関ヶ原散策記
「関ヶ原の合戦」
ご存知、天下分けめと言われた戦国時代史上最大の野戦です。
歴史好きにとっては、一度は訪れてみたい名所?(すくなくとも私はそう思っています)です。(ちなみ訪れた史跡には観光客は一人もおらず私だけ。平日ってこともあるけどそんなに人気ないのかな〜(^^;)
関ヶ原の合戦は、戦いが行われる前からを含めて、謀略、戦闘、裏切り、外交、愛憎劇などあらゆる要素が盛り込められた、とても奥深く実におもしろい合戦です。
特に、司馬遼太郎著「関ヶ原」(上中下3巻)は、小説としてとても面白いので、関ヶ原の合戦を詳しく知りたい方は是非読んでみてください。
あと、私は大の徳川家康嫌いであるため、感想がかなり西軍びいきになることをご了承ください。(^^;
JR関ヶ原駅で自転車を借り、いざ出陣!!!
とりあえず、東のはずれにある桃配山から巡ることとし、駅前の国道21号線を勢い良く進んでいきます。
しかし、ガイドブックなどは持合わせておらず、手元にあるのはインターネットのHP上で見つけた簡単な地図だけ。
なので、距離感が全くわからず、20分程ひたすら自転車をこいだ結果、なんと隣駅の「垂井」まで来てしまっていたのでした。(;_;
以下、私が巡った順番に史跡を紹介していきます。
(1)[東軍]桃配山 徳川家康 開戦時本陣跡
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(2)[東軍]徳川家康 最終本陣跡
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桃配山の徳川家康開戦時本陣跡(1)は、駅から1.5kmほど(自転車だと5分くらい)の道路沿いにあります。
ここは、桃配山は、笹尾山、松尾山、南宮山のちょうど中間ぐらいに位置しており、家康の老獪さが感じられて胸くそ悪くなります。
その後、東軍が押されている戦況から自軍を督促/奮起させるためからか、または背後の南宮山の動向が気になるのか、
家康は三成本陣の笹尾山のほぼ正面になる位置まで本陣を前進させます。(最終本陣跡(2))
この時までは、西軍の思惑どおりの展開です。
西軍は笹尾山、天満山などの要害を背景にした鶴翼の陣で、東軍を包囲できる優位な陣形を取っています。昭和初期、日本に訪れたドイツ軍将校は、この関ヶ原の布陣を見たとき、100%西軍が勝つと断言しています。
(3)床几場
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(4)[東軍]田中吉政陣跡
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最終本陣跡には、家康が床几(戦場での座椅子のようなもの)をすえたといわれる床几場(3)があります。
そのすぐ側には、東軍田中吉政陣跡(4)があります。
田中吉政は、決戦終了後、伊吹山に潜伏していた石田三成を捕縛した武将です。吉政も三成と同国(近江)の出身で、秀吉子飼いの武将の一人。
また、三成には多大な恩義を受けていたため、その心中は複雑だったにちがいありません。
(5)[東軍]井伊直政 松平忠吉陣跡
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(6)東首塚
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最終本陣跡から南東少しの所に、関ヶ原で抜け駆けをした井伊直政,松平忠吉の本陣跡(5)があります。
井伊直政は、井伊の赤備えと言われた彦根藩の藩祖である徳川四天王の一人、松平忠吉は家康の四男で、東軍の福島正則と激しく先鋒争いをしました。
(直政は家康の参将きどりだったくせに、闘争心や功名心が激しすぎて、私の嫌いな武将の典型)
関ヶ原開戦直前は、ひどい濃霧に覆われており、井伊隊、福島隊が互いに先鋒争いをしているうちに西軍宇喜多隊のすぐ目の前にきてしまいあわてて鉄砲で銃撃、これが関ヶ原開戦の合図となり、合戦の火蓋がきっておとされました。
(写真右は東軍が戦勝後、首実験を行った東首塚(7))
(7)[東軍]黒田長政 竹中重門陣跡
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(8)最終決戦地
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最終本陣跡から北へ足を運ぶと、伊吹山(かな?)の山裾に、黒田長政 竹中重門陣跡(7)があります。
東軍先鋒隊と西軍宇喜多隊との戦闘が開始されると、笹尾山前に布陣していた竹中隊、黒田隊が石田三成隊に戦闘を仕掛けます。
黒田長政、竹中重門は、秀吉の張良、陳平と称された名参謀、黒田官兵衛、竹中半兵衛の息子で、
特に黒田長政は、小早川秀秋の裏切り工作を担当し、関ヶ原の合戦で重要な役割を果たしています。
