日本史の世界・ダイジェスト版(原始・古代編)

日本人類のあけぼの

 今から約400万年前、地質学上で更新世(こうしんせい)と呼ばれる時期に“最古の人類”と呼ばれている猿人が誕生した。
その後、原人、旧人、新人と進化して現在に至っている。
更新世は氷河時代とも呼ばれ、海面が今よりも低く日本列島はアジア大陸と陸続きだった。
そのため大陸からナウマン象マンモスオオツノジカなどの動物がやってきた。
 日本の化石人骨については、昭和6年に明石市で発掘された化石人骨以降、長年様々な研究が行なわれている。
今のところ、更新世段階の化石人骨として認められているのは、静岡県の浜北人、沖縄の港川人の2つだけである。

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先土器時代

 1949年、群馬県岩宿の関東ローム層と呼ばれている地層から、約3万年前の打製石器が発見された。
これが有名な岩宿遺跡で、この発見が日本の旧石器文化解明の端緒となった。
打製石器とは自然石を打ち砕いただけで使用していた石器のことである。
 この時代の遺跡からは、土器使用の痕跡は発見されていない。
そのため、この頃の文化を一般的に先土器文化無土器文化と呼んでいる。
当時の人々は洞窟や岩陰を利用して生活し、狩猟・採集のための放浪生活を余儀なくされていたと推測される。

もう少し詳しく知りたい方は先土器文化へ。

縄文時代

 約1万年前から紀元前4〜3世紀ころまでの文化を縄文文化と呼ぶ。
この文化の最大の特色は、表面に縄目の文様を持つ縄文式土器を使用していたということだ。
縄文式土器は低温で焼かれたために黒褐色のものが多く、表面は粗く、厚手でもろいのが特徴だ。
この時代、石器に関しても打製石器から次第に表面を磨いた磨製石器が作られるようになった。

 人々は、竪穴住居に住み、それら住居が数個集まって、「ムラ」と呼ばれる集落を形成していた。
食生活は狩猟・漁撈・採集が中心で、主食はドングリだった。
重要な遺跡としては、貝塚がある。
貝、魚、獣などの化石だけではなく土器や石器の破片が出土されることもあるため、当時の生活を詳しく知る事が出来る。
代表的な貝塚は、アメリカの動物学者モースの発見した大森貝塚だ。

 当時の人々は自然環境に強く支配され、すべての自然物に霊魂が存在するとして、それを畏怖し崇拝していた。
これをアニミズム(精霊崇拝)といい、土偶の作製や抜歯の儀式など、様々な呪術的習俗がみられた。

もう少し詳しく知りたい方は縄文文化の諸相縄文人の生活へ。

弥生時代

 紀元前3世紀ころからの文化を弥生文化と呼ぶ。
1884年に東京の弥生町(現在の東京都文京区弥生2丁目)から土器が出土したため、弥生式土器と名づけられた。
ろくろを使用して作られ、1000度前後の高温で焼かれため赤褐色で、薄手で硬いのが弥生式土器の特徴だ。

 弥生文化の特色として、「金属器の使用」「稲作の開始」がある。
ここで言う金属器とは青銅器鉄器のことだ。
青銅器は、地方によって出土される種類が異なる。
九州・四国地方は銅矛(どうほこ)、中国地方は銅剣、近畿・東海は銅鐸(どうたく)という具合に、青銅器の文化圏が分かれている。
銅矛と銅剣は武器として利用した可能性もあるが、たいていは祭祀用具と思われる。
銅鐸はお寺の釣り鐘のような形をしている青銅器だが、いったい何のために使われていたのか全くわかっていない。
鉄器は主として木製品を作るための加工具として使用された。
また、弥生時代中期以降になると、鉄製農具と共に、鉄製の武器が作られるようになる。

 稲作は縄文時代に九州地方の一部の地域で始まっていたが、全国的に稲作が行なわれたのは弥生時代になってからである。
木製農具を使用していた弥生時代前期は灌漑施設を整備できなかったため、水田は小規模な湿田が中心だった。
籾を直播きし、収穫には石包丁を用いて穂首刈りをした。
鉄製農具を使用するようになった弥生時代中期以降は、灌漑施設の整備された乾田に移り変わっていった。

 弥生時代には周囲に深い堀や土塁をめぐらした環濠集落があらわれた。
瀬戸内海沿岸においては、より防御性の高い高地性集落もつくられるようになった。
住居は竪穴住居が一般的であったが、平地住居も見られるようになった。
また、穀物貯蔵のため湿気を防ぐ高床式倉庫も作られた。
農耕は「ムラ」共同で作業をしなければ能率が上がらないため、作業を指揮する統率者が必要になった。
ここに指導する者と指導される者との階層を生み出し、労働力の多さや技術の巧拙によって貧富の差も生じた。

 墓については、北九州では甕棺墓(かめかんぼ)支石墓(しせきぼ)、その他の地域では方形周溝墓や箱式石棺墓が作られた。
また、弥生後期には有力な首長の出現を示す墳丘墓も見られるようになった。

もう少し詳しく知りたい方は弥生文化の諸相弥生人の生活へ。

小国家の分立と邪馬台国

 水稲耕作の開始は土地の価値を認識させ、条件の良い土地をめぐって争いが起こった。
この争いにより「ムラ」の統合が進み、各地に小さい「クニ」がうまれた。
 当時の日本の様子は、中国の文献からしか知ることが出来ない。
弥生時代のころ、中国では日本のことを倭(わ)と呼んでいた。
中国前漢時代の文献『漢書』地理志に次のような記述がある。
『楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す』
意訳すると「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいて、百余国の小国家に分立している」となる。
楽浪郡(らくろうぐん)とは朝鮮半島の地名のことで、倭人とは日本人のことを意味している。
後漢時代の『後漢書』東夷伝という文献には、次のように書かれている。
『建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜ふに印綬を以てす』
意訳すると「西暦57年、倭にある奴国(なこく)の大臣が後漢に朝貢し、初代皇帝光武帝(こうぶてい)から金印を授けられた。」となる。
奴国は現在の福岡県の博多周辺にあったクニで、1784年には、博多湾口の志賀島で「漢委奴国王」と刻まれた金印も発見された。

 最も重要な文献は『魏志倭人伝』で、これには邪馬台国と、女王・卑弥呼についての記述がある。
争い続きだった倭国に邪馬台国の卑弥呼が現れ、30余国のクニを従えて「邪馬台国連合」の女王として君臨していたという。
また卑弥呼は239年に中国のに使者を送り、「親魏倭王」の称号を受けたとも記載されている。
邪馬台国のあった場所については、北九州説や畿内説など諸説あるが、史実はわかっていない。

