ジャクソン、アンドリュー (1767〜1845)
アメリカ第7代目大統領。 在職1829〜1837(二期)。
サウス・カロライナに生まれる。 父は、1765年にアイルランドから移住してきた人物だったが、息子が誕生する直前に、事故によっ
て急死していた。 父なし子アンドリューは、窮乏のうちに成長した。
彼が9歳のときに「アメリカ独立戦争」が起こり、12歳のときに少年アンドリューもこれに加わったが、捕虜となり、このときイギリス軍将
校の靴磨きの命令を拒否したことで、イギリス軍人から大怪我を負わされ、母によって救われた。
その母もやがて死に、二人の兄も戦死し、14歳でアンドリューは天涯孤独の身になった。
彼はさまざまな仕事をしたが、一方で当時の西部社会で一般的だった競馬や闘鶏の風習に手を染め、賭け事に対してかなりの腕
前を示すようになった。 やがて法律を学び、新しく開かれたテネシー地方のナシュヴィルの町で弁護士事務所を開業したが、じつ
は彼は法律のことをあまり知らなかったので、常識で事件を処理した。
1796年、テネシーが正式に州として連邦に加盟するようになり、ジャクソンは転じて政治家を志す。 州憲法制定会議員からテネシ
ー州選出の下院議員、やがて上院議員となったが、このころから議員生活をあまり好まなくなり、テネシーに戻って1798〜1804にか
けて州の最高裁判所の判事から判事長になった。 しかしこの地位も、州知事と衝突して辞職。 転じてその激しい気性と勇敢さ
と人情の深さから辺境の人々の人気を集めていたのをうけて、民兵の指揮官となった。 この間、農場の経営や土地の投機、ある
いは商業活動を通じて財をなしており、奴隷所有者としてプランテーションの経営にも当たっていた。
1812年にはじまった米英戦争では、陸軍少将として民兵を率いて出陣し、イギリス軍から支援を受けていたクリーク・インディアンを
打ち破ってアラバマとジョージアの州境に広がっていた沃土をアメリカ人の農場主に開放し、1815年にはニュー・オーリンズの戦い
で寡兵でイギリスの大軍を撃破して、「アメリカのナポレオン」と讃えられた。 また軍中における堅忍不抜の精神と行動は、「オー
ルド・ヒッコリー(老胡桃)」と呼ばれて将兵から慕われたという。
1818年、セミノール・インディアンの討伐に向かい、国境を越えてフロリダに侵入し、スペイン要塞を奪い、二人のイギリス人をインデ
ィアンと共謀の罪で死罪に処した。 この彼の独断の行動が国際問題として大きく問題とされるようになったが、当時のモンロー内閣
はジャクソンを擁護。
1824年に大統領選挙に出馬したが、アダムズとクレーの連合に破れた。 次の1828年の大統領選挙では勝利し、西部出身者として
(またはコモン・マン)としてホワイトハウスの主人となった最初の人となった。
選挙の際に彼は、「人民をして統治せしめよ」と叫び、西部の農民、東部の労働者、そして南部のプランターの支持を集めた。
(プランターをのぞいて)彼は当時勃興してきた庶民の圧倒的支持によって当選したのである。 彼こそは人民の選んだ最初の大統
領、といわれる人であった。 ジャクソンにはジェファーソンとくらべられるような政治哲学も主義もないが、西部の人間として、独立し
た個人の擁護者として行動した。 東部の金融家や銀行家の独占には本能的な敵意を持ち、いわゆる銀行戦争を演じた。 庶民の
要望には敏感で、庶民のための政治をするよう心がけてはいたが、一面「ジャクソン王」ともいわれたように威厳と力を持って、断
固として彼が正義と信ずるところを断行した。 したがっていわゆるジャクソニアン・デモクラシーと言われる彼の政策には粗野で欠陥
のあるものも少なくない。 しかし、政治を有識有産者の手から庶民の手にもたらした功績は大である。 彼のときからジェファーソン
が創立した共和党はふたつに分立し、国民共和党と民主共和党とで対立したが、ジャクソンは後者を率い、これは後に民主党となっ
た。 1832年に再選され、36年の選挙では、彼のために働いた最初の職業的政治家ヴァン・ビューレンを推して隠退し、9年後の45
年6月に故郷で没した。 彼の大統領就任の際も離任の際も大衆はホワイトハウスを囲んで熱狂したが、当時の人々は、彼を国民的
