ヨットによる単独無寄港世界一周を目指し、1993年の10月伊豆松崎港を出港した白石鉱次郎君は1994年3月28日に帰港。176日と3時間59分47秒で4万6,115kmを走りぬき、見事『史上最年少記録』を達成した。町内外の支援者数百人の歓迎を受け、帰港式典が波止場に於いて盛大に行なわれた。
当日の夕刻「松崎プリンスホテル」での祝賀会で鉱次郎君は次ぎのように述べた。
『世界を一周した実感がないので、あまり言葉もないのですけれど……。最初に松崎に来たのは…、シドニー(オーストラリア)から多田さん(今は亡き師匠)の船を譲り受けて、当てもなく日本に向けて走ってきました。寄港地も何も決まっていなかったんです。多田さんの知りあいということで、岡村造船の(社長)彰夫さんを知っていたものですから、ただそれだけのつながりだったんです。無線で相談して『停泊するところがないんで、松崎に入ってもいいですか』と言って、松崎に寄ったわけです。
僕は無寄港世界一周をやりたかったんです。理由はありませんが、どうしてもやりたかったんです。難しい記録等どうでもよかったんです。最初はスポンサーを見つけるなんて生意気なことを言っていましたが、バブル崩壊もあり、実力もなく、どこの馬の骨ともわからぬ人間にスポンサーなどつくはずありませんでした。
岡村造船さんに、すごいお願いをしたんです。『僕は一銭のお金もありません。でも、どうしても世界一周をしたいんです。船に安定感が欠けるので直したいんです。』と頼みました。彰夫さんは『俺はもともとそのつもりだったんだ』と言われ、助けてもらいました。(弟の)宗一さんや奥さんからは『頑張ってくれ』と励まされ、本当に有難いと思っています。


それからキール(船の重し)ですが、西里さん(静岡のステンレス加工)にも厚かましいお願いをした『帰って来てから何とかしますから…』と無茶を言いました。西里さんは「鉱ちゃん、そんなこといいから見んなでがんばろう』と言ってくださいました。
僕には何もなかったんですが、本当に素晴しい人たちに応援していただきました。ただ頭をさげて協力してもらい、それで今日が出来ました。
2回目の失敗の時でした。バックステイ(船のマストを後ろから支えるワイヤー)が切れ、それでも一周したいと無茶を言ったものでした。日本には帰らないつもりでした。でもこのまま死んだのでは皆様に申しわけないと思い、もどって来ました。そのときも今日と同じくらい海は荒れていました。一昨年の暮れの30日だったと思います。
岸壁に岡村造船の彰夫さんをはじめ大勢の人達が待っていてくれたのです。思い出すと涙
が出るくらい印象深いです。
僕はあやまることしか出来なかった。彰夫さんは『何もいうな』とだけ言ってくれました。2回も失敗をして追い出されてもよい僕だったけれど、本当によく面倒をみていただきました。町の皆さんには飯を食わせてもらったり、ガスを2k余分にもらったり、金具を一つ譲ってもらったり、いろいろお世話になりました。世界一周なんてそんなにすごいことでもないけれど一文無しの僕が出来たということは…。
皆さんの顔を見る事が出来て本当に嬉しいです。こんな僕を拾っていただきまして、ありがとうございます。』
彼は原稿も持たず、思いのままの言葉で参加者の胸を打った。『夢を担保にした航海』である。白石君の素直な心そのものが出会う人に感動を生ませ、そしてその輪が地球を一周させたのである。私は「愛情と友情の粋(すい)が募り、成功した」と表現したい。


【出会い】
西伊豆・松崎に唯、一つヨットクラブがある。名前は「モンテナイトヨットクラブ」。自然に興味ある同級生たちで小さなヨット(ディンギー)を購入し、夏になると松崎の海でセーリングを楽しむのである。今はクルーザーまでも所有し、「黒船カップレース」にも参加している。
このヨットクラブも10周年を迎えたのだが、いまだ近隣でヨットクラブの所在を聞かないのは「実にもったいない」残念なことである。特に5月から7月にかけては海を独占でき、西伊豆の素晴しい海を使用できる。早く地元の仲間と海の上で声を掛け合うようになりたいものだ。
このようなヨットクラブに1992年2月、一人の青年が入会を申し込んできた。名前は『白石鉱次郎』。今あるヨットを改造して世界一周に挑戦したいという。そして、「僕は松崎が好きだから、ここのヨットクラブ所属で出港したい」というのだ。
私は前年たまたま東京であったことがあることと、岡村造船所からの紹介ということで、早速仲間を集め、入会を承諾してもらった。
改造は5月末から始まったが、改造には莫大な費用と労力を必要とした。当然のことながら無一文から始めるにはスポンサーが頼りである。しかし、無名の白石君に簡単に支援してくれる企業はなかった。それでも作業は進められた。
彼が熱く語るには、4ヶ月で完成させたい。そして10月には出港し、来年の5月に帰れば(25歳)ギネスに最年少として載るという。《記録はフランス人・27歳》
2年後に待つ世界一周レース(BOC)に出場するためにも、最初で最後のチャンスであると言うのだ。50フィート(約15m)もあるヨットをバラバラに解体し、バラスト(船底につく大きな重し)も作り変えるという。新艇を造ると同様に経費のかかる計画であった。


