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第12号

2001年11月9日 発行

 

 

平和こそ

 

 9月11日に起こったアメリカでのテロ事件は、余りにもむごい出来事でした。私は20年前に、あの貿易センタービルの最上階にあった展望室に登った想い出があります。あのビルに激突する飛行機の映像が繰り返し、繰り返しテレビで放映されました。「嗚呼、これはよくないな、潜在意識に刷り込まれてしまうな」と思ってなるべくテレビは見ない様にしていました。それでも、しばらくの間は食欲も減退しましたし、不気味な夢ばかりを見ました。

 ちょうど一週間すぎて、子供の心に悪影響を及ぼすとの理由で放映しなくなったことを新聞で知りました。一週間あの映像を流し続けていたのでしょうか。ビデオというものは確かに便利なものであるけれど、この世で起こっている出来事はすべて一度限りのことなのに、何度もなんども再生させられるということは、やはりとっても不自然なことなのだと思います。

 この事件を契機に他にもいろいろと考えさせられたことがあります。復讐心のこと。イスラム教のこと。そして、戦争。平和こそ何にも増して大切にしなくてはならないことを痛切に感じます。

 アメリカの報復戦争のニュースを連日目にして、何かやり切れない思いに駆られておりました。その様な折りに奇しくも、学士会会報No.833(2001年10月号)に掲載された【「平和省」をつくろう】という論文を読みました。実に説得力のある平和論です。感動しました。さらに「これを広めなくては」というような使命感が湧いてきました。

 著者の伊藤隆二氏は現在、東洋大学の教授です。私の恩師の和田重正先生と大変親しくされておりましたので、何度かお会いしたことがあります。教育学博士であり、特に障害児教育分野で多くの学問的功績を挙げられております。そして人格的にも素晴らしい先生です。

 早速、伊藤先生に電話して、その論文を印刷して広めたり、インターネット上に流してもよい旨の承諾を戴きました。

 伊藤先生の【「平和省」をつくろう】の構想は和田重正先生の思想が根幹をなしています。

 和田重正先生はキューバ危機に際して、核戦争による人類絶滅を何とか避ける道はないのかとの思索を始め、1965年に【新生日本の道】という小冊子を著し、1972年には柏樹社から【国家エゴイズムを超えて】を出版しています。その本は現在絶版ですが、1987年に【自覚と平和】と題して「くだかけ社」から再版されました。その中に「平和省」の基本概念が述べられております。

 私も若かったときに、和田先生の元にはせ参じてこの運動に少なからず関与しました。しかしその後、東西冷戦が終結したことなどにより、余り進展せずに来ました。

 ところが、今回のニューヨークのテロ事件に伴う報復戦争が起こったことにより、私自身、平和への希求が高まりました。インターネットという便利な道具を使って、平和を願う人に広く呼びかけたいと思って、活動を開始しました。

 以下のようなメールを私の参加しているメーリングリストに本文と共に流しました。

 

 【この構想にご賛同の方は、どうぞ積極的に広めてください。

 ご自分の参加されているメーリングリストに転載されることを始め、知人にメールとして送ったり、あるいは、ご自分のホームページに付け加えてくださることなどをお願いします。

 特別な組織は作らずに、賛同される方々が、草の根的に広めてくださればよいと思います。

 なお、この構想もひとつのたたき台であるかと思いますので、皆様方のご意見や、ご批判を仰ぎ改善していきたいと願っています。

 ひとまず私が窓口になりますので、御連絡下さい。】

 

 次の文章が本文です。

 

 

『平和省』をつくろう

-----「力の論理」から「愛の論理」へ-----

 

                 伊藤隆二

 

         (1)

 人は皆、世界の平和を望み、誰もが平和に生きたいと願っています。その望みや願いは、、、、、生きることの根幹をなすものであることから、最近、「平和的生存権」という概念が生まれています。平和を望み、平和に生きるのは基本的人権だ、という意味です。しかし、誠に残念ながら、「平和的生存権」は有史以来、完全に保障されたことがありません。それどころか「人類の歴史は戦争の歴史であった」といっても過言ではありません。

