このページでは、Kのつらつらしたメモをもとに、
養護学校とはどんなところか、講師とはどんな具合か、
といったようなことをみなさんに想像していただこうと思っています。
冬休みに入った今現在、「とっても学校行きたい症」が出ています。
年末に誰かにあって話をするとしても必ず子どもたちのことばかり…。(もちろん、匿名ですけど。)
そして、話してみて少しわかったこがあります。それは、
★ツボを押さえてしまえばどんな子でも好きになれるということ。
★私が、とっても楽しそうであるということ。
特に、この「ツボ」という表現がいいですね。
みんながみんないい子で、ぐんぐん成長してくれればうれしいし、問題ないわけですが、やっぱり、大変だという子もいるんですね。
でも、だからといってその子が嫌いになってしまうわけでは全然なくて、それはどうしてかというと、その子のいいところもいっぱい知っているからなんです。
例えばA君は授業がつまらないと黒板消しをバーンと床に投げつけたり、苦心の作の教材もはたいて壊してしまったりするのですが、
力持ちでベンチを運んでくれたり、「一本橋コ〜チョコチョ」が好きで、一回やると、何度も「やってやって」と手を出すしぐさがとってもかわいいのです。
その、「いいところ」を友人は「ツボ」と表したのですが、
「ツボ」を見つけるまでがある意味一苦労ではあるのです。
たいていの場合、「ツボ」は先輩の先生方から教わるのですが、場合によっては自分で見つけださなくてはいけません。
その「ツボ」が大きければ大きいほど、子どもにもプラスになって、ぐんぐんのびるきっかけにもなるわけです。
B君は車椅子に乗っていてもいつも姿勢がうつむきがちで、できるのにあまり大勢の前では発表しなかったり、自分で車椅子をこがなかったりしました。
しかし、ある機会にB君のもらした一言をみんなの前で取り上げたところ、その後交流会では終わりの言葉に立候補、学習発表会では詩のグループにも立候補し、大きな声で朗読という大役を果たすようになりました。
その後も朝の廊下で顔を上げて力強く車椅子をこぐB君の姿が見られるにつけ、ああ、成長しているな…。」と”発表”というツボを発見できた喜びをかみしめるのでした。
とにかく、ツボを!ツボを見つけないことにはどうしようもありません。
そしてツボを見つけさえすれば子どもにも、私たちにも大きな感動、喜びをもたらしてくれることでしょう。
時には自分の見つけたツボは実はそんな大したものではなくて、他の先生方の発見したツボのおかげで子どもが成長していたとしましょう。
しかし、単に自分のツボ発見の時期と子どもの成長が一致しているというだけで 「自分のツボがこんなにこの子の役に立ってるんだ!!」と勘違いして悦に入ることだってできるわけです。
とにかくこうしてツボ探しの毎日は楽しくあり、とってもやりがいのある仕事でもあります。
とにかく、ここ6ヶ月の間でいい歌にたくさん出会いました。
今、私の頭の中をまわっているのは卒業式に3年生が歌う歌ですが、特にこういったサインを取り入れながら歌う歌が、サイコーですね。
気持ちはあっても言葉のない子もいますので、そういった子たちが心を込めて表現しやすいところがよいのでしょう。
歌詞は覚えられなくも、サインは簡単なものを多く使用しているので、その場で模倣することができるのも利点の一つです。
少し”高い”子たちは、歌いながらサインをします。
音楽は、どんな子にも「この歌だったらこの授業だ」と気持ちが”はいる”ためのいい手だてになります。
肢体不自由の子が、曲が流れると、「おっ、」といった顔で目をじっと見開いてよく聴いている姿が見られます。
そういった歌の中、6ヶ月内で選りすぐりのいいのを3つ紹介しましょう。
ともだちになるために
人は出会うんだよ
どこのどんな人ともきっと分かり合えるさ
ともだちになるために
人は出会うんだよ
同じような優しさ求め合っているのさ
今まで出会ったたくさんの
君と君と君と 君と君と君と君と
これから出会うたくさんの
君と君と君と 君と友達
普通中学校との交流会で歌う歌です。元歌が誰か忘れました…。
