第 11 回 
  平成16年11月21日(日) 
 晴れのちくもり一時通り雨
 太田の渡し−伏見宿−蟹薬師−御嶽宿−耳神社
 “木曽川水運の新村湊 伏見宿”
 “「関の太郎」と蟹薬師と隠れキリシタン 御嶽宿”



 太田宿の祐泉寺で播隆上人の墓のことを知った。播隆上人というと聞き覚えのある名前である。もう20数年前のこと、山の本に凝っていて、新田次郎の本を読み進むうちに「槍ヶ岳開山」という本に行き当たった。書名に引かれて文庫本を手に入れて読み始め、10ページほどで投げ出してしまった。当時の自分には抹香臭くて付いていけなかったのである。その事を思い出して本を探し、黄ばんだ文庫本を手にした。今の自分には結構面白くて旅から帰ったあと一気に読んでしまった。

 女房を殺めたことから仏門に入った上人は笠ヶ岳を開山した後、槍ヶ岳を目指して初登頂し、開山したという、日本のアルピニストの先駆けのような坊さんである。細かい筋はとにかくとして、小説の道具立てに、「ブロッケンの妖怪」と欧州では呼ばれている現象が日本では「阿弥陀の来迎」と崇められていた。自分も何回か山で遭遇した自然現象である。云ってみれば、霧に覆われた稜線で、背後からの太陽光線によって自分の影が前方の霧に映り、しかもその影の頭部を中心に円形の虹のような輪があたかも阿弥陀様の光背のように見えるというなんとも幻想的な現象なのである。

 前回歩いたのは一ト月前で、ちょうど阪神大震災に匹敵するほどの大地震であった中越地震がその夕方に起きた日であった。地震が起きたのは、名鉄広美線の日本ライン今渡駅から電車に乗り、犬山を経由して名古屋でJR線に乗り換え、愛知県のどこかを走っている頃であったか。駅まで迎えに来てくれた息子によって地震の発生をはじめて知った。

 前回、鵜沼へはJRで岐阜を経由して行ったが、帰りは名鉄の駅員さんのアドバイスで、岐阜へ出ないで名鉄で名古屋へ直接出た。運賃も時間も随分節約になった。今朝も、その逆コースを採って来た。

 午前10時05分、「今渡公民館南」の交差点の角から本日の中山道歩きを始めた。今回は一泊二日の予定で出かけてきた。すでに前回、太田橋を南へ渡った所で、美濃加茂市から可児市へ入っている。前回気付かなかったが、角の家は造り酒屋でもあったのであろうか、随分大きな家であった。(左写真)

 200mほど進んだ左側に今渡神社の参道が見えた。(右写真) 今渡神社には永長元年(1096)、愛知県の津島で作られた太鼓が残っているという。九百年前では太鼓の革は何度か張り替えたものだろう。とにかく今渡神社の歴史ははるか平安時代まで遡れるということである。

 神社の次に左手には雰囲気のいい教会があった。(左写真) 中から讃美歌のような声が漏れてくる。日曜礼拝なのであろう。

 JR高山本線美濃太田駅とJR中央本線多治見駅を繋ぐJR太多線の踏切を渡ると、旧中山道はすぐに国道21号線に合流する。中央分離帯のある国道を渡って右側を歩いた。右側から愛知用水が近づき、国道を暗渠で渡る。用水の水面には水鳥が浮かんでいた。(右下写真)

 
 かって名古屋市の北側や東側から知多半島に至る地帯は大きな河川がなくて、水不足が深刻だった。戦後の昭和22年に日照りが長く続き、旱魃の大きな被害が出たのをきっかけに、木曽川から水を引いて知多半島まで水を供給しようという壮大な事業が計画され、14年かかって昭和36年に完成した。これを「愛知用水」と呼ぶ。岐阜県の八百津町で木曽川から取水し、御嵩町から名古屋市の北、東の台地を通り知多半島の先まで、27の市町で約15,000ヘクタールの田畑を潤している。

