韓国の旅

1989年 5月  8日間


韓国編は「初めての海外一人旅」と題してつぶやきノートに書いたものを転載したものです。
あまりに古い為、写真もなにもなくてごめんなさい。のこのこの初々しさを感じてください(笑)


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1 初めての海外一人旅



私がはじめて海外一人旅をしたのは19歳。大学2年のGWの頃だった。

当時は今ほど航空券が安くなかったので、一番安く行ける外国が船で行く韓国、(下関=プサン往復13500円)だったのだ。そして次点が中国上海。懐かしい鑑真号にて。(神戸=上海 往復約40000円)

背中にリュックを背負い、初めての海外。憧れのバックパッカーとなる前日は、なんと緊張して熱を出してしまった。よく子供がかかる知恵熱である。
ほとんど眠れずに迎えた出発の日。不安なまま家を出たが、熱は出発してしばらくしたら、ウソのように引いていった。

乗船手続きが始まる14時には下関港についた。パスポートに出国印をもらい、乗船する。

2等船室はゴロ寝の大広間。出発前から何組かの運び屋おばちゃんが4.5人づつ群れて持参のキムチを広げてくつろいでいる。

17時出航。船内をうろついていたらなかなかかっこいい男の子に声をかけられた。
台湾から日本に留学している大学生。こざっぱりとした短い髪。Gパンにシャツもセンスがよく、日本語も上手だし、ちょっとトキメキ気分。

彼と一緒に楽しく夕食。夕食後、だんだんと船がゆれてきた。
う〜。船酔い。

甲板で夜風に当たってみたのだが、ダメだ〜。目がまわる〜〜〜。
でも、隣のかっこいい彼にゲロゲロ吐くところ見られたら恥ずかしいよ〜。

当時はかわいかった私。
だけど、やっちまったんだよなぁ。
彼は背中をさすってくれました。

キムチの匂いが充満する船内でキムチおばちゃんに圧倒されながら寝て翌朝。
船から街をみると、ハングル文字や漢字の看板。なんだか感動しながら船を下りて入国。

台湾の彼が宿探しを手伝ってくれた。
適当な旅館らしきところに入ると、スタッフのおばちゃんがそそと二人を案内する。
ん?なんだかヘンだぞ。

・・・・・どうやらこれって韓国式ラブホ(布団だったけど)?

一瞬沈黙する若い二人。
慌てて宿を出る。

親戚のお姉さんが「韓国のラブホテルって、日本みたいに建物がお城だったりしなくて見た目フツウだから、気をつけてね。」とアドバイスしてくれたのは、このことだったのか。

やがてフツウの宿が見つかり、台湾の彼とはさわやかにお別れした。あ〜、かっこよかったなぁ。



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2 パワフルな韓国人


プサンの町は魚の匂いがする。
混沌としていて、エネルギッシュで、それでいて海も山もあるパワフルな町。

市場に出かけた。ぶつ切りの肉がぶら下がっているのも19歳の私にはめずらしかった。

豚の頭。豚の足。土がついて汚いけど色の濃い野菜。タライにどさっと入っているぷりぷりした魚。すべてが珍しく、写真をバチバチ撮っては愛想笑いを振り撒いていた。

道端である日本人青年に会った。旅慣れた人。
「私、海外一人旅初めてなんです・・・・」などと話をしたのだろう、彼は私にこう教えてくれた。

「旅に出るコツって知ってますか?」

「航空券を買ってしまうことですよ。思いついたら航空券を予約してしまう。そしたら嫌でも行くしかない。忙しくたって準備もするでしょ。」

これは今でも私の座右の銘。社会人になると一層その言葉の真理を思い知らされた。

彼は私にソウルの宿を教えてくれた。

「韓国で一番安い宿、教えてあげるよ。バックパッカーがいっぱい集まってる宿。汚いけどね。」

「それと、記念にこれをあげるよ。こんなものだけど、便利だよ。」

彼はウエストバックから小さい缶切りを出した。
栓抜きもできる2cmX4cmくらいの薄っぺらい缶切りなのだが今でも旅先で愛用している。

再び街歩き。

プサン駅の周りには弁当売りやこじきたち、いろんな人たちが集まっている。

路上で海苔巻を売っていた。韓国の海苔は薄くて穴が空いているのだ。
当時は韓国海苔なんて日本では見たことが無かったので、白いご飯がはみ出した海苔巻がすごく貧弱に見えたのだった。

当時、韓国の物価はおおよそ日本の5分の1。

それと、こじきたちにもびっくりした。

韓国のこじきは超プジティブだ。
「金をくれ。」と自分からどんどん声をかけてくる。
芸をするものや、歩けないとアピールするためかスケボーのような自作の台に載ってものすごい速さで移動しながら寄って来たり、首からプラカードを下げているものもいる。日本人の私に説教をたれているこじきもいた。

