大和政権の動揺・その1

古代天皇の系譜

  今回の項目タイトル「大和政権の動揺・その1」を説明する上で、第21代・雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の存在が重要となる。
でもその前に、古代天皇の系譜を知っておく必要があるので簡単に説明しよう。

天皇名在位期間
神武天皇(じんむてんのう) 前660.2.11〜前585.4.3
綏靖天皇(すいぜいてんのう) 前581.2.17〜前549.6.22
安寧天皇(あんねいてんのう) 前549.8.13〜前510.1.11
懿徳天皇(いとくてんのう) 前510.3.9〜前477.10.1
孝昭天皇(こうしょうてんのう) 前475.2.16〜前393.8.30
孝安天皇(こうあんてんのう) 前392.2.16〜前291.2.22
孝靈天皇(こうれいてんのう) 前290.2.14〜前215.3.22
孝元天皇(こうげんてんのう) 前214.2.16〜前158.10.10
開化天皇(かいかてんのう) 前158.12.18〜前98.5.20

天皇名 在位期間
10 崇神天皇(すじんてんのう) 前97.2.14〜前29.1.6
11 垂仁天皇(すいにんてんのう) 前29.2.1〜70.8.6
12 景行天皇(けいこうてんのう) 71.8.22〜130.12.23
13 成務天皇(せいむてんのう) 131.2.18〜190.7.29
14 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 192.2.10〜200.3.8

 まず初代から9代までの天皇だけど、この9人はすべて架空の人物だ。
何故、架空の人物が天皇系譜に記載されているのかと言うと、『古事記』『日本書紀』を編纂するにあたって「皇室の起源を古くしようという」という働きかけがあったからではないかと言われている。
前にも説明したけど、「1260年ごとの辛酉の年に革命が起こる」という中国の思想をそのまま取り入れ、601年の辛酉の年から1260年前を、強引に初代・神武天皇の即位の年にしてしまった。
この時に、2代・綏靖天皇から9代・開化天皇までの8人の架空人物も、歴代天皇につけ加えられてしまったんだよ。
まだ縄文時代の紀元前660年に天皇が国を支配していたなんて史実に反しているんだけど、日本の皇室はこれらを今でも事実として通しているわけだ。

 実在したと考えられる最初の天皇は、第10代・崇神天皇だ。
大和の三輪山を本拠地としていたので、崇神天皇から仲哀天皇までを三輪王朝と呼ぶ。
前にも書いたように、俺は畿内大和の連合国家である「原大和国家」が進歩・発展して大和朝廷になったという説を支持している。
この「原大和国家」が大和朝廷に発展していくための基礎を固めたのが三輪王朝だと考えている。
ただ、三輪王朝は崇神天皇、垂仁天皇仲哀天皇の三代のみで、景行天皇成務天皇については、俺は架空の人物だと思う。

景行天皇には何十人もの息子がいて成務天皇もその1人なんだけど、彼の息子で最も有名なのがヤマトタケルだろう。
当然、ヤマトタケルは神話に登場する架空人物なわけだから、景行天皇は「ヤマトタケルの父」という役割のためだけに創られた天皇だと考えられるんだよ。
成務天皇に関しては、景行天皇の息子という事と「近江の国の志賀の高穴穂の宮」で政務を行ったという記述以外は『古事記』『日本書紀』にほとんど名前が登場しない。
「近江の国の志賀の高穴穂の宮」についても本当に実在していた可能性は低いから、成務天皇も創り上げられた天皇なんだろうな。

 皇室系譜によれば、仲哀天皇はヤマトタケルの息子、妻は神功皇后で、息子は応神天皇となっている。
親も妻も息子も架空人物のため、仲哀天皇についても架空人物説は根強いんだよ。
でも、俺は「仲哀天皇」もしくは「仲哀天皇に相当する人物」が間違いなく実在し、三輪王朝の頂点に立っていたのではないかという説を支持している。

