ショウ・ブラザーズ黄金期

ショウ・ブラザーズの台頭

 60年代後半の香港は繁栄に向かって歩み始めたのと同時に、中国の文化大革命の影響などもあり騒然とした社会状況が出現する。
経済発展の代償として、今まで以上の社会的不公平と貧富の差を生みだし、その結果1967年7月5日、労働者達は香港大暴動という形で爆発した。

 そのような社会情勢の中、香港映画界も大きな変化を見せていた。
一番大きな変化は、北京語映画界の状況である。
それまでの北京語映画界は、黄梅調映画文芸映画を二本柱として製作し、剣劇映画クンフー映画は製作していなかった。
ところが、若い世代が広東語映画界の剣劇映画やクンフー映画を支持し、黄梅調映画が敬遠されはじめた事により、北京語映画界は窮地に立たされる。

 そんな北京語映画界の危機を救ったのが、ランラン・ショウ率いる『ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟香港有限公司)』
1965年、ショウ・ブラザーズは清水湾に“邵氏影城”と呼ばれた巨大スタジオを建設。
 また、自社の製作面の充実を念頭に置き、日本の日活や東宝から井上梅次、中平康、島浩二、古川卓巳、村山三男といった監督や、名カメラマン西本正ら優れた人材を招き、彼らの技術や知識を自社の人間に貧欲なまでに吸収させていった。
 ほかにも俳優育成の目的で「南國實験劇團」という俳優訓練所の設立や、ショウ・スコープと呼ばれるシネマ・スコープの開発、さらには北京語と英語の二段字幕の使用など、斬新な企画を次々と打ち出した。

 そして1966年、ショウ・ブラザーズはついに黄梅調映画に見切りを付け、剣劇映画やクンフー映画のジャンルに進出した。
 口火を切ったのは、チェン・ペイペイ(鄭佩佩)を一夜にして“剣劇の女王”へと押し上げた、キン・フー(胡金銓)監督の大傑作『大酔侠』だ。
若いときから京劇に傾倒していたキン・フーは、綿密な人物描写に加え、素早いカット編集とリアルな殺陣を京劇にミックスさせた“京劇アダプテーション”という手法を『大酔侠』で試み、それが大成功を収める。
 この成功によってショウ・ブラザーズは次々と剣劇映画やクンフー映画を製作するようになり、「香港映画=クンフー映画」という図式が、この時から本格的にスタートするわけである。

チャン・ツェーとジミー・ウォング

 『大酔侠』撮影後、キン・フーはショウ・ブラザーズを離脱し台湾に渡る。
そして1967年に発表した台湾第1作の『残酷ドラゴン/血斗!龍門の宿』が、東南アジア一帯で空前の大ヒットを記録し、彼の名は一躍世界中に知れ渡ることとなった。
 この『残酷ドラゴン/血斗!龍門の宿』は、1968年に北海道でひっそりとスプラッシュ公開されているのだが、ブルース・リー登場以前の日本では、クンフーアクションが受け入れられず、ヒットしなかった。

 キン・フーに去られたショウ・ブラザーズは、新たに優れたアイディア性と確かな技術を持った監督を欲していた。
そして、当時ショウ・ブラザーズの編劇主任を経て、何本かの作品を撮っていた新進気鋭のチャン・ツェー(張徹)監督を大抜擢したのである。

 チャン・ツェーは、1962年に脚本主任としてショウ・ブラザーズに入社し、67年までに20本以上の脚本を担当。その間にも数本の作品を監督し、その評価と地位を高めていった。

 1964年、監督・脚本を兼ねた意欲作『虎侠殲仇』で、チャン・ツェーは一人の若きクンフースターと運命的な出会いを果たす。
この出会いによって、チャン・ツェーは以前より温めていた、彼自身の剣劇映画における理想像を前面に押し出した映画の製作を決意する。
 この映画は、キン・フーの『大酔侠』が切り開いた“旧派剣劇映画”から“新派剣劇映画”への移行という、当時の香港映画界の大きな時流の変化とも見事に合致していた。
その映画こそ、『獨臂刀』という剣劇映画だ。