 なぜ人は戦争するのでしょうか。その要因は多様ですが、単純化すれば、自分(自国や自民族)が相手(他国や他民族)よりも多くの利益を得たいと望み、それが阻止されれば攻撃する、それが戦争の主要因といってもよいでしょう。そして攻撃する方が相手よりも強ければ、多くの利益を得ることになります。それは「力の論理」といわれます。今、その「力の論理」を廃棄することが求められているのです。

 では、いったい戦争の利益とは何でしょうか。かつて日清戦争に勝利し、意気軒昂のわが国が、無敵帝政ロシアといえども、必ず打ち破ることができる、そして「東洋永遠の平和」を実現する、と為政者が高唱し、国民の聞にも日露開戦論が高まっていた最中の1903(明治36)年に、内村鑑三は『万朝報』(同年6月30日付)誌上に「戦争廃止論」を発表しました。「戦争の利益は強盗の利益である、(中略)盗みし者の道徳は之が為に堕落し、其結果として彼は終に彼が剣を抜て盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償はざるに至る、若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。(中略)戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である。」

 

          (2)

 では、人類が「大愚の極」と称すべき戦争を性懲りもなく繰り返してきたのはなぜだったのでしょうか。私は、これまでの教育が誤っていたからだ、と結論したいのです。

 太平洋戦争が終った、その翌年、中学生になった私が、何の迷いもなく、将来は教育の世界に身をおき、正しい教育を推進することを決意したのは、国民学校六年生であったときに住んでいた町が米軍機によって空襲されて焼け野原と化し、千人近くの住民が死傷したのを目の当たりにし、子ども心に戦争の愚かさが身にしみたからでした。そして、二度と戦争を起こさない社会を築く人間の教育に取り組むことを一生の仕事にしたい、と望んだのです。

 その私が学生時代に内村鑑三の「非戦論」を知り、また彼の弟子の矢内原忠雄の「平和教育論」を学ぶことで、いよいよ平和をつくり、平和に生きる人間の育成こそを他のすべてのことに優先しなければならない、という信念を強く抱くに至りました。そして「力の論理」によって虐げられている人たち、いわゆる弱者が幸福に生きられる社会の実現のための教育の研究に打ち込み始めました。

 しかし、現実の教育の根底には依然として「力の論理」が深く根を張っていて、強者が弱者を踏み台にして己れの利益を得ることを目指す人間に仕立てる教育が猛威を振るっています。「受験戦争」という流行語はそのことを象徴しています。そのことは他の先進諸国においても同じです。例えば英国の評論家・リード(Herbert Read)が1949年に著した『平和のための教育』で次のように嘆いていました。「われわれは、現在の教育によってわれわれの子供たちを、競争の激しい分裂した社会に適応させようとしている。攻撃本能はすばらしい機会を与えられている。が、その攻撃本能は、他の子供たちに向けられているのである、席次と成績と進級のために、休むことを知らない闘争がつづけられている。つまり、われわれは人間に差別をつけるために−−−分裂させるために教育を行っているのである。こうして、われわれのすべての努力は、社会の分裂をつくりだすために費されているわけである。」

 

         (3)

 内村鑑三に戻ると、彼の訴えにもかかわらず、日露戦争が、さらにわが国が三国同盟の一つとして参加した第一次大戦が勃発したことを心底より憂えた彼は、1926(昭和元)年に「戦争のない文明」を築こう、という趣旨の論文(英文)を発表しました。「いつの日か日本は、50年前に武土の武装を解除したように、軍備を放棄し、国家としての”新しい文明”を全世界に布告することを祈願する。」

 それは戦争放棄をうたった『日本国憲法』(以下、「憲法」)が制定される20年前のことでした。

 一方、同じ頃、米国ではボーラー(W.E.Borah)

による「戦争非合法化」運動が起こり、また、仏国では「パリ平和条約」案が提出されていましたが、ついに1946(昭和21)年2月3日に、わが国は世界で初めての、戦争の永久放棄、軍備・交戦権の否認を宣告した「憲法」を制定し、公布したのです。人類史上の快挙といってよいでしょう。

 吉田内閣の文部大臣として「憲法」の国会審議に携わった田中耕太郎は当時、国会において次のように述べています。「戦争放棄は、西洋の聖典にもあるように、剣を以て立つ者は剣に滅ぶと云う原則を根本的に認めることだ、(中略)仮に日本が不正な侵略をうける場合があっても、それに対し抵抗することによって被る莫大な損失を考えると、日本の将来の為に戦争放棄を選ぶべきだ、(中略)戦争放棄は決して不正義を認容するという意味をもたない、(中略)個人の人格の尊重に基づく共同の福祉に貢献しうる人間を養成することが教育の目途であり、理想である。」