交流会は1学期に1回、1年生は計3回ありましたが、だんだん本校の子どもたちも慣れ、普通中の子にもいいあらわれが見られました。
特に「出会う」「君と」など、人差し指をたてた大身振りのサインが心を込めやすく、よいです。
「どこのどんな人ともきっと分かり合えるさ」というフレーズがめちゃめちゃぴったりでじ〜んときます。
人は空より高い 心を持っている
どんな空より高い 心を持っている
だからもうだめだなんて あきらめないで
涙をふいて 歌ってごらん
君の心よ 高くなれ
空より高く 高くなれ
3年生を送る会で、在校生が卒業生のために歌う歌です。
「君の心よ 高くなれ〜」以降は、「蛍の光」のメロディーです。
校内のオリジナル編曲?だと思われるのですが、小学部から高等部まで、全学部でこの時期、歌います。
しかし誰も題名を覚えられず、いつも送る会を計画する頃になると、「あの、”蛍の光に似た曲”なんだっけ?」と言われています。(あわれなり…。)
でも、とてもよくできた曲なので毎年使われているんでしょうね。
「だめだなんて あきらめないで」というフレーズが、卒業生のためにも手向けになる歌ですが、在校生にとっても心にしみる、進級を控えた今”がんばらなくては”という気持ちにさせる歌です。
「高くなれ」ではL字にした手をできるだけ上にのばそう、というのが目標です。
歌詞は後日載せます。
中学部3年生が卒業式でお父さんの母さんに向けて”声かけ”の最後に歌う曲です。
今年の3年生は”ありがとう”をテーマにゴミ問題等に取り組んできましたので、その学年に沿ったオリジナルの曲になります。
「少しずつでも 大丈夫だよ」というフレーズが、とってもこの子たちに合っていて、それを聴いただけでも涙が出そうです。
何度も何度も繰り返して、それでもなかなかできなくて、いっぱい注意されて、怒られて、失敗して…そういう繰り返しだけれど、やっぱり少しずつ確実に成長していて、卒業式を迎える頃には入学当初と比べるとこんなに立派になっているんだなあ、と実感できる曲です。
今の1年生もこうなれるのだろうか、なれるんだろうな。と思いながら聴いています。い〜い曲です。
いつものように唐突に、その電話は来ました。
(かつて私がむさぼるように読んだ赤川次郎氏は、「電話はいつだって唐突に鳴るものだ」と書いていましたが…。)
講師のお話は、どうして、いつも、こんなにいきなり来て、そしてあわてて書類(健康診断表、身分証明書、卒業証書や教員免許のコピー、辞令を参照した微に入り細に入りの履歴書…)を用意しなければならないのでしょうか?
だいたいにおいて、「明日から来て欲しい」とか「明後日にでも用意して」とか言われるのは仕方のないことなのでしょうか?講師の宿命?
今回も、電話を受けてから病院、市役所、ハローワーク、職業訓練校、大学を駆けずり回りながら、「明日は子どもたち(昨年担任した)に会いに行く予定だったのに…でも事前に挨拶に行きたいし、打ち合わせしたいし…」とぶつぶつ考えていました。
「特休などなら話は分かるのですが、定数加配の講師や研修のお話はもう少し前だと本当にありがたいんですけど!!」
な〜んて、小心者の私には言えませんが!(笑)
いつも、「喜んで引き受けさせていただきます!!」と電話口で頭を下げる、日本人なKなのでした。
「なぜ中学校がいいのか?」それはよく問われる質問です。
究極を言ってしまえば、何となく。
「なぜ技術なのか?」「なぜ教師なのか?」どの質問も、「何となく」です。本音を言ってしまえば。
何かの脚本でも言っていましたが、「好きなものに理由はいらない。かえって、理屈を並べ立てる方が不自然だ。」と私も思います。
ただ、どうしても聞かれるこの質問、以前は前記のような理論のもとにあえて考えないようにしていましたが、最近思いを変えてきました。自分の中で理由を考えてみるのも悪くはないんじゃないかと。
そして、今回中学校で2週間を経験するに当たって、この”理由”について自ずと思いを巡らすチャンスにもなったわけです。
まず、中学校講師体験前に思っていたことは、中学校3年間の成長の速さに対する面白さ。人生の中で、体格的にも、精神的にも一番伸び盛りの時期だということです。
