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| ●ロマンの人 小沢一仙 | |||||||||
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伊豆松崎の偉大な夢人物
小沢一仙 |
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| 1.石田半兵衛一族 小沢一仙は、天保元年(1830)石田半兵衛の次男(長男は幼くして没)として、豆州那賀郡江奈村に生まれた。男6人、女1人の兄弟妹であった。本名を石田馬次郎、彫刻の号は信秀といった。屋号を「江奈の札場」で、掛川藩江奈陣屋の高札場が傍にあったからである。 半兵衛の名は世襲され、代々宮大工をしていた。一家は四男の平太郎を除き、男は彫刻をした。彫刻号であるが、半兵衛は邦秀、三男富次郎は希道・永秀、五男徳蔵は俊秀、福田姓を名乗った。また十代なかばで早世した金次郎も彫刻の仕事をした。 彼等のノミさばきは見事で、各地の神社仏閣に名作を残している。下田の白浜神社、伊東の木宮神社の据屋台、三島大社の向拝、真鶴の貴船神社、富士の実相寺、身延の清正公堂など、伊豆はもちろん相模、甲州各地に一家をあげて活躍した。 母は、札場と道ひとつ隔てた「山田屋」(紺屋ともいう)の生まれで、名をよねといった。半兵衛七十歳の書状が山田屋にあるが、「国元は参りたいと思うが出来かねる」とあり、一仙が偽勅使事件で打ち首となった遠慮であろうと思われる。「願わくば故郷で死にたい」としながらも明治四年(1871)71歳、名工は甲州の地で亡くなった。 山田屋の福本要蔵はよねの兄で、留守がちの半兵衛一家はここを頼ることが多かった。建白書稿など在存したと伝えられるが、残念ながら今はない。 2.修業、甲州入り 石田馬次郎が、いつ、どこで、どんな理由で小沢一仙と名のったか詳かでない。甲州には安政二年(1855)山梨市の清白寺にいたという。安政4年9月の桧峰神社の棟札に「江奈浦札場住、細物師小沢一仙信秀」とあるのが文献上最初のものであろうか。ではどうして甲州との縁が生じたのであろうか。 黒船到来の嘉永六年(1853年)は、日本にとって大変の始まりだった。もちろんその前の天明、天保の飢饉も伏線として存在した。品川台場(砲台)の築造を提案したのは江川太郎左衛門(坦庵)だった。築造には膨大な石と石工を必要とした。 韮山代官の治める土地は、伊豆にとどまらず、武蔵、相模、駿河、甲州まで及んでいた。一方甲州の天野開三の私有地も伊豆にも点在した。そんなことから築蔵石の請負人に開三は選ばれた。運搬には海上が便利で、その伊豆石さがしに各地を歩いた。江奈の名工半兵衛一族がいることを知り、桧峰神社神主武藤外記や甲州に紹介したという。余談だが安政地震の際、津波によって流失した下田の町に、米五百俵、鍋百七十六布団五百枚を贈ったのは、この開三である。また甲州では江川のことを「世直し大明神」とも称していた。 掛川藩主で幕末老中などした太田資始(道醇)に、一仙が「無難車船建白書」を提出したのは安政四年であった。文中自分のことを「幼年の時、論語二巻の素読を受けたのみで、その余は耳眼鼻口の修業」と謙虚に述べている。宮大工という職業柄、土地の有力者、神主、僧侶などに容易に出会える。世の中の動きを敏感にキャッチできる身分である。一仙は、ノミの手を休めず、その器用さから次々と各方面に改革案を提案していく。 建白書に「恩師の言葉あり」の恩師とは、武藤外記と思われる。山梨県東八代郡御坂町黒駒に神座山桧峰神社はあり、甲州有数の名門神社である。 3.