 後に首相になった石橋湛山は「わが国はこの憲法をもって世界国家の建設を主張し、自ら其の範を垂れんとするもの」であり、その瞬間、もはや日本は敗戦国ではなく、「栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる」と明言しました。

 この「憲法」を高く評価し、われわれは見習い、恒久世界平和の礎にしなければならない、と主張する外国人がふえてきています。例えば、ノーベル賞を受賞した、ハンガリー生まれの生化学者・セント=ジェルジ(Albert Szent=Gyorgyi)は次のように述べています。「政策遂行の手段としての戦争を否定し、軍隊を保持しない日本は、もし一国の安全ということがあるとすれば、全世界でもっとも安全な国です。」

 

         (4)

 元米国上院外交委員長のフルブライト(J.W.Fulbright)もまた、同様、日本に強く期待していました。

「日本ほどの大国が政治目標として非武装、非軍事国家に徹する姿勢を守ってきたことは他に類例がなく、世界史的にみても今日、非常に意義が大きい。(中略)私は日本の平和憲法とそれに基づく国連中心外交、非武装政策を最も高く評価する一人だ。私が望むのは、日本が大国にふさわしい知恵と金と設備、人材を提供して、世界平和のための貢献をしてほしいということだ。平和維持に軍事力以外の方法があることを身をもって示し、米国に範を垂れてほしい、と願っている。」

 さらに駐日米大使であったライシャワー(Edwin O.Reischauer)は「平和憲法はいつの日か世界平和を照らす灯明となるだろう」と書き遺していました。平和運動家のダグラス・ラミス(C.Douglas Lummis)もまた、「世界の平和運動の先頭に立ち、『平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め』る国民は、膨大な軍備を抱え込む国よりも安全であると信ずることによって道を探りうるという、この考えは現代の常識に反する。だが現代の常識は狂っている。(中略)私はこの日本の常識はむしろ、健全な世界における普遍的な常識となると考える。(中略)冷戦が始まっていらい今ほど、世界の世論が日本人の平和主義の声に耳を傾けようとしている時代はない」と明言しています。

 もう一人の平和運動家のオーバービー(C.M.Overby)は1991(平成3)年以来、「日本国憲法第九条」を「地球憲法第九条」にする運動(「第九条の会」)を展開しています。その一つの提案として、どの国も「良心的参戦拒否国家」になって、その代替奉仕サービスとして、例えば人口増加を抑える、世界飢餓と貧困を克服する、通常兵器の輸出入による移転を止める、非暴力行動と紛争解決の啓蒙を行うなど、11項目を挙げています。そして特筆すべきことは1999(平成11)年5月にオランダのハーグで開かれた主催の「ハーグ平和市民会議」で、「憲法」第九条を「21世紀の平和と正義への課題」として採択し、「各国議会は日本の憲法第九条を見習い、自国政府に戦争をさせないための決議を採択すべきである」という文言を「公正な国際社会のための基本10原則」の第一項に掲げられたことです。機が熟しつつあるのです。

 

         (5)

 この機に臨み、私はわが国政府が『平和省』を設置し、恒久世界平和の実現のために総力をあげて寄与することを提案したいのです。その『平和省』は、例えば次のような部局から構成されます。

「平和研究局」=人類史を繙き、これまでに勃発した戦争を徹底的に分析し、人間が戦争する諸要因を解明し、戦争が二度と起こらない方策を研究する。そのためには平和研究に真撃に取り組んでいる内外の学者を嘱託にして、国際的規模での大掛かりな研究体制をつくる必要がある。

 

「軍縮促進局」=核兵器はいうまでもなく、あらゆる武器を地上からなくすための方策を打ち立てる。そのためにはまずもってわが国が「憲法」第九条の規定を守り、今、所有している武器を全廃することで範を垂れ、世界の国々に自ら武器を捨てることを促す必要がある。

 

「平和維持局」=世界のどこかで飢餓や災害など、援助を必要とする事態が発生したときは直ちに出向き支援する。そのためには予め人材を養成し、人とものを輸送するための船や飛行機などを用意する必要がある。現行の自衛隊を「平和維持隊」に編成替えすることをすすめる。