もう少し詳しく知りたい方は小国家の分立と卑弥呼邪馬台国の謎へ。

大和朝廷の成立

 3世紀後半から4世紀初め、畿内大和の連合国家である「原大和国家」が強大化し、周囲の豪族がその下に服属した。
その後、各地の豪族を強力な軍事力と財力をもって統合してつくった連合政権が大和朝廷だ。
4世紀半ばには、九州北部から本州中部までに及ぶ大和朝廷の統一支配体制がきずかれていた。

 4世紀後半、日本は朝鮮半島南部の任那(みまな)に進出し、ここを半島進出の拠点とした。
当時の朝鮮半島は、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)百済(くだら)の三つの統一国家が存在していた。
明治10年に中国の吉林省で発見された好太王の碑文(こうたいおうのひぶん)によると、
倭国は百済・新羅を属国にしたが、南下してきた高句麗に敗北したとなっている。
そこで日本は、朝鮮半島南部の支配権の承認と援助を求めて中国の南朝にしばしば遣使した。
中国の史書『宋書』倭国伝によると、倭の五王が晋や宋に使節を送っていたことが記されている。

 大和朝廷は、中央・地方の諸豪族を氏姓制度によって支配体制下に組み入れた。
諸豪族は血縁関係のない被征服者も「氏(うじ)」の構成要員として含め、葛城氏平群氏大伴氏などの氏が構成された。
「姓(かばね)」は氏の政治的地位や役目を表す称号で、身分序列を示す。
世襲制で臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたえ)・別(わけ)などの姓がある。
特に有力な豪族には大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)が与えられ、中央政治に参加した。
 この時代、天皇家や諸豪族には、部民(べのたみ)と呼ばれていた半自由民の労働集団が隷属していた。
天皇家の部民は与えられた職業によって、品部(しなべ/ともべ)子代(こしろ)名代(なしろ)田部(たべ)という4つに分けられていた。
一方、諸豪族に隷属する部民は、職業に関係なく部曲(かきべ)と呼ばれていた。
天皇家の私有地を屯倉(みやけ)、諸豪族の私有地を田荘(たどころ)と言い、部民たちに耕作させていた。
 大和朝廷が日本統一を実現するためには、地方の支配を早急に行うことが重要なポイントになってくる。
そこで、地方豪族に対し、国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)などの地位を与え、大和朝廷の地方官として支配させた。

もう少し詳しく知りたい方は大和朝廷の成立朝鮮半島への進出倭の五王の謎氏姓制度へ。

古墳時代

 古墳(こふん)とは、盛り土をしたり、丘陵を利用したりして造られた高塚式墳墓(たかつかしきふんぼ)をいう。
古墳を単なる墓と解釈している人もいるが、高塚式墳墓ではない墓は古墳とは呼ばない。
この高塚式墳墓にも色々な形があるが、その代表的なものが前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)だ。
前方後円墳が登場した3世紀末から、それが衰退していく7世紀までを古墳時代と呼び、それまでの弥生時代と区別している。
5世紀になると巨大な前方後円墳が数多く出現しているが、そのほとんどが天皇陵だ。
仁徳天皇陵応神天皇陵がその代表格である。

もう少し詳しく知りたい方は古墳文化へ。

大陸文化の伝来と宗教

 日本が朝鮮半島に進出したり、中国と交渉することによって、多くの漢民族・朝鮮民族が来日した。
彼らのように大陸から「渡って来た人」のことを渡来人(とらいじん)という。
渡来人たちのほとんどは、母国に帰国することなくそのまま日本に定住した。
この結果、日本に数多くの「渡来系氏族」が誕生する。
主な渡来系氏族としては、新羅の豪族だった弓月君(ゆづきのきみ)が始祖とされる秦(はた)氏
百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)を始祖とする東漢(やまとのあや)氏、西漢(かわちのあや)氏
弓月君と同じ頃に百済から渡来した王仁(わに)を始祖とする西文(かわちのふみ)氏などがある。
 彼ら渡来系氏族により、大陸の文化や技術が数多く日本に伝えられた。
秦氏からは養蚕・機織、醸造、土木技術が、東漢氏からは製鉄、機織、それに土器生産の技術がもたらされた。
特に土器に関しては、灰色で硬質の須恵器(すえき)の技術が伝えられ、上層階級に提供された。
また、庶民の土器も弥生式土器の系統をひき800度前後で焼いた土師器(はじき)と呼ばれる土器の生産方法が伝えられた。
 技術者集団としての面が強かった秦氏や東漢氏に対し、河内地方を中心に栄えた西文氏は文筆業を主としていた。
日本に漢字が伝えられたのも、西文氏よるものだろうと言われている
王仁が来日した時、四言古詩250句を集めた『千字文(せんじもん)』『論語(ろんご)』を日本に持ち込んだ。
『論語』というのは、春秋戦国時代の中国の学者である孔子(こうし)と彼の弟子の言行を記録した書物だ。
孔子は儒家(じゅか)の始祖と言われ、彼の思想が後に儒教(じゅきょう)という教学になった。

 当時は「信仰」と「宗教行事」が人々の生活に深く関わっていた。
年の初めに五穀豊穣を祈るとともに国家の安泰を祈願する祭りである祈年祭(きねんさい/としごいのまつり)や、
秋の収穫に感謝する新嘗祭(にいなめまつり)など、農耕儀礼に関しては全国的に行なわれていた。
神社が多数建設されるようになったのもこの頃からだ。
天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀る出雲大社をはじめとして、
住吉大社大神神社(おおみわじんじゃ)宗像神社(むなかたじんじゃ)など、国家神を祀る神社の建設が進んだ。

 呪術的風習も様々なものが行なわれていた。
身に穢れがある時や神事の前に水の中に入って身を清める禊(みそぎ)や、
災厄や罪悪をはらいのける祓(はらい)などは、現代においても行なわれている風習だ。
現代においては行なわれていないであろうと思われるのが、太占(ふとまに)盟神探湯(くがたち)だ。
太占は、鹿の肩甲骨を焼き、割れ具合などで今後の運勢を占うという占い方法。
一方の盟神探湯は、熱湯に手を入れて火傷の有無によって真為を確かめるという、原始的な裁判方法のことを言う。

もう少し詳しく知りたい方は大陸文化の伝来と宗教へ。

大和政権の動揺

 日本列島の完全統一を目指す大和朝廷は、様々な政略によって各地方を取り込もうとした。
しかし、吉備王国(現在の岡山県)や筑紫国(現在の佐賀県・福岡県)などのクニは、大和朝廷の支配権拡大を阻止するために反乱を起こした。
それら反乱の中で古代最大の反乱として有名なのが磐井(いわい)の反乱だ。
527年6月、新羅に占領された任那を復興させるため、継体天皇近江毛野(おうみけぬ)を将とする6万の兵を新羅征伐軍として送った。
ところが、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)が新羅と手を結んで近江毛野の渡海を阻止してしまった。
これに驚いた継体天皇は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を将とした磐井討伐軍を九州に派遣し、翌528年11月に磐井を倒した。
磐井の素性は謎につつまれおり、詳しいことは不明だ
『日本書紀』によれば、筑紫国だけではなく火国や豊国までも勢力下に置いており、九州地方の大王であったと考えられる。
だからこそ、近江毛野の率いる6万の兵と互角に戦い、物部麁鹿火の大軍とも1年近くも戦えたわけだ。
日本国内の合戦史上1年間の長期にわたる戦いは、この磐井の反乱だけだ。