スポンサー探しに東奔西走する後ろ姿に、最初に首を縦にふったのは、岡村彰夫社長である。納期の迫った仕事の合間をみては、家族一丸となって改造の手伝いをしてくれた。白石君を我が子と思うまなざしがある。
ヨットクラブの仲間やJC仲間、時には地元海洋クラブ委員たちも時間が出来ると浜に集まってきた。子ども達は外板のパテを削るなど本当によくやってくれた。作業が一段落するとヨットの上で世界一周の話しや食料のことなど、目を輝かせながら質問していた。多くうの人々の手によって3ヵ月余り、大体の形が見えてきた。
スポンサーもこちらの様子をみるようにして、数件の協力が得られた。心配なのは本人だけではない。毎日顔を合わせる仲間もホッと胸を撫で下ろした。
資金の目処もつき、完成に向けて全力投球の日々が続く。友人たちも清水、東京、大阪等、遠方から手伝いに来てくれる。白石君一人ではとうてい間に合わない仕事量であった。彼の人脈と人柄が、目的の10月出航に合わせ完成されていく。何人が何回船肌を撫でたことだろう。50フィートの艇がいとおしい血の通った大魚に見えてくる。

準備そして出航
200日に及ぶヨット生活では、どうしても食事や健康管理が大切になる。パックご飯、レトルト食品が中心なのだが、単身生活者の多い現代の世情で急速に発達したこれらの食品で、カロリーも申し分ないものになった。それに数年前よりはるかに美味しい。数ヵ月たっても海上で「冷奴」も食することができるのである。
ただ問題なのは、生野菜である。南伊豆にある下田南高校の名高先生に船内で野菜を栽培出来ないものかと事情を相談した。大きな問題は「塩害」と「船の揺れ」であるという。現代ではたいていのものがロックウールで栽培することができ、学校ではメロンも作っていた。そこで可能性の高い「カイワレダイコン」に決まった。また西伊豆町のプランテーション真芸家の石川さんにも協力していただき「プチトマト」も挑戦をあうることにした。船の上でとれたての生のトマトやカイワレダイコンを食せることができたら、栄養的にも精神的にもどんなにか助かることだろう。このような事柄は多くの違う分野の人々の総合、即ち知恵の出し合いよって出来ることをつくづく感じた。
陸上で「ちょっと忘れた、そく電話」という訳にはいかない。あらゆる事を想定し、何回も何回もチェックをして水や食料、資材を積み込むのだ。

夢航海二度の仕切直し
1992年10月25日、白石鉱次郎君は神奈川県三浦半島の三崎港沖より世界一周に向かった。植村公子さんを代表とする白石君支援グループ。母校、三崎水産高校の後輩たち。ヨット仲間、他にも我々や支援する数百人の見送りの中、元気よく出発した。
西伊豆青年会議所とモンテナイトヨットクラブで結成されている『夢航海支援グループ』の航行記録も同時に始まった。また全国(海上やアメリカ、オーストラリアも含む)の無線仲間(時間と共通の周波数を約束したネットワークを持つもので、無線の免許があれば当然だれでも利用できる)のおかげで、白石君のように外洋にでる者にとってどれだけ心強いか計り知れない。ましてや単独無寄港、孤独からの救いとなる。
我々も西伊豆青年会議所の事務局にOB会員の関さん所有の無線機を設置、また隣の近藤次郎氏宅の空き地に無償で電柱を設置させていただき、アンテナを立てる。グループの中に7名の無線の免許を所有しているので心強い。
毎日、無線によって現在位置、天候、健康状態等を確認するのだが、電波のコンディションによって確認しにくい時間、場所がある。近距離もいがいと悪く数日たつと(ある程度離れる)だんだんと良くなり、何とか確認できる状態になった。まったく取れない場合はアルゴスシステムという衛星を利用して位置を確認する。(このお陰で安心してサポートできたが、非常に経費がかかる)

