香港に映画というものが伝わったのは1896年。
香港最初の映画製作会社が誕生したのが1922年。
1930年代に入り、香港映画もサイレントからトーキーへと移行した。
日中戦争の勃発に伴い、多くの上海の映画人が香港に逃れてくるようになる。
抗日愛国映画は1941年12月の日本軍による香港占領まで作られ続けたが、日本に占領された後の香港では、映画人は日本の手先となって映画を作ることを拒否し、1945年8月の日本降伏まで、香港映画は一本も作られなかった。
香港映画黎明期・戦後
戦後、映画製作を再開した香港映画界は、香港出身映画人による広東語映画界と、中国大陸から南下してきた映画人による北京語映画界の二つに明確に区別され、その後長期にわたって熾烈な競争を繰り広げる事になる。
戦前から、広東語映画の一般的なイメージは「泥臭くて下品な低級娯楽」というものであった。
1930年代〜50年代にかけて製作された広東語映画のうち、全体の約40%を占めるのが「粤劇(えつげき)映画」と呼ばれていた広東オペラ映画だ。
戦後まもなく、剣劇映画が再び製作されるようになる。
1949年、クワン・タッヒン(關徳興)主演の世界最長の映画シリーズ“黄飛鴻”ものの第一作が封切られ、大ヒット。
政治的なテーマが剣劇映画の中に多く現れ始めたのもこの時代からである。
一方の北京語映画界は、上海映画の雰囲気を色濃く残す作品を多く製作していた。
特に人気があったのが、歌が何曲も挿入される「歌謡映画」だった。
香港映画黎明期・1950年代〜60年代前半
1950年代、スター俳優が次々に誕生し、両映画界の熾烈な競争は、さらに激しくなっていった。
広東語映画界においては、剣劇映画の人気が下降し、1953年には製作本数も過去最低に達してしまう。
60年代になると粤劇映画が急激に衰えを見せ始め、広東語映画全体の5%を占める程度まで落ち込んでしまう。
北京語映画界は順調に人々の支持を獲得し、製作本数も広東語映画に迫る勢いであった。
両映画会社はグレース・チャン(葛蘭)、パイ・コァン(白光)、リー・シャンラン(李香蘭)、リー・リーホァ(李麗華)、リン・ダイ(林黛)、リン・ツイ(林翠)、ロー・ティ(樂蒂)等の人気女優の引き抜き合戦に火花を散らして華やかさを競った。
広東オペラの劇場で演目の一つとして北京オペラや上海オペラ等の京劇をそのまま映画化したものが中国大陸から持ち込まれて上映されたのが最初だ。
1928年には、クンフー映画の原点である剣劇映画の第一作『紅蓮寺炎上』が制作され大ヒットした。
『紅蓮寺炎上』のヒットに促され、『青龍寺炎上』や『九龍山の火事』等々、ご都合主義の炎上物が数限りなく作られた。
『女用心棒』『山東のならず者たち』『白芙蓉』『荒江の烈婦たち』等、数多くの剣劇映画が製作され、「剣劇映画の黄金時代」と呼ばれた。
しかし、1931年の満州事変以降状況は一変し、抗日愛国映画が民衆に歓迎され、剣劇映画の人気が低迷。
さらに中国政府の言語統一規制により、広東語映画の製作、上映が禁止され、北京語映画が製作されるようになる。(後に、この規制に反対した香港映画人の尽力により規制は緩和される。)
彼らが香港で作り始めた北京語映画は、「広東語映画よりも上品で格調が高い」と香港人からも人気を集めるようになるが、この時点では、まだ広東語映画の製作本数の方が上回っていた。
このイメージに対して広東語映画人は「下品だ、低級娯楽だと言うが、これこそが真実の香港の姿だ」と反論し、セックス描写や暴力を取り入れた現代劇作品を作るようになる。
これに対して上海から来た北京語映画人たちは、1949年に「広東語映画清潔運動宣言」を発表し、広東語映画の内容と共に広東語映画人の製作態度を見直すように訴えた。
この運動の結果、広東語映画人も、「良質の広東語映画」を製作することに目を向けるようになり、社会の矛盾を描いたものや、文芸作品などが増えていくようになる。
男優ではン・チョーファン(呉楚帆)、チョン・イン(張瑛)、チョン・ウッヤウ(張活游)、女優ではバク・イン(白燕)、ウォン・マンレイ(黄曼梨)、ホン・シンノイ(紅線女)等が現代劇作品で活躍した。
