関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの原因

 1600年(慶長5年)9月15日徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が、美濃の関ヶ原で激突した。
この戦いが、後に“天下分け目の戦い”と呼ばれるようになった関ヶ原の戦いだ。
関ヶ原の戦いは、その意義や戦いの形態において、今までの戦国大名たちによる合戦とは明らかに異なっている。
戦い全体が、新政権の主導権をめぐる政治的・軍事的闘争として展開されていったわけだから、これまでの戦国大名同士による単なる国盗り合戦とは次元が違うんだよ。

 関ヶ原の戦いを考察する時、避けて通れないのが「豊臣秀吉の死去」だ。
豊臣秀吉が亡くなったのは、1598年(慶長3年)8月18日、享年62歳だった。
あととりの豊臣秀頼は、まだ6歳。
秀頼ひとりで豊臣政権を動かしていくことが無理なのは、秀吉だって当然承知していた。
そのため、秀吉は死の直前、五大老の筆頭・徳川家康に秀頼の後見を依頼。
秀頼が一人前になるまで、家康を中心に、五大老・五奉行といった家臣たちの協力体制によって豊臣政権を存続させていくことを誓わせたんだよ。

 石田三成をはじめとする家臣たちは、「幼い秀頼をみんなで補佐すれば、世襲してやっていける」と考えていたので、秀吉の遺言は当然守るつもりでいた。
ところが、徳川家康の考えは「秀頼は幼すぎる。世襲してやっていくのは無理だ」「天下は実力のある者が取る」というものだったんだよ。
 家康は、秀吉の臨終の枕元で、確かに秀頼の補佐を約束した。
でも、家康にしてみれば「秀吉だから従臣したのであり、秀頼に従臣するつもりはない」という意識があったんだよ。
家康は、秀吉の器量は認めていた。
だからこそ、豊臣政権を補佐してきたわけで、秀吉を認めていなければ、小牧・長久手の戦いの時に秀吉を倒すまで徹底的に戦うことも可能だったはずだ。
 また、秀吉が死去したことにより、家康は禄高2550万石という日本最大の大名となった。
つまり、天下取りへの野心を抱かないなんて、無理だったということだ。

 家康が天下取りへの野心をメラメラと燃やすことに、他の五大老や五奉行は当然反対の立場にいた。
そのため、「徳川家康VS五大老・五奉行」という対立軸が生まれることになる。
もし家康が天下取りの野心を抱かなければ、しばらくは豊臣政権が存続していたわけだから、「徳川家康VS五大老・五奉行」という対立軸が、関ヶ原の戦いの「原因」の1つなのは間違いない。

 さて、もう1つ重要なのが「豊臣政権内の分裂」だ。
もっとストレートに言えば、「三成派VS反三成派」という対立軸ということになる。
結果から言えば、三成派と反三成派に豊臣政権内部が分裂し、反三成派が家康側に付いてしまったわけだから、この分裂劇は関ヶ原の戦いの「原因」として非常に重要なんだよ。
では、何故「三成派VS反三成派」という対立軸が生まれたのか。
これを理解するためには、朝鮮出兵について知る必要があるんだよ。

朝鮮出兵の遺恨

 秀吉は、朝鮮に出兵した諸大名を監視・監督させるために、在陣奉行を渡海させ指揮をとらせた。
この在陣奉行に任命されたのが、石田三成、増田長盛(ましたながもり)大谷吉継(おおたによしつぐ)の3人だ。
また、三成の支配下で諸大名に対する軍目付(いくさめつけ)となった福原長堯(ふくはらながたか)らも、諸大名の軍令違反や兵士の過怠などを厳しく取り締まって三成に報告した。
在陣奉行は、前線で朝鮮軍と戦うことはせず、あくまで後方から監視・監督するだけだったんだよ。

 朝鮮の役で特に問題になったのが、朝鮮半島の東北方、ハムギヨンドに進出した加藤清正の行動なんだよ。
軍功をあせった清正は、ハムギヨンド平定がうまく運んでいるかのような書状を送っていたんだけど、実状は平定なんてとんでもなく、清正の敗北が明白だった。
三成は、清正の落ち度は間違いないとして、事実を秀吉に報告している。
 また、三成が明国との講話交渉を進めているなかで、清正は朝鮮の領土割譲を強硬に主張し、講話交渉に水を差すように攻勢に出た。
そのため、三成は講話交渉を妨害されたとして秀吉に訴えたんだよ。
当然、清正のこれらの行動に秀吉は激怒し、清正は国内に召還され伏見に蟄居処分となってしまう。
三成としては、在陣奉行としての仕事を忠実にこなしているだけなんだろうけど、清正は三成に対して反発と憎悪を抱くようになってしまう。
 清正に限らず、前線で戦っていた諸大名たちの多くが、三成ら在陣奉行の仕置きに不満を抱いていた。
彼らにしてみれば、「安全な後方で指図している奉行に何がわかる」という思いが強かったんだよ。
なかでも加藤清正、福島正則浅野幸長(あさのよしなが)黒田長政らは、不平不満の矛先を三成に向けた。
在陣奉行は3人いるのに三成が目の敵にされたのは、三成が奉行衆の実質的な中心人物だったからだろう。

 のちに徳川家康率いる東軍に付いた顔ぶれを見ると、朝鮮の役において前線で苦境を味わったメンバーが非常に多い。
つまり、「三成派VS反三成派」という対立軸は、朝鮮の役の時に形成されたものであるのは間違いないんだよ。

五大老・五奉行制度

 さて、五大老・五奉行という言葉が出てきたので、「五大老・五奉行制度」について解説したいと思う。
歴史の授業で、秀吉の晩年に「五大老・五奉行制度」が創設されたと学んだ記憶があると思う。
五大老の顔ぶれは、徳川家康を筆頭に、前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景(隆景の死後は上杉景勝)。
五奉行は、浅野長政を筆頭に、石田三成、前田玄以(まえだげんい)、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)と、教科書にも書いてあると思う。
 ところが最近、本当に「五大老・五奉行制度」というものがあったのかどうか疑問視する学者が多いんだよ。

 1595(文禄4年)年8月3日、諸大名や公家に対して「御掟(おんおきて)」「御掟追加」というものが布告された。
この連署が五大老のはじまりと言われているんだけど、ここに署名しているのが、五大老の6人なんだよ。
つまり、上杉景勝は小早川隆影の死後、五大老になったと一般的には言われているけど、実際は最初から構成メンバーだったということになる。
 五奉行に関しても、1598年8月には5人が特定されているけど、それ以前においては、5人がそろって連署した文書はほとんど存在しない。
それに、前田利家の息子・前田利長が奉行衆のひとりだったと書いてある書物もあるので、五奉行の成立時期や構成メンバーを特定するのは難しいんだよ。

 ややこしいことに、「大老」と「奉行」の名称が、文書によってマチマチなんだよ。
そもそも、当時の文書のなかに「大老」という表記は使用されておらず、家康も、利家も、みんな「奉行」と書かれている。
一方の「五奉行」の面々は、「年寄(としより)」と表記されている場合と、そのまま「奉行」と表記されている場合の2パターンある。
 秀吉が、五大老・五奉行のメンバー宛に語ったと思われる遺言を書き留めた『豊臣秀吉遺言覚書』というものが、五奉行のひとりだった浅野家にのこっているんだけど、この文書の中で、五大老は「御奉行五人」、五奉行は「年寄共五人」「おとな五人」と表記されている。
そのため、最近では「大老」と「奉行」ではなく、「奉行」と「年寄」と呼ぶのが正しいのではないかという意見も多くなっているんだよ。
でも、まだどちらが正しいのかわからないし、「奉行」と「年寄」という考え方を批判する意見も多い。
だから、このホームページにおいては、通説に従った「大老」と「奉行」という名称を使用することにする。

 おそらく、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝の6人が「大老」、浅野長政、石田三成、前田玄以、増田長盛、長束正家の5人が「奉行」という役職についていたのは事実だろう。
前田利長が「奉行」だったのかは不明だけど、もしかすると、他にも「奉行」という役職についていた武将がいたのかもしれない。
 もし、「五大老・五奉行制度」というものが制度として確立していたのならば、文書への署名に関しても5人の連署であったはずだ。
それなのに、その時々によって署名の人数が異なっているのは、「大老」「奉行」が常設の役職ではなかった証拠だと思う。
つまり、これらの事から考えれば、「五大老・五奉行制度」というものが「制度」として確立していなかったということになるんだよ。

 では、実際はどのような体制だったのか。
最近の研究により、「二巨頭・五奉行体制」だったのは、ほぼ間違いないと言われている。

二巨頭・五奉行体制

 1595(文禄4年)年7月、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景の連署による起請文が提出された。
この起請文では、豊臣家の武家法を守ることや、秀頼に対して「表裏別心」のないことなどを誓わせているんだけど、この中に次のような文章があるんだよ。

 「坂東法度・置目・公事篇、順路憲法の上をもって、家康申し付くべく候」
 「坂西の儀は、輝元並びに隆景申し付くべく候」

 要約すれば、「関東は家康に、西国は輝元と隆景に委任する」という内容なんだよ。
秀吉の目的は、家康、輝元、隆景という当時の代表的な戦国大名を豊臣政権下に組み入れ、全国的な統治をしていこうというものだった。
家康、輝元、隆景が、完全に豊臣政権に組み込まれていたかどうかは疑問だけど、豊臣政権下において、家康、輝元、隆景の3人が格別の地位にいたのは間違いないんだよ。
 この1ヶ月後、先ほど説明した「御掟」と「御掟追加」の署名が行われているんだけど、この時点では、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝の3人より、家康、輝元、隆景の3人の方が、大老としては上位に位置していた。
つまり、教科書などでは五大老は「同格」だったように書かれているけど、それは間違いで、格差はあったというのが正しいんだよ。

 ここで注目するべきポイントとして、朝鮮出兵がある。
大老のうち、輝元、隆景、秀家は朝鮮に出兵しているのに、家康、利家、景勝は出兵していない。
「家康、利家、景勝は関東の大名だから、地理的条件から朝鮮に出兵しなかったんだ」という意見もあるけど、家康は肥前名護屋城(佐賀県東松浦郡)に駐屯していたわけだから、地理的条件は理由にならない。
家康が朝鮮に渡らなかったのは、秀吉の考えによるものであるはずだし、外国の敵との未知の戦争で家康が戦死してしまうことを秀吉が懸念したのではないだろうか。
輝元、隆景を出兵させ、家康を出兵させなかったということは、「家康−輝元・隆景」という二巨頭体制は表面的なもので、実際は家康が他のメンバーよりも頭1つ抜き出ていたことを伺わせるものだと思う。

 1597年、小早川隆景が死去する。
輝元の力量を評価していなかった秀吉は、隆景という後見人を失った輝元を軽く扱うようになる。
隆景は毛利元就(もうりもとなり)の第3子だ。
一方の輝元は、元就の嫡男・毛利隆元の息子である。
秀吉は、五大老の中でも最年長の隆景の存在を高く評価していたとのに対し、輝元の力量は信用していなかった。
だからこそ、「家康−輝元」という体制にせず、「家康−輝元・隆景」という体制にしたんだよ。
 隆景の死により、「家康−輝元・隆景」体制は崩れた。
家康の力量を充分に承知している秀吉は、家康単独による巨頭体制では、豊臣政権は安泰しないと考えていた。
そこで新たに白羽の矢がたったのが、前田利家なんだよ。
 1597年、秀吉は家康を大納言から内大臣に、利家を中納言から大納言へと昇進させた。
この昇進により、家康と利家が、官位において他の大老たちより抜きん出たわけだ。

さて、先ほど少し紹介した『豊臣秀吉遺言覚書』は、全部で11ヶ条の覚書なんだけど、それぞれの条目の宛先が指定されている。
そのメンバーを順番を見てみると面白いことがわかる。

 第1条 徳川家康
 第2条 前田利家
 第3条 徳川秀忠
 第4条 前田利長
 第5条 宇喜多秀家
 第6条 上杉景勝 毛利輝元
 第7条 「年寄共五人」
 第8条 「年寄為五人」
 第9条 家康・利家の合意形成重視
 (以下、2条は省略)

 これを見てもらえば一目瞭然だと思うけど、秀吉は家康と利家を格別の位置に置いていたのがよくわかる。
しかも、他の大老たちより、徳川秀忠と前田利長、つまり家康と利家のそれぞれの息子たちの方を重要視している。
これらのことから考えても、「徳川−前田二巨頭体制」を秀吉が切望していたのは間違いないんだよ。