荒れ狂う海、気の抜けない船内生活
三崎を出ると、60ノットオーバー(風速30m、大型台風なみ)の風が吹き、波はほとんど5m前後で時化状態である。ウインドベーン(風によって船を操作する機械)の羽根もすぐに吹き飛んでしまったという。船も何度か倒されたようだが、キール(船の下中央ぶにつく大きな重し)の改造によって前より数段安定しているようだ。白石君も安心して走らせているらしいが、パンチング(波やうねりから受ける船内に伝わるショック)が激しいというので大変さが予想される。
一人で地球を一回りするには、数え切れない仕事を一手の引き受けることになる。その大きな味方がハイテク器材である。GPS(衛星を利用して現在位置がわかる)、気象ファックス(世界の気象が送られる)、レーダー(前方、後方の障害物、島などが見分けられる)、無線(現在の状況を伝えたり、必要な情報を得たり、時には励まされたりする)ソーラーシステム8必要なエネルギーを太陽から得る。晴天のみであるが赤道近辺では冷蔵庫を利用して氷もつくることができる)、まだまだ多くの最新型の器材を利用することで、仕事量はカバーすることができるのである。しかしこれを操作するのは彼自身であって、だれも助けることは出来ない。したがって陸上生活とはかけ離れたローテーションを組むことになる。連続して2時間以上眠れないのだ。三崎をスタートしてから3日間は一睡も出来なかったという。風の弱い追っての時はスピーカーを張り、デッキ(船上)を跳ね回り<嵐の時は船内でじっと耐えるのである。

ミニ戦艦・ユーコー号、そして相次ぐトラブル発生
 世界一周を目指すヨットは、全てにおいて頑丈でなければならない。近海をクルージングするヨットは内装も素晴しく、ベットも寝心地のよいものである。しかし、ユーコー号のベットは吊板にマット、床板はなく、あばら骨がむきだし。シンプルなつくりである。だが想像を絶する自然の力に屈することなく、あらゆる自然で適応しようとする設計はさすがである。また多くの部品は異常なほどの厚さ、大きさである。それでも自然は過酷で容赦はしない。何か手抜きはないかと付きまとうのだ。妥協は絶対許さない。そして今回もその洗礼を受けたのだ。
快調に南下するスピリットオブユーコーと早朝ワッチしていた北海道の方から朝、早く電話が入った。「ラダー(舵)の故障で、今応急処置をしている。」との事だった。事務局で早朝無線にかじりつく。白石君から連絡が入る。「10月1日夜、サイパンの東方まで南下。突然ラダーが重くなったので船内をチェックしたが、異常がないので船底に潜ってみるとスケグ(舵を守る突起物)に取り付けられていたボルトが脱落し、それが舵の抵抗になっていた。そして朝もう一度潜り応急処置を行なった。」とのことだった。また疲労困憊しているところに、アルゴスがショートし、煙りを出しはじめたとのことだった。これは我々にとっても、また多くのサポートしている関係者にとっても重大な出来事であった。

勇気ある決断の時
白石君は中学校の時以来、『勇気』という言葉を使った事がないと言い切った。「勇気では世界一周なんてできませによ。200日間緊張と決断の連続です。勇気なんか使ったら体が持ちません。」しかし、スタートしたばかりの彼に、早速、かつて経験したことのない決断の時が迫った。「このまま行きたい!8年間この日のためにガンバッテきたのだ!引き返せない。何百人の支援のお陰でいま太平洋にいるんだ!」と彼は言い張った。そして丸半日考えたのだ。『一度引き返して修理をし、再度出航しよう』と、その切なさに涙がこぼれ、かれるまで止まらなかったという。
サポートしている諸先輩、我々も同様に彼の『勇気ある決断』の敬意を表わし、艇と本人の帰港を待たずして、早速修理の手はずに取りかかった。