無難車船 黒船到来時の一仙の年齢は、二十四歳(数え年)である。無難車船を建白したのは二十八歳ということになる。自ら目黒船を見聞きしたであろうし、ロシア船ディアナ号遭難の代船「戸田号」(洋式帆船)の情報も得ていただろう。だから無難車船は、幼稚な設計ではなかった筈だ。 これを読み、掛川藩主太田資始は、一仙の奇才を用いるべく百石侍の資格で抱えた。江戸桜田にある太田侯の上屋敷に出入りを許され、勝手御用掛(外国御用取扱)の老中資始のもとで江戸に来る外国人を自邸に招いて意見を交換する様を見聞した。資始は熱心な開国論者で、通商許可の立場にあった。諸外国を知ることで、一仙は磨かれた。 資始は、安政の大獄に遭遇して、老中解任となるのである。支えを失った一仙は、私財を投げうって無難車船を江奈寄州(一仙旅館付近)で造ったのは文久二年(1862年)であった。 それまでの掛川までの物資の輸送は、まず清水港まで船で、それよりは陸路をとっていた。これを遠州灘を航行できるものとし、遠州川崎まで直接行こうとするものである。逆風、大波でも厭わないもので、将来は蒸気を動力にするが、当面は人力に頼ることにした。この船の面白いのは、海波の起伏を前進エネルギーとする工夫である。船の両側中ほどに大車、次ぎに小車、それと梶場よりすこし前のひと間に横向きに小車を付け、方向を左右自在にする工夫もあったという。しかし進水してみると、木造機械が船の大半をしめて思うようにならず、シラス船に助けられた。 その失敗を改良、翌年江戸本所の竹蔵で試験して大体成功している。これを慶応三年に琵琶湖運河に活用しようとするのである。 一仙の多才さは、土木、造園、運搬、理財、産業、軍事にも及び、掛川、仙台、加賀、対馬の各藩、三卿の田安家にも参与しようとしているのである。 4.琵琶湖運河 琵琶湖運河は、平清盛も計画したことがあり、幾度となく試られた。一仙は、慶応二年(1866年)江湖掘割建白書を発表する。中国、四国、九州その他の諸侯が、自給自足の策をたてている。そのため江戸、大阪の物資は減じ、物価騰貴は著しい。それに松前、奥羽、北陸の産物を北前船で遠く馬関(下関)に回していては時間も運賃も大変である。この際、敦賀港から湖畔の塩津までの四里余り(18km位)を堀割って運河としたい。更に瀬田川を伏見まで開通させ、京都、大阪に連絡するなら大いに窮状は緩和されるだろうが、主旨である。 この背景には長州事件(征長問題等)もあり、関門海峡で事件が起こるなら都市生活がおぼつかなるおそれがあったからだ。 北側(敦賀〜塩津)は、加賀百万石の前田侯の後援、南側はコウノ池の財力を頼よろうとした。北側の予算は177万2359両2分が見積られた。工事がどこまで進捗したかであるが、完全なまでの設計図は出来ていた。有名な測量士石黒信基らの手になるものである。湖面の高さ86.9mは精度の高いものだという。閘門式運河である。 山田屋に寄せた半兵衛の書状に、身延を発ち徳蔵と八月九日(慶応三年)金沢着。一仙は留守だったが、前田侯より紋付きの反物二反と百二十五両を拝領したとある。機械類は一仙手作りで、十分の一の模型にしてあった。また一仙が加賀藩にあてた手紙には、敦賀の利根屋に鉄造車両、釘、金具類を発注、海津におよそ百坪を借地、二百両を前受けして、とりかかれば二十日間ほどで完成させると書いている。 だが大政奉還など維新への急傾斜で、工事は本格化するまでに至らなかった。それに一仙のようにオールマイテイー型人間は、じっと雲が通り過ぎるのを待つことが出来ない。維新に全能力、人脈を活かす時期到来とみた。 5.偽勅使事件 (1) 一仙の生涯を見る時、偽勅使事件に重きをおく人が多い。