 さて、この覚書で面白いのが、上杉景勝と毛利輝元が、宇喜多秀家よりも下に位置していることなんだよ。
宇喜多秀家は、五大老の中で最も若かったんだけど、豊臣政権に長年に渡り服属し、秀吉からも可愛がられていた。
それに対して上杉景勝と毛利輝元は、大名としては宇喜多氏よりもはるかに名門の上杉氏と毛利氏の跡継ぎだ。
でも、秀吉は政治戦略的に上杉、毛利と手を結んだのであり、彼らが完全に秀吉の家臣になったわけではない。
また、2人は自分の領国に在国していることが多く、「大老」という役職に付きながらも、大老連署状に名を連ねていない場合が多く見られる。
彼らにしてみれば、「俺達は豊臣政権の補助的メンバーだ」くらいに考えていたのだろう。
そんな状態では、豊臣政権の中核メンバーとしてふさわしくないと秀吉が判断したのも当然で、宇喜多秀家の方が上位に位置しているのも納得出来る。

 秀吉の死後、利家は他の大老・奉行衆と同様、秀吉の遺命に忠実であろうとした。
それに対して家康は、天下取りの野望をメラメラと燃やし始めた。
これにより、「徳川−前田二巨頭体制」によって秀頼を補佐して豊臣政権を運営していくという秀吉の願いはもろくも崩れ去ってしまうんだよ。

 さて、先ほど、「御掟」というものが諸大名に発布されたと書いた。
これは五ヶ条からなっているものなんだけど、そのうちの第一条と二条は次のようになっている。

 一、諸大名の間で、私に婚姻関係を結ぶことを禁ずる。
 二、諸大名の間で、同盟関係を結ぶことを禁ずる。

 1598年、家康は、福島政則、伊達政宗蜂須賀家政(はちすかいえまさ)らと私婚(私的に婚姻関係を結ぶこと)を結び、さらには島津義久と親しく連絡を取り合うなど、自派閥強化のために精力的に動いている。
これは、明らかに「御掟」の一条と二条に違反している行為なんだよ。
当然、利家を中心とする大老・奉行衆は、家康の行為は太閤遺命に背く法度違反であると激しく非難した。
さすがの家康もこの時は折れざるをえず、同年2月5日に家康と利家ら四大老・五奉行の間で誓詞が交換され、表面的には事態が収拾されたんだよ。

前田利家の死

 「家康VS五大老・五奉行」「三成派VS反三成派」という二つの対立軸は、最初はそれぞれ別のものだったんだよ。
最終的には「家康派=反三成派」というふうになり、二つの対立軸が一つになっていくんだけど、秀吉の死の直後は必ずしも「家康派=反三成派」というわけではなかったんだよ。
 例えば「反三成派」の加藤清正、浅野幸長、細川忠興(ほそかわただおき)の3人について見てみる。
彼らは、三成を豊臣政権の中枢から排除したいという希望を抱いていた。
ところが、前田利家が徳川家康と会談を行ったとき、3人とも利家の警護として同道しているんだよ。
つまり、彼らは秀吉の遺命を否定するつもりは毛頭なく、利家を中心に豊臣政権を運営していってほしいと願っていたわけで、この時点では「反家康」だったんだよ。

 1599年(慶長4年)閏3月3日、前田利家が死去した。
利家が生きていた間は、「反三成派」の連中も思いきった行動は出来なかったし、家康も天下取りの野心は燃やしていたけれど、そのための具体的な行動はしていなかったんだよ。
その利家が死去したということで、家康や「反三成派」を抑えつける事が出来る人間がいなくなってしまったってわけだ。

三成襲撃事件

 利家が死去した日、大坂で「反三成派」の加藤清正、福島政則、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、蜂須賀家政、藤堂高虎(とうどうたかとら)の七将が決起し、三成の屋敷を襲撃したんだよ。
この時、三成の親友・佐竹義宣(さたけよしのぶ)が駆けつけて、三成を密かに「女輿」に乗せ、宇喜多秀家の屋敷に送ったので、三成はかろうじて難を逃れている。

 ここで仲裁に入ったのが、家康だ。
家康は、「大坂は危険だ」という理由で三成を伏見城に移して保護し、反三成派の七将に対しては「私闘禁止の法度」を掲げて、三成の仕置きに関与しないように厳しく申し渡したんだよ。
 しかし、この裁定に納得出来なかった七将は、三成の後を追って伏見城まで押し掛けていくんだよ。
家康は、三成を伏見城で数日かくまった後、「三成が謹慎蟄居すれば襲撃をやめる」という七将からの和議の条件を三成に伝えた。
三成は和議を受け入れ、佐和山城に謹慎蟄居することになったんだよ。
閏3月10日、家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に守られながら、三成は佐和山城に入る。
これにより、三成は奉行職を解かれ、豊臣政権の中枢構成員から排除されることになるわけだ。

 ところで、三成が佐和山蟄居という制裁を受けたのに対し、三成を襲撃した七将に対してはそれほど厳しい制裁が行われていないんだよ。
喧嘩両成敗が原則の時代なのに、この調停は明らかに不平等だ。
 特に注目すべきポイントは、三成の仕置きに関与しないようにと、家康が厳しく申し渡したのにもかかわらず、七将が家康の申し渡しを無視して、伏見城へ押し掛けていることなんだよ。
家康の申し渡しを無視したということは、豊臣政権の「公儀」を否定したことと同じであり、国家反逆罪である。
それなのに、なぜ七将は厳罰が処されなかったのか。

 おそらく、七将が三成を襲撃したのは、家康の策謀だったんじゃないかと思うんだよ。
七将のうち、福島政則、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎の4人は家康の家臣だ。
それに対して、加藤清正、浅野幸長、細川忠興の3人は、反家康の立場にいたわけだけど、利家が死去したことで、家康に屈服したと考えるのが妥当だと思う。
つまり、七将は家康配下の武将だったわけで、他のどの武将よりも、家康の命令には忠実でいなければならない立場にいた筈なんだよ。
その彼らが家康の申し渡しを無視したのに厳罰が処されなかったということは、「七将は家康の命令のとおり行動していた」という事の証明になるんではないかと思うんだよ。
 家康が天下取りへ動き出すためには、五大老・五奉行の面々を自陣営に誘致するか、もしくは排除するという必要があった。
中でも、家康の天下取りに最も強硬に反対していた三成を何としてでも早急に排除したかった。
そこで、豊臣政権のルールに反せず、尚かつ世間から批判されないで三成を排除するにはどうすべきかと考えたとき、こういう策謀を思いついたのではないかと思うんだよ。

家康の「公儀」独占

 さて、三成を豊臣政権の中枢から排除することに成功した家康は、他の大老・奉行に対しても次々と行動を開始した。
まず、三成が佐和山城へ入った日から3日後の閏3月13日、突然、家康は向島の屋敷から伏見城の西の丸に居を移したんだよ。
伏見城の城主は豊臣秀頼なんだけど、秀頼は大坂城にいたので、五奉行の前田玄以と長束正家が留守居をしていた。
それなのに家康は、前田玄以と長束正家を強引に伏見城から追い出してしまい、伏見城は完全に家康の城になってしまったんだよ。

 閏3月21日、家康は毛利輝元と起請文を交わした。
輝元が家康に差し出した起請文には「父兄の思ひを成し」という一節があり、家康が輝元に差し出したものには「兄弟の如く申すべく承り候」と書いてあったという。
このとき家康は57歳で、11歳年下の輝元は46歳だから、家康が輝元に対して「兄弟の如く」というのは自然なことだ。
それに対して輝元が家康に「父兄の思い」といったのは、いくら11歳の年の差があるとはいえ、同じ大老として完全に一歩引いていることがわかる。
この起請文により、この時点では、輝元は家康に恭順する形になったわけなんだよ。

前田利長

 前田利家は、息子の利長に宛てた遺言を残していた。

「利政(利長の弟)を金沢に下し留守居に置き、兄弟の人数おおかた16000人ほどあるうち、8000人宛を大坂に詰めさせ、金沢に置く残りの半分は利政に下知させるよう命じられ、もし上方に非難すべきことが起こり、秀頼様に対して謀反するものがあれば、8000の人数を利政が率いて上洛して一手に合流すること」

 これは、秀頼傳役としての前田家の立場と行動を具体的に指示したものなんだよ。
この遺言をみればわかるように、「利長を大坂に常駐させ、8000人の大軍によって秀頼を守れ」「謀反があった場合は前田家全軍が上洛して、対処しろ」というものが、利家の願いだったんだよ。
ところが、この遺言の落ち度は「秀頼様に対して謀反するもの」という部分が具体的に誰なのか明示していないことなんだよ。
この書き方では、家康でも三成でもどうとでも解釈できてしまう。
利家が「謀反するもの=家康」と念頭に置いていたのは間違いないと考えられるけど、遺言に「家康が謀反する」なんて書き残すことは当然出来ないから、あえて「謀反するもの」という表現を使用したと思われるんだよ。
もしも利長が賢い人間であれば、「謀反するもの=家康」と判断出来ただろうけど、残念ながら利長は解釈できなかった。

 七将が三成を襲撃した事件においても、利長には「徳川−前田二巨頭体制」の1人として、当然それを中止させる義務があったはずなんだよ。
ところが、調停力を発揮して政局の主導権を握ろうとした形跡は見られず、むしろ、前田家を争いごとからなるべく遠ざけてようとしていたようにみえんだよ。

 豊臣「公儀」の独占を狙う家康としては、利長を大坂から追い出す必要があった。
そこで、「金沢に帰郷して休息してはいかがか」と利長にもちかけたんだよ。
利家の遺言により、利長は大坂に常駐していなければならない。
また、「徳川−前田二巨頭体制」における前田家としての立場上、家康の専横を牽制するという重要な任務もあるわけだから、遺言がなかったとしても、利長は大坂に常駐しなければならなかったんだよ。
「反家康派」の武将たちとすれば、利長が全面に立つことを強く望んでいたわけなんだけど、利長は性格上、争いを好まない人間だったため、これにも応えることが出来なかった。

 8月28日、家康の勧めを受けた利長は、遺言の規定をあっさり覆し、帰国の途についてしまう。
もし遺言を「謀反するもの=家康」と解釈出来ていれば、家康の勧めなど聞かず、利長は大坂に常駐していたはずだろう。
しかし、この時点での利長は「前田家の存続」ということだけしか頭になかったわけで、「謀反するもの=家康」と解釈出来るほど余裕がなかったんだよ。
この帰国により、利長は二巨頭の1人として家康と対決することから降りたに等しく、事実上「徳川−前田二巨頭体制」は崩壊してしまったんだよ。

家康暗殺計画

 9月7日、家康は重陽の節句を祝うという名目で大坂に下り、秀頼に対面しようとした。
ところが、増田長盛と長束正家が家康暗殺計画があることを密告してきたんだよ。
内容は、「奉行の浅野長政、豊臣家譜代衆大野治長(おおのはるなが)土方雄久(ひじかたかつひさ)らが家康の登城を狙って襲撃する計画があり、背後で糸を引いているのは前田利長だ」というものなんだよ。
 結論から言えば、俺は家康暗殺計画は大野治長と土方雄久による計画であり、浅野長政と前田利長は無関係だと考えている。
では、その理由について解説しよう。

 まず、前田利長が背後で糸を引いているという点について。
既に書いたように、家康との対決から降りた利長は、10日ほど前の8月28日に帰国したばかりだ。
その利長が、失敗したときのリスクが大きい暗殺計画に加わるとは考えにくいんだよ。
普通の武将を暗殺するならばまだしも、あいては日本最大の大名・徳川家康だ。
いくら利長でも、家康暗殺の成功率が極めて低いことは理解出来るはずなんだよ。
 また利長は、生母・芳春院(ほうしゅんいん)を大坂に残している。
暗殺が失敗した場合、間違いなく芳春院は処刑されるだろうし、暗殺が成功したとしても、家康の家臣によって命を狙われる可能性は極めて高い。
前田家を保守することだけを考えていた利長が、自分の母親を失うような行動に出るとは思えない。
 以上のことから、利長は家康暗殺計画のことは全然知らなかったと考えていいと思う。