松崎に全員集合!そして再び出航
小笠原で台風を避け、松崎に着いた最初の日曜日は各方面から諸先輩、電機関係の人、ラダーをなおす職人、心配していた人々で船の周りは溢れてしまった。西伊豆青年会議所やモンテナイトヨットクラブの仲間たちは、次ぎの週に仕事を回し船を見守っていた。この港を出てから1カ月もたたないのに、船の痛みは大変なものだった。
まだ太平洋に挨拶する程度なのに、自然の力に驚かされた。2週間もすると全てが元通りに、いや、はるかに頑丈な船に生き返った。食料も大分入れ替え、全てに防水をした。
12月6日、再度三崎港より鉱次郎君は世界に向かって出航した。我々も誰ひとり不安を持つようなことなく気持ちよく見送った。今年のクリスマスは赤道を越え、フィジー諸島に向かって南下し、来年の6月前後に日本に着くだろうと思ったのだが、またもやサイパン沖でアクシデントにみまわれた。今度はバックスティーが切断されてしまったのだ。今度は涙どころではない。完全に虚脱状態である。「会わせる顔がない」と彼は言う。無線でいろいろなアドバイスを得る。しかし、最後の判断は岡村社長だ。白石君は私に「彰夫さん(岡村社長)を呼んで下さい」…と。一報は岡村へと入れられた。
社長は東京の支援グループとまず電話で内容を把握する。そして本人からの状況を聞く。岡村社長はマイクに向かって「帰って来い!」…。「安全航海で小笠原に向かいなさい」と。そして東京の支援者より切断されたものと同じ長さのワイヤーが小笠原に送られた。とうとう正月は日本で迎えるはめになった。
松崎港に戻ると、さっそくスプリットオブユーコーはドック入りである。
季節的にもギリギリ(南半球が夏の季節に航海する)で挑戦したため、また直ぐに出航することは不可能である。したがって「僕は半年ほどアルバイトをして来ます」と言って松崎を去った。そしてその先で次ぎのような原稿を私宛に送って来た。

<モンテナイト・ヨットクラブ・スプリットオブユーコー・白石鉱次郎>
「昨年10月25日、僕は世界一周に向けて出航した。大勢の人達が見送りに来てくださった。あのときの気持ちは不思議とあまり覚えていないが、まさか失敗するとは思っても見なかった。今から考えれば少々力が入り過ぎていたかもしれない。ちょうど海もひどく荒れていた。僕の運のなさ、つまり実力のなさでは厳しい海に耐えるはずがなかったように思う。
11月2日、北緯17度41分、東経148度55分、昨夜よりラダーがおかしいので夜明けを待って点検した。予想どうりの原因だった。ラダーシャフトの受け皿のボルトが脱落し、ラダーに引っかかり、舵がきかなくなっていた。潜って応急処置をしたが、所詮応急にしかすぎなかった。これから行く南氷洋で同じトラブルがおきたら終わりである。そう思い引き返すしかないと判断したのである。そのとき、自分の頭の中は、すごく冷静であり、的確な処置をしたのだが、無線で報告する声は泣き声であった。とても冷静にしゃべっているつもりなのだが、息は荒く、涙が止まらず流れてくる。自分ではその涙を止めることが出来なかった。確か、わが師、多田さんがシドニーでBOCレースのリタイヤを決めた時にも同じ様なことがあった。プロペラの封印を切った時、帰り道の車のなかで運転しながら一日中涙が止まらなかったことを覚えている。とにかくあの時も一生懸命であった。がむしゃらに前進し、がんばっていた。突然、前進出来なくなった時は、自分自身でも感情がこらえきれないのだろう。頭が冷静であっても感情が出てくる、それだけ悔しかったのだと思う。