 

「平和留学生援護局」=諸外国から平和研究を目的とした留学生を受け入れる制度をつくり、その世話をする。そのためには米国の「教育交流計画」(フルブラィト制度)を参考にし、特に発展途上国からの留学生を多く迎える。留学生は帰国後、各自の国で平和活動に励むことが期待される。

 

「平和教育局」=幼児期から平和な世界をつくる人間になるための教育を推進する。また、平和維持のために活躍する人材養成も担当する。そのためには「平和は人なり」の格言どおり、まずもって教育に当たる人(親・教師など)自身が非暴力に徹し、あくまでも平和に生きる人間である必要がある。家庭教育・学校教育の目的は平和を愛する人間の形成にあることを普及徹底させる。

 わが国政府は、世界の諸国に対して、それぞれの国の政府にも『平和省』の設置を呼び掛け、やがて各国の『平和省』が連繋し合い、世界的規模での平和の創造に尽くすことを訴える役割を果たすべきです。同時に、各国の一般市民間の「平和交流」を盛んにする必要もありましょう。

 

          (6)

 世界で初めて原爆を投下され、戦争、特に核兵器を使用した戦争のおぞましさが骨身にしみた日本人の一人ひとりに対して神は「恒久世界平和を創造する者になれ」という、、、、、特別の使命を与えられました。その具体的な指針が「憲法」です。然り、この「憲法」は世界の「宝」です。そのことを知った諸外国の人びとは、例外なく、日本人がその、、、、、特別の使命を真摯に果たすことに大きな期待を寄せます。

 しかし、日本政府には未だに『平和省』が設置されていません。また、日本の学校は平和を創造する人材の育成に積極的に取り組んでいません。それどころか、いたるところに「力の論理」がはびこり、勝者のみが礼讃されています。今から50年以上前にH・リードが嘆いた「競争の激しい分裂した社会に適応させ、さらに人間に差別をつけるための教育」が猛威を振るっています。

「力の論理」がはびこっているのは日本だけではありません。「強い国」は競って軍備を拡張し、他国に睨みを利かせ、恐怖感を煽っています。それらの国では「富国強兵」のスローガンを堅持しています。表画的には平和を装っていても、一皮むけば覇権主義は見え見えです。世界中の人びとの「平和的生存権」が蹂躙されているのです。私たち日本人は「力の論理」で動いている世界を、誰もが互いに人格を尊び、赦し合い、扶け合うことを正義とする「愛の論理」による人類共同体に転換させる役割をしっかり果たすことが、今、世界中から求められているのです。(文中、敬称を略しました)

 

 

 

 

[インド・ネパール篇]

             大塚美和子

第12回

 

 

 棒立ちになったまま、最後の声をふり絞って絶叫すると、その声が届いたのか、列車はゆっくりと止まりだした。

 その一瞬を見逃すまいと、両手にカレーを乗せたまま列車に飛び乗った。

「ハハハ、列車が出発すると思ったんやな」

 野村くんは、興奮している私を笑っていた。

「笑うことないじゃない、本当に驚いたんだから」

「ほら、落ちついてよく動きを見てみな。この列車は停車中は、常に動いたり止まったりするんや」

 彼の言う通り、再び列車が動きはじめたと思うと、またピタリと止まった。しばらくの間その繰りかえしで、窓景色は少しずつ前方へと移っていた。そうしているうちに、列車はついにプラットホームを抜け、闇の中へと入っていった。

 そうか、あの停車中の動きは出発合図だったのか。またひとつ、インドのシステムを発見した。

 一見おいしそうに見えたカレーは激辛だった。一盛りのライスが添えてあるのがせめてもの救いだった。私たちはヒーヒーいいながらそれを頬張る。

 人々は、使ったカレーの皿やチャイの容器を窓から放り投げている。チャイの容器は、カコーンという地面を跳ねたような音をたてていた。カレーの皿はバナナの葉っぱをプレスして作られていたが、ここのチャイはプラスチックのカップだった。人々は、プラスチックもバナナの葉っぱと同じように投げ捨てていたのだった。

 ようやく激辛カレーを食べ終えた頃、東の空が蒼く染まっていった。

 

