ショウ・ブラザーズの逆襲

ブルース・リーとショウ・ブラザーズ

 ショウ・ブラザーズにとって設立当初のゴールデン・ハーベストは、邪魔な存在ではあったものの、ライバルと呼べるような相手ではなかった。
資金と人材の不足によって、どうせすぐに倒産するだろう程度に、ランラン・ショウも考えていた。
 しかし香港映画界においてレイモンド・チョウの知恵者ぶりはよく知られていたし、明らかに不利な状況だったことが同情を集めた。
また、ショウ・ブラザーズの独裁天下に嫌気がさしていた映画人が増えていたのも事実で、時勢と運勢がレイモンド・チョウに追い風を送ろうとしていた。

 1970年の4月、ブルース・リーがアメリカから一時帰国しショウ・ブラザーズと契約交渉を行った。
この時、ブルース・リーは1万米国ドルの契約金を要求したが、彼の将来性を見積もりそこなったランラン・ショウは9千香港ドル以上は出す気がなく、アッサリと門前払いにしてしまった。
当時の米国ドルと香港ドルの格差は約5倍の開きがあったので、ランラン・ショウが契約しなかったのも仕方のないことなのかもしれない。
だが、ブルース・リーと契約を結ばなかった事が、ショウ・ブラザーズ低迷の序曲でもあったのだ。

倉田保昭

 1970年の夏、ランラン・ショウは新たな人材確保のため、日本に足を運んだ。
東宝、日活、東映などから将来有望だとおもわれる若い俳優を数人ピックアップし、東京の帝国ホテルで面接オーディションを行ったわけだが、この時にランラン・ショウの目に留まった青年こそ、後に“アジアの黒豹”“和製ドラゴン”と呼ばれた倉田保昭だった。
 オーディションに合格した倉田保昭は1971年に香港に渡り、香港進出第1作となる『悪客』に出演。
この作品は、チャン・ツェー監督の大ヒット作『拳撃』の続編で、クライマックスではデビッド・チャンティ・ロンを相手に豪快な連続回し蹴りを披露し、香港の観客を驚かせた。
 また、2作目の『小拳王』では香港映画史上初めてヌンチャクを導入するなど、わずか2作で倉田保昭は実力者として名前を轟かせるようになる。

ゴールデン・ハーベストの躍進

 1971年、『ドラゴン危機一発』が公開され、約320万香港ドルの大ヒットを記録した。
同年の興行収益2位の『拳撃』は約170万香港ドルで、この結果ショウ・ブラザーズは10年間君臨したトップの座から、初めて転落する。
それまで、ゴールデン・ハーベストをライバル扱いさえもしていなかったランラン・ショウだったが、ブルース・リーの商品価値を初めて認識したと共に、ゴールデン・ハーベストを脅威な存在として認めるようになった。
 総合力ではショウ・ブラザーズの方がまだまだ上であったが、ブルース・リーのような実力と人気を兼ね備えたスターが、残念ながらいなかったのである。
そのためランラン・ショウは、25万香港ドルという巨額の契約金を提示してブルース・リーを再勧誘した。
しかし、ブルース・リーレイモンド・チョウとの間には、固い信頼関係が築かれていたため、ランラン・ショウの誘いには一切応じなかった。

ショウ・ブラザーズの新戦略

 1972年、ショウ・ブラザーズは東南アジア地域以外の海外市場に進出することになり、その第1弾としてロー・リエ(羅烈)主演作品の『キング・ボクサー 大逆転』が全米で公開された。
アメリカにおいて香港産のクンフー映画が公開されたのは、これが初めてだったにもかかわらず、映画はその年の全米興行収益ベスト10にランクする大ヒットを記録した。
この作品の成功により、ショウ・ブラザーズは正式に欧米市場進出をスタートさせる事になった。

 72年は、チェン・カンタイ(陳觀泰)がスター俳優としてブレイクした年でもある。
実在した英雄的ギャング・馬永貞を題材とした、チャン・ツェー監督作品の『馬永貞』において主役である馬永貞に扮したチェン・カンタイ
全身血みどろ、腹を裂かれた馬永貞がついに極悪ボスを倒し、自らもその場で絶命するという壮絶なクライマックスは、チェン・カンタイの存在を知らしめるには充分すぎるものだった。