12月6日、再度三崎を出航した。いつものように、ジョークを言いながら、また正月に会いましょうなどと言った。まさか本当になるとは夢にも思わなかったのである。
12月15日、北緯21度03分、東経151度53分、真夜中、バックスティが音をたててデッキに落ちてきた。直ぐにセールダウンし、チェックスティーを両舷張った。幸いマストは折れずにすんだ。夜明けと共にロープをバックスティーに仮に張り、上に残ったインシュレーターをマストに括り着けた。茫然である。
何とか走れると思う反面、引き返して修理をしなければならないと思うことと、心の中で葛藤が続いた。とにかく西の方面にある日本には帰りたくなかった。東にある日本が僕の目指す日本であると決意していた。無線で何とか前進したい、と言ったが、全員反対した。今度ばかりは、あまり泣く元気もなく、ただただ茫然という感じであった。何とか前進するキッカケが欲しかった。自分では引き返した方が良い、中途半端では世界一周など出来ないと分かっていたが、とにかく西の日本には帰りたくなかった。そんな時、無線で一人の人がこんなことを言ってくれた。「鉱ちゃんの目標は何であるか。よーく考えたほうがよい」。
僕の目標は、単独無寄港世界一周である。かっこよく前進することでも壮絶に海で死ぬことでもない。どんなに恥じをかくことになっても、人にいろいろ言われようとも、目的に向かってすすむのが自分自身の道であることに気付いた。かなり長い時間、海の上で考えてやっと決心がついたのである。そして松崎港へ引き返すことにした。小笠原まで急ぎでバックスティーを送っていただき、年末までに帰港することができた。
12月30日、大西が吹き荒れていた。その忙しい中にもかかわらず岸壁には、岡村造船の社長やYC顧問でもある宋一さん、モンテのメンバーや懐かしい人達が待っていてくれた。ただ言葉がなく、「すみません」と言うしかなかった。その時社長が「何にも言うな!」と言ってくれた。あの時の思いは一生忘れられないと思うし、決して忘れてはならないことだと思う。
振り返って見ると、計画に多少無理があったのではないかと思う。時間も金もなさすぎた。考えが甘かったかもしれない。反省点はいくらも出てくる。もっと夢に対して貪欲にならねばならないと思う。あまり周囲のことを気にし過ぎてもよくないようだ。お金のことについても、皆に悪いからと必要以下になっても成功には繋がらない。人にがめついと言われるのを恐れたりしていては、とてもつとまることではない。とにかく、なんと言われてもしかたないのだし、成功するためには、多少の批判も覚悟しなければならない。全員が応援してくれるなどと考えるほうがチョット都合が良すぎたのではないかと思う。
まだまだ学ぶことが、多いようである。駆け出しの青二才が、いきがっていたように思えて恥ずかしいかぎりである。皆様にお詫びのしようもない。
もう一つ、大切なことが欠けていたように思った。彼女(ユーコー)に対しての愛情である。二度の失敗をし、岡村造船の社長に対して「愛情が足りなかったのではないか」ともらした。そうしたら社長は、こんなことを言ってくれた。「鉱ちゃんは船の尻を叩きながら走っているようだ」そう言ってくれた。それを聞いたとき、とてもショックだった。ズバリ当たっているような気がした。彼女は、すでに地球を一周している。決して若くはないのである。確かに僕は彼女に対して労りが足りなかったと思う。
思えばこの4年間付き合ってきた。自分達で造り、BOCレースでは他の船の素晴しさを知り、いつしか文句ばかり言っていたような気がする。しかし、シドニーから持ってくるときは、自分で1カ月前から住み、整備して、初めてのシングルハンドでもあったので命を共にと覚悟もした時もあった。その時はとても順調に航海ができた。
松崎に持ってきた時、やることが多く、欠陥だらけだったので、いつしかまた彼女の悪口ばかり言っていたような気がする。忙しさにかまけて、船の磨きを見んなに任せっきりにし、別のところに住み、今考えると明らかに僕の愛情不足である。シドニーからの航海があまりにもうまく行きすぎたせいもあって、少々なめてかかっていたかもしれない。
半年間、彼女と離れて、資金を稼ぐためにアルバイトに船に乗った。アルバイトの、もうすぐ終わりに近づいた時、彼女の係留してある安良里(あらり)港へその船が入港した。
新緑のまぶしい小雨の中、彼女を見たときとてもいとおしく思った。こんなに彼女を好きに思えたことはなかった。やっぱり心の中では彼女のことを、愛しているのだと思い、自分自身とてもほっとした。
そして今、セールも新しくなり、リギンも新品にした。いつものことだが、資金てきには苦しいが、出来るだけのことはやってみようと思う。心に何の迷いもない。
ヨットクラブの皆様や松崎の人達、岡村造船所、そのほか大勢の人達が、二度失敗をしたこの僕を見捨てずに応援してくださっている。本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。夢な大きな現実の上に成り立っている。その現実を皆様が支えてくれている。幸い僕も彼女もまだ走れます。どうか走れるところまで走らせて下さい。ぼくには夢に向かって前進することしかできません。東にある日本へ向かって、少しでも近づいていきます。
誠に勝ってなお願いですが、自分自身納得がいくまで走らせて下さい。本当に応援ありがとうございます」と書いてあった。…
そして三度目の出航の時がきた。 


