歩くしかない。

 浜松市の大高さん、中村さん、竹原さん、池戸さん、ありがとうございました。

 静岡市の瀬川さん、富士市の利根川さん、高野さん、ありがとうございました。

 東京都の平野さん、F・Wさん、ありがとうございました。東大阪の福井さん、

 高知県の阪口さん、愛知県の山田さん、川越市の中川さん、それに滋賀県の福井さん、

 長野県の上島さん、励ましのメール、いつもありがとうございました。
 
 そのほか、私のマガジンを読んでくださった、読者のみなさん、ありがとうございました。

 みなさんの暖かい声援を感じながら、2005年も、がんばってみます。

 では、みなさん、どうか、よい新年をお迎えください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤立感と劣等感

 子どもを指導していて、一番気をつけなければならないこと。それは(1)子どもを孤立させな
いこと。(2)劣等感をもたせないこと。

 この2つが日常的に重なり始めると、子どもには、さまざまな心の変調が現れるようになる。
その第一、自己と他者の誤認識。

 わかりやすく言えば、ゆがんだ自分を、「自分」と思いこみ、ゆがんだ「他者」を、他者だと思
いこみやすいということ。ものの考え方が、ひがみっぽくなったり、ひねくれたりする。いじけた
り、おかしなところでがんばったり、つっぱったりする。

 そこへ劣等感が加わると、ものの考え方が、一気に、暗くなる。

 ……あとは、底なしの悪循環。ますますその子どもは、みなから孤立し、劣等感に苦しむよう
になる。

 実は、これは私自身の問題でもある。老後の問題といってよいかもしれない。

 部屋に閉じこもって、ものを書く人間は、この孤立感と劣等感と、どう戦うか。それがいつも問
題になる。

 ものを書かなくても、パソコンお宅でも、よい。環境的に、すでに、自己と他者を誤認識しやす
い状況にある。

 よい例が、三島Y、太宰O、それに芥川R、川端Y。どの人も日本を代表する文豪たちだが、
しかしそういう人は、どこか、ヘン(失礼!)。暗い。偏屈。いじけている。それについて、先日
も、ワイフと話していると、ワイフは、こう言った。

 「あなたは、だいじょうぶよ。毎日、幼児と接しているから」と。

 事実、そのとおりで、幼児に接したとたん、気分が、パッと晴れるということは、よくある。そん
な幼児の世界から、この世界を見ると、この世界のゆがみというか、ひずむが、よくわかる。
(もちろん、自分のゆがみも!)

 こうした(ゆがみ)で注意しなければならないのが、それがまだ一定のワクの中にあればよ
し。しかしそのワクを超えると、ものの見方が、否定的になること。「世の中、狂っている」「希望
はない」「どうせ人類は、滅亡する」と。

 最終的には、「死」を考えるようになる。

 いわゆる自殺というのは、この否定的なものの見方の、ゴールに位置する。(そう言えば、三
島Y、太宰O、それに芥川R、川端Y、みんな、自殺しているぞ!)

 以上をわかりやすく図式化すると、こうなる。

(孤立感)+(劣等感)=(自己と他者の誤認識)……→(自己と他者の否定)=(自殺)

 子どもの世界でも、まったく、同じことが言える。最近でも、自殺系サイトが、大はやりという。
ときどき、集団自殺が新聞をにぎわす。もちろん個人の自殺も、それ以上に多い。

 私の近所でも、1人の青年が、最近、自殺した。世間的には、病死ということになっている
が、自殺だったという。人の死を軽々に論じてはいけないが、その背景に孤立感と劣等感があ
ったのではないかと思う。その青年のばあいも、自殺する前の数年間、ほとんど他人との接触
をしなかったという。

 ちなみに、平成15年度(03)の若年者の自殺数は、つぎのようになっている。

    0〜19歳   ……  613人(男 365人、女 248人)
   20〜19歳   …… 3353人(男 2357人、女 996人)
                        (警察統計資料より)

 全体としてみれば、平成10年度の4192人から、3966人へと減っているが、しかし「減っ
た」という変化でもない。

 だからどうしたらよいか……。私には、わからないが、孤立感と劣等感は、子どもには、もた
せてはいけない。

 私のばあい、幼児教室では、その子どものよい点や面をみつけたら、とにかく、こまめにほめ
るようにしている。「君は、すごいね」「ほほう、すばらしいね」と。みなの前で、おおげさにほめ
たたえるのもよい。

この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、まっすぐ、伸びてくれる。

 この方法は、すぐ、家庭でも、応用できる。ぜひ、ためしてみてほしい。

【子育て、一口メモ】

●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえ
ば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始め
るということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そ
もそも、その原点からまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の悪循
環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめ
て、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親
ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一
度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自
信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言え
ば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、
字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、
ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自
信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼく
はダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方
は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれ
ば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の
世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情
表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子ども
にやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがす
る。そういう子どもを、すなおな子どもという。
(はやし浩司 劣等感 孤立感 子どもの自殺 自殺 子供の自殺 自己の誤認識 自己否定
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(426)

●学習指導要領

 平成14年(02)、新学習指導要領が、公表された。全体として「生きる力」に力点が置かれ
ている。
 
 その第一章・総則、第3には、つぎのようにある。

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第3  総合的な学習の時間の取扱い

【2】総合的な学習の時間においては、各学校は,地域や学校,児童の実態等に応じて、横断
的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行
うものとする。

【2】総合的な学習の時間においては、次のようなねらいをもって指導を行うものとする。

(1)自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や
能力を育てること。

(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組
む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること。

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 わかりやすく言えば、自分で問題を見つけ、自分で考え、自分で行動できる子どもということ
になる。

 簡単そうで、簡単でない?

 だれでもできそうで、できない?

 考えることには、ある種の苦痛がともなう。だからだれしも、できるだけ考えることを避けよう
とする。「考えるだけで、頭が痛くなる」と言う人もいる。(本当に痛くなるかどうかは、別として…
…。)

 しかし子どもでも、考えることが好きな子どももいれば、そうでない子どももいる。このことは、
パズルなどを出してみると、わかる。「やる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる子どもも
いれば、「いや……」「やりたくない……」と言って、逃げてしまう子どももいる。

 そのちがいは、小学1年生のときには、はっきりしている。それは運動に、似ている。「外で遊
ぼうか?」と声をかけたとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、「いや…
…」「やりたくない……」と言って、逃げてしまう子どももいる。

 どこが、どうちがうのだろう?

 先日も、私は、ある人に、魚釣りに誘われた。小さな漁船を借り切って、沖あいに出るという
ものだった。しかし私は、川でなら魚を釣ったことがあるが、海では、ない。それに魚釣りは、ど
こか残酷で、私の趣向には合わない。

 そのある人は、「楽しいですよ。一度、やってみなさい」と、さかんに言ったが、私は結局は、
「やりたくないので……」と逃げてしまった。

 で、そのとき私は、なぜ逃げたか?

 まず、魚釣りのおもしろさが、脳にインプットされていなかった。つぎに船にまつわる、いやな
思い出が、どっと、頭の中に浮かんだ。私は船酔いしやすいタイプ。船に乗るたびに、ゲーゲー
と、ものを吐く。

 つまり魚釣りに行こうという意思を、ちょうどクサリか何かで、うしろへ引っ張るかのようにし
て、自ら、消してしまった。

 考えることから逃げてしまう子どもも、そのときの私の心理状態と同じと考えてよいのではな
いだろうか。

 まず、考えることのおもしろさを知らない。つぎに、考えることにまつわる、いやな思い出がそ
の子どもの足を引っ張る。

 このことは、年中児に名前を書かせてみると、わかる。「名前を書いてみようね」と声をかけ
ただけで、体をこわばらせる子どもは、20〜30%はいる。中には、鉛筆をもったまま、涙ぐん
でしまう子どももいる。文字に対して、ある種の恐怖感をもっているためである。

 理由など、改めて書くまでもない。またそういう子どもが、小学校へ入ると、どうなるか。それ
についても、ここで改めて書くまでもない。

 この問題を大きく考えれば、そのまま、(生きる力)にも応用できる。

 子どもの中に生きる力を養うためには、生きることの喜びを教える。楽しさを教える。そうした
無数の経験が積み重なって、「生きたい!」という願望につながる。

 ただここで誤解してはいけないのは、享楽的な楽しみにふけさせることは、ここでいう(生きる
楽しさ)ではないということ。

 生きる楽しさというのは、夢と希望をもって、何かの目標に向って進むところから、いわば副
次的に生み出される。

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、そうした子
どもの希望を、前向きに伸ばしていくということ。「じゃあ、ヒヤシンスの球根を育ててみましょう
ね」と。

 子どもは毎日、ヒヤシンスの球根が成長するのを見ながら、翌日がくるのを楽しみにする。そ
の結果として、子どもは、生きる楽しさを覚える。「さあ、今日は、算数教室へ行くのよ」「明日は
ピアノ教室よ」では、子どもの夢を育てることはできない。さらに、「今度のクリスマスには、テレ
ビゲームを買ってあげるわよ」では、子ども自身が、自ら目標に向う達成感を覚えることはでき
ない。

 新・学習指導要領は、すばらしい内容だが、あえて一言。小学校へ入学してからでは、遅す
ぎるのでは……? これは幼児教育の世界の話ではないか? すべてが幼児教育の範囲と
は言えないが、ここにも書いたように、自分で問題を見つける力にせよ、自分で考える力にせ
よ、自分で行動できる力にせよ、その大半は、小学1年生に入学するまでには、ほとんど決ま
っている。


●負けを認めて生きる

負けを認めて生きる、すばらしさ、やさしさ、すがすがしさ。
意地もあるだろ。プライドもあるだろう。世間体もあるだろう。
しかし負けを認めて生きる、生きザマにまさる生きサマはない。

気負うことはない。がんばることはない。つっぱることもない。
頭をさげて、腰をまげて、にっこりと笑って、すみません、と。
それでよい。あなたの心に、さわやかな風が、かけぬける。

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 年をとることのすばらしさの一つは、負けを知ること。誤解がないように言っておきたいが、負
けることは、恥でも何でもない。敗北感を味わう必要はない。負けることの美しさは、それを知
ったものでないとわからない。

 まず、体力で負ける。つぎに知力で負ける。それを繰りかえしていると、身も心も、ボロボロに
なる。ボロボロになったところで、もとのキズがわからなくなる。

 バカにされる。無視される。じゃまにされる。若いころは、それらにいちいち反応する。怒った
り、泣いたり、つづいて、ときには、復讐を誓ったり、報復したりする。しかしそうなったとたん、
心は動揺し、心の平安は消える。

 たとえば、少し前、こんな事件があった。

 80歳を過ぎた男性が、わずか数坪の土地のことで、隣人と、裁判をしていた。ふつうの男性
ではない。先祖は、そのあたりでも、昔からの大地主。千坪単位の土地を、あちこちにもってい
た。

 そんな男性が、たかが数坪の土地のことで、「オレの土地だ」「お前の土地ではない」と。

 長年の確執があったのだろう。それはわかるが、しかしその男性は、残り少ない人生を、どう
考えているのだろうか。「私なら……」という言い方はしてはいけないのかもしれないが、私な
ら、そんな裁判をしているヒマはない。そんな裁判を繰りかえして、心をわずらわせたくない。

 あるいは、年をとればとるほど、財産に執着するようになるものなのか。近所の人の話では、
その男性は、道をはさんで、大声で怒鳴りあっていたという。

 今は、まだ80歳の人の心境が、私には、よくわからない。そのうち自分が80歳になったら、
そのときの心境を、また書いてみたい。その年齢には、その年齢の未知の心境があるのかも
しれない。

 が、もし、その老人が、負けを認めたら、どうなるだろうか。数坪の土地は失うかもしれない
が、しかしそれと引きかえに、心のやすらぎを覚えるにちがいない。負けたことで失うものより、
やすらぐことで得るもののほうが、はるかに多い。

 そこで昔の人は、こう言った。『負けるが、勝ち』と。負けることで、結局は、勝つことになる、
と。

 負けることで、心におおらかさが生まれる。
 負けを認めることで、心に余裕ができる。
 負けたとたん、相手に、笑顔が生まれる。
 しかし、それだけではない。

 負けることによって、それまで見えなかったものが、見えてくる。何が大切で、何が大切でな
いか、それがわかるようになる。

 さらに、負けることで、失うものは何もない。むしろ、事実は逆で、負ければ負けるほど、人
は、さらに大きなものを手に入れる。人間関係にしても、利益にしても。

 だからあなたも、勇気をもって、負けてみよう。あなたも、すぐ、負けることのすばらしさを体感
するはず。
(はやし浩司 学習指導要領 生きる力 総合的な学習)

●生涯学習

 市町村の教育委員会へ行くと、「生涯学習」という言葉が、目につく。生涯学習課というのもあ
る。

 しかし生涯学習とは、何か?

 もともと欧米では、大学や大学院というのは、その道のプロを育てるという意識が強い。だか
ら、社会人になったあとも、ときどき大学や大学院にもどって、そのつど必要な知識を補充する
という制度が、確立している。

 たとえば、オーストラリアの友人のM氏は、地方のD町の診療所で医師をしている。そのM氏
にしても、定期的に、母校や近くの大学へ行っては、研修を受けたり、反対に、講師をしたりし
ている。

 それを欧米では、リカレント教育※という。

 生涯教育というと、いわゆる教養教育を想像する人も多いかもしれないが、リカレント教育と
いうのは、もっと、専門的。リカレント教育イコール、専門教育と考えてよい。医師が、大学へも
どって、詩や俳句の勉強をするようなことを、リカレント教育とは言わない。

 で、日本も欧米に遅れること、50年? それとも100年? やっとそのリカレント教育が始ま
った。始まったというより、規制が緩和された。大学や大学院で、社会人を対象とした公開講座
がもたれるようになった。

 それが生涯学習である。

 が、この日本では、この意識が、なかなか定着しない? 子どもをもつ親にしても、子どもに
向かって、「勉強しなさい!」と言う人は多いが、自分で勉強している人は少ない。たいていの
親は、こう言う。

 「私は、終わりましたから」と。

 つまりもう終わったから、勉強しなくてもいい、と。

 もともと勉強というのは、学歴を身につけるためという意識、つまり学歴意識が強い人ほど、
そういう考え方をする。中身より、学歴というわけである。

 そのため、日本人のばあい、とくに家庭に入った女性のばあい、結婚時をピークに、それ以
後、知的レベルは、低下の一途をたどる。(……とみてよい。失礼!)知識にせよ、教養にせ
よ、自ら積極的に補充してこそ、現在のレベルを維持できる。もしその努力を怠ったら、あと
は、低下するのみ。

 それは健康論に似ている。

 毎日、運動をしたり、スポーツをしたりするから、健康は、維持できる。もしだらしない生活を
したら、その時点から、体は、ナマル。(「ナマル」というのは、健康力が低下するという意味。)

 だから生涯学習が必要なのである。いつも前向きに学習していく。

 だから、世の母親たちよ、もっと、勉強しようよ。
 もっと、はやし浩司のマガジンを読もうよ。(←これはコマーシャル。)

 人間は、生涯、学習すべき、生き物なのだア!
(はやし浩司 生涯学習 リカレント学習 健康論 健康力)

(注※)「リカレント教育」……「リカレント」というのは、「還流する」という意味。1973年に、OE
CD(経済協力開発機構)が、キャリアアップのために提唱した、教育法をいう。「血液が体内を
環流するように、教育が、その人の生涯を還流するという発想にもとづく」(心理学用語辞典)と
ある。


●健康力

 たまたま今、「健康力」という言葉を思いついた。……と考えて、グーグルの検索エンジンを
使って、「健康力」を検索してみたら、ナ、何と、700万件以上もヒットした!

 驚いた。すでにそれを考えている人が。そんなにも多く、いたとは!

 で、健康と健康力。少し、意味が、ちがう。

 健康というのは、まあ、ほどほどに体の不調がない状態をいう。しかし健康力というときは、
そうした健康な状態を維持する「力」のことをいう。

 だから「健康力を養う」とは言うが、「健康を養う」とは言わない。

 たとえば日々にジョギングをしたり、サイクリングをしたりする。それは健康力を養うためであ
る。そしてその結果として、健康は維持される。

 私の知人に、40歳くらいの女性がいる。年に数度くらいしか、会わないが、その女性は、会う
たびに、どんどんと不健康な顔つきになっていく。先日も、あるものを届けたら、ソファに寝ころ
んでいたらしく、ボーッとした顔つきをしていた。

 40歳といえば、女性ざかり。色気も頂点に達するころである。が、それがない。ないばかり
か、話し始めるとすぐ、病気の話。「ここが痛いです」「ここも痛いです」と。

私「何か、運動をしたら? 公民館には、いろいろなスポーツ・サークルがありますよ」
女「今は、○○が痛いから……。また元気になったら、行きます」と。

 健康力というのは、自ら積極的に補充してこそ、維持できる。「今日は健康だから、明日は運
動しなくてもいい」というわけにはいかない。また、健康力というのは、そういうものではない。

 言いかえると、健康を維持するということは、いかにして、自分の生活の中で、運動なりスポ
ーツをする習慣をつくるかということになる。一時的では意味がない。無理な運動でも、意味が
ない。毎日、少しでもよいから、コツコツとする。それが健康力となり、その人の健康を維持す
る。

 いろいろな方法がある。

(1)クラブへ通う。(公的クラブは、費用も安い。)
(2)仲間をつくる。(仲間と人間関係をつくりながらする。)
(3)必然性をつくる。(通勤のある道のりを歩くとか、自転車に乗る。)
(4)趣味を生かす。(山歩き、散歩、登山など。)

 私のばあい、もともと意思が弱いので、今は、(3)の方法を使っている。自宅から教室まで
の、片道7キロ、往復14キロを、自転車で通っている。途中、ちょうどよいくらいの山坂があ
る。

 ワイフのばあいは、(1)と(2)。だれとでも仲よくできるタイプなので、みなとワイワイやりなが
ら、スポーツを楽しんでいる。ときどきサボったりすると、友だちから、「どうかしたの?」と電話
がかかってきたりする。

 たまたま「健康力」という言葉を思いついたので、それについて、考えてみた。
(はやし浩司 健康 健康力)


●スケベ力

 毎日、こりもせず、スケベ・メールが届く。「未承諾」と書いてあるのは、まだよいほう。書いて
ないのも、多い。

 (「未承諾」と書いてあるメールは、即、フィルターにかけ、削除。)

 さらに最近では、実に思わせぶりのものが多い。「先日は、いろいろありがとうございました。
SS子です」とか、件名に書いてあると、思わず、開きそうになってしまう。

 私も、もともとスケベな人間だから、興味がないわけではない。しかし、こうまで雨、アラレの
ように送り届けられると、もう、うんざり! 「いいかげんにしてくれ!」と思わず、叫びそうにな
る。

 しかし人生も半世紀をすぎると、スケベのもつ意味というか、はかなさというか、それがよくわ
かるようになる。男も、女も、同じ。それがよくわかるようになる。が、だからといって、スケベ力
を否定しているのではない。

 このスケベ力が、人間が生きる原動力になっている。フロイトも、そう言っている。

 たとえば、ビデオにしても、そのあとのインターネットや携帯電話にしても、このスケベ力があ
ったからこそ、飛躍的に進歩したという。スケベサイトあっての、ホームページというわけであ
る。もしスケベサイトを禁止してしまったら、ホームページは、こうまで進化しなかったと言われ
ている。

 要するに、男も、女も、スケベが好きということ。これは事実。あとは、それを隠すか、堂々と
披露するかの、どちらか。

 ところで、ワイフが、こんな情報を、どこからか仕入れてきた。かなり、鼻血もの!

 あるところに、夫婦関係を調整するアドバイザーがいるそうだ。男性。年齢は、50歳くらい。
まさに男のスケベ盛り。

 セックレスになった若い妻を指導するのだ、そうだ。

 方法は、簡単。その女性に、セックスの指導をするという。たがいに、素っ裸、で。そしてセッ
クスの喜びを、もう一度、基礎から(?)教えなおすという。

 「それ、売春じゃ、ないの?」と聞くと、「女性のほうが、お金を払うから、売春では、ない」との
こと。「浮気だよ」と言うと、「指導だから、浮気ではない」とのこと。ナルホド!

 で、結構、繁盛しているらしい。その男性は、こう言っているという。「セックスに特別な罪悪感
をもたせてはいけない。楽しむべきものとして、楽しむのが、よい」と。これまた、ナルホド!

私「ダンナは、自分の妻が、そういうところに通っているのを知っているの?」
ワ「知らないと思うわ。そういう話はしないもの」
私「年齢制限はあるの?」
ワ「一応、若い妻だけだそうよ」と。

 何を考えている、このスケベ男! 私には、その下心が、ヨ〜ク、わかる。それにしても、こん
な地方都市にまで、そういうことをする男や妻が出てきたこと自体、驚きとしか、言いようがな
い。

 が、所詮、セックスは、無。みなさん、おおいに、がんばってください!


●依存性と自己中心性

 いつか、自己中心性には、(1)強者のジコチューと、(2)弱者のジコチューがあると書いた。

 ふつう自己中心性を問題にするときは、強者のイコチューをいう。自分勝手でわがまま、利
己的で、自分本位なことをいう。

 しかし弱者のジコチューもある。その一つが、依存性である。ふつう、依存性が身につくと、し
てもらうことしか考えなくなる。この(してもらう)という受益姿勢そのものが、ジコチューの表れと
考えてよい。

 こんな例がある。

 あるところに、1人の男性がいる。今年、55歳になったと聞く。生活力は、ない。姉が近くに
住んでいる。姉は、60歳くらいだと聞く。

 その男性は、毎日の食事すらも、姉に届けてもらっているというが、自分からは、いっさい、
何もしない。が、ときには、その姉が、食事を届けることができないときもある。姉の嫁ぎ先は、
ミカン農家。その時期になると、収穫のため、それこそネコの手も借りたいほど、忙しくなる。

 が、そういうときでも、その男性は、じっと、家の中で、姉が来るのを待っているだけ。

 近所の人が見るにきかねて、「今日の食事はどうしたの?」と聞くと、その男性は、「○○(姉
の名前)が、忙しくて、届けてくれない……」と。

 そこでその近所の人が、「だったら、あなたも、ミカンの収穫を手伝いに行ってはどうなの?」
と言うと、「そう……?」と答えたという。

 この話は、山荘の近くに住む人から聞いた話だが、依存心のある人は、そこまでいく。つまり
自分のことしか、考えていない。どこまでいっても、自分は世話をしてもらうべき人間と考える。

 一般論(EQ論)からすれば、自己中心的な人は、それだけ、人格の完成度が低いということ
になる。言いかえると、受益型の依存性の強い人は、それだけ、人格の完成度が低いというこ
とになる。

 自己中心性について書いた原稿の補足として、この原稿を読んでもらえれば、うれしい。

 なおついでに一言。

 子どもでも、してもらうことが当たり前と考える子どもは、少なくない。この受益型依存性の強
い子どものばあい、その親に向かって、子どもの依存性を問題にしても意味はない。

 親自身が、その受益型依存性の強い人であるケースが、ほとんど。わかりやすく言えば、依
存性の強い子どものばあい、親自身も、その依存性が強いとみる。つまり親自身に、その依存
性を理解するだけの、客観的な判断能力がない。

 こうした依存性は、相互的なもので、子どもの問題というより、親の問題と考えたほうがよい。
親自身が、依存性が強いため、自分の子どもの依存性に気づくことがない。だからたがいにベ
タベタの相互依存関係をつくる。親は、それに気づくことがない。
(はやし浩司 弱者のジコチュー 強者のジコチュー 自己中心性 受益型依存性 依存心 
子どもの依存性)


●雑感(1)

 昨夜(11・27)、テレビを見ていたら、韓国の俳優のY様の写真展の模様が報された。その
中で、1人の女性(40歳くらい)が出てきて、こう言った。

 「今朝は、4時にここへ来て、並んで待っていました」と。見ると、ハンカチで、涙をふいている
ではないか! 感激して、泣いているとのこと。

 その光景を見たとき、5、6年前の、あのたまごっちブームを思い出した。当時、死んだ(?)
たまごっちを供養するための寺まで、現われた(東京都内)。

 ウソや冗談では、ない。本気だ。NHKの特集、「電脳の世界」でも紹介されていた。で、驚い
たのは、そこへわざわざ北海道から、たまごっちの供養に来ている女性もいたことだ。年齢
は、25歳くらいだった。

 そういった女性の脳みその構造は、いったい、どうなっているのか! ……と、私はそんなふ
うに考えてしまう。子どもならまだしも、大のおとなが! この日本では、つぎからつぎへと、わ
けのわからないことが起きる。つまり、それだけ、ノーブレインな人が多いということか。

 ワイフにそのことを話すと、ワイフの友人にも、Y様の熱狂的なファンがいるそうだ。「ダンナ
は、知っているの?」と聞くと、「ダンナさんは、知らないんじゃ、ないのオ……」と。

 だから、「アホ」という言葉は使えない。それで「ノーブレイン」とした。同じような意味だが…
…。


●雑感(2)

 今日(11・28)は、日曜日。これから市の反対側にある、パソコンKという店に行くつもり。

 ほしいのは、パソコン自作キット。が、今日は、カタログ集め。ハハハ。

 おもしろそうだ。楽しみだ。ゾクゾクする。今、流行している、テレパソ(テレビも見られるパソ
コン)は、私には、必要ない。それにハードディスクも、60〜80Gバイトもあればじゅうぶん。テ
レビ番組を録画することは、ない。

 フライト・シミュレーターなどのゲームはしたいので、それなりのグラフィックボードは、ほしい。
できれば、GeForceX/5700〜。

 店に行く前に、おさらいをしておこう。単語をしっかりと頭にたたきこんでおかないと、店員に
バカにされる。

CPU……ペンティアム4 3GHz〜(あるいはアスロン64、3200+以上)
メモリーは、最低でも512MB,しかし1GBはほしい。
HDD……60〜80GBでじゅうぶん。
グラフィックボード……RADEON 9600XT もしくは、GeForceFX5700〜以上
あとは、光学ドライブだが、DVD−RW。値段と見くらべながら、決める。OSは、WIDOW・XP
/SP2だが、これは常識。

 安い粗悪品を買うと、すぐ故障するらしい。外国製のコンデンサーを使ったため、1、2年で、
故障してしまったという話を、友人から聞いたばかり。気をつけよう。 


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【2005年の抱負】(11月28日記)

 今年も、残すところ、あと1か月と少し。(この原稿は、12月29日のマガジン用。)

 2005年は、すぐそこ。いろいろ考える。とくにしたいことはないが、買っただけで、飛ばしてな
いラジコンのヘリコプターがあるので、それを正月休みに飛ばしたい。

 それと、パソコンの自作に挑戦してみたい。PEN4・3GHz(CPU)、メモリーは、1Gバイト
の、ものすごいパソコンを、自作してみたい。今、あちこちから資料や雑誌を集めているとこ
ろ。

 X月には、オーストラリアへ行くつもり。ワイフが、行きたいと言っている。(「予定は公開しない
ほうがよい」というアドバイスを、読者の方より、もらったので、X月としておく。「講演日時や場
所を公開するのは、空き巣に来てくれと書くようなもの。だからやめたほうがいい」というアドバ
イスも、もらった。)

 あとは、マガジンを発行すること。つらいときや、苦しいときもあると思うが、がんばるしかな
い。

 というわけで、12月29日(水)号は、これでおしまい。次号、12月31日号は、簡略版。今の
ところ(11月28日現在)、原稿は、書きつづけているので、正月号は、そのまま発行するつも
り。正月に役立つ記事を、みんさんにお届けするつもり。

 では、みなさん、よい新年をお迎えください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(427)

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いよいよ年末!
今日は、少し発想を変えて、日本論!
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●日本よ、元気を出そう!

【少子高齢化は、心配ない!】

 2030年から、40年にかけて、毎年、約80万人ずつ、日本の人口は減ると言われている。
いわゆる少子高齢化の時代を迎える。そしてこのまま進めば、2050年には、2・8人に1人
が、65歳以上の高齢者になるという。

 老害論は、ここから生まれる。

 しかし心配は、無用! 解決方法がないわけではない。ちゃんと、ある! 

もっとも手っ取り早く、確実に解決する方法は、就労に対して、年齢差別を撤廃すること。わか
りやすく言えば、現在ある定年制度を、撤廃し、能力があり、体力のある高齢者には、もっと仕
事をしてもらう。

 高齢者だって、仕事をしたいのだ!

 日本人ほど、高齢者の労働意欲が高い国は、ないそうだ(和田秀樹氏指摘)。98年の統計
をみても、65歳以上で、労働の意思と能力をもつ人の割合は、36%もいる。

       日本……     35・9%
       フランス……    1・6%
       ドイツ……     4・5%
       アメリカ……   16・5%、だそうだ(同氏)。

 つまり少子社会が問題ではない。今のように、老人を老人あつかいする社会こそが問題なの
だ。

 そこで最近、とみに騒がれだしたのが、65歳定年論。その65歳定年論には、おおむね賛成
だが、これには、しっかりとした条件がある。

 いくら65歳定年制といっても、その能力もない高齢者が、その地位と役職にしがみついて、
のんべんだらりと65歳まで過ごしたのでは、意味がない。またそのための65歳定年論という
ことなら、反対である。

年齢差別を撤廃するためには、当然のことながら、高齢者も、若年者と同じ土俵に立たねばな
らないということ。高齢者だからという、甘えは、許されない。健康面においても、知力面におい
ても、つねに鍛錬と訓練を繰りかえさねばならない。

 かく言う私も、悠々自適(ゆうゆうじてき)な老後生活には、魅力を感じない。毎日、盆栽と庭
いじりをしているような老後に、どんな意味があるというのか。老人といっても、死ぬまで生き
る。生きるということは、つねに前向きに生きることをいう。

 だから、これからの高齢者は、つまり私たちの世代は、体や頭がサビつく前に、自分を磨か
ねばならない。それは自分のためであると同時に、これからの日本のためでもある。

 私たちは、今、若い人たちに、こう叫ぼうではないか。

 「少子高齢化、恐れるに足りず。われわれ、高齢者が、死ぬまで働く。安心しろ!」と。

 仮に私たち団塊の世代(昭和22〜24年生まれ)が、70歳まで働いたとすると、今騒がれて
いる、少子高齢化の問題は、霧散(むさん)する。

さあ、戦後の、すばらしい平和と繁栄の時代を生きた、私たちよ。その感謝の念を、今こそ、つ
ぎの世代に還元しようではないか!。

そのためにも、働こう。そのためにも、健康と知力を維持しよう!


【環境問題は、心配ない!】

 喜ぼうではないか、日本のみなさん! たしかにこれから先、地球温暖化は、進む。地球の
気温は上昇しつづける。

 が、日本は、だいじょうぶ! 四方を海に囲まれ、中央には、3000メートル級の山々をかか
えている。しかも大陸から離れた、島国! 決して日本だけがよければと考えてい
るわけではない。しかしまず、この日本が大切!


 水不足は、局地的に発生することはあっても、日本全体が、水不足になることはない。大陸
の気候のように、めちゃめちゃな気候変動もない。温暖化になることで、食物はかえってよく育
つ。

 もちろん地球温暖化の影響は、あらゆる面に、及ぶ。決して無視できない。しかし、世界がこ
うむるだろう被害とくらべると、日本が受ける被害などいうものは、比較にならないほど、軽い。

 そういう意味では、仮に世界が滅んでも、日本は、最後の最後まで生き残る。その間に、いろ
いろな対策が講じられることになる。


【K国の核問題は、心配ない!】

 K国は、早ければ05年度中に。遅くとも、数年以内に、自己崩壊する。ミサイルを飛ばした
り、核実験をしたりする程度のことはするかもしれないが、そこで、万事休す。K国は、崩壊す
る。

 幸いになことに、日本とK国の間には、じゅうぶんなほど広い日本海がある。この日本海が、
天然の砦(とりで)となって、日本を守る。

K国の戦艦、駆逐艦は、どれも20年以上前の老朽船ばかり。しかも旧ソ連からの払いさげ。

たとえば軍艦の数にしても、実戦能力のある船は、K国には、数隻しかない。1975年竣工し
たフリゲート艦「ナジン」、1955年ソ連より引き渡されたコルベット「トラル」など。これらの船に
しても、20年以上も前に建造された老朽船。自衛隊が空撮した写真をみると、あちこちサビだ
らけ。「整備も悪いので、使いものにならない」(某軍事雑誌)とのこと。

 浜松市の航空自衛隊に務めていたY氏(現在、沖縄に転勤)も、私に、こっそりと、こう話して
くれた。

 「現在の戦闘能力は、1対60です」と。

 つまり日本の戦闘機は、1機で、K国の60機の戦闘機に対応できる、と。しかし実際には、K
国が誇る戦闘機のMIG29(最新鋭機)にしても、今、飛べるのは、たったの2機しかないそうだ
そうだ(週刊誌)。

 ただ潜水艦だけはこのところ急ピッチで建造しているらしい。が、心配無用。ミゼット級潜水
艦で、潜水能力はたったの七〜八メートル。これでは潜水艦というより、もぐって進む小型戦闘
艦といった感じ。

 頼もしいぞ、日本の自衛隊! 

 何と言っても、日本の自衛隊。世界ナンバー2の実力と装備を誇っている!


【日本の経済は、心配ない!】

 このところの中国特需で、日本の産業界は、わいている。03年度だけでも、対中国輸出は、
前年度比43・6%増の、572億ドル。

 04年度前半期(1−6月)だけでも、448億ドルに達している(JETRO統計)。このままいけ
ば、04年度の終わりには、対中輸出額は、1000億ドルを超える!

 国民1人あたり、約1000ドル! 10万円! おかげで日本の産業界は、息をふきかえし
た! もちろん、相手は、中国だけではない。アメリカ、EUとの貿易も、好調! 日本よ、何を
心配するのか?

 銀行がかかえる、不良債権問題は、もう峠(とうげ)を越した。同時に、自動車や先端工業
が、モリモリと元気になってきた。見よ、街を走る新型車の群れ! 見よ、パソコンショップの新
製品! どこの国が、そんなものを作れるのか!

 新幹線の横腹には、「Ambitious Japan」と買いてある。「日本、負けるものか!」という意
味か。私たちが誇るべきは、新幹線ではない。その新幹線が、すでに、35年以上も前から、
走っているという、その事実だ。私たちが、がんばってきたという、その事実だ。

 日本の経済は、心配ない! 日本の実力は、そうは簡単には、つぶれない。


【日本の教育は、心配ない!】

 通学している子どもたちの列を見ながら、アメリカ人の友人が、こう言って驚いていた。「日本
では、子どもだけで、通学するのか?」と。何でも、アメリカでは、想像もつかない光景らしい。

 そう、安全な国、日本! 子どもたちが、安心して暮らせる、日本! 平和で、のどか。東アジ
アの国の中で、徴兵制のないのは、この日本だけ。教育のレベルは、何も、教科内容のレベ
ルだけで、決まるものではない。

 先日も、こんなことを言う中国人がいた。「中国のほうが、教育レベルが高い」と。理由を聞く
と、こう言った。「中国では、掛け算の九九を、小学校の1年生で教える。日本では、2年生で
はないか」と。

 バカめ。そんなことで、教育のレベルは、決まらない! 教育のレベルというか、次元がちが
いすぎる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●スペインにお住まいの、ITさん(父親)より

++++++++++++++++++++++

ときどき紹介している、スペインにお住まいの
ITさんより、こんなメールが届いています。
紹介します。(11月29日受け取り)

++++++++++++++++++++++
 
皆さん、お元気ですか。

スペインの生活も3年半が過ぎました。

今年の日本は台風や地震で大変でしたね。

8月はスペインのバスク地方とカタルーニア地方に旅行に、行ってきました。

バルセロナの北の町、サルバドーレ・ダリの生誕地、

フィゲレスではダリ美術館に行ってきました。

ダリ生誕100年ということで、混んでいました。

110月にYK(娘)は学年旅行でロンドンに1週間、行ってきました。

やはりクラス・メートとの旅行は楽しかったようで、特にマダム・タッソーの

蝋人形館が気に入ったようでした。

ミュージカルのFameを観劇したり、日本ではできない体験をしたようです。

11月に入り、ひょんなことから、週末、エジプトのカイロとアレキサンドリアへ

旅行に行ってきました。

ピラミッドやスフィンクスを見て感動しましたが、何といってもマーケット(バザール)

はKZ(妻)や、YK(娘)にはエキサイティングな体験だったようです。

ひっきりなしに声をかけてくる売り子たちが、あらゆる言語で声をかけます。

英語、スペイン語、イタリア語、日本語、中国語といった具合で、

売り子から吹っかけられる値段を、どこまで値切り倒せるか、価格交渉の世界です。

まったくカオス状態で、中世のアラビアンナイトの世界でした。

もうすぐクリスマスで、ヒホンの街中もクリスマスの飾り付けになってきました。

皆さんはいかがお暮らしですか、暇な時にメール下さい。

IT家の近況報告でした。

ではまた。 

++++++++++++++++++++++++

【ITさんへ】

異文化と、かくも多彩に接触できるとは! うらやましいですね。この日本では、いまだに英語
教育は必要かいなかと、議論しているレベル。しかも反対派の学者先生たちは、「かえって日
本語が混乱する」とか、「日本語もしっかりしていない子どもに英語は、必要ない」とか、トンチ
ンカンなことばかり言っています。

 もしそうなら、YKさん(娘さん)は、今ごろ、どんな話し方をしているのでしょうか。

「ヲースー、YK、です、ウンポコ、セニョリータ、パリブ、イングリシュ?」

 そんなことは、ないですよね。

 日本も、日本人も、どんどんと異文化に触れ、それを吸収し、同化していかねばなりません。
そのあとのことは、そのあとの人たちに任せればよいのです。

 たとえば戦前、あれほどまでに、「米英鬼畜」とさげすみ、欧米文化を否定していた日本が、
今、すっかり欧米化されました。結果、私たちは、その中で、新しい日本を築きました。しょせ
ん、保守主義というのは、その程度のものなのです。

 YKさんのような子どもが、これからの日本を支えていくのですよ。うらやましいです。日本で
も、同じような教育ができないものかと思っています。実験的に、英語だけで授業をする学校
も、少しずつですが、現われていますが……。

 少し早いですが、メリ−クリスマス! (11月29日記)


●ウクライナ

 ウクライナ……英語では、ユークライナという。そのウクライナ情勢が、混沌(こんとん)として
きた。大統領選挙をめぐり、親欧派の野党と、親ロシア派の与党が、大統領選挙をめぐって、
一触即発の状態だという(11月28日)。

 そのウクライナ。ウクライナというより、ウクライナ人について、私には、こんな思い出がある。

 学生で、オーストラリアにいたときのこと。友だちの部屋に遊びに行った。同じ家に、ウクライ
ナ人の留学生も、寝泊りしていた。オーストラリアの学生たちは、数人で、一軒の家を借り、共
同生活をすることが多かった

 友だちは、あいにくと、いなかった。そこで台所のほうへ行くと、そこにウクライナ人の留学生
と、もう1人、同じくウクライナ人の、彼の友人がいた。ガールフレンドだったと思う。強い、おか
しな、なまりのある英語を話していた。

 そのウクライナ人が、私に、「ソーセージを食べるか?」と聞いた。私は、「ありがとう」と言っ
た。

 しばらくすると、そのウクライナ人の留学生は、皿に、二本くらい、ソーセージを焼いてもって
っきてくれた。私はそれを食べた。妙に白っぽい、フニャフニャとしたソーセージだった。

 台所には、そのソーセージが入っていたと思われる空き缶があった。見ると、犬のマークが、
大きく、描かれていた。私は、「犬印の缶詰」と思った。思って、一応食べ終わったあと、再び、
「ありがとう」と言って、部屋を出た。

 2人のウクライナ人は、私を見て、ゲラゲラと笑っていた。

 で、あとでわかったことだが、その缶詰は、ドッグフードだった。つまりそのウクライナ人たち
は、私にドッグフードを食べさせた。

 以来、私は、ウクライナが大嫌いになった。ウクライナという名前を聞いただけで、あのときの
不快感が、今でも、どっと、胸をふさぐ。

 その国への感情というか、印象は、そうして作られる。そして一度、できると、それを変えるの
は、容易ではない。で、今、そのウクライナのニュースを、複雑な気持ちで見ている。ほとんど
のウクライナ人は、そうではないと思う。よい人たちだと思う。しかし、どうも、印象が、悪い。
「あいつらがいるウクライナか!」と、思ってしまう。

 もちろんウクライナ人のあの留学生たちのことを、心配しているのではない。「どこかにいる
のだろうな」とは思うが、そこまで。もっと多くのウクライナ人とつきあえば、誤解も解けたのかも
しれないが、私が知っているウクライナ人は、その2人だけ。だから、どうしても、その2人をと
おして、ウクライナを見てしまう。

 とても、残念なことだが……。

 そうそう、ウクライナと言えば、昔は、ソ連の一部だとばかり思っていた。が、今は、独立国。
親欧州派が大勢を占めているようだ。自由と民主主義。これが世界が向うべき、流れだと、私
は思う。ウクライナも、その流れに乗ったということか……。


●買い物依存症

S県のAHさんより、買い物依存症についての相談があった。

 相談のメールの転載の許可はいただけなかったので、ここで、テーマとして、「買い物依存
症」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

●買い物依存症

 物欲は、本能か? それとも学習によるものか?

 いろいろ議論はあるようだが、買い物依存症の人を見ていると、本能とも思える。本能といっ
ても、ゆがんだ本能(?)。原点にあるのは、性欲? それとも生存欲?

 Aさん(女性・35歳くらい)のケース。

 夫の実父は、財産家。その父親(Aさんにとっては、義父)から、夫名義の通帳を預かったこ
とをよいことに、Aさんは、お金は、使い放題。1億円近い預金があったという。

 10万円近い、色違いの洋服を何着も買ってしまうというから、スゴイ! 夫に無断で、自分の
部屋を改装してしまったこともある。バッグは、洋服ダンスにいぱい。靴も、帽子も……。

 そういうAさんだが、買い物を楽しんでいるかというと、そうでもない。またほしい物を手に入
れたからといって、満足するといったふうでもない。また買ったからといって、それを使うという
ふうでもない。タンスに入れて、しまっておくだけ。

 一般論として、こうした依存性のある人は、男性のばあいは、パチンコや競馬などのギャンブ
ル。女性のばあいは、買い物に走りやすいと言われている。

 では、なぜ、ムダな買い物をするか?

 ある女性(40歳くらい)は、こう言った。「札束を見せびらかしていると、女王様にでもなったよ
うな気分になる」と。

 このタイプの人は、もともと他者との人間関係が、うまく結べない人と考えてよい。結べないか
ら、(買い物)という行為をとおして、相手(店の人)と、主従関係を結ぶ。相手は、ペコペコする
から、その人にとっては、気持ちがよい。しかし、それだけではないようだ。

 まず、買い物依存症の人は、買う前に、はげしく葛藤する。「ほしい」「でも、買えない」と、頭
の中で、考えることといえば、その「物」のことばかり。昼も夜も、その「物」のことばかり。それ
はものすごい、コンフリクト(心の葛藤)らしい。それから生まれるストレスは、相当なものだとい
う。

 で、ある日、それが臨界点を超えると、がまんできず、買い物に走る。買って、買って、買いま
くる。

 が、それで終わるわけではない。今度は、買ったことを、後悔し始める。この(買う前の葛藤)
→(買うことによる快感)→(買ったあとの後悔の念)というプロセスは、過食症の人の心理プロ
セスと、よく似ている。

 (食べたい欲求との葛藤)→(食べることによる快感)→(食べたあとの後悔の念)と。食べた
あと、わざと下剤を飲んだり、胃の中のものを吐きだすこともあるという。

 同じように買い物依存症の人は、買ったあと、自責の念から、自暴自棄になったり、自己否
定を繰りかえす。ますます落ちこんでしまう。Aさんのように、バックの財産家の義父がいるなら
まだしも、たいていは借金に借金を重ね、最後は破産……というケースも、少なくない。

 要するに、こうした買い物依存症の人は、その欲望を、理性ではコントロールできないという
こと。理性の外にある。そういう意味では、ゆがんだ本能ということになる。

 で、こうした買い物依存症的な現象は、ごくふつうの人にもある。私のばあいも、(だからとい
って、私がふつうの人間というわけではないが……。念のため)、ムシャクシャしたときなど、買
い物をすると、スカッとするときがある。

 だから私のばあい、買い物依存症の人の心が、よく理解できる。その心情が、よくわかる。し
かしこういうことも言える。

 「親である」ということは、それ自体が、責任のかたまりのようなもの。したいこともできず、そ
の一方で、したくないこともし、しなければならない。じっとがまんしながら、毎日の生活に耐え
る。もちろんほしいものも、買えない。生活費はともかくも、子どもの学費、老後の費用を考え
たら、なおさらだ。

 それだけでも、かなりのストレスである。

 もっとも、その時点で、夫婦関係、親子関係、家族関係が、良好なら、まだ救われる。しかし
それがおかしくなると、ストレスは、倍化する。「何のための人生だ!」「バカヤロー!」となる。

 もちろん「物」を買ったところで、問題は、何一つ、解決しない。しかし心の中は、スカッとす
る。……と考えると、スカッとする間は、まだ症状も、軽いということか。それにムダなものは買
わない。買ったあとも、ちゃんと、使う。それに買い物依存症の人のように、同じ物は買わな
い。

 ちゃんと、理性で、コントロールしている。

 ……と考えていくと、このあたりに、一本の線を引くことができる。買い物依存症と、そうでな
い買い物の間に、である。

 つぎのような症状が見られたら、買い物依存症ということになる。

( )その物を、ほしくて、ほしくて、たまらなくなる。がまんするのが、たいへん。
( )昼も夜も、考えることは、その物のことばかり。頭から、離れなくなる。
( )で、ある日、お金をもって、それを買いに行く。買うときは、満足感を覚える。
( )同じ物を、いくつか買うときがある。予算をみない。予算を考えない。
( )買ったからといって、使うことはない。買ったまま、箱に入れてしまうこともある。
( )買ったあと、後悔の念や、自責の念にとらわれ、前よりさらに、落ちこむ。
( )こうした行為を、周期的に繰りかえし、家計に大きな影響を与えている。

 子どもでも、これに似た症状を示すこともある。最近では、カード※集めに夢中になる子ども
がいる。

 もしそうなら、その行為自体を責めても意味がない。子どもの心をゆがめている原因をさぐ
る。抑圧された家庭環境など。親の過関心、過干渉も原因となる。過負担、親のか条期待など
もある。欲求不満が日常的につづくと、子どもの心は、変調する。

※カード……デュエルマスターズ・カード、ガッシュ・カード、ポケモン・カード、遊戯
 王カード、デジモン・カード、ドラゴンボール・カード、ドラゴンドライブ・カード、NARUTOカード
など。

デュエルマスターズ・カードは、1パック(5枚入り)で、158円で、おもちゃ屋、コンビニ、デパー
トなどで販売されている。

「少し前には、マジック・ザ・ギャザリングというのもあったけど……」と、子どもたちに聞くと、
「今は、知らない」と。この世界も、めまぐるしく変化しているようである。
(はやし浩司 買い物依存症 依存症 依存うつ)


●デマ、デマ、デマ!

 浜松市T塚町にお住まいの、Mさん(母親)から、こんなメールが、届いている(11・28)。

 「……(前略)……私のところには、口コミで、(BW教室の)いろいろな情報が入ってきていま
す。

『BWに入るには、年中になる4月までに足し算、引き算、ひらがな、カタカナはマスターしておか
ないと入ってから大変だよ。』という話や、『なかなか厳しいけど、やっぱり力はつく。』とか。

自分の子どもの様子を見ていると、とても、はやし先生のお世話になるレベルではないのでは
ないかと思います。

しかし、口コミで、はやし先生の教室の素晴らしさを知り、口コミだけで、子どもを入塾させるの
をあきらめてしまうのは、とても残念に思い、見学だけでもさせていただけたらと思っていま
す。」と。

 まあ、現在、いろいろなデマが、飛びかっているようだ。このところ、数日おきに、いろいろな
話が伝わってくる。

 たいていは、つまりそのデマの出所は、私の教室の父母とは、関係ないところだと思う。よく
わからないが……。しかしこんなデマまで飛んでいるとは……! (驚き!)

 私が、いつ、子どもの能力を問題にした?
 私が、いつ、子どもの文字、数の力を問題にした?

 私は、いつも、子どもを楽しませることだけを考えて、教えている。できる・できないを、問題に
したことはない。絶対に、ない。文字や数をテーマにすることもあるが、それは文字や数のおも
しろさを、教えるため。あくまでも、テーマだ!

 先日も、「BWでは、勉強のできない子どもには、(林が)、意地悪する」とか、「いじめる」とか
いうデマまであった。

 毎回、ほとんど、どのクラスでも、父母が3〜6人、参観している。どうしてそんな教室で、そん
なことができるのか!!!!

 子どもが伸びるか、伸びないかということになれば、伸びるに決まっている! 世界で、最高
の教育を提供している!!!! といっても、方法は、簡単なこと。子どもを楽しませ、喜ばせ
ている。それで子どもが伸びなければ、ウソ。

 さらに、「月謝が、X万円」というデマもあった。とんでもない。月謝は、消費税なしの1万円だ
け。ちまたの幼児教室の中でも、破格に安い。しかも私は、自分が指導・制作した教材すら、
親や子どもに、買わせたことすらない。百科事典(なぜなぜ子ども学習百科)にせよ、雑誌(ハ
ローワールド)にせよ、買わせたことがない。

 すべて手作り。それが、私が、父母に示せる、最大限の良心ではないのか!

 いちいちこうしたデマを気にしていたら、この仕事はできない。それにしても、まあ…
…!!!!

 ただ、このところ、体力的に、しんどくなってきた。そのため、幼児クラスは、1日に、1時間の
1回だけと決めている。


+++++++++++++++++

 2005年度の生徒さんの募集を始めています。

 お近くで、興味のある方は、どうぞ、問いあわせてください。

(はやし浩司のHP トップページ ↓)
 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

(BWクラブ ↓)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

  お待ちしています。

【募集内容】2005年4月からの年中児のみなさん

      および、現在年中児のみなさん(現在、毎週月曜日、もしくは木曜日)
      (現在、開講中)

***************************************


【今日は、大晦日(おおみそか)】

 今日は、2004年、最後の日。12月31日です。

 今年のマガジンは、これでおしまいです。1年間、こうして無事(?)、マガジンを発行できたこ
とを、喜んでいます。

 昔、A出版社のD社長が、私にこう話してくれました。D社長というのは、『磯野家の謎』という
本で、空前のベストセラーを記録した会社の社長です。

 「どんな原稿を書くときも、決して、出し惜しみするな!」と。すばらしい言葉だと思います。以
後、私は、どんな原稿を書くときも、決して、出し惜しみしないことに心がけてきました。そのつ
ど、全力で、すべてを出し切って、原稿を書いてきました。

 新しい年が、明日、やってきます。これからも、どの原稿も、そのつど、さらに、私のすべてを
出し切って、書いていくつもりでいます。そういう私の決意が、マガジンを通して、みなさんに伝
われば、こんなうれしいことはありません。

今まで、私のマガジンをお読みくださり、どうも、ありがとうございました。これからもよろしくお
願いします。

 自分のことばかり書きましたが、どうか、読者のみなさんも、ご健康に留意され、すばらしい
新年をお迎えくださることを、念願してやみません。みなさんのお子様の、健やかなご成長のた
め、少しでもお力になれるよう、私も、がんばります。

 では、今年は、これで失礼します。来年も、よろしくマガジンをご購読くださいますよう、お願い
申しあげます。

 I wish all of you will have a happy new year!

