ゴールデン・ハーベストの台頭

ゴールデン・ハーベスト設立

 1969年、ショウ・ブラザースの製作本部長を務めていたレイモンド・チョウ(鄒文懐)は、ランラン・ショウの第二夫人的存在だったモナ・フォン(方逸華)と何度となく衝突。
そして翌70年、相棒のレナード・ホー(何冠昌)ロー・ウェイ(羅維)夫妻を引き連れて、ついにショウ・ブラザーズを離脱し、『ゴールデン・ハーベスト社(嘉禾影片公司)』を設立した。
 しかし、設立当初のゴールデン・ハーベストは、撮影所さえ満足に所有出来ない状況が続き、『MP&GI(國際電影懋業公司)』の撮影所を借りて撮影をしていた。
所属俳優も、ショウ・ブラザーズのデビット・チャンティ・ロンのような看板スターも不在で、無名の俳優中心での映画製作には、やはり限界があった。

 1971年、ロー・ウェイ夫人のラウ・リャンホウ(劉亮華)は、アメリカにいるチェン・ペイペイとコンタクトを取るために渡米する。
かつてショウ・ブラサースで“武侠影后”と呼ばれて一時代を築いたチェン・ペイペイは、結婚引退後、ロサンゼルスに在住していた。
ラウ・リャンホウは、彼女にゴールデン・ハーベスト映画での女優復帰を懇願したが、拒否されてしまい残念ながら獲得に失敗する。
 そのため、第二候補のとしてセレクトしていた、もう一人の青年の獲得に方向転換することになったのである。

 シアトルで武術道場を開設していたその青年は、70年の4月に香港に一時帰国してショウ・ブラザーズと契約交渉を試みたが、ランラン・ショウにあっさりと門前払いされている経緯があった。
「彼の脚は立っているだけの道具だ。僕ならば、もっと凄いキックを見せることが出来る!!」
当時、香港で興行収益第一位を獲得していたジミー・ウォングの大ヒット作品『吠えろ!ドラゴン、起て!ジャガー』をその青年は、こう評した。
ラウ・リャンホウは、青年の持つ自信に満ちた佇まいと、今までのクンフースターにはない類い希なるカリスマ性を感じ取り、彼との契約を決意する。
そう、その青年こそ、ブルース・リー(李小龍)だったのである。

 ブルース・リーは、ゴールデン・ハーベストと1本につき1万米国ドルで2本の主演映画契約を結び、愛する妻のリンダと長男ブランドン、長女シャノンをアメリカに残して、香港主演第1作映画のロケ地、タイに向かった。
 バンコクのドン・ムアン空港で出迎えをしたレイモンド・チョウに対し、ブルース・リーは後に伝説的な言葉として人々に語り継がれることになったセリフを浴びせる。
「チョウさんですね?僕がブルース・リーです。今あなたの目の前に世界のスーパースターが立っているんですよ」
こうして、ブルース・リーのスター伝説がスタートしたわけである。

ブルース・リー登場

 ブルース・リーの主演第1作は、タイロケによるロー・ウェイ監督『ドラゴン危機一発』
ストーリーは、香港からタイに出稼ぎにやってきた青年が、働いている製氷工場が麻薬密輸をしている事実を知り、工場のボスと壮絶な闘いを挑むというもの。
 この作品で、ブルース・リーは今までの香港クンフースターの誰も出来なかった“猛スピードで打点の高い連続蹴り”を披露しているのだが、後にこの蹴りは“李三脚”と呼ばれるようになる。
低予算で作られた『ドラゴン危機一発』だが、公開されるやいなや香港映画史上最大のヒットを記録し、一夜にしてブルース・リーはスーパースターの座に登り詰めた。
そしてゴールデン・ハーベストも、ショウ・ブラザーズと肩を並べる映画製作会社へと変貌をとげていくわけである。