しかし私は琵琶湖運河を挙げる。 特に山梨県では騙されたという印象が強く、この事件から離れられず総体をとらえる研究がなされていないのは残念である。 一仙が琵琶湖から京都に出たのは十月あたりだ。土佐藩の大政奉還建白、薩長への討幕の密勅、暗殺の横行など、正に風雲急を告げていた。 偽勅使事件の構想は、一仙単独説が多い、しかし岡谷繁実と武藤外記一族を忘れてはならない。岡谷は館林藩の重要人物で、中老格、高島砲術の修得、壤夷策の建言と勅使の東下奉上、山陵修復、征長図避の周旋、江戸遷都論、寒香園、正倉院に天皇案内、修史館で史料編纂、金沢文庫再興や「名将言行録」の著作などもある。吉田松陰、高杉晋作とも通じていたという。館林藩主秋元志朝が周防徳山藩主毛利家からの養子であったことから長州と深い縁があった。 一方、武藤外記にも母方の祖父に栄名井聡翁という人物がいる。明治維新の礎となったと伝えられる「山県大弐事件」に連座して追放処分となるが、和歌の道に秀れ各地に門下生がいた。岩倉具選とは意気統合した仲で、具選は具視の先祖である。「仏敵先生」と呼ばれ、神教を強烈に布教した。天皇家が天照大明神を祖とすることから、神主を集めて勤王の道をつくった人といえる。一仙は、武藤家厄介と称し、外記の長男藤太の弟分として扱われている。「甲斐国尽中次第」には、甲州武神主小沢一仙名乗っている。 偽勅条目として糾弾されたものはどんなものかというと、年貢半減令と武田信玄旧政復古が骨子となる十ヶ条である。甲州は勝頼以来天領となり、甲府城は勤番侍、他は大名、旗本、代官の飛地で一国をなしていなかった。この条目は民心收攬の道具としか言いようがないが、朝廷内で検討されていた事実がある。 5.偽勅使事件(2) 京都は必戦ムードの中、高松実村を中心として一仙や岡谷は同志を集め、慶応三年暮れより出兵の準備をした。当時の志士たちは、名分を明らかにすると称して少壮公卿を総帥に擁立した。公家は千載一遇の好機ととらえ、自家興隆、長い間の権力恢復の潜在意識もあって意欲を燃やした。高松家の当主は保実で、扶持三百五十四石、三位卿、公家の中級に位置していた。実村は二十七歳であった。 実村を総帥、一仙は後見人役となり小沢雅楽助(うたのすけ)、『雅楽』は武藤家でよく使われる世襲名、家老職斯波弾正(岡谷繁実)、勘定奉行小沢金吾(石田平太郎)などの一隊を「高松殿」と呼ぶ。目的は「国内騒乱となれば諸民の苦しみが大きくなる。鎮撫のため兵力を用いないよう逸早く行動しなければならない。それには、甲府は関東を抑える要衝の地であるから、そこを収めたい」というものである。 高松家と武藤家は書状を交す間柄。西郷隆盛と岡谷は知己の間柄だったという。高松を通じてであろうが、一仙の御所出入りは注目に価する。 高松殿が京都を発つのは、慶応四年一月十八日早朝である。その前十六日の段階で「明日は表向きの御沙汰になるよう取り計らう」と三条実美は約束をしている。十七日に御所より呼びだしがあって保実がでると「にわかに御評議が変わったので思い止まるよう」と申し渡される。保実はこのことを一同に伝えると「今さらこれで止めるのは残念、思い止まることは出来ません」の意向に、再び保実は実美に願い出るのである。実村は「なら直接岩倉具視に願え」となり、御所で一仙と実村は、具視に会うのである。顔面朱となり屏風を転倒させるまでの激論したことが伝えられている。 保実に智謀の箇条と言わせた条目が勅宣となれなかったのは、一月十七日「三職七科」が決まり、新政府の自信萌芽の日か。 5.偽勅使事件(3) 踊り狂わす「ええじゃないか」も神符の降札も、世論を引き入れようと努めた新政府の策略のようである。