リー・ハンシャンの復帰

 1972年の出来事として、かつてのショウ・ブラザーズ看板監督だったリー・ハンシャン(李翰祥)が、ショウ・ブラザーズに復帰したという事にも触れておこう。
 1963年12月、ギャラに対する不満により、リー・ハンシャンは8年という契約期間の満了を待たずして、お気に入りの俳優をひきつれてショウ・ブラザーズを退社した。
ランラン・ショウは即座にリー・ハンシャンを相手取って裁判を起こし、リー・ハンシャンは敗訴、約30万香港ドルの支払いと香港での映画製作禁止を言い渡された。
 そのためリー・ハンシャンは台湾に渡り、ロク・ワントー(陸運濤)『MP&GI(國際電影懋業公司)』と、当時台湾でショウ・ブラザーズやMP&GIの映画を買い付けていた『聯邦公司』という会社の双方から資金援助を得て『國聯公司』という映画会社を設立。
 中国の伝説的美女をテーマとした歴史巨編『西施』等、大ヒットを連発させ、台湾映画界のレベルアップに大いに貢献したのである。

 しかし、予算度外視の映画製作によって『國聯公司』は経営破綻に陥ってしまい倒産。
その後『新國聯公司』を設立し、低予算による風刺喜劇を作り地道に監督活動を続け、そこそこのヒットを記録していたが、さすがに全盛期の勢いはなくなっていた。

 一度は喧嘩別れとなったランラン・ショウリー・ハンシャンだったが、ランラン・ショウは、彼の監督としての力量を充分に理解していた。
また、台湾での風刺喜劇のヒットにも注目。クンフー映画以外の新しいジャンル開拓を考えていたランラン・ショウは、彼をショウ・ブラザーズに復帰させたのである。

マイケル・ホイ

 リー・ハンシャンの復帰第1作は、風刺喜劇の『大軍閥』
この作品で主役の軍閥役に抜擢されたのが、当時TVBの番組パーソナリティとして人気急上昇中だったTVタレントのマイケル・ホイ(許冠文)である。
映画俳優の経験が全くないマイケル・ホイの起用に対し周囲は大反対をしたが、マイケル・ホイリー・ハンシャンの期待に見事に応え、素晴らしい作品が完成した。
 『大軍閥』は前年の『ドラゴン危機一発』を上回る約350万香港ドルの大ヒットを記録、『ドラゴン怒りの鉄拳』の約440万香港ドルには及ばなかったものの、1972年度の興行収益ベストテンの2位にランクされたのである。
この作品のヒットによりリー・ハンシャンは名声と栄華を取り戻し、マイケル・ホイは香港映画界の新たなスターとなり、ショウ・ブラザーズも勢いを回復させる事に成功したわけである。

広東語映画の復活とブルース・リーの死

 1973年、チャン・ツェーと並び70年代のショウ・ブラザーズを支えた名監督のチョウ・ヤン(楚原)が監督した『七十二家房客』が、約560万香港ドルという大ヒットを記録する。
『七十二家房客』は、『ドラゴンへの道』の約530万香港ドル、『燃えよドラゴン』の約330万香港ドルを抑え、1973年度の興行収益ベスト1に君臨した。
この作品は1963年に中国本土で製作された社会風刺劇を、当時の人気TVタレントを大量動員してリメイクされたコメディ映画で、1971年以来2年振りに作られた広東語映画であった。
北京語映画が隆盛したあおりを受け、一時消滅していた広東語映画は、この作品のヒット以降復活する。
やはり、香港人は書き言葉の北京語映画よりも、話し言葉の広東語映画を求めていたのである。

 ショウ・ブラザーズが勢いを盛り返したのとは対照的に、ゴールデン・ハーベストはブルース・リーの急死という事態に直面してしまう。
ブルース・リー以外に看板を張れるスターがいなかったゴールデン・ハーベストは、ジミー・ウォングアンジェラ・マオ主演作品でショウ・ブラザーズに対抗していくが、勢いのあるショウ・ブラザーズに太刀打ち出来なかった。

 レイモンド・チョウは新たなスター獲得に向けて動き出す事になるわけだが、意外に早くドル箱スターが誕生することになる。
しかも、ブルース・リーの時と同様、ランラン・ショウの判断ミスのお陰で転がりこんで来たのであった。