この陣地から西へ進んだ所に最終決戦地(8)があります。
島左近、蒲生郷舎などに率いられた石田三成隊と、東軍が決戦した場所です。
(9)[西軍]石田三成陣跡
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(10)大一大万大吉
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最終決戦地のほぼ正面にあたる笹尾山に、石田三成の本陣跡(9)があります。
左の写真は、三成の旗印である「大一大万大吉(10)」
(数多くの戦国武将の中で、私が一番好きな旗印です。(^^)
東軍のほとんどが西軍の大将である三成(名目上の総大将は毛利輝元。合戦時は大坂城に在城)に向かってきていました。(三成はよっぽど嫌われていたんだな〜)
石田隊は数倍もの敵軍と互角以上の戦闘を繰り広げており、三成の戦闘指揮能力が低くないことを表しています。(前線指揮を執っていた島左近の功績も無視できません)
一般に、石田三成は「文」の人という印象が強すぎるため、「武」の功績が過小評価されすぎているのは非常に残念なことです。
(11)[西軍]島津義弘陣跡
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(12)[西軍]小西行長陣跡
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笹尾山から南へ少し下り、草むらの野道を入っていった所に島津義弘陣跡(11)があります。
島津軍は西軍として参戦しながらも、合戦中は不戦を通しました。これは、関ヶ原での野戦前に三成と衝突したためと言われています。
合戦が東軍の勝利で終わると、関ヶ原には西軍島津隊のみが孤軍として残されます。
ここで島津隊は、退却戦としては異例の敵中突破を図ります。
敵陣を突破した島津隊は、激しい退却戦を繰り広げ、島津軍の勇猛さを知らしめることとなります。(この示威的行動が、戦後島津氏の本領安堵とつながります)
私はこの場面になるたびに、「それなら最初から西軍として戦ってやれよ〜」と常に思います。
島津軍は千数百ほどの兵力でしたが、戦況を左右する戦力を持っていたはずです。
天満山の北東山麓には、小西行長陣跡(12)があります。
小西行長は、西軍首謀者の一人であり、合戦後捕らえられ、石田三成らと共に斬首されました。
(13)開戦地
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(14)[西軍]宇喜多秀家陣跡
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天満山中央から少し東へむかったところに、開戦地(13)があります。
前述したように、東軍井伊隊と西軍宇喜多隊が衝突した開戦地です。
この位置から少し下った、天満山の南に宇喜多秀家陣跡(14)が薄暗い林の中にひっそりと建っています。
秀家は戦国時代きっての梟雄、宇喜多直家の嫡子であり、秀吉の中国征伐時に養子となり、幼少時からとても可愛がられ、五大老の一人として抜擢されました。
秀吉に対する親愛の情はとても強いものがあり、西軍諸将の中で、唯一純粋に豊臣家のために戦った武将と言えるでしょう。
小早川秀秋の寝返りを知ったときは激怒し、刺し違えてでも秀秋を討ち取ろうと突撃しようとしましたが、家臣たちに制止され戦場から落ちていきます。
合戦後捕らえられ、流刑地である八丈島でその一生を終えました。
(15)大谷吉継の墓
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(16)平塚為広の墓
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天満山から藤古川ダムを越えた向いの山裾に、大谷吉継の墓(15)があります。
大谷吉継は、なにを隠そう、私が敬愛する人物の内の一人です。
大谷吉継は三成とは莫逆の友であり、三成の挙兵前、西軍勝ち目無しと判断し、垂井宿にて三成に挙兵を思いとどまるよう説得します。
しかし、説得受け入れられず三成は挙兵、「三成が死ぬならば我も死なねばならない」、死を覚悟して西軍に参加します。
「友情、友誼」といった価値観が存在しなかった戦国時代に、希有でとても涼やかな行動であったと感じ入ります。
開戦後は千数百の小勢ながらも奮戦、関ヶ原の合戦に参加した大名級の武将で唯一戦死します。
その吉継の墓は、深い森の中、木々に光を遮られ、ひっそりと建っていました。私にとって、一生忘れられない風景です。
吉継の墓とは打って変わって、陽の当たる小道沿いに、吉継の与力でこれも戦死した平塚為広の墓(16)もあります。
(17)[西軍]大谷吉継陣跡
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(18)[西軍]脇坂安治陣跡
