Home
チャイナさんの憂鬱
 
 

墨子(墨テキ) ぼくし(ぼくてき) モーツィ    (紀元前470頃〜前390年頃)

中国,戦国時代の思想家。魯に生まれて,宋に仕えたという。
儒家の礼説が繁雑で,財を尽くし民を貧しくするのを非として,墨子は反動的に礼楽を軽視し,勤労と節約を旨とした。儒家の重んずる周の文化主義に対し、墨家では夏の素朴主義が理想。儒家と墨家は正反対のものとみなされた。孟子は墨子の学派を厳しく批判。
墨子の思想のうち,もっとも特色があり,またもっとも有名なのは兼愛説である。兼愛とは,無差別の人間愛であり,親疎や遠近の区別をしない。兼愛説にもとづいて,=u非攻」「節葬」「非楽」を唱え,働かざる者は食うべからずと主張した。
墨家は戦国末まで,儒家と思想界を二分するほどの勢力を誇ったが,秦・漢の時代に急速に衰退してしまう。以後清朝の末にいたるまで2000年間,忘れ去られていた。
詳しい伝記は不明である。
一説によると,「墨」は入墨の刑で,墨子は受刑者を意味し,社会や反対派が彼を卑しんで呼んだのに始まる。
魯の出身で、宋の昭公に仕えたこともある。墨子の主張には封建制を是認し,道徳を尊重するなど,儒家と一致する主張が少なくない。だから,墨子は業を孔子に学んだと説くものさえある。しかし,儒家の礼説が繁雑で,財を尽くし民を貧しくするのを非として,墨子は反動的に礼楽を軽視し,勤労と節約を旨とした。儒家の重んずる周の文化主義を退けて,夏の素朴主義をもって治世の原理としたのである。儒と墨との原理には妥協を許さぬ相違があり,孟子なども墨子の学派をきびしく批判している。彼の言説を集めた『墨子』はもとは71篇であったのが現在は53篇。しかもその中には墨テキ以外の墨家の物も含まれている。そもそも『墨子』には、名が同じでも内容が大同小異の篇が3篇ずつあるものがある。これらは少なくとも3派の墨家が、創始者の説くところとしてそれぞれ伝えたものであろうが、その相違を見ることによって墨家の思想を眺める事が出来る。
墨子の思想のうち,もっとも特色があり,またもっとも有名なのは兼愛説である。兼愛とは,無差別の人間愛であり,親疎や遠近の区別をしない。一視同仁の愛である。このような人類愛は,家族愛や愛国心といったエゴイズムの否定のうえに成り立つものであろう。家族愛や愛国心と,人類愛とには質的な違いがあり,大きな懸隔がある。この懸隔を飛び越えて人類愛の世界にいたるには,なんらかのばねが必要であり,ばねの役割を果たしたのは,墨子の場合,宗教であった。宗教家の墨子は同時に政治理論家であり,兼愛説にもとづいて,〈非攻〉(戦争反対),〈節葬〉(葬儀を簡略にせよ),〈非楽〉(音楽を廃止せよ)をとなえ,働かざる者は食うべからずと主張した。
墨家は戦国末まで,儒家と思想界を二分するほどの勢力をほこったが,秦・漢の統一時代に入るや,急速に衰退してしまう。墨子の学説を集めた書《墨子》もまったく忘れ去られ,清朝の末にいたるまで2000年間,絶学の悲運にあった。彼の思想は支配者,すなわち士大夫階級に歓迎されないような要素をもち,ために中国社会には根を下ろしえなかったのである。
李斯 りし       (前155〜220年)
秦の始皇帝時代の丞相。  法家の学者。 秦の法治国家政策を徹底。
太史公(司馬遷)いわく・・・・
「李斯は微賤より身を起こし、諸侯を歴遊してのちに秦に入って仕えた。 他の戦国諸国のスキをつく策を次々と進言して始皇帝を補佐し、ついに帝業を成就せしめ、(人臣の中では最高の地位である)三公の位に昇った。重用せられたといえよう。李斯は六芸経典の主旨を極めていながら、政治を明らかにして主君の欠点を補うことを努力せず、高貴な爵禄に身を置きながらおもねりへつらい、威令を厳にし、刑罰を過酷にし、趙高の邪説をゆるして嫡子を廃し、庶子を立てた。 諸侯が離反してしまってから天子を諫めようとしたが、時機を失してしまったと言うべきである。
人は、李斯が忠を尽くしながら五刑を受けて死んだと考える。だがことの根本を考えるとき、世俗の見方には異議がある。 一般に考えられている意見のとおりであるとすれば、それは李斯(ごとき)を周公旦・召公セキと同列に置こうとすることだ」
きびしい・・・・・・・ 
武帝の十八(現在調査中) 
李通 りつう ・・・ 苑の金持ち。 親分肌の人で、一時は劉氏と争ったが、のち縁組みする。
ケ禹 とうう ・・・ 劉氏と親戚。 劉秀とは学問の友達。
任光 にんこう ・・・ 郷の徴税官。 一党をつれて劉氏に従軍。
朱祐 しゅゆう ・・・ 劉秀の親友。
寇恂 こうじゅん ・・・ 
馮異 ふうい ・・・ 
竇融 とうゆう ・・・ 河西の実力者。
馬援 ばえん ・・・ 当初、天水郡の隗囂(かいごう)の部下。 名将。 「井の中の蛙」 ということばの発明者。
馬成 ばせい ・・・ 県の役人。 劉秀に従軍。
来歙 ・・・ 劉氏と親戚。
ケ晨 とうしん ・・・ 劉氏と親戚。
張湛 ちょうじん ・・・ 劉秀の学友。
樊宏 はんこう ・・・ 大地主。 劉氏の親戚。
陰識 いんしき ・・・ 大地主。 劉氏の親戚。
劉植 りゅうしょく ・・・ 驍騎将軍。 
董卓仲穎   とうたくちゅうえい   (? 〜192)

   三国志最大の極悪人。
 

袁紹本初 えんしょうほんしょ (?〜202)

後漢末の群雄。
袁逢(えんほう)の子。袁氏は汝南・汝陽(河南省商水県)の豪族で、四代三公の位にのぼり、その門生故吏は天下に満つ、といわれた。
当時、後漢の宮廷は宦官の専横、党錮の禁、黄巾の乱などによって衰えつつあった。皇帝の外戚の何進が大将軍となり、袁紹、曹操らを八校尉として兵権を確立し、ついで董卓らの四方の猛将を召し、宦官誅滅を画策したが、計画を誤りかえって宦官の罠にはまって斬られた。大将軍の死に面して袁紹は部下を率いて宮中に乱入し、宦官二千余人を皆殺しにした。(189年)
天子を擁した董卓が洛陽に入って権勢を振るうと、袁紹は故郷に退いてそれに対抗し、山東地方の勢力を結合してその盟主となり、曹操や孫堅らとともに董卓を攻めた。董卓が長安へ退いたことにより、袁紹は冀州を中心にに勢力を築いた。このころからエン州に勢力を増大しつつあった曹操は、195年(興平2年)、長安から逃れてきた献帝を擁立し、さらに袁紹の従兄弟であった袁術が淮南で自立して董卓を殺した呂布・孫堅の長子孫策らと結び、皇帝を僭称したが、曹操のために大敗し、袁紹を頼ろうとしたがその途上で死去した。
袁紹は勢力の増大に努め、遼西の公孫サンを討滅して、黄河以北を統一した。200年に袁紹と曹操は黄河を挟んで対峙し、官渡の戦いがおこなわれた。激戦のすえ、曹操が大勝し、袁紹はそのご悶々としながら死んだ。その子供たちも次第に曹操に打ち取られ、華北は大体曹操の勢力となるにいたった。
謝玄 しゃげん (343〜388)
中国・東晋の名将。 肥水の戦いで6万の軍勢で100万を破る。
中国でも知られた名家の出身。 
弱体化する東晋を内外の敵や争乱から守り続けた晋の功臣謝安の甥。
晋の孝武帝が即位した直後、前秦の符堅が強大な勢力を持ち、東晋に迫ってくる気配を見せ始めたので、当時東晋の宮廷で政務に当たっていた叔父の謝安は甥の謝玄を推薦し、江北地方の防備に当たらせた。
378年(太元4年)、符堅の配下の将、彭超らが彭城を陥落させ、淮水を渡り南下してくると、彼は広陵から出撃して迎え撃ち、見事撃退に成功した。 383年(太元8年)に今度は符堅自身が大軍を率いて南征し、河南省方面から東南に進み、淮水に迫ってきたため、謝玄、ならびに謝安の弟・謝石と謝安の息子・謝(王炎)を加えた同族の将軍たちとともに寿陽(安徽省寿県)の東方あたりまで兵を進め、まず先鋒の劉牢芝が前秦軍を淮水支流にある洛澗で包囲殲滅させ、そしてつぎに謝玄が(シ+肥)水の戦いで前秦の本軍を大々的に打ち破った。 謝玄の用いた兵隊は北府兵と称され、中原から南方に移り住んだ勇敢な兵からなっていた。 幹部に劉牢之、何謙ら勇将が多く、のちに東晋を奪うことになった劉裕もこの出身であった。
肥水の戦いののち、謝玄はさらに敵を追って山東河南に出兵したが、中央の支持がなく、中途で病没した。


