釣りを通して学んだこと
清潮会会長 鈴木孝久
私達清潮会は、地元清水市の者を中心とし、1996年3名にて会として発足した。当初は、会長職を
置くことを拒み、「駿河湾海を守る会」副会長の清水遊潮氏に顧問をお願いし会の運営等にアドバイスを
いただき、会計・会報作成・遠征計画と個々の役割を決め、会としてはささやかながら、活動を行ってきた。
そのような活動の中、2001年の現在に到っては15名の会となり、2001年の新年会総会開催時に
名誉会長・会長・副会長の各職を設置し、現在に到っている。
当会の活動実態としては、年3回の例会開催、例会に合わせた総会・忘年会の開催、年数回の遠征釣行、
年6回会報誌の発行を行っている。
日常的には、会員相互による情報交換、「全日本釣り技術振興評議会(JFT)」主催の「全日本チヌトーナメント」、
「チヌ王座決定戦」に出場する事を目標とし、常日頃釣技を磨くため釣行を行う者もいれば、人より多く釣る
ために釣行を重ねる者もおり、会員個人個人の目標は違う所にあるが、会員各員連絡を取り合い、チヌ釣りを楽しんでいる。
会員の過去の成績は、全日本チヌトーナメンターが3人おり、1996年には、初出場にてトーナメント3回戦進出
・王座7位に入賞を筆頭に、1999年・2000年に、清水港原金釣り船親睦大会の優勝。2000年、中部フレッシュマン
トーナメント優勝と、近々では輝かしい成績を納めており、会員の技術は日々進歩していることを確信している。
「清潮会本来の発足理由」
1993年当時、まだ会が発足していない頃のことである。私は初めて、清水港でのダンゴ釣りに出会い、月1回ペースで、
現在副会長の山本恭士氏とチヌ釣りを行っていた。
その釣行回数が、月2回・3回と多くなり、釣友と共に釣行する時には、灰皿を持参するようになり、海へゴミを捨てないよう
になると共に、集魚剤の空袋等が流れてきたら掬い、不要な魚は放流し、何時しか環境を保護するようになり、清水港の汚染状況
・魚の減少に気が付くと同時に、この釣りにはまっている自分たちに気が付いた。
そのような状況下で、倶楽部を発足し、同時に会費の徴収を行うことで、集まった会費は清潮会とし、放流基金・環境保護へ
寄付を行いたいと思うようになり会の発足を行った。
会としての寄付活動実態とし、いつもお世話になっている、清水釣船業協同組合で活用していただくよう、1997年と2000年に、
「釣り人みんなが、吸い殻からゴミを捨てない事に気が付けば」との思いで、灰皿を延べ75個の寄付。1998年1999年は、
自分たちの清水港でいつまでもチヌ釣りができるよう、放流基金として「駿河湾海を守る会」へ合計5万円の寄付を行い、会本来の
発足理由にそった活動を行っている。
清水港は、興津川・巴川の2本の主な川が流れ込んでいる。そのうち興津川は、東日本で最初のアユの解禁釣り場であると共に、
清水市の水源ともなり、その源流は清水市西里方面に位置しており、今年2001年は「駿河湾海を守る会」理事への就任をいただいた
ことをきっかけに、「駿河湾海を守る会」で2000年からの懸案事項でもあった、環境保護(植林活動)として、清水市西里に位置する
「市民の森」で4月に植林した地の下草刈りを7月8日に行った。
この活動は、興津川保全市民会議・清水みどり情報局・清水市環境保全課の有志による者で、当日清潮会より4名が参加し、午前8時
現地に集合し、普段歩き馴れない山道を30分ほど歩き現地に到着した。現地は急斜面で、草が伸びたい放題伸びており、本当に此処を
鎌で草刈りを行うのかという状態であった。午前中より強い日差しによる炎天下での作業となった。最初は楽しく会話をしながら行っていたが、
だんだんと辛くなり、会話も減り黙々と作業を行う。そんな作業の中、自分たちが頂上に着き、下を見下ろした時は、草刈りが綺麗に終わり、
植林し50cmほどに育った樹木が顔を出し、太陽の光を思いっきり浴びていた。その光景は、何とも言えない充実感があり、この作業で
駿河湾、清水港が魚の住みやすい海になればと思い今回の植林活動に幕を閉じた。またこの活動は、7月13日付の静岡新聞でも取り上げられ
二重の充実感に浸れた。
このように清潮会の会員は、チヌ釣りが好きな人間の集まりで、その中で駿河湾の大切さ、清水港の大切さを釣りを通して学び、
それを次世代まで残していきたいと考える仲間の集団です。
会の活動
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