南蛮
ヨーロッパにイベリア半島というのがある。
ヨーロッパ人の世界進出
西ヨーロッパでは、十字軍の遠征やレコンキスタ(国土回復運動)など、外に向かって膨張する傾向を強めていたんだけど、15世紀末から16世紀にかけての「大航海時代」にめざましい対外進出を開始した。
そもそも、なんでヨーロッパ人はアジアに興味を示したのか?
14世紀に話が戻るが、イタリア人の天文学者トスカネリが、地球は球体で西へ西へと航行すればアジアに達するという地球球体説にもとづいて、アメリカを除くかなり精巧な世界地図を作った。
大航海時代
1415年、ポルトガルはアフリカ西北岸の町セウタを攻略した。(世界情勢に詳しい人なら知っているだろうけど、セウタは「鉄条網で囲まれたアフリカの中のヨーロッパ 」と呼ばれていて、2003年現在もモロッコ国内にあるスペイン領の飛び地だ。)
一方、ポルトガルより出遅れたスペインでは、「西へ西へと航行すればアジアに達する」というトスカネリ説を信じたコロンブスが、スペインの女王イサベルの援助を得て、1492年8月、サンタマリア号以下3隻の船と乗組員120人を率いてパロス港を出航した。
さて、長々と世界史に関する部分を説明してきたけど、ここで日本史に関連する事項を説明しておかなくてはならない。
鉄砲伝来
ポルトガル人が種子島(たねがしま)に鉄砲を伝えたのは、今から約460年前の1543年(天文12年)8月のこととされている。
西村の小浦に船客百余人を乗せた大船がついた。
この『鉄炮記』は、鉄砲伝来に関する国内で唯一無二の資料なんだよ。
1542年、3人のポルトガル船がジャンク船に乗ってシャムからシナに向かう途中、暴風雨に遭って、北緯32度にある島についた。この島が富で有名なジパングのようだ。
『鉄炮記』と『論述の書』では、伝来の年数とポルトガル人の人数に関する記述が異なっている。
ところで、ここで重要視したいのは『鉄炮記』の「五峯という明の儒生」と、『論述の書』の「ジャンク船」という部分だ。
『鉄炮記』によると、船に乗っていたポルトガル人は、牟良叔舎と喜利志多佗孟太の二人だったという。
時堯は、買い上げた鉄砲を分解させ、島の鍛冶屋・八板金兵衛に複製するように命令した。
「種子島博物館」や「靖国神社宝物遺品館」に、当時の火縄銃が展示されている。
キリスト教の伝来
1549年8月15日、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルとその一行が鹿児島に上陸した。
ザビエルの後、コスモ・デ・トルレスやガスパル・ビレラなどの宣教師が来日し、1556年にはついに将軍・足利義輝も布教を許可することになった。
1579年、ローマ法王の命令でアレッサンドロ・ヴァリニャーニが来日した。
南蛮貿易
1543年以降、ポルトガル船は毎年来航するようになり、島津氏の鹿児島・坊津、大友氏の豊後府内、大村氏の横瀬などに入港して通商を行なった。
日本植民地計画
さて、最後にポルトガルによる日本植民地計画について説明しよう。
「日本は海軍力が弱く、兵器不足だ。もしも国王陛下が許可されるならば、我が軍は大挙して日本を襲撃出来るだろう。日本は島国なので、その内の1島、九州又は四国を包囲することは容易であろう。」
いままでこの文章の存在はあまり知られていなかったんだよ。
地図帳か何かをみてもらえばわかると思うけど、この半島にある二つの国ポルトガルとスペインが、今回のテーマ南蛮文化(なんばんぶんか)の主役だ。
一般的に、ポルトガルとスペインのことを南蛮と言っているけど、こう呼ぶのは正確に言うと的を得ているかどうかわからないんだよ。
元来は中国大陸の中心地から南方の地方のことを総称して、南蛮地方と呼んでいた。