英雄で実行力のある人物として崇拝していたのである。
しかし、彼は民主主義の理論家ではなくて実践者であり、かれの性格の中には西部人特有の高貴なものと粗野なものとが混在してい
た。
ジャクソニアン・デモクラシー
ジャクソン大統領の登場で、アメリカ社会が独立戦争当時から理想としていながらなしえていなかった「市民社会の完成」
にむけて、大きな進歩を果たすようになった。
デヴィ=クロケット、David
Crokett (1780〜1836/56歳)
アラモ砦の英雄。 半分馬で、半分鰐。
ビーバーの皮でできた帽子を「クロケット帽」と呼ぶ。
生まれたのは一説には1786年、アメリカ西部テネシーのグリーンヴィル近くの丸木小屋で誕生。(この当時まだテネシーは州になっていな
い) 大開拓時代のこの西部の荒野で彼は育ち、1812年の米英戦争では、ジャクソン将軍率いる軍隊に入ってインディアンの討
伐に加わった。
彼の名前が一躍人々に知られるようになったのは、1827年に下院議員としてワシントンに姿を現してからである。 彼が議員として
身を立てる決意をしたきっかけは、その数年前にテネシー川の西の端の郡に移住したときに、仲間が冗談で、「おまえのような変わ
り者がワシントンに現れたら、みんなびっくりするだろうな」と言ったのを真に受けたからであると言われる。
議員となったデヴィ・クロケットは開拓地の猟師そのままの姿で議場に現れ、つよいフロンティアなまりの言葉で皮肉や冗談を飛ば
したので、彼のことがたちまち新聞のネタとなり、一躍、人気者となった。 あるときホワイトハウスを訪れた彼は、ジョン・アダムズ大
統領の息子をつかまえてフロンティアのおもしろい話を聞かせた。 開拓地ではダンスが楽しみなので、女たちがときどきダンスに
夢中になるが、翌朝そこに行ってみたら踊りすぎた女たちの足の爪が両手にいっぱい拾えた、などという話をして、居合わせた人
々を喜ばせた。
彼の話はほらが大部分である。 ある時彼は、自分の歯が人並みはずれて丈夫だという話をした。 森の中で一頭の洗い熊が樹に
登っていたのを見たので、歯で噛んで引きずりおろそうといきなりその熊に噛みついたところ、木の幹の皮がみんな剥けてしまった。
実はそれは樹の節穴を洗い熊の目と見間違えたのだと言って、みなを大笑いさせた。 この話によって、大統領がクロケットに、彗
星の尾を歯で噛み切っても良いという権限を与えたという。
しかし人気者であった彼も、1834年の選挙では落選し、失意のうちに西部のフロンティアに帰った。 そしてさらに西部の開拓につ
とめようとして、テキサスに姿を現した。
この当時、テキサスはまだ、メキシコの領土だった。 1823年にステフェン=オースティンがメキシコ政府からアメリカ人の開拓地を
つくる許可を得て、それをきっかけに多くのアメリカ人がこの地を目指して移住するようになっていた。 農民および牧畜業者には
広大な土地が無償で与えられ、また農民たちの間に深刻な物資不足が起こったために、テキサス北部のサンタ=フェにできた貿易
取引所では、さかんに取引がおこなわれ、テキサスの人々の交流は活発さを増した。
しかし、最初はアメリカ人を歓迎していたメキシコ政府も、次第に移住してきたアメリカ人の数が増え、1827年頃にはテキサスでのメ
キシコ人とアメリカ人の比率が1対10という極端な構成になってしまったので、アメリカ人の移住に対して強い警戒心を持つようにな
り、これ以上の移住を禁じ、メキシコの法律に従うように命じた。 しかしアメリカ人の移住は絶えず、また「自由の民」であるアメリ
カ人が自分自身の法以外に従うはずもなく、1835年までには約3万人のアメリカがテキサスの中にいる、という状況になっていた。
そこでメキシコ政府が軍隊を派遣して、アメリカ人の移住を阻止し、アメリカからの輸入品に関税をかけるようになったので、急速に
テキサスにおけるアメリカ人とメキシコ人の関係は悪化した。 このような緊張の高まりの中で、同胞を助けるために、著名な開拓者
たちがテキサスに向かった。 デヴィ=クロケットもそのひとりだった。
ペリー、マシュー・カルブレイス (1794.4.10〜1858.3.4)
ご存じ日本を開国させたお人。 伊豆下田の英雄。
アメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポートに生まれる。 14歳の時、海軍に入隊し、41歳で海軍大佐となる。 ブルックリン
造船所長官、ついで奴隷貿易抑圧のためのアフリカ派遣、米墨戦争では一艦隊司令官、というような活躍をする。 52年東イ
ンド艦隊司令長官に任命され、兼ねて日本との国交開始の使命を帯びる遣日特派大使を命ぜられた。 約半年をかけてアメ
リカ・ノーフォーク港 → マデイラ諸島 → セントヘレナ島 → セイロン島 → シンガポール → 上海 → 那覇 → 小笠
原諸島 → 那覇 を経て4隻の黒船でもって1853年浦賀沖に現れ、国交・通商の開始を要求するフィルモア大統領の将軍宛
て親書を浦賀奉行に提出した。 幕府が1年後に回答することを約束したので、、日本を去り、琉球へ退去した。
ここで琉球政府に貯炭所設置を要求、 そして今度は8隻の軍艦を率いて横浜沖に現れ、艦隊の威力を借りて3月に幕府との間
に日米和親条約(神奈川条約)を締結した。 条約調印後ペリーは下田、函館に回航して実地に視察し、6月にふたたび下田を
訪れ日米通過の比率、および石炭の価格について協定し、また日米和親条約付録に調印して、アメリカ合衆国に帰国した。
しかし彼が帰国すると、政権は共和党から民主党に移っていたので、共和党政府に彼が命ぜられていた世界各地の貯炭所設
置の方針は、民主党政府によって否認されてしまった。
『ぺルリ提督遠征記』がある。
彼は14歳の時から軍人だったわけで、いつどのように外交の勉強をしたのか、と思う。 しかしそう考えるとペリーの力押し外交
は軍人らしいなあ、とも思えてくる。
リー将軍、ロバート・エドワード (1805〜1872)
アメリカ、南北戦争の南軍の司令官。
ヴァージニア州の名家のリー家に生まれる。
(アメリカの独立戦争の時、独立宣言を起草した人物のひとりであるリチャード・ヘンリー・リー(1732〜94)の一族)
1829年に陸軍士官学校を卒業すると、工兵隊に属し、1846年の米墨戦争に参加して重傷を受けた。
52〜55年にかけて陸軍士官学校の校長となり、ついで騎兵隊に転属して、59年までテキサス国境の防備に当たった。
その当時、彼は奴隷制は道徳的にも政治的にも罪悪であると記し、みずからの所有奴隷を解放している。 南部人が一般に
奴隷制擁護論に専念している時代であった。
59年、ジョン・ブラウン(1800〜59)が反乱を起こすと、政府の命令でこの反乱軍を鎮圧し、首謀者たちをとらえた。 その功で60
年にテキサスの軍司令官となったが、奴隷制をめぐる北部と南部の対立が強まり、61年の3月にまず南部七州が合衆国の連邦
から離脱すると、リーは連邦軍の指揮をとるためにワシントンに呼び戻された。
そして、4月17日にリーの故郷のヴァージニアも連邦から分離を宣言。 リー自身はヴァージニアの連邦からの脱退は反対であっ
たが、故郷に忠誠をつくすべし、として連邦陸軍を辞職して故郷に帰った。
そして彼は、「南部アメリカ盟邦」の大統領の軍事顧問および陸軍長官となり、同時に南部の首都リッチモンドの防衛に当たっ
たが、最初はあまり実戦に関わる機会がなかった。
62年、前線で指揮に当たっていたジョンストン将軍が負傷したのでこれと交代し、6月25日〜7月1日の「七日間戦争」そして8月末
の第二次ブル・ラン河の戦いなどで寡兵で北軍を打ち破り、北軍の包囲網を突破するのに貢献した。
しかし、南軍は兵員、資源、工業力に劣ったため、ゲティスバーグの戦い以降は劣勢を挽回し得ず、リーが首都防衛に最後まで
奮戦したに関わらず、北からグラント将軍の軍、南からシャーマンの軍が迫って来たので進退窮まり、69年4月9日、ヴァージニア
のアポマトックスの郡役所で、北軍総司令官グラントに降伏した。
リーは、当時もっとも勇敢でもっとも有能な戦術家であり指揮官であったが、戦争が総力戦の様相を帯びてきたために負けて
しまったと言える。 戦後はワシントン大学(現在のワシントン&リー大学)の総長となり、死ぬまでその職にあった。
彼は、多数支配に対する少数者の権利を守るデモクラシーの戦士として、現在まで南部人の尊敬を集めている。