現に、1年生の男子の豆々した小学生っぽさから、3年生のキリッとした大人を感じさせる違いを目の当たりにすることができました。
他の先生方にうかがうと、学年固有の性格差があって、今の1年生が2年後に現3年生のようになるかというと、そういうわけでもないだろうということでした。けれど、上級生になるにしたがって肩に乗る責任の重さだとか、学校行事への慣れだとか、そういったものが言動に影響してくることは確かだと思います。
それから、講師経験後の今、各学年を通して感じたことは、中学生の創造への意欲、応用力の面白さです。
今回の講師で自分の中で大きかったことは、教育実習と違って、3学年の授業を一手に引き受けられたことだと思います。
自分の専門である木材加工、栽培だけでないところがある意味ネックになるかと思ったのですが、それをまがりなりにも乗り越えられた(つもり)になったことが、自分の中で大きな自信にもなりました。
勉強していけば、いくらでもやれるぞ、みたいな。(笑)
そこで、やはり各学年の違いにはいくらか苦心したのですが、とにかく、共通に感じたことは、それぞれの中にある創造性なのです。
「創る」活動には、一様に”やる気”が感じられます。
とにかく、授業中に落ち着きのない生徒たちも、いざ、「創るよ〜」となると、個々にアイデアを出してきます。
クラス全体も、初めのうちは「え〜できないよ〜」という声があがるのですが、そのうちに教室がシンとなって、それぞれが思いを巡らし始めます。
中にはきっと制作活動が苦手な生徒もいるはずなんです。けれど、そんな子でも、何かしら自分の中に「ここは、こんなじゃなくて、こうしたいんだけど…」という自分なりの意見を持っていて、教科書のサンプル丸写しのようでいて、そうではないのです。
こういうところが驚きでもあり、中学生の中学生らしさなのかな〜と思うわけです。
ついつい比較してしまうのが養護での”作る”活動。
代表的には、作業学習と、美術を自分は体験したわけです。
これは私の中で随分偏った考え方ですが、養護の学習というのは、卒業後の生活を見据えているため、作業学習に限らず、ほとんどの学習でたぶんに作業的要素が強いと思っています。
美術でも、例題を例としてとらえてもらうのは難しく、どちらかというと、見本。お手本。目標?そんな風にとらえられがちだと感じていました。
”作る”活動も、”作りたい”という気持ちが子どもたちから出るというよりは、”作る”という課題がまずあって、いかにその課程を上手にこなしていけるかがポイントだったように思いました。
もちろん、「この道具/材料を使ってみたい」「こんな作品を目指してみたい」「上手に作りたい」といった”やる気”は子どもたちにあるので、決して”押しつけ”になっていたわけではありません。
けれど、それではあくまでも”作る”活動で、”創る”活動にはなっていないと感じるのです。
私は美術関係の専門ではないので、反論もたくさんいただきたいと思っています。
いつから”作る”が”創る”になるのか?それは難しい問題ですが、自分の中で、その答えが中学校にあるのではないかと感じました。
今まで”真似”や”目標”だったものが、その域を脱して”応用”や”オリジナリティー”になっていく。
中学生というのは、形式的操作期という視点からも、そんなところが伸びる時期になるのではないでしょうか?
中学校で授業を行っていて感じたことは、注意しなければいけない点は”応用”が”脱線”にもなりかねない危険性を秘めていることです。
とかく”創る”ことに慣れていないため、その本筋を見失って、発展しすぎることに酔ってしまう怖さがあります。
”自由に”は自分の中でもモットーにしたいポイントでもありますが、そこで本来の目的を果たせないことは良いことなのか、悪いことなのか?
リンクを渡り歩いく様にどんどん脇道に逸れてしまう。それが”応用”だと思われてしまうと、授業としては成立しないのではないかと思います。
ここで生徒が脇道に入りたくならないように本道に魅力を置いて歩くことが教師としての役割の一つだと実感することができました。