 ブルース・リーの主演第2作は、1909年に上海で実際に起きた“霍元甲事件”を題材にした『ドラゴン怒りの鉄拳』
19世紀、日本占領下の上海で、中国人の名誉を守るためにたった1人で悪辣な日本人と闘っていく主人公のチェンを演じたブルース・リーは、後に“怪鳥音”と呼ばれて、彼の代名詞なった、あの「アチョー!!」という独特の絶叫をこの作品から使っている。
 もう1つ注目したいのが“ヌンチャク”だ。
このヌンチャクは、当時、ショウ・ブラザーズと専属契約を結んでいた日本人・俳優の倉田保昭が、『ドラゴン怒りの鉄拳』撮影中にプライベートで遊びに来た時に、ブルース・リーにプレゼントしたものだ。
当初『ドラゴン怒りの鉄拳』でヌンチャクを使用する予定はなかったのだが、武術指導のハン・インチェ(韓英傑)と共に試行錯誤を繰り返した末、見事なヌンチャク・アクションを披露する事に成功した。
 『ドラゴン怒りの鉄拳』は前作の『ドラゴン危機一発』凌ぐ大ヒットを記録し、これによってブルース・リーはアジア映画界の頂点に君臨する。

ジミー・ウォングの復活

 ブルース・リーが『ドラゴン危機一発』で大成功を収めていたのと同時期、数々のスキャンダルによってショウ・ブラザーズを追放され、台湾で地味に俳優活動をしていたジミー・ウォングが、レイモンド・チョウの計らいでゴールデン・ハーベストと契約し、香港映画界に復帰する。
彼の香港映画復帰第1作は、日本の勝プロダクションとゴールデン・ハーベストの合作映画『新座頭市/破れ!唐人剣』
 勝新太郎演じる座頭市と、中国人の剣豪を演じたジミー・ウォングの一騎討ちは、2人にしかだせない独特の殺気と凄まじい迫力によってファンを魅了し、クライマックスも日本版は勝新太郎が勝ち、香港版はジミー・ウォングが勝つという2種類の編集版が作られている。

 ブルース・リーの素晴らしい脚技を見せつけらる一方、武術経験の全くないジミー・ウォングは、アイデアを活かした映画で対抗していく。
自らの監督作品『吠えろ!ドラゴン、起て!ジャガー』こそが、クンフー映画の元祖であると自負していたジミー・ウォングは、かつてのヒット作品『獨臂刀』の片腕という要素をクンフー映画に取り入れた映画を続けざまに発表。
その代表的作品が『片腕ドラゴン』であった。
ブルース・リー作品とは対照的に、泥臭くて陰湿で、台湾裏社会を生きてきたジミー・ウォングらしい作品であったが、『片腕ドラゴン』は成功をおさめ、彼を再び香港映画界のスターへと返り咲かせた。

脇を固めるスター達

 1970年、ゴールデン・ハーベストは新人俳優募集のオーディションを行っていたのだが、その時に、後に“嘉禾三大玉女”と呼ばれるようになる3人の女優達を発掘していた。
ノラ・ミャオ(苗可秀)マリア・イー(衣依)アンジェラ・マオ(芽瑛)の3人である。
まず、ゴールデン・ハーベストの創業作品『天龍八将』に3人を出演させてテストを行い、それぞれの個性を見た。
それにより、ノラ・ミャオマリア・イーは映画のヒロインとして売り出すことになり、アンジェラ・マオはレディ・クンフー・スターとしての道を歩むことになる。
 男優陣も、ショウ・ブラザーズからベテラン俳優ティエン・ファン(田豊)、まだ無名だったジェームス・ティエン(田俊)らを引き抜き、新人オーディションではトニー・リュウ(劉永)をスカウトする。
また、台湾でキン・フー監督作品の武術指導などをしていたハン・インチェを香港に呼び寄せ、正式に契約を結ぶ。
 そして、俳優養成所や京劇学院の多数の生徒達をスタントマンとして映画の中で使っていくのだが、面白いのは、このスタントマンの中にジャッキー・チェンユン・ピョウラム・チェンイン等、後のトップスター達がいたことである。