 次は、奉行の浅野長政が暗殺計画にかかわっているという点について。
長政は、家康と親しく、五奉行の中では唯一家康派に属していたわけだから、暗殺計画に関与していたとは考えにくいんだよ。
その長政が家康暗殺計画に加わっていたというのは、反家康派による「長政排除」という目的のためのデマだったのではないかと思われる。

 おそらく、大野治長と土方雄久による家康暗殺計画は間違いなく存在し、増田長盛と長束正家の2人も関与していたのではないかと思う。
増田長盛と長束正家は、本来は反家康派なんだけど、どっちつかずの日和見派だったから、この計画が露見したり失敗した時の反動の大きさを恐れたため、家康に密告するという手段を選んだのだろう。
 ここで重要なのは、大野治長と土方雄久り2人による暗殺計画ではなく、浅野長政、前田利長も関与していると伝えたことだ。
増田長盛と長束正家の2人は、浅野長政と前田利長の2人が暗殺計画に関わっていないことは承知していたはずなのに、なぜ2人の名前を出したのか。
浅野長政の名前を出したことに関しては、家康派の長政を失脚に追い込むという目的のためだというのは想像がつく。
では、利長が関与していたとする必要性は何だったのか。

 増田長盛と長束正家は、豊臣政権の安泰を望んでおり、家康の専横はこころよく思っていなかったわけだけど、2人には家康と対決するだけの実力もなかった。
家康と対決するためには、前田家の力がどうしても必要だったんだよ。
  だから、暗殺計画に利長が一枚噛んでいたすることで、中央政局から一歩引いた前田家を再び家康との対立に引きずり込み、二巨頭体制の構図を再構築を図ったのではないかと考えられるんだよ。
 首謀者のもくろみとしては、濡れ衣を着せられた利長が怒って家康と事を構え、前田家は豊臣家譜代の諸大名の間で信望が厚いから、これに加担する大名も多く、彼らが利長を中心に結束すれば、家康と対抗できる一大勢力になるというものだったのではないだろうか。

 家康は、この暗殺計画を最大限利用した。
まず、計画に関与していたと思われる大野治長を下総結城に、土方雄久は常陸桐間に、また、関与している可能性は低かったが名前が挙がったという事で浅野長政も武蔵八王子に、それぞれ配流された。
そして、利長に対しては「謀反の意思有り」とし、加賀への出陣を号令、前田領と接する丹羽長重(にわながしげ)に討伐軍の先手を命じた。

 驚いたのは利長だ。
家康暗殺計画に関与なんてしていないわけだから、加賀出陣の決定は彼にとっては寝耳に水だった。
もし利長が賢ければ、この謀略に乗って反家康派の諸大名を終結させるということも可能だったんだけど、彼には家康と対決する覚悟はなかった。
また、家康と対決姿勢を打ち出したら、大坂城に残してきた母・芳春院を見殺しにすることになる。
 結局、利長が選んだ道は、家康に屈服することだった。
二巨頭体制の再構築のために考え出された家康暗殺という謀略も、利長が弱腰だったばかりに水の泡となってしまった。
 利長は老臣の横山長知(よこやまながとも)を家康のもとに派遣して和解交渉を行った。
この交渉は半年の長きにわたって行われ、母・芳春院を人質として江戸に送ることを申し出たので家康もこれをこれを受け入れ、加賀出陣は中止となったんだよ。

宇喜多秀家

 では、徳川家康のここまでの動きを整理してみよう。
まず五奉行に関しては、反家康派の筆頭だった石田三成を失脚させ、政権中枢から追い出すことに成功。
家康暗殺計画に関わったとされた浅野長政に対しては、家康の立場上、表向きは制裁を加えなければならなかったけど、実質的にはこの出来事がきっかけで、浅野長政は完全に家康の軍門に下ることになった。
前田玄以増田長盛長束正家の日和見派3人は、家康派なのか反家康派なのか、この時点では明確ではなかったんだけど、家康にとっては何も怖くない連中だったので、特に具体的行動はしていないんだよ。
 一方の五大老に対しては、まず毛利輝元と起請文を交わして服従させることに成功。
そして、前田利家亡き後、家督を継いだ前田利長も、政治的策略によって完全に屈服させてしまった。

 さて、残った二人の大老についても見ていこう。
まず、宇喜多秀家はどうだったのか。
彼は家康に対して敵愾心を抱いていたんだけど、1600年(慶長5年)正月早々、宇喜多家中にお家騒動が勃発してしまったため、家康と対抗するどころではなくなってしまったんだよ。
秀家が自力で騒動を解決出来ればよかったんだけど、彼の力だけではどうにもならず、家康と大谷吉継が仲裁役となり、ようやく騒動を沈静化させた。
その結果、一門の宇喜多詮家(うきたあきいえ)、重臣の戸川達安(とがわみちやす)花房正成(はなぶさまさなり)岡家利(おかいえとし)など、1万石以上の旗頭6人のうち4人が宇喜多家を出奔し、さらに有力な家臣ら40人もこれに同調してしまい、宇喜多家は大混乱に陥ったんだよ。
 2月、中央政権にかまっていられなくなった秀家は、宇喜多家を再編成するために岡山に帰郷する。
反家康の立場にいた秀家だけど、騒動を沈静化させてくれたということで、家康に頭が上がらなくなってしまったんだよ。

上杉景勝

 五大老の最後の一人、上杉景勝はどうだったのか。
会津120万石の大名だった上杉景勝は、1599年(慶長4年)8月に会津に帰国していた。
上杉家は1年前の正月に、豊臣秀吉の命で越後・佐渡・出羽庄内・信濃川中島91万石から会津120万石に国替えされたばかりだったから、大坂に滞在するより領国経営に力を入れたいという事情があったんだよ。
景勝は会津黒川城が手狭なので、近くに新しい城の建築を開始し、領国内の街道や橋の修築を行い、武具や牢人を数多く集めるなど、積極的に国造りを行ったんだけど、これらの行動が問題になってしまった。

 1600年(慶長5年)3月、この行動に対し、上杉家と確執を抱えている越後の堀秀治(ほりひではる)の家臣・堀直政(ほりなおまさ)が、「上杉に謀反の動きあり」と家康に注進した。
さらに、景勝の老臣・藤田信吉(ふじたのぶよし)が上杉家を出奔して江戸に入り、徳川秀忠に景勝の叛逆を訴えてしまった。
景勝にしてみれば「何をいい加減なことを言うんだ」ということになるんだけど、家康にとってみたら「景勝を追討する大義名分を得た」ということになったんだよ。

「直江状」

 家康は、毛利輝元、宇喜多秀家、増田長盛たちと会津出陣について会議を行ったんだけど、この時点では「会津出陣をするのは、景勝に上洛を促してからでよいのではないか」ということになった。
そこで、まずは書状を送ってみようということになり、相国寺(しょうこくじ)豊光寺承兌(ほうこうじしょうたい)に、上杉家の重臣・直江兼続(なおえかねつぐ)宛ての書状を書かせたんだよ。

 家康の使者・伊奈昭綱(いなあきつな)と増田長盛の使者・川村長門(かわむらながと)は、承兌の書状を携えて会津に向かった。
いつ出発したのかは不明だけど、会津には4月13日ごろ到着したらしい。
4月14日、家康の書状に対して直江兼続が16ヶ条の返状を出したんだけど、この返状が、有名な「直江状(なおえじょう)」だ。
「直江状」の内容を簡単に説明すると「家康の一方的な無理難題に対して直江兼続が武門の意地を賭けて受けて立ち、名門上杉家の潔いほどの覚悟を示し、上洛を拒否した」というふうになる。
一般的に、この書状を見て激怒した家康が、会津出陣を決意したと言われているんだけど、現在の研究においては、「直江状」は偽書の可能性が高くなっているんだよ。
敬語の誤用や、その当時の文書としては不自然な表現が多かったりするのがその理由で、後世の偽作ではないかと考えている。

 では、「直江状は偽書だ」となると、「兼続からの返状はなかったのか?」という疑問が出てくる。
上杉方からの返状は、いわゆる「直江状」以外、残っていないんだけど、兼続からの返状があったことは確かなんだよ。
 『関原軍記大成』という文献の中に、次のような記述がある。

 「一書に、景勝卿、この時、伊奈図書(ずしょ)に対面して、内府、近年、ご国政に私曲あり。其品品を申し、さてはご失念もあるべしとて、十一箇条の書付を授けて、この旨をお改めなきに於いては、我等上洛すべからずと、あらけなく答へられしと記す。」

 「一書」だけでは何という史料だったのかわからないんだけど、上の文章を要約すれば、「景勝から家康の使者・伊奈昭綱に対して「十一箇条の書付」が渡された」ということになる。
「直江状」は16ヶ条から成っているわけだから、「直江状」とは別の返状が存在した可能性を伺わせるんだよ。
とにかく、「直江状」なのか「十一箇条の書付」なのか、それとも全く別の返状なのかはわからないけど、会津から戻った伊奈昭綱らから、家康が上杉方の返状を受け取ったことは間違いないんだよ。

会津出陣

 「上杉景勝、上洛せず」という返状に激怒した家康は、5月3日、再び会津出陣を口にした。
これに対し、長束正家、増田長盛、前田玄以、中村一氏(なかむらなずうじ)生駒親正(いこまちかまさ)らが、5月7日、会津出陣を制止するために連署の諫止状を送っている。
しかし、家康の頭の中では「会津出陣」は既に決定事項になっていたわけで、連署の諫止状は全く効果がなかったんだよ。
 6月2日、家康は諸大名に上杉討伐を正式に号令、自ら総大将として6月16日に大坂を出発。
この6月16日の出陣には、家康直属の井伊直正本多忠勝酒井家次らが率いる3000余人の他に、反三成派の豊臣系将士である浅野幸長福島正則黒田長政池田輝政細川忠興らの率いる5万5000余人が従軍し、もの凄い長い行列を作って東海道を東へ進んだんだよ。
 7月2日、家康は秀忠の迎えを受けて江戸城に入り、7月7日には反三成派の豊臣系諸将を江戸城二の丸で饗応して、彼らに会津出陣の期日を7月21日とすることを正式に申し渡した。
同時に家康は、奥羽・北陸の諸大名にも会津討伐を指令し、伊達政宗には信夫口(しのぶぐち)から、最上義光には米沢口から、佐竹義宣には仙道口(せんどうぐち)から、前田利長には津川口からの進撃を命じ、家康らの本隊は、宇都宮城を前線拠点にして白河口より攻撃をなす準備をした。
また、津川口の前田利長には、堀秀治・堀直政ら越後衆が従うことになり、彼らが先発隊ということになった。

 さて、この会津出陣のポイントは次の二つだ。
まず第一に、「この出陣は家康の私的な軍事行為ではなく、豊臣政権における公的な軍事行為である」ということだ。
表向きは「豊臣政権に叛逆した上杉家を討つ」という目的による出陣ということになっているけど、家康の一方的な言いがかりによる上杉家侵略行為だということは間違い。
最大実力者の家康に、「上杉は豊臣政権を倒そうとしている」「秀頼様を守るために、上杉を討つ」と言われてしまっては誰も文句は言えなくなってしまう。
 天下取りの野望に燃える家康にとって、自分に反発する勢力は早いうちに潰しておきたい。
しかし、豊臣政権下において私闘は禁止されているわけだから、何らかの理由をつけて公的な軍事行為にする必要があったんだよ。

 第二のポイントは、「大坂を離れる危険性」だ。
豊臣政権の中枢である大坂を離れるということは、政治的空白は勿論のこと、反家康派の挙兵の可能性、それに伴って秀頼母子を反家康派に掌握される恐れなど、かなり危険な行為なんだよ。
家康はそういった危険を承知の上で会津出陣を強行したわけだけど、反家康派を過小評価していたんじゃないかと思うんだよ。
おそらく、挙兵するのは反家康派の筆頭である石田三成を中心とした一握りの大名のみで、ほとんどの大名が家康派につくであろうと軽く考えていたんだろう。
特に毛利輝元と宇喜多秀家は、間違いなく自分に同調するものと信じていたはずなんだよ。

