[オットー大帝の生涯] 912-973
912年生誕、父 ドイツ王ハインリヒ1世、36歳の時の子供。次男。
母 ラインゲルハイムの聖マチルデ。 (デンマーク王女?)
925年、父ハインリヒ、ロートリンゲンを併合。
936年、父の死により、ドイツ王に即位。 24歳。
937年、ブルグント王国(ブルゴーニュ)の王ルドルフ2世死去。子のコンラートが跡を継ぐ。
このときから故ルドルフの協力者であったイタリア王ユーグの野望が始まる。
オットーはユーグの野望を阻止するために、若いコンラートの身をドイツに確保する。
939年、ロートリンゲンが西フランク(カロリング家=ルイ4世海外王)の領土に。
オットー、妹のゲルバルガ(26歳)をルイ4世に嫁がせる。
940年、イヴレア辺境伯ベレンガール2世、イタリア王ユーグに追われ、オットーのもとに亡命。
942年、オットー、交渉によってロートリンゲンを獲得。 (←妹のゲルベルガの結婚)
946年、オットー、イタリア王ユーグに反感を持つイタリアの聖職者に手を回し、ユーグを廃位。
ユーグの息子、ロタールが次のイタリア王に。
950年、イタリア王ロタールの謎の死。 12月、イヴレア候ベレンガールが勝手にイタリア王として戴冠。
951年9月、オットー、1回目のイタリア遠征。 パヴィアでイタリアの王位を手に入れる。
前イタリア王ロタールの未亡人・アーデルハイトと結婚。
続けてアルペリゴが独裁を行うローマまで進軍する予定だったが、ローマ法王アガペトゥス2世の
要請で断念。
952年、イヴレア候ベレンガールを、イタリア王の位に付ける。
953年、長男リウドルフの叛乱。 ロートリンゲン公コンラートもこの叛乱に加わる。
マジャール人がヴェネト地方に進入。
954年、マジャール人がバイエルンに侵入。
ローマでは独裁者アルペリゴから、実権が教皇ヨハネス12世(アルペリゴの私生児)の手に移る。
955年8月、レッヒフェルトの戦い。
メクレンブルクのヴェンド人の制圧にも成功。
957年、父オットーと和解し、イタリア防備の任を受けた長子リウドルフ死去。ベレンガール父子のローマ包囲。
961年、ヨハネス12世のローマ遠征の要請を受ける。 息子オットー2世(7歳)をドイツ王に選出。
第2回目のローマ遠征。 ベレンガール父子を下す。
962年1月末、ローマに到着。 2月2日、ヨハネス12世の手で帝冠を受ける。
2月13日、「オットーの特許状」を発布。
966年
972年、
[オットーを巡るひとびと]
〔 親族たち 〕
★母・聖マチルデ (890頃〜968.3.14)
名前の前に「聖」が付いていることから分かるように、聖女とされている。
聖日は3/14。 ドイツ王ハインリヒの2人目の妻で、彼との間に6人の子供をもうける。
しかし母親としては(オットーにとっては)やりにくい女性だったようで、オットーよりも次子
ハインリヒに入れ込んでいて、夫ハインリヒの死後アーヘンで国王選出の話し合いがもたれ
たとき、一人だけオットーの登位に反対したらしい。
その後もハインリヒをバイエルン王にさせるために尽力したり、いろいろとオットーを困ら
せたので、オットーは彼女を辺鄙な修道院へ遠ざけ、そこで思う存分、祈り、苦行し、断食
に励み、貧しい哀れな人びとに施したり慰めるという生活を送らせた。
しかしオットーの最初の妻・エディット(イングランド・ウェセックス王の娘)がこの義母に同情的
で、母の愛を強くオットーに説いたので、オットーも考え直し、母を身近に呼んで親孝行を
尽くすようになった。
しかし、オットーも次子ハインリヒもこの母がドイツの各地に大聖
堂や修道院、病院、慈善施設を建てまくりたがることには閉口し、国庫の無駄遣い、と非難
していた。 こんな母、いやっ。 どうして聖女なの?
でも、一般民衆にはとても親しまれていた。
〔 好敵手たち 〕
★イヴレア辺境伯ベレンガール2世
ひとことでたとえるのなら、三国志の呂布(ただし腕力は絶対的に足りない)
または時期を見るのにちょっと運のなかった、松永弾正久秀。
イヴレアという町は北イタリアの現在のサヴォイア州、トリノの少し北にあります。
オットー進出直前のイタリア半島は、戦国時代状態で、彼も自分の勢力基盤を確立するために
ドイツのオットーの力を利用しようと考えたまでは良かったが、自分自身がオットーに臣従す
るにはプライドが高すぎ、かといって正面だってオットーと対立するだけの力もなかった。
オットーの身内の叛乱や、マジャールの進入に乗じて事を起こせなかったのが、彼の弱さ。
彼の登場の少し前にイタリアで覇権を誇っていた、イタリア王ベレンガール1世とは、血のつ
ながりとか関係は、ありません。