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神聖ローマ帝国 〜諸王朝の変遷〜

 

 

皇帝となった一族

     ザクセン朝

     ザリエル朝 

     ホーエン=シュタウフェン朝

     大空位時代

     ハプスブルク家の支配

 

その他の有力な一族

  ザクセン朝成立時の有力諸侯(9世紀)
     バイエルンのアルヌルフィング家 / ザクセンのリウドルフィング家
     フランクのバーベンベルク家 / シュヴァーベンのブルハルディング家     

        


ザクセン朝  Die sachsishe Dynastie  (919〜1024/105年間)

     (ハインリヒ1世捕鳥王)(919〜936)→ オットー1世(大帝)(962〜973)
     → オットー2世(973〜983)→ オットー3世(983〜1002)→
     → ハインリヒ2世(聖者王)(1002〜1024) 

  神聖ローマ帝国最初の王朝。 創建者ハインリヒ1世が、ザクセン公であったことからこの名がある。
  ハインリヒ1世はドイツ王であったが、その子オットーがローマ法王から戴冠を受け、神聖ローマ帝国の
  創始者となった。
  この王朝は、フランク王国の瓦解後にデーン人、ハンガリー人が相次いでドイツ領内に侵入してきて、
  東フランクの諸族の間に新しい政治的統一の要望を高めつつあったとき、これに応じて成立したものだ
  った。 そのためこの王朝の初期の課題はこの民族的課題を解決することで、最初の2王は数度に渡
  って東部平定事業を行い、東部国境は辺彊伯領、司教領を新設することで守られることとなった。
  一方で、西方においてはフランスに対してロートリンゲンを確保、さらにカペー朝の無力につけ込んで、
  しばしば国内干渉さえおこなった。 
  ザクセン朝の勢力の基盤は、おもにザクセン地方(ドイツ北部)およびフランケン地方(ドイツ中部)に
  領有していた広大な領地に基づいていた。 王家は自領には王領伯(ファルツグラーフ Phalzgraf)を
  おき、管理をさせた。 またほとんど独立王国の乱立のような状態にあった他の部族公たちの勢力を削
  いでいくために、最初ザクセン家一族の政治的起用がおこなわれ、また国王が各公領内をつぎつぎに巡
  歴することで、王権の徹底を図った。
  しかしザクセン家の一族登用政策は、やがて彼ら自身が他部族と結んで本家に叛乱するようになるに及
  んで、王家は方針を変え、世襲の心配がない高位聖職者(国王直属の司教、修道院長)の政治的利
  用に置き換えられることとなった。
  国王は他諸侯に対する聖職者たちの力を増すため、盛んに土地・特権の贈与をおこなったが、一方で
  聖職者たちを国王の支配の下に置くために、フランク王国のごとく自ら神聖ローマ皇帝となり、ローマの
  法王との関係を密接にしておく必要があった。
  ここでオットー大帝の一連の西ローマ帝権の復権(962)とイタリア政策が強力にすすめられることになる。
  オットーの政策は一応その目的を達し、ドイツは西ヨーロッパ第一の勢力となったが、しばしばドイツに
  対して過度な負担をもたらすことにもなり、とくに東部国境における任務(防衛・拡大・伝道)と矛盾す
  る結果も招いた。 オットー2世、オットー3世時代の、北東国境の縮小はその例である。
  ただし文化的に見ると、ドイツ王によるイタリア政策はドイツを南方の商業貿易と結びつけ、またこの結
  びつきを通してイタリア・ローマの古典的学芸がドイツに移入されることとなり、ドイツの文化的向上に
  役立ったところが少なくない。
  いわゆる「オットー諸帝のルネサンス」はその一例である。
  

 オットー大帝  (912〜973/61歳, ドイツ王登位;936年/24歳のとき 皇帝戴冠;962年/50歳のとき
       936年、父王ハインリヒの死後、アーヘンで開かれた会議で、豪族たちによって選出。
       初期の政治上のライバル
       フランケン大公エーベルハルト  ロートリンゲン大公ギーゼルベルト  ・・・・・オットー、うまく押さえる。
           マインツ大司教フリードリヒの陰謀。
    初期の帝国統治政策。
      親族重用策・・・・ 944年娘婿コンラートをロートリンゲン大公に。
         947年弟ハインリヒをバイエルン大公に。
         950年長男リウドルフをシュヴァーヴェン大公に。
        ・・・・・・失敗  →→→→→ 953?4、長男リウドルフの叛乱。
            理由;???????????
                オットー、身内ですら信用しなくなる。
    聖職者家臣の政治的登用。
    司教座や帝国修道院に様々な政治的・経済的特権を与えて、国王への奉仕を求めた。
    951年、イタリアに進出。   ランゴバルト王国を激しい戦いののちに制圧。
    955年、レッヒフェルトの戦い。(アウグスブルク近郊)  マジャール人の侵攻を阻止。 
         これで、マジャール人はドイツへの侵攻をあきらめ、ドナウ川中流域のハンガリー平原に定住するようになる。 
    962年、教皇ヨハネス12世の手によって、ローマで戴冠。
    968年、東部への拠点として、マグデブルク大司教区を設置。
 
 

ザリエル朝  Die salische Dynastie  (1024〜1125/101年間)

     コンラート2世(1024〜39) → ハインリヒ3世(黒王)(1039〜56) →
      → ハインリヒ4世(1056〜1106) → ハインリヒ5世(1106〜25)

 
(とくにその前半期は)王権の強化および帝国の勢力増長が際立った王朝。

ザクセン朝の断絶により、1024年にコンラート2世がドイツ国王に選ばれ、27年に帝冠を受けた。
彼はデンマーク王クヌート1世と結んで北辺をかため、ポーランドをその支配下に置き、1032年には
ブルグンド王国を併合して神聖ローマ帝国の拡大を図った。 
彼はその内政においては教会を優遇して有力な司教職を帝国直轄のものとし、これに彼の腹心を配して
ドイツ国内の教会の実権を掌握した。
一方、王領地を拡大するとともに、下級家臣を保護し、不法に没収された彼らの封土を回復させ、また
彼らの封土の世襲制を容認した。
これら一連の政策の目的は、王権と対立する、しかし国王の外征および国内の平和のためには不可欠の
有力諸侯に対抗する勢力を、国王自身が確保するためであった。
  
その子供ハインリヒ3世は父の政策を踏襲し、1044年にはハンガリーの地においても彼の支配権を認めさ

せ、王権は頂点に達した。しかし、彼は父がほとんどかえりみることがなかった、クリュニー修道院の教
会改革理念に共鳴し、強大な王権によってこれを実現しようとした。
1046年、当時ローマで鼎立して争っていた3人の教皇(シルウェステル3世、グレゴリウス6世、ベネディ
クトゥス9世)を一挙に廃位し、教皇座の刷新を図った。 そしてその治世の間にクレメンス2世、ダマス
ス2世、レオ9世、ヴィクトル2世の4人の教皇を、次々と任命した。
しかしハインリヒ3世のこのような強引な教会への干渉は、ローマ側の危機感をかき立てることとなり、と
くにレオ9世が「聖職叙任規則」を出したことで、教権と俗権はたがいに対立する機運を見せ始めた。
ハインリヒ3世が没し、その子・幼帝ハインリヒ4世が母后アグネスに擁されて即位すると、本格的な皇帝
vs 教皇の争いが繰り広げられることとなる。