 
 東へ25分ほど歩いた。木曽川が南へ大きく蛇行し中山道に接する辺りを可児市上恵土というが、午前11時、左側に上恵土神社があった。(左写真) 恵土(えど)はおそらく「江渡」であろう。渡し場とか船着場として、この地に付いた地名だと思う。この先には新村湊と呼ばれた川湊の跡もある。勝手な解釈であるが、その新村湊までの川沿いの地を選んで「上恵土」と呼んでいることでも明らかだと思う。その上恵土神社は標柱によれば、この地の神明神社と白山神社を合祀したものだと判る。さらに鳥居に掛かった額には「諏訪」と「神明」が並記されて「神社」と書かれていた。想像するに、この神社は元は諏訪神社だったところに、神明神社と白山神社が合祀されたのだろう。そんな推理をしてみた。

 上恵土交差点のガソリンスタンドの角、円形花壇の真ん中に石の道標が立っていた。(右写真)「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」 「左 多治見及犬山ニ至ル約四里」 「御大典記念」 「大正四年十一月建之 伏見村青年會新村支會」と四面に刻まれている。大正天皇御大典を記念して造られた道標である。(御大典は天皇即位の儀式)

 新村湊の跡を見てみようと、この交差点から横丁を北へ入ってみた。この下流に今渡ダムがあるためか、木曽川には今も水量がたっぷりあって、往時もこんな様子だったのだろうと思った。舟を浮かべると様になりそうな川である。(左写真) 河岸へは数十メートル降りてゆかねばならない。近くまで降りてみたが、案内書に「新村湊跡」とある辺りに、遺跡も案内板も何もなかった。後日、他の資料を調べてみたら、「新村湊跡」はそれより300〜400m上流であった。案内書には間違いが多くて、現地を本当に歩いたのか疑問に思うことが多い。

 
 街道に戻って少し歩いた右側に正岡子規の句碑があった。(右下写真)

すげ笠の 生國名のれ ほととぎす   子規
 新村湊(しんむらみなと)は年貢米の輸送や物資の積み出しが行われ、土地の人が伊勢参りに行くときは、この湊から船で行ったというから、子規のような旅人も乗れる便もあったのであろう。そんな舟も陸上輸送の発展とともに役割を終えた。

 街道は少し登り坂になる。「伏見西坂」である。その左側に大きな特徴のある文字で「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑があった。(左写真) これは槍ヶ岳を開山した播隆上人が建立した名号碑である。「播隆名号碑」は上人が行脚した美濃地方の各地に、合計32基建てられた。中でも太田宿・伏見宿・御嶽宿を含む可茂地区には集中しているという。なお、播隆上人の宗派は浄土宗である。

 
 御嵩町伏見の伏見交差点に兼山町への道標がある。(右写真) 「右 御嵩」 「左 兼山 八百津」と刻まれている。すべてが漢字で記されている点などから比較的新しいものと判断される。

 交差点から振り返ると道路南側に町屋風の建物が連なっていた。伏見宿は元禄七年(1694)に太田の渡しよりも1.5kmほど下(しも)にあった土田宿が廃止になり、それまで間の宿であった伏見宿が格上げされて宿場となった。中山道の重要な宿駅であった御嶽宿と4kmと近く、また兼山などの商業地も近くて商家もなかった。そのため、寛延三年(1750)、火災にあった以後、寂れてしまった。不遇な宿場であったようだ。

 5分ほど先の横道に入った左側に、竹山浄覚寺というお寺があったので、立ち寄ってみる。(右下写真) 入口に「徳川光友公夫妻菩提所」の石柱が立ち、狭い境内に、御嵩町指定名木の「シャシャンボ(ツツジ科)・ヒイラギ(モクセイ科)・モミの木(マツ科)」の三本があり、モミの根元には芭蕉の「古池や蛙飛こむ水の音」の句碑が立っていた。

