模型会社で働く

 プラモデルは模型の1ジャンルの内に含まれるけど、今回は本当にワンオフ、手作り逸品物の模型の話だ。
あれは僕が19歳の冬、家を出て一人暮らしをしていたころのこと。下宿と学校を行き来する道の途中に小さな模型会社があった。会社の看板には○○模型工業とだけは書いてあった。そこは町工場のような造りでなのだけれども、外からは中の様子がうかがえなかったので、その前を通るたび僕はどんな模型を製作しているのかとても気になった。
工場のドアが開いているときなど少し立ち止まって覗いてみた。しかし薄暗くてやはりやはりどんな模型を製作してるのかさっぱり分からなかった。気になる日々はしばらく続いたある日、学校の帰り道のもう薄暗くなった時刻に工場の前を通って僕は目を疑った。そこには、「アルバイト募集」と書いたはり紙が工場の壁に小さく張ってあった。自転車で走りながら気づいたので、慌てて引き返して、どきどきしながら事務所のドアを開けた。呆気無く、アルバイトとして雇ってもらえることになった。

 その模型会社の中に入れてもらってやっと謎がとけた。製作しているのは主に造船会社に納める大形の船舶模型だった。製作中の長さ1メートル以上はあるタンカーが2隻、工作台の上に置かれていた。働いている人は5人ほどで、先代から会社を受け継いだまだ若い社長と職人の親方であるTさん、中堅の職人の方が二人、若い見習いの社員が一人という構成だった。ぼくはアルバイトということで、本当に雑用の使い走りだった。模型製作などもちろんやらせて貰えなかった。

 ここで作られている模型の製作過程がしばらく見ていてだんだんわかってきた。まず、大手造船メーカーから製作の依頼がくる。船舶模型は造船所が受注会社に寄贈するものらしい。注文した何隻かは造船メーカーが購入するみたいだった。模型を製作する時の図面は本物の、たとえばタンカーなどの図面を模型用に縮小した物で当時は青焼きの図面だった。まず船体は木型屋さんで精密に木製でつくられた。それを今度はアルミの鋳物に置き換えるために鋳造屋さんにもって行かれた。これで何隻分かの船体の量産ができるわけだ。ぼくはよくこのアルミの塊を電車にのって鋳造屋さんに取りにいかされた。アルミの船体が出来上がると、今度はその上から板金パテを薄く塗り付けて行く。その仕事は見習いのF君と僕の仕事だった。特に精度を要さない簡単な仕事だった。パテを塗り付け赤外線ランプで乾燥させ当て板に耐水ペーパーヤスリを付けて船体を平らに磨いた。ある程度平になると、職人のEさんがすたすた来て手の指で船体を確かめて、おもむろにまたパテをかって、「みがいてな。」と言っては去っていった。何度かそんな作業をしてある程度綺麗になると、もう船体は僕らの手を離れて職人のEさんが仕上げにはいった。図面や本物のタンカーの写真を見ながら船首や船尾の形を美しく整えていった。

 工作室では艤装部品と言われる船橋やボラード、マストなどが職人の親方が中心になって製作されていた。やはり図面は本物のタンカーの縮小したものだった。船橋などは真鍮の板から丁寧に切り出されていた。糸鋸で正確に切り出されヤスリで仕上げられ、半田付けで見る見るうちに立体になっていった。部品の切り出しも美しかったが、水のように流れては少しの余分な半田が残らない職人の技をみて僕はあっけに取られた。細かい艤装品が完成するとブロックごとに塗装ブースで塗装された。図面にはちゃんと塗装色の指定が書いてあって、本物同様に塗りわけられた。ある日、船体の喫水線の塗りわけのマスキング(テープを張って塗りわけする)を手伝わされた。親方は「喫水線は水平じゃないンだ。船の中心船首と船尾じゃ高さが違ってるんだ」といって、鉛筆とハイトゲージで張るべきラインを指定した。

 毎日雑用ばかりに日々だったが、納期がせまったのかしかたなく僕にも艤装品の製作が回ってきた。ぼくはわくわくした。どんな工作をさせてもらえるのだろうと少し緊張した。しばらくして気付いたのだけど、親方はアルバイトの僕に工作させるのはあまり快く思っていないようだった。工作作業を手伝うように指示したのは社長だったが、どうも親方はそれを気に食わなかったみたいだった。僕がやるべき仕事は船のブリッジなどの階段の製作だった。製作といっても階段型にすでにプレスされた真鍮板を細長く切り出すだけの話だが、これが素人には至難の技と言うやつだった。真直ぐに糸鋸で切れない、鋸の刃を折る、無器用な鋸の音に職人の誰かが笑っていた。「自分の手をきんなよー」とかヤジが飛んで笑いになった。当の本人はそんなことを気にしてる余裕もない。親方の鋭く冷たい視線がたびたび注がれていたからだ。社長と親方の板挟みだ。見るに見兼ねて同い年の、それでも既に中堅のS君が手ほどきしてくれた。「毛書がいた外側の少し先を見ながらね。引く時に力いれてね。」と。少しはましに鋸が進むようになった。

 何日かそんな日が続いた夜に親方がヤスリのかけかたを教えてくれた。「手の角度と力の入れ方でこんなに違うだろう」と仕上げてみせた。「模型すきか?」と親方が笑いながら訪ねてきた。いつも鋭い視線ばかり受けていたので僕は戸惑った。緊張のあまりぶっ切らぼうに「はい」としか答えられなかった。「アルバイトばっかに夢中になって、勉強しなきゃぁいかん」と笑いながら親方はいった。そう、僕は人生の職を選んだ人間ではなく、単なるアルバイトだった。「ヤスリがけ一つだって決して最後に妥協したらいかん、上手くなればなるほど妥協できなくなる。なんでも一緒だ」と親方は付け足した。こうして、模型会社のアルバイトは初めから終わりまで緊張しっぱなしで終わった。単なる模型好きでアルバイトさせてもらった会社で、物作りの基本を、僕は教えられた。

02/3/21



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