三成と兼続

 「家康の会津出陣は、実は石田三成と直江兼続が、家康を東西から挟撃しようとあらかじめ密約したものだ。」という説が、昔から言われている。
はっきり言って、この説はかなり無理があると思う。
 上杉にしてみれば、領国経営に必死になっている時であり、戦争なんてやりたくないんだよ。
そう考えると、家康からの無理難題に対してやむを得ず対抗せざるを得なくなったというが実情で、あらかじめ三成と打ち合わせて家康の出陣を誘ったなんてありえないと思う。
 「三成と兼続が頻繁に連絡を取り合っていた書状が残っているではないか」と反論する人もいるだろう。
確かに、三成と兼続、景勝がやり取りをしていたという書状は多数残っている。
でも、殆どの書状が偽物だと俺は思うんだよ。
 もちろん、本物の書状もあるんだろうけど、事前に密約していたという事実が正確に確認出来るものではないんだよ。

 誤解してほしくないのは、俺が否定しているのは「事前の密約」についてであり、三成と上杉が連絡を取り合っていた事を否定しているわけではないってことだ。
ただ、連絡を取っていたのは事実だろうけど、会津と近江佐和山という遠距離では、当時の交通事情を考えると、頻繁に連絡を取り合うことは不可能だったのではないかと思う。

三成の挙兵戦略

 豊臣政権の公的軍令として会津出陣が決定し、諸大名たちは「公儀」により課せられた軍役という大義名分により、軍勢を会津に向けて派遣することになった。
この会津出陣に目をつけた石田三成は、会津に向かうために西国から大坂に進駐してきた軍勢を、会津に向かわせずに大坂でせき止める戦略に出たんだよ。
 上杉景勝のように、正面から家康に異を唱える勇気のある大名はいなかったけど、家康の専横を苦々しく思っていた大名が多かったのは事実だし、誰かが彼らを取りまとめることが出来れば、反家康派は巨大な軍勢になる。
でも、人望のない三成では、西国の諸大名を取りまとめるのは無理。
そのため担ぎ出されたのが、毛利輝元なんだよ。

三成−恵瓊−吉継−輝元−秀家

 毛利輝元は、会津出陣に吉川広家を大将、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を副将として参陣することを命じた。
大坂に駐在していた恵瓊は、日付は不明だけど広家よりも一足早く出発し、広家は7月6日に国許の出雲を発っている。

 7月2日、会津に出陣するために敦賀から南下していた大谷吉継は、美濃の垂井に到着していた。
吉継を自軍に引き入れたい三成は、佐和山城に吉継を迎え入れ、家康討伐の意思を伝えるんだよ。
三成と吉継は古くから親交があったんだけど、吉継は家康の台頭に対して、むしろ肯定的だったんだよ。
だから、当然の如く、三成の家康討伐に大反対したんだよ。
 7月11日、三成と吉継が再び会談したんだけど、実はこの時に、恵瓊も同席していたんだよ。
恵瓊は、「毛利輝元を西軍の盟主に立てる」ことを提案、吉継も「これなら勝てる」と判断したのか、この挙兵に協力することを約束したんだよ。

 ところで、会津に向かうために大坂を出発していたはずの恵瓊が、何故、佐和山にいたのか。
おそらく、恵瓊は最初から会津に進むつもりはなかったと思われるんだよ。
恵瓊も反家康派であり、秀吉と親しかった恵瓊にとって、家康が天下を取ることは許せなかったんだよ。
三成と、いつぐらいから協議していたのかは謎だけど、その後の輝元の行動から考えると、かなり早い時期から「三成−恵瓊ライン」の根回しが進んでいたと考えられる。

 7月12日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行連署状が発給され、広島にいた輝元を大坂に迎え入れることになった。
輝元は即座に決断して大坂に向かい、16日の夜には、大坂・木津の毛利屋敷に入っている。
そして17日には、三奉行らに推されて西軍の盟主となり、家康の御所だった大阪城西ノ丸に入った。
有名な「内府ちがひの条々」も、この日に発せられている。

 恵瓊は、出雲から会津に向かっていた吉川広家に飛脚を送った。
播磨まで来ていた広家が飛脚と会ったのが7月13日で、翌14日に広家は大坂に到着した。
ここで恵瓊は、反徳川の挙兵を広家に打ち明けた。
広家は反対したんだけど、恵瓊が強引に押し切って、渋々納得させてしまったんだよ。

 もう一人の大老、宇喜多秀家の動きも見ておこう。
6月19日、秀家も家康の会津出陣の命令に従い、先手衆を出発させていた。
この先手衆に任ぜられたのが、先のお家騒動の時に宇喜多家を出奔した宇喜多詮家、戸川達安、花房正成、岡家利たちだったんだよ。
彼らは赦免されて再び宇喜多家に帰参しており、宇喜多詮家を名代として会津に向けて出発していたんだよ。
 ところが、後軍として出発した秀家の本軍が、7月に大坂入りした直後、一転して三成に呼応し、西軍に属してしまったんだよ。
これは、三成から説得されたというよりは、毛利輝元が西軍の盟主として立ったからだと考えられる。
もともと、毛利家と宇喜多家は親しく、特に宇喜多家としては、日本第二位の石高を誇る毛利家と、親戚関係になりたかったんだよ。
だから、輝元と去就を共にしようと考えて西軍に鞍替えしたと思われる。
 秀家が西軍に属したことで、会津に向かっていた先発隊は、宙ぶらりんの状態になってしまった。
もともと主君に良い感情を抱いていなかった宇喜多詮家らは、黒田長政の軍勢に編入し、これを機に東軍に属した。

「内府ちがひの条々」

 7月17日に発せられた「内府ちがひの条々」についても解説しておく。
これは、13条からなる「家康弾劾条」なんだよ。
原文を書くと大変だから、主な内容を簡単に書くと次のようになる。

「五大老・五奉行と誓紙をかわしたにもかかわらず、石田三成と浅野長政を追いつめた」
「誓紙をかわしたのにもかかわらず、上杉景勝討伐を企て、許可なく出兵に踏み切った」
「伏見城の留守居役を勝手に追い出し、自分の家臣を入れた」
「大老・奉行以外の者との誓紙のやり取りは禁止されているのに、数多く取り交わしている」
「大坂城西の丸に御本丸のような天守を築いた」
「若い者を扇動し、徒党を立たせた」

 まあ、だいだいこんな感じの内容なんだよ。
家康は、会津出陣を豊臣政権の公的な軍事行為として、諸大名に出陣を要請した。
しかし、「内府ちがひの条々」が発せられたことにより、「家康こそ、豊臣政権の反逆者である」と認定されたんだよ。

東軍VS西軍

 7月18日、西軍は宇喜多秀家を総大将とし、約4万人という大軍を率いて伏見城を包囲した。
この城を守っていたのは、13歳の時から家康の家臣として忠節を尽くしていた鳥居元忠(とりいもとただ)だ。
秀家は伏見城の明け渡しを要求したんだけど、元忠は要求を拒否し、自ら本丸を守って徹底抗戦の構えを取ったため、翌19日から西軍の総攻撃が開始されたんだよ。
21日には外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されたんだけど、さすがは「三河武士の真髄」と称された鳥居元忠、頑強に抗戦したんだよ。

 7月20日、西軍は小野木重勝を主将格として、細川忠興の居城・丹後田辺城(=写真)へ兵を差し向けた。
城主の忠興は上杉討伐のため会津に向かっていたわけだから、守るは忠興の父・細川幽斎(ほそかわゆうさい)である。
翌21日、1万5000の大軍を引き連れた小野木重勝は、城近くの山々に布陣して三方から城を包囲し攻撃を開始した。
 田辺城の城兵はわずか500人程で、しかも桂林寺・瑞光寺といった寺の和尚や弟子をはじめ、農民町人に至るまで寄り集まった人数なんだよ。
どう考えても勝負にならない数なんだけど、幽斎方は一致団結して善戦するんだよ。

 この伏見城の戦い田辺城の戦いにより、東西両軍の戦いのゴングが打ち鳴らされたわけだ。

小山評定

 7月19日、江戸にいた家康の元に「石田三成と大谷吉継が共謀」という知らせが届いた。
これは、7月17日に三成と吉継が会談したことを知らせたもので、密告したのは増田長盛。
増田長盛は、これまでも逐一、大坂の情報を家康に流していたんだよ。
この時点では、三成と吉継が共謀したという情報のみで、毛利輝元の動きや「内府ちがひの条々」が発せられたことなどは、まだ伝えられていない。

 7月21日、当初の予定通り、家康は会津征伐のために江戸を出発し、24日に野州小山(やしゅうおやま)に到着した。
小山に向かう途中にも、大坂の情報は報告されており、詳しい情報はある程度把握出来ていたと思われる。
また24日の夜には、鳥居元忠からの使者が小山に到着し、「伏見城の明け渡しを求められており、開戦間近だ」という7月18日時点での情報が伝えられた。

 7月25日、軍評定が開かれたんだけど、これが有名な小山評定(おやまひょうじょう)だ。
家康は、諸将に三成の挙兵を告げ、毛利輝元が西軍の総大将としてまつりあげられていることも話した。
そして、西軍につくか、家康につくか、去就は自由であるといって、各人の判断にゆだねたんだよ。
 このとき福島正則が進み出て、「大坂に残してきた妻子を犠牲にしてでも、家康殿とともに三成を討ち果たしたい」と発言。
これに黒田長政、山内一豊(やまうちかずとよ)らが続くと、次々と他の諸将もこれに賛同した。
この小山評定の結果、上杉勢にも備えながら、主力は大坂に反転することに決定、福島正則と池田輝政を先手衆として、翌26日から西に引き返すことになったんだよ。

家康の誤算

 家康は、三成を中心とした一部の大名が、家康討伐に立ち上がるであろうことは最初から予想していた。
しかし、大誤算だったのは、毛利輝元、宇喜多秀家の二大老に加え、増田長盛までもが西軍に属したことなんだよ。
毛利と宇喜多は、会津出陣のためにすでに兵を出発させていたし、毛利輝元とは、前年に「兄弟」「父兄」の契約を交わしていたわけだから、三成につくとは考えてもいなかった。
増田長盛の場合は、19日に三成と吉継の共謀を知らせてきたばかりなのに、いきなり寝返ったわけだから、家康としては大誤算だったんだよ。

前田利長

 家康が7月7日に奥羽・北陸の諸大名に指令した「対上杉包囲網」も、陣容が整いはじめていた。
信夫口から上杉領に侵攻した伊達政宗の軍が最も素早く行動し、7月25日には上杉方の白石城を攻略している。
また、仙道口の佐竹義宣、米沢口の最上義光らの軍も、ほぼ布陣を完了しつつあり、攻撃は時間の問題であった。

 津川口では、上杉旧臣による一揆の攪乱作戦が始まっていて、先発隊であった堀秀治が一揆の鎮圧に乗り出していた。
後発隊の前田利長の軍勢が到着すれば一揆の鎮圧は楽勝だったんだろうけど、秀治が待てど暮らせど、利長は国許の金沢から動こうとしなかったんだよ。

 利長が金沢を出発したのは、小山評定の翌日の7月26日。
この時、2万5000人の大軍を率いて出発した前田勢は、津川口には向かわず南下したんだよ。
「利長が南下したのは、小山評定で主力は大坂に反転することに決定したからだ」という学者もいるけど、俺はそう思わない。
電話なんて存在しない時代なんだから、25日の時点で金沢にいた利長が、その翌日に小山評定の内容を知っているはずがないんだよ。

 利長が家康の指令に従う理由は、母親の芳春院が人質として江戸にいるからだ。
だから、7月7日に家康から津川口出陣を命じられた時は、素直にこれに従うつもりでいた。
それなのに、なかなか金沢から出ようとせず、出発したと思ったら津川口に向かわないで南下したのは何故なのか。

 利長のもとには、西軍からの誘いも当然あったんだよ。
輝元・三成にしてみても、前田勢が西軍に加わることは戦力的にも非常に大きいんだよ。
そのため積極的に勧誘をしているんだけど、勧誘の書状の中に「北国七ヶ国を与える」という、秀頼名義のものがある。
歴史学者の中には、「利長の南下は、北国七ヶ国を刈り取るための出陣であり、この時点で利長は西軍につこうとしていた」とか、「東軍と西軍のどちらにつくかまだ決めていなかったため、とりあえず加賀南半に出陣した」という人もいるんだけど、それはないだろう。
西軍からどれだけ好条件で勧誘されようが、芳春院が人質としてとられている以上、利長が家康を裏切ることは絶対あり得ないんだよ。