雄略天皇

天皇名在位期間
15応神天皇(おうじんてんのう)270.2.8〜310.4.1
16仁徳天皇(にんとくてんのう)313.2.15〜399.2.8
17履中天皇(りちゅうてんのう)400.3.13〜405.4.30
18反正天皇(はんぜいてんのう)406.2.6〜410.2.13
19允恭天皇(いんぎょうてんのう)413.1.19〜453.2.9
20安康天皇(あんこうてんのう)454.1.29〜456.9.24
21雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)456.12.26〜479.9.9
22清寧天皇(せいねいてんのう)480.2.12〜484.2.28
23顕宗天皇(けんぞうてんのう)485.2.2〜487.6.3
24仁賢天皇(にんけんてんのう)488.2.3〜498.9.10
25武烈天皇(ぶれつてんのう)498.12.30〜507.1.9

 仲哀天皇の死後三輪王朝は崩壊し、「原大和国家」の勢力拠点は河内周辺に移行、河内王朝がスタートする。
「倭の五王の謎」の項でも説明したように、応神天皇は架空人物の可能性が高いので、俺は仁徳天皇以降を河内王朝と考えているけれど、一般的には応神天皇から始まったとする記述が多いな。
河内王朝の全盛期は仁徳・履中天皇の時代までで、反正天皇以降は宮廷内の勢力争いが激しくなったことで、徐々にその勢力は弱まっていった。
特に葛城氏(かつらぎし)平群氏(へぐりし)といった豪族たちが実力をつけ、朝廷の指導者的立場に立っていたんだよ。

 さて、本題の雄略天皇だけど、彼が「倭王・武」の正体だというのはすでに説明した。
ここでは、彼がどのような経緯で天皇になったのかを簡単に解説しよう。

 雄略天皇は19代・允恭天皇の息子で、20代・安康天皇の弟にあたる。
本来ならば皇太子だった木梨軽皇子が允恭天皇の次の天皇になるはずだった。
ところが、木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女を犯したため群臣が心服しなくなり、弟の穴穂皇子の評価が高まった。
木梨軽皇子は穴穂皇子を殺そうとしたんだけど殺害計画は失敗し、木梨軽皇子は自殺、その結果、穴穂皇子が即位して安康天皇になる。
 安康天皇が即位した後、大王家同士による皇位継承争いが発生する。
これが、まるでヤクザの抗争のような殺し合いの連続だったんだよ。
まず安康天皇が、仁徳天皇の息子・大日下王(おうくさかおう)を殺害。
万世一系を主張する『日本書紀』によれば、允恭天皇は仁徳天皇の息子となっているから、安康天皇にとって仁徳は祖父にあたる。
しかし、実際は仁徳と允恭に血縁関係はなく、それぞれが当時の有力大王家だった。
安康天皇にしてみれば、大日下王は対抗勢力の中でも最も邪魔な存在であり、皇位を守るために殺害したわけだ。
 殺された大日下王には目弱王(まよわおう)という息子がいた。
父親を殺害された恨みから、目弱王は安康天皇を殺してしまった。
目弱王の行動に怒り狂ったのは、安康天皇の弟・大長谷皇子(おおはつせのみこ)だ。
兄の復讐に燃えた大長谷皇子は、目弱王を攻撃し、最後は自殺に追い込んでしまう。
 普通なら、これで殺し合いは終わるんだろうけど、大長谷皇子は、ついでに他の対抗勢力も排除してしまおうと思いつくんだよ。
その標的になったのが、皇位継承候補の有力者で履中天皇の息子・市辺忍歯王(いちのべのおしばおう)だ。
それも市辺忍歯王を狩にさそい、何も知らずに狩をしていた市辺忍歯王を襲って八つ裂きにし、その場に埋めてしまう非常に残忍な手口を使っているんだよ。
目弱王、市辺忍歯王という対抗勢力を打ち崩した大長谷皇子は、その後即位して雄略天皇となったわけだ。

 雄略天皇は、弱体化していた河内王朝をもう一度復興させるべく、様々な政策を行なった。
478年に宋に朝貢して上表文を奉ったり、国内において征服戦争を敢行したり、勢力の巻き返しのために躍起になったわけだ。