黄巣 こうそう       (?〜884年)

中国史上最大の反乱といわれる”黄巣の乱”の指導者。
1.政府への失望、闇の世界へ
山東の出身。実家はたいそうな資産家で、彼はかなりの読書家であったので、何度か州政府から中央へ進士への推薦を受けている。 ところが、都へ行って試験(科挙)を受けてみると、何度やってみても落第するので、やがて彼は科挙の制度に不満を抱き、それはそのまま唐帝国の政府に対する不満へとなっていった。
やがて、黄巣は政府の専売であった塩の闇売りに手を出すようになった。 塩の闇取引は政府の取り締まりが強く、とても危険な仕事であったが、その分受け取る利益は大きく、苦楽を共にする仲間同士の団結も強かったので、ここで多くの無頼の徒と知り合い、とくに同郷の塩の密売商人王仙芝(?〜878)と親しくつきあうようになった。

2.反乱開始
875年に王仙芝が「役人の横暴を懲らしめる」ことを掲げ、濮州(河南と山東の境付近)で挙兵する。黄巣も王仙芝との義理(と官憲の追求)から立ちあがらざるを得なくなり、翌年数千人の仲間(同業の塩の密売商人が大半だと思われる)を率いて、王仙芝の反乱軍に加わった。 当時、中国の各地で同様の反乱が次々と起こっていたが、王仙芝&黄巣の挙兵がその中でももっとも大きな勢力を持てたのは、かれらがあえて拠点を定めずに、次々と各地を流浪したことが大きいといわれる。 次から次へと土地を移っていくうちに、さまざまな人々を吸収し、またさまざまな地形で戦う経験を積むことによって、よせ集まりの人々が一流の戦術家へ成長していったのである。
王仙芝&黄巣の軍勢は、まず最初に、かつて唐帝国がたびたび北方の異民族の亡命者や捕虜を強制的に移住させていた河南省南部になだれ込んだ。 これらの民にはまだ遊牧民としての性格が色濃く残っていて、騎兵として最良の戦士となることで知られていた。 ここで黄巣たちは兵の徴集を行い、言うことを聞かぬ者たちには無理矢理力づくで軍隊に加入させたりして、たちまち30万もの兵を集めたと言われる。
 
3.黄巣の乱の拡大
しかし、最初は行動を共にしていた王仙芝と黄巣の仲は次第に険悪なものとなり、やがて喧嘩別れしてしまった。 王仙芝はまもなく長江のほとりで戦死し、その配下だった残党たちは黄巣のもとに編入されて、黄巣はますます勢力を誇るようになっていった。 王仙芝の残党たちは黄巣軍に合流する前に長江を渡って江西から湖南を転戦しており、この方面の官軍がひたすら弱い、という情報をもたらしたため、黄巣は決心して長江を渡り、長江南岸方面に襲いかかる。情報通り黄巣軍に抵抗できるような力はここにはなかったため、黄巣は江西→福建→広東と、まるで無人の野を行くように暴れ回ることが出来た。 このとき広州城を占領し、その際にこの地に居住していたペルシャ人、アラビア人の居留民を大量に虐殺し、大略奪をおこなったことは有名である。 
ひとしきり暴れ回ったのち、今度は方向を転じ、湖南から湖北へ出ようとしたが、ここで官軍のために大敗北を喫した。そこで江西方面まで退いて、そこから長江を渡って、ふたたび北上を図った。
この時点でいつの間にか、黄巣の心の中で、「唐王朝を倒して新しい時代を作ろう」という野心が芽生え始めていた。彼は率土大将軍と名乗り、「天下の百姓(ひゃくせい)のために、悪い政治ばかり行っている唐の天子の罪を問う」という意気込みだった。 周辺の軍隊の指導者に通牒を出し、「これは自分と唐との一対一の戦いであるので、他の者が手出しをしないのなら自分は第三者には何もしないが、もし自分に刃向かうのなら容赦はしない」という脅迫を賭けて他の勢力の動きを封じ込めたのち、まっすぐに唐の東都である洛陽を目指して進軍した。 この勢いのあまりのすさまじさに、官軍の中に進んでこれと当たろうとする者がなく、逆に洛陽近辺の官僚たちは無条件で黄巣に降参してしまい、こうして黄巣はやすやすと洛陽に入城することができた。 このときに黄巣とその軍隊は、降参した勢力とした約束を守って、略奪や暴行をすることなかった。
次に目指すは唐の西都である長安であった。ところが唐の皇帝は洛陽が落ちた時点で、安禄山の乱のときと同じように蜀の地に落ち延びてしまっていたため、これまたいともたやすく、長安に入城した。

≪4.皇帝に、そして没落の開始≫
880年(廣明元年)に長安に入城すると、黄巣は帝位を宣言し、国名を大斉、年号を金統とした。唐の官僚で四品以下だった者は身分が軽いから責任も軽いとしてそのまま在職させ、それ以上の身分の者はすべて追放して、自分の身内の者を高官に任命した。 また長安に残っていた唐の皇族は手当たり次第に首を刎ねた。

李克用 りこくよう  (856〜908)
唐末群雄の一人。
五代後唐の建国者荘宗(李存勗)の父で、後唐の太祖とよばれる。
突厥・沙陀族の出身で,本姓は朱邪氏。父の朱邪赤心が唐朝より李姓を賜った。
片目が小さいので独眼竜とあだなされ,彼が指揮する軍隊は黒衣を着用して戦争に強かったので、墓軍(カラス部隊)とよばれて恐れられた。
黄巣の乱平定の最大の功労者として河東節度使に任じられたが、朱全忠との勢力争いに敗れた。
突厥沙陀部の酋長・李昌国(朱耶赤心)の第三子。
片眼が小さいために独眼龍のあだ名があり、勇猛なことで知られていた。
883年に長安を回復した功績によって、同平章事・河東節度使となったが、その後、陳州で黄巣を討伐した際、軍糧を得るためにベン州に行き、ともに黄巣を討つ朱全忠に謀られて、九死に一生を得た。以後両者は宿敵となり、唐室を挟んで激闘を続けた。そのうちに朱全忠の勢力が強くなり、その支配は河南・淮西・山東から河北にまで及んで、李克用を抑えてきた。
907年に朱全忠が唐の天子・哀帝に迫って譲位をおこなわせ、後梁を建国すると、李克用ら各地に割拠する新興の軍閥はこれに反発し、各自独立を宣言し、いわゆる五代十国の争乱時代の幕が木って落とされた。この頃既に四川地方には王建の建てた前蜀があり、華中・華南には呉・呉越・ビン・南漢などがあり、そのうちのいくつかは朱全忠の後梁から王に封ぜられていた。
朱熹 しゅき (朱子)  (1130〜1200年)
中国・南宋時代の学者。朱子学の創始者。
南宋の学者。