韓国のホームレスは移動もする。地下鉄に乗って大移動。
無人改札なのをいいことに、ゲートをバンバンくぐって無銭乗車。

当時日本はバブル。ホームレスもほとんどいなかったし、こじきは黙ってボロキレの上に座り、茶碗に金を入れてくれるのを待つものだと思っていたのだ。

韓国人。パワフルである。


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3 キョンジュ(慶州)にて 

バスに乗って慶州に移動。キョンジュと読む。
キョンジュは韓国の古都。
キラキラ輝く河沿いに、新緑がまぶしくのんびりした田園風景が果てしなく続く、美しいところだ。

韓進旅館は有名な外国人宿。キョンジュの駅の近くにある。
オンドル部屋の純韓式旅館で宿の主人は日本語を話す。

宿に荷物を置き、遺跡などを散策していたら、日本語を話す30代くらいの男に声をかけられた。

「僕は日本語がしゃべれます」
「僕は日本が好きです。」
「一緒に観光しましょう」

この男、しつこい。
宿に帰るとなんと、その男もその旅館に泊まっていたのだ。

宿の居間のようなところでその男につかまってしまう。

「ちょっとここに座りなさい。」

・・・・・なんで命令調なんだろう。

さっきからこの男、命令口調ばかりなのだ。
しかも、この男、あきらかに一杯入った赤い顔。
座る・・・ってもちろん正座である。

「日本が韓国にどんな悪いことをしたか、知っていますか?」
「はぁ。。。よく知らないですけど。」
「もっと歴史を勉強しなさ〜い!」

説教だぁ。しかもかなりレロレロなのだ。
困り果て、全く応戦できない私に宿の主人が助け舟を出してくれた。

「あんた、ちょっと飲みすぎだよ。そっちに行ってなさい。」

そして再び正座。

「私は日本が好きです。日本と韓国はもっと仲良くしなくてはいけない。
私はこうして日本のお客さんと話しをするのがうれしいんです。」

主人はやさしく言い、壁にかかっている韓国書道の話などしてゴキゲンになっている。
そして一枚の書を私にくれた。

「記念持っていきなさい。」

ありがたく頂戴した。何かの詩のようである。

「オンドルは初めてでしょう?
もうあたたかいけどオンドルをたいてあげるからね。」

その夜、初めてのオンドル部屋。
しばらくして、板張りの床がぽかぽかあたたかくなった。

「あったかいわぁ。」

幸せな気もちで床についたのだった。 


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4 韓国定食はスゴイ!
私はできる限り韓国文化を体験しようと、滞在中は韓定食を食べつづけた。

韓国式の定食はスゴイ。
一品メインを頼むと小皿がだだだだだ〜〜〜〜っと周りに並ぶ。
ご飯や汁物と合わせて多いときには15皿位並ぶのだ。

ほとんどキムチ。

大根のキムチ、白菜のキムチ、なんだろう?とわからないようなキムチ。
どれもキムチ味なのだが、微妙に味がちがってそれぞれ味わい深い。
私は大根のキムチがお気に入りだった。

チョッカラッという、長い箸で食べる。
このお箸、重いんだよね。金属製。
なんでこんなに柄が長いんだろう。スプーンもそう。

韓国の食事のマナーも興味深かった。

若いカップルのデート風景。
女の子のほうは、ハンカチを持った左手をヒザの上において、右手だけで一生懸命お上品に食べている。

日本では片手で食べるのは行儀が悪いとされている。特に意味がなくても左手は皿に添えたりしなくてはいけないものだ。
韓国では左手で茶碗を持ち上げたりお膳の上に置いたりしてはいけないそうだ。
ほほう、と思っても、日本人がマネすると、ものすごく食べにくいのである。


はじめて食べたビビンバ。

ビビンバはよく混ぜて食べなくてはいけない。
私はぐちゃぐちゃ混ぜる、というのに抵抗があった。
子供の時からカレーなどを食べるときに、「ぐちゃぐちゃ混ぜて食べるんじゃありません!」といわれて育ったからだ。

地元高校生が私に混ぜろ混ぜろ、という。
食べるぶんだけちょろっと混ぜると、もっともっと!としかられる。
ついには丼を奪われ、全部くちゃくちゃと混ぜられてしまった。

(あぁ〜〜〜そんなそんな・・・はしたないわっ!)

