頼朝史跡めぐり
自動車・自動ニ輪・ロードバイクのコース
★★頼朝と八重姫の悲恋!頼朝と政子との恋!その史跡を辿る★★  


平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆の国に配流されたのは頼朝14才の時である。それから34歳で鎌倉に移るまでの20年間は    多感な青春期でもあり、八重姫政子との波乱万
丈の恋があった。今回は、頼朝と八重姫と政子の恋の舞台となった史跡を辿ってみたいと思います。不思議と富士山ビューが重なりますのでついでに富士山を眺めるのもいいで
しょう。ロードバイク、自動二輪、乗用車のいずれでも走れるコースにしましたのでお楽しみください 。 R136から入るコースとR135から入るコースを紹介します。

平治の乱(1159年)で平清盛の軍勢に破れ捕らえられた頼朝は清盛の一声で打首になるところを清盛の継母、池の禅尼の嘆願により救われ伊豆の国、蛭ヶ小島に配流の身となる。
この時、頼朝はまだ14歳。以後鎌倉に入府するまで青春真っ盛りの20年間を伊豆の国(現在の伊豆の国市、伊東市)で過ごすことになる。監視役となる伊東祐親の娘八重姫との恋。
北条時政の娘政子との恋は地と天の恋である。
頼朝と八重姫の恋
頼朝の監視役である伊東祐親の館は現在の伊東市役所の辺りで、頼朝が20代半ばの頃、館の北方、現在の伊東駅あたり)に小御所を与えられ暮らすことになる。祐親の三女八重姫
が暮らす館との丁度中間に位置する辺りに音無神社があり、八重姫と頼朝は夕暮れになると音無神社の境内で逢瀬を重ね恋を語らう仲になる。祐親が朝廷警護の任で京に上洛し留

守している間に、頼朝と八重姫に一子、千鶴丸が生まれる。千鶴丸が3才になった頃、任を終えて京から戻ってきた祐親は、無邪気に遊ぶ千鶴丸を目にし、喜びも束の間、その子が八
重姫と頼朝との子であることを知ることになる。平氏である我の娘が源氏頼朝の子を生したことに動転、激怒。このことが平清盛に知られたらどうなるか。危惧するあまり部下に命じて

千鶴丸を轟ヶ淵に沈めてしまい、頼朝殺害を謀る。頼朝は追手をかわし、かろうじて伊豆山神社(熱海)に逃げ込み(1175年)、そこから伊豆の国の豪、北条時政の館に匿われることに
なる。一方、八重姫は親の監視下におかれ、悶々の日々を送ることになる。祐親は、八重姫と頼朝との仲を裂こうと、八重姫を江間郷の江間小四郎に強引に嫁がせる。しかしながら、

頼朝への思慕断ちがたく館に出戻ることになる。陽射しが強さを増した初夏の頃、父祐親が留守した折を見計らって、早朝まだ夜が明けぬ暗闇の中、八重姫は、侍女六人を従えて館を
抜け出し、頼朝が暮らす北条の館を目指した。峻険な峠を越えてようやく館にたどり着き、八重姫は必至に館門をたたきますが、すでに頼朝と、政子の仲を知る門番は、八重姫の懇願

を受け入れず、冷たくあしらうばかり。逢うこともかなわず、いまさら父裕親のもとに戻ることもかなわず、絶望した八重姫は近くを流れる真珠ヶ淵の渦に身を投げて自らの命を絶ってし
まう。八重姫に従ってきた六人の侍女たちは流れから八重姫を抱き上げ、近くの真珠院に葬り、弔っていただいて八重姫の遺髪を胸に伊東に続く山道を辿ったものの、伊東の館、相模

湾を見ることなく、田中山の山中で八重姫の後を追って大松の根元に身を並べ自害する。地元の人達は、その哀れを痛み、侍女たちを手厚く葬ったという・・・・・・・・・・。その後、供養を
欠かすことなく現世に繫いで、今は女塚公園として整備され、地元の人たちだけでなく、遠くから訪れる人も多く手を合わせています。駐車場(乗用車10台分)も完備され大型車も可。

頼朝と政子の恋
頼朝と政子の出会いは、先の文にあるように、八重姫の父伊東祐親が、頼朝と八重姫の一子千鶴丸を轟ヶ淵に沈め頼朝殺害を謀るも北条時政の館に逃げ込み、匿われようになって
からである(1175年頃)。政子は八重姫にとっては姪にあたる。政子にとって八重姫はおばにあたる。八重姫の父伊東祐親と同じように、政子の父北条時政も京に長期間上洛するこ