ヤマトタケル

 雄略天皇はヤマトタケルのモデルだと言われている。
ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されていて、どちらもヤマトタケルノミコトと読ませる。
一方、雄略天皇は『古事記』で大泊瀬幼武、『日本書紀』では大長谷若建命となっていて、オオハツセワカタケルと読む。
また、熊本の江田船山古墳から出土した鉄刀や、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、雄略天皇のこと表す獲加多支鹵大王(ワカタケル)という銘文がある。
ヤマトタケルとワカタケルという名前は確かに似ている。
でも、これだけだと「タケルという名前が共通しているだけじゃないか」と言う人もいるだろう。
そこで、『宋書』と『常陸国風土記』に注目してみる。
まず、『宋書』に記述されている「倭王武」という表記なんだけど、ここから「王」の字を除くと「倭武」となり、ヤマトタケルと読むことが出来る。
一方の『常陸国風土記』、この書物の中ではヤマトタケルのことを「倭武天皇」と表記している。
 また名前だけでなく、『古事記』『日本書紀』に書かれているヤマトタケルの逸話が、雄略天皇の行動と似ている部分が多いのも注目していいだろう。
人を簡単に殺してしまう残虐非道な部分も2人は共通している。
これらのことから考えると、ヤマトタケルという人物を創造する時に、雄略天皇をモデルにした可能性は非常に高いと思う。

吉備王国

 岡山県には、日本全国の古墳の大きさランキング第4位の造山古墳(つくりやまこふん)という前方後円墳がある。
また、造山古墳の周辺には、全国9位の作山古墳(さくやまこふん)や、岡山3位の両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)など、数多くの古墳がある。
それらの古墳がある場所は、かつて吉備王国(きびおうこく)が栄えた地域なんだよ。
ちなみに、全国1位は仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)で、全長は約486メートル。
2位が応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやまこふん)で、全長約420メートル。
3位は履中天皇陵とされる石津丘古墳(いしづおかこふん)で、全長約360メートル。
そして4位の造山古墳は約358メートルとされている。
大和朝廷の勢力が最も強かったとされる時期の仁徳陵、応神陵が大きいのは当然としても、履中陵と造山古墳の差は僅か2メートルしかない。
つまり、造山古墳の大きさを見ただけでも、5世紀の吉備王国がいかに大きな勢力をもっていたかがわかると思う。
 驚くのは、大きさだけではない。
実は造山古墳は、仁徳陵、応神陵、履中陵の3つよりも古い時代の古墳の可能性が高いことが、最近の研究によりわかってきたんだよ。
これが事実ならば、造山古墳が築造された時点で、吉備王国は大和朝廷をしのぎ、日本列島で最大の古墳をつくっていたことになる。

 吉備王国が大和朝廷を陵駕するほどの勢力をもっていた地方国家だったのは間違いない。
では、何故それだけの勢力を誇っていたのか?
理由は色々あるが、俺が最大の理由として挙げるのは、だ。
吉備王国は全国有数鉄の産地であり、豊富な鉄資源を経済基盤として次第にその勢力を拡大していったと考えられるんだよ。

 日本列島の完全統一を目指す大和朝廷にしてみれば、吉備王国の存在は当然無視出来ない。
軍事力、政治力はもちろんのこと、鉄資源はどうしても手中に収めたい。
そこで、大和朝廷は吉備王国と密接な婚姻関係を結んだ。
『古事記』や『日本書紀』によれば、景行天皇、ヤマトタケル、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇、舒明天皇が吉備王国の女性と結婚していると記述されている。
これがどこまで事実なのか不明だけど、これは間違いなく「政略結婚」だ。
大和朝廷にしてみれば、鉄資源の確保はもちろんのこと、吉備の女性を「人質」に取る事で吉備王国の動きを封じ、大和朝廷の完全な支配下におさめるという狙いもあったわけだ。

 ところが、この「政略結婚」によって天皇家との結びつきが強くなった吉備王国は、以前よりも勢力が増大し、支配下どころかむしろ大和朝廷と肩を並べるくらいまでになってしまった。
これは大和朝廷にとっては大きな誤算だったんだよ。
『日本書紀』にも書かれているが、吉備王国の勢力がさらに拡大するのを恐れた大和朝廷は、吉備の領地を分割して勢力を削ごうとした。
だか、吉備王国はそんな事では揺るがなかった。
分割されてもそれぞれの分国が連合していたため、吉備王国の勢力は衰えなかったんだよ。