乙女のココロの叫びである。

いや、今となっては他人にまで
「ビビンバ食べるときゃ、混ぜなきゃいか〜ん!」
と説教する、説教オババになってしまったが。


とにかく韓国料理はキムチ味。コチジャンの味。

キムチ・キムチ・キムチ・キムチ・・・・・

正直、ちょっと私の口には合わなかった。
当時私は辛いものが苦手だったのだ。

しかし、慣れとは恐ろしいもので、
今ではキムチ鍋と聞くと大喜びして鍋奉行たらんとし、自宅ではご飯にコチジャンをつけて食べ、辛い料理にさらに辛子を足して食べ、どんなスパイスが効いた料理でもおいしいおいしいとニコニコしながらたいらげている。


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5 安宿(ドミ)デビュー
ソウルに着いて、プサンで会った旅行者に教えてもらった宿を探す。

路地を抜けて、目指す宿はあった。
一泊約750円。
当時の韓国の安いビジネスホテルの約半額である。

暗い。

巣窟、という言葉がぴったりな空間。いかにもバックパッカーという怪しい外国人や日本人が集まっていた。

土間では汚い旅行者たちが談笑している。
坊主頭の日本人が、足の裏の水虫の皮をむきながら、私に「こんにちは。」と声をかけた。

「ここは一番安い宿だから。まぁ、悪くはないですよ。」

なにせ、初めての一人旅。
好奇心と冒険心の強い私は、その宿に泊まることにした。

宿は男女混合ドミトリー。

ありとあらゆるところに寝るスペースがとられている。
もとは廊下や梁だったろうところにも狭いベッドがしつらえてある。
私の泊まった部屋は2段ベッドの狭い4人部屋。

うへ〜。汚い。

布団がジメジメしてるのだ。しかもベタベタして臭い。
これがバックパッカーの世界なんだろうか。

その夜はGパンに靴下を履き、枕をタオルで覆い、掛け布団と自分の顔の触れる部分には上着をはさんで寝た。

朝。目がさめて、ベッドから降りようとしてぎょっとした。

細いベッドとベッドの間の床に黒人が寝ていたのだった。
最初真っ黒でわからなかったが、私の足がにゅっと出たことに気づいた黒人が動いた。

「!・・・・・・・・・・。」

声も出ない。

この宿は私には早すぎたようだった。

以後30カ国余りを訪問したが、このときの宿よりひどい宿には出合った事はない。


荷物を背負い、宿を出る。

景福宮前から伸びる広い道路。
朝の空気はすがすがしい。
ベッカーズでハンバーガーを食べる。清潔だ。

新しい宿を歩き方で探す。
約1500円のビジネスホテル。狭いビルの6階あたりにフロントがあった。

「あなた一人?」

ここのフロントのオバサンも片言の日本語を話す。

「危ないから夜は外に出ないようにしなさい。」

「はい・・・・。」

どうして韓国人が日本語を話すと必ず命令形なのだろう。

部屋は快適。 とにかくシャワーを浴びてさっぱりしてソウルの町に飛び出した。


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6 ソウル。熱い町
景福宮は皇居のような感じの美しい場所。
博物館や美しい庭園などがある。
五月の新緑時で、とても美しかった。

ここで地元の高校生達に出会った。
歳も近く、この高校生達と一日行動をともにする。

「ワタシタチハ、ニホンゴヲ、ベンキョウシテイマス。」
「僕たちは受験をして大学に行くつもりだけど、大学終わったら兵役に行くんだ。」
「日本人は歴史を知らなさ過ぎる」
「韓国人はみんな南北朝鮮の統一を願っているんだ。」
「金日成についてどう思う?」

バブル時のオバカな日本人学生(私)には、ついていけない話題である。
かたやフツウの高校生、かたやいちおう国際関係学部の学生である。

もちろん高校生らしいバカな話題もあった。
ゴーカートで対決したり、流行歌手や女の子の話、屋台で韓国のどぶろくをいたずらして飲んだり。

韓国の子たちってオトナだなぁ・・・・。
ワカモノたちとの交流も味わい深いものがあった。


ソウルの町はエネルギッシュだった。
明洞の街を歩くと、学生が座り込んで集会をしていた。
リーダーがスピーカーを持って何かを叫ぶと、一斉に 「オーッ!」と雄叫びがあがる。

街角の所々に兵士が銃を肩に担いで立っていた。
「軍隊を持つ国ってすごいなぁ。」
日本では銃を見ることなど無い私は、こんな熱い街の様子を何も疑問に思わなかった。

楽しいソウル滞在が終わり、プサンに戻るべく、バスに乗った。
バスの中でおじさんが新聞の一面を指し、私に何か言った。
ソウルでなにかあったらしい。

私がソウルを出た日、ソウルで大きな暴動があったことを知ったのは、私が帰国してからだった。

ソウルのテレビ局が占拠されたり、爆破事件も起こった。炎上するビルの映像。私が泊まった汚いドミトリーの近くである。
学生運動や、あの兵士たちの様子は、非常事態だったのだ。

ソウルオリンピック直前。

韓国は間違いなくエネルギッシュで熱い国だった。


(韓国 初めての海外一人旅編 終わり)



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