かつてアメリカを代表するレーシングコンストラクターであったシャパラル。
その活動期間はあまり長くはありませんでしたが、まさにアメリカンドリームを象徴するような活躍、
そしてその設立者ジム・ホールはレース界にイノベーションの嵐を巻き起こしたのでありました。
シャパラルに関しては、何冊かの書籍が出版されていますが今回紹介するこの1冊、
シボレーとタイアップしていたトランザム時代を除き、ほとんどすべてのオリジナルマシンと
そのレースリザルトが網羅されていて、「コンプリートヒストリー」の名に恥じない内容となっています。写真はあまり多くはなかったので、手にした時はちょっとがっかりしたのですが
例によって辞書を片手に遅々たるペースで数ページ読むと、その情報量に驚きました。
アレ、スガちゃん、こんなところに!....って違うか。
..........ジム・ホール、1935年アメリカはテキサスにて、石油地質調査を職業とする両親の元に
生まれる。若くして飛行機事故で両親を失い、兄達とその事業を引き継ぐ。
(よく「テキサスの石油王」なんて言われていますが、実際にはそれほどの資産家ではなかったようです。)
カリフォルニア工科大にて地質学を専攻するも、当時レースに出場していた兄達の影響もあって
途中から自動車工学を学ぶ。ローカルレースに出場し、その非凡な才能を示すうちに、地元のヨーロッパ車のディーラーを
経営する人物と知り合う。事業のかたわら、マセラティやフェラーリを駆ってさらにレースで活躍。その後ロータスを入手し、プライベーターとしてF1に参戦。
さらに若干20才にしてBRMのワークスドライバーとなるも、チームから十分なサポートを受けられず
また、ヨーロッパ人主体のF1の世界にも疑問を抱き、自らコンストラクターとなる決心をする。
このF1時代にジャック・ブラバム、さらには生涯を通してのよき友人となるブルース・マクラーレン
とも親交を深める。帰国後、ハップ・シャープ、さらに元スカラブのエンジニア達とシャパラルカーズを設立。
フロントミドのシャパラル1を自ら駆り、SCCAなどの国内レースに参戦。翌年の1963年、ついにシャパラル2をロールアウト。FRPモノコックを取り入れた革新的なマシン
はレーシングチーム、そしてコンストラクターとしてのシャパラルカーズの目指す方向を示す
マイルストーンとなる。.........
と、この辺までで40ページ弱、全部で200ページあるのでその内容の濃さがわかっていただける
のではないでしょうか?なお序文はカンナム時代のライバル、マクラーレンの雄、デニス・ハルムから「敵からひとこと」
というタイトルで素敵な一文が添えられています。はじめに述べたように、資料として使える写真はあまり多くはありませんが、
読破すれば日本で100番目くらいのシャパラル通になれる....かな?*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
おまけ:ちょっと面白い話
その1:J・ホールの相棒のハップ・シャープ。なぜに「ハップ」なのか?
実は彼は1月1日生まれなんだそうです。それで「ハッピーニューイヤー」
を縮めてハップというニックネームがついたとのこと。その2:シャパラルの海外での耐久レースデビューとなったのが
1966年のADCDニュルブルクリンク1000キロ。
なんとデビューウィンを飾ったのですが、その時のドライバーがフィル・ヒル。
耐久レースに出場経験の多い彼にはひとつだけ気掛かりなことがあった。
それはレインタイヤ。
「レインタイヤは大丈夫だよね。」
「ファイアストーンの新型があるから平気平気!」
...で当日はレース中に激しい雨。ピットインしてレインタイヤにチェンジ...するはずが、
なんと、耐久用の新型マシン、シャパラル2Dはノックオフ(センターロック)ホイール
ではなかったんですね〜、
いちいちホイール1つについて6本、計24本のボルトをはずして交換、おまけに
用意してきたジャッキがスプリントレース用だったので、車高の高い耐久用のマシンでは
リフト量が少なくて持ち上がらない!
結局なんとかなったらしいのですが、フィル・ヒルの胸中が察せられます。
「おいおい、冗談じゃないぞ!」
「ゴメン、でもテキサスじゃ雨は降らないんだよ...」といったとか言わないとか。その3:66〜67年、シャパラルは2Dと2Fと呼ばれる耐久マシンでヨーロッパ、アメリカの
有名な耐久レースのほとんどすべてに参戦します。
そのリザルト.....12戦中1位が2回、それ以外はすべてリタイヤ。
完走すると勝率100パーセントなんですね、最高!