時代によっては、台湾、香港、インドシナ半島、ペルシアなども南蛮に含めていたし、日本書紀の時代には朝鮮半島南部の未開の地や、薩摩の西の五色島、薩摩七島、琉球も南蛮と称している。
つまり、中国の中心部とインドを除く南の地を広く南蛮と呼んでいたわけだから、南蛮という言葉は歴史的に見て極めて曖昧な言葉であって、正確な呼称とは言い難い。
でも、室町時代から現在に至るまで、日本において南蛮とはポルトガル、スペインを意味する言葉になっている。
そのため、このホームページでも「南蛮=ポルトガル、スペイン」として扱うことにする。
従来、ヨーロッパとアジアの貿易(以下、東方貿易)の主導権を握っていたのは、イスラム商人やベネチア、ジェノバ、フィレンツェ等のイタリア諸都市だった。
しかし、15世紀になってオスマン=トルコ帝国が勃興してバルカン半島や東地中海を制圧し、東方貿易に参入。
これにより、陸路による貿易ルートが遮断封鎖されてしまったため、西ヨーロッパの商人たちは新しい貿易ルート開拓を模索するようになったんだよ。
まず第一に、香辛料、茶、絹などのアジアの産物を取得するという目的が挙げられる。
肉食のヨーロッパ人にとって、こしょう・肉桂・丁字などの香辛料は単なる嗜好品ではなく、生活必需品だったんだよ。
調味料や肉の保存に使われた香辛料の需要が増大し、商人達は直接アジアへ赴いて香料貿易に従事し、巨大な利益を獲得しようとしたわけだ。
二番目は、イタリア人のマルコ=ポーロが書いたと言われている『世界の記述(東方見聞録)』に刺激されて、ヨーロッパ人のアジアの富などに対する関心が高まっていたことが挙げられる。
『世界の記述(東方見聞録)』の中では、日本はジパングとして紹介されていて、金銀が豊富な「黄金の国」と書かれているってことが有名だけど、彼らは「アジアに行って黄金を手にいれよう」と考えたわけだ。
そして三番目としては、キリスト教の世界拡大に強い意識を持ち、対外進出に意欲的だったことだろう。
16世紀、ヨーロッパでは宗教改革によって、新教プロテスタントの勢力が拡大していた。
そのため旧教カトリックは、新天地への布教を必要としていたんだよ。
さらに、ルネサンスの三大発明の一つである羅針盤や、造船技術の進歩により、遠洋航海も可能になった。
このような情勢の中で、ポルトガルとスペイン(イスパニア)が世界進出の先駆者となったんだよ。
その後、ポルトガル王ジョアン一世の王子のエンリケ航海王子が内外の探検家を集めて数度にわたるアフリカ探検を行ない、ボジャドール岬(西サハラ)、ベルデ岬(セネガル)に到達。
エンリケ航海王子の死後、1488年にバーソロミュー=ディアズが東廻り航路をとり、アフリカ最南端の喜望峰(南アフリカ共和国)に到達、ついで1498年には、バスコ=ダ=ガマが喜望峰を経由してインド西海岸のカリカットに到着し、インド航路を発見した。(ちなみに、カリカットはカルカッタと間違えやすいが、カルカッタはインド東海岸の都市だ。)
1510年、ポルトガルは遠征軍をインドに派遣し、インド西岸の都市ゴアを占領してアジア貿易の拠点とし、セイロン(現在のスリランカ)、マラッカ(現在のマレーシア)にも進出。
1517年には中国南部の港町マカオに進出、ここを基地として極東貿易にも着手した。
70余日の困難な航海の末、10月12日に現地でグアナハニと呼ばれていた島を発見したコロンブスはこの島に上陸し、スペイン語で「聖なる救世主」意味となるサン・サルバドル島(現在のバハマ国の領土)と命名した。
サン・サルバドル島近辺のキューバやハイチ島などを探検した後、1493年3月に帰国したコロンブスは大歓迎を受け、コロンブスは発見地の総督に任命されている。
