ブルース・リー(李小龍)

 1940年11月27日、サンフランシスコ生まれ。本名、リー・ジュンファン(李振藩)。
父は粤劇俳優のリー・ハイチュン(李海泉)、母はドイツ系中国人で貿易商の娘だったホー・チンタン(何金栄)
生まれて三ヶ月後には『金門女』に女の赤ちゃん役で出演し、映画デビューを飾る。

 1941年に香港に戻り、6歳の時から名子役として文芸映画などで活躍する。
学生時代には、イップ・マン師父に学んでいた詠春拳をはじめとして、北派武術などの数多くのクンフーを経験。
しかし、あまりにも喧嘩がたえなかったために、18歳で単身渡米することになる。

 サンフランシスコに短期間滞在した後シアトルに移り、ワシントン大学哲学科に入学。
勉学に励むかたわら、駐車場や大学のキャンパスで無料でクンフーを指導するようになる。
中華レストランでのアルバイトで生活費を稼いでいたが、生活は苦しかった。

 1960年、彼の練習生であり良き話し相手だった日系二世のターキー木村の勧めで、初めての道場『振藩国術館(ジュンファン・グンフー・インスティチュート)』をチャイナタウンに開設。ターキー木村はアシスタントインストラクターを務めた。
この道場で、自分のバックグラウンドである詠春拳を母体とした総合的な拳法を指導、彼はこの拳法を“ジュンファン・グンフー”と呼ぶようになる。
ブルースは、詠春拳をより理にかなうように立ち方を変えたり、裏拳などの詠春拳にはない技を取れに入れ、手技の流れをよりスムーズに改良。さらには道教やインド哲学などを自らの武術理論に融合させていった。
また、62年には柔道家のウォーリー・ジェイと出会い柔道と柔術を学び、63年には「基本中国拳法」という技術書を著している。

 1964年、ワシントン州立大学医学部の学生で、彼の生徒でもあったリンダ・エメリーと恋に落ちて結婚。大学は中退する。
2人は、知人の中国系アメリカ人で拳法家のジェームズ・リーが住むサンフランシスコ近郊のオークランドに移住し、彼の家の一室で居候生活を送りながら、オークランドに2番目の『振藩国術館』道場を開設。
ここでインストラクターを務めたジェームズ・リーは、ブルースが考案した練習器具やその他様々なトレーニング器具を自ら作り、中国武術ではあまり取り入れられていなかったウェイトトレーニングも積極的に取り入れるようになる。
ブルースの格闘法はシアトル時代よりも洗練されていたが、ここでも“ジュンファン・グンフー”という呼び名を継続して使っている。

 64年夏、ケンポー・カラテの師範エド・パーカーが主催するロングビーチ世界空手道選手権大会に、ブルースはターキー木村と共に参加。
ワンインチ・パンチ(1インチの距離から相手にダメージを与えるパンチ)やチーサオ(両手をつけ合った状態で回転させながら押し合うスパーリング)など、ジュンファン・グンフーのデモンストレーションを行った。
この時の模様を、エド・パーカーが16ミリフィルムで撮影し、これをハリウッドの20世紀FOXのプロデューサー、ウィリアム・ドジャーに見せたところ、すぐにブルース・リーを俳優として起用する事が決定した。
 また、このトーナメント会場において、ブルースはフィリピン系アメリカ人の武術家・ダニー・イノサントと出会う。
イノサントも1つのスタイルにこだわらず、良いと思ったものはどんどん取り入れるタイプの人間で、2人は意気投合、ブルースの技術の素晴らしさに感動したイノサントは、ブルースに弟子入りする事になった。

 64年秋、ブルースは白鶴拳の達人であるウォン・ジャックマンから挑戦状を叩き付けられ、30秒程度で一蹴してしまう。
しかし、逃げ回る相手との間合いをよりスピーディにうまく詰めるには直線的な動作の詠春拳では対応出来ないため、フェンシングやボクシング等の踵を浮かしたフットワークに優れている格闘技の技術を学ぶ必要性がある事を知る。

 1966年3月、ブルースはテレビドラマ『グリーン・ホーネット』に日本人のカトー役で出演することが決定。
『グリーン・ホーネット』は視聴率が伸び悩み、わずか26話で打ち切られたが、ブルース・リーの本格的なクンフーが人気を博した。
この撮影のため、ロサンゼルスに移住してきたブルースは、ロス在住のイノサントとトレーニングを重ね、シアトル、オークランド時代とはかなり異なる格闘法が出来上がっていた。

 1967年2月、イノサントをパートナーとして3つ目の『振藩国術館』をロスに開設。
この時に、イノサントが授かった3種類の認定書の1つに「Bruce Lee's Jeet Kune Do 截拳道」と書かれいる。
これ以降、ブルース・リーの武術コンセプトを「ジークンドー(截拳道)」と呼ぶようになり、このコンセプトを取り入れた武術が指導されていくわけである。
また、この年に再びロングビーチの国際空手トーナメントでデモンストレーションを行ったブルースは、当時としては非常に珍しい、顔や胴、手などに防具をつけてのフルコンタクトの実戦スパーリングをやってみせた。指割れグローブも、この時に初披露されている。

 その後、テレビドラマに何本か出演するが、これといって重要な役を与えられず、人種的なハンデを痛感、香港に戻ることを決意。
1970年、ゴールデン・ハーベストと契約。
翌71年の『ドラゴン危機一発』と72年の『ドラゴン怒りの鉄拳』が驚異的なヒットを記録し、一挙に香港映画界のスーパースターの座に君臨する。
1972年には、自らのプロダクション、コンコルド・ピクチャーズを設立し、製作・監督・脚本・主演の『ドラゴンへの道』を発表。
73年には、ワーナー・ブラザーズとの合作『燃えよドラゴン』に出演したが、完成直後の1973年7月20日、32歳の若さで急死した。

出演作品リスト
制作年作品名
1941金門女【未】
1946細路祥【未】
1951人之初【未】
1952富貴浮雲【未】
1952孤星血涙【未】
1953人海孤鴻【未】
1957雷雨【未】
1965ドラゴン拳法
1966グリーン・ホーネット(TV)
1968ブロンディ(TV)【未】
1969鬼警部アイアンサイド(TV)
1969ヒア・カム・ザ・ブライス(TV)
1969サイレンサー/破壊部隊(TV)【未】
1969かわいい女
1971復讐の鬼探偵ロングストリート(TV)【未】
1971ドラゴン危機一発
1972ドラゴン怒りの鉄拳
1972ドラゴンへの道
1973燃えよドラゴン
1978死亡遊戯
※『死亡遊戯』のブルース・リー出演シーンは、1972年に撮影されている。


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