とになり、留守している間に頼朝と政子は恋に落ちてしまい、政子は八重姫と同じように未婚のまま女児(大姫)を出産する。さて、朝廷警護の任を終えて館に戻ってきたら、政子が頼朝
の子を生していた。 ,平氏の北条時政としては、娘が源氏頼朝の子を生したことが清盛の耳に入ったら一大事(ここまでの経緯は伊東祐親と八重姫とまったく同じ)そこで、北条時政は

政子と頼朝を引き裂く苦渋の選択をする。伊豆の平家の頭領である山木兼隆に政子を無理矢理嫁がせ、北条氏の安泰を画策する。ところが、婚礼の夜政子は兼隆の館を抜け出し、伊
豆山神社にいる頼朝のもと走る。未婚出産、土壇場の逃走駆け落ち。北条氏の頭領として、時政の胸中は察するに余りある! 兼隆は勿論平家方諸豪との確執は避けられないと見た

時政は、平家方から源氏方に寝返り、頼朝と政子の仲を許して結婚させ、義父として源氏の名の下に東国武士結集に動き、源氏頼朝の決起、平家打倒など鎌倉幕府成立を下支えす
ることになる。さて、頼朝と政子の最初の女児大姫であるが、6歳になった頃、源氏木曾義仲の嫡男義高11歳が許婚として鎌倉に入る。政略的なことではあるものの戦国地代の激動

のなかで若い二人は淡い恋心を育んでいきます。しかし、それも四年程の束の間、大姫10歳、義高15歳になった時、義高の父義仲が頼朝によって討伐、義高も打ち首処刑となってし
まう。大姫は嘆き悲しみ、親を恨み、親に抵抗、次第に心を病んで20才の若さでこの世を去ってしまう。

頼朝と八重姫と千鶴丸、そして八重姫の父伊東祐親。頼朝と政子と大姫、そして政子の父北条時政。その後を見てみましょう
その後伊東祐親は石橋山の戦いで、平家の重鎮として、頼朝は源氏の大将としてあいまみえることになる。頼朝は敗れ真鶴岬から船で安房の国(千葉県)に逃れるのであるが、ここで
東国の武将を集めて再挙し、西に下りながら次々に武将を傘下に従えて鎌倉に入る。平家惟盛の軍勢が富士川に陣を敷き、頼朝の軍勢はこれを撃破する(富士川の合戦)。伊東祐親は

平家方としてこの合戦に馳せ参じる途中で捕らえられるが、頼朝に一命を赦されることになる。が、これを潔しとせず「これまでの行いを恥じる」と言い残して自害する。政子の父北条時
政は、政子と頼朝を結婚させ、頼朝の義父として、武将として支え、頼朝の鎌倉幕府成立に大きく貢献した。政子は、頼朝の正室として寄添い、長女大姫、次女乙姫、嫡男頼家(2代将軍

)、次男実朝(3代将軍)と四子を生すことになるのですが、頼朝は幕府を開いてわずか7年後、落馬事故がもとで53歳の生涯を閉じてしまう。政子は頼朝没後、権謀術数渦巻くなか、尼
将軍と呼ばれ、必至に幕府を守ることに腐心するのですが、長女大姫を20才で、次女乙姫を13才で、嫡男頼家を23才で、次男実朝を28歳で次々に失うことになる。最愛の夫の死、夫
との四子の死を政子はどのように受け止めたのでしょう


蛭ヶ島公園(蛭ヶ小島)
 
蛭ヶ島(源の頼朝配流の地跡)

このあたりを旧韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた
源義朝の嫡子、頼朝配流の地と言われている。

永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は、
治承4年(1180)に34歳で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げる
こととなるが、配流20年間の住居跡等の詳細は諸説あり、伊東祐親の館の北側に小御所を与えられたとあり、この頃が八重姫との恋の炎が燃え盛った時期でもある。
その後、伊東祐親から逃れて、後の妻である北条政子の父、北条時政の館に匿われの身となるが、近くの蛭ヶ小島の小御所での生活は頼朝と政子との恋の語らいの場でもあったと思われる。
雄大な富士山が北に聳えて、遥かに眺める頼朝と政子の立像がたっている。
蛭ヶ島公園内には、そばやおでんなどのメニューがあるやすみ処、蛭ヶ茶屋がある。
トイレも完備されている。
駐車場の脇に、歴史民俗資料館がある。
ここは、江戸時代の古民家を利用しており、中に当時の道具などが
展示されている。


