第 12 回 〔後半〕
平成16年11月22日(月)
快晴微風
−弁天池−琵琶峠−二つ岩−大湫宿
“中山道の巨木「神明神社の大杉」 大湫宿”
正午
になって、15分ほどの休憩の後、細久手公民館前を大湫宿に向けて歩き始めた。宿外れで左手へ少し登った先に、「細久手宿の庚申さま」として知られる庚申堂がある。登り道に何本か「美濃瑞浪三十三霊場」の幟旗が見えた。
(右写真)
この登り口はまた高札場のあった場所でもあった。
再び登りになり、馬頭観音の石像のある「三国見晴し台」を過ぎて、どこからとなくエンジン音が聞こえてきた。今時、山道を暴走している若者たちでもいるのかと少し緊張したが、案内書によれば中山道の北側に一般の人が自分の車を持ち込んでレース体験が出来るという「瑞浪モーターランド」があった。
そして道の両側に、ほぼ往時のままで残る「奥ノ田一里塚」があった。案内板によると瑞浪市には当時のまま残っている一里塚が四ヶ所あるという。ここは西から数えて「鴨ノ巣一里塚」に続いて二つ目である。「鴨ノ巣一里塚」もそうであったが、この一里塚も近年雑木を切って整備したもようである。
左写真の上
が北塚、
左写真の下
が南塚である。
瑞浪市教育委員会の案内板によると、
瑞浪一里塚(県指定)
岐阜県内の旧中仙道の宿は落合から今須まで十六宿、約三十三里(132km)で一里塚は三十二か所構築された訳ですが、そのほとんどが廃頽し現在遺存しているのは約半数ほどで、瑞浪市のように、一里毎に連続した4ヵ所のものがいづれも当時のまま残っている例は全国的にもまれです。
権現山一里塚
大湫の東端、釜戸町との境に近い樫木坂の途中にあり、南塚が径9m、高さ5m、北塚が径10m、高さ3.5m、両塚の間隔は11mで、南塚は、八瀬沢、奥ノ田一里塚と共に自然の地形を一部利用して構築されています。
八瀬沢一里塚
大湫町と日吉町の境、琵琶坂の西側にあり、南塚は大湫町地内で径10.3m、高さ5m、北塚は日吉町地内で径9.4m、高さ4m、両塚の間隔は10mです。
奥ノ田一里塚
日吉町細久手の東にあり、南塚は径10m、高さ4m、北塚は径12.6m、高さ3.5m、両塚の間隔は10mです。
鴨ノ巣一里塚
日吉町の西側で御嵩町との境に近い平岩地区にあり、南塚は径10m、高さ3.6m、北塚は径11m、高さ2.7m、両塚は地形の関係から東西に16m程隔てて構築されており、奥ノ田一里塚と共に丘陵の尾根に造られています。
奥ノ田一里塚に続いて、右側に「女男松の跡」の標識と風化して文字が読めなくなっている石碑があった。かっては有名な松があったようだ。さらに右手には「瑞浪市天然記念物 南垣外ハナノキ自生地」の標識が立っていた。「ハナノキ」は広辞苑によると
「カエデ科の落葉高木。中部日本に稀に産する。……春、葉に先だって濃紅色の小美花を総状花序に密生、木全体が紅く見える」
とある。落葉し花もない今の時期には他の雑木に紛れて区別が出来ない。
午後0時45分
、辺りが少し広くなって弁天池に着いた。
(右写真)
カメラを持った男性が一人居たが、池は冬枯れで茶店も閉じて僅かに紅葉の名残が残っているだけであった。
東海自然歩道の案内板によると、
中山道弁財天の池
山丘上でありながらいつも水をたたえているこの池は古くから旅人に愛されてきました。蜀山人も「左の方に小さき池あり、カキツバタ生い茂り、池の中に弁財天の宮あり」とその旅日記に書いています。残っている並木松とともに大切にしましょう。
池に枯れて見えるのはカキツバタであろうか。スイレンの葉も浮かんでいる。花の季節にはきっと人出があるのであろう。休憩舎で昼食の残りを食べた。
天神坂を登った先で道が二つに別れる。左を行くと北野神社(天神)を通って大湫宿に行く。少し迷ったが案内書を確認して、北野神社には寄らない右へ進む道を選んだ。左へ行く道は東海自然歩道で、北野神社を経由した後、中山道と合流する。舗装道路の中山道はこの先で焼坂の登りになり、途中の右側に「焼坂の馬頭様」と呼ばれる石仏があった。
(左写真)
同様の馬頭観音をこの二日の内に何箇所かで見てきた。さすがに馬が主役の中山道である。
坂を登りきった所に天神前バス停があり、そばに「天神辻の地蔵尊」と呼ばれる石仏があった。
(右写真)
ここから北へ進む小道を700mほど行くと北野天神に行ける。それで天神辻である。地蔵の周りには標柱と周りの木々を糸でぐるぐる巻いてバリアが作られている。これは何だろう。鳥や小動物除けなのだろうか。糞をするとか何か悪さをするのであろうか。