 5世紀〜6世紀になると大和朝廷の中央豪族の対立も激しくなった。
雄略天皇の時代は平群氏が台頭し、大伴氏と物部氏が中央政界の二大巨頭として頭角を現してくる。
仁賢天皇(にんけんてんのう)の死後、天皇の座を狙った平群氏を大伴氏が滅ぼしてトップに立った。
ところが、512年に大連の大伴金村(おおとものかなむら)が百済から賄賂を受けて任那4県を割譲してしまう。
大伴金村の行為は非難され、540年に物部尾輿(もののべおこし)の弾劾により大伴金村は失脚した。
 この頃、中央政界における勢力を急速に伸ばしたのが蘇我氏だ。
継体天皇の死後、蘇我氏は欽明天皇を擁立、大伴氏が擁立した安閑天皇・宣化天皇との二朝廷対立状態となる。
蘇我氏は大伴氏や物部氏のような軍事家系の豪族ではなく、財政管理を得意とした豪族で、渡来系氏族の秦氏や漢氏を従えて勢力を拡大。
斎蔵(祭祀のための神物を収納)、大蔵(国家財政)、内蔵(皇室財政)の、いわゆる三蔵(みつのくら)の管理者として君臨していた。
欽明天皇の大臣となった蘇我稲目(そがのいなめ)は、自分の姉妹を天皇の妃に入れて天皇家と外戚関係となり、政界での地位を確立。
539年に宣化天皇が崩御したことで大伴氏が没落すると、事実上のナンバーワン豪族となった。

もう少し詳しく知りたい方は 大和政権の動揺・その1へ。

仏教伝来

 日本に仏教が伝えられた年については、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』に書かれている538年説と、
『日本書紀』に記載されている552年説があるが、一般的には538年説が有力視されている。
しかし、522年に来日した中国人の司馬達等(しばたつと)が、大和国で草庵を営み仏像を安置して礼拝していたことが『扶桑略記』に記されている。
つまり、民間にはすでに伝来していたと考えていいだろう。
 仏教をめぐっては、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立する崇仏論争も巻き起こった。
蘇我稲目は大陸伝来の新宗教を歓迎したが、物部尾輿は日本古来の神道こそ祭るべきとし、仏教を異国の邪教とし排除を求めた。
欽明天皇は稲目に崇仏を許可したが、これに不服の尾輿は「疫病や天災の流行は崇仏が原因」として、蘇我氏の寺を焼き討ちしてしまった。
しばらく後、稲目と尾輿は亡くなるが、崇仏論争はそれぞれの子供、蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべもりや)に引き継がれた。

蘇我氏の台頭

 欽明天皇の息子・敏達天皇(びだつてんのう)の死後、蘇我馬子と物部守屋は皇位継承をめぐって激しく対立。
馬子は姉の堅塩媛(きたしひめ)の息子・大兄皇子を強力にバックアップし、586年に用明天皇として即位させる。
しかし翌587年に用明天皇が病死したことで、皇位継承争いが再び勃発。
穴穂部皇子を後継者に立てた守屋に対し、馬子は穴穂部の実弟・泊瀬部皇子を担ぎ上げた。
物部氏を滅亡に追い込みたかった馬子は、敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ)にとりいり、穴穂部皇子を殺害。
穴穂部を失ったことで物部氏は孤立、蘇我連合軍との数度の戦いを繰り広げた後、守屋の戦死により物部氏は滅亡した。

 物部守屋が滅んだ翌月、泊瀬部皇子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位。
馬子は崇峻天皇をロボット化し自らの権力を最大限に行使しようと考えていたが、崇峻天皇がこれに反発。
大伴氏に接近し、大伴連糠手の娘を皇后としてむかえ、大伴氏と組んで蘇我氏に対抗しようとした。
崇峻天皇の行動に腹を立てた馬子は、592年に東漢直駒(やまとのあやのあたえこま)を刺客として送り崇峻天皇を暗殺。
さらには証拠隠滅のため、実行犯の東漢直駒も殺害してしまった。

 崇峻天皇の死により、またもや朝廷内には皇位継承問題が発生。
第一候補は用明天皇の息子・厩戸皇子(後の聖徳太子)、第二候補は敏達天皇の息子・竹田皇子で、両皇子とも馬子にとっては外孫にあたる。
どちらが天皇になったとしても蘇我氏にとっては良いはずなのだが、これに待ったをかけたのが炊屋姫だった。
なぜなら、厩戸皇子と竹田皇子ではまだ若く、簡単に蘇我氏の傀儡政権になってしまう可能性もあったためだ。
そのため炊屋姫は、日本最初の女帝・推古天皇(すいこてんのう)として自ら即位した。
推古天皇は敏達天皇の皇后であり、馬子とは伯父と姪以上の関係であったという説もある。
そのため、推古天皇も馬子の傀儡にすぎないという見方もあるが、傀儡の暫定的な天皇が36年間もその地位を保持できるだろうか?
俺としては、推古天皇は決して傀儡ではなく、聡明で政治力も備えた女帝だったと考えている。

聖徳太子の政治

 推古天皇は、593年に甥の聖徳太子摂政(せっしょう)とし、馬子と共同で国政改革を行なわせた。
摂政とは、天皇が幼少や病弱、または女帝のとき天皇に代わって国政を行なう職のことで、聖徳太子が日本最初の摂政だ。

 聖徳太子は、隣国・隋(ずい)の政治制度を模範とし、天皇を中心とした中央集権国家の建設と仏教による民心統一を理想とした。
 603年、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて十二の階位とする冠位十二階が定められた。
冠位は氏姓制度の姓とは異なり、才能や功績に応じて個人に与えられるものだった。
 604年には、儒教・仏教・法家の思想を盛り込んだ憲法十七条がつくられた。
現代の憲法とは異なり、天皇への服従や衆議尊重・仏法僧崇敬など、官人への道徳的訓戒を内容としていた。
 620年、聖徳太子は馬子と共に『天皇記』『国記』などの歴史書を編纂した。
天皇家・諸豪族の系譜と年代記を記した歴史書だったらしいが、残念ながら蘇我氏滅亡の際に消失したという。