 
 徳川光友公は御三家の一つ、尾張徳川家の二代目藩主である。シャシャンボは初めて聞くが、調べてみると、「ツツジ科の常緑小高木で、六月頃、長い壺状の白花をつけ、晩秋に紫黒色に熟する実を付けて食用となる」という。モミの木は巨木には太さが足らないが、「伏見宿の巨木」としよう。(左写真)

 帰ろうとしたところ、迎えに来た車に乗ろうとしていた浄覚寺の住職が話し掛けてきた。「今日は今から檀家へ出かけなければならないが、」といいながら、寺歴や宿場の事を説明しようとする。しかし、迎えの檀家に促がされて未練を残しながら車に乗って行った。時間があったら色々と話をしてくれたのだろうと女房と話しながら街道に戻った。

 後日、ネットで「美濃路を行く」というホームページで、この住職に声を掛けられ話を聞いたという記録があった。やっぱりとニヤリとするとともに、宿場々々にこういう人がいて話を聞ければ、我々の旅も楽しくなるだろうと思った。

 街道に戻ってすぐ右側、伏見公民館前に「伏見宿本陣之跡」の碑と領界石があった。(右写真) 伏見宿には、本陣一軒と脇本陣一軒があった。本陣は代々岡田家でこの公民館の辺りにあった。また領界石には「是より東尾州領」と刻まれていた。後世にこの地に移されたものという。この宿は尾張藩の領地であったことがわかる。

 午前11時45分、伏見宿を出て、3、4年前に廃線になったといわれる旧名鉄八百津線を越え、1km弱東進した高倉の集落で、旧中山道は国道21号線から左へ別れる。分れ道に「右御嶽宿」 「左伏見宿」の新しい石の道標が立っていた。(左写真) その後、道なりではカーブして北へ進むところ、200m先で道標に導かれて右折し、東進を続ける。道の右側に姿のいい柿の木があった。この柿の木も御嵩町指定名木であった。

 数百メートル進んで、中山道は再び国道21号線に出た。その直前北側の角に小さな土盛に「中山道 比衣(ひえ)一里塚跡」の石柱が立っていた。(右写真) 我々と逆コースで来る旅人にはこの一里塚の石柱を見落とさないようにしないと、旧街道に行かずに国道21号線を進んでしまいそうである。東進するコースでは間違えることはない。

 
 国道21号線を顔戸(ごうと)の集落に入ると、南側に可児川が近寄って来て国道に並ぶ。(左写真の右) 国道北側の100mほど入った所に顔戸城址が見えた。(左写真の左) 道草して城跡の小山に一段上がると案内碑があり、土塁と空堀が小山を囲っているのが判った。
 
 顔戸から15分ほど東へ歩いて、大庭交差点の左角に「御嶽教会大平講大社長 覚清心霊神 中教正 金子重兵衛宗義」と刻まれた石碑と、「清嶽覚直霊神 大平講」の碑などが建っていた。(右写真) 地図には「御嶽神社」と表示されていた。

 御嶽教は木曾御岳を信仰の対象として、江戸期より各地にあった「御嶽講」を明治になって結集してつくられた教団である。夏の木曽御岳は先達に率いられ、「六根清浄!」の声とともに登る白装束の団体であふれる。

 実はこの先の御嵩宿はてっきり木曽御岳ないしは御嶽教との縁がある宿名と思っていた。ところが、後日よく調べてみると、昔、御嵩の集落の南東の可児川を渡った地に、集落の人々が吉野の蔵王権現を勧請して社を建てた。そして吉野山を尊称した「御嶽」がその集落の地名となったという。木曽御岳とは関係がなかった。(「御嶽」には、広辞苑で引くと木曽御岳とは別に、「(岳の尊敬語、また美称) 高く大きい山」あるいは「奈良県吉野山の金峰山(きんぷせん)の異称」という意味が載っている) 蔵王権現は明治になって廃仏毀釈の嵐の中、金峰神社と改名されている。