 この映画において主人公の“片腕の剣士”役に抜擢されたジミー・ウォング(王羽)の存在無くして、チャン・ツェーの開花はあり得なかった。
 この作品の持つ暗く重苦しいストーリー展開と、ジミー・ウォングの悲壮感を帯びた佇まい、そして武術指導を担当したラウ・カーリョン(劉家良)による俊敏なアクションとが見事にマッチして『獨臂刀』は大ヒット。
ジミー・ウォングを一夜にしてアジアのスーパースターへと押し上げたのである。

 その後チャン・ツェーは、ジミー・ウォングを主演に『大刺客』『金燕子』『獨臂刀王』などの作品を次々と発表し、ショウ・ブラザーズをアジア最大の映画会社へと発展させていく原動力となっていく。
 またジミー・ウォングも、それまで香港映画界のスター達が誰も踏み込むことの出来なかった“神聖的な存在”にまで上り詰めていった。
人々は畏敬と憧憬の念を込めて“天皇巨星”と彼を呼ぶようになっていた。

 1969年、ジミー・ウォング剣劇映画に見切りをつけ、自らの初監督作『吠えろ!ドラゴン、起て!ジャガー』で新たにクンフー映画にも挑戦し、見事に成功を収めた。
ランラン・ショウ独裁政権のショウ・ブラザーズにおいて、一俳優が監督業にまで進出したということは、まさに頂点を極めたと言っていい。

 しかし、ジミー・ウォングの天下はあっさりと崩壊する。
ひき逃げ事件、黒社会との癒着、梅子飯店での傷害事件、ブリジット・リン(林青霞)をめぐる痴話騒動など、自らの私生活における数々の不祥事によって社会的信頼を失ってしまう。
そして、ショウ・ブラザーズの契約制度(月給制から生じる薄給)への不満によって告訴した裁判でも敗れ去ったジミーは、一人台湾へと都落ちしていく。
 60年代の終わりと共に、“天皇巨星”の雄姿は香港映画界から寂しく消えていった。

広東語映画界の自滅

 一方の広東語映画界は、相変わらずクワン・タッヒン主演の黄飛鴻シリーズを作り続けていたが、さすがに若い世代には受け入れられなくなっていた。
ジョセ・フィーンシャオ主演の社会派映画やチャン・ポージュ主演のコメディ活劇はそれなりにヒットしていたものの、それ以外の作品はどれも粗製乱造のため、“七日鮮(七日で作られる映画)”と北京語映画人からも嘲笑された。
 1967年までは、かろうじて広東語映画の方が製作本数は多かったものの、翌68年になると、初めて北京語映画の方が製作本数を上回る。
70年代になると、急速に自滅への急坂を転がり落ちはじめ、70年には1本、72年には遂に広東語映画ゼロとなってしまう。

デビッド・チャンとティ・ロン

 ジミー・ウォングを失ったチャン・ツェーであったが、すぐに新たな2人のクンフー・スターの発掘に成功していた。
それが“亜洲影帝”デビッド・チャン(姜大衛)“武林大侠”ティ・ロン(狄龍)である。
 1969年にチャン・ツェーが監督した『死角』で初めてコンビを組んだ2人は、そのフレッシュな佇まいとスピーディーなアクションで、主に女性ファンからの支持を受ける。
翌70年には、2人の代表作となった『報仇』に出演。
この作品は、京劇の世界を舞台にした壮絶な復讐劇で、悲劇的な運命に翻弄されていく兄弟を演じた2人は、本作の大ヒットでアジアの超スーパースターへと登り詰める事になる。
 また監督のチャン・ツェーにとっても、数ある代表作の中で剣劇映画から現代アクションへと変化する分岐点になった作品だ。

 2人の活躍によって香港映画界の帝王の座に君臨していたショウ・ブラザーズだったが、70年代初頭、新たに登場した映画製作会社によって窮地に追い込まれることになる。
その新しい映画製作会社こそ、ブルース・リーを世界のスーパースターに押し上げたゴールデン・ハーベスト社だった。