 聖徳太子は、豪族たちの思想的統一を図り、さらには朝廷の権威を印象づけるため、摂津に四天王寺、大和斑鳩に法隆寺を建立。
自らは、法華経・勝鬘教(しょうまんきょう)・維摩教(ゆいまきょう)の三教の注釈書・『三教義疏(さんきょうのぎしょ)』を著し、人々に仏教を奨励した。
 暦法を採用したのもこの頃で、百済の僧・観勒(かんろく)がもたらした元嘉暦(げんかれき)を、604年より実施した。
元嘉暦は中国の宋の時代につくられた暦法で、太陽暦ではなく太陰暦だった。

遣隋使

 南北両朝の分立が続いていた中国では、北朝からおこったが589年に国内を統一、高句麗にも勢力を拡大しようとしていた。
こうした動きに対して大和朝廷は、倭王武の朝貢以降、約100年間断っていた中国との国交回復をはかった。
 『日本書紀』には記述が無いが、『隋書』倭国伝には600年の隋への遣使が記されている。
607年には、小野妹子(おののいもこ)遣隋使(けんずいし)として中国に渡り、隋に対して対等の立場を主張する国書を提出した。
隋の煬帝(ようだい)は国書に不満を示しながらも、敵対する高句麗の背後にある日本との国交を重視。
翌年、裴世清(はいせいせい)を日本に派遣した。
608年に裴世清が帰国する際、再び小野妹子が遣隋使として中国に渡った。
この時、高向玄理(たかむこのくろまろ)南淵請安(みなぶちのしょうあん)僧旻(そうみん)らの留学生・留学僧もこれに同行した。
614年には、第三回目の遣隋使として犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が中国に渡った。

飛鳥文化

 6世紀末〜7世紀半ばの推古朝の時期に皇室・豪族を中心として栄えた文化を飛鳥文化という。
主として朝鮮を媒介した中国六朝文化の影響を受けた日本最初の仏教文化であるが、中東や地中海世界の文化の影響も見られる。

<寺院>
法隆寺、四天王寺、飛鳥寺広隆寺等。
寺院内における建物の配置様式を伽藍配置(がらんはいち)といい、飛鳥寺式伽藍配置、法隆寺式伽藍配置など、寺院によって様式が異なる。
<仏教彫刻>
北魏系・・・面長な顔、杏仁形の目、仰月形の鋭い口と古式微笑(アーケイック・スマイル)をたたえ、左右均斉の衣紋や姿態が特徴。
鞍作鳥(くらつくりのとり)の作品である法隆寺釈迦如来像(飛鳥大仏)法隆寺金堂釈迦三尊像をはじめとして、
法隆寺金堂薬師如来像法隆寺夢殿救世観音像などがある。
南梁系・・・目鼻立ちが柔和で温か味があり、顔つきの優美な像が多い。全体的に柔らかい線で丸味をもたせ、崇高な感じが特徴。
広隆寺半跏思惟像中宮寺半跏思惟像法隆寺百済観音像などが代表作品。
<絵画>
610年に渡来した高句麗の僧・曇徴(どんちょう)によって、紙・墨・絵の製法が伝えられた。
法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)の扉と台座に描かれた漆絵は、古墳などの壁画を省けば日本最古の絵画である。
この漆絵は油絵の一種で、密陀絵(みつだえ)とも呼ばれている。

遣唐使

 618年、高句麗遠征の失敗をきっかけに隋が滅ぶと、かわって唐(とう)が中国を統一した。
唐は律令を基本法とする中央集権的な国家体制を充実させるとともに、周辺諸国にも勢力をのばした。
これに対して大和朝廷は、630年、舒明天皇(じょめいてんのう)の時に第一回目の遣唐使として、犬上御田鍬を派遣。
この遣唐使が632年に帰国する際、遣隋使として中国に留学していた僧旻が帰国、また、640年には高向玄理と南淵請安も帰国した。
彼らが長期の留学で得た新知識は、後の大化の改新に大きな役割を果たすことになった。

大化の改新

 622年に聖徳太子が死去、四年後の626年には蘇我馬子も死去。さらにその二年後の628年には推古天皇も崩御した。
馬子の息子・蘇我蝦夷(そがのえみし)は、皇位継承問題で聖徳太子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)を退けて舒明天皇を擁立。
642年には、舒明天皇の皇后・宝皇女を二人目の女帝皇極天皇(こうぎょくてんのう)として擁立した。
さらに、蝦夷の息子・蘇我入鹿(そがのいるか)は643年に山背大兄王を殺害し、聖徳太子の一族を滅ぼしてしまった。
蝦夷と入鹿は、馬子の時代よりもさらに権力を独占し、蘇我氏の勢力はますます強大化していった。
蘇我氏のこうした動きに、官人や唐から帰国した留学生たちは多いに危機感を抱いていた。
彼らは、私地私民制の氏族社会を改め、唐にならった官僚制的な中央集権国家体制の樹立をはかった。

 舒明天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと蘇我氏打倒を計画。
645年に大極殿で入鹿を暗殺。翌日には蝦夷も自邸に火を放って自害し、蘇我氏は滅亡した。これを乙巳の変(いっしのへん)という。
乙巳の変後、孝徳天皇(こうとくてんのう)が即位し、中大兄皇子は皇太子となって国政改革に着手した。
新政府では、大臣・大連を廃止して、左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我石川麻呂を任命。
高向玄理と僧旻を国政顧問として国博士に、さらには中臣鎌足を内臣(うちつおみ)に任命して政治を補佐させた。
また、中国にならって元号(年号)を定めて「大化」とし、645年を大化元年とした。
そして、人心の一新を図るために、都を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)から難波長柄豊碕宮(なにわとよさきのみや)に移した。

 翌646年、新政府は四か条にわたる改新の詔(かいしんのみことのり)を発し、政治方針を示した。
1.「公地公民制」・・・皇室や豪族の所有する土地(屯倉・田荘)や人民(部民)を、すべて国家のものとした。
2.「中央集権体制」・・・京・畿内・国・郡・里と行政単位を区画し、それぞれ国司・郡司・里長を置いた。
3.「班田収授法」・・・土地・人口を調査して戸籍と計帳をつくり、人々に一定の田を口分田として与えて、田祖率を定めて納税を義務付けた。
4.「新しい税制」・・・田地の面積に応じて絹布を納入する「調」、50戸ごとに朝廷の労役に服す「仕丁」、郡司の子女を出す「采女」などの税制が実施された。
しかし、改新の詔については、本当にこの時に出されたものなのか疑問視されており、歴史学者の間で今でも議論されている。

新政の展開

 654年に孝徳天皇が死去すると、中大兄皇子の母である皇極天皇が斉明天皇(さいめいてんのう)として即位した。
このように、一度退位した天皇が再び即位して天皇になることを重祚(ちょうそ)という。