 
 午後0時45分、大庭交差点より500mほど東へ進んだ左側に「鬼の首塚」があった。(左写真) 祠の中に「関ノ太郎首塚」と「鬼首塚」の二基の石碑があった。祠の屋根の鬼瓦は結構リアルな鬼の顔であった。(左写真の円内) 案内板に鬼の首塚の伝説が書かれていた。
 案内板にある「次月の鬼岩の岩窟」はこの先の御嵩町次月にある「鬼の岩屋」のことである。旧中山道からは2kmほど南の渓谷にあって、花崗岩が風雪に洗われて巨岩怪石となって立ち並ぶ景勝の地である。あたりは現在「鬼岩公園」となり、近くには「鬼岩温泉」もあるという。

 「鬼の首塚」の左側の空地には子規の歌碑が建っていた。(右写真) 今まで何度か取り上げた「かけはしの記」にある歌である。
草枕 むすぶまもなき うたゝねの ゆめおどろかす 野路の夕立
 
 旧中山道は国道21号線から右折して御嶽宿に入る。左手に「正一位秋葉神社」と刻まれた秋葉燈籠を見つけた。(左写真) 東海道でよく見かけた形であるが、中山道で秋葉燈籠としては柏原宿で一基見かけだけで、久しぶりである。燈籠はよく見かけるが、刻まれた文字は「愛宕山」「常夜燈」「献灯」「多賀大社」「両皇大神宮」などや、道標標識を兼ねたものであった。このあと中山道には北から秋葉山に詣でる秋葉道の表示が出てくるはずである。秋葉燈籠もたびたび見かけるようになるであろう。

 御嶽宿の中山道往還は「松月堂」という御菓子屋さんに突き当たって左折する。(右写真) 静かな町を500mほど東進し、右折して午後1時07分、名鉄広見線御嵩駅前に出た。御嵩駅前の四つ角の斜向いの角が願興寺である。まず御嵩駅に立ち寄る。御嵩駅は名鉄広見線の終点で、この先に鉄道の交通機関はない。今日これからどこまで歩けるかわからないが、途中に宿を探さない限り、この駅まで帰ってこなければならないのは確実なようである。時刻表を見ると電車は30分に一本あるからまず問題はない。この駅までのバス便があるのかどうか判らないから、駅前のタクシー会社の電話番号を控えた。そしてまずは願興寺に詣でた。

 大寺山願興寺は一般には可児大寺とか蟹薬師と呼ばれている。弘仁六年(815)、天台宗開祖の伝教大師最澄が、この地で布教の折に自ら刻んだ薬師如来像を布施屋に安置したのが始まりと言われる。蟹薬師の名の由来は近くの尼ヶ池から一寸八分(5.5cm)の金色の薬師如来が無数の蟹の背に乗って現れたという言い伝えによる。その薬師如来像は御本尊の胎内に納められているらしい。七堂伽藍は二度の兵火で焼失し、現在の本堂は、信玄の手勢による兵火で炎上したのちに再興されたものである。にもかかわらず、二十四体もの国指定重要文化財の仏像が残されているという。

 境内に入ると左手にシラカシの巨木が立っていた。幹に縦皺ができていずれ複幹化が進んでいる。(右写真) 一応風格も感じられたので、この木を「御嵩宿の巨木」とした。色づいたモミジの向こうに本堂があったが、遠くから手を合わせて済ませた。(左上写真) 後日ネットでみると本堂は床板が波打つほどの古いもので、横着をせずに一見しておくのであったと悔やんだ。

 脇に観光案内所があった。老人がいたので近くの様子を尋ねてみた。御嶽宿には宿はなく、鬼岩温泉に行けば一軒あるという。「鬼の太郎」の伝説の残る「鬼岩公園」のそばである。中山道のコースからは随分離れているから宿をとるには無理だと思った。食事処を聞くと、可児川沿いの「江戸川」を教えてくれた。

 「江戸川」で昼食後、午後2時03分、中山道に戻る途中、正面の建物の間に御嵩富士が見えた。(左円写真) 御嵩富士は御嶽宿の北側にあって海抜は292mながらもピラミダルな形を呈している。その南麓には京都の竜安寺石庭の基になったといわれる「臥竜の石庭」で知られる愚渓寺がある。

