サイヴァリア

2000年:サクセス:シューティングゲーム

シューターの間ではかなり常識として認知される「カスリボーナス(敵弾などが自機にかすった際に発生するボーナス点の事)」を積極的にゲームシステムに導入。カスリ=パワーアップの手段とすることで、シューティングゲームに新しい形を提案した意欲作。「パワーアップにはカスリが不可欠。しかしカスリは危険が伴う」この「痛しかゆし」が生み出すゲーム性と難易度はかなりの中毒性があるともいえよう。

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シューティングは終わったか・・・!?

「ゲームがつまらない」・・・ここ数年言われ続けた定番のせりふ。しかし一番そのせりふを言いたいのは「シューター」と呼ばれる「シューティングゲームをこよなく愛する方々」であろう。

シューティングゲームは、「プレイヤーが上手くなるほどインカムには貢献しない」というその性質から、ゲーム業界が「金儲け主義」に走り始めた頃真っ先に「リストラ」の対象にされた。新機種の発売数は激減、しかも開発に力がかけられていないためその内容にも満足が出来ない。一部「シューター魂」を存続させようと「彩京」「ライジング」などの設立もあったのだが、シューティングゲームの盛り返しには微力すぎた。その後「シューターのゲームスキルの過剰な向上」に拍車がかかり、シューター好みに難易度を設定すると一般には難しすぎ、一般向けではシューターが食いつかないため結果インカムも落ちると言った悪循環に陥っていく。気がつくと「シューティングゲーム」はメーカーにとって非常に扱いづらい物になってしまい、開発自体の数がさらに減っていった。ゲームの歴史の中でかなり重要であるシューティングと言うジャンル、しかし現在のゲームビジネスとしての重要度はかなり低く扱われているのが現状であろう。

取り残されてしまったシューター達にはもうプレイするゲームはないのか。しかし制作側にも「熱いシューター魂」を持つ方々もいるのも事実。現に「年一本程」のペースではあるがシューティングの良作は登場しており、シューター達の熱い支持を受け「骨のズイ」までプレイされている。逆境の中熱い魂で作り出され、それを受け止める熱い魂が余すことなくプレイしてくれる。そう考えると「シューティングゲーム」は実は一番幸せなゲームなのかもしれない。

ゲーム性と演出力

今回の「サイヴァリア」はそんな「シューター魂」を感じさせる良作の一つであろう。今までは点カセ用としてのみあった「カスリ」を、ゲームのメインシステムに持っていき、そしてしっかりと成立させている。そしてそこに生み出される「危険とパワーアップの並立する世界」がプレイヤーの力量にあわせた難易度を作り上げるあたりは見事といえよう。ミスした時に「やりすぎなきゃよかった・・・」と思わず思うあの感覚も絶妙で「自業自得」の教えが身にしみて解ってしまうのだ。

まさに「アイデアの勝利」のこのゲーム。しかしそれだけに「惜しいなぁ」と感じさせてしまう点もある。このゲームのウリである「カスリ」は自機を失うこととのジレンマ、それだけに「生き死に」の表現ははっきりとさせてほしいのだが、どうもこのゲームではそのあたりに違和感を感じてしまう。パワーアップの際に自機は稲妻を放出するのだが、この表現があまりに大きすぎるためプレイヤーが「死んだ」と感じてしまうのだ。それに比べ本当に一機失うときの表現はかなり抑えめ。従ってプレイ時間の浅い人には「死んだ気がしないのに、気がつくとゲームオーバーになってしまっている」のである。ゲームの根本を表現する部分でこれはいけない。

またゲームの性質上「自機の周り」を集中的に見てしまうだけに、プレイ上重要な「バズメーター(パワーアップまでのカスリ量を示すメーター)」が画面の上方にあると目が届かないなど細かい部分でのアラが若干ながら気になってしまうのだ。しかしこれは「大画面化」してしまった最近のゲーム事情からくる物なので何ともいえないが。

ゲームの味

最近特に感じるのだが、ゲームが大画面化してしまい情報すべてを見渡せない。絵がきれいすぎてプレイに集中できない。過剰な演出で実際の状態が把握できないなど「演出」がもとでゲーム本来の「味」が薄まってしまっている作品が多くはないか?確かに「派手に演出」すればアイキャッチ効果は高い。でもそれは「デモ画面」ですれば良いことであって、ゲーム中は程々でよいのではないかと考える。今回の「サイヴァリア」の様にゲーム性で勝負出来るものにさえこのような現象が見られるのは残念でならない(それでも、このサイヴァリアは結構抑えめなのではあるが)。

本来、ゲーム人気はゲームの「ゲーム性」にささえられてた(何か変な文だな・・・)。ゲームをプレイするのは「ゲーム性を味わうため」だったはず、でもいつからかゲームは「ゲームが描き出す演出」を楽しむためのメディアの一つに成り下がってしまった。派手なパフォーマンス、魅力的なキャラ達、聞き惚れるミュージックなどが評価の全てになり、これさえよければ「ベストゲーム」と評価される事が多い。はてはいくら「ゲーム性」に優れた作品であっても「見た目」にぱっとしない物は早々に消え去ることだってあるのだ。

先日から論争が続いてる「ゲーム再販問題」。ゲーム会社はこう言った「ゲームは映画と同じである」と。これを聞いて「何言ってやがる!!」と感じた人は多数いるであろう。ゲームが好きな人から言わせれば「ゲームと映画は別物」であるのは火を見るより明らか。しかし、そのような考えがまかり通っているのが今の業界なのかもしれない。だから最近のゲームは「演出が過剰」なのだろう。本来ゲームはそんなに「演出」しなくとも良い物であるはず。わざわざストーリーをつけなくとも良いし、マイキャラをかわいい女の子に限定しなくたって成立できるはず。まあ、確かにその方が楽しくプレイできるからすべてを否定はしないが行き過ぎている感がないだろうか?最近の「レトロゲームブーム」もそんなところから来ているかもしれない。ここらでゲーム制作者の方々は「演出に頼ずに勝負」してほしいものである。

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