 東北地方の人々は蝦夷(えみし/えぞ)と呼ばれ、朝廷から異民族とみなされ征討の対象とされた。
そのため、647年に蝦夷征討の前線基地として、越後国に渟足柵(ぬたりのさく)、翌年には磐舟柵(いわふねのさく)という城柵が設けられた。
658年には、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が東北地方日本海側の蝦夷を攻め、朝廷に服属させている。

 朝鮮半島では、唐と結んだ新羅が660年に百済を滅ぼした。
斉明天皇は百済の救援要請にこたえ、朝鮮半島に援軍を送ったが、663年に錦江河口の白村江で唐の水軍に大敗した。
この戦いを、白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦いという。
唐・新羅の連合軍は668年に高句麗も滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一した。

 白村江での敗戦後、北九州に烽火(のろし)と防人(さきもり)を配備し、筑紫や長門に水城(みずき)を建設して唐・新羅の侵攻に備えた。
水城とは、川の水を引き入れる人口の堤防のことである。

天智天皇

 661年に斉明天皇が死去したが、中大兄皇子は即位せずに皇太子のまま国政にあたった。
このような政治手段を称制(しょうせい)という。
653年に飛鳥に移っていた中大兄皇子は、667年に飛鳥の旧勢力との関係を断って大津宮に遷都。
その翌年、正式に即位して天智天皇(てんじてんのう)となった。
 天智天皇は、日本最初の法典である近江令(おうみりょう)を制定。
670年には最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)をつくらせた。
庚午年籍は、氏姓を正す根本台帳として永久保存することが定められた。
近江令を編纂した中臣鎌足は、死の直前に天皇から藤原姓を賜り藤原鎌足となった。

天武天皇

 天智天皇没後、皇位継承をめぐって息子の大友皇子(おおとものおうじ)と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が争った。
大海人皇子は、大友皇子を中心とする近江朝廷側の軍備増強の知らせを受け、672年に吉野を出発して美濃に入る。
美濃で東国の兵士の支援を得た大海人皇子は、近江朝廷に攻め込み大友皇子側を打ち破った。
この皇位継承争いを壬申の乱(じんしんのらん)という。

 乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、天武天皇(てんむてんのう)となった。
天武天皇は、権威強化のために1人の大臣も置かず、皇后と息子たちを重用した天皇中心の皇親政治を行なった。
また、従来の姓を改め、684年に真人(まひと)から稲置(いなぎ)までの八階級からなる八色の姓(やくさのかばね)を定めた。
国史の編纂にも力を入れ、川島皇子や刑部親王に命じて『帝紀』『旧辞』を編纂させた。

 天武天皇没後3年間は、皇后による称制が行われたが、689年に皇后が正式に即位して持統天皇(じとうてんのう)となる。
同年、天武天皇が編集を命じた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行した。
翌690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく)をつくり、694年には唐の都城制を取り入れて藤原京に遷都した。

 697年に持統天皇の孫である文武天皇(もんむてんのう)が即位。
701年には、刑部親王(おさかべしんのう)藤原不比等(ふじわらのふひと)らが大宝律令(たいほうりつりょう)を制定した。
ちなみに、「律令」の「律」は刑法、「令」は行政法・民法・商法を意味している。
大宝律令が制定されたことにより、大化の改新以来目指されてきた律令国家体勢が整った。

白鳳文化

 大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化を白鳳文化(はくほうぶんか)という。
初唐の影響を受けた都市中心の貴族文化で、仏教色が強いのが特色だ。

<仏教建築>
 天武天皇が厚く仏教を保護したことにより、各地で寺院が建立された。
代表的なものとしては、薬師寺大官大寺、川原寺、法興寺などがある。
他の建築物として特に有名なのが、総高33.7mの三重塔・薬師寺東塔だ。
<仏教彫刻>
 飛鳥文化以来の金銅像が中心。
興福寺仏頭薬師寺金堂薬師三尊像薬師寺東院堂聖観音像などが代表的な作品だ。
<絵画>
 インドのアジャンター壁画の影響を受けた法隆寺金堂壁画や、唐や高句麗の影響を受けた高松塚古墳壁画が有名。
<和歌>
 中国の詩文の影響のもとに、日本固有の和歌が発達。
天武・持統天皇をはじめ、柿本人麻呂額田王(ぬかたのおおきみ)など、すぐれた歌人が現れ、初期万葉の時代といわれた。

律令政治

 律令で定められた中央官制には、二官・八省・一台・五衛府があった。
二官とは、国家の祭祀をつかさどる神祇官(じんぎかん)と、一般行政に携わる太政官(だじょうかん)のこと。
太政官は、最高責任者の太政大臣と、左大臣右大臣で構成され、事務局として少納言左・右弁官がある。
太政大臣は常職ではなく、適任者がいなければ置かれなかった。その場合は左大臣が最高責任者となる。
左・右大臣に次ぐ地位として大納言があり、天皇に近侍して庶政を議し、天皇への奏上や天皇の宣下をつかさどった。
八省には、左弁官が管理する中務省式部省治部省民部省と、右弁官が管理する兵部省行部省大蔵省宮内省があった。
一台とは、弾正台(だんじょうだい)のことで、役人の監察や、風俗取締りを行なう。太政官とは別に置かれていた。
五衛府は、京や宮中の警護を行なう役職で、衛門府左・右衛士府左・右兵衛府からなる。
のちに衛門府にも左・右がついて六衛府となった。

 全国は畿内・七道の行政区に分けられ、その下に国・郡・里を設け、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。
国司は一定の任期で中央から貴族が派遣され、郡司には地方豪族が任命された。また、国司が事務を執った役所を国衙(こくが)という。
 都には左・右京職(きょうしき)、難波宮や難波津がある摂津国には摂津職、九州には大宰府(だざいふ)が置かれた。

 中央・地方を問わず、役所の幹部はすべて四等官制により、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官で構成された。
四等官の名称の書き方は官庁によって異なり、例えば国司の四等官は守・介・掾・目、八省では卿・輔・丞・録と表した。
 官人には家柄や能力によって位階が与えられ、官位相当の制により位階に相当する官職が与えられた。
また、五位以上の貴族の子と三位以上の孫には、21歳になると一定の位階が与えられた。これを蔭位の制(おんいのせい)という。

身分と土地

 律令では、すべての人は良民賤民(せんみん)とに分けられた。
良民とは自由民のことで、公民と呼ばれる一般農民のほかに、親王・貴族を含んでいる。
氏姓制度時代の部民(部曲)はすべて良民となり、戸籍計帳に登録された。
また、公民よりも一段低い半自由民として、品部雑戸(ざっこ)が置かれていた。
賤民は不自由民のことで、官有の陵戸官戸公奴婢と、私有の家人私奴婢があり、五色の賤(ごしきのせん)とよばれた。