エン・ティムール(燕鐵木兒)  エンテムル・エンテムール、エルテムル (〜1333)

元朝末期の権臣。
「第5代の英宗シュドバラは、テクシによって立てられましたが、テクシはやがて彼を殺して泰定帝エスンティムールを立てました。右丞相エンティムールも自分の擁立した明宗クシャラを殺して、その弟の文宗トブティムールを立てています。文宗は死ぬとき、亡き兄の子のトゴンティムールを立てるように遺詔したのに、エンティムールはそれを無視して寧宗イリンパンを立てました。このように、いちいち書いているとばかばかしくなってきます。権臣たちは、はげしい権力闘争をおこない、その勝利者が皇帝を立て、自由にそれをすげかえ、敗北者を殺した、と書けばそれで済むことです」(陳舜臣)
キプチャク軍閥の出身。祖父は名将トトハ(土土哈)、父はションコル(床兀兒)
彼の一族は、トトハの代からキプチャク軍団を統率し、モンゴル方面司令官だった元朝の皇子・懐寧王カイシャン(海山)の下で、ときおり西域方面から攻め寄せてくるオゴタイ汗国の汗ハイドゥの攻撃を良く防ぎ、勲功を挙げた。皇子カイシャンがやがて従弟の安西王アナンダとの皇位争いに勝ち、第3代皇帝(武宗)に即位したおかげで、エンティムールの一族は皇帝の右腕として中央政界にも大きな勢力を張ることとなり、まだ幼なかったエン・ティムールも名門の子弟として、粗暴な傾向の強かった武宗宮廷の中で、皇帝に近侍しながら成長した。
彼は武宗の宿衛(ケシクテイ・怯薛歹)に入り、まもなく若くして京師の侍衛軍団である左衛親軍都指揮使となった。第6代皇帝泰定帝の時代の1326年には僉書枢密院事として中央軍政の機密に参与。
1327年に元朝皇帝・泰定帝が死去し、宰相の倒刺沙(タォラシャ)が皇子・阿速吉八(アスケバ)(天順帝)を擁立したとき、それに対抗して大都の軍事を掌握していたエン・ティムールは、武宗の子・懐王(圖卜帖睦爾、または圖帖穆爾、トプ・ティムール、またはトク・ティムール)を立ててクーデターを起こした。大都には、英宗を弑逆した軍務大臣テクシが宰相タオシャラの側にあることを弾劾しようとする武宗期の群臣たちの不満が渦巻いていたのである。エンティムール派は、天順帝の父泰定帝が世祖フビライの嫡子チンキンの庶子カマラの血統であって武宗の皇統とは異なることを持ち出し、武宗の息子である懐王を擁立したのである。エン・ティムールは仲間たちとともに大都にいる宰相派をことごとく逮捕し、江南にいた懐王を大都へ迎え入れる。上都の宰相はただちに討伐軍を派遣し、上都と大都の間に戦争が開始された。
はじめ、上都の宰相軍が優勢であったが、精鋭キプチャク軍団を率いるエン・ティムールは、懐王の名の下にすみやかに国内の強力な軍団の大半を自分の側に置くことに成功し、大都付近の防御拠点を強化して、敵軍の攻勢を頑固に食い止めた。上都軍は、大都近郊まで進出しながらもついに大都に到達することができず、ついに疲弊し、敗走。それに乗じてエンティムールは上都まで押し寄せ、天順帝と宰相・倒刺沙を捕縛。捕らえられた天順帝がどうなったかは記録されておらず、また天順帝は即位してからたった1ヶ月で打ち倒されたため、元朝の正当な皇帝とは認められていない。大勝利した懐王は、皇帝に即位(文宗)(1328年)
ただし、文宗が即位したあと、エンティムールは、遠くアルタン山脈の西方にあった文宗の兄・和世竦(周王、クシャラ、ホシャラ、コシラ)の扱いに頭を悩ませる。兄皇子は仁宗の時代に叛乱を起こして遠く中央アジアまで逃亡していたが、文宗が即位すると帝国の首都カラコルムに帰還し、モンゴル高原の貴顕を支持者として取り入れて、弟の文宗に相応の地位を要求してきたのである。(文宗が兄に帝位を譲ることを希望したとも言うが)、エンティムールは使者となってモンゴル高原に赴き、文宗が兄に帝位を譲る準備があることを伝えた。(文宗が即位した翌年である)。兄皇子は喜んでカラコルムの北でハーン位につき(明宗)、帝位を譲った弟を皇太子となすことを決め、エンティムールも太師という職に任命された。しかし、明宗の一行がはるばるモンゴル高原から上都付近まで巡幸してくると、エンティムールは懐王と共に歓迎の会を開き、そしてその直後に明宗は急死した。(エンティムールが明宗を毒殺したのである)(←明宗は正月にハーンとなり、8月に死んだ。トゴン・ティムールの代に明宗が暗殺された事実が明らかにされた。)
兄の死後すぐにふたたび文宗は皇位につき、その宮廷でエンティムールは中書右丞相・録軍国重事・御史大夫という三大要職を一人で務めることとなった。エンティムールはみずからが統率するキプチャク、アス、カルルーク軍団の強大な軍事力を背景に、全ての権力を支配下に置き、政権を牛耳った。
やがて、帝国の最高の名誉であるダルカンの地位を得て、大平の地を賜って太平王と称した。弟の撒敦(サントン)は中書左丞相に、息子の唐其勢(タンキシ)は御史大夫に。
しかしやがて文宗が病没し、それを継いだ寧宗も夭折したので、帝国の政権が安定することはなく、元朝最後の皇帝トゴン・テムルが即位した年に、多淫が原因でエンティムールが死去すると、まもなく実権は実力者のバヤンに奪われ、やがてエンティムールの一族は陰謀を企てたという理由で誅伐された。
ココテムル(拡廓帖木児) (?〜1375)
中国・元時代の名将。
モンゴルの大貴族の家系に生まれた。 滅び行く元をたすけて奮闘し、数々の武勲を挙げたが、やがて朱元璋の部将・徐達に大敗して元帝国は崩壊した。 ココテムルも黄河を泳いで逃れ、その後、故地・モンゴル高原に逃れて元帝国を北元として存続させることに力を尽くした。朱元璋も敵ながらココテムルの武勇には感嘆し、ココテムルの妹を次男の妃に迎えたという。 
元・北元の将軍。漢字表記は擴廓帖木児。ココ・テムルは元の朝廷から授けられたモンゴル名で、若い頃は「王保保」との中国名を名乗っていた。

河南の人で、元末の騒乱に河南で軍閥を形成したウイグル部のチャガン・テムルの甥で、養子。1362年に叔父が山東で紅巾党との戦いで命を落とすと、その軍閥と官職を継ぎ、山東の征伐で叔父に劣らない軍才を示した。

しかしその直後、叔父の生前から敵対関係にあった山西の大同を本拠地とする軍閥ボロト・テムル将軍との敵対が深まり、山西南部の太原に入って大同のボロト・テムルと対峙した。また、元の首都大都ではトゴン・テムル・ハーンの側近たちと、皇帝の実子で皇太子のアユルシリダラの間で内紛が起こっていたが、ボロト・テムルは反皇太子派に荷担したためアユルシリダラの側についた。