(04・11・28記)

【追記】まぐまぐプレミアのほうでは、有料版ということもあり、規約どおり、月・水・金の週3回、
発行していかねばなりません。そのため、それに合わせて、まぐまぐプレミアのほうは、正月中
も休みなく、マガジンの発行をしていきます。「せっかくの休みなのに……」と、思う方も、多いだ
ろうと思います。どうか、お許しください。

 Eマガ、メルマガ(無料版)については、今のところ、どうするか未定ですが、できるだけ、発行
していくつもりでいます。

 次回は、1月3日ということになります。正月、早々、お騒がせすることになりますが、ごめん
なさい。これからも、ご購読、よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

************以上 2004年 12月末号***********

************以下 05年1月3日〜分*************

最前線の子育て論byはやし浩司(428)

【特集】【2005年は、どんな年になるのか?】

●若者言葉

北九州教職員組合のHPで、「若者言葉」を、紹介している。「ア」行の中から、「これは!」と思
うものを、拾ってみた。半分程度、省略してみたが、「ア」行だけも、これだけある。日本語とい
うより、私にとっては、もはや外国語。

 興味のある人は、
     http://www.tnk.gr.jp/index.asp
を、訪問してみるとよい。

++++++++++++++++++++++

・あぁ!っせぇ:ムカツク人に言う言葉 
・あ゛ぁ゛〜92年:英語の先生に反発するときに使われる言葉 
・あーね:「ああ、そうね」の意味です 
・アールヴ:箱庭界に最も恐怖を与えるむかつく怪獣、出現した島以外にも影響  
・アウトオブ眼中:異性として眼中にないこと 
・アウトオブ眼中2:1つのことに熱中しすぎること 
・アカマル:赤のマルボロの事 
・アキト:LOVEx3 
・アクセ:アクセサリーのこと。 
・アゲアゲ:気分が上がって 
・あけおめ:あけましておめでとう 
・あけっぱ:ドアなど何かが開けっ放しの場合に使う ドアあけっぱにしないで〜 のよ
ぅに使います 
・アゴリー:あごが出ていてジョモイ人 
・あさぼらけってる:かぐや姫のように美しいこと。 
・アサンテ:しろあり駆除のお店。CMでは[ア・サンテ♪]でおなじみ! 
・アジャパー:場を和ますときに使う。何か間違ったときに、切り抜けるときに使う。 
・あずきばぁや☆:漢字の読みテストで『大豆』を『あずき』と読んだ女の子のこと。 
・あせも君:にきびが沢山あってそれをごまかす人 
・アセロラってる:アセロラのように、汗をかいてる。(爆爆爆!!) 
・アソパソマソ:(1)正義の味方「アン○○マン」の裏の姿。(2)偽善者のこと「お前アソパソ
マソだょな〜」(3)いつも「氏ねよおめーら」って逝ってるヤシのこと。 
・アタック虫:電灯の近くとかに集団でいる小さな飛行虫。!! 
・あたひ:自分のこと 
・あたぴ:一人称「私」の意。 
・アチャパー:失敗したときに使う言葉 
・あついねぇ:いいね(2)! 
・アッガイ・アッグ・アッグガイ:掛け声のようなもの 
・あっさらしい:恐ろしいという意味 
・アッシー・メッシー・ミツグ君:男の子の使い分け。車の送迎・ごはん作り・お金を貢
ぐなど。 
・あっちゅうま:あっという間の意。おそろしいほど早く物事が片付いたときなど、自慢
をする時に使用する。「こんなのあっちゅうまですよ。」 
・あっちょんぶりけ:驚いたぁ!びっくりぢゃ!ってトキに使うょ 
・あッツル:「あっせる」が変化したもの 
・アッバオアクー:ジオン軍の宇宙要塞のこと 
・アッパッパ:死語に近い?女性の夏用の簡単な日用着のこと。ゆとりのあるワンピース。 
・アッラー:挨拶! 
(以下、「ア」行のうち、後半、約半分を省略)
(北九州教職員組合HP・「若者用語の小事典」より、抜粋、転載)

+++++++++++++++++++++

 こうした若者言葉を、どう考えるか。手っ取り早く、否定するか? それとも受けいれるか? 

 もっとも、私たちがどう反応したところで、若者たちは、私たちの言うことなどに、耳を貸さない
だろう。彼らにしてみれば、私たちの意見など、どうでもよいのだ。

 となると、私たちが、それを受けいれるしかない。受けいれて、私たちもまた、彼らの言葉を、
使わなければいけない。しかし、それは可能なのか?

 若者言葉は、これからも、どんどんとふえる。飛躍的に、ふえる。その結果、尾崎豊や、長淵
剛らによって始まった、世代間闘争は、いよいよ最終局面を迎える。つまり、私たち古い世代
は、この日本から、はじき飛ばされるということ。

 2005年、世代間の価値観のズレは、ますます進む。ああああ。


●中国経済

 現在、中国では、年収70万円の人でも、1000万円まで個人の、住宅融資が受けられると
いう。日本でたとえるなら、年収700万円の人が、1億円の融資を受けることに等しい。

 その結果というか、04年の1〜3月期だけで、固定資産投資(不動産投資)が、前年同月期
と比較しても、43%もふえている。98年から02年までの4年間だけで、中国商業銀行の貸し
出し額は、4・8倍になっている(丸紅経済研究所)。

 まさに、バブル経済。いくら中国経済が好調といっても、こんなバブル経済が、いつまでもつ
づくはずがない。で、世界の経済学者たちは、中国経済がバブルかどうかという議論よりも、
「いつ、そのバブルがはじめるか」ということに、関心をもち始めている。

 しかし、今、中国経済がはじけたら、日本にとっても、たいへんなことになる。今、日本経済
は、中国特需で、かろうじて、生きながらえている。04年の前半期(1〜6月期)だけで、輸出
額は、448億ドル。輸入額は、437億ドル(JETRO)。おかげで、日本の国内企業は、息をふ
きかえした。

 目が離せない、中国経済。中国の専門家たちは、強気だが、日本の経済専門家たちは、弱
気。「2008年の北京五輪までは、とてももたないだろう」というのが、一致した見方である。

 私は、経済のことはよくわからないが、05年の、つまり今年1年間は、まだこのバブル経済
は、つづくだろうとみている。中国製品も、かなり良質になってきているし、何といっても、国内
マーケットが大きい。バブル現象が起きているのは、中国でも、都市部の一部にかぎられてい
る。

 2005年、日本経済は、中国に依存しながら、立ちなおる。


●日米関係

 日本の友人は、アメリカだけという状況は、05年度も、変わらない。K国しだいでは、日本
は、ますますアメリカに依存するようになる。言うまでもなく、軍事面において、である。

 一方、アメリカにとっても、日本は、なくてはならない存在。わかりやすく言えば、日本は、一
生懸命稼いだお金で、アメリカのドルを買い支えてやっている。言うなれば、紙くずのようになっ
たドルを、一生懸命、日本が、買い支えている。

 もし日本が、アメリカのドルを売りに出すようなことがあれば、そのとき、アメリカのドルは暴
落し、つづいて、アメリカの経済は、崩壊する。もちろん、日本の東京が、K国の大量破壊兵器
による攻撃を受けたときも、同じ。

 (日本にしても、ドルの価値がさがることは、たいへん困る。ぼう大なドル資産が、目減りする
ことになる。)

 そんなことは、世界の常識。ブッシュ大統領だって、そんなことは、百も承知。だからアメリカ
は、日本を守らざるをえない。

 つまり、もちつ、もたれつの関係。軍事面で、アメリカは日本を守り、経済面で、日本は、アメ
リカを守る。アメリカ国内で、在日米軍不要論が高まっても、また日本国内で、アメリカ追従政
策反対の声が大きくなっても、日米は、たがいに依存せざるをえない。その状態は、2005年
もつづく。

 2005年、日米関係は、たがいの依存度をましながら、ますます緊密に行動するようになる。


●日韓関係

 このところ、韓国は、日本批判を、急速に高めつつある。意図的というより、国民的なものと
考えてよい。

 たとえば東亜日報(韓国の新聞)は、ここ数日だけでも、つぎのような記事をトップにあげてい
る(04・11末)。

☆日本文部科学相「歴史教科書、慰安婦表現が減って良かった」 
☆日本の最高裁「韓国人戦後補償」を棄却、と。

 つまり日本では、マイナーな記事が、韓国では、トップニュースになる。

 その一方で、日本では、韓国の核開発ニュースが、トップになる。が、肝心の韓国は、「日本
だって、何トンものプルトニウムをもっているではないか」と、やりかえす。「騒いでいるのは、日
本だけだ」と。

 もちろんこうした韓国の報道は、日本では、紹介されない。

 つまりたがいに、自分につごうのよい記事だけを報道し、つごうの悪い記事を報道しない。意
図的というより、たがいの不信感は、想像以上に、根強い。

 ますます反米、親北化する韓国。反日化する韓国。その一方で、対中依存を深め、中国経
済圏への参入をもくろむ韓国。ノ大統領。K国問題も含め、日韓関係は、さらにむずかしくな
る。

 2005年、日韓関係は、表面的な友好関係とは別に、ギクシャクする。何かのきっかけ、たと
えばK首相のY国神社参拝などがあれば、急速に悪化する。


+++++++++++++++++++++

最前線の子育て論byはやし浩司(429)

●ファザコン

 マザコンばかりが、話題になる。しかし世の中には、ファザコンというのもある。父親の強い
影響下におかれ、自立できない子どもをいう。ふつうは、父と娘の関係で、娘がファザコンにな
ることが多い。

 「子どものころから、結婚するなら、父親のようなタイプの人」と言っていた女性が、昔、いた。

 で、C県に住んでいる、J氏という男性から、こんなメールが届いた。

 「妻は、いつも、私に、すばらしい男性を求めます。妻の父親が、すばらしい人だったからで
す。それはわかりますが、私は、妻の期待にこたえるだけで、精一杯。疲れます」(要約)と。

 J氏の妻は、ことあるごとに、理想的な父親像を、J氏に求めるという。ふだんは、それなりに
うまくいくものの、J氏が、何かのことでつまずいたりすると、「あんたは、だらしない」「父親らしく
ない」と言う、と。

 夫のマザコンについては、よく知られている。しかし妻の、ファザコンについては、よく知られ
ていない。しかしことは、同じくらい、深刻。重大。

 ファザコンタイプの妻は、J氏の妻のように、ことあるごとに、理想的な男性像を、夫に求めよ
うとする。夫を、父親の代用品にしようとする。そのため、夫は、妻の前で、泣くことはおろか、
弱音を吐くことすら、許されない。病気になることも、許されない。何かあると、妻は、即、離婚
と、身構える。

 こうした関係が、家庭の中に、ある種独特の、緊張感を生む。しかしこうした緊張感には、長
くは、耐えられない。夫も、妻も、である。つまり、その先は、離婚ということになる。

 つまり一般論として、マザコン男性ほど、浮気率が高くなると言われている。離婚率も、高くな
ると言われている。いつも、理想のマドンナ(母親のような聖母)を、女性に求めようとするから
である。が、そんなマドンナは、そうはいない。だからこのタイプの男性は、女性から女性へと、
渡り歩くことになる。

 反対に、ファザコン女性ほど、浮気率については知らないが、同じような理由で、当然、離婚
率は高くなると思われる。(あくまでも、推察だが……。)

 そのファザコン女性は、独特の考え方をする。「男のクセに……」「男らしく……」「男なら…
…」と。さらに「夫のクセに……」「夫らしく……」「夫なら……」と。

 そう言えば、「私の夫は、(子どもたちに対して)。ぜんぜん、父親らしくなくて、困ります」と、こ
ぼしていた母親もいた。その母親も、心のどこかで、別の父親像を描いていたのかもしれな
い。

 しかしこういう妻をもった、夫は、不幸。日常的に、ほかの男性(妻の父親)と比較されつづけ
るのだから、たまらない。

 ファザコン……この問題については、これからもさらに、考えてみたい。おもしろいテーマだと
思う。ちなみに、ヤフーの検索エンジンで、「ファザコン」と検索してみたら、何と、1万6000件
以上も、ページにヒットした。すごい!


●プラモデル

 今度(04・11月下旬)、T社から、「戦艦大和」「戦艦武蔵」のプラモデルが、発売になった。
模型店はもちろん、コンビニでも売られている。値段は、315円(消費税込み、市内Jおもちゃ
屋)。

 全体で、30センチ近くになるが、それが7分割されている。艦首部に始まり、一番主砲部、二
番主砲部……と。つまり全体をそろえると、300x7、2100円プラス消費税ということになる。

 さっそく、7部分を、購入。それぞれが、別のパッケージに入っている。

 が、驚いた。本当に、驚いた。私は、(5)の機関部から作り始めたが、細部にわたって塗装し
てあるだけではなく、船の内部まで作ってあった。もちろん塗装済み。

 が、それだけではない。煙突もいくつかのパーツに分かれているが、その中の煙管まで作っ
てあった。もちろんこれも塗装済み。可動部は、指先で、回すこともできる。

 私はそのプラモデルを組み立てながら、いったい、どういう人たちが、この模型を作っている
のかと考えた。箱の側面には、「MADE IN CHINA」とある。中国の人たちの安い労働力を
使って、作っているのだろう。しかしそれにしても、驚いた。

 こうしたプラモデルの運命は、短い。しばらく机の上などを飾ったあと、子どものおもちゃにな
ったりして、やがてこわれる。そしてゴミ。

 私は、ピンセットで砲塔などを取りつけながら、「何というムダなこと……」と、思わずつぶやい
てしまった。

 仮にそのプラモデルを作った人が、若い女工さんだったとする。こんなこまかい作業ができる
人だから、恐らく、10代後半前後の女工さんなのだろう。船の中には、「第二兵員浴槽室」とい
うのもあって、バスタブには、白く塗装までしてある。

 もしこうした労力と時間を、もっと別のことに使えば、もう少しクリエイティブな仕事ができるか
もしれない。何も、日本の、私のような道楽者のために、ここまで苦労することはない。しかも
値段は、たったの315円!

 いったい、どうなっているのだ! もしこれと同じものを日本で作ったら、楽に1000円は超え
るはず。それに流通コストや利益、それに消費税をのせたら、2000円になるかもしれない。

 しかも、そうして苦労して作ったところで、あまり意味はない。あとに何も残らない。それが芸
術につながるということも、ない。

 恐るべし、中国、と言うべきか。と、考えつつ、明治から大正時代にかけての、日本の女工さ
んの物語を思い出した。かなりきびしい重労働だったらしい。当時の日本も必死だったが、今
の中国も、必死なのだろう。手にしたプラモデルからは、その重みが、ずっしりと伝わってくる。

 ただ残念なこともある。

 そこまで精密に作られたキットなのだが、ときどき、部品そのものが欠落している。多分、箱
につめるような、何かのときに、入れ忘れたのだろう。(5)の機関部にしても、後部の高角砲が
抜け落ちていた。

 「せっかくここまで作ったのに……」「やっぱり中国らしいね……」と思いつつ、「また買ってくれ
ばいいや」と、自分をなぐさめる。

 HTML版のほうでは、写真を掲載しておく。


●ファザコン(2)

 ファザコンの女性は、いつも自分の頭の中に、自分の父親を想像しながら、「男」を見る。自
分の父親を基準にして、夫を見る。見るだけならまだしも、夫の中に、自分の父親を求める。
そのため、一般論として、ファザコンの女性は、年上の男性に、心を強くひかれるという。同年
齢の男性には、興味を示さない。「同年齢の男は、つまらない」「おもしろくない」とか言う。

 心理テストの中にも、こんなのがある。

 どこかの山小屋がある。その山小屋にふさわしい、山を背景に描くという心理テストである。
昔、何かの本で読んだことがある。

 背景に、おおらかで、丸みをおびた山を描く女性は、ファザコンだという。とげとげしい、とが
った山を描く女性は、父親に対して、はげしい敵意を感じている人だという。山小屋は、(自
分)、背景の山は、(父親像)というわけである。

 しかし、そんなテストなどしなくても、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、ファザ
コンか、そうでないか、わかる。

【ファザコン度・診断テスト】

( )「私の父は、いつも男らしく、父親らしかった」と、自慢することが多い。
( )子どものころから、父親の指示には、従順だった。逆らわなかった。
( )子どものころから、父親は、絶対的な存在だった。よき父娘の関係だった。
( )若いときから、同年齢の男性が、頼りなく、つまらなく見えた。
( )結婚相手を考えたとき、迷わず年上の男性を考えた。年下には興味がなかった。
( )若いとき、20〜30歳、年上の男性に、あこがれたことがある。
( )自分は、女性だが、男の子と遊ぶことが多かった。男に生まれればよかったと思う。
( )女性より、男性の気持ちのほうがよく理解できる。みなに、男っぽいと言われる。
( )自分の夫と、父親を比較することが多く、夫にもの足りなさを感ずることが多い。
( )「男らしい……」「男らしく……」という言葉を、よく使う。
( )父親の批判をしたり、批評をしたりする人に対して、猛烈に反発する。

 以上、11個のうち、半数以上当てはまれば、あなたはファザコンタイプの女性とみてよい。

 もちろん男性にも、ファザコンの人はいる。父親が生きている間は、父親を絶対的な存在とし
て考え、死んでからは、父親を、徹底的に、美化する。「私の父は、ギリシャ神話のゼウスのよ
うに偉大だった」と、エッセーに書いていた人がいた。だから、だれかが父親のことを批判した
り、批評したりすると、猛烈に、それに反発したりする。「オレの父の悪口を言うヤツは、ぜった
いに、許さない!」と。

 もっとも、男性のばあいは、マザコンになるケースが、多い。どちらにせよ、つまりファザコン
にせよ、マザコンにせよ、それだけ精神的に自立できない人とみてよい。(一見、自立している
ように見えることもあるが、親の呪縛から、自らを解き放つことができない。)

 では、どうするか?

 まず、自分自身が、そうであることを知る。とくに自己愛的傾向の強い人は、要注意。自分の
本当の姿を見失ったり(自己認識の誤解)、夫や子どもを誤解したりしやすい(他者認識の誤
解)。

 ある夫は、妻に、ある日、こう叫んだという。

 「オレは、お前の父親じゃ、ない! いいかげんにしてくれ!」と。

 女性が、あまりにも偉大な父親をもつのも、考えものである。


●ある電子マガジンの廃刊

 98年に創刊された、ある電子マガジン(タウン情報誌)が、11月30日号をもって、廃刊にな
った。先ほど、その最終号が届いた。廃刊の理由は書いてない。簡単に「本号をもって、廃刊
します」とあった。

 週刊浜松XXXというマガジンだった。編集長のA氏には、一度、会ったことがある。45歳(当
時)くらいの人だった。親切な人だった。そしてあれこれ、そのノウハウを教えてくれた。

 2年前だが、そのとき、読者数は、1200人だと聞いていた。今年になってからは、2400人
だと聞いていた。「順調だな……」と思っていた矢先の廃刊だった。マガジンによると、ホーム
ページも閉鎖するという。

 それを見ながら、「明日は、我が身」と思った。

 もう、電子マガジンの時代は終わったのか? 今は、BLOGの時代だという人もいる。実際、
読者数のことをいうなら、今は、毎号、ほとんど、ふえない。だからこのところ、もう、読者数の
ことは、考えないようにしている。それを考えたら、むなしくて、マガジンの発行など、できなくな
る。

 しかしこうまで時代に流れが、速いとは!

 たしかにBLOGは、おもしろい。読者の反応が、そのまま伝わってくる。さらに近く、音声入り
のBLOGもできるかもしれない。もしそうなれば、読者と対話しながら、意見を交換できるよう
になるかもしれない。

 現在、私のHPを訪れてくれる人は、一日、50〜90人前後。しかしR社のBLOGは、150人
前後(04・12・01)。この数字を見ただけでも、BLOGに軍パイがあがる。

 私の迷いは、つづく。どうしたらよいのか? どうしようか? 今年(05年)も、この迷いとの戦
いということになるかもしれない。

 やっと、マガジンの発行回数が、500号を超えた。1000号までの折り返し点。しかし、先
は、長いなア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。ホント!

【読者のみなさんへ】

 読者の方がふえるというのは、本当に励みになります。お近くの方で、興味をもってくださりそ
うな方がいらっしゃれば、私の電子マガジンのことを話していただけませんか。よろしくお願いし
ます。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●K首相のY神社参拝

 あえて、告白しよう。

 私の実姉の義父は、A級戦犯で、処刑されている。I国の捕虜収容所で、捕虜を、虐殺したと
いう罪で、である。

 しかしこれは濡れ衣(ぎぬ)である。完全な、濡れ衣である。義父の上官だった人が、罪を義
父になすりつけて、自分は、逃げてしまった。義父の友人(同僚戦友)が、義父の死後、一冊の
本を書き、それを証明した。

 それについては、いつか詳しく、検証してみたい。

 で、その義父は、今、あのY国神社に、祭られているという。そのことについて、姉に、「Y国神
社に参ったことはあるの?」と聞くと、「一度も、ない」とのこと。

 「お墓は、ちゃんと、こちらにあるから」と。

 04年11月。

 日本のK首相は、ビエンチャン市内で中国の温家宝首相と会談した。

温首相は小泉首相の靖国神社参拝問題について「歴史認識の問題があり、靖国神社の問題
がある。靖国問題を適切に処理していただきたい」と参拝中止を要求した。これに対し小泉首
相は「(参拝は)心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ちからであり、不戦の誓いを新た
にするものだ」と重ねて説明した。

人格の完成度は、その人の自己中心性をみて、判断する。自己中心的であればあるほど、そ
の人の人格の完成度は低いとみる。EQ論では、他者への共鳴性で判断する。

 国家としての人格の完成度も、同じと考える。いかに相手の立場で、ものを考えることができ
るか。その視点の深さで、国家としての完成度も、決まる。

 その日本。戦前、いかに周辺の国の人たちに、多大な恐怖を与えたかということは、今さら、
改めてここに書くまでもない。その一例として、南京虐殺事件がある。

(南京虐殺事件)

 日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12〜15日。当時のK内閣は、南京攻略に
対して、三光作戦を展開していた。

 三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。

 その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・スノー
「アジアの戦争」)。その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人以上、また南京
への進撃途中で、30万人以上が、日本軍に殺されたという。

 うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。

 どうやら、このあたりが、最大公倍数的な事実のようである。これについて、10年ほどまで、
こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。

 「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日本軍が
南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。

 そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。どうしてそ
のとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。

 あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。「あんたは、それでも、日本人
か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。

 もちろん南京虐殺事件だけではない。中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、シンガ
ポール)でも、日本軍は同じようなことをしている。しかし日本は、一度だって、アジアの人たち
に向って、その戦争責任を認めたことはない。ナーナーですませてしまった。

 戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。天皇を最高権威として、
つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これはまことに、まずい。

 が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。

 あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大な軍事
力をもつ、K国である。

 そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日本人
を、容赦なく処罰した。三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺された。そのほと
んどが、婦人や子どもたちである。

 ……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。「日本
人が、どうして日本を悪く言うのか」と。

 しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。わかりや
すく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなことを繰りかえしなが
ら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは! そんな詭弁(きべん)が、はたして、通るのだろ
うか。(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)

 だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社の祭られている(?)にもかかわらず、
一度も、Y神社を参詣していない。むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、うらんでいる!
 それを「不戦の誓い」とは……!? むしろ、K首相の行為は、中国人や韓国人の逆鱗に触
れ、戦争の火種にすら、なりかねない。

 日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。「日本が、道路や鉄道を敷い
てやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、中国や韓国は発展したではな
いか」と。

 しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のことをされて
も、文句を言わないことだ。あの中国にしても、5500年の歴史がある。韓国にしても、2000
年以上の歴史がある。

 私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。そ
の漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。文化の優位性ということを言うなら、日
本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのである。

 ……私は、今、かなり過激な意見を書いている。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。

 もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、日中
関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうということ。
いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦争の火種」にす
ら、なりかねない。K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。

韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気になる
な」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。

つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。

 日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。「私には関係ない」
ではすまされない。

 最後に一言。K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。だっ
たら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。たしかに3
00万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。

 それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。しかも、日
本の外で!

 先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教
科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。が、日本で
は、それを知る人すら、少ない。

 それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。私は、もう知らな
い! 知ったことではない! 

 ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧H派
への1億円の小切手が渡された。だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記憶にな
いが、事実なんだろう」(041130)と逃げてしまった。

 そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。いざ、戦争ともなれ
ば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃げてしまう。H元首
相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。

そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかしい。本当
に、おかしい。
(04年12月1日記)

(補記)

 この記事を、マガジンに載せるのは、年があけて、1月3日ということになる。そのころ、日本
のK首相は、Y神社を参拝しているのだろうか。それとも、していないのだろうか。

 しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか? 「もう、考えるのも、いやになっ
た」という思いすら、ある。

 何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。だいたいにおいて、「不戦
の誓い」とは、何か? 私には、K首相が、まったく、理解できない。

(補記)

 日本S医師会(日歯)側から自民党旧H派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反
(不記載)の罪に問われた同派政治団体「HS研究会」(平成研)の元会計責任者・TT被告(5
5)の判決が12月3日、東京地裁であった(04年)。OD裁判長は禁固10月、執行猶予4年
(求刑・禁固10月)を言い渡した。

 義父に罪をなすりつけ、自分は逃げた、上官。そして部下に罪をなすりつけ、自分は逃げ
た、H元首相。ともに、やることは、よく似ている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●横断歩道で

 横断歩道で、立ち止まって、信号が変わるのを待つ。しかしそんな信号など、守る人は、今、
ほとんどいない。みんな左右を見て、車がこないとわかると、さっさと渡っていく。

 年配の男性も女性も。そして若い人も高校生も!

 そういうのを見ていると、私は、つくづく自分のしていることが、バカらしく思えてくる。いや、実
際、私は、バカだ。

 本当の私は、「バカヤロー」と叫びたい。世界中に向って、そう叫びたい。しかしそうすることも
できず、毎日、悶々とした気分で、過ごしている。仮面をかぶって、善人ぶっているだけ。「私」
が、どこにもいない。

 ああ、私も、みなと同じように、赤信号を無視して、横断歩道を渡りたい。めんどうなことは考
えず、自分の思ったように生きたい。体を、がんじがらめにしているこのクサリを、はずしてみ
たい!

 ときどき、気の小さい自分が、いやになる。勇気もない。度胸もない。毎日が、欲求不満のか
たまり。先日もあれこれムシャクシャしたから、パソコンでも買ってやろうと、街に出た。

 しかしいざ買うときになると、家計を心配したり、子どもの学費を心配したりして、それができ
なくなってしまった。そういう自分を知るたびに、いやになる。情けなくなる。

 が、希望がないわけではない。昨日のことだが、こんなことがあった(11−30)。

 仕事で、街に向うときのこと。やはり赤信号で、自転車を止めた。小さな路地だった。

 見ると、反対側に、小さな子どもを連れた母親。母親は、子どもの手をしっかりと握っている。
その親子が、横断歩道の向こう側で、同じように、立って、信号が変わるのを待っていた。母親
は、左右を、何度か見ていた。

 私は、いつその親子が、信号を無視して渡り始めるだろうかと、そんなことを考えていた。車
はない。道路は閑散としていた。のどかな陽だまりが、道路を白く照らしていた。

 5秒、10秒……。ジリジリと時間が過ぎていくのがわかった。私は、おかしな緊張感に包まれ
た。「今に歩き出すぞ……」と思った。しかしその親子は、じっと、そこに立ったままだった。

 横の信号が、青から黄色になった。赤になった。が、まだその親子は、動かなかった。そして
つぎの瞬間、私たちの信号が青になった。とたん、緊張感が体から抜け、私は、自転車のペダ
ルに力を入れた。同時に、その親子も、歩き始めた。

 親子と、横断歩道の上で、すれちがった。私はふりかえって、その親子を見た。「よかった」と
思った。ついで、「いい母親だな」と思った。

 少ないが、そういう人もいる。まだいる。だからまだ希望を捨ててはいけない。……と、そのと
きは、そう思った。

 ……と書いたが、どうしても、このエッセーのしめくくりが書けない。「バカヤロー」と叫びたい
気持ちはそのまま。体のクサリを解き放ちたい気持ちも、そのまま。私は、相変わらず、バカだ
と思う。その気持ちも、そのまま。

 ただその親子が、ゴミが散乱する砂浜に咲いている、一輪の花のような感じがした。それが
今の私にとっては、希望なのかもしれない。今は、そう思って、自分をなぐさめている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(430)
 
【不登校の相談】

+++++++++++++++++++++++++++++

 広島県H市に住んでいる、MEさん(母親)から、二男の不登校に
ついて、相談がありました。MEさんから、掲載許可をいただきまし
たので、紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++++

【MEさんから、はやし浩司へ】

 今年の7月10日から二男(小6)のGDが不登校になりました。夏休み明けから、資料室登校
を何日か続けていましたが、狭い資料室で一日を過ごすという異常な学校生活だったためか、
なかなか教室に戻ることが出来ずにまた不登校になり、現在に至っております。

 このホームページを拝見するようになったのは5日ほど前です。書かれてあるとおり、私は半
狂乱になり、どうにか登校してくれるように刺激した結果、底だと思っていた底にもっと底があ
り、次々と子どもといっしょに別の底へも落ちていきました。

 私は腹をくくり、……とは言っても、毎日くくった紐はほどけ絞めなおし、それを繰り返している
毎日です。

 二男はテレビゲームとパソコン三昧の怠惰な生活を続けています。幼稚園のころからKK
式、4年生になって中学受験を目標にN研へ変わり、そこそこの成績で地元のトップばかりを
集めた中央の本校へと変わり、広島でも難関の、RA中学、HU附属中を目指しておりました。

 本人が負担に思っていたのにもかかわらず、バカな親でした。こうした生活からそうなってい
ったのではないかと思います。夏休みから、塾は一切やめて、隣町の小学校へ転校しようとし
ていたのですがうまくいかず、今では転校しても登校しそうにありません。

 このまま何もせず、ゲーム三昧の日々をだまって見ているのがいいのでしょうか。本人は毎
日「悲しい、僕は僕で悩んでいろいろ考えている、学校へ行くことを考えると緊張する」と言いま
す。

 土日は主人とキャッチボールやバッティングセンターに、楽しんでいっていました。先週主人
と小学校で見た、地元のソフトボールチーム(小学生の)に入りたいと言い出して、今頃から入
部してもどうだろうかと思ったのですが、お願いして練習に体験入部させてもらいました。

 やはり、思ったとおりには行かず、4時間の練習時間でしたがすることもわからず、困惑した
状態で終わってしまいました。自信をなくしたようで、翌日は少し荒れていました。家の中でゴロ
ゴロしているのが、私にはたまらなく耐えられないのですが、それでいいのでしょうか。
(広島県H市 MEより)

+++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司から、MEさんへ】

 メールの様子からして、つまり二男の方の症状からして、このタイプの不登校は、かなり長く
つづくと思います。半年とか、1年ではなく、数年以上になるということです。

 いただいたメールの中で、もっとも気になるのは、MEさんが、二男の様子について、「怠けて
いる」という表現を使っておられる点です。

 二男のGD君は、怠けているのではありません。そう見えるだけです。心は、いつも張りつめ
た緊張感でおおわれています。その緊張感をほぐすために、やむをえず、自ら心をいやしてい
るのです。その方法として、テレビゲームをしたり、パソコンをしたりしている……。

 風邪をひいて、家でゴロゴロしている子どもを、あなたは、「怠けている」と言うでしょうか。言
わないですよね。それと同じです。

 風邪のように、熱が出るとかいう症状がないため、外からはわかりにくいのが、この不登校
の特徴です。(私のHPの不登校の記事を参考にしてください。グーグルか何かで、「はやし浩
司 学校恐怖症」を検索してしてくださると、いくつか、ヒットするはずです。)

 そしてつぎに大切なことは、「なおそう」と思わないこと。「今の状態を、今以上に悪くしないこ
とだけを考えて、様子をみる」です。

 ときどきこまかい周期(数週間から1か月単位)で、症状が改善したかのように見えたり、悪く
なったかのように見えることがありますが、そういった変化に、一喜一憂しないこと。半年単位
で、様子をみます。

 ……と書くと、「学校はどうする?」「受験はどうする?」となりますね。

 答えは、簡単。あきらめなさい。あきらめるのです。

 MEさんが、「まだ何とかなる」「うちの子にかぎって」と思っている間は、この問題は、解決し
ません。MEさんのもっている緊張感が、そのままGD君に伝わってしまうからです。この緊張
感が、症状を長引かせます。

 この問題は、一見、子どもの問題に見えますが、実は、親の問題です。親自身が、学歴信
仰、学校神話という呪縛から、いかに自分を解き放つかということです。もし今、MEさんが、
(恐らく、そうだろうと思いますが……)、「学校とは行かねばならないところ」「学校へ行かなけ
れば、うちの子はダメになる」と思っているなら、そういう考えは、捨てることです。

 といっても、簡単なことでないことはよくわかります。カルト教を信じている、信者のようなもの
です。しかもあなたが子どものときから、あなたの親によって、徹底的に叩きこまれている。そ
のカルトを体から、抜くことは、たいへんなことです。よくわかっています。しかし、抜くのです。

 この問題は、あなたがそのカルトから抜け出たとき、解決します。今は、カガミの向こうの世
界のようで、信じられないかもしれませんが、カガミの向こうは、実に広く、ゆったりとした、おお
らかな世界です。

 今は、学校だけがすべてという時代ではありません。無数の選択肢も用意されています。ま
た不登校児になったからすべておしまいというより、むしろ、不登校を起こす子どもほうが、(ま
とも)なのです。

 たしかに原因の一つとして、過負担、親の過剰期待などがあったと思います。いわゆる子ど
もが、オーバーヒ−トしてしまったというわけです。燃え尽きたのかもしれません。あるいは何ら
かの原因で、集団に対して恐怖心をもったためかもしれません。このあたりの子どもの心理
は、複雑で、簡単には説明できないことが、多いです。

 で、これから先、どうしたらよいかということですが、いくつかのポイントがあります。

(1)おどし、励ましは、タブー。

 「こんなことでは、将来、ダメになる」式のおどし。「がんばれ」式の励ましは、禁物です。あくま
でも、子どもの立場で、考えます。

 「あなたもつらい思いをしたのね」「よくがんばったのよ」式の、ねぎらいの言葉を多くかけてあ
げてください。

(2)ほどよい親、暖かい無視 

 やりすぎず、しかし、やるべきことはする。そして子どもを暖かく、無視する。子どもが愛情の
より所を求めてきたら、すかさず、いとわず、愛情表現をしてあげてください。添い寝、抱っこな
ど。

 年齢的にむずかしいかもしれませんが、入浴なども、子どもがいやがらなければ、いっしょに
してあげてください。

 症状が改善に向かい始めると、一度、幼児がえりを起こすかもしれません。赤ちゃんぽくなっ
て、お母さんのおっぱいを求めるなど。いとわず、応じてあげてください。

(3)キーワード、ターゲットに注意

 子どもがとくにいやがるキーワードなどがあれば、努めて、その話題から遠ざかります。「受
験」、「入試」、「不合格」など。子どもによって、とくに気にしている言葉がありますので、それに
ついては、触れないようにします。

 またこの時期、子どもは、あれこれ理由らしきことを言いますが、そうした言葉にまどわされ
てはいけません。「A君がいじめる」「先生が怒った」など。これをターゲット(標的)といいます。
この時期、子どもが口にする、ターゲットは、いろいろ変化します。

 しかしもともと、理由などないのです。ですから理由を聞いたり、原因をさがしても、意味はあ
りません。

(4)退屈作戦

 とにかく、退屈にさせます。退屈で、退屈でしかたないといった状況にします。しばらくすると、
子どものほうから、何かアクションが始まります。そのアクションを、じょうずに、引き出していき
ます。

 このタイプの子どもがよく見せる症状は、幼児期からの「成長の再現」です。一度、赤ちゃん
ぽくなって、幼児期に使っていた本や玩具を取り出して遊んだりすることがあります。そういう意
味では、勉強にあけくれた少年期で、幼児期から今の時代に、間が抜け落ちてしまったのかも
しれませんね。

 もし幼児がえり的な現象が見られたら、「ここからやりなおし」と思って、暖かく見守ってあげて
ください。

(5)CA、MGの多い食生活

 わかりやすく言えば、海産物主体の食生活にします。心を安定させるためです。不安や心配
ごとが入り込んでも、動揺しないようにします。リン酸食品などは、避けます。私のHPのどこか
に、詳しく書いておきましたので、また参考にしてください。

 最後になりましたが、MEさん自身の学歴信仰などと戦うためには、私のマガジンを、また読
んでください。ところどころで、それについて書いています。

 お気づきのように、今が、まだ「底」ではありません。ですから、今の状態を悪くしないことだけ
を考えて対処してください。無理は禁物。半日、資料室登校をしたら、「よくがんばったわね。3
時間も行かなくてもいいのよ。2時間で帰ってきなさいよ」と言ってあげてください。

 この親の心の余裕が、子どもの心を溶かします。

 あとあと、よい思い出になりますよ。この時期は、遅々として進まないように見えるかもしれま
せんが、終わってみれば、あっという間のこと。今こそ、あなたとお子さんの、暖かいドラマを、
しっかりと思い出の中に、刻むときです。

 暗くて長いトンネルに見えるかもしれませんが、終わってみると、あっという間のできごと。こ
の時代を光り輝かせることができるかどうかは、あなたがGD君を信じきったかどうか、決まり
ます。

 あなたの子どもを信じてあげてください。不登校など、いろいろな問題がありますが、何でもな
い問題です。いつか必ず、笑い話になります。「ようし、私も、十字架の一つや二つ、背負って
やる」「嵐がこなければ、航海もおもしろくない。来るなら、来い!」と、あなたも、前向きに、そう
怒鳴ってみてください。

 心が、ずっと軽くなりますよ。

 では……。
(はやし浩司 不登校 対処 し方 仕方 対処の仕方 親の心構え 学校恐怖症)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(431)

●仮面

(教師のもつ多面性)

 教師には、聖職意識というものがある。程度の差はあるが、みなある。使命感とも言うべき
か。教師としての、使命感である。

しかし意識だけでは、聖人には、なれない。そこで、教師は、「先生」「先生」と言われるうちに、
自ら、仮面をかぶるようになる。まじめな教師ほど、そうだ。親や子どもの期待に答えようとす
る。だから仮面をかぶる。意識的にかぶることもあるが、たいていは、無意識のうちに、かぶる
ようになる。

 こうして教師の人格は、分離し始める。(本当の自分)と(仮面の自分)である。

 こうした分離は、しかし、教師の世界だけに、起きるものではない。たとえばデパートの店員
を見てみよう。

 あなたが客としてデパートに入ると、店員は、深々と頭をさげる。にこやかな笑顔をつくって、
「いらっしゃいませ」とあいさつをする。

 しかしその店員が見せる笑顔は、いわば営業用の笑顔。決して、あなたをすばらしいと思っ
て、そうしているのではない。あなたに好意をいだいているというわけでもない。だから、そうい
う笑顔を見たからといって、あなたは、その店員を、朗らかで、明るい人だとは、思わない。(そ
ういうふうに誤解する人も、多いが……。)

 同じように、俗世間では、教師という立場の人間を、何かにつけて、特別な目で見やすい。相
手が子どもであるにせよ、人間を指導するのだから、それなりの人格者と思いやすい。

 しかし教師とて、サラリーマン。サラリーマンであるというのが悪いというのではない。しかし現
実に、たとえば大学の卒業という時点においては、ほかの学生と、ちがう点は、どこにもない。
とくにすぐれた人格者が、教師になるというわけではない。

 が、教壇に立ったとたん、「先生」と呼ばれる。教師自身も、「自分は先生」と、気負う。この気
負いの中から、いわゆる反動形成が始まる。(そうであってはいけない自分)を、ことさら、演出
するようになる。「反動形成」というのは、本来の自分を偽りながら、それとは別の人格を形成
することをいう。

 教会の牧師が、ことさらセックスの話を嫌ってみせたりするのが、その一例である。あるいは
長男、長女が、親の前では、下の弟や妹に対して、ものわかりのよい兄や姉を演ずるのがそ
れである。

 こうして教師は、自分の中に、二重構造性をもつようになる。三重構造性でも、四重構造性で
もよい。要するに、自分をごまかして生きるようになる。

 たとえば教師の世界には、教師言葉というのがある。奥歯にものがはさまったような、遠まわ
しな言い方の言葉をいう。学習面に問題がある子どもでも、「君は、学習面で問題がある」とは
言わない。言えば、たいへんなことになる。

 そこで教師は、独特の言い方をする。「君は、運動面では、すばらしい。勉強も、同じようにが
んばってみなさい」と。親から、「どうしてうちの子は、勉強ができないのでしょう?」と、聞かれ
たときもそうだ。

 決して、「お宅の子は、頭が悪いから」とは言わない。言えば、たいへんなことになる。

 そこで教師は、あれこれ指導方法を話したあと、こう言う。「本気を出してくれれば、もっと伸
びるのですが、まだ本気ではないようですね」とか。あるいは「私の指導能力の足りなさが原因
です。ごめんなさい」とか言うかもしれない。

 こういうことを繰りかえしているうちに、教師は、どこからどこまでが(本当の自分)で、どこか
ら先が、(営業用の顔)か、わからなくなってしまう。

 しかしこれは、教師にとって、きわめて危険なことでもある。へたをすれば、人格が分離してし
まう。実は、このことは、私が経験したことである。

(私のばあい)

 私が自分の中の多面性に気づいたのは、30歳くらいのときのことではなかったか。私は、そ
のころ、子どもに教えることについて、毎回、ものすごい疲労感を覚えるようになっていた。

 原因は、すぐわかった。私は、参観する親の前で、いつも別の「私」を、演じていた。「よい教
師でいよう」「よい教師に見せよう」という、気負いばかりが先行していた。いわば教室という場
で、私はいつも演技をしていた。

 だから親たちの評判は、それなりによかった。しかしそのうち、自分の子どもに対する態度
と、他人の子どもに対する態度が、ちがうことに気づいた。本来の私は、ぞんざいで、乱暴。い
いかげんで、ずぼら。怠け者で、めんどうくさがり屋。

 その私が、教室では、品行方正の聖人を装っていたのだから、たまらない。こんなことがあっ
た。

 私が「道路を歩いていたら、お金が落ちていました。あなたは、そのお金を拾いました。拾っ
たお金は、どうしますか?」と、子どもたち(幼稚園児)に聞いたところ、みなは、「交番へ届け
る」などと答えた。

 が、一人だけだが、「もらっちゃうよオ」と言った子どもがいた。私は、その子どもを見つめな
がら、どうしても、その子どもを叱ることができなかった。学生時代、私は、拾ったお金を、使っ
てしまったことがある。

 そのとき、私は気がついた。「もらっちゃうよオ」と答えた子どものほうが、ずっと私に近いこと
を、である。が、表面的には、いかにもそういうことはしませんというような顔をして、「拾ったお
金は、交番へ届けましょう」などと、言う。しかし本当の私は、そんなことを、するだろうか。

 いや、その少し前、本当に、サイフを拾ったことがある。が、そのときは、たまたま私の息子
がそばにいたので、その持ち主に電話をして、サイフを取りに来てもらった。もし息子が見てい
なかったら、サイフを自分のものにしてしまっていたかもしれない。自信がなかった。

 こうした矛盾が、無数に重なり始めた。私が、はげしい疲労感を覚えるようになったのは、そ
のためだったと思う。

(居直なおり)

 私は、あるときから、自分に居なおり始めた。「ええい、ままよ」とか、「どうにでもなれ」という
心境になった。ありのままをさらけ出すことに、努めた。が、しかしそれには大前提がある。

 さらけ出してもよいような土台を作っておかねばならない。その土台もないまま、さらけ出して
しまったら、それこそ、たいへんなことになる。もともと、私の「性(しょう)」は、それほどよくな
い。育ちも育ちだし、戦後直後に生まれた団塊の世代でもある。

 言うなれば、戦後のドサクサの中で、私は、生まれ育った。

 小ズルくて、道徳心や倫理観に欠けていた。忠誠心も弱かった。生活力はそれなりにあった
が、どこか無鉄砲。計算高く、功利主義。その上、利己的で、自分勝手。わがまま。なお一層
悪いことに、短気で、けんか早い。暴力的で、すぐキレる。

 まさに言いことなし。加えて、スケベ。(これはおまけ。)

 だから一時期は、それなりに努力した。座禅をするために禅道場へ通ってみたこともある。
仏教やキリスト教も、それなりにかじった。しかしどれも中途半端なまま、終わってしまった。
 
 そういう私が、親の前では、聖人づらをしていた。そしてその仮面を、あえて脱ごうとしてい
た。今から思うと、実に、それはおかしなことだった。いや、本当の理由は、そのころ、私は偏
頭痛に悩まされていた。神経を使う分だけ、脳みそが影響を受けた。

 そういったこともあって、私は、できるだけ、ありのままの自分をさらけ出そうとした。飾らな
い、偽らない、ウソをつかない、など。こうして自分のことを、ウソ隔しなく、書くようになったの
も、そのひとつということになる。

++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。
私の学生時代の経験です。

++++++++++++++++++++

●善人ぶる

 私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。とくにそれを強く感ずるのは、講演に招
かれたときだ。講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。主催者のあいさつのあ
と、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。そのとき、私は、ふと、「どうして
私がここにいるのか」と思う。

 善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらない。さも
知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。何かを聞かれても、
きれいごとだけを並べていればよい。

しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うことだ。堕落(だらく)から、身を守ること
だ。あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いている。「善をなすには、努力が必要。しか
し悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。

前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないから、善人と
いうわけでもない。人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

 たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。一〇〇万円とか二〇〇万円
でよい。まわりにはだれもいない。あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、まず、な
い。しかもあなたは今、お金に窮している。その日に食べる食事代もない。そういうとき、あなた
は自分の中の邪悪さと戦うことができるか。それが、ここでいう「悪と戦う」ということである。

 こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そういう意味
では、人間はまさに社会的な動物である。人と会っただけで、いつもそういう立場に立たされ
る。

そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。ウソをつかない。ゴミを捨てない。ルールを
守る。インチキをしない。そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につける。自分を鍛える。
私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で教条的に、それを決めて従
うようにしている。

たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。つじつまを合わせるために、つぎつ
ぎとウソをつかねばならない。気をめぐらさなければならない。考える力があったら、もっとほか
のことに使いたいという思いもある。だからウソはつかない。が、それでももし、大金の入った
サイフが落ちていたら……。

 そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。

 私が大学三年生のときのこと。夜、バス停でバスを待っていると、足もとに1000円札が落ち
ているのに気がついた。私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを足で踏みつけて
隠した。

うしろはたまたま交番だった。私はそのままの姿勢で、じっと立った。今でもそのときの気持ち
をよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。手でつかんだとたん、うし
ろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。私はつぎつぎとやってくるバスを見送りなが
ら、時間にして、30〜40分はそのまま立っていた。

 1000円といっても、今でいう、5000円ほどの価値がある。その上、当時の私は貧乏学生。
一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べてみたいと思っていた。

が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。私は法科の学生だった。そういう自
負心もあった。だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だったと思う。あとから並
んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、バスに乗り込んでいったの
を覚えている。

 私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。「君た
ち、交番の前で、5000円を拾ったら、どうする?」と。6人の中学生がいた。すると、全員が、
「交番に届ける!」と。そこですかさず、「君たちは、本気か? きれいごとを言っているだけで
はないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。ひとり、「どうせそういうお金は、自分のもの
になるよ」と。

 そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかったの
か、と。いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされるのとでは、
受けとめ方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。

そこで話を変えて、「1000円だったら、どうする?」「500円だったら、どうする?」と聞いてみ
た。すると、「1000円なら、もらってしまうかな」「100円だったら、ぼくのものする」と。どうや
ら、こうした善悪は、金額によって決まるようだ。……ということは、彼らがもっている論理は、
倫理ではない。

 それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見ていると
か、見ていないとかいうこととは関係ない。このケースで言えば、金額の大小ではない。あくま
でも自分の問題なのだ。

たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミなら捨てる」というのは、
倫理ではない。たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういうふうに、自分を律する力
が、倫理なのだ。

 私はしかし、中学生たちが、「1000円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったとき、正直言
って、ほっとした。理由は簡単だ。

 私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その1000円札を拾って、すかさず自分のポ
ケットにつっこんだ。そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしかった。本当にうれ
しかった。そして私は今でも、はっきりと思えているが、その1000円で、喫茶店でお茶を飲ん
だあと、あのトンチャン屋へ足を運んだ。ライスが100円。トンチャンが一皿、150円。それを
腹いっぱい食べた。

 そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……? いつか私を講演会で見る人がいた
ら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。そしてこう思ってほしい。「あの、林め、偉そう
な顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。

そう思ってもらったほうが、私にとっては、ずっと気が楽になる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(432)

●被害妄想

 ありもしない恐怖や脅威を、ことさら心の中で肥大化させ、被害者意識をもつ。それを被害妄
想という。

 その被害妄想にも、いろいろある。

 よく知られた例に、追跡妄想や被毒妄想がある。追跡妄想というのは、いつもだれかに追跡
されているのではないかという、妄想観念をいう。被毒妄想というのは、だれかに毒をもられて
いるのではないかという、妄想観念をいう。

 しかし、こういう被害妄想もある。

 X氏(65歳)は、ある日、隣のY氏(50歳)と、けんかした。「お前は、いつもオレのうちをのぞ
いている!」「のぞいていない!」と。

 X氏は、それをさかのぼること、数年前から、隣のY氏が気になり始めた。最初のきっかけ
は、ささいなことだったというが、それについては、私は知らない。

 そこでX氏は、自分の家のまわりに木を植えた。しかし冬になると、葉が落ちる。そこでブロッ
クの塀の内側に、さらに、木の塀をとりつけた。

 が、それでは足りない(?)。今度は、X氏は、Y氏の家に面している窓ガラスを、すべてすり
ガラス(型ガラス)にかえた。部屋のすべてに、厚手のカーテンをつけ、さらに、家の中で電気を
つけるときは、雨戸をすべて閉めるようになった。

 被害妄想である。

 Y氏は、私が知るところ、隣の家をのぞくような人ではない。だいたいにおいて、X氏の家な
ど、のぞいてもしかたない。X氏は、妻と2人暮らし。

 ……と、このように、「家の中をのぞかれている」「いつも監視されている」というような、妄想
観念をもつことを、注察妄想という。この注察妄想をもつ人は、多い。

 Aさん(45歳、女性)も、そうだ。「道をはさんだ、向かいのBさん(女性)が、私の家をいつも
監視している」と、悩んでいる。

 が、それだけではない。ある日、私にこう言った。

 「私が、新しいバックででかけるとき、Bさんが、『いつも、新しいバックを買って、バカみたい』
と言って笑っています」と。

 しかしこの話は、おかしい。Aさんは、どうしてBさんが、そう言っているのを知ったのか? そ
こで私が、「本当にBさんが、そんなこと言っているのですか?」と聞くと、「私には、Aさんの言
っている声が、聞こえます。目つきや、顔の表情を見れば、それがわかります」と。

 こうした被害妄想は、つぎつぎと、新しい妄想観念を生む。そしてあとは、底なしの妄想地
獄。

「では、どうしたらいいか?」ということになるが、脳の機能の問題とからんでいるだけに、こと
は簡単ではない。先のX氏にしても、Aさんにしても、どこか、うつ病的。X氏は、異常に几帳面
(きとうめん)なところがあるし、Aさんは、反対に、生活習慣が、きわめて怠惰(たいだ)。だらし
ない。日常の生活そのものが、ふつうではない。

 言いかえると、被害妄想をもちやすい人は、あらゆる面で、そうした妄想観念をもちやすい。
大切なのは、まず、自分がそうであることを知ること。日ごろから、思い過ごしや、取り越し苦労
をしやすい人は、それだけ被害妄想をもちやすいということになる。

 もちろんうつ病タイプの人は。要注意! あれこれと悶々と悩み始めたら、できるだけ早く、
気分転換をしたほうがよい。そしてそのことを忘れる……。

 (しかし実際には、忘れようとすればするほど、かえって、深みにはまってしまう。私のばあい
は、周囲の状況や、自分の心の中を、徹底的に分析することで、こうした妄想観念と戦うように
している。わかりやすく言えば、相手を乗り越えるということ。相手が、自分よりバカに見えたと
き、はじめて、その妄想観念から抜け出ることができる。)

 どんな人でも、ふとしたことから、妄想観念をもちやすい。そしてそれが被害妄想になり、ここ
でいう注察妄想になったりする。くれぐれも、ご注意!