吉備の反乱

 吉備王国の勢力が強大化すれば、大和朝廷への対抗意識も当然強くなる。
大和朝廷の支配権拡大は何としても阻止したいし、チャンスがあれば武力行使により政権を奪い取ろうと考えていた者もいたんだよ。
ここでは、吉備王国で起こった反乱について、いくつか説明したいと思う。

 まず最初に、前津屋の反乱(さきつやのはんらん)
『日本書紀』によると、だいたい次のような内容が書かれている。

463年(雄略7年)、宮廷に仕えていた吉備の豪族吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)が、所用で故郷の吉備に帰った。
ところが、雄略天皇に反感を抱く吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が、虚空を宮廷に帰そうとしなかった。
そこで雄略天皇は、使者を差し向けて、なんとか虚空を連れ戻した。虚空は、この時に次のような報告をした。
「前津屋は少女を天皇に、大女を自分に見たてて相撲をさせました。少女が勝つと、怒って少女を殺してしまいました。」
この話を聞いた雄略天皇は、前津屋が謀反を企んでいると悟り、ただちに兵を派遣して前津屋とその一族70人を殺してしまった。
 吉備下道臣前津屋は、その名前から見てもわかるように「臣」の姓を授与されており、吉備王国の大首長だ。
一方の吉備弓削部虚空は、「弓削部」となっていることからも弓矢を削って作る職人たちの長で、中小首長クラスだと判断できる。
前津屋にしてみれば、自分の部下であるべき虚空が大和朝廷に取り込まれて宮廷仕えをしていることに不満があり、何としてでも宮廷に戻したくなかった。
しかし虚空は、雄略天皇と密接に結びつくことにより、地方国家の中小首長から中央政界に飛び込むチャンスだと考え、「前津屋は大和朝廷に対して謀反を企てている」と密告したんだよ。
「前津屋の反乱」は、虚空の密告によって前津屋が行動を起こす前に阻止されたので、正確には反乱とは呼べないかもしれない。
でも、「吉備王国」が必ずしも一枚岩ではなかったということが見て取れて面白い逸話と言える。

 次は田狭の反乱(たさのはんらん)について説明する。
高校の参考書を見てみると、「田狭の反乱」という言葉はまず使われず、「吉備の反乱」と書かれている。
確かに、吉備で起こった反乱の中で最も有名なものだから「吉備の反乱=田狭の反乱」としても間違いではない。
でも、「田狭の反乱」以外にも吉備王国において反乱はあったわけだから、俺としては「吉備の反乱=田狭の反乱」という教え方には不満だ。
とにかく、このホームページでは「田狭の反乱」という名称を使用し、「吉備の反乱」という名称は広い意味で使う事にする。

吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は宮廷で、自分の妻である稚媛(わかひめ)がいかに美しく魅力的かを自慢した。
それを耳にした雄略天皇は、田狭を朝鮮半島の任那に役人として派遣し、田狭の留守中に稚媛を奪ってしまう。
雄略天皇が自分の妻を奪ったことを任那で知った田狭は怒り、雄略天皇と対立していた新羅に援軍を求めて日本に攻め込もうとした。
これに対して雄略天皇は、田狭の息子・弟君(おときみ)吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)を派遣し、逆に新羅を討つよう命じる。
朝鮮半島に渡って父・田狭と会った弟君は、田狭を討つどころか逆に父に取り込まれ、謀反を起こす計画を企ててしまう。
これを知った吉備海部直赤尾と弟君の妻・樟姫(しょうひめ)は、弟君を殺害して日本に帰国した。
 これも『日本書紀』に書かれているものなんだけど、これだけで判断すると、雄略天皇が他人の妻に横恋慕し、旦那を外国へ追いやって妻を奪い取り、その結果として朝鮮半島をも巻きこんだ国際的な反乱にエスカレートしたことになってしまう。
これが史実ならばとんでもない大事件だけど、実際問題として新羅と雄略政権が国際紛争の一歩手前までいったという事実はない。
そのため、「田狭の反乱」の存在を疑問視する人も多い。
雄略天皇が稚媛を吉備田狭から奪ったのは史実なんだけど、殺人狂の雄略が、田狭を朝鮮半島に役人として派遣するなんて面倒くさいことをするだろうか。
実際、『日本書紀』には次のような異説も書かれている。
田狭の妻は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子・玉田宿禰(たまだのすくね)の娘、毛媛(けひめ)である。
雄略天皇は毛媛の美しいことを聞き知り、田狭を殺して毛媛を奪った。