この対立は1364年、皇太子派が反皇太子派を脅かしたために反皇太子派のボロト・テムルが大同から兵を大都に進めてハーンを自らの掌中に置いて政権を奪取し、皇太子アユルシリダラは都を逃れて太原のココ・テムルのもとに落ち延びる事態に至った。ここに至ってココ・テムルは皇太子と連合してボロト・テムルとの決戦に臨み、翌1365年にココ・テムルの軍が大都に迫るとボロト・テムルは軍中の内乱にあって滅んだ。ココ・テムルは大都に入城して皇太子を中央政界に復帰させ、この功によって中書左丞相の地位と河南王の爵位を授けられた。しかし、この内紛の間に江南では朱元璋が勢力を固めつつあった。

ココ・テムルは皇太子の信任のもとに元軍の総司令官を委ねられ、反元運動の討伐の総司令官となるが、河南軍閥以来の漢人将校を含む配下の将兵らがココ・テムルに反抗を見せるようになり始め、反乱も起こった。また、1367年にはトゴン・テムルから政治と軍事の全権を付与されてほとんどハーン同然となっていたアユルシリダラは次第に権力と軍事力を持つココ・テムルを疎み始め、元軍に間隙が生じた。このためこれまで強勢を誇ってきたココ・テムルの軍は朱元璋の立てた新王朝明の軍勢の前に敗れて河南・太原を失い、1368年に元は大都を捨てて北方に移ることを余儀なくされた。

1370年、トゴン・テムルが死にアユルシリダラが皇帝に即位した頃、太原から甘粛に逃れていたココ・テムルはモンゴル高原のカラコルム方面に入ってアユルシリダラ・ハーンの軍に合流し、ハーンを補佐して元を追撃せんとする明軍に対する防衛にあたった。1372年には、モンゴル高原に侵攻してきた明の将軍徐達が率いる15万の大軍をわずかな手兵で打ち破り、数万人を殺したといわれるという大勝利を挙げる。

その後は元の中国回復を目指して元軍を率いて南下し、一時は山西地方まで勢力を盛り返したが、1375年に病死した。ココ・テムルと、その3年後のアーユシュリーダラの死を境に北元の勢力は急速に解体に向かい、元の中国回復は果たされないままに終わる。

周忱 しゅうしん  (1381〜1453)
中国・明代の政治家。
江西省吉水県の人。 永楽2年(1404)進士に受かる。
刑部員外郎、工部右侍郎などを経て戸部尚書に進み、さらに工部尚書に転じた。
宣徳5年(1430)から景泰2年(1451)まで22年間南直隷の巡撫として、民政上にさまざまな画期的な改革をおこなった。 明初以来、江南の官田の租はいちじるしく高額であったうえに、田租の加耗(附加税)が公平にはおこなわれず、豪戸はこれを貧戸に転嫁したために、貧戸は離散して、租税の滞納が重なり、宣徳年間には蘇州一府だけでも逃散した農民の推定耕作面積は、約800万石にも達するような有様だった。 周忱は幾度も上奏して租額の引き下げを実現すると共に、平米法を創始して加耗を出来る限り画一にして、 余米を設けて不時の事故に対する備えとした。 そのため蘇州府だけで70余万石(一説に80余万石)の減租を見、他府もこれに準じて減租が実行された。 これと平行し、糧長の正副三人制を二人制に改めて冗費の節約をはかり、また従来、税糧は糧長の私家に集められ、
不正に横流しされるもととなっていたのを改めるために、交通の便のある水辺に官の倉庫を設けて収納させることとした。
宣徳8年(1433)には蘇州の松江地方で「金花銀の制」を設けたが、これはやはり貨幣経済の発達による北京官吏の困窮を救おうとしたもので、併せて重額官田の貧窮佃戸の便宜をもはかったものである。
そのほか、両淮鹽場で賃金の不払いに苦しんでいた竈戸(製鹽業者)を付近の州県の余米による余鹽の収買によって救済しようとし、また漕運に「支運の法」を立てて軍民両者の便をはかって、賦役を各戸の資力に応じたものにするよう改め、駅馬の負担を田に割り当てて馬頭の搾取を封ずるなど、種々の改革をおこなった。
これらの改革は、必ずしも彼の意図する通りに実行されたわけではなかったが、江南各地の治水灌漑事業でも相当の成績を挙げるなど、明代まれにみる誠実な能吏であった。
セン=ーン(也先汗) (?〜1454)
中国・明の時代に、モンゴル高原で勢力を盛り返したモンゴル民族の一部族・オイラート部の首長。長い抗争の末モンゴルを再び統一した父・トゴンの後を継いだエセンは、太師准王を称し、チンギスハーンの道をおこなおうと、四方を侵略し、満州の女真族をくだして朝鮮と境を接し、西は中央アジアに入り、北はシベリア南端に達する大領土をひらいた。  1449年に明に侵入し(土木の変)、 明の皇帝を捕らえ、大元天聖大河汗と称した。しかし、その勢力も、エセンが部下に暗殺されると同時に瓦解する。


干謙(うけん) (?〜1457)
    中国・明時代中期の名将。
    1448年オイラートのエセン・ハンが南下してきて、土木の変で明の皇帝を捕らえるという事件が起こる
    と、干謙は動揺する北京宮廷を押さえ、新しい皇帝を立ててエセンの財宝・領土要求をキッパリはね
    のけた。 さらに義勇軍を率いて、エセンを撃退。
    しかしその後、エセンハーンが捕虜の元皇帝を返還し、彼が復位したため、干謙は処刑された。
 

李卓呉 りたくご (1527〜1602) ※卓呉は号、名は贄(し)

明の時代の陽明学者。儒教秩序に反抗する挑戦者と見なされ弾圧される。
官僚として人生を送り、53歳で引退したあと『焚書』(1590)や『蔵書』(1599)などの書を著す。
彼は孔子の絶対性を否定し、既成概念に追従する士大夫・官僚偽善者として嘲笑した。
一方で、その時代軽蔑されていた恋愛文学や白話文学を真の文学として評価、さらに男女平等の思想まで説
き、その戦闘的な思考と闊達な筆勢は、世の中に圧倒的な人気でむかえられた。
しかし、逆に、政府筋からは危険思想であると取られた。 とうとう逮捕された彼は、北京の牢獄で自殺する。
彼の書いた文章の中で、商人の商業活動を肯定していた点は、明の時代に中国にも資本主義の萌芽が見られ
始めていた証拠であるとして、後世の学者たちから注目された。


マテオ・リッチ (1552〜1610)

イエズス会の中国伝道者。
イタリア出身。
31歳のとき、中国にカトリック伝道のためにおもむき、1601年に北京居住を許された。


アバダイ・ハーン、   (1554〜)

モンゴル・ハルハ部、第1代ハーン。
ダヤンハーンの末子のゲレセンジュの第3子。 セレンゲ河畔に生まれる。
14歳〜27歳まで戦争に従事し、宿敵オイラート部を支配下に入れることに成功。 


王直、おうちょく   (?〜1559)