 ちなみに、広辞苑には、こうある。

 被害妄想……自分が他から迫害されていると信ずる妄想。多くは精神分裂病に見られる、
と。ゾーッ!
(はやし浩司 妄想 被害妄想 被毒妄想 追跡妄想 注察妄想 妄想観念)


●子どもを楽しませる

 子どもを伸ばすコツは、楽しませる、こと。笑わせる、こと。心を開放させる、こと。すべては、
そこから始まり、そこで終わる。

 理由など、改めて、ここに書くまでもない。

 昨日(12・2)は、年中児から中学2年生まで、教えた。どのクラスも、みな、子どもたちは、1
時間、笑いっぱなし。ウソではない。参観の親たちが、いつもいるので、ウソは書けない。私
は、親たちにいつも、こう言っている。

 「ストレス解消になるから、参観においでなさい」と。

 子どもと一緒に笑っているだけで、ストレス解消になる。

 昨日も年中児(10人)を教えていたら、1人の子どもが、こう言った。「ぼく、男の先生より、女
の先生のほうが、いい……」と。

 そこで私は、こう言った。「ぼくの頭には、便利なスイッチがついているよ。これを押すと、女
の先生になるよ」と。

子どもたち「押して、押して!」
私「いいのか? 後悔するよ」
子どもたち「いいから、押して、押して!」
私「わかった、押すよ。でもね、スイッチは2つある。若い女の先生と、年をとった、女の先生
だ」
「年をとった、先生がいい!」と。

 私は、頭のスイッチを押したフリをしたあと、突然、けわしい表情にし、しわがれ声で、こう叫
ぶ。

 「あんたたち! 女だと思って、バカにすんじゃ、ないのよ! わかってんの! 私がね、結婚
できないのは、世の中の男が、みーんな、バカだからよ。わかってんの! そこの○○君、あ
んた、男!? クヤシ〜〜イ」と。

 子どもというのは、一度、笑いのリズムにのせてしまうと、あとは、どんなことをしても笑う。そ
れこそ、風が吹いても、ペンが落ちても、笑う。笑って、笑って、笑いまくる。

 それが私の教え方である。「直す」とか、「治す」とかいう言葉は使えないが、しかし多少の心
の問題なら、笑わせることで、「なおす」ことができる。

 すると、今度は、子どもたちは、「やっぱり、若い先生のほうがいい……」と。

私「若い、女の先生?」
子どもたち「そうだよ」
私「いいよ、若い先生で、いいんだね?」
子どもたち「そう」「そう」と。

 同じように頭のスイッチを押すマネをする。反対側にそのスイッチを回す。

 私は、手鏡と、赤ペンをサッと取り出し、(こういう小道具は、無数にもている)、口紅をつける
マネをしながら、こうつぶやく。子どもたちのほうは、無視。

 「私的にはサ〜。幼児教育なんて、サ〜。どうでも、いいって、カンジ〜イ。あんたらさア、近く
に、いい男、いない〜? いい男いたらさ、教えてくんない? そこの△△さん、あんたんとこ、
兄貴いるでしょう? 一度、紹介してくんなア〜イ?」と。

 実は、こうして子どもを笑わすには、もう一つ、重要な目的がある。

 私の教室は、すべて公開している。つまり公開しているということは、すべてをさらけ出すとい
うことになる。

 幼児教育の特質というか、この時期、母親たちは、たいへん神経質になる。指導のし方がま
ずいと、親たちの競争の場になってしまう。(それでも、ときどき、ピリピリとした親が出てくるが
……。)

 こうした神経質な雰囲気は、まことにまずい。子どもたちが萎縮してしまう。私も、教えにくい。
つまり、そういう雰囲気を、やわらげる役目がある。子どもを通して、親たちも笑わせる。楽しま
せる。

 子どもを教えることは、楽しい。そういう実感を、親たちにもわかってもらう。つまり、親は子ど
もを育てるのではない。子どもといっしょに、もう一度、人生を楽しむ。少し生意気な意見かもし
れないが、親たちに、それをわかってもらう。

 それが私の教え方。やり方。そしてBW教室! ウソじゃ、ないぞ!!!


●揺さぶられっ子症候群

 母子健康手帳の中に、「未発達な脳に出血を生じさせ、脳に障害を起こす場合があるので、
新生児や6ヶ月以下の赤ちゃんを、強く揺さぶるのを避けましょう」という記述がある。

 02年度の改正版から書き加えられた。

 いわゆる、「揺さぶられっ子症候群」の予防のためである。このところ、親に強く揺さぶられる
ことが原因で、脳内出血を起こす子どもがふえている。当然、部位にもよるが、そのあと障害
が残ることもある。

 新生児のばあい、脳の大きさが、頭蓋骨より小さいため、いわば水の中に、脳が浮いている
状態になっている。そのため強く揺さぶると、脳と外をつなぐ静脈が、切れやすいというわけで
ある。
 
「揺さぶられっこ症候群は、1974年に米国で最初に報告されました。米国の統計によると、揺
さぶられたことが原因で脳内出血した赤ちゃんの死亡率は、25〜50%、後遺症が残る確率
も30〜50%にのぼります」(日本私立病院ネット)とのこと。

 症例としては、強く揺さぶられたため、けいれんを起こした子ども(長野県)や、硬膜下血腫で
死亡した子ども(愛知県)などが報告されている(同ネット)。

 生後、6か月まで(母子健康手帳)、(日本私立病院ネットでは、1歳半くらまで)、子どもは、
静かに安静状態で、育てるのがよい。

 新生児を車に乗せて、ドライブをしてはいけない。
 新生児を突然、抱きあげては、いけない。
 新生児には、はげしい上下運動や回転運動を与えてはいけない。
(はやし浩司 母子健康手帳 揺さぶられっ子症候群 揺さぶられっこ症候群 母子手帳)


●児童虐待防止法

 2000年5月に、児童虐待防止法が、成立した(議員立法による)。

 それによると、

(1)教師や医師、弁護士などは、虐待の早期発見に努めなければならない。児童相談所など
に通告しても、罪に問われない。

(2)児童相談所による、自宅などへの立ち入り調査権を強化し、警察官の援助を要請できる。

(3)児童相談所長は、子どもを一時保護し、親の面会や通信を制限できる。

(4)一時保護された子どもの親などは、カウンセリングを受けなければならない、とある。

 しかし実際には、問題もある。

 日本人は、昔から、「子どもは親のモノ」という、独特の(所有物意識)をもっている。「オレの
子だから、オレが何をしようと、勝手」と。一方、欧米(キリスト教国)では、「神の子」という、意
識が強い。だから半世紀前ごろまでは、日本では、たとえば子どもが障害をもって生まれたと
すると、「家の恥」とか、「恥ずかしい」とか言って、その子どもを隠そうとした。(欧米では、比較
的、そう考える人が少ない。)

 今でも、そういう意識をもっている親は、少なくない。だから、学校の校長の通報で、子どもが
児童相談所に隔離されたりすると、猛烈にそれに反発する親がいる。中には、「お前を一生、
うらんでやる」「殺してやる」と、校長や教師を脅迫する親もいる。

 一方、子どもは子どもで、虐待されながらも、「おうちへ帰りたい」「ママのそばがいい」と言
う。「おうちでいい子になるから、おうちへ帰して」と泣いた子ども(小2男児)すら、いた。悲し
き、子どもの心である。

 つまり、この問題は、日本人自身が、伝統的にもつ、子ども観とも、深く結びついている。

 子どもは、子どもでも、つまり、あなたから生まれたとしても、親のモノでもなければ、財産で
もない。(神の子)という言い方には、少し抵抗があるが、私たちは、もっと大きな、(生命の流
れ)の中で生きている。そういう意識で、子どもを見ることも、重要なことではないか。

 「私の子」「あなたの子」という意識は、だれにでもある。それはしかたないこと。しかし、同時
に、「私の子は、あなたの子」「あなたの子は、私の子」という意識ももつ。そういう意識が育っ
たとき、児童虐待防止法は、真価を発揮する。

 そう言えば私は、いつだったか、自分の息子の小さな手を見たとき、こう思ったことがある。
「私の子とは言うが、この手を作ったのは、私ではない」と。

 そして今度は、私自身の手を見ながら、「この手は私の手とはいうが、私が自分で作ったお
ぼえはない」と。私たちは、親子という関係を超えて、もっと大きな流れの中で、生まれ、生きて
いる。ここでいう(生命の流れ)というのは、そういう流れをいう。

 今朝も、新聞の片すみに、児童虐待の記事が載っていた。それを見ながら、そんなことを考
えた。
(はやし浩司 林浩司 林 浩司 虐待 児童虐待防止法 悲しき子どもの心)


●教師の二重人格性

 教育の世界では、本音を言ったら、おしまい。本音を言うことは、許されない。
 
 しかし教職の世界から去った人、退職した人は、別である。私の友人のF氏は、最近、20年
以上勤めた、進学塾の講師の仕事をやめた。私に、こう言った。

 「二度としたくない。あんな仕事、こりごりだ」と。

 公立学校の教師のばあいは、まだ、恵まれている。一般公務員の20%ましの給料と、退職
金、それに高額な年金が保証されている。60歳で定年退職してからも、たいていの教師は、
天下り先へと再就職していく。つまりそれなりに、まだ、魅力がある。

 しかしそれでも、(あるいは、だからと言うべきか)、本音を言うことは許されない。一応、それ
らしい様子を見せなければならない。つまり、ここで、(本当の自分)と、(仮面としての自分)
が、遊離し始める。

 最初のころは、「それも教育技術のひとつ」と、納得する。割りきる。私にも、こんな経験があ
る。

 20代のはじめ。園長の声がかりで、公開授業をすることになった。その日だけは、うしろに、
園の教師以下、ずらりと父母が並んだ。

 そんなとき、数人の子どもたちが、席につかず、勝手に騒ぎだした。今でいう、ADHD児であ
る。そして数人が、たがいにかけあいながら、私の授業を破壊し始めた。当時はまだADHD児
に対する知識と理解が、ほとんどなかった。

 おかげで私の公開授業は、メチャメチャ。数日かけて用意した教材も、すべてムダになってし
まった。(実際には、思ったような授業ができず、消化しきれなかった。)

 そんな苦い経験がある。

 で、最近(04年)、ある小学校で、教師を対象にした研究会の講師として招かれた。その席
で、私に、こう質問した教師がいた。あの日の公開授業の話をしたあとのことだった。

 「そのとき、ADHD児について、先生(私)は、どう思いましたか?」と。

 私は一瞬ためらったあと、しかし、率直に、こう言った。「うらみました」と。

 すると会場は、シーンとなったが、そのあと、ドッと爆笑が起きた。つまり、それが学校の教師
たちの、本音ということになる。

 実際、あの公開授業のときは、その子どもたちを、私はうらんだ。本当に、うらんだ。その子
どもの立場でものを考えるということができなかった。その心の余裕も、なかった。

 で、基本的には、その本音は、今も、生きている。ないとは、言わない。

 教師には、「指導する」という義務がある。それはわかる。しかし同時に、「自分の教育をした
い」という願いもある。ADHD児を指導するという問題と、自分のしたい授業をするというのは、
まったくの別次元の話である。(だからといって、ADHD児を嫌っているということではない。誤
解のないように!)

 つまり「指導」と「教育」のはざまで、教師はいつも、悩み、苦しむ。本音を隠し、建て前で生き
る。それを繰りかえす。繰りかえすうちに、ここでいう二重人格性ができる。

 実際、子どもを指導していると、いつも心のどこかで、それに耐えている自分を知る。がまん
している自分を知る。言いたいことも言えず、したいこともできず……。上からの命令に、ただ
ひたすら、静かに従う……。

 このがまんが限界へきたとき、教師は、思わず、こう叫びたくなる。「バカヤロー!」と。しかし
もちろん、それを言ったら、おしまい。だからにこやかに笑いながら、「そうですねエ」と、相づち
を打つ。それですます。

 こうした二重人格性は、教職にある者の、宿命のようなものかもしれない。器用な教師は、そ
れらをうまく使い分ける。そうでない教師は、……。この先は、別のところで、考えてみたい。 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(433)

●12月4日、朝のTBS・iNewsより

 毎朝、起きると、まずパソコンに電源を入れ、インターネットであちこちのニュースサイトで、ニ
ュースを読む。

 今朝のTBS・i・Newsの「社会面」は、こうなっていた。(★印が、見出し、以下、私のコメン
ト。)

+++++++++++++++

★1億円献金、元会計責任者に有罪
 
 肝心のH元首相は、「記憶にないが、事実なんだろう」(11・30)と逃げてしまった。1億円も
受け取りながら、「記憶にない」は、ない。それとも、1億円など、H元首相には、記憶にも残ら
ないよいうような、ハシタ金(?)なのか?

★U銀行、隠ぺいに役員用エレベータ使用

 U銀行による、監査資料隠ぺい工作は、組織ぐるみだった。しかもトップダウンの命令による
ものだった。が、それほどまでにして、U銀行のトップたちは、何を守ろうとしていたのか。名誉
か、地位か、それとも、権益か?

★GY建設社長、本社で飛び降り自殺か

 飛び降りた社長は、私と同年齢だった。おかしなもので、「同年齢」と聞いただけで、何かと、
同情してしまう。遺書らしいメモも社長室に残っていたという。社長業というのは、想像を絶する
ほど、わずらわしい仕事らしい。「静かに自分を考える時間など、ぜったいにない」とは、K氏
(H市内で、同じく社長業をしている)の言葉。

★六本木でベトナム系米人社長殺される

 酒と金のにおいが、プンプンする事件。私は、酒は一滴も飲めないし、酒のにおいが、大嫌
い。六本木も、15年前に行ったことがあるだけ。ゴーゴーと車が走る大通り。それにつながる
無数の、路地。「ああいうところで事件は起きたんだろうな」と思うが、それ以上にコメントが浮
かんでこない。「ベトナム系米人」というだけで、何となく、麻薬がらみににおいもする。しかしこ
れは私のゆがんだ憶測か?

★六本木社長殺害、現場に不審な白い車

 上に同じ。

★強盗被害の信金に謝罪文と現金届く

 ときに人は、自分の過去に苦しむ。人生の汚点が、加齢とともに、心をふさぐようになる。銀
行強盗のような大罪は別として、だれしも、そうした無数の思い出を引きずりながら、毎日を懸
命に生きている。その男も、そうだったのか。毎日、「いつ、つかまるのか」とビクビクして暮らし
ていたのかもしれない。それがこわくて先手を取った……とも、考えられる。本当に反省したか
ら、お金を返したとは、私には思いにくい。

★オレオレ詐欺対策、改正本人確認法成立

 被害者の大半は、老人だという。先日、ワイフと、「うちも、そろそろオレオレ詐欺の電話がか
かってくるかもしれないから、気をつけよう」と、相談したばかり。とりあえず、ナンバー非通知
の電話は、受信しないように設定した。ほかにも……(防犯上の対策なので、省略)。

★オレオレ詐欺電話マニュアルを入手

 自分で考えてするならまだしも、マニュアルまであったとは! 「フーン」と思っただけで、おし
まい。そう言えば、私の家にも、ときどき、あやしげな架空請求書が届く。どれも文面がよく似て
いる。つまり、ほかの架空請求書を、マネをしているだけ。しょせん、そのレベルの人たちがす
る、詐欺である。底(能力)が知れている。

★女児殺害、殺害から放置までに時間

 このところ、この事件だけは、気になる。いろいろな証拠も残っているし、目撃情報も多いと
いう。犯人逮捕は、時間の問題。殺人事件というよりは、猟奇事件。ある身内の女性は、テレ
ビで、インタビューに答えて、こう言っていた。「八つ裂きにしてやりたい」と。その気持ちは、私
も同じ。毎日、新聞を開くと、まず、この事件の関連記事をさがす。犯人の血液型なども、わか
ってきたようだ。あと、一歩。捜査員のみなさん、どうか、がんばってほしい。

★横浜の小学校で「連れ去り防止訓練

 上に、同じ。

★品川区は小学生に警報発信機を配布

 上に、同じ。

★東京都、M物産の入札参加資格を停止

 国際的な大企業だから、清廉潔白というのは、まっかなウソ。元M物産の社員だった私が、
そう言うのだから、まちがいない。どこかの商社マンも、こう言っていた。「まともな商売で稼ぐ
額など、知れている」と。

★医療事故で虚偽報告、院長を書類送検

 昔は、「白い巨塔」とも呼ばれ、医療の世界に、操作のメスが入ることは、まずなかった。メス
が入っても、被害者側の証人に立つ医師がいなかった。みながみな、それぞれをかばいあっ
た。学生時代、模擬裁判劇で、この問題を取りあげたことがある。テーマは、北海道のS医大
で行われた、心臓移植事件。医療か、それとも殺人か、と。が、最近は、少しだが、こうしたメ
スが、白い巨塔にも、入るようになったらしい。

★高速券偽造団、ハイウェイカードも偽造

 額がちがうというか、偽造したカードの枚数がちがう。何でも数百万枚だったという。それにし
ても、スゴイ! 

★福井で犯歴漏らした警官を書類送検

 ありそうで、今まで、なかった(?)事件。

★誤って設置の標識に基づき反則金徴収

 街中には、「?」と思うような標識は、多い。たとえば私の教室の前の四つ角は、右折禁止に
なっている。しかしどう考えても、その理由がわからない。ごくふつうの四つ角である。そのた
め、そんな標識を守る人はいない。で、ときどき、婦警がやってきて、それを取り締まる。一
度、私の教室へ来ている子どもの母親が、つかまったことがある。走りよっていって、「どうして
ここが右折禁止なのですか?」と私が聞くと、「標識がありますから」とのこと。まったく理由にな
っていなかった。

★千葉の郵便局に車突っ込む、2人ケガ

 郵便局に突っ込んだから、ニュースになった(?)。

★文科省係長が大臣印偽造し賞状発行

 正直に……。私も、何だかんだと、いろいろな賞状をもらったことがあるが、それらは、すべ
て、そのままゴミ箱へ。今は……こうして思い出してみても、一枚も残っていない……。ただし
息子たちの賞状は、別。ワイフが、こまめに保存している。が、肝心の息子たちは、私と同じ。
見向きもしない。賞状というのは、そういうものか……。そう言えば、どこかの会社の事務室な
どには、無数の賞状が、これ見よがしに、飾ってある。「私なら、最重要のもの一枚だけにする
のに……」と、そういうとき、思う。しかしこれはいらぬ節介。

★君が代斉唱反対した元教諭を在宅起訴

 反対するのは、個人の自由。しかしそれを、公的な立場で、しかも公的な行事の最中に、実
力行使までして表現するのは、別問題。が、もともとあの「君が代」には、問題も多い。K首相
は、「君が代」の「君」は、国民のことだと苦しい言い訳をしたことがあるが、「君が代」の「君」
は、天皇のことである。歌詞を読めば、だれにでもわかる。だから反対する人も多い。

しかしどうしてこうまでみな、国歌にこだわるのか。支持する人も、反対する人も……。歌った
から、愛国者ということでもないだろう。歌わなかったから、愛国者でないということでもないだ
ろう。

いっそのこと、愛国者かどうかをわかりやすくするために、日本人も、ぜんいん、君が代バッジ
を胸につけるようにしてみたらどうだろうか。あのK国の人たちのように……。位の高い人は、
金縁バッジ。その下が銀縁バッジ。私のような平民は、銅縁バッジ。バッジをつけてない日本
人は、即刻逮捕。投獄。おまけに処刑!

 バッジがまずいなら、スカーフでもよい。あるいは毎朝、皇居のほうに向って、三拝九拝する
のもよい。

 要するに、「愛国」のシンボルなど、何でもよいということ。宗教団体では、本尊が、信仰のシ
ンボルになる。そう言えば、どこかの会社では、毎日、社歌を、仕事のはじめにみなで、歌って
いる。

 どうして国歌なのかという問題をつきつめていくと、わけがわからなくなる。


★警視庁警部補を収賄の疑いで逮捕

 よくある事件。

★ひったくり容疑で男逮捕、余罪を追及

 よくある事件。

★全国で飲酒運転の一斉取り締まり

 また始まった、年末恒例の、一斉取り締まり。今年も、あと1か月。早いものだ。

★横浜に災害用地下給水タンク完成

 防火用? 飲料用? 見出しだけ読んで、おしまい。そう言えば、私の家の近くの公園にも、
それらしき防火用の地下タンクが、いくつか埋め込んである。今、思い出した……。しかしあん
なの本当に、役に立つのだろうか? たとえばH市の中心部に、Aタワーなる、40数階建ての
ビルがある。その屋上に、防災用のヘリポートがある。その建設費用だけで数億円。(私は30
億円と聞いているが……。)

市民の批判に答えて、市の職員は、こう答えていた(地元テレビ)。「地震などの災害時には、
あのヘリポートを使って、ケガ人を運んだり、救援物質をおろしたりします」と。しかしものごと
は、もう少し、常識で考えてみようではないか。

災害時には、エレベーターは使えない。地震だったら、いつまた余震が起こるかもしれない。そ
んなとき、40数階もの階段をのぼりおりして、ケガ人や救援物質を運んだりする人がいるのだ
ろうか。何となく、横浜の災害用地下給水タンクも、そんな発想で生まれたような気がするが…
…。記事の中身は、読んでないので、ごめん。


●次期パソコン

次期パソコンの選定期に入った。ワイフも、それらしく言い出した。「それらしく」というのは、何
となく、「しかたないわね」といった雰囲気になってきたということ。どうやら、新しいパソコンを、
買ってもらえそうだ。

 言い忘れたが、我が家では、お金の管理は、すべてワイフ様がしている。私は、一日、100
0〜2000円の小遣いをもらうだけ。パソコンのような高額なものは、ワイフ様の承諾と、承認
がないと、買ってもらえない。

 まず、今のパソコンの不便な点を、いくつか並べる。(どうせ、ワイフには、パソコンのことは
わからない。シメシメ……。)

 「処理能力が遅い」
 「メモリーが少ない」
 「最新のゲームができない」とか。

 するとワイフが、「それじゃあ、しかたないわね」とか言い出す。そうなれば、あとは簡単。いろ
いろなパソコンのカタログを見せながら、「これはすごいよ」「これなら、あのゲームができるよ」
とか言う。

 こうしてムードをもりあげていきながら、「そろそろ買いかえの時期だよね」と話す。するとワイ
フ様は、「そうね」と言いだす。つまり、今が、その時期。

ワイフ「どんなのがいいの?」
私「PEN4の3ギガ・ヘルツね。WINDOWのSP2は、常識。メモリーは、1ギガバイト。あと、グ
ラフィックボードは、……」
ワイフ「フ〜ン」
私「すごいんだよ」と。

 以下、まじめな話。

 今、検討しているのが、S社のパソコン。自作も考えたが、あとのメインテナンスにどうして
も、自信がもてない。何度かその筋の店に足を運んで、相談してみた。が、相談するたびに、
どんどんと自信がなくなっていく。

 そこでセミ・自作というか、純正のメーカー品ではないが、自作的に、オーダーメイドできるパ
ソコンにした。それを扱っているのが、S社である。値段も安い。液晶モニターとワープロソフト
は別売だが、それなら11万円前後で手に入る。どうやら、今度は、それになりそう。

 毎晩、カタログをながめながら、床につく。しかしこの時期が、一番、楽しい。買ってしまうと、
楽しみがなくなる。

(補記)

 そんなわけで、つまり毎年のように新しいパソコンを買っているため、私の書斎の中には、古
いパソコンが、ゴロゴロしている。

 ワイフは、「古いのは、処分したら?」と言う。しかし私には、それができない。先日も、理由を
聞かれたので、こう答えた。

 「買ったときの喜びを、指先が覚えていてね、どうしても手放せないんだよ」と。

 今でこそ、パソコンも値段が安くなった。しかし少し前までは、20〜25万円が相場。買うにし
ても、かなりの覚悟が必要だった。そういう思いが、心のどこかに残っている。そして買ったとき
の喜びというか、感動が、それぞれのパソコンに残っている! しみこんでいる!

 ワイフなどは、パソコンを、「ただの電気製品」と思っているらしいが、パソコンは、決して、た
だの電気製品ではない。……と、思っている。


●子どもの忍耐力

 子どもの忍耐力は、どうやって養うか? よく話題になる。

 が、この日本では、忍耐力というと、(いやなことをさせながら養うもの)という考え方が根強く
残っている。過酷な仕事をさせたり、無理なことをさせたりするなど。

 学校での部活動なども、その一つ。毎晩真っ暗になるまで、猛練習を重ねる、など。しかしこ
の方法は、子ども自身がそれを望めばよいが、そうでなければ、収容所の強制労働的になっ
てしまう。子どもの中に、抑圧された欲求不満状態をつくってしまう。ばあいによっては、過負担
が原因で、子どもの心にさまざまな問題を引き起こすこともある。

 盲目的な依存性や、隷属性など。さらに過酷な状況がつづくと、無気力になったり、燃え尽き
てしまったりする。

 では、どうするか。

 一つの方法として、欧米のクリスマス・プレゼントの与え方が参考になる。

 欧米では、クリスマスが近づくと、子どものところにいろいろなプレゼントが届くようになる。そ
のとき、親は、そうしたプレゼントを、すぐ開かせない。たいていは、クリスマスツリーの下に並
べる。置く。

 「クリスマスに開けましょうね」と。

 つまり子どもにその日が来るのを楽しみにさせながら、がまんさせる。子どもは毎日、クリス
マスツリーの下に並べられたプレゼントの箱を見ながら、「何だろう?」「何かな?」と箱の中身
を想像する。楽しみにする。

 つまり親は、こうして子どもに、忍耐力を養う。

 もうおわかりかと思うが、子どもの忍耐力を養う方法は、二つある。

(1)苦難、苦渋をがまんさせる。これを負の忍耐力鍛錬法という。
(2)欲望の達成をがまんさせる。これを正の忍耐力鍛錬法という。

 どちらが重要で、どちらがそうでないかということではない。大切なのは、バランス。

 ただ誤解してはいけないのは、子どもにとって、負の忍耐力というのは、(いやなことをする
力)のことをいう。たとえば好きなサッカーを一日中しているからといって、その子どもに、忍耐
力があるということにはならない。その子どもは、好きなことをしているだけである。

 そこでためしに、台所の生ゴミを、子どもに始末させてみてほしい。そのとき子どもが、「ハ〜
イ」と言って手で始末すれば、その子どもは、忍耐力のある子どもということになる。

 一方、その負の忍耐力と同じくらい重要なのが、正の忍耐力。欲望のおもむくまま生きるとい
うことをがまんする。……がまんさせる。それが正の忍耐力である。

 たとえば子どもが、「テレビゲームがほしい」と願ったとする。そのとき重要なことは、ゲームを
買ってあげるにしても、それなりのお膳立てをすること。仮に買ってあげても、「クリスマスの日
に、箱をかけるのよ」と、子どもに言う。がまんさせる。

 こわいのは、欲望を、そのつど、安易に満足させること。こうした習慣になれた子どもは、自
分の欲望にブレーキをかけられなくなる。(ほしい)と思ったら最後、すぐ、その欲望を満足させ
ようとする。そのため、いわゆる生き方そのものが、享楽的になる。その場だけ楽しめれば、
それでいい、というような考え方をするようになる。

 そういう子どもが、大きくなれば、どうなるか。ここに改めて、書くまでもない。
(はやし浩司 正の忍耐力 負の忍耐力 子どもの忍耐力 子供の忍耐力 忍耐力 鍛錬方、
鍛錬)


●ワイフの呼び方

 今日、I氏(ある小学校の教頭)が、「林さんは、奥さんを何と、呼んでいますか?」と聞いた。
私は、「ワイフです」と言ったが、どうもしっくりこない。

 私のオーストラリアの友人の父親は、いつも奥さんを、「フレッド」と呼んでいた。フレンド(友)
の「フレッド」である。

 すばらしい言い方だと思う。奥さんを、「フレッド」と呼ぶ!

 そこで私も、そろそろ、ワイフを「ワイフ」と書くのをやめようかと思う。直接には、「晃子」と、
「ママ」とか、そういうふうに呼んでいる。が、私が書く文章の中では、「ワイフ」と書くのをやめよ
うかと思う。

 では、何と書くか?

 私は、「フレッド」がよいと思う。

 しかしフレッドと書いたとき、新しい読者には、それがわからない。だからフレッド(ワイフ)と書
かねばならない。どうしたものか? ワイフは、ワイフか?

 そのことを今日、電車の中で、ワイフに話すと、ワイフも、少し困ったような顔をしていた。「フ
レッドねえ……?」と。

私「でも、お前は、ぼくの親友だよ」
ワイフ「それはわかるけどオ……」
私「妻とか、ワイフとか、そういう存在ではなく、親友だよ」
ワイフ「でも、私は、ワイフのままでいいわ」と。

 「ワイフ」と言うと、何かしら、そこに上下関係を感じてしまう。役割のちがいを感じてしまう。
が、「フレッド」には、それがない。そこで今夜から、こう決めた。

 これからは、ワイフを、「フレッド」と呼ぶ。決めた!

 私のような、どこかおかしな男のために、がんばってくれたフレッド、ありがとう!
 私のような、たいへん気難しい男のために、がまんを重ねてくれたフレッド、ありがとう!

 ……しかし、フレッドというと、どこか、犬の名前みたい……???

 やはり、ワイフのままでいこうか。明日の朝、またゆっくりと、考えてみる。感謝の気持ちだけ
は、そのままで……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


【教育の原点(短編SF小説)】

***************************

ヒマつぶしのために書いた、駄文です。
読んだあと、どうか、がっかりしないでください。

***************************

 タイムマシンを手に入れた。
 さっそく、あなたは、3500年前に、タイムトラベル!
 場所は、地球、そして日本。
 あなたの遠い祖先が生まれ育った、HH地区、つまり、旧静岡県。

 が、ここで問題が起きた。
 重大、かつ深刻な問題だ。
 ナ、何と、マシンが、故障してしまった!
 つまり、過去への一方通行。
 現代へ戻ることができなくなってしまった!

 おかげで数日のつもりのトラベルが、2年になってしまった!

 あああああ!

***************************

●原理

 タイムマシン……、いくつかの会社から販売されるようになって、もう10年近くになる。その間
に、タイムマシンで、過去への旅をした人は、すでに、100万人を超えたという。今では、その
旅行記など、珍しくも何ともない。

 時は、2250年、1月5日。水曜日。

 タイムマシンの原理は、簡単。それぞれの時代の、宇宙ボールの中に、入っていく。それだ
け。ただし、行くことができるのは、過去だけ。未来は、無理。宇宙ボールそのものが、まだで
きていないからである。

 わかりやすく言えば、この宇宙には、無限大の数の宇宙ボールがつまっている。ひとつひと
つの宇宙ボールが、今、あなたの前に広がる、この宇宙と同じ大きさである。ただ、通常の人
間の目では見ることができない。

 宇宙ボールという概念は、遠い昔、ホーキングという博士が、予言した概念である。それが5
0年ほど前に、実際に発見された。とたん、タイムトラベルが、可能になった。

 つまり「時」のエネルギーは、そのつど、無数の新しい宇宙ボールを生み出している。この瞬
間にも。つぎの瞬間にも……。こうして宇宙は、つまりそれぞれの宇宙ボールは、それぞれ、
瞬時、瞬時に、拡大をしつづけている。

 だから自分の行きたい宇宙ボールをさがし、そこへ行けば、その過去にもどることができる。
で、あなたは、そこで、つまりその宇宙ボールの中で、好き勝手なことができる。その宇宙ボー
ルの中の歴史を変えることさえ可能なのである。

 何しろ、宇宙ボールは、無限大の、そのまた無限大の数だけ、ある。そしてそれぞれの宇宙
ボールが、その瞬間ごとに、これまた無限大の、そのまた無限大の数だけの宇宙ボールを生
み出している。

 わかるかな? 

 わからない?

 わからなくてもよろしい。

 しかし、要するに、あなたはその過去のどこかの宇宙ボールにもどって、好き勝手なことがで
きるということ。そしてもどりたくなったら、いつでも、今の、この、あなたが住む宇宙ボールにも
どってくることができる。それがタイムトラベルである。

●3500年前に……

 3500年という数字は、あやふやなもの。ただおよそ3500年ということで、ダイアルを設定
すればよい。あなたは、3500年前の過去に、ダイアルをセットした。あとは、ゴー!

 あなたの体と精神は、瞬時に、ニュートロン・レベルにまで分解され、あなたの希望する、宇
宙ボールへと運ばれる。

 気がつくと、そこは、3500年前の、地球。日本。HH地区、つまり、旧静岡県。つまり3500
年前の過去。映画だとか、三次元映像で見るような、仮想現実の世界ではない。現実の世界
である。違和感はない。あなたは、まったく今のままのあなたとして、その宇宙の中に入る。そ
してそこで見る宇宙は、今あなたが住んでいる宇宙と、まったく、同じ。

 そこであなたは、こんなことを心配するかもしれない。

 過去を勝手にいじれば、未来が変わってしまうのではないか、と。しかし心配は、無用。その
変化は、その宇宙ボールの中だけ。今、あなたが住んでいるこの宇宙ボールは、別の宇宙ボ
ールの影響を、受けない。

 で、あなたは、その3500年前の、日本へやってきた。昔は、「静岡県」と呼ばれていた。そ
の前は「遠州」と呼ばれていた。タイムトラベルでは、ほとんどの人が、地球を選ぶ。特別な装
備が不要だから、だ。

 そこであなたは、3500年前の、地球の、その中の日本を選んだ。多分、言葉も、ある程度、
通ずるだろう。が、その考え方は、甘かった……。

 が、そこは広漠たる原野。何もない。どこまでもつづく、密林。道はない。突然、あなたは、無
数の虫にとりつかれる。草や木々の葉におおわれる。「しまった!」とあなたは、思う。「とんで
もない世界に来てしまったぞ!」と。

 が、ここで異変に気づく。腕につけたコントローラーが、動かない。軽くひねれば、そのままも
との宇宙ボールにもどれるはず。しかしひねることができない。故障かも? 突然、襲う恐怖。
ぞっとするような恐怖。

●人類をさがして……

 こうしてあなたは数週間を、密林の中で過ごした。「過ごした」というより、さまよい歩いた。今
までの知識を最大限掘り起こしながら、道なき道を進んだ。

 前もって、読んでおいたガイドが、役にたった。しかし同時に、それでは不十分であることも知
った。あなたは太平洋側の海をめざした。3500年前の人類、つまり日本人の祖先は、海沿い
の部落で、生活をしていたという。

 あなたは、昼は太陽の方角、夜は月の方角を見ながら、海をめざした。が、やがて、あなた
は海に出た。広い砂浜だ。地形からして、どうやらそこは、未来において、静岡県となる地域の
砂浜であることを知った。

 ここまでくれば、人類をさがすのは、むずかしいことではない。静岡県には、無数の、縄文人
の住居あとが見つかっている。貝塚も残っている。当時の縄文人たちは、そのあたりで貝を拾
って、それを食べていた。

 夜になった。小高い丘に登った。衣服はボロボロに破れていた。私物をつめたスーツケース
は、もう手元にはなかった。数日前の嵐で、みな、水に流されてしまった。

 あなたは、光をさがした。縄文人たちは、こうした風のない夜は、火を燃やして、暖をとってい
るはず……。

 が、火は見えなかった。しかしそのかわり、朝になって、遠くに、青い、一筋の煙が立ち昇って
いるのが見えた。あなたは、歓喜のあまり、ウォーと声をあげた。喜んだ。そしてその方向に向
って、走り始めた。

●人類との再会

 あなたは部落に入る前に、縄文人につかまってしまった。こわいはずなのに、なぜか、うれし
かった。その縄文人は、明らかに狩猟民族であった。手には、原始的な武器をもっていた。
が、何よりも、驚いたことは、その臭気だった。生臭い臭気。いや、体臭だった。

 縄文人たちは、あなたの背の高さに驚いているといったふうだった。平均身長は、150セン
チ前後か。女は、もっと低い。あなたの身長とくらべても、20〜30センチ以上は、低い。

 あなたは懸命に話しかけるが、縄文人たちは、「アー」「ウー」「イー」という3つの母音を中心
とした単語を話す。しかし言葉にはなっていない。日本語の原型だとは思うが、意味がよくわか
らない。「ウー」というのは、何かの動作を表す言葉のようだ。

 「歩く」も、「食べる」も、みな、「ウー」と言う。

 「痛い」も、「悲しい」も、みな、「イー」と言う。あとは、それに、別の音をのせながら、表情をそ
える。足が痛いときは、「ィイー」と言いながら、足を押さえる。悲しいときは、「ヵイー」と言いな
がら、どこかつらそうな顔をしてみせる。

 しかし縄文人たちは、思ったより、平和的な人だった。しばらくすると、すぐ、あなたに警戒す
る様子も、見せなくなった。中には、ニヤニヤ笑いながら、近づいてくる縄文人もいた。

●2年がすぎた……

 あなたはいつしか縄文人の部落で、その1人として、共同生活をするようになった。何度も病
気になったり、ケガをしたが、そのつど、どうにかこうにか、乗りこえた。学生時代に薬草研究
会に入っていたのが、役にたった。

 で、その部落の概要。

 人口は、348人。これは実際に、数えた。男が160人。女が188人。縄文時代は、どうやら
母系社会だったようだ。

 子どもの数は、約100人。現代風に言えば、5歳から10歳前後までの縄文人ということにな
る。平均寿命は、30歳前後か。女たちは、14、5歳くらいで子どもを産み始め、中には50歳く
らいまで生きる人もいる。が、女たちは、たいていは、数度の出産を繰りかえしたあと、死ぬ。
男たちは、病気か事故で、死ぬことが多い。

 狩にでかけ、そのまま帰ってこないのも、いた。

 あなたはいつしか、子どもの世話をするようになった。最初は男たちの留守を預かっていた。
が、そのうち、あなたは、教育こそが、自分の生きる道と理解した。あなた自身を、子どもたち
の中に残そうと考えた。

 あなたは縄文人の子どもを集めて、学校(?)を作った。学校といっても、竹やぶにかこまれ
た、狭い空間。しかしあなたは自分が学んだ学校にまねて、木の切り株を並べて、机やイスに
した。

●教育の原点

 あなたは、無間の孤独を感じている。限られた言葉、限られた思想。あなたを理解できる縄
文人はいない。マナーも、道徳も、倫理もない。それに理解しがたい宗教観ももっていた。たい
まつの周囲で、一晩中踊りあかしたかと思うと、翌日は、体中にドロを塗って、小屋の中で一日
中、過ごしたりした。

 「どうい意味があるのか?」と聞いても、ただニヤニヤと笑っているだけ。平和で、のどかな人
たちだが、それを説明するだけの言葉そのものがない。会話もない。

 狂おしいまでに退屈な、日々。単調な生活に、単調な食事。日の出とともに、男たちと狩とで
かけ、夕方には帰ってきて、そのまままた、朝まで眠る。雨の日は、一日中、小屋の中で、狩
猟道具の整備。

 あなたはいろいろな狩猟用の道具を作ってみせた。吹き矢や、ワナなど、女たちには、衣服
の編み方を教えた。

 一度、ひとりの女の腹痛を、薬草でなおしたことがきっかけで、あなたは、急速に尊敬される
ようになった。

 が、何よりもまず、あなたは、まず、言葉を教えたいと思う。おとなたちには無理だとしても、
子どもたちに教えたいと思う。が、ここで最初の問題にぶつかる。子どもはその世界では、歩き
始めると同時に、重要な労働力となる。一つの場所に集めて、教育をするということが許されな
い。

 限られた時間。限られた人生。10歳まで無事に生き残る子どもは、半数もいない。さらに15
歳まで生き残る子どもは、そのまた半数もいない。そして15歳を過ぎると、子どもから、子ども
らしさが消え、急速に、おとなっぽくなり、20歳を過ぎると、やがて顔に老醜が現れるようにな
る。こうした世界では、老けるのもはやいようだ。

 縄文人たちも結婚し、子どもをもうける。しかし実際のところ、どの人とどの人が夫婦で、子ど
もにしても、どの人が父親かということはわからない。夜は、大きな部屋で、みな、雑魚寝(ざこ
ね)。兄弟、姉妹が、そのつど夫婦になり、子どもをもうけることもある。

●教育

 あなたは子どもたちに、ものの名前を教える。同時に、子どもたちは、あなたに、ものの名前
を教える。縄文人たちは、ものの名前を、短い一音で表そうとする。縄文人の言葉の一部を、
紹介しよう。

 草……クッ
 臭い……クッ・イ
 苦しい……ク・イ

 音を二つ重ねると、「とても」という意味になる。たとえば「とても苦しい」は、「クイ、クイ」と。

 語いの数も少ない。「上にあるもの」は、すべて「カァ」。

 神……カァ
 上……カァ
 髪の毛……カァ。

 そこで「草」を、「ク・サ」と教える。しかし、基本的な発音ができない。「S」「K」「T」などの子音
の発音そのものが、弱い。口を動かさない。表情も少ない。息だけで、言葉を話そうとする。叫
ぶような言い方である。

 そこでつぎにあなたは、子どもたちに、数の数え方を教える。とりあえずは、「1から10」ま
で。しかしここでも、問題。縄文人にとっては、数は感覚的なもの。「多い、少ない」の判断はし
ているようだが、その程度。

 それにいくら教えても、頭の中に残らない。反応もない。つぎの日になると、すべてを忘れて
いる。数といっても、彼らには、呪(まじな)いのようなものかもしれない。意味のない、呪い。そ
こでいつしか、あなたは、発想を変えた。

 あなたは、絵や歌を教えることにした。と、いっても、最初は教えていたわけではない。さみし
いとき、ふとそれを口ずさんでいると、横にいた、子どもたちが、まねをして歌うようになった。

 そこであなたはその歌に、踊りをそえてみた。が、これは、部族の長老の怒りをかった。たま
たま踊った翌朝、大きな嵐が部落を襲ったからだ。そこへ大雨が、降った。村の一部が、流さ
れた。長老は、おかしな踊りでそうなったと思ったらしい。この世界では、踊りには、いつも、特
別な意味がある。

 踊りはやめた。が、とたん、恐ろしいほどの閉塞感。絶望感。

 まさにいいことなし。あなたは落ちこんだ。落ちこんだまま、数日を、小屋の中で寝て過ごし
た。

●変化

 が、変化は、子どもたちのほうから、やってきた。目をさますと、そこに子どもたちが立ってい
た。

 「ムウ」と呼んでいる男の子。それにもう一人、「スウ」と呼んでいる男の子。年齢は、5歳と1
0歳。その部落では、毎年、鷹がヒナをかえす時期に、子どもの腕に、一本ずつ、刺青(いれず
み)を入れる。その線の数で、年齢がわかる。

 ムウが、あなたの手を引いた。つづいて、スウがあなたの髪の毛を引いた。あなたは、それ
につられて起きた。

 外は、澄んだ朝の陽光で輝いていた。木々の葉は、やさしく風の中で、そよいでいた。あなた
は思いっきり、空気を、吸った。腹の底まで。そして体中にしみわたるまで。

 あなたは子どもと手をつないだ。そこへまた数人のこどもが集まってきた。見ると、一人の子
どもが、草履(ぞうり)をはいていた。あれほど、はくのをいやがっていたのに! その草履をあ
なたは、指でさしながら、「ゾーリ」と言った。その子どもは、うれしそうに、「ゾー」と答えた。

 部落の広場へ出たとき、あなたは、もっと驚いた。数人の縄文人たちが、着物を体に巻いて
いたからだ。あなたが、いつか、彼らのために作った着物である。長い葉を格子状に織った着
物だった。あなたはそれを見て、大声をあげた。

 「キーモーノー!」と。
 
 部落の男たちは、それを見て笑った。女たちも、笑った。「キー」「キー」と。

 そう、そのとき、あなたは、いつかあなたの父が歌っていた歌をまた、歌いだした。何か、うれ
しいことがあると、決まって、父は、その歌を歌っていた。その部落へ来てからも、さみしくなる
と、いつも歌っていた。

 「♪夕空、晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫、鳴く……」と。

 と、そのときだった。あなたは腕に巻いた、タイムトラベルのスイッチのライトが、点滅している
のを知った。「まさか……」と思って、その腕輪を回してみると。それは静かに回転した。そして
つぎの瞬間、気がつくと、あなたは、もとの世界、つまりこの宇宙ボールの中に、もどっていた。

 時は2252年、1月5日。あれからちょうど、2年の歳月が流れていた。聞くところによると、つ
まりそのあと、1000年を経て、あなたが行った宇宙ボールの地球では、飛躍的に文明を発展
させたという。そしてそのあとさらに1000年を待たずして、宇宙をとびかう宇宙船を作るまでに
なったという。

 あなたの住んでいる地球とくらべても、約1000年近く早く、文明が進んだことになる。

 そうそう、もう一言。その宇宙ボールの中では、今でも、こんな伝説が言い伝えられていると
いう。

「遠い昔、背の高い神が、どこからともなくやってきて、言葉を作った。そして歌や踊りを教え
た。

その神は、数学を教え、医学を教え、科学を教えた……」と。

そしてあの歌が、今でも歌われているという。

 「♪夕空、晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫、鳴く……」と。

何でもこの歌は、その宇宙ボールの中の地球では、神の歌ということになっているそうだ。

(参考文献、浜松市遺跡資料)

(参考)浜松市の佐鳴湖には、蜆塚遺跡(しじみづか・いせき)という遺跡が残っている。今から
3000〜4000年前の縄文時代の人たちが残した遺跡である。当時の人たちが食べた蜆
(貝)の殻が、層をなして発見されている。集落遺跡を復元した家屋も、並んでいる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(434)

●家族の重圧

 昨夜(12・5)、名古屋市に住む友人と、1時間ほど、電話で話した。中学時代からの友人で
ある。その友人が、こんな話をしてくれた。

 その友人(57歳・男性)も、名古屋市に住むようになって、もう35年になるという。が、いまだ
に、実家に、仕送りをつづけているという。こんな話をしてくれた。

 「G県の人たちは、ぼくのように、実家を離れた人間を、『出ていった人』と言うんだね。それで
実家を守り、育てていくのは、その出ていった人の役目と考えているんだね」と。

 こういうことだ。

 友人を、M氏としておく。

 M氏の実家では、毎月のように、いろいろな人の命日供養をするという。たとえば毎月、12
日は祖父の命日供養。18日は祖母の命日供養、28日は父親の命日供養、と。(毎月だ
ぞ!)

そしてそれぞれの人の命日に合わせて、年に1度、寺の僧侶を呼んで、供養をするという。そ
れが10回忌、20回忌ともなると、さらにハデになる。近くの料亭を借りて、会食までするとい
う。ふつう、33回忌までするという。

私「それは、たいへんですね」
M「まだ母も元気ですから、しかたないですよ」
私「どうして?」
M「つまりね、供養というのは、母にとっては、小遣い稼ぎの場になっているんですよ」と。

 M氏の母親は、そういう形で、子どもたちからはもちろん、親類縁者から、お金を集める。つ
まりそれが、M氏の母親の集金ビジネスというわけである。

 だらかM氏は、こう言う。

 「実家思想の強い人は、実家のめんどうをみるのは、出て行った人間の、当然の義務と考え
ているのですね。だから、ぼくらの都合や、経済状況など、お構いなしです。先月も、祖父の33
回忌がありましたが、その費用が、43万円。すべて私が負担しました」と。

 もちろん供養として集まった現金は、そのまま、M氏の母親の収入(?)となる。

私「少し、負担を減らしてもらうわけには、いかないのですか?」
M「いえね、子どものときから、『先祖を粗末にすると、地獄へ落ちる』と、母に、さんざん脅され
て育っていますから、こわいですよ」
私「ハハ、それはカルトですね」
M「そう、最近になって、少しずつですが、やっとそれがわかってきました」と。

 21世紀になった。その名古屋市では愛知万博も開かれる。T社館では、ロボットたちが、歌
って踊ってみせるという。リニアモーター車が、名古屋市と、万博会場を結ぶという。

 一方でそういう時代になったのに、もう一方で、M氏のように、家族自我群の重圧に苦しんで
いる人もいる。少なくない。今、日本は、あの封建時代のトンネルから抜け出ようとしている。
が、しかし、まだ完全に抜け出たわけではない。

 M氏の話を聞きながら、そんなことを考えた。

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●回顧性 

 若い人は、未来を見て、人生を考える。これを展望性という。しかし加齢とともに、過去を振り
かえることが多くなる。これを回顧性という。

 その展望性と回顧性が、交差するのが、満50歳から60歳にかけてと言われている。

 しかし人間も、過去の栄華をしのび、それにぶらさがって生きるようになったら、お・し・ま・
い。

 問題は、回顧性が生まれるのはしかたないとしても、いつ、どこでどのようにして、その過去
を切り離すか、だ。「あのころはよかった……」「あの時代はすばらしかった……」と毎日、悶々
として生きるようになったら、その人は、死んだも、同然。

 その切り離しがうまくいかないと、結局は、「老後」と呼ばれる時代を、ムダにすることになる。

 世間では、広く誤解されているが、「老後」というのは、終着駅ではない。晩年でもない。「老
後」と呼ばれる時代は、それ自体が、貴重な、人生の一期間である。人生そのものである。
「死」を考えるとしたら、その死が、目前に迫ってきてからでよい。それまでは、私たちは、生き
る。生きて生きて、生きまくる!

 私たちは、「老後」という言葉そのものに、おかしな先入観を添えてしまった! 「老後は、ブ
ラブラと、孫のめんどうでもみながら、悠々自適に過ごすのがよい」と。

 だから、世の老人たちよ、もっと、外に出ようではないか!
 外に出て、外の空気を吸おうではないか!

 もしあなたの孫が、親のスネをかじって、毎日、道楽三昧。仕事もせず、趣味ばかりに没頭し
ていたら、あなたは、何と言うだろうか? それと同じ言葉を、自分自身に言ってみようではな
いか。それが生きるということ。

 回顧性など、クソ食らえ! 

 もしあなたの息子が、学生時代の活躍ばかりを口にして、そのころのアルバムばかりを見て
いたら、あなたは、何と言うだろうか? それと同じ言葉を、自分自身に言ってみようではない
か。それが生きるということ。

 回顧性など、クソ食らえ!

 この回顧性という悪魔は、あなたがその年齢になると、必ず、あなたのところにやってくる。そ
れに打ち勝つか、それとも敗れるかは、これからの心構えで、決まる。

 老後こそ、人生の始まりまのだ!
(041206)

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●ただ歩くだけ

 昨夜遅く、ワイフと、近くにできた、超大型ショッピングセンターに行ってみた。「大きい」などと
言うものではない。超・デカイ! 今年の夏、畑の中に、こつ然と、姿を現した。

 何しろ、駅前にあるデパートを、数個分、集めたようなショッピングセンター。日曜日の夜とい
うこともあって、結構、混雑していた。

 が、私は、何かおかしいと、感じた。何か、おかしい?

 そうだ、みな、ブラブラと、通路を右から左へ、上から下へと、移動しているだけ。当然もって
いるはずの、買い物袋をもっていない! 買い物に来たのだから、それなりの買い物をしてい
るはず。……したはず。しかしその形跡が、ない!

 私たちも、実は、ヒマつぶしに行っただけ。いや、夕食を食べに行っただけ。本当は、近くの
レストランで夕食をすます予定だったが、「行ってみようか?」「行ってみよう」ということで、その
ショッピングセンターに行った。

 しかし後悔した。

 何しろ、うどん定食が、900円。私の食べた煮込みうどんも、900円。それが一番、安い料
理。小皿のデザートと合わせて、2500円弱!

 とにかく、高い! バカ高い! ふつうの料理で、1200〜1400円。それらが、2000円級
の料理の間で、隠れたように並んでいる。

 おまけに並んでいる商品を見ても、どれも、ドキッとするほど、高い。冬物のコートが、4万円
とか5万円! 子供服が、2万円とか3万円!

 ついでにパソコンショップものぞいてみた。

 3か月前の9月に買った、C社のデジタルカメラが、2万9000円! 先週、Y電気で見たら、
同じものを、1万9000円で、売っていた! (私が3か月前に買ったときは、3万4000円だっ
たが……。その後すぐ、そのカメラから、現在使っているカメラに買いかえた。)

 本当なら、近くに大型ショッピングセンターができたことを喜び、応援してやらねばならない。
が、どうしても、そういう気にはなれない。私は、こうした消費文明には、ついていけない。

 おとといも、愛知県のあの豊田市を電車で通り抜けた。車窓からは、巨大なビルがいくつか
見えた。建設中のビルも見えた。あのトヨタ自動車の豊田市である。

 私とワイフは、その巨大なトヨタ・シティを見ながら、「すごいなア」「すごいわネ」と言いあった。
そういう喜びが、そのショッピングセンターの中を歩いても、わいてこない。まったくわいてこな
い。

 「バカなもの作ったナ」「そうよネ。ムダよ」と。
(041206)

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●テレビを消そう!

 「テレビを見せておけば、静かにしていてくれる」と。

 それはわかるが、しかし、乳幼児に見せるテレビやビデオは、ほどほどに!