<単独無寄港世界一周スタート>
1993年10月3日、午前10時21分08秒。町内外の200名余りの支援者に送られ、元気に松崎沖より出航した。白石鉱次郎君は今回で三度目の挑戦である。二度の大きなトラブルが起きても支援者は増えるばかりである。それは彼のもつ人柄にほれるものや、夢を追う彼の姿に期待をこめるもの、そして勇気ある撤退を評価した仲間だと思う。
200日に及ぶ航海はスタートした。やはり台風には今回も苦労したようだ。19号、20号も大型であった。本土にはあまり影響がなかったが、海上での波、風は大変なものだったに違いない。しかし、特別なトラブルもないようだ。
松崎港を出航してから20日余り、我々は外洋にでた白石君へもう物理的なサポートは出来ない。したがって無線の交信でのサポートだけである。
無線を設置した西伊豆青年会議所の事務局には船に積んだ食料、医薬品のリストがあり、海図、気象ファックス等をチェックしたり、支援者達の言葉を伝える準備をする。
現在、無事赤道を通過。健康状態も船酔いを始め、風邪、腹痛、打撲と数々の状況が伝わってきたが、比較的体調も良く、元気であるようだ。しかし「赤道無風帯」という言葉があるように風をなかなかつかめないらしい。無線で聞くかぎりでは「道路の渋滞と同じでイライラする」とのことであった。夜は海は鏡のようで、海面には星空が映るという。この無風状態が毎日続くのは大変酷なものであろう。ヨットは風せ走ってヨットである。船のプロペラは封印してあり、自ら回避出来ない(封を切ることは無寄港を断念するときである)のだ。毎日、朝7時40分、昼12時40分、そして3時30分と事務局にて定時の交信を行なっている。昨日、赤道通過の朗報が入った。
以下、7回にわたり事務局より支援者に文章で広報を流した。

10月22日のポジション
南緯0度43分、東経161度44分、天候BC室内温度36度、風力2、湿度90%、速力4ノット、気圧1,012pha、190度のコースを走る。
白石君は、船上で「赤道祭り」と称して一人でお祝いをしているとのこと。松崎で無線を受けながら我々もビールで祝った。
20日間。これで10分の1を通過したに過ぎない。これからが大変である。南半球は夏であるが、しかしホーン岬を通過するのに後2カ月余り。氷山と寒さと暗い「吠える海」が待っている。
われわれの経験することの出来ない素晴しい体験を日々無線から聞き取れる事だろう。そしていろんな情報を多くの支援する皆様にお知らせしたいと思っています。
がんばれ鉱次郎!


11月22日のポジション
南緯47度07分、西経151度03分、天候BC、室内温度14度、風力6、気圧1.005phs、速力7ノット、125度のコースを走る。
白石君が松崎を出航してから50日が経った。昨日まで8日間、嵐が吹き荒れた。波も7〜8mが続き、風も20m以上が止まらず、今日初めて少し落ち着いたと言う。
11月19日南氷洋「吠える40度線」を通過。  
南氷洋は一年中時化ている。これを海の仲間は「吠える40度」と呼ぶ。案の定11月16日、南氷洋の「洗礼」を受けた。二度のノックダウン(ヨットの横転)で船内はメチャクチャである。これによって受けた被害数しれず。幸いなことに航行に直接影響がないので今のところ走れるとのこと。しかし凪の日がなければ修理することが出来ないのである。
無線での交信も午後2時を境にコンディションが悪くなり、平常の会話がどこまで続くか心配である。(今年は特に磁気嵐が強いらしい)それでも彼を電波でサポートする仲間は全国、そして世界の多くの場所にいるので連携して行なおうと思っている。
レーダーの故障(横転によって破損)、修理不可能の情報が入ってくる。ノックダウンの被害の一つである。これからホーン岬まで、3000マイル。20日位で到達する見込みであるが、流氷、また氷山が思いのほか北上しているようである。日本の気象台からの情報入手が困難であるという。ホーン岬周辺の流氷の動きはアルゼンチンから、それも即座に入手しなければならない。一週間前の情報では古すぎる。情報がなければ立ち往生である。大きな壁にふさがれた。いま、関係者は東奔西走している。やっと東京の情報コンサルタント会社から有料で手に入った。何とかなりそうだ。流氷の位置を無線で確認、それを海図に落とし、自らの判断でGPS有視界航法で今の所走るしかない。レーダーが作動している時でさえ続けて2時間以上眠ったことがないというのに、これから真冬(季節は夏)のような海の中を何日も寝ないで見張りをしなければならない。過酷な日々が待っている。
頑張れ鉱次郎!  つづく



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