16世紀倭寇の代表的人物。 
本名;王セン(金+呈)。 「五峰」と号す。 安徽省歙(しょう)県の出身。(この地は「新安商人」の出身地として知られる 新安商人・・・・・???)
王直ははじめ、塩商を営んでいたが、商売に失敗し、同郷の徐惟学らと共に、遊民となった。
1540年頃、王直は葉宗満らと広東へ行き、大船を建造して、呂宋(ルソン)、安南、マラッカ方面で、禁制品の硫黄・生糸による密貿易に従事して、数年で巨富を蓄えた。
1542年(『鉄砲記』は1543年とする)、種子島西村の小浦に船客百余人を乗せた大船が漂着した。 大船には「五峰」という名の明の儒学者が乗っており、種子島の住人に「船にはポルトガル人二名が乗っていて、交易を求めている」旨を伝えた。 大船は、島主・種子島時堯のいる赤尾木の港に入り、鉄砲を伝えた。 この五峰が王直であり、おそらくこの大船は王直の指揮下にあるジャンク船である。
1545年、王直は博多の助才門(助左衛門)ら三人を密貿易の仲間に引き入れ、根拠地である双嶼に戻った。 ついで1547年には、九州の五島列島に根拠地を置く。 「五峰」の号は「五島」に由来すると考えられている。 さらに王直自身は平戸に豪華な居宅を構え、36島の人々を従え、徽王と称したという。
1551年、瀝港に入港して根拠地とした。 対立する倭寇の首領を捕らえ、明の官憲に献じた。 しかし明軍は倭寇の鎮圧を図り、1553年、瀝港を攻撃した。 そのため彼は、倭寇を指揮して略奪行為を働くようになる。その後、王直は、明の総督・胡宗憲の勧めを受けて投降。 しかし胡宗憲の助命嘆願もむなしく、1559年、断首された。
呉三桂(ごさんけい、ウーサンクィ) (1612ごろ〜1678)
中国・明時代の末期に北辺を守っていた将軍。 1644年ごろ李自成の乱が北京にせまったときに、明の皇帝に北京の守備に当たるように命令された。 しかし、彼が北京に到着するより前に李自成が北京を陥落させたという報告が入ったため、呉三桂は反転し、清の順治帝に降伏をした。 そして清の軍勢が中国に入る手引きをし、北京を奪回した。
張東官、ちょうとうかん   (1714〜?)
清帝国・乾隆帝おかかえの料理人。 
蘇州の出身。 得意料理は「蘇造腸子(スーザオチャンズ)」「蘇造肉(スーザオロウ)」「糟蟹(ザオシェ)」「酔鶏(ズイジー)」など。乾隆帝は張の料理を非常に気に入っていて、毎朝4時45分になると、張の作った「冰糖燉燕窩(ビンタンドンイェンウォ)」(ツバメの巣のシロップ漬け)を寝床で食べてから、執務を執ったという。


林則徐 (1785〜1850)

嘉慶16(1811)年の進士。すぐに川林院庶吉士に任ぜられ,のち編修となり,その間,治水と漕運の問題を研究し,これが後年の官僚生活に役立った。地方官として,江南道監察御史にはじまり,各地の按察使,布政使や河東河道総督,江蘇巡撫をつとめたが,特に江南の治水と水害救済で手腕を発揮した。1837年(道光17),湖広総督に昇進したが,このとき,アヘン流入問題に苦慮していた政府に,吸飲者を死罪にするなどのアヘン厳禁論を認められて,38年,欽差大臣(特命全権大使)として広東に派遣され,外国商人に対してアヘンの全面的提出をはじめとする厳重な取締りを行った。同時に,外国の地理書,法律書などを翻訳させ,《四洲志》《各国律令》を著し,外国事情の精通につとめた。40年,両広総督に任ぜられたが,その6月,英国との全面武力衝突(いわゆるアヘン戦争)が始まると,団練,水勇などの義勇兵を組織して英軍に大損害を与えた。しかし,北方での敗戦にともない政府内に和平論が台頭し,林則徐は総督を解任され,さらに翌年,戦争を起こした罪を問われ,新疆省イリ(伊犂)に追放された。3年の後,罪を許されて官界に復帰し,50年,欽差大臣として広西の拝上帝会(太平天国)鎮圧の任に赴く途中で病死した。著述は《雲左山房文鈔》などに収められている。
 
字は元撫または少穆(しようぼく)。晩年,竢村(しゆんそん)老人と号した。諡は文忠。福建省侯官県(現,福州市)の出身。嘉慶16(1811)年の進士。すぐに川林院庶吉士に任ぜられ,のち編修となり,その間,治水と漕運の問題を研究し,これが後年の官僚生活に役立った。地方官として,江南道監察御史にはじまり,各地の按察使,布政使や河東河道総督,江蘇巡撫をつとめたが,特に江南の治水と水害救済で手腕を発揮した。1837年(道光17),湖広総督に昇進したが,このとき,アヘン流入問題に苦慮していた政府に,吸飲者を死罪にするなどのアヘン厳禁論を認められて,38年,欽差大臣(特命全権大使)として広東に派遣され,外国商人に対してアヘンの全面的提出をはじめとする厳重な取締りを行った。同時に,外国の地理書,法律書などを翻訳させ,《四洲志》《各国律令》を著し,外国事情の精通につとめた。40年,両広総督に任ぜられたが,その6月,英国との全面武力衝突(いわゆるアヘン戦争)が始まると,団練,水勇などの義勇兵を組織して英軍に大損害を与えた。しかし,北方での敗戦にともない政府内に和平論が台頭し,林則徐は総督を解任され,さらに翌年,戦争を起こした罪を問われ,新疆省イリ(伊犂)に追放された。
3年の後,罪を許されて官界に復帰し,50年,欽差大臣として広西の拝上帝会(太平天国)鎮圧の任に赴く途中で病死した。
著述は《雲左山房文鈔》などに収められている。
曾国藩 そうこくはん (ツェン グォ ファン) (1811〜1872)
中国の政治家。道光18年(1838)に進士,1849年には礼部右侍郎まで昇った。順調に正統出世コースを歩んだ曾国藩はやがて10年をこえる太平天国との対抗関係において歴史に名をとどめることになる。53年1月,服喪帰郷中のところを団練(郷土自衛団)組織を命じられた曾国藩は,旧来のそれを湘軍(義勇軍,湘は湖南省の雅名)に改組した。湘軍は兵士の給与もよく,儒教イデオロギーにもとづく郷党的団結を核に,従来の正規軍よりはるかに戦闘力があり,太平軍と戦って互いに勝敗があった。清軍中における湘軍の重要性はだれの目にも明らかだったが,曾国藩が両江総督兼江南軍務欽差大臣の重権を授けられるのは,60年(咸豊10)8月,清朝がもう一つの敵=英仏連合軍の圧迫を強力にうけるにいたってのことである。
 北京条約によって列強に屈服した清朝は外人傭兵隊の協力も得て太平天国に対し,64年(同治3)7月,天京を陥落させた。その最大の功労者は曾国藩だったから,彼は漢人として空前絶後の一等毅勇侯の爵位を授けられた。これは満州朝廷内部における漢人勢力の台頭にとって画期的なことがらだったが,太平軍に大敗を喫するたびに自殺を考えたほど小心なところのあった彼は,むしろ保身のために湘軍を解散し,軍権を手放した。また,彼は61年,安慶に兵器工場(安慶軍械所)を設立するなど洋務運動の先駆者でもあったが,軍権,洋務とも彼の輩下の李鴻章が主として継承するところとなった。曾国藩はなによりもまず,いわゆる同治中興の功臣として有名であるが,儒学の徒として名教の維持に努め,桐城派の流れをひく文章は一世をふうびして,その弟子郭崇散(かくすうとう),薛福成(せつふくせい)らとともに湘郷派とも称される。《曾文正公全集》《曾文正公手書日記》等がある。子の曾紀沢,曾紀鴻は著名な外交官,数学者,娘の曾紀芬は女性の自訂年譜として有名な《崇徳老人八十自訂年譜》を残した。
中国の政治家。幼名は子城,字は伯涵,号は滌生,諡は文正。湖南省湘郷県の人。祖父の代で富を蓄え,父から科挙に応じた。父は生員どまりだったが,曾国藩は道光18年(1838)に進士,1849年には礼部右侍郎まで昇った。順調に正統出世コースを歩んだ曾国藩はやがて10年をこえる太平天国との対抗関係において歴史に名をとどめることになる。53年1月,服喪帰郷中のところを団練(郷土自衛団)組織を命じられた曾国藩は,旧来のそれを湘軍(義勇軍,湘は湖南省の雅名)に改組した。湘軍は兵士の給与もよく,儒教イデオロギーにもとづく郷党的団結を核に,従来の正規軍よりはるかに戦闘力があり,太平軍と戦って互いに勝敗があった。清軍中における湘軍の重要性はだれの目にも明らかだったが,曾国藩が両江総督兼江南軍務欽差大臣の重権を授けられるのは,60年(咸豊10)8月,清朝がもう一つの敵=英仏連合軍の圧迫を強力にうけるにいたってのことである。
 北京条約によって列強に屈服した清朝は外人傭兵隊の協力も得て太平天国に対し,64年(同治3)7月,天京を陥落させた。その最大の功労者は曾国藩だったから,彼は漢人として空前絶後の一等毅勇侯の爵位を授けられた。これは満州朝廷内部における漢人勢力の台頭にとって画期的なことがらだったが,太平軍に大敗を喫するたびに自殺を考えたほど小心なところのあった彼は,むしろ保身のために湘軍を解散し,軍権を手放した。また,彼は61年,安慶に兵器工場(安慶軍械所)を設立するなど洋務運動の先駆者でもあったが,軍権,洋務とも彼の輩下の李鴻章が主として継承するところとなった。曾国藩はなによりもまず,いわゆる同治中興の功臣として有名であるが,儒学の徒として名教の維持に努め,桐城派の流れをひく文章は一世をふうびして,その弟子郭崇散(かくすうとう),薛福成(せつふくせい)らとともに湘郷派とも称される。《曾文正公全集》《曾文正公手書日記》等がある。子の曾紀沢,曾紀鴻は著名な外交官,数学者,娘の曾紀芬は女性の自訂年譜として有名な《崇徳老人八十自訂年譜》を残した。