真珠院(八重姫入水の地)
真珠院は中世に始まる曹洞禅林です

歴代の住僧たちによって、近隣の寺を末寺として取り込み
壮大な寺院になりました。

八重姫(静姫)の供養堂(八重姫御堂)が山門を入ってすぐ右側にあります。

頼朝のあとを慕って伊東から山を越え北条館を訪れた八重姫は、
頼朝が北条政子と結ばれていることを知り、この寺の前にある
真珠ケ渕に身を投じて命をたってしまいました。

堂の前には「せめて梯子があれば姫を助けられたものを」という
思いから、今でもミニ梯子が奉納されています。

境内には、正安4年(1302)銘の定仙大和尚塔、
建武2年(1335)銘の宝篋院塔と五輪塔、
貞治2年(1363)銘の阿弥陀如来磨崖仏
(いずれも市の指定文化財)が残されています。
女塚史跡公園
 
平治の乱に平家に敗れた源頼朝は捕らわれ、
14歳で伊豆蛭ヶ小島に配流となった。

頼朝が26歳の頃伊東祐親は庄内に小館を構え、頼朝を住まわせた。
(北の小御所)

治承4年2月頃京の大番役を終えて帰館した祐親は
頼朝と八重姫との間に3歳になった千鶴丸がいることを知った。

激怒した祐親は八重姫を一室に閉じ込め、千鶴丸を轟ヶ淵に沈め、頼朝殺害を計るが、北条時政の館に匿われた。

八重姫は館をぬけて6人の侍女と共に北条の館へ向かった。
然し頼朝と政子が結ばれていることを知り、驚きと悲しみに真珠ヶ淵(現在の古川)の激流に身を沈めた。

侍女達は姫の遺髪を胸に月光のもと、伊東の館に向かったが大仁田中山の松の根方で自害した。里人は碑を建てて供養し「女塚」と呼んだ。

真珠院の近隣など、伊豆の国市には色々な史跡や寺院などがあります。 少し歩いてみました。
     
 真珠院の入り口から向かって右上の方にある
子神社という所です。
 真珠院から住宅街の細い小道を少し歩くと、曹洞宗信光寺があります。

ここは武田信光ゆかりの寺で、修禅寺に流されていた源頼家を見舞い、
その帰路に頼家が暗殺された事を聞いて出家し、頼家の菩提を弔ったとされている。



轟ヶ淵(千鶴丸が沈められた所)

伊東側から来ると、トンネルの手前から川を渡り右に入る道がありますので、その道を走ることでトンネルを回避できます。
トンネルの出口のあたりでまた合流しますが、そこも山のほうに上がる道がありますので、そちらに向かってください。

しばらく行くと上の写真のような石碑が道沿いにありますが、途中に似たような石碑もあり、まぎらわしいですが、看板があるところが目的地です。

ここは山の上のようですが、石碑の後ろあたりから川に下りる細い階段があります。

そこを下ったところが轟ヶ淵(稚児ヶ淵)という場所のようです。

伊東祐親(八重姫の父)は源氏頼朝と平家八重姫とのなさぬ仲で生した一子、3才の千鶴丸を家来に命じてこの轟ヶ淵の激流に沈めたとされる
のが本筋のようですが、祐親とて孫を殺すに忍びず、殺したと流布させna
がら密かに甲斐源氏辺見家に預けた。後に島津忠久を名乗り
戦国大名の島津家を興したとの説もあります。



音無神社(頼朝と八重姫の密会の地)
Tのタワーが見えるところの交差点を曲がって少し行くと橋を渡った所に
タイル張りのような道があるので、そこを入っていきます。

すぐに神社周りの木などが見えますので、そこが音無神社です。

側道の脇に駐車スペースがあるので、そこに停車してください。

ここは、頼朝と八重姫がデートしていた場所と言われています。

この辺りの音無の森と日暮の森で会っていたそうです。

この神社は800年位前に立てられ、途中立て直されてはいますが、
ここにある木は当初からのもので、2人が会っていた頃に植えられた
ようです。

樹齢も相当なものですが、2つの種類の異なる木が抱き合うように
どっしりとたっているさまは見事なものです。

当時の様子を描いた板絵も展示されています。

この神社は縁結びと安産を祈願する人が多く訪れています。

賽銭箱の所やその上の梁の所に並んでいる柄杓は、すべて穴が
あいていてそれを妊婦さんが借りていき、無事に出産した後に、
新しい柄杓に穴をあけて、その二つを奉納していきます。

毎年のお祭りでは、尻相撲が行われます。


物見塚公園(伊東祐親館跡)