 今年(04年)、日本小児科学会、「こどもの生活環境改善委員会」は、テレビ視聴が、乳幼児
に与える影響について、調査した。

 その結果、「長時間の視聴は、1歳半における意味のある言葉の出現の遅れと関係がある。
とくに、日常やテレビ視聴時に、親子の会話が少ない家庭で遅れる」という調査結果を発表し
た。

 そこで同委員会は、つぎのような提言をまとめた。

(1)2歳以下の子どもに、テレビ、ビデオを長時間、見せない。
(2)つけっぱなしにせず、見たら、消す。
(3)乳幼児には、ひとりで見せない。見るときは、親もいっしょに歌ったり、子どもの問いかけに
応える。
(4)授乳中や食事中は、つけない。
(5)乳幼児に、適切な使い方を、身につけさせる。
(6)子ども部屋に、テレビ、ビデオを置かない。

 大脳生理学の分野でも、テレビやビデオが子どもに与える悪影響が指摘されている。さらに
99年に起きた、「ポケモン事件」を覚えている人は多いことと思う。光のはげしい点滅を見てい
た多くの子どもたちが、それが原因で倒れた。

 安易なテレビづけ、ビデオづけは、子どもの脳の発達においても、好ましくない。「新しい荒
れ」の原因にもなっていると説く、評論家も、いる(私のことだが……)。くれぐれも、慎重に!

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●不安障害

 何を考えても、心配。不安。イライラする。落ちつかない。とくに子どもが受験期にさしかかる
と、多くの親は、そうなる。そして思わず子どもに向って、「勉強しなさい!」と叫んでしまう。

 ところで「不安障害」という言葉が、最近、よく耳にするようになった。不安症状(不安でならな
い)と、回避行動(人との接触などを避ける)の二つを特徴とした症状を、総称して、そういう。

 この不安障害には、不安神経症、強迫神経症、恐怖症などが含まれる。ほかに心気症(重
病ではないかと思い悩む)実は、これら4つは、私も広く、浅く、経験している。

 さらにDSM−IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、訳し
て「アメリカ精神医学会・精神疾患の診断・統計マニュアル」第4改訂版、94年)によれば、不
安障害には、つぎのようなものがあるという(かんき出版「心理学用語辞典」)。

(1)脅迫性障害
(2)恐慌性障害
(3)空間恐怖症
(4)社会恐怖症
(5)心的外傷後ストレス障害(PTSD)
(6)急性ストレス障害
(7)全般性不安障害
(8)薬剤性不安障害
(9)その他、特定不能の不安障害

 要するに不安の原因はさまざま、そしてその症状も、さまざまということ。考えてみれば、この
世界、不安だらけ。「右を見ても、左を見ても……」となる。

 そこでそういう原因に囲まれた私たちは、どう生きたらよいかということになる。子育てという
場では、どう考えたらよいかということになる。

(不安と、どう向きあうか)

 私のばあい。

 不安の原因、つまり敵の正体を知る。逃げてもいけない。ごまかしても、いけない。それが何
であるかを知る。

 そのあとの対処のし方は、マニュアル的には、いろいろ書くことはできる。しかし実際に、強
度の不安感に襲われたときには、マニュアルなど、何の役にもたたない。孤立感や絶望感をと
もなうことが多い。

 そういうときというのは、他人のアドバイスや励ましも、ほとんど、役にたたない。敵はそこに
いる。そこにいる以上、その敵から逃れることはできない。不安感を解消することはできない。

 だから私のばあいは、いつなんどき、そういう状態になってもよいように、そのつど、自分を燃
焼させるという方法を選択している。たとえば重篤(じゅうとく)な病気を考えてみよう。

 それらには、がん(悪性腫瘍)がある。脳梗塞や心筋梗塞、それに脳内出血もある。どれも
今の私には、いつ起きてもおかしくない病気である。

 こうした病気の疑いが出たら、私は、まちがいなく極度の不安状態になる。心気症というの
は、そういう病気をいう。

 そこで今、私は、健康なうちに、できるだけ自分を燃焼させておこうと考えている。そういう状
態になったときでも、あわてなくてもよいようにである。(それでも、あわてるだろうが……。)

 私はこれを、「積極的回避法」と呼んでいる。不安感に襲われる前に、その不安状態になって
もよいように、心の準備しておく。

 (これに対して、その場になって、あわてて不安感を回避しようと考えるのを、「消極的回避
法」と呼んでいる。)

 幸運にも、そうした病気を、過去において何度か疑われたことはあるが、かろうじて(?)今、
こうして無事に生きている。だから見た目には、一応、そうした心気症を乗りこえてきたかのよ
うに見える。しかしそれで心気症が治ったわけではない。

 またつぎの重篤な病気が疑われた段階で、同じような心気症になるかもしれない。今のとこ
ろ、まったく自信がない。

 ただそういう不安感が解消するたびに、私は、生きている喜びを実感する。そしてそれが、さ
らに充実した人生を求める、その原動力になる。今が、その状態ではないか。

 結論から先に言えば、みな、不安。今、不安でない人も、みな、何らかの時限爆弾をかかえ
ている。いつなんどき、それが爆発するかわからない。そういう状態である。

 そこで私は、こう考えるようにしている。

 ものごとは、「今、生きている」という原点から見ようではないか、と。この原点から見れば、あ
らゆる問題は、解決する。すべての不安は、解消する。(わかっていても、その原点からものご
とを見ることはできないが……。)

 あとは「なるようになれ」と、そのものごとを、受け入れ、あきらめる。するとものごとは、「なる
ように、なっていく」。そのあとのことは、考えない。悩まない。ジタバタしない……。ビートルズも
かつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。

+++++++++++++++++++++++

そのレット・イット・ビーで思い出したのが
つぎの原稿です(中日新聞投稿済み)。
「不安」というテーマで書いた原稿ではありませんが、
何かの参考には、なると思います。

+++++++++++++++++++++++

【袋小路から抜け出る法】

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。

どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかす
がい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫
婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。

もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのままでいる
ことのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたこと
ないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やっ
たわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。

ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(三
三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度あるかないかという
程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈
託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人そ
れぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは
気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築
こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結
婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおげさ
に考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。

「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。それはまさに、「智恵(ちえ)の言葉」だ。
 
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(43)

【子どもを伸ばす、会話術】

=====================================
しつけ

●「〜〜してはいけない」という禁止命令は、少なくする。できれば、しない。そういうシチュエー
ションで、いかにジョークを混ぜるかは、親の、親としての技量の見せどころ。(日本人の子育
ては、まだ世界的にみても、発展途上国。蓄積された「子育て観」が、まだ少ない……。)

たとえば指しゃぶりをしている子どもに、「指をしゃぶってはダメ」と言うのではなく、「あなたの
指、おいしそうね。ママにもしゃぶらせてね」とはぐらかしながら言う、など。)

=====================================
心を伸ばす

●「がんばれ」ではなく、「調子はどう?」「気を楽にね」と言う。とくに受験勉強などで、すでに心
がきずついている子どもには、「がんばれ」は禁句。

=====================================
学習面で伸ばす

●子どもの点数は問題にしない。「何点だった?」「平均点は何点?」ではなく、「どこをまちが
えたの?」「あとで一緒に考えてみようね」と言う。

=====================================
生活面で伸ばす

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「遊ぶときは、一つだけですよ」と言う。子どもは次の遊
びをしたがため、前の遊びを片づけるようになる。

=====================================
学校生活で伸ばす

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問して、
わかるまで聞くのですよ」と言う。

=====================================

そのほか……

●「家族を大切にしようね」と、いつも口癖にする。子どもの心から「人」を奪ってはいけない。
「家族」を奪ってはいけない。「いい高校へ入れ」「いい大学へ入れ」と言うことは、子どもの心
から「人」を奪うことになるから注意。今、おとなでも、営業成績しか心の中にいない人はいくら
でもいる。心さみしいおとなたちである。

【子どもを伸ばす会話術】

 あなたの日ごろの口ぐせ。それがあなたの子どもの心をつくる。ちょっとした一言が、子ども
を伸ばし、そして、つぶす。そこで会話術。

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える。)

●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる。)

●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。

●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句。)

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う。)

●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。

●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る。)

●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。

●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。

●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。

●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。

●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
の、プラスの暗示をかける。)

●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる。)

(禁止命令を避ける)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、
直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法な
ど。

あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子どもに
は、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えてあ
げようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子ど
もに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。

+++++++++++++++++++++

 この会話術を書いて、もう数年以上になる(0412月)。
 原文は、「はやし浩司のHP」に載せてある。

+++++++++++++++++++++

●教えるより、好きにさせる

 子どもを伸ばすコツは、子どもを楽しませること。好きにさせること。「おもしろかった」「楽しか
った」という思いが、子どもを前向きに伸ばす。

 昨日も、BW教室(年長児)で、こんなトリックをしてみせた。

 「かたかな」と書いた紙を見せながら、子どもたちに、「これは何?」と聞く。すると子どもたち
は、「かたかな、だよ〜」と答える。

 そこで私は、こう言う。「これはひらがなだよ。君たち、わかるかな?」と。

 すると教室は、蜂の巣をつついたような騒乱状態になる。しかしそれこそ、私のねらい。

 つぎに、今度は、「ヒラガナ」と書いた紙を見せて、「これは何?」と聞く。子どもたちは、「ひら
がなだア!」などと言う。

 私は、「何だ、これは、カタカナだ。君たちは、ひらがなとカタカナの区別もできないのか?」
と、言う。子どもたちは、ますます興奮状態になる。子どもたちは、「カタカナくらい、知っている
よ!」「読めるよ!」と叫ぶ。

私「じゃあ、カタカナを呼んでみよう」
子どもたち「いいよ!」
私、(ハイ)と書いた紙を見せながら、「これは、何と書いていあるの?」
A君「ハイ!」
私「じゃあ、A君、読んでごらん」
A君「ハイ!」
私「だからA君、どうぞ」
A君「……ハイ」と。

 教室は爆笑のウズになる。ほかにも、カードが、10枚近く、ある。それには、「ヨメナイ」「イ
ヤ」「ミエナイ」などと書いてある。それをつぎつぎと、子どもたちに読ませる。

 最後に、「カタカナが好きな人?」と聞くと、全員、「ハ〜イ」と手をあげた。しかしそれこそが私
のねらい。教えるのではなく、好きにさせる。あとは、子ども自身が、子ども自身の力を使って
伸びてくれる。それを指導するのが、幼児教育ということになる。

●バカになって、子どもを伸ばす

 「こんな先生に習うくらいなら、自分でやったほうがまし」と思わせつつ、子どもに自立をうなが
す。しかしその一方で、しめるところはしめる。それがあるべき教師の姿と言ってもよい。

 強圧的で、威厳たっぷりがよいというのではない。ときに人間的な弱さやもろさを、さらけ出
す。こんなことがあった。

 ある夜、中学生に数学を教えているときのこと、私は、ふと、こうもらした。

 「勉強って、つまらないね。ぼくは、子どものころ、勉強が嫌いだった……」と。

 するとそれまで下を向いて黙々と勉強をしていたN君(中2・男子)が、顔をあげて、こう言っ
た。「先生、そんなこと言っていいの?」「でも、先生が、そう言ってくれて、安心した」と。

 教師が命令的だと、生徒は、服従的になる。しかしその一方で、依存心をもつようになる。一
見、良好な教師関係に見えるが、子どもの自立ということを考えるなら、決して、好ましいことで
はない。

 子育ての最終目標は、子どもを自立さえること。そのためには、教師が反面教師になること
も、ありえる。また反面教師になることを、恐れてはいけない。

 このことは、家庭教育にも、そのまま当てはまる。

 親も、ある時期がきたら、そのバカな親になる。バカになって、子どもの自立をうながす。「親
なんて、アテにしていないぞ」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。(親としては、さみし
いが……。)が、しめるところは、しめる。

 私が好きな俳優に、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)がいる。本名も、チャールズ・
スペンサー・チャップリン。言わずと知れた、20世紀を代表する喜劇役者である。

 あのチャップリンは、あれほどのドタバタ喜劇を演じながら、その一方で、テレビインタビュー
などでは、きちんとした映画論を論じていた。学歴はないが、きわめて知的な人物だった。私は
そういう人物の中に、あるべき親の姿のようなものを感ずる。

 重要なことは、おとなの優位性を、子どもに見せつけないこと。押しつけないこと。親は、一歩
退きながら、子どもの成長を見守る。どうせ相手は、子ども。本気で相手にしてはいけない。も
しそんなエネルギーがあるなら、もっとほかのことで、使ったらよい。子どもにバカにされて、
「親に向かって、何よ!」と言っているようでは、あなたも、まだ若い(失礼!)。

(補記)

 昨日も、年長児を指導しているとき、突然、「カンチョー(浣腸)!」と言って、私の尻に、両手
をつこんできた子どもがいた。今、その幼稚園では、そういうイタズラがはやっているらしい。

 そこですかさず、私は、こう言った。「バカだなあ。手のにおいをかいでごらん!」と。

子ども「どうして?」
私「ウンチのにおいがするだろ?」
子ども「どうして?」
私「だってさあ、ぼくのお尻には、ウンチがいっぱいついているんだよ」
子ども「……」
私「君だって、ちゃんとお尻をふけないだろ?」
子ども「ふけるよオ!」と。

 参観していた若い母親たちは、みな、ニコニコ笑っていた。つまりこういう指導が恥ずかしげ
もなくできるようになった。私も、その年齢になったようだ。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++++
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(436)

●ワイフからの抗議

 昨夜、床につくとき、ワイフがこう言った。

 「あなた、私のことを書くのはかまわないけど、私はあなたを、『あんた』と呼んだことは、一度
もないわよ。いつも『あなた』よ。だから、『あんた』という言い方は、書かないで……」と。

 そう言えば、そうだ。ワイフは、私を、「あなた」とは言うが、「あんた」とは、言わない。ワイフ
に言わせると、「あんた」という言い方は、どこか、下品なおばちゃん風だという。

 ごめん。これからは、ちゃんと、「あなた」と書くことにする。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●「虚」の世界

 ものを見て、目を閉じる。残像はすぐ消える。が、たった今、どこかのもの売りが、ものを売っ
ている声が、遠くで聞こえた。その声は、しばらく耳の中に残った。

 目で見た記憶(感覚記憶)は、数百ミリ秒(1秒の数分の1秒程度)で、消失するという。一
方、耳で聞いた記憶(感覚記憶)は、数秒前後は、脳のどこかに残るという。

 肌寒い朝だ。昨日から一転、冬の気候になった。目を閉じ、もの売りの声を聞きながら、ふ
と、そんなことを考える。同じ感覚記憶でも、すぐ消える記憶もあれば、長く残る記憶もある。決
して、一様ではない。

 ……視覚、それに聴覚。

 私は、静かにまぶたをあげる。コタツの温もりが、ありがたい。とたん、まばゆいばかりの光。
窓の外には、かろうじて枝にしがみついている栗の葉が見える。

 私は何を見ているのか?

 本当に、見ているのか?

 網膜からの視覚の情報は、視神経を通って、一度、間脳に入る。その間脳から、また外に出
て、最終的には、後頭部にある視覚野に送られる。わかりやすく言えば、目は、いわばカメラ
のレンズ。後頭部の視覚野は、その映像を映すモニターということになる。

 ということは、私は、今、そこにあるものを見ているのではなく、見ていると錯覚しているに過
ぎない。画像は、脳の後頭部に映しだされている。前ではなく、うしろ、だ。

 しかし、たしかに栗の葉は、目の前に見える。これは実像か、それとも虚像か?

 音だって、そうだ。

 しかし私のばあいは、左側の聴力を完全に失っている。だから、音については、その方向性
すら、わからない。どこからきているのかさ、わからない。遠い音も、近い音も、大きな音も、小
さな音も、同じように、脳に届く。が、その音ですらも、虚像に振りまわされることがある。

 たとえば右側の窓の向こうで、カラスが鳴いた。森の木の中には、カラスの巣がある。左側は
道路になっていて、住宅地へとつながっている。

 私はカラスの鳴き声がどこからやってくるか、その方角がわからないはず。わからないはず
なのに、そのカラスの声が、右から聞こえてくる。これは、しかし、たしかに錯覚だ。(カラスの
声が聞こえる)→(森にはカラスが住んでいる)→(カラスの声は、森のほうから聞こえている)
と。

 しかし窓をあけてみると、カラスは、森の木の上にはいない。いないばかりか、さがしてみる
と、反対の右側の住宅地の上の電線にとまっているのを知る。「森のほうから聞こえていた」と
いうのは、私の、ただ単なる思いこみだったということになる。

 こうして考えてみると、脳ミソというのは、ずいぶんと、いいかげんなものだ。簡単に錯覚を引
きおこし、ついで、虚像を、虚像と気がつかないまま、実像を思いこんでしまう。その一例が、
今、見ている栗の葉だ。

 私の脳ミソは、後頭部の視覚野に映しだされた映像を見ているはず。しかし、実際には、前
から見ているような錯覚を引き起こしている。栗の葉が前にあると思うから、前にあるように見
えるだけ。そんなものか。そんなものだ。

 こうして考えていくと、見るもの、聞くもの、そしてすべてが、「虚」の世界にあることがわかって
くる。虚、だ。本当は、そこには、何もない。すべてがあるように、錯覚しているだけ?

 このコタツのぬくもりにしても、そうだ。皮膚表層にある受容器が刺激され、それが熱覚を感
じる神経線維(温度感覚)に作用する。だから、そのぬくもりがわかる。もし、その受容器がな
ければ、ぬくもりそのものがわからない。言うなれば、その受容器は、熱を感ずるセンサーとい
うことになる。ただのセンサー。わかりやすく言えば、スイッチ。実際に、「熱」を感じているの
は、脳ミソの内部である。

 しかし、たしかに、コタツの中に入れている足が、暖かい。ぬくもりがある。気持ちがよい。
が、本当は、足は、何も感じていないはず。足が感じているように、脳ミソが、錯覚しているだ
け。

 ものを見るにしても、ものを聞くにしても、人間にとって、ちょうどつごうのよい範囲の、波長の
色を見ているだけ。ちょうどつごうのよい範囲の、波長の音を聞いているだけ。紫外線や赤外
線については、見ることはできない。超音波やレーダー波については、聞くことはできない。人
間には、栗の葉は、黄色く、くすんで見えるが、虫たちには、別の色に見えるはず。鳥やリスに
は、別の色に見えるはず。

 ということは、「私」を含めて、この世にある、すべてのものが、実は「虚」ということになる。「な
い」のに、「ある」とか「いる」とか、思っているだけ。本当は、そこには、何もない。

 「私」にしても、そうだ。本当は、私など、どこにもいないのかもしれない。「私」と思いこんでい
るだけなのかもしれない。モヤモヤとした、この感覚。ザワザワとした、この感覚。これを私は、
「私」と思いこんでいるだけなのかもしれない。

 不思議な感覚だ。本当に、不思議な感覚だ。

 ……と、そのとき、ワイフが、こう言った。「あなた、いっしょに、風呂に入る?」と。

 「風邪はなおったの?」と聞くと、「うん、だいじょうぶみたい」と。

 これが現実なのだ。私にとっての現実なのだ。……ということで、この話はおしまい。こういう
話は、ワイフには、理解できない。いや、少しだけ、風呂の中で、話してみた。

私「そこにものがあると、思っているだけで、本当は、そこには、何もないかもしれないよ」
ワイフ「でも、ちゃんと、さわれるわ」
私「そこなんだよな。いいか、もし、人間の体が、煙のようにやわらかかったとしよう。するとね、
タバコの煙だって、かたいと感ずるかもしれない。つまりタバコの煙ですら、ものということにな
る」

ワイフ「じゃあ、人間の体が、岩のようにかたかったら、どうなるの?」
私「そのときは、そこにある石鹸も、タオルも、みんな、煙のように感ずる。つまりものでは、なく
なるよ」
ワイフ「でも、見えるわ……」
私「それは進化の過程で、自分にとって、ちょうどつごうのよいものだけが見えるようになった
からだよ」

ワイフ「何がなんだか、わけが、わからなくなるわ」
私「そうだね、これは……。ハナ(犬)に、数学の話をするようなものだ」
ワイフ「私は、ハナ?」
私「そうかもね。それに近いよ。いや、人間は、すべて、ハナのようなもの。利口だと思っている
だけ。知らないことは、まだ山のようにあるよ」と。

 あのハナだって、自分は、バカだとは思っていない。自分がバカだとわかるのは、自分が、よ
り利口になったときだけ。それまでは、わからない。……ということで、この話は、本当に、おし
まい。


●不安神経症、私のばあい

 生活の問題、夫婦の問題、親子の問題、家族の問題などなど。政治の問題、経済の問題、
環境の問題もある。私のような人間が考えたところで、どうにかなる問題ではないが……。健
康や老後の問題もある。仕事の問題もある。

 考えてみれば、私のまわりは、問題だらけ。そういう問題に取り囲まれて、不安にならないほ
うが、おかしい。どうして安穏としていられるのか。考えてみれば、私たちの生活というのは、毎
日、薄い氷の上を歩いているようなもの。氷の下では、不幸が、「おいで、おいで」と手招きをし
ている……。

 しかし私のばあい、弱点というか、どういうときに不安症状が出てくるか、決まっている。一番
の弱点は、その相手が見えないとき。どう対処してよいかわからないとき。

 たとえば病気がある。病気でも、その得体(えたい)がわかっている病気は、こわくない。だか
ら不安になることもない。そのため病気になったとき、まず考えるのは、「以前にも、同じような
症状があったかどうか」ということ。

 が、ときどき、それまでに経験したことがない病気にであうことがある。そういうとき、「もしや
……?」と思ってしまう。とたん、頭の中は、パニック!

 こういうのを心気症という。「こわい病気ではないか」と、妄想が妄想を呼ぶ状態になることを
いう。「心気症」という言葉があることからもわかるように、そういう状態になる人も多いというこ
と。決して私だけではない。

 (得体が知れないというのは、恐怖でしかない。その恐怖が、不安を呼ぶ。)

 で、私のばあいは、そうした得体の知れないものに出会ったりすると、かえって肝(きも)がす
わってしまうということ。おかしなクセがある。こわいくせに、それに向かって突進してしまう。

 数年前だが、こんなことがあった。

 がんの健康診断で、「要精密検査」の通知を受けた。が、再検査の指定日は、2週間も、先
になっていた。が、2週間も、待てるはずがない。私は、その翌日には、いつも行く医院で、精
密検査を受けた。

 もちろん費用は、そのため何万円もかかった。しかし2週間も悩んだら、精神のほうがおかし
くなってしまっていただろう。

 もっと身近なところでは、パソコンのウィルスがある。「入ったかも?」と思ったとたん、やはり
パニック状態になる。得体がわかっていれば、まだ対処のし方もある。しかしその得体がわか
らないというのは、本当に、こわい。

 あとは、離婚の恐怖。しかし、それについては、ここには詳しくは、書けない。友人の離婚の
話を聞いていると、「明日は、我が身か」と不安になる。

 だから、つまり私は、自分でそういう弱点を知っているから、できるだけ先手を取りながら、自
分をそういう状態に追いこまないようにしている。そういう意味では、私は、おく病な人間という
ことになる。
 
【追記】

 不安や心配が原因で起こる恐怖反応というのは、もっと根の深いものではないか。それは生
存本能そのものに起因する。わかりやすく言えば、脳みそ、そのものが、その人の意思とは関
係なく、勝手に反応してしまう。

 生理学的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍数があがる。脳に酸素が多量に
送りこまれ、興奮状態になる。実際には、ひどい不安状態になると、眠っていても、夢の中でう
なされたりする。ひどい動悸と、寝汗で、眠れないこともある。

 しかし人間というのは、そういう不安定な心理状態には、それほど長く耐えられない。「はやく
結論を出そう」という心理状態になる。たとえば私が、がん検診で、要精密検査の通知を受け
取ったときもそうだった。翌朝一番に、かかりつけの医院で、独自の精密検査を受けたのは、
そのためである。

 そのとき私は、こう考えた。「がんなら、がんで構わない。食事はおいしいし、ほかに悪いとこ
ろもない。もしがんだとしても、きわめて初期のものだ。治療すれば、なおる。しかしがんでない
なら、早く、それを知り、この苦痛から解放されたい」と。

 結果は、シロだった。うれしかった。と、同時に、生きている喜び(少し、大げさに聞こえるかも
しれないが……)を、しみじみと味わった。

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●ピーチクパーチク

 電車に乗る。通勤電車。ちょうど朝のラッシュアワー。通路のところに立っていると、横に陣取
った女子高校生たちが、ピーチクパーチクと、おしゃべりをし始めた。どんな話をしているのか
と聞き耳を立てるが、私には意味がわからない。

 隠語。若者言葉。「あれ」とか「これ」とかいう、指示代名詞が多い。

 が、そのうち、その女子高校生たちの会話が、スズメのさえずりに思われてきた。庭でかしま
しく騒ぐ、あのスズメである。

 ピーチクパーチク、ピーチクパーチク……。

 そのときふと、私は、「人間も、スズメも同じだなあ」と思った。脳の表層部分の飛来した情報
を、そのつど、音声にかえているだけ。意味のない会話。底の浅い会話。ただの情報のやりと
り。

 人間は、ほんとうに、賢い動物なのだろうか。そもそも、賢いというのは、どういうことをいうの
だろうか。私も含めてだが、ほとんどの人は、欲望のおもむくまま生きているだけ。欲望が満た
されないからといっては、嘆き、欲望が満たされたからといっては、喜ぶ。

 しかも、その欲望には、際限がない。

 窓際の1席では、若い女性が、化粧をしている。もう1人の別の女性は、髪の毛をせわしそう
に、櫛でとかしいる。しかしその姿とて、木の枝で、羽をつくろうスズメと、どこも違わない。

 だからといって、人間が愚かだと言っているのではない。ただ人間だけが、すぐれた動物であ
ると思うのは、どうかということ。ひょっとしたら、私たちだけが、そう思いこんでいるだけなのか
もしれない。

 むしろ人間は、不完全な動物であるという前提で、ものを考えたほうがよいのかもしれない。
その不完全な動物が、完全だと思いこんでいるから、話がおかしくなる。

 ……そうそう、話は、まったく変わるが、先週、こんなことがあった。

 ある女子高校生のグループと話をしていたときのこと。私が、「息子たちは、今、シアトルを旅
行している」と、ふともらしたときのこと。1人の女子高校生が、「それ、どこ?」と。

 「アメリカのカルフォルニア州の上のほうだよ」と私が答えると、「カリフォルニア州って、どこ
にある国?」と。

私「カルフォルニア州は、国ではないよ。アメリカの一部だよ」
高「私、カルフォルニアっていう国があるのかと思っていた」
私「州というのは、日本でいう、県のようなものだよ」
高「何だ、州って、県のことかア」と。

 私が耳にした、電車の中の女子高校生たちの会話も、そのレベルのものだったかもしれな
い。「あの子が、どうの」「この子が、どうの」と、そんなような会話だった。

 ピーチクパーチク、ピーチクパーチク……、と。

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●子どものひとり言

 「5歳の子ども(女児)のひとり言が多いです。意味のないひとり言です。どうしたらいいです
か」(滋賀県・Rさん)という相談をもらった。

 子ども(乳幼児)が発する言葉は、大きく、つぎの2つに分けて考える。

(1)自分の思考をまとめるために使う言葉。これを内言(ないげん)という。
(2)他人に、自分の考えや意思を表示するための言葉。これを外言(がいげん)という。

 たとえばクレヨンが、机の下に落ちたとき、「アッ、クレヨンが落ちた。ぼく、拾うよ」というの
が、内言。先生や、親に向かって、「落ちたから、拾って」と言うのが、外言ということになる。

 こうした内言は、おとなのばあいは、口に出さないで使うが、幼児のばあい、ある時期、それ
を音声として、口に出して言うことがある。一般的には4歳くらいがピークで、5、6歳で内言は、
無声化すると言われている。

 が、子どもによっては、内言の音声化が、その時期を過ぎても残ることがある。

 そこで5歳前後になってからも、無意味なひとり言が多いようであれば、「口を閉じて考えよう
ね」と、指導する。

 この音声化が残ると、子どものものの考え方に影響を与えることがある。子ども自身がその
言葉に左右されてしまい、瞬間的で、機敏な考え方ができなくなる。どこかまだるっこい、のん
びりとした、ものの考え方をするようになる。

 もしRさんの子どもが、つぎのような話し方をしていたら、「口を閉じて、考えようね」と、指導し
てみてほしい。

 「これからお食事。それが終わったら、私、これからお外に行こう」(行動の内言)
 「どちらの花がきれいかな。白かな、赤かな……?」(迷いの内言)
 「お花を、○○さんに、もっていくと、どうなるかな。喜ぶかな」(思考の内言)
 「風が吹いた……カーテンが揺れた……お日様が光っている……」(描写の内言)

 ピアジェは、こうした内言のうち、集団内で使うものを、「集団内独語」と呼んでいる。他人の
反応を気にしていないという点で、自己中心的なものととらえている。

 しかし実際には、言葉の発達の時期に、よく見られる現象で、内言イコール、自己中心性の
表れとは、私は思わない。

 Rさんの子どもは4歳ということだから、そろそろ、「口を閉じて考えようね」と指導すべきころ
かもしれない。この時期を過ぎて、クセとして定着すると、ここにも書いたように、思考力そのも
のが、影響を受けることがある。

 ほかにひとり言としては、つぎのようなものがある。

(1)自閉傾向のあるひとり言……こちらからの話しかけには、まったく応じない。1人2役、3役
のひとり言を言うこともある。
(2)ADHD児のひとり言……騒々しく、おさえがきかない。ひとり言というより、勝手に、かつ一
方的に、こちらに話しかけてくるといったふう。
(3)内閉児、萎縮児のひとり言……元気なく、ボソボソと、自分に話しかけるように言う。グズ
グズ言うこともある。
(はやし浩司 子どもの独り言、ひとり言 外言 内言 子供の独り言 子供 独り言 集団内
独語 ピアジェ ピアジエ)

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●わがまま

同じような子どもの心理的反応に、(1)わがまま、(2)自己主張、(3)がんこがある。

これらについては、たびたび書いてきた。

ここでは、その中でも、わがままについて。

 自分の思いどおりにならないと、泣いたり、わめいたりする。そして結局は、自分の思いどお
りにしてしまう。一般世界では、それを、「わがまま」という。そしてその(わがまま)を悪いことと
して、忌み嫌う傾向が強い。しかし、本当に、そうだろうか。(わがままであること)は、そんなに
悪いことなのだろうか。

 で、そのわがままを、もう少し掘りさげて考えてみると、(1)自己への不寛容と、(2)他者への
不寛容に分けて考えることができる。

 同じ性質の、同じエネルギーなのだが、その攻撃性が、自己に向うときと、他者に向うときと
では、その様相が大きく変わってくる。

 たとえば何かのコンクールで、賞を取りたいと思ったとする。そのとき、たいした努力もしない
で、「賞をよこせ!」と叫ぶのが、一般的なわがままということになる。

 そこで、その人は、その賞を取るために、自分自身に対して、何らかの働きかけを始める。
「今の自分では、力が足りない」と考えて、自分をみがくようになるかもしれない。それがここで
いう自己への不寛容ということになる。

 が、そうした努力にもかかわらず、その賞がだれかに奪われてしまったとする。そこであなた
は、その審査委員や審査のあり方に、猛然と反発する。審査員をうらんだり、対立候補を、ね
たんだりする。それがここでいう他者のへ不寛容ということになる。

 こうして考えてみると、「わがままだから、いけない」と、頭から決めつけるのは、まちがってい
るということになる。大切なのは、そのエネルギーを、どこで、どのように使うか、である。指導
する立場でいうなら、いかにして(わがまま)のもつエネルギーを、じょうずに、自己へ向わせる
かということになる。

 そこで登場するのが、忍耐力ということになる。

 が、よく誤解されるが、「うちの子は、サッカーならサッカーを、一日中している。忍耐力があ
るはず」と言う親がいる。しかしそういうのは、忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ
である。

 子どもにとって忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。たとえばあなたの子どもに、
台所の生ゴミを始末するように言ってみてほしい。そのとき、「ハイ」と言って、生ゴミを始末す
れば、あなたの子どもは、ここでいう忍耐力があるということになる。

 こう考えていくと、(わがまま)のもつエネルギーを、コントロールするのが、忍耐力ということ
になる。

 たとえて言うなら、(わがまま)は、活力の源泉ということになる。じょうずに使えば、その子ど
もを伸ばす原動力となる。そうでなければ、そうでない。そのカギを握るのが、忍耐力ということ
になる。

 新しい思想、ゲット!

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●急げ!、構造改革!

 04年度の、実質GDP(季節調整値)は、年率換算は、0・2%増となり、速報段階の0・3%
増となった(04年12月)。実質マイナス成長に転じるとの懸念も出ていたが、実質プラス成長
を確保したという。

 あぶなかった、日本経済!

 といっても、現状維持をするだけでも、年率で3〜4%は必要と言われている。0・2%という
数字は、それ自体が、マイナス成長を表す数字とみてよい。

 が、どうにもこうにも、構造改革は、まったく、進まない! 進んでいない! 常識で考えても、
郵政三事業の民営化などは、当たり前のことではないか。それを、いまだにモタモタしている。

 現在、日本は、あの中国特需のおかげで、かろうじて、現状を維持している。0・2%という数
字は、そういう数字である。

 こういう時期をとらえて、先手、先手で改革を進めねばならない。だからといって、公務員1人
ひとりの人に責任があるわけではない。しかし、現に、国が1年間で稼ぐ額が、約42兆円。一
方、国家公務員、地方公務員の人件費だけで、(人件費だけでだぞ!)、40兆円という事実が
ある。つまり日本が稼いでいるお金を、すべて、公務員たちが、自分たちの給料にしてしまって
いることになる!

 しかも地方公務員の給料は、一般民間勤労者の給料よりも、平均で、約14%も高いという
(04年末)。

 こんなバカげた国がどこにある。が、これだけではない。

 日本には、このほか、公団、公社、特殊法人、電気ガスなどの独占的公益事業団体、政府
系金融機関がある。

これだけでも、日本人のうち、7〜8人に1人が、公務員もしくは、準公務員ということになる(徳
岡孝夫氏)。が、実際には、さらに、まだある。

これらの公務員の天下り先として機能する、事業所、協会、センター、各種研究機関、社団、
財団などがある。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くもある。

こうした団体が日本の社会そのものを、がんじがらめにしている。国の借金だけでも700兆円
弱(00年)。もうすぐ1000兆円を突破するという(05年)。(国の税収は42兆円前後)。その
ほか、特殊法人の負債額が255兆円(00年)。そこで構造改革……ということになるが、これ
がまた、容易ではない。

明治の昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでに
できあがってしまっている。たとえば全国47都道府県のうち、27〜9の府県の知事は、元中
央官僚。7〜9の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。

さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。「日本は新しいタイプの社会主義国
家」と言う学者もいる。こういう日本の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口にするほ
うが、おかしい。実際、こうした団体の職員数は、今の今も肥大化し続けている。

 そこで税金が足りなくなるたびに、あれこれ理由をつけて、増税、また増税。最近では、所得
税と個人住民税の定率減税の縮小・廃止論すら、浮上してきた(04年12月)。まさに取れると
ころからは、最後の一滴まで、しぼり取れの発想である。

 あああ、また公務員批判をしてしまった! (読者の方たちから、「公務員批判はしないでほ
しい」と、言われている。ごめん!)

 しかし今のうちに、つまりそれができる今のうちに、日本は、構造改革をしておかないと、本
当に沈没してしまう! たいへんなことになる※。

 繰りかえすが、1人ひとりの公務員の人に、その責任があるわけではない。またその責任を
追及しているのでもない。私が言いたいのは、たとえば郵政三事業の民営化問題についても、
現職員の人たちには、何かと不利になることはあると思う。職場環境もきびしくなることはある
と思う。

 そうした(不利)や(きびしさ)について、ある程度はそれぞれの立場の人が、覚悟して、容認
すべきではないかということ。たった5%の給料を減らすという案が出ただけで、大騒動になっ
た自治体(N県)の例もある。なかなか一筋縄ではいかないと思うが、しかし、ここまみなが、耐
えるべきことは耐えて、構造改革をしていかないと、本当に、本当に、日本は、たいへんなこと
になる!

 言い忘れたが、構造改革というのは、行政改革のこと。行政改革というのは、わかりやすく言
えば、奈良時代の昔からつづいた、「お役人天国の是正」という意味である。

【注※】

 ここで「たいへんなことになる」というのは、日本という国が、全体として、破産するということ。

 お金の価値が、今の、10分の1から、20分の1以下になると言われている。(この数字と
て、甘いと言われている。デフォルトになれば、100分の1か、それ以下になると言われてい
る。)そのとき、すべての先端工業技術は、海外に投げ売りされ、同時に、日本の国際競争力
は、消滅する。

 その時期は、早ければ2010年。遅くとも2015年までというのが、おおかたの経済学者の
一致した意見である。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【私らしく生きるために……】

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ
ば、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ
た。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた
のだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の
三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって
いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱
られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。
ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自
分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく
ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな
らない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(437)

【04年12月8日のニュースから……】

一つは、「児童虐待について内情を調査してみたら、保護者の6割に、
心身に問題があったとわかった」というもの。

もう一つは、BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」が、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望したというもの。

++++++++++++++++++++++++++++

●児童虐待466件 保護者の6割、心身に問題……道調査 /北海道

 北海道内8カ所の道立児童相談所が、03年度に取り扱った児童虐待466件で、子供を虐
待した保護者333人の約6割が、性格の偏りや精神障害など何らかの問題を心身に抱えてい
たことが、道保健福祉部の調査で分かった。

 調査は各相談所の児童福祉司らが、担当した個々のケースを分析し、(1)虐待した保護者
の心身の状況、(2)虐待につながったと思われる児童の状況、(3)同じく家庭の状況――に
ついて選択肢から複数回答した。

保護者の心身の状況は
▽「性格の偏り」が、128人(38%)で最も多く、
▽「精神病か、その疑い」46人(14%)
▽「人格障害」、26人(8%)
▽「アルコール依存症」17人(5%)
▽「薬物依存症」、7人(2%)。「特に問題なし」が81件(24%)、「不明」が49件(15%)だっ
た。

 家庭の状況(333世帯)では
▽「経済的困難」が、170件(51%)と過半数を占めた。ほかに
▽「ひとり親家庭」、136件(41%)
▽「親族・近隣、友人から孤立」、93件(28%)
▽「育児疲れ」、58件(17%)など。

 虐待された子供の側では、
▽「特に問題なし」が、170件(37%)。
▽窃盗、暴力などの「問題行動あり」が、94件(20%)、
▽「精神発達の遅れや障害」が、80件(17%)あった。
▽「望まれずに出生」したことが虐待につながったとみられるケースも、24件(5%)あった。

 道保健福祉部の担当者は「一つ一つの要素がすぐに虐待につながるわけではないが、要因
にはなり得る。問題は被害者の子供より親や家庭にあることが多い」とみている。(以上、ヤフ
ー・NEWS・04年12月8日)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●BPOが「血液型を扱う番組」に要望 
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対し、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明され
ていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険がある」と
指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人道的に問題が
ある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方を助
長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮
を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

+++++++++++++++++++++++++++

 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気が
あることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」ということは、それ
自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはいけない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながらも、T社
の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的な貧しさではな
く、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そしてその
一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)というの
も、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年以上、寿
司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、一皿105円の
回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆとり)とい
うものではないか。(いつも2人で、合計8〜9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけないというこ
と。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもらうたびに、何かの(盗
み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料入れ
や傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そういう女性を、心
の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは……。よく
わからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++

 血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強める
よう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太った女
性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧侶が、
心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰りかえしてい
て、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、ヘビがいる」「あんた
は、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャーギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なくとも、大の
テレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識
のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守ら
なければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おか
しなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

++++++++++++++++++

おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

++++++++++++++++++

●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せ
た。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったく
のデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言というのもあっ
た。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかのあたまの
おかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この信仰を
したものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした終末予言は、その
宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。しかし、だ。一度だって、こう
した予言が、当たったためしがない。

 で、疑問は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、な
ぜ一人もいないかということ。さらにその責任を追及した人もいない。それにさらなる疑問は、
そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れ
た信者が、なぜいないかということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しまし
た」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に何かが起
こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの一人の言葉)と
のこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」という
ことになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、ど
うということはない。

(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考えるのが正し
い。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の7月」とい
うのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダムスの
予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。世の中
をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべきではな
いか……と考えるのは、はたして私だけなのだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不
安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言にな
る。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分を取り巻く運命
論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、
私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決
まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち自身
にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そういう視
点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカ
ルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこの
ボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボー
ルを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】
 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことが
ある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立
って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の
数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地
球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽
の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、そ
の神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人
間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間
だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのま
た人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あなたの家の
中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、1000万
人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の
中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。つまりそういうことを考え
ていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにも
わかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせ
よ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってする
ものではないということ。

運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ないものということになる。も
しそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まずインチキと疑ってかかっ
てよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはな
い。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意
思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。
(はやし浩司 運命 予言 運命論 予言論)
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(438)

【近況・あれこれ】

●今週のBW

 今週(12月2週目)は、英語のレッスンをした。ABCから始めて、簡単な計算まで……。

 私の英語教育のキャリアは、長い。1972年からだから、もう32年ということになる。幼児の
英語教室は、この浜松市でも、私の教室が、最初だった。まだ外人がほとんどいない時代であ
る。そういう時代からの、英語教室である。

 当時は、小学3、4年生で、英検3級の合格をめざした。そのため一時期は、全国でも、英検
(児童英検ではない)の合格者の大半を、私のBW教室から出していた。私の黄金時代(?)で
ある。

 今でも英検の3級というのは、中学3年生程度の英語の力が必要である。

 レッスンの途中で、ふと、そんなことを頭の中に思いだしていた。「私が本気で英語を教えた
ら、こんなものではないのだがなあ……」と。

 そう、今は、英語教育といっても、(お遊び)のようなもの。「英語を好きにさせる」ことだけを考
えながら、指導している。わかりやすく言えば、楽しませる。それでよい。それでじゅうぶん。あ
とのことは、親や子どもたちに任せればよい。今では、その種の英語教室は、無数にある。私
の出番は、もうない。

 しかし、一言。世の親たちは、「外人講師」というだけで、ありがたがる傾向が強い。が、しか
し外人(ネイティブ)だからといって、きちんとした英語を話せるわけではない。きちんとした指導
ができるわけではない。ただ単なるオウム返しの暗記に終わるような英語教育だったら、あま
り意味はない。

 ……しかし、これは、私のひがみかもしれない。いや、もう少し若いころには、そういうひがみ
もあったが、とっくの昔に、忘れた。考えるのも、やめた。大切なことは、私自身も、人生を楽し
むこと。教えることを、楽しむこと。成績ばかり気にしていたあの時代は、あまり楽しくなかっ
た。

 だから昨日も、子どもたちといっしょに、思いっきり笑った。笑って、教えた。帰りぎわ、子ども
たちに、「英語は好きか?」と聞くと、みな、「好き」と答えた。そしてほとんどの子どもたちが、
「私、英語教室へ通っている」と言った。

 それを聞いて、「がんばって英語を勉強するんだよ」と、私は言った。ついでに、「メリ−クリス
マス!」とも。

 そう、みなさん、メリークリスマス!


●パソコン

 次期パソコンを、どれにするかで、悩んでいる。アメリカのD社のパソコンにしようか、それと
も日本のS社のパソコンにしようか?、と。

 CPUは、ペンチアム4、3GH。これは必須。メモリーも、1GB(ギガバイト)はほしい。あとは、
もろもろ。
 
BTO(自分で組みあわせて注文する)という方式が、一般化しているようだ。そのため、よけい
に迷う。悩む。毎日、毎晩、あれこれとカタログを見ている。が、見ているだけで、なかなか決ま
らない。

 しかし、こういうときが、一番、楽しい。買ってしまったら、おしまい。

 が、かんがえてみれば、とりあえずは、新しいパソコンは、必要ない。今のパソコンで、じゅう
ぶん。それはわかっているが、これは私のビョーキのようなもの。周期的に、新製品がほしくな
る。今が、そのとき。

 新しいパソコンを買ったら、みなさんに紹介しよう。お楽しみに!


●タウン誌の廃刊

 先日、友人のメルマガが、廃刊になった。読者数が、2400人程度いたという。H市の情報
を、毎週、届けてくれていた。

 廃刊の理由が、今日、メールで届いた。いわく、「この世界は、ハイリスク・ノーリタン。文でお
金を稼ごうと考えていた、ぼくが甘かった」と。

 記事にクレームがついたことが、廃刊のきっかけだったという。「道楽でできるほど、財政的
な余裕はないから」とも。

 しかし、明日は我が身か? 


●やはり遺骨は、ニセモノ

 K国に拉致された、Yさんの遺骨の鑑定結果が、昨日(12・8)、公表された。その結果は、ニ
セモノ! つまりYさんの遺骨ではなかったという。しかも週刊S週刊誌によれば、「日朝実務者
協議の席で、日本側代表が、夫として会った男性も、どうやらニセモノ」らしい。

 コメントのしようがない。バカバカしいというか、K国の、あまりのレベルの低さに驚く。

 最近では、K国から、将官級の人物が、つぎつぎと脱北しているという(中国共産党中央党校
の北朝鮮問題専門家)。そしてその数は、130人あまりだという(インターナショナル・ヘラルド・
トリビューン紙)。

 さらにK国の飢餓人口が2000〜02年に、全体の36%に当たる810万人に達し、深刻化し
ているという報道もある(時事通信・国連食糧農業機関(FAO))。

 私は、K国の崩壊が、きわめて近いとみているが、韓国と中国は、それを望んでいないらし
い。裏で懸命に、金XX政権を支えている。

 韓国も中国も、ほんの少しでよいから、ここは反日感情をおさえてほしい。そして現実を見て
ほしい。現実のK国や、金XXを見てほしい。堂々と、ニセモノの骨を、渡すような国である。どう
してそんな国を支持するのか? 助けるのか?

 それにしても、お粗末! 幼稚! 愚劣!

 そんな中、ワールフドカップの一次予選の日本の対戦相手が、そのK国と決まった。やりにく
いというか、いやな予感! どうするのだろう?
(以上、04年12月9日記)


●中部国際空港・セントレア

 愛知万博が近づいた。それ呼応するかのように、中部国際空港・セントレアが、姿を現した。
関西国際空港のように、海を埋めたてて作られた空港である。

 空から見た形は、英語の「P」のようでもあるし、音符の「♪」のようでもある。ゲートは、「T」の
字になっていて、左右に、10〜11か所、計20か所以上ある。巨大な空港である。

 しかしそれにしても、海を埋めたてて、こんなもの、よく作ったものだ。ホント!

 私が住むH市の人たちは、「多少、便利になるかな」と言っているが、本当のところは、よくわ
からない。電車で行くときは、今までのように、一度、名古屋市内まで出なければならない。バ
スで行く方法もあるというが、それでも2時間はかかるという。

 (今までの名古屋空港(小牧市)までは、新幹線を使っても、1時間半。バスなら……そのとき
の道路事情による。道路がよく渋滞するので、私はめったに、バスは利用しない。)

 同時進行の形で、静岡市の近くに、静岡空港が、今、建設されている。反対運動も根強い。
そのため県は、今度、土地を強制収用の手続きを始めることになった。ないよりは、あったほ
うが便利だが、そんな論理だけで、つぎからつぎへと、こんなものばかり作っていてよいのだろ
うか。そんな疑問も、ないわけではない。

 中部国際空港・セントレアにしても、維持費だけでも、これから先、たいへんだろう。当然のこ
とながら、その負の債務は、これから先、長く、重く、未来の日本人の上に、のしかかる。

 どうするのだろう……? これでいいのかなあ……?、と思いつつ、その航空写真を今、なが
めている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(439)

【心を病む子どもたち】

 学校恐怖症になった子どもがいた。小学2年生だった。それまでもときどき、ぐずったりして、
学校を休むことはあったが、その日の朝は、ちがった。トイレに入ったまま、出てこなくなってし
まった。

 とたん、母親は、パニック状態。実際には、狂乱状態になってしまった。「このまま不登校児
になってしまったら、どうしよう!」と。

 ……というようなことを繰りかえして、子どもは不登校児になっていく。(詳しくは、「はやし浩司
 学校恐怖症」を検索してみてほしい。)

【対処のし方】

 不登校にもいろいろある。しかし学校恐怖症による不登校のばあいは、一度症状がこじれた
ら、つぎの点を守る。

(1)最低でも、数週間から、数か月は、何も言わない。言ってはいけない。
(2)今の状態をより悪くしないことだけを考えて、数か月単位で、様子をみる。
(3)安易な原因さがしをしない。子どもが口にする理由に振りまわされない。
(4)ただひたすら忍従。がまん、根気。あとは許して、忘れる。

 「学校」という言葉は、禁句。「学校へ行こう」も禁句。もちろん「がんばれ」式の励まし、「こん
なことで!」式のおどしは、禁物。ただひたすら、子ども自身の活動欲(森田療法)が出てくるの
を、待つ。

【森田療法】

 慈恵医科大学の森田正馬(もりた・まさたけ)が、始めた心理治療療法を、「森田療法」とい
う。

 森田は、人間自身がもつ自然治癒力に着目した。そしてあるがままの自分を受け入れること
から、その人の心の病気(神経症、恐怖症、強迫神経症、不安神経症など)を治そうとした。

 この森田療法は広く多くの医師たちに支持され、世界に広がり、かつ現在に伝わっている。

(森田療法・第1期)……約1週間、患者を病室に隔離する。これを「臥じゅう期」という。この
間、患者は、排便、食事以外は、ただひたすら何もせず、病室に閉じこもって、床に臥す。多く
の患者は、不安感に襲われ、ときに悶絶するが、その不安を、そのまま受け入れさせるように
する。

(森田療法・第2期)……それにつづく、3日〜7日の間、今度は、床に臥す時間を、1日7〜8
時間に制限し、患者に庭掃除などの、軽い軽作業をさせる。これを「軽作業期」という。この期
間の間、患者は、日記を書いたり、本を読んだりする。人との接触や会話は、禁じられる。

(森田療法・第3期)……さらにそれにつづく、1〜2週間、今度は、患者に、大工仕事や、耕作
活動などの重労働をさせる。これを「重労働期」という。この時期も、人との接触や会話は禁じ
られ、患者は、ただひたすらその重労働に没頭するようにしむけられる。患者は、重労働であ
れば、自分の好き勝手なことができる。

(森田療法・第4期)……第3期が終わったあと、患者の様子を見ながら、社会復帰のための
準備をさせる。これを「生活訓練期」という。患者自身の活動欲、行動欲、意欲をうまく利用し
て、会社に通わせたり、学校に通わせたりする。

 以上、(第1期)から(第4期)までに、約40〜90日をかける。

【実際例】

 不登校児の対処のし方として、森田療法を、参考にあげた。その森田療法でも、ここに書い
たように、40〜90日が標準である。(当然、それより長期間になることもある。)が、親には、
それがわからない。

 私が「数週間は、何も言ってはいけません」と言っても、その数週間が、長い。数日もすると、
親のほうから、「これでいいのでしょうか?」という電話がかかってくる。さらに1、2週間もする
と、「今日は、学校へ連れていってみました」と言ったりする。

 こうした無理が、ますます症状を悪化させる。こじらせる。本来なら数か月ですんだはずの不
登校が、1年とか、2年とか、つづいてしまう。中には、(ほとんどがそうだが……)、「子どもの
ため」を口実にして、自分の不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう親がいる。そして
親子の間で、大騒動を繰りかえす。

 私は今までに、何10例(あるいは100例以上)という不登校児と接してきたが、この問題だ
けは、「親も、行きつくところまで行かないと、気がつかない」ということ。ほとんどの親は、「ま
だ、何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と、無理に無理を重ねる。

 心の病気というのがどういうものかわかっていない。いないばかりか、「病気」という言葉を使
っただけで、「病気とは、何だ!」と、食ってかかってくる親さえいる。「うちの子が不登校児にな
ったのは、学校の先生が原因だ」「いじめが原因だ」と。

 そういうケースもないわけではないが、こと学校恐怖症については、恐怖症の一つと考えて対
処する。対処するにしても、数か月単位の根気が必要である。一つの参考として、ここで「森田
療法」をあげた。
(はやし浩司 森田療法 神経症 学校恐怖症 不登校 不登校児 心理療法)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●家族療法

 子どもに何か問題が起きると、親は、子どもをなおそうとする。よくある例として、チックがあ
る。首から上にかけて起こる、筋肉のけいれん様の不随意運動をいう。

 ふつうは首から上に症状が現れるが、中には、その症状が全身におよび、はげしいけいれ
ん状の症状をともなうこともある。そのため呼吸困難におちいったりすることもある。

 こうしたケースのばあい、その子どもを取りまく全体的な環境に原因があるみる(円環的因果
論)。子どもだけをみて、子どもだけをなおそうと考えても、無理がある。そこでその子ども全体
を包む、家庭のあり方そのものに、メスを入れる。

 これが家族療法である。

 というのも、仮に母親がその原因に気づいても、母親自身が、そのまた母親を包む家庭環境
の中で、どうしうようもないことが多い。父親(夫)と接しているうちに、またすぐもとの自分自身
にもどってしまう。つまり家族が、一つのシステムとして機能しているため、その一部だけをな
おそうとしても、意味がない。

 だから今では、大きな総合病院や大学病院などでは、子どもにこうした問題が起きると、家
族全体を一つ単位(ユニット)として考え、指導するところが多い。たとえばここにあげたチック
にしても、母親自身が原因であることが多い。しかし母親自身は、それに気がついていないこ
とが多い。

 だから子ども、母親、それに夫である父親に同席してもらい、家族全体のあり方を、もう一
度、見つめなおしてもらう。子どもに対して、母親が神経質になっていないか。神経質になって
いるなら、その原因は、父親が作っていないか。父親が原因をつくっているとすると、さらにそ
の原因は何か。どうすればよいか、と。

 こうして家族全体のあり方を考えながら、子どもの治療をする。

 子どもに何か問題が起きたら、その原因を子どもに求めても、あまり意味はない。その原因
は、親や家庭環境にあるとみる。まず、そこから始める。子どもをなおそうと考えるのは、つぎ
のつぎでよい。
(はやし浩司 家族療法 円環的因果論)
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●Happy Learners Learn Best!
(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ。……イギリスの教育格言)

【BW教室】

 「BW」は、「Brain Works(知能ワーク)」のことです。

 深い意味はありません。「頭を使う教室」という意味で、「BW教室」としました。昔、主婦と生
活社という出版社に、井上清という編集長がいました。その編集長が、「林才能教室ではおも
しろくない。もっと、別の名前をつけたほうがいいよ」と言ったので、その場で、「BW」という名
前を思いつきました。

 今から思うと、よいネーミングだったと思っています。

 以来、34年になるでしょうか(2004年現在)。私はいつも、子どもたちと、楽しく過ごすことだ
けを考えて、指導してきました。ときどき、「私のほうが楽しませてもらっていいのかなあ」と思う
ことさえあります。

 BW教室は、そんな教室です。

【カリキュラム】

 一年をとおして、44のテーマについて、学習を進めます。「文字、数、英語」に始まって、「あ
いさつ、善悪、動物、植物、工作、演技、形、手作業……」など。一度とて、同じ教育をしないと
いう姿勢を大切にしています。

 子どもたちが、「今日は何?」と目を輝かせてくれるのを、何よりも、大切にしています。つま
りこうして子どもの知能を、多方面から刺激することにより、積極的で、好奇心が旺盛な子ども
にします。

 どのクラスも、公開しています。子どもたちの明るい笑い声と笑顔を見られたら、私がここに
書いていることがウソでないことをわかってもらえるはずです。

 どうか、一度、見学においでください。お待ちしています。

【見学について】

 なお、現在のBW生、もしくはOBの方の紹介のある方は、電話連絡だけで、そのまま見学し
ていただけます。どうか、お申し込みください。それ以外の方は、お手数でも、BW教室の資料
を、請求してください。折り返し、こちらからご連絡申しあげます。

 なお、同業の方の、スパイ見学などは、かたくお断りしています。(最近は少なくなりました
が、以前は。よくありました。いやですね、こういう見学は!)
(04年12月記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【緊急・提言】(K国に対して経済制裁を実施してはいけない!)

