邪馬台国の謎

邪馬台国の所在地

 昔から、邪馬台国の所在地については諸説ある。
代表的なものが畿内説北九州説の二つなんだけど、他には四国説、甲信越説、房総説、さらにはエジプト説、インドネシア説など様々な説がある。ただし、理論を伴わない思いつきによるものが多いんだよ。
 江戸時代に、新井白石が畿内説を唱え、本居宣長が北九州説を唱えたことが、そもそもの所在地論争の出発点で、基本的には現在もその延長線上で議論されているんだよ。

 邪馬台国所在地論争の鍵を握るのは、またしても『魏志倭人伝』だ。
そこには、魏の使節が、帯方郡(たいほうぐん)から倭に至るまでの方位と距離、必要とする日数が書かれている。
帯方郡というのは、204年頃に遼東半島の豪族・公孫氏が楽浪郡南部を分割して新設した郡のことで、現在のソウル付近に相当する。
この時代、魏と倭の通交を取り持っていたのが帯方郡なんだよ。

 帯方郡から倭に至る行程を原文に忠実に表記してみたので、まず以下の表をみてくれ。

郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し。
韓の国々をへ、あるいは南しあるいは東し、倭の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に至る。七千余里。
はじめて一海を渡ること千余里にして対馬国(つしまこく)に至る。
又南に一海渡ること千余里、一支国(いきこく)に至る。
又一海を渡ること千余里にして末盧国(まつらこく)に至る。
東南に陸行すること五百里にして伊都国(いとこく)に至る。
東南、奴国に至るには百里。
東行、不弥国(ふみこく)に至るには百里。
南、投馬国(とうまこく)に至るには水行二十日。
南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行十日、陸行一月。

 注意してほしいのは、ここに表記されている距離の事だ。
普通、一里というのはメートル法にすると約3927メートル、つまり約4キロだ。
また、当時の魏では、現在と違い一里が約434メートルとして考えていた。
でも、『魏志倭人伝』に出てくる一里を4キロや、434メートルとして考えると、とんでもない距離になってしまうんだよ。
ちなみに、4キロで考えたのがエジプト説で、434メートメで考えたのがインドネシア説だ。
 古代中国では、長里、短里という考え方があったんだけど、おそらく『魏志倭人伝』における距離は、短里によって計算されているものだと思われる。
この短里にしても、研究者によって考え方が様々で、一里が50メートル〜150メートルくらいまでの広い範囲になってしまう。
でも最近は、様々な研究によって、一里を75メートルとする考え方に統一されつつあるな。

 では、解説していく。
(1)の「韓の国々」というのは、当時の朝鮮半島南部にあった馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の、いわゆる三韓の事だ。
弁韓は12の国に分かれていて、その1つが狗邪韓国であり、現在のプサン付近に相当する。
「倭の北岸の狗邪韓国」という書かれ方から判断すると、当時の中国が弁韓あたりまでを倭と認識していたという事になる。

(2)の対馬国が現在の対馬であり、(3)の一支国というのは現在の壱岐(いき)のことを指しているのは間違いない。
また(4)の末盧国は現在の佐賀県東松浦郡、(5)の伊都国は、昔は怡土(いと)郡と呼ばれていた現在の福岡県糸島郡、そして(6)の奴国は、金印の発見された志賀島の奴国の事なので、現在の博多周辺だったということも確実だ。
ここまでは、畿内説、北九州説のどちらも一致している部分なんだけど、問題はここから先なんだよ。

畿内説の根拠

 邪馬台国畿内説を唱える人たち最大のポイントは、(8)「南、投馬国に至るには水行二十日」と(9)「南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行十日。陸行一月」の「南」という記述は『魏志倭人伝』の誤植で、「東」が正しいのではないかと考えている事だ。
何故なら、文章通りに南に「水行十日。陸行一月」も進んでしまうと、邪馬台国は九州のはるか南方海上に位置することになってしまう。だから、「東」に訂正して考えているんだよ。
その考え方でいくと、(7)奴国から東に百里の不弥国を福岡県宗像市の津屋崎周辺だとし、そこから「東に水行二十日」行った(8)の投馬国を「とうまこく」ではなく「とうわこく」と読み、山口県の屋代島にある現在の大島郡東和町周辺をあてはめている。
そして、そこから瀬戸内海を水行十日したあと上陸し、陸路を一ヶ月かかって進めば畿内大和に到達するとしているんだよ。
 また、三世紀の邪馬台国と、四世紀に登場してくる大和朝廷の関係についても、畿内説の立場に立てば、邪馬台国がそのまま大和朝廷に成長発展したととらえる事ができ、何の矛盾もおこらないわけだ。