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東海道本線を渡った(遮断機のない踏み切り、しかも歩道なんてなく線路をそのまま横切るような所)所にある神社の側に、大谷吉継の陣跡があるというので行ってみたところ、石碑などはどこにも無い。
しかし、敬愛する吉継の陣跡ならば見逃すわけもいかず、背後にある草が生え放題の山の斜面を這い回ること約10分、やっと大谷吉継陣跡(17)を見つけました。
それにしても、こんなところにあったら分からないだろうに。せめて案内板と草を刈って歩道ぐらいはつくっておいてくださいね。(関ヶ原町の方々)
国道21号線を南に横切ると、更にのどかな風景になります。
松尾山に向かう途中に、西軍から東軍へと寝返った四将の一人、脇坂安治陣跡(18)があります。
これら四将は、小早川秀秋の裏切りに呼応して、東軍へと寝返りました。
(19)[西軍]小早川秀秋陣跡
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(20)松尾山からの眺め
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そして松尾山へ。
小早川秀秋陣跡(19)へ行くには、松尾山を約20分ほど登らなければなりません。自転車を登山道入り口において登りはじめます。関ヶ原をまわりはじめてかれこれ4時間。疲れもたまっています。息もあがりはじめた頃ようやく到着。(疲れた〜)
陣跡からは天満山、笹尾山はもちろん、関ヶ原の野が一望できます。
関ヶ原の合戦の主役の一人、小早川秀秋(秀吉の養子)はこの松尾山から戦況を眺め、大いに苦悶したことでしょう。実際、戦況は西軍有利だったから。
秀秋が西軍大谷吉継の陣へ突撃を開始した瞬間、関ヶ原の合戦が事実上終わりました。
秀秋は関ヶ原の合戦の二年後に病死。歴史の表舞台にたった一度だけ登場し、悪名だけを後世に残して去っていきました。(まさに事実は小説より奇なり!!!。歴史って面白いですね〜)
(そういえば下山の途中、若いカップルが登ってくるのに出会いました。物好きってどこにでもいるものですね〜(^^)
(21)[東軍]福島正則陣跡
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(22)[東軍]藤堂高虎 京極高知陣跡
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松尾山からJR関ヶ原駅へ向かう途中、民家の間に福島正則陣跡(21)があります。
福島正則は東軍先鋒大将の他に、合戦前により重大な役割を演じています。
それは、上杉征伐の途中、三成挙兵の知らせを聞いて開かれた小山軍議においていち早く家康支持を表明したことです。この正則の行為により、豊臣恩顧の諸大名が東軍に参加しまったのです。
(その後徳川政権により、福島家は取り潰しになります。所詮、三成憎しで家康に味方しただけのこと。豊臣家、自家の行く末なんぞ正則には見えていなかったのですね〜)
正則陣跡から少しのところ、小学校の裏門側に藤堂高虎 京極高知陣跡(22)があります。
藤堂高虎も豊臣恩顧の大名。しかし、秀吉の生存中から、次の天下人は家康と見抜き、家康の家臣のごとく働きます。その結果、徳川政権下で三十二万石の大大名として存続していきます。
(23)西首塚
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(24)[東軍]本多忠勝陣跡
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西首塚(23)を過ぎ、徳川四天王の一人、本多忠勝陣跡(24)の到着しました。
驚いた事に、忠勝陣跡はある民家の裏庭(ほとんで敷地内)に建っているではないですか!!!(写真の左端にはすぐに家の窓。幸い留守だったようです)
たしかに、他の史跡もそれほど豪勢な造りになっていなかったけど、これじゃ、一瞬、訪れるのに躊躇してしまいました。
旅の終わりに、このようなものを見せ付けられて、改めて歴史の長さを感じ入りました。
ここを最後に、関ヶ原の散策は終了したのでした。
あらためて、関ヶ原で訪れた史跡だけを想ってみると、全然大したものじゃないですね。(^^;
歴史に興味が無い人が訪れたら、退屈極まりないものです。
しかし、歴史に興味がある人ならば感慨もひとしお。実際、私も史跡を訪れるたびに遠い戦国の世を思い、感傷に浸っていたものです。
全ての物には、本来価値など何もないのかも知れません。しかし、それを見る人が感じ得ることによって、初めて価値が生まれてくるものではないでしょうか。
(格好良いことを書きましたが、ほとんど本の受け売り(^^;。でも真実の一面は捉えているんじゃないかな〜)
とにかく、歴史を愛する限り、日本全国全ての土地が観光名所です。