 拉致問題がこじれ、さらに、YMさんの遺骨がニセモノだったと判明した。とたん、今、にわか
に、K国への経済制裁が現実味を帯びるようになった。

 しかし、K国に対して、経済制裁を実施してはいけない! ここは、冷静に! 務めて、冷静
に! もし日本がK国に対して経済制裁すれば、それこそ、K国の思うツボ!

 まず、今、ここで日本が経済制裁を実施すれば、核問題を論ずる6か国協議から、日本は自
ら、脱落することになる。先に、K国を罰しておいて、協議も何も、ない。……そうなる。

 つぎに、今、K国の経済は、マヒ状態にある。工場の稼働率は、20%以下と言われている
(東亜日報)。最近では、K国から、将官級の人物が、つぎつぎと脱北しているという(中国共産
党中央党校の北朝鮮問題専門家)。そしてその数は、130人あまりだという(インターナショナ
ル・ヘラルド・トリビューン紙)。

 さらにK国の飢餓人口は、2000〜02年に、全体の36%に当たる、810万人に達し、深刻
化しているという(時事通信・国連食糧農業機関(FAO))。さらにK国の一般勤労者の賃金
は、月額にして2ドル(200円)程度(実勢、交換レートによる)。
 
 そこで、金XXのつぎの一手は、戦争しかない。今、K国が、武力攻撃しても、ゆいいつ大義
名分が立つ国といえば、この日本しかない。多分に、つくられたうらみではあるにせよ、日本に
対する、うらみも大きい。事実、それに呼応するかのように、この年末になって、2005年を、K
国は、「特別の年」と、大々的に位置づけ始めた。

●2005年は、「日本帝国主義の強盗的な策動により亡国的な「乙支(ウルサ)5条約」が捏造
されてから100年目。

●2005年は、屈辱的な南朝鮮・日本の『協定(日韓基本条約)』が締結されてから40年。

●2005年は、日帝が敗亡してから、60年、と(以上、朝鮮日報)。

 みなさんは、この意味がわかるだろうか。K国は、中国や韓国の反日感情をうまく利用しなが
ら、日本攻撃の糸口(きっかけ)をさがしている。もしここで日本が、K国に対して経済制裁をす
れば、K国は、それを理由に、日本に戦争をしかけてくる。

 まちがいなく、しかけてくる!

 日本にそれだけの度胸と覚悟があれば、話は別。それだけの軍事力があれば、話は別。し
かし今、ここで経済制裁を実施すれば、日本は、K国をひとりで背負うことになる。ひとりで相手
にすることになる。

 さらに重要なことは、仮に、今、この時点で、日朝戦争ということになれば、中国はもちろんの
こと、韓国ですら、K国の側につく。つかないまでも、陰でK国を支援することになる。

 が、この日本は、憲法上の制約もあり、K国に対して、直接的には、手も足も出せない! 言
いかえると、日本ほど、K国にとっては、攻撃しやすい国はない。

 だから今、ここでK国に対して、経済制裁をしてはいけない。絶対に、してはいけない。第一、
あんな国は、相手にしてはいけない。日本が本気で相手にしなければならないような国ではな
い。

 何もかも、おかしい。狂っている。常識そのものが、ない。そういう国である。だから世界第二
の経済大国である日本は、本気で相手にしてはいけない。もしここで日本が、K国に経済制裁
を実施すれば、日本も、K国と同じレベルにまで落ちることを意味する。

 ここは、冷静に! 務めて、冷静に!

 今は、アメリカ主導であるにせよ、6か国協議を成功させることこそ、肝要である。そして制裁
を実施するならするで、国際的なコンセンサス(同意)をとってから。それからでも、遅くはない。
国際社会と協調して、足並みをそろえる。

 もしここで日本が単独で制裁に踏みきれば、K国をとりまく6か国に、取りかえしのつかない
キレツを入れることになる。もうそうなると、アメリカにさえ、この日本を守りきれなくなる。

 ニセモノの遺骨を渡されて、怒り狂う日本人の心情もよく理解できる。私だって、怒っている。
しかし、ここは冷静に! まともな論理が通ずる国ではない。だから、まともな国として、正面か
らぶつかってはいけない。またその必要は、ない。

 みんなで声をあげて、K国への経済制裁に、反対しよう。もし日本人が、真に平和を愛する国
民なら、ここでがんばろう。ぜったいに、戦争を起こしてはいけない。その口実を、K国に与えて
はいけない。

【注】自民党の拉致問題対策本部の国会議員たちはもちろんのこと、新潟県の知事ですら、M
号の入港阻止ができないかと検討に入ったという(12・10)。

しかし、たかが船一隻ではないか。私は商社マンのとき、35年前で、ただのヒラ社員だった
が、それでも、毎日のように貨物船を動かしていた。船一隻の荷物など、知れている。

 日本に住む、在日朝鮮人の人たちの中にも、今回の一連の拉致問題で、心を痛めている人
も多いと聞く。同情的な人も、多いと聞く。良識的な人も、多いはず。そこで大切なことは、そう
いう人たちにもっと協力してもらい、K国に、何らかの働きかけをしてもらうことだ。

 今こそ、日本人の精神的完成度が試されているときはない。さあ、私たちは、うらみを乗り超
えて、おとなになろう! あのアジアカップの決勝戦のときを、思い出そう!

 中国のサポーターたちが、日本のサポーターめがけて、ものを投げ、「殺せ、殺せ!」と叫ん
だとき、日本のサポーターは、「日中友好」と書いた旗をあげて、それに答えたではないか。ニ
ッコリと笑って、その旗をあげたではないか。

 それこそ、まさに、日本人の精神が、中国人の精神を超えたことを意味する。

 さあ、勇気を出して、前に進もう! 善なる世界に向って、勇気を出して、前に進もう! だか
ら今は、K国に経済制裁をしてはいけない。

 私たちがすべきことは、ただひたすら淡々と、事務的に、相手を追いつめること。どこまでも、
どこまでも、事務的に、追いつめること。決して、感情的になってはいけない。ここで感情的に
なれば、先にも書いたように、それこそまさに、K国の思うツボ。それを忘れてはいけない。

++++++++++++++++++++++++++

この私の意見に賛成の人は、どうかこの記事を、
あなたの知りあいの人に送ってくれませんか。
日本の平和と、日本の子どもたちを守るために!

はやし浩司(2004年12月10日記)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

++++++++++++++++++++++++++

(補足)

 今夜(12・11)も、拉致被害者のYMさんの両親が、どこかの集会で、K国に対して、即刻、
経済制裁を実施するように訴えていた。

 その心情を察するに、思いあまるものがある。その苦しみや悲しみはよく理解できる。しかし
相手が、(まともな国)なら、それも可能である。しかしそのK国は、そうでない。ふつうの常識の
通る国ではない。また、今は、K国は、そういう状態ではない。

 一連の拉致事件は、そのトップの金xxによって、指揮され、引き起こされたというのが、おお
かたの見方である。となると、そうは簡単には、この問題は解決しない。だから、ここは、冷静
に。務めて冷静に。決して、感情論だけで、経済制裁に走ってはいけない。

 日朝関係が険悪になればなるほど、その反射的効果として、日本は、韓国や中国を、利する
だけ。韓国は、K国の軍事的矛先を、日本に向けさせることができる。中国は、「日本」という、
アジアの(目の上のたんこぶ)をつぶすことができる。

そしてその限界を超えたとき、つまり、日本が独走してしまえば、アメリカだって、もう日本を助
けることができなくなる。決して日本だけが、単独で経済制裁に走ってはいけない。

 ここにも書いたように、ここで経済制裁をすれば、6か国協議から、日本は自ら、脱落するこ
とになる。が、それだけでは、すまない。

 今、もし日朝戦争が始まれば、日本の経済は崩壊し、戦後、50年かけて日本が築きあげて
きた繁栄は、そこで崩壊する。1000兆円とも言われる、累積債務をかかえたまま、日本は、
デフォルト(国家破産)に陥るかもしれない。

 日本は、あんなK国と、心中するわけには、いかない。また心中させてはいけない。だから、
ここは、冷静に。務めて冷静に! だから経済制裁を、今、実施してはいけない。……それが
私の意見である。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ハイリスク・ノーリターン

 友人が、電子マガジンを廃刊した。99年に創刊したというから、5年目の挫折(ざせつ)という
ことになる。

 理由は、「ハイリスク・ノーリターンだから」と。

 つまり危険ばかりともなって、収入がない、と。

 ナルホド!

 考えてみれば、教育の世界は、総じてハイリスク・ノーリターン。私の世界の話ではない。「学
校」という公教育の場での、話である。へたに火中のクリを拾うようなことをすると、そのまま大
ヤケドする。

 この世界には、『さわらぬ神に、たたりなし』という鉄則がある。親のほうから、何か問題を提
起されるまで、こちら側は、だまっていたほうがよい。理由が、ある。

 親も、こと子どものことになると、きわめて神経質に反応する。それはわかる。しかしそのと
き、親側に、それだけの予備知識があれば、話は別。しかしその予備知識もない親に、専門的
な問題提起をすると、それだけで親は、パニック状態になる。

 私にも、無数の苦い経験がある。

 だから勢い、わかっていても、わからないフリをして、指導する。知らぬフリをして、指導する。
そして少しずつだが、親に、問題意識をもってもらう。そして親側から、「どうしてでしょう?」とい
う相談をもらったときはじめて、こちら側は、こちら側としての意見を述べる。

 たとえばADHD児(集中力欠如型多動性児)についても、年中から年長児期にかけて、症状
が、より鮮明になってくる。しかしプロなら、年少児の段階で、それがわかる。しかしこの段階で
も、指導する側は、「ADHD児の疑いがあります」とは、決して言ってはいけない。言う必要もな
い。言えば、それこそたいへんなことになる。

 教師には、医師がもっているような診断権は、ない。

 教師がすべきことは、クラス全体として、教育を考えていくこと。仮に、その中の個人に問題
があるとしても、全体の問題として、その個人の教育を考えていく。 

 ……ということで、私は、この「ハイリスク・ノーリターン」という言葉に、心底、ドキッとした。

 もちろん私が発行している電子マガジンにしても、まさにハイリスク・ノーリターン。大半の読
者の方は、私のよき理解者であり、支持者である。それはよくわかっている。しかし中には、い
つも、あれこれクレームをつけてくる人がいる。そんなとき私は、「私のマガジンがそんなに気
に入らなければ、購読をやめればいいのに」と、思わず言いそうになる。

 が、それを口にしたら、おしまい。だから、私は、そういう読者を乗り越えるしかない。また乗
りこえる術(すべ)は、身につけた。しかしそのあと襲ってくる、虚しさというか、バカらしさは、ど
うしようもない。

 これは私の問題と言うより、こうした電子マガジンが、広く共通してかかえる問題ではないの
か。あるいは広く、教育全体が、広く共通してかかえる問題ではないのか。

 しかしこれだけは言える。

 もし、みながみな、ハイリスク・ノーリターンを口にするようになり、ノーリターンの活動をやめ
てしまったら、日本人は、それこそ、バラバラになってしまう! 教育だって、崩壊する。もちろ
ん電子マガジンの世界も、崩壊する。残るのは、意味のない電子マガジンか、営利を目的とし
た、スケベマガジンだけということになる。

 だから、ここは、私も、ふんばるしかない。……と、今、思っている。それにしても、この言葉
には、ドキッとした。ホント!


●体罰とわいせつ

 03年度、児童生徒への体罰とわいせつ行為で、処分された、公立小中高校の教員は、49
4人と196人。前年度(02年)よりふえ、過去最高だったという(文科省まとめ)。

 このほか、交通事故や、「入学・卒業式の国歌斉唱時に起立しない」ことが理由で処分された
教員は、前年度(02年)より796人多い、4341人もいたという。

★体罰……児童や生徒の逃げ道をふさぎながら、体罰を加えるというのは、どう考えても、フェ
アではない。そんな教師や学校がいやでも、子どもは、その学校に通うしかない。つまり、逃げ
道がない。

 その点、塾などでは、体罰を加える前に、「お前なんか、出て行け!」となる。つまりその子ど
もを追い出すことができる。子どもの側にしても、「ほかの塾へ行くからいい」となる。つまり、逃
げ道がある。

★わいせつ行為……私も結構スケベなほうだから、「女性」に関心がないわけではない。いつ
も、ある。しかし相手は、幼児。小学生や中学生にしても、幼児から教えている子どもたち。「か
わいい子だな」と思うことは、よくあるが、しかしそれ以上に「女」を感じたことは、一度もない。

 私の世界では、そういう(うわさ)一つで、命取りになる。仕事ができなくなる。だから、極力、
そういう誤解を招くことは、避けている。

 男児はともかくも、女児については、手と頭以外は、さわったことがない。女児に近づくとき
は、無意識のうちにも、両手をポケットに入れている。

 が、中には無防備な女の子がいる。デスクに向って座っている私に、体をすりよせてくる。そ
ういうときは、すかさず私は、こう言うことにしている。

 「あのね、君とぼくの関係を誤解されるから、ぼくの体に、さわってはだめだよ」と。

 そういう光景を見ていて、親たちは、ニコニコ笑う。言い忘れたが、私の教室は、すべて公開
している。そのため、いつも例外なく、2〜6人の母親たちが参観している。

 結論から先に言えば、食欲を理性の力でおさえることができないように、性欲を理性の力で
おさえることはできない。とくに若い男性のばあい、意識とはおかまいなしに、精子はどんどん
と作られていく。女性の生理と同じと考えてよい。

 だから、さらに結論から先に言えば、この問題だけは、「指導を強化する」(文科省)というレ
ベルでは、解決しない。教育システムそのものを変える必要がある。

★国歌……何度も書くが、どうして「国歌」にそれほどまでに、こだわるのか。こだわらなけれ
ばならないのか。私には、その理由が、よくわからない。

 国歌でなくても、長唄でも小唄でも、能の謡(うたい)でもよい。詩の朗読でもよい。国歌を歌
ったからといって、愛国心があるということにはならない。国家を歌わないからといって、愛国
心がないということにもならない。

 加えて、日本の「君が代」には、問題がある。ないとは言わせない。どうして主権在民の民主
主義国家で、天皇をたたえる歌が、国歌なのか。いや、こう書くからといって、何も「君が代」に
反対しているわけではない。

 それでもいいという国民が過半数を超えているなら、それはそれでいいと思う。それも民主主
義。みんなで話しあって決めたことは、みんなで従う。私も従う。

 ただ公教育の先生が、公的な立場で、個人的な実力行使をするのは、許されない。国歌斉
唱に反対するなら、公的な立場を離れ、個人的な意見として発表すべきである。それはたとえ
て言うなら、子どもの親が、どんな犯罪者でも、その子どもを差別してはいけないという論理に
通ずる。

 公的な人間は、公的な人間としての立場をわきまえて行動する。私的な主義主張は、公的な
立場を離れてるす。公教育というのは、そういうものである。

 数週間前も、1億円という巨額なワイロを受け取りながら、その責任を部下におしつけて逃げ
てしまった元総理大臣がいた。「覚えていません」と。

 私はともかくも、一般の人たちや、そして子どもたちは、そういう政治家を見ながら、そういう
政治家たちが言うところの愛国心というものが、どういうものであるかを知る。愛国心をぶちこ
わしているかどうかということになれば、そういう政治家のほうが、よほど、ぶちこわしているこ
とになるのではないのか。

【補記】

 「君が代を歌え」と迫る政府。それはどこかカルト的? 一方、「君が代は歌わない」とがんば
る先生たち。それもどこかカルト的?

 この話をワイフにしたら、ワイフは、こう言った。「そういうのを逆カルトというんじゃ、ない?」
と。

 おもしろいネーミングである。カルトに対して、逆カルト。ナルホド!

 似たような例は、多い。……というより、私自身も経験している。

 ある時期、私は、カルト教団と呼ばれる宗教団体に、猛烈な反発を感じた。何冊か、本も書
いた。そのときのこと。そのカルト教団については、何もかも否定、また否定。まさに『坊主憎け
れば、袈裟(けさ)まで憎い』の心境になってしまった。

 しかし、カルト教団だから、「悪」と考えてはいけない。しかしそれに気づくまでに、何年もかか
った。「悪いのは指導者であって、信者ではない」と。
 
 そのときの私の心理が、いわゆる「逆カルト」ということになる。心の余裕というか、ゆとりをな
くす。車の運転でいえば、「遊び」の部分をなくす。ものの考え方が、どこかギクシャクしてくる。

 私などは、もともと、どこかいいかげんな人間。だから、心の中では、「?」と思っていても、そ
のときになったら、ちゃんと相手に合わせる。たとえば卒業式や入学式では、みなといっしょ
に、大声で、国歌を歌う。歌ってすます。主義主張は、人並み以上にはあると思うが、しかし卒
業式や入学式の場で、主義主張にこだわる必要はない。たかが「歌」ではないか。

 いくら酒は飲めないといっても、グラスを勧められたら、一応口だけはつけて、「乾杯!」と言
いかえす。それがここでいう「遊び」である。「心のゆとり」である。

 ……と書いて、私は九州の隠れキリシタンの話を思い出した。九州の日出藩(ひじはん)の踏
み絵がよく知られている。

 たとえば豊前国小倉藩の家臣、加賀山隼人は、キリシタンであったという理由で、処刑されて
いる。こんな話が伝わっている(「日本耶蘇教会年報」)。

 加賀山隼人の娘が、父親の隼人に、「父上、何も、裁きを受けず、大罪を犯した訳でもなく、
ただ、キリスタンなるが故の死罪、外で執行されるに及ばず。我等にとりても、此の家が一番
好都合でありませぬか」と。つまり、「ただキリスト教徒というだけで、処刑なんて、おかしいでし
ょう。私たちにとって、この家の幸福が、一番、大切ではないですか」と。

それに答えて、「ならぬ。かの救世主・耶蘇基督(キリスト)は罪なき身を以って、エルサレムの
城門外にに二人のあさましき兇徒(きょうと)の間に置かれ、公衆の面前で死なんと欲したでは
ないか。我もまた、公衆の面前で汚辱を受けつつ死を熱望するなり」と。つまり、「あのイエス
も、信仰を守るため、公衆の面前で処刑にあっているではないか。私も、それを希望する」と。

 この話は、その筋の世界では、「美談」として、もてはやされている。「命がけの信仰」として、
たたえられている。しかし私は、こういう話に、どうしても、ついていけない。信仰心と、盲目的な
忠誠心を、どこかで混同しているのではないか? ……と書くと、猛烈な反発を買いそうだが、
いくら信仰をしても、自分を見失ってはいけない。命までかけて、信仰をしてはいけない。信仰
をしながらも、自分の心にブレーキをかける。そのブレーキをかける部分が「私」である。

 キリストの立場で考えてみれば、それがわかる。

 彼自身は、公衆の面前で処刑された。しかしキリストは、すべての民の原罪を背負って、処
刑された。決して、「自分の信者に、同じことをせよ」と、見本を見せたわけではない。いつだっ
たか、私は、「キリストも教師ではなかったか?」という文章を書いた。

 それをここに再掲載しておく。

++++++++++++++++++++++++++++

【神や仏も教育者だと思うとき】 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は
一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要
としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い
事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、で
まかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前に
は、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこち
らのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こ
んな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く
と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと
ができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回
向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のあ
る子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな
経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(R宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもを
もつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、
そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてや
っていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなれば
なったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や
仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【教師が宗教を語るとき】

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。

一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バ
チが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこの
ところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを
教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者
だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人に
は、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理という
のは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところで
す」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わな
い。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定さ
れたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるもの
ではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ
だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい
る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。

霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論
者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運
命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていな
い。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++++
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(440)

【近ごろ・あれこれ】

●地球温暖化

 東京に住むM君から、こんなメールが、届いた。「地球温暖化が進んでいるが、農産物には
影響がないのか」という私の質問に対して、である。M君は、京都大学農学部出身で、大手食
品会社の役員を経て、現在は、T青果市場で室長をしている。(12月12日記)

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地球温暖化の農業への影響は既に出ています。「みかん」の北限と「リンゴ」の南限
が北上しています。「みかん」の南方の産地では、収穫前の時期に寒くならないの
で、糖度が上がらず皮だけ成長を続けるので、甘味のうすい、皮がブカブカのものが
多くなっています。東南アジアの柑橘類が甘くないのは、寒い時期がないからです。
農業界は既に品種を変えるか、新しい果物に挑戦するなどの動きをしています。例え
ば、マンゴー。野菜も今年はすごい暖冬で、例年なら収穫が終わっている産地でもま
だ収穫が続いています。しかし、温暖化傾向そのものは不気味ですね。50年後、1
00年後は全くわからない。

+++++++++++++++++++++

 ミカンが甘くなるのは、ミカンが寒気にあたるためだそうだ。また今年(04年)は、暖冬で、例
年なら野菜の収穫が終わっているころなのだが、まだ収穫がつづいている、と。

 たしかに今年は、暖冬だ。11月の平均気温は、平年より2度ほど高かったという。今日は、
12月12日だが、私が子どものころと比べても、信じがたいほど、暖かい。

 (「平年」というのは、過去30年間の平均気温を、10年ごとに算出した気温を言うそうだ。)

 過ごしやすいのはよいことだが、10年後には、12月でも真夏日がつづくようになるかもしれ
ない。そのときでも、気象庁は、「今年は、平年並みです」と言うかもしれないが……。


●心を守る

 ストレスや欲求不満が長くつづくと、心は、自らを守るため、さまざまな変化を見せる。この心
を守るための心理的変化を、心理学では、「防衛機制」(フロイト)という。

 その防衛機制は、現在、13種類あるとされる(「心理学用語」(かんき出版)。

 合理化、反動形成、同一視、代償行動、逃避、退行、補償、投影、抑圧、置き換え、否認、知
性化など。

 たとえば本命のA男にふられ、結婚できなかったB子は、そのうち、A男の悪口を言うようにな
った。うっぷんを晴らすためである。「あんな男は、どうせ、ろくでなしよ」「あんな男と結婚してい
たら、私の人生は台なしになっていたはず。結婚しなくてよかった」と。

 こうして自分の行為や言動を、正当化することを、「合理化」という。

 いつまでもジクジクしていても、しかたない。つづいて、今度は、B子は、C男に急接近した。A
男のことで穴のあいた心を埋めあわせするためである。これを「代償行為」という。

 ……というような例は、多い。

 幼児教育のおもしろいところは、こうした変化を、赤裸々にというか、たいへんわかりやすく幼
児自身が、見せてくれるところにある。あるいは反対に、それまでに体験してきたことが、心理
学の用語にぴったりと当てはまることがある。

 D君(年長児)は、幼稚園では、目だたない、静かな子だった。みなからも、いじめられてい
た。で、D君は、幼稚園から家に帰るとすぐ、xxレンジャーの仮面をかぶり、マントを身につけ
て遊ぶ。そして「エイヤッ!」とかけ声を出しながら、悪者を倒すマネをして遊ぶ。

 D君はそうすることで、自分がヒーローになったつもりになる。これを「同一視」という。ヒーロ
ーに自分を重ねあわせることで、幼稚園であったいやなことを忘れようとする。

 今、小学生や中学生の間で、占いや、まじないが、大流行。「修行すれば、超能力を手に入
れることができる」と、本気で信じている子どもも、少なくない。こうして子どもは、現実世界のこ
とを忘れ、自分だけの世界に閉じこもるようになる。これを「逃避」という。

 さらにE君(小6)は、このところ、いつも幼児期に読んでいたマンガの本を持ち歩いている。
それだけならまだしも、話し方まで幼稚ぽくなってきた。私が「この本は何?」と声をかけると、
E君は、こう言った。「どうチェ、だめだと言うンデチョ、だめだと言うンデチョ」と。

 E君には、2歳年上の兄がいた。その兄のはげしい受験勉強を見ているうちに、E君は、おと
なになることに恐怖心をもったらしい。このように、本来成長すべき部分が、反対に、逆行して
幼稚ぽくなることを、「退行」という。

 Fさんは、容姿があまりよくなかった。背も低く、肥満気味だった。そこでFさんは、中学生にな
るころから、猛勉強をするようになった。このように自分の欠点や弱点をカバーするために、別
の方法でそれを補うことを、「補償」という。

 イギリスの格言に、『相手は、あなたがその相手を思うように、あなたを思う』というのがある。
あなたがその人を、いい人だと思っていると、その人も、あなたのことをいい人だと思っている
もの。反対に、悪い人だと思っていると、あなたのことを悪い人だと思っているもの。

 が、この状態がさらに進むと、相手の心まで、自分の心で決めてしまうことがある。それが
「投影」である。Gさん(中学生)は、言った。「あの子は私を嫌っている。憎んでいる」と。しかし
本当は、Gさん自身が、その相手を嫌っていた。しかし自分では、「嫌い」とは言えない。そこで
「相手が私を嫌っている」と思いこむことで、自分の心を正当化する。

 ……などなど。

 人間の心は、いつも(自分であって自分でない部分)にコントロールされている。

 それを防ぐには、どうしたらよいか。

 方法は、ただ一つ。自分で考える人間になること。これしかない。考えることを知らない人間
は、そのときどきの、(自分であって自分でない部分)に、振りまわされるだけ。

 幼児を見ていると、それがよくわかる。……と少し話が脱線したところで、この話は、おしま
い。


●一家心中

 少し前、あるところで火災事故があった。雰囲気からすると、どうやら一家心中らしい。2階が
火元なのに、階下の1階で、家族がまとまって死んでいたという。

 そこでクエスチョン!

 こんな母親がいたとする。あなたはその母親の心情に、同意するだろうか。それとも反発す
るだろうか。

 Rさん(76歳、女性)は、ことあるごとに、他人に、こう言っている。Rさんは、今、身体に障害
のある娘(50歳)といっしょに、生活保護を受けながら、暮らしている。

 「私は、あの娘をこの世に残して死ぬことはできません。だから私が死ぬときは、娘もいっしょ
です」と。

 そういうRさんを、「すばらしい母親だ。母親のカガミだ」と思う人もいる。反対に、「何という親
だ。娘の人生をどう考えているのだ」と思う人もいる。

一世代から二世代前の人は、「すばらしい母親」と思うかもしれない。しかし最近の若い人たち
は、そうは思わない。子どもに対する意識が、大きく変わってきた。

 で、一家心中だが、「子どもを巻き添えにして心中する」というのは、ある意味で、きわめて日
本的な現象である。親の立場からすれば、「子どもを残しておくのは、不びん」ということにな
る。「不びん」というのは、「不憫」と書く。「あわれなこと」という意味である(国語大辞典)。

 しかし子どもには、子どもの人生がある。それを親の勝手だけで、その人生を奪ってしまって
よいものか? ……というのは、今では常識。改めて、ここに書くまでもない。

 しかし、だ。この世の中には、まだ、そう考えられない人が多いのには、驚く。本当に驚く。

 息子や娘が、よい生活をしているのを、ねたむ親となると、ゴマンといる。「親より、いい生活
をしやがって!」「親を粗末にしやがって!」と。ことあるごとに、息子や娘の財産を、むしり取っ
ていく親すらいる。

 このタイプの親は、子育てをしながら、いつもどこかで恩着せがましい子育てをする。「産んで
やった」「育ててやった」「大学まで、出してやった」と。

 そういう親にしてみれば、子どもはモノであり、財産ということになる。そしてそれが転じて、
「親のない子は、不びん」となる。一家心中は、その延長線上にある。

 今年(04年)も、年末になってから、あちこちで心中事件が起きている。それぞれの家族は、
それぞれの思いの中で、そうするのだろう。だから、そうした人たちを、軽々しく論ずることは許
されない。

 しかしあえて言うなら、死にたいと思うのは親の勝手かもしれないが、ぜったいに子どもを巻
き添えにしてはいけない。今では、子どもだけを保護して、養育していく社会的システムも、ちゃ
んとできている。だからもう少し、世間を信用して、そういうところへ子どもを預けたらよい。

 死ぬか、死なないかを決めるのは、そのあとでよい。

 ……ということで、先のクエスチョン。あなたは、どちらのタイプの人だろうか。「娘もいっしょに
死なせる」と言う母親を、あなたは、すばらしい母親だと思うだろうか。それとも、「?」と思うだ
ろうか。私は旧世代と、新世代の療法にまたがる人間だから、双方の心情が、同時に理解で
きるのだが……。

さて、あなたは……?


●どこか、おかしな話

 お隣の韓国で、こんな事件が起きた。

 15歳の少年のK君(愛称、「アイリバー少年」)が、買ったばかりのMP3プレーヤーを、学校
でなくしてしまった。購入して、3日目のことだった。

 そこでK君は、そのMP3プレーヤーのメーカーを、訴えた。いわく「MP3プレーヤーに位置追
跡システムが搭載されていなかったのが原因だ」(朝鮮日報)と。

 そこでK君は、その訴えを、ネット上で公表すると、すぐさま賛同者が現われ、「カフェ」まで登
場するようになったという。

 で、その結果だが、会社側は、「補償金」ではなく、「褒賞金」を支払うことで、決着したという。
「ネット上で、だれでも気軽に話しあえる話題を提供してくれたことに対する、褒賞」と。

 わかりやすく言えば、K君は、自分の不注意でなくしたMP3プレーヤーについて、その責任
を会社に取らせたことになる。

 どこか「?」な話だが、これから先、こうした「?」な事件は、どんどんと起きてくるにちがいな
い。インターネットには、まだまだ未知の部分が、多い。

(補足)この10年のインターネット革命を、イギリスの産業革命以来の、「大革命」ととらえる人
もいる。あと100年とか、200年とかたってみないとわからないが、しかしその可能性は、きわ
めて高い。たしかに今、インターネットは、私たちの生活のあり方を、根本的に変えつつある。


●YMさんのニセ遺骨問題

 YMさんのニセ遺骨問題について、国際的な動きが出てきた。アメリカ政府の公式のコメント
につづいて、韓国でも、市民団体(活貧団)が、金xxに対して、の公開謝罪を訴えたという(「朝
鮮日報」・12・12)。

 日本のみならず、国際社会が、怒っている!

 当然だ。こんなバカげたことを、国際社会が許すはずがない。そこで今、日本にとって重要な
ことは、感情論に押し流されることなく、淡々と、ただひたすら淡々と、事務的に、金xxを、追い
つめることである。しめあげることである。

 同時に、今度のニセ遺骨問題は、K国が、いかに信用のできない国であるかを、世界に向っ
て証明したようなものである。いかに、レベルの低い、幼稚な国であるかを、世界に向って証明
したようなものである。

 決して、あわてて経済制裁に走ってはいけない。あわてる必要はない。ここは、慎重に。務め
て冷静に。あんな国、日本が本気で相手にしなければならないような国ではない。また相手に
してはいけない。また相手にしたところで、問題は、解決しない。

 ここで今、日本が経済制裁をすれば、日本は6か国協議から脱落することになる。と、同時
に、K国に、日本攻撃の口実を与えることになる。

 日本の経済は、きわめて不安定な状態にある。もし今、ここで外資の5%、いや数%が、日
本から逃げ出すようなことがあれば、それがきっかけで日本の経済は、崩壊してしまうかもしれ
ない。もし、戦争ということになれば、円は大暴落。大半の外資が日本から出ていくことになる。

 だから、冷静に。ここは冷静に! YMさんの両親は、全国を回りながら、懸命に経済制裁を
訴えている。それに呼応する動きも、あちこちで高まってきた。

 YMさんの両親の気持ちは、よくわかる。理解できる。しかし経済制裁は、もう少し、国際社会
の動きを見てからでも遅くはない。K国がニセの遺骨を遺族に渡したというニュースは、今、も
のすごい勢いで、世界に広がりつつある。そしてあちこちで、猛烈な怒りを買い始めている。

 YMさん、あなたの苦しみや悲しみは、決してあなただけのものではない。日本人のみなら
ず、世界中の人が怒っている。本気で、怒っている。

 そういう善なる心を、今こそ、結集しよう。そしてそれこそが、今の拉致問題を解決する力に
なる。だから、今、日本は、あわてて経済制裁をしてはいけない。

【追記】

 今、ここで日朝戦争ということになれば、中国はもちろんのこと、韓国ですら、裏でK国を支え
ることになる。そうなれば、K国を中心に、中国と韓国をかえって結束させてしまうことになる。

 問題は、そのあとだ。そういう状況に置かれたら、アメリカはどうする? もう6か国協議どこ
ろでは、なくなってしまう。6か国協議が崩壊することはないにしても、日本は、経済制裁をした
段階で、6か国協議からは脱落することになる。

 K国は、日本の参加を拒否するだろうし、日本にしても、参加する大義名分を失うことにな
る。

 しかしそれこそ、まさにK国の思うツボ。アメリカから日本を切り離し、その日本に武力攻撃を
しかけながら、金xx体制の温存を図る。ばあいによっては、K国は、東京都のど真ん中で、核
実験をするかもしれない。今は、そういう状況である。

 だから、ここはみなさん、冷静になろう。務めて冷静になろう。今、重要なことは、世界の同情
を背景に、対K国に対して、アメリカ、韓国、中国との連携を深めることである。決して、あせっ
て、感情論に押し流されてはいけない!

 今夜(12・12)も、経済評論家のX氏は、テレビの番組の中で、こう言っていた。X氏は、私が
商社マンだったとき、隣同士のデスクで仕事をした人である。

 「日本には、経済力という武器がある。その武器を使えばいい」と。

 しかし、これはまさに、「戦争をせよ」ということではないのか。相手がそれに呼応して、軍事
力を使ってきたら、そのとき、日本は、どうするのか。

が、ぜったいに、戦争をしてはいけない。相手がまともな国なら、まだしも、K国は、そんな国で
はない。その価値もない。だから相手にしてはいけない。

相手の思うツボにはまってはいけない。

 
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(441)

【子どもの人格完成度テスト】(EQ論の応用)

★湖西市鷲津中学校校長ならびに、先生と父母のみなさんの協力を得て、「人格完成度テス
ト」の集計結果が出ましたので、報告します。

 鷲津中学校のみなさん、ご協力、ありがとうごさいました。

**************************

まず、みなさんのお子さんについて、どんな様子か、採点して
みてください。これで、あなたのお子さんのおおまかな、人格
完成度を知ることができます。

**************************

(テスト方法)

 それぞれの項目について、0点〜4点までの、5段階になっています。

 0点……まったく、そうでないとき。(反対の様子であるとき。)
 4点……まったく、そのとおりであるとき。

 中間のときは、2点として、採点してください。あとで、得点を合計します。その合計点が、あ
なたのお子さんの、性格ということになります。

++++++++++++++++++++

(1)協調性(共鳴性)

 ☆親が苦労したり、苦しんでいると、言わなくても、すぐ力を貸してくれる。
 ☆他人に対して、同情的で、ボランティア活動などを、喜んでする。
 ☆仲間や友人に対して、やさしい。気をつかい、相手をキズつけたりしない。

(2)自己管理能力

 ☆善悪の判断が強く、正義感が旺盛。まちがったことが嫌い。
 ☆社会のルール(交通ルールなど)や、約束や目標を、しっかりと守っている。
 ☆誘惑に強く、その場、その場で、しっかりと自分を律して行動できる。

(3)安定した人間性

 ☆勤勉で、努力家。何でも、コツコツと、がんばる。
 ☆言われたことに従順で、まちがえたときでも、すなおにそれを認める。
 ☆友人の数が多く、また交際範囲も広い。いつも仲間と仲よく遊んでいる。

(4)情緒の安定性

☆感情の起伏があまりない。いつも平常心で、安定して家族と接している。
 ☆わかりやすい性格をしている。心の中の状態が、外から、よくわかる。
 ☆落ちついた、もの静かな子どもといった印象を与える。めったに動じない。

(5)知的開放性

 ☆好奇心、生活力とも旺盛で、多芸多才。ものごとに挑戦的。
 ☆知的な遊びを好み、読書、研究、探求が好き。著作、音楽や絵画を好む。
 ☆広く政治や経済、日本や世界、さらに環境問題や宇宙の話題に興味をもっている。

 各項目(☆)の、合計点と、全体の総合計点が、あなたの子どもの得点ということになります。

++++++++++++++++++++++++
 
各項目合計点……12点
 総合計点  ……60点で、集計

++++++++++++++++++++++++
**********************
HPのほうで、表など、より見やすくしておきました。
興味のある方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page253.html
まで、おいでください。
**********************

【基礎調査結果】

共鳴性自己管理能力安定した人間性情緒の安定性知的開放性
12〜13歳(男)6.937.877.076.144.71
13〜14歳(男)7.276.946.886.794.67
14〜15歳(男)77.547.387.295.46
15〜16歳(男)7.147.186.916.415.05
共鳴性自己管理能力安定した人間性情緒の安定性知的開放性
12〜13歳(女)7.838.587.757.257.17
13〜14歳(女)7.457.886.97.094.94
14〜15歳(女)7.237.86.777.235.65
15〜16歳(女)7.3987.7266.83


(男子)12〜13歳13〜14歳14〜15歳15〜16歳
共鳴性6.937.2777.14
自己管理能力7.876.947.547.18
安定した人間性7.076.887.386.91
情緒の安定性6.146.797.296.41
知的開放性4.714.675.465.05


(女子)12〜13歳13〜14歳14〜15歳15〜16歳
共鳴性7.837.457.237.39
自己管理能力8.587.887.88
安定した人間性7.756.96.777.72
情緒の安定性7.257.097.236
知的開放性7.174.945.656.83

総合点
12〜13歳(男)32.1
13〜14歳(男)32.5
14〜15歳(男)34.7
15〜16歳(男)32.7
総合点
12〜13歳(女)38.6
13〜14歳(女)34.3
14〜15歳(女)34.7
15〜16歳(女)35.9
(調査日……2004年12月 有効サンプル数 男女合計・187人)

【判断のし方】

 平均点より得点が大きければ、相対的にみて、あなたの子どもの人格の完成度は、より高い
とみます。男子中学生であれば、33点前後を、平均点とみて、判断してください。女子であれ
ば、35点前後を、平均点とみて、判断してください。

 しかし平均点より得点が小さければ、あなたの子どもの人格の完成度は、より低いとみま
す。
(グラフなどは、「はやし浩司のHP」のほうに、収録しておきます。)
(はやし浩司 人格の完成度 完成度テスト 集計結果 人格テスト 人格完成度テスト EQテ
スト 人格の完成度))


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●感情的知能(EQ)

 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。

 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、そ
の子どもの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭のよい子
どもイコール、社会に適応できる子どもとは、かぎらない。

わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全体的な雰
囲気で判断する。

 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」と考え
たら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。

 そこで私の自己判定。


(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりする反
面、協調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。

(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコントロー
ルしてしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。

(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症(基底
不安)型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほうへと考えてしま
う。取りこし苦労をしやすい。

(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じに、自分を
客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。

(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにくらべて、
柔軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。

(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦いなが
ら、無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまかして生きてい
ると思う。

 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がないこと
がわかる。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきりと判定するこ
とができない。

 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であるという
こと。

 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでいて、負
けず嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。

 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と思いなが
ら、別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という世界でもそうな
のかもしれない。

 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、どこか
の橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に合っているの
かもしれない。

 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあげたと
も考えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげること)による
ものかもしれない。

 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。

 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬席はと
れない。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価がものを
いう。

 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。たとえ
ば、「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」と。現在でも、大学入
試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での面接試験(人物評価)がなさ
れているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていない。
 
 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。
(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emotional 
Quality)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【人格の完成度】

●強者のジコチュー、弱者のジコチュー

 その人の人格の完成度は、利己から、利他への移動度で測る。わかりやすく言えば、いか
に、他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性などができるかによって、その人の人
格の完成度を知ることができる。

 いいかえると、自分勝手で、ジコチューな人は、それだけものの考え方が、利己的で、人格の
完成度が低いということになる。

 ……というようなことは、何度も書いてきた。そこでここでは、その先について、考えてみた
い。

●学歴と人格の完成度

 当然のことながら、学歴と、人格の完成度は、一致しない。……しないというより、関係ない。

 ここにも書いたように、人格の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって、知る。
他人の悲しみや苦しみを理解し、その他人の立場になって、同情したり、共鳴したりできるか
によって、知る。それが自然な形で、できる人を、人格の完成度の高い人という。

 たとえばガムシャラに、勉強をして、よい大学に入ったとか、同じくガムシャラに、仕事をして、
社会的な名声や地位を得たからといって、その人の人格の完成度は高いということにはならな
い。

 むしろ、実際には、その逆のことが多い。

 多くの親は、そして教育にたずさわる人は、「勉強ができる子どもイコール、人格的にもすぐ
れた子ども」と考えやすい。しかしこれはまったくの、誤解。ウソ。偏見。幻想。

●二種類のジコチュー

 自分のことしか考えられないという人は、多い。自分勝手で、わがまま。世間では、こういうタ
イプの人を、やや軽蔑の念をこめて、「ジコチュー(自己中心的な人)」という。

 このジコチューにも、二種類、ある。強者のジコチューと、弱者のジコチューである。

 先に書いた、自分のことだけを考えて成功したような人は、強者のジコチューということにな
る。これに対して、弱者のジコチューというのもある。

 先日、ある女性(年齢、不詳)から、突然、電話がかかってきた。「講演会を聞いたものです」
とだけしか、その女性は、言わなかった。

 が、電話を受け取ると、ただ一方的に話すのみ。

「うちの子が勉強しません」
「受験が迫っています」
「夫が、私を叱ります」
「私は子どものころ、勉強ができなくて、よく母に叱られました」と。

 で、あれこれひと通り話すと、あいさつも何もないまま、プツンと電話を切ってしまう。

 そして、翌日も、同じような電話をかけてくる。そして同じような内容の繰りかえし。

 要するにその女性は、「何とかしてくれ」「何とかしてほしい」と言っている。たいへん依存心の
強い人ということになる。そして一見、子どもの将来を心配しているようなフリをしている。が、
その実、自分のことしか考えていない。

 私の迷惑など、計算外といったふう。こういうジコチューを、弱者のジコチューという。

●弱者のジコチュー

 昔から、困った人があがく姿を、「藁(わら)にもすがる」という。つまりその時点で、その困っ
た人は、ここでいう弱者のジコチューになる。

 生活が行きづまった人。
 大病をわずらった人。
 大きな問題をかかえた人。
 経済的に追いつめられた人、ほか。

 このタイプの人は、当然のことながら、自分のことしか考えない。……考えられない。自分の
ことを考えるだけで、精一杯。他人のことや、他人の立場や心情を考える余裕など、ない。

 先日も、ある学校の先生(中学2年担任)のところに、一人の母親から、電話がかかってきた
という。時計を見ると、夜中の1時。「うちの娘が家出をしてしまいましたア。いっしょに、さがし
てくださア〜い!」と。

 その先生は、「時間外のことは知らない」と言いたかったが、断るわけにもいかなかった。夜
が明けるまで、その母親といっしょに、その子どもをさがしたという。

 その母親にしてみれば、自分の娘のことを心配するだけで、精一杯。先生の都合や、迷惑な
ど、考える余裕すらなかったということになる。

●ジコチュー診断

 いかにすれば、「利己」から、「利他」へ、脱却できるか? 自分自身を転換できるか?子育
ての場では、それは教育や指導によるものということになる。が、これは子どもだけの問題で
はない。おとなや親の問題ということにもなる。

 そこで大切なのは、その人自身の努力である。

 まず、自分が、ジコチューであることに気づく。強者のジコチューであるにせよ、弱者のジコチ
ューであるにせよ、それに気づく。すべてはここからはじまる。

 が、多くのばあい、つまりほとんどの人は、自分が自己中心的でありながら、それに気づかな
い。そこでまず、自己診断テスト。

( )他人と会話をしていても、いつも自分のことばかり話す傾向が強い。
( )他人の不幸話や、失敗話を聞くと、優越感を覚えたり、ときに楽しく思う。
( )自分が損をするようなことは、しない。犠牲になることも好まない。
( )無料奉仕、ボランティア活動、町内の仕事など、ほとんど、したことがない。
( )自分の権利を主張することが多く、侵害されると、猛烈に反発する。
( )友人が少なく、人との交流も、ほとんどしない。いつも孤独で、さみしい。

 ここに書いたようなことがいくつか当てはまれば、かなりのジコチューとみてよい。

●ジコチューを知る

 ジコチューの問題は、これはあらゆる心の問題と共通しているが、それに気づけば、そのほ
とんどが解決したとみる。

 その気づく方法の一つとして、他人を観察してみるという方法もある。

 幸いなことに、私は、毎日、多くの子どもたちに接している。親たちにも接している。そういう
環境の中で、「この子どもは、ジコチューだな」「この親は、ジコチューだ」と気づくことが多い。

 概して言えば、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、ジコチューとみてよい。自分のこ
としか、考えていない。自分の子どものことしか、考えていない。そしてその結果として、受験競
争を勝ち抜いた子どもほど、ジコチューになりやすい。

受験競争というのは、もともとそういうものだが、しかしつまり、子どもの受験勉強に狂奔する
親というのは、それだけ人格の完成度が低い人ということになる。

 そういう視点でみていくと、あなたのまわりにも、ジコチューな人と、そうでない人がいるのが
わかるはず。電話で話しても、一方的に自分のことばかり話すだけ。他人の苦労話や不幸な
話を聞いても、型どおりの返事だけ。心に響かない……。

●演技としての同情

 話は少し脱線するが、人間は、経験をつむことによって、人格者を演ずることができるように
なる。一つの例が、ニュース番組の中の、ニュースキャスターたちである。

 悲しい事故の報道をしながら、どこか暗くて、つらい表情をしてみせる。「犠牲者は、病院で手
当てを受けていますが、中には、重症の方もいるようです……」と。

 しかしつぎの瞬間、今度は、ニュースが変わると、同時に、がらりと明るい表情になり、「で
は、今夜のプロ野球の結果です。あのM選手が、満塁ホームランを打ちました!」と話す。

 人間の心はそれほど、器用にできていない。わずか数分(あるいは数秒)のうちに、悲しい気
持ちが楽しい気持ちになったり、あるいはその反対になったりすることなど、ありえない。つまり
ニュースキャスターたちは、そのつど、ニュースの内容に応じて、演技しているだけということに
なる。

 こうした演技は、日常的に経験する。が、それだけではない。

 演技を重ねていると、それが仮面になり、さらにその人の中に、別の人格を形成することが
ある。心理学では、こうした現象を、「反動形成」という。

 たとえば「私は教師だ」「聖職者だ」と自分に言ってきかせていると、いつの間にか、自分の中
に、(私でない私)をつくりあげてしまう。それにふさわしい人間になろうと思っているうちに、自
分の中に、架空の自分をつくりあげてしまう。

 しかし仮面は仮面。一見、人格者風の人間にはなるが、もちろん、ホンモノではない。

 利己から利他へ移行するためには、その人自身が、苦労を重ね、悲しみや苦しみを経験し
なければならない。私の恩師のT先生は、それを、「心のポケット」と呼んだ。

●心のポケット

 相手に同調するにせよ、同情するにせよ、それができるようになるためには、自分自身も、
同じような経験をしていなければならない。

 たとえば自分の子どもを、交通事故か何かでなくした人がいたとする。その人は、深い悲しみ
を味わうわけだが、その悲しみは、その経験のない人には、理解できない。同じような経験をし
た人だけが、その人の悲しみを理解できる。

 一つの悲しみや苦しみを経験すると、同じような悲しみや苦しみをもった他人の心を、理解で
きるようになる。

 これを「心のポケット」という。

 この心のポケットの多い人、深い人、そういう人ほど、他人の悲しみや苦しみを、自分のもの
として、受け入れることができる。

 が、だれしも、こうした悲しみや苦しみを、経験するわけではない。ほとんどの人は、できるだ
けそれを避けようとする。悩みや苦労もなく、平和に、のんびりと暮らしたいと願っている。

 となると、ここで一つの矛盾が生まれる。

●矛盾

 わかりやすく言えば、人は、悲しみや苦しみを経験してはじめて、他人に悲しみや苦しみを理
解できるようになる。そしてその同情性や、同調性が、自分を利己から利他へと導く。

 その利他が大きくなればなるほど、人格の完成度が高くなる。

 しかし、その一方で、人間は、悲しみや苦しみを、避けたいと思っている。またそのために努
力している。

 ということは、生活が豊かになり、生活の質が高くなればなるほど、悲しみや苦しみを経験す
ることがすくなくなる。そしてそれと同時に、人格の完成度は低くなるということになる。

 もっとわかりやすく言えば、苦労が多ければ多いほど、人格の完成度が高くなるということだ
が、苦労を望んで求める人などいない。あるいは苦労をした人が、すべて人格者になるという
わけではない。中には、むしろ邪悪な人になっていくケースもある。

 こうした矛盾を、どう考えたらよいのか。それに心のポケットといっても、不幸には、定型がな
い。まさに千差万別。「同じような苦労」といっても、それはどこか似ているというだけで、苦労
の内容は、みなちがう。

 この問題については、また別の機会に考えてみる。今は、「矛盾」とだけにしておく。が、ヒント
がないわけではない。

●愛と慈悲

 キリスト教には、「愛」という言葉がある。仏教には、「慈悲」という言葉がある。

 その愛にせよ、慈悲にせよ、その中身といえば、突きつめれば、結局は、いかにすれば相手
の立場で、悲しみや苦しみを共有できるかによって、決まる。他人への同調性、同情性、協調
性、共鳴性、和合性こそが、まさに愛であり、慈悲ということになる。

 言いかえると、キリスト教にせよ、仏教にせよ、こういった宗教は、愛や慈悲という言葉を使っ
て、その人の人格の完成をもとめているということになる。

 こうした宗教では、自らは、悲しみや苦しみを経験することなく、人の心の中に、心のポケット
をつくろうとする。私自身は、信仰者ではないから、それ以上のことはわからない。

 そこで改めて、私なりのやり方を、考えてみる。私のばあい、宗教にその方法を求めるという
のは、最後の最後にしたい。

●ジコチューとの戦い

 そこで考えてみると、自分のジコチューと戦うためには、いくつかの方法があることがわか
る。

 最初に思いつくのは、自己犠牲と、周囲への貢献。無料奉仕活動や、ボランティア活動がそ
れにあたる。とくに、悲しみや苦しみを背負った人の立場で、ものを考え、行動する。そしてそ
の悲しみや、苦しみを、自分のものとして共有する。

 ……といっても、もちろん、それは簡単なことではない。このこと自体が、生きることのテーマ
そのものといってもよい。

 が、それだけでは足りない。

 精神の完成のためには、毎日の、たえまない研鑽(けんさん)が必要である。いつも前向きに
戦っていく。自分をみがいていく。

 というのも、精神の完成度は、立ち止まったとたん、その時点から後退し始める。それは流
れる水のようなものではないか。よだんだとたん、水は腐り始める。「私は完成された人間だ」
と思ったとたん、愚劣な人間になっていく人は、少なくない。

 そのためには、いつも考える。考えて考えて、前に進む。そうすることによって、脳の中を流
れる水を、腐らせないですむ。釈迦は、そういう姿勢を、『精進(しょうじん)』という言葉を使って
説明した。

 そう言えば、キリスト教にも、(ゴール)という言葉はない。「10年、教会に通ったから、もうあ
なたは教会には、こなくていい」というような話は、聞いたことがない。信者は、それこそ死ぬま
で、たとえば日曜日には、教会へ通ったりする。

 キリスト教でも、やはり毎日の研鑽を、信者に教えているのかもしれない。(こんな軽率な意
見を書くと、その道の専門家の人に、叱られるかもしれないが……。)

●人生の目標 

 こうして考えていくと、どこまで「利他」を達成できるかが、人生の目標ということになる。ひょっ
としたら、私たちが生きている意味や、目的も、そのあたりにあるのかもしれない。

(とうとう、シッポをつかんだぞ!)