その後コロンブスは、1493年〜1504年までの間に第2回〜第5回の航海を行ない、南米や中米の国々へと上陸しているんだけど、黄金も香辛料も発見出来なかったし、植民地経営にも失敗したため、スペイン国民からの中傷によって失脚し、総督職も解かれ、失意のうちに死去している。
一般的にコロンブスと言えば、小学生でも「アメリカ大陸を発見した偉大なる探検家」というふうに教わっているかもしれないけど、コロンブス本人は到着地をインドの一部だと信じていたんだよね。
カリブ海東部に散々する島々を西インド諸島と総称していることや、アメリカ大陸にいる住民をインディアンやインディオと呼ぶのも、すべてはコロンブスの勘違いからはじまっているんだよ。
フィレンツェのアメリゴ=ベスプッチが、1497年以後4回にわたって新大陸を探検し、コロンブスが発見した土地はインドはないとの見解を報告。
それに基づいてドイツの地理学者ヴァルトゼー=ミューラーがアメリゴ=ベスプッチの名を取ってアメリカと呼んで以来、新大陸はアメリカ大陸と呼ばれるようになったんだよ。
コロンブスの名前は、わずかにコロンビアという国名に残るだけになっているね。
地図帳を持っている人は見てもらえばわかりやすいと思うので、開いてほしい。
コロンブスが1回目の航海でスペインに帰国する途中、ポルトガルに立ち寄ってジョアン二世を表敬訪問し、西インド諸島を発見したことを報告したんだよ。
これに対してジョアン二世は、「コロンブスが発見した土地はポルトガルの領土だ」とスペインに通告したんだよ。
実は、1479年にスペインはカナリア諸島以南におけるポルトガルの独占権を承認していて、西インド諸島はカナリア諸島より南に位置しているから、ポルトガルの言い分は正しいんだよ。
しかしスペインとしても、発見したのはコロンブスなのだから、南米・中米の国々をスペイン領としたかったため、スペイン・ポルトガル両国は一触即発の危機に直面したんだよ。
レコンキスタを達成したばかりのスペインは、なんとしても戦争は回避したいと考えていたので、ローマ教皇アレクサンデル6世に支援を求めたんだよ。
1493年、アレクサンデル6世は教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、その東をポルトガル、西をスペインの勢力圏と定めたんだけど、これにポルトガルが抗議したために再協議となり、1494年のトルデシリャス条約によって西経46度を教皇子午線に設定したんだよ。
その後両国は、大西洋だけではなく太平洋でも領土問題で争いはじめた。
そのため1529年、両国はサラゴサ条約を結び、東経134度より東をスペイン領、西をポルトガル領とすることで合意した。
この東経134度の線は、日本の岡山付近を通っている。
つまりサラゴサ条約によれば、岡山から東がスペイン領、西がポルトガル領ということになるんだよ。
歴史の授業でもこれに関しては必ず教えるから、たいていの人はこの事を知っているし、またその後、戦国動乱の渦中と織豊政権(しょくほうせいけん)の統一事業で大いに鉄砲が活用され、重要な役割を演じていたことも誰もが認めていることだろう。
そもそも、1543年に種子島にポルトガル人が上陸したというのは、薩摩の島津家に仕えて重用されていた大龍寺の禅僧・南浦文之(なんぼぶんし)が著した『鉄炮記』の記述に基づいたものなんだよ。
『鉄炮記』によると、鉄砲伝来の経緯をだいたい以下のように記している。
大船には五峯という明の儒生が乗っていて、西村の織部丞と砂上で筆談を交わした。
五峯は、船に乗っているのは西南蛮の商人で、彼らは交易を求めていると織部丞に伝えた。
その後、大船は島主種子島時堯のいる赤尾木の港に入った。
商人は二人いて、一人は牟良叔舎、もう一人は喜利志多佗孟太といった。