 この毛媛というのは、もちろん稚媛のことだ。
葛城一族は、大和朝廷と並ぶほどの勢力を持つ豪族であり、吉備王国も葛城一族とは政治的な連合を図っていた。
そのことから考えても、田狭が稚媛を妻にしていたのは、おそらく政略結婚だろう。
雄略天皇にしてみれば葛城一族の勢力は脅威であり、ましてや吉備王国と葛城一族の連合は好ましいことではなかったんだよ。
そういう点から見ると、雄略が稚媛を奪ったのは横恋慕などではなく、吉備王国と葛城一族両方を取り込むためだったのではないだろうか。
また、田狭を朝鮮半島には送らずに殺害し、息子の弟君を宮廷勤務につけるこで、稚媛の裏切りを防ごうとしたのではないだろうか。
そして弟君が吉備海部直赤尾と妻の樟姫に殺されたのは、「大和朝廷に取り込まれ、吉備王国を裏切った」ということからだと考えられる。

 もっとも、朝鮮半島との関係を全く無視するわけにはいかない。
当時の大和朝廷は、中央王権とはいえ、日本列島を統一し、それを代表する外交権を確立していたわけではないんだよ。
大和朝廷が百済と外交関係を結んでいたのに対し、吉備王国は新羅と手を結ぼうとしていたことがうかがえる。
吉備王国場合、朝鮮半島から多くの渡来人がやって来ていたから、新羅と手を結んででも大和朝廷を倒そうという考えがあったのかもしれない。
そういったものがもとになって、「田狭の反乱」という逸話がつくられたのではないだろうか。

 最後は星川王子の変について説明する。
『日本書紀』によると、雄略天皇は死の直前、大伴室屋(おおとものむろや)東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に対して、「星川王子は悪心を抱いている。自分の亡き後は、皇太子の白髪王子に治めさせよ」といった遺言を残したという。
雄略天皇の妃となった稚媛は2人の子供を生んだんだけど、そのうちの1人が星川王子(ほしかわおうじ)だ。
白髪王子(しらがおうじ)は、雄略天皇と韓媛(からひめ)のあいだに生まれた子供で、生まれたときから白髪だったという。
この白髪王子が後の清寧天皇である。
 雄略天皇がそうした遺言を残したのは、稚媛と星川王子が謀反する可能性があると感じていたからで、その心配は彼の死後に現実のものとなった。
何としてでも星川王子を天皇の位につかせたかった稚媛は、いきなりとんでもない行動に出たんだよ。
大和朝廷には三蔵(みつのくら)という財庫があった。
三蔵は、神宝を蔵する斎蔵(いみくら)、皇室の財物を蔵する内蔵(うちつくら)、政府の財物を蔵する大蔵(おおくら)の三つの蔵の総称なんだけど、稚媛は星川王子をそそのかして大蔵を奪わせたんだよ。
大蔵の中にある財物は大和朝廷にとって重要なものばかりだったから、これを奪うとは謀反以外の何者でもないよな。
この謀反には、稚媛と吉備田狭とのあいだに生まれた子供たちも兵をひきいて加わっている。
 大伴室屋と東漢直掬は雄略天皇の遺言を守るために大軍を率いて大蔵を包囲させた。
そして、出入り口をふさいで外から火を放ち、星川王子らをすべて焼き殺してしまったんだよ。
 一方、吉備王国でも星川王子がクーデターを起こしたという知らせを受け、四十隻もの軍船を率い瀬戸内海を進んで大和へ攻め上ろうとしていた。
しかし、大阪湾でクーデターの失敗を知り、吉備へ引き返している。
大和朝廷はこの時の行動を責め立て、吉備王国の山林を没収し、大和朝廷の直轄地としてしまった。

 以上、吉備王国における三つの反乱について説明してきた。
どれも結果的には失敗に終わっているが、大和朝廷が揺さぶられたのは間違いない。


   

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