 かなり不謹慎な言い方をしたが、今、私は、心の中で、そう叫んだ。「私たちはなぜ、今、ここ
に生きているのか」「生きる目的は何なのか」「何を求めて生きているのか」という、人間がかか
える最大の課題についての(シッポ)である。

 私は、その(シッポ)をつかんだような気がする。

 もちろんまだ、その(シッポ)をつかんだだけというだけで、その方法もよくわかっていない。そ
れにそれを実践するというのは、まったくの別の問題。

 さらにその先には、何があるか、私にも、皆目見当もつかない。またそういう状態になったと
き、私の心境や思想がどうなるか、それもわからない。しかし方向性だけは見えたような気が
する。

 とりあえずは、日々の生活の中で、「利己」から「利他」への転換を、少しずつ始める。今は、
それしかない。

 何とも中途半端なエッセーになってしまった。先ほど、このエッセーを読みかえしてみたが、
文章も稚拙で、矛盾だらけ。マガジンに掲載するのをやめようかとも思ったが、この数日間、ほ
とんど原稿を書いていないということもあって、あえて掲載してみることにした。

 改めて、つまり少し時間をおいて、この問題については、考えてみたい。

 なおこのあとに、以前書いた原稿を3作(中日新聞発表済み)を添付すいておく。参考にして
ほしい。

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子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけ
ではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜
びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえ
ると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私
たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あ
の高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り
返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

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子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたか
らだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚く
ことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。し
かしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなも
のがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生
命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。

いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏が
いたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、
その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、
「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者
なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。で
きないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版である
にせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。

つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏
からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使
者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらし
いことはない。

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●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸
締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったもの
に対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはで
きないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがら
なくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言え
ば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人
は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことに
なる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうか
は、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてく
れた。

+++++++++++++++++

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれな
い」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカ
ギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた
地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わから
ない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なこと
に、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。彼の
言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちがって
はいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。
(02−12−15)

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。
(040505)

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(442)

【子どものころ】

●テレビ

 テレビをはじめて見たのは、私が、小学3年生か、4年生のときのことである。近所の電気屋
に、1台だけ入った。

 ふつう電気製品は、店頭に並ぶものだが、テレビだけは、奥の、どこか薄暗い部屋に置いて
あった。映画館のような雰囲気を出すためではなかったか。

 私たちは、ときどき、そのテレビを見せてもらった。

 が、それは同時に、たいへんなことだった。ただで見せてもらう以上、それなりの作法が必要
だった。テレビには、カーテンがかけてあったし、テレビの前では、私たちは正座をしなければ
ならなかった。

 祖父もよくいっしょに見に行ったが、アナウンサーが、「こんばんは」などと言ったりすると、ち
ゃんと、返事をしていた。「浩司、お前もあいさつをしろ!」と。祖父は、こう言った。

 「こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ」と。

 子どもながらに、「?」と思ったが、私は、従った。

 テレビといっても、もちろん白黒。今から思うと信じられないほど、小さな画面で、映りもよくな
かった。私たちは、そのテレビで、あちゃことか、エノケンを知った。


●ゴム靴

 つぎに思い出すのは、どういうわけか、ゴム靴である。黒いゴム靴で、はいて歩くと、ゴム独
特の音がした。キュッ、キュッ、と。

 当時は、靴下をはく子どもなどいなかったので、しばらくはいていると、すぐ足の皮がめくれ
た。痛かった。だから私は好きではなかった。(……と思う。よく覚えていないが……。)

 私が小学1年生か2年生のときのことである。


●蛍光灯

 近所の家に、蛍光灯がついたという話を聞いた。「白い電気だ」と。

 そこで、みんなで、その蛍光灯を見にいった。

 当時は、たいへん高価なものだったらしい。小学校で先生をしている人の家だった。一番奥
にあった部屋の電気で、見に行くと、わざわざそれをつけて見せてくれた。

 「さわっても熱くないよ」というようなことを言ったので、私たちは恐る恐る、手でさわってみた。
当時は、電気というのは、熱いものというのが、常識だった。しかし蛍光灯は熱くなかった。

 みんなで、「不思議だ」と言いあったのを覚えている。私が小学2、3年生のときのことであ
る。


●潜水艦

 当時、木で作った、潜水艦の模型がはやった。私たちは毎日のように、学校から帰ってくる
と、その潜水艦を作りに夢中になった。

 簡単な模型だった。

 潜水艦の形をした木片の下に、ゴム動力のスクリューと、おもりをつける。甲板には、それら
しき艦橋をつける。前後に、金属製の薄いハネをつけて、それを調整して、水の中をもぐらせ
て遊ぶ。

 勢いよく走ると、潜水艦は、もぐる。しかし動力がなくなると、そのまま水面に……というわけ
にはいかないことが多かった。もぐったまま、どこかへ行ってしまうということも、よくあった。

 そうなると今度は、潜水艦さがしを始める。

 が、たいてい、見つからなかった。が、かわりに、だれかがなくした潜水艦を見つけることが
あった。私たちは、それを戦利品と呼んで、自分のものにすることができた。


●遊び

 私たちは毎日、真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。暗くなって、遊べなくなると、今
度は、道路で遊んだ。

 缶けり(隠れんぼうのこと)や、「草履(ぞうり)隠し」などが、定番だった。私たちは「パンコ」と
呼んでいたが、メンコ遊びもよくした。ほかにあのころ、野球版ゲームや、フラフープがはやっ
た。「ダッコちゃん」というのも、はやった。

 今から思うと、かなり危険な遊びもしていたようだ。

 当時、カン鉄砲というのがあった。火薬をつめて、パンパンと鳴らして遊ぶ。そのカン鉄砲
に、カサの柄を切ったパイプを取りつける。そしてその中に、自転車で使うベアリングを入れ
て、火薬を爆発させる。

 わかりやすく言えば、ピストル。原理的には、本物のピストルと、どこも違わない。

 そのピストルで、板や、ビンを打ち抜いて遊んだ。厚さ3〜4センチくらいの板なら、簡単に射
抜くことができた。

 やがてその遊びは、禁止された。どこかで、その遊びをしていて、失明した子どもがいたから
だ。私の友だちの中にも、手の中でピストルを暴発させてしまい、おおけがをしたのがいた。

 私は、そういうヘマはしなかった。


●川遊び

 夏になれば、毎日のように私たちは、川で泳いだ。当時は、学校にも、まだプールはなかっ
た。が、私たちは、たいへん幸運だった。そのことはずっとあとになってわかったことだが、私
たちが泳いだ川は、日本でも、ほかに例がないほど、美しい川だった。

 長良川(ながらがわ)である。

 豊かな水量。澄みきった青い水。真夏でも、冷たかった。30分も水につかっていると、くちび
るがまっさおになった。

 そう、あの川で遊んだこととなると、思い出が、まるで怒涛(どとう)のように頭の中に浮かんで
くる。どこからどのように書いたらよいのか、わからなくなる。遠い昔のようでもあるし、つい先
日のことのようでもある。

 私にとって、夏の日の、あの長良川は、私の一部というより、すべてだった。私の夏は、水遊
びで始まり、水遊びで終わった。そう、あのころの夏は、短かった。気温が30度を超えるの
は、7月も20日前後を過ぎてから。8月15日の盆が終わると、冷たい風が、川面(かわも)を
なで始め、私たちは、もう水の中に入ることができなかった。

 私はそれでも川に行き、川を土手の上からながめた。泳げないことを、心底、うらめしく思っ
た。そんなやるせない気持ちだけが、どういうわけか、強く心の中に残っている。


●初恋

 初恋は、幼稚園児のときだったと聞いている。幼稚園から帰ってくるたびに、「ぼくは、Yちゃ
んが好き」と言っていたという。が、肝心の私は覚えていない。

 それが初恋だとするなら、つぎに好きになったYさんは、二番目の恋人ということになる。背の
高い、スラリとした女の子だった。私が小学3年生くらいのときだった。

 そのYさんは、中学生になるころまで好きだった。と、言っても、もちろん密かな片思い。途中
で、一度、Aさんという女の子を好きになった。私も、結構、浮気ぽいところがあった。で、その
あとは、高校生のときの、Sさん。

 こうして思い出してみると、私は、そのつど、だれかに恋をしていた。それだけ愛情に飢えて
いたのかもしれない。あるいは、ただのスケベ?

 しかし電撃に打たれるような恋をしたのは、大学4年生のとき。Nさんという名前の女性だっ
た。しかしあっという間にフラれた。切なくも、悲しい物語。Nさんを忘れるのに、そのあと、10
年以上もかかってしまった。

 で、再び話は子ども時代にもどるが、私が子どものころには、女の子といっしょに遊ぶという
ことは、考えられなかった。実際には、私には中学校を卒業するまで、女の子といっしょに遊ん
だ記憶そのものがない。つまり、一度も、ない。

 そのくせおかしなことだが、本当におかしなことだが、私は小学3年生になるころまで、銭湯で
も、平気で女湯のほうへ行って遊んでいた。

 そうそう、その銭湯の話だが、あるとき湯船の中に、ウンチが浮かんでいたことがある。当時
は、今のように湯が循環ろ過式になっていなかった。今でも、あのウンチのことを思い出すと、
背筋がゾッとする。

 ウンチの浮かんだ風呂。そのウンチをオケでかきわけながら、湯の中に入る……。あなた
に、そんな風呂が想像できるだろうか?


●小遣い

 正確ではないが、当時は、うどん屋でうどんを食べると、一杯、70円とか、80円ではなかっ
たか。私が小学2、3年生のときである。

 30円で、肉入の焼きそばが食べられた。が、私たちは、いつも、10円の焼きそばだった。半
分の量の、5円という焼きそばもあった。

 画用紙が1枚、50銭(1円の半分)だったのをよく覚えている。ときどき50銭玉をもって、そ
の画用紙を買いに行った。私はそれに絵を描いて遊んだ。そしてそれが終わると、今度は、そ
の画用紙で、いろいろなものを作って遊んだ。

 今でも不思議だと思うのは、卵が1個30円くらいだったこと。それから50年になるが、かえっ
て今のほうが安いのは、どういうわけだろう?

 ラムネは1本、5円だった。当時は、店先で飲んで、ビンは返すしくみになっていた。が、ある
日、駄菓子屋の棚を見ると、そこに、バヤリース・オレンジというアメリカ製のジュースが数本、
並んでいるのを知った。そのジュースは、子どもたちの手の届かない、高いところに、どこか誇
らしげに置いてあった。

 値段は、100円だった。私たちの小遣いの1か月分である。

 それを見ながら、「あんなジュース、だれが飲むんだろ」と思ったのを、よく覚えている。「おと
なになったら、いつか、飲んでやる」と思ったのも、よく覚えている。


●食事

 当時は、今の食生活からは想像もつかないほど、質素なものを食べていた。何しろ学校の給
食が、毎日、ごちそうに見えるほどだった。

 よくて魚の煮つけと、つけもの。あるいはイモや大根を煮たものに、簡単な酢もの。たいてい
そんなものばかりだった。

 寿司などは、正月と、風邪をひいて寝たときぐらいしか、食べられなかった。肉にいたって
は、食べた記憶が、ほとんど、ない。当時は、肉、とくに牛肉は、最高級の食品だった。

 ときどきコロッケは食べた。ソーセージを、みんなで分けて食べた。そうそうミカンにしても、当
時は、1個売りが当たり前。今のように箱売りのミカンなど、想像もつかなかった。

 だから今でも、ときどき、あのころの食事を思い出しながら、「今の人は、ぜいたくなものを食
べている」と思うときがある。


●しかし……

 そういう貧しい生活だったにもかかわらず、窮乏感は、まるでなかった。ぜいたくというもの
が、どういうものか知らなかったので、当然と言えば、当然だったかもしれない。

 このことは、当時の内閣官房審議室の調査によっても、わかる。

 1959年というから、私が12歳のときである。そのときですら、「生活に満足している」と「まあ
まあ満足している」をあわせると、66%もいた。

 しかしそれから45年後の、2004年。内閣府の調査によると。「満足している」「まあまあ満
足している」は、59・8%という。おかしなことだが、45年前とくらべると、少し減っているのが
わかる。

 今の人たちは、当時の私たちとはくらべものにならないほど、ぜいたくな生活をしている。豊
かになった。楽になった。が、それでも、減っている。考えてみれば、おかしなことではないか。

 ……と考えていくと、そこに、人間の欲望の問題がからんでいることがわかる。欲望には際限
がないとはよく言うが、その欲望は、それが満たされたとき、つぎの欲望を求めて、さまよい歩
き始める。

 今では、家の中にいて映画(ビデオ)を見るなどというのは、当たり前のことだが、私たちが子
どもときは、そうではなかった。

 映画館で見るしかなかったが、その映画館へ、なかなか入れなかった。

 そこで私たちは、映画館の壁の穴を見つけて、そこに目をこらして中の映画を見たりした。あ
るいはピンホール映画のように、穴の外に、白い紙を置いて、そこに映る映画を見たりした。

 そういう時代だったが、不便ということはなかった。みじめさも、なかった。

 が、もしその逆だったら、どうだろうか? 「今」という時代を頂点に、どんどん生活の質がマイ
ナス方向に、落ちていったとしたら……。

 考えるだけでも、ゾッとする。いや、私のことではない。今の、つまりぜいたくになれきった若
い人たちや、子どもたちのことを考えると、ゾッとする。果たして、そういう生活に耐えられるだ
ろうか、と。

 ……こうして考えていくと、文明とは何かということまで、考えてしまう。さらに「豊かさ」とは何
か、とまで。あるいはひょっとしたら、私たちは、それほど大切でないものを、大切と思いこまさ
れているだけかもしれない。そしてその一方で、もっと大切なものを、見落としているだけかもし
れない。

 自分の子どものころのことを書きながら、私は、そんなことを考えた。
(はやし浩司 子ども時代 子供時代 子どものころ 子供の頃)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(443)

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(444)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
 

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(445)

【近況あれ・これ】

●平凡

 「平凡は美徳である」というのは、あるフランスの哲学者の言葉。平凡であることには、すばら
しい価値が隠されている。

 それはわかるが、このところ、何かにつけて、その平凡さを感ずる。生活そのものが、マンネ
リ化してきた。そんな感じがする。

 そんなとき、ワイフのクラブ仲間の1人の、Wさんという人が、何と、アフリカ旅行をしてきたと
いう。エジプトからケニヤを回り、ついでにイギリスに立ち寄って、日本へ帰ってきた。

 その仲間の女性というのは、60歳を過ぎている。

 「ダンナさんの趣味が歩くことで、Wさん(仲間)は、しかたないので、毎日、いっしょに、10キ
ロ近くも、あちこちを歩いたそうよ」と。

 「フウ〜ン」と、感心してみせたり、驚いたり、プラス、うらやましいと思ったり……。

 私などは、このところ、浜松市の郊外や、近くの町をウロウロしているだけ。話を聞いているう
ちに、自分が、何となく、みじめになってきた。

「ぼくらも行こうか」と言いそうになったが、やめた。そんなことを口にしたら、ワイフは、そのま
まその気になってしまう。


●次期パソコン

 毎日、雑誌やその会社のHPをながめている。

 で、今のところ、次期パソコンは、M社のデスクトップ・パソコンになりそう。

 PEN4の530。メモリーは、1024MB。ハードディスクは、160GB(もしくは、200GB)。ほ
か、もろもろ。値段は、税込み、送料ともで、13万6000円。言い忘れたが、OS(Window X
P SP2)、17インチの液晶ディスプレイ付。

 これにオプションとして、もう一つ、ハードディスク、ゲーム用のグラフィックボードを増設、そ
れに3年間保証をつけるつもり。それで、しめて計17万5000円前後。

 しかしそれにしても、高性能! こんな高性能のパソコンなど、本当のところ、私には、必要
ない。使い道もない。こうして文章だけをたたいているなら、3、4年前の旧式パソコンでも、じ
ゅうぶん。しかしどういうわけか、私は、高性能のパソコンが、ほしい。

 これはビューキ? 買い物依存症?

 数日中に結論を出さねばならない。今、注文しても、納期は、12月末になるという。正月の
休みに、楽しめなくなる。さあ、どうしよう?


●子どものけんか

 K国への経済制裁が、にわかに現実味を帯びてきた。と、同時に、それに呼応して、K国で
は、反日のキャンペーンの大合唱。「従軍慰安婦がどうの、こうの」と。

 つまり、「お前たち、日本人モナー」と言いたいのだろう。「戦前、日本は、オレたちにひどいこ
とをしたではないか。偉そうなことを言うな」と。

 しかしだからといって、拉致問題や、ニセ遺骨問題が、正当化されるということでもあるまい。
それに今、K国では、何百万人という人たちが、飢餓で苦しんでいる。そういう事実をさておい
て、戦前の話も、あるまい。

 K国の経済失政は、日本の責任ではない。

 要するに、金XXは、自分の失政を、日本やアメリカの責任になすりつけているだけ。ありもし
ない日本やアメリカの脅威を理由に、軍事力を強化し、独裁政権を守っているだけ。

 日本の経済制裁が、そんなにいやなら、K国も、日本に対して、経済制裁をすればよい。また
アメリカに向って、敵視政策をやめろと言うくらいなら、自分たちも反米教育をやめればよい。

 自分たちは、さんざん、好き勝手なことをしておきながら、少しでも相手に非があると、ギャン
ギャンと責めまくる……。その心理的反応は、どこかのチンピラが見せる反応と同じ。どこもち
がわない。

 悲しいかな、アメリカ人は、K国など、相手にしていない。大半のアメリカ人は、K国など、どこ
にあるかさえ知らない。またK国にしても、アメリカは、相手になるような国でもない。K国も、少
しは冷静に、自己認識してみたらよい。

 実に幼稚というか、あさましいというか。子どもでも、そんなけんかはしない。被害妄想をもつ
のも、いいかげんにしたらどうだろう。

 さあ、日本のみなさん、あんなK国など、本気で相手にするのは、やめよう。相手にしてはい
けない。どこまでも淡々と、事務的に処理しよう。それが私たち、おとなのけんかのやり方。

 経済制裁をする価値もない!
(04年12月14日記・この原稿をマガジンに載せるころには、国際情勢は大きく変わっている
かもしれません。)

【付記】

 私は子どものころ、よくけんかをした。取っ組みあいのけんか程度だったら、毎日のようにし
た。殴りあいのけんかも、よくした。けんかすることが、遊びの一つになっていた。

 しかしルールがあった。相手が年下とか、明らかに弱いときは、しなかった。もちろん女子と
はしたことがない。(カッコいいこと書いているみたいだが、本当!)

 相手が負けを認めたら、すぐやめた。仲なおりはしなかったが、勝っても負けても、そのけん
かのことは、すぐ忘れた。

 が、その中でも、相手が、どこかヘンな、心のゆがんでいるヤツとは、絶対にけんかしなかっ
た。相手にしなかった。

そういうヤツとけんかすると、それこそ、ナイフが飛び出すかもしれない。けんかするにしても、
それにふさわしい男とけんかした。

 そういう(常識?)から考えても、K国と、戦争をしてはいけない。自民党のA幹事長は、北海
道で行った講演の中で、「K国は、YMさんの指でも切って、それを焼いて遺骨に見せかけるか
もしれない」(12・12)というような発言をした。

 発言内容は、「?」で、理知的とはとても言いがたいが、そういうことがあっても、おかしくない
ほど、K国の(心)は、今、ゆがんでいる。だからこそ、相手にしてはいけない。

 何度も書いたが、ここは淡々と、国際世論を味方につけながら、事務的に、どこまでも事務
的に、K国をしめあげる。金XXが、音(ね)をあげるまで、しめあげる。それにまさる拉致問題
の解決法は、ない。

【付記】

 今朝(15日)のニュースによれば、何でもK国は、一連のニセ遺骨問題は、日本側のデッチ
あげと言っているようだ。

 どこまで私たちを怒らせたら、気がすむのだろう。しかししょせん、そのレベルの国。やはり、
本気で相手にしないほうがよい。

 一度、制裁合戦に入ったら、この種の問題は、ドロ沼化する。日本は、あんな国といっしょ
に、心中するわけには、いかない。また心中してはならない。


●詩

 ワイフと散歩しながら、詩を口にする。

 鉛色の空、幾重にも重い雲は、層をなし、
 低く、夕方の、乾いた道路を、押しつぶす。

 橙色の街路灯が、ものわびしげに、光を放ち、
 車の列は、師走の冷たい風を切って、走る。

ワイフ「それから……?」
私「ハハ、ここまで。ぼくの詩は、いつも情景描写だけで終わってしまうよ」
ワイフ「あとは、つづかないの?」
私「そう、いつもイントロだけ。それでおしまい」と。

 今まで、何人かの詩人と呼ばれる人に会ったことがある。その中の1人は、毎年のように、本
で新作を発表している。中央で活躍している。いろいろな賞も取っている。

 一度、三島市(静岡県)の郊外にある温泉へ、いっしょに遊びに行ったこともある。その人
が、そこでこんなことを教えてくれた。

 「詩というのは、言葉の結晶のようなものだよ」と。

 つまり長い文章を、どんどんと結晶化したものが、詩だ、と。言いかえると、私が書いているよ
うな文章というのは、ふやけたラーメンのようなもの。少なくとも、詩の世界からみると、そうな
る。

 そうだ、今度、詩に挑戦してみよう。おもしろそうだ! ……ということで、乞う、ご期待! 今
度からパソコンではなく、メモ用紙をもって、外を歩いてみる。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●詩(2)

 詩は、言葉の結晶である。
 だとするなら、文章を、結晶化させることで、詩をつくることができるのでは……。

 これはおもしろい発想だ。
 ここで実験をしてみる。

 まず、最近書いた文章の中で、つぎのものを選んでみた。たびたび同じ原稿を掲載して、ご
めん!

++++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけ
ではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜
びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえ
ると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私
たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あ
の高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り
返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++

 この原稿の文章を、詩風に並びかえ、
少し、手なおししてみた。
 それがつぎの文章である。

++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

懸命に生きるから、人は美しい。輝く。
その価値があるかないかの判断は、あとからするもの。
生きる意味や目的も、そのあとで考えるもの。
たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するか
そこに子どもたちの懸命さを感ずるから。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。
私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。
「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と、
そう、自信をもって言える人は、
この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、
ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、
(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけではないが、
トルストイの『戦争と平和』の中に、
私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、
結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、
人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。
『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、
フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰りかえす。
みんな必死だ。命がけだ。
ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、
ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、
場内にこだまする。一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、
同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。
そして無数の人たちの懸命な人生が、
これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、
人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、
人生の意味はわからない。夢も希望もない。
情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、
その日その日を、無難に過ごしている人には、
人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、
私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、
懸命に生きる、その生きざまでしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、
菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。
見るほうも、つまらない。
そういうものはいくら繰り返しても、
ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++

この文章を、さらに簡略化してみる。

++++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶ

懸命に生きるから、人は美しい。輝く。
その価値の判断は、あとからするもの。
生きる意味や目的も、あとで考えるもの。
たとえば高校野球。

私たちは、なぜあの高校野球に感動するかといえば、
そこに子どもたちの懸命さを感ずるから。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。

私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。
「私の仕事は、ボールのゲームとは違う」と、
そう、自信をもって言える人は、
この世の中に一体、どれだけいるか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、
ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、
(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけでもないが、
トルストイの『戦争と平和』の中に、
私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、
結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、
人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、
フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、バッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰りかえす。
みんな必死だ。命がけだ。

ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、
ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、
場内にこだまする。一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、
同時に場内を埋めつくす……。

 それが人生か。
そして無数の人たちの懸命な人生が、
これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、
人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、
人生の意味はわからない。

夢も希望もない。情熱も闘志もない。
毎日、ただ流されるまま、
その日その日を、無難に過ごしている人には、
人生の意味はわからない。

「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、
私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、
懸命に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、
菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。
見るほうも、つまらない。

そういうものはいくら繰り返しても、
ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++

だいぶ、詩らしくなってきたようだ。
おしまい!
++++++++++++++++++++

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●メリークリスマス

 「善」の象徴、それが「神」なのか。すべての「善」が、「神」に集約される。

 であるとするなら、「神」よ、あなたは、何と、甘美な方か。
多くの人は、あなたに身を寄せ、その「善」を共有する。

 そして今、クリスマス。あなたという「善」は、今日、この日、生まれた。

 メリークリスマス!

 ただ私には、「神」はわからない。わからないが、「善」の片鱗ならわかる。

 この世で、一番、尊きもの、それが「善」。

 「神」よ、私たちは、あなたが夢見た「善」の世界に、この日、酔いしれる。

 メリークリスマス!

 この日一日だけは、私も、敬虔(けいけん)な、クリスチャンになろう。
 ためらわずに……。


●「善」

 心の中の「善」を信じよう。「善なる響き」を信じよう。
 やさしい心、暖かい心、清純で汚れを知らない心。

 その「善」が、暗闇の中で、あなたの足元を照らす。
 道に迷ったとき、あなたに進むべき、方向を示す。

 心の中の「善」を信じよう。「善なる響き」を信じよう。
 やさしい心、暖かい心、清純で汚れを知らない心。


●「第九」

 学生時代、合唱団にいた。毎年、ベートーベンの「第九」を歌った。
 そのせいか、今でも、年末になると、第九を歌いたくなる。あるいは一度は、山荘で、第九を
聞きながら、夢中で、指揮棒を振る。

 山荘の窓をすべてあけ、その向こうに見える山々に向って、指揮棒を振る。歌う。大声で歌
う。今でも、バリトン部なら、ソラで、すべて歌える。ドイツ語だから、意味はわからない。何度
か、教えてもらったが、それでもよくわからない。私にとっては、仏教のお経のようなもの。イス
ラム教のコーランのようなもの。

 ザイツム・シュルンゲン・ミーリィオーネン。(ジャン)ディーゼン・クッスデル、ガーチェンベルツ
……。

 もちろん、私は、クリスチャンではない。ないが、その曲を聞きながら、自分の中の「絶対的な
善」に、ただひたすら身を寄せようとする。その「絶対的な善」を「神」というのなら、神でもよい。

 ベートーベンだって、本物の神を見たわけではないだろう。ベートーベンも、その曲を作りな
がら、自分の中の「絶対的な善」に身を寄せようとしたのかもしれない。つまり、その瞬間、私と
ベートーベンは、一本の糸でつながり、さらに「絶対的な善」から「神」へと、つながっていく。

 その共有性が、心地よい。気持ちよい。私は、そのとき、自分が「善なる世界」にひたってい
ることを知る。自分が善人であることを知る。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(446)

●劣等感

 「こうでありたい」と思う自分。そういう理想の自分を、(希望的自分)と呼ぶことにしよう。しか
したいていのばあい、その(希望的自分)は、(現実の自分)とかけ離れていることが多い。ほと
んどの人が、そうではないか。

 この両者がかけ離れているとき、そのすき間から劣等感が生まれる(フロイト学説)。

 ただ日本語で「コンプレックス」というと、「劣等感」のことと思う人は多い。しかし「コンプレック
ス」というのは、もともとは、「複合体」「合成物」のことをいう(研究社・Approach英和辞典)。
それが転じて、心理学の世界では、「抑えられていて、本人は意識していない異常な行動の原
因となる感情」(同)を意味するようになった。

 コンプレックスというのは、日本語では、「こだわり」と考えると、わかりやすい。そのこだわり
には、いろいろある。

 よく知られているのに、エディプス・コンプレックス、マザー・コンプレックス、ロリータ・コンプレ
ックスなど。カイン・コンプレックスというのもある。兄弟間の確執や、葛藤を、そう呼ぶ。(詳しく
は、私のHPを参考に!)

 たとえばここに1人の女子高校生がいる。彼女は、子どものころから、いつかすてきな王女様
のような女性になって、これまたすてきな王子様のような男性と結婚したいと願っていた。

 それが彼女にとっては、(希望的自分)ということになる。

 しかし現実の彼女は、その王女様とは、かけ離れた存在だった。容姿も、あまりよくなかっ
た。勉強も、スポーツも苦手だった。学校でも、そのため、まったくと言ってよいほど、目だたな
かった。

 こうしてその女子高校生は、容姿に対して、大きな(こだわり)、つまり(コンプレックス)をもつ
ようになった。

 ……というような例は、多い。多かれ少なかれ、こうしたコンプレックスは、だれしももってい
る。

 そこで大切なことは、こうしたコンプレックスを、心の中で、どう消化し、どう昇華していくかとい
うこと。まずいのは、そうしたコンプレックスがあることに気がつかないまま、そのコンプレックス
に、裏から操られることである。

 たとえばマザー・コンプレックスにしても、当の本人は、マザコンでありながら、それに気づくと
いうことは、まずない。一方で、母親を美化しながら、「私がそうであるのは、それだけ私の母
がすばらしいからだ」と、おかしな理由づけをしたりする。こういうのを、合理化、あるいは自己
正当化という。

 あるいは、こうしたマザー・コンプレックス(ファーザー・コンプレックス)は、親絶対教の基盤に
なることもある。「親は、絶対」という考え方である。

 その人が、母親に大きな(こだわり)をもつのは、その人の勝手だが、そのため、いろいろな
問題が起きることがある。それがやがて周囲に、影響を与えるようになることがある。

たとえばマザコンタイプの男性は、いつも、マドンナ(聖母)的な女性を追い求めるようになると
言われている。そのため、仮に結婚しても、自分の妻に満足できず、夫婦関係が、ギクシャク
しやすい。浮気率も高く、離婚率も高いと言われている。

 それだけ理想の女性を求めて、女から女へと渡り歩く傾向が強いからである。

 そこで重要なことは、こうしたコンプレックス(こだわり)に、まず、自分で気がつくこと。もしあ
なたが、何かのことで、劣等感を強く覚えるようなら、その背後に、どんな(こだわり)があるか
を知る。また、なぜ、そうなのかを知る。

 すべては、ここから始まる。

 そして、あとは、「時の流れ」に身を任す。この問題だけは、根が深い。簡単には、なおらな
い。しかしそれに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。

 ただ誤解してはいけないのは、コンプレックス、イコール、「悪」ではないということ。中には、
そのコンプレックスと戦いながら、そのコンプレックスを昇華させていく人もいる。自分を高めて
いく人がいる。

 芸術家や、作家、スポーツ選手などの中には、そういう人が多い。コンプレックスが一つのバ
ネとなって、その人を伸ばす。大切なことは、コンプレックスがあるということではなく、そのコン
プレックスと、どうやって、うまくつきあうか、である。

 さて、あなたには、どんなコンプレックス(こだわり)があるか? 一度、あなたの心の中を、の
ぞいてみると、おもしろいのでは……?
(はやし浩司 コンプレックス こだわり 劣等感 マザー コンプレックス)

【補記】

 私にも、子どものころ、たくさんの(こだわり)があった。

 まず、「庭」。子どものころ、太陽の日がさしこむような庭がほしかった。そういう庭のある家を
見ると、本当に、うらやましかった。

 つぎに「暖かい家庭」。私の生まれ育った家には、私の居場所すらなかった。

 また、私は、気が小さいくせに、自分より強い男と、けんかばかりしていた。それにも、何か別
のコンプレックスがかかわっていたのかもしれない。今、考えても、よくわからないが……。

 で、こうしたコンプレックスが転じたのだろう。私はお金ができると、すぐ庭つきの家を買っ
た。庭といっても、10坪足らずの庭だったが、私は、そこで、つぎからつぎへと、いろいろな野
菜を作った。それは、今から思うと、それまでのコンプレックスを、一気に、解消するためでは
なかったか。(もちろん無意識のまま、そうした。)

 つぎに「暖かい家庭作り」。しかしこれはあまり、うまくいかなかった。いつも気負いばかりが
先行して、家庭の中は、いつもギクシャクした。そういう意味では、ワイフや息子たちには、苦
労をかけたと思う。(ごめん!)

 ほかにもいろいろなコンプレックスがある。

 つまりは、人は、そうした無数のコンプレックスをかかえながら、そしてほとんどのばあい、無
意識なまま、それに操られて生きているだけなのかもしれない。

 「私は私」と、思いこみながら、である。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++++
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

●依存性

子どもの依存性は、どうやってできるか。一つの例をあげて、考えてみよう。

 たとえば、子どもたちに、学校で使う教科書をもってくるように言ったとする。が、X君(小5)
は、それを忘れた。
 
 そこで私は、「来週は、もっておいでよ」と言いながら、私のもっている教科書を、X君に貸して
あげたとする。X君は、それを使って、学習する。

 が、X君は、そのつぎの週も、教科書を忘れた。「どうしてもってこなかったの?」と聞くと、「今
度は、もってくるから」と。そこで前の週と同じように、私の教科書を貸す。

 つまり、こうしてX君の心の中に、「忘れても、借りればいい」という、安易な依存性が生まれ
る。これを数度繰りかえしていると、X君の心の中から、緊張感が消える。忘れることが、平気
になるというより、「もってこなければならない」という気持ち、そのものが消える。

 こうした依存性というのは、だれにでもある。そしてだれしも、いつも、依存できる人を、その
つど本能的な部分でかぎわけ、その人に依存できるとわかると、その人に依存するようにな
る。まさに「スキさえ、あれば……」という心理状態になる。

 そんなわけで、人間関係というのは、総じてみれば、無数の保護と、同じく無数の依存の関
係でできている。それが1人の人を中心に、幾重にもからんだクモの巣のようになっている。そ
してそのクモの巣は、別の人と、これまた幾重にもからみあっている。

 つまり同じ人でも、ある場面では、保護的になったり、また別の場面では、依存的になったり
する。ここにあげたX君にしても、忘れ物に対して依存的になっているのは、あくまでも教科書
だけであり、そのほかの部分では、そうでない。

 たとえば私についても、仕事面では、ワイフの世話になることは、めったにない。しかしそんな
私でも、食事のこととなると、全面的にワイフに依存している。洗濯もそうだ。だから私は、依存
性がないとも言えないし、依存性があるとも言えない。

 が、この依存性のこわいところは、その依存する相手によっては、過度に依存し、その人自
身が、自立できなくなってしまうこと。とくに母子関係で、それが起こりやすい。

 ある母親は、自分の息子(小6)が、修学旅行にでかけた夜、それは1泊2日の修学旅行だっ
たが、夜通し、泣きつづけたという。「どうして?」と聞くと、その母親は、恥ずかしげもなく、こう
言った。「あの子は、私がいないと、何もできない子だからです」と。

 そしてそうして泣き明かしたことを、むしろ、誇っているようなところがあった。「私はそれほど
までに息子を愛している」「私こそ親のカガミだ」と。

 つまり母子の依存関係というのは、相互的なもので、子どもだけが一方的に依存性をもつと
いうことはない。その背景には、子どもの依存性に甘い、親側の育児姿勢がある。このタイプ
の母親は、親にベタベタと甘える子どもイコール、いい子と考える傾向が強い。

 そしてさらに、その母親自身も、そのまた親(母親の親たち)と、ベタベタの依存関係にあるこ
とが多い。つまりこうして、依存性は、親から子へと、代々と伝播(でんぱ)しやすい。

 そこで、どいうするか?

 先のX君のケースでは、ある日を境に、いっさい、忘れ物を貸さないという方法で、対処する。
一度、子どもにショックを与える。このショックが、別の緊張感を生む。X君は、その日、何をし
たらよいかわからず、ただモジモジしながら、1時間を過ごす。

 このとき大切なのは、しかったり、こちらが感情的になってはいけないということ。淡々とやり
すごす。ここでX君の中に、恐怖心を与えてしまうと、それこそ、『泣き面(つら)に、ハチ』という
ことになりかねない。

こうしてX君の中から、依存性を消していく。

 総じてみれば、日本人は、よく依存型民族と言われている。ほかの民族とくらべても、保護、
依存の関係を作りやすい。「何とかなる」という考え方が、やがて、「だれかが何とかしてくれる
だろう」という考え方に、変化しやすい。

 そんなことも、心のどこかに置きながら、子どもの依存性を考えるとよい。
(はやし浩司 子どもの依存性 子供の依存性 依存性)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●動機づけ

 子どもの学習指導は、動機づけで始まり、動機づけで終わる。あとは、子ども自身の学習意
欲を、うまく、守り育てていく。わかりやすく言えば、「学ぶことは、楽しい」と思わせる。「楽しか
った」という思いが原動力となって、その思いが、子どもを前向きに、ひっぱっていく。

 「生徒の到達度を調査する国際学会」の調査によると、「小学生の理科と中学生の数学では
平均点が、10点ほど下がったほか、「勉強が楽しい」「その科目に自信がある」と答えた割合
は、下から数えて2番目か3番目と、極めて低かった」という(04年末)。

 中学生は世界46か国、小学生は25か国が参加した学力テストの結果である。

 それについて、日本の文科省のN氏は、「なぜ勉強しないといけないのかという動機づけが、
まずできていない。とても世界のトップレベルとは言えない状況にあるということは、きびしく受
け止めなければいけないと思っています」と、コメントを発表している(中日新聞)。

 ここで「動機づけ」という言葉が出てくる。

 たとえば小学4年で、角度の学習をし、つづいて分度器の使い方を学習する。教える側として
は、「角の大きさは……」というような言い方をする。

 しかしその時点で、大半の子どもたちは、ほとんど、反応を示さない。もともと、その必要性が
ないからである。実感もない。子どもたちの心を代弁すると、こうなる。

 「どうして、そんなことを勉強しなければ、いけないのか?」

 そこで話題を変える。

私「先が、とがっているものにさわると、痛いよね」
子どもたち「痛いよ」
私「ここに、いろいろなヤリがあるけど、どれが一番、痛そうかな?」と。

 プリントには、いっぱい、ヤリが描いてある。先のとがったのや、そうでないのがある。その図
を見せながら、子どもに、角度の概念をわかってもらう。

 中に、たいへん微妙なヤリがある。見た目では、どちらがよりとがっているかわからない。子
どもたちは、「こちらかな?」「いや、こちらだ」と言い出す。しかしそれこそが、教える側のねら
いどころ。

 つまりこうして子どもたちに、問題意識をもってもらう。そしてそれを動機づけにつなげていく。

 まずいのはいきなり、「では角度を測ってみましょう」「分度器の使い方を勉強しましょう」など
という、乱暴な指導。子どもは、その時点で、興味を半減させてしまう。

 なお、こうした動機づけは、1、2年前にしておくとよい。たとえばここでいう「角」にしても、小
学2、3年の段階で、それとなくしておくとよい。これを私は勝手に、「種まき」と呼んでいる。つ
まり頭の中に、種をまいておく。

 実際には、私は、サメの絵を子どもたちに見せる。サメの口の中には、いっぱい、とがった歯
が並んでいる。そのサメの口の中を見せながら、「どの歯が、一番、とがっているかな?」「かま
れると、痛そうかな?」と。

 つまり小学2、3年生のときに、「遊び」として、子どもたちに、種をまくつもりで、話しておく。す
るとその種は、子どもたちの頭の中に残り、1、2年で、大きく成長する。

 そういう例は多い。

 ……ということで、私は私の幼児教室では、こうした無数の動機づけを、そのつど、している。
サメの歯が描いた教材も、その中の一つである。コツは、「教えてやろう」と構えないこと。子ど
もたちといっしょに楽しむつもりで、教えること。それにまさる動機づけは、ない。
(はやし浩司 動機付け どうきづけ)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●今週のBWから

 今週は、「歌」をテーマにした。
 簡単な発声練習、音階の学習のあと、その季節ということで、「お正月」の歌を歌う。

 歌を歌ってくれた子どもに、貯金箱を渡す。大小、二種類の貯金箱。「お金もちになりはい人
は、こちら」「ものすごくお金もちになりたい人はこちら」と声をかけると、全員、「大きな貯金箱
がほしい」と(12月16日)。

 そのあと、その貯金箱に、絵を描かせる。「一番、楽しかったときの絵を描こうね」と。そして
それが終わると、みな、私の机のところへもってきた。私は、その中にコインを入れてあげる。
10円玉とか、5円玉である。たいしたお金ではないが、子どもたちは、喜んでくれた。

 今日は、年中児クラス。年齢は4〜5歳。

 そのあと、また、みんなで、「お正月」の歌を歌う。

 「♪もう、いくつ寝ると、お正月……。お正月には、凧あげて……」と。

私「もっと、ニッコリ、笑って歌おうよ。いいか、みんな童心にかえって、歌うんだよ」
子どもたち「うん」と。

 幼児を伸ばす最大のコツは、子どもを楽しませること。すべては、ここへ行きつく。あとのこと
は、子どもに任せれば、よい。子どもは、子ども自身のもつ力で、伸びる。

 帰るときみな、貯金箱をガチャガチャと鳴らしながら、部屋から出て行った。

【付記】

 BW教室では、伝統的に、年末には、貯金箱を渡している。で、そのとき、いくらか(30〜50
円)のコインを、生徒にあげている。生徒に、現金をあげるということについて、最初は、抵抗
があったが、貯金箱だけでは、貯金箱にはならない。いくらかのお金を入れてあげる。それが
誘い水になって、子どもたちは、貯金を始める。


●自己嫌悪

 ときどき、自分のことが、たまらなくいやになることがある。「生きている価値もない。意味もな
い」と思うことがある。私は、だれにも相手にされない。愛されない。必要とされない。……本当
はそうでないと思うが、……思いたいが、そう思うことがある。

 とぼとぼと道を歩いていると、自分がみじめになる。どんどんと小さくなって、消え入りそうにな
る。あきらかに、うつ。……わかっているが、一度、そういう状態になると、本当の私がどちらな
のか、わからなくなる。

 明るくて快活なほうの私が、本当の私なのか。それとも落ちこんで、人生をはかなむほうの私
が、本当の私なのか。

 一方からもう一方を見ると、そういう状態のときの自分が、正しく見える。もう一方は、おかし
いと思う。たとえば自分の中で、こんな会話をする。

私「今のお前のほうが、本当のお前だ。もう1人のお前は、本当のお前をごまかしているだけ
だ」
私「いや、お前こそ、おかしい。脳みそが、変調している。病気だ」
私「いや、ちがう。もう1人のお前は、バカだから、現状を認識できないだけだ」
私「どちらにせよ、今のお前は、本当のお前ではないから、静かにしていたほうがいい」と。

 歩きながら、通りすぎる人を見る。サラリーマン風の男。OL風の女。作業服を着た男。そして
高校生たち。

 みんな、平気そうな顔をして歩いている。その平気そうなところが、私には、理解できない。
「どうしてああまで、平気でいられるのだろうか」とか、「本当は、みな、何かの問題をかかえて
いるはず」とか、そんなふうに考えてしまう。
 
 ……こういうときは、どうするか?  

 答は簡単。早く床につく。よく眠る。それだけ! それではみなさん、おやすみなさい。今夜
は、もう寝ます。


●ワールド・カップ

 現在、ワールドカップの選手の子どもが、2人、私の教室に来ている。X氏とY氏の子どもたち
である。今夜(12・16)、そのX氏も、Y氏も、対ドイツ戦に、出場していた。

 が、私は、父母はもちろんのこと、生徒たちの前では、いっさい、サッカーの話をしない。しな
いというより、できない。できなくなってしまった。それに、この数か月、サッカーの試合を見るの
が、つらくてならない。

 いろいろな職業がある。しかしサッカーほど、職業として見ていて、つらい職業はない。それ
にきびしい。もう少し、詳しく書こう。

 以前は、つまり、まったくの部外者として見ていたときは、気楽というより、実に無責任な応援
のし方をしていた。……と思う。勝って当たり前。負ければ、ヤンヤの非難。ヘマをすれば、「バ
カヤロー」の罵声。しかし今は、それができない。

 それをはっきりと自覚したのは、この夏に行われた、アジアカップのときのことだった。

 日本は、中国の北京で、その中国と決勝戦を争った。結果は、3対1で日本が勝ったが、そ
の試合の間中、中国人たちは、口汚い怒声を日本選手や、日本側のサポーターに浴びせか
けた。ものを投げた。

 その試合にも、X氏は、最後まで出場していた。私は、試合よりも、その試合を観戦してい
る、X氏の奥さんや、子どもたちのことが心配でならなかった。ハラハラなんていうものではなか
った。まさに息がつまるような思いだった。

 スタンドがテレビ画面に飛びこんでくると、その画面を食い入るように見つめた。そしてX氏の
奥さんや子どもをさがした。「だいじょうぶだろうか?」「けがはしないだろうか?」と。

 神経をすり減らしたというような、軽いものではなかった。サッカーの試合を見ているはずな
のに、試合など、どうでも、よくなってしまった。

 だからその日を境に、よけいに、サッカーを見なくなった。はっきり言って、とても見ていられ
ない。そういう状態になってしまった。

 昨日も、X氏の奥さんが、子どもをつれて教室へ来ていた。しかし私は、「がんばってください
ね」とも、言えなかった。本来なら、そう言うべきだったのだろうが、そんな言葉など、とても口か
ら出てこなかった。そんなことを言えば、かえって奥さんを苦しめるだけだ。……と思った。それ
に今日は、Y氏の奥さんとも会った。そのときも、言えなかった。

 いよいよ来年(05)早々から、ワールドカップの予選が、始まる。

 私は、本当に、正直に言うが、もうサッカーは、見ない。心臓によくない。しかしそれにしても、
X氏やY氏の奥さんたちは、どんな気持ちで、サッカーの試合を見ているのだろう。あるいは今
の私のように、見ていないのかもしれない。

 そうそう、先週まで、教室に、大型のサッカーゲームを置いていた。生徒たちには、たいへん
好評だったが、そんなある日のこと、X氏の子どもが、たまたま私の前に立った。私と、サッカ
ーゲームをすることになった。

 私は、おかしな緊張感に包まれた。そう感じた瞬間、「Xさん、あなたとだけは、したくないなア
……」と、思わず、私は、そんな言葉を、つぶやいてしまった。

そのときのこと。ふと、参観席のほうを見ると、X氏の奥さんが、ニコニコと笑っていた。その笑
顔が、とてもさわやかだった。

 しかし……。こんなところで隠れて言うのも、おかしなことかもしれないが、Xさん、Yさん、どう
か、日本のために、がんばってください。

 心底、プラス真剣に、私も応援しています!!!!


●メタ・コミュニケーション

 最近、「メタ……」という言葉を、よく耳にする。「メタ・サーチ」「メタ・ミュージック」「メタ・サイコ
ロジー」など。

 その中に、「メタ・コミュニケーション」というのがある。この場合の「メタ」は、「高次」と訳す。
「メタ(高次)・コミュニケーション」という意味である。

 たとえばあなたが今、Aさんという人と、対峙して話したとする。そのときあなたは、自分の心
情を、(1)言葉と、(2)言葉以外の動作、表情、しぐさなどで伝えようとする。この(2)の言葉以
外の、伝達方法を、メタ(高次)・コミュニケーションという。

 たとえば、あなたがAさんからプレゼントをもらって、うれしかったとする。するとあなたは、Aさ
んに、「ありがとう」と言う。それが、言葉によるコミュニケーションだが、同時に、あなたは、そ
のうれしさを、表情や動作で表現したりする。そのコミュニケーションを、メタ・コミュニケーショ
ンという。相手のAさんは、そういうあなたを見て、あなたが感謝していることを知る。

 ふつう、この(1)の言葉と、(2)の言葉以外の伝達方法は、たがいにシンクロナイズ(同調)
する。「ありがとう」と言って、ニコニコ笑う。「バカヤロー」と言って、怒った顔をする、など。

 しかしときに、この二つが、一致しないことがある。子どもの世界でも、ときどき観察される。

 たとえばブランコを横取りされても、ニヤニヤ笑っている。先生に叱られているのに、無表情
のまま。あるいは、先生にほめられているのに、すごんだ目つきをする、など。以前、数学の問
題を解きながら、突然、ニヤニヤと笑い出した子ども(中学生女子)もいた。「何を考えている
かわからない」といった、状態になる。

 このタイプの子どもに接すると、熟練した教師でも、ある種の不気味さを感ずる。

 そこで私は、年に1度、「表情」というレッスンをもうけている。心の状態を、すなおに、そのま
ま表現できるように、子どもを指導する。喜怒哀楽の情に合わせて、それに言葉や、ジェスチ
ャをのせていく。そして最終的には、少し大げさであるにせよ、心の状態を外に向って開放でき
るようにする。

 参観している親たちから見ると、(多分)、私が遊んでいるように思うかもしれない。あるい
は、そういう指導が、「勉強」と、どういう関係があるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。

 本来なら、そういう説明をした上で、「表情」の指導をしたほうがよいのかもしれないが、時間
的にも無理。それに本当のところ、若いお父さんやお母さんに、理解してもらえるかどうか、わ
からない。だから、私はあくまでも、子どもだけを見て、指導する。

 話をもどすが、このメタ・コミュニケーションの重要さは、そうでない子どもに出会ったときに、
わかる。「何を考えているかわからない」という子どもとしばらく接していると、こちら側も、言い
ようのない不安感に襲われる。イライラすることもある。

この「メタ・コミュニケーション」という言葉は、もともとは、ベイトソンという学者が、統合失調症
(分裂病)の患者を観察していて、使い出したという。恐らくベイトソンも、そういう患者と接して
いて、言いようのない不安感、あるいは恐怖感を覚えたのではないか。そのことからもわかる
ように、こうした状態、つまりメタ・コミュニケーションが、言葉と遊離した状態を、決して、安易
に考えてはいけない。

 こうした(1)言葉と、(2)言葉以外の伝達方法が不一致を起こす原因としては、いろいろ考え
られる。

 抑圧された家庭環境、神経質な家庭環境など。過干渉、過保護、過関心がよくないことは言
うまでもない。さらに進んで、母子関係の不全、基本的信頼関係の不足などもある。

 何でもないことのようだが、明るい表情で、心の状態をありのままに表現する子どもは、それ
だけでも、心がまっすぐに伸びていることを示す。
(はやし浩司 メタ・コミュニケーション メタコミュニケーション 高次コミュニケーション ベイト
ソン)


●深刻な相談

 電話がかかってきた。受話器を取ると、その女性は、こう言った。「助けてください」と。

 話の内容は、こうだ。

 その女性の弟夫婦が、小学3年生になる子どもを連れて、AA教団に入信してしまったとい
う。AA教団というのは、共同生活しながら修行するという、あの教団である。どこかの山奥で、
それをするという。自分たちは、「宗教団体ではない※」と、たびたび公言しているが、カルトと
みてよい。宗教的色彩が、きわめて濃厚な団体である。

 「弟は、そのため、10年ほど勤めた会社をやめてしまいました。弟の子どもも、いっしょに、
共同生活をすることになるので、学校へは行かなくなります。どうしたらいいでしょうか」と。

 その女性は、39歳。弟は、34歳だたという。

 その人が、いわゆるカルトと呼ばれている教団に入信するのは、その人の勝手。しかしその
人が周囲に与える、混乱というか衝撃は、相当なものである。よくあるケースは、ある日、突
然、妻が、ある教団に入信してしまうケース。息子や娘が、入信してしまうケースも、少なくな
い。

 入信した人は、「私の勝手」「信仰は個人の自由」などというが、そうはいかない。

 こんな深刻なケースもある。

 何でもその教団では、手をかざして病気を治すという。その教団を、BB教団としておく。

 そのBB教団に属する、熱心な信者がいた。夫婦で、信仰をしていた。で、ある日、その夫婦
の子ども(5歳)が、熱を出した。肺炎のような病気ではなかったか。そこでその祖父にあたる
人が、その子ども(孫)を、病院へ連れていこうとした。

 が、その夫婦は、がんとして、それを拒否した。そして一晩中、彼らがいうところの神に祈り、
手かざしをつづけた。が、その結果、その子どもは、死んでしまった。

 ふつうなら、そこでその夫婦は、その教団に疑問をもつはず。しかし、その夫婦は、ますます
その信仰にのめりこんでいったという。

 なぜか?