広東地方の伝統的な舞台演劇の演目から映画の題材を採り、同時に舞台俳優をそのまま映画俳優として起用する場合が多かった。
特に“男装の麗人”と呼ばれた女優、ヤム・キムファイ(任劍輝)が大人気で、彼女は引退までに300本以上もの映画に出演し、50年代の粤劇映画全盛時代を築くことになる。
主に戦前の上海映画のリメイクや時代劇小説を映画化したものが人気を呼び、人間には不可能な「超自然的な才能を持ったヒーロー」が登場する作品が数多く作られるようになる。
ヒーローが使う武器もそれまでの単なる剣や槍ではなく、飛剣や炎の槍などの非現実的な効果を出すものが好まれた。
ちなみに、この頃の剣劇映画は空想的剣劇映画と呼ばれている。
この作品は剣劇映画ではなく、「素手による戦い」つまり、記念すべき「クンフー映画」の第一弾でもある。
この影響で、剣劇映画の主人公も超自然的な才能を持ったヒーローよりも、現実的な人物が主人公の作品が好まれるようになる。
例えば、標的に向かって剣が空を飛ぶのではなく、剣士が直接敵を斬るという、ごく当たり前の表現方法が初めて使用されるようになったのだ。
“方世玉”もののように主人公が体制の反逆者である時もあれば、『七人英雄五人勇姿』のように本質的に政府側の人間であることもあったが、いずれの場合も超自然的な能力に恵まれているという設定にはなっていなかった。
戦後、中国大陸を離れて香港に南下してきた多くの戦争難民たちに支持され、広東語映画よりも洗練された映画は、次第に元々香港にいた人々も魅了していくようになる。
女優パイ・コァン(白光)やリー・リーホァ(李麗華)が人気で、彼女たちが劇中で歌った歌が、そのまま流行歌となった。
また、後にブルース・リー(李小龍)作品の監督で有名になるロー・ウェイ(羅維)が、歌謡映画の俳優として活躍し、なかなかの人気だった。
不調の原因は、粤劇映画とクワン・タッヒンの黄飛鴻シリーズが人気を二分していた事と、黄梅調映画と称される北京語映画の人気が上がったためである。
また、コメディ映画や社会派現代劇も人気となり、剣劇映画の人気低迷以外の面では広東語映画界は絶好調であった。
これは、広東オペラ自体が若い世代に敬遠され始めたためで、結果的には70年代に3本製作された後、粤劇映画は香港映画界から姿を消してしまう。
若い世代に支持されたのは青春映画で、チャン・ポージュ(陣寶珠)やジョセフィーン・シャオ(蕭芳芳)ら女優が特に人気があった。
この北京語映画界の隆盛を支えたのは二つの映画会社だ。
まず1956年にロク・ワントー(陸運濤)率いる『キャセイ・オーガナイゼーション(國泰機構)』を母体とする『MP&GI(國際電影懋業公司)』が設立。
続いて1959年にはランラン・ショウ(邵逸夫)の『ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟香港有限公司)』が設立された。
この二つの映画会社の熾烈なライバル争いが繰り広げられ、次々と映画が製作されるようになり、この結果、香港は東南アジア最大の映画市場となる。
まず、歌謡映画の分野で『四千金』『空中小姐』等をヒットさせたMP&GIが一歩先んじる。
ショウ・ブラザーズは、黄梅調映画の『江山美人』で巻き返し、続いて、超ヒット作品の『梁山泊與祝英台』でMP&GIに決定的な差をつける。
この『梁山泊與祝英台』は、当初リー・リーホァ(李麗華)とユー・ミン(尤敏)主演でMP&GIが制作する予定だったが、その話を聞きつけたショウ・ブラザーズが急遽制作を決定。
ロー・ティ(樂蒂)と新人同様のリン・ポー(凌波)を起用して大急ぎで作り上げて公開したのだった。
MP&GI版の『梁山泊與祝英台』は、ほとぼりが冷めた頃公開されたが、全くヒットせず、MP&GIは大打撃を受ける。
加えて1964年には、MP&GIの社長・ロク・ワントーが飛行機の墜落事故で急逝する。
これにより両社の争いは、実質的にショウ・ブラザーズの勝利となり、1970年代後半まで、ショウ・ブラザーズが「香港映画界の帝王」として君臨することになる。