左宗棠 さそうとう  (1812.11.10〜1885.9.5

中国,清末の軍人,官僚。
太平天国の反乱に際し各地の蜂起鎮圧にはたらき、曾国藩に注目されて軍勢を率い、福建,広東の太平軍残党を制圧した。
この間英仏軍の協力をうけ,またフランス人の援助を得て洋務運動の先駆となった。陝甘総督となり68年に西捻軍を、71年には西北の回族反乱を鎮圧し,さらにコーカンドのイスラム教徒ヤークーブ・ベクの独立運動を抑えて新疆を確保した。ロシアがイリ地方に進めた軍隊を引かず緊張が高まると彼は主戦論を唱え,外交交渉を主とする政府と対立して北京の閑職に移された。イリ条約締結後81年(光緒7)両江総督兼南洋大臣となったが,まもなく病気で辞任,84年清仏戦争で再び起用され福建に赴いた。フランス軍の攻撃で福建艦隊は壊滅し,翌年福州で病死した。
「清国最後の大黒柱」と頼りにされ、自分では「清末の諸葛亮」と自称していた。
「…左宗棠は、どうしたわけか師匠筋に当たる曾国藩とはウマが合わなかったのです。よく喧嘩をしています。曾国藩の分類に従えば、豪傑型の左宗棠は前者(=「盛世創業垂統の英雄は襟懐豁達(=表裏が無く快活なこと)を以て第一義とす」⇔「末世扶危急難の英雄は心身労苦を以て第一義とす」の英雄で、しかも傲慢なところがありました。太平天国末期、左宗棠は一軍を率いて良く戦い、浙江を鎮定する大功を立てています。もともと左宗棠は曾国藩と同じ湖南人で、曾国藩と姻戚関係もあり、進士でないのに浙江巡撫になれたのはその推挙によったものでした。それなのに、同治3年、両者は絶交してしまったのです。声高に相手を罵るのは、常に左宗棠であったのは言うまでもありません」 
                                                                   −−陳舜臣 『中国の歴史6』
字は季高。湖南省湘陰県の人。
道光12年(1832)挙人となったが、会試には合格せず郷里で学問をしていた。歴史や地理の研究に没頭していたという。

1850年に勃発した太平天国の乱に際し、曾国藩の部下である胡林翼に推挙されて仕官し、楚勇を組織して太平軍の攻撃から長沙を守った。52年(咸豊2)以来,湖南巡撫の幕下で各地の蜂起鎮圧にはたらき注目された。60年曾国藩の推挙で湘軍を率いて太平軍と戦い,61年浙江巡撫,63年(同治2)髪浙(びんせつ)総督となっておもに浙江省を転戦,杭州を回復し66年までに福建,広東の太平軍残党を制圧した。
この間英仏軍の協力をうけ,またフランス人の援助を得て福州の馬尾に造船所(福州船政局)を作り海軍の創設に努め、洋務運動の先駆けとなった。

≪新疆での戦い≫
中国文化に同化したイスラム教徒の多い甘粛・陝西では、古くから主に豚を食す習慣を巡っての対立が絶えなかったが、太平天国の末期に西捻軍に属する陳得才という人物が陝西省に入り込んで、叛乱の小細工をすると、この地域の群衆は、自衛の為に地区ごとに団練(=民兵)を組織するようになった。1862年に華県でたまたまイスラーム教徒が漢人所有の竹を切り出して矛を作った事がきっかけで小競り合いが起こり、漢人に対してイスラームが蜂起し、大虐殺が起こってしまった。地方政府はこの混乱に対して当初有効な対策が取れず、反乱の地域は徐々に拡大し、それに乗じて回疆でも陜西から流れたイスラームたちが扇動して反乱が飛び火し、1864年にはカシュガルにブツルグとヤークーブ・ベクらが独立政権を作るまでになってしまった。
左宗棠は1867年に
陝甘総督となると、イスラーム教徒たちの反乱の鎮定に取りかかる。太平天国軍と長年戦った精鋭を引き連れて新疆に入り、転戦した。彼は厳しい姿勢で反乱軍と戦い、ほとんど皆殺しのような感じでイスラム勢力を駆逐していった。イスラーム教徒が立て籠もった甘粛の粛州城を3年掛けて包囲したときは、兵糧攻めのすえ、無数の老幼男女が虐殺された。68年西捻軍を、71年西北の回族反乱が鎮圧した。
1875年、左宗棠は欽差大臣に任命され、清朝の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当して、ヤークーブ・ベクの独立運動を抑えて新疆を確保した。ロシアがイリ地方に進めた軍隊を引かず緊張が高まると彼は主戦論を唱え,外交交渉を主とする政府と対立して北京の閑職に移された。

イリ条約締結後、81年(光緒7)両江総督兼南洋大臣となったが,まもなく病気で辞任,84年清仏戦争で再び起用され福建に赴いた。フランス軍の攻撃で福建艦隊は壊滅し,翌年福州で病死した。著書に《左文襄公全集》がある。
 
 


ヤークーブ・ベク  (1820〜1877.5

コーカンド・ハン国出身の武将。ロシア帝国の中央アジア進出により清帝国内の新疆地域に逃れるが、そこで亡命者を主軸とするイスラム教政権を樹立し,イリ(伊犂)地方を除く新疆のほぼ全域を支配した。彼は軍事的才能と外交手腕に恵まれていた。ロシア,イギリスと通商条約を結び,オスマン帝国の宗主権を認めて,国際的承認を求めたが,清帝国の再征服軍を目前にして,新疆東部のコルラで死去。野望は果たされなかった。
東トルキスタン(新疆)の支配者。ホーカンド(コーカンド)・ハーン国の生れ。
清朝が成立した17世紀、新疆地区の支配者だったトルコ系ウイグル人たちは(※「新疆」という語は1844年の成立)中央アジアのコーカンド・タシュケント・ブハラ等のハーン国に亡命していたが、19世紀になると清朝の支配もゆるみ、ふたたびウイグル人たちはタリム盆地に侵入を繰り返すようになっていた。1860年頃には陜西・甘粛・新疆地区でイスラム教徒の反乱が頻発。
そういった状勢に応じて、1865年初頭にカシュガル・ホジャ家の末裔のブズルグ・ハーンの副官として、ヤークーブ・ベクが清朝支配に対する反乱の渦中にあった新疆に侵入。さらにブズルグを追放して,ホーカンドからの亡命者を主軸とするイスラム教政権を樹立し,イリ(伊犂)地方を除く新疆のほぼ全域を支配した。しかし彼は、イスラーム法の厳格な遵守を万民に求める性格で、その政策は弛んだ戒律に慣れ親しんだウイグル人たちの支持を必ずしも得られなかったとされる。清将劉錦棠麾下(きか)の再征服軍を目前にして,新疆東部のコルラで,おそらくは卒中のために死亡。