 おそらく利長は、会津出陣よりも、自国のための加賀南半・越前出陣を選んだんだと思うんだよ。
利長が津川口に出発した場合、自領の戦力が手薄になり、他国から攻め込まれるチャンスを与えてしまうことになる。
特に隣国の丹羽長重とは敵対関係にあったので、早めに倒しておく必要性があったんだよ。
丹羽勢を攻略してしまえば、会津出陣も容易になるわけだ。

伏見城の戦い

 1600年(慶長5年)7月19日の開戦以降、宇喜多秀家を主将とする4万人の軍隊に対して、鳥居元忠が守る伏見城は500人程度の人数。
鳥居元忠は三河武士の意地を見せて、籠城戦に持ち込んで徹底抗戦し、十日余り頑張った。
しかし、8月1日に伏見城は落城し、元忠は壮絶な最期を遂げる。

 伏見城落城のポイントは、甲賀衆だ。
元忠らと共に籠城したメンバーに、深尾清十郎という人物がいた。
深尾清十郎は近江の人間で、甲賀衆50人を引き連れて籠城していたんだよ。
 一方、西軍にも甲賀衆が加わっていて、彼らを率いていたのが長束正家だ。
正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせた。
鵜飼藤助は、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元に残してきたの妻子一族の命はないぞ」といった内容が書かれた矢文を射込んで城内の甲賀者に内応するよう勧告。
これを読んだ甲賀衆たちは、当然、郷里に残してきた家族を心配するわけだ。
深尾清十郎としては、最期まで鳥居元忠に殉じていきたかった。
しかし、甲賀衆全体のことを考え、西軍に内応することを決心し、「今夜亥の刻に火を放って内応する」と返事をしたんだよ。

 8月1日未明、伏見城の一角に火の手が上がり、城内の甲賀者が城壁を壊して西軍を中に引き入れた。
こうなってしまっては、もはやどうにもならない。
本丸の元忠は、意地を見せて三度敵を追い返したんだけど、もう彼の周りにはわずか十余人しか味方が残っておらず、ついに討ち死にする。

大聖寺城の戦い

 7月26日、前田利長は25000の軍を率いて金沢城を出発し、8月1日に松山城に布陣した。
金沢城と松山城の間には丹羽長重の居城・小松城があるんだけど、小松城を避けたのは、まず第一に山口宗永(やまぐちむねなが)大聖寺城(だいしょうじじょう)を攻略するためだからだ。
8月2日、利長は山口宗永に降伏を勧告するが拒否されたため城攻めを敢行、山口宗永の息子・山口修弘の潜ませていた伏兵と、利長軍の先鋒・山崎長鏡による激突から、戦いの火蓋が切って落とされた。
山崎長鏡に加えて、長連龍(ちょうつらたつ)や利長の弟・前田利政らも参戦して激戦が展開されるわけだ。
山口修弘はよく踏みとどまって戦ったんだけど、前田勢の鉄砲隊の乱射に隊伍を崩され、城内に退却する。
 引き続いて行われた攻城戦では、大聖寺勢も果敢に戦ったんだけど、25000という大軍で戦意も高く、しかも命を顧みず攻め寄せてくる前田勢の前には、山口宗永も恐れをなした。
山口宗永は、丹羽長重や北ノ庄城青木一矩(あおきかずのり)に救援を依頼するが、援軍は間に合わず、ついに城主宗永は塀の上から降伏の意思表示をした。
しかし前田勢はこれを許さず、城内に突入して山口宗永・修弘親子を自刃に追い込み、8月3日、大聖寺城は落城した。

浅井畷の戦い

 大聖寺城を攻略した前田利長は、その勢いで金津に侵攻し、越前攻略に取りかかった。
ところが、北ノ庄城の青木一矩、丸岡城青木忠元は利長に和を請ったため、利長は北越前を平定し大聖寺城に戻った。

 8月5日、敦賀に集結した大谷吉継が主将の西軍が、海路金沢を攻めるという情報がもたらされた。
そのため前田勢は急遽金沢に帰国することになり、8月7日の夜半、先発隊を御幸塚城(みゆきづかじょう)に入れ、利長自身は三道山城に陣を進めた。
御幸塚城の諸将は本体との合流ルートについて軍議をした結果、敵を避けて迂回するよりは、加賀武士の本領を示すべく七隊の軍を編成し、丹羽領を突破して合流することに決した。
七隊の大将は先鋒から順に山崎長徳高山右近(たかやまうこん)奥山栄明富田直吉今枝民部太田長知、殿軍は長連龍という面々だ。

 これら前田勢が御幸塚城を出陣、殿軍の長連龍隊が大領野を出て山代橋方面へ向かおうとしたとき、丹羽勢の伏兵・江口正吉の一隊が長連龍隊に襲いかかった。
折り悪く天候は夜半からの雨が降り続き、鉄砲隊は用を為さない。
ここに前田・丹羽両軍による白兵戦が展開されたわけだけど、場所が浅井畷(あさいなわて)と呼ばれる、現在の小松市大領町周辺一帯の桑畑だったことから、この戦いを浅井畷の戦いという。

 小松城からの援軍が次々と到着したため、前田方の長連龍隊は大苦戦。
数多くの将士が命を落とし、悪戦苦闘しながらも連龍がなんとか兵をまとめて山代橋に差しかかった頃、急を聞いた前田方の先発隊と松平康定が救援に引き返して駆けつけ、追いすがる丹羽勢を追い返した。
このとき上阪又兵衛は丹羽勢を追撃しようとしたが、山崎長徳に止められ、戦いは勝敗は付かず双方痛み分けの格好で終結する。
戦後、山崎長徳は利長から戦機を誤ったとしてひどく叱責されたという。

家康の苦悩

 8月2日に小山を出発した家康は8月5日に江戸に戻り、9月1日に進発するまでの約1ヶ月、ずっと江戸に留まったままだった。
東軍の先手衆は、8月13日に清洲城に入城して家康の着陣を今か今かと待っていたのに、なぜ家康は江戸を動かなかったのか。
これは、動かなかったのではなく、2つの理由から「動けなかった」と言うのが正しいだろう。
 まず1つめの理由が、「東海道を進軍している豊家譜代の諸大名の去就に疑念が生じていた」というものなんだよ。
これは、特に福島正則に対しての疑念なんだけど、西軍が秀頼を抱えていることで、秀吉に対して恩義に感じている正則が西軍へ転換するのではないかと疑りはじめたんだよ。
家康は、何通もの手紙を正則に送って意思を確認し、さらには黒田長政池田輝政らに対しても、「正則の心はどうか?」という確認のための手紙を送っている。
このとき黒田長政は、「正則は石田三成と仲が悪いので、西軍に転換するなどありえないでしょう」と進言しているんだけど、家康は納得していなかった。
家康が正則を100%信用したのは、8月27日に岐阜城攻略の報を聞いてからなんだよ。
 2つめの理由が、「上杉−佐竹ラインの動向が不気味だったから」というものだ。
家康が会津出陣を決定した時、佐竹義宣には仙道口に着陣して上杉を攻略するように指令していた。
ところが西軍が上方で決起したことにより、佐竹は上杉と手を組み、家康と敵対するようになったんだよ。
もともと、佐竹氏は豊臣政権との関係が石田三成を取り次ぎとして結ばれていたわけだから、佐竹義宣と三成は非常に親密な関係にあったわけで、佐竹氏が上杉と結んで家康と敵対するのも、当然の結果と言っていいだろう。
小山評定によって東軍の上方反転が決定したことにより、米沢口に着陣していた最上義光は国許に帰ってしまったし、津川口の堀秀治は、上杉が背後で糸を引く一揆の鎮圧に懸命だった。
つまり、この時点で上杉と真っ向勝負出来るのは伊達政宗だけなんだけど、いくら政宗でも、上杉・佐竹の連合軍を相手にするには戦力的に乏しい。
だから、家康が江戸に留まらず上方に向かうことを、政宗が快く思っているはずがないんだよ。
家康は「会津をおろそかにするわけではないんだよ」というのを納得してもらうために、政宗に対しても何通も手紙を送っている。

 このように、東軍の先手衆からは「早く上方に向かって進軍してほしい」と言われていたのに、伊達政宗からは「上杉に備えるための後ろ盾として江戸に留まってほしい」と言われていた。
2つの相反した要求にさすがの家康も苦悩し、江戸を動くことが出来なかったんだよ。

西軍の戦略

 伏見城を攻略してから数日後、西軍は伊勢・美濃の二方面に進出を開始した。
三成の構想としては、まずこの二方面を平定した後、両軍が合流して尾張・三河の国境まで進出し、上洛してくるであろう家康軍を矢作川(やはぎがわ)付近で迎撃するつもりでいたようだ。
この構想を実現させるためには、伊勢・美濃の平定はもちろんのこと、最大のポイントは尾張の清洲城を落とすことにあった。

 8月8日、三成は佐和山を出発して美濃に入り、大垣城主の伊東盛正を口説き落として開城させ、11日に入城している。
また、織田信長の嫡孫で、美濃随一の大名である織田秀信が西軍に所属することになり、美濃平定は難なく成功した。

 一方、伊勢には毛利秀元安国寺恵瓊長束正家らが率いる3万の大軍が向かい、富田信高が守る安濃津城を包囲した。
ところが、富田信高が流した「家康率いる大軍が来襲」という虚報を先手衆の安国寺恵瓊らが信じていまい、狼狽したしていったん退陣するという失態を演じてしまったんだよ。
安濃津城を遠巻きにしながら20日近くも動けない状況が続き、8月24日になってようやく城攻めを再開したものの落城させることは出来ず、翌25日に高野山の木食上人らを城内に遣わして降伏開城を勧めたところ、さすがに籠城戦に疲れた富田信高はこれを受け入れた。

 三成にしてみれば、東軍の先手衆が到着するよりも先に清洲城を攻略したかった。
しかし、清洲城の留守を預かる福島正則の家臣たちは、「秀頼様の上意」として開城を申し入れても、頑として開城に応じなかった。
 清洲城には、生駒隼人(いこまはやと)という尾張の土豪が籠城していた。
織田秀信は、生駒隼人の父親を呼び寄せて開城を促したんだけど、隼人は「正則に頼まれ、城を預かっているわけだから、いくら父の命とは言え、それは出来ない」として父の要請を拒絶している。
伊勢の毛利秀元や安国寺恵瓊らの大軍が早めに清洲城に到着していれば、力攻めによって清洲城を落とす予定でいたんだろうけど、すでに書いたように、毛利たちは安濃津城から身動きが取れなかったわけだから、完全に三成の目論見は外れてしまった。
 8月13日、東軍の先手衆が清洲城に入城した。
これにより、「尾張・三河の国境まで進出する」という三成の計画は水の泡となってしまった。
三成にしてみれば、東軍の先手衆がこんなに早く西上してくるとは、全く予想していなかったんだよ。

 尾張・三河の国境での迎撃作戦を断念した三成は、次善策として美濃・尾張の国境の木曽川周辺まで前線を後退させた。
そして、岐阜城と連携を強化しながら、木曽川と長良川流域に点在する犬山城竹鼻城福束城(ふくづかじょう)などの諸城の守りを固め、清洲城を包囲する態勢をとった。
しかし、運気は完全に東軍に傾いていたんだよ。
 勢いのある東軍先手衆は、8月16日に福束城を落としたのを皮切りに、19日には高須城、駒野城、津屋城を落とし、22日には竹鼻城も落城させた。
敗走した兵の多くは大垣城に逃げ込んだんだけど、東軍に転属した兵もかなりの数にのぼったんだよ。

岐阜城陥落

 8月23日、美濃における西軍の最大前線拠点であった岐阜城が、東軍先手衆3万5000余の総攻撃をうけて落城した。
この岐阜城陥落は、石田三成にとって大きな誤算だったのに対し、江戸から動けずにいた徳川家康にしてみれば、西上を決意させた重要な出来事だったんだよ。
 岐阜城とは、もともとは“美濃の蝮”斎藤道三の居城だった稲葉山城を、後に織田信長が岐阜城と名を改めた、要害堅固として有名な城だ。
その城が、わずか2日で落城してしまった原因は何だったのだろうか。