 
 御嵩富士が見えた左側が御嶽宿本陣であった。建物は近年のものだというが、一応しっかりした門構えがあった。(左写真) 御嶽宿の本陣は代々野呂家がその職務にあたっていた。残されている「本陣諸用記」によると、加納藩、大垣藩、越前大野藩、彦根藩などが定宿としており、大名家の利用は記録の残る22年間で、年平均6.5回ほどになるという。二ヶ月に一度のイベントを忙しいというかどうか。

 本陣の西側に「中山道みたけ館」がある。(右写真) 図書館と郷土館の複合施設という。館内には御嶽宿の二百分の一の模型(右下写真)など中山道の宿場としての紹介のほかに、明治になってからの亜炭採掘の様子や隠れキリシタンの紹介の展示が予想外な事柄であって興味深かった。

 「亜炭」は炭化の度の低い石炭で煤煙・臭気が出て、火力が弱く灰の量が多いというから、質の悪い石炭である。戦後まもなくまでは採掘されていたようだ。また、この地にどういう訳で“隠れキリシタン”なのか理由が今一つ理解できない。しばらくは疑問を抱えて進もうと思う。

 見学している間に外は通り雨が降ったらしい。入館時は静かであったエントランスホールは雨宿りに逃げ込んだグループで賑やかになっていた。雲行きは怪しげに見えていたものの、この通り雨は今朝ほどの上天気からは想像できない天候の変化であった。外へ出るとすでに雨は止んでいた。道路面もほとんど乾いていたから大した雨では無かったようだ。

 「中山道みたけ館」から往還を少し東へ進んだ左側に「商家竹屋」がある。(左写真) 竹屋は本陣の野呂家の分家で、商品を店に並べる商家ではなくて金融業、繭・木材・綿布の取扱いなど、幅広い商売を手がけた。後年にはアメリカの自動車の輸入販売も行ったという、総合商社の先駆けのような商家であった。

 連子格子や虫籠窓が揃い、犬走りには竹囲いのある町屋で内部が無料で見学できた。

 午後2時55分、中山道はやがて突き当たって左折する。この辺りが御嶽宿の東の外れであろうか。日陰はまだ先ほどの雨に濡れていた。(右写真) 

 
 東には田園が広がっている。田圃の向こう約1kmの所に、「中山道みたけ館」で見た古い写真の通りに、飯を盛ったような「丸山」が見えた。(左写真) 昔の写真との違いは唯一昔は山の木がもっとまばらに見えたことであろうか。

 昔の野山の写真とその今を比較するとき、いつも感じるのは、地形は変わっていないのに、昔に比べて今の野山は、厚手の外套を着たように、緑にびっしり覆われていることである。

 戦後、禿山になって荒廃していた山々に、我々の先輩たちは有用だといわれた杉・ヒノキを懸命に植えた。「国敗れて山河あり」、山々に緑が戻ることが日本人にとって戦後復興の大きな証であった。そして短期間に国の隅々まで杉・ヒノキの緑で覆い尽くしてしまった。今だに山々に木々の戻らない外国を見るにつけ、先輩たちの努力に頭が下がる思いである。半世紀たって杉・ヒノキは大きくなり、昔の写真と比べると野山の風景の印象が随分違うと感じるのである。
 
 御嵩町栢森で再び国道21号線に出る。その角の人家の小さな緑地に、わりあい新しい道標があった。石柱に「右 御嶽宿」「左 細久手宿」と刻まれていた。

 国道をまっすぐ東進し丸山のすぐ北側を通って300mほど進んだ井尻で左折し国道と分かれる。中山道はたくさん立てられている道標に導かれて井尻の集落を右折と左折をそれぞれ一度して、山裾に沿った道を進んでいく。