両人は持参した鉄砲を時堯の眼前で射撃したが、はじめて見る鉄砲の威力に驚いた時堯は、大金を投じて鉄砲を買入れ、家臣の篠川小四郎に火薬を、鍛治の八板金兵衛に製造法を学ばせ、ついに鉄砲の製造に成功した。
ほどなく鉄砲は紀州の根来、泉州の堺へと伝わり、さらにそこから全国に広まった。
だから、日本史における鉄砲伝来についての記述は、『鉄炮記』に書かれている内容を肯定的に引用していることがほとんどだ。
ところが、『鉄炮記』の執筆時期は鉄砲伝来から60年も後の1606年(慶長11年)で、編纂の動機も種子島時堯(たねがしまときたか)の鉄砲入手の功績を称えて、孫の種子島久時(たねがしまひさとき)が書かせたものなんだよ。
つまり、実際問題として、はたしてどこまで『鉄炮記』の内容が信用出来るのか疑問なんだよ。
ポルトガル領モルッカ総督のアントニオ・ガルバンが書いた『論述の書』という本がある。
この中にも、ポルトガル人の種子島漂着に関する記述がある。
まあ、1年早いか遅いか、2人か3人かの違いだから、どちらであってもそれほど歴史的な狂いはないんだけどね。
この五峯という人物はいったい何者なのか。
1560年に中国で編纂された『寧波府志』という史料の中に、「王直即五峯」と書かれている。
王直とは、16世紀ごろに勢力を誇っていた倭寇の頭目だ。
つまり、『鉄炮記』に登場する五峯は、王直のことを指しているのは間違いない。
「ジャンク船」というのは、おそらく倭寇の海賊船のことになるのだろう。
これが事実だとすれば、よく歴史の授業で暗記させられた「1543年、ポルトガル船の来航」という表現は、「ポルトガル人を乗せた中国船」という言葉にかえる必要が出てくる。
牟良叔舎は「フランシスコ」、喜利志多佗孟太は「キリシタ=ダ=モッタ」のことだろうな。
フランシスコとキリシタは、まだ16歳の少年だった種子島の領主・種子島時堯と、赤尾木城で面会する。
種子島時堯は、2人が持ってきた見慣れない鉄製の筒、つまり鉄砲に非常に興味を持ったんだよ。
2人は時堯の目の前で実際に鉄砲を撃って見せ、その威力に時堯は感心し、銀2千両とも言われる莫大な金額で彼らの持っていた2挺の鉄砲を買い上げたんだよ。
銀2千両というと、当時の種子島領主ほどの地位ではぎりぎり用意できるか否かくらい法外な金額だから、恐らく誇張だろうな。
でも、相当高額な金額で買い取ったことは間違いないだろう。
簡単に複製と言ったって、当時の技術で鉄砲1挺を作るのはとても困難な作業なんだけど、面白いことに種子島は浜辺の砂鉄を利用した製鉄業が発達していた島なんだよ。
そのため、瞬く間に鉄砲の複製品が作られてしまった。
結果的にはこの鉄砲本土に伝わり戦国の合戦方法自体を変えてしまったわけだから、「製鉄の島=種子島」に鉄砲が伝わった意味は非常に大きいな。
面白いのは、それら火縄銃がヨーロッパ式の火縄銃と仕様が異なり、東南アジアで使用されていた火縄銃によく似ているということなんだよ。
つまり、ヨーロッパから鉄砲が伝わったのではなく、「東南アジアの鉄砲をポルトガル人が日本に運んだ」というのが正しい解釈ようだ。
イエズス会は、別名耶蘇会(やそかい)とも言い、1534年にイグナチウス・ロヨラを中心に設立されたカトリック教の修道会だ。
一行は、ザビエルをはじめとして、コスメ・デ・トルレス神父、ジョアン・フェルナンデス修道士、そしてヤジローこと、洗礼名パウロ・デ・サンタ・フェ、彼の弟と従僕の日本人3人、さらに従者として中国人、インド人各1名という顔ぶれだった。
参考書によっては、ザビエルのことをスペイン人と記載しているものもあるかもしれないけど、実際は1506年にナバラ王国の貴族の子として生まれているから、正しくはスペイン人ではないんだよ。
