第10日目

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 日 時  平成9年4月12日(土) 天候 晴れ




大尾山の鳥居スギ

 朝霧の中を掛川市原田から北へ入り大尾山に登る。車で大尾山顕光寺すぐ裏まで入れた。落ち葉を踏んで来た石段の上に鳥居はあった。霧は晴れたが、巨木の森は暗かった。木漏れ日とのコントラスト強過ぎて、写真が誠に撮り難い。
 鳥居杉は南面が裂け割れて、幹の内部が朽ちているのが見える。その中を10mほど上部から樹根が生じ、地上まで達しているのが珍しい。
 森の中の大杉3本ほどに雷が落ちて、中に1本、幹の途中で真っ二つに折れた先の部分が木の股に見事に挟まり、宙づりになった木があった。

 





成願寺のカヤ

 牧の原から榛原町勝俣に下りて町に入る手前に成願寺のカヤはあった。成願寺は無住になって本堂も無くなり、本尊をまつる御堂だけがカヤのかたわらにあった。背後には墓地が広がっていた。
 墓参りに来たのか、お婆さんがいて、カヤの話になる。樹齢は400年ばかりではないと、ずいぶん断定的に話す。カヤの実は今年は少ないという。カヤの実はあく抜きして食べるともいう。柿の種大の流線形で落花生のような食感の実である。
 樹勢はあるから、無くなってしまった本堂の代わりに、住民の拠り所となって長生きして貰いたいものだ。






とう月庵の夫婦マキ

 『とう月庵の夫婦マキ』は国道150号線を榛原町から吉田町に向かう途中、坂口谷川を渡る手前を南に入る。掉月庵は小さなお寺で、境内には門左の夫婦マキくらいしか見えない。
 この槙は庵造営の1553年に植えられたといわれている。特に雌株は見事に瘤が発達していて、一名『こぶ槙』ともいわれている。虫が入ると瘤が出来ると言うが、この瘤はおそらく庭木として何百回も剪定されてきた結果だと思う。






田村の松

 松枯れ滅失





 『田村の松』は昨年枯れてしまった。吉田町住吉の町中の、崩れかけた土蔵の側に切り株があった。枯れる原因の一つになった、根元に寄生したモチの木だけは切り残されていた。かなり太い木だった。新しい説明板に次の通り書かれていた。
 「風に運ばれた種がいつか大木に育ち漁の帰りの目標になったと聞く。ある僧が松の下で祈祷したため悪病がおさまった言い伝え、それにからむ蛇の話など、人々は松の霊を恐れ松の枝を切る人もなく伸びるにまかせていた。」
 この松の地上8mの部分を輪切りにしたものが小山城の入口に展示されていた。
 伐採された時の新聞記事を下記へ載せる。



【 静岡新聞 平成7年12月3日(日) 朝刊 】

    吉田町指定文化財『田村の松』枯れて伐採

 吉田町指定文化財(天然記念物)の『田村の松』(同町住吉)が松枯れを起こし、このほど指定を解除された後、伐採された。町の木を松と定めている同町にとって同松はシンボル的存在で、作業を見守った住民からは「寂しい」との声が聞かれた。

    住民「シンボル消え寂しい」

 『田村の松』は樹齢約四百年の黒松。高さ約二十七メートルで枝張りは二十六メートル。当地で代々庄屋を務めた田村家が所有してきた。三年前に十二代目当主の田村昭太さんが亡くなってからは妻の斐子(あやこ)さん(60)が引き継いだ。ことし春に発行された冊子「吉田町の文化財」では表紙の写真を飾っている。
 斐子さんが最初に異常に気付いたのは今年二月。その時点で同町の文化財保護審議委員が視察し「処置が必要」との見解を示したという。しかし同町教委に連絡が入ったのは五月になってからで、六月に静岡市の樹木医に診断してもらい「枯れた枝や根元に生えているモチの木、こぶを切除し、補修すれば保存可能」との結果を得た。
 これを受けて同町は、九月補正予算案に社会教育費「天然記念物補修」の名目で八十万円を計上した。しかし八月に栄養剤を注入したものの松枯れは進行し続け、九月十三日、再度の診断によって「修復は不可能」との結論に達した。そして「倒壊の危険がある」との判断から、十月末に文化財指定が解除され伐採されることになった。
 伐採作業はクレーン車二台を使い、二日間で約十時間かけて行われた。まず周りの枝を固定しながら切り取り、幹を上から少しずつ切断して十メートルほどの高さにした。続いて地表の根を平らにならし、残った幹を伐採した。最後に切り取られた瞬間、住民からはため息が漏れた。
 枯れた原因について同町教委は「松くい虫のほか、モチの木の寄生、こぶからの菌侵入や水不足が考えられ断定はできない」としているが、「町民の財産だったのだから、日ごろからもっと注意を払うべきだった」という声も聞かれる。県森林整備課によると、県内の松くい虫被害は平成二、三年をピークに減ってきているという。
 斐子さんは「地域のシンボルとして親しまれた松が枯れてしまったのは残念。幹の一部を輪切りにした記念品を作って残したい」と話している。







能満寺の大ソテツ

 小山城に登るふもとに能満寺がある。その狭い境内いっぱいに大ソテツがある。枝を支える支柱が林立していて景観をそいでいる。
 説明板によると、「日本三大ソテツの一つといわれる代表的巨樹である。寺伝によると平安時代の陰陽学者安部晴明が中国から995年、持ち帰って植えたといわれている。また、徳川家康の所望により駿府城に移植されたが、能満寺に帰りたいと夜な夜な泣いたので哀れに思った家康は再び能満寺に戻したという伝説もある。」



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