 列車がガンジス川の鉄橋を音を立てて渡ると、どこからか歓声が聞こえてきた。通路に寝ていた老婆もすぐさま起きあがり、窓にしがみついてガンジス川を見つめている。

 川を越えると、もうそこはヴァーラーナスィーだった。人々は次々と棚から荷物をおろし、座席を離れて通路に出てきた。私たちも押されないように、素直に人の流れに従って立ちあがる。

 これが、ヒンドゥー教の聖地ヴァーラーナスィーか・・・。人々のざわめきは、聖地をあがめる余興のようだった。

プラットホームを横切り、駅の構内をでると、空気はまだ冷えきっていた。あたりは朝もやで包まれ、そのなかではリクシャーのエンジンが威勢よく鳴り響いていた。朝もやが薄くなると、何十台ものオートリクシャーが次々と客を乗せて発車しているのが見えた。

「おい、おい、乗れ乗れ」

「どこいく、まけるぞ」

 数台のリクシャーが私たちを見かけると、声をかけてきた。

「さあ、行くぞ」

 野村くんは、リクシャーの声に反応した私を咎めるように、服をひっぱってどんどん歩いていく。

「これや、これ」

 彼の独断で一番ボロそうなリクシャーに決めると、ドカドカと乗り込んだ。

「ねえ、今からどこに行くの?」

 慌ててリクシャーに乗りながら訊く。野村くんはリクシャーに場所を告げると、すぐエンジンをかけさせた。

「クミコという、ガート(沐浴場)沿いの日本人宿に行こうと思っているんや、俺の友達がそこに泊まっているかもしれないんでな」

 乗ったときは気づかなかったが、リクシャーの格好をまじまじと見てみると、その怪しさには目をみはった。顔や肩を毛布で覆い、目玉だけがギョロギョロと動いている。後ろ姿はさらに不気味で、黙々と運転し、こっちの様子を伺うこともない。地獄に連れていくんじゃないかと思ってしまった。この朝もやと神秘的な土地柄が、そんな気にさせるのだろうか。

 リクシャーは、沐浴場の手前で私たちを降ろすと、何も言わずにUターンして去っていった。うっつ!

 地面に立つと、なぜか急に腹痛を感じた。下痢のような重い痛みが下半身を駆けめぐり、便意が出口を探し求めて下腹部を圧迫しはじめる。

 額に冷汗を滲ませながら腹を抱えていると、

「どうしたんか、腹でも痛いんか?」

 と野村くんが顔を覗き込んできた。

「ちょっとね……。おかしいな、変な物食べたっけ?」

「列車のカレーかいな。せやけど、俺も食ったで」

 そうだった。同じ物を食べたのに、私だけが腹痛になるのはおかしい。あれこれと原因を考えたが、身に覚えがありすぎて、考えるだけ無駄だった。なにしろ今まで、ほとんど衛生に気をつけたことがなかったのだ。

 ガートの側を通ると、ガンガー(ガンジス川)が豊かな水を湛えてゆっくりと流れている。そこでは、朝日を浴びながら川の中へ入って沐浴する人々の姿があった。

 本来なら初めて目にするこの聖地のシーンに感動するはずなのだが、腹痛のお陰でそんな場面でさえもどうでもよかった。頭にあるのは便器だけ。一刻も速く便器があるところにたどり着いて、この不快感をぜんぶ出したい。足元と視線はひたすらトイレを求めて蠢いていた。