北九州説の根拠

 邪馬台国北九州説を唱える人たちのポイントは、『魏志倭人伝』の記述を連続して読まないというのが基本になっている事だ。
彼らは伊都国から奴国を経て不弥国に至り、不弥国から投馬国を経て邪馬台国に至るという連続した読み方はしない。
伊都国を起点にして、そこから東南に百里が奴国、東に百里が不弥国、そして南に水行二十日行くと投馬国に至るという放射状になっていると考えている。
つまり、帯方郡を出発した魏の使節は、狗邪韓国から対馬国、一支国、末盧国を経由して伊都国に至り、奴国、不弥国、投馬国には行かずに、邪馬台国に到達したという事になる。

 その理由として、『魏志倭人伝』の表記の仕方の違いを指摘している。
(2)〜(5)までは「○○の方向に渡ること何里にして△△国に至る」となっているのに、(6)〜(8)は「□□の方向、◇◇国に至るには何里」と表記の仕方が違っている。
もし、奴国から不弥国に行ったならば「東に陸行すること百里にして不弥国に至る」、不弥国から投馬国行ったならば「南に一海を渡ること水行二十日にして投馬国に至る」という書き方をしたはずだと考えている。
この考え方に当てはめると、(7)の不弥国は伊都国の東に百里、現在の福岡県糟屋郡宇美町周辺になり、(8)の投馬国は伊都国から水行二十日、だいたい熊本と鹿児島の県境あたりに相当する。

 そして(9)については、「南、邪馬台国、女王の都する所に至る。」と「水行十日、陸行一月。」の二つに文章が区切られている点を指摘し、伊都国の南に邪馬台国は位置していたとした上で、「水行十日、陸行一月。」の部分は、伊都国から邪馬台国までの所要日数とは考えず、帯方郡から邪馬台国に至るまでの総所要日数であるとしている。
伊都国から邪馬台国までの所要日数とは考えない理由として、伊都国から南に舟で10日行き、そこから陸路を南に進むと、5〜10日ほどで薩摩半島の先端に到達し、陸路ではそれ以上南には進めなくなる点を指摘している。
また、もし陸路を1ヶ月旅したとしても、薩摩半島の先端からUターンして九州を北上することになって記述と矛盾してしまうし、「陸行一月」を無視して南に進んだとしても九州南方海上に出てしまうという事も、理由としてあげている。

総括

 そもそも、畿内説は『魏志倭人伝』の記述を誤植として、「南」の部分を「東」にしたことによって成り立っている説だ。
もちろん、古い文献だから誤植があった可能性はあるし、事実、『魏志倭人伝』には何ヶ所が誤植があるんだけど、それは似たような漢字の書き間違いによるもので、東と南という全然似ていない漢字を間違えるようなことはないと思う。
 もし畿内説が正しいとしても、不弥国や投馬国のほかに、吉備国出雲国等、邪馬台国と同レベルの国が畿内大和に至るまでの間にあったわけで、それらの国については一切書かれていないのはおかしい。
これは、魏の使節が九州までを倭と考え、そこから東には行っていない事の証明だと考えられる。
 これらの理由から、俺は北九州説を支持している。

 では、邪馬台国は北九州のどこにあったのか。
注目すべき記述が『魏志倭人伝』にあり、そこには「郡より女王国に至るには一万二千余里」と書かれているんだよ。
 先ほどの表から、帯方郡から伊都国までの距離を合計すると1万500里になる。
ただし、「七千余里」とか「千余里」というあいまいな書き方をしてあるため、正確に1万500里になるわけじゃない。
「余」がどのくらいの数字になるのかによって、数字は変動してしまうんだけど、仮に「七千余里」を7200里、「千余里」を1100里として計算してみると、合計で1万1000里になる。
帯方郡から邪馬台国までが1万2000里で、そのうち伊都国までを1万1000里にすると、残りは1000里になる。
これを一里=75メートルで計算すると、75キロということになり、邪馬台国は伊都国から南に75キロくらいの地点に位置していたことになる。

 伊都国は、現在の福岡県糸島郡に相当するわけだから、そこから南に75キロくらいの地点は、福岡県の筑後川流域付近にあてはまる。
俺は、そこにある山門郡大和町周辺が、邪馬台国だったのではないかと考えている。


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