李鴻章 りこうしょう (リーホンチャン)  (1823.2.15〜1901.11.7

中国,清末の政治家。清王朝の軍事と外交関係を一気にとりしきった大人物。
太平天国の乱のとき曾国藩の幕僚として頭を顕し、淮軍を指揮。太平天国滅亡後は直隷総督兼北洋大臣に就任,以来25年間その任にあった。軍隊の装備の近代化、洋務運動、外国事情に通じ交渉に熟達した有能なブレーンを育てた事が彼の業績である。しかしその外交は戦争回避のための妥協と譲歩に終始し,軟弱性を反対派からたえず指弾されることも多かった。日清戦争、露清同盟密約、義和団事変などを処理。1901年,全権として辛丑条約(義和団議定書)を結んだあと在任のまま病没したが,後任に推挙したのが袁世凱であった。
「世界でもトップレベルの見識を持った政治家」、「当時の中国の弱点が全て見えていた男」、「混沌とした中国政界の中の鎮護石」、「手をこまねいているだけしかできなかった」、「現実主義者」、「日本に国土を売った売国奴」などなど、いろいろな視点からいろいろな評価で語られる。
「…清仏戦争を評して、清国は軍事的に勝って外交的に負けたといわれています。けれども、李鴻章の思惑は、また別のところにあったのです。あらゆる努力を払って、戦争の継続を防がねばならない事情が、彼自身にはあったのでした。福建水師は壊滅しています。(中略) 福建の水軍が全滅した以上、戦争を継続するとすれば、李鴻章は自分の虎の子である北洋水師を出動させなければなりません。北洋軍こそは李鴻章の政治的資産でした。その武力を背景にしているので、彼の発言力は強く、そして地位は安泰であります。フランスとの戦いで、北洋軍がダメージを受けたなら、李鴻章の政治的な力もそれだけ衰えるのです。(中略) 国益よりも個人の利害を優先させる、末期症状があらわれているのです」 
                                                                   −−陳舜臣 『中国の歴史6』 


40歳の頃の写真字は少筌(しょうせん)。安徽省合肥の人。父の李文安は土地の小地主で、長年科挙の勉強を続け、李鴻章が15歳の時にようやく進士に合格。(同じ年に曾国藩も進士に及第)。李鴻章は李文安の次男で、兄弟には兄・李翰章(1821〜99)、弟・李鶴章、李蘊章、李鳳章、李昭慶(1835〜73)がいる。
道光27年(1847)の進士に合格、翰林院に入る。(翰林院=皇帝詔勅の作成を担当する官庁、特に優秀な学者が勤務する)。

太平天国の乱
太平天国が興ると,53年(咸豊3)命をうけて帰郷し,軍務に従事した。58年,曾国藩の幕僚となり,62年(同治1)曾国藩の推挙で江蘇巡撫に抜擢され,淮軍(わいぐん)を編成し(郷勇),太平天国軍攻撃下の上海の救援におもむいた。
 
 
 

直隷総督北洋大臣
太平天国滅亡後は捻軍反乱の鎮圧にあたり,70年,曾国藩のあとをうけて直隷総督兼北洋大臣に就任,以来25年間その任にあって,清朝の軍事・外交をほとんど一手にとりしきった。それを可能にしたのは,初任地である上海の地の利を生かして淮軍の装備の近代化を進め,これを起点に洋務運動の先端を切ったこと,外国事情に通じ交渉に熟達した有能なブレーンを擁したことであった。ただその外交は戦争回避のための妥協と譲歩に終始し,軟弱性を反対派からたえず指弾されたが,中国の国力不足に責任を転嫁し,洋務運動による国防力強化を正当化した。

日清戦争
しかし,その眼目であった北洋海軍が日清戦争で壊滅し,淮軍も敗退して,ついに失脚をよぎなくされた。講和会議の全権として下関条約を結んだあと閑職におかれたが,外交面でもなおその手腕を買われ,96年(光緒22)にはロシア皇帝の戴冠式に派遣されて露清同盟密約を結び,義和団事変の際は事態収拾のため,直隷総督兼北洋大臣に再起用されたりした。1901年,全権として辛丑(しんちゆう)条約(義和団議定書)を結んだあと在任のまま病没したが,後任に推挙したのが袁世凱(えんせいがい)であった。《李文忠公全集》165巻がある。


張之洞 ちょうしどう (チャン チー トゥン)     (1837〜1909.10.5

中国・清王朝末期の官僚。李鴻章のライバル。
彼は中国古来の伝統・歴史が大好きだったのである。個人においては超ナショナリストだった。しかし、外国を追い出す手段として西洋の技術を導入することはためらわなかった。自分には財産をほとんど貯めることはしなかったが、 国を強くする為に地方軍閥の利益を保護することは熱心におこなった。古いいい物を守る為に新しい物は利用し、結果、中国に新しい時代をもたらすものであったということで、とても刺激的な人物である。
河北の直隷省南皮県出身。字は考達,諡は文襄。実家は数代に渡り地方官僚を出していた家だった。15歳で郷試に主席で合格、26歳のときの科挙の進士試験も第3位で及第。以後十数年、学問・教育関係の役職にあった。その間に宋学の思想を身につけ、愛国と自彊を主張し、保守排外の思想を強く持つようになった。
寳廷らの「清流党」に加わって大官の行動を激しく弾劾する立場となった。とくに1879年と81年、イリ条約(=イリ地方をロシアに返却する事を定めた)を糾弾し責任者の崇厚を死刑にせよという主張をしたことが西太后の目にとまり、山西巡撫に抜擢された。84年には清仏戦争に備えるために両広(=広東&広西)総督に任じられたのを手始めに、湖広総督(湖北、湖南)、両江総督(江蘇・安虐・江西)などの要職を歴任し、中央から派遣された半独立の地方勢力の代表として、清末の重鎮となった。
強烈な中国的民族意識で西洋文明の根幹である民主主義や議会制度に拒否感を感じていたがゆえに、彼は終始西欧に妥協しようとする李鴻章の対外政策に反対していたが、その熱心な対外強硬論を裏付ける防衛力強化の面において、(清仏戦争をきっかけとして)軍備の近代化に専念した。具体的には海軍の拡張、武昌におけるドイツ的陸軍の編成、兵器・軍需品・紡績品の製造を目的とした官営の近代工業施設の造営(中央の保守派官僚に非難された)などであった。また、日清戦争後の少壮改進派のパトロンとしても知られたし、戊戌変法の最中でさえ『勧学篇』を出して、儒学の復興を条件とした西洋技術の採用のみ(中体西用)を強調した(変法自彊運動)。このような彼の近代化政策は国家の増強というよりもむしろ、地方割拠勢力の自立を目的とするものだったと考えられる。義和団の乱のとき、表面では北京政府を援助しながら上海の外交団と協定して自分の管轄地域内の安定に専念した。義和団の乱平定後、彼の主張した変法自彊運動の気運が高まると、劉坤一とともに変法会奏を上奏し、学校教育、海外留学生による漸進的改革を主張した。1907年に大学士となって北京政界の重鎮となってからの2年間は近代教育制度の樹立につとめたが、そこでは相変わらず儒教の伝統保持を主張していた。
彼は「迎合の人」と評されるほど楽観的性格が強く、新旧両派の両方に対応しながら自分の勢力を拡張したが、宋学による道義的潔白のためか、官僚としての優れた財政的手腕にも関わらず、私財の蓄積は少なかったという。主著『学篇』(1898)は「張文襄公全集」に収録されている。
 