 最大の敗因は、城主・織田秀信が「城外出陣」という愚かな戦術を採用したからなんだよ。
秀信の家臣で、老臣の木造具康(きづくりともやす)百々綱家(どどつないえ)らは、当然、籠城戦を秀信に勧めた。
この時点で岐阜城には6000〜8000の城兵がいたが、籠城したとしても1ヶ月くらい持ちこたえるのは何も難しいことはなかった。
籠城戦が長引けば、東軍先手衆の士気も兵糧も減少していくわけだし、その間に、伊勢の安濃津城を落とした毛利秀元、安国寺恵瓊ら3万の兵が救援に駆けつけることも可能だったはずなんだよ。
 それなのに信秀は籠城戦を本意とせず、城外出陣を唱えた。
8月22日、岐阜城を出撃した織田勢は、木造具康、百々綱家らが木曽川北岸の米野に陣取り、総大将の秀信はその後方、川手村の閻魔堂(えんまどう)に本陣を置いた。
このときに出陣した織田勢の兵力は、およそ4000といわれている。
これに対して、清洲城を進発して織田勢が陣取る米野に攻め寄せたのは、池田輝政、浅野幸長らが率いる約1万8000の軍勢。
いくら木造具康、百々綱家らが歴戦の強者とは言え、織田勢の4倍以上の大軍を相手にまともに戦えるわけがない。
戦がはじまって約2時間ほどで織田勢は大敗し、2割近くの兵を失って岐阜城に逃げ帰った。
この敗北により織田勢の戦意は一気に低下し、籠城戦に作戦変更したものの城門は簡単に東軍に撃ち破られてしまい、さすがの織田秀信も池田輝政に降伏した。
 この戦いは、織田秀信の愚作によって自滅した一戦で、西軍にとっては非常に大きな敗戦だった。

真田家

 関ヶ原の戦いは“天下分け目の戦い”と呼ばれていることからもわかるように、諸大名にとっても「生き残りを賭けた戦い」だったわけで、東軍・西軍のどちらに味方するべきなのか悩んだ大名も多かった。
現代のように、新聞・雑誌・電話・テレビ・ラジオ・インターネットといった様々な情報メディアが発達している時代とは訳が違うんだから、「東軍と西軍のどちらが優勢なのか」なんて正確に判断出来きるわけがない。
東西のどちらに付くべきか互いに譲らず、一族・家臣が対立・分裂する騒動も数多く発生している。
 さて、もっとも確実な御家存続方法は、親子あるいは兄弟が家中を二つに割って東西両方につく二股作戦なんだよ。
この方法ならば、どちらかが間違いなく残り、御家は存続するわけだから、この作戦を用いた大名は少なくない。
そして、この方法を採用した最も代表的な大名が、真田家なんだよ。
会津征伐の先発隊に従軍していた信濃国・上田城主真田昌幸(さなだまさゆき)は、下野国犬伏で石田三成の密書を受け取る。
昌幸は、長男・真田信幸(さなだのぶゆき)と次男・幸村(ゆきむら)を密かに呼び、東西どちらに加担すべきかを内談した。
 昌幸の妻は三成の妻と姉妹であり、幸村は大谷吉継の娘を嫁にもらっていたわけだから、必然的に西軍につくことになった。
それに対し信幸は、家康の重臣・本多忠勝の娘を娶っていたため、東軍に属することになった。
表面的には、自分の妻の身内がどちら側の人間なのかということから東西どちらに加担するか決めたように思えるけど、御家の存続が一番の理由だったのは間違いない。
そもそも真田昌幸は権謀術数の策士で、仕えていた武田氏が滅んだ後、北条・上杉・徳川・豊臣と、目まぐるしく主家を変えながら巧みに領国を保持してきたという実績があるわけだから、関ヶ原の戦いにおいても、その戦術を使ったと見るのが妥当だと俺は思うな。

 ついでだから書いておくけど、「真田幸村」という名前は、信憑性のある古文書や記録書には登場しない。
軍記物や講談などによって「幸村」の名乗りが有名になってしまっているけど、どうやら「信繁(のぶしげ)」が本当の名前らしい。
でも、「真田信繁」なんて書かれても誰のことか分からない人の方が多いし、俺自身「幸村」という名乗りの方が好きなので、このホームページにおいては「真田幸村」と表記することにした。

徳川秀忠

 岐阜城陥落後、東西両軍は美濃赤坂と大垣城で対峙するという状況になった。
東軍の先手衆は、石田三成、小西行長島津義弘らがこもる大垣城に今すぐにでも攻撃を仕掛ける勢いだったんだけど、家康から自重を促す軍令が届いたため攻撃を取りやめている。
家康が岐阜城陥落を知ったのは8月27日ごろで、この報告を聞いて安心した家康は、9月1日に江戸を進発、9月11日に清洲城に到着した。
 ところが、ここで1つの誤算が生じる。
8月24日に宇都宮を出発し、中山道ルートで清洲城に進んでいた徳川秀忠の軍勢が、まだ到着していなかったんだよ。
小説やテレビドラマ等では、秀忠が関ヶ原の本戦に遅参した理由を真田昌幸が守る信州・上田城の攻略に手こずったからだとする場合が多いけど、俺はそうは考えていない。
はっはり言って、上田城を簡単に攻略していたとしても、関ヶ原には間に合わなかった運命だったんだよ。
 そもそも、秀忠は最初から中山道ルートで清洲城に進むように命令されたわけではないんだよ。
この事は見落としがちなんだけど、家康が浅野長政に秀忠の指南役を依頼した8月24日付けの書状に、「中納言(秀忠)、信州口へ相働かせ候」と書かれている。
つまり、最初は中山道西上ではなく、信州平定を家康は命令していたんだよ。
 では、家康が秀忠勢を信州平定から中山道西上に変更したのはいつなのか。
家康が浅野長政に宛てた8月28日付けの書状に、「中納言は、中山道を相働き申し候間、ご同道なされ、ご異見共頼み入り候」と書かれていて、上田城攻めから中山道西上への任務変更を指示している。
おそらく、岐阜城陥落の急報が届いた8月27日を契機に、信州平定から中山道西上に変更したのは間違いないだろう。
 8月29日、家康の命を受けた大久保忠益が、秀忠に任務変更を伝達するために信州に向かった。
家康の考えでは、9月10日頃には秀忠勢が清洲城に到着すると考えていたらしく、美濃赤坂に布陣していた福島正則に宛てた書状にも、そのような内容が書かれている。
しかし、家康の計算は大きく外れてしまったんだよ。
 実は折からの大雨で利根川が大増水したため大久保忠益は川を渡ることが出来ず、ようやく秀忠陣に到着したのは9月9日になってからなんだよ。
中山道西上という任務変更を受けた秀忠勢は、上田城に対する備えに信州の諸大名を充て、自軍は清洲城に向かうために9月10日に小諸を出発した。
ところが、中山道は険路で有名であった上に大雨の影響で街道は泥濘と化していたため、秀忠勢の進軍を妨げてしまい、その結果、関ヶ原の本戦に間に合わなかったんだよ。

 一番重要なのは、秀忠は忠益からの知らせがなければ、中山道西上という任務に変更されたことを知ることは出来なかったということなんだよ。
仮に1日で上田城を攻略出来たとしても、忠益が到着するまでは信州平定という任務を継続していたはずなんだよ。
つまり、家康は「天候」というものを考えていなかったわけで、家康が秀忠を非難するのは間違っているような気がするんだよね。

三成密書

 9月12日、家康は美濃赤坂にいた藤堂高虎を密かに呼び寄せて密談している。
大垣城にこもる西軍の様子はもちろんのこと、赤坂陣の東軍先手衆の動向を把握するとともに、中山道にある秀忠勢を待つべきかどうか、最終的な打ち合わせをしたものと思われる。
結局、家康の出した結論は、秀忠勢を待たずに家康自軍の旗本衆だけで美濃赤坂に進出するというものだった。
 翌13日、清洲城を出発した家康は岐阜城を経由し、14日に赤坂に到着している。

伊勢街道沿いにある東軍方拠点の高須城を守っていた徳永寿昌(とくながながまさ)という武将がいる。
この徳永寿昌が西軍の密使を捕らえ、隠し持っていた密書を家康に届けた。
 これが有名な「三成最後の書状」で、9月12日付けで大坂の増田長盛に宛てたものだった。
この密書が届けられたのが、「いつ」、「どこ」だったのかは諸説あるけど、高須と清洲は直線距離で20キロ弱だから、早馬ならば1時間もあれば充分到着できる距離なんだよ。
だから、12日のうちに清洲に届けられたのではないかと俺は思う。

 三成密書は17ヶ条の書状なんだけど、家康が注目したのは次の3点だ。
まず第1に、毛利輝元と毛利勢の動向について。

8条どの城にも輝元の人数を入れ置くのが肝要。松尾山の城にも中国衆を入れ置くべきである
13条輝元の出馬がないときは、佐和山城下に中国衆五千ばかり入れ置くべきである

 つまり、輝元自身の出馬の可能性は少ないものの、毛利勢の後詰めは必至の情勢であったことを、家康は認識させられたんだよ。

第2に、東軍に属して上方周辺で籠城している田辺城と大津城の様子について。

6条大津城のことは早く根を絶やさないと、今後の仕置きにさわれが出る
17条田辺城は手が空いたようだから、攻め衆は美濃表に進発すべきである

 家康はこの時初めて、大津城がまだ落ちずに抗戦している事と、田辺城がすでに落城してしまったことを知った。
田辺城に続いて大津城も落ちれば、3万人と言われている西軍の後詰めが新たに着到することになる。
これは、秀忠勢に匹敵する兵数に値する。
家康が、どこまで正確に西軍の兵数を把握していたのかは微妙だけど、これでは、秀忠勢が仮に到着したとしてもほぼ相殺されてしまうため、家康が秀忠勢を待つメリットが無くなってしまうんだよ。

第3に、三成の戦法について。

9条味方の諸将の気持ちが一致すれば、敵陣を二十日のうちに破れる

 この文章は、家康を安心させた部分なんだよ。
なぜなら、三成は後詰めの到着を待っての持久戦を指向しており、即時決戦を想定していないことが見て取れるからだ。
毛利勢や田辺・大津城攻略に加わった兵が到着するまで待つということは、秀忠勢の美濃着陣が間に合う形での早期決戦という選択肢が、まだ消えていないということになる。
家康が急に赤坂に向かう決断をしたのも、このことに気づいたからではないかと、俺は思う。

東軍の決戦前夜

 9月14日、東軍の総大将・徳川家康が美濃赤坂に着陣した。
総大将が登場したわけだから、東軍の士気が急激に高まり、決戦ムードが盛り上がるのは当然のことだよな。
14日の夜に開かれた会議で、諸将から「大垣城を攻め落とすべきだ」という意見が多数出たのも、「士気の高まり」という部分が影響していたのだと思う。
 この会議で家康は「攻城戦」を採用せず、大垣城の西軍を城外におびきよせて、得意の「野戦」に持ち込むという戦法を打ち出した。
ここで注目すべきは、家康が想定してた戦場だ。
 最近の研究で、家康が想定していた戦場は関ヶ原ではなく、さらに東方の青野原(あおのがはら)だったらしいということがわかってきている。
これは『関原軍記大成』『慶長記畧抄』『別本慶長軍記』などの史料にも記載されていることなので、ほぼ間違いないだろう。
 では、「何故、西軍は関ヶ原に進軍したのか?」
通説では、「東軍は大垣城を無視して佐和山城を攻略し、一気に大坂城へ攻め込むつもりだ」というデマを故意に東軍が流し、それを信じた西軍がその計画を阻止しようと慌てて大垣城から関ヶ原に進軍したと言われている。
だけど、これは後の作り話である可能性が高い。
何故ならば、関ヶ原に進軍したのは「西軍の意思」によるものだったということがわかってきたからなんだよ。

西軍の決戦前夜

 大垣城に陣取っていた西軍の総大将・石田三成が、何故急遽関ヶ原に進軍したのか。
その理由は、「家康の美濃赤坂着陣」「小早川秀秋の松尾山占拠」という、三成にとって予想外の出来事が同時に発生したからなんだよ。
 まず「家康の美濃赤坂着陣」について、三成は家康がこんなに早く美濃赤坂に到着するとは思っていなかった。
前章でも書いたように、長期戦を想定していた三成にしてみれば、家康の着陣によって兵力が増強され、なおかつ士気が高まっていると思われる東軍を、大垣城だけで受け止めるのは苦しいと判断したと思われるんだよ。
しかも8月23日には岐阜城を攻め落とされるという手痛い敗戦をしているだけに、西軍の士気が下降気味なのは三成も充分理解しているわけだから、籠城戦を行なうのは明らかに不利なんだよ。

