★バラ戦争の経緯★
1422年9月、生後9ヶ月のヘンリ6世が即位。
1453年8月、国王ヘンリ、狂気の兆候。 10月、百年戦争終結。
1454年3月、ヨーク公リチャード、「護国卿」に就任。
1455年1月、国王の快復。ヨーク公失脚。
5月21日、「第一次セント=オールバンズの戦い」(バラ戦争開始)(第一次内乱)
★第一次セント=オールバンズの戦い(1455年5月21日) →ヨーク派勝利
エドワード3世から繋がるもっとも有力な家系を誇っていたヨーク家のリチャードは、国王ヘンリ6世がボーフォート家とポール家を寵愛するのを苦々しく思っていたが、百年戦争の敗戦責任を問われて国内で国王とその側近たちに対する不満が噴出し人気が低迷した時期を捉えて、一気に権力を握る。このことでヨーク公は激しくボーフォート家と対立することになるが、1453年に麹痩、ヘンリ6世が一時的に発狂し2年後に快復した頃に、両家の対立は無視できないほどになり、英国議会は「両家の対立は私的ないざこざとしてとどめ、議会が仲裁する」ことを決議した。この決議に対しヨーク公は一気に決着を付ける決意を固め、ロンドン北部のセント=オールバンズでまったく備えのないボーフォート家に突如襲いかかって、大勝利をおさめた。★ブロア・ヒースの戦い(1459年9月23日) →ヨーク派勝利
聖アルバンの戦いで勝利を収めたヨーク公であったが、自分の息子の未来の王位がこのままヨーク公に奪われてしまうのではないかと警戒する王妃マーガレット・オブ・アンジューの激しい敵意と工作によって、ヨーク公の勢力は安定しなかった。 王妃は国王に働きかけて宮廷をランカスター勢力の強いコヴェントリ(=バーミンガム近郊)に(一時的に)移し、一方でヨーク公も自身の勢力圏であるアイルランド、ロンドン、カレーで着々と勢力を蓄えていった。
1459年4月、王妃は「ヨーク公とその党派を徹底的に殲滅する」と宣言。 そして大きな勢力を持つソールズベリ伯リチャード・ネヴィル(=ウォリック伯の父)がウェールズにいたヨーク公と合流するのを防ぐために、カンブリア(=ランカシャーの北)にあるブロア・ヒースでこれを迎え撃った。しかしながら国王軍は勝利を収めることは出来ず、ネヴィル家の兵力はヨーク公に合流した。★ラドフォード・ブリッジの戦い(1459年10月12日) →ランカスター派勝利
ウェールズ北方に集結したヨーク派の軍勢を壊滅させるために、国王の大兵力がウェールズに押し寄せた。 しかしいまだ国王に対してのみは忠節を尽くす振りをするヨーク公は、国王軍と直接戦戈を交えることは避け、後退を続けた。やがてウォリック伯配下のカレー守備隊がランカスター側の呼びかけに応じて寝返り、これが契機となってヨーク派の軍勢は総崩れとなった。 ヨーク公とその次男ラトランド伯エドマンドはアイルランド、長男マーチ伯エドワードとネヴィル家の父子はカレーに逃れた。★ノーサンプトンの戦い(1460年7月10日) →ヨーク派勝利
ランカスター派が主体となった議会は、59年11月にヨーク派側の称号と財産を没収する「権利剥奪決議(アクト・オブ・アテインダ)」を採決し、これによってヨーク公は王位継承権すら無いことになったが、逃亡先で勢力を立て直したヨーク側も、おのおのの地で反撃を始めた。とくにカレーにいたネヴィル家のウォリック伯リチャードは、60年の1月と6月に国王側の重要拠点であるサンドウィッチ港を襲撃して壊滅させ、7月にはロンドンを奪い返した。 そしてケントで兵を集めたウォリック伯は、7月10日にウォリックシャーとバッキンガムシャーのあいだにあるノーサンプトン(ロンドンから80km)で国王の軍と激突し、国王ヘンリ6世を捕虜とした。 コヴェントリにいた王妃と王太子エドワードは、ウェールズを通ってスコットランドに逃れた。★ウェイクフィールドの戦い(1960年12月30日) →ランカスター派勝利
勝利者となったヨーク公であったが、ノーサンプトン戦のあとにアイルランドからイングランド上陸を果たし、60年10月に開かれた議会ですでに王者としての態度で現れ、「ヨーク家よりもランカスター家の方が格が上だから」と初めて王位を請求。しかし、ウォリック伯をはじめとする貴族たちはまだヘンリ6世に対する忠誠をいまだ捨てきることが出来ていなかったため、逆にこのようなヨーク公の態度は冷ややかな目で迎えられた。