劉永福 りゅうえいふく (リゥ ユン フー)     (1837〜1917)
中国,清末の軍人。広東欽州(現,広西チワン(壮)族自治区)の人。傭士の出身で武芸に優れ,1857年(咸豊7)広西で天地会の反乱に参加した。1865‐66年(同治4‐5)ごろ清軍に追われてベトナムに入り,黒旗軍を名のってグエン(阮)朝に公認させた。73年以来,トンキン地方侵略のフランス軍と戦って勇名をはせたが,85年(光緒11)清仏戦争の講和により清軍とともに引き揚げ,清朝の武官となった。日清戦争の際は台湾にあり,日本の占領に黒旗軍を率いて抵抗,民族的英雄と称された。
広東欽州(現,広西チワン(壮)族自治区)の人。祖先は代々広西省博白の貧農であったが、父の代に欽州に移った。客家の家系とも言われている。別名・劉義、字は淵亭。劉永福の誕生後も(多分貧しさが原因で)一家は広西上思→遷隆と居を変えている。少時は家の農業を手伝い、15歳の時に船頭となったが、17歳で父が死んだあと、軍隊に身を投じたと思われる。
傭士として武芸に優れた才能を示し、21歳の1857年(咸豊7)、広西で天地会の反乱(=太平天国の乱)に参加した。1865〜66年(同治4〜5)ごろ広西省で清軍による大々的な掃討があり、追われて同志たちとともにベトナムに入り,トンキンのルクアン(六安)中和團黒旗軍を組織した。黒旗軍の騎章は「黒地に赤く」と書いた旗とした。彼はこの軍をグエン(阮)朝に公認させることに成功。73年以来,トンキン地方侵略のフランス軍と戦って勇名をはせたが,85年(光緒11)清仏戦争の講和により清軍とともに引き揚げ,清朝の武官となった。日清戦争の際は台湾にあり,日本の占領に黒旗軍を率いて抵抗,民族的英雄と称された。

黒旗軍
19世紀後半ベトナム北部に割拠して,フランス軍に抵抗した中国天地会系の私軍。首領の劉永福は本来,天地会系農民軍の武将であったが,1865‐66年ころ清軍に追われて首領の呉鯤とともにベトナム北部に入り,67年頃からソンコイ川上流の雲南通商路の要衝ラオカイ(老開,保勝)に拠って,中国・ベトナム貿易路を支配する半独立国を形成する一方,グエン(阮)朝に帰順してその私軍黒旗軍を率い,他の中国系匪賊と戦った。しかしソンコイ川を通じての中国交易はフランスの求めるところであり,73年黒旗軍はハノイ占領中のM. J. F. ガルニエを破って殺し,83年にはリビエールを戦死させ,トゥドゥック(嗣徳)帝から嘉賞された。しかしリビエール事件はフランスの北部介入と清仏戦争を招き,黒旗軍は清将唐景館の率いる中国正規軍とともにしばしばフランス軍を破ったが,85年両広総督張之洞の要請により中国に帰国して解散した。日清戦争後の96年に劉永福は再度黒旗軍を組織して台湾に渡るが,大きな反日勢力とはなりえなかった。
 
 


康有為 こうゆうい  (1858.3.19〜1927.3.31

中国,清末の学者,政治家。
1897年に徹底した政府の改革政策である「戊戌の変法」をおこなったが、西太后の反発を受けてたった100日で失脚し(戊戌の政変)、以後は波瀾万丈の亡命生活を送った。1911年の辛亥革命により帰国。
字は広厦(こうか),号は長素,のちに更生と称した。広東省南海県の生れで,門人から南海先生とよばれた。
はじめ同郷の朱次雫について宋学を主とする漢宋兼採の学をまなび,のち陽明学や仏教に傾き,さらに当時漢訳された欧米の書籍を通じて西洋近代の政治・学術をも研究した。1888年(光緒14),順天郷試受験のため入京,時の皇帝に政治制度の改革を要求する上書をおこなって政界に波紋を投じた。2年後,広州に万木草堂を開いて,欧米の学問をも盛りこんだ新しい教育内容により人材の育成をはかり,また今文経書こそ孔子の微言大義を伝えたもので,古文経書は前漢末の劉垢(りゆうきん)の偽作だと論断した《新学偽経考》14巻(1891)を出版して保守派の弾圧を招いた。続いて孔子を創教者になぞらえた《孔子改制考》21巻(1898)を著した。
 これよりさき,1895年,彼は会試受験のため入京したが,日本に敗れた清朝政府が過酷な講和条件を受諾しようとしているのに憤激し,1200名の挙人の署名を集めて和議拒否の上書(公車上書)を行った。これ以後,強学会など学会の名を借りた政治結社と雑誌出版により政治改革の必要を鼓吹した。97年,第5上書を行い,ロシア,日本に範をとって立憲君主制を国是とするよう求めたのが,光緒帝に認められ,翌年6月,〈明らかに国是を定める〉との上諭により〈変法〉が開始され,彼は光緒帝のブレーンとなって,いわゆる〈百日維新〉の改革プランをつぎつぎに立案した。しかし,その改革の方法があまりに急激だったために西太后ら保守派のクーデタにあい,わずか3ヵ月で鎮圧され,譚嗣同(たんしどう),康広仁(康有為の弟で大同訳書局を設立)ら6人は逮捕処刑された(戊戌六君子)。康有為は最初日本に亡命し,ついで世界各地を遊歴し,立憲君主政体の実現を期して保皇会の設立に努力した。その間,1902年,長年構想を練っていた《大同書》を完成した。国家,私有制,家族,男女差,人種差などを廃棄した後に完全に自由平等な大同世界が到来することを説いたユートピア論である。辛亥革命(1911)の後,帰国すると,孔教会を組織して孔子祀典の運動を行い,また宣統帝復辟運動にも加わったが,いずれも失敗し,1927年青島(チンタオ)で病死した。


陳独秀、ちんどくしゅう Chen Tu-hsiu  (1879〜1940)
   中国共産党の父。 初期の指導者。

     安徽省の生まれ。
     浙江省の求是学院、東京高等師範で学び、民国革命が始まると安徽省で教育司長となり、第二革命の失敗後、上海で文学
     革命を指導して、のちに北京大学の文学部の部長となった(1917)。 しかし2年後に保守派の排斥をうけて辞任し、上海で労
     働運動を指導するようになる。 そのうちにコミンテルン極東代表と連絡する手段を得、李大サらと共同で中国共産党創立を
     図る。  1921年に第一次全国代表大会で中央委員長に選ばれ、翌年中共総書記となり、国共合作に尽力した。
     国民党が南京と武漢とに分裂すると、彼は右派の汪兆銘と結んで国共合作に努めたが、武装革命勢力に対する指導権を放
     棄してまで国共合作をつづけようとする右翼日和見主義に終始した。
     中国共産党は1927年の「八・七宣言」でその偏向を精算し、翌年総書記・陳独秀を罷免し、さらに一年後彼を除名した。
     

蒋介石、しょうかいせき  (1887.10.31〜1975.4.5

本名;蒋中正。 介石はあざな。
浙江省奉化県の商人の家に生まれる。 保定軍官学校で学んだあと日本に留学。 東京・牛込の振武学校に籍を置くが、中国同盟会に加入。 その後、日本陸軍の高田連隊で砲術を学ぶ。 辛亥革命時に帰国。 革命派の軍人として孫文に師事。 孫文の死後は軍事専門家として頭角を現し、国民党右派の有力者となり、1920年から30年代は建国統一を目指し、日本軍閥と共に共産党と戦う。

 
 


Home