 次の「小早川秀秋の松尾山占拠」は、三成にとって最も予想外の出来事だった。
9月13日の時点で小早川秀秋(こばやかわひであき)は、三成の居城・佐和山城から南東に一里のところにある高宮(たかみや)に滞陣していた。
その小早川秀秋が、9月14日に突如松尾山に進軍したんだよ。
松尾山には、西軍の伊藤盛正(いとうもりまさ)の軍勢が陣取っていたんだけど、小早川勢と伊藤勢が小競り合いとなり、伊藤勢を無理矢理追い払ってしまったんだよ。
 この小早川秀秋の予想外の行動に、三成をはじめとする西軍首脳陣は非常に驚いたことだろう。
まだ小早川秀秋が裏切ったことが確定したわけではないけれど、同じ西軍の伊藤盛正を追い払ってしまったということは、明らかに謀反行為だ。
小早川秀秋が東軍に寝返った場合、小早川の軍勢は約15000人の大軍だったわけだから、大垣城に籠城した場合、美濃赤坂と松尾山の双方から挟撃される可能性もある。
そうならないためにも、西軍の主力で松尾山を取り囲み、東軍への寝返りを防ぐ必要性があったんだよ。
俺は、これこそが三成の関ヶ原進軍の最大の理由と考えている。

関ヶ原への布陣

 さて、いよいよ関ヶ原で決戦が行なわれた9月15日について説明する。まず関ヶ原への布陣までの両軍の動きを、表で説明しよう。

日時行動(青が東軍赤が西軍)
14日夜石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の順に西軍主力が大垣城から関ヶ原に向かって出陣。
途中、三成は松尾山の小早川秀秋の陣所に立ち寄り、秀秋の老臣・平岡頼勝に会う。
「狼煙を合図に東軍の側背を突くように」という命令を伝え、さらには寝返り防止のために、
「豊臣秀頼が15歳になるまで秀秋の関白の地位を保証する」といった内容の起請文を送った。
14日夜〜15日午前2時西軍出陣の情報を得た東軍は、すぐに出陣の準備を行なう。
15日午前1時〜2時西軍主力が山中村の大谷吉継の陣所に集結して軍議を開く。
この軍議により、笹尾山に三成、小池村に島津、北天満山に小西、南天満山に宇喜多という陣地を決めたと思われる。
15日午前2時東軍主力が美濃赤坂を出陣。
一番隊は先鋒に福島正則、続いて加藤嘉明・筒井定次・田中吉政・藤堂高虎・京極高知。
二番隊は黒田長政・加藤貞泰・竹中重門・細川忠興・稲葉貞通・寺沢広高・一柳直盛・戸川達安・浮田直盛。
三番隊は井伊直政・松平忠吉・本多忠勝および寄合衆と呼ばれる混成隊によって形成されていた。
15日午前3時徳川家康、東軍主力の最後尾について美濃赤坂を出陣。
15日午前4時西軍主力が関ヶ原に布陣完了。
大谷吉継は藤下村藤川台に戸田重政・平塚為広らと中山道を押さえる形で布陣。
東南松尾山方向の藤下村平野には吉継指揮下の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保が一列に並んで布陣
15日午前5時〜6時東軍一番隊が中山道南側の松尾村大関を背に宇喜多秀家の南天満山に対する形で布陣。
二番隊の黒田・加藤・竹中は岡山の麓に布陣して石田三成の笹尾山に対峙。
他は中山道の中央部に南北に並び、島津義弘・小西行長と向き合う形で布陣。
三番隊の本多忠勝は伊勢街道東側に布陣し、南宮山方面の敵が伊勢街道から関ヶ原に侵入してくるのに備えた。
井伊直政は茨原に陣し、少し下がって松平忠吉がこれに並ぶ。
その北側には寄合衆四隊が続く。
15日午前7時徳川家康が桃配山に布陣。

 両軍とも関ヶ原周辺の地理には不案内だったのに加え、14日の夜から15日の午前4時くらいまでは風雨がひどかったらしい。
それに、敵軍に見つからないように行軍しなければならないから、夜中なのに松明も使わないで移動していた。
こんな状態での進軍だったから、自分たちの移動に精一杯で、相手がどのような動きをしているのかなんて、朝になるまでわからなかったんだよ。
進軍中、西軍主力・宇喜多秀家隊の最後尾にいた小荷駄隊が、東軍一番隊・福島正則隊の先鋒と接触するという出来事もあったらしいんだけど、それだけ両軍が接近していたということなんだよ。
それでもなんとか午前4時には西軍が関ヶ原への布陣を完了し、東軍も午前6時には布陣完了しているわけだから、戦国武将の体力の強靭さ・精神力には恐れ入るな。

 さて、この表の中で特に重要な箇所は、次の三つだ。
「三成が小早川秀秋に送った起請文の内容」
「東南松尾山方向の藤下村平野に吉継指揮下の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保が一列に並んで布陣していたこと。」
「井伊直政・松平忠吉は東軍の三番隊だったこと」
特に最初の二つは関ヶ原の戦いの勝敗に大きく関与してくる部分なので、よく頭に入れておいてもらいたい。

 ところで、このとき関ヶ原に対峙した両軍の軍勢は、東軍74000人に対して西軍は84000人と、わずかに西軍がリードしていたんだよ。
西軍の84000人には、松尾山を占拠している小早川秀秋軍の15000人と、関ヶ原の南東に位置する南宮山周辺に布陣していた毛利勢の数も含まれている。
毛利勢は、吉川広家の軍3000人を先頭に、毛利秀元軍15000人、安国寺恵瓊軍1800人、長束正家軍1500人、そして長宗我部盛親軍6600人と、合計で約28000人もの大軍だ。
石田三成にしてみれば、この毛利勢の活躍を大いに期待していたんだろうな。

 分かりやすくするために簡単な布陣図も描いてみた。
それぞれの武将が、だいたいどのあたりに位置していたのかを把握しておけば、決戦の流れも分かりやすくなるだろう。
この図はかなり縮小しているから、南宮山と桃配山がかなり近いように感じるけど、実際には、南宮山はさらに東に位置している。
真ん中の横棒は中山道で、右上あたりに布陣している東軍の山内一豊浅野幸長らは、南宮山の敵に備えると共に、万一の際に家康の退路を確保する役割を担っていた。

 

決戦開始

 午前8時、東軍・福島正則隊が西軍・宇喜多秀家隊に攻め掛けたことにより戦いがスタートしたんだけど、はっきり言って小競り合い程度だったんだよ。
本格的な決戦が開始されたのは、東軍の三番隊だった井伊直政・松平忠吉の部隊が西軍の宇喜多秀家隊に向けて鉄砲で攻撃を開始したことによる。
東軍の先鋒は福島正則隊なのだから、三番隊にいるはずの井伊直政・松平忠吉の部隊が最前線に躍り出てきた上に、福島正則に抜け駆けして先制攻撃を行なうのは、軍法違反になりかねないんだよ。
それなのに、何故井伊直政はそんな行動をとったのか。
これにも諸説あるんだけど、秀吉の部下だった福島正則に先手を取られるのは、家康の四天王と呼ばれていた井伊直政にしてみれば許しがたいことだったんじゃないのかと俺は思う。
家康自身も自分の直属の部下に先手を取ってもらいたいというのが本心だったはずで、戦い後に井伊直政がペナルティを与えられていないことから考えても、おそらく家康の支持があったのだろう。

 井伊直政に先手を取られた福島正則も慌てて宇喜多隊に総攻撃を仕掛け、まずは福島隊VS宇喜多隊という対決が開始された。
福島隊は、福島丹波・福島伯耆・長尾隼人らが先頭にたって攻撃したんだけど、宇喜多隊の先鋒・明石全登が率いる8000の兵士に数的に負けていたため苦戦を強いられてしまう。
このため加藤嘉明・筒伊定次の両隊が加勢に駆けつけて宇喜多勢を攻撃、まさに東西両軍の旗が入り乱れての大激戦となったわけだ。

 笹尾山に陣取っていた石田三成は、宇喜多勢周辺で大激戦となったため戦機が熟したと判断、三成隊の主力・島左近・蒲生郷舎らの部隊に東軍勢突撃を命じたんだよ。
結果的に、この戦いで西軍から攻撃を仕掛けたのは三成勢だけだったわけで、特に島左近と蒲生郷舎の戦闘力を三成が全面的に信頼していたようだ。
島左近・蒲生郷舎らの部隊は福島隊に突撃しようとしたんだけど、黒田長政・田中吉政・生駒一正・金森長近らの部隊がこれを迎え撃った。
そのため島・蒲生隊は柵の外へ進み、黒田長政・田中吉政・生駒一正・金森長近・竹中重門らに攻め掛かる。

 島左近は猛将として有名で、その勢いに押されて黒田長政隊は大苦戦を強いられたんだよ。
「正面から戦っても駄目だ」と判断した長政は、鉄砲頭の菅六之介正利白石庄兵衛に命じて鉄砲五十挺を預け、丸山山中を迂回して島隊の北側側面から銃撃させた。
油断していたのか敵中に深く入り過ぎたのか、島隊はもろに銃撃を浴び、島左近本人も被弾負傷してしまったんだよ。
親分の左近が負傷したわけだから、当然島部隊は総崩れになるだろうと読んだ黒田長政は、島部隊を一気に叩き潰すために突撃を命じた。
この時、長政の予想に反して総崩れにならなかったのは、蒲生郷舎が踏ん張っていたからだろうけど、でも西軍にとって、開戦直後の島左近の負傷は全くの誤算であり、その後の戦いの展開に与えた「マイナスの心理的影響」が非常に大きいものだったのは間違いない。

 午前9時、西軍の第一陣が崩れた。
小西行長の先手衆が、福島隊の戸川達安宇喜多詮家の部隊に打ち破られ、小西行長の本隊もこれに攻撃されてしまい、戦わずして敗走してしまったんだよ。
小西行長勢の早々の戦線離脱は、島左近の負傷と同様、三成にとって大きな誤算だったんだろうな。
ちなみに、この時に小西勢を攻撃した戸川達安と宇喜多詮家は元宇喜多家の家臣。
前にも書いたけど、上杉景勝討伐の時に宇喜多家の先発隊として会津に向かったんだけど、宇喜多秀家の本軍が西軍に属してしまったため、急遽東軍に鞍替えした連中なんだよ。

 午前10時頃、三成が笹尾山を降りて最前線の島・蒲生陣へ現れた。
ここで戦況を分析し、高野越中大山伯耆の軍勢に東軍勢の側面を攻撃するように命じたんだけど、当然家康も黙っていない。
織田有楽古田重勝らに命じて高野・大山軍に一斉攻撃を仕掛け、彼らを押し戻してしまったんだよ。
 側面攻撃作戦を家康に防がれてしまった三成は、最後の手段として大砲攻撃に打って出た。
本営から大砲五門を柵内まで運ばせ東軍勢に発砲したんだけど、さすがの東軍勢も、大砲の威力に恐れを成して約300mほども敗走してしまった。
 西軍勢の思わぬ奮闘により焦った家康は、桃配山から陣を九町(約980m)程進めたんだよ。
ここは後に陣場野と呼ばれるようになった所なんだけど、小池村の島津陣からはわずか500m程、三成の笹尾山本陣からも約600m程しか隔たっていない位置にある。
まさに家康の闘志がむき出しとなった瞬間だな。

 「今がチャンス!」と思った三成は、狼煙を上げさせて、南宮山の毛利勢の参戦を促した。
もしこの時毛利勢が動いていれば、戦況は大きく変わっていただろうし、場合によっては東軍敗走という可能性もあったんだよ。
だけど、毛利勢は全然動く気配がなかった。

南宮山の動き

 南宮山東麓に布陣していた安国寺恵瓊は、自ら南宮山に赴いて毛利秀元に対し、山から降り狼煙を待って参戦するよう求めたんだよ。
最初秀元は「自分は年少なので軍事は吉川広家に任せてある」と断ってしまうんだけど、恵瓊に説得されて参戦を約束し、南宮山下に陣取る吉川広家に出撃の命を伝える。
ところが、広家は頑として動かなかった。
実は、吉川広家は家康に通じいたんだよ。
しかも、安国寺恵瓊とはウマが合わず、恵瓊を憎んでいたらしい。
広家が家康に通じているなんて他の連中は夢にも思わなかったんだろうけど、なんで参戦しないのか疑問には思っていたんだろうな。