 このようにゴールデン・ハーベストは、ブルース・リーを中心に着々と香港映画界の頂点を目指して躍進していたのである。

ブルース・リー黄金期

 1972年、ブルース・リーとの2本の映画契約が満了したゴールデン・ハーベストは、彼を他社の引き抜きから守るために、彼個人とハーベストが互いに半分ずつ出資して、個人プロダクションを設立することを提案し、彼も了承した。
プロダクションの名称は『コンコルド・ピクチャーズ(協和公司)』で、“陰陽太極円”をシンボル・マークとした。
 当初、コンコルドの設立第1作目は、ロー・ウェイ監督による『冷面虎』の予定だったのだが、『ドラゴン怒りの鉄拳』撮影中から対立し冷戦関係にあったロー・ウェイと決裂、『冷面虎』の企画を蹴ってしまう。

 ブルース・リーは、自らの制作・監督・脚本・武術指導・主演を1人でこなすワンマン映画、『ドラゴンへの道』の制作を発表。
共演には、全米空手チャンピオンのチャック・ノリス、韓国合気道の達人ウォン・インシック(黄仁植)、そして弟子のロバート・ボブ・ウォール、が名を連ねた。
 ブルース・リーは今までの作品とは違ったコミカルなキャラクターであるタンロンを実に生き生きと演じ、それまでの硬いイメージからの脱皮をはかっている。
また、タブル・ヌンチャクや棒術なども見せ、ロー・ウェイ演出では見られなかった新しいアクションをふんだんに取り入れた。
 そして、ローマのコロシアムでのチャック・ノリスとの闘いは、古代ローマのパンクラチオンを見ているような感じを受ける香港映画史上最高の格闘シーンである。

 『ドラゴンへの道』は前2作を遙かに越えるスーパーヒットをアジア全域で記録し大成功を治めたが、ブルース・リーは休む間もなく次の作品『死亡遊戯』の撮影を開始する。
 『死亡遊戯』には、アメリカ時代の弟子でプロ・バスケット界のスター、カリーム・アブドール・ジャバール、ジークンドーの弟子でフィリピノ・カリの達人ダニー・イノサント、韓国合気道の王者チィ・ハンツァイ(池漢載)など、そうそうたるメンバー達が終結したが、クライマックス・シーンを撮り終えた時点で、撮影を一時中断し、ハリウッドのワーナー・ブラザーズとの合作、『燃えよドラゴン』の撮影に入ることになった。

 『燃えよドラゴン』の監督は、ブルース・リーの希望によりロバート・クローズに決定した。
ハリウッド側からジョン・サクソンジム・ケリーアーナー・カプリが共演者として香港入りし、クライマックスで主人公リーと鏡の部屋での一騎討ちをする鉄の爪ハンには、“黄飛鴻シリーズ”シリーズで名を馳せた大ベテランのシー・キエンが起用された。
 ストーリーは、イギリスの諜報機関の要請により、少林寺の僧リーが、悪の首領ハンの主催する武術トーナメントに参加し、その野望を打ち砕くというものだ。
 この作品におけるブルース・リーは、それまでの作品と全く違う鬼気迫る佇まいを見せ、地下牢での乱闘シーンからクライマックスのハンとの死闘まで、戦慄を覚えるほど壮絶なアクションを見せた。

ブルース・リーの死

 1973年7月20日、ブルース・リーは、愛人と噂されていたベティ・ティンペイのマンションで倒れ、救急車で病院に運ばれたが、帰らぬ人となった。
死因は諸説あるが、2年前から原因不明の頭痛や痙攣に悩まされていたブルース・リーが、常用していた強度の鎮静剤によるアレルギー反応によって、脳水腫を引き起こしたというものが定説になっている。
 ブルース・リーの急死は香港だけに止まらず、世界中に大きな衝撃を与えた。
葬儀は、香港とシアトルで2度行われ、多くの映画関係者やファンに見送られながら天国に昇っていった。

 1973年8月24日、『燃えよドラゴン』は主役不在のまま全米で公開され、大ヒットを記録する。
そして『燃えよドラゴン』の猛威は、それまで香港映画産業に一切目を向けようとしなかった日本にも、ついに押し寄せて来たのである。