 その時点で、自分たちの信仰に疑問をもつということは、同時に、自分たちの愚かな信仰
で、子どもを殺してしまったことを自ら、認めることになる。だからその夫婦にしてみれば、自分
の信仰を疑うことなど、ぜったいにできない。だからますます自分たちの信仰にのめりこんでい
いた。

 こうしたカルト信仰では、常人には、理解しがたい、独特の論理が働く。

 しかし冒頭に書いた相談は、少し、内容がちがう。

私「弟さん夫婦が、同時に入信したわけですね」
電話の女性「そうなんです。それを何とか、やめさせたいのです」
私「夫婦は、うまくいっているにですか」
女「仲のよい夫婦です」

私「そうですか……。夫婦が、それでいいというのなら、何もできないと思います」
女「子どもがかわいそうです」
私「しかし、それもその夫婦の問題です」と。

 こういう相談では、私は無力でしかない。その上、その女性が心配しているのは、34歳にも
なった、弟夫婦のことである。

女「何とか、やめさせる方法はないでしょうか」
私「あなたはまちがっていると言うことはできます。しかし、まちがっていると言う以上、それに
かわる思想をこちらで用意してあげねばなりません。この問題だけは、ハシゴだけはずして、
あとは勝手にしなさいというわけにはいかないのです」と。

 よく誤解されるが、信仰があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、
信仰がある。

 AA教団にせよ、BB教団にせよ、その教団を否定しても、意味がない。その夫婦が、そうした
信仰に走ったのは、すでにその前提として、それを求める(心の空白部分)があったからであ
る。もっとはっきり言えば、その夫婦は、何らかの救いを求めて、その教団に入信した。

 もう少し単純なケースでは、夫の知らないところで、妻だけが勝手に、カルト教団に入信してし
まうケースがある。夫は、一方的に妻の入信を責めるが、しかしそれ以前に、すでに夫婦関係
は、こわれていたとみる。信仰が夫婦関係をこわしたのではない。

私「弟さん夫婦が、それでハッピーなら、それでいいではないですか。お姉さんのあなたが、と
やかく言ってもしかたないでしょう」
女「しかし弟が不幸になっていくのを、見過ごすことはできません」
私「あなたはそう思うかもしれませんが、それはあくまでも弟夫婦の問題です」と。

 ……と、こんな押し問答のような会話がつづいた。そして最後に私は、こう言った。

 「どうであるにせよ、この問題は、私の専門ではありません。以前は、カルト問題にかかわっ
てきましたが、足を洗って、もう15年以上になります。ですから、私にできることは、残念です
が、何もありません」と。

 それでも時間にすれば40分ほど、電話で話しただろうか。その女性は、電話を切った。どこ
か納得できないといった雰囲気だった。アクセントからして、関西方面の人だとわかったが、そ
れ以上のことは、わからない。名前も、聞かなかった。

 私にとっても、あと味の悪い電話だった。

 受話器を置くと、そこにワイフがいたので、「どうして姉が、弟夫婦のことを心配するのだろ
う?」と聞くと、ワイフはこう言った。

 「それぞれの家には、複雑な事情があるからよ。兄弟関係も、きっと、複雑なのよ」と。

※……宗教法人格を取得しているか、取得していないかのちがいだけである。宗教団体の資
格を取得するためには、たとえば、本部の特定、本尊の特定などが、要求される。


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●KOKODA

 数日前、オーストラリアの友人が、本を2冊、送ってくれた。1冊は、オーストラリア料理の本。
もう1冊は、「KOKODA」(Paul Ham著)という本。パプア・ニューギニアでの、日本との戦争
を書いた本である。

 (全体の趣旨としては、オーストラリア兵もそれだけ犠牲になっているから、パプア・ニューギ
ニアについては、オーストラリアに統治権があるとでも言いたいのかもしれない。)

 パプア・ニューギニアでの戦争は、日本では、あまり知られていないが、かなりの激戦だった
らしい。ところどこに日本兵の死体の写真も載っている。中には、沼地のようなところで、折り
重なるようにして死んでいる日本兵の写真もある。私はそれを見ながら、「たった25年前に
は、そんな戦争をしていたのか……」と思った。

 「25年前」というのは、私がオーストラリアへ行った1970年からみて、25年前、という意味
である。ノー天気な私は、そんな戦争をしたことも知らないまま、オーストラリアへ渡った。

 その友人の父親も、そのパプア・ニューギニアで戦っている。いつだったか、その友人の家に
遊びに行ったとき、彼が戦場から持ち帰ったという、日本の銃を見せてくれたことがある。

 何しろ602ページもある、分厚い本なので、すぐには読めない。今度の正月休みに、少しず
つ読むつもり。友人からのメモには、こうあった。「ところどころで、日本を非難しているが、君を
怒らせないことを願う(not offend you)」と。


●中国の潜水艦

 少し前、中国の原子力潜水艦が、日本の領海を横切るという事件が起きた。それについて、
A国の国防省に勤めていたこともある友人が、こうメールを送ってきた。「……注意しろ。中国
は、日本を、TESTINGしている」と。

 つまり、「中国は、日本をテストしている(試している)」と。

 「どういう意味だ?」と、すぐ返事を書いたが、その答は、まだ届いていない。

 中国側は、「あやまって日本の領海を横切った」と説明しているが、そんなことはありえない。
ありえないことは、常識。それはたとえて言うなら、道を歩いていて、道路沿いの家の中を、無
断で歩きぬけるようなもの。

 中国は、いろいろな場面で、日本の防衛能力を確かめているらしい。


●日本崩壊の序曲

 世界的に、ドル安傾向がつづいている。対円レートでは、1ドルが、103〜5円程度で安定し
ているように見えるのは、日本の円も同時に、売られているから。つまり、ドル安、円安の状態
がつづいている。

 もっとわかりやすく言えば、アメリカと日本が、世界で、同時に売られているということ。

 このことは、たとえば韓国から見てみると、よくわかる。韓国のハナ銀行では、11月末に7億
8000万ドルあった、外貨預金の残高が、12月12日現在では、5億8000万ドルにまで減っ
ている。たった10日あまりで、26%も減ったことになる。ほかに、チョフン銀行でも、12%も減
っている。

 「ドルも、円もあぶない。だからほかの通貨に!」ということらしい。

 天文学的数字の貿易赤字をかかえるアメリカ。同じく天文学的数字の財政赤字をかかえる
日本。その日本は、貿易で稼いだお金で、せっこらせっこらと、相も変わらず、ドルを買い支え
ている。本来なら、そうして稼いだお金は、国民に、利息として還元されねばならないはず。し
かし、銀行の利息が、5年定期で0・06%(S銀行)とは!

 1000万円預けて、利息が、1年間で、たったの6000円だぞ! 100万円預けて、600円
だぞ! それから税金が引かれて……???

 こんなことをしていれば、アメリカはともかくも、日本の国家財政は、破綻する。いや、その前
に、増税につづく増税。今がその時期だが、個人の家計がパンクする! ……もうパンクして
いる!

 こういう危機的な状況にあるにもかかわらず、いまだに、郵政や道路公団の民営化に反対し
ている人たちの、気が知れない。そういう人たちは、お金は、天から降ってくるものと思ってい
るらしい。

 日本の国家税収が、約42兆円。国家公務員、地方公務員の人件費(給料総額)だけで、40
兆円。日本が稼いだお金のほぼ全額が、公務員の給料に消えていることになる(伊藤惇夫氏
指摘※)。こんなバカげた財政運用をしている国が、ほかに、どこにある!

 ところで、とてもおかしなことだが、いまだに、公務員たちがいったい、いくらの給料を手にし
ているのか、それを正直に公表している自治体は、ひとつもない。

 が、概算方法がないわけではない。

 年間予算から、公務員一人当たりの人件費を計算すると、約1000万円という数字が出てく
る。この数字から、共済費、健康保険料などの雇用者負担分をさしひくと、約800万円という
数字が浮かびあがってくる(伊藤惇夫氏指摘、「文芸春秋・5月号」)。

 この額は、一般民間サラリーマンの平均年収の448万円(国税庁・02年)よりも、はるかに
高い。

 さあ、どうする、日本! 1人ひとりの公務員の人に責任があるわけではないが、はっきり言
って、日本の財政運用は、メチャメチャ! 日本の国家財政は、このままでは、確実に破綻す
る。

 ドル安、円安は、その序曲にすぎない。


【注※】

 国家公務員、地方公務員を合わせた、いわゆる私たちが「公務員」と呼んでいる人たちの、
人件費総額が、約40兆円に達している(伊藤惇夫氏指摘)。40兆円といえば、日本の国家税
収分にほぼ匹敵する。(日本の国家税収は、約42兆円!)

しかし、公務員だけではない。日本にはこのほか、公団、公社、政府系金融機関、電気ガスな
どの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけでも、「日本人のうち7〜8人に一人
が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。

が、これですべてではない。さらにこの日本には、ほかに、公務員のいわゆる天下り先機関と
して機能する、協会、組合、施設、社団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組
織は全国の津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうし
た外郭団体が、1800団体近くもある。

 そういう団体の職員の人件費を加えたら、国家税収より、人件費のほうが、はるかに多くなっ
てしまう。

 ちなみに、元公務員が手にする年金についても、その半額以上が、特別会計(借金)に組み
入れられている。わかりやすく言えば、元公務員が手にする、月額30万円前後の年金の半額
以上は、国(=私たち)が借金に借金を重ねて、払っているということになる。

 ハハハ! ……ここは笑ってごまかすしかない。ハハハ!


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●トラップ(わな)・サイト

【登録サイトにご用心!】

 BLOGやHPを公開していると、ときどき、あやしげなメールが、飛びこんでくる。「あなたのB
LOG会員をふやします」「あなたのHPを、無料で紹介します」と。「ランキング登録をしません
か」「HPを登録してください」というのもある。

 しかし、だ。

 決して、あやしげな登録サイトに、自分のBLOGやHPを、登録してはいけない。指示にした
がって、登録サイトを開くと、住所、名前はもちろんのこと、電話番号、メールアドレスなどを書
き込むようになっている。

 たいてい「あなたのHPの紹介文を、300字以内でしてください」という、何となく、もっともらし
いボックスもある。

 が、その中でもとくに注意したいのが、「あなたのパスワードを決めてください」というところ。
たいていの人は、いつも同じ、もしくは同じようなパスワードを使う。相手に応じて、パスワード
を使い分けるという人は、少ない。しかしそれこそが、こうしたサイトのねらい。そういう方法で、
こちら側のパスワードを、盗もうとしている? (断言はできないが……。)

 それにしても、ワルがいるものだ。あの手この手で、他人の個人情報を手に入れようとしてい
る! ここでいうインチキ登録サイトも、その一つ。

 もちろんほとんどは、まともな登録サイト。問題は、どこで、どうやって見分けるか、である。

 一つの方法としては、本当に登録サイトかどうかを、自分で確かめてみること。具体的に、ほ
かの人たちのBLOGやHPが、どのように紹介されているかを、見てみるとよい。が、そういう
サイトは何もなく、「ただいま準備中」「会員募集中」などという登録サイトには、絶対に、登録し
てはいけない。

 以前は、そういうサイトは、見るからにインチキ臭い感じがした。文章も稚拙(ちせつ)で、どこ
か「?」な感じがした。が、最近のものは、大手の登録サイトにも劣らないほど、見栄えがよくな
っている。もっともらしい会社名をつけているのもある。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心! この世界、油断もスキも、あったものではない!

【最近の例より】

私のHPの掲示板に、つぎのような書き込みがあった。「すばらしいホームページですね。ぜ
ひ、私の登録サイトに登録させてください。読者が、確実にふえますよ。あなたのホームページ
を、より多くの方に読んでいただけるよう、協力させていただきます」(04年12月)と。

 つづいてそこには、そのサイトのホームページのアドレスが書きこんであった。

 で、そのサイトを開くと、各ジャンルごとに、こまかく項目が並べてある。「生活」というジャンル
には、「料理、育児、家庭、教育……」などがある。

 で、下のほうに、「新規登録の方は、こちらへ」とある。

 そこをクリックすると、登録フォームに。そしてそのフォームには、住所、氏名、年齢、電話番
号のほか、ここにも書いたように、パスワードまで、記入するようになっている。「パスワードは、
ご自由にお決めください」とある。

 「どうしてホームページを登録するのに、パスワードが必要なのか?」と思ったところで、私
は、そのサイトが、インチキサイトと気がついた。ほとんどの登録サイトでは、あとでその登録
内容を変更するとき、パスワードの入力を求められる。それはわかるが、どこか雰囲気的に、
「?」。

 ついでに、そのサイトのあちこちをクリックしてみた。ふつう、こうした登録サイトでは、どれ
か、ジャンルの項目をクリックすると、登録済みのサイトがズラリと出てくる。しかしどのジャン
ルも、「ただ今、準備中」とあるのみ。ますます「????」。

 つまりそのサイトは、そうして登録した人から、個人情報を盗むためのサイトと、わかった。
(こう断言することは、今の段階では、正しくないかもしれない。しかしそれ以外の
目的が、私にはわからない。)称して、「アリ地獄サイト」。「トラップ(わな)・サイト」。

私は、勝手に、そう呼んでいる。ちょうどトラップ(わな)のようなサイトだからである。獲物が、
穴の中に落ちてくるのを待っている?

 このタイプのインチキサイトは、今のところまだ大きな問題になっていない。が、そのうち、問
題になるはず。みなさん、重ねて、くれぐれも、ご用心!

【付記】

 盗まれた個人情報は、さまざまな方法で、悪用されることが考えられる。インチキ請求書、イ
ンチキ督促状など。さらにパスワードも相手に知られているから、インターネット上で、いろいろ
な悪さをされることも考えられる。


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●次期パソコン

 次期パソコンの輪郭(りんかく)が見えてきた。M社の、BTO型(パーツを注文者のほうで、選
べる)パソコンにするつもり。自作も考えたが、私には、とても無理。パーツの組み合わせが悪
いと、暴走したり、最悪のばあいには、動かなくなることもあるという。

 それに各パーツごとの保証はあっても、全体としての保証はない。……そうだ。

 が、M社のパソコンは、すごい! カタログを、そのままコピーしてみる。

★WINDOWS XP HomeEdition SPA
★HTテクノロジ インテル Pentium4 プロセッサ 550
★デュアルチャネル DDR2 1024MB PC4300
★200GB Serial―ATA 7200回転 ハードディスク
★nVIDIA GeForce 6600/128MB PCI―Express
★ダブルレイヤー対応 16倍速DVDスーパーマルチドライブ
 
 これに19インチの液晶モニターをセットして、18万2000円前後。

 それに、もう1基、120GBのハードディスクを追加するつもり。合計で、19万5000円!

 さあ、どうやってワイフを説得しようか。今、それを考えている。(多分、今の経済状況では、
むずかしいだろうが……?)


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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩※

最前線の子育て論byはやし浩司(447)

●親意識

 親にも、いろいろあるようだ。今朝、横浜市の友人のK氏(57歳・男性)と、電話で、1時間ほ
ど、話した。彼が生まれ育った群馬県のX町というところは、今でも、家父長意識が色濃く残っ
ているところだという。

 そこで、親意識を、悪玉と善玉に分けてみた。

(悪玉・親意識)

 「産んでやった」「育ててやった」という意識が強い。親は絶対で、親に反抗することを、親が
許さない。「親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちる」などと言って、日常的に、脅される。

 子どもが巣立ったあとも、子どもは、親のめんどうをみるべきという考え方が強い。盆や、暮
れの帰省は、絶対にしなければならない。それをしないと、「先祖(親)捨て」のレッテルを張ら
れる。

 子どもは、人間というより、親のモノ、財産。

(善玉・親意識)

 子どもは子どもでも、子どもというより、友だち意識が強い。いつも仲よしといった感じ。子ど
もといっしょに、もう一度、別の人生を楽しむといったふう。

 子どもが巣立つときは、「あなたの人生は、あなたのものだから、自由にしなさい」と、子ども
の背中をたたくことができる。親は親で、子育てからの解放感を覚える。

 子どもに対しては献身的だが、しかし見返りは求めない。その意識すらない。いつも「子ども
には迷惑をかけたくない」と思っている。

 先に進む前に、以前書いた原稿を紹介する。

+++++++++++++++++++++

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。

その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型
親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちに、そうすることが多い。

親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育
てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにする
のが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとす
るのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者
ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++

 悪玉親意識が強いと、親子の間には、命令・服従の関係が、生まれやすい。親は、子ども
に、徹底した服従を求める。

 このとき、子どもは、二つのうちの、どちらかの選択に迫られる。親に従順になる。あるいは、
親に反抗する。

 さらに、この段階で、親は、親としての権威を持ちだすことが多い。(親・絶対教)の根幹にあ
るのは、この権威である。理由など、ない。根拠も、ない。あるとすれば、子どもに対する本能
的な依存性※ということになる。

 が、その権威が通じなくなったとき、たとえば親自身が、その権威を維持できなくなったとき、
親は、つぎの4つのパターンのどれかをとることになる。

(1)攻撃型……子どもに向かって、暴力的に服従を強いる。
(2)同情型……わざと弱々しい親を演じてみせる。
(3)依存型……ベタベタと子どもに依存する。甘える。よい親を演ずる。
(4)服従型……「老いては子に従え」を口ぐせにし、子どもに服従する。

 これら4つのパターンの複合型というのもある。あるいはそのときどきに変化するというタイプ
もある。

 X町のK氏は、こう言う。

 「私の親などは、死ぬまで、私から、お金をむしり取りましたよ。容赦なかったですよ。とくに冠
婚葬祭は、派手で、そのつど、5〜50万円程度のお金を、要求してきました」「そのため、若い
ころは、そのつど、貯金通帳は、カラになりました。私の人生は、まるで親のためにあったよう
なものですよ」と。

 K氏のばあいは、それでも、また親子関係が良好だったから、救われる。が、そうでないと、
それから生まれるストレスは、想像を絶するものになる。子どもは、家族自我群という、重いク
サリにからまれて、悶絶する。

 が、そんなK氏だが、K氏の母親は、死ぬまで、近所の人にこう言っていたという。

 「息子なんて、育てるもんじゃないですね。どうせその年になれば、みんな、親を捨ててどこか
へ行ってしまいますよ。親なんて、さみしいもんですわ」「息子は、横浜の嫁に取られてしまいま
した」と。

 K氏の母親は、ここでいう同情・依存型の親意識をもっていたことになる。

 結局は、悪玉親意識の強い親というのは、自立できない、精神的に未熟な親ということにな
る。

【注※……本能的な依存性】
 
 ある種の鳥類は、生後直後に、「刷り込み(インプリンティング)」をすることが知られている
(ローレンツ)。

 人間も、生後まもなくから数か月にかけて、同じような刷り込みをすることが最近の研究でわ
かってきた。この時期を、「敏感期」という。

 この敏感期に、子どもは、親に対して、特定の、かつ濃密な本能的な感情をもつようになる。
私は、親・絶対教の根幹に、この(刷り込み)があるのではないかと推察している。
(はやし浩司 敏感期 ロレンツ ローレンツ 刷り込み インプリンティング)


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【法多山へ行く】

●法多山

 朝、起きると、ワイフが、「法多山へ行こう」と言った。「法多山」は、「はったさん」と読む。浜
松市の東、車で一時間半ほどの距離のところにある。正月の初詣(はつもうで)では、このあた
りでも一、二を争うほど人を集める寺である。

 しかし私は、その寺を、「ほったさん」と読んでいた。

私「ほったさん……へ?」
ワ「ほったさんではなく、はったさんよ」
私「はったさんねえ……?」と。

 そのとき私は、ハリーポッターのことを思い浮かべていた。

 教室で、子どもたちに、「君たち、ハリー・パッターって知っている?」と聞くと、たいていの子ど
もたちは、「ハリー・パッターではないよ。ハリー・ポッターだよ」と言い返す。

 そこで私は、さらに真顔になって、「ハリー・ポッターだってエ? おかしいよ、ハリー・パッター
だよ」と。

 子どもたちがワイワイと騒ぎ始めたら、ゆっくりと、こう言う。

 「じゃあ、正しい発音を教えてあげよう。いいかな? Ha−rr−y Po―tter」と。

●八田山

 私はさっそく、インターネットで、地図をさがしてみた。しかし私が検索したのは、「八田山」。
ワイフが、「はったさん」と言ったので、私は、「八田山」と思ってしまった。

 が、検索しても、見知らぬ土地ばかり。「そんなはずはない」と思いつつ、検索を繰り返す。
が、やはり、「はったさん」は、見つからなかった。

私「静岡県に、ハッタサンなんて、ないよ」
ワ「そんなわずはないわよ。袋井市の近くにあるはずよ」
私「おかしいね……」
ワ「ハッタサンっていうのはね、『法』という字に、『多い』という字を書くのよ」と。

 今度は、自動車の中にあったロードマップで調べる。パソコンの電源は、落としてしまってい
た。

私「ないよ」
ワ「山のほうよ」
私「やっぱりないよ」
ワ「おかしいわねエ……」と。

 これは袋井市についてからわかったことだが、法多山は、山側ではなく、袋井市の南、つまり
海側にあった。私たちは、地図で、袋井市の北側ばかりをさがしていた。

●ドライブ

 東名高速道路の浜松西インターから、東名高速道路に入った。袋井市までは、30分もかか
らなかった。インターを出るとき、ゲートの男に、「法多山はどっち?」と聞くと、馴れた様子で、
一枚のパンフレットをくれた。

私「なんだ、法多山って、海の方だった」
ワ「ホント? 私、山の方かと思っていた」
私「エコパ(袋井市にあるサッカースタジアム)の近くだよ」
ワ「そうだったの」と。

 言い忘れたが、私は、車を運転しない。ワイフと結婚してから、一度も、運転していない。車
の運転は、すべて、ワイフに任せている。

 結婚する少し前のこと、車を車庫に入れようとして、そのとき、車をぶつけてしまった。以来、
すっかり自信をなくしてしまった。

 人間には得意、不得意がある。無理をすることはない。

 一方、ワイフは、運転中でも、決して、カッカしない。冷静そのもの。が、私は、短気。挑戦
的。かつ攻撃的。だから運転はできない。

が、そんな私だが、私は子どものころから、方向に関する感覚が、野生動物並み(多分)、鋭
い。頭の中に、伝書バトがもっているような、磁気コンパスが組み込まれてる……といった、感
じ。

 新しい土地でも、めったに、道に迷うことはない。

 そんなわけで、私は、自分では、最高のナビゲーターだと思っている。つまりこうして私たち夫
婦は、たがいに、たがいを補っている。こういうのを、心理学でも、相補性というらしい。長い時
間をかけて、そうなった。

 おかげで、私たちは、生涯において、一度、追突されたことをのぞけば、事故を起こしたこと
がない。

●袋井市から法多山へ

 袋井市から国道1号線へ入り、そこから右折して、法多山へ向う。ワールドカップ用に舗装さ
れた、豪華な道路を通り抜けると、そこに法多山があった。

 駐車場に車を止める。そこからは歩いて、五分ほどで、法多山の山門に。途中の店で、ふ菓
子を買う。棒のように長くなった、菓子である。値段は、三〇〇円。

 山門をくぐると、参道がつづく。両側は、広葉樹が美しく紅葉していた。

「きれいだな」
「きれいね」と。

 何度も、同じセリフを繰り返す。

 日曜日だというのに、意外を人は、少なかった。初詣のときには、足元も見えないほど、混雑
するらしい。ワイフは、「初詣には来られないから、今日来たのよ」と言う。「初詣の先取りだね」
と、私は答える。

 一キロ近くを歩いて、奥へ。きれいな石段を登りつめると、そこに本殿があった。これまた豪
華な、鉄筋づくりの寺だった。

 私たちは型どおりの参拝をすますと、帰りの道に。心の中では、名物のダンゴを食べること
ばかりを考えていた。

私「法多山って、ダンゴが名物なんだね」
ワ「そうよ。厄(やく)よけになるんだって」と。

 途中、中国人の若い男女のグループとすれちがった。キャッキャッと声をあげながら、交互に
写真を撮りあっていた。八、九人のグループだった。私たちはそのグループのじゃまをしないよ
う、遠巻きにして、すれちがった。

●老夫婦

 話は少しもどるが、本殿の中から、外の写真を撮っているときのこと。一組の老夫婦が、本
殿の階段を上ってくるのがわかった。二人とも、細い、きゃしゃな体つきをしていた。

 その夫婦について、歩きながら、私が、ふと、ワイフに、「あの夫婦は、いい夫婦だね」と漏ら
した。ワイフも、その老夫婦を覚えていた。

ワ「年齢は、70歳くらいかしら……」
私「ううん、75歳くらいだよ」
ワ「そうね……」
私「たがいに寄り添うようにして、いい夫婦だったね」
ワ「そう、いい夫婦だったわね」と。

 夫のほうは、少し足が悪いようだった。それを妻が、うしろから支えるようにして、歩いてい
た。二人とも、知性的な顔立ちをしていた。品があった。

私「どうして、参拝に来たのだろう?」
ワ「何か、あったのよ」
私「まさか、初詣の先取りではないだろうし……」
ワ「何か、特別な思いがあったのよ、きっと……」
私「そうだね」と。

 観光で来る人もいれば、何か、真剣な思いをもって来る人もいる。私たちは、そのちょうど、
中間あたりか? ……そんなことを考えながら、ダンゴ屋へ着く。

 再びあたりを見ると、あの美しい紅葉が、どっと視界の中に飛び込んできた。相変わらず人
は少なく、一二月というのに、春のような陽気に包まれた、のどかな一日だった。
(041219)


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【近況・あれこれ】

●無気力

 話せば長くなるが、東洋医学では、精神力も、体力と同じように、「使えば、疲労する」と教え
る。精神の「精」は、もともとは、地の気(=飲食物)から得られた、「精微な物質」という意味で
ある。栄養物にも通ずる。精力の「精」という意味にも、通ずる。

 このところ、私のその精神力が、弱くなっているのを感ずる。正義感も、弱くなった。問題意識
も、弱くなった。何かにつけ、ふと油断すると、「どうでもいい」と思うことが多くなった。

 つい先ほども、B社から年末に発刊された、「日本のR点」という本を開いてみた。全体で830
ページもあるような、分厚い本である。ふだんなら、どこを読んでも、「私なら……」という「私」が
出てくるのだが、今夜は、それもない。ただぼんやりと、ながめているだけ。

 どうしてだろう? なぜだろう? 疲れているせいか? 肉体的に疲れていると、精神力も弱く
なるらしい?

 いやいや、あるいは、恋をした? いや、そんなことはありえないが、そう言えば、恋をしたと
きの気分に似ている?

 誤解がないように言っておくが、私は、いつも、だれかに恋をしている。慕情といったほうが、
正しいかもしれない。しかしそれは、まさに秘められた恋。浮気とか、浮気心とか、そういう大げ
さなものではない。相手は、街でふと見かけた女性、テレビの中に出てきた女性などなど。もち
ろん生徒の母親に、恋心を感ずることもある。

 しかし、そこでストップ。切ないといえば、切ないが、この年齢になると、その切なさを楽しむこ
とができる。私にとって、女性というのは、そういうもの。恐らく、死ぬまで、そうだろう。

 が、今夜は、ちがう。何というか、懸命に生きている自分が、どこかいとおしい。かわいい? 
しかしそれは、ナルシズム? 自己愛? それともただ感傷的になっているだけ? よくわから
ないが、自分が、フワフワしている。どうも、つかみどころがない。

 「お前は何をやっているんだ」と、自分に問いかけてみたりする。「何のために生きているん
だ?」「今まで、何をしてきたんだ?」とも。

 やはり、私は、少し疲れているようだ。今夜も、早く寝よう。明日になれば、また気分も晴れて
いるはず。では、みなさん、おやすみなさい。(04−12−19日夜)

【付記】

 こういう精神状態のときというのは、無性に、何かほしいものが、ほしくなる。今は、最新型の
パソコンが、それかも。

 で、脳ミソというのは、それほど器用にできていないことが、これでわかる。精神的に何か満
たされないものを感ずるようなとき、たとえば物欲を満足させることで、それをごまかすことがで
きる。泣く子にアメをしゃぶらせて、黙らせるような行為が、それ。

 反対に、何か、本当にほしいものがあって、それが満たされないとき、どこか、心の中に穴が
あいたような状態になる。今、感じている無気力感は、ひょっとしたら、そのあたりから生まれて
いるのかもしれない。

 そう言えば、今までにも、たびたびこういう状態になったことがあるが、そういうとき、何かを、
パッと買ったりすると、なおった。

 これはおもしろい発見である。この理論で考えれば、たとえば買い物依存症などに見られる、
「依存うつ」も、それなりにうまく説明ができる。つまり物欲への飢餓感が、回りまわって、心をう
つ状態にする……? このこのつづきは、また明日にでも、考えてみよう。

 Have a Good−night!


●どうしようもない夫

 Aさん(45歳・女性)の夫は、大のギャンブル好き。借金ばかりしている。酒も飲む。暴力も、
振るう。そんな夫だが、Aさんは、別れることもできず、夫のそばにいる。めんどうをみている。
昼間はスーパーで働き、夜は、宅配会社の仕分けの仕事をしている。

 ふつうなら、Aさんは、夫に愛想をつかして、別れてもよいはず。まわりの人たちも、Aさんに、
「早く別れなさい」と勧める。

 しかしAさんは、別れない。Aさんは、こう言う。「私がいなければ、あの人は生きていけない」
「あの人には、私が必要」と。

 そういえば、同じようなシーンを、昔、何かのヤクザ映画で見たことがある。チャンパラ映画
の定番にもなっていた。どこまでも献身的な妻。それに甘えて、ますます自分勝手な振るまい
を繰りかえす夫。

 こういうのを、心理学の世界では、「共存依存」という。

 つまりそういうふうにして、夫と共存すること自体が、その妻の生きがいになっている。もしそ
ういう夫と別れたら、その妻は、自分を証明するものを、失ってしまう。まわりから、「かわいそ
うだ」「いい嫁だ」と言われることが、その妻にとっては、生きがいになっている。

 一方、夫は夫で、精神的に妻を虐待すればするほど、妻が、自分に依存してくるのを、知って
いる。だから、ますます自分勝手な振るまいを繰りかえすようになる。

 しかしこんな人間関係は、異常である。ゆがんでいる。

 栃木県に住んでいるBさんから、こんな相談があった。ここでいうAさんというのは、そのBさん
の姉である。

 「どうしたらいいか?」と。

 こういうケースのばあい、まず、本人自身に、その異常さを理解してもらうのが、一番よい。そ
してパチンコ依存症(男性に多い)や、買い物依存症(女性に多い)と同じような、依存症の一
つであることを、わかってもらう。

 こうした共存依存に陥ると、(1)自分のことが客観的に判断できなくなる、(2)自分が何を望
んでいるか、それを表現できなくなる、(3)自分が自分でなくなり、(夫の)人形のようになってし
まうなどの、障害が現れるようになる。

 方法としては、一度、夫と離れて暮らしてみるのがよい。たがいに冷却期間を置くわけだが、
実際には、これがむずかしい。無理に離れさせたりすると、禁断症状のような症状が、たがい
に出てくることがある。だから結局は、またモトのサヤに収まってしまう。

 こういうケースでは、たがいに「好きだ」とか、「愛している」とか言うものだが、本当のところ
は、それは愛でも何でもない。たがいに依存しあっているだけ。が、それすらも本人たちには、
わかっていない。

 もともとどちらか一方に、心の空白部分があるために、そうなると考える。だから、ことは簡単
ではない。また簡単には解決しない。ふつうは、そういう状態のまま、双方が、その人生を終え
ることが多い。

 Aさんも45歳ということだから、私の印象では、そのままの状態で、これからもいくだろうと思
う。妹のBさんにとっては、つらいことかもしれないが、Bさんにできることにも限界がある。
(はやし浩司 共存依存 依存うつ)

【付記】
 夫婦の問題は、どこまでいっても、夫婦の問題。他人がとやかく言っても、始まらない。どうし
ようもない。親や兄弟でも、そこには限界がある。本人たちが、「それでいい」と言うなら、あと
は、暖かく無視するしかない。何かあって、助けを求めてきたら、そのときは、相談にのる。し
かし、そのときまで、待つしかない。

 この種の問題は、きわめてデリケート。へたに干渉すれば、その時点で、人間関係は終わ
る。干渉するにしても、慎重に。控えめに。相談されたことだけを、その範囲で、ていねいに、
いっしょに考えてあげるのがコツである。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●老齢期のボケ

 老人イコール、ボケるということではない。

 頭の働きにもいろいろある。たとえばJ・L・ホーンという学者らは、知能を、(1)流動性知能
と、(2)結晶性知能に分けて考えている。

 わかりやすく言えば、柔軟な思考力で、新しい問題を考えていく力を、流動性知能という。

 反対に、今までの経験の上に、より高度の知的能力や知識を身につけていく力を、結晶性知
能という。

 年齢とともに、流動性知能は減退すると言われているが、結晶性知能は、50代、60代にな
っても、伸びつづけると言われている。(結晶性知能にしても、本当は減退するのではなく、より
必要としなくなるから、結果として減退すると説く人もいる。)

 つまり頭は、使えば使うほど、伸びつづける。使わないから、そこで伸びが停滞する。ボケ
る。

 そこでまわりの老人たちを観察してみる。

 が、とても残念なことに、老齢期に入ってからも、頭を使いつづけている老人というのは、意
外と少ない。新しいことにチャレンジしている老人となると、さらに少ない。

 しかしこれではいけない。私の恩師のT教授は、最近、「第三の人生」という言葉を使い始め
ている。老齢期を第二の人生というなら、90歳を過ぎたてからの人生を、第三の人生と。私
は、そういう意気込みこそが、大切ではないかと、思っている。つまりそういう意気込みこそが、
人生を最後まで楽しく生きるコツではないか、と。

 思考能力というのは、健康力と同じで、いつも前向きに戦ってこそ、維持できる。立ち止まっ
たとたん、その瞬間から、思考能力にせよ、健康力にせよ、それらは減退する。

 だから結論は、こうなる。

 老齢期になるから、頭がボケるのではない。それだけの努力をしないから、ボケる、と。

 世の中の多くの人は、「老人は頭が悪い」と、あまりにも安易に決めつけすぎているのではな
いか。

【付記】

 たしかに鈍くなった面も、ないわけではない。若いころなら、一、二度見ただけで覚えられたよ
うな単語や言葉でも、なかなか頭に残らなくなった。それに、すぐ忘れてしまう。

さらに体力と思考力が、密接にシンクロナイズ(同調)されるようになり、肉体的に疲れているよ
うなときには、集中力そのものが、長くつづかない。長い文章を書いていると、途中でふと、自
分が何を書いているか、わからなくなることさえある。

 そういう変化は、たしかにある。しかしそれはあくまでも、程度の問題。それなりの努力で、克
服できる。だから私は、まだこの問題を、あまり深刻には、考えていない。
(はやし浩司 流動性知能 結晶性知能 J・L・ホーン 老人のボケ)


●生活に追われる夫

 先月(11月末)、ある男性から、つぎのような相談が寄せられた。(住所、氏名は不明。)

 この10年来の不況で、毎年、どんどんと残業手当がカットされている。そのため、生活が苦
しくなっている。いくら稼いでも、妻からは、「お金が足りない」と小言を言われる。子どもは、4
歳。この先のことを考えると、不安でならない、と。

 収入が減れば、生活の質を落す……というのは、常識かもしれないが、質を落すといっても、
口で言うほど、簡単なことではない。一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいたくが、当たり前
になってしまう。「給料が10%カットされたから、今日から食費も10%カット」というわけには、
いかない。結局は、追いつめられて、やがては、にっちもさっちもいかなくなる。

 本来なら、そうならないように、またそういうこともあるかもしれないという前提で、目一杯の生
活はしない。たとえば給料が、手取りで25万円だとするなら、20万円以内の生活をする。そ
の給料が20万円にさがったなら、15万円以内の生活をする。

 ……といっても、これも簡単なことではない。わかっていても、ついつい無理をしてしまう。「来
月、何とかすればいいや」と考えて、25万円の収入しかないのに、30万円、40万円の生活を
してしまう。

 その男性が、そうだというのではない。しかしその男性がかかえているような問題は、今、広
く、ほとんどの男性が共通して、かかえている問題と言ってもよい。むしろ「20年前、30年前の
生活のほうが、心にゆとりがあった」と考えている人のほうが多いのには、驚かされる。

 たとえば、内閣官房審議室が1959年に行った調査によれば、「生活に満足している」と「ま
あまあ満足している」をあわせると、66%もいたという。

 しかしそれから45年後の、2004年。「満足している」「まあまあ満足している」は、59・8%
にさがったという(内閣府)。45年前とくらべると、6%も減っているのがわかる。

 これを文明の皮肉と言わずして、何と言う。

 今の人たちは、当時の私たちとはくらべものにならないほど、ぜいたくな生活をしている。豊
かになった。楽になった。が、それでも、「豊かになった」と感じている人は、減っている。考えて
みれば、おかしなことではないか。

 しかし私はこの相談を読んだとき、やはり夫の立場で考えてしまうというか、妻の態度にも、
問題があるように感じた。「お金が足りない」と夫を責める妻。それを苦にする夫。妻に、もう少
し別の言い方ができないものか、と。

が、だからといって、妻を一方的に責めることもできない。家計のやりくりをしながら、四苦八苦
している妻の姿も、私には見える。

 今、公的な発表とは裏腹に、民間企業に勤めるサラリーマンたちの生活は、確実にきびしさ
をましつつある。残業カット、給料の減額などは、まだよいほう。給料が減らされた上、夜中ま
での残業がふえている企業は、いくらでもある。近くに住むある男性(38歳)は、会社から「文
句があるなら、やめてもらう」と、脅されている。もちろんその男性のばあいも、今年の冬も、ボ
ーナスは、なし!

 何かが、おかしい。何かが、狂っている。だいたいにおいて、税金の使われ方が、おかしい。
今朝の新聞(12・20)を見ると、O市では、市の公費を、これまでの11年間、職員年金として、
水増し流用していたという。その額、驚くなかれ、302億円! 中には、計400万円もの年金
を受け取っていた元職員もいたという!!

 話は、どうしてもそこへ行ってしまうが、そうしたシワ寄せが、結局は、こうした男性にのしか
かってくる。まじめに働いても働いても、生活が苦しくなるだけの、一般庶民。その一方で、わ
が世の春を謳歌している、お役人たち。

 こんなことをつづけていれば、日本は、本当に崩壊する。私は、もう、知らないぞ!

 ……ということで、話を戻す。

 みんなで進めよう、質素革命。車が3台あるなら、2台に減らせばよい。2台あるなら、1台に
減らせばよい。毎日の小遣いが2000円あるなら、1500円に減らせばよい。借家に住んでい
るなら、より家賃の安い借家に引っ越せばよい。

 そしてその分、心を豊かにすればよい。高級なレストランで食事をするのも、たまにはよいだ
ろう。が、しかしそれよりもおいしいのは、海の見える丘の上で食べる、おにぎり。そういう発想
に切りかえていく。

 多分、とても失礼な言い方になるかもしれないが、その男性の妻は、そういう「心の豊かさ」と
は、あまり縁のない人かもしれない。もしそうなら、それこそ5年計画で、心の豊かさとは何か、
それを追求してみたらよいのでは……? 

【付記】

 1970年代まで繁栄を謳歌した、オーストラリア。しかしその後、オーストラリアは、凋落(ちょ
うらく)の一途をたどる。オーストラリア・ドルにしても、一時は、1ドルが40円台にまでさがる。

 一人当たりの国民所得は、日本に抜かれ、やがてシンガポールにも抜かれる。その当時の
こと。私がオーストラリアの友人に、「こういう現実をどう思う?」と手紙を書いたら、その友人
は、こう言った。

 「ヒロシ、それがどうした?」と。

 生活の豊かさなどというものは、マネーという尺度では、測ることはできない、と。

 事実、だからといって、オーストラリア人の生活の質がさがったわけではない。オーストラリア
は、オーストラリアのままだった。今も、そうだ。

 数字だけを追いかけて、「日本は……」と論じている間は、日本人に、安穏(あんのん)たる日
は、やってこない。それはちょうど、偏差値を気にしながら、テストばかり受けている受験生の
ようなもの。

 あるいは、こんなことも言える。

 足の踏み場もないほど、電気製品や電子製品がぎっしりとつまったような生活が、本当に豊
かな生活と言えるのか、と。

 何かがおかしい? 何かがまちがっていた? あるいは何かが、足りなかった? 「お金が足
りない」と小言を言う妻の姿を思い浮かべながら、私は、そんなことを考えた。


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●クリスマス

 息子たちがまだ小さいころは、毎年、クリスマスは盛大に祝った。クリスマスツリーも飾った。
ついでに、そのころ家族で、餅つきもした。臼(うす)も、買った。しかしその息子たちも、今は、
巣だってしまった。

「クリスマスと年越しだけは、家族みんなでしよう」と、あれほど、何度も約束をかわしたのに、
息子たちは、それを覚えていない? 約束といっても、私が一方的に、約束したつもりでいただ
けなのかもしれない。

 そんなわけで、ここ数年は、年越しはともかくも、クリスマスは、ワイフと私だけの、さみしいも
のになってしまった。息子たちは、息子たちで、ガールフレンドと、クリスマスを楽しんでいる。
「ガールフレンドを連れてきなよ。いっしょに、パーティをしようよ」とは言っているが、もう、今年
は言わない。言っても、ムダ。彼らは彼らで、ジジババ抜きのクリスマスを、楽しみたいようだ。

 しかしそういう休みを、本来なら、喜ばねばならないのかもしれない。自立して巣立っていく子
どもたちを見るのはさみしいことかもしれないが、それが子育ての最終目標。自立しないで、い
つまでも、私たちのそばにへばりついていられるのも、困る。

 私たちは、子育てから、解放されたのだ! ……といっても、三男はまだ大学生。あと二年と
少しは、がんばらなければいけない。やるしかない!



【子育て一口メモ】

●自己意識を育てる

乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なこと
は、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばAD
HD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの
自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症
状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立
ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子ど
もは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったよ
うなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向か
っては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身に
ある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「や
ってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子ども
を苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで
子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にし
てね)」と。

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●つづく自爆テロ

イラクからの報道によると、いずれもイスラム教シーア派の聖地の、同国中部の都市カルバラ
とナジャフで、12月19日、相次いで自動車爆弾による自爆テロがあったという。市民ら少なく
とも62人が犠牲になったという。

また、首都バグダッドでは、車で移動中の独立選挙管理委員会の職員3人が、武装勢力に射
殺される事件があったという。米軍や暫定政権と敵対する勢力が、来月1月30日の国民議会
選挙の阻止をねらい、テロ攻勢を強めている可能性が高いという(中日新聞)。

 「自爆」ということからもわかるように、これはもはや政治闘争ではない。宗教闘争である。政
治闘争では、自爆攻撃まではしない。「政治」というのは、どこまでも現実的なもの。「生きてい
る」という現実の上に、政治は成りたつ。

しかしそこに宗教がからむと、「命がけ」になる。えてして、宗教の世界では、「命」は、非現実
的なものとして考えられるからである。ときに、現実そのものが、否定されることもある。「自爆」
にしても、常識的に考えれば、「死んで何になる」ということになるが、そんな論理すら、通らなく
なる。

 イスラム教のことは、よく知らない。知らないが、しかしこの問題は、イスラム教だけの問題で
もないような気がする。この日本の中でも、「命がけの信仰」を教える宗教団体は、いくらでもあ
る。またそういう「滅私的な信仰」を、美化する風潮も、根強く残っている。現に、ハマりすぎて、
犯罪的行動に走る狂信的な信者も、多い。

 ところで最近のイラクでは、若い女性や、青年。さらには、少年まで、自爆攻撃に加わるよう
になったという。そのほうが、みなが、油断しやすいからだという。が、バカげている。実にバカ
げている。それこそ、死んで、何になる?

 テレビの報道などによると、その指導者は、少年たちに、「死んでも、まったく今と同じ世界
が、そこにある」と教えているという。が、もしそうなら、自爆など、する必要がない。いや、それ
以上に、そこらの指導者ごときに、なぜ、そんなことがわかるのか。

 信仰は、現実の私を支えるために、するもの。だから信仰はしても、決して、現実の世界から
遊離してはいけない。遊離したとたん、その人は、自分を見失う。ワイフの友人(45歳女性)
に、こんな人がいる。

 その友人を、Aさんとしておく。そのAさんは、ちょうど1年前に、ある総合病院で、乳がんの疑
いがあると、診断された。元気な人だったから、それだけショックも大きかったのだろう。絶望
感に打ちひしがれていたとき、たまたま、ふらりと、近くにあった、「○○信仰教団」という名前
の教団に立ち寄った。霊力パワーで病気をなおすと知られている、あの教団である。軽い気持
ちだった。

 教団の指導者は親切な人だった。Aさんを祭壇へあげると、何やら祈ってくれた。そして何や
ら儀式をしてくれた。

 が、である。その利益(?)があったのか、つぎに精密検査を受けてみると、Aさんのしこりは
消えていた。Aさんは、喜んだ。と、同時に、自分の命を救ってくれたのは、その教団のおかげ
と、かたく信ずるようになってしまった。

 それから1年になるが、今では、Aさんは、その教団の熱心な信者である。が、同時進行の形
で、今、大きな問題をかかえている。Aさんの夫が、Aさんの信仰に反対しているというのだ。そ
してそれが、今、離婚問題にまで発展しているという。

ワイフが、Aさんの気持ちを詳しく聞くと、Aさんは、こう言ったという。「もし、ここでこの信仰をや
めたら、バチが当たって、今度こそ、私は本当に乳がんで死んでしまう」「夫を取るか、信仰を
取るかと聞かれれば、私は、信仰を取るしかない」と。

 自爆攻撃をして、命を捨てろと教える教団。信仰によって、命が救われたと教える教団。一
見、正反対のことをしているようにみえるが、現実をもてあそぶという意味では、共通している。
イスラム教にしても、病気を治す(?)こともあるだろう。同じように考えていくと、Aさんが信仰す
る教団にしても、いつなんどき、Aさんに向って、「命を捨てろ」と迫ってくるかもしれない。

 今のイラクの現状を見ていると、アメリカという(現実)と、反アメリカという(非現実)の戦いの
ようにも見える。(現実)のない世界で、懸命に(現実)をつくろうとするアメリカ。(現実のない世
界)で、(現実)を破壊することだけが目的の、ゲリラ。もともと、どこかでかみあう戦争ではな
い。アメリカにしても、「何のための戦争か」ということになるし、ゲリラ側にしても、これまた同
じ、「何のための戦争か」ということになる。

 今のイラクの情勢を見ていて、何とも言えない、不毛感(=虚脱感)を覚えるのは、はたして
私だけであろうか。

【補記】

 何ともわかりにくい文章を書いてしまったようだ。

 簡単に言えば、今のイラクでは、アメリカ側の戦争と、ゲリラ側の戦争が、まったく、かみあっ
ていないということ。民主主義をそれほど望んでいない人たちに、民主主義を一方的に押しつ
けようとするアメリカ。目的もなく、ただ破壊に破壊を重ねる、狂信的なゲリラ側。

 私は、それをこの文章の中で、(現実)対(非現実)の戦争と位置づけた。あえてヌカにクギを
打とうとするアメリカ。夢の世界に住んで、現実を見失ってしまったゲリラ側。その間で、双方の
命だけが、無意味にどんどんと失われていく。

 私は、そこに、今回の戦争の、不毛感を覚える。

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●ある離婚(2)

 とうとうというか、ついに、A氏の妻は、子ども(年長男児)を連れて、家を出てしまった。11月
のはじめのことだった。

 原因は、性格の不一致。浮気でも、借金苦でもない。夫の暴力でもない。性格の不一致。

いつだったか、A氏の妻は、私にこう言った。「(今の)夫とは、合いません」と。その言葉を、私
は、「顔を見るのものいやだ」というふうに解釈した。

 で、そのときの様子だが、私が、A氏に聞いたところでは、A氏の妻は、家財道具を片づけた
あと、大掃除をしてから、家を出ていったという。実は、ここが、私の理解のできない点であっ
た。「離婚を覚悟して、家を出ていくような人が、掃除などしていくだろうか?」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「女っていうのはね、身辺をきれいにしてか
ら、家を出ていくものよ」と。

 私なら、「あとのことは知ったことか!」というふうにして、家を出る。掃除など、もちろんしな
い。「いや、ひょっとしたら、奥さんは、また戻ってくるつもりかもよ。だから掃除をしていったん
だよ」と、私が言うと、ワイフは、「そうかしら?」と答えた。

 どちらなのだろう? A氏が言った話を思い出しながら、私は懸命に、A氏の妻を理解しようと
した。きれいに掃除までしていったというのは、離婚を覚悟したためなのか。それとも、また戻
ってくるためなのか。

 もちろん、それまでのいきさつも、ある。突発的な離婚劇なら、私が言うように、「あとのことは
知ったことか!」というような様子で、家を出るかもしれない。しかし長い時間をかけての離婚
劇なら、きれいに掃除をしてから、家を出る(?)。A氏夫妻のばあい、それまでのいきさつが、
長かったということか?