 川沿いに歩いていくと、大きくローマ字で『KUMIKO』と書かれた塀が見えてきた。

「あ、あれや、あれがクミコや!」

 そう言うと、その塀に向かって走りはじめた。塀の向こうにクミコという日本人宿があるらしい。

 日本人宿には興味はなかったが、あそこに便器があるという希望に駆られて、彼の後へとついて行く。塀をくぐると、甲高い声が聞こえてきた。

「ここは、もう満員だよ。悪いけど他の宿に泊まってくれ!」

 暖簾の奥で日本人の女将さんとインド人の旦那さんが、そう告げていた。次々と押し寄せてくる日本人旅行者にうんざりしていたようだった。

 ドミトリーらしい部屋の奥では、五〜六人の日本人が肩を寄せ合いながら雑魚寝をしていた。長旅のせいか、この喧噪な国柄に嫌気がしたのか、みんな疲れ切った顔をしている。

「トイレに入りたいんだけど、どこかな?」

 毛布にくるまっている一人に訊いてみると、

「今朝からトイレには下痢をしている男性がこもりっきりなんだよ、病気かもしれないんだ」

 という返事が返ってきた。トイレに入れないと意味がないので、私はこの宿を退散するしかない。

「そんな、冷たいこと言わんといて泊めてくれ。友達がここに来るかもしれんや」

 野村くんの方は、まだ諦めきれないようで、女将さんに必死に懇願している。

「じゃあ、がんばってね。私は別の宿当たってみるから」

「おうよ」

「じゃ、またね」

 私たちはお互いの住所も訊かず、またの再会も約束しないまま手を振った。また何処かで会えるかもしれないという運命に懸けて、サラリと別れた。また旅路が一緒になったら、その時はつるもうぜ。お互いそんな台詞を胸にしていたのかもしれない。

 ググキュルルル、一人で宿を目指して歩いていくと、お腹までがトイレの別れを惜しんだように唸りはじめた。お腹には悪かったが、もう少し我慢してもらわなくては。

 ガートの近くは宿街らしく、たくさんの宿がたち並んでいた。黄ばんだ石づくりの建物の中へと足を踏み入れてみる。

「こんにちわー! ここに泊まりたいんですけど!」

 インド人並の大きな声を張りあげた瞬間、いきなりお尻に激痛を感じた。

 コケーコッコ、コケーコッコ!

 足元に目をやると、二匹の鶏が私のお尻を啄んでいるではないか! しかも便意をわざと促すかのように、背後から下半身めがけて集ってくる。

「ひえーー!」

 何が起きているのか全く分からずに右往左往していると、

「あなた、旅行者ね。ここは宿じゃないわ」

 まだ私の腰ぐらいしかない背丈の女の子が、塀の垣根の側で立っていた。彼女は大きな目をくりくりさせながら、クスクスと笑っている。情けない姿をしっかりとキャッチされていたのだった。

「あ、そうなの。間違えちゃった。ハハハハ。さようなら」

 恥ずかしさの余り、あわててお尻を隠し、後ろ向きで去る。

 便意の方はすでに限界までに催していた。もうこうなったら、建物の影で用を足してしまうしかないっ、旅の旅はかきすてというじゃない。

 そう決意して適当な場所を探していると、背後から誰かに裾を引っ張っぱられた。

「こっちよ」

 よく見ると、さっきの鶏小屋で見かけた少女だった。手招きしてついてこいと言っている。とりあえず彼女に身を委ねて歩いていくと、ゴミだめで行き止まりだった。からかわれたのかと思い、立ち去ろうとすると、ごみ溜めの背後には、ホテルガンガーと書かれたコンクリートの建物がそびえたっていた。

 なんだ、そういうことだったの。ひとまず胸を撫でると、少女はニコッと笑い、忽然と姿を晦ましてしまった。彼女の姿をもう一度目で追ったが、跡形もなかった。あの少女は一体何者なんだろう、バクシーシも要求しなかったということは、なんの作意も無しにただ助けてくれただけなのか。

 ホテルの中へと足を忍ばせると、古ぼけた机がコンクリートの階段の脇に置かれている。『チェック』と書かれた紙が張り付けてあるということは、この机がフロントらしい。

「すみませーん、だれかいませんか!」

 そう叫ぶと、声が不気味なほどコンクリートの壁に大きく反響する。

 リュックをクッション代わりにして座り込んでいると、階段の上の方からサッサッとほうきで履く音が聞こえてきた。

 やせ細った一人の老人が腰を屈めながら、剥げたコンクリートの階段を一段づつ懸命に履いていた。ほうきを持つしわだらけの腕が弱々しい。日本ではとっくに定年を過ぎている年齢だが、この老人はこの歳でも宿の従業員をやっているらしい。