まもなく左側に「一つ屋茶屋跡」の標柱が立つ。壬戌紀行によれば、
「なを松なみの中をゆきて、人家わずかに二、三戸あり。人のすめるはたゞ一戸なり。一つ屋の立場といふ」
とあるところである。
犬の訓練所の間を抜け八瀬沢の集落に出る。ここは八瀬沢の立場のあった所である。八瀬沢の集落を抜けて、
午後1時25分
、中山道は石畳の琵琶峠に入る。入口に「中山道 琵琶峠西登り口」の石碑があった。
(左写真)
案内板によると、
中山道琵琶峠の石畳
琵琶峠はけわしさとともに湿地の多い峠道でした。この石畳は少しでも歩きやすいように敷かれたもので、昭和45年春に発見され、日本で一番長い約600mと確認されています。当時の人々も親しんだ石畳をいつまでも大切にしましょう。
琵琶坂、琵琶峠という名は、昔、京へ琵琶の修業に出ていた法師が望みならず帰郷の途中、この峠で松籟を聞いて琵琶の奥義を悟ったという故事によるという。石畳にはかなり大きな石が使われている。
(右写真)
(左写真)
これらの大量の石は他所から持ち込んだとはとても思えない。おそらくこの山にあったものを集めて石畳に組んだものなのだろうと想像した。
案内板によると、
琵琶峠
琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側83m・東側53mで、中山道の難所の一つに数えられていました。
それだけに峠からの眺望は良く、壬戍紀行ほかの多くの文献にも書かれています。
また琵琶峠の石畳や一里塚、それに文学碑や当時の石仏も残っていて、旧中山道を偲ぶことのできる貴重な史跡となっています。
壬戌紀行によれば、
「猶琵琶坂をのぼる事数歩、琵琶峠といふ。道に石多し。山の巓(いただき)より見れば、もろもろの山遠くみわたさる。ここよりは伊勢尾張の海もみゆと云」
とある。
峠の手前に八瀬沢一里塚がある。瑞浪の一里塚の内、鴨ノ巣、奥ノ田に続いて三つ目の一里塚である。鴨ノ巣一里塚は土の道沿いにあり、奥ノ田一里塚はアスファルト道路沿いにあり、この八瀬沢一里塚は石畳の道沿いにあった。だからどうということはないが、気がついた。
右写真の上
が北塚、
右写真の下
が南塚である。
案内板によると、
八瀬沢一里塚
江戸へ91里、京都へ43里という道標で「琵琶峠の一里塚」とも呼ばれています。一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。(市指定史跡)
石畳が前方で尽きて、峠の向こうの明るい空が見えて琵琶峠に着いた。
(左写真)
標高540mの琵琶峠は美濃十六宿の間で最も高い所である。峠には馬頭観音の石像と皇女和宮の歌碑があった。
(左下写真)
皇女和宮御歌
住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび
皇女和宮が大湫宿で詠んだといわれる歌である。
琵琶峠の下りも石畳が続いていた。薄暗い林の中から出て、右側に馬頭観世音の石碑があった。そしてすぐに石畳が終わった。その入口に「琵琶峠東上り口」の石碑があった。
(右下写真)
またその隣には正面に馬頭観音像を彫りこんだ石標が立っていた。馬頭観音像の下には「村中」とあり、左側には月と星のマーク、その下に「左ざいみち」と刻まれ、右側に「文化十一甲戌初秋」と書かれていた。
(「ざいみち」は田舎道。)
さらに我々とは逆に西へ旅する人たちのために「琵琶峠の石畳」の案内板があった。
岐阜県教育委員会・瑞浪市教育委員会の案内板によると、
琵琶峠の石畳(岐阜県史跡)
中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているため開発されず、よく原形をとどめています。
特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。
歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。
琵琶峠から下りた県道65号線の辺り一帯には大きな岩が露出していた。その地形を利用して、山側の狭い敷地にも道路下の斜面にも、大湫病院が緑に囲まれて建っていた。
午後2時06分
、山に沿って曲った先に、大きな岩が山から道路側にせり出していた。一つ目の岩を「烏帽子