 「そういうものかねえ?」「そういうものよ……」という、意味のない会話がつづく。

 私たち夫婦も、けんかをするたびに、「離婚してやる!」「離婚しましょ!」という話になる。し
かし「家を出る」という発想は、たがいに、ない。「財産をきちんと二人で分けて……」というとこ
ろまでは話は進むが、いつもそこまで。そのうちたがいにめんどうになって、離婚の話は、忘れ
てしまう。

私「ぼくなら、やはり、掃除など、しないよ」
ワイフ「私なら、掃除をしてから、出ていくわ」
私「そこが、男と女のちがいかねエ?」
ワイフ「自分の思い出を、すべて消すためということもあるわよ……」と。

 A氏の妻は、すべての未練を断ちきって、家を出た。それは自分のシミのようなものを、すべ
て消し去るためのものだったのか。掃除をしたのはそのため? あとあと迷うことがないよう
に、そうしたとも考えられる。もしそうなら、まさに覚悟の家出ということになる。

私「やっぱり、離婚しかないのかねエ?」
ワイフ「そうかもよ」
私「A氏もつらいだろうね。挫折感もあるだろうし……」
ワイフ「子どもの問題や、養育費の問題もあるわよ」と。

 こういう話は、話せば話すほど、暗くなる。が、かといって、部外者の私には、どうすることもで
きない。できることと言えば、暖かく、無視すること。それだけ。


●妻と息子を取りあう、母親

 Bさんは、ひとり息子のX氏をでき愛した。それはわかる。そのため、X氏は、マザコン息子に
なってしまった。それもわかる。

 しかしあるときから、X氏は、母親のBさんに、反旗ひるがえすようになった。母親のBさんの
でき愛に耐えられなくなったからである。が、ことあるごとに、Bさんは、息子のX氏に、離婚を
勧めた。「あんな女、家から追い出しなさいよ」と。

 1人の男性をめぐって、嫁、姑(しゅうとめ)のはげしい戦争が始まった。よくあるタイプの戦争
である。

 最終的には、X氏は、母親を取るか、妻を取るかの択一に追いつめられた。そして結果とし
て、妻を取った。が、これが当然、Bさんの逆鱗(げきりん)に触れた。が、そのあとBさんが取
った、態度が、これまた意外なものだった。

 Bさん(55歳)は、X氏(30歳)の前では、今にも死にそうな、弱々しい母親を演ずるようにな
った。ときどきX氏に電話をかけてきては、あれこれ泣き言を並べた。X氏は、こう言う。

 「今にも、死にそうな声で、腰が痛いとか、足が痛いとか言うのですね。そこであわててかけ
つけてみると、電話のことなど忘れてしまったかのように、元気に動き回っているのです」と。

 もともと子どもをでき愛するタイプの母親というのは、心のどこかに、すき間、つまり情緒的な
未熟性があるとみてよい。そのすき間を埋めるために、子どもをでき愛する。

 が、そのでき愛が、崩壊したとき、そこで大きな悲劇が生まれる。子どもが母親に、反旗をひ
るがえしたようなときである。母親は、子どもとの関係を取り戻そうとする。そのときBさんのよ
うに、子どもに同情を求めるのを、同情型という。

(ほかに、子どもに攻撃的になる攻撃型、子どもに依存する依存型、子どもに隷属的になる、
服従型などがある。)

 X氏は、こう言う。「母が、まるで私の恋人のように、嫉妬して見せるのですね。私の前で、ス
ネて見せたり、甘えて見せたり。しかしそういう母を見ると、ゾッとします」と。

 この段階で、BさんとX氏の間の人間関係が良好なら、まだ救われる。しかしX氏は、こう言
う。「まるで執拗(しつよう)なストーカーに、追いかけまわされているような気分です」と。

 未熟なまま、母親になる女性。そして子育てをしながらも、進歩しない女性。自分の心のすき
間(=情緒的欠陥)を補うために子どもをでき愛する女性。じょうずに子離れできない女性。そ
うしたいくつかのファクター(要素)が重なると、ここでいうBさんのようになる。

 母親も、母親という地位と立場に、決して、甘えてはいけない。


●友だちとなじめない子ども

 集団生活に入ると、心のどこかで緊張感を覚える。心が開けない。何かあると、スネたり、ひ
がんだり、いじけたりする。ときに、ツッパルこともある。ジクジクといつまでも、ささいなことにこ
だわったり、悩んだりする。

 そのため、集団の中にいると、精神疲労を起こしやすい。また心はいつも緊張状態にあるた
め、ささいなことで、カッと切れたり、怒ったりしやすい。情緒も、そのため不安定。

 そこでこのタイプの子どもは、外の世界では、仮面をかぶることで、自分を守ろうとする。いい
子ぶったり、無理に相手に合わせようとする。友だちに何かいやなことをされても、すなおに反
応することができない。ブランコを横取りされても、すぐあけ渡してしまう、など。

しかしそのため、たとえば園や学校の先生には、「いい子だが、何を考えているかわからない」
といったタイプの子どもになる。

 集団の中で、よく見られる様子としては、つぎのようなことがある。

(1)いつも、ひとりで、ポツンと静かにしている。
(2)集団の中では、おとなしく、何かにがまんしているといったふう。
(3)表情がとぼしく、喜怒哀楽の情を押し殺してしまう。
(4)大声ではしゃいだり、笑ったりすることができない。

 自分の子どもがそうであると、たいていの親は、「なおそう」と考える。しかし、ある特定の集
団の中で、一度、そういう症状が出ると、なおすのは、容易ではない。それが、その子どもの行
動パターンとして、定着してしまうからである。

 が、よく観察すると、そういうタイプの子どもでも、別の環境の中では、まるで別人のように振
る舞うことがある。たとえば学校の教室の中では、借りてきたネコの子のようにおとなしくても、
休み時間に友だちとサッカーをするときは、元気な様子を見せる、など。

 そこでもしあなたの子どもが、ここでいう集団になじめない子ども(?)と疑われるようなとき
は、それをなおそうと考えるのではなく、その場面では、そういうものだとあきらめた上で、別の
場面で、別の子どもを発見するように心がける。「何とかしよう」「これではだめだ」と思えば思う
ほど、子どもの症状は、こじれる。

 なお、「うちの子は、集団になじめない」と、親はよく簡単に言うが、その根は深い。乳幼児期
の母子関係に起因することもある。あるいは、集団恐怖症、対人恐怖症などの、恐怖症が、そ
の背景にあることもある。さらに、かん黙傾向や自閉傾向(自閉症ではない)などが、あること
もある。

 中には、乱暴な人がいて、「なれていないだけ」と考えて、無理をする人がいる。そしていやが
る子どもを、何かの運動サークルや、集団キャンプに参加させたりする。しかしこうした無理
は、ここにも書いたように、かえって症状を、こじらせる。

 富山県に住んでいる、YBさんから、こんな相談のメールが、届いている。少しタイプがちがう
かもしれないが、ここでいっしょに、考えてみたい。

++++++++++++++++++

娘(9歳)のことで、相談します。下に6歳の弟がいます。

学校があまり楽しめないようで、以前は、行き帰りも最初はみんなと一緒に行っていたのです
が、今では一人で通うようになっていて、とにかく早く学校に着きたいみたいで、起きてすぐ支
度をして大急ぎで出かけていきます。

家に帰ってきても友達と遊ぶこともなく、絵を描いたりパソコンで遊んだりしてすごしているよう
です。家では楽しそうに過ごしているのですが、2学期の自分でつけた通知表では、友達もい
ないと書いていて、2学期も楽しくなかったと書いていました。

先生は、学校で何かを始めるときは、ひとりでいることはなく、グループに入っているということ
なのですが、自分では、何かまわりから取り残されているような感覚があるみたいで、何かの
拍子にこの感情が爆発して、よく泣きます。

この間も、教室で嫌な思いをしたらしく、いたたまれなったようで、授業中こっそり教室を抜け出
して一人で泣いていたこともありました。先生が慰めてくれても、自分はみんなに受け入れられ
ていないと言い張っていたようです。

先生が言うには、学習能力が高く精神年齢が大人で、先のことまで考えてしまうのではというこ
となのですが、人間関係にこれからもすごく本人が苦労しそうで、親として今何をしてあげるの
がいいのか、教えていただきたいと思います。

+++++++++++++++++++

 こうしたケースでは、子どもに向かって、「もっと……」とか、「ダメでしょう」的な押しつけは、禁
物。かえって子どもを、袋小路に追いやってしまうことになる。この状態で、子どもを責めると、
子どもは、現実の自分に自信を失い、自己嫌悪からさらに、自己否定へと進んでしまうこともあ
る。

 大切なことは、子どもの立場になって、「あなたはよくがんばっている」と、子どもの心を理解
してあげること。「無理をすることはないわよ」と、下から支えてあげること。

 気うつ状態が長くつづき、神経症(心身症)による症状がほかに見られるようになったら、要
注意。さらに症状をこじらせると、学校恐怖症から、学校へ登校しなくなることも考えられる。

 YBさんの子どもは、学校から帰ってくると、絵を描いたり、パソコンで遊んでいるということな
ので、そういう方法で、自分を取りもどしているのかもしれない。それが悪いことと決めてかか
るのではなく、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 なお、子ども自身が、「私は受け入れてもらえない」と言うのは、その遠因に、母子関係の不
全を疑ってみる。母親が、(父親のケースもあるが)、無意識のうちにも、子どもの役割を混乱
させていないかを反省してみる。あるいは、もう一つ原因として、「姉」ということで、安易なダカ
ラ論をぶつけていることも、考えられる。

 よくあるケースは、(YBさんが、そうだと言うのではない)、親が、勝手な設計図を用意し、そ
の設計図に、無理に子どもを当てはめるような行為。子どもは(本来の自分)と、(親が求める
自分)の間に、ギャップを感ずるようになり、自分に自信をなくす。いつも自分がしていることに
ついて、まちがっているのではないかという不安感を覚えるようになる。

 親側に、子どもへの不信感、心配があれば、当然、それを除去する。(この不信感も、乳幼
児期に起因することが多く、根が深い。)「あなたはお姉さんだから」というダカラ論は、避ける。

 YBさんは、「何をしてあげればいいのか」と悩んでいる。しかし今、大切なことは、なおそう」と
考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考える。この種の問題には、二番
底、さらには三番底がある。

 無理をすれば、「まだ以前のほうが症状は軽かった」ということを繰りかえしながら、症状は、
さらに悪化する。9歳という年齢は、ちょうど親離れをする時期にかかっている。妙におとなび
てみたり、反対に、ときに赤ちゃんぽくなってみせたりする時期である。

 恐らくこの子どもの情緒が不安定になったのは、下の弟が生まれてからではないかと推察さ
れる。赤ちゃんがえりによる症状があったのかもしれない。あるいは、姉であるという自負心か
ら、どこかで別の自分を演ずるようになったのかもしれない。これを発達心理学の世界では、
「反動形成」という。みなから、「姉だから」「姉だから」と言われているうちに、その姉像にそっ
た、反対の自分をつくりあげてしまうことをいう。

 原因は、いろいろ考えられるが、もし思い当たることがあれば、反省する。

 そこで結論ということになるが、つぎのことに注意してみたらよいと思う。あくまでも参考的意
見として、利用してほしい。

(1)スキンシップを濃厚にする。下の弟中心の育児姿勢から、もう一度、姉中心の育児姿勢に
かえてみる。

(2)「がんばれ」式の励まし、「ダメでしょう」式の否定や、おどしは、タブー。「あなたはよくがん
ばっているのよ」「無理をしなくていいのよ」「お母さんも、集団で遊ぶのは身が手だった」と、子
どもの立場でものを考える。

(3)学校恐怖症による不登校を警戒する。神経症による症状(腹痛、頭痛など)が見られた
ら、要注意。適当に学校を休ませたりして、気を楽にさせる。

(4)学校以外の場で、子どもが自分の心を開放し、自分をさらけ出せる場所を用意する。趣味
のサークルや、クラブなど。子どものしたがっていることに、耳を傾けること。無理な押しつけ
は、意味がないばかりか、かえって症状をこじらせる。

 先生も言っているように、どこかおとなびていて、ふつうの子どもよりも、先に先にとものを考
えるところもあると思われる。(そういう印象を先生がもっているということが、重要。)

 YBさんの子どもがそのように見えるというところに、YBさんの子どもの問題が集約されてい
るように思う。つまり、YBさんの子どもは、無理をしている。仮面をかぶっているのかもしれな
い。しかしもちろん、それはその子どもの本当の姿ではない。

 といっても、この年齢になると、子どもの様子を変えるのは、容易ではない。恐らく、半年単
位、一年単位の忍耐が必要かと思われる。しかし全体として考えても、集団行動や集団内活
動が苦手な子どもはいくらでもいる。得意、不得意があって、当たり前。

 だからこの段階では、やはりあきらめるべきところはあきらめ、別の方面で、子どもの興味や
関心を引き出すことが重要。オールマイティな人間をめざさないこと。それともYBさん、あなた
自身は、集団行動が得意だろうか? ……だっただろうか? そういう視点で考えなおしてみ
るとよい。

 以上、とりあえず考えてみたが、つづきは、マガジン(無料版)1月中旬号で、書いてみる。

【YBさんへ】

 メール、ありがとうございました。私からの返事は以上ですが、いただきましたメールのマガ
ジンへの転載など、よろしくご許可くださいますようお願いします。

 ふつごうな点があれば、改めますので、至急、ご連絡ください。

 私が想像するYBさんのお子さんは、すばらしい子どもです。懸命にいつも、何かと戦ってい
る子どもです。ただどこかで無理をしている。だから一見、おとなびて見えるかもしれません
が、本当は、弟が甘えるように、あなたに甘えたいのかもしれません。

 一度、ぐいと抱いてあげてみてください。とくに子どものほうから、それを求めてきたら、そうし
ます。そしてそのとき、こう言ってあげてみてください。「あなたは、よくがんばっているわ」と。そ
のやさしさが、子どもの心を溶かします。

 そうそう、大切なことを言い忘れました。
 
 子どもを伸ばす最大のコツは、不得意分野には、目を閉じて、得意分野をさがして、伸ばす、
です。だれにも、得意、不得意がありますから、ね。

 では、今日は、これで失礼します。

 はやし浩司
(はやし浩司 心を開かない子ども 集団行動が苦手な子供 集団行動が苦手な子ども 集団
で静かな子ども 子供 子供の神経疲労 子どもの神経疲労 集団になじめない子ども 集団
になじめない子供 集団生活が苦手な子供)
 
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●代理ミュンヒハウゼン症候群(補足)

 子どもを虐待しながら、他人の目の前では、すばらしい母親を演ずる。そんなタイプの虐待
が、ふえている。

たとえば子どもを虐待して、ケガをさせたとする。そして子どもが、病院へ入院したとする。そう
いうとき、子どもの付き添い人として、子どものそばから片時も離れず、子どもの世話をしてみ
せたりする。

 子どもの背中をさすってみたり、足をマッサージしてあげてみせるなど。子どもは子どもで、母
親の姿に、半ばおびえ、そうかといって母親に反旗をひるがえすこともできない。

 こうした虐待を、総称して、代理ミュンヒハウゼン症候群という。(詳しくは、「はやし浩司 代
理ミュンヒハウゼン症候群」で検索のこと。)

 この話を、ある会でしたら、実際、そうした虐待を目撃したことがあるという人が現われた。

 その人を、Aさんとしておく。Aさんは、45歳くらい。女性である。

 そのAさんの住むマンションの隣人が、自分の子ども(中2男子)を虐待しているという。とき
どき、はげしい罵声が聞こえてくるという。ふつうの罵声ではない。まるでヤクザどうしのけんか
のような罵声だという。

 で、その子どもは、中学生にもなるのだが、ハキがなく、おとなしい。いつもオドオドした様子
で、自閉傾向も見られるという。

 その女性が、こう言った。

 「ふだんは、つまり私たちの前では、すばらしい母親を演ずるのですね。演ずるというより、ど
ちらが本当の母親なのか、わからなくなります。ですから、ほとんどの人は、その母親を、すば
らしい母親だと思っているようです。

 しかも不思議なのは、自分の虐待で、子どもが萎縮しているのに、その意識がまるでないと
いうこと。『私はふつうの母親だ』と思いこんでいるみたいです。その上、『私ほど、息子を愛し
ている親はいない』というようなことまで口にします。

 会って話をしていると、何だか、キツネにだまされたみたいな雰囲気になります」と。

 子どもを虐待しながら、その実感をもっていない親は多い。肉体的な虐待はともかくも、言葉
による虐待については、とくにそうである。「お前なんか、早く死んでしまえ」「ロクでなし」と、い
つも子どもを虐待しながら、それを虐待だと思ってもいない。もちろん罪の意識など、みじんも、
ない。

 少し前、代理ミュンヒハウゼン症候群について書いたので、その補足として、この原稿を書い
た。
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群 事例 補足 子どもの虐待 子供の虐待)

++++++++++++++++++++

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院な
どへ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒ
ハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)


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●プレゼント

 私がしているような仕事をしていると、そのつど、何か、子どもにプレゼントを渡さなければな
らないときがある。そういうとき、もう30年以上もしているとはいえ、プレゼントを何にするか、
いまだに、よく迷う。「誕生日には、これ」「お別れには、これ」と決めておけばよいという人もい
るが、私のばあい、それができない。

 今日も、父親の転勤で、アメリカへ渡る子どもがいた。2年半、お世話になった。で、やはり、
プレゼントを何にするかで、迷った。

 モノにこだわると、どうしても、高価なものを考えてしまう。戦後育ちの貧しさというか、より高
価なものであればあるほど、子どもは、喜ぶはずと考えてしまう。が、それはまちがっている。
自分でもそれがよくわかっている。が、そういう発想を自分の中から消すのは、容易ではない。

 で、今日も、近くのショッピングセンターへ行った。この前、ドイツへ転勤していった子どもに
は、世界地図をあげた。その少しあとに東京へ転勤していった子どもには、日本地図をあげ
た。ほかの子どもたちに、それぞれ、地図の中に、添え書きを書いてもらった。

 しかしつづけて地図というのも、よくない。たまたまクリスマスが近いので、特大のクリスマス・
カードを買った。それと、小さなチョコレートが入った袋。やはりほかの子どもたちに、添え書き
を書いてもらうことにした。

 モノで子どもの心を操るのは、よくない。しかし今の子どもたちは、モノの値段をよく知ってい
る。こちらの心を、そのモノの価値で、判断する。高価なものであれば、喜ぶ。安価なものだ
と、「何だ、こんなもの」というような顔をしてみせる。

 そこで私としては、モノをそのまま渡すことは、できるだけ避けている。添え書きをするのは、
そのため。そうそう、このところ、コンビニで買った、小さなプラモデルを子どもに渡すことが多く
なった。コンビニへ行ったついでに、プラモデルを買う。それを組み立てる。しばらく自分で楽し
んだあと、それを子どもたちにプレゼントする。これがなかなか好評である。

 今日も(12・22)、家で割り算を練習してきた子どもがいた。先週は、できないと言って、涙を
浮かべていた子どもである。そのときは、みなが帰ったあと、10分ほど、別に教えた。中途ハ
ンパなまま終わってしまった。が、今日、私に会うと、「うちで、お母さんに教えてもらった」と。う
れしそうだった。

 私は、ポッと心の中が、暖まるのを感じた。だから、みなの前で、その子どもをほめた。ほめ
たあと、「何がほしい?」と聞いた。

 ……ということで、プレゼントの話は、おしまい。大切なことは、そのつど、心をこめること。問
題は、何をどうあげるかではなく、どう心をこめるか、である。一つのヒントになると思うが、こん
なことがあった。

10年間つきあったアメリカ人の友人だが、彼は、アメリカへ帰るとき、小さな石ころを私にくれ
た。(石ころだぞ!)

 最初、私は、ムッと思ったがが、その石ころには、表に、靴の絵、そして裏には、こう書いてあ
った。

 ONE STEP AT EACH TIME!、と。

 つまり、「一度に一歩だよ」と。その友人は、10年間、私とつきあって、そう感じたのだろう。
その思いを、その石ころに書いてくれた。心をこめるというのは、そういうことをいう。

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●愚かさ

宇宙という広大な空間の一点に、視点を置く。
その視点から見る、地球の何と、小さいことよ。

その地球の歴史の一点に、視点を置く。
その視点から見る、現在の何と、短いことよ。 

そんな「今」というときに、日本だの、中国だの、
アメリカだの、ロシアだのと言っている愚かさよ。

私の問題、あなたの問題、彼や彼女の問題と言っている、
その愚かさよ。人間よ、どうして私たちはかくも愚かなのか。

急がずとも、やがて私たちは、つぎの瞬間には、
あとかたもなく消え、永遠の虚無の闇のかなたに消える。

なのに、私だの、あなただの、彼だの、彼女だの、と。
人間よ、いつになったら、その愚かさに気がつくのか。


●目的、希望、夢

書いても書いても、先が見えない。
見えたと思ったら、その先はさらに先にのびる。

だれが読んでくれるのか。はたまただれも、読んでいないのか。
ただわからないまま、闇の中を手さぐりで、前に進む。

目的、希望、そして夢?

目的は、1000号までつづけること。
希望は、毎日、読者がふえること。
しかし夢は……? その夢が見えない。

ふとワイフに、「ぼくの夢は何かな?」と聞く。
ワイフは、「いつか、あなたの原稿の価値が認められるときが、必ずくるわよ」と、答える。

それが私の夢か。しかしワイフは、こうつづける。
「あなたが生きている間は、無理かもしれないわね。いつかよ」と。

気だるい無気力感。ぼんやりとした頭。
マガジンの読者数を調べると、久々に、3人、ふえていた。

その数字を見て、ポッと頭の中に、灯がともったように感じた。

小さな小さな希望かもしれないが、その希望に自分を託して、
前に進むしかない。今は、それしかない。
夢は、そのうち、あとからできてくるだろう。

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 

最前線の子育て論byはやし浩司(448)

【近ごろ・あれこれ】

●年賀状

 まだ、書いてない! 今日は、12月24日だ! クリスマス・イブだ!

 今では、パソコンを使って、簡単に書く。しかしそれでも書いてない! 「今日こそは!」と毎
日思いながら、もう1週間以上になる。

 おかしなものだ。

 私は追いつめられるのがいやで、何でも先に先にしようとする。しかしその限界を超えて、追
いつめられ始めると、今度は、急速にやる気をなくす。つまり、だらしなくなる。これは私のどう
いう性格によるものか。

 年賀状といっても、今は、本当に楽になった。以前は、ワイフと2人で、1週間がかりで、少し
ずつ書いていた。が、今は、パソコンで書く。作業は、はるかに楽になったはず。その気になれ
ば、半日ですむ。それがどうも、気が進まない。

 忙しいというより、このところ、どうも季節感が薄れてきたように思う。数日前には、正月料理
らしきものを、もう食べた。数の子とか、昆布巻き、とか。初詣の先取りも、すませた。そのた
め、「正月だから、何をしよう」という意欲が、あまり、起きない。

 (本当は、いけないのかなあ……? ワイフが、「正月は、混雑するから、今のうちにしておき
ましょう」と言うから、先週、法多山へ参拝してきた。何でも、すいているうちに、早めにしておこ
うというのが、ワイフの発想らしい。)

 どうしてだろう? どうしてかな? しかし今日あたり書かないと、元旦には、届かないという。
……わかっているが、何かと、ほかの仕事を優先させてしまう。年賀状が、あと回しになってし
まう。

 私はもともと怠け者。それはよくわかっている。そういう自分がいやだから、たとえばこうした
マガジン(日記)などは、しっかりと書くようにしている。だから多分、ほとんどの読者の方は、
「はやし浩司は、こまめな男だ」と思っているかもしれない。しかし、本当の私は、怠け者。

 年賀状の季節になると、それがよくわかる。

 が、人間というのは、勝手なもの。そういう私のくせに、元旦に、年賀状をもらうのを楽しみに
している。書くのは、めんどうだが、もらうのは、うれしいというわけである。

 しかし、本当に、もう書かないといけない。これから居間へ行って、ワイフに相談してくる。ワイ
フは、「年賀状なんて、やめたら」というタイプの女性。先日も、「私の友だちには、出してない
人、いくらでもいるわ」と話していた。

 いったい、どういう連中と、つきあっているのだろう……?

 まあ、これも習慣だから、つづけるしかない。今日こそは、書くぞ! 今、ここで急に年賀状を
出すのをやめたら、「あの林も、とうとうくたばったか」と、思われにちがいない。

 だから、今日こそ、絶対に、書く。書くぞ!

 (こういうのを、パブリック・コミットメントという。みなに宣言することによって、決意をかため
る。ふるいたたせる。が、これも考えもの。パブリック・コミットメントをすると、自分をさらに追い
こむことになる。私のばあい、ますます、やる気をなくす。ハハハ)

 
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●運命論

 ある哲学者は、こう言った。『幸福な家庭は、みな、よく似ている。しかし不幸な家庭は、み
な、ちがう。一つとて、同じものはない』と。どこかの哲学者だが、名前は忘れた。

 その不幸な家庭。両親は、その女性が3歳のときに、離婚。原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、30歳)も
自宅に放火、そして自殺。言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取られたのが、彼
女が、6歳のとき。しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、今度は、別の叔母の家に預け
られた。彼女が10歳のときのことだった。

 現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。この話は、控えめに書いたが、事実
である。今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、幸福な家庭
を築いている。

 私は「運命」を否定しない。その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、その人の
人生を決めてしまうということは、よくある。それを「運命」というなら、運命は、ある。

 しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎとのしかかってくる。容赦なく、のし
かかってくる。いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限界がある。不安と心
配。それらがこん然一体となって、その人を襲う。

 しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。そのふんばると
ころに、人が生きる美しさがある。生きる意味がある。

 今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、五万といる。五万どころか、五〇
万、五〇〇万といる。世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもって言える人
のほうが、はるかに少ない。

 だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。「私だけが不幸だ」と、思わないこ
と。みなが、みな、そうだ。そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、それを笑い飛ばしな
がら、生きていくということ。運命に負けてはいけない。負ける必要もない。

 悪いことばかりではない。

 運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。不幸は、それ自体
は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれる。何が大切で、何
が大切でないか。そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。それを教えてくれる。

 さあ、恐れるものはない。

 あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。前に向かって一歩、踏み出してみよう。
明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。

 冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書いて
あった。

 「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうものか、よく
知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(はやし浩司 運命論 幸福論 S原)


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【今週のBWから】

●「大好き!」

 Nさん(女子中学生)が、今月で、BWをやめることになった。いつも、車で、片道40分ほどか
けて、通ってきてくれた。しかし高校受験が近づいた。それでやめることになった。

 今夜、授業が終わると、近くの喫茶店へでかけた。みなとお別れ会をすることにした。

 いつものように、キャーキャーワイワイ、はしゃいでいた。私は、そういうときは、いつも脇役。

 で、帰るときになって、みなが、「プリクラを撮りたい」と言った。「記念に、プリクラを撮ろう」
と。私は同意した。「お金は出してあげるよ」と言うと、みな、「うれしい」と言った。

 私は、当然、撮影からはずされるものと思っていた。いつもそうだったし、私は、写真を撮ら
れるのが好きではない。

「ぼくは、外で待っているよ」と言うと、Nさんが、「先生と、撮りたい……」と言った。

私「ホント?」
N「ホントよ。先生がいなければ、意味ないじゃん」と。

 で、私もみなと撮った。ブースの中では、うしろに立った。

 こうしてプリクラ写真を撮るのは、何年ぶりだろう……と、そんなことを考えていた。

 で、撮影が終わると、みなは、反対側のブースに入っていった。「何をしているのかな」と思っ
て、のぞいてみると、そこは落書きコーナーだった。撮った写真を、いろいろと加工するブース
だった。

 私は、外で待った。相変わらす、キャッキャッと甲高い声をあげて騒いでいた。その声だけ
が、外に漏れていた。その間、10分くらい。やがて写真ができてきた。

 4枚1組の写真だった。見ると、その一枚に、「林、大好き!」と書いてあった。冗談だろうと
思ったが、久しぶりに、ポッと心の中が、温まるのを感じた。うれしかった。

 帰るとき、Nさんと、手をつないで歩いた。「今夜は最後だから、手をつないで歩こうか」と声を
かけると、「うん」と言った。

私「手をつなぐと、幼稚園児と歩いているみたいだね」
N「私、つないでもらったことはないわよ」
私「そうだね。はじめてだね」
N「そうよ、はじめてよ」と。

 そしてその手をもちかえて、握手した。「元気でね」「うん」と。それで別れた。

 夜、家に帰ってパソコンを開くと、プリクラで撮った写真が、転送されていた。Nさんが、携帯
電話を使って送ってくれたらしい。

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最前線の子育て論byはやし浩司(449)

【貧しい心】

 韓国の朝鮮N報の、12月23日号に、こんな記事が載っていた。少しぎこちない日本語だっ
たので、私のほうで、内容を変えないで、書き改めてみた。

++++++++++++++++++

●汽車に乗って、90時間(朝鮮N報の記事より)

検問がこれといった問題なく終わると、ブフンは緊張をほぐすためか、30元で携帯用のビデオ
受像機を借りた。そしてそれを、何時間もベッドで香港映画をじっと見入っていた。ウンミもイヤ
ホンでウォークマンの音楽を聴いていた。ブフンのお母さんとウンミは、一日中車内にいながら
も、化粧をするなどして、身なりに気をつかっていた。 
 
 ウンミはいつもヒール高いブーツを履いていた。彼らは、中国の女性たちよりもおしゃれに見
える。4〜7年、延吉で生活している間、大金は稼げなかったものの、K国で手に入れることが
できなかったものに対する欲が強く、「カネを稼がなければならない」という思いが強いように見
えた。 
 
 出発から6日目。体をぶつけ合う旅が長くつづいたせいか、一行の間の警戒心も大分解けて
きた。ブフンのお母さんとウンミはいつの間にか、「姉さん」、「妹」と呼びあう関係になってい
た。ブフンはウンミを「姉さん」、取材班の私たちを「おじさん」と呼んだ。 
 
 瀋陽では私たち取材班を信頼できず、アジトに連れて行くことさえ拒んでいたパクさんも、大
分心を開いてくれるようになっていた。はじめは、どこへ向かうかも教えてくれず、一方的に切
符を渡されたが、今は、次の行く先くらいはあらかじめ教えてくれようになっていた。 
 
 11月30日夜、中国雲南省の昆明を離れ、東南アジア国家の国境を向かっていた脱北者6
人は、無駄足を踏み、三日後(12月3日)に昆明に戻ってきた。東南アジア国家の政治情勢が
不安なこともあって、従来の、トゥリハナ宣教会が利用していたルートが塞がれたためだ。 
 
 この時からガイドたちは、新しいルートを探すため、国境地帯をさ迷い歩いた。脱北者たちは
昆明で、みすぼらしいアパートを6か月間借り、隠れていなければならなかった。 
 
 幸い、2週間後に「アジト」を脱することはできたが、いつまでつづくかわからない「もぐら生
活」に、脱北者の心身は疲れきってしまっていたようだ。

 脱北者の焦燥は、突然の食事に対する不満で現われた。昆明に到着した 3日夜、ガイドは
脱北者一行をレストランへと案内した。すると、脱北者たちは一斉にカバンからコチュジャンを
取り出すと、漢族の従業員に、「きゅうりは売っていませんか? 買って来てもらえませんか?」
と問い詰めるように聞いた。 
 
 すでに10日以上も脂っこい中国料理を食べてきたのだから、理解もできたが、これは、「で
きるだけ目立ってはならない」という、行動守則第1号に反する行動だった。 
 
 これにまして、ソンオクは注文した料理の量が少なすぎるとし、「これで一体いくらもらってい
るのか」と、従業員に神経質に話しかけていた。 
 
 これに対し、ガイドは断固とした態度で警告した。「観光に来たのではない。皆さんは公安に
検問されれば、すべてが終わってしまうということを忘れないでください。1回の食事にきゅうり
がないと従業員に問いただして、どうしようというのですか?」 
 
 ガイドは、「1回目の越境が失敗に終わり、心理的に心細いのはわかる。それでも、自分の
運命のかかった問題なのに、あんな小さな不便さえも我慢できないのを見ると、やりきれない
思いがする」と、記者に密かに話した。 
 
 脱北者の中で最も年は若いが、リーダー役を果たしていたブフンもついに爆発した。新しい
ルートを探して出たガイドが3日経った7日になっても連絡がなかったからだ。ブフンのほうから
先に電話をかけ、ガイドに対して怒りをあらわにした。 
 
 「よくもそんなことができますね、私たちのことが心配にならないんですか?」 
 
 いつも他人に対して「先生」と敬語を使って話していた態度は、そのときは、跡形もなかっ
た。 (つづく)
 
朝鮮N報・探査報道チーム 

+++++++++++++++++++

●心の貧しさ

 レストランで、コチジャンを取り出し、従業員に、「きゅうりを買ってきてくれ」と頼む、脱北者た
ち。さらに料理の量が少ないと、従業員に迫る脱北者たち。そうしたあさましい姿を見ながら、
朝鮮N報の記者たちは、ガイドの言葉として、「やりきれない」と書いている。

 私たちは、K国を絶対的な「悪」とみたてた上で、(実際、K国の独裁者を擁護する人はいな
いと思うが……)、脱北者たちを、あわれな弱き善人ととらえやすい。またそういう先入観だけ
で、脱北者を位置づけて考えてしまう。

 しかし漏れ伝わってくる情報を集合すると、どうもそうではないのではないか?

 あまりの貧しさからか、脱北者たちは、心までむしばまれてしまっている。道徳観や倫理観
も、私たちのそれとは、どこかズレている。そんな感じがする。いつだったか、イギリスの法学
者が、「貧困による公害」という言葉を使った。「極度の貧困状態が長くつづくと、その人の人間
性まで、破壊される」と。そういった状態になっているのかもしれない。

 こうした例は、多い。にわかには信じがたい話だが、K国のヤミ市場では、人肉まで売買され
ているという。さらに脱北者の中には、脱北するとき、倒れた人の人肉を食べならが、飢えをし
のいだ人もいるという。

 もちろん大半の脱北者たちは、やむにやまれず、そうしているにちがいない。中には、高い
道徳観や倫理観をもった人もいるはず。だれが好きこのんで、イバラの道を歩くものか。言葉
や文化が、そのまま通ずる環境のほうが、貧しくても、居心地はずっとよい。

 こうした脱北者たちに対して、中国政府は、いまだにきびしい姿勢をとりつづけている。それ
に呼応するかのように、韓国政府も、脱北者に、きびしい姿勢をとり始めている。その背景に
は、脱北者たちの、こうした心の実情があるからではないかと思われる。

●私たちの問題

 私は朝鮮N報のこの記事を読んだとき、「私ならどうだろうか?」と、すぐ考えた。脱北者と同
じような過去と経歴をもったとしたら、はたして「私は、そんなことはしないと言い切ることができ
るだろうか」と。

 私のばあいは、戦後のあの貧しい時代を生きている。さらに不幸なことに、私のばあい、家
庭教育も崩壊していた。今のK国とはちがうとはいえ、共通点も少なくないように思う。

 マネー絶対教も、その一つ。私自身も、マネーへの渇望感は、かなりあったように思う。小学
3、4年生のころではなかったか。「お金を、もっとどんどんと印刷すればいい」と、考えたのをよ
く覚えている。「お金を、どんどん印刷して、みんなに配ればいい」と。

 私のばあい、マネーへの執着心は、かなり強かったと思う。

 ただ日本のばあい、戦後の貧困期は、それほど長くなかったし、その前後の、それなりの繁
栄が、日本人の心を、かろうじて支えた。事実、同年齢の仲間のほとんどは、私と同じような時
代を生きながらも、高い品性と知性を保っている。

 しかし私は、今から思うと、心の貧しい少年だったと思う。(わんぱく)+(がき)+(小ずる
い)。それら三つを兼ねそなえていた。たとえて言うなら、北海道選出の、元国会議員に、鈴木
M男。あの男を思い浮かべてみてほしい。先ごろ、収賄罪で、有罪判決を受けたが、あの男を
見ていると、昔の私を思い出す。

もし、あのころの私が、あのまま、おとなになっていたら、そして政治家になっていたら、私は、
あの鈴木M男とそっくりの男になっていただろうと思う。

 だからおかしなことだが、表面的には、あの鈴木M男を非難しながらも、非難しきれないもど
かしさを、心のどこかで、覚える。あるいは自分の中の醜い面を、彼によってえぐり出されてい
るかのよう感ずることもある。

 そんなわけで、私は、実のところ、どうも自分に自信がもてない。同じような状況下におかれ
れば、恐らく私も、「きゅうりを買ってきてほしい」「料理の量が少ない」と、騒ぐかもしれない。

 ……ということで、少し話はそれたが、貧困には、さまざまな問題がともなう。その一つが、こ
こにあげた、心の貧しさということになる。

 ついでに一言。

 文化とは何かと聞かれると、なかなかそれに答えることができない。しかし心の貧しさという
問題に直面すると、その反射的効果として、文化のもつ重要性が浮かびあがってくる。朝鮮N
報の記事を読んで、改めて、私は、それを考えさせられた。
(041224)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(450)

●「M」という宗教団体

 私が「M」という宗教団体に、最初に興味をもったのは、ほかならない、学生時代の友人(女
性)が、その信者になったからである。

 どこか過激(pushing)な宗教団体で、その団体は、輸血を拒否することで、よく知られている。
そこで、ある日、その教団の「日本の本部」に電話をかけて、そのことを確かめてみた。

 電話はあちこちに回されたが、そのあと、幹部と呼ばれる人から、こういう返事をもらった。
「私どもは、一度だって、信者の方に輸血を拒否するよう指導した覚えはありません。しかし熱
心な信者なら、信仰上の確信から、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。

 何とも、巧みな、責任逃れな言い方である。

 そうした輸血を拒否したため、90年代に入ってから、このH市でも、患者が死亡してしまうと
いう事件が起きている。さらに、その団体では、ほかの団体との交流を禁止している。(多分、
本部の人たちは、「禁止はしていない。熱心な信者なら……」という言い方をするだろうが…
…。)

 そのためその友人は、同窓会には、一度も顔を出していない。いないばかりか、ある日、同
窓生全員に、聖書なる分厚い本を送り届けてきた。

 私にとっては、何とも悲しいできごとであった。それまではその女性に、ほのかな恋心を感じ
ていたが、それを知ったとき、その女性が、私の手の届かない、はるか遠くに行ってしまったよ
うに感じた。と、同時に、慕情は消えた。

 人はそれぞれの方法で、幸福への道をさがす。幸福というゴールは一つかもしれないが、道
は無数にある。またその道は、千差万別。

 だからこうした過激な宗教団体に入信したからといって、その人を責めても意味はない。また
責める必要もない。大切なのは、それぞれの立場で、その人を、そっとしておいてやることであ
る。

 ただ「M」という宗教団体が問題なのは、その過激性ゆえに、家庭崩壊という問題を、あちこ
ちで引き起こしているということ。たいていは、ある日突然、夫の知らないところで、妻が入信し
てしまうというケースである。その深刻さは、部外者には、想像もつかない。「妻を返せ!」「家
族を返せ!」と、悲痛な叫び声をあげている夫は、その団体のまわりだけでも、推定、4万人は
いるとされる(「M」、A新社)。

 で、その友人の夫は、どうだったのだろうか。……ということを考えていくと、「私でなくてよか
った」と、思ってしまう。……というところから、その友人への慕情が消えた。いくら私でも、そし
ていくら熱烈な恋愛をしたからといっても、それを乗りこえて、そうした女性を愛しつづけること
は、不可能であっただろうと思う。

 今、15年ぶりに、再び、カルト関係の本を読み始めている。一度は、足を洗った世界だが、
しかしどうしても無視できない事情が、このところ生まれてきた。これから先、この問題につい
て、少しずつ、考えていきたい。

(補記)

 大切なことは、日ごろから、自分の常識力をみがいておくこと。
 ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、その中で、常識力をみがいておくこと。

 音楽を聞き、旅行をし、本を読み、スポーツや運動を楽しみながら、みがいておくこと。

 奇をてらった修行をしなければ真理に到達できないとか、ほかの人たちとの接触を禁ずるよ
うなことを教えているというのであれば、そもそも、その教えはまちがっている。

 それがわからなければ、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。彼らはいつも、自然の中で、
自然に生きている。人間もまた、そうであるべきであって、そうであることをまちがっているとい
うのなら、そう言うほうが、まちがっている。

 この常識力が、あなたを、こうしたカルトから、守る。いらぬ節介かもしれないが……。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●暖かい愛情

 子どものころ、母親の虐待に苦しんだ女性がいた。虐待といっても、言葉の暴力。その女性
は、母親に、「お前なんか、生まれそこないだ」「親不孝者だ」「産んだのが、まちがいだった」
と、いつもののしられていた。

 一時はそのため、その女性は、情緒がきわめて不安定なこともあったそうだ。回避性障害
や、引きこもりなどを経験している。20歳くらいのときは、過食症と拒食症を繰りかえしたことも
ある。

 が、その女性は、結婚。子どもが3人できた。2人の息子、1人の娘。その女性は、心に大き
なキズをもっている。それは当然だが、しかしその女性は、今でも、献身的に親の世話をして
いる。

 で、最近、こんな話を聞いた。その女性は、今年、35歳くらい。母親は60歳くらい。ときどき
実家へ帰って、母親の世話をしているという。寝食の世話はもちろんのこと、いっしょに入浴し
て、背中を流してあげたり、髪の毛を染めるのを手伝ってあげているという。

 が、相変わらず、母親は、その女性に、きびしい言葉をなげかけているという。いっしょにい
ると、その女性を奴隷のように使っているという。しかしその女性は、こう言っている。「もう、な
れました。母の言葉は、右から左へと、耳の中を抜けていきます」と。

 あなたには、この女性のすばらしさが、わかるだろうか。娘のほうが、親を、許し、忘れ、そし
て受け入れている。

 
●生徒の書き初(ぞ)め

 年末(04年)になって、Y市のある中学校で、こんな事件が起きた。

 女子生徒の一人が、書き初めで、相Dみつをの言葉を書いた。女性中学生は、「花はたださ
く ただひたすらに」と書いた。それについて国語の教師が、「それはやくざの言葉だ」とからか
った。

 そのためその女子中学生は、友だちに「やくざ」と呼ばれるようになり、卒業文集に顔に切り
傷のある似顔絵を描かれたという。そこでその女子生徒と家族が、精神的苦痛を受けたという
ことで、Y市を訴えた。それを受けて、Y地裁は、12月25日(04年)までに、25万円の支払い
を命じた(岐阜新聞)。

 事件の内容は、ともかくも、そしてどういうつもりで、その教師がそう言ったかは、わからない
が、家族が、訴訟にまで踏み切った背景には、何かもっと深刻な事情があったのかもしれな
い。それまでにも、いろいろと確執(かくしつ)があったのかもしれない。しかし、教師と親の間
に、もう少し信頼関係があれば、こういう事件は、起きなかったものと思われる。

 信頼関係……教育は、この信頼関係の上に成りたつ。この信頼関係がなければ、教育その
ものが、成りたたない。崩壊する。ここにあげた事件は、その一例ということになる。こうした仮
定は、当事者の方たちにはたいへん失礼かとは思うが、信頼関係があれば、「やくざ」と言わ
れても、冗談ですんだ事件だっただろうと思われる。

 こういう事例は、少なくない。

 私はいくら注意しても、私の言うことを聞かないで、席から離れて遊ぶ子どもというのは、い
る。そこで私は、「パンツにウンチがついている子どもは、立っていていい」などと、からかった
りする。

 しかしこういう(からかい)というのは、ときには必要。「座ってなさい」「席から離れてはだめ」
などと、子どもに命令したりするのは、できるだけ、避けたい。私も、一度、大失敗をしたことが
ある。

 あるとき、ある子ども(小3男児)にそう言ったことがある。が、そこでハプニングが起きた。ふ
つうなら、その子どもがあわてて席に座って、それですむはずだった。しかしそのとき、隣の席
にすわっていた別の子どもが、その子どもの尻に顔をあてた。そしてこう叫んだ。「先生、本当
に、こいつの尻、臭い!」と。

 その夜、その子どもの父親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのウンチ
のことで、みなの前で恥をかかせるとは、なにごとか!」と。

 父親の気持ちも、よく理解できた。私は、ただひたすら、あやまるしかなかった。

 そんなわけで、こうした(からかい)をするには、ここにも書いたように、教師と親の間に、信頼
関係が大前提となる。それがないまま、(からかい)をすると、それはとんでもないことになる。
私も、こうした経験を、いくつかしている。

 だからもちろん、こうした(からかい)は、新しい生徒にはしない。できない。するとしても、3か
月とか、半年の間、親にじっくりと参観を、してもらってからにする。

 で、冒頭の事件だが、その教師は、ほんの冗談のつもりでそう言ったのかもしれない。あるい
はそうでなかったのかもしれない。詳しくはわからないが、残念な事件であることにはちがいな
い。

 こうした事件では、訴えるほうも、訴えられるほうも、とことん神経を、すり減らす。裁判に負け
ればなおさら、勝っても、残るのはあと味の悪さだけ。子どもにしても、自分の中学時代を、暗
く、重くするだけ。もう少し、別の方法がなかったものかと思う。考えれば考えるほど、残念な事
件であることには、ちがいない。

 
●最後に乗りきる力

 不幸というのは、やってくるときには、やってくる。しかも、たてつづけに、やってくる。容赦、な
い。「これでもか」「これでもか」と、やってくる。

 20年ほど前だったが、こんなことがあった。おおよその話は、つぎのようである。

 その女性の息子(3歳児)が、ある障害児とわかった。悲嘆に暮れていると、夫が、不倫。相
手の女性の家に、入りびたりになってしまった。離婚を考えていたら、その矢先、突然、その女
性の実の母親が急死。その女性は、こう言った。

 「もう、何がなんだか、わけがわからなくなってしまいました」と。

 こういう逆境にあったとき、その人を救うものは、何か。それには、いくつか、ある。が、最高
にその人を救うものと言えば、他人の心のやさしさではないか。「愛」というほど、おおげさなも
のでなくてもよい。ほんの小さな、(やさしさ)である。その(やさしさ)に触れたとき、その人は、
その中に、永遠のやすらぎを覚える。

 が、そうでないケースも多い。

 中には、そうした不幸を、ゴシップの話題にして楽しむ人も多い。心の貧しい人たちである。
あえて他人の不幸な話を、ことさらおもしろおかしく話したりする。『他人の不幸ほど、おもしろ
い話はない』と言った人さえいる。

 しかしこれだけはしっかりと覚えておいたほうがよい。他人の不幸を笑えば笑うほど、今度は
いつか、自分がその立場に立たされたとき、その何十倍、何百倍も、その不幸に苦しむことに
なる。

 が、その反対に、不幸にある人にやさしくした人は、自分がその立場に立たされたとき、……
どうなるか? それは私にはわからない。ただキリスト教の聖書には、こうある。『慈悲深い人
は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう』(Matthew5−9)と。

 私は、それは正しいと思う。まだその境地に達していないから、偉そうなことは言えないが、
正しいと思う。常識で考えても、まちがっているはずがない。

 私たちを最後の最後で、支えてくれる力。それは、(やさしさ)ではないか。……今は、「そう思
う」としか書けないが、そう思う。自分に対するやさしや、他人に対するやさしさ、他人が見せて
くれるやさしさ。まだまだわからない部分も多いが、今の私は、それを信じている。……信じて
いたい。


●老人介護

 要介護老人や要支援老人にもいろいろ、ある。痴呆老人、病弱老人など。しかし徘徊(はい
かい)や、反社会的行為(放火、窃盗、狂暴)をともなう要介護老人(要介護4〜5)をかかえた
家族の苦痛は、たいへんなものである。言葉では、表現できない。

 「24時間、目が離せない」
 「近所から、迷惑がられる」
 「疲れる」と。
 
 改善する見こみがないときは、その苦痛は倍化される。日に日に、症状は悪化するのみ。と
きに絶望的にすらなることもあるという。もちろん人間的なコミュニケーションは、ない。

 ある女性はこう言った。「こんなことは言ってはならないのかもしれないが、ある朝、様子を見
にいったら、死んでいたというふうになってくれていたら、うれしい」と。

 こういう話を聞くと、「明日は、わが身」と、私は思う。と、同時に、自分がそういう状態になっ
たら、遺書をしっかりと書いたあと、静かに死にたいと思う。家族に迷惑をかけたくない。ある
朝、静かに死んでいるというのも、悪くない。

 が、そのとき、脳ミソの中枢部が冒(おか)されていたら、どうなるか。そういう判断能力も、な
くなるということになる。そういう意味で、痴呆というのは、こわい。恐ろしい。自分が自分でなく
なってしまう。

 そういう問題は、どう解決したらよいのか。


●虐待

 数日前、N町のあるところで、親に虐待され、心に大きなキズをもった子どもと、1時間ほど、
話しあう機会があった。中学2年生の男子だった。私はその子どもを保護している相談員の横
にすわった。

 始終、おどおどした様子。ビクビクした様子。視線は定まらず、目は不安そうに、キョロキョロ
と動いていた。声も元気がなく、うつ状態で、表情は暗く、沈んでいた。

 私は対峙し、黙ったまま、その子どもの話を聞いた。

「ママが、パパと、けんかする……」
「夕食のとき、お茶をこぼした……」
「ぼくは、悪い子……」と。ポソポソというより、ブツブツとものを言う感じ。一方的に、同じ話を
繰りかえすだけで、意味は、よくわからない。

 が、親の悪口は、まったく言わなかった。「でも、お母さんが、君にひどいことをするんじゃな
いの?」と言うと、「ううん、ぼくが悪い子だった。ぼくはちゃんといい子になるから、家に返して」
と。ときどき、「うちに帰りたい」と泣いた。

 悲しき子どもの心である。虐待されても、虐待されても、母親のところがよいと言う。保護され
ているにもかかわらず、「自分が悪いことをしたから、つかまった」というふうに考えているよう
でもある。相談員のY氏に聞くと、Y氏はこう言った。

 「事情を聞こうと、母親のところへ行ったのですが、母親は、まったくふつうの母親といった感
じなのですね。子どもを虐待しているといった様子が、まったくないのですね。穏やかで、親切
で、人当たりが、ものすごくいいのです。接していると、キツネにつままれたような気分になりま
す。『本当にこの母親が、子どもを虐待しているのだろうか』とさえ、思うこともあります。ただ多
弁で、あれこれと、どこか、言い訳がましいことは、口にしますが……」と。

 これは虐待する親の特徴かもしれない。虐待をしているという意識そのものがない。ないば
かりか、自分では、ふつうの親と思っていることが多い。そして人前では、むしろ、すばらしくよく
できた親を演ずることが多い。そしてその母親も、こう言ったという。

 「うちの子を、いつ返してくれますか」「私がちゃんと、めんどうをみますから」と。

 子どもを虐待する親は、多い。本当に多い。概して言えば、親意識が強く、子どもをモノか、
財産のように考えている。そしてさらに言えば、もちろん子どもに対する愛情の欠落。代償的愛
をもって、「愛」と誤解している。さらに言えば、情緒的未熟性、精神的欠陥性が、見られること
が多い。

 ところで最近私は、よくこう思う。

 虐待は、親から子へと世代連鎖しやすいというが、実はそうではないのではないのか、と。子
どものころ虐待を受けた親は、心に大きなキズを負う。その結果として、つまりそのキズを、今
度は自分が子どもをもったとき、それを再現する。だから結果として、連鎖しているように見え
るようになるのではないか、と。

 親の虐待を受けながらも、おとなになってから、よい親になった例もある。親に虐待されたか
らといって、必ずしも、虐待パパや虐待ママになるというわけではない。このタイプの人は、虐
待を受けながらも、それを心のキズとしなかったと考えられる。

【注】

 子どもは、「家へ帰りたい」「ママのところにもどりたい」と言う。しかこうした親への強度な依
存性は、子どもの心の中にしっかりとしみ込んだ、(自我群)によるもの。わかりやすく言えば、
脳の中に刻まれた、(すり込み)によるもの。

 だから「そういう言葉に、まどわされてはいけない」(その指導員の言葉)ということだそうだ。
まどわされて子どもを家に返したりすると、反対に親に逆説得されてしまうという。あるいは親
に、「児童相談所は、こわいところ」と、脅されるケースもあるという。

 虐待されているかどうかは、あくまでも、子どもの精神状態をみて、判断するということにな
る。


●ウイルス対策

 YOMIURI・PC(05年2月号)に、こんな記事があった。

 「ウイルス退治、常識を捨てろ」(24ページ)と。

 そして「ウイルスとの縁切りは、捨てよ、使うな、更新せよ」と。方法としては、つぎのようにあ
る。

(1)知らない人からのメールは、覇気。
(2)ファイル交換ソフトは、使わない。
(3)ウイルス対策ソフトは最新状態に、と。

 私も、見知らぬ人からのメールは、すべて、即、削除を心がけている。これは常識。あとはプ
ロバイダーでのウイルスチェック、ウイルス対策ソフトを併用している。が、(2)番目の、「ファイ
ル交換ソフトは使わない」というのが、よくわからない。説明文には、こうある。

 「WinnyやWinMXなどのファイル交換、共有ソフトで、ウイルスが広がりつつある。ファイル
交換、共有ソフトは、絶対に使わないこと」と。

 さらに「人気のあるファイルに、ウイルスをしのばせておき、ダウンロードして実行した相手
に、感染させる」と。

 あまりよくわからないが(ごめん!)、要するに、インターネットで、安易にファイルをダウンロ
ードしてはいけないということか? 私も以前から、何となくあぶないと感じていたので、つまり
無料で、ファイルをダウンロードできるということに疑問を感じていたので、一度も、それをした
ことがない。

 その記事を読んで、「やはりそうだったか」と思ってみたりする。この世界、ますます複雑、か
つ巧妙化してきている。注意しよう。

(読者のみなさんへ)

 質問、メールなどは、はやし浩司のHPのトップページから、必ず、「フォーム」を経由して送っ
てください。またメールも、件名のところに、必ず、ご住所、お名前をお書きください。かかる表
示のないメールは、プレビュー画面に表示することなく、即、削除させていただいています。こ
れは私や、みなさんのパソコンの健康を守るための措置です。


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最前線の子育て論byはやし浩司・401〜450号・終了

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 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼
児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司
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大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法
文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家
 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi
Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林
こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よ
くできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし
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読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
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神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
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ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
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