 政府は、6年ごとに戸籍を作成し、50戸を1里に編成。この戸籍にもとづいて、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)を与えた。
この制度は唐の均田制(きんでんせい)にならったもので、班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)という。
口分田の大きさは、良民男子が2反(一反=360歩)、女子はその3分の2、私有賤民は良民の3分の1の割合となっていた。
 田地には口分田のほか、租税を免除された不輸祖田(ふゆそでん)の寺田や神田もあった。
また、班田で残った田地を乗田(じょうでん)といい、収穫の5分の1の賃料をとって農民に貸し与えられた。
これらの田地は条里制(じょうりせい)により整然と区画されていた。

 農民には祖・庸・調を基本として、様々な税が課された。
田地に課された「祖」は、田1反につき2束2把の稲(収穫の約3%)を地方に納めさせるもので、各国の財源となった。
また、「庸」は10日間の労役の代わりに麻布2丈6尺を、「調」は絹・綿・糸などの地方特産物を中央に納める税だ。
その他、国司のもとで労役に従事する雑徭(ぞうよう)、都での労役を行なう仕丁(しちょう)、凶作に備えて粟等の穀類を供出させた義倉(ぎそう)や、
庸や調の都への運搬も運脚(うんきゃく)という義務として農民に課せられいた。
また、本来は農民救済のための制度で、春に稲を貸し付け秋の収穫時に利子を付けて返させる出挙(すいこ)も次第に強制貸付となった。
農民にとって一番重いのは兵役で、正丁(せいてい)(21〜60歳の成年男子)3人に1人の割合で徴兵された。
兵士は各地の軍団に集められて訓練られた後、一部は東北の衛士(えじ)や九州の防人の任務についた。
一般兵士は庸・雑徭を免除されたが、その戸の労働力の中心が徴兵されるため、残された家族にとっては非常に大きな負担となった。

律令国家の繁栄

 710年、女帝の元明天皇(げんめいてんのう)は、奈良の平城京(へいぜいきょう/へいじょうきょう)に遷都した。
平城京は唐の長安(ちょうあん)にならった都で、条坊制(じょうぼうせい)によって整然と区画されていた。
京内には貴族や官人の邸宅のほか、飛鳥地方にあった多くの寺院が移され、口分田も多く存在した。
 市司(いちのつかさ)が管理する東市・西市も設けられ、708年には唐の開元通宝にならって和同開珎(わどうかいちん)が鋳造された。
元号も和銅とし、これ以降250年間に12種の銅銭が発行された。
古代天皇制と発行時期が一致することから、これを皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という。
しかし、当時は米や布などによる物品取引が主流で、和同開珎はあまり流通しなかった。
そこで政府は711年に蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出して促進をはかったが、効果はなかった。
 主要地域を中心に官道が整備され、中央と地方の連絡を密にするための駅制が整備された。
約16kmごとに駅家(えきか)が設置され、そこに駅馬(はゆま)を配置し、駅鈴をもった役人が公用のために利用した。

 政府は中央集権体制を日本全土に広げるため、東北や九州にも積極的に進出した。
708年には最上川の下流に出羽柵を設け、712年に出羽国を設置。
724年には陸奥国に多賀城を築いて鎮守府とし、東北経営の拠点に利用、さらに733年には雄物川流域に秋田城を建設した。
 九州南部には隼人(はやと)と呼ばれる種族が住み、朝廷に対してたびたび反乱を起こしていた。
政府は対策として713年に大隈国、720年に薩摩国を設置。
しかし720年にも大隈国の国司を殺害して大乱を起こし大伴旅人によって鎮圧されるなど、隼人の反乱はしばらく続いた。

 朝廷は、669年以来途絶えていた遣唐使の派遣を702年に再開し、日本の国号を唐に伝えた。
遣唐使の一行は多い時には500人にもおよび、4隻の舟に分乗したので「よつのふね」とも呼ばれた。
遣唐使に随行した留学生や学問僧たちは、唐から多くの文物を日本に伝え、日本文化発展に寄与した。
 日本は新羅とも国交をもったが、日本が優位に立とうとしたため関係が悪化した。
このため遣唐使船は、8世紀から朝鮮半島沿いに山東半島に上陸する北路をとらず、東シナ海を通る南島路南路をとるようになった。
 727年からは、渤海(ぼっかい)とも交渉をはじめた。
渤海は東満州・沿海州に栄えたツングース族の王国で、唐・新羅・契丹(きったん)に対抗するために34回来朝し、毛皮や薬用人参などをもたらした。

律令制の動揺

 元明天皇と元正天皇(げんしょうてんのう)の両女帝時代、藤原不比等が天皇家に接近し権力を掌握。
718年に養老律令(ようろうりつりょう)を制定したが、大宝律令と内容的に大差がなかったために、すぐには施行されなかった。
不比等には、武智麻呂(むちまろ)(南家)房前(ふささき)(北家)宇合(うまかい)(式家)麻呂(まろ)(京家)の4人の息子がいた。
彼らの家系を藤原四家という。

 不比等の死後、政治の指導権は天武天皇の孫の長屋王(ながやおう)に移ったが、藤原四家とは対立していた。
729年、藤原四家は異母妹の光明子(こうみょうし)聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后に立てようとした。
皇后には貴族がなることに律令の規定で決められていたため長屋王は光明子の擁立に反対したが、藤原四家は「長屋王は天皇に謀反を企てている」と密告。
朝廷は長屋王討伐の勅命を出し、藤原武智麻呂らに邸宅を囲まれた長屋王は一族とともに自殺した。この事件を長屋王の変という。

 長屋王の変後、光明子が光明皇后となり、藤原四家は要職を占め、藤原氏の勢力が確立するかにみえた。
しかし、天然痘の流行で4人は相次いで死亡し、政権は貴族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)に移った。
橘諸兄は、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や僧玄ム(げんぼう)を登用して政治を独占。
これに反発した藤原宇合の子・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、吉備真備や玄ムの排除を求めて740年に九州で挙兵。
藤原広嗣の乱はすぐに鎮圧されたが、朝廷は新たな反乱を恐れて恭仁京難波宮紫香楽宮(しがらきのみや)と都を転々とした。

 749年、聖武天皇にかわって娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が即位した。
即位の二日後、孝謙天皇は、母・光明皇太后のために紫微中台(しびちゅうだい)という役所を新設した。
この紫微中台は「裏の権力機構」とも呼ばれ、光明皇太后が孝謙天皇に代わって「勅」を出すことが認められていた。
光明皇太后は藤原武智麻呂の第2子・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を寵愛、橘諸兄を失脚させて仲麻呂に政権を任せた。
仲麻呂は儒教政治を行い、757年には祖父の不比等が制定した養老律令を施行するなど、勢力を伸ばした。
橘諸兄の子・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は仲麻呂の台頭に不満を抱き、757年、旧豪族と結んで仲麻呂打倒を企てた。
しかし反乱は未然に発覚し、奈良麻呂は捕らわれて獄死した。これを橘奈良麻呂の変という。