(えぼし)
岩」
(左写真)
といい、続いて「母衣
(ほろ)
岩」
(右写真)
と呼ばれている。どちらも女房を隅に入れて写真を撮ったからその大きさが知れる。烏帽子岩を男岩、母衣岩を女岩と呼び、二つ合せてその形から夫婦岩とも言われている。
碑文によると、
中山道 二つ岩
道の左に立てる大きなる石二つあり。一つを烏帽子石という。高さ二丈ばかり巾は三丈に余れり。また母衣(ほろ)石というは高さはひとしけれど巾は是に倍せり。いずれもその名の形に似て、石のひまひまに松その外の草木生いたり。まことに目を驚かす見ものなり。 大田南畝 壬戍紀行
母衣は広辞苑によれば、
「鎧(よろい)の背につけて飾りとし、時に、流れ矢を防いだ具。平安末期には五幅ほどの布帛(ふはく)(=織物)で長くなびかせるように作り、室町時代からは内部に籠(母衣串)を入れてふくらませた」
ものである。
母衣岩の先に「中山道 大湫宿大洞・小坂の石碑」があった。広重の版画、「木曽海道六拾九次之内 大久手」はこの辺りの風景を描いたものだという。小公園の休憩舎のそばに、その版画が描かれた案内板があった。
(左写真)
この版画には崖にせり出す岩は描かれているが、ここにある二つ岩と思しき岩は描かれていない。
「大洞・小坂の石碑」の続きに「大洞の馬頭様」と呼ばれる馬頭観音があり、休憩舎先の右側の岩の上には、「小坂の馬頭様」という馬頭観音があった。
(右上写真)
また道の両側は「紅葉洞の石橋」という中山道の石橋の遺構があった。
(右下写真)
大湫宿の手前で、人家前に電動車いすに乗った老婆が里芋の茎
(ずいき)
の皮をむいていた。
(左写真)
女房が聞くと、皮をむいて乾し保存食にするのだという。乾したものは芋がらといい、水に戻してから料理に使う。赤茎のものが食用になるようである。
老婆の話では、昨日はこの宿場は宿場祭りで、「姫様道中」などもありにぎやかであったという。一日違いで残念だったねという。しかし、我々は混雑に遭遇しなくて良かったと思った。途中で出会った大黒屋に泊まった3人の男性は、おそらく昨日この祭りを見て通ったに違いない。
大湫宿の入口に高札場が再建されていた。
(左写真)
昔の通りに定めを書いた高札が掲げられていた。高い位置の高札は字が小さくて読めない。これが裸眼で見えたとすると、昔の人は眼が良かったのであろう。あるいは掲げた当初こそ読まれただろうが、後にはかなり形式的なものになり、読む必要もなかったのかもしれない。
案内板によると、
大湫宿高札場跡
高札場とは江戸時代に三定など幕府からの村民心得や板書札を掲示した場所のことで、宿の場合は旅人の道中心得や人馬賃銭など道中奉行所からの高札も掲げられたから大湫宿の場合もこのように立派なものであった。
その先、左に小道を登った先に観音堂がある。
(右写真)
細久手宿の庚申堂にもあった「美濃瑞浪三十三霊場」の幟旗が幾本も見えた。
今回は登るのをやめたが、観音堂境内からは宿内が見渡せたらしい。また沢山の石仏、石塔などと共に、芭蕉の句碑があったという。足を延ばせばよかった。
花ざかり 山は日ごろの あさぼらけ 芭蕉
宿内に入ると昨日の「姫街道まつり」のポスターがまだ貼られていた。
(左写真)
「瑞浪市制50周年記念 中山道大湫宿開宿400年記念事業」とあった。「皇女和宮行列」「中山道さわやかウォーキング」「中山道大湫太鼓」などのイベントがあったようだ。
大湫宿には中山道最大の巨杉があると案内書で見て、楽しみにしてきた。そして狭い宿場の中央辺りに神明神社の御神木としてその杉はあった。
(右写真)
参道左側にさほど大きくない本殿を隠してしまうほど大きく存在しており、神社の中心であると同時に大湫宿のシンボルでもある。「日本の巨樹・巨木林」によると、「神明神社の大杉」と呼ばれ、岐阜県指定天然記念物であり、幹周11m、樹高60m、枝張20m、推定樹齢1200年の巨木である。樹高60mは少し大げさだと思うが、幹周り11m、赤茶色の幹に太い注連縄が回してある、堂々たる巨木である。「大湫宿の巨木」というより、「中山道を代表する巨木」と呼びたい。
案内板によると、
大湫宿の大杉
この大杉は大湫宿のシンボルで宿時代から神明神社の御神木として大切にされてきました。推定樹齢1200年、まさに樹木の王様といったところで、蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり。木のもとに神明の宮たつ」とあります。(市県指定天然記念物)