囚われのヘンリ6世は、この会議の「ヘンリ6世の死後はヨーク公が王位を継承する」という決議に、死を恐れて簡単に了解を示すが、このニュースを聞いて発憤した王妃はスコットランドで兵を集め、南下。イングランド中部のリーズ近郊ウェイクフィールド(西ヨークシャー)で、ヨーク軍と激突する。 王妃によって司令官に任じられたサマーセット公ヘンリ・ボーフォートはヨーク公の駐屯するサンデイル城を取り囲み、ヨーク公は名誉を守るためにサマーセットの軍勢に無謀な突撃を仕掛けて、死んだ(享年49歳)。
この戦いの夜、王妃はサンデイル城の城壁にヨーク公とソールズベリ伯を含むヨーク派の3人の指揮者の首を杭に刺して掲げ、あと何も刺していない2本の杭を立てて、「これにまもなくマーチ伯エドワードとウォリック伯リチャードの首を添えてみせる」と宣言したという。★モーティマーズ・クロスの戦い(1461年2月2日) →ヨーク派勝利
突然のヨーク公の死に混乱状態となったヨーク派であったが、父への援軍のために北行の途上にあったマーチ伯エドワードは父の死を聞いて手際よく軍を立て直し、ウェールズ辺境のモーティマーズ・クロスでランカスター軍と激突。エドワードの王位を決定づけることになる決定的な大勝利を飾った。★第二次セント=オールバンズの戦い(1461年2月17日) →ランカスター派勝利
ランカスター派の大敗北にも関わらず、捕らわれの国王ヘンリの奪回を企る王妃マーガレットは、生き残りの軍勢を率いてふたたびセント=オールバンズでヨーク派と激突。 ここでもサマーセット公ヘンリ・ボーフォートが指揮をとり、ランカスターは見事ヨーク軍を打ち破って国王の救出に成功。しかし、財政的に困窮していたランカスター軍は進軍途上、大規模な略奪、破壊、虐殺をおこなったため(これらは英国史上例のないことだそうだが、ヨーク派への懲罰の意味も込められていたという)、勝利の後にロンドンへの入城を市民たちから拒まれ、仕方なく王妃は国王とエドワード王子を連れて再起をはかって、スコットランドに移った。★タウトンの戦い(1461年3月29日) →ヨーク派勝利
3月4日、エドワードは王位を宣言し(エドワード4世、戴冠は6月28日)、そのおよそ一月後に、新王は北上していまだ新王の即位を認めようとしない2万5千のランカスター派の軍隊とリーズ北東のタウトンで対峙する(ヨーク派の兵力は2万)。戦闘は十時間に及んだが、ノーフォーク公の援軍が到着したことがきっかけでヨーク派の勝利が決定した。 実力派指揮官であったA.トロロープを始めとするランカスター派の重臣が多数討ち死にし、前国王ヘンリと前王妃マーガレットはふたたびスコットランドに逃亡し、エドワード4世によるヨーク朝の天下が到来した。
1469年7月、「エッジコートの戦い」
8月、ウォリック伯リチャード、国王を捕虜とする。
1470年2月、リンカーンシャーの反乱。(旧ランカスター派による)
3月、ウォリック伯、フランスに亡命。
6月、ウォリック伯とランカスター派の同盟。
10月、エドワード4世。ブルゴーニュへ亡命。ヘンリ6世復位。
1583年4月、エドワード4世死去。 6月、グロースター公リチャードの王位簒奪(リチャード3世)。
1785年8月、「ボスワースの戦い」。リチャード3世戦死。ヘンリ・テューダー即位(ヘンリ7世)。
1789年、「ストークの戦い」(バラ戦争の終結)
★バラ戦争のひとびと★
★オードリー家--- 父ジョン・オードリー、および息子のジョン・オードリー。 父ジョンは1459年の「ブロア・ヒースの野の戦い」でランカスター軍を指揮し、その戦いで死んだ。同じ年、息子のジョンも、ウォリックから来たカレー守備隊を味方に引き入れようとしている最中に捕らわれた。
