ぼくのコレクション

01/4/28 

 小学校2年のときに父の建設会社が新しい工事現場に移動するため伊勢原市(神奈川県)に越してきた。
 ある日から、隣街の「お絵書き教室」通うことになった。母が熱心にも絵の教室を探してきたのだった。絵を描くのは好きだったが、教室に通ってまで描くのはあまり気が進まなかった。第一に社宅の子供達と遊ぶための時間が少なくなり、自分だけ置いてきぼりにされるのがいやだったのだ。絵の教室といっても、初老の画家の先生が、自宅の居間と庭先を子供たちに解放して、好き勝手にかかせるような教室だった。通っている子供達も先生の近所の子供達ばかりで、わざわざ隣の市からやってくるぼくなどは、ちょっとしたヨソ者だった。その場の雰囲気になかなかとけ込めず、孤立していた。
 ぼくは、子供なりの憂鬱を憶えながらもお絵書き教室に通った。気が進まないのに通ったのにはわけがあるのだ。母は教室の帰りに「プラモデル」を買ってやる約束をしてくれたのだった。つまりは、「えさ」に釣られたわけである。この件については今でも母と笑い話になるのだけど、ぼくはプラモデル欲しさに教室に通っていたようなものだった。「好きな物を描いてごらんなさい」と温和な先生の言葉どうり、ぼくは戦車やゼロ戦ばかりスケッチブックに描いていった。いささか、先生もあきれたみたいで、いつしか僕専用の絵のモチーフが飯台の上に置かれるようになっていた。
 絵の教室が終わるといよいよプラモデル屋さんである。秦野の街の川沿いに造られた長屋商店街に中にプラモデル屋さんがあった。とても狭いお店で、薄暗い店の奥にお兄さんが店番をしていた。その主人にはぶっきらぼうな扱いは受けたおぼえはないので、きっと良心的な方だったのだろうとおもう。店内はコの字型の通路があって店の奥に入ると暗くてすこし恐かった。そして僕の欲しいキットはどれも値が高くて買ってはもらえなかった。タミヤのロングトム(アルミの砲身がはいった大砲)やイマイのマイティ号(デラックスなやつ)などはいつも箱を開けて、しばらく中の部品を眺めてまた箱を閉じた。
 僕がいつも買ってもらえるのは、100円ほどのLSのゼロ戦やイマイのマィティ号(いちばんち小さいやつ)などだった。模型屋の兄さんはプラモデルを買うと、必ずグリーンガムを一枚くれた。バスに揺られながら、簡単につつまれた模型の箱をだいじに持って僕はガムをかんだ。
 父が家の壊れた白黒テレビの部品をきれいに外し、前後をひっくり返しててちょっとした本棚をつくってくれた。(昔のテレビは足が付いていて、本体は木製だった。)中身の機械を外すと本棚の様に作り替えられた。そこには、だんだん増えてゆく小さなプラモデルのコレクションが、ほこらしげに飾られていった。


アポロ11号

00/12/3

 もう何十年もむかしのお話、ぼくが小学校に上がる前のこと。時代はアメリカの月着陸船、アポロ11号が月着陸に成功した年だった。当時のぼくのヒーローは、「サイボーグ009」や「鉄人28号」、それに「サンダーバード」だった。ある日そんなヒーローたちを色褪せてしまうほどカッコよいアポロ11号に虜になってしまった。飽きもせず、いつもアポロ11号の絵ばかり描いていた。世の中では、アポロにあやかろうと、アポロチョコなども売り出されはじめたころだった。

 ある日、父に連れられ横浜の高島屋のおもちゃ売り場に出かけた。なんと、そこには高さ1メートルはあろう、アポロ11号ロケットのプラモデルが飾ってあったのだ。ぼくの背丈より遥かに大きいアポロが飾り台の上に燦然と輝くいていた。そのアポロ前で、ぼくはしばし見とれて動けなくなってしまった。こどもながらに「こんなスゴイプラモデルは買ってもらえない」とあきらめていたが、一応、父に「これ買って!」とせがんでみた。勿論、この高価な外国製のプラモデルなど与えてもらえる訳がなかった。『5000円』という当時の値札が今でも焼き付いている。

 そのかわりに父は、アポロの小さなプラモデルを買ってくれた。500円の月着陸船だった。500円といえど、かなり本格的なキットで、もう天に昇ようにうれしかった。タミヤかレベルか...どこのメーカーのキットだったか憶えていない。真っ白い成形色としっかりとした分厚い箱が印象に残っている。ぼくは寝ても覚めても完成させたアポロのキットを眺めていた。

 時は流れて、あの巨大なアポロロケットがレベルがら再版されることになった。月着陸25周年記念だそうだ。ぼくは、その輸入キットを注文した。届いたキットの箱を開けると、巨大な部品がぎっしり詰まっていた。アメリカの大きさというものを感じてしまった。そして、アポロのキットはやはりキラキラと、今でも輝いているのであった。

*レベル=アメリカの模型メーカー

 


 ゆないとすていっ ごう

00/11/26

横浜港の大桟橋に外国の豪華客船が訪れると、父と見物にでかけた。たまに、珍しいイギリスの巡洋艦など軍艦などもやって来た。昔のアルバムを開くと、父が撮影した客船の写真が沢山飾られている。どこか懐かしい70年代初頭の雰囲気が伝わってくる。

 船見学の帰りに、いつものお約束のように高島屋に寄る。ショーケースに整然と並ぶ外国製のミニカーにうっとり見入ったり、鉄道模型が、まるで本物の風景を切り取って精密に縮尺したような、巨大なジオラマ台の上を軽快に走っていた。ぼくは時間を忘れてその世界に引き込まれた。プラモデル売り場で、父は客船の模型を手にした。店員のお姉さんが、くるくる回し包みで手早く包装して、にっこりとぼくに渡してくれた。家に戻ると、さっそく模型の箱を開けた。頑丈な造りの長細い箱に、白色で形成された船体の部品が詰まっていた。

 昔のプラモデルの箱はとても頑丈な造りだった。厚さ1ミリ以上はあるボール紙で出来ていた。輸入の運搬を考えてか頑丈に造られていたのかもしれない。最近の模型では資材の節約などから、へなへなの頼り無い箱になっている。メーカーから再版される復刻版の懐かしい模型でさえ、見た目は昔のデザインのままだけど、箱は頼り無く薄い材質のままだったりして、どこか興醒めしてしまう。 

 組み立てはじめた客船の箱には英語ばかり書かれていた。「ゆないとすていっ号」と組み立て説明書の英語名の下に父が仮名をふってくれた。模型はかなり精密な造りで、6才の子供には難しすぎて簡単な所以外はほとんど父が組み立ててくれた。一通り完成すると、父は小さなビンを3本ほど、そして筆を用意した。それはプラモデル用のペンキだった。父は徐に赤いビンの蓋を開けて筆に色を含ませて、煙突を塗っていった。黒いビンの蓋を開けて、今度はぼくに船体を塗らせた。筆先から伝わるぬるぬるとした塗料の感触が新鮮だった。ぼくは、模型に色を塗るという行為を初めて体験した。

そうして白、黒、赤で塗りわけられた「ユナイテッド・スティーツ号」はテレビの上に誇らしく、飾られた。



ドイツレベルから今でも発売されている「S.S.UNITED STATES」

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