



正午 になって、15分ほどの休憩の後、細久手公民館前を大湫宿に向けて歩き始めた。宿外れで左手へ少し登った先に、「細久手宿の庚申さま」として知られる庚申堂がある。登り道に何本か「美濃瑞浪三十三霊場」の幟旗が見えた。(右写真) この登り口はまた高札場のあった場所でもあった。
再び登りになり、馬頭観音の石像のある「三国見晴し台」を過ぎて、どこからとなくエンジン音が聞こえてきた。今時、山道を暴走している若者たちでもいるのかと少し緊張したが、案内書によれば中山道の北側に一般の人が自分の車を持ち込んでレース体験が出来るという「瑞浪モーターランド」があった。
午後0時45分、辺りが少し広くなって弁天池に着いた。(右写真) カメラを持った男性が一人居たが、池は冬枯れで茶店も閉じて僅かに紅葉の名残が残っているだけであった。
天神坂を登った先で道が二つに別れる。左を行くと北野神社(天神)を通って大湫宿に行く。少し迷ったが案内書を確認して、北野神社には寄らない右へ進む道を選んだ。左へ行く道は東海自然歩道で、北野神社を経由した後、中山道と合流する。舗装道路の中山道はこの先で焼坂の登りになり、途中の右側に「焼坂の馬頭様」と呼ばれる石仏があった。(左写真) 同様の馬頭観音をこの二日の内に何箇所かで見てきた。さすがに馬が主役の中山道である。
坂を登りきった所に天神前バス停があり、そばに「天神辻の地蔵尊」と呼ばれる石仏があった。(右写真) ここから北へ進む小道を700mほど行くと北野天神に行ける。それで天神辻である。地蔵の周りには標柱と周りの木々を糸でぐるぐる巻いてバリアが作られている。これは何だろう。鳥や小動物除けなのだろうか。糞をするとか何か悪さをするのであろうか。
まもなく左側に「一つ屋茶屋跡」の標柱が立つ。壬戌紀行によれば、「なを松なみの中をゆきて、人家わずかに二、三戸あり。人のすめるはたゞ一戸なり。一つ屋の立場といふ」とあるところである。
琵琶坂、琵琶峠という名は、昔、京へ琵琶の修業に出ていた法師が望みならず帰郷の途中、この峠で松籟を聞いて琵琶の奥義を悟ったという故事によるという。石畳にはかなり大きな石が使われている。(右写真)(左写真) これらの大量の石は他所から持ち込んだとはとても思えない。おそらくこの山にあったものを集めて石畳に組んだものなのだろうと想像した。
峠の手前に八瀬沢一里塚がある。瑞浪の一里塚の内、鴨ノ巣、奥ノ田に続いて三つ目の一里塚である。鴨ノ巣一里塚は土の道沿いにあり、奥ノ田一里塚はアスファルト道路沿いにあり、この八瀬沢一里塚は石畳の道沿いにあった。だからどうということはないが、気がついた。右写真の上が北塚、右写真の下が南塚である。
琵琶峠から下りた県道65号線の辺り一帯には大きな岩が露出していた。その地形を利用して、山側の狭い敷地にも道路下の斜面にも、大湫病院が緑に囲まれて建っていた。
母衣岩の先に「中山道 大湫宿大洞・小坂の石碑」があった。広重の版画、「木曽海道六拾九次之内 大久手」はこの辺りの風景を描いたものだという。小公園の休憩舎のそばに、その版画が描かれた案内板があった。(左写真) この版画には崖にせり出す岩は描かれているが、ここにある二つ岩と思しき岩は描かれていない。
「大洞・小坂の石碑」の続きに「大洞の馬頭様」と呼ばれる馬頭観音があり、休憩舎先の右側の岩の上には、「小坂の馬頭様」という馬頭観音があった。(右上写真) また道の両側は「紅葉洞の石橋」という中山道の石橋の遺構があった。(右下写真)
大湫宿の入口に高札場が再建されていた。(左写真) 昔の通りに定めを書いた高札が掲げられていた。高い位置の高札は字が小さくて読めない。これが裸眼で見えたとすると、昔の人は眼が良かったのであろう。あるいは掲げた当初こそ読まれただろうが、後にはかなり形式的なものになり、読む必要もなかったのかもしれない。
宿内に入ると昨日の「姫街道まつり」のポスターがまだ貼られていた。(左写真) 「瑞浪市制50周年記念 中山道大湫宿開宿400年記念事業」とあった。「皇女和宮行列」「中山道さわやかウォーキング」「中山道大湫太鼓」などのイベントがあったようだ。
大湫宿には中山道最大の巨杉があると案内書で見て、楽しみにしてきた。そして狭い宿場の中央辺りに神明神社の御神木としてその杉はあった。(右写真) 参道左側にさほど大きくない本殿を隠してしまうほど大きく存在しており、神社の中心であると同時に大湫宿のシンボルでもある。「日本の巨樹・巨木林」によると、「神明神社の大杉」と呼ばれ、岐阜県指定天然記念物であり、幹周11m、樹高60m、枝張20m、推定樹齢1200年の巨木である。樹高60mは少し大げさだと思うが、幹周り11m、赤茶色の幹に太い注連縄が回してある、堂々たる巨木である。「大湫宿の巨木」というより、「中山道を代表する巨木」と呼びたい。
街道に戻ってすぐ先の石段を登った奥に大湫宿の脇本陣がある。(左写真) 門の前まで行ったが、見学は出来そうではなかったので案内板を見て退散した。
脇本陣の隣は問屋場跡で、その隣に白山神社への参道とポケットパークがあった。(右写真)
大湫宿の本陣は大湫コミュニティーセンター裏の大湫小学校校庭にあったという。小学校へのスロープの登り口に案内板があった。またスロープを登った校庭脇に「皇女和宮御歌の碑」があった。(左写真)
小学校のグラウンドの石垣の下に、焼物で焼いたような像があった。(右写真) おそらく姫街道を通った姫君たちをかたどったもので、それぞれが星の付いた杖を持っている。



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