その後彼はヨークの陣営に加わり、のちにリチャード3世の評議会のメンバーとなった。★ボーフォート家--- ジョン・オヴ・ゴーントの一族の傍系であったボーフォート家は、1397年に正式にサマーセットの公爵の世襲の位を得たときに、王位への継承権を失った。彼らは熱心なランカスター派に属し、ヨーク派の敵であった。サマーセット公エドマンドの政治の支配は、ヨーク公リチャードの不満を高まらせ、両者の緊張が最高潮に高まった「第一次セント・オールバンズの戦い」で、エドマンドは死んだ(1455)。エドマンドの息子ヘンリは、「ウェイクフィールドの戦い」と「第二次セント・オールバンズの戦い」で連勝。1463年に(国王となったヨーク朝の)エドワード4世に許しを受けるが、ふたたび(ヘンリ6世の王妃)マーガレットと手を結んで、1464年に「ヘキサムの戦い」で殺された。その兄弟のエドマンドも、「テュークスベリィの戦い」でのランカスター軍の敗退で殺される。初代サマーセット公エドマンドの姉妹であったマーガレットは、最初テューダー家のエドマンドと結婚し、ひとりの息子を得た。それがのちに「ボスワースの戦い」でリチャード3世を破り、ヘンリ7世となったヘンリである。 彼女は次に、リチャード王に対して不成功に終わった反乱を起こすスタッフォード伯ヘンリに嫁ぎ、最後にスタンレー卿と結婚した。
★バークレー家 --- この一族はずっとランカスター派を支持していたが、(ヨーク朝の王である)エドワード4世とヘンリ・テューダーの愛寵を受けた。
★ボーチア家---- ヘンリー・ボーチアとトーマス・ボーチア。(兄弟) 兄ヘンリーはヨーク家とランカスター家との双方に血縁関係を持っていたが、誠実なヨーク派であり、ウォリック伯リチャードと「ノーサンプトンの戦い」と「第二次セント・オールバンズの戦い」で戦った。1461年にエセックス伯となる。弟トーマスは1454年にカンタベリーの大司教になる。彼は1458年に(ヘンリ6世妃)マーガレットとウォリック伯リチャードを和解させることを試みる。そして1471年に立ち上がったエドワード4世(=ウォリック伯リチャードの息子)の軍に、忠実に従った。彼はエドワード4世とリチャード3世に加冠した。
★ボンヴィル家--- ボンヴィル家は15世紀半ばから抬頭し、ヘンリ6世によってデヴォンシャーに領地を得た。 これがコートニー家を刺激し、さらに所領の継承をめぐる争いにまでおよび、国王が1437年に、誤ってある官職を両家に同時に与えてしまったことから紛争が勃発。 ボンヴィルとコートニーの私戦は1461年まで断続的に続いた。
★クリッフォード家--- 父トマスと息子ジョンの親子。父トマスは「第一次セント・オールバンズの戦い」で戦死。 その息子ジョンは1458年に父の死の償いを要求。 1459年には彼はヨーク派を支援したが、「ウェークフィールドの戦い」ではヨーク派と戦うことになった。 翌年の「タウトンの戦い」で彼は殺された。
★コーテネイ家--- デヴォンシャーの伯爵。12世紀にフランスから渡来した家系(1335年に伯位を得る)。
1440年代に国王ヘンリ6世の寵愛を受けたボンヴィル家が同じ地方に領地を得たことで、両家の対立は深まり、その関係で薔薇戦争の初期にはコートニー家はヨーク派となった。戦争当初、イングランド北部のパーシー家とネヴィル家の対立と並んで、この南部のコートニーとボンヴィルの対立は、戦争の大きな要素であったとされる。 しかし戦争の半ばころからコートニー家はヨーク派を裏切ってランカスター派に付き、デヴォン伯トマスは「タウトンの戦い」の敗戦で処刑された。 その弟のヘンリも1466年に処刑。 さらにその弟ジョンも「テュークスベリーの戦い」で戦死。 こうして、デヴォンシャー伯の爵位は彼らの従弟の手にするところとなった。 しかし、その従弟の家系も、1名が「テュークスベリーの戦い」で殺され、他の2名がスタッフォード伯とともにリチャード3世に対抗したが、(その戦争のさなか)「ボスワースの戦い」のためにヘンリ・テューダーとともに脱出してしまった。★クロムウェル家--- 1449年の「サフォーク州攻撃戦」のリーダーのうちの 1人。イングランドの会計係。1456年に死の直前のウォリック伯リチャードとともに落ち延びた。