 758年、孝謙天皇が退位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が即位。
仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、官名を唐風化するなど、淳仁天皇を傀儡として専制政治を行なった。
しかし、760年に光明皇太后が死去すると、僧・道鏡(どうきょう)を寵愛するようになった孝謙上皇と仲麻呂の関係が悪化。
764年、仲麻呂は道鏡を除こうと反乱を起こしたが、朝廷軍に敗れて死亡し、仲麻呂の傀儡だった淳仁天皇も淡路に流された。
この反乱を藤原仲麻呂の乱、又は恵美押勝の乱という。

 仲麻呂の乱の後、孝謙上皇が再び即位して称徳天皇(しょうとくてんのう)となった。
僧・道鏡は、称徳天皇の寵愛により太政大臣禅師、さらには法王の称号も得た。
さらに宇佐八幡宮の神託と称して皇位を狙ったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)らによって阻止された。
770年に称徳天皇が死去すると、道鏡は式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)らによって下野国に流され、政界から失脚した。
天皇も天智天皇の孫である光仁天皇(こうにんてんのう)が即位し、この下で藤原百川が政界の実権を握った。

公地公民制の崩壊

 貴族や寺社に与えた職田、寺田、神田が増加したことや、人口増加によって口分田が不足しはじめた。
政府は772年に百万町歩開墾計画をたて、農民に食料や道具を支給して開墾をさせたが、効果は上がらなかった。
723年には、三世一身の法(さんぜいっしんのほう)を発令。
この法は、新しく灌漑施設を作って開墾したものには三世(本人・子・孫の三代)にわたって、
旧来の灌漑施設を利用したものは本人一代に限って保有を認めるというものだった。
しかしこれは、公地公民制の原則を破る契機となった。

 三世一身の法は期限つきであったため、あまり効果が上がらなかった。
また、せっかく開墾された田も、収公の期限(国に返す期限)が近づくと再び荒廃することが多かった。
そこで政府は、743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を出し、墾田の永久私有を認めた。
ただし墾田は輸祖田で、田の私有面積は身分によって一定の広さに制限されていた。
これにより、公地公民制は崩壊した。
 有力な貴族、寺社、富裕農民らは、浮浪者を労働力として開墾に利用し、土地の私有化を進めた。
このような墾田を初期荘園(しょきしょうえん)といい、農民に貸し与えて地子をとる賃祖の方式で経営された。
初期荘園の例として、東大寺が国司や郡司の協力によって開発を行なった越前国道守荘がある。

仏教事業

 熱心な仏教信者の聖武天皇は、凶作、飢饉、疫病などを仏教の功徳によって取り除こうと、741年に国分寺建立の詔を出した。
これにより、日本全国に国分寺、国分尼寺を作り、国家の平安を願った。
743年には、大仏造立の詔を出し、東大寺の本尊として盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)の造立を行った。
大仏造立は10年の歳月がかけられ、752年に完成し盛大な開眼供養が行なわれた。
しかし、国の財力と人力を尽くしたため、国力の衰退を招いた。

 三論(さんろん)成実(じょうじつ)華厳(けごん)法相(ほっそう)倶捨(くしゃ)律(りつ)の6宗派を南都六宗(なんとろくしゅう)という。
これら宗派はいずれも仏教教学の学派で学問をする場であった。
このうち、法相宗と華厳宗はとくに盛んで、それぞれ義淵(ぎえん)良弁(ろうべん)の名僧を輩出した。
僧侶になるためには国家試験によって得度し、さらに戒を授かる必要があった。
律宗をもたらした唐僧・鑑真(がんじん)は、東大寺、唐招提寺(とうしょうだいじ)に戒壇を設けて戒律を授与した。

 政府は僧尼令という法令を出し、許可無く僧侶になることや、民間への布教を禁止していた。
しかし、僧・行基(ぎょうき)は僧尼令に反発して民間布教を行い、社会事業に貢献した。
政府は行基を弾圧したが、庶民は行基菩薩として彼を崇めたため、彼の影響力を利用した政府は、大仏造立に協力させ、後には大僧正に任じた。

天平文化

 8世紀の聖武天皇時代を中心とした貴族文化を天平文化(てんぴょうぶんか)という。
律令制の隆盛を反映し、唐文化の影響が強く、仏教色も色濃いのこの文化の特色だ。

<学問>
 中央に大学、各国ごとに国学が設置された。
式部省には大学寮が置かれ、貴族や史部の子弟を学生(がくしょう)とした。学業は儒教中心で、大学の試験を通ると太政官に推薦される。
国学は有力豪族や郡司の子弟を学生とし、国学の試験修了者は上京して中央官吏に登用された。

<書物>
『古事記』・・・神武から推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承を、稗田阿礼(ひえだのあれ)が伝誦し、太安万侶(おおのやすまろ)が執筆。3巻。
『日本書紀』・・・最古の官撰正史。神武から持統天皇までの国家成立史を、舎人親王(とねりしんのう)らが編纂。30巻。
六国史(ろっこくし)・・・8〜10世紀初めにかけて勅撰された6つの正史のこと。
『日本書紀』の他、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』がある。
風土記(ふどき)・・・各国の地名の由来、産物、伝承などが記載されたもの。『出雲風土記』『常陸風土記』が有名。
『懐風藻(かいふうそう)』・・・日本最古の漢詩集。撰者不明。淡海三船(おうみのみふね)大津皇子など64人の詩120編が収録されている。
『万葉集』・・・仁徳期から759年までの和歌約4500首を収録。万葉かなで記載。編者は大伴家持(おおとものやかもち)と言われているが確証はない。
収録されている主な歌人は、大伴家持をはじめとして、柿本人麻呂額田王山上憶良山部赤人等。
また、歌人ばかりでなく、東国民衆の東歌防人の歌も収録されている。

<建築物>
 東大寺法華堂(三月堂)正倉院宝庫唐招提寺金堂など。
<彫刻>
 乾漆像(かんしつぞう)・・・漆で固めて作った像。唐招提寺鑑真和上像興福寺阿修羅像など。
 塑像(そぞう)・・・粘土で作った像。東大寺法華堂執金剛神像東大寺法華堂日光・月光菩薩像など。
<絵画>
 薬師寺吉祥天画像正倉院鳥毛立女屏風など。