伊東市役所の敷地内にあるので、市役所の駐車場に停車して下さい。
伊東祐親の館跡地は、今は物見塚公園として整備されています。この館跡地の北方
、今の伊東駅のあたりに頼朝が住む小御所があって、八重姫が暮らす館とは丁度
中間辺りに音無神社があり、頼朝と八重姫は日暮になるとここで落ち合い、境内で密
かに恋を育み、一子、千鶴丸を生すことになる。八重姫にとっては、短い生涯のなかで
最も幸なひと時だったのでしょう。


伊東祐親の墓
富士川の合戦で平家側に在った伊東祐親は、捕らわれの身となるが、頼朝に赦され、女婿にあたる三浦義澄に身を預けられたのであるが、これを潔しとせず、これまでの行動を恥じると言い残して自害する。
その祐親の墓所とされているのがこの塚です。



東林寺(伊東祐親の菩提寺)
 
東林寺の開基は伊東祐親公です。

元は久安年中(12世紀中頃)真言宗久遠寺として開創されたと
言われますが伊東祐親がわが子「河津三郎」の菩提を弔うために仏門に
入って東林院殿」寂心入道と称して、法名にちなんで東林寺と改めました。

天分7年(1538年)に円芝春徳大和尚を開山として曹洞宗に改宗しました。

祐親は源頼朝の助命を断って自刃し、以後、東林寺は伊東家の菩提寺と
なりました。
祐親の墓は向側の丘の上にあり伊東市指定文化財となっています。

河津三郎は奥野の相撲で大活躍をして、「かわずがけ」の名を残し、
相撲界では大切な人です。

鐘つき堂左の参道を数十段上がった所に河津三郎祐奉の墓と曽我兄弟の供養塔があります。


葛見神社(伊東家の守護神)

  伊東家の守護神である葛見神社です
  神社の左後ろに樹齢千数百年と言われるものすごく大きな樟の木があり、
 その木の太さや高さには、ほんとに驚かされます。一見の価値あり。



★ロードMAPはこちらを参考にしてください★
 ロードバイクは伊豆箱根線韮山駅下車してスタートしてください富士山ビューポイント記しています
                                                                                        
 ★往路 136ルート★ 
R136韮山駅入口から車で3分で蛭ヶ小島です。 R136に戻って南下し大きな靴の看板の所を右折し約1分で真珠院です。
R136に戻り南下して大仁立体交差を左へ、下畑信号を左折し直進して女塚へ。 
Aコース
再び下畑信号に戻って左折し、田原野信号を右折する。直進して集落に入り、最初の別れ道のバス停がサイクルスポーツセンター入り口である
ここから4つ目が星山バス停で、100m先を左に入り、坂越えして下る。300m先を左に橋を渡り、すぐのT字路を左に集落を過ぎて進むと大きな
カーブがあり、右折するとピノキオです。
Bコース
再び下畑信号に戻って右折し、大仁立体交差を左に下りてR136 に入り南下。修善寺橋を左に伊東方面に県道12号線に入る。5分ほどでワイナリー
の大看板が立つ上和田橋信号があり、ここを左折して別荘地再奥のピノキオへ。


★ 帰路R135ルート★
 
ピノキオを出て県道12号線上和田橋信号を右折して伊東方面に走る。伊豆スカイライン冷川ICを右に見て直ぐの信号を右折して中伊豆バイパスに
入りトンネルを抜けてまもなく、右にホームセンター「ハンデー入り口」が見える。その少し前の左に上る道を行くと轟ヶ淵の石碑がある。川沿いに下ると

八代田変電所バス停があるので右に橋を渡って直ぐ県道12号を左折し広野一丁目信号に出るので右折して2つ目の信号を右折する。橋を渡って突き
当たりの右が葛見神社である。鳥居をまたいで左に曲がると2又道になるので右に入って200mくらいで東林寺である。

2又道に戻って右折して細道を上っていくと左側に伊東祐親(八重姫の父)の墓がある。この先100m程でR135 に出るので左に曲がって直ぐの信号を右に
曲がると伊東市役所である。左側が駐車場なのでここに止める。隣が物見図化公園で伊東祐親像、松尾芭蕉句碑などがある。
駐車場を右に出て直ぐの信号を右折し1つ目の信号を左折して200m程で橋があるので直前を左折して100mほどで音無神社である。
帰りは橋のたもとの道を右に200mほどで信号あり、お説四手R135 である。


★ピノキオからすぐ。散歩がてらに富士山が眺められます。ピノキオ敷地から片道50mから最長3kmまでお楽しみください★



     静岡県伊豆市上白岩1720-18 〒410-2502 
 TEL 0558-83-3400          FAX 0558-83-3411