★フィッツアラン家--- アランデルの伯爵。 アランデル伯ウィリアムは“義理の”兄弟であるウォリック伯とともに「第二次セント・オールバンズの戦い」で戦った。 彼の息子は、エドワード4世の后であるエリザベス・ウッドヴィルの妹と結婚した。 両名ともバラ戦争の時代を生き延びた。
★グレイ家--- エドマンド・オブ・グレイは「ノーサンプトンの戦い」までヘンリ6世のために戦っていたが、その彼がヨーク派へ寝返ったことで戦いの趨勢は決定した(1460)。彼は1465年にケントの伯爵となる。 エドワード4世妃エリザベス・ウッドヴィルの姉妹と結婚。 彼の息子はヘンリ7世の登場まで、ヨーク派に忠実でありつづけた。 彼の従弟たちも‘グレイ・オブ・クロビィ’と呼ばれた。ジョン・グレイはランカスター派であったが「第二次セント・オールバンズの戦い」で死んだ。彼はエリザベス・ウッドヴィルの最初の夫であった。 彼の息子トマス・グレイは新しく母の夫となったエドワード4世のために「テュークスベリーの戦い」で戦い、そしてドーセットの侯爵に任じられた。 トマスの弟リチャード・グレイがリチャード3世に処刑されたとき、トマス・グレイはリチャード3世のもとから逃亡したが、ヘンリ・テューダーは彼を信頼することがなかった。
★グレイストーク家--- この家系は強大な隣人だったパーシー家の画策でランカスター派を支持したが、若当主Gは「ボスワースの野の戦い」ではリチャード3世(ヨーク派)とともに行軍。パーシー一族と同様に彼も戦闘を生き延びた。
★ヘイスティングス家--- ウィリアム・ヘースティングスは献身的なヨーク派であり、エドワード4世がウォリック伯から逃れたときには彼のために行動した。 そしてエドワード4世とその弟クラーレンス公ジョージの争いにも、力を貸した。 「バーネットの戦い」と「テュークスベリーの戦い」に参戦。 1483年にリチャード3世の裁判を受けて処刑される。
★ハーバート家--- 父ウィリアムと子ウィリアム。父はウェールズでヨーク派のために戦ったが、1469年に彼の兄弟とともにランカスター派に捕らわれ、殺害された。 息子のウィリアム・ハーバートはウッドヴィル卿の別の姉妹と結婚した。
★ホランド家--- エドワード1世の時代以来エクセターの世襲公爵の裔であったヘンリーは、ヨーク公リチャードの娘と結婚していたが、、彼自身は熱烈なランカスター派であった。
「タウトンの戦い」の敗戦後、王妃マーガレットとともにフランドルへ逃れる。 その後渋々ながらウォリック伯リチャードとともに「バーネットの戦い」で戦うが、そこで彼は負傷。 2年後に死去。★ハワード家--- ハワードはモーブレー一族と親族である。 ジョン・ハワードは忠実なヨーク派で、1483年には(リチャード3世から、血筋が絶えたモーブレー家の跡を受けて)ノーフォーク公の地位を授けられた。 「ボスワースの戦い」で戦死。
★モーブレー家--- ジョン・モウブレイはノーフォークの公爵。 ヨーク派の初期からの主要なメンバーで、ヨーク公リチャードのめいと結婚。1459年にはランカスター派に忠誠を誓ったが、ふたたび1460年と1461年にヨーク派として戦った。
★ネヴィル家--- ソールズベリーの伯爵、リチャード・ネヴィルは初期のヨーク派の指導者で、またヨーク公リチャード、ノーフォーク公、およびバッキンガム公爵リチャード・スタッフォードの“義理の”兄弟であった。 彼は「ウェイクフィールドの戦い」で捕らえられて、処刑される。 その息子ウォリック伯リチャードは通称「キングメーカー」と呼ばれ、ヨーク派の最も強力な協力者となり、エドワード4世の(ヘンリ6世に対する)勝利の立て役者となった。 ウォリック伯はエドワード4世の娘クラーレンスと結婚。1471年に「バーネットの戦い」で戦死。