平安遷都

 奈良時代末期の光仁天皇は、仏教勢力を政治から排除しつつ、律令政治の再建をはかった。
ついで即位した桓武天皇もその方針を受け継ぎ、784年、旧勢力の強い奈良を離れて、交通に便利な山背国の長岡京に遷都した。
しかし翌年に造長岡宮使の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される事件が発生。
暗殺の容疑者として大伴継人ら十数人が逮捕され、大伴継人の自供により皇太子の早良親王(さわらしんのう)も事件に関与していたと判明した。
朝廷は早良親王を逮捕し身柄を乙訓寺に幽閉したが、早良親王は無罪を主張して十数日に及ぶ断食を敢行、その後淡路島に流される途中で死去した。

 種継暗殺事件以降、桓武天皇の周辺では近親者が次々と死去し、畿内には疫病が流行するなど、不吉なことが続いた。
桓武天皇は、これら凶事が早良親王の怨霊のたたりからくるものではないかと考え、早良親王の墓を改修させたり、崇道天皇の号を送るなどした。
長岡京からの移転を考え始めた天皇は、792年に和気清麻呂の建議で葛野郡宇太村に新京を構えることに決定。
急ピッチの工事により、794年に新京に移転し平安京と名づけた。
平安京は、平城京と同じく、唐の長安を真似た都城であったが、政教分離の方針で、当初は官寺以外に寺を置かなかった。

律令制の建て直し

 奈良時代終期以降、律令制度による支配体制に対する反発から、東北地方で蝦夷の抵抗が多発した。
797年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍に任命し、征討軍を派遣した。
田村麻呂は軍を北上川沿いに進め、802年には胆沢城(いさわじょう)を築いて鎮守府を設置し、翌年にはさらに北進して志波城(しばじょう)を築いた。

 中央から派遣されていた国司の交替の際、新任の国司は引継ぎが完了したことを証明する解由状(げゆじょう)を前任者に渡すことになっていた。
解由状がなければ前任者は新しい職につけなかったため、解由状をめぐる争いや不正が多くなっていた。
そのため朝廷は、勘解由使(かげゆし)を設置し、国司交替の監視・監督をさせた。

 貴族や寺院による大土地所有が進み、班田の実施が難しくなっていた。
そのため801年に、班年を6年1班から12年1班に改めた。
795年には、出挙稲(すいことう)の利息を5割から3割に減らし、正丁の雑徭の日数を60日から30日にした。
 また、兵制も改革し、792年には東北・九州を除いて軍団を廃止し、新しく健児の制を発令、郡司の子弟を健児として採用した。

 桓武天皇の政治方針は、子の平城天皇(へいぜいてんのう)嵯峨天皇(さがてんのう)にも受け継がれた。
嵯峨天皇は律令官制の不備を補うため、令外の官(りょうげのかん)として蔵人(くろうど)検非違使(けびいし)を設置した。
令外の官とは令制にない新しい官職のことで、すでに奈良時代から実施されている中納言参議も令外の官である。
 蔵人とは、天皇側近となって機密の文書や訴訟を取り扱う官職で、その役所を蔵人所(くろうどどころ)、その長官を蔵人頭(くろうどのとう)という。
検非違使は、京都の治安維持を目的として設置された官職。
のちに訴訟・裁判も行なうようになり、弾正台・五衛府・刑部省・京職を吸収して重要な官職となった。

 律令を補足・修正した法令を、律令の施行細則をという。
この時代、数多くの格や式が出されていたが、嵯峨天皇はこれを分類・整理させて弘仁格式が編纂された。
これは、後に出された貞観格式延喜格式とあわせて三代格式と呼ばれている。
 また、まちまちになっていた養老律令の解釈を統一するため、833年に清原夏野らが官撰注釈書の『令義解(りょうのぎげ)』を編纂した。
9世紀後半には、惟宗直本が多くの注釈を集めた私撰注釈書の『令集解(りょうのしゅうげ)』を編纂した。

弘仁・貞観文化

 弘仁・貞観年間を中心とする平安時代初期の文化で、唐文化の影響を受けていながらも、日本独自の文化が芽生え始めているのが特徴。

 <仏教>
 桓武天皇の仏教革新策により、唐から新しい仏教が伝えられた。
天台宗・・・805年に唐から帰国した最澄(伝教大師)が、比叡山に延暦寺を建立して開いた宗派で、法華経を中心とし、哲学的な教理を説いた。
最澄は戒壇を延暦寺に設けることを願ったが、南都六宗派の激しい反対にあい、『顕戒論』を著して論争を続けた。生前には実現せず、死の直後許された。

真言宗・・・806年に唐から帰国した空海(弘法大師)が、高野山に金剛峰寺を建立して開いた宗派。
真言とは大日如来の真実の言の意で密教といわれ、言葉や文字で教義をわかりやすく説いた顕教(けんきょう)とは区別された。
823年には、嵯峨天皇から教王護国寺/東寺(とうじ)を勅賜された。

 真言密教の盛行につれて、天台宗でも最澄の弟子円仁(えんにん)円珍(えんちん)が入唐して密教を学び取り入れるようになった。
天台宗の密教を台密(たいみつ)といい、真言密教を東密と呼んで区別していた。
台密は円仁と円珍が天台座主の地位を争って対立したため、円仁の山門派(延暦寺派)と円珍の寺門派(園城寺)に分裂。
真言宗も後にいくつかの流派に分裂していった。

 天台・真言宗は山岳地帯に堂塔を設けて修行し、これが古くからの山岳信仰と結びついて修験道(しゅげんどう)が生まれた。
修験道は呪術者・役小角(えんのおづぬ)を祖師と仰ぎ、中世になって特に盛んになり、山伏たちは熊野三山を中心に修行した。

<学問>
 有力な貴族は一族の子弟のために、寄宿舎・研究室・図書館を兼ねた大学別曹(だいがくべっそう)を設置した。
主な大学別曹としては、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院がある。
また空海は、庶民の教育機関として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立し、仏教のほかに儒学も指導した。

 学問の基礎的な教養として漢文学が必要であり、漢詩文の作成は貴族にとって重要であったため、いくつかの勅撰漢詩文集も編纂された。
有名なものとしては、小野岑守や菅原清公らによる『凌雲集』、藤原冬嗣らの『文華秀麗集』、良岑安世の『経国集』などがある。
また、空海の詩文を弟子が編纂した『性霊集(しょうりょうしゅう)』という私撰の漢詩文集もある。

<建築物>
 室生寺(むろうじ)室生寺金堂・五重塔など。
<彫刻>
一木造(いちぼくづくり)・・・頭部から胴体までを1本の木材で作った木像のこと。
元興寺薬師如来像神護寺薬師如来像薬師寺僧形八幡神像など。
<絵画>
曼荼羅(まんだら)・・・密教の世界観を特異の構図で表現した絵画。『神護寺両界曼荼羅』が代表。