 長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは南宮山の北東麓に軍を進め、東軍の池田輝政・浅野幸長勢と銃撃戦を開始していた。
ただ、小部隊が進み出て戦いを交えるものの小競り合い程度で、決戦には至っていなかったんだよ。
そんな時、三成が上げさせた狼煙に長束正家が気付いたんだよ。
当然、長束正家は急いで攻撃体勢を整えて軍を進めるべく、使者を毛利秀元の元にも走らせて直ちに毛利勢の参戦をも促した。
秀元もこれに応じて参戦しようとするんだけど、吉川広家がどうしてもこれを聞かず動かないため山を降りることが出来なかったんだよ。
しばらくして秀元は、長束・安国寺の陣所へ使者を派遣し、「私は参戦しようとした。しかし吉川広家が兵を動かさないためどうしようもない。この後はお二人でよろしく相談されるようお願いする」と伝えた。
長束と安国寺はこの返事を聞いて、広家に対する疑心が生じたんだけど、だからと言って彼らもまた進撃参戦することはなく、ただ時間だけを空しく経過させてしまったんだよ。

小早川秀秋

   一進一退の攻防が続いていたが、午前11時頃になると三成の部隊が厳しい状態になってきた。
そのため三成は、家臣の八十島助左衛門を島津義弘のもとに遣わし援軍を求めたんだよ。
ところが、八十島が馬に乗ったまま三成の指令を伝えたため、島津義弘の逆鱗に触れて追い返されてしまう。
実際は、島津勢も自分たちの持ち場で戦うだけで精一杯だったから、援軍どころではなかったため、仕方のないことなんだけど、三成は失望してしまう。
 そこで三成は、松尾山に陣取る小早川秀秋の部隊に参戦を促すため、狼煙をあげさせたんだよ。
狼煙を合図に15000の兵を率いて東軍の側背に攻撃を仕掛けることになっていたわけで、ここで小早川秀秋が一斉攻撃を仕掛ければ歴史は変わっていたかもしれない。
しかし小早川秀秋は、何の行動もおこさなかった。
では、何故小早川秀秋は動かなかったのか。

 一般的な解釈としては、「小早川秀秋は家康からも寝返りの密約を受けていて、最後まで東軍と西軍のどちらにつくべきか悩んでいた。だから動かなかった。」というものなんだけど、俺はそうは思わない。
「はじめから東軍につくつもりだったが、関白という恩賞を出されて迷いが生じた」というのが本心だったのではないかと思う。
秀秋の家臣・平岡頼勝黒田如水(くろだじょすい)の妻の姪婿だし、如水の家臣・川村越前は秀秋の家臣になっていた。
その関係で秀秋は黒田如水・長政父子と親交があったたわけだから、もともと家康派なんだよ。
今回の戦いにおいても、平岡頼勝と稲葉正成といった秀秋の主要な家臣たちは、早くから家康に内応する旨を伝え、人質まで送っている。
秀秋も、伏見城の鳥居元忠に対し、父・木下家定を人質として、伏見城への入城を申し入れている。
ところが、何故かこの申し入れが拒否されたため、秀秋は一転して西軍に加担し伏見城を攻めたわけだけど、完全に西軍についたわけではなく、その後も何度か家康に使者を送っている。
9月13日には、家康の使者西尾正義が秀秋の陣所に訪れて会見している。
おそらく、この時に東軍に味方するという旨を伝えていると思われる。
つまり、秀秋が高宮から陣を移動させて松尾山を占拠したのはこの会見をうけてものだったわけなんだよ。

 ところが、14日の深夜に三成が松尾山を訪れて「豊臣秀頼が15歳になるまで秀秋の関白の地位を保証する」といった内容の起請文を送ったため、秀秋の心が大きく揺らいでしまった。
関白職ということは、事実上、日本国の頂点に立つことになるわけだから、こんな恩賞を出されたら、だれでも心が揺らいでしまうのは当然なんだよ。

秀秋の決断

 正午過ぎ、秀秋が何も行動をおこさないことに業を煮やした家康は、松尾山に向けて鉄砲を撃ち込ませた。
去就を決しかねている秀秋に最後の決断を促す鉄砲だったわけだ。
 さて、この鉄砲に驚いた秀秋が、あわてて西軍に総攻撃を仕掛けたというのが定説になっているけれど、これには補足が必要だ。
東軍の最前線から松尾山の山頂までは、直線距離で1300メートルほどあったといわれていて、それだけの距離がある場合、火縄銃の弾では当然届くわけもなく、ましてや銃声が届いたかどうかさえ疑わしいんだよ。
仮に松尾山の近くまで東軍の鉄砲隊が来ていたとしても、それが東軍からの催促の発砲であると理解出来たのかどうかも疑問がのこる。

 実は、秀秋の陣には家康から送り込まれた奥平貞治という監査役がいたんだよ。
彼は関ヶ原の戦況を秀秋に報告し、急ぎ大谷吉継の部隊を襲うように求めている。
さらに、黒田長政の家臣大久保猪之助もかねてより秀秋陣にいて、「西軍に攻撃を仕掛けないのはどうしてなのか?主君・黒田長政を欺くつもりか」と、平岡頼勝に脇差しに手を掛けて詰め寄っている。
おそらく、東軍からの発砲については秀秋は気がつかなかったんだろうけど、彼らが秀秋にその旨を伝えたのではないかと思うんだよ。
こんな状況では、さすがに動かないわけにもいかないわけだから、秀秋は東軍につくことを正式決定、平岡・稲葉を先鋒に一斉に山を駆け降りて西軍勢に攻め掛かっていったんだよ。

大谷吉継と宇喜多秀家

 松尾山の小早川秀秋勢は、平岡・稲葉隊を先頭に山を降り、六百挺の鉄炮をもって大谷吉継勢に襲いかかった。
しかし大谷吉継は、かねてから小早川勢の寝返りは薄々予想していたため、微動だにしなかったんだよ。
吉継は小早川勢を引きつけるだけ引きつけておいてから、一斉に鉄炮を撃たせ、さらに吉継の号令と同時に平塚為広も60騎余を率いて小早川勢の側面へ突っ込んだ。
小早川勢の15000に対し、大谷勢は5000と兵数に大きく差がありながらも奮戦し、小早川勢を松尾山麓まで押し戻す。
この時、家康から秀秋のもとへ派遣されていた奥平貞治は前線で必死に踏みとどまって戦ったんだけど、大谷勢の猛攻撃の前に討死を遂げている。
小早川勢は400余の戦死者を出したため一旦退き、態勢を立て直して再度大谷勢に突撃したんだけど、迎え撃つ大谷勢は戸田重政が500余騎を率いてこれに向かい、吉継と平塚為広は秀秋の左側面から攻め立てたため、再び小早川勢は押し戻されてしまった。
 しかし、ここで思いがけない事がおこったんだよ。
小早川勢の北東に陣していた藤堂高虎隊から旗が振られ、そして次の瞬間、これまで戦況を傍観していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四隊が、急に反転して吉継勢の背後に襲いかかってきたんだよ。
これこそ関ヶ原の戦いにおける「家康最大の仕掛け」だったんだけど、脇坂等にはかねてから藤堂高虎の手が伸びていて、内応の約束が取り交わされていたんだよ。
大谷吉継も、小早川秀秋の裏切りは予想出来たが、さすがに脇坂等の裏切りまでは見抜くことが出来なかった。

これにより戦況は一変、気を取り直した小早川勢も反転して攻撃、挟撃された吉継勢は次々に討たれてゆく。
乱戦の中、戸田重政は子の内記とともに織田勢に討たれ、吉継の麾下に従っていた島左近の子・新吉信勝も藤堂玄蕃を討ち取ったものの、その従者に首を挙げられてしまった。
平塚為広も一人奮闘するが、やがて小川祐忠隊の樫井太兵衛に討ち取られてしまい、大谷吉継も「もはやこれまで」とその場で自刃したんだよ。

 大谷勢を壊滅させて勢いに乗る小早川・脇坂等は、今度は宇喜多秀家勢へとその矛先を変更。
小早川・脇坂等の裏切りに大いに怒った宇喜多秀家は、自ら彼奴の陣に攻め寄せて刺し違えようと本当に出陣しようとしたが、側に控えてい明石全登がこれを押し止めて説得。
明石全登の説得を了承した秀家は、近習数人とともに北国街道を伊吹山目指して落ちていった。
その後しばらくの間は、明石全登も残る兵を督して戦っていたが、やがて彼も戦場から消えていった。

決着

 さて、大谷勢・宇喜多勢の敗走により、西軍で残っていたのは石田三成勢と島津義弘勢だけになった。
この時石田三成勢は黒田長政勢・田中吉政勢・織田有楽勢と激戦を展開していたんだけど、勝敗は未だに決していなかったんだよ。
これは紛れもなく大健闘と言って良いだろうな。
ところが、ここへ大谷勢を撃滅して勢いづいている藤堂勢と小早川勢が合流し、側面から猛攻撃を加えた。
これにはさすがの石田勢も崩れ始め、島左近、蒲生頼郷蒲生大膳北川十郎といった石田勢の勇士たちが次々と討ち死にし、勝ち目がないと判断した三成も遂に戦場を脱し、伊吹山目指して北国街道を北西に逃れていったんだよ。

 ついに戦場に残った西軍は、島津義弘勢だけになってしまった。
義弘は、自ら家康の本陣に突入して討ち死にする決意をしたんだけど、甥の島津豊久の必死の説得により、退却することに決めた。
この退却が、後世に「島津の敵中突破」「島津の前退」と長く語り伝えられるようになる壮絶な退却戦だったんだよ。
義弘は馬に跨り、白い采を振って号令を掛けながら突進したんだけど、端から見ると間違いなく家康の本陣に突入するように見えたらしい。
しかし島津勢は家康本陣に突入しようとしていたわけではなく、家康本陣前を斜めにかすめるようにして突進し退却したんだよ。
この東軍の意表をついた退却方法には、さすがの家康も感心してしまったんだけど、すぐさま本多忠勝・井伊直政・松平忠吉等に追撃に向かわせた。
騎馬隊700ほどの部隊が島津勢を追いかけ、本多忠勝・井伊直政隊と島津勢は激戦を展開した。
この時に、殿を務めていた島津豊久が討ち死にしている。
本多忠勝・松平忠吉隊はさらに勢い良く追撃し、島津義弘のすぐ近くまで押し寄せていった。
ところが、義弘の家臣・柏木源藤に鉄砲で攻撃され、井伊直政本人に命中、負傷・落馬してしまった。
大将が負傷してしまったわけだから井伊勢は追撃をあきらめたものの、本多忠勝・松平忠吉らの部隊はさらに勢い込んで追いかけてくる。
伊勢街道に入ってしばらくいったところにある烏頭坂付近、東軍の前に立ち塞がったのが阿多盛淳だ。
彼は数十人を率いて十文字の旗を押し立て、島津義弘の名を語り本多忠勝・松平忠吉勢に真っ向から挑んで死に物狂いで暴れ回り、最後は壮絶に自刃しはてた。
このように、島津勢の捨て身の抗戦に手を焼いた東軍は、ついに追撃を諦めた。
島津豊久・阿多盛淳らの奮戦により、この島津義弘は奇跡的な脱出に成功したわけだ。

 島津の退却により関ヶ原には西軍はいなくなったため、天下分け目の戦いは東軍の勝利となった。

処刑

 東軍は、9月17日に石田三成の本拠地である佐和山城を攻撃した。
城兵は2800人程度で、三成の父・石田正継、兄の正澄が守っていたんだけど、翌18日には落城してしまう。

 19日に小西行長、21日に石田三成、23日に安国寺恵瓊と、西軍の主将格が次々と捕らえられ、10月1日に処刑された。
3人は洛中を車に乗せられて引き回された上、六条河原の処刑場で首を切られ、しかも切られた首は三条大橋にさらされたというから、想像しただけでも気味が悪くなるな。

 他の西軍諸将たちのその後については、書くと長くなりそうなので今回は省略する。

総括

 とりあえず、「関ヶ原の戦い」の基本的な内容については書き終えることができた。
「上杉景勝は結局どうなったんだ?」とか、「家康の戦後処理はどんな内容なんだ?」とか、まだまだ書ききれない部分も多いんだけど、あとは各自が歴史書や参考書なんかで知識を広げていってほしい。


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