「ここに泊まりたいんだけど」

 何気なく声をかけると、その老人は片手で待ってくれと合図し、また息を荒くしながら階段を上っていった。少しすると、代わりに小太りの男が階段から下りてきて、

「チェックインか?」

 と怪訝そうな顔で訊いてくる。

「ドミトリーに泊まりたいんだけど、空いてる?」

「今はいっぱいだ。二日後には空くと思うが」

「シングルはいくらなの?」

「六十ルピーだ(二百円)シングルなら空いている」

「いいよ、そこでいい!」

 どこでもいいから一刻も早くトイレに行きたかった。素早く手続きを終えると、弾丸のようにトイレに駆け込む。

 それから二日間、私は放心したようにトイレの壁をずっと見つづけていた。

 

 空腹のあまり目が覚めた。そういえばこの街に来て以来、腹の調子が悪くて、まだ何も口にしてない。

 部屋のドアを開けて階段の踊り場へと出ると、そこには二〜三人の白人がテーブルを囲んで楽しげに話していた。観光地だけあって、たくさんの旅行者がここの宿に泊まっているらしい。破れたTシャツや黒ずんだズボンを履き、自由を求めて放浪しているような姿をしていた。

「ハーイ」

「はぁーい」

 そのうちの一人がウインクをしてきたので、挨拶を交わした。彼女はテーブルに山済みにされたバナナをもしゃもしゃと頬張っている。

 熟した甘いバナナの匂いに生唾を飲むと、

「あなたも、バナナどう? 今さっき市場で買ってきたのよ」

 と心情を察したのか、バナナをさしだしてくれた。

 彼女は、アナという名前のデンマークから来た旅行者だった。となりに座っているエバという白人も彼女の連れだという。

「私たちは、これからネパールに行って、それからあと一年かけて陸路でベトナムまで旅をするの」

 その穏やかそうな顔からは想像できないような、そんな過酷な旅のプランを教えてくれた。

「へえ、ネパールか。いいな、私も行きたいな」

 彼女の積極的な計画を訊いているうちに、私の気持ちも駆りたてられる。

 ネパールには、特に行く予定も立ててはいなかったが、この際、ついでだからいいかもしれない。私のような顔のネパール人も、あの壮大なヒマーラヤ山脈も一度は目にしてみたい。

 デンマークの彼女とは、すっかり意気投合し、知らずのうちに全部のバナナをたいらげてしまった。

「ねえ、明日一緒に沐浴見に行かない? ボートに乗って川から見るのよ。朝日でとっても見応えがあると思うわ」

 アナは、バナナの皮を片づけながら、私に再びウインクをして言った。

 軽快な足取りで、外へと足を踏み入れると、まわりの景色が眼にくっきりと浮かびあがってくる。道端で座り込んでいる牛、木陰で商売に精をだすチャイ屋。

 体調が良くなったせいか、この前の景色とは、まったく違うように思えた。視界が世界が開けて見える。何もかもが雨あがりのように鮮明に映り、土が雨水を吸収するように、存在するもの全てが心へと浸透されていく。

 溢れんばかりの水を運ぶガンガーの河畔から、遠くにうっすらとした一筋の煙が立ちあがっているのが見えた。

 それは、あきらかに火葬場だった。神聖なものに対して不謹慎かもしれないが、実はこの火葬場、結構楽しみにしていたのだった。人間が焼ける様子など、滅多に拝見できなるものではないので、きっと強烈な印象を与えてくれるはず。

 この河畔では火葬が行なわれ、遺灰はガンガーに流される。遺灰が聖水に浸かることによって、精霊は浄められて輪廻の解脱を得られる。そして沐浴すれば、全ての罪は浄化されるのだった。この河のほとりでは、人々が祈る川のなかに遺灰や死体が流され、ヒンディー教徒にとってあたりまえのことが繰り返されていた。

 

         次号に続く

 

                    あとがき     

 11号を発行したばかりですが、【「平和省」をつくろう】の提言を一刻も早く伝えたくて、今回は特別号というような気持ちで急いで作りました。是非あなたの感想を届けてください。賛同してくれる人は、身近な人に伝えてください。本文だけのパンフレットもたくさん作りましたので、欲しい人には何部でもお送りします。

 インターネット上では、既にかなりの反響がありました。今【「平和省」をつくろう】のホームページの作成に取り組んでいます。私なりの平和活動として・・・

 一日でも早く平和な世界になることを渇望しています。あなたのような若い人の力こそ必要です。協力してください。

 

             大塚卿之

 

 
一言でも嬉しいですから、otsuka@mail.wbs.ne.jpの青字をクリックして御意見や御感想のメールをください。

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