この大湫宿が開宿した400年前にもすでに他を圧する巨杉であったであろう。江戸時代、大湫宿は、元禄14年(1701)に54軒、正徳5年に50軒、文政7年に32軒、同9年に57軒、それぞれ焼失した都合4回の大火に遭っている。大杉は相次ぐ大火にも耐えて生き延びてきた。そして皇女和宮の降嫁行列や幕末天狗党の軍勢の西進など、数々の歴史の場面を直下に見て来たはずである。この巨杉に語らせれば壮大な歴史ドラマが描けるであろう。
街道に戻ってすぐ先の石段を登った奥に大湫宿の脇本陣がある。
(左写真)
門の前まで行ったが、見学は出来そうではなかったので案内板を見て退散した。
案内板によると、
大湫宿脇本陣保々家について
本日はよく御来宿下さいました。
当宿のこの脇本陣保々家は脇本陣と共に宿の庄屋・問屋役を代々兼帯してきた家柄で文化元年(1804)の絵図面によりますと、
一.屋敷は東西31間、南北17間の約520坪(1700u)
一.母屋の建坪は間口16間、奥ゆき一部12間の約98坪(330u)
一.その部屋数19室、畳数153畳、別棟添屋6棟、門構え玄関付き、とあります。 現在は御殿と呼ばれていた上段・下段之間や玄関・式台などの左半分のほか、別棟添屋などもなくなり、左の図面の朱記のように表門と母屋の約半分ほどしか残っていませんが、それでも中山道六十九宿の中では当時の宿場の面影を偲ぶことのできる数少ない遺構の一つに挙げられており貴重です。
本日の脇本陣の開門は所有者保々和男さんの御理解によるものです。皆さんも「火の用心」などについては充分ご協力下さるようお願い申し上げます。 舌代 中山道 大湫宿
脇本陣の隣は問屋場跡で、その隣に白山神社への参道とポケットパークがあった。
(右写真)
案内板によると、
大湫宿問屋場跡
問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていた。
大湫宿の本陣は大湫コミュニティーセンター裏の大湫小学校校庭にあったという。小学校へのスロープの登り口に案内板があった。またスロープを登った校庭脇に「皇女和宮御歌の碑」があった。
(左写真)
遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは
案内板によると、
大湫宿本陣跡
大湫宿本陣は現小学々庭にあり間口二十二間(約四十メートル)奥ゆき十五間(約27メートル)部屋数二十三畳数二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎でした。
また 此ノ宮 (享保十六年・1731年)
眞ノ宮 (寛保元年・1741年)
五十ノ宮 (寛延二年・1749年)
登美ノ宮 (天保二年・1831年)
有 姫 ( 同 年 )
鋭 姫 (安政五年・1858年)
などの宮姫のほか皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降家のため(文久元年・1861)十月二十八日その道中の一夜をすごされたのもこの本陣です。
和ノ宮御歌
遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
小学校のグラウンドの石垣の下に、焼物で焼いたような像があった。
(右写真)
おそらく姫街道を通った姫君たちをかたどったもので、それぞれが星の付いた杖を持っている。
午後2時48分
、大湫コミュニティーセンターに入って、係りの女性に駅までの交通の便を聞いた。今朝のように公共バスでもないかと期待したが、バスはないという。女性の話では昨日の宿場祭りでは、5,000人ほど人が出て、大賑わいであり、駅からも臨時バスが出たりしたが、通常はバスの便は無いという。駅までは歩くと一時間ほどである。途中の釜戸坂の楓の並木は今の季節は紅葉がすばらしいと暗に歩くことを進める。普通は釜戸駅からタクシーを呼ぶと教えてくれた。
呼んだタクシーは途中工事で遠回りして、釜戸坂には途中から入った。ほんの短い距離であったが釜戸坂の楓の紅葉の片鱗を見る事ができた。
本日の万歩計の歩数は37,142歩であった。二日間合計では71,612歩であった。
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