 右折して左折する手前左側に「中街道の道標」がある。(右写真) 旧中山道はこの後、山の中に入って行く。「旧中山道」の看板を見て「一日中、山道」と読んだ女子学生がいたという笑い話があるが、正にこのあとの中山道はそのような道が続くわけである。このいくつも峠を越える寂しい旧中山道を避けて開通させたのが「中街道」である。旧中山道を「上街道」と呼んで区別した。中街道は次月・本郷を経て釜戸で下街道と合流し大井宿に至る道である。地図でたどると中街道にしてもずいぶん山の中だと思った。「右 中街道 中山道大井驛へ 達」と刻まれている。「明治十五年六月建之」とあるから、中街道が整備されたのも明治になってからであろう。

 中街道の道標の奥に瓦屋根の小屋の中に、「寛仁三己未いづみ式部廟所」の石碑があった。(左写真) 和泉式部は「平安時代を代表する三大女流文学者の一人」といわれているが、残り二人は「源氏物語」の紫式部と「枕草子」の清少納言である。敦道親王との恋愛事件を書き記した和泉式部日記の作者である。その和泉式部が寛仁三年(1019)にこの地で亡くなったという。生没不詳の和泉式部であるが、何のために東山道を下ったか、その理由が明らかでなく、万寿二年(1025)の冬に、亡くなった娘の小式部内侍への挽歌の連作を残しているから、どう考えても1019年にこの地で亡くなったというのは無理がある。
 中山道は山沿いに進んで御嵩町西洞(さいと)に向かう。(右写真) 前方の山懐に抱かれた一軒の農家にパトカーが停まっていた。巡査が一人道路に出ている。そこへ我々を追い越した車が手前に停車し夫婦が小走りに一軒家に向かい、巡査に会釈して入って行った。何か事件があったのであろう。

 中山道は、「右 御嶽宿 三五〇〇米」「左 細久手宿 八三〇〇米」と刻まれた標石(左写真)に導かれて、その家の方へ向かって行く。

 カメラを向けるのははばかれて、巡査のそばまで行く。事件のことは気になったが、それには触れずに、通っていいかと聞く。中山道ですかと言い、中山道はまっすぐに進み、坂を登ると案内してくれた。

 そばに「牛の鼻欠け坂」の案内石標があった。(左写真の左) 山道になった坂(左写真の右) を登って行くと「牛の鼻欠け坂」の案内板があった。
 
 「牛の鼻欠け坂」の途中の左側に、石を積み上げて造った石室があった。中に馬頭観音が祀られ、「寒念仏供養塔」と呼ばれている。(左写真) 

 明和二年(1765)の建立といわれ、旅人は小石を拾い仏像に供えて道中の無事を祈った。「寒念仏」は広辞苑によると、「寒中30日の間、山野に出て声高く念仏を唱えること。後には、寒夜に鉦をうちたたいて仏寺に詣で、または有縁(うえん)の家や付近の地を巡行することとなった。」とある。寒行の一種である。

 牛の鼻欠け坂を越すと西洞の集落に入る。午後3時46分になり、そろそろ終わりにしようと、近くにいた男性に聞いたところ、コミュニティバスがあるが、本数が少ないという。どこか目印のあるところでタクシーを呼ぶことにする。

 集落から広い道に出て、100mほど進んだ左に耳神社があった。石段を登り鳥居を潜った上に小さな社があった。(右写真の左) 社の右に小さなすだれ状のものが幾つも掛かっていた。(右写真の右) 耳の病気が全快した人たちが年の数だけ錐をお供えする風習があり、錐をかたどった棒をすだれ状にしてお供えしたものである。耳の病にご利益のある神社ははじめて見る。
 午後4時、本日の中山道歩きを終えて、メモしてきた番号に携帯で電話して、耳神社までタクシーを呼んだ。こういう時は携帯電話は便利だなあと思う。無ければ公衆電話のあるところまで歩かねばならない。御嶽駅まで戻って、名鉄電車で名古屋へ出て娘の家で一泊した。本日の万歩計の歩数は34,470歩であった。










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