でも、ナバラ王国は1512年にスペインに併合されてしまったため、スペイン人とするのも仕方がないのかもしれないな。
ザビエルは1542年〜48年まで、ポルトガルのインド伝導責任者として、インド東西海岸、マラッカ、モルッカ諸島などで布教活動をしていんだけど、1547年にマラッカで日本人のヤジローという青年に出会う。
ヤジローから日本の国情を聞いたザビエルは、日本語を学び、日本での布教を決意したんだよ。
ザビエルの一行は、鹿児島領主・島津貴久(しまづたかひさ)から許可を得て布教活動に従事したんだけど、仏僧からの猛反発にあったために鹿児島には1年ほど滞在しただけで、平戸に移っている。
その後、博多、山口を経て、日本国内全域での布教活動の許可を求めるために京都に向かったんだけど、時の室町幕府将軍足利義輝(あしかがよしてる)は布教を許可しなかった。
このためザビエル達は方針転換を余儀なくされ、地方の有力大名に保護を求めるのが得策であるとし、まずは山口の大内義隆(おおうちよしたか)に接触して布教の許可を得て、続いて豊後の大友義鎮/大友宋麟(おおともよししげ/おおともそうりん)にも迎えられ、順調に信者を増やして行った。
これによって全国的にキリスト教は広まり、中には大名自らが信者となるキリシタン大名もあらわれた。
すでに紹介した大友義鎮はもちろん、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)、黒田孝高/黒田如水/黒田官兵衛(くろだよしたか/くろだじょすい/くろだかんべえ)、高山右近などが有名だな。
ヴァリニャーニは日本全国を都・豊後・下の3教区に分け、教育機関として有馬・安土にセミナリオ、府内にコレジオを設置した。
簡単に説明すると、セミナリオっていうのは、中学・高校で、コレジオは大学に相当し、宗教教育がメインの学校だ。
1582年、九州の大友、有馬、大村の三大名は、伊東マンショ、千々和ミゲル(ちぢわミゲル)、中浦ジュリアン、原マルチノら12〜15歳の少年4人をヴァリニャーニ随行させ、ローマ教皇の下に派遣した。
これを天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)といい、9年後の1590年に帰国している。
また、ポルトガルに遅れる事40年後の1584年、スペインの船が平戸に来航し、貿易を行なうようになったが、南蛮貿易の主役はポルトガルだったんだよ。
日本とポルトガルの貿易は中継貿易(ちゅうけいぼうえき/なかつぎぼうえき)だった。
ポルトガルはヨーロッパの毛織物、鉄砲、火薬、タバコと中国からの生糸、絹織物、皮革、サツマイモ、そして東南アジアからの香料を日本に運び、日本の銀と交換していた。
当時の日本は銀の価値があまりわかっていなく、戦争に必要な鉄や鉛のほうを重要視していたため、ポルトガル人は大儲けしたらしい。
日本からの輸出品としては、刀剣、海産物、漆器、工芸品、硫黄などだったようだ。
1599年2月25日付で、イエズス会のペドロ・デ・ラ・クルスが長崎からイエズス会総会長に送った書簡があるんだけど、その中に次のような文章がある。
だからあまり問題にならなかったのかもしれないげれど、ペドロ・デ・ラ・クルスってのはイエズス会の中でも知識人として知られ、そういった人物がイエズス会総会長に日本への軍事攻撃を勧告しているというポイントは無視出来ないと思う。
最初に説明したサラゴサ条約によれば、岡山から東がスペイン領、西がポルトガル領ということになっていたわけだから、ポルトガル人が日本をポルトガルの植民地にしようと考えても不思議ではないんだよ。
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