西郷が提唱した年貢半減令は、豪商に借金をしなければ戦えない財政に反古としなければならなかった。理路整然と明治維新がなされたかに思われるが、刺客が命をねらう狂気の時代でもあるのだ。「勝てば官軍」策略は手段を選ばない。 年貢半減令をもって進む隊に「赤報隊」がある。西郷の命令で江戸を騒乱、幕府に手をださせ、討幕の大義名分を引き出した、「薩邸焼打ち事件」にかかわった相楽総三が隊長である。これも滋野井、綾小路の二卿をかついでいる。赤報隊の結成は一月七日であるので、一仙が焦った理由がこの辺にもあるように思われる。赤報隊と高松殿とは大垣藩の交渉を相方でかかわったくらい西郷との縁を感じる。赤報隊は中山道を、高松殿は甲府街道を目指す。 話しを戻すが一月二十日彦根藩と接衝する。武器、軍資金、兵士、人足の提供を受けて「官軍鎮撫隊」の形を整えた。京都を出た時は十四人だったが、徐々に隊は大きくなっていく。「戦わんと欲せば戦え、降らんと欲せば降れ、兵糧なくば貸さん。無睾の民をして兵火にかからしむなかれ」と声高に呼ばわって進んだという。当時の信州、甲州の各藩は、日和見主義をきめこみ、抵抗なく恭順した。彦根藩も幕府がした減禄の不満から協力を惜しまなかった。 二月十日岡谷は「江戸を抜くのは後にし、まず横浜を掃壌せん」と演説した。それには錦旗と綸旨が必要なので、平太郎ともう一人を京都へやった。 この返事ではないはずだが、保実から書状が届いた。「近々綸旨錦旗を取りはからう。中山、三条大納言の内令を取りつけた」というのである。これに意気あがり、本隊は甲府に乗り込む。 一仙は先触隊長となって本隊より先に甲府に着いている。 5.偽勅使事件(4) 「攘夷」というキーワードは、不可能を承知の上で、民意をまとめやすいスローガンとして、高杉晋作らが掲げたとする説がある。幕府軍はフランス、官軍はイギリスの蔭の指導で、動いていたのだから、横浜掃壌演説の岡谷は、蚊帳の外にいたのだ。 1)岡谷は、あの演説が「偽勅使」となった原因としている。だが先の使いが京都に着くはずがない。 2)二月十日付で出された信州への回章(これは赤報隊と共通か)によれば「幼稚な公達を欺し、総督府の先鋒隊と偽り、金 をむさぼり、その狼籍…」と決めつけられ、赤報隊は偽官軍、高松殿は偽勅使となるのである。 3)二月十一日いよいよ甲府城代と本格的折衝となった。このとき東海道鎮撫使の使者黒部治部之助が来て「偽勅使」と断定されたとするものと、 4)高松殿側の言い分として「もとより脱走の身なれば鎮撫使に引き渡すのが妥当」と甲府 順はこれに任せたとある。 強い断定なら十五日まで石和、谷村まで進むはずはないのだが、反乱軍を鎮圧してから引き返している。蔦木宿で大方は解散した。一仙はここまで同行するが、東海道を京に出たいと平太郎と引き戻る。韮崎辺を通行中、幕府の役人に捕えられたのは二月十八日である。牢中にあって代官にあてた言上書には「高松殿の恥辱は即ち朝廷の恥辱、…京都で公明正大なご処置を」と書き、無罪の自信のほどを示している。 三月十四日「止むを得ず打首」となり 梟首された。墓は武藤家敷と身延の職人仲間の暮地、常福寺にある。首は前者、胴体は後者に葬られたという。首斬人は幕府の役人か分からないが、罪としたのは板垣退助らの官軍側である。 江戸城開城の功は、高松殿が第一とする評がある。相楽総三は子孫と長谷川伸の粘り強さで汚名を雪いだ。我が一仙の冤罪は何時晴れるのか。「惜しからん命なれども惜しかりき尽くす心の仇となりせば」を辞世に、三十九歳の命は露と消えた。 文責 小沢一仙研究家 松本晴雄 |
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