ウォリック伯リチャードの弟ジョン(=モンタギューのロード)は、エドワード4世と仲違いをする1469年までは、忠実なヨーク派であった。 彼も兄ウォリック伯リチャードの「バーネットの戦い」に参戦し、おなじくそこで戦死。 三弟ジョージは1465年にヨークの大司教に就任。その兄弟ウィリアム(=フォーコンバーグ領主)も、1460年にケントの伯爵になった。彼は「タウトンの戦い」では、突出した働きを示した。1463年に死去。 ケント伯ウィリアム・ネヴィルの義理の息子トマスは、1471年の不成功に終わったロンドン攻撃とその結果エドワード世がウォリック伯リチャードを処刑した一連の事件に際して、通してずっとおじに協力していた。★パーシー家--- ノーサンバランドの伯爵。ネヴィル一族の宿敵であり、家格もイングランド中随一のものであった。二代目伯爵のヘンリ・パーシーは「第一次セント・オールバンズの戦い」で戦死。 その息子の三代目伯爵のヘンリ・パーシーもまた「タウトンの戦い」でランカスター派のために戦って死んだ。 その息子で四代目伯爵のヘンリはエドワード4世に投獄されたが、最終的に許しを受けた。 彼はリチャード3世の信頼を受けたが、「ボスワースの戦い」では王を裏切る。 それは、1489年に国王がヨークシャーの農民を殺害したことが原因だとされる。 二代目伯爵のもうひとりの息子であるラルフ・パーシーも、1464年に「ヘッジリー・ムアの戦い」でランカスター派として戦って、死んでいる。
★ポール家--- サフォークの公爵。 公爵ウィリアム・ド・ラ・ポールはヨーク公リチャードがもっともおそれる敵で、1450年に彼が逮捕されるまで、議会は彼が牛耳る形であった。彼が国王ヘンリ6世に結婚を斡旋したマーガレット・オブ・アンジューも、彼の恋人であったとされる。 1450年に彼は追放刑を受け、そして殺される。 彼の息子のジョン・ポールはヨーク派を支援して「第二次セント・オールバンズの戦い」で戦った。 彼はエドワード4世の妹を娶る。その後リチャード3世に仕えるが、「ボスワースの戦い」のあとはヘンリ7世に帰順。 それに対して息子でリンカーン伯であるジョン・ポールは、リチャード3世の忠実な配下としてとどまり、そのことで国王からパーシー家の正統な相続人であると宣言された。(リンカーン伯ジョンは血縁的にリチャード3世の甥となる)。 しかし彼も1487年に「ストークの戦い」でヘンリ7世と戦って、敗れて死ぬ。
★ルース家--- 忠実なランカスター派。 トマス・ルースは「ヘクサムの戦い」の敗戦後、処刑された。
★スクロープ家--- ヨーク派として戦った。
★スタッフォード家--- バッキンガムの公爵。 当主ハンフリーはヨーク公リチャードと王妃マーガレットの和解に努めたが、ランカスター陣営に加わって戦った「ノーサンプトンの戦い」で、戦死した。 そのいとこで同名のハンフリーは、デヴォンの伯爵となっていた。 彼はヨーク派として「タウトンの戦い」に参戦したが、のちにエドワード4世の不興をかって1469年に処刑された。初代公爵ハンフリーの孫であるヘンリーは、リチャード3世を支持。 しかし、彼の母親の再婚相手ヘンリ・テューダーの信頼を受けて、1483年にリチャード3世に対する反逆を起こし、とらえられて処刑された。
★スタンレー家--- トマス・スタンレーは「ノーサンプトンの戦い」でランカスター派として戦ったが、その後ウォリック伯リチャードを支持して、1470年までエドワード4世に忠実に仕えることで勢力を保った。「バーネットの戦い」後、彼はふたたび忠実なヨーク派となり、エドワード4世から褒賞を受けることになる。 リチャード3世には投獄されたこともあったが、まもなく釈放。 その後、ヘンリ・テューダーの母を二度目の妻に迎え(彼の最初の妻はウォリック伯リチャードの妹だった)、「ボスワースの戦い」ではリチャード3世を裏切った。 その兄弟ウィリアム・スタンレーもヨーク派であったが、彼もまた「ボスワースの戦い」でリチャード3世を裏切った。
★タルボット家--- シュルズベリーの伯爵。初代伯爵ジョンは、百年戦争の高名な元帥であったが、1453年の「カスティリョンの戦い」で戦死。 その息子の二代目伯ジョンは、忠実なランカスター派であった。彼はイングランドの会計係を1456〜58年の間務めた。 「ノーサンプトンの戦い」で兄弟たちとともに戦死。 その息子の三代目伯ジョンは、エドワード4世に仕えて死んだ。 四代目伯ジョージはヘンリ7世に味方し、「ストークの戦い」で戦った(1487)。